2019年10月11日

三島由紀夫 and/or 川端康成

ノーベル賞の選考資料 初公開! 深まる“謎”

演出家 宮本亜門さん
「こんばんは、宮本亜門です。最近私は、ある作家たちの運命について考えるようになりました。それは、三島由紀夫と川端康成、2人についての運命です。」

 きっかけは先月(2019年1月)、半世紀前のノーベル賞の選考資料が初めて公開されたことです。
 川端が日本人で初めて文学賞を受賞した1968年。
 興味深い記述がありました。
 実は、三島も候補として名前が挙がっていました。
 しかも、今後の成長しだいと評価され、将来に受賞の可能性も残されていたのです。
 しかし、2年後…。

三島由紀夫「話を聞け。男一匹が命をかけて、諸君に訴えているんだぞ」

 三島は、自衛隊に乗り込みクーデターを呼びかけた末、割腹自殺。
 さらにその2年後、川端もガス自殺します。

社会学者 大澤真幸さん
「なぜ三島は、最後のテロを行わなければいけなかったか」

 謎に満ちた2人の死は、今も人々の関心を集めています。
 私、武田真一(キャスター)は、三島の作品の演出を数多く手がけてきました。
 ノーベル賞が2人にどんな影響を与えたのか、ゆかりの人を訪ねました。

女優 岸惠子さん
「(川端が)自殺なさったのは、あの方だから、当然の帰結」

 特に三島を知る人たちからは、こんな声が…。

三島と親しい編集者 櫻井秀勲さん
「(三島が)ノーベル賞をもらったとしたら、私は変わっていたと思う。自分の立場をきちんとしたと思う」

 もし三島が、ノーベル賞をとっていたら。
 やはり三島は自決したのか?その後の運命は変わったのか?
 今夜はその謎に、三島と川端に精通するお2人とともに迫ります。

三島がノーベル賞を受賞していたら
・ ゲスト宮本亜門さん(演出家)
・ ゲスト平野啓一郎さん (芥川賞作家)
・ ゲスト中江有里さん(女優・作家)

宮本さん: あまりにもノーベル賞、そして2年後の三島自決、また2年後の川端の自殺ということは、やはり何か影響があるのかなと気になるところではありますよね。正直、個人的に言いますと、あの三島由紀夫がノーベル賞ごときで影響するのか。してほしくないという、個人的なですよ、個人的な。文学者としては。

平野さん: 僕は三島の「金閣寺」を読んで文学に目覚めて、本当に三島なくしては自分が小説家になれなかったというくらい非常に大きな影響を受けましたけれども、ノーベル賞を取った作家ということで手に取ると、またちょっと印象は違ったと思いますよね。

中江さん: 三島がもし取っていたら、川端のノーベル文学賞もなかったわけですよね。ダブル受賞というのはたぶんありえないと思うんですね、これまでのことを考えると。だから、ちょっとあまり現実的じゃないなというのが私は正直な印象ではあります。どうしても年功序列というか、やはり上の方が取るんじゃないかなと。

半世紀たち明らかに ノーベル賞巡る2人の思い

 宮本さんがまず訪れたのは、三島の最期の場所となった自衛隊の駐屯地。
 ここで三島は、日本刀を手に自衛隊の幹部を監禁した末、切腹したのです。

宮本亜門さん
「刀傷」
「これは三島由紀夫さんがつけた?」
「(三島が)『邪魔するな、出てけ』ともみ合ったそう」
「ここまでしなければならなかったのか、疑問ばかりが残るな。」

「潮騒」や「金閣寺」など、数多くの傑作を残した三島。
 文壇デビューのきっかけには川端の存在がありました。
 小説を直接、川端に売り込み、文芸誌への掲載を後押ししてもらったのです。
 一躍人気作家となった三島。
 海外の新聞で「世界の文豪」と紹介されるまでになりました。
 次第に三島はノーベル賞を強く意識するようになったと、担当した編集者たちはいいます。

14年間 三島を担当した編集者 小島千加子さん
「ノーベル賞だけは三島さんの中でも、格別なものとしてあったと思う。そこらじゅうのいろんな賞と違って」

三島と親しい編集者 櫻井秀勲さん
「(三島は)自分にはその価値があると。その自負だったと思う」

 その三島を川端は高く評価していました。
 ノーベル賞受賞の4年前、1964年、取材で宮崎に滞在したときのことです。

宮崎で川端を案内した 渡辺綱纜さん
「『(川端)先生、まだ日本人はノーベル文学賞を誰ももらってませんけど、日本人で最初にもらうといったら、どなたでしょうかね』と言ったら、ぱっと、それこそ即座に『それは三島由紀夫くんです。三島由紀夫くんがきっともらいます。三島由紀夫くん以外には、ノーベル文学賞は日本人では考えられません』」

 三島と川端の間には、複雑な感情があったと指摘する専門家もいます。

三島由紀夫文学館 館長 佐藤秀明さん
「写真集ですね」

 川端の受賞の前年1967年、三島が書いた庭園についての評論。
 そこに、奇妙な一節がありました。

“私は或(あ)る作家の作品を決して読まない。彼は円熟した立派な作品を書きつづけていることがわかりきっているからである”

三島由紀夫文学館 館長 佐藤秀明さん
「この時代に、こういう円熟した立派な作品を書いている作家といえば、川端康成を思い浮かべるのは、一番自然ではないだろうかと思う。何か冷たい突き放すようなものを感じざるを得ない」

 さらに、2人の間にノーベル賞を巡る生々しいやりとりがあったという、新証言にたどりつきました。
 三島が手がけた舞台の多くで主演をつとめた、女優の村松英子さんです。
 家族ぐるみで親交を深める中、三島の母から聞いたという話を今回初めて打ち明けてくれました。

宮本亜門さん
「何かがあったのか、2人の間でというのは?」
女優 村松英子さん
「三島先生は川端さんのお宅に呼ばれて、『君はまだ若いから、私は年だから、今回は譲ってくれないか』とお頼まれになったと聞きました。ご自分が信じていた川端さんから、そういうことを言われたことがショックだったようです」

 川端はそれ以前にも、ノーベル賞についての依頼を三島にしていました。

“例のノーベル賞の問題、ごく簡単で結構ですから、推薦文をお書きいただきませんか。”

 そして1968年の受賞。
 川端は「翻訳者のおかげ」、そして「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」とコメントしました。
 その三島は、すぐにお祝いに駆けつけます。

三島由紀夫
「川端さんは一番ですね、力を入れないで力をお使いになるという芸術上のコツをご存じの芸術家ではないかと思って。剣道でも一番強いタイプですね。もう『無構えの構え』ですね」

武田: 平野さん、どういうふうにご覧になりましたか?

平野さん: 僕はちょっと先ほどのVTRの意見とちょっと違っていて、三島は30代後半は、あまり自分の仕事に自信満々ではなかったと思いますね。商業的にも「金閣寺」とかのころに比べると部数がすごく落ちていたし、若い人たちは、大江さんとか一回り下ぐらいの作家でものすごく力のある作家が出てきて、そっちにぱっと読者が移っていってましたし。三島がどういう人生を歩むかというのは40になるぐらいまでかなり迷っていて、40になってもちょっとしばらく迷ったと思いますけど。だからノーベル賞が欲しかったのは、逆に言うとちょっと自信のなさというか、自分の活動、国内の評価でも必ずしも悪くなかったんですけど、当時の批評とか読むと。でも国際的な賞で自分の活動がバックアップされるといいなという感じはあったんじゃないかという気はします。

宮本さん: でも、三島さんはやっぱり世界一周してから、本当に外国に認められるという、貪欲なほど、ブロードウェイでも舞台をやりたいと言ってずっとアメリカに滞在したりも含めたら、これほど海外に標的というか、そこを目指していた人はないですよね。

中江さん: 川端っていうのは、三島のこともそうですし、ほかの才能ある作家、新人作家の後押しをしていたんですよね。もしかして川端は、やはり三島のことをかわいいと思っていた部分もあるんだと思うんですけど、でもどんどん自分を脅かす存在にもなってくる。それは自分自身の目の確かさというのが分かる結果になっているんですけれども、でも同じ賞を争う立場になったときに、川端の心境は結構複雑だったんじゃないかなと想像しましたね。

平野さん: 大体、日本国内でどっちがとかいう話をしていること自体がおかしいんですよね。だって、日本人に誰かあげようみたいな話で結局リサーチに来て、谷崎か川端か三島みたいなことをいろんな人にインタビューしていて、結局そういう話が耳に入ってきたから、川端も三島に依頼しているんでしょうけど。でも本当のこと言うとおかしな話でしょ。その賞をあげる側と違う人たちが、先輩後輩でどっちが譲るかみたいな話をしているというのは。それはちょっと、当人たちも気の毒なところはある気がしますけどね。

宮本さん: ノーベル賞取ったあとには、川端さんが取ったあとに「三島があと10年待てるかどうか」ぐらいのことをぽろっと言ったというのがあって、三島さんって、自分の人生と作品とを徹底的な計画性で決めていくじゃないですか。本当に彼がどこまで生きようとしていたのかというところと、何かこう、年というのが、一般の普通の人生の一生という考え方、彼はしていないような気がするんですよね。そこでやっぱりこの時期にノーベル賞がというところは、何を彼はどう思ったかというのに興味があるんですけどね。

中江さん: 実際、2人の往復書簡を読んでいると、2人とも自分の作品を送り合っているので、必ずそれに対する感想などを述べ合っているんですよね。どちらかというと三島由紀夫のほうが川端康成に対して、本当に手紙の量もものすごく多いし、内容も長いんですよ。それを見ていると、何ていうか「あがめ奉る川端先生」という感じもするし、あるいはお父さんに甘える息子のようなところもあるし、非常に2人の関係というか、愚痴なんかも言っているんですよね。「こういうのを書いたのにあんまり受けません」みたいな感じで。そういうところを見ると、三島ってすごく気弱な面があって、それを川端康成には見せていたんだなとは思う。

三島の自決 運命は変わっていたか?

 川端のノーベル賞が決まった1968年10月。
 同じ月に、三島は民間防衛組織「楯(たて)の会」を結成します。
 学生ら100人を集め、自衛隊の体験入隊や武道の訓練を繰り返していました。
 三島の自決に関わった「楯の会」。
 宮本さんが会ったのは、その元幹部・本多清さんです。
 本多さんは三島の死の直前まで行動を共にしていました。

『楯の会』元会員 本多清さん
「(三島は)もう自分も40歳過ぎたと。文豪として死ぬか、英雄として死ぬか、ちょうどその岐路にきたと」

宮本亜門さん
「なぜこんなに早い時期に自決を考えたと思われます?」

本多清さん
「50年後、100年後に、思い出す人がいる。そのときのいわゆる、あのときに、ああいうことやった人がいるな。これが民族なんです」

 ノーベル賞を強く意識していた三島。
 もし受賞していたら、運命は違っていたのか…。

三島と親しい編集者 櫻井秀勲さん
「(三島が)ノーベル賞をもらったとしたら、もらったことに対しての責任を彼は持ったと思う。そのあと(死なずに)小説を書いたと思う」

女優 村松英子さん
「(賞をとっても)生きてはいないと思います。あのころとっても、あのころの日本に対しての危機感、このままだと本来の日本の美しさがどんどんあせていくという時期であったことは確かだから」

川端の自殺 三島の死が影響したのか?

 三島自決の直後、川端は現場に駆けつけます。
 三島の死は、川端にとっても大きな衝撃でした。
 川端の自宅で手伝いをしていた、稲穂照子さん。
 三島の死の直後、川端から普段は頼まれない資料集めを指示されたといいます。

稲穂照子さん
「(川端)先生から、『三島由紀夫さんに関する資料は全部取っておいて』と言われた。『何でもいいよ』と。『雑誌でも何でもいいから取っておいてね』と言われました」

 川端は、三島の死に直面した心情を、こう書いています。
『三島由紀夫』(『新潮』1971年1月号)
 “私は三島君の『楯の会』に親身な同情は持たなかったが、三島君の死を思いとどまらせるには楯の会に近づき、そのなかにはいり、市ケ谷の自衛隊へも三島君についてゆくほどでなければならなかったかと思う”

 ノーベル賞受賞後、多忙を極めるようになった川端。
 連載していた長編小説も、この時期を境に執筆が止まりました。
 そして、三島の死から2年後。川端も自殺します。
 川端が死の6日前、みずからの心情をつづった手紙が残されていました。

和洋女子大学 研究員 深澤晴美さん
「こちらですね。『この春は花も見ず、病とも申せぬ、病の心弱りに』。『心弱り』を非常に意識しております。この死の年、その前あたりから、日を追って川端の言動を見てみますと、先の予定を入れていく一方で、直近の死を自分で感じていると思われるところがございます」

 晩年の川端を6年間診療した、精神科医の栗原雅直さん。
 多忙の中、川端は不眠に悩まされ、睡眠薬を服用していたといいます。

栗原雅直さん
「目がとろんとして眠たげで、目の動きがのろいとか、これは(睡眠薬の)薬物中毒というか。本当は自分としては創作こそ作家の命と思っているんだけど、創作ができないと。かなりつらかったと思います」

 川端と親交のあった、女優の岸惠子さんです。
 川端の死は、独自の美意識によるものではないかといいます。

女優 岸惠子さん
「川端さんはあれ(ノーベル賞)をもらったから『書けなくなって自殺した』という、うわさがあったんですって聞きましたけど、そんな方じゃないです。もっと芯が図太い方だった」

宮本亜門さん
「三島さんが先に亡くなったことで、川端さんが影響されたということは?」

岸惠子さん
「私はないでしょうと思います。(川端)先生の中では、必然的な締めくくりだったと思います。川端先生なら、なさっただろうと思います。変な暗いイメージではなくて、もう終わりにしようと」

どう読み解く ノーベル賞と三島の自決

武田:2人の文豪の死、そしてノーベル賞という存在。宮本さん、いろいろな方からお話をお聞きになって、どういうことをお感じになりましたか?

宮本さん: 自分が演劇をやっているせいか、どうしても僕は、三島さんを演劇人というふうに思ってしまっているところがありまして。彼は自分のシナリオを作り、台本を作り、自分の演出をし、自分が主演でやっていくということを徹底的にやり続けているような気がしていて。ただやっぱり現実の問題になると、生活というのはいろいろな時代の流れとか、人間関係で変わってくると。そのときにノーベル賞というのは大きなきっかけになって、究極にそのあと台本を最終段階まで作り直して、ああいう結末に至ったのではないか。それは芸術的な観点から見たらいいのか、それとも人間の1つの生き方として見たらいいのかというのが交わってきてしまうんですよね。そんな気がしてますけど。

平野さん: ただ現実的には、彼が40歳になってから、1966年ぐらいからかなり政治的な言動を先鋭化させていて、「楯の会」結成前から右翼の学生たちとかなり密に交流を持って、自衛隊の体験入隊とかもしていますから、実際1968年に、仮にノーベル賞を取っていたとして、こういうことになったから、文学一本で絞るから、あとは任せたとは、ちょっと状況的にはもう言えなかったのではないかと僕は思うんですね。僕はやっぱり、戦争体験が大きかったと思いますね。三島は「仮面の告白」を読んでもそうですけど、戦争に行かなかったのなら、つまり生き残ったんだったら、それに見合うだけの人生を生きなきゃいけないって、ものすごく強い強迫観念みたいなものがあって、戦後社会に生き残って、特攻隊で死んだ、自分と同年ぐらいの人たちがいる中で、何のために生きているのかということをすごく思い詰めて、大義のない世界をなんとなく生きているということが自分に許せないというのは、彼がずっと繰り返し繰り返し、一種の「サバイバーズ・ギルト」という大きな災害とかのあとに生き残った人たちの心の状態として、よく心理学とかでいわれますけど、そういうものはやっぱりずっと抱えてますよね。

どう読み解く ノーベル賞と川端の自殺

武田: 一方、川端とも親交のあったドナルド・キーンさんは、このように語っています。
日本文学研究者 ドナルド・キーンさん
“『川端の死について』
ノーベル文学賞の受賞者としてレベルに達した作品を書けなかったから、その苦しみに耐えかねて川端先生は死を選ばれたということも考えられます。しかし、川端先生は美に対しては計り知れないほど繊細で、優れた感性をお持ちでした。そんなことに死を選ばれた原因があるのではと思うこともありますが、みな、想像にしか過ぎません。”

中江さん: 川端康成は「葬式の名人」という作品を残しているんですけど、幼いころから自分の身内であるとかあるいは作家になってからも多くの作家を見送っている、見届けているんですよね。その中の1人、最後のほうに当たる三島由紀夫を、結局、自分よりもずっと若いのに葬儀委員長もつとめたんですけれども、やっぱりそういうすごく死に近い人生を生きてきて、でも死というのは、実は自分でその瞬間を決められないものですよね、どなたも。私はなんとなく、川端は自分の死の瞬間というのを自分で、ここで決めたのかなと。誰にこの人は見送ってほしかったんだろうというふうに思ったりするんですよね。文豪でありながら、非常にさみしい感じがしてしまう。

武田: 宮本さん、取材をされて、今改めて2人の作品とどういうふうに向き合われますか?

宮本さん: 人間の矛盾みたいなものが露骨に2人とも出ているような気がしていて、そこがやはりこれからも読み続けていきたいなと思うとともに、それぞれの死が、もしかしたらそういう意味では重なっているのかもしれないという気もしながら、謎多き魅力的な作家だなと思いますね。

NHK・クローズアップ現代、2019年2月4日(月)放送
三島由紀夫×川端康成
ノーベル賞の光と影

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4241/index.html

posted by fom_club at 14:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家の人生総体がとりもなおさず唯一の傑作である

現代文学の衰弱がとなえられている。
それにはさまざまな原因が考えられるが、作家における精神の衰弱もその一つであろう。
一方では〈無頼派〉である太宰治、坂口安吾の小説がロングセラーを続けており、関係書の出版も後を絶たない。
〈無頼派〉は現代文学の喪失した本質的な何かを持っているのだろうか。
川嶋至氏に、そういった情況に照明を当ててもらった。

現代小説への不信の念


『群像』(1973年4月号)が「現代小説の読みかた」という特集を行った。
 あらためて「読みかた」を考えなおさねばならぬほど、現代小説は悲惨な袋小路に追いこまれているのである。
 月々大量に生産される小説という名の活字の羅列が、その生産者に反比例するかのように、かつてもっていたはずの実質を喪失していく光景は、多少とも現代小説にまともにつきあおうとした読者なら、誰もが目撃しているところであろう。

 文学運動どころか、ちょっとした文学論争さえもいっこうに起こる気配のない、一見平和な無風状態のなかで、苛酷なジャーナリズムの要請に応じて、小羊のごとき小説家は黙々と原稿用紙を埋めている。
 彼らは書きたいという欲求など、とうの間に失っているのだ。
 読者の方も、さして期待はしていない。
 毎朝新聞を開くように、読書習慣として、毎月文芸誌のページをめくるだけである。
 そして猛々しい小説家は、いっこうに作品を発表しようとしない。
 文芸時評家が月ごとにもらす現代小説への嘆き声は、けっして単なる職業的な挨拶としてだけ葬り去ることはできないのである。

 こうした現代小説の実状が、捉えどころのない現代という時代の反映であるといったような議論はさておき、この現代小説への不信の念は、読者の眼をかつて明確なかたちをもって存在したはずの過去の小説に向けさせるという、ひとつの現象となって現れている。
 現代小説に深くかかわろうとする激しい情熱から出発した多くの批評家たちが、自己の思想と感情を盛る対象を、現代に発見できず、次第に夏目漱石や森鴎外をはじめとする、濃密な実在感をもって屹立する近代作家たちの上に求めていったのも、そのためであろう。
 批評家もつまるところ、読者のひとりである。
 混迷のなかから予見への指針を求めて、かつて確かな手ざわりで実感できた小説の世界のありようをもう一度確かめようとするのは、ことの成否は別として、賢明なやり方である。

 この方向に添って、この4、5年にわかに注目を集めているものに、無頼派の作者たちがある。
 相次ぐ無頼派作家の個人全集刊行、それにおびただしい数の評論・評伝・研究書のたぐいや諸誌紙における無頼派特集は、彼らに対する最近の関心の高まりを示している。
 無頼派の復権は可能かといった議論も、すでに耳新しいものとは感じられなくなった。

不遇に恵まれない情況

「作家は無頼、浮浪の徒であるべきだ。栄誉や地位は障害である。あまりの不遇は、その芸術家の意志が弱く忍苦に脆いと、才能までしぼむこともないではないが、逆に声誉もまた才能の凝滞衰亡のもとになりやすい」
(「夕日野」)
 これは、ノーベル賞受賞後の川端康成の感想であるが、内面的には無頼の徒であろうとした川端が、賞ひとつによって国民的英雄に祭り上げられた悲喜劇は、記憶に新しいところである。
 川端ほど極端ではないにしろ、現代の小説家は多かれ少なかれ声誉にむしばまれ、不遇に恵まれない情況に置かれていて、精神的にも無頼の徒にはなり難い。
 現今無頼の生涯を終えた作家に関心が集まるのも、故なしとしないのである。

 広義の無頼性は、元来文学の底流に存するものであり、なにも近代小説にかぎったことではない。
 無頼派の系譜探索の触手は、時代を遡行して、広範囲に延びているが、周知のように狭義の無頼派は、敗戦後2、3年の間、華やかな脚光をあびた太宰治、坂口安吾、織田作之助ら破滅型作家を指し、あるいは伊藤整、石川淳らの韜晦型作家を含めることもある。

 いま破滅型作家に焦点をしぼってみれば、彼らはまさしく現象的にはジャーナリズムの波をまともにかぶった先駆者であり、それ故に破滅したという栄誉まで担っている。
 現代ジャーナリズムの要請の厳しさは、新人にいたるまで無頼派の時代の比ではないと想像されるが、涸渇にあえぐものはいても自己を破滅に追いこむものはいない。
 それだけ賢明になったのは喜ぶべきことであるが、かつて身を滅ぼしていった作家たちを、ジャーナリズムに踊らされたピエロと嘲笑することはできないであろう。
 創作に生涯を賭けた壮絶な精神の絶対性は、知的相対性に遊ぶ野次馬を沈黙させるだけの力をもっている。
 小説のために生活を危機に追いこむ私小説家のいわゆる実生活演技説も、坂口や織田については当てはまらないであろう。

 無頼派が世に容れられたのは、日本じゅうがいっさいの価値観を根底からくつがえされ、呆然自失していた時期であった。
 昨日の輝かしい英雄は、今日裁きの底に立たされている。
 既成の価値観に依存した思考が有効性を失い、ことばのまったく無力化した情況こそが、彼らの息づく格好の舞台だったのである。
 彼らの力強い現実容認のことばは、よりどころを失い虚脱放心状態に陥っていたひとびとの心に、すなおにとけこんでいった。
 彼らは十年を超える不遇の歳月、というよりそれまでの人生のすべてとひきかえに、この確信を手中にしていたのであった。
 太宰が自己の存在の苦しさを語り、坂口が人間の絶対の孤独のさまを写し、織田が人生流転の哀感をくり返し綴ったのは、みずから体験的につかみとった人間の本質の形象化にほかならなかったといえる。
 裏返せば、彼らには自己の生涯を文学の実験の材料に供して悔やむところない、強靭な精神の裏づけがあったのである。

俗の俗に徹した生き方

 現代もまたことばがむやみと氾濫し、無力化している時代である。

 日常のことばさえもが異様に拡散して、にわかには信じられがたいのだ。
 近代的合理主義のもたらした相対的思考の泥沼に足をとられて、われわれは虚無の闇路をさ迷うばかりである。
 こうした情況のなかで、無頼派の作家たちから得るものがあるとすれば、それはなにか。
 単独の作品が訴えかけてくるものではない。
 彼らの文学から人生の進路を変えるほどの感化を受けたものもいるが、その影響力は、おそらく断片も含めたいっさいの作品の総和が示す彼らのたどった人生そのものの魅力、あるいは人生の総体が浮かび上がらせる主張のようなものに発しているのではないだろうか。

 吉行淳之介氏は、『群像』の特集「現代小説の読みかた」において、最近、
「戦争を知らない書き手が生まれてきている。その場合でも、自分を小説家に追いやるに足るだけの苛烈な情況というものは存在するはずだ。そういうものを持たない小説は、つまらない。私は情況といったが、それは外部からの圧力とは無関係に、自己の内部の情況でもいいわけで、デーモンという言葉はこういう場合に使ってもよいとおもう」
(「甲羅に似せて」)
という、感想をもたらしている。
 最大公約数的な市民生活に順応できるものが、ことさら小説家になる必要はないというのは、吉行氏年来の持説でもある。
 氏はけっして私小説家ではないし、また私的情況を書けと主張しているわけでもない。
 苛烈な情況のもたらす精神の緊迫感こそが、創造の原動力たりうることを経験で知った上での、この発言なのであろう。
 創造へとひとを駆りたてる悪魔が、健全な市民的平衡感覚との同居をいさぎよしとしないことだけは確かである。

 例証のゆとりはないが、無頼派の作家たちの作品は多かれ少なかれ一種生理的な浄化作用の産物といったおもむきがある。
 だからこそ作家と作品が密着していたともいえよう。
 論理的であるべき評論でさえもが、その明快な論調にもかかわらず、多くの飛躍、矛盾をはらんでいるのだ。
 たとえば「如是我聞」、「堕落論」、「可能性の文学」のいずれをとりあげてみても、そこには論理的一貫性のかわりに、私情に由来する悲憤慷慨があり、観念の相剋による自家撞着がある。
 だが前後の行き違いにもかかわらず、彼らが真実自己だけをよりどころに、肉声を放っていることだけは実感できる。
 彼らが本音を吐いていることだけは疑いようもないのである。

 無頼派の文学への傾情を語るのなら、それにふさわしい作品を示さなければならないのかもしれない。
 いくつかの例外を除けば、確かに彼らの作品は二流の域にとどまっているといわざるをえない。
 彼らに傑作意識がまったくなかったとは思わないが、芸術至上主義者でなかったことだけは確かなのだ。
 奔放不羈の無頼の精神は、自作の芸術的価値すらも、よりどころとして認めることを拒んだのである。
 強烈な精神主義にもとずく俗の俗に徹した生き方は、芸術的彫琢の道さえ捨て去ったのである。

 最近の芸術的完成度に敏感な小説は、風化されやすい主張というものを潔癖に排除することによって、逆に失われるものの大きさに気づいていない。
 作品の総和が示す作家の人生総体がとりもなおさず唯一の傑作であるといった捨身の姿勢に、閉塞した現状を打ち破るひとつの活路が見出せるのではないだろうか。
 なによりもそこに、私は無頼派作家たちの現代に生きる意味を認めたいのである。

※ 『週刊読書人』1973(昭和48)年4月30日号 1面掲載


[写真-1]
1973(昭和48)年4月30日号、1面より

[写真-2]
破滅型無頼派作家(左から)太宰 治・坂口 安吾・織田 作之助

[写真-3]
韜晦型無頼派作家(左から)石川 淳・伊藤 整

週刊読書人・読書人アーカイブス 、2019年10月6日
閉塞情況を打ち破る活路――無頼派作家の現代に生きる意味
(川嶋 至、かわしま・いたる氏=文芸評論家、1935 - 2001)
https://dokushojin.com/article.html

(ヤッホーくん補注-1)
 1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成。
 その時、同時に候補となっていたのが、三島由紀夫だったことが分かった。
 2019年1月にスウェーデン・アカデミーが当時の選考過程を公開、三島は「今後の成長によって再検討も」とされていたのだ。
 しかし、その2年後の1970年に、三島は割腹自殺。
 さらにその2年後の1972年、川端はガス自殺をする。
 二人はなぜ死を選んだのか?

 
NHK・クローズアップ現代、2019年2月4日(月)放送
三島由紀夫×川端康成
ノーベル賞の光と影

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4241/index.html

(ヤッホーくん補注-2)先崎彰容『違和感の正体』(新潮新書、2016年5月)
 筆者(先崎彰容)が生まれたのは1975年、ちょうどベトナム戦争が終結した年です。
 小説家の三島由紀夫が、自衛隊は軍隊になることを決断せよ!と叫んで割腹したのが5年前の1970年。
 その年1970年は、大阪万博が開催され、つい最近まで史上来場者数世界一位を誇っていたのです。
 つまり戦後の日本人は高度経済成長の波に乗り、1970年代いっぱいを万博に押しかけ、明るい未来を想像して過ごし、三島由紀夫の警告などはどこ吹く風、1980年代にはバブル経済さえ経験することになったのです。

「はじめに、ものさし不在の時代に」4頁

(ヤッホーくん補注-3)村上春樹&多和田葉子
…… 村上氏は、早大第一文学部を卒業して、1979(昭54)に「風の歌を聴け」でデビューしたが、専業作家になるまではジャズ関係の仕事をしていた。
 1974(昭49)年に東京・国分寺でジャズ喫茶「ピーターキャット」を開店。
 1976年には同店を千駄ケ谷に移転し、営業するなどした経験を持つ。
 そのことを踏まえ、
「僕は昔、ジャズの店をやっていて、とてもこんなすごいメンバー、集まらなかったです。一晩でもやっていて欲しいくらい…そういうわけには、いかないしね」と感激した。
 村上氏はMCの中で、ジャズ喫茶を経営していた当時の客から「無愛想だ」と言われたと明かした。
「まさか作家になるなんて思わないじゃない。最後の2年くらいは兼業だったんですけど…店をやってた頃は一生懸命、愛想良くやろうと思ったの。でも当時のお客さんに『無愛想だね』と言われて、あの時の努力は何だったんだ、と」
……

日刊スポーツ、2019年6月26日23時2分
村上春樹氏「一晩でもやって」人生初公開収録ライブ
(村上幸将)
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201906260001142.html

1960年、東京生まれ。国立市立第五小学校、国立市立第一中学校、都立立川高校を経て、1982年、早稻田大学第一文学部ロシア文学科卒業。同年、ドイツに渡り1982年から2006年までハンブルグ在住。2006年よりベルリン在住。
多和田さん:
 国立市で暮らしていることに子供の頃は誇りを持っていました。
 他の町に行くと、駅前にパチンコ屋とか飲み屋があって、子供ながらに何となく暗く湿った雰囲気が嫌だなと感じたのですが、国立駅前はすっきりしていて、そこからまっすぐ伸びた大学通りになんだか「筋を通す」みたいな潔さを感じていました。
 大学通りを南下していくと歩道橋が一つありますが、これが作られた時に反対運動が起こって、
「歩道橋を作るのはいいことみたいに聞こえるけれど、実は横断歩道などを作って車が止まるのではなくて邪魔な歩行者を橋の上にあげてしまうという考え方そのものが車中心でよくない。そういう考え方ができるのは国立市だけだ」
と小学校の先生が言っていたので、子供ながらに国立市というのはやはり他の市より進んでいるんだ、と思い、その「国立的思考」を別の町に越してからも守っていこう、などと決心したものです。
 私にとっては自分の住んでいた富士見台第二団地が国立市の中心で、中央郵便局と中央図書館と国立市役所に囲まれているのだからそう思い込んでも無理ありませんが、とにかく第一、第三団地の子のところに遊びに行く時は、ちょっとだけ外国に行く感じがして、一橋大学構内や谷保天満宮に遊びに行く時はかなり異質な世界に遊びに行く覚悟が必要で、胸が高鳴りました。
 今の私の生活の中心はドイツですが、フランスに仕事で行く時が第一団地に行く感じで、スペインに行く時は第三団地だな、と思って出かけます。
 アメリカに行く時は一橋大学構内へ行く感じ、中国に行く時が谷保天満宮に行く感じでしょうか。
 幼年時代の国立市が地理感覚の元になっているので、大人になって世界を激しく移動していても不安にならないんですね。


国立歩記・サミー、投稿日: 2019年3月10日
祝・全米図書賞 翻訳文学部門受賞
多和田葉子さんメッセージ全文

http://kunitachiaruki.jp/?author=25

posted by fom_club at 09:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする