2018年10月31日

歌には力がある、歌を通して出来ることがいろいろある

 まだまだ終わりません、五日市への初秋の旅。

 昨晩2016年8月23日は、西国分寺の「いずみホール」を会場とした「真夏の夜の平和コンサート」を聞きに行ってきました。
 毎年の開催で、今年で19回目ということです。
 出演の中に「ジャパン・ヤングハーツ」というグループがあり、1960年代から1980年代にかけて小金井市を拠点に全国的に活動した「統一劇場」の生き残りメンバーが年に一度集まるのです。
 平均年齢は70代になっていても、名前は「ヤング」です。
 この中に、古い知人で今は沖縄料理「ちゃんぷる亭」のママになっている石橋成子さんが、歌とアコーディオンで参加するので行ってみました。

 コンサートの第一部では、沖縄出身で東村山在住の家族(父母と長男長女)バンド「カーミーズ」が活躍しました。
 沖縄にはヤマトに対する屈折した怨念がありますが、人々の根は明るいのです。
 出番の最後の盛り上がりでは、客席から立ち上がって、踊りながら舞台に上がって行く人たちも現れました。
 その中に、小さな女の子を胸の前に抱えた若い父親がいました。
 まだ一歳前後と思われるその幼児が、リズムに合わせて手拍子を打ったのですから、その可愛らしさは、その場の主役を一時的にさらったようでした。
 その父親と娘が、休憩時間に挨拶されたら、石橋成子さんの息子さんと孫娘だったのですから驚きました。音楽好きの血がつながっているのでしょう。

 第一部後半では、「歌う行動派社会科教師」という肩書きを持つ箱崎作次氏の歌がユニークでした。
 五日市憲法を題材として、その思想が今も一条の光になっていることを、連作の創作歌として聞かせるのです。
 授業の中でも使ったということですが、現在は定年後で時間講師を勤めているそうで、より自由な立場での活躍が期待できるのではないかと思いました。
 声楽家としての経歴はわかりませんが、ソリストとしての声を持っておられるように聞けました。


 第二部は「ジャパン・ヤングハーツ」が主役で、合唱、朗読、コントを織り交ぜて平和への思いを表現して行きました。
 朗読などでは、要所で客席から「そうだ!」の掛け声や拍手が入ります。
 会場の雰囲気は、だんだん「うたごえ喫茶」風になり、やがてそれも超えて「決起集会」風に近づいて行くようでした。

 そして最後は、会場の全員で歌う時間になりました。
 「たんぽぽ」「今こそ立ち上がろう」「青い空は」の3曲は、開会の前に、あらかじめ練習してありました。
 ここでは第一部の出演者も全員が舞台上に並んで、ホール全体を楽器のように歌声で満たしました。
 そして大成功の盛り上がりで終ったのですが、その終り方が、非常に印象的でした。
 アンコールの準備はなかったようですが、会場の熱気はさめません。

 舞台に残ったのは、ピアニストと二人のアコーディオン奏者だけでした。
 マイクもなくなって、拍手が止まない中で辛うじて聞こえるのはピアノの音だけです。
 そのピアノが「きょうの日はさようなら」を演奏しはじめ、それにアコが協力しました。
 そこから自然発生的に全員が歌い始め、別れを惜しむひとときに導かれたのです。
 ピアニストのその場での才覚だとしたら、非常にすぐれた判断でした。

追記・石橋成子さんから「ブログを見ました」と電話がありました。
 そこで「家で大笑いになっている」というので、何かと思ったら、「孫は男の子なんです」ということでした。
 髪型や衣装から、私が勝手に思い込んだだけのことだったのです。
 見た目で決めつけてはいけませんね。
 83歳「ご隠居」の失敗でした。
 これから気をつけよっと(2016.8.26)。


志村建世(*)のブログ、多世代交流のブログ広場、2016年08月24日12:34
三多摩革新懇の「真夏の夜の平和コンサート」
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55702352.html

(*)志村建世
 1933年東京生れ。
 履歴:
 学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
 現在:
 窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

 武蔵小金井駅前の市民センターホールで開催されたコンサートに行ってきました。
 実力派のアーチストが20名近く参集して、一つごとに納得できる演目が30もあり、2時間にわたって客席も巻き込んだ熱演をくりひろげました。
 私は、元新制作座に所属していて、後に独立して労働組合の歌唱指導などをしていた時期におつきあいのあった石橋成子さんから、久しぶりに連絡をいただいて舞台姿を見に行きました。

 チラシの解説によると、1965年に旗揚げして20年間ほど小金井市を拠点に活動した「統一劇場」に、延べ175名が在籍したとのことです。
 その後各地の劇団やフリーで活躍したり、中にはスーパーのパート従業員になったり、生活とたたかいながらも歌心、芝居心を忘れなかった人たちがいたのです。
 石橋成子さんも、今は高井戸駅北の環8沿いにある沖縄料理店「ちゃんぷる亭」のママとして知っている人の方が多いことでしょう。

 第一部の演目には、青田恵子作「拝啓関西電力様」の詩の朗読や、石橋成子さんによる「へいわってすてきだね」(昨年の「沖縄平和の日」のこども代表の言葉)の朗読もありました。

 釜石小学校・校歌(井上ひさし作詞・宇野誠一郎作曲)(*)という珍しい演目もありました。
 井上ひさしさんらしい型やぶりの校歌で、子供たちは避難所でも歌ったということです。

 しかし驚きかつ感心したのは末永克行&ジュニア(息子さん)その他による創作「カエルの散歩」でした。
 末永氏は笛の名手ですが、素手を使っての「指オカリナ」もでき、それをジュニアが発展させているのです。
 貝殻を使っての擬音のカエルの合唱に、竹細工の楽器は何という名なのでしょうか、聞いたことも見たこともない不思議で魅力的な音が連続する構成劇でした。
 器用な「余興」の枠を超えて、もっと大きな舞台へも出られるのではないかと思いました。

 第2部の中では、「死んだ男の残したものは」が印象的でした。
 作詞した谷川俊太郎は、作曲の武満徹に「明日の集会で使うから一日で曲をつけてくれ」と依頼したそうです。
 このエピソードは初めて聞いたのですが、中村千恵子さんのアルトが、よく響いていました。
 「腰まで泥につかって」は、ピート・シーガーの作詞作曲ということで、訳詞は誰なのか、初めて聞きましたが、これも心に残る歌でした。

 「日本国憲法前文」の朗読、寸劇仕立ての「あたらしい憲法のはなし」は、憲法制定の原点をよみがえらせてくれました。
 そして圧巻だったのが、アメージンググレースに峠三吉の「人間を返せ」の言葉を乗せた大合唱でした。
 誰が発想したのか、みごとに隅々までメロディーに乗っていました。

 歌には力がある、歌を通して出来ることがいろいろある、ということを思い出させてくれるコンサートでした。
 このコンサートは去年もあって、来年もあるそうです。
 小金井市と小金井市社会福祉協議会が後援しています。


志村建世のブログ、多世代交流のブログ広場、2014年10月03日22:20
小金井市の「東北復興支援・ピース&チャリティーコンサート」
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55609327.html

(*)釜石小学校・校歌(井上ひさし作詞・宇野誠一郎作曲)

いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる

はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す

しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは 手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手と手をつないで しっかり生きる


https://www.youtube.com/watch?v=-qqCP-6kLzc

 青春時代の一時期を岩手県釜石市で過ごした劇作家・作家の故井上ひさしさんが作詞した釜石小校歌「いきいき生きる」と「ひょっこりひょうたん島」の歌碑が2013年6月23日、JR釜石駅前に完成した。
 東日本大震災の1年前に亡くなった井上さんが残した二つの歌は、被災した市民を励まし続ける。
 「復興のシンボルとして後世に歌い継ごう」
 こんな思いが市民に広がっている。

 それぞれの歌詞を刻んだ歌碑2基、説明の碑1基の計3基で、いずれも御影石製で高さ約1.5メートル。
 事業費は200万円。
 釜石ロータリークラブ(RC)が札幌市と東京立川市、岩手、宮城両県の仲間の協力を得て建立し、市に寄贈した。

 井上さんが2003年に作詞した釜石小校歌は、校歌特有の校名や自然描写がない歌詞で、当初は関係者の間で戸惑いがあった。

 「いきいき生きる ひとりで立って まっすぐ生きる」
 「困ったときは 目をあげて 星を目あてに まっすぐ生きる」

 歌詞の内容は、市民に徐々に浸透。
 震災時、避難所となった釜石小体育館では、市民が毎朝、全員で校歌を歌い、互いに励まし合ったという。

 NHK人形劇の主題歌で知られる「ひょっこりひょうたん島」も、苦しさや悲しみを乗り越え、泣かずに笑って前へ進む内容の歌詞が、被災者を元気づけた。
 ひょうたん島は、隣接する岩手県大槌町の蓬莱島がモデルとして注目されるが、「釜石人にとっては釜石湾の三貫島こそ、ひょうたん島」(釜石RC)という思いを、市民に再認識してもらう狙いもある。

 井上さんは山形県川西町出身。
 上智大に入学した1953年、都会生活に悩み、母が暮らしていた釜石市に一時帰省。
 2年間休学し、市立図書館や国立釜石療養所で働きながら、後の文学活動の基礎をはぐくんだ。

 現地であった除幕式には、井上さんの義姉で市内に住む井上淑子さん(76)ら関係者約80人が参加。
 釜石小児童らが、校歌やダンスを披露し、建立を祝った。

 釜石RCの埜木隆司会長は「被災してもくじけず、前を向く勇気を井上さんの歌詞からもらった。釜石ゆかりの井上さんの功績を、市民の心の復興につなげたい」と話している。


河北新報、2013.06.24 Monday
JR釜石駅前
故井上ひさしさん作詞の歌碑建立
http://rotary.jugem.jp/?month=201306

 
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五日市憲法草案は謳う

五日市憲法草案/コンサートナイン2015/箱崎 作次
https://www.youtube.com/watch?v=h08Z0THWKK4

 明治初期に現在の東京都あきる野市で生まれ、国民の権利に重きを置いた先進的な内容から「現憲法の源流」と言われている憲法草案「五日市憲法」が歌になった。
 中学校の社会科教師を長く務めた東京都国分寺市の箱崎作次さん(61)が作詞し、歌っている。

 「この憲法草案こそ、立憲主義の危機が叫ばれる現代の世を照らす光だ

 二つの歌に、そんな思いを込めた。

 ♪今一条の光となって 私たちに語りかける 民の自由と平等こそ かけがえのないものと…

 あきる野市のJR武蔵五日市駅から車で15分ほどの町外れにある「深沢家土蔵」。
 50年近く前に草案が発見された場所だ。

 箱崎さんは2016年先月2月20日、この土蔵の前で、カセットテープのピアノ伴奏に乗せ、自作の「今一条の光となって」を高らかに歌った。

 一曲だけのコンサートは、五日市憲法ゆかりの地を訪ねる現地ツアーの中で開かれた。
 参加者約20人が、箱崎さんの伸びやかな歌声に耳を傾けた。

 「歌で五日市憲法を広めるというのは、私も思い付かなかった」
 草案を広く伝える「五憲の会」事務局長で、今回のツアーの案内役を務めた鈴木富雄さん(75)は言う。

 「深沢家土蔵の前で歌うのが夢でした」と箱崎さん。
 東京都の中学校教員として主に多摩地区の中学校に勤務し、東村山二中(東村山市)で昨年、定年を迎えた。
 地元合唱団に所属し、10年ほど前から歌詞を書き始めた。
 仲間に作曲してもらい、機会をつくりレパートリーを披露してきた。

 授業でよく取り上げた五日市憲法草案の歌は、まだどこにもないと思い「ならば自分が」と昨年、二本の詞を書き上げた。

 「現代に生きる『五日市憲法草案』を歌う2曲」と、総合タイトルを付けた。

 一本は、草案の成り立ちや条文を説いた「五日市憲法草案は謳(うた)う」。

 もう一本の「今一条の光となって」には、安倍政権による集団的自衛権行使容認などで、立憲主義が危機に陥っていることへの思いを込めた。
 「今一条〜」の一節「民の自由 平等も みるく世(ゆ)(平和な世の中)なればこそと」は、昨年の沖縄慰霊の日で高校生が朗読した詩にあった沖縄の言葉を盛り込んだ。

 いずれも作曲は、東日本大震災被災地支援で知り合った福島県の中学校音楽教師に依頼。
 昨年2015年8月に完成し、CDに吹き込んだ。
 希望者に郵送料込み一枚500円で届ける。
 「一人でも多くの人に歌ってもらい、今の憲法の大切さを発信してくれれば。依頼があれば、駆けつけて歌う

 問い合わせは箱崎さん=電042(573)1590=へ。

五日市憲法草案

 私擬憲法(民間の憲法私案)の一つ。
 東京都あきる野市立五日市小学校の前身「五日市勧能学校」教員で、五日市の自由民権運動に大きな影響を与えた千葉卓三郎(1852〜83)が、81(明治14)年に起草したとされる。
 1968(昭和43)年、千葉の後援者だった深沢家の土蔵を調査した東京経済大・色川大吉教授のグループが発見した。
 204条からなり、表現の自由や教育を受ける権利など、国民の基本的人権にかかわる先進的な内容が多数盛り込まれ、現代の憲法に通じる点が多い。


東京新聞、2016年3月7日
立憲主義
魂の旋律
「五日市憲法」の歌 元教師が作詞

(榎本哲也)
http://d.hatena.ne.jp/kodomo-hou21/20160307

 安保法制(戦争法)を強行採決した安倍首相は「改憲」も明言するようになってます。
 改憲派は「いまの憲法は戦後米国から押し付けられた」といいますが、明治期に創られた東京・五日市憲法草案では、戦争をしない、自由と平等、人権を柱にした現憲法の源流がここにあります。
 三多摩青年合唱団の箱崎作次さんは、中学校の社会科教諭だったこともあり、この憲法草案に着目。
 教育のうたごえを通して知り合った福島の佐藤香さんと、「憲法草案」を歌にして広めています。

「五日市憲法草案は謳う」

多摩・山間の地に 生まれた憲法草案
民の自由と権利が
あまたちりばめられた
江戸の世からまだ14年という時代に
日本国憲法の源流がここに生まれた


「今一条の光となって」

ふるい土蔵に埋もれていた
一つの憲法草案が
いま一条のひかりとなって
混沌とした世界を照らす
憲法は時の権力から
民の権利と暮らしをまもるものと
百年もの昔に
五日市の若者たちが刻んでいた


うたごえ新聞、2016年3月21日号
http://utagoe.gr.jp/journal/blog2/?p=11377


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2018年10月30日

翼をください

翼をください/山本潤子
https://www.youtube.com/watch?v=88x6gAWJW-E

いま私の願いごとが
かなうならば 翼がほしい
この背中に 鳥のように
白い翼つけて下さい
この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ 行きたい

いま富とか名誉ならば
いらないけど 翼がほしい
子供の時 夢見たこと
今も同じ 夢に見ている
この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ 行きたい


 あっ、そうじゃなくって、今日のお話はやっぱり天木直人:

 きょう10月30日の東京新聞に感動的なコラムを見つけた。

 それは、ジャーナリストの木村太郎氏が書いた「太郎の国際通信」だ。

 そこで木村氏は安田純平さんを非難する自己責任論を批判し、安田さんを全面的に擁護する意見を述べている。

 安田さんたちは、今、日本に必要な情報を伝えるために危険を承知で取材に入ったのだ。それを「自己責任」と突き放すのは筋違いだ、と。
 そして最後にこう締めくくっている。

 「私も、もう少し若ければシリア内戦を現地で取材したかった」と。

 同じジャーナリストとして、ここまで安田さんを全面擁護する木村氏に私は感動した。
 しかし、私がこの木村氏のコラムで本当に感動したのは、木村氏が語っている自らの次の体験談だ。
 1973年のオイルショックの時、社会部記者としてトイレットペーパー騒動を追っていた木村氏は、国民から「マスコミは何をしていたのか」と批判の声が上がったのを見て、その原因である中東問題を知りたいと転勤希望を出し、1974年からレバノンのベイルート駐在特派員になったという。
 そして、多くの中東戦争の取材を通じて、
 戦争の危険はいきなりやってこない、
 内戦の犠牲になる国民の痛みと、
 その痛みが怒りに変わり爆発していく事を知ったという。
 そして、その実態は、現場で最初の痛みから実感していないとわからない事を知ったという。

 安田さんはまさしくシリア内戦の痛みを取材をしていたのだ。

 シリア内戦を外電を引用して解説するのはたやすいが、現地の住民の痛みを伝えないと、あのオイルショックの時のように、国民に本当の事を伝えられない、そういって安田さんら戦争ジャーナリストの側に木村氏は立つ。

 まさしくその通りだ。
 木村氏より30年ほど後に、私もまたレバノンの首都ベイルートに転勤した。
 ジャーナリストとしてではなく、外交官として、現地の痛みを実感し、そに実感を背に日本のあるべき中東外交を日本政府に伝えようとした。
 本国政府を忖度して外交をするだけでは正しい外交をすることは出来ない。
 現地の住民の痛みがわからない外交をしていては外交を見誤る。

 いまの日本の中東外交がまさしくそうだ。
 私は木村太郎氏のコラムに感動し、同じ言葉でこのメルマガを締めくくりたい。
 「私も、叶うなら、もう一度外交官に戻って、正しい日本の中東外交をこの手で実現してみたい」と。


天木直人のブログ、2018-10-30
自己責任論を否定し安田さんを擁護した木村太郎氏に感動する
http://kenpo9.com/archives/4368

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映画『五日市物語』

 江戸時代中期以前の深沢家の沿革は明らかではありませんが、江戸時代中期には名主に就任し、江戸時代後半からは土地集積を行ない山林地主として大きく家産を伸ばしていたことがわかっています。
 幕末には同心株を譲り受け、江戸幕府唯一の郷士集団である八王子千人同心に就き、村内鎮守社の神官も務めていました。

 明治維新を迎え、深沢家を継いだ名生(なおまる)は深沢村の戸長に就任し、息子の権八は村用掛に任ぜられ、ついで神奈川県会議員に当選しています。

 名生・権八親子は3町14か村から40名近い会員を集め学習会・討論会・研究会などを行っていた民権結社「学芸講談会」の指導的立場にあり、また五日市地域の自由民権運動の中心的な人物でもありました。

 当家屋敷は江戸時代後期の名主屋敷の旧態をとどめ、土蔵は、三多摩自由民権運動を象徴する「五日市憲法草案」発見の場所であり、当時、五日市地域で民権運動の中心的役割を果たしていた豪農民権家の生活様態を知る上で貴重なものです。


都指定史跡 深沢家屋敷跡
指定年月日 1983(昭和58)年5月6日
所在区市町村 あきる野市

東京都文化財情報データベース
http://bunkazai.metro.tokyo.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=590

P1060475 (3).JPG

深沢邸.jpg

 屋敷跡にお邪魔したヤッホーくん、びっくりして西尾さんに聞きました:
「ねえねえ、知ってる、映画のロケ地だったんだって、知ってた?」

P1060479-1.JPG

【映画】『五日市物語』予告編

 五日市町と秋川市の合併で生まれたあきる野市を舞台に、町の歴史を調査し始めた主人公が、穏やかな空気が流れる土地柄に触れ自分自身も見つめ直していく人間ドラマ。
 『風の見える街』の小林仁(1958年生まれ)が脚本と監督を務め、市制15周年を迎えた同市全面バックアップのもと、伝統と文化が根付く五日市の魅力を存分に映し出す。
 取材を重ねる主人公を遠藤久美子が演じるほか、数多く参加した一般市民の健闘も光る心温まるご当地ムービー。
 2011年。

 テレビ番組用の情報収集を専門に行う会社に勤める友里(遠藤久美子)は、局の依頼で五日市町と秋川市が合併した東京都あきる野市へ赴いて、合併から15年たった現在、当時の五日市がどのように変化したのか探り始める。
 しぶしぶ取材を始めた友里だったが、穏やかな土地柄や人々との出会いを重ね、次第に興味を持ち始めていく。

https://www.youtube.com/watch?v=cf61-5ZSk58

http://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000002555.html

 東京の西の端にある五日市の魅力を存分に描いた『五日市物語』の完成披露試写会が、7月30日にあきる野市の秋川キララホールで行われ、主演の遠藤久美子をはじめ、山崎佳之、田中健、寿大聡、三田村春奈、草村礼子、小林仁監督が舞台挨拶を行った。

・『五日市物語』作品紹介

 本作は、1995(平成7)年に五日市町と秋川市が合併してできたあきる野市の市制15周年を記念して作られた作品。
 遠藤は「この映画に関われて本当に幸せ。17歳からこのお仕事をして今33歳なんですけど、(この映画を通じて)素晴らしい方たちと出会え、人生の糧になりました」と、出演できた喜びを口にした。

 一方、遠藤扮する主人公に翻弄されながらも惹かれていく青年を演じた山崎は、「共演者があまりに豪華すぎて、監督に『本当に僕でいいんですか?』と何度も相談しました」と告白。
 気弱すぎる発言に、客席から大きな笑いが巻き起こっていた。

 あきる野市民の多大な協力を得て完成した本作。
 市民が大勢参加していて、小林監督自身もあきる野市の職員!
 撮影は普通の商業映画とは少々違う雰囲気だったようで、田中は「みんな、それぞれ職業があり、不思議な現場でした。でも、とても温かい雰囲気だった」と振り返った。

 また、撮影中のエピソードについて聞かれた遠藤は、「草村さんとのシーンが印象深くて。本当に涙が出てしまったシーンがあり、素敵な女優さんと共演できたことがとっても嬉しくて、忘れられない思い出です」と、大先輩との思い出を語ってくれた。

 劇中で遠藤は、都心の多忙なオフィスからあきる野市に赴き、五日市の土地に馴染んでいく女性を演じているが「私自身も五日市の魅力にどんどん取り付かれていきました」とニッコリ。
 だんだん柔和な感じになっていく様子を表現するため、監督からは「最後はちょっと太ってください」というリクエストがあったそうで、遠藤は「3kg太りました」と報告。
 そんな遠藤の魅力について田中は「ステキでした。惚れました。嫁さんにしたかったです」とべた褒めしていた。

 南米発祥の縦笛ケーナの名手でもある田中。
 劇中にも演奏シーンがあるそうで、この日もテーマ曲をケーナで生演奏。観客は、心地よい澄んだ音色に聞き入っていた。

 『五日市物語』は11月12日より銀座シネパトスほかにて公開される(10月29日よりワーナー・マイカル・シネマズ日の出にて先行公開)。

2011年8月2日
http://www.moviecollection.jp/news/detail.html?p=2817

【映画】『あきる野物語 空色の旅人 "The Akiruno Story: Journey in sky blue"』

《東京都あきる野市 市制施行20周年記念映画》

 市制施行15周年記念映画「五日市物語」から5年…あきる野に新たな物語が生まれます。
 今回の主人公は1年間という条件であきる野の地に舞い降りた天使(平山あや)。
 天使はあきる野を巡り、人々や動植物を優しく見つめていきます。

「私はいつも空の上からこの美しいあきる野の姿を見ていました」


https://www.youtube.com/watch?v=OaMNG7eB7VA

 天使は、空の上からいつもあきる野の姿を眺めていました。
 この美しいあきる野の地に降りてみたいとずっと思っていました。
 そして、1年間という約束で地上に降りることを許され、大きな樫の木の根元に舞い降りました。
 花々が一斉に咲く春、子どもたちが元気よく遊ぶ夏、色鮮やかな紅葉の秋、鳥たちが伸び伸びと過ごす冬。
 四季折々の景色の中で天使は、あきる野の人や自然、そして動植物とふれあってきました。
 でも、楽しい時間は、いつまでも続きません。
 もう、空に帰らなくてはなりません…


http://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000006469.html

 えっ、大きな樫の木・・・これです!

P1060495-1 .JPG

あきる野市の沿革と市名の由来

縄文時代から江戸時代まで

 あきる野には、豊かな水と自然の中に早くから文化がひらけ、縄文時代から古墳時代の考古学研究史に残る遺跡が多く発掘されています。

 阿伎留神社は、平安時代の「日本三代実録」と「延喜式」に記載されている古い神社です。
 また、大悲願寺の「木造伝阿弥陀如来及脇侍千手観世音菩薩・勢至菩薩坐像」もこの時代の終わりごろに作られたと考えられています。

 武蔵国は代表的な馬の産地で、四つの勅使牧の一つ小川牧は、小川郷(秋川・平井川流域)を中心にした牧でした。

 鎌倉時代、この地域は秋留郷と呼ばれ、武蔵七党のうち西党に属する小川氏、二宮氏、小宮氏、平山氏などが鎌倉幕府の御家人として活躍していました。
 また、室町時代になると、武蔵総社六所宮随一の大社である二宮神社は、小川大明神と呼ばれていました。

 戦国時代の終わりごろからは、伊奈と五日市に「市」が開かれ、炭などが盛んに取引されました。
 江戸時代になると木材は、秋川・多摩川を筏で流し江戸に送っていました。
 江戸時代末期には炭の年産が20万俵、筏は3000枚を数えました。
 このほか、絹糸を泥染めした黒八丈は、柔らかく深い艶のあることから帯や着物の衿などに珍重され、別名「五日市」と呼ばれました。

 江戸時代の集落は、秋川・平井川の段丘面や草花丘陵縁辺などに点在し、現在もその多くが市域の字名として残る32か村となって明治時代に至っています。

 1995(平成7)年 … 秋川市と五日市町が合併しあきる野市が誕生する。

市名(あきる野市)の由来

 古来、この地域は秋留郷に属し、旧五日市町にある古社も阿伎留神社と呼ばれていました。

 また、秋川流域4か市町村最初の共同事業の公立阿伎留医療センターや、この地域の中心に広がり、地域発展の受け皿として期待されている平坦部を秋留台地と呼ぶなど「あきる」の名称は親しまれてきました。

 ここに、21世紀に向けて、新市にふさわしい名称として、
・ 地域一帯の呼び名であり、歴史があること
・ 未来へ発展する期待がこめられていること
・ ひらがなにすることにより、親しみやすいこと
・ 緑豊かな自然や中心部である秋留台地をイメージできること
等の理由により「あきる」の末尾に「野」を加え、多摩川を境に東の平野の「武蔵野」に対し、西の平野をあきる野とし、新市の名称を「あきる野市」としたものです。

http://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000000291.html

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2018年10月29日

安倍首相の訪中成果改ざん発言

 鳴り物入りで行われた安倍訪中も終わった。
 その安倍訪中をきのう10月27日の大手紙は一斉に社説で限定的に評価した。
 前進した事は良かったがすべてはこれからだと。
 棚上げした困難な問題を克服できるかはこれからだと。
 経済協力だけで乗り切れるのか、米中対立が激しくなる中で日本は板挟みになるおそれはないかと。
 それでも最悪の関係から一歩前進した事は評価できると。

 私もそう思う。
 誰もが考える評価であり、誰もが抱く懸念だ。
 そんな中で、ひとり産経の社説だけが、「今度の安倍訪中は砂上の楼閣に終わる」と否定的に評価をした。
 それからわずか一日たって、やはり産経が正しかった。

 そう思わせるスクープ報道を、奇しくもきょう10月28日の読売と毎日が書いた。
 その要旨はこうだ。

 つまり、安倍首相は李克強首相、習近平主席との会談の後、自らのツイッターやフェイスブックで書き、ご丁寧にフジテレビのインタビューでも自慢した。
 今度の訪中では、今後の日中関係の道しるべとなる三原則を確認したと。
 その三原則とは次の三つだ。
 1.競争から協調へ
 2.日中はパートナーであり、互いに脅威とならない
 3.自由で公正な貿易体制の維持

 本当に、この三原則で合意したなら、今度の安倍訪中は歴史的な前進である。
 ところが、三原則で合意したとは、中国外務省の発表にはどこにも出て来ない。
 李克強首相も習近平主席も、三原則などという言葉を発していない。
 どうなっているのか。

 そこを同行記者団からつかれた西村康稔官房副長官は、「三原則という言い方はしていない」と釈明し、外務省幹部も、「原則は呼びかけたが三原則という言葉は使わなかった」と重ねて否定したというのだ。

 これは重大な食い違いである。
 なぜ、このような食い違いが起きたのか。
 それは明らかだ。
 安倍首相としては、過去の四つの歴史的基本文書につぐ五番目の文書をつくりたかったが間に合わなかった。
 そこで、口先だけでも三原則の合意が出来たと改ざん発言して、今度の訪中の成果を前のめりに誇大宣伝したかったのだ。
 その矛盾を突かれ、なぜ西村官房副長官や外務省幹部は、安倍首相の発言を否定せざるをえなかったのか。
 もちろん、それは事実に反するからである。
 しかし、それだけではない。
 来年6月に期待される習近平主席の訪日の際にはこの三原則を文書にして第五の基本文書を何としてでも作りたい。
 そう安倍首相から西村官房副長官や外務省は厳命されている。

 しかし、果たして中国がそれに応じるか保証はない。
 後退した表現に終わると日中関係が前進どころか停滞したと受け止められる恐れがあるからだ(毎日)。
 おまけに、はたして習近平主席は来年6月に訪日するのか。
 今回の首脳会談で安倍首相は招待したけれど、習近平主席は確約しなかった。

 きょうの読売と毎日のスクープ報道が教えてくれた事。
 それは今度の安倍訪中は、安倍首相お得意の、事実を改ざんしてまで宣伝する日中友好関係の構築外交に過ぎなかったのだ

 「砂上の楼閣」だと書いた産経の社説が正しかったのだ。
 ところが、この改ざん発言を、産経は書かない。
 インタビューまでしているのにである。
 やはり産経はダメ新聞である。


天木直人のブログ、2018-10-28
読売と毎日が報じた安倍首相の訪中成果改ざん発言
http://kenpo9.com/archives/4358

 やはり朝日も安倍訪中を社説で書いた。
 しかも他紙と一日遅れのきょう10月28日の社説で書いた。
 情報が出そろった後で、考え抜いて書いたに違いない。
 そう思って読んだところ、何のことはない。
 他紙がすべてきのう書いた通りの限定的評価だ。

 「2012年の尖閣国有化などを経て、『最悪』と言われるほど悪化した関係がここまで改善した事を評価したい」という言葉で始まってる。
 こんなことは皆が書いている事だ。

 そして、その後は「歴史や台湾問題は、今回封印された。尖閣や安全保障問題に実質的な進展はほとんどない」と続ける。
 「そもそも日中接近をもたらした主因は、米中間の対立だ」と書いている。
 そして、中国の強引なふるまいや国民の反日感情利用を批判する一方で、日本は対米従属をやめて自立外交をせよと迫る。
 習近平主席の来年の訪日実現を確実に進めよとしめくくる。

 こんなことは誰でも書ける。
 昨日の社説で書けたはずだ。
 朝日はすっかりダメ新聞になってしまった。


天木直人のブログ、2018-10-28
一日遅れで書いた朝日の安倍訪中社説の空疎さ
http://kenpo9.com/archives/4359

 「これからの日中関係の道しるべとなる3つの原則を確認した」――。
 安倍首相が日中首脳会談の“成果”をこう強調していることに対し、外務省が火消しに躍起になっている。
 安倍首相は習近平国家主席や李克強首相との会談で、今後の日中関係について「競争から協調」「互いに脅威とならない」「自由で公正な貿易体制の発展」の3原則を確認したといい、首相官邸フェイスブックで発信したり、フジテレビのインタビューでもアピールしたりしていた。

 ところが、外務省は先週26日、〈一連の会談で『3原則』との言葉でこれら諸点に言及したことはない〉と否定する文書を発表。
 翌27日にもわざわざ記者に「『3原則』とは言っていない」と念押ししたほどだ。

「首脳会談で決まった内容は条約に匹敵するほど重い。外務省が否定しているということは、日中間で合意には至っていないということ。恐らく功を焦った安倍首相がつい口を滑らしたのでしょう。仮に中国側が『そんな原則は決めていない』と発表したら、大変な問題になりますよ」(元外交官の天木直人氏)

 日中関係の改善は結構だが、そもそも対中関係を悪化させてきた張本人は安倍首相自身だ。
 2012年末に政権に返り咲いて以降、「中国脅威論」をタテに防衛費を拡大させ、尖閣上陸を念頭に自衛隊内に離島奪還専門部隊の「水陸機動団」を発足させた。
 中国包囲網を築くため、中国を取り囲むようにモンゴルや中央アジアなどにカネをバラまき、中国主導の現代版シルクロード構想「一帯一路」を牽制してきたのだ。
 今まで敵意ムキ出しだった男が突然、「3原則」を言っても中国側が信用するはずがない。

 外務省が「3原則発言」に神経をとがらせているワケは他にもある。
 米国との関係だ。
 中国と激しい貿易戦争を繰り広げているトランプ大統領が、習近平国家主席と笑顔で握手しながら「やっぱり保護貿易はダメだ」なんて笑っている安倍首相の姿を見たらどう動くか。
 トランプ大統領は早速、日本が市場を開放しない場合、日本車に20%の関税をかけると警告しているが、年明けに始まる日米貿易交渉でも影響が出るだろう。

 〈トランプ氏の盟友、日本の首相が中国首脳にすり寄ろうとしている〉

 米ワシントン・ポスト紙は日中首脳会談の様子をこう報じていたが、米国が強ければ対米従属し、中国の力が強くなれば中国にも尻尾を振る。
 日本としての確固たる信念も何もない。
 米中のどちらにもいい顔をした結果、日本だけがババを引くことになりかねないだろう。
 一体、どこが「外交のアベ」なのか。


日刊ゲンダイ、2018/10/29 15:00
日中首脳会談「3原則」の大ウソ

安倍首相は米中で信頼失う

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/240535/1

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「五日市憲法」発見から50年

 2018年10月29日月曜日、ヤッホーくんから昨日の日曜日の山歩クラブお散歩会の一斉報告メールが放たれたようです。
 平成最後の秋、です:

 皆さん、こんにちは。昨日は五日市町(現あきる野市)を歩いてきました。
 「近代日本の黎明期に生きた人びとのロマンに触れる旅」です。

 明治のはじめ、自由民権運動が日本各地で烽火のごとく立ち昇ったころ、栗駒山の麓、いまの栗原市から赴任してきたのが仙台藩士だった千葉卓三郎 28 歳。

 そして支援者、理解者が 20 歳を過ぎたばかりの、山林地主で材木問屋の深沢権八でした。

 地域の人たちは皆んなで日本をもっと良くしようと学習会、「五日市学芸講談会」を開き、討論を重ね、五日市憲法草案をつくりあげていくのです。
  これがちょうど今から 50 年前の 1968 年夏、色川大吉やその教え子の大学生、新井勝紘(岩波新書『五日市憲法』 2018年)たちの手によって、古い土蔵のなかの風呂敷包みから発見され、日の目をみたのです。

 明治から 150 年目、そして平成を締めくくるにあたり、今回山歩クラブは、美智子皇后さまの記者会見の文や、ヤッホーくんがおつくりになった事前学習の写しを手に、その土蔵を見学に JR 武蔵五日市駅から歩いてきました。

 ところが駅頭で、あきる野市観光ボランティアの坂野紀世子さんがわれわれ 13 人を案内してくださる、と。
 この方、深川生まれのたいそうな健脚の持ち主でした。
 住んでいる土地、そこに来られる人たち、つまりは社会に、これまで生きてきた恩返しをしているとおっしゃっておられました。
 歩きながら、たくさんのことを坂野さんから教えていただきました。

 さらに、郷土館では館長の岡野要一さまから直接、特別展「 24 枚の和紙につづられた夢〜五日市憲法草案とふたりの青年〜」のお話を伺うことができました。
 郷土館でたまたま日曜日、お仕事をなさっておられたのです。

 岡野さん、坂野さんといい、なんという運の良さ。
 お天気も晴れの好日。

 こんな幸運に恵まれましたのも偏に皆さんの日ごろの行いが良いおかげです。
 次回またお会いするときまで、どうぞくれぐれもお体お大切に、ヤッホー!


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国際勝共連合創立50年

 衆議院第一議員会館裏口から議員バッヂを付けた人物が何人も出てきては、通りを挟んで向かいに建つホテルの宴会フロアへ吸い込まれていく。
 数十分後、用を終えたとばかりに早足でホテルをあとにして議員会館に戻る議員たち。
 彼ら国会議員が出席していたのは「国際勝共連合創立50周年記念大会」という催しだ。

 10月25日午後、首相官邸や議員会館のすぐ裏手にそびえ立つ高級ホテル「ザ・キャピトルホテル東急」で国際勝共連合が開いた式典に多くの国会議員が出席した。

 国際勝共連合は、霊感商法などが社会問題となった宗教団体・旧統一教会系の政治団体だ。
 「統一教会/世界基督教統一神霊協会」は2015年に「家庭連合/世界平和統一家庭連合」に改称している。

 これまでに同教団と政治家との関係を報じてきた筆者が取材に訪れることを察知した教団サイドは、入場を拒否しただけでなく、対策として勝共連合の職員を配置、来場する政治家の写真を撮らせないよう指示した。
 筆者は職員の妨害を掻い潜り、ホテル宴会場ロビー共用部や歩道から来場した国会議員をチェックし撮影を敢行。
 その結果、本人確認ができた国会議員は以下の8人。

・ 衆議院議員:
山本朋広(神奈川4区)、武田良太(福岡11区)、逢沢一郎(岡山1区)、御法川信英(秋田3区)、穴見陽一(大分1区)、奥野信亮(比例区 近畿)
・ 参議院議員:柳本卓治(大阪選挙区)、宮島喜文(比例代表)

 全員が自民党所属の議員だ。
 奥野以外は、ここ数年のうちに教団の大規模信者集会に来賓出席して祝辞を述べた議員と教団の誘いで外遊し海外の教団系イベントに参列した“前科”のある議員たちだ。

 他にも、議員本人や秘書と思われる人物約20人が、開演直前の10数分間に「国会議員」と書かれた専用受付で来場手続きを済ませており、相当数の国会議員や秘書が出席したと思われる。
 では、これほど多くの国会議員が付き合いを続ける国際勝共連合とはどんな団体なのか。

文鮮明教祖が設立した反共政治組織

 国際勝共連合はその名称が示すように、徹底した反共産主義を掲げる右派・保守系の団体だ。
 ただし、同連合の主張内容に韓国への批判は見当たらない。
 主だったものは中国共産党への批判だ。
 韓国発祥の教団関連機関だけあって中国の批判はしても韓国の批判はしない。
 なぜ、そのような組織が日本の保守界隈と連携しているのかと疑問を持つ人は多いだろう。
 その疑問は、これまでの日韓関係を少し遡るだけで氷解する。

 現在の反韓・嫌韓感情が渦巻く保守界隈の空気感とは異なり、日韓両国は1990年代以前には「反共の同志」として良好な関係にあった。
 米CIAの後ろ盾のもとで「北朝鮮の共産主義に打ち勝って統一/勝共統一」をスローガンに反共活動組織を必要としていた朴正煕政権(1961〜79)の庇護を受けるため、統一教会の文鮮明教祖は、便宜的に反共産主義を掲げて朴大統領に取り入った。

 文は67年に山梨県の本栖湖畔で行った戦後右翼の大物らとの日韓反共首脳会談を契機に翌68年1月、韓国で国際勝共連合を創設、日本でも同年4月、岸信介総理大臣の後ろ盾を得て国際勝共連合を創設するに至る。

 当時の日本といえば東西冷戦下での安保闘争真っ只中という時代だ。
 そんな時代背景のもと、献身的に反共運動に邁進する青年を抱える勝共連合は政財界へ浸透していく。
 1970年9月に国際勝共連合が中心となって日本武道館で「WCAL(世界反共連盟)世界大会」を開催。
 74年5月に文鮮明が帝国ホテルで開いた「希望の日」晩餐会には岸の他、福田赳夫、安倍晋太郎ら40人の自民党国会議員と財界の要人が出席した。

 水面下での政治家工作も継続して行われてきた。
 秘書養成所で訓練した信者が議員のもとに送り込まれ、秘書のほかにも事務所スタッフや選挙運動員として提供された。
 文鮮明は「まず秘書として食い込め。食い込んだら議員の秘密を握れ。次に自らが議員になれ」と指示、送り込まれた信者部隊はそれぞれの政治家の懐に入り込み、弱みを握った。

 2000年代中盤以降、文鮮明の指令は忠実に実行され、信者自身が素性を隠して地方選挙に出馬した。
 幾人かは当選し、確認できただけでも蒲郡市や流山市、大阪市等で信者地方議員が誕生している。

自民党を下支えする政治工作

 1979年2月、スパイ防止法制定を目指して生長の家ら6団体と勝共連合が「スパイ防止法制定促進国民会議」を設立、同年6月からは生長の家に替わって勝共連合が主導し、全国47都道府県で「スパイ防止法制定促進県民会議」を結成した。
 地方議会から決議を挙げ、同法の立法化を目指していた自民党を後押ししたのだ。
 同法案自体は廃案となったが、「特定秘密保護法」として復活している。

 同様に、現在も家庭教育支援法や青少年健全育成基本法など様々な法整備制定や安倍政権の悲願である憲法改正への動きを様々な工作で下支えし、憲法24条の家庭条項改正への策動を進めている。

 1990年代初頭には衆参両院に約200人の「勝共推進議員」と呼ばれる議員がいたとされる。
 現在の日本会議系議員のような括りと同様のものだ。
 その勝共推進議員も東西冷戦の終結により激減することになる。
 存在意義が薄れた勝共連合との関係を断つ議員が続出、その影響力も次第に薄れていった。

 ところが2010年代に入って第二次安倍政権発足後、俄然、息を吹き返してきたのだ。

 国際勝共連合会長就任前の昨年8月、政治家対策を担うUPF(天宙平和連合)の梶栗正義会長は韓国で開かれた幹部集会の場で、現在の教団最高権力者・韓鶴子総裁にこう報告している。

「最近、日本は雰囲気が変わってきました。以前、勝共連合の活動が活性化していた時と同じような、その当時は200名を超える議員たちがご父母様に侍(はべ)っていたのですが、その時と同じような雰囲気が近づいています」

 この発言を裏付けるように、多くの国会議員が新たな現代版「勝共推進議員」と化している。

 2000年代後半に相次いだ教団系霊感商法販社の摘発。
 その追及が宗教法人格剥奪へ発展することを危惧した教団首脳は組織防衛のため、それまで怠っていた政治家対策に再び本腰を入れ始めた。
 その工作が露わになったのは第二次安倍政権発足以降のことだ。
 官邸筋の意向を受けて様々な策動を忠実にこなす見返りに、体制の保護や教団名変更などの便宜供与を受けているのではないかとの疑惑が様々な証拠を複合的に組み合わせることで浮かび上がってきたのだ。

 なぜ衰退傾向にあった勝共連合周辺が近年、活況を呈しているのか。
 この宗教系政治組織の策動と暗躍の背後には何があるのか。
 それを検証するには第二次安倍政権発足後の政権中枢・官邸筋との緊密関係を詳らかにし、どのようなギブ&テイクが横行してきたのかということを改めて繙いてみる必要がある。
(文中敬称略)

ハーバービジネスオンライン、2018.10.29
自民党議員、国際勝共連合50周年大会に複数名が出席。
旧統一教会系政治組織と与党議員の関係

鈴木エイト(やや日刊カルト新聞主筆)
https://hbol.jp/177532


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40歳以上のひきこもりの人たち

『ルポ ひきこもり未満 レールから外れた人たち』(集英社新書、2018年9月)を上梓した池上正樹氏。

ジャーナリストの池上正樹氏(1962年生まれ)が上梓した新著。
ここに登場するひきこもり当事者たちの数々の肉声は、その暗く閉ざされた世界への入り口が、現代社会の至る所に潜んでいるという現実を教えてくれる。
大企業という"安全地帯"にいる人でさえ、「ひきこもり問題は他人事ではない」。
これが約20年にわたって社会的孤立者を取材し続けてきた著者の実感だ。
そして、一度そこに堕ちてしまえば、セーフティネットの外側にある孤立無援の"闇"から抜け出せなくなる......。
では、社会はひきこもり問題とどう向き合うべきか。池上氏と一緒に改めて考えてみたい。

* * *
―― そもそもですが、「ひきこもり」とはどういう状態の人たちを指すのでしょうか?

池上 一般的には、不登校や就労の失敗をきっかけに何年も自宅に閉じこもり続ける若者、と捉えられていますが、それはメディアが作り上げたひきこもり像といえます。
 特にテレビは分かりやすい絵を流したがる。今はずいぶんと減りましたが、一時期は取材依頼の際、『カーテンを閉め切った薄暗い部屋でうずくまる若者の絵が欲しいから、撮影可能なひきこもりの方を紹介してほしい』とよく要望されたものです。
 でも、私はこれまで1000人以上の当事者の方々とやりとりしてきましたが、現実にそういうイメージ像は一面でしかありません。
 仕事がなく、家の中にいることが多いのは確かですが、彼らは普通にコンビニに行きますし、健康のためにジョギングしたり、図書館にも行く。

―― それってひきこもりというより、普通の人なのでは?

池上 同じひとりの人間ですから、そう映ります。ただ、彼らは家族以外の人と話をしないし、関わろうともしません。親とのコミュニケーションがまったくない人もいる。社会との関係性を"遮断"しているのです。
 そのうえで自室に閉じこもる人もいれば、外出する人もいる。いつか社会復帰したいと思っている人もいれば、生きていたいと思うようになりたいと、綱渡りのように踏みとどまっている人も......。
 彼らの境遇は「ひきこもり」という言葉でひと括りにはできません。

―― ここでは便宜上、「ひきこもり」という言葉を使わせてもらいますが、彼らはなぜ、そういう状態に陥ってしまったのでしょうか?

池上 学校の不登校の延長でひきこもりになると指摘している専門家は少なくありませんが、その背景は人の数だけ違います。私が話を聞いてきた当事者の方々の多くは就職経験がありました。
 でも、会社の倒産やリストラのほか、上司からのパワハラや職場のいじめに耐えられなくなったり、連日の長時間労働に疲れ果てて身体を壊したり、親の介護のために離職を余儀なくされたり......と、今の日本社会ではありがちな理由でレールから外れてしまう人が少なくありませんでした。
 "遮断"への入り口は、至る所に存在しているということです。
 例えば、その後、ハローワークに行っても都市部では正規雇用がほとんどなく、地方では非正規雇用の求人しかヒットしない。
 繰り返し傷つく中で自信をなくし、友人や知人が集まる場所にも足が向かなくなり、いつしか実家で息を潜めて生活せざるをえない状態に陥ってしまうという事例です。

―― 池上さんの著書では社会との関係性を遮断した人たちの心の闇がリアルに伝わります。なかでも、東日本大震災のときに津波警報が出て「逃げて!」と母親から何度も促されたのに、2階の自室から出てこなかった青年のエピソードは闇の深さを感じさせる話でした。

池上 津波に家ごと押し流された先で奇跡的に救助された方もいました。
 彼は母親に部屋から出なかった理由について「押し寄せてくる津波より、避難所の人間関係のほうが怖かった」と説明しています。
 あるひきこもり当事者に言わせれば、社会との関係性が途絶えた状態が続くと、「社会に迷惑をかけてまで、生きていたいと思えなくなる」のだそうです。

―― 現在、ひきこもり状態にある人はどれくらいいるのでしょうか?

池上 ひきこもりに関する調査は内閣府が過去に二度実施しています。
 一度目は2010年度で、当時は約69万6000人と推計。
 二度目は2015年度で、約54万1000人。
 この調査ではひきこもり対象者を「趣味の用事のときだけ外出する」「近所のコンビニなどには出かける」「自室からほとんど出ない」といった状態が6ヶ月以上続く人と定義しています。

―― 2010年から5年間で約15万人減。ひきこもりの人は年々減少しているんですね?

池上 それは、カラクリがあります。
 というのも、内閣府の調査は15〜39歳の人を対象にしたもので、40歳以上の人たちが省かれてしまっているのです。
 実は現在、ひきこもり状態にある人の少なくとも半数程度は40歳以上と見られています。
 各自治体では40歳以上を含むひきこもり調査を実施しているのですが、いずれの自治体でも、40歳以上の割合が約半数を占めるという調査結果が出ているためです。
 昨年2017年に調査を実施した佐賀県では、40歳以上の方が実に7割超を占めました。

―― 内閣府の54万人という数字はひきこもりの実態とかけ離れていると......。

池上 40歳以上がひきこもり全体の半数を占めると仮定すれば、実際にはその倍はいると推計できます。つまり全国的に見れば約100万人(54万人×2)はいるということ。

―― 40歳以上といっても範囲が広いですが、具体的には?

池上 ひきこもりのコア層は40代前半。いわゆる団塊ジュニア世代です。

―― なぜ、国の調査では40歳以上の人が省かれたのでしょう?

池上 これまでの国のひきこもり支援は、内閣府の「子ども・若者育成支援推進法」を法的根拠にしてきました。若者という定義上、当初の支援対象者は「34歳まで」、その後、「39歳まで」に上限を引き上げて、年齢で線引きをしてきたのです。
 ただ、法的な理由だけではなく、従来のひきこもり支援の枠組みは、あくまで「就労」がゴールとされていましたから、40歳以上を支援の対象に入れても「就労につなげにくい」「事業効果が出づらい」......そんな支援者側の思惑もあったと聞いています。

―― 40歳以上のひきこもりの人たちは公的支援の蚊帳の外にいると?

池上 はい。
 中高年層は「働くことが前提の世代」として制度設計されてきたため、セーフティネットの谷間に置かれ続けてきたのです。
 例えば、働くことに悩みを持った若者向けの支援機関として、サポステ(地域若者サポートステーション)があります。厚生労働省が委託したNPO法人や民間企業が運営し、専門のスタッフが相談に乗ってくれたり、コミュニケーション訓練などを施してくれる施設で、現在、全都道府県に175ヶ所設置されています。
 しかし、これまでの支援対象者の定義が曖昧で、ひきこもり状態の人も含まれていました。
 しかも、サポステの支援対象者は15歳から39歳までの若者に限定されていたことから、40歳以上の人が窓口に行くと年齢確認のうえで「あなたは支援の対象ではない」と冷遇されてハローワークを勧められるか、あるいは「精神科へ」と医療機関に誘導されることも少なくありませんでした。
 役所にひきこもり関係の相談をすると、サポステを紹介されるのに、40歳以上のひきこもる人たちや、その家族を支援する相談窓口が"どこにもない"という状況が放置され続けてきたのです。

―― 国や自治体の公的支援がうまくいかない理由はどこにあるのでしょうか?

池上 先程も言いましたが、支援のゴールを「就労」に置いていることがひとつ。ひきこもりから社会復帰させ、いかに就労という結果に結び付けるかが何より重要だという制度設計が、ひきこもり支援の現場にいびつな状況を作っています。
 例えば、サポステの相談窓口では年齢のほかに、状態によっても結果的に選別されてきました。状態とはつまり、相談に訪れた人が就労に近そうか、遠そうかという部分ですね。
 というのも、サポステを運営するNPOや民間企業は、単年度契約で自治体から事業を受託しているのですが、来年度に向けて契約を更新できるかどうかは「就労率」などの実績が基準の1つになります。これはサポステ利用者の中から、期限内にどれだけ就労者を生みだしたかを示す数字で、運営事業者にとってはノルマのような扱いになっています。
 そんな設計のまずさから、就労率が少しでも高くなるようにと就労に近そうな人たちは支援のプログラムに乗りやすくなった一方で、居場所などをつくって時間をかけた丁寧な取り組みをしてきた支援機関が更新されなくなるという、本来の支援の趣旨とは矛盾する実態になってしまったのです。

―― 逆に就労から遠い人="ひきこもりの症状が重い人"は排除される。本末転倒ですね......。

池上 中にはワラにもすがる思いで家を飛び出し、施設の前まで来たんけど、やっぱり他人と話をするのが怖くて家に帰ってしまい......ということを何度も繰り返して、ようやく相談窓口などに辿り着く人たちもいます。
 しかし、担当者から「あなたは支援の対象ではない」と冷たく突き放されてたらい回しにされるなどして、社会に戻ることをあきらめ、再びひきこもっていく人も少なくありません。
 こうした潜在化の状況が、ひきこもり長期化、高齢化を生む要因になっているのです。

―― 国や自治体のひきこもり支援はどうあるべきだと考えますか?

池上 まずは周囲の人たちが就労ありきの価値観から脱却することですが、その点でいえば、国のひきこもり支援の法的根拠が、2015年4月に施行された「生活困窮者自立支援法」に代わったことによって、生活困窮者向けの相談窓口の中に「ひきこもり相談」が含まれることになったのは、大きな転換点でした。
 すべての基礎自治体に相談窓口が作られ、年齢による線引きもなくなり、ワンストップ型の「断らない相談支援」を行なっていくことが新たな国の理念となっています。
 ただ、多くの自治体ではまだ担当する相談員の間に、つなぐ先の社会資源や対応ノウハウなどが十分に情報共有されていないのが実情です。
 ひきこもる本人や家族の話は傾聴してくれるものの、聞くだけで終わることも多く、その後、どうしたらいいかが分からない。
 結局は相変わらず、ハローワークやサポステを紹介されるだけという話も聞きます。
 各自治体に問われているのは、ひきこもる人やご家族の受け皿をいかに用意するか。そのための地域資源をいかに掘り起こすか、です。
 いま、生きづらさを感じている人たちが生きやすくなる社会とは、実は、現代に生きるみんなが生きやすい社会になるということ。
 だから、ひきこもり問題は他人事ではなく自分事として考えてほしいと思っています。


週プレNEWS 、2018年10月28日 6時10分
全国で推計50万人!

40歳以上の″ひきこもり中年″たちは、なぜ公的支援の対象から外され続けてきたのか

http://news.livedoor.com/article/detail/15509478/

背景にある「8050問題」とは

「ひきこもりは不登校からの延長が多く、青少年問題ととらえられています。国の調査対象も39歳まで。40歳以上のひきこもりはカウントさえしていない状態です」
と、特定非営利活動(NPO)法人『KHJ全国ひきこもり家族会連合会』のソーシャルワーカー・深谷守貞さん。
実態把握に向け、内閣府が重い腰を上げる。今年度に40〜59歳を対象にした初の実態調査を行うことを決めた。
 その背景には『8050(はちまるごーまる)問題』がある。80代の親の年金や貯蓄に、50代の子どもが依存している現実。親の介護、親の死が訪れればあっという間に崩れ去る将来性のない暮らし……。
 前出・深谷さんは、

「KHJで実施した最新調査では、ひきこもりの平均年齢は34・4歳で年々上がっています。ひきこもりを始めた年齢はだいたい20歳くらい。そのころは若く収入もある親も、やがて高齢化します」

 深谷さんはひきこもりを「自ら人間関係を遮断している状態」「自分自身を軟禁状態にしている状態」と定義する。そこに隣近所や社会の見る目が加わると、
「ひきこもりは自己責任論が根強く、“本人がいつまでも親のすねをかじっている”と言われたり、親も“自分の育て方が悪かったのではないか”と思い悩んでしまう」(前出・深谷さん)
 その結果、地域社会からも孤立することになる。
 今年2018年1月、札幌市で「8050問題」を象徴する事件があった。アパートの一室で、82歳の母親と52歳の娘の遺体が発見された。娘は長年ひきこもりで、母親が亡くなった後に衰弱死したとみられる。

 社会や他人に対してSOSを発することが困難なほど、対人関係に怯えるひきこもり。そうなるきっかけは人さまざまだが、
「人生のライフステージをきっかけに起こりうる」
と前出・深谷さん。

「転職先で外様扱いをされたことでひきこもりになった方、離婚や就活の失敗が原因になったケースもあります。非常勤の仕事に就くことができても、親からは終身雇用の価値観をかぶせられ、よりつらくなったりする」(同)

 さらに、コミュニケーション力が必要とされる現在の産業構造も、ひきこもりを増やした要因とみる。深谷さんが続ける。

「今の仕事はコンピューターにはできないコミュニケーション力を要するものが大半。全員が長けているわけではないので、つまずく人は出ます」

 長期化、泥沼化するひきこもり。

 「ひきこもりの期間が長いとそれだけ、回復するのに時間がかかります」(前出・深谷さん)という。

 週刊女性は、立ち直った人に話を聞くことができた。
 首都圏在住の40代の牧野達夫さん(仮名)。39歳の年にひきこもり生活に入った。

「きっかけは病気でした。家族性地中海熱という自己炎症疾患なのですが、発症当時はどこの病院でも原因がわからなかった。睾丸に痛みが出たのですが、泌尿器科を回っても、病気が見つけられない。そのうち心身症と診断されて、精神科に回されました」

 本来であれば飲む必要のない強い抗うつ薬を大量に飲まされ、大学卒業後ずっと勤務していた福祉系の団体を休職。

「大酒飲みでしたので、薬とお酒で痛みをごまかすような生活が続きました。妻子がおりましたが、離婚しました。駅のホームから飛び込もうとしたところ、駅員に助けられて、警察に連れて行かれて、親が身元引受人になってくれました。そこから私のひきこもりが始まりました」

 以前とはがらりと変わってしまった大人の息子の姿に、親も戸惑った。

立ち直りのきっかけ

「父親は腫れ物に触るみたいな感じで何もできず、母親がとにかく叱咤激励してという日々が1年以上、続きました。ただ、それが逆につらかったんです。話ができる状況ではなかったので、クリスチャンの母親は手紙を書いてくる。“あなたはそんな子じゃない”とか“神様は人間をそんなふうにつくっていない”とか」
 ただ、親元にいたおかげで3食食べることができ、抗うつ剤や酒を抜くこともできたという。やがて訪れる立ち直りのきっかけについて、牧野さんが続ける。

「母親からの手紙がやんだことです。何も言わなくなった。そこから私自身のエネルギーが湧いてきたんです。区役所に電話をかけて相談をしました。東京都のひきこもりの地域支援センター『ひきこもりサポートネット』に、都から紹介されて電話をしたんです」

 そこで牧野さんは、ひきこもりに年齢の壁が立ちはだかることを思い知ることになる。

「40歳以上はサポートの対象外なんです。話は聞いてくれますが、訪問に来たり、何か紹介してくれることは一切なかったです。“ごめんなさい、東京都では40歳以上の方はどうしようもできなくて”というような回答でした」

 頼ったところは前出・深谷さんがソーシャルワーカーを務めるNPO。“東京の巣鴨でひきこもりの経験者や当事者が集まる会があるから、頑張って巣鴨まで出てきてごらん”と誘われるまま足を運んだ。

「参加費は2000円。2年ぶりの外出でした。そこでかけていただいた言葉が今でも忘れられないのですけれど、“ひきこもれる勇気があるんだよ”って。初めてひきこもりを肯定してもらえました」

 外に出る最初の一歩。人間関係に対する疲れや恐れを取り除くこと。そして、

「ひきこもってることを肯定していきましょう。親が“いつまでそんなことをしているんだ”と言っても、本人がいちばんよくわかっています。ひきこもり=悪ではない。
人はある程度エネルギーがないと外に出られないので、家庭の中でまず生きるためのエネルギーを蓄えることが必要です。親は早く働いてほしいと思いがちですが、その前に生きること。働くことはゴールではないので」(前出・深谷さん)

 “ひきこもり女子会”など女性のひきこもりを支援する、一般社団法人『ひきこもりUX会議』の代表理事・林恭子さんは、
「ひきこもり支援などができて約20年になりますが、行政や民間団体の支援はほぼ就労支援なんですね。就労を目的としてしまうと、ひきこもり問題はうまくいかない」
ときっぱり。焦りは禁物で、

「就労支援よりもっと手前の、まずは外に出るとか、人の中で3時間いるとか、電車に乗るとか、人との会話の練習をするとか、そこからなんです」

3人のモデル事例

 ここに3人の、モデル事例がある。前出・深谷さんがソーシャルワーカーを務めるKHJの調査・研究事例報告書、および愛知教育大学の川北稔准教授の調べによる実態が映し出すのは、脱ひきこもりに向けたさまざまな取り組みだ。

【CASE 1/43歳・女性】

 70代の父親と2人暮らしの女性(43)は、中学校の不登校がきっかけでひきこもり生活に入った。母親と兄は他界し、家事は父親の担当。食事は部屋の中でひとりで。父親とは会わない。
 月に1万円の小遣いをもらい、インターネットショッピングで買い物をする。パソコンやスマホのゲームをして過ごし、コンビニなどに外出することはある。年に1度、美容室に行く。
 父親からNPO団体に相談があり、支援がスタートした。病院の受診を相談所の支援員がすすめるが、本人は逡巡。1年間の説得の末に病院に行くと、検査結果はアスペルガー症候群。
 それでも支援を受け続けた結果、就職できる道があることに魅力を感じるようになった。父親と会話を交わし、ときどき一緒に食事をするまでに回復したという。

【CASE 2/50歳・男性】

 母親(83)と2人暮らしの男性(50)は、大学卒業時の就職活動に失敗した25年前から、ひきこもりに。生活費は母親の年金と、病死した父親、事故死した兄の保険金の取り崩し。年金の半分を母親から渡され、外出も多く、携帯電話も2台所有していた。
 40歳を過ぎたころ、「便利だから」と言って母親を説得し、クレジットカードのキャッシングで80万円ほど使い込んだが、結局、母親が返済した。
 日常的に暴力をふるうようになったため、母親は介護付きの住宅に引っ越し。母親の仕送り12万円で生活していたため生活に困窮し、NPO団体に相談。
 プライドもあり生活保護の受給を拒否していたが、暮らし向きはいよいよ困窮し、家賃も支払えず、スーパーで食品を万引きする始末。現在は生活保護の就労支援員と一緒に就職活動を行っている。

【CASE 3/54歳・男性】

 29歳のとき、仕事のトラブルが原因でひきこもりになった男性(54)は、1000万円ほどあった両親の遺産が生活の支えだ。46歳のときに父親、50歳のときに母親が亡くなり、葬儀では長男として喪主を務めた。
 月に1度、弟が訪ねると玄関はゴミの山。将来のことを意見すると、
 「親の遺産がなくなったら死ぬ」
と投げやりな態度をとったという。自殺をほのめかしたり、弟に金の無心を断られると落ち込んだりすることもあった。
 「何か仕事がないか」
 そう弟に連絡してきたことをきっかけに、弟がNPO団体へ行くことをすすめ、生活を立て直すことに着手した。現在、本人は、毎日家を出て就労準備に励んでいるという。遺産はまだ100万円ほど残っているため、なくなるまでに就職を目指している。

寛容さが足りない日本

「1回ドロップアウトしたら戻れない社会になっている」
と、寛容さの足りない日本を憂える前出・林さんは、
「今の社会は、ひきこもりの人が出ていきたい場所とは思えない。ちょっとでも失敗すると、ものすごく責められる。ひきこもりがいる場所は野戦病院で、傷ついた兵士を治療しているようなもの。治療して、社会という戦場に送り出したら今度は死んでしまうかもしれないという視点も大切だと思います」

 就労を急かすことなく寄り添い、息の長い見守りを続ける支援がひきこもり解決の第一歩となるはずだ。


東洋経済 OnLine、2018/06/09 15:00
統計に出ない40歳以上の「引きこもり」の現実

親の高齢化、8050問題、サポートの壁…

「週刊女性PRIME」編集部
https://toyokeizai.net/articles/-/224050

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籠池のおかん『300日』本音 獄中記

 森友学園の国有地払い下げ問題が国会で追及され始めたのは昨年2017年2月だった。
 最大の核心答弁である安倍首相の「私や妻が関わっていたら、総理も国会議員も辞める」があったのは、同17日だ。

 この「辞める」発言の直後、籠池夫妻は理由を告げずにマスコミの前から逃亡した。
 後に、当時の佐川宣寿財務省理財局長から身を隠すように指示を受けていたことが明らかになったが、実はそれだけではなかった。
 ナント、籠池夫妻の“雲隠れ”の直前、自民党が党を挙げて森友問題の火消しに回っていたのだ。


 籠池前理事長は日刊ゲンダイに、「身を隠す前日(昨年2017年2月20日)に国会対策副委員長(当時)が私のところに来ているんですよ」と明かし、こう続けた。

「大塚高司さんという人でね。2日間にわたって、日曜日(昨年2017年2月19日)と月曜日(同20日)に来た。日曜日に来たときは、僕がいなかったので会えなかった。2日目は、彼(大塚)自身は国対副委員長やから、また東京に向かわないかんということで、筆頭秘書が来た。国対が(森友問題の対処に)動いたということですよ」

 大塚は大阪8区選出で、豊中市の出身。
 豊中市といえば、森友学園が小学校を建てていた場所だ。
 まさに森友問題の“震源地”である。
 いったい、大塚は籠池夫妻に何を伝えたのか。
 今度は、諄子氏がこう言葉を継いだ。

「すぐにパンフレットの(昭恵夫人の)写真を全部消して欲しいと。そう自民党が言っていると言われたんです。その時、自民党の方から圧力がかかっているよなあと思いました」

 つまり、自民党が国対副委員長を通じて、安倍首相が国会で追及されないように、昭恵夫人と森友学園とのつながりを消そうとした可能性があるのだ。
 実際、諄子氏の手記には、大塚が訪問した直後の2月23日、安倍事務所の初村滝一郎秘書から籠池前理事長に、<至急、名誉校長から昭恵夫人の名を消してほしい>と電話があったことが記されている。

 籠池夫妻の証言について、大塚事務所に問い合わせると、大塚の「地元秘書」が昨年2017年2月18日と20日に籠池夫妻の元を訪れたことをアッサリ認めた。
 一方で、大塚本人が行ったわけではないと、証言の一部を否定。
 訪問の理由については、<森友学園のホームページにある学園への寄付を募るページに安倍総理の夫人の写真が掲載されており当該ページを閲覧した方が誤解するかもしれない点についてお伝えするため>と回答した。

 いずれにせよ、国対副委員長の秘書が、首相答弁(昨年2017年2月17日)の翌日に、わざわざ籠池夫妻を訪れていたのは事実。
 そのうえ問題は、自民党が証拠隠滅を図ろうとしたことにとどまらない。
 籠池前理事長に対する“懐柔作戦”も疑われるのだ。

 籠池前理事長は昨年2月の混乱ぶりを振り返りながら、こう語った。

「あの頃が、『抱き込みの分水嶺』だったのかもわからん。安倍政権を応援している方から、『ちょっと待ってくれ。2年間ほど我慢してくれたらまた再び、(学園を)つくれるようになりますから』と言われたんです」

 財務省だけでなく、自民党も籠池夫妻の口封じに暗躍していた。
 財務官僚と籠池夫妻に責任を負わせてシラを切っている自民党執行部に、頬かむりなど許されない。


日刊ゲンダイ、2018/10/28 14:03
籠池夫妻が新証言

自民党は森友問題の“火消し”に暗躍した

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/240488/1

 学校法人「森友学園」前理事長の籠池泰典被告(65)=詐欺罪などで起訴=の妻諄子被告(61)=同=がこのほど、長期に及んだ勾留生活を振り返る著書「許せないを許してみる 籠池のおかん『300日』本音獄中記」(双葉社)を出版。
 夫妻は立ち退きを求められている大阪府豊中市の自宅で10月中旬、インタビュー取材に応じた。
 諄子被告は「国家権力に負けたくない」と語り、泰典被告は10月頭に発足した第4次安倍改造内閣を「夕暮れ時どころか、真っ暗闇内閣だ」とやゆした。

 夫妻は昨年2017年7月末に大阪地検特捜部に逮捕された。
 それぞれ大阪拘置所(大阪市都島区)の独房での勾留生活は約10ヶ月に及び、そのうち8ヶ月間は弁護人以外と面会できない接見禁止措置が付けられた。
 今年2018年5月下旬に保釈が認められ、保証金計1500万円を支払った。

 自宅は大阪地裁が強制競売にかけ、すでに売却済み。
 夫妻は立ち退きを求められており、10月中旬、取材に訪れた自宅の中はがらんどうだった。
 ダイニングには小さな卓とミニ椅子二つほどしか見当たらない。
 そのうら寂しさとは対照的に、夫妻に保釈直後のやつれた感じは消え、明るく前向きだった。

心境の変化

― ご自宅の現状は。

夫: 「見ての通り、机も仏壇もピアノもない。倉庫に預けている。12月中には引っ越しをしないと。貸家を探しているけど、『籠池』の名前を出すと断られたりして、まだ転居先は決まってない」

妻: 「銀行の通帳をつくるのも断られた。初めて差別を味わった。いい勉強させてもらってます。家の前(の電柱)に監視カメラもついてるのはなぜ。逃げ隠れなんてしない」

― 事件前と心境の変化について。

夫: 「拘置所の中で物事の見方がころっと変わった。ワイドになった。拘置所にいると直感力が増すというか、(目の前の)かすみが取れるから、ものごとを深く追求できるようになる」

妻: 「ずっと閉じ込められてると、自然と一体感が生じて、悟りに近いものがあった。入った人は誰でも経験があると思う。何もかも失ってしまったけど、こんな状態でも前に進める。本当の豊かさを知った。ちょっとしたことでも、人のありがたみがうれしい」

― 本で一番伝えたいことは。

妻: 「若い人に読んでいただきたい。国家権力に負けてはいけないってこと。肩書とか地位に惑わされてはいけないって。国家権力よりおばちゃんの声が強いんだって

妻: 「お金がなかったら何もできない、みたいな大人社会を日々見てきた子どもたちは生きがいをなくす。尾畠のおじいちゃん(8月、山口県周防大島町で行方不明の2歳男児を発見し、保護した)は励みになった」

夫: 「ちょっとしたことで不登校になったり、めげたりする人がいる。決してめげたらだめ。時が来れば解決するってことがあるんだから、そこを学んでほしい

― タイトルに込めた思いは。

妻: 「タイトルは本の内容から抜粋して、編集者が決めた。意外なタイトルだったけど、だんだん深い意味があるって思うようになった。(勾留生活の中で)嫌だったことが何にも感じなくなった」

― 表紙に描かれた1本の赤いバラが印象的。

妻: 「私の顔が表紙になると思っていたから、これも意外。拘置所で最初に運動したときに、1本のバラが咲いているのが見えた。自分もがんばろうと思った。生きているのでなくて、生かされていると。ある時、摘み取られたのか、消えちゃったけど『やっぱし負けへんで』と思った。数カ月したら今後は2本咲いてて、『私とお父さんやー』って」

国策捜査でおとしめられた

― 内容は主任弁護人に送った約400通の手紙で構成されている。

妻: 「その時々に湧いてきた思いを書いた。30〜40枚の時もあれば、1枚の時も。外部と交流がない中で自分の気持ちがすごく解放された。今、読み返しても、当時を思い浮かべて、胸がいっぱいになる」

― 取り調べの検事や看守の言動へのいらだちも表現された。

妻: 「拘置所ではやっぱり理不尽なことが多かった。看守は受刑者にだけ厳しい。部下には注意せず、その分、受刑者にあたっていると思った」

夫: 「(取り調べの様子をつづった)被疑者ノートを(看守に)読まれるなんてあってはならないし、基本的人権に反するんじゃないか。男子の棟ではそんなことはなかった。差し入れのリンゴが腐ってて、替えてくれたこともあった。女子棟の方が処遇が劣悪だと思う」

妻: 「検事さんから『あなたが白状してくれたら、お父さんが助かる。待っている』と言われたけど、絶対にうそと見抜いた。お父さんの足を引っ張ったらいけない気持ちでいた。『(懲役刑は)最低10年』とも言われた。こういう検事に負けたくない気持ちだった」

― 二人とも雑談以外は黙秘を貫いた、と。

妻: 「検事さんは自分の気持ちを引き出してくれる存在でなくて、逆に閉ざすものだった。心眼がない。そんな取り調べに意味があるのかな」

夫: 「はじめから黙秘しようとの認識だった。国策捜査でおとしめられたという思いがあるから。拘置所に入ったのも、臥薪嘗胆の思い。他の方は差し入れの私服に着替えていたけど、ぼくは抵抗の意味で、囚人服で過ごしてたから」

― 家族の思い出のほか、夫への愛も随所にある。

夫: 「それは言わずもがなで大層うれしい。ぼくも(被疑者)ノートを同じようにこの人を思いながら書いた。いい年こいて何を言うのかと言われそうだけど、フランク永井の『君恋し』をずっと歌ってたから」

妻: 「自分が弱ってしまわないよう、私はずっとお父さんのことを思い出さないようにしてた。昨年2017年11月、初めての公判前整理手続きの時に再会して、私の顔を見たお父さんが目を真っ赤にして泣いたことがすごくショックで。夜、拘置所の部屋に戻って、本当に涙が出た。自分を取り戻すのにとても時間がかかった」


共同通信、2018年10月25日 13時8分
「真っ暗闇内閣」とやゆ 籠池夫妻

おかん″亦記(1)

(共同通信=大阪社会部・真下周)
http://news.livedoor.com/article/detail/15496507/

 2人は国有地で計画した小学校の工事費を水増しし、木造建築技術の普及や発展を目的とする国の補助金(サステナブル補助金)約5600万円をだまし取ったとする詐欺罪などに問われている。

口封じ

― 起訴された犯罪事実に対しての認識は。

夫: 「家内は何も関わってないから、無罪で冤罪。この人をああいうところになぜ入れたのか。やっぱり安倍昭恵夫人と親しいから。変なことを言われたら政権がひっくり返るから、口封じだった。守り切れなかった。それにサステナブル補助金の話なんて、ぼく自身が進めていたことでもない」

― 運営する塚本幼稚園で、教員が専任の場合のみ支給される人件費や、障害などで特別な支援が必要な「要支援児」を受け入れることで得られる大阪府と市の補助金も、計1億2千万円を詐取したとされる。

夫: 「その後、他園でも(不正が疑われる事例が)たくさん出てきたのに、なぜ立件しないのか。うちだけ手厳しいのはおかしい」

妻: 「要支援児の補助金は以前からあるけど、うちは知らなかった。2010年まで申請は1件もしていない。他の園長からこの制度について教えてもらって始めた。大阪府の担当からは『補助金は自分で探すもんだ』と言われた」

夫: 「大阪府は毎年のように監査に来ていたのに、(不正認定が)なぜこのタイミングなのか納得できない。毎年きちんとチェックしていたのか。そもそも行政処分になる類いの話だし、捜査だっていかめしい特捜部でなく、府警がやるべきでは。仰々しくやらざるをえなかった最高検の考え方が出ている」

― 首相は昨年2017年2月17日の国会で「私や妻が関係していたなら総理も議員も辞める」と答弁。「(籠池氏は)私の考え方に共鳴している方」としていた評価も一転、同24日には「非常にしつこい」と切り捨てた。

夫: 「総理が一言発するだけで、天地がひっくり返るんだなと驚愕した。この時から物事が逆回転し始めた。『籠池は詐欺師で、言っていることは全部うそ』という流れになった」

妻: 「安倍総理と大阪府の松井知事とは仲良し。お父さんが証人喚問で、知事のことを悪く言ったことが大きなきっかけになって、知事と安倍総理がたくらんでお父さんをやっつけにかかった」

昭恵さんに興味なし

― 振り返って森友問題とは何だったのか。安倍首相夫妻への思いも。

夫: 「学校開設に向けて動いていた時は、役人には忖度、いや直接に行動してもらった。(政治家の)秘書も安倍事務所もそうだ。内閣、官邸と一緒に動いていただいたとの認識。それがいきなりひっくり返った」

妻: 「昭恵さんから、小学校建設のため100万円を寄付してもらったのは事実。それを真っ向から否定されて、興ざめだった。うそを公然と言うのはおかしい。昭恵さんに興味もなくなった

― 政権を揺るがし続ける「モリカケ問題」。著書でも加計学園を批判している。

妻: 「むこうの補助金の額が断然大きい。許せない。消費税を10%に上げる前に、加計学園に注がれた税金を返金させ、被災者の家を再建するとか、そういった支援に回してほしい」

夫: 「加計孝太郎理事長が安倍さんと『会った』と認めても、『会ってない』としらを切り続けても、どちらにしても問題になる。それにしても加計さんは男らしくない。あの方には教育者をかたってほしくない

― 安倍首相は総裁選で勝利し、決裁文書の改ざん問題があってなお、麻生財務相が留任した。

夫: 「消費税を言い出したということは『経済政策はこれでやめます』ってこと。これからは憲法9条改正に突っ走るだろう。大企業のデータ改ざんや捏造の話があれだけ出てくる背景に、うそがまかり通る安倍内閣のやり方を見て、今のうちに申告しておけば許されるのでは、という考えがあるのでは。第4次(改造)内閣って言うけど、時計は夕暮れ4時どころか、真っ暗闇内閣だと思う」

妻: 「安倍さんはこれで逃げられると思ったら大間違い。隠しても隠し通せない。いつか必ず矛先が向く。おかしいことに国民の皆さんが声を上げることが大事。国家権力より国民の力が強いってことを見せていきたい


共同通信、2018年10月26日 13時15分
おかん″亦記の出版

籠池夫妻の言い分(2)

(共同通信=大阪社会部・真下周)
https://this.kiji.is/428405852232254561?c=39546741839462401

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2018年10月28日

元NHK記者が記者職を外された

森友学園(大阪市)の問題を取材し、スクープも書くなどの活躍をみせていたNHK大阪放送局の男性記者が6月、記者職を外された。
男性は相沢冬樹さん(55)。
唐突な異動は関係者の間で話題となり、「官邸を忖度した人事」との憶測を呼んだほか、市民団体が大阪放送局前で抗議活動をする事態にまで発展した。
異動の背景には何があったのか。NHKを8月末に辞め、9月から大阪日日新聞の記者になった相沢さんがハフポストのインタビューに応じ、胸の内を語った。

――NHKを辞めた経緯を教えて下さい。

 今年2018年の5月14日、大阪放送局の報道部長から突然、呼び出しがあったんです。
 放送局の最上階、18階にある局長応接室に来いと。

 行ってみると、部長だけでなく報道担当の副局長もいて、2人から「あなたは考査部に行ってもらう」と言われました。異動の内々示でした。でも、雰囲気はもう正式の異動という感じでした。

 考査部というのは番組についての講評、つまり内部向けの感想文のようなものを書く部署です。
 文書は外部に出すわけではないし、番組に問題があったからと言って、番組をやり直させる権限もない。
 外に向けて発信する記者とはまったく違う仕事です。

 驚きました。というのも私は当時、森友学園の問題を取材していたんですが、大阪地検特捜部の捜査が最終局面を迎えていたからです。
 そんなヤマ場に担当記者を外しますか。
 なんだか後ろから斬られた感じがしました。

 2人の話を黙って聞きながら、「もう二度と記者には戻れないだろうな」と直感しました。
 記者を続けたかったらNHKを辞めるしかないとも思いました。

 予感はあったんです。
 昨年2017年7月、夜のニュース番組で森友学園の問題で特ダネを出したんです。
 近畿財務局が森友学園に国有地を売る際、学園側から事前に支払える上限額は1億6000万円ということを聞き出し、その金額以下で売った、という話でした。

 これまで近畿財務局は事前の価格交渉や具体的な上限額を聞いたことを否定してきました。
 実際、近畿財務局から土地を購入したことがある人たちにも取材したんですが、近畿財務局は「提示額からびた一文変えることはない」ということでした。

 そんな近畿財務局が、「いくらだったら(お金を)出せるのか」と学園に聞いたんです。
 しかも実際に売った金額は1億3400万円。
 最初から安売りありきだったとしか考えれないでしょう。

 そんな重大な情報をつかんで報道したんですが、放送終了後、大阪の報道部長のもとに東京の報道局長から怒りの電話がかかってきました。

 報道局長というのはNHKの報道部門のトップです。
 部長は私の目の前で電話を取って話していたので、局長の激怒した声が一部漏れ聞こえてきました。
 局長は「なんだこれは。俺は聞いてないぞ」と言っていました。

 電話はいったん切れたかと思うと、またかかってきました。
 怒られた部長は私にこう明かしました。
 「(局長から)『君の将来はないと思え』って言われちゃった」

 まあ、こんなことがあったんで、次の人事異動では何かあるなとは思っていました。
 そのときは、大阪を出されて田舎の都市に異動させられるぐらいかなと高をくくっていました。
 まさか記者を辞めさせられるとは、思いもよりませんでした。

[写真]相沢さんが勤めていたNHK大阪放送局=大阪市中央区

――なぜ局長は激怒したのでしょうか。記者職を外された心当たりはありますか。誤報など、仕事上で失敗をしたとか。

 近畿財務局が森友学園側と事前に価格交渉をしていたというスクープは正しい報道でした。
 実際、のちになって財務省が国会答弁で認めています。

 はっきり言えるのは、記者を外されるような下手を打ったわけではないということです。
 それどころか、昨年2017年3月にも、森友学園が小学校の認可申請を取り下げたことをいち早く報道し、スクープになっています。

 今年2018年4月には、学園の敷地内からトラック何千台分のごみを撤去したと口裏合わせしてほしいと、財務省が学園側に持ちかけたことを特ダネとして報道しました。
 これも財務省が国会で認めています。

 森友学園問題の取材では私が多くの情報を取ってきていました。

 NHKは以前にも私に取材させたくないかのような担当替えをしています。
 当時、私は司法を担当する記者たちのキャップでした。
 森友学園の取材は、事件の捜査をした検察庁も担当する司法記者たちが中心となって進めていました。

 ところが昨年2017年夏、私を任期途中でキャップから外したんです。
 なんとか司法記者クラブに席だけは残してもらいましたが、まあ、これから考えてもNHKの幹部は私に取材をさせたくなかったんじゃないでしょうか。

[写真]森友学園が建設を進めていた小学校=大阪府豊中市

――不可解な担当替えと異動に対しては、首相官邸(安倍政権)からの圧力、あるいはNHK側の忖度だったのでは、との憶測が飛んでいます。

 それについては言えません。
 私は記者ですから、推測は言いたくない。
 事実しか言えない。

 ただ、つくづく思ったのは、組織に尽くした自分が、その組織によって切られちゃったな、ということです。
 これまで取材などで、そういう人を何人も見てきましたが、まさか自分がそうなるとは思ってもみませんでした。

 31年間、NHKで記者をやってきて、組織には育ててもらったと思います。
 感謝しています。
 だから恨みつらみはありません。
 ただ、今回の異動は不当だと思っています。
 内々示を受けたときはショックでした。

 今心配しているのは、一緒に取材してきた同僚たちのことです。
 彼らも人事で不当な扱いを受けるのではないかと。
 記者を外されるというあからさまな形でなはく、一見普通に見える異動での仕打ちはいくらでもできます。

――それを聞くとますます相沢さんの人事について疑念を抱いてしまいます。改めて聞きますが、異動をめぐってNHK上層部が忖度したとか、あるいは外部からの圧力があったとかは思いませんか。

 正直に言って、事実として私が知っていることはありません。
 思うことはありますが、何も言えません。
 でも、それは何もなかったということとは違います。
 それもまた、断言することはできません。

――大阪日日新聞に入ることになったのはなぜですか。

 2018年6月8日が異動の発令だったんですが、この日から再就職の活動を始めました。
 色んな会社の人と会って話をするうちに、改めて自分は大阪で記者を続けたい、森友学園の問題を取材したいと思いました。

 新聞社など大手マスコミも考えましたが、なかなか大阪で記者を続けさせてくれそうなところはありませんでした。
 そんな中、大阪日日新聞を発行し、鳥取に本社がある新日本海新聞社の社主のことを思い出したんです。

 吉岡利個さんという方で、反骨の人であり、権力の圧力を嫌う人だと聞いていました。
 この人なら雇ってくれるかもと思い、会いに行きました。

 吉岡社主は「うちの会社はどこにもしがらみはない。あんたを引き取る。どしどし真実を書いてもらいたい」と言ってくれたんです。

 社長の吉岡徹さんにも会ったんですが、驚きました。
 渡された名刺には、社長という肩書きとともに「記者」とも書いてあったからです。

 「うちは社長以下全員記者という心構えでやっていますから」と説明されたとき、私にふさわしい場所だと思ったんです。

 確かにNHKや大手新聞社と比べれば知名度は低いです。
 でも、私は立場と年収を捨てて、取材と執筆の自由を手にしたのだと思っています。

[写真]相沢さんが受け取った新日本海新聞社の吉岡徹社長の名刺。「記者」の肩書きも書かれている。

[写真]相沢冬樹さんが大阪日日新聞で初めて書いたコラム「野分(のわき)」。野分とは秋の台風のことで、「大阪から全国に情報を発信できる『台風の目』になりたい」と相沢さんは話している

――森友学園の元理事長、籠池泰典氏と妻は詐欺事件で立件されました。森友学園問題は終わったのでしょうか。

 もしかしたら世間の人たちは誤解しているかもしれません。
 森友学園問題とは、森友学園が起こした詐欺などの事件のことではないんです。

 籠池さんにしてみれば、できるだけ安く学校をつくりたいわけですから、値引き交渉はするでしょう。
 まして商人(あきんど)のまち、大阪なんですから。

 また、どんな学校にしたいのか、設立者の思いや思想、信条も言ってみれば自由です。

 問題の本質は学園側ではなくて、大阪府と国にあるんです。
 学園の財務基盤が弱かったのに、私立学校の許認可の権限がある大阪府はもう少しで設置認可を出すところだったんです。

 府の諮問を受けた私立学校審議会のメンバーは疑問を呈していたにもかかわらず、府の私学課が急かす形で条件付きで「認可適当」になったんです。

 大阪府はなぜ、この学校をつくらせたかったのか。これが第1の謎です。
 そして学校をつくるためには校舎を建てる土地が必要です。国が国有地を考えられない安値で売った。これが第2の謎です。

 なぜ大阪府や国はこんなことしたんでしょうか。
 公務員が理由もなくこんなことしないでしょう。

 特捜部の捜査で賄賂の授受はなかったことがわかっています。
 役人がなんのメリットもないのにリスクを犯してこんな滅茶苦茶なことするなんておかしいと思いませんか。
 森友学園の問題はまだ終わっていないのです。

[写真]森友学園元理事長の籠池泰典氏

――土地取引の疑惑は、背任容疑事件として特捜部が捜査し、不起訴処分になりました。

 不起訴処分の理由を考えて下さい。
 「嫌疑不十分」とされた容疑者が複数いました。
 これは、刑法上の犯罪として立証できなかっただけであって、「悪いことをしていない」ということではないんです。

 事実、会計検査院は土地の値引きの根拠は不十分と指摘しています。
 その上、財務省による公文書の改ざんや学園側との口裏合わせなど、信じられないようなことが次々と明らかになっている。
 どうして疑惑が払拭されたと言えますか。

 籠池夫妻が逮捕された詐欺事件はある意味、「論点ずらし」だと思っています。
 それまでは土地取引の疑惑が問題となっていたのに、大阪府が突如、「学園への補助金がおかしい」と言い出したんです。

 財務省のやらかしたことから目をそらそうとしたと見えます。
 府が国をアシストしたのではないか、という疑念がわきます。

――背任容疑や公文書改ざん問題で立件できなかった検察庁も国をアシストしたと思いますか。

 少なくとも捜査の優先順位が変わったのは事実です。
 最初は行政側の背任容疑の捜査を進めていました。
 でも途中から、籠池夫妻の補助金の詐欺容疑事件を優先させました。
 そして世間の目は詐欺の方に行きましたよね。

――財務省や大阪府には安倍晋三首相に対する忖度があったと思いますか。

 わかりません。
 取材で解明し、はっきりしない限り、何とも言えません。
 ひょっとしたら取材してもわからないかもしれない。
 でもそれこそ、私は死ぬまで取材を続けます。

[写真]今後も森友学園の問題を続ける意向を語った相沢さん=東京

プロフィール 相沢冬樹(あいざわ・ふゆき)
 宮崎県生まれ。1987年にNHKに入り、山口、神戸両放送局、東京社会部などを歴任。大阪放送局の報道部では大阪府警キャップや司法キャップなどを務めた。8月31日にNHKを退職し、9月1日から大阪日日新聞論説委員・記者。

◇   ◇   ◇
 ハフポストは相沢さんの異動ついてNHKに取材した。
 相沢さんが記者職を外され、考査部に異動になった理由について、NHK広報部は「個別の人事については、お答えしていません」と回答。
 その上で、異動をめぐって首相官邸からの圧力や、NHK側の忖度の有無については「ご指摘のような事実はありません」としている。

ハフポスト、2018年10月27日 12時41分
森友学園問題を追及した元NHK記者が記者職を外されたわけ。官邸への忖度はあったのか?
「もう二度と記者には戻れないだろうなと直感した」
元記者はインタビューにそう答えた

関根和弘
https://www.huffingtonpost.jp/2018/10/25/fuyuki-aizawa_a_23571100/

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2018年10月27日

アラブとイスラムについての正確な基礎知識

 昨日2015年1月22日 (木)、東京外国特派員協会での中田考氏(1960年生まれ、同志社大学客員教授)の記者会見(ヤッホーくん注)をネットワークからみた。
 立派な学者が必要な行動をしていることに感動する。

 今朝の東京新聞にはニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏が「二人が解放されるには、二億ドルの支援を中止するか、イスラム国にも公平に支援するかだろうが日本の威信にかかわる問題、難しいだろう」と表情をくもらせたとある。

 中田氏の提案は「イスラム国にも公平に支援するか」というよりもさらに限定的・具体的なもので、「イスラム国」行政下の難民への食料・寝具などの物の形式での援助をトルコと新月社(赤十字社)を通じて送るという提案である。
 そして「七十二時間で人質に何かするのはまってほしい」というメッセージである。
 記者会見の最後に、それをふくむメッセージを日本語で読み上げた後に、アラビア語で読み上げた。
 具体的な反応があるとよいと思う。

 騒然とした状況のなかで学術が何をすべきかということを考えさせられる。
 騒然とした状況であるからこそ、学術文化の筋の通った主張をしなければならず、それに直面して行動し主張せざるをえない学者の姿勢については、アカデミー全体で支えるべきことであると思う。

 中田氏がいっていたように、日本はイスラム学が強く、アラビストも多い国である。
 第二次世界大戦前の思想世界で大きな影響をもっていた高楠順次郎(1866−1945)や大川周明(1886−1957)がアラビストであったことは学術世界ではよく知られている(彼らの思想が「大東亜共栄圏」に結果したのは別の事情である)。
 これは世界の学術世界のなかでも意味の大きいことだ。

 こういう時期だからこそ、アラブとイスラムについての正確な基礎知識を提供することが必要であろうと思う。
 その場合に誰でも思うのは、井筒俊彦(1914 − 1993)の『イスラム文化』(岩波文庫 、1991年6月)を再読することであろうか。
 井筒が大川周明と関係が深かったことはよく知られている。

 ただ、もっと強調されるべきなのは、おそらく近代自然科学の源流が7−12世紀のアラビア科学にあったという厳然とした事実であろう。
 歴史家からみると、イスラム文化というものの実態は「イスラム教」ではない。
 少なくともイスラム教とキリスト教は類似したものであり、両者の類似した宗教的・文化的性格は「十字軍」前後までは明瞭なものであったと思う。
 ある意味ではキリスト教それ自体もアラブ由来なのであって、「十字軍」は、それをヨーロッパ社会それ自体が自覚していたことを示している。

 イスラム文化の実態は、むしろイスラム文化の下で自然科学(医学・数学)が発展し、またイブン・ハルドゥーン(1332−1406)の『歴史序説』(岩波文庫、全4冊)が示すように社会科学の発展も相当のものがあったという事実である。
 イスラム帝国というものの実態と遺産は、それらの科学・技術の発展、そして科学技術情報の帝国レヴェルでの集中と展開というものにあった。
 前近代における帝国というものの実態は情報にある。
 とくに数学はアラビアの数学が決定的な意味をもったことはよく知られている(はずである)。
 なぜ、数字をアラビア数字というか、なぜ代数をアルジェブラというかは、これは中等教育でかならず教えるべきことである(実際に歴史の教科書にはのっている)。
 それを歴史で教えるのではなく、数学の授業で教えるべきなのである。

 下記に伊東俊太郎(1930年生まれ、東京大学名誉教授)『近代科学の源流』(163頁)(中公文庫)から、アル=フワーリズミーの『代数学』から引用する。
 これは9世紀に成立したものである。書名の『代数学』は直訳すれば『アル=ジャブルとアルムカバーラの計算』となる。
 アルジャブルとは、数式における「移項」の操作を、アルムカバーラは同類項の整理操作をいう。
 いま、日本の中学校では「因数分解」ということを教えるが、その時には、これがアラビア科学に由来するものであることをかならず教えるべきなのである。
 神の恩寵に対して、神を讃めたたえよ、神がその恩寵にふさわしいものとなす、神のすすめる行いをもって。神をうやまう被造物の上に、神が課した行いをなしつつ、神への感謝を申し述べる。……
 さてまことに、人間が必要としている計算(hisab)というものを考察したのち、私はこのすべてが数によることを見出した。そしてこれらの数の全ては1(wahid)から合成されていること、(逆に言えば)1がすべての数にはいりこんでいることを見出した。そしてさらに次のようなことも見出した。すなわち、いわゆる数のすべては、1から出発して10まで進んでゆき、そこで1についてなされたのと同じように、こんどは10が2倍されたり3倍されたりして、その10から20や30がつくられ、100の完成にまで至ることを。そこからさらに、1や10についてなされたと同じように、100が2倍されたり3倍されたりして1000までゆく。その後はこのようにして、1000が幾倍かされ、それに(上述の)10箇からなる組(apd―1,2、……10および10、20……100など)の任意のものがつけ加えられて、達せられる限りの数の限界までゆく。
 さらに私は、al-jabrとal-muqabalaの計算において必要であるところの数は、三種類あることを見出した(後略)。
 
 前半は数論である。
 これは小学生に数字をアラビア数字ということ、10進法とは何かを説明するときにつかってよい。
 そして、(後略)の部分には二次方程式の説明がある。
 中学生・高校生には、この原文をよませて因数分解の説明をすればよいと思う。

 これを小学校・中学校・高校で正確に教えることはきわめて重要であろうと思う。
 私などは、イスラム学に一部由来する「大東亜共栄圏」の思想を戦争イデオロギーとして喧伝したという過去の経歴からすると、むしろ現代日本の国家的な原則の一つとして、自己批判的に「イスラム文化」を尊重するということを確認しておいてもよいようなことである。
 そしてその際にはなによりも『近代自然科学の源流』としてのアラビア科学ということが優先されねばならないと思う。

 そもそもヨーロッパはアラブから多くのものを真似し、模倣することによって、自己の文化を創っていったのである。
 「模倣」は型の論理であるから、論理的方法が重視される。
 それはギリシャがエジプト・メソポタミアの科学を「模倣」することによって論理学を展開したのと同じことである。
 これは「模倣」が悪いということではない。
 しかし模倣者は精神的な恩義というものをわすれてはならない。
 ヨーロッパ学術世界は、そのような世界史的視野を失っているのではないか。
 少なくとも、そのような世界史的視野と省察は現在のヨーロッパ文化のなかから消失しているように思う。
 
 以上、迂遠な話と思われるかもしれないが、中田考氏の提案がなんらかの形でいきることを願う。
 その提案の意味を学術の分野をこえて考えていきたいと思う。
 ともあれ、ニューヨーク・タイムズの東京支局長が「二人が解放されるには、イスラム国にも公平に支援する」と述べていることは、中田氏の意見が十分に考慮するべき選択肢のなかにあることを明瞭に示している。


保立道久の研究雑記、歴史家の発想と反省、2015年1月23日 (金)
中田考氏の記者会見
アカデミーと教育界が考えるべきこと

http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/--6bce.html

# 保立道久は歴史家で、東京大学名誉教授。

(ヤッホーくん注)中田氏が会見冒頭におこなったスピーチの全文
「イスラム国と戦う」という発言は不用意だ

 私は被疑者の立場にいますので、マスコミの質問も避けていましたし、イスラム国とのコンタクトも避けていました。それは私にとっても問題ですし、先方にとっても迷惑がかかるというのがありました。今回こういうことで、人命がかかっていますので、みなさんの前でお話することにしました。

 今回はタイミングとして、安倍総理の中東歴訪にあわせて発表がありました。安倍総理は、中東に行ったことが地域の安定につながる、和平につながると信じていたのだと思いますが、残念ながら、非常にバランスが悪いと思っています。

 イスラエルの入植地について反対を直言することで、バランスのとれた外交をおこなっていると信じているのだと思いますが、中東において、そもそもイスラエルと国交を持っている国がほとんどないという事態を正確に実感していないのだと思います。これは中東、アラブ、イスラム世界では非常に偏った外交だと見られます。

 (安倍総理は)記者会見の中で「難民支援、人道支援をおこなっている」と強調していましたが、もし難民支援、人道支援ということで今回の中東歴訪があったのだとすれば、300万人といわれている「シリアからの難民」の半数以上がいるトルコを最優先にすべきです。トルコが外れているところで、「難民支援、人道支援をする」と言っても通用しないと思います。

 訪問国として、エジプト、パレスチナ、ヨルダンと、すべてイスラエルに関係している国を選択している時点で、アメリカとイスラエルの手先と認識されます。人道支援、難民支援のためと理解されないことは、中東を知る者としては常識です。

 「中東の安定に寄与する」というのは理解できる発言ですが、中東の安定が失われているのは、イスラム国が出現する前のことです。その中で、わざわざイスラム国だけを名指しで取り上げて「イスラム国と戦うため」と言いながら、「人道支援だけやっている」と言っても、通用しない論理だと思います。

 日本人の人質2人がいることは、外務省も把握していたことです。その中で、わざわざ「イスラム国と戦う」と発言するのは、非常に不用意だと言わざるをえないと思います。

「交渉パイプ」がないと話にならない

 テロリストの要求をのむ必要はもちろんないわけですが、しかし、そのことと「交渉するパイプを持たないこと」とは、まったく別のことだと思います。たとえ無条件の解放を要求するとしても、実際に人質2人を解放するために安全が確保されるのか、その間の空爆を止めることができるのか、誰が受け取りにいくのか、どこで受け取りにいくのか。そういったことを正しい相手と正しく話すパイプがないと、そもそも話になりません。

 これまで、今回と似たようなケースで「仲介者になる」という偽者が多くあらわれて、それにアメリカがだまされるというケースがたくさん起きています。今回も、そういうおそれがあるわけです。

 イスラム国の呼びかけは、安倍政権だけではなく、日本国民に対する呼びかけという形をとっていました。それに対して、われわれは応えるべきだと思っています。もちろん、われわれは民主主義をとっている国ですので、安倍政権に賛成する人間がいれば、反対する人間もいる。その中で、われわれにどういう対応ができるのかが、問われているのだと思います。

援助が適切な人に届いていない

 ここからは、私個人の提言になります。これはもちろん、イスラム教徒、イスラム学者としての立場でもありますし、同時に日本国民として、アメリカ、日本に受け入れられるギリギリの線だということで提言させていただきます。

 安倍総理が言ったとおり、日本は、イスラム国と戦う同盟国側に援助するわけですけども、あくまで人道支援に限られるという論理は、イスラム国に対しても同じように適用されるべきだと思っています。

 これまでも、人道援助、経済援助の名のもとに、アフガニスタンやイラクに関して、日本や国際社会は多くの援助をおこなってきましたが、それが適切な人のもとに届いていなかった。特に、スンナ派の人々の扱いが非常に悪かった。それが、今回の事件の根源にあります。

 現在のイスラム国の前身は、イラクのスンナ派イスラム運動です。彼ら自身は、アメリカによってイラクが攻撃されたことを、彼らの体験として覚えています。サダム・フセイン政権が倒れたときは、彼らも含めてほとんどのイラク人は、アメリカを歓迎していました。それが数カ月で「反アメリカ」に変わった。空爆その他で、たくさんの人が、特に女性や子どもが殺されたが、それに対して、まったく補償がされていない。現在、それが繰り返されており、イスラム国の支配地域で、多くの人びとが殺されています。

 国際赤十字、中東地域では「赤新月社」と呼ばれている団体は、イスラム国の支配下にあるところでも、人道活動を続けていると聞いています。私の提言としては、イスラム国が要求している金額が日本政府の難民支援と同額ということですので、難民支援・人道支援をおこなうという条件を課したうえで、赤新月社を通じて、またトルコに仲介役になってもらって、難民支援や犠牲になっている人の支援をおこなうことが合理的であって、どちらにも受け入れられるギリギリの選択ではないかと思っています。

 日本ではあまり大きく報道されていませんでしたが、イスラム国は1月17日に、ヤジーディ教徒350人を無償で、人道目的で解放しています。一つのメッセージだと考えるべきだと思います。

72時間はあまりにも短すぎる

 これから、イスラム国にいる私の友人たち、古い友人たちに私のメッセージを伝えたいと思います。

「日本政府に対して、イスラム国が考えていることを説明し、こちらから新たな提案をしたいと思います。しかし、72時間はそれをするには時間が短すぎます。もう少し待っていただきたい。 
 もし交渉ができるようであれば、私自身、イスラム国に行く用意があります。1月17日にヤジーディの350人の人質が人道目的で解放されたことは存じています。そのことは高く評価すべきだと思っていますし、印象も良くなっていると思います。
 日本人を解放することが、イスラームおよびイスラム国のイメージを良くしますし、私もそれを望んでいます。また日本にいるすべてのムスリムも、そのことを望んでいます。72時間はわれわれにとって、あまりにも短すぎます。もう少し待っていただきたいと思います。
 これを聞いていただければ幸いです。ありがとうございます」


弁護士ドットコムニュース、2015年01月22日 15時51分
https://www.bengo4.com/other/1146/1307/n_2582/


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自分たちの手柄話に仕立てる安倍政権

 解放されたジャーナリストの安田純平氏に対する自己責任論バッシング。
 そのグロテスクな発想や意識の低さについては先日の記事でも批判したが、安田氏がトルコ南部からイスタンブールに向かう機内のインタビューで、日本政府の不作為を示唆したことをめぐって、さらにバッシングがエスカレートしている。

 安田氏はNHKの直撃に「トルコ政府側に引き渡されるとすぐに日本大使館に引き渡されると。そうなると、あたかも日本政府が何か動いて解放されたかのように思う人がおそらくいるんじゃないかと。それだけは避けたかったので、ああいう形の解放のされ方というのは望まない解放のされ方だったということがありまして」と語ったのだが、この発言について、ネトウヨ連中がまたぞろ「この人、本当に恩知らず」「何様のつもり? 呆れ果てました」「日本に帰ってくるんじゃない」などと噛み付いているのだ。

 いや、ネトウヨだけではない。
 キャスターの安藤優子も26日の『直撃LIVE グッディ!』 (フジテレビ)で、「これはいま、安田さんの言葉でおっしゃるべきことなのかなって私は疑問に思います。実際に政府が動いたわけですから。救出の全体のシナリオは日本政府が情報入手した上で立てて、そこにカタールやトルコが協力した見方もある」と批判した。
 さらに、自民党の和田政宗参院議員も今朝 Twitter とブログで安田氏のこのコメントを引用し「皆様はどう思われるだろうか」などと安田氏へのバッシングを扇動している。

 しかし、「日本政府が動いて解放されたと思われたくない」というこの安田氏のコメントは、本当に「恩知らず」で「言うべきことではなかった」のか。
 安藤の言うように、救出は「日本政府が動いた」結果で、「全体のシナリオは日本政府が立てた」ものだったのか。

 たしかに、安田氏が解放された直後から、日本政府はやたら自分たちの手柄であることを強調している。
 安田氏解放の一報が入ると、安倍首相は24日、「事案が発生以来、政府としてもあらゆる努力を尽くしてまいりました」とさっそくアピールに勤しみ、2回も会見を開催した。
 また、菅義偉官房長官も同日の会見で「官邸を司令塔とする『国際テロ情報収集ユニット』を中心にトルコやカタールなど関係国に働き掛けた結果だ」と説明。
 産経新聞の取材に政府関係者が「情報を入念に収集、分析して協力要請国を選定、独特の駆け引きもしながら進めた成果だ」と述べているほか、テレビや新聞でも首相官邸直轄の「国際テロ情報収集ユニット」が活躍した結果だとしきりに喧伝されている。

 だが、この間、漏れ伝わってきた実際の日本政府の姿勢は、まったく逆のものだった。
 全国紙の外信部記者もこう首をひねる。

「安田さんが解放されて『日本政府が動いた結果』という話になっているが、とても信じられない。解放の情報が入ってきた政府の反応は『寝耳に水』というもので、とても事前に動いていたとは思えない。実際、中東に詳しい専門家からは、むしろ日本政府が安田さん救出にまったく動いていないことに批判の声が上がっていた」

 事実、2017年4月に開かれた「危険地報道を考えるジャーナリストの会」の集会では、中央大学講師の水谷尚子氏が「解放に向けた鍵となるトルコの機関などに日本政府が働き掛けた痕跡がなく、積極的に動いているとは思えない」と批判(毎日新聞 2017年5月2日付)。

 さらに、今年8月には、中東ジャーナリストの川上泰徳氏も、「ニューズウィーク日本版」において同様の指摘をおこなっている。

「官邸を司令塔に働きかけた」と宣伝も、
解放情報さえ把握できず


 川上氏によれば、安田氏を拘束した同じ組織が、安田氏のあとに拘束した3人のスペイン人ジャーナリストやドイツ人の女性ジャーナリストは、それぞれの政府が動いた結果、10カ月で解放されている。
〈報道を見るかぎり、単純な身代金交渉ではなく、人質が引き渡されるトルコや、シリア反体制組織に影響力を持つアラブ・湾岸諸国と連携した上で人質の解放が実現している〉という。
 他方、日本政府の動きはどうなのか。川上氏はこう述べている。

〈日本政府が安田さん解放のために動くとすれば、基本的な情報の確認が必要なはずだが、主要な情報確認先で、日本政府が接触してきたという感触は得られなかった〉

〈拘束されたスペインやドイツのジャーナリストが1年以内に解放されているのに、安田さんが3年を過ぎても解放されず、解放に向けた手がかりもない最大の理由は、政府がこの問題で真剣に動いていないことだと考えるしかない。本来ならとっくに解決しているはずの問題であろう〉

 少なくとも、日本政府の不作為によって、安田氏の解放が長引いていたのは事実なのだ。

 そして、今回、安田氏救出にいたったのも、日本政府がカタールやトルコを動かしたということでなく、ただの「棚ぼた」だった可能性が高い。
 安田氏はシリア北西部のイドリブ県の反体制派武装勢力に拘束されていたが、アサド政権の攻勢をうけ、そのイドリブ県の反体制派拠点も危うくなっていた。

 そして、交渉に乗り出したカタールも、同国が中東で孤立している状況を改善するため、トルコと協力してジャーナリストの救出に尽力、ジャーナリストを殺害したサウジアラビアとの違いをアピールする狙いがあった。

 つまり、こうしたシリアをとりまく情勢の変化がたまたま、救出という方向につながったというのが、多くの中東の専門家の分析なのだ。

 だいたい、菅官房長官の言うように「官邸を司令塔にして働きかけた結果」だったのなら、なぜ、日本政府は安田氏解放の情報を把握することさえできていなかったのか。

 菅官房長官によると、安田氏の解放情報を日本政府がカタールから得たのは23日午後9時ごろだというが、このときすでに安田氏はトルコの入管施設にいた。
 また、在英のシリア人権監視団は〈4日ほど前にシリア領内でトルコの仲介により、トルコと関係の深い非シリア人武装組織に引き渡された〉(時事通信10月24日付)と述べてており、数日前から、「安田氏解放か」という情報は流れていた。
 ところが、日本政府はまったくそれを把握しておらず、23日夜になってからようやくバタバタと動き始めているのだ。

 政権関係者も一部のメディアで、「カタールやトルコと連携を密に取り始めたのは、解放の情報をつかんだ23日から」とこれを認めるような発言をしていたが、この解放前後の情報の蚊帳の外状態をみていると、日本がこの安田氏解放交渉を主導していたとはとても思えないのである。

「実際、官邸も外務省も日本が積極的に動いた結果だとしきりに喧伝しているわりに、何をやったのかというディテールがまったく出てこない。菅官房長官も具体的な話を聞かれると、言いよどんでしまう。これはたいしたことをやってなかったからでしょう。おそらく、日本政府がこの間、やっていたことといえば、カタールの動きを情報収集して、定期的に連絡を入れていたくらいのことじゃないでしょうか。しかも、やっていたのは外務省で、官邸が主導したというのはありえない」(全国紙政治部記者)

解放の報を受けて動き始め、
自分たちの手柄話に仕立てた安倍政権


 実際、「イスラム国」(IS)に後藤健二さんと湯川遥菜さんが拘束された際も、安倍政権の対応は冷淡そのものだった。
 人質の解放交渉はもっぱら後藤さんの妻によるメールのやり取りに頼りきり。
 しかも政府は、後藤さんの妻のメール交渉には、文面も含めて関わっていなかったことが政府関係者らの証言により判明している(朝日新聞2015年4月16日付)。

 それどころか、「イスラム国」とパイプをもつイスラム法学者の中田考氏やジャーナリストの常岡浩介氏が湯川さん解放に向けて動いていた最中にも、公安に「イスラム国」の関係先として家宅捜査させるなどの妨害をおこない、中田氏が「イスラム国」の司令官であるウマル・グラバー氏から得た情報をつぶさに報告するも、それを無視していた。

 こうした点を考えても、今回、安倍政権が安田氏解放に積極的に動いたとは到底考えられない。

 にもかかわらず、今回、安田氏が解放されたと見るや、安倍首相や菅官房長官は自分たちの手柄話のように喧伝し始めたのだ。

「後藤さん殺害のときの対応が批判を受けたこともあって、官邸は今回、『自己責任』論を封印、逆に、政権浮揚のために解放に動いたことをアピールする作戦に出たようです」(前出・全国紙政治部記者)

 ようするに、安田氏が「日本政府が何か動いて解放されたかのように思われることを避けたかった」と言った背景には、こうした状況があったということだ。
 おそらく安田氏は自分を拘束していた武装勢力、カタールやトルコ関係者から日本政府が何もしてこなかったことを聞かされていたのだろう。
 しかし安倍政権の体質を考えると、自分の解放が政権の宣伝に利用されかねない、そう危惧しての発言だったのではないか。

 ところが、この国のメディアは政府の言うことを鵜呑みにして「日本政府が動いたのにこんなことは言うべきじゃない」など非難している。

 メディアがやるべきなのは、安易な安田氏バッシングに乗っかることではなく、安倍政権が国民を救出のために本当に何かをやってきたのか、そのことをきちんと検証することだろう。


Litera、2018.10.27
安田純平「日本政府が動いたと思われるのは避けたかった」の真意!

安倍政権は本当に救出に動いていたのか

https://lite-ra.com/2018/10/post-4336.html

 内戦下のシリアで武装勢力に拘束され、3年4ヶ月ぶりに解放されたフリージャーナリストの安田純平さん(44)についてインターネットでさまざまな意見が発信されている。
 「拘束されたのは自己責任」との批判に対し、海外を舞台に活躍する著名人らが反論する投稿も。
 識者は「海外では唱えられることのない自己責任論が蔓延(まんえん)している状況を懸念し、問題意識を持って発言している」との見方を示す。

 7大陸最高峰を登頂したアルピニストの野口健さんはツイッターに、
「邦人保護は国にとっての責務。事が起きてしまえば『自己責任だから』では片付けられない」
「使命感あふれるジャーナリストや報道カメラマンの存在は社会にとって極めて重要」などと投稿。
 その上で
「この度の出来事を一つの教訓として次に繋(つな)げていかなければならないと思う。必要な事は感情的な誹謗(ひぼう)中傷ではなく冷静な分析」と指摘した。

 サッカー元日本代表の本田圭佑選手は
「僕も色んな国に好きで行くので、しかも政治やビジネスに関して好きな事言うので、このまま拘束されたりしたら、ホンマにヤバいかもっていつも思ってます」などと投稿した。

 米大リーグ・カブスのダルビッシュ有投手もツイッターに投稿。
「自己責任なんて身の回りに溢(あふ)れているわけで、あなたが文句をいう時もそれは無力さからくる自己責任でしょう。皆、無力さと常に対峙(たいじ)しながら生きるわけで。人類助け合って生きればいいと思います」との考えをつづった。

 両選手がこうした投稿をした心境について、精神科医の香山リカさんはツイッターで、
「なんの後ろ盾もなく国際社会でがんばるチャレンジ精神とそれに伴うリスクを彼らもよく知ってるからだろう」などと論評した。

 ジャーナリストの津田大介さんは安田さんへの「自己責任論」を巡り、ネット上で意見が交わされている背景として、ツイッターの社会的影響力が増している点を挙げる。
 ダルビッシュ投手らの発信について、津田さんは、
「海外では国際ニュースの量が多く、その中には戦場や紛争地を取り上げたものもある。ダルビッシュさんらは、社会における安田さんのようなジャーナリストの公共的な役割を知っているのだろう。影響力のある人がそうした意見を表明することはいいことだと思う」と話した。


毎日新聞、10/27(土) 21:19配信
<安田さん解放>

「自己責任論」に海外経験者ら反論投稿

(神足俊輔、服部陽)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181027-00000073-mai-soci

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安田純平

 あのときもそうであった。
 いや、あのとき以上に殺伐とした空気がこの社会を席巻していると感じる。
 ジャーナリストの安田純平さん解放の報で沸くネット上の雑言だ。

 2015年、寒風吹く1月の深夜、東急東横線中目黒駅近くで安田純平さんと待ち合わせた。
 手ごろな場所がなく、駅近くのカラオケ店に入り話を聞いた。
 過激派組織「イスラム国」とみられるグループに日本人2人が人質になり、オレンジ色の服をまとい後ろ手に縛られた映像が流れた直後だった。

 うち一人は、安田さんとも知人のジャーナリスト、後藤健二さんだった。

 「勝手に危険なところに行き、いい迷惑だ」
 「政府が行くなと勧告している地域に入ったのだから殺されても仕方ない」

 ネット上には「自己責任」という正体不明の批判があふれていた。

 安田さんは言っていた。
 「こんな国は日本くらいじゃないか」

 その矛先はいま安田さんに向けられている。
 より増大し先鋭化し、ネット上を駆け回っている。

「謝れ」の倒錯

 〈「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」の一言くらい言え〉
 〈まず「恥ずかしながら…」と謝りなさい〉

 謝罪を要求するコメントがツイッターやヤフーコメントといったSNSにあふれる。

 誰に何を謝罪しろと言うのか。
 「ご迷惑」「ご心配」と定番の字句が浮かぶが、そうした言葉は迷惑を被った人や、心配した人に対して個別に言えば足りることであって、社会が当事者に要求すべきものではない。
 そもそも安否を心から気遣っていた人が本人に謝罪など求めるはずもない。

 つまりは「謝れ」という罵言には、迷惑を被ってもいない、心配すらしていない人による何事かを批判したいがための主張という倒錯が透ける。

 この世界で起きている、最悪の人権侵害である戦争、紛争、大量殺戮(さつりく)についてその現場を報道しようと、命の危険を覚悟して自ら赴き、そして帰還したジャーナリストにもたらされるべきは、報告とさらなる活躍の機会ではないか。

 南スーダン日報隠蔽(いんぺい)問題を追及したジャーナリストの布施祐仁さんは、「ジャーナリストの役割は、どこかへ行くことではなく、報じることで完結する」と今後に期待を寄せる。

 しかしなぜこれほどまでに責め立てられるのか。
 布施さんは根底に「政府が行くなと言っていたところに行った」ことがあるとみる。

 日本政府は15年6月当時、シリア全土に最も危険度の高い「退避勧告」を出していた。

 「行くな」と言われたところに行き、「拘束された」。
 それは自業自得だという安直な構図だ。

 権力の側が命じたことに従い続けていては、しかしその暴走による人権の蹂躙(じゅうりん)を止めることはできない。

 政府は常に都合の悪いことを隠す。
 戦時であればなおさらだ。
 政府の情報だけを報じていては、その非人道的暴力性を晒(さら)すことはできない。
 ジャーナリズムはこれを前提に成り立つ。

 防衛省が、自衛隊の海外での活動を記録した日報を隠蔽していた問題と重ね合わせ、布施さんは指摘する。

爆弾を落とされる市民の側で取材してこそ、戦争で本当に何が起きているのか、その真実が明らかになる。権力を監視するのがジャーナリズムの役割であり、民主主義社会を維持するために欠かせない機能の一つだ

「防波堤」として

 ネット上を席巻する罵言に即応したのは、報道機関の仲間たちが集まる「新聞労連」だった。

 「安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して」と題する声明を出したのは、安田さんが機上にいた25日午後5時半。
 帰国の前に、と急いだ。
 文案を仕立てたのは、ことし9月に中央執行委員長に就任したばかりの朝日新聞記者、南彰さんだった。

 〈同じ報道の現場で働く仲間の無事が確認された喜びを分かち合いたいと思います〉

 南さんはこの早い段階で声明を出した狙いについて、「『自己責任論』による安直な批判で埋め尽くされようとしていることを見過ごすことはできなかった」と話す。

 「安田さんへ向けられている非難を和らげる防波堤が必要だと感じた」

 「自己責任だ」「謝れ」という言説に違和感を覚える人もいる。
 その思いを言葉にする必要もあった。

 南さんは、菅義偉官房長官の会見を500回以上取材し、繰り返し質問を重ねた記者として知られ、共著に「権力の背信−森友・加計学園問題スクープの現場」がある。
 政府による「退避勧告」という一般市民に対する注意喚起をもってジャーナリストにも同調の空気を醸すことへの疑念もある。

 2005年に朝日新聞がインタビューした際の安田さんの言葉を引いて、声明にこうつづった。

〈「自己責任論は、政府の政策に合致しない行動はするなという方向へ進んでしまった。でも、変わった行動をする人間がいるから、貴重な情報ももたらされ、社会は発展できると思う」〉

「他者」を知る営み

 危険で容易には立ち入ることのできない地域の惨状を、私たちが知ることは難しい。
 その困難さを乗り越えて得た貴重な情報に価値を見いだすことで、私たちは、自らは見聞きすることのできない他者を知ることができる。
 そうした営みを続けていくことでしか、この社会は豊かになりはしない。

 なぜ「残虐なテロリスト集団」という存在が生まれたのか。
 なぜ列強各国は街が焦土と化すほどに一般市民の命をも奪う空爆を続けたのか。


 面倒から目を背ける怠惰が生む無関心、そして理解できない存在を蔑(さげす)む構図は、異端としての安田さんにも向けられる。

 声明の核心部はここだと南さんは言う。

今回の安田さんの解放には、民主主義社会の基盤となる「知る権利」を大切にするという価値が詰まっているのです

 あの日、隣室の重低音だけが響くカラオケ店での私の取材は2時間近くに及んだ。

 安田さんは言っていた。

戦場へ自ら足を踏み入れるなんてばかげている。だから助ける必要などない。そうして他者への想像を遮断してゆけば、他者への共感も持ち得ない寒々しい社会になってゆく

 この5カ月後に安田さんはシリアで拘束される。
 そして3年4カ月がたったいま、安田さんの目にこの国の殺伐はどう映るか。

「いかに残忍な存在であっても、なぜ存在しているか考える必要はある。そのためにも彼らが何を主張しているのか、耳を傾ける必要がある」

 安田さんが私に語った言葉が耳底から消えない。


[写真‐1]2015年1月にジャーナリズムの価値について話す安田純平さん

[写真‐2]25日、トルコ・イスタンブールから日本に向かう機内の安田純平さん

[写真‐3]ジャーナリストの安田純平さん=2015年1月21日、都内

カナロコ 神奈川新聞、2018/10/26 20:58 更新
時代の正体〈645〉民主主義の礎が問う社会
安田さん帰国
再燃する「自己責任論」

記者の視点=報道部・田崎基
http://www.kanaloco.jp/article/368146

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Sinéad O’Connor

Sinead O'Connor - Nothing Compares 2 U
https://www.youtube.com/watch?v=NAOKzvL8dgk

The Pope vs. Sinead O'Connor
https://www.youtube.com/watch?v=onHtIkq7r5E

The singer formerly known as Sinéad O’Connor has converted to Islam, changing her name to Shuhada’.

She made the announcement on Twitter, saying her conversion was “the natural conclusion of any intelligent theologian’s journey. All scripture study leads to Islam. Which makes all other scriptures redundant.”

She has since documented her new faith, writing that she was “very, very, very happy” after being given her first hijab, and expressing thanks to “all my Muslim brothers and sisters who have been so kind as to welcome me to Ummah”, meaning the Islamic community. She also posted a YouTube video of her making the Islamic call to prayer.

Her full new name is Shuhada’ Davitt, using the surname she gave herself when she changed her name to Magda Davitt in 2017. She said at the time that she wanted to be “free of the patriarchal slave names. Free of the parental curses.”

Davitt has candidly documented her struggles with mental health in recent years, posting a Facebook video in August 2017 in which she admitted to suicidal thoughts. “I am one of millions ... people who suffer from mental illness are the most vulnerable people on earth, we can’t take care of ourselves, you’ve got to take care of us,” she said in the video. “My entire life is revolving around not dying, and that’s not living.” In a previous update in November 2015, she said she had “taken an overdose”, and a police search was launched for her in May 2016 after she briefly went missing in Chicago, sparking fears for her wellbeing.

Earlier this week, she claimed on Twitter that a healthcare assistant working with her was fired “for spiking me with crystal meth”.

She was ordained as a priest in 1999 by the Irish Orthodox Catholic and Apostolic church – the group are not officially affiliated with the Catholic church, who do not allow the ordination of women as priests.

She became disillusioned with Catholicism in the wake of child abuse scandals in the church, describing the Vatican as a “nest of devils” in a 2011 newspaper article. In an open letter published in August this year, she asked Pope Francis to excommunicate her, and said she had made similar previous appeals to Pope Benedict and John Paul II.

Also in August, she released her first new music in four years, a song called Milestones made with Northern Irish producer David Holmes, whom she met at a birthday party for Pogues frontman Shane MacGowan. She is preparing a new album called No Mud No Lotus, which, she says, won’t be out before October 2019.


The Guardian, Last modified on Fri 26 Oct 2018 12.46 BST
Sinéad O'Connor converts to Islam, taking new name Shuhada' Davitt

The singer says she is ‘very, very, very happy’ and thanks Muslims for welcoming her

By Ben Beaumont-Thomas
https://www.theguardian.com/music/2018/oct/26/sinead-oconnor-converts-to-islam-shuhada-davitt

Sinéad O’Connor has converted to Islam.

The “Nothing Compares 2U” singer revealed the news on Twitter, adding that she has changed her name to Shuhada’ Davitt.

The 51-year-old said the decision to convert to Islam was the “the natural conclusion of any intelligent theologian’s journey.”

“All scripture study leads to Islam,” she said. ”Which makes all other scriptures redundant. I will be given (another) new name. It will be Shuhada’.”

O’Connor then posted a selfie of herself wearing a hijab in front of a board with a message reading: “You have taken my body, you have taken my mind, you have taken my children but you will never take my voice.”

In a video posted to the social media platform, she sang the Azan - the Islamic call to prayer – later apologising for any pronunciation mistakes.

“Thank you so much to all my Muslim brothers and sisters who have been so kind as to welcome me to Ummah today on this page,” she wrote following the initial messages. ”You can’t begin to imagine how much your tenderness means to me.”

O’Connor has a history of mental health issues. In June 2016 she dismissed reports that she was missing and had threatened to jump off a bridge, calling the reports “false and malicious gossip”.

In December 2015, she wrote on Facebook that she had been detained in hospital for a mental health evaluation.

A month earlier she wrote another Facebook post claiming she had overdosed on pills in a hotel room in Ireland. She was later found safe and taken to hospital.

O’Connor was ordained as a priest in 1999 by a Catholic group not connected to the Roman Catholic Church, of which she has been a vocal critic.
She ripped up a picture of Pope John Paul II during a Saturday Night Live appearance in 1992.


The Independent, Published 4 hours ago
Sinead O’Connor announces conversion to Islam in video, changing her name to Shuhada’ Davitt

She called it 'the natural conclusion of any intelligent theologian’s journey'

By Jack Shepherd
https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/sinead-oconnor-islam-conversion-video-watch-new-name-shuhada-davitt-a8602186.html

[Watch more]

Sinead O'Connor sat down for a frank and deeply emotional interview about her mental health and experience of abuse, speaking to popular TV psychologist Dr. Phil for the season premiere of his show.

In a preview for the episode, she discusses her mother Marie O'Connor, who died in a car crash when she was 19 years old, and her alleged years of physical and sexual abuse. "She ran a torture chamber. She was a person who took delight in hurting you," she states in the clip.

The Irish singer-songwriter, best known for her cover of Prince's "Nothing Compares 2 U", elsewhere speaks of how she's "fed up of being defined as the crazy person". She sparked widespread concerns last month after posting a tearful video to Facebook revealing she has been in a suicidal state for the past two years.

When Dr. Phil asks her to confirm whether she has attempted to kill herself eight times in one year, she simply nods.

Dr. Phil appeared on Jimmy Kimmel Live! to discuss O'Connor's appearance on his show, explaining her own personal motivations behind the interview.

"You've seen her video she's posted on Facebook and all, from motel rooms in New Jersey," he said. "She really has had a difficult time, and she said, 'Look, I'm in trouble. I need help.' And she called. She said, 'I want to de-stigmatize mental illness; I clearly have a problem... Too many musicians are dying. I want to use my life, be a teaching tool. I'm willing to sit down and talk.'"

The musician, who has legally changed her name to Magda Davitt to be "free of parental curses", wrote a moving thank you to Dr. Phil on her Facebook page.

"You really are not quite human you know. You're a proper real live angel. I knew that from the gold in your eyes. And from the size of your huge heart. One day I hope to be an angel too. I promise I won't let you down," the post reads.


