2019年09月30日

戦争へ向かった分水嶺

 あいちトリエンナーレ(以下、「あいトリ」と略します)2019をめぐる一連の騒動に関して、これまで、私は、積極的な発言を避けてきた。
 理由は、この話題が典型的な炎上案件に見えたからだ。
 ヘタなカラみ方をすると火傷をする。
 だから、じっくり考えて、さまざまな角度から事態を観察しつつ、自分なりの考えがまとまるまでは、脊髄反射のリアクションは控えようと、かように考えて関与を回避してきた次第だ。
 当人としては、これはこれで、妥当な判断だったと思っている。
 とはいうものの、いま言ったことが、弁解に過ぎないと言われたら、実は、反論しにくい。
「単にビビっただけだろ?」という最もプリミティブなツッコミにも、うなだれるほかに、うまいリアクションがみつからない。
 じっさい、私がビビっていたことは事実だからだ。

「私なりの考え」程度の直感的な見解は、問題が発生した当初から、頭の中にあれこれ浮かんでいた。
 それを外に向けて表明しなかったのは、正直に告白すれば、殺到するであろう賛否のコメントや、無関係なところで発生するに違いない魔女狩りじみた欠席裁判に対応するのが面倒くさかったからだ。
 圧倒的な物量でもって押し寄せるクソリプの予感は、時に良心的な論者を黙らせる。
 これは、認めなければならない。

「あいトリ」以外の、さまざまな出来事やニュースに対して、かねて、私は、軽率に発言することを旨としてやってきた人間だ。
 ここでいう「軽率」というのは、言葉のあやみたいなもので、もう少し丁寧な言い方で言えば、私は、どんな問題や出来事に対してであれ、専門家の分析や有識者の見解とは別の、「素人の感想」を述べておくことがコラムニストに課せられた役割のひとつであると考えているということだ。
 素人のナマの感想は、往々にして勘違いや認識不足を含んでいる。
 それ以上に、素人が直感的な見解を表明することは、恥ずかしい偏見やあからさまな勉強不足を露呈する危険性と背中合わせだ。
 それでも、素朴な感想には素朴な感想ならではの価値があるはずだと私は考えている。
 というのも、愚かさや偏見や勉強不足も含めて、この世界を動かしている主要な動力は、つまるところ「素人の感想」の総和なのであって、そうであればこそ、それらをあえて表明することで恥をかく人間がいないと、言論の世界を賦活することはできないはずだからだ。

 さてしかし、
「もう少し事態が落ち着くのを待とう」
「自分がいま感じているもやもやとした感慨が、よりはっきりとした見解として像を結ぶまでは、うかつな関与は禁物だ」
とかなんとか思っているうちに、「あいトリ」をめぐる事態は、日を追って混迷を深め、さらに関与の難しい局面に立ち至っていたわけなのだが、つい昨日9月25日になって、
《愛知県の大村秀章知事は25日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の在り方を検証する同県設立の有識者委員会で、中止した企画展「表現の不自由展・その後」について、会期終了の10月14日までに「条件を整えた上で再開を目指したい」との考えを明らかにした》
という記事が配信されてきた。
 なるほど。膠着していた事態がようやく動きはじめたようだ。
 してみると、今後は、多少とも前向きな形でこの話題に言及する余地ができたのかもしれないな……などと、私は、愚かな楽観を抱きはじめていた。

 ところが、昨晩のニュースにおっかぶせる形で、今朝になって
《文化庁、あいちトリエンナーレへの補助金を不交付の方針》
という驚天動地のニュースが流れてきた。
 いや、このニュースを受け止めるにあたって、「驚天動地」などという言葉を持ってきている態度が、そもそもヌルいのかもしれない。
 なぜというに、いま起こっている事態は、これまでの経緯を注意深く観察してきた人間には、十分に予測できた展開だからだ。
 私自身、この展覧会を契機に、あらゆる事態がとんでもない速度で悪化しつつあることは感じ取っていた。
 じっさい、第一報を伝えたNHKのニュースも、この展開を事前に予測していた人間が書いたかのような体裁で書かれている。

 本当は、みんなわかっていたのだ。
 私自身も、実は、わかっていた。
 ただ、目をそらしていただけだ。
 深刻な事態が進行していることを、十分に感知していたからこそ、私は、何も言えなくなっていた。
 つまり、ビビっていた。
 そういうことだ。
 ことここに至って、目が覚めた。

 本当なら、8月2日の段階で、会場を訪れた河村名古屋市長が、
「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」
と述べた段階でもっと敏感に反応してしかるべきだった。
 あれは、いま思えば、最悪の事態がはじまったことを告げる明らかなホイッスルだった。
 その意味を、半ば以上正確に読み取っていたにもかかわらず、私はだらしなく黙っていた。
 なんとなさけないリアクションだろうか。
 さらに、その河村市長の発言を受けた菅官房長官が、会見の中で、芸術祭への国の補助金について、事実関係を精査し、交付するかどうか慎重に検討する考えを示したことに対しては、跳び上がってびっくりしてみせるなり、怒鳴り散らしてでも憤りを表明するなりすることで、やがて訪れるであろう本当の危機への注意を喚起しておくべきだった。

 なのに、私はそれをせずに、
「炎上案件だから」
てな調子の既製品の弁解を店頭に並べて知らん顔をしていた。
 反省せねばならない。

 今回の文化庁の決断は、一地方の首長が記者との談話の中で述べた私的な見解とは水準を異にするものだ。
 というのも、市長の妄言と補助金の支給中止は、まるで重みの違う話で、妄言が「虚」なら補助金は「実」だからだ。
 もちろん、河村市長の発言とて、あれはあれで、一定の権力を持った政治家の言葉としては論外以外のナニモノでもない。
 とはいえ、市長のあの発言は、しょせんは考えの足りない一地方首長が無自覚に漏らした私的な談話の断片に過ぎないと言えばそう言えないこともないわけで、その意味では、あの発言が、ただちに法的な強制力を持った実効的な弾圧であるとは言えない。

 一方、文化庁が、補助金の交付を中止することは、展覧会や美術展を企画する自治体やキュレーターにとって、正しく死活問題だ。
 作品を制作しているクリエーターにとっても、具体的かつ直接的な弾圧として機能する。
 しかも、文化庁は、いったん採択した補助金の交付を、問題が起こった後で、その問題への説明が不足だったという理由を以て「事後的に」中止する旨を明らかにしている。

 これはつまり、今後、彼らが、あらゆる企画展や文化事業に対して、随時、介入する決意を明らかにしたに等しい措置だ。

 おメガネにかなわない企画や作品に対して、いつでも懲罰的な形で補助金の引き上げを言い渡すつもりでいる金主が巡回している世界で、誰が自由なキュレーションや作品制作を貫徹できるだろうか。
 私は不可能だと思う。

「説明が不十分だった」
みたいな難癖をつけるだけのことで、補助金をカットできるということは、
「十分な説明」
なる動作が利権化するということでもある。

 今回、騒動の発火点となった「表現の不自由展」は、「あいトリ」という大きな枠組みの芸術祭のうちのほんの一部(←予算規模で400万円程度といわれている)に過ぎない。
 してみると、7800万円の補助金が支給されるはずだった「あいトリ」は、そのうちの400万円ほどの規模で開催されるはずだった「表現の不自由展」をめぐるトラブルのおかげで、すべての補助金を止められたという話になる。
 こんな前例ができた以上、この先、どこの自治体であれ、あるいは私企業や財団法人であれ、多少とも「危ない」あるいは「議論を呼びそうな」作品の展示には踏み切れなくなる。
 作品をつくる芸術家だって、自分の作品の反響が、美術展なり展覧会なりのイベントまるごとが中止なり補助金カットに追い込む可能性を持っていることを考えたら、うっかり「刺激的な」ないしは「挑戦的な」作風にはチャレンジしにくくなる。

 別の角度から見れば、今回の事例を踏まえて、気に入らない作品を展示していたり、政治的に相容れない立場のクリエーターが関与している美術展を中止に追い込むためには、とにかく数をたのんでクレームをつけたり、会場の周辺で騒ぎを起こしたりすればよいということになる。
 そうすれば、トラブルを嫌う主催者は企画を投げ出すかもしれないし、文化庁は企画を投げ出したことについての説明が不十分てなことで、補助金を引き上げるかもしれない。

 かくして、「あいトリ」をめぐる騒動は、画家や彫刻家をはじめとする表現者全般の存立基盤をあっと言う間に脆弱化し、文化庁の利権を野放図に拡大したのみならずクレーマーの無敵化という副作用を招きつつ、さらなる言論弾圧に向けての道筋を明らかにしている。

 私自身の話をすれば、これまで、自分が書いた原稿に関して、用語の使い方や主題の選び方について修正を求められた経験は、全部合わせればおそらく20回ほどある。
 そのうちの10回ほどは、新聞社への寄稿で、単に平易な言い回しを求められたものだ。
 残りの10回のうちの8回までは、とある同じ雑誌の同じ編集長に要求された文字通りの言葉狩りだった。
 その編集長の不可思議な要求に対しては、毎回必ず
「え? どうしてこんな言葉がNGなんですか?」
「考えすぎじゃないですか?」
と抵抗したのだが、結局は押し切られた。

 その当時、まだ30代だった私より5年ほど年長だったに過ぎないその若い編集長(してみると、彼は出世が早かった組なのだな)は、とにかく、問題になりそうな言葉はすべてカットしにかかる、まれに見る「チキン」だった。
 で、そのチキンな編集長と何年か付き合ううちに、私は、
「言論弾圧は、なによりもまずチキンハートな人間の心の中ではじまるものなのだな」
ということを学んだ。

 今回、私は、8月以来、ほぼ丸々2ヶ月にわたって、「あいトリ」の問題に関して沈黙を守ってきた自分が、つまるところチキンだったことを思い知らされた。
 私が黙っていたのは、私がチキンだったからだった。

 いま私が思っているのは、あの8月はじめの河村市長のケチな妄言からはじまった小さな騒動を、これほどまでに将来に禍根を残すに違いない深刻な弾圧事案に成長させてしまったのは、私を含めたほとんどすべての日本人が、実にどうしようもないチキンだったからだということだ。
 反省せねばならない。
 今回は、実は、昨今のお笑い芸人があからさまな差別ネタを、「たたかってる」「トンがってる」「ギリギリのところ狙ってる」と思い込んでいる傾向やその事例について考察するつもりでいて、半分ほどまでは原稿も出来上がっていたのだが、あまりにもとんでもないニュースがはいってきたので、急遽テーマを差し替えることになった。
 面白いのは、今回の記事の最終的な結論が、当初書くつもりでいた原稿の結論とそんなに違わないところだ。

 おそらくあらゆる表現の限界は、国民の粗暴さと臆病さが交差する場所に着地することになっている。
 厄介なのは、ある人々が粗暴になればなるほど、別の人々が臆病になることで、それゆえ、表現の限界は、どうかすると平和な時代の半分にも届かない範囲に狭められる。
 私個人は、なるべく臆病にならないように注意したい。
 いまのような時代は特に。
 臆病さを避けながら粗暴にならずにいることはなかなか難しいミッションなのだが、なんとか達成したいと思っている。


日経ビジネス、2019年9月27日
チキンなハートが招き入れるもの
(文・イラスト/小田嶋 隆)
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00038/

斉藤利彦「『誉れの子』と戦争、愛国プロパガンダと子どもたち」(中央公論新社、2019年7月)

 戦争は子どもたちにどんな運命を強いるのか?
「誉れの子」「靖国の遺児」と呼ばれた、日本軍兵士の遺児たち。
 国家に翻弄され、利用された子どもたちの実像を、貴重な一次資料と証言…

 表紙に掲載されている、張り詰めた表情の少年は、「大東亜戦争」の戦没兵士の遺児の一人、八巻春夫さんである。
 当時「誉れの子」と呼ばれていた遺児らを全国から集め、靖国神社に参拝させる式典が、1939年から1943年まで毎年開催されていた。
 本書が「社頭の対面」と呼ぶこの行事では、内閣総理大臣らによる訓示が行われ、皇后から「御紋菓」が下賜された。
 写真は、八巻さんが御紋菓をおしいただき「有難さの感涙にむせんだ」場面として、内閣情報局編輯「写真週報」に掲載された。

 本書の著者は、2017年に八巻さんを探し当て、聴き取りを行った。
 八巻さんが語ったのは、写真の頰に伝う涙が情報局担当官の指示で差した目薬によるものであること、それ以外の写真も職員が明白に演出していたということだった。
「社頭の対面」と「誉れの子」らは、プロパガンダというべき情報操作の一環だったのである。

 長期化していた戦時下において、戦死者およびその遺族の数はうなぎ登りに増加していた。
 一家の大黒柱を失い困窮する遺族・遺児に対しては、一定の生活扶助や「学資補給」が行われていたが、その範囲や金額は厳格に定められており、遺族は厳しい生活に耐える他ない場合が多かった。

 にもかかわらず、国家は遺児らに対し、「お父様の名誉を汚さぬよう」「お国の為に尽くせよ」と求めた。
 のみならず、「社頭の対面」行事において遺児らが国家・天皇・軍に対して示した「感激」と「尽忠報国の精神」を華々しく報道することは、国民全体の「教化」の手段とみなされていたのである。

 70年以上を経た「誉れの子」らに著者が行ったアンケートには、(父の死で)「毎日さびしさで一杯でした」「無謀な戦争をしたと思います」という言葉が語られている。
 戦争する国家は子どもの悲しみさえ冷酷に利用する。
 この悲惨を二度と繰り返してはならない。

◇ 斉藤利彦(さいとう・としひこ、1953年生まれ)
 学習院大教授(教育学)。『作家太宰治の誕生』『試験と競争の学校史』など。


朝日新聞、2019.09.28
好書好日
「『誉れの子』と戦争」書評
遺児の悲しみさえ利用する国家

[評者]本田由紀
https://book.asahi.com/article/12747642

現代と似通う1928(昭和3)年
戦争へ向かった分水嶺


 歴史に if(もしも)はない。
 とはわかってはいても、やり直せるなら戻りたい分水嶺はある。
 日本にとって戦争に向かう昭和初期はその筆頭だろう。
 刑法学者の内田博文氏は、今の日本の状況は「昭和3年」に似ていると指摘している。
 治安維持法が改正され、戦時体制下の下準備が進んだ年だ。
 加えて政治不信を加速させた、意外な共通点も。
 今このときを「やり直したい過去」にしないためにに、90年前の「失敗」を振り返った。

 1928(昭和3)年と言えば、昭和天皇が即位の礼を執り行い、25歳以上の男性 による初の普通選挙が実施された年だ。
 ラジオから大相撲中継やラジオ体操が流れ、食品店にはキリンレモンやハウスカレーが並んだ。

 千円札でおなじみの細菌学者の野口英世が、英国領だったアフリカ・ガーナで亡くなった。
 漫画家の手塚治虫氏、映画「男はつらいよ」シリーズで知られる俳優の渥美清氏 、作家の田辺聖子氏らが生まれている。
「その年と今の状況は似ています」と刑法学者で九州大名誉教授の内田博文氏は指摘する。
 戦争に向かって国が進むような部分で重なる点が多いという。

 まず内田氏が挙げたのが「治安維持法」。
 国の体制を変えようとする集団をつくったり、参加した人を取り締まる。
 この年に最高刑が死刑になった。
 処罰できる対象は大幅に広がり、当局の不興を買えば摘発されるという状況が生まれた。
 これ以降、秘密の保護や情報統制についての法律ができ、1938年には国民の生活や経済を政府が統制できる国家総動員法も制定された。

 内田氏は「 戦争する国づくりの柱となる法律が作られた。現在はこの時期をコピーするように進んでいます」と語る。
 そのコピーが安全保障関連法や秘密保護法、そして共謀罪だ。

「思想、信条を処罰対象にしないのが刑法の原則。共謀罪はそれに反している。犯罪が成立するための条件もあいまい。処罰対象を拡大される恐れもある」

 国が言う「組織的な犯罪集団が対象」というのは建前で、国にもの申す市民運動を抑えるのに使われかねないと、内田氏は心配する。
 そんな法律の成立を許した国民の意識も当時と似ている。
 自分たちで世の中を変えるのではなく、権力に期待をするという部分だ。

「当時は生活が苦しく、戦争に活路を見いだすという政府は一定の支持を得ていた。今、は、若者が「未来はないね」とあきらめ、強い力に頼って解決できないかと考えている」
 
 政権の暴走を止められない議会、国民の政党政治に対する不信……。
 類似点はほかにもある。
 違うのはスピード。

「今は四倍くらいの速さで進んでいます」

 良くない話が並ぶが、内田氏は「昭和3年は、まだ後戻りができた」とみる。
 国会では山本宣治(1889 - 1929)が治安維持法改正を厳しく追及。
 風向きが変われば、大日本帝国憲法からみても問題の多い同法をはじめ、進路を見直す選択肢もありえた。
 そして今は、戦時体制に向かう「川の崖っぷち」。
 ぎりぎりに立っている。

 かつての失敗を繰り返さないために内田氏は「歴史を踏まえるべきだ」と訴える。

「学者など専門家は進むべ方向を分かりやすく語らなければならない。国民は主権者意識を持ち、未来に向かって行動する。戦争をする世界をバトンタッチしようとして、子どもたちが受け取ってくれるでしょうか」

政治不信軍国主義招く
築地市場巡る移転問題
二大政党が非難の応酬


 現代との共通点はほかにもある。
 1928(昭和3)年には築地市場をめぐる移転問題も起こっているのだ。
 築地に魚市場が開場したのは1935(昭和10)年。
 日本橋にあった魚河岸が関東大震災で被災し、以前からあった移転計画が本格化した。
 移転が進まなかったのは、魚を得る場所の権利「板船権」を持つ魚河岸の業者らが反発したためだ。

 その補償を求める動きの中で、1928(昭和3)年8月に発覚したのが、東京市会(現在の都議会)の議員らが市場側から賄賂を受け取っていた汚職事件だ。

 今夏の都議選で、豊洲市場への移転問題をめぐる都政のごたごたが、都民の怒りをかき立てた光景と奇妙に重なってみえる。

 実際、90年前も普通選挙による初めての衆院選が2月にあり、参政意識が高まった直後の疑獄だっただけに、都民感情は厳しかった。

「大正から昭和初期は日本に民主主義が浸透する一方、贈収賄事件やスキャンダルが多発し、『公のものを私のものにする』政治への不信が高まった時期でもあった」と、五野井郁夫・高千穂大教授(政治学)は説明する。

 国政でも1928(昭和3)年には「五私鉄事件」が、翌年には「売勲事件」が問題になるなど疑獄が続出。
 二大政党制が始まったばかりなのに、怪写真をまくなどの足の引っ張り合いを与野党が続け、人びとの政治不信を加速させた。

「世界恐慌も運悪く重なり、人びとの夢がついえていく中で、夢の託し先が『即断即決』の軍部になってしまった。政治不信が民意を軍国主義に向かわせた一因となった」と五野井氏は指摘し、こう続ける。

「裏切られ続けた民意は、より過激なもの、より新しいものへ向かう。為政者も、そうした民意をつかもうと過激な意見を言う。政治不信が招くこの悪循環が、既に1928(昭和3)年の普通選挙のころには始まっていた」

 吉田徹・北海道大教授(比較政治)も、1928(昭和3)年前後の政治を「政党間の競争により民意を反映していくのが二大政党制の理想だったが、『目の前にいる相手に負けない』と誤った競争を続けたことが、民意の離反と軍部への支持になった」とみる。
 
 今も同じ迷走を繰り返しているようにみえる。

「与党は選挙に勝てるという目算から衆院を解散し、野党もあたかも政党が選挙互助会であるかのように、離合を繰り返す。お互いが民意を愚弄しており、それが政治不信になって政治家に跳ね返っている。民主主義を少しずつ傷つけていることを認識すべきだ」と吉田氏は指摘する。

 政治評論家の森田実氏も、「選挙と政権交代を繰り返し、何とか政治不信をやり過ごしてきたのが日本の戦後政治だ。ただ、戦後民主主義のもと、1970年代までは大型の疑獄事件はあっても、政治家には『社会のため』という志があった。今や、長期的な視野を持たず、目先の人気を得られればいいというその場限りのポピュリズムがまん延している」と嘆息する。

 政冶不信が深刻化する中、私たちはどのように選挙と向き合えばよいのか。

 吉田氏は「ポピュリスムが台頭する根底にあるのは、代表者であるはずの一部の人間が政治を寡占していることへの怒り」と説明。
 民主主義の機能不全が表面化した時代に、大衆に迎合して権力を維持しようとするポピュリスト政治家が現れるという。

「ポピュリスト政治家を支援する有権者の特徴は、ふだん政治活動に熱心ではない人だ」と話し、こう訴えた。

「物事を変えるにはものすごく労力が必要で、変えてもバラ色になるわけではない。それをふまえてなお関心を持てるよう、日常的な政治参加が有権者には求められる」 

[デスクメモ]
 王様を欲しがるカエルたちの童話を思い出す。
 最初に丸太が与えられた。何もしない「王様」を物足りなく思い、もっと立派な王様を求めると、ツルがやってきてみんな食べられてしまった。カエルに必要だったのは「王様はいらない」という覚悟。政治を人任せにはすまい。(洋)


東京新聞・特報、2017年10月18日
戦争へ向かった分水嶺
権力に頼る空気

(加藤裕治、皆川剛)
https://rengetushin.at.webry.info/201710/article_3.html

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2019年09月29日

9月29日は山歩クラブ、春日通り散策

 9月最後の日曜日、いかがお過ごしでしたでしょうか。
 山歩クラブは9名で東京メトロ丸の内線「茗荷谷」駅から上野広小路までの約9Kmの街歩き。
 三つのテーマがありますよって最初。
 その一、石川啄木。
 その二、小石川七福神、
 その三、於大さんに春日のお局さん。

 お昼の弁当を広げた処は隠れテーマのひとつ、「東京都戦没者霊苑」で。
(文京区春日1-14-4 Tel 3811-5386) 
 解散地は「湯島天満宮」先。

 歴史の時間軸にしたら、江戸時代から太平洋戦争時代まで。
 実に内容の深いテーマを、萩や百日紅、路傍の曼殊沙華を見ながら、ゆっくりウオーキング。
 これで、暑かった夏ともお別れ、秋の徴をからだで感じながらのウオーキング。
 良かった、ですね。次回までお身体ご自愛のうえ、お元気でお過ごしください。
 ごきげんよう、ヤッホー。


[写真-1]真珠院の庭

真珠院の庭.JPG

[写真-2]真珠院

真珠院.JPG

[写真-3]伝通院

伝通院.JPG

[写真-4]講道館

講道館.JPG

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2019年09月28日

表現の不自由展・その後

 明らかに安倍政権による“国家検閲”だ。
 脅迫やテロ予告を含む電凸攻撃を受け、企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた「あいちトリエンナーレ」に対し、文化庁が昨日9月26日、採択していた約7800万円の補助金を交付しない決定を発表した。

「表現の不自由展・その後」をめぐっては、慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」などの展示に対し、右派からの批判が殺到。
 河村たかし名古屋市長や松井一郎大阪市長、そして自民党の国会議員らが展示を問題視・攻撃するような発言を繰り返した。
 さらに、菅義偉官房長官や当時の柴山昌彦文科相も国からの補助金をタテにして牽制していた。

 だが、まさか本当に補助金を全額取り消してしまうとは、開いた口が塞がらない。
 しかも、愛知県が設置した第三者検証委員会(「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」、座長=山梨俊夫・国立国際美術館館長)が中間報告を公表し、「条件が整い次第、すみやかに再開すべきである」と提言したのがつい前日25日のことだ。

 この文化庁の“補助金取り消し”に対し、すでにTwitter上では多くの識者や表現者らが懸念や批判の声を上げている。
 たとえば「表現の不自由展・その後」にも作品を出展したアーティスト集団のChim↑Pom(卯城竜太・林靖高・エリイ・岡田将孝・稲岡求・水野俊紀が、2005年に東京で結成)は、補助金不交付の報道に対してこう投稿した。

〈あり得ない。日本の公共的文化制度が終わります。こんな前例ありますか。これがまかり通って良いのでしょうか。リフリーダムや不自由展や知事や津田さんとかあいトリ関係者だけじゃなく、日本のアート関係者一丸となって動かないと、文化庁も助成制度も表現の自由も国際文化競走も「終わり」ませんか。〉

 また、映画評論家の町山智浩氏(1962年生まれ)は、
〈政府に都合のいい文化事業にしか補助金が出ない。今後、戦争の歴史的展示にも同じことが起こるぞ〉
と警鐘を鳴らし、小説家の平野啓一郎氏(1975年生まれ)は、
〈こんな前例を作ってはならない。強く抗議します〉
と表明。
 文筆家の内田樹氏(1950年生まれ)は、
〈愛知の芸術祭への補助金不交付の決定は、文化活動へのすべての補助金は「政権への忠誠度」を基準に採否を決すると文科省が宣言したと僕は解しました〉として
〈今後は体制批判と解釈される作品や活動には一切公的資金は支給されないからそのつもりで、という告知だと思います〉
などと投稿した。

 さらに映像作家の想田和弘監督(1970年生まれ)は、
〈えっ。安倍政権は「日本には表現の自由はいらない」と決めたようです〉
とした上で、この補助金不交付の前例がどれだけ表現を抑圧していくかについて連続でツイートしている。

〈トリエンナーレへの補助金を安倍政権が取り消す件、憲法21条に抵触するのを恐れて政府は手続き的な瑕疵を理由としているが、それは単なる言い訳なので細かく検討するに値しない。要は政府が気に食わぬ表現を含む催しには金を出さぬどころか、決まっていた補助金も引き上げる。そう宣言したわけだ。〉

〈これは政府の補助金を織り込んだイベントの主催者にとっては脅威である。すでに決まっていた7千万以上の金すら取り上げられるなら、政府の方針に少しでも反しそうな表現はあらかじめ自己検閲するであろう。今後、補助金のあるイベントでは、自由な表現をすることは多大なリスクとなる。〉

〈これは事実上、税金の拠出が認められる公共性の高いイベントであればあるほど、自由な表現はできなくなるということ。公共の場とは様々な意見や立場が排除されない場のことなので、これは完全な背理である。日本の「公共」は首相の考えにそぐわぬものは許容されぬ場になった。つまり私物化された。〉

 想田監督が指摘するとおりだ。
 このままでは完全に、安倍政権にとって“無害”か、あるいは積極的に利用したい言論、芸術、すべて表現行為だけに私たちの税金からなる補助金を交付し、逆に政権に対する異論や不都合な表現は狙い撃ちされる。
 公共から自由な表現活動が消えていき、そのまま言論統制国家さながらに突き進んでいくだろう。

萩生田光一文科相の「取り消し理由」のトンデモ 取り消しは安倍政権の政治家の圧力だ

 実際、文化庁の今回の補助金取り消し決定の裏に、安倍政権の圧力があったことは間違いない。
 
 先の内閣改造で安倍首相の側近中の側近・萩生田光一氏(1963年生まれ)が文化庁を管轄する文科相に就任したが、その萩生田文科相は昨日のぶら下がり会見で「検閲には当たらない」などと強弁した。

 しかし、これが事実上の国家検閲でなくてなんなのか。
「実現可能な内容であるか、それから継続可能かどうか」を審査したとして、「文化庁に申請のあった内容通りの展示会が実現できていない」なる不交付の理由も無茶苦茶としか言いようがない。

 繰り返すが、そもそも文化庁は今年2019年4月に「あいちトリエンナーレ」に対し、「文化資源活用推進事業」として約7800万円の補助金交付を内定させていた。
 ところが「表現の不自由展・その後」の少女像展示などが発覚すると豹変。
「事実関係を確認、精査して適切に対応したい」(菅官房長官)、「事業の目的と照らし合わせて確認すべき点が見受けられる」(柴山前文科相)などと“補助金交付の見直し”をチラつかせたのだ。
「表現の不自由展・その後」を標的にしているのはミエミエで、実際、“安倍政権御用紙”の産経新聞ですら〈元慰安婦を象徴する「平和の少女像」や昭和天皇の肖像を燃やすような映像の展示に批判が高まったことなどを受け、交付が適切かどうか精査していた〉と書いている(産経ニュース)。

 補助金をタテにとった事実上の国家検閲と呼ぶほかない。
 たとえば萩生田文科相は、主催側が少女像展示等に対する批判によって展示の継続が難しくなる可能性を知りながら文化庁に「相談がなかった」ことも不交付の理由にしたが、いや、それこそ展示への介入以外の何物でもないだろう。
 事前に展示物をひとつ残らず申請させ、その通りにつくらなければ補助金を止めるということが正当化されるからだ。
 美術の展示に限らず、創作物の制作過程で内容が変わることなどザラにあるし、それ以前の問題として、政府にとって都合の悪い内容なら事前の申請時点でハネられてしまうかもしれない。
 政権を忖度した過剰な自主規制を招くのは目に見えているだろう。

 だいたい、脅迫を含む抗議殺到によって「表現の不自由展・その後」の継続が困難になった事実は、それを予見し対策が可能だったかとは関係なく、いかなる理由があろうとも責められるべきは脅迫犯であって、主催者側であるはずがない。
 こんな理屈が通るなら、それこそ、国や自治体から補助金が出ているイベントならなんでも、ネトウヨが電凸や脅迫を繰り返して炎上させてしまえば、「対策ができていない」などと言って補助金を停止するという暴挙がまかり通ってしまうことになる。

安倍政権に近い政治家が脅迫を扇動し、「表現の不自由展・その後」中止に追い込んだ

 忘れてはならないのは、今回の「表現の不自由展・その後」をめぐる大量の電凸や脅迫は、安倍政権や政権に近い極右政治家が扇動したという事実だ。

 25日に発表された検証委員会による中間報告は、美術監督である津田大介氏(1973年生まれ)らの不備も指摘する一方、
〈過去に禁止となった作品を手掛かりに「表現の自由」や世の中の息苦しさについて考えるという着眼は今回のあいちトリエンナーレの趣旨に沿ったものであり、妥当だったと言える〉
と判定。
 そして、政治家たちの圧力発言については、
〈河村市長らの発言による直接的影響はなかったが、TVメディア等を通じた同氏らの対外的発言によって、電凸等が激化した可能性がある〉
〈政治家の発言は、純粋な個人的発言とはみなせない。内容によっては圧力となりえ、(広い意味での)「検閲」とも言いうるので、慎重であるべき。また、報道等で広く拡散されることで度を越した抗議を助長する点でも慎重であるべき〉
と断じている。

 いずれにしても、わたしたちが今回の補助金取り消しに強く抵抗しなければ、これからどんどん安倍政権がネトウヨをけしかけて、マッチポンプ的に事実上の検閲を行うということが繰り返されてしまうだろう。
 そもそも憲法で保障された「表現の自由」は、時の権力に左右されないためのものだ。

 戦中の日本では、報道だけでなく芸術作品までが検閲の対象となり、逆に戦争賛美や戦意高揚に利用されていった

 このままでは、本当にこの国は同じ轍を踏むことになる。


リテラ、2019.09.27 04:12
安倍政権の芸術検閲が始まった!
「あいちトリエンナーレ」補助金取り消しを町山智浩、内田樹、平野啓一郎、想田和弘らが批判

https://lite-ra.com/2019/09/post-4997.html

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題を巡り、文化庁は26日、補助金7800万円を交付しないと発表。
 萩生田文科相は「検閲にはあたらない」と強調したが、果たして「検閲ではない」と言いきれるのか。

「表現の不自由展」を巡っては、トリエンナーレが開催(先月8月1日)してから、慰安婦像の展示や昭和天皇の写真を用いた作品が燃える映像に対して抗議や脅迫が殺到。
 わずか3日で中止に追い込まれた。

 河村たかし名古屋市長が同展を「日本人の心を踏みにじるもの」と批判し始めると、菅官房長官が補助金交付について「事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と表明。
 この“菅の一声”によって、補助金見直しが検討され始めたと言っても過言ではないだろう。

 あらためて補助金交付の取りやめの理由について文化庁に聞くと、こう回答した。

「愛知県は補助金を申請する段階で、展示会の安全で円滑な運営に支障があると認識していたにもかかわらず、必要な事実を申告しなかったため、文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。申告すべきものを申告しなかったという理由で補助金の不交付を決定した前例は、今のところ確認できません」
(地域文化創生本部事務局長)

 何だかもっともらしい説明だが、トリエンナーレは同庁の審査を経て、今年4月に文化資源活用推進事業に採択されている。
 申請に不備があるのであれば、審査の段階でハネればいいだけ。
 後から不備を理由に不交付とは屁理屈にしか見えない。

 元文科官僚で京都造形芸術大客員教授の寺脇研氏がこう言う。

「菅官房長官が補助金の見直しを示唆したことで、不交付になることはほぼ決まったようなもの。文化庁は『ちゃんと対応しろ』と命令されたに等しいからです。申請の不備が不交付の理由ですが、官邸に逆らえない文化庁が苦肉の策で出した理由をマトモに受ける人はいないでしょう。今回の決定は検閲に等しいでしょう」

 気に入らないものは潰す――。
 安倍政権の体質がよく表れている。


日刊ゲンダイ、2019/09/27 14:50
あいちトリエンナーレへの補助金撤回した文化庁の“屁理屈”
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/262417/2

 あいちトリエンナーレで文化庁が補助金の全額不交付を決めたことを受け、東京・上野の東京芸術大学前で27日、学生や教員ら200人超が撤回を求める集会を開き、「文化庁が文化を殺すな」などと訴えた。

 トリエンナーレに出品しているという卒業生の彫刻作家、小田原のどかさん(33)は、
「決定的な悪(あ)しき前例になる。国立で唯一の芸術大学だからこそ声を上げるべきだ」
と訴えた。
 油絵を描いている2年生の男子学生は、
「バイト先で話しても美術をやっている人以外は無関心。このままじゃ、お上が認める作品だけになってしまう」
と語った。

 文化庁の宮田亮平長官(1945年生まれ)は同大の元学長で、芸術家でもある。
 正門前には「宮田長官頑張れ!!」の紙がいくつも張られた。
 ツイッターで集会を呼びかけた毛利嘉孝教授は、
「文化にゆかりの深い大学の声を届けて、宮田長官には思いとどまってほしい」
と語った。

 あいちトリエンナーレの参加アーティストらで作るプロジェクト「ReFreedom_Aichi」は26日夜から不交付の撤回を求める署名活動をウェブ上で始め、27日午後9時には6万8千人を突破した。

 サイトでは、
「一連の流れは、明白な検閲として非難されるべきもの」
とし、
「脅迫を含む電凸(とつ)をすれば一部の展示が中止され、文化庁が助成金を取りやめることが前例化すれば、日本はテロと戦う気がないと全世界に発信するばかりか、文化庁が脅迫に手を貸すというメッセージにもなりかねない」
との内容で激しく非難している。

 「ReFreedom_Aichi」は、トリエンナーレのすべての作品の展示再開をめざして活動している。


[写真]
東京芸術大学で開かれた集会。文化庁があいちトリエンナーレへの補助金を不交付にしたことへ反対の声を上げた=2019年9月27日午後6時20分、東京芸術大学

朝日新聞、2019年9月27日21時16分
「文化庁が文化殺すな」
長官ゆかりの東京芸大で抗議集会

(矢島大輔、千葉恵理子)
https://www.asahi.com/articles/ASM9W533FM9WUTIL01W.html

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2019年09月27日

平塚らいてう、「表現の不自由」と闘った女

 文化庁が、「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金不交付を決定しました。私たちはこれに強く抗議し、方針の撤回を文化庁に要求します。

 いったん採択された補助金を、違法性などが検証されない状態で国が取り下げるということは、 異例中の異例です。文化庁はこれを「内容に関するものではない」とコメントしていますが、多くの国民がこれを国家による検閲だと解釈しています。

 文化庁は、不交付の理由として
1) 審査段階で具体的な計画がなかったこと
2) 電凸や脅迫が続いた時点で報告がなかったこと
3) 展覧会中止によって事業の継続が見込まれにくなったこと
をあげていますが、そもそもいったん適正な審査を経て採択された事業に対し、事業実施中に交付を取り消すことは、国が該当事業のみを恣意的に調査したことを意味します。

 また今回、予定どおりの実施が困難になった「表現の不自由展・その後」の支出は約420万円にすぎず、約7800万円の補助金全額の不交付を根拠づけるには全く不十分です。
 報告の有無についても、通常の助成金の過程では、申請者と文化庁双方からの報告や聞き取りが前提となります。
 今回も、文化庁は騒動時に愛知県に問い合わせをしていますし、さらには報道が過熱したことからも、騒動については周知の事実であったと考えます。

 その騒動から展覧会が中止になり、事業の継続が見込まれなくなった、との理由もあまりに一方的ではないでしょうか?
 展示中止を迫った中には市長などの公人も含み、そして過熱したのはテロ予告や恐喝を含む電凸などです。
 作品の取り下げを公人が迫り、それによって公金のあり方が左右されるなど、この一連の流れは、明白な検閲として非難されるべきものです。

 また、脅迫を含む電凸をすれば一部の展示が中止され、文化庁が動き助成金を取りやめるなどということが前例化してしまえば、日本はテロと戦う気がないと全世界に発信するばかりか、文化庁が脅迫に手を貸すというメッセージにもなりかねません。
 文化は、テロや脅迫とは逆の立場から、多様な人々の存在や意見をアピールするものです。
 そのような文化の原理原則自体と相容れない、文化庁による今回の暴力的な決定は、文化的最低限度の生活を全国民に保障する、憲法と民主主義への脅威にもなりかねません。

 今回の決定は今後、公立の美術館や劇場、公的資金を導入した芸術祭や舞台芸術・映画・音楽等の創作活動、さらには教育・研究を含むすべての文化活動に、多大な悪影響を及ぼすでしょう。
 国際的には日本は文化的先進国から失墜し、国際社会から非難される立場にもなり兼ねません。

 これまで先人たちが作りあげてきた日本の文化政策、公的助成制度の根幹を揺るがす暴挙です。

 民主主義の原則に則った芸術文化助成を、私たちの手に取り戻しましょう。
 文化庁は即刻の撤回を。
 皆様のご賛同をよろしくお願いいたします。

※ キャンペーンの進捗
 16時間前にキャンペーンが始まり、イマ(2019年9月27日13時15分)から16分前にはこのキャンペーンに賛同するのが5万筆を超えています。

Change.org
https://www.change.org/p/文化庁-文化庁は-あいちトリエンナーレ2019-に対する補助金交付中止を撤回してください

 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐって、政治家の発言が波紋を呼んだ。
 河村たかし名古屋市長が中止を求め、当事者ではない黒岩祐治神奈川県知事までが、自分なら「開催を認めない」と発言して物議をかもした。
 黒岩知事はフジテレビの元キャスター。
 仮にも報道する側にいた人が、表現を抑圧する側に立とうというのだろうか。

 戦前の知事職は官選で、内務省という最強の官庁を後ろ盾としていた。
 その内務省は、検閲という強大な権力を用いて表現の自由を圧殺した。
 黒岩知事の発言は、官選知事の姿に重なる。

 1世紀以上前、1911年9月に創刊された『青鞜』メンバーの「表現の不自由」との闘いは参考になるかもしれない。

『青鞜』は、女の手になる女だけの文芸誌として出発した。
 主宰者の平塚らいてう(本名・明=はる)による「創刊の辞」は知られている。

「元始、女性は太陽であった。真正の人であった」

 それに続く言葉も大切である。

 「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」

 自己を持たないことが女の美徳とされた時代に、自我を肯定し、既成概念をとり去って抑圧のない人間として立ちあがれと言う。
 これにこたえて青鞜社の社員たちは、「家」制度下で恋愛や結婚を制限された苦しい体験を自分の言葉で語り始めた。
 単なるお嬢さま芸でないのは明らかだったから、内務省は当初から「危険思想」とみていたようだ。

 翌年1912年4月には早くも発禁処分になり、警察に雑誌を押収されている。
 荒木郁の作品「手紙」が原因とされる。
 人妻から若い愛人にあてた手紙形式で密会の喜びを語った短編で、発禁理由は出版法第19条の「風俗壊乱」、社会の風紀を乱すというのだ。

 メディアもこぞって青鞜社員をバッシングして、権力に媚びた。
 尾竹紅吉(本名・一枝)がカフェ兼レストラン「メイゾン鴻の巣」で「五色の酒」(カクテルのこと―筆者注)を飲んだように書いたり、吉原見学を吹聴したりしたのがきっかけ。

『読売新聞』、『東京日日新聞』などが「新しい女」、「新しがる女」などのタイトルで、あることないこと織り交ぜて刺激的な読み物に仕立てあげ、10回も20回も連載した。

 取材にきた記者に、紅吉は「五色の酒」は飲んでいないと言ったが、それでは「やじることも出来ないし、非難の材料にはなりませんから新聞はおかまいなしにガアガア書きたてたのです」。
「こんな記事は大うそです」と言っても、一行も訂正してもらえなかったと、戦後になって回想している(『世界』1956年3月)。

 社会の規範からはみだした者をたたきのめす体質は、今も変わらずメディアにあり、ネット空間はそれを増幅している。

 社員たちが動揺する中で、らいてうは『中央公論』(1913年1月)に寄稿して、毅然と自分は「新しい女」だと宣言し、「旧道徳、法律を破壊しよう」と書いた。
『青鞜』でも特集を組んだ。
 これを受けてメディアで論議が活発になり、「新しい女」は不良少女というマイナスイメージから、新時代を担う女というプラスイメージに転換していく。
 そして、この年1913年、『青鞜』は文芸集団から思想集団へと大きく変貌する。

 弾圧は続く。
 福田英子の「婦人問題の解決」(1913年2月)が原因で再び発禁。
 らいてうが「世の婦人達に」(同年1913年4月)で、良妻賢母主義を否定し、現行の結婚制度に服することはできないとしたことで警察の注意を受け、続けて刊行した評論集『円窓(まるまど)より』も発禁になった。

 警察部門を所管した内務省警保局長が語っている。

「近頃往々青鞜その他の女子文学雑誌に甚だしく淫乱な記事を掲げ又従来の慣習及び道徳に反対したりする文章がみえるのは誠に困ったものである……当局者としては出来る限り危険思想の撲滅に力むるの外に方法はないのである」
(『大阪朝日新聞』同年1913年4月23日)。

「ホワイトキャップ党」を名乗る者から編集部に脅迫状が届き、「青鞜社中第一期に殺スベキモノ」として4人の名が挙げてあった(『青鞜』1913年6月「編輯室より」)。
 らいてう自宅の書斎の窓に何者かが石を投げつけたのもこの頃。

 それでもめげずに、貞操や同性愛や産児制限や堕胎など、それまで女が口にすることがはばかられたテーマを取り上げた。
 それは他の雑誌メディアも巻きこんだ幅広い論争になり、女性問題を社会問題へと押し上げた。

 1916年2月に終刊したが、『青鞜』が刊行された4年半は、睦仁天皇が死去して明治が終わり、大正に変わった時期と重なる。
 この時期に最も世間を驚かせたのは、天皇の葬儀が行われた1912年9月13日に陸軍大将乃木希典と妻静子が殉死した事件である。
 2人の死は「忠」の見本として美化されたが、個を封じこめた死と、個の発露にこだわった女たちの生は対照的だ。

 大正デモクラシーという自由主義の時代をひらくのに一役買ったのは女のほうである。
 彼女たちは時代とまっすぐに向き合い、古い権威や制度と衝突しながら自らを成長させてもいる。

 表現の自由は民主主義の根幹である。
 沈黙は現状を容認することになる。
「表現の不自由展・その後」の中止について衆知を集めて議論しよう。
 閉塞状況の時代に、『青鞜』と同じように、風穴をあけたい。


47 News、2019/9/27 08:00 (JST)
「表現の不自由」と闘った女たち
(女性史研究者・江刺昭子)
https://this.kiji.is/549945101122962529?c=39546741839462401

 朝出かけた若い男女のふたりが、帰ってこない。
 栃木県・塩原温泉の老舗(しにせ)旅館「満寿家(ますや)」の主人が異変に気づいたのは、1908(明治41)年3月23日の夕刻だった。

 思いつめた様子のふたりは前夜、この宿に入った。
 出入りの人力車夫に聞くと、温泉町のはずれで降りて、峠の方へ向かったという。
 春彼岸とはいえ、山は雪で覆われ、会津に通じる尾頭(おがしら)峠は雪が深く、雪解けまでは通れない。
 主人はあわてて駐在に知らせた。

 その頃、ふたりはひざまでの雪に悪戦苦闘していた。
 一面の雪で道に迷い、つまずき、ついに雪の上に座り込んだ。
 疲れきり、心中を決行する気力も失われた。
 男は、女が懐に入れてきた短刀を雪の谷底に放り投げた。

「駐在さんや若い衆が翌日早朝に捜索に出かけて、案外早く見つけたそうです」

 今の満寿家の若主人で、当時の主人のひ孫にあたる臼井祥朗(さちお)さん(41)は言う。
 臼井さんはふたりが自家に泊まった縁もあり、学生時代に事件を調べ、当時を知る古老にも話を聞いた。
 捜索隊は、途中に立ち寄った炭焼き小屋の番人の話や雪に残る足跡をたどり、雪の中のふたりを見つけた。

 秋の一日、塩原の現地を訪ねた。
 箒(ほうき)川に寄り添うように並ぶ温泉街から、さらに川沿いにしばらく行くと、事件の碑があった。
 峠の登り口にあたるところだ。
 今、尾頭峠下にはトンネルが通り、峠への道は草むしていた。

 男は森田草平、27歳。
 東京帝国大学を卒業し、夏目漱石の門下生で文学志望。
 漱石の世話で中学の英語教師になったが、半年で首になっていた。
 駆け落ち同然で一緒になった郷里の女との間に子もありながら、東京の下宿先の踊りの師匠とも関係があった。

 女は平塚明子(はるこ〈らいてう〉)、22歳。
 会計検査院高官の三女。
 日本女子大を卒業した才女だが、良妻賢母教育に反発、神と自我を求めて禅寺で座禅を組む一方、文学にも興味を持っていた。

 ふたりが出会ったのは、女子学生が文学を学ぶ勉強会だった。
 草平が講師をし、受講生の明子と数ヶ月で親しくなった。
 観念的な言葉のやりとりから始まった関係は、愛し合う男女が死へ突き進んでいくイタリアの作家ダヌンチオの小説「死の勝利」に強い影響を受け、死へと急速に傾斜していった。

 東京をたつ前、明子は友人に、
「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」という遺書を残した。
 草平は事件後、漱石に、
「恋愛以上のものを求め、人格と人格との接触によって、霊と霊との結合を期待した」と述べ、漱石に「結局、遊びだ」と一蹴(いっしゅう)される。
 理念先行、肉体が伴わない奇妙な心中行である。

 じれったい男と新しい女。
 屈託する男とシステムに殉じる女。
 水と油だが、「死への誘惑」がふたりを塩原の雪原に招きいれた。

スキャンダルをこやしに

 「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」

 新聞各紙はスキャンダルに飛びつき、こんな見出しで書きたてた。

 帰京した森田草平は、師夏目漱石の早稲田の家の門をくぐった。
 漱石はしおれきった草平をいつもの温顔で迎えた。
 あれこれと聞かず、部屋を与えて休ませた。
 東京朝日新聞の小説記者・漱石の懐に入るのが、マスコミの攻勢をしのぐ最良のやり方だった。
 草平は2週間、漱石の家にかくまわれた。

 これから生きていくには、この体験を小説に書くしかない。
 草平は決意し、漱石も、社会的な信用をなくした草平にはそれしかないと思った。
 伝え聞いた平塚明子(はるこ)の母光沢(つや)は、漱石宅を訪れ、スキャンダルの上塗りになるから執筆をやめるよう頼みこんだ。
 漱石は「ごもっともな次第だが、この男はいま、書くよりほかに生きる道がないのです」と答え、会見は漱石に押し切られる形に終わった。

♪ ♪ ♪

 しばらくして明子は、松本高女に勤める友人のはからいで信州・松本郊外の農家で静養した。
 ここで、雪の季節になると羽毛が純白になる高山の鳥、雷鳥のことを聞き、ふっくらとしたやさしさのなかにある、たくましさに強い印象を受けた。

「塩原事件」(煤煙(ばいえん)事件ともいう)の実録小説が、東京朝日に掲載されるのが決まったのはその年、1908年の11月だった。
 この吉報を本人に知らせようと、漱石はその日、草平の下宿を2度も訪ねるが、不在だった。
「どこを歩いて居るにや、あまりのんきにすると、向後もきっと好い事なき事受け合いに候」という漱石の真情のこもった叱責(しっせき)の手紙が残っている。
 翌朝、手紙を読んで草平は泣いた。

 朝日掲載は漱石の推薦があったからだが、あのスキャンダルの当人が内情をぶちまける、ということは新聞社も大歓迎だった。
 翌年1909年、正月に連載が始まった小説「煤煙」は注目され、スキャンダルの主が一転、作家の仲間入りを果たした。

♪ ♪ ♪

 明子も負けていない。
 松田聖子ばりにスキャンダルをこやしに前進していく。
 信州から帰ると女性の文学仲間らとはかって、女性だけの文芸雑誌「青鞜(せいとう)」を刊行する。
「元始、女性は太陽であった」という絶妙なフレーズの宣言は、社会に強烈なインパクトを与えた。
 この時初めてらいてう(雷鳥)という筆名を使う。
 明子かららいてうに「羽化」した瞬間だった。
 事件の3年後、1911(明治44)年のことだ。

 その間、ふたりは町中で偶然出会った。
 じっくり話そうと、近くの旅館に入り、一晩、禅と性欲について語り明かしている。
 だが、ふたりの歩む道はしだいに離れてゆく。

 草平は朝日新聞の文芸欄の実務担当者になるが、草平を巡り、朝日社内で騒動が起きる。
 漱石が病気がちだったこともあり、連載小説の作者選定が行きづまった。
 やむなく草平が再び執筆、塩原事件の後日談のような「自叙伝」を連載する。
 だがこのスキャンダルの賞味期限はとうに切れていた。
 社内外から批判が起こり、主筆の池辺三山辞任に至った。
 実は以前から複雑な社内紛争があり、「自叙伝」がきっかけに表面化したのだが、草平はよくよくお騒がせ男である。

「先生は計画性のない人でしたね。二十数回引っ越したのに、結局自分の家を持たなかった」

 草平の生家跡、岐阜市鷺山(さぎやま)にある草平記念館の館長の森崎憲司さん(68)は苦笑する。
 本人はまじめなつもりでも、何かちぐはぐな草平は、ジグザグの人生を歩む。

 ドストエフスキーなど西洋の小説を数多く英語から翻訳し、法政大学の教授になった。
 後に法大で内紛がおこり、草平は一方の旗頭に祭り上げられ、結局辞任する。
 戦後、共産党に入党し世間を驚かせたが、実質的な活動はせず、結果的に共産党の宣伝になっただけだった。
 疎開先の長野県飯田のお寺が終焉(しゅうえん)の地だった。

♪ ♪ ♪

 「青鞜」は女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、らいてうも成長、脱皮してゆく。
 大正、昭和と困難な時代にありながら、ほぼ一貫して女性解放、母性保護を訴え続けた。
 戦後も平和運動、婦人団体のリーダーとして先頭に立つ。
 1970年の安保改定の時、本人が強く要望し、病身をおして東京・成城の自宅周辺で改定反対のデモをした。
 翌年1971年、85歳で死去。

 らいてうが草平と最後に会ったのは、戦後まもなく、渋谷の芝居小屋だった。
「プレイボーイ」という題の翻訳劇を見ていると、観衆のなかに草平の姿を見つけた。
 声をかけたかったが隣に夫がいたので遠慮した、とらいてうは後に回想している。

※ ふたり
 森田草平は1881(明治14)年、岐阜市郊外の小地主に生まれた。四高(金沢)に進むが、郷里の女性との同棲(どうせい)がわかり退学。東京に出て一高、東京帝大英文科を卒業、出生の悩みを夏目漱石に打ちあけ、門下生になる。多くの翻訳のほか、漱石の伝記を著し、「漱石の永遠の弟子」を自称する。「塩原事件」の明子は、漱石の「三四郎」のヒロイン美禰子の造形に影響したとされる。塩原事件を題材にした「煤煙」のほか「吉良家の人々」「細川ガラシヤ夫人」(未完)などの小説がある。

 1886(明治19)年に東京で生まれた平塚らいてうは日本女子大を卒業、塩原事件の後、「青鞜(せいとう)」を刊行した。青鞜は伊藤野枝や尾竹紅吉(一枝)ら「新しい女」が集まり、近代日本女性史に一時期を画した。年下の画家、奥村博史と法律によらない結婚をし、「若いつばめ」の言葉を生む。市川房枝らと女性による市民団体・新婦人協会を結成、先輩格の与謝野晶子と母性保護をめぐる論争をするなど、常に第一線にたった。


朝日新聞、2006年11月11日
愛の旅人
小説「煤煙」
森田草平と平塚らいてう ― 栃木・塩原温泉

文・牧村健一郎 写真・山本壮一郎
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611110128.html

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小泉環境相はニューヨークに着くと「ステーキが食べたい」!

 2019年9月23日に米ニューヨークで開かれる国連気候行動サミットを前に、若者が政治家に気候危機への対策を求める世界一斉デモが20日、日本を含む163ヶ国・地域で行なわれた。
 デモに先駆けて、欧米では昨夏から大学生や高校生が授業をボイコットする「学校ストライキ」が続いているが、日本では広がっていない。
 運動を呼びかける若者たちは、気候危機の認識を共有してもらえないことに悩んでいる。

 20日の世界一斉デモは欧米やアジア、アフリカなどの各国で行われ、主催者によると400万人以上が参加した。
 日本では東京、大阪、京都、名古屋、福岡などであった。
 東京では渋谷の国連大学前に約2800人が集まり、「地球はみんなのシェアハウス」「私たちの家が燃えている」などと書いたプラカードを掲げて行進した。

 東京のデモを主催したのは、有志の若者でつくる「Fridays For Future Tokyo (FFFT)」(未来のための金曜日 東京)。
 スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(16)の訴えに共感する都内の大学生や高校生が今年2月に立ち上げた。
https://www.facebook.com/fridaysforfuturejapan
https://www.fridaysforfuture.org/

 FFFTのメンバーで、立教大4年の宮崎紗矢香さん(22)は今年2019年5月から今回のデモを準備してきた。
 2月にスウェーデンを旅行してバイオガス発電に取り組む企業などを見学したことをきっかけに、環境問題に取り組もうと決めた。

 宮崎さんは今春、大学の授業でグレタさんの動画を上映する機会を得た。
 動画は、グレタさんが、
「わずかな人びとのぜいたくを支えているのは、多くの人びとの苦しみ」と語り、
「私たちのような国々に暮らす豊かな人びと」は行動を変える必要があると訴えるものだ。
 上映後、宮崎さんは自分たちにできることとして、プラスチックごみを減らすよう呼びかけた。

 ところが、聴講した学生から「何も思わない」「何が問題かわからない」と感想をぶつけられ、言葉を失った。
「私もグレタのように人びとの意識を変えたかったが、できなかった」

 欧州や米国では、グレタさんに共鳴した高校生や大学生が授業をボイコットして、気候危機への対応を訴える「学校ストライキ」が続いている。
 だが、日本では広がっていない。

 FFFTのメンバーで、国際基督教大1年の梶原拓朗さん(18)は、今回のデモの準備のために金曜日の必修授業を2週続けて休んだ。
 授業を欠席する際、担当教員にデモの準備が理由と伝えたが、「理解してもらえなかった」と嘆く。

 今回の世界一斉デモの英語圏での名称は、「Global Climate Strike(グローバル気候ストライキ)」だ。
 FFFTと日本の関連団体はその名称を「グローバル気候マーチ」にし、集合時間も放課後の午後5時にした。
 FFFTのメンバーで都立国際高1年の岩野さおりさん(16)は「『スト』や『デモ』のような激しい言葉は避け、開始時間も放課後にして、誰でも気軽に参加できるイベントにしたかった」という。

 日本での世界一斉デモ実施を支援する国際環境NGO「350.org」日本支部によると、日本以外でもデモの名称を言い換えたケースは多い。
 例えば、インドネシアでは「気候のための休憩」、太平洋諸国では「強い風」となっている。
 同NGOメンバーの荒尾日南子さん(37)は、「気候変動問題に関心がない人にも参加してもらおうと、どの国も工夫している」と話す。

 国連気候行動サミットに先立って、21日にはニューヨークで国連ユース気候サミットが開かれる。
 国連はユース気候サミットに世界から18〜29歳の若者を募集し、100人を招いた。
 日本から選ばれた横浜市出身の佐藤真弓さん(24)は、タイを拠点に温暖化と森林破壊の影響を調査してきた。

 佐藤さんは、気候危機をめぐる抗議運動で目立つ日本と欧米の違いは、「対立を避ける文化」が影響していると感じる。

「若い世代は声を上げることをためらわないでほしい。10〜20年後に社会の決定者になる若い世代が、気候危機の取り組みを引っ張るべきだ」

(宋光祐、ワシントン=香取啓介)

■ NY、行政も親も後押し

 一方、米国では、気候危機への取り組みを訴える若者を、親や行政がサポートしている。

 20日の世界一斉デモは全米1000ヶ所以上で行なわれ、ニューヨークではな6万人以上(市発表)が参加した。
「地球は二つとない」「地球の扇風機になろう」などと書かれたプラカードや紙を掲げた若者たちが、グレタさんと一緒にマンハッタンの繁華街を練り歩いた。

 デモに参加したニューヨーク市の公立高校3年オリビア・ウォルゲムスさん(17)は、今年2019年5月から毎週金曜日は学校を欠席し、グレタさんに共鳴する仲間たちと国連本部前で「温暖化対策に取り組むべきだ」と訴えてきた。
 当初は学校を休むことに抵抗があったが、通い続けるうちに、
「命、未来、そして次の世代を守るために、私たちは抗議する責任があると実感するようになった」と語る。
 両親も学校ストをサポートしてくれるという。

 米紙ワシントン・ポストなどの今年2019年7〜8月の世論調査によると、米国の10代の57%は気候変動に不安を感じ、学校ストに参加したことがある割合は15%に上る。
 ニューヨーク市教育局は今回の世界一斉デモを前に、管轄する公立校1840校の児童・生徒110万人が「デモに参加するために学校を休むことを認める」と発表した。

 ニューヨークのデモに6歳の長男と参加した団体職員エスター・ロビンソンさん(49)は7年前、米東海岸に上陸した大型ハリケーン「サンディ」の被害を目の当たりにし、「一刻も早く温暖化対策に取り組むべきだ」と意識が変わったという。
「多くの市民が温暖化の影響を身をもって感じる時代になった。学校ストは意義ある活動だ。私たち親や教師も、若者への連帯を示さなければならない」

(ニューヨーク=藤原学思)

◇〈学校ストライキ〉
 スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(16)が昨年2018年8月、地球温暖化に対する政府の無策に抗議するため、一人で学校を休んでストックホルムの国会議事堂前に座り込み、気候危機の影響を受けるのは若者だと主張した。
 グレタさんの行動はSNSで世界に拡散。共感した世界各地の高校生や大学生が「未来のための金曜日」と称して、毎週金曜に授業をボイコットする「学校ストライキ」を始めた。
 グレタさんは今年2019年のノーベル平和賞の候補になるなど、気候危機への対応を訴える象徴になっている。


[動画]
気候変動防止へ 世界で若者がデモ行進

[写真]
デモ行進の出発前、プラカードを掲げて気候危機を訴える参加者たち=2019年9月20日午後5時11分、東京都渋谷区

朝日新聞、2019年9月21日15時00分
欧米で広がる学校スト、日本では「グレタのようには…」
https://digital.asahi.com/articles/ASM9J3GRDM9JUHBI00P.html

 米ニューヨークで2019年9月23日に開かれる国連気候行動サミットに向けた議論のプロセスで、温室効果ガスの排出削減策を話し合うグループの議長役を日本が依頼されたが、引き受けなかったことが、分かった。

 外務省は「6月の20ヶ国・地域首脳会議(G20大阪サミット)やその準備に集中するためだった」と説明。
 一方、日本は当面の削減目標の引き上げに消極的なことから、政府内には「議論を先導するのが難しく、辞退した」との見方がある。
 環境団体からは「世界をリードする役割を担ってほしかったが残念だ」と失望の声が上がっている。

 今回のサミットは、地球温暖化に強い危機感を抱く国連のグテレス事務総長の呼び掛けで開催。
 各国は削減目標の引き上げの表明が期待されている。
 分野別に9グループに分かれて事前に事務レベルで協議した結果も報告される予定だ。

 国連は排出削減の強化に関するグループの議長役を日本とチリに依頼。
 3月にサミットのホームページに議長役として掲載されたがその後、日本は削除された。

 外務省は「依頼に応じるかどうかを検討中に一方的に公表された」と説明する。
 だがある政府関係者は、G20サミットを理由の一つに挙げつつも、
「削減目標引き上げを決めた国が参加する中、目標見直しの議論がほとんど進まない日本が話し合いをリードするのは困難だとして辞退した、と聞いた」と取材に答えた。

 パリ協定は、2020年までに排出削減目標を引き上げるよう求めている。
 日本は「2030年度に2013年度比で26%減」との目標を掲げるが、見直しの議論は進んでいない。


東京新聞・夕刊、2019年9月20日
国連気候行動サミット
温暖化討議、議長役を日本断る
環境団体から失望の声

https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201909/CK2019092002000329.html

 やっぱりこいつは救いようのないバカだった。小泉進次郎環境相が国連気候行動サミットに出席するためアメリカ・ニューヨークに入ったが、そこで驚きの行動に出たのだ。

 TBSニュースによると、「毎日でもステーキが食べたい」と語っていたという小泉環境相はニューヨークに着くと「ステーキが食べたい」と話し、さっそくステーキ店に入店したというのだ。

 これはなにも「外遊先で『ステーキ食べたい』ってお気楽なもんだな」などとツッコみたいわけではない。地球温暖化対策を議論する「国連気候行動サミット」に出席する環境大臣がステーキを食すというのは、はっきり言って正気の沙汰ではないからだ。

 というのも、畜産業は地球温暖化の原因となっている温室効果ガスを大きな割合で排出しており、2013年には国連食糧農業機関が温室効果ガスの14.5%が畜産業に由来していると公表。とりわけ牛は米国科学アカデミー紀要(PNAS)が2014年に公表した研究でも〈1人前の牛肉を生産するために、同カロリー分の豚肉の4倍、同量の鶏肉の5倍の温室効果ガスが放出される〉とされている(ウォール・ストリート・ジャーナル8月9日付)。さらに、国際的な問題になっているブラジルのアマゾン熱帯雨林における大規模な森林火災問題も、〈火災のほとんどは、農地・牛の牧畜用地開拓を目的とする人間によって引き起こされたもので、熱帯雨林に深刻な影響を与えている〉(AFP9月22日付)と報道されている。

 このように牛肉の大量生産が地球温暖化や環境破壊を引き起こしていることから、欧米では「ミートレス」の動きが活発に。実際、小泉環境相がステーキを楽しんだニューヨーク市ではこの9月から公立学校で「ミートレス・マンデー」を実施。ビル・デブラシオ市長は「肉の消費を少しでも減らすことはニューヨークに住む人々の健康改善につながり、温室効果ガスの排出量削減にもなる」と語っている(AFP 3月12日付)。

 ともかく、環境問題に関心がなくとも「牛肉は地球温暖化の大きな原因」ということは常識の話。にもかかわらず、よりにもよってこれから温暖化対策を議論しようとやってきた日本の代表である環境大臣がニューヨークで「ステーキ食べたい」と言い放ち、さっそくステーキ店に入店するって……。これは世界中に恥を晒したも同然だ。

 いや、恥を晒したのはこの行動だけではない。きょう、小泉環境相は国連の環境関連イベントで演説をおこなったのだが、そこではこんなことを述べたのだ。

「気候変動のような大きな問題は楽しく、クールで、セクシーであるべきだ」

 ちょっと何言っているのかわからないが、問題はここから。この演説をさっそくロイターが「気候変動との戦いを「セクシーに」 日本の新しい環境大臣が発言」というタイトルで配信したのだが、記事では火力発電所を増やすなど日本政府が国連の温暖化対策に逆光している点などに触れた上、〈「いままで我々日本は、強いアクションとリーダーシップを発揮してこなかった、でもこれからは、きょうから、より多くの取り組みをしたい」と、小泉はなんら詳細に触れることなく語った〉とバッサリ切り捨てているのだ。ようするに、進次郎氏の話には何の中身もないことが、恥ずかしすぎるタイトルとともに世界に配信されてしまったのである。

除染廃棄物について聞かれた進次郎「30年後の自分は何歳かな?」

 無論、進次郎氏の「話の中身が空っぽ」問題は、いまにはじまった話ではない。実際、環境大臣に就任後すぐに福島県を訪問した際も、除染廃棄物の最終処分場問題について記者から問われ「(30年以内に県外で最終処分する方針は)福島県民のみなさんとの約束」「約束は守るためにある。全力を尽くします」などと回答。だが、「具体的には?」と記者から“更問い”されると、こんなことを言い出したのだった。

「私のなかで30年後ってことを考えたときに、30年後の自分は何歳かな?と、あの発災直後から考えていました。だからこそ、私は健康でいられれば、その30年後の約束を守れるかどうかという、そこの節目を、私は見届けることができる可能性のある政治家だと思います」

 具体策を訊かれているのに、「30年後を見届けられる政治家だ」。なんだそれとしか言いようがないだろう。しかも、このあと進次郎氏は、「だからこそ果たせる責任もあると思うので、その思いがなければ、ふたば未来学園の取り組みも私は取り組んでいません」「教育というのは一過性の支援ではできません」などと滔々と語り出し、話題を教育の話にすり替えたのだった。

 この発言はネット上でもすぐさまツッコミが入り、「#進次郎さんにキリッと朗読してほしいコメント」というハッシュタグまで登場。進次郎氏が言いそうなことを投稿するという大喜利までスタートしたのだ。

「コップに一杯のオレンジジュースがあったとします。私がそれを一気に飲む。すると、もう一杯、飲みたくなる。もう一杯入れて、飲む。またもう一杯。何杯飲んでも値段は同じです。これが、ドリンクバーです」

「一週間というのは7日あるわけですね。そう考えると7日後には、また同じ曜日になるんだなと。そう思いますね」

「みなさんに、12時の7時間後は7時であり、19時でもあるということを真剣にお伝えしたい」

 くどくどと何か言っているようで、当たり前のことしか言っていない、何も言ってない……いずれも進次郎氏の発言の本質を押さえているものだ。ようするに、力強くもっともらしく何かを言っていても中身は驚くほど空っぽだということを多くの人がすでに見抜いているのである。

田中真紀子「進次郎は30年経ったら今の安倍さんになる」

 その上タチが悪いのは、前述したようにいつの間にか話をはぐらかし、問題をすり替えることだ。しかし、これは安倍政権全体にいえる問題で、「スガ話法」「ご飯論法」も同じ。本サイトでこれまでも言及してきたように、進次郎氏は「安倍首相にももの申す新風」などではなく、安倍政権の真髄というべきものを、そっくりそのまま引き継いでいるのだ。
 
 そして、じつはそのことを早い段階で見抜いていた人物がいる。森友問題が大きな話題になっていた2018年3月、進次郎氏が自民党大会で「総理が言った『徹底的に真相究明をやる』と。その言葉通りの徹底究明。これをやらなければいけない」と述べたのだが、この発言を取り上げた『ビビット』(TBS)では、VTR出演した田中眞紀子が進次郎氏をこう評したのだ。

「あれ(進次郎氏)は若い子なのに、汚いと思う。お父さんのやり方を真似しているのかも分からないけど。もっと本気で取り組むんだったら、自分が質問しなければいけない。あの人は30年前の安倍さん、30年経ったら今の安倍さんになる子ね」
(スポーツ報知2018年3月28日付)

 奇しくも進次郎氏は前述したように自身のことを「30年後を見届けられる政治家だ」などと言っていたが、30年後には安倍独裁政権を進次郎氏が引き継いでいるとしたら……。そんな地獄が現実になる前に「中身が空っぽのポエム野郎」という進次郎氏の実態を国民の共通認識にする必要があるが、肝心のマスコミは相変わらず「小泉環境相が初外遊」などとはしゃいでばかり。これではほんとうに田中眞紀子の予言が当たってしまうかもしれない。


[写真]
ステーキを食べ終えてご満悦な様子をオフィシャルブログ動画で公開した進次郎

リテラ、2019.09.23 09:44
小泉進次郎「ステーキ食べたい」が環境相失格な理由
温暖化対策で「ミートレス運動」の最中に無知を露呈
海外メディアもツッコミ

https://lite-ra.com/2019/09/post-4991_3.html


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Greta Thunberg: War on nature must end

Greta Thunberg - Inspiring Others to Take a Stand Against Climate Change
https://www.youtube.com/watch?v=rhQVustYV24

Climate activist Greta Thunberg tours the UN
https://www.youtube.com/watch?v=sM5naUKA5t4

Swedish climate activist Greta Thunberg chastised world leaders Monday, Sep. 23, for failing younger generations by not taking sufficient steps to stop climate change.

"You have stolen my childhood and my dreams with your empty words," Thunberg said at the United Nations Climate Action Summit in New York.

"You're failing us, but young people are starting to understand your betrayal. The eyes of all future generations are upon you. And if you choose to fail us, I say we will never forgive you," she added.

Thunberg traveled to the U.S. by sailboat last month so she could appear at the summit.

She and other youth activists led international climate strikes on Friday in an attempt to garner awareness ahead of the UN's meeting of political and business leaders.

WATCH: Greta Thunberg's full speech to world leaders at UN Climate Action Summit
https://www.youtube.com/watch?v=KAJsdgTPJpU

 ニューヨークで2019年9月23日に開催される国連気候行動サミットを前に、具体的な気候変動対策を求めるデモ「気候ストライキ」が20日、世界各地で行われ、主催者発表で約160ヶ国の計400万人以上が参加した。
 ドイツでは全土で140万人がデモ行進した。

 ストライキは、スウェーデン人少女グレタ・トゥンベリさん(16)が母国で始めた運動をきっかけに世界に拡大。欧州では英国、フランス、東欧諸国などでも大規模なデモが行われた。

 ベルリンのデモには主催者発表で27万人が参加し、ブランデンブルク門を起点に中心部を行進。
 参加者は「今すぐ行動を」「地球の代わりはない」などと書かれた手作りのプラカードなどを手に温暖化対策の強化や再生可能エネルギーの利用を訴えた。

 学校のクラスメートと参加したヨナス・フォーゲルさん(17)は「世界のリーダーはサミットで具体策を示してほしい」と期待。
 デモには親子連れも多く、娘を連れていたアンナ・フックスさん(30)は「子どもたちの未来のために、みんなが温暖化について真剣に考える必要がある」と訴えた。

 25万人が参加したニューヨークでは、保護者の同意を条件に学校を休むことを容認。
 中学生のエヤマリー・フランクリスさん(13)は「自分の未来や子孫に貢献したいと思い参加した。人びとはまず環境問題を認識すべきだ」と話した。

 ニューヨークの国連本部では21日、若者気候サミットが開かれ、トゥンベリさんは20日のストライキに「特に若者の団結、勢いを示すことができた」と手応えを語った。

 トゥンベリさんも参加する23日のサミットには、温暖化自体に懐疑的なトランプ米大統領は出席しない見通し。


[写真]
20日、ベルリンで温暖化対策を訴えデモ行進する若者ら

2019年9月22日東京新聞・朝刊、2019年9月22日
気候変動対策「今すぐ」
デモ160ヶ国「若者団結示せた」

[ニューヨーク=赤川肇、ベルリン=近藤晶]
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201909/CK2019092202000124.html

23日の「気候行動サミット」でのグレタ・トゥンベリさんの演説全文は次の通り。
 
 私たちはあなたたちを注意深く見ている。それが、私のメッセージだ。
 こんなことは、完全に間違いだ。
 私はここに立っているべきではない。
 私は海の反対側で学校に戻っているべきだ。
 それなのにあなたたちは、私たち若者のところに希望を求めてやってくる。

(そんなことが)よくもできるものだ。
 あなたたちは空っぽの言葉で、私の夢と子ども時代を奪い去った。
 でも私は運が良い方だ。
 人びとは苦しみ、死にかけ、生態系全体が崩壊しかけている。
 私たちは絶滅に差し掛かっているのに、あなたたちが話すのは金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけ。
 何ということだ。

 過去30年以上、科学は極めて明瞭であり続けた。
 必要な政策も解決策もまだ見当たらないのに、目を背け、ここに来て「十分やっている」なんてよくも言えるものだ。
 あなたたちは私たちの声を聞き、緊急性を理解したと言う。
 でもどれだけ悲しみと怒りを感じようと、私はそれを信じたくない。
 なぜなら、もし本当に状況を理解し、それでも座視し続けているとしたなら、あなたたちは悪だからだ。
 そんなことを信じられない。

 10年間で(温室効果ガスの)排出量を半減するというよくある考え方では、(気温上昇を)1.5度に抑えられる可能性が50%しかなく、人類が制御できない不可逆的な連鎖反応を引き起こす恐れがある。
 あなたたちは50%で満足かもしれない。
 でもこの数字は(後戻りできない変化が起こる)転換点のほか、(永久凍土が溶けることなどで温暖化が進む)ほとんどのフィードバック・ループ、有害な大気汚染による温暖化、公平性や気候の正義といった側面を考慮していない。
 この数字はあなたたちが空気中に出した何千億トンもの二酸化炭素(CO2)を、私たちの世代が、(現時点で)ほとんど存在していない技術で吸収することを当てにしている。
 だから、50%の危険性は私たちには全く受け入れられない。
 私たちはその結果と共に生きていかなければならない。

 地球の気温上昇を1.5度に抑える確率を67%にするには、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の最善の見立てでは、2018年1月1日時点で世界に残されたCO2排出許容量は4200億トンだった。
 現在では3500億トンを下回った。

 よくも従来通りの取り組みと技術的な解決策で何とかなるなんて装うことができたものだ。
 現状の排出レベルでは、残されたCO2排出許容量に8年半もたたずに達してしまう。

 現在、これらの数字に沿って作られた解決策や計画は全くない。
 なぜなら、これらの数字は都合が悪すぎるからだ。
 そしてあなたたちはまだ、このようなことを口にできるほど成熟していない。

 あなたたちには失望した。
 しかし若者たちはあなたたちの裏切り行為に気付き始めている。
 全ての未来世代の目はあなたたちに注がれている。
 私たちを失望させる選択をすれば、決して許さない。
 あなたたちを逃がさない。
 まさに今、ここに私たちは一線を引く。
 世界は目を覚ましつつある。
 変化が訪れようとしている。
 あなたたちが好むと好まざるとにかかわらず。

 ありがとう。

[写真]
23日、米ニューヨークで、国連の「気候行動サミット」で話すグレタ・トゥンベリさん

東京新聞・朝刊、2019年9月25日
グレタ・トゥンベリさん演説全文
「すべての未来世代の目はあなたたちに注がれている」

(ニューヨーク・共同)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201909/CK2019092502100025.html

【9月24日 AFP】スウェーデンの高校生環境活動家グレタ・トゥンベリ(Greta Thunberg)さん(16)は23日、米ニューヨークで開幕した国連(UN)気候行動サミットで演説した。トゥンベリさんは、世界の首脳らが温室効果ガス排出問題に取り組まず、自分たちの世代を裏切ったと非難し、「よくもそんなことを」と怒りをぶつけた。
 アントニオ・グテレス(Antonio Guterres)国連事務総長が開催した同サミットは、実現が危ぶまれる地球温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定(Paris Agreement)」を再び勢いづかせる狙いがある。
 熱のこもったトゥンベリさんの演説は、サミットの基調を定めるものとなった。

 トゥンベリさんは「私はここにいるべきではない。大西洋の向こう側に帰って学校に通っているべきだ」と言明。
 時に声を震わせながら「あなた方は希望を求めて私たち若者のところにやってくる。よくもそんなことができますね」と批判し、「私たちは大絶滅の始まりにいる。それなのに、あなた方が話すことと言えば、お金や永続的な経済成長というおとぎ話ばかりだ。よくもそんなことを!」と怒りをあらわにした。

 トゥンベリさんは、気候変動対策をめぐる政府の怠慢に抗議する若者の運動を代表する世界的な「顔」となっている。
 この運動では20日、世界各地で数百万人の児童・生徒が学校ストを行った。

 23日の国連発表によると、パリ協定に応じ、2050年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロとする「カーボンニュートラル」を達成することを約束した国は、66か国に上る。

 気候サミットには、当初欠席する予定だったドナルド・トランプ(Donald Trump) 米大統領が急きょ、短時間ながらも出席した。
 トランプ氏は、地球温暖化が人為的な原因により起きているとする科学界の結論に対し、繰り返し疑念を示している。
 トランプ氏は会場で、インドのナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相の演説を聞き、拍手をした後に退場した。

 グテレス氏はこれに先立つサミット開幕時、「気候の緊急事態は、われわれが現在、負けている競争だが、勝つことのできる競争だ」と述べた。

 エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)仏大統領は、チリ、コロンビア、ボリビアの首脳と会談。
 会談では、世界銀行(World Bank)、米州開発銀行(IDB)、国際環境NGOコンサベーション・インターナショナル(Conservation International)が、世界の森林保護のため5億ドル(約540億円)を追加で投じると確約した。


[写真]
米ニューヨークの国連本部で開かれた気候行動サミットで演説するグレタ・トゥンベリさん(2019年9月23日撮影)

AFP、2019年9月24日 5:35
「よくもそんなことを」 トゥンベリさん、怒りの国連演説
https://www.afpbb.com/articles/-/3245899

NEW YORK: Teenage climate campaigner Greta Thunberg said the “war on nature must end” and called on Donald Trump to listen to science after she sailed into New York on a zero-emissions yacht.

The 16-year-old completed a 15-day journey across the Atlantic shortly after 4pm (2000 GMT), stepping off the boat onto a Manhattan dock to cheering crowds chanting her name.

“It is devastating and so horrible. It’s hard to imagine. They are a clear sign that we need to stop destroying nature,” she told waiting reporters when asked how she felt about raging fires in the Amazon, the world’s largest rainforest.

The Swede also rebuked Trump, a notorious climate change skeptic.

“My message for him is listen to the science and he obviously doesn’t do that,” she said, as she brought her environmental message to the United States for the first time.

Thunberg poked fun at the president too by saying she was “pretty sure” windmills don’t cause cancer, in reference to a comment Trump made at a Republican fundraising event in April.

The teenager has become a symbol for climate action with her stark warnings of catastrophe if the world does not act now to cut carbon emissions and curb global warming.

Thunberg, who was diagnosed with Asperger syndrome at the age of 12, began sitting outside the Swedish parliament in August 2018 to get members to act on climate change.

She was quickly joined by other students around the world, as word of her strike spread through the media, and the “Fridays for future” movement was born.

She will attend a summit on zero emissions at the United Nations next month but refused to fly because of the carbon emissions caused by planes.
The Swede was offered a ride on the Malizia II racing yacht skippered by Pierre Casiraghi, the son of Monaco’s Princess Caroline, and German round-the-world sailor Boris Herrmann.

Thunberg has received criticism and abuse for her uncompromising attitude, however.

Her voyage sparked controversy after a spokesman for co-skipper Herrmann told Berlin newspaper TAZ that several people would fly into New York to help take the yacht back to Europe.

Hermann himself will also return by plane, according to the spokesman.

Team Malizia’s manager insisted, though, that the young activist’s journey would be climate neutral, as the flights would “be offset”.

A few hundred well-wishers and activists clapped and chanted “Greta, Greta, Greta” as she completed her 5,550 kilometres trip under overcast skies.

She passed the Statue of Liberty and headed up the Hudson River before docking at North Cove Marina near the World Trade Center.

The United Nations sent a flotilla of 17 sailboats, one for each of its sustainable development goals for 2030, to welcome her.

Thunberg endured rough seas and cramped conditions but said she never felt seasick once. She ate freeze-dried food and used a bucket as a toilet.

“It’s insane that a 16-year-old has to cross the Atlantic Ocean to make a stand. This, of course, is not something that I want everyone to do,” she said, smiling.

Thunberg added that she planned to rest before joining youngsters striking outside the UN on Friday.

The Malizia II yacht left Plymouth in southern England on August 14, and the teenager marked the first anniversary of the start of her school strike on August 20.

The 18-meter yacht features state-of-the-art solar panels on its deck and sides, and two hydro-generators provide the vessel’s electricity.

It can travel at speeds of around 70 kilometres an hour.

Thunberg has said that she does not yet know how she will return to Europe.

Ahead of the UN summit on Sept 23, Thunberg will take part in youth demonstrations, before heading to Canada, Mexico and then to Chile for another UN conference in December.


