2011年07月01日

長沼智恵子

 安達太良山も歩き終え、立ち寄り湯で「除染」もし、さあ、帰京か、というその前、田部井さんのおっしゃったお土産をどっさり買うことを忘れないように、われわれは、岳温泉・佐藤物産館に寄りました。
 「佐藤物産館(二本松市岳温泉1-14、Tel 0243-24-2504)」のウエブサイトはこちら、下↓:
http://www7a.biglobe.ne.jp/~satoubussan/
 だって信長さまが、ここは保証しますっていうんだもん。

 このウエブサイトには佐藤物産日記もあります:
皆さんご無事でしょうか?
 一昨日の地震で岳温泉もかなり揺れましたが、幸いにも建物の大きな倒壊などは起こっておらず道路の状況も、目立った損壊はありませんでした。
 温泉も入れるところがありライフラインも復旧しております。
 断水などでお風呂に入れない方はぜひ

(大地震岳温泉現状2011年3月13日21:37更新)

 ヤッホー君がいのいちばんに買い求めたのはもちろん地酒。
 「奥の松」です(二本松市長命69 Tel 0243-22-2153)。ウエブサイトはこちら、下↓:
http://okunomatsu.co.jp/index.php
この度の東北地方太平洋沖地震では、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
 お蔭様で破損しておりました瓶詰ライン、パック詰めラインも予想以上に早く復旧し、商品の出荷が可能となりました。
 しかしながら、まだ平常の70%程度の稼働率にとどまっているのが現況で、出荷状況によっては品切れとなる商品がございます。
 お客様にはご迷惑をお掛け致しまして大変申し訳ございませんが、完全復旧に向け努力を重ねて参りますので、今後とも宜しくお願い申し上げます


『「奥の松」は福島の地酒としての誇りを込めて奥州二本松の「奥」と「松」から命名されました。
 日本酒造りでの質へのこだわりを貫き、100%自蔵で精米して290年余年、19代の長い歴史は、積み重ねられた皆様の信頼の証であると奥の松は考えます


1346(正平元)年南北朝の頃、足利尊氏の一族で、文武兼備の名将、畠山高国は奥州探題に任ぜられ、二本松に居を構えました。その畠山家に家老として仕えていたのが当主の祖先でした。1586(天正14)年畠山家は伊達政宗に滅ぼされ、当主は二本松に土着し、その後、商家として繁栄。1716(享保元)年に酒造りを開業、また味噌・醤油も商う一大製造業を始めました。明治維新の後、いわゆる千石酒屋として繁栄し、昭和初期、16代伊兵衛の頃、1933(昭和8)年の全国品評会優等賞受賞を皮切りに、名誉賞盃を連続受賞し、「伊兵衛の吟醸蔵」と呼ばれるまでとなったのです

 ところで、ヤッホー君の目には「阿多多羅山の山の上に出ている天空」があったし、二本松の酒造り、というイメージがこびりついていました。

今しずかに振りかえって彼女の上を考えて見ると、その一生を要約すれば、先ず東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に長女として明治49年に生まれ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味を持ち始め、女子大学卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であった中村彝、斉藤与里治、津田青楓の諸氏に出入りしてその影響をうけ、又一方、その頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加わり、雑誌「青鞜」の表紙画などを描いたりした

…高村光太郎「智恵子の半生」、高村智恵子『智恵子紙絵』(1993年ちくま文庫版所収)、さらに『私たちはどう生きるかシリーズ第9巻』(ポプラ社、1959年)にも収められており、それによると執筆したのは、1940(昭和15)年9月とあります。

 高村光太郎が、智恵子が「郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり」とあるのは、深い訳がございまして、これも「智恵子の半生」では次のように述べられています:

1914(大正3)年に智恵子との結婚をゆるしてもらうように両親に申し出た。両親もゆるしてくれた。両親のもとにかしずかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等いっさいは両親と同居する弟夫婦の所有することにきめておいた。わたしたちふたりはまったくはだかのままの家庭を持った。もちろん熱海行きなどはしなかった。それからじつに長い間の貧乏生活がつづいたのである

 この智恵子の生家は造り酒屋、これが『奥の松』とうる覚えにしていたのですが、実は違っていました。そりゃ、そうですよね。つぶれたんですが、それも智恵子のこころの病の一因になったのでした:

彼女の弟である実家の長男は、かなり常軌を逸した素行があり、そのためついに実家は破産し、かれ自身は悪疾をも病んで陋巷に窮死した
(同「智恵子の半生」)

智恵子が愛してやまなかった「ふるさと安達」
 その純朴さを残す町並みの中に智恵子を育んだ「生家」が当時の面影をそのままに甦りました。
 明治の初期に建てられた生家には、造り酒屋として新酒の醸成を伝える杉玉が下がります。
 屋号は「米屋」、酒銘「花霞」。
 二階にある智恵子の部屋からは今にも智恵子が降りて来そうな気配が漂います

(二本松市智恵子記念館、二本松市油井字漆原町36、Tel 0243-22-6151)
http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/kanko/chieko/seika.html

posted by fom_club at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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