2019年10月08日

平山周吉『江藤淳は甦える』

 戦後の「保守派」を代表する評論家、江藤淳(1932 - 1999)の自死が1999年、ちょうど20年前になる。
 平山周吉(1952年生まれ)氏による伝記『江藤淳は甦える』が最近2019年4月、刊行され、また、先ごろ逝去された評論家の加藤典洋(1948 - 2019)氏の仕事も江藤淳から強い刺激を受けたものであった。

 江藤さんの評論の軸は、ほとんど米国の属国といってよい戦後日本の主体性の欠如を明るみに出す点にあった。

 その起点になるのはGHQ(連合国軍総司令部)による占領政策であり、占領下にあって「押し付けられた」戦後憲法とGHQによる言論検閲であった。
 それ以降、日本人は米製憲法を抱き、米国からの要求をほとんど受け入れ、米国流の価値や言説を積極的に受容してきた。
 これでは、国家としての日本の自立は達成されない、というのである。

 その江藤さんの数ある評論のなかでもよく知られているのが、1970年に発表された「『ごっこ』の世界が終ったとき」である。
 世界中で米国のベトナム戦争への批判が噴出し、日本でも全共闘運動なる反政府運動が全盛の時代であり、三島由紀夫の自決の少し前である。
 また少し後には、佐藤栄作政権による沖縄返還が実現する。
 世情騒然たる時代であった。
 江藤さんはこの評論のなかでおおよそ次のようなことを論じていた。

 日本では、全共闘による暴力的な反政府運動があり、また他方では三島由紀夫が結成した「楯の会」による自主防衛や、新たなナショナリズムの動きに揺れていた。
 しかし、このどれもが、
「革命ごっこ」
「自主防衛ごっこ」
「ナショナリズムごっこ」に過ぎない。
「ごっこ」とは真の現実に直面しない虚構のなかの遊びである。
 鬼ごっこは虚構の鬼をめぐる遊戯であって、本物の鬼が出てくれば成りたたない。
 日本で政治運動や思想運動が「ごっこ」にしかならないのは、戦後日本がもっぱら米軍とその核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきたからであり、その決定的な現実に右も左も目をつむっているからだ。
 反戦平和を訴える左翼運動は、実際には日米安保体制によって平和が維持されているという現実を見ようとせず、右派のナショナリズムも、日米同盟体制を真に問題としようとしない。
 これらの運動や思想が本当のリアリティを持ちえないのは、すべて、対米従属という戦後日本の基本構造を真に問わないからである。

* * *

 ところが、いまや情勢は変化しつつある。
 米国は経済的に疲弊し、アジアからの軍事力の撤退を検討しており、日米関係の再編、再構築の可能性もでてきた。
 戦後日本の課題は、一方では、平和と繁栄の維持にあるが、他方では、対米従属を脱して、いわば失われたアイデンティティを取り戻す点にあった。
 ところが、戦後日本は、米国への従属国家としてアイデンティティを失うことで平和と繁栄(江藤さんは「生存の維持」といっている)を手にしてきた。

 しかし、と江藤さんはいう。
 遅かれ早かれ、日米関係は変化せざるを得ない。
 日本は米国の弱体化した経済を支える代わりに米軍基地の返還を求め、自主防衛の方向に向かうだろう。
 その時に初めて、日本は自立した国家として「世界」というリアリティに直面するだろう。
 そして日本人は改めて、「あの戦争」における敗戦の意味と、300万に及ぶ死者たちを真に想起することになるだろう。
 われわれが現在ここにいる自分たちのことだけを考えるのではなく、死者たちの霊を共同体のものとして受けとめた時に初めて、われわれは自らに自信を持つことができるようになるだろう。

 江藤さんがこう主張してからほぼ50年が過ぎようとしている。

 果たして江藤さんの見通しはどうなったのだろうか。
 この半世紀で世界情勢も国内の雰囲気も大きく変わった。
 しかし、日米関係の強化だけはゆるがない。
 1980年代にはレーガンと中曽根氏の親密な日米関係が築かれ、1990年代には米国主導のグローバリズムに日本は巻き込まれ、2000年代になると中国の台頭と北朝鮮の脅威に対していっそうの日米同盟の強化が唱えられる。
 今日、安倍首相とトランプ大統領はきわめて強い信頼関係を構築したと宣伝されている。

 かくて、国内外の状況は大きく変化したものの、江藤さんが述べた日本の自主独立あるいは日本人のアイデンティティの回復へ向かっているとはとても思われない。
 ここでいうアイデンティティとは福沢諭吉のいうところの「一身独立、一国独立の精神」、あるいは「自主独立の気風」といったぐらいの意味である。

* * *

 確かにある意味では、江藤さんが述べた「ごっこの世界」は終わったようにもみえる。
 左翼学生による「革命ごっこ」はすでに1970年代半ばには無残な帰結を迎えた。
 その後、学生も大学もすっかり穏やかになり「体制」のなかで優等生になろうと競争している。
 さらに、今日、左翼の平和主義や護憲主義はもはや大きな力を持ちえない。
 それは、まさに戦後日本の平和が米国の軍事力と核兵器を前提にしていたからであり、米国によって守られた平和のさなかで平和主義を唱えても欺瞞(ぎまん)でしかないであろう。
 また、三島由紀夫の「自主防衛ごっこ」も、思想的な影響は別として、現実には何らの効果ももたらさなかった。

「ナショナリズムごっこ」も、今日、反中国、反韓国、反左翼に終始して、真の意味での独立の精神や日本の自立を問う論調はほとんど見られない。

 となれば、一見したところ、「ごっこの世界」の化けの皮も剥がれつつある、ともいいたくなるだろう。
 すべてが現実主義の一点に向かって収斂(しゅうれん)しているのだ。
「現実」にグローバリズムの世界だから日本もグローバル競争をしなければならない。
「現実」に中国が大国化し北朝鮮の脅威があるから日本は米国に守ってもらわなければならない。
「現実」に日本は平和なのだから今の憲法でいいではないか。
 また逆に「現実」に自衛隊は存在するのだからそれを憲法に書き込めばいいじゃないか、等々。
「現実」こそがすべてといった具合になっている。

 確かに江藤さんは「ごっこの世界」は「世界」という「現実」に直面していない。
 それを直視しなければならない、といった。
 では、この「現実主義」は、本当の現実(リアリティ)に直面しているのだろうか。

 とてもそうは思えない。
 なぜだろうか。
 まず、今日の「世界の現実」そのものが、どこか「ごっこ」の様相を帯びてきているからである。
 グローバル競争の世界は、何の根拠もなく自由競争は利益と繁栄をもたらすという虚構の上にいわば市場競争ごっこを始めた。

 中国や北朝鮮の脅威から米国は日本を守るだろうという、これまた特段の根拠もない虚構によって日米の特別な関係が唱えられる。
 これもいわば同盟ごっこの様相を呈する。
 実際、トランプ大統領は先日、日米安保条約の破棄にまで言及した。
 もちろんトランプ流の思い付きではあろうが、それにしても、日本の政治家(特に野党)もマスメディアもほとんどこの問題を論じようともしないのはいったいどういうことであろうか。

 憲法に関して言えば、護憲派も改憲派も、そもそもの根本的な問題をいっさい問おうとはしない。
 それは、占領下にあって主権をもたない国家が憲法を制定しうるのか、また憲法とは何か、主権者とは何か、国家の防衛と憲法と主権者(国民)の関係は、といった根本的な問題である。
 それを問わずして護憲も改憲もない。
 真に憲法に直面することを回避した護憲論も改憲論も、いわば護憲・改憲ごっこと言わざるを得ないだろう。

* * *

 江藤さんは、別の文章でこう書いている。
 日本は、米国のこしらえ上げた「鏡張りの部屋」に置かれているために、世界というリアリティに直面していない。
 われわれは鏡に映された自分たちの姿について、右だ左だ、護憲だ改憲だ、と相手をののしりあっているが、この部屋は外からは素通しのガラスでできていて、米国からはその中がよく見えている、というのである。
 そしてそのうちに、われわれは、米国による監視を内面化して「自己検閲」をするようになってしまった、これが、戦後日本の言論空間である、という。

 戦後70年以上もたてば、さすがに鏡も曇ってきたし、ガラスもひび割れてきたようである。
 ガラスの部屋も万全ではなくなってきた。
 そこで日本は日本で世界という現実に乗り出そうとしている。
 だが、ガラスを取っ払えば、世界というリアリティに直面する、というわけでもない。
 世界そのものがこれまた巨大な「ごっこ」の様相を呈しているからである。
 日本を検閲していたはずの米国の政治も、トランプ大統領の登場に見られるように、ほとんど思いつきと人気獲得のショウ化している。
 私には、これもまた壮大な「大統領ごっこ」のように見える。
 トランプ大統領と金正恩委員長のやり取りも、また、文政権の韓国もどこか「政治ごっこ」に見える。
 G20やサミットなども「外交ごっこ」である。

 何か真のリアリティが感じられないのだ。
 どうやら今日、世界へと顔を向ければ、現実(リアリティ)に直面するというものでもない。
 世界がまた壮大な「ごっこ」に傾いているのである。
 なぜなら、今日の世界は、それを導く確かな価値も方向感覚も見失い、また、人々の生存への必死のあがきや、あるいは、個人や国の尊厳へ向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである。
 しかしまた、この「ごっこ」が、もしかすれば、とてつもない「鬼」を現出させるかもしれないのだ。

 結局、リアリティとは、そこにある現実そのものではない。
 それは、われわれが常にそこへ立ち戻り、方向を指し示してくれる価値や経験と深く関わる。

 近代日本にとっての最大の経験はあの戦争とその死者たちであった。
 江藤さんは「ごっこ」が終わればわれわれはあの死者たちと本当に向き合うといったが、どうやら逆に、あの死者たちをたえず想起することによって、せめて「ごっこ」を自覚することぐらいはできるのであろう。

◇ ◇ ◇

※ 佐伯啓思(さえき けいし)
 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「死と生」など。思想誌「ひらく」の監修も務める。


朝日新聞、2019年10月2日05時00分
(異論のススメ スペシャル)
「○○ごっこ」する世界
佐伯啓思
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14201565.html

「山の手階級」の批評家

竹内洋: のっけから悪いんだけど、『江藤淳は甦える』の著者との対談者が私でええのか、とても疑問やったんですよ(笑)。

平山周吉: 竹内さんは、『丸山眞男の時代、大学・知識人・ジャーナリズム 』(中公新書、2005年11月)と『清水幾太郎の覇権と忘却』(中公文庫、2018年2月) という本を書いておられますが、確かに、丸山と清水の2人は、江藤さんが60年安保の後に激しく批判した知識人ですね。

竹内: 私は1942年生まれで江藤淳のちょうど10歳下。私の学生時代には江藤はすでに文壇で華々しい活躍をしていました。「文學界」に出た「奴隷の思想を排す」とか、単行本で読んでいましたよ。でも、あの頃の若者は、江藤淳があまり好きじゃなかった。

平山: どういうことですか?

竹内: 江藤淳は自分自身を「山の手の坊ちゃん」と規定して郷愁を前面に出すし、東京の中産階級の崩壊イコール日本の崩壊になるからついてゆけない。60年代の大学生は、私も含めて、親が高等教育を受けていない、田舎から出てきた高等教育第一世代ですから、福田恆存や清水幾太郎、吉本隆明のような庶民的な知識人の方に親和性が高いし、人気も出るんです。

平山: 調べてみてよく分かったのですが、祖父の江頭(えがしら)安太郎は、山本権兵衛に認められた俊才で、病気で死ななければ海軍大臣になり、総理大臣として大命降下されてもおかしくない人材でした。

竹内: 僕は、また彼一流の膨らませた話かなと思っていました。

平山: ただ、安太郎が亡くなった後はちょっと下駄を履いていて(笑)、現実より高い階級だといい、戦後はそこから没落したという物語を作っています。

竹内: 田舎に疎開していたら、いじめられるタイプですよ。

平山: 戦中に住んでいた稲村ヶ崎で地元の子供に、「坊ちゃん面(づら)が気に喰わない」といじめられたと書いています。

竹内: 同世代の大江健三郎が「僕のように貧しい地方人」と言っていますけど、これが当時の読書人の大学生の平均的な感覚です。だから、江藤淳の物言いにはどうしても違和感を持ってしまう(笑)。

平山: 僕自身、60年安保の頃は子供でしたから、感覚が届きません。あの頃、若者代表として活発に動いていたことは今度調べて知ったのですが、同時代の若者には反感を買う態度だったのですか。

竹内: 何か戦後史の生き証人みたいになってきたけど(笑)、もうひとつ、江藤淳の評判を悪くしているのは「転向」やね。戦後は「革新幻想」が崩壊してゆく歴史でもありますが、江藤は安保闘争の終わり頃にすでに当時の進歩的知識人の限界を見切り、既成文壇の側に付いた。
 1960年、江藤が「“戦後”知識人の破産」に「政治家や大小の実際家たちの時計は動いていたが、理想家の時計だけが8月15日正午で停っていた」と書いたのを、僕はよく覚えています。まだ、丸山眞男が論壇の中心にいた左派全盛の時代ですから、当時としてはものすごい逆張りです。

平山: 60年6月10日、アイゼンハワー大統領の秘書ハガチーが羽田空港でデモ隊に包囲されて、米軍ヘリコプターで脱出したハガチー事件の経緯に絶望したわけですから、かなり早い転換ですね。

竹内: もうひとつ、「亀井勝一郎論」で「群像」新人賞を受賞した松原新一が、1965年に発表した「江藤淳論」で、「若い文化」の尖端だった「作家は行動する」の著者から、たった2年で小林秀雄を擁護する「昂然たる保守主義者に転身」する過程を痛烈に批判したんですけれども、松原の本名は江頭(えがしら)肇というんです。

平山: ええっ、知りませんでした。

竹内: 松原は兵庫の出身で、江藤淳=江頭淳夫(本名)のルーツは佐賀だから血縁ではないでしょうけど、松原が本名でデビューしなかった理由は想像がつきます(笑)。私と同じ京大教育学部で、2級上で1年留年した人だったけど、身近な人間の生々しい江藤の転向批判でした。

平山: 江藤さんは、最初から悪名が高いという感じでしたね。本人も悪役(ヒール)という意識がはっきりある。

竹内: そうそう。

平山: デビュー時はまだ大学院生でした。1957年、「文學界」で13人の作家と批評家を集めて大座談会をやり、偉い人ばかりの中に石原慎太郎と江藤淳が若者代表で放り込まれて、高見順と大喧嘩するのが最初の役回りですから、ずっと憎まれ役で通しているんです。

竹内: そして、何といっても、山田宗睦のベストセラー『危険な思想家――戦後民主主義を否定する人びと』(1965)でやり玉に挙がったのが大きいでしょう。

平山: 安保闘争前後に「転向」し、「共同体文学」の批判者から「民族の魂」派に変身したと決めつけられて、保守反動というイメージが固まりました。

竹内: ところが、平山さんの本を読むと、なぜ出自の問題に拘泥するのかから、手品の種が分かってきます。すると、生前は生理的に嫌で実物をみたいと思わなかったけれど、案外、親しみ易いところもあるかもしれない、とだんだん距離が縮まってきます。読後は、今まで嫌っていた人が見直す、という意味で「甦える」評伝じゃないかと思いました。

平山: ありがとうございます。

フィクショナルな「私」

竹内: この本は784頁あって、普通ならば3、4冊分の分量です。原稿用紙にして何枚くらい書きましたか?

平山: 1600枚くらいですか……。

竹内: ものすごく調べられていて、戦後の文壇史であり、戦後の論壇史であり、戦後史でもある大作です。完成された今、どんなお気持ちですか?

平山: 書くことを前提にしなくとも、自死の直前に最後に会った人間として、江藤さんの文章を読み直さなければいけない、という思いはありました。伝記を書く段になり、できれば、全部読むということを自分に課したんです。というのは、江藤さんの著作が重要なのは当然ですが、対談、座談会、講演など、口語的なものの記録が膨大に残っています。江藤淳という人は、弁論、口から出る言葉を重視していますから、そちらの方も全部集めて読もうと試みました。
 伝記的な事実は、文章の中にたくさん書かれています。ところが、取材してゆくと重要な出来事が省かれていたり、逆に、不自然に強調されている場合もあるのです。「××と私」というタイトルの文章が多い人ですけれど、かなりフィクショナルな「私」を文章の中で作っていたことに気づきました。事実と文章の中の「私」の差を調べてゆくうちに、つい長くなってしまったんです。

竹内: 対談がたくさんある人だと、文章ならば書かないような本音がぽろっと出ているケースは多いですからね。私が一番感心したのは、湘南中学校や日比谷高校の同級生などを取材している場面を映像的に再現していることです。アプローチした手順とか、その人の語り口も書かれていて、読者にしたら、敏腕刑事が裏取りしている過程に立ち会っているような気分になります(笑)。

平山: どんどん刑事的になっているなとは自覚していました。

竹内: 冒頭から出生が昭和7年か8年かというような謎が出てきます。今でも8年のまま、年譜が訂正されていない文庫本もあります。江藤が残した謎を探索してゆく旅とも読めるわけで、分厚い本だけれども、読者にはミステリー的に惹きこまれる読み易さがあります。

平山: 文学の専門家ではないですし、自然とジャーナリズム的なアプローチになってしまいます。テキストだけで考えるのは他の人に任せることにしました。

竹内: 後半はかなりテキストを読み込み、内的なアプローチをしています。伝記的な外側からのアプローチと、両方の要素があるのがすごいと思います。
 江藤淳がなぜ博士号を取ったのか、東工大の先生に話を聞いて確かめておられるのには感心しました。文壇内では、権威主義者だから、就職して慌てて学位論文を書いたという噂が流布しているでしょう。事情はまったく違います。理系の大学では周囲の人間はみな博士号を持っていて、どうしても学位が必要なんです。

平山: 永井道雄さんのアト釜で、38歳で社会学の助教授として入っています。竹内先生と近いジャンルでした。

竹内: 当時の国立大学の文系の場合は、かなり年輩になってから申請するもので、40歳くらいで出すことはありえませんが、江藤は出身校の慶應大学に『漱石とアーサー王伝説――『薤露行』の比較文学的研究』を出して博士号を取ったわけです。江藤は東工大に入って2年後に助教授から教授になりますが、学位をできる限り早く取ることが付帯条件だったかもしれません。大学内の事情を知らない人が江藤の態度を批判していますが、国立大学文系の相場で考えた下衆の勘繰りめいています。

平山: 江藤さんと慶應で同期の高山鉄男先生から、慶子夫人の話を聞くつもりで会っていた時に出た話なんです。

竹内: なるほど。だから、大学内でも上手く立ち回ったように、江藤は文壇内でも逆張り、もしくはちゃぶ台返しのような戦略で期せずして覇権を握ったんじゃないですか。

平山: どうでしょうか……。

竹内: たとえば、左派の代表格の吉本隆明から、「江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする」と言われているのは、吉本にとってはどうだったかわかりませんけど、江藤にとっては得でしょう(笑)。丸山眞男が「世渡り上手」と評するような面がありませんか。

平山: 慶應の英文科で指導を受けた西脇順三郎に「敵意に似た尊敬」を抱くと表現するとか、アンビバレンツな感情の動きをする人ではあります。

竹内: 言いたい放題に見えて、敵の総大将と手を結んだり、一番目立つ人を叩いたり、強かな生存戦略を採っているように見えますけれど。

平山: もうちょっと大人だったら、社会の中でも文壇でも、よりうまく泳げたような気がします……(笑)。

竹内: むしろ、率直すぎるのか。

平山: 基本、裏表のない人ですし、激しい内面の葛藤もさらけ出してしまいます。真剣になれば相手を乗り越えてやろうと考える人ですから、好かれるタイプではないでしょう(笑)。

竹内: 東大的なんですか?

平山: 確かに、江藤さんは東大の方が向いていたタイプでしょう。

竹内: 東大行かない人の方が東大的な場合も多いですよ(笑)。日比谷高校出身だし、東大に行っていれば、余分なコンプレックスがなくなるから、もうちょっと世渡り上手になったかもね。僕は実物を知らないけれど、ちょっと後に山崎正和さんが出てきた時、江藤から権力志向をマイナスした人のように思いました。

平山: 2人とも政治家のブレーンをしていますね。佐藤栄作政権の時、楠田實という産経新聞政治部記者が首席秘書官になって、江藤さん、山崎さん、そして永井陽之助さんや高坂正堯さんなどの現実派知識人をリクルートしたんです。

竹内: 山崎さんは『舞台をまわす、舞台がまわる』というオーラルヒストリーで政治家との関係性を明かしていますが、江藤淳のように「治者」という概念を使って美化したり、人間として理想化したりせず、距離を取って観察しています。

平山: 江藤さんは、政治に積極的にコミットしました。でも、好き嫌いが激しいので、佐藤栄作の後は親しかった福田赳夫政権と心中するつもりだったようです。いろんな政権と付き合った山崎さんとは対照的ですね。文筆の方でも、政治家と近くなった頃から「政治的人間」の研究を始めて、『海舟余波』という著作も生まれます。歴史的な人間を評価することにより、生臭い問題を文学的に処理していたわけですけれど、かなり本気で政治に取り組んでいたのは確かです。

竹内: 1961年から「中央公論」に「実務家の人間研究」という連載を始め、東芝社長・岩下文雄や東京駅長・大橋猛敏などについて書いています。

平山: 本になっていないですけど、実務家としての経済人への注目も早いです。

「治者」ではなく「不寝番」

竹内: 戦後出てきた庶民的知識人の吉本隆明の切り札は「大衆の原像」ですし、福田恆存もいつも「常識」や「民衆の心」といいます。江藤淳の拠り所は、結局、「国家」や「治者」になるんですか?

平山: 『成熟と喪失』の中で、「治者」という概念を出してキャッチフレーズ的に受け取られましたけれど、並列されている「不寝番」の方が、江藤さんの持っていた繊細なイメージに近かったんじゃないかと思っているんです。

竹内:「不寝番」というとサリンジャーの「The Catcher in the Rye」。ライ麦畑で遊んでいる子供が、崖から落ちそうになったら捕まえるキャッチャーです。

平山: 江藤さんの言葉は、ハムレットからの引用です。「政治的人間」としての勝海舟は、「治者」として江戸城の無血開城に成功しましたけれど、宿願だった徳川慶喜の江戸復帰は阻止され、挫折を味わいます。江藤さんは海舟の政治手法を「継ぎ剥ぎ細工(パッチワーク)」と呼んでいますが、共感しているのは、薩長支配の下で30年間、徳川慶喜と旧幕臣の面倒を看続けた「不寝番」的な生き方の方でしょう。挫折した後を評価するのが「文士」的です。

竹内: 平山さんの説明には納得しますし、「治者」という言葉でない方が一般的なアピールをしたかもしれません。もうひとつ、江藤にとって大衆や民衆はどういう存在になるんですか?

平山:「大衆」が見えない人かもしれませんね。江藤さんの晩年、鎌倉で番頭のようにつき従っていた市会議員の御夫妻は、「君たちのお蔭で、人情というものを知ったよ」と言われたというんです。奥様の方は、人情に通じてなくて、文学ってわかるものなの、と驚いていました。欠落している部分も多い人なんです。

竹内: 丸山眞男も、大衆化現象や大衆社会についての論文はあっても、生身の大衆についてはあまり知らないと思います。ただ、啓蒙される対象として、知識人に大衆が近づくことを願っていたわけで、射程の中には入っていました。江藤淳は「上から目線」の人なのかな。

平山: エリート意識を隠さないですからね。やはり、国会がすぐそばにあり、東京中の秀才が集まる日比谷高校出身であることが中核にありますね。文学者というより、テクノクラートとして国家を支えようという意識が強いと思います。

竹内: ちょっと卑俗なたとえだけれど、私らが学生の頃では、東大法学部精鋭は就職の時、通産省、大蔵省、大手銀行、朝日新聞、そして司法試験も受けていて、どこかに行ければいい。つまり、天下国家的な人で、そうであれば何でもよい。江藤淳は、そういう時代の申し子なんですね。

平山: 東大法学部に進む気はなかったようですけれど、権力の中枢だと充分に意識しています。戦後体制も東大法学部の宮沢俊義の憲法解釈が権威となり、みなが大学で学び、公務員試験の問題もそれに基づいて作られていて、江藤さんは『閉された言語空間』などの仕事で東大法学部という体制と、たった一人で張り合おうと考えていました。

竹内: でも、天下国家の中枢に対抗する方法が、美濃部達吉などをアジビラ的な言語でとことん批判した原理日本社の国粋主義者・蓑田胸喜と似ている印象を受けます(笑)。もう少しスマートなやり方はなかったものか。

平山: いや、むしろ東大法学部を出て大蔵省を辞めて作家になった三島由紀夫に近い気がします。1970年に自決した時は三島と意図的に距離を取っていますけど、自分と似ているので危険だと感じたからです。でも、平成に入り「我は先帝の遺臣にして新朝の逸民なり」と書いた頃には、三島の「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」という危機意識にぐんぐん引き寄せられていた。

竹内: 確かに江藤も三島も、言葉の使い方がキャッチーである点では共通しています。「『ごっこ』の世界が終わったとき」でも、英語の“makebelieve”から取ったりしています。そして確かに、江藤は蓑田よりはかなり頭はいいかもしれない。
 評伝として、潤一郎・荷風的な問題にも着目されています(笑)。当時の作家や評論家の水準で考えるとどうだったのか。

平山: 柳橋や向島で鳴らした人ですが、確証が取れたことだけ書きました(笑)。

竹内: まあ、人間的な側面ということやな(笑)。最後に、「甦える」というタイトルにどんなメッセージが込められているのかを教えて下さい。

平山: もちろん、代表作の『海は甦える』を踏まえているわけですけれど、まず、「江藤淳」という批評家が誕生したのは、大学二年の時に自殺未遂をして生き返った時、堀辰雄的世界を捨てて、書く対象が夏目漱石に移行した時からなんです。江藤さんの大学時代の恩人だった藤井昇さんに、ある事情からその事実を聞いていたので、それを書き残しておきたいという意図がありました。

竹内 公表されていない新事実ですね。

平山 はい。もうひとつ、江藤さんはずっと占領や憲法の問題ばかりやって、文壇からも論壇からも爪弾きにされ、「生き埋め」になっていました。ところが、平成に入り、アメリカに首根っこを抑えられた状況がより強化され、「日本がなくなってしまう」という江藤さんの危惧がいよいよ予言的に聞こえてきます。批評家としての「生き埋め」から「甦える」という意味も込めました。

竹内: 菊田均の『江藤淳論』の裏帯には「この世に江藤淳嫌いと称する人々は少なくない」と書かれています。ところが、家を探せば本はたくさん出てくるし、話題作が多いから、ちゃんと読んでいます。『犬と私』のようなエッセイはとても上手ですしね。

平山: 最近は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の発見者として、ネトウヨのネタ元のような低レベルの問題で捉えられています。でも、江藤さんは日本の近代全体を根本から批評しようと考えていた人なんです。

竹内: むしろ、「江藤淳嫌い」だった人こそ読むべき本です(笑)。

平山: 5月18日から、神奈川近代文学館で「没後20年 江藤淳展」という企画展も開催されます。本や展示をきっかけに、江藤淳の示唆に富む、本気の問題意識が改めて共有されるといいのですが。

※ 新潮社「波」2019年5月号より


「江藤淳嫌い」が治る本
平山周吉、竹内洋
没後20年、自死の当日に会った著者の手による決定的評伝、ついに刊行!

https://www.shinchosha.co.jp/book/352471/

 今年2019年は、江藤淳没後20年の節目の年である。
 だが評者は、この忘れられた文藝(ぶんげい)批評家を回顧・顕彰するために、本書を推しているのではない。
 筆者・平山周吉氏は、それを完全に超える仕事をしてしまっている。
 どういうことだろうか。

 石原慎太郎や大江健三郎、浅利慶太らと「若い日本の会」を結成する行動力をもち、同時に『夏目漱石』(新潮社、1974年)や『海舟余波』(文藝春秋、1974年)といった文学・歴史にまつわる批評を展開した「江藤淳」。

 その人生を、800頁(ページ)近い分量で描く本書は、同時に完璧な同時代史、社会思想史の作品になっている。
 三島由紀夫や小林秀雄、さらには吉本隆明とのライバル関係が活写され、文章に立体感を与えている。

 類似した本をあげよと言われれば、恐らく小熊英二氏の『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社、2002年11月)に相当するであろう。
 しかも小熊氏の書にはない特徴として、平山氏は徹底的に「探偵的」に文章を書いていくのだ。

 探偵は、まず、足で情報を稼ぐものである。
 ある程度、江藤の作品を読んだことのある人でも、本書に出てくる「新情報」には、ただただ圧倒されるはずである。
 たとえば、江藤の恩師から、江藤が学生時代に自殺未遂をしたことを聞かされた後、平山氏は、もう一度、江藤の作品に目を通す。
 そして「老子もあれを知っていたのか」という奇妙な文章の存在を思いだす。
 この「あれ」こそ、自死を意味していて、終生、江藤が『老子』を愛読していた理由が氷解するのである。

 そればかりではない、江藤の恥部、すなわち『妻と私』に描かれた理想の夫婦関係の裏に、もう一人の女性の影を平山氏は発見してしまう。
 書簡や取材資料を駆使し、私生活にまで盗聴器を仕掛けたようにリアルに描く。
 読者をまったく飽きさせない。

 江藤淳は今日、分裂した評価を受けている。
 占領研究と日米関係を論じた「保守派」か、あるいは漱石研究に代表される「文藝評論家」としてか。
 だがこうした矮小(わいしょう)化された人物像を、本書は徹底的に壊していく。
 早熟の天才批評家が、小渕内閣組閣時に文部大臣就任を要請され、自死を選びとる瞬間まで――。
 きわめて幅広の人生を生きた人間にまつわる、最高傑作の評伝である。


日本経済新聞、2019/6/22付
平山周吉『江藤淳は甦える』
幅広な批評家の生涯を活写

[評者]先崎彰容、日本大学教授
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO46403400R20C19A6MY7000/

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岸田劉生の「内なる美」

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をご参照ください:
★ 2019年10月3日付けの日記「没後90年記念 岸田劉生展」
★ 同4日付けの日記「麗子微笑之立像」

 近代日本の画家の中でも、岸田劉生は別格の存在と考えられてきた。
 その理由が、東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」を見るとよく分かる。
 自分の探究する道を決然と選び、世の趨勢に背を向けて「内なる美」を求め続けた天才の姿が、浮かび上がってくる。

 岸田劉生(1891〜1929年)は、大正から昭和初期にかけて活躍した画家で、愛する娘、麗子を描いた数々の肖像は、最もよく知られた作品だろう。

 没後90年を記念した今展の大きな特徴は、劉生の作品を、主に画家が画面に記した制作年月日に基づき、原則、年代順に展示した点だ。
 この展示ではっきり分かることがある。
 劉生は、ある時期に、これと目標を定めて同じような対象を選び、集中的にその対象や傾向を描き究めていった。
 
 1913年(大正2年)から翌1914年にかけ、主に親しい友人たちをモデルに次々と肖像画を描き続けるのも、そんな傾向の表れだ。
 肖像画に続いて自画像の制作にも熱中する。
 展示された肖像画の数々をたどると、翌1914年までの間に、当初は後期印象派の影響を受けていた華やかな色彩やタッチが減り、次第に写実的で細密な画風に変わってくるのが分かる。

 劉生はこの時期を振り返り、
自分の作がだんだんひとりでに近代的な傾向を離れて来る事を不安に思つた事さへあつた。しかし、自分はどうしても、自分の要求に従ふより外なかつた
と書いている(「劉生画集及芸術観」所収「自分が近代的傾向を離れた経路」)。
 
 雑誌「白樺」による紹介をきっかけに、ゴッホ、セザンヌら当時で言う「後印象派」が脚光を浴びる中で、時代の趨勢に背を向けてまで自己の欲求に従う。
 その決然とした探究の道は、劉生の言う「クラシックの感化」へつながる。
 西欧古典絵画のレンブラント、ルーベンス、ゴヤ、特に北方ルネサンスのデューラー、ファン・エイクの細密描写にひきつけられていく。

「切通之写生」の名で知られる1915年の「道路と土手と塀」は、東京・代々木に転居後、とりわけ顕著に描いた風景画の傑作だ。
 左手の石垣の細かい陰影や土の道の脇に生える雑草や土の中の溝が克明に描かれる。
 晴れ渡る青空から注ぐ日差しで電柱が黄土の道に濃い影を投げかける。
 そのそばにある小石や亀裂の不思議な存在感。
 何気ない坂道に発見した神秘感を、精密に描き出す。
 劉生は書いている。

僕の絵はクラシツクの模倣ではない。僕の自己がクラシツクの求めたものと同じものを求めるのだ
(「展覧会の為めに」)
 
 そこに在(あ)ることの不思議を、求心的に追究したのが、翌1916年から取り組んだ静物画の数々だった。
 この年の7月、肺病と診断され、戸外の写生を禁じられたのも転機となった。

林檎(りんご)三個」は、机の上に並んだ3個の林檎を描いただけの作品だが、「在ることの不思議」を最も強く感じさせる作品の一つだ。
 画面右手前からの光を受けて、3つの林檎は、くぼみや傷をあらわにしながらも確固とした存在感がある。

 病と闘う劉生が、自分と妻の蓁(しげる)、娘の麗子の「一家三人の姿を林檎に託して描いたときいている」という麗子の回想があり、劉生の祈りをも込められた静物画だろう。

 やがて劉生の「内なる美」の探究は、1918年の正月を機に、東洋の美へと傾斜し始める。
 さらに大きな変化は、娘の麗子をモデルにした肖像画が登場することだ。
 今展監修の山田諭・京都市美術館学芸課長によれば劉生は、基本的には肖像画でも親しい人しか描かない。
 しかし、そこにとびきりの深い愛情を注ぎ込んだモデルが登場したのである。

 1919年8月23日に完成した「麗子坐像」は、愛する娘がそこにいることの恩寵(おんちょう)を、徹底的な細密描写で表現した油彩画だ。
 山田氏によれば、克明に描かれた赤と黄の縮緬(ちりめん)絞りの着物には、東洋の美への傾斜が表れ、麗子のそばに置かれた赤い林檎は、麗子とともに「実在の神秘」を感じさせる。

 以降、劉生は、麗子の微笑に東西両洋を融合する深い美を見つめ、中国の宋元の写生画に、深い神気と無限感を探究し、日本の初期肉筆浮世絵に卑近なものの「如実感の美」を発見していく。
 画家仲間をひきつけ、白樺派の面々にも刺激を与えた劉生の大きさは、借り物でない思考を、絵と文章で貫いたことだろう。

 38歳で急逝した劉生を厳しい批評家でもあった高村光太郎は、
「時代を乗り超えた純美の深い探求者であつた」と偲(しの)び、
「神秘の扉はしまつてしまった。彼にかはる者は無い」と言い切っている(「岸田兄の死を悼む」)。

 没後90年、写真に近いスーパーリアリズムの絵画がもてはやされている現代に、美の深奥を自己の道として究めた劉生の画業は、別格の光を放っている。
 10月20日まで。山口、名古屋に巡回。


[写真-1]
道路と土手と塀(切通之写生)(重要文化財、1915年11月5日、東京国立近代美術館蔵)

[写真-2]
林檎三個(1917年2月、個人蔵)

[写真-3]
麗子坐像(1919年8月23日、ポーラ美術館蔵)

日本経済新聞、2019/9/21 2:00
「内なる美」究めた道
岸田劉生の画業を回顧、没後90年記念展
年代順の展示で変遷浮き彫り

(編集委員 宮川匡司)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50020320Q9A920C1BC8000/

《麗子五歳》を描いた1918年前後、劉生はこの時期の制作を裏付ける論考をいくつか執筆している。
 これらは1920年、聚英閣より発行された『劉生畫集及芸術観』において集大成される。
 そのすべてをここにまとめることはかなわないが、ここではまず、議論に必要な範囲でその骨格を確認したい。

 劉生の論の基本となるのは、「内なる美」という考え方である。
「美」は外界の対象の中にではなく、人間の内面にあり、この「内なる美」は形を得て表現されることを求める。
 それはこの世界を作った「造化」 が、そして「造化」に選ばれた人間が、この世界を今以上のものにしようとする意志を本能的に持っているからである(10)。

10)「内なる美」『全集』第二巻、pp.366-386を参照のこと。

 こうして、よりよい世界という幸福を希求する意志の発現として形を与えられた美術作品は、唯一「美」の要素のみで組み立てられた人工的かつ客観的な物体として、世界のうちに存在することになる。
 劉生は言う。

「美術品といふものが造られて、この世界に存在してゐるといふ事は、人間の『精神』によつて肯定 された、 『形』 (美)がこの世界に一つ存在してゐるといふ事である。この世界に於て、人間の心によつて肯定された有形物は、美術品の外にない。地球上の凡ての存在の中に、客観的な『美』である 存在は、美術の外にない 」(11)

11)「美術」『全集』第二巻、p.352を参照のこと。 

 ところで、この「内なる美」が外界に現れるためには、主に三つの道がある。
 すなわち、
・ 自然の形を借りず、内から出る線、形、色だけで構成された「装飾の美」、
・ 次に自然の形をある程度借り、それに刺激を受けて「内なる美」を発揮して表される「写実の美」、
・ そして自然の形を記憶または想像によって自由 に按配する「想像の美」である(12)。

12)「内なる美」pp.370-374を参照のこと。

 ちなみに、劉生自身は、
「一つの画面に装飾と写実と想像が混然としてゐる様なもの」を目指している。
 すなわち「写実の中に実に立派な装飾がある。深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する」という意味で、
「写実から入つた神秘派」とも呼ぶべき方向である(13)。

13)「内なる美」p.376を参照のこと。

  このような試みが成功した時、美術は目に見える形の奥にある、時間を越えた領域を垣間見せる。
 劉生は次のように言う。

「幸福への忻求が最後に帰着すべき所は『無限』にある。その感じは静寂である。生の帰着意志の帰着凡て其処にある。これは有限なるもの、たへず変化するものゝ彼岸である。この『無限』の認識が最高の美観である」(14)

14)「製作余談」『全集』第二巻、p.330を参照のこと。


東京国立近代美術館
麗子はどこにいる?
岸田劉生 1914-1918の肖像画

蔵屋美香
https://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2015/01/14_pp6_25.pdf

 岸田劉生は、1891(明治24)年、東京・銀座で目薬「精リ水(せいきすい)」を製造販売する楽善堂(らくぜんどう)本舗の経営者、岸田吟香(ぎんこう)の四男(14子中の9番目)として生まれた。
 父の吟香は、アメリカ人宣教師で医師であり、明治学院を創設したヘボン博士を助け、日本最初の和英・英和辞典『和英語林集成』の編纂に協力、のちに『東京日日新聞』編集に従事し、ジャーナリスト、事業家として明治時代の先覚者であった。

 しかし、劉生が14歳の1905年、その父と母とを相次いで失い、翌年東京高等師範付属中学校を中途退学。
 父が通っていた数寄屋橋教会でクリスチャンとして洗礼を受け、田村直臣牧師(1858-1935)のもとで日曜学校の先生をするかたわら絵画を学び、17歳で白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事する。
 1910年第4回文展に《馬小屋》《若杉》の作品が初入選して洋画壇へデビューした。

 20歳になった劉生は初めて武者小路実篤(1885-1976)らが創刊した雑誌『白樺』を買い、オーギュスト・ルノワール(1841-1919)やフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)らの作品に感激する。
 英国人の陶芸家バーナード・リーチ(1887-1979)との交友が始まり、柳宗悦(1889-1961)や長与善郎(1888-1961)ら白樺同人とも親交をもった。
 翌年、高村光太郎が経営する神田の琅玕洞(ろうかんどう)で初個展を開催、また第1回フュウザン会展へも参加した。
 日本画家・鏑木清方(1878-1972)門下で学習院漢学教授小林良四郎の三女の蓁(しげる)と22歳で結婚。
 写実への関心が強くなる。
 翌年には長女麗子が誕生する。
 24歳で重厚な写実を特徴とする草土社を創立し展覧会を開催するが、翌年肺結核と診断され代々木から駒沢へ移った。

 1917年26歳のときに神奈川県鵠沼へ。
 この鵠沼時代が、劉生の人生のなかで最も充実し、変化に富んだ時期でもあった。
 北方ルネサンスの写実や、連作の麗子像などを通して“内なる美”(1)の探究が始まった。

 1918年から麗子と村の娘お松をモデルに制作を開始する。
 1919年京都、奈良に行き東洋古美術に魅せられる。
 健康を取り戻した1921年、30歳の劉生は流逸荘での個展に《麗子微笑》を出品した。
 この頃から日常生活に変化が起こり、歌舞伎の観劇、長唄の稽古、飲酒など始め、水彩画や日本画も制作した。
 1920年の元旦から記された劉生の日記は、洋画家の濃密な生活を知る大切な資料となっている。

 1923年32歳のときに梅原龍三郎(1888-1986)らと設立した第1回春陽会に出品したが、関東大震災により家が半壊、名古屋で半月を過ごしたのち、京都の南禅寺に移る。
 東洋への関心が高まり、茶屋遊びを始め、「海鯛(買いたい)先生」と称して宋元画や初期肉筆浮世絵の蒐集に熱中した。
 そのときに見出した審美的境地を自ら「でろり」(2)と名付け、写実の袋小路からの脱出を促していた。

 1926年35歳のとき京都を離れ鎌倉へ転居、長男鶴之助が誕生した。
 浮世絵に心酔した画家の鑑賞記録として『初期肉筆浮世絵』(岩波書店)を出版。
 1929(昭和4)年、満鉄の招待により旧満州(中国東北部)の大連に2ヶ月ほど滞在し、その帰途に立寄った山口県徳山で、腎臓炎に胃潰瘍を併発、尿毒症の症状を呈して12月20日に享年38歳で急逝する。
 大正画壇に異彩を放った劉生は東京・多磨霊園に埋葬されている。

(注1)
「劉生は彼の求める深い美を『内なる美』と呼んだが、それはこの現実の世界を善(よ)くし美しくしようとするすべての人間の心のなかに宿るものだと考えた。これを感得し、目に見える『外なる美』すなわち美術として実現するつとめを果たすものが美術家であった。生来、自然の事物に似せること、その質感を描写することに本能的といっていい歓びを感じていた劉生は、『内なる美』を自然の事物に即した写実の道によって追求しようとしたのである」
(浅野徹編『20世紀日本の美術 15 岸田劉生/佐伯祐三』p.6)

(注2)
卑近にして一見下品、猥雑で脂ぎっていて、血なまぐさくもグロテスク、苦いような甘いような、気味悪いほど生きものの感じを持った東洋的な美。


大日本印刷、アートスケープ/artscape、2016年02月15日号
岸田劉生《麗子微笑》
深遠な美のリアリズム「水沢 勉(神奈川県立近代美術館、鎌倉館・鎌倉別館・葉山館館長)」

影山幸一
https://artscape.jp/study/art-achive/10119810_1982.html

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