2019年10月06日

「不都合な真実」が見えないようにデザインし、マーケティング化した政治

 旧日本軍慰安婦の韓国人女性、李玉善(イ・オクソン)さん(92)が2019年10月5日、川崎市内で自らが受けた被害を証言した。
 慰安婦の歴史を否定する言説がまかり通る中、市民団体の集会に合わせて急きょ来日。
「日本政府はきちんと反省し、公的な謝罪と賠償をしてほしい」と訴えた。

 ソウル近郊で共同生活する李さんら元慰安婦のドキュメンタリー映画「まわり道」の上映会に合わせて来日した。
 主催の「川崎から日本軍『慰安婦』問題の解決を求める市民の会」によると、あいちトリエンナーレで平和の少女像の展示が相次ぐ脅迫で中止に追い込まれ、慰安婦の歴史を否定する首長の発言を知り、証言することを決意したという。

 満場の約180人が詰めかける中、李さんは「私たちは『慰安婦』ではない。日本人が勝手に名付けたもので、強制的に軍人の相手をさせられた強制労働の被害者だ」と訴えた。

 14歳だった1942年7月、朝鮮半島東南部の蔚山で2人組の男にトラックに押し込められ、中国の慰安所へ連れて行かれた。
 時折苦しそうな表情を浮かべながら「1日で40、50人の相手をさせられ、耐えられずに自ら命を絶つ人もいた。拒否すれば軍人に刀で刺し殺された。慰安所は実際には死刑場のような所だった」と証言した。

 介助者に車いすを押してもらい、看護師同伴で来日した。
 上映会に先立つ記者会見では「安倍(晋三首相)に会いたい一心で来た。謝罪を直接求める。皆さんの力で会えるよう取りはからってほしい」と呼び掛け、「強制的な状況に置かれていたのだから謝罪と賠償を求めるのは当然。日本政府が強制したのではないと言い張るのは耐えられない」と思いを吐露した。

 歴史否定の発言は首長からも相次ぐ。
 慰安婦を象徴する少女像を巡っては、悲劇を繰り返さぬよう願って創作されたものであるにもかかわらず、河村たかし名古屋市長が「日本人の心を踏みにじる」と敵対視。
 松井一郎大阪市長は「慰安婦の問題というのは完全なデマ」と発言、神奈川県の黒岩祐治知事も「事実を歪曲(わいきょく)したような政治的メッセージ」と曲解を重ねる。

「少女像は私たち自身。歴史を記憶するための像になぜ反対するのか」と李さん。
「自らやった悪いことをなかったと言い、私たちの身に起こったこともなかったと言う。許されないことだ」と語気を強めると、
「その結果が今の日韓の対立だ。歴史に向き合わずに政治的、経済的圧力をかけている」と断じた。

 記者会見を含め約1時間の証言を李さんは「日本政府は私たちが死ぬのを待っているとしか思えないが、死んでも問題はなくならない。次の世代が解明してくれる」と結んだ。
 元慰安婦の女性たちが共同生活を送る「ナヌムの家」の安信権(アン・シンクォン)所長によると「韓国では若い人の関心が膨らんでおり希望的雰囲気がある」といい、「慰安婦」ではなく「日本軍性奴隷制度被害者」と呼ぶようになるなど人権意識の高まりを指摘した。


神奈川新聞、2019年10月06日 09:46
少女像巡る首長発言に抗議
元慰安婦、川崎で証言

https://www.kanaloco.jp/article/entry-200064.html

 旭日旗のオリパラへの持ち込みについて、小池都知事はオリンピック組織委員会の「容認」を追認する見解を出しました。
 これについて開示請求を行ったのですが、なんと不存在。

 つまり、都の職員に指示も出さず、検討もさせず、記者会見で言い放っただけ、都庁としては知りません、という回答です。
 都知事の発言の重みというものを、都知事は理解していないようです。
 これでも小池都政は3年目。


非開示決定通知書.jpg

note mu、2019/10/05 22:01
旭日旗の持ち込み容認は、都知事の独断だった!
(WADA/開示請求)
https://note.mu/kaijiwada/n/nfe0d1c64fe9c

「『非正規』という言葉をなるべく使うな」

厚生労働省内でそんな指示をするメールが出されていたことが報じられた。
こうした、政府が自身にとって不都合な表現や統計や資料を、加工・修正・破棄してしまう例は、近年、枚挙にいとまがない。
勤労統計で不正が行われ、「氷河期世代」を「人生再設計世代」と言い換える提案がなされ、あいちトリエンナーレへの補助金不交付が決定されるプロセスについては議事録が作成されてさえいなかった。

まるでインスタで画像を加工するかのような気楽さで、重要な指標や表現に手を加え、「見せたいもの」だけを世間に見せようとしたり、政権幹部をイケメン武士としてイラスト化した例に象徴されるように、なんとなく「いいね」な印象を国民の間に流通させようとしたりする−−そんな「インスタ的政治」が出現しているのではないか。
メディア文化論が専門の筑波大学准教授・清水知子氏が指摘する。

政治の「視覚的技術」

 つい最近、韓国の電子メーカー・サムスンが興味深いAIを開発した。
 一枚の写真画像に写ったモナリザが生命を吹き込まれたかのように語りかけ、豊かに表情を変えていく。

 動くモナリザだ。

 この生きた肖像は、AIが、写真や絵の中にいる人物の顔から目印になる特徴を抽出し、すでに学習した7000近い人物の画像や動画のデータを参照しつつ作成したものだ。
 まるで『ハリー・ポッター』シリーズに出てくるホグワーツの肖像画を思わせる魔法のような科学技術である。

 日本の企業もまた実在しない人間の全身モデル(もちろん動く)を自動生成するAIを開発している。
 今年フロリダ州のダリ美術館では、サルバドール・ダリがAIとして蘇るイベントが企画された。

 今では本物そっくりのフェイクCG動画がネットに溢れている。
 たとえば、有名女優のフェイクポルノ、「人びとのデータを1人の男がコントロールすることを想像してください」とニュースで訴えるマーク・ザッカーバーグ、「トランプ大統領は救いようのないマヌケだ」と主張するオバマ前大統領…。

 AIによる画像生成技術は、ディープフェイクとして、私たちを居心地悪くさせる「存在論的不安」を与えつつもある。

 こうしたデジタル技術が進展する現代にあって、「イメージを飼いならす」技術はどのように社会に浸透しているのだろうか。
 最近の事例をもとにデジタル社会における政治の視覚的技術について考えてみよう。

 あらかじめ予告しておけば、現今のデジタル社会とは、あたかもインスタグラムで画像が加工されるように、重要な数値やイメージ(画像・映像)が恣意的に操作・修正・加工され、そのことによって何かが隠蔽されるかもしれない厄介な社会なのだ。

反転されていた新紙幣の肖像

 今年2019年4月、新紙幣のデザインが発表された。

 新札の顔に登場することになったのは、日本の資本主義の父とされる渋沢栄一(1万円札)、津田塾大を創始し、日本における女性教育の先駆者である津田梅子(5000円札)、近代医学の基礎を築いた北里柴三郎(1000円札)だ。

 なかでも津田梅子の見本は、数多くの議論を引き起こした。
 津田塾大学が提供した写真の肖像が反転されていたのだ。

 写真の肖像の反転について、財務省及び菅義偉官房長官の見解は「問題ない」というものだった。
 津田塾大から提供された写真はあくまで「参考」にすぎないというのである。

 実際にはいくつもの写真をもとに、肖像は印刷局の専門家が彫る。
 写真がそのまま肖像として印刷されるわけではないのだ。

 たしかに、肖像の反転という点に限って言えば、津田梅子がはじめてではない。

 1951年に500円札として発行された岩倉具視の肖像も反転していた。
 元となったのは、外国人彫刻師のキヨッソーネが1889(明治22)年に完成させた大型の彫刻作品。
 大礼服を着用し、胸に勲章をつけ、右を向いていたはずの岩倉は、紙幣では蝶ネクタイの洋服を身にまとい左向きで登場した。

 しかし今回の発表には、何か胸を騒がせるものがあった。
 信用を基盤にした交換システムからなる紙幣の「顔」をわざわざ反転して公開するというのはなんとも皮肉ではないか。
 しかも、今回の新紙幣の、改元の直前での公表は、新しい時代に相応しい紙幣のあり方を提示するかのようなタイミングだった。
 まるで、写真の「加工」「修正」が、新しい時代を象徴することを暗示するかのようなタイミング、と言えば牽強付会だろうか。

肖像はどうやって「本物」と認められてきたか

 そもそも肖像のイメージとその信憑性は何によって、誰によって保証されるのか。

 たとえば、写真嫌いで知られる西郷隆盛は、幕末偉人のスターだが、生涯一枚も写真を残さなかった。

 今日私たちが目にする大きな瞳をした西郷の肖像画は、ヨーロッパの肖像作法に熟練し、大蔵省紙幣省に招聘され、長く紙幣の原版の意匠を担ったイタリアの画家エドワルド・キヨッソーネが作り上げたものだ。

 キヨッソーネは西郷隆盛に会ったことはない。
 西郷の肖像は、顔の上半分は実弟の従道、下半分は従弟の大山巌をモデルにして出来上がったと言われている。

 犬をつれた上野公園の西郷隆盛像もまた、西郷隆盛そのもののイメージを再現したのではない。
 想像の産物としてのモンタージュ的な視覚的表現なのである。

 創造された肖像画として最もよく知られるのは、明治天皇だろう。

「御真影」として広く流布した明治21年の肖像は、明治6年に内田九一が撮影した当時16歳の天皇の写真とは、構図も、ポーズも、全体の印象も大きく異なる。

 そもそもこの「御真影」は、キヨッソーネが描いた明治天皇の「絵」の複写である。
 カメラで人物を直接撮影した写真ではないのだ。

 なぜ「写真」ではなく「絵」の複写だったのか。
 理由は簡単だ。
 そこで求められていたのは、ありのままの現実の天皇の身体ではなく、政治的戦略に基づいた「屈強で力強い」天皇のイメージだったからだ。
 そのイメージこそが「真」なるものとして国民の間に流通することだったのだ(多木浩二『天皇の肖像』岩波現代文庫、2002年1月)。

 写真よりも修正可能な絵画のほうが、象徴的で理想的な身体のイメージを可能にし、類型的な図像をつくりやすい。

 理想化した肖像を仕上げることができる絵画は、この意味では、現代のフォトショップ的、インスタ的な機能を担っていたのかもしれない。

 この人為的フィクションの「御真影」は、複製可能な写真である。
 そして、この世にただ一つしかない「絵画」を複写するという手続きと、それを「御真影」として扱う「儀礼」によって、皮肉なことに「聖性」を獲得したのである。

ホンモノのお金はニセモノによって作られる

 真正性とフェイクをめぐるこの構造は、お金そのものの価値を支えている構造でもある。
 1963 年の赤瀬川原平の「千円札裁判」を思い出そう。

 千円札の「表のみ」を一色刷りした赤瀬川の模型作品は、偽札としては機能していない。
 けれども、最終的には「通貨及証券模造取締法」によって、その作品を作った赤瀬川は有罪となった。
 
 極論を言えば、紙幣も複製した印刷物の紙片にすぎない。
 けれども、紙幣という印刷物は、目に見えない交換価値によって有用性を帯び、国家の「公の信用」のもとで発行されている。 

 貨幣に信用をおく交換の仕組みを人工的に維持するためには、「真正」なるオリジナルのお札と、それに対立するフェイクがあるかのように見せかけなければならないのだ。

 哲学者のボードリヤールはかつて、実在するアメリカすべてがディズニーランドであるということを隠すために、ディズニーランドが存在すると言った。

 実のところ、本物が存在するためにはフェイクが存在しなければならない。
 けれどもそのホンモノこそがニセモノだとしたらどうだろう。

すべてがコピーのようで、すべてがオリジナルの世界

 正真正銘の「真正」で揺るぎない「顔」があるという思考回路はそれ自体がきわめて「モダニズム」的な前提に支えられた議論である。
 しかし、現代においてはそうした状況が変わりつつあるように見える。

 デジタルイメージは、0か1かに変換されたデータであり、数値化されたデータの集積だ。
 つまり、そこには、オリジナルのデータと複製のデータという区別がない。
 つまり、すべてがオリジナルなのだ。

 デジタルイメージは、フィルム写真の外観を模造(シミュラークル)して発展してきた。
 一見すると写真にそっくりだが、じつは写真とは似て非なる別物なのである。

 デジタルメディアには、複数のメディウム(テキスト、写真、動画)が混淆しながら共存し、まるで新しい生物種のように新しいメディウムが作り出されていく。
 インスタグラムのことを考えれば、現状を想像しやすいだろうか。

 イメージの流通がかつてなく重要になった社会において、私たちの日常を席捲しているのは、「写真」ではなく、「写真」の「イメージ」であり、「現実」ではなく、「現実」の「イメージ」あるいはそれをつかむための「数字」だろう。

 これまでこうした手法を何より得意としてきたのは広告写真だった。

 広告写真に求められるのは、「事実」ではない。
 むしろ人びとの欲望と理想に応えるようなフィクショナルな世界だった。
 今日、それはインスタグラムのような人気のあるプラットフォームによって引き継がれている。
 けれども、インスタグラムが見せる世界は、広告のような虚構の世界ではなく、それ自体が新しい現実のイメージなのだ。

インスタグラミズム時代のデモクラシー

 もちろん、こうした新しいテクノロジーは、私たちを解放してくれる側面もある。
 メディア理論家のレフ・マノヴィッチは、芸術写真/アマチュア写真の境界域に存在するインスタグラム写真を「インスタグラミズム」と呼んでいる。
 そこに、「2010年代初頭に登場した新しいグローバル・デジタル・ユース・クラスの美意識」を見出している(マノヴィッチ『インスタグラムと現代視覚文化論、レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって 』ビー・エヌ・エヌ新社、2018年6月)。

「インスタグラミズム」のポイントは、日常性を基盤とした美学であり、「見る」写真から「撮る」写真への移行であり、そして感情の表象や伝達ではなく、気分や雰囲気に焦点を当てるところにある。

 メディア環境学を専門とする久保友香は、女の子たちが「現実とは違うヴィジュアルを造り、新しいメディアで公開する技術」を「シンデレラ・テクノロジー」と名づけている。

 女の子の「盛り」の文化に着目する久保は、女の子たちが、インスタグラムを駆使して、仲間と協調しつつ、不特定多数の人と繋がりたいという思いと、しかし大人には邪魔されたくないという思いを両立させるべく、仲間のなかで「暗号化」された新しいコミュニケーションを繰り広げているという(久保友香『〈盛り〉の誕生、女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』太田出版、2019年4月)。

 イメージとテクストを組み合わせた新しい「二次的な視覚性」。
 こうした行為は、たしかにジョディ・ディーンが言うように、一見「コミュニケーション資本主義」に翻弄/搾取されているように見える大衆が、自分たちの表現を取り戻し、解放する契機として重要な意味を担っているのかもしれない。

 ネット時代のデジタルイメージをめぐるこうしたコミュニケーションの変化は、ポスト複製術時代の民主化(誰もが容易にイメージを加工・複製する能力を得られる)を示していると言えよう。

政治の私物化とインスタ化

 しかし、信頼性や客観性が求められる報道写真では、デジタルメディアが得意とする改変や消去は致命的な要素となる。

 マニピュレーション(ごまかし、取り繕い)可能なデジタル社会において、「現実」ではなく、「現実」の「イメージ」あるいはそれをつかむための「数字」をどう流通させるか。 

 この問いは、「イメージ」で物事が展開する危ういポピュリズム政治と相性がいい。

 数値化されたデータの集積からなるデジタル画像の非物質性は、一瞬のうちに消し去ることができる。

 0か1からなるデジタルデータの本質は、あれかこれかの二分法を強いるデジタル的思考とも響き合い、見たいものだけが見られ、流通し、拡散する、「インフォメーションコクーン(情報の繭)」(キャス・サスティーン)を増殖させる。

 たとえば、現実を数字に置き換えて客体化していく統計は、客観性を帯びた中立性への信頼に基づいたリアリティをイメージとして与える(
セオドア・M・ポーター『数値と客観性、科学と社会における信頼の獲得』みすず書房、2013年9月)。

 しかし、統計は、前提と過程を変えてしまうと、見るべき別の本当の数字が見えなくなるマジックのようなものと化してしまう。

 統計だけではない。

 ここ数年、政治は「データ」がつくる「イメージ」の操作に余念がない。

 たとえば、厚生労働省による「「非正規」という表現を使うな」という言葉の操作は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた「ニュースピーク」さながらの世界を想起させる。

 企業、政治家、役所による相次ぐ統計不正とデータの「改変」、「消去」、「隠蔽」が続くなか、目の前のイメージや数字は本当に見るべき信用に値するものなのだろうか。

 けれども、どれほど「言葉」や「イメージ」をコントロールしても政府に「不都合な真実」がデリート(消去)できるわけではない。

 むしろそこに浮かび上がるのは、なんとかして実態とイメージのギャップがないかのように見せたい、事なきを得たい、なかったことにしておきたいという欲望だ。
 つまり、理想と現実のあいだに深いギャップがあるという事実なのだ。

「不都合な真実」が見えないようにデザインし、マーケティング化した政治が「楽しいプロパガンダ」技術を駆使する状況は、公的なメディアを個人のインスタ感覚で私物化し、見せたいものだけを見せるインスタ的政治とでも呼べるものだ。

 今日、インスタ的政治はあらゆる矛盾を吸収するモンスターのようにマスメディアと一体化した文化装置として機能しつつある。
 擬制と自嘲の回路。
 いまや完全に底が抜けて、裏の顔が表に出てきてしまったような政治は、もはや平然と異論を排除し、炎上しようが断行したもの勝ちだ、と言わんばかりだ。

 いま必要なのは、メディア越しに「展示」された政治のイメージに浮揚されることなく、メディアが公権力をきちんと監視しているかどうか、私たちひとりひとりが能動的に精査し、情報の意図を見極めること、居心地のよい「インフォメーションコクーン」に籠もるだけでなく、他の考え方はないかどうかを探し、物事の見方を多角化すること、そして、構造化された排除の上に成り立つ、同質的な合意を前提としたコミュニケーションの暴力性に目を向け、異質なものからなる複数性を公共空間に取り戻すことだ。

 さて、「令和の新札」が発行されるのは2024年。

 それは、すでに福島を「完全にコントロール」し「世界一カネのかからない五輪」東京オリンピックを終え、大阪万博を目の前にした近未来だ。

 J.K.ローリングによれば、『ハリー・ポッター』に出てくる生きたホグワーツの肖像画は、生きていたときの口癖を繰り返しているという。
 つまり、今を生きる人びとが、未来のために、歴史を学び、過去の人びとの言葉を助言として受けとめるためのものだった。

 果たして、平成の重要なデータをことごとく破棄して迎えた令和という時代は、未来の人々にどのようなメッセージを届けることができるのだろうか。


現代ビジネス、2019.10.04
不都合なデータや表現は加工・修正…「インスタ化」する政治の危うさ
「イメージを飼いならす」政治

(清水 知子、筑波大学准教授)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67570

posted by fom_club at 17:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日米貿易協定の阻止

 安倍首相とトランプ米大統領が2019年9月25日午後(現地時間)、米国のニューヨークで開かれた首脳会談で、日米FTA協定についての共同声明に署名した。
 合意文書の署名はできなかった。
 合意文書の署名は10月上旬に先送りされる予定だ。
 安倍内閣は10月4日招集の臨時国会に日米FTA協定案を提出予定。
 臨時国会での承認を得る方針だ。

 安倍首相は
「両国の消費者あるいは生産者、勤労者全ての国民に利益をもたらす、両国にとってウィンウィンの合意となった」
と話したが、「ウィンウィン」という言葉の意味を知らないようだ。

 牛肉などの米国産農産物への関税はTPP水準に引き下げられる。
 しかし、日本が米国に輸出する自動車などの関税撤廃は見送られた。
 そもそも、安倍内閣はTPP交渉への参加を米国に認めてもらうために、法外な譲歩を示した。
 TPP参加で日本が唯一得ることができるメリットが自動車輸出の関税撤廃だった。
 現在、普通自動車には2.5%、売れ筋のSUV等の大型車には25%の関税がかけられている。
 この関税を撤廃させることがなければ、日本は海外生産者に日本市場を開放するだけになる。
 米国にとって自動車産業が重要なのと同様に、日本にとっては農林水産業が重要だ。

 日本の主権者の利益を考える対外交渉をするなら、仮に農産物輸入の関税を引き下げるなら、自動車輸出の関税を引き下げることを要求するのが当然のことだ。
 米国が自動車関税を「聖域」として温存するなら、日本は農産品重要5品目の関税を「聖域」として守って当然だ。

 ところが、TPP交渉に参加することを認めてもらう際に、普通自動車については14年間、SUVについては29年間、関税率を一切引き下げないことを日本政府が受け入れた。

 TPP交渉が売国交渉であることは、この点を見れば一目瞭然だ。
「ハゲタカのハゲタカによるハゲタカのための条約」がTPPの正体だった。
 安倍内閣はハゲタカの利益を極大化するためにTPP交渉への参加を強行した。
 2012年12月の総選挙の際に、
「ウソつかない!TPP断固反対!ブレない!日本を耕す自民党!!」
と大書きしたポスターを貼りめぐらせて選挙を戦った安倍自民党が主権者との約束を踏みにじって国益放棄の売国TPPに突き進んでいった。

 それでも、このときの決定は、
・ 普通自動車は25年目に、
・ SUV等は30年目に、
関税を撤廃することとされた。
 また、TPP協議で、自動車部品については、8割以上の品目で即時に関税が撤廃されることになった。
 売国協定ではあるが、遠い将来には日本から米国への自動車輸出に対する関税が撤廃されることが確定した。
 その後、米国はTPPから離脱した。

 安倍首相は、米国を含むTPPの最終合意を完全に確定するために早期批准が必要だと訴えて、2016年末に国会でのTPP批准を強行した。

 米国でトランプ政権が発足すれば、米国がTPPから離脱する可能性が限りなく高かった。
「安倍首相はTPP最終合意の見直しは行わない。米国が離脱したら、米国をTPPに回帰させる」
と国会で繰り返し明言した。

 実際に、米国はTPPから離脱した。 
 すると、安倍内閣は米国のTPPへの回帰を求めず、TPP最終合意の改変に突き進んだ。

 何もかもがこのありさまなのだ。
 そのTPP改変を強引に推し進めたのが安倍内閣である。
 牛肉のセーフガード発動の基準は、米国を含む数量で定められていたから、米国が離脱した以上、米国相当分を圧縮する必要があった。
 各国が自国の損失を回避するために細目の変更を行ったなかで、日本だけが細目の見直しを行わずにTPP改変を強行した。

 今回の日米FTAでは、自動車関税の撤廃が消えた。
 安倍内閣は制裁関税発動の可能性が言葉の細工で限定されように見せかけられることをもってウィンウィンと強弁しているのかも知れないが、実態は
“Winner-takes-all”
でしかない。

 その制裁関税についてすら、米国のライトハイザー通商代表は9月25日、「現時点では大統領も232条で日本に何かすることはまったく意図していない」と説明し、将来にわたり発動しないとは確約していないのだ。

 日米FTAは1858年の日米修好通商条約以来の不平等条約である。


植草一秀の『知られざる真実』2019年9月27日 (金)
米国にすべてを奪われた日米FTA協定合意案
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-cb244d.html

「4兆ドル規模」の日本のデジタル市場は、関税ゼロでアメリカがごっそり持っていく

 日米の通商交渉については、茂木敏充現外相が延々と閣僚級協議を続け、なんとか先週の日米首脳会談で署名にこぎつけたわけです。
 トランプ政権の通商政策については、実は日本経済への影響という点では米中の交渉が妥結してくれないと困るのですが、それはともかく、日米の間でとりあえず合意に達したということは評価できると思います。

 その内容ですが、多くの報道では「日本車にかかる関税が継続協議となった」こと、そして農産品に関して「TPP並みの開放となったこと」を取り上げて問題視する考え方が多いようです。
 ですが、よく考えるとこの2つに関しては日本側として、大きな問題ではないと考えられます。

 まず、日本車については、例えばホンダの場合はほぼ100%が北米での現地生産になっていますし、トヨタの場合も以前は日本の田原工場や、トヨタ自動車九州でのみ作っていた「レクサス」ブランドのモデルも、「RX」(加オンタリオ州)や「ES」(米ケンタッキー州)といった主力車種が現地生産に移行しているからです。
 80年代や、90年代とは異なり、完成車輸出というのは極めて限定的であり、したがって仮にこの問題が継続協議となっても日本経済への影響は限定的なものです。

 ただ、実際の有権者には80年代や90年代の感覚を残している人が多いのも事実で、政治的な効果としてはこの点での綱引きがあったのは事実でしょう。
 日本だけでなく、アメリカの、それこそトランプ政権の支持者の持っている時間感覚も、それこそ80年代の日米貿易摩擦の記憶を引きずっているわけで、どちらも過去の幻影を材料に交渉していたようなものとも言えます。

 次に農産品に関しては、オバマ政権とのTPP合意交渉の際に、これは国内的にはいったん決断もしたし、対策も用意していたわけで、今回の決定もその範囲内なのですから、こちらも交渉での譲歩とは言えないと思います。
 むしろ、当初想定したアメリカが入る形でのTPPの発足よりは、日程が大きくズレたことで、日本としては農業の抜本改革のタイミングを逸してしまったということはあると思います。
 ですが、交渉による譲歩ではないと考えられます。

 では、安倍総理の言うように、今回の結果は「日米ウィンウィン」なのかと言うと、実は2つ大きな懸念があります。

 1つは自動車部品の問題が継続協議になったという点です。
 日本からアメリカへの完成車の輸出は、現地生産化の進展により仮に関税が残っても影響は限定的と言ってよいのですが、部品の場合はそう単純ではありません。
 ハイブリッドやEV関連の部品など高度化した電装部品、自動変速機など高付加価値の部品で、日本からアメリカへの輸出となっている部分はまだ日本経済の重要な柱となっています。

 今回の交渉では、この自動車部品への厳しい課税を避けられたというのは評価できますが、今後に含みを残す形で継続協議となったのは残念ですし、引き続き要警戒と言わざるを得ません。

 もう1つは、今回の協議についてトランプ大統領が語った「日本のデジタル市場を4兆ドル規模で解放させた」というセリフです。

 この問題ですが、とりあえず現在そうなっているように、米国サーバーから日本の消費者がアプリやソフト、コンテンツをダウンロードする際に「消費税はかけるが関税はかけない」と言う扱いを今後も保証したということです。

 安倍首相としては「消費者へのメリット」という部分に入るのかもしれません。
 ですが、トランプ大統領の言う「4兆ドル(約430兆円)」という数字はあまりに巨大です。

 アメリカとしては、今後も進むコンピューター・テクノロジーの進歩により、日本におけるソフトウェアの市場はどんどん拡大する、その規模が、もちろん単年度ではなく何年にもわたってのトータルで430兆円になるとして、それをごっそり持っていこう、しかも関税ゼロで儲けようというのです。

 これは大きな問題です。
 現在でも、日本人による日本語を使ったコミュニケーションが、米国の企業が運営するSNSのサーバーを通っているわけですし、コンピューターもスマホもタブレットも、日本が開発したOSなど影も形もありません。
 ソフトウェアに関しては、かつて技術立国を自称し、情報立国を目指していた国の面影はどこにもないのです。

 そのような「全敗」状態が今後も続く、その際に動くカネには関税はかけられない、そのトータルの市場規模は430兆円にもなる。
 そうであっても、関税ゼロなら消費者にメリットがあるのだから、それも「ウィンウィン」というのが全体のストーリー......であるのなら、これは恐ろしいまでの経済敗北主義ではないかと思うのです。


Newsweek、2019年10月03日(木)16時20分
日米貿易協定を「ウィンウィン」と呼ぶ日本の敗北主義
冷泉彰彦(れいぜい あきひこ)
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2019/10/post-1117.php

 メディアは良く知っている。
 今度の国会で安倍首相が最優先するのが日米貿易協定の国会承認であることを。
 だからどの新聞もそのことを書いている。
 ならば野党は日米貿易協定の阻止を最優先すべきだ。
 日米貿易協定阻止の一点突破で、打倒安倍政権を目指すべきだ。
 そしてその大義と正当性は十分にある。

 なにしろこの協定は、TPPに加盟した日本にとって、締結する必要性のまったくない協定だ。
 それどころかTPPを損ない、TPP加盟国を裏切り、そして何よりもトランプをTPPからますます遠ざけるものになるからだ。
 まさしく、日米貿易協定は、TPPをボイコットしたトランプを利するために、トランプに押し切られて結ばされた協定なのである。

 同じ不平等条約でも、日本の共産化を防いだ日米安保条約のほうがまだ意味があった。
 しかし今度の日米貿易協定は、ただひたすらにトランプの再選に協加担するだけの協定だ。
 それがウソだと言うなら、茂木大臣を徹底的に追及し、その密約ぶりを白日の下にさらせばいい。
 
 交渉過程と合意の実態を知れば知るほど、とんでもない協定であることがわかるだろう。
 もちろん、WTOで合意された戦後の自由貿易原則に違反する。
 そして、協定の交渉過程と内容の密約ぶりは、あの昭和の日米安保条約と全く同じだ。

 しかもである。
 日米安保条約は、吉田茂首相が署名した。
 その密約ぶりを認め、こんな条約を署名する責任は自分ひとりで取れば十分だ、あの時はそれしかなかった、後世の政治家によって改定されることを願う、そうつぶやいて、あえて誰も従えずに、ひとり署名したのだ。

 ところがである。
 きょう10月5日の毎日新聞を見て驚いた。
 一段の小さな記事であるが、こう書かれている。

 日米両政府は新たな日米貿易協定の署名式を、日本時間の8日にも米ワシントンで開く方針を固めたと。
 なんと、国会にその最終協定案を正式に提出しないうちに、署名してしまおうというのだ。
 とんでもない国民無視の外交だ。


 しかもである。
 安倍首相がトランプと署名し、吉田茂のようにその責任を一人負うのならまだわかる。
 あるいは、安倍首相の責任をかぶって茂木外相が署名するのならまだわかる。
 なにしろ密約のすべてを一番よく知っている事実上の日米貿易協定の責任者であるからだ。

 ところがである。
 署名は杉山晋輔駐米大使が、ライトハイザー米通商代表と行う予定だという。
 令和の日米安保条約といってもいいほどの歴史的不平等条約を、外務官僚ごときに署名させてお茶を濁そうとしているのだ。
 あまりにも姑息だ。
 政治家の責任回避だ。
 野党は絶対にこの署名式を許してはならない。


 少なくとも署名を許す前に国会審議を尽くさなければいけない。

 予算委員会で議論した後でなければ署名を許してはいけないのだ。
 そして予算委員会で審議すれば、それを承認してはいけないことが次々と明らかになる。
 承認などとんでもないということになる。
 トランプと約束してしまった安倍首相は、野党が反対すれば、解散・総選挙に打って出て、国民に信を問わざるをえなくなる。
 野党はそこまで安倍首相を追い込まなければいけないのだ。
 その時こそ安倍政権が倒れる時だ。
 それ以外に安倍政権を倒せる策は今の野党にはない。

 打倒安倍政権が選挙の争点になれば、どんなにバラバラな野党でも、安倍か、反安倍か、で結束できる。
 安倍か、反安倍か、で選挙が行われるなら、どんなに選挙に関心がない国民でも、政策に疎い国民でも、選択できる。
 そして、こんな野党でも安倍よりはいいという審判が下される可能性は十分にある。
 おりから米国はトランプの再選が不透明になって来た。

 トランプと安倍の二人がいなくなった時こそ、日米安保の見直しの可能性が出て来る時だ。
 その時こそ日本が「昭和」、「平成」から決別し、あたらしい時代に突入できる時だ。
 野党は日米貿易協定の阻止を、令和の安保闘争に発展させよ。
 ここまでヒントを与えているのに、それに呼応しないようでは、野党に出番は永久に来ない。


天木直人のブログ、2019-10-05
野党は日米貿易協定の阻止を令和の安保闘争にする気概を示せ
http://kenpo9.com/archives/6293

posted by fom_club at 16:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もう、やってられない

「日本は世界第3位の経済大国であり、さらに科学技術立国をうたうにも関わらず、その担い手である若い研究者たちが最悪の環境にいることは間違いない。まるでブラック企業だ」

 2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治さんは、日本の若手研究者たちが置かれる状況が劣悪だと指摘します。
 いったいどういうことなのでしょうか。海外諸国と比べてみると、その状況が見えてきました。

若手が自由に研究できない

 まず野依さんが指摘したのは、研究予算の問題。
 国は国立大学に運営のための資金として運営費交付金を配分していますが、昨年度までの15年で1440億円、割合にすると11%余りを削減し、その一方で、研究者が競争して獲得する「科研費」などの競争的資金を増やしたといいます。

 確かに科学研究の分野にも競争は必要だと思いますが、野依さんは、
「自由な研究が保障される唯一の機関である大学で、急激に学問的な自律性が失われている。例えばノーベル賞は、独自性の発露を評価するものです。私の研究も当初は世界の誰からも見向きもされなかった。行政や資金提供者が、これをやりなさいと上から目線で戦略的に分野や課題を定めて、若い研究者の活動を縛っている。今、明日を担う若者が自由な発想で挑戦することが大変難しくなっている」
と懸念を示しています。

若手が海外に出ない

 また文部科学省によりますと、海外に出る若い研究者が増えていないことが研究の国際化における課題のひとつとなっています。
 欧米や中国では、外国の大学で研究することで他国の研究者と共同で研究したり人脈を築いたりと、自らの研究を深められるとプラスに捉えられていますが、海外に出た研究者に話を聞いたところ、日本では海外に出ることが逆に「デメリット」になる側面があるそうなのです。

 フランスで光化学について研究を進める平井悠一さん(29)、工学博士です。
 20代のうちに世界で経験を積みたいと、海外特別研究員として2018年から2年間、フランスのENSパリサクレーで研究を続けています。
 ところが、海外に出る前は不安が頭から離れませんでした。
 海外にいる期間が長いほど国内のポストを得づらくなるというのです。

「国内の大学で助教を目指すとなると、大学の先生たちは身近な学生を選びやすく、どこのポジションが空いているかといった話が一気に入って来なくなる。海外にいる人より、国内の先生の元で研究している若い人材の方が雇われやすい。周囲から、『あなたは日本に戻って居場所はあるのか?』と聞かれ心配でした」

 平井さんはいま、論文を出して結果を残そうと朝7時にはラボに到着し、時間が許す限り研究に取り組んでいます。
 ところが、バカンスを大事にするフランスでは、8月は3週間にわたってラボが閉鎖されてしまいました。
 困った平井さんはシェアオフィスを借りて論文を書かざるを得なかったそうです。
 こう聞くと、フランス人はいつ仕事をしているのか不思議に思います。

減り続ける論文

 日本とフランス。
 どうも研究環境がかなり違うようです。
 こちらは文部科学省の資料です。論文は、国内外で引用される回数が多いほど、優れていると評価されますが、資料は、引用された回数が、各分野の上位10%に入った論文の数の国別の順位を示しています。
《日本 4位→5位→9位》
《フランス5位→6位→6位》*文部科学省資料
 2007年には日本より論文数の少なかったフランスは、2017年時点で6位と日本を上回りました。
 一方、日本は世界4位から9位と徐々に順位を下げています。

日本の博士が減っている

 理由の1つとして指摘されているのが、そもそも博士課程に進み、研究者として論文を書く人たちが減っていること。
 文部科学省によりますと、欧米諸国と比べて日本の博士課程へ進む人は年々減っていて、平成15年度のおよそ1万2000人をピークに、平成30年度には半数の6000人まで減りました。
 これについて、野依さんは経済的な原因が大きく影響していると指摘します。

給料が出ない

 野依さんが指摘するのは、研究者たちの「給与の問題」です。
 科学技術振興機構によりますと、アメリカやイギリス、ドイツ、そしてフランスの大学では、博士課程に入ると、学費が事実上免除されるだけでなく、毎月生活するために十分な給与が支給されます。
 ところが日本では授業料を納める必要がある上、およそ半数は無給です。
 そのため野依さんは、日本では研究をしながら、奨学金という名の借金やバイトで賄うしかないといいます。

 実際に海外の博士課程の若者たちはどのような状況なのか、話を聞きました。
 フランス北部のモン・サンテニャンの大学の博士課程で、分析化学を研究する25歳のクレモン・キャスティヤさんです。

 毎月、大学から研究奨励金として、それぞれ1550ユーロ、日本円で18万円あまりが支給されています(1ユーロ=120円)。
 また、博士課程に進むと、修士の学生たちに授業を教えることも出来るため、その分余分に稼ぐこともできるといいます。
 クレモンさんに、日本の博士課程の人たちの状況を伝えたところ、ショックを受けていました。

「私たちは博士課程の学生ですが、大学のために研究に従事し労働しています。お金の心配はしたことがありません。同じように研究をしているのに給与が与えられないと聞き、とても驚きました。ハードな研究を進めながら、食い扶持を稼ぐ生活を送る彼らの健康が心配です」

 野依さんも指摘します。

「日本の知を担う彼らにどうやって生活しろというのでしょうか。彼らこそが研究の中核で、彼らの知性や情熱無くして、論文は生まれない。ただ働きを強いる劣悪なブラック企業ともいえる環境は、科学技術立国をうたう日本であってはならないことです。最近話題になった大学病院の無給医問題と同じ構造だと感じますが、こんな状況が、優秀な人たちにとって魅力があるわけがありません」

限定的な博士の雇用

 また野依さんは博士の学位を取った後の展望が開けないことも大きいといいます。

「海外では博士のキャリアパスが多様です。高度な教育を受けていて思考能力が高いと評価されているため社会的地位は高く、産業界だけでなく、政府機関やマスコミなどでも博士が重宝されている。一方、日本では専門性のみを極めていて視野が狭いという偏見があり、企業は『オン・ザ・ジョブトレーニングなどで訓練した方が使いやすい』と考え、敬遠している傾向にある」
というのです。
 野依さんは、給与といった経済基盤が不安定で、運営交付金が削られた結果やりたい研究もままならない環境に対する不安の払拭が不可欠だと指摘します。

「このままでは十数年後には日本で博士課程に行き、研究者を目指そうとする若者がほとんどいなくなり、知識社会全体が空洞化してしまう」と話していました。

これからどう変わる

 文部科学省の中澤恵太政策科学推進室長に、今後の展望について話を聞きました。

 現状について、
「社会に役立つ研究が増えたと考えている一方、長い視野の基礎研究の予算が減っていて、近視眼的になっているというのは事実」とした上で、
「日本にいる博士の数は現在7万人で、生活に不自由ない額を国費としてもらっているのは1割あまりですが、それを今後2割まで増やしたい」
と話していました。
 また、博士のキャリアパスの多様化を進めるため、企業におけるインターンシップを後押しする施策を進めているとしています。
 取材の最後、中澤さんはこう話してくれました。

「私たちとしても、過去ないくらいの危機感を持っている。財源はどうしても限られてしまうが、優秀な学生が博士を目指すような支援を拡充に努めたい」

 将来のノーベル賞候補ともいえる若い科学者たちが、人生をかけて良かったと思える研究ができる環境を整えなければ、そう遠くない未来、日本からノーベル賞受賞者が出なくなってしまうという懸念は現実のものになってしまうのではないでしょうか。


NHK News Web、2019.10.4
日本の若い研究者たちの“ブラックすぎる”職場環境
〜あるノーベル賞学者の憤り〜

(松崎 浩子、国際部 欧州担当)
※ まつざき ひろこ
 平成24年入局。名古屋局を経て、国際部で欧州地域を主に担当。経済、環境、テクノロジーなどを取材。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize2019/article/article_06.html

「この審議会の議論は、もっともだと思う。でも、学校現場がどう考えるかを思うと、気が重くなってしまう。限られた時間しかないのに、学校に期待されていることが、あまりにも多すぎると感じるからだ」――。

 ICT(情報通信技術)活用と小学校の教科担任制について論点整理をまとめた10月4日の中教審初等中等教育分科会で、出席した委員から学校の教育現場への配慮を求める、痛烈な意見が表明された。
 新学習指導要領の完全実施に向けた道筋を議論している中教審初等中等教育分科会は、いわば教育改革の本丸。
 そこで展開された本音トークは、出席者に強い印象を残したようだ。

 発言したのは、初等中等教育分科会の委員を務める西橋瑞穂・鹿児島県立甲南高校校長。
 ICT環境や先端技術の効果的な活用によって、教育現場に大きな変革を促す論点整理案を巡る自由討論の一場面だった。

「世の中が大きく変わっていて、教育も変わらないといけないことはよくわかる」

 西橋校長はこう切り出した。
 いま高校の教育現場が大学入学共通テストや民間英語検定試験、新学習指導要領の導入に直面し、大学入試改革への対応にも追われていることは、容易に想像できる。
 相当な作業量であることは間違いない。

「新しいことを教師全員が理解するために研修が必要だ、という声が聞こえてくる。教師が勉強するのは当然だが、研修を増やすと言っても、それが簡単にできるのか」

 西橋校長は、
「本校は授業時間が週35時間なので、7時間目が終わるのは勤務時間終了前25分となる。その後に研修はできない。だから研修するためには、授業をカットするしかない。生徒が学ぶ内容は非常に多いので、本当は授業をカットしたくない。職員会議なども年間計画に組まれている」と続けた。

「本当に時間的には一杯一杯なのに、(残業時間を減らす)働き方改革をやれ、と言われる。そこに新しいことをやらなければならない。現場では『言っていることと、やっていることが、全く違うじゃないか』と思っているのが現実だ」

 プログラミング教育を例にとり、
「その現実の中で、横文字の新しい概念が次々と飛び出してくる。正直、意味がよくわからない。プログラミング教育と言われても、なんとなくイメージがあっても、実際にはよくわからない」と説明。

「何事も説明した側は『ちゃんと説明した』と言う。でも、それでどれぐらい伝わるのか。説明する側と受ける側が頭の中を一致させることは、かなり難しい。教師は生徒に教えるとき、『だいたい2割しか伝わらない』とよく言っている。

『この前教えたのに、全然分かっていない』と話す」と述べ、一方的に方針を通知して終わってしまう文科省や教育委員会をちくりと皮肉った。
 西橋校長が強く訴えたのは、学校の教育現場に対する想像力だ。

「もっと想像力を持って施策をやらないと、現場はついてこない。現場がついて行きたいと思っても、ついていけない。次から次に要求があり、そこに働き方改革と言われる。これでは『もう、やってられない』と、現場の教師は思ってしまう」

 学校の教育現場に対する想像力が足りなかった例として、西橋校長は大学入学共通テストが採用した英語民間試験を挙げた。

英語民間試験の問題がいつまでもごちゃごちゃしているのは、制度を設計したときに想像力が不足していたからではないか。例えば、離島の生徒は受験するのに2泊3日が必要になる。悪天候だったら、さらに時間と費用が必要になる。そういう想像力が必要だ

 西橋校長は、
「急いで改革しなければいけないのはわかっているし、なんとかしなければいけないと本当に思っている。でも、学校の実態をもっともっと尊重してほしい。改革、改革といっても、全国津々浦々の学校には、事情がさまざまある。本当に想像していただければと思う」と言葉を結んだ。

 この発言を受け、初等中等教育分科会会長の荒瀬克己大谷大学教授は、
「私たちは子供たちの未来を考えて議論をしているが、学校の先生には『やってられない』という気持ちもあると思う。私たちの責任の重さを改めて思い知るご発言だった」と述べた。


[写真]
教育改革を議論した中教審初等中等教育分科会

教育新聞 Education Newspaper、2019年10月4日
「もう、やってられない」
中教審で現場教師の本音訴え

https://www.kyobun.co.jp/news/20191004_04/

posted by fom_club at 07:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする