2019年05月31日

初音森神社〜要清寺〜旧新大橋碑

 ヤッホーくん、次いで訪れたのが初音森神社!

初音森神社.JPG

初音森神社本殿.JPG

初音森神社の由緒
 初音森神社は、元尹之大納言師賢が元弘年間(1331-1334)初音森神社摂社の地(馬喰町初音之森)に創建、文明年間(1469-1487)には太田道灌により社殿が建立されたいいます。明暦の大火により焼失、万治2年(1659)当地へ移転したといいます。

東京都神社名鑑による初音森神社の由緒

元弘年間(1331-34)に尹之大納言師賢により奉斎されたと伝えられる。文明年間(1469-1487)に初音の里と称えられる、現日本橋両国の飛地境内初音森神社の位置に、大田道濯の寄進により社殿が創建された。1659(万治2)年3月に現在地に移転した。
(東京都神社名鑑より)

「墨田区史」による初音森神社の由緒

起立年代は不明であるが、当初は初音稲荷社と称して浅草口見付(現中央区日本橋馬喰町)付近にあり、この地を古くは初音の森と唱えたという。祭神は宇迦之魂神で、1657(明暦3)年の江戸大火の後に移転したが、現在も旧地の鎮護の神となっている。境内には、田部廼庵稲丸の「ここに来て聞くそ嬉しき葛飾の初音の森の鶯の声」の歌碑がある。
(「墨田区史」より)

ぶらり両国街かど展実行委員会掲示による初音森神社の由緒

初音森神社
 鎌倉中期に建立された神社で、江戸初期までは馬喰町初音之森(現在の中央区日本橋馬喰町)の鎮守でした。明暦の大火後に郡代屋敷を建設するため、この地に移されました。
 300年以上、氏子がお詣りやお祭りのために隅田川を渡って来ていました。
 1948(昭和23)年に、この本社とは別に、東日本橋に社が建てられました(註:初音森神社摂社)。日本一の繊維問屋街にあるため、商売繁盛の神様として信仰されていますが、長い間の習慣で、今でも本社に多くの氏子が参詣にきます。
(ぶらり両国街かど展実行委員会掲示より


猫の足あと
初音森神社の概要
https://tesshow.jp/sumida/shrine_chitose_hatsunemori.html

 そしてヤッホーくんの足は「要津寺(ようしんじ)」へ。

要清寺.JPG

要津寺の縁起

 要津寺は、慶安年間(1648-1651)に下総関宿藩の初代牧野成貞が、父成儀を開基として僧東鉄が東光山乾徳寺と号して駒込に創建したといいます。
 1691(元禄4)年、当地を牧野家下屋敷として拝領した際、当地に寺を移し、成儀の戒名(要津院殿壁立鈍鉄大居土)から要津寺と寺号を改めたといいます。

「墨田区史」による要津寺の縁起

要津寺(千歳2丁目1番16号)

 東光山要萱寸は臨済宗の寺で、慶安年中(1648−1651)に、牧野越中守成儀を開基、僧西江を開山として駒込(文京区)に創建され、東江山乾徳寺と称していた。しかし、1682(天和2)年12月28日の大火に類焼し廃寺となった。
 牧野成儀の子備後守成貞は、1691(元禄4)年2月、本所の地に7134坪(約23500平方メートル)を下屋敷として給せられると、翌3月にその一部を寺に寄附し再興された。
 これが現在の地の要津寺で、寺号は、開基牧野成儀の法名要津院殿壁立鈍鉄大居土に由来する。

 要津寺に、俳人松尾芭蕉門下の句碑等が建てられたのは、芭蕉が隠せいした杉山杉風所有の家が近くにあった(芭蕉庵史=江東区深川常盤1丁目3番)ためであろう。

「芭蕉翁悌塚」
高さ96センチメートル、幅37センチメートルの小碑で、正面に「芭蕉翁悌塚」、右側面に「宝暦十三年」、左側面には、欠落があるが「癸未十月十二日雪中庵門人 建」とみえる。芭蕉の門人大島寥太(三世雪中庵)の建立である。

芭蕉面影塚.JPG

「碑に花百とせの蔦植む」句碑
 寥太の句碑として知られるもので、1782(天明2)年4月、芭蕉の繰り上げ百回忌法要を営んだ際に建てられた。
 右側面には「門人翠兄建」、左側面には「東江居土書」とあり、裏面には「芭蕉翁百回忌発句塚碑」と題する碑文が漢文で記されている。
 その大要は、
「芭蕉翁は月花をうたい、尊敬しない者はない偉人である。雪中庵三世を継いだ寥太は俳道の傑出者であり、その一咏一吟が人の口にのぼり門人は三千人に及んだ。老人(寥太) は、古池から得た石で芭蕉翁の像を刻み要津寺に建てた。事太は芭蕉翁の百年忌を営む志があった、が、ゆく年波とてそれも果たせないだろうと思い天明三年四月八日、要津寺の芭蕉翁像前で供養を行い百回忌になぞらえ、俳句の会を催し追福献句し、これを寺の庭に埋めて名残とした」
というものである。

「ふる池や蛙飛こむ水の音」句碑 
 高さ134センチメートル、幅57センチメートルの青石に芭蕉の句を刻んだもの。
 1773(安永2)年4月12日の芭蕉忌に、蕉風江戸座の俳人普成、亀求、子交らが建立した。
 当時の高名の書家三井親和の書である。

 要津寺には、ほかに、寥太の建てた雪中庵一世服部嵐雪と二世桜井史登の供養墓、四世から一四世までの名を連ねた雪中庵供養墓などがあり、雪中庵の俳統全部がそろっている。
(「墨田区史」より)

 雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。
 三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。
 これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781−1789)の俳諧中興期には拠点となりました。
 当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、1763(宝暦13)年蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、1773(安永2)年建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、1782(天明2)年建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。
(墨田区教育委員会)


 トコトコ帰り道、ヤッホーくん、またまた、こんな碑を見つけ、腰を抜かしておりましたぁ〜。
 なんで新大橋に「新」がついているのか、これで問題解決、今晩はゆっくり寝られそうだって。
 その碑は、万年橋通りを芭蕉記念館のほうに南下し、深川芭蕉通りの分岐するところで大発見!

 1693(元禄6)年に最初に架けられた新大橋。
 ちょうどその頃近くの深川芭蕉庵に住んでいた芭蕉は、
 新大橋の工事中に「初雪や かけかかりたる 橋の上」の句を、
 また橋の完成を見て「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。


芭蕉記念館
都内唯一の「21世紀・芭蕉のみち」認定地
https://koto-kanko.jp/theme/detail_spot.php?id=S00194

旧新大橋碑.JPG

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越後屋若狭から西光寺

 さっそく「越後屋若狭」の仏閣でなく物件確認、現認でなく現場確認してまいりました、これ ☟

越後屋.JPG

 ここは一之橋近く。

一之橋
所在地 墨田区千歳1〜両国
 
 幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。
 排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
 1659(万治2)年、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。
 堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
 一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。


一の橋.JPG

 いやぁ〜、まだまだ興味をそそられる物件確認じゃなくって、仏閣がつぎつぎと目にはいります。
 さすが、深川!
 まずは西光寺

西光寺.JPG

所在地 墨田区千歳2-4-7
浄土宗 東日山 正明院 西光寺 
 旧両国橋が架かる半世紀以上も前の1606(慶長11)年、当時は下総国葛飾郡海辺新地と呼ばれたこの地で、土地の開拓と海苔の製造を行っていた小林治郎右衛門が、増上寺の信誉英松和尚を迎え当寺を創建しました。
 浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋を開くなど、地域の教育にも貢献しましたが、震災、戦災など度重なる災害に遭遇し、貴重な資料もすべて焼失してしまいました。
 明治時代後半に第16世住職となった渡辺海旭和尚は、「大正新脩大蔵経」(全百巻)を監修発行すると共に、深川に労働共済会館を設立し、日本の近代社会事業の先駆者として知られています。
 現在の本堂は1995(平成7)年に再建されました。
 西光寺には『渡辺海旭上人句碑』があります。


句碑.JPG

所在地 墨田区千歳2-4-7(西光寺)
渡辺海旭上人句碑

 壷月とは當山第16世渡辺海旭上人(1872〜1933)の号。
 ドイツにて10年間の留学中、哲学博士の学位を取得、帰国後は芝学園校長社会福祉事業の実践、大蔵経の編纂、国際協力等大乗仏教の精神に則り広く社会に貢献した。
 また多くの優れた門弟を養成し、当代屈指の名僧と慕われた。
 北鴎は芝学園出身で慶応義塾大学當寺に3年寄食し、直接薫陶を受けた。
西光寺第十八世明誉記

基調講演「いのちを唄い、歌でいのちを繋ぐ」 庄野真代さん

 渡邊海旭先生はドイツに留学されていたときに、西洋音楽をたくさん聴かれて、仏教音楽との相違・共通点などを研究されていたと伺いました。あらためて音楽は世界共通のものと感じます。

 私は今年でデビュー39周年になります。最初の頃は音楽をつくること・発信することに一生懸命でしたが、現在は色々な場所に音楽を届けています。その場にいる人たちが、音楽にのせて元気や勇気や笑顔が湧き出てほしいと願っています。そして、文化・芸術を通して皆さんの中に「心の温かさ」や「いのち」の大切さが伝わると嬉しいです。

「いのち」を慈しみ、大切に想うこと

 昔から、「いのち」が軽く扱われている事件や事故などがたくさんあります。「いのち」は人類永遠のテーマかもしれません。

 私がボランティア活動を始めたきっかけは、環境問題に興味をもったことからです。人類は地球上に誕生してから経済の発展のためにいろいろなことをしてきました。自然に生えていた森の木や動物を食べてきましたが、やがて森を切って畑を作り、燃料を作り、道具を作り……と、自然を少しずつ破壊するようになりました。自然には再生能力がありますが、再生に間に合わないくらい負荷がかかっていると言われており、経済発展のために犠牲になっています。なぜ人間はこんなに経済の発展を望んできたのかというところから、「いのち」が軽く扱われるということにつながっている気がします。
 
 誰しもが“自分のものは大切”で、自分のものを守り、増やす方法を考えてきました。その過程において、ものの「いのち」や「価値」を薄くしてきたのではと感じます。「いのち」が軽く扱われることに対して何が役に立つのかというと、心の平和を導いてくれる「文化・芸術」ではないかと思います。これはお金の価値で区分けすることができない素晴らしいもので、心の中で感動するとその人の中でどんどん広がっていくものではないかと思います。

 「いのち」を大切にする心を、日本人は昔から持っています。ケニア共和国元環境・天然資源省副大臣のワンガリ・マータイさんは、2004年、日本で「もったいない」という言葉を知り、素晴らしい言葉だと感じて世界に広めようと「MOTTAINAIキャンペーン」を展開しました。

 「もったいない」は「勿体無い」と書きます。そもそもの本来の姿や使命、価値を「勿体」と言いますが、それが「無い」ので、「いのち」がなくなっているさまを嘆く意味です。つまり、「いのち」を粗末にすることを「もったいない」と言います。誰かと出会って、その人を忘れてしまうことを「もったいない」と思うことや、自分の中でずっと実現していない夢があれば、それを埋もれさせてしまったら「もったいない」と思います。

 この世の中にある「いのち」を慈しんで大切に想うこと、心に通じている大切な「もったいない」という言葉に、日本人として誇りを感じていければ良いですね。

音楽を通じてメッセージを発信する

 音楽をしている人は、「いのち」のメッセンジャーだと思います。ただ娯楽だと見える面もあるかもしれませんが、音楽の中にあるメッセージをずっと伝え続け語り継いでいます。

 音楽は1930年頃から様々なジャンルに分かれていき、それぞれのジャンルでたくさんのアーティストが登場しました。例えば、「フォークソング」が誕生した頃は、こうやって生きたい、平和な国がほしい、無駄な争いはしたくない――といったメッセージが込められていました。

 また、「ポップス」は大衆の娯楽だと思われがちですが、最近の「ポップス」をみると、その時代のストーリーがきちんと織り込まれていて、素晴らしい文化財だと感じます。戦争反対というものがあれば、作者が今伝えたいことをメッセージとして発信し、その時代の中で歌を通じて心を寄せることができました。

 音楽以外の絵画などの芸術面でも、お金の価値で縛れない「文化・芸術」が私たちの心を豊かにしてくれるのではと思います。

 音楽が社会事業となっている今、私も細々とボランティア活動をはじめて約15年になります。最初は、コンサートへ行けない人に、コンサートを配達することから始めました。

 亡くなった母が生前にホスピスにいた頃に、ここにいる看護師さんや患者さんは「いのち」を深く重くまっすぐに受け止めているのだろうと感じていました。あるとき、看護師さんから、「この人たちにコンサートを聴かせてあげたいけれど、どうすればよいか」と相談があったことが活動のきっかけになりました。

『国境なき楽団』の活動『国境なき楽団』の活動 ―音楽を通して心をつなげるお手伝いをする―

 私が運営している「国境なき楽団」の活動の一部を紹介します。NPO法人として活動して10年目になり、人の心と心をつなげていくことが大きなテーマです。

 例えば、日本で不要になった楽器を寄付してもらい、ボランティアの方々がきれいにして修理をし、途上国に送る「海を渡る風」という活動があります。 楽器は「もの」です。息はしませんが、「いのち」あるものと感じます。使われていたときは、心が燃えて生き生きとしていたはずですが、使われなくなった楽器はいつまでも保管されます。持ち主がその楽器を手放して送ってくれたときから、「いのちのリレー」が始まります。その「いのち」を吹き返すためにボランティアの方がきれいにして、世界の子供たちに届けます。

 スリランカは北と南で内戦をしていて、数年前に終わりましたが、民族の対立はいまだに続いています。言葉も民族も宗教も違うため、北と南が融合するのはとても大変です。そんななか、北と南の小学生が一緒にオーケストラをつくって、将来一緒に演奏をしたいという夢を抱き、「ザ・ミュージックプロジェクト」がはじまりました。私はそれに共感し、日本で楽器を集めました。

 集まった楽器を送り、音楽家10人とボランティア10人でスリランカに行きました。音楽で心を通わすことができる喜びをたくさん感じてくれたのではないかと思います。日本の楽器は小学校・中学校などから寄付をしてもらいます。使わなくなった楽器が、ゴミとして処分されるのと、他の場所に行って音を奏でて「いのち」が輝くのとは、どちらが幸せなのでしょうか。寄付をしてくださる学校は本当にすてきだと思います。

 平和への思いを音楽に託し、自分が住んでいる場所から平和への想いを発信しようというプロジェクトもしています。例えば、2001年の同時多発テロの翌年にニューヨークで始まった市民参加型のイベントが「September Concert」で、国境なき楽団は日本の主催者になっています。自由・平等・入場無料をキーワードに、毎年9月、世界中で開催されています。「いのち」を音楽でつないでいく意味合いがあります。

 “音楽は世界の共通語”ということで、文化・芸術で格式高いもののみならず、ごく身近な音楽も人と人とをつないでくれる素敵なものだと思います。

 今、世の中に社会事業家がたくさんいます。皆さんが共感できる活動に、「共感できるよ」という声を送ってほしいと思っています。「いのち」があること、生きていることが素晴らしいと感じることを、多くの人が共有できる世の中に、みんなの力でできればと思います。

渡邊海旭先生の略歴

1872(明治5)年
 東京、浅草の田原町に生まれました。幼少期は勉強好きで小学校は夜学に通われましたが、家が貧しかったために浄土宗のお寺に預けられ、お坊さんになります。

1887(明治20)年
 全国から選りすぐりの生徒が集まる浄土宗学東京支校に入学されました。勉強だけでなく、俳句や漢詩・漢文にも親しまれました。

1900(明治33)年
 浄土宗第一期海外留学生として、仏教を研究するためにドイツ(現フランス)のストラスブルグ大学へ留学されます。ここで東京大学医学部から留学していた足立文太郎氏と親交を深めました。お金が無かったために、現地でうなぎを釣って下宿先で蒲焼にして食べていたというエピソードがあります。

1910(明治43)年
 11年間の留学を経て帰国されました。このとき、足立文太郎氏と一つの約束をされました。解剖学をするにあたり、解剖する身体が無いために困っているという足立氏に対して、渡邊海旭先生は「自分の死後に解剖してよい」という覚書を交わされたそうです。

1911(明治44)年
 芝中学校の校長先生に就任され、芝学園発展の基礎を築かれました。 また、校長を務める傍ら、大正大学や国士舘大学をはじめ多くの学校の設立・運営にも関わられました。

1933(昭和8)年
 1月26日に逝去されました。足立文太郎氏との覚書どおり、翌日に東大の医学部で解剖されたとのことです。


パスナビ、2015-05-26
芝中学校・高等学校
「いのち」について考える 公開シンポジウム 
〜2015年1月24日開催「第3回 文化・芸術の視点から」〜

https://chukou.passnavi.com/parent/editorial-report-shiba/1195-2

(ヤッホーくん注)庄野真代
 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をお読みください:

★ 2015年03月13日「飛んでイスタンブール」
★ 2015年03月17日「日本とトルコをつなぐ曲」

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和菓子魂!

 東京・江東区にある亀戸天神
 その目と鼻の先で、いつも行列ができているのが創業213年を誇る和菓子の船橋屋です。
 なかでも人気なのが、西郷隆盛や芥川龍之介ら著名人がこぞって食べたという伝統の「くず餅」(630円・税込み)です。
 プルプルの食感で、「歯応えが他にない」と客は絶賛します。

 東京駅のエキナカにも出店している船橋屋は、この「くず餅」でJR東日本のおみやげグランプリで総合グランプリをとりました。
 おいしさの秘密は、原料となる小麦のデンプンにあります。
 船橋屋は、わざわざ沖縄でこのデンプンを450日もかけて乳酸菌で発酵させています。
 この発酵デンプンがあるからこそ、モチモチの食感が実現できるといいます。
 さらに防腐剤などは一切使わないため、消費期限はわずか2日です。

 船橋屋を率いる8代目当主の渡辺雅司さん。
 渡辺さんはもともと銀行で働いていましたが、バブルがはじけた後、先代である父の苦労をみて家業に入ります。
 伝統的な商習慣が続いていた会社を、事業存続に向け改革し、業績を上げました。
 しかし従業員のやる気は失せ、退職者が相次ぐ事態に。
「人を見ずに仕組みばかり見ていた。みんなで作るんだという組織でないと意味がない」と気づき行動を改めます。
 従業員に寄り添い、自主性を大事にするようにしたのです。
 その結果、今では誰もが主役になれる会社に生まれ変わりました。

 そして伝統的な和菓子づくりを守るだけでなく、発酵デンプンを使ったくず餅プリンを開発したり、老舗の「ミカドコーヒー」と組んで くず餅にあうコーヒーを開発して提供したりするなど、革新を続ける船橋屋。
 さらに、新たな挑戦も。沖縄で発酵させているでんぷんの中に、新種の乳酸菌があることが分かり、健康食品に生かそうと研究を重ねています。
「今のままでいいわけではない、時代に合わせ客の役に立てる試みをどんどんやる」
と渡辺さんは話します。


※ この映像と記事は「カンブリア宮殿」(2018年11月1日放送)の内容を配信用に再構成したものです。(C)テレビ東京

[PlusParavi(プラスパラビ) 2018年12月27日付記事を再構成]

[動画]

[写真‐1]
船橋屋はくず餅の原料となる小麦のデンプンを450日かけて発酵させる

[写真‐2]
船橋屋8代目の渡辺雅司さんは「人は仕組み、ルールでは動かない」と話す

[写真‐3]
「くず餅プリン」など新商品の開発も力を入れている

日本経済新聞、2019/1/26
西郷や芥川も舌鼓
「くず餅」船橋屋の伝統と革新

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO40181160Y9A110C1000000/

老舗和菓子店が挑むイノベーション

 東京都内を中心に25店舗展開する和菓子店「船橋屋」。
 創業1805年の老舗。
 一番人気は「くず餅」。
 くず餅は450日かけて発酵させ、手間ひまかけて独自の食感を生み出す。
 しかし、添加物を一切使わないため消費期限はわずか2日間。
 自然のままの素材の方が体に優しいし、何より江戸時代から続く“粋”でもあるという。
 船橋屋は老舗の企業でありながら、新しいことにも挑戦し続ける。
 例えば、和と洋を融合させたスイーツの開発。
 「くず餅プリン」は、和洋をミックスさせた商品で、幅広い層から人気を集めている。

社員の自主性が活かされる会社へ!

 1964年に老舗の和菓子店「船橋屋」に生まれた渡辺。
 跡継ぎになる気はなく、大学卒業後は大手都市銀行に入行。
 当時、世の中はバブル時代。
 渡辺は好景気を背景にディーラーとして活躍した。
 しかしバブル崩壊の崩壊で、実家の「船橋屋」に暗雲が。
 渡辺は銀行を辞め、1993年船橋屋に入社。
 そこは昔ながらの職人が幅を利かす、なれ合いの世界だった。
 古参の社員に反発を食らいながらも、渡辺は改革に挑む。
 そして、今や年間1万7000人の学生がエントリーする人気企業に。

くず餅の菌で、健康に!?

「くず餅を食べて健康になった」

 そういう客の声が多く、研究機関で調査したところ、腸に良い新種の「くず餅乳酸菌」を発見。
 その「くず餅乳酸菌」は医療機関でも注目され、今後は医療の一環として使用される可能性も出てきた。
 そして、渡辺はこの「くず餅乳酸菌」を使った独自の商品開発にも取り組んでいる。

村上龍の編集後記

 渡辺さんは、会社に入って、妥協のない改革に取り組んだ。
 職人の仕事をマニュアル化し、努力を怠る仕入れ先を切り、メインバンクとの取引内容にも切り込んだ。
 だが、社内の雰囲気が殺伐としているのに気づき、従業員のやる気を引き出すために、あらゆることをやった。
「船橋屋」は生まれ変わったが、不思議なことに、なのか、あるいは当然のこと、なのか、たぶん「くず餅」の味、食感の基本は変わっていない。
 スタジオで食べたとき、独特な繊細さを表現できなかった。
 213年間変わらず、「くず餅」が、主役に君臨している。


[カンブリア宮殿」(2018年11月1日放送)
創業1805年の老舗和菓子店
伝統と革新の・・・「幸せ」経営術

https://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/2018/1101/

明治政府要人にも愛された水羊羹

 西郷はお酒をあまり飲みませんでしたが、脂っこいものと甘いものが大好きで肥満に悩まされていました。
 ここで紹介するのは、そんな西郷が愛した東京のスイーツ達です。

 墨田区千歳にある「越後屋若狭(えちごやわかさ)」は西郷隆盛が通ったと言われる和菓子屋です。
 西郷隆盛は一人でこの店に来ては水羊羹などを買ったのだとか。
 ちなみに越後屋若狭は西郷の他、木戸孝允や伊藤博文や山県有朋などの明治政府の要人達も訪れたそう。


西郷隆盛ゆかりの江戸の店6選
越後屋若狭 
https://www.rekishoku.jp/ja/story/133

 さあ、夏がやって来ました。そして、越後屋若狭の『水ようかん』もやって来ました。
「忠臣蔵」で有名な本所にひっそりと店を構える老舗。
 かつては大名家にも出入りしていたという老舗であり、明治時代には多くの政治家や著名人にも好まれていたという逸話も残っています。
 基本的に本店では当日販売は一切行っていません。
 御茶事にしても、おもたせにしても、前もって予約をしておく必要があります。
 外側からは全く店内の様子が分からないだけに、知らない人は足を踏み入れるのには勇気がいると思います。
 ショーケースの中に、その月の生菓子が2種類ポツン、ポツンと見本として飾られているだけ。
 その生菓子も基本的に全てご予約のみで拵えているのです。
 もちろん、それ以外の生菓子もご相談に乗ってもらって作ってもらうことができます。

 ということで、毎月1回販売させて頂いている生菓子は、私の独断と偏見(笑)で、メニューを決めさせて頂いています。
 いつも女将さんと電話口で、これまでの生菓子の記録メモを見ながら注文(販売させて頂いた生菓子は全部メモにして過去7年間分記録しています・・・)。
 来月は薄紅色のコレと、よもぎ台の〇〇〇でお願いします、みたいな感じです。
 直接お客様からリクエストを頂いたものや、まだ食べたことがないものなども、いろいろと相談しながら、毎月の生菓子を決めています。
 やんわりとした色使いで、派手さはないが、淑やかな美しさがある越後屋若狭の生菓子。

 ちなみに、6月の生菓子はこしあんの薯蕷練切を錦玉で包んだ『水牡丹』と、淡い藤色のきんとんのそぼろを時雨にして整えた『あじさい』の詰め合わせになっています。
 そして、今月からは生菓子に加えて、『水ようかん』も一緒に登場します。
 みなさん、お好みはさまざまあると思いますが、柔らかい口どけの水羊羹の中では、最も印象に残る存在でしょう。

 しっかりとした食感で小豆の風味を十分に感じ取る水羊羹とは違い、ギリギリまで寒天の凝固を押さえて、瑞々しく、水が滴るような味わい。
 口の中に入れた瞬間に、歯で砕く必要もなく、舌で押し上げただけで、淡雪のようにスーッと溶けて消えてしまいます。
 これだけ柔らかく仕上げるのもまたなかなか難しいもの。
 紙箱に入っているのですが、これが取り出すのにも勇気がいるわけです。
 当たり前ですが、引っ繰り返してプッチンプリンのようにして取り出すことなんてできないし、箱の脇をハサミで切っていくものの、滑り出すほどに固まってはいない。
 下手に足掻くと、せっかくの『水ようかん』がボロボロに崩れ去ってしまうのです。
 なので、私は一度試みたものの、不器用なものですから、無駄な抵抗は止め、そのまま箱の中で切り分けて、スプーンで掬い出して食すのが良いかもしれません。
 一人でひと折、そのまま丸ごと抱えて食べてしまいたいくらいです。
 ただお値段も私の知る限り、大久保の源太の次に高価な水羊羹。
 知らずして簡単に手を伸ばせる価格ではありませんが、食べて損はない逸品です。

 最近は8代目ご主人の桑原宏太さんの脇に、次代を担う息子さんが製造に入っていて、新しく改装した現在の店構えは息子さんの希望なのだとか。
 お昼時に電話をしますと、よく息子さんが応対してくれるのですが、夏の風物詩となっているこちらの『水ようかん』も彼の手に受け継がれていくのかと思いますと、またずっと楽しみにして行きたい存在であります。

水ようかん 1折 税込3,220円

◆ 本 店/ 東京都墨田区千歳1-8-4 TEL: 03-3631-3605
◇ 販売店/ 日本橋・新宿島屋(夏季:第3水曜日)、横浜高島屋(夏季:第4水曜日)
 ※ 6月〜8月夏季限定での販売となります。当日製造の商品を運搬するため、販売時間は正午以降となります。
 ※ 本店へのご注文は、必ずご予約されることをオススメ致します。


[写真-1]生菓子『水牡丹』
[写真-2]生菓子『あじさい』

和菓子魂!
畑主税(はた・ちから)
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/27050784.html

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国内改革を始めたばかりですぐに海外侵略へとかじを切った

 明治維新は、二つの顔をもつ。
 一つは、産業や人材を育て、中央集権の国家をつくっていく国内改革。
 もう一つは、のちの軍国主義につながる海外出兵。
 前者は、やがて中国や朝鮮も学ぶことになるが、後者は東アジアをかきまわすことになった。

 国内改革を始めたばかりですぐに海外侵略へとかじを切ったのはなぜだろう。

 その答えを探しに、台湾へと飛んだ。
 近代日本にとって最初の海外派兵は、朝鮮半島でも中国大陸でもなく、「征台の役」と当時呼ばれた台湾出兵だったからだ。

 6月4日、台湾南部の牡丹郷(出兵当時は牡丹社)は南国のまぶしい陽光の中にあった。
 ここに1874(明治7)年5月、日本軍が攻め込んだ。
 維新の英雄、西郷隆盛(さいごう・たかもり)の弟で陸軍中将の西郷従道(さいごう・つぐみち)が率いる3600人だ

 ちょうど、その台湾出兵を振り返るシンポジウムが開かれていた。
 主催は地元の役場で、100人余りの出席者には、カラフルな民俗衣装をまとった先住民のパイワン族が目立つ。
 祖先がかかわった戦いの真相を知りたいと集まってきたのだった。

 パイワン族の李金水(リー・チンショイ)さん(87)は、祖父が戦った時のことを聞いて育った。

「山の上から鉄砲で日本軍を攻撃したそうです。弾が切れてしばらくしたら、倒れていたはずの日本兵が立ちあがったのであわてて逃げた。そんな話でした」

 この戦いは日本ではほとんど忘れられているが、台湾ではどうなのだろうか。

 やはりパイワン族で小学校の先生をしている杜詩韻(トゥー・シーユン)さん(33)は大学時代、古老たちの聞き取り調査をしたことがある。

「詳しく知っている人はいませんでした。いても口を閉ざすばかりで……」

 台湾には1949年、中国共産党との内戦に敗れた国民党が逃れてきた。
 その政権のもとで先住民族の歴史は闇に葬(ほうむ)られた。
 民主化が進んだいま、やっと歴史に光を当てようとする機運が高まってきたという。

 それにしても日本軍はなぜ台湾へ。
 発端は、その3年前にさかのぼる。

■ 宮古島の役人ら殺害 「征伐」名目に出兵

 琉球(今の沖縄県)の宮古島の役人ら69人が乗った船が、悪天候で台湾に流れついた。
 そのうち54人がパイワン族に殺された。

「もてなしたのに逃げたから、敵と思った」

 地元にはそう伝わっている。

 だが、日本政府はそうは考えなかった。
 殺した者たちをこらしめ、あわよくばそこの土地を日本のものにしてしまおう。
 そんな思惑が、出兵につながった。

 政府内では反対論が少なくなかった。
 実力者の一人、木戸孝允(きど・たかよし)は抗議して、参議という政策決定メンバーを辞めた。

 いま考えても、いかにも無謀な出兵に見える。
 戦闘での日本側の死者は12人。
 しかし、マラリアなどで500人以上が病死した。
 事前の調査が不十分だったことや軍医と薬が不足したためという。
 相手を降伏させたとはいえ、現地軍の幹部が「目もあてられぬ有り様」と手紙に書くほどだった。

 何より、台湾は中国(当時は清国)の領土だ。
 そこに軍を出せば、清が黙っていないだろう。
 20年早く日清戦争が起きたかもしれなかった。

 それでも出兵に踏み切ったのはなぜか。

 この疑問を追い続けてきた大阪市立大名誉教授の毛利敏彦(もうり・としひこ、1932 - 2016)さんは、当時の最高実力者、大久保利通(おおくぼ・としみち)に目を向ける。

 大久保は出兵の前年1873年、「征韓論」をめぐる政変で実権をにぎった。
 だが大誤算があった、と毛利さんは見る。
 同じ鹿児島出身の盟友で、人望豊かな西郷隆盛が大久保と対立して参議をやめ、郷里に帰ってしまったことだ。

 人気のない政権がやることは今も昔も変わらない。
 手っ取り早いのは内政より外政だ。
 そのとき、すでに動きだしていた台湾出兵が目の前にあった。
「大久保は既成事実にひきずられて出兵を追認したようにいわれてきたが、終始一貫して出兵に積極的だった」
というのが毛利さんの説だ。

 一方、出されたばかりの徴兵令に対し、兵役をいやがる農民たちが、激しい反対一揆を起こしていたことも見逃せない。
 徴兵が必要だという現実を見せるために政府が対外戦争へと傾いたとみる研究者もいる。

 農民だけではない。
 征韓論の政変に怒った高知県の士族は、大久保とともに政府を牛耳る岩倉具視(いわくら・ともみ)を襲う事件を起こした。
 不満を外にそらさないと政権が危ない。
 いよいよそんな状況になってきた。

 しかも、不平士族の中で最強を誇る鹿児島の薩摩閥は「征台」に熱心だった。
 薩摩は江戸時代初めから琉球を支配し、その島民の殺害事件はひとごとではなかった。
 実際、西郷隆盛のもとにいた300人ほどが台湾出兵に加わっている。

 だが、琉球は清にも使節を送り、日中の「両属」の関係を続けてきた。
 これまた清との対立点にならないはずがなかった。

■ 償金払った清 戦争の「種」まかれる

 中国の天津社会科学院で日本研究所長をつとめた呂万和(リュイ・ワンホー)さんは言う。

「とても冒険的な軍事行動だった。それを大久保はよくわかっていたと思います」

 大久保は北京に乗り込み、清との交渉にのぞんだ。
 経過を「大久保利通日記」などで見ると、難航した様子がよくわかる。

「万国公法(国際法)に照らせば、出兵地に清の統治は及んでいない」
「いや、清国流のやり方で治めている」

 法律顧問のフランス人、ボアソナードの知恵を借り、国際法を使って迫る大久保に、清は「日清修好条規を守らないのか」と反論した。

 日清修好条規というのは、その前年に発効したばかりの条約だ。
 欧米と不平等条約を結ばざるをえなかった日本と清にとって初めての対等条約で、互いの国土を侵さないことを約束していた。

 結局、現地のイギリス公使の調停で、清が50万両(テール)を払い、日本の出兵を「民をまもる義挙」と認めるかわりに、日本は撤兵した。
「清政府は軍事行動は鈍重で、外交も軟弱だった。大久保は交渉で失敗を勝利に変え、名誉を挽回(ばんかい)した」
と呂万和さん。

 清には、日本に裏切られたという思いが強かったろう。
 日本を味方にすれば、欧米と対抗するうえで助けになる。
 そう考えて日清修好条規を進めた実力者、李鴻章(リー・ホンチャン、り・こうしょう)はこう言うようになった。

「欧米はいくら強くてもはるか遠くにあるが、日本は戸口でわれわれをうかがっている。中国永遠の大患だ」

 このあと、清は日本を仮想敵国のようにみなして軍備の充実を急ぐ。
 毛利さんの言葉を借りれば、「ここに日清戦争の種がまかれた」ことになる。

 清にとっては、琉球人を日本の「民」と認めたことが最大の失敗だった。
 日本政府は翌年、清への朝貢を廃止する命令を琉球に出し、その4年後には沖縄県に変える。
 完全に日本の一部にしたのである。

「長く中国と宗属関係を保ってきた琉球が華夷秩序から離れた。中華体制が崩壊していく第一歩という意味が大きい」

 そう語るのは、沖縄大の又吉盛清(またよし・せいきよ、1941年沖縄生まれ)教授だ。

 当時の中国でも、朝貢国が総崩れになっていく危機感を抱いた人はいた。
 日清修好条規にもとづいて清から来た初代日本公使の何如璋(ホー・ルーチャン)は、こう本国に書き送っている。

 「琉球が滅べば、朝鮮に及ぶだろう」

■ 次は朝鮮 砲台を軍艦で挑発

 それは現実になりつつあった。
 その歴史の現場を求めて、ソウルに向かった。

 仁川(インチョン)国際空港は永宗島(ヨンジョンド)にある。
 1875年9月、この島が日本軍に奇襲され、住民30人余りが殺された。
 隣の江華島(カンファド)にあった砲台を日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が挑発し、砲撃戦になったのがきっかけだ。

 この江華島事件(韓国では雲揚号事件)を理由に、日本は朝鮮に日朝修好条規という不平等条約を結ばせ、開国させた。
 かつて日本がアメリカのペリー艦隊にやられたのと似たことをやったのだった。

 江華島も当時とは様変わりした。
 雲揚を攻撃した砲台跡の「草芝鎮(チョジジン)」は、見晴らしのいい展望台のようで、観光バスやマイカーがひっきりなしに入ってくる。
 文化観光解説士の朴成玉(パク・ソンオク)さんは「ここは韓国が近代と出会った場所です」と説明しつつ、「いまはソウルに近い観光地ですね」。

 江華島事件で近年、ひとつの発見があった。
 これまで知られていた雲揚の艦長報告書より、もっと早く書かれた艦長報告書が防衛研究所図書館にあったのだ。

 雲揚は水の補給を目的に近づき、国旗を掲げていたが砲撃された。
 これがこれまでの報告書に沿った日本側の主張だった。
 だが、新たに見つかった報告書では水の話はまったくなかった。

 新史料に目を向ける研究者の一人、李泰鎮(イ・テジン)・ソウル大教授に会いにいった。

「これまでの報告書は、事実関係を知りたがったイギリス公使に会う前日に書き換えたものです。翌日にはフランス公使にも見せている。朝鮮は国際法も知らない野蛮な国だというイメージを与え、英仏を味方につけたかったのでしょう。条約交渉を有利に進めるための工作です」

 当時の日本政府には、ボアソナードだけでなく、フランス系アメリカ人のル・ジャンドルのように、台湾出兵の時に「ゆくゆくは日本が台湾を領有したらいい」などと吹き込む外国人顧問もいた。

 李教授は、先のような江華島事件と条約の定説に疑問を持っている。
「鎖国していた朝鮮を日本が開国し、恩恵を与えたというのは、のちに韓国併合を強行した日本側の主張ではないか」
というのだ。

 江華島事件の2年前、22歳になった朝鮮国王の高宗(コ・ジョン)が、直接政治をすることを宣言した。
 国際対応がうまくないと生き残れない、開国は避けられない。高宗は、そんな開化思想を持っていた。

 そう指摘し、李教授は続ける。

「高宗は開化には日本の助けが必要と考え、条約締結にとても積極的だった。朝鮮に開国の意思があり、双方の合意でできたのが江華島条約(日朝修好条規)です」

 その後の対立はともかく、条約を結ぶときは合意があったという趣旨だ。

 条約には「朝鮮は自主の国で、日本と平等の権利を持つ」とあった。
 清の宗主権の否定と解釈でき、のちに日清戦争(中国では甲午(こうご)中日戦争)の開戦の口実にされる。

[キーワード‐1]明治維新

 江戸幕府とそれぞれの藩が治めていた政治体制を壊し、新しい中央集権国家がさまざまな改革を進めたことを言う。廃藩置県や、欧米を手本にした徴兵制度、殖産興業策が導入されたほか、教育制度や税制も抜本的に変え、近代的な国家づくりが進んだ。
 こうした改革は周辺国にも刺激を与えた。例えば中国(当時は清国)では、日清戦争(中国名・甲午中日戦争)後、康有為(カンユーウェイ)らが明治維新にならって政府機構の改革や人材登用を進めた。この改革は103日でつぶされたので「百日維新」と呼ばれている。

[キーワード‐2]征韓論

 朝鮮に派兵し征服する、あるいは政治体制の変革を迫ろうという主張のこと。幕末や明治初期に政府内外で論じられた。明治新政府になってからは、朝鮮側は日本からの外交文書が幕府時代の形式と異なっていることを理由に国交を拒絶。さらに1873年5月、朝鮮が、釜山(プサン)にあった日本側の滞在用施設の門の前に日本を侮辱した書を掲示したという報告が伝わり、参議の板垣退助(いたがき・たいすけ)が閣議で、居留民保護を名目に派兵を主張。一方、西郷隆盛は、派兵に反対し、自分を大使として派遣するよう求めた。
 板垣らも賛成し、いったん西郷の派遣がきまったが、天皇に決定を報告した岩倉具視(いわくら・ともみ)が派遣を認めないよう求めたため、閣議で正式決定しながらも派遣が中止されるという異常事態となった。


[写真‐1]
牡丹郷の入り口を示す門の上部には、日本軍に抵抗するパイワン族の姿がかたどられている=台湾屏東県牡丹郷で

[写真‐2]
「台湾出兵」をめぐる台湾、日本の研究者の話にパイワン族の住民らが熱心に耳を傾けた

[写真‐3]
西郷隆盛(さいごう・たかもり)

[写真‐4]
西郷従道(さいごう・つぐみち)

[写真‐5]
大久保利通(おおくぼ・としみち、1830−1878)薩摩藩(現在の鹿児島県)出身で、明治維新の中心的指導者。「悲劇の英雄」である西郷隆盛に対し、大久保は「冷徹な権力者」と見られ、人気がなかった。(写真は西郷隆盛、西郷従道も含め、国立国会図書館提供)

[写真‐6]
李鴻章(リー・ホンチャン、り・こうしょう、1823−1901)清朝末期の政治家。工業の振興を進める「洋務運動」の主導者でもあった。外交では妥協することが多く、国内の反対派からは「軟弱外交」と呼ばれていた。

[写真‐7]
高宗(コ・ジョン、1852−1919)12歳で朝鮮王朝第26代国王に即位。父・大院君とは逆に開化政策を実施。西洋文明を受け入れようとし、宮殿にも早くから電気を導入した。政務が夕方以降など夜型だったからとの説もある。

朝日新聞・歴史は生きている
維新で揺れるなか、なぜ出兵
(隈元信一、西正之、佐藤和雄)
http://www.asahi.com/international/history/chapter01/02.html

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南洲翁終焉之地

西南戦争 : 田原坂の真実 / その時歴史が動いた
https://www.dailymotion.com/video/x2iyme4

 田原坂(たばるざか)、ですか・・・

一、雨は降る降る 人馬(陣羽)は濡れる 越すに越されぬ  田原坂

二、右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年

三、山に屍 川に血流る 肥薩の天地 秋にさびし

四、草を褥に 夢やいずこ 明けのみ空に 日の御旗

五、泣いてくれるな かわいの駒よ 今宵偲ぶは 恋でなし

六、どうせ死ぬなら 桜の下よ 死なば屍に 花が散る

七、田原坂なら 昔が恋し 男同士の 夢の跡

八、春は桜よ 秋なら紅葉 夢も田原の 草枕


田原坂【熊本民謡】熊本復興祈念
https://www.youtube.com/watch?v=fqahR2qtHWc

正調 田原坂(舞踊:植木町民謡田原坂保存会)
https://www.youtube.com/watch?v=4bDkkVqXjkE

森昌子 田原坂
https://www.youtube.com/watch?v=vzBB0cQ7Ino

ビクター少年民謡会 民謡お国自慢 第1集より 田原坂
https://www.youtube.com/watch?v=RJMsv_bHnnQ

 国内最後の内戦である西南戦争。1877(明治10)年に開始されたこの戦いでは、西郷隆盛率いる薩摩軍と政府軍により、約7ヶ月にわたって熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州4県にまたがり、激しい戦いが繰り広げられました。
 薩摩軍推定約5万、政府軍約6万人が動員され、両軍合わせて約14,000人が命を落としたといわれます。
 この戦いの最大の激戦地であったのが田原坂です。
 1877(明治10)年3月4日から同月20日までの17日間にわたって激しく戦い、数々のドラマが生まれました。
 この、近代日本の夜明けとなった田原坂に、2015(平成27)年に新しくオープンしたのが「熊本市田原坂西南戦争資料館」です。
 戦いに至る経緯や時代背景・戦いの様子などを、資料とともに体感しながら学び伝える歴史学習施設です。
 また、明治時代の熊本を駆け抜けた偉人の紹介や、西南戦争をきっかけに設立された博愛社(日本赤十字社)に関する資料、季節ごとに代わる企画展示・体験学習など、何度でも訪れたくなる資料館です。

★住所   熊本市北区植木町豊岡858番地1
★電話番号 096-272-4982


熊本市公式サイト
熊本市田原坂西南戦争資料館へ行こう!!
http://www.city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=16402 

 1877(明治10)年9月1日、鹿児島に西郷一行はたどり着いた。
 城山に立てこもったのは桐野利秋や別府晋介ら、わずか372人だった。
 城山は政府軍に包囲され、連日砲撃を浴びた。
 24日午前4時、山県有朋を司令官とする政府軍は総攻撃をしかけた。
 同7時ごろ、城山洞窟を出た西郷らは敵陣に向かって前進した。
 岩崎谷を下ったところ、一発の銃弾が西郷の太ももに命中し、歩くことができなくなった。

「晋どん、もうここでよかろう」

 西郷はそう口にした(「西南記伝」)。
 明治天皇のいる東の方角を仰いで西郷が自決、ついに“巨星”は墜(お)ちた。


[写真]
西郷隆盛が最期を迎えた地に立つ「南洲翁終焉之地」碑=鹿児島市城山町

南日本新聞、2018/12/07
九州を転戦、薩軍が敗北
https://373news.com/_kikaku/meijiishin150/ishinmeidou/12-01.php

 1877(明治10)年9月24日、西南戦争の最終末にあたり、西郷隆盛以下彼に従った幹部が自刃ないしは戦死したところとして貴重な遺跡となっています。 
 南洲祠堂常設委員長であった山本徳次郎は、そこに建てられてあった記念碑及び敷地を公園付属地として鹿児島市に寄付しました。
 この地が、西郷南洲の終焉の地であることは、この記念碑によって明らかとなっています。
 記念碑の碑文には、
 丁丑之役交戦数か月、薩軍日州長井村の重囲を破り、連戦数回鹿児島に帰り城山に拠る。
 時に9月1日、官軍従ってこれを囲む。
 これよりのち、激戦虚日なし。
 同24日の未明、官軍衆を悉くして迫る。
 翁すでに決するところあり。
 諸士を卒いて城山を下る。
 弾丸雨下半ば途に殪る。
 翁ついに岩崎谷口の砲塁を擁して自刃す。
 年51歳。
 桐野利秋、村田新八、桂久武、池上貞固、別府景長、辺見十郎太、その他悉くこれに倣う。
 今この碑の立つ所、これ、その終焉の地なり。
 いずくんぞこの旧跡をして煙滅せしむるに忍びんや。
 ここにおいて、有志相謀り石碑を建てもって永く記念となす。
 明治32年9月、これを建てる。

とあり、西郷隆盛終焉の概要を伺い知ることができます。

鹿児島市観光サイト
西郷隆盛終焉の地
(出典:かごしまデジタルミュージアム)
http://www.kagoshima-yokanavi.jp/data?page-id=2444

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2019年05月30日

「西南戦争」への助走

鹿児島に「私学校」
 
「明治六年政変」で下野した西郷隆盛は、1873(明治6)年11月、鹿児島に帰省した後、農作業に精を出す一方、愛犬を伴って狩猟や湯治に出かける日々を送ります。
 また、自分に付き従って帰省した大ぜいの地元将兵らの面倒をみようと、1874年6月には「私学校(しがっこう)」を設立。
 その目標は、「道義においては一身を顧みず」、「王を尊び、民を憐あわれむ」心で、ひたすら難にあたることのできる士官の育成でした。
 元近衛局長官・篠原国幹(くにもと)の下に銃隊学校を設置し、元宮内大丞(だいじょう)・村田(むらた)新八(しんぱち)には砲隊学校を任せました。
 そこでは軍事訓練や漢学講義などを実施、県内各地に数多くの分校を置きました。
 戊辰戦争の賞典禄をもとに、戦没者子弟のための「賞典学校」も設立し、旧下士官への授産に役立てるため、「吉野開墾社」も作りました。

 私学校は次第に軍事・政治組織化します。
 鹿児島県令の大山綱良(つなよし、1825 - 1877年)は幕末期、西郷らの指揮下、倒幕工作に従事し、戊辰戦争では軍事参謀として転戦、軍功を上げました。地元出身でありながら県令に就くというのは異例の措置で、鹿児島県庁では役人も県外の人を採用しませんでした。そこへ私学校のメンバーが浸透し、各行政組織や警察のほとんどのポストを彼らが占めます。
 この結果、鹿児島は、西郷と私学校が牛耳る「独立国」の観を呈するようになります。

 この間、西郷には、明治天皇をはじめ各方面から「再出仕(さいしゅっし)」の打診がありました。
 西郷は応じません。
 政府入りした旧薩摩藩主の父・島津久光からの要請に対しても、「唯(ただ)国難に斃(たお)るるのみの覚悟」と断っています。

大阪会議体制

 政変で勝ち組の内務卿・大久保利通は、殖産興業―工業化路線を推進するためにも、士族たちの反発を和らげ、政権の安定を図る必要がありました。
 大久保は1874年2月に台湾出兵を進め、同4月に島津久光を左大臣に任命します。
 これらは外征に息巻く士族たちや、不平士族を煽動しかねない久光への宥和策でした。
 ところが、久光は、政府の開化政策をことごとく否定する建言書を太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に提出し、大久保の罷免まで要求します。
 久光を政府内に取り込む策は裏目に出ました。

 そこで大久保は、台湾出兵に反対して参議を辞めた木戸孝允の政府復帰を図ります。
 根回しに動いたのは、伊藤博文でした。
 木戸は、岩倉使節団から一足早く帰国した直後の1873年7月、「憲法制定の建言書」を太政官に提出、五箇条の御誓文(ごせいもん)の中身を拡充して「政規(せいき)」を確立するよう求めていました。
 大久保も同年11月、「君民共治」(立憲君主制)を採用して、「君権」と「民権」の範囲を「国憲」(憲法)で定める「立憲政体に関する意見書」をまとめていました。

 これらの「立憲政体」論が、両者を接近させます。
 大久保は1875(明治8)年1月、大阪で木戸と会談して参議への復帰を要請、木戸は憲法制定や地方議会の開設など制度改革を条件に受諾します。
 他方、井上馨はこれに先立ち、木戸と、民撰議院設立を唱える板垣退助との会談をセットし、両者は今後の連携を確認しました。
 2月11日には、大阪で木戸・大久保・板垣の3者が会談し、制度改革の推進で一致(大阪会議)。
 3月8日に木戸が、同12日に板垣がそれぞれ参議に任命されます。

漸次立憲政体樹立

 これらを受け、1875(明治8)年4月14日、「立憲政体の詔(みことのり)」が発せられました。
 この詔勅(しょうちょく)には、
「漸次(ぜんじ)に国家立憲の政体を立て、汝(なんじ)衆庶(しゅうしょ、庶民)と倶(とも)に其(その)慶(けい)に頼(よら)んと欲す」
とあります。
 これは明治天皇による立憲政体導入宣言でした。
 立法諮問機関としての元老院(上院)と、司法機関としての大審院(最高裁判所)を新設し、全国の地方官を集めて意見を募る地方官会議を召集するとしていました。
 ここに欧州の三権分立をモデルとする日本の憲法構想がスタートを切ります。

 しかし、もともと急進的な板垣は、元老院の性格に関して、天皇大権を制限するような改正案を提示し、木戸の漸進論と対立します。

 他方、島津久光が復古的な提言の採用をしつこく要求し、板垣提案の「内閣・省卿分離論」(参議と省の長官職の分離)にも同調して、三条の弾劾(罷免)上奏に及びます。
 10月27日、政府は久光と板垣を更迭し、木戸がリードした大阪会議体制は、あっけなく崩れ去りました

廃刀令と秩禄処分

 政府は1876(明治9)年3月28日、軍人・警官らを除いて帯刀(たいとう)を禁止し、違反者は刀を取り上げる旨(廃刀令)を布告しました。
 前年12月、陸軍卿・山県有朋による「廃刀の上申」では、今も帯刀している者は「頑陋」(がんろう、頑固でいやしく軽蔑すべきこと)であり、その存在は「陸軍の権威にもかかわる」と述べていました。
 他方、「廃刀令」が布告された翌日、大蔵卿・大隈重信は「家禄(かろく)・賞典禄の処分」に着手し、1876年8月5日、「金禄公債証書」発行条例を公布し、禄制の廃止を宣言しました(秩禄処分)。
 例えば、永世録の場合、禄高(金禄)に応じて5ヶ年分〜14ヶ年分に相当する額の5分〜7分利付の公債証書を交付しました。
 禄高20石の下級家臣団が受給者全体(約31万3千人)の84%を占め、その受け取った公債額は全体額の62%、1人平均で415円、年間利子収入は29円余にとどまりました(日本近代思想大系『経済構想』解説)。
 このため、政府は困窮する士族たちの授産事業を急がなければなりませんでした。

 ところが全国士族の13%を占めていたという鹿児島県士族については、条例の「最大7分」を上回る「1割」の利息が支給される優遇措置がとられました。
 大山鹿児島県令の強腕の成果とされますが、木戸はこれを「不公平だ」と厳しく批判します(落合弘樹『秩禄処分』)。

 一方、全体の0.2%に過ぎなかった旧大名・家老・公卿層は、全体額の18%、1人平均6万円以上の公債を取得し、年間利子収入は3026円に達しました。
 高額の公債を得た華族たちは、これを元手に銀行を設立したりします。

 廃刀令や秩禄処分は、士族の特権を剥奪はくだつし、世襲による支配身分であった武士層の完全解体を意味しました。
 それだけに不平士族らの憤懣をいやがうえにも高め、大規模な反乱を頻発させることになります。

神風連・秋月の乱

 1876年10月24日〜25日、九州・熊本で、太田黒(おおたぐろ)伴雄(ともお)らが率いる「神風連」(敬神党、けいしんとう)が、反乱を起こしました。
 彼らは、政府の欧化政策を批判し、帯刀の禁止は「神代(じんだい)固有の勇武を摩滅し、国勢を削弱(さくじゃく)」させると糾弾。
 約200人が熊本鎮台を急襲するなどして、鎮台司令官・種田(たねだ)政明(まさあき)少将、県令・安岡(やすおか)良亮(りょうすけ)らを殺害しました。
 鎮台は大混乱に陥りますが、死傷を免れた残余の鎮台兵が反撃し、間もなく鎮定されました。

 次いで10月27日、神風連に呼応する形で、福岡県の旧秋月藩(あきづきはん)士族・宮崎(みやざき)車之助(くるまのすけ)らが240余人の同志とともに挙兵しました。
 彼らは、国権の拡張と征韓要求を掲げ、旧小倉藩の豊津(とよつ)士族の決起を促しましたが協力を得られず、6日後、小倉鎮台兵に鎮圧されます。

前原一誠「萩の乱」

 10月27日、山口県の萩でも、元政府高官の前原(まえばら)一誠(いっせい、1834 - 1876)が、旧長州藩の同志150余人とともに挙兵を決めます。
 前原らは、山口への進撃が不利とみると、県北部の須佐(すさ)から漁船に分乗して海路島根をめざしますが、強風で断念。
 萩に引き返し、政府軍と衝突し、11月8日には壊滅します。
 前原は、不平士族たちが、鹿児島の西郷に次いで頼みとする人物でした。
 松下村塾で吉田松陰に師事し、高杉晋作らとともに志士としてならした前原は、戊辰戦争では長岡城攻略で奮闘しました。
 1868年、大久保利通や副島種臣、広沢真臣(さねおみ)らとともに新政府の参議に任命されたあと、兵部大輔に就任します。
 しかし、新政府の政策と合わないことが重なって同郷の木戸とも不和となり、1870年9月、官職を辞して帰郷しました。
 前原は、地租改正や秩禄処分、樺太・千島交換条約、征韓論の放棄などに強い不満を抱いていたといわれます。
 前原は、島根県下で捕らえられ、斬首刑に処せられました。

天下驚くべきの事

 1874年の佐賀の乱、1876年の熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、山口萩の乱と、隣接した地方で勃発した士族反乱は、政府軍によって次々と制圧されました。
 これら反乱士族の間には、西郷が立つことへの期待がありましたが、西郷の側に呼応する気はなく、西郷は自重を貫きました。

 しかし、政府、反政府勢力のいずれもが、この先の西郷の出方を注視していました。
 西郷と深い親交のあった人物に桂(かつら)久武(ひさたけ、1830 - 1877)がいます。
 桂は、西郷が私淑していた薩摩藩重臣・赤山(あかやま)靱負(ゆきえ、お由羅(ゆら)騒動で切腹)の実弟でした。
 その桂に1876年11月初旬、西郷は以下のような手紙を出しています。
 手紙は萩の乱に関連して、「両三日珍しく愉快の報」があったと、前原の蜂起拡大を待望しつつ、こう綴つづっています。
 此(こ)の方の挙動は人に見せ申さず、今日に至り候(そうろう)ては、尚更(なおさら)の事に御座候(ござそうろう)。
 一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わんと、相含み罷(まか)り在り申し候

 つまり、ひとたび動けば、天下おどろくべきことをなすつもり――と、決起を示唆していたのです。
 この頃、士族反乱だけでなく、農民の間でも、地租改正への不満から一揆が続発していました。
 政府が1877年1月に地租の減額措置をとらざるをえなくなるのはそのためです。
 大久保政権は対外的な危機を乗り切ったとはいえ、国内的には多くのリスクに直面していました。

 西郷は桂への手紙の3ヶ月後、実際に立ち上がることになるのです。

【主な参考・引用文献】

▽ 井上清『日本の歴史20 明治維新』(中公文庫)
▽ 萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄13 西南戦争』(朝日文庫)
▽ 三谷博『維新史再考 公議・王政から集権・脱身分化へ』(NHK出版)
▽ 川道麟太郎『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(ちくま新書)
▽ 小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書)
▽ 猪飼隆明『西郷隆盛―西南戦争への道』(岩波新書)
▽ ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(新潮文庫)
▽ 家近良樹『西郷隆盛―人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)
▽ 勝田政治『明治国家と万国対峙―近代日本の形成』(角川選書)
▽ 北岡伸一『日本政治史―外交と権力』(有斐閣)
▽ 中村政則ほか校注『日本近代思想大系8『経済構想』(岩波書店)
▽ 落合弘樹『秩禄処分―明治維新と武士のリストラ』(中公新書)
▽ 大石眞『日本憲法史』(有斐閣)
▽ 坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)
▽ 我妻栄編集代表『日本政治裁判史録』(第一法規出版)

読売新聞、2018/05/16
<西郷隆盛と大久保利通>第8回
「西南戦争」への助走
https://www.yomiuri.co.jp/column/history/20180509-OYT8T50040/

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琉球王国の歴史に幕

清朝が受けた衝撃

 清朝は、その周辺に、自治的統治を認めた「藩部(はんぶ)」と呼ばれる地域と、朝貢(ちょうこう)・冊封(さくほう)関係にある「属国(ぞっこく)」をもっていました。
 藩部は、モンゴルやチベット、新疆(しんきょう)などをさしており、属国は、朝鮮や琉球(沖縄)、ベトナム、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)などです。
 ただ、属国といっても、清朝は、一般的にその国の内政や外交に直接、干渉することはなかったようです。
 これに対して、交易・商取引関係にある国々は「互市(ごし)」と呼ばれ、日本や西洋の国々がこれにあたります。
 こんな中国中心の東アジアの国際秩序の下、日本による台湾出兵(1874年)は、清朝に大きな衝撃を与えました。
 それは小国にすぎない隣国の軍事侵攻を未然に防ぐことができなかったからです。

 日清の北京交渉で、調停案を受け入れざるをえなかった総署大臣・恭親王(きようしんのう)は、上奏文で、
「わが海疆(かいきょう)の武備が恃(たの)むに足るものであったら、決裂を虞(おそ)れる事もなかったろう」
と述べています。

 海洋防備をおろそかにしたため、「不法」の日本に譲歩せざるをえなかった、というわけです。
 清朝は、これを教訓に海防強化を本格化させ、直隷(ちょくれい、現在の河北省)総督・李鴻章(りこうしょう)をトップに北洋海軍の建設に着手します。
 1874年に海防増強計画が策定されると、翌75年から留学生をイギリスとフランスに派遣して海軍術を学ばせます。
 鉄甲艦なども輸入し、旅順(りょじゅん)、威海衛(いかいえい)に軍港を建設します。
 こうして編成されることになる北洋艦隊は、のちの日清戦争(1894〜95年)で日本艦隊と雌雄(しゆう)を決することになるのです。

藩属体制の危機

 北京交渉で1871年の日清修好条規が役に立たなかったことは、それを締結した李鴻章にとって容易ならざる事態でした。
 同条規第1条の「両国所属の邦土への不可侵」の規定は、中国沿岸や朝鮮など「属国」を含めた広範な「邦土」への不可侵を、日本に義務づけようとしたものでした(岡本隆司(1965年生まれ)『清朝の興亡と中華のゆくえ』)。
 ところが、日本側は、そんな解釈にはお構いなく、台湾南部は「無主の地」だとして派兵してきました。
 清朝は、こうして日清修好条規が通用せず、明治維新以降、富国強兵を進める日本を新たな「脅威」とみなすことになるのです。
 このころ、清朝は、中央アジアにおけるロシアの勢力拡大とイスラム教徒の反乱に苦慮していました。
 日清修好条規が締結された1871年には、ロシアが、新疆で発生したイスラム教徒の反乱に乗じてイリ地方を占領します。

 清朝は、陝甘(せんかん)総督の左宗棠(さそうとう、1812 - 1885)にイスラム教徒の鎮圧を命じます。
 彼は、太平天国の乱で、義勇軍の「楚軍(そぐん)」を率い、曾国藩(そうこくはん)の「湘軍(しょうぐん)」、李鴻章の「淮軍(わいぐん)」とともに反乱軍と戦い、勝利した人物です。
 左宗棠は、中国北西部の陝西(せんせい)省から甘粛(かんしゅく)省へと軍を進め、1873年には平定します。
 さらに新疆まで兵を進めようとした時、日本の台湾出兵が起きました。
 その際、李鴻章は、海防の強化に力を注ぐため、ロシアとイギリスの進出が著しい新疆は放棄すべきだと提案しましたが、却下されました。

琉球の日本専属化

 このあと、清朝は、日清両属の琉球の日本専属化を図る、日本政府の攻勢に直面します。
 北京交渉で日清間が結んだ協定には、「琉球人は日本国民」と解釈できる表現が使われていました。
 日本政府は、これを論拠に「琉球は日本の版図(はんと)」だとして帰属問題の決着を急いだのです。

 台湾出兵中の1874年7月、日本政府はまず、琉球案件の所管を外務省から内務省へと移しました。
 さらに同12月、北京から帰国した内務卿・大久保利通は、日清協定を踏まえて「清国との関係を一掃」する措置――すなわち、琉球を日本の領土に完全に組み込むことを建議し、承認されます。
 次いで大久保は、内務大丞(だいじょう)・松田道之(みちゆき、1839 - 1882)を処分官として那覇に派遣。
 1875年7月14日、松田は首里城(しゅりじょう)を訪問し、琉球藩王代理の今帰仁(なきじん)王子に会い、政府の命令を伝えました。

 それは、清朝への朝貢使・慶賀使の派遣禁止、清朝による冊封(さくほう、王の位を受けること)の廃止を厳命していました。
 そのほか、琉球藩内ではすべて明治の年号を奉じることや、日本への謝恩のために藩王が上京すること、日本の刑法の施行、軍の鎮台分営の設置なども求めていました。

 琉球側は、これまで、琉球藩の設置(1872年)の時も、琉球漂流民殺害事件をめぐる対清交渉(73年)の際も、これらが琉球処分への布石であるとは受け止めず、政府側の説明をうのみにして、のんきにかまえていたようです。
 ですから、この清国との関係を一切断つよう命じた松田処分官の言葉に、琉球側は驚愕します。
 それでも、琉球当局は、刑法施行や分営設置など一部の要求は受け入れましたが、朝貢や冊封の禁止などは、「清朝との国際的信義上、出来るものではない」と拒絶しました。
 とくに清国に近い、藩内の「親清派」(頑固党)の人びとは強く抵抗しました。 

 結局、琉球当局による東京での直接の陳情が許され、1875年9月には特使が派遣されます。
 彼らは、清朝との断絶や琉球の国体・政体の変更は望まないことを繰り返し陳情しますが、日本政府は受け付けませんでした。
 日本政府は1876年5月、内務少丞(しょうじょう)・木梨精一郎(きなしせいいちろう)に琉球藩在勤を命じ、同藩がもっていた司法権を内務省出張所に接収します。
 これに伴い、清国への渡航は同出張所の許可がなければ不可能になります。

琉球、清朝に密使

 琉球藩王・尚泰(しょうたい)は、同年12月、清国・福州に密使として幸地(こうち)親方らを派遣します。
 幸地らは翌1877年2月、藩王の密書を清朝側に提出するとともに、これまでの経緯を報告し、救援を求めました。

 一方、東京駐在の琉球藩の役人は、日本に赴任してきた清国初代駐日公使・何如璋(かじょしょう)と連絡をとり、アメリカ、イギリス・オランダの駐日公使にも支援を要請、問題の国際化を図ろうとします。
 清国の何公使は、外交交渉と同時に、琉球に軍艦を派遣して日本政府の譲歩を迫る強硬策を建議しています。
 同年10月、何公使は、寺島宗則外務卿に対し、日本の措置は「隣交(りんこう)に背(そむ)き、弱国を欺(あざむ)く」行為だと非難しました。
 寺島は「暴言だ」と反発し、交渉は停滞します。
 なお、日本国内ではこの年の2月、西郷隆盛を首領とする士族の大反乱(西南戦争)が起き、政府は半年間、その鎮圧に追われていました。

琉球処分

 1878年5月、琉球処分を指揮してきた内務卿・大久保利通が暗殺され、伊藤博文が後任に就きます。
 伊藤は、国際問題化を避けるため、駐日の各国大使に調停を求めていた琉球藩の役人を東京から退去させる一方、琉球処分官の松田を再び琉球に派遣します。
 1879年1月、松田は那覇入りします。
 1875年6月の初訪問から3年半の月日が経過していました。
 松田は到着後、直ちに首里城を訪ね、藩王代理の今帰仁王子に対し、密航や外国公使への働きかけを非難したうえで、日本政府の命令に従うよう、最後通告ともいうべき「督責(とくせき、ただしせめること)書」を手渡しました。
 これに対し、琉球側は、「遵奉(じゅんぽう、したがい、固く守ること)書」を提出しませんでした。
 松田は帰京すると、琉球処分の早期断行を上申し、政府は、軍隊の派遣と、松田に3回目の出張を命じました。

 松田は1879年3月25日、内務省の官吏30余人、警察官160余人、熊本鎮台分遣隊400人を率いて那覇に上陸しました。
 松田は27日には首里城に乗り込み、今帰仁王子に対し、「廃藩置県」(琉球藩の廃止と沖縄県設置)の太政大臣達書を自ら朗読しました。
 4月4日、琉球藩を廃し、沖縄県を置くことが全国に布告されます(琉球処分)。
 県名を沖縄にしたのは、中国からあたえられた琉球をさけ、沖縄人自身の呼び名にもとづいたからです(宮城栄昌『沖縄の歴史』)。
 旧藩王尚泰は明治政府の命により、沖縄を離れ、6月、上京しました。
 15世紀に成立し、400年に及んだ琉球王国は、ここに歴史の幕を閉じます。

属国ドミノ現象

 毛利敏彦著『台湾出兵』によれば、清国公使の何如璋は、日本の琉球併合を阻止すべきだと本国に警鐘を乱打していました。
 琉球の喪失を黙認すれば、それは決して「一琉球」にとどまらず、朝貢国・朝鮮の喪失へと連動し、<ドミノ現象>のあげく、朝貢国体制が総崩れになることを恐れていたというのです。
 ドミノ現象とは、ある出来事が起きると、次々とドミノ(将棋)倒しのように、連鎖的によく似た事件が起こることをいいます。
 日本にすれば、近代国民国家として存立するには、国家主権の及ぶ範囲(国境)の画定が必要で、琉球処分は避けて通れませんでした。
 ところが、その日本の行動は、大清帝国を支える華夷(かい)秩序への挑戦を意味していました。
 そしてこの<ドミノ現象>は清朝の杞憂で終わらず、朝鮮やベトナムにおいて現実化していくことになります。

【主な参考・引用文献】

▽ 岡本隆司『中国の誕生―東アジアの近代外交と国家形成』(名古屋大学出版会)
▽ 同『叢書 東アジアの近現代史 第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ―朝鮮出兵から日露戦争へ』(講談社)
▽ 岩波講座『東アジア近現代通史 第1巻 東アジア世界の近代19世紀』(岩波書店)
▽ 下村冨士男編『明治文化資料叢書 第4巻 外交編』(風間書房)
▽ 安里進ほか『沖縄県の歴史』(山川出版社)
▽ 新里金福・大城立裕著、琉球新報社編『沖縄の百年 第2巻=歴史編 近代沖縄の歩み(上)』(太平出版社)
▽ 宮城栄昌『沖縄の歴史』(琉球新報社)
▽ 高良倉吉『琉球王国』(岩波新書)
▽ 毛利敏彦『台湾出兵』(中公新書)
▽ 北岡伸一・歩平編『「日中歴史共同研究」報告書 第2巻 近現代史篇』(勉誠出版)
▽ 波多野善大編『中国文明の歴史10 東アジアの開国』(中公文庫)

読売新聞、2018/04/11
<西郷隆盛と大久保利通>第6回
琉球王国の歴史に幕
https://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180404-OYT8T50026/

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西郷隆盛は征韓論者か

西郷の手紙

 三条実美・太政大臣は1873(明治6)年8月、避暑のため箱根に滞在中の明治天皇を訪ね、閣議で内定した西郷隆盛の朝鮮派遣について上奏しました。
 これを受けて天皇は、米欧使節団の岩倉具視・右大臣の帰朝を待って「熟議」し、そのうえで改めて報告するよう命じます。

 一体、西郷隆盛が、この時期、突然、朝鮮行きを希望したのは、なぜだったのでしょうか。
 その手がかりになるのが、西郷が、参議・板垣退助にあてて書いた手紙です。
 この時期に出された9通が残されています。
 その最初の手紙(7月29日付)は、このように書かれていました。
 朝鮮に当方から出兵するとなると、必ず相手は撤兵を要求するに違いない。
 こちらが撤兵を拒めば、兵端(戦端)が開かれ、最初の御趣意(趣旨)に反する。
 したがってまず、公然と使節を差し向けるのがいいのではないか。
 そうすれば、朝鮮側は必ず暴挙に出るはずで、討つべき(開戦)の名(目)も確かに成り立つ。
 使節は暴殺されると思われるので、なにとぞ、私(西郷)の派遣を伏してお願いする。
(清国に出張した)副島君(種臣・外務卿)のような立派な使節はできなくても、死する位くらいの事はできると思うのでよろしくお願いしたい

 文中の「最初の趣旨」とは、何を意味するのか。
 それは、明治元年以来の朝鮮政策の基本方針、すなわち、使節を朝鮮に派遣して、
「昔からの隣交のよしみで公理公道をもって交渉を尽くすが、それでもなお朝鮮が聞き入れない場合は征討する」という方略です。かつて「征韓論」を唱えた木戸孝允の朝鮮遣使論を引き継ぐものでした(川道麟太郎『西郷隆盛』)。
 西郷は、閣議で自らの派遣が内定したことを大変喜びました。
 内定直後の板垣への手紙には、「もう横棒(横槍)の憂いもこれあるまじく、生涯の愉快この事に候」と記していました。

非征韓論者説

 西郷は、8月17日の板垣への手紙で、「戦いは二段」からなるとしています。
 まず、第1段階で、使節派遣から暴殺に至れば、「天下の人」(一般国民)は「討つべきの罪」を知るので、ここに至って第2段階の戦争に入る、という主張です。
 これからいえば、彼は明らかに「征韓」論者です。

 しかし、この見方に対して異論を唱えたのが、維新期のさまざまな政治家像を提示してきた歴史学者の毛利敏彦(1932 - 2016)氏でした。
 その著書『明治六年政変』(1979年刊)は、二つの理由を挙げて、西郷を非征韓論者としています。
 その理由の第1は、使節派遣を先行すべきだとしていた西郷は、即時派兵論に賛成した板垣を説得し、自分への支持を得るためのテクニックとして、使節暴殺論を持ち出した。
 第2は、1864年の第1次長州征討や、68年の徳川慶喜追討でも、西郷は、まず強硬姿勢を示して実力行使の準備を進めながら、交渉による解決策を探り、最後は自ら乗り込んで穏便に落着させていた――というものです。
 つまり西郷は、1873年の夏〜秋には征韓の即時決行を期してはおらず、その真意は、西郷が10月15日の閣議に提出した「始末書」に述べられているとしています。
 始末書は、これまでの経緯をまとめたもので、朝鮮とは「是非交誼を厚く成される御趣意を貫徹いたすようありたく」などと記されており、西郷はあくまで交渉による朝鮮との修好を求めていたというわけです。

 少し話はそれますが、後年、「西郷は征韓論者にあらず」と主張した政治家がいました。
 幕末の江戸無血開城交渉で、西郷のカウンターパートだった勝海舟です。
 勝は、その根拠として、1875年、日本が朝鮮に軍艦を送って挑発し、砲撃を誘って報復攻撃に出た江華島(カンファド)事件の際、
「向こうが撃ってきたから撃ち返したでは、天理において恥ずべき行動だ」
と、道理を尽くさない武力行使に西郷が憤慨していた事実を挙げていました。

維新のやり直し

 西郷が「朝鮮使節」を急に言い出したのは、いくつかの要因がありました。
 その一つにロシア問題が指摘されています。
 西郷は、南下を続けるロシアとは、いずれ戦争になるとみて、それに備える意味でも朝鮮問題の早期解決を考えていたというのです。
 さらに、大きな理由として挙げられるのが士族対策です。
 西郷は、板垣への8月17日の手紙の中で、「内乱を冀(こいねが)う心を外に移して、国を興すの遠略(遠大な謀りごと)」という言葉を使っています。
 これは、征韓論問題のキーワードといえ、内乱の可能性もある中、士族たちの不満を外にそらし、あわせて国威を海外に発揚することと解釈できます。
 確かに、留守政府の責任者だった西郷は1872年、陸軍大輔(たいふ)・山県有朋が進める兵制改革に薩摩出身の近衛兵が反発する中、自分は「破裂弾中に昼寝」だと、外遊中の大久保に伝えていました。陸軍元帥兼参議兼近衛都督の西郷は、近衛兵の暴発を懸念し、相当な緊張を強いられていたようです。
 しかし、征韓論が単なる不平士族らのガス抜きのためというのは短見に過ぎます。

 1870年8月、旧薩摩藩士の横山安武(やすたけ、森有礼の実兄)が、「新政府大官の侈靡驕奢(しびきょうしゃ、おごりぜいたくすること)」などを厳しく批判する建白書を提出、太政官の門前で割腹する事件がありました。
 西郷はその志を大いに称たたえて顕彰碑に揮毫しています。
 歴史家の萩原延壽(1926 - 2001)氏は、この西郷のキーワードに関して、その「『内乱を冀う心』の持ち主は、だれよりもまず、他ならぬ西郷自身ではなかったろうか」と指摘し、
「朝鮮問題こそ、皮相な『文明開化』に充足する日本人に覚醒の機会をあたえ、再度の革命の引き金になろうと、西郷の夢想はふくらんでいったようである」(『遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄』 朝日新聞社、改装新版、1998年10月)
と書いています。
 西郷は自らの朝鮮行きを「第一憤発の種蒔(たねま)き」と表現していました。
 朝鮮問題を機に、西郷はもう一度、明治維新をやり直そうと考えていたとみられるのです。

「大義ある死」切望

 西郷は、「守旧派」の島津久光の執拗な要求にも辟易していました。
 加えて、深刻な健康問題が大きな影を落としていました。
 西郷は1873年8月3日の板垣への手紙に、
「(三条)公へ参殿すると申し上げておきましたが、数十度の瀉(くだ)し方にて、はなはだ疲労いたしましたので、(建言書を)別紙のとおり認ましたので……」と、体調不全を訴えています。

 西郷は同年5月ごろから、5尺9寸余、29貫=約180センチ、100キロ超の肥満体に異常をきたしていました。政治家の健康状態が、政治決断に多大な影響をもたらすことは、古今東西の歴史が教えるところで、西郷も例外ではなかったようです。
 西郷の板垣への手紙(8月23日付)には「死を見ることは帰する如く」「死を急ぎ候義は致さず」「死する前日迄までは」など<死>の文字が頻発しています。
 板垣への最初の手紙にあった「死する位の事はできる」――をはじめとした西郷の言葉から、西郷は朝鮮特使の任務で「大義ある戦死」を切望していたという見方は少なくありません。
 そして、西郷の言う「暴殺」とは、朝鮮側に殺されるのではなく、西郷の「自決」であるとする研究者もいます。
 当時、西郷は「尋常ではない精神状態」にあったようです。
 こうしてみてくると、「征韓」を口にしてこなかった西郷が、突如、朝鮮使節を望んだのは、朝鮮開国やロシア問題、士族対策、健康状態と「死」への渇望、維新をやり直す「第2の維新」など、実にさまざまな要因があったことがわかります。

 さて、西郷は果たして「非征韓論者」だったのでしょうか。

 その説の論拠とされた始末書に関して、歴史学者の猪飼隆明(1944年生まれ)氏は、長州勢が京都に攻めのぼった「蛤御門の変」(1864年)のとき、薩摩兵を陣頭指揮して戦った西郷がこれと「瓜二つ」の戦術(長州兵の引き揚げを命じ、それを聞かなければ罪状を明記して追討する)をとったことを挙げ、使節派遣は朝鮮派兵のための正当性と大義名分づくりだったとしています(猪飼隆明『西郷隆盛』)。

 また、幕末維新史が専門の家近良樹(1950年生まれ)氏は、近著『西郷隆盛』で、次のような趣旨を述べています。
 西郷が、征韓を決行することにより、維新遂行上不可欠の『戦いの精神』を復活させようと目論んだとしても不思議ではなかった。
 もっとも、西郷が征韓論的な言を吐いたとしても、それは後年の軍国主義者が唱えた征韓論などとは、かなり様相を異にするものであった。
 朝鮮を植民地として確保し、同地を足掛かりに大陸への進出を図るといったレベル(侵略主義そのもの)の構想はとうてい持ちえていなかった

 これは、朝鮮使節を志願した時点の西郷は、征韓論者だったと判断せざるを得ないが、後年の軍国主義者と同一視できないということなのでしょう。

大久保、参議に就任

 ともあれ、西郷の征韓論は、岩倉使節団帰国後の政局に大波乱を巻き起こします。

 1873年9月13日、米欧回覧から横浜に帰り着いた岩倉は、三条と会談し、留守中に山積した懸案解決のため、大久保利通の参議起用で一致します。
 同じく帰国組の伊藤博文は、三条、岩倉、木戸、大久保の結束固めのため、関西旅行から東京に戻った大久保への働きかけを強めます。

 同月下旬、西郷をはじめ副島種臣らが朝鮮使節問題の閣議開催を三条と岩倉に強く要求します。
 これに対して、木戸や伊藤らが西郷の使節派遣を阻止する動きを活発化させます。
 征韓問題がまさに政局の焦点に浮上し、大久保の参議起用とも絡みます。

 大久保は10月8日、西郷との衝突を避けるために拒み続けてきた参議就任を引き受けます。
 内治を優先させる以上、西郷はじめ対外強硬派を排除しなければならない。そのためには、西郷との全面対決も辞さない覚悟を決めたのです。
 参議受諾にあたり、大久保は、西郷の使節派遣の延期方針について、三条と岩倉が中途で変説しないよう、念押しの約定書をとりました。
 また、西郷と決裂すれば、不平士族らの反感を呼び、自ら命を落とすこともあるとみた大久保は、息子たちに「遺書」をしたためます。

西郷と対決へ

 大久保は、西郷の遣使問題を次のように整理していました。

<西郷の主張は、国家運営に必要な深謀遠慮を欠いている。維新以来なお日も浅く、政府の基礎はいまだ確立していない。戦争が勃発すれば、士族・農民の反乱を誘発し、軍事費もかさんで一層の財政赤字と輸入超過をもたらす>

<無用の戦争は、幾多の生命を損ない、政府創造の事業(富国強兵・殖産興業)を道半ばで廃絶させることになる>

<対外的に最も警戒すべきはロシアであり、朝鮮との戦争はロシアに漁夫の利を与えてしまう。イギリスへの負債返済が困難になれば、これを口実にしたイギリスの内政干渉を招く>

<日本は欧米各国との不平等条約下にあり、イギリス、フランスの軍隊が日本に駐屯している。日本は属地のようであり、早く条約を改正し、独立国の体裁を全うするのが先決である>

 大久保は、以上の内容を7ヶ条にまとめます(毛利敏彦(1932 - 2016)『大久保利通』)。

 そして「今国家の安危を顧みず、人民の利害を計らず、好みて事変を起こす」西郷使節派遣に強く反対します。

【主な参考・引用文献】

▽ 家近良樹『西郷隆盛― 人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)
▽ 同『西郷隆盛 維新150年目の真実』(NHK出版新書)
▽ 井上清『西郷隆盛(上)(下)』(中公新書)
▽ 毛利敏彦『明治六年政変』(同)
▽ 同『大久保利通』(同)
▽ 先崎彰容『未完の西郷隆盛―日本人はなぜ論じ続けるのか』(新潮選書)
▽ 萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄10 大分裂』(朝日文庫)
▽ 猪飼隆明『西郷隆盛―西南戦争への道』(岩波新書)
▽ 川道麟太郎『西郷隆盛― 手紙で読むその実像』(ちくま新書)
▽ 姜範錫『征韓論政変―明治六年の権力闘争』(サイマル出版会)
▽ 勝田政治『<政事家>大久保利通―近代日本の設計者』(講談社選書メチエ)
▽ 同『明治国家と万国対峙―近代日本の形成』(角川選書)
▽ 松浦玲『勝海舟と西郷隆盛』(岩波新書)
▽ 井上清『日本の歴史20 明治維新』(中公文庫)
▽ 佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
▽ 加来耕三『西郷隆盛 100 の言葉』(潮新書)
▽ 宮内庁『明治天皇紀 第三』(吉川弘文館)

読売新聞、2018/02/14
<西郷隆盛と大久保利通>第2回
西郷隆盛は征韓論者か
https://www.yomiuri.co.jp/column/history/20180207-OYT8T50009/

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坂野潤治

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年05月27日付け日記「5月26日は山歩クラブのお散歩会」をご参照ください。
「美空ひばり記念館」を後にして向かった先は「西郷山公園」と「菅苅公園」!
 遅れていま振り返っているんです。
「西郷山公園」は西郷従道(1843-1902、西郷隆盛の弟)の別邸。
 そうなんです、あのとき、ふっとアタマをよぎったのです。
 隆盛ってなんで西南戦争で死んじゃったんだろうって。
 謎の人物ということでヤッホーくん、そのまんまにしていたんじゃないのかな、と思ったことでした。 

わずか数十年の間に「近代化」を実現しながら、やがて「崩壊」へと突き進む原因はどこにあったのか。
近代日本の80年を460ページの新書でダイナミックにとらえ直すと、その行き着いた先の状況は「現代日本」に重なるという。
『日本近代史』(ちくま新書、2012年3月)を書いた坂野潤治氏(歴史学者、東京大学名誉教授)に聞いた。

─ 西郷隆盛にほれ込んでいませんか。新しいイメージでの書き出しです。

 1857(安政4)年から1937(昭和12)年まで、近代日本の80年を描くとなると、新書とはいえさすがに厚くなった。
 今、多くの人が下り坂に関心を持っているが、私が好きなのは上り坂、つまり興隆期。
 この本でいえば、特に第1章の「改革」の時代(1857〜1863)、第2章の「革命」の時代(1863〜1871)、加えて第3章の「建設」の時代(1871〜1880)がいい。
 西郷隆盛といえば、征韓論、アジア侵略、加えて西南戦争によって、とかくのイメージが作られているが、実際はフランスの議会制にも関心を持った相当なリベラル。
 かなりバタ臭いところさえある。
 視野の広さは、しめて5年間も流刑(一度目は奄美大島、二度目は徳之島、沖永良部島)に処せられながらも、東奔西走した「合従連衡論」の実践に表れている。

─ 合従連衡論とは。

 開明的な藩主同士と、志ある各藩の有志同士を二重に横断的に結合させるというもの。
 これは西郷の一貫した主張だ。
 幕府にも人材はいたが、自己革新は起こらない。
 同時に、大名単独では何もできないが、藩主なしでは家臣は動きが取れない。
 そこで各藩の有能な家臣を見つけ出し、藩主層と家臣層を二重に合従連衡させる。
 この構想を、それも1862年にははっきり持っていた。
 島津斉彬の名代で京都や江戸へ面談に出向き、佐久間象山をはじめ当代きっての開明派のインテリ人脈を受け継ぐ。
 生麦事件を受けての島津久光の単独出兵に異議を唱えて、奄美大島から復帰した1862年2月、2ヶ月でまた流刑に処せられるが、構想は洗練されていく。
 1864年に島流しを赦免されてから、培った人脈が動きだす。

─ 議会構想もあったとか。

 西郷は幕府開明派から合従連衡を公議会に格上げする知恵を学んでいる。
 勝海舟との会談で、大名会議、家臣会議(上院と下院)を設立することに基本的に合意したりしている。
 その後、大名同士の結び付きが貴族院に、旧家臣は衆議院に結び付いていくが、現実には旧家臣はその多くが国家官僚になっていく。
 改革は、現権力の足元からはなかなか起こらない。
 本来、未開の外縁部から出てくるものなのだ。
 現代の日本も、四分五裂のばらばらで、政治は何もできないでいる。
 志を持ってそこをつなげていける西郷のような人物が必要なのではないか。

─ 改革、革命の主人公が西郷として、第3章の「建設」の時代の主人公は誰?

 西郷に関する史料は、ほとんど勝田孫弥による伝記(1894年刊)に負っている。
 筆者は同じ鹿児島の出で、西郷を尊敬し藩士として生きた人。
 この伝記は、
「西郷の花は戊辰戦争で終わるから本書もそれで終わる」
と。
「それ以降の明治維新を読みたい人はこれから書く『大久保利通伝』(1911年刊)を読んでほしい」
とある。
 その本で大久保についても花のあるときを書いている。
 岩倉使節団の一員として英国に行き何十もの工場を見学する。
 明治政府の実力者で、地位は今なら経済産業相以上だ。
 その彼が自ら工場を巡る。
「建設」というタイトルの章を設けたのは、この大久保の殖産興業のためだ。
 ただし、このとらえ方は新しい発見ではない。
 魅力的に書いているが、米国の学者が1960年代にモダナイゼーションセオリー(近代化論)にまとめている。
 その筆頭の人物が大久保だった。
 日本にもこういう開発独裁型のリーダーがいたとして、この学説はかなり定着している。

─「運用」の時代(第4章、1880〜1893)のヒーローは、無名に近い都築馨六ですか。

 ときの内務官僚だ。
 彼の名を聞くと、「超然主義」で胸を張る官僚の姿が浮かび上がってくる。
 有名人でいえば、井上毅でも松方デフレの松方正義でもいいかもしれない。
 もはやカネがなく、大蔵省が財政を握れば殖産興業から退き、官営企業をぜんぶ払い下げる方向に行く。
 憲法ができ、法律がそろえば、在野の知識人は大していらない。
 自由民権運動だ、国会開設だ、憲法草案だと熱く運動する時期は過ぎ、福沢諭吉でも在野ではわからないことが多い官僚の時代になる。
 こういう時代には世論に従っていては何もできないから、超然主義となる。
 トップダウンでやっていくべきだと。
 実際、官僚は光り輝く。

─ 農村地主の時代でもあったようですね。

 そちらは議会。
 官僚、つまり行政府と立法府が分かれて、けんかしながら落としどころを見つける。
 官僚が専門知識に従って国家のデザインを作り、無知で不勉強な代議士、新聞記者、有権者どもよ、俺に従え、と肩で風を切った。

─ そして、普通選挙の第5章「再編」の時代(1894〜1924)へ移行します。

 第5章の主人公は吉野作造。
 民本主義は突き詰めれば普通選挙、それ以前は富裕男子だけ300万人、普通選挙になると有権者は1200万人を数える。
 留学から帰ってきた1914年に普通選挙を唱え、同時に議院内閣制、今風にいえば2大政党制を掲げた。
 その二つがセットにならないと日本は変わらない、と。

─「危機」の時代(第6章、1925〜1937)に変わってしまいました。

 意に反し、中心人物のいない四分五裂の時代に陥った。
 民政党が政権を取ると、金解禁。
 2年後に政友会の高橋是清は金輸出再禁止へ。
 政権交代の結果、陸軍も統制派と皇道派の二つに分かれ、官界は官界で労働者寄りの内務省と、古い形のままの保守的官僚の大蔵省とがドンパチを繰り返す。
 20世紀初頭の世界秩序の大変動に合わせるように、日本も10ぐらいのグループに分かれる。

─ 危機後の「崩壊」の時代は記述がありません。

 1937年の日中戦争から1945年の敗戦までを、どうしても「立体像」として書けない。
 それ以前は目に見えるようなクリアな格好で6段階に分けた。
 戦後も同じような6段階によってとらえられるだろう。
 現在、そのサイクルでいえば、危機から崩壊へ移りかけている。
 中心人物のいない四分五裂の時代だ。
 今40代に人材はいると思う。
 西郷はこれはと思う藩の、これはと思う人物とつながりをつけ、これはと思う幕府の開明官僚とも交流を持ち、改革に取り組んだ。
 知性を集めうる横断的な人材はどうあるべきか、あらためて西郷隆盛を勉強してはいかがか。


東洋経済、2012/04/20 0:00
今こそ学ぶべき西郷隆盛の合従連衡論
(聞き手:塚田紀史=週刊東洋経済2012年4月14日号)
https://toyokeizai.net/articles/-/8982

★ 坂野潤治(ばんの・じゅんじ)

1937年神奈川県生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。東大大学院人文科学研究科博士課程中退。東大社会科学研究所教授、千葉大学法経学部教授を歴任。専攻は日本近代政治史。著書に『近代日本の国家構想』(吉野作造賞、岩波書店、1996年10月)、『日本憲政史』(角川源義賞、東京大学出版会、2008年6月)、『日本政治「失敗」の研究』(講談社、2010年3月)など。

 65歳で千葉大学法経学部を定年退職して以来13年間、現役時代に購入してあった伝記や日記、著作集、全集、古典的名著などを読み漁る日々を送っている。

 読書法は、いわゆる「スピードラーニング」の正反対である。
 英会話の習熟のため、「スピード……」は自分なりに実践もし、効果も抜群であったが、研究者としての読書は、千ページの本でも2千ページのものでも、先を急がず1ページ目から順に読んでいく。
 体力や視力の退化を差し引いても、時間は十二分にある。
 じっくりと精読すれば、忍耐は必ず報いられるもので、どこかで必ず宝物に出会える。
 幕末の書物でも、明治時代の本でも、大正・昭和のものでも、同じ方法で読んできた。

事象繰り返す近代史 歴史書はタイムマシン

 日本近代史という分野は不思議な分野で、数十年ごとに似たような政治、経済、外交の事象が繰り返される。
 まったく同じことは起こらないが、構造的に同じような時代が必ず来るのである。
 そんな類似性を片目で見ながら、たとえば勝海舟の日記や大久保利通の伝記、吉野作造の著作集などを丹念に読んでいくと、過去が過去でなくなる。
 私にとって読書は、一種のタイムマシンなのである。

 現役時代を含め、これまでに読んだたくさんの本の中から10冊だけを選ぶというのは、他の書物にまことに申し訳ない気がする。
 しかし、一事が万事である。
 ここには紹介できなかった書物も、同じような読み方をしてきたことは、確言できる。
 筆者の変わらぬ読書法を例示したものとして本稿をお読みいただければ、幸いである。

 10冊の嚆矢(こうし)として挙げたいのは、アイザック・アシモフのSF大作『銀河帝国の興亡1』(東京創元社、1968年3月)である。
 この大作から、私は政治外交史の方法論のようなものを学んだ。
 これまで刊行した15冊の単著のすべての根底にあるのは、ここでアシモフが「心理歴史学」と呼んでいる架空の学問である。
 それは弁証法的発展段階論とでも言うべきもので、対外的な危機と国内的な危機が時を同じくして生じた際、その国はひとつの「支配体制」から次のそれへと段階的に発展する、というものである。
 1971年に最初の著作である『明治憲法体制の確立―富国強兵と民力休養』(東京大学出版会、1971年1月)を書いたときには、この本をすでに読んでいたと思う。
 大学院生だった頃に友人の影響を受け、SFの代表的な作品を次々と読んでいたからである。
 拙著で分析したのは、政権を独占する薩長藩閥政府の「富国強兵」政策が、1890年の議会開設によって衆議院の「政費節減・民力休養」論の挑戦を受け、行政府と立法府とが非和解的な対立を繰り返す過程であった。
 アシモフのいう、「国内的な危機」の発生である。

 同じ頃、1885年以来鎮静化していた日清対立が再燃し、日清戦争(1894年勃発)が近づいてくる。
「対外危機」の到来である。
 国内と対外の危機がほぼ同時に生じたために、行政府と立法府は調和を求めて1900年の伊藤博文による立憲政友会の結成へと到達する、というのが拙著の概要であった。
 まさにアシモフのいう「心理歴史学」の応用編といっていいであろう。

若き研究者を魅了した華麗な修辞の「脱亜論」

 次に挙げたいのは、1952年に刊行された旧版『福沢諭吉選集 第4巻・解題』である。

 『選集』の解題は正確には著作にはあたらないが、私の世代の研究者は、丸山真男氏の「解題」が読みたくて第4巻を買おうとし、『選集』をすべて買ってもいいと思ったものである。
 私が大学院に入った1963年当時、この第4巻は入手不能であった。やむなく、図書館にこもってメモしたのを記憶している。
 私が福沢の「脱亜論」に興味を持ったのは、この「解題」によってであった。
 丸山氏は「脱亜論」について、次のように記している。
 彼の対朝鮮および中国政策論が、それらの国の近代国家への推転を促進して共に独立を確保し、ヨーロッパ帝国主義の怒濤から日本を含めた東洋を防衛するという構想から出発しながら、両国の自主的な近代化の可能性に対する絶望と、西力東漸の急ピッチに対する恐怖からして、日本の武力による『近代化』の押売りへ、更には列強の中国分割への割り込みの要求へと変貌して行く思想的過程は、もはや紙数も尽きたので立ち入らない。
(423〜424ページ)

 丸山氏が「立ち入らない」と断っているにもかかわらず、この短文はそれ以後の「脱亜論」をめぐる解釈を強く拘束してきた。
 福沢諭吉は無類のレトリック好きであるが、丸山氏も同様である。
 この二人の名文に、後につづく歴史研究者、福沢研究者は、すっかりひき込まれてしまったのである。

 このような福沢の「脱亜論」の評価が間違っていることは、今日では明らかである。
 しかし、近年のなんとも無味乾燥な歴史書に接すると、たとえ間違っていようとも、丸山氏によるこの「解題」に、一度はひき込まれたほうがいいような気がする。

今日もなお通用する99年前の「分析視角」

 3冊目は、1916(大正5)年に刊行された『大正政局史論』(徳富蘇峰著)である。
 同時代のすぐれた政治評論は、歴史学者にとっては手強いライバルである。
 この本は今日では文庫版でも手に入るが、私の手元にあるのは、大正5年の第2刷である。
 その中にある次の一文は、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第1次憲政擁護運動が倒した政治体制を、簡潔に描写している。
 明治36年より明治45年に亘る約10年間は、桂、西園寺の天下と云うも、溢言にあらざりし也。
 桂、内閣に立てば西園寺は政友会を率いて之を衆議院に援護し、西園寺、内閣に立てば、桂は、其の党与とも云う可き貴族院の多数と与に、之を幇助したり。……此の如くして10年間の内政的泰平を維持したりし也」
(6ページ)

 今から99年も前の筆である。
 さらに本書は、 ・・・


論座、2015年09月11日
アシモフの銀河帝国の興亡から私は、政治外交史の方法論を学んだ
坂野潤治 東京大学名誉教授(日本近代政治史)
https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2015090300005.html

坂野潤治『近代日本の構造、同盟と格差』(講談社現代新書)

 歴史の描き方には、出来事の「過程」を叙述する手法と社会の「構造」を提示する方法とがある。
 著者はこれまでいくつもの歴史シリーズで「過程」を叙述してきたが、近年は「構造」的な分析に集中してきた。
 そして本書では、ついにその構えをタイトルとするに至った。
 外交と内政を柱に、「日英同盟」か「日中親善」か、「民力休養」か「格差是正」か、という「基本対立軸の設定」によって近代日本の再考察をおこなう。

 従来、外交の主流は「欧化主義」であり、日英関係が日本外交の基軸であった。
 しかし、日英同盟的なものへの不満が伏流としてあり続けたことを、著者は言う。
 欧米列強の侵略から中国を守れ、というアジア主義的な主張で、それは日本のナショナリズムのかたちでもある。
 この観点から、日中戦争は中国南部を勢力圏とする英国との戦争であるとの見解が示される。

 他方、内政では、政府側の「富国強兵」「積極主義」の政策に対し、リベラル派が「政費節減」(小さな政府)によって対抗する。
 この対立構造は、欧米では1930年前後にリベラル派が「大きな政府」を主張し姿を変えたが、日本では変化しないという。

 こうした構造分析により、浜口雄幸(おさち)の民政党内閣がひとつの焦点となる。
 戦前日本でもっとも平和主義的であり民主主義的であった内閣ですら「格差」や「再分配」に無関心であり、失業問題に手を付けなかった。

 また、1880年代末期の大同団結運動が強調され、あるいは吉野作造が「社会的」な格差是正の必要(「社会政策」論)を唱えた社会民主主義者として再評価されるなど、著者は歴史事象にあらたな光を当てる。

 日中戦争期までを対象として、近代日本の軌跡を構造的に記すことにより、2010年代の現在の日本の「比較の対象になる前例」が提示される。
 これまでの著作と重なる叙述もあるが、それでも著者が倦(う)むことなく再解釈を提示するのは、<いま>への危機意識のためであろう。

※ 坂野潤治は、東京大名誉教授。著書『帝国と立憲、日中戦争はなぜ防げなかったのか』(筑摩書房、2017年7月)、『<階級>の日本近代史、政治的平等と社会的不平等』(講談社選書メチエ、2014年11月)など。


東京新聞・書評、2018年7月15日
坂野潤治『近代日本の構造、同盟と格差』(講談社現代新書、2018年5月)
[評者]成田龍一(日本女子大教授)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018071502000203.html

[参考]
毎日新聞2018年8月27日 東京夕刊
この国はどこへ行こうとしているのか 平成最後の夏に… 歴史学者・坂野潤治さん
https://mainichi.jp/articles/20180827/dde/012/040/006000c

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2019年05月29日

アベノミクスによる景気回復の温かい波

 安倍晋三首相は2015年度の当初予算成立時に記者団に対し、
「景気回復の温かい波をこれからもしっかりと全国津々浦々にお届けするために全力を尽くしていきたい」
と述べ、今年の年頭所感では、
「景気回復の温かい風が全国津々浦々に届き始める中で、地方の税収は過去最高となった」
としている。

 つまり、アベノミクスは″温かい風”を吹かせることに成功した、ということになる。

 その風は、あなたのところにも届いただろうか。

 診察室で多くの人に会う限り、私はそれを感じたことはない。
 それどころか、生活が苦しくなり、それがひきがねでうつ病などの心の病になる人もいっこうに減らない。

 山井和則さんは、
「アベノミクスは物価を上げれば賃金も上がるだろうという考え方だ。ところが物価は上がっているが、賃金上昇が追いつかず、実質賃金が下がって国民生活が苦しくなっている」
と書いている(記事は*)。

 では、その実質賃金(毎月勤労統計の調査対象の入れ替え前後で共通する事業所を比較した参考値)はどうなっているかといえば、山井さんの文章にもあるように、厚生労働省がデータの公表を控えており、わからない。

 その前には、統計処理で基本的な不正があり、野党は、
「実際以上に賃金が伸びたように発表したのではないか」
と主張する。
 さらに、厚労省は不正があった期間の資料を紛失・廃棄しており、2004〜11年の8年分の賃金の実態ははっきりしない。

 たしかに学生の就職率の上昇など、景気回復を感じさせる動きもある。
 とはいえ、こうして「賃金が上がったか下がったか、もはやわからない」などというとんでもない事態も起きている。

 どうだろう。
 あなたのところに景気回復の温かい風は届いているだろうか。
 それとも山井さんが言うようにそれは「アベノミクス偽装」の結果にしかすぎないのだろうか。

 生活に基づく話を聞かせてほしい。


毎日新聞、2019年5月29日
「景気回復の風」あなたに届いているか
ご意見募集

香山リカ・精神科医
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20190528/pol/00m/010/001000c

(*)山井和則さん記事

 政府が2018年1月から毎月勤労統計の手法を変えたことで、賃金の伸び率が実際より高く出た。

 2015年10月に麻生太郎副総理兼財務相が経済財政諮問会議で勤労統計の調査方法を見直すよう要望した。
 首相秘書官は厚生労働省に「実態を適切に表すための改善の可能性」などの「問題意識」を伝えた。

「賃金の伸び率を高くするために変更した」とは現時点では断定できない。
 しかし官邸主導により結果的には、賃金伸び率が上振れし、水増しされたことは間違いない。

統計が信用されない

 賃金の伸び率が上振れしたのは、調査対象事業所を一部入れ替えた際に大きなずれが生じたまま、前年と比較したためだ。
 このため、総務省統計委員会は入れ替わらない事業所のみを抽出した、公表値よりも実態に近い、「参考値」を重視すべきだとしている。

 ところが政府はこの参考値について名目賃金のみ公表し、実質賃金の参考値を公表しない。
 実質賃金は政策判断に重要な影響をあたえる指標だ。
 そのデータを公表しないというのはまったく理解できない。

 かつて旧ソ連などの経済統計は信用できないと笑っていたが、ひとごとではなくなった。
 今や日本の賃金の統計は世界の笑いものになっている。
 安倍晋三首相は裸の王様だ。
 周囲にこのおかしさを指摘する人がいないのだろう。


国民生活の実感を示す実質賃金

 厚生労働省がまとめた2018年1〜12月の実質賃金は6ヶ月が前年同月比マイナスとなっているのに対し、野党が独自試算した参考値だとマイナスは9ヶ月になる。
 根本匠厚労相は国会でこの計算をおおむね認めた。

 ならば公表になんの障害があるのか。
 百歩譲って実態より高い賃金の伸び率を公表したことは意図的でなかったとしても、実態に近い、低い「参考値」を公表しないのは明らかな「アベノミクス偽装」だ。
 統一地方選挙と参院選があるから不都合な数値を公表したくないのだとしか思えない。

 実質賃金の伸び率というのは、国民生活の実感を表す一番基本的な指標だ。
 上振れした数値を出し続けているのは非常に悪質だ。
 10月には消費税率引き上げが予定されている。
 誤った景気判断をもとに消費税率を引き上げれば大変なことになる。

失敗を認めたくない政権

 アベノミクスは物価を上げれば賃金も上がるだろうという考え方だ。
 ところが物価は上がっているが、賃金上昇が追いつかず、実質賃金が下がって国民生活が苦しくなっている。

 アベノミクスは失敗したと言わざるを得ない。

 2018年の実質賃金のデータは、こうしたアベノミクスの失敗を示す決定的な証拠になる。
 だから、出すに出せない。
 もし参院選が終わった後に「本当のデータ」を出すならば、国民をだましたことになる。


毎日新聞、2019年4月27日
実質賃金のデータ隠す安倍政権
世界の笑いもの
山井和則・元厚生労働政務官
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20190426/pol/00m/010/001000c

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国民の74.7%が現在の生活に満足?!

 改めて彼我の差を痛感させられた。
 2019年5月27日の安倍首相とトランプ米大統領との共同記者会見。
 質疑応答に移ると、トランプに同行した米メディアの記者の口をつくのは鋭い質問ばかり。
 聞かれた質問に安倍首相が真正面から答えず、アヤフヤにかわすのを許す日本の記者とは大違いだ。

 読売新聞の記者の次に質問した米ウォールストリート・ジャーナルの女性記者は、いきなり「小さなミサイルは国連違反に当たらないなら、何が違反になるのか」と追及。

 トランプが前日、北朝鮮による今月上旬の短距離弾道ミサイル発射に関し、「北朝鮮は数発の小さな兵器を発射し、わが政権の一部の人々などを動揺させているが、私は気にしない」とツイートしたことを受けての“直球勝負”だ。

 その後も米メディアの記者はロシア疑惑や米中貿易戦争など、トランプに容赦のない質問を次々と浴びせかける。
 来年の大統領選の民主党候補の“本命”であるバイデン前副大統領を「低能」と罵倒した北朝鮮に、トランプが会見で「低IQは事実だ」と同調すると、「アナタが独裁者に味方して前副大統領よりも称えることの影響は?」とすかさずツッコむ。
 日本の忖度メディアとは格段の違いを見せつけた。

 1992年から15年間、ホワイトハウスの会見に出席していたジャーナリストの堀田佳男氏が言う。

「日米のメディア文化は大きく違います。番記者やクラブ制度のある日本の記者は取材対象者に嫌われたら、自社が不利な立場になるとの自主規制の意識が働き、失礼のない質問になりがち。一方、米国の記者たちは“野獣”。相手を傷つけたり、答えられない質問でも躊躇しない。むしろ、鋭い質問を飛ばす覚悟がなければ、米メディアでは生き残れません。収斂された質疑応答があって初めて真理に近づくという発想なのです」

 日本の記者は米国の記者の爪のアカをいくら煎じても、飲み足りないくらいだ。


[写真]
鋭い質問を連発する米メディア記者

日刊ゲンダイ、2019/05/28 14:50
共同会見でハッキリ 日米記者の「質問力」は“大人と子供”
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/254842

 アヤフヤ交わされても追及しないメディアがばらまく忖度記事によるのか、政権の支持率がちっとも下がらないというのは、ヤッホーくん、首をかしげるばかり、個人的にはまったく理解できなんいだって。

 ジャーナリストの田原総一朗氏は、昨今の世論の動きに戸惑いを見せる。

* * *

 いま、テレビの世界ではコンプライアンスについて、誰も口には出さないが、尋常ならぬ問題だと捉えられている。
 コンプライアンスとは法律を守るということだが、テレビの世界ではクレームに対する恐怖のことである。

 かつては、クレームのほとんどは電話で来た。
 そこでプロデューサーが電話を受けて、丁寧に聞き、心を込めて謝罪すると、それでなんとか納得してもらえた。

 ところが、インターネットの時代になって、ネット上にあげられるクレームはツイッターなどのSNSで炎上して大変な騒動になる。
 当然ながら、管理部門から経営陣にまで波紋が広がり、場合によってはスポンサーが降りてしまうこともある。

 すると番組の生存が危うくなる。

 そのために、番組のプロデューサーやその上司たちもクレームを恐れて、なるべくクレームの来ない、つまり無難な番組を作ろうという流れが強まった、と私は捉えている。

 だが、そのことを民放各局の番組のプロデューサーたちに問うと、誰もが私の捉え方を否定はしなかったが、「それ以上の問題がある」のだと困惑した口調で話し始めた。

 ワイドショーでも報道番組でも政治問題にあまり時間を割かないのは、政治の話題になると視聴率が落ちてしまうためなのだというのである。
 だから、本当のところ、あまり政治問題は扱いたくないというのだ。

 そのことを示す例だといえるのだろうか。
 たとえば、厚生労働省の毎月勤労統計の偽装が判明した問題だ。

“基幹統計”というのは、文字どおり国家の基幹であり、死活的に重要なものである。
 統計が不正確であれば、政策を誤り、政治決断を間違える。
 結果、国家は危機に瀕する。
 その基幹統計の不正調査が2004年から15年間続けられていたのである。

 立憲民主党会派の衆議院議員の小川淳也氏は、「激論!クロスファイア」に出演して、こう主張した。

「統計問題の核心は、それが単なる官僚の不正・隠蔽に過ぎないのか、それとも何らかの政治的思惑が働いたものなのか。私は後者だと捉えています。森友問題で明らかなように、安倍政権は公文書まで書き換えさせる政権ですから、国民にわからないように統計の数字を触るくらいのことは朝飯前じゃないかと」

「そして3週間にわたって公開資料を調べた結果、ある日はっきりとわかったのです。ああ、これは壮大な“GDP600兆円物語”だと。統計問題を調べていくと、すべてそこに行き着く。安倍総理が15年に『GDP600兆円』を打ち出してからすべて動き出しているのです。毎月勤労統計は入り口に過ぎず、統計不正、アベノミクス偽装の本丸はGDPです」

 だが、この大事件をどのテレビ局も軽くしか扱わず、何と立憲民主党など野党もなぜか途中で追及をやめてしまった。
 そこで、立憲民主党の幹部に問うと、追及しても国民の反応がまるでなく、逆に支持率が下がりそうなので、追及の対象を変えるしかなかったのだ、と答えた。

 国民にとって、得か損かがはっきりしていない問題については、ほとんど関心を示さないというのである。

 小川氏は、
「安倍内閣は、いっぱい問題があるのに、内閣府の世論調査では何と、国民の74.7%が現在の生活に満足しているという。国民はあきらめきっているということなのか」
と困惑しきった口調で言った。
 一体、どう考えればよいのだろうか。

※ 週刊朝日、2019年6月7日号


AERA dot、2019/05/29 07:00
田原総一朗「テレビも政治家も困惑する国民が政治に関心示さぬ理由」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/田原総一朗「テレビも政治家も困惑する国民が政治に関心示さぬ理由」/

https://www.asahi.com/topics/word/毎月勤労統計調査.html

 F35戦闘機は、航空自衛隊三沢基地所属の機体が先月2019年4月9日に墜落したばかりで、同機を操縦していた自衛官も今なお行方不明のままだ。
 だが、5月27日午後の首脳会談の後、共同記者会見でF35戦闘機の「爆買い」についての質問は無く、会見後の報道でも、本件について言及したのはAFP/時事のみだ。
・・・
 市民団体「武器取引反対ネットワーク」代表の杉原浩司さんは「あまりに馬鹿馬鹿しすぎる」と呆れる。
・・・
視聴者・読者ももっと怒ろう

 莫大な税金を投じての米国製兵器の爆買い、「専守防衛」という自衛隊の役割を明らかに超えた装備増強や活動がなし崩し的に行われることについて、杉原さんは、
「メディアは、もっと追及すべきですし、日本の市民、有権者ももっと怒るべきだと思います」
と語る。
 衆参同時もまことしやかに噂されるように、この夏には国政選挙が控えている。
 メディア関係者も視聴者・読者も、今、何を「ニュース」とすべきなのか、何が追及されるべきなのか、よく考えるべきなのだろう。


Yahoo! Japan News、2019/5/28(火) 12:05
墜落のF35、「日本が一番買ってくれる」
―トランプ大統領発言を報じない忖度報道、ひたすらゴルフ、相撲

志葉玲、フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)
https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20190528-00127657/

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トランプ国賓訪日の本当の目的

 安倍首相は、トランプ大統領を「空母」かがに招待してご満悦だったらしい。
 空母、それに搭載される戦闘機は、攻撃型の軍備である。
 専守防衛から外れる。

 さらに、搭載が予定されるF35は、一機100億円以上かかる。
 105機購入で1兆円以上のコストだ。
 中期防衛計画では、F35は147機導入する計画であり、その導入費・維持費すべて合わせると、6.2兆円を超す。

 国の予算が潤沢にあるとはとても言えない。
 少子高齢化で、国の税収は下がることが予想される。
 年金も老後生活には不十分であることを政府自身が認めた。
 その状況で、この軍拡である。

 そもそも、この空母・戦闘機は対中国の軍備だ。
 中国との戦端が簡単に開かれるとは思わないが、これらの軍備が実戦に供されることになった時点で、わが国は滅亡である。
 専守防衛に徹することが、防衛上も、国家財政上もわが国が生き延びる方策なのだ。

 この軍拡を続けると、国の財政が破たんし、国が内側から崩壊することになる。
 年金財政の近未来は、それを明確に示している。

以下、引用〜〜〜
5月27日付AFP 日本政府、米にF35を105機購入の意向示す トランプ氏「同盟国中、最大の部隊に」という記事をご紹介します。
【5月27日 AFP】(更新)
 訪日中のドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領は27日、安倍晋三(Shinzo Abe)首相との日米首脳会談後の共同記者会見で、日本政府が米国製最新鋭ステルス戦闘機F35を105機購入する意向を表明したと明らかにした。

 記者会見でトランプ氏は、日本政府がF35を105機購入する意向を表明したと述べ、「これにより、日本は米同盟国の中で最大のF35部隊を擁することになる」と述べた。(c)AFP


ステトスコープ・チェロ・電鍵、2019/05/29 06:02
147機のF35導入・維持に6.2兆円
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/#entry7726

President Donald Trump on Tuesday used the backdrop of a US naval ship in Japan to tout America's "fearsome" power in the Pacific, wrapping up a visit where he became the first foreign guest of Japan's new emperor.

Addressing more than 800 uniformed service members in the belly of the USS Wasp, an amphibious assault ship at the Yokosuka US naval base, Trump said they were part of "the most fearsome group of American warriors this side of the Pacific".

The US military has no intention of losing its paramount status in the world, Trump said, insisting it will "forever remain second to none".

"We have equipment, missiles, rockets, tanks, planes, ships -- no one in the entire world can build them like we do. It's not even close," he said.

The address to the cheering military marked Memorial Day, the US holiday honouring the war dead, but it was also clearly aimed at growing rival China and North Korea, where Trump has invested heavy diplomatic efforts to try and get the regime to give up nuclear weapons -- so far with only modest results.

Trump told the sailors, marines and other personnel that they were "confronting this region's pressing security challenges with unmatched courage."

"You know what we're talking about," he said.

Trump said US naval forces "proudly patrol" the region's waters, name-checking flashpoint areas, like the South China Sea, where tensions are high over Chinese naval expansion.

Earlier, Trump visited Japanese helicopter carrier JS Kaga with Prime Minister Shinzo Abe.

Abe talked about the "increasingly severe security environment" in the region and confirmed that the Kaga was being converted to take not only helicopters but also fighter planes.

Trump said the Kaga will carry a version of the advanced F-35 stealth fighter, which Japan is buying in larger numbers than any other US ally.

"With this extraordinary new equipment, the JS Kaga will help our nations defend against a range of complex threats in the region and far beyond," Trump added.

- Farewell to emperor -

There was little real substance in Trump's visit to Japan, which started Saturday and included a golf game with Abe and presentation by the American president of a huge trophy at a Tokyo sumo tournament.

But the main goal was to celebrate the countries' alliance and, from Japan's point of view, to charm Trump ahead of tricky negotiations on the muscular US demand for more market access.

That seemed to work, with Trump signalling there will be no move on trade until after an upper house election here in July.

The highlight was the meeting with Naruhito, who took over the Chrysanthemum Throne only three weeks ago, after his father stepped down in the first abdication for two centuries.

Other world leaders will have to wait until larger-scale celebrations in October. The Trumps went to see Naruhito at his palace Monday morning and then again in the evening for a banquet featuring six courses, including Trump's favourite -- beef -- and a dessert described as Glace Mont Fuji.

The emperor and Trump both made toasts praising their countries' friendship. The US president even sprinkled a few Japanese words into his address, referencing ancient Japanese poetry.

Trump and the first lady said goodbye to the Japanese royal couple on Tuesday before leaving Tokyo. The White House only described this as a "farewell call", and there were no immediate details on how it went.

Although the whole Japan trip was designed to be a feelgood display, there was an awkward moment Monday when Trump flatly contradicted Abe and some of his own advisors on North Korea.

Trump insisted that he does not consider recent North Korean short-range missile tests to have violated UN resolutions, or even to pose a particular threat.

"My people think it could have been a violation... I view it as a man who perhaps wants to get attention," Trump said of North Korean leader Kim Jong Un, whom he once more praised, calling him "very smart".


[photo-1]
President Donald Trump told service members on the USS Wasp that the American military has no intention of losing its paramount status in the world

[photo-2]
US President Donald Trump was in Japan to reaffirm the alliance with its Asian partner and to deliver a message to rival China and nuclear-armed North Korea

[photo-3]
Emperor Naruhito hosted President Donald Trump and First Lady Melania for a banquet featuring six courses, including Trump's favourite -- beef -- and a dessert described as Glace Mont Fuji

[photo-4]
US President Donald Trump entire Japan trip was designed to be a feelgood display

AFP, Published: 28 May 2019
Trump touts US military power in Pacific after Japan emperor visit
https://www.afp.com/en/news/15/trump-touts-us-military-power-pacific-after-japan-emperor-visit-doc-1gz6yv2

 わざわざ4日もかけ、中国や韓国に立ち寄ることもなく、日本だけを訪問してトンボ帰りしたトランプ国賓訪日の目的は何だったのか。
 ゴルフから始まって、大相撲観戦、炉端焼き夕食など、まるで観光に来たのではないかと野党は批判する。
 もちろん、そうではない。
 トランプが観光だけで日本に来るはずがない。
 令和になってはじめての国賓として新天皇に謁見し、そして日米首脳会談を行うことが目的だ。
 しかし、象徴天皇への謁見は儀礼的なものであり、安倍首相との会談も、すべて参院選後に先送りすることを合意しただけの中身の無いものだった。

 今度のトランプ大統領の訪日の本当の目的は一体何だったのだろう。
 その事を、最後の最後で見事に教えてくれた。

 日本を離れる直前にトランプ大統領が訪れた場所はどこか。
 それは、やがて空母に改修される自衛隊の護衛艦「かが」の艦上であり、米軍強襲揚陸艦「ワスプ」の艦上である。
 いずれも安倍首相を従えている。
 そして、そこでトランプ大統領は自衛隊や米兵の前でこう演説をぶった。
 いまや日米同盟は最強であり、米国からのF35機の大量購入は、日米の安全保障をさらに強めるものだと。
 安倍首相を脇に立たせてそう演説したトランプ大統領の姿を見て、これこそが今度のトランプ国賓訪日の隠された本当の目的だったと確信した。

 もはや日本は引き返す事が出来ないほど米軍に支配されようとしている。
 日本の自衛隊は米軍の指揮下に置かれ、自衛隊は使いこなせん高額な装備をどんどんと米国に買わされ、そして末永く米国と中国の覇権争いの最先端に立たされることになる。
 そして、誰一人、その深刻さに気づくことなく、日米同盟強化の方向に流されていく。
 いや、知っていても、もうどうにもならないと、あきらめているのだ。
 事態は深刻である。
 はたして国民はどこまでそのことに気づいているだろう。
 誰かがその流れを変えなくてはいけない。
 いまこそオリーブの木を成功させてこの国の政治の中に、憲法9条を国是とすべきだと訴える政党、政治家を輩出しなければいけないのである。

 安倍首相との距離に関して、私は、上皇と比べ新天皇に、即位以来危ういものを感じて来た。
 即位のおことばの中で、護憲に言及された部分に力強さが感じられなかったのも、そうだ。
 そして、その危惧は、今回のトランプ国賓に見せた新天皇の言動で現実のものとなった。
 日米友好に言及するのはいい。
 しかし、まるで安倍首相の代弁者のごとく米国の重要性をくり返した。
 そして、それはまさしく安倍首相の思惑通りだったのではないか。
 このことを、きょうの毎日新聞が、こう書いている。

・・・政府がトランプ氏を令和初の国賓で招いたのは、令和時代も日米同盟をアピールしつつ、貿易交渉などで予測不能な言動をしかねないトランプ氏をつなぎ留めるため。「皇室外交」の政治的効果を狙ったといえる・・・と。

 おそらく安倍首相は今後も天皇陛下を政治利用し続けるだろう

 安倍首相の改憲志向を抑止した上皇と違って、新天皇は安倍首相の意向に従う事になるだろう。
 だからこそ、令和には、新党憲法9条が必要なのである。
 憲法9条は、日米同盟はもとより、天皇よりも上に立つこの国の最高の国是である。
 そう訴える新党憲法9条を日本の政治の中に誕生させなくてはいけない。


天木直人のブログ、2019-05-29
日程の最後で正体を見せた今度のトランプ国賓訪日の本当の目的
http://kenpo9.com/archives/6011
上皇と新天皇のかくも大きな違い
http://kenpo9.com/archives/6012

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2019年05月28日

私は真剣に今の日本、怖いです

 日米FTA合意が参院選後だという。
 トランプ大統領は「日本との貿易交渉は大きく進展している。特に農業や牛肉の分野だ」とツイート。
 日本がどのように譲歩したのか、それを隠したまま選挙を戦うのは姑息だ。
 安倍総理はこの点を国民に明確に説明する責務がある。
 与党の予算委審議拒否は88日となる。

22:18 - 2019年5月27日

 公文書管理法改正案、
 復興加速4法案、
 カジノ廃止法案、
 種子法復活法案、
 原発ゼロ法案、
 選択的夫婦別姓法案、
 介護保育士等処遇改善法案、
 被選挙年齢引き下げ法案、
 LGBT差別解消法案、
 農家個別所得法案
など、多くの議員立法を国会提出済だが、与党の審議拒否で一切議論できない状態が続く。


3:09 - 2019年5月26日

 予算委員会は、総理をはじめ全ての大臣が出席可能。
 しかも予算だけに特化した議論ではなく、法案、外交、経済などさまざまな事案が議論できる。
 他の常任委員会は、総理以外の担当大臣しか出席しないのが原則。
 予算委は、分野横断的に総合的議論ができるが、90日近くも与党の審議拒否が続く。

2:37 - 2019年5月26日

 毎日のように、常識では考えられないような答弁が国会でされてたり、安倍政権だけじゃない。
 まるでパンデミック pandemic のように、モラル崩壊が日本のあちこちで起きている。
 マジで怖いです。
 日本はいったいどうしちゃったんでしょうか?
 森友事件は単なるスキャンダルではない。
 総理夫妻による行政私物化の懸念があること。
 行政情報の廃棄、隠蔽があり、これは民主主義の根幹を揺るがす問題だ。
 仮に文書を廃棄したとしても、たった3年程度前のこと。
 官僚が記憶を呼び覚ませばよいことのなのだが、それができない状態になっている。

 ほんま、この通りですわ。
 情報がちゃんと開示されない限り、国民は行政をチェックできない。
 結果、行政のやりたい放題になってしまう。
 そういうのを民主主義とはもう呼べないです。

 マスコミが権力をチェックする第4の権力だと言うのは、そうなればいいという願望にすぎず、最初から実現の難しいものだったのですよ。
 特に民放テレビはダメですね。
 誰も情報に対価を払ってない。
 タダより高いものはないと言うではないですか。
 NHKは、情報に国民が受信料という対価を払っておりますが、ここが「公共放送」を公言するのは、最初から無理がある。
 なぜなら、NHKは開発事業に政府補助を受けてたり、事業予算などに国会の承認が必要だったり、そもそも放送法第65条で政府に縛られております。
 だからNHKが公式ページで、
 NHKは、政府から独立して受信料によって運営され、公共の福祉と文化の向上に寄与することを目的に設立された公共放送事業体であり、今後とも公共放送としての責任と自覚を持って、その役割を果たしていきます。

などと言うのには、詐欺に近いものを感じます。

 新聞はどうでしょう?
 新聞は対価を払って読むものですから、権力をチェックできそうに思いますが、現実はそうそう甘くない。
 なぜなら大手新聞4社とも、購読者は減少の一途。
 それを「押し紙」で粉飾してます。
 押し紙とは、新聞販売店に実際に配達する以上の新聞を押し付けること。
 これは違法行為なのですが、公正取引委員会はなぜかこれを摘発しない。
 押し紙裁判も多数起きてるのですが、ほとんどは販売店側が敗訴する。
 公取委の長は、内閣総理大臣から任命される。
 裁判所は政権寄りの判決を出す。
 つまりまぁ、そういうこと。
 政府は押し紙を黙認することで、新聞をコントロールできる。

 まだ記憶に新しい、昨年末(2017年12月21日)に起きた日経本社ビルでの焼身自殺は、販売店の元店主の抗議の自殺でありました。
 他にも似たような自殺が多数起きてるようです。
 そのへんを文藝春秋2018年3月号が特集しております。
 → 日経、読売、朝日、毎日……。新聞販売店主が次々と自殺していた!
 酷いですね。
 こんな新聞が本気で社会悪を追求できるハズがありません。

 かくて、日本には権力を監視する第4の権力は存在しないわけです。
 いや、メディアも全く何もしないわけではないですよ。
 モリカケ報道もされましたし。
 でも、本気で政権の不正を追及するような報道は、ありませんでしょ?
 例えばですね、地方議員の政務活動費の不正利用なんぞは、盛んに報道されますが、麻生太郎が政治資金で6000万円も豪遊しても、ちっとも騒ぎになりません。

 こんな状況ですから、元々日本政府はやりたい放題できる素地があった。
 けれど、多少は政治家としての矜持があったのかどうかは知りませんが、最後の一線を越えるような政権は、安倍政権以前には無かった。
 安倍政権の辞書に「恥」の文字はありません。
 矜持なんてもの持ち合わせて無いのですよ。
 安倍政権は越えてはならない最後の一線を越え、今ではもうやりたい放題です。

 安倍政権のまき散らす”モラル崩壊菌”が、あちこちに伝染して、地方行政ももう、目も当てられない状態です。

 その例のひとつとして…今日のニュースで観ました。
 奈良県橿原市は、97億円もの税金を投入して、市役所にホテルをブッ建てた。
 これが民間のホテルを圧迫すると懸念されたのに対し、市側は民間より高い料金設定をすると言ってたのが、フタを開けたら民間と変わらない6000円だったりとか、議会による反対決議を、市長の”専決処分”で強行突破しちゃったり、情報開示請求に対し、ノリ弁を開示しちゃったりと、あらら、まるでモリカケのようなことになってます。
 詳細は下記リンクを: 毎日新聞→橿原市 分庁舎・ホテル 地域振興か民業圧迫か 今週、課題抱え船出/奈良→橿原市の明日を考える会

薄荷らぼ、2018/02/19
私は真剣に今の日本、怖いです。マジです。
https://plaza.rakuten.co.jp/hakkapan/diary/201802190002/

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自分の好き勝手で何でもできるんだよ!

「伝家の宝刀」などとマスコミは持て囃すが、これほどの議会軽視はない。
 首相が自分の好き勝手で衆議院を解散できる「7条解散」である。
 国民民主党の原口一博・国対委員長は、きょう2019年5月28日、開かれた同党の代議士会で「7条解散を考える会」の立ち上げを、野党国対に提案する考えがあることを明らかにした―

「自民党の(二階俊博)幹事長は解散の大義は一日でできると言っている。(だが)私たち国会議員は5万10万の得票を得てここへ来ている」

「与党の中にもこれを濫用するのはどうなのか、という声が上がっている。衆参ダブルと言われているが、気合で乗り越えられるものではない」

 安倍首相は2012年末の政権奪還後、2度にわたり衆院を解散している。

 1度目は2014年11月、「消費税増税延期について国民の信を問う」とした。
 2度目の2017年9月は、「国難突破解散」と銘打った。実際は「加計隠し解散」だった。

 安倍首相は野党の足元を見て衆院を解散する
→野党は予想通り負ける
→それを繰り返す
→野党は無力化する
・・・
 この結果が現在のありさまだ。
 原口国対委員長が投じた一石が波紋を呼び広がっていくことが望まれる。


[写真-1]
国民民主党の代議士会。=28日、衆院第4控室

[写真-2]
議会軽視など朝メシ前の安倍首相。=2月、自民党大会

田中龍作ジャーナル、2019年5月28日 16:19
権力の濫用阻止
原口国対委員長「7条解散を考える会」提案

http://tanakaryusaku.jp/2019/05/00020176

 トランプ大統領がツイッターでばらしてくれた。
 交渉の成果は7月の参院選後まで待つと。
 これはものすごい暴露だ。
 安倍首相はトランプ大統領とお互いの選挙について話し合っている証拠だ。
 そして安倍首相は選挙の日にちまでトランプ大統領に話しているのだ。
 これで予定どおり選挙は7月にあることが分かった。

 問題はその時、解散・総選挙に打って出るかだ。
 そして、その場合、解散・総選挙の大義は何になるかだ。
 この解散・総選挙の大義について、きのう5月26日の産経がワシントン発の一段の小さな記事で、とても重要な事を教えてくれた。
 中国の崔天凱駐米中国大使がブルームバーグテレビに出て、G20に合わせた米中首脳会談は未定だと述べたらしい。
 もし大阪で米中首脳会談が行われないなら、G20は成果のないものに終わる。
 ただでさえ日本は米国に屈して二国間協議を優先することがばれている。
 議長国がそうなのだから、G20で自由貿易で合意することなど夢のまた夢だ。
 そうなれば、G20の成功を理由に解散・総選挙に打って出ることまで、難しくなる。
 北方領土問題も、
 拉致問題も
 消費税延期問題も
 憲法9条自衛隊明記問題も、
 そしてもG20の成功も、
 これまで噂にあがった解散・総選挙の大義は、どれも決め手を欠くことになる。

 それでは安倍首相は解散・総選挙をあきらめるのだろうか。
 それは私にはわからない。
 しかし、今度のトランプ国賓の接遇ぶりを見て直感した。
 解散するならトランプ解散に違いないと。

 つまり、ここまでトランプ大統領と緊密な外交ができる首相は他にいるか。
 日米同盟関係を維持、強化できるのは自分しかいないではないか。
 そう国民に訴えて信を問うのだ。

 そうすれば、さすがは外交の安倍だと思わされている国民はその気にさせられる。
 もう少し安倍さんに外交をやってもらおうと。
 野党には絶対に外交は任せられないと。

 安倍首相がトランプ大統領との関係をここまで優先し、ここまで国民に見せつけようとしたのも、すべてはトランプ解散に向けての布石だったのではないか。
 そう思えてくるのである。

 そして、トランプ解散になれば、外交政策のない野党はますます窮地に立たされることになる。
 その時こそ、対米自立を訴えるオリーブの木の出番である。
 新党憲法9条のチャンスが到来しつつある。

天木直人のブログ、2019-05-27
安倍首相が解散に打って出るとしたらトランプ解散しかない
http://kenpo9.com/archives/6000

 トランプ大統領が来日して日本観光を楽しんだ。
 その費用は日本の主権者が負担している。
 このことを忘れてはならない。
 日本の外交姿勢は単なる「へつらい外交」である。
 徹頭徹尾、ご機嫌取りに終始した。

 トランプ大統領日米首脳会談後の共同記者会見で冒頭スピーチをした。
 このなかでトランプ大統領は生前退位による天皇即位が200年ぶりのことだと述べたあとに、日本の歴史が3500年と述べた。
 天皇制発足から2700年程度の時間が経過していることとされているが、3500年という歴史認識は稀少である。
 中国の場合、殷からの歴史を数えれば3500年ということになるから、トランプ大統領は日本と中国を混同しているのだろう。
 宮中晩餐会のスピーチでは万葉集について言及したが、トランプ大統領自身に万葉集についての知識があるとは考えられない。
 米紙からは観光旅行と揶揄されたトランプ大統領だが、日米首脳会談については8月に貿易交渉での決着が図られることを示唆した。
 同時に、農産物、肉について、日本側が大幅譲歩をしたことを示唆した。
 その結果発表は7月の選挙まで待つとしたが、選挙については複数形で表現した。
 衆参ダブル選があることを安倍首相から聞かされた可能性がある。
 また共同記者会見では、日米通商交渉がTPPと関係ないことを明言した。

 日本サイドは、日本がTPPで受け入れた水準が日本の譲歩の上限であると訴えているが、トランプ大統領はこの要求を拒絶している。
 トランプ大統領は横須賀に寄って帰国の途についたが、横須賀では空母化が決定されている海上自衛隊護衛艦「かが」を視察した。

「かが」には米戦闘機F35Bが搭載される予定である。
 1機130億円を上回るF35Bを日本は米国から100機も購入する約束をしている。
 安倍内閣の「へつらい外交」では、豆腐を買うような感覚で米国製兵器を1兆、2兆と爆買いする姿勢が示されている。
 媚びへつらい、米国から獲得することところが皆無の日米外交は、植民地の総督が宗主国君主を徹頭徹尾もてなすことに終始した印象である。
 これが安倍外交の実態である。

 安倍首相が日本の主張を毅然として示すなら、共同記者会見で、日米通商交渉では、TPP水準を上回る妥協はしないことを明言するべきである。
 トランプ大統領が米国はTPP合意内容には囚われないと明言したのだから、日本は日本で、日本の主張をトランプ大統領の目の前で明言するべきなのだ。
 中国は米国と通商交渉を行っているが、理不尽な米国の要求を受け入れる考えがないことを明言している。
 トランプ流の「脅し外交」に屈服はしないことを中国政府は明示している。
 外交には、この種の毅然とした対応が必要だが、安倍外交は単なるへつらい外交、媚び売り外交に堕してしまっている

 徹底的に媚びを売り、へつらって、接待三昧に明け暮れて、それを米国大統領が歓迎することをもって、「日米同盟関係はかつてない強固なものになった」と言うことなら、誰でもできることだ。

 もっとも安易な道と言うほかない。
 日本を訪問する賓客だから、丁寧にもてなすことは良いとしても、日本の主権者の利益を守るために、「言うべきは言う」姿勢を示すことができなければ、一国の為政者としては失格である。
 米中貿易戦争でも、理不尽な要求を突き付けて、世界経済の先行きを不透明にしている張本人がトランプ大統領である。
 米国と中国の間でこそ、「ウィン・ウィンの関係」を構築するべきだと進言するのが、日本が取るべき対応である。
 日米の間には、沖縄辺野古米軍基地建設という重要問題も横たわっている。
 沖縄の主権者は辺野古米軍基地建設 No の意思を明示している。
 他方、米国も沖縄への海兵隊駐留の必要性がなくなりつつあることを認めている。
 安倍首相はトランプ大統領を沖縄に案内し、沖縄の情勢を玉城デニー沖縄県知事から直接トランプ大統領に説明する機会を創設するべきだった。

 米国に対して、言うべきことを言うことが、日本外交が実践するべき最重要事項である。

 日本の一次産業従事者は安倍首相がトランプ大統領に完全譲歩してしまった可能性が高いことを銘記するべきである。
 夏の選挙(複数形)では、日本の一次産業を米国に売り渡したと考えられる安倍内閣与党に怒りの一票を投じるべきだ。


植草一秀の『知られざる真実』、2019年5月28日 (火)
米国にNOと言えない安倍外交には選挙で渇!
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-e0f699.html

「安倍内閣与党に怒りの一票を投じる」…
 この国に主権者っているんだっけ。
 ましてや有権者、納税者、市民、運動家が、「怒りの一票」を投ずるなんてこと、あるのかなあ〜。
 この間の地方統一選挙をみてもヤッホーくん、信じられない。

 は〜い皆さん、上級国民に、よくやったねという自己満足というご褒美を与えられるか、この次の教訓にしようね、という自己責任で片を付けられて、はい、おしまい。
 は〜い、こっちだよ、上級国民の方を向いてくださ〜い。
 さ、歩きましょう、だって、この道しかないんですよ、皆さん。
 そう、そう、皆さん、転ばないよう、外れないよう、お手々つないで、肩を組んで、この道からはみださないようにねえ。
 わたしたちも下級国民の声にならない小さな声に耳を傾け、同じ目線で、真摯に寄り添っているんだから、ねえ、はい、大丈夫、大丈夫。
 お金が欲しい?貧しいの?お、かわいそう!
 生活保護とかコクミン保険とか医療保険とかいらない、いらない、アメリカから不要不急の軍備をしてねって、命じられているから、そっちにお金を回したいし、株価もあげないと困るでしょ。
 だからね、あ、そう、そう入隊しましょうね、チュウインガムかみながら、アメリカ人と地球のどこにだっていけるんだよ、英語の勉強もできるよ、憲法も変わるから、隣の国や、隣の人に威張ることもできるんだよ、ね、いいでしょ。
 世界のど真んなかで輝くニッポン!

 あんまり難しい話はさ、上級国民に任せていただいて良いんですよ。
 考えているとほら、メンタルヘルス的には、いいことないんですよ。
 それより、はい、チュウハイでも飲んで、テレビ見て、写っているタレントさんたちと一緒に笑っていればいいんですよ。
 アッハッハッハ、おっほほほ。

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美空ひばり記念館

 「駅 STATION」「鉄道員(ぽっぽや)」など、2014年に死去した俳優・高倉健さん(享年83)とのコンビで多くの名作を生んだ映画監督の降旗康男(ふるはた・やすお)さんが2019年5月20日午前9時44分、肺炎のため都内の病院で死去した。84歳だった。

 高倉健さんとのコンビで、日本を代表する名監督となった降旗さん。
 映画の道に進むことになったのは、「高給につられて」だった。

 父・徳弥さんは県会議員を経て衆院議員となり、当時史上最年少で大臣となった政治家。
 2人の兄は年齢が離れていたこともあり、一緒に遊ぶことは少なかったが、幼いうちから兄の蔵書を手にするように。
 さらに、自宅には父の仕事に関連する人がひっきりなしに訪れ、「大人の会話」を垣間見ることで、世間を幅広く知るようになる。

 長野・松本深志高校時代にシャンソンに興味を持ったことからフランス語の勉強を始め、東大の仏文科に進んだものの、4年生になった当時は就職難の時代。
 学校の求人紹介を見た時に、学術書で知られる有斐閣の次に給料が高かったのが、映画会社の東宝と東映だった。
 それを目ざとく見つけ、叔父の紹介で東映へ入社。
 当時、東映は時代劇の全盛期だったが「チョンマゲは嫌いだから」と、京都ではなく東京の撮影所への配属を希望した。

 助監督として初参加した美空ひばりさんの主演作「青い海原」(1957年)では、ひばりさんのことを「お嬢」と呼べず、作品を“クビ”に。
 退社も考えたが、名カメラマンとして知られる宮島義勇さん(1998年死去)との出会いが再び情熱に火を付けた。

 宮島さんの「映画っていうものは、ただ撮ればいいんじゃない。何を撮るかだ」との言葉に、映画の面白さを痛感。
 その後、1966年に「非行少女ヨーコ」で監督としてデビューした。
 同じ年にメガホンを執ったのが「地獄の掟に明日はない」。
 そこでタッグを組んだのが、高倉さんだった。
 その後、半世紀にわたって共に作品を生み出し続けた。


[写真]
2012年の報知映画賞での降旗康男監督(左端)

Yahoo! Japan News、最終更新:2019/5/27(月) 12:44
降旗康男さん、美空ひばりさんのことを「お嬢」と呼べず助監督“クビ”に…評伝
(スポーツ報知)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190526-00000367-sph-ent

青い海原 (1957)/美空ひばり 映画で歌
https://www.youtube.com/watch?v=3pInl0wDGHY

青い海原 春日八郎
https://www.youtube.com/watch?v=im7JvamwG78

 美空ひばりは、、1937年(昭和12年)5月29日生まれ、ということは1957年ははたちのころ・・・!

 1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。
 現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に突き出された。
 犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという。
 その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。
 また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。


Fresh eye ペディア
美空ひばり
https://wkp.fresheye.com/wikipedia/美空ひばり

「1955年には江利チエミ(1937-1982)、雪村いづみ(1937-)とともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深める」(同)
んだそうで、森昌子(1958-)、桜田淳子(1958-)、 山口百恵(1959-)は「花の中三トリオ」(1974年3人揃って紅白歌合戦出場)、郷ひろみ(1955-)、野口五郎(1956-)、西城秀樹(1955-2018)は「新御三家」、ですので、その前のお話でした。

 1957年1月13日の午後9時40分。
 ひばり(当時19)は東京・浅草の国際劇場で正月公演「花吹雪おしどり絵巻」の舞台に立っていた。
 舞台カーテンの脇でフィナーレの出番を待っていると、超満員の観客席から女性が舞台に這い上がってくる。

 この女性は「ひばりちゃん」と叫んで駆け寄ってきた。
 ひばりが振り向くとコートのポケットから瓶を取り出し、顔に中の液体を浴びせた。
 最初は何が起きたかわからなかったが、液体は塩酸だった。
 女がもう一度ひばりに向けて塩酸をかけると、今度はひばりは顔にやけどをしたような熱さを感じた。

 近くにいたひばりの叔母が異変に気づき、女を突き飛ばす。
 そして建物の中にあった防火用水をひばりにかけた。
 女は逃げようとしたが、その場に居合わせたブロマイド業者に取り押さえられて警察に引き渡された。

 ひばりはすぐ病院に搬送され、顔と胸と背中に塩酸を浴び、全治3週間のやけど。
 叔母のとっさの措置と舞台化粧の厚いドーランに助けられ傷は残らずにすんだ。
 塩酸は近くにいた付き人や俳優にもかかり、3人がやけどを負った。

 犯人はひばりと同い年の当時19歳。
 もともと山形県の紡績工場で働いていたが、
「東京に出れば、憧れのひばりちゃんや(雪村)いづみちゃんに会える」
と前年に上京。
 住み込みで板橋区の会社役員宅のお手伝いさんとして働いていた。
 ひばりの映画は欠かさず見るという大ファンで、勤め先の部屋にはひばりのブロマイドが張られており、ひばりの家に何度も電話をかけ、「会わせて欲しい」と頼んでは断られたりしていた。

 事件の2日前、女性は勤め先の家を、
「世の中が嫌になった。死にたい」
というメモを残し、飛び出す。
 さらに、犯行前日に国際劇場での正月公演の昼の部を見た女は上野の旅館で手帳に、
「こんなに好きなのにひばりちゃんが憎らしい。あの美しい顔に塩酸をかけて醜い顔にしてやりたい」
との思いを書きつける。

 当日午前、女は映画館でひばりが主演する映画を見て、その足で当時手に入れやすかった工業用の塩酸2合を買った。

 国際劇場の楽屋に昼の部が終わったひばりを訪ねるが、面会を断られて夜の部の公演に入場。
 凶行に及ぶことになる。

 この事件は一歩間違えば芸能人生を終わらせかねなかったが、幸いなことに回復が早く、
 1月29日には復帰して大阪・北野劇場で舞台公演を行った。

◇ 1957年1月

 12日、ロシア人の元プロ野球選手ビクトル・スタルヒンが交通事故で死亡。40歳。
 29日、日本の南極越冬隊が南極大陸に初上陸。昭和基地を設営する。
 31日、脳梗塞を発症した石橋湛山首相が岸信介外相を首相臨時代理に指名。


日刊ゲンダイ、2018/06/22 10:39 更新
熱狂的なファンに塩酸をかけられた美空ひばり
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/141377

[追補]
浅草国際劇場での「花吹雪おしどり絵巻」。美空ひばりのお相手は大川橋蔵(1929-1984)。

銭形平次 〜フジテレビ30年史
https://www.youtube.com/watch?v=8zkecJsbF-w

☟ 美空ひばり記念館

P1000371 (2).JPG

☟ ひばりさんに分けてあげたいこの笑い

P1000369 (2).JPG

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2019年05月27日

代官山に古墳「猿楽塚」!

 今回のゲストは、古墳ブームの立役者、古墳シンガーのまりこふんさん(*1)。

 そもそも古墳って…?とどんな素朴なことを聞いても、やさしく楽しく的確に答えてくれます。
 日本にある古墳は、その数16万!
 なんとコンビニの3倍なんだそうです。

 こんなキュートな先生に習いたかったなぁ。

「都内にもたくさん古墳があるんです!代官山にも!」
と伺って、早速仕事帰りに行ってみました。

 ほ、ほんとだ!都会のど真ん中、ヒルサイドテラスの中に、あったー!

 代官山ツタヤから旧山手通り挟んで斜め前。
 デンマーク大使館わきを入った奥。
 大好きなプチバトー(*2)から徒歩1分ぐらい。
 旧山手通り沿い!

 お話を伺っていなかったら、一生知らずに通り過ぎていたかもしれない。

 6〜7世紀の古墳時代末期だとか。
 猿楽町という地名も、この猿楽塚(*3)にちなんでつけられたそうです。

 喧騒から奥に入れば緑豊かで静かな空間。
 今まで知らずに通り過ぎていたところに、クラクラするような歴史を体感。
 あー、目覚めてしまいそう、これが「墳活」の面白さってやつね…。

 通りがかりのヒルサイドテラスのスタッフさんが
「写真、お撮りしましょうか?」
と爽やかにお声をかけてくれて嬉しかった。
 古墳周りの人たちって、なんだかいい人たちばかり!


秀島史香のブログ、2018-09-29 08:38
古墳はコンビニよりも多い? 代官山にも!
https://hideshima.blog.so-net.ne.jp/2018-09-29

(*1)[プロフィール]まりこふん

 古墳への愛を歌いあげる古墳シンガー。
 十数年前に音楽活動の合間に仁徳陵(*4)に行ったのがきっかけで古墳の曲が生まれて、古墳を巡るようになる。
 その後2013年1月、「古墳をゆるく楽しく愛でる」をモットーに「古墳にコーフン協会」を設立、会長を務める。
 今まで巡った古墳は3,000基以上。

 古墳を「かわいい!」という独自の目線でひも解き、
「堅苦しい古墳のイメージをカジュアルにしたい」
「古墳めぐりの楽しさを多くの人に知ってもらいたい」
と日々活動中。
 全国各地のイベントや、TV・ラジオ番組、新聞、雑誌記事などメディアにも多数出演。
 毎年はとバス主催の「まりこふんと行く古墳バスツアー」を開催中。
 CDに「古墳deコーフン!」他、古墳関連の著書6冊発売中。

 2018年9月に2ndアルバム「装飾古墳」を発売。

 また、古墳グッズコレクターでもある。約1,000点の古墳グッズを所持。
<古墳にコーフン協会>
http://kofun.jp


古墳deコーフン!(short version)/まりこふん
https://www.youtube.com/watch?v=jyWRsJWSTM8

(*2)プチバトーとは

https://www.petit-bateau.co.jp/shop/pages/about.aspx

(*3)猿楽塚

 ヒルサイドテラスには何度も来ていたのに、この存在には全く気が付かないままだった。
 敷地の中央に猿楽塚という古墳がある。

「猿楽塚 猿楽町29番 ヒルサイドテラス内 区指定史跡 1976(昭和51)年3月26日指定」
 ここにあるこんもりした築山は、6〜7世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種です。
 ここにはその円墳が二基あって、その二つのうち高さ5メートルほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできました。
 この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっております。
 ここにある二基の古墳の間を初期の鎌倉街道が通っていて目黒川にくだっていました。
 渋谷区のように開発が早くからはげしく行われた地域に、このような古墳が残されていることは非常に珍しいことです。
 渋谷区教育委員会

 古墳の上には猿楽神社が祀られている。
「猿楽神社縁起」
 古よりこの地に南北に並ぶ二基の円墳があり。
 北側に位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。
 この名称は、江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等にも見られ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称したとも言われている。
 6〜7世紀の古墳時代末期の円墳と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚古墳がほどんど煙滅したなかで、唯一現存する大変貴重な存在であり、1976(昭和51)年3月16日に、渋谷区指定文化財第5号に指定された。
 この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵へ移り、中代より渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神社改建の折にも尽力している。
 朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、2月18日、11月18日を祭礼日と定めて、建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
 2002(平成14)年11月18日 朝倉徳道 撰

 水神が祀られているのは、この前の旧山手通り沿いに三田用水が流れていたからだろう。
 金王八幡宮、氷川神社共に、渋谷川の向こう側に位置しており、朝倉家のスケールが伺い知れる縁起のストーリーだ。

 多くの人で賑わうヒルサイドテラスの中心部にあるのに、静謐の中にあるような空間になっている。
 この一画だけが、隔絶されたような雰囲気が面白い。
 木々が茂っているので、余計に騒音も遮られている。
 たしかに、物寂しいような江戸時代を微かに想いを馳せることのできるスポットになっている。


東京 DOWNTOWN STREET 1980's、2015-04-26 18:30:54
目黒を歩く〜その6:
槍ヶ崎と猿楽塚

https://blog.goo.ne.jp/kenmatsu_fs/e/9338c7c18e2e218e205f78ef47a11678

猿楽神社.JPG

 これまで、ぼおう〜っと生きてきたヤッホーくん、愛用のミラーレス一眼カメラを出すタイミングがみごとにずれてしまいました。
 山歩クラブご一行様はもう歩きだしておりました、待ってぇ、この風景だけカメラにおさめさせてぇ、虚しい声だけが空しく響き…

(*4)仁徳陵

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に「大山(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵)」など「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)が登録される見通しとなった。
 事前審査する諮問機関が「登録が適当」と勧告した。
 2019年6月30日からアゼルバイジャンで開かれる世界遺産委員会で最終的に決まる。

 ユネスコが2019年5月13日、諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)の勧告内容を日本政府に伝えた。

 古墳時代最盛期の4世紀後半〜5世紀後半に築造された古墳群。
 国内最大の前方後円墳「大山古墳」(墳丘長486メートル、堺市)、2番目の規模の「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵)」(同425メートル、羽曳野市)のほか、帆立貝形墳や円墳、方墳など大きさも形も多様な45件49基で構成される。

 古墳が密集する堺市の百舌鳥エリアと羽曳野(はびきの)・藤井寺両市の古市エリアは、古代日本の政治や文化の中心地の一つ。
 個人の権力の大きさや身分の差が目に見える形で示されるようになっていった日本の歴史を物語る物証として顕著な特徴があると認められた。

 49基中29基が歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理する陵墓(りょうぼ)など。
「静安と尊厳の保持」を理由に一般の人の立ち入りは禁じられ、学術的な調査も制限される。
 名称についても、宮内庁の指定に沿って「仁徳天皇陵古墳」などで推薦されたが、考古学や歴史学者から「被葬者が学術的に確定していない」として地名に基づき大山古墳などと呼ぶべきだとの指摘がある。
 こうした点がどう評価されるのかが注目されていた。

 イコモスは、「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」の4段階の評価で勧告する。
 世界遺産の総数は1092件。
 日本からは文化遺産18件、自然遺産4件の計22件が登録されており、正式に決まれば、大阪府では初めてとなる。


[動画]
大山古墳(仁徳陵古墳)の発掘調査現場が報道公開

朝日新聞、2019年5月14日00時47分
「仁徳陵」など古墳群、世界遺産へ
ユネスコ機関が勧告

(上田真由美)
https://www.asahi.com/articles/ASM4L6JB7M4LUCVL01W.html

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安倍首相による“国益差し出し”の裏取引

 その過剰接待ぶりでアメリカの属国ぶりを遺憾なく見せつけているトランプ大統領来日だが、メディアは案の定、批判することもなく、
「ゴルフ後の昼食はダブルチーズバーガー」
「トランプ大統領の登場で国技館も大盛り上がり」
などと騒いでいる。
 ところが、そんななか、トランプ大統領が自らTwitterで安倍首相による“国益差し出し”の裏取引を暴露した。

 トランプ大統領はゴルフ後のきょう、2019年5月26日13時39分、自身のTwitterにこう投稿したのだ。

〈Great progress being made in our Trade Negotiations with Japan. Agriculture and beef heavily in play. Much will wait until after their July elections where I anticipate big numbers!〉

(日本との貿易交渉で非常に大きな進展があった。農業と牛肉でとくに大きなね。日本の7月の選挙が終われば大きな数字が出てくる、待ってるよ!)
(訳は編集部による)

 周知のように、アメリカ抜きの環太平洋経済連携協定(TPP)の発効によって、アメリカの農業界では、日本の農産物関税引き下げへの圧力がこれまで以上に高まっており、アメリカ政府はTPP以上の大幅な関税引き下げを要求しているとされており、トランプ大統領にいたっては、関税撤廃まで口にしている。

 しかし、関税の大幅引き下げがおこなわれれば、日本の農業界が大打撃を受けるのは必至だ。日本政府も表向きこれに対して抵抗を示しており、メディアも今回の来日で「関税交渉の行方はどうなるのか」などと報じていた。

 ところが、きょう、安倍首相がトランプ大統領との笑顔の2ショット写真を嬉々としてSNS上に投稿していた裏で、その大幅引き下げに応じてしまったらしいのだ。
 しかも、7月におこなわれる参院選が終われば、引き下げに応じるという、国民を騙すような密約だ。

 参院選前に妥結すれば日本国内の農業関係者から猛反発を受け、安倍自民党が地方票を大幅に失いかねない。
 しかし、“トランプのポチ”である安倍首相としては、その引き下げ要求を無下にはできない。
 だから、安倍首相は選挙が終わった「7月以降」に応じると約束したのである。
 これは明らかに、選挙のためだけに国益を売り渡すという背信行為ではないか。

 じつは、安倍政権がアメリカの関税引き下げ要求を拒否するのではなく、たんに「参院選後に」と引き伸ばし工作をしているという話は、以前から、本サイトが指摘していた。

 それは、4月26日におこなわれた安倍首相とトランプ大統領の10回目となる日米首脳会談で明らかになった。
 冒頭から記者団がいる前でトランプ大統領は、
「首相がここにいるのは主に貿易交渉のためだ」
「農産物について強力に交渉していく」
「日本は重い関税を課している。我々は撤廃させたいと思っている」
と農産物の関税撤廃を要求。
 そして、米メディアの記者に日本との貿易交渉の合意時期を尋ねられると、トランプは、
「かなり早く進められると思う。たぶん(5月末に)訪日するまでか、訪日の際に日本でサインするかもしれない」
と答えていた。

 だが、この発言後に記者団が退室すると、安倍首相はトランプ大統領にこう説明したのだ。

「7月の参院選があるから、それまでは無理だ。2020年秋の大統領選のことはきちんと考えている」
(読売新聞4月28日付)

 その後、政府はこの「参院選以降なら関税大幅引き下げに応じる」という方向でずっと米政府と交渉を続け、今回の来日でも、トランプ大統領の気が変わらないように、まるで下僕のような過剰接待を計画した。

 そして、きょうのゴルフや昼食中に、安倍首相とトランプ大統領の間で、国益を売り渡すその密約が成立したということらしい。

トランプのツイッターは「elections」と複数形…衆参ダブル選挙までバラされた?

 もっとも、そこはさすがトランプ大統領。
 Twitterで「after their July elections」と、その密約をさっそくアメリカ国民に向けて報告をしてしまった。
 しかも、気になるのは「elections」と単数でなく複数の「s」が付いていること。
 これはもしかしたら、安倍首相がトランプに「衆議院を解散して衆参ダブル選をする」ことまでうっかり喋って、そんなことまでバラされてしまったってことなのだろうか……。

 なんとも間抜けな宰相だが、しかし、許せないのはそんなことより、安倍首相が自分の選挙のために、国民を騙し、国益を売り渡す密約をしてしまったことだ。

 しかも、安倍首相がトランプに差し出した貢物はそれだけではない。
 明後日28日、安倍首相はトランプ大統領と海上自衛隊・横須賀基地でいずも型護衛艦「かが」に乗艦する予定だが、米ワシントン・ポストによると、「かが」は「日本が新しく購入を決めた、アメリカ製戦闘機F-35Bが垂直離着陸できるように改修中」で、この訪問が「たんに防衛協力のためだけでなく、日本がアメリカの武器を購入する意思があるということを、トランプに印象づけるために計画された訪問」であると報じている。

 実際、トランプ大統領は、4月の安倍首相との首脳会談直後におこなわれた支持者の集会で、
「安倍首相は、日本企業が400億ドル(約4兆4600億円)を米国の自動車工場に投資すると話した」
「日本は大量の防衛装備品を買うことに合意した」
と発言しており、安倍首相から関税引き下げ延期のために提案されたことは明らかだ。

 自分たちがおさめた税金が選挙対策としての武器購入費に投入され、選挙後には日本の農業界に大打撃を与える関税の大幅引き下げがおこなわれる。
 だというのに、笑顔で“仲良し”演出に走るだけの総理に、トランプ大統領の来日でお祭りムードを煽ってばかりで肝心のことを伝えないメディア……。
 こうして対米従属はますます強化され、わたしたちの生活は破壊されてゆくのだろうか。


[写真]
安倍首相とトランプ大統領の2ショット写真も(トランプ大統領Twitterより)

リテラ、最終更新:2019.05.26 09:09
トランプ大統領がツイッターで、安倍首相の国民騙す“関税密約”暴露!
「日本の7月の選挙が終われば農業で大きな数字」

https://lite-ra.com/2019/05/post-4735.html

 昨日2016年5月26日の大相撲千秋楽、幕内前半戦だけで観るのを止めてしまった。
 優勝が決まっており、興味がなくなったのと、トランプ御一行が来場することになっていたからだ。

 トランプは、升席にしつらえられた椅子に座り、その周囲を多数のシークレットサービスが取り囲んでいた。
 さらに、大統領杯を朝の山にトランプが渡すとき、土俵上でトランプはスリッパを履いていた。
 相撲の「伝統」なるものがあるとしたら、トランプのために易々と「伝統」を破壊した。

 これまでの外国からの招待客がそうであったように、トランプは貴賓席で観戦するべきだった。
 また、土俵上に下足の一種であるスリッパ履きで上がることも止めるべきだった。

 だが、そうした「伝統」をトランプに慮って易々と破る。
 安倍首相は、保守主義者ではない。
 保守主義とは、人間への懐疑を根底に持ち、伝統を重視する立場だ。
 安倍首相は、エセ保守、いや無思想なのだ。
 あるのは、米国大統領に奴隷のようにヘリ下り、国の「伝統」さえも彼のために破り去る、それは自分の権威を高めるため、という利己主義だけである。

 その延長線上に、農業分野での大幅譲歩を行い、それを参院選が終わるまで秘密にすることをトランプにお願いしている。
 自己利益だけを考えた、売国奴のやり口である。

 トランプの相撲観戦、そこで蔑ろにされた「伝統」について英文ブログに記した。
 それをリンクしたfacebookで、米国の友人が「なんだったら、トランプをあげるよ。」と言ってきたので、いやいやご免こうむる、こちらの首相をお土産に持たせたいくらいだと返答しておいた。


ステトスコープ・チェロ・電鍵、2019/05/27 08:54
トランプの相撲観戦
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/

 トランプ大統領の来日。
 ゴルフ、相撲観戦、炉端焼きでの夕食。
 米紙に「大統領はほぼ観光客として1日を過ごした」と報じられたが、このなかでトランプ大統領が重要情報を発した。

 トランプ大統領は2019年5月26日に、
「日本との貿易交渉は大きく進展した。農産品と牛肉が交渉の中心だ。大きな数字を期待する」
「(夏の)参院選までは、交渉の多くのことで取引を待つ」
とツイッター投稿した。

 現在、日米FTA協議が行われている。

 日本はTAG(物品貿易協定)だとしているが、サービス、制度、規制が含まれており、TAGではなくFTA(自由貿易協定)である。
 米国は農産物、畜産物について、TPP以上の譲歩を日本に求めている。
 米国の要求を呑むことは、日本の農林水産業、畜産業、酪農に致命的な打撃を与えることになる。
 そもそも、日本はTPP交渉に参加するべきではなかった。

 安倍自民党自身が2012年12月の総選挙の際に、
「TPP断固反対!」
のポスターを貼りめぐらせた経緯がある。
 しかし、安倍内閣は総選挙から3ヶ月も経たぬ2013年3月15日にTPP交渉への参加方針を決めた。

 自民党はTPPについて、6項目の公約を明示した。

1.コメ、麦、乳製品、肉、砂糖の重要語品目については関税を守る
2.食の安全・安心を守る
3.国民皆保険を守る
4.数値目標を受け入れない
5.ISD条項に合意しない
6.政府調達、金融サービスについては国の特性を踏まえる
ことを主権者に約束した。

 しかし、国の主権を損なうとして合意しないとしたISD条項を受け入れた。
 TPP合意内容の見直しでは、交渉参加国の多くがISD条項の排除を検討したが、そのISD条項を積極的に推進したのが日本政府だった。
 ISD条項を認めると、日本の諸制度、諸規制を日本の判断で決定できなくなる。
 日本に進出する外国資本が日本の諸制度、諸規制によって損害を蒙ったとして仲裁廷に提訴し、仲裁廷がその主張を認めると、日本の諸制度、諸規制が強制的に変更させられる。
 この状況下で、日本政府は自ら積極的に外国資本が求める規制の撤廃、制度変更に動いている。
 その結果として、日本における食の安全、安心が根底から破壊されつつある。
 TPP交渉ではコメ、麦、乳製品、肉、砂糖の重要語品目を含め、関税率が聖域として守られた品目は皆無だった。

 日本の農業を守ることは、日本の農家を守ることではない。
 日本の主権者の食糧主権を守ることなのだ。
 食は生存の根源である。
 経済的安全保障の要に位置するのが食の安定確保である。
 そして、その食は安全、安心を確保できるものでなければならない。
 米国を始めとしてすべての国が食料の確保の重要性に鑑みて、農業を手厚く保護している。
 農業が経済的安全保障の根幹に位置するからだ。
 
 ところが、安倍内閣は日本の主権者の利益ではなく、ハゲタカ利益を優先している。
 ハゲタカ利益を優先すると、日本の政治家は政治的、社会的、経済的に安泰を図られる。
 主権者国民の利益を無視してハゲタカ資本の利益を優先する政治のことを「売国政治」という

 残念ながら「売国政治」が横行してしまっている。
 トランプ大統領が発したメッセージは、米国に日本を売り渡す日米交渉の結果を明らかにする時期を参院選のあとに先送りするというものである。
 安倍首相がトランプ大統領に媚びを売る「観光接待外交」を展開するのは、選挙に差し障りのある決定を公表する時期を先送りするためのものであると考えられる。
 しかし、米国の要求を撥ねつけるわけではない。
 ただ単に、発表の時期を先送りさせるだけのものだ。
 日本の農林水産業を破局に導く亡国の政策協定が結ばれつつあることを、日本の主権者は見落としてはならない。


植草一秀の『知られざる真実』、2019年5月27日 (月)
参院選後の日本農業売り渡し決定がリークされた
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-56727b.html

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5月26日は山歩クラブのお散歩会

 お暑うございました。
 今日5月26日日曜日、われわれは11名で山歩クラブのお散歩会。
 日がな一日中、喋りっぱなし、笑いっぱなしの連続で、良き一日となりました。
 リーダーは、企画、下見と忙しくこの間、動き回っていたのに、感謝の意をあらわすこともせず(申し訳ございません)、われわれはもう笑い転げていたのでございました(恐縮至極です)。

 きっかけは出発時の代官山。
 迎賓館というお店の案内表示にびっくりし、見回りの若い社員さんに、
「すみません、ここにもトランプ遊びに来ることになったのですか?」
からはじまったのでした。
 ひばり邸の前ではわれわれウグイス嬢の笑い声がうるさかったのでしょうか、若い受付の女子職員が道端に顔をお出しになって、
「一階だけ素通りするだけでしたらどうぞ」
と特別のお計らい。
 最後の前田邸では、軒下でピイチク、パアチクしている春の渡り鳥、ツバメのような笑い声をたてているのに電線をつたって伝染したのか、ガイドさんまでもが。
 食堂で客人が座る椅子が、ようやく見つかったのだそうですが、キャスター付き。
 ガイドさんは、
「これは”前だけ”だったんですって」
ておっしゃって、もうわれわれ、し〜ん!
 前田邸和館での写真を載せまして、失礼します。
 これより渋谷の一休さんで一休みしますので・・・おやすみなさい。
 またの出会い頭の小突を楽しみにしていますが、あまり熱中すぎて熱中症にならないようお気をつけ遊ばされ。おやすみなさい。


P1000415 (3).JPG

 昨晩、こんな一斉報告メールがヤッホーくんから発信されたのだそうです。

 上空に暖かい空気が入り込んだ影響で、2019年5月26日は全国各地で猛暑日(気温35度以上)となった。
 北海道佐呂間町では39.5度を観測し、5月の全国の最高気温を更新。
 午後5時時点で猛暑日となったのは全国53地点、真夏日(気温30度以上)となったのは566地点に達し、熱中症とみられる死者も出た。

 気象庁によると、山越えの暖かい風が吹き下ろすフェーン現象も加わり、帯広市で38.8度、北見市で38.1度、富良野市で35.3度などを記録した。
 北海道で5月に35度以上となったのは観測史上初めて
 道東部を中心に34地点で年間の最高気温を更新した。

 このほか福島市で35.3度、群馬県桐生市で35.4度、埼玉県越谷市で35.1度を記録。
 全国275地点で5月の最高気温を更新した。
 東京都心は今年最高となる32.6度を記録。
 5月としては初めて3日連続の真夏日となった

 帯広市のJR帯広駅前に設置された温度計は、正午過ぎに40度まである最上部まで目盛りが上がった。
 振り切れたのか、表示が消えてしまうことも。
 JR北海道は、急激な気温上昇の影響でレールが伸びてゆがむ恐れが出たため、北海道北部や東部を走る列車計40本以上を運休させた。
 帯広市の友人を訪ねた青森県の公務員女性(36)は、
「北海道は涼しいイメージだったのに暑すぎる」
と驚いた様子だった。

 北海道では38.1度となった芽室町に隣接する清水町でゴルフ中の男性(36)が倒れ死亡した。
 32.9度となった宮城県登米市では男性(65)が路上で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。
 いずれも熱中症の可能性があるという。


[写真]
JR帯広駅前に設置された温度計は、温度表示の目盛りが40度付近まで達し、通行人がスマートフォンで撮影していた=2019年5月26日午後2時半、北海道帯広市のJR帯広駅前

朝日新聞、2019/5/26(日) 19:36配信
各地で猛暑日、最も暑い5月に
熱中症疑いで2人死亡

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190526-00000044-asahi-soci

 けさ(27日の月曜日)も5月にしては気温の高い朝を迎えている所が多く、午前8時までに観測された気温を全国で比べてみると、1位は北海道。
 後志地方の積丹町美国(しゃこたんちょう びくに)で28度を超えています。
 そのほか、高いほうから10位以内に、北海道や北陸が入っています。
 東京都心も午前8時までに27度0分を観測しています。
 また、早くも25度以上の夏日になっている地点は全国に設置されたアメダス920地点あまりのうち、150地点ほどになっています。

 きょうも気温の上がるペースが早く、昼頃には近畿から北海道にかけての広い範囲で30度を超えると予想されます。
 内陸部では35度以上と、猛烈な暑さになる所もあるでしょう。

 一方、雨雲が近づいている九州はきのうの朝と同じくらいで、午前8時の気温は20度前後です。
 雨雲は現在、対馬海峡や沖縄近海にあります。
 ゆっくり東へ進んでいます。
 きょうは昼過ぎ以降、九州の所々で雨が降り、夜は沖縄の本島地方や四国も雨雲がかかるでしょう。
 局地的に雨脚が強まるため、雨の降り方に注意が必要です。


tenki.jp、2019年05月27日08:34
けさも暑いぞ北海道
https://tenki.jp/forecaster/deskpart/2019/05/27/4747.html


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2019年05月26日

ひめゆりの塔

あゝひめゆりの塔(予告篇)
https://www.youtube.com/watch?v=wlqcJnFGk-Q

吉永小百合/あゝひめゆりの塔(1)
https://www.youtube.com/watch?v=ukBYpvy2hVE

同(2)
https://www.youtube.com/watch?v=K9SpyO4pTFc

同(3)
https://www.youtube.com/watch?v=D-iD21jkanY

ひめゆりの願い -Our memories of lily-
https://www.youtube.com/watch?v=AtEJndU1ugE

[糸満]
 米ミシガン大学で歴史学を教える沖縄県系3世のロイ・ハナシロ教授と同大歴史学部の学生14人らが2019年5月19日、糸満市摩文仁の平和祈念公園を訪れ、「平和の礎」の建立に携わった高山朝光さん(84)の話や、18歳の時に沖縄戦で高射砲隊に従事して摩文仁で捕虜となり、ハワイで抑留された経験を持つ渡口彦信さん(92)の話に耳を傾けた。

 大田県政時代に知事公室長などを歴任し平和の礎の建立に尽力した高山さんは、平和の礎には軍人、民間人、国籍、宗教を問わず沖縄戦で亡くなった人の名前が刻んであると説明。
 1995年に平和の礎を建立する際、県民から、
「敵である米軍人の名前を沖縄の人と一緒に刻まないでほしい」
という意見は一度も聞かなかったとした上で、
戦争は憎んでも人は憎まないという沖縄の人のメンタリティが表れている」
と話した。

 話を聞き終えたメーガン・ブレックさん(22)は、
「平和の礎から、沖縄県民の心、平和へのメッセージが伝わってくる。実際に沖縄戦を体験した人の話も聞くことができて、教室で学ぶよりも沖縄戦のことをよく知ることができた」
と話した。

 学生らは4泊5日の予定で沖縄に滞在し、ひめゆりの塔や首里城などにも足を運び、歴史や文化を学ぶ。


[写真]
18歳で沖縄戦を経験した渡口彦信さん(右から2人目)の話を聞く米ミシガン大学の学生ら=19日午後、糸満市摩文仁の平和祈念公園

琉球新報、2019年5月20日 10:23
アメリカの大学生が見た沖縄
かつての敵同士の名前を一緒に刻む「平和の礎」の前で感じたこと

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-921316.html

 2013年6月9日、平和祈念公園で「命どぅ宝」石碑建立除幕式が開催されました。
 この石碑は、
命どぅ宝 命こそ最高の宝である
と刻まれ、平和の礎を訪れる人たちに命の尊さ、恒久平和への願いを発信するために、「命どぅ宝」石碑建立実行委員会が建立したものです。

 実行委員会副会長の石原エミさんは、
人びとが支え合い、戦争のない平和な世の中にするため、世界平和の祈りを込めて「命どぅ宝」石碑は建立されました。この地を訪れる人すべてに、平和を願う思いが伝わり広がっていくことを期待します
とあいさつしました。

 除幕式に参加した上原裕常市長は、
この石碑を、平和を希求する本市のまちづくりの理念や平和行政の目的と、沖縄の人々の魂のメッセージを発信する平和学習のシンボル的な場所として活用していきたい
 とあいさつしました。

 その後、祝いの舞として、かぎやで風(*)が披露されました。


糸満市公式サイト、2013年6月9日
平和の礎前に「命どぅ宝」石碑が建立
http://www.city.itoman.lg.jp/docs/2013061000030/

(*)琉球舞踊、かぎやで風 ( 首里城公園 2015-June-03rd )
https://www.youtube.com/watch?v=epb1n6IJ36g

(7)ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館

「ひめゆりの塔」は沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒の鎮魂のために、沖縄戦の翌年1946年に建立 された。
「ひめゆり平和祈念資料館」は、その「ひめゆりの塔」に隣接して1989年に開館した資料館。
 沖縄戦に看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」の戦争体験を伝えるために、ひめゆり同窓会が設立した。
 沖縄戦で亡くなった「ひめゆり学徒」227名の遺影や遺品、生存者の証言映像や手記が展示されている。
 また、ひめゆりの塔のそばのガマ(伊原第三外科壕)の実物大模型があり内部を見ることができる。
 ひめゆり学徒の戦争体験を通して、戦争の悲惨さや平和の尊さを学ぶことができる平和学習の場になっている。

「ひめゆり」の由来は、両校の校友会誌である「白百合」(沖縄師範学校)、「乙姫」(県立第一高等女学校)を合わせた名にちなんでいる。

(8)平和の礎

 太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別な く、全ての戦没者の氏名を刻んで、永久に残すため、1995年6月に建設した。
 平和祈念公園から平和の広場に通ずるメイン通路は、その中心線が6月23日の日の出の方位に合わせて設置されている。
 6月23日は沖縄での組織的戦闘の終結した日で、沖縄県では「慰霊の日」と定め、県民の休日となっている。
 慰霊の日には、平和祈念公園で全沖縄戦没者追悼式が開催される。
 メイン通路の奥には平和の広場があり、中央には「平和の火」が設置されている。
 この「平和の火」は、世界の恒久平和を願い、 沖縄戦で米軍が最初に上陸した沖縄県座間味村の阿嘉島で採取した火と、広島市の「平和の灯(ともしび)」、長崎市の「誓いの火」を合わせて灯している。

 2016年6月現在、日本・韓国・北朝鮮・台湾・アメリカ・イギリス出身者24万1414名が刻銘されている。
 平和の礎は、肉親が何時・何処で亡くなったか不明の遺族にとっては、お墓であり6月23日は命日と言える。


情報労連、事前学習資料
「2018沖縄ピースすて〜じ」
11.主な米軍基地・戦跡

https://www.joho.or.jp/cmswp/wp-content/uploads/2019/04/1f4c11e4b7214228d1d6a3c23c3a7a73.pdf

 1945(昭和20)年3月、米軍上陸寸前の沖縄島では師範学校女子部と県立第一高等女子学校の女子生徒たちが特志看護婦として動員され、胸に白百合と桜の徽章をつけて南風原の丘へと行進していった。
 そこでは日本軍が、血と泥にまみれて最後の防戦に奮闘していた。
 弾丸運び、水汲み、死体運びに負傷兵の手当てと乙女たちは鞭打って立ち働いた。
 日ごとに増す米軍の激しい艦砲射撃と機銃掃射に日本軍はひめゆり部隊を残して退却していく。
 ひめゆり部隊は米軍の機銃にさらされ多くの犠牲者を出しながら辛くも軍に追いつくが、既に米軍に包囲された沖縄島では安全な場所はなく、やがて摩文仁の洞窟に追い詰められていく。
 降伏をすすめる米軍の放送に思わず飛び出た娘を容赦なく撃ち殺す軍人。
 濛々たる硝煙とともに爆破される洞窟の入口。
 硝煙の向こうから拡声器の声が降伏を勧めながら近づいてくる...。


https://www.youtube.com/watch?v=I3s3jY91tbM

 この映像は、ひめゆり平和祈念資料館の「メモリーウォーク」に参加した様々な地域から来た大学生のみなさんが制作しました。
 参加者は2018年8月8日〜11日の4日間という限られた時間で、沖縄戦のモニュメントについて学び、取材し、戦争の記憶を伝える映像作りに取り組みました。


https://www.youtube.com/watch?v=Bke7xAti_FQ

大城バネサ「今帰仁(なきじん)の春」
https://www.youtube.com/watch?v=2TDwYlE9f0Q

 とっても名残惜しい沖縄への山歩クラブ、春の旅編、ヤッホーくんのブログはもう今帰仁にもどったようなので、しばし、琉球ともお別れ・・・
 大城バネサ(1981年生まれ、アルゼンチンはブエノスアイレスに1981年生まれた日系2世)を聴きながら、願うまたの訪問を胸に刻みつつ・・・

 大城バネサは2014年に沖縄県知事より『美ら島沖縄大使』に任命された。
 これは沖縄県人の血が100%流れている大城バネサに、世界に向けて沖縄の良さを発信してほしいという思いが込められていた。
「逢いたい島(じま)」は沖縄の土地、景色、気候そして人の素晴らしさを伝えるための歌として制作した。
 心に残るメロディと歌詞が日本各地で支持されている。


大城バネサ 「逢いたい島(じま)」
https://www.youtube.com/watch?v=0CggB6XKRgs

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2019年05月25日

港川人1号人骨

 国立科学博物館などの研究グループは2018年3月12日、約3800年前の縄文人の骨から抽出したDNA情報をもとに、顔を再現した復元像を公表した。
 骨格の特徴だけでなく、遺伝情報を参考に古代人の顔を復元したのは国内初という。
 13日から東京・上野の同館で始まる特別展「人体―神秘への挑戦―」(朝日新聞社など主催)で一般公開する。
 研究グループは、北海道・礼文島の船泊遺跡で頭骨などが発掘された女性の臼歯からDNAを抽出。
 顔に関する遺伝子の特徴から外見を推定した。
 女性は、肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。
 また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。
 従来は、骨格の特徴をもとに古代人の顔を復元していたため、肌や目の色がわからず、現代人の特徴をもとに推測していた。
 遺伝情報の活用でより忠実に復元できたという。
 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は、
「これまで想像の世界であったものが、裏打ちのあるデータを元にかなりの確度で復元ができるようになった。今後は遺伝情報を使った復元が進んでいくのではないか」
と話している。


朝日新聞、2018年3月12日15時54分
目は茶色で縮れ毛で…縄文人の顔、DNA情報もとに再現
(土肥修一)
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180312001275.html

遺伝情報をもとに復元された縄文人女性の像=東京都台東区
https://www.youtube.com/watch?v=zQF4MC6FCcE
https://www.youtube.com/watch?v=IvB70GPb8DI

 すご〜い、でもこれ何年前?昨年は再現された、というニュースで縄文人って「約3800年前」でしょ。
 じゃあ、「古代人、港川人」って何年前?もう一度皆の衆、「ガンガラーの谷」を読んでね、何年前?
 ヤッホーくん、ガイドさんの話を聞いているうちにアタマ、クラクラ、心臓、ドキドキ、目ん玉がもう、ひらっきぱなし。
 本土に渡ったのかな、本土から渡ってきたのかな?ヤッホーくんのもとって、誰?「港川人」ってどっから渡って来たの?

 縄文人の祖先ではないかと言われて来たのが、沖縄県八重瀬町港川で発見された旧石器時代の「港川人」。
 然し最新の研究では、この「港川人」は九州以北の縄文人との関係性が薄いのではないかと言われています。
 又シベリアからマンモスを追ってやって来た集団(マンモスハンター)は、北海道や東北の縄文人になったと考えられています。
 更に弥生時代より遥か前に朝鮮半島の人々が、独特な石器を携えて、九州に移り住んだことも分かって来ました。
 こうして少なくとも三つのルートからやって来た縄文人
 そして現代日本人に決定的遺伝情報を伝えた渡来系弥生人。
 私たちはどこから来たのか、最新の研究を探った。

 私たちホモサピエンスは凡そ20万年前アフリカ中部で生まれた。
 その後6万年前ぐらいにアフリカを出て、東南アジアにやって来た。
 そして北上し日本列島にやって来たのは4万年前
 その証拠は小金井市にある「中山谷遺跡」から出土した石器。
 それほど加工されていない(3万5千年前)。
 4万年〜3万5千年ぐらい前の石器が全国から多く出土しているので、4万年前の旧石器時代から始まることが理解される。
 その後約1万5千年前までを縄文時代と呼び、それから徐々に交差するようにして弥生時代が始まり、約2千9百年前から約1千7百5十年前までを古墳時代・奈良時代と呼び、それから現代へと続いて来る。

 この10年、縄文人に対する通説が大きく変わった背景には国立科学博物館新宿分室の存在が大きいようです。
 ここで7000体もの古代人骨を丹念に調べるのは、「分子人類医学」という新しい分野での研究。
 代表研究者は篠田謙一主幹。
 ミトコンドリアDNAとは人の細胞の中にあり、細胞を作り出す必須にもの。
 このミトコンドリアDNAは一般の細胞が持つDNAとは全く違い、独自のDNAを持っているとされている。
 何とこのミトコンドリアDNAは人間の起源を探る上で、最も重要な点であることだ。
 何故なら一人が一つのミトコンドリアDNAを持ち、そのタイプは一部例外を除いて、母と子で一致するらしい。
 私たちはホモサピエンスのミトコンドリアDNAの系統に入っているからだ。

 人間は20万年前、世界へと拡散していった。
 ヨーロッパ集団、アフリカ集団、アジア集団と形成していったと言う。
 更に篠田主幹は、私たち日本人1000人から髪の毛や唾液などから、ミトコンドリアDNAを採取。
 何と現代日本人のミトコンドリアDNAのタイプは凡そ20種類が検出されたという。
。。。
 そしてその分布は地方によって偏りがあるらしく、例えばN9bを持つ人は北海道に多く、M7bを持つ人は沖縄に多いらしいのです。
 地域・地域を見るとどうやら独特な文化がありそうだということが分かってきたと言う。
 日本人とは何か、大きな一つの集団に括り付ける必要がないのではないだろうかとも。
 それぞれのDNAは何時、日本にやって来たのか、数度に分けて波状のようにやって来たのか、それぞれのDNAを縦の歴史的に整備して見ると、日本人の起源が分かって来るようである。
 今後更なる研究が展開して行くのだろう。

 篠田主幹は、これまで均一とされて来た縄文人のミトコンドリアDNAを分析し調べています。
 凡そ120体の縄文人の検体から採取することに成功。
 その結果縄文人のミトコンドリアDNAは、……と12種類に分類することが出来て、ミトコンドリアDNAで見る限り、均一な集団ではなかったことが立証された。
 その12種のうち、北海道のN9bと沖縄のM7a以外はアジア各地に散らばって存在していると言う。
 而してこれらの人びとは、縄文時代に何処でどのような生活をしていたかは分かっていないようだが、たくさんの変異もあり、多様な場所からやって来たのだろうと。
 篠田先生はどうやら日本各地にだけではなく、海外へも積極的に探査する旅をしておられるようだ。
 縄文人と同時代の人骨を探すが、なかなか同時代の人骨はないようです。
 従ってミトコンドリアDNAの科学的分布は特定しづらいようである。

 今から40年前、日本で最古の顔が分かる人骨が沖縄県八重瀬町港川で大発見された。
 これが「港川人」と呼ばれるもので、全部で4体みつかった。
 中でも港川一号は殆ど原型を留めており、日本人の起源を探る上で大変重要な発見であったろう。
 港川フィッシャー遺跡と言われる場所に、琉球大学文化財保護委員会や東京大學による大規模な発掘調査が行なわれた。
 今は緑濃く茂っているが、嘗ては石灰岩の採掘場であったらしい。
 その幅僅か80センチの割れ目に、古代からの堆積物があり、それを調査したところ、港川人の発見に及んだと言う。
 同じ頃の動物の遺骸などから、約1万8千年前の旧石器時代の人骨と分かり、貴重な発見となった
 これが現在見つかっている日本最古の人骨である。
 この港川人は長らく縄文人の祖先と考えられて来たのだが、ミトコンドリアDNA研究の発達も相俟って、遂最近、東京国立科学博物館の海部陽介氏の許で改めて「港川人」を形態人類学の観点から、2009年に研究し直された。
 更に東京大學最新研究センターの諏訪元教授(東京大學総合研究所博物館 形態人類学)ではマイクロCTスキャンを使って骨や内部構造の研究を行ない、港川人の顎の部分が接着剤で膨らんでいたために、コンピューターを駆使し、接着部分をはがし、その後三次元プリンターを使用、改めて港川人の原型の模型を作った。
 河野礼子さん(東京国立科学博物館 形態人類学)なども、本物に近いモノをこうして見ると、可視化と可触化が学問には必要と、その模型を絶賛した。
 下顎の再生によって分かったことは、「おとがい」が明らかに違い、下顎枝と呼ばれる部分に相当な開きがあることが分かり、港川人は縄文人の祖先にはなり得ないと断定された。

 それでは港川人は何処からやって来たのだろうか。
 これはベトナムのハノイから南西に50キロ行ったホアビン省カオザム村で最近(2004年)発見されたばかりのハンチュウ洞窟から発掘された、約1万年前の人骨と酷似していた。
 日本から発掘チームに合流したのは札幌医科大學の松村博文(形態人類学)准教授など。
 ハンチュウ洞窟は幅11m、高さ5m、奥行18mの広さで、予め四箇所に定め発掘されたようである。
 深さたった80センチの所に人骨があって、ハンチュウ人と名付けられた。
 1万年前の人骨は女性のもので、港川人と同様に、眼窩が四角く角ばっている。
 梨状孔と呼ばれる鼻の空間が広いことで共通していて、頭が前後に長く、眉間は盛り上がり、ホリの深いこと、上下に短い下顎枝もそっくりで、これらすべての点で港川人とそっくりであった。
 両者は何故似ているのか。

 それは5万年前、西からアジアに辿り着いた人間と関係があった。
 当時地球は氷河期の後半であったために、海上水面が凡そ70m低く、東南アジア一帯はスンダランドと称する大陸であり、広大な陸地になっていた。
 アジア最初の人類はこの地に展開し、その後メラネシアやオーストラリアに渡ったようである。
 又は北を目指し、東アジアに広がったと考えられている。
 然しスンダランドの人たちの顔ははっきりしていない。
 但しハンチュウ人と港川人は同じ故郷を持っていたのではないかという仮説が成立している。
 東京国立科学博物館の海部氏は港川人と世界各国にある人骨の下顎だけ比較検討したところ、現在東南アジアに暮らしている人々とは殆ど似ていないそうである。
 但し現在オーストラリアの原住民であるアボリジニーやニューギニア原住民と酷似し、何らかの関係性を考える必要がありそうである。
 スンダランド人であった可能性を否定出来ない。

 さて沖縄に渡ったスンダランド人はその後どのような運命を辿ったのだろうか
 沖縄県南城市にテーマパークがある。
 港川人が見付かった場所から、たった2キロの距離で、この敷地内にある武芸洞と呼ばれている洞窟がある。
 そこからほぼ完全なカタチで縄文時代の人骨が発見された。
 港川人のその後を考える上で、大きな手掛かりとなるものであった。
 武芸洞に住んでいた人たちは入り口付近に穴を掘り、石を組み、お墓として長い間使われていたようだった。
 発掘はこの穴を中心に進められ、2008年に、この穴から人骨(2500年前)が発見され、同時に武芸洞人と名付けられた。
 沖縄で、これほど完全なカタチで、当時の人骨が発見されたのは驚嘆に値し、沖縄県立博物館・美術館では現在懸命にこの骨の分析が行われているそうである。
 その途中経過として報告されたのは、沖縄以北に住んでいる縄文人とは異なることが判明しているようだ。

 武芸洞人の身長は150センチだが、縄文人の平均身長は160センチほどで、上半身は港川人と同じく華奢であり、縄文人の骨はがっちりとして太い。
 又鼻の上端から顎までが短く、「低顔(ていがん)」と呼ばれているようだ。
 九州以北の縄文人も短いのだが、武芸洞人や港川人のは更に短いようである。
 小柄で華奢で低顔の武芸洞人は、港川人にほぼ見受けられ、発掘チームは港川人が沖縄で独自の発展をした可能性を見てとっている。
 沖縄県立博物館勤務で形態人類学者の藤田祐樹さんは、
「沖縄の縄文人というのは、本土とは違って、文化的にも身体的にも特徴的にも独特であると最近分かって来た」
と証言している。
 日本人の祖先としての港川人ではないが、沖縄の祖先としての港川人であっただろうと
 武芸洞では更に古い人骨が見付かる可能性があり、今後更なる発掘が期待されている。
 スンダランドから港川人がやって来た。
 スンダランドでは南端からワジャク人の発見もあったが、スンダランド人はアフリカから初期に渡って来て、オーストラリア先住民アボリジニーと同じで、一つの人種の文化圏があったものと想像される。
 具体的にどんな繋がりがあったのか、今後の研究に期待しよう。

 港川人は本州の縄文人と極めて薄くなったが、港川人はその後南西諸島の島々の人たちに受け継がれて行ったようである。
 それでは九州以北の縄文人は何処から来たのだろうか。
 北からやって来た可能性がある。
 北海道遠軽町白滝では今も古代遺跡が発掘されているが、中でも最も特徴的なことは、ここ白滝は黒曜石(火山の溶岩がそのまま固まって黒い石となった)が圧倒的に採れ、簡単に鋭利な刃先を作ることが出来た。
 押圧剥離(おうあつはくり)と言う方法で作り、木の槍先に、何箇所かねじ込むと、より一層強い刃先になる。
 この白滝は旧石器時代の産物だが、そもそも細石刃(さいせきじん)の文化は遠いシベリアにあったらしい。
 2万4千年前にその文化は出来ていたらしいが、北海道の細石刃の最古のものは千歳市発掘の細石刃で、約2万年前のものと断定されている。
 細石刃とは、動物の骨などに細石刃を詰め込んで、大きな動物の狩に使われたものであり、最も寒い氷河期には現在の海水より120m低く、北海道は樺太やシベリアなどと地続きになっていた。
 マンモスがいた時代で、餌を求めて南下したマンモスを追って、人びと(マンモスハンター)は北海道にやって来た。
 その証拠に北海道各地ではマンモスの化石が多く見付かっており、北海道夕張郡で発見されたマンモスの臼歯の化石は最もよくマンモスがハンターとともにやって来た何よりの証拠となるでしょう。
 更に凄い手掛かりは、細石刃の基となる細石刃核の発見だった。
 約2万2千年前、シベリアで見付かった細石刃核は、2万年前とされる千歳市の細石刃核と殆ど同じだったことだ。
 そして新たな発見を進めて行くために、北海道教育大学旭川校では電子プローブ分析装置を使って、細石刃の産地まで特定出来るようだ。
 この装置はミクロンまで極端に細かい単位まで調べられると言うから驚きである。
 サハリン出土の細石刃や細石刃核など8個とも、北海道遠軽町白滝産であることが立証されている。
 ソコル遺跡には3個、オコンギ遺跡には5個と、つまりこのことは北海道と大陸、強いて言えば樺太と密な行き来があったということになる。
 その後5000年の月日を掛けて、白滝産の細石刃は日本全国に広まっていった。
 北からやって来た人たちもいた。
 DNA鑑定をし、北海道の遺跡から主に4種類のDNAがあると篠田先生は言う。。。
 だが北海道の縄文人はそのまま日本列島に拡大していったのか。
 否、それは細石刃の文化だけで、N9bが多く北海道と東北一帯に留まっているようである。。。
 北海道・東北のミトコンドリアDNAにはN9bを見る限り60%もいて、関東以西ではたった10%にも満たないからだ。

 それでは関東以西の縄文人は何処から来たのだろうか。
 残念かな、そこには古い人骨の発見が著しく少ないようである。
 僅かに細石刃文化期の人骨化石は静岡県の浜名湖遺跡に残っているようである。
 それは約1万7千年前のもので、従って詳細は未だに分かっていない。
 但し細石刃以外に分かるものは、剥片尖頭器(はくへんせんとうき)であるのだが、その分布は九州だけで見付かった槍先であった。
 熊本阿蘇山の地層から主に発掘された剥片尖頭器のみであった。
 剥片尖頭器は九州に限られ、四国・関西からは国府型、名古屋から関東まではナイフ型・茂呂型・切妻型が殆どで、佐渡や東北では杉久保型が多く、北海道は槍先尖頭器が多い。
 本州一帯はまだまだ今後の発掘調査と研究の余地がありそうである。
 阿蘇の剥片尖頭器の時代は約2万5千年前のもので、2万9千年前に大規模な噴火があって、夥しい火山灰が体積したようである。
 従って剥片尖頭器はこの大噴火の後からやって来た人たちが使ったものであろうと推測される。
 噴火の後、朝鮮半島から多く渡来したようだ。
 朝鮮半島で見付かった石器は殆どこの剥片尖頭器であったからである。
 特に最近韓国の龍湖洞で出土した剥片尖頭器は4万年前のものと断定されている。
 九州一帯にはこれら韓国から移住して来た人たちがいたのだろう。
 2万7千年前、海水は110mも低く、朝鮮半島は大陸と一続きになっていた。
 その時朝鮮半島と日本は海域がずっと狭かったから渡りやすかったのではあるまいか。
 その後6000年前ぐらいになると、現在の海水面と同様になって来るのだが、北九州と韓国の深い繋がりを示唆する発見があった。
 韓国の南の島・慶尚南道(キョンサンナムド)の煙台島(ヨンテド)で、1988年この島の貝塚から約6000年前の人骨が15体も見付かっている。
 それらは国立晋州博物館に保存研究されているが、発掘調査に立ち会った鹿児島女子短大の竹中正巳教授(形態人類学)は、その当時韓国に招かれ調査に参加したのだが、そのうちから2体だけを復元し、煙台島人(ヨンドジン)と命名され、九州北部にある縄文人の特徴をそっくり持っていたようである。
 どちらにも耳の下に瘤のような突起物があり、外耳道骨腫(がいじどうくつしゅ)は冷たい海で潜水すると、そのような突起物が出て来るようである。
 遺伝的ではないが、海の民びとは、海峡を挟んで同じ文化を持っていた可能性がある。
 更に韓国・全羅南道(チョルラナムド)の安島(アンド)から、6000年前の人骨5体が発掘された。
 所謂安島人(アンドジン)であるが、腕を組んだままの男女の人骨には韓国中が沸き上がったようである。
 安島人にも骨の瘤が見付かっている。
 そして重要なのは黒曜石も見付かって、この産地は佐賀県の腰岳であることが断定された。
 海を通した交流があり、北九州地方の縄文人の人骨と酷似していた。

 朝鮮半島ルートの約2万7千年前、2万年前以降北方ルートの北の縄文人、スンダランドから1万8千年前にやって来たルート。

 ところが弥生時代の人骨は縄文人とは全く異なっていた。
 顔が短めの縄文人に対し、弥生人は面長で大きな眼窩をしていて歯型も大きいものであった。

 弥生人は何処から来たのだろう。
 それは明らかに稲作文化を携えて来た渡来系帰化人であったに違いない。
 弥生時代の遺跡、福岡市にある金隈遺跡から、1967年に発掘された巨大な共同墓地から 何と135体もの人骨があり、甕に入っていたために保存状況もよく、2300年前のものと言われている。
 これまで居た九州北部の縄文人とは明らかに違い、歯が大きいのが明らかに目立つ。
 恐らくは稲作文化であるからか、中国でも南の雲南省辺りから渡来したのだろうか。
 驚くことに、この渡来系帰化人は弥生人の8割にもなると言う。

 人口増加率から算定すれば、縄文人の増加率を0,1%以下にするとしよう。
 そして弥生人、つまり渡来系帰化人たちの人口増加率を0,5%〜2,9%に設定してみると、何と300年を経れば、人口の8割を占めることになると言う。
 中橋孝博教授(九州大学大学院 形態人類学)は、
「高い人口増加率が決定的に多くなり、渡来系帰化人の弥生人たちは今日の日本人の素型となったのではなかろうか」
と結論づけている。
 現代日本人のDNAと古代の人骨のDNAを研究する分子人類学者の篠田謙一主幹の分析を進める過程ながら、現代日本人の約4割強がD4(35%=渡来系帰化人)で、N9a,Z,Cも渡来系に入るので、そうした結果になると証言する。
 因みに縄文人のタイプであるM7a,N9bの二つのタイプは僅かに10%に満たないらしい。


硯水亭歳時記U、2010年7月11日  
「私たちはどこから来たのか〜日本列島人の起源に迫る」
NHK/BSハイビジョン放送より

https://madenokouji.wordpress.com/2010/07/11/「私たちはどこから来たのか%EF%BD%9E日本列島人の起源/

 港川人1号人骨は、沖縄で発見された4体の港川人化石骨格の中で最も保存のよいもので、日本のみならず東アジアの末期更新世人化石を代表する標本である。
 港川人骨が学問的に貴重なのはいうまでもないが、発見の契機や研究の過程も日本の人類学史的に興味深い。
 4半世紀前に人骨を直接に発見した那覇市の実業家である大山盛保氏と、人骨研究の中心となった鈴木尚東京大学名誉教授は、ともに現在83歳と高齢にもかかわらず、極めて壮健である。
。。。
港川人1号人骨 - 総合研究博物館データベース - 東京大学
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1995collection2/tenji_honyurui2_35.html

琉球新報、2017年07月29日
沖縄で大昔の化石が発見される理由
◇ 人類のルーツに迫る 沖縄考古学探検〈1〉

(2017年4月22日 琉球新報ゴールデンウイーク特集掲載)
https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-523833.html

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ガンガラーの谷

ロシア民謡 カチューシャ(Катюша)
歌:鮫島有美子
https://www.youtube.com/watch?v=4vfiJIwELbw
歌:ダークダックス
https://www.youtube.com/watch?v=bxZHJF4bE_U

 どうしたの、ヤッホーくん?
 飛びすぎ、アフガニスタンと思ったら、今度はロシア?
 いえ、ね、カチャーシーがあまりにも愉快すぎて、飛びだしてしまったんだって。
 ヤッホーくんたち8人衆が、カチャーシーを踊ったあとに向かった先は、ガンダーラでもロシアでもなく「ガンガラーの谷」!

 あたしも大好きな沖縄の観光スポット「ガンガラーの谷」へ行ってきました。
 初めて見に行った時は2013年、あの時はまだガンガラーの谷がそんなに有名ではなかったのですが、2016年、2017年と見に行くたびにツアー予約がしにくくなっています。
 沖縄南部の観光スポットとして、そしてパワースポットとしても人気のこのツアー。
 何度も足を運んだ分、見ごたえのある記事にまとめていこうと思います。

ガンガラーの谷について。
 ガンガラーの谷は、おきなわワールド・玉泉洞の近く、道路を隔てて隣接した場所にあります。
 どちらも同じ株式会社南都の観光スポットです。
 この南都というのは、沖縄本島全域で観光施設やテーマパークを運営している企業です。
 先日楽しんできた大石林山や、OKINAWA SANGO BEER(元ニヘデビール)、石垣島鍾乳洞も同じ南都の施設なんですよね。

アクセスは車移動がオススメ。
 ガンガラーの谷へ向かうには車移動が便利です。
 ガンガラーの谷には無料駐車場があるので、レンタカーでも安心して遊びに行けます。
 車移動以外には路線バスでも行けなくないのですが、那覇市内からこのあたりへ向かうバスの本数は多くないため、結構不便なんですよねぇ。
 この写真では車が停められていませんが、このあたりの広場も全て駐車場として使っていたので、結構な台数が駐車できるんじゃないかな。

ツアー参加には予約が必要。
 ガンガラーの谷ツアーに参加するには、前日までの予約が必要です。
 当日行ってすぐ参加できるのではないのでご注意ください。
 予約はWEBサイトと電話のどちらかで行います。
 ツアーの時間帯は基本的1日4本(10時、12時、14時、16時)ですが、予約状況によっては合間に増発便が設定されることも。
 あたしの経験上、WEB上で予約受付していない時間帯でも、電話問い合わせすると増発便を設けてくれることがありました。
 絶対できるとは言い切れませんが、物は試しで電話確認してみるのもアリだと思います。

 それでは、ここからは「ガンガラーの谷」ツアー内容についての紹介です。
 ツアーの始まりから終わりまで、すべてまとめてみました。

受付・支払いは、ツアー開始10分前までに済ませよう。
 まずはツアー受付を済ませます。
 駐車場から先に進むと、何やら森が出てきました。
 沖縄はマリンスポーツだけじゃなく、こういう森から始まる観光スポットだってあるんです!
 森を進んでいくと異空間!
 なんですか、この鍾乳洞の空間は!
 よーく見てみると、鍾乳洞の中にパラソルとテーブルが見えます。
 ここは「ケイブカフェ」という鍾乳洞をカフェにしている誰でも入れるスペース。
 なので、ガンガラーの谷ツアーに参加しなくても利用することができます。

 この鍾乳洞の入り口には、ガンガラーの谷ツアーの受付があります。
 この受付でツアー料金(大人2200円/人)を支払います。
 高校生・専門学校生・大学生は1700円/人です。
 ちなみに、保護者同伴の中学生以下は無料でツアー参加できます。めちゃくちゃ太っ腹!

 ここで受付と支払いを済ませた後は、ケイブカフェの中でツアー開始まで暫し待ちます。
 ちなみに、電話予約の際「10分前までに来てください」と言われたので、10分前集合が良いかと思います。
 間に合わない場合は当日キャンセル扱いになり、支払いが発生するようなのでご注意を。

 集合場所のケイブカフェは、日陰で少しひんやりとしています。
 鍾乳洞は屋内のように天候の影響を受けにくいのに、何故パラソルがさしてあるのでしょう?
 それは、鍾乳洞の水滴が上からポタポタ滴り落ちてくるから。この水滴を避けるためにパラソルなんですね。
 鍾乳洞は今でも成長しているんですねぇ。
 パラソル下のテーブルには、水滴を拭くための布巾も用意されています。
 テーブルや椅子が濡れていたらこれで拭きましょう。

ツアー開始!まずはガイドさんのお話から。
 ツアー時間になると参加者の点呼があり、洞窟の奥にあるステージ上に誘導されます。
 ここでガイドさんによるガンガラーの谷ツアーの簡単な紹介を受けます。
 ガンガラーの谷はおよそ東京ドームと同じくらいの広さで、ツアーは1kmほどの道のりを80分かけて見て回るとか、周辺で発掘された古代人・港川人のお話などを聞きました。
 ガイドさんによって若干の違いはありますが、基本的にプロローグは同じです。
 出がけにさんぴん茶を1本もらうことができます(注:ヤッホーくんたちはトラベルタンブラーで、ツアーが終わったら返却、です)。
 夏場の沖縄は水分補給必須なので、こういうサービスはありがたい!
 さんぴん茶が苦手な方は洞窟外にある自販機でドリンクを買って持ち込みましょう。
 さあ、ツアーの開始です!

洞窟を抜け、亜熱帯植物の森を歩く。
 ケイブカフェの洞窟からツアーは開始します。
 ここから先はツアー参加のタイミングやガイドさんごとに、聞ける説明が異なってくるでしょう。
 あたしが参加したこの時は、洞窟を出る時にも鐘乳石の説明や発掘調査現場のお話を聞くことができました。
 この洞窟はサキタリ洞遺跡と呼ばれ、人が住んでいた形跡があって、現在もまだまだ発掘調査中です。
 これまで2万年前の人びとが食べたであろうカニの爪が大量に見つかったり、身につける装飾品が出ているんだとか。興味深い!

 洞窟から出て、しばらく亜熱帯植物の森を歩きます。
 鬱蒼と生い茂る南国の植物。
 直射日光があたる場所も多く、植物はすくすく・のびのび育っています。
 ガイドさんのお話を聞きながら、亜熱帯植物や人工的に植えられた植物を見学します。

 このあたりはクワズイモ。大きな葉っぱがトトロの傘に似ていますが、毒性の植物でかぶれ・痺れ・腫れなどがあるそうです。

 こちらはジャイアントバンブー。1年で30mも育つ世界最大レベルの竹なんだって。

 歩いてる最中に目についたもの・気になったことがあればガイドさんに質問してみましょう。
 わかる範囲でいろいろと教えてくれるハズです。

歩くガジュマルの秘密。
 ところどころに根を下ろしているガジュマル。
 ウォーキングツリーとも呼ばれるガジュマルですが、この木が歩く話やガジュマルに住む妖精キジムナーの話もガイドさんから聞けます。
 こんな話、普通の沖縄旅行では聞けないから、ガンガラーの谷ツアーは楽しいんだよなぁ。

ガンガラーの谷周辺は、大きな洞窟だった!?
 歩いていると、サラサラと水の音が聞こえてきました。
 目を向けると、綺麗な川が流れています。
 その昔、何千年も何万年前のことですが、この周辺には洞窟があったそうです。
 鍾乳洞って滴る水滴を集めて流れる川がセットなんだって。
 現代のこの森のあたりはの洞窟が崩落し、木々が生い茂っているけれど、大昔は鍾乳洞があったと考えられているそうです。

 向こうの崖にネズミの歯のような鐘乳石が残っています。
 これはこの辺りが鍾乳洞だったという証拠なんだそうです。
 雨風にさらされると鍾乳石が風化してしまうため、むき出しの状態で残っているのは非常に珍しいみたい。
「割と最近洞窟が崩落したのでは?」とガイドさん。
 最近と言っても昨日今日の話ではなく、何千年前レベルでのお話です。

 ガンガラーの谷には横穴が多数あって、それぞれ太古の人々が住んでいた形跡が確認できているそうです。
 近くに川があって、雨風も凌げる横穴がある。なるほど、ガンガラーの谷周辺は生活に適した場所だったのでしょう。

ユタ(民間巫者)や神人が祈りに来るパワースポット「イナグ洞」。
 しばらくすると、イナグ洞と呼ばれる洞穴がありました。
 このイナグというのは、沖縄の方言(うちなーぐち)で女性を表しています。
 ここはいつの時代からか神人(かみんちゅ)やユタたちがお祈りをする場所になっているそうです。
 ガイドさん曰く「この『母神』という看板は、シャーマンが立てて行った」とのこと。
 見る人が見ればものすごいパワースポットなのでしょう。
 このイナグ洞にお祈りすると、良縁に恵まれたり、安産になると言われているそうです。
 ガンガラーの谷ツアーの初回・2回目では、このイナグ洞でお願いをしました。
 3回目の時は子連れで伺ったこともあり、妊娠・出産のお礼をしました。

 このイナグ洞、何故女性なのか?
 その答えは、ガイドさんが持っている写真を見れば一目瞭然ですね。
 洞窟の奥には女性らしい形の鐘乳石があるんだそうです。
 自然の神秘!良縁や安産を願う御願所(うがんじゅ)として拝まれるそうです。

子宝に恵まれるという「イキガ洞」。
 イナグ洞のすぐ先に、イキガ洞という大きな鍾乳洞が見えてきました。
 地層の厚みと、川へ向け垂れるガジュマルの根。
 初めて来た時はとても印象的な場所でした。

 イキガ洞の中は真っ暗。ザーッという川の音だけが響いています。
 グループごとにガスランプを手渡されます。
 電池ではなく、本物のガスで点灯しています。
 こういうちょっとしたアイテムひとつで冒険感が高まり、更にワクワク楽しなっちゃう。
 鍾乳洞ってタダでさえ滑るし、暗いので足元に気を付けましょう。
 ガスランプの灯りを頼りに奥へと進むと... 超でっかい鍾乳石が天井からぶら下がっていました。
 これがイキガ洞のシンボル。
 イキガ洞というのは、沖縄の方言で男性という意味だそうです。
 なるほど、これはビッグだぜ〜!
 ガイドさん曰く「イキガ洞のシンボルに触れると、子宝に恵まれると言われています」とのこと。
「女性の皆さん、どうぞー!」と呼びかけられ、年齢問わず鍾乳石を触ります。
 子宝にあやかりたいあたしも駆け寄りました。
 鍾乳石はしっとり・ひんやりな感じ。

 このイキガ洞、とても神秘的でした。
 真っ暗でゴーッと流れる水の音が聞こえるだけの空間です。
 自然ってほんとに凄いなぁ。

巨石を受け止める小さな岩。
 こちらは、巨大岩が崖の上から転がってきたのを、小さな岩が受け止めてできた道なんだそうです。
 通路左側の岩が支えているのがおわかりでしょうか。
 偶然できたスペースを通路にしているわけで、ここを通過中に小さな岩が崩れたら通行人はどうなってしまうのか...!
 考え始めると怖くなってしまうから、あたしは足早に通り過ぎる場所です。
 毎回生きて帰れてよかったと胸を撫で下ろします。

太古の森に現れた、人工的なトンネル。
 森を進むと、急に人工物が現れました。
 太古の世界にトンネルがある異空間です。
 このトンネルもガイドさんのトークが光る場所。
 なので、詳細は当日のお楽しみということで割愛です。
 ガイドさんによって表現方法が若干異なるので、毎回飽きずに楽しめます。
 
 この先に待っているのは、ガンガラーの谷で一番人気のスポットですよ〜。

一番人気の撮影スポット「大主(ウフシュ)ガジュマル」!
 ガンガラーの谷で一番人気のスポット、それがこちらの大主(ウフシュ)ガジュマル!
 この巨大なガジュマルに一同大興奮。
 暫し撮影タイムです。
 地上周辺は道路が走っているので、このウフシュガジュマル周辺にいると時々車の走行音が聞こえたりします。
 地上に生えたウフシュガジュマルが、崩落した地底へと根を下ろす風景は、なんと神々しいことよ。
 ガイドさん曰く「沖縄で一番大きなガジュマルです」とのことで、このツアーの撮影スポットになっています。
 スマホで撮影する時は、パノラマ機能を使うとこの迫力がわかりやすくなりますよ。
 ウフシュガジュマルを通過して振り返ると、ここにも鍾乳洞だった形跡が残っていました。
 この状態でよく崩落しないものだなぁ。すごい。

コース内には、一般の方の墓跡も。
 この写真、何かわかるでしょうか。
 明らかに人工的に石が積まれ、壁と入り口が作られています。
 どうやら、200〜300年前にこの周辺に住んでいた人が作ったお墓の跡だそうです。
 今は別の場所へお墓を移動したそうですが、ご家族の皆さんは時期になると毎年お参りに来ていたんだとか。
 お墓を通り過ぎてまた振り返ってみると、これまた異空間...
 もののけ姫に出て来そうな、特撮のジオラマとして作られたような、そんな景色が広がっています。
 鬱蒼とした亜熱帯の森と、崩落した洞窟の組み合わせ、たまりません。

手作りのツリーテラスから周辺を眺める。
 ガンガラーの谷ツアーもそろそろ終盤。
 森の周辺を見渡すことができるツリーテラスへ向かいます。
 手作りのツリーテラスらしく、階段の高さや幅が一定ではありません。
 風景を楽しみつつ、足元に気をつけて登りましょう。
 ツリーテラスの上からは、周辺の景色を眺められます。
 久しぶりに開けた風景を眺めつつ、心地よく吹き抜ける風を感じます。
 ここで飲むさんぴん茶もなかなかウマいんです。
 この上から、港川人が見つかった港川フィッシャー遺跡がどのあたりか、ガイドさんに教えてもらいました。
 天気がいいと海も見えそうだなぁ。
 ちなみに、港川フィッシャー遺跡で見つかった港川人は、こんな狭い隙間に落ちている姿が発見されたそうです。
 それも4体も。
 ガイドさん曰く「誤って落ちたのか、埋葬されたものだと考えられている」とのことでした。
 彼らが当時どのような生活を送っていたのかは、これから判明していくことでしょう。

ツアーのシメは、武芸洞で。
 ガンガラーの谷ツアーは、こちらの洞窟で終わりです。
 ここは武芸洞という、現在も発掘調査を行なっている洞窟です。
 この洞窟は平らな場所があり、広々とした空間が洞窟の奥まで続いています。
 天井まで高さがあり、屈まずに立ったまま移動ができます。
 この洞窟には大きな入り口が2つあるので、乾燥して明るい空間になっています。
 武芸洞は生活しやすかったろうなぁ。
 これだけ奥行きと幅がある洞窟です。
 今後もどんどん化石が発掘されるんだろうなぁ。
 武芸洞では古代人の人骨が発見されています。
 ガイドさんの説明によると、この並んだ石は石棺。
 貝を加工したビーズのブレスレットを身につけた40代くらいの男性が、この石棺に埋葬されていたそうです。
 まだ調査段階で、埋葬が1体だけか複数あるのか、まだはっきりわかっていないんだって。とても興味深いです。

 最後にガンガラーの谷全般の振り返って、この日のツアーは終了です。お疲れさまでした!

 ということで、沖縄本島は南城市(なんじょうし)にある「ガンガラーの谷」ツアーに参加して来ました。
 これまで3回もツアー参加してきたあたしですが、ガイドさんによって少しずつ力の入れ方や説明がことなるので、毎回それなりに楽しんでいます。
 何度も参加するうちに、沖縄は珊瑚が隆起してできた島なんだなぁというのを再認識しました。
 珊瑚やプランクトンの死骸でできた琉球石灰岩はアルカリ性なので、人骨や動物・生物の遺骸が保存状態良く見つかるそうです。
 発掘調査が進むと、もっといろんな発見があるんだろうなぁ。
 さまざまなものが発掘されることを楽しみにしています。終わり。
・ 住所:〒901-0616 沖縄県南城市玉城前川202


[写真]多数

毎日ビール.jp、投稿日:2016年4月25日 更新日:2017年5月17日
「ガンガラーの谷」鍾乳洞や巨大ガジュマルをめぐる神秘のツアーに参加してきた。
https://mainichibeer.jp/valleyofgangala

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2019年05月24日

ガンダーラ

西遊記エンディング 「ガンダーラ」 演奏:ゴダイゴ
https://www.youtube.com/watch?v=s7JUEw2X2NQ

https://www.youtube.com/watch?v=mgwY8ykTpLs

https://www.youtube.com/watch?v=85wtl_6LPUQ

 古代にガンダーラと呼ばれていた地域は、ヒマラヤ山系から流れ出るインダス川と、その支流が合流するペシャワル盆地を中心に北側の山岳地帯にかけて広がっていた。
 これは現在のパキスタン北西辺境州中部に位置する。
 この地は紀元前から東西文化圏の交流の場であった。

 州都であるペシャワルの人口は約98万。
 街の西方には、西アジアやヨーロッパとインドを結んでいたハイバル(カイバル)峠があり、アレクサンドロス大王の軍隊も玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)も、この峠を越えてガンダーラへと入ってきたのである。

 ガンダーラ地域で仏教が盛んになったのは、紀元前4〜前2世紀のマウリヤ朝の頃から。
 中でもアショーカ王は熱心な仏教徒であった。
 その最盛期は紀元前1世紀から後5世紀頃。
2世紀のカニシカ王の時代にガンダーラ美術が花開き、タフティ・バーイー、タキシラなど多くの遺跡が残されている。

[ガンダーラ]
 パキスタンの北西部、インダス川の支流に囲まれたペシャワル盆地が、古代にガンダーラと呼ばれた地域。
 ここが仏教化されたのは紀元前3世紀のアショーカ王の頃のこと。
 タフティ・バーイー、ブトカラ、タキシラなど、1〜5世紀に最盛期を迎えた仏教遺跡が数多く点在している。

[タフティ・バーイー、世界文化遺産の山岳寺院]
 ガンダーラの平野部を一望する丘に建てられた、山岳仏教寺院遺跡。
 山岳のため多民族の破壊を免れ、保存状態も良く、当時の仏教文化の興隆の様子がうかがえる。
 1〜7世紀に建設されたもので、塔院、奉献(ほうけん)塔区、僧院、会堂などのある壮大な寺院遺跡である。
 1980年にユネスコの世界文化遺産に登録された。
● ペシャワルからミニバスで約1時間30分でタフティ・バーイーの町。町から遺跡まで約3キロ。

[泊まりたい極上ホテル、スワート・セレナロッジホテル、名峰ラカポシの眺めが素晴らしい]
 スワート渓谷の古い町ミンゴーラの大バザールから、車で10分のサイド・シャリフにある。
 白を基調とした平屋の建物は、イギリス統治時代の面影を色濃く残していて格調が高い。
 館内レストランは天井が高く英国調の調度品を備える。
 夜は民族音楽の演奏を聞きながら、庭園でバーベキューが楽しめる。
● 住所: Saidu Sharif Rd, Swat
● 電話: 711640
● 料金: ダブル2500ルピー〜

朝日新聞、週刊シルクロード紀行、ガンダーラ、2006年01月26日
http://www.asahi.com/travel/silkroad/TKY200601260177.html

 タリバン政権の崩壊後、アフガニスタン復興のプログラムの不可欠で重要な項目として、文化復興がかかげられた。
 2002年1月の東京会議の後、5月、首都カーブルで「アフガニスタン文化遺産復興国際会議」が開催され、この 会議の席上で日本政府は、バーミヤンの文化遺産の保存と修復に関してユネスコ(国連教育科学文化機関)に資金を拠出する意向を表明した。
 こうしてバーミヤン遺跡の保存・修復の活動は、基本的にこの「ユネスコ文化遺産保存日本信託基金」によって行うことになったのである。
 9 月、私は日本・ユネスコ合同ミッションの一員として、保存計画策定のため、現状調査すべく24年ぶりにバーミヤンを訪れた。
 この時から今日まで、すでに5度バーミヤンを訪れ、保存・修復のための基礎作業を実施した。
 その間、幸運にも数々の新しい発見の機会に恵れた。
 そして今、改めて私は、バーミヤン遺跡が複層的な文化構造を有するなお新しい発見を待ちうける生ける遺跡であることを痛感している。

 発見は過去の遺産を未来へと引き渡す。
 遺産は閉ざされた扉を開く者がいなければ、引き継がれ活用されない。
 以下の報告は、2003年夏から始った日本ミッションの 《ドクメンタ・バーミヤーナ》の序章である。

 カーブル博物館にはかつてガラス板に挟まれた9葉の経典の断片が展示されていた。
 バーミヤンの仏教遺跡から発掘によって出土したものである。
 書体を異にしたサンスクリット語の写本の破片である。
 カーブル博物館が破壊されたのち、これらの経片の行方は知られていない。
 1930年6月、フランス考古学調査隊(ジャン・カール)はバーミヤンで、落下した岩石の下に埋没していた1つの石窟の発掘を試みた。
 のちにG洞と名づけられる4メートル四方の小さな石窟であったが、バーミヤンの他の諸洞とは違って壁画や塑像を多く残したきわめて重要な洞であった。
 洞のまん中に方形基壇の仏塔を置き、入口をつくる南面を除く、東西北の3面の壁の中央に塑像の坐仏を配し、天井はスキンチアーチの上に円蓋をのせた仏堂であった。
 そして円蓋にはブルーに塗られた地の上に、塑像と壁画が残されていた。
 しかし壁画は土を取り除かれ、外気に触れるとたちまち色彩が失われていった。
 今日ではフランス隊によって描かれた復元模写しか残されていない。
 この発掘のとき、仏塔と仏堂の北壁との間から出土したのが「大量の経典写本」であった。
 発掘をしたフランス隊の隊長ジョゼフ・アッカンは報告書(『バーミヤン の新しい考古調査』1933年、パリ)の中でつぎのようにしるしている。

「仏塔の基壇の縁の部分の土を取り除いていたとき、大量の塑像の断片が姿を現わした。また仏塔の北面部と仏堂の側壁との間から、とりわけ雨水の浸透が認められた場所からかなりの数のかたまった写本が見つかった」

 アッカンはさらにその後の処理についてもふれている。

「われわれはこれらの塊りのうちもっとも保存状態のよい数葉の経片をガラス板にはめ込むことに成功した。それらはかなり大きなもので縦10センチ、横25センチほどあった。アフガニスタン国王(当時)ナーディル・シャー陛下の承認をえて、これらの経片はパリに送られた」

 謎が残る。
 カーブル博物館に展示されていた経片(写真3)が、このとき発見された経片の一部であることは間違いないが、アッカンのいうパリに送られたものと同一のものかどうか、そしてなにより「かなりの数の写本」はいったい今どこにあるのか、いずれ突きとめられなければならないだろう。

 バーミヤンのG洞で出土したこれらの経片は、やがて当時フランス・アジア協会の会長であったシルヴァン・レヴィ(1926年から28年まで日仏会館の館長でもあった)によって調査研究された。
 経片に使用されている文字の大部分はブラーフミー(梵字)であったが、ごく稀にカローシュティー文字(セ ム系のアラム文字から派生し、ブラーフミーの影響をうけ、ガンダーラ地方で完成した文字)のものも混っていた。
 シルヴァン・レヴィはつぎのように書いている。

「経片にみられる文字の種類は、3、4世紀(クシャーナ・ブラーフミー)から7、8世紀(グプタ・ ブラーフミーの後期の文字)に渉るものである。インド固有の文字に加えて、 中央アジアに流布した書体、ホータン型とクチャ型の文字もあった。おそらく洞中にあった経典は、さまざまな地方から集められた写本であるか、さまざまな国よりやって来た写経者の手になるものであったと考えられる。これらの経片で7、8世紀を下るものはなかった。また経片の大部分は教理(シャーストラ)と論書(アビダルマ)に属するものであるが、正確にどの経のもの、どの論のもの、と特定することは難しい」

 しかし、その中には大衆部(だいしゅぶ、マハーサーンギカ)の 律(ヴィナヤ)に属する断片とはっきりと特定できるものもあったのである。
 630年、玄奘三蔵がバーミヤンを訪れたとき、ここには「伽藍が数十ヶ所あ り、僧は数千人で、小乗の説出世部を学習している」と『大唐西域記』にしるしている。
 そして、ここにはまた「摩訶僧祗部(大衆部)の学僧」がいたと『大唐大慈恩寺三蔵法師傳』にしるされている。
 バーミヤンから出土した経片と玄奘の記録とがわずかながら交錯したのである。
 バーミヤンで花開いた仏教の内実を知りうるためには、もっと主題がはっきりと特定できる連続する経片の出現がまたれてきたのである。
 とはい え、G洞からの経片の出土は、バーミヤンにおける経典発見の可能性を充分に裏づけるものであった。

 バーミヤン仏教遺跡の再調査は1960年代の初めから、1979年の旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻まで、壁画と石窟構造を中心にしておこなわれた。
 1968年からはユネスコによるバーミヤンの東西2大仏とその周辺窟の保存修復の事業が10年に渉っておこなわれた。
 しかし、石窟内外の発掘はおこなわれず、また新たな経典類の発見もなかった。

 1980年からの激動するアフガニスタンの政治的情況によっていっさいの学術的活動は停止した。
 1990年代、内戦の激化とともに文化財の流出が目立つようになった。
「アフガニスタン文化財保護委員会」(通称スパチ)がナンシー・デュプリーの提唱によって設置されたのも内戦のさなかであったが、それはアフガニスタンからの文化財の流出が顕在化したからである。
 バーミヤンから盗掘された経典類の海外流出が噂にのぼったのは1995年以降のことであった。
 その噂が事実として姿を現したのは意外なところからであった。
 日本とノルウェーに「バーミヤン出土」といわれる大量の経片があるというのである。
 日本へ流出したものは「平山郁夫画伯と富山県の林寺厳州師によって入手された」という。
 もう一方の1万点以上にものぼる大量の写本断簡類はノルウェーの実業家マーティン・スコイエン氏の手に渡り、仏教大学の松田和信氏たちによって研究され、経片の「ローマ字転写、それに基づく復元テキスト、対応する漢訳あるいはチベット語訳の資料、英訳とカラー複写」等を収めた『スコイエン・コレクションの仏教写本』第1巻、第2巻がすでに公刊されている(第1巻2000年、第2巻2002年)。
 本書第1巻の序文を書いたオスロ大学のイェンツ・ブロールヴィック氏の言葉と松田和信氏が『仏教大学総合研究所報』第19号に書かれた写本の出土にかかわる情報をつなぎ合わせると、出土情況はおよそつぎのようになる。

 タリバンに追われてバーミヤン近隣の石窟に難民として住みついた人びとによってこの大量の写本は発見されたのだという。
 その場所は「2体の大仏で有名なバーミヤン渓谷北部の洞窟の中」であるという。
 その洞窟には入り口が1つあり、「内部が数室に分れた洞窟で、そのうちの1室の奥まったところに仏像が安置され、周囲に写本が散乱していた」のだという。
「タリバンの手から写本を救出しようとした現地の人びとは、ヒンドゥクシュを越え、ハイバル峠の北方へと運び出す途中、タリバンに追われ、写本はこのときいっ そう破損を蒙った」
というのである。
 発見から救出に至るプロセスは明らかに後からつくられた物語だろう。
 盗掘品に「文化財難民」としての市民権を与えるため、 狡猾なバイヤーたちによって捏造された物語であると私はにらんでいる。
 ただ、この情報の中にも、いくつか事実をうかがわせるものがある。
 1つは、1990年代には多くの難民がバーミヤンの石窟を住居にしていたことである。
 そしてこんにちでもその状態は改善されておらず、私たちが2003年7月より開始した遺跡の保存作業にも支障をきたしたことがある。
 ここで「バーミヤン渓谷北部の洞窟」とは明らかに谷の北方に位置する現在のバーミヤン遺跡そのものを指すのであって、さらにその奥といっているのではない。
 バーミヤン遺跡の東西には生活窟はあるが、その奥には石窟の存在はほとんど認められないからである。
 また「入り口がひとつで内部が数室に分かれた洞窟」というのは、バーミヤン石窟の構造の1つの特性を表わしている。
 機能を異にする数洞で1つの 伽藍を形成しているバーミヤン石窟の特徴をよく表現しているからである。

 しかし、「仏像が安置され、周囲に写本が散乱していた」というのは嘘である。
 仏像が安置されていた場所はどの洞にもあるが、それらの諸洞で調査のおよんでいないところはまずないといってよい。
 しかも写本が散乱していたのであれば、かならず調査の折に収集されているからである。
 2002年10月、大仏爆破ののち、タリバン政権崩壊のあと、日本・ユネスコ 合同調査隊の一員としてバーミヤン遺跡の現状調査をした私たちは、坐仏を安置した仏堂を中心としたいくつかの堂の床がことごとく掘り返されていたのを目にした(写真5)。
 おそらくバーミヤンの仏教時代の終末時に床下に埋蔵されたかもしれない経典の探索、盗掘がおこなわれたのであろう。
 写本の救済というのは盗掘の動機をかくすため難民にかこつけての口実に過ぎない、というのが私の憶測である。
 スコイエン・コレクションに加えられたアフガニスタン出土の仏教写本のうち、バーミヤン出土と伝えられる断簡のすべてがバーミヤンのものだとは断定しがたいが、いずれにせよ、写本の用紙には貝葉(椰子の葉)、樺皮(白樺の樹皮)、動物の皮が使われ、使用文字もカローシュティー文字、クシャー ナ文字、グプタ文字、ギルギット・バーミヤン第1型文字、同第2型文字の5種が確認されているという。
 そして文字より判断される年代は2世紀から7世紀に渉るという。
 シルヴァン・レヴィのG洞出土の写本の観察(『アジア 学報』1932年)とほぼ同じである。
 松田和信氏によれば、「コレクションの中で最も新しい写本は、7世紀頃の ギルギット・バーミヤン第1型、および同第2型文字(わが国に伝えられた悉曇文字の原型)による写本である。
 その中には第1型文字による『摩訶僧(しったん)祗律』の樺皮写本断簡、さらに同じ書体による散文で因縁物語のついた『法句経』の断簡、さらに『法華経』 、『金剛般若経』 、『薬師経』、『月上女経』、『宝星陀羅尼経』、『仏名経』、『月燈三味経』なども認めら(『仏教大学総合研究所報』19号)という。
 もしこれらの写本がバーミヤン出土のものと確定できれば、私たちはバーミヤン仏教の内奥にいま一歩踏みこむ手掛りをえ たことになるだろう。

 2003年7月、私たちは2002年10月の現状調査の結果に基づき、石窟の緊急を要する保存のプログラムを実行に移した。
 それはまず第1に、内戦中と戦後の2つの時期にバーミヤンでなされた破壊と略奪によってすべてが失われようとしている壁画の保護と、人びとのその後の出入りによって床上に散乱して踏み潰かれるままになっている壁片を収集することであった。
 イタリア隊によって補強修復が予定さ れている東大仏の大仏龕の東側壁の作業が始まるまえに、東大仏の周辺窟の壁画片の収集と洞内のクリーニングを終えておかねばならなかった。
 私たちはバーミヤンの石窟群を有する3つの摩崖、38メ ートルの東大仏を中心に刻む東方崖、バーミヤンにおける唯一の未調査石窟群(L洞群)とK洞の名で知られる石窟のある中央崖、55メートルの大仏を西端に刻む西方崖のうち、東方崖の諸窟に絞って作業をおこなった。

 壁片の収集を終え、窟内のクリーニングをしているとき、F洞とM洞で思いもかけず経片を拾い出した。
 バーミヤンにおいて学術的調査の過程で経片が発見されたのは1930年のアッカンらによるG洞での発見以来73年ぶりのことである。
 しかも経片の発見された諸洞はいずれも東大仏の東方にあり、互いに近接していることが注目される。
 FとGはフランス考古学隊によって付された記号だが、Mは1969年の名古屋大学の調査によって発見され付された記号である。
 GとMは石窟の構造は異なっているが独立洞であり、Fは3室よりなる集合洞である。
 共通しているところは3洞とも壁画を残していることである。
 今回F洞とM洞で発見された経片の文字は、松田和信氏の意見ではいずれもギルギット・バーミヤン第1型文字で7世紀のものであるという。
 存在する経片の文字だけから判断するとすれば、F洞とM洞はG洞とほぼ同じ時代、7〜8世紀を下限とする仏窟であったと思われる。
 F、M、Gのいずれの洞にも涅槃図が描かれていることも注目される。

 残された壁画がこの年代を裏づけることができるか、またこれから予定されている壁片の顔料、壁画の地をつくっている土の中に混入しているスサ(麦藁)や動物の毛や杣などの分析の結果と照合するかどうか、バーミヤン遺跡の新しい研究の扉がいま開かれようとしている。
 また今回の発見で、壁画を残していない数多くの石窟でも窟内のクリーニングによって経片が見つかる可能性が大いにあることが判った。
 保存作業の進展とともに多岐に渉る新 たな課題も浮び上ってくるのである。
 こうした点からも、バーミヤン遺跡はなお問題を生み出しつづけ、新しい意味を問いつづけ、さらなる調査・研究 を求める生ける文化遺産ということになろう。
 東西両大仏の建立年代とその図像学的主題についても改めて問い直される時期がこよう。
 今回の小さな経片の発見の意味はこれほどまでに大きいといえる。
細部にこそ神は宿り給う」(ヴァールブルグの言葉)である。
 そしていずれ、スコイエン・コレクションの出所も私たちの手ではっきり突きとめることができる日が来よう。


東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報、2005
バーミヤン遺跡の現場からの報告
(前田耕作、特別研究員・和光大学名誉教授・アフガニスタン文化研究所所長)
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images/_tz0523.d82c8196a08ebe1e3527c145b27ae82c.pdf

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エイサーとカチャーシーの違い

 平日夜のチャージ料無料ライブ「ライブハウスサーキット」。
 2013年5月22日は「なんた浜」に若手民謡歌手の神谷幸昴さん、伊波はづきさん、HIKARIさんが出演。
 お客のカチャーシーも飛び出し、盛り上がった=動画。


琉球新報、2013年5月27日 11:17
<音街♪コザの夜>
ライブハウスサーキット

https://ryukyushimpo.jp/movie/prentry-207337.html

 三線の練習のためにいろんな曲を見ていると、
「これはエイサーの定番の曲です!」
「カチャーシーでよく使われます!」
なんて言葉を目にします。

 なんとなくああいうやつかな?といった想像は働くものの具体的に説明してといわれるとよくわからないものです。
 『エイサー』と『カチャーシー』って何が違うんでしょうか?
 私もよく知らなかったのでこの機会に調べてみました。
 今回は、この二つの違いについて紹介していきます。

『エイサー』と『カチャーシー』の違い
エイサーとは?
 エイサーは、沖縄の伝統の芸能で、きちんとした役割を持った人たちが沖縄の曲に合わせて太鼓をたたいたり踊ったりしているものです。
 旗頭、太鼓打ち、手踊り、地謡、京太郎といった役割が存在します。
 地謡が三線を弾いたり、歌ったりする人ですね。
 旗頭は大きな旗を振っている人なのでとても目立ちます!
 エイサーには決まった形がなく、その地域・地区によって個性があります。
 こうした形が定まっていないのって沖縄っぽさの一つですよね。
 自由で柔軟なイメージがあります。
 エイサーはだいたい旧盆の時期に踊られます。
 本土の盆踊りにあたり、現世に戻ってくる祖先の霊を送迎するため、歌と囃子(はやし)に合わせ、踊りながら地区の道を練り歩きます。
 沖縄全島エイサーまつりをはじめとして、各地でエイサーのイベントも行われています。
 新宿でも7月頃に開催されているので、見に行ってみるのも楽しいです。

カチャーシーとは?
 カチャーシーとは、沖縄方言で『かき混ぜる』という意味になります。
『唐船ドーイ』など、テンポの速い沖縄民謡の演奏に合わせて踊られることが多いです。
 両手を頭上に挙げ、手首を回しながら左右に振っている姿は印象的です。
 テンションの上がった人たちが立ち上がって踊るのはカチャーシーですね。
 沖縄の結婚式でもカチャーシーを踊ることが多いようです。

この二つはどう違うのか
『エイサー』と『カチャーシー』を端的に説明すると、
『エイサー』
〇みんなで一緒に踊る
〇役割がしっかり決まっている
〇伝統芸能
〇三線・太鼓といった楽器や旗を使う

『カチャーシー』
〇それぞれが自由に踊る
〇テンションが上がったときに急に始まる
〇教わるというよりも自然と覚える
といったところでしょうか。

 エイサーは、エイサーを踊る団体が存在して、エイサー祭りもありますが、カチャーシーの団体ってあるのかな?私は聞いたことがありません。

『エイサー』と『カチャーシー』を動画で比べよう
 ここでは、どちらにもよく使われる『唐船ドーイ』で違いを見てみましょう。
 まずはエイサーから。

「唐船ドーイ」の迫力 2013エイサーナイト(中の町青年会)
https://www.youtube.com/watch?v=61jWfuwCK6w

 息のあった太鼓の音と手踊りの女性たち。
 聞こえてくる三線の音と歌声。
 沖縄旅行に行くと必ずこういうのを観に行きたいですね。

 続いてカチャーシーです!

これが沖縄のパリピだ!沖縄県民は披露宴でも祭りでもパーティーでも最後は必ず「唐船どーい」が流れてみんなでカチャーシーを踊って締める!
https://www.youtube.com/watch?v=HmRbAUP_4EY

 見ての通り、観客も一緒になって踊っていきます!
 混じるのは少し恥ずかしいですが、それも最初だけ!
 すごく楽しい気分を味わえること間違いなしです。

 簡単ですが、『エイサー』と『カチャーシー』の違いについて紹介してきました。
 文章にするとわかりづらいですが、動画を見ると全然違うものですよね。
  一般的に観るのが『エイサー』、一緒に踊るのが『カチャーシー』といったところです。
 どっちも素敵な沖縄の伝統ですね。


ちびらーさん三線!〜沖縄三味線を奏でよう!2018年12月2日
エイサーとカチャーシーの違いとは?動画で違いを見てみよう
https://nyoki-nyoki-sansin.com/eisa-katyasi-tigai/

 え〜と、山歩クラブの踊り子さんもカチャーシーしはじめちゃいましたようで。
 三線と唄は、もちろん琉球新報で紹介された若手民謡歌手の神谷幸昴さんです。

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花より国会では?

 国会軽視のムシ、立法権の超でもあるギゾウ、ネツゾウ、アベシンゾウの思い上がり政権はその極みに達しているようで…
 顔が浮腫んでるし、体調不良なのか、退潮不適応なのかな、でも診断書も提出されていないようですよ、いい気なもんだ:

 与野党攻防の舞台となり「国会の花形」といわれる予算委員会が衆参とも3月から開かれていない。
「休業」は2019年5月23日時点で衆院83日間、参院57日間に及ぶ。
 参院選を前に激突場面を減らしたい政府・与党の思惑を反映したものだが、見せ場を失う野党は反発を強めている。

桜を見たり芸能人と会ったりいろいろな方とご飯を食べたりしているようだが、安倍晋三首相にその日程があるんだったら、国会に来るべきだ

 23日の参院予算委理事懇談会後、立憲民主党の蓮舫筆頭理事は、予算委開催に応じない与党側を批判した。

 今国会での予算委は、衆院は予算案通過の3月1日、参院は予算が可決・成立した3月27日が最後。
 衆参の委員部によると今国会の開催日数は各15日間。
 このまま閉会すると過去10年の通常国会で最少となる。

 予算案など国政全般を議論する予算委は、首相や閣僚が出席し、テレビ中継もされる。
 追及姿勢を鮮明にして参院選に弾みをつけたい野党側は、重要な国政問題が相次ぎ、首相や主要閣僚に見解をただす必要があると開催を要求してきた。

 予算審査とは別に、国政の重要なテーマについて議論する予算委の集中審議を求めており、震災復興を巡る失言で辞任した桜田義孝前五輪相らの任命責任や、景気の基調判断悪化や10月に予定される消費増税の判断、拉致問題解決に向け「(北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長と)条件をつけずに向き合う」とした首相の外交政策転換も取り上げる構えだ。

 だが与党は「予算委開催は受けられない」(参院自民ベテラン)と突き放す。
 参院選を意識し今国会は提出法案を衆院を途中解散した場合を除いて過去2番目に少ない58本に絞った。
 与野党激突を避ける「安全運転」で国会を閉じて参院選に注力するためだ。
 与党予算委理事は、
「各委員会の審議は順調に進んでいる。(予算委の審議から)万が一、他の委員会に飛び火すると困る」
と背景を語る。

 予算委の開催は委員長の権限だ。
 衆院では野党委員が22日、野田聖子委員長(自民)に開催を要請したが、野田氏は開催を明言しなかった。

 参院では4月、野党側が予算委委員3分の1以上による「開会要求書」を金子原二郎委員長(自民)に提出。
 参院規則はこの要求があれば「委員長は委員会を開かなければならない」と定めるが、開催は実現していない。
 野党は「完全に自公による違法状態」(立憲・枝野幸男代表)と反発している。

 蓮舫氏は、
「やりたくないと言っている人がいるんでしょう。それは首相なのか、官房長官なのか、官邸なのか、自民党なのか」
と指摘。
 今後も開催されない場合は金子委員長の解任決議案の提出も検討するという。


「写真]
参院予算委理事懇談会に臨む与野党の議員ら。中央は金子原二郎委員長=2019年5月23日午前9時15分

朝日新聞、2019年5月23日19時03分
花より国会では?
過去10年で最短の予算委に野党反発

(中崎太郎、永田大)
https://digital.asahi.com/articles/ASM5R5KFZM5RUTFK01C.html

 北朝鮮の内閣などの機関紙・民主朝鮮は2019年5月21日、日本の安倍政権が進める憲法改正の動きを非難する論評を掲載した。

 論評は、
「安倍政権が内外の強い抗議と糾弾にもかかわらず、憲法第9条を改正するためにそれほどやっきになっているのは憲法第9条が自分らの軍国主義復活、海外侵略野望の実現を妨げる障害物になっているからだ」
と指摘。
 続けて「日本の軍国主義復活と再侵略は、時間の問題である」と主張した。

 北朝鮮メディアは最近、この調子で対日非難を強めている。
 金正恩党委員長はメディア戦略で独自色を打ち出しており、こうした非難も彼の意を受けたものと解釈して差し支えない。

 安倍晋三首相は今月5月6日、北朝鮮の金正恩氏との日朝首脳会談について、前提条件なしに実現を模索する考えを表明した。
 しかしその後も、北朝鮮メディアは連日、対日非難を繰り広げている。
 一部を引用すると、以下のような論調だ。

「日本が侵略の道に再び乗り出すのは時間の問題である」
(労働新聞8日付)

「(日本の狙いは)独島(竹島)問題を国際化して領土紛争を起こし、20世紀のように朝鮮併呑と大陸侵略のための布石とすることにある」
(朝鮮中央通信13日付)

「安倍勢力は『空母は保有できない』という法律的障害を除去し、軍事大国化の野望を合理化するために空母が攻撃型か、攻撃型でないかがその保有名分の基準になるというたわごとで世論を欺まんしている」
(労働新聞16日付)

 これを見ると、北朝鮮の側はどうも、「前提条件なし」で首脳会談に応じる気はなさそうだ。
 では、北朝鮮側の「前提条件」とは何か。
 過去の論調を見る限り、それは大きく2つある。
 まず、第一に過去清算である。

 日朝が国交正常化に向けて本格的な対話に入れば、必然的に過去清算について話し合われることになる。
 だが、安倍氏が言っているのは「前提条件なしで会う」というだけのことであり、その後どうするかについては言及していない。

 金正恩氏とすれば、日本側が「前提条件なしに国交正常化交渉を始める」とでも言えばウェルカムなのだろうが、そのような展開はあり得ようはずもない。

 次に北朝鮮が「前提条件」にするかもしれないのが、両国間での踏み込んだ形での安保対話だ。
 北朝鮮は、護衛艦「いずも」の空母化やステルス戦闘機の導入など、日本の軍備強化に神経を尖らせている。
 それはそうだろう。
 仮に米国との非核化対話が進展し、「虎の子」である核ミサイルを全廃するようなことになれば、北朝鮮の防衛力は一気に空洞化する。
 そのとき、強大となった自衛隊がすぐ隣に存在することは、脅威と言えば脅威である。

 安倍氏としては、「拉致問題の進展」という前提条件を外したことは政治的な勇断だったのかもしれないが、日朝首脳会談が実現するには、あちら側の勇断も必要になるということだ。


Yahoo! Japan News、5/23(木) 6:03
「安倍は軍国主義」金正恩氏、会談呼びかけにカウンター連打
高英起(デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト)
https://news.yahoo.co.jp/byline/kohyoungki/20190523-00126967/

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生活保護で大学進学なんてゼイタク

「生活保護での大学進学は認めない」
厚労省が国会で公言した内容とは


 厚労官僚による「生活保護での大学等への進学は認められない」という国会答弁が、大きな波紋を引き起こしている。
 理由は、生活保護法の「最低限度の生活」が大学進学を含まないからだそうだ(2019年5月21日、参院・文教科学委員会)。
 まるで「生活保護での大学等への進学は法で制約されている」と言わんばかりだが、その解釈は無理筋だ。

 とはいえ現在、生活保護のもとでの大学等への進学は、事実として認められていない
 生活保護世帯の子どもたちは、高校以後の教育を受けるためには、学費と生活費を自弁する必要がある。
 手段の多くは、学生支援機構奨学金の借り入れやアルバイトとなり、疲労と不安でいっぱいの学生生活を送ることとなる。

 学費免除や給付型奨学金を獲得するためには、多くの場合、低所得でも貧困でもない家庭の子どもたちと同じ土俵で、より優れた成績や業績を示す必要がある。
 それは苛酷というより、現実離れした「無理ゲー」だ。
 しかも、浪人もできない。
「受験勉強ができるのなら、働いてください」ということになるからだ。

 その子どもたちと接してきた、現場の心あるケースワーカーたちは、黙って座視してきたわけではなく、子どもたちの生活や学業を支え、勇気づけてきた。
 そして、声を上げてきた。
 生活が生活保護によって支えられているだけで、彼ら彼女らの学生生活は好ましい方向に激変する。
 中退によって奨学金という名の借金だけが残るリスクは激減する。

 生活保護世帯や貧困世帯で育った子どもたちも、支援者たちも、もちろん心ある国会議員など政治家たちも、「生活保護で生活基盤を支えられた学生生活を認めるべき」という声を挙げてきた。
 そして政府は、生活保護世帯からの大学進学に対する一時金(自宅内進学の場合、10万円)を制度化した。
 ほんの少しずつではあるが、期待できそうな動きが現れてきていた。

 しかし、それらの積み重ねに寄せられた期待を、一気に打ちのめす国会答弁が行われた。
 その内容は、「自助努力と自己責任で高校卒業後の学びを獲得できない子どもたちは、高卒や大学中退で世の中に放り出されても仕方ない」と解釈できるだろう。
 この発想は、どこから来るのだろうか。

 実は、「劣等処遇」という用語1つで、おおむね説明がついてしまう。

日本人は身分制度が好きなのか
医療にも見え隠れする「劣等処遇」


劣等処遇」は、生活保護制度の中に包み隠されてきた考え方の1つだ。
 厚生省・厚労省の官僚たちの良識に封じ込められた場面も、間接的に存在が察せられた場面もある。
 2013年と2018年の生活保護法改正は、「劣等処遇」を丸見えに近づけた。

 現在の生活保護法にクッキリ現れている「劣等処遇」は、後発医薬品、いわゆるジェネリック医薬品だ。
 生活保護法では、2013年改正で「後発医薬品を優先」することとなり、ついで2018年改正で「後発医薬品を原則」とすることになった。
 背後に、「生活保護という“身分”にふさわしい医療」という発想、すなわち「生活保護なら劣等処遇」という考え方があったとすれば、2013年に「優先」、2018年「原則」と明確化されてきたことは、全く迷いなく理解できる。

 もちろん厚労省も、厚労省の方針を大筋のところで強く定めている財務省も、「劣等処遇を強める」とは言っていない。

 あくまでも、国としての課題の1つは医療費の増大であり、医療費を抑制することが必要だ。
 そのために、医薬品をジェネリック医薬品に置き換えたい。
 しかしながら、生活保護受給者でのジェネリック医薬品の選択率は、一般よりも低い。
 それどころか、医療費自費負担がないため、不要な治療や検査や医薬品を求める生活保護受給者もいる。
 だから、生活保護ならジェネリック医薬品を強制しなくてはならない。
 … これが、大筋のストーリーだ。

 忘れてはならないのは、生活保護世帯の少なくとも70%が高齢者・障害者・傷病者世帯であり、一般より医療ニーズが高いことだ。
 傷病者の中には、がんなどの難病に罹患したことが契機となって職業と収入を失い、生活保護以外の選択肢を失った人びとも含まれる。
 必然的に、先発医薬品しかない疾患の罹患率も高い。
 だから、生活保護受給者にジェネリック医薬品を選べない場面が多くなるのは自然だ。

 しかし、政府が劣等処遇をしたいと考えているのなら、「医療費がタダだから、ご近所さんの分まで湿布薬の処方を受けて配る生活保護受給者の高齢女性」といった例に世間を注目させ、「許せない」という世論を喚起し、抵抗を受けずに「後発医薬品を優先」「後発医薬品が原則」という条文を法律に含めるだろう。
 これは、2013年と2018年の生活保護法改正の直前、実際に見られた現象だ。

「生活保護でも大学へ」という動きは、「劣等処遇」があからさまになっていく時期に、並行して行われた。
 とはいえ厚労省としては、堂々と「生活保護なら大学に行かないでほしい」とは言いにくかったはずだ。

 その「口にチャック」は、ついに壊れてしまったようだ。

高校進学と何が違うのか
大学進学はもうゼイタクではない


 ここで改めて考えたいのは、「大学等への進学はゼイタクなのか」ということだ。
 かつての大学進学は、能力または環境や経済力に恵まれた、一部の子どもたちの特権だった。
 しかし現在、大学等(短大や専門学校を含む)への浪人を含む進学率は、すでに80%を超えている。
 もはや「行くのが普通」と考えるべきだろう。

 生活保護の過去の歴史の中には、全く同じシチュエーションがあった。
 1970年、生活保護のもとでの高校進学が、厚生省の通知によって認められたときだ。
 この年、高校進学率は80%を超えた。
 高校進学が当然に近くなると、若年層の就職は高卒が前提となる。

「自立の助長」を目的とする生活保護法が、高校進学を認めないままでいると、自立を阻害することになってしまう。
 その観点からだけでも、進学は認めざるを得なかった。
 このとき、高校進学を認めた委員会の議論には、「高校まででは物足りない気もするけれども」といった文言もある。
 そして、高校進学を認める通知が発行された。

 それなのに、なぜ、2019年、厚労官僚は「できない」と明言することになるのだろうか。

 厚労省の通用門の前で待ち構え、官僚本人を質問責めにしても、納得できる回答は得られないだろう。
 おそらく本人も、「今、この立場にいる以上は、そう言わざるを得ない」という状況にあるはずだ。
 しかし、背景に「劣等処遇」があるとすれば、理解はたやすい。

 現在は、医薬品を最前線として、生活保護を「劣等処遇」の制度へとつくり変える動きが進行中だ。
 2013年と2018年に生活保護法が改正されただけではなく、数え切れないほどの生活保護費の引き下げや締め付けが行われている。
 少なくとも現政権や財務省の意向が激変しない限り、厚労省としては、大幅な脱線はできない。
 だから、「教育だけ劣等処遇の対象から外します」とは言えない。
 まことにわかりやすい話だ。

 ここで文科省が厚労省に強く反発すれば、状況は変わるかもしれない。
 しかし現在のところ、そういう期待を持てる状況ではない。

貧困の解消と教育は
地球規模の問題解決のカギ


 生活保護制度の「劣等処遇」化によって、日本は国際社会からの数多くの期待を裏切ることになるのだが、その1つに気候変動と地球温暖化がある。

 地球温暖化に関しては、まず「温暖化を抑止する」という合意があり、「産業革命以前プラス1.5℃」という数値目標がある。
 そして、二酸化炭素排出量など国レベルで達成すべき目標がある。
 しかし実際に実行するのは、各国の国民1人ひとりであり、各地域のコミュニティだ。

 森林に恵まれた国が、「森林の面積を減らさない」という目標を掲げたとしよう。
 その森林の持ち主に補償金を支払えば、維持してもらうことは可能だ。
 しかし、いつまでも補償金を支払い続けることは、現実的な選択肢ではない。
 その森林を維持することで、その地域で暮らす人びとの現在と将来の生活を安定させることが可能になると、事情は異なってくる。
 人びとは、まず自分のために、そして自分の地域のために、森林を維持し、地球の他地域に貢献することになる。
 貢献された地域からの経済的な見返り、いわば「先進国税」の試みも、既に現実となっている。

 このような好ましいサイクルを、将来にわたって維持するためには、明日のために、今日、森林を伐採せざるを得なくなる貧困の解消と、すべての人びとの生涯にわたる教育機会が必要だ。
 先進国の都市部でも、貧困と不十分な教育は環境負荷の増大につながる。
 少なくとも国際会議においては、これが当然の前提だ。

生活保護「劣等処遇」によって
日本はどれだけの損を被るか


 生活保護のもとでの大学進学は実現しないという今回の厚労省見解を、私は心から残念に思う。

 何をどうすれば実現できるのか、アイディアは何も思い浮かばない。
 しかし、科学とコンピュータをルーツとする者の1人として、提案したいことがある。

 生活保護への「劣等処遇」を強め、大学進学は認めず、貧困を解消せず温存することによって、日本は世界の国々や人びとの期待をどれだけ裏切ることになるだろうか。
 たとえば地球温暖化と貧困について、世界で妥当とされている計算方法を用いた場合、2010年代の生活保護政策が維持されると、どれほどの問題を生み出すことになるだろうか。
 日本の今後500年間の国益に対して、何百兆円の損害が生じるだろうか。

 数値と計算と統計のプロフェッショナルである財務省をはじめ、専門家集団であるはずの官僚の皆さんに、ぜひ、ごまかしなく計算していただきたい。

[写真-1]
厚労官僚による「生活保護での大学等への進学は認められない」という国会答弁が、波紋を起こしている。「劣等処遇」という発想の根底にあるものとは

[写真-2]
本連載の著者・みわよしこさんの書籍『生活保護リアル』(日本評論社)好評発売中(初版は2013年7月)

ダイアモンド、2019.5.24
「生活保護で大学進学なんてゼイタク」
本音を包み隠す厚労官僚の“良識”
(フリーランス・ライター みわよしこ)
https://diamond.jp/articles/-/203451

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琉球舞踊

豊作を喜び祝う『谷茶前』三線・ギター弾き語り by参六
https://www.youtube.com/watch?v=wcl2v0L-9Jg

エイサー

 エイサーは、沖縄県を代表する踊りで、昔から沖縄本島を中心に行われている芸能です。
 エイサーが行われるのは、お盆(旧盆)の期間中が主ですが、学校行事のメインである運動会では一番の盛り上がりを見せてくれます。
 それは、小学校ばかりではなく、保育園、幼稚園をはじめ、中学校、高等学校、大学の学園祭まで会場をわかせてくれます。
 沖縄県でエイサーが最も盛んなところは中頭(なかがみ、中部)ですが、国頭(くにがみ、北部)や、島尻(しまじり、南部)でも行われており、学校・地域が一つになって取り組める芸能・踊りです。

 エイサーは,歌・三線(さんしん)に合わせて若い男女がいっしょに踊るのが普通ですが、地域によっては男のみで踊るところ(嘉手納町かでなちょう・千原せんばる)があれば、女のみのところ(大宜味村おおぎみそん・喜如嘉きじょか)もあります。
 エイサーは、もともと村の各家庭を一軒一軒訪ねて夜通し踊り、お盆の夜を楽しんだものですが、今では、村の道々や広場で早い時間から始まり、夜の11時ころ(ウークイの時間)には終わる習慣に変わってきています。

 エイサーの由来は、
・ 祖先に豊作を感謝し、来年の豊作を祈願するという説、
・ 村内の悪い者をパーランクーなどの音で払い清める目的、
というところもありさまざまですが、
・ お盆にあの世からやって来たご先祖様たちにごちそうをふるまって、供養するという信仰が芸能化したともいわれています。
 現在では新築祝いや結婚披露宴など、お祝い事で踊ることもあります。

 エイサーを踊るときは、パーランクーという太鼓や締太鼓(しめだいこ)、そして赤太鼓(大太鼓)を使い、伴奏に歌・三線で盛り上げ、素手で舞う男女がいるのが一般的です。
 また、服装も鮮やかなものが多い中、白と黒で質素なものもあります。
 いずれにしても旧盆の夜に行われるエイサーも、灼熱の太陽、炎天下で踊る祭り的なエイサーも、熱く燃えるものがあり見ている人を引き付け、興奮させてくれます。

 大きなイベントとして、沖縄全島エイサーまつりがあり、全島各地から青年団が集まり、華やかな演技がくり広げられます。
 2003年で48回目を数えたこのエイサーまつりでは、色とりどりの衣装で勇壮に舞い、観光客の目を楽しませてくれます。
 エイサー保存会としては、勝連町(かつれんちょう、中頭)の平敷屋(へしきや)エイサーが世界に誇れる民族芸能として2003年には結成20周年の記念祝賀会を行いました。
 そのほかにも、名護市(なごし、国頭)の世冨慶(よふけ)エイサー保存会などがあり、沖縄の伝統芸能は各地で受けつがれています。

 県外においても神奈川県や兵庫県,大阪府などでも盛んになってきているようです。
 2003年6月には東大駒場祭で東京大学沖縄県人会の1・2年生がエイサーを初披露したことも新聞で報道されております。
 このようにして、エイサーは沖縄にとどまらず、国内はもちろんのこと外国(ブラジルやボリビアなど)でも多くの人びとに愛されるようになり、世界のエイサーになりつつあります。

[注]
 三線(さんしん)… 沖縄の三味線のこと。
 ウークイ… ご先祖様をお送りする(15日)のこと。
 (ウンケー… ご先祖様をお迎むかえする(13日)こと。
  沖縄のお盆は、旧暦の7月15日(13日〜15日)。)

谷茶前(たんちゃめ)

 沖縄には約6000という数多くの曲がありますが、大きく二つに分けることができます。

 一つは古典音楽、もう一つは民謡です。

 古典音楽は、曲想が重厚で厳粛な儀式歌の役割をもっており、琉球王朝時代に中国からの使者を歓待するためのうたげで演じられました。
 一方、民謡は、庶民の心が生み出したもので、生活感覚、風俗、伝説、古謡などと深い関係をもち、時代の流れにのって今なお新しい民謡が作り出されています。

「谷茶前」は、この民謡に属しています。

 那覇なはから約40kmの西海岸沿ぞいに続く沖縄一細長い村である恩納村(おんなそん)は、近年大型リゾートホテルが海岸線にできて、たくさんの観光客を集めています。
 その恩納村の真ん中あたりに谷茶(たんちゃ)というところがあり、国道58号線の西の丘に民謡「谷茶前」の碑が建っています。
 昔の谷茶は海と山にはさまれた土地で耕地は少なかったのですが、養豚や漁業が盛んでした。
 ところが100年ほど前に大火に見まわれ、大きな打撃を受けて以来、半農半漁のさびしいところとなっていました。

「谷茶前」は、谷茶の前の浜の漁村風景をスケッチふうにえがいた民謡で、男と女のちがった振り付けで踊ります。
 男はカイを持ち、短い芭蕉布(ばしょうふ)の仕事着に前結びの白はちまきで、女はザルを持って琉球絣(りゅうきゅうがすり)に紺のしごき帯をきりっと前にしめ、たがいにもつれて軽快に踊ります。
 テンポの速い甘いリズムの歌曲と、健康的で生活感あふれる舞踊です(現在は女二人で踊られ、一方が男役を踊ります)。

 琉球王府(りゅうきゅうおうふ)の尚敬王(しょうけいおう)が国頭(くにがみ)巡視の際(1726年)に、万座毛(まんざもう)で休憩したときに芸能を出して歓待したといわれ、そのとき、谷茶の人たちは「谷茶前」を演じたといわれます。

谷茶前の歌詞と訳

1 谷茶前ぬ浜に
  スルル小(ぐぅあ)が 寄(ゆ)てぃてぃんどーへー
  スルル小が 寄てぃてぃんどーへー
  ナンチャ マシマシ
  スルル小が 寄てぃてぃんどーへー
  ディアングァヤクシク

【訳】
  谷茶村の前の浜に
  ああ なるほどざわめいている
  キビナゴが寄り集まっているよ
  さあ 娘さんそれはよいことだ
  急いで 約束の時間だよ


2 スルル小(ぐぅあ)やあらん
  大和(やまとぅ)ミジュンどぅ やんてぃんどーへー
  大和ミジュンどぅ やんてぃんどーへー
  ナンチャ マシマシ
  ディアングァヤクシク

【訳】
  キビナゴではないよ
  大和いわし なんだってよ


3 アッピー達(た)やうり取いが
  アン小や かみてぃうりういがーへー
  アン小や かみてぃうりういがーへー
  ナンチャ マシマシ
  ディアングァヤクシク

【訳】
  お兄さんたちは それを取りに
  娘さんたちは 魚を頭上に乗せて
  それを売りに


4 うり売てぃ戻(むどぅ)いぬ アン小が
  匂(にう)いぬ しゅらさーへー
  アン小が 匂いぬ しゅらさーへ
  ナンチャ マシマシ
  ディアングァヤクシク

【訳】
  魚を売って帰りの 娘さんの
  香(かお)りの 香(こう)ばしいことよ
  娘さんの 香りの
  香ばしいことよ

※これらとは異なる歌詞もあります。


教育芸術社、音楽しらべ隊、郷土の音楽、沖縄県
https://www.kyogei.co.jp/shirabe/kyoudo/text47.html

(*)沖縄全島エイサーまつり

 第63回沖縄全島エイサーまつり(主催・同実行委員会=沖縄市、琉球新報社、沖縄テレビ放送、市観光物産振興協会、市青年団協議会)が2018年9月2日、最終日を迎え、沖縄市のコザ運動公園陸上競技場で行われた本祭に市内外から14団体が出演した。

 まつり期間中の3日間、過去最高となる延べ34万人(主催者発表)が「エイサーのまち」沖縄市を訪れた。
 最終日の出演団体は各地域で継承されてきた力強い伝統の舞や工夫を凝らした創作演目を演舞場を縦横無尽に使って表現した。
 太鼓に三線、指笛の音が鳴り響き、観客は沖縄の夏の風物詩エイサーの演舞を堪能した。

 大トリは2年ぶりに沖縄市山里青年会が務めた。
 出だしから迫力あふれる太鼓と勇壮な手踊り、そろった隊列の動きで観客を引き付けた。

 これまで観客数が最も多かったのは第56回(2011年)の33万人だった。


[写真]
大トリを勇壮に締めくくった沖縄市山里青年会=2日夜、沖縄市コザ運動公園陸上競技場

琉球新報、2018年9月3日 07:00
勇壮、躍動 沖縄全島エイサーに最多34万人
https://ryukyushimpo.jp/movie/entry-795594.html

第63回 沖縄全島エイサーまつり 2018年9月
https://www.youtube.com/watch?v=ySpey1MLhao

https://www.youtube.com/watch?v=slS71NdTIu4

2018全島エイサーまつり 沖縄市園田青年会
https://www.youtube.com/watch?v=2kX6zqN-fvw

(*)谷茶前

 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、新基地建設に反対する市民は2019年1月1日早朝、辺野古の浜に集まり、「初興(はちうく)し」(主催・ヘリ基地反対協議会)を行なった。
 市民316人は初日の出に向かって新基地建設反対の意思を新たにした。

 明るい新年を願い、地謡と踊り手が「かぎやで風」「谷茶前」などを披露した。
 午前7時半ごろ、空を覆っていた雲の合間から太陽の光が差し込むと、辺野古の海や浜を輝かせた。

 オール沖縄の稲嶺進共同代表は、
「新基地建設の未来も今日の天気のように曇りのち晴れ。今年は良い一年になるようにしたい」
と呼び掛けた。

 マイクを握ったヘリ基地反対協議会の安次富浩共同代表は、
「新基地建設反対は、沖縄の未来を沖縄の人が決めるための闘いだ。政府が工事を強行する中、世直しのために頑張ろう」
と強調し、市民は拳を挙げた。


[写真]
米軍キャンプ・シュワブ沿岸部から上がった初日の出を背に、新基地建設反対の意志を新たにした市民ら=1日午前8時6分、名護市辺野古

琉球新報、2019年1月3日 05:30
「新基地阻止も 曇りのち晴れ」
辺野古 決意新たに「初興し」

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-856502.html

沖縄民謡と舞踊の「谷茶前(たんちゃめぇ)」です。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=i0v_vgQf7l4

谷茶前  Tanchame <琉球舞踊>
https://www.youtube.com/watch?time_continue=5&v=kNJlvm_mtw8

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2019年05月23日

ナチス政権を生んだ緊急事態条項

 「ワイマール憲法の緊急事態条項を背景にヒトラー政権が誕生し、ナチス独裁を敷くために乱用されたのも緊急事態条項だった」――
 東京大学大学院の石田勇治教授が2018年1月25日、参議院議員会館内で講演。
 緊急事態条項の危険性を指摘し、同条項が盛り込まれた自民党改憲草案を批判した。

 緊急事態条項は、緊急時に権力を大統領や首相へ集中させ、国民の権利を制限する仕組み。
 ワイマール憲法には「大統領緊急令」として規定されていた。

 ドイツの近現代史が専門の石田教授は講演で、
ナチス政権誕生前の1930年ごろから、ドイツ国会は与野党の激しい対立で機能不全に陥り、大統領緊急令が乱発された。その結果、国会不要論が国内に広がっていた
と当時の社会背景を説明。
 そうした情勢だからこそ、議会政治を否定するナチスへの支持が集まったと指摘した。

 しかし、ヒトラーが首相に就任した時点では、まだナチスは少数与党。
 ヒトラーは保守的なヒンデンブルグ大統領を動かし、大統領緊急令を出させることでナチス支配を強める手段に出る。

ヒトラーは就任直後に国会を解散。選挙の最中に集会・デモや言論を統制する大統領緊急令を出させ、野党の選挙運動を妨害した。さらに国会議事堂炎上事件を共産主義者によるものと決めつけ、共産党の国会議員を拘束。国家防衛を口実に国民の基本権(基本的人権)を停止する大統領令を出した。この大統領令がユダヤ人迫害、ホロコースト(大量虐殺)へとつながっていった

 ヒトラーはこうした大統領令とは別に、もう一つの緊急事態条項を選挙直後に手に入れる。
 国会も大統領も通さずに政府が自由に法律を制定できる授権法(全権委任法)だ。
制定される法律は憲法に違反してもいい」と規定されるなど、ナチスにフリーハンドを与える内容だった。

 石田教授は、
「政府に立法権を与えるわけだから、すべてが思うがまま。これがあればこそ、ナチのイデオロギーが政策として実現できた」
と授権法の怖さを指摘。

 その上で、自民党改憲草案に盛り込まれた緊急事態条項について、
「ワイマール憲法の大統領緊急令と授権法の要素を併せ持っている。非常に悪質だ。こんなものをまねして何をしたいのか? 授権法の正式名称は『国難除去のための法律』。言葉の使い方も(安倍首相と)まったく一緒だが、考えていることも同じではないのか」
と厳しく批判した。

● 自民党改憲草案の緊急事態条項(抜粋)

第98条(緊急事態の宣言)
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
(第2〜4項略)

第99条(緊急事態の宣言の効果)
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
(第2項略)
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第14条、第18条、第19条、第21条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
(第4項略)


連合通信、2018年1月27日
ナチス政権を生んだ緊急事態条項
東京大学石田勇治教授が指摘
うり二つの自民改憲案


コメント:土屋浄(2019年5月22日水曜日 09:35)
現人神条項だな。麻生の「ナチスをまねればいい」旨の発言はたんなる軽口ではなかった。

コメント:田辺元治(2019年5月23日)
嘘とごまかしが、捏造がまかり通っていることは、非常に危険です。圧倒的多数の国民にこの事の重大性を知らさなくては。

https://www.rengo-news-agency.com/2018/01/27/ナチス政権を生んだ緊急事態条項-東京大学石田勇治教授が指摘-うり二つの自民改憲案/

ヒトラー「成功」の正体。すべてを賭けて手に入れた法律とは?

● パンドラの箱を開けた全権委任法


「国民および国家の苦境除去のための法」、これがヒトラー(ナチ党)が制定した「全権委任法」ともよばれる「授権法」の正式名称です。
 この法によって立法権は政府に託されることになりました。

「首相は国会審議を経ずにすべての法律(予算案を含む)を制定できるようになる。近代国家を特徴づける権力分立の原則が壊され、行政府の長=首相への権力集中がなされる。しかも政府には 『憲法に反する』法律を制定する権限までも与えられ、憲法を改正したり、新憲法を制定したりする必要もなくなる」
というものです。そしてこれこそが、
「ヒトラーがすべてを賭けて手に入れたかった」
ものでした。

 ヒトラーはこの授権法に基づき矢継ぎ早に法を制定します。
 死刑執行法、政党新設禁止法、国会を無力化するための国民投票法などが施行されるようになりました。

 この国民投票法の危険性について石田さんはこう記しています。

「これで政府は自らが求める法案や措置を国民に直接、国会を介さずに問う手段を得た。何をどのタイミングで国民投票にかけるかについて規程がなく、国民の大多数の賛成が見込まれる案件をめぐって政府が国民投票を実施できるようになった」
と。
 それが国会(議論の場)の空洞化をもたらし、悪しきポピュリズムの温床を生むことになったのです。

 さらに授権法の行使で、
「憲法で保障されていた、国民が自由に安心して暮らすための最低限の基本的権利、すなわち人身の自由、住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由、結社の自由などの権利も損なわれてしまった」
のです。
 ヒトラー独裁の道は確実に進んでいきました。

 石田さんはこう問いを発します。
「なぜその途中の過程で、人びとは反発しなかったのだろうか」
と。
 それは国民の大半が、
「『非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない』とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。とりあえず様子見を決め込んだ者も、大ぜいいた」
のでした。
 それが悲劇と恐怖を生むことにつながっていくとは、ほとんどの人は気がつかなかったのです。

 授権法を手に入れてからわずか6ヶ月でナチ党の一党独裁体制は完成します。
 さらにヒトラーの総統就任でナチ体制は確立されました。

「この間、ヴァイマール共和国憲法は改正されることなく形骸と化し、見せかけ上の合法性のもとで国家と社会のナチ化」
が進んでいいきました。
 もっとも20世紀の民主主義憲法の典型とされるヴァイマール憲法も、
「ヒトラーから見れば、ヴェルサイユ条約だけでなく、ヴァイマール憲法も、第一次世界大戦に敗れた結果、不当に押しつけられたもの」
なのだと考えられていたのです。

 大国(強国)ドイツを目指してヒトラーは国内、国外へさまざまな施策を打ち出します。
 失業対策、失った領土の回復等、それらの政策に国民の支持を得ようとして持ち出されたのが「民族共同体」というスローガン、理念であり、国家の生存のために「生空間」が必要なのだという主張でした。
 この「『生空間』は、『大ゲルマン帝国』が欲する食糧・原料・労働力を提供する場であり、そこにユダヤ人に居場所がないことは明らかだった」のです。
 そしてこの果てにユダヤ人の大虐殺(ホロコーストあるいはショアーと呼ばれています)が起こりました。
 それは優生思想(人種衛生学)による差別、偏見に始まり、戦争の推移によって「未曾有の集団殺害=ナチ・ジェノサイドへの扉を開い」ていったのです。
 この経緯の論述は大虐殺がなぜ起きたのかに新たな視点をもたしているように思います。

● ヒトラーはなぜ民衆に受け入れられたのか

 この本の特筆すべきところは、ヒトラーの強権的政治を断罪するだけで終わらず、どのようにして「国民の歓心を買うべく経済的・社会的な実利を提供したか」を詳細に追い、「民族共同体(フォルクスゲマインシャフト)」という「情緒的な概念を用いて『絆』を創り」出していったかを視野に入れてナチ時代をとらえなおしているところにあります。

 ヒトラーの国内政策(景気対策、失業対策)としてアウトバーンの成功≠ニいうことがしばしば取り上げられています。
 けれどアウトバーンが実際はヒトラーの考案物ではありませんでした。
 彼が首相になる前に建設が始まり、一部は開通していたのです。
 しかも「一般の人びとの利用度はきわめて低かった。軍事的にも重量車両の走行には適さず、戦時下で一部の区間が滑走路代わりに使用されたに過ぎない。自動車道としての交通量が余りに少なく、1943年夏には自転車の通行が許されたほど」でした。
 それがアウトバーンの実態だったのです。

 ここにも大きな教訓が潜んでいます。
 なぜ今でもアウトバーンとヒトラーが結びつけられて記憶されているのでしょうか、しかも成功≠ニして……。
 工事の着工はヒトラー以前でしたが、彼は失業対策と同時に、この工事の従事者をフォルクスゲマインシャフトの担い手として大々的に称揚したのです。
 ナチのプロパガンダの影響が「この時代の『公的記憶』の核となって、戦後にまで引き継がれ」てアウトバーンの成功神話≠ニなっているのです。

 ヒトラーとナチ党の歴史が今の私たちに教えてくれることは数多いと思います。
 得票率が33.1%、議席も3分の1ほどだったにも関わらず首相になれた(させたのはヒンデンブルク大統領ですが)のを好機として、一挙に権力の拡大と集中ができたのは「全権委任法」の制定が大きかったのです。
 また第一次世界大戦の敗者としてさまざまなものを勝者から押しつけられた(ヴァイマール共和国憲法までも)というルサンチマンをバネにして国民に一体感(民族共同体)をもたらそうとした……。

 今でも私たちの周りに同じような言説・行動をする人たちが見うけられます。

 この「全権委任法」はもともとは時限立法でした。
 けれどナチ党の一党独裁のもとで有名無実化し、ドイツの敗戦まで施行されていたことも忘れてはならない歴史の教訓だと思います。
 国会が機能不全となったもとではすべての法は、行政権力下に置かれてしまうのです。
 殷鑑遠からず≠ニいう言葉が浮かんできます。
 私たちが学ぶべきものはいつも歴史にあるということを改めて痛感させられます。
 未来を考えるためにもぜひ読んでほしい一冊です。
ところで、ドイツで長い間禁書となっていたヒトラーの著作『わが闘争』が今年(2016年)出版されました。それはどのように受けとめられていくのでしょうか……。


2016.02.05
石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書、2015年06月)
(レビュアー:野中幸宏)
http://news.kodansha.co.jp/20160205_b02

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衆院予算委、82日間開かれず異常

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年05月09日付け日記「政府与党による審議拒否」の再読をぜひともお願いします。
 5月9日はもう2週間も前のことですが「開かずの予算委」と主権者からは揶揄されています、開くと大変なのかな。
 質問にまともに答えられない政権側は開けず、開こうともせず、このまま解散、総選挙となるのか、もう異常事態。

 蓮舫参院議員は2019年5月20日、参院予算委員会野党理事懇談会の開催後、国会内で記者団の取材に応じました。

 蓮舫議員は、
「自民党の予算委員会の審議拒否が長く続いている。参議院規則に則って3分の1以上の委員で委員会開催を金子委員長に要請したのが4月12日。もう5週間以上審議拒否が続いている。野党の皆さまのご意見をいただき、その内容を自民党の筆頭理事に厳しくお伝えして、今週中にでもせめて理事懇談会を開いていただけるよう要請をしたい」
と語りました。

 また、
「与党側からは、参院議員の歳費法案に関する幹事長級会談が落ち着くまでは予算委員会の開催は難しいと聞いている。予算委員会を審議拒否しておいて自分たちに都合の良い法案は審議してほしいという話だったが、それは全く筋が違うということをお伝えした」
とした上で、
「今の景気状況を悪化と判断したことや、米中貿易の関税の件なども含めて、聞くべきことはたくさんある。衆議院も参議院もしっかり委員会を開いていただいて、安倍総理に答弁いただきたい」
と述べました。


立憲民主党、2019年5月20日
「与党は予算委員会の開催を」蓮舫議員
https://cdp-japan.jp/news/20190520_1682

立憲・辻元清美国会対策委員長(発言録)

 (安倍政権は)解散の大義探しに躍起になっている。
 解散の大義探しを一生懸命やるぐらいだったら、予算委員会をやれよ、と。
 そして、予算委員会の中で、堂々と解散しなければならないかどうか、審議をするべきだと思う。
 トランプ外交もイベント外交でしょ。
 相撲を見ていただくのは結構ですが、そういうことで目先をずらそうとしている。
 米中、北朝鮮をどうしていくのか、予算委員会でしっかり審議してもらわないと困る。
(2019年5月21日、党会合で)


朝日新聞、2019年5月21日19時06分
「解散の大義探しをやるより予算委を」
立憲・辻元氏

https://www.asahi.com/articles/ASM5P54FTM5PUTFK017.html

 衆院予算委員会の野党筆頭理事を務める立憲民主党の逢坂誠二政調会長は2019年5月22日、野田聖子衆院予算委員長と国会内で会い、予算委集中審議の早期開催を申し入れる文書を手渡した。
 野田氏は「与党に伝える」と答えた。
 逢坂氏は記者団に
「与党は開催を拒み続けており、今日で82日間も開かれないのは異常事態だ」
と述べた。
 文書は、
「景気動向や日ロ・日朝関係など内外に課題は山積している。首相と全閣僚が出席する予算委を開催し、政府は説明責任を果たすべきだ」
と強調。
「委員長は状況を重く受け止め、開催を決断するよう強く要求する」
とした。


共同通信、2019/5/22 19:24 (JST)
野党、予算委開催申し入れ
82日間開かれず異常

https://this.kiji.is/503876436279673953

 衆院予委算員会の野党の理事と委員は5月22日、野田聖子委員長に、3月27日以降開かれていない同委の開催を申し入れました
 野党は、国政の最大争点の消費税増税問題や景気動向をはじめ、国際情勢、日ロ・日朝関係、統計不正問題など国民が関心を寄せる問題について、全閣僚が出席する予算委員会で安倍晋三首相が説明責任を果たすべきだと主張しました。
 野田氏は「与党に伝える」としたものの具体的な回答はありませんでした。
 申し入れ後の記者会見で、日本共産党の藤野保史議員は、
「景気・暮らしの実態は大変深刻だ。GDP(国内総生産)の速報値など指標が出てきているが、実際どうなのかを国民の前でしっかり議論していくことが今ほど求められているときはない。こういう時に消費税増税をしていいのかや外交の問題など、いずれも日本の進路に関わる大問題だ。与党は逃げるべきではない」
と述べました。


しんぶん赤旗、2019年5月23日(木)
首相出席の予算委開け
衆院 野党が野田委員長に要求

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-05-23/2019052302_01_1.html

 さすがにこれはひどいのではないか──。今週から国会では参院予算委員会がはじまったが、衆院予算委につづき、不正統計や辺野古新基地建設工事をめぐって安倍首相が無責任極まりない答弁を連発している。だが、そんな安倍首相のひどさに輪をかけて露骨に醜いことになっているのが、NHKの報道だ。

 たとえば、4日の『NHKニュース7』のトップニュースは「即位祝う一般参賀5月4日に」、つづく2番目の話題も「大戸屋 不適切動画で一斉休業」というもので、国会の話題は4番目。さらに目を剥いたのはその内容だ。

 国会では軟弱地盤が大きな問題となっている辺野古新基地建設工事について野党から質問が飛んだというのに、一切無視。代わりに大々的に取り上げたのは、身内である自民党・堀井巌議員の質問に対する安倍首相の答弁だった。

 安倍首相が「日朝の首脳間の対話に結びつけていきたい」と答弁したことを受け、「拉致問題解決へ“日朝首脳会談 実現させたい”」と見出しに掲げたのである。

 また、この4日の放送では、続けて安倍首相がレーダー照射問題で「我々は真実を語っているし、真実を語るほうが必ず強い」と述べたことを紹介、「北朝鮮への対応は日米・日米韓の緊密な連携が極めて重要」という答弁を放送したのだが、これも実は、自民党・有村治子議員の質問に答えたものだった。NHKは有村議員の質問であることを隠していたが、ようするに、身内の与党の質問に、安倍首相が堂々と答えるシーンばかりを流したのだ。

 国会とは本来、政権や与党の暴走を野党がチェックする場であるはずなのに、与党の質問と安倍首相のPRのような答弁だけを流す。これは、国民の知る権利を妨害しているのはもちろん、放送法4条やNHK国内番組基準で謳っている「政治的公平」「不偏不党」にも反しているのではないか。

 昨日5日の『NHKニュース7』も同様だった。日産自動車のゴーン前会長の保釈を認める決定が出されたことがトップなのはまだしも、その後も探査機「はやぶさ」や来年の都知事選をめぐる二階俊博幹事長の発言の話題がつづき、やはり国会は4 番目の扱いで、しかも画面に映し出された見出しテロップは「米国が拉致問題重視“キム委員長も理解”」。さわりでさすがに統計不正問題の質疑を取り上げたが、特別監察委員会の委員長人事について共産党の小池晃議員に質問されたのに対し、「適格性に疑念を抱かせるようなものではない」「厚労省に手心を加えてくれるかもしれないから選んだのではなく、中立性を疑われることはない」と安倍首相が答弁した部分を紹介しただけで、小池議員の発言は一切放送しなかった。

 そして、その後は拉致問題に話題が移り、安倍首相が日朝首脳会談でトランプ大統領が夕食会で拉致問題を提起したとして「金正恩・朝鮮労働党委員長もアメリカが拉致問題を重視していることを理解したと思っている」と成果を強調した部分や、「小泉総理が2002年に訪朝したときに5人の被害者が帰還できた。そうしたさまざまな経験も生かしながらあらゆるチャンスを逃さずに解決にあたっていきたい」という、嘘っぱちの“俺の手柄”自慢を放送してコーナーが締めくくられたのだ。

 辺野古の問題を取り上げないどころか、拉致問題における安倍首相の“やるやる詐欺”答弁を主題にして伝える──。これでは安倍首相のプロモーションビデオではないか。

安倍首相「私の方針だ」「気にくわないのか」暴言も報道しなかったNHK

 実際、昨日の国会では、NHKが報じなかった部分にこそ審議の核心があった。

 たとえば、立憲民主党の福山哲郎議員の質疑では、沖縄の県民投票の結果にかかわらず土砂を投入することが安倍首相と岩屋毅防衛相とのあいだで決まっていたことが明らかになった。これは民主的手続きを踏んで実施された県民投票を愚弄する行為であり、「結果は真摯に受け止める」という説明は一体何なのかという話だ。

 だが、安倍首相は「結果については論評する立場にない」と壊れたテープレコーダーのように繰り返し、「普天間基地の全面返還を1日も早く実現するというのが安倍政権の基本方針。そのためには辺野古の基地が建設されなければならない。この方針を私は決めている」と答弁。つまり、この国では「私が決めた方針」が最優先されると言い放ったのである。

 しかも、統計不正問題では、NHKが取り上げた小池議員の質疑で安倍首相は信じがたい暴言を吐いたのだ。

 昨日5日の『ニュース7』では、共産党の小池晃議員が特別監察委員会の樋口美雄委員長の公正・中立性を問題視し、前述したように安倍首相が“樋口委員長は統計の専門家だから適格だ”と主張して終わったが、実際にはつづきがある。小池議員はこのあと「質問に答えてない」「国民からみて中立なのかということを訊いている」と追及したのだが、対して安倍首相はやはり同じ主張を繰り返す始末。これに野党理事たちが反発し審議は一時ストップしたのだが、再開されると、安倍首相はこう述べたのだ。

「私はお答えをしているつもりですよ? 私のお答えがですね、小池議員の気に食わないのかもしれませんが、私は誠実にお答えさせていただいていますよ!」

 質問に答えていないから追及されているのに、「気に食わないんだろう」と決め付ける──。国会審議を冒涜する、総理大臣としてあるまじき暴言であり、これには金子原二郎・参院予算委員長も「言葉に注意してわかりやすく丁寧に答弁を」と注意をおこなったが、こうした国会審議に対する安倍首相の姿勢が如実にあらわれた部分を、NHKはニュースで伝えようとはしないのだ。

 いや、NHKは安倍首相にとって不都合な審議内容、答弁をカットしているだけではない。

 昨日の午前中の審議では、福山議員が参考人の樋口委員長に対して、特別監察委による追加報告書でおこなわれた自治体へのヒアリングの人数や対象者について質問したが、樋口委員長はまったく答えになっていない答弁を何度も繰り返した。それによって審議は何度もストップしたのだが、NHKは12時からの『NHKニュース』で、こう伝えたのだ。

「午前中の委員会では、福山氏が厚生労働省の統計問題をめぐる参考人の答弁に納得せず、たびたび質疑が中断しました」

 樋口委員長が質問に答えないから中断したのに、それがなぜか福山議員が納得せずに中断したと伝える。これではフェイクニュースではないか。

野党議員の水飲むシーンだけ切り取ったNHK『ニュースウオッチ9』

 じつは、NHKの報道をめぐっては、先週1日に放送された『ニュースウオッチ9』にもネット上で疑義を呈する声があがっている。それは根本匠厚労相の大臣不信任決議案で無所属の小川淳也議員がおこなった趣旨弁明の伝え方についてだ。

 小川議員は統計不正問題で追及の先頭に立ったひとりで、賃金伸び率が引き上げられた2018年の「毎月勤労統計」調査で日雇い労働者を調査対象から外していたことなど重要な指摘をおこなってきた。この日も、小川議員は約2時間にわたり、統計不正の問題点から不正が起こる組織のあり方にいたるまで、濃密な内容の趣旨弁明を展開した。

 しかし、『ニュースウオッチ9』では、全体の内容とはかけ離れた切り取り方で報道。小川議員は趣旨弁明の冒頭で、総務省が最近おこなった統計の標語募集に対しネット上に寄せられた“皮肉の投稿”を読み上げたのだが、その部分だけをクローズアップし、挙げ句、小川議員が水を飲むシーンを挿入。「途中、何度も水を飲む姿に議長は」とナレーションを入れ、「少し早めて結論に導いてください」という議長の注意を紹介。結局、小川議員の趣旨説明は「ネットの書き込み」を読んだ部分だけが使われ、その上、自民党・丹羽秀樹議員による「審議引き延ばしのためのパフォーマンスだ」「国民の誰ひとりとして無駄な時間の浪費を望んでいない。どうして気付かないのか」という野党批判をつづけて放送したのである。

 約2時間も趣旨弁明をおこなったのだから、水を何度か飲むのは当然だろうが、NHKはあたかも小川議員がネットの書き込みを紹介しつづけるような中身のない話をしつづけ、水を飲むことで時間を稼いでいたかのように切り取った。そして、それに自民党議員の野党批判を重ねることで、「無駄な時間の浪費」がおこなわれたと印象付けたのだ。

 何かあると安倍首相は野党や民主党政権時代の批判をおこなうが、NHKがやっていることもそれと同じ。そのやり口は、産経新聞やネトウヨまとめサイトとほとんど一緒だ。これがこの国の公共放送の報道だというのだから、開いた口が塞がらない。

 しかも、こうした露骨な安倍政権擁護の報道姿勢は、夏の参院選に向けてますます強まっていくのは間違いない。最近では安倍首相の自民党総裁4選の噂も流れているが、国会審議さえまともに伝えられず、公共放送のニュース番組が安倍首相のPRに成り下がっている現実をみれば、そうなっても少しも不思議ではないだろう。


リテラ、2019.03.06 06:59
NHKの国会報道が安倍首相のPR動画状態に!
辺野古、統計不正追及を報じず自民党質問への勇ましい答弁を大々的に紹介

https://lite-ra.com/2019/03/post-4589.html

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沖縄そば お休み処 森の家

 耳を澄ますと聞こえてくる小鳥の囀りや虫の声、頬を掠めるのは爽やかな自然の風…。
 美しい“やんばるの森”を満喫できるお店が本部町伊豆味に誕生しました。
 それが、今回紹介する『森の家』です。
 店内に置かれた水槽では色鮮やかな熱帯魚が戯れる姿も見られますよ。
 ロケーションもさることながら、体に優しい沖縄の郷土料理の数々に癒されると話題の同店。
 その魅力やこだわりを、店主の新崎さんに伺ってきました。

豊かな自然と郷土料理が自慢

 みかんの里、沖縄パイン発祥の地、琉球藍産地と称され、特産品が多い伊豆味地区。
 幹線道路の県道84号線は“そば街道”と呼ばれ、沖縄そばのお店が並んでいることでも知られています。
 そんな伊豆味で2018年9月にオープンしたのが『森の家』です。
 そば街道から山間部へと進むと見えてくる同店は、店名の通り、やんばるの森の中にお店を構えています。

 店主の新崎さんは、これまで名護で居酒屋を営んでいましたが、定年を機に現在の場所へ。
 いつかこんな店をと思い描いていた、豊富な自然と沖縄の郷土料理を楽しめる『森の家』をオープンさせました。

唯一無二の絶景ロケーション

 何と言っても他では真似できない大きな強みが、このロケーションです。
 山々に囲まれ、360度どこに目を向けても美しい自然を眺められます。
 耳を澄ませば小鳥や虫の声、鼻をくすぐるのは森の香り、吹き抜ける風…
 自然の偉大さを存分に体感できますよ。

 お店のガーデニングにも注目です。
 新崎店主が入念にお手入れしている庭では、色とりどりの花々が季節ごとに楽しめます。
 野外の雰囲気をゆったりと満喫したい方にはテラス席がぴったり。
 こちらのテラス席は、テーブル部分が水槽になっているのもユニークなポイントです。

 “森の中の小さな水族館”をコンセプトに店主が手作りした、こだわりの設備です。
 このコンセプトに沿って、店内にも大きな水槽が置かれています。
 鮮やかな熱帯魚が優雅に泳ぐ姿を見ることができますよ。
 また、店内はガラス扉の開閉によって吹き抜けにできるそう。
 屋内にいてもロケーションの良さを楽しめます。

こだわりの沖縄そばは必食!

 お店では、沖縄の郷土料理を中心にさまざまなメニューを提供しています。
 特にイチ押しは“沖縄そば”です。
 新崎店主が沖縄そばの名店を食べ歩いた末に生み出した、究極の味わいになっています。
 味の決め手となる出汁は、鰹節をベースに天然素材で作り出します。
 “化学調味料は一切使わない、地元の食材を仕入れる”のが店主の心情です。
 あっさりしていながら旨味が効いた出汁は、最後の一滴まで飲み干したい衝動に駆られるほど。
 トッピングされたソーキ(あばら骨)とラフテー(豚の角煮)も食べ応え十分で、飽きのこない一杯に仕上がっています。
 沖縄の炊き込みご飯・ジューシー(雑炊)と一緒に召し上がるのもおすすめですよ。
 ランチタイム以降は、沖縄のならではの軽食も用意しています。
 コーヒーやジュース、ビールなどと一緒に召し上がってみてはいかがでしょうか。

寛げる場所を提供したい

 店舗の建物は、新崎店主がご自身で設計・施工したというから驚きです。
 店内のテーブルや椅子なども全て店主の手作りです。
 今後は、小さなお子様向けにブランコの制作も予定しているといいます。
 家族連れでのお出かけに最適のスポットになりそうですね。
 最後に新崎店主から記事をご覧の皆様にメッセージをいただきました。

やんばるの森の高台に位置する当店のロケーションを見ていただきたいです。
 庭にはウサギやチャボが遊んでいて、水槽には熱帯魚が泳いでいます。
 地元の方も観光できてくださったお客様も、ゆったりと寛いでいただけたら嬉しいです。


・ 店舗名: 森の家
・ 住所: 〒905-0221 沖縄県国頭郡本部町伊豆味(くにがみぐん・もとぶちょう・いずみ)743-3
・ 電話番号: 0980-47-7810
・ 営業時間: 10:00〜16:00
・ 定休日: 不定休
・ ホームページ: https://noodle-shop-1925.business.site


[写真]多数

開店ポータル、2019/01/05
[沖縄・本部伊豆味]
やんばるの森に佇む郷土料理店『森の家』のロケーションと沖縄そばに癒される
https://kaiten-portal.jp/media/okinawa/restaurant/morinoieizumi/

(※)やんばるの森

やんばる地域の範囲

 漢字で「山原」と書いて「やんばる」。
「やんばる」は、「山々が連なり、森が広がる地域」という意味
を持ち、沖縄島北部一帯を指す言葉です。
 亜熱帯の豊かな森が広がる地域という意味で「やんばる」と呼べる範囲はしだいに狭まり、現在では名護市以北が一般的な「やんばる」の概念となっています。
 その中でも、特にヤンバルクイナやノグチゲラなどをはじめとする固有種などが多く生息・生育し、比較的健全な状態のまとまった森が残るのは、沖縄島北部の3村(国頭村、大宜味村、東村)となっています。
 ここでは主に、北部3村を中心とした地域を「やんばる地域」とみなしています。

やんばるの位置と地形

 九州南部から台湾にいたる弓状につらなる島々を琉球弧(りゅうきゅうこ)と呼びます。
 沖縄島はこの琉球弧の中ほどに位置しており、南北110km、東西10kmの細長い島です。
 沖縄島北部の「やんばる」は、特異な成り立ちと生物相を持つ琉球弧の一つです。
「やんばる」は、意外に狭い地域で、南北約32q、東西約12qの範囲の中に、多くの固有種を含むたくさんの生きものがくらしています。
 最も陸地の幅が狭くなる、大宜味村塩屋−東村平良を結んだ直線距離は、わずか約6kmです。
「やんばる」は、西銘岳(420.1m)、与那覇岳 (503.0m)、伊湯岳(446.2m)などをはじめとする標高400m以上の山地が、北東から南西方向に沿って島の中央部に発達し脊梁山地を形成しています。
 また、多くの河川があり、中南部の都市部の水がめとしても重要な役割を担っています。

亜熱帯海洋性の気候: 北緯27度の奇跡の森

 琉球列島は、熱帯と温帯の間をつないでいる亜熱帯(北緯/南緯20〜30度)に属する島々で、沖縄島北部のやんばる地域は、北緯27度付近に位置しています。
「亜熱帯」と聞くと、うっそうとしげる森を想像しがちですが、世界のほかの亜熱帯地域を見てみると、砂漠や乾燥した草原が広がっています。
「やんばる」のような亜熱帯の森(多雨林)は、実は世界的に見ても希少なのです。
 亜熱帯に森が発達しているのは、年間を通して暖かく、季節風や海流(あたたかい黒潮)の影響で雨の多い琉球列島のほか、台湾、東南アジアの一部やフロリダ半島の一部などに限られています。
 この亜熱帯海洋性気候の沖縄島は、夏は蒸し暑く晴れた日が多く、冬は時折小雨を交えた曇りがちの日が多くなります。
「やんばる地域」では、那覇などの沖縄島南部に比べて降水量が多く、気温が低いのが特徴です。
 また、森林地帯では更に降水量が多く、沖縄島最高峰の与那覇岳では年3,000mm以上あります 。


やんばる野生生物保護センター、「ウフギー自然館」(ウフギ―は「大木」を意味する方言)
やんばる地域の自然
http://www.ufugi-yambaru.com/yanbaru/yanbaru_iti.html

(※)ヤッホーくんのこのブログ、2013年10月08日付け日記「アキノ隊員」から、「やんばる」の生き物たちの危機について。

 <アキノ隊員>こと発表者の宮城秋乃さん(34)はこんなことをおっしゃっています:

 今月の調査で東村高江のN1米軍ヘリパッド建設予定地付近にリュウキュウウラナミジャノメが多産していることがわかりました(すでに発表している新川川周辺のリュウキュウウラボシシジミと混合しないでくださいねッ)。
 リュウキュウウラナミジャノメは沖縄島の石川市以北と慶良間諸島のみに分布する沖縄県固有種で準絶滅危惧種に指定されています。
 ヘリパッドが建設されたら環境が変わってしまったり、このチョウの生息地の上をオスプレイなどの米軍機が飛んだりすることになります。
 この辺りからは希少なゴミムシも見つかりました。
「やんばる」の生き物たちの危機をひろめてください、よろしくお願いします。


「沖縄そばの町もとぶ」の全店制覇を目指して食べ歩き、116軒目!

 名護市から八重岳の袂を抜けて美ら海水族館に向かう県道84号(沖縄そば街道)沿いに、つい先日「沖縄そば お休み処 森の家」という大きな看板が出現。
 気になって、リサーチしに行ってみました。

 県道から山間部の道を看板を頼りにどんどん入っていくと、「よへなアジサイ園」と「やちむん(焼き物)喫茶シーサー園」の付近にあるお店にたどり着くことができました。
 六角形の外観をした建物は、もともと建築士をされていたという店主さんが設計、建築をした自宅の一部なんだそうです。
 建築当初から、「いつかは飲食店を」という夢をお持ちだったとのことで、自然木を使ったカウンター席や生簀に使っていた大水槽など、特徴のある内装となっています。

 訪問日の数日前にオープンしたばかり、ということでメニューは沖縄そばとジューシー(雑炊)のみ。
 今回は、「ソーキ・三枚肉そば(中)」をいただきました。

 お肉は、本ソーキ、三枚肉、それぞれ2つずつトッピングされています。

 幅5〜6mm程の平麺をすすると、まろやかな旨味のスープの風味が口の中に広がります。
 化学調味料を使わず、カツオ節ベースの天然素材のスープにこだわっている、ということですが、カツオが主張しすぎることなく、かといって薄すぎるわけでもなく、という絶妙のバランスでした。

 店主さん、これまで他のそば店でも経験を積まれてきたとのことで、安定の一杯です。

 テラス席はビオトープの上がカウンターになっていたり、庭にはうさぎやちゃぼなどの動物がいたり、と山間部ならではの立地を生かした作りになっており、店主さんの中にあるいろいろな構想もうかがうことができました。

 お店のコンセプトやメニュー展開など、これからも楽しみにしたいと思います。


[写真]多数

トコとわたしのやんばる移住日記
2009年3月、8年間勤めた福祉の仕事を辞め、愛兎(トコ)を連れて妻の働く沖縄のやんばるに移住。 暑さが苦手なトコと、おいしいものを食べるためならどんな苦労もいとわないわたしの、やんばるライフの記録です。
2018年09月27日
沖縄そば お休み処 森の家
https://urotanke0214.ti-da.net/e10729979.html

 そう、そう、ここでヤッホーくんがいただいたランチは、コラーゲンたっぷりのテビチ(煮込んだ豚足)がのったそば!

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沖縄県本部町

P1000253 (2).JPG

 8人の山歩クラブの面々は、世界遺産の「今帰仁城」を後にし、向かいました。ど・こ・へ?
 名残惜しい「今帰仁村(なきじんそん)」、でも腹ぺこ8人衆もう背中とお腹がくっつきそう!
 向かった先はお隣の町、沖縄県国頭郡本部町(もとぶちょう):

沖縄県本島北部に位置する本部町をご紹介いたします。
https://www.youtube.com/watch?v=Xh72Gm1q9do

 実は本部町から辺野古に土砂が運ばれていたんです、行ってみなくちゃ:

 政府は2019年4月25日、米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古(へのこ)移設工事で、同県本部町(もとぶちょう)の本部港から埋め立て用土砂を搬出するための作業を始めた。
 これまで名護市の民間桟橋からのみ搬出していたが、本部港も加えることで移設方針は揺るがないとの政府の姿勢を示す狙いがあるとみられる。

 港では、土砂を積んだダンプカーの前に反対派の市民らが立ちはだかり、にらみ合いが続いた。

 辺野古移設が争点となった4月21日の衆院沖縄3区補欠選挙では、移設反対派の新人が容認派の自民党候補を破り当選したばかり。
 移設作業が加速する可能性があり、政府の強硬な姿勢に対して移設に反対する県が反発を強めるのは必至だ。

 防衛省沖縄防衛局の委託を受けた業者は本部港で運搬船に土砂を搬入した上で、4月25日中に出港する見通し(*1)。

 謝花喜一郎(じゃはなきいちろう)副知事は県庁で記者団に、
「補選で民意が示されたにもかかわらず、移設を進めること自体がおかしいのではないかと全国の方々が次第に感じ始めている」
と語った。

 県などによると、本部港は昨年2018年9〜10月、台風の被害に遭い、7ヶ所の岸壁のうち三つが使えなくなった。
 沖縄防衛局の委託業者が使用許可を申請したが、町は県と協議した上で台風被害を理由に不受理としたため使用をいったん断念した。

 このため政府は、名護市安和にある民間会社の桟橋から土砂を搬出する方針に転じ、同12月に辺野古沿岸部への投入を開始した。
 その後本部港は復旧の見通しが立ったため、委託業者が使用を再申請し、本部町が今年2019年4月1日以降の使用を許可していた。

◆ 政府強硬姿勢に市民反発

 新たな土砂搬出の準備作業が4月25日に始まった沖縄県本部町の本部港。

「基地はいらないと何度も意思表示してきた」
「沖縄は弾圧されている」

 沖縄の民意をよそに米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古移設を進める政府に対し、集まった市民らが再び怒りの声を上げた。

 午前7時ごろ港が開場。
 土砂を積んだ10台以上のダンプカーが岸壁に接岸した運搬用の船に向かおうとすると、
「辺野古埋め立て反対!」
「新基地は住民の暮らしと命をおびやかす!」
と書かれたのぼり旗を手に市民らが立ちふさがった。

 2月の県民投票で辺野古沿岸部の埋め立て反対が7割超を占め、今月4月の衆院沖縄3区補欠選挙でも反対派候補が当選した(*2)。
 護岸工事着手からこの日でちょうど2年。
 この間、県民が基地反対の民意を重ねて示しても政府の強固な姿勢は変わらず、市民らは憤った。

 「本部町への使用申請許可と異なる(港の)使い方をしている」

 市民の一人が拡声器を使って訴え、防衛省沖縄防衛局が委託した業者に詰め寄る一幕も。
 周囲では警備員約100人が緑のフェンスを張り、「車両通りまーす」と連呼する声が響いた。
 午前八時半すぎ、一台のダンプカーが隙を突いて船に到着し、荷台を上げて土砂を降ろすと、現場は一時騒然とした。


[地図]
本部港.jpg

[写真-1]
沖縄県名護市辺野古沿岸部の埋め立て用土砂を積んだダンプカーの前に立ちはだかる反対派と、警察官らとのにらみ合いが続く本部町の本部港=25日午前

[写真-2]
沖縄県本部町の本部港=24日(ドローンから)(*3)

東京新聞・夕刊、2019年4月25日
辺野古土砂
別の港から
沖縄補選 反対派当選でも

https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201904/CK2019042502000304.html

(*1)約1ヶ月ぶりの本部港使用再開

 沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設をめぐって、沖縄防衛局は2019年5月21日、本部(もとぶ)港塩川地区からの埋め立て用土砂の搬出を再開しました。
 午前7時20分から正午ごろまで、ダンプトラック181台が港に接岸した台船に土砂を運び入れました。
 4月25日以来、約1ヶ月ぶりの同港使用です。

 現場では「本部町島ぐるみ会議」などの人たち十数人に対し、機動隊・防衛局職員・民間警備員・事業者職員200人近くが動員されていました。

 バリケードやネットを持った民間警備員が列を組んで、抗議者が入れない通路を確保し、その通路を使ってトラックが土砂を台船まで運んでいました。

 しかし通路を確保した場所が、事業者が港の使用許可を得た際に申請していた使用区域を越えていたため、島ぐるみの人たちは、
「違法ではないのか」
と抗議しました。
「本部町島ぐるみ会議」の仲宗根須磨子共同代表(町議)は、
「こんな形で、市民を排除する暴挙は許せない。何が何でも辺野古の埋め立てをやる国の意図を感じるが、今後も負けずに抗議して、行動していくだけだ」
と語りました。

 同港では22日、作業は確認されていません。


[写真]
バリケードやネットで通路を確保する民間警備員(右側)とノボリを掲げて抗議の意思を示す人たち=?日、沖縄県本部町の本部港塩川地区(住民提供)

しんぶん赤旗、2019年5月23日(木)
辺野古土砂 本部港から搬出再開
町民ら抗議

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-05-23/2019052301_03_1.html

(*2)屋良朝博氏

 名護市辺野古の新基地建設反対を訴え、2019年4月21日投開票の衆院沖縄3区補欠選挙で初当選した屋良朝博さん(56)が4月22日午前、米軍キャンプ・シュワブゲート前を訪れ、市民に喝采で迎えられた。
 屋良さんは、
「ここは(基地問題の)原点。皆さんの気持ちを国会に持っていく。当たり前の政治、民主主義をスタートさせる。沖縄は絶対に負けない」
とあいさつした。
 屋良さんが好きだという、米国の公民権運動で歌われた「We Shall Overome(勝利を我らに)」を市民らが一緒にスクラムを組んで合唱した。
 この日も新基地建設作業が行われ、午後1時40分までに、183台の工事関係車両が基地内に入った。


[写真]
米軍キャンプ・シュワブのゲート前で、新基地建設に反対する市民と握手する屋良朝博さん(中央)=22日午前、名護市辺野古

朝日新聞、2019年4月23日03時00分
沖縄)衆院補選で初当選の屋良朝博氏 辺野古であいさつ
(沖縄タイムス)
https://digital.asahi.com/articles/ASM4Q5SV5M4QUEHF005.html?rm=243

(*3)ドローン規制区域を拡大

 ドローン(小型無人機)の飛行を禁じるエリアを広げる改正ドローン規制法が2019年5月17日、参院本会議で可決され成立した。
 重要な施設上空でのドローンによるテロを防ぐ狙いがあり、飛行を原則禁止する区域に2020年東京五輪・パラリンピックの会場や自衛隊施設、米軍基地などの上空を加えた。
 早ければ6月中に施行される。

 同法は2016年4月に施行し、首相官邸や国会、皇居、原子力発電所の上空を飛行禁止区域に指定した。
 改正でこのエリアが広がり、無許可で飛行したドローンは警察官や海上保安官が強制的に回収できる。
 1年以下の懲役または50万円以下の罰金が科される場合もある。

 東京五輪や19年ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会などの期間中、報道機関による撮影目的での会場上空のドローン飛行は、大会組織委員会の同意を得た場合に限って認める。

 衆参両院の内閣委員会は政府に、取材や報道への配慮を求める付帯決議を採択した。

 警視庁は不審なドローンを捕獲するための大型ドローンや、電波を使って操縦できなくする「ジャミング(電波妨害)」装置を配備した。
 一方で警備が手薄な時間帯、地域での飛行への対処が課題になっている。


日本経済新聞、2019/5/17 23:15
ドローン規制区域を拡大
米軍基地など、改正法成立

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44967070X10C19A5CR8000/

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2019年05月22日

今帰仁ベンチ

今帰仁村(なきじんそん)は沖縄県本島北部、美ら海水族館から車で15分程の場所にある、人口約9600名の小さな村です。
日本で一番所得の低い沖縄県の中でも、さらに一番所得の低い「日本一所得の低い村」ですが、村民の「自分は幸せだと感じる」という幸福感がとても高い村なのです。
本作品「今帰仁ベンチ」は「今帰仁村大学生アンバサダー事業」の一環で、制作されたショートドラマです。
沖縄今帰仁村の人々は、素朴で、温かくて、優しい。
このショートドラマのテーマは、そんな今帰仁村の人々にフォーカスしています。
都会で働く主人公の「ミサ」はなぜ、遠く沖縄の 今帰仁村へひとりでやって来たのだろうか?
そして、ミサはこの今帰仁村で何を感じたのだろうか・・・?
このショートドラマを見たことで、今帰仁村へ行ってみたいな・・と感じていだければ幸いです。


今帰仁ベンチ
https://www.youtube.com/watch?v=_LT2IA3z2r4

今帰仁村観光協会.jpg

http://www.nakijinson.jp/

地図 ☟

地図.png

 8人の山歩クラブの面々は、小宇利島を後にし、向かいました。ど・こ・へ?
 もう、すっかり「今帰仁村(なきじんそん)」に魅せられてしまったのです。
 目ざとく見つけた「今帰仁城」、世界遺産?!なおさら行ってみなくっちゃ。
 ガイドさんと歴史のお勉強です: 

 10世紀から12世紀頃、琉球列島にはシマ(村)を統率するリーダーが登場します。
 彼らは「按司(あじ)」あるいは「太陽」や「世の主(ユヌヌシ)」と呼ばれ、やがて緩やかな地域統合がなさされる中、沖縄本島には三つの政治的領域が築かれました。

 山北・中山・山南として中国の史書にも登場する三山がこれです。
 各王は中国(明)と朝貢(ちょうこう)を行い富を得るとともにその支配権を強めていきます。

 やがて15世紀はじめに尚巴志(しょうはし)によって三山統一が進められ琉球王国が誕生します。
 山北の滅亡は1416年(一説では1422年)とされます。
『球陽(きゅうよう)』や『中山世譜(ちゅうざんせふ)』によると、攀安知(はんあんち)は武勇にすぐれ淫虐無道(いんぎゃくむどう)であったとされ、その家来の本部平原(もとぶていばら)も極めて力があったといわれます。
 その軍も勇剛驍健(ゆうごうぎょうけん)で、また城も甚だ険阻で攻撃しにくく、攀安知と平原は中山を攻めることを計画し、兵や馬を整えていました。
 そのことを羽地按司(はねじあじ)が中山の尚思昭(しょうししょう)に伝え、兵を先に動かして攻めることを進言したとされ、続いて国頭按司(くにがみあじ)、名護按司も同様なことを告げ、尚思昭は世子の巴志(はし)に命じて山北を攻めさせたと言われています。
 つまり、山北側の国頭按司、名護按司、羽地按司は、中山軍に組して、今帰仁城に攻め入ったのです。

 琉球は中国(明)の解禁政策により海外貿易を制限していた中で冊封貿易を進めます。
 中国との交易により富を得、南はシャム、安南、マラッカなど、北は日本、朝鮮へと船を出し産物を仲介する貿易を行っていました。
 主な交易品は中国陶磁、金、銀、生糸(きいと)、緞子(どんす)、麝香(じゃこう)などを中国から海外へ、逆に東南アジアからは香料、錫(すず)、象牙、酒などを満載して帰国します。
 王国の繁栄は第二尚氏の誕生により隆盛(りゅうせい)を極め、王府組織の官僚制の整備と土着の宗教体制を整え、琉球独自の神女組織(しんにょそしき)ノロ制度を確立させます。

 1609年薩摩の侵攻により大きなターニングポイントを迎えた琉球は、日本と中国の狭間にあって新たな時代への対応を余儀なくされます。

 時代に翻弄(ほんろう)されながらも17世紀後半に整備された王府身分制、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)・蔡温(さいおん)らの改革等により国家経営を模索(もさく)、17〜18世紀には現代に引き継がれる文学、芸能、美術工芸が発展し、王国文化に大輪の花を開花させることになります。

 1879年明治政府は琉球藩を廃止、沖縄県を設置。
 ここに450年の琉球王国の歴史が閉じられます。
 今帰仁城は、琉球が中山に統一される前の「三山鼎立時代」には山北(北山)王の居城とし、また中山が三山を統一後には琉球王府から派遣された監守という役人の居城でした。
 外郭を含めると7つの郭からなり、その面積は首里城とほぼ同規模で、城を囲む石垣は地形を巧みに利用し曲線を描き、城壁のディテールは美しく、沖縄屈指の名城です。
 2000年に座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽と共に本村の今帰仁城跡の九つの資産が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産リストに登録されました。


今帰仁城跡・琉球王国の誕生
https://www.nakijin.jp/pagtop/rekishi/nakijinjo/4/910.html

 何度訪れても、心を奪われるグスクだ。
 世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつである今帰仁(なきじん)城は、那覇市から約85キロ、沖縄美(ちゅ)ら海水族館からほど近い沖縄本島北部の今帰仁村にある。
 グスクのある本部半島は東シナ海に突き出しており、今帰仁城は半島北端の海岸からわずか800メートルほどの標高約100メートルの高台にある。
 そのため、最高所からはグスクを取り巻く石塁と、その向こうにライトブルーとインディゴブルーのツートンカラーの海を見渡せる。
 累々たる壮大な石塁は思わず時を忘れるほど美しく、吹き抜ける風も心地よい。

 今帰仁城は14世紀前期から約100年間、三山時代と呼ばれる古代琉球の一時代を束ねた3大勢力(北山、南山、中山)の一角、北山王が居所としたグスクだ。
 1416年(1422年説も)に中山王の尚巴志(しょうはし)が三山を統一し琉球王国を誕生させたことで、三山時代は終わりを告げた。
 しかし、北山の滅亡後も今帰仁城には琉球王府から監守(役人)が派遣され、1609年に薩摩軍に攻められるまで存続した。
 現在見られる壮大な石垣を築いたのは、北山王だったとみられる。

 今帰仁城は、学術的にも価値が高い奇跡のグスクといえる。
 その理由は、大きく分けて二つある。
 一つは、グスクを囲む外郭の石塁、その外側に置かれた出城らしきグスク、ハンタ道と呼ばれる登城道、人々が暮らした集落跡にいたるまで広範囲にわたり残存し、グスクの姿や人々の営みがうかがえることだ。
 1609年に薩摩軍に侵攻されると炎上し、廃城となったが、その後もグスクそのものが信仰の場となって大切にされ、太平洋戦争の沖縄戦の被害もなく生き残った。

 出城または物見台と考えられるミームングスクは、外郭から約400メートル北側のハンタ道沿いにある。
 今帰仁城の東側を流れる志慶真川(しげまがわ)に張り出した丘陵に築かれ、現在は木々に覆われているものの、木々の隙間からは海も陸もよく見える。
 なるほど、物見台として最適な場所といえそうだ。
 高さ1.5メートル、18メートル×19メートルの巨大な方形の石積みで、ここにどんな建物が建っていたのだろうかと想像が膨らむ。
 同じくシニグンニと呼ばれる石積みも出城または物見台といわれる。
 こちらは祭祀(さいし)場を連想させる一風変わった空間で、階段がついた1辺6メートルの方形石積みの脇に、直径約6メートルの不思議な円形の石積みが並ぶ。

 また、あまり知られていないのだが、今帰仁城の史跡名は2010年に「今帰仁城跡 附(つけたり)シイナ城跡」に変更されている。
 シイナ城とは、今帰仁城の南東6キロにある今帰仁城以前の北山王の居城だ。
 これまでは伝承に過ぎなかったが、北山王が移転する歴史背景が明らかになったため史跡範囲の追加が認められた。

 奇跡の城たるもう一つの理由は、北山王が現在の姿に改修する以前の姿まで確認されていることだ。
 発掘調査の結果、今帰仁城の主郭では9層が確認され、大きく4時期の改変を経て13世紀末頃から17世紀前半まで機能していたことがわかっている。
 北山王が文献に登場するのは1314年だが、それ以前にも在地領主が今帰仁城にいたのだ。

 この地は貿易船のルート上にあり、朝貢貿易が行われる以前から地方領主が機能させていた重要な地だったのかもしれない。

 岩山の山頂部を削って平らにし、東西の斜面に土留めの石積みを築いて内側に土を入れて版築したのが、13世紀末〜14世紀前期のこと。
 14世紀中期になると石塁が登場し、建物はそれまでの掘立柱建てから礎石建てへと変化した。
 14世紀後期〜15世紀前期は最盛期で、現在の広さへ敷地が拡張されている。
 発見された遺物が物語るのは、14世紀中期から地元産の土器づくりが終わり、使用する器は中国産の陶磁器が中心になったこと。
 中国の史書『明実録』には、14世紀後期から15世紀前期に北山王がたびたび交易をおこなった記述があり、陶磁器の変化は交易によって北山王が勢力を増した証しといえるのだろう。
 琉球王国の監守が置かれた15世紀前期〜17世紀前期は、広さはそのままに建物が建て直されたようだ。

 今帰仁城の大きな特徴は、うねるようになめらかなカーブを描く石塁の美しさだ。
 琉球石灰岩が積まれたグスク特有の石塁だが、よく見ると、首里城や中城グスクとは質感や色が異なる。
 同じ石灰岩なのだが、首里城や中城グスクなど多くのグスクでは200万年ほど前の珊瑚礁(さんごしょう)からできた琉球石灰岩を用いているのに対し、今帰仁城では約2億3000年前の中生代の石灰岩が積まれているのだ。
 本部半島の地質は沖縄でももっとも古い地層群で、今帰仁城の近くにはカルスト地形が広がっている。
 今帰仁村の山間部には結晶質石灰岩や泥岩、チャート、砂岩などさまざまな岩石が分布し、その地層のまわりに新しい琉球石灰岩や段丘堆積(たいせき)物、土砂や礫(れき)層が広がる。
 今帰仁城の石材は古期石灰岩と呼ばれる石で、表面も岩のようにゴツゴツとしてキメが荒い。
 グスク内には岩盤がかなり露出しているのだが、層があり、層がはがれるように割れているのがわかる。

 残念なことに、主郭東側の石塁の一部が2018年7月の台風の影響で崩落してしまった。
 グスクの石塁は本土の石垣に比べて控え(奥行き)が少ないのが特徴だが、今帰仁城の石塁はひときわ控えがなく、積み木のように小ぶりな石をそのまま積み上げたような様相をしている。
 しかも、今帰仁城内の石塁はいずれも73〜80度の急勾配だ。
 崩落面を見ると崩れても仕方ない気がするのだが、その一方で、ほぼ方形の小さな石材を勾配なく高さ7〜8メートルも積み上げられた技術力の高さ、600年も崩れずに残っていることに改めて感動してしまう。

 今帰仁城では、今回に限らず元の状態に戻すことを修復の基本方針としている。
 ただし該当する石垣はすでに2004年度に修復されているため、同じように修復すると再び崩落する可能性があることから、2019年度から専門家により最善策が審議されるとのことだ。
 元の姿に戻るまでには少し時間がかかりそうだが、すでに志慶真門郭に降りる階段が設置され、修復の様子も見学できるという。

■ 今帰仁城
那覇空港から車で約2時間45分
http://nakijinjoseki.jp/(世界遺産今帰仁城跡)


[写真-1]
御内原(うーちばる)からの景色。1段下の大隅(うーしみ)には高さ7〜8メートルの石塁が積まれている

[写真-2]
外郭の石塁。高さ2メートルほどの比較的低い石垣が、数百メートルにわたり蛇行しながら続く。屋敷跡も確認されている

[写真-3]
ミームングスク。高さ1.5メートルの石積みが方形状に積まれている

[写真-4]
シニグンニ。奥には階段がついた方形の石積み、手前には円形の石積みがある

[写真-5]
ハンタ道は、今泊集落から今帰仁城への登城道。道幅2〜4メートルの登城道が総延長約740メートルに渡り保存されている

[写真-6]
大隅北面の石塁。岩盤を削り、その上に石塁が積まれていることがわかる

[写真-7]
今帰仁城の石材は首里城などと比べると色も青黒い

[写真-8]
崩落した石塁。幅約9.7メートル、高さ約6.4メートルにわたって崩れた

[写真-9]
崩落部。控えがほとんどない小ぶりの石材が、ほぼ傾斜なく積まれている

[写真-10]
階段が設置され、志慶真門郭を見学することができる(工事中は途中まで)

朝日新聞・Travel、2019.03.18
青い海を見下ろせる奇跡のグスク 今帰仁城
文: 萩原さちこ
https://www.asahi.com/and_travel/20190318/61558/


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今帰仁村 古宇利島

 「嵐」・・・いったいどうしたの、朝からもう、ヤッホーくん。
 実は、山歩クラブ沖縄合宿で「嵐」を見つけたんだって・・・

 ナガンヌ島!
https://www.nagannu.com/

https://www.youtube.com/watch?v=HcKruL1TQpE

 えっ、違うでしょ!
 その場所は、沖縄の北、今帰仁(なきじん)村古宇利(こうり)島!
 
嵐 CM JAL 先得 「ニッポンをみつけよう きれいな海」篇
https://www.youtube.com/watch?v=6yTXHRjNM74

古宇利大橋〜古宇利島へドライブ 沖縄のオススメ絶景スポット
https://www.youtube.com/watch?v=PRwFYJWwa8o

BIRD'S EYE VIEW 絶景空撮 古宇利島 - Kouri Island in Okinawa, Aeral Footage -
https://www.youtube.com/watch?v=abTDZKJ8V7k

 青い空とエメラルドグリーンの海に囲まれた古宇利島。
 沖縄は海の美しさが魅力ですが、その中でも古宇利島の海は格別に美しく透明度が抜群です。
 きれいな海の他にも絶景スポットがたくさんあり、観光には欠かせないスポットになっています。

 古宇利島は那覇市から車で約1時間半、本島北部の今帰仁村にあります。
 2005年に隣の名護市屋我地島との間に「古宇利大橋」が開通し、車で渡れるようになりました。
 橋の長さは1,960mと無料で通行できる橋としては国内屈指の長さを誇り、人気のドライブコースになっています。
 橋の両側にはエメラルドグリーンの海が広がり、その景色の美しさは思わずため息が漏れてしまうほど。
 海の上を走っているような気分を味わうことができます。

 島内には高い建物やお店が少なく外灯などの人工的な光もないので、夜になると頭上には満天の星空が広がります。
 肉眼でも小さな星まではっきりと見ることができ、運が良ければ流れ星が見えることも。
 海から聞こえる波の音に癒されながら満天の星空を見上げて過ごすひと時は、日々の喧騒を忘れさせてくれるでしょう。

 また、古宇利島は古くから「恋の島」や「神の島」であると伝えられています。
 これは「アダムとイブ」の沖縄版のような言い伝えが残っており、「こうりじま」の語源が「恋島(くいじま)」だと言われているからだそうです。

沖縄随一の美しさ!絶対行きたい「古宇利島」の心に残る絶景スポット
https://www.jtb.co.jp/kokunai/area/okinawa/kaitekisengen/encyclopedia02.asp

 ハートロック、だってぇ〜

感動の瞬間 「ハートロック」編 エースJTB【JTB公式 official】
https://www.youtube.com/watch?v=HhMzBcZugcQ

 沖縄北部の今帰仁村・古宇利島にある「ハートロック」をご存知ですか?
 実はあの嵐が出演したJALの先得CMのロケ地になったのをきっかけに、年間80万人が集まる観光名所なんです。
 このハートロックを生んだのは、今帰仁村観光協会の又吉演さんと上間宏明さん。
『チェケラッチョ!!』『サウスバウンド』などのロケ地誘致のキーマンでもある二人に、ハートロックが生んだ光と影についてお伺いしました。

 地元メディア「ジモコロ」をご覧の皆さま、はじめまして。
 沖縄在住のフリーライター真崎と申します。
 写真でわたしが飲んでいるものは、沖縄居酒屋の泡盛カクテルです。

 わたしは昨年2016年6月に東京・池袋から沖縄にふらりと移住しました。
 東京でバリバリ働く女性の5人に1人(当社比)が20代半ばか後半に「もう仕事も都会にも疲れたわ」と人生を憂う第2次モラトリアム期に入るじゃないですか。
 わたしももれなくそのアレです。

「もう全てを捨てて、暖かくて自然の多い場所でこころ穏やかに生きていきたい」

 そんな悲痛な思いと共に都会を離れ、日本でいちばん南国っぽい沖縄に住んでみようと決めました。

。。。

わたしのイメージしていた「沖縄っぽさ」があった“今帰仁村”

年間80万人が訪れる古宇利島と、観光名所「ハートロック」

ハートロック発見・命名から大ヒットまで5年、地道なPR活動

嵐のCM効果で「集客」は大成功した、けど……

金もうけに走る業者、自然を汚す悪客、ハートロックのヒットが生んだ歪み

“ぬーんねんしが 今帰仁村”を好きになってくれる人が、大切なお客さん
『ぬーんねんしが 今帰仁村』、つまり『何もないけど 今帰仁村』っていうポスターができたんです。何もないんだけど、今ある自然の中で癒されてほしいって思いを込めて

どこまでもハート推しな男たち
。。。

 沖縄に来た際は、よかったら今帰仁村に遊びに来てみてください。
 その際はぜひ「良いお客さん」として。

 そしてハートロックを見に来るついでに、村のどこかに隠れているらしいハートも探してみてください。
 私も未だに見つけられていません。


ジモコロ、2017.08.21
CM効果で年間80万人!沖縄の島に観光スポットを作った男たちが語るブームの功罪
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/masaki01

 ではここで山歩クラブの沖縄合宿アルバムよりご紹介:

 古宇利島 ☟
古宇利島.JPG

 古宇利大橋 ☟
古宇利大橋.JPG

 ハートロック ☟
ハートロック.JPG

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嵐、2020年末で活動を休止

 人気アイドルグループ「嵐」が2020年末でグループ活動を休止すると発表して1ヶ月。
 熱烈なファンだけでなく幅広い層の関心を集めている。
 昭和の時代からアイドルの活動休止は世の中に大きな反響をもたらしたが、ファン消費は平成になって膨らみ続けている。
 今回の嵐の反響を見ると、平成の時代を通じたアイドルとファン消費の変化が浮かび上がる。

■ 身近に感じる安心感、ファン層厚く成熟

「ずっと嵐と一緒に生きてきた。受験や仕事で辛いときなど、いつも人生のそばに嵐があった。活動休止を知って以来、何もする気が起きない」

 15年来の嵐ファンという東京都の20代女性は、1月27日の活動休止発表以来、ショックを引きずっているという。

「嵐に出会えたことは一生の財産です。5人のつくる世界が大好きです」

 東京・渋谷のタワーレコード渋谷店。
 同店が設置したコーナーに置いたノートには嵐への思いを寄せ書きする女性の姿が絶えない。

「活動休止の発表と前と後で売り上げが全然違う。ベスト盤のCDが一番売れている。コンサートのDVDも。海外から来る人も多い」
(担当者)

[写真]
嵐のCDなど作品を集めた特別コーナー(東京都渋谷区のタワーレコード渋谷店)

 嵐の活動休止発表後の反響から見えるのが、平成以降のアイドルに対するファンの熱量の増大だ。
 矢野経済研究所の2018年調査によると、アイドルへの支出は1人当たり年10万3543円と17年比17%増。
 音楽ソフト市場は縮むが、アイドルのソフトは応援目当てで買うファンが多い。

 ライブ市場の伸びも顕著だ。
 ぴあ総研によると、17年の国内の音楽ライブ市場は3466億円。
 00年比で約2.8倍だ。

「1980年代後半と比べると音楽関連の動員数は3倍以上」
(関係者)

 消費者のコト消費へのシフトが進んだ結果、
「1グループの動員規模が大きく成長した」
(笹井裕子・ぴあ総研所長)。

 嵐も公演回数に各会場の最大収容人数をかけた興行規模が17年に118万5千人と08年比では約2.5倍となった。
 なぜ平成のアイドル消費は規模が拡大したのか。コラムニストの堀井憲一郎氏は、
「昭和の時代は10代のアイドルを同世代に売ってきた。平成は30代でもアイドルを続け、ファンの年齢も上がった」
と分析する。
 求められるアイドル像も変わった。
「アイドル国富論」などの著者がある境真良氏は、
「80年代まではファンは未熟なものを愛していた。今は消費者がアイドルも"同じ人間"とわかり、アイドルも(バラエティーなどに)活動範囲を広げることができた」
と指摘。
 男性アイドルではSMAPが切り開いた道を嵐などが歩み、幅広い層に人気を得る方程式ができた。
 企業がCMに起用するアイドルも、新人発掘型から認知度と身近さを重視するようになったと指摘するのは宣伝会議の田中里沙取締役。
 清涼飲料のCMなどでは新人タレントを見る機会が減った。
 嵐について、
「SMAPもパワーがあったが、メンバー全員が仲がいい嵐はそれ以上にチーム力を想起する。グローバル化が進む今の時代だからこそ、逆に親しみやすさ、身近さがマッチしている」
と指摘する。
 関西大学の宮本勝浩名誉教授は19年の嵐の経済効果を約1505億円、来年末までとなると約3249億円と試算する。

■ コラムニスト堀井憲一郎さん「活躍長くなり『ずっと好き』
― 平成になり、アイドルは変わりましたか?

[写真]
ライター 堀井憲一郎氏

「昭和の時代は、アイドルといえば10代のイメージ。年齢が上がると、歌手になるステップを踏んだんですよね。それが平成は30代でもアイドル。長続きするようになった」

― なぜ長続き?
「かつては消費者側が卒業した。大人にならなきゃいけないっていう意識の強さや、早く大人になりましょうっていう空気も強かった。若者文化という分野が狭くて、大人にならないと楽しめないという意識があった」
「例えば、僕が成人した昭和の終わりごろは、ほとんどの飲み屋にはビールと日本酒とウイスキーしかない。カクテルは銀座のバーにいかないとないわけですよ。苦くてもビールを飲むしかない。ハタチになったら、がんばって背伸びしてこっちに来るしかなかった」
「それが80年代後半、甘い酒を売ったら売れた。若者や女性に市場が広がる。初めて飲む時においしく飲める酒を売るのと同様、アイドルも作る側が『アイドルずっと好きでもいいですよ』っていうかたちに変えていった。消費者側が求めていることに気づいたということだと思うけれど」

― 平成を代表するアイドルというと?
「SMAPを先頭にしたジャニーズのグループですよね。男性のグループアイドルが根付いていったのが平成」
「最初はSMAPというグループで個々の顔が分からないけれど、(稲垣)吾郎ちゃんが朝ドラに出て認識され、というふうに、顔を覚えだしていくんですよね。しかも1人ずつ順番に売り出す。わくわくしましたよね。気づくと5人誰でも主演がとれる人になっていて、それが一堂に会してるっていう。TOKIOや嵐も同じような流れですよね」

― 嵐が活動休止を発表しました。
「ああそうか。言われてみればそうか、しょうがないかと思いました。プロスポーツ選手でみても、サッカーの三浦カズ選手以外は40歳ぐらいが限度じゃないですか」
「嵐は、仲がよさそうというところが、非常にポイントですよね。チーム全員が仲いいというのは、普通、男社会ではいらないことなので。『VS嵐』(フジテレビ系)で最初5人がトークするのが、すっごい好きなんです。和みますよ」

― 今後、国民的なアイドルは登場しますか?
「天明、寛政の頃から日本人は好きなアイドルはいるから、いなくなるわけないです。江戸時代の歌舞伎役者しかり。『みんなが好きなアイドル』を多くの人が求めていると思います。そういう対象があるほうが、極端に言うと、日本人の安定につながる(笑)」

「アイドル国富論」著者 境真良さん「メンバーの人生、尊重するムード」
― 嵐の活動休止をどう捉えていますか。

[写真]
「アイドル国富論」著者の境真良さん

「世間一般に広がる働き方改革の流れに連なる動きだろう。人間の見方は人的リソース、あるいはそれぞれ人生がある一人の人間という2つある。これまでは前者に合わせるよう会社が要請してきたが、労働力が減った今は会社がそれぞれの人生に合わせないといけない。仕事は個人の自己実現に従属する性格を強めている」
「日本社会は成熟し、人間に対する見方はふくよかになりつつある。多くの人たちは嵐のメンバーが自身の人生を尊重する決断を下したことを、当然と捉えて受け入れているだろう」

― 嵐はなぜ国民的アイドルとなったのでしょうか。
「ジャニーズ事務所が作った5〜6人組王道アイドルの道を真っすぐに歩いてこられたためだ。メンバーはクセがなく、CMにも起用しやすい」

― 境さんは桜井翔さんのお父さんの同僚だったこともあったとか。
「翔さんとお父さんは口元が似ているかな」

― 今後、嵐のようなアイドルは現れますか。
「バラエティー番組の多様なニーズに応えるためには7人以上と、もっと人数が多いグループが主流となるだろう。様々な個性を持ったメンバーがそれぞれ活躍するというあり方だ」
「より人数が増えると、多くの人がメンバー全員の名前を把握するグループは登場しにくくなる。CMもグループで起用するのは難しくなる」

―テレビの存在感が小さくなっていると言われています。
「テレビの影響力が衰えたというのは嘘だと思う。インターネットも結局はマスメディアをネタにすることで成立している。インターネット掲示板で話しているのは結局テレビのことだ。ネットがヒットの種を生み出し、マスメディアがその種を見いだして世に知らしめ、メディアを見たネットがさらに拡散するという循環になっている」

― 人はなぜアイドルに熱をあげるのでしょうか。
「メンバー間の関係性や、グループがこれまで積み重ねた歴史が人をひきつけている。アイドルは自身の人生を投入して挑戦を重ね、すごい密度でドラマを見せてくれる。ドワンゴの川上量生さんは『人々はコンテンツには没入せず、キャラクターにしか没入しない』と言っていた。なぜそうなるのかはっきりさせられていないが、キャラクターの後ろに過去やコンテンツの中での位置づけを見て引き込まれるのだろう」

■ 宣伝会議取締役 田中里沙さん「仲が良くて親しみやすい」
― テレビCMで起用されるアイドル・タレントはどう移り変わってきたのでしょうか。

[写真]
事業構想大学院学長で宣伝会議取締役の田中里沙氏

「1980年代、認知度がある人を起用して、企業や商品を知ってもらう効果があった。例えば松田聖子さんやキョンキョン(小泉今日子さん)。起用したアイドルのテレホンカードを持って営業にいくと、受付が通りやすくなったなんてことがいわれた時代だった」
「一方、企業のこれからの姿を映し出すフレッシュなイメージを出すために、積極的に起用するアイドルを発掘した。宮沢りえさんを起用した資生堂の『遠野物語』は美少女にスポットを当てたCMだ」
「90年代になり、消費の主役である女性を取り込むために、アイドルのつくられた姿ではなく、意志、考え、生き方を伝えるようなCMが出てきた。松嶋菜々子さんらを起用したパナソニック(当時松下電工)の『きれいなおねえさんは、好きですか。』などだ」
「画期的な商品が出にくくなった近年、商品は値段か、好きか嫌いかで判断される。認知度があって、仲がよくて、身近な感じがして、上から目線じゃない嵐は今の企業が求めているものだ」

― 日本企業の立場が嵐を求めたと。
「今、世界へのチャレンジというメッセージを発信したい企業は有名なスポーツ選手を起用している。一方でグローバル化という流れがある現代だからこそ、身近さ、親しみやすさも求められる。みんな仲が良くてチームの連携力がある嵐はうってつけだった。SMAPも非常にパワーがあったが、チーム力を想起するわけではなかった」
「日立のCMがわかりやすい。冷蔵庫、エアコンと一つ一つの商品のCMには嵐のメンバー1人ずつが出て、会社全体のCMには全員が出ている。まさにチーム力を感じるし、BtoB企業に向かって身近な感じがしなくなっていた日立の製品イメージが嵐の力でよみがえった」
「親子3世代が知っているのも強い。各世代ごとに宣伝する手間がかからないし、年配の人が多い役員会議でもCM起用が通りやすい。趣味・嗜好の多様化で認知度が高いアイドル・タレントは少ない。他のジャニーズ系のグループも嵐ほどは全世代で見たときの認知度が高くなく、テレビCMで嵐にかわる存在は今はいない」

日経MJ 2019年2月27日掲載

日本経済新聞・日経MJ コラム(ビジネス)、2019/3/3 6:30
「嵐」のチーム力、時代にマッチ
(小林宏行、井土聡子、山田彩未)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41865590Y9A220C1H11A00/

 では、ここで、昨日の嵐を思い浮かべながら聴いてみましょう「嵐」!

嵐 ふるさと熊本
https://www.youtube.com/watch?v=Y7FNYSE4TcE

嵐の歌唱力がすごい!「ふるさと」生歌の熱唱で小学生が感動の涙。
https://www.youtube.com/watch?v=mPzaFgR-Tkk

JAL Fly for it!「みんなの2020」嵐Ver メイキング篇
https://www.youtube.com/watch?v=Q2RrcVI7WpQ

JAL Fly for it!「みんなの2020」嵐 ver30秒
https://www.youtube.com/watch?v=rogaW3zt88I

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2019年05月21日

西城秀樹さん、一周忌

西城秀樹さんの突然の訃報から1年……。
5月16日は西城さんの一周忌に当たります。
実は、2度目の脳梗塞から復活された2013年、弊誌『婦人公論(1916年の創刊)』で森昌子さんとの対談が実現していました。
かつて「新御三家」「花の中3トリオ」として活躍したお2人。
森昌子さんも、更年期障害とがん手術を乗り越えています。
お互いに大病を乗り換えた2人が、絶望との闘いと、明日への思いを語り合った「伝説の対談」を、ご遺族、森さんのご許諾を得て再掲します。

できなくなったことはたくさんある。
「ありのままの自分」を受け入れて、今できることを──
(西城さん)

互いに父親、母親となって

秀樹: 久しぶり。こうして会って話をするのは……。

昌子: 25年ぶり、くらいですね。

秀樹: そんなに? 名前を呼ぶのに「昌子さん」でなきゃいけないよな、なんて思っていたけど、会って顔を見ると、やっぱり昔のように「昌子ちゃん」と呼びたくなる。

昌子: 嬉しい。私も「西城さん」じゃなくて、「秀樹さん」ですもの。

秀樹: 時間が一気に縮まるね。デビューは僕が1972年の3月。

昌子: 私は同じ年の7月です。

秀樹: 僕と郷ひろみくん、野口五郎くんが「新御三家」と呼ばれて。

昌子: 私と山口百恵ちゃん、桜田淳子ちゃんが「花の中3トリオ」。当時は生放送の歌番組が多くて、しょっちゅうご一緒していました。

秀樹: 『明星』や『平凡』の表紙やグラビアの撮影なんかもね。

昌子: 「新御三家」と「中3トリオ」が3対3で並んで撮られたり。あの頃、13歳の私にとって、ワイルドな17歳の秀樹さんはとても大人っぽく見えたんですよ。

秀樹: 今朝、カミさんに昌子ちゃんや僕らのデビューの頃の話をしたら、「私、生まれてないかもしれない」と言われてガクッ。(笑)

昌子: 奥さま、お若いんですよね。

秀樹: 17歳下なんです。

昌子: 秀樹さん、独身が長かったから、そのまま結婚しないんじゃないかと思っていました。

秀樹: 結婚願望はなかった。カミさんは公共事業を請け負う会社で下水道の設計を担当しててね。芸能界のことはぜんぜん知らない。そんな「普通の価値観」に惹かれたのかな。で、46歳で結婚……。そういえば、25、26歳のとき、今は亡き父親に、「おまえ、結婚しないのか。私は森昌子ちゃんがいいと思う」と言われたことがあってね。

昌子: わぁ、初めて聞きました。

秀樹: 父親がその次に言ったのが、「水前寺清子さんもいいなあ」。(笑)

初めは病気を受け入れられなかった

昌子: 今、お子さんは?

秀樹: 10歳、9歳、8歳。上が女の子で、下2人は男の子。昌子ちゃんは?

昌子: 男ばかり3人で、25歳、24歳、19歳。全員、社会人になったので、ほっとしています。秀樹さんのところはお子さんたち、まだ小さいから、一緒に遊べるでしょう。

秀樹: 脳梗塞のリハビリのために家の近くの公園を毎日、散歩しているのだけど、子どもたちもつきあってくれるんだ。といっても、僕がひたすら歩いているあいだ、子どもたちは遊んでいるけどね。

昌子: どのくらい歩かれるんですか。

秀樹: 調子のいいときは1周200メートルの公園を20周くらい。右の手足がまだ少し不自由なので、杖なしで長い距離を歩くのは大変。でも、それがリハビリだからね。1日やればすぐによくなるというわけではなくて、年単位で考えないといけない。ともかく毎日がリハビリです。

昌子: 2003年に脳梗塞に倒れてからの秀樹さんの闘病生活や、ステージで歌われるまでを追ったテレビの番組を拝見しました。大変な思いをしながら、一つひとつ困難な壁を乗り越えて、皆さんに夢と希望を与えている。素晴らしいと思ったのです。私自身、子宮がんなどの病気をして、心の痛みも体の痛みも経験したのですが、「人生、あきらめちゃいけないよ」というメッセージを秀樹さんからいただいたような気がして。

秀樹: 僕も初めは病気を受け入れられなかった。でも今から考えると、1回目の脳梗塞はまだ軽いジャブみたいなもの。8年後の再発こそがアッパーカットをくらった感じで、挫折感も大きかった。「気をつけていたつもりなのに、なんで?」って。後遺症も初回のときより重くて、半身は麻痺、唇や舌がしびれてろれつが回りにくくなる症状もあった。思うように動かせない体に、「死んだほうがまし」と考えたことも……。

昌子: どうやってそこから抜け出したんですか。

秀樹: 子どもたちを見てると、いつまでも落ち込んでいられない。たとえ体の自由を奪われても、上を向いていなきゃと思ったの。昌子ちゃんも大変な経験をしたんだよね。

昌子: 離婚した翌年の2006年に芸能界に復帰したのですが、その頃から重い更年期障害に苦しみました。20年ぶりに再デビューしたものの、声にハリやツヤはなく、歌そのものも思うように歌えない。みなさんの期待に応えられず、自分を責め続けて……。しかも、仕事の現場も、人も環境もすっかり変わっていて浦島太郎みたい。いろいろなことが重なり、心身のバランスを崩して、うつ状態になりました。さらに子宮に筋腫がいくつもできて、とどめが子宮がんの告知でしたから、「なんで自分が」と思いましたね。

秀樹: 「なんで自分が」というのは僕も同じだったなあ。

「前の僕とは違う」と認めないことには、前に進めない

昌子: 手術で取り除けば治ると言われても、子どもたちを守り育ててくれた子宮を失うと、女性でなくなるような気がして――そんなことはないですけれど。それに再発への不安もありました。その後1年間、手術を避けて薬餌療法を試みたのですが、副作用で顔中に湿疹ができて、とても人前に出られる状態じゃない。テレビのお仕事でも、うつむいてばかり。それで10年の5月に手術に踏み切ったのです。術後は順調に回復し、ようやく元気を取り戻しました。でも、それまでの3年間は、病気の苦しみや歌をうまく歌えないために絶望感でいっぱいでした。

秀樹: 僕もね、「こんなはずじゃない」と追いつめられた気持ちだった。リハビリも、手の機能回復のためにボールを持ち上げたり、おはじきをしたりで、「なんで、こんな子どもじみたことをしなきゃならないんだ」と、最初は怒りさえ感じた。だけど実際には、そんな簡単なこともできない自分がいる。それが現実。病気をして、できなくなったことはたくさんある。ならば、「ありのままの自分」を受け入れて、今できることをやるしかないんだね。「前の僕とは違う」と認めないことには、前に進めない。

昌子: いくらまわりに「前向きに」と言われてもダメなんですよね。自分自身がそのことに気づかないと。

秀樹: そもそも僕が脳梗塞になった大きな原因は「水」なの。それまで、ステージをこなすパワーを身につけ、体形を保つためにボクサー並みの激しいトレーニングをしていたんだけど、その際に水分補給をほとんどしなかったのが間違いだったんだね。いつの間にか血管がむしばまれていて、最初に倒れたのも、サウナでの脱水症状が引き金だったから。今は朝起きたら500 mL、1日に2〜3Lは水を飲むようにしている。脳梗塞についての講演を依頼されると、まず言うのが「水をたくさん飲んで」ということ。

昌子: その後のリハビリはいかがですか。

秀樹: 一所懸命に続けてます。リハビリ施設に通って機能回復のためのメニューをこなしているし、声のほうも、舌のトレーニングのために音読──文章を声に出して読むというのを1時間、毎朝の習慣にしている。とにかく積み重ねが大事だから。

昌子: 何ごとも積み重ね、というのは私も実感しています。再デビューしたとき、昔のように歌えなくて、ひどく落ち込んだけれど、秀樹さんがおっしゃるように、トレーニングを地道に続けていくしかないですよね。

いつも手をつないで杖の代わりになってくれる

秀樹: 僕は倒れてすぐの頃、散歩中、「リハビリですか」と人に声をかけられると、「放っておいてよ」と思っていた。今は、「あなたも脳梗塞ですか。一緒に歩きますか」と自分から声をかけられるようになってね。そんなことが嬉しかったりする。リハビリも、このあいだまでできなかったことができるようになると胸が弾む。ハードルは低いかもしれないけど、その高さが徐々に上がっていく喜びというのかな。「できた」「ありがとう」と、毎日感謝の気持ちが湧き上がってくるんだよね。

昌子: 私も、落ち込んでいたとき、家族や会社の人たちが常にそばにいて支えてくれたなあって、今は感謝でいっぱいなんです。

秀樹: 家族の存在は大きいね。うちの子どもたちも彼らなりに僕を気づかってくれて、風呂で背中を流してくれたりするの。ああ、こんな幸せもあるんだと……。最初に倒れたとき、カミさんは2人目の子を妊娠中。再発もあって、つらい思いをさせっぱなしだよ。「ゴメンね、迷惑かけて」と言うと、「そんなことないわよ」と楽しそうに子どもと僕の世話をしてくれている。僕と歩くときには、いつも手をつないで杖の代わりになってくれるしね。好きで病気になったわけじゃないけれど、小さな幸せをいっぱい気づかせてくれたのもまた、病気なんだよね。

昌子: 病気や苦しみの渦中にあるときは、この先もずっと暗闇に閉ざされたままのような気がするものですが、出口のないトンネルはないんですよね。私自身、今、こうして笑顔でいられるんですから。ずっと応援してくれているファンの方たちの声にはとても励まされました。

秀樹: 僕は、同じ病気だという年輩の方から手紙をいただくことが増えたの。僕の姿を見て元気づけられていると言われると、「よし、頑張らなきゃ」と、こっちが励まされる。

昌子: あらためて歌手でよかったなあと思うんです。震災後、被災地に行きました。私に力仕事はできないけど、歌うことだけはできる。歌を聴いていただいているあいだ、みなさんに少しでも笑顔になってもらえたら、私も幸せ。これまでつらい時期もあったけれど、それだけに今、歌うことは本当に楽しい。歌こそ私の使命だと思ってます。

秀樹: 「うまく歌おう」ではなく、「伝えよう」という気持ちだよね。僕も昌子ちゃんも、病気に苦しんだ経験があるからこそ歌える歌があると思う。

昌子: 「うまい」と言われるより、「心に沁みた」と言われたいですね。

秀樹: 大きい舞台や、華やかなパフォーマンスのステージもあるけれど、一方で、隣にいる人に寄り添うように、囁くように……そんなふうにも歌っていきたい。「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」と無理に決めつけず、昌子ちゃんも、自分でやりたいと思ったことをやればいいと思うよ。せっかくこうして生きているんだもの。

昌子: 一日一日を大切にして、笑顔で明るく生きていかないと、ほんと、バチが当たりますね。きょうは秀樹さんといろいろなお話ができて、昌子、カンゲキ!(笑)

[写真-1]
往年のアイドル雑誌の表紙風にポーズを決めてくれました。

[写真-2]
「『うまい』と言われるより、『心に沁みた』と言われたい」(森さん) 2019年3月、年内での芸能界引退を発表した。

[出典]『婦人公論(1916年の創刊)』2013年5月22日号

西城秀樹(さいじょう・ひでき)
1955年広島県生まれ。72年、「恋する季節」でデビュー。79年、「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が大ヒットし日本歌謡大賞受賞。2001年に結婚。03年、脳梗塞を発症。舌がもつれるなどの症状を越え、06年にはシングルを発売。11年に脳梗塞が再発し右半身麻痺の後遺症が残るが、ステージに立つまでに回復。2018年5月16日、急性心不全のため死去(享年63)

婦人公論.jp、2019年05月13日
西城秀樹+森昌子
「絶望との闘いと、明日への思い」
脳梗塞と子宮がん…大病を乗り越えた二人の対話

https://fujinkoron.jp/articles/-/249

 では、今日も一日、おつかれさまでした:

西城秀樹「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」
https://www.youtube.com/watch?v=1faRWFZ9jUM
ヤングマン さあ立ち上がれよ
ヤングマン 今翔びだそうぜ
ヤングマン もう悩む事は ないんだから

ヤングマン ほら見えるだろう
ヤングマン 君の行く先に
ヤングマン 楽しめる事があるんだから

すばらしい Y.M.C.A. Y.M.C.A.
ゆううつなど 吹き飛ばして
君も元気だせよ
そうさ Y.M.C.A. Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと
何でもできるのさ
oh -oh-

ヤングマン 聞こえているかい
ヤングマン 俺の言うことが
ヤングマン プライドを捨てて すぐに行こうぜ

ヤングマン 夢があるならば
ヤングマン とまどうことなど
ヤングマン ないはずじゃないか オレと行こう

すばらしい Y.M.C.A. Y.M.C.A.
ゆううつなど 吹き飛ばして
君も元気だせよ そうさ
Y.M.C.A. Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと
何でもできるのさ

ヤングマン 青春の日々は
ヤングマン 二度とこないから
ヤングマン 思い出になると思わないか
ヤングマン ほら両手あげて
ヤングマン 足ふみならして
ヤングマン 今思う事をやって行こう

すばらしい Y.M.C.A. Y.M.C.A.
ゆううつなど 吹き飛ばして
君も元気だせよ

そうさ Y.M.C.A. Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと何でもできるのさ
Y.(Y) M.(M) C.(C) A.(A)
Y.(Y) M.(M) C.(C) A.(A)
one two one two three four
Y.M.C.A. Y.M.C.A.
ゆううつなど 吹き飛ばして
君も元気だせよ
そうさ Y.M.C.A. Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと
何でもできるのさ

ヤングマン!


森昌子「哀しみ本線日本海」
https://www.youtube.com/watch?v=9r5QN6dNHSM

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イドリスさん(CAP)、死去

Malaysia’s iconic consumer advocate S.M. Mohamed Idris was buried at the Hashim Yahya Mosque cemetery in George Town, Penang on Saturday.

Among the prominent leaders who attended his funeral were Finance Minister Lim Guan Eng and PKR president Datuk Seri Anwar Ibrahim.

Mohamed Idris died peacefully at Gleneagles Penang on Friday after being warded for heart complications.

Read more at https://www.thestar.com.my/news/nation/2019/05/17/cap-president-s-m-mohamed-idris-passes-away/


[video]

The Star, Published: 18 May 2019 3:45:13 PM
S.M. Mohamed Idris of CAP laid to rest
https://www.thestartv.com/v/s-m-mohamed-idris-of-cap-laid-to-rest

GEORGE TOWN, May 17 −
For the past 50 years, SM Mohamed Idris led an activism movement that has championed consumer, social and environmental issues.

His passing at about 5pm today was mourned by the civil society at large, most of whom had fought alongside him in various issues, but this does not mean activism against consumer, social and environmental issues will stop there.

Malaysian Nature Society (MNS) advisor Kanda Kumar said Mohamed Idris’ legacy will live on through the activism he inspired.

“Activism will continue. CAP and SAM will be led by a different leader after this but the work that he started and led for so many years will surely continue,” he said.

He said the Consumers Association of Penang (CAP) and Sahabat Alam Malaysia (SAM) had always worked with MNS to fight against various environmental issues.

“We share information and whenever CAP and SAM took a stance on an issue, we would support it and vice versa,” he said.

He said Mohamed Idris will be remembered as the person who gave his best all these years.

“Although this is a great loss, people shouldn’t lose heart but instead they must continue his legacy, pick up where he left off and fight environmental issues,” he said.

Mohamed Idris did not only inspire others to take action and speak up about issues, he was also the one who inspired Datuk K. Koris Atan to set up the Penang Consumer Protection Association (PCPA) about 25 years ago.

The PCPA president said he had followed Mohamed Idris’ activism since he was a teenager back in the early 1970s, by reading up on every issue the latter had raised.

“After I set up PCPA, I sought his advice on consumerism issues and we shared ideas and information,” he said.

He said PCPA was set up to create another avenue to raise issues for consumers and work alongside CAP.

“His passing is a great loss to the consumer world. He sacrificed his whole life to consumerism issues and nobody else has achieved his level of activism,” he said.

He believed that even without Mohamed Idris helming CAP and SAM, many others will continue the legacy he left behind.

He recounted how Mohamed Idris was known for his simple life and plain white kurta and dhoti that once saw him denied entry to a fancy restaurant in a hotel in Calcutta.

“He was a straightforward man and never afraid to speak his mind,” he said.

CAP secretary and SAM council member Meenakshi Raman said Mohamed Idris had inspired so many people that they will definitely carry on with his work.

“He was always telling us that there was a lot more work to be done. The best thing for us to do now is to continue his work,” she said.

Meenakshi, who is also the Tanjung Bungah Residents Association chairman, said she first met Mohamed Idris in 1982.

“He was the one who inspired me to be a public interest lawyer,” she said.

“He was a father to all of us and the father of environmental activism,” she added.

Federation of Malaysian Consumers Association (Fomca) Chief Executive Officer Datuk Paul Selvaraj said Mohamed Idris had always been the voice for consumers.

“I am sure he has built the next generation of activists; the struggle for better consumer protection and a better environment has to be ongoing,” he said.

He hoped the issues that Mohamed Idris championed will continue to be highlighted by the next generation of activists.

“He was a beacon for others. But now we have to carry on with the struggle,” he said.

He said Fomca is working with a younger generation of new leaders.

“We have to make sure that the consumer protection struggle, the environmental struggle, the betterment of living standards of the people continue. It’s an ongoing struggle,” he said.

He also said Mohamed Idris is one of the activists who inspired others to take up the struggle and others will now have to take over.

Mohamed Idris, who founded CAP together with Datuk Anwar Fazal in 1969, died at the age of 93 today, leaving behind four children.

He was the president of CAP and SAM until his death today.

His body was brought to his home on Rose Avenue and he will be laid to rest at the Perak Road Muslim Cemetery at 10am tomorrow.


[photo]
Mohamed Idris died at the age of 93 today.

Malay Mail, Published: 17 May, 2019
For civil society, SM Idris’ legacy lives on in the activism he inspired
By Opalyn Mok & Terence Tang
https://malaysia.news.yahoo.com/civil-society-sm-idris-legacy-133831027.html

GEORGE TOWN:
Penang has lost its greatest consumer champion and its green protector with the passing of S.M. Mohamed Idris this afternoon.

Penang Forum steering committee member Khoo Salma Nasution said Idris had been instrumental in defending the people’s rights as consumers, and spearheaded the discourse about healthy and planet-conscious living in this part of the world.

“He was gentle with his friends and fierce with shameless polluters and destroyers of the environment.

“A much loved and admired father and grandfather to many of us in the environmental movement, we deeply mourn his loss,” she told the New Straits Times.

Domestic Trade and Consumer Affairs Minister Saifuddin Nasution in a twitter posting said he was saddened with the passing of the consumer icon.

"My condolences to his family. He imparted a lot of advice to me, especially in matters concerning consumerism."

Water, Land and Natural Resources Minister Dr. Xavier Jayakumar also conveyed his condolences on Twitter to the family of the consumer and environmental activist.

"Despite passing at the age of 93, he remained a pivotal voice and opinion maker to ensure improvement in the standards of services, goods and consumer protection till the end," he said.

Defence Minister Mohamad Sabu shared, "Al Fatihah to the late S.M. Mohamed Idris, a figure who championed the rights of the country's consumers who died this afternoon."

He expressed his condolences to the activist's family and hoped the late S.M. Mohamed Idris' fight was blessed and he would be placed among the righteous.

Netizens also took to social media to express their sympathies over S.M. Mohamed Idris’ passing.

W.H. Ooi said: “Deepest condolences to the family of SM Mohammad Idris. A great loss to society and may his soul Rest In Peace.”

A. Balakrishnan Balan said: “Heartfelt and deepest condolences to his family members!

“Yes, we have lost a concerned citizen who undyingly fought for the betterment of our health & environment. R.I.P. dear SIR.”

As for James King, he said S.M. Mohamed Idris had lived his life with purpose and conviction and contributed so much to a better society.

Idris died at 5pm at a private hospital here due to heart failure.

He has been in an out of hospital in recent months. He is survived by four children.

[photo]
S.M. Mohamed Idris died this afternoon at a private hospital due to heart failure.

The New Straits Times, Published:
SM Mohamed Idris' passing a great loss
By Audrey Dermawan
https://www.nst.com.my/news/nation/2019/05/489396/sm-mohamed-idris-passing-great-loss

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加藤典洋さん、死去

 今年2015年は、戦後70年目です。
 なぜこういういい方をするのかというと、戦後がまだ終わっていないからです。
 なぜ戦後が終わっていないか、その理由もはっきりとしています。
 たとえば沖縄の米軍基地を、私たちはそこが私たちの国であるのに、動かせません。
 私たちには私たちのことを決する力が、まだない。
 日本はまだ米国の半分保護国で、半分しか独立できていない。
 敗戦の遺制が、いまなお続いているのです。

 でも、いまの日本で、対米従属が続いているなどという話をすると、みんなに「引かれ」ます。
 何をいっているのか、左翼の亡霊か、右翼のバカか、というような目で見られるのです。

 私は去年まで9年間、日本人と外国人の学生を相手に英語で戦後について授業をしてきました。
 そこでは、最初の日に、いつ日本が独立したのかと尋ねます。
 すると、外国人の学生はもとより、日本人の学生も答えられない。
 日本人学生の場合、1960年だったり、1972年だったりします。
 50人中、正解は2名くらい。
 ほとんど誰も知らないのです。

 ですが、理由も明らかで、独立したのは1952年ですが、講和条約と同じ日に日米安保条約を締結し、米軍への基地提供を決めたので、それはほんとうの独立ではありませんでした。
 当時はみんなわかっていました。
 当時医学生だった作家の山田風太郎は、日記に、
「独立の暁は――などというが、日本は独立などできはしないではないか、自由未だ遼遠なり」
と書いています。

 でも、これに続けて、いま、日本が独立していると思う人、と聞くと、何を言っているのだろう、というような怪訝な面持ちで、全員が、独立している、と答えるのです。

 その理由もはっきりしています。

 それは、誰もがもう対米従属というあり方を内面化していて、いまでは私たち日本人の大半が、自分と米国を同じ側に感じるようになっているからです。

 そういう問題を私は30年前、「アメリカの影」と呼びました。

 明治維新のあとにも近代化の衝撃に人民が耐えられないことを見越して、明治日本の設計者、伊藤博文が、人民に向かっては天皇を神とするタテマエを教え、エリート間では天皇を制限君主として申し合わせる二重の解釈のシステム(顕教・密教システム)を緩衝材として作りあげたことがあります。

 じつは戦後も、対米従属という赤裸々な現実に向きあうことに日本国民が耐えられないことを見越して、同様の緩衝システムを吉田茂と彼の後継者たちが作りあげています。
 いま用意している『戦後入門』(ちくま新書・2015年10月刊行予定)という本に、そのことを詳しく書いていますが、人民に対しては、日米は対等のパートナーで日本は独立している、というタテマエを用意し、政権担当のエリートたちは、対米従属は不動の前提という申し合わせでいく、という保守本流の吉田路線がそれです。

 このシステムは、60年から90年までの30年間、何とか有効でした。
 経済も順調で、日本は「金持ち喧嘩せず」式に「政治」を凍結し、もっぱら「経済」だけで政治問題、外交問題をも解決していくことができました。
 その成果がいまも私たちのうちに生きている。
 それで対米従属と聞くと、ぎくっとする。
 ちょっとどぎつい話、と私たちは感じてしまうのです。

 でも、東西冷戦が終わってから四半世紀、状況は変わりました。
 もはや「政治」を凍結したままではやっていけません。
 日米同盟はいまや必ずしも日本の国益に一致するとは限らない。
 そこから考えていかなければならないからです。
 経済的にいっても、米国に従い、中国を敵視するよりも、米国とならび中国とも仲良くするほうが国益により合致するに決まっています。
 2009年の政権交代は、その変革に向けた国民の意思の現れでした。
 でも挑戦は無惨にも失敗。
 日本をめぐる従米勢力の圧倒的な力ばかりが目立ったことは記憶に新しいところです。

 でも、これによって、日本の課題は、逆にはっきりしたのではないでしょうか。

 明治維新期、フランスから帰ってくる途中、思想家の中江兆民は欧州人がサイゴンの港でアジア人を足蹴にして使役しているのを見て、彼らの自由平等博愛の原則は立派だが、彼らにはそれを実行できない。
 本当に実行できるのは、彼らではなくて、彼らの思想を輸入し、学ぶ自分たちのほうなのだと悟ります。
 それと同じことが、ここにもいえるからです。

 その課題とは、民主主義の原則は、戦後、占領期に米国によってもたらされたのですが、これを、米国以上にはっきりと実現し、国際社会に寄与していけるのは、彼らではなくてわれわれなのではないか、というものです。

 日本に民主原則、平和原則を確立するために、米国の非民主的、また軍事的な介入を排除し、あくまで平和主義を貫き通すかたちで、対米自立を獲得する、というのがその具体的な目標です。

 そこからはじめ、米国を含む近隣諸国とのあいだに友好的な善隣信頼関係を築き上げ、国連中心主義に立ち、世界の平和の確立に寄与していくのです。

 そのための手がかりが、憲法9条の平和原則です。

 ですから、残念ながら護憲だけではもう足りない。
 憲法9条に、米軍基地の撤去を書き込み(c矢部宏治)、非核宣言も盛り込み、さらに、NPT(核兵器不拡散条約)に代わる新核国際管理案を世界に向かって提案すること(cロナルド・ドーア)。
 そのようなかたちで日本国民であることに私たちが「誇り」をもてるようになることが、いま、私の考える積極的な平和主義の内容です。
 これまでの護憲の努力のうえに、この新しい主張を加えさせてもらい、共に進んでいければよいと希望していますが、どうでしょうか。


ポリタス、2015年8月14日
戦後100年目を迎えないために
(加藤典洋)
http://politas.jp/features/8/article/430

 ヤッホーくんは護憲派。イマの日本国憲法を「いじくる」「見直す」という立場には、ないそうです。
 そうでなく、あの戦争の結果、手にしたわれわれの日本国憲法の目指すところをイマ実現すべきだと。
 ましてやアホノミクスのアホ政権のもとでの「改憲」なんてまっぴらごめんという立場でございます。
 しかし、今朝、筆者の加藤典洋氏の訃報に接し、びっくりしております、しずかに合掌しております。

 今日は明治学院大学で加藤典洋×高橋源一郎の講演を聞く予定だったのですが、加藤典洋さんの体調不良のため急遽中止になってしまいました。
 戸塚駅のバス乗り場に看板を持って立っている人を見つけて気づきました。
 加藤典洋さん目当てで来ていたので尚更残念でした。
 

23:07 - 2018年11月26日

 文芸評論家の加藤典洋さんが5月16日にお亡くなりになりました。
 数多くの著作を残された加藤さんですが、岩波新書では『村上春樹は、むずかしい』(http://iwnm.jp/431575 )をご執筆頂きました。
 村上作品の文学的達成を本格的に論じた、それ自体が作品といえる批評でした。


2:00 - 2019年5月20日

『敗戦後論』などの著作で戦後日本の本質を問い続けた文芸評論家で早稲田大名誉教授の加藤典洋(かとうのりひろ)さんが2019年5月16日、肺炎のため死去した。
 71歳。
 山形市出身。
 葬儀・告別式は近親者で行なった。
 喪主は妻厚子(あつこ)さん。
 東京大文学部仏文科卒業後、国立国会図書館で勤務する傍ら、1980年代初頭から文芸評論家として活動を開始。
 1985年の単行本デビュー作『アメリカの影』で戦後日本を覆う米国文化の影響を論じ、注目を集めた。

 1995年の論文『敗戦後論』では、平和主義を唱えながらも、世界で戦争を続ける米国に従属するという戦後日本の「ねじれ」を指摘。
 日本がアジアへの加害責任と向き合うためには、先に日本の戦没者を弔う必要があるなどと問題提起し、大論争を巻き起こした。

 その後の著作でも、親米、軽武装、経済発展を掲げる「現実的平和主義」に安住してきたとして、いわゆる「護憲派」を厳しく批判、在日米軍基地を撤去するために憲法九条の見直しを訴えた。

 明治学院大、早稲田大で教授を歴任。
 文学からサブカルチャーまで幅広い視点で評論した。
『敗戦後論』(ちくま文庫、2005年12月)で伊藤整文学賞、『小説の未来』(朝日新聞社、2004年1月)などで桑原武夫学芸賞を受賞。
 他の著書に『3・11、死に神に突き飛ばされる』(岩波書店、2011年11月)、『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書、2015年12月)、『9条入門』(創元社、「戦後再発見」双書8、2019年4月)など。

 昨年秋に体調を崩し、入院治療中だった。


東京新聞・朝刊、2019年5月21日
加藤典洋さん死去 71歳
「敗戦後論」文芸評論家

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201905/CK2019052102000118.html  

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2019年05月20日

対米従属からの脱却

同じ敗戦国のドイツやイタリアにできたことを、なぜ私たち日本だけができないのかーー。
先日沖縄県が「他国地位協定調査について」という報告書を公表すると、そんな疑問の声が上がった。
たしかに第2次大戦後、ドイツとイタリアは、日本と同じくアメリカとの軍事同盟のもとで主権を失っていた。
しかし、米軍機の事故をきっかけとした国民世論の高まりを背景に、両国は正常な主権国家の道を歩んでいるからだ。
「横田空域」
「日米合同委員会」
「日米地位協定」……
アメリカによる支配≠ヘいったい、いつまで続くのか?
いまから5年前、衝撃のベストセラー『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で、対米従属の法的な構造をあきらかにした矢部宏治氏が、同書の文庫化を機にその解決策を提示する。

 日本の戦後史には、いくつかの盲点がある。
 今回、自分が書いた本の解説を書くという、めったにない機会をあたえてもらったので、私が過去8年間にわたっておこなってきた日米密約研究のまとめを、日本の戦後史に存在する「3つの盲点」という観点から、できるだけ簡潔に説明してみたい。
「横田空域」「日米合同委員会」「日米地位協定」など、私がこれまでずっと本に書いてきた、あまりに異常な「戦後日本」と米軍の関係は、いまでは地上波のTV番組でも取り上げられ、かなり多くの人に知られるようになってきた。
 しかし、ではいったいなぜ、世界で日本だけがそうした異常な状況にあるのか。
 5年前に書いた本書では、その問いが『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』というタイトルによって表現されている。
 以下、当時の自分に向かって報告書を書くようなつもりで、その問いに答えることにしたい。

安保条約はアメリカの軍部が書いた

 まず、問題は大きく2つに分かれる。
(1)なぜ、これほど異常な状況が生まれたのか
(2)なぜ、これほど異常な状況が続いてしまったのか

 この(1)の問題をあっけなく説明してしまうのが、下の人物だ。
 カーター・B・マグルーダー陸軍少将。
 彼が日本の戦後史における第1の盲点である。
 おそらく彼の名前を聞いたことがある人は、ほとんどいないだろう。
 だが「戦後日本」という国家にとって、実はこれほど重要な人物もいない。
 というのはこのマグルーダーこそが、現在まで続く、日米安保条約と日米地位協定の本当の執筆者だからである。

 ではなぜ他国との条約を、本来の担当であるアメリカ国務省ではなく、軍人が書くことになったのか。
 その理由は旧安保条約が調印された1951年の、前年(1950年)6月に起きた朝鮮戦争にあった。
 この突如始まった戦争で米軍は当初、北朝鮮軍に連戦連敗する。
 その後も苦戦が続くなか米軍は、それまで一貫して拒否していた日本の独立(=占領終結)を認める代わりに、独立後の日本との軍事上の取り決め(安保条約)については、本体の平和条約から切り離して軍部自身が書いていい、朝鮮戦争への協力を約束させるような条文を書いていいという、凄腕外交官ジョン・フォスター・ダレスの提案に合意したのだった。
 なので先の(1)への答えは非常に簡単だ。
 日米安保条約や地位協定は、もともとアメリカの軍部自身が書いたものだった。
 しかも平時に書いたのではなく、戦争中に書いた。
 だから米軍にとって徹底的に都合の良い内容になっているのは、極めて当然の話なのだ。
 その取り決めの本質は、下の旧安保条約・第1条のなかにすべて表現されている。
旧安保条約・第1条(1951年9月8日調印)(要約)
「アメリカは米軍を、日本およびその周辺@に配備するA権利を持つ」

 このAの部分が日本の国土の「自由使用」、@の部分が「自由出撃」(日本の国境を自由に越えて行う他国への攻撃)を意味している。
 その2つの権利を米軍は持つということだ。
 そしてこの短い条文が意味する具体的な内容を、さまざまな状況別に条文化したものが、安保条約と地位協定(当時は行政協定)、そして無数の密約なのである。

 いうまでもなく、そうした国家の主権を完全に他国に明け渡すような条約を結んでいる国は、現在地球上で日本以外にない
 つい最近、21世紀になってからアメリカに戦争で負けたイラクやアフガニスタンでさえ、米軍がそれらの国の許可なく、国土の「自由使用」や「自由出撃」をおこなうことなど絶対にできない。
 いくら戦争でボロ負けしようと、占領が終われば国際法上の主権国家なのだから、それが当然なのである。

インチキだった安保改定

 ところが日本だけはそうなっていない。
 その理由もまた、ひとことで説明することができる。
 安保改定がインチキだったからだ。
 1960年に「対等な日米新時代」をスローガンにして岸首相がおこなった安保改定により、旧安保時代のような事実上の占領状態はなくなったと日本人はみんな思っている。
 ところが岸は安保改定交渉が始まる前年、訪米しておこなったアイゼンハワーとの首脳会談で、次の内容に合意していたのである。
「日本国内の米軍の配備と使用については、アメリカが実行可能な場合はいつでも協議する」(部分)
(会談後の共同声明 1957年6月21日)

 前掲の旧安保条約・第1条に書かれた、「日本の国土の自由使用」と「自由出撃」という植民地同然の権利。
 それが安保改定後もそのまま存続することが、このとき確定した。
 というのも岸による安保改定の目玉は、米軍の自由な軍事行動に日本側が制約をかける「事前協議制度」の創設にあったのだが、その「事前協議」の本質が「米軍がやりたくない場合はやらなくていい」ものだということが、ここで合意されてしまったからである。
 その後結ばれた新安保条約、日米地位協定と、その他無数の密約は、やはりこの共同声明の1行を、細かく条文化する形で生まれたものといってよい。
 そしてその過程で、日本の戦後史における2つ目の盲点が生まれる。下の漫画の2コマ目にある「討議の記録」という名の「密約中の密約」である。

[漫画]

 これはいわば先の共同声明の内容(事前協議制度の空洞化)を、ABCD4つの具体的な密約条項に書き換えたものといえる。
 漫画にあるように、AとCが日本の国土の自由使用、BとDが日本の国土からの自由出撃についての密約である。
 新安保条約調印の約2週間前(1960年1月6日)に藤山外務大臣によってサインされている。
 冒頭の「(2)なぜ、これほど異常な状況が続いてしまったのか」という問いへの答えは、この密約文書ひとつですんでしまう。
 ひとことでいうとこの密約は、旧安保時代の米軍の権利は、ほぼすべてそのまま引き継がれるという内容の密約だからだ。

 ところがこの「日米密約の王様」ともいうべき最重要文書のことを、やはり日本の官僚もジャーナリストも、ほとんど知らない。
 その理由は外務省が長らくこの文書の存在を否定し続け、2010年にようやくその存在を認めたあとも、一貫して文書の効力を否定し続けているからだ。

新たに切り出された2つの密約

 昨年2018年、この「討議の記録」について改めて調べ直したとき、非常に重大な発見をしたのでここで報告しておきたい。
 それが本稿最後の「3つ目の盲点」である。

 この「討議の記録」というあまりに重大な密約文書を、岸が次の池田政権に引き継がなかったため、その後、池田政権の大平外務大臣と外務省は大混乱におちいることになるのだが、その説明は別の機会に譲る。
 ここで注目すべきは、上の漫画の3コマ目にあるように、外務省がこの密約文書を北米局長室の金庫にしまい込んでその存在を隠蔽する一方、アメリカはそこからAとCの内容を切り出した「基地権密約」と、BとDの内容を切り出したような「朝鮮戦争・自由出撃密約」という2つの密約文書をあらかじめ別につくっておき、同じ1960年1月6日に藤山外務大臣にサインさせていたということだ。
 その後、それら新たに切り出された2つの密約が、漫画4コマ目のとおり、安保改定後の「日米合同委員会」と「日米安保協議委員会(現在の「2+2」)」の議事録に、それぞれ編入されたことがわかっている。
 だが、なぜそんなことをする必要があったのか。

誰もきちんと安保条約を読んでいなかった

 その間の経緯をくわしく検証するなかで気づいたのが「3つ目の盲点」、つまり「新安保条約・第6条後半」の持つ異常性だ。
 まず条文を読んでほしい。
旧安保条約・第3条(要約)
「日本における米軍の法的権利は、両政府間の行政上の協定で決定する」

新安保条約・第6条後半(要約)
「日本における米軍の法的権利は、日米地位協定及び、合意される他の取り決めで決定する」

 自戒を込めて告白するが、たった5条しかない旧安保条約と、たった10条しかない新安保条約、その条文を私を含めてこれまで日本人は、誰もきちんと読んでいなかったのだ。
 上側の旧安保条約・第3条の下線部分は、外務省訳の日本語の条文では「両政府間の行政協定で決定する」と書かれている。
 だから研究者もみんな、これを条文化された正規の「日米行政協定(the Administrative Agreement)」のことだと、ずっと疑わずに思っていた。
 ところが英語の原文は「政府間の行政上の協定(administrative agreements)で決定する」

 つまり国会を関与させずに、政府と政府の合意(政府間協定)だけですべて決定すると書かれている(*)。
 加えて最大の問題は、日米安保の規定(行政協定第26条、地位協定第25条)では、その「政府間の合意」をおこなうのが、日本政府とアメリカ政府そのものではなく、日本の官僚と在日米軍の幹部、そう、あの密室の協議機関「日米合同委員会」だということなのだ。
 その結果、日本がまだ占領下にあった朝鮮戦争で、米軍が日本の官僚組織に直接指示をあたえて戦争協力させていた体制が、独立後もそのまま温存されることになってしまったのである。

 ここまでが旧安保時代の話だ。そしてここからが、問題の新安保条約の話になる。

 上の新安保条約・第6条後半を見てほしい。在日米軍の法的権利は、
「日米地位協定及び、合意される他の取り決めで決定する」
と書かれている。
 実はこの「合意される他の取り決め」という言葉のなかに、新安保条約の締結後、日米合同委員会でおこなわれることになる密室合意と、加えて安保改定で新設された「日米安保協議委員会」(およびその下部組織)でおこなわれることになる密室合意が、すべて含まれるということなのだ。
 この新安保条約の基本構造がわかると、なぜ「討議の記録」という密約の原本から、わざわざ2つの独立した密約(「基地権密約」と「朝鮮戦争・自由出撃密約」)を新たに切り出して、藤山外務大臣にサインをさせ、安保改定後の日米合同委員会と日米安保協議委員会の議事録に編入する必要があったかがわかる。

 まず「基地権密約」とは「旧安保時代の米軍の権利は、安保改定後も変わらず続く」という密約だ。
 その文書が安保改定後の日米合同委員会の議事録に編入された結果、それまで旧安保時代に同委員会でおこなわれてきた膨大な秘密合意がすべて、先の「日米地位協定及び、〔今後〕合意される他の取り決めで決定する」という条文にもとづき、国会で批准された日米地位協定の条文と同じ法的効力を持つことになってしまったのだ。

 次に「朝鮮戦争・自由出撃密約」とは「朝鮮戦争が起きたときは米軍の自由出撃を認める」という密約だ。
 その文書が安保改定で新設された日米安保協議委員会の議事録に編入された結果、それまで主に米軍基地の使用(基地権)についておこなわれていた、日本の国会を関与させない形で米軍が日本の官僚に直接指示を与えるシステムが、朝鮮戦争の再開を前提とした米軍と自衛隊との共同軍事行動(指揮権)の分野にまで拡大されてしまった。
 事実その後、国会がまったく関与しないうちに、日本国憲法の規定を超えるような内容を含む第1次・第2次・第3次のガイドライン(「日米防衛協力のための指針」)が、この日米安保協議委員会の下部組織で作られていくことになったのである。

(*)―アメリカでは条約締結権は大統領にあるが、上院の3分の2以上の賛成を必要とするため、大統領が立法府の承認なく他国と政府間協定(executive agreement)を結ぶ権限が慣例として幅広く確立している。米軍部の考えた日米安保は、この形を使って日本の国会を一切関与させずに日本を軍事利用する体制だった。

輝ける未来のためにすべきこと

 このような構造を知ると、せっかく盛り上がりつつある地位協定の改定運動に水をかけるようで大変申し訳ないのだが、いくら地位協定の条文を変えても、新安保条約・第6条後半の「及び、合意される他の取り決め(で決定する)」という部分を削除しないかぎり、なんの意味もないことがわかる。
 この短い文言のなかにはすでにご説明したとおり、日米合同委員会だけでも(安保改定以前と以後をあわせて)1600回を超える、密室での秘密合意の内容がすべて含まれているからだ。
 だから地位協定を本気で改定しようとするなら、必ず新安保条約・第6条から上の下線部分を削除したうえで、改定をおこなう必要がある
 つまりそれは非常にミニマムな形ではあるが「安保再改定」にならざるをえないということだ。
「いや、地位協定の改定だけでもハードルが高いのに、安保再改定なんて絶対無理だよ」
とあなたは思うかもしれない。
 けれどもそんなことは、まったくないのだ。

 国会で正式に批准された「日米地位協定の条文」と、過去70年にわたって密室で蓄積された秘密合意が、法的に同じ効力をもつことを定めたこのメチャクチャな条文。
 まともな親米政権をつくって「ここだけは占領期の取り決めが継続してしまったものなので、変えることに同意してほしい」といえば、断ることのできるアメリカの官僚も政治家も絶対に存在しない。
 いま東アジアでは、世界史レベルの変化が起こりつつある。
 昨年2018年3月から韓国の文在寅大統領がスタートさせた入念かつ大胆な平和外交が、その巨大な変化を生んでいるのだ。
 それに比べて日本の解決すべき課題は、なんとちっぽけなことだろう。
「新安保条約・第6条の一部削除」
「日米地位協定の改定」
「日米安保の問題については憲法判断しないとした砂川裁判・最高裁判決の無効化」

 この3つさえおこなえば、在日米軍を日本の国内法のコントロール下におくことが可能となり、現在の歪んだ日米関係は必ず劇的に改善する。
 だからこの「最小限の安保再改定」と「地位協定改定」と「砂川裁判・最高裁判決の無効化」の3つで、まず野党の指導者が合意し、それに自民党の良識派も足並みをそろえてみてはどうか。
 そして国家主権の喪失という大問題を解決したあと、またそれぞれの政治的立場に帰って議論を戦わせればいい。

 逆に、ここまで私が説明してきた法的構造を理解した上で、それでもなお、上の3つに怖くて手をつけられないという政治家は、日本という国の政治指導者の座から、すぐに退場させるべきだ。

 この本当に小さな変更さえおこなえば、その先に、われわれ日本人が望んでやまない、
みずからが主権をもち、憲法によって国民の人権が守られる、本当の意味での平和国家としての日本
という輝ける未来が、訪れることになる。

 そのことが、現在の私が、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(単行本は集英社インターナショナル、2014年10月、講談社+α文庫版は2019年2月)を書いた5年前の私に報告したいことなのである。

 以上、詳しくは『知ってはいけない2』(講談社現代新書、2018年11月)参照。

現代ビジネス、2019.05.19
対米従属から脱却するために、いま日本がやるべき「3つのこと」
これができない政治家は退場せよ!

矢部 宏治
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64558

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平和とくらしを守る県民大会

 強い日差しが照り付ける中、参加者は、
「平和な沖縄を返せ」
「平和憲法を守るぞ」
と何度も拳を上げた。
 沖縄の日本復帰47年に合わせて、2019年5月19日(日)に宜野湾市で開かれた県民大会には約2千人(主催者発表)が集まった。
 踏みにじられ続ける「基地ノー」の民意。
 それでも参加者たちは、
「平和を求めて声を上げ続ける」
と前を向く。 

「基地はいらない」

 沿道を進む参加者たちがシュプレヒコールを上げる。
 その横を、警察車両に前後を挟まれた右翼団体の街宣車が並走し、
「恥を知れ」
「沖縄から出て行け」
と大音量で罵声を浴びせ続ける。
 5月17日から始まった平和行進。
 何度妨害されても、歩みを止めることはない。

「久々に行進したけど、若い頃よりも体力を消耗したね。年を重ねたことを実感した」
というのは那覇市の70代女性。
 苦しい表情を浮かべながらも、
「それだけ沖縄の現状が変わっていないということも実感した。できることは微々たるものだが、体力が続く限り声を上げ続けたい」。
 声は力強い。

 大会会場となった宜野湾海浜公園屋外劇場は、風がほとんどなく、直射日光で気温がぐんぐん上がった。
 客席は多くの県民と、県外から連帯する人たちとで埋め尽くされた。

 会場には子どもたちの姿も多く見られた。
 南風原町から祖母大城ミヨコさん(71)と一緒に来ていた小学5年の日菜さん(10)は、自ら進んで参加した。
 ミヨコさんの祖母は沖縄戦の犠牲となった。

「ひいひいおばあちゃんは、なぜ死んでしまったのかちゃんと知りたい」

 3年生の頃から沖縄戦を調べ始め、沖縄陸軍病院南風原壕にも行った。

「たくさんの人が壕で亡くなったのかと思うと怖かったけど、ちゃんと見なきゃいけない」

 友達と一緒に遊びたいという気持ちもある。
 それでも、
「反対運動をしている人たちはお年寄りばかり。私たちが頑張らなきゃいけない」
と、まっすぐな瞳で語った。


琉球新報、2019年5月20日 05:00
強い日差しの下、「基地ノー」訴え 復帰47年県民大会
「体力続く限り」
「おばあちゃんと一緒に」

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-921204.html

 沖縄県内で2019年5月17日に始まった「平和行進」最終日の19日、宜野湾市の宜野湾海浜公園で「平和とくらしを守る県民大会」が開かれた。
 大会宣言を採択し、市内にある米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設工事を続ける政府を、
「憲法を否定し、民主主義をないがしろにしている」
と非難した。

 主催者によると、1972年の沖縄の日本復帰に合わせ、毎年開かれている「5.15平和行進」には、3日間で延べ約3590人が参加。
 県民大会には約2千人が集まった。

 大会の冒頭、山城博治実行委員長は行進の際に沿道などから妨害を受けたことに触れ、
「行進・大会を潰せというメッセージに負けていては、辺野古基地の工事を止め、沖縄の軍事基地を撤去することはできない」
と訴えた(*)。

 辺野古への移設をめぐり、政府は昨年2018年12月に辺野古沖の埋め立てを開始。
 今年2019年2月の県民投票や4月の衆院沖縄3区補選で移設反対の民意が示されたが、土砂の投入は続いている。

 大会宣言では、こうした政府の姿勢を批判。
 昨年と同様、「米軍基地の強化、拡大に強く反対する」と明記した。
 また与那国島や宮古島などへの陸上自衛隊の配備が進んでいる現状についても、
「標的にされ、捨て石にされた74年前の惨烈な沖縄戦への回帰そのものだ」
と抗議した。

 大会には米軍基地を抱える韓国の市民団体も参加し、「どこにも軍事基地はいらない」との横断幕を掲げた。
 団長の林允敬さん(49)は沖縄戦の戦跡をめぐり、大会に参加。
「基地反対を求める沖縄の人たちと思いを分かち合い、国際的な連帯の輪を広げていきたい」
と話した。

[動画]
「平和行進」最終日に開かれた「平和とくらしを守る県民大会」

[写真]
「ガンバロー」と拳を突き上げる県民大会の参加者たち=2019年5月19日午後1時39分、沖縄県宜野湾市

朝日新聞、2019年5月19日17時39分
沖縄県民大会で政府批判
「捨て石の74年前への回帰だ」

(藤原慎一)
https://www.asahi.com/articles/ASM5M5J70M5MTIPE01K.html

 玉城デニー知事は5月17日に開かれた定例記者会見で、復帰47年を迎えたことに関連して「沖縄の心」について問われ、
「祖先(うやふぁーふじ)から受け継がれた肝心(ちむぐくる)の考え方を尊重し、自立と共生と多様性の考え方を尊重して誰もが互いに助け合い、誰もがみんな取り残されることなく、幸せになっていくことをみんなでやっていく、そういう思い・理念を実現したいということだ」
と述べた。
 玉城知事は、県政運営方針の柱として「誰一人取り残さない」沖縄の社会の実現を挙げており「沖縄の心」に自らの方針を重ねて説明した形だ。

 肝心(ちむぐくる)について、
「私心のない、自ら相手に対して奉仕をしたいという沖縄の共通のアイデンティティーだ」
と説明した。

 沖縄の心を巡っては、歴代知事がそれぞれ独特の表現で発言してきた。
 西銘順治氏の「ヤマトゥンチュになりたくて、なり切れない心」は現在でも語り継がれている。
 大田昌秀氏は「平和を愛する共生の心」、
 稲嶺恵一氏は「異質な物を溶け込ませる寛容さ」と表現した。
 仲井真弘多氏は「(歴代の)3人を足したような感じ」と語った。

 翁長雄志氏は
「祖先(うやふぁーふじ)の頑張りやご苦労を敬い、子や孫がこれから本当に幸せになるように、そういったことを思いながら誇り高く生きる心」
と表現した。


[写真]
玉城デニー知事

琉球新報、2019年5月18日 05:30
玉城デニー知事の「沖縄の心」は?
「祖先から継がれた肝心」

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-920328.html

(*)平和行進参加者を転倒させる 暴行容疑で無職の男逮捕

 沖縄県警は5月19日、同県宜野湾市内の歩道で与那原町の男性(53)を両手で突き飛ばし転倒させたとして、うるま市石川白浜の無職の男(62)を暴行容疑で現行犯逮捕した。
「押したことは間違いない」と容疑を認めているという。

 宜野湾署によると19日午前9時すぎ、男は宜野湾市役所前で「5.15平和行進」に参加していた男性と口論となり、正面から突き飛ばして転倒させた疑いがある。
 現場周辺を警戒していた警察官が目撃し、逮捕した。

 平和行進があった周辺では政治団体の街宣車複数台が往来していた。


沖縄タイムス、2019年5月20日 08:54
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/421830

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琉球処分

 平成で最後の新年を迎えた。
 2019年は沖縄、ひいては日本の民主主義の在り方が問われる年になる。
 県民の圧倒的多数が反対する中で、米軍普天間飛行場の辺野古移設に伴う新基地建設を政府が強行しているからだ。

 このままだと、強権によって地方の民意を押しつぶす手法が、いずれ沖縄以外にも波及していくだろう。
 政府の暴走に歯止めをかけなければ将来に禍根を残す。

 今年は1879年の琉球併合(琉球処分)から140年になる。
 沖縄を従属の対象として扱う政府の姿勢は今も変わっていない。

 琉球王国は1609年に薩摩に侵攻されて以降、その支配下に置かれたが、明、清の冊封を受けた国家としての地位を保っていた。
 明治政府は1872年、一方的に琉球藩とし国王を藩王とする。

 これに先立ち、大蔵大輔・井上馨は、
「清(中国)との関係が曖昧なまま数百年過ぎたが、維新の今日においてはこのままではいけない。皇国の規模を拡張する措置があってもいい。その際、威力で奪う行為はよくない。よってかの酋長(しゅうちょう)(王)を近いうちに招き、不臣(不忠不義の臣)の罪を厳しくとがめ、その後に版籍を収めるのがいい」
と建議している。

 琉球国王を「酋長」とさげすみ、併合の理由として「不忠不義の罪」を一方的にでっち上げる提案である。
 建議は採用されなかったが、琉球併合の論議の起点となった。
 明治政府が沖縄をどう見ていたかがよく分かる。

 辺野古での新基地建設の強行は、日本から切り離された1952年のサンフランシスコ講和条約発効、県民の意に反し広大な米軍基地が残った日本復帰に続く、第4の「琉球処分」にほかならない。

 沖縄は去る大戦で本土防衛の時間稼ぎに利用され、日本で唯一、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が行われた。住民のおよそ4人に1人が犠牲になっている。

 県民が望むのは平和な沖縄だ。
 米軍基地の存在は取りも直さず有事の際に攻撃目標になることを意味する。
 少しでも基地の負担を減らしてほしいと要求するのは当然だ。

 政府は仲井真弘多元知事による2013年の埋め立て承認を錦の御旗に掲げる。
 だが同氏は「県外移設を求める」と公約していた。
 大多数の県民の意向に反する決定だったことは明らかだ。
 その後の2度の知事選で新基地反対の民意が明確に示された。

 強引な国家権力の行使に脅威を感じているのは沖縄の人びとだけではない。
 昨年2018年12月の共同通信全国電話世論調査で年56.5%が移設を進める政府の姿勢を「支持しない」と答えたのは、その表れではないか。

 沖縄の人びとの意思を無視して強権を発動する政府の態度は一貫している。
 政府に問いたい。
 日本の民主主義は見せかけなのか。

 いま一度立ち止まってよく考えてほしい。


琉球新報・社説、2019年1月1日 06:01
新年を迎えて
日本の民主主義は本物か

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-855928.html

はじめに

琉球処分」という歴史用語は明治政府の行政用語である。
 1979(明治12)年前後の「琉球―日本」の「国際」関係の事件を表す用語である。
 特に「廃藩置県」を指す言葉として人口に膾炙してきたが、近年論調に変化が生じている。
 我部政男(1997)は「琉球処分」について「明治国家の琉球併合」と主張している。
 西里喜行(2004)は「廃藩処分」を「廃琉置県処分」し、これを「琉球併合」と捉えている。
 波平恒男(2014)は「琉球藩処分」または「廃藩置県」処分としての「強制併合」としている。
 後田多敦(2014)は次のように述べている。

「日本の明治政府によって「琉球処分」と呼ばれた19世紀末の琉球国併合は、琉球側からすれば国家の解体・滅亡の過程であり、この事件を明治政府の名づけで呼ぶことには課題が残る」
(96頁)
と主張している。

 このように、処分から併合へと論点のパラダイム変換が生じているのである。
 本論では、併合を超えて植民地の視点を導入している。
 吉田健正(2007)は「沖縄は軍事植民地である」とする矢内原忠雄(1957)の論稿を自著の巻頭に引用し、「軍事植民地沖縄」論を展開している。
「琉球処分」後の沖縄の政治社会状況を「植民地」としてとらえる視点を平良勝保(2011)は示している。
 松島泰勝(2012)は「日米の植民地である琉球の人民」(ii頁)と述べ、琉球(沖縄)の状況を「植民地」であるとの認識を提示している。

1.「琉球処分」再考

 琉球国は琉球処分の前哨として幕藩体制下の薩摩藩島津の襲来にさらされていた(1609年)。
 琉球国を武力で制圧した島津は、尚寧王以下国の高官を捕虜とし薩摩に連行する。
 ついで尚寧王の一行は、徳川家康および二代将軍徳川秀忠と謁見している。
 家康は琉球国を薩摩に賜った。
 薩摩藩の島津家久は琉球国王以下に「御法度」なる服従約定に従う旨の「起請文」を提出させた(1611年)。
 同時に「掟15ヶ条」を布達した。
 一人、謝名親方(鄭迵)のみ「起請文」提出を拒否し死刑にされた。
「起請文」には歴史的に事実無根の文言が見られる。
 たとえば、「琉球国は昔から薩摩の属領でありました」
 政寧王以下琉球の高官たちはこれに服したのである。
「掟15ヶ条」は苛斂誅求を極めた。
 大城喜信(2013)は「起請文」について、
「家久が琉球国の主権を奪取して意のままに琉球国を支配する意思が読み取れる公文書である」
(24頁)
と述べている。
 また「掟15ヶ条」については、
「琉球の財産を根こそぎ強奪する意図が明記されている公文書である。」(同)
とし、
「この二つの公文書こそ1611年から現在に至るまで、400年以上の長期にわたってすべての琉球人を呪縛し続けて、琉球国の運命を決定した最も注目すべき重要な証拠となるものである。」(同)
と主張している。
 これらの文書は公的には現在も生きている。

 19世紀中葉、西欧の列強はアジアに進出し蚕食しつつあった。
 琉球国は米国、フランス、オランダと条約を締結した「独立国」であった。
 ペリーは琉球国を経て日本国に至り日本国の開国を迫った。
 時あたかも「尊王攘夷」と「勤皇佐幕」の対立が激化し明治維新(明治革命)へと政治体制が激変する。
 この変動の狭間に「琉球処分」問題が出来するのである。

 維新祝賀のために上京した琉球使臣に対して、天皇は尚泰王を「琉球藩王」に冊封する詔書を交付した。
 1872(明治5)年のことである。
 もともと琉球王の権力の源泉は中国皇帝にあった。
 つまり「朝貢―冊封」関係の中で確立したものであった。
 尚泰王は3歳で王位に就き、19歳で冊封された(1866年)。
 明治政府(明治天皇)による琉球藩王冊封は琉球国を、王政復古なった天皇体制へ琉球を臣従させるものであった。
 これは「廃藩置県」への伏線であった。
 藩王に封じることで、西里(2004)は「一方的に琉球王国を琉球藩とし」(229頁)としているが、この詔書に「琉球藩」立藩の文言は認められない。
「琉球藩」というのは歴史的な虚構である(大城&吹A2014)。
 明治政府はあたかも「琉球藩」があるかの如く琉球国統治施策を実行した。
「琉球藩」が存在しなければ「廃藩置県」は成り立たない。

 琉球王の冊封と琉球藩王の冊封とは、日清両属の構図を際立たせる。
 明治政府は松田道之(内務太政)を琉球国に出張せしめ、
・ 清国への朝貢を止めること、
・ 冊封を受けてはならないこと、
・ 明治の年号を使用すること、
等を命じた(明治8年)。
 明治政府は清国との通行を禁じ日清両属体制を廃し、日本専属を企図した。
 外交権の奪取である。
 明治年号を遵奉することは天皇制の下に服することを意味する。
 したがって、琉球政庁はこれを遵奉しなかった。
 そこで明治12年1月、再び松田に出張を命じ、最後通告を突き付けたが琉球国の反応は頑なであった。
 同年3月、内務大書記官に就いていた松田道之は処分官として来琉した。
 なぜ琉球国は日本国に「処分」されなければならなかったのか。
 明治政府の「琉球処分」の論理は、天皇への不恭順の処罰、である。
 琉球国からすれば理不尽な所業である。
 松田道之は32人(42人の説もある)の内務官僚、160余名の警官、熊本鎮台分遣隊、を率いて「廃藩置県」を令達した。
「琉球藩」の廃藩置県は明治維新(明治革命)の最後のピースの完成を意味する。
 日本史の中で言えば、天皇から安堵されていた版籍(土地と人民)を返還する過程を踏まなければならない。
 形式的には自発的に、実際は強権的脅迫によって。

 この事件は日本国が富国強兵策によって政治体制としては帝国主義的段階に来たことを意味するだろう。
 そして琉球国はその最初の植民地とされた、と解釈できる。
 やがて朝鮮、台湾、満州の併合、南洋諸島の植民地化政策が遂行されていくことになる。

2. 沖縄植民地

 沖縄県に関連する、米軍関係の事件や事故とそれをめぐる処理、政治問題等、総じて「沖縄問題」が露見するたびに、米軍の占領者意識だとか、沖縄は植民地かなどの憤懣が噴出する。
 沖縄人(?)は、自らを独立国日本の住民だと無意識に思っている。
 沖縄が「植民地である」ことに無自覚である。
 沖縄は明治期に日本に併合、植民地化されたとは考えもしない。

 また、サンフランシスコ講和条約を機に、米国の植民地下に落とされ、かつ米国から日本国への沖縄の「施政権返還」後、沖縄・日本・米国のいびつなトライアングル構造の国際関係の中で「植民地」であることにも気付いていないように見える。
 己が植民地の住民であること気づけば「独立」の思想や運動が芽生えるであろう。
 このような沖縄の状況は「日米安保条約」によって日本が米国の「植民地」になっていることに無頓着な日本人と同列であろう。
 サンフランシスコ講和条約第3条をつぎに掲げる。
 日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。
 このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

 この条約第3条こそ日本国が沖縄を米国に割譲し、米国は司法立法行政の諸「権利」を行使する、すなわち「植民地」支配することを許容する源泉である。
 見ようによっては「琉球処分」の様相を呈する。
 しかし、この場合「処分」の名分はない。
 しかし、天皇裕仁(昭和天皇)は、1947年9月にいわゆる「天皇メッセージ」を宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国政治顧問に伝えていた。
 沖縄の永続使用を提案するものであった。(http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html 沖縄県公文書館参照のこと)
 この文書によると、天皇は私利私欲(self-interest)の為に沖縄を米国に差し出す趣旨の提案をしていたことになる。
 そして条約第3条は天皇裕仁の要望に沿っていたことになる。
 1879(明治12)年、明治天皇によって「廃藩置県」(「琉球処分」)が断行されたように、1952年発効の講和条約は沖縄を切り捨てたのである。
 裕仁天皇(昭和天皇)の意志によって「琉球処分」されたのである。
 実際には実現しなかったが「信託統治処分」であり、実質な植民地として米国に割譲されたのであった。
 沖縄県は消滅し、「琉球」が誕生した。

 米国は国際的に獲得した権利を存分に活用し、軍用地として「剣とブルドーザー」でもって土地を接収し、人権を蹂躙し、財産を奪った。
 これらの事態は沖縄住民の「祖国復帰」気運を醸成したものと考えられる。
 当時、天皇メッセージは沖縄の住民に知られていない。
 ともかく紆余曲折を経て1972(昭和57)年に施政権は日本に返還された。
「沖縄県」が復活した。
 では処分は撤回されたのか。

 講和条約によって、日本は占領から抜け出したが、条約調印と同日に締結された「日米安保条約」によって日本国もまた米国の植民地となったのである。
 もちろん、条文には「植民地」云々の文言はない。
 そのためか日本人は自国のポジションに無自覚である。
 安保条約には米国の特権を認め、米国の行動に対して日本国が手を出さないことを認める「地位協定」が付随している。
 沖縄住民の地位協定改定の要望に政府は関心を示さない。
 それは日本国が米国の植民地であり、かつ沖縄が日本国の植民地であるからである。
 日本国は宗主国の米国に何らの主張もしえないでいる。

 地位協定が沖縄住民を苦しめる。
 米軍の理不尽な行動、例えばオスプレイの配備とヘリパッド基地の建設、辺野古埋め立てによる新米軍基地建設などが強行されつつある。
 とりわけ辺野古新基地建設は米国の外圧を梃子にして、強権的に工事を強行している。
 形式的には、当時の植民地エリート仲井眞弘多知事の辺野古埋め立て承認がある。
 仲井眞弘多は日本国に隷従し、日本国からの何がしかの振興策や予算、普天間基地の5年以内の閉鎖等の飴に狂喜して見せた。

 しかし、続く選挙で翁長雄志候補に敗れた。
 翁長雄志新知事は埋め立ての取り消しを表明した(2015年9月14日)。
 翁長雄志は踏みとどまることができるだろうか。
 政府ペースの非生産的な交渉を続けて「苦渋の選択」と言い訳にしつつ政府の軍門に下るのだろうか。
 翁長は日米安保条約を容認する。
 ここで、昨年の沖縄県知事選挙で喜納昌吉候補が「取り消し」ではなく「辺野古承認撤回」を公約に掲げて、翁長候補に挑んでいたことを想起するのは無駄でないだろう。

 植草秀一(2015)はそのブログで、
「辺野古問題の<核心>は、国が本体工事に着工することを、翁長知事が阻止できるかどうかにかかっていると言って過言でない。」
と述べ、工事着工前の埋め立て承認取り消し、ないし撤回を強調し、政府との事前協議は「すべて本体工事着手実現へのアシストだった?」と疑念を示していた。(http://uekusak.cocolognifty.com/blog/2015/07/index.html 7月28日、31日参照)
 昨今、中国の脅威を煽り、沖縄県の八重山や宮古に自衛隊を常駐させ抑止力を企図するが、抑止力幻想そのものが中国と日本の緊張を高めているのである。
 辺野古基地建設の遂行は高度に緊張を高めることになるだろう。

3. 沖縄基地問題は人権問題である

 辺野古新基地建設問題は、現在の「琉球処分」の象徴として位置付けることができる。
 なによりも、植民地統治の暴政としての象徴であろう。
 植民地化された地域の住民にとって、よほどのことがない限り、植民地身分からの解放が第一の要諦である。
「琉球藩」に対する「廃藩置県」(狭義の琉球処分)は、明治政府による琉球国の簒奪、併合と再定義されるが、一歩踏み込んで、琉球/沖縄を日本国の版図としながら実質「植民地」化したのだ、と考えたい。
 辺野古問題は「宗主国対植民地」の枠組みで捉える必要がある。
 沖縄植民地の宗主国である日本国自体が米国の植民地(属国または従属国、との説もある)であるので、植民地エリートである日本政府は米国の意図を忖度し、「自発的従属」を旨として沖縄に強権的に振る舞う。
 普天間基地の移転に関して、日本政府も仲井眞弘多知事(当時)政府も自民党沖縄県連も「危険性の除去」を理由として辺野古に新基地を建設する政策を推進していた。
 この主張には反知性が濃厚である。
 危険性の除去なら、基地の撤去がコモンセンスあろう、移転ではなく。
 移転先として「辺野古を含むあらゆる可能性」を考えて「辺野古しかない」として埋め立てを認可したのが仲井眞弘多であった。
 2014年11月の知事選挙で翁長雄志は勝利を得たが、その時のインタビューで次のように述べていた。
― 何が有権者に支持されたか。
「沖縄県民としてのアイデンティティだ。変わらない基地の重圧に対しオール沖縄や保革を乗り越えて当たってほしいという県民の想いに応えられた」

― 普天間飛行場移設問題で政府とどう向き合うか。
「まずは、真実の声を届けたい。県民は民意を出した。日本国民全体で日本の安全保障を考え、国土の0.6パーセントの沖縄に74%の米軍基地をおしつけてはいけないよと申し上げたい。」

― 埋め立て承認の取り消し、撤回についてどう考えるか。変更申請に対する対応は。
「埋め立て申請を厳しく調査したい。取り消し、撤回に向けて県民の心に寄り添って断固とした気持ちで取り組みたい」変更申請も私なりにしっかり審査して名護市と意見調整しながら知事の権限を行使したい」
(『沖縄タイム』2014年11月17日)

 辺野古基地建設着工前に政府と沖縄県は「事前協議」することが付帯条件となっていた。
 沖縄県は沖縄防衛局に「意見聴取」を求めたが、応諾せず、「聴聞」を要求した。
 防衛局の申し出に応えて沖縄県は「聴聞」を設定したが、防衛局は「文書でもって回答している」との理由で欠席した。
 聴聞は国対国民(私人)の場合に適用されるものであるが、国は私人(私企業)に成り済まし作戦のようである。
 承認取り消しの前の「意見聴取」の機会や「聴聞」機会を放棄しているようである。
 あくまで、防衛局は法的身分を「会社」と同じものと強弁するつもりらしい。
 三宅俊司弁護士は「行政不服審査を国が乱用していると批判している(『沖縄タイムス』 2015年10月4日)。

 この間、翁長雄志知事は国連の人権理事会に出席し演説した(ジュネーブ、9月21日(現地時間))。
 2分間のスピーチで長いものではない。
 一部を引用する。
 このように沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされています。
 自国民の自由、平等、人権、民主主義、そういったものを守れない国が、どうして世界の国々とその価値観を共有できるのでしょうか。(『沖縄タイムス』2015年9月22日)

 この演説で、沖縄の基地問題は新たなステージにステップ・アップした、といえる。
 世界の国々は軍隊を持ち、軍備を整え、軍事基地を確保している。
 そのような中で「基地反対」では、世界の支持はおそらく得られない。
 翁長の国連人権理事会での演説は、沖縄の基地問題は人権問題へと、より普遍的な問題へと異次元の飛躍を成し遂げた。
 翁長は「私は、あらゆる手段を使って新基地建設を止める覚悟です。」(同)という演説は、「人権」と「自己決定権」をベースとすることによって、世界の共感を呼ぶ主張になるだろう。
 翁長は「自己決定権」を主張するが、沖縄の「独立」を直ちに主張するものではない。
 沖縄県議会9月定例会で「新基地建設に反対することが独立の志向に直ちに結び付くものではないとの考えを示した。」(『琉球新報』2015年10月3日)。

 佐藤優は、翁長雄志の国連演説について「歴史的、政治的に大きな意義を持つ」と書いている。(『琉球新報』2015年9月26日、佐藤優のウチナー評論400)
 その理由は、
「まず第1に沖縄県の民意によって選ばれた沖縄の最高指導者が史上初めて、国連の場で沖縄の自己決定権に基づく自己主張をしたことだ。」(同)
 第2の理由は2分間という時間で「文法的に正確な英語で、沖縄が置かれた状況を過大な形容詞や修飾語を用いず力強く訴えた」ことである(同)。
 簡潔にアピールしたということであろう。
 翁長の演説はテレビニュースで何度も放映されていた。

 日本政府の嘉治美佐子次席大使は流暢な英語で翁長雄志の演説に反論した。
 中でも「軍事基地の移設問題を人権理事会で取り上げるのはなじまない」とするものであった。
 対して翁長は記者会見で「基地問題が一番大きな人権問題だ」と反論している。

 佐藤優は「翁長演説に対する外務省(在ジュネーブ国際機関日本代表部)の対応は、特命大使小田部陽一大使ではなく、格下の嘉治美佐子次席大使に反論を行わせたことに象徴されるように腰が引けている」(佐藤、同)と揶揄している。
 佐藤は、嘉治が反論を行なったのは本国からの「訓令」に従った、嫌々ながらの反論だったのではないかという趣旨の発言をしている(沖縄キリスト教学院大学で開催の講演会、2015年9月26日)。
 翁長雄志は知事選の公約に国連で辺野古問題を訴えることをあげたが、国連演説の実現は一朝一夕でできたのではなかった。照屋みどりは次のように述べている。
今回の翁長知事の国連演説・シンポジウム実現をけん引したのは「島ぐるみ会議」だ。そして、その背景には1996年の大田昌秀元知事の代理署名訴訟の最高裁での敗訴後、日本国内での解決は困難と考え、沖縄の問題を国連へ報告し続けた国連NGO「琉球弧の先住民族会」等の粘り強い活動があるといえるだろう。
(『沖縄タイムス』2015年9月28日)
 
 日本政府は、辺野古が唯一の選択肢と強弁する。
 辺野古基地建設運動を推進する自民党の島尻安伊子参議院議員を安倍晋三総理大臣は、沖縄・北方科学技術大臣に据えた。
 翁長知事の国連演説へカウンター・パンチを繰り出すのだろう。
 沖縄のことわざに「ウイナゴー戦ㇴサチバイ(女性は戦争の先駆け)」というのがある。
 島尻は辺野古問題では反対派取り締まりの急先鋒である。
 海上保安庁や警察に働きかけ、反対派住民の人権を蹂躙するのであろう。
 植民地エリートの尖兵である。
 しかし、事態は動きつつある。
 辺野古に関して、米議会調査局は報告書を提出した。
 次のような内容が含まれている。
 東京と沖縄の論争は新たな段階に入りつつある。激しい政治闘争の局面につながる可能性がある、と懸念を示した。
(時事通信、10月7日(水)8時18分配信)
 移設反対派が抗議活動をエスカレートさせ、過激な手段に訴えるかもしれない」と警鐘をならした。(同)

「辺野古が唯一」論に揺らぎが始まったのかもしれない。
 また、「辺野古が唯一の選択肢」との文言が含まれていた条文から、これが削除された形で国防権限法が可決された(『琉球新報』2015年10月9日)という。
 国分権限法とは米国の国防予算を決めるために毎年作成される法律である(猿田佐世「辺野古削除が持つ意義」『沖縄タイムス』2015年10月9日)。
 猿田はこの文言削除のロビー活動について次のように記している。
 これまでこの文言を取り除くためロビーイングを、沖縄の国会議員、首長、県議、経済界等の方々が展開してきた。
 精力的に働きかけた皆さまの努力と、また変化を可能にしたオール沖縄全体の力強さに敬意を表したい。(同)

おわりに

 1945年日本は連合国に降服し、翌年1946年には日本国憲法が発布され、主権在民が日本国に新しい政治体制をもたらした。
 当時の沖縄は米軍の占領下にあり、日本国憲法は沖縄に効力を及ぼさなかった。
 サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月、第1回立法院議会において新垣金造議員は「主権在琉球人」を発議した。
 しかし、他の議員たちは自らを「日本人」であるとして新垣金造の政治および人権の主張を潰した。
 そして、自ら進んで「日本復帰」の迷路に嵌まり込んで行くのである。
 日本国は沖縄住民の間に反目を植え付け、住民を離反させ植民者の強権を揮い続けるのである。

 明治時代の「琉球処分」は「廃藩置県」であったが、昭和の「琉球処分」は天皇メッセージを起点とするサンフランシスコ講和条約による「琉球植民地化」であり、いまに続く。

 日本の政治状況を米国の「属国」と指摘する識者が台頭しつつある。
 日本国が米国の走狗になるのでなく、独立国を取り戻す、あるいは独立を創生する思想と行動の練達が求められる。

 基地問題は人権問題である。
 今こそ沖縄の知性たちの思想の錬磨が期待されるのである。
「琉球処分」を超えて、「植民地」支配を超えるために。

参考・引用文献

・我部政男 1997 「明治国家の琉球併合――琉球処分の政治過程――」『人文研紀要』(中央大学人文科学研究所) 25−76.
・木山竹治 1925 『松田道之』鳥取県教育会、岩美郡教育会
・西里喜行 2004 「8章 琉球国から沖縄県へ――世替わりの諸相」安里進、他(編著)『沖縄県の歴史』山川出版社 227-254.
・波平恒男 2014『近代東アジア史のなかの琉球併合』岩波書店
・沖縄大百科事典刊行事務局(編)1983『沖縄大百科事典』上中下 沖縄タイムス社
・大城喜信 2013「尚寧王の起請文と薩摩の掟一五ケ条」『うるまネシア』第16号 24−27.
・大城&紳 2014 『日本植民地国家論』琉球館
・大城&臣 2014 「虚構の「琉球藩」」 『うるまネシア』第17号 86−95.
・吉田健正 2007 『「軍事植民地」沖縄』高文研


現代の理論、第6号、2015秋号(2015.11.1発行)
今に続く「琉球処分」―歴史と現在
植民地沖縄が告発する日本の人権侵害

沖縄キリスト教学院大学名誉教授・大城 &
http://www.gendainoriron.jp/vol.06/feature/f06.php

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映画「沖縄スパイ戦史」

「沖縄とアラブのマスコミは似ている。反米、反イスラエルでそれ以外は出てこない」

 沖縄担当・防衛大臣も務めた小池百合子さんの発言だ。

「沖縄のメディアは県民を全て代表しているとは思わない」

 政府の沖縄メディア批判は年々あからさまになっている。
 昨年2013年の年末、辺野古の基地建設に向けた埋め立てを承認してしまった仲井眞沖縄県知事も、今年2014年4月、「県内紙は読んでいない」と衝撃発言をした。
 公約を破る知事に県民を代表する資格があるのか、と正論を展開する地元二紙の論調がよほど気に障っていたのであろう。

「沖縄のメディアは基地反対の意見ばかり報道する。賛成派も出すべきだ」
という批判は常にある。
 確かに、もしAさんとBさんが争っていたら、メディアは両方の意見を報道すべきだ。
 しかし基地に反対する県民が対峙するのは、沖縄の賛成派なのだろうか?
 そもそも、沖縄に純粋な「基地賛成派」はいるのだろうか?

 公正中立を掲げる放送局は、基地容認派を画面に出そうとする。
 すると、全国の視聴者は、
「沖縄には両方の意見があるのね。背に腹は代えられないものね」
と自身が沖縄に負担を強いる国策を支える一員だという罪悪感から逃れられる。
 私達が安易に賛成派を描かないのは、問題の構図を見えにくくしかねないからだ。

 敗戦し、米軍に土地を奪われた沖縄
 元々、基地建設に賛成する人などいない。
 いるのは、日米両政府にはとてもかなわないと諦め「基地と折り合う」選択をした人と、初志貫徹で基地に反対する人だ。

 サンフランシスコ講和条約で日本が占領を解かれた後、沖縄は「土地収用令」(1953年4月公布)に基づく「収容通告」一枚でブルドーザーに敷きならされた。

 泣く泣く基地と折り合って生活を立て直してきた人びとが、今になって「基地のお金がないと困る賛成派」だと都合よく色づけされるのは不当だ。

 例えば、いよいよ埋め立てが迫る辺野古。
 辺野古はかつて自分からキャンプシュワブの建設を受け入れたと揶揄する人がいるが、それは違う。
 1955年、米軍は辺野古岳、久志岳一帯の接収を宣告。
 辺野古区民は震え上がった。
 当初は反対するが、受け入れないと住宅地も取ると迫る米軍。
 同時期、那覇市銘苅や安謝も畑や墓まで潰された。
 伊佐浜、伊江島も、逮捕者を出して抵抗をするも家を焼き払われた。
 当時リーダーだった古老は言う。

「とてもかなわない。ならば、ただ取られるより子孫のために命がけで米軍と交渉しよう」

 電気・水道・雇用。
 辛くも勝ち取った条件で、キャンプシュワブ周辺は別天地のように賑わった。
 当時「これ以上一坪たりとも渡さない」と島ぐるみ闘争に入った沖縄では、辺野古の選択を白い目で見る人もいただろう。
 だからこそ余計に辺野古区民は、国も県も頼れない窮地にあっても堂々と米軍と交渉し実を取ってきた地域のリーダーたちを肯定し、父や祖父の選択に誇りを持とうとした。
 軍と独自に交流し、もめ事をなくす努力もしてきた。
 親族の中に必ず米兵と結婚した女性がいるような地域で、基地反対と言い続けるのは難しい。
 でも、沈黙も、思考停止も、容認も、「賛成」とは違うのだ。

 歴史を見ずに「辺野古区は賛成」等と書くのは暴力的だと地元ジャーナリストは熟知している。
 賛成・反対の二元対立では基地問題の本質は見えて来ない。


筑摩書房PR誌・第520号、2014年7月号
沖縄メディアバッシングと「賛成派」の虚像
三上智恵(みかみ・ちえ 映画『標的の村』監督)
http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/1023/

最近、いろいろなシンポジウムでパネラーを務めることの多い「標的の村」三上智恵監督だが、所属の琉球朝日放送をこの2014年5月に退社した。
昨年は沖縄の闘う住民たちを追った映画「標的の村」が大ヒットし、社長賞まで受賞しながら、いったいなぜ?と思う人も多いだろう。
実はこの退社劇にこそ、現在のマスメディアをめぐるさまざまな問題が内包されているといえる。
沖縄の新聞・テレビは極めて進歩的だと言われているが、そうはいってもいろいろな変化が生じているようなのだ。
この問題については、『創』2014年7月号の映画特集の中で、「ドキュメンタリー映画の新たな可能性」と題してレポートした。
その記事の中の三上さんに関する部分をここで公開しよう。
なお映画特集全体は、『創』のホームページにアクセスすれば読むことができるようになっている。
興味のある方は、こちらへアクセスしてほしい。
http://www.tsukuru.co.jp/

 では、以下、三上智恵さんがなぜ琉球朝日放送を退社したかのレポートだ。
 昨年公開されて大ヒットした琉球朝日放送製作のドキュメンタリー映画「標的の村」の三上智恵監督に話を聞いた。
 彼女がこの5月いっぱいで局を退社すると知ったからだ。

「標的の村」は沖縄でのオスプレイ配備と普天間基地の辺野古移設反対運動を追ったドキュメンタリーだが、昨年2013年8月公開以降、ロングランを続け、全国の劇場で2万3000人を動員した。
 自主上映も予約を含めて240件が既に決まっているという。
 その時期に監督が退社するというのはどんな事情があったのか。三上さんの話を紹介しよう。
『標的の村』は、元々2012年10月のオスプレイ配備直前の9月に、テレビ朝日系の『テレメンタリー』というドキュメンタリーの枠で30分番組として放送されたものです。
 琉球朝日放送では、それを再度1時間の番組にして3ヶ月後の12月に放送しています。
 それがネットに勝手にアップされた時に全国でアクセスした人が3万もいました。
 基地問題は視聴率がとれないと言われがちですが、こんなに知りたいと思っている人がいることに勇気づけられ、何とかして全国の人たちに見てほしいと思いました。
 地方局が作ったドキュメンタリー番組は、よく賞をいただいたりするのですが、なかなか全国ネットにかからない。
『標的の村』もたくさんの賞を受賞し、そのことで局内で社長賞もいただいたのですが、その受賞式の場で社長に直接、『映画にさせてください』と申し上げたんです。
 そしたら社長は『そんなことができるのか、とりあえず調べてみては?』とおっしゃったので、お墨付きを得たとして映画化を始めました。
 配給会社の東風に見てもらったら、ぜひやりたいという返事でした。
 そこで2013年の8月から劇場公開が決まったのです。
 最初はどのくらいお客さんが来てくれるのか不安もありましたが、ポレポレ東中野では公開当初、満席で入れない人も出るほどで、異例のロングランになりました。

 三上さんは、毎日放送で8年半、琉球朝日放送に移ってから19年と、計27年間も夕方のニュース番組でキャスターを務めてきた、今年49歳のベテランだ。
 それがなぜ退職することになったのか。
 もともと沖縄の放送局は、反基地というスタンスでしたが、少しずつ変化はあるのです。
 私が基地反対という姿勢を強く出して放送をしていることに対しても、ブレーキをかけようとする動きはありました。
 でも私自身は1995年の少女暴行事件から毎日、この顔で伝えてきたことで、今さらトーンは変えられませんと言ってきたのです。
 昨年2013年から『標的の村』の自主上映が全国で始まり、私は足を運ぶようになったのですが、上映会を支えてくれるのは原発問題やダム建設問題、人権問題に取り組んでいたりする人たちで、そこで話をすると私の伝えたいことが思った以上に多くの人に届いていることが実感できました。
 しかも昨年以降、安倍政権が今のような状況になり、マスメディアもきちんと批判しない中、この映画の内容は沖縄の問題ではなく、自分たちの危機だと多くの人が捉えるという空気ができていきました。
 だから私は週末は上映会に飛び回るということを続けてきたのですが、それに対して次第に会社は本業に差し障ると捉えるようになり、受賞式は仕方ないが、それ以外は控えるように言われました。
 デスクや、中間管理職など年齢相応の業務も避けきれなくなり、取材に行きにくい状況の中で、次回作を作るチャンスも絶望的でした。
 私としては、何も作らず、定年まであと10年過ごすのは耐え難いという気持ちになってきたのです。

 退社後の生活は大変だが、それよりも急を告げている辺野古の問題を含め、何とか沖縄の実情を多くの人に伝えたいという気持ちなのだという。
 映画については配給会社の東風がこれまで通り業務を続ける。
 ただ、配給収入は、琉球朝日放送には入るが、三上さんのもとへは入らない。
 ドキュメンタリー映画は、劇映画以上に作り手の思いが反映される作品だ。
 製作や配給などの仕組みは改善され、クラウドファンディングなどのシステムも出来つつある。
 しかし、制作者の思いを実現するには、まだ改善の余地はあるといえる。


Yahoo! Japan News、2014/7/4(金) 21:45
「標的の村」三上智恵監督はなぜ琉球朝日放送を辞めざるをえなかったのか
(篠田博之、月刊『創』編集長)
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20140704-00037092/

2018年7月21日に那覇市の桜坂劇場で公開されるドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」の三上智恵、大矢英代両監督に作品への思いを聞いた。

― なぜ今、陸軍中野学校の「秘密戦」や「戦争マラリア」がテーマなのか。

三上: 陸軍中野学校がやろうとしたことを正確に理解しないと、軍隊が来たときにまた沖縄が同じ運命をたどらされる。

大矢: 波照間島は地上戦はなかったが、日本軍の軍命による強制移住の結果、マラリアで約500人も亡くなった。
 軍と住民が共存すれば、どんな恐ろしい代償を住民が払わされるか。その恐ろしさを端的に表している。


― 撮影で心掛けたことは。

大矢:(証言者の)ありのまま、インタビューの中で自然と出てくる言葉を大切にした。

三上: スパイ虐殺に関わった人たちは、70、80歳のおじいになっている。
 “あなたも加害者ですよね”と言うインタビュアーが来たら、この人は一生の最後にものすごい嫌な思いをする。
 みんなやりたくないし、やっちゃいけないと思ってやらなかった分野。
 断罪するような取材者になりたくなかった。
 でも、軍隊のシステムの闇が分かっていたら、今後何万人も救えるかもしれないと思い、やらないといけないと思った。
 ずっと自問自答している。


― 軍隊のシステムの闇とは。

三上: 島しょ戦は補給ができず、有事の時点で島に残る食料、武器、燃料で何とかしなかったら死ぬ。
 住民を使うのは当たり前だ。
 住民に食料を作らせ、労働させ、互いを監視させて、震え上がらせるために殺す。
 最後は、住民に武器を持って戦わせるのが秘密戦の基本だった。
 沖縄戦当時も軍が住民を『始末のつく状態』などと表現していた。
 軍に協力させておきながら、住民は始末の悪い存在になっていってしまう。
 そのため始末のつく状態にし、最後は始末する。
 スパイ候補生になり、戦ってもらうか、死んでもらうかという選択肢しか残っていない。
 そのことに気付かず集落の人は、軍隊に協力し、スパイに関する情報を出す。
 人間心理の闇が、軍国主義の中で、暴力社会の中で、油を注いでいってしまい、結果的に一番大事にしないといけない同じ地域の人を軍に売るような形になったり、その人の命をなぜか奪うような事態になったりする。


― 観客に何を伝えたいか。

三上: 軍隊が住民を守らないという沖縄戦の教訓がある
 どうして守らなかったのか、守れなかったのか。
 そのシステムを冷静に見てほしい。


大矢: 平和がほしいといって自衛隊を派遣したり、米軍がイラク、アフガンに侵攻したり、“平和がいい”ってすごく怖い言葉になった
 軍隊を置く時点で、住民は犠牲になる。
 その恐ろしい未来はすぐそこに来ている。
 この映画には沖縄戦の教訓から学び取れる要素がたくさんあるのでそこを感じてほしい。


琉球新報、2018年7月17日 12:03
軍隊システムの闇に焦点
21日公開 映画「沖縄スパイ戦史」

(聞き手 藤村謙吾)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-763155.html

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2019年05月19日

A・ビナード×三上智恵

広島市内で2017年4月16日、三上智恵監督「標的の島 風かたか」の上映後に詩人のアーサー・ビナードさんと三上監督のトークがあった。
沖縄の情況は日本の民主主義の在り方にかかわるといった視点にとどまらず、広島との思想的な関連性、特に死者との対話に議論が及んだ。

A・ビナード: 辺野古で、高江で、沖縄で思うことは、国家は国民のために存在していない。
 僕らがそのことを実感せずに生活しているなら、あんぽんたんだ。


三上智恵: 私が沖縄で映画を作っているのは、沖縄の負担が大変だから、ではない。
 この国が劣化してしまって、足元の幸せとか平和とか安定とか安心とか、ここまで崩れているのになんで全国の人たち気づかないんですか、と思って作っている。


A・ビナード: 沖縄が大変だとか思っていたら現実は何も見えない。
 今の広島の思考停止とあんぽんたんぶり、広島がすべてを失う崖っぷちに立っていて飛び降りる寸前の状態になっていることを沖縄が照らし出しているから、沖縄をちゃんととらえなければいけない。
 沖縄の問題ではない。


三上智恵: 沖縄の問題を全国の人が考えてあげないといけないというレベルの問題ではない。
 沖縄にいるから分かる、沖縄でははっきりと断層の地層が見えるというものがある。
 沖縄でニュースキャスターを20年やって、全国に伝えないといけないことがたくさんあった。
 それは沖縄が大変だということではなく、あなたの国の民主主義はないですよ、この国の平和はもう終わりましたよということ。
 これからは共謀罪だけど、私は戦争に向かう最後の大きなカギは特定秘密保護法だったと思っている。
 あれを許してしまってほとんど戦前の法律は完成したと思う。
 もちろん戦争法も、念を押すようにできてしまった。
 止められないところまで来ている。


A・ビナード: 特定秘密保護法とセットに進められたのがマイナンバー制度。
 三上さんは戦前の法整備が済んだというけれど、戦前の方がまだましだった。
 戦前は戸籍が悪用されたが、米政府にも利用されるマイナンバー制度という日本語を介しない形で日本民族の支配が完成した。


三上智恵: マイナンバーも、みんなが従順でなければ止められたと思うが。

A・ビナード: 5000万人がいらないっていえば制度そのものができなかった。
 しかも、ひどいネーミングだ。税務署に行くとこういう顔をしているから英語で聞かれる。
「What Your My Number?」
 Your My Number って何。
 そういう中でどうするか。
 沖縄とつながると、いろんな人が多様性を保ちながらつながっている。
 それを僕らにお手本として提供してくれている。


米軍も自衛隊も一体

三上智恵:「標的の島」を見終わっての感想は。

A・ビナード: 重要なことを理屈ではなく感覚を伴った形で伝えた。
 米軍帰れとか、アメリカにこんなに基地を押し付けられているとかではなく、米軍も自衛隊も同じ組織だということ。
 宮古と辺野古と高江をつなげて描くと、それがよく分かる。
 おととしから米軍とか自衛隊とか米政府とか日本政府とかではなくて同盟調整グループ(Alliance Coordination Group=ACG)という組織がアメリカ国防総省、カタカナでいうとペテンタゴンが中心になってできた。
 その下請け組織が日本の防衛省。
 宮古に自衛隊基地ができるのと辺野古に米軍基地ができるのとは、同じ組織の出先機関が違うだけ。
 あるいは軍服を着ている人間の顔が違うだけ。
 同じ組織が進めていて、この映画で伊波洋一さん(参院議員)も明確に言っていたが、先島を戦場に想定して計画を進めている。
 それがこの映画ですごくよく分かる。


三上智恵: アメリカ軍基地への反対は沖縄で8割がそうだ。
 しかし、辺野古は普天間の代替施設といわれると、これがまたペテン。
 辺野古新基地を造らずに普天間基地をなくしても、沖縄への米軍基地集中度は74%が73%にしかならない。
 この73%は、8割のオール沖縄を支える大多数の県民がいいといって、まだ負担していくつもりでいる。
 でも、普天間は無条件で返してくれてもいいんじゃないのか。
 それも許されないのか、というところなんです。
 ここが勘違いされている。
 アメリカの基地への反対は沖縄の中でも理解される。
 でも自衛隊に反対するとなると微妙だ。
 自衛隊には沖縄の出身者が多い。
 沖縄の離島から東京、大阪の大学に行かせると一人あたり2000万円弱かかる。
 一人大学に行ったらほかの兄弟はあきらめるという中で、防衛の学校に行けば資格も取れるし、生活費ももらえる。
 そういうところに多くの人が行ってしまうのは沖縄の地域がら仕方ない面もある。
 だから自衛隊には反対論が言いにくい。
 でも米軍基地の問題だけ扱っていたら、いま私たちが迎えてしまった危機が説明できない。
 宮古島と辺野古・高江のことを一緒にやるとせわしなかったと思うが、でも米軍基地と自衛隊はいま全く一緒に考えないといけない。
 南西諸島の軍事要塞化ととらえないと何も本当のことが分からない。
 それは、沖縄が戦場になるということではなく、日本が戦場になる、その導火線を今作っているということだということをどう2時間で表現しようかと、編集作業は死ぬ思いだった。


A・ビナード: 日本は「思いやり予算」という金を自分から出して導火線を引いている。
 米帝国と中国帝国が軍産複合体を維持するためにそれをやっている。
 中国もアメリカも全面衝突なんて考えていない。
 だからペテンが成り立つ。
 戦争をやりたいんなら核ミサイルを撃ち込んで人類を終わりにすればいい。
 しかし、戦争をやりたくないなら、戦争がない形で解決するしかない。


三上智恵: 米中はお互いに経済的なダメージをどの辺まで抑えて戦争するか、お互いに検討している。
 そして一緒に軍事演習なんてやっている。
 不思議なことだ。


A・ビナード: 世界の歴史の中でこんなに経済的に依存しあった大国はない。

三上智恵: そこで、お互いの国ではないところで軍事衝突が起きるとしたら、海上限定戦争しかないという結論に今達しているが、その海上限定戦争の舞台にされている島々は私たちが住んでいるところだ。
 この島々で戦争が終わるはずがなくて、もし沖縄本島が巻き込まれるとアメリカが巻き込まれて長期化する。
 そのアメリカのシンクタンクの人たちが、エアシーバトル構想についてシミュレーションしたところでは、中国はミサイルの飛距離が伸びたので、戦闘機や船を出さなくても(先島を)直接攻撃できる。
 でもそうなったら、アメリカ軍は半日でグアムのラインまで撤退することになっている。
 それが2006年の日米合意。
 だってアメリカ軍には、この島に残って最後まで戦う義理はない。
 いったん撤退して頃合いを見て奪還に来るが、初期攻撃に対応するのは同盟国軍だと書かれている。
 同盟国軍とは日本軍、韓国軍、フィリピン軍。
 ドゥテルテ大統領は頭がいいから、巻き込まれないためにアメリカと距離を置いている。
 中国との経済関係、信頼関係を築くことで、アメリカの代理戦争をさせられて自国の兵隊が犠牲になる、もしくは自国の国土が戦場になることを避けようとしている。
 でも日本と韓国は、このまま行くと自国の領土を戦場に提供し、真っ先に死ぬのは日韓の若者ということになる。
 そして、初期攻撃に対応するのは日本の軍隊だが、沖縄は2週間で陥落すると書かれている。
 次のバトルゾーンは西日本。
 それが「やまさくら」という訓練で、ネットで簡単に見ることができる。
 沖縄にいると、アメリカ軍と日本軍がどこでどう訓練しているかがニュースになる。
 でも、本土では全くニュースにならない。
 だからみんな、アメリカが日本を守ってくれているというところで思考停止している。


白水の戦争マラリア

A・ビナード: それで何か起きた時に、ありえない、想定外、そんなことになっていたんだという。
 6年前の3.11もそう。
 日本に54基も原発があったの、知らなかったって。
 軍事衝突、相手が中国なのか北朝鮮なのか分からないが、それが起きた時、沖縄で何が起きているか全く注目してこなかった人たちはまたオタンコナス状態になる。
 そういう状態になって市民が何かやるのは不可能。
 僕は日本国憲法第21条「言論の自由」が唯一の足場なので、これから憲法までつぶされた時、市民の抵抗は、大日本帝国に抵抗するのと同じぐらい難しい。

三上智恵: 映画の中で、沖縄平和運動センター議長の山城博治さんが、まだ我々には憲法があるんですから、というシーンがある。
 憲法があって表現の自由があるんだから、その自由を治安維持という名目で警察権力が押しつぶしていくとしたら、それはもう憲法なき社会だし、そんなことはあり得ないといいながら、結局その通りのことが起きた。
 博治さんは有刺鉄線一本1500円ぐらいのものを切っただけで5ヶ月勾留され、家族の接見も認められず、差し入れも制限された。
 何の罪で5ヶ月もこんなに人権を奪われた状態でいなければならないのか。
 しかし、日本国民は何の関心も示さなかった。
 治安維持法が機能しているような社会なのに、それに対する反応は鈍かった。
 次は自分だとどうして思わないのだろうかと思った。
 その間にネット上
では、山城博治さんがひどい人だという嘘八百の情報が、過激派だとかカネをもらっているとか、中国共産党の一員とか、流された。

A・ビナード: そうして市民の力を削ぐ。

三上智恵: 山里節子さんという「とぅばらーま」の歌い手がいる。
 沖縄本島の民謡歌手のプロでも、「とぅばらーま」だけは八重山に生まれ育っていないと無理というぐらい敷居の高いソウルソング。
 楽しい、とか美しい、とかを歌う歌はいっぱいある。
「とぅばらーま」は恨みとか、哀しみとか、嘆きとか、慟哭をそのまま詠み込んでいく。
 即興で。音楽の並びがだいたい決まっていて、合いの手が決まっているぐらいで歌詞はまったくフリー。
 でも小さいときから聞いて育っていないとそのボキャブラリーがない。
 あれこそ口承文芸の遺産。
 自衛隊が来るのが嫌なんです、とインタビューで言うのと、あれを歌うのとでは、人の心に届く深さが違う。
 この映画で一番大事な部分だと思っているのは、
「私たちの島は金もないし、力もないけれども、歌や踊りがあって、それでおなかを満たして、心を洗われて生きてきたんです、その力を結集することで、何とかこの危機を乗り越えていけるんではないか、と確信を持っているんです」
と節子さんがいうところ。
 権力者側に対抗して、歌や踊りでどうするの?って、その言葉だけ聞いたら思うかもしれないが、この映画を見たら離島が持っている力、権力側が持っていなくて大地の上に根を張って生きている島の人たちが持っている力って確かにあると思う。
 沖縄は今、崖っぷちに来てしまっているが、それでもあきらめない力が沖縄の人たちにはある。


A・ビナード: 三上さんが海中カメラで撮った映像がある。
 サンゴが産卵するシーン。
 その力が節子さんの歌。
 山に向かって、草原に向かって、これから基地が造られようとしているところに立って、草木や風に言葉を発する。
 詩人は言葉を出すのが仕事で、人前で朗読したり活字にしたりする。
 でも、風に対して何か言えるか、山に対して何か意味のある言葉を出せるか、と言われたら出せない。
 でも節子さんには、先祖から引き継いでいる意味のある言葉、風に向かっても力を持っている言葉がある。
 サンゴは海の中で流れる海水の中でこれだという、年に一度の瞬間を見つけて産卵する。


三上智恵: あのサンゴが出した卵の塊はつぶれるかもしれないが、でも出した卵はどこまでも遠くに行って着床して海の再生のために頑張ると思う。
 節子さんが、雨を含んだ黒い雲を見て、戦雲(いくさぐも)がまた湧き出たみたいだってあの場で歌う。
 白水というところが尾根の向こう側にあって、そこに閉じ込められて、かからなくてもいいマラリアにかかって沖縄の人たち3700人も、弾に当たってではなく、日本軍の命令で死んだ。
 節子さんのお母さんもおじいさんも。
 節子さんが私に言ってくれたが、山の向こうの、命を奪われた人たちが背中を押したような気がするって。
 この歌を歌って、三上監督のスクリーンに映ったら大変なことになるって、どこかで分かっていたけど、でもあの時、白水の方から私の背中を押したのよねって。
 だから彼女は山中で亡くなった人たちの声とかを聴いて、山に向かって、空に向かって、大地に向かって、自分の覚悟をあの瞬間に響かせた。


死者とどう向き合うか

A・ビナード: 映画で「死者に対して申し訳ない」って(島袋)文子おばあが言う。
 その力が何より強い市民の力になると思う。
 広島の街は、本当はものすごく力があるはず。
 ここでどれほどの命が72年前の夏に奪われたか。
 昨年2016年、賞味期限が切れた「おじゃま(オバマ)」大統領が広島に来た。
 1時間足らず来て、17分間のおためごかしを並べて帰った。
 あの大統領が来た時、謝罪しなくていいという人が多かった。
 72年前の地獄を体験した人たちの中にも、謝罪しなくていいという人がいた。
 その気持ちは分かる。
 和解したほうがいいという気持ちは分かるが、でも私たちは謝罪しなくていいといえない。
 言えるのは殺された人たち。
 でも、殺された人たちは、謝罪せよ、というはずだ。
 核開発を続け、原発も作り続け、オバマ大統領の核廃絶も実現していない。
 それでは謝罪してもらわないと困る。
 この映画に出てくる死者とつながっている人たちは、たやすく「謝罪しなくていい」とか「水に流す」とか「関係ない」とかいえない。
 過去とつながっていれば、死者に問いかけてから行動する。
 でも沖縄を今まで支えてきた人たちは、翁長雄志知事も含めて、死者と向き合うパイプを持っている。
 そのパイプをなくしたら、広島も力が出ない。
 そのパイプをつなぎとめ、死者と相談できる。
 そこが大事だ。


三上智恵: 沖縄では後生(ぐそう)という言葉がある。
 私は民俗学をやっているが、他界観、私たちに見えてる世界とは違う、天国とか後生とかを想定しない民族はいない。
 同じ他界観を共有している強さというのを描きたいと思っている。
 沖縄戦を体験したお年寄りから話を聞いて、代表的なのは99歳で亡くなった1フィート運動の会の中村文子先生のこと。
 沖縄戦で教え子を二人ひめゆり部隊に出してしまった、日の丸を振って子供たちに軍国教育をした、そういう軍国教師としての反省を戦後貫いてきた人だが、その先生がいつもひめゆりの資料館に行くと「のぶこ、はるこ、会いに来たよ」という。
 そののぶこさんと、はるこさんは、おさげ髪のままだけど、文子先生は、後生に行った時、
「もう基地はなくなったのよ」って言いたい、
「私が頑張ったからもう戦争の島でなくなった」って言いたい、
でもそう言えないから、私はまだ死ねないんだって言われていた。
 まだ基地があるの、また戦争になるかもしれないの、と、だからセーラー服姿の、のぶこ、はるこに会うことができないから、頑張るって。
 沖縄戦を体験したお年寄りはみんな言う。
 生き残った罪悪感は広島でもあると思うが、沖縄でもなぜか自分は生き残ってしまったと自分を責める人が多い。
 後生に行って72年前別れた人たちと再会する時、自分は生き残って何をしたのって考えると、居ても立ってもいられないからみんな辺野古、高江に来る。

A・ビナード: アメリカから広島に26歳の時に初めてきて、それまでは原爆が投下されたことが犯罪だったという意識はなかった。
 広島に立って自分の母国を見つめて、アメリカから受けた教育を少し見抜くことができるようになって広島の人たちとつながった時に、自分が被爆(曝)していないことが単なる偶然だということに気づいた。
 僕はミシガンで生まれ育って、ミシガンは約100基あるアメリカの原発の中でワースト3に入る原発の風下で、しかも母親の胎内にいた時に近くのエンリコ・フェルミ原発がメルトダウン事故(1966年)を起こしてそれが隠ぺいされ、その放射性物質はエリー湖に漏れ、小さいころそこで泳いでいる。
 いまカナダが最終処分場をヒューロン湖のほとりに作ろうとしていて、これからまた五大湖の水が汚染される。
 アメリカ人こそ一番汚染させられている。
 全部泣き寝入り。
 そのことに自分が目覚めていくと、自分が今、健康被害に苦しんでいない、生活が成り立っていることは単なる偶然で、自分は次だと常に感じるようになる。


沖縄の人たちを二度殺すのか

三上智恵: 戦争で沖縄は防波堤にされた。
 捨て石で時間稼ぎだったが、本当は防波堤にすらならなかった。
 沖縄戦は無駄死にだった。
 20万人が地獄のような2ヶ月間を体験する中で、日本国の指導者たちが少しでもいい和解を引き出すことができたかかといえば、何もできなかった。
 それどころか、沖縄の島々にたくさんの日本軍を配置して沖縄の若者も使ってたくさんの滑走路を造ったが、その滑走路は米軍によって使われた。
 長崎に原爆を落とされた帰りに沖縄の基地が使えていなかったら、長崎の原爆はなかったという人もいるくらいだ。

A・ビナード: 燃料がなくなるから。

三上智恵: だからすごいバッドアイデアだった。
 沖縄を防波堤にして日本が助かるというのは。その検証をちゃんとしないで、なんとなく中国が怖いから先島に自衛隊とかがいたほうがいい、という。
 でも、それは戦争で死んだ人たちを二度殺すことだ。
 なんで日本人が20万人も沖縄でむごたらしい死に方をしたか。
 この作戦は大失敗だった。
 沖縄守備の第32軍は見捨てられた軍隊で、住民もろとも死ぬしかなかった。
 でもあの作戦で誰も助からなかったとみんな知っていて、同じ過ちを死んでも繰り返さないということのために彼らの命と経験が使われたら、それは本当の意味で犬死にしないことだと思う。
 20年間、沖縄の放送局にいて、6月が来るたびに何か戦争の企画をといって、戦争は悲惨だったという企画を安易に出してきた。
 でも戦争がどんなに悲惨だったかは分かっている。
 なんで止められなかったかをやらないと。
 1945年がどんなに大変だったかをいくらやっても、今は平和でよかったみたいなつまらない感想しか出てこない。
 1944年に沖縄の人たちは何をしていたんですかということを問わないと。
 1944年の夏に日本軍がたくさん入ってきた。
「連戦連勝」の日本軍が。
 大嘘だけど。
 これでこの島は安心だ、守ってもらえると思ったら数ヶ月後には戦場のど真ん中になった。
 「ざわわ」って曲は、私はあまり好きではないが、ある日海の向こうからいくさがやってきたって、そんなことを歌っているから、次の戦争を止める力がなえてしまう。
 戦争が向こうから来て、戦争してもいいですかといったらその時は「ノー」といおうと、そんなことで戦争は止められない。
 今、これだけ日本軍とアメリカ軍に自分たちの島を明け渡していながら、今度の戦争は嫌です、とどうやっていえるのか。
 私は、沖縄戦で亡くなった人たちを、二度殺すことだけは許さないと思っている。
 だけど沖縄戦で亡くなった人だけじゃなくて、いま「標的の島」という小西誠さんの書いた本があるが、それは11月末に米海兵広報部がツイッターに出した写真が表紙になっている。
 アメリカ軍と自衛隊が図上訓練をしている。
 下に大きな島があって米軍の司令官が立って指示している。
 そういう訓練が行われたと、アメリカ軍は何とも思わず出した。
 でもそれは私たちが住んでいる島だ。
 形を見れば分かる。宮古島、伊良部島、石垣島、西表島。
 ここで戦争を想定して訓練をしている、そういう写真なのに、なぜか全国のメディアは全然やってくれない。


A・ビナード: 日本の敗戦はミッドウェーで決まったから、あとは核開発を進めながら日本を後でどう利用するかが進められて、1944年のタイミングで日本軍が基地を整備するということは、米軍のための下請けの建設だった。
 結果的にいま岸信介の孫が首相になって、大日本帝国の組織の一部の人間が米帝国に再就職している。
 だから、先島は本土防衛と同じ発想。
 先島に住んでいる人たちにとって先島は「先島」ではなく世界の中心。
 でも「ペテンタゴン」のお偉方には先っぽの島。
 今は本土防衛なんて言わずに「エアシーバトル」と言うが基本的には変わっていない。
 そういうデジャビュ(既視感)のような悪夢の再利用のようなものがいま僕らの生活を奪おうとしている。
 僕らは声を上げることができる。
 権力と張り合って言葉と思いをぶつけることができるのに、これを使わなかったら死者に対して申し訳ない。


三上智恵: この日本国憲法を政府が変えたいというのは本当におかしな話。
 権力者は暴走する、暴走を止めるために日本国憲法がある。


A・ビナード: 800年前にマグナカルタが作られた時から、憲法はそういうもの。

三上智恵: それを暴走したい人たちが変えるっていうのは、猛獣の檻の鍵を外すのと同じ。
 でもそのことについて、どうして日本人は一部変えてもいいんじゃない?って言っちゃうのか。


A・ビナード: 一部変えるなら「思いやり予算は払ってはならない」というのを書き加えたほうがいい。

以上、トークの要約(文責 asa)

夕陽の回廊、足音だけが、聞こえる。2017年04月22日
広島と沖縄 死者との対話 (上)(中)(下)
A・ビナード×三上智恵

https://yuuhikairou.blog.so-net.ne.jp/archive/20170422
https://yuuhikairou.blog.so-net.ne.jp/archive/20170423

posted by fom_club at 18:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

反基地運動は中国のスパイ!?

 県民の約4分の1が死亡した沖縄戦。
 6月23日の慰霊の日に行われた沖縄全戦没者追悼式で、翁長雄志知事は「辺野古に新基地を造らせないという私の決意は県民とともにあり、みじんも揺らぐことはない」と力を込めた。
 一方、安倍首相は「基地負担軽減に全力を尽くす」と述べた。
 嘘だ。
 政権に辺野古新米軍基地の建設強行を止める気配は微塵もない。
 石垣島、宮古島、与那国島への大規模な自衛隊とミサイル基地の配備も推し進めており、石垣市では中山義隆市長が7月18日に陸自配備受け入れの方針を正式に表明した。

 安倍政権の建前は「防衛強化」だ。
 過去最大、約5兆3000億円の来年度予算を要求する防衛省の長・小野寺五典防衛相は、沖縄全戦没者追悼式の直後に「我が国の平和と安全は自衛隊が担っている」との訓示を出した。
 しかし、“戦争に備える軍隊”は、本当に人びとを守るのか。

 2018年7月公開のドキュメンタリー映画『沖縄スパイ戦史』は、過去と現在の双方からこの問題をえぐった。
 沖縄米軍基地や自衛隊ミサイル基地配備問題などを追い続ける三上智恵監督と、三上監督の琉球朝日放送時代の後輩にあたる大矢英代監督、ふたりの女性ジャーナリストによる共作だ。
 両監督の丹念な取材で一次証言や資料を集めた本作は、
・ 沖縄戦における少年ゲリラ兵、
・ 軍が住民を強制移住させた「戦争マラリア」の問題、
・ 本土から送り込まれた陸軍中野学校出身者の暗躍、
・ そして、軍統制下での秘密保持と相互監視のもとで起きた「住民虐殺」、
これらの真相に迫る。

 共通するキーワードは、表題にあるとおり「スパイ」。
 周知の通り、昨今では新基地や自衛隊配備に反対する人びとが、右派やネット右翼から「工作員」「回し者」と攻撃され、テレビや新聞などのマスメディアまでもが沖縄をめぐるデマに加担している。
 両監督はそうした安倍政権下の状況をどう見ているのか、自衛隊の問題にも踏み込んで話を伺った。
 ぜひ、最後まで読んでもらいたい。
********************
─ これまで『標的の村』や『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』で、高江のヘリパッドや辺野古新基地の建設、先島諸島の自衛隊・ミサイル基地配備の問題を描いた三上監督が、今作では大矢監督とともに沖縄戦を扱いました。なぜいま沖縄戦、それも「スパイ」をテーマに選んだのでしょう。

三上: みなさんそれを聞きますよね(笑)。
 三作の映画をつくってみて、まだこれではダメだと思ったからです。
 辺野古や高江の問題は、沖縄が大変だということではない。
 もう日本自体が壊れていて、民主主義も国民主権も三権分立も手放そうとしている。
 そのことの警鐘としてやってきました。
 だけれども、その危機感はほとんど浸透していない。
 たとえば一作前の『標的の島 風かたか』は、具体的に始まっていく宮古・石垣の自衛隊による要塞化が日本の運命をどう変えていくかということを打ち出したのに、ほとんど後追いもされませんでした。
 だから、基地建設反対運動や沖縄や離島の文化というのを絡めてドキュメンタリーとしていく手法は、もう甘いんだなって思ったというのがひとつ。
 もうひとつは、日本人は「次の戦争はピカっと光って終わりの核戦争だ。いまどき白兵戦をやるわけがない」と決めつける人が多いですけど、いま、世界中で戦われている戦争って、実際には核戦争じゃないですよね。
 テロであり、ゲリラであり、スパイによる秘密戦なんです。
 秘密戦というのは恐ろしい世界で、言わば、敵兵の顔も見ずに、弾に当たる前に殺される人が出る。
 そうしたいま起きている、起ころうとしている恐怖を知ってもらうために、私たちが放送局時代から取材してきた沖縄戦に何を学ぶべきかと考えて、この題材を選びました。


大矢: 実は当初のタイトル候補は「沖縄裏戦史」だったんですよ。
 でも「裏」というよりかは、全編を通して「スパイ」の話なんですね。
 陸軍中野学校という本土でスパイや秘密戦、ゲリラ戦などの教育を受けた青年将校が沖縄に赴任し、10代の少年たちを集めてゲリラ兵にした「護郷隊」。
 私が学生時代から取材してきた戦争マラリアの問題もそうです。
 たとえば、波照間島の住民は日本軍によって悪性マラリアの蔓延する西表島に強制移住させられ、島民の3分の1が命を落としましたが、実は、その前に中野学校出身者が学校の先生として偽名で赴任してきて、住民の生活を秘密裏に監視していました。
 強制移住は住民を守るためではなく、食料確保や情報を漏洩させたくない軍の都合だった。
 つまり「スパイを防止する」という名目で住民のスパイをしていたのです。
 人びとを守るためじゃなくて、日本の国体を守るためですよね。
 軍が住民に住民を監視・密告をさせて作成した「スパイ容疑者リスト」の存在と、疑心暗鬼になった住民同しによる虐殺も、背景には機密を保持するという軍の論理がありました。


「沖縄にスパイが入ってる」というデマがもつ本当の恐ろしさ

─ 住民たちを疑心暗鬼にさせて「あいつはスパイらしい」みたいな流れをつくることは安倍政権もやっています。
 一例をあげると、公安調査庁は報告書のなかで、中国の大学やシンクタンクが沖縄独立を求める団体の関係者との交流を深めているとして〈日本国内の分断を図る狙いが潜んでいる〉などと言いふらしています。
 他にも、基地新設に反対する人たちや翁長知事に対して「スパイ」とか「回し者」みたいな誹謗デマが飛んでいる。
 たとえば昨年2017年、作家の百田尚樹氏が〈テント村の中には、漢和辞典も。日本語を勉強している人たちなのかも〉とツイートして、あたかも高江に「中国のスパイ」が紛れ込んでいるかのようにほのめかしていました。


三上: えっ、そんなことを言っていたんですか……。
 低俗すぎて論外ですが、たしかに「沖縄にスパイが入ってる」というようなデマはいま、再燃しています。
 しかし、そういう話が流布されていくと、本当に、自分たちの所属している社会が根から腐っていく。
「スパイ」という言葉の怖さがわかっていないんでしょう。
 それはジェームズ・ボンドの「スパイ」ではなくて、戦争のときは命取りになる言葉。
 いや、戦争の前から「スパイ」とされて、いじめ殺されたりということが日本中であった。
 だからこそ、魔女狩りみたいな危険な集団心理として肝に命じておかなくちゃいけないはずなのに……。


─ でも、百田氏の言うような話は現状、かなり流通してしまっています。たとえば「基地反対派は金をもらっている」というネトウヨのデマを本当に信じてしまっている人は少なくないです。

大矢: もちろんネットの恐ろしさはわかります。
 私が琉球朝日放送に入局したときから、それこそ“沖縄バッシング”と言われるものは始まっていました。
 日々のニュースのなかで、普天間基地がつくられる前にはもともと村があって、住民の生活があって、それを米軍が接収したのだというニュースを伝えても、「普天間基地」とgoogleで検索したら、「普天間基地の真実」とか「普天間基地の嘘」みたいな話がたくさんでてくるじゃないですか。
 私は伝える側ですが、受け取る側から見たら、普天間の歴史をもっと知りたいなと思っても、ネットで調べたら事実とはまったく違う嘘にたどり着いちゃうわけですよね。
 そういう恐ろしさをネットは常にはらんでいると思うし、結局はリテラシーを身につけないと状況は変わらない。
 ただ、一方で、映画を作るようになってからは、正直、あんまりネット右翼と言われている人たちの声は、もう無視してもいいんじゃないかと思うようになってきていて(笑)。


沖縄デマに乗っかれば、自分が加害者であることに向き合わなくていい

─ ネトウヨのバッシングはあまり意識しないということですか。

大矢: はい。
 だって単なる卑怯じゃないですか。
 こっちが実名で顔までだしてつくっているものに対して、どこの誰かもわからない、ネットがなければ存在すら証明できない人たちが書き込むわけですよね。
 それって、対等な関係にならない。
 だからあんまり、ネットでこんなバッシングが……というのは気にしていないし、相手にしなければいいんじゃないか。
 そうも思うんですよ。
 もちろん、そうした言説がなぜこれほどまでに出てきているのかということについては、社会の闇の部分としてもっと取材しないといけないですが。
 誰かを攻撃することで安心している、あなたのなかのその気持ちはなんなんですか? そう問いたいですね。


三上: 「あいつらは中国のスパイなんだってよ」みたいなデマって、『沖縄スパイ戦史』の「スパイ」にも共通しますが、ものすごく無責任にアドレナリンが出る話なんですよ。
 それで知ったような気になる。
 実際、「翁長知事の娘は中国に留学し、中国共産党の幹部と結婚した」というような有名なフェイクに多くの人が飛びついた。
 念のため言っておきますが、翁長知事の娘さんは中国に留学どころか一度も中国に行ったことがないですからね。
 しかし「翁長はスパイ」と思いたい人は、「娘が中国人と結婚しているらしい」なる話をフェイクだろうとなんだろうと拡散する。
 いいね!されることが生きている実感になっちゃっている。
 そんな病んだ社会がありますよね。
「辺野古で反対している人たちはお金もらっているんだぜ」みたいなデマもそう。
 こういうことさえ言っていれば、自分たちは辺野古の人たちに同情することもないし、実は加害者だということに向き合う必要もないから。
 沖縄のことを考えたくもないし、政治的な感覚も本当は0点なんだけど、それをどこか恥ずかしいと思ってるからこそ、そこは悟られたくない。
 どっちかと言えば、楽してかっこはつけたい。そういう人が群れを成してデマやバッシングに向かう。負の連鎖ですよね。


世の中に政治的じゃないものなんてありますか?

─ そうしたデマとはまた違った角度のバッシングとして、基地反対や日本軍の戦争犯罪を批判すると「政治的なプロパガンダだ!」みたいな言いがかりも飛んできます。『沖縄スパイ戦史』では、石垣島への自衛隊配備を容認する中山氏が当選した石垣市長選のシーンも出てきますね。選挙も入れようというのは最初から考えていたんですか。

三上: もちろんです。
 ひょっとして、いま現在の選挙を入れると後から古びてみえるとか、そういう違和感を感じましたか?


─ いえ、そうではなくて、「政治的な映画だ!」みたいなことを言い出す連中が出てくるのではないかと……。

大矢: うーん、想定はしていましたね。
 最初は、石垣市長選をどういう風に扱うかは結構悩んでいて。
 本編を終えたエンドロールのところに入れるというプランもあったのですが、するとまったく違う印象になりますから。
 まあ、中山市長が映画をみたら怒るだろうなとは承知の上でつくってますけどね(笑)。
 でも、現在とつなげなければ意味がない。
 なぜ、2018年のいま、この映画をつくっているのか。
 目の前で起こっている石垣の市長選があって、自衛隊基地をどうするの?というところは撮らなければいけない。そう思っていました。
 だいたい「政治的だ!」というバッシングがあると言いますけど、世の中に政治的じゃないものなんてありますかね?


三上: というか「政治的だ!」っていうバッシング自体、実は政治的でしょう。

大矢: そうそう。
 八重山の選挙に限っていえば、右とか左とか、そういう問題じゃなくて命の問題なんです。
 自衛隊基地を置くことで、どういう風に自分たちの生活が脅かされていくのか。
 どういう風に作戦に加担させられていくのか。
 映画で過去を掘り下げたように、戦争では「軍の秘密を握る住民」とされて、住民も子どもたちの生活も一変してしまったから


三上: 生活や命が脅かされると心配することを「政治的だ!」とか「プロパガンダだ!」と責めて楽しいですか。
 自分はこの島にずっと住み続けていくし、そこは先祖の土地だし、未来の子どもたちも守りたい、そういう思いを持つは自然でしょう。
 あなたがこの島にいたら心配しませんか。
 右往左往しませんか。
 自衛隊基地についてのいろんな意見を聞いて、迷ったり、怖くなったりしませんか。
 メディアの問題にも通じますが、「政治的中立」みたいな無重力の場所が仮にあったとして、自分はそこを探してそこに立って、公平に世の中にあるすべてのことを見渡すことができる、なんて考えているとしたらかなり傲慢ですよ。
 そんな人間がいるはずがない。
 あなた自身が偏っていないというのならば、その意味のない自信はどこからくるのでしょうか。


旧日本軍と自衛隊が同質であるかどうかは重要な問題

─ 映画をみれば、自衛隊についてもいやが応にも考えざるをえないです。

大矢 自衛隊のことについて目をつむり、耳を塞ぐのは、罪悪感をとりはらいたいがための自己暗示でしかないと思っています。

三上 たとえば、先の戦争で散々なことをした旧日本軍と自衛隊が同質であるかどうかはとても重要な問題なのですが、みんなそこを検証せずに「まさか同じなわけないじゃないか」と思っている。
 この映画をみて、何が同じで何が変わったのか、考えてみてほしい。少なくとも、旧日本軍が何をやったのかということが知られてなさすぎるし、もっと多くの人の目で検証しないと信用できないはず。だからこそ、私たちは『沖縄スパイ戦史』のようなドキュメンタリーをつくっているんです。

■『沖縄スパイ戦史』
2018年7月21日(土)より那覇・桜坂劇場にて先行公開中、7月28日(土)より東京・ポレポレ東中野にて公開。ほか、全国順次公開(公式サイト http://www.spy-senshi.com)。
 未曾有の犠牲を出した沖縄戦の裏には、知られざる「秘密戦」があった。
 本土から沖縄へ送り込まれた、諜報員を養成する陸軍中野学校の出身者。
 ある者は年端もない1000人もの子どもたちをゲリラ兵にし、スパイ活動をさせた。
 ある者は教師になりすまして村に潜入し、悪性マラリア地帯の離島へ住民を閉じ込める軍命を実行した。
 18歳の少女までもがスパイリストなるものに載せられた。
 軍の監視と密告で疑心暗鬼になる住民たち。
 そして発生した「スパイ虐殺」。
 当時を知る証言者たちが、三上智恵・大矢英代両監督の取材で口をひらく。
 はたして軍隊は住民の命を守るのか、それとも──。
 沖縄で進められている自衛隊とミサイル基地配備の現実。映画が映すのは、過去の話ではない。

[写真]
7月28日より東京でも公開されるドキュメンタリー映画『沖縄スパイ戦史』を監督した大矢英代氏(左)と三上智恵氏(右)

リテラ、2018.07.28 10:53
『沖縄スパイ戦史』三上智恵監督・大矢英代監督インタビュー

「反基地運動は中国のスパイ」デマも同根だ!
『沖縄スパイ戦史』監督が語った”スパイ”という名の分断

https://lite-ra.com/2018/07/post-4150.html

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三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をぜひお読みください:

★ 2011年11月23日「八ッ場あしたの会」
★ 2011年11月24日「須賀川市藤沼湖」
★ 2011年12月17日「大石武一」
★ 2013年04月30日「道の駅 八ッ場ふるさと館」

 そう、アーサービナード(1967年生まれ)!

 広島と東京を拠点に活動する米国出身の詩人アーサー・ビナードさん(51)が、丸木位里・俊夫妻による連作「原爆の図」に独自の物語をつけ、紙芝居を完成させた。
 今月下旬に童心社(東京)から刊行される。
 7年をかけて絵と向き合い、紡ぎ出した言葉が語りかける主題は、「いのち」である。

 「ちっちゃい こえ」と題した紙芝居の主人公は、「サイボウ」だ。
 小さな小さな細胞から核を問う物語。
 広島に暮らす猫のクロを語り手に、原爆が生きとし生けるものに何をもたらしたのか、静かに伝える。

「原爆の図」は、丸木夫妻が被爆後の広島で見聞きした惨状に迫った場面を中心とする15部の連作だ。
 四曲一双のびょうぶに仕立てられた縦1.8メートル、横7.2メートルの大作は、きのこ雲の下の光景を見る者に想起させ、人間にもたらした痛みを想像させる。
 その大半は埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館にある。

 ビナードさんは15年以上前に、この連作と対面。
「美術作品であると同時にみんなを巻き込む巨大な紙芝居だと思った」
という。
 2012年、被爆者の遺品を題材に絵本を出版した際、そんな思いを編集者に話したのが縁で紙芝居づくりの企画が動きだした。

 ところが、すんなりとは進まない。
 16枚という限られた紙芝居の場面で、「原爆の図」が内包するメッセージをどう生かすのか。
 聞き手がいて成り立つ紙芝居では見る人の心をつかむ工夫も要る。

「絵の中から声が聞こえて来るまで向き合うしかなかった」

 美術館に何度も通い、連作との対話を続けた。

 日本画家の位里と洋画家の俊が共同制作した「原爆の図」はそもそも「実験的な作品」と評されてきた。

「けちくさい縮こもった工夫をしていたのでは張り合わない」

 ビナードさんは遺族の許可を得、「原爆の図」から取り出した図像を大胆に切り取り、反転させたり、色を変えたりした。

 猫、犬、人びと…。
「作品に生かしたのは、『原爆の図』全体の面積で言うと3%くらい」とビナードさん。
 丸木夫妻が描いた群像の中に分け入り、そこに生きる小さな命に向き合った。

 被爆者や放射線の専門家の話にも耳を傾けた。
 試作品ができるたび、知人の前で、保育園で、市民集会でと、あらゆる機会を捉えて上演した。
 反応を見ながら場面に選ぶ絵をかえ、物語も書きかえた。
 気がつくと7年が経過していた。

 そして完成した紙芝居は、生きている証しでもあるサイボウを音で表現した。

 ずんずん るんるん ずずずんずん るんるんるん

 「みんなサイボウが動いて生きているのに、それを忘れてしまっている。サイボウの声に耳を澄ませていれば、今も続く核開発や汚染にみんなもっと敏感であるはず」

 理屈ではなく、音によって、感覚を呼び覚ましたかったという。

 かつて丸木夫妻は「原爆の図」制作と並行して全国を巡り、展覧会を開いた。
 行く先々で対話し、次作に反映させた。

 丸木美術館の岡村幸宣学芸員は、
「丸木夫妻が試みた観客との関係性を、ビナードさんは現代的にアップデートしたとも言える。その試みが成功しているかどうか。紙芝居を見る人の反応が楽しみ」
と話す。

□ 現代美術館で上演 あす広島

 アーサー・ビナードさんが5月3日午後2時から、広島市現代美術館(南区)で、新作紙芝居「ちっちゃい こえ」を上演する。館内と近くにあるムーアの広場で午前10時から午後5時まで開かれる開館30周年記念イベントの一環。この日、同館は無料開放される。


中國新聞・朝刊、2019年5月2日
「原爆の図」から紡いだ声
アーサー・ビナードさん 新作紙芝居
絵と対話「いのち」の物語

(森田裕美)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=90681

「なまからどー! ぬちかじり、ちばらなやーさい!」
(これからですよ。 命の限り頑張りましょう!)

 集会のたびにそう呼びかけ、県民の喝さいを浴びていた翁長知事。
 その翁長知事が、逝った。

 政府が何が何でも辺野古の埋め立てを開始すると宣言していたXデー、8月17日を10日後に控え、翁長知事は突然旅立ってしまった。
 すい臓ガンが相当体を痛めつけていることは誰の目にも明らかだった。
 しかし「たとえ倒れることになっても」11月の知事選に立つのだと周囲に見せている気迫はこれまで以上だと聞いて、悪性リンパ腫から生還した山城博治さんのように驚異的な精神力で病を克服してくれるものと信じた。
 が、8月8日、翁長雄志知事は天に召された。
 私は神を恨む。
 なぜこのタイミングで、彼を連れ去ったのか。

 新作の映画『沖縄スパイ戦史』が各劇場で順次公開され、各地で舞台あいさつに回っているときに訃報に接した。
 広島の横川シネマで詩人のアーサー・ビナードさんとトークに入るとき、映画が始まる直前に知事が亡くなったことを伝えた。
 会場はどよめいた。
 アーサーさんの大きな目にも涙が溜まっていた。

「たぶん、他府県の知事という存在とは…違うと思うんですね」

 私は地方自治法も適用されなかった米軍統治下の沖縄で、沖縄の人びとがどれだけ、自分たちの手で自分たちの知事を選ぶことができたら、と悔しい思いをしたのかを説明しようと試みた。
 移住者である私でも何かをえぐり取られたように感じているこの喪失感の説明をしようとした。

「だから、知事というよりは国王? かな? まあそれも違うけど(笑)、損ばっかりしている沖縄のために、家族を守るためにいつも闘ってくれる人。それはお父さんですよね。だからお父さんを失ったような。最後まで気を張って、楽にしてあげることもできなくて…」

 そこまで言ったら顔がくしゃくしゃになってしまった。
 自分でもそこまで翁長ファンだった自覚はないのだが、失ったものの大きさに急激に打ちのめされつつあった。

 私も報道畑が長く、物事を冷静につい斜めにみる癖のついた人間だ。
 それでも、「辺野古だけはやめて」という沖縄県民の想いの先頭に立って体を張っている大きなリーダーのもとで、いつの間にか勇気づけられながら、撮影をしたり発言をしたりしていたのだ。
 そのことにやっと気づいた。
 私でさえ、守られていたのだ。
 過去も現在も未来も沖縄を踏みつけてはばからない能面のように冷たい日本政府に対し、堂々と正論を言い、私たちの人権、生活環境を守るために、誰より先に矢面に立ってくれるリーダー、それを外側から描きだす仕事をしているつもりだった。
 けれども私は、大きな盾を失った当事者としてうろたえるような悲しさに襲われていた。
 ようやくわかった。
 私は紛れもなく一県民として、あなたしかいないと期待し、お願い、頼む! とすがるように応援していた人間だったのだ。
 ほかの県民と全く同じように。

「うちなーんちゅ、うしぇーてないびらんど!」
(沖縄の人間をみくびるな!)

 オスプレイを強行配備するならば普天間基地を封鎖するぞ、と市町村長や議員らも座り込んだ2012年の9月末、当時那覇市長だった翁長さんがゲート前でこう叫んだ。
 このセリフは「いただき!」と思った。
 以後私は事あるごとにこのシーンを取り上げた。
 「標的の村」の番組、映画にもあえて何度も使った。
 こういうリーダーを待っていたんだ、という熱気と共にこの言葉と翁長さん知事待望論は広がっていった。

『戦場ぬ止み』という映画は2014年、翁長知事を誕生させる島ぐるみの大きなうねり、激動の沖縄を捉えている。
 辺野古には基地を造らせないと訴える翁長さんを取り巻く観衆が、数百人が数千人になり、1万人を超えたセルラースタジアムで菅原文太さんが駆け付けたときの熱狂はまさに地鳴りのよう。
 島を揺るがすほどのエネルギーで、保革を超えて沖縄を束ねる初めての存在「翁長知事」を押し上げていった。

『標的の島 風かたか』では、国に訴えられた翁長知事が法廷に立つときに、裁判所前に詰めかけた大勢の県民から声援を受けるシーンがある。
 そこで知事はこう言った。

いま、国と対峙する厳しい局面を迎えているけれども、私たちのうやふぁーふじ(先祖)が味わった辛酸に比べれば大したことはない。ましてや、将来の子や孫の世代が、あの時、つまり今の我々が頑張ったおかげで、平和な島になったんだよ、と言われることを想像してみたら、こんな苦労なんて苦労のうちには入らない

 そして翁長コールを背に裁判所に入っていく姿。
 これは映画には入っていないが、裁判所の道向かいで群衆から離れて一人そわそわとしているおばあさんがいた。
 どうしたんですか? と話しかけると、
ここから応援してるんですよ。たった一人で国に立ち向かって。少しでも気を送って、と思ってね。かわいそうに、私たちのために、一人でね
と目を真っ赤にして裁判所の建物を見つめていた。
 彼女にとっては、自分より若い沖縄の青年が全部被って大きな敵と闘ってくれていると映るのだろう。
 だからかわいそうに、という言葉になるのだろう。
 上の世代からも下の世代からも惜しみない応援のエネルギーが注がれていた。
 こんな知事が他府県にいるだろうか。

 そして就任以来、「埋め立て承認の取り消し」「国が知事を被告にした裁判」「和解勧告」そして作業中断後の工事再開、そして「承認の撤回表明」と、ありとあらゆる民主主義の手続きの中で可能な手段を駆使し作業を遅らせてきた知事だったが、安倍政権は、ある時は面会を拒否し、ある時は勝手にルールを変えるなどあからさまな沖縄冷遇に徹して、「粛々と」工事を進めてきた。
 そして宣告された8月17日を前に、いつ撤回のカードを切るか、今日か、明日かという政府との神経戦に入って間もなく、翁長さんの命の灯は尽きてしまった。

 しかしその結果、あれだけ政府が喧伝した「辺野古の息の根を止める日・8月17日」に、作業は行なわれなかった。
 政府は表向きは台風の影響だとしたが、強行すれば、知事を失った悲しみに暮れる沖縄県民の怒りにふれて知事選に不利になると判断したのだろう。
 あらゆる政治手続のカードを苦心して切ってきた翁長知事は、奇しくも、最後は自らの「死」をもって目前に迫った土砂の投入を止めた形になった。
 なんて壮絶な幕引きなのだろう。

 なんとしても辺野古への埋め立て土砂の投入を止めたいと、政府の決めたXデー直前の11日には、ずっと前から大規模な県民大会が組まれていたが、知事逝去を受けて辺野古阻止の県民大会は翁長知事の追悼式の様相を呈していた。
 当初予想した倍以上の7万人が台風の雨風をものともせず結集した。
 今回の動画は、できるだけ多くの県民の思いや表情を見てほしくて、20人のインタビューを入れて大会の様子を12分にまとめている。
 沖縄県民の、世代や立場を超えたこの悲しみと怒りをぜひ見てほしい。
 そして当日会場に行けなかった私や大矢英代さんへの博治さんからのメッセージも、個人向けではあるが今回はあえて入れた。
 「マガジン9」のために編集するこの動画は、私自身も過去を思い出すために繰り返し見るのだが、どんな時も、いい時も悪い時も記録してほしいとおっしゃった博治さんのこの表情を一生忘れないで、肝に銘じるために。

 前にもここに書いたが、沖縄のおじいたちは教えてくれた。

勝ったかどうかじゃない。闘ったか、闘ってないか。それが大事なんだ。それこそが、子や孫へ贈る財産なんだ

 父や祖父があきらめずに闘ってくれていたことに、子の世代はいつか気づく。
 誰のためにそうしていたのか。
 どんなに辛く、でも誇らしいことだったのか。
 そしていつの間にか、自暴自棄になったり逃げたりするより立ち向かうことを選べる自分、いくつもの抵抗の仕方を見て知ってる自分を発見するだろう。
 それこそが、他人が奪うことができない本当の財産だ。

 翁長知事は県民すべてに、まんべんなく、泥棒も権力者も奪うことができない宝物を与えてくれた。
 命限り(ぬちかじり)大事な人たちのために闘う姿を、最後の最後まで見せ続けてくれた。
 そして彼のマブイ(魂)は140万個の光る宝玉となりすべての県民の心にそっと宿ったのだ。
 私はこの時代に沖縄に生きていることを幸いに思う。
 観察者や撮影者としてではなく一県民としてあなたを選び、思いを託し、あなたを支え、一喜一憂しながらも民の力を信じ、民主主義を実践で学びながら激動の時代を共に過ごせたことを誇りに思う。

 翁長さん、翁長さんはいいチャンスをくれましたね。
 沖縄県民が心をひとつにしたら想像もつかないことが起きる。
 その予言は本当かもしれませんし、今なのかもしれません。
 あなたが命がけで守ろうとした辺野古の海を、「守り切りましたよ」、と報告できるように、心をひとつに結んで頑張る県民の姿を、どうか大ぜいのご先祖たちとともに見守っていてください。
 間もなく旧盆が来ますね。
 御馳走とエイサーで一息ついて、心安らかに祖霊となって私たちを導いてください。


マガ9、2018年8月22日
三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌 第83回:
ぬちかじり〜命の限り抵抗した翁長知事が逝く〜

(三上智恵)
https://maga9.jp/180822-5/

8・11翁長知事追悼県民大会
https://www.youtube.com/watch?v=5nNBg61TINg

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沖縄

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をぜひお読みください:

★ 2013年10月01日「74%」

★ 2013年10月08日「アキノ隊員」、「高江の空」

★ 2013年10月09日「標的の村」、「高江の虫」

★ 2014年10月23日「何とか実情を多くの人に伝えたい」

★ 2016年10月20日「どこつかんどんじゃボケ。土人が」

★ 2017年03月14日「辺野古埋め立て」

★ 2017年05月15日「共謀罪を廃案に」

★ 2017年10月17日「総選挙、沖縄も問うてほしい」、「三上智恵」

★ 2018年04月10日「高畑勲監督が死去」

 そうなんです、行きたかった、訪れたかった東村!訪れてお会いしたかった「アキノ隊員」、お話をお聞きしたかったのです!
 でも辺野古を訪れても、海はもう見えないのと同じように、涙が止まらないと思い、今回はパス、スルーしてしまったのです!

 今月2019年5月9日に、参加したイベント会場もしくは他で沖縄返還協定批准阻止闘争に関する警察資料を2点紛失したと書きましたが、うち1点がイベント会場の諸見里公民館で見つかりました。
 お騒がせしてすみませんでした。
 公民館の方、気にかけていただいた方々、どうもありがとうございます。

 見つかった本は、警視庁警備部が、闘争警備に参加した機動隊員向けに作成した、高揚感あふれる冊子です。

 協定の詳細には触れていません。

 機動隊員はなぜ闘争が起こったかを知っているのか?
 まるで高江や辺野古の警備を見ているようです。
 今も昔も(未来も?)警察は変わらない。
 本土警察はともかく、残念ながら沖縄の警察も。

 米軍に傷つけられる県民を見ても、日米地位協定で捜査を阻まれても、沖縄県警は本土警察と同じく官軍であり続けるのです。

 ワタシは引き続き、沖縄の森を沖縄の生き物たちに返すため、虫ヘルをかぶります。


アキノ隊員の鱗翅体験、2019年05月18日
紛失した警察資料2冊うち1冊が見つかりました。
https://akinotaiinnorinshitaiken.ti-da.net/

 そして直近の辺野古の様子:

辺野古のいま.jpg

 そうなんです、今日のテーマを「三上智恵」さんにしようかと思っていました。
 だってえ〜、陸軍中野学校の跡地に行ったのが先月2019年4月28日!ここと沖縄も関連があったんです。
 が、スペースがあるのかしらん・・・。。。・・・

★ ヤツホーくんのこのブログ、2016年10月12日付け日記「板垣淑子」をお読みください。

 そして、これ:

 第2次世界大戦末期に民間人を含め多くの死者を出した沖縄戦の知られざる戦いをめぐるドキュメンタリー。

 陸軍中野学校出身の将校によってゲリラ兵に育成された少年たちのその後を追う。

 監督は『標的の島 風(かじ)かたか』などの三上智恵と、ドキュメンタリー「テロリストは僕だった〜沖縄・基地建設反対に立ち上がった元米兵たち〜」などの大矢英代。


☆ 作品情報:https://www.cinematoday.jp/movie/T002...

☆  製作・配給: 東風

☆ 公式サイト:http://www.spy-senshi.com


シネマトゥデイ
映画『沖縄スパイ戦史』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=9CYXkXN4BV0

https://www.youtube.com/watch?v=Tsk9ggz-BoY

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2019年05月18日

山歩クラブの沖縄合宿

 皆さん、こんばんは。
 山歩クラブの沖縄合宿がはじまったのは5月15日の水曜日(〜本日5月18日)。
 奇しくも沖縄は15日、1972年の本土復帰から47年目を迎えておりました。
 8名による合宿では「ひめゆりの塔」にも訪れ、ヤッホーくんは余りにもむごい師範学校の女子生徒たちの戦争による悲劇に、もうただただ、涙するばかりでした。
 看護にあたっていた少女が、傷病兵の顔に湧いたウジ虫をひとつひとつ、木の葉の茎で落として、それでも聞こえてくるウジ虫の足音。
 米軍の爆弾をかいくぐって丘に向かい逃げる途中、動物の糞尿のまじる浅い水たまりに四つん這いになって口を濡らした二十歳前の少女。
 それでも死して皇国に貢献せねばならなかった幼い彼女たち、、、

 われわれはオスプレイの飛ぶ姿も目撃しました。
 やっぱり、戦争はだめ、平和なればこそ、あの美味しい沖縄料理が食することができるのだし、
 優しい県民性に触れられる、
と、おおきな感動を覚えて帰京してきました。

 それに今回、山歩クラブの皆さん、よくまとまり協力しあい、助け合い、仲間意識のすごさにもヤッホーくん、感謝感激雨あられ、涙そうそう。
 また、合宿をしましょうね、写真は宝の海、美ら海(ちゅらうみ)にて。


P1000201 (2).JPG

夏川りみ 涙そうそう
https://www.youtube.com/watch?v=8FJnJroUD4o

https://www.youtube.com/watch?v=ioyTxWtksp0

 沖縄は2019年5月15日、1972年の本土復帰から47年を迎えた。
 敗戦後の米国統治にあらがった人びとは「即時・無条件・全面返還」を掲げて復帰運動を繰り広げた。
 だが、在日米軍専用施設は約7割が沖縄に集まり、県面積の8%超を占める。
 令和の時代になっても、基地負担は重い。
 県内では市民らが反戦と反基地を掲げ、集会やデモ行進をした。

 米軍普天間(ふてんま)飛行場(宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古(へのこ)移設を巡り、県と政府の対立は続く。
 玉城(たまき)デニー知事は、15日に合わせて発表した談話で、
「過重負担などの解決に全身全霊を注ぐ」
とした。
 菅義偉(すがよしひで)官房長官は同日の記者会見で、
「沖縄の可能性を伸ばすために国家戦略として振興策を推進したい」
と述べた。

 昨年2018年10月に知事となった玉城氏は、普天間の県外・国外移設を主張。
 今年2019年2月の県民投票は、辺野古沿岸部の埋め立て「反対」が7割超を占めた。
 政府は土砂の投入を続け、3月からは区域を広げている。
 玉城氏は政府との対話による辺野古問題の解決を図るが、溝は深い。
 那覇市では15日、北海道や関東・関西地方などからも集まった約40人が、集会やデモ行進を実施。
 宜野湾市の島田善次(ぜんじ)さん(78)は、
「皆さんが自分のこととして取り組まないと(米軍基地が集中する沖縄の現状は)変わらない」
と呼び掛けた。


[写真]
沖縄県の本土復帰から47年を迎え、那覇市の国際通りで行われたデモ行進=15日午後

東京新聞・朝刊、2019年5月16日
本土復帰47年
重い基地負担、沖縄の怒り令和も

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201905/CK2019051602000168.html

 沖縄が日本に復帰して47年。
 復帰時、沖縄側が求めていた「即時無条件全面返還」はいまだ実現せず、基地機能強化が続く中で「基地のない平和な沖縄」への道はほど遠い。
「5・15平和行進」には梅雨空の下、2コース計820人が参加。
 沖縄が求めてきた復帰の姿を訴えながら、強権的に新基地建設を進める安倍政権に抗議の声を上げた。
 行進に参加していない県民も沿道から声援を送ったり、手を振ったりして激励し、平和への歩みを後押しした。

■ 南部コース 新基地阻止、拳高く

 本島南部の沖縄戦跡を巡る「南部・戦跡コース」は、那覇市泉崎の県庁前の県民広場で出発式が開かれ、315人(主催者発表)が参加した。
 午前9時半から出発した参加者は自衛隊那覇基地や糸満市の白梅の塔を巡り、最終地点のひめゆりの塔に到着した。

 梅雨入り直後で小雨がぱらつく中、参加者は、
「辺野古基地建設を止めるぞ」
「基地のない平和な沖縄をつくろう」
などとシュプレヒコールを上げながら、19・2キロの道のりを歩いた。

 平和行進への参加は初めてという横浜市の公務員・内田朝徳(とものり)さん(53)は、
「沖縄についての報道に触れるたびに、『いつか来てみたい』と思っていた。実際に来て基地負担の現状を改めて痛感した。この機会にもっと沖縄のことを知り、平和の意味について考えたい」
と話した。

■ 中北部コース 「軍事拠点にするな」

[北部]「中北部・基地コース」には県内外から約350人が参加した。
 新基地建設が進む名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前をスタートし、金武町の米軍キャンプ・ハンセンゲート前まで16・9キロを歩いた。

 一行は「基地のない沖縄をつくろう」などとシュプレヒコールを上げながら歩みを進め、約7時間かけて金武町に到着した。
 ハンセンに向かって拳を突き上げ、「沖縄を軍事拠点にするな」と声を上げた。

 沖縄市から参加した元教員の久田房子さん(63)は、
「選挙で何度も(新基地反対の)民意を示しているのに伝わらない日本という国に憤りを感じる」
として、
「日本復帰から47年を経ても米軍基地がなくならない沖縄の現状を、行進を通じて訴えたい」
と話した。

 先頭に立って一行を率いてきた平和行進副団長の久住武さん(56)は、
「復帰して47年。基地負担に苦しむ現状は変わらない。この問題は沖縄だけではなく全国の問題だ」
と訴えた。


[写真]
基地も核も戦争もない世界の実現を目指し拳を上げる「5・15平和行進」の参加者ら=17日午後4時40分ごろ、糸満市伊原

琉球新報、2019年5月18日 10:23
5.15平和行進
求めた沖縄の姿へ 新基地阻止、拳高く

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-920419.html 

「復帰とはね、継母(ままはは)から母の元に帰ることなんだよ」

 3月まで沖縄国際大教授を務めた稲福日出夫さん(68)は幼いころから、学校で教えられた。
 継母は沖縄を支配していた米国。
 母は日本国だ。

 母と信じた日本政府は、2013年に「主権回復の日」式典を開いた。
 沖縄が日本から切り離されて米軍の統治下に置かれた「4.28」を、国際社会に復帰した記念日と位置づけた。

 沖縄では同じ日に抗議集会があり、稲福さんも足を運んだ。
 会場の金網に、
「日本国にもの申す! もはや親でもなければ子でもない」
と書かれた布がくくりつけられていたのを覚えている。

「基地撤去の言葉より、政権批判より心に刺さった」

 ウチナーンチュの率直な感情の発露と捉えた。

 記念日では、ほかにも歴史の皮肉がある。
 米軍の輸送機「オスプレイ」が沖縄に配備された2012年は、復帰40周年だった。
 配備反対の県民大会があり、全41市町村の代表らが東京での抗議行動に参加した。

 県議だった故玉城義和さんは、撤去を求める文書を「建白書」と命名した。
 初代知事の屋良朝苗さんが復帰前、米軍基地撤去などを日本政府に求めた「建議書」の精神を継承する意味があった。

 建議も建白も為政者への意見具申だが、実現していない。
 きょうは47回目の復帰の日。
「母」の愛情より、苛烈さが目につく。


沖縄タイムス・大弦小弦、2019年5月15日 08:27
「復帰とはね、継母(ままはは)から母の元に帰ることなんだよ」…
(吉田央)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/419810

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2019年05月15日

戦争なんて言葉は使いたくない

 国会議員として許されない発言だ。
 丸山穂高衆院議員が戦争による北方領土奪還の是非を元島民に問うた。
 戦争放棄の憲法を無視する発言で国民の代表たる資格はない。
 議員を辞職すべきは当然だ。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

 日本国憲法九条第一項である。
 九九条で「憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定められた国会議員の一員なら、知らないでは済まされない条文だ。

 しかし、北方領土へのビザなし交流訪問団に同行していた丸山氏(35)=大阪19区、日本維新の会が除名処分=は2019年5月11日夜、国後島の宿舎で、元島民で訪問団長の大塚小弥太(こやた)さん(89)に、
「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか反対ですか」
と問い掛けた。

 大塚さんが、
「戦争なんて言葉は使いたくない」
と答えると、丸山氏は、
「戦争をしないと、どうしようもなくないですか」
と述べた。

 丸山氏は酒に酔った状態で、訪問団事務局が禁止しているにもかかわらず外出しようとしたり、大声で騒いだりしたため、注意を受けた、という。

 丸山氏は13日深夜、東京都内で記者団に対し、
「多くの方に不快な思いをさせ、おわびする。不適切な発言を撤回したい」
と語ったが、発言を取り消せば済むという程度の話ではない。

 国内外に多大な犠牲を強いた先の大戦の反省から、戦争放棄と戦力不保持を憲法に明記した。
 平和主義は国民主権、基本的人権の尊重と合わせて憲法の三大理念だ。

 外国による「不法占拠」が続く日本固有の領土は平和的な外交手段によって取り戻すべきであり、戦争という強硬手段で奪還すべしと考えているのなら、極めて不穏当で、平和主義を踏みにじる。

 ましてや国会議員としての発言だ。
 憲法の条文を理解せず、尊重も擁護もできないのなら、そもそも国会議員たる資格はない。

 丸山氏は2015年末にも東京都内で飲酒後に口論になった一般人の手をかむなどのトラブルを起こした。
 当時、党から厳重注意を受け、公職にいる間は断酒し、飲酒した場合は議員辞職する意向を示したという。
 もはや丸山氏がいる場所は、国会にはない。

 憲法を理解せず、尊重しない人物が国会に送り込まれてはならない。
 国民の代表を選ぶ私たち有権者の責任を、戦争を放棄した憲法の重みとともに確認したい。


東京新聞・社説、2019年5月15日
「戦争で奪還」
平和主義を踏みにじる

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019051502000186.html

モスクワ時事:
 丸山穂高衆院議員が北方領土問題の解決手段として戦争に言及したことについて、ロシア国営メディアは2019年5月14日、詳しく報じた。
 また、保守系メディアは発言に関し、日本専門家の批判的意見を伝えた。

 タス通信は東京発で丸山議員の発言や北方領土問題の経緯を報道。
 発言を受け、菅義偉官房長官が「誠に遺憾だ」と述べたことや、外交交渉によって問題解決を目指す政府方針を強調したことを伝えた。

 保守系のレグナム通信は13日、日本で記者として働いたこともある日本専門家のアナトリー・コーシキン氏の寄稿を掲載。
 コーシキン氏は、
「日本の居酒屋で時々酔客に『戦争で島を取り戻すぞ』と言われたことはあったが、国会議員からこのような発言は聞いたことがない」
と批判し、日ロ両政府は発言を見過ごしてはならないと訴えた。


時事ドットコムニュース、2019年05月14日18時34分
丸山氏発言、ロシアメディアが詳報=「見過ごすな」と批判
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051401158&g=int

 居酒屋は「黒海」もそうだし、漢字の読めないオンリーワンやらナンバーツウーが威張り腐ってるなら、下も舌!
 キタがそうならミナミだって、ジュウミンの意思を無視して、石ころや虫けらを「宝の海」にぶちまけています。
 経済も外交も失敗で、景気は悪化し、これじゃあ、われわれのような下流日本人は潰れてしまう、何とかしたい!

 沖縄が日本に復帰してから2019年5月15日で47年。
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題では、沖縄が何度も「ノー」を示すものの、政府は「唯一の解決策」と繰り返す。
 そんな中、沖縄の米軍基地の負担軽減に向け、市民レベルで本土を動かそうと模索する動きが、少しずつ広がっている。

■ 市民団体、全国1788議会に陳情書

 全国の市民が責任を持って、普天間飛行場の問題について、国民的議論をしてほしい――。
 沖縄の市民グループは3月下旬、そんな陳情書を全国の市区町村と都道府県の計1788議会の議長宛てに発送した。

 具体的な内容は、普天間の代替施設の移設先について全国すべての自治体を等しく候補地とし、それぞれが民主的な手続きで移設の可否を議論することを求める意見書を可決してほしい、というもの。
 辺野古の埋め立ての是非を問う県民投票の実現を求めた市民団体のメンバーが中心だ。

 なぜ地方議会への陳情なのか。
 グループの一人で、那覇市の司法書士・安里長従(ながつぐ)さん(47)は、
「『普天間を本土で受け入れられないから辺野古に』という不合理な差別をやめ、全国で自分たちの問題として議論してほしい」
と説明する。

 全国の米軍専用施設の7割が集中するなど、沖縄はすでに過剰な負担を抱えている。
 普天間を辺野古に移設するという計画は閣議で決めただけで、国会の決定も、県民の同意も得ていない。
 だから安里さんたちは県民投票の実施を求め、県民はワンイシュー(単一の争点)で「辺野古ノー」という民意を示した。

「それでも移設が必要だというのなら、沖縄以外の場所に公正で民主的な方法で決めるべきだ」

 約130の議会からはすでに「住民以外からの陳情は議員に配布するだけで、審理はされない」と連絡があった。

「多くの議会は『議員配布』にとどまるでしょう。でも、全国の市民が少しでも私たちの思いを受け止め、行動を起こしてくれることに期待しています」

「ボール」受け止め動きも 本土でも意見書可決/本出版

 本土側の動きも出始めている。

 岩手県花巻市の元市議増子義久さん(79)は安里さんたちの動きに合わせ、13日にほぼ同じ内容の陳情を市議会に提出した。
 市外在住者からの陳情は議会運営委員会でコピーを配るだけだからだ。

「安全保障はどこの住民にも関係する問題。本土の議会は議論を始め、沖縄に応答すべきじゃないか」

 全国青年司法書士協議会も11日、普天間の移設を引き受けられるのか議論することを求め、全国の議会に陳情することを決めた。

 衆院事務局などによると、2018年4月以降、堺市や岩手県など少なくとも10の地方議会で、辺野古での工事中止や沖縄との対話などを政府に求める意見書が可決された。
 一部は全会一致だったが、多くは賛成多数。
 東京都の小金井市や小平市では、地域の市民団体のメンバーが陳情や請願の提出者となった。

 本土側の市民の「責任」に向き合おうという本も出版された。

 米軍基地の本土への移設を訴える市民団体が4月に刊行した「沖縄の米軍基地を『本土』で引き取る!」(コモンズ)。
 2015年3月の大阪以降、福岡や首都圏、新潟など約10団体が発足しており、活動に至った経緯や思いなどを記している。

 編者の一人、新潟大准教授の左近幸村さん(39)は日米安保体制の維持を支持し、「安全」という恩恵を受けている本土の自分たちこそが、結果的に沖縄への基地押しつけに加担している――と考えている。
 専門はロシアの歴史。

「基地を本当に本土に引き取れるのか」と問い詰められることもある。
 でも、解決法がすぐにわからなくても疑問の声を上げなければ、政府のやり方をただ認めることになる。

「沖縄の基地問題を考えることは、安全保障や民主主義、地方自治など、自分たちの社会を捉え直すことだと思っています」


朝日新聞、2019年5月15日05時00分
沖縄の基地負担「本土も我が事に」
辺野古移設の可否「国民的議論を」

(角詠之、上遠野郷)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14014434.html

 さて、ヤッホーくん、これから土曜日まで山歩クラブの「皐月合宿」で件の沖縄に行ってまいります。
 それまでブログ更新はできないと思うので、お休みにして、帰ったらいっぱい報告したいな、だって。
 8人の仲間たちで、では、行ってきま〜す。

posted by fom_club at 09:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本国憲法への復帰をしてはじめて「沖縄復帰」!

 沖縄は2019年5月15日、本土復帰47年を迎える。
 しかし、沖縄の人権や自治は今なお、日本国憲法の外にある状況ではないか。
 復帰の意味を問い直すときだ。

 沖縄県読谷村(よみたんそん)。
 太平洋戦争末期、米軍が沖縄本島で最初に上陸した村の役場前に高さ3メートルほどのコンクリート柱が立っている。

 憲法九条の碑。
「日本國(こく)民は正義と秩序を基調とする國際平和を…」
 旧字体で条文を刻んだ金属板が埋め込まれ、柱の上には植物の萌芽(ほうが)のごとく九条の精神が世界に満ちるように、との願いを込めた彫刻が掲げられている。

◆ 輝かしい命

 建立は戦後50年に当たる1995年。

「沖縄の人々にとって日本国憲法は輝かしい命そのものだった。人間が大事にされ、戦争をしない国になるという希望を与えてくれた。戦後の米国統治下の沖縄の復帰運動は、日本国憲法の下への復帰を目指すものでもありました」

 当時読谷村長だった山内徳信(とくしん)さん(84)=元社民党参院議員=は、建立の背景を振り返る。

 1952年発効のサンフランシスコ講和条約で、沖縄は正式に米国の施政権下に置かれた。
 米側は沖縄に日本の「潜在主権」を残すことは認めたが、日本側は1965年、政府統一見解で日本国憲法の「適用はない」と宣言した。

 沖縄には米国憲法も適用されない
 軍人の高等弁務官を頂点とする米国民政府が軍事的必要性を最優先に行政、立法、司法上の権力を行使。
 基地拡大のための土地の強制収用をはじめ政治家の弾圧、表現の自由の規制、事件事故を起こした米兵の無罪放免−などが繰り返された。

 人びとが、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を基本原理とする憲法下での生活を求めたのは言うまでもない。
 山内さんによると、若者たちは鉛筆で条文を書き写しながらその日を夢見ていた。

◆ 戦争と隣り合わせ

 1972年5月、沖縄の復帰は実現する。
 しかし「日本国憲法への復帰」は決してかなえられたとはいえない。
 悲運の発端は、広大な基地の継続・維持が盛り込まれた日米間の沖縄返還協定である。

 返還交渉中、日本政府は基地の扱いについて「核抜き本土並み」と表明し縮小に期待を持たせたものの、復帰前に沖縄本島面積の20%を占めた米軍基地は今なお14.6%と取り組みは進んでいない。

 基地は復帰まで、共産圏をにらむ最前線として最大約1300発もの核が配備され、ベトナム戦争の出撃拠点となった。
 冷戦終結後も湾岸戦争、イラク戦争などに空軍や海兵隊を送り出してきた。

 日本は戦後一度も他国と戦火を交えていないのに、沖縄は米国の戦争と隣り合わせの状態に置かれ米軍機の事故や米兵、米軍属による事件が繰り返される。
 在日米軍の特権を定め、翁長雄志(おながたけし)前沖縄県知事が「憲法の上にある」と嘆いた日米地位協定もそのままだ。

 沖縄県や県警のまとめでは、復帰後2017年末までに、県内で発生した米軍航空機関連の事故は738件(うち墜落は47件)、米軍人などによる刑法犯罪は5967件(うち凶悪事件は580件)。
 生命、生活、財産が脅かされる日常は法の下の平等に大きく反する。

 その上で、名護市辺野古で進められる新基地建設に県民が重ねて反対の意思を示すのは、当然すぎる行動だ。
 政府は米軍普天間飛行場の移設・返還のためというが新基地完成のめどは立っていない。
 その矛盾をどう解消するのか。

 新基地建設を巡ってはことし2019年1月、国内の主な憲法研究者の約4分の1に当たる131人が連名で「憲法の重要原理を侵害、空洞化する」との声明を発表した。
 解決には「何よりもまず沖縄の人びとの人権問題」を考え工事を即時中止すべきだとする。

「民主主義や地方自治の在り方が問われている点で、日本国民全体の問題」
ととらえようとの提起は極めて重要だ。

 沖縄の地元紙「琉球新報」が、本土復帰に関して5年ごとに行なっている県民世論調査がある。
 復帰して「とても良かった」「どちらかと言えば良かった」との回答の合計は、復帰から35年の2007年には82.3%だった。
 40周年の2012年にはちょうど80%。
 さらに5年後の2017年には75.5%と幅を広げながら低下している。

「自己決定権」を希求

 一方、同紙の別の県民意識調査では、今後の沖縄の立場について自治州や連邦制への移行、または「独立」を望む声が2011〜2016年の5年間に2割から3割超に急増した。
「自己決定権」の希求。
 裏を返せば、復帰の本意をかなえないままの「日本」不信の表れだ。

 沖縄を真に憲法の下の仲間とする−。
 中央の政治はもちろん本土側の国民も、あらためて当たり前のことを行いたい。


東京新聞・社説、2019年5月13日
沖縄復帰47年
真に憲法の仲間として

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019051302000145.html

 では、沖縄の地元紙「琉球新報」の社説もここでご披露:

 沖縄が日本へ復帰して47年を迎えた。
 米国の施政権下にあった沖縄が日本国憲法に基づき統治されるようになった日でもある。

 復帰と同時に県民は、この憲法とともに歩んできた。
 しかし憲法の三大原理である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は、沖縄では画餅のごとく、現実の実感を伴わないまま今に至っている。

 国土の0.6%の県土面積に在日米軍専用施設面積の約70%が沖縄に存在する。
 広大な基地は依然残されたままだ。
 その上に名護市辺野古では新基地の建設が民意に反して強行されている。
 主権在民は果たして機能しているだろうか。
 甚だ疑問だ。

 辺野古の新基地建設の賛否がまさに争点となった昨年2018年9月の県知事選は言うに及ばず、2019年4月の衆院3区の補選でも明確な民意が示された。

 とりわけ2月に行われた、新基地建設に伴う埋め立ての賛否を問う県民投票は投票資格者の52%、約60万人が投票し、72.15%に当たる43万人余が反対の意思を示した。

 本紙が3月に行った投票結果への県内首長、議会議長アンケートの結果では、首長の78%、議長の68%が結果を「尊重すべきだ」と回答している。

 本紙が実施した全国知事アンケートは、43都道府県から回答を得たが、日米両政府が投票結果を「尊重すべきだ」と直接回答したのは静岡県の川勝平太知事だけだった。
「民意の尊重こそ主権在民の根本」との考えを示している。
 岩手県の達増拓也知事は2月末の記者会見で投票結果を「重く受け止めるべきだ」と答えた。

 アンケートでは2県の知事以外は14人が「どちらとも言えない」と答え、28人が回答を控えた。
 この意識の乖離(かいり)や断絶に慄然(りつぜん)とする。

 地方自治の前提である住民主権をないがしろにすれば、自治の正当性が失われないか。

 他県の出来事と傍観をするならば、主権在民の仕組みが地方自治のレベルから損なわれる。
 ひいては主権に基づく国家統治の正当性に疑問符がつく。

 沖縄など一部地域を軽んじ犠牲を強いてきた国の仕組みを昭和、平成の時代は脱却できなかった。
 多様性を尊重する新たな民主国家をつくりあげる上で、政府が沖縄にどう向き合うか。
 日本の民主主義を問う試金石ともなろう。

 一方で復帰47年を経て克服できなかった県民的課題がある。
 観光産業の隆盛と失業率改善の陰で、貧困や虐待の問題が顕在化している。

 今年3月公表の県民意識調査で、県が重点的に取り組むべき施策として「子どもの貧困対策の推進」が最多の42%に上った。
 富の再分配をどううまく機能させるか。
 県民が熟慮を重ねるべき課題だ。

 広大な基地の配備で県民生活はゆがめられたままだ。
 調和のある振興策を講じ、真の意味での自治を実現するため新たな方策を構想したい。


琉球新報・社説、2019年5月15日 06:01
日本復帰47年
国民主権 機能しているか

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-918273.html

 1969年11月22日、沖縄教職員会の文化部副部長だった石川元平さん(81)は失意のどん底にあった。
 この日未明の日米首脳会談は米軍基地を残したままの「72年沖縄返還」に合意した。
 新聞紙面に載った日米共同声明を幾度も読み返した。

「基地は残して返還される。懸念した通りだ」

 前日深夜、那覇市松尾の八汐荘で、琉球政府幹部と共に共同声明の発表をテレビで見た屋良朝苗(1902 - 1997)行政主席は失意の表情を隠せなかった。
 隣席の知念朝功副主席も大きく首を振った。
 翌朝の会見で屋良主席は、
「共同宣言の内容に満足するものではない」
「平和な島を建設したいという県民の願いと相いれない」
と苦しい胸中を明かした。

 石川さんは屋良主席の側近として復帰運動に力を注いだ。
 1968年11月の主席公選でも秘書として選挙戦を支えた。
 屋良さんの公約は「即時無条件全面返還」だった。
「『核も基地もない平和な沖縄』と分かりやすく訴えていた」
と石川さんは振り返る。

 それから約1年。
 屋良主席誕生で示した沖縄の明確な意思を日米両政府が顧みることはなかった。

 日米共同声明は「核抜き、本土並み」を強く宣伝する内容だった。
 しかし、佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で有事における核持ち込みの密約を交わしていたことが後年明らかになった。
 石川さんは今も、
「欺瞞(ぎまん)的な復帰だった」
との憤りをぬぐえない。

 それから約半世紀の時が過ぎた。
 若い女性や子どもたちが犠牲になった米軍犯罪が続いた。
 平成の30年余の間にも沖縄国際大の米軍ヘリ墜落など重大事故が後を絶たない。
 県民は幾度も民意を表明したにもかかわらず、日米両政府は辺野古新基地建設をやめない。
 石川さんは、
「われわれが願った復帰ではない。今の状態は軍事植民地だ」
と怒りをあらわにする。

 69年当時の記憶が人々から薄れていく中で危惧することもある。歴史の専門家や一部マスコミが「『核抜き、本土並み』が県民要求であったかのような表現がある」と指摘する。

 しかし、復帰運動で掲げた県民要求は「即時無条件全面返還」だった。
 日米両政府の「欺瞞」に地元が加担し、歴史の改変につながりかねない状況に警鐘を鳴らす。

 危機感を募らせながらも希望も抱く。
 若者の中にも基地問題や歴史に関心を寄せて活動する人がいる。
 米国で署名活動を展開するなど世界のウチナーンチュのネットワークもあり「これは沖縄の財産だ」と語る。

 屋良さんは最晩年、
「沖縄は二度と国家権力の手段として利用され、犠牲を被ることがあってはならない」
と遺言のような言葉を石川さんに残した。
「今、沖縄の民意が無視され続けている。この国はいったいどんな国なのか」
と石川さんは問い掛け、屋良さんの言葉を反すうしながら復帰の記憶をたどり続けている。


[写真-1]
日米共同声明に対し「県民の願いと相れない」と表明した屋良主席の記者会見=1969年11月22日

[写真-2]
石川元平さん

琉球新報、2019年5月15日 05:05
沖縄復帰47年
県民の要求は「核抜き、本土並み」ではなかった…

(仲村良太)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-918218.html

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2019年05月14日

IL VOLO IN JAPAN 2019!

IL VOLO, DVICIO AND PLACIDO DOMINGO
https://www.youtube.com/watch?v=S3ThrpoSbE4

Guarda che lago che luna c'è
Le stelle in cielo brillano per noi
In questa notte stregata
La mia serenata canterò per teQuanto ti amo tu non lo sai
Nei miei pensieri tu sola sei
Accanto a te sarò sempre
Ti cercherò tra la genteQuanto ti amo ora lo sai
Nei tuoi pensieri
Sempre io saròGuarda che notte stellata
D'amore per noi
Tu mi ami già


【羽生結弦】Notte Stellata
https://www.youtube.com/watch?v=5RXQSBdcuH4

【NHK】羽生結弦のエキシビション<ピョンチャン>
https://www.youtube.com/watch?v=uNLymTVtsd4

 平昌オリンピックの男子フィギュアスケートで金メダルを獲得した羽生結弦選手がエキシビションで使用した楽曲が話題ですね。
 エキシビションを見ていて「この曲イタリア語だ!」と思った方はいませんか?
 この曲はイタリアの男性ユニットIl VOLO(イル・ヴォーロ)の「ノッテ・ステラータ(星降る夜)」。
 原題は「Notte Stellata(The Swan)」です。
 しなやかに白鳥を演じた羽生選手の優雅なスケーティングを盛り上げた「ノッテ・ステラータ」と、この曲を歌っているイル・ヴォーロについてまとめてみました。

Il VOLO(イル・ヴォーロ)

 イタリアの三人組ユニット。
 メンバーは、Gianluca Ginobule(ジャンルカ・ジノーブレ)、Ignazio Boschetto(イニャツィオ・ボスケット)、Piero Barone(ピエロ・バローネ)。
 3人ともまだ20代前半!
 ジャンルはオペラ・ポップというのでしょうか。
 クラシックのカバーからオリジナル曲まで歌いこなすイケメンオペラ歌手トリオです。
 イタリアの人気オーディション番組をきっかけに2009年にユニットを結成。
 2010年にアルバム「IL VOLO」(イル・ヴォーロ)でデビューし、2011年に世界デビューしました。
 世界デビュー後、アメリカ、ヨーロッパ、南米、オーストラリアなど、世界中の国で人気になりました。
 しかし、当初イタリアではあまり知られていなかったんです。意外ですね!
 2015年にイタリア最大の音楽の祭典、サンレモ音楽祭で優勝したことでイタリアでも人気が出て、今では誰でも知っている超有名グループです。

 サンレモ音楽祭で歌われた曲「Grande amore(グランデ アモーレ)」が彼らの代表曲です。
 サンレモ音楽祭で優勝した直後はテレビやラジオでこの曲がよく流れていました。
 ユニット名のIL VOLO(イル・ヴォーロ)のVOLOはイタリア語で「飛ぶこと」という意味です(ILは冠詞)。
 見事に世界に羽ばたいた彼らのイメージにぴったりですね。

Notte Stellata(The Swan)(ノッテ・ステラータ)
曲の紹介

 イタリア語で「Notteは夜」、「Stellataは星をちりばめた」という意味。
 日本語では「星降る夜」というタイトルがついています。
 原題「Notte Stellate(The Swan)」にもあるように、原曲はフランスの作曲家サン・サンースの「白鳥」。
 この名曲にイタリア語の歌詞をつけたものです。
 この曲は浅田真央さんら多数の選手を育てた名コーチ、タチアナ・タラソワさんが羽生選手に「ぜひ滑ってほしい曲がある」とプレゼントしたそうです。
 オリンピックのエキシビションでこの曲にのって、情感豊かに白鳥を演じる羽生選手のスケーティングはまるでバレエの演技のようで感動的でしたね。
 ちなみに、この曲は、イル・ヴォーロのデビューアルバムの「イル・ヴォーロ」に収録されています。

歌の内容は?

「ノッテ・ステラータ」は「白鳥」にイタリア語の歌詞がついた歌なのですが、どんな内容かご存知ですか?
 ある夜、美しい月明かりが照らす湖のほとりで愛を語るという情熱的なラブソングなんです。
 原曲の白鳥のバレエの「瀕死の白鳥が湖で生きようとあがいて死を迎える」というストーリーとは、違う内容になっています。
 羽生選手はどんなイメージで演技しているのでしょうか。。。

イタリア語の勉強にもおすすめ

 この曲は歌詞がとても聞き取りやすく、単語や表現も難しくないのでイタリア語を勉強中の方は何度か聞けば理解できるかと思います。
 羽生選手のエキシビションを見ながら歌詞を覚えてもいいですね。
 イタリア語を習っていた時に、流行曲を聞いて歌詞を書き取るというレッスンがありました。聞き取りの練習におすすめですよ。

おわりに

 ノッテ・ステラータを羽生選手が使用したことで大注目の「ノッテ・ステラータ(星降る夜)」とイタリア人ボーカルユニット、イル・ヴォーロ。
 他にも素敵な楽曲がたくさんありますので、ぜひ聞いてみてください。
 彼らの曲は歌詞が聞き取りすいのでイタリア語の勉強にもおすすめです!


イタじゃぽ、2018.03.02
金メダリスト羽生結弦選手が使った曲「ノッテ・ステラータ」とは?
https://itagiappo.com/notte-stellata-21

IL VOLO IN JAPAN 2019!
After their sold out success in 2017 and much request, Il Volo will be returning to Japan!

In fact they have already announced 5 dates in May 2019 in prestigious locations, during which Piero, Ignazio, and Gianluca will bring their beautiful voices to the East!

5/15 Tokyo Bunka Kaikan Main Hall
5/13Yokohama Minato Mirai Hall
5/18 Bunkamura ORCHARD HALL

https://www.ilvolomusic.com/en/news/

Il Volo - Volare
https://www.youtube.com/watch?v=d-8BYJtXg7Q

Il Volo - 'O Sole Mio
https://www.youtube.com/watch?v=lw3c5d3aBSE

Il volo - Ciao, ciao, bambina
https://www.youtube.com/watch?v=REzcaC6gaTQ

Il Volo - Ave Maria (Concerto di Natale 2014 al Senato)
https://www.youtube.com/watch?v=Jwo_tg1KFxc

Il Volo Official
https://www.youtube.com/user/ilvolomusic?app=desktop

Il Volo in Japan Nov 24, 25, 2017
https://www.youtube.com/watch?v=jbxt1bYunxY

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小林美希

ロスジェネはいま
「中年フリーター」という言葉を広めた労働経済ジャーナリストの小林美希さん(43)は、同じ世代の一員として多くのロスジェネに話を聞いている。
 自ら就職氷河期の「厳寒」を体験した立場で、自己責任論は欺瞞(ぎまん)だと否定する

 大卒就職率が6割を下回った2000年に大学を卒業しました。
 就活では金融、メーカー、食品など、業種を問わず約100社にエントリーし、50社の面接を受けました。
 男子よりも女子学生が特に厳しく、最終面接までしているのに、「女子は採用ゼロ」という方針だった会社もあったことを後に知りました。
 実際は採らないのに、女子を採用するふりをしていたわけです。

 周囲でも精神的に病んだり、引きこもったりする女子学生がいました。
 私たちが小学生の頃に男女雇用機会均等法が成立し、実際に女子の方が成績がいいことも多かったのに、就活で差別を受けたという思いでした。

 結局、内定は消費者金融の1社だけ。
 同じ大学でも男子ではメガバンクや商社に内定した人がいましたし、当時は社会のせいだとは気付きませんでした。
 当事者だった当時は、何が起きているのか、分からなかったのです。

 内定した消費者金融を辞退して証券専門紙の「株式新聞社」に入り、その後、毎日新聞の「週刊エコノミスト」誌で記者をしました。
 そこで企業の決算や会計の取材を続けているうちに、正社員の比率を下げている企業が多いことに気づいたのです。

 これは、企業が人件費を削って利益を確保しているだけではないか。
 そう考えて特集記事の企画を提案しましたが、なかなか採用されなかった。
 当時はまだ「若者の考えが甘い」「仕事を選んでいるだけだ」といった見方が根強かったためだと思います。
 小泉政権下で、いわゆる自己責任論が広がった頃です。

 諦めずに何度もデスクに企画の提案を続けて、2004年にやっと、フリーターの実態に迫る特集が組まれました。
 これが、非正規雇用にこだわるジャーナリストとしての原点です。

就職氷河期と非正規雇用の増加について警鐘を鳴らした記事から15年。
その後も継続してロスジェネ世代を取材してきたが、事態は悪化する一方だった。
このままでは手遅れになりかねない、と小林さんは語る

 就職氷河期に社会に出た世代に、「ロストジェネレーション」と名付けたのは、朝日新聞です。
 40歳前後となったロスジェネは今も不安定雇用や孤立に向き合っています。
 生き方を模索する姿を伝え、ともに未来を考えます。

 取材で長年、話を聞いている40代半ばのフリーター男性で、もう正社員になることも家庭を持つことも諦めている人がいます。
 そんな「心が折れた」人たちの話を聞いていると、この世代にいったい何ができるだろうか、と絶望的になります。

 非正規で働いている人たちは、正社員並みに仕事をし、能力を向上させていても、次のキャリアにはなかなかつながらない。
 何か手を打たないと、不安定なまま、高齢化していきます。
 その結果、20兆円近くの追加の生活保護予算が必要になるという予測もあるほどです。

 派遣で働く女性たちもまた、使い捨てにされています。
 ある派遣の女性が妊娠したことが分かると「不良品」と陰で呼び、「返品したい」と派遣元にクレームをつけた、という話を取材で聞きました。
 この女性は妊娠中にもかかわらず、雇用継続のために100時間以上の残業を強いられました。

 第1次安倍内閣の「再チャレンジ」をはじめとして、いくつかの政策が打ち出されましたが、結果として就労支援の委託事業者が利益を得たに過ぎなかったように見えます。
 フリーターが食い物にされただけです。
 年齢を重ねると非正規労働者の支援は手遅れになりかねず、政治がもっと本気でやっていたらどうなっていただろうと思います。

 著書「ルポ 中年フリーター」の反響で、人手不足の中小零細企業の経営者から、そのように困っている人たちがいるならうちで働いてほしい、という連絡がありました。
 働き手が足りない企業があるのだから、行政によるマッチングなど、まだ手は残されているのではないでしょうか。

雇用流動化、企業の真意は?

ロスジェネ世代が生まれた背景にあるのは、新卒一括採用と終身雇用という日本型雇用システムだ。
欧米のように流動性の高い雇用市場が実現すれば、非正規労働者は救われるという議論があるが、それに小林さんは反論する

 企業側が主導する「雇用の流動化」の議論は、単に不要な人を簡単に解雇するのが目的だと見ています。
 経団連幹部などへの取材では、バブル世代やうつ病になった社員を切りたいという本音が聞こえてきました。
 実際、有能な人材はすでに流動化していますから。

 企業が自分たちの責任を棚に上げて、雇用の流動化を求めるのはおかしい。
 上の世代が既得権益を握っているからロスジェネが苦しんでいる、といった世代間格差をあおるような考えも間違っています。


 中国などへの工場移転によって産業が空洞化する日本で、新自由主義的に、低コスト低賃金によって労働条件を引き下げる流れよりも、好待遇で働いてもらい、高付加価値商品を生む方がいい結果につながるはずです。

 大手企業は、いい人材はいくらでも採れると最近まで思っていたのだと思います。
 嫌なら辞めてもらって構わないという態度でした。

 一方で、派遣労働が浸透したことで、経営者に人を見る目がなくなりました。
 派遣やアウトソーシングという形で人材選びを任せて、駄目なら代えればいいという考えが、人の「目利き」を失うことにつながり、現在の状況を呼んだのです。

 私の取材では、昔ながらの企業に業績がいい社が多い。
 それは、社員を大切にするからです。
 生活の安定がなければ、人は安心して働くことはできません。
 明日どうなるか分からないような働き方では、力を発揮できるはずがない。
 責任を持って雇用を維持することができないような企業は、市場から撤退してもらうしかないと思います。


朝日新聞、2019年5月14日06時30分
ロスジェネはいま
使い捨て中年フリーター、雇用の流動化も「狙いは解雇」

(編集委員・真鍋弘樹)
https://digital.asahi.com/articles/ASM4T7R8LM4TULZU01C.html

 やっぱり、安倍政権は問題の本質をわかっていない──。
 昨日2016年3月28日、塩崎恭久厚生労働相が発表した待機児童解消についての政府の緊急対策が、さっそく物議を醸している。

 塩崎大臣によると、待機児童解消のため、新たに〈保育士1人当たりが担当する子どもの数に関し、国より厳しい独自基準を設けている自治体に対して緩和を要請し、より多くの子どもを受け入れられるようにする〉(時事通信より)という。
 だが、これで「よかった、これで少しは保育園に入りやすくなる!」なんて喜ぶ親は、はたしているだろうか。

 現在、国が定めている保育士1人あたりの配置基準は、子ども0歳児の場合、保育士1人に子ども3人。
 1、2歳児なら保育士1人に子ども6人。
 3歳児になると保育士1人に子ども20人。
 4、5歳児だと保育士1人に子ども30人だ。
 とてもじゃないが、1、2歳児をたった1人の保育士が6人以上もみることは相当な注意が必要になるし、それでなくても保育士の労働環境の劣悪さも大きな問題になっている。
 つまり、この緊急対策とやらは、ただ保育士に負担を強いるだけの対策だ。

 そして、そうしたツケが回ってくるのは、結局のところ保育園の子どもたちである。
 事実、現状でさえ保育園では、子どもたちがまともな保育を受けられていないという声がある。

 政府がまともな対策をとってこなかったばかりに、いま、保育園では何が起こっているのか。
 昨年2015年5月に出版された『ルポ 保育崩壊』(小林美希/岩波新書)には、こんな厳しい現実が綴られている。

 たとえば、株式会社が運営する、ある認可保育所の事例。
 この保育所では1歳児クラス定員13人に対し、保育士の数は3人。だが、著者が出向いた日はそのうち10人の子どもが“ぎゃん泣き”状態で、そのうち1人の保育士が3人の子どもを「おんぶに抱っこ」していたという。

〈新卒の保育士が、「どうしていいか分からない」と口にしながら途方に暮れていた。リーダー保育士は怖い顔をして「泣き過ぎ!」と子どもたちに向かって叫んでいる〉
(前掲書より。以下同)

 昼食時はもっと悲惨だ。
 タオルでつくられた前掛けをかけ、そのタオルをテーブルに敷かされる。
 タオルの上には食器が置かれ、子どもは身動きができない姿勢で昼食をとるのだ。
 食事をこぼしても片づけやすいという理由で、人手不足の保育所や老人ホームで行われているものだというが、著者は、
〈これでは子どもや高齢者の人権が無視されてはいないだろうか〉
と疑問視する。

 さらに別の日には、著者はこのような光景を目のあたりにする。

〈泣き止んだ子どもがまずテーブルにつかされ、食事が運ばれるのを待っていた。男の子がおしぼりを手にし、椅子に座ったが足をぶらんとテーブルに乗せてしまった。その瞬間に、力の強そうな男性保育士が「行儀が悪い!」と怒鳴りつけ、鬼の形相で、その子の手からおしぼりを奪い取り、テーブルにバシンとたたきつけた。そして、次の瞬間、その子の足を怒りに任せて強くたたいた。まだ物事のよしあしも分からない一歳の子どもを、だ〉

 このような状況は、何もこの保育園だけでは決してない。
 公立保育所ではオムツ交換が少ないために子どものお尻がかぶれ、いくら改善を要求しても聞く耳をもってもらえなかったケースや、園庭のない認証保育所では入園して3週間も散歩に連れていってもらえなかったケース、さらには四畳半や六畳程度のスペースをとって柵を立て、子どもたちをすし詰めにして遊ばせるケース……。
 本書には質の低い保育の現状がいくつも書かれている。

 保育園を考える親の会・普光院亜紀代表は、同書のなかで現在の保育園に対する危機感をこう述べている。

「このところ認可保育所にも、質のばらつきが目立ってきた。そもそもの面積基準や保育士配置基準も十分ではないが、待機児童が多いから基準ぎりぎりの環境で保育が行われることが増えていると感じている。施設環境にゆとりがないと、保育士の負担がふえる。そのとき保育士自身が未熟だと、子どもの自由を奪い管理する保育になりがちだ」

 現状でさえこのような状態なのに、政府の緊急対策が導入されれば、さらに保育士にしわ寄せがいく。
 ちなみに本書でも紹介されているが、2014年3月にまとめられた「東京都保育士実態調査報告書」では、当時、保育士として働いている人のうち「保育士を辞めて別の職種で働きたい」を考えている人は16%で、これは6人に1人が「辞めたい」と考えているということになる。
 また、退職したいと考える理由のトップは「給料が安い」で、「仕事量が多い」「労働時間が長い」とつづいている。

 待機児童の大きな問題は保育士不足にあるといわれている。
 激務でありながら低賃金となれば、いくら志をもっていても挫けてしまうだろう。
 だが、そうした問題点が再三指摘されているのに、政府が打ち出したのは「保育士給与の4%引き上げ」。
 これに対し、認定NPO法人フローレンス代表理事の駒崎弘樹氏は、
〈保育士の給与4%増というのは、全産業平均月給よりも月額11万ほど低い約20万円/月の保育士給与を、8000円上げる、ということ。日給にすると400円。時給だと50円。これで保育士不足が解消するとは、誰がどう考えても思えません〉
と指摘している。

 日給にしてたったの400円アップで、「いまよりもっと子どもをみてね」と押し付ける……。
 安倍首相にしてみれば、7月の参院選を控えているいま、「やれるだけやっている」というポーズのために今回の緊急対策をまとめたのだろうが、それでこの内容というのが驚きである。
 とくに重要なのは、安倍政権は怒りの声が噴出している「待機児童」をなんとか鎮めるために、保育士に負担を強い、子どもの安全を顧みなかったという点だ。
 これはもはや鬼畜の所業としか思えない。


「保育園落ちた」ブログの一件によって、安倍政権がいかに子をもつ親たちの痛みや苦労を理解していないかが露呈したが、今回の緊急対策によって、「理解する気もないし、根本的に問題解決する気もない」という腹の底がよくわかったというものだ。


リテラ、2016.03.29 07:00
日給わずか400円アップで保育士の負担激増…安倍政権の“待機児童解決策”は保育崩壊をさらに悪化させるだけ
(水井多賀子)
https://lite-ra.com/2016/03/post-2109.html

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中年フリーター

かつての就職率の低さがウソのように、近年、新卒の就職市場は大きく改善した。
目下、日本を悩ませている社会問題はむしろ「人手不足」だ。
政府は高齢者の雇用継続はもちろん、人手不足を補うための「移民政策」にも本格的に取り組み始めた。
しかし社会全体の雇用状況が改善するなか、正規の仕事を切望しても得られない「取り残された」人びとがいる。
就職氷河期に就活をして大きな割りを食った「中年フリーター」だ。
彼らは相変わらず政策的な手当てをされないままでいる。
「ロスジェネ」と言われるこの世代は、10年以上前から状況の改善を求めて声をあげてきた。
しかし、『ルポ 中年フリーター』(NHK出版新書)を上梓したジャーナリストの小林美希氏によれば、彼らは近年、長きに渡って状況が改善しないことに絶望し、あきらめの境地に入りつつあるという。
なぜ自分たちだけがーーそんな思いを抱えた中年フリーターの絶望と諦念、そして、彼らを放置してきたことで日本という国が受ける巨大なダメージを、小林氏がレポートする。

非正規雇用を強いられる

「44歳ですか……。あなたの年齢だと、チームリーダーになっていてもおかしくないですね」
 いつからか、採用面接では決まって言われるようになったセリフだ。
 中年フリーターの野村武志さん(44歳、仮名)には、企業側が遠まわしに「うちはダメ」と言っているのが分かる。
 年齢の壁が高く感じる瞬間だ。
 卒後10年は“正社員”ではあったが、いわゆるブラック企業で働いた。
 都立高校を卒業してからは、手に職つけようと旅行関係の専門学校で学んだ。
 おりしもバブル崩壊の影響で雇用に陰りが見え始めた頃だが、小さな旅行会社の正社員になった。
 だが就職して2年後、業績不振のためリストラが行われた。
 武志さんの首はつながったものの基本給が半減して7万円になり、そのかわり歩合給をつけると条件が変更された。
「これでは、やっていけない」と先輩たちとともに職場を去った。
 入社3年目、やむを得ない決断だった。
 別の旅行会社で正社員採用されたが、得意先を回っては終電を逃す毎日。
 職場には仮眠するスペースもないため、自腹でホテルに泊まった。
 武志さんは営業努力で顧客をつかんだが、会社の業績は悪く資金ショートしそうなのが目に見えた。
 デフレで旅行業界も「薄利多売だ」と痛感。
 労働面でも過酷な旅行業界からはいったん見切りをつけた方が良いだろうと1998年、異業種に転職した。
 就職先は、チェーン展開する中堅ドラッグストアでの正社員採用だった。
 ドラッグストア業界は、デフレ期にあっても店舗数や売り上げ規模を伸ばしてきた。
 調剤薬局を併設して診察帰りの顧客を呼び込む一方で、プライベートブランド(PB)商品を拡充して利益率を高めてきた。
 当然、そこには雇用が生まれていた。
 武志さんは仕事に精を出し、やがて店長に昇格した。
 だが、その実態は裁量も権限もない「名ばかり店長」だった。
 急な欠員が出れば、店長である武志さんがカバーして出勤せねばならず、休みはほとんどない。
 店長になる前は残業代が支払われていたが、それも昇進とともになくなり、手取りは店長になってからのほうが少なくなった。

 それでも結果は残してきた。
 どんな些細な会話でも大事にして、顧客の状況を知ろうと努力した。
 たとえば、疲れやすく野菜が不足している顧客にはビタミン剤を勧めるなど、その人に合った商品を提案するよう心掛けた。
 また、店舗の向かいには皮膚科クリニックがあったので、「お客様に間違った商品を売ってはいけない」と、皮膚疾患の学術書を購入して独学で勉強した。
 そうした武志さんの努力が奏功し、売り上げは対前年比で10%ほど伸びた。
 ところが、いくら頑張って結果が数字に結びついても評価されず、店長手当5万円を含む月給は24万円のまま変わることがない。
 相も変わらず努力が報われない日々が続いた。
 転職して4年が過ぎると、ある日とつぜん、異変を感じるようになった。
 客の来店が怖くなったのだ。
 客が店に足を踏み入れた途端、心臓をぎゅっと掴まれた感じになる。
 息ができなくなり、苦しくて立っていられない。
 そのまま座り込み、しばらく休んで病院に駆け込んだ。
 心電図検査やエコー検査では異常が見つからなかった。
 だが、理由もないのに激高してしまったかと思うと、次の瞬間に落ち込んで涙が溢れ出ることもあった。

 ある日、自動販売機を見かけてふいに蹴り飛ばしたくなり、「あ、俺はどうかしている」と気づき、スタッフ全員に率直に聞いた。
「ここしばらく、僕の態度、どう思う?」
 皆から、「元気がない」「怒りっぽくなった」と指摘され、診療内科にかかるとうつ病と診断された。
 この頃は上司からパワハラに遭い、自暴自棄になっていた。
 社長は味方してくれたが、半年もすると限界がきた。
 これ以上働いたら死んでしまう――。武志さんはドラッグストアを退職した。

 無職になった武志さんに対し、団塊世代の両親は「うつ病は病気ではない。なまけているだけだ」と理解してくれなかった。
 家にいても針のむしろ。
 両親から「気の持ちようで治る」などと攻め立てられるうち、気を失って救急搬送された。
 その後一週間くらいは記憶がない。

 ドラッグストアを退職してから一年後、武志さんはなんとか再び働き始めたが、非正規雇用での転職が続いている。

国からも見放された世代
 安倍晋三政権は「一億総活躍社会」「すべての女性が輝く社会づくり」「働き方改革」など、次々に労働問題に関するスローガンを掲げてきた。
 これほどまでに雇用政策が目白押しな政権はかつて例がない。
 新卒市場では、景気の良い数字が聞こえてくる。
 就職率(卒業生に占める就職者数の割合)を見ると、2017年3月の大学学部卒は76.1%、2018年3月は同77.1%となっている。
 これは、バブル崩壊前の水準近い数字だ(文部科学省「学校基本調査」)。
 就職の「中身」を見ても、正社員が増えていることが分かる。
 文部科学省の同調査によれば、東日本大震災翌年の2012年3月卒では、「正規」の就職率は60.0%だったが、2017年3月卒は72.9%、2018年3月卒は74.1%と跳ね上がっている。
 これらの数値が示す事実は明快だ。
 現在の労働市場において、新卒採用は空前の売り手市場なのである。
 そうしたなかで、取り残されている重要な問題がある。

 就職氷河期に社会に出て、現在も非正規雇用で働く人びとの存在だ。
 35〜54歳のうち、非正規雇用労働者として働く「中年フリーター」は約273万人に上り、同世代の10人に1人を占めている(三菱UFJリサーチ&コンサルティングの尾畠未輝研究員の試算による)。
 この数字には既婚女性が含まれていないため、実際にはより大きいボリュームを占めると思われる。
 就職氷河期世代には、ブラック企業に就職して心身を病んでしまい、退職するケースが珍しくない。
 その後は、非正規や無職となってキャリアが断絶され、そのまま中年フリーター」に至ってしまう。
 前述した武志さんも、その一人だった。

結婚もできない
 では、中年フリーターの身に何が起きているのか。
 データをもとに二つの現実を見てみよう。
 第一に、恋愛がままならないため、非婚・単身世帯が増えている。
 2017年の「就業構造基本調査」(総務省統計局)によれば、35〜39歳の正規雇用者では未婚率が24.7%に留まるのに対して、派遣・契約社員では60.6%、パート・アルバイトでは79.4%が未婚のままとなっている。
 また、連合「非正規雇用で働く女性に関する調査2017」によれば、女性では初職(初めて就いた仕事)の雇用形態によって、結婚や出産に大きな格差が生じることが分かった。
 初職が正社員だと配偶者のいる割合は70.9%だが、非正規雇用だと26.9%に留まる。
 子どもがいる割合を見ても、初職が正社員だと54.1%だが、非正規雇用だと21.6%だ。
 中年フリーターであっても、実家で親と同居し、親の年金や貯蓄をあてにできるうちは、まだしのぐことができるかもしれない。
 しかし、就職氷河期世代の親世代は、これから介護を必要とする年齢に差し掛かる。
 貧困は隣り合わせだ。

 第二に、生活保護が破綻する未来が差し迫っている。
 いうまでもなく、中年フリーターは同世代の正社員に比べて貯蓄が少なく、社会保険の加入率も低い。
 そのまま年金を受給する世代になると、月7万円に満たない国民年金しか受け取れない計算だ。
 となれば、生活保護が視野に入ってくるだろう。
 ところが、日本の財政はそれだけのボリュームを支える状況にない。
 生活保護の受給者は、2015年3月の216万人をピークに微減傾向にあるが、依然として210万人前後の水準にある。
 受給者を年齢階層別に見ると、65歳以上の高齢者が45%近くを占めるが、40〜49歳も約10%で10人に1人の計算だ。
 長年にわたり、40代より60〜64歳の受給者のほうが多かったが、2014年には逆転している。
 中年層の受給者が増えている。
 NIRA総合研究開発機構が2008年に発表したレポートでは、中年フリーターの増加によって、77万4000人の潜在的な生活保護受給者が生まれると試算していた。
 その結果必要となる追加的な予算額は、累計で約17兆7000億〜19兆3000億円に上る。
 同レポートが発表されてから、今年で10年が経過した。
 その間、いったい政治はどんな手を打ってきたというのか。

無気力化してしまった働き盛り
 就職氷河期世代は、これまで怒りの声をあげ続けてきた。
 だが、筆者が中年フリーターと化した彼らを実際に取材すると、もはや怒る気力もなくなっているようだ。
 ここに新たな問題浮上している。
 「あきらめ」だ。
 このまま頑張っていれば、いつかは安定した雇用に就けるはず。
 就職氷河期世代はそう信じ続けていた。
 だが、いくら努力を重ねてみたところで評価されず、使い捨てのような働き方を強いられてきた。
 中年フリーターは、声をあげても無駄だと学習してしまった。
 企業や社会に対する不信感だけが募るばかりで、もはや生活を向上させようという意欲も喪失している。

 バイト3つを掛け持ちして、なんとか糊口をしのぐ中年フリーター(43歳)がいた。
 彼が自嘲気味に話していたのが印象的だ。
アベノミクスはテレビで見る大企業の話。僕ら“下々の者”に恩恵はありませんよ
「失われた10年」が「失われた20年」に長引いたのは、雇用問題について、国が本気で取り組まなかったからだと言える。
 事態はさらに深刻化して「失われた30年」に向かおうとしている。

 就職氷河期が真っ只中の2000年当時、「フリーターは甘い」「若者が仕事を選り好みしている」という風潮が強く、真剣な議論がなされなかった。
 第一次安倍政権では、若者のフリーター問題の対策として「再チャレンジ」政策を打ち出したが、就職氷河期世代の多くは浮かばれないままだ。
 再チャレンジできたのは首相だけではないか。

 その間に「若者」は「中年」になった。
 そのツケが「中年フリーター」となって、国家を揺るがしかねない問題となっていることに、どれだけの人が気づいているだろうか。
「働けない働き盛り」の存在を、見過ごしてはならない。
 外国人労働者の受け入れ拡大の議論の前に、中年フリーターを救うべきではないだろうか。

現代ビジネス、2018.11.26
雇用改善の恩恵もナシ…国が放置する「中年フリーター」という大問題
もはやロスジェネはあきらめ始めた

小林 美希(*)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58615

(*)
 1975年茨城県生まれ。
 水戸第一高校、神戸大学法学部卒業後、株式新聞社、毎日新聞社『エコノミスト』編集部記者を経て、2007年よりフリーのジャーナリスト。
 若者の雇用、結婚、出産・育児と就業継続などの問題を中心に活躍。
 2013年、「<子供を産ませない社会>の構造とマタニティハラスメントに関する一連の報道」で貧困ジャーナリズム賞受賞。
 著書に『ルポ 正社員になりたい』(影書房、2007年、日本労働ペンクラブ賞受賞)、『ルポ 保育崩壊』『ルポ 看護の質』(岩波書店)、『ルポ 産ませない社会』(河出書房新社)、『ルポ 母子家庭』(筑摩書房)、『夫に死んでほしい妻たち』(朝日新聞出版)など多数。

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