2019年12月06日

「正義」とは人の命を守ること、それが憲法

アフガニスタンの大干ばつの現状。──そこに人が生きうる場所を作ること

ー アフガニスタンの現状についてお話を伺いたいと思います。2000年頃から干ばつがものすごく酷くなったというのは話に聞いていましたが、それが今かつてなく酷くなっており、人々が生活出来なくなっているほどであるのことでした。

中村: 酷い干ばつは、今も進んでいます。大きなニュースにならない理由は、復興支援や軍事援助で外貨がたくさん入って来て、国外から食糧を買っているからです。その結果、餓死者は減っているものの、飢餓線上の人が増えています。JICAや国連関係の調査によると、アフガニスタンの灌漑地の面積が減少しています。明らかに農地の乾燥化が進んでいます。飢餓人口も2000年には400万人と言われていたのが、今や760万人。ところが日本では、政治的な事件しか報道されないものですから、背景にある人々の困窮が伝わらない。

ー それは、地球規模での温暖化と関係しているということでしょうか。

中村: 確実にそうだと思います。私は山をずっと見てきました。最初にヒンドゥークシュ山脈に行った1978年には、雪線(夏に残る万年雪の線)が、確か3100だとか3200mだった。今は3600m以上です。この30年で、雪線が数百メートルも上がっている。これは大変なことです。温暖化によるものだというのは確実でしょう。

ー 雨の降らないアフガニスタンでは、水の供給源として夏に溶け出る山の万年雪が人々の命を繋ぐということで、「金がなくても食ってはいけるが、雪がなくては食ってはいけない。」ということわざがあると講演でもおっしゃっていましたが、その水をもたらす生命線となる雪もなくなってしまっているんですね。

中村: その通りです。温暖化の影響は春の急激な雪解けとなって、しばしば洪水を起こします。そして秋に解けだす雪がなくなると、今度は突然河川の水量が落ちます。洪水と渇水の同居です。地下水も下がります。雨水と地下水利用の灌漑地は東部アフガンでほぼ全滅に近く、大河川では取水が困難になって灌漑ができないという恐るべき状態です。
 従来の取水技術では歯が立たなくなっています。だから、「激しい水位差でも取水できる方法」が必要となった。近世日本で確立された方法が多くの人たちを救いました。それを今、広げる活動をしています。たとえCO2が下がるにしても、元に戻るにはおそらく50年、100年と長い時間がかかるでしょう。その間とりあえずどう生きたらいいのか、我々は考えます。

みんな同じ水を飲んでいる──共に生きることの「デモクラシー」

ー これまで我々は一度も『テロリスト』の標的とされたことはなかった、というお話をされていたことがあったと思います。逆にペシャワール会の活動が現地の人々の生活を守る活動をしていることが知られているからこそ、時に「テロリスト」と言われる人たちからも活動が守られてきたというのは、やはり地元の人々との信頼を作ってきたからなのでしょうか。

中村: そうですね。水は生命の源です。「テロリスト」であろうが、泥棒であろうが、毎日ご飯を食べ、水を飲む。善悪を超えて、水は生きる絶対条件です。狂信的な集団が政治的信条に基づいて行動しているのはその通りだけれども、事情の伝わり方が、少し違う。日本でも、同じ職場やクラスで、共産党だから自民党だからといって、反目し合うことはないじゃないですか。例えばクラス会の時に会ったら、そこは別にして、和やかにやっている。それと似ているんですよ。その地域に入ると、同じ家族から出稼ぎで国軍兵士にもなり、タリバンの傭兵にもなる。もちろん村全体として特定の勢力に対するシンパシーはあるけれど、中に入れば、敵対関係は存在しない。

ー 人を何かのカテゴリーで分けないで、村の一員である、というところで共有する視点があるということでしょうか。

中村: そういうことです。平和運動をやっている人にも時々「官僚というやつは」と言うタイプの人がいる。しかし、官僚として働いている人の中にも、決して今の体制がいいと思っている人ばかりではない。むしろ変えるべきだと思っている人も、たくさんいるわけです。そういう人まで色分けして、「あいつらは」と言うと、カチンとくるわけですね。そこで対話の糸が切れてしまう。

ー そうやって分けた瞬間に、対話の糸口が見つけられなくなってしまうんですね。気づかされるのが、テロ事件がある時にアメリカ政府、そして日本の政府は「テロに対して、毅然とした態度をとる」と言います。以前オバマ大統領は、「テロリスト」は、人類そのものの敵だという旨の発言をしていました。そこには同じ人間であるという視点はなく、対話することがそもそも出来ない相手であると最初からみなしているような気がします。

中村: 全くおっしゃる通りです。はじめから敵を作り上げている。そういう悪循環を強めることにしかなっていない。

ー その悪循環をどうやって抜け出すのか、ペシャワール会の活動の、一緒に生きる基盤を共有して作り上げることで、何とか生きられる状況をつくっていくことが大きなヒントだと感じます。

中村: そうです。昔から「共に生きる」と言います。100人の人間が居れば100人の性格があり、一人一人個性がある。違っていても、一緒に生活できますよという基盤を作っていく。それが僕は、本来の「デモクラシー」なのではないかと思います。

改憲が変える、現地の支援活動への影響

ー これから7月に参議院選挙が待っているわけですが、新聞の報道によると、三分の二以上を与党が取る可能性が高いとのことでした。そのことによって自民党改憲草案による改憲が現実のものとなれば、9条だけでなく、日本国憲法の平和主義の理念が、変わるかもしれない分岐点にいます。11月には南スーダンへの派兵も決まっています。そうした状況の中で、ペシャワール会の方々の現地の活動に何か変化は起きるのでしょうか。(注:2016年6月22日 収録)

中村: 直ぐにはなくとも、やっぱり微妙に影響してくると思います。有事に自衛隊が出動するのは、過去にアフガニスタンにNATO軍が出動したと同じような状況です。前例がすでにあります。あれをやると、かなり確実に影響があると思います。

ー アフガニスタンにNATO軍が支援活動として出動した時に、現地の人々によるNATOの国々から来た救援隊への信頼は勝ち取れなかったのですか。

中村: 信頼どころか、ボロボロです。敵意を煽っただけです。だいたい、殺しながら「助ける」という法はない。うちでも、一人誘拐されて犠牲者が出てしまいました。もしあの状況で自衛隊が来たら、犠牲者が増えたでしょう。
 軍事行動に消極的なことで、私たちは助かってきたのです。自衛隊が駆けつけ救護に行くとなっても、それをどのように指揮するかというのも、現地の人の必要に即して出来るのかというと疑問が残ります。

「正義」とは人の命を守ることである──憲法の理念

中村: 君たちは西部劇というものを見たことがありますか。

ー マカロニウエスタンとか。

中村: マカロニウエスタンはまだマシです(笑)。アメリカの西部劇はだいたい決まったパターンで、白人が野蛮なインディアンを征服する物語です。野蛮人の巣窟に砦があり、勇敢な騎兵隊が出撃してインディアンを懲らしめ、危険に陥った白人を救出して砦に連れ帰る。このパターンです。今と大して変わりがありません。

ー なるほど、そうしたある種のフィクションというか、物語に沿って複雑な状況が単純に理解されてしまう。「悪くて、野蛮なインディアンを懲らしめる」という物語に沿えばあたかも全てが許されるような。

中村: 全くフィクションです。

ー しかし今無自覚にメディアを見ていると、そうした見方だけしか出来なくなって、そのある種の物語に沿わない報道に対しては逆に疑問を持ってしまうようなことが起きてしまっているかもしれません。そうした時に、「正しさ」や「正義」とはなんだろう?という疑問が出てきてしまいます。

中村:「正義」というのは人の命を尊重すること。それが、憲法です。

ー「国が守るべき、根本のルール」という言葉の本当の意味での「憲法」ですね。人の命を尊重すること。その意味で言えば、敵を倒した者が正義なのではなくて、「敵」を敵ではない者に変えることが出来る可能性を持つのが、本当の日本の平和憲法の価値なのかなと思っています。

中村: うん、そうだと思います。

ー 中村さんが講演でも「丸腰が一番強い」というお話をされていました。

中村: それも語弊があるんですけどね。見方を変えれば、現地の我々は「武装集団の一つ」とも言える。兵農未分化ですから。千人が我々と一緒に働いているとして、いざというときにはその千人は一緒に戦えるのです。日本人ワーカーがいた時も、見えない武装警護は常にあったのです。その意味では丸腰というのは語弊があります。

ー「丸腰」というのは、「こちらからは攻撃しない」ということですね。

中村: そういうことです。誰とでも仲良くする。あるいは、諍いがあっても、武力を使わずに、交渉でなるべく解決するということです。

本当の意味で憲法9条はまだ、守られたことがない。

ー 平和憲法を守る、集団的自衛権は必要ないと言うと、「攻撃されても何もしない」ことだと誤解する人が多かったです。攻撃を受け、守るため自衛の行動を取るのが個別的自衛権と、他の国が攻撃を受けた時に、その防衛に加わるのが集団的自衛権ですが、その辺りを誤解している人が多い印象でした。

中村: そうですね。戦争の現実を知らずに勇ましいものに憧れる。好きなんですね。本当に故郷や家族を守るために戦うというならば、みんな狙撃の練習をして、ゲリラ戦に備えるくらいの覚悟がなくてはいけない。それがあるのか。私は敗戦直後に育ちました。当時はまだ戦地の生き残りが社会の中堅に沢山居ました。「わしらはお国の命令で戦った。御上がそう言ったから、自由を手放してまで戦地に行った。しかし、もうこりごりだ」という、実体験に根差した心情と、国家の戦争に対する懐疑が、憲法9条成立の背景にあった。
 その後本当の意味では、私は憲法9条というのは、まだ守られたことがないと思います。いっぺん日本国憲法を守る努力をして、それから議論するべきです。
 保安隊ができたり、警察予備隊ができたり、その都度の国際情勢で、言葉だけいじりながら、なんとかやってきた。しかし敵対条件をつくらないというのが憲法の精神で、それが一番いいんですよ。我々は誰とでも仲良くする。来ればどんな「テロリスト」とでも交渉しますよ。

ー 中村さんの講演の中で、「どんな人にもある良心と手をつないでいく」という言葉がありました。

中村: そうだと思いますよ。だから、同じことの裏返しでしてね。ある政治的主張だとか、グループの属性でその人を判断しないということです。

未来にどんな社会を望むのか。

ー 中村哲さんの活動は、実は少なくない若い人に知られています。ASIAN KUNG-FU GENERATIONという有名なロックバンドの後藤正文さんという方が、中村哲さんの活動を知って、憲法と言ったものの理念を知ることができたということを発言されていました。SEALDsの中にも、それで中村哲さんを知ったという人が多いんです。

中村: そうですか、私はその方面に詳しくなくて。(笑)

ー そうした中で、もし今日本の若い人に何かメッセージがあるとしたら、何を伝えられるでしょうか?

中村: まず、年寄りの戯言には付き合わない。(一同:笑)

中村: 君たちは、年寄りの後始末を担わされている。今まで成長、成長でやってきて、羽振りが良いことを至上の価値とした結末を知るべきです。
 経済成長を続ければ何とかなると思ってはいけない。とんでもないことが待っているんだということだけは、訴えたい。別のベクトルを見つけ出して、より人間らしい健全な方向へ向かっていく方がいい。それでは企業収入が減るだとか、羽振りが悪くなるだとか、あるでしょうけれども、私はもっと別の生き方があるような気がしています。それを、「原発の電気を止めたらエアコンが使えず、年寄りが死ぬ」だとか、「他国が攻めてきたら黙って殺されるのか」とか、すぐそういう目先の議論にすり替えるから駄目なのです。「富国強兵」は、さんざん犠牲者を出した末に、もう賞味期限切れなのです。それとは異なる別のベクトル──人と人、人と自然が調和する世界をひらくことを目指し、徐々に社会が変わっていくことを期待すべきです。

ー 最初は何もなかったアフガニスタンの砂漠に、3、4年の年月水路を作ろうとすることで実際に水が通り、木が生え、緑地になり収穫出来るまでになる、ということが現実に行われているのだということを知ると、社会が変わるということも本当に可能なのだと思わされます。

中村: そうなんですよ。基礎がしっかりしていれば、例え始めはしょぼい木で、こんなもの本当に実がつくのかと思っていたものが、だんだん成長して行って、今はもうあの木は、15mですよ。

ー それは、何年ぐらい経って?

中村: 6年。

ー 6年でですか!そこまでに至る道は想像するだけでも簡単ではないことがわかりますが、それを現実のものとして来られて、まだ先を見据えて行動をされている。本当にすごいことです。

未だ本当には試されていない「平和憲法」が示すもの

ー SEALDsのメンバーは全員平成生まれで、バブルが弾けてもうこれから、上向きになることは何にもないと言われ続けた世代に生まれています。そんな中で、何かの活動をすることは無力なのかと思うことも多いのですが、しかし、文字通り砂漠に水を通し、緑を生んでいるペシャワール会の活動を考えると、まだまだ多くのことが可能なんだと気付かされます。

中村: 平成はバブル真っ盛りの時代でした。自分は殆ど日本に居ませんでしたが、拝金主義の最盛期でした。バブル後、せっかく健全な世界に向かおうとした時代に、架空の富を失った人びとが嘆いていただけです。あの頃を考えると、なんで悲しんでいるのか、弾けて良かったのではないかと思う。少なくとも、この日本の豊かな自然──こんな豊かなところ、世界中にないです。この国土さえきちんと守り、我々が気立ての良い人びとであれば、絶対に生き延びることができる。「気立てが良い」という意味は、人と喧嘩せず、殺しをせず、盗まないということです。金を使い、武器を使い、人を殺し、欺いてでも会社の羽振りよくする・・・・。そんな忙しいことしなくたって生きていく道がある。経済、医学、農業、全ての分野が変わらざるをえない時代が、きっとそのうちくると思います。

ー そのベクトルを示してくれるのは、本当の意味での憲法の理念なのかもしれません。そこには他者と共に生きて、平和を創りだすということが、ベクトルとして示されています。

中村: まだそれは、本気で試されたことがない。いきなり、あまりに理想論だとか、アメリカが作ったとかの話になる。真面目にやってみて、どうしてもダメでという、そういう段階でもないじゃないですか。警察予備隊から保安隊になり、自衛隊になり、ついに、防衛庁から防衛省に格が上がった。今までやましいところがあるから、言葉で騙しながら来た。しかし、そのやましいという気持ちさえ捨ててしまうと、大変なことになります。

関心を持つことからはじまる

ー 次の一歩、ということのヒントでは、講演会の時に若い人から「自分は何かをしたいんですけれども、何をしたら良いですか?」というかなり大掴みな質問がありましたけれども、中村さんはそれに対して、「何もしないのではなくて、何かに対して関心を持ち続けることです」、それがはじまりの一歩になるということをおっしゃっていました。何かに対して関心を持ち続けて、調べてみたり、人に話を聞いてみたりすることが道を切り開く一歩になるという。

中村: その通りですね。だいたい我々でも、そうではないですか。これを勉強したいと思って、資料を買ったりしますよね。だいたいほったらかしにされています(笑)。しかしある時、自分がこれをしなくてはいけないと開いてみる。こういうことから始まるというのは、割と普通にあるのではないかと思います。やっぱり関心があれば、いつか花ひらくことになる

ー 面白かったのは、中村さんも、もともとは昆虫学をやりたいと思われていたけれども、医学部に進まれて、その後昆虫への関心から、アフガニスタンにたどりつかれて、いまこうして医療活動、人道支援活動をされているということでした。そのように繋がっていくということなんですね。

中村哲さんの学生時代の運動──暴力ではない道を

ー 中村さんは学生時代、1968年米軍の原子力潜水艦エンタープライズ号が佐世保に入港して、それが核の持ち込みであることや、佐世保からベトナム戦争へ加担することになるとして反対運動が起こった時に、その活動に関わられていたとお聞きしました。こうした当時の学生運動と、私たちの活動はよく比較されたりすることがあるのですが、中村さんが関わっていた活動はどのようなものだったのでしょうか。

中村: 話せば長くなりますが、似た点と違う点があります。あの頃、原子力潜水艦がアメリカ政府の政策で、長崎の佐世保港に寄港しました。意図的に「日本人の核アレルギーを取る」と、堂々と宣言していた。その頃までは、長崎の原爆の余韻が人びとの記憶に鮮やかでした。原子力と聞くと、みんな「なんてことを」というムードがあった。長崎の人は当然怒りますよね。日本政府はそれに対して、沈黙していました。賛成だと言えば、暴動も起きかねなかったからです。一般的な市民の感覚としては、当然猛反対です。あの当時私は、学生自治会の役員で指揮を執る立場でした。反対運動をする人たちを佐世保に送り込むのが任務でしたが、国鉄、今のJRが佐世保線をタダで乗せてくれました。その後、1968年6月2日、米軍のジェット機が九州大学の構内に落ちたことがありました。

ー 2004年の沖縄国際大学での米軍ヘリコプター墜落事件を思わされます。

中村: この事件で校内では意見が分かれました。ジェット機は何と、建設中の電算機センターの上に落ちて、宙づりになったのです。そのジェット機の残骸を工学部は、「早く降ろして建て直さないと九大は他よりも十年遅れをとる」と言い、文学部の方は「悪しき記念塔として、末代まで語り継ぐ」という意見でした。
 学生の多数が文学部の意見に賛同し、私たちは実力で「記念塔」を守っていました。そうした流れの中で、ごたごたがあった。しかし、賛否を超えて、それなりに筋の通った論議だった思いますよ。科学技術の本質、暴力の是非、学問の意味など、本質的なことがずいぶん討議されました。ただその後、非常に先鋭な思想を持つ人たちが思想集団を形成して行き、「これは日本革命のきっかけだ」と言うようになっていた。そのへんが、私はついていけなかった。そのために内部で暴力抗争をし、教授を閉じこめて吊し上げる。自分たち古い日本人の感覚からすると、先生を吊し上げることなど、まずありえなかった。奪回すると「反革命だ」と言われる。それで、これは違った人種だと、距離を置くようになった。そういうことはありましたね。

ー 何かおかしいことをおかしいというのは正しいことだけれども、それで暴力になるというのは…

中村: 国家の暴力=戦争と同じです。目的が暴力という手段を正当化するということはないと思います。

痛みに耳を傾けて、必要とされる支援をすること。

ー その後、先生は医学部を卒業された後、最初に医師として活動されたのは精神科医としてということでした。

中村: そうです、精神科医です。

ー その精神科医としての経験が、中村さんが現地の人の心を理解しようとして、あくまでそこに生きる人々が必要とする支援をするという姿勢に繋がっているのかなと思いました。

中村: それは大きかった。精神病患者の妄想は、事実とかけ離れた思い込みです。しかしそれを「おかしい」と決めつけると、対話が途切れてしまいます。おかしいとは思っても、それを聞くということでしか治療は成り立ちません。この経験は大きかったと思います。ある主張を頑と述べられても、それがその人の100%全てかというと、決してそうじゃない。その人の中にはそれに反対する気持ちもある。身の回りを気にするとか、追い詰められた気分とか、色々なことがあって、その時々に応じて、ある一つの主張が出てくるわけです。だから、背景を知った上で総合的に人を理解するという精神科医の訓練には、ずいぶん影響されました。

ー その人がなぜ、どのように苦しいのかをしっかりと聞くこと、それからその人が必要としている支えをする。その支えも、決して頭ごなしに一時的な答えを押し付けるのではなく、どうしたらその人自身が生きやすいようになっていくかをまず考えていくんですね。

中村: そうです。それはあらゆることに通じると思っています。

時間をかけて共に生きる「政治」を作ること

ー まだまだ色々な事をお聞きしたかったのですが、最後の質問をさせて頂きます。今、日本では投票率が52%ほどだと言われています。この数字を見ると、人々の間で政治というものは、政治家の人に任せるものという感覚があるのかと思います。しかし、中村さんの話を聞くと、「政治」とは人任せに出来るような狭いものではなく、自分たちの生きる場所をちゃんと作っていくということ、誰かと共に生きることが出来るようすることだと思えます。そこで、中村哲さんが今の日本をめぐる政治の状況について、お考えになっていることをお聞かせ頂ければ幸いです。

中村: 後の時代になって正しいと思うことをした人は、いつも少数です。大抵の人は中間に居て、雲行きを見ている。白黒をつけられずに、灰色の中で暮らさざるを得ない人の方が圧倒的に多い。正しい者が天下を取るとは限らず、正しいが故に滅亡するということもあります。逆に正しかった者が後で暴君になるということもある。たとえ少数であっても、良いことは良いとして実行することですが、そうした中でも違う意見を聞き、誰とも仲良くしていく。これが大事だと思うね。一般的に言われている「テロリスト」だって言い分はあります。紳士の顔をして「テロリスト」以下のことをやっている国、政権だってあります。投票率が低いと言うけれど、まあ徳川の幕藩体制からまだ二世紀くらいしか経っていないわけで、いわゆる、良い意味の「個人」が確立するまでには、まだまだ時間がかかるのではないかと思います。そのつもりで、鷹揚にしていたほうがいい。「負けたからどうする」と言い出すと、つい過激な考えや乱暴な行動が出てしまう。

ー 長い時間がかかるけれども、そして今は少数かもしれないけれども、正しいと思ったことをやり続けていく。そうすると次の世代になった時に育って、砂漠にさえ木が生え育っていく。

中村: 要するに、みんな気が短いんだ。「すぐに再起動」と、となっているね。

ー なるほど、長い目で考える、強い勇気をもらいました。今日は本当に、ありがとうございました。

中村: はい。みんな、がんばってやってください。

※ 2019年12月5日 追記

 2019年12月4日、35年にわたり、アフガニスタン・パキスタンで医療・灌漑・農業などの活動をされて来たペシャワール会の中村哲さんが亡くなられました。
 用水路の工事現場へ行く途中、銃撃されたとのこと、やりきれない深い悲しみをいだいております。
 ペシャワール会の活動が成し遂げていること、その活動を貫き支えた中村哲さんの「ことば」は、これからも私たちに力を吹き込み、この世界の荒廃を緑に変えていくと信じます。


POST編集部一同
ペシャワール会 中村哲医師に聞く(後編)。
http://sealdspost.com/archives/5543

posted by fom_club at 10:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中村哲医師「共に生きるための憲法と人道支援」

亡くなった中村哲医師悼み、現地で悲しみの集会
https://www.youtube.com/watch?v=hakBxznbwTw

 平和憲法のもとでの日本の国際貢献のありようを体現した人だった。
 アフガニスタンで長年、人道支援に取り組んだ医師中村哲さんが現地で襲撃され死亡した。
 志半ばの死を深く悼む。

 紛争地アフガニスタンでの30年近くに及ぶ活動の中で、戦争放棄の憲法九条の重みを感じていた人だった。
 軍事に頼らない日本の戦後復興は現地では好意を持って受け止められていたという。

 政府が人道復興支援を名目に、自衛隊を派遣するためのイラク特措法を成立させた後は、活動用車両から日の丸を取り外した。
 米国を支援したことで、テロの標的になるという判断だった。
 現地での活動は続けた。

「活動できるのは、日本の軍人が戦闘に参加しないから。九条はまだ辛うじて力を放ち、自分を守ってくれている」

 2013年、本紙の取材にそう語っている。

 その後も集団的自衛権の行使容認や安保法制など、憲法の理念をないがしろにして自衛隊の海外派遣を拡大しようとする政府の姿勢を苦々しい思いで見つめていた。

 安倍晋三首相が掲げた「積極的平和主義」を「言葉だけで、平和の反対だと思う」と批判していた中村さんは、真の平和につながる道は「日常の中で、目の前の一人を救うことの積み重ね」と考えていた。

 ハンセン病患者などの治療のため1984年にパキスタン入りし、1991年からアフガニスタンでも活動を始めた。
「対テロ戦争」を名目とした米英軍の空爆や武装勢力の衝突など戦火は絶えず、大干ばつも地域を襲う。
 中村さんの目の前には常に不条理な死と苦しむ人びとがいた。

 2018年には、アフガニスタンから、日本の民間人としては異例の勲章を受けた。
 緑化のための用水路建設や、長年の医療活動が高く評価された。
 国連難民高等弁務官として難民支援に貢献し、先日亡くなった緒方貞子さんとともに、日本が目指すべき国際貢献の姿として、その光を長く記憶にとどめたい。

 今、政府は中東海域への自衛隊派遣の年内決定を目指している。
 米国が主導する「有志連合」への参加は見送ったものの、派遣の必要性や根拠に乏しい。
 米軍などの軍事行動と一体化していると見られる懸念は消えない。

 軍事的貢献に傾いていく今の姿を認めてしまってよいのか。
 中村さんの志を無駄にしないためにも、立ち止まって考えたい。


東京新聞・社説、2019年12月5日
中村哲さん死亡
憲法の理念を体現した

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019120502000166.html

現地で活動を続けさせたもの

ー 私が小学生の頃、いわゆる「イラク戦争」(2003年〜)が始まり、それをニュースで見て初めて「中東」という世界を意識しました。それでも、やはり自分とはすごく遠いところというイメージがありました。中村哲さんがパキスタン、アフガニスタンという土地に行かれたきっかけとは、どういうものだったのでしょうか?

中村: いきさつですか。あまり大した理由はないんですよ。私は1978年、ヒンズークッシュ遠征隊の山岳隊員として現地に行きました。山や昆虫に興味があったのです。それが初めてでしたが、何年かして、たまたまそこで働いてくれないかという話があって、喜んで乗ったのです。山登りがきっかけで、あの地域が気に入ったということです。その時は「人道支援」なんて大きなことは考えていなかった。1983年当時発足した「ハンセン病コントロール計画」への協力が主な任務でした。初めはあそこで働いてみたいという単純な動機でしたが、次から次へといろんな出来事があって、帰るに帰られず、つい活動が長くなってしまったのです。

ー 帰りたいと思うことはありませんでしたか。

中村:もちろんあります。5人の子どもがいて、その教育のことや生活もある。そういうことを考えると帰りたいと思うのが人情で、何度もあります。しかしその都度、帰れない事情が発生して長くなっていったのです。

ー そこで困っている人を見つけたということですか?

中村:困っている人ならどこでも居ます。それだけではありません。こうした活動は、続けたいと思っても、出来ない場合の方が多い。自分の生活が成り立たない、資金がない、周囲が反対する、協力者がいないとか、色々な事情で続けられないのです。自分の場合、恵まれているのか、損しているのかは別として、そうした条件が揃っていました。だからこそ、続けられたのです。気持ち一つで何もかもが決まる訳ではありません。似たような思いを持って、それが果たせずに過ごしている人は沢山いると思います。

ー そうだったんですね。中村さんの本や、講演を聞いて感銘を受けて来たことは「ハンセン病」といった病気を個別に治すだけでは根本的なことは変えることができないということで、ならばその場で生きる条件を整えるために、水路を作るようになったということです。

中村: いや、ハンセン病治療だけでも十分意味はあります。問題になったのは、飢餓が蔓延する中、赤痢やコレラなどの腸管感染症による小児の死亡です。医療関係者なら、行けばわかります。日本のように恵まれた診療は、逆立ちしてもできない。ものがない、お金がない、電気がない、ないないづくしで極貧の状態です。限られた資金で効果を上げようとすれば、病気にかからないようにする方が早いのです。

向こう側に立って見る

ー 少量の高価な薬での診療よりも、井戸や水路を作り、綺麗な水の確保を選択した理由は何だったのですか?

中村: 現地は感染症で亡くなるケースが非常に多い。子供の死因の6・7割はおそらく感染症です。そして、その背後に栄養失調による抵抗力の低下がある。要するに餓死です。殆どが自給自足の農民ですから、水がないということは、食べ物が作れず、飢餓を意味します。綺麗な飲み水と農業用水を確保するだけでも、かなりの人が助かります。

ー それまで砂漠だったところが、中村さんたちが水路を作った後に緑地、森と言っていいような木があって、水がさわさわと流れている。その経過を写した写真を見た時には講演会でもどよめきが起きていました。あの水路は、中村さんの故郷、九州の筑後川で水を治めるために使われている山田堰の技術を用いていらっしゃるそうですね。近代的な機械を用いてコンクリートで固めて水路を作るのではなく、柳の木を用いるような日本の江戸時代頃からの古い技術を使おうと思われたきっかけを知りたいです。

中村: コンクリートが決して悪いわけではありません。現地の人の立場をよく理解することです。日本と異なり、行政を頼りにできない自治社会です。水利施設の管理も自分たちでやります。使うのも現地の人々だし、維持するのも現地の人たちです。日本だと、この種の土木工事は国家の手にゆだねられています。豊富な財政と最新の技術で施工され、住民が直接関与することはありません。それを我々は普通と思っている。しかしアフガニスタンにはその国家組織が実質的にありません。しかも収入が極端に少ない。それに対して実情に合ったアプローチをしなければ、助けにならないということです。それがこうした伝統的な技術でした。「国際支援」一般に足りないものは、この現地から見る視点です。おそらく医療でもそうですし、農業、灌漑でもそうです。

ー 支援の後でも、そこにいる人たちが自分たちで使えて、自分たちで管理できるようにしなくてはならないということですね。

中村: そうです。日本にいると、自分たちの社会システムが当然で、全世界にあって当然だという錯覚を持ちやすい。しかしそうではない世界もある。また、そうした「遅れている・進んでいる」とか、「技術が高い・低い」という考え方もおかしい。それはそれぞれの地域と時代でずいぶん違うと思います。一般に日本人や欧米人の考えは、自分たちの生活が進んでいて、他を見るときに「かわいそうに、遅れて」と考えがちです。

ー そうなると「〜支援」というのも、ある種の押し付けになってしまって、実際にそこにいる人の生活と、かけ離れたような支援になっている構造になってしまう。

中村: 以前、国連の団体がトイレを作る運動していたことがありました。動機は決して悪い訳じゃない。子どもの病気を減らしたい、だから清潔なトイレを備えて感染症を減らそうというのです。しかしそれが実際に現地で役立つかとなれば、別の話です。昔の日本のように、尿も便も貴重な肥料です。お金をかけてトイレを沢山作っても、業者が喜ぶだけで、人びとの間に広がりません。似たようなことが、他の支援でもあるんじゃないかと思います。

ー 的外れかもしれませんが、そうした視点には中村さんの山登りの経験が生きているのかと思いました。何もない場所や状況の中で、自分でどうにかする自立の精神のようなものが活きているのかなと、ふと思いました。

中村: それもあるかも知れませんが、「時代」に鍛えられました。物のない時代に育ち、工夫しないと欲しいものが手に入らなかった。それに今よりは寛容な環境でした。最近のように、あらゆることにお膳立てとマニュアルが整っている状態ではなかった。例えばJRのアナウンスです。「ホームと電車の間に隙間がありますから、小さいお子様連れの方は手をつないでお降りください」とか、当たり前のことをしゃべりすぎます。(笑)事故があると周囲から責められるので、対策を講じたという一応の実績を言葉で作る。その結果マニュアルがやたらに生産される。君たちはかわいそうにマニュアルだらけでしょう?(笑)昔はもうちょっと自由だった。「若気の至り」という言葉もあって、「若いもんは先があるから、少しの過ちくらいは・・・」で済んでいたことが、最近はマニュアルから外れると、寄ってたかって責める。等質であることが強制されるのです。そういう意味ではね、昔の方が自由にものを考える余地があったのかなと思います。

ー 私がちょうど大学四年生の時、就職するか、進学するかに迷っていた時期に、中村先生の講演会を中野でお聴きした時のことを思い出しました。その時、私と同じように就職に悩んでいるらしい人がこう質問していたんです。「自分は海外に行って、ボランティアをしたい。世界を見て回りたい」、「けれど、もし今行ってしまったら、もう生きていけないんじゃないかと、悩んでいます。」みたいな質問をしていました。すると中村さんがその時にも、「それではまず働いてみて『あ、こんなもんか』って思って、それでもやろうと思えばやればいいんじゃないの?昔は、『若気の至り』っていう言葉があってね…」という話をされていました。その言葉を聞いて、なんというか私はすごく救われたというか、「学問を続けてみよう」と思えたんです。

中村: 前もって決めすぎるんですね。個人の定めはそんな先まで分からないと思いますよ。そんなに先の先まで考えて決める必要はないと思いますね。

ー しかし、そういうお話をされながらも、ペシャワール会のアフガニスタンでの活動では、大干ばつが始まる中、水源を確保し、砂漠だった地を2020年までに緑地化するという、遠くまで先を見る「2020年の緑の大地計画」があります。

中村: あれは個人の心情や生き方を超える問題です。「意義を感じないから止める」では済まないのです。一度手をつけた時点で、否が応でも継続性が求められます。そうでなければ無責任で終わります。

ー 2000年ごろから現地で大干ばつが始まった後、水を確保するために2002年から計画され、着実に砂漠を緑地に変え、用水路を引くことで農地を作り15万人もの難民となった人々が帰還されたと聞きました。また2010年にはそこに生きる人々の拠り所となるようなモスクやマドラサ(イスラム社会の伝統的な寺子屋教育機関)を建てられたということも、本当にただただ凄いことだと思います。それでも中村さんの本を読むと、計画を進める上で数々の難所があったことも知りました。「計画を立てるのは、ものすごく簡単である。それをやり遂げるのは難しい」と言いながらも、それを実行する時の困難というのは、どういうものなのでしょう。

中村: まあ、色々ですね。最良の理解者は、中小企業の経営者でしょう。資金の調達から、そこで働く人の確保、そして当然のことながら現地が自分たちでやっていける工夫、人育てまで配慮します。理念だけでは皆生活できませんから、「その人たちがこの仕事で食べていける道」をつける事も考えます。

ー「食べていける」というのは。

中村: 生活できることです。話は日本ほどややこしくない。現地はほとんどが農民ですから、土地と水さえあれば確実に自活できる。お金がなくなったら、昔の「屯田兵制」でやれます。

我々の仕事は「平和運動」ではない

ー なるほど。そうした活動を聞くと、そこに生きる人々やその次の世代がしっかりと生きていける状況を作れば、そこに平和が訪れるのだと強く思います。ただ、今日本でアフガニスタンと聞いた時に、一般的に思い浮かぶのは悲しいことに、「テロリスト」といったような言葉です。しかし、なぜ「テロリスト」になってしまう人が出て来てしまうのか?という視点は欠けてしまっている気がします。

中村: 自分の命まで捨てるとは、よっぽど思い詰めた人達ですから、やはり、その人たちがどうしてそうなったかを見ないと、僕は片手落ちだと思います。

ー そこで生きられる状況や、自分の土地を耕し食べていけるという仕事があれば攻撃に向かうのではないという方向が見えてくるんじゃないかと思わされます。

中村: 三度の食事が得られること、自分のふるさとで家族仲良く暮らせること、この二つを叶えてやれば、戦はなくなると言います。私ではなくて、アフガニスタンの人びとの言葉です。十人が十人、口をそろえて。

ー なるほど。それを可能にすることこそが本当の「人道支援」なんだと思います。「安全保障」と言った時に、武力によって、もめごとが飛び火する前に叩き潰しておこうという発想に至りがちですが、本来の「安全保障」のあり方は、彼らは彼らで生きていけるようにする。私たちは、私たちで生きていけるようにする。そういうことなのではないかと、中村さんの活動を見ていて、思います。

中村: 全くその通りです。そういった上からの乱暴な目線が、この頃ますます強くなっている。以前からその傾向はありましたけれども、今ほどひどくなかった。「所かわれば品かわる。世の中広い。」くらいで済んでいました。現地の生活スタイルまで全部を変えないと、その人たちが幸せになれないというような傲慢さは、今より薄かった。山岳会でインドやパキスタンの僻地に行くと、全然自分と違う文化を持った人びとがいます。「世界は広い」という感想だけあり、政治宗教を語るのはタブーで、「郷に入っては郷に従え」というのが流儀でした。それぐらいで済んでいたわけですよ。女の人が顔を見せない習慣にしても、「なんか理由があるのだろう」「美人が多いせいで、男たちが妬くんじゃないか」とかね。(笑)ところが最近は、「被り物を取らないと彼女らは幸せにならない」と断定し、無理にやめさせようとする。「本人たちが嫌がるから、お節介はやめて下さい」と言いたくなります。

ー 今は自分と異なる他者を排除しよう、同化させようという方向が強くなって、「安全保障」とか言った言葉で使われてしまってると思うんですが、そうではない方向性もきっとあるはずで、それを中村さんやペシャワール会の方々が実践されていると思います。

中村: 私たちの仕事は「平和運動」ではありません。もっと日常の差し迫ったものです。医療の続きで、いわば救命活動です。しかし、結果として平和に通じるものはあると思います。

インスタントになるほど分からなくなる

ー お話を聞いてて思ったのですが、中村さんは、相手に合わせるというか、あくまで現地の環境や文化を尊重した上で付き合って内側から見ようとするということをとても大切にされています。そういう知恵は、どこで得られたのでしょうか。

中村: それは自分も分かりません。少し話がそれますが、気になることがある。日本人は、ますます性急で気が短くなっている。これも他者の理解を阻んでいる理由の一つではないかと感じています。最近の通信・交通手段の発達に支えられ、どこでも、いつでも、さっと行ける。より早く、より大量に輸送できる。昔は、そうでもなかった。私が最初に山岳会に参加した時は、福岡からパキスタンのカラチまで船か飛行機かでした。船で行けば、一か月以上かかる。そこから陸揚げして、山のふもとに着くまでにまた一か月かかる。登山活動は、三か月か四か月。だから全部で最低半年ぐらい掛けて、登山に行ったんです。しかし、今のトレッキングツアーは、「ヒマラヤ一週間コース」だとかになっている。(笑)そうやってインスタントになればなるほど、現地理解が浅くなりやすい。分かったつもりの分だけ、分からないよりも害が大きい。幸いというべきか、僕の場合は、社会全体がテンポの遅い時代からの関わりだったので、現地事情にじっくり触れやすかったと思います。

日本という国

ー 現地で活動する時に、「日本人であること」を意識することっていうのはあるんでしょうか?

中村: ありますね。本当に驚きでした。パキスタンやアフガニスタンは親日家が非常に多かった。普通の欧米人が来ても、門前払いを食らわすのに、日本人というだけで態度が変わるのです。当然、日本人というだけで何故?という疑問が湧いてきます。やはり意識せざるを得ない。

ー 何故なんでしょうか。

中村: 一つは敵の敵に対する親近感です。日露戦争や太平洋戦争など、欧米と干戈を交えた(戦争した)のはアジアの中で日本だけだった。彼らはイギリスの支配に随分苦しめられた時代があって、日本という国に親近感を抱くようになった。日露戦争もそうです。アフガニスタンの場合は、1800年代後半、南下するロシアと北上する英国、その狭間の中で生き抜いてきたという国際環境が日本と似ています。アフガニスタンは険しい山岳という自然条件、日本は極東という遠距離によって、かろうじて独立を維持してきた。英国とは三回も戦争して撃退しています。もう一つは、「ヒロシマ・ナガサキ」を必ず連想するそうです。その悲劇に対する同情、そして戦後廃墟の中から復興した「平和国家・日本」は称賛の的でした。

ー なるほど。僕はエジプトやヨルダンといった中東の国々に行った時に「日本人」であると言った時に本当に優しく接してもらったことがしばしばで、とても驚いたことがありました。ある時、何故なのかと聞いてみると、電化製品や車、そしてアニメといった文化からの親近感などもあったのですが「日本人は一度もアラブの仲間を武力で傷つけたことがないからだ」と言ってことを思い出しました。それを聞いてとても嬉しかったんですけれど、最近のニュースを見ている時に、胸が痛むんです。安保法案が通り、これから中東という地域に日本人が傷つけに行かざるを得ないかもしれない状況が起きてしまった時に、彼らにどういう風に話ができるのかなと思ってしまう。「イラク戦争」で自衛隊派遣で揺れていた2004年頃の中村さんのインタビューでは、「あの大きかった親日感情も翳りを見せている」とおっしゃっていました。では2016年になった今、現地での日本への感情はどのように変わってきているんでしょうか。

中村: うん、前ほどは芳しくないですね。ただ、古い世代がまだ生きている。強い好感を持ってくれていた世代です。しかしもう新しい世代になると、欧米の一員くらいにしか見ない者が増えています。ただ、アフガニスタンには軍服を着た日本の兵隊は来なかった、そのことは大きかった。日本だけは違うんだ。至らない点は多々あるにしても、民生支援を中心にやっているんだ。という意識はまだ強いです。

ー なるほど。そこに来た人というのは、軍人ではなく支援をしてくれた人だったと。

中村: 軍隊をくり出して人を殺めなかったことは、非常に大きかったのです。誤解から親日感情が湧いたにしても、その感情を踏みにじらなかったことが、好印象を与えたのでしょう。

ー 日本という国が、色々あるけれども、武力は行使しない国であることを現地の人は知っているということですね。

中村: うん。敏感ですよ。自分たちはどちらかというと、作業員の人々と接する中で、下々と言っては失礼ですけれども、社会の大部分を占める底辺の階層がそう見ている。それは感じます。

ー 日本にはルールというか、憲法で武力は使わないと決められているということを、なんとなくは知っているということでしょうか。

中村: 彼らは憲法9条のことなんか知らないですよ。ただ、そういう国是があるのだとは感じていると思います。

ー それが今もしかしたら、変化してしまうかもしれないことは知っているんでしょうか。

中村: 漠然とは感じているでしょう。現地の人びとは日本人以上に国際情勢に関心が強い。BBCニュースを聞くのは日常です。去年日本人がシリアで捕まりましたよね。あんなニュースもすぐ作業現場で話題になります。

ー なるほど。日本の状況はBBCといったニュースを介して、よく知られているということなんですね。


[写真-1]
ペシャワール会ホームページ 現地報告写真展〜人・水・命 30年のあゆみ〜より

[写真-2]
2010年3月、ガンベリ砂漠が、いまでは全長約25キロメートルの用水路として、1万6,500ヘクタールの緑の大地に生まれ変わった。これによって65万人もの難民たちが用水路の流域に帰農し、定住するようになった。ここで稲や麦、イモやオレンジが収穫されている

[写真-3]
山田堰の技術、柳で作った蛇籠で護岸した用水路。17万本以上の柳を植樹している。ペシャワール会ホームページ 中村医師報告書「ここにこそ動かぬ平和がある」より

INTERVIEW、May.03.2017
ペシャワール会 中村哲医師に聞く(前編)。
共に生きるための憲法と人道支援
(2016年6月22日 収録)

(インタビュー・記事構成:神宮司博基、是恒香琳。写真:七田人比古)
http://sealdspost.com/archives/5388

posted by fom_club at 09:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする