2019年10月04日

麗子微笑之立像

 ヤッホーくんのeチャリによる朝キンは東京駅まで。
 といいますのは、10月2日(水)に日本民芸館再訪。
 岸田劉生(1891〜1929年)、前田邸の前田利為(1885〜1942)。
 柳宗悦(1889〜1961)、『蟹工船』の小林多喜二(1903〜1933)。
 同人誌「白樺」は1910年創刊、雑誌『種蒔く人』は1921年!
 たった1世紀、されど1世紀、1923年関東大震災、1927年山東出兵で”15年戦争”の前夜、1928年治安維持法で死刑追加!
 あんなこと、こんなこと、いろんなことがあって、戦争に突入し見渡す限りの焼け野原になった下町、そしてピカ丼くらって敗戦。
 尊い平和憲法を壊し、またあのきな臭い、コクミンが餓死し、ウジ虫たかる戦死者に数えられる戦争時代に戻ろうとしてるのかな。
 あんなこと、こんなこと、いろんなことを考えさせられる展示会が、東京駅でイマ、開かれています。
 ヤッホーくんのこのブログの読者諸氏よ、ぜひとも行って見てきて!
 ひとりの芸術家の航跡に触れてきてください!

「劉生」と聞いてまず思い浮かぶのは、どのような作品だろう。
 娘麗子をモデルにした麗子像シリーズか、道を描いた作品、あるいは細密描写の肖像画や静物画か。
 ひとそれぞれで異なるに違いない。

 東京駅丸の内北口の東京ステーションギャラリーで開かれている「没後90年記念 岸田劉生展」は、そのすべての期待に応えられそうな、大正〜昭和の画家、岸田劉生(1891〜1929年)の本格的な回顧展だ。

 監修にあたった美術史家の山田諭さんは「思いがけないほど作品が集まった」といい、前後期合わせて約150件がそろう充実した顔ぶれになった。
 麗子像は5歳から9歳まで前後期合わせて17点が展示され、風景画も代表作中の代表作「道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)をはじめ、さまざまな作品が並んでいる。

 劉生は、作品に制作年月日を几帳面に書き付けていた。
 会場ではその記録に従って、ほぼ制作順に作品が展示されている。
 劉生の歩みをつぶさにだどりつつ、画業の全貌に迫ることのできる貴重な機会といえそうだ。
 東京展は10月20日まで。
 会期中に展示替えがある。
 続いて山口県立美術館、名古屋市美術館で開催される。

 監修した山田さんは、名古屋市美術館で長く前衛美術や現代美術の展覧会を手掛け、現在は京都市美術館の学芸課長を務めるこの道34年のベテラン学芸員。
 学生時代に修士論文で劉生を取り上げた山田さんにとっては、劉生の回顧展は「いつか実現したい企画だった」というが、さまざまな事情でかなわなかった。
 没後90年を最後のチャンスと見定めて起案したところ、東京、山口で開催館が見つかり、実現したという。

 第一会場となる3階では、初期の修業時代からポスト印象派の影響を受けた時期を経て、西洋の古典的な絵画を思わせる作風へと変わっていく様子を一望できる。
 厳密に制作年月日順に並べられており、劉生の息遣いさえ想像させる。
 たとえば「代々木附近(代々木附近の赤土風景)」(1915年10月15日)を仕上げた劉生は、描いたばかりの坂道に場所を移して、道に刻まれた荷車のわだちや、くっきりとした電信柱の影、転がる小石などを細部までとらえ、名作「道路と土手と塀(切通之写生)」(同11月5日)を生む。
 遠景として描いた坂に、何か謎めいた魅力を感じ、接近し、対峙し、細密に描きこんだのだろうか。

 制作順展示の妙味はほかにもある。
 劉生が制作年月日を記録したのは、自分が変化し続けることを自覚し、プロセスを正確に残そうとしていたからとも思われるが、大きな節目では署名を変えている。
 ゴッホら近代美術の影響下にあった時期の署名「R.Kishida」は、西洋の古典絵画への傾斜とともに紋章のような署名に変わる。
 山田さんが「羽(はね)R(アール)点(てん)」と呼ぶ羽飾りのついた盾形の紋章のような署名だ。
 1915年の年初に現れたこの署名は「道路と土手と塀(切通之写生)」では画面左下の石の側面に描きこまれている。

 そして、次の変化は東洋美術への関心を深めた1918年。
 サインは「劉」と漢字に変わる。
 劉生の決意がにじみ出ているようにも見える。
 制作順の展示ならではのドラマチックな隠し味だ。

 1929年に満州(中国東北地方)を旅した劉生は、当地の風景画を油彩で描く。
 署名は「Riusei Kishida」に変わっていた。
 油彩で新境地を拓く手ごたえを感じていたのかもしれない。

 だが、満州旅行で調子を悪くしていた劉生は、途中立ち寄った山口・徳山市で病を得、38歳の生涯を終えた。
 生きながらえていたなら、劉生の芸術はこの先どのような展開を見せていただろうか。
 劉生ファンならずとも、つい思いを馳せてしまう、永遠の「もし」であろう。


[写真-1]
5歳から9歳までの「麗子像」がずらりと並ぶ

[写真-2]
重要文化財「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年11月5日 東京国立近代美術館

[写真-3]
「代々木附近(代々木附近の赤土風景)」(左)を描いた後、劉生は描いたばかりの坂道に場所を移して「道路と土手と塀(切通之写生)」(右)を描いた

[写真-4]
「この影は前作で描かれた電信柱の影ですね」と解説する山田さん

[写真-5]
「川端正光氏之肖像」(右:1918年1月13日) 2階会場の入り口付近に展示されている、東洋美術への傾斜を示す作品。劉生の変化を示すカギは画面左上にある

美術展ナビ、2019.09.12
見どころ紹介
「没後90年記念 岸田劉生展」
東京ステーションギャラリーで開催中

https://artexhibition.jp/topics/news/20190912-AEJ103188/

 明治の水彩画ブームは大正期に入ると衰退していく。
 1913(大正2)年に日本水彩画会が創設されたり、水彩画家として活躍する若手も登場したりはするものの、いわゆる水彩画界としては全般的な不振に陥っていた。

 その一方「大正期の個性派」といわれる画家たちが、水彩画にも秀作を残していることは注目される。
 彼らは自己の造形を追究していく中、油彩・水彩それぞれの特性を生かして作品を描いた。
 岸田劉生もそのひとり。

 劉生にとって水彩は、油彩と異なる魅力を持つ表現媒体だった。
 新鮮で自由な味わいに加え、美を素早く掴(つか)み、感興が消えないうちに完成させることができるのは、その利点であると考えていた。
 劉生の水彩画制作は、1918(大正8)年から1922(大正11)年の間に集中している。

 愛娘麗子を描いたものが最も多いが、この作品は横浜の原三渓の一族、西郷健雄からの注文によるもの。
 画面右に「千九百二十一年四月三日」の日付があるが、劉生の日記によると、4月1日から描き始め、3日間で仕上げたことが分かる。
 麗子間もなく満7歳。
 下を向きわずかに微笑(ほほえ)む表情が愛らしい。
 画面全体を赤い色調が覆う中、左下のカラフルな紙風船がアクセントになっている。

麗子.jpg
(大正10年、水彩・紙、50.5×34.2センチ、メナード美術館蔵)


日本経済新聞、2019/7/24付
美の十選
みづゑ(ヤッホーくん注)のかがやき十選(7)
岸田劉生「麗子微笑之立像」
(茨城県近代美術館美術課長 山口和子)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO47675430T20C19A7BC8000/

(ヤッホーくん注)みづゑ
幕末から明治初頭に受容が始まり、明治30年代後半に大ブームとなった水彩画(みづゑ)。

 岸田劉生は大正から昭和初期にかけて活躍した近代日本を代表する洋画家です。

 さまざまな表現方法を会得し辿り着いた作風はたくましさを感じることの出来る写実的描写からは、モデルから伝わってくる深い精神性を見逃さず表現する独自の絵画様式を確立し、のちに「道路と土手と塀」や「麗子微笑」などの重要文化財となるような西洋式絵画を手掛けるようになりました。

 岸田劉生は、明治時代に活躍した新聞記者で実業家の岸田吟香と妻の勝子との間に生まれ、東京高等師範学校付属の小学校、中学校に通いながら独自に絵画を学びました。

 岸田劉生は潔癖症で熱心なキリスト教信者としても知られており、作品にも影響を与えていたといわれています。

 また、白樺派の武者小路実篤やイギリスのバーナード・リーチなどとも交流があり、それはこれまでの表現方法から劇的に変化する大きな出会いとなり、印象派のゴッホなどの影響を大きく受けました。

 のちにルネサンス芸術やバロック様式、ロマン主義などの表現手法の影響を受けながら自身の様式の確立に励みました。

 岸田劉生の最盛期は結核の疑いで神奈川県藤沢町鵠沼にて療養中だった頃とされています。
 
 鵠沼の別荘は友人である武者小路実篤の物件でしたが、庭に土俵を造り来客者と相撲をとるほど豪快であったといわれています。

 この頃からの作品は病気のためか、人物画や静物画が多くなり、娘の肖像画を描くようになり、多くの麗子像を残しています。


いわの美術株式会社
岸田劉生 静物画
https://iwano.biz/results/r-picture/post_4928.html

posted by fom_club at 17:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする