2019年12月05日

[追悼]中村哲医師

 12月4日、アフガニスタンで医療や人道支援に尽力していた「ペシャワール会」代表で医師の中村哲さんが、現地で何者かに銃撃されて亡くなった。
 享年73歳、志半ばでの悲報だった。
 追悼のため、中村さんの歩みを記した「週刊文春」2016年9月1日号の記事を再編集の上、公開する。
 なお、記事中の年齢や日付、肩書き等は掲載時のものです。

◆ ◆ ◆

 私が子供の頃に暮らしていた福岡県若松市(現・北九州市)は、父と母の双方が生まれ育った土地でした。
 若松は遠賀川(おんががわ)の河口にあって、石炭の積み出しで栄えた町です。
 母方の祖父である玉井金五郎は、港湾労働者を取り仕切る玉井組の組長。
 父親は戦前、その下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業(なりわい)にしていました。

 ちなみに、玉井組の二代目は作家の火野葦平です。
 彼は私の伯父にあたる人でしてね。
 彼が一族の歴史を描いた小説『花と龍』は、小学生の頃に映画化もされました。
 私は玉井家の実家にいることが多かったので、文筆業で一家を支えていた和服姿の伯父の姿をよく覚えています。



 アフガニスタン東部のジャララバードを拠点に、国際貢献活動を行う医師の中村哲さんは1946年生まれ。
 港湾労働者を組織した一族の中で、多くの人たちが出入りする家に育った。

◆ 自宅には借金取りがしょっちゅう来た

 生活の中心だった玉井の家は大きな邸宅でした。
 普段から労働者や流れ者風の男たちが行き交い、子供がうじゃうじゃといました。
 例えば私が兄だと思っていた兄弟が、よくよく聞いてみると従兄弟(いとこ)だった、なんてことも珍しくない。
 三世代、四世代が入り乱れて住んでいましたね。

 若松の家にいたのは、ほんの数年のことでした。
 私が6歳のとき、福岡市の近くの古賀町(現・古賀市)に引っ越したからです。
 後に聞いた話では、中村組の従業員が沈没船引き上げの際に亡くなる事故があったそうです。
 父は保証人倒れも重なり事業に失敗し、空き家になっていた昔の家に戻った。
 私はそこで大学を卒業するまで過ごしました。

 古賀町の家は瓦屋根の平屋で、中庭に鯉の泳ぐ池がありました。
 津屋崎(つやざき)の海岸から運ばせたという庭石が置かれ、事業に失敗して極貧に落ちた、という感じが全くないのは不思議でしたね。
 とはいえ、借金取りはしょっちゅう来て、強面(こわもて)の男たちが、家具に白墨で差し押さえの金額を書いていく。
 勉強机にも金額が書かれ、子供心に不安になったのを覚えています。

 ところが、酒豪の両親は心配するより酒でも飲もうと言うばかり。
 結局、親がクヨクヨしていなければ、子供もクヨクヨしないもので、どこにも悲壮感はありませんでした。

 しばらくして、父は家を二階建てに増築し、借金を返すために旅館業を始めました。
「ひかり荘」という旅館の名前は、伯父が付けてくれたものです。
 部屋は15ほどあり、建設業関係の客が多かったです。
 土木工事が近くであると、何か月も部屋を借りて出勤するわけです。
 考えてみれば、私はアフガンで用水路づくりの土木工事をしているので、いまもそうした人たちに囲まれて働いている。
 何とも不思議な気がします。
 宴会客のドンチャン騒ぎから避難して近所の姉の家で受験勉強をしていた

 ただ、子供の頃はそれでも良かったのですが、高校時代は辟易(へきえき)とすることもありました。
 私の狭い部屋は壁ひとつ向こうが宴会場で、試験の前日でも夜遅くまでドンチャン騒ぎが続くんですよ。

 当時の労働者には命からがら戦地から復員してきた世代が多く、彼らは酔うと盛大に軍歌をうたい始める。
 手や茶碗を叩き、踊り、大いに羽目を外すものですから、大学受験の時は近所に嫁いだ姉の家に机を置かせてもらい、勉強をしていました。



 一浪の後、九州大学の医学部に入学。
 1973年に卒業してからは、佐賀県にある国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)の精神神経科にまず勤務した。



 子供の頃、私は虫や蝶の観察が好きだったので、本当は農学部の昆虫学科に行ってファーブル先生のような生活をするのが夢でした。
 しかし、固い父親からすれば、昆虫学といってもただの遊びにしか聞こえなかったでしょう。

 医学部に進んだのは、医師になりたいと言えばその父の許しが得られると思ったからでした。
 その頃、ちょうど地方の無医地区の問題がクローズアップされていましてね。
 自分は医師になって日本国のために尽くしたい。
 そう言えば表向きは立派です。
 それでも昆虫学者の夢が諦めきれなければ、後から農学部に転部すればいいと考えたわけです。

 しかし実際に医学部に入ると、国立大学とはいえ高価な医学書を何冊も買わなければなりません。
 それを父が借金をして買ってくれるのを見ているうち、転部の気持ちはなくなっていきました。
 親から受けた義理、恩を立てないと親不孝になる。
 そう思い、医学部を出ようとはっきり心に決めたんです。

 最初、神経科に入ったのは、人間の精神現象に興味があったからです。
 実は高校の頃の私は極度のあがり症で、教師に当てられただけで汗がわっと吹き出し顔が赤くなる。
 女性が前に座っていると自然に振る舞えなくなり、固まって動けなくなるくらいでした。
 そのことでずいぶん悩み、それで哲学の世界を齧(かじ)り始め、読書に没頭していった過去のいきさつもありました。

 一人暮らしを始めたのは、そうして国立肥前療養所に勤務するようになってからです。
 病院は佐賀の山中にあり、周辺には空き家の百姓家が多かった。
 そのうちの一軒を借りていました。
 家は人が住まないと傷むということで、家賃はなし。
 食事は病院で食べていたので、帰ってきて寝るだけの場所でしたけれど。

 あの頃はうつ病や統合失調症の患者の話を、とにかく聞き続ける日々。
 カウンセリングでは相手の世界をそのまま受け入れ、会話するのが鉄則です。
 相手に寄り添うようにして、ただただその人の気持ちを理解しようと努める。

 その経験から私は多くを学んだと感じています。
 後にアフガニスタンで文化も風習も異なる人たちと接する際、大切なのは彼らの生きる世界を受け入れ、自分の価値観を押し付けないことです。
 単に違いであるものに対して、勝手に白黒をつけてしまうことがさまざまな問題を生む。
 そう考える癖がつきました。

ペシャワル赴任の打診を受けて

 中村さんが初めてパキスタンを訪れたのは1978年。
 以前から趣味の登山で付き合いのあった福岡登高会から、ヒンズークシュ山脈への登山に医師としての同行を依頼された。
 それがきっかけで同地に縁ができ、福岡県大牟田(おおむた)市の労災病院などに勤務した後、日本キリスト教海外医療協力会からペシャワル赴任の打診を受ける。



 福岡登高会からの依頼は、二つ返事で応じました。
 登山の期間中、医師はベースキャンプに何か月も滞在します。
 そのあいだに自然の観察ができるのが魅力だったからです。

 ヒンズークシュ山脈周辺はモンシロチョウの原産地と言われ、はるか氷河期の遺物とされるパルナシウスという蝶も生息しています。
 あの高山に本当にモンシロチョウが居るのかを、自分の目で確かめてみたかった。
 実際にベースキャンプでは充分に蝶の観察ができました。
 だから、現地赴任を打診された時も、もともと好きな地域だったので心惹かれるものがあったんです。

 結婚したのも同じ頃です。家内は当時勤務していた病院の看護師でした。



 1984年、前年にロンドンのリバプールで医療活動の準備をした後、ペシャワルのミッション病院へ妻と幼い子供を連れて赴任した。
 同時に彼の活動を日本から支援する「ペシャワール会」も設立された。



 同地での仕事はハンセン病の治療を行い、その根絶のプロジェクトを進めることです。
 ですが、私が赴任を決めた背景には、医療の他にもう一つの理由がありました。

 実はその2年前に父が亡くなったんです。
 父が生きていたら、私は老いた両親を残したままペシャワルに行こうとは考えなかったはずです。
 昔の親父というのは恐ろしい存在で、生きているうちは自分に自由がないような気持ちがするんですね。
 だから、あの厳しかった父が死んだとき、寂しいという気持ちは当然ありつつも、それにも増して「これで俺は自由になった」という思いを抱いたのです。
 人生における重しが消え、これからは自分の思い通りの人生を歩んでいくことになる。
 そんな思いが私をペシャワルへと押しやったのでしょう。

 さて、私たちが暮らしたのは、ミッション病院の敷地内にある邸宅でした。
 場所はダブガリという旧市街。以前は英国軍の宿舎や兵舎があった英国支配の本拠地で、病棟は兵舎を改築した建物でした。
 敷地内にムガール王朝時代の廟もある歴史ある街です。

家族と住んだ大きなイギリス軍将校の元宿舎

 私たちの家も以前は将校のためのもので、600坪ほどの敷地が壁に囲まれた英国風のレンガ造りの建物でした。
 建坪は200坪くらい。
 浴室も複数。
 部屋にはカーペットを敷き詰め、畳に見立てていました。
 ちなみに英国の影響を受けているパキスタン人は平気で土足で上がってくる。
 一方でアフガン人は日本人に似ていて、玄関でしっかり靴を脱ぐという文化の違いがある。
 なので、パキスタン人の来客の際、靴を脱いでもらうのに苦労した思い出があります。

 家族5人、私たちは広さだけはあるその家で、小さく生活していたということになります。
 大変なのはイギリス風の庭園で、雨がほとんど降らない土地柄ですから、水やりをしなければ芝生も花壇の花もすぐに枯れてしまう。
 これは自分たちでは維持ができず、病院が雇ってくれた庭師に手入れを頼みました。
 あと、洋式トイレにはいまもなじめませんですね。

 80年代はアフガン難民の支援のために、欧米各国の援助団体が増えた時期です。
 そのため、アメリカが出資したインターナショナルスクールがあり、私たちも子供を通わせました。
 妙な言い方ですが、当時のペシャワルは国際的な援助で活気があったんです。



 ミッション病院でハンセン病の治療を続けながら、中村さんの活動は徐々に広がりを見せていく。
 1986年からは新たな支援団体を設立し、難民キャンプでの活動も開始。
 無医地区での診療や診療所建設に尽力した。活動が大きな節目を迎えるのは2000年のことだ。



 私の活動がハンセン病の治療に留まらなかったのは、現地ではハンセン病だけを見る診療所が成り立たないからです。
 ハンセン病の多い地域は、結核やマラリア、腸チフス、デング熱、あらゆる感染症の巣窟です。
 マラリアで死にかけている患者に、ここは科が違うから帰ってくれとは言えない。
 あらゆる疾患を診察するようになる中で、ミッション病院を出て独自の活動が始まったわけです。
 そうして診療所を建てる活動を通して、アフガンの人びととの付き合いを深めていった。

 赴任から15年後、ハンセン病については国際的にコントロール達成宣言が出されました。
 その後、一斉に援助が引き上げられていきましたが、一方、アフガンでの感染症の患者は増え続けていました。
 そこで日本側からの援助が続く限り患者を診(み)続けようと、現地に活動の拠点となる新たな病院を設立したのです。

 そのタイミングで起きたのが、2000年の大旱魃(かんばつ)でした。
 当時、WHOが発表した被害は、国民の半分以上が被災し、飢餓線上にある者が400万人、餓死線上が100万人という凄まじいもので、そのとき現地で飢え、死んでいった犠牲者のほとんどは子供でした。
 水がないために作物が実らず、汚い水を飲むので赤痢や腸チフスにかかる。
 飢えと渇きは薬では治せません。
 抗生物質や立派な薬をどれだけ与えても命が救えない状況に、私は医師として虚しさを覚えました。
 そして医療活動の延長として開始したのが、診療所の周りの枯れた井戸の再生でした。

「家」と呼べるようなものはないに等しい

 3年後、中村さんは「百の診療所よりも一本の用水路」を掛け声に、大河川から水を引く灌漑用水路の整備事業も始める。
 現在、10年以上かけて完成した水路の全長は27キロメートル。3500ヘクタールを潤す。
 周辺地域の取水設備も手掛け、2020年までに計1万6500ヘクタール、65万人の農民に水を行き渡らせる計画を進めている。



 いま、私はアフガン人スタッフや時々来る日本人有志とともに、現地の宿舎で暮らしています。
 ガードを含めると15人ほどの共同生活です。
 家族はミッション病院を出る際、家内の実家である大牟田に戻りました。

 我々のようにアフガニスタンで活動する国際団体は、お金持ちの別荘のような建物を借り受けて、そこを宿舎や事務所にするのが一般的です。
 私たちも同様で、ジャララバードの宿舎では一室を私専用の部屋にしてもらっています。
 六畳くらいの部屋に机が一つ、ベッドが一つ。
 それだけの部屋です。
 夜は電気がないため、10時くらいまではソーラーパネルで明かりを付けて消灯。
 日中は用水路工事の現場にいることが多いですね。

 そのようなわけで、家族と離れてからの私には、「家」と呼べるようなものはないに等しいのですが、ただ唯一のこだわりが風呂です。
 アフガンには湯船に浸かる習慣がありません。
 しかし、1日が終わって「ああ、良い湯だな」という瞬間だけは欲しい。
 そこでイスラマバードのバザールで風呂桶を探し、宿舎のシャワー室に設置しました。
 これが現地での唯一の贅沢です。

 長年の紛争で疲弊したアフガニスタンでの工事には、時間と忍耐が必要です。
 最初はシャベルとツルハシしかありませんでしたが、土地の人びとの故郷に戻りたいという気持ちに支えられながら、工事を進めてきました。

 この事業を続けていると、水の力のすごさが分かります。
 旱魃以後、多くの村が土漠と化し、全村が難民化した村もありました。
 しかし、あるとき用水路が完成すると、噂を聞いたもとの村人が数週間後には現れ、しばらくして荒れた村にテントが並び始める。
 いずれ村長が帰村し、畑の境界線や村の秩序が以前の状態に復元されるのです。

 そのような村々の様子を見ていると、私はときおり郷愁に誘われることがあります。

 用水路が完成した流域には、緑が文字通りに戻ってきます。
 水路にはドジョウやフナが泳ぎ、鳥がやってくる。
 そして、あの稲作の様子や四季の移ろい……。
 それが日本の何でもない昔の農村風景に非常によく似ている。

 彼らの社会は8割が農民ですから、田植えや稲刈りの季節になれば、それこそ村が総出で農事を手伝う。
 農業を中心とした共同体の中で、お年寄りが大切にされているのも、生まれ育った若松市や古賀町を思い出させます。

 そして土木作業を行うスタッフと暮らしていると、あの玉井家や実家での日々が胸に甦ってくるのです。
 その意味で私にとって、アフガニスタンは懐かしい場所でもあるのかもしれません。

※ 稲泉 連/週刊文春 2016年9月1日号

文春オンライン2019/12/05 12:05
[追悼]中村哲医師
ペシャワールに赴任したきっかけは、原始のモンシロチョウを見たから

(稲泉 連)
https://bunshun.jp/articles/-/16860

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Dr Tetsu Nakamura, 73

The head of a Japanese aid agency and five other people have been killed in an ambush in eastern Afghanistan

Among the victims was Tetsu Nakamura, 73, the respected physician and head of Peace Japan Medical Services, who had recently been granted honorary Afghan citizenship for his decades of humanitarian work in the country.

“I am shocked that he had to die in this way,” Japan’s prime minister, Shinzo Abe, told a news conference in Tokyo after news of Nakamura’s death alongside five Afghan colleagues was disclosed. “He risked his life in a dangerous environment to do various work, and the people of Afghanistan were very grateful to him.”

Hundreds of Afghans posted photographs of Nakamura on their social media pages, condemning the killing and underscoring the esteem in which he was held.

The gunmen fled the scene and police have launched a search operation to arrest them, Sohrab Qaderi, a member of the governing council in the province of Nangarhar, told Reuters, adding that he believed Nakamura had been targeted for his work.

“Dr Nakamura has been doing great work in the reconstruction of Afghanistan, especially in irrigation and agriculture,” he said.

Among those killed in the attack on Wednesday were the doctor’s bodyguards, a driver and a passenger, a hospital spokesman said.

According to reports, Nakamura and team members were traveling to the provincial capital, Jalalabad, at about 8am. The Taliban denied responsibility for the attack.

Nakamura, who was seriously wounded in the chest, died shortly after, while being airlifted to the Bagram airfield hospital in the capital, Kabul, said Gulzada Sanger, the hospital spokesman.

Nakamura had headed Peace Medical Services, a Japanese charity based in Nangarhar, since 2008. He came to Afghanistan after a Japanese colleague, Kazuya Ito, was abducted and killed.

In April, the Afghan president, Ashraf Ghani, granted Nakamura honorary citizenship of Afghanistan.

Nakamura had worked in the region since 1984, initially providing aid in Peshawar, in north-west Pakistan, before opening a clinic in Afghanistan in 1991.

No one immediately claimed responsibility for the attack, the second in as many weeks targeting aid workers in Afghanistan.

In late November, an American working for the UN mission in Afghanistan was killed and five Afghans, including two staff members of the mission, were wounded when a grenade hit a UN vehicle in Kabul.

On Monday, a gunman opened fire on a vehicle in Kabul, killing two intelligence officials and wounding three others. No one claimed responsibility for that attack, but both the Taliban and the Islamic State affiliate have been behind such attacks.


[photo]
Tetsu Nakamura, who died alongside his bodyguards, driver and one other passenger when his car was attacked in east Afghanistan, is seen at a November 2018 meeting in Japan.

The Guardian, Last modified on Wed 4 Dec 2019 18.55 GMT
Japanese aid chief among six dead in Afghanistan attack
Japanese prime minister among those to pay tribute after Tetsu Nakamura is killed in deadly ambush on car

By Peter Beaumont
https://www.theguardian.com/global-development/2019/dec/04/japanese-aid-chief-among-six-dead-in-afghanistan-attack-tetsu-nakamura

A Japanese doctor who devoted his career to improving the lives of Afghans has died, after being injured in an attack in eastern Afghanistan.

Gunmen shot Tetsu Nakamura, 73, while he was travelling in a car to monitor a project, officials say.

Five Afghans were also killed in the attack, which happened in the city of Jalalabad.

Dr Nakamura headed a Japanese charity focused on improving irrigation in the country.

In October this year, he was awarded honorary citizenship from the Afghan government for his humanitarian work.

No-one has yet said they carried out the attack and the motive remains unclear.

Japanese Prime Minister Shinzo Abe said he was "shocked" by the death of Dr Nakamura while the US embassy in Kabul condemned the shooting, saying "aid workers are not targets".

The United Nations Assistance Mission in Afghanistan (UNAMA) expressed its "revulsion" over the killing.
UNAMA News
UN in #Afghanistan condemns and expresses its revulsion at the killing today of respected Japanese aid worker Dr. Tetsu Nakamura in #Jalalabad. A senseless act of violence against a man who dedicated much of his life to helping most vulnerable Afghans #NotATarget
5:17 PM - Dec 4, 2019

Attacks of this kind are fairly common in Afghanistan.

Last week, a US national working for the UN in Afghanistan was killed in a blast targeting a UN vehicle.

Research by the BBC found an average of 74 men, women and children were killed every day in Afghanistan in the month of August alone.

How did the attack unfold?

Dr Nakamura was travelling in a vehicle in Jalalabad city in the eastern province of Nangarhar on Wednesday morning when he came under attack.

He was shot on the right side of his chest and was in the process of being transferred to a hospital near the capital Kabul when he died at Jalalabad airport, officials told AFP news agency.

His three security guards, a driver and one of his colleagues were also killed, said Attuallah Khogyani, a spokesman for Nangarhar's governor.

Photos from the scene showed a white pickup truck with at least three bullet holes in its windscreen.

Who was Tetsu Nakamura?

He was born in the Japanese city of Fukuoka in 1946.

After qualifying as a doctor he moved to Pakistan in 1984 to treat patients with leprosy.

Two years later, he headed to Afghanistan, where he opened his first clinic in a remote village in Nangarhar and established a non-governmental organisation, Peace Japan Medical Services (PMS).

At its peak, PMS operated 10 clinics providing help for leprosy patients and refugees amongst others.

Dr Nakamura had also heavily been involved in the construction of wells and irrigation in villages where many suffered from cholera and other diseases because of a lack of clean water.

In 2003, he won the Ramon Magsaysay Awards, widely regarded as the Asian equivalent of the Nobel Prize.

In 2014, Dr Nakamura told news outlet the Japan Times he had taken a different route to work each day to ensure his safety.

However, he also added that the best precaution he could take was to "befriend everyone".

"I've tried to make no enemies... The best way is to befriend everyone, even if that makes people think I lack principles. Because the people are the only thing I can depend on there," he said.

"And that's surprisingly more effective than carrying a gun."

What has the reaction been?

A spokesman for Afghan President Ashraf Ghani said the government strongly condemned "the heinous and cowardly attack" on Afghanistan's "greatest friend".

"Dr Nakamura dedicated all his life to change the lives of Afghans, working on water management, dams and improving traditional agriculture," Sediq Sediqqi wrote on Twitter.

The Dutch ambassador in Kabul, Ernst Noorman, called the killing "senseless", saying Dr Nakamura had dedicated his life to the "peace and development of Afghanistan".

The governor of Nangarhar province, Shah Mahmood Meyakhail, said "all the people of Nangarhar" were saddened by Dr Nakamura's death and were thankful for the many years he spent helping the people, Tolo News reports.


[photo-1]
Dr Nakamura headed a Japanese charity and served in rural areas of Afghanistan

[photo-2]
Bullet holes are seen in the window of the vehicle

[photo-3]
The victims were in a white pickup truck

[photo-4]
Dr Nakamura has been recognised for his work

[video]
The BBC was given exclusive access to spend a week with ambulance workers in Afghanistan.

BBC, Published: 4 December 2019
Tetsu Nakamura: Japanese doctor among six dead in Afghan gun attack
https://www.bbc.com/news/world-asia-50654985

posted by fom_club at 19:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和」

 ヤッホーくんのこのブログ、読者諸氏にはもう何度も出会っておられることとは思いますが再度、「日記」を再掲しておきます:

☆ 2010年12月30日「飯盛山」
☆ 2010年12月31日「年納め」
☆ 2014年06月26日「ドーナツ外交」
☆ 2016年03月04日「慈響の調べ」
☆ 2019年06月14日「爆弾よりも食料を」
☆ 2019年10月10日「中村哲医師、アフガン名誉国民に」
☆ 同日、ふたたび中村哲医師「アフガニスタンに生命の水を」

 今日、ふたたび中村哲医師・・・

『アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和』予告編
 朗読:吉永小百合/収録時間:30分+35分
 ¥2,700円(+税)/2016-11発売
 企画:ペシャワール会/制作:(株)日本電波ニュース社
 アフガニスタンは、本来は豊かな国であった。
 2000年に大干ばつが起こるまでは、穀物自給率93パーセント、国の8割は農民であった。
 1979年末の旧ソビエト軍の侵攻によるアフガン戦争、2001年の9.11テロ事件への欧米軍による報復戦争。
 戦乱と干ばつの続く中で、中村医師とアフガン人スタッフは、「緑の大地計画」を企図して1,600本の井戸を掘り、更に独自の灌漑方式で長大な農業用水路を建設。
 砂漠化し荒廃した土地16,000ha以上を緑に甦らせたプロジェクトを、さらにアフガニスタン全土に拡大できるよう、日々奮闘し続けている。

https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=2rzxrCtvcys&feature=emb_logo
 アフガニスタンの大地から水が消え、多くの命が奪われていきました。
 それから15年、大地はよみがえり、再び人びとの営みが始まっています。
 それを支えた一本の用水路は、現地の農民と日本人の手で作られました。
 完成を前に、アフガニスタンから届いたメッセージです。
 遠く離れた私たちとアフガニスタンの人びと、その間に見えた一つの輝きとはどのようなものだったのでしょうか。

 幕開けは、吉永小百合さんの朗読でした。
 中村哲医師のたたかいを伝える新しいDVDです。
『アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和』、通算3作目の記録動画になります。

 2001年、米英などのアフガン空爆の下で決死の食糧支援に取り組んだ中村医師らは、その後、農業の再建に全力を集中していきます。
 鍵となるのは「用水路」。
 乾き切った大地に大河クナールから水を引き入れる。
 激流に堰を積み上げ、荒れた砂漠に長大な水路を築く。
 一見して無謀。
 なにしろ率いるのは、土木にはシロウトの日本人医師。
 重機も、コンクリートも、鋼も、専門的な技術者すらも用意できない中で、どうして用水路を造ることができるのか。
 しかし、崩壊する農業の再建がなければ、飢饉と戦乱から命を守り平和を取り戻すことはできない、そんな固い信念で中村医師とペシャワール会、そしてアフガンの農民たちの格闘が始まります。
 名付けて《緑の大地計画》。
 今回のDVDは、灌漑(用水路建設)事業に焦点を当てながら、この緑の大地計画に取り組んできた15年近い日々を振り返るものです。

 それにしても、この15年は何という闘いだったことか。
 ガンベリ砂漠に広がる豊かな緑とたわわな実りは、圧倒的です。

 DVDは、「本編・緑の大地計画の記録」と「技術編・PMSの灌漑方式」に分かれています。
 あえて技術編を置いたところに、もしかしたらこの作品に込められた意図、思いがよく現れているのかもしれません。
 今回の作品は、現地の格闘の記録を総括すると同時に、それが次の時代、アフガンの人々自身の自立した力と努力に受け継がれるべきことを強く意識して作られたものです。

 どんな思いも、どんな熱意も、どんな覚悟も、地に足の着いた技術に支えられなければ、農業を、暮らしと命を支えることはできない。
 強い倫理観と固い使命感に支えられた中村医師の実践の根っこに、技術への強い関心と信頼があることを改めて知らされます。
 “哲さん”の頭の中ではある種の技術論、技術史が形を取りつつあるのではないかとさえ、感じます。
 ただしそれは、自然を征服しようとするのではなく、自然の前に謙虚に折り合いをつけ、権力や特権を支えるのではなく、人びとの自治と結びつくことのできる、流行りの言葉でいえば持続可能な技術です。

 ぜひご覧になってみてください。
➡前2作を紹介したこのブログの記事
・『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く』
・『アフガンに命の水を ペシャワール会26年の闘い』
https://ikejiri.exblog.jp/11480719/


練馬区議会議員(市民の声ねりま)池尻成二
https://ikejiriseiji.jp/『アフガニスタン%E3%80%80用水路が運ぶ恵みと平和』%E3%80%80/

 アフガニスタンやパキスタンで人道支援活動に長年取り組んできた中村哲医師(73)が4日、銃撃されて亡くなった。

 現地の報道などによると、中村さんは現地時間4日朝、アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードを車で移動中、何者かに襲われ銃弾を受けた。
 病院に運ばれいったんは回復に向かったが、容体が悪化し息を引き取った。
 同乗していた運転手や警備員らも死亡したという。

 中村さんは福岡県出身で九州大学医学部卒。
「麦と兵隊」「花と龍」などで知られる作家火野葦平のおいでもある。
 NGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表と、ピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長などを務めていた。

 アフガニスタンやパキスタンで30年以上にわたって、医療や農業用水路の建設などに携わってきた。
 その活動は国際的に評価され、2003年には「アジアのノーベル賞」ともいわれるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞。
 国内でも菊池寛賞やイーハトーブ賞などを受けている。
 今年10月にはアフガニスタンのガニ大統領から名誉市民証を授与された。

 アフガニスタン大使館はホームページに次のようなコメントを掲載した。

「中村医師はアフガニスタンの偉大な友人であり、その生涯をアフガニスタンの国民の生活を変えるためにささげてくださいました。彼の献身と不断の努力により、灌漑システムが改善され、東アフガニスタンの伝統的農業が変わりました」

 中村さんは9月にいったん帰国し、用水路建設に取り組む現地職員らと農業関連施設を訪れたり、講演会をしたりした。
 その後、再び現地に入っていた。

 中村さんは1984年にパキスタンでハンセン病などの医療支援を開始。
 アフガニスタンに活動の場を移し、「飢えや渇きは薬では治せない。100の診療所よりも1本の用水路が必要だ」などとして、水利事業や農業支援に力を入れてきた。

 本誌記者もかつて中村さんを取材したことがある。
 対テロ戦争の名目で武力行使が続いていることが、アフガニスタンを混乱させていると訴えていた。

「現地は危険だと言われるが、いくら武器を持っていても安全にはなりません。現地の人たちに信頼してもらうことが大切です」

 2008年には「ペシャワール会」の男性が武装グループに殺害される事件も起きた。
 中村さんは警備員をつけるなど安全確保に注意しつつ、現地の人たちと直接ふれ合うことを続けてきた。

「診療するうちに、待合室で亡くなる貧しい子どもの姿を何人も見てきました。大干ばつに襲われ栄養状態が悪い子どもたちを救うには、医療だけでは足りません。用水路をつくって農業を支援する必要があったのです」

 アフガニスタン東部で「マルワリード用水路」の建設に2003年に着手。
 建設資材の不足などに悩まされながらも、全長25キロ超の用水路を10年に完成させた。
「緑の大地計画」としてさらに農地を復活させるべく、活動を続けていたところだった。

 70歳を超え体調も万全ではなかったが、最後まで自ら現地で動くことにこだわった。

「私は日本では邪険にされることもありますが、現地の人たちはとても優しくしてくれます。日本よりもお年寄りを大事にしているからです。あと20年は活動を続けていきたいですね」

 取材では、心配をかけてきた妻や子どもら家族に感謝する言葉もあった。

「帰国した時にお茶漬けを食べたり、風呂に入ったりすると安心します。日本に残して苦労をさせてきた家族に、罪滅ぼしをしたいと思うこともあります」

 妻の尚子さんは4日報道陣に、「今日みたいな日が来ないことだけを祈っていました」と答えたという。

 ペシャワール会は、「事業を継続するのが中村さんの意志でもある」として、人道支援活動を続けていく方針だ。


※ 週刊朝日オンライン限定記事

[写真-1]
アフガニスタンの干ばつ被害について説明する中村哲さん=2018年

[写真-2]
アフガニスタンで活動する中村哲さん=2012年

[写真-3]
中村哲さんらが乗っていたとみられる車

dot.asahi、2019.12.4 22:03
銃撃された中村哲医師 が生前、本誌に語っていた夢
「現地では優しくしてもらっている」

(週刊朝日・池田正史、多田敏男)
https://dot.asahi.com/wa/2019120400098.html

 NGO「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(73)が2019年12月4日、突然の銃弾に倒れた。
 苦しむ人たちに向き合い、医師の役割を超えて農業支援にも活動を広げていった中村さん。
 現地・アフガニスタンでも高く評価されていただけに、交流があった人たちは「なぜ」と言葉を失った。

 福岡市のペシャワール会事務局で4日、記者会見した広報担当理事の福元満治さん(71)は悲痛な面持ちで「正直、信じられない。無念でしかたない。この事業は中村哲という人物でなければできなかった」と語った。

 干ばつにあえぐ大地に用水路を造り、1万6500ヘクタールの農地を潤した。
 現地の住民は中村さんに「畏敬(いけい)の念を持っていた」という。

「30年以上やって現地の信頼が一番のセキュリティーだった。(事件は)アフガンのことを思うとありえないこと」

 今後の活動については、「あくまで続けるのが中村医師の遺志であると思っている」としながらも、「事業を拡大していくのはなかなか難しいのではないか」とも話した。

 中村さんは「自分は好きで勝手なことをしているので、家族には迷惑をかけたくない」と周囲に話していたという。
 妻の尚子さんは報道陣の取材に「いつも家にいてほしかったが、本人はこの仕事にかけていた。いつもサラッと帰ってきては、またサラッと出かけていく感じでした。こういうことはいつかありうるとは思っていたが、本当に悲しいばかりです」と話した。

「あまりに大きな損失」

 中村さんの生き方に感銘を受けてきた多くの人たちからは、突然の死を惜しむ声があがった。

「えっ、亡くなったんですか」

 アフガニスタンなどで人道支援をする国際NGO「JEN」(東京都新宿区)の木山啓子事務局長は絶句した。

「世界にとってあまりに大きな損失です」

 現地の人々の健康を考えるなら、医療だけではなく穀物の栽培や灌漑(かんがい)など持続可能な解決策が大切だと、日本で会った時にアドバイスされた。

「素晴らしい人をこんな形で失うなんて」

 福岡県朝倉市の徳永哲也さん(72)は、中村さんが地元の取水堰(ぜき)「山田堰」の近くに座り込み、何時間もながめていたのを覚えている。
 中村さんは同じような堰をアフガンにつくり、農地の再生を目指した。
 徳永さんは今秋、地元の土地改良区の理事長を退任。
 会の活動に協力するつもりで、4月には中村さんとアフガンの農地を視察していた。
 中村さんには武装した政府の警護者が常に付き、渋滞で止まった車をどかせるなど厳重にガードしていた。
「政府がいかに中村先生を大事にしていたか。こういう状況の中での銃撃など信じられない」と絶句した。

「活動がどうなるのか、影響は計り知れない。混乱して今は何も考えられない」

 上智大学の東大作(ひがしだいさく)教授は、2009年から1年間、国連アフガニスタン支援ミッションの政務官を務めた。
「日本人に好意を持つアフガン人が多いのも、中村医師の活動が広く知られているから。一緒に働いた若者はみんな誇りに感じていた」と話す。

 2001年の米同時多発テロ後、米英軍はアフガンを空爆した。
 タリバーン勢力は2005年ごろから息を吹き返し、2008年には国土の7割が「政府ですら危なくて行けない地域」だったという。
 干ばつも進み、水がなくても育つケシに頼るようになり、麻薬産業だけで生きる若者も増えていった。

「その中で、中村さんは灌漑事業がいかに重要かを、村長、市民、時には反政府勢力を1人ずつ説得し、進めていった。他の人にはまねできないこと」と言う。

 先日は国連難民高等弁務官だった緒方貞子さんが亡くなった。

「アフガニスタンをいかに良くすべきか考えていた2人を同時期に失った。大きな損失だ」

 中村さんの著書『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る ― アフガンとの約束』(岩波書店、2010年2月)の聞き手を務めたノンフィクション作家の澤地久枝さんは、
「足元から震えがのぼってきます。東京から、できるだけのサポートをしたいと思ってきましたが何と残念なことでしょう。私自身の気持ちの整理がつかず、言葉もないというのはこのことです。でも、中村先生が何より残念でいらっしゃるでしょう」とコメントを寄せた。


※ ペシャワール会 http://www.peshawar-pms.com/index.html
※ 国際協力NGO「ジェン(JEN)」https://www.jen-npo.org/

[写真]
アフガニスタン東部ジャララバードで4日朝に銃撃された車両。日本の人道支援NGO「ペシャワール会」の現地代表で、医師の中村哲さんらが乗っていた(現地住民提供)

朝日新聞、2019年12月5日06時00分
中村医師の妻
「いつかありうるとは思っていたが…」

https://digital.asahi.com/articles/ASMD456YQMD4TIPE01V.html

posted by fom_club at 10:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中村哲医師「アフガンの地で」

 我々(われわれ)の「緑の大地計画」はアフガニスタン東部の中心地・ジャララバード北部農村を潤し、2020年、その最終段階に入る。
 大部分がヒンズークシ山脈を源流とするクナール川流域で、村落は大小の険峻(けんしゅん)な峡谷に散在する。
 辺鄙(へんぴ)で孤立した村も少なくない。

 比較的大きな半平野部は人口が多く、公的事業も行われるが、小さな村はしばしば関心をひかず、昔と変わらぬ生活を送っていることが少なくない。
 我々の灌漑(かんがい)計画もそうで、「経済効果」を考えて後回しにしてきた村もある。
 こうした村は旧来の文化風習を堅持する傾向が強く、過激な宗教主義の温床ともなる。
 当然、治安当局が警戒し、外国人はもちろん、政府関係者でさえも恐れて近寄らない。

● 忠誠集める英雄

 ゴレークはそうした村の一つで、人口約5千人、耕地面積は200ヘクタールに満たない。
 これまで、日本の非政府組織(NGO)である日本国際ボランティアセンターが診療所を運営したことがあるだけで、まともな事業は行われたことがなかった。
 PMS(平和医療団・日本)としては、計画の完成に当たり、このような例を拾い上げ、計画地域全体に恩恵を行き渡らせる方針を立てている。

 同村はジャララバード市内から半日、クナール川対岸のダラエヌールから筏(いかだ)で渡るか、我々が3年前から工事中の村から遡行(そこう)する。
 周辺と交流の少ない村で、地域では特異な存在だ。
 圧倒的多数のパシュトゥン民族の中にあって、唯一パシャイ族の一支族で構成され、家父長的な封建秩序の下にある。

 パシャイはヌーリスタン族と並ぶ東部の山岳民族で、同村の指導者はカカ・マリク・ジャンダール。
 伝説的な英雄で、村民は彼への忠誠で結束が成り立っている。
 他部族にも聞こえ、同村には手を出さない。

 10月中旬、我々は予備調査を兼ねて、初の訪問を行った。
 クナール川をはさんで対岸にPMSが作った堰(せき)があり、年々の河道変化で取水困難に陥っていた。
 ゴレーク側からも工事を行わないと回復の見通しが立たない。
 ゴレークの方でも取水口が働かず、度重なる鉄砲水にも脅かされ、耕地は荒れ放題である。
 この際、一挙に工事を進め、両岸の問題を解決しようとした。

 最初に通されたのは村のゲストハウスで、各家長約200名が集まって我々を歓待した。
 他で見かける山の集落とさして変わらないが、貧困にもかかわらず、こざっぱりしていて、惨めな様子は少しも感ぜられなかった。

 ジャンダールは年齢80歳、村を代表して応対した。
 彼と対面するのは初めてで、厳(いか)めしい偉丈夫を想像していたが、意外に小柄で人懐っこく、温厚な紳士だ。
 威あって猛からず、周囲の者を目配せ一つで動かす。

 PMSの仕事はよく知られていた。
 同村上下流は、既に計画完了間際で、ここだけが残されていたからである。

「水や収穫のことで、困ったことはありませんか」

「専門家の諸君にお任せします。諸君の誠実を信じます。お迎えできたことだけで、村はうれしいのです」

● 終末的世相の中

 こんな言葉はめったに聞けない。
 彼らは神と人を信じることでしか、この厳しい世界を生きられないのだ。
 かつて一般的であった倫理観の神髄を懐かしく聞き、対照的な都市部の民心の変化を思い浮かべていた−−
 約18年前(01年)の軍事介入とその後の近代化は、結末が明らかになり始めている。
 アフガン人の中にさえ、農村部の後進性を笑い、忠誠だの信義だのは時代遅れとする風潮が台頭している。

 近代化と民主化はしばしば同義である。
 巨大都市カブールでは、上流層の間で東京やロンドンとさして変わらぬファッションが流行する。
 見たこともない交通ラッシュ、霞(かすみ)のように街路を覆う排ガス。
 人権は叫ばれても、街路にうずくまる行倒れや流民たちへの温かい視線は薄れた。
 泡立つカブール川の汚濁はもはや川とは言えず、両岸はプラスチックごみが堆積する。

 国土を省みぬ無責任な主張、華やかな消費生活への憧れ、終わりのない内戦、襲いかかる温暖化による干ばつ−−
 終末的な世相の中で、アフガニスタンは何を啓示するのか。
 見捨てられた小世界で心温まる絆を見いだす意味を問い、近代化のさらに彼方(かなた)を見つめる。


× × ×

「アフガンの地で」は、アフガニスタンで復興支援活動を続ける「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表でPMS総院長の中村哲医師(73)によるリポートです。次回は来年3月掲載予定。


[写真-1]
ゴレーク村の指導者カカ・マリク・ジャルダーン(左から3人目)と中村哲さん(右から2人目)たち(写真はPMS提供)

[写真-2]
ゴレーク村の対岸のシギ堰の改修工事。川幅1キロ。近年、クナール川の洪水は激しく、河道が変化し、シギ堰への取水が困難となっている(写真はPMS提供)

[写真-3]
ゴレーク村の予備調査のための交渉。中村哲さんたちが村人にクナール川でのPMSの活動の経緯を話し、洪水被害を減らし安定した灌漑ができるようにするための調査であることを説明した=10月16日(写真はPMS提供)

[写真-4]
ゴレーク村下流域のPMS作業地。マルワリードU堰と、現在も工事中の護岸工事(右側)によって安定した灌漑が可能となったベラ村農村の農業牧畜風景=11月4日(写真はPMS提供)

[写真-5]
ゴレーク村の地図

[写真-6]
中村哲医師

西日本新聞、2019/12/2 11:49
[アフガンの地で 中村哲医師からの報告]
信じて生きる山の民

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/564486/

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