[photo]
Swedish 16-year-old activist Greta Thunberg completes her trans-Atlantic crossing in order to attend a United Nations summit on climate change in New York, U.S., August 28, 2019

AFP, Published : August 29, 2019 @ 9:26am
Greta Thunberg: War on nature must end
https://www.nst.com.my/world/2019/08/516954/greta-thunberg-war-nature-must-end

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2019年09月26日

消費税増税

 日本チェーンストア協会の小浜裕正会長(食品スーパーのカスミ会長)は2019年1月18日夜の新年祝賀会で、10月からの消費税率引き上げについて「悪名高き消費税増税が実施される」とした上で、「軽減税率やプレミアム商品券、キャッシュレス決済時のポイント還元策などに原資(増税による税収増)が消えていく。何のための増税か分からない」と述べ、政府の対応を痛烈に批判した。
 小浜会長は「『悪法も法なり』なので何とか努力はするが、全てが解決する見通しは立たない」と述べ、複雑な軽減税率などへの対応を迫られることへの不満をあらわにした。
 祝賀会では、与党・公明党の斉藤鉄夫幹事長が「いろいろ矛盾点もあろうかと思うが、皆さんの声を聞きながら改善したい」とあいさつしたが、会場の拍手はまばらだった。


時事ドットコムニュース、2019年01月18日22時27分
チェーン協会長、消費増税を痛烈批判=負担軽減策にも疑問
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019011801330&g=eco

【ニューヨーク=時事】2019年4月5日付の米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは社説で、日本で10月に実施される消費税増税が経済をさらに悪化させる「自傷行為」になるとの見方を示した。

 同紙は、日本の直近の経済指標が低調な上、米中貿易摩擦などで世界的に成長が鈍化し、逆風になっているとするとともに、8年目に突入するアベノミクスは「完全には実現しておらず、投資や生産性への重しになっている」と指摘した。


時事ドットコムニュース、2019年04月06日07時22分
日本の消費増税「自傷行為」=米紙社説
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019040600237&g=eco

 来週10月1日から始まる消費税10%への引き上げまで1週間を切った。
 この増税による国民の負担増は年間5.7兆円に上る見込みだ。
 世帯あたりでは、今と同じ生活をしているだけで、年間数万円も支出が増えることになる。
 ただでさえ厳しい庶民生活は耐えられるのか。
 反対デモも行われているが、多くの国民は「決まったことは仕方ない」と、唯々諾々と受け入れているように見える。

「財政が破綻する」と脅され、「社会保障の拡充のために消費税を上げる必要がある」と言われると、そんなものかと思ってしまうかもしれないが、騙されてはいけない。

 1989年に消費税が導入されて以来、社会保障の充実や安定化が少しでも実現したのか? 赤字国債の発行は減ったのか? ちょっと数字に当たれば分かることだ。

 第2次安倍政権で消費税は5%から8%に上がったが、2018年度までの6年間で社会保障費は約3.9兆円も削減された。
 今年度予算でも、さらに3870億円を削減しようとしている。
 それでいて毎年、過去最大規模の予算を組み、放漫財政には歯止めがかからない。

 ハッキリしているのは、消費税の導入後、消費が低迷し、実質賃金は下がり続けていることだ。
 度重なる消費増税に庶民の暮らしは窮乏化の一途をたどっている。

「消費増税分の税収は、法人減税の穴埋めに使われてきたのが実情です。法人税率は消費税導入前の42.0%から、消費税アップのたびに引き下げられ、今では23.2%にまで減税されています。しかも、これすら大企業はまともに払っていない。さまざまな優遇税制があるからで、大企業の実質負担率はわずか9.8%なのです。そのうえ、輸出企業には還付金制度があり、トヨタや日産など上位10社だけで年間およそ1兆円が還付されている。消費税を上げるほど還付金の額も大きくなりますが、法人税を下げても企業の利益は内部留保や株主への配当に回されるだけで、従業員の所得には反映されません。消費税とは、庶民から収奪して大企業や投資家に富を移転する悪魔の税制なのです」
(経済アナリスト・菊池英博氏)

「広く、薄く、平等に」は大嘘

 もともと消費税は、低所得者ほど負担がキツくなる逆進性で知られる格差拡大の税制だ。
「広く、薄く、平等な負担」という宣伝文句は大嘘なのである。
 失業者であろうと年金生活者であろうと、生きていくうえで容赦なく徴収される。
 それが社会保障の充実どころか、法人減税の穴埋めに使われてきた。
 資本家を肥え太らせるために、弱者からむしり取るのだ。

 消費税に関する著書が多数あるジャーナリストの斎藤貴男氏もこう言う。

「そもそも消費税の納税義務を負うのは年商1000万円超の事業者ですが、下請けなど弱い立場の側が常に多くの負担を強いられるという構造的な問題がある。
 憲法14条が要請する『法の下の平等』によって、『応能負担』という言葉がありますが、消費税は『応不能負担』とでも言うべき税なのです。応能負担の原則に則した累進課税に対し、弱者からも一律に巻き上げる消費税は人頭税に近い。社会的弱者ほど負担が大きな税を社会保障の財源にするという政府の宣伝自体が倒錯しています」 

 この悪魔の税制に輪をかけるのが、景気対策や家計支援を名目にした政府の諸政策である。
 ポイント還元や軽減税率の小手先対応は、庶民イジメの目くらましでしかない。

■ これまでの増税とは質が違う奴隷化に直結の恐ろしさ

 目下の増税対策としては、軽減税率に約1.1兆円、幼児教育・保育の無償化や低年金者への支援給付金に約3.2兆円、ポイント還元や自動車購入支援などに約2.3兆円が投じられることになっているが、どれも効果は疑問で、むしろ混乱を招くだけのシロモノだ。

 安倍首相が2017年の衆院選で唐突に打ち出した幼保無償化にしても、対象は全世帯の3〜5歳児と、低所得世帯の0〜2歳児だが、保育料は収入が多いほど高く設定されていて、高所得層ほど無償化の恩恵を受ける。
 しかも、給食費は無償化の対象外という中途半端。
 子育て支援なら「子ども手当」の方が助かるという家庭も多いだろう。
 待機児童の解消を優先すべきだとの声も根強い。

 キャッシュレス決済でのポイント還元も、結局は金持ち優遇策だ。
 高い買い物をするほど還元も多くなる。
 低所得者はカード限度額が低かったり、そもそもカードを作れない人もいる。
 これまで現金決済でやってきた地方の高齢者や商店街に、わざわざカード対応にしろというのか。

 だいたい、同じ食品を買うのでも、現金かキャッシュレスか、大手か中小企業か、店内かテークアウトかなどによって、10%、8%、6%、5%、3%と複数の税率が存在することになるのだ。
 キャッシュレス決済に慣れた若者だって混乱する。

「政府は消費増税対策を口実に、キャッシュレス化を推進したいだけなのです。それで、マイナンバーカード取得者にはポイント還元制度を延長すると言いだしている。マイナンバーで国民のすべての行動を捕捉できれば、権力側は都合がいいからです。今回の消費増税は、これまでの増税とは質が違う。ポイント還元などという子供だましに乗せられたら、国民はがんじがらめの監視社会で、政治権力やグローバル資本の奴隷として生きることになるでしょう。それでもいいという人は消費税に賛成すればいい。こういう危うさをかつての新聞なら論じたでしょうが、『消費税で社会保障充実』という国民だましに加担して権力におもねり、軽減税率の適用をおねだりした大新聞は、批判を放棄してしまった。国民が自分の頭で考え、本気で怒らなければ、日本は奴隷制に真っ逆さまです」
(斎藤貴男氏=前出)

■ 黙っていたら消費税は15%、20%に

 消費税が悪魔的なのは、台風や地震で被災し、苦しんでいる人々からも容赦なく取り立てるところだ。

 そういう庶民の不安や苦しみなど、想像もできないのだろう。
 安倍はどこ吹く風のお気楽ぶりで、ラグビーW杯の開幕日には、ラグビー日本代表ジャージーのレプリカを着て、「いよいよ日本で開幕します!」とハシャぐ動画をツイッターに投稿。
 開幕戦の観戦は「エキサイトしっぱなしでした」とご機嫌で、連休明けにはニューヨーク外遊に出かけてしまった。

庶民イジメの消費税を10%に上げると宣言しても選挙に負けないのだから、そりゃあ政権はやりたい放題になる。国民はナメられっぱなしです。全世代型の社会保障改革などと言って、社会保障はますます削られ、増税分は軍拡に使われることになる。反撃のノロシを上げるべき野党も、あまりにだらしない。なぜ、7月の参院選を消費税反対のワンイシューでまとまって戦わなかったのか。選挙前は国民の6割以上が消費増税に反対していたのに、今では諦めムードが蔓延しています。今回の消費増税は、間違いなく日本経済を滅ぼすことになる。それを阻止するために、野党共闘で政権と対峙するといっても、やらないと公約していた消費増税を決めた裏切り者の野田佳彦元首相と組もうというのだから話にならない。ここで国民が諦めてしまったら、嘘に嘘を重ねる詐欺師政権は改憲まで一気ですよ。軽減税率の恩恵にすがる大新聞は、憲法改悪に本気で反対することもできないでしょう
(菊池英博氏=前出)

 消費増税、それに伴う大混乱という世紀の愚策に、痛めつけられるだけの国民は沈黙。
 こんな不条理がまかり通れば、庶民は一生、搾取され続けることになる。
 黙って従っていたら、「老後2000万円」不足問題もさらなる増税の口実にされ、消費税は15%、20%と上がっていくことになるだろう。

 本当にそれでいいのか。

 奴隷になりたくなければ今、怒りの声を上げるしかない


日刊ゲンダイ、2019/09/25 17:24
世紀の愚策で空前の混乱
消費税増税に国民沈黙の不思議

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/262285/

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2019年09月25日

米国からの陸上イージス購入は亡国への道

 日本の防衛力の強化と拡大は急務である。
 しかし、その方向性を間違えば、逆に私たち日本国民の首を絞めかねない。
 秋田県秋田市と山口県萩市に、アメリカが開発した「イージス・アショア」(陸上イージス)の配備が予定されている。
 北朝鮮などの弾道ミサイルを迎撃するための装置だが、総額1兆円を軽く超える予算規模と、政府のずさんな導入計画が波紋を広げている。

グーグル・アースで“測量”された調査報告書

 今年2019年6月、防衛省が作成した配備候補地の調査報告書に多くのデータの誤りが含まれていることが発覚。
 本来なら実際に配備候補地で測量をすべきところ、手間を省いてグーグル・アースを用い、しかも縮尺の違いを見落としてデータを算出したため、実際の地形とは全く異なるデータが調査報告書に記載されていたのだ。
 しかも、地元説明会の席で住民たちを前に居眠りする職員などもおり、住民たちの不安と反感は一挙に高まった。
 だが、ことの本質はそれだけではない。
 配備強行の裏には、空洞化する日本の防衛がくっきりと透けて見えてくる。

有事には住民を巻き添えに

 防衛問題に詳しいジャーナリスト・南村梟郎氏は、陸上イージスが内包する5つの問題点を指摘する。
・ 「敵とのコスト競争の泥沼にはまり込む」
・ 「有事の際には住民を巻き添えにする」
・ 「経費膨張で日本の防衛力がいびつになる」
・ 「自衛隊と米軍への信頼性が低下する」
・ 「日本の守りを効果的に高める方法は別にある」
というのがそれだ。
 このうち周辺住民が最も懸念するのは、「有事の際に巻き添えになる」という点だろう。

 秋田市西部の候補地である新屋演習場周辺には住宅地が広がり、演習場の数百メートル先には小中学校が点在する。

「自分たちが日本なら陸上イージスなんて配備しない。有事になれば敵に真っ先につぶされるからだ」――南村氏によると、米軍関係者はミサイル防衛について、こう認識しているという。

 もし、日本が北朝鮮や中国、ロシアと武力衝突する事態になれば、相手は高性能レーダーと迎撃ミサイルがセットになった陸上イージス施設を真っ先に攻撃してくるはずだ。
 そのとき、はたして基地周辺の住宅や学校はどうなるのだろうか?

導入経費は数兆円規模にまで膨張する

 さらに懸念されるのは、巨額の予算だ。
 当初、陸上イージスの導入経費は2基で約1600億円とされていた。
 ところが計画が具体化するにつれてどんどん経費が膨張し、現在では約6000億円とされている。
 しかし、レーダーや関連装備をグレードアップするたびに加算が続き、防衛関係者の間では、2兆円程度になると指摘されている。
 長期的な維持費や広義の関係費用を含めれば、数兆円に膨張することは確実だ。

 日本が高値の防衛装備をどんどんアメリカから買わされている構図を、南村氏は高級外車の例にたとえる。

平均的なサラリーマンが背伸びして外車を購入した後、セールスマンの巧みな口車に乗せられてどんどん高額な外車に買い替えさせられた挙句、通常の暮らしが立ちいかなくなるようなものだ

 繰り返すが、日本の防衛力の強化と拡大は急務である。
 そのために必要なのは、陸上イージスのような装備に濫費することではない。
 もっと賢く予算を使い、効果的な抑止力を持たなければならない。

 「文藝春秋」10月号に掲載されている南村氏のレポート「亡国の陸上イージス」は、日本の防衛力強化のために何が必要なのかを詳細に論じている。


[写真-1]イージス艦よりはるかに高額に

[写真-2]ミサイル実験に余念がない北朝鮮

[写真-3]売り込みに熱心なトランプ大統領

[写真-4]文藝春秋10月号

文春オンライン、2019/09/23
血税1兆円がドブに……米国からの陸上イージス購入は亡国への道だ!
「サラリーマンが高級外車を買わされるようなもの」

https://bunshun.jp/articles/-/14231

「国難突破解散」の欺瞞と偽善

 安倍首相は(2017年9月28日に召集される臨時国会の冒頭に衆院を解散する考えを表明)、衆議院解散・総選挙に打って出るにあたって、これを「国難突破解散」と呼び、北朝鮮の核・ミサイルという脅威をうちまかすための国論の一致こそが争点だといった。

 おびただしい数のミサイル発射を繰り返し、9月3日には6度目の核実験を行った北朝鮮の「冒険主義」は、目に余るものがある。国際社会は一致してかの国の核計画を食い止めるために知恵を結集して外交による平和的プロセスを追求するべきときである。

 しかし、安倍首相から「対話」の言葉は聞かれない。

「対話の努力は時間稼ぎに利用されました。北朝鮮に全ての核兵器・弾道ミサイル計画を完全な検証可能、かつ不可逆的な方法で放棄させなければならない。そのことを北朝鮮が受け入れない限り、今後ともあらゆる手段による圧力を、最大限まで高めていくほかに道はない。私はそう確信しています」

 少し長い歴史のものさしを当ててみれば、この「圧力偏重」路線がつまるところ、効果をあげずにきたことは明らかである。北朝鮮が最初の核実験を行ったのは2006年からこの方、日本政府が米国に追随して「圧力一辺倒」政策を継続してきたことが、現状を生み出しているという自省は首相の心の中には存在しないのか。弾道ミサイル開発が加速されたのは、1990年の半ばに遡る。すでに200発のノドン・ミサイルが日本全土を射程に収めている。その現実を歴代日本政権は直視せず、こんにち、ミサイルがグアムや米本土に迫るにいたって、まるで「初めて」のようにミサイルの脅威を叫び、Jアラートを発し、ミサイル対処訓練を各地で実施するよう促している。

 このようなことになる前に、「外交」が機能するべきだったのではないか。まるで「圧力をさけぶこと」が唯一の外交政策であるかのように振舞ってきたのは、誰だったのか? 人はこれを「マッチポンプ」と呼ぶのではないか? 

イージス・アショアは幻想

 選挙キャンペーンは「北朝鮮はコワい」という扇情的な言辞はふりまいても、この難題をどのように解いていくかという課題は素通りしたように見える。

 私たちは今こそ、立ち止まって問うべきである。1910年の日本による「併合」にはじまる、日本がかの国になしてきた罪、そしてその罪科の遺産である南北分断の現状について、日本との闘いの中から生まれた北朝鮮という国の歴史について、それらを包含する歴史観をとおして問われるべき、「核のない朝鮮半島」のために、私たちがなすべきことについて。

 だがこの国は、それらを省みることはせず、ひたすら米国の後ろで「圧力」をけしかける。

 安倍首相がくりだす「国難突破」のための手の一つは「ミサイル防衛」である。「イージスアショア」(陸上イージス・システム)−この1基800億円の高額兵器を米国から買い、2023年までに稼動させるというのが安倍政権の目論見だ。

 「イージス・アショア」は日本の防衛のための兵器ではない。それが守るのはたとえばグアムや米本土だ。これは、トランプ政権の「米国第一」路線にしたがって「日本に配備」される兵器だ。断じて日本を守るものではない。

 2016年5月に、欧州における「冷戦の遺産」であるルーマニアで、最初の「陸上イージス」運用がはじまったとき、在ブカレスト米大使館はこの兵器の「効能」をウェブサイトで説明した。その宣伝文句を紹介しておきたい。

 これを読みながら考えてみよう。果たして、「イージス・アショア」は、私たちと北東アジアの安全と安心の永続化に貢献しうるのだろうか。私たちの血税を注ぐ価値のあるものなのか。そうではなくて、この兵器システムがもたらすのは、この盾(イージス)の能力を、量の上でも質的にも凌駕する軍拡競争なのである。

◆◆

<資料>欧州におけるミサイル防衛の実施(在ブカレスト米国大使館ウェブサイト)
2016年5月11日最終更新

端的に言えば、我々の欧州における新しいミサイル防衛構想は米国とその同盟国の戦力に対し、より強力で、高性能で、迅速な防衛力を提供する。それは、以前の計画より包括的なものであり、検証済みで対費用効果の高い能力を展開し、米本土を長距離弾道ミサイルの脅威から守る責務に基づくものであるとともにそれを持続する。そして全NATO加盟国への防御を保証し、強化する。
―オバマ大統領


 オバマ大統領は米国と、その海外に派遣された兵力、欧州の同盟国とそのパートナーを、増大する弾道ミサイルの脅威から守ることを誓約している。2009年9月、国防長官と統合参謀本部長の勧告に基づき、オバマ大統領は、より早期に、より包括的な防御を提供するため、ミサイル防衛のための欧州段階的適応アプローチ(EPAA)を発表した。この2年間、政府はNATO諸国と協働し、このアプローチの実施において目覚ましい進展を見ており、大統領が打ち出した到達目標に向かっている。

 EPAAの発表以来、政府はEPAAをNATOの環境の中で実施する願望を明らかにしてきた。2010年11月のリスボンサミットでNATOは、弾道ミサイルの拡散によって引き起こされる脅威の増大に対して全てのNATO加盟欧州諸国の住民と領土、戦力を完全に保障し保護することを目的に、ミサイル防衛能力を承認するという歴史的決定を行った。この決定は、同盟が直面する21世紀の一連の脅威に対抗するNATOの抑止態勢を拡大し、強化する我々の努力と軌を一にしている。NATOはまた、NATO加盟欧州諸国の住民、領土、戦力を保護するために、その現在のミサイル防御の指揮・管制・通信能力を拡張することにも合意した。リスボンでNATO諸国はEPAAをNATOのミサイル防衛に対する米国の国家的な貢献として歓迎するとともに、他のNATO加盟国の追加の自発的な貢献を歓迎した。

 EPAAには、2010年代の残りの期間にわたって実施される4つの段階がある。それぞれの段階で進展があったし、大統領が2009年に設定した目標の達成に向かっている。

・ 第1段階(2011年までに実施)は、現在の検証済みのミサイル防衛システムを配備することによって、短距離及び準中距離弾道ミサイルの脅威に対処する。これは、検証済みのSM-3 Block IA 迎撃ミサイルを装備した、イージス弾道ミサイル防衛システムが搭載可能な艦艇の配備を必要とする。今年3月、米艦モントレーは、EPAAを支援するため持続的なローテーションで地中海へ派遣される艦船の最初の一隻になった。第1段階はまた、トルコがNATOミサイル防衛計画の一部としてその受け入れ国になることを最近合意した、地上設置式早期警戒レーダーの配置も必要とする。

・ 第2段階(2015年までに実施)は、ルーマニアへの地上設置型SM-3ミサイル防衛迎撃基地の実戦配備と、より高性能のSN-3迎撃ミサイル(Block IB)の配備によって、短距離及び準中距離の脅威に対する我々の守備範囲を広げる。今週、9月13日に米国とルーマニアは米国・ルーマニア弾道ミサイル防衛協定に署名した。批准されると、米国はルーマニアに陸上配備型弾道ミサイル防衛基地を建設し、維持し、運営してよいことになる。

・ 第3段階(2018年までに実施)は、ポーランドに建設される地上設置型SM-3基地とより進歩したSM-3迎撃ミサイル(Block IIA)の配備によって、中距離及び準中距離ミサイルの脅威に対する防御力を改善する。ポーランドは2009年10月に迎撃ミサイル基地の提供に合意した。そして今日、ポーランドの承認手続きは完了し、合意は効力を発した。

・ 第4段階(2020年までに達成)は、中東から米国への中距離ミサイル、ならびに将来における潜在的な大陸間弾道ミサイル(ICBM)の脅威に対抗する能力を、SM-3 Block IIB迎撃ミサイルの配備を通して強化する。それぞれの段階はミサイル防衛の指揮管制システムの更新を含んでいる。

 大統領がEPAAを発表した際に、彼がミサイル防衛に関するロシアの協力を歓迎したことに留意することは重要である。我々はこの側面でも進展を得た。2010年11月にNATO・ロシア評議会(NRC)サミットで、NATOとロシアはミサイル防衛協力の機会を探る約束をした。ロシアとの効果的な協力は、我々の地域全体のミサイル防衛能力の全般的な有効性と能率を向上させることになると同時に、NATOとロシア両方に、より大きな安全保障をもたらすだろう。第一段階としてNATOとロシアは統合弾道ミサイル脅威評価を完了し、評議会が戦域ミサイル防衛協力を再開することに合意した。米国とロシアはまた、国務省や国防総省での数多くの高官作業部会を通じてミサイル防衛協力の議論を続けている。

 前に進むべく、政府は2009年9月に大統領が定めたビジョンを実施するため、連邦議会やNATO諸国と緊密に協議を続ける。我々はまた、弾道ミサイルによって引き起こされる脅威と、我々がその迎撃のために開発している技術の評価を精力的に続ける。合衆国は引き続き、新興の脅威への自在な対処を可能にする、対費用効果が高く、検証済のミサイル防衛に専心する。
 米国のミサイル防衛政策に関する詳細は、「弾道ミサイル防衛見直し」(BMDR)をご覧いただきたい。
(訳:ピースデポ)


平和フォーラム〜核も戦争もない21世紀をめざして〜、2017年9月30日
「陸上イージス・システム」は、新たな核軍拡を招く
田巻一彦
http://www.peace-forum.com/p-da/2017930.html

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満蒙開拓団

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をぜひお読みください:

☆ 2014年12月04日「望郷の鐘」
☆ 2014年12月08日「語らねば、伝えねば、満蒙開拓団」 

満蒙開拓団.jpg
「開拓団って何ですか」
香川県にある慰霊堂では訪れた人からこのように聞かれることが増えているといいます。
管理する82歳の男性は「慰霊堂を案内しても理解してもらえるのは外国に開拓に行ったということだけです。日本に帰りたいという思いもかなわぬまま命を奪われた人たちの記憶が消えてしまう」と話します。
戦前、国の政策で豊かな土地を求めて家族や村単位で海を渡った「満蒙開拓団」。
民間人だけでおよそ8万人が犠牲になったといわれています。

四国 霊場にある慰霊堂


 香川県三豊市にある四国八十八箇所霊場・70番札所本山寺の一角には慰霊堂があります。

 旧満州・現在の中国東北部に渡り、帰ってくることができなかった開拓団の人たちをまつったものです。

 20年近くにわたってこの慰霊堂を維持管理している高橋英勝さん(82)も4歳のころ、開拓団の一員として両親とともに海を渡りました。

 高橋さんが住んでいた三豊郡財田大野村(現 三豊市)と周辺の豊浜町、豊田村(いずれも現 観音寺市)から、1000人近くが、現在の黒竜江省牡丹江市にあった五河林という地区に入植しました。

豊かな土地を求めて32万人が海を渡る

「満州国」が建国された1932(昭和7)年ごろから日本が敗戦する昭和20年までの間、旧満州や内モンゴルに移住した「満蒙開拓団」。

 長野県にある満蒙開拓平和記念館によりますと、困窮していた農村から広大な土地を求めて家族や村の単位でおよそ32万人(義勇隊も含む)が海を渡ったとされています。
都道県別
▽ 長野県…3万7859人(当時の県全体の人口の2%、 50人に1人の割合)
▽ 山形県…1万7177人
▽ 熊本県…1万2680人
▽ 福島県…1万2673人
▽ 新潟県…1万2651人
▽ 香川県…  7885人

過酷な逃避行が始まる

 ところが、終戦直前に開拓団の暮らしは一変します。

 大本営は昭和20年5月、ソ連が参戦した際には旧満州の4分の3を放棄するという作戦を決定していました。

 そして昭和20年8月9日、旧満州を守っていた関東軍が南下したところにソ連軍が攻め込んだのです。

 関東軍が撤退することを知らされていなかった開拓団の人々はソ連軍や現地の人たちに追われる身となりました。

 高橋さんたちの一行もソ連軍から逃れようと、8月13日の早朝に旧満州の中心地の1つだったハルビンに向かって逃避行を始めました。

“史料”が浮き彫りにする悲劇

 香川県の慰霊堂に残されている「死亡証明書」からこの逃避行の様子がうかがえます。

 この証明書は引率した開拓団の集落の代表が命を落とした人がいつ、どのように死亡したのかを記録したものです。

 そこには8月13日と14日の2日間で6歳の女児を含む6人が亡くなっていたことが記録されています。

 死因の欄には「頭部貫通銃創」の文字。複数の人がソ連兵に頭や胸を撃たれて亡くなっていました。

「ほかの人を蹴ってでも最後の汽車に乗った」

 開拓団の人たちは列車に飛び乗ってハルビンを目指します。

 しかし「死亡証明書」に記録はないものの、列車に乗れずに取り残された人も少なくないと言います。
「突然、変わった飛行機が村の上空に来ているという声が聞こえたのですが、それがソ連軍の戦闘機でした。戦闘機から、上から撃たれるんですよ、だからなんとか助かろうとみんな逃げ惑いました。水路に隠れて頭を隠しました」

「ソ連軍が銃を持って近づいてきていたから自分が生き残るために木の下にけが人を置き去りにしたりみんな逃げるので精一杯でした。最後の汽車に乗れない人が大勢いました。自分が先に乗らないと生き残れないとほかの人を足で蹴ってでも乗ったくらいでした。そのような状況でしたから置き去りにされた子どもが多くいました。自分は親が手を引いていてくれたから、大丈夫でしたが、離れてしまったら、こっちに戻ってきていないかもしれないです」

「食べるものがないので冬の間にたくさんの子どもが亡くなりました。人が死んで、穴を掘りに行けよって言われてよくついて行きました。そこで遺体を埋めて、戻ってくると『また死んでいる』と言われて」
(高橋英勝さん)

極寒の地で子どもたちが次々に命を落とした

 高橋さんがハルビンに設けられた難民収容所にたどり着いたのは日本で玉音放送が流れた8月15日の2日後でした。

 しかし、国は当時、海外にいる邦人を現地にとどまらせる方針で、高橋さんたちもすぐには日本に帰れませんでした。

 日本よりはるかに寒く、食糧もない難民収容所で周囲で拾い集めた石炭を現地の人が持っている食糧と交換するなどして、飢えをしのぎました。

 慰霊堂に残された「死亡証明書」には収容所での過酷な生活の中、138人が栄養失調や感染症で命を落としたと記録されています。

 その多くが子どもたちでした。

 当時8歳だった高橋さんは、同じ年頃の子どもたちが亡くなるのを目の当たりにしていました。

 日本に帰国できたのは1年後で、高橋さんがいた開拓団では1000人近くのうち記録が残っているだけでも174人が命を落としました。

 およそ32万人に上った満蒙開拓団のうち、日本へ引き揚げることができぬまま現地で命を落としたのは民間人だけでおよそ8万人に上るといいます。

悲劇の記憶 後世に


 開拓団の悲惨な歴史を今に伝える慰霊堂。

 高橋さんはここを訪れた人に、開拓団について語り継いできましたが、ことし82歳となりました。

 自分が動けなくなったあと、この慰霊堂やその中の資料が忘れ去られることを懸念しています。

 今はまだ高橋さんの跡をつぐ人は見つかっていません。

 無関心や受け身のままでは戦争によって大勢の人が命を奪われたことが忘れられ、痛みも悲しみも感じない歴史上の1つの事実としか受け止められなくなってしまうのではないか。

 終戦から74年。

 戦争を体験した世代が高齢化し、次々に亡くなっていくいま、戦争を知らない私たちの世代が当時の記憶にどう向き合い、そしてどうすべきかを考えることがとても大事だということを今回の取材を通じて強く感じました。
「『開拓団って何ですか』って言う人もいます。慰霊堂の中を案内してもすーって通り過ぎるだけでどんな意味かもわからずただ、外国に開拓に行ったということだけしか伝わらないと感じます。今のままでは日本に帰りたいという思いもかなわぬまま命を奪われた人たちの記憶が消えてしまうと思います」
(高橋英勝さん)

[写真-1]本山寺

[写真-2]高橋英勝さん(82)

[写真-3]旧満州に向かう開拓団

[写真-4]ソ連軍の爆撃

[写真-5]死亡証明書

[写真-6]死亡証明書には「栄養不良」の文字

[写真-7]日本への引き揚げ

[写真-8]本山寺の一角にある慰霊堂

NHK News Web、2019年9月20日 20時17分
“国策”で海を渡った人たちの悲劇の記憶は……
(高松放送局記者 鈴木博子)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190920/k10012091951000.html

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2019年09月24日

「東洋最大規模のマンモス団地」といわれた松原団地

「名物がない」と揶揄(やゆ)されることもある埼玉県。
 だが、「草加せんべい」の名を知らない人は少ないだろう。
 熊谷の五家宝(ごかぼう)、川越の芋菓子と並ぶ県の三大銘菓の一つだ。
「銘菓を知らずに埼玉は語れない!」と思い立ち、江戸時代に旧日光街道2番目の宿場として栄えた草加市を訪ね、そのルーツを探ってきた。

■ おせんのお煎餅

 江戸時代、草加宿で「おせん」という女性が旅人を相手に団子を売っていた。
 おせんは、売れ残りの団子を捨てなければならないことに悩んでいたが、ある日、茶屋を訪れた侍が「潰して天日で乾かし、焼き餅として売ればいい」という。
 助言を基におせんが焼き餅を売ったところ、評判になり街道名物に−。

 いかにも夢の広がるエピソードだが、実はこれ、昭和時代に創作された物語。
 実際は、保存用にコメを団子状にして乾かしたものを茶屋などで販売したところ、自然と普及していった−というのが事実に近いらしい。
 1913(大正2)年に旧陸軍が川越で大演習を行った際、県の名産品として天皇陛下に献上されたことを機に、全国に「草加せんべい」の名が広まった。

■ 煎餅のテーマパーク

 2008(平成20)年5月にオープンした煎餅のテーマパーク、山香(やまこう)煎餅本舗「草加せんべいの庭」では年中無休、予約不要(10人以上は要予約)で煎餅の手焼き体験ができる。

「3秒に1回ひっくり返して」
「ぷくぷくしたら押し瓦で押して」

 係の女性が丁寧に作り方を教えてくれる。
 わずか2分ほどで焼き上がるため、写真を撮っていたら案の定、少し焦げた。
 それでも、焼きたての煎餅は格別。
 化学調味料不使用の特製タレを付けて味わえば、米の甘みがふんわりと口に広がった。
 川口市から家族6人で訪れた姫野達也さん(41)は、
「ふらっと来て体験できるのが魅力。煎餅作りがこんなに忙しいとは思わなかった」

 同社では非常食用の草加せんべいを開発中。
 きっかけは、東日本大震災時に宮城県内の取引先から受けた一本の電話だった。

「全く食べ物がない。煎餅を送ってほしい」

 社長の河野文寿さん(42)は「日持ちがよくて、そのまま味わえる煎餅は非常食に向いている」と考えた。
 通常3〜6ヶ月の賞味期限を3年に延ばす工夫をし、今月から予約を受け付ける予定という。

■ 松並木でまったり

 草加せんべいが生まれた場所にも足を運んでみた。

「おくのほそ道の風景地」として今年2014年3月、国の名勝に指定された草加松原遊歩道だ。
 綾瀬川沿いに約1.5キロの松並木が広がる。
 都市化に伴い、松は1965(昭和40)年ごろに約260本まで減少。
 その後、市民団体の保護活動などで少しずつ蘇り、現在は東京スカイツリーの高さにちなんだ634本が植えられている。

 まったりとした空気に癒やされ、遊歩道のベンチで自分で焼いた煎餅をひとかじり。
 名店の煎餅も捨てがたいが、焦げた煎餅にはまた、別のおいしさがあふれていた。

※ 草加せんべいの庭
 埼玉県草加市金明町790−2。手焼き体験は2枚で324円。駐車場16台。年中無休。午前10時〜午後7時。
[問]草加せんべいの庭 Tel 048-942-1000

※ 草加松原
 東武伊勢崎線松原団地駅東口から正面大通りを東へ進み、県道足立越谷線沿いの遊歩道。駅から徒歩5分。


iza イザ 産経デジタル、2014.7.6 15:44
[大人の遠足]
旧日光街道沿いで一休み
草加せんべいのルーツを探る

(川峯千尋)
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140706/lif14070615440015-n2.html

(ヤッホーくん補注1)<山香(やまこう)煎餅本舗「草加せんべいの庭」>

 コメをついて丸く延ばし、焼いて醤油をぬった「せんべい」は、東日本を中心に広くお茶菓子として愛されている。
「塩せんべい」「焼きせんべい」などと呼ばれていたが、戦後は「草加せんべい」が一般名詞のように使われてきた。

 日光街道2番目の宿場町だった草加宿(現在の埼玉県草加市)の名物だったという来歴もあるが、市内にたくさんあった煎餅店の主人たちが、高度経済成長期に百貨店の物産展などに進出、大いに「草加せんべい」の名前を浸透させたことが貢献したとされる。
「せんべい」イコール「草加せんべい」というイメージが定着したわけだ。

 ところが、厄介な問題が起きる。
 外国産のコメを原料に新潟で焼いた「草加せんべい」まで登場したのだ。
 さすがに草加の煎餅店は危機感を強めた。
 協議会を作って「地域団体商標」として特許庁に申請、登録された。
 2007年のことだ。

 それ以来、「草加せんべい」は、本物のせんべいを示す、草加市が誇る地域ブランドになった。

■ せんべいチョコ

 草加市内にはせんべいの製造・販売に携わる会社や店が60以上あるという。
 そんな中で最後発である1971年創業の「山香煎餅本舗」は、次々と斬新なアイデアを打ち出すことで、「草加せんべい」を発信し続けている。

 その1つが「草加せんべいの庭」。
 創業者で会長の河野武彦さんが建てたせんべいのミニ・テーマパークだ。
 木を使った建物にこだわり、建築家を探すところから始め、構想から10年をかけて2008年に完成した。 
 
 一角にある手焼き体験コーナーでは、予約なしでせんべいを焼くことができる。
 毎月第2土曜日には「子どもせんべい道場」を開催。参加するごとにスタンプがもらえ、15個ためると「職人」として山香煎餅の前掛けがもらえる。

「おじいちゃん、おばあちゃんと孫が一緒に来て楽しんで焼き、食べる。草加せんべいが思い出と共に記憶に刻み込まれるんです」

 現社長の河野文寿さんは言う。
 美味しかった物の記憶と共に、草加せんべいファンが増えていくわけだ。
「いずれ、職人の前掛けをもらった子どもの中から、当社に入社してくる人が出てきたら最高です」と河野社長。

 飲食コーナーには「草加せんべいソフトクリーム」や「草加せんべいバーガー」「草加せんべいドーナツ」といったメニューが並ぶ。
 バーガーは料理が趣味の河野社長が自ら開発した。
 せんべいの粉を練っているうちに、これをハンバーガーにしたら、と思い付いた。

 イベントの時などは、隣接する実演コーナーで、山香煎餅のベテラン職人による手焼きの技を実際に見ることができる。
 山香煎餅のせんべいを直売する売店棟では、さまざまなイベントが開かれる。
 オペラなどのミニ・コンサートは好評だ。

「最近、せんべいは売れないと言って、実際、多くの煎餅店がつぶれています。でも売り方を工夫すれば、まだまだ伸びるのではないか」

 そう語る河野社長は、新しい需要を取り込むために、せんべいの新商品開発にも余念がない。

 このところのヒット商品は「草加せんべいチョコ」。
 焼き上がった草加せんべいを細かく砕いてクランチ状にし、それとホワイトチョコレートを合わせた新食感のお菓子だ。
 6枚入り540円と決して安くはないが、「細かく砕くなど猛烈に手間がかかっているので、同業他社は誰も真似しない」(河野社長)と苦笑する。

 最近メディアで話題になったのが、「おいしい非常食」。
 賞味期限が通常6ヶ月のせんべいを、10倍の5年に延ばして長期備蓄を可能にした。
 保存期限が来ると廃棄処分する保存食が少なくないが、せんべいならば期限が迫ったらおいしく食べてしまえる。

■ 一球入魂の最高級品

 もともと、山香煎餅では「本物」にこだわって来た。
 例えば「天晴(てんはれ)」という商品はこだわりの有機米を原料に、天然素材のダシと有機醤油を使い、備長炭で職人が1枚1枚焼き上げる。
 どんなに頑張っても職人1人が1日100枚しか焼けない。
 値段は1枚1080円。
 12枚入りが1万4040円という、せんべいとしては超高級品だ。

「30年やっているベテラン職人にベンツぐらい乗らせてあげたい。一球入魂の最高級品ですから」

 せんべいを極めた職人に、それに見合う十分な稼ぎを払おうとすれば、決して高くない値段だ、というわけだ。

 もちろん、機械を使って焼いている商品も多いが、それでも本物の材料にこだわっている。
 調味料も「アミノ酸」は使わず、昆布やカツオのダシをとって使っている。
 スーパーなどに大量に売る価格勝負の商品は作らない。

■ 銀座に出店

 最近、河野社長は全国で「良い物」を作ったり、扱ったりしている人たちとのネットワークづくりに力を入れている。
 高知県の四万十川中流で町おこしを行う畦地履正さんの声掛けでスタートした「あしもと逸品プロジェクト」の中核メンバーなのだ。
 そんなネットワークから新たな商品も生まれている。

 畦地さんは四万十の栗やコメ、紅茶など「良い物」を育て、全国に売り出している。
 さっそく、四万十町でとれる「かおり米」を使い、山香煎餅がOEM受注してせんべいに仕立てた。
「かおり米せんべい」は草加せんべいスタイルではなく、油で揚げたせんべいだが、これも山香煎餅が長年培ってきた技術。
 草加せんべいの技術が全国各地の地域の特産品づくりに生きている。

 今、山香煎餅では、次なる挑戦を準備している。
 地域で磨いた「草加せんべい」ブランドで、「打って出る」計画だ。
 来年2018年1月22日に東京銀座の中心に「草加せんべい」の店を出す予定だ。

 銀座には東京の名だたる煎餅店が店を構える。
 そこにあえて「草加せんべい」で打って出るのだ。
 小さな店舗のため、手焼き体験などのコーナーは作れないが、タブレット端末を置いて、手焼きの草加せんべいのストーリーなどをアピールするつもりだという。

 また、季節感も大切にしていく。
 和菓子では四季折々に商品が変わるが、せんべいにはなかなか変化がない。
 春には山菜味、夏はカレー味、秋はさつまいも味、といった季節商品にも力をいれ、新しい需要を掘り起こしていく。

 かつては、関東を中心に「進物」といえば「せんべい」というのが定番のひとつだった。
 銀座という消費の最先端の場所で、せんべいを巡る消費者の嗜好をどう捉えていくか。
 おそらく「草加せんべい」にまったく新しい価値を加えることになるのだろう。


[図]
草加市:人口24.7万人。埼玉県東南部に位置し、東京都足立区と隣接するベッドタウンとして知られるが、小松菜や枝豆の生産なども盛んに行われている

[写真-1]
山香煎餅の河野文寿社長

[写真-2]
せんべい焼き体験に訪れた佐々木さんご家族(上)、「子どもせんべい道場」のスタンプ(下)

[写真-3]
草加せんべいバーガーと小松菜ジュース

[写真-4]
職人によって焼かれる「天晴」せんべい

[写真-5]
生産ラインを流れていくせんべい

[写真-6]
せんべいの原料となるお米

[写真-7]
せんべい焼き体験を楽しむ笑顔の斉藤さんご家族

(写真・生津勝隆 Masataka Namazu)

※ Wedge2016年12月号より

WEDGE Infinity、2017年11月26日
「草加せんべい」
地域ブランドで打って出る

磯山友幸 (経済ジャーナリスト)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9235

(ヤッホーくん補注2)<東武伊勢崎線松原団地駅>

■ 「若い人が多い街」のイメージ、駅名に

 東武鉄道の松原団地駅が2017年4月1日、獨協大学前〈草加松原〉駅に改称されます。


 そこにどんな目的があるのか、草加市に聞きました。

 2017年4月1日(土)に、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の松原団地駅(埼玉県草加市)が、「獨協大学前〈草加松原〉」駅に改称されます。
 東武鉄道では日光線の板倉東洋大前駅(群馬県板倉町)に続いて、大学名を駅名に冠する駅です。

 松原団地駅は、「東洋最大規模のマンモス団地」といわれた松原団地へ入居が始まった1962(昭和37)年に、その最寄り駅として開業しました。
 そして2年後の1964(昭和39)年に、団地の隣接地へ獨協大学が開学しています。

 現在、松原団地は老朽化により建て替えが進み、「松原団地」という名称もすでに使われていません。

 このため草加市や草加商工会議所は、「50年後の将来に向けて、まちの魅力を高めることを主眼とした駅名」を検討。
「獨協大学前〈草加松原〉」を駅名案に決定し、東武鉄道も沿線価値の向上にメリットがあるとして、案のとおりに駅名を改称することとなりました。

 草加市総合政策課によると、新駅名は「獨協大学」を入れることで「大学のある街」を想起させつつ、2014年に国の名勝へ指定された旧日光街道の松並木「草加松原」を副駅名に添え、再整備が進む地域のイメージアップと観光面のアピールを両立する狙いがあるそうです。

 また同課の担当者は、
「改称のインパクトは大きいと考えています。駅名に大学名を冠することで、『若い人が多い街』という発展性のあるイメージを持たせることができます。住み続けたい、あるいは市外の人に住んでみたいと思ってもらいたい」と話します。

 松原団地駅は浅草駅(東京都台東区)より19.2km、北千住駅(東京都足立区)より12.1kmの場所。
 北千住駅からの所要時間は、普通列車でおおよそ20分弱です。

[図]
副駅名〈草加松原〉は主駅名の下に併記される(画像出典:東武鉄道)。

乗りものニュース、2017.02.07
駅名改称「松原団地」を「獨協大学前〈草加松原〉」に
その目的とは?

https://trafficnews.jp/post/64328

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2019年09月23日

22日(日)は山歩クラブのお散歩会!

 秋分の日9月23日(月)を翌日に控えた山歩クラブ、「草加松原」を歩くお散歩会の日です。
 一時は、雨の天気予報が流れ、今日9月22日(日)になるまで台風17号の接近に伴う強い雨風に見舞われる嵐の予報もでていました。
 しかし、山と街は違う、雨が降ったら雨宿りするところもいっぱい、なんだったら途中で引き返してもいい、雨ん中、傘をさして旧日光街道を歩くのも乙なもの、と雨天決行を事前に伝えました。
 こうして、草加駅に揃った6人衆、合羽からげて三度笠、出発進行!
 そうか、草加に来たらせんべいだよね、とせんべいの手作り試作に挑戦しました。

おせんさん.JPG

志免屋.JPG

 そして、草加せんべい発祥の碑の前で記念写真。

草加松原入り口.JPG

 あいかわらず、わいわいがやがや、いつもの楽しい一日を過ごしてきましたのでご報告。
 なお9月14日(土)の牧野富太郎博士関連セミナーでは桜の源流を訪ねてなんとミャンマーまで飛んだ先生のご報告を5人(内1名は今夏、大泉学園町から土佐の高知の生家まで飛んだという猛者までおりました)でお聞きし、山歩クラブからは質問までとびだし、内容の濃いお勉強会となったこともあわせてご報告します。


 これが昨日の9月22日(日)、ヤッホーくんから仲間たちに送った一斉メールだったそうです。

 9月14日って、上野桜守の会が東京都美術館講堂で開いた講演会、「自然史から見たサクラの話」のこと。
(国立科学博物館 陸上植物研究グループ長 田中伸幸氏)

講師の田中先生はサクラがご専門ではありませんが、高知県立牧野植物園に14年間勤務された方で、牧野富太郎博士のサクラにまつわるエピソードや、東南アジアのサクラ等についてお話しいただく予定です。

 そして、手作りせんべいを焼いてきたお店は、志免屋(しめや、埼玉県草加市神明1-11-1 フリーダイヤル 0120-211-721)。

 創業明治34年。
 当店は一貫して伝統の製法手作りを基本に、最も適した二合半領の米選びから、自家製粉、セイロ蒸かし、 焼上調味に至るまで独自の風味で各界にご賞味頂いて居ります。
 武州草加宿時代からの老舗志免屋(しめや)は、 伝統に恥じないよう煎餅を創り出して居ります。

http://www.shimeya.com/intro.html

 2020年東京パラリンピックの事前合宿として、コロンビアの水泳選手団が草加市を訪れている。
 2019年9月19日には、草加せんべいの手焼きや茶道を体験し、日本の伝統文化に親しんだ。

 市と同国のパラ委員会は3月、事前合宿に関して合意。
 コーチを含む計6人の選手団は17日に来日し、10月1日まで市内に滞在する。
 プールで練習するほか、市民水泳大会に参加したり、小学校で講演したりする。

 この日は、市文化会館で手焼きしたせんべいを味わった後、近くの日本文化芸術施設「漸草庵(ぜんそうあん) 百代(はくたい)の過客(かかく)」で茶道を体験。
 市茶道協会の女性たちがたてた抹茶で一服した。
 草加松原の松並木の散策もした。

 下半身不随の障害があるモイセス・フエンテス・ガルシア選手(44)は、
「とても価値ある体験ができ、おもてなしの深さを感じた」と笑顔。
 過去のパラ大会は銀メダルが最高で、
「一番の夢が東京での金メダル。この合宿で日本の気候や食べ物に慣れるよう調整したい」と話した。


[写真]
お茶を味わうコロンビアのパラ水泳選手たち=草加市で

東京新聞、2019年9月20日
<東京2020>
コロンビア・パラ水泳選手
草加で日本文化親しむ

(近藤統義)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201909/CK2019092002000153.html

 山歩クラブも漸草庵にて ☟

漸草庵にて.JPG



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2019年09月22日

吉田裕「日本軍兵士」

アジア・太平洋戦争の戦場の実態を克明に描き、20万部のベストセラーになった「日本軍兵士」。
その著者で、近現代の天皇制研究でも知られる吉田裕さんは「天皇の軍隊」の実像を読み解く数少ない研究者だ。
大元帥たる昭和天皇は、あの戦争とどう関わり、どこまで兵士の窮状を知っていたのか。
沖縄戦や特攻をどう考えていたのか。

作戦決定に介入し、沖縄戦は海軍支持。特攻計画も認めた

―「日本軍兵士」には、食糧不足や劣悪な装備など、日本軍の過酷な実態が書かれています。

吉田裕: 軍隊の問題を自身に置き換えて考えられるように、『心と身体』に重きを置きました。体重の半分の装具を背負い、飢えや病気、心の病に苦しむ兵隊の姿から、戦争の現実を知ってほしかった。

― そうした戦場の現実を昭和天皇は知っていたのでしょうか。

吉田裕: かなり把握していたと思います。1943年9月には侍従武官長に、将兵を飢餓に陥らせるのは耐えがたい、『補給につき遺憾なからしむる如(ごと)く命ずべし』と言っています。ただ、最後まで日本軍の戦力を過信していたので、実情よりは楽観的だったとはいえるかもしれません。

― 実際の戦況をどの程度把握していたのですか。

吉田裕: どこでどの軍艦が沈んだかなど、日本軍が受けた被害については、ほぼ確実に把握していました。ただ、石油の備蓄量などは数字を改ざんして上奏されていたとも言われ、100%正確に知っていたかは疑問も残ります。
 一方で、敵に与えた損害は、誇大に報告されがちでした。台湾沖航空戦などが典型ですが、パイロットからの報告を精査せずに積み上げていったので、11隻もの航空母艦を沈めたことになっていました。実態とかけ離れた戦果が天皇のもとに情報として集められ、敵も苦しいはずだという楽観が生まれてしまいました。

―「まだ戦える」と思ってしまったわけですか。

吉田裕: 1945年2月に元首相の近衛文麿が戦争の終結を上奏したときに、天皇は『もう一度戦果を挙げてからでないとむずかしい』と答えています。その時点でも、まだ戦果を挙げられると信じていたんですね。米軍に打撃を与えて、できるだけ有利な条件で講和に持ち込むという『一撃講和論』をずっと支持していました。そのために戦争終結がずるずると遅れてしまった面はあると思います。
 沖縄戦でも、当初は、特攻作戦がうまくいっていると誤認していたようです。天皇が戦争をあきらめるのは1945年5月ごろです。ドイツの降伏と、沖縄がもう持ちこたえられないとわかって、ようやく終戦を決意したのです」

■ ■ ■

― 沖縄戦に、どの程度具体的に関わっていたのでしょうか。

吉田裕: 沖縄戦では、陸軍と海軍では当初の作戦方針に違いがありました。海軍は沖縄で最後の決戦をしようとしたのですが、陸軍は本土決戦を主張し、沖縄はその『捨て石』と見なしていました。持久戦にして米軍に損失を強い、本土決戦に備えようとしたのです。
 天皇は海軍を支持しました。陸軍は持久戦に備え陣地に立てこもる戦略をとろうとしましたが、天皇は出撃して決戦するように促しました。沖縄戦の場合は、天皇は海軍の側に立って、作戦に介入していたといえます。

― 天皇が作戦方針の決定にも関わっていたわけですか。

吉田裕: 歴史学者の山田朗さんが、どの作戦の際に天皇がどんな発言をして、どう影響を及ぼしたかを詳しく研究していますが、かなり主体的に関わっています。天皇が発する最高の統帥命令を、陸軍は『大陸命』、海軍は『大海令』といいますが、戦後の占領期、大陸命や大海令の存在は占領軍に秘匿されました。隠さなければいけなかったという事実が、天皇が作戦に関与していたことを証明しています。

― 戦争末期の特攻作戦についてはどうだったのでしょうか。

吉田裕: 陸軍の場合、正式な特攻部隊はつくられませんでした。部隊編成は天皇の大権ですが、特攻のような『非常の戦法』を天皇が裁可すると『徳が汚れる』という判断が陸軍にはあったんです。だから既存の部隊に、必要な機材と人員を増加配備して出撃させました。
 一方、海軍の場合は特攻専門部隊が編成されました。『回天』や『桜花』の部隊がそうです。編成を裁可している以上、特攻が天皇の意思に背いて行われたとは言えません。1945年1月には本土決戦用の陸海軍共同の作戦計画を裁可していますが、その中に特攻が含まれています。作戦としても特攻を認めているわけです。

■ ■ ■

― 参謀本部や軍令部の幕僚たちは、天皇の意思に全面的に従っていたのでしょうか。

吉田裕: 基本的には、参謀本部や軍令部がつくった作戦計画の大綱を天皇が見て、承認するという形でしたが、作戦に問題があると天皇が考えた場合には、意思を表示しています。天皇の積極的な意思表示があった場合には、幕僚たちも作戦を変えざるをえませんでした。
 ガダルカナル島の戦闘が激化していた時期に、陸軍の航空部隊を増援に出すよう海軍が強く要望しました。陸軍の飛行機は洋上飛行には不向きなので、陸軍側は抵抗します。しかし天皇は、繰り返し航空部隊を出すように言い、陸軍も結局は従っています。

― 明治天皇や大正天皇と比較すると、昭和天皇は特に統帥に関与していたとは言えるのですか。

吉田裕: 大正天皇は若いときから病気がちで、大きな戦争もなかったので、統帥権の発動者として行動することはほとんどありませんでした。明治天皇は、様々なかたちで戦争や作戦に関わりましたが、伊藤博文を始め、幕末の動乱をくぐり抜けてきた元勲たちが天皇を支えていました。彼らは作戦に介入して、戦争指導をするだけの力を持っていたんです。昭和期になると、伊藤のような人はいなくなった。天皇が文字通り軍を統帥することになり、制度の欠陥が露呈してしまいました。

― 天皇と軍隊をめぐる制度の欠陥とは何だったのでしょう。

吉田裕: 明治憲法体制では、あらゆる国家機関が天皇に直属していました。国務大臣も個別に天皇を補佐するシステムで、総理大臣も他の大臣と横並びの存在でしかありませんでした。内閣の外側に統帥部があり、それと並列して軍司令官や連合艦隊司令長官がいる状態です。普通の国なら参謀総長の下に軍司令官が置かれるのですが、明治憲法体制での参謀総長や軍令部総長は、基本的には天皇の命令を伝えるだけの存在で、自分では命令できません。
 昭和天皇は、国務については輔弼(ほひつ)の大臣を重んじるが、統帥については自分が最高責任者だと考えていたという証言があります。すべてを天皇に上げて、裁可を得なくてはならず、戦況の急な変化に対応できない。総力戦の時代には通用しないシステムでした。

■ ■ ■

天皇の役割含め、戦史は空白地帯。個人記録保存を

― 天皇の役割も含めて、旧日本軍がどんな組織で、どう動いていたのかは、あまり知られてこなかったように思います。

吉田裕: 日本の近現代史研究では、長い間、軍事史が空白でした。戦後の近現代歴史学を最初に担った世代は、ほとんどが軍隊経験があり、戦争や軍隊にはもう関わりたくないという気持ちがあったと思います。
 日本の伝統的な歴史学の考え方では、50年経たないものは研究対象にならないとされていました。当事者がまだ生きているから利害関係があり、客観的に見ることができないからという理由です。もうひとつ大きいのは、情報公開が遅れていたことです。僕が卒業論文を書いたのは1977年ですが、当時、旧防衛庁の防衛研修所戦史室には、所蔵資料の目録さえなかった。存在そのものが伏せられていた資料も多かったんです。

― 遅れた間に、当事者はどんどん死んでいきますから、研究自体も難しくなりますね。

吉田裕: あの戦争について、外交史、政治史、経済史などの研究はかなり進みましたが、最後の空白地帯が戦史です。軍隊や戦場そのものを歴史分析の対象にする。それが『日本軍兵士』で一番書きたかったことなんです。天皇と戦争のかかわりもその一部です。

―「日本軍兵士」があれだけ読まれたのはなぜでしょう。

吉田裕: 読者の感想を見ると、ブラック企業など、いまの問題に引きつけて読んでいる人も多いようです。バブル時代のCMで『24時間戦えますか』というのがありましたけれど、疲労の激しいパイロットに覚醒剤を打って出撃させる発想と、基本的には変わってないですよね。

― 戦史の空白を埋めていく上で、重要なことは何でしょうか。

吉田裕: 非売品や私家版で出された部隊史、兵士の回想録や日記の復刻などの資料の散逸が一番心配ですね。私家版だと納本義務がないので、国会図書館にないものも多い。活字になっていない日記やメモなども多く残されているはずなのですが、本人が亡くなると処分されてしまいます。戦争体験の記録を国が収集して、保存する仕組みをつくるべきだと思います」

◇ 吉田裕(よしだゆたか、1954年生まれ)
 専門は日本近現代史。一橋大学特任教授。著書に「昭和天皇の終戦史」など。6月から東京大空襲・戦災資料センター館長。


2019-08-07 23:40:00
(インタビュー)大元帥たる昭和天皇
歴史学者・吉田裕さん

(聞き手)シニアエディター・尾沢智史
朝日新聞、2019.8.7付け
https://ameblo.jp/lovemedo36/entry-12502683964.html

映画「この世界の片隅に」(2016年公開)が8月3日、NHKによって地上波放送で初めて放映された。
こうの史代さんのマンガを原作とする劇場版アニメだ。
主人公は、すずさん。
絵を描くのが好きな18歳の女性だ。
広島から呉に嫁ぎ、戦争の時代を生きる。
(関連記事「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」)
https://business.nikkei.com/atcl/interview/15/230078/120600064/
アジア・太平洋戦争中の、普通の人の暮らしを淡々と描いたことが共感を呼んだ。

一方、アジア・太平洋戦争中の、戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写したのが、吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』だ。
「戦闘」の場面はほとんど登場しない。
描くのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子−−。
同書の記述からは、軍が兵士をヒトとして遇そうとした跡を感じることはできない。
加えて、第1次世界大戦から主流となった「総力戦」(*)を戦う態勢ができていなかった事実が随所に垣間見られる。

(*)軍隊だけでなく、国の総力を挙げて行う戦争。軍需物資を生産する産業力やそれを支える財政力、兵士の動員を支えるコミュニティーの力などが問われる。

なぜ、このような戦い方をしたのか。
終戦記念日 を迎えたのを機に考える。
吉田特任教授に話を聞いた。

ー 吉田さんはご著書『日本軍兵士』の中で衝撃的な数字を紹介しています。
 支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち(中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)

 この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。
 戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていました。
 日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)
*:諸説あり

 飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が日本軍兵士を襲う事態まで発生しました。
 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。

 彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)

負傷兵は自殺を強要される
 この後の質問の前提にある日本軍兵士の悲惨な事態を読者の皆さんと共有するため、もう少し、引用を続けます。
 兵士たちは飢餓に苦しむだけでなく、自殺を強要されたり、命令によって殺害されたりすることもありました。以下に説明する行為は「処置」 と呼ばれました。
(前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。
 その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)
(中略)視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。

 当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり
(中略)
 単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配す
 これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
(『ガダルカナル作戦の考察(1)』)

 つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)

第1次大戦時に修正できなかった精神主義
 食糧が不足し餓死と背中合わせ。戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。こうした“踏んだり蹴ったり”の環境では、戦闘どころではありません。戦争はもちろんしないに越したことはありません。しかし、仮にしなければならないとするなら、兵士をヒトとして遇し、十分な食糧と休息を与えるべきだったのではないでしょうか。
 なぜ、アジア・太平洋戦争では、そんな態勢が作れなかったのでしょう。日清・日露というそれ以前の戦争では、兵士をヒトとして遇していたのでしょうか。

吉田裕: アジア・太平洋戦争の時ほど極端ではありませんが、日本軍に独特の精神主義が存在していました。典型は、歩兵による白兵突撃です。銃の先に銃剣を付け突撃し攻撃路を開く、というやり方。その背景には、「精神力で敵を圧倒する」という精神主義がありました。
 日露戦争後、こうした考え方が軍内に広まっていきます。例えば、陸軍は歩兵操典などの典範令(教則本)を大改正して、ドイツ製の翻訳から、独自のものに改めました。内容的には、日本古来の伝統、精神を重視するものにした。例えば夜襲を重視しています。

ー 日露戦争当時の軍は、日露戦争は白兵突撃によって勝ったと認識していたのですか。司馬遼太郎さんが同戦争を描いた小説『坂の上の雲』の影響かもしれませんが、「二〇三高地の戦いにおける白兵戦は愚かな作戦だった」という印象を持っていました。乃木希典・第三軍司令官は、効果が小さいにもかかわらず、犠牲の多い、白兵突撃を繰り返した、と。

吉田裕: 事実はともかく、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という“神話”を作ってしまったのです。
 本来なら、その後に起きた第1次世界大戦を研究する中で、こうした精神主義を修正すべきでした。しかし、それができなかった。
 例えば、歩兵による白兵突撃主義を取ったのは、日本軍だけではありません。欧州諸国の軍も同様でした。派手な軍服を着て、横一列に並んで突撃していったのです。しかし、第1次世界大戦を戦う中で挫折した。機関銃と戦車の登場が契機でした。
 日本軍は、第1次世界大戦中の欧州の状況を詳しく研究しました。しかし、研究するのと参加するのとでは話が違います。欧州戦に参加しなかった日本軍は、第1次世界大戦をリアリティーをもって感じることができなかったのでしょう。

部下による反抗恐れ私的制裁を容認

ー 兵士たちは餓死や処置を覚悟しなければならないだけでなく、私的制裁にも苦しめられました。私的制裁を苦にして、逃亡、奔敵(敵側に逃亡すること)、自殺に至る兵士が多数いました。
 初年兵教育係りの助手を命じられたある陸軍上等兵による、初年兵への執拗な私的制裁によって、彼の班に属する初年兵28人のほとんどが「全治数日間を要する顔面打撲傷」を負った。このため、私的制裁を恐れた初年兵の一人が、自傷による離隊を決意して自分自身に向けて小銃を発砲したところ、弾丸がそれて他の初年兵に命中し、その初年兵が死亡する事件が起こった。(『陸軍軍法会議判例類集1』)(出所:『日本軍兵士』)

 なんとも悲惨な話です。なぜ、私的制裁を取り締まることができなかったのでしょう。

吉田裕: 当時は、徹底的にいじめ、痛めつけることで、強い兵士をつくることができると考えられていました。この考えから抜け出すことができなかったのです。
 加えて、私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていたことが挙げられます。兵士たちは劣悪な待遇の下に置かれています。この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る。実際、上官に逆らう対上官犯 は戦争が進むにつれて増えていきました。これを、単に規制するだけでは、火に油を注ぐことになりかねません。そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました。
 鬱屈とした激情を、「下」だけでなく「外」に向かって発散するのを容認する面もありました。
 そうした教育の戦場における総仕上げが、「刺突」訓練だった。初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である。
 藤田茂は、1938年末から39年にかけて、騎兵第二八連隊長として、連隊の将校全員に、「兵を戦場に慣れしむるためには殺人が早い方法である。すなわち度胸試しである。これには俘虜(捕虜のこと)を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるから、なるべく早くこの機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」、「これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示したと回想している。(『侵略の証言』)(出所:『日本軍兵士』)

軍刑法に私的制裁の禁止条項なし


ー 軍法会議は機能していなかったのですか。

吉田裕: 陸軍や海軍の刑法には、私的制裁を禁止する条項がありませんでした。
 陸軍刑法に「陵虐の罪」の規定があります。しかし、これは、兵士を裸にして木にくくりつけるなど非常に極端な行為を対象にするもので、日常的に起こる私的制裁を対象にするものではありませんでした。
 取り締まるとすれば、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」を適用する。

ー 確かに、初年兵28人に「全治数日間を要する顔面打撲傷」を与えた陸軍上等兵は刑法の傷害罪で懲役6カ月の有罪判決を受けています。この事件は初年兵の一人が自傷を試みたことによって発覚しました。かつて見た、「ア・フュー・グッドメン」という映画を思い出しました。トム・クルーズ氏が主演で、軍に勤める法務官。海軍の基地で、ジャック・ニコルソン氏演じる司令官が「コードR」(規律を乱す者への暴力的制裁)を命じて、若い兵士を死に至らしめる。法務官が法廷で大ばくちを打って、司令官を有罪に持ち込む、というストーリーです。この「コードR」に相当するものが、当時の日本の軍刑法には存在しなかったのですね。

吉田裕: 軍法会議に関する研究は実は進んでいないのです。法務省が資料を保管し、公開してこなかったのが一因です。今は、国立公文書館に移管されたようですが。二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになったのは敗戦後50年もたってからのことです。これから新たな研究が出てくるかもしれません。

ー 食糧の調達が十分でなく、多くの餓死者が出ました。そこから容易に想像がつくように、他の軍需工業品についても、供給力が伴っていませんでした。産業に、総力戦を支える力がなかった。例として、吉田さんは軍靴に注目されています。
 雨のために凍死するものが続出した。軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けてしまい、はきかえた予備の新しい地下足袋もたちまち泥にすわれて底が抜けてしまった。そのために、はだしで歩いていた兵隊がやられてしまったのである。雨水が体中にしみわたり、山上の尾根伝いに、深夜はだしで行軍していたら、精神的肉体的疲労も加わって、訓練期間の短くて、こき使われることの最も激しい老補充兵が、倒れてしまうのも当然のことであろう。(『遥かなり大陸の戦野』)
(中略)
 頑丈な軍靴を作るためには、縫糸は亜麻糸でなければならなかった。亜麻の繊維から作られる亜麻糸は細くて強靭であり、特に、陸海軍の軍靴のように有事の動員に備えて長く貯蔵しておく必要があるものは、「絶対にこの糸で縫うことが必要である」とされていた(『製麻』)。
 しかし、亜麻は日本国内では冷涼な気候の北海道でしか栽培することができない。そのため、日中戦争が始まると軍の需要に生産が追い付かなくなった。北朝鮮や満州での栽培も試みられたが十分な成果をあげることができず、結局、品質の劣る亜麻の繊維まで使わざるをえなくなった。
(中略)
 以上のように、こうした基礎的な産業面でも、日本はかなり早い段階から総力戦上の要請に応えられなくなっていたのである。

 なぜ、このような準備不足のまま、アジア・太平洋戦争に突入したのでしょう。日中戦争については、意図せず戦線が拡大していった面があります。満州事変は、関東軍が勝手に始めたもの。時の若槻礼次郎内閣が意思決定して開始したわけではありません。日中戦争の火蓋を切った盧溝橋事件にしても偶発的に始まった。しかし、対米戦はそうとは言えません。真珠湾攻撃によって、こちらから仕掛けたわけですから。

吉田裕: おっしゃるとおりですね。対中戦争は国家意思に基づいて始めたものではありません。盧溝橋事件も、偶発的に始まったことが最近の研究で明らかになっています。他方、対米戦は4度の御前会議を経たのち、閣議決定して開戦しました。

統一した意思決定ができない明治憲法

ー 盧溝橋事件(1937年)によって日中戦争が始まる前の1935年に、陸軍で軍務局長を務めていた永田鉄山が刺殺されました。総力戦をにらみ、それに耐える国家体制を作るべく様々な構想を練っていた戦略家です。彼が生き続けていたら、その後の展開は違ったものになっていたでしょうか。

吉田裕: そういう考えは、あり得ます。彼は非常に優秀な軍事官僚で、重要人物です。しかし、彼一人で状況を変えることができたかは判断がつかないところです。私は、より大きなシステム上の問題があると考えています。

ー システム上の問題とは?

吉田裕: 明治憲法です。これが定める統治構造は分散的で、総力戦を戦うのに必要な統一的な意思決定をするのに不向きでした。さまざまな決定が折衷案もしくは両論併記になってしまうのです。
 例えば、陸軍は対ソ戦をにらみ北進を主張する。海軍は石油をはじめとする東南アジアの資源を求めて南進を主張する。すると、結論は「南北併進」になってしまうのです。1941年7月に開かれた御前会議はこのような決定をくだしました。
 さらに言えば、南北併進に基づく決定をしながら、政府は米国との外交交渉を継続するのです。戦争の準備をすれば日米関係は悪化します。外交交渉は進まない。つまり、その場しのぎの決定しかできず、それが悪循環を引き起こしたのです。陸海軍の間に統一戦略はない。政府と軍も進む方向が異なる。三つどもえの状態に陥っていました。

ー 明治憲法のどこに問題があったのですか。

吉田: いわゆる統帥権(*)の独立ですね。

(*)作戦・用兵に関する命令。陸軍の統帥部として参謀本部が、海軍の統帥部として軍令部があった。それぞれのトップは参謀総長と軍令部長

 総力戦を戦うのであれば、本来なら、国務(政府)と統帥(軍)が統一した戦略をもって臨む必要があります。しかし、これはなかなか実現しませんでした。
「国家機関の分立制」「政治権力の多元性」といわれる仕組みを採用していたからです。「統帥権の独立」を盾に、軍は政府の外に立つ。軍の中でも陸軍省と海軍省が分立している。軍令*については陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が分立している。政府においても、各国務大臣は担当分野についてそれぞれが天皇を輔弼(ほひつ、補佐)する仕組み。各国務大臣の権限が強く、首相の権限は弱かったわけです。

ー 明治憲法は、なぜ「国家機関の分立制」を採ったのですか。

吉田裕: 同憲法の起草者たちが政党勢力を恐れたからです。政党が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して、天皇の地位が空位化することを恐れた。
 総力戦を戦うならば、明治憲法を改正しこれを改める必要があったと思います。

高橋是清が主張した参謀本部の廃止

ー 総力戦をにらんで、憲法を改正しようという具体的な動きがあったのですか。

吉田裕: 首相や蔵相を務めた高橋是清が1920年に参謀本部廃止論を唱えています。この軍事上の機関が内閣のコントロールから独立して、軍事、外交、経済の面で影響力を及ぼしている、とみなしていました。陸軍大臣や海軍大臣の統制に服していた参謀総長や軍令部長が、だんだんそれを逸脱するようになってきたのです。
 首相に在任中だった原敬も、「何分にも参謀本部は山県(有朋)の後援にて今に時勢を悟らず。元来先帝(明治天皇)の御時代とは全く異りたる今日なれば、統率権云々を振廻すは前途のため危険なり。(中略)参謀本部辺りの軍人はこの点を解せず、ややもすれば皇室を担ぎ出して政界に臨まんとす。誤れるの甚だしきものなり(下略)」(『原敬日記』)として参謀本部に批判的でした。
 ただし、憲法改正までは言っていません。明治憲法は欽定憲法(天皇が国民に下賜した憲法)なので、「欠陥がある」とは言い出しにくいのです。もちろん、明治憲法も改憲の手続きを定めてはいたのですが。
 参謀本部や軍令部は明治憲法が規定する機関ではありません。これらは、そもそも統帥権をつかさどる機関として設置されたのではありません。最初は、政治(政府)の影響力が軍に及ぶのを遮断する役割でした。明治の初期は、政治家であり軍人である西郷隆盛のような人が力を持っていました。そうすると、軍が政争に巻き込まれる可能性が生じます。それを避けようとしたのです。
 統帥権の独立と言うけれど、明治憲法のどこにもそのような規定はありません。内閣が担う輔弼の役割の範囲外と書かれてはいないのです。そうではあるけれども、既成事実の積み上げによって、政治や社会が容認するところとなった。戦前の日本にはシビリアンコントロールが根付かなかったですし。内閣には常に陸海軍大臣という軍人の大臣がいたので、純粋なシビリアンの内閣は存在しませんでした。
 そして、ある段階から、軍が自分の要求を通すための口実として統帥権を利用するようになったのです。ロンドン海軍軍縮条約(1930年に締結)あたりからですね。それに、政党も乗じるようになりました。

ー 当時、政友会の衆院議員だった鳩山一郎が、同条約の調印は統帥権の干犯だとして、時の浜口雄幸内閣を糾弾しました。

吉田裕: そうですね。

ー 高橋是清と原敬はどちらも政友会を率いて首相を務めました。政友会は親軍的なイメージがありますが、そうではないのですね。

吉田: ええ、少なくとも1920年代は親軍的ではありませんでした。

日中、日米、日ソの3正面で戦う

ー ここまでご説明いただいたような事情で、戦前・戦中の日本はずっと統一した意思決定ができなかった。

吉田裕: はい。そのため、1941年ごろには、3正面作戦を戦おうとしていました。なし崩し的に始まった日中戦争が泥沼化し、1941年12月には対米戦争が始まる時期です。
 1941年6月に独ソ戦が始まると、陸軍はこれを好機ととらえ、対ソ戦を改めて検討し始めました。ドイツと共にソ連を東西から挟み撃ちにしようと考えたわけです。関東軍が満州で特種演習(関特演)を行ったのはこの文脈においてです。
 この時、兵力はもちろん、大量の物資を満州に集積しました。「建軍以来の大動員」を言われる大きな動きでした。つまり、日露戦争よりも大規模な部隊を配備したわけです。しかし、予想に反してソ連が踏ん張り、極東に配備していた戦力を欧州戦線に移動しなかったので、対ソ戦は実現しませんでした。動員した兵力と物資は無駄になり、その後、ソ連とのにらみ合いに終始することになったわけです。

ー ゾルゲ事件はこのころの話ですか。駐日ドイツ大使館員をカバーに利用していたソ連のスパイ、ゾルゲが、「日本が対ソ戦を始めることはない」との情報を得て、ソ連に通報。スターリンはこの情報を元に、対独戦に集中した、といわれています。

吉田裕: この頃の話ですね。ただし、スターリンはゾルゲがもたらした情報をさして重視しなかったといわれています。

ー 対中、対米、対ソ戦を同時に戦う。後知恵ではありますが、無謀に聞こえますね。

吉田裕: その通りですね。しかも、1942年の春ごろ、陸軍は再び対ソ戦を考えるのです。マレーシアを落とし、フィリピンを占領して、初期作戦を予定通り終えたことから、南方は持久戦に持ち込み、対ソ戦を始めようと考えた。満州に配置された関東軍の規模がピークを迎えるのはこの頃です。
 同じ時期に海軍は、ミッドウェーやソロモン諸島に戦線を拡大します。米国の戦意をそぐのが目的でした。いずれも失敗に終わりますが。
 初期作戦が終了した後も、陸海軍で統一した戦略がなかったわけです。陸海軍が統一した軍事戦略をようやく作ることができたのは1945年初頭のこと。本土決戦を前にしてのことでした。
日露戦争時の「勝利の方程式」から抜け出せなかった

ー 陸軍がなぜそれほど対ソ戦にこだわったのか、また海軍はなぜマリアナ諸島やソロモン諸島のような遠くにまで戦線を拡大したのか、素人には理解できないところです。

吉田裕: 日露戦争の時から続くロシア、ソ連の脅威が陸軍の頭から離れなかったのでしょう。加えて、満州事変のあと満州国を建国し、ソ連と国境を直接接するようになったことが大きい。しかも、ソ連の部隊増強ペースはかなり速かったのです。

ー 満州というソ連との緩衝地帯を自ら無くしておいて、その脅威におびえるとのいうのは、皮肉な話です。

吉田裕:その通りですね。
 海軍も日露戦争の成功体験から逃れることができませんでした。海軍の基本的な考えは、日本海海戦(*)のような艦隊決戦で決着をつけること。そのため、太平洋を西進する米艦隊の戦力を、「漸減邀撃(ぜんげんようげき)」してそいでいく。具体的には、第1陣は潜水艦部隊、第2陣は一式陸上攻撃機を使った空爆、第3陣は魚雷を積んだ軽巡洋艦です。この一式陸上攻撃機の基地がマリアナ諸島のサイパンなどに置かれていました。

(*)東郷平八郎司令官が率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破った海戦

 そして、艦隊の規模が同等になったところで、西太平洋で艦隊決戦を挑む。そのために巨大な戦艦「大和」や「武蔵」を建造したわけです。
 しかし、艦隊決戦は対米戦争の最後まで行われることはありませんでした。マリアナ沖海戦は、空母を中心とする機動部隊同士の戦いになりました。ミッドウェー海戦も機動部隊が前衛を構成し、大和は後ろに控えているだけでした。燃料の石油を食いつぶしただけです。むしろ、空母を戦艦が守るかたちで布陣すべきでした。
 ソロモン諸島の基地は、米国とオーストラリアを結ぶシーレーンを遮断する役割を担っていました。
 前に陸軍は「白兵戦によって勝った」という“神話”ができたお話をしました。陸軍も海軍も、日露戦争の総括が甘かったのです。


日経ビジネス、2019年8月14日
飢餓、自殺強要、私的制裁−−戦闘どころではなかった旧日本軍
日経ビジネス、2019年8月15日
米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定

(聞き手)森 永輔、日経ビジネス副編集長
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700039/
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700040/

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2019年09月21日

[インタビュー]一橋大学・吉田裕教授

[インタビュー]
一橋大学 吉田裕教授(大学院社会学研究科)

― 先生が日本の近現代史・軍事史の研究に進まれたきっかけは何ですか?

吉田裕: 生まれたのが埼玉県の豊岡町(現入間市)なんですが、そこは戦前は陸軍の航空士官学校があって、戦後は米軍のジョンソン基地となり、その後返還されて航空自衛隊の基地となったという、戦前からの基地の街なんですね。
 僕が子供のころまだ米軍基地だったんですが、そういう基地の街で育ちました。
 ただ、過去の戦争についての興味というのはほとんどなかったんですね。
 実は、僕らの世代は隠れ軍事オタクで軍事のことについて妙に詳しいひとが多いんですよ。
 それは、50年代末にマンガ週刊誌が出てきて、その第一世代になるんですが、当時のマンガ週刊誌はほとんど戦争の話で満ち溢れているんですね。
 その内容自体は、戦争に対する反省というよりは戦争をスポーツのように描いたり、過去の日本軍の兵器の優秀さを強調したりといったことに力点があって、戦争の悲惨さとか日本の戦争責任にかかわることはまったく触れられていない本ですね。
 そういう子供文化の中で育ってきたので、日本の海軍の戦艦の名前を全部言えるとかはありましたね(笑)。

 そんな中でもなにか感じるとこがあったのは、やっぱりベトナム戦争ですね。
 ベトナム戦争でお茶の間でテレビを通じて戦争というのを目にして、自分でどう消化していいか分からないけど非常にショックでしたね。
 僕の家の隣が米軍将校のハウスで、奥さんが日本人でその子供とよく遊んでいたんですけど、父親がベトナムに行くことになったとき、母親が半狂乱状態になっていたのを、すごくよく覚えています。
 そのベトナム戦争のことがずっとひっかかっていた。


―  当時の中学生の間では、やはりベトナム戦争は話題になっていましたか?

吉田裕: 議論した記憶はあまりないけれども、やっぱりショッキングですよね。
 戦場が初めてお茶の間にもちこまれた最初の戦争でしたから。
 南ベトナムの秘密警察の長官が路上で解放戦線の将校を頭にピストルをつきつけて射殺するシーンを見たときは、本当にショックでした。
 こういうマンガの子供文化の戦争とは違う戦争の世界というのがあるんだなって漠然と感じました。

 高校時代は、受験勉強ばっかりで本はろくに読んでいませんでした。
 大学は、東京教育大学に行ったんですね。
 大学で一番最初に読んでショックを受けたのは、家永三郎さんの『太平洋戦争』(岩波書店、1968年、2002年7月に岩波現代文庫)ですね。
 公文書とか日記など、政治家や高級軍人の一次史料、そうした従来の歴史学の正統的な史料だけではなく、一般の民衆の戦争体験記・回想録・日記、そういうものの膨大な史料にもとづいて太平洋戦争の歴史を描いてるんですね。
 日本軍の残虐行為等々も含めて描いていて、これは非常にショッキングでした。
 もう一つは、、熊沢京次郎というペンネームで本多勝一さんたちが1974年に現代評論社から出した『天皇の軍隊』(1991年8月に朝日文庫)ですね。
 これは、中国戦線での治安粛清戦に参加した兵士たちからの聞き取りに基づいて、日本軍の治安作戦の実態を本格的に明らかにした最初の本といっていい。非常に生々しい戦場の現実が描かれていて、同時に戦争の中でほんの少しだけど社会上昇を遂げていく、たとえば中国戦線に行って除隊して、満州国の警察官になったり、今まで日本で体験した生活より上にあがっていく。
 そういうある種の社会上昇を、一番下層のひとたちが、戦争の中で遂げていくという面にも触れていて、そういった面でも非常にショッキングでしたね。

 あとは、82年の教科書検定の国際問題化ですね。
 一部初期の報道に誤報があったのは確かですが、日本の文部省(現文科省)側が一貫して「侵略」という言葉を排除してきたのは紛れもない事実です。
 アジア諸国と日本との間に歴史認識の面で大きなずれがあって、日本の歴史学自体は、戦争の実態、たとえば戦争犯罪の解明ということで言えば、今までほとんど何もやってきてないのではないか、ということで、歴史学界の中で論争にもなりました。
 従来、戦争犯罪とか戦争の責任とかいった問題は、政治的問題としてタブー視されてきた、触れられないできた、そういう傾向があって、アジア・太平洋戦争の歴史について、戦争犯罪とかそういう負の問題を含めての研究というのがない、ということが教科書問題のあたりから日本人のなかで認識されてきたんですね。
 そんな中で書いたのが、1986年に青木書店から出した『天皇の軍隊と南京事件』ですね。
 南京戦にかかわる回想録は、部隊史を別にしても、私家版とか非売品という形、場合によると手書きで書いたものをコピーして図書館に寄贈したりという形で、膨大な量の史料があります。
 また、その頃からようやく防衛庁の防衛研究所戦史部が史料を少しずつ見せるようになってきたんですね。
 戦闘が終わった後に公式の記録として戦闘詳報というのを出すのですが、それを読むと載ってるわけですね、捕虜を160人刺殺したとか公然と。
 そういう形で回想録や、部隊の公式の記録の中に、戦争犯罪の痕跡がどう残されているかを、いわば拾い上げていく、こういう手法で『天皇の軍隊と南京事件』を書いた。
 ただ、そのときちょっと自分自身で違和感があって。要するに記録をざーっとみて戦争犯罪の記録のところだけ、つまみ食いしているような感じがして、それでいいのかなっていう意識はかなりありました。
 その頃からもうちょっと戦争や軍隊を支えた一般の庶民兵の生活史とか意識とかそういうのを考えなきゃいけないんじゃないか、と思うようになって、それをまとめたのが岩波新書の『日本の軍隊』ですね。

 そのあと、今度は逆に戦後史の中での日本人の戦争観みたいなものを考えてみようと思ったんですね。
 戦時中の士官学科出とか兵学校出とかの正規将校というのは、やっぱり学歴的にはエリートなんですよ。
 彼らは、戦争が終わった後、大学に入り直して、それで大学を出て、戦後の高度成長期を担っていくエリート集団になったわけですね。
 そのひとたちはやっぱりものを書く能力を持っているし、機会もあるし、いろんな形で記録を残していると思うんです。
 そうではない一般の兵士の戦後史、彼らが戦争の歴史と葛藤しながらどういう風に戦後という時代を生きてきたのかっていう問題を書いてみたいなあと思い始めたんですね。

 ちょうどその時、戦友会関係の雑多な文献、戦友会誌みたいなもの、そういうものが膨大に靖国神社の靖国偕行文庫があるのが分かったんですね。
 よく調べてみたら、要するに2000年前後くらいから戦友会が急速にみんな解散してしまって、それに伴って戦友会関係の文献を靖国偕行文庫に寄贈しているんですね。
 それを読み始めたら、やっぱりおもしろいんです。
 それでかなり一般の庶民の意識の変遷を追えるんじゃないかって思いました。

 一方、奈良県立図書情報館に戦争体験文庫ができたり、傷痍軍人の労苦をしのぶという目的で日本傷痍軍人会が運営する「しょうけい館」ができたりもしました。

 そういう新しい資料状況が生まれたんですね。
 戦争の時代を知る必要があるとともに、戦後史の中で、その戦争の時代にひとりひとりの人間がどう向き合ってきたかということまで含めてみないと、戦争の時代全体を総括したことにはならないって気持ちが非常に強く、むしろ戦後に焦点をあわせて侵略戦争と諸外国から非難されている戦争を戦った兵士たちの戦後の意識の変化と生き方のようなものを、そういった文献をもとにして少し書いてみたいと思ったんですね。
 それで寄り添いつつ、半歩距離を置いて批判的にながめつつ、というスタンスで書いてできたのが、この『兵士たちの戦後史』(岩波書店、2011年7月)ですね。


― 戦争体験ということでいえば、藤原彰先生など実際に兵士として戦争体験をされて、その後研究に入られたという方と、吉田先生のような戦争経験がない世代の研究者で、研究に対して何か大きな違いはありますか?

吉田裕: それは結構ありますね。
 やっぱり、戦後の第一世代の歴史家というのは、戦時下に沈黙をよぎなくされていた世代ですね。
 遠山茂樹さんとか服部之総とかの世代です。

 第二世代くらいが藤原さんたちの世代で、戦争に直接行った経験を持った世代ですよね。
 学徒出陣組といってほぼいいと思うんですけど。
 その世代には、戦争や軍隊につながることにはもう関わりたくないという意識が強くって、軍隊そのものを研究する、狭い意味での戦闘とか軍事というものを研究することにはある種の心理的タブーがあったと思うんですね。
 藤原さんはちょっと例外で、将校であった経験を活かして、マルクス主義的な軍事史研究をやった。
 その藤原さんにしても自分の体験を語るようになったのは晩年ですもんね。
 そういうタブーの意識は分からないでもないんですけど、その分だけ狭い意味での軍事史とか、戦場・戦闘とかそういうものの研究については日本ではなかったんですね。
 そういう点である種のタブーがあった。

 それが僕らの世代くらいから全然そういう研究がないこと自体がやっぱりおかしいんじゃないのかという気持ちが出てきました。
 少なくともあれだけ巨大な軍隊が存在して、自滅するわけではなくて、外国の軍事力によって打倒されまでは存続していた、社会もそれを支えていた、そのことの意味を考えなければいけないという気持ちが出てきたんですね。
 それで、軍隊の問題、さらには地域や地域の民衆がいかにして軍隊を支えてきたのか、という地域と軍隊の関係性を問うような研究がたくさん出てきました。


― 今日の研究動向をみると、植民地研究やメディア論的な研究がひとつの潮流としてあるように思いますが、そういった研究が出始めるのも先生の世代からでしょうか?

吉田裕: そうですね。
 戸ノ下達也さんなんかは、戦時下の音楽、「海ゆかば」のような戦時下の国民歌謡といわれるようなものの研究をしてますね。
 吉川弘文館から『「国民歌」を唱和した時代 昭和の大衆歌謡』(吉川弘文館、2010年7月)を出してます。
 戸ノ下さんには、戦時下の音楽会を再現して、「海ゆかば」を演奏したりということをされて同時代のひとの感性みたいなものを自分の皮膚感覚で感じとってみるところから始めるというような問題意識があるんですね。
 彼は1963年生まれですけど、彼なんかの世代になると、僕らより「ぶっとんでる」ところがありますね(笑)。
「原爆の図」で有名な丸木美術館で「海ゆかば」をやったりしているんですね。
 当然だけど反発も出てきて、反戦を柱にしている丸木美術館でなんで「海ゆかば」を演奏するんだという反発が出てきたようですが、ともかく当時の時代の雰囲気みたいなものを追体験するという意味もあって、戦時下のコンサートを再現するということを熱心にやっているんですね。
 それは、戦争体験世代の研究者にはない感性ですね。

 あとは、これは議論が分かれるところなんですが、戦前と戦後の連続と断絶という問題があって、総力戦論というのが盛んになって、むしろ戦時下に社会の現代化が進んでいくという側面に注目する。
 つまり、8月15日で切れているんじゃなくて、大きな変化というのが戦時下から進んでいて、戦後につながってくるんだと考える考え方があるんですね。
 私はその考えには、一面賛成、一面反対で、断絶してる面も明らかにあり、連続だけで歴史を読みとくのはおかしいと思っています。
 ただ、連続面をも視野に入れなければいけないというのが共通の問題意識として出てきているのが現状でしょうね。
 ですから、この『兵士たちの戦後史』での問題意識も、戦争の時代のそのものの歴史像の再構成というだけでは不十分で、やはり戦前と戦後とを串刺しにして考える必要があるんじゃないかという問題意識があるんですね。
 その時代に兵士たちがどう戦ったのか、どういう意識だったのか、地域や民衆、銃後が彼らをどう支えたか、あるいは政府が彼らをどう煽動したか、という研究も必要なんですけれど、戦争の時代に、ひとりひとりの人間が、戦後、向き合ってきたのか、向き合ってこなかったのか、向き合ってきたとすればどういう向き合い方をして、結局どういう風にその時代を総括しようとしたのか、ということを含めて解明して、初めて完結するということですよね。
 そして、戦後の問題までやらないと、当事者意識の欠けた自分とは関係のない問題になってしまう。
 僕も戦争に行ったわけではないけれど、その意味では直接の当事者ではないけれど、戦後史も含めて考えれば、まったく関係がないとはいえないわけですよね、誰しも。そうすると、戦後史というものを、きちんと視野に入れれば、自分の問題としてどうその問題を受け止めるかという視座が獲得できるんじゃないかというのがあって、それで戦後史ということを取り上げたんですね。
 いままでこういった本はないと思うんですね、そういう意味でもかなりの冒険をした本だと思います。

 ただ、本当はもうちょっと時間が欲しかった、調べたかったというのはありますね。
 たとえば、士官学校や海軍の兵学校を出たエリート幕僚将校で、衆議院議員になったのがどれくらいいるかとか。
 つまり、戦前のエリート軍人が「国防族」などの族議員につながって行くのかという問題です。
 初期は辻政信とか有名な人がいるのですけど、全体としてみたらあんまり多くないような気がする。


― ほとんど一般の兵士だったということですか?

吉田裕: そうですね。
 あとは学徒兵。
 ざっと見た印象だと、学徒兵だと社会党や共産党に入っているのが少なくないですね。
 そんなことを含めて調べてみようと思って、『議会制度百年史』を調べてみたんですね。
 だけど、ひとりひとりの経歴が書いてあるんですが、軍歴の取り方がばらばらで詳しい軍歴がわからなくて、全然役に立たなかった(笑)。


― 若い世代への戦争体験の継承という問題については、どう思いますか?

吉田裕: 若い世代に戦争の時代のことをどうやって継承していくかは非常に難しい。
 この本でみてきたひとたちは体験と記憶に基づいて、やっぱりひどい戦争だったということは実感として持っているわけですよね。
 決して聖戦を戦ったわけじゃないというのは実感として持っていて、その実感は重みがあった。
 たとえば日本が軍事大国になることを抑制する力としてずっと長い間作用してきたと思うんです。
 侵略戦争でない、という考えを持つ人も含めてのことです。
 そういうことがあって、政治的立場とか戦争に対する評価は別にしても、やっぱり戦争の悲惨さというようなところを共通に体験してきて、そういう意味での戦争はもういやだという意識をかなり強固に持った集団が日本社会に存在したわけですけど、今その世代が消滅しようとしているんですね。
 今までのように共通の体験とか共通の記憶を前提とした、歴史研究とか平和教育とかは、自明のことですけれど、通用しない時代になってきているということなんでしょうね。

 今の十代をみたら、アメリカと戦争をしたことすら知らない人がいますからね。
 東京裁判史観の克服なんて、「新しい歴史教科書をつくる会」は言っていますが、世論調査でみても、言葉としては知っていても東京裁判の内容を知らないひとのほうが多い時代ですからね。愕然としますけど(笑)。


― そういった戦争を知らない若い世代にお勧めする本はありますか?

吉田裕: 兵士たちの証言をすごく丁寧に集めているという意味で言えば、『証言記録 兵士たちの戦争』(NHK出版、2009年2月、全7巻、2011年7月)がいいですね。
 実際の生身の兵隊の声とか感性とかを知ることができます。それから、今、インターネットでみられるNHK「戦争証言アーカイブス」もいいですね。
 兵士の生の証言だけではなく、「日本ニュース」という当時の戦意高揚のためのニュース映画も一本ずつ全部見られます。
 松野 良一 (監修)『戦争を生きた先輩たち』(中央大学出版部、2010年8月)は、現役の中央大の学生が自分たちの先輩のところをまわって戦争体験を聞くという本です。
 彼らは全然戦争に関する知識がないんで、最初はかなりとんちんかんなことを聞いたと思うんだけど、何度かインタビューを重ねるうちに、自分の問題に置き換えて考え始めるんですよね。
 自分がその時代に学生として生きてたら、どうしただろうって、そう考えながら若い人たちがレポートを書いているので、これはとてもよかったですね。
 自分の問題に置き換えてとらえなおすという発想が前面に出てる本です。
 このあたりから入っていくのがいいんじゃないかと思いますね。

 あと、オーソドックスな本で言えば、吉見義明さんの『草の根のファシズム』(東京大学出版会、1987年7月)ですね。
 戦争を支えた兵士や銃後のひとたちの意識を日記等々から最初に分析した本です。


―最後に、先生の今後のご関心・ご研究はいかがですか?

吉田裕: 今まで、戦場・戦闘そのものを研究の対象にしてきたのは、純軍事的にひとつひとつの戦闘を分析して、次の戦闘に備え生かしていくために、戦争の教訓、いわゆる戦訓を研究するというものばかりなんですね。
 基本的には、日本では、戦場・戦闘そのものを研究の対象にしてきたのは自衛隊を中心にした戦訓研究しかないんですよ。
 それとは違う形で、もっと色々な角度から戦闘・戦場研究をやりたいなという思いがありますね。
 そこで気になるのは、軍医などの問題ですね。
 軍医とか衛生兵が書いたものの中には、生々しいことが書かれていることが多々あります。
 それと、その軍医の問題と自分の中でうまくまだつながってないのですが、傷痍軍人の問題、傷病兵の問題もやってみたいですね。

 それから、最近注目されている戦争神経症、兵士の心の傷という問題にも関心があります。
 これが史料がなかなかないんですね。
 帝国陸海軍にはそういうやわな兵士はいない、という建前がありましたからね(笑)。
 また『兵士たちの戦後史』にも書きましたけど、実際の戦闘で死んだ兵士たちが、はたしてどれくらいいるのかは甚だ疑問なんですね。
 餓死、海没死、自殺だけでなく、玉砕の場合は、最後の万歳突撃に参加できない兵士は殺害してしまうんですね。
 そういうことを考えると、特に激しい戦闘があったところでは、純粋に戦闘で死んだ人というのは、そんなに大きな割合ではないんじゃないか、と思うんです。
 そういう問題をちょっと描けないかなと思っています。

 ともかく戦場・戦闘の現実を、戦訓研究とは違う形で、歴史学的に再構成してみたいと思っています。


― 本日はお忙しい中ありがとうございました。

Knowledge Worker
これまでの本、これからの本
第6回 吉田裕教授

http://kw.maruzen.co.jp/nfc/featurePage.html?requestUrl=oldbook_newbook/06/#m03

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鈴木志郎康

 昨日9月20日金曜日のヤッホーくんの”eチャリ”による徘徊は、政治経済研究所(江東区北砂1-5-4 Tel 5683-3325)での公開研究会でした。 
「戦後歴史学と軍事史研究、『日本軍兵士』を手がかりにして」という題での吉田 裕氏(東京大空襲・戦災資料センター館長、一橋大学大学院特任教授)のお話があったのです。
 その会場で、詩人で映像作家の鈴木志郎康が江東区は亀戸生まれ(1935年)で、その亀戸で東京大空襲に遭っていたことを教えてもらい、びっくり、びっくり!

朝日が玄関の格子戸に当たっている
記憶に残るその家。
69年前の
1945年3月11日の朝の記憶ですよ。
東京大空襲の翌朝、
旧中川の土手を火に追われて逃げてきて、
平井橋の袂で命拾いした9歳のわたしが
母と祖母と兄と共に生き延びた直後に落ち着いたその家。
風向きが変わって焼け残ったその家。
その家に今年の10月12日の夕方、
突然、訪れたんですね。
69年振りですよ。
戦災の焼夷弾の炎に追われて逃げて助かって、
その翌朝、祖母の実家のその家に落ちついてから、
69年振りですよ。
戦災の体験を語り伝えるという映像作品のロケーションで、
旧中川に掛かる平井橋の袂で、
電動車椅子に乗った姿で、
カメラを前に、
「ここまで逃げてきた」と語った後、
「ちょっと行ってみよう」と訪れたその家。
その家はわたしが9歳まで育って戦災で焼けてしまった家と
そっくりだったんです。
驚いた。焼ける前の家がそこにあったんです。
今は墨田区によって、
「立花大正民家園 旧小山家住宅」として保存されている家です。
玄関の格子戸。
あの朝、朝日が当たっていた格子戸。
懐かしいなあ。
そして小沢さんのカメラに撮られながら中庭に回ったら、
ガラス戸がはまった長い縁側、
雨戸の溝に心張り棒を電車にして走らせていた9歳のわたしが
突然、蘇った。
家の中にいるスタッフの藤田功一さんに
「六畳と八畳が続いて床の間があって、
縁側の突き当たりが便所でしょう」と家の外から声を掛けると、
「そうです、そうです。その通りです」と藤田さん。
戦前の焼ける前のわたしが育った家と全く同じだ。
その八畳の間に風邪を引いて寝ている子供のわたしが
母がリンゴを擦って持ってきてくれるのを今か今かと
待っていた、母を待っていた
その家じゃないですか。
79歳まで生きて、
69年ぶりに、
この家と出会えてよかったなあ、ですよ。
戦災体験者が少なくなって、
その記憶を体験していない者たちにどう伝えるかってことで、
東京大空襲・戦災資料センター主催の
「秋の平和文化祭2014」が
11月1日から3日まで開かれてね、
「詩を読み、映像が語る
空襲と詩と下町と
鈴木志郎康さんの詩をフィールドワークする」ってのに、
わたしは参加したんです。
「大空襲 若者が伝える」(注1)
「戦争 記憶のバトン
空襲・焼け跡・・・少年時代の詩人が見たもの」(注2)
という見出しで新聞記事になっちゃったんですね。
詩作品の、「この身の持ち越し」と
「記憶の書き出し 焼け跡っ子」が引用された。
おお、わたしの詩が新聞の記事になったんですね。
小沢和史さんと小沢ゆうさんと息子の鈴木野々歩君が
「この身の持ち越し」を
山本遊子さんが
「記憶の書き出し 焼け跡っ子」を
映像でフィールドワークしたんですね。
そのフィールドを69年前の戦災の夜、わたしは
「母と共に、よろめき倒れそうな祖母の手を引いて 中川の土手を歩き、平井橋の袂に辿り着き、風向きが変わったから、わたしたち三人は 偶然に逃げた身で生き残った」
わたしは小沢和史さんにこの旧中川の土手と平井橋の袂に連れて行かれて、
当時のことをカメラに向かって語った。
「わたしの父はあの夜、逃げ遅れて、炎に阻まれて、この中川に飛び込んで、浮いているものに掴まって助かった」
ところが、どっこい、今の中川の土手の中は、
すっかり変わってしまって、
川の中の水際にゆるく下る坂道の遊歩道になっていて、
燃えさかる川岸を逃れて川の中で一夜を明かす情景を
思い浮かべることはとうていできない。
そこで多くの人が死んだのだった。
焼けてしまったわたしの育った家の跡も
区画整理で道筋が変わってしまって
9歳の頭に叩き込まれた亀戸4丁目232番地が、
どこだか分からなくなちゃってる。
戦災前の下町の亀戸の街は記憶の中で薄れて行くばかりですね。
小沢ゆうさんは自分のおばあちゃん新名陸子さんに、
詩を朗読して貰って、
自分の子供と友達にその言葉を復唱させた。
「焼夷弾」から書き抜いた「夷」の字を
おばあちゃんは
「エビス」と読んだ。
「エビス」
「エビス」
「エビス」
子供たちは詩の最後のことばの
「ハイ、オジギ」
と言って可愛らしくオジギした。
8歳の小沢元哉君、村宮正陸君、桑原大雅君たちは
69年も昔の戦災をどう受け止めたのだろう。
鈴木野々歩君はわたしの詩の
「夜空にきらめく焼夷弾。 焼夷弾。 M69収束焼夷弾、と後で知る。 三百四十三機のB29爆撃機の絨毯爆撃、と後で知る。焼夷弾に焼かれそうになった記憶。黒こげに焼かれなくてすんだ。」
というこの詩をフィールドワークした。
インターネットのアーカイブから、
アメリカの空軍が撮影した東京大空襲の映像を探してきて、
それを自分の部屋の窓に重ねて、
B29が飛び、
余裕のパイロットの姿、
焼夷弾がばらまかれるイメージ。
そして、フィールドワークの後半では
わたしと母と祖母が逃げた北十間川から平井橋辺りまでの
現在の情景がモノクロ写真になって燃やされる。
今だって爆撃されれば焼け跡になっちまうというメッセージか。
戦後の焼け跡で遊んだ九歳のわたし。
その焼け跡の、
「その瓦礫の果ての冬空に見えた富士山。亀戸から上野動物園まで焼け跡を歩いていったのよ。子供の足で」ってところを、
山本遊子さんは12歳の少年と亀戸から上野まで歩いて、
空襲があったことなどを話し歩きながら撮影した。
その少年高橋慧人君が辿る道筋には立ち並ぶビル、ビル、ビル、
そして東京スカイツリーに行き当たるんだ。
何も無かった焼け跡には、今や、立ち並ぶ圧倒的な建造物。
焼け跡は言葉と写真でしかないじゃん。
その言葉を体験してない者に押しつけるなんて、
傲慢なんじゃないか、
と少年と歩いた山本遊子さんは感想を語ったんですね。
わたしは息子たちに自分の戦災の体験を話したことがなかった。
敗戦後の焼け跡体験も話したことがなかった。
息子たちはもう30歳代40歳代になっている。
これまでの日々の生活では、
自分の体験や来歴を彼らに話す機会がなかった。
考えてみると、
家族に自分のことを語るということがない。
わたし自身、親から彼ら自身の口から彼らのことを、
まともに殆ど聞いたことが無かった。
だが、洗いざらい自分のことを詩に書いてやろうと、
詩に戦災体験を書いたのだった。
戦災資料センターの山本唯人さんの目に止まって、
その詩のフィールドワークってことになったんですね。
わたしは電動車椅子で会場に行って、
被災者として、
戦争では犠牲者になる立場を自覚して、
映画を見ても漫画を読んでも、
主人公ヒーローの立場でなく、
そこで犠牲になるその他大勢の立場で、
ばったばったと殺される者たちの一人に
身を置いてきたと話した。
久し振りに人前で話をしたんだ。
そして電光が煌めく宵の東京の街中を
藤田功一さんが運転する車で家に帰ったきた。
電光が煌めく宵の東京の街中を。
電光が煌めく宵の東京の街中を。
もう一度、あの家に行ってみたいと思った。
花見ドライブに誘ってくれた戸田さんに頼んで、
戸田さんの車で夫人の紀子さんと一緒に再び、
戦災で焼けた亀戸のわたしの家があった場所を確かめて、
旧中川沿いの「立花大正民家園 旧小山家住宅」に行ったんですね。
玄関の上がりかまちを上がるのにちょっと苦労して、
座敷に上がって、
部屋の中を歩き回ったんです。
この家の中を歩き回るってことは、
9歳の記憶を歩き回るってことでしたね。
この居間の棚の上にラジオがあって
真珠湾攻撃の放送を聴いて、
「東部軍管区情報、空襲警報発令」を聞いて、
ああ、ここで。
ああ、ここで。
ああ、ここで。
わたしはしばし感傷に浸った。
オーセンチなのね、シロウヤスさん、ヤスユキさん。
9歳ではヤッチャンだったね。
そうだ、わたしはこの家で思いっきり感傷に浸れる特権者なのだ。
この家が戦災前の鈴木家の家と殆ど全く同じだと体験できるのは、
わたしと兄しかいないのだから。
神棚とその下の仏壇のある居間で、
戸田さんと並んで写真に撮って貰ったんです。
そして暮れなずむ東京の街を自宅に戻ったってわけです。
電光煌めく街中を走り抜けて帰って来た。
「夜空のきらめく焼夷弾。
焼夷弾。」
やっぱりこの「夷」ですよ。
焼かれちまった夷ですよ。
劫火に追われて逃げ延びた夷ですよ。
選挙が近く「国民」という漢字が、
新聞紙面に踊っている。
写真には、
二本の杖を突いた白髪のわたしが写ってた。


(注1)読売新聞2014年11月5日
(注2)朝日新聞2014年10月30日

浜風文庫’S Store、2014年11月27日
その家の中で九歳の記憶を歩き回った。
鈴木志郎康
https://beachwind-lib.net/?m=20141127

東京大空襲・戦災資料センター所蔵。映像作品。詩人・鈴木志郎康の詩とインタビュ―をもとに現代の少年が、元・焼け野原の東京を歩くショートドキュメンタリー。作品尺22分。
山本遊子作品
Youtube
少年と鈴木志郎康の詩を歩く―予告編

https://www.youtube.com/watch?v=6T0mzZtnU-c

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年03月14日付けの日記「天沢退二郎」もお読みください。

film by Shirouyasu Suzuki .1991 16mm film 15min
『戸内のコア』の紹介
 この作品では、詩人の福間健二さん夫妻の生活の仕方を描いた。福間さんの詩集「カントリー・ライフ」を読んで気に入って、文通をするようになった。福間さんは、近代の都市生活というものに疑問を持っていて、自らの生活のよりどころとするところを探っている。そして、中国伝来の太極拳や輸気に関心を持って、それを始めている聞いたので、自然に気持ちを通わせる夫妻の姿を撮影することにした。制作、1991年。作者、56歳。
演出・構成・撮影・編集:鈴木志郎康
録音協力:小口詩子
スタジオ録音:林 智明
登場する人たち:福間健二
        福間恵子
(Shirouyasu Homepage 志郎康ホームページ Ring, Link, Rip.より引用)
catnet.ne.jp/srys/films/konai/konai.html
『戸内のコア』/ The core of family(詩人・福間健二)

https://vimeo.com//239098507

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2019年09月20日

雨宮処凛「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

■ 酷使される労働者、重なる現代

「今のフリーターと状況が似ている」「プロレタリア文学が今や等身大」「蟹工船(かにこうせん)がリアルに感じられるほど、今の若い人の労働条件はひどい」――。
 作家・活動家の雨宮処凛(かりん)さん(44)は2008年1月の毎日新聞に載った作家・高橋源一郎さんとの対談でそう語った。

『蟹工船』の刊行は1929(昭和4)年。
 工業化や大正デモクラシーといった変化の一方、労働者の基本的権利が認められていなかった時代に、人間扱いされない労働環境と乗員らのストライキを描いたプロレタリア文学の代表作だ。
 作者の小林多喜二は特高警察に拷問されて死んだ。

 雨宮さんの発言などをきっかけに関心が高まり、新潮文庫版はこの年だけで約55万部。
 漫画版も売れ、翌年には映画化された。
 戦後の民主化と労働運動を経て働く環境は改善し、労働者の人権は守られた――。
 刊行から約80年後のブームは、そんな「幻想」はとうに終わっているという一人一人の叫びに見えた。

* * *

 戦後、労働三法が成立し、組合活動も定着。
 働く環境は確かに良くなった。
 一方で1986年には労働者派遣法が施行、フリーターが「新しい働き方」として注目された。

 だが90年代にバブル経済が崩壊、グローバル化と就職氷河期の中で労働市場の規制緩和が進むと、パートやアルバイトなどの非正規雇用が増加。
 主に正社員を守ってきた労働運動の擁護も十分に受けられないその割合は、1990年の20.2%から2008年には34.1%へと膨らんだ。

 雨宮さんは仕事や生活が不安定な非正規労働者を指す「プレカリアート」という言葉を06年に知った。「引きこもりやうつ、その背景にある就職難や過労死・過労自殺の現場を取材するうちに、労働環境が原因だと気づいた」。『蟹工船』を読んだのは08年の記事の対談前日。「多喜二が描いた生きるか死ぬかの切実な問題が、今の日本にも広がっている」と思った。

 この年にはリーマン・ショックの影響で大量の雇い止め(派遣切り)が起き、年末には「年越し派遣村」ができた。
 翌年、労組の支持を受ける民主党に政権交代。
「派遣村」村長の湯浅誠さんが内閣府参与に就き、労働問題の改善が期待された矢先の2011年、東日本大震災が起きた。翌年には自公政権が復活する。

「2011年以降は反原発、反安保法制などのデモに関心が移った。団体交渉、ストといった労働運動への期待感が薄れている」

 フリーターの立場から就職氷河期世代の窮乏を訴えてきたフリーライターの赤木智弘さん(44)は言う。
 氷河期世代は「人生再設計第一世代」。
「非正規雇用」という言葉は使わない。
 そうした政治家や経営者を「やさしいお父さん」のように敬い、従っていれば仕事や社会的承認が得られると期待する人びとがいて、「父」にあらがうデモやストに冷ややかな視線を注いでいると感じる。
「まずは当事者が狭い範囲で自分の問題に取り組むしかない」と語る赤木さんは、自らに言い聞かせるようだ。

 批評家の杉田俊介さん(44)は、氷河期世代の当事者として声をあげてきた。
 だが働く人は正社員、パート、アルバイト、外国人などとより細かく分断され、社会を動かすにはほど遠い。

「仕事がある人にも被害者意識や不安が広がっている。若者の間には、今後もっと悪化するだろうという諦めがある」

* * *

 蟹工船のストライキに加わった登場人物は「先の成算なんて、どうでもいいんだ」「死ぬか、生きるか、だからな」と語り合う。
 ストライキの失敗にもめげずに「もう一度!」と立ち上がる。

 捨て鉢気味ながらも諦めはしない彼らの姿に、杉田さんは自らを重ねているように見える。

「『蟹工船』では学生が船に乗り込み、乗員にストという手段と団結の理念を伝える。一人一人の生存を無条件に肯定する新たな理念を誰かが紡ぐ必要がある」
(大内悟史)

■ 貧困・格差…頼れない労組 甲南大名誉教授(労使関係論)・熊沢誠さん(80)
 半世紀も労働問題を研究した立場からは、2008年の『蟹工船』ブームは大変悲しい思いでした。
 ブームの背景には、労働運動が後退局面に入って久しく、現状が戦前の労働環境とそれほど遠くなくなった現実がありました。

 長時間の過酷な肉体労働を強いられる職場は、今のサービス業や製造業にも少なくない。
 会社間の競争は船同士の競争と同じで、間接雇用の非正規雇用の多くは身分保障がなく、「ブラック企業」の要求に異議申し立てのすべがない。
 不況下で福祉政策の充実が叫ばれましたが、肝心の労働現場で貧困や格差が際立ってきました。

 労組への逆風は、多くの労組が本来果たすべき役割を果たしていないから。
 1980年代以降の非正規雇用の増加を見過ごし、正社員の既得権を守るにも、年功制が廃れて人事評価による能力主義が浸透し、個人の「受難」は自己責任にされています。
 不況が長引き、非正規の条件改善を求めようにも若者も中高年も疲弊しています。

 少数の当事者による切実な訴えを白眼視し、同調圧力をかけるのは多数の暴力です。
 憲法28条が定める労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権)、つまり産業民主主義のためには、企業別から産業別・職種別の再編が必須。
 運転手や美容師、看護師、塾講師など専門性が高い分野、特に福祉社会の最前線の担い手でもある非正規の女性公務員の組織化が急務です。

■ 本の内容

「地獄さ行(え)ぐんだで!」の声を始まりに、オホーツク海でカニをとり缶詰に加工する船内の過酷な労働状況を描く。
 海軍の姿も見え隠れする「国策」の横暴に、乗員らはストライキで対抗するが失敗。
 再び立ち上がろうとするところで物語は終わる。

『蟹工船』と戦後の労働環境

1929年『蟹工船』刊行
 33年 小林多喜二が拷問を受け死亡
 45〜47年 労働三法が制定
 50年 日本労働組合総評議会(総評)結成
 64年 全日本労働総同盟(同盟)結成
 86年 労働者派遣法施行
 89年 総評、同盟などが統一、日本労働組合総連合会(連合)結成
 91年 バブル経済崩壊へ
 96年 労働者派遣法が認める派遣先が専門26業務に拡大
 99年 人材派遣が原則自由化
2001年 小泉純一郎内閣発足
 08年『蟹工船』がブームに
    リーマン・ショック
 09年 映画「蟹工船」公開
    民主党に政権交代
 11年 東日本大震災
 12年 自民党・公明党が政権奪還
 13年「ブラック企業」が流行語に
 18年「働き方改革」関連法成立


朝日新聞・時代の栞(Toki No Shiori)、2019年9月18日16時30分
小林多喜二「蟹工船」(1929年刊)
80年後に訪れた「ブーム」

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14183839.html

 “今、この国を表す言葉をひとつ挙げてみよ”。

 そう問われたら、あなたはどんな言葉を挙げるだろうか。

 私が迷わず挙げるのは、「不寛容」という言葉だ。
 ゼロトレランスとも呼ばれるその言葉は、今のこの国の窮屈さ、息苦しさ、生きづらさなどなどを象徴しているように思う。

 そんな「不寛容」さは、あらゆるところで幅を利かせている。

 収まる気配のない生活保護バッシングや貧困バッシング。
 在日外国人へのヘイトや嫌韓、嫌中という言葉。
 ワイドショーで堂々と韓国ヘイトや女性差別を繰り広げる高齢男性。
「たらたら飲んで食べて、何もしない人の金(医療費)をなんで私が払うんだ」という麻生大臣の発言や、過労死も過労自殺も病気になるのも「自己責任」という空気。
「生産性」ばかりを求め、どれほど金銭的利益を生み出したかで人間の価値が測られるような社会のあり方。
 自分と異なる意見を持つ人への強烈な批判。
 選挙中、野次を飛ばしただけの人を排除した警察。
 有名人のスキャンダルや不倫などに対するバッシングの嵐。
 安田純平さんが帰国した際にメディアをまたもや賑わした「自己責任」という言葉。
 そして「少子高齢化」社会で財源不足という言葉のもと、「命の選別」が正当化されてしまうような空気。

 2007年、世界各国で、貧困問題への意識調査が行われた(The Pew Global Attitudes Project)。
 そこで、
「自力で生きていけないようなとても貧しい人たちの面倒をみるのは、国や政府の責任である。この考えについてどう思うか?」
という質問に対して、「そう思わない」と答えた人が突出して多いのが日本だった。
 実に38%の人が「助けるべきとは思わない」と回答したのだ。

 他国を見ていくと、ドイツでは「そう思わない」と答えたのはわずか7%、イギリスでは8%、中国では9%、そして「自己責任社会」と言われがちなアメリカでさえ28%だったという。

 この調査がなされたのは12年前。
 今、同じ調査をしたら、もっと多くの人が「国や政府は助けるべきとは思わない」と答えるのではないだろうか。
 そんな予感がするのは私だけではないはずだ。

 2007年頃、フリーターや非正規労働の問題を論じていた私たちは、よく「椅子取りゲーム」の話をした。
 現在の労働市場は、全員には決して行き渡らない正社員の椅子を奪い合う椅子取りゲームの状態である。
 どんなに頑張っても、どんなに「自己責任」と言われようとも、非正規雇用率3割の状況では、10人中、3人は必ず正社員の椅子に座れない。
 だから少ないパイを奪い合うのではなく、「椅子を増やせ」「10人に対して10の椅子を用意しろ」と主張すべきではないか、と。

 しかし、10人中、4人は必ず「正社員の椅子」から漏れるという非正規雇用率4割の今、もう誰も椅子取りゲームの話はしていない。

 気がつけば、「均等待遇」「働き方改革」「非正規という言葉をなくす」といった名目で、「もう全員の椅子をなくして、みんな地べたでいいのでは?」と国が率先して椅子を片付けようとしている状況だ。
 その上「椅子に座っているなんて贅沢だ」などと言う人まで出てきて、その椅子が「AIに置き換えられる」「椅子に座るのは移民になる」なんて噂も飛び交っている。
 しかも椅子を乗せた床はどんどん沈み、浸水し始めているような状況。
 それがこの国の多くの人たちの心象風景ではないだろうか。

 過酷なサバイバルに勝ち抜かないと、生き残れない。
 誰かを蹴落とし続けないと、リアルに死ぬ。
 そんな危機感はこの20年くらい、どんどん強まっている。
 毎日、毎分、毎秒、人生も、近い未来も人質にされている。
 みんなが崖っぷちで、「手を離したら死ぬ」と思い込まされている。
 そんな中、人に優しくなれるはずなんてないし、余裕が持てるはずもない。

 そんなふうに「寛容さ」が枯渇したこの国で、3年前の夏、障害者19人が殺される相模原事件が起きた。

「障害者470人を抹殺できる」と、それが「世界経済と日本のため」だと衆院議長に宛てた手紙に書いた植松被告は、今も獄中で「日本の借金問題」についてさかんに言及している。

「日本は社会保障を充実させていって100兆円もの借金を抱えることになりました。あなた自身はそれをどう思いますか?」

「僕の言うことを非難する人は、現実を見てないなと思います。勉強すればするほど問題だと思いました。僕の考え、どこか間違っていますか?」

「日本の借金だってこれ以上もう無理ですよ。これで大地震でも起きたら無茶苦茶になりますよ」

 借金はいけない。
 人に迷惑をかけることもいけない。
 国の将来を憂い、危機感を持っている。
 それらの思いをすべて凝縮し、危機感と正義感をもって彼が実行したこと、それは障害者の大量殺人だった。

 この飛躍は、どう考えても異常である。

 しかし、「彼のしたことは決して許されない」としつつも、その主張について「否定できない」と語る人が一定数いることも知っている。
 このまま「生産性がない/低い」とされる人びとを生かし続けると社会は大変なことになるから、「命の選別は、ある程度仕方ないよね」というような空気。
 言い訳として必ずつくのが「財源不足」という言葉だ。
 生活保護バッシングや公務員バッシングはするのに、タックスヘイブンの問題には決して怒ったりしないこの国の善良な人びとがまとうマイルドな優生思想は、じわじわとこの国を侵食している。

 そんな相模原事件をめぐるあれこれについて、6人と対談した本を9月中旬に出版する。
 タイトルは『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)。
 事件について、優生思想について、財源論について、私たちが抱える剥奪感について、対話について、神戸金史さん、熊谷晋一郎さん、岩永直子さん、杉田俊介さん、森川すいめいさん、向谷地生良さんと語り合った。

 RKB毎日放送の記者である神戸さんは、事件後、重度の自閉症の長男について、「障害を持つ息子へ」という文章を書いた人だ。
 ある朝、目が覚めたら息子に障害がなかったことに気づき、安堵する。
 そんな夢を何度も見てきたという告白から始まる神戸さんの文章は事件後に書かれて瞬く間に拡散され、多くのメディアで報じられた。
 そんな神戸さんは、植松被告と面会を重ねている。

「いつまで息子を生かしておくのですか」

 植松被告が神戸さんにぶつけた言葉である。
 二人の間で、どんな言葉が交わされているのか。

 熊谷晋一郎さんは、脳性まひの当事者であり、医師であり、また東大先端研で当事者研究をする人である。
 事件が起きてから、車椅子で通勤中に「知らない人に突然殴られるんじゃないか」という恐怖を感じたと率直に語る熊谷さんと、「社会モデル上、新たに障害者になった層」などについて語った。

 BuzzFeed Japanの記者である岩永直子さんとは、終末期医療、尊厳死などについて語りつつ、「ファクト」を重視した冷静な議論の大切さについて話し合った。

 批評家で介助者でもある杉田俊介さんとの対談は驚くほど多岐に渡った。

 また、精神科医の森川すいめい氏とはオープンダイアローグなど対話について語り、そうして本書の最終章では「生きづらさ界のラスボス」が登場。
 べてるの家の向谷地生良氏である。
 向谷地氏とは、無差別殺人を匂わす青年と向谷地氏の交流、その青年の変化などについてが語られた。

 自分で言うのもなんだが、今だからこそ読まなければならないテーマが詰まりまくった一冊になったと思っている。
 何より、私と対談してくれた人びとが素晴らしい。

「生産性」「自己責任」「迷惑」「一人で死ね」という不寛容な言葉が溢れる今だからこそ、ぜひ手にとってほしい。
 そして、一緒に考えてほしいと思っている。

マガジン9、2019年9月4日
命の選別は「仕方ない」のか? 〜
『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』の巻

雨宮処凛
https://maga9.jp/190904/

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2019年09月19日

佐藤信「60年代のリアル」

 先日、大学生協の書籍売り場で、「今、この本話題なんですよ」と教えてもらいました。
 佐藤信さんが書いた『60年代のリアル』(ミネルヴァ書房、2011年12月)という本です。

 この方がまだ学生の頃に書いた論攷が元になっていて、『毎日新聞』に連載されていました。
 私も、何回かは眼にしたことがあります。

 最近送られてきた雑誌『POSSE』を手に取りましたら、「絶望の国の困ってる若者たち」という対談が目に入りました。
 対談しているのは大野更紗さんと古市憲寿さんです。

 この二人はそれぞれ、大野『困ってるひと』(ポプラ社、2011年6月)、古市『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社 (2011年9月)という本を書いており、これまた話題を呼んでいます。
 この対談の表題は、この二人の本のタイトルを上手く組み合わせたものになっています。

 対談には、途中からPOSSE事務局長の川村遼平さんも加わりました。
 この川村さんも、『ブラック企業に負けない』という本を書いています(NPO法人 POSSE、今野晴貴との共著、2011年9月)。

 つまり、ここまでに名前を挙げた4人の方はいずれも本を書くなどのオピニオン活動をされているわけです。
 しかも、20代だという点で共通しています。

 これに、最近、福島第1原発の過酷事故に関連して注目されている関沼博さんの『「フクシマ」論−原子力ムラはなぜ生まれたか』(青土社、2011年6月)という本もあります。
 この方も20代という若さです。

 以上の5人の方の生年と年齢を並べれば、以下のようになります。
 皆さん、1980年代の生まれなんですね。

  佐藤 信 88年生 23歳 『60年代のリアル』
  川村遼平 85年生 26歳 『ブラック企業に負けない』
  古市憲寿 85年生 26歳 『絶望の国の幸福な若者たち』
  大野更紗 84年生 27歳 『困ってるひと』
  関沼 博 84年生 27歳 『「フクシマ」論−原子力ムラはなぜ生まれたか』

 この一世代上に当たる30歳代にも、社会運動や言論活動に取り組んでいる人々がいます。
 たとえば、雨宮処凜、赤木智弘、松本哉などの方々です。

 これらの方は、1970年代中頃の生まれで、生年を並べれば、以下のようになります。

  雨宮処凜 75年生
  赤木智弘 75年生 
  松本 哉  74年生

 さらに、この一世代上には、反貧困や労働運動で頭角を現した湯浅誠、河添誠、関根秀一郎などの方々もいます。
 これらの方は1960年代の生まれで、いずれも40歳代です。

 同じように生年を並べれば、以下のようになります。

  湯浅 誠   69年生
  河添 誠   64年生
  関根秀一郎  64年生

 こう並べてみれば、ある種の世代論が可能なように思われてくるから不思議です。
 それぞれの世代には、生活環境や社会体験、問題意識などにおいて、何か共通なものがあるのかもしれません。

 私は、拙著『労働再規制、反転の構図を読みとく』(筑摩書房、2008年10月)の中で、2006年反転説を唱えました。
 このような社会状況の下で登場してきたのが、先ず、60年代生まれの3人だったように思います。

 これに70年代生まれの3人が続き、最近になって20代の若手の登場が相次いだということでしょうか。
 ただし、若くなるにしたがって、運動との関わりは徐々に薄れてくると言えるかもしれません。

 しかし、運動や言論、労働や社会などという点での違いはあっても、これらの人々が現代の日本社会のあり方に対して大きな問題意識を持ち、積極的な発言や行動を行っているという点では共通しています。

 頼もしい限りです。
 草の根における若き日本のリーダーになりうる論客たちではないでしょうか。

 元気で若いリーダーがこれだけいれば、「絶望の国」もなんとかなると思いたい。
 混迷し、閉塞状況を強めている日本ではありますが、これらの若者たちの活躍に大いに期待したいと思います。

 暗闇のどん底に突き落とされたような2011年でしたが、その最後に見えてきた微かな灯りかもしれません。
 来るべき2012年に向けて、一縷の希望を託したいものです。


BLOGOS、2011年12月23日 06:30
「絶望の国」に頭角を現してきた若き論客たち
五十嵐仁(元法政大学大原社会問題研究所教授・所長)
https://blogos.com/article/27626/

佐藤信『60年代のリアル』

 御厨貴氏(東京大学)、推薦! 政治学のプリンスによる気鋭の論考がついに刊行!
 何がリアルなのか? ぼくらは何によって生を実感できるのか?

 今も昔も、若者に常に課せられた問いに著者はまっすぐと逃げることなく向き合う。
 著者が試みるのは、60年代の若者たちの行動や思想を、「若者」という視点から描くことである。
「リアル」という根本的な問題意識を軸にして、60年代の世相を読み解きながら、現代の若者のあり方、これからの政治のあり方を逆照射する。
 それは執筆当時大学生/大学院生であった著者が、過去の若者と現代の若者とをつなぐ「リアル」という回路を開く試みでもあった。

 本書の第T部は、著者が東京大学法学部在学中に、『毎日新聞』紙上に9ヶ月間にわたって連載された「60年代のリアル」がもとになっている。
 主として題材とされるのは60年安保闘争と60年代末の学園(大学)闘争であるが、著者は「リアル」という側面に着目することで、小熊英二著『1968』(新曜社、2009年7月)(〈上〉若者たちの叛乱とその背景、〈下〉叛乱の終焉とその遺産)に代表されるような従来の60年代論とはまったくちがう「肉体感覚」という概念によって大衆・学生運動を捉え直した。
「肉体感覚」を刺激するものとしての「痛み」、それを求める「若さ」と、それが不可避的に持つ「焦り」、そして「死」への願望・・・それらがいかにして60年代の若者の「アツさ」を生み出していったのか。
 そうした経緯が、64年の東京オリンピックが象徴するような高度経済成長下での社会変革と連関されて描かれ、現代人にとっては理解しがたい彼らの「アツさ」が説明されることになる。

 さらに著者は第U部で、60年代の若者をみるなかで発見された若者特有の「リアル」や「肉体感覚」や「皮膚」、さらには「ジャズ」的なつながりといったようなモチーフを用いて、現代社会の特質をも明らかにしようと試みる。
 そこで俎上に載せられるのは、『エヴァンゲリオン』や『攻殻機動隊』など、これまで宮台真司氏、東浩紀氏ら社会評論家たちがその分析対象としてきたアニメであるが、著者はその60年代との接続を意識することで、インターネットと社会とのつながりについてまったく新しい視覚を提示する。
 そこで強調されるのは、インターネットが肉体感覚を喪失させる一方で、その「ざわめき」を非肉体的な社会構成要素のなかに生み出す可能性を胚胎させていたということである。

 以上のような分析をもとにして、最後に著者は、その専門分野である政治における可能性に言及する。
「公」とはわれわれにざわめきを与えるものとして再編成され、それに伴って「公」を扱うものとしての政治の姿も再編成を余儀なくされるというのである。
 著者のいう「リアルな政治」とは、「肉体感覚」や「皮膚感覚」を持った政治であり、著者はそれが政治的無関心で溢れた日本政治の現状を改善しうると主張している。

 著者の処方箋である、国民が政治家という「個人」に「委託」することで責任意識をもって政治に「所属」すべきとする見方は、これまでの政治学者たちが主張してきた「政策」ないしマニフェストを重視するイギリス型の政治像とはまったく相反するものであることも注目される。

 かくして、本書はこれまでになかった60年代論であると同時に、新たなアニメ評論、社会評論でもあり、これからの政治像をも描く、画期的な著作である。


ミネルヴァ書房
https://www.minervashobo.co.jp/book/b94048.html

─ なぜ60年代に興味を持ったのですか。

佐藤: 最初のヒントは御厨貴先生に与えていただいた。
 親の世代も60年代を経験していない。まったくつながりがない世代だが、関係ないはずの時代や世代に相通じるものが感じられ、面白く見えた。
 なぜこんなに時代の離れている人たちに対し、ある種の感情移入といった不思議な感覚が起こるのか。
 まず「若さ」という面からとらえてみようというのが興味・関心だった。
 60年代ブームが出版界に一時的にあった。
 ただそれらは60年代を経験した世代が書いている。
 でも読む人は意外に若い人であったりして、そういう感覚は僕らの世代全般にも共有されているのかな、と思った。

─ なぜ、60年や68年、69年ではなくて、60年代なのですか。

佐藤: 60年代を書けるのはそれと切り離された世代の特権かもしれない。
 これまでフタコブラクダのこぶのように別々の文脈で語られてきた60年安保闘争と60年代末の大学紛争を引っくるめて、より大きなうねりとしてとらえた。
 そういう視点を持って初めて60年代のリアルは見えてくる。
 組織形態や思想がまったく違うことを承知のうえで、全学連も全共闘も引っくるめて、熱かった時代の全部を扱ってみようと思った。

─ この本の前半は、毎日新聞に36回にわたり連載したものがベースになっています。

佐藤: 新聞という媒体に書くには、不特定の読者への商業的な価値を満たさなければいけない。
 そういう文章を書くにはどうしたらいいのか。
 そもそも毎回1500字程度の字数で何を伝えていくか。
 いろいろな方々と話をしながら文章を書けたのが自分にとって大きなステップになった。
 もともとの僕の関心は国際政治にある。
 現在の恩師は北岡伸一先生。
 ただ、当初の御厨ゼミの趣旨は、いわゆる政治、政治学といった枠の文献にとらわれずに、広い分野に当たり、そこに現れてくる政治をとらえようとするもの。
 さらに原稿執筆という経験もさせてもらい、既存の見方と離れた政治のとらえ方を磨く契機になった。

─ では、60年代の政治をつかみ取るキーワードは。

佐藤: 最初から注目したのがリアルという概念。
 題名にもなっているが、60年代の人たちが考えていたことが僕にとって新鮮で、持っている問題意識や感覚が、実は僕らとさほど遠くないのではないかとの思いがある。
 僕の先生の世代は多くが全共闘世代のちょっと下。
 その世代は、全共闘世代に反発した世代で、新左翼運動の起こりを「論外」として切り捨てる部分があった。
 それは政治学の発展としてはふさわしい部分もあるが、同時にそうでない部分もあって、革命を言い出すまでもなく、社会運動は政治学の中心的な命題だったはず。
 それがだんだん薄れていく。
 単純に政策につながらないと、政治における意味を持たせない。
 政治学で失われている視点が、そこに凝縮されている。
 そうしたものをもう一度見えるようにするというのが、この本のグラウンドメッセージだ。

─ リアルとは、皮膚感覚や肉体性とも結び付く?

佐藤: なぜ60年代の彼らはあんなに熱かったのか。
 僕らはニヒリスティックとかクールとかいわれる。
 ところが、彼らはイデオロギーを信奉でき、国会議事堂に向かって行動的に出ていったりする。
 そういう熱さ、この根源的といってもいい感覚が理解しにくいし、そういう感覚について彼ら自身も語ってくれない。
 その当時は革命の雰囲気があったのだと言われても、僕らには釈然としない部分がある。
 その説明し切れていない部分を何とか明らかにできないかと考えていく中で、それはリアルとか皮膚感覚なのかな、と思うようになった。
 それが政治学徒とどう関係しているのか振り返ると、見捨てられてきた皮膚感覚、根源的な感覚としてのリアルが、いかに政治ないし政治学に結び付くかという問題意識もある。

─「連帯を求めて孤立を恐れず」という標語に注目しています。

佐藤: それ自体はよく言われてきたフレーズ。
 ただ、それをリアルの観点から読み解いてみると、この皮膚感覚で生み出された言葉には宿ったものがある。
 単純に皮膚を重ね合わせると、人と人が理解し合える側面があると同時に、皮膚によって分け隔てをはっきり意識する側面もある。
 それが皮膚の二面性。
 一体化ではなく連帯という言葉を使うこと自体にその意味が込められている。
 群衆が集まって一体化したように感じるのとは違う意味が連帯にはある。
 この二面性を彼らは感じていたのではないか。

─ この本ではその彼らを「彼/彼女」と記述しています。

佐藤: 単純に洋書に出てくる表現でそう書いた。
 時に順番を変えているのは、男女どちらの影響力が大きかったかによる。
 連合赤軍の話をしている部分では、永田洋子の影響力が強かったから彼女から始めた。
 運動、闘争では男性的な部分が強調されるが、そこに女性ももちろん含まれ、フェミニズムにもかなりの影響を与える。
 文体や用語によって自分の思考が影響されるという認識もあって、そう表現した。
 若者の運動だから性の問題と無関係ではないはずとの問題意識も持っていたが、資料がそろわず、この点は書き逃した。

─ あなたを最若年ルーキーとして、20〜30歳代が社会問題に積極的に発言を始めました。

佐藤: 学者として書ける、あるいは若くして書ける媒体があるという感覚はいつも持っている。
 それこそ、今では大物観がある東浩紀さんや宮台真司さんにしても、30歳代前半から世に出てきたのでは。
 決して最近の特異な現象だとは思わない。
 傾向的なものがあるとすれば、デフォルトやロスジェネを前提にしている人たちが目立つ。
 それに政治を除外して議論する。
 僕の専門に近い高坂正堯、永井陽之助、坂本義和先生のように、若くして60年代の雰囲気からずれて、厳しい言説に打ち込んできた諸先生が過去にはいた。

─ 厳しい言説?

佐藤: 60年代を見るにしても、単純にそこに寄り添うだけではなくて、今まで取り除かれていた部分から、まったく違うものを見いだしていくのが自分としてやりたかったこと。
 60年代は雑誌が、活字が元気だった。
 議論する雰囲気があった。
 ネットは議論を深めてはくれない。
 言葉の、中でも活字の力を今も信じている。

※ 佐藤信(さとう・しん、1988年奈良県生まれ)
2011年東京大学法学部卒業。東大大学院に進学。学部2年から東大先端科学技術研究センター学内共同研究員を続け、オーラルヒストリー研究を手掛ける。このほかの著書に『鈴木茂三郎 1893−1970 統一日本社会党初代委員長の生涯』(藤原書店、2011年)がある。

※ 週刊東洋経済 2012年1月14日号


東洋経済、2012/01/20 0:00
彼/彼女の皮膚感覚が熱かった時代を作った--
『60年代のリアル』を書いた佐藤信氏(東京大学大学院法学政治学研究科修士課程在籍)に聞く

(聞き手:塚田紀史)
https://toyokeizai.net/articles/-/8431

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2019年09月18日

翫右衛門の心得

 書きたい題材を記録しておく頁が筆者の手帳にはある。
 いくつかの雑誌やWebサイトの仕事を掛け持ちしているため、媒体ごとに頁を用意しておき、「この話は日経ビジネス向き、あの話は日経コンピュータ向き」と思いついた時、忘れないようにそれぞれの頁に書いておく。
 こうした題材はできる限り早く原稿にすべきなのだが、物によってはなかなか書けず、手帳に記録してから実際の記事に仕上げるまで数年かかってしまうこともあれば、最後まで記事にならない場合もある。

 当然、Tech-On!向けの頁もある。
 2007年に記録した題材は何かとその頁を見ると、筆頭に「技術者の心得 山口瞳」とあり、その次に「大和」、三番目に「記者はプロか」と書いてあった。
 この三番目の題材は本連載の第1回目に書いたものである。
 二番目の大和とは戦艦大和の話なのだが、戦争を取り上げるのは非常に難しい。
 Tech-On!に2006年9月から硫黄島戦について書き出したが難航し、書き上げるまでに1年半近くかかってしまった。
(「史上最悪のプロジェクトに挑む〜硫黄島決戦と栗林中将から学ぶ」)
https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20061206/125042/

 硫黄島戦に関する原稿を書く際、かなり以前に買っておいた『戦艦大和ノ最期』(吉田満著、講談社学芸文庫)を読んだ。
 日米両軍の考え方、取り組み方の決定的違いがこの本にも明記されており、Tech-On!読者にぜひとも紹介したかったのだが、硫黄島戦について書くだけで精一杯で、大和については手帳に記すだけに留まった。
 本欄で挑戦したいものの、硫黄島関連の連載時のように記事公開の日程が定まらなくなる危険があるので、取り組むのはもう少し先にしたい。

 そこで今回はTech-On!向け題材の筆頭にあった「技術者の心得 山口瞳」について書く。
 と言っても、山口瞳(1926 - 1995)氏が技術者の心得を書いた訳ではない。
 同氏は朝日新聞に連載したコラムの中で、歌舞伎役者中村翫右衛門(1901 - 1982)の「演技心覚え」を紹介した。
 筆者は一読して「これはそのまま技術者の心得として読み替えられる」と思い、手帳に書いておいた。

 その文章は2006年に出版された『衣食足りて』(河出書房新社)という単行本にある。
 山口氏は1995年に亡くなったが、文庫を含め単行本はそれ以降も刊行され続けている。
 特にここ数年、河出書房新社が単行本に未収録の文章を発掘しては本にまとめ出版しており、『衣食足りて』はそうした「単行本未収録エッセイ集」の一冊である。

 「演技心覚え」という一文は1963年12月1日、朝日新聞に掲載された。
 当時、山口氏は「季節風」と題したコラムを朝日新聞に26回書いており、「演技心覚え」はその中の一つである。
 この連載コラムは、山口氏が感銘を受けた文章を雑誌や書籍から引用して紹介するものであった。
 1回当たりの分は非常に短く、冒頭にその文章を選んだ理由が手短に記され、その後に引用文が掲載された。

 26回中、「演技心覚え」の回は最も山口氏の文章が短く、ほとんどが引用で占められている。
 それ以外の回には引用の後、山口氏の締めの文章が入っていたがこの回にはない。
 山口氏は冒頭に、
「戦前にあった前進座の機関誌が再刊された。第一号では中村翫右衛門の『おもちゃ箱』という随筆がおもしろい。(中略)翫右衛門の古い日記にあったという自戒のための『演技心覚え』をぬき書きしてみる」
とだけ書き、以下に引用する十一の文章を紹介している。
一、俳優は、いつでもこれでよいという満足を感じずに一生を過ごすものだ。

一、 批評は大切なものだが、善悪を見極めずにあまりに批評に動かされては自分を見失うことになる。

一、 俳優はいつまでも若く、感激性を保持せねばならない。でないと舞台の感激・役の感激にひたれず、合理主義的演技に陥ってしまう。

一、 俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない。

一、 巧くやろうと思うな、唯全力をつくせ。

一、 人の真似をするな、拙くとも自ら創り出せ。

一、 行詰まれ、打破れ!行詰まれ!!そして打破れ。

一、 昨日よくできても昨日のように演ろうと思うな、今日は今日の気もちで演れ。

一、 稽古中は臆病に、舞台に出たら自信をもて。

一、 早く言う時は、心もちゆっくりしゃべれ。

一、 修業はこれからだ。

 先に、
「『技術者の心得として読み替えられる』と思ったので、手帳に書いておいた」と書いた。
 確かにTech-On!の題材頁に書いてある。
 さらに筆者は以上の全文を手帳の別な頁に転記し、時折眺めている。
「記者の心得」として読めるからである。
 山口氏は「おもしろい」としか書いていないが、翫右衛門の心得が俳優だけではなく、作家にも、いや、あらゆる人に通じると思ったから、紙幅の許す限り抜き書きしたのであろう。

 芝居における俳優の演技は、上演中は確かに目の前にあるものの終演後は消えてしまう。
 技術の進展により、芝居を動画のまま記録できるようになったが、映画やテレビで見る芝居は劇場で見る芝居とは別物である。
 本コラムの主旨文に、
「実用を優先する技術を実とすると、仮説や理論を優先する科学は虚と位置付けられる。(中略)現実の課題解決に関わる政治や経済の諸活動を実とするなら、理想に関わる宗教や芸術、哲学や思想は虚である」と書いた。
 芝居は虚の典型の一つであり、中村翫右衛門の「演技心覚え」は虚の作法と言える。

 作家や記者の仕事は文章を残すものの、やはり虚であるから、演技心覚えを「作家心覚え」「記者心覚え」と読み替えて服膺することができる。
 念のためお断りしておくと、本稿で使っている虚や実は優劣を意味しない。
 俳優や作家より政治家や経営者の方が偉いということはない。
 もちろん、政治家や経営者より俳優や作家の方が偉いということもない。

 それでは筆者はどのように読み替えているか、いくつか例を挙げてみよう。

一、 記者は、いつでもこれでよいという満足を感じずに一生を過ごすものだ。

「この話を取材でき、しかもうまく書けたらもう満足だ」と思ったことは一度もない。
 そう思ったら引退(失職)ではないだろうか。

一、 読者評価は大切なものだが、あまりにそれに動かされては自分を見失うことになる。
 
 Tech-On!読者に関係のない話になって恐縮だが、日経BP社には読者評価の仕組みがある。
 雑誌を発行した後、読者にアンケートをして、どの記事を読んだか、役に立ったか、と聞き、それを集計して記事ごとに点数を出す。
 読者評価であるから、結果に噛みつく訳にはいかないが、といって点数に一喜一憂するようではろくな記者にならない。
 若い記者ほど点数を気にする傾向が強い。
 若手には、
「点数が良かった時は胸を張り、悪かった時は早く忘れて次の企画を考えるべし」と言っている。

一、 記者はいつまでも若く、感激性を保持せねばならない。でないと合理主義的な取材と執筆活動に陥ってしまう。

 記者に成り立ての頃、先輩から「記者のピークは30代前半」と言われた。
 10年くらいやると取材のこつがつかめてくるし、この辺りが一番元気だからである。
 ただ、ピークをとうに過ぎた記者として最近思うのは、実年齢はあまり重要ではない、ということだ。
「その話、面白いです」と言い続けられれば記者を続けられる。
 逆に若くても新事実に感激しない人は記者には向かない。
 この話を書くにはこことあそこに取材すればよい、と常に合理的に動く記者も大成しない。
 筆者はどうかと言うと、専門であるはずのIT(情報技術)分野で滅多に感激しなくなった。
「その話は前に聞いた」と思ってしまう。
 その代わり怒ることが増えているが、立腹して原稿を書いてはならない、と自戒している。

一、 取材中は臆病に、原稿を書く時には自信をもて。

 人に会って話を聞くというのはかなり神経を使う仕事である。
 聞いた話をまとめる時にも気を使うが、その使い方は取材時とはまったく違う。
 原稿を書く行為は、目の前にはいない読者に向かって球を投げるようなものだから、ある程度の思い切りがいる。
 細かいことばかりに気を使っても、球が届かなければ意味がない。
 断っておくが、細部に配慮しなくてよいということではない。
 筆者の原稿を読んでいた方が筆者に初めて会った時、
「想像していた人とまったく違いますね」と驚くことがある。
 人に会っている時の低姿勢な筆者と、原稿を書いている時の強気の筆者とどちらが本当かと聞く人もおられるが両方とも筆者である。

 以上のようなことを書いたり、言ったりすると、
「人に会った時は芝居をしているのか」と詰問調で聞かれたりする。
「そうだ」と答えると面倒な事態を引き起こすので「いえ、そういうわけでは」と曖昧な返事をする。

「俳優や作家より政治家や経営者の方が偉いということはない」のだが、芝居をしたり、架空の話を作ることを実業の世界に持ち込むのはいけない、とする人がいる。
 確かに、「一芝居打つ」と言った時の芝居は人を騙すという意味だし、「芝居気がある」も人物評価に使う場合、あまり良い意味ではない。

 しかし、実はすべての人が何らかの芝居をしている。
 上司に対して、部下に対して、常に素のままで接している人はいないはずだ。
 他人に対してではなく、自分に対しても芝居をする。
 心得にあった「俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない」は、すべての人に通じる名言と思う。
 仕事をしていて、ここぞという時には、「自分よりうまくこの仕事をこなせる人はいない」と強気の役を演じる必要があるが、それだけではうまくいかない。
「自分のやっていることは問題ばかり目につくなあ」と反省し続ける気弱な役を同時に演じないといけない。

 技術者や研究者の方は「自分には確かな技能がある」と自信を持ったり、「いや、まだまだ」と反省することを繰り替えしておられるのではないか。
「昨日よくできても昨日のように」取り組むのではなく「今日は今日の気もちで」取り組む。
 翫右衛門の心得は技術の世界にも通じると思う。

日本経済新聞・XTECH、2008/05/14 10:26
谷島宣之の「虚實の谷間に花が咲く」
俳優の心得、記者の心得、そして技術者の心得

https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20080514/151676/

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2019年09月17日

日本社会党

鈴木茂三郎・千恵の墓.JPG

 そうなんです、ヤッホーくんの一昨日、15日の朝キンで春日通を歩いていて遭遇したのが、なんと「鈴木茂三郎、千枝」の墓碑!
 日ごろから平和を叫んでいるヤッホーくんが呼ばれたのかもしれない、ともうビックリびっくりして、手をあわせておりました〜
 改憲か壊憲はだめ、現憲法を主権者コクミンが生かすことが、アジアでも世界でも存在価値のある、希望溢れる日本になるのだと
 それにしても、どうしていま、政治も政治家も、活動家もメディアも、こんなひどい状況にあるんだろうなとフシギなんですう〜

社会党時代は自民党にとって最大の脅威でもあった社民党。
しかし今ではすっかり鳴りを潜め、衆参合わせてわずか4議席となっています。
同じく党名を変えた民進党もパッとしません。
なぜ急激に野党の力が失われてしまったのでしょうか。
無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』では、自らの保身の為にブレてばかりいる姿勢に問題があると指摘しています。

存亡危機の社民党。かつては改憲勢力3分の2を止めた党だった

 参院選も終わり本日は政党の力についてお話したい。
 今回の参院選の結果を見ると、野党には存亡の危機を迎えているような政党も見受けられた。
 また、「改憲勢力が3分の2を超した」と言うけれども、熱気・興奮は感じられず、政党の力が衰弱しているなとも感じた。
 今回、特に「社民党」の凋落が際立った。
「社民党」はもともとは二大政党であった「社会党」。
 今回社民党の吉田党首が落選し、比例で1議席、福島瑞穂氏のみが当選。
 この結果により衆参合わせてわずか4議席となった。
 我々には社会党というイメージがあるため、この状況に驚きをかくせない。

かつては市民を魅了した社会党

 かつての社会党を振り返ってみると、他の党とは違うぶれない主義主張があり、それが市民をひきつけていたように思う。
 1955年に55年体制ができ、民主党と自由党が合同し自由民主党が誕生した。
 社会党も左派と右派が合流し、鈴木茂三郎氏、浅沼稲次郎氏、成田知己氏、石橋政嗣氏などが共に闘っていた。
 1956年の参議院選挙では新聞に「憲法改正是か非か。争点は3分の2」という見出しが躍って、まさに今を丸写ししたような状況。
 自民党と社会党が真っ向から対立していた。
 自民党の総理は鳩山一郎氏、幹事長が安倍首相の祖父である岸信介氏。
 社会党委員長は鈴木茂三郎氏で、書記長が浅沼稲次郎氏だった。
 今考えても両人とも大物である。

かつての選挙でも改憲を問うていた!

 その当時の事象で興味深いのは、自民党は今と同様に「重点政策10項目」に「憲法改正」を盛り込まず、争点を隠した。
 それほど憲法の問題は日本人にとってタブーでもあったのだろう。
 選挙戦では護憲連合、労働組合、女性団体、学生など、実に72団体が野党を応援。
 この現象は本当に政党としての力を持っていた表れといえる。
 全国的に運動は盛り上がり、憲法改憲に反対する有名人のポスター10万枚が全国津々浦々に張られた。
 結果、社会党は3分の2を阻止し、全体の議席の3分の1を超える80議席と大躍進。
 改憲勢力が3分の2を獲得することはできなかった。
 これが、市民に護憲運動が定着したきっかけとなった。

政党の力が拮抗したことも

 その後、安保闘争等いろいろあり、社会党も分裂していくが「男女平等」という柱を掲げ、70年代から「男女雇用平等法案」を提出していた。
 その後ようやく、1986年に「男女雇用機会均等法」が施行される。
 これは、その当時一つ核となる大きな柱を持っていた表れといえる。
 さらに、冷戦終結直前の1989年の参院選では自民党の宇野総理(当時)の女性問題もあり、社会党党首の土井たか子氏が「やるっきゃない」と言い、女性候補を次々立て自民を過半数割れに追い込む大躍進を果たした。
 この結果を受けて土井氏は「山が動いた」という言葉を述べ話題となった。
 リクルート事件があり金権政治への批判もあったが、社会党を中心とする政党力が一本化し、自民党と対立し合う政党と政党の力がぶつかり合う小気味好い闘いであった。

何事も軸が重要

 社会党が凋落するきっかけは、1994年の「自さ社連立政権」誕生だ。
 自民党と社会党の力が徐々に弱まり始めた際、「自民党」は生き残るために「社会党」を取り込み、さらにそこに「新党さきがけ」が合流し村山氏を党首にし村山政権を作った。
 一旦、権力の味を占めるが、ここで自分たちも権力をとれるという過信により、本来の社会党の本質を見失っていった。
 これらの過程の中で、護憲政党だったにもかかわらず自衛隊に対する憲法解釈の違う党と組んだことがその本質をさらに見失わせたのだろう。
 その後、1996年に「社会党」から「社民党」に党名を変更。
 本来、この時、基礎理念が表わされている「社会党」という党名を踏襲すべきだったと思う。
 さらに、2000年代に入ると、社会主義で一本通っていた大物たちの世代交代が進み、さらにぶれが加速していったようにも思う。
 今回の選挙においても、「民主党」は今年2016年3月に党名を「民進党」に変え、参院選に臨み、敗れた。
 さきほど紹介したように民主と投票用紙に書いたものは無効となっている(同日の番組内「現場にアタック」にて紹介)。
 結局、市民をひきつける力というのが政党の一番の魅力だと思うが、その力をドンドン失っている。

 世界は大動乱で、イギリスのEU離脱、中東の内戦、中国の成長の鈍化といったように世界は大乱の時代に向かっている。
 日本も財政赤字、イノベーションの進行がみえない、格差拡大、少子高齢化などさまざまな問題を抱えている。
 その状況下で、株価が乱高下すると安全な日本株を購入する動きが出ている。
 その現象を日本は、なんとなく良いと思っているけれども、これは一時的なしのぎであって状況が悪化した途端に別に移動するということに気が付いていないように思う。

政党力の復活は…

 特に野党は、自分たちの政党力をきちんとアピールするために政策を骨太の力として出すべきだと思う。
 現在、日本では先に述べたような問題が山積しているが、それを懸命に訴えれば野党は今回勝てる可能性が十分あった。
 これまで今と昔の参院選を比較し、同じようなテーマで選挙を闘ったということがあった事を振り返ってきた。
 憲法に関して何十年も前と同じものを引き継いでよいのかという世論もある中で、今後野党はどうするかが問われている。
 今回の選挙戦では、与党による憲法に関する明示がない中で、野党はそこに本格的な論争を挑んでおらずバラバラで収束していない。
 それらも含め、野党がもう一度一本化できるかどうかが、今後問われるところであろう。
 今回の総括をきちんとして、力を蓄えて欲しい。

(TBSラジオ「日本全国8時です」2016年7月12日音源の要約です)


MAG2NEWS、2016.07.14
見る影もない凋落ぶり。
参院選で惨敗
「社民党」の役割は終わったのか

嶌信彦『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』
https://www.mag2.com/p/news/212003/

 1994年9月、社民党の前身である社会党は真っ二つに割れた。
 新政治方針を決める臨時党大会。
「自衛隊合憲」「日米安保堅持」「原発容認」。
 従来路線の大幅転換が、党から約半世紀ぶりに誕生した首相村山富市の発言に沿う形で提示された。
 沖縄など反対する県本部は修正を求めていた。

「修正したら村山政権は持たない」

 幹部の発言に、反対派をたき付けた党政策審議会の河野道夫(71)は憤った。

「自民と交渉もせず、何をおびえている」

 結局、予想以上の大差で原案が可決。
 河野は「野党から責められる村山が気の毒、という同情論にやられた」とうめいた。

 改称した社民党からは、旧民主党に半数の議員が流出。
 1996年の総選挙で、議席数は15にまで落ち込んだ。
 かつての野党第一党の凋落(ちょうらく)を、村山の首相秘書官も務めた河野は「党大会が分水嶺(れい)。護憲政党としてのアイデンティティーを失った」と悔やむ。
■ ■ ■
 2003年7月、戦地イラクに自衛隊を派遣するための特措法が、国会で議論されていた。
 自民党元幹事長の古賀誠(72)は、ハト派の重鎮、野中広務とともに衆院での法案の採決を棄権した。

 湾岸戦争以降、次々と自衛隊が海外へ派遣される現状に、危機感を抱いていた。

「たとえ小さな穴でも、一つあけば広がっていく。先の戦争の時もそうだった。きちんとした歯止めが必要」

 それが、太平洋戦争で父を亡くした古賀の政治哲学だった。

 護憲政党が力を失う中、自民の重しとなったのが、戦争を体験した世代の議員だった。
 だが、その思いとは裏腹に、自民、民主の二大政党は改憲に向け歩調を合わせていく。

 2005年には、約40年ぶりに設置された憲法調査会が5年間の活動を終え、報告書を提出。
 改憲手続きに必要な国民投票法案の成立に向け、両党と公明の三党担当者は毎週のように議論を重ねた。
 2007年、「私の内閣で憲法改正を目指したい」という首相安倍晋三の発言が民主の反発を招くまで、蜜月関係は続いた。

 昨年2012年末、安倍が首相に返り咲き、改憲論は再び勢いを増す。
 古賀や野中らハト派の多くは政界を去った。
 2007年まで自民の憲法調査会長だった船田元(59)は、3年余の自らの落選期間の間に、憲法への自民の姿勢が「乱暴になった」と懸念している。

「われわれの考えを憲法に書き込めばいい、という欲求が高まってきた」
■ ■ ■
 社民党職員を退職した河野はイラクに自衛隊が派遣された2003年、国際法を学ぶため渡英した。
 九条が空洞化するのは、国連が機能せず、日米安保に頼らざるを得ないからだと、長年の経験で痛感した。

「ならば国連憲章を抜本改革できないか」

 英語の習得から始め、足かけ6年で、資料の豊富なスコットランドの大学の修士課程を終えた。
 帰国後、勉強会を立ち上げ、なお国際法の研究を続ける。

 1年半前には、住まいを沖縄に移した。
 基地負担を強いられる人々の「怒り」を共有するためだ。

「世界情勢に合わせ改憲するのでなく、国際社会の秩序を九条に近づけたい」

 高すぎる理想のために、怒りのエネルギーが必要と信じている。
◇ ◇ ◇
「憲法と、」は大幅加筆の上、岩波書店から単行本『憲法と、生きる』として出版されています。


[写真]
首相秘書官を経て、在野の研究会を立ち上げた河野道夫=東京都台東区で

東京新聞・憲法と、2013年6月30日
第4部 9条の21世紀<2>
政界去った戦争体験世代
https://www.tokyo-np.co.jp/hold/2014/kenpouto/list/CK2013063002000171.html

 きょう2019年5月8日の朝日で、編集委員の国分高史編集委員が河野道夫さん(76)という人物について教えてくれた(多事奏論)。
 河野さんは、自・社・さ連立政権の首相になった村山富市氏の首相秘書官だった人だという。

 その村山首相は、1994年7月20日の衆院本会議の代表質問に対し、
「私としては専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力部隊である自衛隊は、憲法9条の認めるものであると認識するものであります」と答弁した。
 この事を国分編集委員は次のように書いている。

「自衛隊は違憲との立場をとってきた社会党委員長の、歴史的な政策転換だった」と。
「これはまた、戦後長らく続いた国会での自衛隊をめぐる憲法9条論争に、事実上の決着がついたことを意味した」と。

 社会党はその年1994年の9月に臨時党大会を開き、村山首相の路線転換を党の方針として追認する。

 その時、河野さんは、村山答弁を追認する執行部案に反対し、内閣と党の政策に違いがあってもいいとする修正案を出した議員たちを裏で支えたという。

 つまり、連立政権の経験を積んだ西欧では、政権の方針と各党の政策に違いがあって当たり前。
 自民党だってそうだ。
 だから社会党も「自衛隊違憲論」を変えなくてもよかった、村山答弁を追認しなくてもよかった、と主張したのだ。
 私もそれが正しかったと思う。

 しかし、内閣と党の方針を使い分けては野党に攻められ、「首相が持たない」との追認派との激しい論争の末、河野さんたちは破れる。

 そして社会党は、1996年1月の村山首相の首相辞任後、党名を社民党に変えるが、社民党は民主党へ移る者と、社会党の方針を貫く新社会党の三つに分裂し、衰退していく。

 河野道夫さんは、2002年の60歳定年まで社民党に勤めた後、自らの信念を貫く道を歩み出したという。
 すなわち、翌年に単身渡英し、スコットランドのアバディーン大学で国際法を学び始めた。
 そのきっかけは、村山首相の中東歴訪に同行した際、パレスチナの厳しい現実に、
「なぜ国際法は中東問題を解決できないのか。なぜ平和憲法を持つ日本は何もできないのか」と疑問を抱いたからだという。

 国連憲章の制定過程を調べ上げ、対テロ戦争と国際法の矛盾を指摘した論文で2008年に修士号を取り、学んだことを実践したかったが、「日本人がひとりパレスチナに飛び込んでも何も出来ない」と気づいて、沖縄ならできると、2011年に読谷村に移り住んで、いまは辺野古の新基地反対運動に身を投じているという。
 これだけでも私にとっては尊敬に値するに十分だが、私がもっとも共感を覚えたのは次の河野さんの言葉だ。

憲法の精神と理念の実現できる世界をめざし、国際協調体制の確立と軍縮の推進を図りつつ、国際社会で名誉ある地位を占める事が出来るように全力を傾ける

 これは、村山首相が自衛隊合憲を認めた答弁の中で、同時に「もう一度お聞きください」と強調して、続けた決意であるという。
 それを書いたのはもちろん河野道夫さんだ。
 その決意が忘れさられてしまっていることが残念でならないという。

 そして河野さんは次のように今の政治に失望する。

安倍改憲に異を唱える議員は与党にも野党にもいるけれど、武力に依存しない国際関係を築く9条の理想や軍縮を真正面から訴える政治勢力は、わずかになってしまった・・・

 わずかどころか、私に言わせれば皆無だ。
 私は河野道夫さんこそ新党憲法9条の名誉会長にふさわしい人物だと、この朝日の国分編集委員の記事を読んで確信した。
 誰か私を河野道夫氏に紹介してもらいたい。
 読谷村まで訪れて、新党憲法9条構想について語り合いたい。
 そして賛同いただけるなら、三顧の礼で名誉会長就任をお願いしたいと思っている。


天木直人のブログ、2019-05-08
河野道夫さんに会って新党憲法9条構想について話したい
http://kenpo9.com/archives/5928

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2019年09月16日

青年よ再び銃をとるな

1951年1月21日
青年よ再び銃をとるな
委員長就任挨拶
鈴木茂三郎

 私は皆さんの御推薦によりまして中央執行委員長の重職を汚すことになりましたについては、私一個としては感激にたえないものがございます。

 私は自分の分をよくわきまえておるつもりでございますが、せっかく皆さんの御期待に副い得るやいなやに関してはひそかにこれを憂えるものでございます。
 しかしながら私があえて火中の栗を拾う決意をもってこの重職をになう決意をもちましたことは、御承知のように、内外の情勢に対しまして社会党といたしましては、この危局を乗り切って日本を救い日本の民族を救うものは社会党よりないという固い決意をもっておるものでございます(拍手)。
 この際社会党はこの情勢に対する確固不動の方針を確立いたしますと同時に一歩も動かない不退転の態勢を確立したいと思いまして、この際委員長を空席とすることを許さざる客観的情勢にあるから、私はあえて皆さんの御推薦によって、皆さんの御期待に沿い得ないことをおそれながらもお受けいたした次第でございます。

 内外の情勢に関しましては大会において皆さんが十分審議、討議されたように、第一に国際的な情勢に関してはいわゆる軍備拡張が行われ、第三次大戦はアジアにおいては朝鮮に起るとみるものがあり、ヨーロッパにおいては1951年7月ごろユーゴの国境においてみるであろうと言われておりますが、しかしこうした世界大戦の危機がだんだんと深まってまいるに対しても、ただいまは平和機構としての国連の内部における二大勢力の対立でございまして、この国連の内部または外部においては、一たん戦争が起れば人類を破滅に陥れる戦争を絶対に防止しなければならないという強い運動がまき起っておるのであります(拍手)。
 こういう情勢に対して、私は大会後、新しい執行部と協議いたしまして、幸いにして機関の御決定を得ることができれば、この際世界における私共と同じ民主的な勤労大衆と固く結合するために、コミスコ(Commitee of the International Socialist Conference)を通じて提携を深めるために、その背景となっておる勤労大衆の支持を受けるために、社会党は正式に各国に対して代表を派遣いたしたい、と存じておるものでございます(拍手)。

 国内の情勢に関しては、占領後6ヶ年、欧米と同じような資本主義的な再建の方式がとられておりまするが、欧米と経済的に根本的に事情を異にいたしておりまして、敗戦後御承知のように領土は狭隘となり、産業は中小企業を主体とする弱い産業態勢でございまして、その中にたくさんな国民の生活を保障いたしますには、こうした条件の根本的に違う欧米と同じ資本主義的な態勢によって、国民の生活を安定させ、行動させるということは不可能だということは、今日の事態が証明いたしております。
 資本主義的な再建方式をとってきた政府並びに資本家階級は、この不可能なことを可能ならしむるために、朝鮮の事変を利用して、朝鮮の事変によって利得を上げて資本主義的な態勢をささえようとしたり、これがむずかしいとみると世界戦争への危機に便乗いたしまして、戦時利得を上げて軍事産業によって資本主義を再建しようとして、資本家階級は再軍備を主張しておるではありませんか(拍手)。
 これは明らかに資本主義の本質を暴露したものであるではありませんか(拍手)。

 この中へ、幸いにして講和の目的のために近くダレス氏が来朝されると聞いております。
 ダレス氏は一部に伝えられるように、そんなに講和がさしせまったという用件ではなくて、アメリカのヨーロッパとアジアにおける政策の調整などに関連して来朝され、その際日本の国民のあらゆる方面の率直な意見を、率直な要望を検討し調査することが目的であるように存じておりますが、この際、ダレス氏の来朝を前にいたしておりますが、わが社会党の第7回大会は皆さんによって新たに講和に対する原則、平和に対する方針、具体的な方針を確立されましたが、私は皆さんによって確立された講和、平和に対する原則その具体的の方針をあくまで追求することと、これこそわが日本の民族をして、日本の独立を確保するただ一つの道であるということを確信をいたします(拍手)。

 私はこの皆さんの決定を遂行いたしますために、私はとって57歳、日本の民族を救い、日本の独立を確保いたしますために、私一個の命はきわめて軽いものでございまして、私は死を決して日本の独立と平和を確保するためにこの大会の決定を確保せんとするものであります(拍手)。

 私はこの際特に党の青年の諸君、婦人の諸君に一言訴えてその奮起を促したいと思いますが、青年の諸君に対しましては、ただいま再武装論がございます。
 再武装を主張する当年60余歳の芦田均氏が鉄砲を特ったり背嚢を背負うのではないのでございます。
 再武装をするとすればいわゆる青年の諸君が再武装しなければならないことは当然でございます。
 私は青年諸君はこの大会の決定を生かすために断じて銃を特ってはならない。
 断じて背嚢をしよってはならない(拍手)。
 青年諸君は確固とした方針をもって、ただ党内の問題、組合の中の問題にとどまらないで、党の問題は私ども新しい執行部におまかせを願いまして、青年諸君は広く青年大衆の中に入って党の方針を諸君が中心に確保願いたいのであります(拍手)。

 婦人に対しましては、労働階級の犠牲によって資本主義的再建のとられておる今日、勤労大衆の家庭生活を通じて、働く人たちの生活がいかに蹂躙されておるかということを現実を凝視してもらいたい。
 あるいは不幸にして戦争になったような場合に、5400万人、女、子供合わせて5400万人以上のこの婦女子を戦争の惨害から、この爆撃の下から、どうしてこれを守ろうとするのであるか(拍手)。
 私は幸いにして一党の代表者がダレス氏と会見する機会を得たならば、世界の第三次戦争に対して、国際的な紛争に対して何ら関知しないところの日本が、こういう国際的な紛争のために日本が、不幸にして戦争に巻き込まれた際、ダレス氏は日本の5400万の婦女子を何によってこの戦禍から防衛してもらえるか、ということを聞きたい(拍手)。

 私はこの困難な段階に重要なる任務をにないましたが、しかし幸いにして新しく顧問になられた先輩の諸君、あるいは中央執行委員会の諸君、こういう方々の御協力によって任務をあやまちなく遂行いたしたいと存じますが、とりわけわが意を強くいたしてこの重任を負いましたのは、前の5回、6回の大会における講和の三原則を、朝鮮問題から起ってきたあらしの中から、皆さんの大会の決定を、委員長のないもとにおいて確守されてきた大書記長・浅沼稲次郎君が、同じように書記長として御協力をいたしていただくことができるということと同時に、なおそれより私がこれをお引受けいたすことのできましたのは、皆さんの御承知のように、片山前委員長は同志的な友愛と信義の道を私どもに説かれ実践をされ、かつ、いわゆる派閥解消に関して今日この大会にみられるような効果をあげてこられた。
 きわめて公正な立場をとり堅実な識見をもっておられまする前委員長・片山さんが、私の最高顧問として重要な問題についてはお力ぞえを受け、私の足りないところを補っていただくことができるということ、今日ここに病中ながら、それがために御列席を得ました片山前委員長が、私に全力の御協力をしていただくということと、そのために私はあえてこの重任をお引受けいたした次第でございます(拍手)。

新しい役員を代表いたしまして一言ごあいさつ申上げ、皆さんのご協力をお願い申してやまない次第であります(拍手)。


[写真]
左社大会で演説する鈴木茂三郎

日本社会党第7回大会最終日におこなわれた鈴木茂三郎の就任あいさつ。
文中の「青年よ銃を取るな」の訴えは広く国民の共感を呼び、戦後社会党躍進の原動力の一つになった。
出典は日本社会党結党40周年記念出版『資料日本社会党40年史』(日本社会党中央本部、1986年7月)。


http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_025.htm

 今日5月7日は、日本社会党を結成、第2代委員長、初代「統一社会党」委員長をつとめた政治家の鈴木茂三郎(すずき もさぶろう)が、1970年に亡くなった日です。
 1893年に愛知県蒲郡に生まれた鈴木茂三郎は、新聞や牛乳配達など苦学しながら中・高等教育を修め、旧制海城中学を経て、1915年に早稲田大学政治経済科を卒業しました。
 卒業後は、「報知新聞」や「東京日日新聞」の記者となり、主として経済部に所属しながら、経済ジャーナリストとして知られるようになりました。
 1918年に特派員としてシベリアへわたったとき、「ロシア革命」に対する干渉戦争ともいうべき軍部のシベリア出兵を目にしたことで、生涯戦争反対をうったえつづける素地ができあがりました。
 1920年から2年間の渡米、その後、何度か特派員としてソ連の社会主義をまのあたりにしたことで、しだいに社会主義思想に傾倒するようになります。
 そして、1927年に山川均(1880 - 1958)らとともに雑誌「労農」を発刊、東京日日新聞を退社して、社会主義運動に専念するようになりました。
 1928年7月、無産大衆党が結成されると書記長に就任し、以後、東京無産党、社会大衆党など合法的な労働者・農民の政党をつくり、役員をつとめました。
 しかし、社会大衆党が軍部との関係を深め、国家社会主義的な路線をとるようになると、鈴木はあくまでも戦争とファシズムに対する反対を貫いたことで、1937年の人民戦線事件に連座して検挙され、1945年8月15日の敗戦まで、政治的活動を禁止されてしまいました。
 敗戦直後に「日本社会党」の結成に加わり、1946年の総選挙で衆議院議員に初当選すると、党内の左派を指導し、1949年に書記長、1951年には第2代目の委員長となりました。
 就任したときの党大会で、再軍備の動きに反対し、「青年よ、再び銃をとってはならない。婦人よ、再び夫を戦場におくってはならない」という名演説をしました。

 この演説は大きな反響を引き起こし、以後、日本の平和運動のスローガンのひとつとなっています。

 1951年のサンフランシスコ講和条約の批准をめぐって、日本社会党が左・右に分裂すると、鈴木は「左派社会党」の委員長となり、分裂時、衆議院に16議席しかなかった左派社会党を、1955年総選挙では89議席に躍進させました。
 1955年に社会党が統一されると、ふたたび委員長に選ばれました。
 しかし、1958年の総選挙での伸び悩み、翌年の参議院選挙での敗北により、党内の左右両派の対立が再び高まりました。
 1960年には西尾末広らが脱党して、民主社会党(のちの民社党)を結成したことでその責任をとり、浅沼稲次郎に委員長の座をゆずりました。
 その後の鈴木は、社会主義理論委員長となり、「日本社会主義の道」の作成にあたるなど、社会党の左傾化を推し進め、1967年に政界を引退しました。


いずみ書房・創業者・酒井義夫のこだわりブログ、2013.5.7
「青年よ再び銃をとるな」 の鈴木茂三郎
http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2013/05/post_1619.html

 2002年6月4日(火)未明、法政大学名誉教授であり、大原社会問題研究所名誉研究員でもあった鈴木徹三先生が亡くなられた。
 享年79歳であった。
 ご本人の遺志により、ごく限られた方々による密葬とすること、大学および研究所などには後日、お知らせするようにとのことであり、私どもが先生の訃報に接したのは、ほぼ1週間後であった。

 亡くなられる約1ヶ月前であるが、『大原社会問題研究所雑誌』2002年5月号には、鈴木徹三「戦後社会運動史資料論−鈴木茂三郎(2)」 が掲載された。
 その雑誌と抜き刷りは、すでに生前、先生のお手元に差し上げられていた。
 おそらく、それが先生の絶筆となったと推測される。
 夫人の鈴木玲子氏によれば、先生はその続編(3)を執筆され、さらにその続きを執筆中であったという。
 だが、病状が極度に悪化し、ついに執筆ができなくなったが、それでもなお、その原稿のことを気にかけて居られたということである。

(*) 鈴木徹三先生は、1923年1月22日、東京・幡ヶ谷で、父・鈴木茂三郎、母・鈴木ゑんの3男として生まれた。父・鈴木茂三郎は、のちに日本社会党委員長として活躍したことでも著名である。
 鈴木先生に鈴木茂三郎に関する研究が多いのは、その生まれと育ちの縁によるものであろうか。
 たとえば、著書では、『鈴木茂三郎(戦前編)−社会主義運動史の一断面』(日本社 会党機関紙局,1982年)、『片山内閣と鈴木茂三郎』(柏書房、1990年)などがある。
 鈴木先生は、1947年に京都帝国大学経済学部を卒業後、東京大学大学院で有沢広巳教授のもとで学んだ。
 1949年4月、法政大学の専任教員となり、経済学部で工業政策論、日本経済論を担当した。
 1962年4月以降は、ずっと経済政策論を担当されてきた。
 私事にわたって恐縮であるが、私は、法政大学経済学部の学生時代、その鈴木先生の経済政策論の講義を1年間、受講させていただいた。
 当時の経済学部では、宇佐美誠次郎先生の財政学、大島清先生の日本農業論、上杉捨彦先生の社会政策論などの人気講義があったが、鈴木先 生の経済政策論も同様に人気があり、多くの学生が受講していた。
 先生の講義は、立て板に水といった流ちょうな講義ではなく、どちらかといえば、とつとつと語る感じの講義であった。
 ただ、その語り口 のなかから、経済政策の主体である国家をいかに捉えるか、客体の捉え方はどうかなど、捉えた結果を結論として断定的に講義で与えるのではなく、「捉え方」における諸見解、諸学説などを丁寧に紹介され、学生自身にもっと考えさせるといった講義であった。 *

 1972年4月、鈴木徹三先生は、法政大学常理事(財務担当)に就任された。
 法政大学大原社会問題研究所と鈴木先生との公式の関わりは、その年1972年の9月、先生が財団法人法政大学大原社会問題研究所の理事に就任されて以来、続いた。
 研究所理事としては、1986年3月、財団法人法政大学大原社会問題研究所の解散まで携わった。
 その後、法政大学の付置研究所となってからも、研究所の多摩キャンパス移転後の同年4月より、学部の教授会にあたる研究所の運営委員会の委員となられ、1993年3月、法政大学を定年退職されるまで、その任にあった。
 その間、20年以上にわたり、研究所の運営について尽力された。
 さらに、研究所所蔵資料の復刻・刊行にも貢献された。
 たとえば、現在、207冊に達している戦前史料の復刻シリーズ 『日本社会運動史料』(法政大学出版局刊)では、『無産階級評論雑誌 大衆』(1976年)の解題を執筆されたし、戦後史料の復刻シリーズ『戦後社会労働運動資料』(法政大学出版局刊行)では、『社会主義政治経済研究所機関誌 社会主義』(1992年)および『社会主義政治経済研究所機関紙 政治経済通信 社会主義政経週報 週刊社会主義政経通信』 (1993年)の解題も執筆された。
 それだけではない。
 鈴木茂三郎関係資料(鈴木茂三郎文庫)について、これを順次、大原社会問題研究所に寄贈された。
 この寄贈は、定年退職後も続いており、まだ終わっていない。

 大原社会問題研究所は、鈴木先生の研究所への長年にわたる貢献に感謝の意を込めて、1994年4月より、大原社会問題研究所の名誉研究員という称号を冠している。

(*)鈴木徹三先生は逝去されたが、先生と大原社会問題研究所との関係は、鈴木茂三郎資料の受贈という関係では、これからも続いていく。
 今後は、夫人の鈴木玲子氏およびご子息の鈴木徹太郎氏をつうじ、研究所は寄贈を受けることになっている。
 大原社会問題研究所は、すでに寄贈されている鈴木茂三郎資料について、これまで順次、整理してきた。
 今後、寄贈される予定のものを含み、できるだけ早い機会に、鈴木茂三郎資料の整理を完了して、広く世間に公開するのは研究所の社会的責務であり、鈴木先生の研究所へのご尽力にお応えする最善の道でもある。
 その資料は、日本社会党研究の一大資料宝庫であるのは間違いない。
 そのデータ数は膨大で、現在でも図書約1500件、原資料約1万件にのぼっている。
 鈴木徹三先生の名は、その鈴木茂三郎資料とともに、研究所の歴史に残るであろう。
 ここに、謹んでご冥福をお祈りします。


大原社会問題研究所雑誌No.525/2002.8
鈴木徹三先生のご逝去を悼む
早川征一郎(はやかわ・せいいちろう、法政大学大原社会問題研究所教授) 
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/525-7.pdf

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安倍政権6年半の「なれの果て」

上から下まで総腐敗

 いつから、日本はこんな国になってしまったのか。

 時代が令和に変わって以降、日本社会の理性とモラルを疑うような事件が相次いでいる。

 例えば、詐欺的手法が次々と明るみに出た日本郵便の「かんぽ生命」不正販売。
 ターゲットは主に地方の高齢者で、詐欺的手法を担ったのは、高齢者に身近な郵便局員たちだった。

「郵便局」という地方で圧倒的な信頼を持つ肩書を悪用し、営業成績維持のため、組織ぐるみで数字をカサ上げ。
 契約を取りやすい独居老人を「ゆるキャラ」「半ぼけ」「甘い客」と陰で呼び、ひとりに数十件も契約させるなど、特殊詐欺グループも真っ青の悪質さ。

 日本郵便はかんぽ販売のノルマを廃止するというが、問題の本質は「過剰なノルマ」だけでは片づけられない。
 底流にあるのは、理性とモラルを喪失した日本社会の劣化ではないのか。

 報酬不正で日産を追われた西川広人社長も同類だ。
 検察とタッグを組んだ報酬不正事件でゴーン前会長を追い出しながら、自らも業績連動型報酬の権利行使日をズラし、4000万円超を不正に受け取る犯罪的チョロマカシ。
 こんなトップが企業統治改革の旗を振っていたとは、冗談にも程がある。

 日産のほかにも、神戸製鋼、東芝、三菱マテリアル……と日本を代表する大企業が、ドミノ倒しのように「不正」や「改ざん」に手を染める。
 最近も日立製作所が外国人実習生に計画外作業を指示して、業務改善命令をくらったばかり。
 同社の中西宏明会長は経団連のトップだ。
 企業の模範となるべき立場すら守れない倫理観の逸脱。
「公正」「正直」「勤勉」という日本人の美徳は、とうに死語と化している

 ここ数年、児童の虐待死のニュースは後を絶たず、「最低限の責任」すら果たせない親が増えている。
 ちょっとしたことでキレる大人も増え、厳罰化が求められるほど、あおり運転が社会問題化。
 鉄道各社が啓発ポスターを掲出せざるを得ないのも、駅員への暴力沙汰が数多く発生している証拠だ。

 言うまでもない常識がもはや通用しないほど、この国は堕落してしまったのである。

美徳破壊の政権が生み落とした卑怯な社会

「日本社会の構造的な劣化が、いよいよ覆い隠せなくなって一気に表面化した印象です」と言うのはコラムニストの小田嶋隆氏だ。
 こう続ける。
 私は2012年を境に日本社会は変容したと感じています。
 リーマン・ショックからの長引く不況と、3.11の一撃を経たタイミングで誕生したのが、第2次安倍内閣でした。
 粛々と日本を立て直すことを期待したのに、結果はモラルぶっ壊し政治。
 改ざん、隠蔽は当たり前で、平気でごまかし、嘘をつく。
『総理のご意向』の忖度強要で官僚機構のモラルは崩れ、今や機能不全に陥っています。

 強行採決の連発で民主的手続きを無視し、集団的自衛権容認の解釈改憲で憲法をタテマエ化。
 この春から予算委員会の開催すら拒み続けているのです。
 日本社会の寛容性が失われていく中、率先して『公正』『正直』『勤勉』という美徳を破壊。
 こんな政治が許されるなら、正直者はバカを見るだけとなり、卑怯な社会に拍車がかかるのは当然の帰結です

 落ちるところまで落ちた政界劣化の象徴が、「日本人の知性の底が抜けてしまった」と文筆家の古谷経衡氏が喝破したN国の出現だ。
 同党所属の丸山穂高議員は竹島を巡り「戦争で取り返すしかないんじゃないですか?」と自身のツイッターに投稿。
 昭和の時代なら、こんな暴言を吐いた時点で即刻、議員の職を失ったものだ。
 そうならないのが、政治の劣化とメディアの堕落を物語る。

 今やメディアは「関係悪化の全責任は韓国にある」とケンカ腰の政権をいさめるどころか、一緒になって朝から晩まで嫌韓扇情一色(※)。
 日本の内閣改造の“お友だち”人事よりも、韓国法相の疑惑のタマネギ男の追及に血道を上げているのだから、権力の監視役を期待するだけムダである。

韓国叩きで留飲を下げる世の中でいいのか

 前出の小田嶋隆氏はこう言った。
 不安なのは国民の嫌韓感情をあおって、安倍政権が維新の会を巻き込み9条改憲に突き進みそうなことです。
 改造内閣のメンバーを見ても、最側近の萩生田光一氏をはじめ、安倍首相の親衛隊のような“ネトウヨ”大臣ばかり。
 日本社会のモラル喪失を逆に利用して、この国をガタガタにした張本人である首相が、
『社会がほころんでいるからこそ、改憲でこの国を変える必要がある』
『“お花畑”の憲法では今の日本は治められない』
などと言いだしかねません


 民衆の不安や危機感につけ入るのが、権力者の常套手段。
 6年半を過ぎたアベ政治も常にそうだ。
 そんな腐臭漂う政治が社会全体に伝播し、上から下まで総腐敗の惨状を招いているのが、安倍政権6年半の「なれの果て」である。
 政治評論家の森田実氏はこう言う。
 競争第一、弱肉強食の『新自由主義』がはびこりだしてから、この国はおかしくなってしまった。
 新自由主義に潜むのは『今だけカネだけ自分だけ』の考え。
 この発想に国の指導層が完全に染まっています。
 かつては政治家も経営者も官僚も『国民の生活を豊かにする』との気概に満ちていましたが、今や見る影もない。
 コスト重視で賃金を減らし、大衆からの収奪しか考えていません。
『貧すれば鈍する』で、生活が苦しくなれば精神もすさんでいく。
 日本社会の荒廃は『今だけカネだけ自分だけ』主義が招いた必然なのです。
 加えて戦争を知らない政治家ばかりとなり、隣国に対する過去の反省や責任も放り出しています。
 はたして嫌韓扇情に留飲を下げる世の中でいいのか。
 腐敗した社会への批判精神に国民が目覚めなければ劣化は止まりません

 劣情国家の行く末を危ぶむ気持ちがあれば、批判の声を上げ、うねりに変えていくしかない。


日刊ゲンダイ、2019/09/15 17:08
劣化が止まらない日本
安倍政権6年半の「なれの果て」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/261886

(※)ヤッホーくん注

 他国への憎悪や差別をあおる報道をやめよう。

 国籍や民族などの属性を一括りにして、「病気」や「犯罪者」といったレッテルを貼る差別主義者に手を貸すのはもうやめよう。

 先月末、テレビの情報番組で、コメンテーターの大学教授が、
「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」と発言した。
 他の出演者が注意したにもかかわらず、韓国に「反日」のレッテルを貼りながら、
「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しないといかん」などと訴える姿が放映され続けた。
 憎悪や犯罪を助長した番組の映像はいまもなお、ネット上で拡散されている。

 今月に入っても、大手週刊誌が「怒りを抑えられない韓国人という病理」という特集を組んだ。
 批判を浴び、編集部が「お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります」と弁明したが、正面から非を認めることを避けている。
 新聞も他人事ではない。
 日韓対立の時流に乗ろうと、「厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という扇情的な見出しがつけられたこの週刊誌の広告が掲載されるなど、記事や広告、読者投稿のあり方が問われている。

 日韓対立の背景には、過去の過ちや複雑な歴史的経緯がある。
 それにもかかわらず、政府は、自らの正当性を主張するための情報発信に躍起だ。
 政府の主張の問題点や弱点に触れようとすると、「国益を害するのか」「反日か」と牽制する政治家や役人もいる。

 でも、押し込まれないようにしよう。
「国益」や「ナショナリズム」が幅をきかせ、真実を伝える報道が封じられた末に、悲惨な結果を招いた戦前の過ちを繰り返してはならない。
 そして、時流に抗うどころか、商業主義でナショナリズムをあおり立てていった報道の罪を忘れてはならない。

 私たちの社会はいま、観光や労働の目的で多くの外国籍の人が訪れたり、移り住んだりする状況が加速している。
 また、来年にはオリンピック・パラリンピックが開催され、日本社会の成熟度や価値観に国際社会の注目が集まる。
 排外的な言説や偏狭なナショナリズムは、私たちの社会の可能性を確実に奪うものであり、それを食い止めることが報道機関の責任だ。

 今こそ、「嫌韓」あおり報道と決別しよう。
 報道機関の中には、時流に抗い、倫理観や責任感を持って報道しようと努力している人がいる。
 新聞労連はそうした仲間を全力で応援する。


日本新聞労働組合連合(新聞労連)2019年9月6日
「嫌韓」あおり報道はやめよう
南 彰(中央執行委員長)
http://www.shinbunroren.or.jp/seimei/20190906.html

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谷口智彦内閣官房参与

「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」

「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」

 安倍首相が2019年9月5日、プーチン大統領とともに出席した国際会議でのポエム演説が「気持ち悪い」「寒い」と話題になった。

 内閣改造ですっかりなかったことにされているが、またしても、なんの成果も得られなかった日露首脳会談。
 9月5日ウラジオストクで、実に27回目となる安倍首相とプーチン大統領との会談が行われたが、北方領土の帰属問題には相変わらずなんの進展も見られなかった。

 いや、進展が見られないどころの話ではない。

 周知のとおり、2島返還を落としどころするどころか、ロシア政府幹部からは「主権はロシア」との発言が相次いだり、北方領土で軍事演習を開始されたり、やられ放題。
 もはや日本国内で「北方領土は日本固有の領土」と主張することすらできなくなっているという後退ぶり。
 本サイトは領土問題には興味ないが、韓国に対する強気のハラスメント的態度との大違いぶりには呆れはてる。

 そんな現実をごまかそうとしたのか、安倍首相がプーチン大統領に向かって呼びかけたのが、冒頭のポエム「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」だ。

 首脳会談後に同じウラジオストクで開かれた国際会議「東方経済フォーラム」にプーチン大統領とともに出席した際に披露したものだが、よくもまあ成果ゼロ会談の後にこんなセリフが言えたものだ。

 このポエムにはウラジーミルことプーチン大統領も失笑。
 ちなみにプーチン大統領は、6日にはウラジオストクの市民との交流会で「スターリンがすべてを手に入れた。議論は終わりだ」と語り、北方領土について第二世界大戦の結果、ロシアがすべての領有権を手にしたと主張した。

 明らかに同じ未来を見ていないし、同じゴールにも向かっていないと思うのだが、安倍首相はいったい何を目指しているのだろうか。

 当然ながら、このポエム演説にはネットでもツッコミの声が殺到。
 たとえば元・文科事務次官の前川喜平氏は、
〈「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている。ゴールまで、ウラジーミル、二人の力で駆けて駆けて駆け抜けよう」このスピーチ書いたのは、今井秘書官か佐伯秘書官か長谷川補佐官か・・。誰が書いたか知らないが、文学としてもお粗末だ。〉と突っ込み、共産党・志位和夫委員長も、
〈「ウラジミール、君と僕は同じ未来を見ている」「ゴールまで、ウラジミール、2人の力で駆けて、駆け、駆け抜けよう」……。本当にこんなことを言ったのかと思ってビデオを見たら、本当に言っている。よくもこんな台本を書いたものだし、読めたものだ。〉と切って捨てた。

「文学としてもお粗末」
「よくもこんな台本を書いたものだ」
 多くの人が同じ感想を抱いたことだろう。

 いったい誰がこんなお寒いポエムを書いたのか。
 実は、このポエム演説を書いたスピーチライターは、谷口智彦・内閣官房参与ではないか、とネットで話題になっている。

今回も書いたのはスピーチライター・谷口智彦内閣官房参与か

 谷口参与といえば、もともと「日経ビジネス」(日経BP社)の記者で、第1次安倍内閣時に外務副報道官を務め、2013年に安倍首相のスピーチライターとして採用された人物。
 おもに外交にかんする演説を手がけており、
・ あの国際オリンピック委員会総会での「汚染水は完全にブロックされている」や、
・ 米シンクタンクでの「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら、どうぞ」、
・ エジプト・カイロでの「ISILと闘う周辺各国に総額で2 億ドル程度、支援をお約束します」という演説も、この谷口氏が関わったとみられている。
 今回も谷口氏が関わっている可能性はかなり高いだろう。

 しかも、今回の「駆けて駆け、駆けぬけよう」は、この谷口氏がヘイト雑誌に登場したときのフレーズが元ネタになっているのではないか、という疑惑が持ち上がってる。

 この谷口参与、以前、本サイトでも取り上げたように(https://lite-ra.com/2018/08/post-4205.html)、『安倍晋三の真実』なる安倍礼賛本を数々のヘイト本で知られる悟空出版から出版するなど、ヘイトメディアにまったく抵抗のない人物。

 昨年、「月刊Hanada」(飛鳥新社)が2018年11月号で、昨年総裁選3選を果たした安倍首相を大ヨイショする総力特集を組んだ際も、堂々と登場し、安倍御用評論家の小川榮太郎氏と対談をしていた。
 その対談記事にこんなタイトルがついていたのだ。

「安倍総理は残り3年、駆けて、駆けて、駆け抜ける」

 そう、「ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」というあのポエムとそっくりのフレーズ。

 タイトル自体は編集部が付けたものだろうが、谷口参与がこの対談のなかで、
「安倍総理は残りの任期三年の間、徹底的に走って、行けるところまで行こうと考えている。スプリントをきかせるつもりだと思います。日ロ関係に限りません。結果がどう評価されるかは、自身の棺の蓋が閉まって、さらに幾星霜経てようやくわかる、というつもりじゃないでしょうか」と語っており、この言葉から取ったものだろう
(ちなみに、この谷口参与の言葉は、安倍首相のロシア外交にめずらしく苦言を呈した小川氏に対し、安倍首相をかばった発言だ)。

 この対談タイトルが気に入ったか、頭に残っていて、今回の演説にも採用したのだろうか。
 ヘイト雑誌の見出しを、国際会議での演説に採用するとは、さすがの“安倍政権クオリティ”と言うほかない。

安倍首相「谷口さんのスピーチ原稿を練習していると涙ぐんでしまう」

 しかし、谷口プロデュースのスピーチ原稿を当の安倍首相は大のお気に入りなのだという。
 前出「月刊Hanada」の対談で、小川榮太郎氏が谷口参与のスピーチ原稿を評価する安倍首相のこんな言葉を紹介している。

「谷口さんのスピーチ原稿はうまいんだよ。外務省に書かせるとお役所的になっちゃうけど、谷口さんのは違う。練習で読み上げているときに、自分でも思わず涙ぐんでしまうんだ」

 練習中に自分でも思わず涙ぐんでしまうって。
「ウラジーミル、君と僕は…」も涙ぐみながら練習したのだろうか。

 ちなみに、このお褒めの言葉に谷口参与は謙遜しながら、安倍首相の演説をこう絶賛してみせた。

「スピーチは安倍総理の安倍総理による、安倍総理のためのものです。ご自身が、原稿に幾度も注文を出し、主題を決めてキーフレーズを着想
します。何よりスピーチとは「演者」の、本番1回限りのパフォーマンスをもって初めて完成する音声芸術の一種ですから、もし賞賛を得られたとしたら、それはその一回性の勝負に懸けた演者に帰属する」

「音声芸術の一種」という賛辞も大概だが、スピーチが「安倍総理の安倍総理による、安倍総理のためのもの」って。
 政治家のスピーチというのは、国民のためや国際社会のためにするものなんじゃないだろうか。

 そう考えると、北方領土4島の帰属がロシアに固定化されようとしているときに、「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」などと呼びかけてしまうのも、当然なのかもしれない。
 スピーチは「安倍総理の安倍総理による、安倍総理のためのもの」なのだから。


リテラ、2019.09.14 09:24
安倍首相がプーチンに贈った“失笑ポエム”「駆けて、駆け、駆け抜けよう」の元ネタはヘイト雑誌のタイトル?
https://lite-ra.com/2019/09/post-4971.html

 各国首脳に突然、4枚の文書が配られた。
 世界経済の状況は「リーマン・ショック前に似ている」。
 2016年5月の先進7ヶ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)。
 議長を務める安倍晋三首相が「世界経済の危機」を強調すると、他の首脳からは「危機とまで言うのはいかがか」と疑問の声が上がった。

 文書を作ったのは経済産業省でも内閣府でもなく、政務担当の今井尚哉首相秘書官
 首相の「黒子役」として厚い信任を得る。

 首相は、2017年4月の予定だった消費税率の10%への引き上げを再延期する腹を固めていた。
 リーマン級の危機が起きなければ増税すると明言していたため、論理に無理があるのを承知で、サミットの場を利用して国内向けに発信した。
 提案はG7の総意とはならなかったが、「首相の決断」のお膳立ては整った。

 安倍政権の特徴は内政、外交とも「官邸主導」が徹底していることだ。

 第一次政権でも重用した麻生太郎副総理兼財務相菅義偉(すがよしひで)官房長官が両脇を固め、官僚出身の今井氏や杉田和博官房副長官国家安全保障局(NSS)の谷内(やち)正太郎局長北村滋内閣情報官ら第二次政権の固定メンバーとともに中枢を形成する。

 重要案件は官邸が決め、担当省庁は「蚊帳の外」になることも多い。
 政府が長年、違憲と位置付けていた集団的自衛権行使を容認する際には、NSSや秘書官が内閣法制局と協議し、理屈を練った。
 北村氏は外務省を通さず独自の対北朝鮮外交に乗り出している。

 官邸主導は政策の迅速な決定・遂行につながる。
 政府高官は「政権の方向に官僚を動かすことができる」と自負。
 第二次政権を見続けてきた谷口智彦内閣官房参与は近著で、官邸の面々は私心なく首相を支え、強い結束力があると評した。

 だが、官邸の権勢が強まるほど、政治家も官僚も官邸の顔色をうかがう弊害が浮かび上がる。
 森友、加計学園問題が最たる例だ。

 森友の国有地売却問題で、財務省は首相の妻昭恵氏と学園が親しいことを当初から認識。
 今井氏が経産省から起用した昭恵氏付き職員が財務省に優遇の可能性を照会した後、結果的に国有地は格安で売却された。
 財務省は、決裁文書から昭恵氏や政治家の名前を削除する改ざんも行った。

 加計の獣医学部新設を巡っては、事務担当の首相秘書官が愛媛県職員らと官邸で面会し、実現へ異例の「指南」をしていたことが県文書に記載されていた。
 学園理事長は首相の長年の友人。
 首相は関与を全否定したが、周囲では真偽不明ながら「総理のご意向」などの言葉が飛び交った。

 一連の問題から「忖度(そんたく)」による不公正がまん延しているのではないか、との疑念は強まっている。
 ある官僚OBは「決定過程が不透明な安倍政権の『官邸主導』は、民主的チェックを受ける政治主導ではない」と指摘する。


東京新聞、2018年9月9日
検証安倍政治
官邸主導 忖度を生んだ権勢

(金杉貴雄)
https://yuzawaheiwa.blogspot.com/2018/09/10.html

 2018年9月9日の東京新聞が、「検証安倍政治5年8ヶ月 官邸主導(下)」という特集記事を掲載している。
 そして、その5年8ヶ月の間、一度も変わることなく安倍政権を支えて来た9名の顔ぶれを顔写真入りで紹介している。
 そのリストは安倍首相除いて以下の8名だ。

 麻生太郎副総理
 菅義偉官房長官
 杉田和博官房副長官(警察官僚)
 谷内正太郎国家安全保障局長(外務官僚)
 北村滋内閣情報官(警察官僚)
 長谷川栄一内閣広報官(経産官僚)
 和泉洋人首相補佐官(建設官僚)
 今井尚哉首相秘書官(経産官僚)

 新聞に報じられない日はない、安倍政権の側近たちだ。
 この8名の上に立つ安倍首相を含めた9名こそ、ここまで国家権力を私物化し、日本を破壊し、一億二千万の国民を苦しめる張本人である。
 古今東西の例を見るまでもなく、政権失脚と共に、即刻、新たな政権で絞首刑されるA級戦犯たちである。
 しかし、何事にも穏健ないまの日本では、そのような処刑は起こらない。
 せめて世論の力で一日もはやくこんな連中が支配する日本を終わらせなくてはいけない。

 この東京新聞の写真入りリストを見たら誰もがそう思うだろう。
 この東京新聞の記事は永久保存版であり、そこに掲げられたA級戦犯リストは、メディアが安倍政権の政策を報じる時、真っ先に掲げて国民の意識に植え付けなければいけないリストである。
 日本国民が決して許してはいけない面々である。


天木直人のブログ、2018年9月9日
東京新聞が掲げた安倍・菅暴政の9名の処刑者リスト
https://yuzawaheiwa.blogspot.com/2018/09/10.html

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2019年09月15日

教育の市場化

 内田さんは69歳、元小学校教員です。教育格差をなくしたい、そんな思いから内田さんたちは6年前に子供たちに無料で勉強を教える自習室をスタートさせました。勉強を教えるのは内田さんを始め会社員や、主婦など地域の20人の人たちです。内田さんたちは放課後自習室を訪れてくる50人の子どもたちに、それぞれの事情に合わせて授業で分からなかったことや宿題などを教えています。
 この自習室でユニークなのは、もう一度勉強したい大人のための教科書を学ぶ大人の講座があることです。内田さんたちの現代版寺子屋ともいえる取り組みで見えてくるものは何なんでしょう。

 活動している神奈川県波多野市は神奈川県の中西部にあります。「広畑ふれあいプラザ」という施設がありそこで自習室があります。放課後になると大人が合流して勉強を始めます。リラックスして入ってこれるところがいいところだと思います。
 私は静岡県の磐田市出身です。大学では教育学部の中の中学校養成課程を選びました。英語は好きだったので英語科を選びました。教員試験を受けて浜松市に就職しました。英語が週5時間から3時間に減った年で、英語ではなく家庭科の教員として担当しました。
 浜松は1年間でいろいろ経験したことがあり、よその世界に出てみたいという思いがわきました。
 1年後、一般の会社に再就職し5年間勤めました(関西の自動車の販売会社)。
 自分に合う仕事はないかと迷い始めました。絵が好きで趣味でやっていたので、手書き友禅の会社に入ってそこで2年間修業していました。周りに比べ個性的ではないという思いがあり、改めて教員採用試験を受けました。神奈川県の教員になりましたが、会社にいたときに通信制の小学校の教員の免許も取っていたので、小学校の先生として採用されました。30歳の時でした。
 1つの学校に5、6人の若い教員が採用された時代で、あまり良い目では見られませんでした。
 担任を持ちましたが、いろいろな職業を経験したことが役に立ちました。
 30年間秦野市で過ごしました。
 主人も亡くして、子供を育てるのにいい環境の近くの学校に赴任させてもらいました。
 体調を崩したこともあり、55歳で退職して臨時の講師を5年間行いました。

 近所のお年寄りが学校に来て、子どもたちに詩吟を教えたり、カードで遊んだりする部屋もあり、学校にかかわっていました。子どもたちに何かお返しができないものかと雑談の中から出てきました。
 学校とつながっている「広畑ふれあいプラザ」という施設があり、お年寄りが学ぶ施設でしたが、子どもと触れ合える教室を作ろうということで、最初は遊ぶということがしばらく続きましたが、勉強を教えることに流れていきました。
 子どもたちに自分たちが勉強に意欲を持たせてあげれば、その子たちが社会に出たときに、自分なりの道を見つけてゆく大きな手立てになるのではないかということです。
 教育の格差を少しでもなくしてあげようというスローガンです。
 PTAとして学校にかかわってきたお父さん、地域に貢献している元教員の夫婦と私、4人で始めました。

 看板を立てたり、ちらしを学校に配ったりしました。4、5人(小学生と中学生)すぐに来まして、その子らの面倒を見るようにしました。
 勉強ができないという子たちで、その子等が分かるレベルまで下げて教えました。中学2年の子は小学校3年ぐらいでつまずいたので、そこまで下げてコツコツとやりました。いらない教科書を募集して集めました。
 算数なども一旦始めると理解は早いです。教える側もやりがいがあります。孫ができたという風に言う人もいます。
 大人に教えようという講座を5教科について開いて、それで教師が増えました。
 一気に先生が増えて、会社をリタイアした人、主婦などいろいろな方が来てくださいました。先生が20人、子供たちが50人来てくれて、和やかな教室になっています。
 私が散歩していたらガラの悪い中学生達がいて、声をかけているうちに高校に行きたい、高校ぐらい出て親に恩返ししたいと言うんです。12月なので時間もなく、連立方程式と面接を集中してやって、それ以外は捨ててやったら県立の学校に入学できました。その間に両親とも話をして理解しあいました。
 その後ある時にあったら「俺、学年で数学一番になったよ」といっていました、それを聞いて本当にうれしくなりました。

 いろんな地域でやってみたいと見学にきたりして、ほかでも始まりつつあります。教員時代にはこんなに真剣に子どもを見る時間がなかった、と反省するんですね。どの先生も手ごたえを感じてます、現役時代にこういうことができればよかったねという話がよく出ます。
 ボランティアの先生も高齢で体の具合が悪いとかなど、先生の入れ替わりも激しいので、ずーっと続けることが難しい。最近大人のための教室を開いていませんが、ちゃんとした経歴を持った人が世の中にいっぱいいるが、なかなかボランティアをしたいというところまで気持ちが上向かない方々がいっぱいいらっしゃいます、もったいないなあと思います。
 やはり国語力が大事で、そういった先生がいてそんな時間が取れればいいなあと思っています。
。。。


2019年9月11日(水)NHKラジオ深夜便午前4時台[明日への言葉]
"寺子屋"で教育格差をなくせ
自習室代表 内田克代

https://www.nhk.or.jp/shinyabin/program/a2.html

16歳の時に「自分の将来が見えてしまった」とアメリカに渡り、帰国してから公立中学の教師に。
再び渡米して教育改革を研究するが、帰国後はアメリカで起こっている公教育の崩壊に警鐘を鳴らし、高知県土佐町で町議に転身――。
異色の経歴を持つ教育研究者の鈴木大裕さん(45)が一貫して考え続けてきたのは「教育と幸せ」だという。
鈴木さんにインタビューした。

― なぜ16歳で米国留学を決めたのですか。

鈴木大裕: 高校では友達も多く、学校生活を楽しんでいたんですが、ある時ふと、「このまま高3になったら受験をして、そこそこの大学に入って、サラリーマンになるんだろうな……」と自分の将来が見えてしまったんです。
 自由で活気あるアメリカの教育のイメージに憧れもあったと思います。
 実際に米国に行って、生まれて初めて自分が「学んでいる」と感じました。
 用意された答えではなく、生徒一人ひとりの真実と向き合う素晴らしい先生に出会い、毎晩のように先生から返された作文を書き直しながら「今まで自分が受けてきた日本の教育はなんだったんだろう」と考えるようになり、日本の教育について疑問を持つようになりました。
 だから米国で大学院に進学し教育学を学び、日本の教育現場に立とうと考えて帰国しました。

― 米国で修士課程を出て中学の先生というのは、珍しいのでは?

鈴木: その言葉にこそ、いまの教育の問題点が凝縮されているんですよ。
 中学校の同僚にも同じ質問されたことがあります。
「どうしてアメリカで大学院にまで行ったのなら、ほかにもっと良い仕事があるじゃないか」というようなことでしょう。
 それだけ日本では教員の地位が低い。
 教員の社会的地位を上げないことには真の教育改革はあり得ないと思います。

学校が格差を広げている現実

― 千葉での教員生活はどうでしたか。アメリカでの経験を生かせましたか。

鈴木: 日本では米国で取得した教育学の単位は認められず、通信教育で2年半かけてやっと教員免許を取りました。
 6年半の間、千葉県の公立中学で英語教師として勤めましたが、教師としての仕事に魅力にはまる一方で、「どうして日本では教育改革が進まないんだろう」という思いも高まりました。
 当時はちょうどアメリカでは公設民営のチャータースクールや学校選択制など、大胆な改革が進んでいました。
 閉塞感の漂う日本の教育に身を置いていると、アメリカの市場選択的な教育に希望や憧れを抱きました。
 ですが、コロンビア大学教育大学院の博士課程で実際にアメリカの教育改革について勉強し始めると「負」の部分が見えてきました。
・ 市場原理だけに従った大規模な学校閉鎖、
・ それに伴う教員の一斉解雇、
・ そしてたらい回しにされる子どもたち、
・ 小中学校の学力テストによる序列化、
・ 塾のような公設民営学校の登場……。
 アメリカの学校が「格差拡大の社会的装置」となってしまっているのを前に、公教育とは、民主主義とは何なのかと考えました。

― 2人のお子さんも現地の学校に通ったそうですが、親としてどんな課題に直面しましたか。

鈴木: ニューヨークはすでに「学校選択制」が導入されていて、娘の入学する小学校について20まで希望校を書くことができたのですが、うちはあえて選ばないことを選択し、その結果、人気のない貧困地域にある小学校に入ることになりました。
 周囲の日本人家庭では、希望の学校に入れるために1年間ボランティアをしている人もいましたし、妻も心配をしていました。
 もちろん親として、子どもにいい教育を与えたくない人はいないでしょうが、実際は住む地域や財力によって、選べる人と、選べない人が出ているのが現実です。
 選べる人が選び続けていたら、公教育なんてよくなるはずがないと思ったのです。
 娘たちが通った公立学校は、大半がヒスパニックやアフリカ系の子どもたちで、貧困家庭出身の子たちが8割以上という状況でした。
 人気が落ちて児童数が減った結果、大学付属中高一貫校と、人気のチャータースクールが同じ建物内に同居。
 体育も音楽も専任教員がいないため、体育館や音楽室も使えず、教室などを使って代用していました。
 ランチルームも他の学校とシェアするんですが、人数が少ないためにほかの2校が優先になり「そちらの学校のランチは午前9時半からにしてくれ」と言われたこともありました。
 アメリカでは、予算不足を補うために廊下や食堂にゲーム機の宣伝や広告がずらりと並ぶ小学校もあり、「公」の概念はすでに揺らいでいました。

チャータースクールの激しい競争

― チャータースクールに通わせようとは思わなかったのですか。

鈴木: ニューヨークで見ていると、チャータースクールの分布図はファストフード店と同じなんです。
 貧しい地域にはあらゆるファストフード店が軒をつらね、チャータースクールの広告プレートがあらゆるところに貼られています。
 各学校は学校選択制のなかで生存をかけて競争しています。
 学力標準テストで学校の人気が決まるため、スパルタ式の塾のようなチャータースクールが激増。
 100人以上の子どもを一斉にパソコンに向かわせ、監視員だけを置いておくというような究極の低コスト・合理化を追求し、経営者が莫大な給料をもらっている学校すら存在します。
 これでも「公教育」の枠組みの中で行なわれているのですから、何をもって「公」そして「教育」と呼ぶのか、もはやわかりません。
 当時はオバマ政権。
 オバマは社会政策はリベラルでも、経済や教育政策については新自由主義的です。
 自分自身が競争を勝ち抜いてきたためかもしれませんが、教育も「勝ち組、負け組」の競争原理で改革できると信じています。
 チャータースクールが黒人に人気なのは確かで、「勝ち組になりたい」というモチベーションを与えています。
 しかし、それが「負け組の中の勝ち組」を目指す構図であることを、ほとんどの黒人が気づいていません。
 もちろん良質な教育をし、成果を出している学校もあると思います。
 チャータースクールのアイデアが出始めたころは確かに、良心的な教育者たちが、自分たちの理想の学校をつくろうという思いに満ちあふれていました。
 ただ、その理想は、教育の市場化という社会の土壌にのみ込まれていったように思います。

顔の見える関係の中で教育の今後を考える

― 今年4月に、高知県土佐町議になりました。なぜ高知なのですか。

鈴木: 教育で本気で変わろうと思っている自治体に行って、もう一度日本の教育を考えたいと思っていたのですが、3・11の復興支援活動を通じて仲良くなった友人から、土佐町が教育を通して地域おこしをしようとしていると聞いて、決めました。
 毎日が面白いことばっかりです。
 たとえば、外出して戻ってきたら、玄関に取れたて野菜の差し入れが置いてあったり。
 冷蔵庫に身に覚えのない寒ブリが入っていたこともあります。
 土佐町には、小学校1つに中学校1つ、1学年あたり25人くらいなので、小学校は全校で約150人、中学校で75人くらいです。
 少ないですよね。
 でも、そんな顔の見える関係性の中で、一人ひとりの良さや課題を見極め支援できるというのはすごく魅力的だと思います。

― イエナプラン(※)など多様な教育を公立校に取り入れる動きについてどう思いますか。

鈴木: 多様な教育を柔軟に導入していく取り組み自体はよいことだと思いますが、今日の格差社会において部分的に導入しているうちは、結局は富裕層のためのオルタナティブになってしまう可能性が高いのではないでしょうか。
 教育は社会の写し鏡なので、多様な学校をつくったところで、社会における「成功」の物差しが一つであれば、結局のところ格付けされ、勝ち組・負け組をつくるためのテクノロジーとなってしまう懸念があります。
 結局のところ、一人ひとりが「私の子ども」という観点から「私たちの子どもたち」という観点に切り替えないと、公教育も、社会も、よくはならないということに気づかないといけないと思います。

※ 鈴木大裕(すずき・だいゆう、1999年スタンフォード大大学院修了)

 2002年から千葉市の公立中学で英語教師として6年半勤務。2008年に再渡米し、フルブライト奨学生としてコロンビア大学教育大学院博士課程へ。現高知県土佐町議。著書に『崩壊するアメリカの公教育:日本への警告』(岩波書店)


[写真-1]
アメリカでの経験から日本の教育のあり方に警鐘を鳴らす鈴木大裕氏。現在町議をつとめる高知県土佐町で

[写真-2]
インディアナポリス中心部近くにあるチャータースクールのヘロン高校。6月下旬の夏季講習で生徒たちが経済学の授業を受けていた

朝日新聞 GLOBE +、2019.09.15
特集「変われ!学校」連続インタビューD完 教育研究者・鈴木大裕氏
社会の「成功の物差し」変わらないなら、学校の多様性は格差を生むだけだ

(聞き手・市川美亜子)
https://globe.asahi.com/article/12709128

(※)ヤッホーくん注
「日本イエナプラン教育協会」
http://www.japanjenaplan.org/

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豊田三郎

 あっ、え〜と、今日の日記のテーマは、原田知世でも、映画「天国にいちばん近い島」でもありませんでした(メッ!)
 映画ではなくって小説『天国にいちばん近い島』を書いた森村桂のお父様、豊田三郎、草加市への13日金曜日の朝キン!

 中川がとうとうと流れ、昔ながらの田園風景が広がる草加市柿木町。
 郷土の作家・豊田三郎は、明治40年2月12日、この地(当時は川柳村柿木)で誕生しました。
 粕壁中学、静岡高等学校を経て東大独文科に進み、卒業後は友人の高木卓らと同人誌「制作」を刊行しながら文学修行を重ね、昭和8年には紀伊国屋書店出版部に入社。
 その後昭和10年に『弔花』を発表し、認められました。

 豊田の作品は、都会に暮らす若い男女の生活を描いた作品と、自身の体験に立脚した叙情性に富む自伝的作品とに大別でき、後者を代表する作品として『幼年時代』、『貂』、『青春』などが挙げられます。

 これらの作品には、幼年期を過ごした明治・大正時代の柿木の豊かな自然とのどかな生活が描かれ、この地が彼にとって文学風土の核となっていることが読みとれます。
 代表作である『青春』は、戦争の影が日増しに濃くなっていた昭和16年に発表されました。
 旧制高校の学生である主人公・明石青年の、ヒロイン・佐知子に対するあこがれと挫折を描いた、みずみずしい恋愛小説です。

「少し恢復しかけると、彼は武蔵野と葛飾の境を流れる中川河畔の草原を歩き、そこに長い時間、うずくまっていた。彼は雲の変化と絶え間ない水の動きをみつめていた」

 恋に傷ついた明石の心をなぐさめるのは、夏休みに帰省した故郷に流れる中川の水面でした。
 明石は豊田三郎自身であり、作品中に描かれているのは豊田の青春であったのです。

 草加の生んだ作家、豊田三郎は、昭和34年に52歳の若さで世を去りました。
 映画化もされた小説『天国に一番近い島』で知られる作家の森村桂は、豊田三郎の長女です。


草加市公式サイト、2012年1月19日
ふるさとを愛した文学者
作品の根底に流れる風景

http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s2105/020/010/010/04.html

[文学者について]

 豊田三郎は現在の草加市出身の小説家です。
 旧制粕壁中学に進み、大学卒業後は児童文学誌『赤い鳥』の編集をしながら文学活動を続け、初めて出版した『弔花』(昭10)で行動主義文学の代表的作家の一人と呼ばれるようになりました。
 三郎の長女の森村桂も作家として活躍しました。

[埼玉とのかかわり]

 代表作の一つである『青年時代(のち『青春』と改題)』では、中川が舞台として登場します。
 また、草加市柿木の女体氷川神社と川柳小学校には三郎の文学碑が建てられています。

[主な作品]
・ 弔花(昭10)
・ 行軍(昭19)
・ 仮面天使(昭23)
・ 青春(昭31)


「さいたま文学館」(桶川市若宮1-5-9 Tel 048-789-1515)公式サイト
豊田三郎(とよだ さぶろう)
http://www.saitama-bungakukan.org/?page_id=134

 豊田三郎(とよださぶろう、1907 - 1959)は昭和初期から戦後にかけて活躍した小説家である。
 戦前の作品「弔花」(昭和10年)と、戦後の「好きな絵」(昭和28年、※1)で、二度にわたり芥川賞候補になった。

 夫人の森村浅香は歌誌「藍」の歌人として知られており、長女の森村桂もベストセラー作家として活躍している。

 豊田三郎が生まれたのは、草加市の柿木町(当時は南埼玉郡川柳村柿木)である。
 家は代々の開業医であったが、三男だったのでわりと自由に育てられたようである。
 地元の川柳尋常高等小学校を卒業して、旧制粕壁中、旧制静岡高等学校と進み、昭和5年に東京帝国大学独文科を卒業した。

 その後、豊田三郎は雑誌「行動」(昭和8年創刊)や「行動文学」(11年創刊)の中心的な存在となり、新進の作家として活躍を始める。
 文体と手法の新しさで注目された「弔花」を書いたのはこの頃である。
 軍部による言論への弾圧がしだいに強化されていく時代であった。
 また、文学者たちの時局への迎合もはなはだしく、文学は急速に主体性を喪失していく(※2)。
 そういう中で、豊田は自身の原風景の作品化に取り組んだ。

「幼年時代」は昭和15年の短編である。
 この作品には、少年期の夜への恐怖や入眠のさいの不安な感覚、浮遊や飛翔の夢、村の芝居の一日などの様子が、郷里の柿木の田園風景や中川を舞台に、ややシュールな文体で描写されている。
「弔花」以来、豊田にみられる主知的な文体の試みが持続している作といえる。

 16年の「青春時代」は静岡高校時代の体験を基にした長編で、豊田三郎の作品の中でも屈指の作であろう。
 この作品は「青春」と改稿改題され、昭和31年に角川小説新書として再版された。
 作者は再版のあとがきで、この作品のモチーフについて、
「自由と真実の失われた時代に、それらが濃厚に自分たちのものであった大正末期の平和な学生生活を思いだし、はげしい郷愁にかられて」書いたと述べている。

 旧制高校生の主人公明石の切々たる片思いの恋情が、時代の空気を伝える抒情的な文体で描かれる。
 しかし、この「青春時代」を刊行した16年、豊田は陸軍の報道班員として徴用され、高見順、清水幾太郎らと共にタイ、ビルマ戦線に従事することになる。
 そして、帰国後に書いた長編「行軍」(19年)が第1回文学報国会小説賞を受賞する。

「行軍」は、水上勉が「どこにも皇軍宣揚の意気がったところがない」(「豊田三郎さんの思い出」)と言うように、淡々とした記述の方法をとっている。
 好戦的なモチーフや空疎な表現が少ない分読ませる小説である。
 森村桂は、平成5年に長年のテーマだった『父のいる光景』(中央公論社、※3)を書いたが、さらに『豊田三郎小説選集』(さきたま出版会・平成7年)のあとがきで、この作品に触れて、
「戦争とは、こうして始まり、こうして人びとはその列に加えられていったのかと暗澹たる思いになった。(中略)この平和な時代にこそ、私は、この本を、たくさんの方に読んで頂きたいと思う」と記している。

 しかし、豊田自身は戦争物を書いた罪障感から、戦後への対応に躓いている。
 やや通俗的な「仮面天使」(22年)が好評を博したのち、「灯」(23年)や「黒白」(24年)、「好きな絵」(28年)などでようやく本来の冴えをみせた。
 また、昭和32年には粕壁中時代に材をとった「青空」を発表している。

 旧下妻街道に面した豊田三郎の生家から、南へ5分足らずの所に女体神社がある。
 昭和58年4月、この神社の境内に、評論家染谷洌氏らの尽力で豊田三郎文学碑が建てられた。
 その碑には「青年時代」(「青春」)の一節が刻まれている。
 主人公の明石が、夏休みに郷里(柿木)に帰省して過ごしているところへ、静岡から友人の重見が尋ねてきて、近くの中川河畔へ案内する場面である。
 午後の太陽がぎらぎら照りつける街道から畠をつたはつて彼等は河原へ降りた。青い草原には風が爽やかに吹いてゐた。白雲が葛飾の森の上に城のやうにわだかまり、静かに移動しつづけた。
 河はゆるやかに彎曲しながら、少し泥色を帯びて流れた。
 「僕はこの河がすきなんだよ。流れをみてゐると倦きないものだな。自然の生命が動き、リズムを立ててゐるやうに見えるんだ。

 この文学碑の除幕式に出席した浅香夫人は、「いしぶみ」と題して次の2首を詠んでいる。

  羞(やさ)しみてあるひはあらむ君
  が言葉刻む碑(いしぶみ)かく大い
  なる川を愛すと彫りしいしぶみその川のほとりの
  雨に濡れ色深む 
(『草蓬蓬』昭61・所収)


 都市化の波や東京外環自動車道の開通などにより、周辺の景観ははげしく変わりつつあるが、中川河畔のたたずまいには、豊田三郎の作品に描かれた往時の雰囲気がまだ残っている。

 前出の染谷洌の長年にわたる調査によると、豊田は生涯で小説157篇、評論・エッセー約320篇、童話18篇のほか、いくつかの戯曲、翻訳、詩などを残している。


埼玉の文学 - 現代篇 -
任意に選んだ埼玉ゆかりの文学者の作品と舞台。
ある企業の情報誌に1996年から2001年にかけて隔月で連載したものです。
2004/8/19
「豊田三郎」小説
https://green.ap.teacup.com/sailitera/4.html

(※1)「好きな絵」より一節

 真介は康子の命がすくわれるなら、手術を受け、性を喪失してもいいと、最初から考えていた。
 彼女はそうなっても、子供たちにたいして立派に母のつとめを果せる。
 ときたまホルモンを補給すれば、彼女は今までとおなじように生活できる。
 ただ夫とのあいだに一つの異変がおこるだけだ。
 彼女はいわば妻でなくて、親しい伴侶、友人になるだろう。
 最初から夫婦愛より友情の濃い間柄だったし、近年はますます淡い関係に入っていた。
 結婚当時から老人の精力しか示せない真介が、他に事実上の妻を持たなければ、彼女は性をうしなっても幸福だろう。
 写真に見入りながら、真介はふいに鋭い痛みで背中を突き刺された。
 この白いすべての器官は、ある男にとって、あらゆる財物より貴い、生ける宝だったのではなかろうか。
 親しみ狎れて愛著を深めた、この世の唯一のものが、科学者の誇らしい研究材料になってしまったのを、彼はいまもどこかで悲しみ嘆いているかもしれない。

 真介は妻とむすばれている紐帯をそこに見た。
 たまたまにせよ、もう彼女と手をたずさえて、あの暗い深い谷間にさまよい、一輪の薔薇も摘めなくなるのかとおもい、彼は急に悄然としてきた。


(※2)

 プロレタリア文学運動が次第に勢いを失っていった昭和初期の先行きの知れぬ不安が鬱積した時代、文学界は大いに混乱をきたしていた。
 そんな中で舟橋聖一らとともに提唱した、思考・論理に対して行動を重視する〈行動主義文学〉は一つの活路を見出し、その代表的作家として認められてもいた豊田三郎。
 戦後は『仮面の天使』などのベストセラーを書いたが、昭和34年11月18日、東京・高輪光輪閣での会合に出席するため、魚籃坂を登る途中に心臓発作がおこり、無理を押して登ってしまったことが最悪の事態を呼び込んでしまった。
 坂下の病院に運び込まれて治療を受けたが、妻と娘に看取られながら狭心症のため急逝した。
 葬儀委員長は親友野口冨士男。
 告別式は神式で行われ、棺には愛用の将棋盤が入れられた。


(※3)森村桂「父のいる光景」より

 秋の彼岸が近いというのに、強烈な陽射しが真っ向から差し込んでくる狭い塋域に窮屈そうな二つの碑石が建っている。
 正面の碑には「森村家之墓」、右側面に豊田三郎の没年月日、裏面に平成6年4月森村義建立とある。
 長女の作家森村桂の『父のいる光景』によると書斎の小さな床の間に置かれていたという豊田の骨壺は、4年目の命日に、できたばかりの墓に納められたと記してあったのだが、左の傍らに建つ横型洋墓がどうやらその墓のようである。
 原稿用紙にあった署名を拡大した「豊田三郎」とのみ刻まれた石碑。
 手をかざすと火傷をしてしまいそうなほどに熱気を放っている。
 手を合わせていると、草むらから一匹の蟋蟀が顔を覗かせてこそこそと碑裏に逃げ込んでいった。


(※1、2、3)ともに「文学者帰苔録」
豊田三郎
http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/SAKKA/to/toyodasaburo.html

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天国にいちばん近い島

原田知世 映画 「天国にいちばん近い島」 PR
https://www.youtube.com/watch?v=yXOZEGzCVSc

原田知世 天国にいちばん近い島
https://www.youtube.com/watch?v=qNrAuo-3EEQ

 2016年7月30日より開催中の角川映画祭で初期の代表作6本が上映される大林宣彦監督が、大ヒット作『時をかける少女』(1983)でブレイクした原田知世の秘話を明かした。

 薬師丸ひろ子、小林聡美、原田知世、富田靖子ら1980年代に多くのスター女優を輩出し、女優の演出に定評のある大林監督にとって、女優を選ぶときの条件は「目だけを見ればいい」というのが持論。
「ヘアメイクや衣装で外見を変えられても、目だけは本人がメイクするしかない。つまり本人が今、どんな本を読んで何を考えているのか、この時代をどう思っているのか。その人の心が目に表れるわけで。だから目のメイクっていうのはその人の心なんですよね」とその理由を説明しながら、
「目が小さい原田が女優になったのは奇跡」だという。

 原田のスクリーンデビュー作『時をかける少女』で、原田の目を輝かせたのはスタッフの力だ。
 反射光が入らない原田の小さな目を光らせるため、照明部が時間をかけてライトをセットの上に上げた。
 さらに、撮影部はライトの光が目に当たるように床を掘って移動車のレールを敷いた。
「ものすごく手間暇がかかるんだけど、スクリーンでは目が横幅数メートルにもなる。それが真っ黒の洞穴か、真ん中にきらっとした光があるかで全然映りが違ってくる」というわけだ。

 しかし、そうしてスタッフが一丸となった情熱の源は当時、15歳の若さでハードスケジュールを乗り切った原田のひたむきにある。
 撮影に入る前、大林監督は原田を中学校の卒業式と高校の入学式に出席させることを決めており、そのために40日かかるところを28日で撮影を終えるタイトなスケジュールとなった。
 撮影の4時間前に起床する必要があるため寝る時間はなかったが、食事を兼ねて打ち合わせをすることが多かったため一日10食ほどはもうけられていたという。
 深夜、疲れがたまったスタッフが食欲をなくす一方、原田は豚汁を3杯もたいらげ、
「これから大事なシーンを撮るのにセリフの練習をしようとしたら豚汁が出ちゃいそうだから、一所懸命おなかに収めているんです」と縄跳びをしていたというほほ笑ましいエピソードも。

「だから、僕は彼女に『君がここまで人気が出て女優になれたのは、君の胃袋のおかげだよ』と言いました」と笑う大林監督。
 当時、採算度外視でローバジェットで製作された本作は約28億円のヒットとなり、
・ 大林監督と再タッグを組んだ『天国にいちばん近い島』(1984)、原田知世当時17歳、
・ バブル時代に製作された青春映画『私をスキーに連れてって』(1987)
・ 『彼女が水着にきがえたら』(1989)などで成功をおさめ、瞬く間にスターになった。

「知世ちゃんがおばあちゃんになったころにまた一緒に作りたいね」と語っているように、いつの日かまた名コンビが実現する日がくるかもしれない(数字は配給調べ)。

 角川映画誕生40年記念企画「角川映画祭」は角川シネマ新宿にて開催中(全国順次開催)


シネマトゥデイ、2016年7月30日 10時00分
『時をかける少女』原田知世、ブレイクの理由
大林宣彦監督が語る

(取材・文:編集部 石井百合子)
https://www.cinematoday.jp/news/N0084797

 あっ、え〜と、今日の日記のテーマは、原田知世でも、映画「天国にいちばん近い島」でもありませんでした(メッ!)
 映画ではなくって小説『天国にいちばん近い島』を書いた森村桂(1940 - 2004)とそのお父様、豊田三郎(1907 - 1959)。

 夫である三宅一郎氏が、初めて語った、妻・桂・・・

 去年、亡くなられた森村桂さんの、衝撃の真相が、遺族の立場から語られています。
(森村桂さんは「天国に一番近い島」の著者として知られています)

三宅一郎『桂よ。わが愛その死』(海竜社、2005年9月) 

 三宅さんとのお見合いを経ての再婚前から、桂さんは相当に神経を病み始めていたようです。
 作風を見る限り、彼女の精神的な弱点は、かなり早期から芽生えていたとは思うのですが、前夫との離婚という現実で、一気に噴出してしまったのでしょうね。

 三宅さんと暮らした25年間は、そのまま闘病の歴史でもありました。
 皇后・美智子様との出会いがなければ、もっと早くに死んでいたでしょう・・・ と三宅氏は語ります。
 皇后様に出会ったからこそ、それを支えにして、自殺未遂を起こしながらも、何とか生きてきていたようです。

(皇后様と桂さんは、ティールーム開設の翌年、彼女の作品を知る皇后様が、ケーキをご注文になられてからのおつきあいだそうです)
 彼女の死因は何かと聞かれたら、闘病の果てに、病院内で病死した。
 遺族の側からはそうしか言えません。
 神経の病を経て、その病のために、治療中に病死したのです。
 でも、実際に(自殺と)どこが違うのかといわれれば、答えはありません


 実際に亡くなる4日前にも、やはり自殺未遂を起こし、病院で「もう自殺はしません」と手紙を書いていたのに、その翌日のことだったそうです。

 ものすごく心の揺れが激しくなっていたんですね・・・

 彼女のご冥福を心からお祈りするとともに、心の病に苦しむ人たちに、何かそこから抜け出すきっかけがあれば・・・と、思います。

 ちなみに、本はまだ読んでおりません(^_^;)。
 今日のワイドショーで、初めて出版されたことを知ったので、後で図書館に予約しようと思います。

森村桂さんが、三宅一郎さんと作っていた、軽井沢の喫茶店
アリスの丘 ティールーム


(亡くなられた後に、HPを作られたようです)


家族戦隊ゴニンジャー、Sep 9, 2005
森村桂さんの死の真相 (8)
https://plaza.rakuten.co.jp/herbtea/diary/200509070000/

 今日。
 二年ぶりにふらりと伺ったところ、ご主人のMさんがポツンといらして「閉店したんです」とおっしゃるのです。
 え〜〜何時の間に?さびしいです。
 ちょっとお話…記念にと、ステキな桂さんの絵をいただきました。
。。。
 Mさんはカフェ(昭和の喫茶店風なんですヨ)を続けることは難しい〜と、おっしゃっていました。私は泣きたい気持ちです。
 1ファンとしてはとても残念です。


「森に帰ろう〜」中軽井沢に住む
東京から移住して、もう7年目の60代夫婦(夫も去年リタイア。主夫です)とわんこと暮らす、スローライフな日々をリゾートな軽井沢にて。
2015.04.02.Thu.17:17
軽井沢でちょっとさびしい出来事「アリスの丘」
http://riesan516.blog.fc2.com/blog-entry-266.html

 えっ、また戻っちゃった森村桂……

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2019年09月14日

埼玉県草加市「漸草庵」

 え〜、昨日のヤッホーくんの徘徊、待って、朝キン(morning walking)は”草加松原”。
 そこで、「漸草庵」という茶店に出会い、ヤッホーくん3枚も写真に収めていました。

漸草庵.JPG

漸草庵その2.JPG

漸草庵その3.JPG

 ね、いいでしょ。深刻な金欠病に侵されているヤッホーくんは、外から見ただけで、中でお茶したわけではございません、ザンネン。
 といいますのも、隣の草加市文化会館伝統産業展示室に小走りでにじりよっていきます、ね、目が点になったり辺りをキョロキョロ。
 マンホールカードをゲットしたかったんだって、だから変わりもん、とか宇宙人とか、周りの空気が読めないっとか言われるちゃう。

マンホールカードとは

 業界・分野の枠を超えて産学官が連携し、下水道に関する広報活動を展開している「下水道広報プラットホーム(GKP)」が活動の一環として、地方公共団体と共同でカード型下水道広報パンフレット「マンホールカード」を発行しています。

 マンホール蓋はそれぞれの自治体において、ご当地の名所や特産品をあしらったデザインを施して製作されています。

 マンホールカードは、こうしたデザインマンホール蓋が市民の関心を集める中、今まで下水道を気に留めていなかった方々には関心の入口として、既に関心を寄せられている方々にはマンホールの先にある下水道の大切さをより深く理解していただくことを目的としています。

草加市で2種類目のマンホールカード

 草加市公共下水道事業(汚水)の普及・啓発の一環として、GKPマンホールカード【第9弾】の1つとして、『百代橋と松並木』のマンホール蓋のカードが加わりました。

 草加市としては2種類目のマンホールカードで、今回カードとなったデザインマンホール蓋は、国指定名勝『おくのほそ道の風景地 草加松原』を結ぶ百代橋と松並木をデザインしたものです。

 草加市の公共下水道事業において設置する標準のデザインマンホールとなっていて、市内各所に点在して設置されています。


草加市公式サイト、2019年7月30日
草加市で2種類目のマンホールカードができました!
(第9弾)【百代橋と松並木】

http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1904/020/010/010/PAGE000000000000058775.html

 そう、そう、話はマンホールの蓋でなく、「漸草庵」でした。
 なんで、あの「ドナルド・キーン」という名前も出てくるの:

 2019年2月に死去した日本文学研究者ドナルド・キーンさんが命名した埼玉県草加市の日本文化芸術施設「漸草庵 百代の過客」が完成し、28日に記念式典が開かれた。
 同市は、紀行文「おくのほそ道」で松尾芭蕉が訪れたとされ、英訳したキーンさんと長年交流があった。

 市によると、建物は木造平屋約180平方メートルで、総工費は約2億円。
 茶道や華道、邦楽などに使える四つの和室があり、有料で貸し出す。
 オープンは4月21日。

 浅井昌志市長は式典で「和の文化の発信拠点としたい」とあいさつした。

 市がキーンさんに命名を依頼。
「おくのほそ道」の一節、「漸早加と云宿にたどり着にけり」が由来になった。


[写真]
ドナルド・キーンさんが命名した日本文化芸術施設「漸草庵 百代の過客」=28日午前、埼玉県草加市

共同通信、2019/3/28 11:35 (JST)
キーンさん命名の施設完成、埼玉
「漸草庵」日本文化芸術の拠点に

https://this.kiji.is/483814113366099041

 2019年2月24日、日本文学研究者のドナルド・キーンさん(本名・キーン ドナルド)が96歳で亡くなった(※)。
「奥の細道文学賞、ドナルド・キーン賞」などを通して深い交流のあった草加市では、多くの市民から悼む声が聞かれた。
 同市は、キーンさんが名付け親の文化交流施設「漸草庵 百代の過客」(ルビ・ぜんそうあん はくたいのかかく)(市文化会館隣)の完成記念式典(28日)に出席依頼した矢先だった。
「誰にでも分け隔てない人」「草加のまちおこしの恩人」――温かい人柄をしのぶように、草加松原・百代橋の由来碑前には一輪の花が添えられていた。
 同市役所西棟1階には記帳台が置かれ、市立中央図書館でも3月8日から記帳を受け付ける。

 同市は5月の「奥の細道文学賞、ドナルド・キーン賞」授賞式への出席もキーンさんに打診していたが、かなわなかった。
 草加を訪れたのは昨年2018年5月、市制60周年記念の古浄瑠璃上演の時が最後となった。
 訃報を受け、浅井昌志市長は「キーン先生のこれまでの本市への多大なるご尽力に感謝申し上げ、心よりご冥福をお祈りいたします」とのコメントを出した。

 キーンさんと草加との関わりは、1988年11月、市制30周年記念に開かれた「奥の細道国際シンポジウム」の基調講演から。
 松尾芭蕉の「おくのほそ道」に「草加」の地名があることから、市は「文芸のまちづくり」を掲げ、まちおこしを図った。

 同シンポジウム市民推進委員会メンバーの文芸評論家、染谷洌さん(80)は「訃報にがくぜんとした」と言い、「『奥の細道』は一過性のものでなく、継続できるものにした方がよいと、いろいろとアドバイスをいただいた」と振り返る。
 以後30年余、私的な交流が続き、「気さくで、誰にでも分け隔てなく同じ目線で話す人だった」。

 当時、草加市長の今井宏さん(77)は「先生の尽力のおかげで、『奥の細道』のまちおこしは、大きな財産。草加に新しい文化を築いてくれた大恩人」と感謝する。
 今井さんはキーンさんが関わった古浄瑠璃のロンドン公演にも同行している。

 【草加でのキーンさんの足跡】

 キーンさんは1988年の「第1回奥の細道国際シンポジウム」の際には草加松原を散策し、百代橋由来碑の隣に萩の木を記念植樹。
 1992年には、市が公募の「奥の細道文学賞」を創設すると、第6回まで選考委員を務め、表彰式では記念講演もこなした。
 日本に帰化した2012年に、市は松尾芭蕉や俳人の評論対象の「ドナルド・キーン賞」を創設した。
 草加松原が国指定名勝になると、市民と共に喜び、2015年3月、ハープ橋近くの記念碑の題字を揮毫し、「漸草庵 百代の過客」の看板も揮毫した。


東武よみうりWeb版、2019.3.5(草加市)
ありがとう、キーンさん・ゆかりの草加で悼む声
http://www.tobuyomiuri.co.jp/area/souka/190305topnews_1.html

(※)ヤッホーくん注

 2月24日に96歳で死去した日本文学研究者ドナルド・キーンさんの養子で、浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己さん(68)が4日、東京都内で記者会見した。2月28日に葬儀を行ったことを報告し、「日本人以上に日本を楽しんで、喜んでいた。本当に幸せな一生だったと思います」と話した。

 誠己さんによると、キーンさんは2018年秋から都内の老人ホームで暮らしていたが、今年2月4日に誤嚥(ごえん)性肺炎で緊急入院。亡くなる前日の23日には親しい知人らが病室を訪れ、笑顔を浮かべたり、うなずいたりしていた。24日早朝に誠己さんが病院に呼ばれ、到着した時には既に意識がなかった。

 2人の交流は06年に始まり、キーンさんが12年に日本国籍を取得後、養子縁組した。死去の1週間ほど前に英語で「君は僕にとっての全てだ」と言われたのが、最後の言葉だったという。

「父は『原稿が書けなくなったり、本が読めなくなったりしたら死んだ方がいい』と言っていた。自分がもう仕事ができなくなって、死ぬ日も近いことに気付いてたと思います」と振り返った。


[写真]
記者会見するキーン誠己さん(4日午後、東京都北区)

日本経済新聞、2019年3月4日 17:19
「日本人以上に日本楽しんだ」
キーンさん養子が会見

〔共同〕
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO42000960U9A300C1CR8000?s=3

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2019年09月13日

国民連合政府

権力から遠い今こそすべきこと

 歴史を振り返ってみて、地方分権という課題はしばしば語られるが、実現した例はそれほど多くない。
 とくに中央集権的な国家において、権力を持つ中央政府が、自らの権限を縮小する分権化に易々(やすやす)と賛成する事態は想像しにくい。
 政権政党にとっても、分権化は自らに抵抗する勢力を地方に生み出すことにつながる危険性がある。

 にもかかわらず、例外的に地方分権改革が進んだ例がある。
 1980年代におけるフランスと1990年代半ば以降の日本である。
 中央集権的な国家として語られることの多かった両国で、なぜ分権化が進んだのだろうか。
 その鍵は政権交代にあり、長らく野党にあった政党が(この場合、いずれの国も社会党である)政権に就いたことが大きなきっかけとなったと主張するのが本書である。

 地方分権化はある意味で「野党的」な政策である。
 権力の座にある与党にとっては、必ずしも旨味(うまみ)のある政策ではなく、むしろ配分する資源のない野党こそが注目する政策課題である。
 長く権力から退けられた野党が、中央政府の権限を抑制し、市民の政治参加を拡大することを訴え、その上で政権に就いたときにはじめて実現すると言える。
 本書はその政治過程を日仏両国の比較から詳述する。

 思えば日本の場合も、1995年に地方分権推進法を制定した村山富市内閣において、官房長官の五十嵐広三は元旭川市長であり、大蔵大臣の武村正義は元滋賀県知事であった。
 革新自治体の取り組みが政権交代を機に政治課題化し、多くの自治体首長経験者が権力中枢にいたことで、はじめて動き出したのが地方分権改革だったのかもしれない。

 今日、野党の存在意義や、政権交代の必要性が、あらためて問われている。
 権力から遠ざかっているからこそ、地域社会の多様な声により真摯(しんし)に耳を傾けることが必要と説くなど、現代にも示唆するところの大きい一冊であろう。


朝日新聞、2019年8月17日05時00分
(書評)中野晃一、 中野 真紀子『野党が政権に就くとき 地方分権と民主主義』(人文書院、2019年6月)
(※)中野晃一(なかの・こういち、1970年生まれ)上智大教授(比較政治学)。原著は英語。著書に『私物化される国家』など。
(評者)宇野重規(東京大学教授・政治思想史)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14142229.html

2015年9月「国民連合政府」の呼びかけ――「共闘の二つの源流」に背中を押されて

 「共闘の時代」へと日本の政治を変えるうえで、大きな契機となったのが、安保法制反対運動の国民的高まりと、「野党は共闘」の声にこたえて、安保法制が強行された2015年9月19日にわが党が行った「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の呼びかけでした。

 憲法違反の戦争法(安保法制)ばかりは、政府・与党の「数の暴力」で成立させられたからといって、それを許したままにしておくことは絶対にできない。

「戦争法廃止、安倍政権打倒のたたかいをさらに発展させよう」

「戦争法廃止で一致する政党・団体・個人が共同して国民連合政府をつくろう」

「そのために野党は国政選挙で選挙協力を行おう」

 これが私たちの呼びかけでした。

 国政レベルでの選挙協力は、わが党にとって体験したことのない新しい取り組みでした。
 いったいこの呼びかけが実るのかどうか。
 あらかじめ成算があって始めたわけではありません。
 もちろん、イチかバチかの賭けのようなつもりでやったわけでもないのですが(笑い)、成算があったわけではないのです。
 しかしこれは、踏み切らないといけないと考えた。
 どうして私たちがこの歴史的踏み切りをすることができたのか。

「共闘の二つの源流」ともよぶべき先駆的な流れに、私たちが学び、背中を押された結果でした。

 第一の源流は、国民一人ひとりが、主権者として、自覚的に声をあげ、立ち上がる、新しい市民運動であります。

 2012年3月から「原発ゼロ」をめざす毎週金曜日の官邸前行動が始まり、この運動は今日も続いています。
「誰もが安心して参加できる空間をつくる」という思いで、始められた運動でした。
 戦後の平和運動、民主主義運動を担ってきた潮流が、過去のいきさつを乗り越えて、「総がかり行動実行委員会」という画期的な共闘組織をつくりました。
 そして、安保法制=戦争法案に反対する空前のたたかいがわきおこり、学生、「ママの会」、学者・研究者など、さまざまな新しい市民運動が豊かに広がりました。その中から「野党は共闘」のコールがわきおこりました。
。。。

 第二の源流は、「オール沖縄」のたたかいであります。

 その画期となったのは、オスプレイ配備撤回、普天間基地閉鎖・撤去、県内移設断念を求め、沖縄県内全41市町村長と議会議長などが直筆で署名し、連名で提出した2013年1月の「沖縄建白書」でした。
 この歴史的文書の取りまとめにあたった当時の翁長雄志那覇市長を先頭に「オール沖縄」がつくられました。
 そして翌年、2014年の県知事選挙で翁長知事が誕生しました。
。。。


日本共産党公式サイト、2019年8月8日
党創立97周年記念講演会、志位委員長の講演
共闘の4年間と野党連合政権への道

https://www.jcp.or.jp/web_jcp/2019/08/97th-shii-koen.html

中野晃一、福島みずほ『嘘に支配される日本』(岩波書店、2018年7月)

 中野晃一さんと本をつくりたいと思いました。
 中野さんと初めてお会いしたのはずいぶん前のことでした。
 お連れ合いの三浦まりさんが上智大学で女性と政治といったテーマで講演会を企画してくださったときに、終わった後、上智大学から参議院議員宿舎まで送ってくださり、歩きながら話をしました。
 初対面でしたが、楽しかったのを覚えています。
 
 その後、中野さんは本当に活躍されて、野党と市民の連合、市民連合の中心人物として、的確に、穏やかに、優しく、素敵に人びとをまとめて、活動をされてきています。
 
 ご著書を読んだりして、そうだそうだ、と思ってきました。
 
 国会の状況が、ますます、日を追うごとにひどくなっています。
 国会に正式に提出されていた文書が虚偽で、大きく改竄されている、国会での答弁が虚偽である、真相を明らかにしない。
 そのことに怒っています。
 国会に提出される文書が改竄されていて、総理や官僚が虚偽答弁を繰り返すのであれば、国会の民主主義は成り立ちません。
 民主主義を毎日壊されている、こんなことは変えなければならない、そんな思いで国会で活動しています。
 
 そんなときに何とか政治を変えたいと思っているたくさんの市民のみなさんに会うと本当に元気が出ます。
 そして、中野さんに会うと、なぜかほっとしてまた頑張ろうと思うわけです。
 そんな中野さんと一緒に、いまの政治状況をどう見ているのかということを話し、未来をつくりたいと思いました。

 今年2018年の春に『嘘に支配される日本』というタイトルの本にしようと決まりましたが、その後、ますますたくさんの嘘が発見され、自衛隊の日報問題も出てきて、対談を重ねるたびに、「嘘に支配される日本」はますます嘘が多く、ひどくなっているということを痛感しました。
 嘘が支配する政治の上に未来はつくれません。
 
福島みずほ


立ち読みPDF - 岩波書店
www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0222380.pdf


 本日9月12日、れいわ新選組代表の山本太郎は、日本共産党の志位和夫委員長と国会内で会談し、野党連合政権に向けた話合いを行いました。

 その上で、両党首は以下の3点で合意しました。

一、野党連合政権をつくるために協力する。
  野党と「市民連合」との13項目の政策合意を土台とする。

一、安倍政権が進めようとしている9条改憲に反対する。

一、消費税については以下の点で協力していく。

1、消費税10%増税の中止を最後まで求める。
2、消費税廃止を目標とする。
3、廃止にむかう道筋、財源などについて協議していく。
4、消費税問題での野党共闘の発展のために努力する。


れいわ新選組公式サイト、2019年9月12日
野党連合政権に向けた党首会談・合意内容
https://v.reiwa-shinsengumi.com/activity/3524/

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2019年09月12日

第4次安倍内閣で2度目の内閣改造

 マスコミから談話が出ていないのは「れいわ」だけだと言われましたので、コメントします。
 でがらしお友達内閣に関してのコメントは特にございません。
 そんなことより、千葉の復旧に政府として全力を注いでください。


れいわ新選組、2019年9月11日
2019.9.11山本太郎 代表談話
「第4次安倍第2次改造内閣について」

https://v.reiwa-shinsengumi.com/comment/3518/

安倍と自民.jpg
☝ 千葉が台風15号で大被害が出ている時に安倍氏は組閣に夢中で災害に関心がないらしい。ちなみに追随TVも相変わらず嫌韓報道一点張りと。この写真、覚えていますか。昨年多数の死者が出た西日本豪雨の夜の自民党赤坂亭でのどんちゃん騒ぎ。安倍首相、赤ら顔で楽しそう。安倍首相と自民、これが本質です。

 内閣改造が実施された。
 第4次安倍内閣で2度目の内閣改造である。
 麻生太郎副総理・財務相、菅義偉官房長官以外が入れ替える大幅改造で、初入閣は2012年12月の第2次安倍内閣発足後で最多の13人。
 安倍首相は11日午前に開いた自民党役員会で「新体制のもとでわが党の長年の悲願である憲法改正を党一丸となって力強く進めていく」と述べた。
 38歳の小泉進次郎氏の入閣が決定されたのは、メディアが改造を大きく取り上げるように仕向けるための話題提供であると見られる。
 安倍内閣は韓国敵視政策を推進しているが韓国問題に関わる主要閣僚には安倍首相の韓国敵視姿勢に従順に従う人物が配置された。
 韓国に対して「無礼である」との無礼な発言を示した河野太郎氏は外相から防衛相に横滑りになった。
 韓国海軍によるレーダー照射問題を日本政府がことさら大きな問題として取り扱っているが、軍事情報に詳しい田母神俊雄元航空幕僚長は、軍事演習におけるレーダー照射は日常的に行われているもので、危険性も低く、取り立てて大きく騒ぎ立てるような問題ではないとの見解を示している。
 しかし、日本政府があたかも韓国が日本に軍事挑発したかのように騒ぎ立ててきたが、その防衛問題の担当に安倍首相に取り入るために行動する河野太郎氏が起用された。
 河野氏はかつて原発に否定的な発言を示していたが、その発言を完全に消滅させている。
 自分の出世のためには信念も思想も捨てるという行動様式が示されている。
 韓国との友好関係構築に努めるべき外相として、対韓国関係の改善ではなく、韓国に対する敵対的対応を強めたのは安倍首相に対する阿(おもね)りであると判断される。

 経済財政担当相の茂木敏充氏が主要閣僚の外相に起用された。
 日米FTA交渉を早期に妥結させたことが評価されたと報道されているが、この報道自体が日本のメディアの堕落を意味している。
 TPPや日米通商交渉で、日本が唯一得ることができる可能性がある分野が日本の自動車輸出の関税撤廃だった。
 ところが安倍内閣は2013年3月に、TPP交渉への参加を米国政府に認めてもらうための交渉で、この権利を放棄した。
 日本の対米自動車輸出には売れ筋のSUVなどで25%、普通自動車で2.5%の関税が課せられている。
 関税撤廃のTPPを謳うなら、この関税撤廃を確定することが必要不可欠だ。

 日本の農産品輸入関税を一気に引き下げる譲歩を示すなら、少なくとも自動車関税の撤廃を決定しなければ明白な片務条約、片務協定ということになる。
 ところが、安倍内閣はTPP交渉に参加させてもらう条件交渉の場となった日米事前協議で、普通自動車は14年間、SUV等は29年間、関税をまったく引き下げないことを受け入れてしまった。
 この時点でTPPは完全な売国条約となることが確定したのである。
 それでも、このときの交渉では普通自動車は25年目に、SUV等は30年目に関税を撤廃することが取り決められた。
 30年後には自動車の技術環境が激変し、日本の自動車輸出が存在するかどうかわからない。
 その環境下で、遠い未来の関税撤廃が曲がりなりにも盛り込まれた。

 ところが、今回の日米FTA交渉では米国の自動車輸入関税引き下げ、撤廃が完全消去された。
 米国が日本からの自動車輸入の関税率を一切引き下げないことが決定されたのだ。
 それだけでなく、トランプ大統領は日本からの自動車輸入に対して追加的な制裁関税を発動する可能性があることを明言した。

 これが茂木経財相が妥結させたという日米通商交渉の実態である。
 日米FTAは1858年に締結された日米修好通商条約以来の不平等条約であると言わざるを得ない。

 茂木敏充氏は時代が時代なら、外相に抜擢されるどころか桜田門あたりを歩いているときに斬殺されてもおかしくないような実績を示したと言える。
 外相を「無礼である」発言の河野太郎氏から、屈辱協定妥結を実現させた茂木敏充氏に交代させたことは、日本が今後、外交において徹底的な譲歩を示すというメッセージを示したものであるかも知れない。
 日本は韓国に対する敵視政策を撤回して、韓国との相互理解、相互尊重の方向に舵を切るべきである。

 安倍害交は、米国に対しては「ひれ伏す屈辱害交」を展開する一方、韓国に対しては無礼な傲慢害交を展開しているから、対米交渉で示したひれ伏し害交の姿勢が対韓国害交で示されるかどうかには疑義が残るから、今後の対応姿勢の変化の有無を注視する必要がある。

 文科相、法相に安倍首相の側用人が起用された。
 安倍首相の歴史修正主義が補強される可能性が高い。
 当面は新入閣閣僚の各種スキャンダルが探索されることになるだろう。
 日本が道を誤らぬために必要なことは内閣改造でなく政権交代である。
 次の衆院総選挙に向けた戦術確立を急がねばならない。


植草一秀の『知られざる真実』2019年9月11日 (水)
外相交代は日本全面譲歩のメッセージなのか
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-394c78.html

 ヤッホーくんの清洲城近くに陸奥宗光の説明版があり、その前を通るたびに、英米との不平等条約改正に尽力した彼の功績に謝しております。
 ヤッホーくんのこのブログ、2011年12月31日付け日記「横瀬町」をお読みください。そして、

 日本国内では、条約改正の条件として列国から求められてきた法典の整備が進められ、憲法発布により立憲制が確立しました。
 また、国外では、1891(明治24)年、ロシアがシベリア鉄道の建設に着手すると、ロシアの極東進出を警戒した英国は、日本に好意的な態度を示すようになりました。

 このような状況のもと、1892(明治25)年に外相に就任した陸奥宗光(むつむねみつ)は、青木周蔵元外相(那須に別荘があって公開されております)を在英国公使に任命し、条約改正交渉に当たらせました。
 そして、1894(明治27)年7月16日、青木公使とキンバレー英国外相は日英通商航海条約に調印しました。
 他の列国とも改正条約が締結され、それらは1899(明治32)年に施行されました。
 これにより、日本は領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復を達成し、条約改正は大きく前進しました。

 その後、小村寿太郎(こむらじゅたろう)外相のもとでさらに改正交渉が行われ、1911(明治44)年、日米通商航海条約等の締結により、関税自主権の完全な回復に成功しました。
 ここに至り、幕末以来の重要外交課題であった条約改正が達成され、国際社会の中で日本は列国と対等な地位を得ました。


国立公文書館公式サイト
条約改正交渉の達成
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/achievement/index.html

 今度の組閣人事で私が注目したのは官邸官僚の人事交代だ。
 その中でも、国家安全保障局長が、元外務次官である谷内正太郎氏から警察官僚の北村内閣情報官に交代したことだ。
 すでにこの人事情報は報道済みだったが、9月11日付で確定した。
 メディアはこの人事について、警察官僚がますます安倍政権を支えることになり危険だとか、警察官僚に外交・安全保障政策を任せられるのか、といった、北村氏の人事ばかりを否定的に報じているが、これは的外れだ。

 安倍首相を支えてきた最強の警察官僚は、北村氏よりはるかに先輩の杉田和博官房副長官であり、彼は続投だ。
 安倍政権はとっくに警察国家政権であり、今度の人事で特に危険になるわけではない。

 外交・安全保障政策は安倍首相がみずから決定し、命じてきた。だから誰が国家安全保障局長になっても変わらない。
 メディアが報じるべきは、初代局長として7年近くも安倍外交を指南して来た谷内正太郎氏のことなのだ。
 ここまで安倍外交の司令塔を務めてきた谷内正太郎氏だ。
 その功罪は大きい。
 それを検証すべきなのだ。
 同期の外務官僚だった私から言わせれば、谷内氏の「功」は何ひとつない。
 それはそうだろう。
 安倍外交の実績は皆無だからだ。
 その安倍外交の司令塔だった谷内氏の「功」がないのは明らかだ。

 その一方で谷内氏の「罪」は大きい。
 その「罪」の中の一番大きな「罪」は、安倍首相によって潰された外務省組織を何一つ防げなかったことだ。
 極めつけは、国家安全保障局長のポストを外務省OBに引き継げなかったことだ。
 国家安全保障局の初代局長を安倍首相から乞われて引き受け、7年近くも務めて来たにもかかわらず、その後任者を外務省から出せなかったことは、官僚の掟から考えれば、あり得ないことだ。
 よほど安倍首相との関係が悪化したのか、あるいは安倍首相の言なりになってきたのか、そのいずれかだ。
 外務省はさぞかし衝撃を受けたに違いない。
 どこかのメディアがそのあたりの内情を報道してくれないものか。

 そう思っていたら、きょう発売の週刊文春(9月19日号)が教えてくれた。
 外務省は当然のように後任を外務省から出そうと考え、人選も次官を経て駐米大使をつとめた佐々江賢一郎氏を考えていたという。
 外務省は組織をあげてそれを実現しようとしていたという。
 北村氏の抜擢を知ってからも、「北村氏がトップになれば外務省は誰もついていかない」と、抵抗をこころみたという。
 しかし、安倍首相の決意が揺るがないとみるや、それを受け入れるしかなかったというのだ。

 ここまで外務省が反対していたにもかかわらず、肝心の谷内国家安全保障局長の言動がどこにも出て来ない。
 もし、谷内氏が、「後任者を他省庁から持ってくるなら、私の首を切ってからにしてください」と体を張って反対していたなら、安倍首相はあるいは、その言葉を聞かざるをえなかったかもしれない。
 谷内氏はそこまでして抵抗をしなかったということだ。
 これでは、安倍外交が行き詰まるはずだ。
 谷内氏は、安倍外交の無茶苦茶を、その職を賭してまで、咎めようとしなかったのである。
 その結果、外務省という組織は崩壊し、これまでの外務省では考えられなかった外交がどんどんと加速してしまったのだ。
 もちろん、日韓関係の悪化もその一つである。

 外務省という組織を破壊した安倍首相と、それを阻止できなかった谷内の罪は大きい。
 それを教えてくれた週刊文春の記事である。
 ちなみに、組閣を報じるテレビが、谷内正太郎氏は国家安全保障局を辞した後も、「内閣特別顧問」として安倍政権をささえるという。
 外務省という組織も、日本の外交も、自分の保身のためには、知ったこっちゃあない、というわけである。


天木直人のブログ、2019-09-12
外務省を破壊した安倍首相と阻止できなかった谷内の責任
http://kenpo9.com/archives/6264

「新しい時代の国づくりを力強く進めていくための布陣を整えた」──昨日、第4次安倍第2次改造内閣が発足し、記者会見で安倍首相は新内閣について「自民党は『老荘青』、人材の宝庫です」などと語った。
「人材の宝庫」って……(苦笑)。この新内閣の実態は、どう見ても「お友だちの不良品一掃内閣」「極右不正政治家集結内閣」だろう。

 とにかくひどい顔ぶれだが、これを見てまず思い出したのが、最近のワイドショーの報道だ。ワイドショーは、連日、文在寅大統領側近のチョ・グク氏のスキャンダルを取り上げ、法相就任を「日本ではありえない」「異常」などと攻撃してきた。実際、9日放送の『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)では、司会の宮根誠司がこんなことを言い放っていた。

「これ普通、日本だと“疑い”ですよ。家族でもなんでも、なにか“疑い”。怪しいことがあったら、まあ高岡さん(読売テレビ解説副委員長)、日本だったら総理大臣が任命しませんよね、法務大臣に」

「安倍総理だったら疑惑がある人を大臣なんかに任命しない」って、まったくよく言ったものだ。『ミヤネ屋』をはじめとするワイドショーは、チョ・グク氏が玉ねぎのように皮を剥いても剥いても疑惑が噴出することから名付けられた「タマネギ男」という呼称を嬉々として連発してきたが、はっきり言って、安倍首相によるこの新内閣のほうがずっと「疑惑のある人」だらけの「タマネギ内閣」だろう。

 まず、国民を舐めきっているとしか思えないのが、再入閣組だ。

 高市早苗氏は総務相に再任したが、高市氏は総務相だった2016年に“国は放送局に対して電波停止できる”と国会答弁し、大問題に。また、厚労相に返り咲いた加藤勝信氏も、昨年、働き方改革一括法案の国会審議でデータ捏造が発覚した上、インチキ答弁を繰り返したばかりだ。
 この高市総務相の暴言と加藤厚労相のデータ捏造とインチキ答弁は、その段階で大臣を辞任すべき問題だった。だが、安倍首相は側近である両大臣の問題をスルーして続投させ、内閣改造で首を挿げ替えただけ。その結果、こうして問題大臣が同じポストに再び収まったのだ。信じられない人事と言うほかない。
 しかも、この2人には重大な疑惑とスキャンダルもある。
 高市氏はやはり総務相だった2016年に計925万円の「闇ガネ」疑惑が浮上するなど、カネにまつわる疑惑が数々持ち上がってきた(詳しくは過去記事参照)。さらに、加藤氏は、マルチ商法としてたびたび社会問題化し、昨年経営破綻したジャパンライフの“広告塔”を務めてきた人物。ジャパンライフは史上最大の消費者被害を出した安愚楽牧場に次ぐ被害規模として現在、捜査が進められているが、そんななかで“広告塔”としての責任を問うことなく大臣に再任するなど、まったくもってありえない。

 だが、これはまだ序の口。安倍内閣過去最多の13名となった初入閣組も、かなりの「タマネギ」揃いだ。
 そのひとりが、経産大臣に抜擢された菅原一秀氏。
 一昨日、本サイトでは、2016年に「週刊文春」(文藝春秋)で元愛人からモラハラ被害を告発され、菅原氏が当時27歳だったこの元愛人に「女は25歳以下がいい。25歳以上は女じゃない」と言い放った挙げ句、「子供を産んだら女じゃない」とまで言っていたという問題について取り上げたが、菅原氏をめぐってはカネの疑惑も取り沙汰されてきた。

西村康稔・経済再生相、赤坂自民亭、カジノ企業から脱法献金、ベトナムでハレンチ行為も

 たとえば、2009年には、菅原氏が代表を務める政治団体が発注した高級メロンを、菅原氏の選挙区の有権者90人に贈っていたという公選法違反疑惑を朝日新聞が報道。また、昨年12月にも、菅原氏の後援会が支援者などから会費を集めたバス旅行の収支を政治資金収支報告書に記載していなかったことが発覚。後援会は収支報告書を訂正したというが、小渕優子経産相(当時)は後援会主催の観劇会の収支を不記載にしていたことなどが判明し辞任に追い込まれている。しかも、菅原氏の後援会が収支を不記載にしていたのは2013〜15年、2017年と複数年にわたっており、悪質と言わざるを得ない。

 さらに、菅原氏に輪をかけてひどいのが、内閣官房副長官から経済再生担当相に抜擢された“安倍首相の腰巾着”である西村康稔氏だ。
 西村氏といえば、昨年の「平成最悪」となった豪雨時に例の「赤坂自民亭」に安倍首相と一緒に参加し宴会の模様を嬉々として投稿、〈笑笑 いいなあ自民党〉などと発信、その後は〈自衛隊員約21,000名が人命救助など活動中〉と拡散したが、これはデマで、2万1000人の自衛隊員は待機中にすぎなかったことが判明した件などが記憶に新しいが、忘れてはならないのが、2013年に「週刊文春」で報じられたベトナムで女性を買った疑惑だ。
 記事によると、西村氏は2012年7月に出張先のベトナムでカラオケ・クラブから7人のホステスを宿泊するホテルのスイートルームに呼び入れ、その後、残った3人と行為におよび、対価としてあわせて600ドル弱を支払ったと、3人のうち2人の女性が証言。このほかにもホテルでの目撃談をはじめ、複数の関係者がこの疑惑を裏付ける証言をおこなっている。
 しかも、この疑惑を追っていた記者に対し、西村氏の私設秘書を名乗り、過去に恐喝未遂容疑で逮捕されたことのある人物が「記事を書けば恥をかくのはお前たちだ」と何度も〈恫喝めいた電話〉をかけてきたとも報じられた。恫喝によって記事を潰そうとしたのが事実ならば、2重の意味で大臣としての資質などあるはずがない。
 また、昨年7月には、米大手カジノ企業「シーザーズ・エンターテインメント」の日本進出におけるアドバイザーである人物が、西村氏をはじめとするカジノ議連所属の国会議員にパーティ券購入というかたちで資金提供していたと報道され、西村氏自身も国会で事実だと答弁。つまり“脱法献金”を受けていたことを認めたのである。

河井克行法相、元秘書やタクシー運転手へのパワハラ暴行・暴言との証言

 凄まじい「タマネギ」っぷりの西村氏だが、安倍首相の側近といえば、総裁外交特別補佐を務め、今回、法務大臣に登用された河井克行氏も、元秘書の男性が2016年に傷害事件とパワハラ疑惑を「週刊文春」に証言している。
 この男性は、1999年4〜7月に運転手を兼任するかたちで秘書を務めたが、「運転の仕方や言葉づかいが気にいらんと言っては、(河井氏が)『このやろう』と罵声を浴びせかけ、ハンドルを握る私の左腕めがけて後部座席から革靴のまま蹴ってきよるのです」と言い、そうした結果、全治14日間の大ケガを負ったと告発。「週刊文春」には、当時、病院で撮影されたという写真も掲載、そこには左腕にアザがしっかりと写っている。また、河井氏に “対立候補のポスター剥がし”もやらされたとこの元秘書は証言しているのである。
 しかも、河井氏の疑惑はこれだけにとどまらず、後追いした日刊ゲンダイの記事では、違う元秘書も「私も『国会議員の車の運転席の後ろが汚れてるのはなんでか知ってる? 蹴るためさ』と言われ、途端に恐ろしくなりました」とコメント。河井氏の地元・広島の「第一タクシー」の会長までもが「うちは河井事務所から配車の要請があっても、一切お断りしています。河井先生が乗務員の運転席を蹴るわ、人を人とも思わないような暴言を吐くからです。『もっと速く走れ!』と法定速度以上を出すよう要求され、危うくスピード違反に加担させられそうになった乗務員もいました。もうコリゴリですわ」と証言している。
 元秘書への暴力や「ポスター剥がし」を命じた件などが事実であれば、河井氏が法務大臣を務めることに恐ろしささえ感じずにはいられないが、それは首相補佐官から農水大臣に抜擢された江藤拓氏も同じだ。

 というのも、江藤氏は2016年、当時の森山裕農水相(現・自民党国会対策委員長)や西川公也・元農水相らとともに、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉中だった2015年に一般社団法人「日本養鶏協会」(養鶏協)の会長から現金20万円を受け取っていたことが発覚。養鶏協は国内向けのTPP対策予算を狙い、協会幹部からは「鶏卵業界に予算をもらうなら、政治家ともっと密接になったほうがいい」という声が出ていたというが(「週刊朝日」2016年7月15日号/朝日新聞出版)、こんなふうに農水族議員という立場で違法の可能性が高い献金・寄付を受けていた人物に、果たして農水大臣が務まるのか。

 まだある。国家公安委員会委員長となった武田良太氏は、付き合いのあったプラント製造会社の会長に対し「インドネシアは、日本のODA(政府の途上国援助)枠がまだ9千何百億円か残っている。それを使って、プラントを売ることができますよ」などと語り、「(現地視察に)何人か議員を連れていくから、面倒を見なくちゃいけない。いくらか用意してくれないか」と持ちかけていたことを「週刊朝日」2009年8月14日号が報道。この会長の証言によれば、視察直前に現金300万円、さらに赤坂の寿司店でも現金100万円を渡したが、「視察もその後、どうなったのかウヤムヤのまま」。さらには〈武田氏の政治団体の政治資金収支報告書に、これらの記載は見当たらない〉というから、この会長の証言が事実であれば政治資金規正法違反にあたる行為だ。

 また、東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当相に抜擢された橋本聖子氏も、今年、白血病であることを公表した水泳の池江璃花子選手について、講演会で「池江選手が素晴らしい発信をしてくれたことによって、スポーツ界全体がそんなことで悩んでいるべきではない、ガバナンス、コンプライアンスで悩んでいる場合じゃない、もっと前向きにしっかりやりなさい、ということの発信を、池江選手を使って、私たちに叱咤激励をしてくれているとさえ思いました」(朝日新聞デジタル2月16日付)と発言。ようするに、池江選手を利用して「ガバナンスやコンプライアンスなんてどうでもいい」と言ってのけたのである。

橋本聖子・五輪担当相、フィギュア高橋大輔選手に無理やりキスセクハラ

 さらに橋本氏は、ソチオリンピックの閉会式が終わった後に選手村でおこなわれた打ち上げパーティーでフィギュアスケートの高橋大輔選に抱きつき何度も強引にキスをしたと写真付きで「週刊文春」に報じられている。都合よく選手を政治利用し、権力を利用した悪質なパワハラ・セクハラまでおこなった人物を東京五輪・パラ担当相にしてしまうとは驚愕だ。

 マルチ商法の広告塔にセクハラ、パワハラ、脱法献金、闇ガネにタカリ疑惑……。そもそも、これら初入閣の大臣たちだけではなく、経産大臣から外務大臣に横滑りした茂木敏充氏は、昨年、公選法違反の“手帖配布”問題が持ち上がっており(詳しくは過去記事参照)、もはやこの安倍新内閣は “スキャンダル・疑惑のデパート”というべき状態なのだ。
 だが、驚くべきは、このほかにも“危ない”大臣がいるということだ。

 じつは、昨日、『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)に出演した田崎史郎氏が、「『この人いれちゃうの?』という人が3人くらい入っている」と言い、初入閣である田中和徳復興相と竹本直一科学技術担当相、北村誠吾地方創生担当相の名前を挙げたのだ。
 田崎氏は「長く入れなかった人には、それなりの理由があるんです」と思わせぶりに語ったが、御用ジャーナリストの田崎氏でさえツッコまざるを得なかったということは、今後、この3人の疑惑・スキャンダルが出てくる可能性も多いに考えられるだろう。

 しかし、問題はメディアの姿勢だ。ちょっと調べれば上記にあげてきたような疑惑・スキャンダルはすぐにわかるし、だいたい高市氏や加藤氏の再任や、加計学園問題のキーマンである萩生田光一氏をよりにもよって文科大臣に引き上げるという常軌を逸した人事は誰の目にもあきらか。だというのに、昨日のワイドショーはそうした問題にツッコミもせず、小泉進次郎の初入閣でお祭り騒ぎ状態に。
 さらに、新閣僚の記者会見でも、これまでの疑惑やスキャンダルについて追及をおこなう質問はほとんど飛ぶことがなかった。安倍政権以前ならば、内閣改造後の新閣僚会見では記者が過去の疑惑やスキャンダルを洗い、それについて質問を浴びせることは普通におこなわれていた。だが、そんな当たり前さえ、この国のメディアからは失われているのだ。

 大臣の不正や疑惑が持ち上がっても追及もせず、「安倍総理は疑惑がある人を大臣なんかに任命しない」とまで言ってのける。こうした異常な状況があるからこそ、安倍首相は好き勝手に、問題議員たちを堂々と大臣に登用できるのだ。
 メディアがこの体たらくでは、この「タマネギ内閣」の疑惑やスキャンダルが報じられることもないのだろう。


リテラ、2019.09.12 02:00
安倍内閣はタマネギだらけ!
マルチ広告塔、ハレンチ疑惑、パワハラ、カジノ脱法献金…
チョ・グクに騒ぐマスコミはなぜ追及しない

https://lite-ra.com/2019/09/post-4967.html

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若かりし日のオハーンさん

ALL SORTS OF objects lay in Jan Ruff O’Herne’s dressing table drawer. A necklace of dark amber beads. Silver work from Java where she had been brought up, the daughter of Dutch colonialists. A belt embroidered with tulips from the country she had never seen until after the war. Costume jewellery, gloves, lotions and potions. Her daughters Eileen and Carol loved to riffle through the drawer as children, and she gladly let them. The things often summoned up her Java stories of gamelans, sate-sellers, cicadas and warm rain. But when one day they found the embroidered white handkerchief folded at the bottom she snatched it away.

That was a rare moment, in 50 years of silence, when her secret was almost out. Other things she could disguise as phobias. Her unease when night fell, and she had to draw the living-room curtains. Her terror of going to doctors, even when she was quite ill. And, perhaps hardest to explain, her dislike of flowers. On her birthday she would beg friends and family not to give her any. They were such a waste of money, so soon over.

But this was not the reason. Flowers reminded her of the day in 1944, in a rambling house in Semarang, when she and six other Dutch-Indonesian girls realised that the place they had been abducted to was a Japanese military brothel. The Japanese had invaded Indonesia two years before, driving all the Dutch settlers into labour camps where they were kept in squalor, close to starvation. But this degradation was new. She and her companions, all virgins, so innocent, had been plucked from their camp to service queues of impatient army officers. To aid selection in the brothel, the names of flowers were pinned to their bedroom doors. She was also given a vase of white orchids which, in fear and disgust, she threw away. Ever after, she hated to be given flowers.

As night fell, the first officer came to her room. He was bald, fat and repulsively ugly. When she wept, screamed and kicked him, crying “Don’t!” in all the languages she knew, he simply laughed. Then he unsheathed his sword. As she huddled and prayed, expecting to be killed at any moment, he let the sword-tip wander over her body, up and down, up and down, before ripping off what was left of her clothes and raping her.

She never imagined suffering like this. It seemed he would never stop. But physical hurt was only part of it. Far worse was the shame. She could not have helped it, he was too heavy. But her pure young body, the body she had been planning to dedicate to Christ as a Catholic nun, had been destroyed. Her dignity and self-esteem were lost. In the bathroom afterwards, with the other sobbing and destroyed girls, she tried to wash off the soiling, but it stayed. Desperate, the girls tried to hide in the garden, but they were dragged out to be raped by more officers. It might have been ten times that night, and the next night, for three months. The brothel doctor raped them, too. Ever after, she feared both doctors and the dark.

Yet she also feared the light. It was too hard to reveal this. She buried it deep in shame, and so did those closest to her. When she was reunited with her mother in the labour camp, lying tearful with relief in the hollow of her arms, and her mother stroked her bald head, bald because she had cut off her hair in a bid to make the officers avoid her, she briefly told her. Her mother could not cope with it, and they said nothing more. She told a priest, since she still hoped to be a nun, but he deflected her as something sullied. When she met Tom Ruff, the British soldier who became her husband, she spoke of it once, then never again. She longed to scream out the details of what had been done to her, but instead she was expected to get on with life as though nothing had.

In a way, she succeeded. She and Tom married and moved happily to Adelaide. She did not want sex, but bore it, and after surgery to mend her she had her daughters. Their house was full of music, and she sang in choirs. When Tom became an invalid, her faith helped her bear that.

Outwardly she was smiling and serene. Inside was another story. All kinds of things reminded her, but especially the handkerchief in the drawer. A woman at the camp had passed it to her as she left for Semarang, and on the veranda of the brothel one evening, as they waited for that dreaded dark, she had asked the six other girls to sign it. Miep, Gerda, Els, Annie, Betty and Lies had written their names in pencil and she had sewn over them. Sometimes she would hold it to her face and cry.

Then in 1992, when she was almost 70, God suddenly set her life-task before her. Three elderly Korean war-rape victims spoke out on television and inspired her to do the same. If she backed them up, adding her European voice to theirs, they might together get Japan’s attention. The only hard part of her decision was that she had to tell her daughters the secret first. She could not do so face to face. Instead she wrote two copies of what she called “Cry of the Raped”, stuffed them into envelopes and left them to be read. But the deed was done. She could let her awful secret out to the world now, not as a “comfort woman”−how she hated that insulting, cuddly name−not as an angry victim seeking revenge, but as a calmly spoken witness who wanted Japan to admit what its soldiers had done to perhaps 200,000 women like herself.

Released and relieved, she addressed a war-crimes hearing in Tokyo, gave testimony to Congress and, whenever victims gathered, hugged and encouraged them. They won some compensation, though she herself would not accept it, since Japan’s right-wing government still refused to make a full apology. Now that the story was out, the case for one was overwhelming.

Time and again she thought of the passage from Ephesians 5 which Sister Xavier had made her learn at school, when she had tried to cheat in an exam: “The things which are done in secret are things that people are ashamed even to speak of; but anything exposed by the light will be illuminated, and anything illuminated turns into light.” So it had proved. And the white handkerchief, too, had left the darkness of the drawer. She had given it to the Australian War Memorial, where it stood on display and shone: seven testifying, suffering names to speak for all the others.


[photo]
war-rape victim of the Imperial Japanese Army.jpg

The Economist, Published: Sep 5th 2019
Obituary:
Jan Ruff O’Herne died on August 19th
The war-rape victim of the Imperial Japanese Army was 96

https://www.economist.com/obituary/2019/09/05/obituary-jan-ruff-oherne-died-on-august-19th

 英国の時事週刊誌エコノミストのお悔やみ欄は最近永眠した人びとから世界的な共鳴を持つ人物を選び、集中的にスポットを当てている。
 最新号(9月7日〜13日)が手がけたのはオランダ系オーストラリア人のジャン・ラフ・オハーン Jan Ruff O’Herne さん(1923〜2019)だ。
 日本軍に拉致され、インドネシアで3ヶ月間「慰安婦」として強制収容されていた女性だ。
 これまで、知られている欧州系慰安婦被害者の唯一の生存者だった。

 オハーンさんは生前「日本の安倍晋三首相の謝罪を受けるまでは絶対に死にたくない」と話したが、その願いは叶わなかった。
 オハーンさんは先月8月19日、オーストラリア・アデレードの自宅で96歳で老衰により息を引き取った。

 過去を隠し、平凡な主婦であり2人の娘の母親として暮らしていたオハーンさんは、1991年に故金学順(キム・ハクスン)さんが最初に慰安婦の事実を公開し証言したのを偶然目にしてから勇気を出した。
 翌年オーストラリアのメディアに自分の被害事実を知らせ、その後米国・欧州・日本などで証言活動を行った。
 韓国の慰安婦被害者とも活発に交流した。
 自叙伝『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語(Fifty Years of Silence)』(※)は6つの言語に翻訳された。

 エコノミストは、オハーンさんがインドネシアの日本軍慰安所で経験したことも詳細に紹介した。
 オランダ領インドネシア・ジャワ島の裕福な貿易商の娘として生まれたオハーンさんは、修道女になるために勉強中だった。
 そして1942年に日本軍がインドネシアを侵略し、2年後の1944年に拉致された。
 当時21歳だった。

 エコノミストはオハーンさんと6人のオランダ系の女性が「(インドネシア)スマランの日本軍の娼家(brothel)に連れて行かれた」と表現した。

「慰安婦」という表現の代わりに日本軍の性奴隷として引かれて行ったことを強調したものだ。
 オハーンさんは「慰安婦(comfort woman)」という言葉を嫌悪したという。
「日本軍を慰安する役割というこの言葉に侮辱を感じたからだ」とエコノミストは伝えた。

 エコノミストは「泣き叫び悲鳴を上げて抵抗するオハーンに日本軍はナイフを突きつけて服を裂き、強姦した(raping)」と伝えた。
 オハーンさんは後に自ら剃髪したが、日本軍がそんな自分のところに来ないだろうと考えたからだったという。

 スマラン慰安所での歳月は、オハーンさんに一生の傷を残した。
 慰安所の部屋ごとに花の名前がついていたことからオハーンさんは生涯、花のプレゼントを最も嫌い、暗くなる頃になると不安がる症状を見せた。
 すべての部屋で厚手のカーテンを閉め、完全に昼夜の区別ができないようにしたほどだった。

 戦争は日本の敗北に終わり、オハーンさんも自由の身となった。
 1960年にイギリス人将校のトム・ラフさんと結婚し、オーストラリアに移った。
 スマランでの悪夢は夫にだけ一度話し、その後は秘密にしたという。
 最初は子供も産まないつもりだったが、夫に慰められ心を癒しながら家族も設けた。

 スマランに関するものは白いハンカチだけ残して処分した。
 そのハンカチには一緒にスマランに連れて行かれたオランダ系女性たちの名前が書かれている。

「ミエフ、ゲルダ、エルス、アニー、ベティ、ライス」
Miep, Gerda, Els, Annie, Betty and Lies had written their names in pencil

 オハーンさんはこのハンカチを大切に畳んでドレッサーの中の引き出しに保管した。
 2人の娘がいたずらしてハンカチに触ろうとすると厳しく叱ったという。

 2人の娘は、慈愛に満ちた母がなぜハンカチにとりわけ敏感だったのか、1992年にようやく知った。
 金学順さんの告白に勇気を得て、オハーンさんもスマランの悪夢を打ち明けたことからだ。
 家族はオハーンさんを慰めた。
 孫娘のルビー・チャレンジャー Ruby Challenger さんは昨年スマランで祖母が体験したことを扱った短編ドキュメンタリー『デイリーブレッド(原題 Daily Bread)』(ヤッホーくん注)を製作した。
 自ら出演したこの作品ではチャレンジャーさんはスマラン慰安婦収容所に閉じ込められたオランダ人女性が虐待や飢餓などの苦難の中でも希望を失わずに生き残る姿を描いた。

 オハーンさんが書いた自叙伝の韓国語版の表紙にはオハーンさんとキル・ウォノクさん(92)など韓国人慰安婦被害者らが手を握って微笑む写真が載っている。
「日本軍性奴隷制」の問題を扱う正義記憶連帯によると、キル・ウォノクさんら被害者の健康状態はあまり良くないという。

 正義記憶連帯の関係者は11日、電話取材で「オハーンさんは(慰安婦問題が)東アジアに限った事案ではなく人類普遍の人権問題であることを国際社会が認識するために大きな役割を果たした」とし「故人が経験した大きな痛みを忘れない」と追悼の意を明らかにした。

 国内では今年に入って1月にキム・ボクドンさん、3月にクァク・イェナムさんなど5人の被害者が亡くなった。
 これにより、政府に登録された慰安婦被害者のうち生存者は20人に減った。


[写真]若かりし日のオハーンさん

若かりし日のオハーンさん.jpg

中央日報、2019年09月12日11時07分
「安倍謝罪するまで死ねない」最後の西洋人慰安婦
https://japanese.joins.com/article/542/257542.html

(※)ヤッホーくん注

(※-1)”Fifty Years of Silence”(Penguin Books Australia、Random House Australia、31 August 2011)

(※-2)”Daily Bread”

In Daily Bread, Sydney based first time filmmaker, Ruby Challenger interrogates a family tale of survival told with comic refrain by her grandmother.

Through evocative cinematography and delicate story telling, Challenger realizes this not-so-funny story with potency and dramatic effect. The short film follows the true experiences of Jan Ruff-O’Herne during a period of her time in a WWII Japanese internment camp in Indonesia, as she acts impulsively and out of desperation in an attempt to feed a starving child. It examines the complex relationships between captor and prisoner, risk and reward and women standing both divided and unified. Daily Bread takes a different approach to the oft seen depiction of good versus evil to give us insight into the captor’s humanity and the brutal capabilities of a desperate woman.

Challenger Directed, Produced, Co-wrote and starred as Jan in this recreation of her grandmother’s story. Shot entirely in Japanese and Dutch language, Daily Bread’s cast were brought together for intensive rehearsals, allowing the fluidity of power relationships to be thoroughly explored.

The historic courtyard at Scheyville National Park in New South Wales (NSW), provided a stunning backdrop to recreate the Japanese camp in Indonesia.

The short film is based on an extract from Jan’s autobiography, Fifty Years of Silence, published by Random House and translated into five languages. Challenger is Jan’s granddaughter and she has grown up with her grandmother in the spotlight, after Jan publicly spoke out in the early 1990s, revealing that she was forcibly taken as a sex slave by the Japanese military during WWII. For twenty five years, Jan has been an advocate for women’s rights in war time, speaking at hearings around the world, including Washington Congress.

Daily Bread is the precursor to Challenger’s upcoming feature film about Jan’s time enslaved in the brothel, which will further interrogate themes of the humanity of both captor and prisoner, risk and reward, and women’s unification and the lines that can also divide them. Produced by Challenger’s film company, Challenger Productions, Daily Bread had its World Premier at Flickerfest 2018.


Film Local, Published: October 4, 2018
Daily Bread
World War II Drama
Sydney, NSW
First-time female filmmaker tackles WWII, the blurred lines between right and wrong, and women’s unity.

https://filmlocal.com/local-films/daily-bread-world-war-ii-drama-sydney-nsw/

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2019年09月11日

斎藤山 1278.3m

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付けの日記をお読みください:

★ 2012年01月05日「まさえさん・こうめちゃん」
★ 2012年01月07日「七草」
★ 2017年10月04日「ザック担いでイザベラ・バードを辿る」

 でね、今日記してきた月曜日の日記ですが、もうひとつ、実は書いておかねばならぬ山もあったのです。

 全国のサイトウさんいらっしゃい! 斉藤さん、じゃなくって、山、です。斎藤山(1278.3m)!

 南会津町の長野地区のシンボル的存在。
 重量感のある尾根を持ち、どっしりと構えた貫禄ある山容は存在感がある。
 阿賀川(大川)沿いの国道121号線(日光街道、会津西街道)からも直ぐに山座同定できる。
 雷神様ルートと早生栗ルートが出合う見晴台や、山頂直下のヘリポートからの眺望はとてもよい。
 訪れる登山者も比較的少なく、静かな登山を楽しめるのも魅力。
 中腹まで延びる通信施設の保守用道路を利用すれば手軽に山頂に立つことも可能。
 積雪期には山スキーを楽しむ人々も訪れる。


 ところで、明治維新から10年経つか経たないかのときに来日、斎藤山を眺めたかもしれないイザベラ・バードさんに着目、注目!

[参考]
 明治維新からまだ間もない1878年(明治11年)6月27日、英国の女性旅行家イザベラ・バードは田島、長野を通り大内宿に宿泊している。
  6月から9月までの3ヶ月をかけて 日光から会津を通り新潟に抜け山形・秋田・青森・北海道を旅し、『 Unbeaten Tracks in Japan 』(1885年)と題して旅行記を出版した。
 イザベラ・バードも長野付近からこの斎藤山を眺めたはずである。
 ご興味のある方は、「イザベラ・バード 『日本奥地紀行』 福島県会津地方での行程」(※)をご覧願いたい。


福島の山々
http://yamayama.jp/saito/saito.htm

(※) 英国の女性旅行家イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、 1831年10月15日 - 1904年10月7日)は 明治維新からまだ間もない1878年(明治11年)、46歳の時に日本を訪れている。
 サンフランシスコから太平洋を渡って5月21日に横浜港に到着。
 6月から9月までの3ヶ月をかけて 日光から会津を通り新潟に抜け山形・秋田・青森・北海道を旅し、妹へ送った手紙をもとに、 『 Unbeaten Tracks in Japan 』(1885年)と題する旅行記を出版した。
 あくまでも46歳の英国女性による限定的な視点ではあるが、120年余り昔の会津地方の村落も生々しく描かれている。

会津での行程は以下の通り。(一部推測)

 紀行文のタイトル通り、当時の欧米人(特に女性)がめったに訪れない地域であった。
 貧困と不衛生な生活に苦しみながらも、勤勉で礼儀正しく思いやりある会津人、そして美しい会津の山々を讃えている。

6/26(水): 栃木県五十里→栃木県横川→山王峠→糸沢→川島(泊)
6/27(木): 川島→田島→大内(泊)
6/28(金): 大内→市川峠(市野峠)→市川→会津盆地→高田→坂下(泊)
6/29(土): 坂下→山また山(鐘撞堂峠)→片門→山岳地帯(束松峠)→野沢→野尻→車峠(泊)
6/30(日): 車峠(泊)
7/ 1(月): 車峠→新潟県津川

1878年6月26日(水)

 栃木県の日光から会津西街道(国道121号線)を北進して横川で昼食をとった後、山王峠を越え、糸沢を通り、川島で一泊。
 川島の宿屋では衣食住の不衛生さを嘆くが、亭主の礼儀正しさにも言及している。
 ちょうど「さなぶり」のお祭りと重なったようである。

■ 山王峠では
 長い山路を登ると、高さ二五〇〇フィートの峠の頂上に出た。そこは三〇フィートも幅のない突き出た山の端で、 山々や峡谷のすぱらしい眺めがあった。入り組んだ谷川の流れは、一つとなって烈しい奔流となっていた。 その流れに沿って数時間ほど進むと、川は広くなって静かな流れとなり、 かなり大きい水田の中をのろのろと流れていた。地図を見ると、この地方は空白になっているが、 私の考えでは、さきに越えた峠は分水界であって、それから先の川は、太平洋に向かうのではなく、 日本海に注ぐのであると思われた。この推量は当たっていた。

 山王峠は分水嶺であると共に、関東と東北の文化圏を分ける大きな峠でもあった。
 会津西街道時代の山王峠は、会津三方道路事業による旧国道の山王峠から少し西側に位置していたようである。
 江戸時代は参勤交代の隊列も通ったことだろう。
 戊辰戦争ではこの峠で激戦が繰り広げられたことだろう。
 イザベラ・バードが持っていた地図で「空白」になっていることに象徴されるように、まさに山王峠から北が「Unbeaten Tracks」といえるだろう。
 糸沢(現在の道の駅「たじま」近く)にあった山王茶屋は戊辰戦争で焼失したが、1869年(明治2年)に再建されたという。
 イザベラ・バードも立ち寄ったかもしれない。
 なお、山王茶屋の建物は南会津町の奥会津博物館に移築され古民家レストランとして活用されている。

■ 川島では
 糸沢では、借り出した馬がひどく躓くので、最後の宿場間を歩いて川島に着いた。ここは五十七戸のみじめな村であった。 私は疲れきって、それ以上は進めなかったので、やむなく藤原のときよりもずっとひどい設備の宿に泊まることになった。(中略) 田植えが終わると二日間の休日がある。そのときには、米作り農家の神である稲荷に多くの供物があげられる。 人々はお祭り騒ぎをして、一晩中飲んで浮かれていた。社の太鼓の音や、太鼓をたたきながら歩きまわる音が続いて、 私は眠ることができなかった。

 徳川幕府によって長年整備された日光を通った後だけに、その落差に驚いただろう。
 田植えの後のお祭り騒ぎとは、日本各地の農村で見られる「さなぶり」のお祭りだろうか。
 糸沢から川島付近では七ヶ岳を望める。
 七ヶ岳は会津鉄道の駅名にもなっている。
 山王峠から2kmほど北進すると貝鳴山の三角形の山容が印象深い。

1878年6月27日(木)

 川島を発ち、田島、長野を通り、大内宿に一泊。

■ 田島、長野では
 私たちは田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいたところで、日本の町としてはたいそう美しい。 この町は下駄、素焼、粗製の漆器や龍を生産し、輸出する。(中略) 水田を通りすぎると、荒海川という大きな川に出た。(中略)そして汚いが勤勉な住民のあふれている汚い村をいくつか通りすぎて、 平底船で川を渡った。(中略)この地方はまことに美しかった。日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々となった。 山頂まで森林におおわれた尖った山々が遠くまで連なって見えた。

 田島を過ぎて長野か落合、沢田あたりで大川を渡ったのだろう。
 この付近で見える山は斎藤山とその奥に裏那須の山々(旭岳、三倉山、三本槍岳)だろう。

■ 大内では
 私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。

 郵便局、運送所という特徴から、「美濃屋」だろうか。
 近くの湯野上温泉駅は駅舎としては珍しい茅葺屋根。
 大内宿の宿場の雰囲気を感じさせる。
「山にかこまれた」というのは小野岳だろう。

1878年6月28日(金)
 大内宿を発ち、市川、高田を通り、坂下街道(県道22号線・会津坂下会津高田線)を北進し、坂下に一泊。
 市川峠は現在の地図では市野峠となっている。
 大内会津高田線(県道330号線)を北進。

■ 市川(市野)では
 私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通り、 それから雄大な市川峠を登った。すばらしい騎馬旅行であった。 道は、ご丁寧にも本街道と呼ばれるものであったが、私たちはその道をわきにそれて、ひどい山路に入った。(中略) 峠の頂上は、他の多くの場合と同じく、狭い尾根になっている。山路は、山の反対側に下ると、 ものすごい峡谷の中に急に下りてゆく。私たちはその峡谷に沿って一マイルほど下って行った。(中略) 山を下る終わり近くで、私の雌馬は反抗して手に負えなくなり、私を乗せたまま、見苦しい姿で早駆けをして、市川という村に入った。 ここは美しい場所にあるが、傍は切り立った崖となっている。村の中央に、すばらしい飛瀑があり、 そのしぶきで村中がまったく湿気に侵されている。(後略)

 沢沿いの道で、6月下旬の梅雨時ということもあり、湿気が凄かったのだろう。
 市野沢だろうか。
 大内宿からだと大内峠を越える会津西街道の本街道を通るのが一般的だと思われるが、あえて市川峠を越えたのはなぜだろうか。

■ 高田では
 杉の並木道となり、金色のりっぱな仏寺が二つ見えてきたので、かなり重要な町に近づいてきたことが分った。 高田はまさにそのような町である。絹や縄や人参の相当大きな取引きをしている大きな町で、 県の高官たちの一人の邸宅がある。街は一マイルも続き、どの家も商店となっている。

「金色のりっぱな仏寺が二つ」とは、 舘泉寺と太子堂だろうか?
 或いは、現在の県道330号線(大内会津高田線)より1kmほど東側のルートを通った場合だが、福生寺観音堂と常楽寺観音堂あたりだろうか?
 高田から坂下までは、現在の県道22号線(会津坂下会津高田線)付近を通った可能性が高いが、 西側の県道365号線(赤留塔寺線)付近を通った可能性も捨てきれない。

■ 坂下では
 ここは人口五千の商業の町である。まさに水田湿地帯の中にあって、みすぼらしく、汚く、じめじめと湿っぽい。(中略) 干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚からでる臭いは強烈であった。(中略) ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまでは ゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここで私は、 一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群衆にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。(中略) 彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。それは見ていてもたいへん気持ちがよい。

 干魚とは、身欠き鰊や鰊の山椒漬け、棒タラなどだろうか。
 肉食が当たり前の彼女にとって、味噌汁と漬物、塩魚などの食事は辛かったようである。
 幼いころから食べ慣れた日本人で嫌いな人は少ないだろうが、英国女性がその匂いに抵抗があるのは当然。
 しかし、清貧な会津気質をもった坂下の人々のことをイザベラ・バードも称えている。

1878年6月29日(土)

 坂下を発ち、山また山(鐘撞堂峠)、片門、山岳地帯(束松峠、鳥屋山塊)、野沢、野尻を通り、車峠で二泊。

■ 鐘撞堂峠では
 ようやく一時間してこの不健康な沼沢地を通り越し、それからは山また山の旅である。 道路はひどいもので、辷りやすく、私の馬は数回も辷って倒れた。

 坂下と片門の間で「山また山」というと鐘撞堂峠と思われる。
 越後街道は1611(慶長16)年の会津地震により高寺山塊の勝負沢付近が被害を受け通行困難になったことから、鐘撞堂峠と束松峠を通るルートに変更になったそうである。
 気多宮の追分で左(直進)が柳津路(沼田街道)、右が越後路(鐘撞堂峠)に分かれる。

■ 片門では
 私たちは阿賀野川という大きな川にかけてある橋をわたったが、こんなひどい道路にこんなりっぱな橋があるとは驚くべきことである。 これは十二隻の大きな平底船からなる橋で、どの船も編んだ藤蔓の丈夫な綱に結んである。 だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が十二フィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている。 伊藤は落馬したために一時間おくれたので、私はその間、片門という部落で、米俵の上に腰を下ろしていた。 この部落は、阿賀野川の上流の山手で、急な屋根の家々がごたごたと集まったところである。

 片門と舟渡の間にあった平底船の橋と思われる。
 現在では片門橋という名前の新しくて大きな橋が架かっている。
 現在ではこの付近の川の名称は只見川と記載されているが、阿賀川(阿賀野川)との合流点に近い。

■ 山岳地帯(束松峠、鳥屋山塊)では
 こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、 山を越えるたびに視界は壮大なものとなってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、 二つの峰をもつ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、 広大な雪原と雪の積もっている峡谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。 これらの峰は、岩石を霧出させているものもあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色におおわれている低い山山の上に立って、 美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私が考えるところでは、 ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった。

 片門と野沢の間の山岳地帯というと束松峠と鳥屋山だろう。
 イザベラ・バードはこの付近から見る会津の山々を絶賛している。
 糸谷山(イトヤサン)とは、飯豊山(イイデサン、イイトヨサン)だろう。
 福島の山々にて、磐梯山や明神岳も詳しい。
 磐梯山の小磐梯が水蒸気爆発で大規模な山体崩壊を起こしたのは、10年後の1888(明治21)年である。
 イザベラ・バードは噴火前の磐梯山の姿を西側から見たことになる。

■ 野沢では
 ただ一人野沢という小さな町に着くと、人々は好奇心をもって集まってきた。 ここで休息をしてから、私たちは山腹に沿って三マイルほど歩いたが、たいそう愉快であった。 下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖がそそり立ち金色の夕陽の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった。

 会津の巨峰とは飯豊連峰だろうが、すばらしい灰色の断崖とはどの辺だろうか。
 現在、野沢から野尻の間には「すばらしい」という程の「灰色の断崖」は見られないが、 野沢の3〜4Kmほど手前の大畑と甲石の間の不動川沿いに大変見事な「灰色の断崖」が続く。
 イザベラの記述した行程と前後するが、もしかしたらここかもしれない。

■ 野尻では
 日暮れ時に野尻という美しい村に到着した。この村は、水田の谷間のはずれにあった。 夕方ではあったが、私は穴の中のような宿で日曜日を過ごしたくはなかった。 一五○○フィートほど高い山の端に一軒家が見えたので、聞いてみると茶屋であることが分かったから、そこまで行くことにした。 うねうねと続く山路を登るのに四十五分もかかった。この道によって難所の峠を越えるのである。

 野尻地区のシンボル的存在の須刈岳のこんもりとした姿も記憶に残っただろう。

■ 車峠では
 会津の山々の雪景色はすばらしいし、ここには他に二軒しかないから、 群集にわずらわされることなく自由に散歩できるからである。(中略) この地方は見たところ美しくもあり、また同時に繁栄しているようである。 山麓に静かに横たわっている野尻という尖り屋根の並んでいる村に、ひどい貧困が存在しようとは、 だれも考えないであろう。しかし、ちょうど下の杉の木に下がっている二本の麻縄が、 貧乏のために大家族を養うことができず二日前に首をくくった一人の老人の、悲しい物語を語っている。 宿の女主人と伊藤は、幼い子どもたちをかかえた男が老齢であったり病身であったりして働けなると、自殺することが多い、と私に話してくれた。

 イザベラ・バードも会津の山々の美しさを絶賛している。
 6月下旬だと新緑の中に飯豊連峰の残雪がまだ白く輝いていただろう。
 代替フロンや二酸化炭素の排出で、地球温暖化が急速なスピードで進んでいる。
 百年後の会津で、この美しい光景が残っているだろうか。
 野尻の集落は農業と舟運業で繁栄している豊かな村だが、厳しい側面もあったことが窺える。

1878年6月30日(日)

 会津地方での最終泊となる6月30日(日)に、会津地方の行程を振り返って、車峠の宿屋で次のように手紙に書いている。
 つらかった六日間の旅行を終えて、山の静かな場所で安息の日を迎えることができるとは、 なんと楽しいことであろうか。山と峠、谷間と水田、次に森林と水田、こんどは村落と水田。 貧困、勤勉、不潔、こわれた寺、倒れている仏像、藁沓をはいた駄馬の列。長い灰色の短調な 町並み、静かにじっと見つめている群衆・・・これらが、私の思い出の中に奇妙なごったまぜと なって浮かび上がってきた。(後略)

 当時の会津地方は衛生状態が悪く、蚤やシラミを原因とする皮膚病が流行していたことも記されている。
 明治維新(戊辰戦争)や廃仏毀釈運動で荒廃した会津地方が目に浮かび、何とも複雑な気持ちになる。
 現在の豊かで美しい会津はさまざま困難に耐えながら努力された先人達の多くの苦労の賜物である。

1878年7月1日(月)

 7/1(月)、会津地方に別れを告げて新潟へ発った。
 車峠から西へ向かう道路は、とてもひどいもので、駅場間はただの一マイルしか離れていないことがある。 しかし、多くの市町村と大きな後背地をもつ肥沃な会津平野の産物を新潟に送り出すためには、少なくとも 津川に来るまでは、その道路に頼らなければならない。(中略) こんなにひどい道路を馬に乗って通るのははじめてであって、それは大変なものである。(後略)

 会津と新潟を結ぶ大動脈だが、車峠〜津川まではかなりの難所だったようだ。
 車峠付近も要衝の地だったことから、戊辰戦争で道路が荒廃していたことも考えられる。

※ 『日本奥地紀行(イザベラ・バード著、高梨健吉訳)』
 翻訳本が2000年2月に『日本奥地紀行』(高梨健吉訳、平凡社、1973年刊の東洋文庫の再刊)として出版されている。当ページではこの翻訳本をもとにその行程を推測した。


福島の山々 Report
http://yamayama.jp/report/izabera/izabera.htm

[追記@]

川島で一泊。川島宿を出発したイザベラが、庶民の暮らしがいかに不衛生なものであるかを再認識するところから話は始まります。

不衛生的な家々

 まずは服装の話題から始まります。
 この人たちはリンネル製品を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)

 なるほど、当時の庶民には「寝間着」という概念がそもそも無かったということでしょうか。
 夜になると彼らは、世捨て人のように自分の家をぴったりと閉めきってしまう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)

 伝統的な日本家屋は通気性の良さがウリですから、そのままでは東北の寒い夜を越すには問題があるということですよね。
 でも「自分の家をぴったりと閉め切ってしまう」というのは、気候を考えるとやむを得ないことのようにも思えるのですが……。
 家族はみな寄りかたまって、一つの寝室に休む。部屋の空気は、まず木炭や煙草の煙で汚れている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)

 「一つの寝室に休む」というのは、確かに特徴的な光景かもしれません。
 部屋の空気が暖を取るための木炭やタバコの煙で汚れているというのは、換気扇はおろか煙突すら無かったことに気付かされますね。
 これは確かに体に悪そうです。
 蒲団は日中には風通しの悪い押入れの中にしまっておく。これは年末から翌年の年末まで、洗濯されることはめったにない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)

 むぅ。布団を干すという風習も無かったのでしょうか……?
 これはちょっと驚きなのですが。
 畳は外面がかなりきれいであるが、その中には虫がいっぱい巣くっており、塵や生物の溜まり場となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)

 あー、これは程度の差こそあれ、現代の日本においても未解決の問題だったりしますね(特にダニなど)。
 これにはイザベラもこの先大いに悩まされることになる筈です。
 髪には油や香油がむやみに塗りこまれており、この地方では髪を整えるのは週に一回か、あるいはそれより少ない場合が多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)

……(汗)。毛ジラミとか凄そうな感じがしますね。敗戦後に GHQ が DDT をバラ撒いたのも理解できる感じがします。
 このような生活の結果として、どんな悲惨な状態に陥っているか、ここで詳しく述べる必要はあるまい。その他は想像にまかせた方がよいであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)

……(汗)。
 イザベラ姐さんの鋭いツッコミは更に続きます。
 家屋の床は、畳に隠れて見えないので、ぞんざいに敷かれているから、板の間に隙間ができている。しかも湿った地面が床下から一八インチか二フィートしか離れていないので、あらゆる臭気が畳を滲み通り、部屋の中に入ってくるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.162 より引用)

「臭気」の件はさておき……。「床下から 2 ft」が気になったのですが、Google さんの計算では 60.96 cm とのこと。これは現代でも割と一般的な高さですよね。
 さて、この先はなぜか普及版でカットされた部分です。
 文体が変わるので一目瞭然だったかも知れませんが……。
 飲み水は、家の密集した真ん中に据えられた井戸から汲まれるのですが、このとき確実に汚染されていると思われます。家の中での不潔な処理の直接的影響によるか、あるいは外側の溝からの土壌を通してろ過する際の有機物の分解による目詰りが原因であると考えられます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.60 より引用)

「有機物の分解による目詰り」というのがちょっと良くわからないのですが、確かに原文にも "choked with decomposing organic matter" とありますね。
農村では決まって、家の戸のところにある地面に埋めた大きな桶に下水が入っていて、ここから蓋のない桶で畑に運ばれます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.60 より引用)

 なるほど、今で言う「肥溜め」のことでしょうか。
 糞尿を畑の肥料とするためにはどこかに溜めておくしか無いわけで、確かにその不衛生さは言うまでもないことですよね。
 糞尿以外の家庭排水は近くの小川に流していたんだと思いますが、その辺は残念ながら記載がありません。

早喰い

 イザベラの筆致は農民の食生活に移ります。
農民の食物の多くは、生魚か半分生の塩魚と、野菜の漬物である。これは簡単に漬けてあるから不消化である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)

「不消化である」というのが少々意味不明だったのですが、原文を見ると "indigestible" とあります。これは「消化に悪い」と訳すのが適切かもしれません。
 人びとはみな食物をものすごい速さで飲みこむ。できるだけ短い時間で食事を片づけるのが人生の目的であるかのようである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)

 ブリテン風の皮肉で締められているあたりが流石ですが、なるほど。
 優雅に食事を楽しむ、なんて風では無かったということですね。
 全体に被抑圧感が凄いのですが、これは江戸時代からの伝統だったのでしょうか。

早老

 イザベラの興味深い筆致が続きます。
 既婚女性は青春を知らなかったような顔をしている。その肌は、なめし皮のように見えるときが多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)

 この辺は要注意かな、と思ったりもします。
 というのも、当時の農村の人々には、イザベラが魔女であるかのように見えていたということを差し引かないといけないかな、と思うからです。
 ただ、イザベラは聡明な人物だったように思えますから、その辺のバイアスを差し引いた上での観察である可能性もあります。
 ……どっちなんでしょうねー?
川島で私は、五十歳ぐらいに見える宿の奥さんに、彼女が幾歳になるか、質問をした《これは日本では礼儀正しい質問となっている》。彼女は、二十二歳です、と答えた。これは私にとって驚きであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)

 一般的に、アングロサクソンと比較してモンゴロイドは童顔に見えるものだと言われていますよね。
 アングロサクソンである筈のイザベラが何をどう見間違えたんだ……と思えてしまいます。
私はこれと似た驚きを多く経験している。彼女の男の子は、五歳だというのに、まだ乳離れしていないのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)

 うーん、これはどういうことなんでしょう。母乳から得られる栄養が不足していたという話なのか、それとも……?


Bojan International、2016年12月23日金曜日 「
「日本奥地紀行」を読む (64) 川島(南会津町) (1878/6/27)
https://www.bojan.net/2016/12/23.html

[追記A]

 イザベラは、市野から高田、新鶴村(にいつるむら)を進み、古坂下付近で越後街道(現、国道49号線)へと入り宿場町・会津坂下(あいづばんげ)にて一泊する。

『市川という村に入った。ここは美しい場所にあるが、傍は切り立った崖となっている。村の中央には、すばらしい飛瀑があり、そのしぶきで村中が湿気に浸されている。樹木や路傍は藻類で青々としている。そこの駅馬係りは女性であった』

 この文中の市川は市野のことである。
 市野峠を越えて沢沿いに下ってくると市野集落へと入る。
 この集落では別な沢が集落の中央付近で合流しているため、当時は確かに湿気は多かったのかもしれない。
 また駅馬係を女性がしていたという駅舎も現存しているということである(会津高田町広報2004年8月号より)。

 休息をしたイザベラは馬を替え高田へと向かう。
 山間を抜けて平野部へと出ると、やがて道は、

『杉の並木道となり、金色のりっぱな仏寺が二つ見えてきたので、かなり重要な町に近づいてきたことがわかった。高田はまさにそのような町である』

 この金色の二つの寺は、冨岡集落の福生時観音堂と直ぐお隣の領家集落の常楽寺観音堂と思われる(同上広報より)。

 高田の歴史は古く、その昔、日本統一に派遣された四将軍の内、二将軍がここで出会い「あいづ・会津」という地名になったという古事記の伝承にも登場し、会津発祥の地とも言われている。
 高田梅という種が小さく肉厚の梅の産地としても有名で、また由緒ある寺も多く、会津で最古の寺とされる法用寺(ほうようじ)などがある。

 彼女が訪れた当時、この町は絹や人参の取り引きで大きな町であったが、概観はみすぼらしく、わびしかった。
 ここでもイザベラは人びとの目にさらされる。
 休息のために立ち寄った宿では、主人が気を利かせて、奥の庭に面した部屋に通してくれたが、それでも人びとは庭越しに覗き込んできた。
 イザベラは疲れていたのか、この時ばかりは障子を閉めてしまったが、名ばかりの休息に心安まる暇も無かったようだ。

 休息後、大ぜいの村人がまたもや村外れまで付いてきた。
 千人もの人間が下駄を履いて付いて来る様は、雹がばらばらと降ってくる音に似ていた。
 心優しいというか、興味津々の人びとに見送られながら高田を後にする。

 水田の中の道を5時間も進み、会津坂下に到着したのが夕方6時。
 先へ進みたかったが馬の手配が遅れたため、坂下での一泊を余儀なくされた。
 イザベラは仕方なく『古ぼけた超満員の宿屋』へと宿泊する。

『坂下には沼沢地があり、毒気があった。あまりマラリア熱が多いので、政府は医療援助をさらに送ってきていたほどである』

 彼女の泊まった部屋は、『よどんだ水の上に丸太を組み合わせたような建物であった』という。
 現在の坂下町は、綺麗な水田地帯が続く穏やかな町であり、イザベラの印象を裏付けるような事実は何もない。

 この会津坂下は、懐メロファンにとっては懐かしい「別れの一本杉」などで有名な、春日八郎氏の出身地でもある。
 坂下という地名は、アイヌ語の「バッケ(崖の上)」が語源だと言われる。
 アイヌ人が坂下町のどの辺り指してバッケと言ったのかは不明であるが、町外れになると確かに道は山へと入って行く。
 といって、町そのものは山裾であり、そう言う意味では、地形的には「崖下」ではないかと思われる。
 素人考えはこの辺で止めておこう。

 また古刹恵隆寺(えりゅうじ)の立木観音堂は国重要文化財にも指定されている。
 翌朝、出発の頃には宿屋前に2000人以上が、未だ見ぬ外人女性を一目見ようと集まっていた。
 イザベラが乗馬し、鞍の箱から望遠鏡を取り出そうとした時、その事件は起こった。
 突然遠巻きにしていた群衆が、何かに怯えたように、喚きながら散り散りに逃げ出し始めたのだ。
 子供は押し倒され、老人は腰を抜かし、上を下への大パニック。
 この有様に逆に驚いたイザベラが、何事かと伊藤に尋ねると、人々は彼女がピストルを出して、自分たちを脅かそうとした、と思い込んでの出来事だと分かった。
 そこで彼女は、これは実際には望遠鏡であって物騒なものではない事を使い方も含めて伊藤に説明させた。
 多分、集まった人々の何人かに望遠鏡を実際に覗かせたのだろう。
 人びとは、この珍しい道具を覗いては驚き感心したに違いない。
 彼女のこの行為は、優しくて悪意のない坂下の人びとに、少しでも迷惑を掛けたくないという思いからであったという。
 ヨーロッパの国々やイギリスでさえ、外国人女性の一人旅は無礼や侮辱を受けやすく、時にはお金をゆすり取られることもある。
 しかしここ日本では、一度も失礼な目に遭ったこともなく、不当な料金を取られることもなく、またこのような多くの人びとに囲まれていようとも無礼なことをされることもない。
 馬子は絶えず客であるイザベラに気を使い、チップを要求することもない。
 彼らは仕事を終えると、直ちに荷を降ろし伝票を受け取り家へ帰るのみである。
 イザベラにとって日本人は『優しくて悪意のない人々』だったのである。


白神りゅう也の旅と小説の世界へようこそ
このホームページでは旅行大好き作家・白神りゅう也の作品を紹介しています。
http://www13.plala.or.jp/r-shirakami/0600.html

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現代版組踊「息吹〜南山義民喜四郎伝」

 もうひとつは、「現代版組踊」。
 キムラ緑子が感動のあまり、涙を落としたグループ「息吹」の練習風景。

 1720年秋 南山御蔵入の農民が一揆を起こした。

 年々厳しくなる年貢。
 更に、金納を減らし米納の強制・廻米・新規徴税・納期に、限界を感じ、下郷枝松の岩穴にて、代表47人が相談し、下郷の百姓800余人が、田島代官所を取り囲んだことから、始まった。

 南山御蔵入領とは、現在の南会津全域と大沼郡の大半、河沼郡の柳津の一部を含む石高55000石の幕府直轄地で、これを統治支配する代官陣屋が田島におかれていた。

 翌年1721年1月、百姓代表15名が江戸へ登り幕府勘定所へ13ヶ条訴状の訴状を差し出した。
 法度のはずの直訴状が受理されたことに百姓達は、一縷の望みをつなぎ、後登り18名が加わり、 領内全域の一揆態勢を整えた。

 領内271ヶ村が結束強固な組織力で資金を調達し、代表33名の江戸訴人を支えた。
 はじめ、これを軽くみていた幕府首脳を優慮させる事態までに立ち至ったのである。
 同4月、危機感をもった幕府は事態を収拾させるべく本格的な取り調べを開始した。

 百姓の訴状を要約すると、

1, 高率年貢の引き下げ
2, 年貢の江戸廻米の中止
3, 年貢金納の村へ米納強制の反対
4, 小穀割等の新雑税の廃止
5, 郷頭制の廃止 

等々であった。
 数ヶ月に及び、江戸に滞在してねばる百姓の抵抗に、幕府は、これを押しつぶすには、 資金源を断ち、百姓の団結を分断するしかないと考えた。

 惣百姓の代表を標榜する訴人達に、領内の百姓が本当に委任したかどうか、領内全戸を取り調べるという奇策をもって臨んだのである。
 代官陣屋を会津藩兵が警固する中で、1人ずつの取り調べに恐怖を感じた百姓は処罰を恐れ、態度を豹変させた。

 大方の人が、強制されて資金を出した、村八分を恐れて加わった、などと申し立て、訴人の「惣百姓の代表」という大義名分は、もろくもくずれてしまった。

 1722年7月幕府は、農民を扇動して一揆を策謀したとして、一揆の指導者と目される名主3名、百姓3名を斬首(小栗山村の喜四郎は、田島で捕まり打首)、見せしめのため、田島鎌倉崎にさらし首にした。
 取り調べ中に江戸で牢死者9名も、忘れてはならない。
 しかし、百姓が差し出した願いは、幕府も認めざるを得ない部分もあった。
 幕府は直接百姓の要求を認めるのではなく、直支配を会津藩への預け支配に切り替えることで、

1, 年貢米の江戸廻米の廃止
2, 年貢金納への米納強制の中止
3, 新雑税の一部廃止

等、百姓の要求が実現されたのである。
 6名の死は決して、無駄ではなかった。
 これら犠牲となった方々は、奥会津の人々によって「南山義民」と讃えられ郷土の誇りとして代々語り伝えられるだろう。


「息吹」公式サイト
御蔵入騒動とは
http://www.minamiaizu.jp/ibuki_okurairi.html

[写真-1]小栗山喜四郎墓

「1720(享保5)年、 南山御蔵入騒動で斬首獄門となった6人の犠牲者中、惟一人田島で逮捕、処刑されたため、ひときわ地元民に印象が深く、義民と讃えられる。
 事件後、逮捕の場となった旅籠小川屋の主人が供養のため建立したと伝える」

[写真-2]翆園先生賛徳碑

「檜枝岐村出身。名は馬場滋雄。苦学して医者となった翆園先生は「医は仁術」を旨として、地域の医療に努めるかたわら、御蔵入騒動を戯曲化し、「南山義民之碑」を著すなど、文化人医者として町民から慕われた徳人であった」

[写真-3]土井晩翠先生「義民の詩」

「1941(昭和16)年、知人の招聘で田島を訪れた晩翠先生は、図らずも、「南山義民」の話を聞いて大変感動され、「目にみえぬ、神秘の力我を引き、義人の墓に、今日詣でしむ」と、その感慨を詠まれました」

[写真-4]南山六義人頌

南会津の田島町     郷の一隅護摩山に
嘗って立ちにき六地蔵  義人の霊の弔ひに
 喜四郎 喜左衛門 茂左衛門
 兵左衛門 久治右衛門
 更に儀右衛門壮烈の
 かたすみを残す丘のうへ
   昭和16年春4月   土井晩翠
1995(平成7)年5月此に南山御蔵入騒動6人の義民の諸霊を慰めると、ともに、供養の為、六地蔵尊を再建し、田島町の歴史を顧りみ、記念とする。南山義民地蔵尊建立会

[写真-5]南山義民之碑

「1720(享保5)年、南山御蔵入領で起きた大百姓一揆で、指導者6名が死罪獄門となったが、この義挙を永遠に後世に伝えようと、田島の有志が1928(昭和3)年に建立した。
 碑文は漢学者杉原夷山の撰文」

会津への夢街道
田島丸山歴史公園
http://www.aizue.net/sityouson/minamiaizuphoto/tajimamaruyamarekisikouen.html

 演出家平田大一氏による舞台「南山の息吹」で取り上げられている御蔵入騒動、そのサブタイトル「南山義民喜四郎伝」として名前が挙がっているのが小栗山村出身の喜四郎です。

 現在でいうところの金山町大字小栗山。
 ボクの住む南会津町田島から国道400号で昭和村を通り過ぎ金山町へ向かい、国道252号との交差点の2キロ程手前、谷深くには野尻川が流れています。

 ここに立って見渡す限り、耕作地に適した平地は少なく、あるとしても谷沿いの斜面に段々畑がある程度かな?雪が多くてよく分かりませんが。
 南山御蔵入騒動記録研究会による「南山六義民の碑建設記録」誌(以下「記録誌」と呼びます)によると、ここから見える屋根の家が喜四郎の実家とされ、末裔が住んでいると記されています。
 ここか〜〜〜と想像以上の環境に絶句です。。。

 集落内の広場には義民の碑≠ェ建てられています。石碑は大正9年、案内板は平成6年にそれぞれ建立されたようです。
 義民と言って真っ先に上がる名前、喜四郎。なぜに喜四郎なのでしょうか?

 御蔵入騒動の伝聞としてまとまったモノははっきりせず、記録誌によると明治20年から大正6年にかけて行われた室井平蔵氏による調査と昭和3年に建立された石碑によりあらすじが垣間見えます。
 その後、昭和38年に義民の一人である界村兵左衛門が書き残したとされる名主文書が発見され、これにより御蔵入騒動の全容が判明し、絵入りの昔話として物語が確立されたようです。
 つまり、物語の構成の拠りどころとされているのは兵左衛門の名主文書であり、この中で喜四郎に関する記載が多くあることから物語の中心に据えて描かれることが多くなっていると思われます。

 また、喜四郎は南山領内→江戸→南山領内→宿屋小川屋潜伏中に逮捕、と移動していることから活動的に描きやすく、また坂本竜馬の寺田屋事件を思わせる逮捕劇にさまざまなエピソードを盛り込み易かったのかもしれません。
 義民6人の中で喜四郎は唯一、代官所のある田島で打ち首になっています。
 領民の見ている前で死んでいった喜四郎に皆の思いが惹かれていったのは自然なことかもしれません。

 ただ、冷静に見てみると…
 6義民の内、黒谷村儀右衛門、布沢村茂左衛門の2人は江戸で直訴途中で投獄されているので別として、御蔵入領内で資金調達をしていた4人の内、喜四郎以外の界村兵左衛門、新遠路村久次右衛門、滝沢村喜左衛門は江戸へ送られ、そして5人は江戸で打ち首となっています。
 しかし、喜四郎だけは江戸へ送られることなく南会津町田島の代官所で打ち首となっています。
 なぜ喜四郎だけが?喜四郎は特別だったのか……

 その理由は……、おそらく名主層と領民という格の違いだったのでは?
 直訴が江戸の奉行所で審議されている間、領内の主要な名主は呼び出され聞き取り調査を受けていました。
 つまり、名主は奉行所の取り調べ対象であり必然的に刑罰を下す対象であったのでしょう。
 一方、領民はその対象ではなく代官所の管轄であり、従って刑罰を下すのも領民に対しては代官所が行う必要があったのではなかったか。。。

 結果として、喜四郎は地元で打ち首となり、そのお蔭で英雄でありかつ涙を誘う対象として長く愛されることとなったのでしょう。

 記念碑の近くには小さなお宮様。
 喜四郎の実家とされる家のすぐ近くでもあります。

 その裏には小さな公園。。。すべて雪で埋まってます。。。

 ブラブラしていると地元のじい様登場!
「何撮ってんだ?」
「義民?この上の方さ墓があっけど、埋まってる。今頃来てはダメだべ〜、ハハハハハッ(笑)」
 義民と尋ねて直ぐに反応が返ってくるあたり、やはり地元では有名なのですね!
 今頃来てはって……、ごもっとも!もう少し早く来ようと思ってたんですけどね〜

 昔ながらの木製の電柱、凍て付きます。。。


南会津生活記、2011年01月25日 06時22分12秒
南山六義民の見た風景 喜四郎編その1
https://blog.goo.ne.jp/s-k-y02/e/96d8c612ce21e680b33272ed96228494

息吹公式チャンネル、現代版組踊 「息吹〜南山義民喜四郎伝」ダイジェスト!
https://www.youtube.com/watch?v=1qEIPiD6zF4

https://www.youtube.com/watch?v=YwBYn3KTUxQ

https://www.youtube.com/watch?v=2tJ3gIzi5rM

現代版組踊「息吹〜南山義民喜四郎伝」
喜多方プラザ企画公演
2020年3月29日㈰
喜多方プラザ文化センター 大ホール

「息吹」公式サイト
公演情報
http://www.minamiaizu.jp/ibuki_kouen.html

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会津田島祇園祭

 2019年9月9日(月曜日)ヤッホーくん、いったい何してたんだろうとつい一昨日のことがもう霧のなか、夢のなか……
 そうでした、あの日の早朝、台風15号が横浜、東京を直撃したばかりでなく東京湾を北上して千葉に上陸していました。
 その日の夜は、「鶴瓶の家族に乾杯」でヤッホーくん、鶴瓶、キムラ緑子といっしょに福島県南会津町ぶっつけ本番旅!
 ふたつも地元の皆さんとお祭りにでて感動をいただいておりました。ひとつは町あげて老いも若きも入る「田島祇園祭」!

 会津田島祇園祭は、福島県南会津町田島地区で毎年7月22日、23日、24日の3日間開催される田出宇賀神社と熊野神社の祭礼です。
 京都祇園、中の津島(愛知)と並ぶ日本三大祇園祭の一つに数えられ、お祭りの期間中は数多くの露店や4つの大屋台が立ち並び、大ぜいの観光客が訪れます。
 大屋台で上演される子供歌舞伎や、神様へのお供え物を運ぶ七行器(ななほかい)行列、町中を廻る神輿渡御(みこしとぎょ)、最終日に神社の神楽殿で奉納される太々御神楽(だいだいみかぐら)など見どころの多いお祭りとなっています。

 会津田島祇園祭の始まりは、鎌倉時代の文治年間(1185年〜1189年)にこの地の領主になった長沼宗政が祇園信仰を重んじ、田出宇賀神社で祇園祭の儀式を執り行ったことと言われており、江戸時代の慶長8年(1603年)に京都八坂神社の祇園祭に準じた祭式を定め、現在の会津田島祇園祭に至ります。

■ 祗園信仰とは

 平安時代、都では疫病が流行していました。
 当時、疫病の原因は悪霊や祟りと言われ、疫病を抑えるには祟りを和らげなければならないと考えられました。
 そこで厄病神の牛頭天王・スサノオノミコトを祀り、京都の神泉苑で御霊会(ごりょうえ)という儀式を行ない、人びとに疫病が広がるのを防ごうとしました。
 これが祇園祭の始まりであり、疫病を抑えるために牛頭天王・スサノオノミコトを祀ることを祇園信仰といいます。


会津田島祇園祭
http://www.aizu-concierge.com/feature/257/

 牛頭天王……濃霧注意報が発令されているヤッホーくんのアタマにちょっとだけ光が射してきました。
 ヤッホーくんのこのブログ、次の日の日記をお読みください:

★ 2019年02月09日「牛頭天王」「茅の輪くぐり」
★ 翌2019年02月10日「子の権現〜竹寺」

 ね、では、今年も盛大にすんだ「会津田島祇園祭」ってどんなんだったのか、動画で見てみましょう:

 7月22、23、24日、田島祇園祭が開催されます。
 別名どぶろく祭とも言われる祭です。
 7月10日、祭期間中、神社でふるまわれるお神酒(どぶろく)の仕込が行われました。ぜひ飲みにいらしてください。
 詳しくは南会津町HPまたはたじまCATV HPで


2019 田島祇園祭 お神酒仕(どぶろく)込み
https://www.youtube.com/watch?v=mu4V__rAW1M

 福島県南会津町
 800年以上の歴史を持つ祭
 会津田島祇園祭、7月23日朝、正装し塩さばやおこわなどのお供え物を神社に運びます。
 未婚の女性は花嫁姿で。花嫁行列とも言われる。花嫁行列参加の募集は春に行われた。


2019田島祇園祭 七行器行列 ななほかいぎょうれつ
https://www.youtube.com/watch?v=fiOqBB1QgNQ

 七行器は「ナナホカイ」と呼び、7つの器のことを言います。
 7つの行器に濁酒の御神酒・赤飯・鯖を盛りおさめ、お党屋組中両親持ちの男女がこれを奉持して奉献する神事であり、祭礼中の重儀(最高の儀式)として奉仕されます。
 晴れの行列は絢爛として「日本一の花嫁行列」とも称される。
 早朝(7時50分ごろ)当番お党屋組本陣を出発します。
 選ばれた行器の奉持者を始め、その介添として親戚縁者。
 男子は裃着白緒草履、婦人既婚者は丸髷、未婚者は高島田、島田髷を結い、江戸褄、その外晴着盛装をし、七度の使いを先頭に警固(氏子総代)・神馬・行器の奉持者・介添・氏子総代・当番お党屋組員、外親類縁者共に恒例百余名の行列となります。
 七行器行列は、田出宇賀神社への奉献神事ですが、現行は熊野神社への奉献行列も続き、行器は3つを加え十行器を数えます。


2019/7/23 七行器(ななほかい)行列・会津田島祇園祭
https://www.youtube.com/watch?v=CHNHGhWyR-E

https://www.youtube.com/watch?v=Fe6i_39oaw4

 7月22日、23日に夕方から運行される大屋台。
 町内には四つの屋台がある。
 昨年から郡山陸上自衛隊が屋台押しで応援。威勢よく運行された。

 屋台は芸場と言われるお宅の前で歌舞伎を上演し、再び威勢よく走る。
 夜は町中心部に屋台が集まり駆け引きをする。

 屋台に乗った子どもたちは「おーんさーんさんやれかけろ!」と互いに叫ぶ。
 大屋台を押す男性らに「かけろ!」と言っているという説や「神輿(おおぬさを持った神職ら)が通るから速くかけろ」という説がある。
 本当の意味はわからない。


2019 田島祇園祭 大屋台運行
https://www.youtube.com/watch?v=ljNDJXJh0dc

 大屋台には屋台世話人が付き添って運行の指示を出す。
 大屋台は各町内の中学生以上の男子等が押す。
 大屋台の運行は、「芸場」と呼ばれる各屋台のしきたりによって定められた氏子の家に屋台を止め、その家の家人に子供歌舞伎を1幕披露する形をとる。
 子供歌舞伎を終えて芸場へ移動する間、舞台には子供たちが乗り、「オーンサーンヤレカケロ」と調子よく囃し立てる。
 昔は、大屋台に乗れる子供も女人禁制であった。
 オーンサーンというのはオジサン、おっさんの事で、ヤレカケロは早く駆けろという意味。
 大屋台の押し手への応援と言われています。

 絵本太功記:時津風日の出の松 鴫山城内の段

 南会津オリジナル演目。
 戦国時代、伊達正宗の軍勢に責められた鴫山城。
 戦になれば滅亡は明らか。
 家老の隼人之助は自分の命と引き換えに和睦を嘆願する。


2019/7/22 会津田島祇園祭・屋台運行・子供歌舞伎(本屋台)
https://www.youtube.com/watch?v=W-XscKJ5Dsc

 子供歌舞伎 演題:菅原伝授手習鑑 車曳の場

 大屋台は子供歌舞伎の移動舞台で、前半分が舞台、後半分が楽屋となっており、芸場(歌舞伎を披露する家の前)への巡回路をめぐって、世話人同士の駆け引きが続く。
 舞台は軌道修正を繰り返しながら「オーサンヤンカケロ」の子供達の声援を受けて、屋台を牽き回す。
 興は乗って古来の喧嘩屋台を偲ばせ、まつりの雰囲気を盛り立てる。


2019/7/22会津田島祇園祭・子供歌舞伎・屋台運行(上屋台)
https://www.youtube.com/watch?v=Gmommgte44E

 会津田島祇園祭は、鎌倉時代の文治年間(1185年頃)、時の領主長沼宗政の祇園信仰により、この地に祇園の神(牛頭天王須佐之男命)を居城鎮護の神としてまつり、祇園祭の制を定め、旧来よりの田島鎮守の田出宇賀神社の祭りと共に行われた事が起源とされています。
 この祭りは古くより『西の祇園社(京都)、中の津島社(愛知)、東の田出宇賀社』と言われ日本三大祇園祭の一つと称し伝えられています。

 演題:一谷嫩(いちのたにふたば)軍記 須磨(すま)の浦の段

 源平合戦のエピソードの一つ。
 源氏の武士・熊谷直実と平家の若武者・敦盛が戦場で遭遇する。
 その時、敦盛の許婚・玉織姫は愛する敦盛を探し須磨の浦に迷い出る。


2019/7/22 会津田島祇園祭・屋台運行・屋台歌舞伎(中屋台)
https://www.youtube.com/watch?v=3Gb0FHdcQ-A

 毎年7月22日から7月24日まで福島県の南会津町で開催される、日本三大祇園祭りの一つ、会津田島祇園祭の様子です。
 23日の祇園祭の一日をギューと凝縮して動画にしてみました。


会津田島祇園祭
https://www.youtube.com/watch?v=sKOKR7muYxU

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2019年09月10日

迂闊な国民のままなら、また同じ手でだまされる

 韓国のJTBCで2019年3月7日に放送された番組だという。

「強制徴用地獄:麻生炭鉱を行く」
https://www.facebook.com/mori.kazumasa.79/videos/503263957142518/

 麻生炭鉱とは麻生太郎財務相の実家が運営していた会社の一つ。

 安倍政権が戦時中の徴用工問題で、あれほど頑なな態度をとる理由の一端が見えてくる。
 麻生家の利害に直接関わる問題。


徴用工@.jpg

 民放テレビの朝や昼、夕方のワイドショーでこのビデオを放送すれば、日本人の「徴用工問題」に関する見方も変わるだろう。

 安倍政権は、この問題を「日本対韓国の戦い」にすり替え、日本人なら日本の側に立つのが当然だと錯覚させるが、実際には麻生家など「戦争受益企業」の味方をさせられているだけ。


徴用工A.jpg

「日本の名誉や国益を守る」かのようなイメージを創り出して国民を煽動し「日本人なら日本の名誉と国益を守れ」と恫喝するが、実際には「大日本帝国の名誉と麻生一族の利益」を守る側に加担させられる。

 日本人が先の戦争で落ちた思考の陥穽を総括せず、迂闊な国民のままなら、また同じ手でだまされる。

「日本の名誉や国益を守る」かのようなイメージを創り出して国民を煽動し「日本人なら日本の名誉と国益を守れ」と恫喝するが、実際には「大日本帝国の名誉と麻生一族の利益」を守る側に加担させられる。

 日本人が先の戦争で落ちた思考の陥穽を総括せず、迂闊な国民のままなら、また同じ手でだまされる。


徴用工B.jpg

山崎 雅弘『歴史戦と思想戦、歴史問題の読み解き方』(集英社新書、2019年5月)
 内田樹氏、津田大介氏 推薦!


「まえがき」の冒頭部分を、以下に転載します。
 今、もし書店にいらっしゃるなら、店内を見回してみて下さい。

 売り場の一番目立つところに、こんなタイトルの本が並んでいないでしょうか。

「中国・韓国の反日攻勢」「南京虐殺の嘘」「慰安婦問題のデタラメ」「あの戦争は日本の侵略ではなかった」「自虐史観の洗脳からの脱却」……。

 あるいは、もう少しマイルドな「日本人が、自分の国を誇りに思える歴史の書」という体裁で、日本人読者の自尊心や優越感をくすぐるような歴史関連本。

 もう何年も前から、こうしたタイプの本を書店でよく見かけるようになりました。

 過去の歴史について、日本に不都合なことを「なかった」といい、日本は何も悪くないと語る本は、読んでいる間は日本人にとって心地いいものです。けれども、そんな安心感に身を委ねてしまうと、それと引き換えに大事なものを見失ってしまうのではないか。日本は何も悪くないと誰かに言われれば、一人の日本人として肩の荷が下りたような気になるが、本当にその結論でいいのだろうか……。

 また、こうした本がどうも胡散臭いと感じても、具体的にどこがどう間違っているのか、何がどう問題なのかを、自分の言葉でうまく説明できない人も多いのではないでしょうか。

 本書は、そんなモヤモヤした違和感を、「事実」と「論理」の二つの角度から検証し、ひとつずつ解消していく試みです。本書を最後まで読まれれば、今まで心に引っかかっていた疑問や違和感の正体を理解でき、この種の本に巧妙に仕掛けられたさまざまなタイプのトリックを、一瞬で見破れるようになるはずです。

 また、歴史という大きな問題と向き合う姿勢についても、本来あるべき姿を改めて考えるヒントを、読者に提示するよう努めました。

 最近は特に、日本人の歴史との向き合い方が、大きく揺らいでいると思うからです。

 先日上京した際には、慰安婦問題を扱った話題の映画「主戦場」のミキ・デザキ監督と、某誌の企画で対談しました。
 彼がこの映画でとった手法は、私が『歴史戦と思想戦』でとった手法と共通する部分があり、さまざまな話題で充実した対談になったと思います。
 具体的な記事として掲載され次第、改めて媒体名などを告知します。

 父親や友人、会社の先輩や上司が、いつのまにか「いわゆるネトウヨ」化してしまったが、どう対処したものかと困惑されている方は、「本屋でこんなの見つけたよ、よく知らないけど」と、さりげなく『歴史戦と思想戦』をプレゼントされるのも一策かもしれません。

 また、新刊企画会議で「売れるから」と提起された「歴史修正本」や「中韓悪口本」の企画を自分の良心に照らして出したくないと思う編集者の方や、書店の店頭に「歴史修正本」や「中韓悪口本」を並べたくないと思う書店員の方も、ぜひ『歴史戦と思想戦』(集英社新書)を上司の説得に活用してください。


琥珀色のノート、戦史・紛争史研究家 山崎雅弘の備忘録、2019-06-05 04:53
今日は久しぶりの新刊の告知です。
5月17日に集英社新書から『歴史戦と思想戦』が発売になりました。

https://mas-yamazaki.blog.so-net.ne.jp/

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いったい何なのだ、この人事

 2017年9月の劇場公開を終えたあとでも、チョウ流行ってる映画があるそうです。
 それは韓国映画『新感染 』原題 Train to Busan!なんでもネトフリで観れるとか。

 ソウルとプサンを結ぶ高速鉄道の中で突如として発生した、謎のウィルスの感染拡大によって引き起こされる恐怖と混沌を描いた韓国製サバイバルパニックアクション。
 ソウルでファンドマネージャーとして働くソグは妻と別居中で、まだ幼いひとり娘のスアンと暮らしている。
 スアンは誕生日にプサンにいる母親にひとりで会いにいくと言い出し、ソグは仕方なく娘をプサンまで送り届けることに。
 ソウルを出発してプサンに向かう高速鉄道KTXに乗車したソグとスアンだったが、直前にソウル駅周辺で不審な騒ぎが起こっていた。

 そして2人の乗ったKTX101号にも、謎のウィルスに感染したひとりの女が転がり込んでいた。
 主人公のソグ親子のほか、妊婦と夫、野球部の高校生たち、身勝手な中年サラリーマンなど、さまざまな乗客たちが、感染者に捕らわれれば死が待ち受けるという極限状態の中で、生き残りをかけて決死の戦いに挑み、それぞれの人間ドラマが描かれる。

 韓国のアニメーション界で注目を集めてきた新鋭ヨン・サンホ監督が初めて手がけた実写長編映画で、今作の前日譚となる物語が長編アニメ「ソウル・ステーション パンデミック」で明らかにされている。

http://shin-kansen.com/

新感染 ファイナル・エクスプレス』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=oqZ01t4P55c

https://www.youtube.com/watch?v=jYIL3NU2DI8

 いったい何なのだ、この人事は……。
 2019年9月、今月の内閣改造で、国家安全保障局の谷内正太郎局長が退任し、その後任に、内閣情報調査室(内調)のトップ・北村滋内閣情報官が就任することが明らかになった。

 国家安全保障局の局長といえば、安全保障や防衛、外交政策の重要方針を決める国家安全保障会議(日本版NSC)の事務局トップ。
 防衛計画の大綱、さらには安保法制が定める武力攻撃事態や重要影響事態など、自衛隊の海外での武力行使についても、この国家安全保障会議で検討される。

 こうした国際的な重責を担う国家安全保障局長はこれまで、当然だが、外務省出身の谷内正太郎氏が務めてきた。
 しかし、今回、就任する北村氏は、警察庁の公安部出身、今も”日本のCIA”と呼ばれる内閣情報調査室のトップで、外交や防衛とは直接関係がない。

 こんな人物がNSCの事務方責任者に座ることになったのはもちろん、北村氏が安倍首相のお気に入りだからだ。

 安倍首相は第1次安倍政権で首相秘書官に就任した北村氏に全幅の信頼を寄せ、側近中の側近として重用してきた。
 とくに第2次政権で内閣調査室のトップに就任させてからは、まるで私兵のような役割を担わせてきた。
 内閣情報官の首相への定例報告は週1回程度だったのだが、北村氏はほぼ毎日のように首相と面会。
 そして、世論誘導や野党攻撃、さらには特定秘密保護法や共謀罪の成立に向けた根回しなどにも暗躍してきた。

 そういう意味では、北村氏の国家安全保障局長就任は、安倍首相お得意のお友達人事の極みというしかないが、しかし、この人事が問題なのはそれだけではない。
 北村氏によって、NSCが謀略情報の横行する機関となり、その結果、日本が戦争に巻き込まれる危険性さえあるのだ。

 これは、オーバーな話ではない。
 事実、北村氏は“官邸のアイヒマン”という異名のとおり、内調を謀略機関に変えてしまった人物なのだ。

 2ヶ月ほど前に公開され、大きな話題になった東京新聞・望月衣塑子記者原案の映画『新聞記者』。
 この映画では、松坂桃李扮する主人公の率いる内閣情報調査室が、政権のためにさまざまな謀略を仕掛けるシーンが描かれていた。
 たとえば、政権御用記者に性的暴行を受けたことを告発した女性があたかも野党議員と繋がっているかのようなデマチャート図を作成するシーン、政権の方針に逆らう文部官僚の女性スキャンダルを公安に調べさせ、メディアにリークするシーン、政権の秘密を知っている官僚を監視するシーン、さらには、政権が敵視する人物の悪口をネットに書き込ませたり、官邸前のデモ参加者の身元を洗い出すシーン……。
 
 恐ろしくなるような警察国家ぶりだったが、これらの大半はフィクションではなく、事実に基づいたものだ。
 内閣情報調査室は、もともと国家や国民のために必要な内外の情報を収集・分析する部署だったのが、北村氏が内閣情報調査官に就くと、その性格が一変。
 安倍政権批判へのカウンター情報や、政権と敵対する野党や官僚、メディア関係者に対してスキャンダルやデマを流すなど、安倍首相のための謀略機関としての役割がメインになったのだ。

前川喜平文科次官の「出会い系バー通い」報道も公安と内調が仕掛けたものだった

 たとえば、2014年、小渕優子衆院議員や松島みどり衆院議員など、当時の安倍政権閣僚に次々と政治資金問題が噴出した直後、民主党(当時)の枝野幸男幹事長、福山哲郎政調会長、大畠章宏前幹事長、近藤洋介衆院議員、さらには維新の党の江田憲司共同代表など、野党幹部の政治資金収支報告書記載漏れが次々と発覚し、政権の"広報紙"読売新聞や産経新聞で大きく報道された。
 実は、この時期、内調が全国の警察組織を動かし、野党議員の金の問題を一斉に調査。
 官邸に報告をあげていたことがわかっている。

 また、その翌年の2015年、沖縄の米軍基地問題で安倍官邸に抵抗している翁長雄志・沖縄県知事をめぐって、保守メディアによる「娘が中国に留学している」「人民解放軍の工作機関が沖縄入りして翁長と会った」といったデマに満ちたバッシング報道が巻き起こったが、これも官邸が内調に命じてスキャンダル探しを行い、流したものと言われている。

 ほかにも、2016年に浮上した民進党(当時)の山尾志桜里政調会長のガソリン代巨額計上問題や、民主党代表候補だった蓮舫氏の二重国籍疑惑、SEALDsをはじめとする安保反対デモ、「イスラム国」人質殺害事件での人質のネガティブ情報などにも、内調の関与がささやかれた。

 いや、野党や反対勢力だけではない。
 映画『新聞記者』にもあったように、北村氏率いる内調は“安倍の私兵”として、官僚や自民党員の監視も行っている。

 2017年には韓国・釜山総領事だった森本康敬氏が更迭されたが、これは森本氏がプライベートの席で慰安婦像をめぐる安倍政権の対応に不満を述べたことを内調がキャッチ。
 官邸に報告した結果だったと言われる。

 また、2017年、「総理のご意向」文書を"本物"だと証言した文科省元事務次官の前川喜平氏に対して仕掛けられた「出会い系バー通い」スキャンダルも、映画とまったく同じで、もとは公安が調査してつかんだものだった。
 このとき、前川氏に脅しをかけたのは、やはり公安出身の杉田和博官房副長官だったが、読売新聞や週刊誌に情報を流したのは、北村氏率いる内調だったと言われている。

 驚いたことに、内調の謀略は同じ与党の自民党議員にも向けられていた。
 昨年の自民党総裁選で、内調のスタッフが全国で票の動向や“演説でウケるネタ”などを探っていただけでなく、安倍首相の対立候補だった石破茂衆院議員の言動の“監視”も行ない、官邸に報告をあげていたという。

NSCの事務方トップになった北村氏は山口敬之の事件もみ消しにも関与

 さらにきわめつけは、映画のモチーフでもあった、安倍官邸御用達ジャーナリスト・山口敬之氏による伊藤詩織さんへの「性暴行」もみ消し疑惑への関与だ。

 周知のように、この問題は2017年に「週刊新潮」(新潮社)がスクープしたのだが、記事が掲載されると知った山口氏が北村内閣情報官にもみ消し相談を行なっていた疑惑が続報で暴かれてしまったのだ。

 きっかけになったのは、山口氏が「北村さま」という宛名で〈週刊新潮より質問状が来ました〉〈取り急ぎ転送します〉と書いたメールを「週刊新潮」編集部に誤送信したためだった。
 北村氏は「週刊新潮」の直撃に「お答えすることはない」といっただけで否定しておらず、「北村さま」が北村氏であることは間違いないだろう。

 しかも、山口氏が「週刊新潮」に誤送したメールに、なんの挨拶や前置きもなかったことなどから、山口氏と北村氏は以前から非常に近しい関係にあり、かなり前からこの問題について相談していたこともうかがえた。

 いずれにしても、北村氏は内調をこうした安倍政権や応援団を利する謀略を主任務とする「安倍様の私的諜報機関」に変えてしまったのだ。

 そして、安倍政権はそんな人物を、今回、国家安全保障局のトップにあてようというのである。

「もともと、NSCは安倍首相が第一次政権の時に立ち上げようとしたもので、その手足となって動いたのが、当時、首相秘書官だった北村氏だったのです。北村氏は当初から、国家安全保障局を公安の支配下に納めようと動いていたのですが、結局、初代局長のポストは外務省に取られてしまった。しかし、第二次政権で安倍首相に私兵として尽くした結果、めでたく、NSCを手に入れたというわけです」
(官邸担当記者)

北村の謀略で、CIA偽情報でイラク戦争起こした米国と同じ事態が

 しかし、前述したように、NSCは自衛隊の海外派兵、集団的自衛権の行使容認条件などで首相が諮問にはかる組織で、国家安全保障局長はその補佐にあたる。
 今度は、北村氏が安全保障や集団的自衛権行使をめぐって、内調の時に駆使した謀略をはかるということなのだ。

 これは決して妄想ではない。
 実際、米国でブッシュ大統領がイラク戦争を引き起こした口実になったのは、CIAが「フセイン政権が大量破壊兵器を保有している」という偽情報をあげたことだった。

 同じように、日本版CIAトップだった北村氏が、自衛隊に海外で武力行使させたい安倍首相の意向を受け、NSCを舞台に武力攻撃事態や重要影響事態をめぐる恣意的な情報を出す、そんな可能性は決して低くないだろう。

 これは、まさに謀略によって、日本が戦争に巻き込まれてしまうということを意味している。
 いまのところマスコミはベタな伝え方しかしていないが、もっとこの人事の危険性を追及するべきではないのか。


リテラ、2019.09.09 02:29
安倍の謀略機関・内調トップの北村滋が日本版NSC責任者に!
映画で松坂桃李が演じたあの謀略が安全保障で駆使される恐怖

https://lite-ra.com/2019/09/post-4956.html

 やはり、安倍自民党は何も反省していなかった。
 2019年7月12日、参院選三重選挙区から立候補している自民現職・吉川有美氏の応援演説で、同党の三ツ矢憲生衆院議員が「一番大きな功績は子どもをつくったこと」と発言し問題となっているが、安倍首相の側近である萩生田光一・自民党幹事長代行が昨日、三ツ矢議員の発言を擁護したのだ。

 まず、三ツ矢議員はどんなことを話したのか。以下に紹介しよう。

「この6年間で吉川有美は何をしてきたのか。一番大きな功績はですねぇ、子どもをつくったこと。もちろん、人口が増えるってのもありますが、本人はやっぱり子どもを持って、母親になって、自分の子どもの寝顔を見ながら、自分の子ども、自分の娘、この子のために、この地域を、この国を、いい国にしていきたい、いい地域にしていきたい。そういう思いが芽生えてまいりました。私は、そういう思いが政治の原点ではないかなと思っております。そういう意味で、どうかこの一皮剥けた吉川をぜひご支援賜りたいと思います」

 女性候補者に対し、政治家としての仕事ではなく、プライベートで子を出産したことを「一番大きな功績」として挙げる──。
 親にならずとも国や地域をよくしたいという思いをもつことはできるし、第一、子を持たない政治家は「政治の原点」には立てないとでも言うのだろうか。
 しかも、子をなしたことを「一皮剥けた」と表現すること自体、子を持てない・持たない人を低く見た発言であることは疑いようもない。
 これが一般企業で上司が部下に対しておこなった発言ならば、部下が女性であろうと男性であろうと完全にセクハラ案件だろう。

 だが、この発言について、当日街頭演説に同席していた萩生田幹事長代行は「演説全体を聞いた人には理解していただける」「聴衆からは一番拍手があった」と主張。
 上記のとおり、とても理解できるものではないのだが、萩生田幹事長代行はこのように擁護したのだ。

「母親になって一つ大きくなった候補を応援してほしいという趣旨だ」

 母親になればひとつ大きくなる──。
 つまり、女性は出産によって大きくなる、逆に言えば子を産まない女性は“大きくなれない”ということになる。
 これは「一皮剥けた」発言と同じ趣旨で、ようするに萩生田幹事長代行は三ツ矢議員の発言の何が問題かが、根本的にわかっていないのだ。

 そもそも、この日本社会には「女性は子どもを産んで当然」という圧力が蔓延り、多くの人たちがそのことに苦しんでいるという現実がある。
 だが、すべての人には、子どもを産むことも、いつ産むのか、何人産むのか、そして産まないという選択をするリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康/権利)がある。
「子どもを持って一人前」だとするような主張は明白な人権侵害行為なのだ。
 無論、これは男性に対しても同様だ。

 だが、安倍自民党からは、同じような暴言が何度も繰り返し飛び出しつづけている。

 ご存じのとおり、今年5月末には、桜田義孝・前五輪担当相が「お子さん、お孫さんには子どもを最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」と発言し問題になったばかりだが、同様の発言は枚挙に暇がない。

「いかにも年寄りが悪いという変な野郎がいっぱいいるけど、間違っていますよ。子どもを産まなかったほうが問題なんだから」
(麻生太郎財務相/2019年2月)

「子どもを産まないほうが幸せじゃないかと勝手なことを考えて(いる人がいる)」
「皆が幸せになるためには子どもをたくさん産んで、国も栄えていく」
(二階俊博・自民党幹事長/2018年6月)

「必ず新郎新婦に3人以上の子どもを産み育てていただきたいとお願いする」
「結婚しなければ子どもが生まれないから、ひとさまの子どもの税金で老人ホームに行くことになる」
(加藤寛治衆院議員/2018年5月)

「子どもを4人以上産んだ女性を厚生労働省で表彰することを検討してはどうか」
(山東昭子参院議員/2017年11月)

女を「子どもを産む機械」扱いする議員になんの処分もしない自民党

 はっきり言って、こんな暴言を吐く輩に政治家としての資格などない。
 政権与党の政治家として少子化を食い止めたいと本気で考えているのならば、まずは待機児童問題の解消をはじめ、女性が仕事と育児を両立しやすい環境づくり、男女ともに不安定雇用や長時間労働の見直し、男性の育児参加、選択的夫婦別姓制度の導入、さらに未婚でも産みやすい社会──男女の賃金格差の是正、同棲や事実婚に法律婚と同様の保護を与える──などを押し進めるのが筋だ。

 だが、そうした政治家としてやるべきことに取り組むこともなく、「女は子どもを産め」と合唱するのみ。リプロダクティブ・ヘルス/ライツという当然の人権をもこの自民党議員らは踏みにじり、加藤議員の「ひとさまの子どもの税金で老人ホームに行くことになる」発言にいたっては、産まない選択をした女性への社会保障を否定するかのような、信じがたい暴論だ。

 それどころか、菅義偉官房長官にいたっては、2015年9月の福山雅治と吹石一恵の結婚に際して「ママさんたちが一緒に子どもを産みたいとか、そういうかたちで国家に貢献してくれればいい」「たくさん産んでください」とコメント。
 子どもを産むことを「国に貢献」することなのだと堂々と明言したのである。

 少子化を食い止められない自分たちの無能さは棚に上げて、女を「産む機械」(柳澤伯夫・元厚労相)であるかのように扱い、「国に貢献しろ」と国民に押し付ける──。
 あまりにグロテスクで反吐が出るが、こうした暴言政治家たちが多すぎて、社会は何も変わらないのだ。

 しかも、参院選の選挙中であるにもかかわらず、今回、萩生田幹事長代行が三ツ矢議員の発言を擁護してみせたことにも顕著なように、このような暴言に安倍自民党は何の反省もない。

 現に、「女は子どもを産め」「産まない女は身勝手」などという暴言を吐いた議員たちに対し、自民党は何の処分もおこなっていない。
 そればかりか、「3人産め」と言った加藤議員は発言を撤回したあと、自身が会長を務める自民党長崎県連の会合で「全国から賛同、激励が多数寄せられた」と述べ、「理想として3人は確か」「日本の将来を考えた発言」などとわざわざ賛同意見を紹介までしてみせた。

 その上、この加藤議員の発言に、「女性の人権を全く無視した暴言」として共産党の議員らとともに抗議した自民党の江真奈美・長崎県議に対して、自民党長崎県連執行部は広報副委員長などの役職を再任しないと決定。
 その理由を長崎県連の中島広義幹事長は「共産党と会見したことは自民党として容認できない」としたが、一方で「(加藤議員に)抗議した内容は賛否両論あるため触れない」などと逃げた。

安倍首相こそが女性差別主義者!「夫婦別姓は共産主義のドグマ」と

 あり得ない暴言を撤回したあとも開き直る議員には何のお咎めもなく、当然の抗議をおこなった女性議員には人事で報復する。
 こんな政党が与党として居座りつづけるかぎり、少子化問題が解消する政策を打ち出すことは、まずもって無理だ。

 しかし、これこそが安倍首相のスタンスなのだ。
 今回の参院選にともなっておこなわれたネット党首討論会では、安倍首相は選択的夫婦別姓について「経済成長とはかかわりがない」と暴言を吐き、日本記者クラブでの党首討論会(自民、公明、立憲民主、国民民主、共産、日本維新の会、社民の7党)では「選択的夫婦別姓を認めるという方は挙手してください」という質問に、安倍首相を除くすべての党代表者が挙手。
 安倍首相だけが「選択的夫婦別姓を認めない」としたのだ。

 その上、最後には「政策的なね、政策的な議論をちゃんとしないと、イエスかノーかということでは政治はない」だの「印象操作するのはやめたほうがいい」「何か意図を感じるんだけど」だのとわめき立てるという醜態まで晒した。

 安倍氏は下野時代、
「夫婦別姓は家族の解体を意味します。家族の解体が最終目標であって、家族から解放されなければ人間として自由になれないという、左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)。これは日教組が教育現場で実行していることです」
(「WiLL」ワック2010年7月号)
と発言するなど夫婦別姓反対の急先鋒だった人物だが、同時にジェンダーフリー・バッシングを先導。
 日本会議ら極右支持者の考えと同様、安倍政権は「伝統的家族観」を重視している。
 これはどういうことかといえば、憲法に保障された「個人の尊重」よりも「夫がいて妻がいて子どもがいる家族」こそを尊重し、異性愛以外の性的指向を排除し、女性差別を温存させ、国が担うべき社会福祉を「自己責任」のお題目のもとで家族に押し付けようとすることだ。

 つまり、自民党から性懲りもなく「女は子を産んで当然」「子を持って一人前」という価値観に基づく発言や、性的マイノリティへの差別発言が噴出することも、出産・子育てしやすい環境づくりが一向に進まないことも、安倍政権であるかぎりは必然のこと。
 女性の価値を出産の有無ではかったり、女性に出産圧力をかける政党を、これからも政権にのさばらせるのか──。
 これもまた、今回の参院選の大きな争点であることは間違いないだろう。


リテラ、2019.07.15 06:24
「一番の功績は出産」発言を萩生田幹事長代行が女性差別丸出し擁護…
参院選は「女性の権利を認めない安倍自民党の是非」も争点だ!

https://lite-ra.com/2019/07/post-4839.html

 この萩生田、もう「新聞辞令」がでているようです。
 明日の内閣改造・自民党役員人事で、文部科学相に起用する……。
 へぇ〜、感想は、といいますと:

「萩生田ってあの『加計学園』が運営する千葉科学大(千葉県銚子市)の名誉客員教授」
「批判には耳を貸さないでもいい、悪い事しても逃げたもんが勝ち、安倍自民党が続く限りどんなことをしても許される、そういうのって」
「人事の報道を見ていて、なんとなく、先日ネトフリで見た「新感染」を連想」
「日本にとどめを刺しに来たな」……

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大日本帝国憲法下の公然たる国家テロ

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をぜひお読みください:

★ 2017年10月21日「亀戸事件」
★ 2017年11月16日「朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文」
★ 2017年11月16日「亀戸事件犠牲者之碑」
★ 2019年02月20日「土井大助『小林多喜二よ、よみがえれ』」

 2019年9月8日(日曜日)ヤッホーくん、いったい何してたんだろうとつい昨日のことがもう霧のなか、夢のなか……
 そうですよね、あの日は山歩クラブのお山歩会だったのですが、強い台風15号が勢力を増して関東地方に接近中……
 なので前日土曜日の夕暮れ時、4時半にはこんな一斉メールを発信しておりました:
 かわらばん9月号も届いておるかと思います。9月になっても暑さが続いております。太平洋の高気圧は湿気まで運んでくるのでマレーシアよりも大変です。
 明日は台風15号がさらに勢力を強くして接近するとのこと、お山歩会の企画がありましたが、雨風の中を歩くのは危険と判断し、中止とします、ザンネン。台風です、
 どなたさまもご用心のうえお過ごしください。では、ごきげんよう!ヤッホー

『中止残念ですね。でも 良き判断と思います。台風がひどい影響のないよう願うばかりです。では次回に』
『台風と戦っても勝負にならないので良き判断です。いろいろ調べて準備万端、気持ちがグーンと昂ってきていたのに、さぞかし残念なことと拝察します』

 仲間からの返信に励まされたのですが、日曜日の外出は避け、家のなかに引きこもり、ヒッキーくんに変身。
 じつは、eチャリで亀戸まで行きたかったのです。日本国民救援会による追悼会が赤門浄心寺でありました。
 eチャリだと雨風で吹っ飛ばされちゃうとやせ衰えた身をひとり案じていたのです、だってあの日一晩中……。

 関東大震災時の虐殺事件を考える3回目。
 福田村事件、王希天と中国人虐殺事件に続いて、亀戸事件である。
 これは知られてない(と僕が思う)順番である。
 大体同じテーマで続けて書くと、だんだん飛ばし読みされることになる。
 だから知名度の低い問題から書くわけ。
 ただ、亀戸事件に関しては、かつて「亀戸散歩」の中で取り上げたことがある。
(「亀戸事件と寺社めぐりー亀戸散歩A」)
https://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/ea60f9deba81c313a5cca6129b95828b

 亀戸事件とは、当時の東京府南葛飾郡亀戸町付近の労働運動家、社会主義者10人が、亀戸警察署で虐殺された事件である。
 虐殺したのは、警察ではなく、近衛師団習志野騎兵連隊だった。
 ただ、遠くからきた軍隊に犠牲者の顔が判別できたはずがなく、亀戸警察の側で「指名虐殺」させたことは間違いない。
 研究が遅れて、一体何人殺されたのかもはっきりしなかったが、今は平澤計七(純労働者組合)、川合義虎(南葛労働会)ら10名が定説とされる。
 浄心寺(亀戸4丁目17−11)に「犠牲者追悼の碑」が建っているが、そこにはまだ中筋宇八の名がなく、9名しか刻銘されていない。

 平澤、川合は傾向はかなり違うが、それでも日本史専攻者には名が知られているが、今は他の犠牲者全員の名は書かない。
 まだ出生地も誕生日も不明な人がいる。
 亀戸というのは、秋葉原から千葉方面へ総武線で4駅目。
 駅の北側にあった亀戸警察は今はない。
 今はどこにもある「ちょっとした繁華街」だが、当時はこのあたりが大工業地帯で東洋モスリンなどの大会社があった。

 当時の亀戸はまだ東京府南葛飾郡だったが、その「南葛」地帯はもっとも戦闘的な労働運動の最先端地になりつつあった。
 1923年のメーデーでは、南葛労働者と朝鮮人労働者との「連帯」も芽生えつつあった。
「革命的労働運動」の「南葛魂」とまで言われたのである。
 川合義虎こそはまだ22歳ながら、日本共産青年同盟、つまりは後の「民青」の初代委員長となった人物だったのである。

 亀戸警察は、数多く(数百人)の朝鮮人を収容して虐殺し、労働運動家も虐殺し、また日本人自警団員数名も拉致して虐殺した。
(この日本人虐殺の事情はよく判らない)
 そういう事件が実際に起きたわけだが、これを「震災の混乱」の中で、「朝鮮人と社会主義者」の暴動という「デマ」が飛び、自警団による事件が起こった。
 だから、「デマに惑わされてはいけませんよ」というとらえ方では、明らかに不十分である。
 川合たちに関する事件は、ねらいをつけた「公然たる国家テロ」というべきものだろう。
 
 この当時、前年の1922年に日本共産党が秘密裏に結成され、発覚して公判中だった
 堺利彦、徳田球一、野坂参三ら日本の社会主義、共産主義運動の有名人は、震災当時市ヶ谷刑務所に拘束されていた。
 彼らは囚人大会を開き、家族や家財が心配だから一時釈放せよ、と運動している。
 しかし、ここにも戒厳軍がやってきて身柄の引渡しを要求した。
 刑務所長が要求に応じなかったから、結果的に被告たちの生命が救われた。
 同じ事件で病気保釈中だった山川均も知人の家を渡り歩き、警察の手を逃れている。
 その他、吉野作造など社会主義者以外でも狙われたらしい記録がある。

 現実に起こった虐殺事件が、大杉栄らと亀戸事件だけだったのは、震災が権力にとっても不意打ちだったからである。
 歴史の可能性としては、もっと多数の社会主義者らの虐殺が起こっても不思議ではなかったのである。
 もっとも「天災を機に、戒厳令を敷き、一挙に社会主義者を抹殺する」というマニュアルが出来ていたと決めつけると言いすぎになる。
 だが、「ひとたび事(社会主義革命など)が起こったら、皇室を守るため軍がカウンター・クーデターを起こす」という発想はあったと思う。
 すでに1922年にイタリアのムッソリーニが権力を奪取していた時代である。
 
 震災時の虐殺事件では、多分、大杉栄、伊藤野枝、および甥の橘宗一少年を甘粕憲兵大尉らが殺害した事件が一番知られているだろう。
 大杉、野枝については、沢山の本があるのでここでは触れない。
 一般向けには瀬戸内晴美(寂聴)の『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』でよいと思う。
 また鎌田慧『自由への疾走』も判りやすい。
 この三点は、いずれも岩波現代文庫に入っている。
 とにかく大杉栄と伊藤野枝という「素材」が抜群に面白い。
 亀戸事件では、加藤文三『亀戸事件』(大月書店、1991年1月)が最もまとまっている。

 また、震災関係の虐殺が明るみに出たのは、奇人弁護士で僕の大好きな山崎今朝弥(やまざき・けさや、1877 - 1954)の尽力が大きい。
 山崎の『地震・憲兵・火事・巡査』は岩波文庫に入っている。
 大杉事件に付いて「他二人及び大杉君の事」は、いつも「大杉他二人殺害」と書かれたのに対する、山崎らしい皮肉である。
(2013年9月に書いた書評「山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』」も参照)
https://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/ff4c5ae44f2996cde339a6f33826fb6e
 
 ところで、山崎今朝弥の、地震・憲兵・火事・巡査という言葉は、実に含蓄が深いと思う。
 ある時代まで、軍隊や思想警察の恐ろしさは、戦争を経験した日本国民にとって「自明」のことだった。

 だから、僕も「民衆の戦争責任」などに関心を持ってきたんだけど、最近は若い世代に向けては「軍や警察がいばってた時代の恐ろしさ」を、もうすこしきちんと伝えて行かなくちゃいけないと思っている。

 同時代的には、1927年の中国、蒋介石の上海クーデター後の共産党虐殺やイタリアのファシスト党の権力奪取があった。

 さらに遥か後には、
・ 1970年代のチリやアルゼンチンの軍事政権で起きた左翼運動家の大虐殺、
・ あるいは1965年のインドネシアの「9・30事件」後の共産党大虐殺事件
などと共通の問題性がある。

 今の日本でも、震災をきっかけに警察が警戒していた組織を「予防検束」する可能性はありうると考えていた方がいいのではないか。

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信、2017年09月01日 21時33分48秒
亀戸事件−関東大震災時の虐殺事件B
https://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/c98434a1a206d48be5a6504ad839b8ed

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2019年09月09日

発言しない若手、寝るおじさん

 社外の人と打ち合わせをするとき、話すのはもっぱら上位者で、若い人は名刺交換以外には何もしないか、もしくはパソコンでカタカタ議事録を打って書記をしているというケースにたびたびお目にかかる。
(しかもその後、会議での発言がまるでなかったかのような問い合わせをしてくる人がいたりして、その議事録が会議出席者に効果的に共有されている形跡はない)

 そういう人たちはうちにも来る。

若者が会議で発言しない3つの理由

 せっかく来てもらっているのに、それだけだとつまらないので、私はその若い人に話の内容についての意見を求める。
 そうすると、たまに「おっ」と思うようなことを言ってくれる人もいる。
 貢献できる能力があるのに貢献しないのだ。
 なんともったいないことだろう。
 なぜ、そんなことになってしまうのか。以下の3つの要因が考えられる。

(1)発言をする習慣がない

 企業の中には、そもそも下位者は発言をしないという習慣を持つ組織がある。

 確かに、否定すべきことも、とりたてて肯定を表明すべきこともない既定路線の会議が多いのかもしれない。
 習慣はある種の規範となり、誰も発言をしなくなっていく。会議の席順も話す順序も、みんな決まっているので、平社員には永遠に発言の機会が回ってこない。

(2)言うことはできるが、言っても“良いこと”が1つもない

 また、上位者が口では、何でも思ったことを言えというものの、言ったら言ったで、上位者に対する反逆とみなされるか、「それならお前がやれ」と言われて、かえってやぶ蛇になってしまい、言っても何も良いことがないから言わないという組織もある。
 これでは話す気がしない。

(3)言うことは、良くないこととされている

 そして、上位者の許可なく下の者が何かを言うことなどもってのほか、という会社もある。

 下位者が勝手に話すことを許してはならない、自分が許したときだけ話しても良い、というのはマキアヴェリの『君主論』(池田廉訳、中公文庫)にも明記されているくらいである。
 マキアヴェリストの上司が多い会社では、こちらが正式な規範となろう。
(マキアヴェリは同書で、下の者から率直にいろいろ話してもらうこと、批判とも思えることを隠さずに語ってもらうことの良さはわかりつつも、それをひとたび多くの人に許してしまうと、自分への尊敬の念がなくなり、悪影響を及ぼすと説いている。参照:なぜ「能力がないのに出世する人」は絶滅しないのか)
https://diamond.jp/articles/-/211295

優秀なリーダーこそ「新鮮な視点」を求めている

 一方、私自身は、そのような不文律とは無縁の会社に入社した。
 むしろ「何かを言わなければ、存在してはいけない」会社であった。
 入社後1ヵ月もしないうちに、上司の代理で、ある事業部の部長会議(その事業部の実質的な意思決定会議)に陪席することになった。

 会議は紛糾したのち、なんとかまるく収まった。
 私は長かったなぁと思い、帰り支度を始めようとした。
 すると、参加者の1人がいきなり、「おい、そこの新人、今日の会議を見て、何か思ったことはないか」と聞いてきたのである。

 意表を突かれた私はハッとしたが、こういうときはとりあえず感謝しておけば良いと思って、「大変活発な議論を目の当たりにして、すごいなと身が引き締まりました。ありがとうございました」とお茶を濁した。
 すると、参加者全員がキッとこちらを見た。
 そして「そんなきれい事を言ってもらいたくて聞いたのではない。本当に思ったことを言え」と言うのである――少し面食らったが、そこまで言うのなら「もうどうでもいいや」と思って、議論の前提となっている仮説の説得力の弱さ、個人のモチベーション維持だけに重点が置かれている無謀な営業対策、想定している顧客の偏りなど、本当に思ったことを延々述べてしまった。
 気が付いたときには、もう手遅れ。
 言いたい放題の大演説をしてしまったのである(30年くらい前のことなのに、昨日のことのようによく覚えている……)。

「やっちまった…」と思った。
 しかし、意外なことに、「おまえ、オモロいな」と出席者たちは好意的で、その後、その事業部のいろいろな会議に呼ばれるようになった。

 これは、昔の会社が良かったとか、ましてや自分の自慢話として引いた例ではない。
 この会議の出席者(部長たち)は、日頃からとてつもなく高い目標に向かって、成果を出し続けることを義務付けられていた。
 自分たちの中では、これ以上ないほどに策を考え尽くしていた。
 だから、自分たちとは立場の違う人間の視点、これまでとは違った角度からの批判などを心の底から希求していたのだ。
 若かろうと年寄りであろうと、内部であろうと外部であろうと、バカであろうと現場を知らない人間であろうと、何か少しでも参考になることを言ってくれそうな人であれば、誰でも良いと思う人たちだったのである。
「使えるものは親でも使え」というのが発想の原点にあり、たまたまそのとき、彼らの求めていたものと、入社直後の何も知らない若い兄ちゃんの無鉄砲な意見が少しだけマッチしたにすぎない。
 真に成果を欲する人からすれば、たとえ新入社員の話でも聞かないわけにはいかなかっただけなのだ。

議論しないための会議、
議論させないための会議室


 さて、現在の会議の状況を見てみよう。
 悲しいことに、まずは寝ている人がいる(体の具合が悪くて寝てしまう状況もあるが、これは例外)。
 なぜ寝るか。
 自分の役割がその会議の設定の中になく、発言も求められないからである。
 なんの緊張感もないまま座っていられるから、グーグー寝られるのだ。
 貢献しようとする意欲も知識もない。
 なまじ参加人数が多いことが最大の原因だろう。
 そもそも、こういう人は会議に必要とされていないので、出席しなくて良いのだ。

 また、“魅せる”演技が上手な俳優もいる。
 組織的な成果を生み出すためではなく、いかに自分は気が利いていて優秀なのかをアピールすることや、上司をいかにうまくヨイショするかということだけを真剣に考えて発言する人である。
 見るからにイマイチな人なのだが、それにもかかわらず見事に出世していく。
(ちなみに、マキアヴェリは前掲書で君主が有能かどうかは側近を見ればわかると説き、また同時に人はどうしても身びいきであるため、自分をよく言う者にだまされやすく、お追従者を避けるのがどんなに困難かということにも言及していた)
 
 さらにもっとひどいのは、会議といいながら議論をさせないように計算されている会議室が多いことだ。
 政府関係の会議などを見ると、巨大な部屋に大きなロの字形の席を構築し、30メートル先の人に向かってマイクで話をするような設計になっている。
 それぞれの状況を確認する報告会のようなものであればこれでも良いが、議論をするための会議であれば、およそありえない形状だ。
 主催者も事務局も、あまり意見が活発に出ないことを心底願っているのだろう。

 たとえば、検索サイトで「会議室」、特に「役員会議室」などと打ち込み、画像検索してみてほしい。
 そうすると、やたらと豪華で重厚な会議室がたくさん表示される。
 自ら公表を許しているのだから、会社はその会議室を自慢したいのだろう。
 会社としては、この重厚感に相応の責任の重みを感じて立派に職責を全うしてほしい、または、こういう場でしっかり発言することを夢見て立派なビジネスパーソンになってもらいたいという意図があるのかもしれない。
 しかし実際には、気軽にしゃべらせないための工夫が体現されている空間というほうが適切だろう。
 会議をつつがなく終わらせることは、成果でもなんでもない。

 本来会議とは、実質的な成果を生み出すために参加者の衆知を結集するのが目的のはずだ。
 そうであるならば、年齢やポジションに関係なく、その場に貢献できる可能性のある人を招き、その場で丁々発止のやり取りがなされ、個々人の知恵が相乗効果を生むような環境を作ることが必要だ。


 もちろん、一言も発言しない人がいてはならないし、寝る役員に居場所などあってはならない。

ダイアモンド On Line、2019.9.9 5:35
発言しない若手、寝るおじさん…
なぜダメな会議は絶滅しないのか

(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山進、構成/ライター 奥田由意)
https://diamond.jp/articles/-/214100

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あなたのマチの地方議会に関心を

秋の定例会シーズンに地方議会を賞味する意義

 酷暑の夏は足早に去り、秋の気配が深まってきた。
 実りの秋、食欲の秋、そして地方議会の定例会シーズンの到来だ。
 新米やサンマや栗やビールや日本酒の新酒とともに、わがマチの地方議会も賞味したいものである。
 地方議会での審議は、日々の暮らしに直結するからだ。

 地方議員は、「投票して当選してもらってナンボ」ではない。
 さまざまな学びの機会を活用するかどうかによって、1年、2年で活動内容に大きな差がつく。
 ちなみに、毎年夏に開催されている生活保護問題議員研修会には、例年、保守・革新とも幅広い会派の議員が集まり、「貧困は自己責任」「生活保護といえば不正受給」という偏見が修正されたという声もあがる。

 今回は、議員向けにレクチャーされた「議会質問の心得」の一部を翻案し、住民のための「わがマチの議会を賞味するコツ」を物語仕立てで紹介する。
 なお、議会質問の内容以外は、完全なフィクションである。

 土台にしたのは、2019年8月23日・24日の2日間にわたって新潟市で行われた第11回生活保護問題議員研修会において、全国から集まった約200名の地方議員たちに伝授された、議会質問の心得の一部だ。
 講師は、東京都内の福祉の現場で働いてきた今井伸氏(十文字学園大学教授/公的扶助論)。
 今井氏は長年、職場で議員たちの「質問取り」を受け、議会で答弁する立場にあった。

 では、物語に入ろう。

 とある低所得世帯の子ども・K君は、アニメ『響け!ユーフォニアム』に憧れ、吹奏楽部に入りたいと望んだ。
 しかしK君の家庭は、部活に必要な費用を捻出できるほど豊かではない。
 一方で、生活保護の対象になるほど低所得でもない。

制度の谷間にはまった少年
役所と戦う市会議員の問題意識


 K君の家庭の所得は、生活保護基準の1.25倍だ。
 決して豊かとはいえない。
 そして一家の住むX市では、就学援助の対象となる所得を「生活保護基準の1.2倍まで」としているため、就学援助の対象にもならない。

 ユーフォニアムを入手するだけなら、中古を譲り受けることができるかもしれない。
 しかし、故障すればメンテナンスが必要だ。
 ステージやコンクールのたびに、新しい衣装が必要になる場合もある。
 遠隔地への移動が必要だったら、交通費も必要だ。
 ちなみに、市境の川の向こうのY市では、就学援助の対象を「生活保護基準の1.3倍まで」としている。

 市会議員・H氏は、「せめて就学援助があれば」というK君の親の嘆きを耳にした。
 そして「子どもに諦めやガマンを教え込む我が市で良いのか」と激怒し、X市役所の担当部署を訪れた。

「あんまりじゃないですか? 何とかなりませんか?」というH氏に対する担当管理職・M氏の回答は、つれないものだった。

「そのお宅は、生活保護世帯よりは豊かな暮らしをしているんですよね。部活は義務ではないし、たとえば合唱と吹奏楽では費用が全く異なりますよね。公平性の観点から、いかがなものかと思います」

 諦めずに、
「隣のY市では、所得が生活保護基準の1.3倍なら就学援助を利用できるのですが」と畳み掛けるH氏に、M氏は、
「わが市は、わが市ですから」と答えるのだった。

 H氏は、バスに乗ってY市の繁華街に出かけていき、居酒屋でビールをあおりながら、「ちくしょう、倍返しだ」とつぶやいた。
 H氏に、「倍返し」のチャンスはあるだろうか。

 もちろんH氏は、「倍返し」を実行できる。
 イニシャルが半沢直樹と同じだからではなく、市会議員として権限を与えられているからだ。
 しかし、議会で、
「あんまりじゃないですか? 何とかなりませんか?」と質問しても、担当管理職・M氏が、
「生活保護よりは豊か」「公平性」「わが市は、わが市」と、同じ内容の答弁を行うだけだろう。

 でもK君親子と同じ状況に置かれている親と子は、市内に他にもいるはずだ。
 市議会議員として質問すれば、人数や世帯数についての回答が得られるかもしれない。
 それに、X市よりも就学援助の対象所得の上限が高く設定されている自治体は、Y市以外にもあるだろう。
 その自治体が情報をウェブで公開していれば、ネット検索で簡単に調べられる。

議会で対峙した役所の管理職
実は同じ「思い」を持っていた


 H氏は、満を持して議会質問に臨んだ。
 まずK君のエピソードを紹介し、続いて、市内に住む子どものいる世帯のうち、子どもに同じ諦めやガマンを強いているかもしれない世帯の数を述べた。
 さらに、X市よりも就学援助の対象所得が高い他の自治体を5つ挙げ、就学援助を活用して部活や習い事に取り組んでいる子どもと親の声を紹介した。
 5つの自治体の中には、X市よりも財政事情の厳しい自治体もあった。
 そして最後に、決め台詞を述べた。

わが市も、子どもの貧困解消に取り組んでいるはずではありませんでしたか。全町内会に、子ども食堂を設置するように呼びかけたばかりではありませんでしたか。それなのに、子どもが部活の楽器を買えない、サッカーのユニフォームを買えない状況を、放置するんですか。就学援助は、わが市で独自に基準を決められるはずではありませんか

 答弁に立ち、モニョモニョしながら、
「……検討します」と答えたのは、職場でH氏に「なんとかなりませんか」と言われて「わが市は、わが市」と答えた担当管理職・M氏だった。
 M氏は、なぜかニンマリしていた。
 それは、イニシャルが『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造と同じだからではない。
 M氏は内心、自分の勤務するX市の就学援助の対象所得の低さを「どげんかせんといかん」と思っていたからだ。
 職場にやってきて熱く語るH氏に、わざと少し冷たく「生活保護より豊か」「公平性」「わが市は、わが市」と繰り返した成果があった……。

 議員のH氏が行った質問は、「倍返し」以上の結果となった。

 まず、X市の就学援助の基準は引き上げられることとなり、K君親子も就学援助が利用できることになった。
 夢が叶いそうになったK君は、少し冷静になった。
 今は、就学援助がなくなる高校以降や大人になった後のことを考え、長く無理なく練習環境の問題に左右されずに楽しめる楽器を、選ぼうとしている。

 K君と同じように、就学援助によって目の前の選択肢を増やせた子どもが、X市には48人いる。
 そして担当管理職・M氏も、ひそかな念願を実現することができた。
 議員・子ども・担当者の合計は50人。
 その年度だけで「50倍返し」だ。
 そして就学援助の対象拡大は、X市が子どもの貧困解消に取り組み続ける限り、その後も継続されるだろう。
 何百倍返しになるだろうか。

役所は前例主義で律法主義
ならば前例と規定を持ってこよう


 この成り行きの最大のポイントは、役所の「前例主義」を、H氏が巧みに突いたことだ。
 就学援助は、各自治体が独自に動かせる制度の1つだ。
「隣のY市もやっている」というだけでは、「ウチはウチ」「Y市はウチよりも豊かだからできるんです」などと跳ね返されてしまうかもしれない。
 しかし、「全国で少なくとも5つの自治体がやっている」「ウチより財政事情の厳しい自治体もやっている」と言われたら、自治体は動かざるを得なくなる。役所は「前例主義」だからだ。

 法や省令や施行規則で規定されている制度の場合は、それらの条文に規定があるかどうかがポイントとなる。
 生活保護の場合は国の制度なので、
「議員が申請についてきてゴリ押ししてくれたから保護開始になった」
「議員の口利きで、エアコン費用が認められた」といったことは、基本的にあり得ない。
 議員が実際に助け舟を出しているのだとしても、認められた理由は、「法・省令・施行規則などのどこかに規定があり、その規定に照らしてOKだった」以外にはあり得ないからだ。
 もしも議員のゴリ押しや口利きで規定が曲げられたのなら、大問題だ。

 議員自身が、すべての法や規定に通じることは不可能だ。
 しかし、毎年夏に開催されている「生活保護問題議員研修会」のような機会を活用すれば、生活保護や貧困に関心を向けている他地域の地方議員、さらに深い知識と豊かな経験を持つ法律家や社会運動家と知り合いになれる。
 すると、困ったときには知恵を借りることができる。

 とはいえ、財政面の「ない袖は振れない」という問題は、どうしようもないかもしれない。

財務省の事情を国会は動かせるか

 日本にとって重要な制度の多くでは、国が実施のあり方を決定し、費用も負担する仕組みとなっている。
 たとえば生活保護では、現在、保護費の75%が国の負担となっている。
 国は再三にわたって、地方の負担増を提案してきたのだが、制度が発足した1950年の80%に比べて、5%しかディスカウントされていない。
 国の負担割合が減ったりゼロになったりした制度も多いことを考えると、驚異的だ。

 とはいえ生活保護には、「厚労大臣裁量」という課題がある。
 生活保護基準をはじめ、生活保護法に関する重要な決定は、国会の議論を必要とせず、厚労大臣が自分の裁量により決定することができる。
 実質的には、厚労省の官僚たちが他の省庁や政権との調整の上で決定する。
 このため、誤った方針や問題ある方向性が実現すると、修正されにくい。

 しかし、より大きな問題は、むしろ国の負担割合が減少した制度のほうにあるのかもしれない。
 就学援助をはじめ、生活保護基準を参照して対象が決定される制度では、現在は国の負担がなくなっていることが多い。
 このため、対象を拡大しようとすると、地方自治体の財布が痛むことになる。
 どの自治体にも、住民の暮らしよりも重要な課題があるわけはないのだが、優先順位の付け方は議論を呼ぶだろう。

 さまざまに思いを巡らせながら、まずはあなたのマチの地方議会に関心を向けてみていただきたい。
 そして賞味していただきたい。
 最初に気がつくことは、「わがマチでは、議会議事録が公開されていない」という残念すぎる事実かもしれないが――。


ダイアモンド On line、2019.9.6 4:55
貧しい子どもに経済的支援を!
地方議員が「前例主義」の役所を動かす秘策

(フリーランス・ライター みわよしこ)
https://diamond.jp/articles/-/213961

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旭日旗

 菅義偉官房長官は2019年9月5日午前の記者会見で、来年2020年の東京五輪・パラリンピックの競技場に旭日(きょくじつ)旗の持ち込み禁止を求める韓国側の動きについて
「旭日旗は国内で広く使用され、政治的宣伝とはならず、持ち込み禁止は想定していない」と述べた。

 旭日旗をめぐっては、韓国国会の文化体育観光委員会が、東京大会の開催期間の前後に競技場で旭日旗をあしらったユニホームを着たり、旭日旗を持ち込んだりして応援することを禁ずるよう、国際オリンピック委員会(IOC)と大会組織委員会に求める決議を採択。

 韓国内には「日本軍国主義の象徴」と反発する声が根強くある。


朝日新聞、2019年9月5日17時23分
東京五輪会場に旭日旗
菅長官「持ち込み禁止想定せず」

https://www.asahi.com/articles/ASM953RZCM95ULFA00C.html

旭日旗 ☟
旭日旗.jpg
CNN, Updated 0502 GMT (1302 HKT) September 7, 2019
'Symbol of the devil'
Why South Korea wants Japan to ban the Rising Sun flag from the Tokyo Olympics

By Yoonjung Seo, Yoko Wakatsuki and Julia Hollingsworth, CNN
https://edition.cnn.com/2019/09/06/asia/japan-korea-olympics-rising-sun-flag-intl-hnk-trnd/index.html

 自国の伝統ある旗を守るのは当然。
 自衛隊にとり旭日旗は誇りの象徴。

(2019年9月5日)

 大日本帝国の精神文化に思考が埋没した人は、長い歴史の中でわずかな期間だけ日本人の心を支配した「大日本帝国の精神文化」を「日本の伝統」だと思い込む。
 それを基準に「本来の日本」や「あるべき日本」を語る。
 しかし外務副大臣の仕事は対外関係の平和的な解決。
 この人物は明らかに不適格者だろう。

(2019年9月6日)

旭日旗が論外な理由。
 過去:大日本帝国の軍旗として、侵略と暴虐の記憶を刻んでいるから。
 現在:排外主義者による街宣活動の象徴として在日コリアンを威圧するいやがらせのツールになっているから。
 未来:五輪での旭日旗の林立を夢見ているのが、いずれも歴史修正主義の旧軍賛美者ばかりだから。

(2019年9月8日)

― まさかと思われていた韓国側のGSOMIA破棄通告に波紋が広がっています。

権容奭(一橋大准教授): 文大統領にとっても、重い決断だったと思います。GSOMIA破棄に至るまで日韓関係を悪化させたのは、一連の輸出規制です。日本側は安全保障上の措置だと説明していますが、問題の発端が2018年10月末の元徴用工判決であることは疑いようがないでしょう。その直前までの日韓関係に大きな波風はなかった。小渕元首相と金大中元大統領による「日韓パートナーシップ宣言」の20周年を記念するシンポジウムが10月初旬に開かれたのですが、安倍首相は出席して祝辞を贈っている。年内に文大統領が訪日し、首脳会談を開催するプランも練られていました。

― 文大統領の自伝「運命」の翻訳版が出版されたのが10月初旬。解説を書かれていますね。

権容奭: 8月に出版社から依頼があって早くとせかされたのですが、訪日の青写真があったからだと思います。元徴用工判決をめぐり、日本では文大統領が仕組み、大法院(最高裁)の判事入れ替えによって恣意的な判決が導き出されたかのように伝えられていますが、それは見当違いの批判です。大法院長(最高裁長官)の任命は大統領の権限で、司法のトップを代えることで政権交代が可視化される一面もある。前政権と司法の癒着が明るみに出たことからも、判事交代は自然な流れでした。

■ 元徴用工判決は国内問題

― 日韓関係の悪化を避けたい朴槿恵前政権に配慮し、元徴用工判決を先送りしたとして前大法院長が起訴されました。

権容奭: 元徴用工訴訟で大法院が大胆な判決を下した背景には司法側の論理が働いています。政権と癒着し、不正をはたらいたことに対する世論の目は厳しい。自ら改革の意思を示すために、勇み足を踏んでしまった面がないとは言えない。元徴用工判決は国内問題なのです。ただ、文大統領は大統領としても、個人としても判決を尊重せざるを得ない立場にはあると思います。

― 人権弁護士で、「右派守旧政治と既得権益層の打破」を掲げた盧武鉉元大統領の最側近でした。

権容奭: 文大統領にとっても、韓国政府にとっても判決は大きな負担です。対日関係に影響を及ぼすことは分かっていても、介入はできない。司法にまで口を挟んだ朴前政権を糾弾し、それを支持する国民によって誕生した大統領ですから。文大統領が批判されるべきは日本側への説明不足と対応の遅れでしょう。

― 日本政府は1965年の日韓基本条約で解決済みとする立場。安倍政権は「国際法違反だ」と繰り返し主張し、対応を求めています。

権容奭: 韓国側としては判決を予測したうえで事前に相談を持ち掛けるとか、それができなかったのであれば特使を送り続けて理解を得ようとするとか、やりようはあったと思います。しかし、安倍首相は判決後にすぐさま「国際法に照らしてあり得ない判断だ」と発言し、韓国側に対話の余地を与えなかった。この間、慰安婦財団解散やレーダー照射問題などが重なり、日韓関係は決定的にこじれてしまった。ここに至る根底には南北融和の動きも影響したとみています。

― 2018年4月に南北首脳会談、同6月には史上初の米朝首脳会談が実現。一気に進んだ北朝鮮問題で安倍政権は蚊帳の外に置かれました。

権容奭: 当初は国家情報院長が訪日して説明していましたが、日本では文大統領が先走りしているとか、対北経済制裁は維持すべきとか、批判的な声が少なくなかった。文政権からすると、どうも安倍政権は南北融和の動きに否定的に見える。米国追従の日本が朝鮮半島問題になると、独自の姿勢で反対をする。そうした下地もあって、日本側をあまりケアしなくなった側面が現状を招いたとも言えます。

― 日韓のズレの始まりですね。

権容奭: この2ヶ月の動きで言えば、大阪G20で韓国だけが首脳会談を拒否される屈辱的な扱いをされ、直後に輸出規制を通告されました。説明を求めた韓国当局者への経産省の対応も見下した感じがアリアリでしたし、河野外相の無礼発言もあった。安倍政権がこういう形で攻勢に出てくるとは予想していなかった韓国側も、想定外の反応でやり返している。双方ともにタガが外れてしまっている状況です。河野外相が「韓国が歴史を書き換えたいと考えているならば、そんなことはできないと知る必要がある」と批判したのも、韓国で激しい怒りを買っています。

― 韓国では日本製品の不買運動や「ノー安倍デモ」が展開されています。

権容奭:「サンキュー安倍」というフレーズもはやっています。韓国と敵対してくれてありがとう、経済的にも技術的にも日本に従属している現実に気づかせてくれてありがとう、日本の本音を教えてくれてありがとう、といったニュアンスです。本音というのは、日本は歴史問題を直視せず、植民地支配を反省せず、韓国に対しては上から目線だということですね。

―「ノー安倍」より強烈です。

権容奭:「サンキュー安倍」には日韓対立によって、親日派が浮き彫りになったという意味も込められています。いま広がっているのは「反日」というより、「反親日派」なんです。韓国における「親日派」はいわゆる「親日」ではなく、戦前の日本統治に協力し、民族の独立を妨害して私腹を肥やした人を指します。解放後も権力層を形成し、政界、軍部、財界、学会、メディアなどを牛耳り、親米反共国家をつくって分断体制と開発独裁を支えてきた。彼らは日本と妥協し、今なお既得権益層を形成しているとみられています。文大統領が掲げる「積弊清算」は「親日派」による支配構造を変えようとするもので、「反日」ではありません。

■ GSOMIA破棄は米国に対する警告

― 日韓関係に落としどころはあるのでしょうか。

権容奭: 重要なのは、韓国側は公式的にも日本側との対話を望んでいる点です。文大統領は「日本がいつだろうと対話と協力の場に出てくるなら、私は喜んで手を取り、協力する」などと繰り返しメッセージを出していますし、李洛淵首相もGSOMIA破棄について「日本が不当な措置(輸出規制)を元に戻せば、韓国も再検討する」と発言しています。日本側から何の反応がない状況であっても、交渉の余地があると言い続けている。これは、GSOMIAで最も利益を得る米国に対するサインでもあります。

― GSOMIA破棄には米国側も「失望」という言葉で対韓圧力を強めています。

権容奭: GSOMIA問題は日本に対する感情的な措置というより、米国に対する警告です。これまでの米国は歴史修正主義的な動きに対し、ノーと言ってきた。日本に対してもそうであったのに、今回は何も言わない。輸出規制で対立しても一言もない。韓米日は平等な関係ではなく、日米に従属する位置づけだと韓国側は見たのでしょう。米国がそういう立場であるなら、われわれも再考せざるを得ないと強気に出たのだと考えられます。文政権の中枢は反米闘争した世代が占めている。米国に対し、より対等で合理的な関係を求める世論の後押しもあります。

― GSOMIAの失効期限は2019年11月22日です。日韓双方ともボールは相手側にあると主張しています。

権容奭: ボールは双方にあります。日本は問題を拡大させた輸出規制を見直し、韓国は元徴用工訴訟をめぐる新たな提案をするべきでしょう。韓国政府・企業と日本企業の「2+1」の枠組みはいい案だと思いますが、日本が納得しないのであれば練り直すほかない。1965年体制の限界が見えてしまった以上、これを機に抜本的な日韓関係の見直し、再定義をすべきだと思います。

※ 権容奭(クォン・ヨンソク)
 1970年、韓国・ソウル生まれ。1994年一橋大法学部卒業後、同大学院法学研究科博士課程修了。2008年から同大学院法学研究科准教授。国際・公共政策大学院准教授、早大韓国学研究所招聘研究員を兼任。専門は東アジア国際関係史。著書に「岸政権期の『アジア外交』」「『韓流』と『日流』」。


日刊ゲンダイ、2019/09/09 06:00
一橋大准教授権容奭氏 韓国で流行「サンキュー安倍」の意
(聞き手=坂本千晶/日刊ゲンダイ)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/261400/

 嫌韓記事ばかりを書いたと批判された週刊ポストが、反省したと見えて、まともな記事を書いた。
 今日発売の週刊ポスト(9月20日・27日号)の特集記事、「真の『日韓善隣外交』を考える」という特集号だ。
 これは国民必読の特集記事だ。

 そこには、河野洋平とか鳩山由紀夫とか、土井たか子とか、村山富市とか、週刊ポストが散々書いて来た、いわゆる媚韓政治家の名前が連ねられている。
 しかし、その前に、韓国を食い物して来た自民党の歴代政治家たちの名前が連ねられている。
 岸信介をはじめとした日韓協力委員会のメンバーや、自民党の親韓政治家たちの名前のオンパレードだ。
 そして、その解説にはこう書かれている。

「・・・日韓関係の在り方を考える材料として、戦後、日本と韓国それぞれの政治家が外交の場でどう振る舞い、現在の日韓関係の混迷に至ったのかを辿った。
 浮かび上がってきたのは、両国の歴代の主要政治家たちにによる、『その場限りの利権や贖罪のための友好』という、(本当の意味の)『善隣外交』とは似て非なる成り立ちだった・・・」

 政治家たちは、あるいは利権を求め、あるいは謝罪一辺倒の、表面的な関係から脱却できなかったのだ。
 もちろん、韓国側の大統領たちもその裏返しだ。
 つまりお互いが利用し合って来たのだ。
 嫌韓記事で批判された週刊ポストは、反省の意を込めてこう締めくくっている。

 「安倍首相と文大統領の双方が、彼我の外交政策を振り返り、両国の関係を見直すことに気づいてこそ、新たな外交が始まるのではないか」

 いかにも、もっともだ。
 しかし、肝心な事が欠けている。
 それは、正しい歴史認識に基づいて、見直さなければいけないということだ。
 安倍首相にそれが出来ないからこそ、日韓関係がここまで悪化したのである。
 同じ悪でも、安倍首相は不器用で正直だ。
 祖父の足元にも及ばない。


天木直人のブログ、2019-09-09
日韓関係をここまで悪化させた日本の「親韓政治家」たち
http://kenpo9.com/archives/6260

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2019年09月08日

斎藤幸平

マルクス・ガブリエル 、マイケル・ハート、ポール・メイソン、斎藤幸平『未来への大分岐』(集英社新書、2019年8月)

 経済学者カール・マルクスの研究で国際的に高い評価を受けている。哲学者のマイケル・ハート氏や経済ジャーナリストのポール・メイソン氏といった欧米の名だたる知識人と語り合い、未来への指針を探ったのが本書だ。

 人と同じ進路を歩むことに疑問を感じ、高校卒業後は米国の大学に進んだ。資本主義の欠点を指摘したマルクスの思想に興味を持ち、福島第一原発事故の発生後にさらに関心を強めた。

 マルクス研究が盛んなドイツに渡り、博士号を取得。

「人と自然との持続可能な関係と、マルクスが理想とした社会主義って明確に結びつくんだと気づいた」

 マルクスの視点から環境問題を論じた本を英語などで刊行し、昨年、マルクス研究界最高峰の賞「ドイッチャー記念賞」を日本人で初めて、史上最年少で受賞した。

 帰国したのは三年前。

「環境問題に対して日本人の関心が低いことにショックを受けた」と振り返る。マルクスは、お金もうけが最優先される資本主義の下では、環境破壊が猛スピードで進むと考えた。

「今の経済成長って未来の富や幸福を先食いしているだけ。このままでは、気候変動で今のように暮らせなくなる」

 本書の話題は環境問題や科学、政治など多岐にわたる。ただ、いずれも資本主義をどう乗り越えるか−という課題が焦点になる。対話を通して鍵として浮かび上がるのが、社会運動だ。

「選挙でいいリーダーが選ばれれば社会がよくなるという考えが日本では強いけれど、そうではない」

 バーニー・サンダース米上院議員やジェレミー・コービン英労働党党首といった左派から支持されるリーダーについて、「社会運動が彼らの政策に強い影響を与えている」と指摘する。

 例えば、反緊縮の経済政策。

「欧米では、資本家ではなく労働者が自ら経営権を持つ生産者協同組合を育てようという社会運動がまずあって、それを政治家の彼らが金融緩和で支援しようとしている。お金をばらまけば景気が良くなるという単純な話じゃない」

 本書には、哲学書『なぜ世界は存在しないのか』が昨年、日本で異例の売れ行きとなった哲学者のマルクス・ガブリエル氏との対話も収める。

「社会の問題を思想の立場で捉えて、積極的に社会へと発信している人たちと議論した。日本と欧米の左派の考えには大きな違いがあることを知ってほしい」


東京新聞・書く人、2019年9月8日
社会運動が政治変える
『未来への大分岐』
大阪市立大准教授・斎藤幸平さん(32)

(小佐野慧太)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/book/kakuhito/list/CK2019090802000178.html

− 昨年は、資本論(初版)刊行150周年、今年はマルクス生誕200周年ということで、ドイツを中心に世界中で盛り上がっていますね。
 それはアカデミックな世界だけではなく、ゼロユーロ紙幣が発行されたり(「マルクス生誕200年記念の「ゼロユーロ紙幣」、大好評で増刷へ」ロイター、2018年4月19日)、信号がマルクス柄になったり(「German city installs Karl Marx traffic lights」BBC、2018年3月20日)、親しみをもって楽しんでいるようです。
 斎藤さんは、昨年はカナダでのカンファレンスに参加され、今年はドイツ、インドの国際会議に参加されると伺っています。
 カナダでの様子はいかがでしたか?

斎藤幸平: ヨーク大学はトロント大学と違って、町の中心部から結構離れています。さらに、ビクトリアデーの祝日の週末に到着したこともあり、学生はあたりを見回しても全然いないし、学食も開いてないしで、飢え死にするかと思いました(笑)。なので、登壇者もウォーラーステイン、バリバール、サッセン、ボブ・ジェソップなど非常に豪華メンバーなのに、本当にカンファレンスに人が来るかを勝手に心配していました。

 ところがふたを開けてみると、企画者のマルチェッロ・ムストも驚くほどの連日超満員。数百人入るホールも階段に座る人や立ち見が出るほどの人がやってきました。おお、すごいなと普通に驚きました。

 でもこの話には続きがあって、カンファレンス後にトロント市内に行ってびっくりしたのですが、街にもたくさんカンファレンスのフライヤーが貼ってあるのです。ホテルの前の電柱とかバス停にまで。マルクスを広めようとするなら、これくらい本気でやらないといけないということを思い知らされました。(笑)

 聴衆にも、日本と大きな違いがありました。その後10月に東京で同じような『資本論』150年の記念シンポジウムがあったのですが、こちらも150人くらいの人が来て、会場はほぼ満員でした。でも、みんな白髪のおじさんばかり。それに対して、トロントでは、聴衆は平日に開催したこともあり、若い人が中心で、女性も多かった。マルクスへの関心が全然違うなと感じました。


− なるほど。少し話は変わるのですが、そもそも、そのように斎藤さんが国際的に活躍されているバックボーンを知りたい方も多いと思いますので、今までの経歴を教えてください。

斎藤幸平: 高校卒業後、渡米し、ウェズリアン大学というリベラルアーツで政治学を専攻して卒業しました。もっとマルクスを勉強したくて、ドイツに行き、ベルリン自由大学で修士課、フンボルト大学で博士課程をそれぞれ修了しています。ポスドク時代はカリフォルニア大学サンタバーバラ校にいましたが、今は大阪市立大学経済学部で教えています。

 博士論文は Natur gegen Kapital: Marx' Oekologie in seiner unvollendeten Kritik des Kapitalismus (Campus, 2016)として刊行されていますが、専門はマルクスのエコロジー思想です。また、この英訳版 Karl Marx’s Ecosocialism: Capital, Nature, and the Unfinished Critique of Political Economy もマンスリーレビュー出版から刊行しています。


− ありがとうございます。話をマルクスの読まれ方に戻すと、『『資本論』の新しい読み方』について「この入門書をぼくが訳そうとそもそも思い立ったのは、ドイツの社会運動をやっている友人の家にいくと、マルクスを読んでいないようなやつの本棚にもこの本が必ずあったからなんです」と著者インタビューでお話されていました(ミヒャエル・ハインリッヒインタビュードイツで支持を集める経済学者が語る『「資本論」の新しい読み方』)。マルクスの著作はドイツでカジュアルに読まれているのでしょうか。

斎藤幸平: まぁその友人は左翼なので、読んでいても不思議じゃないかもしれませんが、やはり研究者以外でもマルクスを読んでいる印象です。それはベルリンでもローザルクセンブルク財団が企画している『資本論』読書会などに参加しても感じていたことです。

 それは自動的に人が集まってくるという話ではもちろんなくて、ローザルクセンブルク財団がかなり努力をしていると思います。例えば、ローザルクセンブルク財団主催の今度のベルリンのカンファレンスでは、Kammerflimmer Kollektiefというバンドを呼んで、そのままクラブでオールナイトのパーティーを企画したりと、いろいろな人が楽しめるようにかなり真剣に考えています。

 また『資本論』読書会のチューター3人のうち2人が女性であったり、カンファレンスにも様々な地域や性別の人を読んだりすることも、より幅広い層に届く一因ではないでしょうか。これは別にローザルクセンブルク財団に限ったことではなく、トロントの時も、ムストはインタビューを撮影して、マルクスの現代的意義についてのドキュメンタリーを作成しようとしていました。

 にもかかわらず、トロントのカンファレンスでは、アカデミックな人ばかりかと思って、デヴィッド・ハーヴィーみたいに英語だけで『資本論』を読んでいては話にならん、マルクスを理解するためにはドイツ語とフランス語で読め、みたいな話を調子に乗ってしていたら、後から組合運動をしている人に「労働者中心で勉強会を開いている俺たちはどうすればいいっていうんだ」と詰問されて、反省しました(笑)


− 斎藤さんはフランスの新聞「Humanité(ユマニテ)」でもインタビューをうけておられ(記事「Marx et l’écologie au XXIe siècle」)、トルコ語にも訳されたそうですね(記事「21. yüzyılda Marx ve ekoloji: Kohei Saito ile söyleşi – Jerome Skalski」)。また、マルクス生誕200周年について英紙「フィナンシャル・タイムス」、独紙「南ドイツ新聞」の記事を政治家の志位和夫さんがTwitterで紹介されてました(2018年4月22日9:41)。欧米のジャーナリズムとしてはマルクスにどのような関心をもち、どのように報道がされているのでしょうか。

斎藤幸平: 私はその「フィナンシャル・タイムス」「南ドイツ新聞」の記事を読んでいないのですが、最近見たものの中では、「ガーディアン」にヤニス・バルファキスが『共産党宣言』の現代的意義について書いていたり、『ポストキャピタリズム』で有名なジャーナリスト、ポール・メイソンが「K is for Karl」という5本だてのビデオクリップを公開し、「疎外」や「共産主義」などのマルクスの概念について説明したりしています。

 バルファキスもメイソンもマルクス研究者ではありませんので、その内容は非常にわかりやすいものになっています。その分、研究者のなかには彼らの解釈を「俗流」と呼ぶ人もいます。ただ、彼らの鋭い現代資本主義の分析の背景には、こうしたマルクス解釈があるというのを知ることができるのは大変興味深いですし、マルクスの基本的アイデアを多くの人に届けているという意味では、非常に重要な仕事をしていると思います。

 去年は『資本論』刊行150周年、今年はマルクス生誕200年ということで、英語圏やドイツ語圏でも有名出版社からマルクスの伝記や研究書が刊行されていますが、その大半がマルクスの「限界」を最終的に強調するだけで終っているのに対して、メイソンやナオミ・クラインといったジャーナリストたちの方が難しい概念を使わずとも、マルクスの現代的意義を展開していて、圧倒的に面白いです。


− 残念ながら日本ではそういう展開はあまり見られないですね。書店員さんからのお話によるとマルクス関連図書の読者の中心は昔からの関心で読んでいる団塊世代のようです。また、例えばフランス現代思想の思想家たちが連関をもって展開され、店頭のフェアなども多様なのに対し、マルクスから、あるいは他の思想家から連関してマルクスを展開させることが難しかったりするようです。読者の側も様々な方向から読もうとする動きはあまり多くないかもしれません。
 ローザルクセンブルク財団の動画「Marx200」でも最後に「批判的に評価しよう」と締められているように、特定の政治思想をあらかじめセットして読むのではなく、もっと広い関心や方向性から、テキストの可能性を読むことができますよね。
 ご自身の研究の展開については佐々木隆治さんとの対談でもお二人からお話頂いていますが(「マルクスのアクチュアリティ」)、学生、他分野の研究者、読者にもっとこういう関心で読んでほしい、というリクエストなどがあれば教えてください。

斎藤幸平: 日本だと「疎外」「搾取」「共産主義」といったマルクスの概念はなんとなく時代遅れで、かっこ悪いというイメージが広がっていると思います。私や佐々木さんが「物象化」、「物質代謝の攪乱」、「脱商品化」などの概念を代わりに使うのには、無意識的にせよ、意識的にせよ、そういう背景があると言えるでしょう。ただ、最近メイソンやクラインの議論を読み返したり、海外の若い人々と交流するなかで、一見「素朴」な概念が持つパワーを再確認しつつあります。こちらが「草稿が……、抜粋ノートが……」とばかり言っていてもやたらハードルが高く感じてしまうでしょうから、マルクスの思想をもとにして、もっと多くの人々にも興味を持ってもらえるような話を今後展開したいと思っています。とはいえ、それはいつになるかわからないので(笑)、マルクスは時代遅れと思う人も、メイソン、クライン、あるいはアントニオ・ネグリやマイケル・ハート、さらにはデヴィッド・グレーバーの著作に触れていただけるといいなと思っています。

− 最後に、今年これから参加される国際シンポジウム、また国内の予定なども差し支えない範囲でご紹介ください。

斎藤幸平: 5月5日のマルクスの誕生日に合わせてベルリンで開催されるカンファレンスで発表します(Marx200)。
 6月にはインドのパトナで開催されるカンファレンスにも呼ばれています。
 12月22、23日には法政大学で記念国際シンポジウム(2018年マルクス生誕200周年記念国際シンポジウム)が予定されています。ムストもサバティカルを使って、大阪と東京に3ヶ月ほど滞在する予定なので、このシンポジウムにも参加してもらう予定でいます。
 他にもいろいろあるのですが、ちょっと(飛行機を利用すると)二酸化炭素排出の問題もあるので(笑)、いくつか断ろうと思っているので、とりあえずそんな感じです。あとは、本の企画もいろいろ動いています。


− ありがとうございました。これからのさらなるご活躍を楽しみにしています。

※ 関連書籍『nyx』3号(※)
第一特集「マルクス主義からマルクスへ」


雑誌nyx&nyx叢書、2018/05/04 05:10
マルクス生誕200周年記念 斎藤幸平氏インタビュー
「世界のマルクスの読まれ方」

(インタビュアー 小林えみ)
https://note.mu/nyx_jpn/n/ne0440315326f

岩佐茂、佐々木隆治、明石英人、斎藤幸平、隅田聡一郎、羽島有紀、梁英聖、クォン・オボム、ポール・バーケット、ジョン・ベラミー・フォスター、カール=エーリッヒ・フォルグラーフ『マルクスとエコロジー 、資本主義批判としての物質代謝論』(Νύξ叢書2、堀之内出版、2016年6月)

いま、なぜエコロジーか

佐々木: 先日、岩佐先生と私が編者となり、『マルクスとエコロジー』を堀之内出版から刊行しました。本書の執筆者の一人でもあり、マルクスとエコロジーをテーマとした博士論文を上梓された斎藤さんと本書の内容をテーマに話していこうと思います。

斎藤: よろしくお願いします。本書刊行後の反応を見ていると、マルクスの一般的なイメージは哲学や経済学が中心で、「エコロジー」との結び付きはやや理解されにくいようですね。

佐々木: どうやら、そのようです。けれども、私たちにとってはある意味、必然的に浮上してきたテーマですよね。本書刊行の経緯としては、まずマルクスの物質代謝概念への注目があります。私は最初の単著である『マルクスの物象化論』(社会評論社、2012年)においてマルクスを「素材の思想家」として特徴付けましたが、このとき、アイデアの源泉となったのが「抜粋ノート」と呼ばれるマルクスの勉強ノートです。『マルクスの物象化論』を書く直前にちょうどMarx-Engels-Gesamtausgabe (『マルクス・エンゲルス全集』、以下「MEGA」)の編集作業に携わったのですが、このとき、マルクスが農芸化学などの著作を非常に丹念に書き抜いている抜粋ノートに触れ、マルクスの「素材」そのものにたいする強い関心に驚いたのです。こうして、「素材Stoff」のやりとりを循環的に把握した物質代謝(Stoffwechsel)という概念に注目するようになり、そのなかでマルクスとエコロジーとの関連を強く意識するようになっていきました。

斎藤: それにくわえて、海外の研究からの刺激もありましたね。

佐々木: そうですね、とりわけ英語圏を中心としたマルクス研究でも、ジョン・ベラミー・フォスターやポール・バーケットが別の流れのなかから物質代謝論をベースとしたエコロジー論を展開するようになっており、それらをつなぐようなテーマとして「マルクスのエコロジー」があったのです。私はエコロジーの専門家ではありませんので、本書を刊行するにあたっては、エコロジー論を専門とされる岩佐茂先生に編者に加わっていただきました。

斎藤: そもそも「エコロジー」について、日本と世界の一般的な認識について差を感じます。
 いま僕がいるカリフォルニアでは数年にわたって歴史的な干ばつが続いているのですが、そもそもカリフォルニアの広大な土地での生活というのはとてつもなく莫大な量の化石燃料を必要とする車社会であるだけでなく、長い時間をかけて貯められた地下水も大量にくみ上げ、生活用水や農業用水を確保しなくてはならない消費社会です。明らかに持続可能なスタイルではないのですが、そこに気候変動の影響が加わって極めて深刻な事態になっているわけです。環境問題が悪化し日常の問題として感じられるようになるなかで、これまでの生活を抜本的に変えなければならないという議論が生まれています。
 そのなかで、現在の対立軸は、リベラルの多数派として資本主義を維持したまま、地球工学のような技術革新によって環境問題を解決して生き延びようという陣営と、そうした生活を根本的に変えないで問題を解決することは不可能であり、資本や商品化の論理を抑制しなければ人類の生存はないという左派陣営で、後者の議論にマルクスの思想の影響力が及んでいます。たとえば、マルクス主義者ではないナオミ・クラインも、フォスターの「物質代謝の亀裂」という概念を採用して気候変動の問題を分析するようになっている。

佐々木: そうですね、資本主義が引き起こした気候変動について扱ったクラインの『This Changes Everything』もそうですし、水資源問題を扱った『ブルー・ゴールド』でも、資本主義によって物質代謝が攪乱されることで水資源が希少になり、水資源が希少になることで商品化され、それによっていっそう物質代謝が攪乱され、水が飲めなくなるという深刻な問題が描かれています。また、そうした認識はたんにジャーナリズムの世界のものではなく、現実のさまざまな運動の反映でもあります。そうした世界のジャーナリズムや運動と比べて日本では気候変動などの環境問題が深刻に理解されていないように感じます。

斎藤: 日本で知られている「エコ」思想は、結局、ローマクラブの「成長の限界」の延長としてのネオ・マルサス主義的な資源限界論で、人口が増大すると資源が枯渇して人類が滅ぶか成長が停滞する、という話か、あるいは、グリーンな製品を選ぼうといった消費に関するエコ運動のような個人的合理性に回収されがちです。
 マルクスが重要なのは、環境危機をそうしたネオ・マルサス主義や消費者主義ではなく、社会的生産の次元で把握する必要性を明らかにしてくれるからです。マルクス自身は「人間と自然の物質代謝の攪乱」という概念を用いて資本主義の固有な矛盾の現れとしての環境問題をとらえています。そのうえで、物象化あるいは商品の力の抑制という主張をしていて、現在でも非常に示唆的です。

久留間派の潮流を受け継いで

斎藤: 「物質代謝」(Stoffwechsel)とも関連しますが、今回、マルクスのエコロジーに結びついた着眼点はStoffつまり、「素材」、「物質」という概念で、それがフォスターたちの研究とも交差しています。
 この「素材の思想」は佐々木さんが独自に展開したものですが、佐々木さんの『資本論』の読解は、大谷禎之介先生、平子友長先生といったMEGA編集にもかかわっている日本の研究者たちに通じていて、さらに遡ると久留間鮫造先生の研究につながっています。ただ残念なことに、久留間先生の研究はあまり知られていませんね……。

佐々木: 久留間先生は、東京帝国大学を卒業後、住友銀行に入行しますが、米騒動の労働者の運動に衝撃を受けて退行し、大原社会問題研究所に入所して研究者として活動された方です。
 久留間先生はまずスミスやリカードに関心を持ち、マルクスがスミスやリカードを研究した、いわゆる『剰余価値学説史』、いまでいえば『1861−1863草稿』を読むことからマルクス研究を開始されました。だから、いわゆる「マルクス主義」といわれるような政治的なマルクス解釈にとらわれることなく、マルクスをあくまでもテキストに即して研究したのです。間違いなく、久留間先生は、マルクスの経済学批判の核心を圧倒的に高い水準で明らかにした方だと思います。自分の独自の枠をつくるとか、独自の学派を展開するとか、一見、派手そうなことではなく、マルクスをきちんと理解するという点、とりわけ貨幣論や恐慌論では世界随一の仕事をされた。誤解を恐れずにいえば、価値形態論を本当にわかっているのは、管見のかぎり、久留間先生の仕事を継承する潮流だけです。

斎藤: 久留間先生自身がまさにそのようにいっていますね。
「マルクスの書いていることを正しく理解しようとして繰り返し読んだ結果、なるほどこれはこういうことだったのかというふうに、自分なりに納得がいくようになった。……もしぼくが、弁証法とか分析的方法とかについての先入見をもってマルクスを読んでいたら、へたをすれば、かえってとんでもないまちがった解釈をすることになったかもしれないと思うのです。」
 久留間先生の研究の成果が『マルクス経済学レキシコン』(大月書店)として出版され、それがドイツの出版社の目にとまりドイツ語版が出版されたことで、海外でも業績が認められるようになりました。久留間先生の弟子である大谷先生も、『資本論』草稿をアムステルダムで解読して、一文一文エンゲルス版と比較して検討し、その成果が海外の研究者たちに高く評価されている。
 だから、MEGAは1990年代に入ってソ連が崩壊したときにプロジェクトの存続が危ぶまれたのですが、国際体制で政治的には中立な新プロジェクトとしてMEGAが継続されることが決まったときに、日本のグループとしても参加してくれ、と言われたのは大谷先生だったわけですね。

日本のマルクス理解の問題点

佐々木: マルクスの理論には様々な側面があるのですが、マルクスの物象化論についていえば、近代固有の関係がどういうものであるか、それがどういう帰結をもたらすのか、ということがもっとも核心的な話です。ところが、アカデミックな世界では、そのようなマルクスじしんの問題構成とはまったく無関係に、外からなんらかの哲学や思想をもってきて、その枠からマルクスを再解釈するというような試みがずっとおこなわれてきました。けれども、そのような読み方で読めるほどマルクスはやわな思想、理論ではない。
 廣松渉はその典型ではないでしょうか。たとえば廣松は、実際には地球が公転しているにもかかわらず、あたかも太陽が地球のまわりをまわっているように見えるという現象さえもが「物象化」だといいます。しかし、それを物象化だといってしまうと、近代固有の関係を把握しようとしたマルクスの物象化論とは全く違ったものになってしまいます。彼はフッサールやハイデガーの哲学的問題構成から左派的なことを考えたかった人で、いわばそれにマルクスを利用しているにすぎません。

斎藤: 柄谷行人にしてもまず自分の哲学的枠組みがあって、その価値形態論解釈ではカントの超越論的統覚につなげて一般的等価物を読みかえたりしている。自分の哲学的な関心を押し付けるアプローチの一例です。

佐々木: その意味では、アカデミックな世界においては、なんらかの学問的な権威によりかかりながらマルクスを「再解釈」することがおこなわれてきたといえるのではないでしょうか。これは哲学にかぎらず、経済学でもそうです。多くのマルクス経済学者は既存の経済学的問題構成に(意識的であれ、無意識的であれ)寄りかかりながら『資本論』解釈をおこなってきました。しかし、『資本論』がその副題にもあるように「経済学批判」である以上、そのような問題構成に依存しているかぎり、理解することはできません。もちろん、ここでいう「批判」とは、たんに既存の経済学を否定すればよいということではなく、そうした経済学の存立根拠を資本主義的生産様式そのものから明らかにすることでなければなりません。まさにマルクスはこのような試みを『資本論』全篇にわたって遂行しているわけですが、とりわけ第三部の「三位一体定式」では、既存の主流派経済学の世界観が資本主義そのものからどのようにして発生するかが端的に叙述されています。いわばマルクスは、自らが遂行したような経済学批判が資本主義的生産様式の内部で生きる人間たちにとってどれほど困難なものかを明らかにしているともいえるでしょう。

斎藤: そのようなマルクス解釈のゆがみはアカデミアの外でも見られますね。

佐々木: その通りです。マルクスの理論はある意味ではシンプルで首尾一貫しており、理解しにくいものだとは思いませんが、資本主義に対する根底的な批判であるがゆえに、資本主義の内部で生活する人々にとってはどうしても非常に難解なものに映ります。そこで、現実の労働運動や社会運動においてマルクスの主張を広げるには、それを多少デフォルメしてででも通俗化していく必要がありました。そういう役割を最初に担ったのが盟友のエンゲルスだったわけです。彼はまだ高尚だったけれど、それが時代を経るにつれてさらに通俗化されて、かなり平板な階級闘争一元論、経済決定論的な議論に還元されていった。それがいわゆる「マルクス主義」なんですよね。このような「マルクス主義」を前提しても、マルクスはわからなくなります。

斎藤: いわゆる「理論と実践の統一」というのは、その時々の運動を正当化するための理論の単純化・歪曲をもたらしてきたといえます。運動においてマルクス主義が衰退しているいまこそ、原典にあたってマルクスの理論そのものを検討することが可能になりましたし、また必要とされるようになっています

佐々木: マルクス研究にかぎらず、古典的著作の研究においてはきちんとしたテキストクリティークにもとづいた原典研究をしないと話になりません。その意味では、そもそも廣松や柄谷はあくまで独自の理論や哲学を創造したのであって、マルクス研究とは違うわけですよね。

斎藤: そうですね。たとえば、廣松の『ドイツ・イデオロギー』は基本的にはアドラツキー版の使った解読文をもとにして再編集しただけ。だから裏の紙に書いてある場所とか、コピーにうつっていないところは全部ぬけ落ちているし、執筆順序の検討もできていない。

佐々木: もちろん当時はいろいろな時代的な制約があり、いまほど自由に文献にアクセスできませんでしたし、草稿を直観的に再現しようとした廣松の編集方式は画期的なものであり、あれが全く無意味だというつもりはありません。しかし、いまはいくらでも文献にアクセスできる時代で、実際に渋谷正のような手稿に依拠した緻密な研究が出てきています。にもかかわらず、いまでも廣松の『ド・イデ』などを金科玉条のように祭りたてるのは、廣松じしんの意思にすら反しているように思います。

エコロジーと晩期マルクス

斎藤: エコロジーの話に戻すと、マルクス自身に内在せずに自分たちの政治的主張や問題関心を正当化するためにマルクスを使うということは、海外のエコロジー研究でもしばしばおこなわれています。1990年代以降、環境運動と労働運動、赤と緑の思想の対立をどうやって乗り越えるのかといった実践的な課題が出てきたときに、アンドレ・ゴルツやアラン・リピエッツは「マルクスの価値論は間違っていた」、「社会主義はもはや不可能である」など、あらかじめマルクスの限界性を前提にします。そのうえで、無制約な消費活動や利潤だけを追求するような生産はよくない、とうわべの資本主義批判を環境保護運動へつなげて、両者の折衷をはかるということをしていた。それでは結局マルクスの理論がわからないから、理論的にも実践的にも使えないと言われてしまう。
 それに対してフォスターやバーケットは、マルクス自身のテキストに沿ったアプローチから、価値論なり物象化論の中に非常に有用なエコロジー批判のための方法論的基礎があって、それをもとにして21世紀の諸問題の分析と批判が展開できる、と主張しています。そういう研究姿勢が非常に重要ですね。

佐々木: そのあたりは伝わりにくいところがありますよね。マルクス研究者でも大半は「資本主義は利潤追求だから物質代謝の攪乱が起こる」というぐらいの浅いとらえ方しかしていません。けれども、マルクスのエコロジー論はそういう単純な議論ではなく、物象化論という近代固有の関係の分析にもとづくものです。つまり、私的労働や賃労働が必然的に生み出す価値の論理がいかにわれわれのライフスタイル、ひいては物質代謝の様式を変容させてしまうかという問題を根本的に考察することができる理論枠組みがマルクスの経済学批判であり、物象化論なのです。つまり、決定的なのは労働様式、すなわち物質代謝の媒介様式であり、それが物質代謝をどのように変容させるかということです。ここにマルクスのエコロジー論の生命力があります。
 このようなとらえ方をしたとき、マルクスにとって、たんに近代という社会形態の特殊性だけではなく、それによって編成される素材的世界の論理を把握し、そこに抵抗の拠点を見いだすということの重要性が立ち現れてきたのです。まさにそれが晩期の研究であり、そこで「物質代謝の思想」、あるいは「素材の思想」が全面的に展開されていくことになります。

斎藤: 晩期の研究を知るための一次資料は抜粋ノートです。抜粋ノートは最後の15年間にその三分の一がつくられ、そのうちの半分が自然科学、生物学や農芸化学や地質学、物理学についての研究です。マルクスが自然科学を勉強していたことを知っていた人でも、老マルクスは勉強に疲れて体調も悪かったために抜粋ばかりしていたとか地代論を完成させるために研究していたと指摘して終わってしまうことが多い。しかし、経済学批判という観点、とりわけその物質代謝という概念を手掛かりに、晩年の自然科学研究のより広い射程を明らかにしたのがこの本の意義です。

佐々木: 晩年に作成された大量の抜粋ノートが偶然に作成されたわけではないことは明らかで、それを理解する一つの切り口として物質代謝論があることは確実です。もちろん、そこだけに集約されない可能性は残っているので、それは今後研究していかなければいけませんが、これらの抜粋ノートを見れば、マルクスがたんに階級闘争をやればいい、分配をすればいいとか、上手な経済政策をすればよい、というような狭い視野から社会変革を考えていなかったことは明らかです。マルクスはもっと巨視的な観点から資本主義、あるいは資本主義に対する抵抗の拠点をとらえようとしている。のちのグローバルな社会運動につながっていくような、豊かな視点を彼は提示しています。
 だからこそ本書は画期的な、マルクスを理解するうえで決定的な像の展開になると思っています。抜粋ノートは、共同体論やジェンダーなど、さまざまな角度で読めるのですが、エコロジーは、ひとつの決定的な論点です。それさえ理解してもらえば、この本は面白いはずです。ここまで体系的にマルクスの晩期マルクスとマルクスの物質代謝論を結び付けている本はありません。
 私は『マルクスの物象化論』の結論の部分で、マルクスの物象化論の展開から、晩期の抜粋ノートの意義は彼の「素材の思想」の展開にあったのではないかという仮説を提示しました。その仮説を、限定的ではあるけれど、抜粋ノートをもちいて論証したのが斎藤さんの博士論文であり、『マルクスとエコロジー』です。一部でも仮説が論証されたということで、緻密な文献研究にもとづいてマルクス研究が前進した、ということにもこの本の意義があります。それ以前は、リャザーノフのような優秀な研究者・編集者でも膨大な抜粋ノートの意味がわからなかったわけですから。

斎藤: おもしろいのは、同じような晩期抜粋ノート研究をしていたドイツのカール=エーリッヒ・フォルグラーフが我々とほぼ同じ結論にたどりついたということですね。彼の論文も本書に収録されていますが、翻訳していて興奮しました(笑)
 また、晩期マルクスのアクチュアリティでいえば、たとえば今後も環境問題で誰が影響を一番受けるかというと、グローバルサウスの人たちで、そこでは温暖化による海面上昇でツバルのように島が消滅しそうになったり、干ばつで農業に大きな影響が出たりする可能性が高いわけですよね。

佐々木: 物質代謝の攪乱は、資本主義や社会の問題と、その原因だけではなくてその結果においても不可避的に結びつく、ということですよね。

斎藤: そういうときに、どのようにグローバルな連帯をつくっていくかについて、フォスターたちは考えていますが、マルクスも同じようなことを考えていました。マルクスはロンドンに住んでいましたが、アイルランド問題やインドの植民地問題など周辺社会とイギリス帝国主義の抑圧的なアシンメトリーな関係を分析していて、共同体の破壊や、グアノ(南米などからヨーロッパへ輸出された鳥の糞などを原料とする肥料)の乱費にみられるエコロジー的な関心も資本主義の問題として把握していくようになった。だから晩年のマルクスは共同体研究と自然科学研究を並行してやっていたわけですけれど、そういうものがまさに今日においてもグローバルサウスにおけるエコロジーの問題と経済的な搾取の問題につながってくる。方法論的に、マルクスの理論はいま我々の社会が抱えているような実践的課題を考えるヒントが含まれているのではないか。その意味でも、「素材の思想」・「物質代謝の思想」が重要になってくると思います。

佐々木: そうですね。『カール・マルクス』(ちくま新書、2016年)でも少しだけ触れましたが、たとえば最晩年のザスーリチへの手紙もまさにそのような観点から読まれなければならないと考えています。ともかく、マルクスの社会変革論は政治的な技術論ではなく、資本主義のような人類の生産様式を根底的に変革する極めて特殊な生産様式、さらにそれに規定されているライフスタイル全体を変革することも念頭においていたわけであって、それだけの広い視野をもっているということです。

今後の研究について

佐々木: 私たちの研究は、個人個人のテーマはそれぞれ違いますが、共通の項目は三点あると思います。
 一点目はマルクスの草稿研究。いま我々はMEGA第二部第四巻第二分冊、いわゆる『資本論』第三巻主要草稿を翻訳するプロジェクトに取り組んでいます。これまでの資本論の研究の多くはエンゲルスがマルクスの死後に編集した現行版『資本論』で研究をしていますが、マルクス自身の理論展開はやはり彼自身の草稿を読まなければ理解できない。もちろん大谷先生をはじめいろいろな研究者が取り組んできていますが、まだまだ追いついておらず、ひとつひとつ丁寧にやっていく必要があります。
 二点目は抜粋ノートですね。これも膨大な領域があって、エコロジーに限らず共同体論やジェンダー論などさまざまな切り口で研究できると思います。そのことによって、晩期マルクスの資本主義観や、資本主義に抵抗する要素として彼が何を考えていたのか、を考察することができるはずです。
 三点目はそういうマルクス研究を通じて、現代社会をどう把握し、理論を発展させるのか、ということです。エコロジーならエコロジーの理論研究で明らかになったことと現実社会をどういうふうに媒介するのか、という研究です。経済学でいえば、中央銀行が大規模な金融緩和をおこない、国家が巨額の債務を抱えているような現状や、国家の制度的な介入の意義や限界の評価など、マルクスの時代になかったこともマルクスの枠組みを使いながらどういうふうに解釈できるのか、いろんな課題を研究する必要があります。

斎藤: 第三の点に関して、マルクス主義者のなかにもマルクスには限界があった、ということをあまりに早くいう人たちがいるわけです。久留間鮫造の研究などを国内外に打ち出していって、マルクス主義内部でもマルクス理論の意義を提示していく必要があるのではないでしょうか。

佐々木: 150年前の人だから、限界があるのは当たり前で、それをいいたがるのはつまらない。むしろ、あれほどの天才からどれほどのものをくみとれるのかが重要だと思います。

斎藤: 秋に堀之内出版から発行される『nyx』3号(※)の「マルクス特集」では、たんに新しいことや目先の問題関心にとらわれて批判して、違う理論と接合して、ということをやるのではなく、テキストに内在して何をくみとれるか、というのをMEGAの最新資料や草稿を使いながら哲学、経済学、国家論、さらには共同体、ジェンダー、エコロジーなどの領域で検討し、もう一回マルクスの思想について考えよう、という企画も準備しています。

佐々木: 私は、マルクスの理論は資本主義を変革するための最強の武器だ、と『カール・マルクス』で書いたのですが、それには、マルクスの理論をこの現実に接近させるような媒介作業が当然必要です。また、そうした日本のマルクス研究を海外に発信していくことも重要になってくると思います。ということで、斎藤さん、頑張っていきましょう(笑)。


堀之内出版ブログ(公式)、2018/04/23 16:41
佐々木隆治×斎藤幸平
『マルクスとエコロジー』刊行記念対談
「マルクスのアクチュアリティ」

https://note.mu/horipub/n/n81771f5788bf

(※)『nyx(ニュクス)』 第3号 雑誌(堀之内出版、2016年11月)

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2019年09月07日

はぐらかし、どっちつかずの政治

 関連書籍を紹介しつつ、先日の参院選を振り返るような原稿を、と依頼されたのだが、「先日の参院選」とは一体何だったのか、と位置付けを模索するだけで原稿が終わりそうである。

 来週、内閣改造を行う安倍晋三首相は、
「参院選でいただいた国民の力強い支援・支持に応え、約束した政策を一つ一つ実行していく」
(9月2日・政府与党連絡会議)
と述べた。

 ハードルを低めに設定し、改選前から議席を減らしたにもかかわらず、「力強い支持」と言い切ることで半ば強引に勝利を演出した。

■「論破」の構図

 安倍晋三、菅義偉、河野太郎など、政権の中枢にいる政治家9名の著作や対談本、インタビューを読み込みながら、その思想的特徴を分析した中島岳志『自民党 価値とリスクのマトリクス』(スタンド・ブックス、2019年5月)は、記者やカメラの前で取り繕う言動ではなく、政治家の内心に備蓄されてきた思考をほじくり出す。
 政治家に成り立ての頃、安倍は「保守への思想的関心よりも、アンチ左翼という思いが先行していた」し、「相手の見解に耳を傾けながら丁寧に合意形成を進めるのではなく、自らの正しさに基づいて『論破』することに価値を見出(みいだ)して」きた。
 自分で考えた言葉ではなく、用意された原稿を読み上げるばかりの現在、その「論破」を、自分と距離の近い論客に委ねている構図が見える。

 著名なフリーアナウンサーと結婚した後、なぜか政治家として過剰に持ち上げられている小泉進次郎には、キャッチーなワンフレーズを述べるだけではなく、「自らの総合的ヴィジョンを整理し、本を書いてみる」のはどうか、と辛(から)い。
 政治家に根差している考えとは何か、いや、そもそも考えを有している人物なのかどうかから問いかける。

■ 茶化して潰す

 今回の選挙も若い世代の投票率が伸び悩み、相変わらず「若者の政治離れ」との見解が並んだが、政治家が投票率の高い層を意識した政策を手厚くしているのだから、政治が若者から離れているのが実情ではないか。

 中西新太郎『若者は社会を変えられるか?』(かもがわ出版、2019年8月)が問題視するのは、社会に充満する「何も知らないくせに、意見を言う資格などない」という態度であり、「基礎的な生育環境である消費文化世界をつらぬく非政治性」である。

 社会のさまざまな場面で、
「自分勝手な言い分を出すな、秩序に従え」という要求が繰り返される。
 若者は、社会から無能宣告されるのではないかと怯(おび)えながら、頑張って「いい人」であろうとする。
 そんな中でも、私はこう思う、と表明する若者たちが出てきている。

 非政治性を要求する社会は、彼らの存在を茶化(ちゃか)して潰すことを急ぐ。
 若者たちに意思表明を諦めさせるのだ。

 私たち有権者は、政治家の言葉を受け止め、思考し、賛否を表明し続けるしかないのだが、政治家に問いかけても、とにかく答えが返ってこない。
 木下健/オフェル・フェルドマン『政治家はなぜ質問に答えないか』(ミネルヴァ書房、2018年4月)は、政治家の答弁を「どっちつかず理論」に基づいて分析する。

「どっちつかず」の定義とは、「婉曲(えんきょく)的なコミュニケーションであり、曖昧(あいまい)で間接的、矛盾やはぐらかしが含まれている」もの。
 これをひたすら繰り返すことで「政治家が答えない箇所にこそ政治的な問題が含まれている」状態が生まれてしまう。
 日本語は、ほのめかすのが得意な言語だが、その特性を活(い)かし、具体的な言及から回避する行為が重なっていく。

 参院選前の争点を思い出す。
 統計不正、老後2000万円問題、日米貿易、北朝鮮関係などの諸問題が「どっちつかず」のまま選挙をまたぎ、国民の「力強い支持」との宣言で忘れ去られる。
 はぐらかして消す作業を繰り返す政治を前に、繰り返し表面化させる作業が必要だろう。

※ たけだ・さてつ
 ライター、1982年生まれ。『紋切型社会』でドゥマゴ文学賞。『日本の気配』など。


朝日新聞・ひもとく、2019年9月7日05時00分
選挙前後の空気感 はぐらかし、どっちつかずの政治
(武田砂鉄)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14168571.html

 1923(大正12)年、関東大震災直後に自警団や軍などによって多くの朝鮮人が虐殺されたことは、中学の教科書にも載っている近代史上の大事件だ。ところが近年、ネット上に、「虐殺などなかった」と主張する人々が現れている。

 荒唐無稽にもほどがあるが、それで済む話ではない。なぜなら、そうした主張が実際に現実世界に侵入し、虐殺事件をめぐる教育や展示、犠牲者の追悼などを潰そうとする動きとなって現れているからだ。

朝鮮人虐殺事件とはなんだったのか

 まずは、朝鮮人虐殺とはどのような事件だったのか振り返ってみよう。

 歴史の教科書、たとえば『中学社会 歴史』(教育出版)は、「混乱のなかで、『朝鮮人が暴動を起こす』などの流言が広がり、住民の組織した自警団や警察・軍隊によって、多くの朝鮮人や中国人が殺害され」た事件として説明している。

 関東大震災が発生したのは1923年9月1日の昼前。東京と横浜の中心部がほぼ全焼し、約10万5000人という死者・行方不明者を出す惨事となった。突然の厄災に不安と怒りが渦巻くなかで、「朝鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といった流言が広まり、至るところで自警団などが朝鮮人を殺害した。「虐殺」と呼ばれるのは、無防備の相手を集団で取り囲み竹やりで刺す、火の中に投げ込むといった方法の残忍さのためだ。虐殺は1週間ほど続いた。

 この事態に対しては行政機関の責任が大きかった。警察は真っ先に流言を信じて人びとに拡散させたし、戒厳令によって市街地に進出した軍隊の一部も、各地で朝鮮人を銃殺した。

 内閣府中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会が2008年に発表した報告「1923関東大震災【第2編】」は、以下のように書いている。

「関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった」

「特に(9月)3日までは軍や警察による朝鮮人殺傷が発生していた」

流言を基にしたネットの虐殺否定論

 ところが冒頭に述べたように、ネット上に「朝鮮人虐殺はなかった」と主張する人々が現れている。正確に言うと、彼らが言っているのは、「朝鮮人テロリストたちが武装蜂起し、街に火を放ち、井戸に毒を入れたのは事実だ。自警団が朝鮮人を殺したのはこれに対する正当防衛であって、虐殺とは呼べない」ということである。つまり、朝鮮人の「暴動」「放火」「投毒」といった流言を、彼らは事実だったと考えるのである。

 その証拠として彼らが示すのは、当時の新聞記事の数々だ。

 たとえばこんな見出しの記事が、画像つきでアップされている。

「不逞鮮人1千名と横浜で戦闘 歩兵一個小隊全滅か」(「新愛知」1923年9月4日)

 同工異曲の内容の記事画像が、ネット上にはいくつもアップされている。「主義者と鮮人一味、上水道に毒を撒布」「鮮人浦和高崎に放火 高崎にて十余名捕わる」などなど。

 なるほど確かに、「朝鮮人暴動」を伝える当時の記事は無数に存在する。だがそれらは、震災直後の混乱期にあふれた流言記事として知られているものだ。当時、東京の新聞社のほとんどは焼失し、焼け残った在京紙と地方紙は被災者から聞き取った流言をそのまま書き飛ばしていたのである。その結果、朝鮮人関連以外でも、「伊豆大島沈没」「富士山爆発」「名古屋も壊滅」といった誤報が氾濫した。

 混乱が落ち着くころには、それらが虚報・誤報であったことは誰の目にも自明だった。著名な新聞記者の山根真治郎は、「在留朝鮮人大挙武器をふるって市内に迫る」などの虚報が氾濫したことを回想して「数えるだにも苦悩を覚える」と悔いている(山根『誤報とその責任』日本新聞協会附属新聞学院、1938年。1941年に内外通信社出版部から再刊)。

 ちなみに先の「不逞鮮人1千名と横浜で戦闘」という記事も、震災の3年後に内務省がまとめた『大正震災志』に典型的なデマ記事の一例として挙げられている。

 実際には当時、殺人、放火、強盗、強姦の罪で起訴された朝鮮人は一人もいなかったし、武装蜂起やテロ、暴動の存在についても司法省や警視庁、神奈川県知事、陸軍の神奈川警備隊司令官などが否定している。朝鮮人の暴動をこの目で見たという証言も(震災直後の流言記事以外には)全く存在しない。

朝鮮人虐殺否定論の仕掛け人

 一方で、無防備の朝鮮人が日本の民間人や軍によって殺されたという記録は、公的な記録から目撃証言に至るまで無数に残っている。日本のまともな歴史学者で、「朝鮮人が暴動を起こした」とか「虐殺はなかった」などと言っている人は、左右を問わず存在しない。

 震災直後の流言記事の画像を見て「朝鮮人暴動」の証拠だと考えるのは、早合点なのである。

 だが、こうした流言記事を最初に「朝鮮人暴動」の証拠として掲げた人びとがいる。彼らは、決して早合点だったわけではない。世の人びとに「朝鮮人虐殺はなかった」と信じさせるために、分かった上でそのように喧伝してみせたのである。それは、彼らが「発明」したトリックであった。

 彼らとは誰か。ノンフィクション作家の工藤美代子・加藤康男夫妻である。

 工藤氏(1950年生まれ)は『なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか』から『美智子皇后の真実』に至るまで、幅広いジャンルで旺盛に執筆してきた作家だが、日本会議系の団体の呼びかけ人を務めるなど、右派言論人の顔も持つ。
 夫の加藤康男氏(1941年生まれ)も、1928年に起きた張作霖爆殺事件にコミンテルンが関与していたと主張する本などを出している人で、やはり右派言論人と言ってよい。

 2009年、工藤美代子氏の名前で『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版、2009年)が刊行される。これによって「朝鮮人虐殺否定論」が誕生する。5年後の14年には、同書の「新版」として『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック、2014年)が刊行される。しかしこちらの著者名は「加藤康男」になっている。工藤氏の夫である。同じ本なのに著者が交代するとは奇妙な話だが、加藤氏による新版の後書きによれば、もともと妻との「共同執筆」だったので今回は自分の名義にしたのだという。共同執筆なのであれば、2人の名前を出して共著ということにすればよいはずだ。著者が「交代」するなど、前代未聞である。面倒なので、本稿では以下、この本を書いた人物を“工藤夫妻”とし、本のタイトルを“この本”としておく。

虐殺否定論のトリック

 さて、工藤夫妻はこの本において以下のような主張をしている。

「震災に乗じて朝鮮の民族独立運動家たちが計画した不穏な行動は、やがて事実の欠片もない『流言蜚語』であるかのように伝えられてきた。(略)何の罪もない者を殺害したとされる『朝鮮人虐殺』は、はたして本当にあったのか。日本人は途方もない謀略宣伝の渦に呑まれ、そう信じ込まされてきたのではあるまいか」
(加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』p20)

 つまり、朝鮮人テロリストたちが震災に乗じて暴動を起こしたのは流言ではなくて事実だった、自警団の行動はこれに対する正当防衛だったのであり、「虐殺」と呼ぶべきではないというのだ。

 その証拠として彼らが示すのが、震災直後の流言記事である。たとえば「朝鮮人が放火した」と書いてある記事を示して、それをそのまま朝鮮人が放火を行った証拠だとしてみせる。こうした主張の羅列が、この本の軸をなしていると言ってもよい。

 だがすでに触れたように、彼らが自らの主張を本当に信じているかといえば非常に疑わしい。なぜなら、この本を仔細に検証すればするほど、それが史料の恣意的な切り貼りをはじめとするトリックの上に成り立っていることが分かるからだ。奇術師が自分を超能力者だと思い込むことがないのと同様に、意図的なトリックを作り出して読者に何かを信じさせようとする著者自身が、それを信じているとは考え難い。

 工藤夫妻は、それらの記事の多くを姜徳相/琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房、1963年)に収録されたものから“引用”している。

『現代史資料6』は、朝鮮人虐殺関連の資料を包括的に集めた本である。そこに収められている新聞記事は、震災直後の「朝鮮人暴動」記事だけではない。世の中が落ち着いて以降の、朝鮮人虐殺の凄惨な様相を伝える記事や、虐殺を行った自警団を裁く裁判の記事も収録されている。それらを読めば、震災から1カ月もたったころには誰も「朝鮮人暴動」を信じていなかったことも理解できるだろう。そして、『現代史資料6』を出典として繰り返し明記している工藤夫妻は、当然、そうした記事にも目を通しているはずである。ところが彼らは、朝鮮人暴動が事実ではなかったことが分かった震災翌月以降の新聞記事をすべて黙殺した上で、震災直後の流言記事だけを抜き出して「朝鮮人暴動」の「証拠」として読者に提示してみせているのである。

 この資料集には、新聞記事以外にも、公的な記録や数年後に書かれた手記なども収められている。工藤夫妻は、そうした手記からも“引用”を行っている。ところが、その切り取り方が作為的なのである。たとえば、朝鮮人暴動の噂を聞いていた人が実際に市街地に行ってみたところ、朝鮮人暴動どころか自警団の朝鮮人迫害を目撃したという内容の手記から、前半の「朝鮮人暴動の噂」だけを切り取って朝鮮人暴動があった証拠として読ませるといった具合である。また、“引用”に際して、至るところで「略」とも示さずに都合の悪い部分をこっそりブツ切りにしている。

 この本には、他にも大小のトリックがちりばめられている。初歩的な数字の詐術で朝鮮人犠牲者の数を極小化する、権威ある資料を出典として明記しながら、そこにまったく書いていないことを書いてみせる、などなどである。そうした作業の上に、空想をまぶして虐殺否定論を成立させているのである。
 詳しくは、ブログ「工藤美代子/加藤康男『虐殺否定本』を検証する」(※1)か、あるいは拙著『トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(ころから刊)(※2)を読んでいただければと思う。要するに、虐殺否定論は仕掛けが分かれば脱力するようなレベルのトリックなのである。

差別が虐殺に行き着いたという史実

 だが、この本が生み出した「朝鮮人虐殺否定論」というトリックは、その後、確実に社会に広がり、現実を動かし始めている。
 まずはネット右翼、次いで政治家たちがこれに飛びついた。

 たとえば自民党文部科学部会の部会長である赤池誠章参院議員が自らのブログでこの本を讃え、「『朝鮮人虐殺』という自虐、不名誉を放置するわけにはいきません」と書く(14年9月1日「9月1日 防災の日 関東大震災を考える」)。
 憲法改正を掲げる「日本会議」は、ブックレット『緊急事態条項Q&A』(明成社、16年)の中で、この本を引用して「朝鮮人独立運動家」などがテロを行ったと記述し、憲法改正による緊急事態条項の必要性の根拠とした。

 この動きは行政の現場にも波及する。
 2012年には、横浜の歴史を教える中学生向け副読本の中の朝鮮人虐殺の記述を自民党市議が市議会で批判。「虐殺」などという表現はおかしいと主張した。これを受けて教育長がその場で回収を明言し、実際にすべて回収するに至った。こうした動きのきっかけとなった産経新聞の記事(2012年6月25日)には、工藤美代子氏の「当時は朝鮮独立運動のテロがあった」とのコメントが添えられていた。

 2017年には、東京都議会で自民党の都議が「小池知事にぜひ目を通してほしい本があります」として工藤美代子氏の本を紹介し、朝鮮人が震災に乗じて凶悪犯罪を行ったのは事実であり、歴代の都知事が行ってきた朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付をとりやめるべきだと小池都知事に迫った。これを受けて、小池都知事は実際に追悼文送付を取りやめてしまった。以来、18年、19年と送付を行っていない。(※3)

 トリックにすぎない虐殺否定論が現実の世界に侵入し、虐殺についての教育、追悼、展示を押し潰す武器となっているのだ。
 いくら荒唐無稽であっても、虐殺否定論を主張し続けていれば「朝鮮人虐殺の有無については諸説あるらしい」という雰囲気を社会に醸成することはできる。そうなれば、「諸説ある事柄について公共の場で教育するな、展示するな」といった圧力を加えることができるようになる。虐殺否定論を広める人びとの「目的」はそこにある。つまり、虐殺の記憶を封印することだ。

 ではなぜ、虐殺の記憶を封印したいのか。
 そこには、民族差別をガソリンとする、排外的で歪んだナショナリズムの高揚がある。そうした傾向を煽りたい人たちにとって、差別が虐殺に行き着いた朝鮮人虐殺の史実は喉元に刺さった骨だからである。


 だが、朝鮮人虐殺の史実が本当に忘れ去られてしまったら、どうなるだろうか。

 先に紹介した内閣府中央防災会議の専門委員会報告「1923関東大震災【第2編】」は、朝鮮人虐殺の史実から受け取るべき教訓として、「民族差別の解消の努力」と災害時の「流言の発生」への警戒を挙げている。この教訓が忘れ去られ、むしろ災害時には外国人のテロや凶悪犯罪に備えよという「教訓」にすり替えられたとき、100年前の惨劇がかたちを変えて繰り返される。
 実際、東日本大震災のときは「被災地で中国人窃盗団が暗躍している」といった流言がネット上で広がったし、それを真に受けて、中国人を見つけたら殺してしまおうと武装して被災地に乗り込んでいった右翼団体もあったのである。

 虐殺否定論は犠牲者への冒涜であり、歴史への冒涜であるとともに、未来の惨劇を招き寄せかねない恐ろしさをもっているのだ。民族的な多様化が進む日本社会で、決して許してはならない「トリック」なのである。


imidas・集英社、2019/09/06
なぜ朝鮮人虐殺の記憶を否定したがるのか
虐殺否定論者の戦略

加藤直樹(ノンフィクション作家)
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-189-19-09-g694

[ヤッホーくん注]
(※1)工藤美代子/加藤康男「虐殺否定本」を検証する
 このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本」を検証するために、「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。
http://kudokenshou.blogspot.com/

(※2)
・ ヤッホーくんのこのブログ、2019年09月02日付け日記「不定鮮人取締」参照。
・ 朝日新聞・好書好日、2019.08.17
「TRICK トリック」 歴史の土台崩す意図的な無理解

 本書のサブタイトルに「なかったことにしたい人たち」とある。この存在が可視化されたのが、「あいちトリエンナーレ」の企画展『表現の不自由展・その後』の中止、という帰結ではなかったか。加害した過去を受け止めて平和を問う機会を、公権力が奪う。「平和の少女像」などの展示を「自国ヘイト作品」と位置付ける芸能人まで現れた。表現の自由、女性の権利、それらを獲得するための長い歴史に、どこまでも無理解を貫く。でも彼らは、無理解を維持することで「なかったことにしたい」のだ。
 2017年、小池百合子都知事が朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典への追悼文送付を取りやめた。「個別の対応」をせず、全ての震災犠牲者に哀悼の意を表した、という。その判断が下される少し前、自民党都議が、追悼碑に刻まれた朝鮮人の虐殺犠牲者数について、「政治的主張」と述べた。その都議が論旨の骨格とした一冊が、工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』だった。
 1923年9月に発生した関東大震災の直後、「朝鮮人が暴動を起こしている」という流言によって多くの朝鮮人が虐殺されたが、近年、ネットを中心に「虐殺はなかった」などの主張が拡散されるようになった。この動きと小池の判断は、不気味に響き合っている。
 当時の新聞からネットの書き込みまで、通説をすべて引っ張り出して検証する執着に圧倒されるが、放置すれば「諸説あってはいけないのですか?」「悪いことをした朝鮮人もいた」などの曖昧な言い分と共に、「なかった」が増幅する。
 前出の工藤による書を入念に読み解き、「認識の誤り」ではなく、意図的に仕向けられた「トリック」だと明かす。無知ではなく、詐術によって歴史の土台を崩そうとする声が重なる。強引に仕立てられた説に、公権力が興味津々に近づいていく。「なかったこと」にしてはいけない。その地点に何度も立ち返り、虚偽を残らず削り取ってみせた。
◇ ◇ ◇
かとう・なおき
 1967年生まれ。フリーの編集者、ライター。『九月、東京の路上で』『謀叛の児』など。


[評者]武田砂鉄
https://book.asahi.com/article/12633321

(※3)朝日新聞、2019年9月1日19時27分

 関東大震災から96年を迎えた2019年9月1日、震災の混乱の中で虐殺された朝鮮人犠牲者らを追悼する式典が東京都墨田区の横網町公園で開かれ、約700人(主催者発表)が参列した。小池百合子都知事は3年連続で追悼文の送付を見送った。主催者からは「事実の風化につながる」と批判の声が上がった。
 政府の中央防災会議が2009年までにまとめた報告書によると、震災後に「朝鮮人が略奪や放火をした」などの流言が広まり、各地の「自警団」などが朝鮮人らを殺害する事件が多発した。1千〜数千人が殺されたと推計し、「虐殺という表現が妥当する例が多かった」と記している。
 式典は、虐殺された朝鮮人らを追悼するために市民団体などが毎年開催。今年の式典では、河野洋平・元衆院議長が「歴史を銘記して語り伝えることによって、民族差別とは無縁の社会を作っていきたい」とするメッセージを寄せた。
 歴代の都知事は式典に追悼文を寄せており、小池知事も就任直後の2016年は送付した。だが翌2017年からは「震災の犠牲者全てを対象とする法要で哀悼の意を示している」として、取りやめた。小池知事は虐殺についても「さまざまな見方がある」とあいまいな言い方を続けており、式典の実行委員会が8月下旬に抗議声明を発表していた。
 江戸川区の会社員男性(45)は「小池氏はダイバーシティー(多様性)を標榜(ひょうぼう)しているが、追悼文を送らない姿勢はそれを感じさせない」と語った。
 同じ公園内にある都慰霊堂ではこの日、震災の犠牲者を悼む大法要も開かれた。小池知事の追悼文が代読されたが、朝鮮人の虐殺には触れなかった。


小池知事、今年も追悼文送らず
関東大震災の朝鮮人虐殺

(軽部理人)
https://digital.asahi.com/articles/ASM914GYYM91UTIL00J.html

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三原じゅん子

 2019年9月11日に行なわれる内閣改造で、安倍首相は本気で三原じゅん子(1964年生まれ、参議院議員 神奈川選挙区)を入閣させるつもりらしい。
 三原の入閣は前々から噂レベルで流れ、週刊誌なども話半分で報じていたが、昨日深夜、TBSが「複数の政府・与党関係者」の情報として、「自民党の三原じゅん子参議院議員を初入閣させる方向で調整に入った」と確定的に報じたのだ。

「政治的な実績がほとんどないため、政権内でも閣僚入りに反対の意見が多かったが、安倍首相が強く推しているようだ。6月の国会で、安倍首相の問責決議案への反対演説に立って、野党を怒鳴りつけただろう。安倍首相はあれがすっかり気に入って、事あるごとに『三原さんはどうか』と推すようになった」
(ベテラン政治評論家)

 安倍首相は先の参院選の政見放送でも三原をパートナーに選んでいたし、三原のことをやたら買っているのは確かだ。
 しかし、「あの演説を気に入って」閣僚に抜擢って、安倍首相は正気なのか。

 たしかにあの演説は話題にはなったが、支持したのは一部のネトウヨだけ。
 ひたすら安倍首相を礼賛し、野党にも安倍首相への感謝を要求。
 さらに「恥を知れ!」などと啖呵を切る様子に、多くの国民から「北朝鮮みたい」「ほとんどカルト」と恐怖を訴える声が上がっていた。

 しかも、恐ろしいのは、三原じゅん子が実際は深いことなど何も考えていないのに、ただただ安倍首相に追従して、極右化していることだ。
 2015年には、参院予算委での質問のなかで、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と切り出し、「安倍晋三首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」などと主張。
 批判を受けると、
〈「八紘一宇」は、今まさに我々が直面する課題、つまりグローバル資本主義の暴走、利己的個人主義の行き過ぎといった問題に対処するときの指針になるということを、広く知って欲しかった〉
(「正論」2015年6月号/産経新聞社)などと言い訳した。
 
 要するに、この人、八紘一宇の意味も、安倍政権がまさにグローバル資本主義を志向していることも知らないで、自民党議員をやっているのである。

 こんな“スカスカ”極右思想の持ち主が大臣なんかやって大丈夫なのかと思うが、しかし、考えてみれば、こういうところが、安倍首相のお気に入りなのだろう。
 安倍首相はこれまでも、稲田朋美や杉田水脈など、男社会の権力に媚びるために中身のない極右思想をおうむ返ししているだけの女性議員をやたら重用してきた。
 しかし、稲田や杉田が失言や不祥事ですっかり政治家としての能力がないことを露呈してしまったため、今度は三原じゅん子に目をつけたということではないか。

 とはいえ、「組閣は蓋があくまでわからない」というのが永田町の常識。
 本格的な批判は実際に三原が閣僚になってからにして、今回は、例のカルト演説が飛び出した際の記事を再録しておこう。
 これだけでも十分に、この議員のヤバさはわかってもらえるはずだ。
…………………………………………………………………………………………

 6月25日、衆院では内閣不信任案が、前日24日は参院で安倍首相の問責決議案が提出され、いずれも否決された。
 26日、閉会を迎える国会だが、結局、安倍自民党は予算委員会の集中審議を拒否しつづけ、不信が高まる年金問題の説明責任から逃げたのだ。

 しかし、問題はこれだけで終わらない。
 24日の参院本会議における問責決議案への反対討論に自民党代表として壇上に立った三原じゅん子議員が、政権与党として説明から逃げていることを棚に上げ、すべての責任を野党に転嫁。挙げ句、安倍礼賛を繰り広げたことに、ネット上では悲鳴の声が上がっているのだ。

三原じゅん子の演説に「カルトに国会が乗っ取られた」「どこぞの独裁国家か」と悲鳴の声

「く…狂ってる」
「カルトに国会が乗っ取られた瞬間」
「この口調、まるで、どこかの独裁国家の放送かと思った」
「どこぞの独裁国家かと思いました」
「ここまで人間、恥知らずになれるのか、とこっちが恥ずかしくなる」

 一体、どんな演説だったのか。三原議員は、反対討論をはじめるや否や、『3年B組金八先生』での台詞「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」を彷彿とさせるドスの利いた声で、こう吠えた。

「もう何度、この光景を目にしたでしょうか。野党のみなさん、はっきり言って、もううんざりです。野党のみなさん、国民にとって大切な、大切な年金を、政争の具にしないでいただきたい。お一人お一人の高齢者のみなさまの生活への切実な不安を、煽らないでいただきたい! 猛省を促します」

 そもそも「老後は年金に頼るな、2000万円自助で貯めろ」という報告書案を作成したのは政府であり、その問題を「報告書は受け取らない」「報告書はもうない」などと誤魔化しておきながら、「年金問題を政争の具にするな」「不安を煽るな」って……。

 だが、三原議員はさらにヒートアップし、
「テレビ映りだけを意識して針小棒大のパフォーマンス。選挙目当てで、国民不在。所属政党コロコロ変える。対案なしで何でも反対。やることすべてがブーメラン。もう悪夢は絶対見たくない」などと下手なラップのようなフレーズを並べ立てて野党批判を展開。
 そして、決め台詞を放つかのごとく正面を睨み付け、ものすごい剣幕で、こう主張したのだ。

「政権交代から6年余り。民主党政権の負の遺産の尻ぬぐいをしてきた安倍総理に、感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど、まったくの常識はずれ、愚か者の所業とのそしりは免れません! 野党のみなさん、もう一度、あらためて申し上げます。恥を知りなさい」

 出た、安倍首相とそっくりな「民主党の負の遺産」攻撃。

 三原議員は民主党が、第一次安倍政権が引き起こした「消えた年金」や「福島原発の津波対策拒否」の「尻ぬぐい」をやらされたことを知らないのか。
 しかも、民主主義国家の「言論の府」である国会で、行政府の長でしかない人物に「感謝」を迫るとは……。

 ここは、北朝鮮の最高人民会議か。
 いや、その口調を聞いていると、三原議員は本気で安倍首相のことを絶対君主か何かだとでも思っていて、国会を絶対忠誠を誓わない者への弾劾裁判の場だとでも勘違いしているとしか思えない。

 三原議員といえば、2015年の参院予算委員会でも、
「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」などと言い出したこともある。
 きっと、脳みそが「ファシズム」に侵されているのだろう。

三原じゅん子の安倍礼賛の根拠はフェイクだらけ、都合の悪い数字は隠し

 だが、恐ろしいのはこのあと。
 三原議員はこの反対討論の動画をSNSに貼り付け、自信満々で〈【拡散希望】〉と投稿。
 すると、「カルトか」の批判の一方で、ネトウヨや安倍応援団から「まったく正論」「スカッとした!」「流石女番長」「これが国民の声です」「説得力がありすぎる」などと絶賛するコメントも数多く寄せられたのだ。

 いやいや、「説得力がある」って、まったく何を言っているのだか。
 だいたい、三原議員は、
「野党のみなさんは、年金を増やす具体的な政策を持ってるのでしょうか? 具体的な対案もないままに、いたずらに国民の不安を煽る」
「いままた、出来もしないのに対案もないのに、ただ不安だけを掻き立てる」などと述べたが、党首討論でも、立憲民主党の枝野幸男代表や共産党の志位和夫委員長は具体的な対案を提唱している。
 いま国民が不安に感じている、年金給付水準が下がっていくことがわかりきっている現行の制度にしがみつき、対案も出さず、他の提案にケチをつけているだけなのは、安倍首相のほうなのだ。

 しかも、だ。
 安倍首相が乗り移ったかのように三原議員が並べ立てた“安倍政権の成果”は、都合の悪い数字を覆い隠したものでしかない。
 たとえば、三原議員は民主党ディスを織り交ぜながら、安倍政権の成果をこう誇った。

「安倍内閣は、この6年間で正社員を130万人以上増やしました。民主党政権時代はどうだったか? 増えるどころか、なんと50万人も正社員が減っていた。あの時代、仕事をしたくても、見つからない。若者をはじめ多くのみなさまが、つらい思いをしていたのであります」

「安倍内閣のもと、この春、中小企業で働くみなさまの賃金はしっかりと上がりました。賃上げ率は、この20年間で最高水準です。民主党政権時代はどうだったか? 賃金を増やすどころか、企業自体の倒産がいまよりも4割以上多かった。連鎖倒産という言葉が日本中を覆っていました。まさに悪夢だったのであります!」

 三原議員は、まるで安倍政権が雇用環境を改善させたかのようなことを言っているが、冗談じゃない。
 雇用が増えたのは、世界的な好況と円安に支えられただけで、全体の比率でいえば、第二次安倍政権下(2013年1月〜2019年1月)で増えた雇用のうち、じつに約7割が非正規雇用であり、多くの人が「仕事をしても長時間・低賃金・社会保障なし」という労働状況に晒されているのだ。

 さらに、「賃上げ率はこの20年間で最高水準」と言うが、連合集計で見ると、これは名目賃金だ。
 そして、この結果から物価の変動の影響を差し引いた、生活実感に近い実質賃金の賃上げ率だと、民主党政権時代の平均賃上げ率は2.59%であるのに対し、第二次安倍政権での平均賃上げ率はわずか1.1%。
 安倍首相が持ち出す連合の結果で見れば、第二次安倍政権下の実質賃金の賃上げ率は、今世紀で最低水準なのだ。
 
 また、倒産件数についても、安倍首相は第二次安倍政権下で倒産件数が3割減だと胸を張っているが、倒産に休廃業・解散を加えると、2013年が4万5655件だったのに対し、2018年には5万4959件へと増加している(東京商工リサーチ調査、しんぶん赤旗2019年4月18日付)。
 ちなみに、休廃業・解散件数は2018年で4万6724件。これはリーマン・ショック後である2009年の2万5397件を上回っている。
 リーマン以上というこの数字は「悪夢」ではないのか。

安倍政権長期化で劣化する国会議員、フェイクとカルト地獄

 だいたい、民主党政権は約3年だったが、そこから安倍首相は倍にあたる約6年も政権を握ってきた。
 にもかかわらず、「安倍総理は6年あまりも民主党政権の尻ぬぐいをしてきた」って、まったくいつまで言っているんだか……。

 その上、噴飯モノだったのは、三原議員が声高に叫んだ、このフレーズだ。

「国民が求めているのは足の引っ張り合いではありません。しっかりと政策論をしてほしい。実のある議論こそ求められているのであります」

「令和の新しい時代に入って、明日の日本をどうつくるのか、建設的な議論を行う、真に国民のための国会を取り戻しましょう。こんな光景は、平成の時代で終わりにしたかった」

 それはこっちの台詞だよ!という話だ。

 いつまでも「平成」の民主党ディスばかり呪文のように唱え、対案を出している野党を「対案がない」と批判し、肝心の国会審議は拒否し、討論に立ったかと思えば安倍礼賛を繰り返す……。

 フェイクとカルトが混ざり合った地獄が国会で展開されるとは、それこそが「悪夢」のような光景だ。

 無論、ここまで国会を劣化させたのは、自らがネトウヨ脳の持ち主である安倍首相である。

 一体、どこまでこの国を劣化させるつもりなのか、考えるだけで暗澹たる思いを抱かずにはいられないだろう。


リテラ、2019.09.06 06:59
安倍首相が三原じゅん子を閣僚に推したのはあの安倍礼賛“カルト演説”を気に入ったから…
そのヤバすぎる中身を振り返る

https://lite-ra.com/2019/09/post-4950.html

「八紘一宇」の碑に、2019年5月12日(日)、山歩クラブのお山歩会で、生藤山9903mへの登山口「石楯尾神社」で遭いました ☟

八紘一宇.JPG

 日本国憲法のもとのコクミンであるヤッホーくん、大日本帝国の臣民でも赤子でもないので、とうてい受け入れるわけにはいかない「八紘一宇」。
 上から赤子(せきし)への思想注入、「皇国の国是」で、全世界を天皇のもとに一つの家とするという意味なんですよ。
 それをですね、憲法99条「憲法尊重擁護義務」のある国会議員が、国会の場で上から目線で発言しているとはびっくり。

posted by fom_club at 08:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

池内紀の遺言

 ヤッホーくんのこのブログ、2016年11月06日付け日記「池内紀」をお読みください。

 丸みがあって少し右に傾く文字はどこかユーモラス。池内紀(おさむ)さんの手書き原稿である。本紙夕刊のコラム「今日の視角」を執筆し毎週ファクスで東京支社の担当デスクに送ってくる。時候のあいさつや連絡など一言を必ず添えてきた。

 ほがらかでひょうひょうとし時代の正体を見抜く批評眼を持っていた。ドイツ文学を基盤に山歩きや温泉など趣味も生かした軽妙な文章が人気だった。8月28日に届いた原稿が最後の「今日の視角」になった。その2日後、自宅で78歳で亡くなっている。

 絶筆は学生らの日常を描いた。向かい合ってもスマホを見つめ、自転車を並走させる時だけ会話をしている、と。

存分に話し合ったときの爽快感を忘れずにいる者は、目をつむって過去を見入っている>と結んだ。

 書き添えた言葉は<体調を崩して何事もおっくうです>だった。

『ヒトラーの時代』(中公新書)を7月に出版している。ドイツ人がなぜ、独裁者を歓呼で迎えたのか。
自分なりに解明するのが『ドイツ文学者』として生きるかぎり、自分が自分に課した義務だと思っていた>と8月27日付「今日の視角」に書いた。

「最後の仕事」との思いがあったのだろう。新書の結びにこんな一文がある。

ナチズムの妖怪は異常な人間集団のひきおこしたものではなく、その母胎にあたるものは、ごくふつうの人びとだった

 ヒトラーの時代を一人ひとりが「負の鏡」として見つめてほしいとの遺言が聞こえてくる。


信濃毎日新聞・斜面、2019年9月6日
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190906/KT190905ETI090003000.php

 合掌……

 おっくうという病(やまい)がある。
 漢字で書くと「億劫」。
 医者のカルテにはしるされていないから、医学的には病気ではないのだろう。
 若い人がかかるケースはごく少ないと思われる。
 齢とともに疾患率が高まって、老いの到来とともに歴然とあらわれる。

 へんな漢字なのは、「おくこふ」の変化したもので、もともと長い時間がかかり、すぐにはできないという意味だったらしい。
 すぐにはできない、つまりしたくない。
 辞書には「手足や頭を働かせることがめんどうな様子」(「新明解国語辞典」)とある。
 気が向かない、めんどくさい、大儀だと言うのに似ている。
 亢進(こうしん)すると、こんなセリフになる。

「何もかも、おっくうだねェ」

 私はまだそこまでは進んでいない。
 何もかもではなく、さし迫った何かが、おっくうになる。
 昔の仲間と久しぶりに会食をする約束、チケットを買ったピアノ演奏会、ちょっとした遠出のプラン、駅前の喫茶店でのインタビュー……。

 会食を約束したとき、あるいは演奏会のチケットを手に入れたとき、たのしみだった。
 遠出のために地図やジャケットを用意したし、インタビューは身近なテーマで、なんら負担ではない。
 どれも気軽に応じられる。
 身支度をして、定刻に合わせて出かければいいのである。

 それがそうとはならないのだ。
 前日の夜あたりから、全身がだるい感じで何やら気が重い。
 当日の朝、時間の腹づもりをするあたりから、気分がめいってくる。
 心がはずまない。
 なんともいえぬもの哀(がな)しい気分。
 自分では「老人性メランコリー」と言いかえて、さしあたりは我慢している。
 メランコリーは若いときもあったが、正確にはセンチメンタルで、おセンチな手紙を書いたり、映画館に行けば、あとかたもなくなった。
 このたびはまるでちがう。
 そもそも手紙を書きたいなどとは、まるきり思わないし、映画に行くなんて、もとよりおっくうでならない。
 何の因果で人ごみの中へ出かけていくのか。

 ウツウツとして沈んだ気分だが、気に病むことがあるわけではないのである。
 気に入らないことがかさなっているといったこともない。
 むしろ大げさではなく、存在の根源的なさびしさ、わびしさにあたる気がする。
 言いようのない心の状態であって、何をするにも大儀で、めんどうなのだ。
 なろうことなら、このままじっとしていたい。

 どうして約束などしたのだろう?
 久しぶりだとしても、古なじみである。
 いつもどおり、たあいないやりとりを交わし合って、おひらきになるだろう。
 電車を乗り継いでコンサートに行かなくとも、寝椅子に寝そべってCDを聴いていれば十分にピアノは堪能できる。
 なぜ、あんなへんぴな所の遠出を計画したのか、われながらバカげた思いつきと言うほかない。
 体調を理由に、いまからでもインタビューは断れないか……。

 19世紀パリの詩人ボードレールの詩集『悪の華』に「敵」と題されたソネットがある。
 その第四連、訳者によっては「仇敵」と訳している。
 苦しや、苦し、「時」は生命(いのち)を啖(くら)ふなり、眼にこそ見えね「仇敵」は、心臓(こころ)をむしばみ、失へるわれらが血もて肥え太りゆく。
(齋藤磯雄訳)

 タイトルの「敵」あるいは「仇敵」とは何か。
 あきらかに「時」だろう。
「時」が「かたき」である。
 元の詩でも、時と敵の二つの単語が大文字になっている。

「時」は単なる時間ではなく、季節にもかかわり、第二連では「思想(おもひ)の秋」とある。
 この秋は「人生の秋」でもあって、第一連の「若きわが日」の対比、「老いの秋」とかさねてある。

 それにしても「時」がいのちを啖うとは、どういうことか。
 ヨーロッパの古くからの故事を踏まえていて、時間がわが子を食らう。
 スペインのプラド美術館にゴヤの「サトゥルヌスが子を食らう」というおどろおどろしい絵があるが、同じく故事によっている。
 ボードレールは別の詩で、
 さて『時』の、刻一刻とこのわれを嚥(の)み込むさまや
(齋藤訳)

とも述べている。

 それでは、どうして「敵」が私たちの心臓をかじり、私たちの血を吸って肥えふとるのか。
 これも故事を踏まえている。
 ホメロスによると、人をみまう「哀しき心の状態」のこと。
 このような心の状態はメランコリーの狂気であって、それが心臓を噛(か)む。
 おのずと人は孤独を好み、引きこもりたがる。
 ボードレールはヨーロッパの文学遺産をちりばめて、自分をみまうアンニュイ(憂愁)の時を詩にうたった。

 はじめにおっくうを病だと言ったが、生きていることの本来的なメランコリーが病気だとしたら、健康とは何か。

 ともあれ人を避け、引きこもるのは、ほどほどにしよう。
 老いとともに社会的のけ者になるのはやむを得ないとしても、旧友と会い、ピアノ演奏をたのしみ、たまには遠出をして、インタビューでホラを吹くのも悪くない。
 人と親しみ、なろうことなら愛し、愛されていたいではないか。

 ノロノロと腰を上げ、ポケットのチケットをたしかめる。
 あるいは遠出の段どりを思案する。
 おっくう症の老人を笑ってはならない。
 髪がうすく、やや猫背で、足元が少しおぼつかないその人は、それと知らずパリの憂愁詩人を生きている。
 近代人のもっとも微妙な感性のなかにいる。
 自分でも扱いかねるのだもの、どうして他人に伝えられようか。

※ 池内紀(いけうち・おさむ)
 1940年兵庫県生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト。著書に「恩地孝四郎」「闘う文豪とナチス・ドイツ」「すごいトシヨリBOOK」など。


日本経済新聞・朝刊、2017/11/12付
おっくうの系譜
(池内紀)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO23343860Q7A111C1BC8000/

「ドイツ文学者」などと称し、なんとか身すぎ世すぎをしてこられたのは、若いときの勉強のおかげと思っている。
 とりわけ一冊の本にまつわり、多少とも風変わりな修練をした。

 26歳のとき、オーストリア政府奨学金というのでウィーンへ行った。
 住みついてしばらくのある日、ウィーン大学日本学(ヤパノロギー)研究室に出向いて、貼り紙をしてもらった。
 パソコンメディアがなかった当時、「言葉の交換」という素朴な言語習得法があった。
 現地の人と、それぞれの母国語で個人教授をする。
 こちらは相手の言葉を学びたいし、相手はこちらの日本語を習得したがっている。
 お互いさまだから授業料はなしで、ネイティブの言葉に親しめる。

 法学部の学生で、日本語を学んで5年のエーリヒという青年が名のり出てくれた。
 週一度の午後、双方がテキストを決め、訳文をつくってきて、前半はドイツ語、後半は日本語で双方の訳を検討する――。

 そのとき用いたのが、カール・クラウスの『人類最期の日々』という、やたらにぶ厚い本である。
 第一次世界大戦の前夜から開戦後の四年間にわたり、公式文書やドキュメントをセリフに仕立ててドラマ化したもの。
 ウィーン方言がやたらに出てきて、街の人でないとわからない。
 エーリヒはセリフをまねながら、クスクス笑って、これはヤクザ者、これはコチコチの官僚、これは政治好きの老人と識別してくれる。
 作者もまた、セリフだけで人物がわかるように語らせていた。

 若さが友情を結ぶのに名刺など必要としないのだ。
 かわりにおたがいの強い関心があった。
 言葉の交換のはずが、やがて考え方、たのしみ、将来の夢の交換にひろがった。
 そんな週一度をまる二年つづけた。
 原書で800ページに及ぶ翻訳の原稿は、トランク一杯ほどになり、帰国後、ほどなく本になった。

 セロハンテープを貼りめぐらした表紙をひらくと、なんのあてもなく、ただ若さの興味から熱中していた日々が、幻のように立ちのぼってくる


日本経済新聞・夕刊、2016/3/29付
「人類最期の日々」の原書
池内紀、ドイツ文学者・エッセイスト
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO98988680Z20C16A3BE0P00/

※ カール・クラウス(著)、池内 紀(翻訳)『人類最期の日々[普及版](上)(下)』(法政大学出版局、2016年11月)

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2019年09月06日

「五色桜」の醸造元は信州銘醸!

 ヤッホーくんのこのブログ、今年の春2019年03月24日付け日記「本醸造『五色桜』」をお読みください。

 そう、この本醸造「五色桜」の発売元は、記念写真まで撮った東屋本店(足立区江北2-46-13 Tel 03-3899-1919)で、醸造元が信州銘醸(上田市長瀬2999-1 Tel 0268-35-0046)だったのです。

 そうでしたか、どうして山歩クラブの夏合宿が上田市になったのか、きっとこの時のお散歩会が終わった打ち上げで乾杯した「五色桜」の酒屋さん、蔵元さんの影響もあったんでしょうね。

 もう一度、復習:

 江北小学校、堀之内公園、江北氷川神社、そして今回紹介する熊の木広場と神領掘緑道がある江北2丁目界隈は、竹ちゃんが大好きなスポットの一つです。
 ここは、昔の「荒川の五色桜」の中心地・江北村のあった場所で、かつ西新井大師へつながる大師道があった場所。
 懐かしい匂いと静かなたたずまいが残された素敵な場所です。
 アジサイが咲き、古代の大賀ハスが花開く梅雨が似合う場所なのです。
 ぜひ行ってみてください。

 スタートは、荒川土手下通りにある有名な(交通違反取締りで)「江北二丁目交番」が目印です。
 鹿浜方面に向かって右へ行けば大師へつながる江北バス通り、正面右の一方通行が鳩ヶ谷街道、左が五色桜通り。
 この間に江北氷川神社(☎3897-6483)が鎮座し、その脇を神領掘緑道が続いています。

 6年前の2010(平成22)年、この場所にあっと驚く出来事がありました。
 区が五色桜の故郷であるかつての用水路・神領掘に桜並木を復活させようと整備していた矢先、工事現場からレンガの水門が出てきたのです。
 かつて花見の人々で賑わった水路の一部、「熊の木圦(いり)」でした。 

 それから3年後の2013(平成25)年、昭和天皇が幼少の折渡ったという熊の木橋(通称・眼鏡橋)は復元され、「熊の木広場」になり100mほどの緑道が整備されて88本の桜が植えられました。
 3月末、区長、議長が来て盛大に完成を祝いました。

 この広場の上の土手にあるのが、「東屋本店(酒店)」(☎3899-1919)で、広場の管理人をしているのが、店主の清水幸蔵さん(74)です。
 同店は、江戸末期の開店で、幸蔵さんは何と7代目。
 清水さんは「熊の木圦」の存在を知っていて、
「小さい頃に見ていたので、埋まっているのは知っていた。ずい道の中で魚を獲ったりして遊んだ」と言います。

 清水さんは、「荒川五色桜復活の会」の会長さんでもあり、同店だけで売られているお酒が、長野県上田市にある信州銘醸(株)が作る「五色桜」と「荒川堤」です。
 ともに全国新酒鑑評会の金賞を連続受賞しているおいしいお酒。
 「五色桜」は、吟醸純米が1.8L=2590円、本醸造が1.8L=1850円、720m=1830円。300ml=360円、「荒川堤」は、吟醸が1.8L=2350円、720ml=1150円。
 ぜひ、歴史ある熊の木広場を眺めながらこのお酒で一献どうぞ。

 この先の緑道を歩くと、すぐに江北小学校、都の熊の木ポンプ場があり、その隣が昨年の6月号で紹介した堀之内公園があります。
 今年は6月6日(月)に1株、ピンク色の大賀ハスが開花しました。


武ちゃんの足立日和、2016年06月08日
江北・熊の木広場と神領掘緑道は梅雨がよく似合うスポット
http://www.hojinkai-card.com/kawaraban/adachinikki/cat47/cat47-000769.html

 1897(明治30)年ごろから大正時代にかけて、荒川堤(※1)は東京でも有数の桜の名所でした。
 色とりどりの五色桜は、当時の新聞に「一望彩雲」とも「荒川堤の五色の盛装」とも、称えられました。
 煙害や戦後、薪(まき)として伐採(ばっさい)され、絶滅してしまったことは大変惜しまれますが、現在「緑のオーナー制度」などを活用して、その復活をめざしています。

 そもそもなぜ荒川堤に多種類の里桜がまとまって植栽されたのか、足立区教育委員会発行の『足立史談』527号にその理由が記されているのをみつけました。

「江北村の歴史を伝える会」の木村繁さんによる「昭代楽事」に関する報告です。

「昭代楽事」とは、1891(明治24)年4月、3,225本の荒川堤の里桜並木の完成を祝して出版された記念誌で、この中に植樹の経緯が記されています。
 それによると、
「当時は1884(明治17)年の朝鮮での戦い(政変)(※2)、国内での氾濫(はんらん)事件など、世情が不安定であった時代で、1885(明治18)年の洪水で熊谷堤が荒れてしまったことに落胆し苦慮していた江北村の人びとは、桜を植え、しかも小金井や墨田の桜並木に負けないようと努力し…」とあります。

 明治18年の大洪水とは、江戸時代以来落ちたことのなかった千住大橋が流失、足立では多くの家が浸水し、下町で救助を要した人が1万人という大災害でした。
 家屋が沈み、稲が腐るなどの大打撃を受けた江北村の村民たちの思いは想像できます。
 五色桜は、生きるための希望を託した証であると同時に、絶望のあまり気持ちがばらばらになりかけている村民の気持ちをひとつにまとめる絆だったのかもしれません。

 今年2012年は、荒川の五色桜が海を渡ってワシントンに植樹されてからちょうど100年目の年にあたります。
 このため100周年にあわせた桜100本の植樹や、その昔、付近に五色桜の植えられていた神領堀(じんりょうぼり)のめがね橋や熊の木の圦(いり)の復活・整備などを考えています。
 私たちの代では無理かも知れませんが、近い将来、桜の名所として復活することをめざして、1本また1本と植樹を進めてまいります。
 ぜひオーナーとしてご協力お願いいたします。

※1…… 桜の名所になった「荒川堤」で用いられている「荒川」は、1965(昭和40)年以前の現隅田川の名称です。
 現在の荒川は、昭和40年以前「荒川放水路」でした。
 桜の名所になっているのは千住から現・鹿浜付近で、とくに五色桜は現在の江北橋周辺から新芝川にかけて植樹された範囲になります。

※2…… 明治17年の朝鮮での戦い=甲申政変(朝鮮事件)という李氏朝鮮でのクーデター。


足立区公式サイト、2012年2月1日
五色桜のなりたちをご存知でしたか? 
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hisho/ku/kucho/mainichi-20120201.html

[甲申政変について補足]

◆ 急進改革派・金玉均

 金玉均(1851〜1894)は、1884年(高宗21年)の宮廷クーデター「甲申政変」を主導した急進改革派のリーダーである。

 1884年12月4日、金玉均ら急進改革派は郵政局竣工の祝賀宴を利用し、閔氏政権の大臣らを殺害して新政権を立てた。金玉均自身は新内閣で戸曹参判の地位に就き、国家財政の実権を握った。

 6日に発表された革新政綱では、清国との伝統的な冊封関係を清算して近代的独立国家を樹立すること、内閣の権限を拡大して国王の専制権を縮小すること、地租を改正するとともに、門閥や身分制度の廃止、などをうたった。近代的立憲君主制のもとで富国強兵と四民平等を志向したのである。

 だが、同じ6日の午後に清国軍がこのクーデターに軍事介入した。急進開化派の手勢は敗退し、軍事協力を約束していた日本軍は劣勢と判断して撤退してしまった。あっけない幕切れだった。

◆ 宮廷クーデターの爪痕

 急進主義による無謀なクーデターは多くの犠牲者を出した。金玉均のほか、朴泳孝、徐光範、徐載弼ら中心メンバーは日本に亡命したが、クーデター加担者は末端にいたるまで多くが殺され、中心メンバーの親族も逆賊として処刑された。

 文明開化を期して朝鮮で初めて発行された啓蒙新聞・「漢城旬報」の社屋も、この時に怒れる群衆の襲撃を受け、印刷機もろともに焼失している。

 朝鮮社会全体がいっきに保守化し、台頭しつつあった有力な開化派勢力が当時の政治地図から消滅してしまったのだ。

 残されたのは、旧体制の持続によって特権維持を図ろうとする守旧勢力と、委縮した少数の穏健改革派だった。

 上からの近代化をめざして大院君を執政の座から追いやり、開国を断行した閔氏政権もまた、儒林を背景とする保守派の強力な圧力を受けた。開国政策と内政改革はさらに後退させざるを得なかった。


民団新聞、2018-12-04 14:59:00
金玉均と金弘集
https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=7&number=24924

 上田市の蔵元さん五蔵がまとまって、お互いに切磋琢磨しもっと良いお酒を造っていこうと手をとりあっています。
 山歩クラブの夏合宿で上田市を訪問したヤッホーくん、なんと、三つの蔵元さんのお酒を試し飲みをしたきました。
 しかし実は、上田市にこの夏、お邪魔する前にもういただいておりました。それが本醸造「五色桜」だったのです:

【信州銘醸編】信州上田五蔵「山恵錦プロジェクト」
上田市 政策企画部 広報シティプロモーション課
https://www.youtube.com/watch?v=eWmEST2iYOk

信州銘醸公式サイト
http://www.shinmei-net.com/index.html

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虎の威を借るポチ

花瑛塾広報局‏@kaeizyuku_PR
9月4日

 2016(平成28)年7月、沖縄の高江でヘリパッド建設再開に抗議する市民を殴りつける機動隊員。
 全国から集まった500人規模の機動隊が人口150人程度の高江集落を「制圧」し、市民を暴力的に排除した。
 香港警察の暴力も許されないが、日本の警察が沖縄で何をやったのかも知ってほしい。


https://twitter.com/i/status/1169137262619222016

周庭 Agnes Chow Ting
9月4日
 条例の撤回は喜べません。遅すぎました。

 この3ヶ月間、8人が自殺。
 3人が警察の暴力によって失明。
 2人がナイフを持つ親北京派に攻撃され、重傷。
 1000人以上逮捕。
 100人以上起訴。
 怪我した人は数えきれないです。
 
 私たちは、5つの要求を求めています。
 これからも戦い続けます。

9月5日 - 5:52[声明]

 最近、ある日本の政党の出版物に、私の名を騙って、私が「自衛隊に香港を助けてほしい」と主張していると書かれていました。
 私はこのようなことは言っていませんし、このような主張はしていません。
 私について誤解を招くような文章を削除し、訂正することを求めます。
(ヤッホーくん注)

https://twitter.com/i/status/1168017776289517573

https://twitter.com/i/status/1160773638913527808

9月4日
 連日の韓国スピン報道を尻目に、あと10日ほどで決まってしまう #日米FTA は、あの不平等条約として有名な「日米修好通商条約」の比ではない。
 アメリカによる日本人恒久奴隷化の完成である。しかし殆どの国民は、事の重大さに気付いていない。

 本当に平和を願うのなら、韓国を敵視している場合ではない。
 自分の人生が他人に勝手に決められてしまうような、日米FTAが締結されるのを絶対に止めなければならない!


https://twitter.com/i/status/1169325469935624192

https://twitter.com/i/status/1165277175567835136

 そして、ヤッホーくんのあたまがクラクラになったのが、これ ☟

 アメリカのトランプ大統領が公約に掲げる、メキシコとの国境沿いの壁の建設に転用される国防予算について、国防総省は東京や沖縄の在日アメリカ軍基地からも、格納庫の建設費など日本円にしておよそ430億円を転用することを明らかにしました。

 メキシコとの国境沿いの壁の建設をめぐっては、アメリカ国防総省が36億ドル、日本円にして3800億円余りの国防予算を転用することを決めていて、9月4日、壁の建設費に充てる予算の内訳を発表しました。

 この中で在日アメリカ軍の5つの基地からも4億ドル余り、日本円にしておよそ430億円を転用することを明らかにしました。

 具体的には、東京の横田基地から、輸送機の格納庫や機体の整備施設の建設費など合わせておよそ126億円、沖縄の嘉手納基地から、特殊部隊用の航空機の格納庫の建設費など合わせておよそ94億円、山口県の岩国基地から、給油施設の建設費など合わせておよそ68億円などとなっています。

 トランプ大統領は、来年の大統領選挙での再選を目指し、最大の公約に掲げる壁の建設を推し進める考えですが、野党・民主党は「みずからの政治課題を前進させるために軍を利用している」と批判を強めており、両者の対立は激しさを増しています。


NHK News Web、2019年9月5日 10時25分
米 メキシコ国境の壁建設費 在日米軍基地からも約430億円転用
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190905/k10012064411000.html


(ヤッホーくん注)

令和元年9月6日、幸福実現党[声明]

 香港の民主活動家である周庭氏より「幸福実現NEWS」特別号に掲載されている内容につき、一部削除要請がありましたが、本内容は、周庭氏の守護霊の発言を紹介したものであり、地上の御本人の発言ではありません。
「霊言」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象です。
 私たち幸福実現党は宗教政党として、中国共産党の覇権主義を止め、香港および世界の自由・民主・信仰を守るためにこれからも戦い続けてまいります。

https://info.hr-party.jp/press-release/2019/9855/

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川口松太郎

 池波正太郎(1923 - 1990)の次は、たいへんお待たせ、川口松太郎(1899 - 1985)です。
 だってぇ、アイゼンピッケルじゃなくって上田は別所温泉で愛染かつらと出会ったんです。

 別所温泉は自然と古い歴史、史跡にいだかれた別荘地として、文人、墨客とともに多くのお客様に愛されたいで湯の里でございます。
 花柳章太郎翁(1894 - 1965)と川口松太郎氏は当館へ数多くお泊りいただきました。
 川口氏の“愛染かつら”は当館で執筆の折、観音様にあるかつらの巨木を御覧になりその題名を決められたと聞きおよんでおります。
「かしわや本店」は創業百年を越え、心やすらぐ日本の宿として「和の風情」「季節の香り」「やさしさ」を 建物に、料理に、サービスに盛り込み、ひとりひとりのお客様を大切にお迎えさせていただきます。


※ 「かしわや本店」上田市別所温泉1654 Tel 0268-38-3011

 かしわや本店公式サイト
http://www.kashiwayahonten.com/

 新派の名優・人間国宝、花柳章太郎の供養碑もありました、観音様に。

 北向にかんのん在す
  志ぐれかな
    章太郎

 思わぬところで思わぬ名前を見たなーという気分です。

 数年前、花柳章太郎の「舞台の衣裳」(求竜堂、1965)という大判の本を仕事の役に立てばと知人からいただいたのですが、美しい舞台写真とともに、柔らかい文章で凛とした美意識が、時に厳しい内容をも交えて綴られており、極める人というのはこういうものなのだなあと、まぶしく読みました。

 花柳章太郎が多種多様な役柄に合わせてどのような衣装をまとってきたかは、「わたしのたんす」(三月書房、1963)という随筆にも詳しいのですが、エピソードだけでなく、

縮緬(ちりめん、crepe)、繻子(しゅす、satin)に朱珍(しゅちん、satin with raised figures)、更紗(さらさ、printed cotten)、綸子(りんず、figured satin)、紬(つむぎ、pongee)に水衣(みずごろも、a costume worn when performing a Noh play called a "mizu goromo")etc.

ちりばめられた言葉の美しさにすっかりやられてしまって……。
 着物にまつわる言葉って字面だけで、脳に陶酔汁がジクジク出てきやしませんか。
 思わず着付け習いに行っちゃったよ……。

 で、この方の供養碑がなぜこの北向観音にあるのかというと、白粉中毒に苦しめられて、北向観音に願をかけたところ、快癒することができたのだそうです。
 花柳章太郎は泉鏡花の作品の舞台によく立っていた方ということですが、美貌を病んで舞台に立てなくなった才能のある役者が観音の慈悲で救われるなんて、鏡花作品にありそうなエピソードだと思いました。

 この方は、溝口健二監督の「残菊物語」で歌舞伎役者の役をやっており、美しい舞台姿を見ることができます。
 するする滑らかに動いてるけど、あの動きって相当な筋力がいるんじゃないだろうか。

 「残菊物語」は3度映画化されていますが、これは最も古い1939年のものです。
 ノモンハン事件があった年の製作と聞くと、はるかな昔のような気がしますが、枝雀師匠や千葉真一が生まれた年と聞くと、それほど前でもないような気も。

https://www.youtube.com/watch?v=3oFyKUjEnSQ

 古い映画ですからモノクロの画面は少し不鮮明ですが、花街・芝居小屋・木賃宿・鉄道などの明治の風景に、歌三味線・風鈴など、当時街にあふれていた粋な音がごく自然に寄り添っているのが素敵です。
 昨今は大河でも、休暇で登山に行くだけなのにメインテーマガンガン鳴らしたりしますが、ちょっと押さえた方がよかないかと、こういうの見ると思っちゃうのです。
 家で映画見るとついつい携帯いじったりしてしまうのですが、この映画は画面から目が離せなかった。
 日本家屋の明暗を滑るように動くカメラワークも大変美しかったです。
 役者の美しいひとつひとつの所作も当世には見られない感じで、とてもいいものをみせてもらった。

 あと大阪人的に、戦災で焼ける前の水都大阪がチラ見できるのも楽しい。
 考証に食満南北の名前がありますが、この辺りで手腕を発揮していたのかな。

 決して派手な映画ではありませんが、古い日本の雰囲気が好きな人は楽しめる映画だと思います。
 では、また。


ヲガクズのブログ、ずくずく、2010-09-30 11:42:39
別所温泉と花柳章太郎
https://ameblo.jp/wogakuzu/entry-10655841401.html

北向観音
 寺伝によれば、平安時代初期の825(天長2)年、円仁(慈覚大師)によって開創されたという。800年代にも火災の伝説が残る。969(安和2)年、平維茂によって大伽藍として大改修が行われたが、木曽義仲の兵火により焼失したのち、源頼朝により再興。鎌倉時代の1252(建長4)年には北条国時(塩田陸奥守、塩田国時)によって再建されたと伝えられる。

 北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する。
 これは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という観音の誓願によるものといわれている。
 また、善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われる。
 善光寺本堂と北向観音が向かい合っているという。

 観音堂に隣接する温泉薬師瑠璃殿は火災の後、1809(文化6)年に地元の薬師講により再建された。
 愛染堂の近くに縁結びの霊木として崇められている愛染かつらの巨木がある(樹高22m)。

 常楽寺は北向観音の本坊であり、ご本尊は『妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)』。
 常楽寺は北向観音堂が建立された825(天長2)年、三楽寺(※)の一つとして建立されました。
 その後、1292(正応5)年4月、信乃国(信濃国)塩田別所常楽寺で書写されたと記述のある「十不二門文心解)」が金沢文庫に遺されており、また、本堂裏の北向観音の霊像が出現した場所には、1262(弘長2)年の刻銘のある石造多宝塔が保存されていて、鎌倉時代に天台教学の拠点として大いに栄えた常楽寺の歴史を証する貴重な文化財となっています。

※…長楽寺、安楽寺、常楽寺を指して「三楽寺」といった。現在、長楽寺は焼失し、北向観音堂の参道入口に碑を遺すのみとなっています。

 境内には「慈悲の湯」という温泉が湧き出しており、この温泉で手を清めてから、お参りすることが出来ます。
 飲んでも大丈夫ということで飲んでみますと、温泉卵?硫黄の香りがしました。
。。。


神旅、仏旅、むすび旅、2014-12-15 07:42:50
善光寺〜北向観音
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11961750804.html

 2007年5月26日に別所温泉を訪れた時、北向観音にある「愛染かつら」の木の前で若い二人が「花も嵐も踏み越えて..」と口ずさみながら見物していました。今でも若い人たちに親しまれているのかとあらためて関心して見ていました。

 この有名な主題歌「旅の夜風」の『愛染かつら』は、第一回直木賞を受賞した巨匠川口松太郎氏の小説を映画化したもので、美貌の看護婦・高石かつ枝と若い医師・津村浩三の恋を描いたメロドラマで、1938(昭和13)年に公開され、映画と主題歌が大ヒットしたものです。
 旅から帰って、早速VTRにダビングしてある「愛染かつら」を見直しました。
 あらすじを興味のある読者の皆さんに披露しようと思います。

※ 監督は野村浩将、津村浩三を演じたのは上原謙、高石かつ枝を田中絹代。ちなみにシナリオは野田高梧。
 女性フアンを中心に大ヒットし、翌年1939年にかけて「前篇」「後編」「続編」「完結編」の4本が撮られたが、現存するのは「総集編」だけ。

 津村病院に勤務する美人の高石かつ枝は、よく働き仲間からも好かれ看護婦の仕事に励んでいました。
 病院長の長男である若い医師・津村浩三は彼女の人柄と美しさに強くひかれていました。
 かつ枝には若いころ死別した夫との間に6歳になる女の子供がいましたが、浩三にはもちろん仲間たちにも秘密にして、姉夫婦に預け自活の道を歩んでおりました。
  休日のある日、公園で親子の姿を仲間の看護婦に見られ、子供があることがばれてしまいます。

 そのことが職場の仲間たちの噂になり、かつ枝は子持ち勤務のことでののしられ、その誤解を解くために看護婦仲間の前で自分の身の上を説明することになりました。
 かつ枝の話す身の上話とは、
「私は早くから親同士のゆるした許婚がありました。ちょうど私が18の時、父がある事業に失敗すると、それがもとで私たちの婚約もそのまま解消しなければならないことになったんです。
 その時、夫は一家の反対を押し切って私を連れて東京へ出てきたんです。でもその結婚生活は決して幸せではありませんでした。
 結婚して一年経った19の春、夫はその頃はやった悪い風邪におかされ、たった4、5日床についたきり、まるで夢のように亡くなってしまったのです。その時私は妊娠8ヶ月のからだでした。
 夫の死後、ある病院で女の子を産みました。
 薄暗い病院のベッドの上でその先々の長い将来を考えると、私はどうすれはよいのか途方にくれました。その子こそ、夫が私に残してくれたたった一つの形見です。
 私は自分の身がどうなろうとも、石にかじりついてもその子を自分の手で育てなければなりません。
 それでいろいろ考えあぐんだ末に、子供を姉夫婦に預けて看護婦募集に応募してみたのです。それが幸せにも合格して、現在こうして皆様のお仲間に入れていただけるようになりました。
 今日まで身の上を隠していたのは、子供のあるからだがなんとなく気まずくて、つい打ち明けてお話する勇気がなかったからです。今になって考えて申し訳ないと思います。でも、私としては身の上を隠しても親子二人が生きていく道を探していかなくてはならなかったのです」
と。

 以上のような詳しい身上話を聞き、みんなは今まで彼女をののしったことを後悔し、かえって同情をかうことになるのです。

 津村病院院長の息子・津村浩三の博士号授与祝賀会のアトラクションの席上で、高石かつ枝は独唱することになりました。
 かつ枝は無伴奏で歌う予定でしたが、突然浩三がピアノの伴奏を申し出たのです。
 浩三は「かえってあなたの歌をぶちこわすかも知れませんが我慢してください」といってピアノの前に座った。

 そして、かつ枝は浩三のピアノ伴奏で「ドリゴのセレナーデ」(ヤッホーくん注)を独唱しました。このときの美貌のかつ枝の面彰をそれ以来ずっと浩三は忘れることができなかったのです。

 ある日、車での往診の帰りにかつ枝は浩三に誘われて外に出ました。月光の美しい夜でした。
 浩三から「谷中の墓地を抜ける途中にぼくのうちの菩提寺があるんです。ついでに墓参りしてきたいと思うんですがどうですか」といわれ、かつ枝は「私もお参りさせていただきますわ」と誘われるまま二人は菩提寺へむかった。

「あのお堂は愛染堂といって本尊は愛染明王なんだそうですが、ここじゃ、お寺よりもお堂の方が有名なんですよ。名高いのはむしろ本尊よりもこの「木」なんですよ。これは「カツラの木」なんですがね。
 昔から「愛染カツラ」といわれて、この木につかまりながら恋人同志が誓いをたてると、一時は思い通りにならなくても将来は必ず結ばれるという言い伝えがあるんです。
 ねえ、高石さん、ウソだと思ってこの木にさわってくれませんか」
と浩三にうながされ、二人はこの愛染かつらの樹に手を添えて永遠の愛を誓うのです。

 でも、しょせんは病院の後継者と看護婦、この時代のことですから二人はそう簡単に結ばれるわけはありません。
 母から反対された浩三は、二人で新しい生活に踏み切るべく家を出て京都で結婚することを決意したのです。
 京都には大学病院で勤務医をしている友達がいました。

「京都からは、いつでも来いといってきました。いっそ家に黙って京都へ行ってしまおうと思うんです。明日の晩どうです。
 11時の汽車で新橋を発つんです。ネ・・・・ダメですか?」
と浩三に誘われ、かつ枝は「お宅のみなさま、わたしをどんなにお憎みになるでしょう」と。
 
 浩三は「そんなことは一時ですよ、来てくれますね」と催促され、かつ枝は「ええ、参ります」と答えはしましたが・・・・・?

 京都に向かおうとした丁度その夜、娘の敏子がハシカで高熱を出し新橋駅での待ち合わせ時間に遅れてしまうのです。

 新橋駅の階段を駆け上がる彼女の目の前を、浩三を乗せた列車は発ち去って行きました。

「浩三さ〜ん浩三さ〜ん」・・・ここで霧島昇、ミス・コロンビアが歌う「旅の夜風」の前奏が始まり、哀しいすれ違いのうちに前編が終わります。
 さて、二人の運命やいかに・・・・・・・


デジカメ ぶらり旅(カメラを片手に 美しい自然が与えてくれる絶景を求めて旅に出ようと思います)、2007年06月02日 14時53分42秒
別所温泉の北向観音と映画「愛染かつら」
https://blog.goo.ne.jp/birounen/e/ebf377a33e729fe03cf461eb7de05dea

(ヤッホーくん注)「ドリゴのセレナーデ」
Nelson Eddy Sings - Love Serenade (Drigo's Serenade)
https://www.youtube.com/watch?v=UAPXOoJeuRE

堀内敬三訳詞
淡き光に波じはかすみて
月の水際に さざ波ささやく
夜の静けさに
面影は浮かびて
切なる思いに 胸の奥に
波のごとく ゆるる

ああ!そよ風匂いて
月影は夢見る
いざ 出でこよ
我と共に 君よ歩まん

麗しき宵 こよなき たまゆら
麗しき君 心に描きて
愛にみてる歌
秘めやかに歌わん
声よ風に乗り
君が窓に
通いて行け 声よ

ああ!そよ風匂いて
月影は夢見る
いざ 出でこよ
我と共に 君よ歩まん

ああ!そよ風匂いて
月影は夢見る
いざ 出でこよ
我と共に 君よ歩まん

楽しこの宵 ああ

https://www.youtube.com/watch?v=FqMgkN3oC-0

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2019年09月05日

池波正太郎

 池波正太郎(1923 - 1990)っていえば、「鬼平犯科帳」であるし、「深川めし」であるし、つまりヤッホーくんの居住地と縁のあるところが小説の舞台。

 みそ汁とご飯が余ると、つい二つを合わせてかき込みたくなってしまう。別々で食べていた時とはまた違ったおいしさがあるからだ。汁を含んでシャバシャバになったご飯を口に含み、サラサラと流す時ののど越しがたまらない。

 ただ、人前で汁かけご飯にがっつくのは少し気がひける。子供のころ親にマナー違反だとしかられた記憶のせいだろう。けれども、たまに隠れてやると、背徳感も相まってすごくおいしく感じられる。丼一杯軽く平らげられるほどだ。

 行儀が悪いとされがちな汁かけご飯だが、その歴史や文化をまとめた『ぶっかけめしの悦楽』(遠藤哲夫著、四谷ラウンド、1999年10月)によると、実は鎌倉、室町時代の武士たちに愛された食べ方だという。江戸の町人たちも、おかずや汁ものをご飯の上にかけて食を手早く楽しんだ。日本古来の食事法だったのだ。著者は、戦後に西洋式のテーブルマナーを広めるにあたって、「行儀が悪い」とされ始めたと推察している。

『剣客商売』の大治郎が思わず4杯たいらげた「ぶっかけ」

 さて、汁かけご飯の中でも長い歴史を持つメニューがある。深川めしだ。江戸の深川浦(今の江東区永代・佐賀周辺)の漁民が、船上でアサリと長ネギを炊いた汁を冷や飯にかけて食べたまかない料理がルーツとされている。

 今回は、江戸を舞台にした池波正太郎の大作時代小説『剣客商売』に、深川めしにまつわるいいシーンがあるので紹介したい。
『剣客商売』は、江戸を舞台に起こる事件を、剣の達人・秋山小兵衛とその息子・大治郎が解決していく物語。人情や義侠にあふれるストーリーが魅力で、池波作品らしいおいしそうな料理の数々もよいエッセンスになっている。

 今回取り上げるのは同シリーズの『待ち伏せ』で、人違いから何者かに襲われた大治郎がその真相を探り始めることから物語は始まる。大治郎は、深川に住む旧知の御用聞き(十手を預かり、犯罪の捜査に当たった民間人)弥七に相談に行く。そこで弥七の新妻・おみねによって振る舞われたのが深川めしだ。
 おみねは夕餉(ゆうげ)の支度にかかり、たちまちに大治郎へ膳を出した。
 その支度があまりにも早かったので、大治郎は遠慮をする間とてなかった。
 いまが旬の浅利(アサリ)の剥身(むきみ)と葱の五分切を薄味の出汁にたっぷり煮て、これを土鍋ごと持ち出したおみねは、汁もろとも炊きたての飯へかけて、大治郎へ出した。
 深川の人びとは、これを「ぶっかけ」などとよぶ。
 それに大根の浅漬けのみの食膳であったが、大治郎は舌を鳴らさんばかりに四杯も食べてしまった。

 さすが池波正太郎、挿絵がなくとも深川めしをうまそうにかきこむ大治郎の姿が頭に浮かぶ。それにしても、ここに出てくる深川めしは読んでいるだけでよだれが出るほどおいしそうだ。一度食べにいってみるしかない。

「ぶっかけ」と「炊き込み」の2種類に舌鼓

 東京・深川は、かつて漁業で栄えていたエリア。けれども、東京湾の埋め立てが進むにつれ、水質変異による不漁で衰退し、深川めしの文化も廃れてしまった。1985年ごろ「芭蕉記念館」や「深川江戸資料館」が建てられたのを機に観光地として再びにぎわい始めると、深川めしを出すお店ができて食文化も復活したそうだ。

 今回訪れた「太郎」(※)は1968年に創業、1974年に深川にお店を構えた。創業者は北大路魯山人のお店で修行をした料理人。はじめは寿司割烹として営業していたが、女将さんの得意な中華料理と合体して2007年以降は和食と中華の楽しめるダイニングの形態で営業している。

 提供する深川めしは「漁師風あさり汁かけ」と「大工風あさり炊き込み」(各1200円)の2種類。江戸で生まれた汁かけよりも炊き込みは後発で、大工たちが弁当にして持って行くために明治になってから誕生したものだそう。

 今回は、筆者1人で訪問したこともあり、二つの丼を、1人前の小鉢と同じ盆に持った定食にして提供してくれた。小鉢は厚焼き玉子とアサリの佃煮、白菜の漬物、ひじき煮とサラダの4種類だった。

 汁かけは、味噌とアサリのうまみをダイレクトに感じられる。はじめはお米の粒感が感じられるが、時間が経つと汁を吸ってふっくらするのもまた良い。お弁当では食べられない、お店に来てこそ味わえるメニューだ。

 炊き込みは、アサリの味がふんわり香る上品さが染みる。大正以降は家庭料理として広まったというだけあり、どこか懐かしさも感じる。付け合わせの小鉢も充実している。「名物」という厚焼き玉子、身の大きいアサリの佃煮、懐かしい味付けのひじき煮、ゆずが香る白菜のお漬物、キャベツのサラダ。派手すぎずちょうどよく、少しずつ違う味付けの気配りがありがたい。

食文化を紡ぐことが、次の誰かの一口へとつながる

 寿司や天ぷらといった有名どころの日本料理に限らず、まかないから生まれた深川めしのような料理もきちんと現代に残っているのは、書き残された文学や、味を引き継ぐお店、そして家庭が食文化を紡いでくれたお陰だろう。

 深川めしは、農林水産省が「伝統的な味」を残していきたいとの思いで実施した「農山漁村の郷土料理百選 (2007年)」にも選ばれている。そうした取り組みも次世代へ文化を受け継ぐ支えになっているに違いない。深川めしの歴史をとりまく人々に感謝しながら、最後のひと口を丼を持ってかきこんだ。

※ 和食&中華ダイニング 太郎
江東区深川2-1-20 Tel 03-3630-1144


朝日新聞、2019.03.02
[本を連れて行きたくなるお店]
行儀は少し悪いけど、食べだしたら止まらない汁かけご飯
池波正太郎『剣客商売』の深川めし

文: 笹山美波
https://www.asahi.com/and_M/20190302/354085/

 深川めし・・・ほかにも、ヤッホーくんの行くお店のご紹介:
・ 深川宿 江東区三好1-6-7 Tel 03-3642-7878 (深川江戸資料館前) 
・ 割烹 みや古 江東区 常盤 2-7-1 Tel 03-3633-0385 (創業は1924(大正13)年、深川めしの元祖)

 ところで池波正太郎は羽生のPAにもあったんでびっくり。

 東日本高速道路(NEXCO東日本)は2013年12月19日、東北自動車道の羽生パーキングエリア(PA)上り線に、池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」の世界観を演出した「鬼平江戸処」をオープンした。
 
 鬼平こと長谷川平蔵が生まれた1745年から江戸の町人文化が隆盛を極めた文化・文政年間の1829年までにスポットを当て、専門家の考証を重ねて江戸の空気感あふれる空間を実現したという。 

「星の王子さまPA」に続く、テーマ型PA第2弾

 鬼平江戸処は同社が展開する「テーマ型エリア」の第2弾(第1弾は2010年6月に関越自動車道・寄居PAにオープンした「星の王子さまPA」)で、事業費は約10億円。年間利用者数300万人を見込んでいる。

「羽生PAのそばにある栗橋には江戸時代、栗橋関所があり、江戸の入り口の役割を果たしていた。東北自動車道における羽生PAもいわば、東京への入り口。鬼平江戸処で江戸時代にトリップし、リフレッシュして目的地まで楽しくドライブしていただきたい」
(NEXCO東日本 事業開発本部エリア事業部長の前川潤氏)

 同施設内には、フードコートと売店を合わせて9つの店舗がある。目玉は「鬼平犯科帳」ファン憧れの軍鶏料理屋「五鉄」(モデルといわれる名店「玉ひで」の提供)だ。ほかにも、池波正太郎氏が愛した名店「神田まつや」「日本橋たいめいけん」が監修した飲食店や、文化2年(1805年)創業のくず餅の老舗「船橋屋」がPA初出店。創業以来初となる限定メニューを提供するなど注目の飲食店が多く、PAとはいえ決して侮れないレベルの高さだ。

 エリア内は、関所(入り口)から入って華やかな日本大通り(歩道)を抜け、鬼平が闊歩(かっぽ)した下町(フードコート)に入り、江戸一番のにぎわい処の両国広小路(ショッピングゾーン)に至る。江戸の魅力をまんべんなく味わえるように、街がレイアウトされているわけだ。

 さらに鬼平ファンならニヤリとしてしまう仕掛けが随所に隠されていたり、専門家の史実考証によるリアルな作り込みがあったりして、大人も楽しめる施設になっている。そんな「鬼平江戸処」を、より深く楽しむためのポイントを4つ紹介しよう。

■【その1】リアルすぎる演出による江戸の日常へのタイムスリップを楽しむ

 鬼平江戸処では各所に江戸を代表する街並みを表現しているが、新築の建物に丹念に手をかけてエイジング(老朽化)させている。平蔵らが生きた時代の江戸の町を再現するため、時代考証をしながら、大勢の専門の職人たちの手で柱の刀傷や雨水の染みや汚れ、壁に生えたコケまで再現しているのだ。そのことが、新築の江戸の町にしっとりとした生活感を与えている。

 建屋の軒は火災の際に避難しやすいように、通り抜けできる一直線の「軒ぞろえ」を基調としている。また、日本橋大通りの大店の看板には金箔や高度な彫り技術を用いているのに対し、建物内の下町をイメージした看板はシンプルなものにするなど、細部までリアルさを追求している。

 さらに建物内は10分ごとに朝、昼、夜と照明が変化し、それに合わせてBGMも変わる。春の朝にはウグイスが鳴き、夜明けのアサリ売りに納豆売りの声が聞こえ、秋の夕には祭り太鼓の音、真冬の夜の水団(すいとん)売りなど、季節をイメージした音声と連動させ、江戸時代の日常が感じられる演出が施されている。

■【その2】「江戸めし」と「鬼平ワールド」のコラボを楽しむ

 建物内に入ると、鬼平犯科帳の舞台となった本所・深川の世界をイメージしたフードコートが広がっている。

 入り口を入ってすぐにあるのが、鬼平犯科帳で重要な舞台となっている軍鶏(しゃも)鍋屋「五鉄」。続いて鬼平犯科帳で最も長い文章で描かれているそば屋「本所さなだや」。鬼平犯科帳によく登場する辻売りのうなぎ屋「忠八」。平蔵ひいきの店をモデルに、作者池波氏が愛した洋食の名店「日本橋たいめいけん」が監修したラーメンを出す「弁多津」。平蔵の大好物の鍋などを老舗江戸料理店「なべ家」が監修した「万七」。その向かいにくず餅の「船橋屋」。どこもここでしか食べられないオリジナルメニューが目白押しだ。

■【その3】ファンでも分からない…「隠れ鬼平ワールド」を堪能する

 施設内にはさまざまな形で鬼平犯科帳にちなんだネタが仕込まれている。愛読者ならすぐに分かるのは、日本橋大通りに立ち並ぶ店のラインアップ。全て小説内で盗賊に押し入られた大店をモデルにしている。また入り口近くの飲食店「五鉄」には平蔵や同心、密偵らが集う3階に続く階段もある(使用不可)。

 ちなみに施設内には同心と密偵が内密に連絡し合った「つなぎ」(合図)の小物が随所に隠されている。あまりにさりげないので、何度通っても気が付かなかったものもある。いくつ発見できるか、仲間と競い合うのも面白いだろう(どこにあるかは、「かわら版コーナー」のiPadで見ることができる)。

■【その4】「江戸・東京の味」「鬼平ゆかりの味」を土産に

 鬼平江戸処のショッピングゾーン「屋台連」は、江戸一番のにぎわいで名高い「両国広小路の屋台の連なり」に見立てたひときわ華やかな一角。一般的なPAと同様に近隣の名産物も置いているが、鬼平や江戸にちなんだユニークな商品や大手スーパーでも手に入りにくい、老舗の掘り出し物商品も多い。

 鬼平にちなんだオリジナル商品としては、平蔵の妻、久栄の好物として小説にも度々登場する「目黒・桐屋の黒飴」や、平蔵の大好物として紹介されている「喜楽煎餅」などがある。平蔵ファンへの土産に喜ばれるだろう。

 そのほか江戸味噌の老舗・ちくま味噌(創業1688年)の「大江戸甘みそ」や、やげん堀中島商店(創業1625年)の七味唐辛子など、江戸からの老舗約20店舗の和雑貨や食材、菓子類が販売されている。

※ 日経トレンディネット2013年12月19日付の記事を基に再構成


日本経済新聞、2014/2/8
自動車でタイムスリップ 鬼平犯科帳PAは超リアル
(ライター 桑原恵美子)
https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK23013_T20C14A1000000/

 そして上田市には「池波正太郎真田太平記館」がありました(上田市中央3-7-3 Tel 0268-28-7100)。

 時代小説の人気作を数多く執筆した直木賞作家・池波正太郎氏(1923〜1990)は、真田一族の歴史に深い関心を抱き、これにスポットを当てた数多くの作品を発表しています。名将真田昌幸・信之・幸村、父子の活躍をテーマにした『真田太平記』は、この一連の「真田もの」の集大成ともいえる作品で、『週刊朝日』に連載された長編大河小説です。

 池波正太郎氏は、この『真田太平記』連載にあたり、取材の為、しばしば上田を訪れました。池波氏は「上田の印象」(パンフレット『信州上田の四季』上田市観光課、『一升桝の度量』幻戯書房、ハルキ文庫)の中で
折りにふれ、上田の人々の顔をおもい、上田の町をおもうことは、私の幸福なのである」と述べています。

 真田昌幸が築城した上田城、その城下町上田に「池波正太郎真田太平記館」があります。今なお多くのファンを魅了しつづける作家、池波正太郎氏と戦国歴史浪漫『真田太平記』の魅力について紹介します。どうぞご来館ください。


上田市公式サイト
http://www.city.ueda.nagano.jp/tanoshimu/ikenami/index.html

「真田太平記」全12巻、新潮文庫

「真田太平記」は悠然たる大河小説だ。文庫本で12巻。まさにえんえんと流れ続ける大河のような大長編だが、これが実に面白い。かねてから私は、小説の二大テーマとは政治と恋愛だと考えている。権力と性、ポリティクスとセックス。その両方をじっくりと楽しめる作品なのだ。

 といっても、構えて読む必要はない。池波正太郎の筆である。こなれた文章がつくりだす流れにただ、身を任せればいい。

 小説は1582(天正10)年から1622(元和8)年までの40年間を舞台にしている。中心に描かれているのは真田昌幸と信之(幼名は信幸)、幸村の父子だ。真田二代から眺めた戦国史といってもいい。読み進むうちに、何人もの人物に会える。一人一人の輪郭が濃い。その表情の変化を楽しんだり、身体のにおいをかいだりもできるのだ。

 よく知られているが、池波は真田家を描いた作品を多く書いている。初めて発表した小説も、直木賞受賞作も真田物だ。長編、短編を合わせて20編以上にのぼる。真田物とは池波文学の原点であり、背骨である。そして、「真田太平記」はその総決算だ。「剣客商売」や「鬼平犯科帳」が有名だが、「真田太平記」は池波のもう一つの代表作といっても間違いない。

 真田昌幸はまれに見る戦略家だ。武田信玄、織田信長、豊臣秀吉に仕えながら、自分自身を見失わない。状況を読むこと深く、行動は素早い。謀略を尽くして、領国を守り抜く。

 昌幸の二男が戦国末期のスター、幸村だ。昌幸と幸村には、いくつも共通点がある。小柄な身体にエネルギーが満ちていること。奔放な野性味とクールな知性。色を好み、女性を引きつけること。家康嫌いの秀吉びいきで、打倒家康の執念を持ち続ける。

 他方、昌幸の長男、信之は大柄で肩幅が広い。落ち着いていて、思慮深い。家康側につき、治世者としての人生を歩む。

 忘れてはならないのが、草の者の存在だろう。真田家では忍びの者、間諜活動をする者を「草の者」と呼んでいた。他家と違って彼らを軽んじることなく、大切にした。草の者たちも意気に感じて忠誠を尽くした。武将たちが覇権を争う一方で、草の者たちは暗闘を続ける。両者はあざなわれた縄のように歴史を作っていく。

 草の者で、ひときわ輝いているのが、お江だろう。彼女は冒頭から巻末まで物語の全体を見通している。強靭な体力と精神力の持ち主だ。優しくて、情が深くて、色っぽい。何人かの男が彼女と関係を持つことで成長する。女性とは男が成長する場所であることを実感させる。

 NHKドラマ「真田丸」がきっかけで、真田家に関心を持つ人が多いだろう。映像の背後にどんな動きがあったのか。歴史を立体的に楽しむためにも、「真田太平記」をお薦めしたい。


週刊読書人ウエブ、2016年7月29日
じっくりと楽しみたい悠然たる大河小説
重里 徹也(文芸評論家)
https://dokushojin.com/article.html?i=166

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韓国民主化運動

1979年10月26日、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、18年にわたる軍事独裁政権が幕を下ろした。しかし12月12日、軍部の一部勢力が粛軍クーデターで事実上、政権の実権を握ると、軍事政権の復活を警戒する学生らの民主化デモは韓国全土に拡大した。

1980年5月17日、軍の実権を握っていた全斗煥(チョン・ドゥファン)は、非常戒厳令を全国に拡大。金大中や金泳三ら有力政治家を連行した。民主化を求める学生デモはさらに激化。南部の光州では、空挺部隊が投入され、市民への発砲などで多くの死者、行方不明者が出た。「5.18記念財団」によれば、認定された死者は154人、行方不明者70人、負傷者1628人に上る。

5月27日、戒厳軍は市内を制圧した。光州市内の電話がこの日まで通じなくなり、メディアも情報統制されたため、光州市内で何が起きていたのかの真相は、長く明らかになることはなかった。

[写真-1]
Student demonstrators watch a police vehicle burn near Seoul's South Gate on Thursday, May 15, 1980. More than 50,000 university students continued anti-government demonstration for the third straight day.

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韓国の国旗を掲げ、「民族民主化大集会」参加のため校門を出た全南大学の教授ら。後ろから学生らが続き、民主化を求めるスローガンを叫んでいる。

[写真-3]
全羅南道庁前の広場。噴水を中心に2万人以上の市民と学生が集まり「民族民主化大集会」を開いた。

[写真-4]
全南大学の正門前で機動隊と向かい合う学生デモ隊

[写真-5]
棍棒で無抵抗の学生を叩く衛生兵

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空挺部隊に棍棒で頭を叩かれ、血を流して連行される若い夫婦

[写真-7]
警察がデモ隊に押され始めると、光州中心部に戒厳軍が再投入された

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1980年5月19日午後3時ごろ、戒厳軍は光州市東部の錦南路に投入され、市内の全地域に配置された。

[写真-9]
5月20日午後7時、光州市内の各地で空挺部隊の残虐行為を目撃したタクシー運転手による、約200台のタクシーデモが始まった。走りながらクラクションを鳴らして市民側を鼓舞した。

[写真-10]
戒厳令撤廃を求める市民が、光州市東部の錦南路にあるカトリックセンターの前で空挺部隊や警察と向かい合っている。

[写真-11]
デモ隊は郷土予備軍の武器を奪取して武装し「市民軍」となった。トラックの荷台に乗って走る「市民軍」に、沿道で市民が拍手をしている。

[写真-12]
光州市内の各地で見られた、炊き出しで市民軍を支援する女性

[写真-13]
事件当時の光州市内。市内は事実上、無政府状態に陥ったが、光州市民は自発的に秩序を守り、困難を打開するため知恵を絞っていた。

[写真-14]
全羅南道庁前の広場は、情報を求める市民で埋め尽くされた。抗争指導部は「民主守護市民決起大会」を開き、事態を市民に知らせた。

[写真-15]
光州市内に再度投入された戒厳軍

[写真-16]
1980年5月29日、光州市北東部で執り行われた129人の葬儀。当時は政府の情報統制により「暴徒」と規定された。

[写真-17]
ドイツのシュピーゲル誌に掲載された、光州事件で死んだ父の遺影を持つ幼児の写真


ハフポスト、2018年05月18日 19時22分 JST更新
光州事件とは
1980年5月、韓国の街は戦場だった
「5.18記念財団」によれば、認定された死者は154人、行方不明者70人、負傷者1628人に上る。

(吉野太一郎)
https://www.huffingtonpost.jp/author/taichiro-yoshino/

 2019年5月18日、韓国南西部の都市・光州は、朝から雨が降り続けていた。
 まるで39年前に犠牲となった人々を悼む涙のようだった。
 39年前の5月18日、全斗煥新軍部のクーデターに立ち向かった学生らを戒厳軍が鎮圧しようとして衝突。
 市民や学生らは27日まで民主化を守るために戒厳軍に抵抗したが、27日、新軍部に鎮圧された。
「5・18民主化運動」だ。

 運動から39年を迎え、光州市内の国立5・18民主墓地で記念式が行なわれた。
 午前10時、文在寅大統領が国立5・18民主墓地に現れる頃には、雨はやんでいた。

1980年5月、光州が血を流し死に行く時、光州とともにできなかったことを、その時代を生きた市民の一人として申し訳ない。当時、公権力が光州で行なった野蛮な暴力と虐殺について、大統領として、国民を代表してもう一度深く謝罪する

 文大統領は記念の辞で、公権力による暴力と虐殺行為を「大統領として謝罪する」と明言した。

 また、
いまだに5・18民主化運動を否定し侮辱する妄言がはばかることなく大きな声で叫ばれている現実が、国民の一人としてあまりにも恥ずかしい」とも語った。

 韓国では今年2019年2月、野党・自由韓国党所属の国会議員が光州民主化運動と関連して、
「5・18自体は暴動だったが、10年、20年後に政治的に利用する勢力によって民主化運動になった」(李鍾明議員)、
「従北(北朝鮮に従う)左翼が大手を振り、5・18功労者という怪物集団を作り、われわれの税金を減らしている」(金順禮議員)
などと発言し、遺族や関係者らの怒りを買っている。
 記念式には自由韓国党の黄教安代表も出席したが、怒りを抑えきれない市民らが黄代表を取り囲んだ。
 市民らは黄代表に焼香をさせないために道を遮り、「光州市民に謝罪せよ」などのスローガンを叫んだ。
 現場は一時騒然となった。

 文大統領は、
5・18の真実は保守・進歩で分けられない。光州が守ろうとした価値がまさに『自由』であり『民主主義』であったからだ。独裁者の後裔でない限り5・18を別の目で見ることはできない
と語ったが、39年がたった今でも、光州民主化運動を冒涜する発言が国会議員から出る現状がある。

 多くの人々が犠牲となった光州民主化運動には、虐殺の責任、ヘリコプターからの射撃、遺体遺棄、性暴力など、いまだに真相解明ができていない出来事も少なくない。
 昨年2018年3月には「5・18民主化運動真相究明特別法」が制定された。
 同法に基づき、真相究明調査委員会が発足されなければならないが、いまだに発足されていない。

 5・18記念財団前常任理事の金良來氏(63歳)は、「いまだに発見されていない遺体もある。真相究明が急がれなければならない」と語った。


週刊金曜日編集部、2019年06月07日 17:04
光州事件から39年、文在寅氏が市民“虐殺”を大統領として謝罪
(光州発=文聖姫・編集部、2019年5月24日号)
https://blogos.com/article/382830/

北朝鮮による日本人拉致問題が、“朝鮮嫌い”を激化させた

青木理: 最近の日本では排他と不寛容の風潮が強まり、ネットばかりか街中で公然とヘイトスピーチをがなる連中まで現れました。
 書店にもヘイト本や自国礼賛本の類が山積みです。
 こんなものは一部の連中による一時の風潮と考えたいのですが、現在の政権も明らかにそれを煽り、先導し、ヘイト言説を撒き散らしている連中が現政権やその支持層と重なっているのは深刻な状況でしょう。
 時鐘さんは率直にどう受けとめていますか。

金時鐘: 近年の政治的な動向で言うと、北朝鮮による日本人拉致問題が、あからさまな“朝鮮嫌い”を激化させました。
 5人の被害者の方々が戻ってこられたのは2002年でしたね。

青木理: ええ。史上初の日朝首脳会談が実現したのは2002年の9月17日でした。
 拉致被害者のうち5人生存、8人死亡という北朝鮮側の通告は衝撃的でしたが、金正日(キム・ジョンイル)総書記(当時)が拉致を認めて謝罪し、5人の被害者が帰国を果たしたうえ、日朝が国交正常化を目指すとうたった平壌宣言に署名したのは、戦後日本と朝鮮半島の関係においても、日本が珍しく独自外交を繰り広げたという意味でも、なかなか画期的だったと僕は思うのですが。

金時鐘: でも私はね、あんな愚にもつかぬことをやるはずがないと、いかに頑迷な国でもそんなことまでするはずがないと、長くそう強弁を張っておったものですからね。

青木理: 日本人拉致のことですか。

金時鐘: そう。
 以前から北朝鮮に共感する思いなどまったく持ち合わせておりませんでしたが、現実に拉致を認め、被害者の方々が帰ってきたことには強い衝撃を受けました。
 拉致の理由についてメディアなどでは「日本の言葉や習慣の教育係が必要だった」などという情報も伝えられましたが、こんなものはまったく馬鹿げた話でしてね。
 10万人近くにのぼった北への帰国者の中には、日本人妻と呼ばれる人びともいて、中には大学で講義をしていた知識人の婦人だって少ながらずいたんですから。

青木理: 1959年にはじまった在日朝鮮人の帰国事業は1984年までつづき、北朝鮮にわたった在日朝鮮人は合計で9万3千人あまり、このうち6700人ほどは日本人の配偶者だったと記録されていますからね。
 そうした方々の中には北朝鮮で飢餓や貧困に喘いだり、政治的に迫害を受けたり、近年は北朝鮮を逃れる脱北者も多くいて、これ自体が重大な人権問題なわけですが……。

金時鐘: そうです。
 しかし、日本の習慣や言葉を学ぶというなら、そういう方々を介していくらだってできる。
 なのに、なんでそんなアホなことをするのかと私は強弁しておったわけです。
 その自分の不明が恥ずかしくて、絶望して、5人が帰ってこられたとき、毎日新聞の電話インタビューでも率直に「許しがたいことだ」とコメントしました。

青木理: データベースを調べてみると、時鐘さんの談話は会談の翌日、9月18日付の朝刊に掲載されています。
「暗澹たる思いだ」ではじまる記事は、「同じ民族として本当に恥ずかしい」「北朝鮮の行為は愚劣で、許せない」、そして「戦前の日本と朝鮮半島の関係に、まず日本人が謙虚になってほしいという思いも吹っ飛んだ」とまで語られています。

金時鐘: そこまで言うのかという批判も、方々から相当に受けました。
 かつての日本は200万人からの朝鮮人を強制連行、強制徴用したじゃないかと。
 なのになぜ、日本の肩を持つようなことを言うのかと。
 金時鐘ともあろうものが、いったいなぜそこまで言うのかと……。
 しかし、仮に拉致被害者が数人、数十人だとしても、拉致などという行為は特定国家による許しがたい国家暴力です。
 戦前の強制徴用、強制連行については、日本の教科書的な記述で認められているのは70万人ほどのようですが、よしんば70万人だとしても、それは朝鮮民族の民族的受難史の記録です。
 特定国家による国家暴力と同等に扱って相殺するような発想自体、私には到底寄りつくことのできない論法です。

青木理: お気持ちはわかりますが、一方の日本はどうかといえば、時鐘さんがおっしゃったように、異様なほど北朝鮮憎しの風潮に……。

金時鐘: 5人の被害者が帰り、8人が死亡したと伝えられたことで激震が走り、日本列島がゆらぐほど北朝鮮非難一色に染まってしまいましたね。
 あの当時は小泉政権でしたが、いまの安倍首相は……。

青木理: 小泉政権の官房副長官でした。

金時鐘: そう、官房副長官で、平壌まで彼は同行していた。
 このあたりは青木さんがお詳しいでしょうが、彼はそれを契機に日本の戦前回帰のような風潮をかき立てる役割を果たしました。
 北朝鮮の脅威を口実にして、安全保障関連法もそうだったし、自衛隊の軍備強化なども進め、一昨年の解散総選挙も北朝鮮の脅威を理由にして……。

青木理:「国難突破だ」と。

金時鐘 ええ。
 彼が北朝鮮への反発を掻き立てたことと在日への攻撃が一緒くたになって、いわゆる嫌韓ムードであったり、ヘイトスピーチをがなる連中までがはびこりだしてしまいました。
 一方で北朝鮮……正確に言うと長ったらしい国の名前……あの「民主主義」は取ってほしいんですが、朝鮮民主主義人民共和国という国から、私は向こうの作家同盟などから激しい政治批判を受けていた身ですからね。

部落差別と在日朝鮮人差別は違う

青木理: 時鐘さんは1950年代から大阪の朝鮮詩人集団「ヂンダレ」に参加し、朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)などを公然と批判していましたからね。
 そのあたりの話も後でぜひうかがいたいのですが、まずは日朝首脳会談前後の日本と朝鮮半島の関係について聞かせてください。
 日本の政治家や民衆が本音の部分でどう思っていたかはともかく、戦後日本は中国や朝鮮半島との関係において、先の大戦や植民地支配への自省や自責の念を抱え、それを示し続けることを求められてきました。
 至極当然のことだったと僕は思いますが、逆にいえば、韓国や北朝鮮の問題点、特に北朝鮮についてはイデオロギー論争なども絡んでタブー感に包まれ、率直に語ることがはばかられるような状況が続いたのも事実だと感じます。

金時鐘: まず韓国ですが、長く軍事政権下にあったわけです。
 しかも、韓国で繰り広げられた30年近い民主化要求運動というのは日韓の条約、日韓会談に対する反対運動がはじまりでした。

青木理: 1965年の日韓国交正常化に向けた両国の交渉ですね。
 当時の日本の首相は佐藤栄作、韓国の大統領は軍人出身の朴正煕(パク・チョンヒ)。
 冷戦体制下、両国の保守政界は水面下の太いパイプでつながれ、米国などの意向もあって、一種の政治的妥協として国交正常化は成し遂げられました。
 だからこそ、いまなお両国間の火種になり続けているわけですが。

金時鐘: その朴正煕政権があまりにも凶暴、強圧的な政権だったため、北への好感度は決して高くなかったにもかかわらず、軍事政権の朴正煕に比べればまだマシというか、北も実は相当にひどかったことが後にわかるわけですが、南と北を同等に扱えないという雰囲気があったわけです。
 日本の主流メディアもおおむねそうでした。
 一方の日本はどうかといえば、全国に燃え広がった学園紛争もちょうど同じ時期のことです。

青木理: 60年安保闘争から全共闘運動の時期ですね。

金時鐘: そうです。
 1960年から70年代を通じ、あの一連の学園紛争は確かに人権意識を高める役割を果たしました。
 その直後の1973年、私は兵庫県の公立高校の社会科の教員になったんです。
 朝鮮人の教員がきたというので、朝鮮語の授業を正規化する運動が起こり、1975年の新学期から「朝鮮語」が正規の教科となりました。
 この授業は現在も湊川高校で続いています。
 同じ時期、差別は絶対に許さないという「解放教育」の実践運動が兵庫県の教員組合のなかから提起されて、私もそこに加わりましたが、当初から部落差別と民族差別が同一視されていた。
 しかし私は、部落差別と「民族差別」でくくられている在日朝鮮人差別は違うものだと指摘していました。

青木理: というと?

金時鐘: 部落差別というのは、日本人自身が抱えている日本人の問題です。
 在日朝鮮人……、私は総称としての「朝鮮」にこだわっていますので、南北分断を当然視する「韓国・朝鮮」などと並記することを嫌っていますが、在日朝鮮人に対する民族差別というのは、もちろんそこには歴史認識の問題なども絡んでいて、よしんば日本人1億2000万の総懺悔を取りつけたとしても、朝鮮人の問題は朝鮮人の問題として残る。
 心ない日本人の心ない仕打ちによって蒙(こうむ)る私たちの不幸よりも、同族同士でありながら向き合えば歯を剝き、相手の意見を聞かずに反目しあっていることの方が、より不幸なことです。
 ですから部落差別と民族差別は同等には扱える問題ではないんです。

青木理: 同族同士のいがみ合いなどはもちろん問題でしょうが、特定の人びとをひとくくりにして差別の対象にするという意味においては、部落差別と在日差別は共通する面もあるのではないですか。

金時鐘: いや、部落差別というのは、日本人自身の意識が先に関わる問題です。
 もちろん、朝鮮人に対する差別も日本人の意識に関わるものですが、これは植民統治を強いた側と強いられた側との関係が持続するなかにおける日本人と朝鮮人の問題であり、部落差別は日本人対日本人の問題です。
 従って、意識の覚醒の方法という点も違う。
 もっとも悪し様に朝鮮人をののしっていたのは、実は部落の人たちでもあったのです。

青木理: なるほど。
 悲しむべきことですが、虐げられた者がむしろ虐げる側にまわってしまうという面は、確かにあるのかもしれません。

帰化というのはまるで恩典のような扱い

金時鐘: それにあの当時、在日朝鮮人同士のなかでも、いわゆる帰化という問題が、引きつづき日本で暮らしてゆくという定住の問題と絡んで表立ってきました。
 それまでは帰化する……つまり日本人になってゆく人たちを同族の間で軽蔑していたんです。
 いまはもうおおっぴらになっていますけどね。
 在日朝鮮人はもう往年の半数にも充たない30数万といったところです。
 それほど帰化した人が多くなってしまっています。

青木理: 特に最近は増えているようですね。

金時鐘: その日本国籍を取るにあたっても、差別の根の深さは如実ですよ。
 帰化というのはまるで恩典のような扱いになっていて、日本国籍を申請するにも条件が非常に厳しいんです。
 肉親に犯罪者がいてはならないとか、長期の疾病者であってはならないとか、納税をしているかどうかはもう基本条件で、かつては「窓口指導」というものまであったんですから。

青木理: 窓口指導?

金時鐘: つまり市役所とか区役所とか町役場で、帰化申請の認可にあたって指導を受けるんです。
 そこで日本人らしからぬ名前だと日本風に変えさせられたり。
 しかも臭いのきついものは食べてはいかんとか、要するにキムチやホルモンなんかは食べてはいかんとか、そんな指導まで受けていた。

青木理: 信じがたい話です。まさに「官製ヘイト」じゃないですか。

金時鐘: さすがにこれは在日朝鮮人で市民運動をやっていた若者たちが抗議して、現在は窓口指導というのはなくなりましたがね。
 それに帰化条件も近年になって、かなり緩和されてきてはいます。
 でも、たとえば70年代前半ぐらいまでは、信用組合の取り引きひとつ簡単にはできませんでした。
 保証人を2人は立てねばならず、そのうち1人は日本人じゃないといけない。
 そんな保証人になってくれる日本人はなかなかいませんよね。
 そういう生活、そういう扱いを一貫して受けていると、日本国籍を取った者は、日本人以上に日本人ぶるんです。
 同胞が多い集落から離れ、建売住宅みたいなものを手に入れ、日本人以上に日本人ぶって生活するようになる。
 しかし、国籍選択の自由というのは人間の基本的な権利ですからね。
 隠すことではさらさらないのに、植民地統治という歴史のしがらみがあって、日本人への帰化がうしろめたくなる。

青木理: ええ。
 そのあたりの人権感覚も、同じ敗戦国のドイツと日本は雲泥の差です。
 ドイツの場合、併合していたオーストリアの人びとに国籍選択権を付与しました。
 ところが日本は戦後、法務府(現在の法務省)の局長通達1本で、台湾や朝鮮の人びとから日本国籍を一方的に剥奪してしまいました。
 しかも、日本国籍取得には異様なハードルを課してきた。
 そうした史実や実態も知らず、バカな連中は「日本が嫌なら朝鮮半島に帰れ」とか「日本にいたいなら帰化すればいい」などと言い放つ。
 最近も僕の友人の在日コリアンが悩み抜いた末に日本国籍を申請したのですが、あっさりとはねつけられてしまったそうです。
 どうやら父親が朝鮮総聯の元幹部で、北朝鮮に何度か渡航していることなどが理由のようですが……。

金時鐘: だから隠すんです。
 朝鮮人として生きることが苦しく、辛いから帰化して日本人になろうとするわけですが、それはそのまま、朝鮮人として生きることを苦しく、辛くさせている側へひょいと鞍替えすることでもあるのです。
 それが在日朝鮮人の帰化だった。
 新日本人として市民生活のなかで息を潜め、周囲の日本人が朝鮮人を悪し様に語るときも黙って相槌を打たなくちゃならんような立場の人間になってしまう。
 私が高校教師をしていたころ、定時制を卒業した在日朝鮮人の生徒がおりましてね。
 彼は本名を名乗っていましたが、親父がいなかったので、長男の彼がトラック助手として稼ぎながら学校に通っていて、トラック運送の仕事は終業時間に決まりがないものですから通学は欠席がちになる。
 それで卒業まで7年もかかって。
 その彼が卒業式の総代として答辞を読んだんです。
「本名で生きないということは、酒を飲んでも酔えないということだ」
「朝鮮の悪口を散々言われても、俺たちは相槌を打たなならんねん」
といった内容で、彼は涙でしゃくりあげながらその答辞を読んで……。
 あれには泣きました。

※ 金時鐘、佐高信『「在日」を生きる ある詩人の闘争史』(集英社新書、2018年1月)

金時鐘(キム・シジョン)
1929年釡山生まれ。詩人。元教員。戦後、済州島四・三事件で来日。日本語による詩作、批評、講演活動を行う。著書『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)で第42回大佛次郎賞受賞。『原野の詩』(立風書房)、『「在日」のはざまで』(平凡社ライブラリー)他著作多数。『金時鐘コレクション』全12巻(藤原書店)が順次刊行中。共著に佐高信との『「在日」を生きる』(集英社新書)等がある。


集英社新書プラス、2019.7.17
[青木理 特別連載]官製ヘイトを撃つ 第4回
「帰化した者は周囲の日本人が朝鮮人を悪し様に語るとき、 黙って相槌(あいづち)を打たなくちゃならんような立場」
在日一世の詩人・金時鐘氏に訊く@

金時鐘 × 青木理
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/hate/6472

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抵抗の拠点から

 日本と韓国がこういう形で対立して、両国にとってメリットは何一つありません。

 安全保障や外交面では、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮とどう向き合うか。
 日朝首脳会談を実現させるためにも、日本が重要課題と位置づける拉致問題を前進させる上でも、日韓の連携協力はきわめて重要です。

 経済面でも日韓は1965年の国交正常化以降、緊密に結びついてきました。
 韓国は日本の経済協力資金や技術協力で成長を果たし、日本の企業などもそれで潤ったのです。
 この半世紀、日韓貿易は一貫して日本側の大幅黒字なのはその証左でしょう。
 ある意味では“ウィンウィン”だった経済関係を日本が輸出規制などで傷つけ、安保面や観光面にまで悪影響がどんどん広がっています。

 あらゆる面でメリットなどないのに、相手をやり込めてカタルシス(快感)を得るかのような外交や風潮は心底愚かなことです。

 しかもメディアの現状も無残です。
 メディアは本来、政治権力の行き過ぎをチェックし、冷静な視座からの情報や分析を提供し、隣国などとの対立や紛争はできるだけ抑制的に報道すべきなのに、日本では政権があおる対立にメディアが風を吹き込むような最悪の状況になっています。

粘り強く対話を

 この状況を招いた原因はどこにあるのか?

 日韓の国交正常化交渉は、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)軍事独裁政権と日本の佐藤栄作政権による政治的妥協でした。

 当時は冷戦体制の下、日韓の関係改善を望むアメリカの意向なども背後に横たわり、だからこそ植民地支配は合法だったか、違法なのか、なぜ賠償ではなく経済協力資金なのか、そういう問題に全部フタをしてしまいました。
 現在でも対立がくすぶる問題の大本はそこにあります。

 国交正常化時の請求権協定を肯定するとしても、すでに問題は完全に解決済みという日本政府の主張には問題があります。
 一つは、個人の請求権まで消えたわけではないこと。
 これは日本政府も認めてきたことです。
 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の姿勢などにも問題はあれ、かつての政治的妥協の協定でフタをした問題がいま、矛盾として噴き出しているわけですから、本来は両政権が向き合って話し合い、粘り強く解決するしかありません。

事実知り、伝える

 その際、日本政府や私たちが常に念頭に置くべきは歴史認識問題です。
 かつて日本は朝鮮半島を植民地支配し、どれほどの苦痛を与えてしまったか。
 韓国を併合して言葉を奪い、氏名を奪い、天皇の臣民として動員し、とてつもない被害を強いたのは歴史的事実であり、日本がそれを反省する立場にたつのが問題解決の基本的な土台です。

 かすかな希望は、10代、20代の若者たちが韓国のポップカルチャーに親しみ、ごく当たり前に日韓の壁を越えていることでしょうか。
 今回の対立を文化や人的交流に波及させず、発展させられるようにしなくてはいけません。
 と同時に、かつて日本が何をしたか、歴史の事実を知り、伝え、歴史修正主義にあらがう必要もあるでしょう。


しんぶん赤旗、2019年9月4日(水)
植民地支配 常に念頭に
ジャーナリスト 元共同通信ソウル特派員 青木理さん
(聞き手・伊藤紀夫)
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-04/2019090401_02_0.html

青木理『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(講談社、2014年12月)

緊急出版!慰安婦報道の「戦犯」と呼ばれた植村隆、市川速水、若宮啓文、本多勝一ら朝日関係者に徹底取材。報道の現場から問題の全真相をルポルタージュし、バッシングの背後にうごめく歴史修正主義をえぐり出す。闘うジャーナリストが、右派の跳梁に抗する画期的な一冊!


 ルポルタージュでもあり、時評集の側面もある。
 一種のメディア論でもある。
 まるでキメラ(chimera)のような作品だが、昨年末に『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』を緊急出版して以降、多くの方々から高い評価をいただき、時をおかず重版もした。
 世の中がほぼ一色に染まった朝日新聞バッシングの風潮に真っ向から喧嘩を売るような内容だったから、ネットなどでは「反日」「国賊」などという罵声が私にも浴びせられたが、これはまあ予想どおりの反応だったので、むしろ褒め言葉と受け止めている。
 
 ただ、このような作品を上梓することになるとは想定もしていなかった。
 朝日が昨年2014年8月、過去の慰安婦問題報道にかんする検証記事を掲載し、すさまじい朝日批判が起きてからも、この現象にかんする書籍を世に放とうとは考えなかった。
 学者でも評論家でもない私が、自らの仕事場であるメディアについてうんぬん論じるなど、そもそも趣味ではないと思っていた。

 心境と状況に変化が生じたのは、主にふたつの理由があった。
 ひとつめは、ひどく現実的な話である。

朝日バッシングの中で

 私は昨年2014年春から『サンデー毎日』(毎日新聞社)で「抵抗の拠点から」と題するコラムを連載している。
 そのときどきの社会事象についてつづる時評コラムだが、連載開始から半年も経たぬうちに起きた朝日バッシングに違和感を抱き、コラムでも触れる機会が増えていった。
 一時は毎週のように取りあげ、同誌以外でも何本も原稿を書いた。

 そうこうするうち、連載の担当編集者であるM君から、コラムや関連原稿をまとめ、書籍として刊行すべきではないか、と提案された。
 本書のタイトルが『抵抗の拠点から』となったのはそのためである。

 聞けばM君も、「売国」「国賊」などという論外の言辞が飛び交う朝日バッシングの異様さに憤っていた。
 また、大半の雑誌がバッシング一色に傾き、それに連なる論者や出版社が歴史歪曲的な言説を振りまき、果ては「嫌韓・嫌中」に類する書籍が量産されている現状を憂え、これに抗う本を世に放ちたいという出版人としての想いもあったらしい。

 そのM君が講談社のI君に相談し、I君も即応し、計画は現実化した。
 ふたりの提案に、私の心も動いた。
 これがひとつめの理由である。
 ただ、連載は開始からさほど時が経っておらず、他の原稿と合わせても分量的に物足りない。
 加えて私自身、単にコラムをまとめるだけでは不十分だと考えた。
 その理由については、本書で率直にこう記した。
 その時々に多少の異議申し立てをしたとはいっても、所詮ほとんどはコラムや論考、論文の類にすぎない。あくまでも取材者である私は、現場に足を運んで当事者の話に耳を傾け、それをルポルタージュやノンフィクションの作品として紡ぐことを本業として生きている。
 なのに、それができていない。しかも、今回の事態をめぐっては、一方の当事者たちの声がほとんど外部に伝えられていない。猛烈な朝日バッシングばかりが横行する中、朝日を叩く者たちの声や主張は過剰なほど喧伝され、あふれかえり、その論調に沿った形で朝日側の人びとの「言い訳じみた声」や「みじめな姿」はいくどとなく紹介されたものの、当の朝日幹部や現役記者、有力OBたちの声や反論は、まったくといっていいほど伝えられていないのである。(中略)
 これは断じて好ましくない、と私は思う。世の大勢がひとつの方向に雪崩を打って流れた時、それに疑義をつきつけたり別の視点からの考察材料を提供したりするのもメディアとジャーナリズムの役割であると考えれば、ひたすら叩かれている側の言い分もきちんと記録され、広く伝えておかなければならない。
 だから私は、今回の朝日バッシングの中、徹底的かつ一方的に叩かれまくった人びとを訪ね歩き、せめてその話に耳を傾け、記録し、伝えようと考えた。誰もそうした作業をしない中、叩かれた者たちの声を伝えることは、なんだか私の責務のような気分にもなっていた
(『抵抗の拠点から』より)

 そんな“使命感”と同時に、激しいいらだちと危機感が私の背を押した。
 M君と同様、歴史歪曲的な風潮にもいらだっていたのだが、何よりこの仕事をしてきた者として許しがたい状況が立ち現れていることに私は心底いらだち、かつてない危機感を覚えていた。
 これが本作を書こうと思うに至ったふたつめの理由である。

「常識」と「矜持」

 私がメディアの世界に足を踏み入れたのは1990年。
 通信社に記者として潜り込み、後にフリーランスの立場に転じたものの、振り返れば25年、つまりは四半世紀もメディアとジャーナリズムの仕事にかかわりつづけてきたことになる。

 この間、さまざまなメディアで活動し、原稿を書き、時には発言してきた。
 また、さまざまな先輩ジャーナリストや編集者と出逢い、メディアとジャーナリズムの作法を学んだ。
 当然ながらメディアの歪みというべき部分も数々見聞きしたし、実際に私自身が歪みの一端に足を突っ込んだこともあったが、一方でこの国のメディアが辛うじて堅持したジャーナリズムの原則もたしかにあった。

 それはいわば、メディアとジャーナリズムにかかわる者が最低限共有する「常識」や「矜持」というべきものである。
 しかし、このたびの朝日バッシングの中、それが次々となぎ倒されていった。

 なのに誰も異議を唱えない。

 いったいどうなってるのか。
 まるでこちらが失見当識に陥ったのかと疑ったのも一度や二度ではない。

 そのいらだちと危機感はいま、一層強まっている。
 本書の出版後も含め、いくつかの具体例を書き留めておきたい。

 最初に唖然としたのは昨年2014年9月11日、朝日の木村伊量社長(当時)らの会見だった。
 これは本書でも触れたが、原発事故をめぐる「吉田調書」報道に加え、慰安婦問題をめぐる「吉田証言」報道の誤りを認めて謝罪する木村社長に、Y社の記者を名乗る男性が次々質問を浴びせ、こう問いつめた。

「御社には、自浄能力がないのではないかと感じる。そのことを社長はどうお考えか」

 正直、ひっくり返りそうになった。
 政界フィクサー紛いの独裁的経営者に社論を牛耳られ、社内言論の自由すらおぼつかない社の記者が、ライバル社のトップに向かって「自浄能力」を問う三文芝居のような光景。

 いや、いいのである。
 Y社にだって尊敬すべき記者はいるし、朝日にも阿呆な記者はいる。
 そもそも自分のことを棚に上げて他者を論評するのがメディアという生業の醜き一面であり、会見であれこれ問いつめ、時には食ってかかるのも仕事ではある。

 だが、なんの恥じらいもないらしき質問者の態度には「ちょっと待てよ」と叫びたくなる。
 朝日がそれほど立派なメディアだとは思わないし、根本のところで組織などというものをまったく信じていない私だが、メディア組織としての朝日はY社よりマシである。
 政権の応援団と化したかのようなメディアに比べ、一応は政権にファイティングポーズを取っている朝日は、メディアの使命である「権力の監視」という建前を辛うじて掲げている。
 なのに正義面をして朝日を叩き、水面下ではここぞとばかり拡販に躍起となる様を目の当たりにすると、こちらの「常識」が溶融したようで頭がクラクラしてくる。
 しかも9・11会見の翌日、S社は一面の大型論説に次のような見出しを掲げた。

国益損ねた朝日、反省なし

 眼を疑った。
 どのような場面であれ、「国益」を持ち出してメディアがメディアを批判するのは論外の禁じ手であり、メディアとジャーナリズムの自殺行為ではないか、と。

ジャーナリズムの大原則

 先に記したとおり、メディアは「正確な事実を早く、広く伝える」ことを第一の役割とする一方、「権力の監視」も使命とする。
 少なくとも私は、尊敬する先輩ジャーナリストたちからそう叩き込まれてきた。

 政治家や官僚の不正であれ、時代や社会の歪みであれ、自国の恥ずかしい過去であれ、在野のメディアは取材でつかんだ事実を報じて問題提起する。
 当然、こうした報道は時に人を傷つけ、時に「国益」なるものを毀損する。
 だから慎重に、そして謙虚でなければならないのだが、果敢なメディア報道が社会の不正や歪みを顕在化させ、さまざまな議論を活性化させ、問題解決に向けた動きを後押しする。

 中長期的に見れば、これが“市民益”や“国民益”につながる。
 一方、政治家や官僚といった権力を行使する側は、メディアの監視で緊張感と責任感が生まれる。
 これが民主主義社会におけるメディアとジャーナリズムの役割にかんする大原則であり、そのためにこそ報道の自由は保障されている。

 もちろん、現実は理想からほど遠い。
 メディア批判が高まる理由もそこにあると自戒する。
 この国のメディアが権力監視の役割を果たしてきたのかと問いつめられれば、四半世紀もこの世界で禄を食んだ私も深く頭を垂れるしかない。

 だが、原則は原則であり、理想は理想である。
 飽くことなく掲げ、追求されなければならない。

 そのメディアを批判する際に「国益」などという基準を持ち出すべきではない。
 ましてやメディアがメディアを批判するのに「国益」を振りかざすのは狂気の沙汰である。
 メディアは国家機関ではなく、時には国家と対峙する在野の存在でなくてはならず、「国益を考えよ」などという物差しを突きつければ、ジャーナリズムはナショナリズムに屈するしかない。

 しかし、朝日バッシングの最中には大手メディアが「国益」を公然と掲げ、それに誰も異議を唱えず、あたりまえのようにやりすごされた。
 そればかりか雑誌メディアには「売国」「国賊」などという戦時を想起させる禁断の言辞が飛び交った。
 私の頭はクラクラしっぱなしだった。

「取り消し」が残す禍根

 まだある。
 朝日が記事の「取り消し」を表明した「吉田調書」報道である。

 記事の「取り消し」とは、私が知るメディア界の「常識」に照らせば、当該記事が捏造、あるいは虚報だったことを意味する。
 朝日の例を振り返れば、古くは伊藤律・架空会見記(1950年)にせよ、サンゴ事件(1989年)にせよ、報じられた事実自体が虚偽、あるいは捏造だったのだから、記事が「取り消し」とされるのは当然だろう。

 しかし、「吉田調書」報道は違う。
 福島第一原発の故・吉田昌郎元所長に対する政府事故調の聴取記録―いわゆる「吉田調書」は存在し、朝日記者は政府が非公開としていたそれを見事に入手した。
 その中身は人類史でも未曾有の惨事となった原発事故の実相を浮かび上がらせる一級資料だった。

 これを特ダネとして紙面化した昨年2014年5月20日朝刊の記事「所長命令に違反 原発撤退」には、正直にいって私もやや首を傾げた。
 なぜここに焦点をあてたのか、批判を含めて議論されるべきだろうとも思う。

 だが、猛バッシングを浴びたことも作用したのか、木村社長はこの特ダネに「調書を読み解く過程での誤り」があったとして「取り消し」処分にすると表明してしまった。

 記事のどこが問題か、詳細に踏み込む紙幅はないが、木村社長のいう「調書を読み解く過程での誤り」があったなら、それは本来、修正や訂正で対応するべき種類のものであり、捏造や虚報と同様の扱いにまでおとしめてしまうのは重大な過ちだと私は思う。

 このようなことがまかりとおれば、この国のメディアとジャーナリズムの将来に重大な禍根を残す。
 政府が隠す情報を必死の取材であぶり出し、それを市民に提示する仕事ーいわゆる「調査報道」は地道でしんどく、時には強烈な政治的圧力を受ける危険な作業である。
 そのような仕事に取り組み、貴重な資料の入手に成功した記者たちが、仮に「調書を読み解く過程での重大な誤り」があったにせよ、虚報や捏造を犯したかのような処断を受けるなら、記者クラブで発表ものを右から左に処理していた方が遥かに楽で安全だーそんなムードが蔓延し、「権力の監視」を任とすべきメディアとジャーナリズムは失速する。
 つまるところそれは、私たちの社会に流れる情報の幅と質が劣化することにつながる。

 だが、これに疑義を突きつける声もほとんど上がらず、朝日バッシングの格好の材料に矮小化されてしまう始末だった。

壊死状態の一断面を描く

 本書の出版直後にも、こんなことがあった。
 昨年2014年12月22日、慰安婦問題報道をめぐる朝日第三者委の記者会見。
 ネットメディアの記者を名乗る男性は、委員のひとりだった元外務官僚の岡本行夫氏に次のような質問を投げかけた。

「岡本さんが報告書の中で指摘されている『角度をつける』とは驚くような話だ。これが偏向報道と感じる理由になっている。日本や国民が不利益を受ける」

 質問にもあるとおり、第三者委の報告書で岡本氏は、「個別意見」としてこう記した。
 当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた

 朝日の記者たちによれば、「角度をつける」とは朝日社内の隠語で、記事の「切り口」を定めて「意義づけ」するといった意味であり、どのメディアでも普通に行われている。
 したがってこの記述は誤解を招きかねない面があったのだが、質問を受けた岡本氏は概略次のように回答した。

「私は官僚をやっていた時間が長い。官僚は事実を事実のまま提示し、脚色をつけてはいけないという中で育つ。私が担当したのは安保や防衛問題など朝日が好んで取りあげる話題だったが、なんでもないことでもセンセーショナルに報道する姿勢にかねがね問題意識を持っていた。今後、そういうものが払拭され、もう少し公正な報道に戻ってくれるかどうかがポイントだ」

 愕然とした。
 メディアがしばしばセンセーショナリズムに陥るのは否定しないが、官僚が事実を事実のまま提示せず、都合の悪いことは平気で隠したりねじ曲げたりするのは歴史が証明している。
 また、官の側が「なんでもないこと」と言い張っても、見過ごしにすべきでないことは山のようにある。
 むしろ、そうした部分にこそ光を当て、あえていえば「角度をつけ」て問題提起するのがメディアの役割ではないか。
 官のいう「事実」を「公正」に伝えるだけなら国営メディアとなんら変わらない。

 だが、質問者はフンフンと満足げに頷いていた。
 私はふたたびクラクラし、正気を保つのがやっとだった。

 最後にお断りしておくが、誤報が批判されるのは一向に構わない。
 つねひごろ他者のミスを声高に批判するのがメディアである以上、むしろ誤報というミスが批判されるのは当然だろう。
 ましてや朝日は「日本を代表する新聞」を自称し、おそらくは多くの人がそれを認めてきたのだから、他メディアより激しい批判にさらされるのはやむを得ない。
 メディアの相互批判は言論を活発化させる面もある。

 だが、批判のためにメディアとジャーナリズムの作法や矜持まで殺してはならない。
 それは言論・報道の自由を殺し、果ては民主主義を殺す。

 残念だが、私が見るところ、この国のメディアとジャーナリズムはなかば壊死状態に入りつつある。

 本書はその一断面を描いた記録だと思っている。

※ 読書人の雑誌「本」2015年3月号より


現代ビジネス、2015.02.25
青木理・特別寄稿「なぜ異議を唱えないのか」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42215

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2019年09月04日

立川文庫

 上田電鉄別所線の車内案内 ☟

別所線車内.JPG

車内案内.JPG

 雪花山人『猿飛佐助 立川文庫傑作選』(角川ソフィア文庫)を読みました。

 猿飛佐助はみなさんご存知ですよね。真田幸村に仕えた真田十勇士の一人で、甲賀忍術の達人。

 同じく十勇士の一人で、伊賀忍術の達人である霧隠才蔵とともに、今なお抜群の知名度を誇るキャラクターだろうと思います。
 
 ところが不思議なのは、真田幸村が登場する歴史小説は数多くあるにも関わらず、そこには猿飛佐助が登場してこないこと。

 それが何故かと言うとですね、真田幸村は実在した人物ですが、猿飛佐助は物語の中で作られた、架空の人物だからです。

 もしかしたらモデルになった人物はいるかも知れないんですが、ともかく真田十勇士の活躍自体が、フィクションの色彩が強いものなんです ね。

 なので、史実に出来るだけ忠実であろうとする歴史小説の場合は、真田十勇士の荒唐無稽とも言える活躍は、ほとんど描かれないわけです。

 さて、そんな猿飛佐助や真田十勇士の活躍を作り出し、一躍有名にしたのが、今回紹介する立川文庫です。

 立川文庫は、今では「たちかわぶんこ」と読まれるのが一般的ですが、本来は「たつかわぶんこ」が正しい読み方のようです。

 元々は講談(物語を語る話芸)が人気を集めていたわけですが、それをそのまま速記したものが、徐々に出始めたんですね。

 そんな流れもあり、1911(明治44)年から、講談師の二代目玉田玉秀斎とその家族が、初めから講談風に筆記したものを作り始めたんです。

 それが立川文庫です。立川文明堂から出たこの小さな本のシリーズが最も特徴的だったのは、読み終えた本に少しお金を足すと、新刊と取り換えられたということ。

 面白いシステムですよね。そのシステムが受けたのと、荒唐無稽な内容の面白さから、お金のない丁稚(でっち。商人の家などで働く子供)にも愛読されて、たちまち大人気のシリーズになったそうです。

 立川文庫に関しては、本書についている縄田一男の解説に詳しいので、興味のある方は、ぜひそちらをご参照ください。

 立川文庫は一部の作品だけではありますが、色んな出版社から何度か復刊されています。一番新しいのが、今回紹介する角川ソフィア文庫で、新字新仮名に直されているので、読みやすいですよ。

 とは言え、1916(大正5)年の本なので、どんな雰囲気なのか、難しくないかどうかが気になるだろうと思うので、本文を少し紹介しましょう。

 猿飛佐助とその仲間の三好清海入道が、旅の途中で山賊をこらしめる場面です。やや長いですが、ちょっと読んでみてください。
清「そうだそうだ、朝倉の残党とか吐かして、軍用金を集めたり味方を募ったり、我々に相談もせず、小癪な真似をする奴だ。(中略)天に代わって三好清海入道が成敗してくれる、覚悟しろ」と、大刀をスラリと引き抜いた。

山「エエイ、何を吐かす、余計な講釈は勝手に言えッ」と喚き叫んで突っ掛かった山上甚内の槍先を、サッと躱した清海入道、面倒なりと躍り込み、ヤッと叫んだ声諸共、真っ向から唐竹割りに斬り下げた。山上甚内二ツになって即死をする。この時猿飛佐助は、頭上に生い茂ったる大木の枝にヒラリ飛び上がり、程よいところに腰打ちかけ、

佐「イヨー、よく見える見える。清海入道確り頼むぞ、乃公はここで見物だ」

清「オオ大丈夫だ、こんな奴は片っ端から撫で斬りだ」と、多勢の中へ踊り込み、四角八面に薙ぎ立て斬り伏せ、無二無三に暴れ出す。
(146〜147ページ)

 どうでしょうか。速記のスタイルが元になっていますので、会話文の前には、その台詞を言う人物名の頭文字がつきます。

 講談のように書く、つまり、「語る」ということを意識した文体ですから、独特の言い回しはあるにせよ、今読んでもそれほど難しくはないですよね。

 むしろ地の文(会話文以外)も非常にリズミカルで、独特の味があって面白いです。

 200篇ほどある立川文庫の中でも一二を争う人気作が、今回紹介する『猿飛佐助』。物語の前半は、忍術の修業をした猿飛佐助が真田幸村に仕えるようになるまでの話です。

 そして、物語の後半は、旅に出た猿飛佐助と三好清海入道が、様々な豪傑達と戦いながら、霧隠才蔵など、残りの十勇士を仲間にしていく話になっています。

 史実の豪傑と猿飛佐助らが技を競うわくわくがあったり、強敵を倒し、仲間を増やしていくという、『水滸伝』に近い、豪快なテイストの物語。

作品のあらすじ

 信州鳥居峠のふもとに、鷲塚佐太夫という郷士(武士でありながら、農業をして暮らしている者)が住んでいました。

 主君を失ってからというもの、二君に仕える気にはどうしてもなれなかった佐太夫は、そのまま畑を買って、郷士になったのです。

 佐太夫には小夜という娘と、佐助という息子がいました。佐助は鳥居峠の山に入り、猿たちと遊んで育ちます。

 その生まれつきの力の強さと、体の身軽さに目をつけた一人の老人がいました。

 佐助が一人で剣術の修業をしている所にやって来て、その高い志を聞くと、「豪いッ、少年ながら天晴なる精神。ヨシ、其方の熱心なる志に愛で、これから乃公が教えてやる」(13ページ)とその老人は言ってくれたのです。

 この老人の修業がちょっと変わっています。昼の激しい修業でもうくたくたですから、夜になってぐっすり眠っていると、腰を蹴って起こされる佐助。
老「コリャ白痴者奴ッ。乃公が来たことも知らず、腰を蹴られて驚く奴があるか。若し敵であったなら、貴様の命はもうなくなっているのだぞ、馬鹿者奴ッ、どうも生命を粗末にする奴だ」
(16ページ)

 いついかなる時も辺りに気を配り、暗闇で見えないものを見、音を聞き分けなければならないのです。

 そうして3年ほど修業を重ねる内に、佐助の腕前はぐんぐん上達していきました。この時、佐助15歳。

 その謎の老人は、戸沢白雲斎という忍術の達人であったことがついに明かされます。佐助は白雲斎から、いつの間にか忍術を習っていたのです。

 基本を修めた佐助は、最早「水遁、木遁、金遁、土遁、火遁、その他あらゆる術を行うことが出来る」(20ページ)ようになっていました。すべてを教えた白雲斎は、雲に乗ってどこへともなく去って行きます。

 ある時真田家の嫡男で、16歳の与三郎幸村が、いつものように、望月六郎、穴山岩千代、海野六郎、三好青海入道、三好伊三入道、筧十造という、お気に入りの6人を連れて山にいのしし狩りにやって来ました。

 まず狙われたのは、佐助の友達の猿でした。頭に来た佐助は、友達を助けるため、真田の六勇士を相手に暴れ回ります。

 六勇士をものともしないその力が認められて、幸村から「どうじゃ佐助、予が家来となる気はないか」(30ページ)と声をかけてもらえました。

 こうして佐助は幸村の仕えることとなり、「汝は今より鷲塚の姓を改め、猿の如く飛び廻るに妙を得ているに依り、猿飛佐助幸吉と名乗るべし」(34ページ)と新しい名をもらいます。

 急に現れて、幸村に可愛がられるようになった佐助のことが、どうしても気にくわないのが、六勇士です。

 ちょっとこらしめてやろうと、佐助にさまざまな手段で挑むのですが、佐助は忍術の達人ですから、そううまく事は運びません。その辺りのドタバタは、本編で楽しんでいただくことにしましょう。

 織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれ、豊臣秀吉がその明智光秀を討ちました。

 真田家は豊臣秀吉の客将という扱いを受けるようになっているのですが、この先、世の中の情勢がどう動いていくか分かりません。

 そこで幸村は佐助に密命を与えます。
幸「ヤヨ佐助、その方ここ三ヶ年間西国地方を漫遊して、諸国大名の挙動を探り、また天下の勇士豪傑と交わりを結んで来るがよい。くれぐれも言っておくが、自分の術に慢心し、人を侮ってはならぬ、諸国大名の挙動は一々この幸村に通知をいたせ」
(128ページ)

 自分も行きたいと言い張った三好清海入道を連れて、佐助は旅に出ることになりました。ここから先は、オールスター夢の対決という感じの展開になっていきます。

 大泥棒の石川五右衛門、塙団右衛門や花房助兵衛、後藤又兵衛など、名の知れた豪傑たちが登場し、佐助らと戦いをくり広げることとなるのです。

 歴史ファンであればあるほど、思わずにやにやしてしまうような対決ばかり。後に仲間となり、真田十勇士に加わる人物も強敵として登場します。

 数々の対決の中で、最も印象的なのは、佐助と石川五右衛門の忍術合戦。実は五右衛門は、伊賀の忍者、百地三太夫の弟子だったんです。

 五右衛門がねずみに体を転じると、佐助は猫になって追いかけ、五右衛門が火遁の術を使うと、佐助は水遁の術でそれに応じます。火花散る忍術合戦の行方は――。

 やがて、佐助に真田家の危機の報がもたらされて・・・。はたして、幸村とその勇士たちの運命の行方は!?

 とまあそんなお話です。はっきり言って、作品に深さは何もないので、好き嫌いは分かれる作品だと思いますが、どこか馬鹿馬鹿しさのあふれるこのテイスト、ぼくは結構好きでしたねえ。

 とにかく佐助がもう凄すぎて、なにせ忍術で姿を消したりも出来るので、やろうと思えば暗殺し放題ですし、多分本気になったら確実に天下を狙えるんですが、勿論しません。

 相棒になる三好清海入道もまた、力はあれど、頭の回転はそれほどよくなく、酒を飲んで失敗するなど、『水滸伝』における黒旋風李逵のようなキャラクターで、どこか憎めない感じがいいです。

 この作品でぼくが一番笑ったのは、猿飛佐助と霧隠才蔵の対決です。結構物語の後半で出て来て、どう考えても最大の山場であるはずですよね。

 才蔵は伊賀の忍術の達人で、石川五右衛門の兄弟弟子です。五右衛門との戦い以上に、佐助は苦戦を強いられるかも知れません。ところが・・・。
佐「フム、偖てこそ汝は石川五右衛門と示し合わせ、天下を覘うとは猪口才なり。この猿飛の耳に入ったるからには、許しはおかん、覚悟に及べい」と、ここで両人は忍術比べに及ぶのだが、石川五右衛門と南禅寺の山門で術比べに及んだ時と、大同小異、別に大した違いはないから、重複に渉るを避けて、ここには省略くことにする。
(212ページ)

 えええ、まさかの!? ここでまさかの省略ですよ! いやあ笑いましたねえ。「そうだろうけども!」と思わず激しくつっこんでしまいました。

 日本の大衆文学の原点とも言われる立川文庫。そしてその立川文庫の中でも人気を集めた『猿飛佐助』の紹介でした。

 荒唐無稽の、一言で言えば楽しい作品であり、今読んでも十分に面白い作品だろうと思います。

 むしろもうつっこみどころ満載の作品なので、「なんでそうなるの!」など、キャラクターや物語の展開にバシバシつっこみを入れつつ、笑いながら読むのが一番おすすめの楽しみ方です。

 残念ながら、角川ソフィア文庫版も今は絶版のようなので、なかなか本が手に入りづらいかも知れませんが、興味のある方はぜひ読んでみてください。


文学どうでしょう、立宮翔太の読書ブログ。小説のあらすじを紹介したり感想を書いたり。2012年12月30日
雪花山人『猿飛佐助』
https://ameblo.jp/classical-literature/entry-11437297233.html

 友人知人や、作家仲間と話していると、たまに「時代小説って、書くのたいへんじゃない?」と聞かれることがある。

 無論、たいへんなのは当たり前だし、そのたいへんさはミステリーを書く時もSFを書く時も同じなのだけれど、その言葉の裏に、時代小説は制約が多くて書きにくそうだとか、様式や決まり事があってお堅いジャンルなのではと誤解しているニュアンスが感じられることがある。

 そんな時、僕はこう答える。
「時代小説ほど自由に好きなことが書けるジャンルはないですよ」と。

 時代小説がいかに自由か。
 これを口で説明することは難しいが、理解することは容易だ。

 柴錬の小説を読んでみりゃいいのである。

 さて、いきなり「柴錬」と呼んでしまったが、柴田錬三郎先生と自分とでは、天と地どころか大気圏外と地下数千メートルくらいの差があるので、もうこの際、同業者であることは忘れて、一ファンとして敬愛を込めて、後はすべて柴錬と略させてもらう。

 この『真田幸村』という小説は、『猿飛佐助』に続く、柴錬立川文庫の二巻目ということになっている。

 立川文庫とは何かというと、明治から大正にかけて刊行された講談本のシリーズのことで、猿飛佐助を始めとするお馴染みのキャラクターは、ここから生み出されている。

 つまり、柴錬立川文庫とは、その柴錬版ということだ。

 雪花山人(これは講談師・二代目玉田玉秀斎を中心とした複数人の共同ペンネームだと言われている)の著となる立川文庫『猿飛佐助』は、一説によると、実在した武将・真田幸村を玄奘三蔵に見立て、『西遊記』をモデルにして、その家来として、孫悟空をモデルに猿飛佐助が、沙悟浄をモデルに霧隠才蔵が、猪八戒をモデルに三好清海入道が考案されたという。

 服部半蔵などの実在の忍者とは違い、猿飛佐助は架空の人物なのだが、元となっている立川文庫では、鳥居峠に居を構える鷲塚佐太夫という、森長可の遺臣の子として描かれている。

 猿の如く山中できゃっきゃと遊んでいる最中に、戸沢白雲斎なる人物に目を付けられ、本人もよくわからないうちに忍術を授けられる。

 その後、猪狩りに来た真田幸村に見出されて家来となり、僧形の豪傑・三好清海入道や、百地三太夫の弟子で元は蘆名(あしな)下野守に仕えていた浪人、霧隠才蔵などと出会い、殿を守って活躍する。

 柴錬版では、真田幸村こそ同じように智将として描かれているが、これらの登場人物を踏襲しながらも、明らかに意識して立川文庫のキャラクターとは異質に描かれている。

 溌剌とした少年忍者佐助は、出自に重大な秘密を抱えている、背中に瘤を負った男、伊賀忍者霧隠才蔵は、何と渡来したカンボジア人、三好清海入道は豪傑ではなく、色子上がりと見紛うような美僧となっている。

 柴錬の筆の自由さは、キャラクター造形に止まらず、その設定面でも、史実の間を縦横無尽に飛び交っている。

 特に、真田十勇士の物語に、山田長政を絡めてくるのは驚きだった。

 山田長政といえば、日本を飛び出してシャム(現在のタイ)に渡り、時のアユタヤ朝に仕え、後には属国であるリゴールに封じられ、王となった実在の武士だ。

 スケールの大きな夢を与えてくれるこの人物が僕は大好きで、山岡荘八『山田長政』ほか、遠藤周作『王国への道』、白石一郎『風雲児』など、山田長政が主人公だというだけで手当たり次第に読み漁っていた時期があるのだが、まさかこんなところで出会うとは思わなかった。

 あまりにもイメージがかけ離れていて、同じ時代の人物だということにすら気がつかなかったくらいだ。

 本書の後半で、真田幸村が、四面楚歌になった秀頼に、大坂城を捨て、山田長政を頼ってシャムに渡ってはどうかと進言するシーンがある。

 この計画は、いろいろとあって結局は頓挫するのだが、実現していたらどうなっていただろうかと、思わず空想を膨らませてしまう。

 しかも本書の前編に当たる『猿飛佐助』で、すでに物語に山田長政が絡んでくる伏線は張られており、柴錬の周到さには本当に舌を巻く。

 また、作中で徳川家康が抱えている、自身の生い立ちに関するある秘密も秀逸だ。

 この一件だけで、後の家康の行動、例えば築山殿との不和や、信長の命で長子信康の切腹を受け入れたこと、家柄などお構いなしに、側室に庶民の出で後家である茶阿を取り立てていることや、本多正純が家康没後に秀忠に冷遇された理由などが、この構想というかアイデア一つで、殆ど説明がついてしまい、思わず唸ってしまった。

 時代小説、特に伝奇ものを書いていると、作中の嘘と史実の整合性を取るために四苦八苦することがあるが、こういう風に、ある一つの奇想(アイデア)によって、全てがパズルのピースのように気持ちよく次々に嵌まるような、言うなれば、何かを「引き当てた」ような快感を得ることが稀にある。

 右に挙げた例だけに止まらず、本書は「このアイデア一つで一冊書けるのに」という、そんな奇想が、惜しげもなく次から次へといくつも飛び出してくる、実に贅沢な作品なのだ。

 最初に、時代小説ほど自由に好きなことが書けるジャンルはないと記しました。

 それを知りたければ、第一歩は簡単。

 本書を開いてみることです。


文藝春秋 Books、2014.01.30
文春文庫『真田幸村〈新装版〉』 (柴田錬三郎 著)』解説(2014年1月)
文: 乾 緑郎 (作家)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167900106

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進化する幸村像

霧隠才蔵.JPG

 上田城の城下町、柳町で出会った霧隠才蔵 ☝
 ☟ 映画で霧隠才蔵を演じたのはなんと松坂桃李

松坂桃李.jpg

 松坂桃李ってあの映画「新聞記者」(2019年6月公開)の?
 そうなんです。映画「真田十勇士」(2016年9月公開)です。

 戦国時代、信濃の国に真田氏という一族がいた。
 地方の一豪族であったにもかかわらず、動乱の時代を知恵と度胸でくぐり抜けた真田氏の業績は、江戸時代から人々を魅了してきた。
 そして彼らは今もフィクションの世界で奔放に活躍し続けている。

 大坂夏の陣の1615(慶長20)年、豊臣方について戦った真田幸村と大助親子は武運つたなくこの世を去った。
 はるか後年、1833(天保4)年あたりに、彼らが登場する読み物「本朝盛衰記」が成立。
 物語の世界で真田親子は琉球を駆け巡ることになる。
 真田一族は200年の時をかけて、江戸の人びとの想像力を借りて再度の旗揚げを果たしたというわけだ。

 そこからさらに200年弱。
 現代の真田氏はアニメや映画、ドラマ、ライトノベルなどに登場。
 幸村は美男子になったり女体化したり猫になったりしている。
 江戸時代とは、かなりイメージが異なる。
 私は現代の娯楽文化には詳しくないが、赤くて元気、リーダーで軍師であれば幸村、ということになっているのだろう。

 江戸時代と現代の真田一族の間を埋めるのが、明治大正時代の娯楽物語である。
 これらの創作物がなければ、今の真田一族の人気もなかったかもしれない。
 キャラクターとしての真田氏がはるばる渡ってきた旅路を振り返ってみたい。

■ 徳川時代を生き延びた英雄伝説

 江戸時代、真田一族にまつわる書籍の出版は表向きは禁止されていた。
 当時、幕府の方針に反したり徳川家の事績にかかわったりするような書籍は禁制品だったのだ。
 幕府に刃向かった真田幸村らの活躍を書き表した書物が、公に認められることはなかった。

 だが、それでも真田一族の物語は人気があった。
 ややこしいが禁止というのはあくまで建前で、「実録」と呼ばれる歴史を扱った物語が存在し、出版社を通さず貸本屋が流通させていた。
 有名なのは「真田三代記」や「難波戦記」で、これは幸村と父の真田昌幸、息子の真田大助の生涯を描いた作品だ。
 今も愛される真田一族物語の原点といったところだろう。
 人形浄瑠璃など演芸の世界でも真田一族の物語は大人気だった。

 実録もまた、事実であり史実だという建前があった。
 だが、これまたややこしい話になってしまうが、史実でありながらもかなりフィクションで味付けされている。
 例えば「本朝盛衰記」では真田一族と豊臣の残党たちが琉球を攻め落としている。
 史実も何もあったものではないが、江戸時代の人びとの想像力が遠く琉球にまで広がっていたことは事実である。

 明治時代には「講談速記本」と呼ばれるジャンル(後述)で真田一族は人気を博す。
 さらに時代が進み、大正時代には講談速記本を小型化した「立川(たつかわ)文庫」などが出版される。
 そこで真田の家来である忍者・猿飛佐助をはじめとする「真田十勇士」は大活躍を繰り広げ、子供たちのヒーローとなった。

「明治」という時代

 真田一族の物語はそれ自体非常に魅力的なものだ。
 ただし明治時代に限ると、人気を呼んだ外的要因も複数あった。

 まず明治の人びとは、開国したばかりの日本と海外との差を痛感していた。
 西洋の文化と比べると、自分たちが生きていた江戸というのは不合理で古臭く、ずいぶんみすぼらしい。
 江戸は江戸で独自の文化を生み出していたのだが、とにかくそう感じる人びとがいた。
 不合理で古臭い江戸を否定するため、明治の人びとはそのひとつ前の安土桃山時代を称賛し始める。
 つまり「豊臣は最高」というわけで、豊臣に殉じた真田幸村もマジ最高!という理屈である。

 もうひとつ、明治の人びとは作りごとを嫌ったという事情がある。
 今の理屈っぼい小学生の中には「変身ヒーローが変身している時に、どうして怪人たちは黙って見ているのですか」などといった小癪(こしゃく)な質問をする者がいる。
 明治にはこの程度の精神年齢の人びとがわりといた。
 フィクションはフィクションだからと、割り切って物語を楽しむことができない。
 かのいわゆる小説家輩が破れ机の上でくねり出した空想談などと同一視されては、余は遺憾に思うのである。
(「野宿旅行」鉄脚子、大学館 明治三五[1902]年)

 さらに明治に入って西洋的な合理性を知った人びとからすると、江戸時代の「石川五右衛門が九字を切ると、ドロドロ煙が出てガマが登場……」といった物語はバカバカしくて読めなかった。
 合理性という面では進歩したが、フィクションを楽しむ能力は退化してしまっていたのだ。
 文化というのは、必ずしも進化し続けるわけはない。
 ある一面が進歩を遂げると、ある一面は退化してしまう。

 明治の人びとが新たに手に入れた価値観から見ると、小説は空想談だから意味がない。
 今ならさしずめゲームセンターに行く子供は不良になるといった理屈で、小説なんか読んでいるとロクデナシになると言われた時代もあった。
 社会一般に、小説を読み、演劇を見るは、人を堕落せしめるもので、青年にとりては、最も危険なり。
(「わが筆」大町桂月、日高有倫堂 明治三八[1905]年)

 それでも変わらないのは、面白い物語を読みたいという情熱だ。
 そこで登場するのが歴史的な事物を扱った物語で、それがすなわち「講談速記本」である。

「講談速記本」の知名度はそれほど高くはない。
 だから存在自体を認識してない方も多数いらっしゃることだろう。
 私も他人との会話でうっかり「講談速記本」の話題を出してしまい「ハァ?」という顔をされてしまったことが多々ある。
 そのたびに解説するのは大変なので、かつて「講談速記本」を解説した文章を書いたことがある。興味のある方はお読みください。
https://yamasitataihei.tumblr.com/post/102551032977/講談速記本とは

 興味がない方は、次のような存在だと認識しておいていただければ十分だ。
・ かつて講談師の口演を速記して収録した講談速記本と呼ばれる出版物があった
・「実録」と同じく建前上は事実のみを扱うジャンルである
・ 事実を扱う建前ではあるが主人公が空を飛ぶこともある

 この世界で真田一族というキャラクターはどんどん成長し変貌(へんぼう)し、最終的には現代のキャラクターたちに勝るとも劣らない個性を手に入れた。

 講談には事実を語るというルールがあり、事実とされている実録を題材とすることが多い。
 その講談を速記したのが「講談速記本」、つまりこちらも一応事実である。
 この建前があるために、明治人も罪悪感なしに読めるし書ける。
 今では忘れ去られているが、ある時代まで「講談速記本」は娯楽物語の王様だった。
 真田一族は講談や実録の世界では、もとよりスターだった。
「講談速記本」が広く読まれた明治時代に、人気が出るのは当然である。

 さらに「講談速記本」は、大阪で出版されることが多かった。
 今もそうかもしれないが、かつての大阪人は徳川方より豊臣方が好きだった。
 真田一族の存在が優遇されるのも無理からぬことだ。

 このような理由もあって真田一族は数限りない物語に登場し、「これは事実である」という建前の元に進化していく。
 ただ、事実から抜け出せないため、進化の速度はかなり遅い。
 後述するような、真田幸村が仙人となり、猿飛佐助が空を飛ぶような自由な世界に到達するまで50年もかかっている。
 それほどまでに明治人のフィクション嫌いは根強かった。
 ある意味では、明治人に絵空事の面白さを思い出してもらうための戦いに真田一族が駆り出された、と表現することもできるだろう。

■ 恐るべき14歳

 江戸人による実録などの物語を語り直すことで、明治人は「講談速記本」を作っていく。
 だが同じ話ばかりでは読者が飽きてしまう。
 新しい物語が必要だ。
 そこで創作者たちは、ギリギリ嘘(うそ)にはならないという線を狙ってオリジナルの物語を作り始める。
 もちろん江戸時代の実録にも嘘が多々あるのだが、明治時代でも次第に虚構は広がっていく。
 この傾向は明治30年あたりを境に強くなる。
 1901(明治34)年の「真田幸村」(田辺南鶴、今古堂)で、真田幸村は超人的な活躍をする。

 信長の死後、清洲会議で織田家の跡取り問題が議題となる。
 そこに秀吉は信長の孫である三法師を抱き上げて乗り込み、焼香の場で柴田、佐久間、滝川をののしる。
 これで秀吉の権力は決定的になり、天下統一につながっていく……といった物語があるのだが、この時に秀吉の参謀だったのが14歳の真田幸村で、清洲会議の全ては幸村の筋書き通りであった――と「真田幸村」には書かれている。
 そんなわけがないが「講談速記本」にはそう書いてあるのだから仕方ない。

 その後秀吉は九州平定のため1587(天正15)年に出馬する。
 この時にも幸村は、軍師真田左衛門佐幸村として活躍している。
 年齢は19歳、「ブリブリ肥満して青髯(ひげ)を生じ、ナカナカ威のある幸村だ」(同書)。
 そのイラストはごらんの通りである。

 幸村は忍術(しのび)の名人・駒ヶ獄大仁坊、霧隠才蔵らを活用し、秀吉が攻めあぐねていた名城久開山石城を攻め落とした後は連戦連勝、そろそろ頃合いだろうと秀吉の上使として島津義久と直談判し九州を平定してしまう。
 幸村さえいれば秀吉なんかいらないんじゃないかというほどの活躍ぶりだ。

 歴史に興味がない人にとっては、なんのことやら分からない話であろうが、歴史に詳しい人にとっても何を言ってんだか分からない。
 ただしこの時期に幸村が何をしていたのか、詳細は不明である。
 だから幸村が九州で活躍していないとは言い切れない。
 このように絶対に嘘だと断言することは出来ないという微妙なラインの上で、真田一族の活躍は果てしなく拡張していく。

■ 幸村、漫遊する

 明治の「講談速記本」で、幸村は日本全国を漫遊している。
 漫遊する理由は、真田十勇士のひとりである筧十蔵のあだ討ちに加勢するついでに、諸国の動向を探り大坂の陣に備えるためである。
 史実では高野山麓(さんろく)九度山に蟄居(ちっきょ)していた期間の出来事であり、こちらもほとんどありえないが、絶対に何があっても嘘だ、とは言い切れないといった物語である。

 歴史に興味がない人にとっては、なんのことやら分からない話であろうが、歴史に詳しい人にとっても何を言ってんだか分からない。
 ただしこの時期に幸村が何をしていたのか、詳細は不明である。
 だから幸村が九州で活躍していないとは言い切れない。
 このように絶対に嘘だと断言することは出来ないという微妙なラインの上で、真田一族の活躍は果てしなく拡張していく。

 幸村が諸国を旅するエピソードはすでに江戸時代には存在していたが、ひとつの挿話にしかすぎなかった。
 1903(明治36)年にその挿話を膨らませた「真田幸村諸国漫遊記」(玉田玉秀斎・講演、山田酔神・速記、中川玉成堂)という全3巻の長編物語を明治人が作り上げている。
 この漫遊によって、幸村の神がかった超人っぷりに拍車がかかる。

 父・昌幸の死後、幸村は田真雪村と名を改め修行者の姿で漫遊を始める。
 その姿は現在の幸村像とは遠く離れている。

 九度山から出発した幸村は、世直しをしたり仲間を増やしたり、徳川方の大名を脅し付けたりしながら諸国を巡る。
 最終的には九州に至り、加藤清正から豊臣家を託され、その最期をみとる……これが「真田幸村諸国漫遊記」のストーリーだ。
 徳川方にとっては超人幸村は脅威である。
 当然ながら道中その命を狙われる。

 幸村本人が危険な旅をしてしまうのはマズいだろと言いたいところだが、実は幸村、知力だけでなく腕力もすごい。
 現代では幸村というと槍(やり)や地雷火など武器の扱いにたけた優れた軍師といったイメージがある。
 明治の幸村もそういった能力を持っていたが、同時に並外れた腕力も持ち合わせていた。

 武器を持った徳川方の侍数十人に取り囲まれても、僧侶の幸村は素手で切り抜けることができる。
 幸村の強さは戦国時代のヒーローの中でも別格で、あの桂市兵衛を投げ飛ばすほどの腕力があった。

「あの桂市兵衛」と聞いても現代の人々はピンとこないだろう。
 すでに忘れられたキャラクターではあるが、この市兵衛はものすごい人物、いやむしろ化け物である。
 身長は四尺、120cmしかないが、肩幅と奥行きも120cm以上あるというサイコロのような生物で、2本の指で鹿の角を粘土のように引きちぎることも、巨大な石を投げ城を崩壊させることもできる。
 それだけでなく山道を馬より速く走り、両腕を広げれば全速力で走る馬を3頭止めることも可能である。

 さらに武術の奥義に達しており、桂市兵衛一人で蜂須賀家を相手に戦争したこともあれば、相撲で真田十勇士たちに土を付けたことすらある。
 身長が低いため組み打ち勝負では相手の腹に頭を付け、グイグイ押せば必ず勝つ。
 最強の戦国武将の一人として数えられる可児才蔵にすら勝っている。
 これまた最強の呼び名の高い新納忠元が、家臣を引き連れて討ち取ろうとしたが、こちらも市兵衛の驚異的な身体能力の前に失敗している。

 これほどまでに強く体形がおかしい桂市兵衛を、腕力で投げ飛ばした人物は後藤又兵衛、毛谷村六助、真田幸村しかいない。
 しかも又兵衛の場合は市兵衛が空腹、六助は神が味方していたという条件付きで投げ飛ばしたのだが、真田幸村は万全の状態の桂市兵衛をなんの苦もなくあしらっている。

 長くなったが、そんな幸村だから漫遊中も無敵で、徳川勢が何をしようが気にも留めない。
 痴話喧嘩(げんか)から一国の危機まで解決し、恐山では妖怪をも退治している。
 このまま天下統一すれば良いのではないかというくらいの超人っぷりである。

■ 幸村、佐渡島で金山奉行を潰す

「真田幸村諸国漫遊記」は大変バランスが良く、講談速記本における面白い場面がほぼ全て詰め込んであるといっても過言ではない。
 この物語は複数人の作者が書いているが、後に彼らは立川文庫で物語を大量生産する。
 つまり猿飛佐助を有名にした人びとが「真田幸村諸国漫遊記」を手掛けているというわけだ。

 この作品、全編面白いのだが、圧巻と言えるのはなんといっても佐渡島での戦いである。

 筧十蔵のかたきが金山奉行の悪代官・大久保長安の元で暮らしていると知り、幸村は猿飛佐助と金崎英次郎、そして筧十蔵とともに佐渡島に渡る。
 船中で地元の侠客(きょうかく)徳蔵の面白い気風にひかれた幸村一行は、佐渡島で徳蔵一家に身を潜め、剣術指南をしながらかたき討ちの機会をうかがっている。

 そんなある日のこと、徳蔵は今日でお別れだと言い、幸村主従に餞別(せんべつ)の金を渡す。
 実は金山奉行大久保長安の圧政に、島民たちの堪忍袋の緒が切れて一揆を起こすことになってしまったのだ。
 もちろん徳蔵たちに勝ち目などない。
 侠客徳蔵は今こそ男を見せるところだと、すでに死ぬ覚悟である。

 この話を聞き幸村は、ひとつには徳蔵への恩義を返すため、もうひとつは大久保長安の元にいるかたきを討ち取ってしまうため、ついでに徳川家康をビビらせるため、金山奉行を壊滅させることにする。

 幸村は寺に村人を集めると、作戦会議を開き島民たちに必勝の軍略を授ける。
 それは単純なもので、まず陣所を要害堅固の妙見山に定める。
 そして夜を待ち、幸村と家臣の豪傑たちが島民たちを引き連れて佐渡の奉行所になだれ込む、といったものである。
 猿飛佐助や金崎英次郎は強い。
 だから勝てるという単純な戦略だ。
 ついでに島民たちも大暴れして、奉行所は壊滅する。
 筧十蔵はかたきを討つついでに、大久保長安の首をあっさり斬ってしまう。

 金山奉行をブッ潰した幸村は、やがて徳川からの援軍が佐渡島にやってくるだろうと予見する。
 幸村は猟師が持つ火薬を集めると、竹に詰めて「爆裂竹」という兵器を作る。
 幸村一行は島民たちとともに妙見山から島内四つの港へ徒歩で移動、爆裂竹で徳川侍たちを驚かせる。
 再び妙見山へ移ると、頂上へと押し寄せる徳川侍たちを猟師で編成した鉄砲部隊と、唐辛子を使った兵器、そして地雷火で一網打尽にしてしまう。

 徳川侍の度肝を抜いた幸村一行は「これは全て自分たちがやったことだ」という手紙を残し佐渡島から脱出する。
 これで島民が罪をかぶることはないという幸村の気配りである。
 島民たちは幸村の恩義を忘れぬため妙見山に社を建て、明治の今日も真田大明神として真田幸村をあがめ奉っている……といったストーリーである。

 もちろんこの物語も嘘である。
 ただし真田幸村は大久保長安より長生きしている。
 だから真田幸村がやろうと思えば、大久保長安を討ち取ることも可能だ。
 そんなことはありえないのだが、可能性は皆無ではない。
 一応は歴史フィクションとして成立している。

 個人的な話になるが、私は佐渡島の戦いが妙に好きで、何度も読むうちにうっかり真田大明神という社が本当に妙見山にあるのではないかと思うようになってしまい、現地へ確認に行ったことがある。
 もちろん本当に佐渡島の戦いがあったとは思ってはいない。
 しかし佐渡島は、芝居が盛んな土地柄だ。
 芝居経由で真田幸村の活躍に感動した島民の一人が、真田大明神というのを作ったのではないかと、勝手な推測をしてしまった。

 現地に行き妙見山に実際に登ってみると、ほどほどの高さで見晴らしも良く、戦いやすそうではある。
 しかしながら四つの港はそれぞれ離れており、遠い所で40kmほどの距離がある。
 検証のため私はこの道を小型オートバイで走ってみたが、坂道が多く移動に1時間ほどかかってしまった。
 この距離を猿飛佐助は2分程度、農民たちですらせいぜい数十分で移動している。
 もう少し現実味があると思っていたのだが、作者たちは地図を見る程度の調査で、この物語を作ったのだろう。

 なんとか佐渡島の戦いに事実らしいものがないかと思い、佐渡奉行所跡で「大久保長安という悪代官は島民に憎まれていたのですか?」と質問すると係の人に苦い顔をされてしまい、登った妙見山には真田の家紋である六文銭などかけらもなかった。
 とにかく霧が濃く、山頂にある航空自衛隊の警戒管制レーダー(通称ガメラレーダー)すらよく見えなかった。

 その後も真田大明神がありそうな社をいくつか巡るも、やはり六文銭は見当たらない。
 カマドウマがウジャウジャしているだけだった。
 諦めきれず、飲み屋で知りあった女性に頼んで佐渡で一番の郷土史研究家の方に問い合わせまでした。
「そんな社は聞いたことがない」という返答で、私は見事に明治の創作者と真田の知略に掛かってしまった。

 個人的な失敗は別にしても、あまりのいい加減さに頭の良い人は大笑いだが、私のように歴史の知識のない人間はうたぐりながらも信じてしまう、といった微妙な線を突いてくるのが明治の娯楽物語の面白いところである。

■ 幸村、ニックカーターとジゴマ団を奔走させる

 大正時代になっても、真田幸村の人気はまだまだ続く。
 1912(大正元)年には「講談速記本」から飛び出して探偵小説に進出。
「神出鬼没Z組ジゴマ 名探偵ニックカーター」(藤沢紫浪、自省堂)で幸村はチョイ役で出演し、怪盗ジゴマ率いるZ組とニックカーターを奔走させている。

 ニックカーターはアメリカのパルプマガジン(大衆向け雑誌)で活躍した探偵で、ジゴマ団とはフランスの怪盗小説で活躍した怪人ジゴマを首領とする悪の集団。
 彼らが日本の知将真田幸村が隠した埋蔵金を探し当てようと奮闘する物語だ。

 真田幸村は大坂の陣に臨むにあたり、一書を兄・信之の陣に寄せていた。
 父の真田昌幸が用意した軍用金が慶長小判で3万枚、豊臣の軍用金が9万枚、その他の宝物が人知れぬ場所に隠してある。
 このままでは豊臣滅亡後、土中に宝は埋もれてしまう。
 これを世の中に生かして使用するのは長兄の責任である。
 隠し場所は暗号で示しておくので、宝物蔵を発見したらこの鍵を用いて開けてくれ、と書かれていて、鍵も同封されていた。

 信之は解読を試みるが、幸村の暗号は難しすぎた。
 信之は謎が解けないまま死亡、次男・信政も数語しか解し得ない。
 その後も真田家では代々暗号の解読を続け、大正時代に至っても小夜子という娘が仕事を続けていた。
 この埋蔵金に目を付けたのがジゴマ団で、小夜子を誘拐しようと画策する。

 一方のニックカーターは、かつて父親をジゴマに殺されていた。
 そのかたきを討つためジゴマを追ううち、とうとう日本にまでやってきてしまう。
 ジゴマから埋蔵金を守りたい小夜子、復讐(ふくしゅう)を果たしたいニックカーターは手を組み、ジゴマ団と熾烈(しれつ)な戦いを繰り広げる……といった物語だが、それもこれも幸村の暗号が難しすぎたから起きてしまった椿事(ちんじ)である。

 作品の背景を解説しておくと、当時はフランスから輸入された探偵映画「ジゴマ」(1911年)が爆発的にヒットしていた。
 人気にあやかってジゴマらを勝手に登場させた書籍が粗製乱造され、劇中の手口を模倣した犯罪まで起きていた。
 この作品もそんな中で発表されたひとつである。

 ただし真田家の埋蔵金を出してきたのは新しい。
 作者の藤沢紫浪(本名衛彦)は民俗学者で日本伝説学会を設立した人物。
 だからこそ幸村の埋蔵金をニックカーターやジゴマが追うというアイデアを出せたのかもしれない。

■ 幸村、ついに天狗となる

 先の作品では埋蔵金経由の出演だが、1915(大正4)年の「天狗流誉の幻術」(春帆楼白鷗・講演[他]、樋口隆文館)では幸村本人が活躍する。

 江戸の物語では琉球に渡った幸村だが、この物語では上州(今の群馬県)高崎で西洋の天狗(てんぐ)から術を教わり、とうとう仙人となってしまう。
 明治の絶妙な嘘に比べるとこちらは完璧な嘘で、かなり自由な発想で物語が展開していく。

 駿河大納言の徳川忠長、この人の息子に龍千代(たつちよ)がいた。
 実際にいたんだかどうだか知らないが、この物語には登場しているのだから仕方がない。
 徳川忠長は徳川家光、春日の局、天海和尚の計略にかかり切腹、そのかたきを討つために息子の龍千代は逃亡し、行き着いたのが高崎。
 日本アルプスを60日間さまよい、オオワシに襲われているところを山男に助けられる。
 この山男が山中で天狗と暮らす真田幸村であった。
 風貌(ふうぼう)は下記イラストのようになっていて、もはや往年の面影などない。

 もともと真田幸村は再び旗揚げする目的で山にこもり、そこで出会った西洋の天狗(恐らく西洋の仙人)から天狗流の武術を習い覚えていた。
 ところが天狗とともに修行をするうち、「天は何時も高く、地は何年たっても低い」と悟りを開いて徳川から興味を失ってしまう。
 そこに現れたのが龍千代で、家光らに一泡吹かせてくれんという意気込みに感じ入り、天狗流の忍術を教える。

 修行の方法も変わっている。
 2年間幸村の後に従い狩りをする。
 狩りといっても天狗流の幸村だから、空を飛び目で鳥を撃ち落とし、おまけに姿まで消すのだから始末が悪い。
 まだまだ人間の龍千代は仙人の幸村に必死の思いでついていく。

 食べ物は獣肉のみだが、幸村は料理方法まで研究しており、こちらも龍千代に伝授する。
 弟子なのだから、家事全般は龍千代が担当、そんな暮らしを2年間続けていると、ある日のこと西洋の天狗が死んでしまう。
 その死骸の眉間(みけん)を一晩にらみ続けろと幸村は言い残し、葬式の準備をするため外に出る。
 龍千代、困惑しながらも一晩ぶっ続けで天狗の眉間をにらみ続けていると、帰ってきた幸村になぜか横っ面をブン殴られて気絶、幸村は龍千代を山のふもとへ捨ててしまう。
 もうめちゃくちゃである。

 幸村の常人では理解できない行動により、2年の歳月を無駄にしたと思った龍千代だが、里の人びとは龍千代を見ると逃げ惑う。
 不思議に思った龍千代が川に自分の姿を映すと、身体が異常に大きくなっている。
 その上、野獣を調理し食べていたため全身血まみれ、さらに原因は不明だが目が鏡のように光り輝いている。
 そんな人間を見れば、逃げ出すのが当然である。

 失意の龍千代が光り輝く目で人をにらみ付けると、なぜか気絶してしまう。
 思い切りオオワシをにらむと死んでしまう。
 ついでに姿を消そうと思えば、消すことまでできてしまう。
 少しくらいなら空も飛べる。
 ああこれが天狗流の忍術なのかと、龍千代は思わず知らず地べたにひざまずいて感謝をする……という感じなのだが、幸村が極度の変人すぎて良い人なんだか悪い人なんだか分からない。
 さすがの幸村も、大正時代にこんな扱いをされるとは思っていなかっただろう。
◇     ◇
 というわけで、明治から大正時代にかけてフィクションの中の幸村像がどのように進化していくのかを紹介してきた。
 明治時代、様子をうかがうかのように少しずつ嘘を広げてきた創作者たちが、大正時代に至ると一気呵成(かせい)の勢いで妄想を繰り広げている。
 幸村が仙人となるくらいだから、郎党の猿飛佐助が空を飛ぶのも当たり前である。
 ただし佐助が自在に空を飛べるようになるまでには、創作者たちの計り知れないほどの苦心があった。


朝日新聞、2015年12月01日
知将から猫へ、進化する幸村像
物語の中の真田一族(上)

講談速記本研究家 山下 泰平(やました・たいへい)
1977年、宮崎県出身。立命館大学政策科学部卒。京都で古本屋を巡り、明治大正の娯楽物語などの研究にいそしむ。2011〜13年、スタジオジブリの月刊誌「熱風」に「忘れられた物語――講談速記本の発見」を連載
http://www.asahi.com/special/sanada/tales-of-sanada-part1.html

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上田城に霧隠才蔵。

 上田出身の経済人の奥正之(1944年生まれ)の回想録です:

 JR上田駅から北に伸びるなだらかな坂を上ると太郎山(1164m)の麓に台地が広がる。
 その中心部の旧馬場町に私の生家はあった。

 英国聖公会の教会に隣接し、かつて外国人宣教師が暮らした建物だった。
 敷地は百坪を超え、使用人の部屋も備えていた。
 お手伝いさんはいなかったが、私の生涯で最も広い住居はこの生家だ。

 特筆すべきは外国人向けの住宅だったため、手洗いが当時は珍しい水洗だったことだ。
 家の裏に大きな浄化槽があり、飼い猫がそこに落ちて死んでしまい大泣きした。

 日本最長の千曲川が形づくる上田盆地はまことに風光明媚(ふうこうめいび)である。
「信州の鎌倉」と呼ばれるほど立派なお寺が多く、温泉場も豊富だ。

 だがやはりこの街の象徴は南の千曲川と東の神川の水流を取り込んだ天下の要塞・上田城だろう。
 堅固な門構えは、背景の太郎山とあいまって絶景を作りだす。

 身体が弱かった私も上田市立中央小学校(現清明小学校)にあがるころには、だんだんと体力を付けてきた。

 当時、日本中の男の子は木の枝を刀に見立ててチャンバラごっこにいそしんだわけだが、上田の子どもたちが何に扮(ふん)したかはいうまでもない。

 真田十勇士である。
 人気の高い猿飛佐助を名乗る者は多かったが、私のお気に入りは霧隠才蔵だった。

 その頃、半年間の米国留学から戻った父が土産に持ち帰ったのがジーンズだ。
 おさがりばかりの三男坊にとってピカピカの新品は宝物に思えた。
 生地にハサミが入るのを惜しみ、長い裾をまくり上げて出かけた。
 当時、上田の子供でただ一人(?)のジーンズ姿に、誇らしさと気恥ずかしさが半分ずつだった。

 冬の上田は冷え込むが雪はさほど降らない。
 代わりに城のお堀が格好のスケート場になった。
 3月初め頃まで滑れたのだが足元の氷が割れ、溺れかかったこともある。

 近くの須川湖で開かれたスケート大会にも選ばれた。
 昔も今もスピードスケートが盛んな佐久の連中も参加した。
 彼らはぴたっとしたスケートウエアに競技用のスケート靴できめていた。
 半面、我が上田勢はもこっとしたセーターを着込み、足元は下駄(げた)に刃を取り付けた代物だ。
 見た目からして負けていた。
 カッカッカッ……。
 スタート直後に置いて行かれた。

 今や運動といえばゴルフくらいだが、スポーツ観戦は大好きだ。
 最初の野球観戦は1954年4月21日。
 読売巨人軍が上田にやってきた。
 キャラメルについていた応募券を必死に集め、なんとかチケットを手に入れた。
 洋松ロビンス(現横浜DeNA)と同点で迎えた延長11回。
 川上哲治が放ったサヨナラスリーランの記憶は今なお鮮烈だ。

 もっとも、のちに触れるが今の私はタイガースファンに宗旨変えしている。

 恩師のことも記したい。
 小学校3〜4年の担任だった長岡克衛先生はのちに地元の教育長を務められた。
 6年前に卒寿を迎えられ、同級会にもお出ましいただいた。

 通信簿に書いてくれた言葉は忘れない。

教育とは教え込むのではなく、一人ひとりの才能を引き出すことです

 師と仲間に恵まれ、私は子供時代をのびのび謳歌した。


[写真]
転任する長岡先生を上田駅で見送った(上が先生、その手前が筆者)

日本経済新聞・私の履歴書、2019/4/4付
上田
霧隠才蔵に スケートに わんぱく三昧の小学校時代

奥正之(三井住友フィナンシャルグループ名誉顧問)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO43276550T00C19A4BC8000/

 う〜ん、上田城に霧隠才蔵。

 白土三平が在籍した旧制の上田中学は、猿飛佐助や霧隠才蔵ら真田十勇士と真田幸村の真田藩の居城の跡地である。

 真田がこの地にいたのは40年ほどの短期間である。
 以後は徳川家につながる者が藩主となっていた。
 上田の人はそれでも六文銭の真田を慕う。
 だから白土三平も同じように真田幸村と猿飛佐助や霧隠才蔵のことを意識したのだろう。
 長野県立上田高校は上田城、三の丸跡地にある。
 三の丸は徳川の殿さまの政務所であった。
 それでも上田の人は真田なのである。
 現在この地にある長野県立上田高校は、旧制の上田中学だ。

 白土三平(本名は岡本登)は1932年(昭和7年)2月15日、東京府東多摩郡(後の杉並区)で生まれた。
 1944年、私立旧制練真中学校に入学。
 長野県小県郡中塩田村(現上田市の八木沢駅付近)に一家で疎開し、旧制長野県立上田中学(現長野県立上田高等学校)に編入する。
 旧制上田中学にいた軍事教練担当の白土牛之助の苗字を漫画家白土三平に使う。
 白土三平の父は左翼活動のために特高警察の拷問の後遺症で脊椎カリエスを病んでいた。
 一家の収入の助けにするために白土三平は山仕事や力仕事をした。
 1年ほど塩田で過ごす。のち真田へ、さらに西塩田に引越す。事情は不明だ。

 戦後の1946年に白土三平は東京に戻る。
 白土三平は近くの東京都練馬区の被差別部落の住民の荻原栄吉、のちの部落解放同盟練馬支部長と同級生であり、荻原の家業を手伝ったりもするなどの交流があった。
『カムイ伝』など白土三平の漫画には練馬での体験が影響している、という近しい人々が述べている。
 人の発想は荒唐無稽に一足飛びするものではない。
 どこかに根がある。
 白土三平の独特の考え方と画風の下地になったのは何だったのか。

『忍者武芸帳 影丸伝』『サスケ』『カムイ伝』の登場人物に真田十勇士の誰かが、そして霧隠才蔵の影がみえる。
 これは、白土三平が上田城のあった場所に建つ旧制上田中学に通っていたときに、真田の武勇伝とその陰で働く捨て石のような人びとのことを考えていたのではないか。

 白土三平の父親はプロレタリア画家の岡本唐貴である。
 妹は絵本作家の岡本颯子。
 絵を描く才能は父からのものか、絵描きの家の環境がもたらしたものなのか。

 旧制上田中学から旧制練真中学に戻るも3年の途中で学校をやめる。
 学費がままならなかった。
 父の知人の金野新一のもとで、山川惣治作の紙芝居の模写や彩色の仕事を手伝う。
 1947年ころに手塚治虫を知る。以後、手塚治虫を意識するようになる。

 1951年、金野の指導の下『ミスタートモチャン』という紙芝居をつくる。
 このとき白土三平はノボルという名を使った。
 1955年、東京都葛飾区金町に移り仲間と共同生活を始める。
 紙芝居『カチグリかっちゃん』を描く。
 白土は遊びにくる近所の子供らから「イチ二の三チャン」と呼ばれた。
 三平の名の元になった。

 共同生活者であった瀬川拓男が人形劇団「太郎座」をつくったため白土は、舞台背景の絵を描くようになる。
 1957年、劇団の先輩だった少女漫画家の牧かずまに漫画を描くことを勧めらる。
 牧の補助をしながら漫画の技法を学ぶ。
 同年8月、『こがらし剣士』を出版する。
 1959年、三洋社から『忍者武芸帳』を刊行する。
『忍者武芸帳』は1962年まで全17巻が刊行される大長編となった。
 1961年、長井勝一が三洋社を解散し青林堂を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。
 1963年、『サスケ』『シートン動物記』により第4回講談社児童まんが賞受賞する。

 1964年、青林堂より『ガロ』が創刊される。
『ガロ』は白土の新作『カムイ伝』のための雑誌として創刊されたのである。
 白土は「赤目プロダクション」を設立し、量産体制に入る。
 弟の岡本鉄二は「赤目プロ」で作画を受け持った。
 経営業務は一族の者が担当した。

 白土は『ガロ』の設立者だった。
 出版事業が振るわなかったために原稿料を受け取らなかった。
『カムイ伝』のほかに、他誌にも『ワタリ』『カムイ外伝』(ともに1965年-)などを発表して原稿料を稼いだ。
 1971年、『カムイ伝』第一部が終了。
 続編が待たれたものの長く再開されず、第二部が開始されたのは、『神話伝説シリーズ』(1974年-)や『カムイ外伝 第二部』(1982年-)などの作品を経た1988年のことである。

 第二部は『ビッグコミック』で2000年まで連載され、2006年に発売された全集に書き下ろしを加え完結する。
 2009年には『カムイ外伝』の新作を久々に発表した。
 現在『カムイ伝 第三部』を構想中である。

『忍者武芸帳』『カムイ伝』など作品には唯物史観が漂う。
 白土三平はこのことを特別に意識していない。
 描かれる忍術に図解や説明が付くことがある。

 手塚治虫(1928 - 1989)は白土三平の漫画に小説に類する要素をみる。

 白土三平は手塚治虫をずっと意識している。
 同時代を生きた人気漫画家は互いを意識していたのだ。

 手塚治虫の鉄腕アトムは原子力で動く。
 アトムの妹はウランちゃんだ。
 ウランと原子力と科学の発達が未来を切り拓くことを思わせた。
 2011年3月11日の原発事故は鉄腕アトムと手塚治虫には因果なことであった。
 とてつもない力をだすアトムに人びとは惹(ひ)かれ、原子力の未来に人びとは希望を抱いた。

 白土三平の漫画には抜けようにも抜けられない人の定め背景に貫かれている。
 人には努力しても報われない、悲しい運命が描かれている。
 権力と身分制度と虐(しいた)げられる者が描かれる。
 読み終えると人は諦めて生きていかなくてはならないのだと納得にも似た気持ちになる。


 手塚治虫は1945年3月に旧制浪速高等学校を受験するが失敗。
 同年7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学する。
 医学専門部は、戦争の長期化にともない軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校と扱われ、旧制中学校から入学することができた。
 手塚治虫が旧制浪速高等学校に合格しなかったのは、漫画を描くことに熱中して受験勉強をおろそかにしたためだ。

 作家の北杜夫(1927 - 2011)も旧制麻布中学4年修了で東京帝国大学附属医学専門部に入学する。

 父親は医者で歌人の斎藤茂吉である。
 旧制高校に憧れていたことや、帝国大学医学部に進むために東京帝国大学附属医学専門部に通学するも、間もなく辞めて旧制松本高校に入学する。
 そのあと東北大学医学部に進学して卒業後に精神科医として仕事をする。
 帝国大学附属医学専門部は1951年に廃止された。

 漫画家である白土三平と手塚治虫の二人。
 手塚治虫の境遇は恵まれていた。
 白土三平は思わずも塗炭の苦しみに陥る。

 人の境遇はモノの見方に考え方に影響する。
 差別を受け、虐げられる者たちの眼は、白土三平の眼に移される。
 旧制上田中学に通う白土三平に立川文庫の真田十勇士が忍び込んだ。
 旧制上田中学は真田の上田城の三の丸の跡地にあったことはおのずと歴史を意識させた。

 永六輔(本名は永孝雄)は1933年(昭和5年)4月10日に東京府東京市浅草区で誕生。2016年没。
 早稲田大学第二文学部中退。
 旧制上田中学では白土三平の一学年下になるのであるが二人の交流は確かめられていない。
 その後に歌謡の世界や漫画の世界で活躍することなど14歳ほどの少年には想像することはできない。

 永孝雄は永六輔として活躍するようになるのだが東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた。
 1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎える。
 1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学する。
 翌年には東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校する。
 学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため、3年で高等学校に昇級進学して卒業する。
 そして早稲田大学第二文学部に進む。

 永六輔は、北佐久郡南大井村の国民学校のころに感じたさみしさ、つまり小諸時代の懐古園での悲しい思い出が元になって「上を向いて歩こう」を作詞したのだと地元の人に語っている。
 明るい調子の楽譜であるこの歌の歌詞はいたたまれない悲しみが元になっていた。
 学童疎開で異郷の地にある国民学校の児童の気持ちがそのまま「上を向いて歩こう」の作詞になったのである。
 白土三平の漫画には諦めの気持ちが漂う。
 永六輔の歌詞は寂しさや悲しみでできている。

 少年時代の経験が人の心に芯に座っているのだろう。

 島崎藤村(1872 - 1943)は、暮行けば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛、千曲川いざよふ波の、岸近き宿にのぼりつ、にごり酒濁れる飲みて、草枕しばし慰むと、謳(うた)う。
 佐久の地に学童疎開していた永六輔は、小諸なる古城のほとりで親や浅草を思って泣いていた

 旅人の群はいくつか畠中の道を急ぎぬ 雲白く遊子悲しむごとく、千曲川のある地に放り出された永六輔である。
 学童疎開した児童は夜には寂しくて泣いた。
 強がりをするガキ大将もこっそり泣いていた。
 永六輔は泣き虫でありよく泣いた。
 佐久時代、上田中学時代の経験が歌謡界、テレビ界で活躍したのちに、永六輔は旅人になったのであった。
 知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい、というのは親の元へ帰りたい、東京に帰りたいという気持ちの表現である。

 山下清(1922 - 1971)の諏訪の花火を見にでかけたり、あちこちにふらりと行ってしまうのは、人にある根源の発露のようだ。

 懐古園は小諸城址に残る三の門のあった場所。
 苔むした野面石積の石垣、樹齢500年といわれるケヤキの大樹などがある。
 小諸城は武田信玄のころ山本勘助らが縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき仙石秀久により完成された。
 城下町より低い位置にある穴城は日本百名城とされている。
 仙石秀久が築いた大手門や野面石積みの石垣は400年前の姿で残されている。
 明治の廃藩置県により小諸城は、本丸跡に懐古神社を祀(まつ)り、懐古園と名付けられた。


「計量計測データバンク」
上田城跡と白土三平と霧隠才蔵
(甲斐鐵太郎)
http://syokota888.ec-net.jp/essay-measurement-data-bank-web/essay-2-measurement-data-bank-web-a-/2019-06-04-2-ueda-castle-ruins-shirato-sanpira-kirigakuzo-writing-tetutaro-kai-.html

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