The Independent, Published: Tuesday 12 September 2017 14:05
Sinead O'Connor claims abusive mother 'ran a torture chamber' in emotional Dr. Phil interview

'She was a person who took delight in hurting you'
By Clarisse Loughrey
https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/sinead-oconnor-dr-phil-interview-mother-emotional-sexual-abuse-suicide-attempts-a7942411.html

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2018年10月26日

麻生太郎そして片山さつき

 財務事務次官のセクハラ問題をめぐる発言で謝罪に追い込まれた麻生太郎財務相が、また問題発言をし、批判を浴びている。
 だが、度重なる舌禍でも、財務相の座を追われることはなく、在任期間は戦後の蔵相・財務相で最長に。
 なぜか。

 「おれは78歳で病院の世話になったことはほとんどない」

 23日の閣議後会見で、麻生氏はこう述べた上で、

「『自分で飲み倒して、運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしい、やってられん』と言った先輩がいた。いいこと言うなと思って聞いていた」

と話した。記者から、麻生氏も同じ考えかと重ねて問われると、

「生まれつきもあるので、一概に言うのは簡単な話ではない」

と答えた。

 麻生氏は首相だった2008年11月にも、経済財政諮問会議で社会保障費の効率化をめぐる議論の中で

「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」

と似た趣旨の発言をしている。この際は、保険料で支え合う医療制度を軽視している、と批判され、陳謝した。

 今回も波紋が広がる。
 24日午後、衆院議員会館で開かれた政治家の差別発言について考える集会でも、麻生氏の発言が話題に。
 小児科医の熊谷晋一郎・東大先端科学技術研究センター准教授は、取材に

「例えば、依存症は本人の意思や努力ではどうにもならない健康問題だが、自己責任と誤解されやすい。自己責任論を助長する麻生氏の発言は特定の疾患への差別を強めるものだ。日常会話の中では聞き流してしまうかもしれないが、政策に影響を与える政治家は、より言葉に気を使うべきだ」

と話した。


朝日新聞、10/26(金) 10:54配信
麻生氏また舌禍
でも財務相戦後最長更新中
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181026-00000024-asahi-pol

片山さつき氏の生活保護批判は
ポジション・トークだろうか


 『週刊文春』2018年10月25日号は、片山さつき地方創生大臣の財務省に対する「口利き疑惑」をスクープした。
 10月22日、片山氏側は名誉毀損に対する損害賠償を求めて東京地裁に提訴している。
 現在のところは不明点が多く、「片山氏が金銭を受け取って口利きを行なった」と間違いなく判断できる事実は伝えられていない。

 しかし私の身辺には、生活保護問題や貧困問題に対する片山氏の発言、とりわけ生活保護や貧困の当事者に対する発言を思い起こして、怒りを新たにする声が多い。

 片山氏の主張の内容は、
●「生活保護は、親族扶養や血縁者による支え合いなど日本の伝統的モラルを破壊している」
●「生活保護は、働けるのに働かない人々を生み出す」
●「不正受給こそが生活保護の大問題」
●「生活保護は、権利ばかり主張して義務を果たさない人々を生み出す」
●「外国人に生活保護を適用すべきではない」といったものだ。

 片山氏がそのような発言をするたびに、生活保護で暮らす身近な人々の悲鳴が上がる。
 虐待やDVを含む深刻な事情によって最初から親族の「絆」につながれない人がいる。
 強引な就労指導が行われた結果、自らの命を断つ人もいる。
 外国人に対する生活保護の適用は厳格化が進んでおり、むしろ厳しすぎることによる弊害の方が多い。
 日本国籍ではないことを理由として、誰かに「生きるな」と言えるのだろうか。

 また片山氏は、2016年8月、NHKが報道した女子高生の「貧困」に対して、SNSで「チケットやグッズやランチ節約すれば」「あれっと思い方も当然いらっしゃるでしょう」(原文ママ)と批判し、大きな反響を呼び起こした。
 その女子高生の状況は「相対的貧困」というべきものだった。
 友人たちと同等の生活をすることは困難だが、生存にかかわる「絶対的貧困」より恵まれた経済状況にあることは間違いない。
 では、女子高生は「貧困」ではないのだろうか。

 10月23日には、麻生太郎財務大臣が、不摂生な人の医療費を健康な人が保険料によって負担することを「あほらしい」とした知人に同調を示し、またもや大きな反響を引き起こしている。

 SNSを飛び交う数多くの意見を見ながら、私はムズムズする。
 片山さつき氏は元大蔵官僚、麻生太郎氏は現職の財務大臣だ。
 財務省との強い関係があること、あるいは財務行政に関して責任ある立場にあることは間違いない。
 しかし、財務省は社会保障や福祉の専門家集団ではない。
 財務当局の意向が、生活保護問題や貧困問題に影響を及ぼすこと自体の是非を考えるべきではないかという気もする。

 本稿では、「生活保護」に対する片山氏の活動を中心に、この問題を考える糸口を提供したい。

 生活保護費と運用をめぐっては、制度が発足した1950年以来ずっと、費用を抑制してほしい大蔵省(現財務省)と、救済を優先したい厚生省(現厚労省)の因縁のバトルがあった。
 1954年、厚生省はバトルに破れ、それまでの救済優先路線を、「適正化」の名の下に利用抑制や給付抑制を行う路線へと転換させ、現在に至っている。
 厚労省は一般に思われているほど「財務省の言いなり」ではなく、水面下のバトルは継続されているのだが、現在は圧倒的に厚労省が劣勢のようだ。

 片山さつき氏は2005年、財務省を退官して衆議院議員となり、政治家としてのキャリアを歩み始めた。
 私は片山氏の一連の発言に対して、「元大蔵官僚のポジション・トークに若干の風味付けが加わったもの」と捉えていた。
 しかし今回、改めて、なるべく先入観を排して国会議員としての活動を眺めてみたところ、そうではなさそうだ。

 片山氏は、衆議院議員であった2005年〜2009年、および参議院議員となった2010年から現在までにかけて、国会本会議および委員会で、合計145回の発言を行なっている(国会会議録データベースによる)。
 政府参考人(財務省主計局)として出席していた2005年の1回を除くと、合計144回となる。

議員としての片山氏の関心は
統治・憲法・外交・防衛・産業が中心


 片山氏の発言回数を会議ごとに列挙すると、以下の通りである。
● 衆議院 予算委員会第7分科会(主に経済産業)および第8分科会(主に国土交通)(6回)
● 参議院 予算委員会(9回)
● 衆議院 郵政民営化に関する特別委員会(1回)
● 参議院本会議(12回)
● 参議院 東日本大震災復興特別委員会(6回)
● 衆議院および参議院 総務委員会(31回)
● 参議院 社会保障と税の一体改革に関する特別委員会(1回)
● 参議院および衆議院 財務金融委員会(3回)
● 参議院 国の統治機構に関する調査回(2回)
● 参議院 憲法審査会(6回)
● 参議院 決算委員会(2回)
● 衆議院 経済産業委員会(22回、国土交通委員会との連合審査会1回を含む)
● 衆議院および参議院 環境委員会(4回)
● 衆議院 外務委員会(1回)
● 参議院 外交防衛委員会(37回、農林水産委員会との連合審査会1回を含む)

 外交・防衛・経済産業・財政・統治・憲法に関する各委員会での発言を合計すると119回となり、全144回の83%を占める。
 特に目立つのは、総務・統治・憲法の39回(全体の27%)、外交および防衛の38回(同26%)、経済産業・震災復興の28回(同19%)だ。
 社会保障に直接の関連があるのは、「社会保障と税の一体改革に関する特別委員会」の1回だけである。
 ここから「片山氏は、社会保障に関心を持つ国会議員である」と考えるのは、無理筋だろう。

 では、片山氏が参加した厚生労働関連の委員会では、どのような発言が行われたのだろうか。

すべてに優先する「不正ゼロ」
清々しいまでに一貫した主張


 片山氏が議員として委員を務めた委員会のうち、生活保護と深く関係するものは、社会保障と税の一体改革に関する特別委員会だけだ。
 片山氏の発言は民主党政権下の2012年8月2日に行われており、主要な議題はマイナンバー制度の導入と給付付き税額控除であった。
 この制度は、所得の把握と課税が正確に行われなくては意味がない。
 対象者が生活保護世帯でも一般低所得世帯でも高所得世帯でも、同様である。

 このとき、片山氏は生活保護を問題にした。
 2009年12月、深刻な経済状況を受けて、長妻昭厚労大臣(当時)のもと、厚労省は各福祉事務所に対し、速やかな保護決定の要請を求める通達を発行した。

 「速やか」と言っても、もともと生活保護法24条に定められている「申請から14日以内(特別な事情のある場合に30日以内)」という期限を守ることを求めたのみである。
 この期限は、実際には守られていない自治体が少なからずあり、手持ち金が500円しかない申請者を1ヵ月近く待たせた事例もある。
 だから2009年12月、通知が発行されたのだ。

 片山氏はこのとき、生活保護法にもともと期限が定められていること、さらに同法は緊急の際には職権で急迫保護を行えることを定めていることを理由として、長妻昭氏本人に通達の撤回を求めた。
 さらに、この通達が「不正」の温床となっている可能性を以下のように述べた。

「この人、本当に偽装離婚じゃないのかな、資産ありそうに見えるよな、というような人に、ぽんと1週間で出す必要ないんですよ。ただ、もう実態は完全にそうなっていまして」(片山さつき氏)

「(筆者注:社会保障制度改革法で)不正な手段による保護を受けた者へは厳格な対処、適正化給付水準、これ見直しって、これは画期的なことですよ」(同上)

 片山氏は続いて、生活保護基準より低い老齢基礎年金、生活保護のもとでの医療の過度の利用、「権利だけが前面に出て義務の方が非常に甘い」制度の利用を「真に必要な人」に限るべき、と発言している。
 良くも悪くも「これぞ、片山さつき節」だ。

 しかし、片山氏の国会での発言全体を見てみると、そもそも生活保護に言及する頻度そのものが低い。
 前述の2012年の1件を含め、国会での144回の発言のうち9回、6%である。

社会保障や社会福祉そのものに
関心はあるのだろうか


 直近の発言は、約2年前、2017年1月30日の予算委員会で行われた。
 片山氏は「子ども食堂」の延長としてフランスの無料食堂「心の食堂」を挙げ、国の制度であるが費用の多くは寄付によっていることを述べた。
 さらに、「シルバーの活用」によって生活保護世帯・低所得世帯の子どもを対象とした無料学習教室を運営する可能性について述べた。

 日本に、寄付文化を育てて根付かせる必要があることは私も否定しない。
 誰もの交流の場も必要だろう。
 高齢者だけではなくすべての人が、「必要とされる自分」という意識とその実体を必要としているはずだ。

 しかし、疑問が残る。社会保障や社会福祉そのものに対して、片山氏は関心があるのだろうか。

2012年に世間を騒がせたのは
本当に「お笑い芸人」だったのか


 切り口を変えて、片山さつき氏と生活保護に関するメディア報道を眺めてみた。
 テレビ番組、スポーツ紙、週刊誌のタイトルおよび内容を「片山さつき AND 生活保護」で検索してみると、約150件がヒットする(検索対象は、テレビ番組放送データ、日刊スポーツ、スポーツニッポン、スポーツ報知、サンケイスポーツ、デイリースポーツ、AERA、週刊朝日、サンデー毎日、週刊新潮)。
 明らかな重複を除くと、137件となる。
 初めて出現した2009年から、年ごとの件数をカウントすると、以下の通りとなる。
● 2009年 1件
● 2010年 0件
● 2011年 0件
● 2012年 125件
● 2013年 3件
● 2014年 4件
● 2015年 0件
● 2016年 2件
● 2017年 1件
● 2018年 1件

 この数値には、「ネット世論」は反映されていない。
 たとえば2016年秋の「貧困女子高生」報道と片山氏のコメントが呼び起こした反響を見出すことはできない。
 しかし、2012年の突出ぶりは明らかだ。

 民主党政権の最後の年であった2012年3月、自民党は2013年から生活保護基準を10%削減する案を示した。
 4月から5月にかけては、お笑い芸人・河本準一氏のスキャンダルがあった。

 同じ2012年の8月、税と社会保障の一体改革法が成立した。
 そして12月、衆院総選挙の結果、第2次安倍内閣が成立した。

 片山さつき氏が社会保障と福祉、特に生活保護に関して発言すると、世の中に大きな反響が起こる。
 そして、政治が動く。
 生活保護にとって、極めて発言力の大きなキーパーソンの一人であることは、間違いない。

テレビ番組で会った片山氏に
女性として共感するけれども


 私は2013年、片山さつき氏とテレビのトーク番組でご一緒し、生活保護に関して議論した経験がある。
 握手した片山氏の手は、驚くほど華奢で小さかった。
 私は片山氏の4歳下にあたり、「均等法前後に女性総合職として職業生活をスタートさせた」という経験を共有している。
 「この身体で、片山さんは男社会を生きてきたのか」と思うと、握手しながら胸が詰まったのを思い出す。

 片山氏をはじめとする自民党の女性政治家に対しては、「オジサンの代弁者」「名誉男性」といった批判も多い。
 しかし、その世代の女性の多くは、政界に限らず、職業人として生き延びるためにそうするしかなかったはずだ。
 同じ人間として、同じ女性として、重なる経験を持つ者として、それは理解できる。共感も持てる。

 とはいえ、片山氏の国会での活動を見る限り、同氏の関心の中心は、憲法改正を含む国家統治・外交・防衛・経済産業にあるようだ。
 対照的に、社会保障・社会福祉への関心は、かなり低いように見受けられる。

 片山さつき氏に、私は「それほど深いご関心がないのでしたら、生活保護や貧困を語らないでいただけませんか。“ネタ”なら他にもあるでしょう」と申し上げたい。

 世間が話題にし始める前も忘れてしまった後も、生活保護制度は運用されており、生活保護のもとで暮らす人々がいる。
 衣食足りた人々が、充分な空調のある部屋で語る「生活保護『適正』化」、すなわち「適正化」の名目のもとに行われる締め付けや引き下げや就労強化は、たとえ必要であっても、
 夏の冷房や冬の暖房が使用できない人々、バランスを欠いた食生活しかできない人々、生命や身体の健康を奪われる人々、あるいは精神を病んで自ら命を断つ人々を、事実として生んでいる。


 むろん、生活保護や貧困の当事者たちには、一般よりは若干高い頻度で、困った言動や問題ある生活態度が見られる。
 片山氏が繰り返し語ってきている通りだ。
 それは、「自己責任」を含め、生育環境や教育を含めた巡り合わせの不運の結果である。
 本人を非難すべき理由はない。
 しかし、その人々と人間関係を構築したり交流したりすることが困難なのは事実だ。
 取材と記事化をしているだけの私にも、疲弊や消耗、時には生活を危険にさらされることがある。

 でも、私を痛めつけているのは、本当に「その困った当事者」なのだろうか。
 誰かが不当に苦しむ同じ社会の中に、私も生きている。だから私も苦しくなるのではないだろうか。
 それは、無理やり自分に言い聞かせているのではなく、私の本心からの思いだ。
 そして、少しだけ距離を置いて休息を取り、また火花や煙の立つ現実に戻り、取材を続けることを繰り返している。

政治家にとって
生活保護や貧困とは何なのか


 政権の中で政治を動かせる立場にある方々には、法のもとで他人の生命や健康や財産を奪うことが許されている。
 日本の有権者たちが、選挙によって託した権限だ。
 権限は、その重みを感じながら行使してほしい。
 政策決定の行方は、影響を受ける人々の暮らしぶりの変化や、溜息や絶望や苦痛として見届けてほしい。
 人間と暮らしは、数字を眺めているだけでは理解できない。


 少なくとも生活保護では、1954年以後、「適正化」が重ねられ強化された。
 しかし、「生活保護問題」とされるものが解決されたわけではない。
 逆に、「適正化」のたびに新しい問題が生み出されてきた。
 今は「適正化」路線そのものを疑うべき時期ではないだろうか。
 私は、そう考えている。

 ともあれ私は、片山さつき氏の「口利き」疑惑について、政治の影響を受ける日本人の1人として、事実が解明されることを望む。
 そして、何があっても片山氏の日常が損なわれず、心身の健康が保たれることを願っている。

【参考】

・2016年8月20日 片山さつき氏ツイート(「貧困女子高生」に関して)
・片山さつき氏著書『正直者にやる気をなくさせる!?福祉依存のインモラル 』(オークラNEXT新書) 
・片山さつき氏公式ブログ


ダイヤモンドオンライン、2018.10.26
片山さつき大臣に「生活保護」や「貧困」を語ってほしくない理由
(フリーランスライター みわよしこ)
【みわよしこさんの書籍『生活保護リアル』(日本評論社)好評発売中】
https://diamond.jp/articles/-/183385

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2018年10月25日

相沢良没後82周年

 暗黒の時代にありながら、自分の思いを曲げなかったわれわれの先輩についても、ここでご紹介いたしたく。

 相沢良(1910年5月15日 - 1936年1月28日)!

相沢良を語り継ぐ会
2006年5月20日(土)「相沢良を語り継ぐ会」があります。
開会 午後1時 第一部 碑前祭 花岡展望台 
   午後2時 第二部 お話 農村環境改善センター(花岡荘となり)橋本誠一先生
               作文教育の優れた指導者
    
 相沢良さんは、1910年5月15日、青森県吉野田に生まれる。
 治安維持法による弾圧に屈せず、反戦、平和、働く者のくらしと権利を守りたたかう。
 拷問、投獄にも信念を貫き、死に至るまでたたかい続けた。
 1936年1月26日、25歳8ヶ月の生涯を終える。

 当時の治安維持法は、日本共産党をはじめ、多くの文化人、そして平和を尊ぶ宗教者まで弾圧しました。
 彼女は、現在の東大医学部に学びながら、搾取で苦しめられる労働者の中に入り労働運動を展開する。
 青森県浪岡では、北中野にあった青年訓練所で、『弁当を支給せよ』など、ストライキを組織したことが有名である。
 特高警察に追われ、北海道に逃げるとき、赤い手尾をして花嫁姿に変装し連絡船に乗り、特高警察の目をくらました。
 北海道で活動を行なう。

 投獄され彼女は病気になった。
 警察は牢屋の中で死なれては困るので、彼女に『私の考えがまちがっていたと言えば刑務所からだす』と言った。
 彼女は、『そんなことを言えば、私の人生は、なんだったのか』と言い警察も仰天する。

 警察も転向しない、衰弱した彼女を牢屋から出しました。
 しかし、まもなく彼女は亡くなりました。
 激しい拷問に屈せず、信念を曲げず、反戦、平和、民主主義のために青春を捧げたのです。

 彼女が生きていれば、青森市と浪岡町の民主主義を無視した強引な合併に、きっと悲しむことでしょう。

 石碑の草を取ろうと、この場所にあわてて来たのですが、まだ伸びていませんでした。

 
[写真]花岡展望台 相沢良の石碑

工藤祥三のブログ、2006-05-09 19:03
徹夜で集計 もうじき「相沢良を語り継ぐ会」
https://nebaruhito.exblog.jp/2094268/

 札幌市西区の琴似発寒川の上流部にある「平和の滝」に行ってきました。
 ここには、わずか25歳という若さで弾圧され亡くなった女性の平和運動家、共産主義者、相沢良(あいざわ・りょう)のレリーフと碑があります。
 1910年、青森県生まれ。
 女子医専に通うほど、当時としては恵まれた生活環境にありましたが、社会主義思想に傾倒、退学とされました。

 簡単な碑文があるだけで、私もよく分からないのでウィキペディアをごらんください。

 これを読むと、退学させられた後は工場の女性労働者をオルグしストライキをさせるという活動をしていて検挙、投獄され、体調を著しく悪化させて亡くなったということです。

 ということは、小林多喜二と同じように治安維持法の犠牲者ということではないでしょうか。

 札幌に来ていた姉を頼り、札幌市内の古谷製菓の工場労働者をストライキに駆り立て、道警に逮捕され激しい拷問を受けたことが死につながる体調悪化の元だったようです。

 まだ25歳。
 恋をしたり、女医の先駆者という道を選んだり、ということもできたのでしょうが、若い彼女を突き動かしたものはなにだったのでしょう。
 あまり参考文献もなく、よく分かりません。
 「共謀罪」が成立し、きな臭い時代の再来が懸念される時代だけに、ふたたび社会を啓もうしていただければ…と思うのですが。

 この「平和の滝」という場所は、彼女が女性労働者を誘って何度かハイキングに来た思い出の場所です。
 古谷製菓は、「古谷ウインターキャラメル」という商品が北海道で長く人気だったお菓子メーカーです。

 滝の下流域は「平和」と呼ばれる住宅街で、この地名の由来もウィキペディアに説明がありますが、ピンとこないものがあります。

 皆様も水辺の涼を求め、滝を訪れることがあれば、若い活動家女性を悼み、その思いの一部でも汲んでいただければと思いました。

北海道 MY LOVE、愛する北海道の歴史、自然、今を語ります、2017/7/22(土)午後 9:11
「平和の滝」と相沢良
https://blogs.yahoo.co.jp/ennkuubutu_0413/40624211.html

〈問い〉(青森・一読者)

 戦前、反戦運動をしたことで命を奪われた若者が少なくありません。
 戦後60年、その一人ひとりを思い起こし心に刻むことが大事ではないでしょうか?
 津軽出身の相沢良という女性もそんな一人と聞きました。
 どんな人かご紹介ください。

〈答え〉

 相沢良は、戦前、主権在民と反戦の運動に身を投じ、拷問と獄中生活による病気で25歳8ヶ月の短い生涯を閉じた女性です。
 足跡を丹念にたどって『相沢良の青春』(新日本出版社)を著した故山岸一章は、

「少女時代から、いつも本を手もとから離したことがなく、ゆたかな教養と理論的確信をつかんでいた」
「私が最も感動したのは、いつでも自発的に、能動的に困難な活動を自分の任務にし…名誉欲や名声欲をかけらも残してないこと」
と、若い死を惜しんでいます。

 良は1910年、青森市浪岡の三代続く村医者の家に生まれ、県立青森高等女学校から東京・大森の帝国女子医専に進学します。
 良が入学した1928年は、中国への侵略拡大をはかろうとしていた時期で、3月15日には日本共産党への大弾圧があり、大学では社会科学研究会も解散させられ、反戦運動は非公然の活動に移っていました。

 帝国女子医専にも日本共産青年同盟(共青)班がつくられ、良は地下の党に直接協力する活動の責任者に。
 逮捕状の出た東京市バスの労働者を下宿に1ヶ月半もかくまったこともありました。
 1930年5月のメーデーに参加。
 停学処分を受け中退、横浜の富士紡績保土ケ谷工場の労働者に。
 全協(日本労働組合全国協議会)分会機関紙「赤い富士絹」を配布中に検挙され、津軽に戻り、体力が回復すると、青年と読書会を開催。

 中国侵略開始前夜の1931年4月には上京し、日本反帝同盟と連絡をとり、「共青の青森派遣オルグ」として青森に戻っています。
 このことから山岸氏は「(共産党に)入党したと考えられる」としています。

 1931年12月、良は特高に追われ、花嫁姿に変装して北海道へ。
 札幌で、フルヤ製菓や豊平のゴム工場の労働者とサークルをつくり、「クロさん」の愛称で慕われました。
 1933年4月4日、良は検挙され、野蛮な拷問にも信念を貫き、懲役5年の刑に。

 獄中で肺エソになり、刑務所を出されたときは、手足は針金のように細く、出所7日目の1936年1月28日、家族にみとられ亡くなりました。
 良を偲び、故郷の浪岡と札幌に顕彰碑が造られ、浪岡では毎年、5月、碑前祭がおこなわれています。


しんぶん赤旗、2005.8.13(土)
戦前の反戦運動で命奪われた若者の1人、相沢良とは
(喜)
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-08-13/2005081312faq_01_0.html

 「戦争と暗黒政治を再び許すな」と、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部と札幌支部は2018年1月27日、相沢良没後82周年碑前祭を札幌市西区にある「平和の滝」入り口に建てられたレリーフ像前で開きました。

 相沢良は、暗黒政治の時代に侵略戦争に反対し、主権は国民にあると敢然とたたかった女性。
 拷問と獄中生活で病を患い、25歳8カ月の短い生涯を閉じた日本共産党員です。

 「不屈の精神を受け継ぎます」と参加者が黙とうしました。
 宮田汎道本部会長は「相沢良は1933年に全協(日本労働組合全国協議会)を札幌地区に立ち上げました」と紹介。
 「1933年2月、スパイの手引きで逮捕され、その日のうちに特高警察に虐殺された小林多喜二をしのんでの組合づくりでした」とのべました。

 青森県生まれで良の高校の後輩、田中啓介共産党市議が「『戦争する国』ではなく、憲法を守る先頭に立ちます」と表明しました。

 今年初めて碑前祭に参加した男性(65)は「あの時代に侵略戦争に反対した女性がいたことに感動しました」と話しました。


しんぶん赤旗、2018年1月31日
相沢良没後82周年碑前
不屈の心 受け継いで
札幌市

http://www.jcp-hokkaido.jp/news.html

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「白バラ」が訴えた自由

 2月22日は、ある兄妹の命日だ。
 70年前、ナチス・ドイツの独裁下、ヒトラー批判と戦争反対を訴えるグループ「白バラ」のメンバーだったハンス・ショルとゾフィー・ショルは、ミュンヘン大学でビラをまいて逮捕された。
 4日後に死刑判決を受け、即日処刑された。
 彼らの勇気と高潔さは、日本でも公開された映画「白バラの祈り」でご覧になった方も多いと思う。

 留学していた7年前、授業を聴講に行く時に彼らがビラをまいた現場を何度も通った。
 吹き抜けのホールから上階のバルコニーを見上げるたび、ゾフィーが落としたビラが宙を舞う映画の場面が頭をよぎり胸がつまったものだ。

 ドイツに暮らしていると、ナチス時代を取り上げる記事や番組をよく見る。
 ヒトラーの権力掌握から80年になる今年は特に多い気がする。
 今月のベルリン国際映画祭でもユダヤ人大虐殺を記録した「ショアー」が上映された。

 そんな暗黒の時代でも純粋な思いで不正に立ち向かった学生たちがいたことを、いつまでも心にとめておきたい。
 70年後の今日、彼らが訴えた自由の重みを改めてかみしめる。


朝日新聞、2013.02.22
(特派員メモ ミュンヘン)
「白バラ」が訴えた自由
(ドイツ=松井健)
https://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/2fdac8a1cb40d2d3741a184a518e748d

私はもう一度、すっかり同じことをやるでしょう。
考え方のまちがっているのは私ではなく、
あなたがたの方なのですから。
1943年2月20日
 
 1921年5月9日、ゾフィーはコッハー河畔の小さな町フォルヒテンベルクで生まれた。
 両親と姉インゲ(1917年生まれ)、兄ハンス(1918年)、姉エリーザベト(1920年)、弟ヴェルナー(1922年)の7人家族。
 一家は1930年にルートヴィヒスブルクへ移り、またその2年後にウルムへ移住した。

 1934年頃、ゾフィーはヒトラー・ユーゲントの組織、ドイツ少女団に入る。
 しかし、姉や兄がユーゲントの活動に積極的に参加していたのとは対照的に、彼女はキャンプやハイキングなどを楽しんではいたが、政治的熱狂とはかなり距離をおいていた。
 家では反ナチスの父と、ユーゲント内で早くから昇進していた兄との口論が繰り返されていたが、ゾフィーはそれを注意深く見守っていた。

 しかしそのハンスも徐々にナチスに対し疑いを持つようになり、1936年秋以降、急速にユーゲントから離れて行く。
 ショル家の子供たちもハンスとともに、禁止されていた同盟系青年団「d・j・1・11」の活動に参加するようになる。
 この青年団に女子は入ることが出来なかったが、彼らがたびたびショル家で会合を開いていたため、ゾフィーたちも彼らと親しくなり、興味深い本、大抵はナチスに排斥された作家の本などを教え合い、討論にも参加することがあった。

 1937年11月、ナチスは非合法青年団を摘発するためドイツ全土で捜査を開始し、ショル家も秘密警察の家宅捜索を受けた。
 このときインゲ、ヴェルナー、ゾフィーが連行され、兵役に就いていたハンスは兵舎で逮捕された。
 ゾフィーが連行されたのは男の子と間違えられたためで、すぐに釈放されている。
 姉と弟は8日間の尋問の後ようやく釈放され、ハンスは1ヶ月の拘留の後に起訴されたが、翌1938年のオーストリア併合による恩赦で起訴取消しとなった。
 ゾフィー自身は取り調べを受けることはなかったが、この事件は彼女の政治的な目覚めのきっかけとなった。

 1939年に戦争が始まった時、ゾフィーは召集された友だち全員に(無駄だと知りながら)決して発砲しないと約束させている。

「戦争はすぐ済むなんて甘い考えには全然賛成できないわ。ドイツはイギリスを封鎖によって降伏させられるだろうなんて子供っぽいこと言ってる人も多いけど。そのうちわかることだわ(恋人フリッツ・ハルトナーゲル宛1939年9月19日)」
(『白バラの声』インゲ・イェンス編・山下公子訳/新曜社)

 帝国勤労動員を経て、ようやく大学で学ぶことができるようになった1942年5月初め、ゾフィーはミュンヘンへ移った。
 ハンスは親しい友人たちを彼女に紹介し、彼ら主催の読書会にも招待する。
 白バラのビラがミュンヘンの街に現れたのはこの1ヶ月後だが、最初からゾフィーが白バラに関わっていたかどうかはわかっていない。

 しかし、ハンスたちが前線実習のため不在だった間、ゾフィーは協力者となっていたウルムの高校生ハンス・ヒルツェルに謄写版印刷機購入のためのお金を渡すなど、兄たちの帰国後に再開される活動のための準備をひとりで行っていた。

 1943年2月18日、兄妹は大学構内で1000枚以上のビラを撒いた後にいったん外に出たが、残りも全て撒いてトランクを空にしなければならないと、急いで構内へ戻り、階段を駆け上がり残りのビラを玄関ホールに撒いた。
 その様子を用務員に目撃・通報され逮捕されてしまった。
 そこからのゾフィーの処刑までの5日間を、政治犯として拘置所で同じ監房に入り、彼女から直接話を聞いたエルゼ・ゲーベルの回想(『白バラが紅く散るとき』)から組み立てたると下の表のようになる(略)。

 秘密警察には女性の取調官がいなかったので、ゾフィーの身体検査はエルゼがするよう命じられた。
 逮捕当日は夜通しの尋問だったが、「夜、本物のコーヒーが出た」。
 エルゼによれば、ゾフィーの取調官は数少ない親切な人物で、裁判の前日、この取調官は果物、ビスケット、タバコなどを差し入れし、彼女にゾフィーの様子を尋ねている。

 処刑の前に兄妹が両親とシュターデルハイム刑務所で面会できたことはまったくの幸運だった。
 ハンスは囚人服を着ていたが、ゾフィーは自分の服で、絶えず微笑みを浮かべ、ハンスが断った甘いものを嬉しそうに食べた。

「あらそう、いただくわ、私はまだお昼を全然食べてないのよ」。
(『白バラは散らず』P.110/インゲ・ショル・内垣啓一訳/未来社)

 トップのゾフィーの言葉は、取調官の質問、「こういったことを全部よくお考えになっていたら、あのような行動はとらなかったのではないですか?(『白バラが紅く散るとき』P.165)」に対する答えです。
 エルゼ・ゲーベルによれば、彼はゾフィーにもう一度チャンスを与えようとしてこの質問をしたのだそうですが。
 内容については『白バラが紅く散るとき』を中心に、『白バラの声』インゲ・イェンス、『白バラは散らず』インゲ・ショル、『ミュンヒェンの白いばら』山下公子、『白バラ』関楠生を参考にしました。


白バラの庭、01/11/01
ゾフィー・ショル Sophie Scholl
http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_sophie.html

"Freedom!"

Hans Scholl painted this word in large letters with black tar paint on the walls of the University of Munich − four times.

He was a member of the White Rose movement, aiming to overthrow the Nazi regime. The small group of students became one of the most famous resistance groups against Adolf Hitler's regime.

In the night of February 3, 1943, Scholl and another medical student, Alexander Schmorell, were walking through the dark streets. They wanted to post as many leaflets as they could throughout Munich.

They also had tin template for their graffiti stating "Down with Hitler" with a crossed-out swastika. But the Gestapo was already on their tail.

Nearly three weeks later, Hans Scholl was dead, executed by the Nazis.

First fascination, then rebellion

Hans Scholl was 14 years old and lived with his family in Ulm when Adolf Hitler came to power in Germany in 1933. Like his younger sister Sophie, he was initially fascinated by National Socialism. Against the will of his liberal father, he engaged in the Hitler Youth and hoped to pursue a career in the Wehrmacht.

Facing a system of unconditional subordination and increasingly restricted freedom, Scholl quickly became disillusioned with National Socialism, and turned back to his Christian values.

As a medical student in Munich, he came in contact with other critics of the regime in 1939.

During a semester break, he experienced the horrors of the war firsthand as a paramedic on the front. That convinced him to raise his voice against Hitler.

The White Rose movement

In 1942, Hans Scholl joined fellow students at the University of Munich to fight National Socialism, founding the resistance group White Rose with Alexander Schmorell. Christoph Probst, Willi Graf, Hans' sister Sophie Scholl and philosophy professor Kurt Huber later joined the group.

They secretly printed pamphlets in which they denounced the murder of 300,000 Jews and called for resistance, appealing among other things to renounce "national socialist subhumanism." They sent their letters to the intelligentsia and distributed them in Munich and various other cities in southern Germany and Austria.

The last call

The sixth leaflet would be the last for Hans Scholl and his colleagues.

On February 18, 1943, the Scholl siblings entered the University of Munich with a suitcase filled with some 2,000 leaflets, which they distributed throughout the university. As Sophie Scholl flung her last stack of leaflets from the atrium, the janitor caught her and delivered her and her brother to the Gestapo.

During trial, Hans Scholl tried to take as much blame as possible to protect his friends.

Four days later, on February 22, 1943, the infamous Nazi People's Court condemned Hans and Sophie Scholl as well as Christoph Probst to a death sentence.

They were executed by guillotine that same day.

Hans Scholl was 24 years old. His last words just before being executed were: "Long live freedom!"


[video]
Remembering the White Rose resistance group 75 years on

Deutsche Welle, 21.09.2018
Hans Scholl: Fighting for freedom until death

He fought Hitler with slogans and leaflets; that cost him his life. On September 22, the founder of the White Rose movement Hans Scholl would have turned 100. A look back at the famous resistance group against Hitler.

By Mirja Viehweger
https://www.dw.com/en/hans-scholl-fighting-for-freedom-until-death/a-45594855

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白バラ記念館

Billie Holiday - Sugar
https://www.youtube.com/watch?v=_UajeQsQrRA

 映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』の冒頭の音楽ってこれでしたね。

Sugar, I call my baby my sugar
I never maybe my sugar
That sugar baby of mine
He's special ration
Funny, he never asks for my money
All I give him is honey
And that he can spend anytime
I'd make a million trips to lips
It I were a bee
Because he's sweeter than chocolate candy to me
He's confectionary

Sugar, I never cheat on my sugar
Cause I'm too sweet on my sugar
That sugar baby of mine

 村上公子さん(1952-)は、早稲田大学・人間科学学術院 人間環境学科の教授、ドイツ文学、ドイツ地域論の研究者で、多くの著書、翻訳書があります。
 東京に行く機会がありましたので、展示を見に行き、村上さんと少し話す時間もありました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/白いバラ

 「白バラ」は第二次世界大戦中のドイツにおいて行われた非暴力主義の反ナチ運動。
 ミュンヘンの大学生であったメンバーは1942年から1943年にかけて6種類のビラを作成した。
 その後グループはゲシュタポにより逮捕され、首謀者とされるハンス・ショルほか5名がギロチンで処刑されたため、7種類目の印刷がおこなわれることはなかった。
 彼らの活動を描いた映画が戦後何度かドイツで作られ、反ナチ抵抗運動として、国際的に知られている。
 日本では、白バラ、白バラ抵抗運動などとも呼ばれる。
 白いバラはミュンヘン大学の学生で構成されていた。
 ハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショルを筆頭に、他にもクリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授らが活動に参加していた。


東北修猷会、2012-10-20 14:27
白バラーヒトラーに抗した学生たち
ー ワセダギャラリーにて ー

https://syuyukai.exblog.jp/19069976/

 ヒトラーは、1923年11月、ミュンヘン一揆に失敗し、逮捕・投獄される。
 国家反逆罪で有罪となり、1924年の春からバイエルン州にあるランツベルク刑務所で過ごす。

 ところが、ヒトラーの部屋は高級食料品店の様相を呈していた。
 ドイツ中の支持者が貢ぎ物を送りつけていた。
 そして、看守からも優遇されていた。

 ある女性からのプラムケーキの差入れに対するヒトラーのお礼状が紹介されています。

 ヒトラーは、学校時代の後半には、際立って能力に欠けると見なされ落第していた。
 ヒトラーは、学業に何の興味も示さない怠惰な生徒と思われた。
 ヒトラーは、行動の人として刑務所に入ったが、出るときには「哲人指導者」だったと自分では考えていた。
 ヒトラーは、遅くに起床し、いつも怠けたり、うつらうつらして過ごした。集中して本を読むことが嫌いで、本一冊を読み通すのはまれだった。たいていは、本の出だしの部分を読むだけだった。
 ヒトラーは、貪欲で、意地汚いところがあった。むら気をおこさずに働くことができない。実際に、彼は仕事ができない。アイデアが浮かんだり、衝撃を受けたりはする。熱に浮かされたように、それを実地に移すことを命じるが、あっという間に取りやめにされた。ヒトラーには、持続的に辛抱強く仕事することが、何なのか分からなかった。

 ヒトラーのやること、なすことは「発作」だった。
 ヒトラーの言う、子ども好き、動物好きは、ポーズにすぎなかった。

 1933年に、ユダヤ系知識人を学問の世界から追放する布告が実行されたとき、ヒトラーたちはほとんど抵抗を受けなかった。抗議行動は、まったく起きなかった。なぜか?

 多くのユダヤ人が追放されると、そのポストが空く、そこへアーリア系の大学人たちが、ハゲワシよろしく割り込んできたのだ。

 ナチは、比較的少人数のはぐれ者集団から始まったが、ほどなく普通の学歴をもった人間がどんどんメンバーに加わるようになった。ときがたつと、大学人のほとんどがナチ化された人間になっていた。

 ハイデガーのナチスに対する協力は、ヨーロッパ中の崇拝者たちを戸惑わせた。そして、ドイツ国内では、大きな影響力を発揮した。

 カール・ヤスパースがハイデガーに「あんな無教養な人間にドイツを統治させていいものかどうか」と問いかけると、ハイデガーは、「教養など、どうでもいい。あの人物の素晴らしい手を一度見たまえ」と答えた。なんと非論理的な答えか・・・。

 このハイデガーに、ユダヤ人の若き女子学生、アンナ・ハーレントも強く心が惹かれ、秘密の愛人となったのでした。
ハイデガーは、ヒトラーを礼賛した。ナチズム支持大会にハイデガーは出席して演説もしているのです。信じられない哲学者の堕落です。

 ミュンヘン大学の哲学教授クルト・フーバーは1943年7月、ギロチンで処刑された。

 学生を感化させることにかけては、フーバーに及ぶ者はいなかった。その一人がトップクラスの才媛ゾフィー・ショルだった。白バラ兄妹を感化した教授もまた、ナチスによってギロチンで処刑されたのです。

 フーバーは、左翼でもなければ、ユダヤ人でもなかった。保守的なナショナリストだった。フーバーは、いかなる類の暴力も激しく嫌っていたし、ヒトラーをドイツ社会の価値観を破壊する者だととらえていた。

 ハイデガーとは異なり、フーバーは、ヒトラーの話しぶりに惑わされることなく、そして大学にいる多くの同僚とは逆に、声を出した。フーバーがカントの講義をするのは、ヒトラーに抵抗せよと言う本当のメッセージを学生に伝えたかったからだ。

 白バラは、哲学に強い関心をもった学生活動家が主体となった、結束の固い小グループである。白バラは勇敢であるとともに、非暴力を貫き、自分たちにできる唯一の手段は言葉でもって抵抗した。

 クルト・フーバーが処刑されたあと、家族は遺族年金の支払いを拒否された。学生や友人たちが遺族へのカンパを募ったところ、ナチスは没収し、現行犯で逮捕した。そして、ギロチン使用料として、給与2ヶ月分に相当するお金の支払いを命じた。

 ハイデガーは、戦後、サルトルの後援で返り咲いたが、戦前のナチス礼賛について、まったく反省を示さなかった。
 ユダヤ人である、アンナ・ハーレントの葬儀は無宗教で行われた。
 いろいろ、深く考えさせられる本でした。


弁護士会の読書、2015年7月29日
イヴォンヌ・シェラット Yvonne Sherratt『ヒトラーと哲学者 Hitler's Philosophers』
(白水社、2015年4月

霧山昴
http://www.fben.jp/bookcolumn/2015/07/post_4390.html

ミュンヘン大学の学生を核にした白バラ運動。
ナチスへの抵抗を支えたのは彼らが日々論じ合っていた哲学者カントやフィヒテの「自由」の概念。
彼らの精神的支柱だったミュンヘン大学のクルト・フーバー教授(哲学)も後に処刑されている。


 大学に入った正面の壁に白バラグループのレリーフがあり、その裏の部屋が「白バラ記念館」だった。

 『骨太の』大きな1輪の白バラを、受付の女性に「ジュネーブ駅の花屋で買ってきた」と渡すと、とても喜んで、すぐにおおきな花瓶に挿してレリーフの前に・・・

 記念館には写真の他に、各国の書籍や新聞なども置かれていてミニ図書館のようで気軽に手にとって読むことができました。
 日本で出版されたものも数冊あったので、2〜3時間資料室で読ませていただきました。

 その間に、各国の若者たちが見学に来て写真とその解説に見入っていました。

 カンボジアの若者たちやアメリカの若者も。
 カンボジアの法学部の若者に、21世紀の日本でも政府に批判的なビラ配布をした人々が逮捕され有罪になっていることを話すと大変驚いていました。

 5月末の新緑の季節に訪問しましたが、ちょうど企業の出張就職説明会の最中でした。

 玄関のエントランスから2階まで各企業が、イメージカラーや特色のあるブースを出し、テーブルの上にはボールペンやメモ・スナックチョコなどが置かれていて、訪れた学生に飲み物と一緒に提供していました。

 学生はリクルートスーツではありませんでしたが、大理石の階段や廊下を歩く学生たちは全体的に落ち着いていて、日本の大学の雰囲気とはずいぶん異なる印象でした。

【背景】
 「白いバラ」はミュンヘン大学の学生で構成されていた。
 ハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショルを筆頭に、他にもクリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授らが活動に参加していた。

 「白いバラ」に参加した学生は、フランス侵攻、東部戦線に従軍したドイツ陸軍の帰還兵であった。
 ドイツ青年運動に影響を受けたと考えられており、ハンス・ショルとプローブストはそのメンバーである。
 彼らは、ポーランドのユダヤ人居住地区の状況や東部戦線における惨状を目にして、この戦争を受け入れることができず、さらにスターリングラードの戦いにおけるドイツ国防軍の敗退によりドイツの敗北を予感した。
 彼らはナチスのヨーロッパ支配を否定し、キリスト教の忍耐と正義を信奉していた。
 聖書、老子、アリストテレス、ノヴァーリス、ゲーテ、シラーなどからの引用が見られ、ドイツの知識階級の典型を表している。
 リーフレットは当初バイエルン、オーストリアなど南ドイツを拠点に配布された。
 これは反軍国主義のメッセージは南部においてより受け入れられやすいと考えていたためである。

 グループは、1942年6月から7月にかけて4種類のビラを作成し、郵便などで配布した。
 1943年に入ると、1月に5種類目のビラ「全ドイツ人への訴え」を作成して各地で配布した。
 さらに、スターリングラード攻防戦における1月末のドイツ軍降伏を受け、2月に6種類目のビラ「学友へ」が作成された。
 いずれのビラも平易なドイツ語で書かれており、グループが広くドイツ国民に訴えかけようとしていたことが分かる。

逮捕と処刑

 6種類目のビラは、2月14日と16日の夜にミュンヘン市内でまかれたが、まだかなり残っていた。
 そこで、グループは、これをミュンヘン大学でまくことにした。
 2月18日の11時前に、ショル兄妹は大学へ行き、まだ閉まっている講義室の前と廊下にビラを置き、最後に残ったビラを持って3階に行き、ゾフィーが吹き抜けにばらまいた。

 この時彼女は、ナチス党員である大学職員ヤーコプ・シュミットに発見され、兄ハンスとともにその場で拘束され、ゲシュタポに引き渡された。
 翌日にはプロープストも逮捕された。
 残っている尋問記録から、ショル兄妹が2人で責任をとり、友人を守ろうとしたことが分かっている。

 ショル兄妹とプロープストの裁判は、2月22日に行われた。
 彼らは、ローラント・フライスラーが裁判長を務める人民法廷(ドイツ民族裁判所)で反逆罪により有罪となり、死刑の判決を受けた。

1943年2月22日、「白バラ」メンバーに対する判決理由

 被告はビラの中で、戦時において武器生産のサボタージュを呼びかけ、わが民族の国家社会主義的生活を打倒し、敗北主義を宣伝し、われらの総統を口汚く罵り、国家の敵に利する行いをし、我々の防衛力を弱めんとした。
 それゆえに死刑に処せられる。
 ・・・もし死刑以外の扱いをすれば、連鎖の始まりとなり、その結末はかつて−1918年(の第一次世界大戦敗北)−と同じになる。
 それゆえ戦う民族と国家を守るべき人民法廷には、唯一の刑、すなわち死刑しか選択はありえない。
 ・・・わが民族に対する裏切りにより、被告らはその自らの市民権を永遠に失う。

 その後、シュモレル、グラーフとフーバー教授も逮捕されて、4月19日に死刑判決が下り、シュモレルとフーバー教授は7月13日に、グラーフは10月12日に処刑された。

 他にも、ビラの印刷や配布を助けたり、プロープストの未亡人・孤児へ援助を与えたりした者たちが逮捕され、6か月から10年の懲役に処せられた。


人権NGO言論・表現の自由を守る会 、2010/6/24(木) 午前 11:11
弾圧と戦争が手をつないでやってきた! 即時閣議決定すべきは個人通報制度批准!! ピース9 国連経済社会理事会正式協議資格NGO
白バラ記念館とドイツの大学生の就活:ミュンへン大学
https://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/15348518.html

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ヒトラーに抗した学生たち

 昨10月24日水曜日のヤッホーくんの街歩き、地下鉄東西線で「飯田橋」駅から「早稲田」駅へ。
 (ん?歩きじゃなくって、電車で移動?・・・こりゃ街歩きじゃないわぁ)
 目指すは、ワセダギャラリー!

P1060464-1.JPG

【2018/10/17〜2018/11/13】
ヒトラーに抗した学生たち
−ミュンヒェン・白バラ


1942/43年、ナチ政権への抵抗を呼びかけた大学生のグループ「白バラ」がありました。彼らの行動と人生を歴史的背景とともに明らかにしようとする、写真と解説文によるパネル展示です。

https://www.waseda.jp/culture/news/2018/08/28/5480/

 強いて意味づけするとですね、「榎本武揚から大隈重信への橋渡り」なんだって!
 でも相変わらず”KY”で無学文盲なヤッホーくん、写真に思わず見とれていました。

The Legacy of the White Rose
https://www.youtube.com/watch?v=767yxeIreF4

https://www.youtube.com/watch?v=sSZ8XRvzmIo

https://www.youtube.com/watch?v=xrRO4K0fmlY

 映画も・・・(2005年):

『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=i-GU8EKCksw

https://www.youtube.com/watch?v=nU0JQs3uRlk&index=4&list=PL94A228372031F7DF

In the late Thirties, the Boulting brothers were refused permission by the British Board of Film Censors to make a film inspired by Martin Niemoeller, the courageous German pastor interned in a concentration camp for his opposition to Nazism. Permission was granted when the coming of the Second World War made criticism of Hitler acceptable, and their movie, Pastor Hall, with a fine central performance from Wilfrid Lawson, had a profound influence on those who saw it.

Niemoeller survived the ordeal to become one of the great figures of postwar Germany and president of the World Council of Churches. A fellow Protestant, the 21-year-old Sophie Scholl, and her brother, Hans, the children of outspokenly liberal Bavarian parents, were not so fortunate and their story is told in sober, well-documented fashion in Marc Rothemund's Sophie Scholl: The Final Days.

Sophie and Hans were members of White Rose, a passive resistance movement created by students at Munich University to undermine the Nazi regime through flyposting and the dissemination of leaflets. On 18 February 1943, in the wake of the horrendous losses on the Eastern Front, they were arrested while leafleting around the Munich campus, interrogated by the Gestapo, condemned to death for high treason and guillotined on the day of their trial, all within five days.

The film concentrates on Sophie and, especially, her cat-and-mouse game with Gestapo officer Mohr (Gerald Alexander Held) and her edgy relationship with her cellmate (a prison trustee jailed for communist sympathies, who may or may not be a police informant).

We see Sophie gaining in confidence as she defies her inquisitor, instructing him, though not piously, in the role of conscience. He has set aside his inner moral compass. Dedicated to the Fuhrer, he identifies the law with the will of the state.

Mohr is a warped human being, not a monster, unlike the demented Dr Roland Freisler, the judge who conducts the trial at a pitch of screeching hatred. After pronouncing death sentences on 2,295 people, Freisler was killed in a February 1945 air-raid before he could be brought to justice.

Julia Jentsch, known here for her performance in The Edukators, gives a wonderful performance, tough, tender, vulnerable, and illuminated by an inner decency. The film opens with Sophie listening in secret with a girlfriend to Billie Holiday on the radio, the two happily singing along to 'Sugar'. It ends with her head clamped beneath the poised blade of the guillotine. A life is extinguished, but the movie has captured the generous human spirit that animated it.


The Guardian, Published: Sun 30 Oct 2005 00.19 BST
Sophie Scholl: The Final Days
By Philip French
https://www.theguardian.com/culture/2005/oct/30/features.review6

 芝居も・・・(2007年):

 劇団民芸が反ナチス運動に身を投じたドイツの学生グループを描く「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」(リリアン・グローグ作、吉原豊司訳)を東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターで上演している。
 かつて「アンネの日記」でデビューした桜井明美が、紅一点の女学生ゾフィー役で主演する。

 「白バラ」は第2次大戦中にミュンヘン大学の地下組織の学生が発行した反戦ビラの名。
 1943年、ゲシュタポに逮捕されたゾフィーはわずか数日後に処刑された。
 この史実は2005年にドイツでも映画化されたが、今回は1991年に米国で初演された米劇作家の戯曲で、学生たちと尋問官(西川明)との息詰まるやりとりが中心になっている。

 桜井は1990年にオーディションでアンネ役に選ばれたのがきっかけで劇団入り。
 17年のキャリアを積み、劇団の中心女優に育ちつつある。
 演出の高橋清祐らによる抜擢(ばってき)で、アンネ以来のタイトルロールを得た。

「アンネのときは共演の先輩方がみんな優しくて、ただのびのびと演じればよかった。同じ時代の話ですが、ゾフィーはドイツ社会の内側にいて苦悩する役。愛国心とは何か、もし戦争がなかったらどんな大人になったのか、色々と考えながら演じています」

 ベテラン層が厚い劇団では珍しい、中堅・若手を中心に据えた公演でもある。

「私も含めて、殻を破って新境地を開いてほしいという劇団の期待の表れだと思う。謙虚と甘えは違うと自分に言い聞かせ、私たちの世代の役者のステップアップにつなげたい」


朝日新聞、2007年10月13日14時28分
劇団民芸「白バラの祈り」

桜井明美を抜擢

http://www.asahi.com/culture/stage/theater/TKY200710130142.html

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2018年10月24日

東京農大開校の地碑

第一節  「総論」
第二節  「勝海舟氏」
第三節  「榎本武揚氏」
 また、勝海舟氏とともに、榎本武揚という人物がいます。
 これまたついでながら、一言言わざるを得ません。
 この人物は、徳川幕府の終わりの頃に、勝海舟氏と意見が対立し、どこまでも徳川の政権を維持しようとして尽力し、幕府の軍艦数隻を率いて箱館に脱走し、西から来た官軍に抵抗して奮戦しました。

 しかし、最終的には追いつめられて降伏した人物です。
 この時点においては、徳川幕府は鳥羽・伏見の敗戦のあと再び戦う意志がなく、ひたすら哀れみを乞うばかりであり、人々の心はすでに瓦解し、幕府方に勝つ見込みがないことはもちろん明らかだったわけですが、榎本武揚氏の行ったことは、いわゆる武士の意地であり、つまり瘠我慢の精神であって、その胸中はひそかに必ず負けるだろうとは予想しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたものだったことでしょう。
 ですので、幕臣あるいは諸藩の藩士の中の幕府支持の人々は榎本武揚氏を総督として彼に付き従い、すべて彼の命令に従って行動を共にし、北の海での海戦や、箱館五稜郭の籠城戦において、苦しい決死の戦いを行った忠義と勇気は見事な振る舞いであり、大和魂の道徳や気風を維持する観点から論じて、勝海舟氏のなした処置と比較するならば、とても比べものにならないものです。

 ですが、北海道に逃れて闘った軍隊は、常に形勢が不利で、だんだんと追いつめられ、どうにもできない状況に至って、総督である榎本武揚氏をはじめとした一部の人々は、もはやこれまでだと覚悟を決めて、敵に降伏し、捕虜となって東京に護送されたことは、不運なことではありましたが、戦争はいつもどちらかが勝つか負けるかするものであり、もちろん咎めるべきことではありません。

 明治新政府も、榎本武揚氏の罪を憎んでもその人物を憎まず、死刑にすべきところを許して一段階低い刑にし、榎本武揚氏をのちに釈放したことは、文明の寛大な措置と言うべきものでした。

 榎本武揚氏の行動も、明治政府の処分も、両方ともこの世界における美しい話の一つであり、欠点をあれこれと批判するべきものではありません。

 しかし、榎本武揚氏が、釈放された後に、出世したいという意欲を起こして、明治新政府の官職に就いたという事柄に至っては、私は感心することができません。

 敵に降伏して、その敵に仕えるようになったという事例は、昔から珍しいものではありません。

 特に、政府が新しく変わる時にあたって、前の政府の人物たちが自立して生活していくための手段を失い、生活の糧を得るために新しい政府において仕事を得るというようなことは、世界に今も昔もよくある話であり、少しも不思議なことではありません。

 また、その人を非難すべきでもありません。

 しかし、榎本武揚氏の身は、この当たり前の事例としてまとめることのできない理由があると思います。

 つまり、その理由というのは、日本の武士としての感情です。

 榎本武揚氏は、明治新政府において官職を得、ただ生活の糧を得るだけでなく、どんどん出世して、特命全権公使にも任命され、さらにはついに大臣にまで昇進し、出世したいという志を成し遂げてめでたいことですが、振り返って過ぎ去った過去を思い出す時には、感情として耐えることができないものがあります。

 当時、死を覚悟した武士たちを集めて、北海道のはずれにおいて苦しい戦闘をし、寒い気候にかなわず、結果として降伏したことは仕方がないことです。
 しかし、江戸を脱出して闘った武士たちは最初から榎本武揚氏を指導者として信頼し、榎本武揚氏のために苦しい戦いを戦い抜き、榎本武揚氏のために戦死したのに、指導者が降伏したならば、たとえ降伏に賛成した人はいたとしても、賛成しなかった人々はあたかも見捨てられたようなもので、その落胆や失望は言うまでもありません。

 ましてや、すでに戦死した人々の落胆や失望はどうでしょうか。
 死者の魂が存在するならば、必ず地面の下で大いに不平の声をあげていることでしょう。
 伝え聞くには、箱館の五稜郭の降伏開城の時、総督の榎本武揚氏が部下に対してひそかに意志を伝えて一緒に降伏しようと勧めたにもかかわらず、一部の人々はそのことを聞いて大いに怒り、

「そもそも今回の挙兵は勝つことを期待したものではなく、ただ武士の道として死をもって徳川家への二百五十年間の恩に報いようとしただけのことだ。榎本総督がもし生きたいならば城から出て降伏しろ。私たちは私たちの武士道に死ぬだけのことだ。」
と言って、奮戦し続けたそうです。

その中には、親子でともに戦死した人もあったと言います。(※ 原文に名前は挙げられていないが、中島三郎助親子のことと思われる)

 「烏江の川の水が浅くて、私の愛馬の騅ならば渡っていけるとしても、多くの部下たちを死なせてしまった責任感があるので、東の故郷に戻ることはできない」
(烏江の水浅くして騅(すい)能(よ)く逝くも、一片の義心 東すべからず)
とは、昔の中国の漢と楚の戦いの時に、楚の軍隊が劣勢となって楚の大将である項羽が走って烏江の川のほとりに至った時に、ある人がさらに川を渡って逃げれば再び立ち上がる希望がないわけではないと項羽に死なないように言ったことに対して、項羽はその言葉を聴かず、

「最初は川の東にある楚の国から若者八千人を率いて西に向かったのに、いくたびもの苦しい戦いに彼らを戦死させてしまって今は一人も残っていない。このような失敗の後に至って、どのような顔をして再び川の東にある故郷の楚に帰って死んでいった者たちの親や兄弟たちに会えるだろうか」

と言って、自殺した時の心情を詩にあらわしたものです。

 漢と楚の戦争のあっていた頃の話と、明治の今とでは、世の中の様子はもちろん同じではありません。
 三千年前の項羽の話によって、今の榎本武揚氏を責めることは、ほとんど荒唐無稽なことのようでもあります。
 しかし、どんな時代も変わらないものは人間の心情です。

 榎本武揚氏が明治維新ののちには出世したいという志を遂げて高い地位について得意でいるとしても、時には振り返って箱館戦争の昔のことを思い、当時自分に付き従った多くの武士たちが戦死し負傷した悲惨な状況や、その時以来家に残った父母や兄弟たちが死者の死を悲しみ、途方にくれてそれからの人生にも迷い苦しんできた事実を想像し、また、その様子を見たり聞いたりする時には、男子の堅固な心もそのためには断ちきられる思いがせざるを得ないことでしょう。

 秋の寒い日の夜の雨に眠りにもつけず、灯火が明滅して一人で考えこむ時には、場合によっては亡くなった人の魂やいま生きている人の生霊や無数の幽霊が目の前にはっきり現れることもあることでしょう。
 たしかに、榎本武揚氏の本心は、今に至るまで、これらの江戸を脱出して闘った武士たちを見捨てたわけではありません。
 彼らの行為を素晴らしいものとしており、彼らの死をあわれに思っていないわけではありません。

 今、その証拠を示すならば、駿河の国の清見寺の境内に石碑があります。
 その石碑は、以前、幕府の軍艦・咸臨丸が清水港で攻撃を受けた時に戦死した春山弁造以下の江戸を脱して闘い続けようとした武士たちのために建てたものです。
 その石碑の背面には、

「人の食を食(は)む者は人の事に死す(食人之食者死人之事)」
(君主から俸禄をもらって生きてきたものは、その君主のために戦って死ぬ)
という漢字九文字が大きく書かれ、榎本武揚と記されており、多くの人が見るに任せて何の遠慮もしていません。
 それを見れば、榎本武揚氏の心はおおよそはうかがい知ることができます。

 つまり、榎本武揚氏は、徳川家の俸禄によって暮してきた者であり、不幸にして自分は徳川家のために死ぬ機会を失ったけれども、他の人々がこのことのために戦って死んだことを見れば、心は深い嘆きを抑えることができず、彼らのことを思うあまりにその言葉を石に刻みつけたことでしょう。

 他の人々の忠義や勇気を称揚する時には、同時に自らを省みてわずかばかりの不愉快な気持を感じるのは、人間の真心の気持ちとして逃れることができないものでしょうから、榎本武揚氏の心を察すれば、時には今の高い地位に安んじて豊かな生活をして他の思いはないことがあるのと同時に、別の時にはかつての悲惨な時のことを思いだして慚愧の思いが起こり、喜んでは悲しみ、哀しんでは楽しみ、その心は行き来して一定せず、生涯が終わるまで完全に心が安らぐことも楽しいこともないことでしょう。

 ですので、私が榎本武揚氏のために考えるには、君主から俸禄をもらって生きてきたものは、必ずしもその君主のために戦って死ぬべきだとは勧告するわけではありませんが、人間としての感情という点から他の人々に対して常に遠慮するところがなくてはならないと思います。

 昔からの習わしに従うならば、一般的に榎本武揚氏のような場合の人は、世の中から隠れて出家し、死者の菩提を弔うという事例があります。
 しかし、今の世の中の流れとして、髪を剃って出家するということも適当でないならば、ただその身を社会の見えにくい所に隠して生活を質素にし、あらゆることを控えめにして、世の中の人々の目や耳に触れないようにする覚悟を決めてこそ本望ではないでしょうか。

 要するに、明治維新の際に、江戸から脱出して新政府と戦った出来事に失敗したことは、榎本武揚氏が政治的に死んだことであり、たとえ肉体的な身体は死んでいないとしても、もはや政治的には再び生きるべきではないと諦めて、ただ自分の身を慎み、共に戦って戦死した者たちの霊を弔い、その遺族の人々の不幸や不平を慰めるべきです。

 また、それとは別に、すべて何事に限らず、大きな出来事において指導者の地位にあった者は、成功も失敗もともにその責任を引き受けて逃げるべきではありません。
 ですので、成功すればその名誉を自らが受け、失敗すればその苦しみを受けるという精神を明らかにすることは、社会を率いる人々の気風や道徳を維持する上で大切なことでしょう。

 つまり、これが私が榎本武揚氏の身の去就について希望したい点です。
 ただ榎本武揚氏一人のためだけではありません。
 一国にとっての長期的な観点から、社会を率いる人々の気風や道徳の維持のために、軽々しく見過ごすべきではない事柄です。


ポルフィの日記、2011-12-01
現代語私訳 福沢諭吉「瘠我慢の説」
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20111201/1322665564

 う〜ん、リーダーとしての資質を問うているのでしょうか。
 その榎本武揚氏にヤッホーくん、ひょんなところででっくわすのです。
 地下鉄東西線「飯田橋」で降りて出口4から地上にでたところに、開校の地碑がたっていました。
明治24年(1891)、 東京農大の原点「育英黌農業科」が、当地で産声を上げました。生みの親は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴任した榎本武揚でした。明治26年(1893)、現在の中央線である 甲武鉄道の新設工事, また農場用地取得のため 大塚窪町に移転しました。

 びっくりしたヤッホーくん、口をぽかんと開けて額から汗がしたたり落ちてきました(ヤッホーくん、暑さのせいにしていましたけど・・・今日は都心、23度と半そででよかったほど)。

 榎本武揚公(1836 〜 1908年)は、12歳から江戸幕府の昌平坂学問所で、儒学を学びました。
 26歳の時に幕府初の海外留学生に選ばれ、オランダに留学、4年余の間に洋式海軍技術や国際法、農業、工業などを学び、蘭、仏、独、露の4か国語を身につけました。
 帰国後、海軍副総裁となりますが、間もなく戊辰戦争が勃発。
 土方歳三らと共に明治新政府軍と戦いますが、敗北し、投獄されます。

 しかし、近代科学の知識と、国際事情に通じた博識を惜しんだ明治政府から出仕を要請され、農商務大臣、文部大臣、逓信大臣、外務大臣などの要職を歴任。
 近代日本の発展に大きく貢献しました。

 日本が国際社会での競争力をもつためには、安定した農業生産力の発展が欠かせないとの考えから、1891年に設立した徳川育英黌農業科が、東京農業大学のルーツです。

「教育とは、セオリー(理論)とプラクティス(実践)の二者が車の両輪のように並び行なわれることで、はじめて完全なものとなる」という確固たる理念は、「実学主義」として現在の東京農業大学にも脈々と息づいています。
 農大稲花小の子どもたちは、その最も若い後継者といえます。

教育理念「冒険心の育成」

[写真]榎本武揚公が知人に贈った「冒険は最良の師である」のオランダ語自筆

 榎本武揚公は、未知なるものにひるまず、困難に立ち向かうことの大切さを、「冒険は最良の師である」とオランダ語の書に表現して知人に贈っています。
 東京農業大学稲花小学校は、この言葉に基づき「冒険心の育成」を教育の理念とします。
 未知なる新しい世界に挑む気骨と主体性をもち、本気になって取り組み、科学的・実践的に学ぶ人間を育てます。


東京農業大学稲花小学校
(世田谷区桜3−33−1)
http://www.nodai.ac.jp/touka/about/philosophy/

 この榎本武揚の銅像が墨田区にあるのは知ってますよね:

 墨田区堤通2-6-10

 当時の東京朝日新聞の記事、大正2(1913)年5月5日(月)「榎本子爵銅像除幕式」から:

 1913年5月4日午後、故人が生前朝夕杖を曳きたる向島梅若社頭に建設されたる、故榎本武揚子の銅像除幕式挙行されたり。
 大隈伯、伊東元帥、花房子、大倉喜八郎氏等、来賓二百余名。
 委員長 中澤彦吉氏の式辞、会計報告に次いで、当主武憲子の長女千代子嬢(9才)が草色縮緬に白梅散らしの振袖姿にて、委員に輔けられて進み出で細綱を曳くや、白布の覆ひは風なきにスラスラと滑り落ちて、海軍中将の制服姿凛々しく左手に長剣を杖つきて、南面千代田城の方を望める故子爵の英姿は群衆の前に現れ、歓呼の声暫くは止まざりき。


箱田道中、2013/05/04 00:54
向島榎本武揚像 祝・建立100年
https://ikitsuku.at.webry.info/201305/article_1.html

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噺家、柳家花緑

 ムカシ、初めのころの山歩クラブの仲間から、「ヤッホーくんは“ KY ”だからな」と山歩きの帰り、打ち上げをした飲み屋の前で言われ、それがショックでその夕暮れ、話す元気が失せ、ひとり黙ってお猪口を傾けていた記憶があります。
 別にだからといって、空気を読む男なんかに無理して成長する必要もないや、と現状肯定、居直ったときに、ショックから解放されたのですが、どれほどの時間がかかったのでしょうか・・・
 今朝早く、トイレに起きてふいと枕もとのラジオのスイッチをいれたら、『明日へのことば「噺(はなし)家でよかった」噺家…柳家花緑』、思わず聞きほれておりましたァ〜

 「落語家ってバカがやる商売なんだね?」

 小学生のとき、すでに落語でテレビに出ていたボクに向かって、同級生の女の子がそう言ったのを今でも強烈に覚えています。
 でも、それはきっとその子を傷つけるような何かを、先にボクが言ったに違いないんです。

 ボクの病気「発達障害」にはそういうところがあります。
 「空気が読めない」いわゆる“ KY ”です。

 それはもう、名前からして“花緑柳家”なんで仕方ないんですけれど(笑い)。

 病気が分かったきっかけは、裏話をぶっちゃけるテレビ番組に出ることになって、幼少期の自分の通信簿を公表したことです。
 「実は小学校も中学校も主要5科目はオール1でした。けれども今は落語家として成功しています」という流れで放送されました。
 すると、ある視聴者の方から「うちの息子もディスレクシアです。花緑さんはどうやって病気を乗り越えられたのですか?」との質問が届いたんです。

 「え?」と思いました。
 ボクは病気だなんて思っていなかったので何か勘違いされていると思い、美術と音楽は5だったことを説明し、「息子さんのご病気は本当にお気の毒ですが、ボクは勉強ができなかっただけで息子さんとは違うと思います」という趣旨の返事をしました。
 すると、その方は「やっぱりディスレクシアですね」と再確認されたのです。

 気になって「ディスレクシア」を調べてみると「識字障害」とあり、まるで自分のプロフィルのようでした。
 調べれば調べるほど、自分が発達障害である確信を持ちました。
 それが約4年前のことです。

 で、昨年、自分の著書を出版するにあたり、編集者がしかるべき専門医に、私の成績表や幼少期のエピソードなどを記した文章を持っていって見ていただいたところ、「間違いなく発達障害です」とお墨付きをいただきました。
 それで、晴れて「私は発達障害です」と公表したわけです。

■ 落語のおかげで“居場所”があった

 発達障害という病気にはいろいろ種類がありまして、ボクの場合は主に ADHD と多弁症、そしてディスレクシアです。

 学校では落ち着きがなく、注意を受けてもそれを繰り返してしまい、しゃべり出すと止まらない問題児でした。
 まぁ、そのおしゃべりのおかげで今、生活できているわけですけどもね(笑い)。
 知的能力には問題ないのですが、読み書き、計算、勉強全般がダメで、小・中学ともに授業は苦痛でしかなく、テストはほぼ白紙でした。
 当時、発達障害という病名もなかったので、先生は本気で怒るし、自分でも劣等感の塊になりました。
 引きこもりや登校拒否にならなかったのを褒めてあげたいくらいです。

 ただ、ボクが恵まれていたのは身近に落語があったこと。
 9歳から始めた落語のおかげで“勉強はできないけど面白い”と認められ、クラスの中で自分の居場所があった。
 さらにいえば、家庭環境に恵まれていました。
 この病気に遺伝性があるかどうかは分かりませんが、実は、祖父で師匠の柳家小さんも子供の頃は話が止まらず、学校では問題児だったようです。
 でも、面白い話をするので人気があったと聞いています。
 その血を引いた母親も実は話し出すと止まらない人。
 だからなのか、勉強ができないことをそれほど重視していなかった。
 これがもし勉強至上主義の親だったら、ボクの居場所はどこにもなかったと思います。

 ボクは病気が分かって救われました。
 大人になってからも劣等感を抱えていましたから、「脳の障害なんだ」と寄りかかれるものができて初めて楽になれたのです。
 でも、身内は障害を認めたがらない。
 だから身内に相談できない同志がボクのフェイスブックをよりどころにしてくれています。

 見た目は普通なので、できないとサボっているとか、ふざけていると思われがちな病気です。
 だからボクのような者は、「そうじゃない、こういう病気もあるんだ」と発信する義務があると思っています。

 空気を読む努力や本を読む努力はずっと続けています。
 普通の人の何倍も脳を使わないとそれができないので疲れやすく、睡眠は8時間を心掛けています。
 おかげさまで読み書きできる漢字はだいぶ増えました。
 ただ、台本の漢字にはすべてルビを振ります。
 さっきまで読めていても「ラスト1回」といったプレッシャーで、急に読めなくなるからです。

 昨年末のサイン会では、こんなことがありました。
 色紙にその日やった演目の「芝浜」を書き足してほしいと急に言われて、分かるはずの文字が出てこなくて……。
 「浜」から先に書いたら、下に「松」と書いてしまって、我ながらビックリしました。
 「ちょっとプレッシャーがかかると芝浜が浜松になるんだな」と、最近は自らを冷静に分析しています(笑い)。

▽ やなぎや・かろく
 1971年、東京都生まれ。中学卒業後、祖父・5代目柳家小さんに入門。2年半で二つ目に昇進し、22歳の時、戦後最年少で真打ちに。
 2018年10月26日(金)、27日(土)、イイノホール(東京)で独演会「花緑ごのみ Vol.36」を開催。新作「鶴の池」(バレエ「白鳥の湖」の落語仕立て)を披露する。
 著書「花緑の幸せ入門『笑う門には福来たる』のか?」(竹書房新書、2017年8月)が発売中。


日刊ゲンダイ・ヘルスケア、2018年07月30日
落語家・柳家花緑さん

視聴者からの質問で発達障害を確信

聞き手・松永詠美子
https://hc.nikkan-gendai.com/articles/234066

このたび新書『花緑の幸せ入門「笑う門には福来たる」のか?〜スピリチュアル風味〜』を上梓した落語家の柳家花緑さん。
祖父で師匠の人間国宝5代目柳家小さん氏の教えやご自身の経験をもとに花緑さんが考えた、笑いの力や幸せとは……?

―― 新書を出された花緑さん。対談があったり、笑いに関する実験データが載っていたり、盛りだくさんの内容ですね。

「一種の“自己紹介本”になっているかもしれません。最初は“笑う門には福来たる”という言葉を、“笑う”と“門には”と“福”と“来たる”の4章に分けて、自分なりに読み解く……という趣旨でスタートしたんです。でも、分子生物学者で、スピリチュアル系の話にも詳しい村上和雄先生(筑波大学名誉教授)と対談させてもらったりするうちに、書きたいことがどんどん出てきてしまって。それを削ったり、書き直したりするうちに4年経ってしまいました(苦笑)。編集者の方もよく諦めずに付き合ってくれたなあと、感謝しています」

―― ご自身の学習障害についても書かれていますね。

「落語の“まくら”のようなつもりで書きました。そういう障害を持っているのが僕という人間で、だからこそ人生に思い悩んで、幸せについて考えたり、スピリチュアルなものに惹かれたりしながら、ここまでやってきたのは確かなので。でもそれは、あくまでも序文で、本編では僕の落語会にいらした皆さんを対象にした笑いの実験の話や、笑うと免疫力がアップするとか、血糖値が下がるとか、そういったことをまとめて紹介しています。自分が実践していることを書いたので、失敗談も多いですけど(笑)」

―― ご自身の学習障害のことを知ったのは、つい数年前のことだとか?

「3、4年前です。あるテレビ番組で、子どもの頃、音楽と図工と体育以外の成績がとんでもなく悪かったことを話したら、視聴者の方から、ディスレクシア(識字障害)ではないか、というメールをいただきまして。目から鱗といいますか、そうか、だから僕は昔から、読み書きが極端に苦手だったんだ!と腑に落ちました。それで、この本にも自分の子どもの頃の通知表を載せたんです。こりゃ、本当にひどい!って、一目瞭然ですよ(笑)」

―― ご自分で本を書かれることは、大変ではなかったのでしょうか?

「時間はすごくかかりました。でも、人に聞き書きしてもらうのではなく、自分で書きたいと思ったんです。今でも書けない漢字は色々ありますが、昔と違ってパソコンに打ち込めば変換してくれますし、何より、読み書きが不得手なのは、自分の努力が足りなかったからじゃないとわかって、気が楽になったことがあると思います。改めて、落語家になってよかった、天職なんだなと、感じますもん。師匠の噺を聴いて覚えて、人前でそれをしゃべる仕事ですからね(笑)」

―― しかも、健康にもいい“笑い”を届ける仕事です。

「そうなんです。本の巻末にも『だじゃれ小噺100連発』を載せたので、実践編のような感じで、最後に笑って、ちょっと幸せな気分になっていただけたら何よりです。若い頃は、5代目柳家小さんの孫だというプレッシャーに、押し潰されそうになったこともありました。もちろん、自分が恵まれていることもわかっていますが、今もプレッシャーは常にあります。『花緑の幸せ入門』という本のタイトル通り、まだ幸せを探している途中の僕ですが、何かしら共感してもらえたら嬉しいです」

―― 10月には35回目となる柳家花緑独演会『花緑ごのみ』を開催されますね。

「今回は“練り直しの会”として、以前に高座にかけたことのあるネタを2題やる予定です。一つは長屋が舞台の『堪忍袋』、もう一つは、志ん朝師匠や志ん生師匠が得意にしていた人情噺『柳田格之進』。しばらくやっていなかったこの2題を、今回どれだけ練り上げられるのか? 苦手だったり、イマイチだったり、無理だと思っていたものを高座にかけて、お客さんが笑ってくれると、本当に嬉しいんですよ。まだまだ課題はたくさんありますが、色々な落語を少しずつでも手の内に入れていきたいなと思います」


家庭画報.com、2017/09/07
柳家花緑さんが考える、笑いと幸せの関係
https://www.kateigaho.com/love/5395/

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生きづらい社会

 150年前の今日、元号が「慶応」から「明治」に改められた。。。
 国の形を整え、「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」をスローガンに欧米に追いつこうと努力をし、急速に社会を近代化させていった「明治」は、日本がまさに「坂の上の雲」を見上げながら駆け上がった時代だった。

明治維新が人々の考え方をどう変えたか

 ただ、そういう「明」の側面だけではない。
 安倍首相も「光と影」と述べたように、「光」が強ければ、「影」の闇も濃い。
 そして、「光」の恩恵が今の私たちにも及んでいるように、「影」についても現代にまで長く、私たちの中に留まっているようである。

 岩波ジュニア新書『生きづらい明治社会・不安と競争の時代』(松沢裕作著、2018年9月)を読んで、そんなことを考えさせられた。明治時代を研究してきた歴史学者の松沢氏は同書で、この激動の時代を生きた市井の人々にまなざしを向けて様々な出来事を紹介しつつ、今とのつながりを考察している。ご本人が「私は歴史学者なので、現在おきていることを厳密に分析する専門的な知識をもっていない」と述べているように、現代の政治に関する評価には必ずしも疑問なしとしないが、人々の価値観や社会のありようについての分析は実に興味深く読んだ。

 明治時代は、「現在の政治、経済、社会の土台が築かれ」た(安倍首相の式辞より)だけでなく、それにともなって人々の価値観、道徳観も大きく変容した。松沢氏は、明治維新と人々のものの考え方について、こう総括している。
 明治維新という大きな変革は、江戸時代の社会の仕組みを壊しました。
 江戸時代の村請制*による連帯責任のように、相互に助け合うことを強いられていた人びとの結びつきはなくなります。
 できたばかりの小さくて弱い政府は頼りになりません。
 頼りになるのは自分の努力だけです。
 こうした状況のもとでは、ともかくも人はがんばってみるしかありません。
 がんばって成功した人は、自分の成功は自分のがんばりのおかげだと主張します。
 成功しなかった人は、ああがんばりが足りなかったのだなあと思い込むようになります。。。
 がんばって働き、倹約して貯蓄すれば、かならず経済的に成功をおさめることができる。貧困におちいるのは、がんばっていないからだ。
 これが明治時代のメインストリームの価値観、「通俗道徳」でした。


「立身出世」の夢と「都市下層民」の現実

 明治社会では、どの家に生まれるかによって人生がほぼ決まっていた江戸時代とは異なり、すべての子供が義務教育を受けることになり、たとえ貧しい家の出身でも、優秀であれば高等教育を受け、役人や軍人などとして出世することも不可能ではなかった。
 多くの若者が「立身出世」を夢見てがんばった時代。

 しかし、がんばっても、誰もが成功するとは限らない。
 運が悪く、あるいは置かれた環境が劣悪で、いくらがんばっても、貧困から抜け出せない人たちもいる。

 「都市下層民」たちには、住居を持てない者も少なくなかった。
 布団を買うだけのまとまった金もなく、貯金をするゆとりもない。
 そんな彼ら向けの布団のレンタル業もあった。

 この時代、貧困に苦しむ人たちには、どういう支援があったのか。
 これについての、本書の記述が、当時の人びとの価値観を表していて興味深い。

明治時代の貧困対策

 貧困層の対策として、政府は1874(明治7)年12月8日に「恤救(じゅっきゅう)規則」という法令を制定する。
 未だ大日本帝国憲法が発布する前だ。
 現在の生活保護の源流だが、その性格はまったく異なる。

 そこでは、貧困対策は「人民相互の情誼(じょうぎ=情愛)によるべし」として、民衆が相互の助け合いで行うべきだという基本的な考え方が示されていた。
 そのうえで、
 (1)障害者、
 (2)70歳以上の高齢者、
 (3)病人、
 (4)13歳以下の児童であって、
かつ
 (a)働くことができず、
 (b)極めて貧しく、
 (c)独り身
である場合には、一定の食費を支給することとした。

 つまり、働くことができないほど弱り、頼る相手が誰もいない孤独な人だけが、支援の対象となった。

第1回帝国議会で出された「窮民救助法案」は

 その後、1889(明治22)年2月11日に大日本帝国憲法が制定され、法律を制定するためには、帝国議会の賛成が必要になった。

 1890(明治23)年11月、第1回帝国議会に、政府は恤救規則に代わるものとして「窮民救助法案」を提出した。
 救済の条件として(c)独り身であることが除かれ、戸籍上の家族がいても、実際に飢餓に瀕している者は救済することになっていた。
 市町村に、救助の義務を負わせたのも新しい点だった。
 最初の国会に、政府提出の第1号法案として出しているところを見れば、時の政府も貧困対策は大事だと考えていたのだろう。

 ところが、である。

 選挙で選ばれた国民の代表である衆議院は、この法案を否決してしまう。
 議員が反対した理由を、同書では次のようにまとめている。
第1の理由は、自治体に困窮者を救う「義務」があるならば、困窮者には「権利」があることになってしまう、という議論です。…議員たちは、そうした権利をみとめることは理にかなっていないと考えました。なぜなら、困窮に陥ったのは、その当人が、働き、貯蓄をするという努力をおこたった結果だと考えたからです。当人が怠けた結果である貧困を、税金として集めたみんなのお金をつかって解決するのはおかしい。貧困は自己責任であって、社会の責任ではない。むしろ、こうした法律をつくってしまえば、人びとは万一に備えて貯蓄することをしなくなり、怠け者が増えてしまう。議員たちはこのように主張しました。

 第2の理由は、恤救規則で充分であって、新しい法案は必要ない、というもの。
 第3の理由は、日本人はみな貧しく、生活にはそれほど余裕がないのだから、困窮者対策の負担を負わせるのは適切でない、というものだった。

 政府は貧困対策を(少しは)前進させようとしたのに、国民の代表たる議会が、貧困は自己責任だ、助ければ怠け者になる、という発想で反対したのだ。

 法案が否決されたため、恤救規則は生き続ける。
 1929(昭和4)年になって、ようやく「救護法」が制定されたが、財政不足を理由にすぐに施行されなかった。
 同法が実際に施行されたのは3年後の1932(昭和7)年になってからだった。

東京府議会では……

 帝国議会での「窮民救助法案」を巡る議論より9年前、東京府議会でも、貧困層の医療費を巡る論争があった。

 当時は、現在のような健康保険制度はなく、医療機関にかかれば全額負担で、貧困者は医療を受けることが難しかった。
 そのため、貧困者が病気にかかった時は、申請によって医療クーポン「施療券」が交付され、これによって無料で治療が受けられる仕組みだった。

 ある府議会議員は「施療券をもらって入院をもとめる貧困な患者をみると、自己管理ができていなくて、体を大切にしなかった結果のようなものもいる」として、この制度を批判した。

 これに反論する者もいて、ジャーナリストが新聞で「貧困者を救済するのは社会の義務」という論陣を張った。

 しかし、結局1881年の東京府会で、貧困対策の費用は削減され、施療券も廃止されてしまった。
 病気も含めて「自己責任」の主張が勝ったのだ。

 松沢氏は、「弱者に冷たい明治社会」が出来上がったのは、憲法が今のように生存権を保証していなかったことだけでなく、多くの人びとが「成功したのはがんばったから。貧困に陥ったのはがんばりがたりなかった」という「通俗道徳のわな」にはまっていったことが原因だと指摘している。

生存権を認めた日本国憲法の下で

 明治維新から150年。
 今、この国には日本国憲法があり、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、国民の生存権を保証している。
 生活保護をはじめ、様々な制度もある。
 かつてと比べて、私たちの社会は大きく進化した。

 その一方で、明治の頃、「光」と共に人びとの心の中の差し始めた「影」が、今を生きる人たちの心にも残ってはいないだろうか。
 かつての帝国議会や東京府会での議論と似たような物言いを、最近も耳にしたような気がする(ヤッホーくん注)。
 明治の人たちが陥った「通俗道徳のわな」から、私たちもまた、解放されていないのではないか。

 若い世代に限らず、そんなことも含めて、明治の「光と影、様々な側面」を考えるきっかけに、この「明治維新150年」がなればいいと思う。

*「村請制」……領主に支払う年貢を、村単位の連帯責任で負担する制度。1人の農家が困窮し年貢が払えなくなったり、借金で土地を失って村から出て行ったりしても、村は同じ額を負担しなければならない。そのため、困窮した農民を助けたり、土地を失わないように配慮したりすることが、村全体の利益でもあった。
 明治維新後、「地租改正」により、土地をもっている一人ひとりの家の戸主が税金を納めることになった。税金が払えない人がいても、その人の財産が差し押さえられるだけで、他の村人の納税にはまったく影響しない。

Yahoo Japan! News、10/23(火) 18:12
明治150年・あの時代から続く「通俗道徳の罠」を考える〜
『生きづらい明治社会』を読んで
江川紹子、ジャーナリスト
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20181023-00101500/

(一例)
 麻生太郎財務相は23日の閣議後の記者会見で、不摂生の結果、病気になった人への医療費支出を疑問視する見方を示した。
(2018/10/23 12:50 共同通信社)
・・・あるコメント・・・ 「ナチスもいいことした」「ナチスを見習え」と発言しているアホウ太郎。国に迷惑を掛ける奴等は消したらいいという考えが透けて見える。安倍信者の植松容疑者が相模原で障碍者の大量虐殺したのも、安倍政権が定期的に発している暗黙のメッセージに反応したもと言える。安倍政権こそが「反社会的」だ。。。



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The Japanese diet and health

The Japanese can teach us valuable lessons about eating right and living well and long writes Meera Murugesan

THE Japanese are known for their longevity. It’s a country with many elderly people including a significant number of centenarians.
One often wonders what is it in their diet or lifestyle that makes them not only live longer but have active, productive lives well into their golden years.

In 2017, the World Health Organisation placed Japan as one of the healthiest nations in the world with an average life expectancy of 83.7 years.
In Japan itself, the prefecture of Okinawa has the highest number of centenarians, believed to be more than 1000.
The people in the prefecture are known for their lifestyle which is closely associated with the ocean and a diet that draws its food source mainly from the sea.

The link between Okinawans and longevity has been the subject of much research and study, as to how their eating habits and lifestyles could teach the rest of us about healthy living.

Dr Bejit Ideas, laboratory director of MI Innovation Labo Tokyo who has been studying the reasons behind Japanese longevity says people today are constantly searching for answers on what to eat or how to live in order to be healthy.

The answer he explains lies with people who have already succeeded at living and those are the centenarians.

“Instead of starting at the beginning, we should start with people who have already succeeded at the art of living and reached 100 years and beyond in very good health. If you want to be rich, you sit down with someone who is already rich and ask them how they did it and it’s the same with healthy living. Talk to people who have already done it.”

The Japanese centenarians he adds have not only achieved longevity but reached that point in very good shape, with no mental problems, major health issues, diabetes, skin damage or even inflammation problems.

Ideas stresses that this is crucial because living longer is one thing but the ability to live well beyond your peers in relatively good shape is exceptional.

“These people did not have problem free lives, they went through stress, divorce, problems with family and work, faced all kinds of adversity but they still reached 100 and above in very good shape. How did they do it?”

THE LAND OF IMMORTALS

The people of Okinawa, like many Japanese have a diet that includes plenty of fish and other seafood, including raw fish, green vegetables, seaweed and soy bean products and they are knowledgeable about the benefits of a balanced diet and how cuisine can also be medicine.

Fermented food, which is known to increase good bacteria in the gut and improve wellbeing also plays a major role in their diet.

While most people around the world start the day with cereal, coffee and toast or dairy products, the Japanese do so with something more traditional like tofu, miso soup and even fermented dried fish as a side dish.

Miso is a Japanese seasoning made by fermenting soy beans with selected ingredients.

Mika Tsuneyoshi vice president of licence and business development for MI Innovation Labo Tokyo, says it’s customary for Japanese mothers to make time to cook and prepare a healthy, balanced breakfast for their families and fermented food plays a key role in all main meals.

“As a child, I had to be forced to drink miso soup for breakfast but now I know the huge benefits it offers the body.”

The Japanese diet on the whole contains a wide variety of fish and there’s a good balance of nutrients in each meal she adds.

“We don’t just eat to live but care about what we eat.”

She says that centenarians have very unique microbiome in their gut and this is linked to their diet and lifestyle which is very connected to nature, particularly the ocean.

Basically, what they eat and their lifestyles influences their genes.

“It’s important to have your gut well balanced because it’s linked to everything, from your immune system to how your brain functions and how our genes express themselves.”

While Japanese do have more of these beneficial microbiomes in their bodies compared to people from other countries, those from Okinawa have even more than the average Japanese which explains why the area has more centenarians than other states in Japan says Dr Celine Valentine Caillaud, clinical trial director of Innovation Labo Tokyo.

Their lifestyles are connected to the sea and ocean produce like seaweed and seafood, both of which offer these good microbiomes.

“Raw fish in their diet also makes a difference. Fish has a certain microbiota and when you consume raw fish, you also ingest that microbiota.”

THE SECRETS OF THE SEA

Ideas agrees. While the Japanese diet is rich in fish and algae, it’s what inside these items that counts he says.

If it’s just standard vitamins and minerals or proteins we could get it anywhere from other foods.

But he believe the secret, invisible thing contained in these oceanic foods is bacteria from the sea and when we eat fish, we ingest this beneficial bacteria. Algae delivers it too which is why both are important components for longevity.

“The problem today is not what we have in our diet but what we don’t have and that is this bacteria. We have become disconnected from bacteria,” says Ideas

He explains that we have labeled all bacteria as “criminal” so we over sanitise everything, from the food we eat to the things we come into contact with and this means we miss out on beneficial bacteria which promotes health and wellbeing and longevity too.

And it’s not just about having good bacteria but strong good bacteria he stresses, the kind which can take a sick person and revive him or her.
In Okinawa if a child is sick, it’s traditional for parents to prepare some soup and bring the child to a centenarian’s house. The centenarian will consume half the soup and the remainder will be fed to the child who usually recovers soon after.

Ideas says this happens because of the transfer of strong good bacteria from the centenarian to the child and in many old civilisations this used to be the practice of healing.

Bacteria has been around for four billion years so it’s a potent force we are dealing with he adds.

But because we tend to over sanitise, over clean, not get dirty or use too much antibiotics, we are restricting our ability to acquire or retain good bacteria, especially, strong good bacteria.

“People with strong good bacteria don’t fall sick easily, don’t get tired and are even mentally more resilient. They can laugh off the things that happen to them. The centenarians for example, are highly optimistic. It is not just their personality. It’s something inside them that gives them this resilience.”

They also have an amazing memory and can still recall their younger days accurately, whether it’s their childhood, family members, their work or business or even how they used to prepare meals.

And the centenarian woman tend to have very good skin.

Ideas says healthy skin is a reflection of a healthy mind as the skin and mind is interconnected. If someone is stressed, we will see it reflected in their skin.

“The skin absorbs everything. Our skin is intelligent. It’s the wifi of the human body”.

OCEAN BOUNTY

THE centenarian gut study by Innovation Labo revealed that healthy Japanese centenarians have a higher ability to combat inflammation compared to average humans.

This is due to the unique variety of human microbiome (healthy bacteria) that resides in their bodies.

This finding has allowed Innovation Labo to engineer a solution to replicate the characteristics of the unique bacteria found in Japanese centenarians using advanced fermentation technology and marine algae.

This will have implications on healthy ageing and the body’s ability to fight inflammation, thus reducing the risk of conditions such as diabetes, obesity and cardiovascular diseases.

JAPANESE LONGEVITY TIPS

Stay Active
Most elderly Japanese including centenarians remain very mobile. They walk, ride bicycles, pursue hobbies and generally lead a life that’s not isolated or confined indoors.

Socially Connected
The elderly are respected and valued and always included in their respective communities in Japan. This benefits their mental wellbeing.

Hara Hachi Bu
This Japanese saying essentially means never over eat but stop when you are about 80 per full. This ensures that the Japanese calorie intake is lower than most people.

THE JAPANESE DIET AND HEALTH

* Light cooking – pan frying, grilling or steaming

* Fresh food – plenty of vegetables and a wide variety of fish including raw fish.

* Small portions – a variety of food at each meal but in small portions and presented in a visually appealing manner.

* Food is enjoyed slowly – this ensures meal satisfaction and better digestion.

* Less meat and dairy – the diet focuses more on seafood and vegetables.

* Taurine rich food: such as squid, octopus.

* Foods rich in fucoidans: such as seaweed.

* Flavonoid foods: such as tofu and fermented soy products like miso.

Sources:
* “Longevity Secrets: 6 Reasons Okinawans Live to Be Older than 100” - naturalsociety.com,
* “7 Japanese Habits That Ensure a Long Life” – www.ba-bamail.com
* “ Longevity Diet - The Secrets Behind Japan’s High Life Expectancy” – www.letsreachsuccess.com

[photo-1] Seaweed is an important component of the Japanese diet.

[photo-2] The Japanese have perfected the art of healthy ageing.

[photo-3] The secret to good health and longevity lies with the centenarians.

[photo-4] Miso paste which is made from fermented soy bean increases good bacteria in the gut like many other types of fermented food.

[photo-5] Fish features hugely in the Japanese diet, especially for those from Okinawa.

[photo-6] Ideas believes good, strong bacteria in the body is the key to Japanese longevity.

[photo-7] The elderly remain active members of their community in Japan.

[photo-8] Japanese meals contain a variety of food but in small portions.

The New Straits Times, Published: October 23, 2018 - 8:00am
Look east for longevity
By Meera Murugesan
https://www.nst.com.my/lifestyle/heal/2018/10/423800/look-east-longevity

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2018年10月23日

朝日新聞から三題噺

 憲法という檻にポチを入れ、主権者であるコクミンが逃げ出さないよう、見張って平和を保ってきたクニも、ポチに餌をやる飼育員もおり、ポチは自分は狂犬だ、ライオンだと勘違いし、檻をやぶって外に出て、今や好き勝手放題。
 とりあえず明日の「国連の日」を前にした、2018年10月23日(火)「霜降」の動きを朝日新聞から。
 英米などと大違い、この国の朝日など大手のメディアは、記事を検索しても「有料」で、お金のないヤッホーくんのような庶民、平民、貧民には、とうていアプローチできません。
 それが今日はどうしたことか、三題とも引用でき、とてもうれしく思います、だって。
 ヤッホーくん、自転車に乗ってスーパーでなくお肉屋さんに走って「霜降り肉」でご馳走、と思い財布をのぞいていましたが、あら、財布を逆さにして「ふって」いますよ。
 なんにも落ちてきませんねぇ〜、ゴミひとつも。 
 では、削除される前に:

 「憲法族」と呼ばれる自民党のベテランが、国会の憲法論議の第一線から退く。
 衆院憲法審査会で長らく幹事として与野党折衝にあたってきた船田元、中谷元の両氏が党内人事で幹事から外された。
 臨時国会からは新藤義孝氏や下村博文氏ら首相に近い議員がその任にあたる。

 国会に憲法調査会ができた2000年以来、与野党の協調と合意による憲法改正をめざしてきたのが憲法族だ。
 2007年にはこの路線から国民投票法を成立へと導き、改憲への法的手続きをととのえた。

 船田氏らの交代には改憲の議論を加速する狙いがあるが、数の力による採決強行が目につく一般の法案審議と同様に、自民が憲法でも強硬路線をとる懸念が出てきた
* * *
 幹事交代には首相官邸の意向が働いた。
 安倍晋三首相の周辺からとりわけ不興を買っていたのは船田氏だ。

 先月の党総裁選。
 憲法に縛られる立場でありながら自ら改憲の旗を振る安倍首相の姿勢に「同調できない」と批判、白票を投じた。

 さらに、改憲の是非を問う国民投票でのテレビCM規制を求める野党中心の議員連盟の会長に就いたことが、かねて首相周辺が抱いていた「野党に譲りすぎ」との不満を決定的にした。
 船田氏はもともと「憲法のほころびを正したり、汚れをとったりすべきだ」という「憲法古着論」を唱え、9条改正も必要だという立場。

 ただ、改正するならば少なくとも野党第1党の賛成を得て発議し、過半数にとどまらず大多数の国民が賛同する内容であるべきだというのが憲法族としての考えだ。
 与党とその補完勢力で発議し、国民投票で過半数さえとればいいという安倍首相の方法論とは大きな違いがある。

 安倍政権で船田氏が更迭されるのはこれで2回目だ。

 2015年6月4日、衆院憲法審に参考人として呼ばれた3人の憲法学者が、審議中の安全保障関連法案をそろって「違憲」と断じ、野党の攻勢や反対世論を強めるきっかけとなった。
 与党筆頭幹事だった船田氏は「戦犯」とされ、筆頭幹事と党憲法改正推進本部長の職から降ろされた。
* * *
 それ以来、首相周辺からはにらまれる存在だった。
 それでも再び更迭されるのをいとわず首相の姿勢への批判を続けたのはなぜか。

 「外されるのをおそれ、唯々諾々と首相の路線に乗って憲法審の現場で対応をするのは自分をだますことになる。それで改憲が実現しても、達成感はない。ならば自分の気持ちをきちんと話した方がいいと思った」と船田氏はいう。
 「首相の路線では改憲はたぶんできないだろう。その後のステージで、何かがまた巡ってくるかも知れない」

 安倍首相が掲げたように臨時国会で党の改憲案を示すには、まずは憲法審で継続審議となっている国民投票法改正案を採決することになる。
 性急な採決には立憲民主党などの抵抗は必至。
 会期が限られる中、自民の新体制が強硬策への誘惑に駆られるのを自制できるのか。
 憲法論議の先行きを占う試金石だ。


朝日新聞、2018年10月22日05時00分
更迭されても、
「憲法族」の意地

編集委員・国分高史
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13734426.html

 この「壊憲」もいよいよ正念場。上述に登場する船田元、それにこのニュースにさっそく反応したヤッホーくんのお慕い申し上げているお医者様のコメント、この二つを補記しておきます:

 10月24日からいよいよ臨時国会が始まる。
 相次いだ災害の復旧費用や、人手不足を解消するための外国人在留資格の追加などが議論されるが、憲法改正のための話し合いも憲法審査会を中心に展開される予定である。

 ところが自民党の筆頭幹事であった、中谷元氏と次席の私、船田元の名前は名簿から削除されてしまった。
 中谷氏は先の総裁選で石破候補に投票したこと、私は以前から安倍総理の憲法改正に関しての前のめりのご発言に懸念を示し、総裁選で白票を投じたことがその理由と言われている。

 さらに二人はかつて野党との話し合いを重視しつつ憲法改正を進めると言う、中山太郎元憲法調査会長の路線を受け継ぎ、「中山学校」とも「協調派」とも呼ばれていた。
 今回はこれに代わって、いわゆる「強硬派」と呼ばれる安倍総理に近い方々が、野党との交渉の前面に立つこととなった。

 振りかえれば確かに、協調派の審査会運営は野党の意見も尊重しながら、丁寧に運営して来たと自負している。
 外部から見ると時間がかかりすぎている、野党に譲歩し過ぎているとの批判も受けて来たが、お互いの信頼関係の上に、国民投票法の改正など成果を出して来たのも事実である。

 なぜそうして来たかといえば、両院の3分の2以上の賛成による国会発議のルールは、出来る限り幅広い合意がなければ前に進めないことを示している。
 さらに重要なことは、憲政史上初めてとなる国民投票で過半数の賛成を得るためには、少なくとも野党第1党との合意、あるいは了解が必要だからである。
 野党の反対を押し切って、3分の2で国会発議が出来たとしても、国民投票で過半数の賛成を得られるかは保証できない。
 むしろ得られなくなる可能性が高い。
 新たに野党との交渉に当たられる方々には、是非とも丁寧な審査会運営を心がけていただきたい。

 しかし今回の人事は、それでは待てないとする強硬派によって審査会を運営すると言うメッセージを内外に示したのである。


BLOGOS、2018年10月22日 15:11
憲法協調派外れる
船田元
http://blogos.com/article/333358/

 憲法「改正」は、国民の議論をベースにして、丁寧かつ闊達な議論を国会で戦わせ、多くの国民の理解をえて行うべきものだ。
 一党、ましてや一政治家の野望のために行うべきものでは決してない。

 だが、安倍首相は、憲法「改正」を行い、我が国を戦前の体制に復帰させるという野望、それを行った政治家として歴史に記録されたいという野望を隠さず、強硬に憲法「改正」に突き進んでいる。

 憲法調査会は、本来超党派的に憲法の在り方を議論する場だった。
 だが、安倍首相は、国会運営と同じく、ここでも強硬路線で突っ走る積りのようだ。
 野党との議論を重視してきた船田元、中谷元議員を同会から外した。

 国民投票法にも、様々な問題が指摘されている。
 有効投票率の規定がない、
 投票2週間前まで宣伝広告は打ち放題、
 宣伝広告にかける費用の制限がない、
 海外からの資金導入も否定されていない等々。


 テレビしか情報源を持たない国民が多く存在する。
 彼らに繰り返しテレビでの宣伝が行われたら、世論がどのように動くか予測がつかない。
 また、海外からの資金によって、憲法が特定国のために都合よく改変される事態もありうる。

 安倍首相による、この路線は想定内のものだ。

 改憲が不要であるという立場に立つならば、
 地方自治体選挙で政権与党に否を言い続けること、
 地方自治体の政権与党政治家に改憲への危惧を伝えること
だろう。

 すでに、地方では安倍政権への否の声が大きくなっている。
 地方自治体議員の声が中央に届けば、安倍政権も改憲に突っ走ることはできなくなる。

 安倍首相は、改憲国民投票で改憲が否決されても、政権の座に留まると述べている。
 それほどに、無責任な政治家なのであるから、地方からの否の声には敏感に反応するはずだ。
 今のところ、これが唯一、そして強力な改憲阻止のための策だ。


 では、ここで朝日新聞から、二つ目の記事:

 明治維新150年を祝う政府の記念式典が23日、東京・永田町の憲政記念館で開かれた。
 10月23日は元号が慶応から明治に改められた日にあたり、与野党の国会議員や各界の代表者ら約350人が出席した。

 安倍晋三首相は式辞で「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」と強調。
 そのうえで「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べた。

 佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年式典の際は、昭和天皇と香淳皇后が出席したが、今回天皇、皇后両陛下は出席しなかった。
 宮内庁は「政府からお声がけがなかった」(西村泰彦次長)としている。

 共産党は「明治150年の前半は侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史。丸ごと祝い、肯定するような行事には参加できない」(小池晃書記局長)として欠席した。


朝日新聞、2018年10月23日13時30分
政府が明治維新150年を祝う式典

天皇陛下は出席せず

二階堂友紀
https://www.asahi.com/articles/ASLBR35NBLBRULFA002.html

 さらに、三つ目通り:

 安倍外遊はとどまることを知らない。
 欧州から帰って来たと思ったら、また10月25日から訪中する。
 私が外務官僚の時は、外遊といえば国会が休みのすき間を狙って計画を組むものだったが、いまでは外遊のすき間を見つけて国会を開くことが当たり前のようになってしまったごとくだ。
 しかし、今度の訪中は、これまでの安倍首相のパフォーマンス外遊と違って重要な外遊だ。
 その意義は大いに認めてしかるべきだ。
 なにしろ、日中平和友好40年を祝い、それをきっかけに、尖閣国有化以降冷え切って来た日中関係を改善するものであるからだ。
 本来なら、安倍首相もメディアももっと大騒ぎをしてもよいはずだ。
 しかし、訪日を明後日に控えているというのに、安倍首相もメディアもなぜか喧伝しない。

 その理由を10月23日の朝日新聞が見事に教えてくれている。
 米中対立が深まる中、「習近平主席が安倍首相に近寄ってきた」という宣伝文句とは裏腹に、実は安倍首相が習近平主席の中国に近寄ったからだ。
 すなわち、北方領土問題でプーチン大統領とうまくいかず、いつ米軍を撤退させて日米同盟の根幹を揺るがすかわからないトランプ大統領に身構える安倍首相は、通産官僚出身の今井尚哉秘書官のシナリオに沿って、それまで消極的な一帯一路を一転して評価し、中国との経済関係改善に舵を切ったというわけだ。
 しかし、それがすんなりうまく行くなら、もっと喧伝しているはずだ。

 それを喧伝できないもうひとつの理由があるのだ。
 それは、急速に日中が経済関係を深めると、いつ何時、米国が横やりを入れて来るかわからないからだ。
 安倍首相よりはるかに敏感な財界団体幹部はこう恐れている。
 「我々が日中関係を見る場合の変数には米国が入ってくる。米国がどう介入してくるかで、がらっと変わるかもしれない」と。

 そして、やはり安倍首相の歴史認識だ。
 安倍首相がその間違った歴史を改めない限り、中国との真の友好関係は築けない。
 反日事件が起きればすべては水泡に帰す。
 そのおそれが今度の安倍首相の訪中でも消えないのだ。

 そして、最後に、どのメディアも書かない、もうひとつの喜べない理由がある。
 それは今度の安倍訪中は習近平主席の招待ではなく、李克強首相の招待であるということだ。
 つまり中国から見れば安倍首相は習近平による国賓ではなく、トランプ大統領や韓国の文在寅大統領と同等に扱ってもらえないのだ。
 その一方で、来年、習近平主席が来日した時は、習近平主席は天皇陛下の国賓となるのだ。
 象徴天皇制の日本であるから、やむを得ない面は確かにある。
 しかし、習近平主席の判断一つで、それはどうにでもなるのだ。

 習近平主席は、意図して世界に自分は安倍首相より一段高い立場にある事を表明しているのだ。
 それがわかっているから、安倍首相も、そして安倍首相を忖度するメディアも、今度の安倍訪中を熱烈歓迎できないのである。

新党憲法9条 論説記事、2018-10-23
安倍首相とメディアが安倍訪中の成功を喧伝出来ない理由
http://kenpo9.com/archives/4324

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アイヌの視座から

 ヤッホーくんのこのブログ、2011年01月26日付け日記「INAXギャラリー1」をぜひお読みください。
 それ以来、幾度となく言及してきたのが松浦武四郎(1818−1888)!
 例えば、2012年05月22日付け日記「国際基督教大学」ですね。
 まずは東京新聞、からです:

 広大な国際基督教大学(ICU)のキャンパスの小道を進むと、周囲はいつの間にか、軽井沢のような別荘地の趣に。かやぶきの表門に「泰山荘」の文字。案内してくれたICU湯浅八郎記念館学芸員の原礼子さん(54)は「門の屋根も三年前に修復したばかりなんです」と維持の労苦を説明した。
 泰山荘は1939(昭和14)年、当時日産財閥の重役だった山田敬亮氏が別荘として完成させた。現存するのは6棟。最も知られる中心的な存在がかやぶきの建築物「高風居」の中にある「一畳敷」と呼ばれる書斎だ。さかのぼれば、その沿革はロマンにあふれている。
 「北海道」を名付けた探検家として知られる松浦武四郎氏が生前、全国の著名な神社仏閣から寄贈を受けた柱、壁板などを使って1886(明治19)年に造り上げた。当初は千代田区内の自宅にあった。松浦氏は一畳敷を構成する約90の柱などの寄贈元の神社を「木片勧進」として記録に残し、1888年他界。「一畳敷を解体してだびに付してほしいとの遺言にかかわらず、遺族はその価値の高さから保存を決めたんです」と原さん。
 日本初の私設図書館「南葵(なんき)文庫」を創設した紀州徳川家当主、徳川頼倫(よりみち)氏が一畳敷の存在を知り、港区の麻布に移築。1923(大正12)年の関東大震災の被災を免れ、1924年には徳川家の移転に伴い、代々木上原へ。そして前出の山田氏の泰山荘建設に伴い、現在の三鷹市へ。
 1940年には山田氏から富士重工の前身で、戦時中、名戦闘機を送り出した中島飛行機会社の中島知久平氏に敷地を譲り、泰山荘は中島氏へ。こうした変遷の結果、大震災、東京大空襲による焼失を免れる。
 中島氏は戦中、そして戦犯に問われた戦後も泰山荘の書院に蟄居(ちっきょ)し、世を去ったという。
 一畳敷だけではない。門近くの車庫は昭和の初め、都心から車でやってくる客のために造られた。国の文化財登録(1999年)の調査で訪れた文化庁職員も「非常に珍しい」と驚いたという。高風居の敷居の一部は戦艦「三笠」のチーク材だった。泰山荘を離れ、「もし一畳敷が火葬に使われていたら…」。
 見識あふれた先人たちに感謝した。

保存のため学生も一役
 泰山荘の価値に気付き、歴史をまとめたのは1985−87年、米カリフォルニア大東京スタディーセンター長を務め、ICUでも教えたヘンリー・スミス氏(現コロンビア大教授、日本近代史)だった。だが、学生も保存のために動いている。
 2000年、有志が「泰山荘プロジェクト」を始動。毎年11月初めの「ICU祭」で公開される「一畳敷」などの定期的清掃を続けている。教養学部3年の伊藤敬子さんは「入学するまで知らなかった」。同鴨川佳奈さんは「過去の人が触れたところをぞうきんがけしていいのだろうか、とも思ったりもします」。茶道部も使用する茶室。学生の保存活動がその価値を語り継ぐ。
 JR中央線武蔵境駅南口から小田急バス「国際基督教大学」行きで終点まで約10分。東京都三鷹市大沢3の10の2。泰山荘公開は原則11月の「ICU祭」で。問い合わせはICU広報センター Tel 0422(33)3038 へ。


東京新聞、2008年5月28日
数々の難を逃れた一畳敷
泰山荘(東京都三鷹市)

三橋正明 
http://www.tokyo-np.co.jp/tokyoguide/hold/architects/CK2008052802000117.html

 ん?今年の「ICU祭」は、と思いましたらもう終わっていました、ザンネン!
 でも今年、ヤッホーくん、とっても良い本に巡り合っていました、それは:
 河治和香『がいなもん 松浦武四郎一代』(小学館、2018年6月)

 次も東京新聞、からです:

 激動の幕末、蝦夷地(えぞち)を探査して詳細な地図を作り、北海道の名付け親にもなった松浦武四郎(1818−1888)。
 本書は、晩年の武四郎が大作を依頼していた絵師の河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の家を頻繁に訪れ、暁斎の娘・豊(とよ)を相手に昔語りをする形で展開する伝記小説である。

 現在の三重県松阪市の地士(じし)(郷士)の家に生まれた武四郎は、16歳のときに出奔したのを皮切りに、旅また旅の日々。
 そのなかで北から迫るロシアの脅威を知り、6回にわたって蝦夷地探検を断行する。

 表題の「がいなもん」とは、出身地の言葉で、途方もない、とんでもない、という意味だが、確かにすごい人物なのだ。
 特に感心するのは蝦夷地の先住民族アイヌへの思いの深さ。
 武四郎は、自然や人びとに寄り添って生きるアイヌの姿にゆかしさを感じる一方、業者と結託した松前藩の圧政に憤る。
 男は強制労働に駆り出され、女は和人の妾(めかけ)にされるというありさまで、人口は激減。
 彼は「蝦夷地の開拓も大事だが、アイヌの救済こそ最優先の課題である」と幕府に繰り返し文書で訴えている。

注目したいのは蝦夷地を探検する前の十数年で、彼は日本全国を歩いている。その放浪中に病気になったとき山の民に助けられ、差別されていた山の民が実は非常に知恵のある人たちであることを知ったのです。だから、アイヌの人たちと会ったときも、他の和人のように見下したりしないで、対等に付き合うことができたのでしょう

 武四郎は新政府に呼ばれて役人になり、1869(明治2)年には蝦夷地に代わる名称の選定に関わる。
 道内の支庁名や郡名の名付け親にもなっている。
 その彼が明治になってから一度も北海道に足を踏み入れていないのはなぜだろうか。

彼はアイヌの人たちのことを心から心配していたけれど、明治になってもアイヌへの差別は変わらない。結局は、自分は何もできなかったのだという忸怩(じくじ)たる思い、挫折感があったのだと思いますね

 河治さんは江戸の絵師や風俗に詳しく、シリーズ「国芳一門浮世絵草紙」(全5巻)などの作品がある。
 5年前に小説にした浅草駒形の老舗のどじょう屋「駒形どぜう」が、松阪にルーツを持つ味噌(みそ)屋「ちくま味噌」(**)と古くから取引をしていた。
 その味噌屋の当主から松阪の射和祇園祭(いざわぎおんまつり)に誘われたことが、ことし生誕二百年の武四郎と出会うきっかけになったという。


(*)https://www.dozeu.com/history/
(**)http://www.chikuma-tokyo.co.jp/eitai-br.html

東京新聞、2018年7月29日
アイヌへの深い思い
『がいなもん 松浦武四郎一代』作家・河治和香さん
 
後藤喜一
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/kakuhito/list/CK2018072902000169.html

 ん?今年は、松浦武四郎が生まれて、200年目の記念すべき年?
 ん?そして「北海道」と命名して北海道となって150年目の年?
 またも東京新聞、からです:

 かつて「蝦夷(えぞ)地」と呼ばれた北の大地が、1869年に「北海道」と命名されてから、今年で150年目。
 2018年8月5日には記念式典も開かれる。
 その開拓の歴史と未来を先住者「アイヌ」の視点で考えよう。

北海道とアイヌ
 アイヌの天地だった蝦夷地に江戸時代以降、和人の進出が本格化。
 明治政府も開拓事業を展開、1869年に探検家・松浦武四郎の提案で「北海道」と命名した。
 開拓が進む中、アイヌは生活圏を奪われ、多くの悲劇が生まれた。
 1997年に「アイヌ文化振興法」が成立したが、アイヌ復興には不十分との声がある。

◆ 差別を超え文化発信 演出家・秋辺日出男さん

 北海道の名付け親の松浦武四郎のことばかり語られるのは、一種のカムフラージュに見えます。
 本当は「開拓が始まって150年目」と言いたいんでしょう。
 武四郎はアイヌの人々が強制労働に駆り出され、狩りや漁を禁じられて餓死寸前になっている惨状を克明に描写して出版し、幕府から発禁処分を受けた。
 情がありつつ冷静だった。
 そんな武四郎を前面に出して、免罪符にしている気がします。

 ただ、アイヌの立場から、単純に「開拓」を「侵略」と置き換えたくはない。
 日本人も、厳しい自然の中での開墾は筆舌に尽くしがたい苦労があったし、時代に翻弄(ほんろう)されたのだから。

 物心ついたときから差別はつきまといました。
 犬がいなくても「あ、いぬ」って言われる。
 中三までいじめられ続けて家出しようとした時、おやじや先輩が出演したアイヌのユーカラ劇を見て感動して、自分の民族性を肯定できた。
 高校を卒業してから収奪と差別の歴史にだんだん気付いて、「差別された」ことが自分の唯一の武器になった。
 でも、カナダの先住民族が「われわれの権利回復が世界に貢献するんだ」と話すのを聞いて、恥ずかしくなって。
 「和人を差別しないアイヌになろう」と決意しました。

 差別抜きで考えたら、こんなに魅力的で楽しい民族はいない。
 それは観光の商品にもなるから、「観光を利用してアイヌを広めたい」と思った。
 20年前からホテルと連携して「イオマンテの火まつり」をスタート。地元のFM局でアイヌの番組も始まりました。

 ここ10年でようやくアイヌの権利回復の動きが出てきたけれど、まだまだ足りません。
 最初はアイヌ文化の面白さや楽しさを知って、その後、きちんと負の歴史を学べばいい。
 キング牧師のすてきな言葉で黒人差別について知りたくなるのと同じです。

 今、東京五輪の開会式で舞台を披露したいと準備しています。
 「イランカラプテ(こんにちは)」というあいさつは「あなたの心にそっと触れさせてください」という意味です。
 「天から役目なしに下ろされたものはない」(誰もが大切な存在)ということわざや、「ウレシパ(育て合い)」という言葉もある。
 そんなアイヌのメッセージを世界に発信したい。アイヌ理解への一歩につながると信じています。
(聞き手・出田阿生)
<あきべ・ひでお>
 1960年、北海道生まれ。ユーカラ劇の脚本・演出、シェイクスピア・カンパニーの演出などを手掛ける。北海道ウタリ協会阿寒支部長、「先住民族サミット」共同代表を歴任。民芸店経営。

◆ 民族の経済的自立を 札幌大教授・本田優子さん

 「北海道命名」というのは、アイヌ民族にとっては、近代日本に統合された出発点です。
 政府の同化政策の下、アイヌの家庭では子や孫に伝統的世界観や言葉、習俗を教えなくなり、その結果、子どもは親や祖父母を尊敬する思いを持てなくなった。
 北海道の全てのアイヌの方々にそんな時代があったと思います。
 いまだにその負の遺産を引きずっているといっても過言ではありません。

 不満やあきらめがまん延する環境で、子どもが知的好奇心を育むのは難しい。
 その痛みを日本社会全体が共有していないことは理不尽だと思うんですよ。

 北海道の宝であるアイヌ文化を若者が学べるようにと、2010年に大学で<ウレシパ(アイヌ語で「育て合い」)プロジェクト>を始めました。
 アイヌと和人の学生が一緒にアイヌの言葉や文化を学んでいます。

 生まれたときから、自分の民族の言葉や文化をシャワーのように浴びながら育つ。
 私たちが取り組むべきなのは、そんな当たり前の権利を日本社会の中で保障していくことです。

 ハワイでは、先住民族のハワイ語が公用語になりました。
 ニュージーランドでは英語・マオリ語に加え、手話も公用語です。
 つまり公用語化は、尊重することの宣言なのだと思います。
 北海道も条例でアイヌ語を公用語にすれば、「われわれの住む大地はアイヌと共に生きる土地なのだ」という宣言になります。

 2020年、東京五輪の開幕前に、北海道白老町に国立アイヌ民族博物館ができます。
 アイヌの若者が働く場が増えるだけでなく、アイヌの先住民族ビジネス創出のきっかけになってほしいです。

 世界には、政府の補助金頼みではなく経済的に自立している先住民族がたくさんいます。
 かつてマオリの人口は4万人ほどとされていましたが、今は60万人といわれる。
 民族として富を生み出すシステムがあるからマオリだと自認する人が増えるし、政府もどんどん認定する。

 アイヌの世界観は人間をヒエラルキーの頂点とはしません。
 この考え方は現代社会でますます必要とされるはずです。
 アイヌ文化は、北海道という土地で生きるのに最も適した方法を見いだすカギになる。
 社会に持続的な富をもたらし、人々の幸せにつながるような方策を探っていきたいと思っています。
(聞き手・出田阿生)
<ほんだ・ゆうこ>
 1957年、石川県生まれ。専門はアイヌ語・アイヌ文化。北海道大卒。故・萱野茂氏に弟子入りし北海道・二風谷(にぶたに)で11年間過ごす。2010年、札幌大でウレシパ・プロジェクト開始。

◆ 互いの歴史を知ろう 考古学者・瀬川拓郎さん

 「北海道150年」と聞くと、自分がここにやって来た和人の子孫ということに思いは至ります。
 国は、北海道は思っているほど寒くないなんて半ばだますように移住を促進した。
 その話に乗った僕たちの先祖は、食いぶちがなくてここにたどり着いた移民。ある意味、あぶれ者で余計者でした。

 150年でここまで開発を成し遂げたことへの誇りはありますが、それによってアイヌの社会を壊したことへの後ろめたさも湧き上がってくる。
 国に翻弄(ほんろう)されてきたことへのルサンチマン(恨み)も根強い。
 そういう複雑な感情の中に北海道の今があると思います。

 ここで生まれ育った僕には、高校で習う日本史に全然リアリティーが感じられませんでした。
 教科書に出てくる古墳もお城も見たことがない。
 逆に、北海道のことはほとんど出てこない。
 これって俺たちの歴史じゃないよなと。では、「俺たちの歴史」とは何か?
 たどっていけるのはアイヌの歴史しかないんです。
 和人だけど、古里にずっと生きてきた人たちにこそシンパシーを感じるんです。

 では、アイヌとは何か?
 縄文時代の日本列島に生きた人たちの気風をのこしてきた人たちだと思います。
 狩猟漁労がなりわいで移動の自由を持っていた。
 一方で、コミュニティーを形作る自治の精神もあった。

 ただ、アイヌの人たちは縄文文化の生きた化石ではなかった。
 狩猟漁労の未開の民で、文明人の和人にいいようにされたというイメージは間違いです。
 アイヌは和人と対等だった。
 これは極端な例ですが、海賊として略奪行為をしていた時代もある。
 「遅れていて同情すべき」民族ではありません。

 アイヌは自らの世界に閉じこもっていたのではなく、弥生時代から異文化と交流し、したたかに生き抜いてきました。
 一方で、言葉も含めて自分たちの固有の文化は守る。
 オープンだけどクローズする。その案配には、今のグローバリズムの時代、学ぶべきものがあります。

 僕はそういうアイヌにシンパシーを感じるわけですが、略奪され、差別されてきたアイヌの人たちのルサンチマンは大きい。
 でも、対立は何も生まない。
 150年を機に、それぞれの歴史を知るべきです。
 そこに共感できる部分があれば、新しい北海道のあり方につながると信じたい。
(聞き手・大森雅弥)
<せがわ・たくろう>
 1958年、北海道生まれ。旭川市博物館館長を経て、今年4月から札幌大教授。著書に『アイヌの歴史』『アイヌ学入門』など。近著は『縄文の思想』(講談社現代新書)。


東京新聞、2018年8月4日
北海道150年
アイヌの視座から

http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2018080402000219.html

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日本の大学の成果は米企業に

 ヤッホーくんのこのブログ、2018年10月03日付け日記「共産党の小池晃議員がオプジーボの薬価大幅引き下げを国会で求め来月、実現」をぜひ再読願います。

黙って見ているしかなかった

 今年度のノーベル生理学・医学賞を、京都大学特別教授の本庶佑さんが受賞した。まず、心からおめでとうと申し上げたい。「心から」、それは偽りのない私の気持ちだ。
 私は、幼少時に同居していた父方の祖母と伯母を二人ともがんで喪った。家族が、がんに侵されて死んでゆくのに、医者は「もう手は尽くした。有効な治療法はない」と言う。家族の生命の糸がプツリと切れるのを、ただ黙って見ているほかない。
 先日、私が趣味でやっているブラジリアン格闘技「カポエイラ」の練習仲間が、腰のがんで亡くなった。“腰のがん”というのがどういう意味なのかを詮索しても意味がないが、そのような表現を使わなくてはいけなかったこと自体、ひどく胸が痛むのである。
 彼女は私と同期で、同じ道場で練習していた。カポエイラには、柔道と同じで「帯」がある。その帯の色は、黄緑、緑、緑に少し黄色……と、昇段するにつれて色が変わる。
 だが、今年の昇段式に彼女の姿はなかった。彼女のお通夜では、彼女が弾いていたカポエイラのビリンバウ(弦楽器)の隣に、カポエイラの道着と緑の帯が飾ってあった。
 それを見て、私は、ああ、もう、彼女の帯の色が変わることはないのだと、胃の腑を鷲掴みにされたような心の痛みを感じた。

根拠のある免疫療法と、根拠のない免疫療法

 日本人なら誰でも、いや、世界中の誰もが、愛する肉親や友人をがんで失った経験があるはずだ。
 本庶さんがつくったオプジーボという薬は、万人に効くわけではないが、これまでのがん治療薬と比べると、発想も効き目も、文字どおり「別世界」だといえる。もしもこの薬が数十年前に実用化されていたら……、祖母も伯母も、カポエイラの友人も、ひどい苦しみを味わわなくてすんだのではあるまいか。どうしても、そう考えてしまう。
 私は、本庶さんとは面識がない。ナビゲーターを務めていたNHKの科学番組「サイエンスZERO」で、オプジーボを詳しく扱った回(「登場! がん治療を変える新薬 免疫のブレーキを外せ」)があったのだが、本庶さんはVTR出演だったので、お目にかかることがなかった。
 サイエンス作家である私は、オプジーボのような免疫チェックポイント阻害剤のしくみを一般向けにわかりやすく説明するのが仕事だ。科学や医学の難解な部分を比喩的に噛み砕いて説明する。それをしないと、一部の専門家以外にはチンプンカンプンとなり、場合によっては大きな誤解を生むことにもなりかねない。
 オプジーボのような薬を使った治療は「免疫療法」とよばれるが、世の中には科学的・医学的な根拠のない免疫療法と、オプジーボのような根拠のある免疫療法が存在する。その違いをきちんと知ってもらうためにも、わかりやすいしくみの説明は欠かすことができない。

がんを攻撃する細胞の「ブレーキ」を外す

 というわけで、オプジーボが効くわけを、わかりやすく説明してみよう。
 人間の身体には、細菌やウイルスなどの“異物”を認識して攻撃してくれる免疫細胞がある。いわゆる白血球の一種である。
 この免疫細胞は、クルマと同じで、アクセルとブレーキを備えている。アクセルを踏み込むと免疫細胞が活性化されて、攻撃力が高まる。ブレーキを踏むと、免疫細胞はあまり攻撃しなくなる。アクセルはともかく、なぜブレーキが必要なのだろう?
仮に、免疫細胞にブレーキ機構が備わっていなかったらどうなるか。
 答えは簡単だ。ブレーキの効かなくなったクルマが暴走して事故を起こすように、免疫細胞も攻撃が止まらなくなり、場合によっては自分自身のからだを攻撃し始めるだろう(アレルギー疾患などは、まさに免疫細胞が自分のからだを攻撃することで起きる)。
 がんの治療法としては従来、免疫細胞を活性化する、すなわち「アクセルを踏む」研究ばかりがおこなわれてきたが、本庶さんたちの研究のすごいところは、「ブレーキを外してみたらどうなるか?」という逆転の発想にある。
 免疫細胞がもっているブレーキボタンには、「PD-1」という名前がついている。なんと、がん細胞は、このブレーキボタンを押すことで、免疫細胞の攻撃を抑え込んでいたのだ。
 オプジーボという薬は、このブレーキボタンに「ふた」をしてしまい、ブレーキを利かせないようにする。ブレーキの外れた免疫細胞は、がん細胞を攻撃することが可能となり、患者さんは、自らのからだの免疫力によって、がん細胞を撲滅することができる!

[解説]
PD-1のしくみを概略的にしめした模式図。免疫細胞(T細胞)のブレーキ装置であるPD-1にPDL-1が結合するとT細胞の活性は抑えられる。本来は自分の体を必要以上に攻撃しないしくみであるが、一部のがん細胞はPDL-1を備えており、免疫細胞から攻撃されないように働く 図:ブルーバックス編集部

オプジーボが効かない人がなぜいるのか?

 もちろん、こうやって単純化して説明すると、いくつもの疑問が湧いてくるだろう。
 まず、ブレーキが効かなくなったら、免疫細胞は自分のからだも攻撃してしまうのではないのか? たしかに、そういった副作用はある。特に、内臓疾患を抱えている患者さんの場合には、専門の病院で、薬の投与により副作用を抑える必要がある。
 また、ブレーキを利かなくしたら、どんな患者さんでもがんが消えそうなものだが、実際には、オプジーボが効くのは、2割から3割の人に限られるという。それは、なぜなのか?
 理由は複雑だが、そもそも人によって免疫力が違うから、ブレーキを外してもがんへの攻撃が十分にならない場合もあるだろう。また、ブレーキはPD-1だけではなく、他に何十種類ものブレーキボタンがあるという。別のブレーキを(も)外さないと、がんが消えない可能性もあるわけだ。
 今後は、本庶さんが発見したPD-1以外のブレーキボタンにふたをする薬が続々と登場するだろう。それらの薬の組み合わせによって、より多くの患者さんのがんが治療できるようになるかもしれない。

ノーベル賞受賞者はなぜ、苦言を呈するのか?

 ……と、こんなふうに「わかりやすさ」を第一に説明してみました。より正確な内容を知りたい方は、専門家による書籍をご覧ください!
さて、ここからは、記者会見で本庶さんが提起した「基礎科学」について考えてみたい。
 じつは、毎年、10月の初めになると、この話題でマスコミが賑わう。なぜなら、ノーベル賞受賞者の多くが、日本の基礎科学が弱体化していると苦言を呈するからだ。
 日本の基礎科学は、本当に弱体化しているのだろうか?
 それを示す数字はいくらでもある。たとえば、2018年版の「科学技術白書」によれば、2004年の日本の研究論文が6万8000本でピークだったのに、2015年は6万2000本に減ってしまった。
 同じ期間で、中国は5倍に増えて24万7000本に、アメリカも2割以上増えて27万2000本になっていることを思えば、日本だけが「おいてきぼり」を食わされていることが理解できる。
 また、論文の影響力を示す「引用回数」のランキング上位1割に入る論文について、日本は、2003〜2005年には5.5%(世界4位)だったのに対し、2013〜2015年は3.1%(同9位)に下がってしまった。
 海外との共同研究が研究のレベルを引き上げ、未来のノーベル賞にもつながるわけだが、2000年に海外に派遣された日本人研究者は7674名だったのに、2015年は4415人へと激減している。このような数字は、枚挙にいとまがない。

「日本人ノーベル賞受賞者」激減時代の幕開け

 数字とは別に、私の周囲を見回しても、
「博士課程になんぞ行ったら食っていかれない。なるべく早く、企業に就職しないと!」
という若者がめちゃめちゃ多い。大学院に残って研究者の道を選ぶ優秀な人材が、明らかに減っているのだ。

「べつに応用研究がさかんなら、基礎研究なんていらないんじゃね?」

 もしもそう思われたなら、今回の本庶さんの研究を振り返るだけで、その考えが間違いであることがわかるだろう。
 本庶さんはがんの専門家ではないから、がんの薬を開発する「応用研究」としてPD-1を研究していたわけではない。あくまでも免疫学者として、正体不明のPD-1を追究しているうちに、「がんの治療薬に使えるかもしれないね」となって、がん治療のパラダイムを変えるような大発見につながったのだ。
 つまり、基礎研究が弱くなることは、将来、本庶さんのような研究が減ることを意味する。もっとわかりやすくいえば、ノーベル賞受賞者の数が激減する、ということなのだ。

科学・技術の「空洞化」をどう防ぐか

 日本は資源に恵まれていないから、智恵を絞って、科学技術の成果を世界に売るしかない……、私が子どものころ、そんなふうに教わった。それが今、基礎の部分から音を立てて崩れようとしている。
 日本経済は、一向に上昇する気配がなく、特にわれわれのような労働者の可処分所得は下がる一方だが、国が全体として貧乏になれば、そのツケは末端のわれわれに回ってくる。
 国が全体として富むためには、日本の場合、基礎研究がきわめて大切なはずだが、その研究資金を削り続けたツケが、そろそろ回ってくる。すでに優秀な人材が科学者になる道を諦め始めており、今すぐに大胆な手を打たなければ、今後何十年にもわたって、日本の科学は空洞化してしまう。
 国の借金を返済するために、さまざまな支出を削り始めたのが、小泉政権のとき。基礎科学は「要らない支出」の筆頭だった。
 その後の政権も、同じ方針で基礎科学に回る研究費を圧縮し続けた。それが、この国の首を真綿で絞める政策であったことは、これから10年後、ノーベル賞受賞者がほとんど出なくなり、特許も取れなくなって初めて、理解されるのだろう。
いま、われわれは亡国の坂道を真っ逆さまに転げ落ちている。
 為政者は、めでたいめでたいという前に、本庶さん(そして、歴代のノーベル賞受賞者たち)の警告に耳を傾けるべきであろう……。


現代ビジネス、2018.10.21
ノーベル賞受賞を手放しで喜べない「この国特有の理由」
10年後日本に受賞者は出なくなります

竹内 薫、サイエンス作家。1960年生まれ。
 東京大学教養学部教養学科、同大学理学部物理学科卒業。マギル大学大学院博士課程修了(高エネルギー物理学専攻、理学博士)。「たけしのコマ大数学科」(フジテレビ)、「サイエンスZERO」(NHK Eテレ)など、テレビでの科学コミュニケーションでもお馴染み。YES International School校長も務める。
 主な著書に『ペンローズのねじれた四次元〈増補新版〉』『ホーキング 虚時間の宇宙』『量子重力理論とはなにか』『超ひも理論とはなにか』(いずれもブルーバックス)、『99・9%は仮説』(光文社新書)、『子どもが主役の学校、作りました。』(KADOKAWA)などがある。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58045

 日本企業は「見る目」がない――。
 2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞する京都大学の本庶佑特別教授はこう不満を口にした。
 日本の大学などの研究論文がどこでビジネスの種である特許に結びついているかを調べると、米国の比率が4割を超す。
 研究開発力の低下が指摘されるなか、イノベーションにつながる国内の芽をどう見いだすのか、企業の「目利き力」が問われる。

 1日、受賞発表後の会見で、本庶氏は日本の製薬会社への不満を強い口調で語った。

「日本の大学には良いシーズ(有望な研究成果や人材)があるのに、外国の研究所にお金をたくさん出している。全く見る目がない」

 本庶氏の成果は小野薬品工業などが画期的ながん治療薬につなげたが、順調に進んだわけではない。
 小野薬からいったん協力を断られ、米企業に共同研究を打診。
 小野薬が慌てて方針を変えた経緯がある。ノーベル賞の成果が海外に流出していた恐れがあった。

 実は日本の研究成果を最も事業に生かしているのは米企業だ。
 特許出願の際には通常、参考にした論文を明記する。
 その内容を調べた文部科学省科学技術・学術政策研究所によると、06〜13年に最も多く日本の論文を引用したのは米国で、41.5%。
 25.2%の日本を大きく上回る。
 特に顕著なのが本庶氏の専門分野の基礎生命科学。
 米国の比率は46.8%、日本は16.6%だ。

 海外企業はしたたか。
 米イーライ・リリーはここ数年、札幌医科大学とがんの免疫療法で、大阪大学と糖尿病に関連した肥満予防で共同研究を決めた。
 デービッド・リックス会長兼最高経営責任者(CEO)は「日本には世界をリードする研究者が多い」と期待する。
 仏ロレアルや独シーメンスなども日本の若手研究者らの発掘に積極的だ。

 一方、日本の企業などが特許出願で最も引用したのは米国の論文で44.1%。
 日本は27.3%だった。
 米国の研究開発力は世界トップだが、海外に目を向けている間に、国内のシーズを見落としていた可能性はある。

 文科省が今春まとめた意識調査では、産学連携に取り組む課題として、大企業で最も多かった回答が「将来有望な研究シーズに対する目利き力が弱い」だった。

 変化の兆しはある。
 ブリヂストンやコマツは研究畑のシニア層をフェロー職などに就け、学会などで有望な技術の情報を収集する。
 大がかりな産学連携も増え「大学に資金が渡ると、すごい成果が出てくる」(三菱電機の藤田正弘常務執行役)との期待も高まる。

 大学もこれまでは成果を産業応用につなげる発想に乏しかった。
 国内の有望なシーズをうまく開花させるには産学が協調して課題克服に取り組む必要がある。

[解説]日本の論文はどの国の特許に貢献してきたか

本庶.jpg

日本経済新聞、2018/10/23 1:30
日本の大学の成果は米企業に
本庶氏「見る目ない」

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36792840T21C18A0MM8000/

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2018年10月22日

人間性を回復

 オール沖縄候補と自公候補の一騎打ちとなった沖縄県知事選挙と同じ構図の那覇市長選挙は、きょう投開票が行われ、オール沖縄が推す城間みきこ候補が当選を確実にした。
 午後8時、投票箱のフタが閉まると同時に、慎重なNHKが当選確実を速報した。「ゼロ打ち」である。自公候補(※)に大差をつけるものと見られる。(※正確には自、公、維新、希望推薦)
 沖縄県知事選挙は創価学会が雪崩を打って玉城デニー氏を応援したが、那覇市長選挙はそれが深化したような選挙だった。

 「こんな気持ちのいい選挙はなかった。初めて自分の頭で考えて投票した。これまでは(学会から)言われるままに投票してたからね」・・・
 学会員歴40年を超える男性(那覇市在住)が県知事選挙を振り返って語った。清々しく嬉しそうな表情は、過酷な縛りから解き放たれたことを示していた。
 男性は白髪頭だ。学会は彼がこの年になるまで自由に投票させなかったのである。選挙期間中、彼は表に出るようなことはしなかった。
「出れば潰される」と警戒していた。

 一方、「自分は学会員」とカミングアウトしてオール沖縄の選挙を手伝った人たちもいた。
 30代の女性は「玉城デニー」のパンフを配布して歩いた。中高年女性は2人一組で商店などを訪問し「今度の選挙はデニーに入れて下さい」と頼んで回った。
 那覇市長選挙の告示直前には、本土の方面本部と沖縄総県から「選挙はやらなくていい」との お達しが出た。沖縄における学会の自民党離れは決定的になった。

 那覇市長選挙の最終日となった20日夕、城間候補の打ち上げ(最終街頭大演説)が新都心であり、3千人を超す聴衆が集まった。ある学会員の姿があった。100票は差配できる人物だが、創価学会の3色旗を掲げたりはしない。穏やかな表情でオール沖縄の演説に耳を傾けていた。
 演説会が終わった直後だった。城間陣営の大幹部が学会員のもとを訪れ、「今回もお世話になります」と手を差し出したのだ。大幹部は玉城選対の重鎮でもあった。

 県知事選挙の地滑り的勝利は、学会の“協力”なくしてはありえなかった。“協力体制”がそのまま那覇市長選挙に引き継がれたことを示す場面だった。オール沖縄の一角には学会とは不倶戴天の共産党がいるのにもかかわらず、だ。
 学会員は「(学会票の)50%が城間に来るよ」とニンマリ笑った。

 自民党は満を持して県連の実力者を那覇市長選挙に送り出した。
 だが、集票マシーンの学会は全く動かず、自公は早々と総崩れになった。拙ジャーナル(17日付/14日付 /11日付)でリポートしているので御一読頂きたい。
 冒頭の学会員は「(来夏の)参院選挙も自民党には入れない(投票しない)」ときっぱり言う。

 沖縄の自公体制崩壊が本土に教えてくれることは−
 学会を味方につけること。

 安倍自民に対する学会員の怒りのマグマは本土でも沸々とたぎる。
 安倍政権を倒すため、恩讐を越えて共闘できる統一テーマを掲げれば、学会員の多くは野党側に投票するはずだ。
 城間陣営は「辺野古の新基地建設反対」を訴え続けた。
 那覇市長の権限とは関係なくても学会員をはじめとする有権者の心に響いたのである。
 人間性を回復した学会員の共感を得るテーマで参院選を戦えば、安倍政権は音を立てて崩れる。


[写真‐1]当選確実が出ると城間候補(左)は玉城知事とともにカチャーシーを舞って喜びを爆発させた。

[写真‐2]記者団に当選の弁を聞かれ「玉城知事をささえる」と答える城間氏。

[写真‐3]聴衆のいない自公。国際通りとの交差点近くでも立ち止まる人はいなかった。

田中龍作ジャーナル、2018年10月21日 20:29
学会員が人間性回復した沖縄の選挙

参院選までマグマは滾り続ける

http://tanakaryusaku.jp/2018/10/00018992

去る9月20日、安倍晋三首相の自民党総裁三選が決まった日本。
これから3年間の任期中、安倍政権の経済的な面での課題はどのようなものなのか。
経済学者で慶應義塾大学教授の小林慶一郎氏に聞いた。


 安倍政権の経済政策は、短期的な成果を強調する一方で、財政再建のような長期的な課題については、あまりに楽観的な見通しに傾きすぎているように見える。
 最悪の事態を想定しない、不都合な事実は議論しない、という傾向は、かならずしも政権・与党にあるだけではなく、野党やメディアなどを含めて日本の政策論議では広く見られる傾向である。

 「最悪の事態を想定することをタブー視して、誰もそれを語らない」という論壇の現状は、政策論議のあり方として不健全と言わざるを得ない。
 こうした特徴は、日本の大組織の官僚に典型的にみられる次のような「無謬性のロジック」によって生み出されている。

 「アベノミクスで長期的に高い経済成長をもたらすことが政府の責務なのだから、それが失敗した場合(つまり低成長が続いて、財政や社会保障が破綻してしまう事態)を検討すること自体、政府の責務に反している。だから、政府は政策が失敗したら何をするべきか、という問題を考えてはならない」。

 政府は「失敗しない」――正確にいうと「失敗してはならない」――のだから、失敗した時のことは考える必要はないし、考えてはならない。
 これが無謬性のロジックだ。このような考え方は、政府に限らず、大企業や自治体など、日本のあらゆる官僚的組織で広く共有されている。

 しかし少し考えれば、このような「無謬性のロジック」がまったく不健全で道理に合わないことはすぐにわかる。
 いくら政府が高い経済成長を実現しようとしても、人間がやることなので、それに失敗する可能性はある。
 失敗したときに起きる最悪の事態(財政や社会保障の破綻)が具体的にどういうことで、そのとき善後策として何ができるのか、を検討することは政策論として重要だし、政府が当然やるべきことだ。
 政府は「失敗してはならない」という責務はあるが、だからといって「失敗した時のことを想定してはならない」という理屈にはならない。
 むしろ逆に、失敗した場合に備えることこそ責任ある大人の態度である。

 日本の官僚組織が「自分の責務が失敗した時のことを考えてはならない」という無謬性のロジックに囚われているのはきわめて不合理で不健全なことである。
 たとえば財政破綻が起きたときに実施する危機対応プラン(コンティンジェンシープラン)を、具体的にかつ詳細に政府内で考えておくべきなのだ。

 筆者らは近著『財政破綻後』(日本経済新聞出版社、2018年4月)において、数人の研究者グループでそれを試みた(*)が、とても細かいところまでは踏み込めなかった。
 本来は、政府が各省庁の専門的な知見を結集して、財政破綻が国民生活にどのような影響を与えるか検討し、国民への被害をもっとも小さくするためのコンティンジェンシープランを政府全体で考えておくべきなのである。

 こういうと「国民に不要な心配を与えるべきではない」とか「財政破綻などと政府が言い出せば国民が将来不安を覚えて、景気が冷え込む」という反論がすぐ出そうだが、これらは典型的な「由らしむべし知らしむべからず」の愚民思想であり、日本国民の民主主義を担う力を過小評価している。
 最悪の事態に備えた政策プランを政府が準備していると知れば、国民の政府への信頼と将来への自信は高まり、結果的に、景気にもいい影響があるはずだ。

 もっと言えば、日本の組織に蔓延する「無謬性のロジック」は、戦時中の日本軍が最悪のケースに備えた兵站の必要性を否定し、無謀な作戦を実行したときの「必勝の精神」のロジックと同じものである。

 つまり、いまの経済政策をめぐる我々の政策論争の精神構造は、戦前・戦時中の戦争指導において非合理的な精神論に陥った当時の日本人とまったくと言っていいほど同じなのである。


 これを「無謬性の罠」と呼んでもいいだろう。
 安倍政権が最後の3年間に行うべきことは、我々の政策論争を無謬性の罠から救い出すことに尽きると言ってもいい。
 そのためには今の政策にとってたいへん不都合な、超長期の経済・財政見通しの試算を誠実に国民に開示することから始めるしかない。

 「文藝春秋」11月号の拙稿「アベノミクス『出口』はひとつしかない」では、これらに関連する論点を詳細に論じている。


文春オンライン、2018年10月22日
日本が財政破綻したら?

危機意識なき安倍首相の「無謬性のロジック」とは

小林 慶一郎
〔source]: 文藝春秋 2018年11月号
http://bunshun.jp/articles/-/9404


(*)『財政破綻後』

○ 日本の債務はついに1,000兆円の大台を突破。
 いまや、財政破綻は「起きるか、起きないか」ではなく、「起きたらどうなるのか」「どう危機をしのぐのか」を考えるべき時に来ている。
 デフレが終わり、金利が上昇期を迎えれば、財政赤字問題が一気に悪化する懸念があるからだ。
 「財政破綻」が実際に起こったら日本経済は一体どうなるのか? どのような危機対応策をとるべきなのか。
○ 編著者の小林慶一郎氏はじめ、小黒一正(法政大学教授、財政・公共政策)、
 左三川郁子(日経センター主任研究員、金融政策論)、
 小林庸平(三菱UFJリーサーチ&コンサルティング経済政策部主任研究員、公共経済学)、
 佐藤主光(一橋大学教授、財政)、
 松山幸弘(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹、社会保障)、
 森田朗(津田塾大学教授、行政学)
と、経済・財政・社会保障の専門家が執筆。

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白井聡『国体論――菊と星条旗』(集英社新書)

「国体」とは?

 先月『国体論――菊と星条旗』(集英社新書)と題する新刊を上梓した。 
 テーマは文字通り「国体」である。

 幕末に起源を持ち、明治時代に形成された「国体」の概念は、文字通りには、「万世一系の天皇が永久に統治する世界に類を見ない日本国家の在り方」を意味し、昭和ファシズム期においては「国体明徴声明」(1935年)、「国体の本義」(文部省によるパンフレット、1937年)に見られるように、戦争に対する異論を禁圧し、国民を動員する装置として猛威を振るった。
 実に、ファシズムを支えた治安維持法は、「国体の変革」を目指す組織への参加者に対しては極刑を以て臨みうると定めていたのであった。

なぜ「国体」なのか?

 敗戦後の民主化改革は、かかるものとしての「国体」の破壊を意図しており、それゆえ「国体」は死語となった。
 しかし、『永続敗戦論』を書いて以来、私は確信するようになった。
 「国体」は廃絶されたどころか、再編を受けて生き延び、戦後のわれわれの社会をも強く規定している、と。

 それは、日本の対米従属の特殊性において現れている。
 なぜ、われわれの政府は、事件・事故が相次いでも日米地位協定の改定ひとつ主張できないのか。
 なぜ、われわれの首相は、米大統領に追いすがってバンカーを転げ落ちたりするのか。

 ひとことで言えば、われわれはあまりにも卑屈で恥知らずな姿勢をアメリカに対してとっているのだが、その事実はわれわれの意識の上にのぼらないのである。

 この不思議な現実を説明しうる概念が「国体」である。
 すなわち、戦後日本の対米従属の構造が、戦前の天皇制による「国体」の後継者となっているために、「従属の現実を否認する従属」という奇怪な形の従属が成立した。
 「戦前の国体」は、日本国は天皇を大いなる父とし、国民をその「赤子」とする永遠の家族であると自己規定していた。
 それは、国家の権力性、つまりは支配の事実を否認する権力であったのだった。

 この国民と天皇の関係性を、戦後の日本とアメリカの関係に投影したとき、「戦後の国体」が立ち現れる。
 日本が慈悲深きアメリカの懐に抱かれる「赤子」であるとすれば、そこには従属・支配の関係など存在しないことになる。
 ゆえに、副題の「菊と星条旗」とは、それぞれ戦前と戦後の「国体」の頂点を占めるもののシンボルを言い表している。

一度目は悲劇、二度目は茶番

 戦前の時代、天皇制が民主主義の限界を成したとはしばしば指摘される事柄であるが、今日も事情は同断である。
 支配の事実を否認している限り、われわれの社会は自由を希求し得ない。

 かくして、戦後日本の特殊な対米従属は、単に国益に関する判断を歪ませているだけでなく、社会の中身を腐らせた。

 無能・不正・腐敗の極みに達した安倍晋三政権の継続をわれわれが許しているという事実は、このような社会の有り様の反映であり、われわれがいま経験しているのは、「国体」の二度目の崩壊過程なのだ。

 しかし、この現実に絶望する必要はない。カール・マルクスは次のように言っていた。
The gods of Greece, already tragically wounded to death in Aeschylus's tragedy Prometheus Bound, had to re-die a comic death in Lucian's Dialogues.

Why this course of history?

So that humanity should part with its past cheerfully. This cheerful historical destiny is what we vindicate for the political authorities of Germany.

 ギリシアの神々は、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』のなかですでに一度傷つき悲劇的に死んだのであったが、ルキアノスの『対話篇』のなかでもう一度喜劇的に死なねばならなかった。
 なぜ歴史はこのように進行するのか?
 それは人類が明るく朗らかにその過去と訣別するためである。
(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

※本稿は「京都新聞」5月16日夕刊のコラムに掲載されたものです。

Yahoo! Japan News、5/23(水) 14:50
「国体の150年」としての近代日本史
白井聡(*)、京都精華大学人文学部専任講師(政治学・社会思想)
https://news.yahoo.co.jp/byline/shiraisatoshi/20180523-00085571/

(*)白井聡

1977年、東京都生れ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。政治学者の立場から「いま何が起きているのか」を考え、分析します。私の専門は、政治哲学とか社会思想などと呼ばれる分野です。哲学・思想のプリズムを通して、現実の本質に迫りたいと思います。著書に、『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)、『「物質」の蜂起をめざして――レーニン、〈力〉の思想』(作品社)、『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版)、近著に『国体論――菊と星条旗』(集英社新書)などがある。朝日新聞社「WEBRONZA」寄稿者。

(note)
『ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説』(光文社古典新訳文庫、2014年9月)
 「急進的な民主主義者」から「プロレタリアートによる革命を目指す共産主義者」へ。宗教批判からヘーゲルの法哲学批判へと向かい、真の人間解放を考え抜いた青年マルクス。その思想的跳躍の核心を充実の解説とともに読み解く。従来の枠を超えた画期的な「マルクス読解本」の誕生。
 青年マルクスは、宗教批判から現実の政治変革としてヘーゲルの法哲学批判へと向かい、そしてユダヤ人問題、すなわち「貨幣」に支配される社会を変革することなしに、真の人間解放はあり得ないと喝破する。独創性あふれる「初期マルクス」の最重要論文集に、詳細かつ丁寧な解説を付す。
http://www.kotensinyaku.jp/books/book198.html

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強固な平和の橋を築く

 2018年10月14日に投開票された君津市長選では、無所属新人で元県議の石井宏子さん(53)が、いずれも無所属新人で元県職員の渡辺吉郎さん(61)=自民、公明推薦=と、元市議の安藤敬治さん(70)を破り、初当選を果たした。
 石井さんは同日夜、「市民の皆さんと対話を重ね、身近で開かれた市役所にし、政策を一つ一つ実現したい」と抱負を語った。

 市では初の女性市長で、県内でも2008年の白井市長選以来、2人目の女性市長誕生となった。

 「市民の支えで愚直に政策を訴え、市民の志が集まった結果」。
 当選の知らせを受け、事務所近くで開かれた当選祝賀会で石井さんは、支持者から花束を受け取り、喜びをかみしめた。

 公約に掲げた小櫃川源流域にある産業廃棄物最終処分場の増設中止については、「あらゆる方策を市民の皆さんと考えながら早急に対応したい」と話した。
 「県全体の女性活躍の意識は高まると思う。期待して票を投じてくれた女性も多いと思っているので、大切にしたい」とも語った。

 石井さんは小中学校の元音楽教諭。
 市議、県議を計15年間務めた。
 選挙戦では連合千葉などの支援を受けた。

 渡辺さんは引退する鈴木洋邦市長(77)の後継として、高齢者らの交通弱者対策を掲げたが及ばなかった。
 安藤さんは市議23年の実績を掲げ、若い世代の流出防止などを掲げたが支持が広がらなかった。
 

東京新聞・千葉、2018年10月16日
石井さん、県内2人目女性市長
「対話で身近な市役所に」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201810/CK2018101602000145.html

 任期満了に伴う那覇市長選は21日投開票され、無所属現職の城間幹子氏(67)が7万9677票を獲得し、4万2446票を得た無所属現職で前県議の翁長政俊氏(69)=自民、公明、維新、希望推薦=を3万7231票差で破り、再選を果たした。

 城間氏は9月30日の知事選で勝利した玉城デニー知事と同じ「オール沖縄」の組織体制を維持して盤石の選挙運動を展開し、無党派そうに支持を広げ、企業も一部取り込んだ。

 「オール沖縄」勢は、宜野湾市長選は落としたが、知事選、豊見城市長選に続く勝利となった。
 選挙結果は玉城デニー知事の県政運営に追い風となりそうだ。
 一方、投票率は49・19%で戦後行われた22回の市長選で4番目に低い結果になった。

 那覇市長選は、子育て施策や街づくりなどを争点に論戦が繰り広げられたほか、1期4年の城間市政への評価も問われた。
 城間氏の当選は、市民が市政運営を信任した結果だ。
 認可保育園の増設による待機児童数の減少などが評価された。

 選挙戦で城間氏は、4年前に市政を託された翁長雄志前知事の後継であることや、玉城県政との連携を前面に打ち出した。
 オール沖縄の支援体制で選挙運動を展開し、知事選勝利の勢いに乗って支持を広げた。現職としての知名度を生かした。

 一方、翁長政俊氏は現市政の課題や問題点を指摘し、市政刷新を訴えた。
 ただ、支援組織が知事選にも取り組んだ関係で、実質的な動き出しは知事選の後となり、政策や訴えが十分に浸透しなかった。
 自民党県連は知事選と同様に「自公維」の枠組みで選挙戦に臨んだが、支持を広げられなかった。組織体制の立て直しが急務となっている。

 当日の有権者数は25万5487人。投票率は14年の前回選挙に比べて17・06ポイント低かった。


琉球新報、2018年10月21日 23:59
那覇市長選
城間幹子氏が再選
4年間の市政運営に評価

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-821957.html

 「沖縄創価学会は、沖縄戦の悲惨な体験から平和を求めて誕生したはず。戦争のための米軍新基地建設を容認した自民党前県議を推薦することは筋が通らない」
 那覇市長選(21日投票)で、翁長雄志前県知事の遺志を受け継ぐデニー新知事を支え、辺野古新基地ノーをかかげる「オール沖縄」の城間みきこ市長候補の再選へ奮闘する沖縄創価学会壮年部員、宮城一展(みやぎかずのぶ)さん(60)のゆるがない思いです。

 那覇市長選で公明党県本部、沖縄創価学会は、辺野古新基地建設を容認する候補(自民党前県議)を推薦し、総力を挙げています。

 宮城さんは、ホテル勤務の合間をぬって城間市長の再選へ法定ビラの配布、友人知人への支持よびかけの日々です。

 悔しい記憶があります。
 今年2月の名護市長選での稲嶺進市長(当時)の落選です。
 翁長前知事と「辺野古には新基地はつくらせない」と毅然(きぜん)と日米両政府とたたかう同市長を初当選から応援してきたからです。

 「それだけに落胆は大きかったが、県知事選でのデニー新知事の圧勝はうれしかった」

 宮城さんは那覇市長選でも、「辺野古新基地推進の候補をなぜ推薦するのか」と、沖縄創価学会の人材育成と平和会館の運営・警備を担当する壮年部員のグループ「王城会」などで発言しています。

 沖縄創価学会トップの総県長は「題目が足りない」(信仰心が足りない)と「指導」、座談会や各種会議では自民前県議の集票活動(F取り)が指示されているといいます。

 宮城さんはそれを拒否、城間候補への支持拡大でこう訴えています。
 「翁長知事の遺志を継ぐデニー県政と県都の連携なしに強固な平和の橋は築けない」


しんぶん赤旗、2018年10月20日(土)
那覇市長選 城間氏再選へ奮闘
沖縄創価学会壮年部員 宮城一展さん
デニー県政と連携 平和願う

(山本眞直)
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-10-20/2018102014_03_1.html

 任期満了に伴う兵庫県川西市長選は21日投開票され、無所属新人で元同県議の越田謙治郎氏(41)が、無所属新人で元川西市議の森本猛史氏(38)=自民推薦=を破り初当選した。
 県と県内41市町で最年少の首長となる。
 投票率は51・70%。前回は無投票で、4人が争った2010年の前々回より3・79ポイント下がった。

 市長選を巡っては、現職の大塩民生氏(72)が3期目の今期限りでの退任を表明し、森本氏を後継指名していた。
 選挙戦で越田氏は、全事業の再検証をはじめとする行財政改革や情報公開の徹底、市民との対話重視を強調し支持を広げた。
 森本氏は現市政の継続を訴えたが伸びなかった。

 越田氏は2002年から川西市議を2期務めた後、2011年の県議選(川西市・川辺郡選挙区)で当選し、2期目途中の今年7月に辞職。
 昨年7月に民進党(当時)を離党した。

 県内の最年少首長は現在、加古川市の岡田康裕市長(43)。
 32人が立候補した川西市議選(定数26)も同日投開票された。


[動画]川西市長選 新人越田氏が当選確実

神戸新聞NEXT、2018/10/22 01:05
川西市長選
新人越田氏が初当選

(伊丹昭史)
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201810/0011751019.shtml

 臨時国会を前に、野党の統一会派を模索する動きが出始めた。
 野党がバラバラでは、したたかな安倍政権を追い込むなんて無理なのだ。
 野党共闘で連勝している地方選挙での善戦が、統一会派の結成を後押ししている。

 先月30日の沖縄県知事選で、自公が推した候補に快勝して、「オール沖縄」の玉城デニー知事が誕生。
 その後も、野党系の候補が相次いで首長選を制している。

 14日に行われた沖縄・豊見城市長選でも、「オール沖縄」の候補が勝利。
 20年続いた保守市政を打ち破った。
 同じ日の千葉・君津市長選では、連合千葉の推薦を受けた市民派の候補が勝った。
 この結果に、自民党内には激震が走ったという。

「豊見城も君津もガチガチの保守地盤で、負けるはずのない選挙だった。それだけ安倍政権が嫌われているということなのかと震撼しました。沖縄県知事選を機に、フェーズが変わった感じがします。21日投開票の那覇市長選も敗北が確実だし、28日投開票の新潟市長選は、当初の見立てでは勝てると考えられていましたが、公明党が自主投票を決めたこともあって厳しくなりました」(自民党関係者)

 こうした地方の動きに同調するように、中央政界でも野党共闘の機運が高まってきた。

 16日夜、立憲民主、国民民主、共産、自由、社民5党と衆院会派「無所属の会」のトップが一堂に会した。
 会食の名目は、7月に頚椎症性脊髄症の手術をした共産党の志位和夫委員長の「快気祝い」だったが、各党の党首だけでなく、幹事長らも同席したのは、実務的な相談をするためだ。
 24日に召集される臨時国会での連携や、来夏の参院選で1人区の候補者を一本化することなどを確認し合ったという。

 国民民主の玉木雄一郎代表は“連携”より踏み込んだ発言もしている。
 社民党や自由党に対して国会で統一会派を組むことを打診したと17日の会見で明かした。
 立憲民主と無所属の会にも同様の打診をしているという。

「統一会派の結成は第一歩で、野党がしっかり固まる必要がある。敵は自民党のはずなのに、どこが第1党かなど野党内で主導権争いをしている場合ではありません。立憲民主は他の野党との連携で支持率が下がることを気にしているようですが、野党が共闘し、与党候補との一騎打ちになれば、選挙に勝てる。これは小沢一郎氏がさんざん言ってきたことです。地方の選挙を見ても、政党支持率とは関係なく、与党との対抗軸をしっかり打ち出して有権者に選択肢を示すことができるかどうかなのです。国民民主のような若い政党も、老獪な小沢氏と組むことで、政権担当能力のある政党に脱皮することが可能になるのではないでしょうか」(政治ジャーナリスト・山田厚俊氏)

「オリーブの木」が実を結ぶか

 統一会派結成は遅すぎるくらいで、野党共闘の枠組みをつくることは急務だ。
 立憲民主が渋るなら、他の野党でまとまってしまえばいい。

 大きな塊ができれば、小沢氏の出番だ。
 共産党とも話ができるし、難しい選挙区調整も剛腕でまとめ上げる。
 それでも立憲民主は独自路線を貫くのか。

 小沢氏が提唱する「オリーブの木」構想で野党がまとまり、参院選を戦う方法もある。
 オリーブの木が実を結べば、改選過半数は夢ではない。
 衆参のねじれが起きれば、再度の政権交代も現実味を帯びてくる。


2018年10月20日 10時26分 日刊ゲンダイ
地方選の善戦が後押し
統一会派結成で野党の逆襲が始まる

http://news.livedoor.com/article/detail/15472016/

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2018年10月21日

対米従属論の流行

 白井聡(1977−)『国体論』(集英社新書、2018年4月)が売れているそうだ。
 対米従属論はもちろん昔からあったが、近年の「左」への浸透ぶりは目にあまるものがある。
 ベストセラーとなった『永続敗戦論』(太田出版、2013年3月)の文庫版(講談社+α文庫、2016年11月)あとがきによれば、同書は安保法制反対運動だけでなく、福島第一原発事故や沖縄米軍基地といった問題にたずさわる人々からも理論的に参照されているようだ。
 事実、この書籍のもととなった論考は、私も編集でかかわった市民運動礼賛雑誌に掲載された。
 当時一読して、加藤典洋(1948−)『敗戦後論』(講談社1997年、ちくま文庫2005年、ちくま学芸文庫2015年)の焼き直しですらない、といった感想しか持たなかったが、驚いたことに多くの読者から新しい議論として支持された。
 しかも、安倍政権に批判的である「左」寄りの読者から支持されたのだ。

 白井がいう「永続敗戦」とは「敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く」状態を指す。
 「『戦後』の始まりたる8月15日」を「終戦記念日」と呼ぶような、「純然たる『敗戦』を『終戦』と呼び換えるという欺瞞」が日本社会に巣食っている。
 「敗戦」を「否認」することで、米軍が日本国内に駐留しているという現在の敗戦状態から目を背けさせる。
 かつての冷戦においてはソ連という共通の敵が存在したが、いまやアメリカにしたがう必要はない。
 にもかかわらず、安倍政権は対米従属を続けるばかりであり、それを支持する日本国民は自分が「奴隷」であることにも気づかない「家畜人ヤプー」なのだ、という具合だ。
 ただ、いまは白井の主張の難点をあげつらうことはせず、なぜ多くの「左」がこの至極単純な対米従属論に魅了されたのか、と問うてみよう。

 レーニンに関する著作もある白井はトロツキー(Leon Trotsky 1879-1940)『永続革命論』(The Permanent Revolution)から「永続敗戦」なる造語を思いついたようだ。
 だが、トロツキーよりも丸山眞男と比較してみてはどうか。
 つまり、丸山が自身の政治的立場とした「永久革命としての民主主義」のことだ。
 丸山は「敗戦」を機に天皇から国民に主権が移動した「8月革命」説を唱え、そして1960年の安保闘争に「8月革命」を内実化する市民運動をみた。
 しかし、日本国憲法の制定はアメリカの軍事力を背景に昭和天皇に裁可されたもので、決して革命とは呼べないものだった。
 対米従属論は、戦後民主主義がフィクションであることを暴露することで、人々の「享楽」を刺激してきたといえる。
 対米従属論者の矢部宏治の著作のタイトルにあるように、日本の主権はアメリカに盗まれている、これは「知ってはいけない」真実なのだ、と。
 もちろん、丸山もフィクションだと認識したうえで、「戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」という有名な啖呵を切ったわけだが。

 ところで、「永久革命としての民主主義」の一定の成果と見なされた出来事があった。
 2009年の民主党の政権交代がそれだ。
 江田五月や菅直人といった民主党の議員の一部は、丸山の弟子といえる松下圭一や安東仁兵衛がブレーンとなった構造改革路線の影響下にあった。
 日本で1960年代以降に広まった構造改革論は、イタリア共産党が採用した革命路線で、マルクス主義者のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci、1891-1937)に依拠している。
 グラムシは、労働者が武器を手にして国家と暴力的に対決したロシア革命を「機動戦」と呼び、そのような革命戦略は市民社会が発達した先進諸国では不可能であるとしりぞけた。
 たいして、学校や組合といった中間団体に根をおろし、市民社会のヘゲモニーを獲得することで、選挙を通じて議会で多数派を形成し国家を改革するという「陣地戦」を主張した。
 簡単にいえば、マルクス主義版市民社会論といったものだ。
 たしかに、民主党政権の誕生は、2008年末の「年越し派遣村」の湯浅誠が国家戦略室のメンバーに入るなど、「左」が市民社会のヘゲモニーを獲得したかにみえた出来事だった。
 いまでは隔世の感があるが、「市民革命」(山口二郎)と呼ぶ言説まであったのだ。

 注意すべきは、近年の対米従属論の流行は「市民革命」なるものの失敗をきっかけにしていることだ。
 白井聡『永続敗戦論』、孫崎享『戦後史の正体』(創元社、初版、2012年7月)、矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社、2014年2014年10月)といった対米従属論が立て続けにベストセラーになったのが、民主党政権(2009年9月−2012年12月)崩壊前後だったことを思い返すべきだろう。
 これらの著作は、米軍の普天間基地移設を「最低でも県外」と公約に掲げた鳩山内閣が9ヶ月で退陣(2010年6月)したショックを受けて書かれている。

 原発問題についてもおなじことがいえる。
 脱原発デモは野田政権による大飯原発再稼働決定を機に大きな盛り上がりを見せ、2012年8月にはデモを主催する活動家と野田首相の会談が実現するにいたった。
 再稼働の方針は変えなかったが、野田政権は2030年代までに脱原発を目指すという閣議決定をおこなおうとした。
 実現されていれば運動の一定の成果だったといえようが、アメリカが安全保障上の懸念を表明したことで見送られることとなった。
 市民社会のヘゲモニーを獲得した(かにみえた)米軍基地問題や原発問題において敗北を喫したこと、その敗北の理由をアメリカに求めたことが、戦後民主主義はまやかしだとする対米従属論に「左」を向かわせたわけだ。
 対米従属論の流行と市民社会への絶望は表裏一体なのだ。

 すると、白井聡と松尾匡(1964年−)の『国体論』をめぐるウェブでの論争(?)も、ちがった角度から見ることができる(「松尾匡氏と白井聡氏による討論のまとめ」大阪労働学校・アソシエHP7/17)。

 天皇の「お言葉」への共感や階級的視点の弱さを問題視する松尾の批判は正しい。
 白井が単なるナショナリズムにおちいっていることはあきらかだ。
 しかし、白井はうまく応答できていないが、白井に代わって『永続敗戦論』の主張を展開すれば、こう言えないだろうか。

 リフレ派経済政策で貧困層を底上げし、中産階級をボリュームアップして市民社会の充実をはかり、立憲民主党を中心としたリベラル左派政権(?)が実現したところで、アメリカを排除できないかぎり、かつての民主党政権と同じく失敗は運命づけられている、と。

 リフレ派経済政策が戦後民主主義リベラル・デモクラシーを延命させる唯一の政策のように持て囃されているのだから、白井はこう応答すべきだった。

 しかし、アメリカにすべて支配されている、と単純化させてよいものか。
 グラムシ的な言い方をすれば、「左」は市民社会で解決できない国家の問題に直面したのではないか。
 軍隊や原子力は国家による「暴力の独占 monopoly on violence」(ヴェーバー Max Weber 1864-1920)といわれる。
 グラムシは市民社会のヘゲモニーを獲得することで、暴力と対峙することなく、コントロールしようとしたといえる。
 しかし、それが難しいのは、国家が単体で存在するのではなく、いくつもの国家との関係において存在しているからにほかならない。
 軍隊や原子力にかかわる政策が複数の国家の協力や対立のなかで決定される以上、一国の市民社会のヘゲモニーを獲得しただけでは大きな転換はできない。
 その意味で、日本でのグラムシ主義の成果として「革新自治体」が挙げられるのは象徴的だ。
 それは国家を回避することで可能となった「革新」にすぎない。
 沖縄の翁長県政の厳しい情勢を考えれば、このことはあきらかだ。

 しかし、奇妙なことに、白井はナショナリズムを煽ることで、絶望したはずの市民社会に喝を入れようとしている。
 白井は共産党のネットTVに出演し、「野党共闘で、自民党政権の対米従属に根本的な否定を突きつけてほしい」と発言したようだ(『しんぶん赤旗』6/27)。
 対米従属論の果てに天皇を礼賛した白井と共産党の思想はほぼ同じだ。
 かねてから共産党は日本をアメリカの「事実上の従属国」とみなしてきた。
 天皇制に関しては「民主共和制」の実現を掲げているが、第1回国会以来欠席してきた天皇臨席の国会開会式に参加するなど態度を軟化させている。
 しかし、野党共闘とはまさに市民社会の「陣地戦」ではないか。
 憲法9条=天皇制護持という護憲派がナショナリズムに行き着くのは当然だが、それは戦後民主主義を延命させるものでしかない。
 しかも、その多くが搾取されている移民労働者なしには成り立たない市民社会でナショナリズムを叫ぶほど滑稽なことはない。
 結局、「左」に受けの良い対米従属論は市民社会に、戦後民主主義リベラル・デモクラシーに真に絶望しきれないという「絶望の否認」なのだ。
 ジジェク Slavoj Žižek―アガンベン Giorgio Agamben の言葉を借りれば、「絶望する勇気」が足りないといえる(『絶望する勇気―グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム― 』青土社、2018年7月)。 
 ジジェクはギリシャ急進左派「シリザ Syriza」(ギリシャの首相ツィプラス Alexis Tsipras 1974年生まれが所属)を例に出して言う。

「草の根の自己組織は国家の代わりにはなれない。そして問題は〔…〕いかに国家装置をつくり直すか、ということである」

この記事の中でご紹介した本
国体論 菊と星条旗
著 者:白井 聡
出版社:集英社

週刊読書人ウエブ、2018年8月14日
市民社会に絶望する勇気

白井聡『国体論』と対米従属論の流行

綿野 恵太(作家)(*)
https://dokushojin.com/article.html?i=4032

(*)わたの・けいた
元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8―10月)「原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)など。1988年生。

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美智子皇后の誕生日談話「マクワウリ」

 ヤッホーくんのこのブログ、2018年10月03日付け日記「『明治の精神』願い下げ」をぜひご参照ください。
 2018年10月11日付け日記「五日市憲法発見50年」とあわせ。

 昨日2018年10月20日土曜日、美智子皇后の誕生日に際した恒例の文書コメントが発表された。
 来年4月をもって今上天皇が退位することで、「皇后」として最後の誕生日コメントということもあり、皇太子妃、皇后として明仁天皇とともにした道のりの回想が主だったが、そのなかに、美智子皇后から安倍首相への“メッセージ”とも解釈できる部分が隠されていたのをご存知だろうか。

 ほとんどの人は気がついていないと思うが、それは文章の終盤、今後皇后の公務から離れたら何をしたいかについて語っている箇所にある。
 美智子皇后は、これまで手をつけられなかった小説などをじっくり読みたいと記してから、唐突に、こう筆を進めている。
また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。

 一見、自らの“引退後”のささやかな夢を思い出深く語っているようだが、ここに、さりげなく意味深長な語句が挿入されている。
 「大変な瓜田に踏み入るところでした」という部分だ。
 実は、誕生日コメントが掲載されている宮内庁のホームページには、今回の文書の終わりにわざわざ「(参考)」として、こんな解説文が添えられていた。
「大変な瓜田に踏み入るところでした」
 広く知られている言い習わしに「瓜田に履を納れず」(瓜畑で靴を履き直すと瓜を盗むのかと疑われるのですべきではないとの意から、疑念を招くような行為は避けるようにとの戒め)がある。

 「瓜田に履を納れず」は「李下に冠を正さず」の対句としてしばしば使われる中国由来のことわざである。
 「李下に冠を正さず」のほうは聞き馴染みのある人も多いはずだ。

 そう、このフレーズは、昨年からの森友学園、加計学園をめぐる一連の疑惑で、しばしば登場した言葉なのである。
 「自分には関係がない」といいはる安倍首相に対して、野党やメディアが、「政治家、ましてや総理大臣には『李下に冠を正さず』という姿勢が必要だ」などと追及。
 安倍首相自身も国会で「(加計孝太郎理事長は)長年の友人でもあり、そうした疑いを持たれるということももっともなことだ、こう思いますから、李下に冠を正さずという気持ちで注意を払わなければいけなかった」などと繰り返す事態に追い込まれた。

 こうした安倍首相を諌めるために使われた慣用句の対句となる言葉を今回、美智子皇后が発した。
 これは単なる偶然なのだろうか。

 実際、皇后の誕生日文書をよく読むと、そこに強い意図があることは明白だ。
 語られているエピソード自体は、皇后がそうとは知らずに神聖な瓜田のマクワウリを取りたいと言ったところ、天皇から止められたというもの。
 ところが、そこにいきなり前述した「大変な瓜田に踏み入るところでした」という強い表現が加えられ、わざわざ「瓜田に履を納れず」の“注釈”がつけられる。
 つまり、マクワウリをめぐる夫妻の思い出話が、「地位のある者は疑われるような行為をしてはならない」というメッセージに発展しているのだ。

護憲、戦争責任、反核、反ヘイト…
美智子皇后が発し続けた安倍政権へのカウンター


 もとより、皇后は詩を愛し文学を研究するなど、深い教養をもつ人だ。
 例年、誕生日に際した文書コメントは、皇后自らが推敲を重ねてつくっていると言われる。
 今回の宮内庁による“注釈”も当然、皇后の指示によるものだと考えるべきだろう。

 そうした点を考えても、皇后は、マクワウリのエピソードを安倍首相に警句を発するために、あえて持ち出したのではないか、そう思えてならないのである。

 無論、こうした解釈が成り立つのも、美智子皇后がここ数年、婉曲的にではあるが、安倍政権の改憲や政策に警鐘を鳴らしてきたからに他ならない。

 たとえば、2013年の誕生日文書コメントでは
今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます
としたうえで、基本的人権の尊重や法の下の平等、言論の自由などを定めた五日市憲法草案など、民間の憲法草案に触れて
深い感銘を覚えた
と回顧した。
 美智子皇后は
市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います
と最大級に評価し、日本国憲法と同様の理念をもった憲法観が日本の〈市井の人々〉によってもつくられていたことを強調したのだが、これは、安倍首相ら右派の言う「現行憲法はGHQの押しつけだから改憲せねばならない」なる主張へのカウンターとしか思えないものだった。

 翌2014年には、自らA級戦犯の問題に踏み込み、その責任の大きさについて言及した。
 皇后は「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません」として
その時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います
と記したのだが、実は、この皇后発言の2か月前には、安倍首相がA級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に、自民党総裁名で哀悼メッセージを送っていたことが報じられていた。
 連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、安倍首相は戦犯たちを「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と賞賛したという。
 そうしたタイミングで皇后は、宮内記者会からの質問にはなかったA級戦犯の話題を自ら持ち出す、異例のコメントを発したのだ。

 そして昨年の誕生日文書では、ノーベル平和賞に「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」が選ばれたことを取り上げた。
 ICAN は昨年7月の国連核兵器禁止条約の採択に貢献したことなどが評価されてノーベル平和賞を受賞したのだが、日本政府は条約批准を拒否、安倍首相は受賞に一言もコメントを出さないという時期に、美智子皇后は ICAN について掘り下げて
ようやく世界の目が向けられたことには大きな意義があった
と大きく評価したのである。
 また、自身のエピソードを交えて軍縮の意義を強調し、
奨学金制度の将来、日本で育つ海外からの移住者の子どもたちのため必要とされる配慮
に言及するなど、安倍政権下での軍事増強やはびこる排外主義、ヘイトスピーチ、相次ぐ朝鮮学校の補助金停止問題を憂慮すると受け止められる文言も盛り込まれた。

天皇は平成最後の誕生日に何を語るのか?
メディアはその真意に迫れるか


 慎重に言葉を選びながらも、安倍政権とは対照的な姿勢を表現してきた美智子皇后。
 こうして振り返ってみても、やはり今年、「マクワウリ」の思い出話にあえて「瓜田に履を納れず」を織り込んだのは、森友・加計学園問題に代表される安倍首相の政治姿勢への“警句”の意味が込められている可能性は決して低くない。

 いや、森友・加計問題だけではなく、何重のも意味が含まれている可能性もある。
 たとえば、美智子皇后はこのマクワウリが「6月の大祓の日に用いられる」ことを天皇から教えられたとも語っているが、大祓の儀というのは、天皇がツミやケガレを祓い清める儀式。
 以前は成年男性の「親王」に限っていたのを、2014年から女性皇族も参列できるよう改められたもの。
 この「大祓」にふれたのはなぜか。

 また、「大変な瓜田に踏み入るところでした」という言葉も、もしかしたら、いま、日本が踏み込もうとしている改憲への動きを戒める意味もあるのではないか。そんな推察まで頭をもたげてくるのだ。

 いずれにしても、美智子皇后のこれまでの姿勢と、深い教養を考えると、そのメッセージに、表向きの言葉以外の真意や隠された意図があることは明らかだろう。

 ただ、残念なのは、こうした解釈や分析が、皇室タブーと政権タブーという二重のタブーに阻まれて、マスコミでは議論の俎上に乗せることすらできなくなっていることだ。

 12月には、今上天皇の「平成最後の誕生日談話」が発表される。
 否応なく注目をせざるを得ないが、メディアには、この“最後のメッセージ”の真意にまできちんと迫る姿勢が求められる。

LITERA、2018.10.21
美智子皇后の誕生日談話「マクワウリ」に隠された意図が?

天皇夫妻が発信し続けた護憲・平和への思い、安倍改憲への危機感

(編集部)
https://lite-ra.com/2018/10/post-4325.html

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小学6年社会科教科書における憲法の記述の問題点

先週の「憲法がわかるおはなし『檻の中のライオン』」につづいて、今週も私が書かせていただきます。

ここ数年、様々な憲法問題が起こりましたが、いまいちピンと来ていない方が多いように感じられます。
そこで、先週書いたように、『檻の中のライオン』という本を出版したり講演活動をしたりしています。
しかし、憲法の基本的な知識・理解は、小中高校で教わるはずです。
教育現場はどうなっているのでしょうか。

そういう問題意識を持ち、小中高校の社会科の教科書をひととおり購入して記述内容を調べてみました。
今回は、小学6年生の社会科の教科書における憲法の記述の問題点について書いてみます。
このほか、教員採用試験過去問において憲法がどのように出題されているかも検討し、大きな問題があると思いましたが、またの機会にしたいと思います。


 以下、東京書籍「新しい社会6下」、日本文教出版「小学社会6年下」、教育出版「小学社会6下」、光村図書「社会6」の4冊の教科書について論じます。

1 憲法というルールを守らなければならないのは誰か

 この問いに、「国民みんな」と答えてしまう方が多いようです。
 答えは憲法99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。
 憲法は、公務員、つまり国家権力の行使に携わる方々が、仕事をするうえで守らないといけないルールです。
 権力を握った人は権力を濫用しがちだから、憲法というルールで縛っておくということです。
 憲法は、国民みんなが守りましょうというルールではありません(国民にも憲法尊重擁護義務があるかについては、拙著『檻の中のライオン』p63参照)。

 だから、憲法に書かれている様々な基本的人権を守らないといけないのも、まず第一に国家権力の側です。
 しかし、「基本的人権を守らないといけないのは誰か」について、小学校の教科書には以下のように書かれています。

◆ 東京書籍
 p45「わたしたちは、憲法の定める権利を正しく行使するとともに、おたがいの権利を尊重する態度を身につけるよう努力しなければなりません。そして、国民としての義務を果たしていく必要があります」

◆ 日本文教出版
 p27「基本的人権を尊重するためには、自分の権利を主張するだけでなく、国民としての義務を果たし、他の人の人権を尊重する態度が大切です」
 p29「わたしたちは、おたがいの権利を尊重し、共に理解し合うことにより、差別のない社会をつくっていくことが大切です」

 人権を尊重しないといけないのは私たちのように書かれています。
 もちろん、「人権の私人間効力」、つまり私たち同士の「ヨコ」の関係でも人権を尊重し合わないといけないという話はありますが、その前に、国家権力と私たち、という「タテ」の関係を規律するのが憲法というルールです。
 そこが、きちんと教科書に書かれていません。
 これでは、憲法とはそもそも何のためにあるのか、誰が守るルールなのか、教科書をいくら読んでもわからないと思います。
 
◆ 教育出版
 p33「・・・このような問題(※差別など)を防ぐためには、国や地方の政治が努力するだけでなく、わたしたち一人一人も、憲法に掲げられた理想の実現に向けて、おたがいの人権を尊重し合う社会をつくる努力をしていくことが大切です」

 まずは「国や地方の政治が努力」と書かれており、これならまあよいのかもしれませんが、この文章の直前には、就職や結婚の際に差別を受けるなどの問題について書かれており、やはり「私たち同士」が差別をやめましょう、というのがメインのように読めます。

◆ 光村図書
 p175「基本的人権を尊重する精神のもとに、全ての人が豊かに、人間らしく暮らせるような社会をつくりあげていくことは、政治の最も大切な役割なのです」

 他と比べて、最も的確な表現だと思います。
 が、その直後には、他社と同様、就職や結婚の際に差別を受けることがある問題について書かれています。

 ちなみに、教員採用試験においても、憲法99条は出題されません。
 『教員採用試験過去問シリーズ』2017年版(協同出版)で、中国地方5県の数年分の過去問を調べたところ、憲法99条は一度も出題されていませんでした。

 「誰が守らないといけないルールか」「何のために憲法があるのか」という最も基本的な事柄が、教育の世界では軽視されているのではないでしょうか。

2 「三権分立」について

 三権分立、国会・内閣・裁判所についてはどの教科書にも書かれていますが、「なぜ三権分立なのか」の説明は、教科書によっていろいろです。

◆ 東京書籍
 p39「国会・内閣・裁判所は、国の重要な役割を分担しており、その仕組みを三権分立といいます」

 三権分立は、単なる役割分担でしょうか? 会社の中でいろんな部署が役割分担しているのと同じでしょうか? そうではありません。
 別の教科書を見てみましょう。

◆ 日本文教出版
 p16「国の政治は、国会を中心に、内閣・裁判所の三つの機関が、一つのところに権力が集まることのないように仕事を分担して進めています。この政治のしくみを三権分立といい、日本国憲法に定められています」

◆ 光村図書
 p165「国の政治は、一つのところに力が集まることのないように、国会が行う立法、内閣が行う行政、裁判所が行う司法の三つの役割を分担して、仕事を行っています。これを『三権分立』といいます。こうした国の政治の仕組みは、日本国憲法に定められています」

 東京書籍とは異なり、権力は一つのところに集まってはいけないのだと書いてあります。
 ただ、なぜ一つのところに集まってはいけないのか、については書かれていません。
 権力は一カ所に集中すると濫用されがちで、権力の濫用によって人権や平和が脅かされることがある、憲法に基づいた政治が行われるように権力同士がチェックしあう仕組みが必要だ、という説明があってほしいと思います。

◆ 教育出版
 p16「日本では、国の政治を立法・行政・司法に分け、それぞれの仕事を国会・内閣・裁判所が分担して行っています。それぞれの機関がその役割を実行するとともに、おたがいの役割がきちんと実行できているかどうかを調べる役割をもつことで、一つの機関に権力が集中しないようにしています。このようなしくみを、三権分立といいます」

 きちんとしてないこともあるからお互いチェックしあう、ということが書かれており、他社と比べて、最も良いと思います。

3 全体の構成について

◆ 東京書籍
 まず「子育て支援の願いを実現する政治」という章で、政治の働きで子育て支援の取り組みがなされていること、それには税金が必要なこと、が書かれている(ここまで14ページ)。
 次に「震災復興の願いを実現する政治」という章が12ページ。
 つづいて「国の政治の仕組み」という章で、国会・内閣・裁判所について、それぞれ見開き2ページずつ計6ページ。
 最後に「わたしたちのくらしと日本国憲法」という章に入るが、この章の冒頭は「だれもが楽しめる公園」という小見出しで、大阪府堺市の「ユニバーサルデザインの考えで整備された公園」について2ページにわたって解説されている。その次のページでは堺市の市役所職員の方が登場され、堺市では千利休のふるさととして「おもてなしの心」をまちづくりに生かしていることなどが紹介されている。その次に、憲法の三原則につい7ページ書かれている。

◆ 教育出版
 まず「私たちのくらしを支える政治」という章で高齢者や子育てのための福祉や、そのために税金が必要なことが書かれ(8ページ)、その次に国会・内閣・裁判所についてそれぞれ2ページずつ計6ページ書かれている。
 次に「災害から私たちをまもる政治」という章が8ページ。
 最後に「憲法とわたしたちの暮らし」という章に入るが、この章の冒頭には、「だれもが使いやすい駅に」との小見出しで、駅にエスカレーターやエレベーターが設置されていることについて2ページ書かれ、その次のページから、憲法の三原則について6ページ書かれている。

◆ 日本文教出版
 まず「わたしたちの願いと政治のはたらき」という章で、政治のはたらきによって高齢者も安心して生活できること(10ページ)、社会福祉のために税金が必要なこと(4ページ)、国会・内閣・裁判所(2ページ)について書かれている。
 次に、「わたしたちのくらしと憲法」という章に入り、憲法の三原則が解説されている(12ページ)。その次に「災害の発生と政治のはたらき」という章が6ページ。
 最後に「大きくジャンプ」という発展学習のような体裁の見開き2ページで憲法について解説されている。このページに、王様が自分を批判する人を牢屋に入れようとする漫画があり、立憲主義、表現の自由、人身の自由について考えさせるような問題提起だけがなされている。

◆ 光村図書
 まず「みんなの願いと政治の働き」という章で、社会福祉と税金(10ページ)、国会・内閣・裁判所(6ページ)について書かれている。
 次に「暮らしの中に生きる憲法」という章で、憲法の三原則について10ページ書かれている。

(1) どの教科書も、まず政治というものがあり、政治の働きによって福祉制度が整えられている、という話から出発しています。
 しかし、論じる順序としては、まず私たちには生まれながらにして人権があり、それを確保するために政府を作って政治を委ねるのだという順序のはずです。
 上記の教科書はすべて、国家権力の方が先に存在しているような、逆の順序になっているように見えます。

 社会福祉については、生存権(憲法25条)など「社会権」(国家による自由)が憲法で保障されていることから、政治がこれを行わなければならないものですが、その前に、基本的人権の中核である「自由権」(国家からの自由)についての説明がほしいです。
 すなわち、国家権力を法で縛ることにより、私たちは権力から自由だということです。
 しかし、そもそも権力を法で縛るという「立憲主義」の説明が、どの教科書にもありません。
 民主政において最も重要な「表現の自由」についても、どの教科書にも説明がありません。

 教科書の書きぶりでは、まず政治というものがあり、そのおかげで私たちはいろいろやってもらえて助かっていて、だから税金を払わなければならない、という流れの後に、上記 1 のとおり「私たちはお互い人権を尊重しましょう、義務を果たしましょう」となっており、お国のおかげでありがたいだろう、お前らはいい子にしているんだぞ、というように感じられます。

(2) 憲法は授権規範であり、国会・内閣・裁判所は、憲法による授権によって存在しています(たとえば国会に立法権があることは憲法41条に書かれている)。
 しかし、どの教科書でも、国会・内閣・裁判所の説明は憲法の章に入る前に書かれ、憲法とは関係ないかのような章立てになっています。

(3) 憲法の章の冒頭で、教育出版では駅にエレベーターなどを設置する話、東京書籍では公園を作る話が、唐突に書かれています。
 教育出版では、それが法律によって税金から補助金を出して行われていることが補足的に説明され、だいぶ後のページで、それが憲法25条の要請であることが書かれているので、一応理解できます(唐突であるうえに、その前に福祉制度の説明はされているので重複していますが)。
 しかし、東京書籍では、憲法の章の冒頭で、なぜいきなり公園を作る話をするのか、どこにも書かれておらず、わかりません。
 おまけに、公園の話につづいて「千利休のおもてなしの心」などと書かれていて、もはや何の話をしているのだったかわからない感じになっています。
 憲法の章で千利休に言及したいなら、時の権力者豊臣秀吉によって千利休は大した理由もなく切腹を命じられた、このように権力は濫用されるのが歴史の教訓だから、権力者を法で縛っておかないといけないのだ、刑罰権が恣意的に行使されないように日本国憲法は刑事手続に関する規定を詳細に置いている、という話をすればよいのにと思います。

4 最後のまとめの設問 

◆ 日本文教出版 p33
 日本文教出版では、憲法の章の最後に、次のような設問が書かれています。
 「日本国憲法の三つの原則のなかから、これからの自分の生活で最も大切にしていきたいと思うものを一つ選び、どうしてそう思ったのかを書きましょう」

 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義のうち、最も大切にしていきたいものを一つだけ選べと言われても、私は何を選んだらよいかわかりません。
 「自転車のハンドルとサドルと車輪のうち、大切にしたいものを一つ選べ」と言われても答えようがないのと同じです。
 どれか一つだけでは無意味で、全体として組み立てられて自転車として機能するから意味があるのです。

 拙著『檻の中のライオン 憲法がわかる46のおはなし』のはしがきでは、次のように書きました。
「憲法は、『個人の尊重』『人権尊重』という目的に向かって組み立てられた、立体的な一つの構築物のようなものです。」

 憲法は、全体として一つのシステムです。
 憲法の基本原理はいろいろありますが、どれも不可欠なのであり、バラバラにして一つ選ぶのではなく、それぞれの原理がどのように関連しあって一つのシステムとなっているのかを理解することが重要だと思います。

5 おわりに
 
 文科省検定済みの教科書が、なぜこのように変なことになっているのでしょうか。
 教育の世界については全くの門外漢ですが、関心が尽きません。

 ここ数年、私も含め全国の弁護士が、そもそも憲法とは何か、という啓蒙活動を行っています。
 が、本来、そんなことは学校で教わってみんな知っているということでなければならないはずです。
 ここ数年、政権を握っている政治家たちが、憲法をよく知らないまま権力を振り回しているように思います。
 このような事態を招いた根本的な原因は、学校教育や、教員養成課程、教員採用試験のあり方にあるのではないでしょうか。
 学校での憲法教育の仕組みが、長年にわたってきちんと確立できてこなかったのではないか、「憲法学」と「教育学」との橋渡しができてこなかったのではないか、という疑いを持っています。

 学校での社会科教育では、とかく「暗記」が重視されがちではないでしょうか。
 憲法前文を一言一句丸暗記させたりする学校もあるようです。
 しかし、一言一句丸暗記しても、あまり意味がありません。
 限られた授業時間を、条文の暗記に費やしてはいけないと思います。
 重要なのは、なぜ憲法というものがあるのか、どのような仕組みになっているのかを「理解」すること、そして、主権者として様々な問題を自分で考え、適切な行動ができるようになることが重要だと思います。

 憲法の出前授業を弁護士に依頼することもできますので、弁護士を教育現場で活用していただきたいと思います。

 また、拙著『檻の中のライオン 憲法がわかる46のおはなし』(かもがわ出版、2016年6月)は、小学校高学年くらいから読めるように工夫したつもりですので、ぜひ学校教育で役立てていただきたいと思います。

法学館憲法研究所、2017年8月7日
小学6年社会科教科書における憲法の記述の問題点 
楾 大樹さん(弁護士)
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20170806.html

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楾大樹『檻の中のライオン』

憲法って、学校で習うはずなのに、よく知らない方が多いのではないでしょうか。
よく知らない人たちが、最低限の前提知識を踏まえないで、憲法の議論をしていないでしょうか。

そんな現状に危機感を抱き、「ライオンと檻」の例えを使って、そもそも憲法とは何か?を皆さんに知っていただく活動をしています。
「ライオン=国家権力」「檻=憲法」、ライオンを檻に入れて縛るのが立憲主義、という例え話です。
『檻の中のライオン 憲法がわかる46のおはなし』(かもがわ出版)という本を2016年に出版しました。
この本をもとにした講演活動も行っています。
講演では、ライオンパペットと相方パペットを両手に、地元広島を中心に、これまで全国10都府県で行いました。


 「檻の中のライオン」とは、大要、以下のようなお話です。

 私たちはみんな、同じ人間。みんな人間らしく、自分の価値観を大切にして、幸せに暮らしていきたい(天賦人権、個人の尊重)。そのために、政府に政治を任せよう(社会契約)。政府は、とても強い力(権力)でみんなを仕切ってくれる、頼りになる存在。つまり、百獣の王ライオンのようなもの。しかし、とても強いだけに、暴れたら誰にも止められない(権力は濫用されがち)。だから、ライオンを檻(=憲法)に入れておこう(立憲主義)。私たちを守るための檻だから、私たちがしっかり作っておこう(国民主権)。ライオンも私たちが選ぼう(民主主義)。

 ライオンは檻の中だから、私たちは、自分の価値観に従って、ライオンに気兼ねせず自由に生活できる(自由権=基本的人権の中核)。私たちは、ライオンの悪口(政権批判)を言ったりしてもライオンに襲われない(表現の自由)。檻にしばられているので、ライオンは勝手に戦争できない(平和主義)。

 このように、ライオンは檻の中にいないといけない(99条、公務員の憲法尊重擁護義務)。檻は、ライオンの力では壊せないくらいに「硬く」作っておこう(96条、硬性憲法)。ライオンが檻を壊さないように、檻に3頭のライオンを入れて、互いに監視させよう(三権分立)。ライオンが檻から出たら、別のライオンが取り押さえるセキュリティシステムもある(81条、裁判所の違憲審査権)。でもそれだけでは心配なので、ライオンが檻から出ないよう、私たちがしっかり見張っておかないといけない(12条、国民の不断の努力)。檻から出たライオンが目の前に迫ってきたら、私たちが打ち倒すしかない(抵抗権)。

 以上が、憲法の全体像です。書籍では、これにイラストをたくさん入れて、絵本のようにイラストを眺めていくだけで大まかに憲法の仕組みがイメージできるよう工夫しました。

 ライオンが檻を破って好き勝手に走り回っていないか?というのが、ここ数年の問題だと思います。

 あちこちで講演をさせていただきましたが、岡山県総社市の学童保育にお招きいただき、子どもたちと親御さんたちにお話をしたのが印象に残っています。幼稚園児と小学生全学年の子どもたちで、こんな小さな子たちにわかってもらえるのか心配でしたが、何となくわかってもらえた気がしましたので、冒頭だけ書き起こしてご紹介します(一部改変しています)。

 みなさんこんにちわ!

 こんにちわー!!(^○^)

 弁護士の楾(はんどう)といいます。弁護士って知ってるかな?

 知らーん!

 法律を使って、困ってるひとを助けるお仕事です。

 えー?法律ってなに??

 え、えーっと、法律っていうのは、きまりです!きまりを守らない人がいたら、困るよね!

 今日は、憲法のおはなしをします。憲法って聞いたことあるかな?

 なーい!

 憲法というのは、日本の国で、いちばん大事な、きまりです。きまりは、守らないといけないね。憲法っていうきまりは、誰が守るきまりかな?国民みんなだと思う人(^^)/

 (^o^)/ハーイ (^o^)/ハーイ

 答えは憲法に書いてあるよ。憲法99条を見てみよう。憲法を守らないといけないのは、公務員って書いてあるね。国民って書いてないね。公務員ってわかるかな?

 わからーん!

 政治家とか、お役所に勤めてる人とかのことです。政治家ってわかるかな?

 ・・・?

 あべ総理大臣とかのことです!

 あー!

 憲法っていうのは、政治家の人とかが、お仕事するときに守らないといけない、きまりです。ぼくたちみんなが守るきまりじゃないんだよ?

 へ?

 じゃあまた問題をだすよ。ここにいるみんなの共通点、同じところって何だろう?

 人間・・・?(小学5年生)

 おー、すごい、正解です!

 自分と誰かと、おなじところがあったら、お互い大事にしたいよね。みんな同じ人間なんだから、人間らしく幸せに生きていきたいな、っていう思いは同じだよね。人間らしく生きていけないような人が、誰もいないようにしたいね。

 じゃあ、なんでみんな人間なのかな?そんなことわかんないね。生まれてみたら人間だったよね。
 人間として生まれたんだから、みんな人間らしく生きていけるよ!これを「基本的人権」といいます。
 ぼくたちは、基本的人権を、だれからもらったのかな?
 みんな、人間として生まれたときに、天から授かっているんだよ。
 みんな同じ人間だけど、みんなそれぞれ、個性が違うよね。得意なこと、苦手なこと、好きなこと、嫌いなこと、みんな違うね。誰かと違っていても、いいんだよ。
 動物の世界にも、おさるさん(ぬいぐるみを出す)や、犬さん(ぬいぐるみを出す)や、うさぎさん(ぬいぐるみ出す)や、いろいろいるね。
 人間にも、いろんな人がいます。誰かと違っていても、みんな一人ひとり、こうして生きているね。そのこと自体が、大事なことです。そのことが憲法に書いてあるよ。13条「すべて国民は、個人として尊重される」。
 じゃあ、みんなが個性を生かして、人間らしく幸せに暮らしていけるには、何が必要だろう?
 みんなそれぞれ、好きなこと、やりたいことが違うよね。それは大事にしないといけない。でも、ぼくはこれが好き〜、私はこれがしたい〜、ってみんなが好き放題やったら、どうなるかな?

 (ぬいぐるみを出す)

 おさるさんと犬さん、仲悪そうだよ〜。けんかになっちゃうかもしれないね。
 犬さんがワンワン吠えたら、うさぎさん怖がっちゃうね〜。強い人が弱い人を踏みつけちゃうかもしれないね。
 学校の中のことを考えてみよう。学校で、みんなが自分のしたいことばっかりしたら、どうなるかな?
 けんかになったり、いじめっ子がいじめたり、するかもしれないね。
 そんなとき、どうする?

 先生に言うかな?

 もし、学校で、教室に先生がいなかったら、みんなどうなるかな?みんな好き勝手するんじゃないかな?みんな楽しく学校で勉強したりできなくなっちゃうかもしれないね。先生がいたら、けんかしてる子や、きまりを守らない子がいたら、こらー!って怒ってくれるね。みんな、先生に怒られたら、言うこと聞くかな?

 ウンウン

 先生の言うことなら、みんな聞くよね。先生が、強い力でみんなを仕切ってくれるから、みんな安心して学校で勉強できるね。
 国の中でも、みんな好き勝手をやったら、人間らしく生きていけない人が出てくるかもしれない。みんなが好き勝手をしないようにするには、何が必要かな?
 「ルール」(法律)が必要だね。
 「これがルールだから、みんな守ってよ!」
 「ルール違反をしたら、お仕置きするよ!」
 というふうに、強い力で、みんなを仕切ってくれる人がいないといけないね。
 国の中でそういうことをするのを、「政治」といいます。学校の中の先生みたいに、「この人の言うことなら聞くしかない」っていうような、強い力。これを、「権力」といいます。権力を持った人に、「政治」をやってもらわないといけないね。

【パペットマペット】 〜おさるさんたちとライオンの社会契約?

◆ おさるさん

 「強くて頼りになりそうな誰かに、政治をやってもらおう。そうだ!百獣の王ライオンさんなら、強い力でみんなを仕切ってくれて、頼りになりそうだ。ぼくたちみんなが人間らしく幸せに暮らしていけるように、ライオンさん、政治をやってください」

◆ ライオン

「よし、ひきうけた」

 引き受けてもらえたね。これでみんな、幸せに生きていけるかな?
 今、おさるさんの目の前に、ライオンさんがいるよ。どうですか?

 こわーい!

 そうそう!怖いね!ライオンさん、本当にぼくたちのために、政治をやってくれるかな?
 機嫌の悪いときには、噛みついてこないかな?ガブッ
 ライオンさんが暴れ出したらどうなるかな?

◆ ライオン

 「俺様がぜいたくしたいから、税金はたっぷり払えよ!」

 「俺様の言うこと聞かないやつは、牢屋に入ってろ!いや、死刑だ!」

 「あそこの国はムカつくから、やっつけてやれ。戦争するぞ!」

 ライオンさん、強いから、頼りにはなるけど、もし暴れだしたら誰にも止められないね。誰だって、自分の思いどおりに、自分が好きなように、いろいろできたらいいなーって思うよね。権力を使って政治をする人も、みんなのためじゃなくて、つい、自分のために権力を使ってしまうことがあります。ライオンが勝手に走り回ったら、怖いね。政治をする人が自分勝手なことをしたら、人間らしく生きていけない人が出てくるよ。人類の歴史の中で、そんな出来事はたくさんあります。
 そんなことにならないようにするには、どうすればいいだろう?
 おさるさんたちは考えました。

【パペットマペット】

◆ おさるさん

 「ここに、ライオンさんに守ってもらいたい約束事を書いた紙(憲法)を作ったよ。ライオンさん、この約束(檻)を守ってね。檻の中で政治やってね。ライオンを檻に入れておこう。それなら安心だ」

◆ライオン

「わかったよ。約束守るよ。檻の中にいるよ」

 (ライオンに台所用水切りラックをかぶせる)

 こうしてライオンさんは、おさるさんとの約束(=檻)にしばられて、政治をすることになりました。ライオンさんが檻の中にいれば、みんな安心して生活できるね。これを「立憲主義」といいます。
 この檻は誰が作るんだろう?日本の国の中で、いちばん偉い人って誰かな?

 (^o^)/ハーイ あべ総理大臣! (^o^)/ハーイ 天皇!

 日本の国でいちばん偉いのは、ぼくたちみんなだよ!

 (゚Д゚)えーっ?

 「国民主権」って聞いたことあるかな?

 なーい!

 日本の国のことを決める力を持っているのは、私たち国民です。そういう意味で、国民みんながいちばん偉いんだよ。これを、「国民主権」といいます。憲法という檻を作るのも、いちばん偉い、ぼくたち国民です。ぼくたちみんなを守る檻だから、ぼくたちみんなでしっかり作っておかないとね。
 ぼくたちが作った檻の中で(憲法という枠の中で)ライオンさんに政治をやってもらいたいね。だから、檻の中でライオンさんがきまり(法律)を作ったら、ぼくたちは、それを守って生活しよう。それが、ぼくたちと、ライオンさんとの約束だよ。
 ライオンさんが檻から出たら、ライオンさんが約束を破ったことになるよ。だから、檻から出たライオンさんの言うことは、ぼくたちは聞かなくていいよ。憲法98条を見てみよう。憲法は最高法規、憲法に違反する法律には効力がない、って書いてあるね。政治をする人たちが憲法に反する法律を作ったら、そんな法律は、ぼくたちは守らなくていいんだよ。
 ここまでで、ぼくたちが檻を作ったね。ここまでのおはなし、だいたいわかった人(^^)/

 (^o^)/ハーイ (^o^)/ハーイ

 じゃあ、ライオンさんは、どんなライオンさんがいいかな?
 ライオンさんにも、いろんなライオンさんがいます。もし、王様とか将軍様みたいな人が、俺様の言うこと聞け、とか命令してきたら、どうですか?

 (>_<) いやだー!(かなり小さい子)

 そう、そんなの嫌だね!そんなことになったら、どんな命令されるかわからないね。ぼくたち、人間らしく生きていけなくなっちゃうかもしれないね。だから、政治をする議員さんを、選挙でみんなで選ぶ方がいいよね。選挙ってわかるかな?

 わかるー!(^o^)/

 おお、わかるのか。みんなが選挙で選んだ人なら、一応、安心だね。もし議員さんがおかしなことをしたら、次の選挙で落とすこともできるからね。こういうやり方を、「民主主義」といいます。みんなはまだ選挙に行けないけど、18歳になったら行けるから、行こうね。
 じゃあ、選挙で選ばれた議員さんは、次の選挙までは何してもいいのかな?それじゃあ困るね。ちゃんと、檻の中で政治をしてもわらないとね。人間だれでも、間違えることがあるよね。みんなに選ばれた人でも、間違えることがあるかもしれない。みんなから選ばれた人が、誰かの基本的人権を侵すような法律を作ったりしたら、人間らしく生きていけない人が出てくるかもしれない。だから、選挙で選んだ議員さんも、しっかり檻に入れておかないといけないよ。
 ここまで、だいたいわかった人(^^)/

 (^o^)/ハーイ (^o^)/ハーイ

〜後略〜  

(拙著『檻の中のライオン 憲法がわかる46のおはなし』第1章参照)

[写真]講演する楾大樹さん

はんどうたいき.jpg

法学館憲法研究所、2017年7月31日
憲法がわかるおはなし
「檻の中のライオン」
 
楾大樹さん(弁護士)(*)
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20170731.html

(*)はんどう たいき
ひろしま市民法律事務所所長、日弁連憲法問題対策本部委員。
1975年 広島県生まれ
1998年 中央大学法学部法律学科卒業
2004年 広島弁護士会登録
2016年 『檻の中のライオン 憲法がわかる46のおはなし』(かもがわ出版)を出版
弁護士業務の傍ら、月数回ペースで「檻の中のライオン」の講演活動を行っている。
2017年度から、正進社の中学校公民資料集『公民の資料』に「檻の中のライオン」が掲載される予定。
「檻の中のライオン憲法条文クリアファイル」「檻の中のライオンTシャツ」など関連グッズも販売中。

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2018年10月20日

社会は変えられるという想像力

 日立製作所が笠戸事業所(山口県下松市)で働くフィリピン人技能実習生40人に実習途中の解雇を通告した問題で、実習生が加入した労働組合と日立との団体交渉が19日、下松市であり、賃金補償で大枠合意した。
 実習生は損害賠償請求訴訟を見送る方針だ。

 笠戸事業所については法務省や国の監督機関「外国人技能実習機構」が、実習生に目的の技能が学べない作業をさせてきた技能実習適正化法違反の疑いがあるとみて検査している。
 このため日立は同機構に新たな実習計画が認められず、実習生40人に9〜10月、解雇を通告していた。

 日立はこの日、国側から実習中止の処分を受けた場合、残りの実習期間約2年分の基本賃金を補償する考えを示し、実習生側が受け入れた。
 日立は帰国までの月額数万円程度の生活費も補償する考えを示し、実習生によると、一部を実習生の口座に入金した。

 実習生が加入した労組「スクラムユニオン・ひろしま」(広島市)は、日立がこれまでの「実習は適正」との姿勢から譲歩したと評価。
 「実習生の基本的な利益を守れた」(土屋信三委員長)と判断した。
 「実習生には借金もあり、生活の不安もある」ため、国側の処分が出るまでの生活費の補償水準については交渉を続ける。
 9月に解雇を通告された20人は、入国管理局の決定で今月20日までの滞在期限が30日間延びた。

 日立広報・IR部は「合意に向けて前進したものと認識している。実習生が、従前と同様に実習が実施できるよう、最大限努力していく」とコメントした。
(橋本拓樹、藤牧幸一)

闘い、お金のためだけではない

 解雇された実習生たちは団体交渉の末、賃金補償で大枠合意に至った。
 「闘ってきたのはお金のためだけではない。日本にたくさんいる実習生、何も知らずにやってくる後輩たちのためだ」と話す。

 日立によると、解雇された40人は技能実習の監理団体「協同組合フレンドニッポン」(FN、本部・広島市)の紹介で昨年7〜8月に入国。
 配電盤や制御盤を作る「電気機器組み立て」を3年かけて学ぶ目的で笠戸事業所に来た。
 しかし、実習生たちは「電車のトイレ付けなど技能が学べない単純作業だった」と主張してきた。

 実習生は来日前にFNと提携するフィリピンの訓練学校に入らなければならず、学費十数万〜30万円の借金を抱える人もいる。
 フィリピンの平均月給は2万円程度。
 解雇された実習生の一人はフィリピンの大学を出た後に来日したが、「技能も身につかず、借金を抱えたまま母国に戻れない」と話す。
 「聞いていない単純作業の賃金で借金を返すやり方はおかしい。日立に改善を訴えたら解雇された」と主張する。

 団交の結果、日立が用意した寮にこのまま住めて、当面の生活費が一部支給されることになったが、日立が出す実習計画が国側に認められない限り、いずれ帰国を迫られる。
 この実習生は言う。
 「我々を使い捨てる仕組みなんだろうか
(前川浩之、嶋田圭一郎)


[動画]日立と実習生側、補償で大枠合意 訴訟見送りへ

[写真]実習生が参加した集会であいさつする「スクラムユニオン・ひろしま」の土屋委員長(右から2人目)=19日午後6時5分、山口県下松市

朝日新聞、2018年10月20日07時27分
日立、解雇した実習生に賃金補償へ 残り期間2年分
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20181019005114.html

 『新潮45』8月号に、自由民主党の杉田水脈議員の「『LGBT』支援の度が過ぎる」という文が掲載された。
 それに対して非難が殺到したが、『新潮45』はさらに10月号で「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という特集を組む。
 特に“文藝評論家”の小川榮太郎氏は、LGBTを痴漢にたとえるなど、差別的と激しく批判された。
 9月25日、新潮社は「編集上の無理が生じた」として、『新潮45』の休刊を決めた。

 はたして当事者たちはこの問題をどう考えるのか。
 LGBTを明かした、明治大学法学部教授の鈴木賢さん(58)と、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授の岡野八代さん(51)の2人の大学教授が語った。

鈴木: 今回、驚いたのは、杉田氏らの意見に賛同する人たちが一定数いたことです。これはLGBTの問題だけじゃない。いわゆる相模原事件で被害に遭った障がい者の方々にもいえることですが、いまの社会には、マイナス評価を受けやすい人たちは辱めてもいいという空気が蔓延している。それが、とても怖い。

岡野: いわゆる国家が「模範」とするような家族像や、人物像から外れた人間は、存在価値がない、と。自民党の改憲草案には、それが如実に表れています。いま、こんな差別と不正義がまかり通る世になっているのに、「それはおかしい」と声を上げようとする人が本当に少ない。

鈴木: それどころか、「おかしい」と声を上げる人たちを嫌悪する人もいる。デモなんかすると、「権利ばっかり主張して、特権が欲しいのか」なんて非難されます。

岡野: 厳しい格差社会の中で生きていて、“みんな苦しいんだ。自分たちも黙ってがまんしているんだから、権利なんて騒ぐな”と多くの人が考えてしまっている。でも、“生きづらいんだったら、生きづらい世の中を変えようよ”と言うことは、私たち一人ひとりが憲法で保障された権利なんです。

鈴木: 要するに自分を否定され続けてきて、こんな社会を変えるなんて、絶対に無理だと諦めてしまっている。社会を変えられるという想像力を失っているのです。だから、現状はしょうがないと、私的な幸福だけを追求して、公的なテーマには関心が持てなくなってしまった。これは教育の問題も大きいんです。自分たちは主権者で、自分たちの考えで社会は変えられるんだということをちゃんと学校で教えてこなかった。政治家はそう教えたくないと考えてきたのです。だから私は、自分の学生たちには洗脳を解くつもりで、いつも話をしています。

岡野: 『女性自身』の読者の方も、絶対にさまざまな問題を抱えているはずです。なんで子育てがこんなに大変なのか、なんで夫はこんな帰りが遅いのか、なんでこんなに老後が不安なのか。それは、全部政治が決めている制度のせいかもしれない。あなただって声を上げていい。“こんなもんだよね、社会って”と思うことはないんですよ


女性自身、2018/10/19 16:00
LGBT差別と闘う教授が語る「生きづらい社会に従属する必要はない」
https://jisin.jp/domestic/1673047/

 最後に、藤田孝典さんのつぶやきに耳を傾けてくださいますように。

12月に共著本をちくま新書から発刊します。"深まる貧困、苛酷な労働、分断される人々。現代日本の根本問題を抉剔し、誰もが生きる上で必要なベーシック・サービスの充実を提唱。未来を切り拓く渾身の書":井手英策,今野晴貴,藤田孝典『未来の再建
19:57 - 2018年10月18日

ホントに。ここが財政学者と社会福祉実践者との差異で興味深いところ。何度話し合っても当事者の不公正税制に対する「嫉妬や憎悪」「怒りや憤り」は大事だと思っている。それが当事者の言動を変え、結束を強めて社会を変えてきたから。立場の違いを越えて議論することは大切
5:56 - 2018年10月19日

高所得者への不公正税制を是正することなく、政府や財政学者が理論的に消費税増税の必要性を語ってきても、それに素直に応じる市民や労働者であってほしくないという気持ちが根底にあるな。そこまで飼い慣らされなくてもいいのに、と。
6:02 - 2018年10月19日

慶應義塾大学の井手英策さんと共闘する理由は、実は税制の賛否や是非ではない。むしろ社会保障こそ、前近代的で、残余的・選別主義的なものから、普遍主義的・脱商品化へ進めるため。要するに、みんなに必要なベーシック・サービスを無償化、低負担化するための共闘である。
7:35 - 2018年10月19日

まずはやり方次第で、教育、住宅、医療、介護、保育、交通、電気、水道、情報インフラなどの社会共通資本が無償化、低負担で利用できる方法がある、という未来志向の発想をみんなが持てるかどうかが大事。いまは夢物語だけれど、社会意識や社会規範は時代と共に変わっていくから。
7:53 - 2018年10月19日



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本田圭佑から届いたメッセージ

 絶対に無理だと思った。
 だが、どんな困難にも常に真っ直ぐに立ち向かい、時には猛烈な逆風からも逃げずに立ち向かってきた彼なら、しっかりと答えてくれるのではないか。
 直感的にそう思った。本田圭佑だ。

 現在はオーストラリアAリーグのメルボルン・ビクトリーで現役を続けながら、カンボジア代表のGMとして実質的な監督を務めている。さらに2020年東京五輪にオーバーエイジ枠での出場を目指すことを公言するなど、目標達成に挑み実現していこうとする姿勢を貫いている。
 7月19日、本田は横浜市にある神奈川朝鮮中高級学校を訪れた。名古屋グランパスエイトでチームメイトだった在日コリアンの安英学の招きを受けて実現したサプライズ訪問だった。
 予想もしなかったゲストの登場に、悲鳴にも近い歓声はしばらく止まなかった。
 熱烈な歓迎を受けた本田は、生徒たちの前で講演し、別れ際には色紙に“仲間”という文字を書き残して行った。
 しかし、日朝間には拉致問題など様々な問題が横たわり、朝鮮学校もそれと関連してネガティブなイメージを持たれてしまっているのが実情だ。
 普通であれば、訪問を敬遠するのではないか。だが、なぜ本田はこのタイミングで訪問を決意したのか。兄貴と慕う安英学のお願いとはいえ、そう簡単に決断できることではなかったはずだ。

 その本心を知りたくて、取材を申し込んだ。もちろん、ダメ元で、だ。ただ、こちらの熱意も伝えたつもりだった。
 2週間後、本田のマネジメント事務所から返事があった。
「直接会って取材時間を作るのは難しいです。けれど、書面ならお答えできる可能性はあります」と。

 プロサッカー選手である本田に、失礼だとは思いながらも、サッカーとはほとんど関係のないぶしつけとも思える質問をたくさん送った。
 個人的なインタビューをするのは初めての選手、しかも日本を代表するトップアスリートである。少し遠慮して、「答えられる範囲で結構です」とも伝えてもらった。
 だが、彼はすべての質問に答えてくれた。
 正直、そのことに驚いた。その文面も本人が直接打ちこんだもの。今にも本田の声が聞こえてきそうだった。

夢や希望を与えることが本職の僕が断るわけがない

――朝鮮学校を訪問してから約3カ月が経ちますが、そこに至るまでの経緯について教えてください。名古屋グランパスでチームメイトだった安英学さんから連絡があったと聞きましたが、お願いされたときどのように思いましたか?

「どうも思わないです。英学さんのことをヒョンニン(兄)と呼んで慕っているのですが、尊敬している人から『子供たちに夢や希望を与えてあげて欲しい』とお願いされた。夢や希望を与えることが本職の僕が断るわけがありませんよね。ワールドカップ(W杯)後で忙しかったのでスケジュール調整が一番大変でした(笑)」

――日本と北朝鮮の間には、様々な問題が横たわっていて、朝鮮学校訪問が自分にとって“マイナス”になると考えてもおかしくありません。その中で、なぜ行動に移せたのでしょうか。

「自分の損得以上に大事なことだと思ったからです。そして抱えている様々な問題を解決していくためにも、そういった小さい努力の積み重ねが最も大事だと思っています」
 この頃、本田はロシアW杯が終わり、多忙な日々を過ごしていたのは記憶に新しい。朝鮮学校を訪問する前日の7月18日には、アメリカの俳優ウィル・スミスと共にベンチャーファンド「ドリーマーズ・ファンド」の設立を発表した。
 「世界中の人々の生活を良い方向に変えていきたい」という本田の強い意志があってのことだが、ファンド設立に向けた交渉、構想や理念を発表するという準備だけでもかなりの労力を割いていたのは想像に難くない。
 しかも、メキシコのパチューカを退団し、新天地選びにも慎重を重ねていた時期。
 本田は歴史的な南北首脳会談が実現したあと、安英学とメールをやり取りし、その流れで朝鮮学校訪問の話が出たのだという。

――朝鮮学校の第一印象。生徒たちの印象はどのようなものでしたか?

「元気がいいな!って印象でした。元気がいい子供と接するのは、上手く説明出来ないけど、良い気分なんですよね!」

――朝鮮学校の生徒たちには、何を一番伝えたかったでしょうか。

「僕が一番伝えたかったのは、両国の間に歴史として様々な事があったとしても、僕らが人である限り、“仲間”になれるんだ!ということを伝えたかったんです。そして少なくとも僕とヒョンニン(安英学)はそういう関係だということを伝えたかった。そして朝鮮学校を訪問することで、間接的に日本人にも同じことを伝えられればという想いがありました」

 ロシアW杯でベスト16入りを果たした日本代表。選手たちの活躍ぶりを、日本に住む朝鮮学校の生徒たちも目に焼き付けていたはずだ。
 ただ、どこかで“私たちとは無縁な人”と思わざるを得ないのも事実だ。そもそも、現役の日本代表の選手が朝鮮学校を訪れたという話は聞いたことがない。
 朝鮮学校の子供たちにとってサッカー選手のヒーローといえば、北朝鮮代表として2010年南アフリカW杯に出場した安英学や鄭大世(清水エスパルス)、梁勇基(ベガルタ仙台)ら在日コリアンの選手たちになるのだろう。
 ただ、欧州のビッグクラブでプレーする日本代表選手を一目見てみたい、会ってみたいと憧れても決して不思議ではない。朝鮮学校の生徒たちはみな、日本で生まれ、日本の文化の中で育っているからだ。
 それに朝鮮学校に通う男子生徒たちは、ほとんどがサッカーを経験している。というのも、日本学校では盛んな野球部が朝鮮学校には存在しないからだ。
 あくまでも部活動のメインは小学校からサッカー部で、授業の合間の休み時間には、校庭で自然とボールを蹴る子供たちの姿が見られる。学校単位によっては、バスケットボール部などその他の部活も行っているが、どの学校にも存在するのがサッカー部なのだ。
 私の時代のヒーローは、多くの日本人のサッカー小僧と同じく、カズ(三浦知良)やラモス瑠偉だった。当時、もしもカズが朝鮮学校に現れたらなら、同じく学校中が大騒ぎしていただろう。
 それに似た感覚が、今回の本田の朝鮮学校訪問にもあったと思う。サッカー界のスーパースターである本田を目の前に、生徒たちは大興奮だったというが、それはごく自然なことなのだ。


一番最初に変えないといけないのは、“自分”

――(朝鮮学校では)具体的にどのような話をされましたか?

「僕は基本的には夢の話をしました。大きな夢を持って、それを忘れずに諦めずに追い続けて欲しいというようなことを話しました。彼らの環境は、僕の想像をはるかに超えるレベルかもしれない、ということには同情します。でも僕が自分の人生で学んだことは、置かれた状況を良くしたいなら、一番最初に変えないといけないのは、“自分”だということです。簡単ではないですが、ポジティブに考えて何にでも挑戦して欲しいと思います」

――本田選手は過去に在日コリアンの方などとの関わりはありましたか?もし、何かエピソードがあれば教えてください。

「中学の時に在日の友人がいたので、一度、朝鮮学校の運動会を訪問したことが記憶に残っています。あとは大人になってからもそうですが、在日の友人が多かったです」
 現在、日本各地には60余の朝鮮学校が存在する。近隣住民とも交流を続けながら地域に根差した学校運営を続けているが、近年は拉致問題などの日朝問題によって、それと関連付けられ、批判の対象となることも多い。
 学校への補助金交付を取りやめる自治体が増え、高校無償化の対象外とされていることで、各地で裁判に発展していることも周知の通りだ。こうした状況だけを見ると朝鮮学校の生徒たちは完全に被害者だと言ってもいい。
 意図せず、難しい環境に置かれている朝鮮学校の生徒たちには、本田のような考え方を持つのは難しいかもしれない。
 だが、その高い壁を乗り越えるために、まず変えないといけないのは“自分自身”ということを伝えてくれている。

自分の国しか愛せないのは悲しいこと

 朝鮮学校の話から話題を変えた。本田に聞いてみたかったのが、「愛国心」についてだ。
 日本代表としてW杯に3度も出場し、国の威信をかけた真剣勝負の場所にいたからこそ、感じるものもあっただろうし、世界のクラブを渡り歩いてきたからこそ「日本人」である大切さを感じることも多かったのではないか。勝手ながらそう想像していた。
 彼が朝鮮学校訪問を決意したことも、そうしたことと無関係ではないのではないかと思ったからだった。

――話が変わりますが、日本代表としてワールドカップにも出場した本田選手にとって、「愛国心」とは何でしょうか?「国籍、民族、人種」とはなんでしょうか。世界に出て様々な経験をされた本田選手が感じたものがあれば教えてください。

「家族を愛することと近いかなと。自分の国を家族と思えることが愛国心かなと。ただ問題なのは自分の国しか愛せないこと。それは悲しいことだし違うと思う」

――サッカーでは日韓戦になると両国とも熱くなりますが、実際に韓国と対戦した経験から、日本と韓国では気持ちの入り方は違うものなのでしょうか?

「いえ、僕は他の試合と変わりませんが、メディアが問題です。それを意識させるように必要以上に掻き立てることで、仲を悪くさせようとする。本当にこのメディアの問題というのは変えないといけません」

何人であるかよりも、“人としてどうあるべきか

――一方で「何人である」ことを強調したり「愛国心」の強さは、一歩間違えると、対立したり紛争が起こったり、世界が間違った方向へ向いてしまうと感じます。本田選手は「日本人」であることをどのように表現していくべきだと思いますか?

「そうですね。確かに繊細な問題であり、少しの表現で争いになってはいます。でも僕は日本人である前に“人”です。何人であるかを前面に表現するよりも、人としてどうあるべきかを表現することが最も大事なことだと考えています」
 「自分の国しか愛せないのは問題」とは、あまり考えたことのない視点。目からうろこだった。
 さらに、日韓などの対立構造を「煽っているのはメディア」とも言い切っている。確かに現在の日本において、ネット上には煽り記事が数えきれないほど見受けられる。
 ただ一部の保守的な人々が、特に政治的に対立する国には、絶対に負けられないという気持ちが強いのも事実だろう。
「メディアの問題を変えなければならない」とは本音で、いずれこの手の問題を解決するために、本田は次の一手を考えているのかもしれない。
 ところで、なぜこのような質問をぶつけたのか――。
 2012年ロンドン五輪の3位決定戦で、韓国が日本に勝利し銅メダルを獲得したが、そのあとスタジアムで韓国の選手が「独島は我が領土」のプラカードを掲げたことが大きく取り上げられ、問題になった。
 そのことについて同年9月に本田が日刊スポーツの取材にこう答えていたことがあったからだ。
「……オレは愛国心というのか、そういう気持ちが強い。例えば、いい悪いは別にして、この間のオリンピックの竹島の問題がある。韓国の選手が試合後にボードを持った。いい悪いは別として客観的に見たら、彼は韓国を愛しているんだな、と思った。オレは日本を愛している。もしかしたら同じような状況になれば、同じように行動したかもしれない。それはその場になってみないと分からないことだけど。
 勝ち負けという観点からすると、韓国人が韓国を愛する気持ちに、日本人は負けているんじゃないか。これは政治的な問題ではない。単に自分の国を愛しているか?という気持ちをくらべると、日本は韓国よりも劣ってるんじゃないか、という気持ちにさせられた」
 あれから6年が経ち、本田の「愛国心」は「自分の国を家族と思えることが“愛国心”」という、もっと広い見地になっていた。
 それこそ自分の国を大事にしながらも、“日本人”である前に“人”であることが大事。“何人”である前に、“人としてどうあるべきか”を表現することが大事だという。
 人として努力を怠らない本田らしい言葉だと思う。そして最後に聞いた。日本人の良さ、この先に見据えているものについて――。

勤勉さは日本の最大の強み。“働き方改革”は強みがなくなる

――世界に出て感じる「日本」の良さはどこにありますか?若くして世界に出ることで俯瞰的に「日本」という国を見ながら、気付いた良い部分がたくさんあると思います。

「日本の良さは本当に沢山あります。その良い部分は世界一な部分も数多くあると思います。一方で反省して改善しないといけない点も数多くあると思っています。特に勤勉さという点は、日本の最大の強みだと思っているので、最近の『働き方改革』は日本人が幸せに向かっている反面、強みをなくしていく可能性があると言えます」

――「働き方改革」の話が出たので聞きますが、サッカーだけでなく、広くビジネスも展開されている本田選手から見て、特に政治の世界での日本は日韓、日朝、日中の東アジアの平和構築、日米関係など、果たすべき役割はたくさんあると感じていますか?政治家が果たす役割など、個人的な見解があれば教えてください。

「すべてにおいて簡単なことではないですが、結果から言うと世界を平和にすることではないでしょうか?国益だけを考える政治家は、今後は必要とされなくなっていく時代になると思います」

――最後に。現在、様々な事業展開、新たなクラブを渡り歩き挑戦を続ける本田選手ですが、これから目指すものとは何でしょうか。

「短期的な目標は東京五輪です。中長期的な目標は人がお互いを尊敬して信じ合える世界の実現を夢見ています」
 本田が政治への関心も高いのはかねてから知っていたが、日本人の強みが働き方改革によって、なくなるのではないかと疑問を投げかけている。
 政治家への転身は想像もつかないが、本田は世界をより良いものにしていくための活動を、今後も続けていくのだろう。それも我々が想像しない領域へどんどん手を伸ばし、もっと驚かしてくれるに違いない。
 個人的には本田の熱い志と決断力と行動力、そしてサッカーが持つ力、スポーツにおける国際交流が、今も対立しあう国の人々の心を溶かして欲しいと切に願う。


Yahoo ! Japan News、2018/10/11(木) 7:00
独占告白!本田圭佑から届いたメッセージ
〜朝鮮学校訪問の理由、愛国心とは、日本人であることとは〜

金明c(*)、スポーツライター
https://news.yahoo.co.jp/byline/kimmyungwook/20181011-00100025/

(*)金明c
1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子ゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子ゴルファーと親交を深める。特にイ・ボミとは人気が出る前から周知の仲。現在はサッカー、ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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日本の「モスク」とイスラム社会

田川基成(たがわ・もとなり)
写真家。移民や文化の変遷、宗教などを主題に作品を撮る。ムスリム移民家族の「ジャシム一家」や、長崎の海とキリシタン文化、日本のベトナム難民、北海道などが主なテーマ。北海道大学農学部を卒業後、東京で編集者・業界紙記者を経て2014年に独立。長崎県の離島出身。1985年生まれ。

日本には今、過去最高となる15万人以上のムスリム(イスラム教徒)がいると推計される。
ムスリムの増加とともにイスラム教の礼拝施設「モスク」も増え、現在全国で100カ所以上ある。
ムスリムの生活に必要不可欠なモスクの日本における有り様や、モスクを中心に成り立つムスリムコミュニティーの実態に迫る。


出稼ぎや労働者の多い郊外型モスク

 長い6月の太陽がようやく沈んだ。空が深い青から暗闇へと移ろう時間、関東郊外の住宅街と田園が混ざり合う一角で、見慣れない民族服を着た男たちが静かにイスラム式の礼拝を行っている。
 千葉市内を走る国道16号を東へ折れ、車で5分ほどの場所にそのモスクはある。2階建ての母屋に、離れが1棟。100坪ほどの庭。裏には空き地、向かいには赤土の畑が広がる。遠くからでは土地持ちの農家の自宅か何かにしか見えない。
 ある金曜日の正午過ぎ、広々とした庭に、褐色の肌をした男たちが運転する車が次々と入ってくる。ある者は上下そろいのゆったりとした民族服を着て白い帽子を被り、ある者はラフなTシャツとジーンズ姿。作業用のつなぎを着た工員風の若者も自転車に乗りやってくる。その数は50人を超えただろうか。
 まず離れに入ると、しばらくして母屋へと向かう。母屋の中からは、歌声のような低い音がかすかに漏れ聞こえてくる。15分ほど経つと、一人、また一人と外へ出て、それぞれの職場へと戻っていく。建物の中で行われていたのはイスラム教の金曜礼拝だった。

 千葉モスクは2010年に設立。周辺に住むムスリムたちが寄付を積み立て、中古の民家を3000万円で共同購入した。母屋は絨毯を敷き礼拝できる空間に改装、離れには礼拝前に身体を清める水場と、寝泊まりできる部屋と台所を備えた。
 集まるのはパキスタンとバングラデシュの出身者が多い。1980年代後半に日本への移住が増えた彼らは在日ムスリムとしてはパイオニア的な立場にあり、特に人口が多いのだ。他にインドネシアやスリランカ、ナイジェリアなどからきたムスリムもやってくる。

 首都圏を環状に結ぶ国道16号沿いには、白井(千葉県)、春日部、さいたま(ともに埼玉県)、八王子(東京都)、海老名(神奈川県)などにもモスクが点在する。こうした郊外に住むムスリム移民の多くは工場労働や建設・解体業、リサイクル業などに従事し、中古車や機械の輸出会社などを経営する者も少なくない。
 シクダール・ジャシムさん(47)も、そんなバングラデシュ出身者の一人だ。1991年に出稼ぎのため来日。2006年に永住権を取得すると妻子を呼び寄せ、今は船橋市郊外の団地に家族6人で暮らしている。

「ワタシ日本に来たころ、モスクがあんまりなかったから、公園とか、アパートの部屋でナマズ(礼拝)してたよ。今は近くにマスジド(モスク)できて、千葉にも、東京にもたくさんあるね」

 ラマダン(断食月)の礼拝や断食明けの祝祭、犠牲祭など重要な宗教行事の際には200人以上のムスリムが千葉モスクを訪れる。礼拝の後に皆でカレーやビリヤーニ(炊き込みご飯)の食事をとり、友人とおしゃべりをするのがジャシムさんの楽しみだ。息子のアリフ君(8)もお父さんと一緒にモスクにきては、他の子供たちと仲良くなって遊んでいる。

「マスジドは大事な場所。バングラの友達にも会って、ご飯食べて。日本に住んで家族だけだと寂しいから。みんなの顔見ると国のこと思い出すよ」

100カ所を超えた日本のモスク

 日本在住ムスリムの人口は過去最高を記録している。日本のムスリム社会とモスクの研究調査を行う早稲田大学の店田廣文(たなだ・ひろふみ)教授は、

2016年末の在留外国人統計から、在日ムスリム数は15万人を超えたものと推計されます。ムスリム移民の増加と、彼らが日本で所帯を持って子供が増えていることも要因です
と説明する。

 モスクの数も増え続けている。

「公式の統計はありませんが、全国で100カ所を超えたことがほぼ確実です。今から30年前、日本にあるモスクは2カ所だけでしたので、隔世の感があります。さらに、北海道から九州まで各地でモスクの建設計画が立ち上がっています」

 国内の移民コミュニティーとしては、愛知県のブラジル移民のように団地などのひとつの場所に大勢が寄り集まって住んでいるケースがある。一方でムスリム移民は、比較的広範囲に住み、モスクを中心にコミュニティーが運営されていることが多い。

世代も出身地も多様な都市型モスク

 JR山手線の大塚駅から商店街を抜け、坂を上ったところに大塚モスクはある。細長い土地に立つ4階建てのビルに足を踏み入れると、スパイスの香りのような異国の匂いが漂っている。
 モスクの1階に女性専用礼拝室があるが、入り口にカーテンがかけられ、男性は足を踏み入れることができない。右手の階段を上がった2階と3階の部屋を覗くと、数人の男性ムスリムが絨毯の上に座って聖典コーランを読み、思い思いに祈っている。
 4階の扉を開けると、事務局長のハールーン・クレイシさん(51)が、スマホを手にひっきりなしにかかってくる電話の対応に追われていた。
ハールーンさんは1991年にパキスタンから留学生として来日。大学卒業後に日本で貿易会社を立ち上げた。その後お見合いで日本人女性と結婚し、4人の息子をもうけた。
 大塚モスクは、ハールーンさんらが中心となって立ち上げた宗教法人日本イスラーム文化センターが中古ビルを購入して改装し、1999年にオープンした。
 パキスタンの民族衣装サルワール・カミーズを長身にまとい、預言者ムハンマドに敬意を表して伸ばすひげが、いかにもムスリム然としたハールーンさん。話しかけてみると、物腰はとても柔らかい。

「当時、都心部には代々木の東京ジャーミイしかありませんでしたから、自分たちの近所にモスクをつくろうと思い、寄付を集めたんですね」

 大塚モスクには都内の大学や専門学校に通う留学生のムスリムが多く集まる。働いている人たちも、会社員、会社経営者、語学教師など職種はさまざま。出身国・地域も、パキスタン、バングラデシュ、インドネシアを中心に、マレーシア、ミャンマー、中央アジア、アラブ、アフリカ、欧州、米国など多様だ。近年は、戦乱にのまれた母国から逃れてきたシリア人も見かけるようになった。

周辺住民と協力して行った被災地支援活動

 設立2年後の9月11日、米国で同時多発テロ事件が起きた。
 イスラム過激派組織の犯行とされたその事件の影響は日本にも及び、大塚モスクには一部の周辺住民から「武器をどこに隠しているんだ?」といった露骨な偏見が寄せられた。モスクの前を通るのを嫌がる住民もいたという。
 心を痛めたハールーンさんら大塚モスクのムスリムたちは、地域との融和に努めようと、町内の集まりや大塚阿波おどりなどのイベントに積極的に参加するようになった。
 そして、地域住民との交流が一気に進むきっかけになったのが、2011年の東日本大震災だった。

「3月11日の地震の後、被災地のために何か手助けできないかと考えたんですね。次の日にはトルコから5人の応援もやってきました。大塚モスクのまわりの日本人の方々が現地に届けるおにぎりを作ってくれることになり、すぐに支援が決まりました」(ハールーンさん)

 地震発生2日後の3月13日にはおにぎり550個と150箱のカップラーメン、飲料水などをトラックに積み込み、外国人ムスリムだけで仙台市に向かった。頻発する余震、福島第一原発の爆発……多くの人にとって毎日が恐怖の連続だった。そんな非日常の中、彼らは土地勘もない東北へ向かった。

「あの大震災は、我々ムスリムにとってジハードでした。ジハードというと聖戦、戦争と思われがちですが、本来は“困難に立ち向かう”という意味。災難の時、協力して助け合うことがムスリムにとっての義務なのです」(ハールーンさん)

 その後も、彼らは地域住民と協力し、3〜4日おきに被災地へトラックを送り、カレーなどの炊き出しを続けた。
 派遣先は主に仙台市と福島県いわき市で、その年の末まで計97回におよんだ。
 いわき市の避難所に同行した際、地震や原発事故が怖くなかったかとあるムスリムに聞くと、こんな言葉が返ってきた。

「大丈夫です。こういう時、正しいことをしていれば神様が守ってくれるから」

 こうした地道な活動の成果もあり、今では周辺住民との軋轢はほとんどなくなっているという。
 大塚モスクでは平日の放課後と土曜日、長期休みの間にムスリムの子供向けにアラビア語や聖典コーランについての授業を行っている。2017年4月には日本イスラーム文化センターが近隣に「インターナショナル・イスラミーヤ・スクール大塚」を開講。念願の全日制イスラム学校として、現在小学1、2年生の7人の子供が通学している。しかし国内でこうした教育活動を行うモスクは多くない。

 パキスタン人の夫を持つムスリムの柴原三貴子さん(49)は、大田区で7歳と9歳の息子を育てている。2013年に蒲田モスクがオープンする前は、長期休みになると息子たちを大塚モスクに通わせていた。コミュニティーの中には、イスラム教育を徹底するためにムスリムの子供としか遊ばせない親もいるという。しかし、彼女には不安もある。

「アイデンティティを意識する思春期以降、それでは逆に日本社会に適応できなくなってしまうのではという思いもあります。子供たちには、世界にはムスリム以外にもいろんな人がいることも知ってほしいと願っています」

9・11をきっかけにポートランドから静岡へ

 子供たちへのイスラム教育や、周辺地域との交流など、日本のムスリムコミュニティーが抱えてきた問題を解決できるコミュニティーセンターを、という目的で新しく建設が計画されているモスクがある。
 駿河湾を望む漁港、用宗(もちむね)港。今年、そこに近接する土地を静岡ムスリム協会が購入した。同協会は、県内に住む約3000人のムスリムをとりまとめる団体だ。
 代表を務めるアサディヤスィンさん(38)は、北アフリカのモロッコ出身。高校生の時に渡米し、大学に進学。卒業後は、大学で知り合った日本人女性ムスリムのみわさん(42)と結婚し、西海岸オレゴン州のポートランド市で大手半導体メーカーのエンジニアとして働いていた。
 ポートランドは多様性を尊重する雰囲気があり、暮らしやすい街だった。転機が訪れたのは2001年。9・11の事件の後、ムスリムに対する空気が変わった。

「モスクが監視され、ムスリムの家に警察がくるようになりました。このままアメリカで子育てをしてもいいのかとしばらく悩み、妻の実家が静岡にあったので、思いきって家族で来日することにしました」(ヤスィンさん)

 みわさんが当時を振り返る。

「そのころ静岡にはムスリムをまとめる団体がなく、どこにコミュニティーがあるのかもわからない状態でした」

 静岡県には、東部の富士市に富士モスク、西部の浜松市に浜松モスクがあるが、県央の静岡市には大きな礼拝施設がなく、周辺に住むムスリムは大きな合同礼拝があると富士、浜松まで通うか、市内で施設を借りる必要がある。

「どのモスクに礼拝に行けばよいのか、ハラール食品はどこで手に入るのか、ひとつひとつ自分たちで探していきました」(みわさん)

 そうした経験をもとに、夫妻は友人たちと協力し、2010 年に静岡ムスリム協会を立ち上げた。
 ヤスィンさんら協会の役員は日本各地のモスクを訪ね歩いた。日本のムスリム社会では単身で来日した男性が大半を占めているので、モスクはどうしても大人の男性ムスリム中心の場所になってしまいがちだった。地域社会との交流ももっと必要だと痛感した。
 ヤスィンさんらが計画しているモスクの完成予想図を見ると、礼拝施設だけでなく、図書室や教室、キッチン、宿泊施設、畳を敷いた和室もある。購入した土地からは住宅街の向こうに富士山が見える。ヤスィンさんは思い描く。

「富士山という日本のシンボルが見える場所にモスクを建てることで、海外から旅行にきたムスリムにも訪れてもらえる場所にしたい。そうして静岡の人々とムスリムの交流が生まれることを期待しています」

縁あって移り住んだ土地で

 土地の購入費用は約4500万円。そのうち個人からの寄付が約40%、残りは海外でのムスリムの活動を支援する団体などからの資金だ。イスラム諸国以外にモスクが設立される場合、サウジアラビアなどイスラムを国教とする国から全面的な支援を受けることもあるが、静岡ムスリム協会では自前で寄付を集めている。
 8月末には周辺住民への説明会も行った。説明会では、抵抗感を示す声も上がった。ヤスィンさんは、「静岡モスクは地域に開かれた場所にしたいので、時間がかかっても、モスクの活動についてできるだけ丁寧に説明したい」と考えている。
 ヤスィンさんは今、英語やアラビア語を教える語学教師として働いている。みわさんと一緒に4人の子供を育てながら、協会の仕事もこなす多忙な毎日だ。
 「本当はそろそろ誰かに協会の代表を引き継ぎたいんだけど……」と笑って話しつつも、縁あって移住することになった静岡での使命も感じている。

「ポートランドのモスクは、0歳から老人まで誰でも楽しめるオープンな場所でした。そういうモスクを日本でもつくりたい。今はそれが自分のムスリムとしてのミッションだと思っています」

[写真]

Yahoo!ニュース 特集、2017/10/12(木) 10:19 配信
中古住宅、プレハブ――日本の「モスク」とイスラム社会
(写真家・田川基成/Yahoo!ニュース 特集編集部)
https://news.yahoo.co.jp/feature/773

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急増するブータン人留学生

「幸せの国」として知られるヒマラヤの小国ブータンから、日本へ留学する若者が急増している。
彼らは日本語を学びながら、食品工場や物流倉庫、新聞配達など一般市民の目の届きにくい職場で就労し、人手不足に苦しむ日本社会を支えている。
なぜ日本に来て、厳しい環境の下で働くのだろうか。
彼らを送り出すブータン本国、そして受け入れる日本の語学学校と労働現場を取材した。


朝刊を配るのはブータン人女子留学生

 千葉県松戸市の県道沿い、午前1時。走る車もまばらになってきた頃、読売新聞販売店のYC稔台店に2トントラックが横付けされた。店から人々が出てきて、朝刊の束を荷台から次々と運び出す。
 その中に、日焼けした小柄な外国人女性がいた。チョキ・ワンモさん(24)。ブータンの出身だ。今年6月に来日し、新聞奨学生としてここで働いている。新聞奨学生は一定期間の学費などを新聞社や販売店側に負担してもらう一方、その間は配達などに従事する仕組みで、かつては日本の「苦学生」が主役だった。
 刷られたばかりの新聞の、インクの香りが漂う店内。ワンモさんは慣れた手付きで朝刊にチラシを折り込んでいく。午前1時40分、配達する新聞の束を50ccバイクの荷台に載せ、エンジンをスタートさせた。
 バイクは狭い住宅街を回っていく。彼女の担当は約330部。購読者の家の近くで止まると、ワンモさんは郵便受けに朝刊を入れ、小走りで戻って再びバイクにまたがる。表札の漢字はほとんど読めないが、先輩と何度も同じルートを回り、配達先を体で覚えた。夏の盛り。深夜とはいえ、額には汗がにじんだ。

 2時間ほどで朝の配達を終え、ワンモさんは店に戻った。時刻は午前3時半。8時過ぎに語学学校に向かうので、それまでは自宅に戻って仮眠するという。
 流ちょうな英語で話してくれた。

「バイクの運転も忙しい仕事も大丈夫。日本語はまだあまり分からないけど、先輩が丁寧に教えてくれるから心配ないです。だけど、日本の暑さだけは慣れなくて。ブータンは涼しい国だからね」

 実はこの3カ月ほど前、取材でブータンを訪れた際、ワンモさんと会っていた。民族衣装「キラ」を身に着け、表情はあどけなかった。その容姿からは想像できないほど、新聞販売店で働く彼女はたくましい。

 ワンモさんは、松戸市で13の新聞販売店を経営する株式会社「椎名」に雇用されている。ブータン人4人、フィリピン人7人。全部で11人の外国人奨学生が在籍する。いまや、外国人が新聞配達を担うのは都市部では珍しくない。
 YC稔台店の店長、片桐芳明さん(41)はこう話す。

「労働人口がだんだん減って、将来は外国人と一緒に働くのが当たり前になると思います。新聞奨学生も、日本人の応募はかなり少なくなりました。そうした時代を見越して、外国人の奨学生を積極的に採用しています」

 ワンモさんが通う語学学校の年間75万円の学費は、「椎名」が全額負担する。勤務は1日約4時間、週6日。給与は月約10万円だ。ブータン人の奨学生が3人で暮らす3LDKのアパート代も負担し、管理費として月3000円のみを彼らから受け取っているという。

 ワンモさんが通う日本語学校は松戸市内にある。授業は朝9時から午後1時まで。午後2時からは1時間ほどの夕刊配達がある。夕刊作業を終えて帰宅すると、宿題や夕食の準備。朝刊に備えて夜9時頃には就寝するという。
 忙しい毎日だ。それでも、留学生の週28時間労働制限の中でアルバイトし、自費でアパートを借りる学生もいるなか、「貴重なチャンスをもらっています」とワンモさんは言う。
 留学期間は2年間の予定だ。

「学校を卒業したらブータンに帰るかもしれないし、日本でもっと働くかも……。まだ分からないです。今は日本語をしっかり勉強して、日本人の働き方を学び、自立してお金を稼ぎたい。そしてブータンにいる両親を助けられるようになりたいです」

急増する日本への「留学生」

 法務省の在留外国人統計によると、2017年末現在の外国人留学生数は同年中に30万人を突破し、31万1000人を超えた。日本政府の「留学生30万人計画」が掲げた「2020年に留学生30万人」は、目標より3年早く達成された格好だ。国籍別では、約12万4000人の中国人が4割を占め、最も多い。
 増加は特に2013年から著しく、過去5年間は年約11%増のペースになる。この間に増えた約12万人を見ると、ベトナムとネパールの2カ国で計約7万人。彼らの大部分は日本語学校と専門学校への留学生とみられる。
 一方、日本学生支援機構の調査によると、日本語学校の在籍者は2017年5月1日時点で7万8000人を超えている。ワンモさんのようなブータンからの留学生の増加もこうした大波の中にある。

 かつて、ブータンから日本への留学生は多くても「年間で10 人くらい」と言われていたが、ブータン政府が2017年に「Learn and Earn」プログラムを始めてから、事情は大きく変わった。文字通り「学びながら働く」ことを支援する仕組みで、ブータン政府が留学費用を貸し付ける。そうした結果、ブータンからは18年4月時点で、738人が留学生として日本に来た。人口80万の小国としては少ない数ではない。
 日本はインドに次ぐブータンの援助国であり、この50年間ほどの間に多くの日本人が現地で、農業やインフラの整備を支援してきた歴史もある。ブータン国民の日本への好感度は高く、若者の留学先としての人気も高いのだ。
 では、ブータン人留学生は日本でどんな生活を送っているのだろうか。それをさらに知るため、九州・福岡市の日本語学校に足を延ばしてみた。

「留学生の街・福岡」で

 福岡外語専門学校はJR博多駅のひと駅隣、吉塚駅の近くにある。教室をのぞくと、先生が「きのうはなにをしましたか?」という質問を投げ掛けていた。
「きのうはおさけをのみました」
その答えにどっと笑いが起きた。

 この学校では37カ国の学生が学んでいる。ブータン人も31人。在留外国人統計などから算出した人口10万人当たりの留学生数(日本語学校や専門学校を含む)は、東京都に次いで福岡県が多く、語学学校が林立する福岡市は「留学生の街」となっている。
 同校国際交流センター主任の廣松雪子さん(53)は言う。

「ブータン人の学生は来日してまだ1年未満で、日本語初級のコースで学んでいます。授業は午前と午後の2部制なので、ほとんどの学生は早朝か、放課後に働いています。日本語のやりとりがまだ難しいので、アルバイト先は工場などで単純労働が多いですね」

 校内の掲示板にはアルバイト求人広告が並んでいた。「ホテルのフロントスタッフ、敬語できる方、英語できる方、時給1000円」「食品工場、日本語あまりできなくても大丈夫です。時給800円」……。
 福岡では、日本語を自在に話せれば時給1000円、話せない場合は800円が目安とされ、賃金に2割ほどの差がつく。

弁当工場 「多国籍」の現場で

 ウゲン・ドルジさん(24)はこの4月、ブータンから来たばかりだ。福岡外語専門学校で日本語を学びつつ、食品工場でアルバイトしている。英語は話せるが、日本語での長い会話はまだ難しい。

「自分の稼いだお金で生活できるようになりたい。ブータンでは両親に頼って生活していたから。それと、僕も日本人のように時間をしっかりと管理できるようになりたい」

 朝5時40分、ドルジさんが暮らすワンルームマンションを訪ねた。6畳ユニットバスに2段ベッド、勉強机しかない。ベッドの下段では、同じ学校に通うバングラデシュ人が寝息をたてていた。家賃は光熱費込みで1人3万円だという。
 軽い朝食を済ませると、ドルジさんは同じマンションに住む4人のブータン人学生とともに自転車で駅に向かった。食品工場まで電車で45分ほどかかる。アルバイトの始業は午前7時だ。
 ドルジさんが働くファウンテン・デリ株式会社は、セブン-イレブン向けの弁当やおにぎりなどの製造を手掛けている。

「きょうは、まず弁当箱にライスを量って入れて、次にパスタと、ガーリックチキンを入れる仕事です。集中力を保てるように、数十分ごとに持ち場を替わります」

 徹底した衛生チェックのあと、ドルジさんはラインにつき、ゆっくりと流れてくる弁当箱を前に黙々と作業をこなした。従業員たちに会話はほとんどない。白衣の名前を見ると、日本人と外国人が入り交じって働いていることが分かる。
 同社の生産管理部・課長の下川潤さん(43)はこう話す。

「弊社では日本人250人と、外国人200人を雇用しています。外国人は多い順にネパール人、技能実習生の中国人、ベトナム人。ブータン人は8人です」

 パート・アルバイトの求人を出しても、日本人からはほぼ反応がない。そのため、日本人よりも留学生と技能実習生の採用を重視しているという。

「3、4年前までは、語学学校から留学生を採用してくださいと頼まれていました。2年ほど前から極端に状況が変わり、今はこっちが学校にお願いする立場です。外国人労働者がいないと、労務倒産してしまう可能性もある。そういう危機感を常に持っています」

 この工場では、働く外国人を管理するのも外国人だ。ラマ・サントスさん(26)は、ネパール出身の元留学生。ここで働いた経験があり、後に正社員として採用された。ブータン人学生とはネパール語や英語で意思疎通を図っているという。
 サントスさんは、上手な日本語で取材に応じてくれた。

「来日直後の学生は、日本の文化を知らないので、特に気をつけています。例えば、大きな声であいさつをする、遅刻しないこと、とかですね。彼らの母国では、日本のような厳しい衛生基準はないので、そこもきちんと指導しています」

 来日して半年にも満たないドルジさんは、日本での生活や労働をどう感じているのだろうか。

「僕はまだ日本語が話せないので、今のところ工場の仕事に満足しています。日本でつらいのは、とにかく睡眠時間が短いことかな。夜は学校の宿題もたくさんあるから眠れなくて……。将来は、日本語をもっと話せるようになって、なにかクリエイティブな仕事がしたいです」

 ドルジさんの時給は780円。週に28時間働いて2万1840円、1カ月で約9万円。家賃が安いので、生活はなんとか成り立っているという。

「学んで、稼ぐ」 ブータン政府による送り出し

 ワンモさんやドルジさんの母国、ブータン。若者たちは、何を考えて日本へ次々とやってくるのだろう。彼らの出国前の様子を知るために、ブータンを訪ねた。
 首都ティンプーにある「ブータン日本語学校(BCJS)」は、ブータン最大の日本語学校だ。ブータン政府による日本向けの「Learn and Earn」プログラム。これを利用する学生のほとんどはBCJSの出身だ。ワンモさんもドルジさんも、ここで学んでから日本へ来た。
 校長は青木薫さん(59)。ブータン人と結婚して移住し、2011年に同校を設立した。

「学生は4カ月ほど勉強して日本へ旅立ちます。留学前に、ひらがなとカタカナの読み書き、基本的なあいさつや日常会話、108字ほどの漢字を教えています」
「農村社会のブータンでは、産業がほとんど発展していません。田舎でのんびりと育った子が多く、国際的なビジネスの常識もない。そういう子たちに、日本の技術や日本人の働く姿勢を学んできてほしい、と。それがブータン政府の目的です」

 日本行きを控えた学生の一人、ジャンチュ・ロデさん(23)は英語で質問に答えてくれた。

「家族から離れて一人になるのは不安だけど、いろんな経験を積みたい。技術の発展した日本でエンジニアリングを学んで、将来ブータンで起業するのが目標です」

 同校で教える石井愛さん(38)はこう付け加える。

「日本ではお金があれば何でも買える。電気も水も止まらない。そんな豊かな生活を自分たちもしてみたいと、学生たちは願っているんです」

 ブータン政府の「Learn and Earn」プログラムでは、留学する学生に年3〜4%の金利で教育資金を貸し出す。多くの学生は70万ニュルタム(約105万円)ほどを留学費用として借り、来日する。大卒公務員の初任給が2万ニュルタム(約3万円)程度のブータンでは大金だ。

夢は本当にかなうのか

 もちろん、ブータン人留学生の全員が順調に日本で暮らしているわけではない。悲鳴を上げる留学生もいる。2017年10月に来日した24歳の男性、ソナムさん(仮名)もその一人だ。今は千葉県に住んでいる。
 ソナムさんは言う。

「(ブータン政府の)教育ローンを借りて、(そのお金で)ネパール系のブローカーに日本円で100万円ほどを支払いました。航空券とビザ申請代、語学学校の初年度授業料、日本の家賃前払い6カ月分などです」

 来日と同時に、月2万円ほどのローン返済がスタートした。ブローカーに斡旋された千葉市・幕張の食品工場で週3〜4日働き、返済分と生活費を稼いでいる。職場の9割は外国人で、日本語を上達させるチャンスはほとんどないという。

「ブローカーには『日本語が話せないと、他の仕事はない』と言われています。月に何度か夜勤もあり、翌日の午前中に学校に通うのはきつい」

 時給は1200円。週に28時間の労働で、月に最大で13万円ほどの収入しかない。3人でシェアする2LDKの家賃は光熱費込みで1人約3万円。次年度の学費約68万円を払うための貯金も必要で、日々の生活は逼迫している。

「週28時間労働を守っていたら生活できません。もし今、ブータンに帰ったらローンだけが残り、日本にいたらずっとこの生活。どっちもつらい」

「異文化理解、それに尽きます」

 日本はすでに、外国人労働者の存在なしには成り立たない社会になっている。新聞の配達も、コンビニの弁当製造も、外国人たちが支えている。日本政府は外国人労働者のさらなる拡大を視野に入れて政策を立案しており、この傾向が止まることはないだろう。
 では、その接点にいる私たちは何から考え始めればいいのだろうか。福岡外語専門学校の廣松さんはこう話す。

「母国でも働いた経験すらない学生が、文化の違う日本へ来て、厳しい環境で学び、アルバイトする。かなりの負荷です。受け入れる私たちは、そうした状況を理解したうえで、しっかりサポートする必要があります」

 実は当初、同校ではブータン人学生の評判があまりよくなかったという。「仲間で固まりがちだし、進んであいさつもあまりしない。遅刻もとても多かった」からだ。しかし、教職員たちがブータンを訪れ、現地の文化を知るようになると考えが変わってきた。

「ブータンでは、目上の人に向かって自分から発話するのが、失礼に当たるということを知りました。だから、先にあいさつしない。仲間で固まるのは、助け合い精神がしっかりと残っているから。異文化理解に尽きると思います。相手を評価する前に、大切なのはお互いの文化を知ることでした。そこから歩み寄る気持ちが生まれる。それをブータンの留学生に教えてもらいました」

 福岡市で留学生の支援業務を手掛けるKYODAI社のデブコタ・ディパクさん(37)は、こう振り返る。ネパールの出身だ。

「私も2004年に来日した元留学生です。当時は、コンビニの面接で『日本語能力試験1級を持っていますか』と聞かれました。外国人は要らないよ、という感じで。今じゃあり得ないですね。最近は、日常会話がある程度できれば、接客業でもすぐに採用されるようになりました」

 日本人と日本に根付く外国人。その間で社会を分断させないために、何が必要だろうか。
 デブコタさんはこう言った。

「日本語をしっかり話せる外国人が、もっと働けるようにするべきです。言葉が分かれば、お互いの心が通じ合うから。特に日本は中小企業の人材の穴埋めができていません。日本語を習得した留学生を積極的に採用すべきではないでしょうか」

[video]

Yahoo!ニュース 特集、10/17(水) 7:10 配信
急増するブータン人留学生 ――人手不足ニッポンの労働現場支える
(文・写真:田川基成/映像制作:岸田浩和/Yahoo!ニュース 特集編集部)
https://news.yahoo.co.jp/feature/1090


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2018年10月19日

矢部宏治『知ってはいけない―隠された日本支配の構造』

私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっているという。
たとえば2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」が、大きな注目を集めたが、日本での首脳会談が近づくにつれて事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられなかった。なぜ、いつまでたっても北方領土問題は解決しないのか。はたして、この国を動かしている「本当のルール」、私たちの未来を危うくする「9つの掟」とは?
『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』(講談社現代新書、2017年8月)の著者・矢部宏治氏が、「戦後史の闇」を解き明かす。


事実か、それとも「特大の妄想」か

 それほどしょっちゅうではないのですが、私がテレビやラジオに出演して話をすると、すぐにネット上で、「また陰謀論か」「妄想もいいかげんにしろ」「どうしてそんな偏った物の見方しかできないんだ」などと批判されることが、よくあります。
 あまりいい気持ちはしませんが、だからといって腹は立ちません。自分が調べて本に書いている内容について、いちばん「本当か?」と驚いているのは、じつは私自身だからです。「これが自分の妄想なら、どんなに幸せだろう」いつもそう思っているのです。
 けれども、8月17日発売の新刊『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』をお読みになればわかるとおり、残念ながらそれらはすべて、複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実ばかりなのです。

 ひとつ、簡単な例をあげましょう。
 以前、田原総一朗さんのラジオ番組(文化放送「田原総一朗 オフレコ!」)に出演し、米軍基地問題について話したとき、こんなことがありました。ラジオを聞いていたリスナーのひとりから、放送終了後すぐ、大手ネット書店の「読者投稿欄」に次のような書き込みがされたのです。
★☆☆☆☆〔星1つ〕 UFO博士か?
なんだか、UFOを見たとか言って騒いでいる妄想ですね。先ほど、ご本人が出演したラジオ番組を聞きましたが(略)なぜ、米軍に〔日本から〕出て行って欲しいというのかも全く理解できないし、〔米軍〕基地を勝手にどこでも作れるという特大の妄想が正しいのなら、(略)東京のど真ん中に米軍基地がないのが不思議〔なのでは〕?

 もし私の本を読まずにラジオだけを聞いていたら、こう思われるのは、まったく当然の話だと思います。私自身、たった7年前にはこのリスナーとほとんど同じようなことを考えていたので、こうして文句をいいたくなる人の気持ちはとてもよくわかるのです。
 けれども、私がこれまでに書いた本を1冊でも読んだことのある人なら、東京のまさしく「ど真ん中」である六本木と南麻布に、それぞれ非常に重要な米軍基地(「六本木ヘリポート」と「ニューサンノー米軍センター」)があることをみなさんよくご存じだと思います。
 そしてこのあと詳しく見ていくように、日本の首都・東京が、じつは沖縄と並ぶほど米軍支配の激しい、世界でも例のない場所だということも。

 さらにもうひとつ、アメリカが米軍基地を日本じゅう「どこにでも作れる」というのも、残念ながら私の脳が生みだした「特大の妄想」などではありません。
 なぜなら、外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月)のなかに、
○ アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる。
○ 日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない。

という見解が、明確に書かれているからです。
 つまり、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO」ということはできない。そう日本の外務省がはっきりと認めているのです。

北方領土問題が解決できない理由

さらにこの話にはもっとひどい続きがあって、この極秘マニュアルによれば、そうした法的権利をアメリカが持っている以上、たとえば日本とロシア(当時ソ連)との外交交渉には、次のような大原則が存在するというのです。
○ だから北方領土の交渉をするときも、返還された島に米軍基地を置かないというような約束をしてはならない。*註1
 こんな条件をロシアが呑むはずないことは、小学生でもわかるでしょう。
 そしてこの極秘マニュアルにこうした具体的な記述があるということは、ほぼ間違いなく日米のあいだに、この問題について文書で合意した非公開議事録(事実上の密約)があることを意味しています。
 したがって、現在の日米間の軍事的関係が根本的に変化しない限り、ロシアとの領土問題が解決する可能性は、じつはゼロ。ロシアとの平和条約が結ばれる可能性もまた、ゼロなのです。
 たとえ日本の首相が何か大きな決断をし、担当部局が頑張って素晴らしい条約案をつくったとしても、最終的にはこの日米合意を根拠として、その案が外務省主流派の手で握り潰されてしまうことは確実です。
 2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」は、大きな注目を集めました。なにしろ、長年の懸案である北方領土問題が、ついに解決に向けて大きく動き出すのではないかと報道されたのですから、人々が期待を抱いたのも当然でしょう。
 ところが、日本での首脳会談(同年12月15日・16日)が近づくにつれ、事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられませんでした。
 その理由は、まさに先の大原則にあったのです。
 官邸のなかには一時、この北方領土と米軍基地の問題について、アメリカ側と改めて交渉する道を検討した人たちもいたようですが、やはり実現せず、結局11月上旬、モスクワを訪れた元外務次官の谷内正太郎国家安全保障局長から、「返還された島に米軍基地を置かないという約束はできない」という基本方針が、ロシア側に伝えられることになったのです。
 その報告を聞いたプーチン大統領は、11月19日、ペルー・リマでの日ロ首脳会談の席上で、安倍首相に対し、「君の側近が『島に米軍基地が置かれる可能性はある』と言ったそうだが、それでは交渉は終わる」と述べたことがわかっています(「朝日新聞」2016年12月26日)。
 ほとんどの日本人は知らなかったわけですが、この時点ですでに、1ヵ月後の日本での領土返還交渉がゼロ回答に終わることは、完全に確定していたのです。
 もしもこのとき、安倍首相が従来の日米合意に逆らって、「いや、それは違う。私は今回の日ロ首脳会談で、返還された島には米軍基地を置かないと約束するつもりだ」などと返答していたら、彼は、2010年に普天間基地の沖縄県外移設を唱えて失脚した鳩山由紀夫首相(当時)と同じく、すぐに政権の座を追われることになったでしょう。

「戦後日本」に存在する「ウラの掟」

 私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていないそうした「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっています。
 そして残念なことに、そういう掟のほとんどは、じつは日米両政府のあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚のあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。

 私が『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』を執筆したのは、そうした「ウラの掟」の全体像を、「高校生にもわかるように、また外国の人にもわかるように、短く簡単に書いてほしい」という依頼を出版社から受けたからでした。
 また、『知ってはいけない』というタイトルをつけたのは、おそらくほとんどの読者にとって、そうした事実を知らないほうが、あと10年ほどは心穏やかに暮らしていけるはずだと思ったからです。
 なので大変失礼ですが、もうかなりご高齢で、しかもご自分の人生と日本の現状にほぼ満足しているという方は、この本を読まないほうがいいかもしれません。
 けれども若い学生のみなさんや、現役世代の社会人の方々は、そうはいきません。みなさんが生きている間に、日本は必ず大きな社会変動を経験することになるからです。
 私がこの本で明らかにするような9つのウラの掟(全9章)と、その歪みがもたらす日本の「法治国家崩壊状態」は、いま沖縄から本土へ、そして行政の末端から政権の中枢へと、猛烈な勢いで広がり始めています。
 今後、その被害にあう人の数が次第に増え、国民の間に大きな不満が蓄積された結果、「戦後日本」というこれまで長くつづいた国のかたちを、否応なく変えざるをえない日が必ずやってきます。 
 そのとき、自分と家族を守るため、また混乱のなか、それでも価値ある人生を生きるため、さらには無用な争いを避け、多くの人と協力して新しくフェアな社会をいちからつくっていくために、ぜひこの本を読んでみてください。
 そしてこれまで明らかにされてこなかった「日米間の隠された法的関係」についての、全体像に触れていただければと思います。

本書の内容をひとりでも多くの方に知っていただくため、漫画家の、ぼうごなつこさんにお願いして、各章のまとめを扉ページのウラに四コマ・マンガとして描いてもらいました。
全部読んでも3分しかかかりませんので、まずは下に掲げたマンガを読んでみてください。


現代ビジネス、2017.08.05
なぜ日本はアメリカの「いいなり」なのか?知ってはいけないウラの掟
内閣改造でも絶対に変わらないこと

矢部宏治(*)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52466

(*)やべ・こうじ
1960年兵庫県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。株式会社博報堂マーケティング部を経て、1987年より書籍情報社代表。著書に累計17万部を突破した『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(以上、集英社インターナショナル)、『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること――沖縄・米軍基地観光ガイド』(書籍情報社)など、共著書に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)。企画編集に「〈知の再発見〉双書」シリーズ、J.M.ロバーツ著『図説 世界の歴史』(全10巻)、「〈戦後再発見〉双書」シリーズ(以上、創元社)がある。

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ライシャワー駐日大使

 またもや驚くべき極秘文書が米国側の公表で明らかになった。
 きのう10月18日、ワシントン発時事が報じ、それを毎日新聞が引用して報じた。
 すなわち、米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は、16日、沖縄返還前の1965年に当時のライシャワー駐日大使らが、米統治下にあった沖縄に対する政策を話し合った米政府の極秘会議メモを公表したというのだ。
 その中で、ライシャワー大使は沖縄の選挙に影響を与えるための資金工作を提起、自民党の政治家を介して資金をばらまくことを提案していたというのだ。
 しかもライシャワー氏はさらにこう語っていたという。
 米政府が直接資金を投入するのではなく、自民党の政治家に託して最も効果的な方法で使ってもらうことが「より安全な方法だ」と。
 その資金がきちんと沖縄側(琉球側)に届くのかという懸念に対し、「日本の保守政治家にとっても、選挙の勝利は死活的に重要」だから問題ないと。
 日本の政治家も金をつぎ込むとの見方を示した上で、「彼らの資金に上乗せしてもらうだけで、完全に秘匿できる」と主張したという。
 物凄いライシャワー大使の発言だ。
 現ナマが自民党政治家に直接わたっていたのだ。
 この事実は、もはや極秘ではない。
 ジョージ・ワシントン大学が公表したのだ。
 それをいち早く時事が見つけて読み解き、その一部を報じたのだ。
 それを毎日新聞が引用しただけなのだ。
 私はてっきりきょう10月19日の主要各紙が、このニュースを後追いして、詳しく報道してくれるものとばかり思っていた。
 なぜならば、時事通信社はあくまでも配信社であり、スピード性を重視する。
 スタッフも限られており、本格的に翻訳、分析して国民に知らせるのは大手紙の仕事だからだ。
 ところが今日の新聞にはどこにもその関連記事は見当たらない。
 毎日新聞でさえも時事のニュースを引用しただけで終わっている。
 これは明らかに大手紙の怠慢だ。
 怠慢でなければ意図的な情報隠しである。

 1965年当時と言えば安倍首相の大叔父に当たる佐藤栄作政権時だ。
 その時の内閣の大蔵大臣は福田赳夫氏だ。
 その子息は福田康夫元首相であり、いまではそのまた子息の福田達夫議員が世襲している。
 この沖縄工作は、まさしく今の政治家たちにとって無縁ではないのだ。
 いまからでも遅くない。
 いくら時間をかけてもいい。
 大手メディアはジョージ・ワシントン大学が公表してくれた極秘文書の全貌を国民の前に明らかにすべきだ。
 野党議員はこの公表された極秘メモに基づいて、安倍首相や自民党議員の責任を追及すべきだ。

 それから50年以上も経ったいまの沖縄の選挙でも、同様のことが行われていな保証はない。
 この問題は国会で徹底追及さるべきである。


天木直人のブログ、2018-10-19
米国の沖縄選挙工作を示す極秘メモ発覚に沈黙するメディア
http://kenpo9.com/archives/4294

 アメリカのマイク・ポンペオ Mike Pompeo 国務長官が10月16日にサウジアラビアを訪問、サルマン・ビン・アブドラジズ・アル・サウド(サルマン)国王と会談した。トルコのイスタンブールにあるサウジアラビア領事館へ10月2日に入ってから行方がわからないジャーナリストのジャマル・カショーギ Jamal Khashoggi について話し合うことが目的だったとされているが、武器/兵器や石油の取り引き、つまり金儲けの話がテーマだったようだ。その一方、10月14日から15日にかけてロシア国防省の代表団が同国へ入り、モハメド・ビン・サルマン Mohammad bin Salman 皇太子と会談したとも報道されている。

 本ブログでも繰り返し書いてきたが、カショーギの事件はサウジアラビアとアメリカの権力抗争を抜きに語ることはできない。行方不明になった人物は「ジャーナリスト」だとされているが、20歳代の頃、サウジアラビアやアメリカの情報機関、つまりGIP(総合情報庁)やCIA(中央情報局)のエージェントとして活動、ムスリム同胞団のメンバーでもあったことはすでに指摘した。

 カショーギがコラムニストだったワシントン・ポスト紙はウォーターゲート事件を暴いてリチャード・ニクソン大統領を辞任に追い込んだことで有名だが、その事件で取材の中心だったカール・バーンスタインは1977年にこの新聞社を辞め、ローリング・ストーン誌に「CIAとメディア」というタイトルの記事を書いている。

 本ブログでは何度も書いてきたが、その記事によると、400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 メディアの状況が当時より悪化している現在、表ではジャーナリスト、その実態は情報機関員という人間は少なくないはず。少なくとも権力システムに立ち向かおうという人物は有力メディアにおける絶滅危惧種。その背後では巨大金融資本を後ろ盾とする情報機関のネットワークが1948年にはじめた情報統制プロジェクト、モッキンバードが存在する。

 このプロジェクトで中心的な役割を果たしたのは4名いて、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、そしてフィリップ・グラハム。第2次世界大戦中からダレス、ウィズナー、ヘルムズは戦時情報機関OSSの幹部として知られ、グラハムは第2次世界大戦中、陸軍の情報部に所属していた。(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979)

 このうちダレスとウィズナーはウォール街の弁護士であり、ヘルムズの母方の祖父であたるゲイツ・ホワイト・マクガラーは国際決済銀行の初代頭取。グラハムの義理の父にあたるユージン・メイアーは世界銀行の初代総裁だ。倒産していたワシントン・ポスト紙を1933年に競売で落札したのはこのメイアーである。メイヤーの娘でフィリップの妻だった人物がウォーターゲート事件で有名になるキャサリンだ。巨大金融資本が情報機関を操り、情報機関が有力メディアを操っている。インターネットを支配する巨大企業も同じだ。

 モッキンバードで名前が出てくるメディアの大物には、CBSの社長だったウィリアム・ペイリー、TIMEやLIFEなどを創刊したヘンリー・ルース、ニューヨーク・タイムズの発行人だったアーサー・シュルツバーガー、クリスチャン・サイエンス・モニターの編集者だったジョセフ・ハリソン、フォーチュンやLIFEの発行人だったC・D・ジャクソンなども含まれている。ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される瞬間を撮影した8ミリフィルム、いわゆる「ザプルーダー・フィルム」を買い取り、隠すように命じたのはこのジャクソンにほかならない。表ではジャーナリスト、その実態は情報機関員というケースは珍しくないと言える。

 カショーギは1980年代から記者をしているが、タルキ・ファイサル・アル・サウド(タルキ・アル・ファイサル)の指揮下にあった。そのタルキ・アル・ファイサルは1979年から2001年、9/11の10日前までGIPの長官。この人物の兄弟、ハリド・アル・ファイサルの影響下にあるとされている新聞がカショーギが編集長を務めることになるアル・ワタンだ。

 タルキ・アル・ファイサルは2005年8月から15年1月まで国王(1995年から摂政)だったアブドラ・ビン・アブドラジズ・アル・サウド(アブドラ)国王との関係が悪く、カショーギはそのアブドラ体制を批判することになる。2015年4月に皇太子となったのがホマメド・ビン・ナイェフ。

 しかし、2016年に行われたアメリカの大統領選挙でヒラリー・クリントンが敗北した影響でナイェフは皇太子の地位を失い、カショーギはアメリカへ逃れてワシントン・ポスト紙のコラムニストになった。

 また、今回の行方不明事件を考える場合、サルマン国王のロシア訪問を忘れてはならないだろう。昨年(2017年)10月4日から3日間にわたってロシアを訪問、石油や軍事を含むテーマについて話し合われたと言われている。中でも重要視されているのがロシアの防空システムS-400だ。

 アメリカ政府はサウジアラビアに対し、9月末までにロッキード・マーチン製THAAD(終末高高度地域防衛)ミサイル・システムの購入を決めるように求めていたが、その返事は曖昧。その一方でS-400の購入には積極的な姿勢を見せていた。インドもS-400の購入を決めている。性能面でTHAADより優れているS-400を選ぶことは当然だが、それをアメリカ側が容認するはずもない。

 サルマン国王とアメリカ支配層との間に隙間風が吹いていた。S-400だけでなく、原油取引の問題では相場の下落でダメージを受けたサウジアラビアは引き上げたいのだが、価格の暴騰でアメリカ国内の反発を恐れるアメリカ支配層は押さえたい。この対立はペトロダラーの仕組みを揺るがせかねないのだが、ペトロダラーの仕組みが崩れるとアメリカの支配システムが崩れる。こうした対立が原因で、サウジアラビア政府は同国内にロシアの軍事基地を建設させると言い始めたとも伝えられていた。

 そうした中、10月2日を迎えたのだが、カショーギの行方不明事件の背後には複雑な事情がある。その事情は「アメリカ帝国」の存続に関わっていると言えるだろう。


櫻井ジャーナル、2018.10.18
行方不明事件の前、サウジの現体制と米国支配層との間が冷え始めていた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810180000/

 いよいよ来年1月から日米貿易交渉が本格的に始まる。
 この交渉は、安倍政権の発表とは裏腹に、サービス分野も含めた事実上の二国間自由貿易交渉だ。
 ライトハイザー米通商代表部代表が16日、声明を出してそう宣言した。
 おまけに、パーデュー農務長官は農産品関税のさらなる引き下げを求め、ムニューシン財務長官は為替条項の導入の要求を公言した。
 そこで思い出すのがトランプ大統領の発言だ。
 米国の要求に対し、どれくらい対価を払わなければならないか日本に伝えた途端、安倍首相との良好な関係は終わるだろうと。
 これが、まさしく来年の1月から現実のものとなるのだ。

 この米国との交渉を、安倍政権の対米従属外交の失敗だと攻めるだけでは何の解決にもならない。
 実態を隠す安倍政権をゴマカシだと批判してもはじまらない。
 なぜなら、どんな政権であったとしても、トランプ大統領の米国第一の要求は防げなかったに違いないし、誰が首相や閣僚であっても米国の理不尽な要求を止められなかったからだ。

 来年1月から始まる日米交渉はまさしく国難である。
 国難に対応するには、与野党の違いを超えて挙国一致して対応しなければいけない。
 国益を守る事で一致し、そして負担を甘受しなければいけない場合は、皆が等しく負担を分担する。

 特定の政党、業界、国民に都合のいい形で交渉が進められてはいけないのである。
 メディアは情報公開に徹し、国民が納得するように、日米交渉を監視しなければいけないのである。
 国難に対処する要諦は、公平、公正、透明性の徹底である。


天木直人のブログ、2018-10-19
日米交渉という国難には与野党を超えて迎え撃つしかない
http://kenpo9.com/archives/4296

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安田浩一『「右翼」の戦後史』

 「右翼」と聞いて、大音量の街宣車が頭に浮かぶのは時代遅れ。
 いま主役は「日本会議」とネトウヨだ。
 戦後の混乱期このかた、さまざまな右翼が盛衰してきた。
 著者は長年の取材をもとに、そんな右翼の全体像をスケッチする。

 そもそも右翼とは何か。
 頭山満が1881(明治14)年結成した玄洋社が最初だ。
 自由民権運動を基盤に、皇室尊崇、国権伸長、大アジア主義を唱えた。
 その後右翼と軍部は利用し合い対立もしつつ、日本全体を皇国史観に巻き込んでいく。

 敗戦と天皇の人間宣言は、右翼に打撃だった。
 GHQは右翼を最初排除し、反共に利用できると復権させた。
 そこで右翼は「反共」「親米」を掲げ、共産主義や左翼に反対するのを存在理由とした。
 派手な街頭宣伝の「行動右翼」である。
 ほかに暴力団を母体とする「任侠(にんきょう)右翼」もいて、保守政権と裏でつながりを持った。

 共産党に反対する新左翼が活発になると、対抗するように、「反米」を掲げる民族派の「新右翼」(一水会など)が現れた。

 生長の家(神道系)の政治部門を母体に、神社本庁などを糾合した組織が、日本会議だ。
 日本会議は、創価学会に対抗して政権に影響力を持とうとするさまざまな新宗教の寄り合い所帯とも言える。
 地道な大衆運動で、元号法制化や教育基本法改正に成果をあげ、いま「改憲」へフル回転している。

 ネットでヘイト発言をまき散らすネット右翼(ネトウヨ)は新顔だ。
 経済低迷で置き去りにされた人びとの不全感が、ヘイトの温床だ。
 弱者に共感しアジアを同胞とした伝統右翼の面影もない。
 ヘイト発言は共感されないが、右傾化の雰囲気をふりまいて有害だ。
 いま右翼は、天皇をアイデンティティの核とし、戦後を全否定、戦前へ回帰しようと訴える。
 停滞はすべて戦後のせいで、憲法を改正すれば問題は解決だとする。

 欧米でも、グローバル化に脅かされた、ネオ右翼や宗教保守が活発だ。
 アメリカでは、競争について行けない人びとが、本流政治家でなくトランプを当選させた。
 日本では、右翼と宗教保守が、政治の本流に食い込み国を動かす勢いである。
 これでいいのか。
 正念場を迎える日本に警告を発する、タイムリーな良書である。


日本経済新聞、2018/9/22付
安田浩一(1964−)『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書、2018年7月)
政治に食い込んだ大衆運動
橋爪大三郎(1948−)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO35627510R20C18A9MY7000/

 著者の安田は戦後右翼の実像に迫るため、今や伝説化した出来事の当事者に取材する。
 例えば三無(さんゆう)事件。
 1961年に旧日本軍将校や右翼学生によって企てられたクーデター未遂事件だが、首謀者の一人・篠田英悟を探し出し、取材を敢行する。
 御年90歳。古いアパートに一人で暮らす篠田は、一日中、室内で声を張り上げてアジテーション演説を行っていた。
 ドアを叩いても、耳が遠いせいか、応答はない。
 大家に相談すると、2階のベランダに梯子をかけ、声をかけるように言われる。
 「取材に来ました」という紙を見せると、「では、玄関からどうぞ!」と怒鳴るように言われ、インタビューがスタートする。

 松江騒擾(そうじょう)事件(1945年)の関係者、石原莞爾の東亜連盟の後継者、新右翼の当事者……。

 安田は全国を飛び回り、取材を繰り返すことで、戦後右翼の輪郭を示そうとする。
 しかし、取材をすればするほど、そのフォルムは逆にぼやけていく。
 結果的に、戦後右翼の一貫した相貌を描くことの困難に直面する。

 右翼の主張は、時代に左右される。
 その時々の敵の設定によって、主張の視点と力点が変わるのだ。

 戦前の右翼にとっての敵は、「君側の奸」と見なした資本家や政治家たちだった。
 天皇の超越性を認めれば、万民は一般化され平等化される(=一君万民)というのが国体だとすれば、天皇と国民の間に介在して特権を握る人間など必要ない。
 天皇と国民を分断する「君側の奸」が存在することが、国民の不幸に繋がっている。
 その存在を抹殺すれば、天皇の大御心に包まれたロマン主義的ユートピア社会が現前する。
 そう考えた戦前右翼の担い手は、次々に要人暗殺テロ・クーデターを起こしていった。

 この平等なユートピアを志向するあり方は、社会主義への共感を伴った。
 大川周明はレーニンを絶賛し、北一輝は国家統制経済を主張した。
 彼らの論理は、マルクス主義と表裏一体のものとして存在した。

 しかし、戦後右翼はソ連の脅威から「反共」をテーゼとし、「親米」を主張するようになる。
 典型的なのは赤尾敏。
 街宣車には日の丸と共に星条旗が掲げられた

 全共闘運動を背景に湧きおこった右派学生運動は新左翼を敵とし、左翼が衰退すると、中国・韓国を敵とするネット右翼が登場する。

 長年、右翼は権力と対峙してきたが、ネット右翼にその気概はない。
 「市民社会やマイノリティを威嚇(いかく)するだけの右翼など、あまりに惨めではないか
 安田の厳しい言葉が、現代右翼を突き刺している。


週刊文春 2018年9月20日号
90歳、アパートで一人演説
――かつて権力と対峙した伝説の右翼のいま
中島岳志(1975−)が『「右翼」の戦後史』(安田浩一 著)を読む
http://bunshun.jp/articles/-/8994

 戦後の右翼は1946年、GHQにより解散させられた。
 解散命令を受けた右翼団体は 350、公職追放された右翼人 4.9万人。
 ところが、冷戦の始まる1940年代末より右翼は復活する。
 支配権力は、革命の予防のために暴力装置を必要とした。
 そのため、右翼の復活や公職追放解除がおこなわれた。

 右翼には理論はない。
 あるのは情念である。
 その情念は戦前回帰と天皇愛国である。
 そのために掲げたスローガンが「反共」と「日教組たたき」などであった。

 戦後右翼の活動舞台は街宣活動である。
 さらに、自民党の別働隊として活動した。
 左翼・日教組・労働運動・住民運動つぶしなどである。

 自民党の陰に隠れて、権力の支配道具として暴力を発動した。
 そうした戦後右翼が変貌したのが、1960年代末である。
 左翼の活動家と対抗して誕生したのが新右翼である。
 生長の家を出自とした右翼学生は、左翼の学生運動の手法から学んで、大衆的右翼活動を展開するようになる。

 戦後右翼のターニングポイントは、1974年に組織された「日本を守る会」である。
 「日本を守る会」はその後の右傾化運動の先兵となる。
 彼らの最大の成果が1979年の元号法制化である。
 「地方から中央へ」という新しい草の根運動により元号法の成立をなしとげた。
 1981年には「日本を守る国民会議」が組織された。
 改憲勢力の大同団結である。

 1997年には日本会議が組織された。
 背景には自民党1党支配の崩壊と、公明党の政権参加があったとされる。
 会員数 4万人、全国47都道府県に 243支部を組織している。
 日本会議は国旗国歌法制定、教育基本法改定、愛国的歴史教科書編集などの目標を達成してきた。
 日本会議の運動目標は、改憲・皇室尊崇・愛国教育・伝統的家族・国防充実などである。
 その根源にあるのは戦前体制=天皇中心の国家体制への回帰である。

 現在の日本は右傾化を通り越して社会全体が「極右化」してきていると著者は記している。
 反日・国賊・非国民・売国奴といった言葉が社会に反乱している。
 差別・偏見・暴言・嘲笑・侮蔑が日常茶飯事化している。
 在特会やネトウヨだけではない。
 政治家・財界人・評論家・マスコミも同様だ。
 さらにはごくふつうの一般人までが極右化している。
 日本社会が極右化し、右翼の大海原で私たちは生きているのだ。

 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴とののしられた世の中を、私は経験してきた

 2016年に亡くなった三笠宮崇仁のことばである。

 不公平・不平等の涙から生まれた右翼が、政府の拡声器となって日本社会をこわしている
 せめて在野にとどまり、権力と対峙すべき存在であるべきではないかと著者は最後に書いている。
 著者の言葉に水を差すが、戦後の右翼は暴力団とイコールであった。
 権力の番犬である。
 それは新右翼に変貌しても本質は変わらない。
 なぜ彼らが反米愛国ではなく、親米愛国か。
 その秘密は権力との癒着にある。
 右翼に理論がないのだから、生きのびるにはそれしかない。


 それよりも、なぜ社会が極右化するかだ。
 社会の極右化は先進国の共通現象だ。
 背景にグローバリズムによる国民国家の溶解がある。
 ナショナリズムの高揚と排外主義の蔓延。
 1930年代の社会が再び到来している。


時代を駆ける、舘崎正二の週刊エッセイ……2018年08月05日
安田浩一『「右翼」の戦後史』を読む=極右化する日本への警告書
http://www.wb.commufa.jp/sho-tati/

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立ち上がれ日本人 (新潮新書)

92歳の首相就任

 マハティール・モハマド氏がマレーシア首相に返り咲いたことを伝えるニュースでは、その92歳という年齢への驚きがメインに扱われていることが多い。
 なにせ首相の年齢が高いことが問題視されていた日本ですら、首相就任の最高齢は77歳。マハティール首相と同じ年に生まれた有名人を並べてみれば、三島由紀夫、マルコムX、野中広務、橋田壽賀子……。いかに92歳で首相就任ということが異例であるかがよくわかる。
 ただ、日本人がマハティール首相について知っておくべきポイントは、これ以外にもある。前回首相をつとめた際には「ルック・イースト(日本の経済成長を見習おう)政策」を掲げたほどの親日家であるマハティール首相は、自国民に日本の素晴らしさを伝えると同時に、日本人に対してもさまざまな形で熱いメッセージを送り続けてきた。
 たとえば2002年11月には、マレーシアを訪れた東京都立国際高校の修学旅行生に向かって「あなたたちは日本人の勤勉な血が流れているのだから、誇りに思いなさい」と訴えている。
 これを聞いた高校生たちは、「感動した。こんなことを言ってくれる日本人の政治家はいない」と感激し、涙を流していたという。少し前のスピーチなので、現状とは異なる部分もあるが、メッセージそのものは現在の私たちの胸にも響くところが多い。 
 マハティール首相の著書『立ち上がれ、日本人』に収録されているそのスピーチを全文ご紹介しよう(同書の「序章 日本人よ誇りを持て」)。
***
日本に学んだこと

 発展途上国であるマレーシアは、日本から多くのことを学びました。
 首相に就任した1981年、私は「ルック・イースト政策(東方政策)」を国策として採用しました。これは第2次世界大戦で焼け野原となった日本が、たちまちのうちに復興する様から学ぼうとした政策です。
 かつて読んだソニーの盛田昭夫元会長の本に描かれた、日本国民の強い愛国心と犠牲を払っても復興にかける献身的な姿は、私に深い感銘を与えました。労働者は支給される米と醤油だけで一生懸命働き、近代的な産業を育てるため寝る暇を惜しんで技術を磨いていったのです。

 日本人の中でも私がとりわけ尊敬するのは、戦後の日本を築いた盛田昭夫氏と松下幸之助氏です。
 いずれも先見性を持ち、パイオニア精神と失敗を恐れずに挑むチャレンジ精神、そして独自の考えとやり方で技術革新を生みました。さらには日本の経済成長を助けるマネージメント能力を兼ね備えていたのが、彼らのすばらしいところです。

 私が初めて日本を訪れたのは1961年、家族旅行でのことでした。
 当時の日本はまだ復興途上で、あちらこちらに爆弾による破壊の跡が残されていました。それでも、大阪では水田の真ん中に建つ松下の工場が私の度肝を抜き、オリンピックの準備中の東京では、日本橋の上に高速道路が建設されつつあるのを目にしました。
 このとき、私は日本と日本人のダイナミズムを体感したのです。

 人々が国の再建と経済を発展させるために献身的に尽くす光景は、今もまぶたに焼きついています。その後も訪れるたびに発展していく日本の姿を見てきたからこそ、首相になったとき私は日本と日本の人々から学ぼうと思ったのです。
 もっとも注目したのは、職業倫理観と職場での規律正しさによって、品質の高い製品をつくりあげるという姿勢でした。
 戦前の日本製品は「安かろう悪かろう」の代名詞でした。しかし戦後は品質の高い製品を次々に生産し、日本は国際社会で大きく成功しました。労働者は職業倫理観が優れていて、管理能力も高い。多くの国民が戦争で命を落としましたが、残された者が立ち上がり、新しい産業を興し、日本はすばやく発展していきました。
 電子産業の革命を起こしたソニーもその一社で、すばらしい技術でテープレコーダーを生み出しました。松下は戦後再建し、多くの大企業が次々と復活しました。米占領軍は財閥を解体したけれども、新しい形態の会社が次々と生まれていったのでした。
 日本の大企業のシステムは、欧米の会社のシステムとはずいぶん違っていました。会社同士は競争しても、会社は社員の面倒を見る。終身雇用という形態は、西側諸国にはないものでした。社内で従業員による混乱は少なく、労働組合によるデモも就業時間外に行われたため、生産活動には支障を来さなかったのです。

 多くの製品が生まれ、輸出され、外貨を稼ぎ、結果として日本は大きく発展しました。
 私たちが日本からコピーしたかったことは、日本型システムなのです。国を発展させるための政府と民間企業の緊密な関係を、私は「日本株式会社」と呼んでいます。私たちはこの日本から学ぶことで、他の発展途上国に比べて早く発展することができました。

 東南アジアをはじめとしたアジアの近隣諸国もまた、日本とともに働き、日本の繁栄と技術から学びたいと思っているのです。日本の新しい技術を学ぶことによって、域内全体が繁栄することは間違いありません。

日本人よ自信を取り戻せ

 マレーシアは、近隣諸国を豊かにすることが、自国にとっても大事なことであると確信しています。けっして、貧しい国を置いてきぼりにしてはなりません。
 近隣諸国が貧しければ、多くの問題が自分の国にふりかかってきます。貧しい国から難民がどっと入ってくれば一大事ですが、近隣諸国が豊かになれば自国製品を輸出することもできる。だからマレーシアは、近隣諸国を富ます政策を積極的に取り入れているのです。
 戦後、独立国として生まれ変わったマレーシアには、日本など海外から多くの投資がなされました。日本の企業が進出したおかげで多くの雇用が生まれ、失業率は著しく低下し、国民は完全雇用の状態となりました。このため、海外からの労働者を雇わなければならなくなったほどです。
 マレーシアは日本にとっても、良い市場として生まれ変わりました。日本は投資したものを回収しただけでなく、豊かになったマレーシア人に製品を売ることもできる。2倍儲けることができたというわけです。
 これが私たちの経験であり、多くの発展途上国でも同じことが起きてほしいと願っています。マレーシアは近隣の国々に手を差し伸べ、投資し、職業訓練のために彼らを招いています。その国の発展のために、公共事業にも協力しているのです。
 最も大事なことは、国が域内はもとより世界の平和のために努力するということ。けっしてひとりよがりにならず、他の諸国が発展するお手伝いをするということです。他国が豊かになれば自国も豊かになり、よりよい世界を築くことができる。そうすれば戦争は起こらず、テロ行為の恐怖におののくこともありません。

 いま私は、自分の国に自信をもっています。
 その一方で、米国型の極端な経済改革を行なおうとしている今の日本では、失業率も高く、国民が自信を失っているようです。
 最近の日本の若者は、もはやかつての日本人のように献身的ではなくなったと私は聞かされました。確かに、貧しい人はそこから抜け出そうと必死に働きますが、ひとたび豊かになると人生はたやすいと思ってしまう。そして努力することを忘れてしまうのです。

 しかし日本を再びいい国にするために、ぜひ頑張っていただきたい。皆さんには勤勉であるという日本人の素質が根づいているのだから、他国の言いなりになるのではなく、自分の考えで行動してほしい。そして自信を取り戻し、日本人であることに誇りを持ってもらいたいと思うのです。

辞任にあたって伝えたいこと

 マレーシアは「ビジョン2020」として、2020年に先進国入りする目標を掲げています。私は22年の首相在任期間を通じて、そのレールを敷く努力をしてきました。
 1997年に始まったアジア通貨・金融危機では、これまで私たちが汗水たらして築き上げてきた国の富を瞬く間に失ってしまいました。しかし欧米型の処方箋を用いず、独自の資本規制などを実施することで、ようやく乗り越えることができました。
 私は辞任の潮時をいつも考えてきましたが、国内経済がやっと落ち着いてきた2002年、私が総裁を務める最大与党・統一マレー国民組織(UMNO)の党大会で辞任を発表しました。誰にも相談しませんでしたから、周囲にとっては青天の霹靂(へきれき)だったことでしょう。本当はすぐ引退したかったのですが、まわりからもう1年だけ頑張ってほしいと嘆願されました。2003年10月のイスラム諸国会議機構(OIC)首脳会議を終えてから引退するようにと――。

 足るを知る。私が幼いころ、母はそう諭しました。お腹いっぱいになる前に食べるのをやめなさい、というのが母の口癖だったのです。
 この22年間で、マレーシアの1人当たり国内総生産(GDP)は2倍以上に増えました。日本を目標にした「ルック・イースト政策」が功を奏したことは間違いありません。完全ではありませんが、私たちは日本から多くを吸収することができました。社会のシステムや職業倫理、技術――、そして何より文化に学びました。首相を退任したいまも、私は日本の支援に心から感謝しています。

 経済危機の最中にも本当に大きな力になってくれた日本は、私たちにとっての真の友人です。数十億ドルの支援や、マレーシア政府発行の国債に対して保証を打ち出してくれたことでどれだけ助けられたことでしょう。固定相場制を導入できたのも、日本がバックにいるという安心感があったからなのです。

 ちっぽけな東南アジアの一国の民として、私は日本にいつまでも熱いまなざしを注ぎ続けることでしょう。
 どうかいつまでもアジアの力となり、手を差し伸べてほしい。今こそ日本に、リーダーシップを発揮してほしいのです。
***
愛国主義の大切さ

 なお、こうしたメッセージに対してはとかく「愛国心を不要にかきたててはいけない」と説く人も登場しがちなので、そういう方に向けてのマハティール首相の言葉もご紹介しておこう。

「軍国主義はよくないことだが、愛国主義的であることは悪いことではない。愛国主義は国が困難を乗り越える上で助けになる。
 祖国を守ることと攻撃的な軍国主義は同義語ではない」

「はっきり申し上げれば、いまの日本人に欠けているのは自信と愛国心です。日本が『愛国心』という言葉に過激になる理由は、私にもわかります。
 確かに、過去に犯した多くの過ちを認める用意と意思は持たなければならない。しかし半世紀以上も前の行動に縛られ、恒常的に罪の意識を感じる必要があるのでしょうか」


デイリー新潮、2018年5月14日掲載
「日本人よ誇りを持て」
日本の高校生を泣かせた、92歳マハティール首相のスピーチ

https://www.dailyshincho.jp/article/2018/05140731/

愛国心を持て

 92歳でマレーシア首相に返り咲いたマハティール・モハマド氏が日本の修学旅行生に向けて語ったスピーチをご紹介した記事は大きな反響を呼んだ。
 とかく「日本はアジアに謝罪すべきだ」という声がマスコミでは大きく扱われがちだが、当のアジアの中にも「日本は戦争の贖罪意識から解放されるべきだ」と語るリーダーが存在することはあまり伝えられない。それゆえに、マハティール首相の言葉は新鮮だったのかもしれない。
 そこでマハティール氏の著書『立ち上がれ日本人』(加藤暁子・訳)から、さらに日本人に向けてのメッセージをご紹介しよう。前回の首相在任時の発言だが、十分現代の私たちにも訴えてかけてくるメッセージばかりだ。

――愛国心について

「はっきり申し上げれば、いまの日本人に欠けているのは自信と愛国心です。日本が『愛国心』という言葉に過敏になる理由は、私にもわかります。確かに、過去に犯した多くの過ちを認める用意と意思は持たなければならない。しかし半世紀以上も前の行動に縛られ、恒常的に罪の意識を感じる必要があるのでしょうか。
 ドイツを見てください。誰が彼らに、戦争中のナチスの残虐な行為を謝罪して回るよう求めているでしょうか。
 しかし日本ではどの首相も、2世代も前の人間がやらかしたことを謝罪しなければならないと思っている。
 これは不幸なことです。
 日本が再び軍事大国になることはないという、近隣諸国の不安を取り除くための保証さえあれば、謝罪の必要はありません」

――日本の首相の在任期間の短さについて

一人の政治指導者があまりに長く権力の座に居座ると、強権的になり腐敗を招く、という懸念がつきまとうのも事実です。しかし良識ある愛国的な指導者は、自らの権力を濫用することはありません。
 投票による民主的なシステムでは、人気のあるリーダーは政策を十分に実行しうるポストを与えられます。いっぽう権力を濫用する者は、解任されるか選挙で落とされる運命にあります


――日本のアジアでの地位について

「今まさに日本が挑戦すべきことは、東アジアにおけるリーダーの役割を果たすことです。日本には経済的な規模があり、富があり、世界水準の技術力がある。
 世界のリーダーとなるには軍事力も必要だという考え方もあるでしょうが、今日の『戦争』は経済的な側面が焦点です。
 東アジアだけでなく、世界が日本を必要としています。今日、世界がおかれた状況は修羅場と言ってもいいほどです。自由貿易システムの濫用、投機家の底なしの貪欲さ、そしてテロリズム――。日本のダイナミズムと、ひたむきな献身が、まさに必要とされているのです」

日本の力を忘れるな

――終身雇用の崩壊について

「最近、欧米のメディアが積極的に転職する日本の若い世代を誉めそやす記事を読みました。これは、まったく間違っています。
 長年保たれてきた企業と従業員の、よき家族にも似た関係が薄れてしまえば、私たちが多くを学んだ『日本株式会社』もまた立ち行かなくなる。
 失業者を増やし、企業と社会の生産性を損なう外国のシステムを、なぜ盲目的に受け入れなければならないのでしょうか。アジアは欧米ではないのです。
 日本人は、日本固有の文化にもっと誇りをもつべきです。もし当事者であるあなた方がそう思っていないとしたら、私の口からお伝えしたい。
 あなた方の文化は、本当に優れているのです。
 日本の力を忘れてはいませんか」

――日本の現状について

「マレーシア経済危機のとき、日本は私たちの味方となってくれました。しかしその日本はといえば、残念ながら私の目からは自分を見失っているように、そして自分の考えで動いてはいないように映ります。
 いまのところ日本は、私たち東アジアの国々から生まれた唯一の先進国です。そして、富める国には隣人に対してリーダーシップを発揮する義務があります。潜在的な大国である中国をうまく御しながら、その責務を果たせるのは西側諸国ではありません。それは、東アジアの一員たる日本にしかできない役目なのです。
 いつまでも立ち止まっている余裕はありません。それは日本にとっても、東アジアにとっても、世界にとっても、大いなる損失でしかないのです。
 最後にはっきりと申し上げたい。
 日本人よ、いまこそ立ち上がれ――と」

 日本では不思議なことに、ここに挙げたマハティール首相のようなことを政治家が口にすると、「右傾化」「戦前回帰」「国粋主義的」などと批判されることが珍しくない。とくにメディアにその傾向は顕著だ。

 最後に、メディアについてのマハティール首相の言葉もご紹介しておこう。

「世界は西側の価値観に支配されている。メディアはその最たるものだ。
 日本のメディアは欧米のメディアに左右されることなく真実の報道をしてほしい」


デイリー新潮、2018年6月8日掲載
「立ち上がれ、日本人よ」
92歳マハティール首相の感動メッセージ

https://www.dailyshincho.jp/article/2018/06080631/

日本軍人は律儀だった

 6月12日、92歳のマレーシア首相であるマハティール・モハマド氏と安倍首相との会談が実現した。

 マレーシアの前政権は親中的と見られていたが、無類の親日家として知られるマハティール首相が再登板したことで、その路線が変わることを期待するのは安倍首相だけではないだろう。

 マハティール氏が前回の首相就任時に「ルックイースト(日本を見習え)政策」を掲げたことはよく知られている。これは簡単にいえば日本を手本にして経済成長をしよう、という政策だが、マハティール首相は決して、日本が高度成長したから「見習おう」と言ったわけではない。その「親日感情」は戦時中にも培われていたようだ。

 マハティール氏の著書『立ち上がれ日本人』には、訳者である加藤暁子氏による長い解説が収録されている。そこでは、マハティール氏と日本にまつわる「いい話」がいくつも紹介されている。同書より抜粋、引用してみよう。

 1945年、マレーシアは日本の占領から解放される。祖国が解放されたこと自体は喜ばしいことで、青年だったマハティール氏(当時20歳)もその喜びを味わう。
 しかし当時、英語学校の学校新聞の編集者をつとめていたマハティール氏は、紙面で日本占領中の苦しみを語るとともに、すでに日本の復興を願う文章も寄せていた。
「日本が原爆の悲劇を乗り越え、平和と発展に貢献してほしい」と論説で訴えていたのである。

 これは占領中の経験が影響しているようだ。
 占領中、マハティール氏は学費を稼ぐために屋台でコーヒーやピーナッツを売っていた。その頃のことをこう振り返っている。
「英国人はカネも払わず勝手に商品を奪うことも多々あったが、日本の軍人は端数まできちんと支払ってくれた。町でみかける軍人は折り目正しく、勇敢で愛国的だった」

部下を一喝した理由

 それから約30年、マハティール氏は「マレーシア食品工業公社会長」というポストについていた。当時の首相から与えられたポストで、名前は立派だが、実際は品質の悪いパイナップル缶詰工場の責任者だった。

 この時、親しくなったのが三井物産クアラルンプール出張所に赴任していた鈴木一正氏だ。鈴木氏は自社のルートを通じて、米国のパイナップルの缶詰の作り方をマハティールに無償で教える。その結果、マレーシアの公社が製造するパイナップルの缶詰は輸出に耐えられる品質に変わった。

 そこで彼らは米国市場を目指し、実際に米食品医薬品局(FDA)の検査基準もクリアする。

 こうなると、その輸出権を奪おうとする会社が三井物産以外にも現れるのは当然だろう。多額のフランチャイズ・マネーを提示されて、公社の職員にはそちらに傾きそうになった者もいたという。それを一喝したのがマハティール氏だった。

「ここまでの商品にできたのは、誰のおかげだと思っているのか!」

 世話になった人を裏切ることが、マハティール氏には許せなかったのだ。

 鈴木氏はその後もマレーシアとの親交を深め、退職後も現地に居を構え、マレーシア日本人商工会議所会頭を務めた。マハティール氏にとって一番親しい日本人で、その日本びいきは鈴木氏によるところが大きい、と加藤氏は解説している。

 律義さ、真面目さ、恩を忘れない精神……マハティール氏は日本人の美徳をそうしたところに見ているようだ。そのうえで、バブル期以降低迷してきた日本人に対して、誇りをもって、立ち上がってほしい、というメッセージを常に送っている。

 その期待を裏切ってはならないだろう。


デイリー新潮、2018年7月9日掲載
「日本人を裏切るな!」
92歳マハティール首相と日本の縁

https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07090631/

 サッカーW杯ロシア大会も、今週末でついに閉幕となる。大会前はあまり期待されていなかった日本代表だが、1次リーグを突破し、決勝トーナメント1回戦では強豪ベルギー相手に2−3という奮闘を見せ、日本中に興奮をもたらした。
 初戦のコロンビア戦で先制点をあげた大迫勇也選手、華麗なパスセンスを発揮した柴崎岳、4試合で2ゴールを決めた乾貴士選手、キャプテンとして選手を牽引した長谷部誠選手、そしてW杯3大会連続でゴールとアシストを決めた本田圭佑選手…数々の感動を与えてくれた日本代表。ベルギー戦後、本田選手自身「本当に選手のみんなが好きになったし、こんなに好きになれると思わなかったくらい好きになったんですよね」とコメントし、さらなる感動を呼んだ。

 そんな本田選手が自身のTwitterで

「I really agreed with him and I appreciate it for what he said. 素晴らしい考え方。勉強になりました!」

と紹介したのが、90歳をすぎてマレーシア首相に返り咲いたマハティール・モハマド氏の言葉だ。マハティール氏は前回首相をつとめた際には「ルック・イースト(日本の経済成長を見習おう)政策」を掲げたほどの親日家で、日本人に対してもさまざまな熱いメッセージを送り続けてきた。

 本田選手をも感動させた、マハティール氏の言葉を、著書『立ち上がれ日本人』(加藤暁子・訳)から紹介しよう。マハティール氏の前回の首相在任時の発言だが、十分現代の私たちにも訴えてかけてくるメッセージばかりだ。
――

デイリー新潮、2018年7月13日掲載
「立ち上がれ、日本人よ」
本田圭佑選手も感動した93歳マハティール首相のメッセージ

https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07130720/

第15回日本の次世代リーダー養成塾(2018年) マレーシア/マハティール・ビン・モハマド首相講演

ふくおかインターネットテレビ

7月26日から8月8日までの14日間にわたり、「第15回日本の次世代リーダー養成塾」が開催されました。

「日本の次世代リーダー養成塾」は、日本だけでなく、世界に通用する人材育成を目指した、高校生のためのサマースクールです。

今回は特別に、養成塾で行われた日本や世界で活躍する講師陣による魅力的な講義の中から、マレーシア首相のマハティール・モハマド氏の講義の模様をお伝えします。

講義日 平成30年8月7日
会場 グローバルアリーナ(宗像市)
タイトル「アジアの次世代リーダーはいかに未来地図を描くことができるか −93歳から10代へのメッセージ

https://www.youtube.com/watch?v=MboUD-q1zE8

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うそをつくための造語がTAG

日本にFTAを求める理由として、トランプ大統領は対日貿易赤字を挙げているが、「貿易赤字が国の経済をダメにするのであれば、とっくに米国はダメになっている」と指摘するソーブル氏

9月末の日米首脳会談で「TAG」(Trade Agreement on Goods=物品貿易協定)の締結に向けて交渉に入ることが合意されたと日本政府は発表した。

交渉対象は「物品だけ」と説明しているが、サービスも含む実質的なFTA(自由貿易協定)を目指す米国とのズレが浮き彫りになっている。

強硬的なトランプ政権によって、FTAへと押し切られてしまうのか? 

「週プレ外国人記者クラブ」第130回は、元「ニューヨーク・タイムズ」東京支局記者で、現在は「アジア・パシフィック・イニシアティブ」客員研究員を務めるカナダ出身のジャーナリスト、ジョナサン・ソーブル氏に聞いた――。


***

―― 米国は合意文書に「TAG」という言葉を用いておらず、これは事実上のFTA交渉開始ではないか?という批判が相次いでいます。

 それは正しい見方で、事実、米国では「日本とのFTA」として認識されています。
 日本はもともと自由貿易協定の枠組みに入ることには消極的でしたが、FTAのような2国間協定では米国の圧力をモロに受けるため、多国間の自由貿易協定であるTPP(環太平洋パートナーシップ協定)を推し進めてきました。ところが、トランプ政権になってから米国は2国間協定にシフトし、日本にもその矛先が向けられた。日本としては、TAGという言葉を使って協定の範囲をできるだけ狭く定義するしかなかった、というのが苦しい本音でしょう。
 そもそも米国が日本にFTA交渉を求めている理由は、対日貿易赤字が膨れ上がっているからですが、貿易赤字を一概に「悪いもの」と決めつけることは間違っています。貿易赤字が国の経済をダメにするのであれば、とっくに米国はダメになっているはずです。
 たとえば、私は毎日のように近所のスーパーで買い物をしますが、この行為を2者間のトレードとして考えれば、スーパーに対して私は一方的に赤字を出し続けています。しかし、だからといって私の経済が破綻するかといえば、そんなことはない。対スーパーの収支は赤字でも、別のところから収入を得ているからです。買う物が売る物より多いことは、必ずしも悪いことではない。その大前提からトランプ政権は間違っています。
 このように、本来は「貿易赤字=悪、貿易黒字=善」とは言い切れないのですが、皮肉なことに、日本の産業界の主流な考え方と、トランプの考え方は似ています。

 日本は戦後、輸出産業で経済発展を進めてきた歴史があり、貿易黒字国であることを誇りに思ってきました。
 そして、製造業への強いこだわりを持っている点でも日米は共通しています。しかし、国境を越えて売り買いされるのは、製造業の商品である「物」だけではありません。金融業、サービス業、またエンターテインメント産業のコンテンツなども売り買いされているし、むしろ現在の世界経済ではこういった商品のほうがトレンドと言えます。

 確かに米国は製造業の貿易では赤字ですが、それ以外の産業では黒字になっている分野も少なくありません。
 ニューヨークなどの都会に住んで金融業界で働いている米国人などは、トランプ大統領の言う「貿易赤字」をほとんど実感していないでしょう。ただし、金融業界の赤字/黒字は製造業のように貿易収支の数字に表れにくいものです。こういった現象、つまり米国が製造業では赤字で、金融業は潤っているという傾向は、米国内で富の格差が拡大していることに繋がっていますが、それは貿易とは別の問題です。

―― ソーブルさんの母国・カナダと米国は9月末、NAFTA(北米自由貿易協定)の見直しで合意しましたが、米国とカナダの間にはどのような問題があるのですか?

 トランプ大統領は米国とカナダの貿易についても米国側の赤字を問題視して不均衡の是正を求めています。
 これは製造業に限らず、テレビや映画などのコンテンツ産業にも米国はさらなる市場開放を求めています。米国とカナダは言語も同じ、文化も同じなので、米国の有力なコンテンツに市場を独占されてしまう可能性もあります。そのため、カナダ政府は一定の保護政策をとっているのです。

 しかし、それ以上に強く市場を開放しろと求めているのは、コンテンツ産業と同様にカナダ政府が保護している乳製品の分野です。
 カナダ政府による自国の乳製品産業に対する政策は、国が一括して乳製品の原料となる牛乳を買い上げている点で、日本が農業の中でも特にコメを守ろうとしている姿勢に似ています。人口が米国の約10分の1しかないカナダは、食糧安全保障の観点からも危機感を認識し、自国の乳製品産業を守ろうとしているのです。それに対して米国は、日本に農作物の市場開放を求めるのと同じ論理で、カナダの乳製品保護に対しても閉鎖的だ、保護主義貿易だと言って圧力をかけてくる。そもそも日本のコメや、カナダの乳製品は米国の経済とは完全に異なるシステムで流通しているのに、そこにも自分たちのルールに従うよう求めてくるのです。

 自動車産業に関しては、日米間でも常に経済摩擦の要因になっていますが、米国はカナダとの交渉でも問題点として捉え、攻撃材料に使ってきます。
 しかし、米国とカナダの自動車産業は1960年代から一体化が進み、もはや国家間の貿易問題の要因としては考えられないのが現実です。米国で売られている日本ブランドの自動車も、ほとんどは米国内の工場で生産されているものですよね。
 グローバル経済が進んだ結果、もはや国境を越えた物の売り買いも、グローバル企業内のAという部署からBという部署へと単に物が移動しただけという見方もできる。

 しかし、トランプ大統領の貿易に関する思考回路は、ひと言で表現するなら「旧型」です。
 トランプ大統領にとっては日本とのFTA交渉も11月の中間選挙に向けたアピールだ、という見方もありますが、そもそもトランプ大統領が貿易に関して言っていることは、1980年代から変わっていません。その意味では、彼はブレない男。ブレることなく製造業にこだわり続ける旧型の男なのです。

―― では、日米TAGの危険性を挙げるなら?

 米韓FTAを例に取ると、日本でも実施されたエコカー減税をさらに大規模にした法案を韓国政府が成立させようとした際に、大型車を中心に製造している米国の自動車産業からの圧力で法案成立が延期になった事例があります。
 日米TAGはまだ交渉がスタートしたばかりですが、日本で税制面で優遇されてきた軽自動車に対して米国側が圧力をかけ、軽自動車税が一気に 1.5 倍に跳ね上がるといった事態はすでに起きています。しかし、日本経済が大きなダメージを被るほどにはならないと思います。

 危険はやはり"トランプ流ディール"にあると思います。
 本来、経済交渉の場に安全保障の要素を持ち込むのはタブーです。しかし、トランプ大統領は「交渉に使えるカードはなんでも使う」人物。安倍首相が訪米して一緒にゴルフをした際にも、トランプ大統領は自分の政治資金面でのパトロンであるカジノ・オーナーに日本でもカジノを開業させたらどうかと平気で持ちかけるほどです。内政干渉と言う以前に、国家のトップが口に出す話題とはとても思えません。

 日米TAGの交渉を通じて、日本と米国の安全保障の枠組みまで影響が出る可能性も完全に否定できるわけではありません。
 この点は、日本政府も十分に注意して交渉を進める必要があるでしょう。

● ジョナサン・ソーブル Jonathan Soble
1973年生まれ、カナダ・オンタリオ州出身。トロント大学で国際関係論、ニューヨークのコロンビア大学大学院でジャーナリズムを学ぶ。ダウ・ジョーンズ経済通信、ロイター通信、「フィナンシャル・タイムズ」、「ニューヨーク・タイムズ」を経て、現在は一般財団法人「アジア・パシフィック・イニシアティブ」の客員研究員を務めている


週プレNews、2018年10月18日 11時10分
日米TAGはやっぱりFTA? そもそも「貿易赤字=悪」というトランプの前提が間違っている
取材・文/田中茂朗
https://www.excite.co.jp/News/column_g/20181018/Shueishapn_20181018_107324.html#ixzz5UKGTqzoo

先月開かれた日米首脳会談で発表した共同声明で日本市場のいっそうの開放に反対する世論を欺くため、日本政府が日本語訳を捏造(ねつぞう)した疑いが出てきました。


 日米首脳会談では、新たな2国間の貿易協定交渉の開始を合意しました。

 9月26日に発表された英語(正文)では「Trade Agreement」と貿易協定を意味する文字の頭文字は、大文字となっています。
 しかし、物品については、「goods」と小文字。さらに、「as well as (同様に)」と続け、「other key areas including services(サービスを含むその他重要分野)」となっています。正文には大文字でのTAG(物品貿易協定)という言葉はありません。

 ところが、外務省が発表した共同声明の日本語訳(仮訳)では、「日米物品貿易協定(TAG)」の交渉を開始するとし、新貿易協定があたかも物品のみの交渉であるかのような表現になっています。

 安倍晋三首相は、これまでのトランプ政権との交渉を「日米FTA(自由貿易協定)交渉と位置づけられるものではなく、その予備協議でもない」(5月8日、衆院本会議)としてきました。

 日本語の仮訳は、この安倍首相の発言との整合性を取るためのものとみられます。今回合意したとするTAGについても安倍首相は、「日米の物品貿易に関するTAG交渉は、これまで日本が結んできた包括的なFTAとは、全く異なるもの」(9月26日の会見)と述べました。

 一方、在日米国大使館はホームページで日本語訳を掲載。当該部分は、「物品、またサービスを含むその他重要分野における日米貿易協定の交渉を開始する」とし、新たな貿易協定の協議は、物品だけでなく、サービスを含む包括的なものだとしています。

 ハガティ駐日米国大使は新聞のインタビューに答え「われわれはTAGという用語を使っていない」「共同声明には物品と同様にサービスを含む主要領域となっている」(「産経」3日付)と発言しています。

 ホワイトハウスが日米首脳会談の成果を受けて発表した概況報告(9月28日)には、日本との交渉を通じて、「農産物その他の製品、およびサービスを含む一連の分野について成果を追求する」と明記。交渉は来年の早い時期に開始されるとしています。

 日本共産党の志位和夫委員長は、ツイッターで「(首相の発言との)矛盾を糊塗(こと)するために、翻訳まで改ざんしウソで国民を欺く。こんな卑怯(ひきょう)、卑劣なやり方はないではないか」と指摘しました。

紛れもないFTA交渉

東京大学教授・鈴木宣弘さんのコメント:

 日米共同声明にTAG(物品貿易協定)という言葉は存在しません。英文の共同声明には「物品とサービスを含むその他の重要な分野についての貿易協定」と書いてあります。物品だけの貿易協定などと言っていません。日本側が意図的にTAGと切り取っているだけで、日米はTAGなるものを合意していません。今まで日米FTA(自由貿易協定)交渉をやらないと説明してきたのに、やることにしてしまったから、日米FTAではないとうそをつくために、無理やり編み出した造語です。非常に悪質です。
 もともと日本政府は物品とサービスを含むものがFTAだと定義してきました。
 今回合意したのは紛れもない日米FTAの交渉入りです。


FTA-TAG.jpg

しんぶん赤旗、2018年10月6日(土)
「TAG」は捏造の疑い
日本政府訳にのみ記載
日米共同声明 首相答弁との矛盾TAG

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-10-06/2018100601_01_1.html


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2018年10月18日

対談=武田砂鉄×貴戸理恵

空気を管理する社会 弱者を救わない社会

武田砂鉄 貴戸さんの『「コミュ障」の社会学』(青土社、2018年4月)と、拙著『日本の気配』(晶文社、2018年4月)は同時期に刊行され、アプローチは異なりますが、現在の日本社会におけるコミュニケーションに対する問題意識に、通じるところがあると感じました。

原稿をまとめつつ、今の日本社会に感じる「なんか気持ち悪い」感覚の元は何か、とずっと考えてきました。刊行後、財務省の福田前財務事務次官のセクハラ発言、それをかばい続ける麻生太郎大臣の暴言、国民が忘れるまでいい加減な回避を続けるモリカケ問題の答弁など、だらしない言説が沸き続けている。もはや政治的なプロセスや、国際社会の位置づけ云々を議論する以前の問題です。政治を動かしている人間自身を疑わなければならないし、その人間が作る空気をそのまま受け止めてはいけない。

昨年、「忖度」が流行語大賞になりましたが、その先駆けと言いたくなる発言が2001年にあった。NHK ETV特集「問われる戦時性暴力」に対し、安倍晋三がNHK幹部に、「ただでは済まないぞ。勘繰れ」と言ったと。このことは、NHKのプロデューサーだった永田浩三さんが『NHKと政治権力』に書いています。現在の忖度社会を作り上げた張本人は、安倍晋三だったのかもしれません。


貴戸理恵 15年以上前からですか。「忖度」は今、社会の至るところに蔓延っていますね。日大アメフト部の問題でも、明示的に指示を与えるコーチに対し、監督は言葉にせずとも、周囲が気配を忖度して動く。明示しなくてもよいという特権が「権力」なのです。

『日本の気配』の冒頭には、「政治を動かす面々は、もはや世の中の「空気」を怖がらなくなった」とありました。権力者は空気を読むのではなく、気配を作り管理するようになった、と。確かに、最近の政治家の答弁を見ていると、対話のテーブルにつかず、「お分かりですよね」という気配で、不都合な真実をうやむやにしていく。「またか」と思いながら、そのことに私たちは馴らされている。


武田 柳瀬唯夫元首相秘書官が、加計学園関係者と首相の面会を否定し続けた。ひとまず彼の言い分を信じるとしましょう。となると、この国で権力を持つ人たちは、今や「空気読めよ」「勘繰れよ」という言葉さえ発さずに、全体を統括できているということになります。

貴戸 少なくとも20年ぐらい前までは権力者の側も、世論を意識してはいた。でも社会が多層化して、有力な支持層が分からなくなったとき、もうこちらからは空気読みません。作らせていただきます、となったのでしょう。

武田 そして現在のような「気配」を作り上げるのに一役買ってしまっているのがメディアです。

麻生大臣による、財務事務次官セクハラ事件以降の暴言の数々を、読売新聞は「『麻生節』は止まらない」という見出しで報道しました。あってはならない発言を麻生太郎という「キャラ」として扱ってしまう。メディアが、「ああいう人だからしょうがない」と為政者たちの作る空気を追認してしまう。差別を含む発言まで、キャラ化することで不問に付してしまっている。権力者が醸し出し、メディアが固める気配に、国民も従順になっていく。

共同通信の世論調査で、柳瀬元首相秘書官の国会答弁に対し「納得できない」が75.5%に達した。しかし麻生太郎の複数の暴言を受けて、「辞任すべき」は49.1%。辞任に値しないとする数値と拮抗していたのです。しかも、より若い世代が、麻生は辞任しなくていい、と考えているというデータが出ています。


貴戸 なぜだとお考えですか。

武田 「若者」という括りには慎重になりたいですが、物事に対して冷静でいようとする若者が多い気はします。暴言はあったけど、麻生さんは長年国政に尽力しているし、北朝鮮情勢とか優先すべきことがあるでしょ……みたいな。その冷静さを「公平な態度」だと思っているのではないか。自分の国で起きていることなのに、どこか他人事として処理している、それは冷静ではなく、冷酷です。

セクハラ問題も、日大アメフト部の事件も、強者の管理する空気によって、確実に傷ついた人がいる。経緯が明るみになってもなお、加害者は罪を認めない。明らかに立場の弱い人が潰されていく様を放置する、この国の気持ち悪さは何なのかと。

自分は、個人としての意見を慎むなんてズルいし、「ムカつくものにムカつくと言うのを忘れたくない」と常に思っています。そういうことを書くと、なぜあなたは感情を抑えないのかと諭されます。でも、こちらとしては、なぜあなたは抑えるんですか、と言いたくなる


貴戸 相変わらず日大は、学長が表に出てこないし、福田前財務事務次官は罪を認めていませんよね。それを許しているのは、私たちなのかもしれないと。

武田 2011年以降、原発再稼働、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪……政府の横暴な動きに、その都度、多くの国民が怒り、デモなどで連帯しながらムーブメントを起こしてきた。そうした働きかけによって、政権が倒れるのではないか、政府案が破棄されるのではないかとの気運が高まるも、国会では慣性的に物事が進められ、成果を得ぬまま抗議が萎んでしまう。

それが政権側にはある種の成功体験になっていて、「よし、いつものあの流れで行こう」と画策する。セクハラ問題にしろ、モリカケ問題にしろ、こちらの怒りに答えずに、人を食った発言を並べて、時が経つのを待てばいいと居直っている。この国の空気を管轄し、異論が膨らみすぎないように調整して封じ込められると高をくくっている。


セクハラへ「いちいち怒る」という抵抗

貴戸 昨今のセクハラ問題に、フェミニストのどれだけが、「いちいち怒る」という抵抗をしているか。私もフェミニストなので、反省させられます。武田さんがバラエティ番組での性差別発言にも、きちんと怒っている姿には、感動します。セクハラに触れること自体が不快なので、私はそもそもバラエティ番組をあまり見ないんです。でもそのことで、男尊女卑交りの会話や性的マイノリティ叩きに、いちいち声を上げて、いちいち抵抗するという、めんどうだけれど大事な作業が、手薄になっている。結果的に、差別の構造が温存され、社会に溢れる言説が貧困になっていく。

感情も瞬発力なので、日常的に怒りを押し殺していると、肝心のときに怒るための言葉や回路を持てなくなりますよね。女性たちは男性優位の歴史の中で、ハラスメントに対し、怒り方が分からなくなったところがあるのではないでしょうか。


武田 #MeTooで告発した女性に対して「なぜ今さら告発するの?」というような冷笑が向けられました。社会システムの中で抑圧され続けたからこそ、すぐには声を上げられなかった。告発によるリスクに躊躇するのは当然のこと。でもそれに対して、ともすれば、同じ女性の側からも、「嫌だったならなぜそこですぐに言わなかったの?」「誘ってたんじゃないの?」などと被害者側を非難する声まで上がってしまう。

海外で#MeToo運動が盛り上がり、たとえばハリウッドから上がった告発については、概括的にですが日本のワイドショーでも放映していた。しかし、ジャーナリストの伊藤詩織さんやブロガー・作家のはあちゅうさんなど、自分たちの世界に近い人の告発は、なかなか取り上げようとしなかった。


貴戸 痛まぬ腹ならぬ、痛い腹を探られるから、でしょうか。

#MeTooは、「私も」「私も」という横のつながりで、一つの運動になっていった成功例だと思います。でも、「いいね!」で共感的に広がることの可能性と、同時に脆さがあると思うんです。女性として連帯して、性差別に対して闘うというのはなかなか難しいことだと実感しています。それは、男性中心の社会で、女性は分断された存在として、個々に差別されてきたからです。

私がフィールドにしている「生きづらさ」の現場でも、「女性の生きづらさ」は確かにあるのに、それぞれが抱える問題をシェアして深めようとすると、様々な難しさがあります。

ですから#MeTooには、こんなやり方があったのかと、目が覚めるようでした。でも「そうそう、私も!」という感覚は消えやすいので、喉元を過ぎたら忘れられてしまいます。だからそれを掘り下げて言語化して、セクハラ被害が起こる構造の問題解明につなげるところまで、考える必要があると思います。


武田 女性同士が連帯しにくいというのは、具体的にはどこに躓きが生じることが多いのでしょう。

貴戸 例えば、世間が求めてくる「女らしさ」に乗れないという人がいます。化粧することがしんどくて、外に出るときに、女性としてのコスプレをしなければならない、という感覚を抱えている。

その一方で、男性依存のような、「女らしさ」に絡め取られる苦しさを抱えた人もいます。両方とも女性性を巡る生きづらさですが、お互いの立場を同じ根を持つ問題としてシェアできるかというと、感覚の上では、反発や嫌悪の方が顕在化してしまう。あるいはお互いの存在が、傷になってしまうのです。もう少し掘り下げることができれば、共通の構造の上にいることが見えるだろうと思うのですが。


どちらがより真正な当事者か競争

武田 福田前事務次官のセクハラ事件が起こった後、「ワイドナショー」(フジテレビ系)で、ダウンタウンの松本人志が「私の見解としましては、『セクハラ6:パワハラ3:ハニトラ1』でどうですか。このあたりで皆さん手を打たないですか」と言った。愕然とします。でもそこで、スタジオにいる面々の多くはニヤけてしまう。その番組では以前、AKB48のメンバーが「セクハラなんて受けたことない」と言っていた。言わせていただければ、彼女らを取り巻く構造がそもそもハラスメントです。金を払って得た投票権の投票が多い順に、活躍の場が与えられる。そのために、献身的な握手などなどを強いられる。体調を崩して辞めていくメンバーがいる。そんな彼女たちが「ハラスメントなんてない」と言い、芸能界のドンが「ハニトラ1や!」と凄む。これがテレビの空気だから、福田の言動に怒り続ける人が、いつまでも怒っている怖い人になってしまう。

貴戸 cakesの連載「ワダアキ考」で、壇蜜について書いていましたよね。壇蜜が、自分は「えっちなお姉さん」という立場で仕事をしているから、セクハラとは言えない、と言っている。これを当事者がいいと言うのだからいいだろう、と流してはいけないと。重要な指摘です。

リスクが高いんですよね。セクハラ事案に関して、当事者が声を上げるというのは。AKBにしろ壇蜜にしろ、女性性に対して、生きる場所を与えられていることを、本人が分かりすぎるぐらい分かっていて、それを利用している自覚もある。そういう状況ならなおさらで、当事者として、セクハラを受けています、とはなかなか言えない。

でもそれで、当事者がいいと言っているから、で終わらせずに、一枚皮を剥ぐようにして、その下にある構造まで見ようとすることが必要だと、武田さんの文章を読んで改めて思ったんです。構造を考える人は、テレビなどでの個々人の発言や事案をスルーしがち。そして、個々の発言に注目している人は、構造を見るところまで至らない。武田さんは、フラットに両方を見ていますね。一般の社会と研究者の世界と両方を見て、両方に伝わるような言葉で現象を暴いていく。大事なお仕事だと思います。そしてそれは、私にとっての課題でもあると思っています。


武田 貴戸さんは、「当事者」について長年、研究・分析を続けておられますが、例えば、死刑制度に賛成か反対か、という議論が起こったとき、必ず「自分の子どもが殺されても、死刑反対と言えるのか」という理屈が出てくる。社会問題の議論では、当事者か当事者ではないかという前提を、ナイフのように突きつけてくるケースが増えているのではないですか。

貴戸 そうですね。そしてそれは、どちらがより真正な当事者か競争、を招いてしまう。当事者面するな、世の中にはもっと悲惨な目に遭っている人がいるんだ、というような議論は、不毛で、危険です。

武田 伊藤詩織さんが自分の体験を告発したときにも、SNS上では「私も酔った勢いでやっちゃったことあるし……」と雑に当事者が持ち出されていた。この「私も」は、酔っ払って男に体を許す私と、伊藤詩織さんの告発を、均等に置き、彼女もそうなんじゃないの? とレイプ犯罪を追究する方向ではなく、告発をうやむやに丸めこんでいく。告発した当事者が二次被害的に傷つき、それで安堵するのは、行為に及んだとされる側だったりするわけです。不健全な構造ですよね。

そうやって、軽はずみな書き込みで場を荒らすことによっても、この国の差別の土壌は温められていきます。しかし、一人ひとりに説教して回って、一つひとつ芽を摘んでいけるかどうかと言えば……。


貴戸 きりがないですよね。性的に奔放であることと、レイプは許されないということは両立するのに、両立しないかのように捉えていくのは奇妙な論理です。その枠組みの歪みを見極めて、正していく必要があるのではないでしょうか。

豊潤な深夜ラジオとファミレストーク

貴戸 武田さんの言葉は、いろいろな領域と水準をまたぐように展開して、こちらを見ていたと思ったら、あちらの事例を語っている。とても刺激的でしたが、武田さんはご自分の文章を、どういう読者に向けて書いているのですか。

武田 かつてリリー・フランキーさん (1963-) のエッセイで読んだ記憶があるのですが、最寄り駅から家まで帰る間に、ずっと同じ一つのことを考えている人間はいないだろう、と。好きな女の子のことを考えていたと思ったら、あっ、あそこに花が咲いているなとか、この店潰れちゃったのかとか、あのおばあちゃん最近元気ないなと様々なことを考える。そうやって一瞬一瞬で考えることを変化させていくのが、思考することの基本形だと思っています。文章を書くときも、同じようにあちこちから混ざり込んでくるものをそのまま記していきたいんですね。なので、宛先を書いて郵便ポストに差し出すというより、通りすがりの物事から感じた違和感でも不快感でも、もちろん爽快感でも、それらを盛り込んでしまいたい。

いわゆる研究者の文章って、帰り道に花が咲いていようが、おばあちゃんが歩いていようが、ひとまずこの道について考えているので、他の要素として排除してしまう。そういう思い込みが強すぎる気がします。もちろんそうすることで、見えてくる道もあるとは思うのですが。


貴戸 『紋切型社会』(ソフトカバー版、朝日出版社、2015年4月)には、権威づけのために、印鑑的にカントを引用するな、と書いていましたね(笑)。確かにその通りだと思うんです。研究者が物を言うときには、先行研究を参照しなければいけない。それは文章の宛先が、アカデミックサークルに限定されていて、その中での通じやすさを担保するためです。でもそのせいで、見えなくなっているものもある。私は論文を書くときに、一番書きたかったことが零れていくような感じを受けることがあるんです。

武田 平田オリザさん(1962-)が、コミュニケーションを語る上で「冗長率」という言葉を使っています。会話の中で、意味や意思を伝えるためではない、まったく関係のない言葉が含まれている割合のことです。これがコミュニケーションにとってとても大事になる、と言われている。

自分は中学の頃から今に至るまで、深夜ラジオを好きで聞いていますが、あそこには壮大な無駄があります。どこへたどり着くか分からない数時間がある。リスナーから入ってきたエピソードを適当につまみ上げて、だらだら話しているだけなのだけれど、その言葉はもれなく豊かです。

ファミレスで交わされる女性たちの会話というのも好きなのですが、あれを文字起こししたら、確実に破綻しているはず。彼氏の話で盛り上がっていたと思ったら、次の瞬間、パフェ食べたいと誰かが言い、昨晩観たテレビの話になる。でも何となく、最終的にイイ感じにまとまっていく。深夜ラジオ的なもの、ファミレストーク的なものこそが、人間らしいコミュニケーションの基本なのではないかと思っているんです。


貴戸 娘が幼稚園に通っているのですが、最近、役員が回ってきてしまいまして。驚くことに、役員会議は、幼稚園に子どもを送ってから、お迎えの時間まで続くんですよ。議題をこなす目的はあっても、4〜5時間一緒にいたら、ぐだぐだのおしゃべりになることもあるんですよね。話があっちこっちに飛んだり、さっき決まったはずのことが、覆されたり。書記係は、大変です(笑)。どうしてこんなに非効率的なんだ、と最初は思っていました。でも、最近その意義を感じるんです。あのようにして交換される膨大な意味のない言葉が、壁を溶かしていくんです。そういうコミュニケーションでしか、生まれない連帯感や関係があるのではないかと。

武田 近所にある喫茶店でも盗み聞きするのですが、男子学生は、いわゆる「ひな壇芸人」を模したような会話で、自由度が高いようで低い。「ノリ悪いな」とか「こう来たら、こうだろ」みたいな、正解を模索する笑い。すっかりお笑い番組でのコミュニケーションで、それらがいかに一般に浸透しているかを思い知らされる。一年近く前にロンドンブーツの田村淳さん(1973-)のラジオに出たのですが、淳さんが出ている番組って、若者たちのコミュニケーションを変えてしまっていますよ、と言いました。自分のウィークポイントを差し出し、笑ってくれるかどうかを計るなんて、ここ最近で強まったコミュニケーションです。たとえば、噛んでしまう、滑舌が悪いなんてことを笑うのは、お笑い番組でああやって扱われなければ、ここまで浸透しなかったはずです。

貴戸 あれは、吃音を増やしていると思います。

武田 学生が日常的に、「あ、今、噛んだ!」と笑う。噛むことなんて、本来、特に面白くなんてない。でもテレビの中で面白いと認定されていることだから、笑うんです。

あるミュージシャンと雑談しているときに聞いて驚いたのですが、高校の文化祭で、「アメトーーク!」を真似る企画があったそう。「滑舌悪い芸人」とか「運動神経悪い芸人」とか、そういう番組を文化祭で再現して面白がると。そこでは、弱点をキャラ化する人間が重宝されます。おそらく、クラスの人気者が司会をして、笑われ役の人間をイジる。芸人が持っている「芸の力」を一般の学生たちは持たない。それは、単に人を嘲笑う、いじめに近いものになる。なかなか地獄です。テレビのお笑い番組を再現してみることって、これまでもあったはず。ただ、現在のバラエティ番組に則ると、外に向けて個人の弱点を晒し、身を削って笑いを取ろうとする羽目になる。それは病的な対話だなと。


コミュ力、コミュ障、コミュニケーション能力

貴戸 私がインタビューした不登校経験のあるBさんは、スクールカーストの中で、面白くない人間だと見なされることを、異常なまでに恐れていた、と語っていますが、周囲のノリについていくことは、心底切実なことなんですよね。

今日はここに来る前に、中・高校生の前で、「コミュ障」についての話をしてきたんです。「アメトーーク!」じゃないですけれど、芸人的に人をイジって場を沸かせる、「コミュ力」が高いとされるAさんと、「頑張ってるけど空回りしている」と仲間に言われて不登校になってしまったBさんの話をして、「コミュ力」って何だろう、「コミュ障」だと名指すことが、何を生むのかと。

「私はコミュ障だから」という「自虐」的な発言は、自分が周囲に溶け込めていないことを自覚している、空気が読めているからこその言葉です。本来は、学校という小さな空間の中でうまくノリに合わせられないとしても、その人の「能力が低い」ということにはなりません。でも当人たちにとっては非常に切実で、その後の人生に尾を引くこともある。

そういう話をした後の質問で、「俺、マジでコミュ障で、このままだと彼女ができないと思うんですけれど、どうしたらいいでしょうか」と質問してくれた人がいました。200人ぐらいいる会場で、素直にそういうことを言ってくれる(笑)。だから、「大丈夫、クラスの中ではコミュ障でも、一対一の関係ならつくれる。彼女もできるよ」と言いました。


武田 貴戸さんの本に、「企業が大卒新卒者の採用にあたって重視した能力」1位が、2004年から2017年まで一貫して「コミュニケーション能力」だとありました。コミュニケーションにいつのまにか「能力」が付着していること自体いかがなものかと思います。企業に能力を計測される学生たちにとっては切実です。

貴戸 学生を見ていると、コミュニケーションにこれほど繊細なのか、と驚くことがありますね。「よっ友」ってご存知ですか。

武田 知らないです。アニメのタイトルか何か? 

貴戸 「よっ」て言うだけの関係性だそうです。 

武田 ……えっ、それはどういう関係なんですか。

貴戸 すれ違ったときに、「よっ」と言う。一緒にいる子が「誰?」と聞くと、「ただのよっ友」と。

武田 ただのよっ友?

貴戸 知り合いというほどではないけれど、顔は知っていて、名前は知らない場合もある。でも顔を見れば「よっ」と挨拶をする。私にこの言葉を教えてくれた学生は、自分には知り合いが多いと、人に示すための関係ではないか、と言っていました。「ずっ友」というのもあるそうで。

武田 ずっ友?

貴戸 ずっと友達。

武田 なかなか気持ち悪いですね(笑)。

貴戸 ずっ友も、人に提示するための概念ですね。プリクラを撮ったときに「ずっ友」と書きこんだりするみたいです。そういうのを傍から見ていると、息苦しく思えますけど……。

武田 知り合いの編集者が、大学で最近のメディア事情について講義に出向くと、学生たちはとても真剣に聞いてくれたという。

ところが、ある学生から、「Twitterやってますか?フォロワー何人ですか?」と質問された。SNSを積極的にやっていない人だったので、フォロワーが200人ぐらいと答えた。そうしたら、生徒たちが「なーんだ」とがっかりするような反応を見せたという。「Twitterのフォロワー数=人間の㏋」だと、本気で考えている。ずっ友とか、よっ友とか、友達を数ではかる。それがコミュニケーション能力に直結すると考え込み、彼らなりのプレッシャーに駆られているのかもしれませんね。


貴戸 よっ友、ずっ友は、それを第三者に見せて、友だちがたくさんいる自分を承認してもらう、という奇妙な二重構造がありますよね。Twitter や Facebook も、自分はフォロワーを惹き付けるコンテンツを配信できて承認を得られているという自信と、それを人に見せてすごいと思ってもらう、ということがワンセットになっている場合がある。

武田 「コミュ力」ってつまり、空気を読む力、忖度する力ですよね。今、SNSで影響力を持つインフルエンサーと呼ばれる人たちがいます。彼らが啓発本やセミナーで言うのは、ネガティブな発言はやめましょう、共感されることだけを言いましょう、ということです。つまり、自分の感じたこと、考えたことではなく、主にSNSを介して向き合っている相手が、不快に思わない言葉を投げ続けましょう、と。

どんな人でも、心にわだかまりや怒りを持っているはずですが、それを奥に押しやって、ポジティブな部分のみを抽出して人に伝えようとする。そうするとフォロワーが付いてきます、というのが彼らのレクチャーです。インフルエンサーに憧れを持つ人が多くいるわけですが、セミナーやサロンと称して、影響力を養成する講座を開く。自分の気持ちを吐き出せ、ではなく、管理して良さげに伝えろ、と言う。それはとても上滑りなコミュニケーションです。それを止める大人がいない。むしろ大人たちが、率先して進めているのが実情です。


貴戸 私の周りには、生きづらさを抱える人が多いのですが、ひきこもりとか不登校も、選んでその状態にいる人なんて少なくて、多くの人が抜き差しならない中で、どうしようもなくその状況に嵌っていくわけです。それを、ポジティブに変換しろとか、共感される話をしろなんて、まったくナンセンスです。それができない人たちを、不器用な人たちだと言ってしまえばそれまでです。でも自分でもコントロールできないものに取り憑かれて、深く考えざるを得ないということは、もしかしたらひとつの重要な足場なのかもしれません。彼らに限らず、そもそも自分がどういう気持ちになるかと言うことは、コントロールできるものではない。逆にその不器用さが、強みであるような気もしますね。

武田 そう思います。共感やポジティブばかりを追い、他をそぎ落とす。それを繰り返していれば、気づけば足場がない、という事態にも陥りかねない。自分を見つめるのではなく、対面している不特定多数を心地よくさせることに尽力していたら、もし自分だったら、自分を見失ってしまうでしょうから。

生きづらい現実、社会問題と闘う言葉

貴戸 私自身は、社会学の言葉や、フェミニズムの言葉が生きづらかった自分の力になったのですが、今の学生にとっては、どんな言葉が、彼らが浸っている現実の息苦しさ、社会問題と、闘う力になれるのだろうか、と心もとなさを抱くことがあります。彼らは距離を取ることも上手で、「うん、そうだよね」「知ってる、知ってる」と言って、知識と体験を直には結びつけない。

私には、知ることで世界が違って見えるような出会いがあったんですよね。例えば、「物語論」に初めて触れたとき。現実がまずあって、それを言葉にして語るというのではなく、語りの方が先にあって、それぞれから見た現実というものが、事後的に構成されてくるのだと。現実をどのように語るかということが、状況の定義においては大切なことで、Aさんが「仲良く遊んでいた」と語る現象を、Bさんは「いじめられていた」と思うかもしれない。その状況を定義する権力を、誰が持っているのか、も重要な観点です。それはただの知識ではなくて、知ることによって社会を体験するやり方が変わり、自分が変わることでした。

例えばセクハラの現状においては、状況を定義する力を有しているのは、今のところ男性であることが多い。そういうことを思い合わせると、問われるべきは、事実として何があったのかという側面だけでなく、誰が状況を定義する権力を持っているのか、という力関係だとも言える。


武田 普段、様々なジャンルの原稿を書いていますが、客観的に眺めてみると、どれも多様性についてばかり書いている。芸能人であろうが、政局についてだろうが、結婚観についてだろうが。複数の角度があります、立場があります、限定しちゃいけません、そう記すことだけが目的なのではないかと思うぐらい。

自分がやるべきなのは、個々を覆っている風船に、プツッと針を刺して、中のどんよりした空気を解放することだと思っています。ただ、風船の中にいた人たちが、「あぁ、向こうには別の風船が見えますね」くらいの感じで、今そこで解放されたと思ってくれないこともある。そんな無力感におそわれることもあります。


貴戸 一元化と多様化は、奇妙に入り組んで進んでいるような印象があります。専門家と素人の境界は揺らいで、様々な言葉がSNSでは一元的に流れ出ている。でもそれにも関わらず、自分の興味関心を共有する人とだけつながっていく。自分の言葉が、「いいね!」と受け取られる空間でしか、コミュニケーションを取らないから、他の世界と結びついていけない。現代は、情報が膨大だから、どこかで切り捨てざるを得ないということを言い訳に、タコツボ化していく。反省もかねて、そう思います。

武田 アカデミックな言葉を、もっと現実にぶつけてほしい。編集者時代、名古屋大学の内田良准教授(1976-)の『柔道事故』という本を担当しました。30年間で約120人が柔道事故で亡くなっている事実を分析した一冊です。内田さんに聞けば、スポーツ事故を研究する学者の中ではその事実自体は知られていた。それを内田さんが外に向けて発信することで大きな反響を呼んだ。その後、内田さんが取り組んだ、巨大な組体操による事故が相次いでいる事案の分析も、話題になりました。結果的に多くの学校で制限される方向に進んだ。アカデミズムの世界では当たり前とされていることを、社会に向けて語りかけたら、問題が解決することは他にもあるのではないかと思います。それをなぜやらないのか。頭のいい人たちが、頭のいい人たち同士で、頭のいい会話ばかり続けているのはもったいない。感じた問い、導かれた回答を、意識的に社会に吐き出して欲しい。

ズレをズレのままに希望は子どもたち

貴戸 おっしゃる通りです。最近私が憤ったのは、小学校の道徳なのですが。道徳教育が2018年から教科化されましたが、その教科書は忖度社会奨励、秩序を守るといったエピソードが満載なんです。

小学校一年生の道徳の教科書には「かぼちゃのつる」という話があります。かぼちゃがつるを伸ばしていくところに、犬や蜜蜂がやってきて「かぼちゃさん、そっちにつるを伸ばすとみんなの迷惑になっちゃうよ」と言うんです。でもかぼちゃは、そんなの構うもんか、とつるを伸ばして、畑から道路にはみ出して、トラックに轢かれてしまう。

えっ! と思いました。植物は太陽に向かって伸びるのが自然の摂理なのに、みんなの迷惑になるからやめなよって。そんなふうに、個性を殺そうとする寓話を、教科書に入れ込んでくるなんて。

まずは、自分にはこういう要求や希望があるのだと提示した上で、他者の希望とバッティングしたときに、ルールが作られ、話し合いがもたれる。「自分→他者→ルール」、そういう順番で語られるべきことだと思うんです。それがルールに人が合わせるということになってしまっている。この話は全ての学校教科書に採択されています。

他にも、「公正公平・正義」という項目が、道徳の学習指導要領にあるんですね。「一人でいる子を、仲間に入れてあげよう」とか、好きな友だちとだけではなく、誰とでも公平に遊びましょうとか、バスで隣の席になったのが好きな子ではなくても、「えー、○○ちゃんがよかった」というような感想を持つのはやめましょうとか。自然な感情を消そうとしているし、一人でいる子は寂しいに違いないから誘ってあげよう、と決めつけている。それが正しい振る舞いとして、教科書に載っているんです。


武田 そういう角度で多様性が語られて欲しくない。多様性とは、教室の隅で一人で絵を書いている子を、そのままにしておくことですよね。それを、ああいう人もこういう人もいるけれど、ズレは解消しましょう、では人が痛みます。そもそも人と人の間には、ズレがある。そのズレを互いに確認しながら付き合っていくものです。それを全て統一し、皆でスクラムを組みましょうというのは、もっとも非道徳的な気がします。

点数が付くわけではないにしろ、道徳が教科化されれば、子どもたちはどういう振る舞いをすれば、先生が評価してくれるかを察知するでしょう。心配です。


貴戸 空気を読むまでもなく、教科書に書いてあることが、正解の振る舞い方だと示されるわけですからね。教育に携わる者として、変えるために発言したいです。

武田 現場に反映される回路を作っていただかなくては、と思います。

日大アメフト部を見ていて、希望を持てたのは、現役の選手のみでした。柳瀬しかり、福田しかり、今ほど、エリートの愚かさが浮き彫りになったタイミングはない。組織の上に行けば行くほど、愚鈍になっていく。逆に言えば、20歳の選手、学生たち、子どもたちに希望がある、そう感じた人も多いはず。


貴戸 武田さんの文章に全体として流れているのは、無批判性への批判ですよね。情報がこれだけ多岐にわたってくると、ある程度流さなければ、サバイブできないことは確かで、流すという習性を、生きる技として私たちは刷り込まれている。でも、今より少しだけ、受け流すザルの目を細かくすることはできるはず。そして日大の宮川くんのように、一人ひとりが自分の言葉で語ることが、この国の気配を変えていくのかもしれません。

週刊読書人、2018年6月15日
対談=武田砂鉄×貴戸理恵
いいじゃない!! 豊かなだらだらコミュニケーション
『日本の気配』(晶文社)、『「コミュ障」の社会学』(青土社)刊行を機に

https://dokushojin.com/article.html

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2018年10月17日

在ベネズエラ38年の画家の手記

 ベネズエラの社会主義革命が自壊する中、2015年にヨーロッパを襲ったのと同様の難民危機が南米を覆いつつある。
 ベネズエラからはコロンビアだけで約100万人、別の周辺国にはさらに推定200万人が難民としてなだれ込んでいる。
 本稿執筆時点では国連による難民キャンプは存在せず、宗教組織や非政府団体などによって、わずかながらの人道支援が行われているだけだ。
 飢えは深刻で、病気も猛威を振るっている。

 周辺国で最も支援に熱心なのがコロンビアだ。
 病院にたどり着いた難民には医療を施し、同国の巨大な「非公式経済」(社会保険など国の制度に従わずに事業を行っている農家や零細企業)も難民を労働力として吸収している。

難民を受け入れたコロンビアも大変に

 コロンビア人がベネズエラ人に同情的なのは、自らも似たような経験をしているからだ。
 左翼ゲリラ「コロンビア革命軍」による内戦と麻薬密売団によるテロで、コロンビアでもかつて大量の難民が発生した。
 このとき、何十万人という難民を受け入れたのがベネズエラだった。
 また、ベネズエラがまだ石油で潤っていた頃には、数百万ものコロンビア人がベネズエラで仕事を見つけた。
 社会主義政権によって石油産業がめちゃくちゃにされる前の話だ。

 しかし、ベネズエラ難民が津波のように押し寄せたことで、コロンビアは大問題を抱えることになった。
 コロンビアの1人当たりGDP(国内総生産)は6000ドルとアメリカの10分の1にすぎず、受け入れ余力に限界があるためだ。

 治安維持や救急医療といった直接的な費用だけではない。
 難民として安い労働力が押し寄せたことで、非公式経済の賃金が強烈な下落圧力にさらされるようになったのだ。
 難民の第一波にはシェフやリムジン運転手といった熟練労働者が多かったが、最近は未熟練労働者が大半だ。
 コロンビア政府は国内貧困層の境遇改善に力を入れているが、安価な労働力の流入でハードルは一段と高くなった。

 ドゥケ新大統領をはじめ、未来を見据えるコロンビアの政治家は「長い目で見れば難民を助けることが国益につながる」と考えている。
 ベネズエラの現体制が崩壊した後には、同国が再び最大の貿易相手国になると見ているのだ。
 だが、そのような未来がいつ訪れるのかは、誰にもわからない。

 わかっているのはチャベス前大統領、およびマドゥロ現大統領の失政でベネズエラ経済が崩壊したということだ。
 両政権は国内に世界有数の石油資源を持ちながら、それによってもたらされた富を浪費した。
 ベネズエラの国家収入は急減し、インフレ率は100万%に達する見通しだ。
 本来なら豊かでいられたはずの国で、何百万もの国民が飢餓に苦しんでいる。

アメリカがすべきは軍事介入ではない

 革命が起きてもおかしくない状況だが、マドゥロ現大統領は今のところ、軍隊を味方に引き入れることに成功している。
 巨大なコカイン密輸利権を与えて懐柔したのだ。

 マドゥロ氏は最近、通貨ボリバルの単位を5ケタ切り下げるデノミを実施。
 新通貨の価値を、同国が独自発行する仮想通貨「ペトロ」に連動させるという生煮えのインフレ対策を打ち出した。
 ゴミの山の上に砂上の楼閣を建てるようなもので、ほとんど無意味だろう。
 一方、アメリカのトランプ大統領は米軍がベネズエラに侵攻して政権を転覆すべきだ、との考えを側近にぶつけているとされるが、軍事介入は狂気のさただ。
 マドゥロ政権崩壊を熱望している南米諸国であっても、絶対に賛成しまい。

 アメリカは軍事介入ではなく、難民問題に押し潰されそうになっている周辺国への支援を拡大すべきだ。
 ベネズエラ社会主義の崩壊に備えた国家再建計画も、そろそろ練り始めたほうがいいだろう。


東洋経済、2018/09/30 15:00
地獄のようなベネズエラに翻弄される周辺国
インフレ率はなんと100万%に達する見通し

ケネス・ロゴフ : ハーバード大学教授
https://toyokeizai.net/articles/-/238980

ケネス・ロゴフ Kenneth Rogoff ハーバード大学教授
1953年生まれ。1980年マサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得。1999年よりハーバード大学経済学部教授。国際金融分野の権威。2001〜2003年までIMFの経済担当顧問兼調査局長を務めた。チェスの天才としても名を馳せる。

 2017年7月30日に、多くのラテンアメリカ諸国が「民主政治を冒涜する」として投票結果を承認しない声明を出していたにも関わらず、強行に議員選挙を実施し、三権を超越した最高権力機関となる憲法制定議会が発足し、マドゥロ大統領の事実上の独裁体制が確立したベネズエラ。

 そんなベネズエラだが、いまや庶民の生活は惨憺たる有様になっている。
 現在の南米ベネズエラの悲惨な状態を正確に伝えている小谷孝子さんの手記がある。
 彼女はベネズエラに38年在住されたが、現在のベネズエラの経済危機、治安の悪化そして物資不足などから遂に帰国を余儀なくされたという。(参照:https://venezuelainjapanese.com/2016/12/31/kodani/

 彼女は手記の中で、<「国有化された生産工場は原料の輸入が出来ず製造不能に陥り、輸入品も市場から消え、未曽有の食糧難になった」>と伝えている。
 更に、彼女は<「日本の国土の約4倍に住む3千万人の国民の殆どが今、食物にも事欠くほどの極限状態に追い込まれている。赤子に与えるミルクもなく、お米やパスタのとぎ汁を与え、子供は腹を空かせて今日も泣き寝入る。幼児や病人用のおしめがあると聞いて早朝から何時間も並んでも手に入るとは限らない」><「ガンや糖尿病等全ての薬、風邪薬さえ見つからず、病人や怪我人で溢れる公共病院はレントゲンや各検査器具は壊れ殆ど使用不可能でシーツやガーゼさえない」>

 以上は、彼女の手記のほんの一部である。
 筆者が彼女の手記に触れているのは、日本ではベネズエラの窮状を殆ど理解していないからである。
 しかも、これがベネズエラ全土で起きているという事態の深刻さである。
 国民の8割近くが平均8キロ強も痩せ細った!

 カルロス・アンドレス・ペレス元大統領の政権時に計画大臣を務めたリカルド・ハウスマンが現状のベネズエラについて『BBC Mundo』のインタビューに答えた一部を以下に抜粋しよう(参照:「BBC」):

● 米国を襲った経済恐慌(1929−1933)時、国民一人当たりの所得は28%減少したが、現在のベネズエラでは同所得は50%以上の減少をしている。
● 2012年から2016年までOPECに加盟している国はどの国も経済成長している。唯一、逆に経済が後退したのはベネズエラだけである。その理由は指導者によるものである。
● 2012年に比較して、2016年には輸入は75%減少しており、今年も減少を続けている。
● 2016年11月のアンケートによると、74%の国民が平均8.6キロ体重が減った。
● 2007年から2015年までで、農作物の生産は33%の減少。
● 2005年の外国での債務は250億ドル(2兆7500億円)であったのが、現在1500億ドル(16兆5000億円)以上になっている。
● ベネズエラが世界で原油の埋蔵量が最大の国だというのを15年前に彼らは知らされた。しかし、2012年からベネズエラの原油生産量は増えるのではなく、逆に減少している。

 現在のベネズエラは外貨を稼ぐのに、その96%は原油の輸出に依存している。
 しかし、原油価格の下落、そして負債を原油の提供で相殺しているような現状では外貨が増えることはない。
 今年2017年に入ってからも、ボリバル通貨に対してドルレートは470%上昇しているのだ。
 即ち、ボリバル通貨は紙くず同然の価値でしかないというわけだ。(参照:「iProfesional」)

隣国に逃げ始めたベネズエラ人

 その様な窮状にあって、ベネズエラから隣国のコロンビア、ブラジル、更にペルーやエクアドルに移民するベネズエラ人が絶えることがないという。
 仕事や食料を求めての移民である。
 その中でも、ベネズエラから移民が最も多いのはコロンビアである。
 ベネズエラの景気が好調の頃はコロンビアからベネズエラへ移民が流れていた。
 しかし、今はその逆で、一日に平均して2万5000人がベネズエラからコロンビアに入国しているという。

 2000kmある両国の国境の中でも、移民の入国が集中しているのはコロンビアのククタ市とベネズエラのサン・アントニオ市を結ぶ国境である。
 両市の間には全長315mのシモン・ボリバル橋があり、その橋を歩いて渡れば国境を通過したことになる。
 コロンビアに入国して、そのまま滞在するのか、単に食料を買ってベネズエラに戻るのか不明とされている(参照:「BBC」)。

 デニス・リベロさんは主人と子供一人連れて国境を通過。
 『BBC Mundo』の取材に彼女は<「食べたいものを食べて満足するためにコロンビアに行くのです」>と答えたという。

 マドゥロ政権に対して抗議運動に参加していたヘススとマンブレの二人は<「エンジョイするための旅行ではない。逃げる為だ」>と告白した。

 ガストン・サモンさんは<「ベネズエラでは昼食と夕食が食べれるかどうか分からないままに朝食を食べていた」>と語った。

 ヘネシスさんは<「ベネズエラではコンドームもなくなっている」>と笑みを浮かべながら答えたという(参照:「BBC」)。

 ネイダ・コントゥレラさんは<「私の子供の為に、これをやっているのです。ベネズエラでは子供の未来はありません」>と語って、人生の集約が僅かに二つのトランクにまとめられたことに悲しさを覚え、信じられないという表情を取材班に表わして、彼女の主人と二人の子供を連れて橋を渡った。
 最終目的地はパナマだという。

 フィゲロアさんは15年間タクシーの運転手を勤めたそうだが、治安が悪くなり、経済危機となって廃業したという。
 <「夜は戒厳令を敷かれたような生活だった」>と語った。
 ベネズエラに乗り入れる外国のフライトを中断させている航空会社が多く、移動もバス、タクシー、歩行が主体になっているという(参照:「Portfolio」)。

 サントス大統領の政権下にあるコロンビア政府は事態を重く見て、8月3日から20万人のベネズエラ人を対象に特別滞在許可証を発行しているという。
 この滞在許可証で<コロンビア全土で働くことや勉学をすることが可能になる>としている(参照:「BBC」)。

 ペルー、エクアドル、ブラジルでもベネズエラからの移民に対して各政府は同様の対応をしているという。

 その一方で、マドゥロ大統領は今も政権にしがみついている。


ハーバービジネスオンライン、2017.08.12
独裁政権が始まったベネズエラ。
国民の生活は窮乏し、隣国への移民が絶えない

白石和幸
https://hbol.jp/148811/

しらいしかずゆき●スペイン在住の貿易コンサルタント。1973年にスペイン・バレンシアに留学以来、長くスペインで会社経営する生活。バレンシアには領事館がないため、緊急時などはバルセロナの日本総領事館の代理業務もこなす。

38年住んだベネズエラから帰国して

 ベネズエラがどんな国か知る人は少ないだろう。
 ましてや今その国で何が起きているか知る人はほんの僅かだろう。

 1977年、私が行ったベネズエラは南米の中でも民主主義で政治的にも経済的にも安定し人々は生活を謳歌していた。
 豊富な自然資源や世界でも有数の石油生産国。
 美しい山や透き通るカリブ海、青い大空を飛び交う色とりどりの鳥や咲き誇る花々、おいしいトロピカルフルーツに新鮮な魚類、世界中の料理が楽しめるレストランがあちこちにあった。
 そして何よりすばらしいのは人懐っこい優しい心の人たちだった。

 すっかり現地に溶け込んで38年間カラカス郊外に暮らしていたが、しかしこの18年間の政治経済危機で治安が最悪になり、命の危険を感じ、とうとう精神的に参って今年2016年3月帰国した。

未曾有の食料難

 この南米の楽園は石油生産収入に頼り切っていた経済体制が崩れると、国有化された生産工場は原料の輸入が出来ず製造不能に陥り、輸入品も市場から消え、未曾有の食糧難になった。

 日本の国土約4倍に住む3千万人の国民のほとんどが今、食物にも事欠くほどの極限状態に追い込まれている。
 赤子に与えるミルクもなくお米やパスタのとぎ汁を与え、子供は腹を空かせて今日も泣き寝入る。
 幼児や病人用のおしめがあると聞いて早朝から何時間も並んでも手に入るとは限らない。

 ガンや糖尿病等全ての薬、風邪薬さえ見つからず、病人や怪我人で溢れる公共病院はレントゲンや各検査器具は壊れ殆ど使用不可能でシーツやガーゼさえない。

 ごく普通の人が野良犬と共にゴミ箱を漁っているのをあちこちで見かけるし、空腹のあまり石鹸や毒のある芋類を食べて死亡した人も出た。

食料品だけで生活費が消え去った

 この数年間スーパーで欲しいものが殆ど見当たらず、何かおかしいと気が付いて、殆ど毎日食料を求めて、長時間並びながら見知らぬ人と将来の不安を語り慰めあった。

 必要でなくても手に入る物は何でも購入してきた。
 洗濯石鹸、歯磨き粉、シャンプー、油、粉ミルク、米、粉、パスタ、ソース缶詰類等ありとあらゆるものを買いだめした。

 食料品だけで生活費が消え去ったが、すべてが店の棚から姿を消した時どんなに助かったかわからない。
 隣近所と物々交換したり、人への支払いを米やミルクですると手を取って感謝された。

 一昔前、日本へ帰った時奮発してウォシュレットを買った。
 アメリカの税関でこれは何だと怪訝臭そうに聞かれ、麻薬でも隠していないかとさかんにいじくり勘繰る係員の前でぐっと我慢した。
 トイレット・ペーパーがないと皆が青い顔で探し回るとき、私は日本が発明したこのすばらしい器具に感謝した。

気が付いたら昔知っていた日本人は殆どいなくなってしまっていた

 たまに行く中国人の青空市場で出会う日本人も、物価の高さ、治安の悪さ、これからどうなるかと皆同じことを口にした。
 そしてふと気が付いたら昔知っていた日本人は殆どいなくなってしまっていた。
 日系人の数は1977年頃1500人と聞いていた。今は確かではないが300人ぐらい*だということだ。
(*註:領事関連情報によれば、2016年10月1日時点でベネズエラに住む日本人は長期滞在者88名、永住者321名。)

今まで多くのデモに参加した

 生きるための基本である食料品や薬が手に入らず、病気になっても医者にもかかれず、強盗や誘拐され殺されても、殺され損の国で生きて行くことはできない。
 ましてや人間としての人権を拒否され平和と自由が脅かされるとき、人の親としてどうして黙っておられるものか、外国人であるからと沈黙することはできない。

 今まで多くのデモに参加したが「戻ってこなかったらベネズエラのために死んだと思ってくれ」いう言葉を母親に残し発砲弾に倒れた若者、偶然通りかかっただけで連行され拷問を受けた青年、脱いだシャツで頭をしばり上半身裸でスクラムを組み一列に並び、デモ隊の先頭を行くまだ幼さの残る学生たち、目つきを忘れることができない。

 「世界の旗の日」というベネズエラに住む外国人や、戦後ヨーロッパから自由や仕事を求めて移民してきた人やその子孫が、各国の旗やシャツを着て集まった日があった。
 大使館からのメールにはいつもデモに近寄らないようとあり、ずいぶん迷ったが、早朝目が覚めて、どこに住んでいてもその国の平和と自由のためには声をあげるべきだと思い行くことにした。

 日本人の友人に電話し皆に集まってもらうよう声をかけ、夫は裏山から細い竹を切り出し、白いシーツを裂いて絵の具で赤丸を描き、ホッチキスで止めて即席の日の丸を作った。

 集まった20人近くの日本人ぐらいと旗を掲げてアルタミラ広場に到着すると、すでに各国の旗をもって集合していた人たちが駆けつけてくれ、日本までが応援しに来てくれたと抱きしめてくれた。
 皆、他の国で日の丸をもって歩くという経験は初めてでとても感動していた。

2004年、大統領罷免選挙にサイン

 夫はコンサルタントの仕事をしていたが、2004年、大統領罷免選挙にサインした。
 しかしながらそのリストが政府の手に渡ってからは、成すこと、すること全て潰され仕事が一切入らなくなった。
 済んだ仕事も支払ってもらえず、逆に不遂行と起訴されこともある。

 最初は理由が分からず、弁護士をつけたり再投資したり10年近く踏ん張ったが、ある日疲労が祟って意識を失い病院へ運ばれた。
 どうにか一命だけはとりとめたが、結局は会社を閉めざるを得なくなった。

 当時子供達は幼く、頼れる家族もいない私は慌て、自分に何ができるか考え、日本語を教えることにした。
 ちょうど日本文化や日本食など日本ブーム時代で日本語を学びたい生徒が大勢集まり、山や谷はあったが何とか普通の生活を続けていくことができた。

我が家もとうとう全員バラバラになってしまった

 しかし今年2016年、町の広場でスポーツを指導していた娘が、警察官に職務質問を受け大衆を先導した罪で書類送検されそうになったと聞いたときは、心臓が飛び出しそうになった。
 後で金欲しさの偽警官の脅しだろうということになったが、機転を利かし、何とか切り抜けて無事帰宅するまで、生きた心地がなかった。

 11月に80%の国民の期待を賭けた大統領罷免選挙を最高裁判所が無効にした時、長い間希望を抱いて我慢してきた彼女も国を出る決心をした。
 これで多くのベネズエラ人の家庭同様、我が家もとうとう全員バラバラになってしまった。

 生まれ育った国を後にするのは最後の手段である。
 しかし仕事がなく将来に希望を見いだせず、若者だけでなく医者やエンジニア等専門職までが家族や恋人に別れを告げ、言葉も習慣も異なる国で、残した家族に送金するため慣れない仕事をして、過酷な環境に耐えている。

 第二次大戦後、自由と経済安定を求めてベネズエラにやって来たヨーロッパ人の子孫が、今逆戻をしている。

 親も手塩にかけた娘や息子に別れを告げるのは心を裂かれる思いだが、その身の安全を考えると心の底で安堵をし、今できるのはそれしかないと諦め、近い将来の再会を約束し空港で涙の別れをする。

Eramos felices y no lo sabíamos

 政治に関する意見は自分と違ってもそれは各人の意見だから尊重したい。
 しかし今、国民の80%がものすごいインフレと食べるものさえない生活に苦しんでいる。
 皆が望んでいることは、昔のように仕事があり一日3回食べられ安心して道を歩ける平和な生活に戻ることだ。
 「Eramos felices y no lo sabíamos」という言葉がよく使われる。
 「昔は幸せだったが、その時は気が付かなかった」と。

ベネズエラに38年住んだ

 私はアメリカに6年ベネズエラに38年住んだが、その間日本にいては出来なかっただろう素晴らしい経験や楽しいこと嬉しい思い出が沢山できた。
 しかしまた悲しく辛いこともあった。

 ベネズエラ人学生と結婚したての時は、言葉や習慣はもちろん、食べ物さえ合わなくて離婚してやろうと毎日考えていた。
 勉学を終えた夫とベネズエラへ移って、同居した姑と折があわず、とても辛かった。

 1981年、日本から遊びに来た母と家族で出かけた帰り道、追突事故に遭い頭を打って意識不明になり、一週間後目が覚めた時、母はもうこの世にいないことを知った時のどん底の悲しみ。

 それから立ち上がることができたのは子供がいたからであり、のちにベネズエラ折紙協会を創立し、ベネズエラの子供達にも日本のこの素晴らしい文化を伝えることができ、多くの公私立学校や孤児院、養老院、またギアナ高地のぺモン族にも教えるなど、様々の層の人や大統領夫人等とも知り合い貴重な経験をした。

 それから政権が変わり、この20年近く日常生活が脅かされ、もう我慢できないと何度スーツケースをまとめただろう。
 しかし我慢し忍耐を重ね、いつかよくなるという希望を失わなかったからこそ、今こうやって振り返ることができ、人生は一生修行だという誰かの言葉に頷けるような歳になった。

 今、ベネズエラに残り頑張っている友人達から来るメールに励まされ、数は少ないが日本の旧友たちに助けられている。
 そしてどんな時もこれだけは譲れないとずっと描き続けてきた絵が、一人日本で生きる支えとなり、明日も頑張ろうという勇気を与えてくれる。

 2月末に、東洋と西洋の目で見つめてきた「女性の喜びと悲しみのまなざし」を描いた作品が銀座煉瓦画廊で発表できることになった。
 とてもうれしい。

今多くのベネズエラ人が必死で苦難に堪え、闘っている

 ベネズエラに住んで、政治が国の将来を左右し人の運命を変え、生きていくというのは本当に大変なことだということを身に染みて学んだ。
 過去の歴史をみても多くの国で上に立つものは欲と権力に溺れ、民衆の苦しみなど顧みなかった。

 日本も戦争に負けた後苦しい体験から学び、全国民が力を合わせ働いたからこそ今の平和な時代を築くことができた。
 今多くのベネズエラ人が必死で苦難に堪え、闘っているのを知っている。
 だからいつかかならずベネズエラにも平和と自由が戻る日が来ると信じている

 願わくは2017年がこの地球上に住むすべての人にとって平和であるように祈らずにはおられない。


小谷孝子(画家)2016年12月28日
https://venezuelainjapanese.com/2016/12/31/kodani/

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成蹊大学教授・野口雅弘

 ヤッホーくんのこのブログ、2018年07月13日付け日記「『コミュ力』が賞賛される世界」をご参照ください。

自民党総裁選で石破茂元幹事長の善戦を許し、沖縄県知事選では惨敗。
安倍首相のレームダック化が加速し、今月下旬にも召集される臨時国会では、野党の活躍の場が増えそうだ。
しかしその一方で、野党の支持率は低迷、期待感が高まっているとは言い難い。
特に若者の野党支持率は絶望的に低い。
この傾向について、若者が「コミュニケーション能力(コミュ力)」を重視するばかりに「野党嫌い」が進んでいるからではないかと分析した政治学者がいる。
成蹊大学教授・野口雅弘氏(49)だ。
一体どういうことなのか。


「安倍1強」の土台は反対勢力に対する拒絶反応の強さ

  ――野党の支持率が低い、つまり「野党嫌い」の背景に、若者が「コミュ力」を重視している事実がある、とおっしゃっています。コミュ力を大切にし、波風の立たない関係を優先していれば、当然、野党の行う批判や対立を作り出す姿勢は、嫌悪の対象になる、と。

そう考えたきっかけは、政党政治がちゃんと動いていないと思ったことです。政府が出した政策に対し、野党は質問し、「これは危ないんじゃないか」などと指摘をする。野党の指摘が正しければ、政府はそれを修正したり、引っ込めたりする。その延長線上に、野党が政権を取るということも起きる。そうした緊張感の中で、政党政治は動くはずなのですが、どうもそうなっていない。

  ――政党政治が動いていない?

多くの人は、安倍首相に対し、特に森友・加計問題では批判的です。それにもかかわらず、自民党支持だったりする。若い世代ほど自民党の支持率が高いですよね。もちろん「野党がだらしない」というのはありますが、野党は何をしても評価されなくなっているのではないか、と思ったんです。

  ――それはどういうことですか?

例えば、沖縄の米軍基地の問題。日本の人口1%ちょっとのところに70%以上の米軍基地があるのはフェアじゃない、ということは若い人も考えている。ところが、反対運動をしている人に対しては嫌悪感が強い。反対の声に政府が耳を傾けてくれず、菅官房長官などが「粛々と辺野古への移設を進めます」と言うわけですから、反対の声がヒートアップすることもある。しかしそうなると、フェアではないことへの憤りや国の姿勢に対する批判よりも、「自分はそういう喧嘩や対立には共感できない。無理です」という反応がすごく強く出てくる。野党がだらしないこと以上に、反対するという振る舞いや、反対勢力に対する拒絶反応の強さが、今の「安倍1強」を生み出している土台なのではないかと思います。

  ――「反対」することへの嫌悪感は、どうして生まれてくるのか?

10年前に出た菅野仁さんの「友だち幻想」が、最近また売れているそうです。コミュニケーションの軋轢を避ける「同調圧力」を問題にした本ですが、こうした傾向は比較的若い世代に広く共有されていて、それが「反対」することを難しくしているのではないでしょうか。そして何より私たち大人の側が、それを求めているのではないでしょうか。例えば就職活動で集団討論をしますが、そこでは意見は言うけれど、ちゃんと空気を読んで、コミュニケーションが取れる人を企業側は求める。大学のアクティブラーニングで、学生に話をさせてグループワークをして、という時は、「コミュ力」の高い人がいてくれないと授業が回らないので、教員はそういう人を欲する。学生にすれば、「コミュ力」があれば就職でも大学でも有利になるので、「反対」することへの抵抗感が知らず知らずのうちにどんどん高まっていってしまう。

  ――つまり社会が「コミュ力」がある若者を求める結果、野党的な「反対」が嫌いになると。

周囲に優しく気を使うコミュニケーションは否定しないし、それはそれで大事なことだと思います。でも、そうしたコミュニケーションの様式を政党政治やそのアクターである政治家に投影してしまうことには、大きな問題がある。ボクシングなら、しっかり殴るのがいいボクサー、ラグビーなら捨て身でタックルするのがいいラグビー選手ですよね。いい野党議員とは、政府が嫌がることをちゃんと質問して、問題やリスクなど、考えるヒントや材料を国民に提供してくれる人じゃないですか。ところが、「コミュ力」的な基準からすると、そういう野党議員は「安倍首相の足を引っ張っている」となってしまう。だから「野党の低迷」は、野党側の問題というより、有権者側の問題だと思います。

日本の学校で教えるのは「みんな仲良し民主主義」

  ――波風の立たない人間関係をつくることと、政治で求められることは違う。

考えてみると、日本の学校教育で先生が教えることって、「みんな仲良し民主主義」ですよね。そこにオポジション(対抗勢力・対抗関係)は一切ないし、それがいいとされている。私はドイツに留学していたのですが、ドイツの学校では先生も党派性を明らかにするし、異なる党派的立場を前提にして教室で議論するのが当たり前です。これに対して日本では、「中立・公正」が掲げられ、「思いやり」が強調されることもあり、党派性との付き合い方について学ぶ機会がほとんどありません。

  ――「みんな仲良し民主主義」だと、必然的に野党が損をする、つまり政権与党は得をするということですね。

ドイツの法学者、カール・シュミットは、「AかBかの対立が激しければ激しいほど政治的だ」と言っています。100人中100人がAだと言ったら、それはそのまま実行すればいいわけです。政治的な問題とは、原発をどうするか、米軍基地をどうするか、消費税をどうするかなど、意見が分かれていて、どちらの方向に進むべきか頭を悩ませなければならない問題のことです。どっちに転ぶか分からない問題では、ガチンコの論争になれば負ける可能性があるから、権力を持っている人ほど対決を避けようとする。

 ――まさに安倍政治はそれです。

自民党総裁選の最終日に安倍首相が秋葉原で演説しました。あの時に最も喝采を浴びたのは「野党は批判ばかりしている。批判からは何も生まれない。私は愚直に政策を前に進めていく」でした。あの「批判は何も生まない」と言った時の「批判」とは、「足を引っ張っている」とか「意地悪している」という意味です。議論して、相手に痛いところを突かれて、そうかと思って考えを変えたり、分かってもらうために丁寧に反論したり、という作業を一切放棄している。政治ではオポジションとの付き合い方が大事なのに、トランプ米大統領もそうですが、自分にとって都合のいいことしか言わないし、見ようとしない。自説を一方的に言い切ることと、相手を嘲笑することしかしない。だから議論が成立しない。

「批判は何も生まない」は議論と反論の放棄

  ――そうすると、野党はどうしたらいいんでしょう?

まずは野党というより、有権者側が野党に対する見方を少し考え直さなければならない、ということだと思います。安倍首相は次の国会で憲法改正について具体的に議論を進めると言っています。その時に、どういう異なる論拠がぶつかり合っているのか、野党の質問に対し政府側はしっかり答えているのか、地味に論点を詰めていく作業が絶対に必要です。「野党が安倍首相の足を引っ張っている」ではなく、対立している論点や論拠をしっかりと見ることが求められています。

  ――野党の側は?

長期的に政策を考えて論点を出して、政権に問いただす。結局、そういう作業を根気よく続けていくしかない。

  ――気の長い話ですがやはり正攻法しかないですね。

安倍首相の政治手法は「分断の政治」といわれます。昨年の秋葉原の演説で口にした「こんな人たち」という表現などまさにそうです。そして、安倍首相の手法のもうひとつが「お友だち政治」。「(コミュニケーション不能な敵を措定することによる)分断か、(話さなくても分かってくれる)お友だちか」というのはどちらも政治の否定です。政治の所在はその中間にあります。野党は、ガチな論争になるので政権側が避けようとする、この危ない「中間」の領域に入っていき、そこでお互いの身を危険にさらすような論争をすることができるかが、これからの勝負だと思います。

日刊ゲンダイ、2018/10/15 06:00
なぜ若者は「野党嫌い」か?
政治学者・野口雅弘氏が分析

(聞き手=小塚かおる/日刊ゲンダイ)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/239302/

▽のぐち・まさひろ 1969年東京都生まれ。早大大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。哲学博士(ボン大学)。専門は、政治学・政治思想史。著書に「闘争と文化」(みすず書房)、「官僚制批判の論理と心理」(中央公論新社)、翻訳にマックス・ウェーバー「仕事としての学問 仕事としての政治」(講談社学術文庫)などがある。

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2018年10月16日

鏡渡橋から要害山

山口百恵!プレイバックPart2!歌詞付き!
https://www.youtube.com/watch?v=R83VJfg_iJY 

 上野原市は要害山にプレイバック、プレイバック。

要害山ハイキング
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=f1_GB7x4XJc
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.html?id=127466

要害山 - 富士急山梨バス
http://www.yamanashibus.com/pdf/hikingbus/coursemap/area10.pdf

山梨県下の「蛇聟入・苧環型」の伝説を紹介しましょう。

東京都と神奈川県に接する山梨県で最も東に位置する上野原市に、次のような伝説が残っていました:
 鶴川にかかる鏡渡橋は、川面からの高さは町内第1を誇る橋である。
 昔、この橋の下の深い淵に棲みついていた龍が僧の姿に変身して、毎夜近くの家の娘に会いにきた。
 どこの寺の僧なのか、だれも知るものがなく、家人は大変心配した。
 この僧がいったいどこからやって来るのか、調べたいものだと知恵を絞ったあげく、家人はこの僧の衣に長い糸を縫いつけてみた。
 翌朝、その糸をたぐっていくと、深い淵のわきに茂っている老木の中に消えていた。
 家人は、これはきっと龍神の仕業に違いないと考えて、その場所に龍神を祭ったところ、それからは、僧は現れなくなったという
上野原町誌編纂委員会編・発『上野原町誌(下)』1975、883頁

 これまで、紹介してきましたように、この話型に分類され、話の内容をもっています。

 「男が娘のところに毎晩通い、その正体を知るために、針に糸をつけ男の着物に刺す。そしてその糸をつけていくと、その正体は蛇であった」とするのがこの話型に分類される話なのですが、もちろん少しずつ地域によって異なってきます。
 例えば、この場合、蛇ではなくその男の正体は龍です。
 また男は寺の僧として現れます。
 そして結末は、龍神として祀ることによって、災難を回避しています。

 少しずつ、地域によって異なる部分を見ることによって、分かることがあります。
 詳しくは言いませんが、男が龍であった点や、龍神として祀った点は、神聖な話ですので、神話的要素を持っているといって良いのではないでしょうか。
 ただ寺の僧というのが気になります。
 もともとは、この話、三輪山の神の話ですので、神道の世界の話なのですが、仏教が混合しているようです。
 あるいは仏教への抵抗の表れでしょうか。

 この鶴川にかかる鏡渡橋(きょうどばし)の近くで聞き取り調査をしていると、近くに龍泉寺というお寺がありました。
 聞き取り調査を行ないましたが、先にあげたような伝承は知らないとのことでした。
 ただ龍泉寺という名は気になります。
 その縁起によると創建は、8世紀とも13世紀ともいわれています。
 この僧とは、この寺の僧なのでしょうか。
 いずれにせよ、異なる宗教間において、このような伝承は生まれやすいと言っていいでしょう。

 さらに、聞き取り調査をしていますと、確かに渕はあったということと、竜神の祠らしきものが、橋を新しくしたときに、近くの家に移転した話を聞きました。
 しかし、この伝承については、知らないとのことでした。

 私は、このタイプの伝承が、地域の支配者の所有物であったのではないか、と考えているのですが、そのような視点に立つのであれば、上野原城址に目を向けなければなりません。
 この上野原城址に最初に城を築いたのは、古郡氏とされます。
 古郡氏は小野篁の系統で康治年間(1142〜1144)にこの地を支配したとされます。
 そして建暦3年(1213)に北条義時と和田義盛の戦いで滅亡しています。
 小野家も古い系統です。
 ひょっとしたら、古代大和で伝承されていた神話を、彼らの系統が持ち込んだのかも知れません。
 ただし、地図上で上野原城址と鏡渡橋の淵を見てみますと(地図)、三輪山のそれらの位置関係が東南方向にあるのに対して、ここでは、残念ながら北西方向に位置します。


地域神話の風景とフィールド、2010年03月17日
地域に残された神話を探る
上野原市の蛇聟入・苧環型:山梨編@

(文・地図・写真:佐々木高弘)
http://regionalmyth.seesaa.net/article/143863953.html

望郷の鐘

 甲斐の武田と相模の北条が争った戦国の世、上野原町大鶴の要害山は、眺望がきくので狼煙台として使われた。

 狼煙台では有事に備えて、常時番兵が見張りをしていた。
 見張り番は猿煙の通信を受けると直ちに次の狼煙台に向けて狼煙を送ったのち、村民や、とりでのさむらいに防備、出動あるいは避難などを知らせるため、いちはやく山をかけおりて、大倉(上野原町)の小高い丘にある城山の鐘突堂の鐘を撞いて急を知らせた。

 平時は、時の鐘として朝夕使われていた大倉の陣鐘は、ゴオーンという音色が遠くまで長く響いて、山々に吸い込まれるように消えていく、何ともいえぬ美しい音色であった。

 上野原は甲相の接点にあり、鎌倉時代からしばしば戦の舞台となった。
 殊に戦国時代には北条、武田の攻防がはげしかった。
 室町時代(戦国時代)の1530(亨禄3)年、甲州軍は郡内の小山田越中守信有を総大将として北条の侵攻に当ったが負け戦で、大倉の地も北条勢に攻め込まれ、陣鐘は戦利品として持ち去られてしまった。
 北条勢は「戦の最中、早鐘を撞かれて、しばしば行動をさまたげられたあの鐘だ」というので、意気揚々と持ち帰り、津久井の城で使うことにした。

 ところが何度撞いても、聞こえる音は大倉で聞いた鐘音とは違うのである。
 余韻が次第に細くなって消えるはずなのに、ゴォオォオォーオンと大きくなったり小さくなったりしながら、急に消えるのである。
 とても悲しく、むせぷがごとくで、どうも「ゴォーンオークラオークラ」と聞こえてくるような気がするというので、鋳かえしてみたが、やはり悲しそうに「オークラオークラ」と泣くように聞こえる鐘の音色は、城兵を気味悪がらせ津久井の村民さえも心が暗くなる音色であった。

 さだめし武田のお家安泰を願う高僧が、鐘を撞く毎に念仏をとなえ高僧の法力が込められているに違いない。このような鐘は兵の士気を失わせるし、たたりがあるかもしれぬと、城近くの功雲寺の池に沈めてしまった。

 ことの次第は間もなく大倉に伝わった。
 平時は時の鐘として朝夕親しんだ大倉の人々は、鐘がすっかり大倉の土地になじんで、津久井へ行ったあとも大倉恋しと鐘音を発したという話にすっかり感動し、今となっては見ることもできぬ鐘に「望郷の鐘」と名を付け、聞こえるはずもない音色に耳を傾けた。

[出処]内藤恭義(都留市郷土研究会)「郡内の民話」なまよみ出版(平成3年)

http://design-archive.pref.yamanashi.jp/oldtale/12264.html

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改正健康増進法

GEORGE TOWN: The Consumers’ Association of Penang (CAP) has demanded that the government ban smoking at eateries completely in accordance with its original intention.

This, CAP president S.M. Mohamed Idris said, was because they did not see the logic of people smoking at a place where others have their meals.
“How can Malaysia move forward in tandem with other countries when we keep making u-turns in our decisions?

“The government is seen buckling under pressure from certain quarters,” he said today.

Elaborating, Idris said about 23 per cent of the Malaysian population were smokers, which means that almost one in every four was a smoker.

He added that seven out of 10 (or 8.6 million) adults were exposed to secondhand smoke at public places like restaurants, four out of every 10 adults inside their houses and four out of 10 adults at workplaces.

According to Idris, tobacco kills six million people worldwide annually and 600,000 of them were non-smokers who were exposed to secondhand smoke.

“The amount of money ‘burned’ by Malaysians (if they are to smoke a very conservative figure of three sticks of cigarettes per day) is RM4.791 billion, which is able to fund 399,218 students with yearly scholarships of RM12,000 each.

“A 2004 report showed that the medical cost in treating three of the most common smoking-related diseases per annum was RM3,053 million.
This cost of treatment has skyrocketed several fold.

“With a RM1 trillion debt hanging around the necks of all Malaysians, why must the government give in to the pressure of irresponsible people who place profit and ‘pleasure’ above all? he asked.

It was reported that the Health Ministry would consider applications from operators of eateries who intend to open restaurants or cafes especially for smokers.

Deputy Minister Dr Lee Boon Chye had said that while there have yet to be any discussions on the matter, the ministry would consider such applications by business operators.

This followed the recent announcement on a ban in smoking at eateries starting from January next year.


[photo]
The Consumers’ Association of Penang (CAP) has demanded that the government ban smoking at eateries completely in accordance with its original intention.

New Straits Times, Published: October 15, 2018 - 9:01pm
CAP: Ban smoking once and for all
By Audrey Dermawan
https://www.nst.com.my/news/nation/2018/10/421590/cap-ban-smoking-once-and-all

In July 2007, it became illegal to smoke in enclosed public spaces and shared workplaces in the UK. That, as they say in Doctor Who, is a fixed point in time. You can now tell in an instant whether a book, film or a TV show made in this country is set before or after that date, simply by noticing whether the characters, if they smoke, go outside to do so.

Smoking used to be significant, especially on film and TV. It is now even more so. At first, it was a prop; famously, or so it was said, a way of giving actors something to do with their hands. I prefer to think that it is a way of expressing, or evading, some deep inner turbulence. It signifies nonchalance and its opposite, while providing for the camera and our gaze a curling backdrop of smoke with which the cinematographer can make play.

Consider the difference between a speech made without the exhalation of smoke, and one made with it: words are made visible, the mouth issuing smoke signals as the lips open and close. (The most extraordinary example of this that I can think of, incidentally, takes place in a film set before tobacco smoking became a global habit. In John Boorman’s Excalibur, Helen Mirren’s Morgana exhales what look like cubic kilometres of smoke as she summons the dragon’s breath for her witchcraft. I wonder how they did it.)

The effect can only be replicated by filming in the cold, and that can be tricky to arrange if your film is set in, say – to take a not entirely random example – Casablanca. That is the smoking film par excellence, and it has been argued by Richard Klein, in his excellent book Cigarettes Are Sublime, that the fug in which it is bathed adds greatly to its emotional clout, and prompted Franklin Roosevelt’s 1943 meeting with Churchill and De Gaulle – in that same city. (Not a notion that bears too much scrutiny, but it is pleasing to entertain.)

Nowadays, you can’t just smoke and get away with it, can you? Actually, you can, in a way. The opening episodes of Mad Men hinged on an ad campaign for Lucky Strikes, and people smoked in that series as if it was going out of fashion. This may have indicated inner moral corruption, but golly, didn’t it look good? Smoking now expresses defiance, a snook cocked at authority. The recent adaptation of Len Deighton’s SS-GB had so much smoke in it that even I started coughing – and I’m a smoker. Shot as it was in half light, this made visual sense: smoke makes the murk in which the characters operate even murkier; and what better way to annoy a Nazi occupying your country – for Hitler hated cigarettes – than to smoke? As for the health risks of smoking (smoking being a lightning rod for righteous disdain), who’s going to care about living longer when you could be rounded up by the Gestapo?

The most famous smoker in literature is Sherlock Holmes. (Although one would like to acknowledge PG Wodehouse’s Bertie Wooster, who appears to chain smoke his way through the Jeeves stories, often, if memory serves, starting even before breakfast; certainly, his post-breakfast cigarettes are an unbreakable ritual for him.) Holmes, in the books, would get through three pipefuls of cheap, nasty shag tobacco if he was wrestling with a particularly knotty case; but he also smoked cigarettes, a fact ignored by every portrayal of the detective until Jeremy Brett’s unimprovable rendition; I can still recall the weird, fastidious way in which he held his gaspers. (Compare the unusual way in which Austro-Germans would hold their cigarettes, whether you’re Erich von Stroheim in real life, or, on film, any of the non-British officers in the earlier scenes of The Life and Death of Colonel Blimp. Nothing visually says “foreign” quite so much as a cigarette held between the middle and third fingers.)

Benedict Cumberbatch had fun with his nicotine patches – “this is a three-patch problem”, etc – but you can see how he could not quite be allowed to smoke an actual cigarette. His not-actually-smoking Holmes can, in the very exercise of withdrawal, be seen to be undergoing an extra torment, a further tension for an already tense persona. But there is an interesting point about the smoking ban in relation to films in which we do see real people smoking real cigarettes in banned spaces. The ability of actors to smoke in films and on TV is among a short list of exemptions under the 2006 Health Act that instituted the ban. Screen inhalation now gives the habit a charge it never had.


[photo-1] Smoke gets in your eyes … Ingrid Bergman and Humphrey Bogart in Casablanca.

[photo-2] Lucky strike? Christina Hendricks in Mad Men.

The Guardian, Last modified on Mon 13 Aug 2018 16.04 BST
The smoking ban 10 years on: what’s changed on page and screen?

Legislation that restricted smoking at work and in public in the UK now alters how readers and viewers perceive the fictional tobacco habit

By Nicholas Lezard
https://www.theguardian.com/books/2017/jul/07/smoking-ban-movie-cigarettes-legislation-work-public-tobacco

 受動喫煙対策を強化する改正健康増進法は18日、参院本会議で与党などの賛成多数で可決・成立した。
 事務所や飲食店など多くの人が集まる施設は原則として屋内禁煙とし、違反者には罰則を適用する。
 ただ飲食店のうち個人や中小企業が経営する客席面積が100平方メートル以下の既存店には例外を認め「喫煙可能」などと標識で示せば喫煙を認める。

 東京五輪・パラリンピック開催前の2020年4月に全面施行する。
 学校や病院、児童福祉施設、行政機関などは敷地内を禁煙とする。
 屋外に喫煙場所を設けることはできる。
 喫煙できる場所には20歳未満の客・従業員は立ち入れない。
 屋外や家庭は周囲の状況に配慮すれば喫煙できる。
 葉タバコを燃やすのではなく、加熱して発生する蒸気を楽しむ「加熱式たばこ」も規制の対象とする。
 禁煙場所で喫煙し、行政の指導や命令に従わない悪質な違反者には罰則を適用する。

 今回の規制が施行されても、厚労省の推計では飲食店のうち約55%の店に例外措置が適用されて喫煙できることになる。
 売り上げ規模で見れば全飲食店の約40%だ。
 5年で3割強の飲食店が入れ替わるとされており、例外が適用される店は徐々に減るという。
 政府は当初、飲食店に対し例外なしの禁煙を目指したものの、たばこ産業や飲食業への影響に配慮する自民党内から反対論が出て、例外措置を広く認めることになった。

 東京都では受動喫煙防止条例が6月に成立し、政府よりも厳しい対策が導入される。
 都内の飲食店は面積に関係なく規制の対象とする。
 従業員を雇う店は原則屋内禁煙で、煙を遮断する専用室を設ければ喫煙を認める。
 従業員のいない飲食店は屋内の禁煙、喫煙を選べる。
 小中高校や保育所、幼稚園は敷地内禁煙とし、屋外の喫煙場所の設置も認めない。


日経、2018/7/18 11:42更新
受動喫煙対策法が成立 
施設の屋内は原則禁煙

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33092050Y8A710C1MM0000/

受動喫煙防止法と都条例のまとめ
(5年後には見直し、加熱式タバコも同様に禁止されるでしょう)


日本禁煙学会、2018年7月23日
http://www.jstc.or.jp/uploads/uploads/files/information/2018726kt.pdf

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ソサエティー5.0

 内閣府の総合科学技術・イノベーション会議(議長・安倍晋三首相)は日本の科学技術政策の司令塔だ。
 このほど「第5期科学技術基本計画」を作った。
 
 科学技術基本計画は1995年に施行した科学技術基本法に基づき、5年ごとに改定する。
 第5期は2016年度から20年度までとなっている。
 第5期のキャッチフレーズは「Society(ソサエティー)5.0」だ。
 人類がこれまで歩んできた「狩猟」「農耕」「工業」「情報」に次ぐ第5の新たな社会を、技術革新(イノベーション)によって生み出すという。

 人工知能(AI)、莫大な情報を分析して傾向を見いだすビッグデータ解析、ロボット、材料。
 これらの開発などに研究費や人材をつぎ込み、技術を組み合わせて新たな製品やサービスを生み出す。
 電力計がスマートメーターになったように、単なる計測装置にすぎなかった機器が今やコンピューターの性能を有し、インターネットに接続する。
 膨大な情報を機器同士がやりとりする。

 そこに自動的に集積していくデータを賢く使うことで、人間知だけでは到底実現できない超スマートな社会を実現していく――。
 このような気宇壮大な計画がソサエティー5.0だ。
 現在、それを実行に移すべく、さまざまな専門会議で議論をしている。

 私が参加しているシステム基盤技術検討会では、その実現のための基盤となる仕組みを検討している。
 例えば、3次元地図情報。
 全地球測位システム(GPS)の盲点となっている地下街の地図も含めて、機械可読(機械が意味を理解できるよう)な地図情報を整備することにより、震災やテロの中でも、スマートフォンや電動車椅子を通じて人々を安全に誘導することが期待されている。

 この話を動かすための肝は何か。
 つい技術革新に目が向かいがちだが、それよりも大切なことがある。
 それはデータである。
 出発点になるデータが集まらなければこの話は絵に描いた餅になる。

 集まってきたデータは、人ではなく機械に処理させるので、機械可読な形式に整っていなければ意味がない。
 つまり、データの量と質を確保できるか否かに、この計画の成否がかかっているのである。

 データを持っているのは誰か。
 大企業から、個人や中小企業、農家まで多種多様なプレーヤーが関わってくる。
 どうすれば彼らに協力してもらえるだろうか。

 私にはこんな経験がある。

 東日本大震災の際、被災地の学校支援をしていた私は、驚くべきことに気づいた。
 なんと文部科学省が、学校の名前・所在地・電話番号・校長名・耐震補強工事の状況のデジタルデータを持っていなかったのである。
 どの学校が耐震補強をしないまま震度6強の揺れに見舞われたのか、在校生は何人か、調べようがなかった。誰もが信じ難いというが、本当の話だ。

 学校だけではない。
 保健所、空港、港湾、道路、下水道などのデータも、基本的には設置者である地方自治体が管理している。
 中央省庁は生データをリアルタイムで把握する仕組みになっていないのだ。

 防災・テロ対策・感染症対策・観光振興等の上で不可欠なデータたちは、地方自治体のパソコンの中で眠っている。

 まず隗(かい)より始めよ、である。

 もし霞が関が地方自治体を説得し、公的データを機械可読な形式で公開できたならば、ソサエティー5.0はグンと現実味を帯びるに違いない。

 それができずに、個人や中小企業にデータを出してくれ、では本気度が疑われる。

 霞が関の奮起に大いに期待したい。


[写真]あらい・のりこ 一橋大学法学部卒、米イリノイ大学大学院数学科修了。理学博士。2006年より国立情報学研究所教授。「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトディレクターを兼務。

日経、2016/4/12 6:30 
スマート社会計画「ソサエティー5.0」、肝はデータ
「ロボットは東大に入れるか」
プロジェクトディレクター 新井紀子

(日経産業新聞、2016年4月7日付)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO99346090W6A400C1X12000/

FOR scientists, the first week of October each year now features a must-attend event in Kyoto, Japan− the annual Science and Technology in Society (STS) Forum.

The science equivalent to the World Economic Forum was founded 15 years ago by a respected elder statesman of Japan, Koji Omi, a former minister of finance.

This year, led by Prime Minister Shinzo Abe himself, some 1,400 Nobel laureates, scholars, researchers, policymakers, business leaders and media practitioners from all over the world attended to discuss science and technology issues in the 21st century.

It is also a window for the outside world to see at close range how Japan uses science and technology to grapple with modern-day problems, such as burgeoning megacities and an ageing society.

Among Japan’s new initiatives is the creation of a super-smart, high-tech “Society 5.0”, defined as “a human-centred society that balances economic advancement with the resolution of social problems by a system that highly integrates cyberspace and physical space”.

Explaining Society 5.0, first introduced by Abe in March last year, begins with the idea that humanity started as a hunting society (Society 1.0), followed by the agricultural society (Society 2.0), then the industrial society (Society 3.0), and the information society (Society 4.0).

Today, we find ourselves in a world with growing economies that have become increasingly globalised, characterised by severe competition, and progressively concentrated wealth and regional inequality. Nevertheless, in many places life is becoming prosperous, convenient and longer. In 30 years, it is estimated that more than one fifth of the world’s people will be 60 years old or more. This ageing population, coupled with higher standards of living, has led to surging demands for energy, food and other resources.

The goal behind a Society 5.0 is to address many of these and other issues by going beyond just digitalisation of the economy to the digitalisation of all levels of society using the Internet of Things (IoT), robotics, AI, big data analysis and more.

In the information society (Society 4.0), cross-sectoral sharing and analysis of knowledge and information were limited largely to what people can do. For humans to find and distill information from cascading waterfalls of data, however, is a daunting challenge.

In this new society, people, things, and systems are all connected in cyberspace and a huge amount of information from sensors in physical space is accumulated and analysed by artificial intelligence (AI). The results are fed back to humans in various forms, with the potential to help us balance economic development, environmental conservation and solving social issues. The comprehensive analysis of needs, coupled with robots that support us as agents and creating new value, frees humans from cumbersome everyday work and tasks.

Shortcomings in our economic, and organisational systems result in gaps and shortfalls in the products and services individuals receive.
In Society 5.0, the various needs of society are finely differentiated and met by providing the necessary products and services in the required amounts to the people who need them when they need them, thereby optimising the entire social and organisational system, as well as resources.

This is a society centred on each and every person.

According to its proponents, Society 5.0 will be a forward-looking one that breaks down barriers, one in which members share a mutual respect transcending the generations, and every person can lead an active and enjoyable life.

Society 5.0 envisions a tight convergence between the virtual cyberspace world and the physical world, an environment in which new technologies are incorporated throughout our industries and social activities to achieve economic development, environmental conservation and solutions to social problems in parallel.

As one Japanese observer said of Society 5.0: “Traditionally, innovation driven by technology has been responsible for social development, but in the future, we will reverse our way of thinking, focusing on how to build a society that makes us happy and provides a sense of worth. That is why we focus on the word ‘society’ as the foundation for human life.”

Achieving Society 5.0 would realise economic development and reduce environmental degradation while addressing key social problems, a major contribution towards meeting the United Nations’s Sustainable Development Goals.

Japan aims to become the first country in the world to create this human-centred society. As we reorientate our sights to “Looking East” again under the stewardship of Prime Minister Tun Dr Mahathir Mohamad, Malaysia might wish to closely examine the ideas of Society 5.0 and how they might fit into our own national plans, programmes and strategies.

Our reaction would also be timely, as the country braces itself for the possible onslaught of the socalled Fourth Industrial Revolution (4IR), a concept championed by another industrialised country, Germany.

Before we get carried away by both, it would be wise to heed the advice of Tan Sri Dzulkifli Razak:

“We need to have a deeper discourse on such critical issues before crowing 4IR as the panacea of the future.” And, if I may add, “Society 5.0.”


[photo]
A humanoid robot works side by side with employees in the assembly line at a factory of Glory Ltd., a manufacturer of automatic change dispensers, in Kazo, north of Tokyo, Japan, July 1, 2015. Society 5.0 begins with the idea that humanity started as a hunting society (Society 1.0), followed by the agricultural society (Society 2.0), then the industrial society (Society 3.0), and the information society (Society 4.0).

New Straits Times, Published: October 15, 2018 ー 8:04pm
Japan's 'Society 5.0'
By Zakri Abdul Hamid
Zakri Abdul Hamid along-time resident of Japan, is a senior fellow of the Academy of Sciences Malaysia and a council member of the Kyoto-based STS forum
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/10/421551/japans-society-50

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2018年10月15日

上野原市

上野原市移住PR動画「都会派、田舎派、あなたはどちら派?」

https://www.youtube.com/watch?v=aYcMbuUro-A

https://www.city.uenohara.yamanashi.jp/iju/#8


実は近いぞ上野原。女子たちのアクティビティー編

https://youtu.be/Gfa_jLaDWOI

上野原市アクセス
JR中央線上野原駅まで都心部より中央線・本線利用でわずか1時間!(高尾駅より20分)

関連リンク

西東京パラグライダー
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...

軍刀利神社のカツラ
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...

羽置の里びりゅう館(そば打ち体験)
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...

体験工房ノエル(ガラス工芸体験)
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...


実は近いぞ上野原。男たちのアクティビティー編


https://www.youtube.com/watch?time_continue=3&v=vBmiAdyRW0s

上野原市公式観光情報「発見うえのはら!」
http://www.hakken-uenohara.jp/

上野原市アクセス
JR中央線上野原駅・・都心部より中央線・本線利用でわずか1時間!(高尾駅より20分)

関連リンク

八重山
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...

不動の滝


ふるさと長寿館
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...

平野田休養村キャンプ場
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...

酒まんじゅう
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...

秋山温泉
http://www.hakken-uenohara.jp/entry.h...



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上野原に「新玄関」

 上野原市の新たな玄関口となるJR上野原駅の南口駅前広場整備が終わり、2018年4月1日、完成式があった。

 式典で、江口英雄市長は「完成は長年の悲願であり、市の発展を象徴する施設となることを期待している」とあいさつした。来賓らによるテープカット、会場に集まった子どもらを乗せたバスの出発式もあり、完成を祝った。

 昨年から一部供用されていた地上5階建てのエレベーター棟「ソアールプラザ」や観光案内所を設けた地域活性化施設「ふらっと上野原」、駅前ロータリーのバス・タクシー乗降場、自転車・バイク駐輪場などの全面供用が、この日から始まった。
 北口にあったバスとタクシーの乗降場も2日から南口駅前広場に移る。

 上野原駅は、県内のJR駅では甲府、大月両駅に次いで3番目に多い1日約1万人が、首都圏への通勤・通学などで利用している。
 市は交通利便性の向上とともに、商業施設の誘致などによる市街地のにぎわいづくりをめざす駅周辺整備基本計画を2011年3月に策定。
 総事業費約20億円をかけ、官・民連携による駅前広場整備を進めてきた。


[写真]
新たな玄関口として全面供用されたJR上野原駅の南口駅前広場=上野原市新田

朝日新聞、2018年4月2日03時00分
山梨)
上野原に「新玄関」
駅南口駅前広場が全面供用

(小渕明洋)
https://www.asahi.com/articles/ASL414R2VL41UZOB00B.html

 そうなんです、ヤッホーくん、仲間からバスは南口から出るんだよ、ちょっと遠くなったんだよ、って聞いてびっくり、びっくり。

「上野原駅南口駅前広場の全面供用開始について」
https://www.city.uenohara.yamanashi.jp/gyosei/docs/2602.html

 われわれは要害山ハイキングのため、登山口の「鏡渡橋」バス停で降りなければなりません。
 そして「尾続」バス停で山歩きを2時ちょい過ぎに終えて、帰りのバス時刻まで、ちょい時間があるから、これも出来たばっかりという「夢の吊り橋」を往復しようと行ったのですが、これも見に行って良かったです。
 そしてバスに乗り駅南口に降りたとき、仲間があそこにスーパーがあったからビールを買いに行って飲んでから東京に戻ろうって。
 目の細い」ヤッホーくん、そんなお店がエキチカにあったとは・・・エキマエってタクシーは見かけたんだけど・・・
 それが、「いちやまマート」(上野原市新田1503 Tel 0554-62-6800)!

 「いちやまマート」では「健康的な食生活が幸せをもたらす」というテーマに、全社一丸となって取り組んでいます。

 食を通じての幸せとは二つあり、その一つは「おいしいものを食べること」です。

 おいしい食品であるためには、素材が良くなければなりません。
 素材の良さのーつに鮮度の良さがあります。
 お客様へ提供するまでに鮮度を維持することが大切です。
 その試みの一つとして、朝挽き鶏の販売を始めました。

 また、佐賀県唐津の魚を航空便を使って超鮮度で提供することを始めました。
 山梨県では鯖(サバ)といえば鮮度劣化が早いため塩焼きか〆さばで食することが多いですが、当社では鯖の刺身を販売。
 鯖の刺身を食べられる所は、山梨県内はもちろん東京都内でも極少ないです。

 また、生産者の想いも重要な要素です。
 例えば、有機肥料を使用している林農園のリンゴは、お客様から 「おいしい」 と圧倒的なご支持を頂いている商品です。
 有機栽培は化学肥料を使用していた場合と違って、大変な手間がかかります。
 おいしいものにはそれだけ人の想いが込められ手間がかけられているのです。

 食を通じてのもう一つの幸せとは、「食を通じて健康を作る」ということです。

 食とは体を作ることとも言えます。
 それ故に農薬はできるだけ減らすことが大事です。
 また、牛 ・豚 ・鶏などに使用されるホルモン剤も使用しない方がいいものです。
 日本では水溶性の農薬を使用するところが多いですし、ホルモン剤にしても、出荷の3ヵ月前や半年前からは使用しないなど減らす努力をしています。
 しかし、もっと大きな問題は食品添加物です。
 効果が持続しなければいけませんから、100%残留しています。
 当社では、食品添加物の使用をできるだけ控えた商品開発に取り組んでいます。

 「いちやまマート」の使命は「食を通じての幸せ」に関する情報を発信していくことであり、これからもお客様においしくて健康に良い商品を提供していきたいと考えています。


ごあいさつ
代表取締役社長 三科雅嗣
http://ichiyamamart.com/about/

2018/06/21 上野原店オープン!
http://ichiyamamart.com/info/2018-06-21-上野原店オープン/

 ワンデーハイキングの締めくくりのビール、いやあ〜、初秋の味は格別でしたあ〜

posted by fom_club at 09:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする