2018年04月30日

荒木栄

 補足、補足、・・・
 4月も最後の日となってしまいました。
 2018年4月30日は昨日の「昭和の日」の振替休日です。
 なんの補足かとヤッホーくんに聞きましたら、昨日付けの日記「前田吟」だそうです。

がんばろう
【作詞者】森田ヤエ子(1928-2004)
【作曲者】荒木 栄(1924-1962)
1.がんばろう 突き上げる空に
  くろがねの男の こぶしがある
  もえあがる女の こぶしがある
  闘いはここから 闘いは今から
2.がんばろう 突き上げる空に
  輪をつなぐ仲間の こぶしがある
  おしよせる仲間の こぶしがある
  闘いはここから 闘いは今から
3.がんばろう 突き上げる空に
  国のうちそとの こぶしがある
  勝どきをよぶ こぶしは一つ
  闘いはここから 闘いは今から
オゥ
http://www.utagoekissa.com/moritayaeko.html

 10月がやってくるたびに、栄さんを思いだす。
 「こんな日、風に吹かれて外を歩いたら、どんなに気持がよかろうか」と熱にあえぎ、痛みをこらえながら、心を、火の国の山野にはしらせ、全国の仲間から寄せられた激励の手紙や寄書、見舞電報などにうずまり、暖い家族と、大勢の仲間に見守られていた日。
 わずかな時間、意識をとりもどそうとする頃合いを見計って看護婦が私を呼ぶ。
 「荒木さん、荒木さん、荒木さん、荒木さん、森田さんよ、森田さんよ、森田さんよ、ヤエさんよ」と胸をさすり、あるいは軽くたたきながら、何べんものこの動作で、意識がよみがえった時のうれしさ。

 「有りがとうね」「有りがとうね」と何度もお礼をいいながら、栄さんの言葉を待つ。

「ヤエさん!! よく来てくれたね。作詩を持って来てくれたかい。君と僕は実にたくさんの歌をつくったね。よくケンカもしたね。早くよくなって、またたくさんの歌をつくろうよ」

 もうろうとした意識のなかに、私の差し出した手のひらに、かるく手をのせ、笑顔の中の瞳孔が、大きく開き、秋の夕映えに輝き、満ち溢れた。
 奇跡はおこらなかった。
 臨終まで私の名をよび、ひたすら歌詞の要求をつづけ、創作歌曲への限りない情念をつらぬき通した生涯だった。

 私との仕事は3年に満たないわすかな時間だったが、圧縮された、貴重な時間だったことをいま6年忌をむかえるにあたって、「頑張ろう」に添えられた栄さんからの書簡を公開してみたい。
 大変立派な詩をありがとう。
 ”おれたちの胸の火は” ”闘いはここから” ともに作曲を終わり、”闘いはここから” の方は昨日レッスンでうたい、大変好評です。
 こんどの日曜日、ホッパー前でひらかれる「三池を守る全国うたごえ大集会」に、あなたが出席されることが出来たら、両曲とも聞くことができるとおもいます。
 すぐれた詩は、かならずすぐれた曲のイメージを生みます。
 あなたの詩によって、ぼくは、創作上のゆきずまりの道に灯をともしてもらった思いです。
 これから意欲的な創作がいくらでもできそうです。

 “闘いはここから”は、実にうつくしい印象的な情景が概念におちいらずにとらえており、うたごえの詩としては最高です。
 “もえつくす女のこぶしがある”というところ、昇華された美しさに涙が出る程です。
 曲はまずこの部分から作りました。
 絶対に自信があります。

 いろいろとくわしく書きたいのですが、5日にぜひいらっしゃい。
 ホッパーでこの曲の真価をたしかめましょう。
 さしあたりコッピーの楽ふを同封します。
 “おれたちの胸の火は”の方は、まだプリントしてませんが、三作の男声のレパでうたう予定です。
 5日のことについては、連絡があったと思いますが、安保の闘いの最高潮のときにあたり、今こそうたごえの力を、売国奴どもに示してやりましょう。
 スケジュールは
 午前9時〜10時 準ビ
 10時〜12時 レッスン
 午後0時〜1時 市市内大行進
 1時〜4時 ホッバーにて大会
 4時〜5時 市内大行進というふうになっています。
とりいそぎ御連絡まで。

 鉛筆の走り書で、創作の基盤を常に、合唱団におき、作品の評価を広く、深く、労働者の階層に求め、創作上の伴侶としての私を、「5日にぜひいらっしゃい。ホッバーでこの歌の真価をたしかめましょう」という、いざないこそ、“がんばろう”は人民の一大集団創作であり、人民の共有財産としての「創造」であったと言って、決して過言にはなるまい。


うたごえ新聞357号(1969/09/21)
「がんばろう」の歌について
森田ヤヱ子

http://bunbun.boo.jp/okera/v_araki/ara_bunken3.htm

 『がんばろう」は三池闘争の中で生まれた。
 1960年6月5日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱のホッパー前広場。
 ヤマの男たちと、かっぽう着姿の主婦たち1万人が、生まれたほかりの歌を世に送り出した。
 壇上では、作曲者の故荒木栄が合唱団を指揮していた。
 作詞者の森田ヤヱ子(67)は、群衆の中で仲間から石粒を投げられる手荒な祝福を受けていた。
 「労働者みんなで作ったんよ」と照れながらも、うれしさに口元が緩んだ。

 1200人の首切り通告をきっかけに、1月から無期限ストに突入した三池闘争は、大きなヤマ場にさしかかっていた。
 三池労組は、石炭出荷ののど元というべき貯炭場のホッパーを占拠。会社側や第二組合とにらみあっていた。
 長引く闘いに活を、と何人ものうたごえ運動家が創作に取り組んでいたが、これという歌はできなかった。
 そんな折、炭労の機関紙に詩を発表していたヤヱ子に、「日本のうたごえ」本部から声がかかった。

 4月上旬、三池入りした。
 三池労組合員の久保清さんが、ピケ中に暴力団員に刺殺された数日後だった。
 街を覆う赤旗。整然とデモ行進する三池労組員と主婦たち。足音がザグザクと一つになって響いた。

 炭鉱の争議ではこれまで、主婦は夫を陰で支えた。
 三池では夫のしりをたたきながら、堂々と一緒に闘っていた。
 「団結がんばろう」とこぶしを振り上げる女だちの姿は、ヤヱ子の心をとらえて離さなかった。

「かあちゃんパワーの賛歌を作ろう」

 週末の休みを利用して何度か通い、見たままの光景を書き上げて、うたこえ運動の仲間だった三池労組員の荒木に送った。
 荒木はすぐに曲を作って、翌日の大牟田センター合唱団のレッスンで、団員に歌ってもらった。
 団員らは「変わっとるばってん、面白かね」。
 さっそく街に飛び出し、真夜中のピケ隊に広めにいった。

朝日新聞(1995年7月18日)
50年の物語(第49話)「がんばろう」森田ヤエ子
かあちゃんパワー、歌に

 福岡県山田市で、森田ヤヱ子(67)は今も働きに出る。
 朝は4時半起床。弁当を作って、簡単な朝食を済ませ、7時前に家を出る。
 30分ほどの距離を1時間近くかけて歩く。
 決まりで月に10日しか働けない。
 仕事のない日の午前8時すぎまでが創作の時間だ。
 思いついたままを、折り込み広告の裏に筆ペンで書く。
 詩の題材は、丹念に読む新聞とテレビのニュースが多い。
 気に入った作品は、はがきに印刷して100人ほどに送る。
 結婚以来の家は、老朽化と鉱害の地盤沈下で屋根が抜けそうだ。
 8畳と6畳の2部屋は雨漏りしている。
 建て増ししたプレハブの4畳半が、居間兼寝室兼仕事部屋。

  まだ燃えている
  たしかに燃えている
  脈々としてつきぬ坑夫らの
  血がたぎり わきかえる

 ヤヱ子が生涯のテーマとして描き続ける「ボタ山」の詩の一節だ。
 荒々しい稜(りょう)線に男の怒らせた肩を思い、雨に削られた山襞(ひだ)に女のふり乱した髪を見、国の「棄民政策」を告発する。
 そのボタ山も、耐火レンガや道路の路盤に利用し尽くされて姿を消した。
 ヤヱ子は、全日自労建設一般労組山田市支部の最後の委員長だった。
 400人を超えた山田市の失対労働者は、58人に。
 ほぼ全員が加入した全日自労はわずか4人になり、この4月、支部は解散した。
 追い打ちをかけるように、65歳までの失対事業は、来年1996年2月で打ち切られる。
 70歳までの軽作業で働くヤヱ子も、2年あまりで定年だ。
 『職業は日雇い労働者』と胸を張った肩書は使えなくなる。
 『労働詩人』から普通の詩人に。

 「作風が変わっちゃうかしらね」

 住み慣れた家は、近く鉱害復旧が認められるのを機に、移転新築する予定だ。

「だれもが集まって詩や文学について語り合える場にしたい」


 『がんばろう』の詩を書いた者として、いつまでも産炭地の語り部であり続けようと思っている。
朝日新聞(1995年7月22日)
50年の物語(第49話)「がんばろう」森田ヤエ子
ボタ山へのこだわり
http://bunbun.boo.jp/okera/v_araki/ara_bunken5.htm


長編音楽ドキュメンタリー「荒木栄の歌が聞こえる」予告編
 1960年、三井三池炭鉱の労働争議の中に現れた作曲家、荒木栄。
 労働者を励ます数多くの歌を作った彼の活動を、格差社会の現代の視点から振り返るドキュメンタリー。
 2007年の春、神戸在住の若きシンガー、hizukiが三井三池争議の舞台となった福岡県大牟田市を訪ねる。
 そこでhizukiは38歳の若さで他界した荒木栄が人々に与えた影響や、彼の人柄と歌の魅力を探っていく。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=15&v=_V7HKeD3ho0

妃月洋子 hizuki/魂のうた
https://www.youtube.com/watch?v=Pv-0ei1OYJ8

 ご存じだろうか。「固き土を破りて、民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ」という歌詞で始まる「沖縄を返せ」(作詞・全司法福岡高裁支部、作曲・荒木栄)という歌を。
 沖縄の本土復帰(1972年)運動でさかんに歌われた歌だ。
 新基地建設反対のたたかいの現場にいると、この歌詞がリアルに胸に迫ってくる。

 第二次世界大戦では日本で唯一の地上戦がおこなわれ、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。
 戦後も69年間、米軍基地の重圧にさらされてきた。

 そして今、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の「移転」と称して、新たな米軍基地が米海兵隊基地キャンプシュワブ(同県名護市辺野古)の沿岸部に建設されようとしている。
 日本政府の沖縄への仕打ちに「もう我慢ならん」と、沖縄中が怒りに燃えている。

ふくれあがる抗議者

 県民の辺野古新基地建設反対は74%(「琉球新報」今年2014年5月5日付)で、民意は明確だ。
 それにもかかわらず、仲井真弘多県知事は昨年末、安倍内閣の圧力に屈して「県外移設」の公約を投げ捨て、新基地建設に向けた周辺海域の埋め立てを承認した。

 そして7月早々、基地関連工事が始まった。8月18日には埋め立てに先立つ海底ボーリング調査(掘削調査)も始まったが、掘削機の台船は小型化され、掘削箇所も予定より大幅に減らされた。
 政府は調査の格好だけを取り繕って、先を急いでいる。
 「工事は進んでいる」と県民をあきらめさせ、沖縄県知事選挙(今年2014年11月16日投票)で現知事が負けても後戻りできないようにする作戦だ。

 しかし着工後も、新基地建設に反対する市民の数はふくれあがっている。
 7月末には、キャンプシュワブゲート前で「二度も三度も日本のために命を捨てるわ けにはいかない。なぜ沖縄だけ」と涙ながらに訴える辺野古の老婆の姿が地元マスコミで報道された。これに共感した県民など、連日200人を超す人びとが炎天下、抗議の声をあげている。

怒りのマグマが噴き出ている

 時折強い雨に見舞われた8月18日午後、同ゲート前で年配の女性がマイクを握った。
 大浦湾を挟んでキャンプシュワブの対岸に面している名護市汀間在住の松田藤子さん(74)だ。

「いちばん被害を受ける地元住民が声をあげなければ(基地建設を)認めたことになる。無力感、あきらめは敵。県民無視、沖縄の人たちへの軽べつ、基地計 画の後出し、ごまかしが許せない。心の底から怒りのマグマが噴き出てきていますよ。ワジワジ(腹が立つ)しますね」

 大浦湾に面した二見区・瀬嵩区・汀間区など10区の行政区を「二見以北」と呼ぶ。
 10区の住民は「辺野古・大浦湾に新基地つくらせない二見以北住民の会」を結成し、6月27日、県知事と沖縄防衛局に住民1400人中981人の反対意見を集めた署名を提出した。

 その会長になったのが松田さんだ。
 松田さんは戦争で父を亡くし、戦後、母子家庭で育った。
 父親のいない家庭の貧乏と惨めさを味わい、母親が身を削るように働く姿を見て成長した。
 だから「戦争は絶対ダメだ」と強く思っている。
 松田さんは大学卒業後、沖縄で教師になった。
 彼女がいた教員組合のスローガンは「教え子を再び戦場に送るな」だった。
 集団的自衛権行使容認の閣議決定や 秘密保護法など、日本が「戦争する国」になろうとしている今、「現実味のあるスローガンになってしまった」と危機感を募らせる。
 だからこそ、なおさら「戦争につながる新基地建設は許されない」との訴えに力がこもる。

県民の屈服ねらう警備体制

 工事関係車両が激しく出入りするキャンプシュワブゲート前では、米軍が雇った基地警備員、日本の沖縄防衛局職員・県警機動隊や民間警備会社の警備員が物々しく警備している。
 新基地建設に反対する市民を排除するため、何重にも配備されている。

 海でも、海上保安庁が巡視船19隻・ゴムボート40隻以上・小型警備艇数隻など圧倒的な体制と機動力で反対の声を押さえつけている。
 過剰警備だと猛烈な批判を浴びているが、政府は自衛艦派遣も視野に入れている。
 「琉球新報」(8月18日)は、社説で次のように書いた。

「住民を丸ごと、力ずくで屈服させようとする政府の意思が、これほどあらわになったことがあっただろうか。確かに抵抗運動への弾圧は過去にも散見される。だが辺野古移設は県民の74%が反対する事案だ。一県の圧倒的多数の民意を踏みにじって強行した例が他にあるか。百姓一揆弾圧を想起させるが、近代以降なら『琉球処分』と『軍官民共生共死』を強いた沖縄戦しかあるまい。沖縄にしか例がないなら構造的差別の表れに他ならない。国際的にも恥ずべき蛮行だ」

反対する市民を実力で排除

 日本中が平和の祈りに包まれた終戦記念日の8月15日早朝、海上保安庁は13隻の大型巡視艇で辺野古の海を取り囲み、真っ黒い数人乗りのゴムボート40隻を投入して、工事作業海域から新基地建設に反対する市民らが乗るカヌーやボートを実力で排除した。
 非暴力の原則を守りながら反対を訴えていた市民らは、国家の暴力の前にひとたまりもなかった。

 辺野古では朝日が昇ると、午前中は逆光になり、景色がモノクロに見える。
 巡視艇やゴムボート、沖縄防衛局にチャーターされた漁船など100隻近くの船が不気味なシルエットで見える。
 合計100隻以上の船で辺野古の海が埋まってしまった。
 沖縄戦のとき、米艦船が集結したようすを撮影したモノクロ写真を見ているようだった。
 「今、この沖縄は日本政府によって攻撃されている」と実感した。

止められない「オール沖縄」の奔流

 昨年2013年1月、沖縄県内の全市町村長が署名し、「オスプレイ配備撤回、米軍普天間基地の撤去・県内移設断念」を迫る建白書が、政府に提出された。
 このときの首長らを中心に7月27日、沖縄経済界関係者も参加した「島ぐるみ会議」が結成された。
 保守も革新もいっしょになった、かつての祖国復帰運動のような島ぐるみのたたかいが始まっている。

 島ぐるみ会議結成大会であいさつした同会議共同代表の金秀グループ(建設・小売り業)の呉屋守将会長は「経済活動も大事だが、ウチナンチュー(沖縄県民)の尊厳や人権、平和な暮らしを守ることはもっと重要だ」と発言した。
 「オール沖縄」の動きは、新基地建設反対・基地依存型社会からの脱却と同時に、奪われてきたウチナー(沖縄)の誇りとアイデンティティーを取り戻す運動でもある。

 政府が強権を使って基地押しつけを続けるなら、沖縄との関係は抜き差しならないものになっていくだろう。
 11月の沖縄県知事選挙で、基地に頼らずに生きることを選択した人びとのうねりが、押しとどめることのできない奔流となって、本土政府に迫っていくに違いない。
 噴き出す怒りのマグマは、もう止められない。


いつでも元気、2014年10月1日
新基地建設着工に抗議/怒りの島・沖縄
全日本民医連
https://www.min-iren.gr.jp/?p=20367

沖縄を返せ
【作詞者】全司法福岡高裁支部
【作曲者】荒木栄(1924-1962)
1.固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
  我等と我等の祖先が 血と汗をもて
  守り育てた 沖縄よ
  我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
  沖縄を返せ 【返せ】 沖縄を返せ
2.固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
  我等と我等の祖先が血と汗をもて
  守り育てた 沖縄よ
  我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
  沖縄を返せ 【返せ】 沖縄を返せ
https://www.youtube.com/watch?v=JoZSoAIpfro


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2018年04月29日

西田敏行にとってのマエストロ

The Apartment (1960)
Jack Lemmon(1925-2001), Shirley MacLaine(1934-)and Fred MacMurray(1908-1991) are superb in this tale of love and ambition in the world of big business that went on to garner a Best Picture Oscar.
https://www.youtube.com/watch?v=3j9Q6w_3asA
https://www.youtube.com/watch?v=aKUcMTQgl5E

Theme from The Apartment
https://www.youtube.com/watch?v=6c4NyG8oefI

Dean Martin (1917-1995) & Shirley MacLaine in "Every Little Movement" (1980)
https://www.youtube.com/watch?v=qQSxdaPgEXI

 西田敏行はNHKラジオ深夜便でジャックレモンとシャーリーマクレーンを想い出しておりましたぁ〜

 西田敏行は中学生時代、上野駅に行けば石原裕次郎(1934-1987)に会えると思い福島から出てきたという。
 西田は今年2016年1月31日にベッドから落下し頚椎亜脱臼をしてしまい、入院手術を行なった。
 手術日4月19日の語呂が「死に行く」と重なったことや、病室にカラスが来たことでかなり不安な時間を過ごしたという。
 「Doctor-X 外科医・大門未知子」で共演する米倉涼子(1975-)に「手術をして欲しい」と連絡したら、「致しません」と返信が来たことや、樹木希林(1943-)から「寝返りを打つだけの元気がある」と声を掛けられたことを明かした。
 手術後、西田は次に胆嚢炎を発症し、今年2度目の手術を行なった。
 病院で考える時間が増えたことで「神様がこういう時間を下さった」と思うようになり、「役者を続けていく自信がなくなった時もあったが、体が元気になると自分には役者しかないと改めて感じた」と話した。

 西田敏行は病院生活で12kgほど痩せたのだが、ネットニュースでは覚醒剤中毒を疑われてしまったという。
 毎日家族がお見舞いに来てくれ、家族の顔を見る時間ができて改めて愛を実感したことを明かした。
 「役者生活50周年目に起きたことは天の配剤だ」と話した。
 「なかにし礼と13人の女優たち(日本コロムビア)」を聞いた西田敏行は、黒柳徹子の「リメンバー〜平和の申し子たちへ〜」が母の言葉と重なって感動し涙したことを明かした。
http://columbia.jp/nakanishirei/ 
 また西田は家族から「あと30年は生きなさい」と言われており、黒柳も「90歳を過ぎても続けて行きたい」と話した。

 42年前に結婚した西田敏行。
 奥様・寿子さんが大分にいる際、西田は毎日何通も手紙を出して結婚を迫った。
 そのため夫婦喧嘩をすると寿子さんはその手紙を出してきて「どう落とし前つけるんだ」と怒られてしまうという。
 娘達には「パパの宝物」という歌を作ってあげたのだが、一番パパを必要とする時期に仕事に追われてしまったことを後悔していると明かした。

 西田敏行の原点は映画好きの両親で、勧善懲悪の作品をよく一緒に見ていたことを明かした。
 西田は見ている時によくしゃべっていたため父に怒られたこと、父は作品にのめり込み過ぎていたことを語った。
 西田敏行と泉ピン子(1947-)と昔からの親友で、「’81あなたが選ぶ 全日本歌謡音楽祭」で「もしもピアノが弾けたなら」が特別賞を受賞した時、泉がお祝いに駆け付けたという。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=JIxZdROng7c

 泉は10月に「徹子の部屋」に出演した際、西田について「よく家に来るいい友達だ」と話していた。
 西田は「男女の友情は成立する」「泉はタイプじゃない」と語った。

 西田敏行は現在、親友の泉ピン子と「Doctor-X 外科医・大門未知子」で共演中。
 西田は泉が演じる副医院長について「ちっとも優秀には見えない」と辛口にコメントした。

 どんな役でもこなす西田敏行は、「ジャック・レモンの空気感を常に持っていたい」と話した。
 西田は初の自叙伝「役者人生、泣き笑い(河出書房新社)」を出版した。
 そして今後について、「いつかは田中角栄を演じたい」と話した。


徹子の部屋、2016年12月8日(木) 12:00〜12:30放送
今日のお客様は、役者生活50周年を迎えた西田敏行
https://tvtopic.goo.ne.jp/program/ex/655/1018314/


 補足、補足、・・・

 ヤッホーくんのこのブログ、2013年12月28日付け日記「2013年歩き納め」をご参照ください。ヤッホーくん、西田敏行演じる浜ちゃんが暮らしている宿のロケ地、北品川橋あたりを散策しておりましたぁ〜

 また、ヤッホーくんのこのブログ、2015年02月04日付け日記「マエストロ!」のなかでリンクさせていますシネマトゥデイとのインタヴューで、西田敏行はジャックレモンを「マエストロ」としていました。

 さらに西田敏行はな、なんと浜ちゃんから鈴木一之助(スーさん)役、つまり鈴木建設取締役社長鈴木一之助に“昇進”したそうです!

 どうぞよろしくお願いいたします。
 1989(平成元)年から2010(平成22)年まで、22年の間、浜崎伝助を生きてきましたけれども、 今年2015年、テレビ東京系金曜8時のドラマから、鈴木一之助を生き抜いてみたいと考えております。
 いろんな考えをもっての参加でしたけれども、大変楽しく、 素晴らしい若い才能に囲まれて幸せな仕事をさせていただいています。

http://www.tv-tokyo.co.jp/tsuribaka/special/kaiken.html

 そして最後に、今日4月29日の朝のニュースでは、西田敏行は2018年春の叙勲で「旭日小綬章」を受章したとか、おめでとうございます!
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180429-00000028-jnn-pol


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前田吟

 TBS系列で1966年から1968年まで放映された「泣いてたまるか」というテレビドラマがあります:

泣いてたまるか
https://www.youtube.com/watch?v=1_M6Xvg6Y70

『泣いてたまるか』主題歌 渥美清
https://www.youtube.com/watch?v=chf7mSgCUYw

そらが泣いたら 雨になる
山が泣くときゃ 水が出る
俺が泣いても 何にも出ない
意地が涙を
泣いて泣いてたまるかヨ〜
とおせんぼ

海は涙の 貯金箱
川は涙の 通り道
栓をしたとて 誰かがこぼす
愚痴とため息
泣いて泣いてたまるかヨ〜
ほねにしむ

上を向いたら きりがない
下を向いたら あとがない
さじを投げるは まだまだ早い
五分のたましい 
泣いて泣いてたまるかヨ〜
夢がある


 いえね、これに西田敏行が駆け出しの頃出演し、渥美清と触れたのです。

 青葉台の高校で生物教諭を務める石田先生は大の植物採集好きで、生物の先生と言うより植物学者と呼ぶほうが似合っているちょっと変わった先生である。
 野山でついつい採集に夢中になって最終バスに乗り遅れたり、朝から遅刻寸前は日常茶飯事。
 リュックをかつぎ青葉台駅で降りたその日も、予定のバスに乗り遅れた。
 そこへ、自転車に乗った清楚な美人(吉行和子)が現れ、二人乗りで高校まで行くことに。
 有頂天の石田先生は荷台に早速またがるが、あっそうかと気づき、慌ててサドルへ移って発車オーライ。
 やっと着いた高校の校庭では、ちょうど体育の授業中だったワルガキ生徒達に囲まれて、さんざん冷やかされる。
 そんな石田先生を校長室から美人校長がため息をつきながら眺めていた・・・。
 授業が始まれば生徒達から自習にしろとせがまれ、大嫌いな蛙を教卓に仕込まれては大騒ぎを起こし・・・
 こんな状況に、美人校長は植物研究者への転職を進めるのだった。

 石田先生は、クラスでもおませさんの女生徒宅(沢田雅美)に下宿している。
 下宿代をため込み、時々女生徒の親父である大家さんに嫌みを言われながらも、家族からは結構可愛がられている。
 お見合い話も親父が時々持ってくるが、あの日以来、石田先生の心はここにあらず。
 そう、あの女性に一目惚れしたのだった。
 全てお見通しの生徒達(津坂匡章、沢田雅美、西田敏行)からは偽の恋文を渡され、梅園で彼女と初デート。
 そして石田先生はついに告白するのだが、彼女の口からは出た言葉は「私、もうすぐ結婚します。石田先生とはもっと早く出会いたかった・・」。
 何とも見事にふられたものである。
 授業中も瞑想するは自分と彼女の結婚式風景・・そんな先生の背中には悪ガキが貼り付けた”先生に春が来た”という紙がぶら下がっていた。

 竜雷太らが活躍した学園ドラマのような格好良い熱血教師は、渥美さんには似合わない。
 しかし、実際に私達が習った先生達は明らかに後者のタイプである。
 何か不器用で恥ずかしがり屋、訳もなく機嫌が悪いが、憎めない。
 世の多くの先生方は、このタイプである。
 ヨレヨレのズボンにしわの寄った上着とネクタイ、背中には布製のリュックを背負い、肩からは胴乱。
 この牧野富太郎(1862-1957)先生のような出立ちの石田先生は、生徒達からからかわれながらも結構人気者だ。
 この悪ガキ達を演じている一人が今をときめく西田敏行だが、津坂匡章と沢田雅美と比べて殆どせりふが無いちょい役。
 駆け出しの西田の貴重な映像である。
 当時は、生徒宅に下宿していた先生なんて、結構いたんでしょうね。


泣いてたまるか、1967(昭和42)年4月9日放映
「先生早とちりをする」
http://www.geocities.jp/sepiairononatsu/naite.htm

 ところで渥美清は、なんといっても寅さんですが、映画を監督したのはもちろん山田洋次(1931-)。
 寅さんの妹の夫役となる前田吟(1944-)が、監督との出会いの思い出をこんなふうに語っています。

 実力派バイプレーヤーとして、ドラマや映画で大活躍、バラエティー番組でもキラリと光る俳優の前田吟さん(72)。
 芸歴は52年になるが、下積み時代の前田さんを見いだしたのは映画監督の山田洋次さん(84)だった。

♢ ♢ ♢

 私が役者として食えるようになったのは、なんといっても、松竹映画「男はつらいよ」シリーズに山田監督が抜擢してくれたからです。
 渥美清さん演じる寅次郎の妹さくらの夫、印刷工の諏訪博役として全48作に出演させていただき、それが大きな財産になっています。

 第1作公開が1969年ですから、もう47年も前のことですね。

 当時、私は25歳。
 俳優座養成所を修了し、役者になって5年目くらいでした。
 テレビや映画で主役もやっていました。
 でも、経済的にはまだまだ恵まれていません。
 主役を演じた翌週には通行人のエキストラを引き受けることも珍しくなく、すでに結婚していましたので、とにかく生活するのが大変な時期でした。

 山田監督に初めてお会いしたのは新宿の厚生年金会館で行われた映画「ドレイ工場」<山本薩夫(1910- 1983)総監督、1968年1月公開、注>の試写会でした。
 この作品で私は主人公を演じていて、山田監督がずいぶん気に入ってくださったそうです。

 そして映画版「男はつらいよ」の前にTBSで放送された、渥美さん主演の連続ドラマ「泣いてたまるか」の最終話「男はつらい」(1968年3月)でまず使っていただき、そして映画にも起用されたわけです。

 実はそこで幸運がありました。
 テレビ版は当初、堺正章(1946-)さんが演じる予定だったのです。
 ところが、その頃、堺さんは本業のグループサウンズが大忙しでドラマどころじゃない。
 それで代役として私にお鉢が回ってきたのです。

 「男はつらいよ」の公開日は1969年8月27日。
 目玉となるお盆興行のあとだから、松竹はそれほど当たると思っていなかったと思います。
 ところが、ふたを開けたら上映館は連日、満員御礼。
 すぐに第2作の製作が決まり、そのロケ中に第3作も決定したくらい大ヒット。
 ついには松竹のお盆と正月の看板シリーズになったのですから、私にとっても思わぬ展開でした。

 山田監督には、「男はつらいよ」シリーズだけでなく、1970年の「家族」、1972年には「故郷」にも起用していただきました。
 ありがたかったですね。
 それ以降、ドラマのオファーがグンと増えて収入も安定。
 役者に専念できるようになったからです。
 それにしても、私のどこを山田監督が買ってくれたのか。これは直接、お聞きしたことがないのでお答えできませんが、ある時、監督にこう言われたことがあります。

「編集技師の石井(巌)君が、君のこと編集しやすいって言ってたよ」

 残念ながら、その場では理解できなかった。
 でも、キャリアを積むに従って、それが演技を高く評価してのことと知りまして、すごくうれしかったですねぇ。

 人生を振り返ると、俳優の道を進むまでは小6の学芸会で演じた沙悟浄を褒めてくださった恩師の川村先生、大阪で働きながら役者を目指していた時に師事した倉橋仙太郎先生(新国劇創設者のひとり、1890-1965)、上京後は俳優の上田吉二郎(1904-1972)さんら多くの方々のお世話になっています。

 そして“山田学校”でさらに多くを学ぶことができました。
 ご縁に感謝しながら、これからも良い仕事をしていきたいですね。


日刊ゲンダイ、2016年3月7日
寅さん全作に出演…前田吟が山田洋次監督から得た“財産”
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/176521/

 日本初の本格ウイスキーの開発に燃える“マッサン”こと亀山政春と、その妻・エリーの奮闘を描き爆発的ヒットとなった連続テレビ小説。
 前田吟さんはマッサンの父、亀山政志を演じた。

♢ ♢ ♢

 マッサンの生家、亀山酒造は広島県にあるという設定です。
 僕の役は亀山酒造の社長ではあるけれど、泉ピン子さん演じる亀山早苗の婿。
 早苗の父に認められ、丁稚奉公から社長まで務めたいわば亀山酒造に人生を捧げた苦労人です。
 僕はこの“政志”という人物像を深めるために、裏設定で“山口出身の人”ということにさせてもらったんです。
 僕が山口出身なのもあるけれど、このドラマのひとつの特徴でもある広島弁だけでなく、同じ中国地方でも山口弁を入れることで柔らかな空気感を少し漂わせたかった。
 そして、そんな政志の山口なまりの柔和な語り口に、亀山酒造を担うはずの“マッサン”のウイスキー造りという冒険を許す、厳しくもあたたかな父親像を表現したかったんです。
 地方の言葉というのは、人をひきつけるものがありますよね。
 美しいロケの風景や、立派なセットの背景に負けない、リアリティのある人物像を作り上げるには、そういう細かな設定が役立つことがよくあるのです。

前田吟さんがドラマの見どころ&NHK作品出演の思い出を語る
2014年放送、連続テレビ小説『マッサン』の思い出
https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=selection140#memory01

(注)
がんばろう (映画「ドレイ工場」1968年より)
https://www.youtube.com/watch?v=4MVohvY81lg

Strike Action 合唱 歌「がんばろう」メトロコマース支部ストライキ
https://www.youtube.com/watch?v=9Laowx-oR-E


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1968年の社会運動

ピーター・ポール&マリー(PPM)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)
https://www.youtube.com/watch?v=bOTCa1F3F0c

花はどこへ行った 加藤登紀子
https://www.youtube.com/watch?v=oIEsJhJBXPI

映画「花はどこへいった」
https://www.youtube.com/watch?v=CD89-7RPA84

https://www.youtube.com/watch?v=dc3aZ0aTCHw

★花はどこへいったの
 少女がみんな摘んでしまったの
 When will you evern learn
★少女はどこへ行ったの
 みんな若い男たちの下へいったの
 When will you evern learn
★若い男たちはどこへ行ったの
 みんな兵士としていってしまったの
 When will you evern learn
★兵士はどこへ行ったの
 みんな墓場へ行ってしまった
 When will they evern learn
★墓場はどこへ行ってしまったの
 花が一杯咲いている
 When will they evern learn
★花はどこへいってしまったの
 少女がみんな摘んでしまったの
 When will they evern learn

Where have all the flowers gone

Where have all the flowers gone, long time passing?
Where have all the flowers gone, long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone, long time passing?
Where have all the young girls gone, long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone, long time passing?
Where have all the husbands gone, long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone, long time passing?
Where have all the soldiers gone, long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?
 
Where have all the graveyards gone, long time passing?
Where have all the graveyards gone, long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the flowers gone, long time passing?
Where have all the flowers gone, long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn


 半世紀余にわたり、反戦歌や革命歌、望郷の思いを歌い上げてきた加藤登紀子(74)が今月2018年4月、自らの半生を振り返るベストアルバムと自伝を出し、日本とロシアでのコンサートに乗り出す。
 戦中の満州(現・中国東北部)ハルビンで生まれ、亡命ロシア人の歌で育ったという加藤の歌手人生は、民主化や戦争反対を求める声で揺れた1960年代に始まる。
 「歌うことは過去と未来をつなぐこと」という「おときさん」の見つめる先は。

 東京大学在学中の1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し歌手デビューした加藤は、1968年の卒業式をボイコットした学生のデモに加わり、後に夫となる学生運動の活動家、藤本敏夫(1944-2002)さんと出会う。
 海外では、チェコスロバキアで民主化運動「プラハの春」、フランスで反体制運動「五月危機」が起きた激動の年。
 「これまで多くの革命歌や反戦歌に出合ってきたが、そうした歌は、人の命を慈しむいわば熱烈なラブソングでもあるんです」と加藤は言う。

 藤本さんはこの年の初デートで、森繁久弥(1913-2009)さんが作詞作曲した「知床旅情」(1963年)を歌って聴かせてくれたという。
 「とても上手でびっくり。胸を打たれてしまいました」と振り返る。

 1970年に自らレコーディングした「知床旅情」をシングルカットすると140万枚を超えるミリオンセラーとなり、代表曲の一つになった。
 「ヒットした時(藤本さんから)『俺の歌だったのに』と言われたこともありますよ」と笑いながら懐かしむ。

 コンサートのタイトルとなった「花はどこへ行った」も、ベトナム戦争に反対する米国の若者の間で広まった反戦歌だ。
 「誰のためとか、何のためではなく、あらゆる人のために歌いたい。コンサートでは体中が愛に包まれる仕掛けになっていますよ」とアピールする。

 4月18日には自ら35曲を選んだ二枚組みベスト盤『ゴールデン☆ベスト TOKIKO'S HISTORY』を発売。
自伝『運命の歌のジグソーパズル』は4月20日に朝日新聞出版から刊行される。

 コンサートは4月21日、東京・渋谷の Bunkamura オーチャードホールで。
 その後、6月に神奈川・よこすか芸術劇場など国内3ヶ所で開いた後、ロシアのユジノサハリンスクとウラジオストクを回る。
 問い合わせはトキコ・プランニング=(電)03-3352-3875=へ。


東京新聞・朝刊、2018年4月3日
人の命を慈しむ 反戦歌、革命歌から始まった
加藤登紀子

(池田知之)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2018040302000164.html

 1960年代末の社会運動に焦点を当てた企画展示「1968年−無数の問いの噴出の時代−」が、佐倉市城内町の国立歴史民俗博物館で開かれている。
 「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の反戦運動や、東大や日大を中心とする全共闘運動、成田空港建設に反対する三里塚闘争などをテーマに、ビラや機関紙、記録映像などの資料約500点を紹介している。 

 1968年は、ベトナム反戦運動や米国の公民権運動、フランスの五月革命、チェコスロバキアでの民主化運動「プラハの春」など、さまざまな運動が世界各地で広がった。
 日本では東大闘争や日大闘争といった学生運動が起こった。

 展示では、日本でも1960年代後半、一人ひとりがさまざまな問題に対して異議を唱え、改革を求める声を上げ始めたことを紹介し、現在にも影響を与える運動の意味を探る内容となっている。

 ベトナム戦争に対して立ち上がったベ平連は、各地でそう名乗ることで個別に活動した400〜500団体がゆるやかにつながり、海外の反戦平和運動とも連帯した。

 ベトナム戦争に出撃する爆撃機の燃料を在日米軍基地に鉄道輸送していることが明らかになり、戦後の平和に疑問が生まれたことが、日本での反戦反基地運動の始まりとなったという。

 三里塚闘争は、国が空港用地として強制的に農地を取得する手続きを始めたことで、農家らによる抗議行動が激化した。
 展示会場では、「平和をよごすでねえ」というタイトルの小中学生の文集や、「百姓だって人間だ」と高校生が訴えるビラなど、怒りや悲しみに満ちた文書類を読み、涙ぐむ人もいた。


東京新聞・千葉版、2017年11月29日
1968年の社会運動とは−
歴博でビラや記録映像など約500点
(小沢伸介)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201711/CK2017112902000140.html

 千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館(歴博)では、昨年2017年10月から12月にかけて、企画展示「1968年−無数の問いの噴出の時代−」が行なわれた。
 館内の担当者によれば、展示は当初、同時代を経験した世代の来館者が多かったが、会期半ば頃からは「若い世代」が増大したという。
 どのような関心がその核にあったのだろうか。

 すでに歴博では、2010年にオープンした展示室「現代」において、「世界史のなかの1968年」という展示を行なっており、それは展示場壁面に大きな世界地図をおき、その主要な7つの地域にモニターを設置し、同時代(主に1968年前後の約10年)の主要な出来事をモンタージュした映像で表現するという構成をとっている。
 その7つの地域とは、日本・ベトナム・東アジア・西欧(フランス・ドイツ)、東欧(ポーランド・チェコなど)、そして北米と中南米である。
 展示映像では、「ゲバラの国連演説」(1964年)やポーランドの「1970年12月事件」(これはのちにA・ワイダの映画『鉄の男』の素材になり、ポーランドの「自主管理労組連帯」の前史を構成する)なども含まれている。
 それは東西冷戦体制が動揺し、環境破壊を内包する経済成長神話も問われはじめ、20世紀における世界史的な転換点を象徴する時代であった。
 こうした疑いは、世代間の対立を含みながら、新しいライフスタイルの実験として世界の各地に噴出していった。
 そして異議申し立ての結節点におかれていたのは、ベトナム戦争だった。
 ただ中東世界まで射程を延ばせば、1967年のエルサレムの壁崩壊が画期であり、「1968年」言説自体が、欧米中心の世界観であるという批判があることは重要だ(板垣雄三(1931-)「68年の世界史」、『1968年の世界史』藤原書店、2009年)。

 今回の企画展「1968年−無数の問いの噴出の時代−」は、A展示室として「ベ平連」をはじめ「三里塚」「水俣病」「横浜新貨物線」などの地域住民運動をおき、B展示室として「学生叛乱」とよばれた「東大」「日大」をはじめとする全国の「学生運動」を展示するという構成をとっている。
 その構成の独自性とは、第一に「1968年」を「学生運動」に集約するのではなく、地域住民運動との複合と捉える点にあり、第二にはこうした二つの運動の「高揚」を支えたものは何かという問いを設定したところにある。
 言い換えれば、「1968年を用意したもの」という視点であり、日本における「文化革命とは何か」という問いであろう。
 言わば「1968年」言説における「前史」の重要性であり、それは戦争や政治・経済・社会の変動と同時に、個人に関わる生活・思想・感受性、さらにイメージや言葉に関わる大きな転換点であったからである。
 同時代のある学生は、運動の歴史的役割について「時代閉塞の予感に駆られた表現主義運動。政治的には見るべきものに乏しい」と回答していた(『全共闘白書』同編集委員会編、新潮社、1994年、164頁)。
 この射程によれば、「学生運動」は重要であるがその潮流の一つの顕れと捉えることもできるだろう。
 このように考えてくれば、問題の焦点の一つは、「学生叛乱」と「住民運動」との交錯の意味を、一人ひとりの個人の生活の内側から、同時に思想と感受性の深部から捉えなおすことであり、それは「1968年」言説がいかに「庶民大衆」と出会ったのかという問いであろう。
 劇画全盛期の同時代的形象を借りれば、「正義」の「鬼太郎」はいかに「ねずみ男」と出会ったかという問いともいえよう。
 石子順造(1928-1977)は「鬼太郎」が日本庶民の肯定的人物像であるとすれば、「ねずみ男」に「素直で老獪で、冷淡でやさしく、ずるくて正直で、単純で複雑」という両義的な「庶民像」を見ていたのである(『マンガ芸術論』富士新書、1967年)。

 ここでは次の二点だけに絞って、今後の「1968年」言説の再構成の方向性についてふれることにしたい。

 その第一は「運動としての1968年」についてである。
 すでに多くの研究でも言及されているが、その焦点の一つがいわゆる市民運動の自立といえるだろう。
 それは60年安保のときの「声なき声の会」に起源をもつ「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」に象徴され、戦後日本を牽引してきた「革新国民運動」(高畠通敏1933-2004)の衰退に代わって新しい運動スタイルが定着する端緒となった。
 旧来の運動が、革新政党を中心に、労働組合、学生運動を同心円的に配置する構造をもち、組織中心の運動構造をとっていたのに対し、「ベ平連」型の運動はあくまでも参加する個人の自発性に基づく内発的アイディアとスタイルによって柔軟に編成される構造になっていた。
 そこには規約もなく、会員・役員もなく、自発的に行動するものをもって「ベ平連」とする原則にたち、政党の介入・支配を拒否し、あくまで個の自主性に運動の基礎をおこうとした。
 新たな運動スタイルによって、「ベ平連」は米脱走兵の援助運動などを展開し、最盛期には全国で約500の「ベ平連」が活動していたといわれる。
 特に重要なのはそれが自己表現の場であるとともに、囚われている自分を変えていく場としても機能したことであり、国家の被害者であることによって他国の加害者になっていることの痛覚がこの運動を根もとで支えた。
 こうした「ベ平連」型の運動スタイルは、「無党派」層の学生運動や多様な「住民運動」のスタイルとしても広がっていった。
 しかし同時代には、個人参加を原則にしつつ、被害者の心性に徹底的に寄り添う運動スタイルも存在し、たとえば「水俣病を告発する会」はその行動理念を「義によって助太刀いたす」などという土着の言葉で表現していた。
 ここには個人原理の自己拡張を基軸にするスタイルと、「友愛」と「義憤」と「相互性」の実現をダイレクトに希求する救済(支援)の論理とがある緊張をもって存在していたと思われる。
 それは文化状況的には、「ベ平連」のフォークソング指向と「水俣」の御詠歌と「怨」の旗に象徴させることができるかも知れないが、それは「1968年」の運動が、どのような位相と回路で「庶民大衆」と遭遇できるかという問いであり、そのせめぎあいも「1968年」が遺した困難な現在的課題の一つである。

 第二の問題は「学問批判としての1968年」といえよう。
 周知のように「1968年」は大学という場で、学生管理などに対する抵抗として火を噴くことになった。
 これは高度成長期における大学生の急増による大学の大衆化、「マスプロ授業」の弊害などと指摘されてきたが、そうした「生き難さ」の根に「いま自分にとって学問とは何か」という問いが存在したことが重要である。

 こうした「学問批判としての1968年」の問題状況は、たとえばドイツの1968年を用意したハーバーマス(Jürgen Habermas、1929-)の『公共性の構造転換』や同『理論と実践』の提起、またハーバーマスと学生運動との対立と協調などが紹介され、またその延長線上に「ポスト構造主義」的学問思想が登場し、これに対する対応をめぐり、またハーバーマスとデリダ(Jacques Derrida、1930-2004)の異質性と共通性という論点などをめぐって「言語論的転回」以後の今日に続いている。
 
 また私にとって同時代のアメリカの動向では「憂慮するアジア研究者の会」(CCAS, Committee of Concerned Asian Studies)が印象的であった。
 なかでも当時アメリカでよく読まれた著作に The Indochina Story(Bantam Book, 1970)がある。
 ここには歴史学、政治学、社会学を専攻する若手研究者を中心に、直面するベトナム戦争の同時代的歴史分析が展開され、帝国主義的なアメリカのベトナム介入の歴史的根拠が解析されている。
 このメンバーの一人が、J・W・ダワー(John W. Dower, 1938-)であり、「ハーバート・ノーマン」論(“E. H. Norman, Japan and the Uses of History”, Origins of the Modern Japanese State, Pantheon Books, 1975)と『容赦なき戦争』(War without Mercy,邦訳は当初『人種偏見』TBSブリタニカ、1987年として刊行)は、同時代の「学問批判」であり、戦後アメリカの支配言説としての「近代化」論に対する文化を含めた方法的批判であった。

 それに対して日本における「学問批判」は、どのように展開したのだろうか。

 いうまでもなく、「学生叛乱」の時代に併走した宇井純(1932-2006)らの「公害原論」講座は、開かれた市民との接点のなかで展開した「学問批判」の実践であり、同時にその背後には、日本の公害反対運動のエッセンスが凝集されていた。
 日本の住民運動は、1973年時点で全国に3000余りと記録されているが、それぞれの「現場」の運動は、住民自らの自己学習運動として展開されたことが大きな特徴であった。
 住民たちは自ら工場廃液を採集して実験し、その有害物質を検出して反対運動の根拠を作り出していった。
 その意味で住民のなかの学問指向は、現実の住民運動と併走する手作りの試みとして展開していった。
 こうした試みの根に「生活記録運動」や「サークル運動」などの戦後日本の民衆文化運動の継承があり、加えて重要なのは、そうした地域住民運動の地味で持続的展開のなかに、「学生叛乱」を経験した「学生層」を軸にした少なからぬ「若者たち」の存在があったことである。
 彼/彼女らはその地域で暮らし、その問いを生きることになる。
 そのことによって「庶民大衆」の存在に出会い、彼らの存在と思想を「再発見」することになったのかも知れない。
 そこに日本における「学問批判としての1968年」の豊かな経験の一つが遺されているのではないだろうか。


岩波書店公式サイト
思想の言葉(2018年5月号)
「1968年」は民衆生活(思想)とどのように交錯するか

安田常雄(国立歴史民俗博物館名誉教授、1946-)
https://www.iwanami.co.jp/news/n24470.html

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2018年04月28日

パリ五月革命から50年

Mai 68 à Paris
https://www.youtube.com/watch?v=J7CUQsCXdjA

 サルトルは1980年4月15日、74年有余の生涯を閉じました。
 それを知ったのは日本時間で4月16日の朝7時のNHKのラジオのニュースによってです。
 そのとき私はたまたま、彼の最後のメッセージとなった「いま 希望とは」というインタヴュー記事を「朝日ジャーナル」という週刊誌の依頼で翻訳をしている最中でしたが、その翻訳を投げ出したくなる程の喪失感にとらわれたことを覚えています。
 そしてその四半世紀前、大学に入ってしばらくして『嘔吐』という小説をなんとか読み終え、サルトルの研究者になろうと決意したときのこと、またその後10年ほどしてローマの街角でばったり出会い、思わず話しかけたこと、そしてその後3回、直接話を聞くことができたことなどを思い出していました。

 しばらくすると、フランスの新聞や雑誌が届き、サルトルの死がかの地でどのように迎えられたかを、驚きと共に知ることになりました。
 彼の葬儀の日にパリで、なんと5万人の人びとが病院からモンパルナスの墓地まで遺体が運ばれる沿道に並び、最後の別れを告げたというのです。
 その中にこんなエピソードを伝えている新聞もありました。
 病院で出棺の際に、詰めかけた人びとに、葬儀屋が「ご家族の方は前に出て下さい」と声をかけたところ、一人の女性がこう叫んだというのです。
 「私たちみんなが家族です!」

 この一つの声がどれだけの人々の想いを代弁していたかはわかりません。
 しかしこういう声が群衆の中からとっさに発されたということは、サルトルという人の意味を考える上で無視されていいことではないでしょう。
 その声はいかなるサルトルに向けられていたのか。
 いかなる点で彼女は自分をサルトルの「家族」と考えたのか。
 またこの日街頭に出てサルトルに別れを告げ、あちこちのカフェで夢中になってサルトルの話をしていたという多くの人びとにとって、サルトルとは何者だったのでしょうか。

 ジャン゠ポール・サルトルは、哲学者であり、小説家であり、劇作家でもあります。
 彼は思想と文学のさまざまなジャンルにわたって、厖大な著作を残しました。
 『嘔吐』『存在と無』『自由への道』『聖ジュネ』『アルトナの幽閉者』『弁証法的理性批判』『家の馬鹿息子』、どの作品も20世紀フランスの文学、思想の歴史に大きな足跡を残しています。

 しかし、葬儀の日、パリの街頭に繰り出した5万の人びとが想いを寄せていたのは、こうした作品の著者としてのサルトルではなかったのではないか。
 いや、正確に言うなら、そういうサルトルだけではなく、もう一人のサルトル、同時代の人びとが、「この問題について、あの人はどう考えているだろうか」と問いかけ、自分が答えを出すための対話相手としてきた「あの人」としてのサルトルではなかったか……そんな風に考えます。

 実際、サルトルは、インドシナ戦争、朝鮮戦争、ローゼンバーグ事件、原水爆実験、ソ連の強制収容所、アルジェリア戦争、ハンガリー動乱、ド・ゴールによる権力奪取、アラブ−イスラエル紛争、プラハの春、ヴェトナム戦争、五月革命、ボートピープル……20世紀の歴史、戦争と革命と植民地解放の世紀の歴史を引き裂くこれらの出来事に対して常に旗幟を鮮明にしてきました。
 同時代のフランスの作家であるアンドレ・マルローもアルベール・カミュもルイ・アラゴンもそれぞれの立場で態度表明をしていたのですが、サルトル以上に社会にインパクトを与えた人はいなかったはずです。

 一人の作家の発言に多くの人が耳を傾ける、こういうことが可能であったのは、理のある言葉を尊重する、理のある言葉に力を持たせる、というフランス社会の伝統があったことも見逃してはならないでしょう。
 そこから、冤罪で死刑になったジャン・カラスの再審運動を展開して裁判を勝ち取ったあのヴォルテール、
 ナポレオン三世のクーデタに抗議して亡命し、19年間、詩作品をとおして専制体制を弾劾し続けたあのヴィクトル・ユゴー、
 スパイ容疑で裁かれたドレフュス大尉の無罪を訴え続けたあのエミール・ゾラ
のような大知識人も生まれてきたのです。

 こうしたサルトルの発言の多くは直ちに日本にも伝えられ、少なからぬ影響をもたらしました。
 1950年代末から1970年代にかけての安保闘争、ヴェトナム反戦運動、大学闘争などにかかわった方々なら─― もうすでにかなり年配の方々になりますが─― この時代のサルトルの言葉のあれこれを記憶の片隅に留めておられるかもしれません。
 また1966年にボーヴォワールと二人で来日したときの東京と京都とでの講演会には、会場に入りきれない人が詰めかけ、講演内容はすぐに新聞や週刊誌に報道され、知識人論議をまきおこすことになりました。

 もちろん、今日の観点からするなら、サルトルの発言や取った立場がすべて正しかったとは言えない。
 とりわけソ連の社会主義にたいして抱いていた期待は、今の時点から見ると幻想と言われても仕方がないでしょう。
 考えてみると20世紀というのは決して幸福な時代ではなかった。
 この世紀ほど大量に人間が人間を殺し、人間が人間を監禁した時代はない。
 一方で人間解放の運動が大規模に繰り広げられながら、他方で人間抑圧、人間疎外が深く進行して、歴史の流れが数々の希望を押し流し、幻想に終わらせてしまった世紀でした。

 その中で「もっといい時代はあるかもしれないが、これがわれわれの時代であり、作家は自分の時代と一つになるべきだ」という自分の言葉をサルトルは愚直なまでに生きていた。
 若き日の友人だった哲学者のレーモン・アロンのように時代の「観察者」の位置には決して立たず、持続的に精力的に、同時代人にメッセージを発し続けた
 1968年の五月革命の世代の若者たちは「アロンと共に正しくあるよりは、サルトルと共に誤ることを選ぶ」として、こうしたサルトルの姿勢を支持したのですが、それは、傍観者の正しさとは単なる日和見主義にすぎぬことを見抜いていたからで、たとえ誤ったにしても、サルトルのうちに、同時代のかけがえのない対話者を見ていたからではないでしょうか。
 私はそう考えます。

 では、いま21世紀に生きる私たちにとってはどうでしょう。
 世紀は新しいページをめくって15年になります。
 20世紀の大知識人サルトルはもはや時代遅れの過去の人なのでしょうか。
 私にはそうは思えません。
 「自分とは何か」「他人とは何か」「社会にいかにかかわるべきか」等々、誰でも立ち止まって自分の人生について考えるときがあるはずです。
 そんなときサルトルという人は、確実に私たちの対話者になってくれると考えるからです。

 この放送では『実存主義とは何か』を入り口にして、サルトルの実存主義の原点ともいえる小説『嘔吐』を中心に、哲学書『存在と無』など、他の作品の紹介もするつもりです。
 加えてサルトル自身の人生や、その思想と行動の変遷についても触れながら、実存主義がいかにして「希望の哲学」を語るようになっていったかを多角的に探っていくつもりです。
 ただ今回のテキストでは、サルトルの全体像は語りえないので、私なりの「実存主義入門」もしくは「サルトル入門」だと思っていただければ幸いです。


『実存主義とは何か』
ゲスト講師 海老坂武(1934-)
「対話者としてのサルトル」
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/48_jitsuzon/guestcolumn.html

サルトルとともに……
 あまりにも痛ましかったパリ同時多発テロ。
 犠牲になった方々のこと、そして、ご遺族の方々のことを思うと胸が張り裂けそうになります。
 とともに、非道な暴力に対する強い憤りを禁じえません。

 今回取り上げたジャン=ポール・サルトルの活動拠点もパリでした。
 番組の最終回をあらためてかみしめつつ、今回の事件に対してサルトルだったらどのような発言をしただろう……という思いが去来しました。

 講師の海老坂武さんは、サルトルについて「時代の対話相手だった」と語っていました。
 何か起こるたびに、サルトルは果敢に自らの主張を発信し、態度表明を続けました。
 彼に反対にするにしろ、賛成にするにしろ、人々は彼がどんな意見を述べるかに注目をしました。
 サルトルの思想は、ある時代の「座標軸」となっていたのかもしれません。
 そんな彼が今、生きていたとしたら?

 サルトルほど戦争を憎んだ知識人は稀だったのではないか。
 そして、サルトルほど、傷つけられた人たち、虐げられた人たち、抑圧された人たちと連帯し、行動した作家は当時いなかったのではないか。

 学生時代、夢中でサルトルを読み続けた私の実感です。

 そんなサルトルならば、おそらくまず何よりも、無辜の民を無差別に虐殺するようなテロリズムを断固糾弾したことでしょう。
 しかし、彼はそこにとどまらないような気がします。
 返す刀で我が身をも切り裂いたのではないか?
 テロリズムは絶対に赦されるべきではない。
 しかし、一方で、そのテロリズムが生み出される根本原因にメスを入れなければ何の解決も得られない。
 その原因の一端は我が身の内にある。
 西欧社会の側にもある。
 そういって、自らの血を流すような鋭い論評を行ったのではないか?
 「シチュアシオン」という彼の膨大な発言集を紐解くと、そんなことを髣髴とさせる場面に何度もぶちあたります。

 「民間人を巻き込んでしまうような空爆が果たして許されるのか」「テロリズムとどう対峙していけばいいのか?」「憎しみの連鎖はどうやったら断ち切れるのか」「難民の受け入れをどうしていったらよいのか」「民族間、宗教間の差別感情、憎悪の感情とどう向き合ったらよいのか」等々、今、私たちは、そう簡単には答えを出せない多くの問題に直面しています。
 
 それでも、私たちは、問い続けなければならない。
 そして何らかの答えを見つけなければならない。
 そんなときに、サルトルの著作は、少なからずヒントを与えてくれるような気がします。

 私は、今年2015年9月、番組制作の報告をかねて、サルトルの墓前で手を合せてきました。

サルトルとボーヴォワールの墓☟
サルトルとボーヴォワールの墓.jpg

 その場所で、思い出されてならない言葉がありました。
 番組でも紹介した、サルトルの最期の言葉といってもいい言葉です。
世界は醜く、不正で、希望がないように見える。
といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。
だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。
ただ、この希望、これをつくり出さなければならない

(対話「今、希望とは」より)

 どんなに厳しい状況にあっても、サルトルとともに、「希望」を語り続けたいと思います。


プロデューサーAのこぼれ話
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/48_jitsuzon/index.html#box02

 本書の華麗なカバーを手に、本文中の、アラン・クレビンの活躍を読みながら、年甲斐もなく、往古茫茫、68年の炎に立ち会った青春を想起した。
 まず一枚の写真をご覧いただきたい。
 わたしの持ち込んだ沖縄返還の旗の前で獅子吼するのはアラン・クレビン、もみあげはタリック・アリである。
 この春、ストックホルムのベトナム平和和集会で、アメリカ脱走兵援助を報告した私は、その足でアメリカ原住民スー・トライブ Sioux の女性闘士と二人でフランクフルトでドイツSDS(社会主義ドイツ学生同盟)と接触のあと、パリに入った。
 その夜「ミューチュアリテ」(相互という語義だが、海老坂武の案内で会場に行くまで公会堂と知らなかった)で開かれていた集会に参加したのである。
 呼ばれるままに、壇上に駆け上がり、おりからの沖縄の祖国復帰運動について報告したものだ(筆者撮影)。
 終わってオペラ座前デモ、危うく逮捕されそうになった。
 45年後、クレビンたちは欧州議会で活躍中である。

 本稿執筆中に、菅野昭正(東大名誉教授、1930-)にあったら、パリでゴダール(1930-)のこのタイトルの映画を見たそうだ(”Le vent d'est”、1970年、ジガ・ヴェルトフ集団 Groupe Dziga Vertov 名義)。
 その後、森有正(1911-1976)とドライブして乱暴運転に肝を冷やした。

 いきなり写真から入ったが、本書は、現代アメリカの歴史家というより、同時代の証言者と読んだ方がぴったりするアメリカ人研究者による、フランス知識人の思想的ルポルタージュとでもいうべきか。
 ニューヨーク市立大学大学院教授で『ハイデッガーの子どもたち』(Heidegger's Children : Hannah Arendt, Karl Löwith, Hans Jonas, and Herbert Marcuse, Princeton University Press, 2001)など現代的な著書がならぶ。

 開巻劈頭ドキュメンタル・タッチと感じたが、それは、エコルノルマル(高等師範学校 École Normale Supérieure)の学生たちが抗議した生々しい事件の報告から始まっているからである。
 そこから『パリは燃えているか Paris brûle-t-il? 1966年』(ルネ・クレマン René Clément、1913-1996)の時代を振り返るが、ド・ゴール Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle、1890-1970)も昔日の栄光はない(もっともあの映画のプロデューサーのロバート・エヴァンズ Robert Evans「くたばれハリウッド」(原題 The Kid stays in the Picture, 2002年)によると、映画はおおこけしたらしく、日本での成功はもっぱらアラン・ドロン Alain Delon, 1935-によるのか)。
 この時代の評価は、そのころパリにいた鈴木道彦(1929-)先輩の『異郷の季節』(みすず書房、2007年月)に譲りたい。

 評者の学友加藤晴久(1935-)『プロレタリア独裁とはなにか』(新評論、1978年)が同校に留学中で、ノルマリアンの学生食堂でおごってくれた。
 明るいフレンチウインドウで大江健三郎(1935-)君が描写した本郷の雰囲気とはまるで違った。
 たしかアルチュセール(Louis Pierre Althusser、1918-1990)の弟子エチエンヌ・バリバール(Etienne Balibar、1942-)に会った。
 アルチュセールは本書では「ヒューマニズムを嬉々として埋葬した」と断罪されているが、葬ったのは愛妻エレーヌをであった。
 おかしいのは、アルチュセールは、共産党嫌いの学生から、「アルチュセラリエンヌ」とからかわれている。
 福岡は「ナイチュセール」と苦肉の訳。

 この言葉については、次に、評者の思い出を書かせていただくことにする。

 1966年、ベ平連は、ある版元とサルトルとボーボワールを日本に呼んだ。
 パネルのひとり谷川雁(1923-1995)は開口一番「サルトルの名前は不愉快だ、下宿でコッペパンをかじりながら読んでいた頃を思い出す」といかにも貧乏学生らしい歓迎の辞を発し、これにはさすがのサルトルも帰国後「日本は大変楽しかった、ベ平連でさえ」といった、と風のたよりに伝わった。
 火花が飛んだのはボーボワールだった。
 開高健(1930-1989)が「ボーヴォワール『第二の性』(1949)にベトナム植民地の話が全く出てこないのはなぜか」と問うたからたまらない。
 カッとなったボーボワール、ものすごい早口でまくしたてた。
 通訳にあたった深作光貞(精華大教授、1925-1991)もお手上げだ。
 女史は「トミコ、トミコ」と会場の朝吹登水子(1917-2005)を壇上に呼び、「それは別の話(本)だ」と応じたが。

 評者はサルトルに謝まった。
 彼は「Ca fait RIEN」と答えた。
 「たいしたことない」という常套語である。
 アルチュセーリエンヌの「リヤン」と同じ言葉である。
 評者はこれを深く徳とし、のちモンパルナスの墓地に行って二人の墓に手を合わせた。
 「サルトルはその時、知識人という職業の矛盾を強調した」と本書で著者は触れている(サルトル/ボーヴォワール『知識人の擁護』(邦訳人文書院、1967)。
 そして帰国後「人民の大義 La cause du peuple」の発行人を引き受ける。

 海老坂武によると、1975年にサルトルを訪ねた時、部屋の壁には5月革命のポスターが貼ってあった。
「そのとき中国については『開かれたマルクス主義』ということばをまだ用いていたが、<革命>というものを根本的に問い直そうとう姿勢を見せていた」(『祖国より一人の友を』岩波書店、2007年9月)、「まだ」という言葉に懊悩するサルトルへの慰藉をみるのは評者の深読みだろうか。
 原著者のウォーリンはもっと強く、サルトルをして「政治的ナイーブさをさらしながら・・・フランス共産党を労働者の代表としてみた」と記して「PCF(フランス共産党)をフランスの労働者階級の唯一の正当な代表だと見る限りにおいて、自分の同伴者としての立場を正当化していた」という別の批評家の発言を引いて、締めに「この見方がいかに間違っていたことか」と断罪している。
 この訳文は度胸がある。サルトルは間違っていたとしても正直だ、と評者は思うけれど。

 そのあとにコーン=ベンディット(Daniel Cohn-Bendit、1945-、五月革命の指導者のひとり、欧州議会議員)の「左翼急進主義」ゴーシスムが論じられる。
 コーン=ベンディットはドイツ系ユダヤ難民で学生ビザしかなかったそうだ。
 フランス社会におけるユダヤ問題はサルトルの指摘を待つまでもなく大きいが、本書では頻出するのもアメリカ的ある。
 それかあらぬか「ゴーシスム」が急激に崩壊したのは、1972年PLOによるミュンヘン・オリンピックのイスラエル選手団襲撃であった、というのが著者の判断である。
 ここは日本ではそこまで逆転しなかったと思う。
 GP(Gauche prolétarienne)を引き継ぐのはヴィクトールだが、かれがエジプト生まれのユダヤ人だ、ということにつながるのか。

 そして「今でしょう」。評者は40年後パリで欧州議会の中継を見ていて、そこにはクレビンやアリ(あのときタリカリとおもったのはタリック・アリだった)が欧州議会議員として政治を語るのを見て隔世の感、というよりどこぞの国の現状をおもって呆然とした。
 本の方はこのあと「テルケル」で、その功績は「一文なしのブルガリアからの留学生クリステが「左岸」の花形へと上り詰めたことだ、と言う話も登場する。彼女は妊娠していた、なんて書いてある。

 さてフーコー(Michel Foucault、1926-1984)だ。
 元NHKのフランス語講師で、映画監督、評者の「腹心の友」はブルガリア系イスラエル人で、その名もモスコーという。
 彼によると、フーコーの座談はじつにたのしく平易だそうだ。
 お前にもわかるから聞きに行こう、と誘われたがそうかなあ。
 ソレに対しウォーリンは「考古学期の間は言語や論証の領域にとらわれすぎていた」として、それは「構造主義全般に特徴的な偏りである」と切って捨てている。

 それからラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901 1981)がくる。
 これまた我が親友、べ平連造反派の笠井潔の世界だ。

 最後の最後で、フーコーの後継者達、グリュックスマン(1937-2015)らの新哲学者にいたると、本書は、理論明晰、訳文も、まるで人が変わったように平明かつ率直になってほっとする。
 というわけで、訳文は既出の邦訳がきちんとフォロウされるが、そうやってみるとフランス思想の日本の研究者の文体は、生硬ですねえ。
 原書は、血湧き肉躍る知識人チャンバラでもある風情だから、その気合を活かして、英文からの、福岡先生の超訳のほうが、ノリがよかったのでは。
 研究書と批評が混在しているようにも思う、そこがウリではあろうが。
 サルトルが英文では、どうかみ砕いて訳されているか読みたい。

 筆のいたずら、些事で恐縮だが、注その他、フランスの小グループから人名までゆきとどいているが、ご専門のアメリカ事情は、こちらの常識不足といえばそれまでだが、一気呵成に突進する。
 リンボー(Rush Hudson Limbaugh III、1951-)のスローガン『生活を変えよう!』がでてきてあわてて、NYUの講師に聞いて、やっと、こちらの百田みたいな人気評論家と教えられた。他方、「ペイパーバック」に、「廉価版」と説明がついていて、これはこれで何か意味があるかと勘ぐったりして。

 話がそれたが、本書の言うところはただ一つ
 「左翼が内部崩壊したあとで、東欧の反体制運動が起こり、元ゴーシストたちの想像力をとらえた。そしてその文脈で、「権力」批判には人権が不可欠であるとの発見がなされたのである」

 「国境なき医師団」のクシュネルは「ベトナムの船」を出し、べ平連も医薬品を贈る船を出したものだ。
 「結局のところ究極的な勝利を収めたのは、5月の反乱の『文化モーメント』だったのである。5月の反乱は文化的反乱(訳文傍点)だったのであって、政治的ではなかった。68年5月は、失敗に終わった革命ではなく、偉大なる「改良主義者の反乱」であり、民主的な暴動であった(ジョフリン)。
 これはまさに四方田犬彦(1953-)が主張し、本書が親近感をいだく小熊英二(1962-)と対立するところのものであろう。でもこの本全体は小熊の手法に似ているけれど。

 このあと最終章に、フランスで定着しつつある「アソシアシオン」への共感で本書の幕は閉じられる。
 200年前、トクビル(Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805-1859)が自分の国にないと慨嘆したプラグマティズムの里帰りある。
 それは「今フランス全土に花開いていると」、NHK反戦でリヨン在住の友人が伝えてくれている。ここにいたって原著者のオプチニスムは隆々と鳴り響き、サルトル以来のあのマルクス崇拝、文化大革命心酔は一体なんだったのか、と深い溜息と共に本書はとじられるのである。

(写真)ソルボンヌ、ベトナム連帯の幕の前にたつ筆者


書評『1968 パリに吹いた「東風」−フランス知識人と文化大革命−』
リチャード・ウォーリン(Richard Wolin、1952-)/著、福岡愛子/訳、岩波書店/刊、2014年7月

小中陽太郎(1934-)
http://www.alter-magazine.jp/index.php
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New era for peace

TOMORROW, Kim Jong-un will become the first North Korean leader to step on to South Korean soil since the Korean War more than six decades ago. In a highly symbolic moment, he will cross the Demilitarised Zone at the Panmunjom border security area to meet his South Korean counterpart, Moon Jae-in.

A remarkable transformation from half a year ago, when the peninsula seemed on the verge of war, with North Korean missile and nuclear tests taking place and heightened rhetoric and name-calling from both the North Korean and United States sides.

The history of relations between the two Koreas is littered with false starts, interrupted dialogues and dashed hopes. Yet, this time, it does seem as if some progress could be made, for two reasons.

Firstly, not just an activist South Korean president but also a North Korean leader suddenly willing to engage, and, secondly, a prior commitment to an unprecedented North Korea-US summit soon after.

President Jae-in has, from the start of his presidency, tried to bring normality into the relationship with the North. But even though his sympathies were broadly in line with his two liberal predecessors, who strongly advocated engagement with the North and participated in summits with Kim Jong-il in 2000 and 2007, Jae-in was also determined that, in close contact with the US, sanctions against the North should remain in place until progress was made.

Jae-in has been rewarded, not just with the unexpected active participation by the North in the Pyeongchang Winter Olympics, but also by Jong-un’s decisions to hold a summit with him as well as, more dramatically, with US President Donald Trump a month later.

Despite his early education in Switzerland and his change of style in leadership within North Korea, Jong-un has remained an enigmatic figure. Even his recent visit to Beijing was shrouded in mystery.

But he will have to be much more open to the world in the two forthcoming summits. So, what are his motivations?

Jong-un’s main priority remains ensuring the survival of North Korea and his family regime by reducing the likelihood of any military attack by the US and its allies.

As shown by his speeches this year, he is confident that his missile and nuclear capabilities have reached a level sufficient to deter any US aggression.

Nonetheless, Jong-un and his advisers, like many other political leaders around the world, cannot be entirely sure what Trump will do in any given situation, so at least talking to the “enemy” may be an additional safeguard. Jong-un also understands that the road to Washington goes through Seoul, so he needs first to talk with Jae-in.

Prestige and legitimacy matter to the North Korean elite. So, Jong-un wants to show how much North Korea and he himself are respected in the international community; the North is no longer the pariah state that no-one wants to talk with. Jong-un has been treated as an “equal” by Chinese leader Xi Jinping already and Jae-in and Trump will now follow.

Crucially, Jong-un believes that he is achieving de facto recognition of his state as a nuclear weapon power. The very fact that the US is willing to negotiate over denuclearisation is taken by him as a sign of US recognition that the North has already reached that nuclear club status.

Even before the summit with Jae-in, Jong-un appears to have given away what could have been one of his negotiating cards: a moratorium or freeze on nuclear and missile tests and a commitment to cease operations at the main nuclear site.

Of course, the freeze has effectively already been in place since the beginning of this year as diplomacy began to take over and no testing does not mean that research and development on the crucial task of miniaturisation of nuclear warheads will not continue.

In fact, Jong-un’s gesture puts Jae-in on the spot. As the host, Jae-in should make some appropriate gestures too once the summit begins. This could be loosening some of the harsher sanctions and providing some “humanitarian” aid to the North.

Moreover, by getting Jae-in to agree on a declaration calling for the formal “end” of the Korean War, Jong-un may be able to achieve a commitment to start negotiations for a “new framework” for security on the peninsula: a peace treaty to replace the existing armistice agreement.

Jong-un has laid down a dual policy of nuclear weapon development and economic reconstruction. With the nuclear programme probably at the stage he would like, he may now feel the need to focus on the restoring the economy.

To avoid ever-increasing dependence on China, Jong-un knows that he needs to improve relations with the South and with the US, not least because through that process signals could be sent to other states to re-engage economically.

But the prospect of genuine reconciliation between the two Koreas depends on the key issue of denuclearisation. Jong-un will probably tell Jae-in that all the precise details surrounding denuclearisation can only be discussed with Trump, but he would hope to get Jae-in to at least agree that a step-by-step process is the way forward.

This would create a gap between Jae-in and Trump, who has been calling for a more immediate and comprehensive “deal”.

Jae-in and his advisers are well aware of such a possibility, but Jae-in also appreciates that an incremental series of “concessions” by all sides is the most practical way forward.

Jae-in has taken a brave step forward by bringing Jong-un out into the summit fold. For Malaysia and other regional states, a reduction of tension on the Korean peninsula is a welcome development, but there are many more steps along the road to real reconciliation and peace.

To paraphrase former British prime minister Winston Churchill, who was himself a great believer that talking was better than fighting, this may not be the beginning of the end, but this week’s summit could well be the end of the beginning of the process of at last bringing peace to the Korean peninsula.


[photo]
Kim Jong-un’s main priority remains ensuring the survival of North Korea and his family regime.

The New Straits Times, Published: April 26, 2018 - 8:15am
Jong-un's coming out party
By Brian Bridges, Adjunct Professor at Lingnan University, Hong Kong (based in Melaka)
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/04/361866/jong-uns-coming-out-party

North Korea on Saturday hailed its summit with the South as a "historic meeting" that paved the way for the start of a new era, after the two leaders pledged to pursue a permanent peace and rid the peninsula of nuclear weapons.

The official KCNA news agency carried the text of the leaders' Panmunjom Declaration in full and said the encounter opened the way "for national reconciliation and unity, peace and prosperity".

In the document, North Korean leader Kim Jong Un and the South's President Moon Jae-in "confirmed the common goal of realising, through complete denuclearisation, a nuclear-free Korean Peninsula".

But the phrase is a diplomatic euphemism open to interpretation on both sides.

Pyongyang has long wanted to see an end to the US military presence and nuclear umbrella over the South, but it invaded its neighbour in 1950 and is the only one of the two Koreas to possess nuclear weapons.

Analysts have cautiously welcomed the summit outcome, but warn that previous displays of inter-Korean affection and pledges by the North have ultimately came to naught.

For years, Pyongyang insisted it would never give up the "treasured sword" of its nuclear arsenal, which it says it needs to defend itself against a possible US invasion.

But it has offered to put it up for negotiation in exchange for security guarantees, according to Seoul -- although Kim made no public reference to doing so at Friday's spectacular summit.

In a separate report, KCNA said the two leaders had a "candid and open-hearted exchange of views" on issues including "ensuring peace on the Korean Peninsula and the denuclearisation of the peninsula".

The Rodong Sinmun newspaper, the mouthpiece of the North's ruling Workers' Party, devoted the first four of its six pages to the event, carrying a total of 60 photos, 15 of them on page one.

- 'For the people' -

When Kim stepped over the military demarcation line that divides the peninsula he became the first North Korean leader to set foot in the South since the Korean War hostilities ceased in 1953 with an armistice rather than a peace treaty.

He then persuaded Moon to step into the North -- a fact reported by KCNA Saturday - and the two leaders shared a day of smiles, intimate moments, and a half-hour-long one-on-one conversation.

The North has made rapid progress in its weapons programmes under Kim, detonating its sixth and most powerful nuclear test last year and launching missiles capable of reaching the US mainland, in moves that triggered increasingly strict UN Security Council sanctions against the regime.

Kim and US President Donald Trump traded personal insults and threats of war, sending tensions soaring before Moon seized on the Winter Olympics to broker dialogue, beginning a dizzying whirl of diplomacy that led to Friday's meeting in the Demilitarized Zone.

Analysts and diplomats say that a combination of factors were behind Pyongyang's change of heart, including feeling that it was in a position to negotiate from strength, the looming impact of sanctions, and fear of potential US military action.

But KCNA gave Kim the credit.

"The historic meeting at Panmunjom came to be realised thanks to the supreme leader's ardent love for the people and will for self-determination" independent of outside influence, it said.

Washington is pressing Pyongyang to give up its weapons in a complete, verifiable and irreversible way, and analysts say that meaningful progress will depend on the outcome of Kim's much-anticipated summit with Trump in the coming weeks.

Trump hailed the Korea summit as historic, but warned "only time will tell".

He told reporters he would not be "played" by the North's leader at their upcoming meeting, with "two countries" now in the running to host the event.

- Peace treaty -

In the declaration document, the two leaders pledged to seek a peace treaty this year to formally declare the Korean War over, 65 years after hostilities ceased.

They will seek a meeting with the US and possibly China -- both of them signatories to the 1953 ceasefire -- "with a view to declaring an end to the war, turning the armistice into a peace treaty, and establishing a permanent and solid peace regime".

But agreeing a treaty to formally close the conflict will be complicated -- both Seoul and Pyongyang claim sovereignty over the whole Korean peninsula.

The declaration "will lead to an all-out and epoch-making progress in inter-Korean relations", KCNA said, and "relink the cut-off national blood lines" and "advance the future of co-prosperity and reunification".

Pyongyang regularly insists on the importance of reunifying the two Koreas, but opinions are divided in the democratic and prosperous South, where younger citizens have spent much of their adult lives being threatened by the North, and fear the costs and consequences of combining the countries.


[photo]
South Korea's press has given a cautious welcome to the landmark summit

AFP, 28 Apr 2018
North Korea says historic summit opens 'new era for peace'
https://www.afp.com/en/news/23/north-korea-says-historic-summit-opens-new-era-peace-doc-14e37u1


posted by fom_club at 13:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

朝鮮半島の平和構築に貢献せよ

 予想通り、朝鮮半島の不可逆的な平和実現の一日となった。
 南北首脳と朝鮮半島の民族以外の誰もが入り込む余地のない歴史的な一日だった。
 その光景を見ながら、無意識のうちに泣けて来た。
 不思議だ。
 私には南北統一に対する特別の入れ込みはない。
 利害損得は何もない。
 関係者に知り合いもいなければ、北朝鮮や韓国に対する好きとか嫌いとかの特別の感情もない。
 しかし、なぜか涙が出たのだ。
 おそらくとてつもない感動を無意識のうちにしていたのだ。
 何に対する感動なのか。
 歴史が動いた瞬間を目撃した感動なのだ。
 ついこの間まで、あれほど敵対していた南北朝鮮が、首脳の決断でここまで和解できることに感動したのだ。

 戦争を起こすのも人間なら戦争を二度と起こさないと決意するのも人間なのだ。
 そして、この二人の見事な外交に、外交官だった私の血が無意識のうちに騒いだのだ。
 これこそが憲法9条の神髄であり、憲法9条を掲げる外交である。

 明日からのメディアは、非核化の道筋は見えてこないとか、宣言を現実のものにする努力こそ問われるなどと、したり顔をした専門家や外交評論家の解説であふれるだろう。
 しかし、関係のない我々が何を言っても、むなしく、みっともないだけだ。
 ましてや日本は北朝鮮問題については一億総安倍首相になって邪魔ばかりしてきた。
 余計なことを言わずに黙って、素直に、感動を共有するだけでいいのだ。
 そして、日本は気づくべきだ。

 先を越されてしまったが、まだ遅くはない。
 いまこそ日本は憲法9条を持っていることに感謝し、それを誇りにして、世界の平和実現のために、両首脳の偉業の後に続くべきだ。
 そのことを大きな声で主張する政治家や有識者が出て来なくてはいけない。
 出て来なければ私が言う。
 そして行動を起こす。
 新党憲法9条を、この国のどうしようもない政治の中に実現しなければいけないのである。


天木直人のブログ、2018-04-27
あらゆる解説が邪魔になる「朝鮮半島で歴史が動いた日」
http://kenpo9.com/archives/3639

 一夜明けて、私は今朝の各紙の社説を真っ先に読んだ。
 そして、予想していたとはいえ、悲しくなった。
 産経が、「これで前進したと思うのは大間違いだ、圧力を緩めるな」と書き、読売が「非核化の道筋は見えない」と書くのには驚かない。

 しかし、リベラル、護憲、安倍批判の朝日、東京、毎日までも、こぞって警戒的だ。

 「2007年の前回に出た南北共同宣言から大きな進展はなかった」(朝日)と書き、
 「北朝鮮は自国だけの非核化を拒否しているとも受け取られる」(東京)と書き、
 「北朝鮮の非核化に向けた具体的な行動が盛り込まれなかったのは残念だ」(毎日)と書いている。

 朝日に至っては「国際制裁を緩めるのは適切ではない」と書き、東京は「核保有国宣言であり、核は放棄しないと受け取る見方もある」とまで書いている。
 産経、読売とまったく同じだ。
 メディアの総安倍首相化だ

 そして私が驚いたのは、どの新聞を探しても、各党首の談話が見つからない。
 安倍首相以外に談話を出す党首はいなかったのか。
 それとも、出していたがメディアが無視したのか。

 この歴史的南北首脳会談に見せた日本の反応は、あまりにも失望的であり、噴飯物ですらある。
 なぜなら北朝鮮問題の責任の一端は日本にもあり、そして日本は戦後復興のきっかけとなる朝鮮特需から利益を得て来た国だからだ。
 朝鮮半島の平和構築に参加して、その感動を共有するだけでなく、作り出す努力をしなければいけないのだ。

 しかし、いま日本が世界に見せる姿は一億総安倍首相化だ
 あまりにも無策だ。
 あまりにも鈍感だ。
 憲法9条が泣いている。

天木直人のブログ、2018-04-28
感動を共有できない日本の不幸
憲法9条が泣いている

http://kenpo9.com/archives/3641

 日本には拉致問題があるために南北朝鮮の首脳会談開催について無条件でこれを歓迎できない事情がある。
 しかし、拉致は連合国軍と北朝鮮が戦争状態にある下で発生した事案であり、国交関係を有する友好国間において発生した事案ではない点には留意が必要である。

 1月20日付ブログ記事、メルマガ記事でも紹介したが、「アリの一言」ブログ主宰者が、北朝鮮分断の経緯についての情報を提供されている。
 同ブログは、北朝鮮分断の経緯について文献から、奈良女子大名誉教授中塚明氏とオーストラリア国立大教授ガバン・マコーマック氏の指摘を紹介している。
 改めて転載させていただく。
 1945年8月15日、日本が敗北するとすぐさま朝鮮建国準備委員会(委員長・呂運亨)が結成され、8月末まで朝鮮全国各地に145もの人民委員会がつくられる勢いでした。9月6日には、朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。首席にアメリカで活動していた李承晩、副首相に呂運亨という布陣で、幅ひろい組織をめざしました。
 しかし、アメリカは南朝鮮に軍政を施行し、朝鮮人民共和国を認めず、きびしく弾圧しました。
 …朝鮮人自身による独立政府樹立の運動がつづく中…
 アメリカは、1947年、創設まもない国連に朝鮮問題を持ち込み、国連監視下の南北朝鮮の総選挙を可決、翌年には南朝鮮だけの単独選挙実施方針を示しました

中塚明(1929-)奈良女子大名誉教授『日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研、2002年6月
 
そもそも朝鮮の分断は、アメリカの一方的決定によるものであった。
 …終戦直後の1945年9月、朝鮮に上陸し、朝鮮南部に軍事的支配を樹立したアメリカは、すでにその行政区域内に育っていた朝鮮人自身の萌芽的共和国(呂運亨主導下の朝鮮人民共和国)とその草の根の組織である人民委員会の承認を拒否した。…
 日本の植民地体制と植民地統治が崩壊し、代わりにアメリカ支配が始まってから、莫大な富と権力がアメリカ人の手に渡った

ガバン・マコーマック(1937-)オーストラリア国立大教授『侵略の舞台裏 朝鮮戦争の真実』影書房、1990年7月

 朝鮮分断は米国が主導したものであるとの見立てが正鵠を射ていることが分かる。
 朝鮮半島の最大の問題、悲劇は、朝鮮が他国の力によって南北に分断され続けてきたという点にある。
 南北の融和、南北の統一こそ、目指すべき目標である。
 その南北の分断、韓国に対する支配を確保し、手放さずに来たのが米国なのである。
 米国の韓国支配は韓国のためのものではなく、米国のためのものである。

 その米国の支配下にある日本は、日本や韓国のための外交ではなく、米国の利益を守るための外交を展開していると言わざるを得ない。
 安倍首相は平昌五輪開会式への出席を見送ろうとした。
 しかし、自民党内からの異論を受けて開会式出席を受け入れた。
 そして、韓国の文在寅大統領との会談で五輪後の米韓軍事演習を督促する発言を示し、文在寅大統領から内政干渉であるとの批判を受けた。

 今回、南北朝鮮の首脳会談が実現したが、会談実現は文在寅大統領の指導力によるところが大きい。
 文在寅大統領は米国のトランプ大統領にも積極的な働きかけを行い、その結果として米朝首脳会談が実現する流れが生み出された。
 こうした「対話」を軸とする朝鮮問題の解決については、中国、ロシア首脳も歓迎の意向を明示し、ただ一人、安倍首相だけが「圧力一点張りの主張」を続けてきたために蚊帳の外に置かれる事態が生じている
 安倍首相は訪米してトランプ大統領と首脳会談を行ったと弁明するが、トランプ大統領の対日外交のスタンスは、基本的に隷属国に対するものである。

 トランプ大統領が昨年11月に訪日した際、入国の戸口になったのは横田基地である。
 トランプ氏は訪日後の最初の演説を、星条旗を背景に行った。
 日本に対して独立国訪問の儀礼を踏まずに訪日し、そのまま横田基地から日本を離れたのである。 
 安倍首相はトランプ大統領のマイアミの別荘を二度訪問しているが、安倍首相を招いての夕食の会場は、二度ともファミレスのような食堂である。

[写真]

 安倍首相はゴルフをプレーしていることを宣伝するが、外交においては、どのクラスの接遇を受けるのかが極めて重要なのである。
 トランプ大統領は安倍首相と親しく接してはいるが、独立国家の首相として対応しているというよりも、隷属国の総督と対応していることを「形式」によって明示していると見られる。

 4月24日に訪米したフランスのマクロン大統領は、トランプ大統領就任後、米国が招く初めての国賓となった。
 習近平氏夫妻が訪米した際には、安倍首相と同じマイアミの別荘を訪問しているが、夕食は格式の高い晩餐会会場であった。

[写真]

 つまり、日本は完全に格下の扱いを受けているのである。
 南北朝鮮の問題についても、両国は南北朝鮮と米国、そして中国と協議して今後の対応を進めることを明言した。
 安倍外交の孤立無援ぶりが改めて明らかになったと言わざるを得ない。
 拉致問題を抱えている日本であればこそ、関係各国から重視される発言力を確保しなければならないのだが、安倍外交にはその力が完全に欠落していると言わざるを得ない。


植草一秀の『知られざる真実』2018年4月28日 (土)
蚊帳の外に置かれている安倍外交の現実
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83f8.html

 南北朝鮮首脳会談のニュースを見て深い感慨を抱いた。
 感動したといっても良いかもしれない。

 北朝鮮は、まだ独裁国家であり、国民に自由・基本的人権がない。
 軍事国家でもある。
 だが、このままでは、金政権は存続できぬと考え、米朝・南北朝鮮のデタントに向けて舵を切ったのだろう。
 核軍縮、非核化がすぐに実現するとは思えない。
 紆余曲折もあるかもしれない。
 だが、緊張緩和に向かう以外に道がない、ということも、南北両者ともに分かっているのだろう。

 朝鮮民族の分断の遠因は、我が国による朝鮮併合支配である。
 その後、第二次世界大戦を経て、冷戦最前線の真っただ中に朝鮮民族は置かれ、母国全体が戦場になった。
 その当時、我が国は、朝鮮戦争による特需によって潤い、その後の高度成長を成し遂げることができた。
 朝鮮の方々は、方や異形の独裁政権が金一族により続けられ、一方、韓国も長く軍事政権が続いた。
 韓国はようやく民主化されたが、グローバリズムの洗礼を受け、国内は経済的に厳しい状況であると聞く。
 現在の独裁体制の北朝鮮も、民主化へのソフトランディングを試みなければ、やがて破たんする。
 南北ともに厳しい状況にあることに対して、我が国が倫理的に朝鮮の人びとに対して負うべき責任がある。

 それを思うと、この歴史的な対話の開始を心から喜ばずにはおれなかった。

 昨年、朝鮮半島で緊張が高まった時に、心配になった友人がいた。
 以前にも紹介した Lee HL1DC である。
 彼は、38度線の南20,30Km程度のところに住んでいる。
 以前にも紹介した通り、もし北朝鮮と戦争が再開するようなことがあっても、彼はもう自宅から離れない、とまで言っていた。
 この喜ばしいニュースに接して、彼にお祝いのメールを送った。
 するとほどなく、彼から電話がかかってきた。
 彼も声が弾んでいた。
 まだ、端緒についたばかりで、米朝会談が終わらないと何とも言えない、と言いつつ、嬉しそうだった。

 朝鮮人の方をあしざまに言うレーシストが、残念ながらわが国に存在する。
 社会病理現象だ。
 彼らが問題にすることの一つは、北朝鮮による邦人拉致だ。
 それは大きな問題だが、在日朝鮮人、韓国・北朝鮮の方々のことをあしざまに罵り、軍事的な圧力をかけろと言うだけでは解決しない。
 緊張緩和のなかで、根気強く、北朝鮮に働きかける以外にない。
 当然戦後補償の問題も出てくるかもしれない。
 そうしたことに誠実に対応し、北朝鮮に拉致問題が存在し、それを解明すること、拉致された人びとを帰国させることが彼らにとっても良いことを理解させる以外に方法はない。
 米国大統領や韓国大統領に頼み込むのではなく、首相自らが行うべきことだ。
 レーシズムを声高に叫ぶことは、解決を遠のかせる。

 トランプ大統領が、イランとの核合意から離脱するそぶりを見せている。
 ロスチャイルド財閥がバックにいると思われるフランスのマクロン大統領も、親イスラエル派である。
 米国のイランへの対処とからめて、米朝会談がどのような結末になるか、まだ見通せない。
 この南北朝鮮首脳会談は、最初の一歩に過ぎない。
 だが、この道しかない。
 そしてこの道が、最終的に朝鮮戦争の終結と東アジアの平和に至るものである。
 我が国が、そのイニシアチブを取れないのは極めて残念なことだが、少なくとも、北朝鮮が核実験を準備しているといったフェークニュースを流したり、韓国大統領に南北会談を止めるように言ったりして邪魔しないことだ。

 朝鮮民族の一体化が実現することをこころから期待したい。


ステトスコープ・チェロ・電鍵、2018/04/28 06:35
南北朝鮮首脳会談
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/

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西田敏行

 昨晩、何気なくスイッチをいれた枕元のラジオ。午前0時台。
 〔舌の記憶〜あの時あの味]俳優・西田敏行(1)は放送中。
 西田敏行については、ヤッホーくんのこのブログ、2011年07月16日付け日記「星守る犬」をぜひご参照下さい。
 こころが温まる、とっても良い深夜の番組でございました。
 子ども時分はよく、地方公務員だったお父さんの自転車の後ろにちょこんと座って良く映画館に入ったそうです。
 ある日のこと、映画の帰りにラーメン屋さんに寄りラーメンを、お父さんはかつ丼かなんかを注文したそうです。
 そこへ二人のお姉さん女子生徒が隣りの席に座り、もじもじしてメニュー表を見ていましたが蕎麦を頼みました。
 彼女たち、出された蕎麦をどう食べるか、もじもじしていましたが、箸をなんとそばつゆに入れたんだそうです。
 そして、その箸を蕎麦にちょんちょんとかけてちょっとづつ食べはじめました。それを見た少年西田のお父さん、
 お店の人に蕎麦を注文して食べ方を見せてやったお話しがありました。そのお話で齢70を越したイマの西田さん。
 途中で、涙でことばがででこなくなってしまったのです。ヤッホーくんもつられ涙、枕を濡らしてしまいました。

 2013年1月6日にスタートしたNHK大河ドラマ「八重の桜」で福島県出身の俳優の西田敏行さんが会津藩(現在の福島県)の家老・西郷頼母(たのも)を演じている。「(東日本大震災の被災者に)大河を通じて、東北の復興なくして日本はないという自信を持ってもらいたい」と力強く語る西田さんに役やドラマへの思いを聞いた。

◇ 故郷への思いから出演を快諾、「役者として意味のある役をいただけた」

 ドラマは、福島県出身で戊辰(ぼしん)戦争の落日、会津の鶴ケ城に500人の女たちと立てこもり、銃を持って戦ったことから“幕末のジャンヌ・ダルク”と呼ばれ、後に同志社大学を創設した新島襄の妻となる新島八重(1845-1932)の生涯を描く。
 主人公・八重を綾瀬はるかさん、八重の兄・覚馬を西島秀俊さん、八重の最初の夫・川崎尚之助を長谷川博己さん、後の夫・新島襄をオダギリジョーさん、会津藩の最後の藩主・松平容保を綾野剛さんが演じるほか、玉山鉄二さん、小栗旬さん、黒木メイサさん、剛力彩芽さんらが出演する。

 西田さんが演じる西郷頼母は、代々同藩の家老を務める家柄に生まれ、京都守護職就任を要請された藩主・松平容保に辞退を進言し、上洛して守護職辞退を申し立てたため、家老職を解任される。
 戊辰戦争時は家老に復職するが、総督として戦った「白河口の戦い」で惨敗し、“藩主一同玉砕”を進言したことで、城から退去させられる。
 その後、旧幕府軍の榎本武揚と合流して箱館(現・函館)に向かうことになる人物。

 「翔ぶが如く」(1990年)や「八代将軍吉宗」(1995年)など数々の大河ドラマに出演経験のある西田さんだが、今回は「大河は1年のスパンで撮影するので覚悟がいる。ほかの仕事の兼ね合いも考えて、(大河ドラマの出演の)リタイアも考えた」と出演を躊躇(ちゅうちょ)した時期があったことを明かす。
 しかし「福島が舞台ということで、断るわけにはいかなかった。役者として意味のある役をいただけた」という強い思いから出演を決めたという。

 西田さんは福島で過ごした少年時代に、薩摩藩や長州藩と戦った二本松少年隊の話を聞いて育った。
 「福島に帰ると、維新が正しかったのか?と思うことがある。昔は福島弁は俳優としてリスキーだと感じていたが、今は誇りを持っている」と故郷への思いを語る。

◇ 綾瀬はるかと綾野剛にメロメロ?

 西田さんが演じる西郷頼母は松平容保(綾野さん)に仕えていることもあり、綾野さんとの共演シーンが多い。
 西田さんは、綾野さんについて「扮装ぶりを見ると、写真の容保とよく似ていて、ダブってきてね。会津の人は容保を愛しているので、自然と“殿”と呼んでいますよ。この間、一緒にスッポンを食べてに行ってねえ。うれしかったなあ」と楽しそうに話す。
 主演の綾瀬さんに話題に上ると「はるかちゃんは、素直で頭がいいですね。それに元気。ああいう人には久しく会っていない。相手との垣根を作らないし、誰とでも友だちになれる。会って、見つめられると楽になるし、プレッシャーを与えない。天性のものですよ。すごいと思います。(出演者は)みんな、はるかちゃんが好き」と絶賛する。
 また、西田さんは「翔ぶが如く」の撮影の際は、共演者と酒をくみ交わしながら、演技について議論することも多かったというが、現在65歳ということもあり、今回は「暴飲暴食はさけます」と宣言。
 「主演がはるかちゃんなので、お野菜を中心にやさしく食べますよ」と話すように、体調管理に気をつけながら役に臨んでいるようだ。

 「八重の桜」はNHK総合テレビで毎週日曜午後8時放送。全50回を予定している。


MANTANWEB、2013年01月11日
西田敏行:故郷・福島が舞台「八重の桜」に懸ける思い
「東北の復興なくして日本はない」

(毎日新聞デジタル)
https://mantan-web.jp/article/20130110dog00m200074000c.html

八重の桜、メインテーマ
https://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA

 いま西田敏行は大河ドラマ「西郷どん」の「語り」、ナレーターです。

5分で分かる「西郷どん」第1回『薩摩のやっせんぼ』
https://www.youtube.com/watch?v=KAOkg7jdH-s

大河ドラマ「西郷どん」テーマ曲(オープニング映像)
https://www.youtube.com/watch?v=_AZMvoDTTn8

LIVE福島より西田敏行「あの街に生まれて」
https://www.youtube.com/watch?v=Hct8NM8zjSM

悲しみに打ちひしがれ
止まらない涙に
ため息をつきながら
負けそうになった時は
故郷のあの空を
目を閉じて思い浮かべた
懐かしい海と山が
いつだって味方だった
何も心配しなくていい
ここに帰ってくればいい
まるで母親のように
励ましてくれたんだ
あの街に生まれて
しあわせと思ってる
美しい自然の中
おだやかに生きる人
あの街に生まれて
よかったと言わせてくれ
大切なものは何か
教えられた故郷よ
つらいことあったとしても
歯を食いしばり乗り越えた
だから僕は大人になり
負けないでここにいる
どんな時もどんな時も
遠い空の下 離れて暮らしても
心のどこかには
抜けるような青い空が見えていたんだ
僕はあきらめはしないよ
雨や雪が降り出しても
一歩一歩進んで行くんだ
やがて陽は差すだろう
あの街で育って
生き方を学んだんだ
おおらかな愛に囲まれ
誰かのために泣けること
あの街で育って
逞しさを覚えたんだ
どこまでも続く道を
自分の足で歩くこと
あの街に生まれて
しあわせと思ってる
美しい自然の中
おだやかに生きる人
あの街に生まれて
よかったと言わせてくれ
大切なものは何か
教えられた故郷よ
胸を張り 誇らしく…
あの街で生まれたこと


 河出書房新社は、この度、西田敏行さんの初めての自伝『役者人生、泣き笑い』を刊行いたします(2016年10月)。

 西田敏行さんは、今年2016年で芸能デビュー50周年、また11月4日には数え年で70歳となり、古希を迎えられます。
 そのダブルのお祝いの年にあたり、生い立ちから現在まで、“役者になるために生まれてきた”その痛快無比な人生70年を初めて綴ったのが本書です。

 西田さんは、1947年11月4日福島県郡山市に生まれました。
 映画好きな養父母のこと、美少年だった中学時代、俳優を目指して東京の高校を受験したこと……その役者としての原点から、青年座入団、大河ドラマ、映画『釣りバカ日誌』などなど、サラリーマンから将軍まで何百という人生を演じてきたその人生を、時におもしろくまた時にほろりとするエピソードを、おしげもなく披露しながら、描いていきます。

 またその人生は、同時に、日本の映画やテレビの、俳優から見た“もうひとつの歴史”の貴重な証言にもなっており、昭和・平成の「芸能史」を語るうえで、欠かせない資料にもなっています。
 監督・俳優・友人との交流秘話もいっぱいの、「国民的俳優」の初の自伝は読みどころ満載です。

◇ 西田敏行さんからのコメント
 役者としてデビューしてから50年、前ばかり見て突っ走ってきた気がします。
 今年、古希を迎え、「人生の休暇」ともいうべき長い入院生活のオマケまでついて、ちょっと過去を振りかえる時間ができたんです。
 それで出来たのが、『役者人生、泣き笑い』です。
 タイトル通り、よく泣き、よく笑い、更に、よく遊び、よく怒り、そしてもちろん、よく演じてきたなアって思いますね。
 役者って、いろんな人の人生を「演じる」というより「生きる」ワケです。
 舞台にしてもテレビや映画にしても、ひとつひとつに、かけがえのない思い出があります。
 それはもう僕の役者人生の、貴重なひとコマ、ひとコマで、思い出すだけで、涙がでてきそうです。
 一人でも多くの人に読んでいただけたら、嬉しいです。

◇ 目次
はじめに
第1章 映画が「僕の学校」だった
第2章 東京さ行って映画俳優になるぞう
第3章 ターニングポイントは『写楽考』の舞台
第4章 テレビ小説『北の家族』のレギュラーに抜擢
第5章 モロに地≠出して大ブレーク
第6章 「愛妻」プラス「子煩悩」という生き方
第7章 「悪友」は「良友」だべ
第8章 大河ドラマで『秀吉』と『西郷』を演じて学んだこと
第9章 西田式役者術のヒミツ
第10章 憧れの吉永小百合さんとワクワクドキドキ共演
第11章 「極地三部作」で命の限界に挑んだ!
第12章 『釣りバカ日誌』世の中バカがいなきゃ面白くない
第13章 「真似る」は「学び」
第14章 役者ほど面白い仕事はない
第15章 取り戻したい「故郷・福島」
おわりに 4ヶ月間の入院は神様がくれた「休暇」


PR TIMES、2016年10月26日 15時40分
西田敏行、初の自伝『役者人生、泣き笑い』発売!
芸能デビュー50周年・古希記念出版。
生い立ちから現在まで、痛快無比な人生70年を赤裸々に明かす

(河出書房新社)
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000051.000012754.html


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2018年04月27日

南北首脳会談

 リムジン河をカラオケで歌えなかったヤッホーくん、しかし朗報です。
 心からこれが、朝鮮半島に平和を構築する端緒になると喜んでいます。
 惜しむらくはこの国が過去、もっと積極的に取り組むべきだった、と。 

With a single step over a weathered, cracked slab of concrete, North Korean leader Kim Jong-un made history on Friday by crossing over the world’s most heavily armed border to greet his rival, South Korean president Moon Jae-in.

Pledging a “new history” in relations with his neighbour, Kim became the first North Korean leader to set foot in South Korea since the end of the Korean War in 1953.

Kim then invited Moon to cross briefly north with him, before they returned to the southern side for talks on North Korea’s nuclear arsenal.

“I feel like I’m firing a flare at the starting line in the moment of (the two Koreas) writing a new history in North-South relations, peace and prosperity,” Kim told Moon as they sat at a table to begin their closed-door talks.

Moon responded that there were high expectations that they produce an agreement that will be a “big gift to the entire Korean nation and every peace loving person in the world”.

It was all smiles as Moon grasped Kim’s hand and led him along a red carpet into South Korean territory, where school children placed flowers around their necks and an honour guard stood at attention for inspection.

Thousands of journalists were kept in a huge conference centre well away from the summit, except for a small group of tightly-controlled pool reporters at the border.

The handshake was momentous, with Kim’s meeting being the first time one of the ruling Kim leaders has crossed over to the southern side of the Demilitarised Zone (DMZ) since the Korean War ended in 1953.

The rivals fought one of the 20th century’s bloodiest conflicts and even today occupy a divided peninsula that is still technically in a state of war.

It follows months of heightened tensions between the US, its ally South Korea and the North, with Trump and Kim engaging in tit-for-tat threats that some feared would end in nuclear war.

On New Year’s Day, Kim asserted: “The entire area of the US mainland is within our nuclear strike range. The United States can never start a war against me and our country.”

Trump tweeted in response, “I too have a Nuclear Button, but it is a much bigger & more powerful one than his, and my Button works!”

However, in recent months tensions have eased considerably. Over Easter, the US Secretary of State, Mike Pompeo, held a secret preliminary meeting with Kim. Trump has since suggested he may meet Kim at a summit in the coming months.

What next for diplomacy?

Beyond the ceremony and photo opportunities, it is still not clear whether Kim and Moon can make any progress in talks on the nuclear issue, which has hung over US and South Korean officials for decades.

North Korea’s nuclear and missile tests last year likely put it on the threshold of becoming a legitimate nuclear power. North Korea claims it has already risen to that level.

The Korean state news agency said that the leader would “open-heartedly” discuss with Moon “all the issues arising in improving inter-Korean relations and achieving peace, prosperity and reunification of the Korean peninsula” in a “historic” summit.

And What Next For Nuclear Weapons?

Nuclear weapons are the top talking point of Friday’s summit. The meeting is set to provide the clearest sign yet of whether it is possible to peacefully negotiate with a country that has spent decades building its arsenal, despite crippling sanctions and near-constant international criticism.

Expectations are low, given that past so-called breakthroughs on North Korea’s weapons have collapsed amid acrimonious charges of cheating and bad faith.

Sceptics of engagement have long said that the North often turns to interminable rounds of diplomacy meant to ease the pain of sanctions – giving it time to perfect its weapons and win aid for unfulfilled nuclear promises.

Advocates of engagement say the only way to get a deal is to do what the Koreas will try on Friday: sit down and see what is possible.

South Korea’s Moon, a liberal whose election last year ended a decade of conservative rule in Seoul, will be looking to make some headway on the North’s nuclear programme in advance of a planned summit in several weeks between Kim and US president Donald Trump.

Kim, the third member of his family to rule his nation with absolute power, is eager, both in this meeting and in the Trump summit, to talk about the nearly 30,000 heavily armed US troops stationed in South Korea and the lack of a formal peace treaty ending the Korea War – two factors, the North says, that make nuclear weapons necessary.

North Korea may also be looking to use whatever happens in the talks with Moon to set up the Trump talks, which it may see as a way to legitimise its declared status as a nuclear power.


[photo-1]
South Korean President Moon Jae-in and North Korean leader Kim Jong Un meet in the truce village of Panmunjom inside the demilitarized zone

[photo-2]
The two leaders shook hands before beginning talks behind closed doors

[photo-3]
Moon walks Kim along a red carpet into South Korean territory, where school children placed flowers around their necks and an honour guard stood at attention for inspection

[video]

The Huffington Post, Published: 27/04/2018 07:51 BST, Updated 59 minutes ago
'A New Beginning': Kim Jong Un Meets South Korean Leader At Historic Nuclear Summit

Talks a 'big gift to the entire Korean nation and every peace loving person in the world'.
By Steven Hopkins
https://www.huffingtonpost.co.uk/entry/kim-jong-un-makes-history_uk_5ae2be94e4b04aa23f219937

The leaders of the two Koreas held a landmark summit Friday after a highly symbolic handshake over the Military Demarcation Line that divides their countries, with the North’s Kim Jong Un declaring they were at the “threshold of a new history”.

Kim said he was “filled with emotion” after stepping over the concrete blocks, making him the first North Korean leader to set foot in the South since the Korean War ended in an armistice 65 years ago.

At Kim’s impromptu invitation the two men briefly crossed hand-in-hand into the North before walking to the Peace House building on the southern side of the truce village of Panmunjom for the summit − only the third of its kind since hostilities ceased in 1953.The leaders of the two Koreas held a landmark summit Friday after a highly symbolic handshake over the Military Demarcation Line that divides their countries, with the North’s Kim Jong Un declaring they were at the “threshold of a new history”.
Kim said he was “filled with emotion” after stepping over the concrete blocks, making him the first North Korean leader to set foot in the South since the Korean War ended in an armistice 65 years ago.

At Kim’s impromptu invitation the two men briefly crossed hand-in-hand into the North before walking to the Peace House building on the southern side of the truce village of Panmunjom for the summit − only the third of its kind since hostilities ceased in 1953.

“I came here determined to send a starting signal at the threshold of a new history,” said Kim, whose nuclear-armed regime is accused of widespread human rights abuses.

With the North’s atomic arsenal high on the agenda, South Korean President Moon Jae-in responded that he hoped they would reach “a bold agreement so that we may give a big gift to the whole Korean people and the people who want peace”.

Kim was flanked by his sister and close adviser Kim Yo Jong and the North’s head of inter-Korean relations, while Moon was accompanied by his spy chief and chief of staff.

It is the highest-level encounter yet in a whirlwind of nuclear diplomacy, and intended to pave the way for a much-anticipated encounter between Kim and US President Donald Trump.

The North’s official KCNA news agency said that Kim will “open-heartedly discuss… all the issues arising in improving inter-Korean relations and achieving peace, prosperity and reunification of the Korean peninsula”.

But it did not mention denuclearisation, and as images of the leaders’ handshake were beamed around the world, the North’s state television showed only a test card.

Last year Pyongyang carried out its sixth nuclear blast, by far its most powerful to date, and launched missiles capable of reaching the US mainland.

Its actions sent tensions soaring as Kim and Trump traded personal insults and threats of war.

Moon seized on the South’s Winter Olympics as an opportunity to broker dialogue between them, and has said his meeting with Kim will serve to set up the summit between Pyongyang and Washington.

The White House said it hoped the summit would “achieve progress toward a future of peace and prosperity for the entire Korean Peninsula”.

Trump has demanded the North give up its weapons, and Washington is pressing for it to do so in a complete, verifiable and irreversible way.

Seoul played down expectations before the summit, saying the North’s technological advances in its nuclear and missile programmes made the summit “all the more difficult”.

After the morning session, Moon’s spokesman Yoon Young-chan said the two leaders had had a “sincere and frank dialogue over the denuclearisation of, and the establishment of permanent peace on the Korean peninsula”.

Peace and denuclearisation

Pyongyang is demanding as yet unspecified security guarantees to discuss its arsenal.

When Kim visited the North’s key backer Beijing last month in only his first foreign trip as leader, China’s state media cited him saying that the issue could be resolved, as long as Seoul and Washington take “progressive and synchronous measures for the realisation of peace”.

In the past, North Korean support for denuclearisation of the “Korean peninsula” has been code for the removal of US troops from the South and the end of its nuclear umbrella over its security ally − prospects unthinkable in Washington.

Moon said he hoped they would have further meetings on both sides of the peninsula, and Kim offered to visit Seoul “any time” he was invited.

But Robert Kelly of Pusan National University warned that Pyongyang “hasn’t really changed, and it hasn’t offered a meaningful concession yet”, adding there were still “huge” strategic and political divisions between the North on one hand, and the South and the US on the other.

Yonsei University professor John Delury said the post-summit statement will give “a lot of chance to analyse every word, (read) between the lines, look for things that are there and not there”.

Pyongyang announced last week a moratorium on nuclear tests and intercontinental ballistic missiles, adding it would dismantle its Punggye-ri nuclear test site.

But it also said it had completed the development of its weapons and had no need for further tests.

Tree planting

Seoul has also promoted the idea of opening talks towards a peace treaty to formally end the 1950-53 Korean War, when hostilities stopped with a ceasefire, leaving the neighbours technically in a state of conflict.

Reunions of families left divided by the war could also be discussed at the summit, and Moon told Japanese Prime Minister Shinzo Abe he would raise the emotive subject of Japanese citizens kidnapped by the North.

After a morning session lasting an hour and 40 minutes, Kim crossed back to the North for lunch, a dozen security guards jogging alongside his limousine.

Before the afternoon session, Moon and Kim were to hold a symbolic tree planting ceremony on the demarcation line.

The soil will come from Mount Paektu, on the North’s border with China, and Mount Halla, on the South’s southern island of Jeju.
After they sign an agreement, a joint statement will be issued, with a banquet attended by the leaders’ wives to follow in the evening and a farewell before Kim returns to the North.

[photo]
North Korea’s leader Kim Jong Un (L) shakes hands with South Korea’s President Moon Jae-in (R) at the Military Demarcation Line that divides their countries ahead of their summit at the truce village of Panmunjom on April 27, 2018. North Korean leader Kim Jong Un and the South’s President Moon Jae-in sat down to a historic summit on April 27 after shaking hands over the Military Demarcation Line that divides their countries in a gesture laden with symbolism.


The Guardian, Published: 27 April 2018 8:42 am
North and South Korea hold historic summit
By AFP
https://guardian.ng/news/north-and-south-korea-hold-historic-summit/

It’s Been 65 Years. Why Hasn’t the Korean War Ended?
https://www.nytimes.com/video/world/asia/100000005858676/why-korean-war-never-ended-armistice.html?playlistId=1194811622211

Kim Jong-un Crosses Inter-Korean Border
https://www.nytimes.com/video/world/asia/100000005871731/jong-moon-korea-summit.html?playlistId=100000005407723

Korea Talks Begin as Kim Jong-un Crosses to South’s Side of DMZ
https://www.nytimes.com/2018/04/26/world/asia/korea-kim-moon-summit.html

For the first time since Korean War armistice in 1953, a North Korean leader will cross into South Korean territory, when Kim Jong Un meets with South Korean President Moon Jae-in in the border village of Panmunjom.

Not only is the physical meeting of the two Korean leaders historic, merely engaging in a conversation is as well. In fact, the leaders of the two Koreas have only held talks two other times since the Korean War. The most recent of those talks took place more than a decade ago in 2007, when Kim Jong Un's father, Kim Jong-il, was in power.

The historic summit will focus on Kim Jong Un's recent vow to suspend nuclear and long-range missile tests, as well as North Korea's plans to close its nuclear test site. The Trump administration will also be keeping a close eye on the events of the summit as it prepares for a meeting between Kim and President Trump that is anticipated for May or June.

While Kim has agreed to a seat at the table, however, he is reportedly refusing to sit on any of the summit's public toilets. And accordingly to Lee Yun-keol, who worked in a North Korean Guard Command unit before defecting to South Korea in 2005, that's par for the course.

"Rather than using a public restroom, the leader of North Korea has a personal toilet that follows him around when he travels," Lee Yun-keol told the Washington Post.

The reason? They are protecting against a literal info dump.

"The leader's excretions contain information about his health status so they can't be left behind," Lee Yun-keol explained.

Similar travel considerations are reportedly made whenever the North Korean leader conducts on-site inspections of military bases and state-run factories across the country. In fact, according to the South Korean news agency DailyNK, there is a customized bathroom built into Kim's convoy of vehicles at all times.

"The restrooms are not only in Kim Jong Un's personal train but whatever small or midsize cars he is traveling with and even in special vehicles that are designed for mountainous terrain or snow," a source in South Pyongan Province familiar with Kim's Escort Command told the DailyNK in 2015. "There are multiple vehicles within the convoy so that people cannot tell which one he is in, and there is a separate car that acts as his restroom."

So, in this respect at least, it seems this historic summit is no different than Kim's other excursions. He simply always uses a personal, highly guarded toilet in "loo" of public facilities.


The Washington Post, Published: April 26, 2018, 4:24 PM
Kim Jong Un is bringing his own toilet to the Koreas summit
By Christina Capatides, CBS News
https://www.cbsnews.com/news/kim-jong-un-bringing-his-own-toilet-to-the-koreas-summit/

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山田屋の焼きまんじゅう

 金龍寺からサクサクと東武太田駅目指して歩きはじめましたが、またまた、細い目をしたヤッホーくんに飛びかかってきたものがあります。
 それは「焼きまんじゅう」でした。
 もう、山歩クラブの皆んなのことなどかまってられません。
 おなかをすかした餓鬼のように、むしゃぶりついていました。
 あっ、写真にとっておこう、と気がついたときには、もう一個ペロリ。

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 山田屋さん(太田市金山町13-1 Tel 0276-22-3557)でした。

http://www.donryu-yamadaya.com/

 食べ終わって後ろを振り返って商品棚を見てまたまたびっくり:

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 どうして佐々部清監督(1958-)の自筆色紙があるの?
 山田屋さんのホームページにもこの映画があるんです。

【予告編】群青色の、とおり道(2015年7月11日公開)
https://www.youtube.com/watch?time_continue=4&v=M8Kdhc7corA

太田市合併10周年記念映画「群青色の、とおり道」制作発表
https://www.youtube.com/watch?v=fDUA23aQiIw

映画『群青色の、とおり道』完成披露試写会
https://www.youtube.com/watch?v=PIbgOV5tJKk

見どころ
 群馬県の太田市、新田郡尾島町、新田町、藪塚本町の合併10周年記念事業の一環として製作された青春ドラマ。
 10年ぶりに故郷の太田市へと戻ったミュージシャン志望の青年が、家族や同級生たちと交流を通じて未完成であった曲を完成させていく。
 メガホンを取るのは、『半落ち』などの佐々部清。
 『仮面ライダーW(ダブル)』シリーズなどの桐山漣、ベテランの升毅、宮崎美子、井上順らが顔をそろえる。
 温かな物語もさることながら、太田市の風景や祭事を捉えた映像の数々にも引き込まれる。

あらすじ
 ミュージシャンになることを夢見て、勘当同然で群馬県太田市から東京へと飛び出した佳幸(桐山漣)。
 父親の年男(升毅)から連絡を受け、彼は10年ぶりに里帰りをすることに。
 厳格さの消えた年男、気丈で明るいままの母・明子(宮崎美子)、高校生となった妹・幸恵(安田聖愛)、そして教師として小学校で働くクラスメートの唯香(杉野希妃)と再会する。
 彼らと触れ合い、生まれ育った街の風景を眺めながら、自分を支えてくれていた人びとと故郷への思いをかみしめながら、佳幸は10年間未完成であった曲を作り上げる。

https://www.cinematoday.jp/movie/T0019866

http://www.gunjyoiro.jp

ロケ地マップをご覧ください:
http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0020-001kikaku-kikaku/files/gunjo-map.pdf

 映画好きな清水聖義(1941-)市長が「合併10周年事業の一つと して太田市を舞台にした映画を作りたい」と発信した のが事の始まり。
 それを橋本さんの友人(市内在住) が聞き、橋本さん(脚本プロデューサーを担当する橋本剛実さん)に連絡。
 旧尾島町出身で映画の仕事に携わる橋本さんは、すぐに市長のツイッターに「製作したい」と立候補。
 合併10周年を記念する映画だが、単なるイベントではなく「映画として残る作品にしたい」と考え、名作『チルソクの夏』の佐々部監督に直談判した。
 若いころ、同じような苦労をしたことがある佐々部監督は「力になってあげたいが脚本次第」と条件を付ける。
 橋本さんは自ら脚本を短期間で仕上げ、見事に監督に認められた。
 実は市長の元には他のプロデューサーや監督からオファーがあった。
 しかし、太田市出身で、一番の熱意を感じた橋本さんに映画製作を委ねることになった。


広報おおた、平成27年1月1日号
合併10周年の映画を作り始めるまで
http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0020-001kikaku-kikaku/files/27.1.1-1-3.pdf

 で、なぜか店内の色紙には「八重子のハミング」(2016年11月12日公開)も:

見どころ
 『半落ち』などの佐々部清が監督を務め、ガンと闘いながら若年性アルツハイマー病の妻を介護した陽信孝の原作を基に描くドラマ。
 山口県萩市を舞台に、4度のガンの手術に耐えた夫が、次第に記憶を失っていく妻と過ごした約12年の日々をつづる。
 数多くの作品に出演してきた升毅を主演に迎え、妻を『パイレーツによろしく』などの高橋洋子が好演。
 夫婦の強い絆と深い愛情に涙する。

あらすじ
 山口県のホールで開かれた講演会で、白髪の石崎誠吾(升毅)は、およそ12年にわたる最愛の妻八重子(高橋洋子)の介護体験について口を開く。
 最初はどんどんいろいろなことを忘れていく彼女に戸惑い、つらい思いもしたが、彼は妻がゆっくりと時間をかけて別れを言おうとしているのだと悟る。
 元音楽教師の八重子は、好きな歌を歌うと笑うときもあり……。


https://www.cinematoday.jp/movie/T0021296

http://www.yaeko-humming.jp

 これは、山田屋さんのおかみさんのブログで分かりました:

 観た人の涙腺をことごとく破壊している映画です。
 私も来週破壊されにいってきます。

 あの佐々部清監督の映画です。
 もう観る前から泣きそうです。


女将のブログ、2017年5月25日 (木)
八重子のハミング
http://yamadaya-yakimanjuu.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post.html

予告編は「さぬき映画祭」で:
http://www.sanukieigasai.com/lineup/2018/film15/index.html

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根津嘉一郎(初代)

 「金山城跡「を後にします。

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 その先「新田神社」で昼食。

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 そして下山、呑龍ならぬ「金龍寺」へ。

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 さて、呑龍様というのは、俗称であって、関東に於ける名刹、正確にいえば『義重山、大光院、新田寺』のことでこの寺を開山した名僧呑龍上人の開山堂があって、今では主屋の新田寺の本堂よりも、離れの開山堂の方が有名になっている。

 この寺が出来たのは、徳川家康が天下を治めてから征夷大将軍になるために『俺は源氏新田の後裔だ』ということを裏付けるため、彼は祖先新田義重の菩提寺として呑龍上人をして、この地に堂宇を建立させたといわれている。
 上人はその後、小児の養育に一生を捧げてその徳は、関八洲に及んだそうで、世間では『子育て呑龍』といわれて大変有名になったそうだ。

 この大光院の他に新田義重公並びに義貞公の墓のある『金龍寺』がすぐその裏にあって、ここから義貞公の居城であった金山が関東平野に忽然と独立している。
 山の高さは約200m余りだからさほど高い山というほどでもないが、平野の真中に屹立しているので眺望は、はなはだ広く、はるか東方には筑波山が霞み、西方に眼を転ずると赤城、榛名、妙義、の上毛の三名山があり、その奥には浅間の噴煙がうかがえ、背後は遠く奥日光の山々が連綿と連がり、足下には北に渡良瀬、南に大利根の二川が洋々と白銀の様に光り、秩父連峰の肩から晴れた日には、遠く富士山まで望見することができ来る。
 実に雄大な景観。
 また金山城跡には現在義貞公を祭った新田神社があり、その他、義貞公旗揚の地、生品神社、当地出身である高山彦九郎先生を祭る高山神社も金山々麓にあって、東京あたりからの日帰りの遠足には手頃なところで、春秋のシーズンには観光地として相当賑やかなところである。


中島飛行機の想い出
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/nakajima-saito/naka17-20.html

 さて、あとは立ち寄り湯だね、とか門前の石堤に座っていたとき、またまた、細いヤッホーくんの目に飛び込んできたものがあります。
 それが、われわれ座っているちょうど真後ろの門柱に刻まれていた「根津嘉一郎」の名前!
 
 根津ってあの「根津美術館」の根津?どうして。。。?
 
 鉄道に関したものでは私の経営している東武の沿線に、至極荒れた寺があったのを、繁昌させた経験がある。

 その寺は、以前は参詣者が跡を絶たないほど盛んであったが、ある事情で借財が生じてからというものは、寺の手入れなどが出来なくて、一時荒れきっていたのだった。
 そこで私は信仰を求める人達を集めるのには、まず寺の修理をして恢復を図らなければならないことを住職に話した。
 そして寺を改善する気はないかと訊いたところ、住職は檀家總代を招んで相談した。

 その結果、宜しく頼むと言ってきたので、費用は全部会社が負担して、早速、寺の改善に取掛ったのである。

 そこで恐らくは300年も掃除しなかったであらうと思われる寺の内部をすっかり掃除して、全部畳替えを行なうと同時に、庭の手入れも綺麗にした。
 そして寺の内外の面目を一新し、それから御開帳という段取にしたのである。

 先ず差当り、御開帳の乗車券切符を発行し、東京で一流の料理屋、遊廓等の主人や俳優等に1000枚の招待状を送った。
 これらの人たちは、縁起の良い寺から御開帳の招待を受けたというので、喜んで来て見ると、今までとは打って変って、寺が立派になり、賑々しく繁昌しているので、たちまちにして評判が立った。

 そしてそれ以来、参詣人が増す一方になった。
 これが現在の、西新井の大師や、太田の呑龍の状態である。


根津嘉一郎(1860-1940)著『世渡り体験談』(実業之日本社、1938年9月)より抜粋
http://ktymtskz.my.coocan.jp/nakagawa/toobu3.htm

 そうなんです、「鉄道王」根津嘉一郎、東武鉄道の根津嘉一郎だったんですねぇ

人間の生命は、五十年が普通だとされている。 例え長くても七十年八十年は、古来稀(ま)れな方である。 だから、人は短い一生の中にお国のために何か善い事をして置かねばならぬ

根津嘉一郎著『世渡り体験談』忘れ得ない父の想ひ出 から 父の教え
https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/fs/2/0/0/8/_/koho0810.pdf

 私が最も渾身の力を尽したのは、東武鉄道の整理に関してである。
 これらの事情を語ることが事業に志す後進の人びとに、多少でも参考になれば結構だと思う。

 東武鉄道では、私は最初株も持たなかったが、中途から株主となって、総会に出席してみると、何時も紛糾を極めていたから、私はその都度仲裁に入り、軋礫を円く収めていた。
 この鉄道は初め浅田正文、原六郎、末延道成、田島信夫の諸氏によって創設されたもので、確か明治32年から営業を開始した会社であった。
 そして初めての配当は7分2厘であったが、その後、配当が6分となり5分5厘となり、終いには4分という風に、段々尻つぼまりになっていった末、遂に無配当となって、会社騒動を誘起したものである。

 そして明治37年に至ったが、この時の社長は末延道成氏で、その前後が毎期無配当だったから、会社の内部は一層ごたごたして、総会の都度大混乱を極めていたのである。
 その頃監査役は3人で、現在三井にいる南條金雄君のお父さんなどもいて、重役の多くは皆一流の人たちであった。
 こうしたことが1、2年続いて、会社の経営が益々困難に陥った時、当時麻布二ノ橋に居住していた私の家に、監査役3人が訪ねて来て、是非とも東武の重役になってくれと言うのである。
 それで私は、その年の10月に重役になることを承知し、選挙の結果、取締役になった。
 すると引き続き11月の総会で、私に社長になることを求められたが、一旦は断ったけれど、更に12月の重役会で再び私の社長就任を決議したので、私も遂にのっぴきならず初めてそれを承諾した。

 その頃の東武鉄道は、資本金235万円と称するものであったが、事業経営は欠損を繰り返していて、会社の全財産よりも借入金が多いというような状態であった。
 しかし私は、男子として一旦仕事を引受けた以上は、何事でもこれをなし遂げなければ止まぬという熱誠をもって、東武の経営の任に当った。
 まず手始めとして、私はそれまで東武の本社が元の三菱銀行の3階にあって、毎月60円からの家賃を払っていたり、千住にも出張所が設けてあって、その方でも家賃を払っていたのを不経済だと思った。
 そこで取りあえずこの2ヶ所の事務所を廃し、その代りとして、私がその頃重役をしていた市街鉄道会社の本所の車庫の一部分を月6円50銭で借り受け、そこに会社の一切を挙げて引き移ることにしたのである。
 そんなことが端緒となって、私は会社の改革を行ない、主任級のものを全部課長にした。

 当時の東武がどんな経営状態にあったかといえば、200万円の大会社が僅か1万円の借入金をするのにも非常に困難であった。
 その上、その頃普通日歩2銭そこそこだったものが、2銭8厘から時には3銭5厘の日歩を支払わなければ、借入が出来ないような窮状にあったから、私はこれは問題だと思った。
 勿論こんな状態ではいけないと思ったから、こうした高利の借入金は漸次償却することに努めた。
 そして消極的には出来る限りの冗費を除くと共に、積極的には不況時、最も困難とされていた株主からの払込を断行して、専ら社内の改革や整理に尽力したのである。
 その結果、この改革が奏効して、明治38年の後期になると再び配当を復活することが出来て、3分から4分、5分、6分、7分というように今度は逆に配当を増していき、やっと1割4分まで配当することが出来たのである。
 その頃の私は、金融のことについては随分と頭を使ったもので、ある時、ある大会社に遊んでいる金があるのに着眼し、重役に申込んで、東武へ貸すという条件の下に、その金を銀行に預入れさせ、滞り勝ちだった借入金を償却して大分楽をしたことなどがある。
 否、楽をしたばかりでたく、今まで借りるばかりだった処へ、逆に少しづつ返せるようになったので、
「ホウ、東武は根津になって、チョイチョイ金を返し始めたが、これじや貸し直してもいいな」
という話も銀行や会社の間にぽつぼつでてくるようになった。
 そして益々、金の遣り繰りが楽になってきたような訳であった。
 しかし東武で一番困らせられたことは、これまでは末延社長がやっていたからといって、三菱と10万円の当座を組んでいたのが、私になって急に5万円に減らされたことであった。
 これには、私も非常に閉口したし、苦労したものであった。

 まず金融上では、そのような経緯があったが、それからどうにかこうにかして、一方、利根川に、当時では大工事であった840mという鉄橋を架けたり、また埼玉県の川俣止りだった線路を川向うの栃木まで延長したりして、収入も段々と増えるようになってきた。
 そして尚、東武の線路を館林や、足利から進んで日光や伊勢崎方面にまでも達せしめたので、急に営業成績は上って、たちまちの内にボロ会社といわれたものが、一躍、優良会社の列に加えられるようになったのである。
 私の努力は報いられて、当初235万円だった資本金が、現在では5000万円の鉄道会社になっているが、さしも長い間の退勢を挽回したという快感は、永久に忘れることのできないものである。


根津嘉一郎(1860-1940)著『世渡り体験談』(実業之日本社、1938年9月)より抜粋
http://ktymtskz.my.coocan.jp/nakagawa/toobu3.htm

 私と同世代以上なら御存知の方が多いと思いますが、日清製粉の前身の館林製粉は、皇后陛下(美智子様)の祖父の正田貞一郎氏(正田英三郎氏の父)が創立した会社です。
 正田貞一郎氏は根津嘉一郎氏(初代)と友人関係だったこともあり、根津嘉一郎氏(初代)に館林製粉の創業直後の社長に就任してもらっています。
 また、その逆に正田貞一郎氏が東武鉄道の会長に就任したことがあります。
 「正田家の祖先は新田義重の家臣、生田隼人となっている」という記録があるそうです。
 日清製粉(旧・館林製粉)の製品の輸送も昔は東武鉄道の貨物列車で運搬されていたのでしょう。


鉄道で行く旅、2016-11-11 06:00:00
北千住から太田まで
https://ameblo.jp/tetsudotabi/entry-12218238482.html


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2018年04月25日

金山城

 お昼休みの間、ヤッホーくん、書斎にこもっていました。
 珍しく昼飯もとらずに何やら探し物をしていましたって。
 「あった、これだ!」ヤッホーくんから鬨(とき)の声。

 見つかったって、貴重な本です。著者はニューヨーク市、
 コロンビア大学東アジア研究所のヘンリー・スミスさん、
 Henry D.Smith II『泰山荘』Taizanso and One-Mat Room
 (国際基督大学博物館湯浅八郎記念館編、1993)です。

 だって、何度か足を運んでるんだぁあのあたり、だって。
 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記ご参照あれ:

# 2011年01月26日「INAXギャラリー1」
# 2011年01月28日「江東区(ムカシ)」
# 2011年02月12日「馬角斎」
# 2011年02月19日「雲取山」
# 2011年06月01日「鹿肉」
# 2012年05月01日「カタクリ」
# 2012年05月22日「国際基督教大学」
# 2012年05月23日「大台ケ原」
# 2012年05月24日「黒曜の森」
# 2014年06月06日「蛍の光」
# 2015年11月26日「ル・クレジオ、アイヌ」

 そういえば、金山城が「日本百名山」?
 ちゃう、ちゃう、「日本百名城」でしょ
 そのひとつだとするならば、これまでに
 行ったところねぇ…と考えているようす。

 カッコ()の後ろに記載あるのが、ヤッホーくんのこのブログ、その日付と日記の表題になります:

☆ 山形城(山形県)
☆ 足利氏館(栃木県)2010年11月14日「大小山」
☆ 鉢形城(埼玉県)2015年01月27日「鉢形城」
☆ 佐倉城(千葉県)
 2014年04月16日「深川クリニック」
 2014年04月16日「佐倉城跡公園」
 2014年04月17日「佐倉連隊」
 2014年04月18日「総武鉄道」
 2014年04月19日「松籮玉液」
 2015年11月14日「大久保利通とその時代」
 2017年03月30日「佐倉高校」
 2017年03月31日「長嶋茂雄」
☆ 江戸城(東京都)2012年01月03日「太田道灌」
☆ 八王子城(東京都)2012年12月27日「八王子城」
☆ 小田原城(神奈川県)2014年04月01日「出世道」
☆ 小諸城(長野県)
 2012年07月12日「乳母お清の方」
 2013年03月07日「北国街道小諸宿」
☆ 松本城(長野県、国宝)
 2011年04月10日「国宝松本城」
 2013年02月24日「松本市」
☆ 高遠城(長野県)2010年06月01日「高遠」
☆ 首里城(沖縄県)
☆ 五稜郭(北海道)2013年10月04日「函館二日目」

 12城でしたね・・そして「金山城」・・・

 金山城は、戦国時代に造られた城で、金山全体の自然地形を利用して造られた「山城」という種類の城です。
 山頂を中心として金山全山にその「縄張り」が及ぶ金山城跡は、中世の貴重な城郭として県内では初めて、1934(昭和9)年に国の史跡指定を受けました。
 また、2006(平成18)年には公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されています。

※「縄張り」とは、城郭用語で、縄を張って設計、築城したことから、転じて城の平面的な形状、構造のことを言います。

 標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。
 特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。
 主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山の砦の4箇所ですが、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られます。


太田市公式サイト
http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/nyumon.html

城は城でも山城です

 日本のお城というと大坂城 や姫路城のような、「天守閣」を持った城を思い浮かべる人が多いと思いますが、それらはほとんどが江戸時代に建てられたものです。
 「天守閣」は「権威の象徴」として、また「物見」の役割を持つもので、この頃のお城は流通経済を重視して平地に造られました。
 天守閣を持つ城は、織田信長の時代に造られたと言われています。

 金山城は、天守閣を持つ城よりも古い時代(1469年)に造られた城でした。
 それでは、金山城は当時どのような城だったのでしょうか。
 金山城は「山城」という種類の城です。
 「山城」では、急峻な斜面や岩盤を巧みに利用し、柵を巡らせたり、土を盛って土塁を築いたり、岩盤を削って堀を掘ったり、石を積んで石垣を造るなどしました。
 金山城は、金山全体の自然地形を利用しながらさらに手を加え「巨大な要塞」として、外敵からの侵攻を防いでいたのです。
 現在の金山山頂部、新田神社のある場所は、実城(本丸)と呼ばれ、当時金山城主がいた場所であると考えられています。
 織田信長の時代よりも約100年前に築城された金山城には天守閣はなかったと考えられますが、天守閣に替わるような重層の建物が建っていたかもしれません。

 金山城は、1469(文明元)年に新田(岩松)家純の命により築城されました(『松陰私語』)。
 その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏)が下剋上により実質上の金山城主となり、全盛を築きました。
 越後上杉氏、甲斐武田氏、相模小田原北条氏など有力戦国大名の抗争の狭間にあった上野(こうずけ)で、金山城主由良氏は、上杉氏や小田原北条氏との従属関係を保ちながら生き残りを図りました。
 その間、金山城下は10数回もの攻撃を受けますが、金山城は一度も城の中枢にまで攻め込まれず、その堅固さを誇りました。
 ところが1584(天正12)年、金山城は小田原北条氏の謀略により直接支配下に入り、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原北条氏討伐に より廃城となりました。


国指定史跡
金山城跡

群馬県太田市教育委員会文化財課
www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/files/kanayamajoato.pamph.pdf

日本100名城「金山城
https://www.youtube.com/watch?v=BqRT0HdAz-g

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財務省・矢野官房長

林文科相 公用車で白昼キャバクラヨガ通い《予告編》
https://www.youtube.com/watch?time_continue=23&v=CPVKkvHghj0

 安倍政権は、疑惑や不祥事が連続発生する、かつてないほどの異常事態になっている。
 今国会に入って3ヶ月で、国会で取り上げられた主なものだけで13件に上る。
 政治家や官僚、自衛官に至るまで、言動に次々と問題が浮上するさまは、野党に「まるで疑惑のもぐらたたきだ」(立憲民主党の辻元清美国対委員長)とまで指摘されている。 

 政権の対応で特徴的なのは、新たな事実が出てきても、問題をあくまで否定し続ける点だ。
 
 加計(かけ)学園問題では、愛媛県や学園の関係者らと首相官邸で面会した柳瀬唯夫首相秘書官(当時)が「首相案件」と発言したとする同県文書の存在が明らかになった。
 同様の文書は農林水産省でも見つかり、面会の事実は信憑(しんぴょう)性が高まっている。
 だが柳瀬氏は「記憶の限りでは会っていない」との主張を続けている。

 福田淳一財務次官のセクハラ疑惑では、女性社員が被害を受けたことは事実とするテレビ朝日に対し、福田氏はセクハラを認めないまま辞任を表明した。

 公文書の改ざんや隠蔽(いんぺい)も相次いでいる。
 森友学園への国有地売却を巡る財務省決裁文書の改ざんは、与野党双方から「前代未聞」と非難を受けた。
 陸上自衛隊の日報問題では、昨年には調査を指示しても出てこなかった日報が、防衛省内に保管されていたことが分かり、隠蔽が発覚した。

 これらの疑惑や不祥事の多くは、今も全容解明には程遠い状況が続いている。

 文部科学省による前川喜平前次官の授業への「介入」、首相秘書官の国会でのやじなど、5年を超えた長期政権のおごりや緩みが目立つ事態も増えている。

 問題の発生は4月に入り加速しており、政権に距離を置く自民党の閣僚経験者の一人は「安倍政権はもう末期状態だ」と指摘する。


東京新聞・朝刊、2018年4月23日
疑惑・不祥事 3ヶ月で「13」
異常事態の安倍政権

(中根政人)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201804/CK2018042302000127.html

 底なしにひろがる公文書のカイザン、インペイ、ネツゾウ。漢字の読めないシンゾウにアホウは歴史もギゾウし、国民、主権者、勤労者を彼ら支配層、富裕層、特権階級はウソに「はめた」というご意見もあります。
 とんでもはっぷん!

 「もう少し大きな字で書いてもらったら見やすいなと思った程度に見た」
 「名乗り出ているので、本人に話を聞かせてもらう」
 財務省の福田淳一事務次官による女性記者へのセクハラ問題について、テレビ朝日の抗議文を受けて、麻生太郎財務相は一切謝罪することなくこう居直った。
 麻生財務相の暴言だけでもおなかいっぱいだが、麻生財務相が乗り移ったかのような暴言を連発しているのが、女性記者へのセクハラ問題で福田淳一事務次官の辞任に伴い、事務次官代行も務めている矢野康治官房長だ。

「(名乗り出ることは)そんなに苦痛なことなのか」
「(調査法が不適切では?と聞かれ)より良い方法があれば考えますけど、ご提案があれば」
「テレ朝の会見は見ていません」
「(セクハラへの意識が低いのでは?と聞かれ)私は相当高い」
「財務省としての調査は、“いちおう”続けますよ」

 矢野官房長は、被害者への配慮も、セクハラに対する問題意識もまったくない、上から目線の暴言を連発している。

 佐川宣寿前国税庁長官といい、福田次官といい、出てくる人出てくる人、上から目線のパワハラ気質丸出しで、財務省にはまともな人はいないのかと言いたくなる。 

 しかも、この矢野官房長は、安倍官邸の意を受けて報道機関に圧力をかけていたということが明らかになった。
 それも、テレビ朝日の『報道ステーション』に圧力メールを送っていたというのである。
 本日4月20日、元経産官僚の古賀茂明氏がこんなツイートをした。

〈テレ朝早河会長と篠塚報道局長は、自民党の報ステ女性プロデューサー宛圧力文書が来た時報道せず隠蔽 私がI am not ABEと発言した時も菅官房長官二人の秘書官中村格(詩織さん事件もみ消し警察幹部)矢野康治(現財務省官房長)の圧力メールを隠蔽 報ステプロデューサを更迭 記者が新潮に行くのは当然〉

 「私がI am not ABEと発言した時」というのは、後に古賀氏の『報道ステーション』降板につながった一件のことを指している。 
 当時の放送を振り返ると、レギュラーコメンテーターだった古賀氏は、2015年1月23日の放送でISによる後藤健二さん、湯川遥菜さんの人質事件について、安倍首相が「ISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援をお約束します」と宣戦布告とも取られかねない発言を行ったことを批判。その上で古賀氏はこう述べたのだった。

「“私はシャルリー”っていうプラカードを持ってフランス人が行進しましたけど、まあ私だったら“I am not ABE”(私は安倍じゃない)というプラカードを掲げて、『日本人は違いますよ』ということを、しっかり言っていく必要があるんじゃないかと思いましたね」

 この発言に、官邸は大激怒。
 本サイトでも当時伝えているが、このとき「菅官房長官の秘書官」が番組編集長に電話をかけまくり、先方が出なかったために今度はショートメールで猛抗議したという。

 このときのことを、古賀氏は著書『日本中枢の狂謀』(講談社、2017年5月)のなかで、この「菅官房長官の秘書官」のひとりの実名をあげながら、こう書いている。

〈2015年1月23日の最初の「I am not ABE」発言の直後、なんと番組放送中に、まず中村格官房長官秘書官(当時)から、報道局ニュースセンター編集長の中村直樹氏に電話があったという。たまたま中村編集長が電話を取り損ねると、今度はショートメールが入った。テレ朝関係者に聞いた話では、その内容は「古賀は万死に値する」といったような、強烈な内容だったそうだ〉

〈報道によると、この日、菅官房長官は、秘書官と一緒に官邸で番組を見ていたそうだ。その真偽はさておき、仮に直接聞いていなくても、私の発言を知れば、菅官房長官が激怒することは容易に推測できる。秘書官としては、アリバイ作りのためにも、すぐに抗議しておかなければならない。それが秘書官の務めだ。そこで、とにかく放送中にアクションを起こしたことを菅官房長官に示すため、ショートメールを送ったのではないか、といわれている〉

 中村格官房長官秘書官(当時)というのは、現在、警察庁総括審議官を務める警察官僚で、刑事局長時代に安倍御用記者の山口敬之氏の準強姦罪での逮捕を直前でストップさせるなど、「菅官房長官の側近」として知られる人物だ。

 そしてその中村氏とともに、菅官房長官と一緒に官邸で番組を見ていて、菅官房長官が激怒したのを受け、テレビ朝日に「古賀は万死に値する」などのショートメールを送ったのが、当時菅官房長官の秘書官だった矢野官房長だというのだ。

 この矢野氏と中村氏からの“脅迫”が決定打となって、古賀氏は2015年3月27日放送分を最後に降板に追い込まれることになったのだった。

 ちなみに、矢野官房長と安倍官邸の関係については、安倍官邸のスシロー、代弁ジャーナリスト・田崎史郎氏もこう明かしている。

「安倍は新内閣発足に当たり、首相秘書官に財務省が推薦した人物を拒否し、官房審議官だった中江元哉を引っ張った。安倍が財務省出身秘書官の候補に描いていたのは中江と、主税局総務課長だった矢野康治の2人。安倍が中江を起用したため、官房長官・菅義偉は矢野を官房長官秘書官に据えた。
 ポイントは財務省が送り込んだのではなく、安倍も菅も財務省から自分が信頼する人材を“一本釣り”したことだ。これまでは財務省が推薦する秘書官をそのまま使うことが多かったが、官邸人事の初っぱなから財務省の思い通りになっていないのがこの政権の特徴だ」
(「現代ビジネス」2013年2月11日)

 つまり、いま安倍政権が抱えるあらゆる問題に共通する官邸の人事掌握による官僚支配の象徴のひとりが、矢野官房長なのだ。

 そして、この古賀茂明降板事件を思い起こせば、「なぜ、テレ朝は自局でセクハラを報道しなかったのか?」なる批判が、いかに愚問かわかるだろう。
 できるわけがないのだ。
 この古賀氏降板事件以外にも、古舘伊知郎の報ステ降板、『朝まで生テレビ!』のゲスト論客ドタキャン事件、選挙報道への“公平圧力”など、テレビ朝日にはこの間、安倍官邸から陰に陽に数々の報道圧力がかけられている。
 先日深夜にセクハラ公表会見を行った篠塚浩報道局長も、昨年の加計報道が盛り上がる最中の5月に早河洋会長とともに安倍首相との会食に参加、政権批判を牽制されたことがある。

 テレ朝の会見以降、ネット上では被害者の女性記者とされる実名や画像がさらされセカンドレイプとも言うべき卑劣な個人攻撃がなされているが、彼女がセクハラを相談した上司とされる人物の名前や画像もあげられ、攻撃の対象となっている。

 しかし、これまでの安倍官邸からテレ朝への圧力の数々を見れば、直属の上司レベルが報じようとしたところで、上層部の横やりで潰されていたのは火を見るより明らかだ。

 もちろん、これはテレビ朝日に限ったことではない。
 TBSでもNHKでも岸井成格氏や国谷裕子氏が降板させられたり、NHKでは前川喜平・前文科次官のインタビューがお蔵入りになったり、萩生田光一筆頭副幹事長(当時)の選挙報道をめぐる圧力文書は在京キー全局に送られた。
 ほかの局の記者が被害者だったとしても、結果は同じだろう。
 いや、テレビ朝日のように事後的にも公表することすらできなかった可能性のほうが高い。

 実際、今週発売の「週刊文春」(文藝春秋)には福田次官のフジテレビの女性記者に対するセクハラ的言動も掲載されているが、フジがセクハラについて社内調査などに動いた様子はない。
 あの木村太郎氏ですら、
 「『週刊新潮』に言ったのが、いちばんいい方法だった。でなければ、ここまで大きく報じられることはなかった。自社で報道なんて、できるわけないじゃないですか、絶対どこかで潰されてますよ。そんなこと、ゴタゴタ言わないほうがいい」
と語っていたほどだ(フジテレビ『直撃LIVE グッディ!』4月20日放送)。

 むしろ注視しなければならないのは、このあとテレ朝へさらなる圧力がかけられないか、だ。
 そして、圧力の結果、とくに被害者である女性記者や、記者からセクハラの相談を受けていた上司に対して、左遷などの人事で報復がなされないか。
 彼らはすでにネトウヨたちの卑劣な攻撃にさらされているが、勇気をもってセクハラを告発した者がこれ以上不利益や二次被害を被ることのないよう、社会全体で監視する必要がある

 テレ朝からの抗議を受け、矢野官房長はきょう、記者団に対し「テレビ朝日に連絡しました」と語っていたが、まさか圧力の連絡でないといいのだが。


リテラ、2018.04.20
次官セクハラで「そんなに苦痛なことか」暴言の財務省・矢野官房長、テレ朝『報ステ』に圧力メールを送った過去!
http://lite-ra.com/2018/04/post-3965_4.html

 ヤッホーくんのお慕い申し上げている小児科の先生も嘆いています:

 矢野康治財務省官房長、事務次官代行は、安倍政権が一本釣りした官僚だった。

 それであの強気な姿勢、セクハラへの酷い対処が出てくるわけだ。
 あの福田前次官、佐川前国税庁長官もそうだったが、「公僕」であることは彼らの意識の片隅にもない。

 財務省・官僚の劣化もあるのだろうが、劣化させた安倍政権により大きな問題がある。


ステトスコープ・チェロ・電鍵、2018/04/25 09:24
官僚の劣化
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/

 ヤッホーくんのお慕い申し上げている元外交官の指摘の通りです。
 国民でなく他国民に奉仕した「公僕」も偉くなって退職するときは、5千万円以上もわれわれの税金から差しあげるんです。
 あ〜、金山城よ・・・

荒城の月/山口淑子(1920-2014)
https://www.youtube.com/watch?v=RxDdLOMwjc8

 すべてが遠い過去になった時、人は驚くべき証言をし、そしてそれをメディアは当たり前のように書いてしまう。
 その問題が大騒ぎの中にあった時にその証言が明らかになっていれば、あるいは歴史は変わっていたかもしれないというのにである。
 これから書くこともその一例だ。
 きょう4月25日の読売新聞が、1990年の湾岸危機をきっかけに成立した「国際平和協力法」の成立当時の首相であった海部俊樹(1931‐)氏とのインタビュー記事を掲載している。
 いまでこそ自衛隊の海外派遣は安倍首相の手で自衛隊の主要任務になってしまったが、そのきっかけはこの「国際平和協力法」にあったのだ。
 当時を振り返って海部俊樹氏は次のように語ってる。
 小沢一郎(当時自民党幹事長、1942‐)も来て、「やれ(自衛隊派遣を)」と言うから、「一線を越えるわけにはいかない。けれども出来る事なら何でもやろう」と言ったんだと。

 「平和協力隊だといって出しても、衣を脱いだら自衛隊じゃないか、ということになったら、国の失う信用は大きいし、そういうものを我々が望んでいるわけじゃない。だから、あの法案は初めから僕は反対だった・・・」と。

 しかし、「みこし(首相)は軽くてパーがいい」と小沢一郎から陰口をたたかれたとされる海部俊樹首相では、その成立は防ぎきれず、当初の「国連平和協力法」こそ廃案にされたが、その後の宮澤喜一(1919‐2007)政権の下で名前を「国連平和維持活動協力法(PKO法)」と変えて、自衛隊の海外派遣の道が開かれた。
 結局は同じ法案に終わったのだ。

 そこから、サマワや南スーダンへの自衛隊派遣は一直線だ。

 そしてついに安倍首相の手で安保法が成立してしまい、自衛隊の海外派遣が当たり前のようになってしまった。

 前置きが長くなったが、私がこのインタビューの記事を読んで読者と共有したいのは海部氏が語っている次の言葉だ。

外務省の中に、米国務省と連絡を取っている連中がいるわけだ。自民党もにも同調者がいるから、意見がだんだん勇ましくなる・・・

 鳩山由紀夫民主党政権下で外務官僚が米国と通じて鳩山政権に従わなかった事はウィキリークスの暴露で明らかになった。
 しかし、自民党政権下の1990年当時ですら、まったく同じ事が行われていたのだ。
 当時の外務官僚は亡くなっても、いまもそのカーボンコピーが健在であるというわけだ。
 しかも、外務官僚が米国と通じている事を、首相みずから知っていながら、どうにもならなかったということだ。

 この現実は限りなく深刻である。

 どのような政権が出来ようとも、対米自立は不可能に思える理由がここにある。

 新党憲法9条をこの国に誕生させ、憲法9条の力によって、日本を米国のくびきから解放するしかないと私が確信する理由がここにある。

 それにしても、インタビューした笹森春樹という編集員はこう書いている。
 湾岸危機への対応のため立案された国連平和協力法案に「初めから反対だった」という海部氏の述懐には驚いたと。
 無理もない。
 30年近く前の事だ。
 若いこの編集委員にとっては、何も知らない遠い昔の事に違いない。
 戦争から遠ざかるほど戦争が近づくということだ。
 だからこそ新党憲法9条が必要なのである。
 この私の考えは絶対に正しいと思っている。


天木直人のブログ、2018-04-25
米国に国を売る外務省の正体を暴露した海部俊樹元首相
http://kenpo9.com/archives/3625

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中島知久平

 こうして山歩クラブご一行さま、金山城に登城したわけですが、ヤッホーくんしゃがみこんで、へたりこんでいました。

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 どうしたのかな、やっぱり老化を盛んに訴えているヤッホーくんには、この城に登るのももう難儀なのか、大丈夫かな〜
 いえ、ね、隣に建ってる胸像に「中島知久平」とあったから、びっくり仰天。
 これがまあ、やけに細いヤッホーくんの目玉に飛び込んできたっていうわけ。

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 奥ちゃんにかすれ声で聞いています。これってあの中島飛行場のあのナカジマ?三鷹にあるんじゃなかったんだっけ、ね?
 いえ、太田市はナカジマ、イマはスバルの「企業城下町」になってるんだって奥ちゃんが説明してくれています、へえぇ〜
 だからね、三鷹はナカジマの研究所で終わってるんだな、って:

 中島飛行機が巨大化する中で、中島知久平(1884-1949)は経営を弟の喜代一に譲り、自身は政界に入って専念していた。
 しかし中島飛行機の人達は、知久平を大社長と呼んでいた。
 そういった中で、中島知久平は自らの次の夢の実現へと歩み出したのである。

 1940(昭15)年、喜代一社長(知久平の弟)は、突然、秘書課長であった太田繁一(1938年入社)の前に大きな地図を広げ「ここに研究所をつくる」と赤線で囲ったところを示した。
 なんと62万坪もある。 
 
 なんで研究所に62万坪も?と怪訝な顔をしていると、「これは大社長の夢であり、構想だから直接指示を受け、三鷹で土地買収に専念するように」と言い渡された。
 以下、太田繁一の話を続ける(以下、太田さんの敬称を省かせていただきます)。
 
 そこで太田はまず三鷹に拠点を探したが、日本橋の問屋の旦那さんの森山さんという方の別荘があり、一部が洋館風で事務所に出来そうなので、まずそれを譲り受けた。
 それが現在も富士重工業三鷹事業所敷地内に残る森山荘(現在、東京スバル販売店のショールームから隣地に望める)である。
 
 100人を超える農家を中心とした地権者との膨大な買収交渉が始まるわけだが、中島はこの若い社員に、何と運転手つきの自動車を与えた。 この当時、自動車は大臣級の政治家か大企業のトップしか持てなかった時代である。
 この事業に賭ける中島の意気込みが知れる。
 
 買収を進める中で知久平は度々視察に来て、その時に太田が聞かされた構想は、
 「まず最初は、中島飛行機の開発部門が太田や小泉、荻窪と離れている。これを一堂に集めた航空技術の研究所とすること。
 そして先進の研究成果を組み込んだ試作機を造る工場を作って、そこと調布飛行場とを専用道路で結んで試作機を飛ばすことを考えている。
 そしてもう一つ、中島とは関係無く、社会・経済・政治等に関する国内外の学者を集め、日本の国の経営に関する諸問題を研究するため、それに専念できる施設とともに、学者たちの住宅もここに作りたいのだ。」と・・・。

 かくも途方もない遠大な構想が、そこには秘められていたのである。

 「ここ三鷹は高台もあり美しい赤松の林が連なり、その間をクヌギ、ナラなどの武蔵野特有の雑木林が取り囲み、また小川にはワサビが育つ澄んだ水が流れている(野川の川辺)。
 遠くは富士山(富嶽)が望める絶好の場所だ。そういった環境で学者諸賢を始め、我社の技師たちが、梢を渡る松籟(しょうらい)に耳を傾けつ、林間を逍遙して、心身の疲れを癒すとともに、新たな構想を練ったり、良い研究が出来るようにしたい。
 だからこの美しい赤松を決して不用意に切ってはいけない」と言われた。 
 太田はその崇高な計画に心を奪われたという。
 
 また買収した敷地内を案内していた時、一定の地域を指定して、「ここは花畑にするから保留しておくように」と指示された。
 その指定地域の広いこと!
 日比谷公園ほどもあろうことに仰天したと太田は語る。
 「当初はなんでこんな広大な土地が必要か?と理解に苦しんだが、知久平の語る言葉を聞くうちに、国の経営に関する研究と言った遠大な構想は、到底常人では遠く思い及ばなぬところであり、その桁外れのスケールの大きさに、今更ながらに感嘆を禁じ得なかった」と・・・。
 
 ある時、調布飛行場の防衛航空隊から「高台の松が離着陸に邪魔だから切れ」とねじ込んできた。
 知久平は現場を見て、太田に「そんな筈はないから、絶対に切ってはいけない」と言われ、「離着陸の進入角度はこれこれの筈だから問題はない。それでも駄目というなら操縦技術が問題である、と理由を言って説得せよ」と指示を受け、「それでも聞かぬならわしが行く」と言われた。
 それを防衛隊に伝えたら、相手も「大臣が言われるのでは…」とすごすごと引き下がったそうだ。
 (1937年-1939年、第1次近衛内閣で鉄道大臣。敗戦直後の1945年、東久邇宮内閣で軍需大臣および商工大臣として敗戦処理にあたる)

 かように理想を追い求める大構想であったが、買収が完了し、その地鎮祭・鍬入れ式の日が1941(昭16)年12月8日の真珠湾攻撃のその日になってしまったのは運命の悪戯としか言いようがない。
 
 この戦争は中島知久平の次の夢を打ち砕き、一部開発部門を集約することと試作工場の設置だけに終わらざるを得なかった。
 左の写真は終戦直後の三鷹研究所の姿です。左に設計本館、中央奥に試作工場、手前に板金工場が見える。

 戦後、中島知久平はGHQから戦犯として出頭を命じられたが、それを無視し、病気(多分仮病である)を理由に拒絶し、この三鷹の敷地内の「泰山荘」に居を構えて戦後の日本の動向を見守っていた。
 
 そのころを太田は振り返って、
 「敗戦を迎えて政治家・軍人をはじめ有力者が、そのショックで虚脱状態に陥り、昨日までの威勢はどこへやら、茫然自失、なすことを知らずといったとき、知久平先生はお顔の色も艶々としてたいへんお元気であった」と言う。
 
 そのお元気のもとを太田が知久平に尋ねたところ、
 「僕は戦争に負けたとは思っていない。太陽が雲にちょっと隠れただけで、そのうち雲が通り過ぎれば、太陽は再び輝き始めるだろう」と答えられ、
 「日本は今、敗戦で惨めな状態にあるが、その潜在的工業力は素晴らしいものがある。
 十年先、二十年先には、世界各国から、飛行機も自動車も化学肥料も、なかには日本でほとんど産出しない鉄鋼でさえ、原材料を送って日本で造ってもらう方が有利というようなことで、これらの原材料を積んでくる船や、製品を送り出す船で、日本の港は溢れるようになるだろう・・・」と仰せられた。
 
 そして「戦前から貿易収支は万年赤字で、外貨獲得に汲々としていた日本が、今日、世界一の外貨保有国となっていることに思いを致すとき、今更の如く、中島先生の彗眼に驚嘆敬服してしまう」と・・・(注1)。
 1998年の中島知久平顕彰記念冊子で太田はこのように述べている。
 
 終戦2年後の1947年に知久平は晴れて戦犯解除になったが、その2年後、1949年に病で急逝してしまった。
 享年65歳の今から見れば若すぎて惜しまれる巨星の死であった。

 左の写真は、泰山荘の表門。右端写真の茅葺屋根が泰山荘母屋である。
 この母屋は1960年漏電による火災で消失したのは誠に残念。 
 2001年「泰山荘再建プロジェクト」が発足し、残った建物は無事修復されている。
 太田が泰山荘の土地買収にあたって、当時の所有者は日産財閥で茶人の山田敬亮であったが、氏の病床で「知久平の崇高な目的の為なら土地は譲る。しかし泰山荘は何としても後世に残してほしい」と聞かされたという。
 それが国際基督教大学(ICU)に引き継がれ、国の登録有形文化財となり、現在も一般にも公開され、遺言を果たしている(注2)。
    
 そして中島飛行機の解体整理の中でその大部分の土地を手放した跡地に、国際基督教大学(ICU)が1953年に設立されて、知久平の夢が別の形で現実になったのは、運命というべきものであろうか。
 まことに幸いなことと喜ばしい思いにかられる。
 富士重工業には約1割だけの土地が残され、現在スバル研究所として技術研究開発の拠点となっている。
 
 この研究所構想は、戦後歴史を振り返る中で、当時のドイツでのクルップ社の研究所を参考にしたのではないか?と言われている。
 知久平の真意は計り知れないが、産業革命ののち新しい技術が次々と生まれる中で、ドイツのジーメンス、クルップ、ザイス社などは研究所を設置して大量の研究者を雇用して技術開発に注力していった。
 この研究開発は第一次世界大戦で大きく変わり、第一次大戦後にはほぼすべての先進国の大企業は独自の研究所を設置して研究開発を管理した結果、自動車、飛行機、ラジオ(通信)などの分野で技術が画期的に発展していたのである。
 だが工学だけでなく経済学や政治学など文系を含めた総合的な研究所は、企業単位では想像もつかないことであったと思われる(サイト管理者記述)。

 以上の内容は、太田繁一氏へのインタビュー(2008年)と「中島知久平顕彰記念冊子(1998年)」による。
 太田繁一氏は1938年東大法学部を卒業し、当時大卒事務系を全く採用していなかった中島飛行機に何としても入社しようと、あれこれ画策(今でいう就活)、「事務員なんかは要らない。要るのは技術者だ」と言われてもへこたれず、あらゆるコネを総動員して粘りに粘って、遂に入社を果たし、当時建設中の武蔵野製作所に総務課に配属となった。
 しかし入社してみると、大企業に関わらず、人事管理などはまるで町工場以下の態で、全く無頓着であった。
 そこで「こんなものじゃ駄目だ」と、人事カード制度や関連する給与制度を所長の佐久間に提案したら、「じゃ、お前がやれ」との即断命令で、入社1年目でそんな重要なことを任されてしまった。
 ところが、その能力が高く認められることになり、直ぐさま社長秘書課長に抜擢され、中島の中枢に関わることとなった。 
 そして終戦後は中島飛行機の解体整理にかかわり、さらに富士重工業設立(注3)に加わり、1960年に取締役、1971年常務取締役を務め、現在2010年なお矍鑠として御暮しである。
 2011年10月、白寿を迎えられた太田氏にお願いして、泰山荘の茶室の一角「待屋」にてICU関係者を前に当時の様子を1時間半にわたってお話しいただいた。
 太田氏も泰山荘を取り巻く木々が立派に成長し、美しい森を形成していることに感激されていた。


中島の社風その3
(知久平の次の夢)
中島「三鷹研究所」の大構想にむけて

http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/chikuhei/shafu3.html

(注1)
 財務省は2017年5月26日、日本の政府や企業、個人投資家が海外に持つ資産から負債を差し引いた平成28年末時点の対外純資産残高が349兆1120億円だったと発表した。
 平成27年末に比べて2.9%増え、日本は平成3年から26年連続で世界最大の債権国となった。
 日本企業による海外企業のM&A(合併・買収)など直接投資が増えたほか、国内投資家の外債投資が拡大した。
 また、米国向けの直接投資は、日本企業の現地生産などが進み、5.4%増の53兆1842億円となり、過去最大を更新した。
 麻生太郎財務相が同日の閣議で報告した。
 対外純資産の増加は2年ぶりで、26年末(363兆4090億円)に次ぐ2番目の高水準となった。

産経新聞、2017.5.26 11:36
対外純資産最高349兆円、2年ぶり増
日本26年連続で最大債権国

http://www.sankei.com/politics/news/170526/plt1705260019-n1.html

(注2)
 広大な国際基督教大学(ICU)のキャンパスの小道を進むと、周囲はいつの間にか、軽井沢のような別荘地の趣に。
 かやぶきの表門に「泰山荘」の文字。
 案内してくれたICU湯浅八郎記念館学芸員の原礼子さん(54)は「門の屋根も三年前に修復したばかりなんです」と維持の労苦を説明した。

 泰山荘は1939(昭和14)年、当時日産財閥の重役だった山田敬亮氏が別荘として完成させた。
 現存するのは6棟。
 最も知られる中心的な存在がかやぶきの建築物「高風居」の中にある「一畳敷」と呼ばれる書斎だ。
 さかのぼれば、その沿革はロマンにあふれている。

 「北海道」を名付けた探検家として知られる松浦武四郎氏が生前、全国の著名な神社仏閣から寄贈を受けた柱、壁板などを使って1886(明治19)年に造り上げた。
 当初は千代田区内の自宅にあった。
 松浦氏は一畳敷を構成する約90の柱などの寄贈元の神社を「木片勧進」として記録に残し、1888年他界。
 「一畳敷を解体してだびに付してほしいとの遺言にかかわらず、遺族はその価値の高さから保存を決めたんです」と原さん。

 日本初の私設図書館「南葵(なんき)文庫」を創設した紀州徳川家当主、徳川頼倫(よりみち)氏が一畳敷の存在を知り、港区の麻布に移築。
 1923(大正12)年の関東大震災の被災を免れ、1924年には徳川家の移転に伴い、代々木上原へ。
 そして前出の山田氏の泰山荘建設に伴い、現在の三鷹市へ。

 1940年には山田氏から富士重工の前身で、戦時中、名戦闘機を送り出した中島飛行機会社の中島知久平氏に敷地を譲り、泰山荘は中島氏へ。
 こうした変遷の結果、大震災、東京大空襲による焼失を免れる。
 中島氏は戦中、そして戦犯に問われた戦後も泰山荘の書院に蟄居(ちっきょ)し、世を去ったという。

 一畳敷だけではない。
 門近くの車庫は昭和の初め、都心から車でやってくる客のために造られた。
 国の文化財登録(1999年)の調査で訪れた文化庁職員も「非常に珍しい」と驚いたという。
 高風居の敷居の一部は戦艦「三笠」のチーク材だった。
 泰山荘を離れ、「もし一畳敷が火葬に使われていたら…」。
 見識あふれた先人たちに感謝した。 

保存のため学生も一役

 泰山荘の価値に気付き、歴史をまとめたのは1985−1987年、米カリフォルニア大東京スタディーセンター長を務め、ICUでも教えたヘンリー・スミス氏(現コロンビア大教授、日本近代史)だった。
 だが、学生も保存のために動いている。
 2000年、有志が「泰山荘プロジェクト」を始動。
 毎年11月初めの「ICU祭」で公開される「一畳敷」などの定期的清掃を続けている。
 教養学部3年の伊藤敬子さんは「入学するまで知らなかった」。
 同鴨川佳奈さんは「過去の人が触れたところをぞうきんがけしていいのだろうか、とも思ったりもします」。
 茶道部も使用する茶室。
 学生の保存活動がその価値を語り継ぐ。

 JR中央線武蔵境駅南口から小田急バス「国際基督教大学」行きで終点まで約10分。東京都三鷹市大沢3-10-2。泰山荘公開は原則11月の「ICU祭」で。問い合わせはICU広報センター=(電)0422(33)3038=へ。


東京新聞、2008年5月28日
数々の難を逃れた一畳敷
泰山荘(東京都三鷹市)

(三橋正明)
http://www.tokyo-np.co.jp/tokyoguide/hold/architects/CK2008052802000117.html

(注3)SUBARU社名変更で社歌を公開!
67年間使われてきた「富士重工業」の名に終止符が打たれた。富士重工業は、本日2017年4月1日より株式会社SUBARU(スバル)に社名変更を行ったのだ。

https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=dGs_swfRiBU

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2018年04月24日

大光院〜金山城跡

 大光院・・・

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 呑龍上人御廟
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 新田義重公の墓
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 金山城址に分け入っていきます
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 東屋に到着
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 あの日、4月22日の日曜日は真夏日:

 群馬・前橋公園を発着点に4月22日に開かれたマラソン大会「第5回前橋・渋川シティマラソン」で、参加者の男女計16人が熱中症とみられる症状で病院に搬送された。
 このうち10キロに出場した成人男性2人が重症となった。

 実行委員会や消防によると、重症2人のほかは中等症4人、軽症10人。
 搬送されなかったものの、体調不良を訴え救急隊が出動したケースも9人あった。

 大会はフルマラソンなど6種目に県内外の市民ランナー5646人が参加した。
 実行委は暑さ対策として、給水所の水やスポーツ飲料、給水用スポンジを例年より増やし、飲料を入れた大きなバケツも用意してランナーがひしゃくで水を浴びられるようにしていた。
 開会式や午前8時のスタート後には注意喚起もしていたという。

 実行委は「いろいろと対策を取ったが、結果として体調不良の人が出てしまい残念。もう少し配慮すべきだったという反省もある」とコメント。
 一方、「体調を整えていただき、体調が悪い場合は無理せずリタイアしてもらうしかない」とも話した。

 前橋地方気象台によると、前橋市の最高気温は30.5度だった。

 各消防本部によると、県内では他に、高崎市で気分が悪くなった40代男性が中等症と診断され、館林市のテニスコートで試合中だった女子高校生(17)や同市の店舗で倒れた女性(67)も搬送された。


上毛新聞、2018/04/23
熱中症16人搬送 前橋発着 マラソン、2人重症
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/47627

 安心できません、気象庁から「高温に関する異常天候早期警戒情報(関東甲信地方)」が昨日の4月23日14時30分に発表されております。

気象庁 地球環境・海洋部 発表

要早期警戒(気温)
警戒期間 4月28日頃からの約1週間
対象地域 関東甲信地方
警戒事項 かなりの高温(7日平均地域平年差+2.1℃以上)
確率   30%以上

 今回の検討対象期間(4月28日から5月7日まで)をとおして、関東甲信地方では、7日間平均気温が平年よりかなり高くなる確率が30%以上と見込まれます。
 農作物の管理等に注意してください。また、今後の気象情報に注意してください。
 なお、関東甲信地方では昨日までの1週間は気温が高く、今後も2週目にかけて気温の高い状態が続く見込みです。

http://www.jma.go.jp/jp/soukei/103_000.html

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大光院

 てくてく山歩クラブお散歩会のご一同様、八瀬川沿いを歩きはじめました。
 目指すは大光院。

 大光院は、1613(慶長18)年春、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられました。

 上人は、1556(弘治2)年4月、武蔵国埼玉郡一の割村(埼玉県春日部市)に生まれ、1623(元和9)年8月9日、大光院で入寂した名僧です。

 大光院に入山した上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えました。
 一方、乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていたため、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。
 上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。
 このため、「子育て呑龍」と呼ばれ、今に篤い信仰を集めております。


太田市公式サイト
大光院と呑龍上人
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/manga-11.html

 ここでもまたまたびっくりしたヤッホーくん、危うく倒れこみそうでした。
 寺の土産物売場で応対してくださった方に何やら一生懸命に聞いています。
 「このお寺さまは徳川家康によって建立されたって聞いたんですが本当?」
 「このお寺さまは何宗になるんですか?呑龍(どんりゅう)って中国人?」

 大光院は、徳川家康公がその祖、新田義重公追善のため建立し、呑龍上人(1556-1623)が選ばれて開山上人として入寺されたんですよって教えてくださいました。
 呑龍に、独眼竜政宗、川端龍子に、坂本龍馬。金龍に、龍角散。龍安寺に、龍谷大学。画龍点晴を欠く、かぁ〜
 ですんで、どうしても納得のいかなかったヤッホーくん、帰宅するなり調べはじめたんです、その成果がこれ:

 徳川家康の姓氏問題は複雑な様相を見せている。
 家康は三河の在地領主松平の家に生を享けたが、この松平の家祖である松平親氏は下野国新田荘世良田得川郷に所領をもった得川四郎義季の八代目の子孫であると徳川家の正史は伝えている。
 そして得川義季は清和源氏の流れを汲む新田義重の四男なのであり、この由緒をもって家康はのちに松平を改めて徳川を名乗り、その姓氏を清和源氏と定めたとされる。

 もとより、この徳川家の新田始祖伝承については昔から少なからぬ疑問をもって受け止められている。
 これは家康が武家領主として大をなし、天下の覇権を掌握していく過程の中で、自らの血統的由緒に高い権威を付与し、さらには征夷大将軍への任官を控えて、その系譜を清和源氏の本流の中に位置づけていく必要が生じたことから、このような始祖伝承を無理に付会していったものであると見なされてきたのである。

 この問題を学問的に掘り下げて検討したのは渡辺世祐(1874-1957)氏である(1)。
 渡辺氏は各種史料を精査して家康の姓氏の使用について幅広く検討するとともに、家康の官位叙任問題とその改姓問題に深く関わっていた関白近衛前久(1536-1612)の後掲書状を見い出すことによって、本問題についての研究を大きく前進させた。
 その後は徳川家康文書の研究の第一人者たる中村孝也(1885-1970)氏らによって渡辺氏の研究内容は補強され(2)、その細部にわたる理解が進められることによって本問題についての整合的な見解が形成され、それは今日に至るまで多くの研究者によって支持継承されているのである(3)。
 この定説的見解を纏めるならば、以下の通りである(4)。

第一に、家康は1566(永禄9)年に朝廷官位を得て叙爵従(五位下に叙位されること)したが、それに際しては藤原氏を称していたこと。

第二に、その後の家康の姓氏の使用はかなり恣意的であり、藤原氏と源氏とを状況や対象次第で適宜に使い分ける態度が認められること。

第三に、家康が清和源氏の流れを汲む吉良家から系図を借り受け、自らの系譜を清和源氏として、その形を明確に整えるのは1603(慶長8)年の征夷大将軍の任官を目前に控えた時期であり、この将軍任官を目的とするものであったこと。
 これは近衛前久の書状に家康の源氏改姓を指して、「将軍望に付候ての事」と明記されていることから確実であること、等である。

 これらからして家康の源氏改姓は、その将軍就任戦略の一環としてあったのであり、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦で覇権を確立した家康が、将軍に任官して幕府を開くことによって、その覇権を政治制度的に定位せんがために源氏改姓を必要としたこと。
 換言するならば、将軍任官にとって源氏の姓氏が不可欠のものであったということであり、家康の改姓問題はこの観点から位置づけられるとするものである。

(1) 渡辺世祐「徳川氏の姓氏に就いて」(『史学雑誌』30編11号、1919)

(2) 中村孝也『徳川家』(至文堂、1961)。
 なお本問題についての戦前の研究としては星野恒「三位中将藤原家康」(『史学雑誌』4編49号、1896)、阿部愿「徳川家康本姓考」『(国学院雑誌』10巻9〜11号、1904)などがある。

(3) 辻達也「伝統的権威の継承と下克上の論理」(同編『日本の近世2 天皇と将軍』中央公論社、1991)、藤井譲治『日本の歴史K 江戸開府』(
集英社、1992)30・31頁。

(4) 次のうち第一・第三の命題が渡辺氏のもの、第二は中村氏の補強的見解である。
。。。


徳川家康の源氏改姓問題
笠谷和比古
(1949年神戸生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。博士(文学)。国際日本文化研究センター教授を経て、現在は帝塚山大学文学部教授)
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/1997-09-30/s001/s005/pdf/article.pdf

 了的・呑竜両上人は、増上寺では有名な仲の良い兄弟弟子であった。
 この仲のよさは、桐生と大田の地へと離ればなれになっても、一向変わることはなかった。

 この両上人の生き方は、両上人が世を去っても、お寺同士のおつきあいとなって続き、桐生=大田間の往来を盛んにさせた。
 時代が変わり、江戸が東京と改められた。

 そして維新の世もやがて明治の25年 = この年、定善寺では、度々壇家役員の会合が重ねられていた。
 前住職亡きあとの後継住職探しの会合であった。

 寺格の高い定善寺だけに、住職はだれでも良いと言うわけにはいかない。
 そのため帯に短しタスキに長しで、適当な後継?がなかなか見つからなかった。
 ましてや、この頃の定善寺の台所は火の車で、養蚕やお茶の栽培にまでも手を出すほどの貧乏寺だったから、なおの事、寺格が高いと言うだけでは、好んで住職になろうと言う僧侶もいない。
 このため、壇家役員の会合は、何度開かれても解決のきざしさえみられなかった。

 そこで、ついには「大光院にに相談を・・・」と言う声が大勢を占めた。
 旧知の間柄に甘えようと言う窮余の一策だったのである。
 話しを持ち込まれた大光院にも名案はなかった。
 しかし、定善寺からの申し出とあっては、無下には断われなかった。

 思案の末に開山別当(会計責任?)の本田俊宏師に桐生行きの白羽の矢が立てられた。
 指名された本田師は驚いた。
 貧乏寺住職の席が自分に向けられようとは、夢にも思っていなかったからだ。
 だからと言ってこのことは簡単に断われるような生易しいものではない。

 本田師は桐生行きの腹を決めると、「桐生へ移る条件として、呑竜上人の分身を申し受けたい」と言いだし、わがままを押し通してしまったのである。

 本田師が呑竜上人の分身を護持して定善寺に入ると、まもなく吉兆が顕われた。
 あれほどにさびれていた寺が、徐々に持ち直し、日ならずして、以前にも増して隆盛を極めるようになったのである。
 これをきっかけに、あちこちで呑竜上人をまつる寺々が続出したのはいうまでもないことだった。

 ところで、分身本物説の真偽のほどは興味津々だが、「このままソッとしておいて、伝承の楽しさや夢を追うほうが得策」と言う桐生市民は多い。
 この市民の気配りに支えられ、毎月8日の定善寺縁日は「呑竜様縁日」と称されて、今後益々 市民に愛され、人出を招くに違いない。
 今日の賑わいが、その前兆でもある。


桐生の民話
分身本物説、どちらが本物でもよいではないか。
(定善寺、群馬県桐生市新宿三丁目)

http://www.kiryu.co.jp/kurobeinotengu/bunsin/index.html

 はあ〜あ、ど・ん・り・ゅ・うと、ヤッホーくん、裏手に回って小高い丘をめざして登り始めます。

posted by fom_club at 15:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

太田宿

 てくてく山歩クラブの太田市街歩き、おや?足がとまりました。
 大きな立派な「太田宿」跡の石碑です。すかさずヤッホーくん、
 宿場があるってことはここは何街道?なのかなって奥ちゃんに。
 「日光例幣使街道」だなって奥ちゃんが答えてくださいました。
 400年も前にさかのぼります・・・

 1617(元和3)年4月、徳川家康を祭る「日光東照社」が造営され、1645(正保2)年11月には「東照宮」の宮号が朝廷から授けられ、以後「日光東照宮」と呼ばれるようになりました。
 朝廷は、翌年1646(正保3)年4月、日光に臨時奉幣使を派遣しました(徳川家光将軍の頃です)。
 これが先例となり、翌年から家康の命日である4月17日に、毎年幣帛を捧げる奉幣使(公家)が朝廷から派遣されることになりました。
 これが「日光例幣使」です。
 日光例幣使は、毎年4月1日に京都を発ち、日光東照宮奉幣後は日光道・東海道を経て京都に帰着します。
 日光例幣使道は、中山道倉賀野宿(高崎市)東の追分けで中山道から分岐して、太田宿等13宿を経て、楡木宿(栃木県鹿沼市)の手前で日光道壬生通りに合流する間をいいます。


日光例幣使街道.jpg

 太田宿では、1645(正保2)年に宿割りを実施し、宿場の形態を整えたと伝えています。

 金山は標高239mで、その周囲は約24.6km、面積は約290.2haです(「1733(享保18)年検地金山絵図」)。
 この金山には、1469(文明元)年の築城になる金山城がありますが、1590(天正18)年の廃城後は、赤松の植生が卓越する松茸の産地としても知られた山でもありました。
 松茸は、1629(寛永6)年、館林藩主榊原忠次が最初に献上したと伝えられ、献上は江戸幕府が瓦解する1867(慶應3)年まで、一年も休むことなく続けられました。
 このため、金山を管理する3人の「御山守」が置かれましたが、1688(元禄元)年に金山が幕府直轄林「金山御林」となると、「御山守」は「御林守」と改称されました。
 松茸の献上は秋の彼岸から10月にかけて行われましたが、金山全山43ヶ所で採取された松茸は、「御林守」の家へ運ばれ、虫喰い・腐れなどを除く選別作業を経て、竹籠に詰められ、老中の証文を添えて、昼夜兼行の宿継ぎで江戸城御台所まで送られました。
 太田の出発は午前9時で、到着が翌朝5時であったので、当時としては異例のスピードといえましょう。
 なお、松茸の出生数は、多い年で3000本程度でありました。


太田市公式サイト
日光例幣使と太田宿、金山御林と献上松茸
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/manga-12.html

 日光例幣使も松茸も、1867(慶應3)年まで、なんと一年も休むことなく220有余年も続けられた、というからヤッホーくん、もう腰を抜かしておりました。
 そういえば足利市をお邪魔して織姫神社を参拝しようと階段の途中、八木節を説明板(音出しも)で読んでのですが八木宿だって「日光例幣使街道」の宿場!

織姫神社例大祭 子供八木節
https://www.youtube.com/watch?v=NI50tKuT2R0

 それから山歩クラブのご一行さま、八瀬川へ。

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 「八瀬川桜まつり」の会場となる八瀬川桜通りはの「金山から流れ出す清流とその両岸に咲き誇る151本のソメイヨシノが水面に映る景色はまさに圧巻」だそうです。
http://www.ota-kanko.jp/event/yasegawa-sakura_19/

 おっと、その前にお寺さまが、ここも寄らなくっちゃ、というわけで「長念寺」へ。

 時代は室町の足利義満全盛の頃であり、南北朝の動乱も収まり、この周辺では新田氏の末裔、岩松氏が台頭し、金山南麓に蛇行する八瀬川の水利があるこの周辺に人家が定着し始めた頃と考えられます。
 浄土宗の元祖、法然上人(1133-1212)のお念仏の教えは、二祖鎮西上人(1162-1238)の後をうけた良忠上人(1199-1287)により1250年代以降、関東地方各地に広まって行きました。

 良忠上人には多くの弟子があり、六流派(白旗派・名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派)に分かれて法燈が伝えられましたが、そのうちの藤田派は性心上人により茨城県の猿島郡を中心に教えが広められ、1300年代には武蔵の寄居や上野の中野に諸寺院が創建されており、長念寺もその流れをくむものと思われます。

 長念寺は数次の火災に見舞われており、残念ながら古い資料は残っていませんが、江戸時代中期以降に太田の街の発展と共に寺院規模が拡大安定したものと思われます。
 橋本本陣家の墓地に並ぶ国筐印塔や、江戸中期以降の年代が刻まれた墓石からもそれが推測されます。

 現在の山門は1821(文政4)年の建立で、総けやき造の立派なものです。
 同時に本堂も建立されており、現在のものより一回り大きく、その本堂で1897(明治30)年4月11日に『群馬県尋常中学校新田分校』が開校されました。
 翌1898(明治31)年4月5日に現在地に移り『群馬県立太田中学校』となり、現在の『群馬県立太田高等学校』に至っております。
 これより群馬県内でも有数の進学校であり、県立高崎高校、県立前橋高校と合わせて群馬県の御三家の1つである太田高校の発祥の地ということで、受験シーズンに合格祈願に訪れる方々もいます。

 
長念寺公式サイト、寺院紹介
http://chounenji.net/about/

 では、ここで群馬県立太田高等学校校歌紹介:

校歌(甲)行軍歌
明治37年(1904年)制定
第二高等学校教授 土井晩翠 作詞
東京音楽学校助教授 楠美恩三郎 作曲

一、みどり常盤の金山の 頂き高き神鎮め
  麓は太田朽ちぬ名を 永く母校にとめしめよ
二、大空映し花浮かし 流れて遠き大河や
  日に夜に止まぬいそしみの 教へを汲まん利根の水
三、這い伏す地より身を起せ 奮へと宣るか高き影
  六千余尺雲の上に たてる雄々しの大赤城
四、浅間ヶ嶽の二十余里 立つか眺も遠烟
  空をも焼かん青春の 燃えたつ意気を比べよと
五、諭しは然かぞ金山の 麓に集ふ九百の
  子等よ努めよ朽ちせぬ名 常久に母校にとめん為


校歌(乙)式場歌
明治37年(1904年)制定
第二高等学校教授 土井晩翠 作詞
東京音楽学校助教授 楠美恩三郎 作曲

一、赤城浅間を軸として 八州の野の開く端
  貫き走る大利根の 岸は母校のたつところ
  やまざる流高き山 無言の教あゝ彼に
二、操はしるき中黒の 旗の嵐に飛びし場
  坂東武者の代々つぎて 雄たけび高くゆりし郷
  太田高校高き名を 伝へむ責はあゝ我に


posted by fom_club at 11:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もちろん、私、自身も…

 今回は「演じざるをえない人」というテーマで、アレコレ考えてみる。
 今日はどんな問題が起きているのだろうか?
 またもや「マジか??」といった信じがたい対応を、頭のいい人たちは繰り広げているのだろうか?
 ええそうです。先週、フツーでは考えられないような対応と反応が繰り返された、財務省の福田淳一(1959-)前事務次官の“セクハラ事件”である。
 この件に関しては山のような意見が語り尽くされているので、もはやネタにするのも憚(はばか)られる。と同時に、本件に女である私が意見をちょっとでも述べた途端、「感情的」「フェミニスト」「女もセクハラする」と戦闘態勢に入る人たちが想像以上に多く、少々うんざりしている。
 だが、これまで散々セクハラ問題を取り上げてきた身としては、書かざるをえない。
 といっても福田氏のセクハラ行為や、責任の取り方うんぬんに今さら言及するつもりはない。
 被害者の女性記者に対する“美しい言葉”を利用した対応および意見について、だ。

 「人権」という美しい言葉に乗じた、麻生太郎(1940-)財務大臣及び財務省の「被害者出てこい!」発言。
 「不徳のいたすところ」という謙虚な言葉に乗じた、テレビ朝日の「(週刊誌に音声データを渡したのは)報道機関として不適切な行為」発言。
 「全体をみれば」というもっともらしい言葉を使い、「同社がどういう調査をしたか知らないが、会話の全体をみればセクハラに該当しないことは分かるはずだ」とした福田氏の発言。

 どれもこれも、わが国の“お偉い人”たちが自らの醜い感情を隠すために放った“正論”で、私の脳内の突っ込み隊は大騒ぎだった。だが、世間は意外にもそうではなかった。
 例えば、私が先週水曜日にコメンテーターで出演したテレビ番組で、「財務省の対応について、『問題なし』「問題あり』『わからない』のどれか?」と視聴者に投票してもらったところ、次のような結果になった(この時点では、まだテレ朝の会見は行なわれていない)。

「問題なし」1023票
「問題あり」1770票
「わからない」309票

 問題ありが一番多いとはいえ、問題なしの意見も多いことに正直驚いた。
 しかも、私が番組内で、
 「福田さんの人権を守ることに異論はない。でも、それは、音声データの分析、編集の有無を検証すればいいし、録音された日付と場所に行っていないことは、当人の行動や携帯記録、お店の人たちへの聞き取りで潔白を証明できる」
と発言したことに対しても、
 「それを財務省がやってるんでしょ? 訴えた人が出てこないことには正確なことはわからない」
 という、私の知能では理解不能なTwitterをもらい困惑した。

 テレ朝の発言については「労働者である以前に人間である」ということに尽きる。女性記者の言動を責めるのはおかしいし、なぜ、事務次官を辞めてから公表したのかもひっかかる。
 そして、何よりも驚いたのは、テレビのコメンテーターたちの中に、今回の事件発覚から最後の「全体発言」に至るまで、福田氏の発言に一定の理解を示す人が相当数いたことだ。
 彼らは、
 「でも、福田さんって、部下からの信頼も厚い、親分肌の人みたいですね」
 「仕事だけじゃなく、遊びも上手い人みたいだからね」
 などと繰り返した。
 事件がほぼ黒となってからは、「福田さんは悪いけど」と前置きをしながらも……
 「ハニートラップみたいのありますからね…」
 「『やめてくださ〜い』と『やめてください!』じゃ、まったく違うし」
 「ジャーナリストなら、自局の上司を説得しなきゃ」
 「色仕掛けで、情報取ろうとする姿勢がセクハラを生んでいる」 etc……。

「大年増の厚化粧」のときとまったく同じ

 ふむ。
 これっていったいなんなのだろう?
 被害者の女性が今回取った行動は、ここまで言われてしまうほど問題あるものだったのだろうか?メディアは福田氏や財務省の発言の「世間とのズレ」を指摘してたけど、スタジオで繰り広げられたコメントも不愉快だった。
 そう。あのときの“空気”と同じ。
 小池(1952-)旋風が吹き荒れた2016年の東京都知事選での、「大年増の厚化粧」(by 石原慎太郎氏)のときとまったく同じだ。
 自他ともに認める“権力者”である石原元都知事(1932-)が、増田寛也(1951-)候補を応援する決起集会で
 「大年増の厚化粧がいるんだな。これが困ったもんで、あの人は嘘つきだと思いますね」
 と、攻撃したのを爆笑した壇上の男たち。ニヤニヤした対立候補の増田氏。
 「あの発言は、正直うま味があったのではないですか?」「あの発言は、ありがたかったのではないですか?」と、繰り返し小池氏に詰め寄ったメディアの記者。
 さらには、アノ池上彰(1950-)氏でさえ、
 「(選挙戦では)厚化粧と呼んだ人がいましたが、『しめた』と思ったんじゃないですか」
 と、小池さんに選挙速報後に迫った。
 もし、小池氏が「香水をプンプン臭わせているジジイがいるんですよ。これが困ったもんで、あの人は嘘つきだと思いますよ」と言ったら、男性たちは同じような質問を石原氏にしたのだろうか?
 結局のところ「見下している」のだと思う。
 申し訳ないけど、私にはそう思えた。だって、年を重ねると疲れてもないのに「疲れてる?」と聞かれるから、どうしたって人前に出るときの化粧は念入りになる。男性が加齢臭に敏感になるのと一緒だ。

 奇しくも社会学者の古市憲寿(1985-)氏が、4月19日放送の「とくダネ!」(フジテレビ系)で、こう発言した。
 「そもそも何がセクハラを生んだかということから考えるべきだと思います。
 今、政治家や省庁幹部にテレビ局が取材しようとした時に、取材経験はそんなにないかもしれないけど、若くてかわいい女性記者を送り込もう、みたいなことが正直たぶんあると思うんですよ。そこで政治家と仲良くなってもらって、話をいろいろ聞き出すという、メディアの手法自体がセクハラを生みやすかった」
 一見正論を言っているようだが、私にはこの発言もまったく理解不能だった。
 若くてかわいい女性記者を送り込む……?

 いったいいつの時代のコメントなのだろう。

どこまで女の人をバカにしているのか?

 確かに一般企業に比べると、メディアの現場は男尊女卑の傾向はあるかもしれない。
 だが、「若くてかわいい女性記者を送り込めばネタが取れる」と、マジで考えている上司がいたとしたら、残念ながらその人は無能だ。
 そんな下世話な考えでネタが取れるほど、相手はアホじゃないし、世の中は甘くない。色仕掛けに対しベラベラしゃべる人間のネタに、いったいどれほどの信憑性と価値があるというのだ。そのことは現場の人たちが一番分かっているはずだ。
 かつてテレビの出演者に対しても似たようなことを言う人たちがいた。「アイツは“女”を使って番組を取っている」と。
 もし、ホントにそんなことでネタが取れたり、番組を取れるなら、女たちはもっと狡猾に女を使うぞ。その方が楽。そんなことで仕事がもらえるのなら、私だってこんなに必死に仕事に向き合わずに“女”だけを磨く。エステに行き、化粧を厚塗りし、打ち合せはすべて夜のバーにし、猫なで声ですり寄っていく……。
 なんだかとってもバカにされた気がしてしまうのですよ。こんなことを言われるとね。
 残念というか、ガッカリというか。
 あ〜、これが男女差別ということなんだなぁと痛感させられてしまうのである。
 そうなのだ。今回の事件で私が感じた違和感は、色仕掛けという言葉に代表される、

男性=自立、独裁的
女性=従順、やさしい

 といった世間に蔓延(まんえん)するジェンダー・ステレオタイプだ。そして、こういうことを書くと、今度は「感情的」と。「なんでそんなに感情的になる?」と。いかなる文章にも、私は感情を込めているのに……。いったいどうしたらいいのか。自分でも情けなくなってしまうのである。
 人が持つ価値観には「意識できるもの」と「無意識のもの」がある。親の考え、子供の時によく見たテレビや雑誌で描かれていたこと、周りの人がよく言っていたことなど、社会に長年存在した価値観は「無意識のもの」で、ジェンダーの土台となる。
 ジェンダー・ステレオタイプは、いわば“社会のまなざし”であり、社会が作り出した無意識の圧力だ。
 興味深い実験がある。

 被験者の大人たちに(男女含む)に、生後3カ月の子どもとおもちゃのある部屋で3分間関わってもらうもので、3つの異なる条件を与え、大人たちの行動を比較した(以下)。

第1グループ:子どもは女児であると伝える
第2グループ:子どもは男児であると伝える
第3グループ:子どものジェンダーは伝えない

 その結果、
第1グループ:人形を用いて関わろうとした
第2グループ:プラスティックの輪を用いて関わろうとした
第3グループ:女性の被験者は自分なりにジェンダーを判断し、それにしたがって関わっていたが、男性の被験者は関わりを持とうとしなかった

 つまり、大人たちは赤ちゃんが女か男かによって、赤ちゃんが好むであろうおもちゃで関わりを持とうとしたのだ。
 そして、こういった親たちの行動と共に、子どもは成長する。
 3歳と5歳の子どもに、生後12カ月の赤ちゃんが遊んでいるビデオを見せるという実験で、ひとつのグループには「右側の赤ちゃんは女の子、左側の赤ちゃんは男の子」と告げ、もうひとつのグループには「右側は男の子、左側は女の子」と逆パターンを告げたところ……
 なんとどちらのグループも「女の子」と告げられた赤ちゃんには、「弱い、遅い、無口、やさしい」と感想を述べ、「男の子」とされた赤ちゃんには「強い、すばやい、騒々しい、元気」といった感想を述べたのである(「生まれる―つくられる男と女」細辻恵子著より)。

社会的役割を演じることで成熟していく

 社会的動物である人間には、社会的役割を演じつつ自己を確立するというプロセスが組み込まれている。発達心理学用語ではこれを「社会化」と呼ぶ。
 社会化の過程では、先の実験のようなジェンダー・ステレオタイプを植え付けられ、自らもそれに沿った言動を学んでいくので、社会化はジェンダー化の過程でもある。子どもが男性と女性の区別を知り、ジェンダー・ステレオタイプが刷り込まれていくのは2歳頃に始まり、5歳頃には「ジェンダー・ステレオタイプ」越しに他人を見る。

 フランスの哲学者ルネ・デカルト(René Descartes、1596-1650)の「我思う、ゆえに我あり」という言葉は有名だが、米国の社会学者チャールズ・ホートン・クーリー(Charles Horton Cooley、1864-1929)博士は、「我々思うゆえに我あり」という名言を残した。

 クーリー博士いわく、
「我々は自分の容姿や身のこなし方、さらには、目的や行為や性格や友達その他についての何らかの考えを、他人の心の中に想像し、その考えのいかんによって様々な影響を受ける」と。

 社会的動物である人間は、常に他者との関係性で社会的役割を演じている。
 真に健康な人間とは、一方において個を確立するとともに、それが他者との分離を促進することなく、逆につながりを強化する。
 「個」としての自己を生かすことと、「他者」との関係性の中で自己を生かすことを統合的に探索するプロセスを経ることで、私たちは成熟した人間になっていくのだ。
 他者との関係性の中で自己を生かすとは、社会的役割を“らしく”演じること。「演じる=悪」というイメージを持つ人がいるが、人間が健康的に社会の一員として生きるには、演じざるをえないのである。

 新人らしく、学生らしく、上司らしく、部下らしく、先生らしく、リーダーらしく、父親らしく、母親らしく、年長者らしく……。
 それぞれの役割を“らしく”振る舞うためのスキルや能力を演じながら高めていくことで、自分の内面になかった感情や考え方、道徳的価値観などを育み、「自分は○○だ」と自分の居場所を社会の中に見いだしていく。
 そこに性差は存在しない。人が人である以上、誰もが多かれ少なかれ「演じている」のだ。
 男性たちが「色仕掛け」と呼ぶことは、ただ単に「女らしく」振る舞っただけじゃないのか?
 もちろん仕事の場では「仕事人らしく」振る舞うことが優先されるので、「女らしさ」がそれを上回らないように気をつけなければならないこともあるだろう。
 だが、今回の被害者の女性の言動は、果たしてそういったものだったのだろうか?

米国では「#Me Too」を合い言葉にピュリツァー賞

 福田氏がテレ朝の会見後も、セクハラを否定したことについて、夕方のニュースに出演していた某男性コメンテーターは、こうコメントした。
 「僕ね、気持ちがわかるんですよ」と。
 「僕もね○○にいるときに予算担当でね。みんなペコペコ頭さげてくるから、だんだんと自分がものすごい偉い人になったような気になった。すると何をやっても許されるって思っちゃうんですよ。だからね、そういう立場になった人は仕方がないんです」と。
 ……。
 「仕方がない」は言い過ぎだと思いますよ。
 肩書きは、他者の目を惑わす幻である。「社会的地位=自己の価値」と勘違いした人は、まるで子どものように自己中心的な感情だけの幼稚な人間に成り下がる。だからこそ、自己=自分を律する「個」を磨き続けなければならないんじゃないのか?それがリーダーに求められる資質なんじゃないのか? 

 日本でセクハラ事件が盛り上がっている頃、米国では「#Me Too」を合い言葉に、社会のセクハラに対する味方を一変させたニューヨーク・タイムズ紙とニューヨーカー誌が、ピュリツァー賞 Pulitzer Prize を取った。
 「裕福で権力を持つ性的搾取者を暴き出し、抑圧や残虐性、口止めに対する責任を追及し、女性への性的虐待を償わせる衝撃的な報道だった」(by カネディー事務局長、Dana Canedy、administrator of the Pulitzer Prizes)
 いろいろと意見はあると思う。でも、「セクハラを生み出す構造や環境」だけではなく、「私」たち自身が(男女に関係なく)、セクハラと正面から向き合う必要があると思う。

 もちろん、私、自身も……。

日経ビジネスオンライン、2018年4月24日(火)
官僚セクハラを「色仕掛け」と批判する日本の闇
米国では「#Me Too」でピュリツァー賞

河合 薫(1965-)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/042300156/

 もう、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir、1908-1986)は振り向きもされないのかな、生誕110周年だってぇ、時代は変わると感慨深げな4月24日火曜日朝のヤッホーくん!

Come gather 'round people
Wherever you roam
And admit that the waters
Around you have grown
And accept it that soon
You'll be drenched to the bone
If your time to you is worth savin'
Then you better start swimmin' or you'll sink like a stone
For the times they are a-changin'

Come writers and critics
Who prophesize with your pen
And keep your eyes wide
The chance won't come again
And don't speak too soon
For the wheel's still in spin
And there's no tellin' who that it's namin'
For the loser now will be later to win
For the times they are a-changin'

Come senators, congressmen
Please heed the call
Don't stand in the doorway
Don't block up the hall
For he that gets hurt
Will be he who has stalled
There's a battle outside and it is ragin'
It'll soon shake your windows and rattle your walls
For the times they are a-changin'

Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is rapidly agin'
Please get out of the new one if you can't lend your hand
For the times they are a-changin'

The line it is drawn
The curse it is cast
The slow one now
Will later be fast
As the present now
Will later be past
The order is rapidly fadin'
And the first one now will later be last
For the times they are a-changin'


The Times They Are A-Changin'
Bob Dylan(1941-)
https://www.youtube.com/watch?v=QqvUz0HrNKY

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2018年04月23日

安倍首相はトランプから見捨てられた

 北朝鮮の金正恩委員長が、核実験と大陸間弾道ミサイル実験の中止の方針、核実験場の廃止を発表、さらに国際社会との緊密な連携と対話への積極化を明言した。先月の米朝首脳会談の電撃決定に続き、朝鮮半島問題の平和的解決に向けて極めて大きな進展だ。

 ところが、いや、やっぱりと言うべきか、これに水をさしたのが日本の安倍政権。トランプ米大統領が〈北朝鮮にとっても世界にとっても朗報、大きな前進だ! 首脳会談が楽しみだよ〉と歓迎のツイートをしたのとは対照的に、小野寺五典防衛相は「圧力を緩めるタイミングではない」「引き続き最大限の圧力を加える姿勢に代わりない」などと述べ、安倍首相も「注視していきたい」と敵意をあらわにしている。

 まったく、米国と韓国を中心に国際社会が平和的解決へ向かうのと逆行し、かたくなに圧力強硬路線を続けようとする安倍首相は、誰が見ても正気の沙汰とは思えない。だいたい、今回の金委員長による発表も、日本政府が完全に米国から置き去りにされていたのは明らかだろう。

 いずれにしても、まさに日本だけが国際社会からひとり置いてけぼりを食らっているわけだが、どうやらトランプ大統領は、安倍政権に対し完全に見切りをつけたらしい。実際、海外メディアはそうした状況を見抜いており、日米首脳会談に際し、続々と安倍首相の“醜態”を報じていた。

 たとえば、イギリスの高級経済紙フィナンシャル・タイムズは、18日付(電子版)のオピニオン記事で、日米関係における安倍首相の“失点”を冷静に並びたてている。タイトルこそ「トランプの近視眼的な日本への不遇」(Trump’s short-sighted mistreatment of Japan)で、結論としては日米同盟関係に亀裂が生じることを懸念する趣旨だが、中身を読むとこれが皮肉に感じるほど、安倍首相の外交的失態を書き連ねているのだ。

トランプ大統領は共同会見で、中国の習近平国家主席をくり返し賞讃

 記事ではまず、TPPをめぐって安倍首相の目論見が外れたことを指摘。今回の会談に先駆けて、日本でもトランプ大統領がTPP復帰への再交渉検討を指示したとの報道があったが、周知の通り、実際にはトランプが17日に〈日韓は復帰してもらいたいようだが、私は米国にとってTPPは望ましいとは思わない〉〈二国間協定のほうが効率的で利益になるし、われわれの労働者にとってよっぽどいいじゃないか〉とツイートしたように、完全に蹴飛ばされてしまった。当然、フィナンシャル・タイムズの論評は手厳しい。

〈安倍首相は自身を、TPP協定の利点を説明し、米国が署名するよう説得もできるかもしれない“トランプの助言役”(Trump whisperer)のごとく見せてきたから、今回のトランプの転向は安倍首相がくらった直近の痛手となった。〉

 もちろん「直近」というからには、安倍首相はこれまでもトランプから散々痛めつけられてきたとの認識だ。記事ではその例として、日本が米国の友好国のなかで唯一、鉄鋼とアルミニウムの高関税をかけられたこと、また、トランプ大統領が金委員長との会談を電撃決定したことを挙げ、〈これを日本政府は驚きをもって受けとめ、安倍首相は大慌てで平壌と日本の地理的近さとミサイルのことをホワイトハウスに思い出させなければならなかった〉と書く。そのうえで、こう続けているのだ。

〈水曜日の安倍首相との共同記者会見でトランプ大統領は、繰り返し中国の習近平国家主席への賞賛を重ねた。大統領は習国家主席を“私にとって非常に特別な人だ”と明言した一方で、安倍首相に対する親近感は抑えられていた。〉

 ようするに、北朝鮮の非核化に尽力する中国と対照的に、安倍首相はただただ圧力をがなりたてているだけで、とっくに見切りを付けている。そんなトランプの心中が、共同会見での態度に表れていたとの指摘である。安倍首相からしてみれば完全にケチョンケチョンに言われているわけだが、英国一流紙によるダメ出しはここで終わらない。さらにクリティカルな論評が続くのだ。

〈この日本の最も重要な同盟国からの外交的軽視は、安倍首相にとって最悪の時期に到来した。世論調査では政権発足以降最悪の支持率低迷を見せており、安倍首相は国内での一連のスキャンダルを振りはらおうと必死になっている。もし支持率が回復しなければ今年中に総理辞任に追い込まれるだろうとの見通しを語る自民党の有力者もいるほどだ。
 そのダメージは、日本では極めて感情的な問題である拉致問題についてトランプ大統領が北朝鮮政府への圧力を確約することで、幾分かは相殺されることになる。しかし日本では、安倍首相が自負しているトランプ大統領に対する特別な影響力を信じる人は、ほとんどいなくなるだろう。〉

安倍応援団が喧伝してきた「外交の安倍政権」は、ただのまぼろしだった

 どうだろう。安倍首相はこれまで散々「深い信頼関係で結ばれている」「世界で一番、トランプと話ができる」と吹聴し、国内メディアも「ドナルド・シンゾー関係」などと誉めそやしてきたが、それも今や昔の話。現実は、安倍首相はすでにトランプから見放されており、その現状を海外メディアが冷静に伝えているのだ。

 言っておくが、海外でこうしたトランプの“安倍切り”やその醜態を伝えているのはフィナンシャル・タイムズだけではない。

 たとえば米紙ワシントン・ポスト17日付(電子版)の「日本の弱ったリーダーを迎える気難しいトランプ」(A grumpy Trump welcomes Japan’s weakened leader)と題した記事では、外交問題を専門とする記者が、安倍政権はトランプの北朝鮮との対話外交の決定に驚かされたとしたうえで、〈昨年、トランプ大統領が日本を訪れた際、両国首脳のゴルフのなかで安倍首相はバンカーに落っこちた。今年、首相は自らが作り出したさらに大きなトラップのぬかるみにはまっているように見える〉と皮肉をきかせて分析。
 
 また、16日付で「スキャンダルまみれの安倍首相がトランプに会いに行く」(As Scandal-Tarred Abe Meets Trump)との直球タイトルの記事を出した米紙ニューヨーク・タイムズは、21日(電子版)のコラム「今週のアメリカ政治で最大の話」において日米首脳会談をとりあげ、〈トランプ大統領が他のアジア諸国との関係を築くことは、脇に追いやられてしまったことを恐れている日本にとってさらなる打撃となった〉と指摘している。

 つまるところ、安倍政権はトランプが大統領選に勝利するや否や各国首脳に先駆けて会談をぶっ込み、日米同盟の強固さと外交的イニシアチブをアピールし続けたが、結局はトランプのほうが何枚も上手。安倍応援団が喧伝する「外交の安倍政権」がまぼろしであることは歴然だ。さらに、いまや狂気としか言いようがない圧力一辺倒の対北朝鮮政策(政策と言えるかすら怪しいが)によって、安倍首相は愛するトランプから完全に鬱陶しがられており、それは国際社会からも共通認識となっているのだ。

 なんどでも繰り返す。いま、日本は、安倍首相の外交的失敗により国際社会から孤立し、頼みの綱であるアメリカからもハシゴを外されかけている。沈みゆく泥舟状態の安倍政権と心中する必要などない。一刻も早く安倍首相に引導を渡さねばならない。


リテラ、2018.04.22
「安倍首相はトランプから見捨てられた」と海外メディアが日米首脳会談を酷評!
北朝鮮問題でも完全に置いてけぼり…

http://lite-ra.com/2018/04/post-3968.html

 安倍首相は4月22日、都内で開かれた北朝鮮による拉致被害者の救出を求める「国民大集会」に出席。「即時帰国に向け北朝鮮への働き掛けを一層強化する」と意気込んだ。

 今月4月27日に予定される韓国と北朝鮮の南北首脳会談、その後の米朝首脳会談と北朝鮮情勢は激動の渦にある。ただ、メインテーマは「非核化」で、安倍首相が拉致被害者帰国へ「働き掛けを強化」と言っても、すべてトランプ大統領頼みの体たらくだ。集会出席者にも苛立ちがあるのだろう。安倍首相が挨拶を終え、退席しようとすると、会場からヤジが飛んだという。

「司会(櫻井よしこ)が『安倍首相は政務のためお帰りになります』と告げ、安倍首相は壇上に座る家族会代表の飯塚繁雄さんや横田めぐみさんの母親の早紀江さんなどと握手をして立ち去ろうとした時でした。1000人弱が座る会場から、男性の声で『なんだ、もう帰るのか』『最後まで席にいろよ』とヤジが飛んだのです。安倍首相は苦々しい顔をして帰っていきました
(現場にいたメディア関係者)

 集会出席者はほとんどが安倍シンパだ。トランプが米朝会談で拉致問題を議題にすると約束し、本来なら解決への期待感が高まっているはずだが、冷ややかな空気も少なからずあるようだ。

 元家族会事務局長の蓮池透氏がこう言う(注)。

拉致問題を米朝首脳会談で扱って欲しいとトランプ大統領に頼みにいくということは、日本政府としては“お手上げ”ということです。それはさすがに安倍首相のシンパにも分かる。嫌気が差している人も少なくないと思います。被害者家族にいつまでも“幻想”を与え続ける安倍首相は罪つくりです。もし、トランプ大統領が金正恩委員長から『拉致問題は解決済みだ。戦後賠償を要求する』と言われたと伝えてきたら、安倍首相はどうするつもりでしょう

 安倍首相は訪米直前の今月4月15日に、入院中の横田滋氏を見舞ったが、実は横田家サイドが「体調がすぐれないので、遠慮して下さい」と伝えていたのに強行したらしい。

 安倍首相はどこまでも拉致を“利用”する。

 「政務」のため先に退席したはずの安倍首相は、私邸に直行。訪問客もなかった。


[写真]「政務」で退席したが…

日刊ゲンダイ、2018年4月23日
拉致被害者集会で異変 安倍首相に「もう帰るのか」とヤジ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/227767

 まさかと思うが、あの夫婦ならあり得るか。

「ヘイト街宣の常習者が参加するデモに首相夫人が感謝のメッセージを寄せたらしいというので、驚きの声が上がっています。デモの主催者は『日本会議議員』を名乗っていて、排外差別デモの在特会とも関係が深いとされる。安倍首相が大阪に選挙応援に来た際、演説の前にバイオリンで君が代を演奏したこともあります」
(大阪府警関係者)

 安倍首相主催の「桜を見る会」が東京・新宿御苑で開かれ、昭恵夫人も出席した4月21日、大阪では「偏向報道に負けるな!安倍政権がんばれ大行進 in 大阪デモ」なるものが行われていた。

 デモの案内には、「偏向報道を糾弾し、かけがえのない安倍政権を応援して憲法改正を絶対実現したい」「凜として和やかで晴れやかな国旗『日の丸』を持ち寄って安倍政権を応援する国民行進」などと書かれている。

 ネット上にアップされたデモ当日の動画を見ると、御堂筋を南下し、解散地点で主催者らしき男性が「安倍昭恵さんからメッセージをいただいておりました」と誇らしげに声を張り上げる様子が写っている。

 男性は手にしたスマホの画面に目をやりながら、昭恵夫人からのメッセージらしきものを読み上げ、こう続ける。 

「『これから日本を求めて世界の人が来そうですね。21日の行進はどこで行いますか』と。本当に昭恵さんのおおらかな方っていうのは、本当に素晴らしかったと思って感激いたしました。いつも応援ありがとうございますというメッセージもいただいております」
(発言ママ)

 これが本当なら、昭恵夫人はまったく反省していないのだろう。
 応援してくれる人なら誰にでもいい顔をしてしまう。
 これでは第二、第三の森友問題が起こりかねない。


日刊ゲンダイ、2018年4月23日
また昭恵夫人が…ヘイト常習者のデモに感謝のメッセージ?
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/227768/

(注)蓮池透さん「司令塔?この期に及んで」 首相発言を批判

 北朝鮮による拉致被害者の救出を求める集会で、安倍晋三首相がした発言を、拉致被害者家族の蓮池透さん(63)が批判し、話題となっている。
 蓮池さんによると、「言葉と行動がかけ離れている」との思いからの発言という。

 安倍首相は4月22日、拉致被害者家族会や支援団体「救う会」が開いた「国民大集会」に出席し、「南北、米朝首脳会談の際に拉致問題が前進するよう、私が司令塔となって全力で取り組む」と語った。
 この発言に対して蓮池さんは23日、ツイッターで「司令塔? この期に及んで。どうやって?」と書き込んだ。

 蓮池さんは2002年に帰国した拉致被害者・薫さん(60)の兄。
 4月21日にTBSが放送した「報道特集」では、首相が訪米し日米首脳会談に臨んだことについて
「わざわざアメリカまで行ってトランプ大統領にお願いするというのは、自分たちがお手上げということの裏返しなわけですよね。それじゃまずいと思うし、トランプさんが拉致問題を取り上げてどういうふうにするのか、全くわからない」
と発言している。

朝日新聞デジタル、2018/04/23 23:16
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/蓮池透さん「司令塔%EF%BC%9Fこの期に及んで」-首相発言を批判/ar-AAweEMi?li=BBfTvMA&ocid=spartanntp


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新田義貞公銅像

 あれれ、ヤッホーくんたち、どこまで歩きに行くのかな、
 この建物の脇をすいと抜けてひたひたと歩いていきます。
 天気も良いし、よし、付いてってみようかな、待ってぇ。

 あれれ、ヤッホーくんたち、東武線「太田」駅北口へ戻ってきましたよ。
 どうしたのかな、あの駅前の銅像って何だっけ、集合写真を撮らないと。

new_P1060021.jpg

 太田市を拠点に活動する新田義貞顕彰会(茂木晃会長)は2016年10月19日、新田氏が掲げた「大中黒軍旗」を作り、東武太田駅北口にある新田義貞公銅像近くに掲げた。
 鎌倉幕府を滅ぼした郷土が誇る武将をたたえ、市民や来訪者らに義貞の功績や銅像の存在をPRすることが目的。
 会員らは「エイエイオー」と高らかに声を上げ、掲揚を祝った。

 吹き流し型の軍旗(縦215センチ、65センチ)2本とのぼり旗(縦180センチ、60センチ)20本を作製した。
 のぼり旗2本を毎日、銅像近くに掲げる。

 大中黒の軍旗は鎌倉攻めの際に使われ、現在は市内の新田神社に伝わるとされる。
 作製した軍旗は同神社の協力で白地と太く黒い線の比率を忠実に再現して縮小した。

 同会によると、1988年建立の銅像は駅前に立つものの、認知度は高くなかったという。
 茂木会長は「旗を掲げることで目印になる」と関心が高まることを期待した。

 旗は今後、新田神社や挙兵の地である生品神社などゆかりの地に贈呈する予定。


北関東を感じる観光情報サイト きたかんナビ、2016年10月21日
大中黒軍旗 堂々と
顕彰会 太田駅の義貞像飾る

(上毛新聞)
http://kitakan-navi.jp/archives/15220

新田義貞の旗を掲げ、掛け声を発する会員.jpg

 あれれ、ヤッホーくんたち、また動き出しました。
 新田義貞公の出陣に加わろうとしているかのよう!
 だって、碑文を声にして読んでくれたのですもん。

 新田義貞公は、清和源氏新田氏直系の郷土出身の武将である。
 1333(元弘3)年5月8日卯刻、生品明神の社前に義旗を挙げ、坂東諸国・越後・信濃・甲斐の源氏を糾合して、鎌倉を攻め、同月22日執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼした。
 この功により建武新政が成り、後醍醐天皇より越後守・播磨守・上野介に任じられ、武者所頭人・左近衛中将となる。
 その後、北条時行の乱を契機に南北朝の戦乱が起こり、義貞公は南朝方の忠臣として各地に転戦した。
 1336(延元元)年、吉野に移った後醍醐天皇は、恒良親王・尊良親王と義貞公を越前に下らせて再起を図った。
 義貞公は越前平野を支配下に置いたが、南風競わず、1338(延元3)年閏7月2日、越前藤島燈明寺畷で斯波高経の軍勢との遭遇戦において、壮絶な最期を遂げた。
 御年38歳であった。
 御遺骸は福井県丸岡町の称念寺に葬られた。
 公の御霊は太田市新田神社、福井市藤島神社にまつられている。
 太田市金龍寺には、供養塔と顕彰碑がある。
昭和63年5月 新田義貞公銅像建設委員会


 あれれ、ヤッホーくんたち、新田義貞公ゆかりの地へと歩を進めていきます。

 本コースのスタートは太田駅北口。
 トイレは駅の構内、コンビニは南口駅前にあるので、出発準備はここですませておこう。
 まずは北に向かって少し歩くと、車の往来が多い街道に出るのでそこを左へ。
 10分ほど行くと長念寺というお寺が右手に現れるので、その角を右に入れば八瀬川沿いに真っ直ぐ続く道に出る。
 八瀬川には鯉も泳いでいて気持ちがよい道だ。
 やがて突き当たりをクランク状に右に入れば、そこが大光院の参道。
 参道には、懐かしさを感じさせるお土産物屋が今も何軒か営業している。


東武鉄道沿線ハイキング・ウォーキング・トレッキング情報
太田ハイキング
http://tabi.tobu.co.jp/playing/hiking/topics/hiking-report/ota/

 そうなんです、シャッターをあげたばかりのお土産物屋さんが奥ちゃんにね、
「どこから来たの?遠いところから?向こうから来たから駅からと思ったけど」
 地図は持ってるのとパンフレット類など併せいただいたので痰切り飴を購入。
 ここで皆さま、群馬県太田市の見どころ、ちょっとだけ動画でご覧あそばせ。

「史跡金山城跡」「旧中島家住宅」「まちかどの猫展」(平成28年9月7日放映)
「史跡金山城跡」と国指定重要文化財となった「旧中島家住宅」を秋の散策スポットとしてめぐるほか、美術館・図書館開館プレ事業として開催された「まちかどの猫展」とKIKIさんトークショーの様子をご紹介します。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=243&v=gX1_GMz0TYA

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太田市美術館・図書館

 アートディレクターの佐野研二郎氏(1972-)がデザインした、群馬県太田市の文化施設「おおたBITO 太田市美術館・図書館」のロゴの使用が断念されることになった。
 市民からの意見公募で反対意見が多数を占めたことから、清水聖義市長は2015年10月2日、「市民の意見を重く受け止める」として、佐野氏のロゴの使用を断念する方針を固めた。NHKニュースが報じた。

 「おおたBITO」は東武太田駅の再開発事業の中核施設として、2016年秋の開館を目指している。
 建物の設計を担当した東京の建築設計事務所がロゴを佐野氏に委託した。
 佐野氏が手がけた2020年東京オリンピックの公式エンブレムがベルギーの劇場のロゴとの類似が指摘された後、アメリカ人のデザイナー、ジョシュ・ディバイン氏が「おおたBITO」のロゴが自身の作品に酷似していると指摘。
 太田市には市内外から使用中止を求める声が寄せられた。

 毎日新聞によると、太田市は9月20〜30日に市民から意見を募集、計217通が寄せられた。
 うち6割が「改めて公募し直す」、2割が「その他」で、使用継続への賛意は2割だったという。

 太田市公式サイトの「おおたBITO」の紹介ページには、佐野研二郎氏が手がけたロゴが掲載されていたが、10月3日現在は削除されている。


The Huffington Post、更新 2015年10月04日 01時34分 JST
佐野研二郎氏のロゴを断念
群馬・太田市の「おおたBITO」その理由は?

(安藤健二)
https://www.huffingtonpost.jp/2015/10/03/oota-bito-logomark_n_8236466.html

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 ヤッホーくんたち山歩クラブは昨日の4月22日、6人で群馬県太田市に歩きに出かけました。
 東武線「太田」駅北口に降り立ったご一行さまをお出迎えしてくれたのが、この写真の建物。
 「おおたBITO 太田市美術館・図書館」!
 文化空間の提供という公的サービスが、集客数という「数値」で評価測定されるようになった時代、
 その象徴ともいえる建物にヤッホーくん、違和感を覚えて、思わず腰がぬけそうになったそうです。

 今月2017年4月、グランドオープンした「太田市美術館・図書館」の開館記念パフォーマンスとして、さまざまなダンスや舞踊などからなる「オオタドン」が同館の内外で行われた。
 来館者は迫力あるさまざまなライブを間近で楽しんだ。

 タイトルのオオタドンは、上毛かるたに詠まれた「太田金山子育呑龍(かなやまこそだてどんりゅう)」が響きが良いことから、付けたという。
 出演したのは主に市内で活動するヒップホップや太極拳、社交ダンスなど7団体と「東京あたりのダンサーズ」。

 真新しい白壁の2階テラスで八木節を披露したのは、同市八木節連合会の面々だ。
 「チャカポコチャカポコ」というリズムに合わせ法被姿の女性たちは笠(かさ)踊りを披露。
 慣れている踊りだがテラスという初めての舞台にいささか緊張気味の様子だった。

 4月26日からは開館記念展「未来への狼火(のろし)」が開催される(7月17日まで)。
 太田が、昔から「ものづくりのまち」であることを絵画や工芸、写真、映像などさまざまなアーティストの作品を交えて表現するもの。
 午前10時〜午後6時、月曜休館(7月17日は開館)。
 一般800円、学生・団体640円、中学生以下無料。
 問い合わせは同館=電0276(55)3036=へ。
 

東京新聞、2017年4月26日
踊って祝う「オオタドン」
太田市美術館・図書館開館記念

(粕川康弘)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201704/CK2017042602000183.html

 2017年4月にグランドオープンした太田市の市美術館・図書館の開館記念展「未来への狼火(のろし)」が、7月17日まで開かれている。
 市内ゆかりの作家や、地元をテーマに市内に滞在して制作した作家ら計9人の約60点を展示している。

 1階から3階の展示室に、絵画、写真、映像作品などが並ぶ。
 東京都の画家浅井裕介(1981-)さんの「言葉の先っぽで風と土が踊っている」は、高さ約5メートル、幅約14メートルの大作。
 さまざまな動物や植物、人などを緻密に表現している。
 市内の山や農園、民家などで採取した土を絵の具代わりにして展示室の壁に直接描き、記念展終了後は消してしまうという。

 市内に住む両足義足の美術家、片山真理さんの義足を使った立体作品や自らを撮影した作品も目を引く(注1)。

 1階から2階に向かうスロープには、詩人清水房之丞(1903-1964)の詩が描かれている。
 画家正田壌さん(注2)の詩情あふれる油彩画などもある。
 2人とも市内出身という。


東京新聞、2017年5月1日
太田市美術館・図書館
開館記念展「未来への狼火」開催

(原田晋也)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201705/CK2017050102000164.html

(注1)群馬県立近代美術館

 群馬県太田市で育った片山真理は、高校在学中の「群馬青年ビエンナーレ'05」入賞をきっかけに作家活動を始めます。
 2012年東京藝術大学大学院を修了すると、同年の「アートアワードトーキョー丸の内2012」でグランプリを受賞、翌年の「あいちトリエンナーレ2013」では映像も使った大規模なインスタレーションを発表し、大きな注目を集めます。
 片山は、先天性の四肢疾患により9歳の時に両足を切断して以後義足で生活しており、装飾を施した義足を装着したセルフポートレートや、自身の身体をかたどった立体作品などにより、自らの身体・精神と世界との関係を作品化し続けています。
 2016年には「六本木クロッシング2016」(森美術館)への出品をはじめ各地で作品発表が続き、今や日本を代表する若手アーティストの一人となっています。
 片山にとって、作家としてのスタートを切った当館での11年半ぶりの展示となる本展は、「瀬戸内国際芸術祭2016」参加企画として直島で開催された個展「bystander」(傍観者)を引き継ぎつつ、故郷とのつながりを再確認するものとなります。
 直島では、初めて訪れた土地で自身の存在を異質なものとして意識し、また初めて他人の身体を作品のモチーフとして取り込んだことで、自他の関係性というテーマが浮かび上がりました。
 本展では、直島で発表した立体をさらに増殖させ、幼少期より慣れ親しんだ土地──利根川や渡良瀬川の河岸、自動車が行き交う国道脇など──で撮影したセルフポートレートとともに展示します。
 時間と空間の隔たりを超えて群馬へ帰り着いたとき、片山の作品はどのような変化を見せてくれるでしょうか。
 そして片山はここからまた新たな一歩を踏み出します。


片山真理「帰途」、2017(平成29)年1月21日-3月20日
Mari Katayama : On the Way Home

http://mmag.pref.gunma.jp/kakoten/h28/h28exh04.htm

(注2)父、正田壌、2012-07-29 23:52
 私の父は画家です。
 モダンアート協会の会員で洋画家、以前は群馬県美術家協会の会長も務めていましたが体調を崩して辞職しました。
 およそ権力と言う物に関心が無い人で“やめて安心した”そうです(笑)。

 そんな父も80歳を過ぎ、目の故障に悩まされ、体調と格闘しながら創作活動を続けています。
 いろいろな方々に助けられて今も頑張っています。

 そんな時ふと思いついてネットで父の名前を検索してみました。
 ”インターネットって何だ?”と言う父、でも出て来るんです!父の名と作品が!


正田壌.jpg

 長年糖尿病を患っている父はしばらく前にインシュリンの誤投与により緊急入院、一時は危篤となりましたが幸い一命を取り留め退院しました。
 父の生きがいである絵が少しでも売れるように、私も頑張ってここに紹介していこうかな!


酒とドラムとネコ三昧
https://tsdrum.exblog.jp/15872481/

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政治家の世襲

 週明けのメディアは世論調査に始まった。
 訪米後も下げ止まらない安倍政権の支持率。
 それにもかかわらず上がらない野党の支持率。
 この二つが見事にこれから始まる政局を言い当てている。
 これからの政局は、安倍政権と打倒安倍政権の与野党の戦いではない。
 自民党内の安倍首相とポスト安倍の政局だ。
 その引き金を引くのは、いずれ辞めるだろう麻生太郎財務大臣だ。
 野党から追い込まれて辞めるのではない。
 ポスト安倍を決断をしたから辞めるのだ。
 やはりメルマガ第289号で書いた安倍・菅と麻生の大喧嘩という週刊フライデーの記事は正しかったのだ。
 そして今度は週刊フラッシュだ。
 今日発売の週刊フラッシュGW特大合併号が報じた。
 小泉純一郎が二階幹事長に直談判したと。
 やはり4月18日夜の小泉、山崎、武部、二階、それに小池百合子を入れた「同窓会」は、安倍首相に見切りをつけた会合だったのだ。
 しかし、権力を握った安倍首相がおめおめと辞めるはずがない。
 かつて総理の座を巡って大平と福田の40日抗争というのがあった。
 今度は9月の総裁選までの、もっと息の長い、もっと激しい抗争になるのかもしれない。

 しかし、私がこの週刊フラッシュの記事で注目したのはそのことではない。
 いずれ首相となると見られている小泉進次郎(1981-)の動きだ。
 小泉進次郎を中心とする「2020年以降の経済社会構想会議」なる勉強会が3月1日に発足したという。
 事実上の進次郎派閥の結成であるという。
 問題はそのメンバーだ。
 進次郎が兄貴分と慕う福田達夫(1967-)をはじめとして、武部新(あらた、1970-)、加藤鮎子(1979-)、笹川博義(1966-)らが中心になっているという。
 それぞれ、福田康夫(1936-)、武部勤(1941-)、加藤紘一(1939‐2016)、笹川堯(1935-)の二世だ。
 世襲議員ばかりである。
 小泉進次郎だけではない。
 ポスト安倍の候補者は、小泉進次郎だけでなく、岸田も石破も野田も河野も、みな世襲議員だ。
 これほど国民を馬鹿にした話はない。
 世襲議員らが国を亡ぼす。
 そして、そのことは、程度の差こそあれ野党議員も同じだ。
 さらば世襲政治
 そういう日が来なくては政治は良くなることはない。


天木直人のブログ、2018-04-23
世襲が跋扈するろくでもないこの国の政治

 まず、次の文章をお読みいただきたい。

 法律に定められた国会議員の給料は月額129万4000円。これに年間600万円強のボーナスを加えて年収約2200万円。
 それに「第二、第三の財布」と呼ばれる「文書通信交通滞在費」と「立法事務費」がそれぞれ月額100万円と65万円、支給される。
 これらは使途報告の義務も領収書も不要で、しかも経費だから税金はかからない。
 交通費はグリーン車代や飛行機代が無料支給されるから二重取りであり、立法費といっても、そもそも国会議員は法律をつくるために給与をもらっているわけだからこれも二重取りだ。
 加えてすべての政党は税金から一人当たり単純計算でほどの政党助成金が給付される。
 以上は、国会を空転させ、一日5億円も血税を垂れ流している安倍政権を批判する、アサヒ芸能最新号(4月26日号)の憤怒のレポートからの抜粋である。
 しかし、これらはもちろん野党議員にも当てはまる。

 血税から支払われるこのような特権の数々を平気で受け取る国会議員たちに、政治を担う資格はない。
 それには与党も野党もない。
 新しい政治をつくろうとするなら、この認識から出発しなければいけない。
 アサヒ芸能の記事を読んであらてめてそう思う。


天木直人のブログ、2018-04-23
腹立たしいのは世襲議員だけではない

 最近の朝日のスクープ記事は安倍降ろしの記事と相場が決まっている。
 しかしさすがにこの記事は違うだろう。
 文字通り外交情勢に関するスクープ記事だ。
 それにもかかわらず、安倍おろしではないかと思えるほど、安倍首相にとって不都合な記事だ。

 きょう4月23日の朝日がソウル発牧野愛博記者のスクープ記事を掲載した。

 それは3月末から4月初めにかけて行われたポンぺオ米中央情報局長官の極秘訪朝に関するスクープ記事だ。
 北朝鮮関係筋が明らかにした話として次のように報じている。
 すなわち、ポンぺオ氏ら米政府当局者6人は韓国で国家情報院の情報提供を受けた後に北朝鮮入りしたと。
 金正恩朝鮮労働党委員長自らが歓待し、食事を含め会談はは3、4回に及んだと。
 金正恩氏は「完全な核廃棄」の意志を表明し、在韓米軍撤収要求はしなかったと。
 抑留している米国民3人を解放する方針も決めたと。
 金正恩氏は会談後、ポンぺオ氏について、「こんなに自分のペッチャン(度胸)と合う人間ははじめてだ」と喜び、満足したと。
 米国は「金正恩氏は本当に非核化する意思を持っている」と評価したと。
 現在もCIAと見られる米政府関係者が北朝鮮入りし、首脳会談に向けた調整が続けられていると。
 以上が牧野記者のスクープ記事の概要だ。

 4月17日の安倍訪米とトランプ大統領との首脳会談の前に、ここまで北朝鮮と米国の間で話し合いが進んでいるとは驚きだ。
 しかも、日本は安倍首相の訪米直前まで金正恩氏とポンペイ氏の極秘接触を知らなかったが、韓国はとっくに知っていたのだ。
 もちろんその結果報告も受けているに違いない。
 そして習近平主席もこの極秘接触について金正恩委員長から知らされていたに違いない。

 知らなかったのは日本だけだったということだ。
 文字通り日本は外されていたのだ。
 これからも、北朝鮮問題について日本が米国、中国、韓国、北朝鮮の4ヶ国の話し合いに仲間入り出来る見通しはまったく見当たらない。
 安倍外交破れたりだ。
 いや、敗れっぱなしである。


天木直人のブログ、2018-04-23
朝日がスクープしたポンぺオ極秘訪朝の実態
http://kenpo9.com/archives/3610

 一年で一番、和服姿が見られる季節だ。
 お正月に成人式、この週末には、茶道で新年最初に茶事を行う「初釜」に出かける人もいるだろう。
 私も、数年前からほんのちょっぴり茶道をかじっている。
 素人の観察だが、茶道と政治は似ていると思うことが多い。
 もとより千家流茶道の祖、千利休は政治に影響力があったし、現代の政治家にも中曽根康弘元首相など茶をたしなむ人はいる。
 茶道も政治も様式美を大切にする。といっても微妙に違って、茶道の様式美はあくまでも合理的だが、政治はそうでもない。
 たとえば、茶道では体を傾けたまま所作を続けることがある。
 見た目にも美しいのに加え、次の動きに入りやすいからだ。
 一方、政治は国会の採決で一人一人壇上で投票するやり方がある。
 参院は押しボタン式も導入され、そのほうが合理的で効率的だろうが、衆院は採用していない。
 伝統と様式を大切にしているからのように思える。

 茶道も政治も「世襲」を重じる点も似ている。
 茶道は千利休の昔から、家元は連綿と世襲で受け継がれている。
 幼い頃から雰囲気や所作、気構えを自然に学べるからだと、ある師範が教えてくれた。

 一方政治は世襲と決まっているわけではない。
 が、朝日新聞の調べによると、昨年2017年の総選挙で自民の世襲議員は獲得議席の29%にあたる83人だという。
 安倍晋三氏をはじめ、ここ4代の自民党の首相も2世や3世だ。
 ちょっと多すぎないか。
 もちろん、世襲議員にだって立派で見識のある人はたくさんいる。
 でもそれにしたってー と思っていたら、こんな本が出た。
 『小泉進次郎と福田達夫』(文春新書)。

 自民党の農林部会の部会長と代理として農政改革を引っ張った2人が、農業の話のみならず、世襲や家族のことを率直に語っている。
 そういえば私は、「2世」の人々に正面から世襲について聞いたことがなかったかもしれない。
 片方の当事者に会いに行った。

 福田達夫氏(50)は、父・康夫も祖父・赳夫氏も首相。
 自分は政治家になる気は皆無で、20歳になった時に父からも「政治家は継ぐ仕事じゃない」と言われた。
 大手商社に就職し、楽しく働いていた。

 20代のころ、地元活動に忙殺される母親を助けたいと、あいさつ回りをしたことがある。
 古くからの支持者の家に行ったら、神棚をはさんで天皇陛下と祖父の写真が飾ってあった。
 あいさつを終えて辞し、振り向くと老齢の女性が両手を合わせて自分の後ろ姿を拝んでいた。

「強烈に覚えています」

 それでも政治家になるつもりはゼロだった。

「だって、人間のいろんな姿を見るんです。祖父の葬式の時に政治家の人たちが親族よりも前に並んで、参列の方々にあいさつをしている。祖父にはいい顔をしている人が、東京の孫の僕には手のひらを返したような態度をとる。人間の裏表を見るというか。政治家ってこんな人たちなんだ、こういう人たちと一緒になりたくない、って」

 だが、父が官房長官になり、秘書官が病に倒れ、ピンチヒッターのつもりで秘書官となり、そうこうするうちに父親が総理になって‥。
 結局自分も政治家になった。

 世襲についてどう思うかと問うと「民主主義から考えたらおかしいですよ」。
 自分もそうですよね?

「高げたをはかせてもらっているので、その分結果を出して当たり前だと思っています」

 即答した。

 小泉進次郎氏も本のなかで、初出馬の時に猛烈な世襲批判があったと話している。

「僕は、生まれてきちゃいけなかったのかなとか、そういったことを考えるくらい、落ち込みました」
「何かかったら、やっぱり世襲はダメなんだって言われるのは目に見えていますから、その緊張感というものもありました」

 私は思った。
 彼らはもちろん恵まれている。
 でも、「2世」にだって悲しみも悩みも葛藤もある。
 私はそれに目を向けようとせず、思考停止に陥って、ステレオタイプで見ていたかもしれない。
 彼らを選んでいるのは私たちだ。
 政治家は私たちの鏡だし、彼らを考えることで、自分たちの姿が見えてくる。


朝日新聞、2018年1月11日
政治家の世襲
2世のはくゲタ担う葛藤

秋山訓子(編集員)
http://seibuhanbai.com/column/1月18日%E3%80%80ザ・コラム%E3%80%80秋山訓子%EF%BC%88編集員%EF%BC%89/


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与謝野晶子生誕140年「与謝野晶子展」

 元自民党衆院議員で、財務相や経済財政担当相を歴任した与謝野馨(よさの・かおる)氏が死去したことが5月24日、分かった。78歳。東京都出身。関係者が明らかにした。
 政界きっての財政再建論者で消費税増税派だった。明治の歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻の孫。東大を卒業後、中曽根康弘元首相の秘書などを経て、1976年に衆院旧東京1区で初当選。文相、通産相、官房長官などを務め、幅広い分野の政策通として知られた。衆院当選10回。
 2004、2005年の自民党政調会長時代は小泉純一郎首相の構造改革路線を推進した。2006年にがんの手術を受けた後に復帰。2008年8月、福田改造内閣で経済財政担当相に就いた。
 2008年9月、福田康夫首相の辞任に伴う党総裁選に立候補。麻生太郎氏に敗れたが、麻生内閣で経済財政担当相に再任された。2009年、辞任した中川昭一財務相・金融担当相の後任となり一時は経済関連三閣僚を兼務した。
 民主党(当時)が政権にあった2010年、たちあがれ日本の共同代表に就任。自民党は反党行為として除名した。その後、たちあがれ日本を単身で離党して無所属となり、菅再改造内閣の目玉人事として経済財政担当相に就いた。「変節」との批判が出る中での入閣だった。
 消費税率引き上げに向けた議論を主導し、2011年6月に消費税率を2010年代半ばまでに10%に段階的に引き上げることを柱とした社会保障と税の一体改革の政府・与党案をまとめた。その後、2012年の衆院選に出馬せず、政界を引退。がんを患った影響で声が出にくくなり、選挙活動が難しいとの判断があった。
 ゴルフやカメラ、囲碁、天体観測、釣りなど多彩な趣味人だった。がんにまつわる著書も出版。2013年には旭日大綬章を受章した。
 与謝野氏本人の希望を踏まえ、自民党は2017年4月に復党を認めた。


東京新聞・朝刊、2017年5月25日
与謝野馨氏が死去、78歳
元財務相、消費増税推進

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201705/CK2017052502000131.html

 こういうヤッホーくんにはいまだに芯がわからない政治家がおりました。
 で、この政治家は明治の歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻の孫だったのです。
 この与謝野晶子は今年、生誕140周年です。
 展覧会も開かれています。
「生誕140年与謝野晶子展」
www.kanabun.or.jp/

 略奪婚の末に11人もの子供を育て、夫の奔放な恋愛に苦しみ、1000枚もの原稿を火事で失ってもめげない――。
 そんな膨大なエネルギーを持った女性が与謝野晶子という人である。
 晶子の名は明治の詩歌に革新をもたらした歌人として揺ぎ無いものがあるが、彼女はひっそりと机の前に座って歌を詠んでいただけではなかった。

 子育てにまつわる膨大な家事、苦しい家計のやりくり。
 普通ならそれだけで押しつぶされてしまうところなのに、晶子は優れた詩歌で若い青年歌人らをとりこにし、筋の通った評論で偏狭な男どもを論破。
 さすがに過労で倒れたこともあったが、晶子が弱音を吐くことは一度もなかった。
 現代でも色あせない晶子の魅力は、夫を死ぬまで愛し続け、正しいと信じた道に凛として突き進んだ彼女の強さによるものだろう。

鉄幹と略奪婚。閨房を詠んだ『みだれ髪』

 与謝野晶子は1878(明治11)年に生まれた。生家は大阪の堺にある『駿河屋』という老舗の和菓子屋。裕福な家庭だった。実家は教育に熱心で、晶子は漢学塾に通い、琴や三味線などの稽古にも励んだ。旧姓は鳳(おおとり)、戸籍名は「志よう」。この「しよう」という読みをそのままに、「晶」の字をあてた。

 晶子の才覚が発現したのは堺女学校時代。古典を猛然と読み始めた。『源氏物語』を数度読んだという。現代詩でいえば、島崎藤村、正岡子規などに学ぶことが多かった。正岡子規の俳句に衝撃を受け、短詩型こそ我が進む道、と和歌を始めた。そして和歌の雑誌、新聞などに投稿も始めた。ここまではお嬢さん芸的な、関西地方の一文学少女だった。
 そのうち、関西だけではなく、東京の文芸の動きが活発になる。
 与謝野寛という男が創刊した『明星』という詩歌の専門雑誌が気になってきた。
 短歌革新を唱える与謝野寛が『明星』の宣伝のため関西にやってくる、というので晶子は友人と語らって会いに行った。
 このときに寛に会ったのは、関西在住の女流歌人山川登美子、増田雅子だった。
 ちょっとした、運命的な出会いだった。

 寛はそのころ既に、「鉄幹」という雅号を名乗っていた。
 鉄幹とは、寛が子供のころから好きだった、梅の木にちなんでいる。
 鉄幹は「虎の鉄幹」、「剣の鉄幹」とも呼ばれたという鋭さを持っていた。さらに、鉄幹は都会的で、なにもかもスマートで、関西のいとはんをうっとりさせるほどの美男子だった。才気にも溢れ、機知に富んだ話しぶりは、娘たちの心をぎゅっととらえた。

 登美子、雅子、晶子の3人のうち、最初に鉄幹の手に捕らえられたのは晶子だった。鉄幹には妻がいた。でもそんなこと何あろう、私は新しい時代を生きていくのだから。妻子があろうとお構いなし。好きになったら、その人のもとにまっしぐら。それこそが晶子の行動力だ。正しいと思ったら直ちに行動に移す。
 鉄幹も晶子のなかの文芸の才能を見抜いていた。自分が主催する『明星』に晶子の才能を生かせたら、という思惑があった。鉄幹は晶子を東京に呼び寄せた。
 1901(明治34)年、晶子が鉄幹のもとに上京したのに押し出されるように、鉄幹の妻子は郷里の山口県徳山に帰っていった。晶子の強引な妻子ある男性の強奪だった。
 鉄幹の住居は今の渋谷(当時は東京の西のはずれの片田舎。雑木林と畑地が連なる)の道玄坂あたりだったらしい。
 豊かに育った上方のいとはん、晶子の最初の試練は、鉄幹の生活の貧しさだった。詩人とは、貧乏なもの、と覚悟はしていたが、食事は一汁一菜のみ、と言われた。いままで体験したことのないような粗末なもの。
 実家から持ってきた着物もたちまち売り尽くし、窮乏する。この貧乏生活はこの後の晶子に一生つきまとうものだった。

 晶子が上京して2ヶ月後、晶子の個人歌集『みだれ髪』が刊行された。
 この歌集に明治日本全体が驚嘆した。呆気にとられた。
 男女が閨房で密やかに交わすような言葉を織り込んだ短歌は、確かに新鮮だった。

やは肌の あつき血汐に 触れも見で さびしからずや 道を説く君


 これが『みだれ髪』中もっとも有名な歌。歌集の表紙はビアズリー風というか、アールヌーボー風で、明治文明開化の気分をよく表している。
 この歌集によって、与謝野晶子は一躍、明治歌壇の寵児となった。いわゆるキワものベストセラーというが、『みだれ髪』はちょっと違う。短歌には『万葉集』、『勅撰和歌集』以来、日本の文芸として長い伝統がある。巨大な山に例えられるような伝統だ。その伝統に晶子は、新しい表現を持ち込んだのだ。

 『みだれ髪』は歌壇に新しい潮流をもたらした。晶子と鉄幹のもとに、多くの青年男女が集まってきた。
 現代に名が伝わる人の名前を挙げておこう。高村光太郎、石川啄木、北原白秋、吉井勇などなど。晶子と鉄幹のふたりは一世を風靡した。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり


 いうまでもない、島崎藤村の『若菜集』中、「初恋」の一節だ。
 この詩集が明治の詩歌を目指そうとする若者たちに、衝撃的な力をもたらした。
 いわゆる新体詩が誕生し、北原白秋の『邪宗門』が生まれ、与謝野晶子の『みだれ髪』が世に問われた。
 それは大きな山が動くような動きだった。
 藤村の『若菜集』は当時の若者たちを動かし、ふつふつと新しい詩の一群を生み出す機運を与えた。

 晶子の著作活動はその頂点に達しようとしていた。


日経ビジネス「書物漂流」、2007年2月9日(金)
自分を生きた女たち〜与謝野晶子
11人もの子育てと、夫への激しい嫉妬の中で詠んだ熱い思い
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070207/118602/

■ 恋・戦争…「まことの心」詠む

◇ 大胆でパワフル 行き方たどる

 歌人与謝野晶子の作品と人生をたどる特別展が神奈川近代文学館(横浜・港の見える丘公園)で開かれている。
 開館から34年、「取り上げたことのない最後の大物」だったというが、生誕140年を記念しての企画となった。

 晶子といえば、まず「みだれ髪」だろう。1901(明治34)年、22歳で刊行した第一歌集である。

その子二十櫛(はたちくし)にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな

やは肌の あつき血汐(ちしほ)に ふれも見で さびしからずや 道を説く君


 今日でも奔放さを漂わせる。美への思いや恋愛を若い女性が高らかに歌い上げたのだ。同時代の人には大きな驚きだっただろう。

 展示ではその背景を紹介している。
 与謝野鉄幹の存在だ。
 詩歌革新を掲げ「明星」を創刊した鉄幹は投稿作品を熱心に添削したが、晶子への指導は〈挑発〉だったと歌人の三枝昂之さんは指摘する。
 「京の紅は君にふさはず我が噛(か)みし小指の血をばいざ口にせよ」と「明星」に記した。
 「晶子の才能を見抜き、もっと大胆に、もっとパワフルに、と煽(あお)り続け」、生まれたのが「みだれ髪」だったと三枝さんは考える。

 晶子は髪が豊かでいつも髪を幾筋か垂らしていたので「みだれ髪の君」と呼ばれていたという。

 鉄幹と晶子はこの年、結婚。
 晶子の作品に刺激され北原白秋、高村光太郎、石川啄木らが参加し「明星」は浪漫派の拠点となる。

* *

 晶子といえばもう一つ思い出す「君死にたまふこと勿(なか)れ」も紹介されている。

あゝをとうとよ君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや


 日露戦争が始まった1904年、激戦地の旅順に弟が送られた。
 当時、問題とされたのは、今日とは異なる視点からだった。

すめらみことは戦ひに
おほみづからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ


 天皇は戦場に出ないと指摘したこの部分が、「世を害する」と国家主義の立場から厳しい批判を浴びた。

 それに対して晶子は、何かにつけて天皇の名をあげ「忠君愛国」を説くといった風潮は危険であり、私の好きな王朝文学の中で天皇が人に死ねという場面など見たことがないと指摘。
 さらに「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき。まことの歌や文を作らぬ人に、何の見どころか候べき」と反論した。


 〈反戦詩〉として脚光を浴びるのは第2次大戦の後のことのようで、「家族を思う〈まことの心〉」を詠んだというのが晶子の思いだったようだ。

* *

 1878(明治11)年に晶子は大阪・堺の和菓子商の家に生まれた。店番のかたわら、蔵にあった古典を読みふけり育った。

 「一生の事業」として晶子は「源氏物語」の現代語訳に取り組むが、紫式部を「12歳の時からの恩師」と慕い、「式部と私との間にはあらゆる註釈(ちゅうしゃく)書の著者もなく候」と記している。

 「新訳源氏物語」全4巻を1913年に完成させたが、納得できなかった。そこで1932年に改訳に乗り出した。1935年には鉄幹が急逝。
 「新新訳源氏物語」全6巻が完成したのは1939年。
 その翌年に脳出血で倒れ、1942年に亡くなる。文字通りのライフワークだった。

 その生涯をたどるとパワフルさに圧倒される。
 鉄幹との間にもうけた子どもは12人。
 その子育てをしながら創作に励んだ。
 評論も数多く、戦前期を代表する女性論客ともいえそうだ。

 経済的にも家を支えた。鉄幹が不遇の時期を迎えると、鉄幹の渡欧を実現させようと資金集めに奔走。歌を百首も書き付けたびょうぶを売り出している。

 欧州からの手紙を受け取ると、晶子は7人いた子どもを親族に託し1912年にパリへと旅立っている。

 近代日本に新たな表現世界をもたらした浪漫派の代表歌人とされる晶子だが、「顕彰されるようになったのは死後いくらかたってからでした」と文学館の浅野千保学芸員は説明する。
 その奔放さ、大胆さは「ふしだら」と受け止められがちだったようだ。

 展示をめぐりながら、ついつい思い浮かべるのは「忖度(そんたく)」がキーワードの昨今の風潮。
 晶子ならどんな歌を詠むのだろう。

歌は歌に候。後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候

 晶子のこの言葉が強く記憶に残った。
 2018年5月13日までの開催。


朝日新聞・神奈川、2018年03月31日
生誕140年「与謝野晶子展」
(渡辺延志)
www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20180402150280001.html

 桜の季節が巡ってきました。月の光に浮かび上がる花の妖艶さを、歌人・与謝野晶子はこう詠みました。

清水(きよみず)へ 祇園(ぎおん)をよぎる 桜月夜 こよひ逢(あ)ふ人 みなうつくしき


 今年は晶子生誕140年にあたります。
 師・与謝野鉄幹へのほとばしる恋の熱情を高らかに歌い上げた第一歌集『みだれ髪』は1901年、20世紀の幕開けに刊行され、文学の新時代を切り開きました。
 晶子22歳。

春みじかし 何に不滅の命ぞと ちからある 乳(ち)を 手にさぐらせぬ


 移ろう世の中に、この力みなぎる乳房こそが確かなものだと歌う自己肯定は、個々の人間をかけがえのない存在として尊重する姿勢につながっています。

 日露戦争に召集された弟に送った反戦詩「君死にたまふことなかれ」では、国家のために人を殺し殺されるために、親は手塩にかけて子を育てたわけではないと断じます。
 この詩への批判に対して、〈まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき〉と反論しました。


 家計を支えながら、鉄幹との間に5男6女を産み育てた晶子は、完全な個人を目指し、女性の自立を訴えるとともに、家庭責任をないがしろにする男性を批判しました。
 『青鞜(せいとう)』創刊号に寄せた詩「そぞろごと」は、〈山の動く日来(きた)る〉で始まり、〈すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる〉〈われは女ぞ。一人称にてのみ物書かばや〉と宣言します。

 〈歌はどうして作る。じっと観(み)、じっと愛し、じっと抱きしめて作る。何を。真実を
― 晶子の言葉は、今の社会を鋭く照らしています。


しんぶん赤旗、2018年3月24日(土)
今日の潮流
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-24/2018032401_06_0.html

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2018年04月21日

史上最悪の英語政策

 京都大学在学中の1999年に「日蝕」で第120回芥川賞を当時最年少の23歳で受賞した作家の平野啓一郎さん。
 2016年に出版された最新作「マチネの終わりに」は13万部を超えるベストセラーに。
 そんな平野さんに受験と大学生活の思い出などを聞きました。

国語模試に抱いた不満

 高校2年の時に初めて長編小説を書いて、3人に読んでもらったのですが、あまりはかばかしい反応もなく、それで気が済んだところがあったので、受験勉強にいそしもうと思いました。
 文学は好きでしたが、自分が作家になろうとは考えていませんでした。
 僕はトーマス・マンという作家が好きで、特に初期の作品は、市民社会と芸術の世界の間で揺れ動く主人公を描いていて、市民社会に対してかなり肯定的な描き方をしているところに共感する部分がありました。
 文学で生きていくのはどこか浮世離れしていると思っていました。

 僕は母方の実家で育ったのですが、家系が医者、歯医者、公務員と割と堅い仕事が多かったので、真っ当な道に進まないといけないと感じていました。
 文学が好きなだけに、中途半端に文学部に行くと、こじらせて、ろくな人間にならないのではないかという恐れがあって、なるべく世の中の役に立つ学部に行こうと思いました。
 理系は好きではなかったので、「法学部にしたら後々つぶしがきく」という理由で決めました。

 京大を受験したのは、高2の進路指導の時に親が担任の先生から「平野は変わっているから、東大ではなく京大に行ったらどうですか」と言われたことがきっかけで、自分でも「俺は変わっているから、京大に行った方がいいかな」と思ったのを覚えています。
 あと、僕は東京に対してものすごく悪いイメージがありました。
 特に僕が10代の頃はバブルの真っただ中で、こんな大人になるのは嫌だなとネガティブな感じがあって、京大がかっこいいような変なブランド意識みたいなものがありました。

 受験は地理と日本史で受けようと思っていたのですが、地理が途中からあまりにも面白くなくて、倫理・政経でセンター試験を受けようと切り替えました。
 倫理・政経は授業がなかったのですが、僕は本をよく読んでいたので、教科書をパラパラと見たらこれくらいのことは知っているから、あとは勉強すればいいなと。
 勉強も面白かったので、結局は倫理・政経で受けました。

 国語は途中までは成績が良くありませんでした。
 4択問題でもどれも違うのではないかと感じることがあり、模範解答を見て「こいつ、分かっていないんじゃないか」と問題作成者に対して不満を持つことがありました。
 そう考え出すと国語はだめなんですね。
 ある時に問題作成者の意図を読まないといけないと思って、それから成績は上がりました。

昼夜逆転の学生時代

 (受験のために泊まった京都の)ホテルがボロで、トイレが部屋に付いていない寮みたいな部屋でした。
 すごく気がめいって、夜に寝て何となく朝に目が覚めてしまって、テレビをつけたらちょうど(リレハンメル)冬季オリンピック(1994年)をやっていました。
 トーニャ・ハーディング Tonya Maxene Harding(1970-)という女子スケート選手が靴のひもが切れたと抗議している瞬間だったんです。
 これはなんか縁起が悪いなと思ったのを今でも覚えています。

 受かった瞬間はうれしかったですね。
 これで受験勉強をしなくていいと思うと、せいせいしました。
 合格の日はうれしくて、「朝までには帰る」と置き手紙をして、家を出ました。
 何かをしでかしてやろうと(北九州市の)小倉の商店街をウロウロ歩いたのですが、高校生ですから何をして遊んでいいか分からなくて、夕方には帰りました。

 法学部に入ってよかったと思っています。
 今の時代、憲法や法律は大きな社会問題となっていますが、小説家の人たちの議論を聞いていると、根本的なところを分かっていない人がけっこういる。
 そういう意味では、文学の内側にずっといるよりは少し違った発想、論理が身につきました。

 法学部では、ハイデガーの研究など西洋政治思想史が専門だった小野紀明(1949-)先生に知的な衝撃をガツンと受けました。
 それが大学に行って一番よかったことですね。
 自分の恩師のような先生と出会えた。
 もう退官されましたが、個人的に今でもお付き合いがあります。

 一方で、作家としては文学部に行かなかったことに対するコンプレックスも少しあります。
 文学部に行っていたら誰でも知っていることを知らないのではないかと。
 それもあって、自己流でよく勉強しました。

 学生時代はバーテンのアルバイトをしていたので、「笑っていいとも!」(平日正午)が始まった頃に寝るような昼夜逆転の生活でした。
 バイトは午後5時半までに行かないといけなかったのですが、目覚まし時計を見たら、6時になっていたことが2回ほどあって、やばいと大急ぎで家を出たけれども、朝の6時だったということがありました。
 そういえば、だんだん明るくなってきているなと。
 それでまた家に帰って寝る、そんな生活でした。

 ギターをずっとやっていて、軽音サークルで5つくらいバンドを掛け持ちしていました。
 僕が学生の頃はよく酒を飲んでいましたね。
 あれは暇だったからです。
 学校が終わって家に帰ったらすることがないですから、その辺で飲むことばかりでした。
 今思えば、あの時間は膨大な無駄ですよね。

 京大は楽しかったのですが、将来のことを考えると不安でした。
 俺はいったい何をしたらいいのか、俺は何なのかということを考えて、悶々としていました。
 いろいろ考えて、自分はどうしても文学の世界に行きたいと思うようになって、大学1年の終わりから小説を書いたりしていました。
 東京にいると出版社は近いし、知り合いをたどっていくと編集者にたどり着く可能性がありそうな気がしますが、京都にいると東京の出版社は遠い世界で、どこからどうアクセスすればいいのか分からなかった。
 コネがある人もいない中、どうやったら作家になれるのか、とても難しくて、とにかく原稿を送ろうと考えました。

 就職活動については、(デビュー作の)「日蝕」の原稿がはしにも棒にもかからないのであれば、しないといけないと思っていました。
 正直、作家になれなかったら何をしたらいいのか分かっていませんでしたね。

暇な時間をどうやってつぶすかに工夫がある

 今の子供たちは小さい頃からとても勉強していて大変だなと思います。
 東大や京大出身の友達に子供の頃の話を聞くと、みんなボケッと遊んでいたと。
 3歳の時から英語を勉強したというようなことも聞かない。
 小学生の時から高校生の問題を解いている子供もいるらしいけれども、放っておいても高校になったら解ける問題を早くやることに意味はない。
 それよりも子供の時に経験しないといけないことは他にある気がします。
 親からすると、ボーッと遊んでいるように見えるから、不安になるのかもしれないけれども、子供の時にやったことの記憶や感情生活は今の自分にとって大きいような気がしています。

 僕は子供には暇な時間をなるべく与えることが大事だと思います。
 その時間をどうやってつぶすかに自分なりの工夫がある。
 僕は親が働きに出ていたので、幼稚園の頃、休みの日は朝から晩まで一人でずっと砂場で遊んでいました。
 今、自分の子供を見ていたら、とてもそんなに長時間一人で遊べないから、よく飽きずに遊んでいたなと。
 それが今の仕事に結びついているように思います。
 一人で放っておかれても平気、むしろ気が楽なくらいです。
 習い事に引っ張り回されて、あれをやれ、これをやれと言われていたら、小粒な人間になっていたような気がします。

 僕が学生の頃はインターネットもそこまで普及していなかったので、一人になって考える時間がたっぷりあってよかったです。
 生きていく上で学ばなければならないことはあって、高校までの学生生活と社会人になってからの間に大きなギャップがあるので、大学時代はその緩衝材、トレーニングの時期として、とても意味があると思います。
 だから僕は大学生に厳しくするのは反対ですね。
 自分がほったらかしてもらったことに対して、良い思い出がいっぱいある。そういう時間が今の学生にもあった方がいいと思います。

♦ ひらの・けいいちろう ♦
 作家。1975年、愛知県蒲郡市生まれ。北九州市で育つ。京都大法学部卒。1999年、京大在学中にデビュー作「日蝕」で芥川賞。2004年、文化庁の「文化交流使」として1年間パリに滞在。美術、音楽にも造詣が深く、幅広いジャンルで批評を執筆する。2014年、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。
 主な著作は小説「葬送」「決壊」(芸術選奨文部科学大臣新人賞)、「ドーン」(ドゥマゴ文学賞)、「空白を満たしなさい」。
 エッセー・対談集も「私とは何か 『個人』から『分人』へ」「『生命力』の行方〜変わりゆく世界と分人主義」など多数。
 毎日新聞に連載した長編小説「マチネの終わりに」がベストセラーに。

毎日新聞、2017年2月11日
受験と私
作家の平野啓一郎さん「法学部で違った発想、論理が身についた」

(聞き手・平野啓輔)
https://mainichi.jp/articles/20170210/mog/00m/040/005000c

 ところで入学試験、そのなかの「英語」ですが、民間まるなげという「新ジユウ・シュギ」がこんなところにまで・・・

 文部科学省は2020年度から大学入試センター試験に代わって「大学入学共通テスト」を実施する。

 英語では民間試験の結果を使うことになっており、同省が英検やTOEFLなど7団体が実施する8種類の試験を認定した。

 だが、いくつかの問題点がある。

 民間の英語試験は、それぞれ目的も形式も異なる。
 例えば、TOEFLは欧米の大学留学を目指す生徒の力を測る。
 TOEICはビジネスに使える英語力の判定だ。
TOEIC 難度も問題も一律ではない。

 民間試験導入の大きな理由である「話す」力の測定も、録音での判定や面接官との対面式とまちまちだ。

 受験生は高校3年の4月から12月までに2回、民間試験を受験できる。
 結果は、国際基準の「CEFR」(セファール)の6段階評価に置き換えて判定することになっている。

 だが、異なる試験を一つの基準に当てはめて、1点差で合否が決まる大学入試で受験生の力を公平に比較できるのか。

 さらに試験会場や受験料の課題も解消されていない。
 認定基準では全国10ヶ所以上での試験実施を条件にしたが、都市部と地方では会場数に差がある。
 受験生が住む地域によって有利不利が生じる恐れがある。

 会場増や試験監督配置のために、受験料を値上げする団体も出てきた。
 1回で2万5000円以上する試験もある。
 各団体は負担軽減を検討するというが、詳細は不明だ。
 50万人の受験生に公平な条件での試験実施は難しいのが現状だ。

 英語を「話す」力の育成は大切だ。
 しかし、高校側からは、授業が民間試験対策一辺倒になるという懸念の声も上がる
 時間をかけても、国に統一的な「話す」試験の開発を求める意見も根強くある。

 国立大学協会は、2023年度まで続くマークシート式の共通テストと民間試験をともに課す方針だが、合否の判定にどう使うかは各大学の判断だ。

 東京大は、民間試験の結果を合否判定に使わない方針を示した。
 公平性への懸念が理由で、共通テストと2次試験結果で判定するという。
 ためらうのは東大だけではあるまい。

 本番まで3年を切っている。
 文科省は現場からの懸念や疑問に耳を傾け、より慎重に検討すべきだ。


毎日新聞・東京朝刊「社説」、2018年3月27日 
新大学入試の英語民間試験 このままでは混乱必至だ
https://mainichi.jp/articles/20180327/ddm/005/070/073000c

 2010年、楽天の「社内公用語の英語化」宣言は社会に大きな衝撃を与えた。
 導入から7年、現場で英語はどのように浸透し、会社はどう変わったか。
 社内公用語英語化のリーデイングカンパニーの取り組みと現状を、好評発売中の「AERA English 2017 Autumn & Winter」(朝日新聞出版)よりお届けする。

* * *
“We have almost a hundred voices of customers.”
“How did you collect them?”

 東京・二子玉川にある楽天本社の会議室では、提供を開始して間もない新アプリのサービスについて、日本人とアメリカ人が英語で話し合っていた。
 エントランスや廊下でも、英語で話す社員たちの声が響く。

 現在、楽天(単体)には世界70以上の国や地域から社員が集まり、全社員約6千人における外国籍比率は2割強。
 5人に1人は外国籍ということになる。
 実際、日本人だけの会議はほとんどなく、必然的に英語を使う環境になっているそうだ。

 メールも社員同士は英語が基本。
 アルバイトや派遣社員にメールを送る際は日本語でサポートするものの、社内のコミュニケーションには原則、英語が使用される。

 三木谷浩史(1965-)代表取締役会長兼社長が2年間で社内公用語を英語にする方針を明らかにした7年前、英語化推進プロジェクトリーダーに抜擢された葛城崇さんが当時を振り返る。

「社歴が長いから英語はできなくていいなどの例外は一切なく、全社員が一丸となって英語を勉強しました。創業初期からいる幹部など古くからの社員ほど英語の重要性の高まりに気づいていたので、英語が苦手でも自分たちが率先してやらなければいけない〞という雰囲気がありました。英語習得にも持ち前のベンチャー魂を発揮していたと思います」

 当初は試行錯誤の連続だった。
 たとえば同じ「経営会議」を指しているのに、社員それぞれが英語でさまざまな表現をしていて混乱を招いたことも。
 「確認に何度も手間がかかり、その問題を解決するために、経営会議にはこの英単語を使うなど社内の英語用語集をまず作りました」と、葛城さん。
 TOEICや英語の研修・レッスンを受ける費用も会社が全社員分を負担し、現在も全面的に学習をサポートしている。

 葛城さんは2007年から個人的に英語を学び始め、当時600点だったTOEIC のスコアは46歳の現在、900点を超えている。
 「継続が重要」と話し、通勤時間も利用して今も毎日、英語学習を続けているという。

「公用語化の大きな利点は、海外から優秀な人材が集まるようになったこと。社員にとっては、英語を身につけることでキャリアの可能性が広がったことです。海外赴任や海外研修の機会は全社員が対象。私も1年弱、アメリカ勤務を経験しました」

 葛城さんは帰国後、文部科学省に約2年間出向し、社内公用語英語化で蓄えた経験を学校教育の場に生かした。

「今後ますます英語を使う世の中になるでしょう。次世代の子どもたちに英語で苦労させたくない思いもありました」

 楽天は今春から、英語教育事業に参入した。社内から日本へ。英語への取り組みが広がりをみせている。


AERA dot、2017.10.31 07:00
英語公用語化から7年、楽天はこう変わった
(上田千春)
https://dot.asahi.com/dot/2017102600084.html

 で、この「楽天」の三木谷浩史が、大資本家優遇のあの民営化のアベお友だち会議に入って、今や「英語教育」に「参入」しているのです。

 大学入試真っただ中だが、2020年度からいわゆるセンター試験の英語が大きく変わるのをご存じか。
 スピーキング(話す力)が重視され、外部委託という形でTOEICや英検のような民間業者の試験の点数が入試で採用されることになるのだ。

 しかし、制度変更の背景には業者試験導入ありきの利権が見え隠れする。
 裕福な家庭の子どもほど有利になり、格差が拡大する恐れもある。
 受験生不在の英語入試改悪を、英文学者で東大文学部准教授、『史上最悪の英語政策』(ひつじ書房、2017年12月)の著者・阿部公彦(1966-)氏が断罪――。

■ これからは4技能が必須という不可思議

― 入試英語が大きく変わる。しかし、あまり知られていませんよね。

 そうなんです。
 子どものいる親御さんどころか、大学の教員でさえ実態を知らない。
 これから議論が進むのかと思っていたら、するするっと決まってしまいました
 2020年度から英語試験は民営化されます
 当初4年間は、センター試験と民間業者の試験を並走させ、2024年度にはセンター試験を廃止、業者試験のみになります。
 年に複数回行われる民間試験の得点が入試に反映される形になる方向です。
。。。
― 業者試験ありきなのでしょうか。

 民営化で新しい大きな市場が生まれる。
 一部業者のための経済効果が目的のようにすら見えます。

 ただ、業者の間でも不満があるようです。
 民間試験は数多くあり、入試に採用されるか否かによって、今後の存亡に関わる。
 採用されなければ、悪い試験だと思われ、受験生が減ってしまいます。

 私は民間試験そのものが悪いとは思いません。
 それぞれ役割があり、「診断テスト」としてはいい。
 しかし、50万人の受験生がいるセンター試験で、合否の判断材料とするような点数をどうやってつけるのか。
 公平性が最大の問題です。

―「これからは4技能が必須」が、キャッチフレーズのようですね。

 新聞などがそう報じ、ベネッセなどが広告を出しています。
 ですが、そもそも4技能って、単なる区分けで、良いも悪いもない。
 試験を4つに分けたら英語力が突然上がるなんてウソです。
 そもそも試験を4技能に分けて測るのは、業者側の都合なのです。
 業者試験は年に何十回も行うので、問題をパターン化しないと作るのが大変ですし、同じような点数が出ない。
 安定的に試験を運用するには4つに分けるのが便利だからそうしているのです。
。。。

― 一体、誰のための入試改革なのかと、思えてきます。

 受験生のためではないですよね。
 大学のためでもない。
 一部この方向に主導した業者があるのは確実ですが、不満をもらす業者もいる。
 ただ、これに乗らないと、ビジネスが確実に侵食されていくので、乗らざるを得ないという状況です。

― 民営化の方針は文科省の有識者会議で決まった。その有識者会議の傘下の協議会には、利害関係者である民間業者も入っていたんですよね。

 そもそも始めたのは(「安倍四天王」のひとり)、下村博文(1954-)文科大臣の時です。
 有識者会議では明海大学の大津由紀雄(1948-)さんが「明らかに利害の絡む人が協議会メンバーなのはおかしい」と声を上げていますが、聞き置かれました。
 入試に外部の民間試験を導入するのかどうかを話し合う会議で、民間業者がこの案を推進するのは当然でしょう。

 有識者会議を実質的に大きな声で先導したのは楽天の三木谷浩史さんだといわれています。
 議事録を見ると、ピント外れなことを言っていますが、声が大きかったのは確かでした。

■ 英会話コンプレックスをビジネス利用の悪質な政策

― 楽天は昨年、英語教育事業への参入を発表し、英語学習教室も開設しています。

 一部の人たちが大学入試をビジネスチャンスと捉えたということです。
 教育産業や塾業界は下村さんの献金元、資金源ですしね。
 そういう人たちが、日本人の心の底にあるスピーキングコンプレックスを利用した。
 悪質な政策だと思います。

― 確かに英会話コンプレックスはある。

 日本人が英語をしゃべれないのは、恥ずかしいとか、英語の音を出すことにハードルがあるからです。
 日本語と英語の発声システムの違いも原因のようです。
 根本原因は、日本語も含めて口頭ベースで知的なやりとりをするカルチャーがないということなので、そこを何とかしないまま、形式的な会話練習やディベートごっこなどしても無意味です。

 このまま入試にスピーキングを導入しても、萎縮してしゃべれなくなるでしょう。
 そもそも日本人は「ペラペラ幻想」に取りつかれ過ぎです。
 役に立つ英語というのなら、仕事で使うのは圧倒的に書き言葉中心ですから、読み書きの能力こそ鍛えなくてはならない。

― 本当にとんでもない入試改革ですね。

 とりあえずハローは言えて、ペラペラと無意味なお愛想くらいは言えるけど、批判的思考などができない子が増える可能性が高い。
 ちょっと暗澹たる気持ちになります。
 読んで考えるというのは近代文化の基本ですよ。
 国民はなるべくものを考えずに、黙って政府の言うことについてくればいい、という今の愚民化政策のような考え方を、どんどん強化していく政策だと思います。

♦ あべ・まさひこ ♦
 1966年神奈川県生まれ。東大文学部卒。同修士を経て、英ケンブリッジ大学で博士号取得。2001年から現職。専門は英米文学、特に詩。
 著書に『英詩のわかり方』(研究社、2007年3月)、『英語文章読本』(研究社、2010年3月)など。
 小説「荒れ野に行く」で1998年の早稲田文学新人賞受賞。


日刊ゲンダイ、2018年2月13日
受験生不在の英語入試改悪
阿部公彦氏が「格差拡大」警鐘
(聞き手=本紙・小塚かおる)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/222842/



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樺太からの引き揚げと戦後のくらし

 私は樺太(からふと)の真岡町(まおかちょう)の生まれ。

 戦争中は食べる物も着る物もない中で、いつまで戦争を続けるのかと思っていた。
 ただ、そんなことを口に出したら憲兵(*)に引っ張られる。
 しかし父親も酒を飲むたびに、日本は負けると言っていた。


 もともと父親は美唄の生まれだったが、農家の9男であったので農家を継げず、街へ出て電気関係の会社に入った。
 そこで樺太行きを告げられ、樺太で生活するようになったそうだ。
 それを聞かされた時は、北海道は暖かいのになんで寒い樺太に来たのかと思った。
 ただ、樺太の自宅は会社の社員住宅だったと思うが、建物内は暖かかった。
 他の家などは、ストーブを真っ赤に焚(た)いても寒かった。
 電気関係の会社の社宅だったので、住環境は恵まれていた。

 2人の兄は、大学へ行き徴兵(ちょうへい)された。
 下の兄は志願兵だった。
 上の兄は海軍で、下の兄は陸軍だった。
 前線には行かなかったが、新兵教育で毎日顔が腫(は)れるほど殴られたそうだ。

 1945(昭和20)年8月15日の終戦を迎えるとすぐに、ソ連軍がウラジオストクから樺太に何千人と侵攻してくるという話になった。
 さらに、女は皆、ロシア人のなぶりものになるから早く逃げろと言われた。
 日本本土への引き揚げのため、港まで行ったが、誰もが多くの荷物を背負っていたが、荷物を捨てなければならないとのことだったので、夏の暑い最中、5枚も6枚も重ね着して、荷物を減らして見せたりもした。
 8月18日に稚内へ上陸した時には、これで助かったと思った。
 ただ、稚内では住む家も食べる物もなく、大変困った。

 父親の故郷の美唄にすぐにでも行きたかったが、汽車は無料だったものの、動いてもすぐに止まり、1日かけてもあまり進まず、途中の駅で、皆で雑魚寝(ざこね)した。
 ニシンを干したものや、カンダラを少し持ってきていたので、家族で分けた。
 結局2日くらいかけて美唄へ着いた。
 美唄についてから、あらためて自分たちを見てみると、体中にシラミが沸いていた。
 農家であった親戚(しんせき)の家へ着いた後、農作業の仕事を手伝って、食べ物を貰(もら)う生活をしていた。
 ただその家には、自分たちの家族が住むような別棟などはなく、馬小屋に寝泊まりした。
 他にも道端の雑草を、防空用の鉄兜(てつかぶと)で煮て食べた。
 その後、離農して空き家になっていた家に住み込んだが、そこには鍋釜一つ、布団一つなかった。
 親戚に鍋や布団を借り、藁(わら)を貰ってきて、それを敷いて布団をかけた。藁は意外と暖かいものだ。

 樺太から北海道に来てから、かつての樺太の頃の同級生などには、誰一人会うことはなかった。
 日々の食べ物を確保することに精いっぱいだった。
 茶碗(ちゃわん)を3つか4つ、親戚から貰ったりしたが、それでは足りず、どこから持ってきたのかはわからないが、ホタテの貝殻を皿
代わりにした。
 食事は大根の菜っ葉や芋の汁、ご飯は皿に盛りきり一杯のみだった。
 1955(昭和30)年ぐらいまではそんな生活が続いた。

 美唄に来てから上の兄は高校の教員になった。下の兄は三井の炭鉱に入った。
 妹は女学校を出ていたので、代用教員として英語を教えた。しかし、自分が英語を習っていないのに生徒に英語は教えられないと言って、その後大学へ入った。さらに生きた英語を学びたいと、戦後アメリカへ行き、そのまま永住してしまった。

 今でも樺太を逃げ出す時の夢を見る。
 故郷の海を思い出す。
 樺太の真岡(まおか)にあった王子製紙で働いていたが、引き揚げの混乱のため、樺太での賃金が未払いだったので、引き揚げ後に
そのことを苫小牧の王子製紙の工場に連絡したところ、賃金を払ってくれた。
 その時、苫小牧で働いたらどうかと言われ、自分もその気になったが、母親に反対されてあきらめた。

 しばらくして、農家の嫁に来ないかと縁談があったが、今まで手伝い程度にしか農業の経験がなく、不安だったため、その話は断り、炭坑で働いていた亡夫と一緒になった。

(*)憲兵(けんぺい)
 日本軍において、陸軍の管轄(かんかつ)に属し、軍事警察、行政警察の役割を担った職。反戦思想の取り締まりも行なった。


美唄市公式サイト
市民文集「語りつぐ 戦争のころ」(第2集)、2016年3月28日
樺太からの引き揚げと戦後のくらし
永澤浪子(ながさわ なみこ、1925(大正14)年旧樺太・真岡郡真岡町生まれ)
http://www.city.bibai.hokkaido.jp/jyumin/docs/2016032800011/files/13nagasawa.pdf

 終戦時、樺太南部の豊原(とよはら、ユジノサハリンスク)にあった工業学校機械科の3年生だった。
 戦中は学徒兵として、手榴(しゅりゅう)弾の部品などを製造。
 終戦間際、ソ連の戦闘機から機銃掃射を受けるようになり、私たちは地雷を抱えて戦車に突撃する特攻訓練に追われた。

〈豊原にソ連軍が進駐してきたのは8月24日ごろ〉

 当時は一家8人。
 母や姉弟妹は終戦直後、引き揚げ船に乗れた。
 寄宿舎にいた私と父が樺太に残された。
 ロシア人が工場長を務める製紙工場でロシア人と一緒に働き始めた。
 私たちが最初に覚えたロシア語は「チョロマ」(牢屋(ろうや))。
 無断欠勤すると「チョロマ」に入れられると聞いた。

〈祖先は戦前、北海道・江差で半農半漁で暮らしていた。ニシンの漁獲が減り、大正時代、ニシン漁に沸く樺太に移住した〉

 新天地では百円札と特上米の暮らしが待っていたが、冬は氷点下40度。
 学校にはスキーで通った。
 そして戦争に巻き込まれた。
 引き揚げの順番はなかなか回ってこなかった。
 工場長にサケを持参し、早期引き揚げを懇願した。

〈北海道・函館港に上陸したのは1947年8月〉

 4男の弟が引き揚げ後、ジフテリアで亡くなったことはそこで知った。
 東日本大震災(2011年)では、4男を思った。
 私たちは何もしてやれなかったが、4男は少なくとも家族にみとられ、亡くなった。
 でも、被災者の人たちはそうではない。
 その無念さを思うと、涙が止まらなかった。
 4男が大切にしていた笛を列車の窓からつい落としてしまい、「ごめんなさい」が言えなかった悔恨を妹は今も抱える。
 貧困と病の中で、幼子から先に死んでいく。
 引き揚げ家族の多くがなめた辛酸だった。

〈引き揚げ後は北海道大樹(たいき)町の牛舎の隣の小屋で、家族の生活が始まった〉

 私は役場で、きょうだいは農家で働き、生計を立てた。
 サケを食べた後、残った骨を七輪(しちりん)で焼き、きょうだいで分け合った。
 けんかにならなかったですね。

〈福岡県飯塚市で小ヤマ(小規模炭鉱)を経営していた遠縁が声を掛けてくれて1950年、筑豊に移住した〉

 やっと人並みの暮らしができるようになった。
 やがて炭鉱閉山の嵐が吹き荒れたが、苦労は比べものにならなかった。
 戦争も生活も苦しかった。
 だからこそ、きょうだいの絆は深まった。
 そして今の時代がある。
 15年ほど前からでしょうか。そう思えるようになったのは。
 

西日本新聞朝刊、2014/12/04
樺太(サハリン)
幼子から先に命は絶え
赤松重信さん(86)福岡県飯塚市

https://www.nishinippon.co.jp/special/postwar/2014/vol05/evidence/e06.shtml

 「『樺太』を知りませんか?」

 終戦後の3年間、疎開先の樺太で抑留生活を送った沖縄県那覇市の石澤弘文さん(84)は、引き揚げ体験者が年々少なくなる中、当時の樺太を知る人や同じような体験をした県内在住者との交流を望んでいる。

 石澤さんは、母親が那覇市出身。
 戦時中、父親の仕事の都合で兵庫県に住んでいたが、1945年4月ごろ、当時日本の統治下にあった樺太、今のサハリンに住んでいた祖父を頼り、家族で疎開した。

 12歳の少年にとって、畑で野菜を収穫し、海で魚介を採る生活は楽しかった。
 しかし豊かな島は、同年1945年8月15日前後を境に、凄惨(せいさん)な地上戦の現場となる。

 樺太では「終戦」後も、攻勢を強める旧ソ連軍と抗戦する日本軍との戦闘が同年1945年8月25日まで行なわれた。
 住民たちは、南へと逃げ惑う途中で、爆撃や戦闘に巻き込まれたり、引き揚げ船が撃沈されたりして亡くなった。
 全国樺太連盟によると、民間人の犠牲者は約2800人に上る。

 石澤さん一家は、戦闘に巻き込まれなかったが、同年1945年8月20日ごろ、町に来たソ連兵の姿を鮮明に記憶している。
 大型の軍トラックに短機関銃の装備。
 「これじゃあ日本軍は負けるな」と少年心に感じた。
 ソ連兵らは、腕に略奪したと見られる腕時計をじゃらじゃらと巻き、胸ポケットにはたくさんの万年筆を挿していた。

 王子製紙で働いていた父親は、ソ連に接収された工場で、ソ連人らに技術を教えた。
 石澤さんは、ニシンを箱詰めにし、貨車に積む仕事などに当たった。

「いつ故郷に帰ることができるのか」

 望郷の念と不安は募った。

 3年後、一家にようやく引き揚げの許可が出た。
 しかし、15歳になった男子は、当局の命令で留め置かれ勤労動員されていた。
 母親は、息子を置いていくことはできないと、乗船名簿に年齢を低く偽って記したと後に聞いた。
 乗船時は「ほっとした」。
 口にした白米とたくあんのおいしさを今も覚えている。

 あれから72年。
 地上戦があった樺太と沖縄を重ね合わせ、「戦争になれば犠牲になるのは住民。だから戦争はしてはいけない」と語る。
 樺太での自らの体験を語り継ぎたいという思いも強めている。

 石澤さんの連絡先は(電話)090(8837)4723。
 樺太に関係する県内在住者からの連絡を待っている。


琉球新報、2017年9月10日06:10
「樺太の記憶」探す
引き揚げ者の石澤さん
沖縄県内体験者らと「交流を」

(中村万里子)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-572138.html

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ああ対馬丸

対馬丸の平良啓子さん(80)
 小さな頭が並び、あどけないまなざしが一心にこちらを見つめている。
 「あの夜」の話に耳を傾ける子どもたちを前にするといつも、暗い海にのみ込まれていったいくつもの幼い命を思い出さずにいられない。

 太平洋戦争中の1944年8月22日、米軍の魚雷攻撃で沈没した学童疎開船「対馬丸」の生き残りとして、当時9歳だった平良啓子さん(80)=沖縄県大宜味村=は、60年以上、語り続けている。

「私があなたたちと同じ年頃だった時の話です。潮風が心地よい夜でした…」

 長崎に向けて那覇を出発して2日目の午後10時すぎ。
 甲板で祖母の膝枕で休んでいた。

本土に行けば雪も電車も見られるかな

 祖母、兄と姉、いとこ、義姉と一緒に、修学旅行にでも行くような気分だった。
 ドスーン。
 突然の爆音とともに体が飛ばされ、祖母や兄を見失った。
 全長約136メートルの船体が炎を上げて一気に傾き、甲板に波が押し寄せた。
 助けを求める子どもたちの中に、いとこの時子さんを見つけたが、大波にさらわれた。

「時子!」

 暗い波間に白いブラウスが遠ざかっていった。
 2畳ほどの竹のいかだを見つけてよじ登り、振り返ると船は跡形もなく消えていた。
 祖母も兄も姉の姿も…。

 9人の同乗者とともに漂流が始まった。
 孤独と飢え、渇き、時折襲ってくるサメの群れ。
 夜が明けるたび、同乗者がひとりふたりと減っていった。
 力尽きかけるたびに「春にはきっと会えるから」と送り出してくれた母の顔が浮かんだ

 そのころ沖縄では親たちが半狂乱に陥っていた。
 沈没のうわさはあったが、疎開計画を推し進めていた旧日本軍は批判を恐れ、沈没の事実を隠し続けた。

 生存者たちは病院などに収容され、憲兵の監視の下、家族との連絡も遮られた。
 6日目の朝、啓子さんは奄美大島近くの無人島に漂着したところを漁師に救出された。
 島でも生存者はひとまとめにされたが、幸運にも啓子さんは父を知る島民にかくまわれ半年後、船で沖縄に送り届けてもらった。

 母と無事を喜び合ったが、叔母の言葉が胸に突き刺さった。

「時子は一緒じゃないの?」

 姉妹同然に育った2人。
 「啓ちゃんが行くなら私も」と出発前、一緒にランドセルに荷物を詰めた。

「なぜ私だけ生き残ったのだろう」

 少女は、その後の人生で重い問いを背負うことになる。

 2歳年上の小学6年の兄は泳ぎが得意だった。
 啓子さんは、故郷を流れる小川で兄と泳ぐのが日課だった。
 対馬丸に乗り込んだ夜、甲板で「沈没したらどうしよう」と怖がる姉に、兄は「沈没しても100メートル沖まで泳げるから大丈夫さ」と胸を張った。

 「沖縄戦になれば玉砕するかもしれない。優秀な君たちは生き残って、沖縄復興のために役立ってほしい」と役所に疎開を促され、真っ先に申し込んだのは兄だった。
 母は危険だと感じていたが「沖縄に残るよりはまし」と折れた。
 しかし生き残ったのは姉と義姉だけだった。

 家に戻った啓子さんの元には、わが子を送り出した親や親戚がわずかな手がかりを求めて訪ねてきた。
 どの顔にも後悔の色がにじんでいた。
 生き残った自分にできることがあるならと懸命に答えたが、思い出したくないとの思いも募った。

 19歳で小学校の教師になった。
 戦後もあの夜の状況が明らかにならない中、子どもたちに同じ思いをさせないために本当のことを伝えねば、と強く思うようになった。
 校内外の平和授業など機会があれば進んで証言した。

 次女の平良次子さん(52)も学校で母の語りを聞いて育った。
 何かに駆り立てられるように語る姿を目の当たりにしながら、「あの時母が死んでいたら…」と、戦争と無縁でない自分を意識するようになった。

 次子さんは1989年、郷土資料館の学芸員として戦争体験者の記録を本格的に始めた。
 その中には子どものころ沖縄戦で家族や友人を亡くした苦しみから何十年も記憶を封印してきた人もいた。
 母と同じように、生かされたことの意味を自問し続ける人もいた。

 航路の安全が確保されてなかったにもかかわらず、沖縄戦に備えて足手まといとなる子どもを送り出すことが優先された沖縄の学童疎開。
 沈没から60年後の2004年夏。
 那覇から対馬丸の航路をたどって子どもたちを宮崎や熊本の疎開先まで連れて行く平和学習を企画した。
 母も語り部として同乗した。
 初日の夜、沈没地点付近に着いた時、母は甲板に立って暗い海を見つめていた。

「海の中は寒いだろうね…。あの日はもっと波が荒れていたね…」

 そうつぶやく姿に、母が背負ってきたものの重さが分かった気がした。

「語るために生かされていると思う」

 そんな母の言葉を耳にするようになった。
 母の思いを今度は自分がつなぎたいと次子さんは思っている。

♦対馬丸事件♦
 1944年8月21日、那覇をたった学童疎開船「対馬丸」は、翌22日夜に鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分で沈没した。
 国民学校の学童や教員ら乗船者1788人のうち1485人(判明分)が死亡した。
 犠牲者のうち学童は780人で、6歳以下の子どもを含めると1000人余の幼い命が犠牲になった。
 助かった280人のうち21人が奄美大島付近に漂着した。


[写真-1]
対馬丸沈没の夜の記憶をたどる平良啓子さん=沖縄県東村
[写真-2]
対馬丸の航路と平良啓子さんの漂着地点
[写真-3]
活発な女の子だった国民学校2年のころの平良啓子さん(右端)。一緒に疎開した兄(左端)は帰らぬ人となった。
[写真-4]
沈没から60年の平和学習で、対馬丸の航路をたどった平良次子さん(右)と啓子さん=2004年8月
[写真-5]
疎開、沖縄の悲劇 命懸け九州目指す
[写真-6]
九州に向かう途中、沈没した対馬丸(日本郵船歴史博物館提供)
[写真-7]
太平洋戦争と沖縄の歩み
[写真-8]
おおしろ・たつひろ 1925年、沖縄県生まれ。1943年に上海に留学し、戦時中は中国で過ごす。1967年、「カクテル・パーティー」で沖縄県出身者初の芥川賞を受賞。「小説 琉球処分」「日の果てから」など沖縄の歴史や苦悩を描いた作品を多数発表してきた。2015年4月に「レールの向こう」で川端康成文学賞を受賞。

西日本新聞、2015年07月17日10時21分
「なぜ生かされた」9歳の重荷
(丹村智子)
https://www.nishinippon.co.jp/feature/postwar_vol9/article/182695/

 えっ、おおしろ・たつひろ、ですか・・・

「対馬丸」執筆の作家 大城立裕氏
 「行くも地獄、残るも地獄」
 対馬丸事件について私が付けたキャッチフレーズだ。
 攻撃の危険がある海を船で疎開するべきか、戦争が近づく沖縄に残るべきか。親も先生も、国に翻弄(ほんろう)されて非常に苦しんだと思う。これが事件の最大の焦点だろう。

 対馬丸事件を描いた本を出版したのは1961年。
 遺族会の会長から記録を残したいと依頼されたのがきっかけで、それまでは事件のことをまったく知らなかった。
 生存者には戦時情報を隠すために箝口(かんこう)令が敷かれ、それが戦後も尾を引いていたからだ。

 取材と執筆をしたのは私を含め無名の同人誌仲間3人だった。
 資料は何もなく、ひたすら聞き取りをするしかない。
 生存者を探し出すのも非常に困難だった。

 取材でよく覚えているのは、出航の日にちについて。生存者の9人までが「1944年8月19日」だと言った。
 ところが10人目に訪ねた女性は、日記を付けていたから間違いなく「8月21日」だと主張した。
 共通するのは出航時は小雨が降っていたという証言。
 当時の天気図を調べて、21日だと分かった。
 資料がないから小さな事実を積み重ねるしかなかった。

 無名の作家3人で書いたため出版にも苦労した(『悪石島 疎開船学童死のドキュメント』嘉陽安男、船越義彰共著、文林書房、1961年)。
 対馬丸など当時は誰も知らない。
 出版先を探してくれたのも遺族だった。
 遺族会長とともに、この事件を形に残したいという使命感がよほど強かったのだろう。
 1982年にアニメ映画(『対馬丸 さようなら沖縄』)になり、全国的に対馬丸の存在が知られるようになった。
 沖縄のためにという思いがあったので作品を残せてよかった。

 この事件を、ただの遭難劇だけで終わらせてはいけない。
 子どもを船で送り出すことを選んだ親。
 残ることを選んだ親。
 誰かを生き残らせるため子どもを分散させた家族もあった。
 その苦しみや悩みの話はよく記憶に残っている。
 これほど困難な選択を迫られたことは歴史の一断片であり、沖縄戦の一部でもある。

 聞き取りをした中には、箝口令で沈没の事実を話せずに苦しんだ人もいた。
 自分は帰ったが、よその家の子は帰ってこない。
 何があったか問われても答えられず泣くしかない。
 こうした重要な証言を、戦争という大きな枠組みまで広げて考える想像力を持ってほしい。
 「行くも地獄、残るも地獄」
 この言葉の意味をかみしめてほしい。

 心残りは、死んだ人の最期を描けなかったことだ。
 対馬丸記念館(那覇市)に飾られた多くの遺影を眺める遺族には、その思いが強いと聞く。

 6月23日の沖縄全戦没者追悼式に参列する遺族にも高齢者が増えた。
 沖縄では法事は33回忌までという慣例があるが、ここでは70年を過ぎてもなお続いている。
 時代の情勢が事件を忘れさせないのだ。

 沖縄からの疎開を受け入れた九州は、あの戦争を沖縄と共有したと言える。
 対馬丸事件とともに、その意識を思い出して、現代的な沖縄の課題についても考えてほしいと思う。


西日本新聞、2015年07月17日10時20分
家族分断された沖縄
https://www.nishinippon.co.jp/feature/postwar_vol9/article/182684/

 対馬丸沈没の苦悩、悲しみを歌った歌。
 沖縄戦のような戦争を二度と繰り返してはいけない。
 人々の苦しみ、悲しみは消えることなく心に残り続ける。
 そんな哀悼の気持ちを込めて我如古より子が歌う。

あぁ、対馬丸
https://www.youtube.com/watch?v=hkOC6u5d4fo

 1400人を超える犠牲を出した学童疎開船「対馬丸」の悲劇はよく知られている。
 戦局の悪化とともに、日本政府は沖縄県から本土、台湾への疎開計画を決めた。
 1944年8月21日に、疎開する学童や引率の教員、一般疎開者ら1788人が乗った対馬丸は、奄美大島近くの悪石島付近で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。

 「対馬丸の歌」は、

「♪いのちみじかく青汐に 花と散りつつ過ぎゆけり 年はめぐれど帰りこぬ おさなきみおの目には見ゆ」
と歌われる。
 これは、楽譜を見ていない。
 インターネットで、この唄が紹介されていたので、ここに記しておきたい。
 別にアニメ映画「対馬丸 さようなら沖縄」(1982年)の主題歌もあるという。

 対馬丸より1年前の1943年5月26日に、大阪から沖縄・那覇港に向かう貨客船「嘉義丸(カギマル)」がやはり奄美大島の沖で、米軍の魚雷攻撃を受けて沈没した。
 幼い子から老人まで321人が犠牲になった。
 やはり、鎮魂歌「嘉義丸のうた」が作られている。
 この唄には、隠れたエピソードがある。

 作詞したのは、奄美・加計呂麻島(カケロマジマ)の鍼灸師・朝崎辰恕(タツジョ)さん。
 「嘉義丸」の生存者、福田マシさんを治療した際、福田さんの嘆きに心を痛め、三味線の名手だった朝崎さんは、この唄を作ったという。
 その直後の6月18日には、島の集会所で唄を披露した。
 一時、この唄は流行したそうだが、まだ戦時中のこと。当局からこの唄は歌うことを禁止され、長らく忘れ去られていたそうだ。

 それを、作者の娘でやはり奄美島唄の唄者である朝崎郁恵さんが、父が歌っていた「嘉義丸のうた」を復元してアルバムに収めたという。
 復元したのは、郁恵さんが偶然に「嘉義丸」の生存者と出会い、悲劇を風化させてはならないという思いからだった。

 それと、面白いのは、この曲は沖縄民謡のヒット曲、「十九の春」ととても似ていることだ。
 なぜ二つの曲が、似ているのか。
 それは、実は両曲とも、ルーツが同じだそうだ。
 与論島で歌われていた「与論小唄」と言われる。
 沖縄や奄美では、作詞をして、すでにある曲のメロディーにのせて、いわば替え歌として歌うのがとても盛んだ。
 歌詞は七字五字でつづる七五調になっているから、七五調で詩を作れば曲にすぐのせられる。

 前置きが長くなった。この曲の内容を紹介する。

「♪散りゆく花は また咲くに ときと時節が 来るならば 死に逝く人は 帰り来ず 浮き世のうちが花なのよ」

「♪ああ憎らしや 憎らしや 敵の戦艦 魚雷艇 打ち出す魚雷の 一発が 嘉義丸船尾に 突き当たる」

「♪親は子を呼び 子は親を 船内くまなく 騒ぎ出す 救命器具を 着る間なく 浸水深く 沈みゆく」

「♪波間に響く 声と声 共に励まし 呼びあえど 助けの船の 遅くして 消えゆく命の はかなさよ」


レキオ・島唄アッチャー、2012年2月17日 (金)
沖縄の島唄や歴史を気ままに散策する
戦世と平和の島唄
http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-4155.html

「十九の春」 & その変遷史
https://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=Q1GAdRczhSQ

 対馬丸の犠牲者のみ霊を慰め、悲劇を語り継ぐため、今年2017年3月に慰霊碑が建立された奄美大島・宇検村で初めての慰霊祭が3月26日、行なわれる。
 慰霊祭には、宇検村長をはじめ、当時救助に当たった人たちや近隣の小中学校に通う子どもたちも参加する。

 73年前、宇検村には、対馬丸から投げ出された21人が漂着した。
 学童引率者の責任者として乗っていた田名宗徳さんもその1人だ。
 宗徳さんは、自らが疎開を勧めた子どもたちを死なせてしまった負い目を抱き続け、40年前に亡くなった。
 息子で歌手の田名剛さん(62)=大阪市=は今、「一人でも多くの人に知ってほしい」と、対馬丸のことを歌で語り継いでいる。

 宗徳さんは当時、那覇市の天妃国民学校の訓導(教諭)だった。
 対馬丸が撃沈された後、イカダで数日間、漂流した。
 奄美大島の宇検村海岸に流れ着き、手厚い看護を受け生き延びた。

 疎開先の宮崎県から沖縄に戻ったのは、1946年。
 宗徳さん自身も、対馬丸で一緒だった母親と娘を亡くした。
 しかし、息子の剛さんにいつも語っていたのは、自らが疎開させ、命を奪われた子どもたちのことだった。

 「お前ぐらいの子をたくさん死なせてしまった。沖縄は絶対に地上戦になるので、疎開させるため、あっちに行ったり、こっちに行ったりした」。小学生だった剛さんは、悔しそうな父親を鮮明に覚えている。

「父親は、親たちに『ごめんなさい』と頭を下げて回ったが、親たちからは一度も憎まれたり、責められたりしたことはなかったという。『よく無事に帰ってくれた』と言われ、頭の下がる思いがしたと言っていた」

 それでも責任を感じていた宗徳さんは、二度と教壇に立つことはなかった。
 海に投げ出され、亡くなった子どもたちの供養をすると、水産関係の仕事に就き、剛さんが22歳のときに亡くなった。

 とても厳しかったが、人と人とが助け合うことの大切さを説かれ続けた。
 剛さんは、「若い頃は分からなかった。年がいくほどに、親父への思いがどんどん強くなる。あと8年で死んだ父親と同じ年になる。でも親父には勝てない」と語る。

 歌「ああ対馬丸」には、「父親の思いが全てこもっている」。
 4番まであるが、最後まで歌うことができず、情けないからと歌ってこなかった。
 しかしここ最近は、戦争に突き進むような国にしないため、対馬丸の悲劇を語り継がなければいけないという思いを強めている。

「父の代わりというと大げさだが、僕にできるのは歌うこと。歌を聴いて興味を持ってもらえるかもしれない。だから、どんどん歌っていこうと思う」と力を込めた。


[写真-1]
宇検村に建立された対馬丸慰霊碑=25日、鹿児島県宇検村の船越海岸

琉球新報、2017年8月26日06:20
対馬丸、歌で継ぐ 奄美・宇検できょう慰霊祭
引率者息子の田名さん決意

(鹿児島県宇検村で、中村万里子)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-562641.html


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北の桜守

 青森県弘前市の「弘前さくらまつり」(注1)が4月21日の土曜日、同市の弘前公園で開幕する。5月6日まで。
 100周年の今年は花見を盛り上げるための新たな演出も凝らしている。
 園内では4月20日、ソメイヨシノが開花し、本番に向け準備は整った。
 開花は平年より3日早く、昨年より2日遅い。満開は4月24日の見込み。

 同まつりは、若者たちの集団「呑気倶楽部(のんきくらぶ)(注2)による同公園での花見がきっかけとなり、弘前商工会議所の前身・弘前商工会が大正時代の1918年に第1回「観桜会」として開催したのが始まり。
 1961年に「弘前さくらまつり」に名称を変更し、現在では毎年200万人以上が訪れている。

 今年は、散った桜の花びらがお堀の水面をじゅうたんのように埋め尽くす「花筏(はないかだ)」の映像を、下乗橋付近の内堀に投影する「デジタル花筏」(4月28日〜5月5日、午後7時〜同9時)を初めて行う。
 また、早咲きに対応して新たに「遅咲きの桜の道」を園内に設けた。

 お堀めぐりを楽しめる「観光舟」や「観光人力車」の運行なども今年も引き続き行われる。
 連休中の5月3日には、「呑気倶楽部」が弘前公園で楽しんでいた仮装行列や、担ぎねぷたなどのパレードや打ち上げ花火も行われる。
 桜田宏市長は「先人の思いを受け継ぎ、次の100年に向けてどのように作り上げていくかが私たちの使命」と話している。


[写真]
開花したソメイヨシノをスマートフォンなどで撮影する観光客ら=弘前公園で2018年4月20日

毎日新聞、2018/04/20 17:38
弘前:
ソメイヨシノ開花 さくらまつり4月21日開幕

(藤田晴雄)
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/弘前ソメイヨシノ開花-さくらまつり%EF%BC%92%EF%BC%91日開幕/ar-AAw63X6

(注1)
桜の弘前城 2017
https://www.youtube.com/watch?v=GDWKokMWJw4

(注2)弘前の桜の歴史
弘前城に桜樹を植えた風流殿様
 弘前公園の東内門そば、「正徳桜」と呼ばれる桜が今も咲き誇っている。
 この桜が植え付けられたのは1715(正徳5)年、5代藩主・津軽信寿の時代。
 『弘前藩庁日記』によれば 御家中が差し上げた11本の桜樹を城内に植えたのが3月の末、 4月6日には「西の御郭へ桜を植え候につき御家中より差し上げ候の覚え」として25本の桜が 献上されたと記されている。
 この25本のうちの1本は八重桜であったようだ。
 この年に植栽されたのは前述の東内門そばの「正徳桜」にかすみざくら、 そして西濠の関山(かんさん)である。
 これらは現在もなお、見事な花をつけている。

次々植えられる桜
 『弘前藩庁日記』には、信寿が矢継ぎ早に桜を植え付けたことが 記されている。
 1724(享保9)年4月8日の記事には、「先ころ二の丸と西の郭用に取り寄せた桜を植え付けた、この余りの五六本は北の御郭に植える」。
 1726(享保11)年には、「桜の木を所持の者は何本でもよいから差し上げるように」との申し付けも出され、これらの桜は西の郭や御茶屋前、現在の弘前工業高校敷地内にあった外馬場や南溜池の土手などに植えられた。

桜の名所にした立役者
 藩政時代、それでもまだ城内の桜は数が少なかった。
 主が江戸改め東京に住み、行政機関としての機能を失った明治時代。
 手入れもされず荒廃していく旧城に私財を投じて桜を植えたのが、旧藩士の内山覚弥(うちやまかくや)、そして旧藩士であり「青森りんごの開祖」として有名な菊池楯衛(きくちたてえ)だった。
 山林取締役兼樹芸方であった菊池は私財を投じてソメイヨシノの苗木を購入、1882(明治15)年に二の丸を中心に植樹。
 しかしまだ士族の気風も強い時代のこと、「お城で宴会などもってのほか」と折られたり伐られたり、成木となったのはごく少なかった。
 その中の1本が現在、「日本最古のソメイヨシノ」として見事な花を咲かせる樹である。
 内山は菊池より2年早く、1880(明治13)年、三の廓に自費で購入した桜20本を植樹していた。
 菊池の試みが頓挫したのをみて、まずは1895(明治28)年、日清戦勝記念として1000本の桜を寄付。
 さらに、市議会議員であった内山は公園の美化のため桜の植樹を主張し続けた。
 弘前公園の桜は、市民の手により植えられ、守られてきたのだ。

弘前の観桜会(かんごかい)、弘前「桜まつり」初開催
 明治に植栽された桜が成木となり、花をつける大正時代。
 まだまだ封建的な雰囲気も漂う弘前の街に反発するような若者のグループがあった。
 士族の二男や三男、商家の跡取り息子などが結成した、その名も「呑気倶楽部(のんきくらぶ)」。
 その頃、弘前の人びとは桜の季節になると 秋田の千秋公園、近場では大円寺(現在の最勝院)や天満宮へ赴き、弘前公園ではわずかに市民や商工会などが花見を行なうばかりであった。
 弘前公園の桜を紹介しよう!
 1916(大正5)年、「呑気倶楽部」の面々は思い思いに珍装を凝らして市内をパレード。
 園内には市内の三大商店に頼んで出店をしてもらい、桜の下でどんちゃん騒ぎの宴を敢行し、その様子を東京から呼び寄せた活動写真の技師に紹介させた。
 それが契機となり、1918(大正7)年には商工会主催で第1回観桜会が開催。
 戦時中には「時局と花の催し」に名を変え、興行にも「国防」や「時局」の文字が多くなり、国防一色になろうとも継続した観桜会だったが、ついに1943(昭和18)年に中止された。
 しかし、終戦の翌年、1946(昭和21)年には早くも復活しているというから、弘前人にとって城で行われる観桜会は何にも代え難いものであったのだろう。

弘前公園、桜の銘木
 老松と桜。
 深い緑が淡紅色をひときわ引き立てる弘前公園には、銘木も数多く存在している。
 二の丸与力番所から東内門の間には、1882(明治15)年に植えられた「日本最古のソメイヨ シノ」。
 緑の相談所裏の「日本最大幹周のソメイ ヨシノ」も樹齢100年から120年と推定さ れている。
 二の丸の大枝垂れ桜は1914(大正3)年、在弘宮城県人会から寄付された園内最大のシダレザクラである。
 時期を同じくして植栽されたのは本丸の「弘前枝垂れ」と棟方志功が命名した「御滝桜」である。

弘前藩よろず生活図鑑、2011.05.31
彩と賑わいを愉しむ
http://h-tekuteku.com/yorozu/2011/05/post-28.html

 そして「北の桜守」・・・

 2017年2月、北海道の網走で、吉永小百合さんの新作「北の桜守」の撮影が始まった。
 1959年に「朝を呼ぶ口笛」で映画デビューしてから58年。
 吉永さんにとって、120本目の出演作となる。
 初期の作品など一部を除いては、ほとんどの映画で主演。
 70歳を超えた今も、ヒロインとしてファンを魅了し続ける女優は、世界の映画界でもまれな存在だ。

 その吉永さんにとって、記念すべき作品の企画は、「オホーツク海の流氷」から始まった。


もともと、120本目は『北の零年』(2005年)、『北のカナリアたち』(2012年)に次ぐ”北の三部作”の最終章にしたい、という思いがあったんです。2015年の2月に網走でオホーツク海の流氷を見て、とても感動したので、前二作の脚本を書いていただいた那須真知子さん(1952-)に、新作にはぜひこの流氷を入れたいですね、と話したのがきっかけになりました

 翌2016年の2月には、那須さんと、新作のメガホンを取ることが決まっていた滝田洋二監督と一緒に流氷を見て、北海道各地を回った。

そのとき、網走刑務所の前の凍結した坂道で転んで、左手首を骨折してしまったんです

 翌月の3月に開かれた日本アカデミー賞授賞式に、左手に包帯を巻いて出席した姿が話題になったが、吉永さんは、新作との関係は一切明かさなかった。

 約1年後、流氷から始まった企画は、第二次大戦末期に日本領だった南樺太(現ロシア・サハリン南部)から脱出、北海道にたどり着いた母と息子の戦後を描く物語として完成、撮影が始まった。


母と息子、嫁の間にはホームドラマ的な部分があり、『獅子はわが子を千尋の谷に落とす』親子の関係もある。戦争の後の耐えられない悲しみも描かれていて、いろんな要素がある作品です。”究極な母親”みたいな役ですし、こんなふうに戦後の大変の時期を必死で生きてきた人たちを忘れてはいけない、という思いもあります

 1945年、日本が敗戦した年に生まれ、戦後とともに年を重ねてきた吉永さんには「戦争の時代が再び来ないように、『戦後』という言葉を大切にし続けたい」という強い思いがある。

映画の仕事をしていく中でも、常に、そういう歴史に関わっていきたいという思いがありました。戦争中に学童疎開船の対馬丸が沈められ、大勢の沖縄の子どもたちが犠牲になった事件も、何とか映画にしたいと思ったことがあります。今回の作品では、樺太から引き揚げてきた人たちの身に起こった戦争の悲劇を事実を基に描いているのですが、ダイレクトに見せるとつらくなりすぎるので、映画の中では舞台劇として表現するという方法になっています

 119本目の作品だった「母と暮せば」を取り終えた後、「一番難しい役でした」と語った吉永さんだが、「北の桜守」が始まってからは「今度の方がもっと難しい」と思うようになった。

こんなにきつい、おかっないお母さん役は初めてですし、舞台のお芝居をするのも初めて。それに38歳の時代から演じなければいけない。動作やせりふのしゃべりか方を工夫して、見る人に違和感を与えないようにしたいと、頑張っています

 120本目の先、についても聞いてみた。

心身の衰えを感じることは確実にあります。でも、そういうときにはあせらずに、自分を受け入れ、今の自分の力に合わせていくのが大事だと思っています。残り時間は、考えてもその通りにいかないので、考えません。120本目の先があるか。それは、この作品で、私がしっかりと最後まで完走できるかに、かかっていますね

東京新聞、2017年8月27日
北の桜守
「戦後」大切にしたい

(聞き手=立花珠樹・共同通信編集委員) 

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2018年04月20日

4月13日(金)eチャリ

 今日のヤッホーくんのeチャリ、すごかったぁ〜
 一度行きたかったレストラン!

 ナポリピッツァを日本に広めた功労者サルヴァトーレ・クオモがプロデュースするピッツェリア&バール
 日比谷線「人形町駅」から徒歩1分!多くの美食家たちに支持され続けている国際派シェフ、サルヴァトーレ・クオモが手がけるピッツェリア&バール。
 ピッツァ、パスタはもちろん、リーズナブルで種類豊富なアンティパスト(前菜)がオススメ。
 さらに、壁一面にずらっと並んだワインは100種類以上の取り揃え。
 さまざまなシーンで気軽にお楽しみいただけます。

http://www.salvatore.jp/restaurant/ningyocho/

 ヤッホーくんのこのブログでとりあげた岩本公水「面白山の滝」とザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」のお稽古に30分だけ歌いに行った「森乃園カラオケ茶屋」。
 でもダメでした。歌えませんでした。やっぱり山歩クラブの皆んなに声掛けしないと乗らないね、というかリズムに乗るためには当分、通って練習かな・・・
http://karaoke.sc/

 気を取り直して、この間、愛用のミラーレスデジカメを持っていかなったあの「銀巴里跡」を目指して、ホ〜イのホイ!

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 その近くの「GSIX」に初めて入ったヤッホーくん、え、こんなにつつじが綺麗でいいの?こんなにシャガがあるけどいいの?こんな神社があっていいの?とそれはそれは、嬉しくってシャッターを押しまくっていました。

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 東京・銀座の松坂屋銀座店跡地に複合ビル「GINZA SIX(ギンザ シックス=GSIX)」が開業して2018年4月20日で1年を迎えた。
 新たな人の流れを生み、街に活気を与えている。

 GSIXは、大丸松坂屋を傘下に持つJ・フロントリテイリングや森ビルなどが開発した地上13階、地下6階建てビル。
 延べ床面積は14万8700平方メートルと銀座エリアで最大を誇る。
 高級ブランドの旗艦店や飲食店に加え、オフィスや観世能楽堂などが入居。
 能の体験教室を開くなど、伝統文化の継承やアートにも力を入れ、街の魅力の向上を試みている。

 初年度の目標である入店客数2000万人と、売上高600億円をいずれも達成する見通しだ。
 森ビルによると、外国人旅行者(インバウンド)が増加し、屋上庭園を利用する親子連れや、ビル内限定販売の菓子を買い求める若い女性客ら、新しい顧客層も獲得した。
 J・フロントリテイリングの山本良一社長は「以前の百貨店から高級商業施設に転換し、新しい販売促進方法や品ぞろえで話題を作れた」と自信を見せる。

 銀座地域全体への波及効果も出ている。
 東京メトロによると銀座線など3線が通る銀座駅からの1日平均の乗車人員は、開業後半年で約7000人増えた。
 全銀座会街づくり委員会の岡本圭祐委員長(文明堂銀座店会長)は「(GSIXの開業で)銀座の街を訪れる人が増え、活気を感じる」と話す。
 運営会社の「GINZA SIXリテールマネジメント」によると、これまでは銀座4丁目が人通りの中心だったが、GSIXのある6丁目方面にまで足を延ばす人が増え、銀座全体で滞在時間も延びる傾向にあるという。
 4月からはフランス人アーティストの旗を用いた美術作品をビル屋内や正面の中央通り沿いに並べ、街全体の一体感を高める試みも始めた。

 世界の都市ランキングで東京は長年、ロンドン、ニューヨーク、パリの後塵(こうじん)を拝してきた。
 森ビルの辻慎吾社長は「銀座のみならず、東京、日本の強い磁力となることを目指す」と意気込む。
 GSIXではこれまで、アジアからの訪日外国人客が目立つが、今後は、1人あたり消費額が大きい欧米からの観光客の誘致や、地方に流れるインバウンド消費を取り戻す取り組みが課題となる。

■ KeyWord「銀座」
 東京を代表する商業地で、地名は江戸幕府が現在の銀座2丁目に開いた銀貨鋳造の「銀座役所」に由来する。
 江戸時代は職人のほか、東海道の一部だった中央通り沿いには商人が集まり、さらに能役者や絵師らも住んでいた。

 現在は老舗有名店がひしめき、公示地価(2018年1月1日時点)は「山野楽器銀座本店」(中央区銀座4-5-6)が全国1位となった。
 中央通りを中心とする商業地では、景観維持のため独自の地区計画「銀座ルール」を設定し、建物の高さを56メートル以内としたり看板の設置に制限を設けたりしている。
 2020年の東京五輪・パラリンピックに向け2016年ごろから大型商業施設の建て替えや改装が相次ぎ、地価や賃料が上昇傾向にある。


毎日新聞・東京朝刊、2018年4月20日
GSIX 開業1年
銀座、新しい流れ
顧客層拡大/滞在時間増え

(藤渕志保)
https://mainichi.jp/articles/20180420/ddm/008/020/170000c

 護稲荷神社は銀座八丁神社めぐりの一社で、現地・神社の説明板には以下の記載があります。
護稲荷大明神由来記
 抑も当護神社は今を去ること150年の昔、1815(文化12)年は如月の午の日、山城伏見の本宮より勧請して江戸の根岸の里に奉安す。
爾来店主、店族は素より江戸市民の深き信仰を莧めて今日に至れり。
 1881(明治14)年の或る夜、神守の親爺は神殿付近に於いて白狐を認めたるがその跡に一巻の掛軸遺留しあるを発見し、怪しみて繙けば畏くも三州豊川稲荷神社の尊像にてありしかば直ちにその由を店主に告げて神霊と共に奉祀して今日に及べりと伝う。
 神社は霊験淘に顯にして特に火防の神として世々付近住民の難を救わせ玉減ること一再に止まらず
 近き例に徴するも去る1923(大正12)年9月関東大震災亦1925(大正14)年3月日暮里の大火に当り既に危うく見えたるにも係らず、神域社殿は勿論松坂屋舎宅の凡て無事なるを得たるは今尚世人の耳目に新たなる所なり。
 1929(昭和4)年己巳の春2月18日2の午の吉辰をトし日枝神社宮司に請うて神霊を分霊し、地上80尺の本館屋上に挙安して茲に遷座の式を行えり。
昭和40年4月15日誌 松坂屋 銀座店
 
 横には松坂屋銀座店がここにあったんですよという説明板。そうかここにはもうないんだと思うと、一瞬寂しい感じも。


中央区観光協会特派員ブログ、2017年4月25日 09:00
G SIX(GINZA SIX)屋上の護稲荷神社
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2017/04/gsix.html

 そしてヤッホーくん、「丸の内TOEI」へ。
 はい、吉永小百合の「北の桜守」観に行ってきました、良かったって!

 女優・吉永小百合さんの120本目の出演映画「北の桜守」(滝田洋二郎監督)が2018年3月10日から丸の内TOEI(東京都中央区)ほか全国で公開される。
 太平洋戦争末期の1945年から70年代の、いわゆる激動の時代を生き抜いた母(吉永さん)と息子(堺雅人さん)の絆を描いた感動作だ。
 北の凍てつく大地の中で、深い愛と強い心で息子を守り抜いた母と、そんな母に寄り添い支える息子のつながりに胸を打たれる。

 1945年5月。
 南樺太で暮らす江蓮(えづれ)家の庭に、てつ(吉永さん)が大事に育ててきた桜の花が咲く。
 8月、ソ連軍が南樺太に侵攻。
 夫・徳次郎(阿部寛さん)は出征し、てつと2人の息子は、「満月の日、4人そろって桜を見よう」という徳次郎との約束を心の支えに、北海道の網走へと向かう。
 やがて時は流れ71年。
 米国に渡っていたてつの次男、修二郎(堺さん)が米企業の社長として帰国。
 札幌での新店オープンに追われる中、てつの異変を知らせる連絡が入り、修二郎はてつが暮らす網走へ向かう……という展開。
 ほかに篠原涼子さん、佐藤浩市さん、岸部一徳さんらが出演する。

 「北の零年」(2005年)、「北のカナリアたち」(12年)に続く「北の3部作」最終章となる今作。
 てつは、これまで吉永さんが演じてきたヒロインとはやや趣が異なる。
 鏡の中の“友達”に手を振ったり、長ネギであらぬ誤解をされ途方に暮れたり……。
 過去のつらい体験のせいで記憶が途切れがちになり、そんな自分に戸惑うてつに、何度も胸を締め付けられた。

 てつと修二郎の過去を巡る旅に“同行”しながら、当時、北の大地で起きた出来事と、それを乗り越えた人々の苦労に思いをはせた。
 意表を突かれたのは、ケラリーノ・サンドロビッチさんの演出による舞台演劇とのコラボレーションだ。
 太平洋戦争下、樺太で実際にあった悲劇をどう語るかで頭を悩ませた製作陣が、考え出したアイデアだという。
 最初こそ驚いたが、その場面があらわれるたびに心になじんでいき、フィナーレを目にしたときは、てつの苦労が報われた気がして、「てつさん、よかったね」と声をかけたくなった。


毎日新聞、2018年3月8日
北の桜守
吉永小百合120本目 激動の時代を生き抜いた母と息子の絆描く

(りんたいこ/フリーライター)
https://mainichi.jp/articles/20180308/dyo/00m/200/018000c

 ヤッホーくん、滝田洋二郎(1955-)監督作品で観てるのは、ねぇ:

「おくりびと」(2008年)
https://www.youtube.com/watch?v=Pya4Z5Oq6uo

「天地明察」(2012年)
https://www.youtube.com/watch?v=Kb8yz-DNOmA

「北の桜守」(2018年)
https://www.youtube.com/watch?v=4XOMwnlyQmQ

「北の桜守」PR映像、プロモ-ションサイト弘前市
https://www.youtube.com/watch?v=Dw-L8PSkvu8

「花、闌の時」小椋佳〜「北の桜守」の主題歌
https://www.youtube.com/watch?v=Pubt2G5CnS4

 吉永小百合「北の3部作」というとこれもヤッホーくん観てますねぇ:

「北の零年」(プレビュー)行定勲監督
https://www.youtube.com/watch?v=wSLtOsg9TgM

「北のカナリアたち」(プレビュー)阪本順治監督
https://www.youtube.com/watch?v=objAjHpCSCM


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安倍さんは嘘つき

 どんな新しい平和な時代が朝鮮半島にやってくるのか、もっとひどい「分断」がこの国の軍事的、経済的圧力で固定化されることになるのか、目が離せません。
 その打ち合わせにわざわざわれわれの税金を使って「外遊」してきた(連休は中近東へ?!)この国のトップ、首相はトランプとの会談を終え、帰国してきます。
 一体どんな自慢話を主権者向けにぶちあげるのか、一体どんな嘘をまたメディアに振りまくのか、どんな手柄話を茶坊主官僚と仕立てるのか、気になりますね。

 嘘つき首相・・・イマから3年も前の2015年、のことです。

 安倍首相はウソつきだ──。
 本サイトでは安倍首相の数々のウソについて繰り返し報じてきたが、意外な人物が安倍首相のウソつきぶりを暴露した。
 意外な人物とは、北朝鮮拉致被害者・蓮池薫氏の兄で、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)元副代表の蓮池透氏だ。
 拉致問題といえば、安倍首相が官房副長官だった小泉政権時代に、一気にその知名度と人気を高めたきっかけ。拉致被害者とその家族との関係は深く信頼も厚い。そんなイメージがあったが、その当事者のひとりからもウソつきと批判されるとはいったいどういうことなのか。

 蓮池氏の「安倍首相ウソつき」発言が飛び出したのは、2015年12月9日に開かれた辻元清美衆院議員の政治活動20周年パーティでのこと。
 会の冒頭、辻元氏と田原総一朗氏の対談が行われていたのだが、途中で客席にいた鳥越俊太郎氏と蓮池氏を見つけた辻元氏が、ふたりをステージ上に招き、急遽4人でのトークとなった。

 TBS『NEWS23』岸井成格氏の後釜とも噂される朝日新聞特別編集委員の星浩氏も客席にいる前で、鳥越氏が『NEWS23』の岸井降板問題を批判するなど、当然、話題の中心は安保法制、安倍政権批判で盛り上がった。

 そんななか、マイクをもっていなかった蓮池氏が、何やらボソっとつぶやいた。
 隣に座っていた辻元氏がそれを受けて、聴衆にその内容をこうバラした。

「蓮池さんがヨコで、安倍さんはウソつきって言ってる(笑)」

 マイクを渡された蓮池氏、さすがに表立っては発言を認めないだろうと思いきや、もっと強い調子でこう断言したのだ。

「安倍さんは、拉致問題を利用して、総理大臣になった」

 蓮池氏は、安倍晋三が拉致問題をいかに自身のイメージ操作に利用してきたか、そのウソの数々を暴露し始めた。

「彼はどういうふうに喧伝していたかというと、小泉訪朝に官房副長官として一緒に行って、北朝鮮側、金正日総書記から拉致問題について謝罪と経緯の報告がなければ、日朝平壌宣言にサインをせず、席を立って帰るべきだと自分が進言したと。そういうことになっているが、ウソ。それは、みんなの共通認識だったんだから」

 蓮池氏言うように、この安倍の「署名見送り進言」は、当時数々のメディアが報じ」ていた。

〈小泉首相と金総書記との間で交わされた「日朝平壌宣言」をめぐり、拉致被害者の多くが死亡していたことが分かったため、安倍官房副長官と高野紀元外務審議官が一時、「宣言の署名を見送るべきだ」と主張していたことが複数の政府関係者の話で明らかになった〉
(産經新聞2002年9月18日付朝刊、一部略)

〈昼食を一緒に食べようという北朝鮮側の提案を断り、日本側は控室で日本から持参した幕の内弁当を食べた。だが、首相はほとんど手を付けなかった。 安倍が首相に迫った。「拉致問題について金総書記の口から謝罪と経緯の話がない限り共同宣言調印は考えた方がいい」 決裂もありうる──。緊迫した空気が周囲を包んだ〉
(毎日新聞同19日付朝刊、一部略)

 しかし蓮池氏も指摘するとおり実際はこの武勇伝はまったくのデマだ。

 本サイトでも報じたが、日朝首脳会談の立役者で会談に同行していた田中均アジア大洋州局長(当時、退官後天下って日本総合研究所国際戦略研究所理事長、1947-)が後にフリージャーナリストの取材に対し、安倍の署名見送り進言があったことをはっきりと否定している。
 そもそも金総書記が拉致を認めて謝罪しなければ平壌宣言に署名できないのは会談関係者全員の基本認識だったから、わざわざそんなことを言う必要もなかった、と蓮池氏と同様の解説を田中氏もしていたという。 
 ちなみに補足すると、このデマ武勇伝をメディアにリークしたのは、ほかでもない安倍晋三本人なのだ。

 さらに蓮池氏によると、安倍首相の拉致問題をめぐるウソは、これだけにとどまらなかった。蓮池氏は語気を強める。 

「弟たちが北朝鮮から一時帰国ということで帰ってきたとき、当初2週間で帰ることになっていた。そのときに帰国した被害者5人を安倍さんは体を張って必死に止めたっていうんだけど、これは真っ赤なウソ! 止めたのは、私なんだから! 安倍さんが止めたって言うのであれば、途中で電話をしてくるとかあるはずだけど、そんなのない。あれは、安倍さんが止めたんじゃない、私が止めたんだ!」

 この「北朝鮮への帰国を体を張って止めた」という話も、先ほどの「署名見送り進言」デマと同じくらい流布している。
 安倍首相自身、たとえばFacebookで“帰さないという自分の判断は正しかった”と書き込むなど、あたかも自分の手柄のように語っている。
 蓮池氏によると、これも真っ赤なウソなのだ。

 安倍が、こうしたウソをついたのは世間に対するイメージ操作だけではない。政権内部でも、同様のウソをついていたようなのだ。

「それから朝日新聞で今年9月に福田康夫さんのインタビューが載って、「5人を帰すかどうか、苦悩した」と。その記事のなかに、安倍さんが「5人の意見を集約しました」と福田さんに言ってきたとあったんですが、そんなことしてません!」

 拉致問題についてはなんでもかんでも自分の手柄にしようという安倍の姑息さが透けて見える。

「そういう美談がはびこっているわけですよ、世の中に。安倍さんはすごく拉致被害者に寄り添っている、みたいなイメージ。その美談を利用して総理大臣になったんですよ」

 安倍のこうした拉致武勇伝デマの数々は、「拉致被害者に寄り添っているイメージ」をつくっただけではない。

 「席を蹴って帰りましょうと進言した」「体を張って説得した」とやたら勇ましい言葉をチョイスし、安倍の「闘う保守政治家」というイメージ形成にも大きく寄与している。
 さらにいえば、現在につながる排外ナショナリズムの機運をも一気に高めた。
 蓮池氏が指摘する通り、安倍は拉致問題を利用して、自身の“闘う政治家”イメージをつくりあげ排外ナショナリズムを煽り、それらを武器に総理大臣にまでなったのだ。

そして、蓮池氏は安倍首相について、こうも指摘した。

「安倍さんはかけ声だけ。自分の在任中に解決するって言ってますけど、では何をもって「解決」とするのか。安倍さん自身、わかってない」

 安倍首相はかけ声だけ。
 これは拉致問題に限らず、まさに安倍首相の政治姿勢すべてに当てはまる。
 アベノミクス、積極的平和主義、一億総活躍……すべてかけ声だけで、中身もなければ、その先に解決もない。
 安倍政権の支持者たちはそのことを早く自覚すべきだろう。


リテラ、2015.12.13
「安倍さんは嘘つき」
元家族会の蓮池透氏が拉致問題で安倍首相がついた真っ赤な嘘と政治利用の手口を全暴露

http://lite-ra.com/2015/12/post-1776.html

 こうした噓つきになってポーズだけの中身のない人物になった経緯をしてきた文章があります。これ:

 東条英機(1884-1948)と共に、国家神道に基づく政治家の代表者であった岸信介(1896-1987)の孫が安倍晋三(1954-)です。
 彼は、幼いころから両親の愛情に飢え、お爺さんの岸信介を敬愛して育ち、小学校からエスカレーターで成蹊大学へ進みましたが、小学生のころから勉強嫌いで宿題はお手伝いさんに任せていました。

 宿題はお手伝いさんがやってくれる、という幼いころの経験は、ズルしても平気、黙っていれば分からないという心をつくります。
 進学もエスカレーターですから気楽です。
 大学に赤いアルファ・ロメオで乗りつける、とは学友たちの話ですが、複数の成蹊大学教授は、彼の勉強嫌いを困ったものと話しています。
 ただし、鼻っ柱だけは強く、お爺さんの岸の話を信じて他者をやり込める攻撃性は幼いころから。

 加藤節(1944-)成蹊大学名誉教授が公言しているように、一度も授業に出ず「不可」となりましたが、それでも留年することなく裏口卒業で、大学を出ました。
 家系に権力があれば、なんでもOKという体験を繰り返せば、ウソもウソとは思わず、堂々としていられる人間が誕生するのは当然です。

 周りの人が自分に気をつかって、なんでもやってくれる、そういうものだ、という心。
 忖度されるのは慣れっこですから、何か不都合なことが起きれば、それは忖度した人間が悪いのであり、自分は関係ない、となるのです。
 非を認めず【情】がないと、お父さんの晋太郎さんはいつも嘆いていたとのこと。

 彼は、多くの人は、中身・内容を検討するのではなく、顔つきや態度で物事を判断すること(内容ではなく形式が大事)を育ちの中で学びましたので、しゃべり方で乗り切る、相手を恫喝しつつも好感の得られる態度はどういうものかを学び、論敵には形式上の言い方や態度を問題にすることで優位に立とうとします。
 悪しき日本人文化の見本です。
 日本人は精神的自立のない人が多数ですから、エリート家系の人間や上位者に恫喝されると手もなく従うのです。
 哀しき性。

 民主政とは本質的に相いれない「戦前思想」(=国家神道)への傾倒から、戦前思想を流布するお友達、八木秀次(1962-)麗澤大学教授を各種諮問委員に任命して活躍させているのは安倍首相の本質をよくあらわしています。

 八木は「日本国憲法」を否定し、「明治憲法」を称揚します(『明治憲法の思想』PHP新書、2002年4月)。
 また、戦後日本をダメにしたのは、欧米がつくった人権思想であり、われわれ日本人は「人権」という言葉に怯えず「国民の伝統と常識」に戻るべきとして『反人権宣言』(ちくま新書、2001年6月)を書いています。

 また、今年1月に自殺したウヨクの論客・西部邁(1939-2018)に傾倒し、大きな影響を受けましたが、当の西部は遺言で対米追随主義の安倍首相を痛烈に批判しています。
(余談ですが、29年前の1989年に彼が我孫子に来たとき、200人の聴衆の前でわたしが西部さんを論難し立往生させたのは、よい思い出ですーこの直後に日本オラクル初代社長となった友人の佐野力(1941-)さんは一部始終を見ていた証人。注)。

 中曽根康弘首相時代に官房長官を務め、カミソリとあだ名された後藤田正晴(1914-2005)は、「安倍君だけは総理にしてはいけない」と言いましたが、それが至言であったことは、いま、誰の目にも明らかになっています。

 民主政治にとって最悪の首相がいまもなおその座にいます。
 彼がウヨク思想に学び身に付けた「日本の伝統」というアナクロニズムの思想を自分の宗教として政治を行うのは、個々人の対等性と自由の相互承認に基づく「近代民主政社会の原理」に反する悪行であり、これを許すなら、日本は民主国家をやめて神道国家へ逆戻りするほかありません。
 文科省がその意向を受けて進めている愛国思想に基づく道徳教育により、幼いころからの馴致(洗脳)教育が進んでしまいます。
 日本人の個人としての精神の自立はますます得られなくなります。


思索の日記、2018-04-13
ウソでも恥じることなく堂々と。
どのようにして安倍晋三という人間はつくられたのか?

(武田康弘)
http://www.shirakaba.gr.jp/
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen

(注)日本経済新聞・文化欄、1999年8月17日

 私の人生を決定的に変えたのが武田康弘氏との出会いだ。
 12年前、千葉県我孫子市に住んでいたころ、ある対話集会にたまたま参加した。
 集会を主催した我孫子児童教育会の代表が武田氏だった。
 「野に賢人あり」の典型だろう。

 集会は教育問題がテーマで、二男が小学生だったため、ついつい議論に引き込まれていった。
 「子供は小さい大人ではない。独立した人格を持った人間として接することが大事」という武田氏の主張に、新鮮な共感を覚えた。
 これがつきあいの始まりだ。

 彼はソクラテスの研究家であり、子供を集めて私塾も主宰していた。
 一対一の対話から始め、自分の頭で考えさせることがモットーで、理屈に終わらず哲学を生活のなかで実践していた。

 武田氏の実践重視の思想にすっかり深入りしてしまったおかげで、自らの信念を次々と行動に移す羽目になった。
 二男が進学する時には地元の中学校に丸刈りの校則を撤回させた。
 1991年の我孫子市長選では市民ネットワークが推す候補者の応援演説を街角でぶった。
 経営者としても、社員一人一人と対話する機会をできるだけ持つようになった。

 今は我孫子を離れたが、武田氏ととっておきの計画を進めている。
 志賀直哉が「暗夜行路」を執筆した手賀沼のほとりの書斎の傍らに、志賀直哉資料館を建設するプランだ。
 来年のオープンに向け、直筆の原稿や手紙を集めている。
 宿泊施設も設けて新たな交流の足場としたい。当然、館長には武田氏に就いてもらうつもりだ。

(さの・ちから=日本オラクル社長)  
http://shirakaba.gr.jp/genesis/hiwa/hiwa8.html


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イムジン河

 分断された朝鮮半島を水鳥のように自由に行き交える日は来るのか−−。
 エッセイストの松山猛さん(71)が近づく南北首脳会談へ思いを募らせている。
 1968年、伝説のバンド「ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)」(注1)がプロデビュー第2弾に選んだ「イムジン河」(注2)の日本語訳詞者だ。
 あれから50年、隣人に心を寄せ、平和を願った歌の「生みの親」に聞いた。

 ちょっと汗ばむくらいの陽気である。
 久しぶりに松山さんに会ったのは横浜の山下公園。
 外国船だろうか、大型船が出ていく。海風が気持ちいい。

「もう50年か……。そりゃ、そうだよね。僕、ここまでバスで来たけど、敬老パスだし」

 とはいえ、相変わらずカメラをぶら下げ、世界を旅しているらしい。つい先日までヨーロッパに滞在していた。

「この靴、フィレンツェで見つけたんだ」

 好奇心いっぱいの目、きっとあの頃もそうだったに違いない。

「ホント、不思議な歌に巡りあったよなあ」

 遠くを見つめ、しみじみ語る「イムジン河」との出合い−−。
 それは松山さんが中学2年、京都でのことだった。

「銀閣寺の近くにある朝鮮中高級学校に交流サッカー試合を申し込みに行ったんです。そうしたら、教室からコーラスの声が流れてきて、ああ、きれいな歌だって感じた。吸収力があったからでしょうね、そのメロディーを口ずさみながら家に帰りました」

 しばらくして在日の友人から朝鮮語の歌詞と1番の日本語訳のメモ、朝鮮語小辞典をもらった。
 そして松山さんが2番、3番を書き加え、仲間のフォークルに渡した。

 ♪誰が祖国をふたつに分けてしまったの……。
 分断の悲劇を38度線を流れる臨津江(リムジンガン)に重ね、自由な鳥のようになれないか、と夢を歌に託した。
 京都はフォークブーム全盛期である。
 コンサートでは盛り上がったが、大ヒットした「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾のレコードは発売されなかった。
 レコード会社の「政治的配慮」でお蔵入りになった。

 原作者の明示がないなどとして、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)サイドからクレームが舞い込む。
 作者不詳と思っていたら、原作者がいたのだ。
 朝鮮戦争後の1957年にできた「臨津江」。
河の向こうのあしの原では鳥だけが悲しく鳴き
荒れた野には草むらが生い茂る
協同農場の稲穂は波打ち踊る

 2番は体制礼賛色が濃かった。

純情で、おせっかいな京都の若者が、平和とか、平等とか考えていたんですよ。原曲はマイナーなんだけど、それを僕がメジャーにしたので少し明るい感じになった。でも、悲しい歌です。もう歌われなくなる時代が来たらいいなとも思っていたけど、しぶといんですよ。歌もしぶといけど、状況もしぶとい。消え去れない歌だったんです。イムジン河は朝鮮半島だけでない、世界中にある。イスラエルとパレスチナだってそうだし、日本もどんどん寛容さが失われ、幾つものイムジン河が生まれた。ある音楽プロデューサーが言ってくれました。『イムジン河』はアジアの『イマジン』(注3)だって

南北首脳会談「何かが始まれば」

 原作者は朴世永(パクセヨン)。どんな人物なのか?
 私は原曲誕生と同じ年に平壌で出た「現代朝鮮文学選集」の第2巻「詩集」を探し、松山さんにお見せした。
 朴世永の詩が多く収められ、彼の経歴や写真も入っている。

「まじめそうで、優しい顔をしていますね」

 1902年に朝鮮・京畿道で生まれ、中国・上海で学び、帰国後は「朝鮮プロレタリア芸術家同盟」に参加しながら、児童文学誌の編集に携わる。
 1946年に越北し、北朝鮮の国歌「愛国歌」を作詞するなど体制に重用されていくが、植民地時代に書いた一編の詩「岩つばめ」は「イムジン河」をほうふつさせる。
南からか来たか、北から来たか、そそり立つ山の峰その頂上はるかに巣をつくるつばめよ。
おまえこそは自由の化身、おまえを縛るものはだれだ?
おまえにつきまとうものはだれだ?
おまえこそ、この大空が、この大地が自分のものではないか

「へえ、朴世永さん、彼なりにいろいろ自由を求めていたんだなあ。時代も環境も違うけど、僕もあの頃、行き詰まりを感じていた。これから世の中、どうなるんだ。ベトナムでは泥沼の戦争が続いている。僕らは自由に生きられるかってね。お金、お金の時代になっていくだけじゃないのか、そんな空気に反抗する気持ちがありましたね。自由なんて言葉はもう当たり前になったけれど、日本の民主主義は機能していますか? このごろ、ふと思いますよ」

 「イムジン河」ですぐ思い浮かぶのは、松山少年をモデルにした井筒和幸監督の映画「パッチギ!」(注4)。
 公開は戦後60年を迎えた2005年、その年の夏、私は元フォークルメンバーの加藤和彦さんにインタビューした。

「大げさな意識を背負って歌っていたわけじゃないんです。あの頃の京都、今もそうですが、在日韓国人、在日朝鮮人がたくさんいる。クラスにもいたしね。北朝鮮への帰還運動も続いていたのかなあ。問題は日常的に内在していた。共存はしているんだけど、どこか垣根があってね」

 その在日朝鮮人らを迎えた祖国の港に流れていたのが「帰国同胞歓迎曲」、これも朴世永の手によるものだった。

 松山さんにもヒリヒリ痛む記憶がある。

「2年先輩に京子さんという仲のいい在日の子がいたんです。弁論大会で民族差別について切々と訴えて1等になって。ところが、ある日、家族と一緒に新潟から帰国船で帰るという。お父さんは砥石(といし)屋さんで、たくさんの財産を祖国へのお土産にしたと聞きました。彼女は明姫(ミョンヒ)と朝鮮名に戻し、最初のうちは手紙も来ていましたが、それも途絶えて……」

 そう言って松山さんはまた遠くを見つめる。

 私はいつだったかツアーで足を延ばした板門店(パンムンジョム)近くの焼き肉屋のことを思い出した。
 煙にまみれ、脱北者の青年がギターを手に歌っていた。
 「イムジン河」だった。
 聞けば、父は大阪生まれの元在日朝鮮人だという。
 かの地で生き抜いていれば、きっと明姫さんも歌を覚えているだろう。
 
 南北首脳会談も今回で3度目になる。
 金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長が核を放棄し、東アジアが平和の道を歩めるかどうか。

「遅きに失しました。もっと早く歩み寄れなかったものか。懐疑的な論調もありますが、それでも何も起こらないよりかはましでしょ。何かがここから始まればいい。日本人拉致問題も解決しないだろうかなあ。そしてみんなが理想とする時代が来ればうれしいよね」

 カモメが空を舞う。

「自由がいいよ」

 おおいなる元おせっかい少年は会談の行方を見つめている。


[写真-1]
「あの頃は悩んで、バカなことばかりしていたなあ」。京都時代を懐かしむ松山さん=横浜市の山下公園で

[写真-2]
原曲の作詞者、朴世永(「現代朝鮮文学選集」第2巻から)

毎日新聞・東京夕刊、2018年4月18日
分断、今も世界に
水鳥行き交う自由がいいよ
「イムジン河」50年・訳詞の松山猛さんに聞く

(鈴木琢磨)
https://mainichi.jp/articles/20180418/dde/012/030/004000c

(注1)「ザ・フォーク・クルセダーズ」はしだのりひこさん死去

 ザ・フォーク・クルセダーズの元メンバーで、解散後は「風」「花嫁」などのヒット曲で知られるフォーク歌NHK手のはしだのりひこ(本名・端田宣彦〈はしだ・のりひこ〉)さんが2017年12月2日午前1時16分、パーキンソン病のため京都市内の病院で死去した。
 72歳だった。
 通夜は5日午後7時、葬儀は6日正午から同市伏見区深草下横縄町25のセレマ稲荷シティホールで。喪主は長男篤人さん。

 同市出身で、同志社大在学中からフォークグループで活動。
 1967年に故・加藤和彦さん、きたやまおさむさん(71)のザ・フォーク・クルセダーズに参加した。
 「帰って来たヨッパライ」「悲しくてやりきれない」などで人気を博した。
 1968年の解散後、杉田二郎さん(71)らと「はしだのりひことシューベルツ」を結成し、「風」をヒットさせたほか、1971年には「はしだのりひことクライマックス」で発表した「花嫁」が大ヒット。
 同年1971年のNHK紅白歌合戦にも出場した。


朝日新聞、2017年12月2日13時39分
https://www.asahi.com/articles/ASKD24G9TKD2UTFL001.html
風 (1969年) はしだのりひことシューベルツ
https://www.youtube.com/watch?v=g9M3nMfLRBs

(注2)イムジン河

1)イムジン河水清く とうとうと流る  
  水鳥自由に 群がり飛び交うよ
  我が祖国 南の地 想いははるか
  イムジン河水清く とうとうと流る 
2)北の大地から 南の空へ
  飛び行く鳥よ 自由の使者よ
  誰が祖国を 二つに分けてしまったの
  誰が祖国を 分けてしまったの


フォーク・クルセイダーズ
https://www.youtube.com/watch?v=1-eJDL3zLCQ
キム・ヨンジャ
https://www.youtube.com/watch?v=GOFFjpyVmvI
Hyon Song Wol - 현송 월
https://www.youtube.com/watch?v=rklqzA-yP3g

(注3)Imagine
https://www.youtube.com/watch?v=dS5A9gzQfWQ

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people living for today

想像してごらん 天国のない世界を
やってごらん 簡単なことさ
僕らの足元に地獄はなく
上にあるのは青空だけ
想像してごらん 今日という日のために生きているみんなを

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people living life in peace

想像してごらん 国境のない世界を
難しいことじゃないさ
殺すことも死ぬ理由もない
宗教も存在しない
想像してごらん 平和の中で生きているみんなを

You, you may say
I'm a dreamer, but I'm not the only one
I hope some day you'll join us
And the world will be as one

君は言うかもしれない
僕をドリーマーだと でもそれは僕だけじゃない
いつか、君も仲間になってくれるといいな
そして世界は一つになって生きていくんだ

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people sharing all the world

想像してごらん 何も所有していない世界を
やってごらん 君にもできるかもしれない
欲望も飢えも必要なく
人はみんな兄弟なんだ
想像してごらん 世界を分かち合っているみんなを

You, you may say
I'm a dreamer, but I'm not the only one
I hope some day you'll join us
And the world will be as one

君は言うかもしれない
僕をドリーマーだと でもそれは僕だけじゃない
いつか、君も仲間になってくれるといいな
そして世界は一つになって生きていくんだ


(注4)映画「パッチギ! LOVE & PEACE」(監督:井筒和幸/公開0705)予告編
https://www.youtube.com/watch?v=1CGFMlFBVpM
https://www.youtube.com/watch?v=8COmlGZyMig

植村花菜 悲しくてやりきれない ザ‧フォーク‧クルセダーズ
https://www.youtube.com/watch?v=upI8k8Q5w0Y

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2018年04月19日

二分法的世界観

 まずは2003年3月20日に始まったイラク戦争、からですかね・・・

 ブッシュ政権は、イラク戦争に反対する古い欧州を批判した。
 だがアメリカこそ古いアメリカに先祖返りしているのではないか?
 私は30年前に、アメリカのニュージャージー州に住んでいた。
 そこには、古いが良いアメリカがあった。
 とにかくコミュニティーが中心で、消防車があることが自治の象徴であり、キリスト教会も各宗派、ワンセットでそろっていた。

 皆の読む新聞は、地域の新聞だけであり、それも結婚や葬儀のお知らせが中心だった。
 ニュージャージー州にいれば、隣のニューヨークにも首都ワシントンにも行かないのが普通。
 我々が南部のニューオルリンズに行くと言ったときは、友人たちはあきれた。

 北軍だったニュージャージーの車には、南軍の州でガソリンを売ってくれない。
 敵意がないことを示すために、南部の国旗のステッカーを張れ、とアドバイスしてくれた。
 
 このように、古いアメリカはコミュニティー、地域、キリスト教会中心だが、お互いの違いを超えて共存し、我々英語のへたな外国人、異教徒も受け入れてくれ、極めて寛容だった。

 だが2001年9月11日の「9.11」をきっかけに、キリスト教保守派の方向に堰(せき)を切ったように走りだし、ブッシュ大統領はその旗手になった。

 違いを超えて共存していたアメリカが、互いを敵か味方か、で二分するようになった。

 アメリカにとっては、南北戦争は奴隷制農業対商工業、世界大戦は自由主義対ファシズム、東西冷戦は計画経済対自由経済と、敵味方に二分するのも長い歴史がある。

 今回は、寛容対非寛容の戦いだ。
 寛容ではコミュニティーが破壊される、今こそ信仰に忠実に、と非寛容派は主張する。
 だがそもそも、政治が宗教に左右されることを避けるのが、近代民主主義の原点だったはずだ。
 アメリカは、近代民主主義以前の古い姿にまで、先祖返りするつもりなのか?


朝日新聞、11/18
先祖返りするアメリカ
(曙光)
http://www.asahi.com/money/column/TKY200411180243.html

 「寛容」の精神とはおよそ真逆の敵、味方二分法!
 これが21世紀を覆っているようです、こわい、ね!
 玄侑宗久(げんゆう そうきゅう、1956-)の東日本大震災の前のことば:

 禅には「両忘」という言葉がある。
 たとえば善悪、美醜、尊卑など、反対語のある概念は両方ともでっちあげだから、忘れたほうがいいというのである。
 あらゆる二分法を捨て、当初の渾沌に戻るというのが坐禅の主旨といっても過言ではない。

 しかし世の中の風潮を眺めると、どうもこの二分法がどんどん強まっているような気がする。
 アメリカはイラン、イラク、北朝鮮などを「悪」と呼び、さまざまな会社も経営の「良否」が一律に判断され、子供たちでさえ相手を敵か味方かだけで二分する。
 敵だと判断されると一斉に「いじめ」が起こるのである。

 どうもこの思考法、ゲームに似ているのではないか。
 ゲームの場合は、善悪ははっきりしたほうが面白い。
 しかも水戸黄門にも助さん格さんがついているように、善とされる側もたいていは暴力を振るう。いや、正義の暴力はヒーローの美徳でさえあるのだ。

 今や日本人の3割、中学生では7割、小学生では8割5分がパソコンやテレビでゲームに親しんでいるらしい。

 アメリカでのある調査によれば、子供たちは小学校を終える段階で、8千件の殺人と10万件の暴力行為をゲームのなかで「目撃」しているという。
 また平均的なアメリカの子供は、18歳になるまでに、少なくとも暴力的なシーンを20万回、殺人を4万回は「目撃」するらしい。
 これらは岡田尊司(1960-)氏の著書『脳内汚染』 (文春文庫、2008年)に学んだことだが、著者は日本ではゲームの内容についての規制が甘いから、おそらくアメリカ以上だろうと推察している。

 こうしたゲームに熱中する子供たちをゲーマ−というらしいが、一日4時間以上ゲームで遊ぶ子供にはじつに顕著な特徴が現れる。
 これも同書に載せられた資料だが、兵庫県の魚住絹代(1964-)氏が寝屋川市を中心に東京・大阪・長崎で行った大規模な調査結果がもとになっている。
 あまりに衝撃的なので、謹んで引用させていただきたい。

 そのアンケート結果によれば、4時間以上のゲーマーでは、「人は敵か味方のどちらかだと思う」と答えた割合が、あまりゲームをしない子の2.5倍あった。
 また「少しでもダメなところがあると、全部ダメダメだと思ってしまう」子供も2倍、そして「人づき合いや集団が苦手」な子は4倍、「人を信じられないことがある」子は2倍、さらに「傷つけられるとこだわり、仕返ししたくなる」子も2倍強だった。

 本来、楽観的で希望に溢れ、善悪にさえあまりこだわらないはずの子供たちのこうした傾向には、岡田氏ならずとも単純化されたゲーム・ストーリーによる刷り込みが感じられないだろうか。

 先日、法事に出かけた家で、故人の孫にあたる5年生の男の子が、お経が始まる直前までゲーム機を放さず母親に叱られている場面に遭遇した。
 私は彼に普通に話しかけたが、彼はどうしても私の目を見ないのだった。
 すでにシナリオのあるデータだけをいつも相手にしている彼とすれば、見たこともない服装をした「坊さん」という新たな人種の出現に戸惑っていたのだろう。
 ナマの世界を情報化する前頭前野の能力が、ゲーマーでは発達しにくいと指摘する研究もある。

 果たして敵と思われたか味方と見たのかは知らないが、彼に人間関係を作り上げていく意識が希薄だったことは確かだろう。
 ダメになれば「リセット」すればいいというのもゲーム独特の感覚である。
 まだ人間観も現実も把握もできていない子供にとって、ヴァーチャルな世界が与える影響は思いのほか大きい。
 あまりに無慈悲で無感覚な犯罪の増加をまのあたりにするにつけても、外で遊ばなくなった子供たちの行く末を想わずにはいられない。

 本来、動物には同種の動物を殺すことに対する強い抑止力が存在したはずである。
 しかしそうした生得的なプログラムも、岡田氏によれば、戦闘的なゲームに習熟することで解除されるのだという。
 現実に、イラクに向かう米兵はそのような訓練を受けている。

 思えば瞬時に敵味方を見分けることも、孤独に耐えて必ず仕返しする性癖も、前線の兵士に求められる能力ではないか。
 今は単にそれが一般市民に及んできたに過ぎない。

 一方では戦争を推進し、他方で平和で安全な社会を望むというのは、どだい無理な話なのである。
 軍事力をもっと増強するなら、異様で残虐な犯罪ももっともっと増えると、覚悟しておいていただきたい。


東京新聞夕刊「生きる」、2008年8月19日
敵味方感覚が日常にも
(玄侑宗久)
http://www.genyusokyu.com/essay08/chunichi/080720.html

 自衛隊統合幕僚監部に所属する幹部自衛官が、民進党の小西洋之(1972-)参院議員に対し、「お前は国民の敵だ」「お前の国会での活動は気持ち悪い」などと暴言を放った問題。

日刊ゲンダイ、2018年4月19日
野党議員に「国民の敵」と罵声 暴走3等空佐の意外な素顔
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/227488

 敵・味方の単純な二分法できています、だからこわいんですね。だって人間と思ってないでしょうから。
 以下も2014年ですから、もう4年前のことば。しかし確かに含蓄に富むことばです:

 世界はね、目に見えるものだけでできているんじゃないんだよ――。
 「そして父になる」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど世界的評価の高い映画監督・是枝裕和(1962-)さんが脚本を手がけたテレビドラマのセリフだ。

 敵か味方か。勝ちか負けか。二分法的世界観が幅を利かせるこの日本社会を是枝さんはどう見ているのか、聞いた。

人間の複雑さこそ
思考を成熟させ
社会を変えられる


― 昨年12月に発足した「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」に賛同されていましたね。

ひとりの社会人として、責任がありますから

― 政治的な「色」がつくという懸念はなかったですか。

 そんな変な価値観がまかり通っているのは日本だけです。
 僕が映画を撮ったりテレビに関わったりしているのは、多様な価値観を持った人たちが互いを尊重し合いながら共生していける、豊かで成熟した社会をつくりたいからです。
 だから国家や国家主義者たちが私たちの多様性を抑圧しようとせり出してきた時には反対の声をあげる、当然です。
 これはイデオロギーではありません。


― ならば、日本政治や社会を告発するようなドキュメンタリーを撮ろうとは考えませんか。世界的に名高い是枝さんの手になれば、社会の空気を変えられるかもしれません。

 たとえば『華氏911』でマイケル・ムーアが表明したブッシュ政権への怒りの切実さが、多くの人の心を揺さぶったのは間違いない。
 だけど豊かなドキュメンタリーというのは本来、見た人間の思考を成熟させていくものです。
 告発型のドキュメンタリーを見ると確かに留飲が下がるし、怒りを喚起できるし、それによって社会の風向きを変えることもあるかもしれない。
 でもそのこと自体を目的にしたら、本質からずれていく気がします。

 あるイベントで詩人の谷川俊太郎さんとご一緒したのですが、『詩は自己表現ではない』と明確におっしゃっていました。
 詩とは、自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある、世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを詩として記述するのだと。
 ああ、映像も一緒だなと。
 撮ること自体が発見であり、出会いです。
 詩にメッセージというものがもしあるのだとしたら、それは作り手の内部にではなく世界の側にある。
 それと出会う手段がドキュメンタリーです。
 ドキュメンタリーは、社会変革の前に自己変革があるべきで、どんなに崇高な志に支えられていたとしても、撮る前から結論が存在するものはドキュメンタリーではありません。

― じゃあ何ですか。

  プロパガンダです。
 水俣病を撮り続け、海外でも高く評価された土本典昭(1928-2008)さんは『不知火海』という作品で、補償金をもらって陸に上がった漁師が、品のない家を建てて金ぴかの調度品で部屋を飾っている様子も撮っています。
 そのような、水俣病を告発するというプロパガンダからはみ出した部分こそがドキュメンタリーの神髄です。
 人間の豊かさや複雑さに届いている表現だからこそ、人の思考を深め、結果的に社会を変えられるのだと思います。

 安倍政権を直接的に批判するドキュメンタリーもあっていい。
 だけどもっと根本的に、安倍政権を支持している私たちの根っこにある、この浅はかさとはいったい何なのか、長い目で見て、この日本社会や日本人を成熟させていくには何が必要なのかを考えなくてはいけません。

祭りを楽しめぬ人
想像してこそ
権力持つ資格ある


― この浅はかさ。何でしょう。

 昔、貴乃花が右ひざをけがして、ボロボロになりながらも武蔵丸との優勝決定戦に勝ち、当時の小泉純一郎首相が『痛みに耐えてよく頑張った。感動した!』と叫んで日本中が盛り上がったことがありましたよね。
 僕はあの時、この政治家嫌いだな、と思ったんです。
 なぜ武蔵丸に触れないのか、『2人とも頑張った』くらい言ってもいいんじゃないかと。
 外国出身力士の武蔵丸にとって、けがを押して土俵に上がった国民的ヒーローの貴乃花と戦うのは大変だったはずです。
 武蔵丸や彼を応援している人はどんな気持ちだったのか。
 そこに目を配れるか否かは、政治家として非常に大事なところです。
 しかし現在の日本政治はそういう度量を完全に失っています。

 例えば得票率6割で当選した政治家は本来、自分に投票しなかった4割の人に思いをはせ、彼らも納得する形で政治を動かしていかなければならないはずです。
 そういう非常に難しいことにあたるからこそ権力が与えられ、高い歳費が払われているわけでしょ?
 それがいつからか選挙に勝った人間がやりたいようにやるのが政治だ、となっている。
 政治の捉え方自体が間違っています。
 民主主義は多数決とは違います

 政治家の『本音』がもてはやされ、たとえそれを不快に思う人がいてもひるまず、妥協せずに言い続ける政治家が人気を得る。
 いつから政治家はこんな楽な商売になってしまったのでしょう。
 『表現の自由』はあなたがたが享受するものではなくて、あなたが私たちに保障するものです。
 そのためにはあなたの自己表出には節度が求められるはずです。

― しかし政治に限らず、「勝たなきゃ終わり」という価値観が世間では幅を利かせています。

 世の中には意味のない勝ちもあれば価値のある負けもある。
 もちろん価値のある勝ちが誰だっていい。
 でもこの2つしかないのなら、僕は価値のある負けを選びます。
 そういう人間もいることを示すのが僕の役割です。
 武蔵丸を応援している人間も、祭りを楽しめない人間もいる。
 『4割』に対する想像力を涵養するのが、映画や小説じゃないかな。
 僕はそう思って仕事しています。

 ただ、同調圧力の強い日本では、自分の頭でものを考えるという訓練が積まれていないような気がするんですよね。
 自分なりの解釈を加えることに対する不安がとても強いので、批評の機能が弱ってしまっている。
 その結果が映画だと『泣けた!』『星4つ』。
 こんなに楽なリアクションはありません。
 何かと向き合い、それについて言葉をつむぐ訓練が欠けています。
 これは映画に限った話ではなく、政治などあらゆる分野でそうなっていると思います。

 昨年公開した『そして父になる』の上映会では、観客から『ラストで彼らはどういう選択をしたのですか?』という質問が多く出ます。
 はっきりと言葉では説明せずにラストシーンを描いているから、みんなもやもやしているんですね。
 表では描かれていない部分を自分で想像し、あの家族たちのこれからを考えるよりも、監督と『答え合わせ』してすっきりしたいんでしょう。
 よしあしは別にして、海外ではない反応です。
 同じく日本の記者や批評家はよく『この映画に込めたメッセージはなんですか』と聞きますが、これも海外ではほとんどありません。

― そうなんですか。

 聞かれないどころか、ロシア人の記者に『君は気づいてないかもしれないが、君は遺(のこ)された人々、棄てられた人々を描いている。それが君の本質だ』って言われたことがあります。
 で、確かにそうだった。ずっと『棄民』の話を撮りたいと思っていたから。すばらしいでしょ。
 翻って日本では多数派の意見がなんとなく正解とみなされるし、星の数が多い方が見る価値の高い映画だということになってしまう。
 『浅はかさ』の原因はひとつではありません。
 それぞれの立場の人が自分の頭で考え、行動していくことで、少しずつ『深く』していくしかありません。


―「棄民」を撮るんですか。

 ブラジルの日系移民の話をいつか劇映画でやりたいと思っています。
 彼らは国に棄てられた『棄民』ですが、第2次世界大戦が始まるとむしろ日本人として純化していく。
 情報遮断状態におかれた移民たちは日本の敗戦を知らず、うわさを聞いても信じない。
 そして負けたと主張する仲間を『非国民だ』と殺してしまう。
 似ていませんか?いまの日本に。
 国に棄てられた被害者が加害の側に回る、そこに何があったのかを描いてみたいんです。

 精神科医の野田正彰(1944-)さんは、加害の歴史も含めて文化だから、次世代にちゃんと受け渡していかなければならないと指摘しています。
 その通りです。どんな国の歴史にも暗部はある。いま生きている人間は、それを引き受けないといけません。
 だけど多くの人は引き受けずに、忘れる。
 東京電力福島第一原発事故もそうでしょう。『アンダーコントロール』だ、東京五輪だって浮かれ始めている。どうかしていますよ。

 いまの日本の問題は、みんなが被害者意識から出発しているということじゃないですか。
 映画監督の大島渚(1932-2013)はかつて、木下恵介(1912-1998)監督の『二十四の瞳』を徹底的に批判しました。
 木下を尊敬するがゆえに、被害者意識を核にして作られた映画と、それに涙する『善良』な日本人を嫌悪したのです。
 戦争は島の外からやってくるのか?違うだろうと。
 戦争は自分たちの内側から起こるという自覚を喚起するためにも、被害者感情に寄りかからない、日本の歴史の中にある加害性を撮りたい。

 みんな忘れていくから。誰かがやらなくてはいけないと思っています。


朝日新聞、2014.2.15
(聞き手 論説委員・高橋純子)
https://ameblo.jp/lovemedo36/entry-11774247276.html


是枝裕和監督『万引き家族』本予告
https://www.youtube.com/watch?v=CUmEs71m6LM

是枝裕和監督『海よりもまだ深く』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=Dfo0HyDtAmg

是枝裕和監督『そして父になる』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=sRGhEzALb4w

是枝裕和監督『海街diary』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=HGDzY526k0A

是枝裕和監督『奇跡』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=OMGI3UxCFS8

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2018年04月18日

認知症対応法

 認知症の人が自らの言葉で胸のうちを語る「本人の思い」を今月から原則月1回、生活面に掲載します。
 初回は、認知症の本人でつくる全国組織を2014年に立ち上げたトップランナーの1人、藤田和子さんです。
 その原動力や認知症とともに歩む日々について聞きました。

 藤田和子さん(ふじた・かずこ、56)日本認知症本人ワーキンググループ代表理事

アルツハイマー病と診断を受けたのは45歳の時。社会の認識と実際の自分との隔たりに気づいた

 診断を受けた直後は、どうなっていくのだろうと不安がありました。
 その頃は、「認知症になると何もわからなくなる」「10年後には寝たきりになる」という絶望的な情報しかありませんでしたから。
 私自身、認知症の義母を介護した経験を通して、そうした偏見を持ってしまったところもあったのでしょう。
 看護師の仕事もやめました。

 でも、認知症になってわかったんです。
 もの忘れをしたり、いくつかのことを同時にすると混乱したり、不自由さはあるけれど、以前と同じように考えることはできる、と。
 私は私であることに変わりなく、一人のひととして存在しているんです。

社会を変えたい。その思いが、若年認知症の問題に取り組む会や、国内で先駆けとなる、認知症の本人による全国組織の発足につながる

 診断から2年後、「認知症の人には適当に接しておけば介護者は楽」とも受け取れる趣旨の医師のコラムを読み、ショックでした。
 認知症の本人の視点が何一つない。
 これが、認知症の人に対する当時の一般的な見方だったと思います。
 認知症になってからも自分らしい暮らしができる社会に変えるには?
 その答えが、私自身が認知症の本人として発信していくことでした。
 でも、私ひとりで変えることはできません。
 人権問題に取り組んできた仲間と2010年、若年層の認知症問題を考える会を鳥取市内につくりました。

 活動を通して各地の認知症の本人と出会い、2014年、ワーキンググループを立ち上げました。
 本人の視点を生かす政策提案、本人が主体的に語る場づくり……。
 認知症になっても希望と尊厳を持って生きていける社会をつくり出すのが目的です。
 本人の声を聞き、一緒に考えようという流れが広がりつつあると感じます。

講演などで全国を飛び回り、インターネットを通じ当事者と語らうひととき。そんな日常を支える幾人もの「パートナー」がそばにいる

 最近、ネットのWeb会議システムで、国内外の当事者とおしゃべりを楽しんでいます。
 認知症の会議の参加者に誘われて。
 認知症になったからこそ広がる世界があるんです。

 こうした暮らしができるのは、同じ思いで動く「パートナー」の存在が、とても大きい。
 ネットの設定を手伝ってくれる娘、車を運転してくれる友人、講演で話すことを一緒に整理してくれる活動仲間。
 家族や友人に限らず、「水平な関係」を持てる人たちの力があって、できることが増え、笑顔でいられるのです。

イメージに縛られず、ともに歩む

 鳥取市の公民館で働く澤野しのぶさん(59)は、藤田さんの「パートナー」の1人だ。
「認知症になってからも自分らしく暮らせる地域をつくりたい」と相談され、本人とともに語り合うサロンを藤田さんらと昨年立ち上げた。

「藤田さんから認知症はこわい病気ではないと学んだ。認知症の母を介護していた頃の私は、『本人』に思いが至っていなかったと気づかされました」

 2人の交友は20年以上前から。
 だが、藤田さんが若年認知症だという話を耳にしたとき、しばらくはどう声をかけていいか、わからなかったという。

 2年前、澤野さんは藤田さんに電話をした。
 藤田さんが勤めていた病院について聞きたいことがあった。
 「(認知症の)私に尋ねてくれてうれしい」と言う藤田さんの言葉に、「認知症」というイメージに縛られ距離を置いていた自分を省みた。
 全国的な組織を引っ張るバイタリティーある藤田さんの姿。
 「そのエネルギーを感じながら、ともに歩みたい」と澤野さんは話す。

 <ふじた・かずこ> 鳥取市で夫、娘と3人暮らし。NPO法人「若年性認知症問題にとりくむ会・クローバー」副理事長。「認知症になってもだいじょうぶ!そんな社会を創っていこうよ」(徳間書店)を昨年2017年、出版した。


朝日新聞、2018年4月16日06時00分
認知症でも「私は私」
45歳で診断、藤田和子さん
(森本美紀)
https://digital.asahi.com/articles/ASL4H7K7VL4HUBQU00V.html

若年性認知症
 65歳未満の人が発症する認知症で、原因はアルツハイマー病のほか、脳卒中などに伴う「脳血管性」などがある。
 厚生労働省研究班の2009年の調査では、国内に3万7800人いると推計される。
 同じことを何度も聞いたり、意欲が低下したりして周囲が気づくこともある。
https://mainichi.jp/articles/20180418/dde/041/040/032000c

 物忘れや妄想などの認知症に伴う症状に、家族らがどう対応するかをまとめたインターネットのホームページ(HP)が注目されている。
 家族のほか施設職員らから寄せられた対応方法や、その方法ごとの成功率などを掲載している。
 どう対応したらよいか分からず、試行錯誤を重ねる周囲の人たちの心身両面の苦労を減らす狙いだ。

 このHPは「認知症ちえのわnet」。

http://orange.ist.osaka-u.ac.jp/

 大阪大大学院医学系研究科精神医学分野講師の数井裕光さん(53)が中心となり、2016年に開設した。
 投稿は現在、670件ほど。
 「物忘れ」「拒絶・拒否」など症状ごとに分けられ、体験ごとに成功率も掲載している。

 例えば「同じことを何度も聞いたり言ったりする」という症状に、「(言い方を変えず)同じ説明を繰り返す」とした投稿は15件。
 そのうち、繰り返すうちに理解してくれたとしたのは53.3%、伝わらなかったとしたのは46.7%だった。
 結果は拮抗(きっこう)しているが、数井さんは「聞かれた側は、前とは違う説明の仕方をしないといけないと思いがちだが、同じ説明を繰り返す方が本人には覚えやすいのかも」と推測する。

 「ある物が人や顔などに見える」というケースでは、「ある物」を取り除くと、9割で症状がなくなった。
 一方、「配偶者が浮気をしている」という妄想では「そんな事実はないことを説明する」という対応では全く効果がなかった。

 どんな方法がどの程度うまくいったかを示し、対応に困った家族らが参考にできるようになっているのが、HPの特徴だ。
 数井さんは「この場を何とかしたいという切実な思いの介護者もいる。家族が悩む場面は似ているので、解決に向け、まずは成功率が高い対応を示したい」と話す。

 利用者への対応に悩む介護施設での活用も視野に入れる。
 兵庫県川西市の介護老人保健施設の作業療法士椿野由佳さん(53)もHPを参考にする一人。
 トイレの場所を覚えられず、部屋で排尿してしまう80代の女性のために、初めはトイレの扉に大きなマークを張ったが、効果はなかった。
 HPで「トイレの扉に利用者のペットの写真を張ったら成功した」という事例を知り、女性が好きな造花を飾り、トイレの近くで歩行訓練を続けたところ、トイレに行けるようになった。
 「他の専門職の斬新な方法が参考になった。うまくいかないことでも、専門職の気づきで、状況は変えられる」と再認識する。

◆ 周辺症状の検証が課題

 認知症の症状には、ほとんどの人に起きる中核症状と、それに伴う周辺症状がある。
 記憶障害や判断力の低下など、脳機能の低下によって起こるのが中核症状で、中核症状などから生じる徘徊(はいかい)や暴力、妄想などが周辺症状だ。
 認知症に伴う行動・心理症状(BPSD)ともいわれる。

 周辺症状は、できていたことができなくなる不安などがもとになっており、患者本人の性格や置かれている状況が影響するため、起こる症状はさまざま。
 HPへの投稿も周辺症状への対応が多いが、より多くの人が参考にできるようにするには、投稿数を増やすことが必要だ。

 当面、投稿の目標件数は1000件。
 椿野さんは「認知症カフェなどで、介護者の声をその場で投稿する催しを開いてはどうか」と提案する。
 数井さんは「成功率が高い対応を医療現場でも試すなど、集めたデータの検証もしていきたい」と話す。


東京新聞、2017年8月23日
認知症対応法 HPで紹介
「家族」「施設」現場の声を集約

(出口有紀)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017082302000178.html

 原節子、上原謙、高峰秀子…。往年のスターが出演する全盛時代の邦画を20分のダイジェスト版に編集し、BGMのように流す喫茶店「銀幕カフェ」が今月2018年2月、鶴ケ島市にオープンした。
 青春時代の映画を見て高齢者が当時を思い出すことで、脳を活性化して元気になってもらうのが目的。
 出店した映像コンテンツ会社は、今後、全国の高齢者入所施設や喫茶店などにインターネットによる映像提供を計画しており、すでに試験導入している約50の施設では好評だという。

 ダイジェスト版の映像を提供するのは高齢者向けの映像コンテンツを制作・提供する「ネットTV・KAISOU」(本社・沖縄県名護市)。
 提供する映像は、旧著作権法で著作権が切れた1953年以前の映画を利用する。
 一般家庭にテレビが普及する前で、現在の高齢者が青春を過ごした時代の作品だ。

 大内英嗣(ひでつぐ)副社長(51)は「介護施設を回って分かったのはレクリエーションが不足していることだった。施設利用者が若いときに見ていた映画を、集中できる20分に縮めて使ってもらうことを考えた」と話す。

 認知症の心理療法として広く行われている「回想法」(*)では、懐かしい思い出を話すことで脳が刺激され、精神状態を安定させる。
 回想法では映画や音楽、写真などが、昔を思い出すきっかけとして使われる。

 同社の楠裕史さん(59)は「古い映画には、高齢者が若かったころのファッションや音楽、町の風景など、思い出につながる鍵が山のようにある。プロジェクターとスクリーンがあればできるので、全国にある空き店舗も活用できるのではないか。鶴ケ島で5店舗ほど運営し、全国に広げていきたい」という。
 高齢者は映画のストーリーではなく、田中絹代らスターが画面に現れただけで「この映画をお母さんと見に行った。あのときは…」などと当時の記憶がよみがえり、いきいきと話し始めるという。

 第1号の銀幕カフェは、空き店舗(約50平方メートル)を活用する鶴ケ島市のチャレンジショップに入居し、日・月・火曜日の営業。
 20分、映像を流した後、担当の吉田政司さん(63)が「誰と見に行きましたか」などと話しかける。
 「すでにリピーターのお客さんもいる。佐田啓二の『追っかけ』をしていた若いころを生き生きと話す女性もいます」という。

 チャレンジショップを担当する鶴ケ島市産業振興課の担当者は「映画をきっかけに昔話をしたり、若いころを思い出したりして楽しく憩える場所になれば。高齢者が外に出るきっかけにもなる」と介護予防効果も期待している。
 問い合わせは銀幕カフェ=電049(227)3186=へ。

東京新聞、2018年2月27日
思い出の名画で元気に
「銀幕カフェ」オープン

(中里宏)
www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201802/CK2018022702000142.html

(*)回想法ライブラリー
https://www.nhk.or.jp/archives/kaisou/
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75歳以上の方

 「アクセルとブレーキを間違えた」や「突然の暴走」など、高齢ドライバーの交通事故増加を受け、昨年2017年3月の道路交通法改正で75歳以上には免許更新時の認知機能検査が義務づけられた
 だが、最終的に「運転する権利を取り上げるかどうか」を判断するのは国交省の役人でも警察官でもない。民間の医師たちだ。彼らにとって、その葛藤は深まるばかりだという。

◆ 異例の声明

 4月4日、日本医師会が定例記者会見で、改正道交法について、“医師の訴訟リスクの解消”を求める答申を発表した。
 同法が規定する認知機能検査で「49点未満」の人は認知症の疑いがある「第1分類」と判定され、免許更新に医師の診断書の提出が必要になる。
 そこで医師が「認知症で運転するのは危険」と判断すれば免許は取り消しになる。「認知症ではない」と判断された高齢ドライバーは免許更新が認められ、これまで通りハンドルを握ることができる。実に“合理的な規定”だが、医師にとっては不条理な問題なのだという。交通事故裁判に詳しい星野・長塚・木川法律事務所の星野宏明弁護士が解説する。

「現状では、認知症診断と交通事故に関する法的な整備がなされていない。医師が『認知症ではない』と判断した高齢ドライバーが事故を起こした場合、『医師が“運転OK”のお墨つきを与えたのに事故を起こした』として、医師が被害者から訴訟提起されるリスクも考えられます。故意に虚偽の診断書を書いたのでなければ賠償が認められる可能性は低いとはいえ、事案次第では分からないので、医師が不安に思うのも当然です」

◆ 専門外の医師が判断

 医師会が高齢ドライバーをめぐる「訴訟リスク」を訴えた背景には、こんな事情もあるようだ。

「昨年2017年2月の段階で、認知機能検査の認知症診断に対応できる登録医はわずか3100人で、認知症の専門医が不足している現状が明らかになりました。そのため対象者のかかりつけ医など、認知症の専門医ではない医師がマニュアルを頼りに診断しているのが現状。そうした医師は特に“訴訟リスク”に怯えています」
 (交通ジャーナリストの今井亮一氏)

 昨年2017年3月の導入以来、昨年末までの間に認知機能検査を受けた人は約172万人。「第1分類」と判定された人は約4万6000人で、実際に免許取り消しになったのは1351人だった(警察庁調べ)。
 この数字を見ると認知症による免許取り消しは極めて稀に見えるが、今回の医師会の答申を踏まえ、“ドクターストップ”が今後、急増する可能性を指摘する声もある。米山医院院長で神経内科医の米山公啓氏が言う。

「認知機能検査は、認知症診断テストとして広く採用されている『長谷川式テスト(※注)』を簡略化したもので、軽度の認知症でも引っ掛かりやすい内容になっている。選別漏れがないように免許更新の敷居を高くしているようです。

【※注/1974年に医師の長谷川和夫氏が開発し、現在認知症診断テストとして広く採用されているもの。見当識、3単語の即時記銘、計算など9項目の問題からなる】

 医師が訴訟リスクを気にすれば、検査に引っかかった“怪しい人”をほぼ自動的に認知症だと診断してしまうといったことも懸念されます」

◆ 法律変えれば済む問題ではない

 一方で免許を取り消される高齢者の悩みは深刻だ。鳥取大学医学部教授で脳神経疾患や認知症が専門の医師・浦上克哉氏が言う。

「認知機能で『第1分類』と診断された患者さんが私に診断を求めに来た際、『運転を止めたら先生の外来に来られなくなり、さらに認知症が進んでしまう』と訴えられたこともあります」

 浦上氏は、認知症と運転能力は様々な角度から診断し、解決策を講じる必要があると指摘する。

「鳥取県のような地方の人間は、“車を奪われたら生きていけない”というのも決して大げさではありません。専門医として問題だと思うのは、“認知症=運転してはいけない”と乱暴に規定してしまっている現状です。
 例えば軽度のアルツハイマー型認知症なら、それほど運転技術が落ちているわけではない。ただ、1人だけだと道を忘れてしまうかもしれない。仮免許のように、免許を持つ家族などが助手席で補助する場合に限って運転を認めるというような柔軟な運用も検討できる。また、運転免許の更新ができなかった人に対してサポート体制を敷くことなども同時に考えていくべきでしょう」

 法律の文言だけで「ハンドルを握らせるか、握らせないか」を選別するのは簡単だが、その影響を受ける人、責任を負わされる人がいる。高齢ドライバー問題の本質的な解決のためには、そうした現実にも目を向ける必要がありそうだ。


Yahoo ! Japan ニュース、4/18(水)16:00配信
「高齢ドライバーは全員認知症」と診断する医師たちの事情
※週刊ポスト2018年4月27日号
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180418-00000017-pseven-soci

 75歳以上が加入する後期高齢者医療制度の2018〜19年度の保険料が1人当たり平均で月5857円となり、2016〜17年度実績に比べ1.2%(72円)増えることが2018年4月1日までに、厚生労働省の発表でわかりました(表)。4回連続の値上げで、介護保険料の引き上げとともに、高齢者の家計を直撃する負担増です。

◆ 給付削減進む

 後期高齢者医療制度の保険料は、運営主体の各都道府県の広域連合が2年ごとに見直しています。安倍政権は、社会保障改悪の大きな柱として、高齢者に対する医療や介護の負担増と給付削減を進めています。
 今回の値上げは、広域連合が1人当たりの医療給付費(全国平均)を2016〜17年度比8千円増の年87万3千円になると見込んだことや、安倍政権が低所得の人や74歳まで会社員などの被扶養者だったために保険料負担がなかった人の保険料を軽減する特例措置を2017年度から段階的に縮小・廃止していることが主な原因です。

◆ 年金据え置き

 都道府県別では36道府県で上がり、11都府県で下がりました。上昇率が大きかったのは福井(8.9%増)、茨城(8.5%増)、新潟(7.5%増)の順で、低下率が大きかったのは岡山(4.0%減)、愛知(3.2%減)、神奈川(3.0%減)の順でした。
 介護保険料も、政令市など52市区の月平均の基準額が6192円となる(本紙調査)など多くの市区町村で引き上げられます。
 今年度の公的年金額は据え置かれており、このまま医療と介護の負担増を許せば、高齢者世帯の生活悪化に拍車をかけかねない事態です。



保険料.jpg

しんぶん赤旗、2018年4月2日(月)
後期医療保険1.2%増
高齢者の家計直撃 4回連続値上げ
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-04-02/2018040201_04_1.html

 弊社では安全登山 実施の観点から、登山レベル「上級」・「上級(!)」にご参加の皆様の登山経験を事前に把握させていただ くため、当書面のご熟読と必要事項のご記入、ご提出をお願いさせていただております。
 なお、75 歳以上の方は、加えて「中級A(!)」・「中級B(!)」についても対象とさせていただいております。
 昨今のツアー中における怪我や事故の発生状況から対象とさせていただいておりますので、ご理解ご協力をお願いいたします。
 大変お手数をおかけ致しますこと充分承知しておりますが、下欄にご記入頂き、弊社宛にご出発の20日前(20日前を過ぎてからのご予約の場合は速やかに)までに郵送またはFaxまたはEメールにてご返送賜りますよ う、何卒宜しくお願い申し上げます。
。。。

【注意事項(必ずお読みください)】
@ 当コースは登山初心者の方はご遠慮ください。
A 出発当日までにトレーニングを行い、体調を整え体力維持を心がけてください。
B 出発当日までに登山地図・ガイドブック等で、コース内容を認識してください。
C 山行当日は、登山ガイド・当社スタッフ共に皆様が登頂できる様、最大限配慮致しますが、参加者の中に体力・技術不足、装備不足、体調不良の方がいる場合又は天候その他の理由により、該当者本人のみ又は参加者全員の山行の 途中断念を申し上げる場合があります。
D 上記の場合を含み、離団時に発生する費用および万一の事故の際の遭難捜索救助等に要する費用はお客様の負担となります。
 不測の事態に備え、捜索費用付きの傷害保険へのご加入を強くお勧めいたします。
 「保険」は自分を守るための有効な手段です。
 ご加入をお願いいたします。
  ⇒別途、旅行保険申込用紙をご利用ください。
 (山岳登攀[ピッケル・アイゼン等の登山用具を使用する登山]ツア ーでは別途「山岳タイプ」の保険が必要です)

※ 回答内容を拝見し、問題点のある場合は出発日の2週間前までに(それ以降に到着分は到着後数日後)ご連絡させて頂きます。
 尚、問題なしと判断した場合の連絡は割愛させて頂きますのでご了承下さい。


提出対象者:「上級」「上級(!)」は全員必須
「中級A(!)」「中級B(!)」は75歳以上の方のみ
「参加同意書・登山経歴質問書」ご提出のお願い

https://www.club-t.com/theme/sports/aruku/pdf/pdf-equipment.pdf

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五色桜よ 平和の花よ

 女流講談師の宝井琴桜による「五色桜物語」はお聞きいただけましたでしょうか?
 さくら・・・人の世の運命と無縁に、春になると自然に花開く、のは平和だから。
 さくら・・・人の世も人生も、桜のように咲いたと思ったら儚く散っていく定め、
 さくら・・・或いは好戦家によって同期の桜と、戦で散る自分を重ね合わせられ、
 さくら・・・いろんな象徴として仕立て上げられ、人びとの思いが投影してきた、
 そんなさくらを、今一度、江北五色桜のたどった運命を振り返ってみたいのです。

 「江北五色桜」になったのはいったい何時だったのかと申しますと1886(明治19)年!
 当時、熊谷堤と呼ばれていた荒川堤に78品種3225本植えられます、堤改修のあとですね。
 これに尽力を惜しまなかったのが1889(明治22)に初代江北村長になる清水謙吾(1840-1907)。
 1903(明治36)年、三好学博士(植物生理学の第一人者、1861-1939)が、清水謙吾の門下生、
 船津静作(1858-1929)の協力のもと、桜の標本採取に訪れます。

 当時「五色」とは赤(関山)、白(白妙)、黄(欝金)、紫(紫桜)、黒(墨染)を呼ぶようです。
 当時4月21日といえば西新井大師の縁日、これに荒川堤の花見が重なり相当の賑わいがありました。
 迪宮(みちのみや、昭和天皇)、淳宮(あつのみや、秩父宮)、光宮(てるのみや、高松宮)の
 三殿下が来堤したのは、1910(明治43)年のことであります。

 しかしこの年の1910(明治43)年8月浸水家屋27万戸、被災者150万人、死者369名という明治期
 最大の被害をもたらす洪水で荒川堤は消滅、翌1911(明治44)年より河川改修の大工事が始まり、
 この時岩渕水門(これより隅田川とします)、荒川放水路(これがいまの荒川です)ができます。
 完成は1930(昭和5)年で、この工事に青山士が絡んできて、この前の日曜日、岩渕水門と再会!

 ※ヤッホーくんのこのブログ、2013年06月08日付け日記「青山士」をご参照ください!

 五色桜は松本伝太郎の畑、小石川植物園、新宿御苑、東京帝大農場などに分植はされます。
 しかし、この後はこの辺り、公害が発生したり、戦争、敗戦への道を駆け足で走る時期となり、
 敗戦後の貧しいこの国、五色桜も炭となり、ここ江北村から姿を消し、絶滅するのであります。

 アメリカに渡った五色桜がありましたぁ!
 1954(昭和27)年足立区長よりアメリカに1912(明治45)年贈った五色桜の接ぎ穂50本の里帰りを申し出ます。
 アメリカはすぐに行動を起こし、同年1954年3月4日アメリカより11種55本の桜が飛行機で届きました。
 4月4日に足立区は、区役所で桜苗木感謝会を催しました。
 区制20周年にあわせ1954(昭和29)年、堤上に約300本ほど植樹するのです。

 しかし当時は、経済の高度成長期の走りでした。
 1955年から1973年まで日本の実質経済成長率は年平均10%を超えています。
 ということは逆にクルマの排気ガス、ばい煙の公害でせっかく里帰りした五色桜も衰退する一方でした。

 ついに見るに見かねた足立区、区民は1982(昭和57)年の区制50年にあわせ、再度行動を起こすのです。
 3000本の江北桜を、第二回目の里帰りとして、アメリカに申し出ることになります。
 それで1981(昭和56)年に「レーガン桜」が成田空港に着き、1982(昭和57)年11月18日に運ばれ、
 「舎人公園」にて植樹式を開くのです。

 足立区都市農業公園は、と言いますと、その2年後、1984(昭和59)年、地元の区画整理組合が土地を
 提供して、その年の11月10日に、開園式を開くことができた、とこれが流れなんですね〜。
 五色桜も、都市農業公園にも荒川堤にも、そして区内の小学校などに植えられましたし、めでたし、めでたし
 なんですが、
 平和あっての桜咲く、桜散るであること、肝に銘じて、
 今後、これからの未来に向かってすすんでいかなくっちゃ、です!

 ご清聴まことにありがとうございました(拍手)。


[参考@]
五色桜ものがたり
http://www.adachisakura.com/monogatari.html

[参考A]
「わがまち足立」
作詞:橋本完寿郎作曲:團伊玖磨補作詞:團伊玖磨

1番

笑顔 人の和 手をつなごう
あのまち このまち 公園に
五色桜よ 平和の花よ
永久に咲かせる ふるさとは
ああ わがまち この花のもと
ああ ふるさと わが足立

2番

緑はいのち ふれあいの
広場をかざる チューリップ
明るく つよく 伸びやかに
歌声あふれる ふるさとは
ああ わがまち この歌のもと
ああ ふるさと わが足立

3番

輝く未来よ 若人よ
明日への夢を 限りなく
川面はうつす 青い空
高くひろがる ふるさとは
ああ わがまち この空のもと
ああ ふるさと わが足立

足立区公式サイト
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hodo/ku/aramashi/profile/uta.html

[参考B]
足立区区歌「わがまち足立」
https://www.youtube.com/watch?v=mNpwhkQ1Px0&version=3&f=video&app=youtube_gdata

[参考C]
未来へ 〜足立区80年の歩み〜
https://www.youtube.com/watch?v=iPYQ407uaQw


posted by fom_club at 09:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

田辺鶴瑛の「介護講談」

 ところで、ここに紹介するは、今や引っ張りだこの田辺銀冶のお母さま、田辺鶴瑛(かくえい)さん!
 
 心が元気になる講談を―。

 実母、義母の介護経験を持つ講談師の田辺鶴瑛(かくえい)さん(54)は自らの体験を基にした「介護講談」が持ち味だ。
 モットーは「無理しない、面白がることが大事」という“ふまじめ介護”。
 現在も自宅で義父の介護をしながら、全国各地に涙あり笑いありの“介護の本音”を届ける。
 「介護は心を育てる学びの場。きちんと向き合えば介護する側も救われる」と笑顔の介護を呼びかける。

 「軍記物や偉人伝など、日常生活から離れた話が王道」という講談の中で鶴瑛さんの介護講談は異色だ。「一人で完ぺき」を目指した介護の挫折や後悔を語れば、そこから学んだ喜びや発見、鶴瑛流「介護の苦を楽に変えるコツ」も。「きれい事は一切なし。それが自分の値打ち」

 北海道函館市出身。18歳から4年間、脳動脈瘤(りゅう)で入院する実母に付き添い、30代前半で義母の介護を経験した鶴瑛さん。
 義母をみとった1990年の秋、「夢の中に“ヒゲの先生”田辺一鶴(09年12月死去)が現れた」。
 ひょんな縁から一鶴師匠が開く講談師道場に参加した鶴瑛さん。
 「古典の入門を語る師匠の破天荒な話芸に魅了された」と34歳で弟子入り。
 腹式呼吸をしながら張り扇で机をたたき、発表会では評価ももらえる…。
 介護と子育てで心身が疲れていた鶴瑛さんにとって「講談修業は最高のストレス発散だった」。

体験を基に創作

 二ツ目昇進の1994年、営業先で介護体験を生かした講談を依頼された。
 当初は実母と義母の介護体験から「介護する側の大変さ」を語った鶴瑛さん。
 中高年の女性からは「よく言ってくれた」という反応が多く、全国への出前講談も開始した。

 各家庭の介護事情を聞く機会も増え、「介護される本人や介護をサポートする専門家の視点にも興味を持った」と高齢者施設の見学や看護師主催の体験講座に参加。
 「最近の介護を知りたい」と2000年にはホームヘルパー2級の資格を取り、介護施設でのボランティアも経験した。
 今では各地への出前講談は1000カ所以上に。
 「暗い」「介護なんて」と耳をふさいだ多くの男性が「『明日はわが身』で聞いてくれる」と鶴瑛さん。

義父の介護が転機

 「介護をするごとに本音で話せる仲間が増えた。明るく楽しい笑顔の介護を伝えたい」

 2005年の暮れから始まった義父・晋さんの在宅介護は鶴瑛さんの心と話芸を磨く転機に。

 「じいちゃん」と呼ばれる晋さんは認知症で寝たきり、要介護度5―。
 介護講談を通じて「在宅でみとりたい」と考えた鶴瑛さんが家族を説得、夫と娘の3人で24時間の介護体制を組んだ。
 とはいえ、まじめな介護が自らの首を絞めた。
 「腹減った」「助けてくれ」…。昼夜を問わず叫ぶ晋さんに付き合いクタクタになれば、互いの息抜きの時間も争いの種に。
 晋さんの叫び声に起こされた鶴瑛さんが駆け付けると「遅い」と怒鳴られ、思わず手元にあった手ぬぐいでたたいてしまったことも。

介護は“ついで” 「まず自分の人生大事に」

 「介護は最期が大変。5〜10年も続くし、その時頑張ればいい」

 介護講談で出会った看護師の助言で介護の力みが取れた鶴瑛さんは、「まずは自分の人生が大事。介護はついで」と考えるように。
 今では1日3回のホームヘルパーをはじめ、入浴サービスや訪問看護も利用。
 間食用のパンを食べさせたり、話し相手になったりと家族で担う介護でも「大変な時は逃げ、無理しない」が信条。
 晋さんの体をかく時は「手のひらを太陽に」の節を一緒に歌い、「♪生きているからかゆいんだ」と笑う。

罪滅ぼしの時間

 「じいちゃんも、自分自身が認知症を受け入れられず苦しんでいた」と回想する鶴瑛さん。
 しかし、「ありがとう」と感謝の言葉を繰り返す今の晋さんから「人間の喜びや幸せはこういうものだと学んだ」。
 ノリのいい晋さんの反応を楽しみながら「次は何をしてあげようかな」とほほ笑む。

 「介護は罪滅ぼしの時間。今までの親子や夫婦関係を修復するために生まれる」

 鶴瑛さんは介護という時間を、介護される人が残される家族に与える家族再生の好機だと考える。
 家族の不協和音が出やすい領域と指摘しながらも、「できる形で介護にかかわることで、介護する側が満足するし、救われる」と。
 実際、ばらばらだったという鶴瑛さん一家の老後の価値観も、「じいちゃんに救われた。家族のきずなが盤石になり、たくましくなった」。
 また、自分の老いを受け入れる機会になったとも。

 鶴瑛さん自身、将来の“ふまじめ介護”をできる範囲で娘に託したという。

 「自分が老いた時、じいちゃんのように感謝の言葉を言えるのか、文句だけ叫ぶのか今から楽しみ」


[写真]
寄席では古典作品、営業先では介護講談が多いという鶴瑛さん。「呼んでもらえれば全国どこでも出前講談に行きます」

定年時代・東京版、2010(平成22)年1月下旬号
「介護講談」 本音を笑顔で
講談師/田辺鶴瑛さん

http://www.teinenjidai.com/tokyo/h22/01_2/index.html


映画『田辺鶴瑛の「介護講談」』予告編
https://www.youtube.com/watch?time_continue=31&v=dR5Lf9dCMfE

映画『田辺鶴瑛の「介護講談」』公開収録時のご感想
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=jibvAow8UGI

公式サイト:
http://kaigo-kodan-movie.net/

 田辺鶴瑛さん(54)は、現在、介護度5で寝たきり、認知症の義父を自宅介護中だ。
 10〜20代で実母を、30代で義母を介護し見送った経験があり、3度目の介護。
 「不まじめな介護を楽しんでいる」と言う。
 その体験を語る「介護講談」も人気を呼んでいる。
 どんな思いで、どんな介護を------? 田辺さんに聞いた。

嚙み合わない楽しい会話

 東京・杉並区の住宅街の一角にある田辺さんの家を訪ねた。
 1階の6畳間のベッドに「じいちゃん」の晋さん(90)が寝ている。
 「こんにちは」と挨拶した取材者に、晋さんは動かぬ体ながら「誰だい?」とにっこり。
 「じいちゃんのこと、話聞きたいって、お客さんだよ」と田辺さんが言えば、「そうかいそうかいそうかいそうかい」「かゆいかゆいかゆいかゆい」と顔をしかめる。
 「そりゃあ大変だ。かいたげっからね」と田辺さんは、晋さんの背中をごしごしかき始めたかと思うと、「手のひらを太陽に」の節で歌い出した。
 「じいちゃんは今、生〜きている。生き〜ているからかゆいんだ・・・」
 次第に、晋さんも一緒に歌おうと口をもぐもぐさせる。

「ね、じいちゃん、死んだらどうなる?」
「かゆくない」
「そうだそうだ。死〜んでしまったらかゆくない〜。気持ちいいかい?」
「ああ〜気持ちいい〜、ああ〜ああ〜ん(と気持ちよさそうに、晋さん叫ぶ)」
「でさぁ、晋さん今いくつ?」
「28」
「私は?」
「26だろ」
「晋さん、大学生?」
「違う違う。会社行ってるの」
「どこの会社?」
「○○○○」
「そっか〜。その○○○○が倒産したんだって。さっき、会社の人が来て、会社を立て直すから50万円寄付してくださいって」
「え〜? 本当かい? バカなこと言ってんじゃないって言ってやりな」
「泣いて頼んでるよ。じいちゃんだけが頼りなんだって」
「うちは、そんなに金持ちじゃないって、言ってやりな」
「分かった。言ってくる」
「頼んだぞ〜」
「任せときなって。んじゃ、言ってくるね」

 田辺さんと晋さんの丁々発止を、さっそく見せてもらった。

無理せず、得意分野のみの介護

---- 晋さん、にこやかですね。いつも、ああいう会話をしてらっしゃるんですか?

 そうですよ。ああやってじいちゃんをからかうのが、私の仕事(笑)。私のことを、時には妻だと思ったり、従姉妹と思ったり、愛人と思ったり。自分も、学生になったり、勤め人になったりするじいちゃん。この前なんか、「天国に行ったら、閻魔大王がいて、雷のように怖いんだけど、にこ〜っとすると素晴らしい笑顔なんだ。天国では英語と日本語がチャンポンでグッバーイ、サンキューベリーマッチって言うんだ」って教えてくれましたよ。

----「何、言ってるのよ」と、間違いを正したりしないところがすごいですね。

 認知症の人には、ウソも方便(笑)。じいちゃんは、まだらボケ。昨日は、「大学の授業がつまらないから、やめるって言っといてくれ」って言うから、「やめると、50万円違約金をとるんだって」って言ったの。そしたら、「それなら(大学は)金儲けじゃないか」って言う。「そうだよ、金儲けでやってるんだって」と言ってみたら、「しょうがないな。金が欲しくて、仕事しちゃダメなんだ。いい仕事をしたら、金は後からついてくるんだ」ですって。

---- スイッチ次第で、いい話が聞けるんですね。

 いい加減なものですけどね(笑)。じいちゃんと話すのは楽しいです。介護は「不まじめ」にやるくらいで、ちょうどいい。うちの介護のスタンスは、「自分の人生を大事にしながら、そのついでに介護する」。大いに「不まじめ」にやっていますよ。

----「不まじめ」な介護? たとえば?

 1日3回、朝と昼に1時間ずつ、夕方は30分ヘルパーさんに来てもらって、体の清拭やおむつ交換、食事など基本の世話をやってもらっているのですが、その間はすべてヘルパーさんにお任せして、私は買い物に出たり。自分の苦手なことはしないんですね。
 私は料理があまり得意でないので、手をかけない。じいちゃんのご飯はいつも同じで、朝はパンと牛乳、昼と夜はおかゆ。おかゆは鰻を煮込んだり、鰯の角煮を煮込んだりしますが、そのたびに作るのは面倒なので、1回で何食分かを作り、小分けにして冷凍。毎食ごとに、ヘルパーさんに電子レンジでチンしてもらっています。あとは、缶詰に入った病人用の高カロリー飲み物を1日3缶。

---- なるほど。無理しないで、ご自分の暮らしを犠牲にしない中での介護というわけですね。イラッとすることはないですか?

 たまにあります。月に3、4回、夜中に大声で起こされる時。じいちゃんの隣の部屋で私は寝ているのですが、夜中の2時や3時に「腹減ったよ〜腹減ったよ〜!」と言い続けられると「この野郎」と思いますよ(笑)。そんな時はバナナをギューと口に押し込むの。すると「うまいな」って食べてくれる。

最初は大変。思わず叩いてしまったことも

---- 失礼ですが、楽しそうですね。介護する側・される側の関係は、最初から良好だったんですか。

 今は楽しいですが、4年前、じいちゃんを自宅介護するようになった最初の半年間は悲惨でした。とりわけ、介護保険を実際に受けられるようになるまでの最初の1ヶ月くらいは、もう大変で大変で……。
 夫と娘との3人で、介護のローテーションを組んだのですが、平日は私と娘が予定をやりくりして交代で、勤めていた夫は日曜日が当番。お互いに自分の時間を制限しての介護だったので、ストレスがたまる。自分よりもだれかが多少でも自由にしていると癪に障り、ケンカが絶えなかったです。
 あの頃、じいちゃんも、30分毎に、大声で「助けてくれ〜」と叫ぶし、気に食わないことがあると「バカヤロ〜」「このヤロ〜」って怒鳴り散らしてた。しばらく仕事なんてまったく手につかなかったばかりか、病んでるじいちゃんと一緒にいると、こちらも病んでくるんです。
 腹が立って、夜中に思わず手ぬぐいでじいちゃんを叩いてしまったことだってありました。ものすごい罪悪感にさいなまれて、知り合いのお坊さんに打ち明けると、「人間は誰だって、あなたと同じ立場になったらそうするよ」と言われ、次第に「もっと肩の力を抜いて介護していいんだ」と思うようになったんですね。

---- 田辺さんは、昔からお義父さんと仲が良かったのですか?

 とんでもない。私は「長男の嫁」。建築家だったじいちゃんは、外では社交性があったのに、家の中では、自室に籠って競馬新聞とラジオの株情報にかじりついていた。若い頃は、家庭を顧みなかったようだし、男尊女卑で、私には“天敵”のような人でした。
 私たち夫婦は結婚後、じいちゃんたちと別居していましたが、5年後に義母の介護が必要になって同居。当時じいちゃんは元気で、4年ほど一緒に暮らし、その後「愛人」のところにいました。そして今回、約4年前に、うちに戻ってきた。決して仲がよかったわけじゃないんです。

---- えっ、愛人? 事情をもう少し教えてください。

 義母が亡くなったのが20年前です。じいちゃんは、しばらく仏壇を拝んでばかりいましたが、3年後に70歳で高齢者のお見合いの会に入って、69回お見合いをして、相手を見つけた。「俺はまだ終わっていない。お前らなんかにはかなわないだろう」って強気でしたね。そして、相手の家に引っ越して行って、14年間そちらに住んでいたんです。
 ところが、2005年の夏、じいちゃんから「今日、白内障の手術で入院するから、病院に来てくれ」と電話がかかってきて、病院に行ったら、じいちゃんはいたけど、手術の予定も入院の予定もなかった。「おかしいな」と思った予感は的中。「全財産をなくした」とか「通帳と印鑑を落とした」とか、わけの分からない電話が増えました。同居の「愛人」が根をあげ、「引き取るか、施設に入れてください」と言ってきました。
 2006年の1月に連れ戻しに行って、「帰る」「帰らない」ですったもんだがあって救急車で迎えに行き、紆余曲折の末、我が家へ連れて帰ってきたんですね。でも、その頃じいちゃんはまだ歩けたから、「愛人」の家に戻ってしまった。その後、脳梗塞になり、やっと連れ戻したのです。

----「天敵」だった人を、自宅で介護しようと思ったのは、なぜだったんですか。

 じいちゃんは、高度経済成長時代になんでも乗り越えた人だから、弱い立場の人の気持ちや痛みなんかが、あまり分からないタイプ。「俺たちの時代はよかった」と自慢話ばかりでした。
 そういうタイプを、当時の私は「立ててあげる」なんてこと、しなかったから、じいちゃんはつまらなかった、寂しかった。だから、「愛人」のところへ行ったんだろうと思うようになっていたんです。私がもっと賢く接してあげるべきだった。かわいそうなことをさせたという負い目があった。
 それに、「人は、自宅で死ぬほうが幸せではないか」という思いもあったんですね。実母と義母を介護して病院で見送った経験と、ひょんなことから「介護講談」をするようになり、ヘルパー2級の資格をとって介護ボランティアをしたり、知り合った医師や看護師らと話した体験からの思いです。賛否両論あるでしょうが、病院の治療で命を長引かせられるのは、幸せなこととは思えない、と。もう一度だれかを介護する機会があれば、自宅で看取りたいと思っていたんですね。

必死だった二度の介護

---- 実母さんと義母さんを介護した経緯と経験。聞いていいですか。まず、実母さんの介護はどんなふうに?

 実母の介護は、私が北海道から上京して予備校通いの浪人生だった18歳の時に始まりました。母が脳腫瘍で倒れたと連絡がきて、大慌てで札幌に帰り、付き添った最初の2週間は、同じことを何度も聞く母に「死んじまえ」って怒鳴ってしまったこともあった。手術で頭を開けてみたら脳動脈瘤で、専門医が改めて手術をすることになり、ひとまず頭を閉じたその夜、痙攣を起こして母は42歳でいわゆる植物人間の状態になったんですね。私は「死んじまえ」と言った自分を責め続けました。
 病院の母のベッドの横に布団を敷き、泊まり込んで介護しました。うちはちょっと複雑で、父は本妻のいる人だったので、ひとりっ子の責任感だったと思いますよ。私は毎日、植物人間となった母親の体を拭き、おむつを換え、点滴のようにして流動食を食べさせ、時には車いすで外につれていき……。

---- 青春まっ盛りの時に。

 「なんで私だけこんな目に遭わなければいけないんだろう」と不平不満はあったけど、母がかわいそうで、捨てるということは考えなかったですね。「家族が介護するのが美しい」「付き添いさんに預けるのはよくない」という時代。母の介護は私の宿命と思って、この先30年介護が続くかもしれないけど、全うしようと思っていました。
 周りには、若い娘が青春を棒に振っていると見えたみたい。当時の看護婦さんから「自分の人生も考えなさい」、父から「手に職をつけなさい」って言われて、ガックリでした。
 4年半介護し、私が23歳の時に母は46歳で亡くなりました。「やれやれ終わった」という解放感と、反面、虚脱感で心に穴があいたような状態になりましたね。
その後、田辺さんは、母の介護中に心の支えとしていた横尾忠則の本の影響を受け、インド放浪の旅に出る。帰国後、大道芸人・ギリヤーク尼崎や、彫刻家・草間弥生の影響を受けたり、劇団に入団したり、「自分探しの旅」を続ける中、26歳で結婚。27歳で出産。「造形作品をつくりながら、子育てを楽しむ」生活を送る。

---- 義母さんの介護をされたのは?

 結婚して5年目。31歳からです。義母は腎不全で、3年間、人工透析を受けながら、入退院を繰り返しました。結婚する前に、夫から「お袋は体が弱いので、いずれ介護が必要になる」と聞いていたので、イヤだという気持ちはまったくなかったんですが、実際に始まると大変でした。
 手のかかる4歳の娘がいるのに、同居した夫の実家(その後の住まい)には、独身だった夫の弟も住んでいて、私は皆の面倒を見なくてはならなくなった。今から思えば、すべて自分でやって「いい嫁」に見られたい-----の思いが強すぎたんですね。

---- 一生懸命に世話をしすぎた?

 そう。玄米がいいと聞けば、ひたすら玄米ご飯を炊き、「玄米ご飯なんか食べたくない」と言われても押し付けたし、桜の花が咲けば、義母に「見に行きましょう。きれいですよ」と、車いすを押して無理やり公園に連れ出したし。相手を変えよう、治そうとしたことが大間違いでしたね。こちらが「よかれ」と思ってやったことを義母が喜ばないと腹が立って、夫に八つ当たりばかりしていました。
 義母は、肺炎で自呼吸ができなくなって人工呼吸器を3回入れました。2回目に入れる時、「いいことも悪いこともあったが、もう十分に生きたし、満足している。機械は苦しいので、入れないでほしい」と言ったんです。なのに、私は「何を馬鹿なことを言ってるのよ。先生も一生懸命やってくれてるんだし、機械を入れないのは、死ぬということなんだ。もったいないこと言うな。頑張れ」と励ました。
 間違いだったと思います。義母はその1ヶ月後に亡くなったんですね。あれは延命にしか過ぎなかった。本人が「もういい」と言った時で十分だった……。義母に申しわけなかったという気持ちが今も残っています。
1990年、義母が亡くなり、田辺さんは疲労感に包まれる。しかし、その年の9月に、夢の中に講談師、故田辺一鶴師匠が現れたことをきっかけに弟子入りし、講談の世界に入る。

「介護漫談」のための勉強、じいちゃんも私も変わった

---- さきほどおっしゃった「介護講談」というのは?

 1994年に二つ目に昇進したんですが、なかなか仕事のお声がかからず、異業種交流会や勉強会などに顔を出しては、「講談師です。よろしく」と名刺を配って営業していたんです。そのノリで、池袋の男女平等推進センターエポック10で開かれた「男の介護教室」に参加した時に、ラッキーなことに同館の副館長から「介護講談を」と依頼されたのがきっかけです。
 講談は「軍記物」や「歴史物」などが中心の男性のもの。最初、家庭のつらい話をするなんてありえないと思ったのですが、女の私だからできるものをやりたいとの思いもずっとあったので、思い切ってお受けすることにしたんです。
 最初の介護講談では、実母と義母の介護の話をしました。聞いた女性からは「よくぞ介護の大変さを言ってくれた」と言われましたが、男性からは「暗い」と不評でしたね。でも、地域の老人会などからお声がかかるようになり、介護講談のネタの引き出しを増やし、話の幅を広げるために、医療側や介護されている側のことを勉強したいと、前向きな介護をやっている施設を片っ端から見学に行ったんです。看護師の朝倉義子さん主宰の「ZIZIBABA体験」の合宿にも参加しました。

---- ZIZIBABA体験とは?

 介護される当事者体験です。おむつをしたり、ガムテープをぐるぐる巻いて半身マヒになったり。私は車いすで美術館に行った時に、受付の人の冷たい視線を感じたし、鼻にチューブを入れた時も大変でした。
 参加者に現役の看護師さんが何人かいたので、その人たちが普段仕事でしているのと同じように私の鼻にチューブを入れようとしてくれたのですが、うまくいかず、私は痛くてたまらなかった。ところが、朝倉さんが「これから(チューブを)入れますが、痛いですよ。途中、鼻の奥と喉の奥に詰まるところがあるので、そこでゴックンしてください」と言い、私がそのようにすると、す〜っと入りました。介護の現場で一番大切なのは信頼関係だと身をもって体験しましたね。
 それに、以前は、点滴の時、患者が針を抜かないように縛ることがありましたよね。あれをやると、当事者はものすごい屈辱感を感じて、怒る。しかし、いくら怒っても無駄だとなると諦める。諦めると、いろんな感覚がなくなり、何をされても痛くも痒くもなくなっていく。それは大変なことなんだ、と。

---- そんな時に、いいタイミングで、晋さんがやってきた!

 そうですね。ZIZIBABA体験や、医師や看護師と話した経験は、じいちゃんの介護に役立っていると思います。
 もっとも、じいちゃんがうちに来て、大騒ぎしていた頃、実際のところ一番知りたいのは「どれほどもつか」ということなわけですよ。ストレートに聞けないから、「じいちゃんは長生きできますよね?」と医師に聞くと、「もって1年半かな」という返事だったので、それくらいの期間なら、楽勝かと(笑)。ところが、いつ死ぬかいつ死ぬかって思って見ていたのに、なかなか死ななくて。
 看護師の朝倉さんが様子を見に来てくれた時に聞くと、「5年10年もちそうよ」って。信じたくないと思ったけど、その時に彼女が「とにかく介護は長く続くので、頑張ってたらもたないよ。死ぬ前の1ヶカ月だけ頑張ればいい。それまでは、それぞれの人生を大切にして、ついでに介護しなさい」って言われて、そうだ、頑張らなくっていいんだと、す〜っと楽になった。

---- 仕事との両立も、大変だったでしょう?

 講談の練習は、じいちゃんの部屋の隣の自室でするんですが、お腹の底から声を出して「三方ケ原軍記を一席申し上げます……」ってやっていると、突然「腹減ったよ。助けてくれ〜」ってじいちゃんの大声が聞こえてくるの。最初のうちは集中できず、いちいちじいちゃんの世話をしに行って大変でしたけど、そのうち、あれは元気な証拠。少しくらい放っておいても大丈夫だと分かってきたんですね。
 だから、今じゃ、じいちゃんの大声も全然平気。世間体をまったく気にしないし。手を抜いていいところ、抜いてはいけないところの判断ができるようになって、じいちゃんと私たち、「不まじめ」ないい関係に……。じいちゃんに感謝しているんですよ。

----- 感謝、ですか?

 ええ。「このやろ〜」って怒ってばかりだったじいちゃんが、1年、2年と介護を続けていくうちに、目薬をつけてあげても、おむつを替えてあげても「ありがとう」と言ってくれるようになった。牛乳とパン、おかゆにも「ありがとう。すごくおいしい」って。ありがとうと言われるたびに、「こちらこそありがとう」と感謝したい気持ちになるんです。思わず「もっとサービスしちゃおうかな」なんて。
 全ての人におすすめというわけではないですが、私にとって、自宅介護は「人間は老いて死んで行くのだ」ということを存分に学べる場であると共に「感謝」の心をもらえる場だと思います。


2009年10月インタビュー text 井上理津子

ふらっと人権情報センター
高齢者問題を考える
寝たきりじいちゃんを「不まじめ介護」
講談師 田辺鶴瑛
http://www.jinken.ne.jp/aged/tanabe/index.html


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五色桜物語

おそれ入谷の鬼子母神。
びっくり下谷の広徳寺。

ぜひ、お聴きくださいませ、講談を。
しかも女性講談師による五色桜物語。

「足立区立郷土博物館」で熱く語る!
http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/

女流講談師宝井琴桜・五色桜物語(新作初演)
https://www.youtube.com/watch?v=WzQgEDA5zJI

 東京・明治から昭和初め、江北荒川土手にあった足立の五色桜、その発祥由来を新作講談「五色桜物語」にした講談師宝井琴桜さんの初演です。
 2010年4月2日に撮影。映像は68分を28分に短縮編集したものです。音声装置が不調で、ハリセンの音が大きく入ります。音量に注意して下い。
 宝井琴桜(きんおう、1949年生まれ)さんは1975年に女性初の真打昇進になりました。


http://www.geocities.jp/kinbaikinou/

ところでイマ、講談師は男性より女性が多いって:

「講談師、冬は義士、夏はおばけで飯を食い」──講談の世界でよくそう言われるように、講談は四季を通じて楽しめる伝統芸能だ。講談は宝永年間、五代将軍徳川綱吉の時代に常設小屋で上演され、講釈と呼ばれるようになり、江戸末期から明治時代にかけて全盛期を迎えた。

◆ 軍記、お家騒動、怪談、任侠……演目は多彩

 その時代、講談からは、大岡越前、柳生十兵衛、清水次郎長など多くのスターが生まれた。テレビドラマでお馴染みの『水戸黄門』は、幕末の講談『水戸黄門漫遊記』を明治時代に大阪の講談師、玉田玉智が「助さん角さん」のスタイルに作り直して誕生した。

「講談の面白さは、日本語のリズムの心地良さです」

 こう語るのは、長い口髭で有名な故・田辺一鶴(1929-2009)を師匠とする田辺銀冶だ。持ちネタは長州ファイブの冒険を描く『英國密航』、新作の『連続講談・古事記伝』など約100席ほどある。

 講談の演目ジャンルは軍記物、御記録物、世話物と大きく3つに分けられる。軍記物は合戦の話で『三方ケ原戦記』が代表的だ。御記録物は『赤穂義士伝』など、世話物は幅が広く、怪談、侠客に加え、『宮本武蔵』などの武芸も含まれる。

 ネタは史実に基づいて構成されており話は長く、元来は何日もかけて演じられたが、現在は一場面だけ抜き出して上演するのが一般的。一方、一席で完結する端物や、講談師が創る新作もある。前述の田辺一鶴は、新作『東京オリンピック』で一躍有名になった。

 講談師は、舞台に出ると小さな机である釈台の前に座り、張り扇(はり おうぎ、はり せん)を右手に持ってストーリーテラーに徹する。釈台があるのは昔、台本を置いていた名残。ト書、つまり説明文で物語を進行するので、講談は「演ずる」のではなく「読む」と表現される。

 一席は20〜30分程度。声の強弱と早い調子でたたみかけ、張り扇で釈台をパパンッと叩きながら物語を盛り上げる。特に戦いの場面では「修羅場読み」と言われる調子で情景をリアルに想像させる。

◆ 真打ちまで約15年 近年は女性講談師が増加

 講談は芸の世界ゆえに厳しい社会でもある。前座見習い3ヶ月、前座4年、二ツ目10年、その後、講談協会の審査を得て、真打ちになる。常設の寄席である定席では、二ツ目が一番気を遣う。前座と演目がかぶってはいけないし、トリに師匠がいる場合、義士伝や怪談など大ネタを掛けることはできない。「ネタをその場で探す力が求められる」と銀冶は語る。

 長く男性話芸だったが、現在は女性講談師が男性より多い。女性に合った演目が作られ、女性客が増えるなど、講談界も様変わりしてきている。


[写真]
講談師の田辺銀冶。母親も講談師という

週刊ポスト、2017年9月15日号
日本語リズム心地よい講談、今や女性講談師が男性より多数に
(取材・文/佐藤俊)
http://www.news-postseven.com/archives/20170905_609657.html

https://www.youtube.com/watch?v=UEFO_exSNYI

 昭和の香りがぷんぷんする浅草・伝法院の裏手にある劇場「木馬亭」で、釈台を張り扇(はりおおぎ)で小気味よく「パン、パパン」と叩く音が響いた。田辺銀冶(34)の一人会「熱間鍛銀」だ。
 2017年4月21日に開催された演目は「一本刀土俵入」。歌舞伎の中村吉右衛門(72)の舞台を見た銀冶は、作家・長谷川伸原作の戯曲を講談に仕立て上げ披露した。

「ネタおろしなんで緊張しました、吉右衛門さんの歌舞伎の舞台を見て感動しました。いつかやってみたいと思ってました」

 修羅場もバッチリ決まり、観客の拍手を浴びて笑顔をみせた。
 実は銀冶は週刊誌の「FLASH」のグラビアを飾った経験もある美人。二つ目に上がって6年、講談の勉強の場とネタおろしの一人会を開催しなければならないが「ぼーっとしていたら会場なくなった」とあっけらかんだ。
 講談師は全国に約80人、半数以上が女性だという。着物に日本髪、釈台をパンパンたたきながら物語を語る姿に引き込まれるファンは多い。

 テレビや舞台に引っ張りだこの若手も登場してきた。
 その1人が同じ二つ目の神田松之丞(33)。
 銀冶は
「松之丞さんは、すごくやる気があるんです、尊敬しています。講談師は人数が少ないのでチャンスはいっぱいあります。彼のおかげで講談の人気が上がって、新しいお客さんも増えていてうれしいです。私も負けていられない。頑張ります」と語った。

 2020年の東京五輪を意識し、スポーツものを語る講談の会「伍輪者」(ゴリンジャー)で共演している女流・一龍斎貞鏡(31)は最近、日本テレビの「笑点」に出演。「若手大喜利」で落語家に混じって司会の三遊亭円楽(67)と堂々と渡り合った。

 「ぼーっとしてると、すぐババアになってしまいそうなんで」と銀冶。

 「鉄は熱いうちに打てっていうじゃないですか、私も『銀』なんで、やっぱり熱いうちに鍛えないと」

 銀冶の現在の師匠は母で講談師の田辺鶴瑛だ。
 ゴールデンウィークの5月6日には「浅草木馬亭」で「母娘会」で共演、二人が舞台で口演するステレオ講談「唐糸草子」も披露する。
 伝統の話芸、講談の新しい流れを見逃す手はない。


スポーツ報知、2017年4月25日11時0分
いま美人講談師・田辺銀冶がおもしろい!…「FLASH」グラビア飾ったことも
http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170425-OHT1T50033.html

このお方、田辺銀冶の辻講釈もぜひお聴きくださいませ。
ところは、JR総武線両国駅下りてすぐ「江戸のれん街」!
時は昨年2017年の盛夏、夏真っ盛りのころでございます。

田辺銀冶「爆裂お玉 三泥棒出会い」
https://www.youtube.com/watch?v=oRp6R2vO05c


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レイプ疑惑対応巡り、ノーベル賞機関の事務局長が辞意

What, exactly, is the Swedish Academy? Or rather – what was it?

Until 12 April, the academy, which chooses the winners of the Nobel prize for literature, was a royal academy founded in 1786 by the so-called “theatre king”, Gustav III.

But after its head, the permanent secretary Sara Danius, was ousted that day, and with only 11 of its 18 members left, the institution has nearly ceased to exist, brought down by allegations of sexual abuse, in-fighting and subterfuge. It is almost Shakespearean.

An editorial in Dagens Nyheter, the biggest-selling Swedish daily paper, compared the tragedy in the country’s most prestigious cultural organ with the final scenes of Hamlet.

Unscrupulous duels with poisonous swords, poison-smeared goblets, everyone dies. Perhaps Fortinbras will march on stage – disguised as the current Swedish king, Carl XVI Gustaf – to deliver the final lines that look to a hopeful future. What has happened in the normally peaceful kingdom of Sweden?

It started with a number of women who came forward to a Dagens Nyheter reporter, Matilda Gustavsson, last November. They spoke of harassment and sexual abuse, allegedly committed by Jean-Claude Arnault, the husband of academy member Katarina Frostenson. In some cases, the abuse was said to have taken place in apartments belonging to the academy. Arnault’s strategy, the women claimed, had been to use his close relationship with the institution, which also funded a club called the Forum that he co-owns with Frostenson. He denies all the allegations.

Dagens Nyheter’s coverage shook Sweden’s cultural world. State prosecutors opened an investigation, and they say that, while some allegations are not being considered because of Sweden’s statute of limitations or lack of evidence, the investigation is ongoing. The academy hired a law firm to investigate its links to Arnault (who is referred to as “the cultural profile” in Swedish media).

The maelstrom has hurt not only the Swedish Academy, but also the only thing that really gives the organisation its glory: the Nobel prize for literature.

The academy’s investigators reportedly said that “the cultural profile” had leaked the names of seven prize-winners – something Arnault’s lawyers have denied. In a blunt statement, the Swedish Nobel Foundation wiped away any remaining confidence in the academy, saying it had been “seriously damaged” and raising concerns that the prize’s reputation may be tarnished.

The law firm’s investigation also allegedly recommended that the Swedish Academy should file a police report to allow the authorities to investigate suspicions of financial irregularities, but the institution has reportedly refused to do so, revealing splits within the committee.

Danius announced she was leaving, following several members who had already gone. A remaining academician called some of them “sore losers”.

Members of the Swedish Academy were once referred to as “the 18 best and brightest” – mirroring the popular belief that they represented the highest standards among poets, writers and intellectuals. Today, there are only 11 left and public support for Danius is huge, while confidence in the remaining members is at rock bottom. It seems a dark and cruel irony that a man has been accused of sexual misconduct, but a woman has taken the fall.

What now? Ironically, the only remaining hope seems to be that the Swedish king will enter the stage like a deus ex machina. He has already made his intentions clear: to change the academy’s statutes so that members can resign properly if they wish to do so.

At the moment, the only possible ways out are exclusion or death.

Such a change would been seen as severe punishment. The academy’s lifelong membership has enabled some to maintain a mythologised self-image. They have been able to say and do anything without repercussion. If the king removes their status, the magic surrounding the demi-gods of Parnassus would disappear and they would be transformed into the flawed and mortal members of a dull committee.

What happened on 12 April is of historic importance. The origin of this collapse is the women’s allegations of sexual misconduct, with echoes of the New York Times revelations about Harvey Weinstein which launched the #MeToo movement. Their allegations have brought one of the world’s most renowned cultural institutions to ruin.

The disenchantment, today, is total.


[photo]
Jean-Claude Arnault, with his wife, Swedish Academy member Katarina Frostenson.

The Guardian, Published: Sun 15 Apr 2018 07.00 BST
Scandal in Sweden: Nobel prize for literature faces #MeToo moment

As female head of Swedish Academy takes the fall for a scandal-hit man, the institution is left in ruins

By Björn Wiman, culture editor of the Swedish newspaper Dagens Nyheterhttps://www.theguardian.com/world/2018/apr/15/sweden-metoo-moment-nobel-prize-literature-swedish-academy-scandal

STOCKHOLM − The first woman to lead the body that awards the Nobel Prize in Literature was forced out on Thursday, a stunning casualty in a sexual abuse and harassment scandal that has threatened to sully one of the world’s most acclaimed cultural honors.

Since 2015, Sara Danius, a literary scholar and the first woman to lead the body, had been the permanent secretary of the Swedish Academy, which was created in 1786 and has awarded the Nobel Prize in Literature since 1901. She was ousted on Thursday from her role as permanent secretary − the de facto public face of the literature prize − as part of a feud that has bitterly divided the academy’s board.

“It has already affected the Nobel Prize quite severely, and that is a big problem,” an emotional Ms. Danius told reporters Thursday evening, accompanied by an ally, the author Sara Stridsberg, who has also threatened to quit.

The scandal has reached the highest levels of the government. “It’s up to the academy to restore faith and respect,” the prime minister, Stefan Lofven, told reporters on Thursday. “It’s a very important issue for Sweden, and therefore it is important that this institution works.”

The academy has been caught up in the matter since November, when the newspaper Dagens Nyheter reported that at least 18 women had accused Jean-Claude Arnault, a major cultural figure, of sexual assault and harassment.

Mr. Arnault is married to the poet Katarina Frostenson, a member of the academy, and together they run a private cultural club, called the Forum, that has received money from the academy.

The newspaper reported that Mr. Arnault had been accused of mistreating women at the club and at academy-owned properties in Stockholm and Paris over 20 years. It also reported that Mr. Arnault had leaked information about the winner of the prize seven times since 1996.

The Swedish police are looking into the abuse allegations; Mr. Arnault has denied any wrongdoing. His wife agreed on Thursday to withdraw from the academy’s activities.

In the wake of the allegations, Ms. Danius, 56, cut the academy’s ties with Mr. Arnault, and hired a law firm to conduct an investigation into its ties with the private club. The law firm found what it called financial irregularities in that relationship, and recommended that the academy file a police report, but the academy did not take such action.

The divisions within the august body, which is usually known more for literary prestige than for scandal-driven acrimony, erupted into the open last week when three members quit in protest, including Peter Englund, Ms. Danius’s predecessor as permanent secretary.

On the other side are two former permanent secretaries, Sture Allen and Horace Engdahl, who have made lacerating statements in recent days, calling the reaction to the allegations overblown and denouncing Ms. Danius as a weak leader.

Asked how the members would restore the academy’s reputation, one member, the writer Anders Olsson, said: “We don’t know. But we have to talk to one another much more.”

Complicating matters, there is no provision for the 18 members of the academy to officially resign. Members are elected to life terms, and if they choose to stop participating in the activities of the academy, their seat is left vacant until death.

Even before the scandal, two seats were occupied by inactive members. With the five recent departures, including that of Ms. Danius, the academy will be down to 11 active members − one short of the 12-member quorum needed to elect new members in the event of a vacancy. King Carl XVI Gustaf signaled this week that he would resolve the problem by using his authority to amend the academy’s rules to allow members to resign and be replaced.

In an interview, Bjorn Wiman, culture editor at Dagens Nyheter, said of the scandal: “This is a complete and utter tragedy for cultural life in Sweden.” He added, “The public’s trust for the academy is perhaps below rock bottom.”

“There has always been the consensus that this has been a competent group and that they have judgment, and that the literary judgment is solid,” Mr. Wiman added. “With this scandal you cannot possibly say that this group of people has any kind of solid judgment.”

Ebba Witt-Brattstrom, a professor of Nordic literature at the University of Helsinki, said in an interview that the ouster of Ms. Danius represented a backlash by men.

“What they did was orchestrate a palace revolution, a coup to get rid of her, because she’s too headstrong,” she said. “A headstrong woman is not what they are used to in the Swedish Academy.”

She cited, as an example, the novelist Kerstin Ekman, who stopped taking part in the academy’s work in 1989 in protest over what she called a failure to adequately speak up for the writer Salman Rushdie, who faced death threats.

“Sara Danius really tried to open up and, in a way, to renew the Academy,” said Professor Witt-Brattstrom, who used to be married to Mr. Engdahl. “She made some very good initiatives. She should have had a few more years.”

Svetlana Alexievich, who was awarded the prize in 2015, told the newspaper Svenska Dagbladet, “Those who have broken the rules should be scrutinized.” She said she had learned from Dostoyevsky “that human beings are unreliable creatures, so laws and rules are needed to ensure that this does not repeat itself.”


[photo]
Sara Danius, left, after leaving the Swedish Academy on Thursday. The scandal that prompted her ouster “has already affected the Nobel Prize quite severely,” she said.

The New York Times, Published: APRIL 12, 2018
In Nobel Scandal, a Man Is Accused of Sexual Misconduct. A Woman Takes the Fall.
By CHRISTINA ANDERSON
https://www.nytimes.com/2018/04/12/world/europe/sara-danius-swedish-nobel-scandal.html


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2018年04月16日

財務省が被害女性に名乗り出ろ、と!

セクハラを否定した福田事務次官。麻生大臣は12日、「十分な反省があった」と言っていた。つまり、セクハラしていないのに、組織のトップが「十分に反省している」と言ったことになる。これって、部下だろうが、上長にブチ切れる場面。なぜ福田は麻生を批判しないのか。セクハラしていたからだろうか。
4:43 - 2018年4月16日、武田砂鉄

財務省福田淳一事務次官は「女性が接客しているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」といったらしいが、どんな職業のどんな人間に対しても、等しくセクシャル・ハラスメントは許されないんだよ。
4:07 - 2018年4月16日、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ

わたし大学でハラスメント対策センターの委員なんだけど、匿名希望の申し立てあったら、もちろん慎重に事実認定は行うけど、申し立て人の保護は大前提。さすがに加害者とされる側から「こっちも話聞きたいから申し立てた人を引き渡して」なんて言われたこともない。いやすごいわ財務省の傲慢体質。
2:56 - 2018年4月16日、香山リカ

福田次官、セクハラ否定「事実と相違、提訴準備」「新潮社に対し、名誉毀損で提訴を準備していることを明らかにした」
女性新聞記者は名乗り出て証言できないでしょうとの開き直り。これだけの人物じゃなければ次官になれない日本の社会。
道徳の時間:
「女の子に、相手が嫌がっているのに、「おっぱい触って言い」「体触っていい」と言っても全然平気よ。偉くなればね。だから皆勉強して偉くなって財務省のように素晴らしい所行きましょうね。文句言ったら名誉棄損で訴えると脅すこともとっても大事よ」
2:09 - 2018年4月16日、孫崎享

財務省 福田淳一財務次官「セクハラ発言報道内容否定」
このスケベおやじ、開き直ったな。
誰かから指示を受けたのだろうか。
こいつマジに酷え〜奴だ。
23:07 - 2018年4月15日、ジョンレモン

事務痴漢は「反省の上で、緊張感を持って職務に取り組んでまいりたい」とし、辞任を否定したそうですが、緊張感を持たないとセクシャルハラスメントをしてしまうというのは、どんな体質やねん。
21:32 - 2018年4月15日、松尾貴史

 財務省は4月16日、週刊新潮で報じられた福田淳一事務次官の女性記者に対するセクハラ疑惑について、「週刊誌報道で記載されているようなやりとりをしたことはない」とセクハラを否定した上で、「名誉毀損(きそん)に当たることから新潮社を提訴すべく準備している」とする福田氏への聴取結果を発表した。
 財務省は4月13日以降、福田氏の部下である矢野康治官房長が聴取を実施。
 客観性を保つため、外部の弁護士に委託して福田氏の調査を続けるとした。
 財務省を担当する女性記者には調査への協力を依頼した。
 先週4月12日発売の週刊新潮は福田氏が会食などの席で、財務省担当の女性記者にセクハラと受け取られる言動を繰り返していたと報道。
 当初、福田氏は「やりとりは定かではないが、誤解を受けぬよう気を付けたい」と釈明していた。
 これを受け麻生太郎財務相は「事実ならセクハラという意味ではアウト」と述べながらも、処分や調査には後ろ向きだった。
 だが、4月13日には週刊新潮が自社のニュースサイトで、福田氏とされる男性が「抱きしめていい?」「胸触っていい?」などと発言する女性記者のやりとりを記録した音声データを公開。
 野党だけでなく、与党からも自発的な辞任を求める声が強まっている。
 福田氏は1982年に旧大蔵省に入省。昨年2017年7月に事務次官に就任した。


東京新聞・夕刊、2018年4月16日
財務次官 セクハラ疑惑否定
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201804/CK2018041602000225.html

 兵庫県川西市は4月16日、昨年2017年9月に当時の副市長が女性職員に対し、セクハラ行為をしたカラオケ店での酒席に同席していた上司の男性職員について、「セクハラを黙認して部下を守れなかった」として、戒告の懲戒処分にした。
 市は、女性が精神的ショックのため職場復帰できていない被害の大きさや、副市長が昨年2017年11月に解職されて市の信用失墜を招いた点を考慮。
 セクハラ行為を止めなかった上司の責任は重いと判断したとしている。
 市によると、上司は50代で当時は市民生活部の室長級で、現在は健康増進部の副部長級。
 「止められなかった。女性に申し訳ない」と話しているという。


東京新聞、2018年4月16日20時29分
副市長のセクハラ黙認し戒告処分
兵庫・川西、被害女性の上司を

(共同)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018041601002052.html

小池晃・共産党書記局長(発言録)
 (福田淳一・財務事務次官がセクハラ発言を繰り返したとされる問題をめぐる財務省の対応について)信じられないの一言だ。
 当然、罷免(ひめん)するものだと思っていたが、今日、財務省が発表した文書は驚きあきれる説明だ。

 財務省は女性記者に名乗り出るように求めている。
 結局、(女性記者が)出て来られないだろうと思ってやっているとしか思えない。
 セクハラ対応の大原則は被害者保護だ。
 政府がやったこと自体がセカンドレイプになると思うし、はっきり言って恫喝(どうかつ)だ。

 政府がこんなことを始めたらどうなるか。
 セクハラ問題が起こった時に、被害を受けた人は名乗り出ろと。
 企業も(政府にならって)セクハラ問題でこんな対応を始めたら、セクハラ根絶どころか、セクハラがまかり通る国になってしまう。

 そういう点でも、これは異常な対応だと言わざるを得ない。

 この問題は日本中の女性も心ある男性も、全てを政府は敵に回すような大問題になってきている。
 徹底的に追及していきたい。
 即刻罷免すべきだと改めて申し上げたい。
(記者会見で)


朝日新聞デジタル、2018/04/16 19:15
「被害女性に名乗り出ろとは」共産・小池氏が財務省批判
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「被害女性に名乗り出ろとは」共産・小池氏が財務省批判/ar-AAvW3QJ?li=BBfTvMA&ocid=spartanntp

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山口誓子

 さて、ヤッホーくん、荒川の土手づたいに歩を江北橋へと向けていきますと、なにやら句の説明板が立っているのに気づきました:

八重桜菓子工場に咲けば菓子
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 「俳句の中から桜の花をおりこんだものを紹介します - 足立区」に芭蕉と共に山口誓子の句が記載されていたのです。
 ヤッホーくん、またしても不思議な縁を感じました。
 だって、山口誓子の句は奥能登「禄剛岬灯台」にも:

ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり(1961年、昭和36年)
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 今日、3月26日は誓子忌。 
 俳人山口誓子の忌日です。1994(平成6)年、92歳にて逝去。  
 山口誓子は京都市生まれ。14歳にして俳句を詠み始めたそうですが、三高文化乙類に入学後「京大三高俳句会」で日野草城の指導の下に本格的な作句活動に入り「ホトトギス」に投句。
 1922(大正11)年、東大法学部に入り、水原秋桜子・富安風生・山口青邨らと「東大俳句会」を結成。
 また4Sと称えられた内の一人として活躍しました。
 近代俳句の新時代を切り開いたのは水原秋桜子と山口誓子であったと言っても過言ではありません。
 山本健吉も名著「現代俳句」でこのことに触れていますので、少しだけ引用してみます。
 秋桜子の「葛飾」時代の句、誓子の「凍港」前半(昭和3年ごろまで)の句は、近代俳句の黎明となった。
 比較すれば、秋桜子のほうがより短歌的・抒情的・詠嘆的であり、誓子のほうがより構成的・知的・即物的であるが、その調べや叙法にはさまざまな共通点があり、ともに在来のさびとかしおりとかいった古い俳句臭と袂別して、大胆に新しい近代的スタイルを樹立したものである。
 二人のうちどちらが先に試みたかわからないが、おそらく机を並べて相互に切磋琢磨した結果と思われ、二人とも手近な手本として、歌壇における「アララギ」派の万葉調運動の成功を意識し、そのような改革の俳壇における実現を目ざしていたに違いない。
 そしてそのような改革的意気が、4Sのなかでも二人の存在を華やかなものに印象づけた。そして誓子は秋桜子以上に大胆に特異な題材を手がけ、虚子をして「辺塞に武を行る征虜大将軍」と言わしめたのである

 この山本健吉の評は次の句に添えられたものです。「流氷」は今でこそ春の季語として一般的に詠まれますが、誓子のこの句によって定着したのでしょう。
流氷や宗谷の門波荒れやまず
   

 山口誓子は肋膜炎の療養のため1941(昭和16)年から1953(昭和28)年迄の12年間、三重県の四日市市や鈴鹿市に居住していました。その折のことだろうと思いますが、県内の鈴鹿工業高等専門学校の校歌の作詞をしています。
つきぬけて天上の紺曼珠沙華
海に出て木枯帰るところなし
炎天の遠き帆やわが心の帆
万緑やわが掌に釘の痕もなし

等の俳句に親しむ人なら誰でも知っている名句の多くがこの地で詠まれています。
 その内5年間住んでいた鈴鹿市白子の「鼓ヶ浦海岸」は誓子が主宰した「天狼」の俳人にとって聖地のような所となっています。
 余談ですが、ここ白子はロシア漂流で名を知られる「大黒屋光太夫」の地元でもあります。白子を出港して遭難漂流したことから苦難のロシア経験をすることになったのです。
 誓子も大黒屋光太夫を身近に感じたのでしょう。次のような句を詠んでいて句碑が建っています。
舟漕いで海の寒さの中を行く
 
 また誓子は伊勢参宮を毎年欠かしたことがなく、志摩賢島で年を越した上 伊勢神宮に初詣をするのを常としていましたので伊勢とも縁が深く、伊勢神宮内宮前のおかげ横丁には「誓子記念館」があり、そして赤福本店やその他伊勢市内や周辺に多くの句碑が建っているなど、三重県伊勢市在住の私にとってはとても身近な存在の俳人です。
 伊勢地方に建つ誓子句碑を下記に列挙してみます。
  巣燕も覚めゐて四時に竈焚く  伊勢市 赤福本店
  日本がここに集る初詣      〃  春秋園
  孫右衛門西向き花のここ浄土   〃  宮川堤 松井孫右衛門人柱
  知盛の谷水田とし植田とす    〃  矢持町 久昌寺 (平家村)
  春潮に飛島はみな子持島    二見町 池の浦荘
  炎天の遠き帆やわが心の帆     〃  山口歯科 潮松庵
  真珠筏入江の奥に年迎ふ      〃  伊勢パールセンター
  初富士の鳥居ともなる夫婦岩    〃  興玉神社
  礼拝す佛のために咲く桜    度会郡玉城町 広泰寺   
  初日出て三つ島が置く三つの影 鳥羽市 鳥羽グランドホテル
  百年を守護の青峯山青し      〃  鳥羽商船高等専門学校
  初凪に島々伊良湖岬も島      〃  戸田屋別館
  差し出でゝ崎々迎ふ初日の出    〃  鳥羽展望台
  真珠島白葉牡丹も真珠なり     〃  御木本真珠島
  葉月潮伊雑の宮をさしてゆく  志摩市 的矢湾大橋
  遠近に靈山ありて初ゴルフ     〃  賢島カントリークラブ
  高き屋に志摩の横崎雲の峯     〃  志摩観光ホテル
  五月波寄せ来て砂の浜揺れる    〃  旅館ひろはま荘
 一地方にこれほど多くの句碑が建つ俳人は他に類を見ないでしょう。調べていて私も驚きました。
 

俳句俳話ノート、2007年3月26日(月)
誓子忌
(俳号・加藤暢一)
http://nobu-haiku.cocolog-nifty.com/haiwanoto/2007/03/post_5f31.html

 伊勢神宮内宮前のおかげ横丁に「誓子記念館」ですか。
http://www.okageyokocho.co.jp/tenpo.php?no=52
 これは「俳句館」で、「記念館」はこちらのようです。

 「山口誓子記念館」は、神戸大学百年記念館東側、大阪湾を一望できる絶好の位置にある数寄屋造りの建物です。
 当記念館は、近代俳句に大きな足跡を残した俳人、山口誓子の旧邸の母屋の一部をほぼ忠実に復元したものです。
 展示室には、誓子関連の資料や俳句俳諧関連の資料を展示し、国文学の研究に役立てる一方、伝統的な数寄屋造りに触れて日本文化を体験することができ、国内のみならず海外との学術交流にも貢献できるよう造られた施設です。
 誓子は、旧制三高、東京帝大の出身であり,神戸大学とは直接の縁はありません。
 しかし先に亡くなった波津女夫人の最も信頼していたご遺弟、故 末永山彦氏が神戸大学出身者で元学長の新野幸次郎とゼミの同窓であるなど、神戸大学と縁の深い関係であったことや、自身も西宮市在住であったことなどから、神戸大学が優れた俳句文学研究の場になりうることを見込み、誓子と波津女の預金、居宅敷地、著作権など遺産全てを神戸大学に寄附していただきました。
 この基金により、現在の山口誓子記念館と誓子・波津女俳句俳諧文庫は支えられています。

 「山口誓子記念館」は、基金を元に2001年1月に完成しました。
 西宮市苦楽園にあった誓子の旧邸宅は、1995年1月の阪神淡路大震災で倒壊しました。
 その際に無事であった一部の建具を使って、当時の母屋の面影を残したまま、ほぼ忠実に復元して新たに記念館として建てられたものです。
 数寄屋造りの建物である当記念館は、文学博物館的施設であり、留学生や外国からのお客様が日本文化を体験できる場としての性格をもちます。
 茶の湯の施設などは旧誓子邸にはなかったものですが、そのような目的にそって付加されたものです。
 句会や茶会などに、教職員や学生だけではなく、市民の方々にもご利用いただけます。

http://www.office.kobe-u.ac.jp/ksui-yamaguchiseishi/kinenkan.htm

 昭和の新興俳句運動の旗手・山口誓子(1901-1994)の旧居(兵庫県西宮市苦楽園)を復元させた六甲山麓(さんろく)の記念館を訪ねた。
 やわらかな秋の日差しのなか、巨匠が晩年に語った「戦争と俳句」の記憶に思いをめぐらせた。

 戦後長く暮らした兵庫県西宮市の居宅は阪神大震災で倒壊したが、「山口誓子記念館」として2001年に神戸大学キャンパス(神戸市灘区)に移築され、もとのように復元された。
 初めての訪問だったが、縁側越しに西日が差し込む8畳間に入った瞬間、22年前に取材した時の情景がよみがえった。

「この部屋は横山大観が好んだそうですな。私は『大観の間』と呼んでいます」

 和服姿の巨匠はそう言いながらにこやかに私を迎えた。
 そこは昭和初期には旅館だった建物で、大阪湾を見下ろす南向き斜面の日当たりの良い角部屋だった。
 遠い日の記憶の底から懐かしい空間が目の前に浮かび上がったのだ。

 91歳の誓子は既に聴力を失っていたため、取材は紙に質問を書いて示す筆談に頼った。
 健康の秘訣(けつ)や恩師である高浜虚子の思い出、会社勤めの経験などを聞いていく中で、敗戦の玉音放送を聞いた8月15日に詠んだ句
いくたびか 哭(な)きて炎天 さめゆけり

について、「何を思って作られたのですか?」と紙に書いて尋ねた。
 顔を上げた誓子は胸の奥にしまい込んだ思いを吐露するかのように、声を絞り出した。

「あの日は炎天でしたね。炎天の真下で敗戦を何べんも嘆いているうちに夕方が近くなって、いつの間にか日が傾き、それがさめてきた。それほどつらかったのです……」

 空襲で大阪の家を失った誓子は三重県に移って療養生活を送るが、終戦前年の1944(昭和19)年にはわずか半年間で1000句余りを作っている。
 そのうち戦争に直接触れた句はほとんどないが、句集「激浪」には国情を踏まえて、「戦中なればこそ」「懸命の句作を決意し、日夜精進を傾けた」と当時の心境を記している。

 その年の11月に詠んだ代表句のひとつ
海に出て 木枯(こがらし)帰る ところなし

の色紙が記念館に展示されていた。
 誓子は帰り来ぬ特攻隊の若者を、太平洋に吹きすさぶ「木枯らし」にたとえた。
 凍えるような冬の季語にはかなき命を重ねた俳人の悲しみがうかがえる。

 戦後70年の晩秋。
 戦争の無念さと怒りを振り切るかのように、「五七五」の世界に全身全霊を注いだ俳人の面影が黄金色の光の中に揺れた。


毎日新聞、2015年11月11日
戦争と俳句
(城島徹)
https://mainichi.jp/articles/20151110/org/00m/070/048000c

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江北の五色桜

 足立区鹿浜の「都市農業公園」は「春の花まつり」!
 ヤッホーくん、「江北五色桜」しるしばんてんの入った、はっぴ姿の方が通りすがるのを目にしました。
 江戸の北にあって、かつては花見客で賑わい、さぞや五色の霞たなびく風景だったことだろうのう、と。
 そんな風にムカシを想像してにこにこヤッホーくん、レストハウスで「とれたて定食」をいただいた後。
 舌をぺろぺろして時に現れ出でたる若い方がなんと「江北の歴史を伝える会」所属、芝生広場でのこと。
 「江北」は村としてかつて実在した地名で、イマは駅名もある地名で、荒川の北側に位置しているから。
 「五色桜」は情景を現わす言葉でなく、なんと桜の品種だったのです、桜は「染井吉野」だけじゃない!

 1886(明治19)年3月、後に江北村の初代村長となる清水謙吾が中心となり、開花の期間が長い八重の里桜78種3225本が長さ3200余間(約5.8キロメートル)の熊谷堤(荒川堤)に植えられました。
 この資金は関係地元民が出し合いました。
 花見のために、荒川(現・隅田川)には多くの乗合船が出たり、定期航路が臨時便を江北まで延長したりして、多くの花見客で賑わいをみせました。


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 この「荒川堤桜碑」は、「都市農業公園」の敷地に移されています。
 「五色桜」の名は、当時の新聞に「五色に彩られ」と記事が紹介されたことにはじまるといいます。
 また、1912(明治45)年にワシントンポトマック河畔に送られた桜の苗木は、「江北五色桜」から接穂(つぎほ)がとられて生育されました。
 1924(大正13)年には国の名所に指定されましたが、荒川放水路の建設、環境の悪化、戦中・戦後の荒廃を経て、「五色桜」は衰退しました。
 1981(昭和56)年2月ナンシー・レーガン大統領夫人から送られた桜(レーガン桜)が舎人公園に植樹され、同年にはポトマック河畔から「桜の里帰り」も実現し、区内各地の公園・学校などに植えられました。


足立区公式サイト、「五色桜
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-goshikizakura.html

 このお兄さま、ヤッホーくんにぜひ荒川の土手に登って、江北橋の方にぶらぶら歩いてみたらいいですよってご推薦。
 もうおなかも満腹、公園は一周したし、西新井駅までバスで戻ってもうお家へ帰ろうかなと思っていたヤッホーくん。
 土手に登りましたら景色がもっと開け、隅田川の源流、岩渕水門まで3Kmの標識も、あそこに見えるじゃありませんか。

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 ありましたね、これです:

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五色桜の由来(荒川土手説明版より)
 足立地区先の荒川は、昔、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。この桜は1886(明治19)年、地元の方々の奉仕によって植えられ、育てられました。
 当時、多くの桜の品種が混植されていました。白や黄色、淡紅色や濃紅色など、花色がいろいろとあったので「五色桜」の名がつけられたと言われています。
 花の見頃には、色とりどりの桜が人々の目を楽しませ広い並木道には人があふれるほど賑わいました。
 ワシントン市の有名なポトマック公園の桜は、この五色桜を当時の尾崎行雄東京市長が贈ったものです。
 しかし、この地の五色桜は自動車の排気ガスなどの影響で残念ながらほとんどなくなってしまいました。

五色桜の復活(荒川土手説明版より)
 戦後、世の中が落ちついてくると華やかだった五色桜をしのぶ気運も次第に高まり、1981(昭和56)年にアメリカの協力を得て、ワシントン市から「桜の里帰り」を実現しました。
 この里帰り桜からつぎ木をしてその数を増やし一部はすでに区内の公園に植えられています。
 そして、往時の五色桜の復活をと念願する多くの方々の熱心な働きかけと、建設省をはじめとして関係団体の協力により、この里帰り桜は「桜づつみモデル事業」として、ふるさとであるこの荒川堤に再び根をおろすことになりました。国境を越えて時間を越えて長い旅をして帰ってきたこの桜を今度は私たちが大事に育てていきましょう。
 ポトマックのさくらは2012年で100周年をむかえました。
 アメリカに贈った第1回目の桜木は 病害虫のために すべて焼却され、第2回目は、慎重をきわめて、桜木がそだてられました。
 東京の足立区江北地域、荒川堤の五色桜から穂木が採られ、兵庫県の伊丹ではサクラ台木が準備され、静岡の興津で接木された桜。それらの努力がポトマック河畔の桜になりました。


荒川堤(足立区江北)の五色桜と日米さくら交流
http://www.senjumonogatari.com/sakuragosiki.html 

 ねえ、びっくり、びっくり、ヤッホーくん、大きく伸びをして、荒川堤の桜の小径をゆっくり、ぶらぶら歩きだました。
 でもあのお兄さま、物知りのお兄さま、ありがとうありがとう!この「江北村の歴史を伝える会」はどんな活動してる?

 郷土の自慢である「江北の五色桜」を中心に旧・江北村の歴史をひもとき、次世代の子どもたちにも伝え、郷土愛を育もうという趣旨に賛同する地域住民らが「江北村の歴史を伝える会」を設立。その発会式および記念講演会が2006年7月9日、五色桜ゆかりの「江北小学校」で行われた。
 同会の立ち上げに尽力した世話人のなかから、会長に元足立区教育委員長の浅香孝子さん(江北6)が選出された。浅香さんが
「この地に生まれ育ったことを誇りに思い、五色桜を介して発展していった村の歴史をうれしそうに語る先人たちの思いを受け継ぎ、貴重な歴史と文化を体系的にまとめ、現在この地域に住まわれている方や後世へと伝えていきたい」
とあいさつすると、約40人の参加者から同意する大きな拍手が送られた。
 その後、発会を記念して桜の研究家である地元の樋口惠一さんが「江北の五色桜」と題して講演した。江北の五色桜がワシントンのポトマック河畔を彩り、また日本へと里帰りするようになった経緯について、当時の貴重な写真をスライドで振り返りながら説明した。

 20世紀の初頭、当時の東京市は、日米友好のシンボルとして桜をアメリカへ寄贈することを計画していた。長い船旅の間、害虫などに侵されないような苗木を育成するために尽力したのが、旧江北村の偉大な先人・船津静作翁だった。
 船津翁は、明治時代初めに多くの品種を収集、研究をしていたことから、桜にかけては日本の覇王とまで称された人。荒川堤に桜を植樹する計画と指揮をとった江北村の清水謙吾村長とともに、五色桜の維持管理も行っていた。

 樋口さんは、太平洋を渡ることのできる健全な苗木を育てるため、船津翁が江北村の五色桜から枝をとって栽子(つぎほ)とするまでの育成の苦労を説明した。樋口さんは、静作翁の孫で桜の研究家である船津金松さんの直弟子。金松さんは、幼いころから祖父の薫陶を受け、特に栽培品種に造詣が深く、現在サトザクラの品種の研究で右に出る人はいない。

 またこの日は、同校講師の栗原光子さんが児童への教材として作成したペープサート「五色桜のはじめ」も上演された。荒川の洪水を防ぐため、熊谷堤に里桜が植栽されてから「荒川の五色桜」が誕生するまでをわかりやすい物語に仕立てられている。

 今後、「江北村の歴史を伝える会」では、足立区の誇りでもある五色桜をまずとりあげ、それに造詣深い船津金松さんの貴重な研究や、その他の古老の人々からの話を聞きながら、江北村の歴史を充実させていく。
 また花の季節には五色桜を実地に観察、勉強するなど、さまざまな形での活動を予定している。


足立よみうり新聞、2006年7月14日配信
江北村の歴史を後世へ
http://www.ayomi.co.jp/kiji/200607/200607kiji/009.htm

 足立区都市農業公園では、植栽される五色桜のうち、開花が遅い「関山」「松月」もすでに見ごろを過ぎ、葉桜になりつつある。
 この五色桜について研さんを積む「江北村の歴史を伝える会」(浅香孝子会長)が、(財)日本さくらの会から2009(平成21)年度さくら功労者として表彰された。
 2009年4月13日、憲政記念館で開かれた第44回さくら祭り中央大会で表彰式が行われた。
 この表彰は、さくらの植栽、愛護、研究、その他さくらの振興事業に関し顕著な功績があった団体・個人をさくら功労者として、(財)日本さくらの会選考会議が選ぶもの。今年度は、個人8、団体37へ贈られた。

 「江北村の歴史を伝える会」は、昨年2008年6月に会員らが手作りで発刊した『江北の五色桜ー荒川堤の桜ガイドブック』をはじめとした諸活動が顕彰された。
 4月16日、近藤やよい・足立区長を表敬訪問した浅香会長は、
「トラスト基金(※)を活用してのさくらの本の出版は初めてと言われました」
と喜びを伝えた。
 また、
ポトマック河畔のさくらが日本から届けられたことは会場でも披露されていましたが、それが足立区江北からであったことはみなさんご存じありませんでした。一生懸命PRしてきました」
と、笑顔をほころばせた。
(※)『江北の五色桜』は、足立区まちづくりトラスト事業から助成金を受けた。

足立よみうり新聞、2009/04/17
「江北村の歴史を伝える会」が受賞〜日本さくらの会功労者表彰
http://www.ayomi.co.jp/chiku03/detail.php

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2018年04月15日

足立区都市農業公園

 4月15日日曜日はヤッホーくんの朝キンの日です。
 朝早く、南栗橋行きの半蔵門線に乗っていました。
 あんなに強い風が吹き傘もさせないほどなのにね、
 いったいどこへ行くんでしょう、あとをつけます。
 あらら、西新井駅で下りました、西新井大師かな?
 と思ってら西口から東武バスで「都市農業公園」!

 「都市農業公園」は「自然と遊ぶ、自然に学ぶ、自然と共に生きる」をテーマにしている公園です。
 公園中央の芝生広場には様々な品種の桜の木が植えられており、春には色とりどりの桜の花が楽しめます。
 また、河川敷の大花壇では、春はチューリップ、秋にはコスモスなど四季折々の花が楽しめます。
 自然とふれあう機会として、水田や畑を利用した農業体験教室、人と自然の共生館では、ハーブ園を活用したハーブ教室や植物に関する講習会など、1年を通じ、身近な自然や生き物について楽しみながら学ぶことができる公園です。
[見どころ]
 春の花まつり(4月中旬)・・・園内には約50種類290本余の桜が植えられ、中央芝生広場はワシントン市ポトマック川河畔から里帰りした34種82本の「五色桜」によって白や黄色、淡紅色や濃紅色に彩られます。
 また、菜の花や荒川河川敷大花壇の約3万5千球ものチューリップなどの草花も咲き乱れ、緑の豊かさを感じさせます。
[主なイベント]
 五色桜まつり(4月)。。。

 治療後はこんな桜が見られるといいですね・・・

レーガン桜.jpg
 
 荒川の五色桜から穂木(ほぎ)(※)を取った桜の苗木が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のポトマック河畔に植樹されたのは1912(明治45)年、今から100年前のことです。
 これを記念し、4月22日(日曜日)、「都市農業公園」で「日米桜寄贈100周年記念式典」が開催されました。
 荒川の五色桜は残念ながら一時、消滅してしまいましたが、1952年(昭和27年)と足立区制50周年の1981(昭和56)年に、今度は逆にアメリカから苗木を持ち帰り、「里帰り桜」として植樹されました。
 現在も「都市農業公園」や荒川堤などで、元気に育っています。
 また、1982(昭和57)年にナンシー・レーガンアメリカ合衆国大統領夫人から「日米友好の証」として贈られた「里帰り桜」は、その一本が舎人公園に植樹され「レーガン桜」と呼ばれています。
 現在、このレーガン桜は樹勢が弱っているという声を受け、治療中です。
 これまで樹木医による診断、土壌調査、枝の切り戻し(切断面の保護)などの作業を行ってきました。
 ただ「治療中」であることをきちんと表示しなかったため、桜の木を伐採してしまったと誤解された方から「何で桜を伐採するの?」と張り紙がありました。
 配慮が足りず、ご心配をおかけしました。
 今後も木の状態を見ながら、専門家の指示のもと治療を継続していきますので、見守っていただければ幸いです。
 今年はアメリカでも桜寄贈100周年の記念イベントが大々的に開催され、テレビのニュースでも「ADACHI」と何度も流れたと聞きました。文字通りの桜外交ですね。
※ 穂木(ほぎ)とは、品種を増やす際に用いる「接木(つぎき)」で、土台となる「台木(だいぎ)」に接着する枝となる木のこと。


足立区公式サイト
http://www.city.adachi.tokyo.jp/koen/shisetsu/koen/014.html
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hisho/ku/kucho/mainichi-20120511.html

 そして、「足立区都市農業公園」は「春の花まつり」開催中 ❗
http://www.ces-net.jp/toshino/

 いやあ、ヤッホーくん、奥能登路で踊りこけ、またまた荒川河畔で腰をぬかしています。

1⃣ 1912年に桜がアメリカにわたったって?じゃあ、尾崎行雄(1858-1954、1903〜1912まで東京市長)が贈った桜は?

 日本から米国への桜寄贈は、タフト大統領夫人、紀行作家シドモア女史、アドレナリンやタカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士、尾崎行雄東京市長をはじめとする多くの方の尽力により実現しました。
 1909年、尾崎行雄東京市長(当時)は日米親善を祈念し、桜を米国に寄贈しましたが、これには害虫がついていたことが発覚し、現地で全て焼却処分になってしまいました。
 1912年、再度贈られた約3,000本の桜は、無事米国に到着し、同年1912年3月27日にタフト大統領夫人と珍田大使夫人によってワシントンDCのポトマック河畔に植樹されました。
 桜寄贈、植樹は、日米友好関係の一層の発展を心から願った多くの個人、団体の尽力によって実現しました。


外務省公式サイト・桜寄贈の歴史
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sakura100.html

 桜の植樹を思いついたのは、紀行作家で写真家、ナショナル・ジオグラフィック協会初の女性理事でもある、エリザ・シドモア(1856-1928)です。
 彼女は日本に関する記事や著作を残していますが、1884(明治17)年に日本を訪れたとき、向島の桜の美しさに魅せられました。翌年、ワシントンに帰国したシドモア女史は、埋め立て工事が始まったばかりの殺風景なポトマック川沿いに日本の桜を植えようと、アメリカ陸軍管理者に植樹の計画を訴えましたが、断られてしまいました。それから24年間、シドモア女史は所轄官庁に働きかけ続けると同時に、「1ドル募金」などを通して、ポトマック川沿いに毎年100本の桜を植樹する活動を始めました。

 この時期、やはり、日本の桜の美しさに魅了されたのが、植物学者のデイビッド・フェアチャイルド(1869 –1954)。
 彼は自宅の庭に桜を植樹しようと、1906年、横浜から125本の桜の木を輸入し、東洋の木がアメリカの地に根づくかを試しました。桜は見事に開花し、桜がワシントンに植えるのに適した木であることを確認した博士夫妻は、ワシントン市内に桜を植えようと決意、シドモア女史の桜並木の計画の後押しもしました。

 1909年4月、ウイリアム・タフト(1857-1930)が第27代大統領に就任すると、大統領夫人も、ポトマック川周辺の埋め立て地に、優雅な桜を植えたいと考えるようになりました。
 実はタフト夫人は1903年に家族と日本を訪れ、荒川沿いの桜並木を見て、桜の美しさに心を奪われたといわれています。シドモア女史やフェアチャイルド博士がタフト夫人に桜の植樹を要望したのをきっかけに、夫人も桜の苗木の購入を主導、ポトマック川の公園化の話が急速に進み、桜並木が現実化へと向かいました。

 4人めのキーマンは日本人の科学者、高峰譲吉(1854-1922)博士です。
 彼はニューヨークに在住し、「アドレナリン」を発見した人物です。彼はタフト夫人が桜の植樹を推進していることを知り、当時の東京市長・尾崎行雄にも協力を要望、東京市から2000本の桜の苗木を贈ることを約束したのです。

 こうして、「ワシントンに桜を」という4人の念願がかない、1909年11月、横浜港から2000本の桜を乗せた船がワシントンへと出航しました。
 ところが、翌1910年1月にワシントンに到着した桜は病害虫に侵され、防疫検査を通過することができず、泣く泣くすべてが焼却処分となってしまいました…。
 しかし、高峰博士と尾崎市長は桜を贈ることをあきらめませんでした。
 次に贈るときは病害虫に侵されることがないよう、綿密な計画が立てられ、荒川の桜に接ぎ木などを施して、健康な桜の苗木を育てたのです。

 1912年、12種類の桜の苗木は再び横浜港を出発し、アメリカ西海岸のシアトルに到着、そこから冷蔵貨車で大陸を横断してワシントンへと届けられました。
 検疫検査の結果ですべての苗木が健康であることが確認され、ようやく植樹できるようになりました。
 桜が届いた翌日の3月27日、植樹の式典が行われ、タフト夫人らが植樹を行いました。
 この木は今でも根づいていて、これが最初の桜の木であることが銘板に示されています。
 アメリカ政府はこのお礼としてハナミズキの木を日本へと贈り、日比谷公園などに植えられました。

 翌1913年から1920年にかけて寄贈された桜のうち、約1800本のソメイヨシノがタイダルベイスン周辺に植えられ、残りの11種類と残りのソメイヨシノは東ポトマック公園に植えられました。

「全米桜祭り」のルーツは、桜の木が伐採されるのを反対する集会

 ワシントンで毎年開催される「全米桜祭り」ですが、最初の桜祭りは1935年、市民団体などの主催で行われ、それから毎年開催されるようになりました。
 1938年、ジェファーソン記念館を建てる用地を確保するため桜を伐採するとの計画が持ち上がりました。しかし、女性グループらが反対、人間の鎖で計画予定地を封鎖し、桜が伐採されるのを阻止しました。
 そしてこの問題は、タイダルベイスンの南の岸に、より多くの桜を植えることを条件に妥協され、さらに多くの桜が植えられるとともに、1940年代ころから桜祭りの催しものが始まりました。

さらに多くの桜を寄贈。
桜の手入れ、植え替え、植樹…、ワシントンで大切にされる桜


 1965年、日本はさらに3800本のソメイヨシノを寄贈、この桜はアメリカで育てられ、その多くがワシントン記念塔の周辺に植えられました。
 1986年から1988年の3年間には、1912年に寄贈された最初の桜の回復のために、アメリカの国立公園局に寄付された101,000ドルを費やして、676本の桜の木が植えられました。
 また、1996年、クリントン大統領の訪日を記念して、100本の桜がポトマック川沿いに植樹されました。
 こうして、ポトマック公園周辺には8000本以上の桜が植えられ、今ではワシントンは桜の名所となっています。

 桜の花見は日本だけの風習だと思いがちですが、ワシントンでは100年以上も前から日本の桜が植えられ、今でも市民に大切にされています。最近は日本ブームで、世界各国から日本を訪れる観光客が増えただけでなく、政府の観光呼び込みの効果もあってか、日本で桜の花見をする外国人の数が増えました。
 でも、日本以外でも何年も前からお花見文化があり、しかも、桜を100年以上も大事に育てていてくれていたとは、ちょっと感動ものですね。


tenki.jp、2015年04月12日
桜が満開のワシントン !! 103年前、日本から贈られた桜に秘められた物語
(柴山ロミオ)
https://tenki.jp/suppl/romisan/2015/04/12/1681.html

2⃣ レーガン桜とタフト桜と?

 この桜は、レーガン大統領夫人が来日した際に贈られた苗木を、舎人公園に植樹したもので、鈴木元都知事により「レーガン桜」と命名されました。
 また、日米親善の「桜の特使」として里帰りした桜でもあります。
 この苗木のもととなる桜は、1912(明治45)年に日本から贈られた桜(通称五色桜)で、ワシントンのポトマック河畔に植樹されていました。
 ちなみに、ポトマック河畔では、時のタフト大統領夫人が植樹したことから「タフト桜」と呼ばれていました。


舎人公園公式サイト
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/view024.html

四国・翠波高原
 翠波高原は、標高892mの翠波峰を中心とした約100haの古墳準平原の名残をとどめた美しい高原で、翠波峰の眺望は特に素晴らしく、瀬戸内海に面した宇摩平野から雄大な四国山地まで360度の大パノラマが楽しめます。

ワシントン桜の園
 日本から友好のためにアメリカ(ワシントンのポトマック湖畔)へ贈った桜が大きく成長し、市制30周年を記念して友情を添え里帰りした桜、「足立・レーガン桜」が春になると咲き誇ります。


里帰りの桜が愛媛県.gif

四国中央市観光スポット
http://www.shikoku-net.co.jp/ehime/kankou/shikokuchuoushi/shikokuchuoushikankou.htm

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塩安漆器工房に伝わる「輪島講」

 千年桜、万年桜、一夜桜と咲き誇る山歩クラブ奥能登路への春合宿は、まだまだ続きます。

旅の宿/水森かおり
https://www.youtube.com/watch?v=deozMYZRuxo

花筏/岩本公水
https://www.youtube.com/watch?v=Lz9BIseRbvU

 おっと、山歩クラブのロイヤル・バーシバシがヤッホーくんに目配せ、聞いてきてくれと。
 ところは輪島市の「しおやす漆器工房」(小伊勢町日隅20 Tel 0768-22-1166)でのこと。
 創業は1858年、安政大獄のあった年です。戦争あって中断し、戦後は鳥取にて再開!ん?
 年表を一緒にみていたロイヤル・バーシバシが顎をしゃくってヤッホーくんに言うんです。

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 いやぁ〜、奥が深いことったらありゃしない:
 
「しおやす」の歴史
 私ども「しおやす」は、1858(安政5)年、初代塩安忠左衛門が、輪島塗の塗師として独立した日よりはじまります。
 当初は、塗の仕事を請け負って下地職人として仕事をしておりました。
 商売を始めたのは三代目 塩安政之蒸で、時代は1907(明治40)年のことです。
 政之蒸は、当時北陸から、中国地方に鉄道がひかれることに着目し、鳥取県へ販路を拡大いたしました。
 鳥取では当時と変わらず「椀講」又は「輪島講」と呼ばれる方法で、商売をさせていただいています。
 その時に使用する講帳と呼ばれる書面がありますが、現在も講主として塩安政之蒸の名が記されています。
 昭和に入り戦争を経て日本が復興していく中、四代目塩安誠治が、店舗を開設し、現在の「しおやす漆器工房」の基礎が出来ました。
 私どもは初代から受け継がれてきた技術と、それを受け継いできた先達の向上心と努力で、古き良き輪島塗と、新しい輪島塗の両方を今日も磨き上げております。

http://www.shioyasu.com/tour/index.html

 輪島は能登半島の先端に位置し、明治〜昭和の交通の便を思えば、店を構えてお客さんを待つ、というビジネススタイルは考えにくく、品物を背負い日本各地に出向いて販売されました。
 軽量の漆器ならではの販売法ともいえそうです。

 塩安眞一氏は「塩安漆器工房」の三代目当主。
 初代政之蒸が始めた「輪島講」という販売方法を受け継いでいらっしゃいます。
 地縁社会が希薄になった当節、まだこうした販売方法が残っていることは瞠目すべきことではないでしょうか。
 もちろんそこには、祖父、父のたゆまぬ努力があったことは言わずもがなです。
 塩安さんが文章を寄せて下さいました。
 椀講とか輪島講とか呼ばれている伝統的な輪島塗の販売方法、今ではやっているのはうちだけになってしまいました。鳥取で現在5つの輪島講をやっています。
 私の祖父が明治の後半に鳥取で始めてから、第二次大戦中を除いてず〜っと鳥取に行ってます。祖父は明治、大正、昭和の大戦前まで、父は祖父に連れられて戦前から行き始め、戦後は一人で行き、昭和55年からは私と父で15年位、あちこち輪島講を開いてもらいながら二人で回りました。長い時は2ヶ月鳥取に居たこともあります。
 その後は、私一人のこともあったし、社員を連れて行ったこともありましたが、5年前から息子と行ってます。
 現在の講の世話人さんの中には、子供のころに私の祖父が家に来ていたのをしっかり覚えている方もいらっしゃいます。
 下駄をその方のおじい様が買って下さったのだそうで、鼻緒を代えながらまだ使っていらっしゃるそうです。
 息子まで含めるとその方とは親子4代でお世話になっていることになります。凄いですよね!
 こんな古い商売、そして大変な商売だけどありがたい商売、お客様と塩安との絶対的な信頼がないと成立しない商売です。
 これは絶対に大事にしなくてはなりません。
 お納めする輪島塗の品質は勿論ですが、人間的にもちゃんと付き合えなくては続きません。
 30代の若い講員もできてきました。
 まだまだ輪島講続けますよ!

 現代なら、高額商品を購入するときローンを組むという手があります。
 でも、「講」の良いところは、代々にわたり気心の知れた仲間がいて、いっさいを取り仕切る世話役がいて、各人が好みの漆器コレクションを増やし、さらに、次世代へ漆を愛でる心、文化を受け継いでゆくことができるところです。
 実に “浮世離れ”しているがゆえに、羨ましいシステムとも云えそうです。
 ネット販売も便利な手段ではありますが、こうした社会になった今こそ、安心と信頼関係に基づいた販売法は、もう一度見直して研究すれば、現代の「講」のかたちが見えてくるかもしれません。
 表紙の写真は、塩安工房製「漆塗りスピーカー」、こうした品を「講」で求める若い世代が、きっと近い将来でてくることでしょう。


(2016/5 よこやまゆうこ)
http://www.handmadejapan.com/sidestory_/sst332_01.htm 

 あらためて工房を一周してきたヤッホーくん。

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 輪島塗の品質、職人技、伝統をあらためて再認識した山歩クラブの面々、店主といっしょにトラの前:

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2018年04月14日

安倍政権はいますぐ退陣

 まるで泥沼の様相だ。
 森友学園や加計学園問題、自衛隊イラク派遣の日報問題等々をめぐって連日のように新事実が発覚している。

 きのうは加計問題に関し、2015年4月、当時の首相秘書官が愛媛県側などに「首相案件」と発言したと記録した文書が農林水産省にもあったことが確認された。
 対応は全て後手に回っており、政府のガバナンス(統治)は危機的状況にある。

 なぜこんな事態に陥ったのか。
 いずれも問題発覚後、きちんと調査もせずに安倍政権に不都合な事実を強引に否定しようとしてきたからだ。
 そのツケが一気に回ってきている。

 例えば加計問題だ。
 安倍晋三首相は官邸の関与を疑うなら証拠を出せと言ってきた。
 ところが重要証拠と思われる愛媛県の文書が見つかると、今度は「国としてコメントする立場にない」と国会で答弁する。

 これでは事実確認が進むはずがない。
 そもそも議論の大前提となる事実が認定できないこと自体、行政機能に欠陥があると言うべきだ。

 森友問題は首相がいきなり妻昭恵氏らの関与を強く否定するところから始まった。
 だが、その後も関与の疑いは晴れず、首相答弁とのつじつま合わせのために財務省は決裁文書を改ざんしたのではないかとの疑問も消えないままだ。

 裁量労働制を違法適用したとして東京労働局が特別指導した野村不動産の問題も同じだ。
 同社社員が特別指導前に過労死し、労災認定を受けていた事実が報道された後も、厚生労働省はそれをしばらく認めようとしなかった。
 これも働き方改革関連法案の成立に不利になると政治的な配慮をしたからだろう。

 安倍政権は官僚の幹部人事を官邸が取り仕切ることで各省に強い影響力を行使してきた。
 官僚が首相らにおもねる「政と官」のいびつな関係はさらに深刻になり、官僚の政治化、つまり官僚が立場を踏み外して政治と一体になる兆しがある。
 国会で質問する野党議員に対し、首相秘書官がヤジを飛ばしたのが象徴的だ。

 国会は事実確認に集中せざるを得ない状態になっている。
 自民党からも「挙証責任は政府側にある」との声が出始めているのは当然だろう。
 泥沼から抜け出すには、まず首相が根本的に姿勢を改めることだ。


毎日新聞・社説、2018年4月14日
混迷深まる「政と官」
不都合な事実隠したツケ

https://mainichi.jp/articles/20180414/ddm/005/070/021000c

 「安倍はやめろ!」と声をあげる群衆が国会前へどんどん突き進んでいく──。
 本日2018年4月14日、国会議事堂前で、安倍政権に退陣を求める大規模なデモがおこなわれた。

 きょうは、森友文書改ざん問題発覚以降おこなわれてきた官邸前デモをはるかに凌ぐ人びとが詰めかけ、若者や子ども連れの姿も目立ち、
「嘘をつくな」
「まともな政治を」
「改ざん内閣総辞職」
などと書かれた思い思いのプラカードが掲げられた。

 これに対し、警察はまたも過剰警備で応戦。
 国会前の両脇の歩道には人が溢れかえっているにもかかわらず、頑丈に固めた鉄柵で車道を封鎖していた。

 過剰警備の背景にあるのは、官邸の意向だ。
 既報の通り、安保法制時の国会前デモで車道に人が溢れた模様をマスコミが報道した際、官邸が激怒し、以降、警察は車道を完全封鎖するようになった。
 その後も大規模なデモが起きるたびに官邸から警察庁・警視庁への圧力が加えられ、警備はどんどん過剰になっていったのだ。

 しかし、きょうの国会前デモでは時間を経るごとに人出はどんどんと多くなり、抗議開始から1時間半後の15時30分ごろ、ついに鉄柵が決壊。
 2015年以来はじめて、安倍首相に怒りをぶつける人びとが国会前を埋め尽くしたのだ。

 主催者発表によると、参加者数はのべ5万人。
 しかも、本日は札幌や名古屋、大阪、福岡など全国各地で同じようにデモや抗議集会が開かれており、これらの参加者の総数はかなりの数となるだろう。

 これだけの国民が怒りを露わにするのは、至極当然のことだ。
 森友学園問題では公文書改ざんという民主主義の根幹を揺るがす大問題が発覚した上、財務省理財局が森友学園側に嘘の口裏合わせを求めたり、佐川宣寿理財局長(当時)が部下に籠池泰典理事長に身を隠すよう指示していたことが判明。
 さらに近畿財務局が国土交通省大阪航空局に対して「(地中ゴミの)撤去額を8億円にできないか」と依頼していたこともわかった。
 佐川氏の国会での答弁は、ことごとく虚偽であった証拠が出てきたのだ。

森友、加計だけじゃない、自衛隊日報、財務省次官セクハラでも官邸のデタラメが

 また、加計学園問題では、学園幹部や今治市、愛媛県職員らが官邸を訪問し、そこで安倍首相の右腕である柳瀬唯夫首相秘書官(当時)が「首相案件」と述べていたことが愛媛県作成の面会記録文書から発覚。
 柳瀬氏は「自分の記憶の限りでは、愛媛県や今治市の方にお会いしたことはありません」などと全面否定しているが、面会記録文書は農水省でも見つかり、その上、官邸を訪問した愛媛県関係者は柳瀬首相秘書官と名刺を交換したと証言している。
 ──「記憶にない」としか言わない者と、残された記録や証拠。
 どちらが信用に値するかは一目瞭然だ。

 しかも、この面会記録文書には、安倍首相と加計孝太郎理事長が会食の席で獣医学部新設について話し合っていたこともはっきり書き記されていた。
 安倍首相は昨年の国会で、「相談や依頼は一切なかった。相手の立場を利用しようとするということなら、もう友人とは言えない」だの「(加計学園の獣医学部新設計画をはじめて知ったのは)2017年1月20日」だのと答弁してきたが、それらはやはりすべて嘘だったのだ。

 安倍首相に対する国民からの怒りは、森友・加計問題だけではない。
 大きなニュースが多すぎて陰に隠れているが、防衛省の日報問題も日々新たにどんどんと日報が発見されていくという異常事態となっている。
 また、女性記者に
「おっぱいさわっていい?」
「手しばっていい?」
などとセクハラをおこなっていた財務省の福田淳一事務次官の問題で、麻生太郎財務相は注意にとどめて処分はしないという大甘な姿勢を示し、菅義偉官房長官も「緊張感をもって行動してもらいたい」などと述べるにとどまった。

 前川喜平・前文科事務次官の「出会い系バー」通いには饒舌になって
「常識的に言って教育行政の最高の責任者として到底考えられない」
「地位に恋々としがみついていた」
などと人格攻撃まで繰り広げたのに、現役事務次官がその立場を利用し、音声データまで公開された卑劣なセクハラ行為に対しては注意を促すだけ──。
 菅官房長官は愛媛県の面会記録文書についても「地方自治体の文書について政府としてコメントしない」などと述べたが、こうやって都合の悪い事実には説明責任を放棄し、叩けるものは徹底的に潰すまで叩くという安倍官邸の下劣そのものの行為を、もうこれ以上許すわけにはいかない。

 安倍首相は昨年の国会において、森友問題で「私や妻が関係していたら間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」とはっきり宣言。
 加計問題でも「(加計学園の獣医学部新設を)働きかけているというのであれば、何か確証を示してくださいよ。私は、もし働きかけて決めているのであれば、やっぱりそれは私、責任取りますよ。当たり前じゃないですか」と言い切っていた。

 そしていま、改ざん前文書と面会記録文書というふたつの「確証」が出てきた。
 いや、本来ならば公文書改ざんという大事件ひとつで総理は辞任、内閣総辞職となるべき問題だ。
 安倍首相にはきょう全国で響いた「安倍政権はいますぐ退陣」という国民の言葉を真摯に受け止めてもらわなくてはならない。


[写真]
車道の封鎖が決壊し、歩道から国会前へ押し寄せる人びと。「安倍はやめろ!」「総辞職!」というコールが響き渡った。

リテラ、2018.04.14
「安倍はやめろ」抗議デモが2015年以来の事態に!
デモ封じ込めの鉄柵も決壊し国会前を埋め尽くした怒りの声

http://lite-ra.com/2018/04/post-3951.html

「昨年2017年8月、ある著名な政治家が報道機関のインタビューで、『各省庁の中堅以上の幹部は皆、官邸(の顔色)を見て仕事をしている。恥ずかしく、国家の破滅に近づいている』と言いましたが、この発言があったことを知っていますか。それは誰か知ってますか」

 全国の講演会で聴衆にこう尋ねると、「知っている」と答える人は1割にも満たない。
 共同通信のインタビューであり、大手紙がほとんど報道しなかったために知っている人が少ないからだろう。
 しかし、どうやら事態は昨年2017年8月の[福田康夫元首相指摘した]時点よりも一段と酷い状況になっている。

 かつては大蔵省(現財務省)は官庁の中でも、エリート中のエリートだった。
 私自身も大蔵官僚は次官経験者を含め、相当数を知っているが、国家をあるべき姿の方向にもっていこうと懸命になっていた人が大半で、国民から「国家の破滅に近づけている」などと批判される人はいなかった。

 しかし、今の財務省は全く違う。
 森友問題では、虚偽有印公文書作成・同行使の罪になる可能性が高い決裁文書の改ざんが発覚。

 太田理財局長の国会答弁では、理財局職員が森友学園の弁護士に電話し、「費用に関して相当かかった気がする、トラック何千台も走った気がするという言い方をしてはどうか」などと虚偽説明をするよう求めていたという。

 国民の信頼が地に落ちたのは財務省だけではない。
 防衛省では「破棄した」とされていた南スーダンPKOの日報が保管されていたことが分かったほか、陸自や空自のイラク派遣の日報も大量に見つかった。
 今の霞が関官庁の官僚は、あるべき姿を追求するのではなくて、安倍首相に好かれるか否か、で行動しているようだ。

 昨年2017年、「忖度」という言葉がはやった。
 官僚が「忖度」して何をしたのかといえば、それは結局、反モラルであり、犯罪行為である。
 官僚組織が安倍政権の圧力を感じなければ、こんなバカな行動を取っていない。
 このままだと、国家は間違いなく破滅に向かう。


[写真]国民の信頼が地に落ちた

日刊ゲンダイ、2018年4月14日
このまま安倍政権の暴政が続けばこの国は間違いなく破滅だ
孫崎享、外交評論家
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/227126/1

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米英仏はシリアをミサイル攻撃

Jeremy Corbyn has described airstrikes on Syria as legally questionable and accused Theresa May of “trailing after Donald Trump” in an attack that could escalate the conflict.

The Labour leader was responding to the news that the US, UK and France launched airstrikes in Syria early on Saturday morning. Corbyn, who has called for an independent UN-led investigation of last week’s chemical weapons attack, said the prime minister should have sought parliamentary approval before launching the action.

“Bombs won’t save lives or bring about peace,” Corbyn said. “This legally questionable action risks escalating further, as US defence secretary James Mattis has admitted, an already devastating conflict and therefore makes real accountability for war crimes and use of chemical weapons less, not more likely.”

In a press conference on Saturday morning, May said the attacks were “right and legal” and “gave a very clear message to the regime”.

Labour has opposed a strike on Syria since the chemical weapons attack on Douma. On Thursday, Corbyn urged May to remember the lessons of intelligence failures in the build-up to the Iraq war and said: “There has to be a proper process of consultation. Cabinet on its own should not be making this decision.”

Corbyn’s response came as British politicians responded to news of the attack, which involved four RAF Tornado jets alongside French and American forces. The Scottish first minister, Nicola Sturgeon, was among the most outspoken critics of the military action, saying the move risks “dangerous escalation”.

The SNP’s leader in Westminster, Ian Blackford, echoed Sturgeon’s views, saying: “We need a plan for peace,”, adding: “A bombing, allegedly a one-off affair, does not aid this.”

Blackford called for the recall of parliament on Saturday for an emergency debate, saying: “It is not acceptable that the prime minister has ploughed ahead without any debate or parliamentary discussion.”

Labour MPs echoed Corbyn’s view. The shadow education minister, Angela Rayner, complained that MPs had been “frozen out” of the decision and questioned the effectiveness of military action.

The MP Alison McGovern said the action had to be part of a “comprehensive strategy to save civilian life” and urged that the aid budget be deployed to the fullest extent.

The Labour backbencher John Woodcock said while May should have consulted MPs, “it was right that the UK joined our allies in action to degrade Assad’s chemical weapon capability”.

Members of other parties questioned the action, with Liberal Democrat leader Vince Cable saying: “Riding the coattails of an erratic US president is no substitute for a mandate from the House of Commons. The Prime Minister could and should have recalled Parliament this week.”

The Green peer Jenny Jones asking what would be left of Syria after the bombardment.

Not everyone was critical. Paddy Ashdown, the former leader of the Liberal Democrats, came out in support of the prime minister.

Conservative MPs mostly backed the prime minister. The backbencher Nick Boles said the prime minister did not need parliamentary authorisation to protect the national interest.

Other Tory MPs echoed his thoughts.


[photo] Jeremy Corbyn: ‘Bombs won’t save lives or bring about peace.’

The Guardian, Last modified on Sat 14 Apr 2018 11.40 BST
Jeremy Corbyn calls Syria airstrikes legally questionable

PM should have sought parliamentary approval before taking military action, says Labour leader

By Guardian staff
https://www.theguardian.com/politics/2018/apr/14/jeremy-corbyn-calls-syria-airstrikes-legally-questionable

Here’s what happened in the buildup to the criminal, calamitous interventions in Iraq and Libya.

“Something must be done!” cried the war party. It was those who opposed war who were placed in the dock, our contemptuous prosecutors demanding: “What is your alternative, then?”

We were deemed heartless in the face of despicable atrocities, and the useful idiots and dupes of Saddam Hussein and Muammar Gaddafi who – unlike many of the warmongers themselves – we had always opposed.

What happened next?

Iraq was reduced to a killing field: hundreds of thousands died; millions injured, traumatised or displaced; a sectarian conflagration ensued; the rise of Islamic state and other extremists. Libya, too, reduced to bloody chaos, a petri dish for murderous jihadis. And yet the politicians who orchestrated war, and their accomplices in the commentariat who helped build the case, are still treated as the statesmen and women of moderation; hard-nosed realists, the sensible inhabitants of “the real world”.

In a just world, they would be disgraced, driven from public life, pariahs, every single one of them. Instead, they are paraded on television and given prestigious columns to incite yet further military interventions in the Middle East, without shame, without their bloody record being interrogated.

Here they go again.

There is no case to bomb Syria. This is meant quite literally: no case has been presented to the country.

What would the targets be?
How extensive would the operation be?
What would be the strategic goals?
What would success look like?
What would be the potentially adverse consequences – minor issues like a massive re-escalation of Syria’s murderous conflict or war with Russia, that kind of thing – and how would they be prevented?

Ah, but these are mere distractions, because something must be done, and anyone who says otherwise is heartless in the face of atrocities, or de facto stooges of Bashar al-Assad, or both.

All over again, it is we, the opponents of war, who are treated as the ones with the real questions to be answered, by a media elite that, over and over again, fails to scrutinise a disastrous western foreign policy.

History repeats itself, observed Karl Marx, “first as tragedy, then as farce.”

Assad is a monstrous dictator responsible for heinous crimes.

I am not in denial about the nature of Syria’s regime. But any military intervention will leave him in power, unless the west is planning a full-scale invasion and full-blown war with Russia – which strikes me as unlikely.

Apparently, a military strike will deter him from using chemical weapons against his own people.

This was the promised outcome when Trump sent dozens of missiles hurtling towards Shayrat airbase in April last year: that did not happen, and here we are again.

Either the west launches a symbolic attack the regime can easily absorb, achieving nothing. Or it executes a massive series of strikes that proves a game-changer after a seven-year civil war that has already taken the lives of hundreds of thousands, and re-escalates the conflict.

There are liberals who made so much of their horror at Donald Trump’s ascent to the White House, saying that having an authoritarian egomaniac as the world’s most powerful man was a threat to world peace, even that he was a modern-day Mussolini or Hitler. Now that he wants to drop bombs, they suddenly cheer him on.

Syria is often presented as a case study of disastrous non-intervention.
What utter rot.
Syria has been a battleground for foreign powers, from Russia to the Gulf states, for years.

The US has been bombing the country and supplying arms to rebels for some time.

Our client states – the dictatorships of Saudi Arabia and Qatar – have funnelled weapons and billions of dollars into the conflict, backing extremist groups responsible for multiple atrocities.

What has all this achieved, other than escalation and bodybags? There should be honesty among the war party, at the very least: its argument is not that there hasn’t been intervention, but that there hasn’t been enough intervention. No good can come of adding even more western missiles to Syria’s carnage.

A military alliance with Trump in Syria can only escalate the horror of this war. And, unlike the politicians and commentators who brought us the quagmires of Iraq and Libya, the British public know it.


[photo]
A man escapes battle in Mosul, Iraq, with his daughter, March 2018. ‘The politicians who orchestrated war are still treated as statesmen.

The Guardian, Last modified on Sat 14 Apr 2018 11.40 BST
An attack on Syria could be disastrous. But the warmongers won’t be told

Our leaders and elites continue to promote violence in the Middle East. Meanwhile, they pour scorn on those who oppose unjust wars

By Owen Joney, a Guardian columnist
https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/apr/13/attack-syria-disastrous-warmongers-middle-east-unjust

 アメリカ、イギリス、フランスの3ヶ国はシリアを4月14日早朝に攻撃した。
 詳細は不明だが、100機程度のミサイルを撃ち込み、そのうち15機程度は撃墜され、相当数はコースを外れたとも伝えられている。

 これらの国々は2011年3月からシリアを侵略、バシャール・アル・アサド政権の打倒を目指してきたが、送り込んだジハード傭兵は敗走、新たな手先にしたクルドとの関係も微妙で、リビアと同じように直接的な軍事侵攻を目論んできた。

 今回の攻撃は「化学兵器の使用」だが、そうした事実はなかった可能性が高い。
 過去、何度か同じ主張をしているが、いずれも嘘だったことが判明している。
 今回、米英仏の主張が正しいかどうかを検証するため、OPCW(化学兵器禁止機関)のチームがダマスカスへ入ったところだった。

 この機関をアメリカは完全にコントロールできていないようで、調査が行われればアメリカ側の嘘が明らかになったと見られている。
 ロシア政府は化学兵器を使った偽旗作戦にイギリスの情報機関が関与していると主張していた。
 攻撃には証拠隠滅の狙いもあるだろう。

 当初の見通しでは、伝えられている攻撃状況が正しいなら、ロシアからの反撃がないだろうという規模なのだが、それを否定するコメントがロシア側から出ていた。
 米英仏はグレーゾーンでの攻撃を実施したとも言える。
 イスラエルやサウジアラビアからの圧力もあり、アメリカの国務省やCIAは戦争を始めたがっていた。
 こうした勢力が国防総省を押し切った形だ。

 アメリカ軍は好戦派をなだめるために攻撃してみせただけだという見方もあるが、今回、ロシアが自重すれば米英仏は増長して好戦的な政策をさらに進め、ロシアが反撃すれば大規模な戦争に発展する可能性がある。
 偽情報を掲げながらイラクを先制攻撃した際、統合参謀本部の抵抗で開戦が1年ほど延びたと言われている。

 アメリカで最も好戦的な勢力は「肘掛け椅子」に腰掛けながら机上で戦争を妄想している「文民」だ。


櫻井ジャーナル、2018.04.14 15:46:37
OPCWのチームが調査を始める直前、米英仏はシリアをミサイル攻撃
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804140000/

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いしかわ百万石物語

 あのぉ〜春の宴の机の上にど〜んと置いてある一升瓶はなんですかって、ヤッホーくん聞いています。
 ロイヤル・バーシバシが答えてくれました。大きいのは「生原酒」小さいのは「大江山」ってんだよ。
 能登に来たら呑んでいかなきゃ、とヤッホーくんもすすめられましたが、いやぁ〜日本酒は良いねぇ。
 この蔵元は「松波酒造」と言って1868年、つまり明治元年が創業だから、今年は150周年になります。

松波酒造 ~能登の風土に寄り添う地酒~
能登半島にある能登町で明治元年から酒造りをしている松波酒造です。クラシカルな酒蔵で能登杜氏による寒仕込みで日本酒「大江山(おおえやま)」を造ります。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=6&v=-SbsttKKxLk

松波酒造 ~能登にこだわった大江山と柚子酒・柿酒・トマト酒・ゴボウ酒~
能登の地酒、松波酒造の商品PR動画です。大江山純米酒、柚子酒「松波ゆず子」、柿酒「松波柿蔵」、トマト酒「松波とま登」、ゴボウ酒「沢野ごん坊」など。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=6&v=F2WidIXHJFc

 このお酒を翌日、輪島朝市まで持っていって仲間内で花見酒としゃれてみました:

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 さらにヤッホーくんは、酒糟まで購入しましたが、これまた今朝、お味噌汁をつくるときに味噌と酒粕をスプーン一杯づつ入れたら、美味しいのなんのってお味噌汁を3杯もおかわり!

純米酒の酒粕のおいしい食べ方
www.o-eyama.com/jyunmaikasu.html

 いやぁ〜春の宴は良かった、良かった、お開きになったのは真夜中の12時!
 さらに、羽田空港に到着したら別れがたく、またまた「打ち上げ会」で盛り上がっておりました。

 いやぁ〜能登の地酒はサイコウ!日本人に生まれて良かったなぁとしみじみと思うヤッホーくん。
 実は4月12日はワイン醸造場へ!フランスでは女性が足踏みして葡萄をつぶしますがここでも?と
 ヤッホーくん、聞きまくっていましたが、私どもはいたしません、とのお答え、そうでしたかぁ。
 お伺いしたところは「能登ワイン」!

ワインづくりは、葡萄づくり、土壌づくり。
 水さえ用いないワインづくりは、葡萄の品質がすべてといっても過言ではありません。
 そのため能登ワインでは、創立以来、ヴィンヤード(葡萄畑)の整備に大きな力を注いできました。
 基本としているのは、葡萄に最も適した土地づくり。
 穴水特産の牡蠣の殻を土壌に混ぜ込み、芳醇な葡萄がたわわに実っています。
 現在、能登ワインではクオネスに用いるヤマソーヴィニュン種を始め、10種を越える赤ワイン種、多彩な白ワイン種など、多品種の葡萄栽培を進めています。
 穏やかな能登の大地に広がるスケールは東京ドーム6個分。
 北陸最大のヴィンヤード(葡萄畑)と評され、その規模は能登ワインの知名度とともに年々広がっています。

 世界農業遺産に認定された能登半島の中で、能登ワインのある穴水(あなみず)の地は、鏡のような穏やかな内海に面した、風光明媚な土地として知られています。
 冥王星を発見したパーシヴァル・ローウェルが、明治初期に能登半島を旅し「日本の原風景」と絶賛した穴水湾の風景は、いまもその面影を留めています。

http://notowine.com/

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 松波酒造の日本酒も能登ワインも、銀座のアンテナショップで購入できるんですって:

 年間約2,500万人もの人々が観光に訪れる石川県。
 伝統と文化に彩られた石川県は、四季折々の美味と豊かな風土、さまざまな工芸品や生活雑貨など、人びとを魅了してやまない魅力にあふれています。

 銀座に誕生した「いしかわ百万石物語・江戸本店」は、そんな石川県の美味や美品をずらりと取り揃え、東京近郊の方々に石川県を存分に味わっていただくためにオープンしたアンテナショップ。

 百万石お膝元の金沢市を含む加賀地方と、能登半島で知られる能登地方のふたつの地域から、海や山、田畑で穫れた旬の美味や伝統工芸品、伝統の技を現代に活かした新感覚の品々など、首都圏ではなかなか手に入りにくい稀少なものも含めて、全部で約1,900もの商品を揃えて皆様のお越しをお待ちしております。


いしかわ百万石物語・江戸本店 石川県アンテナショップ
http://100mangokushop.jp/

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のと きんぷら

 能登には鯨にまつわる伝説が数多く残っており、この庄次兵衛鯨もその伝説のひとつ。
 正保年間(1664頃)、猪平集落に正直者の庄次兵衛という男がいた。
 沖へ出る漁師になりたくて、矢波集落の木下文左衛門に頼んで網水夫になった。
 その年の春は毎日のごとく大漁が続き、取れた魚を肴に毎日のように酒盛りがあった。
 庄次兵衛はすっかり酒の味を覚え年がいってからも酒の味が忘れられず、矢波集落の居酒屋でゴロゴロしていたが、あるとき馬小屋で寝込んでしまいとうとう起きられない体になってしまった。
 村の人びとが不憫に思い食べ物を運び面倒を見てやるが亡くなってしまう。
 村人は生前庄次兵衛が「俺が死んだら、海へ流してくれ。必ず矢波の人に恩返しするよ」と言っていたことを思い、海の見える丘へ埋葬してやる。
 その数日後、「沖の台網に大鯨が一本入っているぞ・・」と言うので在所中の舟が出てその鯨を捕らえ、磯へ引き込んだ。
 鯨はおとなしく、切り開いてみるとひれの下に「庄次兵衛」という字が浮き出ていた。
 村人たちは庄次兵衛の死に際の言葉を思い出した。
 庄次兵衛の初七日の話である。

 その鯨肉は村中で分けたというが、おりしも不景気な時であったので、村中が潤ったそうだ。
 「33尋の庄次兵衛鯨」といって伝えられ、その鯨の骨が最近まで諏訪の森に残っていたそうである。


[写真] 庄次兵衛鯨伝説碑

未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選
「能登の漁業伝統」〜鯨伝説碑〜石川県能登町
http://www.gyokou.or.jp/100sen/pdf/100sijitu/si055.pdf

 能登のくじら漁・・ そうですか。
 それから時代は下って350年も後の昨年2017年です。
 能登ではこんなイベントがあったそうです:

 奥能登国際芸術祭(北國新聞社特別協力)が開催されている珠洲市内は2017年9月10、11日、大勢の観光客でにぎわった。
 山あいの若山町北山では、日本人の漁業の関係を語り合う「鯨談義(くじらだんぎ)」が行われたほか、関西や東京の珠洲出身者らが里帰りし、ふるさとを彩るアート鑑賞を楽しんだ。

 若山町北山にボラ待ち櫓(やぐら)などの作品を展示している北海道教育大教授の坂巻正美さんは11日、同所で「鯨談議」を開き、関係者が奥能登の漁業などについて解説した。

 神社の宮司をイメージしてはかま姿となった坂巻さんは、北九州市立大の学生2人とともに、来場者約40人が見守る中、ボラ待ち櫓の上に登り、自作した「北山鯨歌」を歌い上げた。
 その後、近くの小屋で関係者が、ボラ待ち櫓や能登のクジラ漁の歴史、山口県で行われているクジラにまつわる祭りなどについて解説した。


[写真]ボラ待ち櫓に登って歌を歌い上げる坂巻さんと学生=珠洲市若山町北山

北国新聞、2017/09/12 01:59
アートが吸引、珠洲に人波
奥能登芸術祭、「鯨談議」で漁業解説

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/OD20170912501.htm

 ヤッホーくん、で驚いたのは、この「能登の漁業伝統」の末尾に「見どころ」コーナーがあってこんな記述が…

能登海洋深層水施設:
 2005年8月にオープンした施設。
 能登町小木沖3.7q地点、水深320mから1日約100トンの海洋深層水を取水しており、施設では「能登の塩」や原水、濃縮水、脱塩水が販売されている。
 また、関連商品として、水産加工品などにも多数利用されている。


 でね、その日2018年4月11日(水)の山歩クラブ合宿会場は「のと きんぷら」でした。
 「きんぴら」と「てんぷら」の合成語とばっかり思っていたのですが「勤労者プラザ」を縮めたことば。
 かつては公共の宿だったこのお宿のお風呂は、なんとこの「能登海洋深層水施設」から引いてきたもの。

 大浴場と露天風呂は、日本海の小木沖の水深320mから取水した「のと海洋深層水」を利用しています。
 この海洋深層水は、美肌・保湿効果に優れ、温浴効果も高いとされておりお勧めです。
 合わせて、リラックス効果もあるとされていることから、日頃のお疲れや旅やレジャーのお疲れが癒され、きっとご満足いただけます。
 露天風呂は、緑に囲まれ清々しい気分に浸されます。

http://www.notokin.jp/facilities/

 お風呂もいただき、美味しい夕食も済んだ後の春の宴もたけなわ、といったところ。
 山歩クラブのロイヤル・バーシバシが身振り手振りで踊りはじめようとしています:

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(注)ボラ待ち櫓
 天文学者パーシバル・ローエル(1855-1916)が、著書『NOTO、能登・人に知られぬ日本の辺境』の中で「怪鳥ロックの巣のようだ」と表現した漁業用のやぐらです。
 やぐらの上で終日、ボラ(魚の一種)の群れを見張り、網をたぐるという原始的な漁法で、最盛期には、町内に40基を超えるやぐらが立てられていました。
 1996(平成8)年秋を最後に、この漁法を行う漁師はいなくなりましたが、2012(平成24)年の秋に漁が再開されました。
 現在、国道249号の穴水町の根木、中居ポケットパークと潮騒の道で、ボラ待ちやぐらを見ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=aTLVthc_aqc

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奥能登は義経伝説の郷

 「有名芸能人が最強のパワースポットと言っているようですね」

 珠洲(すず)市長から聞いた話に誘われ、同市三崎町寺家の須須(すず)神社を訪ねた。
 神社が京の都からみて、鬼門とされる北東の方角の最果てに位置し、都の最強の守り神なのだという。

 境内にある神社の由緒書きには、それらしきことは書かれていないが、参道脇に茂る木々は神々しく、気が満ちる感が確かにあった。
 神社近くの浜では現代アートの作品が展示されている。
 「奥能登国際芸術祭」の作品の一つだ。
 万葉の時代から都人を魅了した自然、風土が作品を盛り上げる。珠洲が今、断然面白い。


北陸中日新聞、2017年9月18日
須須神社
(編集局長・大場司)
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/column/fumon/CK2017091802000197.html

 ヤッホーくんもお参りに行ってまいりました、珠洲市の須須神社
http://www.genbu.net/data/noto/suzu2_title.htm
http://www.geocities.jp/une_gen/VisitTheGroundOfYoshitsuneConnection.htm

 ヤッホーくんが今回の合宿で出会って、拝みたかったものがります。
 それが、蝉折れの笛と、守刀(義経の笛と弁慶の守刀)なんですぅ!
 義経が幼少の頃、京都の鞍馬山で修業を積みました。ヤッホーくんも
 ムカシ、京都での国際シンポの準備で、3ヶ月ほど暮らしていました。
 その折に、休みを見つけては鞍馬山のあの森を歩いていたものでした。
 そして鞍馬山の後の義経は、どうなったのでしょうか、と申しますと
 奥能登、そして佐渡島、そして山形県の鼠ヶ関に上陸するのでした!
 奥能登の珠洲市は須須神社、国の天然記念物の森に囲まれています!

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 歴史上の英雄である源義経をNHKは、今で言う「大河ドラマ」に二度放映しているが、第一回目は1965(昭和40)年でテレビが漸く広く家庭に普及した頃であり、その際、作家の村上元三先生が山形県鼠ヶ関に来られて「源義経ゆかりの地」の揮毫をされ、現在、石碑が弁天島に建てられておるが、「史蹟念珠関址」の碑文の説明では、当地方には次のような伝説として伝えられている:
「義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、馬下からは船で海路をたどり鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過したとある」
 
 しかし、これまでは越後からどのような方法で出羽の国に入ったかは不明と史書ではされておった。
 当時、村上先生も義経一行が船で鼠ヶ関に入ったことの確証がなく「ゆかりの地」と書かれたと聞いております。
 それから21年後の1986(昭和61)年、テレビ放映の後、村上先生には再度鼠ヶ関に来られ、その後の研究によって確認を得られたことにより「源義経上陸の地」として揮毫し、記念碑が建立された。現在、青少年海洋センター前に建てられておるものです。
 その際、記念石碑除幕式の記念講演会で、村上先生は、

北陸の能登半島の大谷というところから妻(義経には4人の妻がいた。その一人である平時忠の娘で名前は判っていない)を連れだして突先の珠洲という港から佐渡ヶ島を経由して鼠ヶ関に上陸したというのです

 そして最初は「源義経ゆかりの地」としたが、その後調べてみて鼠ヶ関は「上陸の地」であるという確信がついて石碑を揮毫したというのです。
 これまでは、義経一行が北陸から出羽にどのように入ったかは不明とされてきましたが、村上先生は証拠も残っておるし、古文書も残っておるといっております。


鼠ヶ関より、2012年8月19日日曜日
源義経と鼠ヶ関
http://nezugaseki50.blogspot.jp/2012/08/blog-post_4220.html

 珠洲市三崎町寺家の須須(すず)神社金分宮(きんぶんぐう)で2018年3月15日、豊作や無病息災などを願う的打ち神事が営まれ、神職らが災いを払うため、的を狙って矢を放った。
 的打ち神事は江戸時代、流鏑馬(やぶさめ)神事として始まったとされる。
 集まった住民ら約50人が見守る中、猿女(さるめ)貞信宮司(79)が、災いが潜んでいるという北東や西南など四方に向けて矢を構え、約20メートル離れた的に向けて4本を放った。
 的を射抜くと幸福になるといわれることから、集まった氏子や住民も弓を引いた。餅まきも行われた。


[写真]
災いを払うために的を狙う猿女宮司=珠洲市三崎町寺家

北國新聞、2018年3月16日
珠洲の須須神社で的打ち神事
http://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000013943

 そうなんです、須須神社の宮司様(写真撮影も特別に許可してくださいました!)が、ていねいに説明してくださいました。
 さらに珠洲市観光ガイド「珠洲おらかた案内人」からは、子どもたちに言い聞かせるような熱のこもったお話を伺いました。

牛若丸/三田明(1947年生まれ)
https://www.youtube.com/watch?v=7s11OCI8NME

ヤセの断崖と義経の舟隠し
https://www.youtube.com/watch?v=qErgb6RZKqI

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2018年04月13日

アベ、アソウやめろ

 いやぁ〜、奥能登から東京に戻ってまたまたびっくり、ヤッホーくん!
 奥能登で出会った日本人にはこんな低劣なアホバカはいませんでした。

 4月6日21時。
 ネクタイもゆるゆるのまま東京・白金の高級焼肉店から出てきたのは、“最強官庁”こと財務省の事務方トップ・福田淳一次官(58)である。

 「実はこの日は、次官室のメンバーが主催した、福田さんを囲んでの“おつかれ会”だったんですよ」

 とは、大手紙経済部記者。
 むろん財務省といえば、いまだ森友文書改ざん問題≠ェ国会で追及されている真っ只中。
 そんなタイミングで福田氏は、一体何を労われたのかといえば、

「本年度予算案が成立したこと、だそうです。時節柄、“それはカモフラージュで、太田さん(理財局長)とか、他の幹部が集まってなにかしら相談でもするのでは”と、各社勘ぐりましたが……」(同)

 福田氏以外幹部はゼロ。本当に単なる飲み会だったのだ。

「福田さんは大の会合好きで、改ざん問題が発覚してからも、夕方になるとすぐいなくなる。なにかにつけて、毎晩飲み歩いています」
(財務省関係者)

 そういえばこの日も18時半過ぎには財務省を出発。
 焼肉店に直行していた。
 とても“渦中の省”の頂点に君臨する人物とは思えぬ身のこなしである。

「でも、百歩譲って、仲間と楽しく飲むだけなら、まだいいんです」

 とは、先の経済部記者。

「飲みの席でのセクハラがひどい。今回の会合でも、次官室のスタッフに交じって、民間企業に勤める若い女性が招かれていましたが」

 その席で福田氏は、

「彼女が赤面してしまうような卑猥な発言を連発。でも、なんせトップだから、同席者の誰も注意していなかった」
(同)

 福田氏がこれまでに行ってきたろくでもないセクハラ行為の実態については、現在発売中の「週刊新潮」で詳しく報じている。
 その中で福田氏は、本誌の取材に対し、セクハラを全面的に否定した。
 しかし、報道後に始まった他社からの取材に対しては態度を一変。いまだに沈黙を続けている。

 そこで今回、週刊新潮編集部が極秘入手した、福田淳一財務事務次官の「セクハラ音源」の一部を、ここに公開する。

[音源]速報女性記者に「胸触っていい?」「浮気しよう」
財務省トップがセクハラ発言


週刊新潮 2018年4月19日号掲載
「財務省トップ」福田淳一事務次官のセクハラ音源公開!
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/04131400/

 麻生財務相は13日、複数の女性記者へのセクハラ発言を週刊新潮で報じられた福田財務事務次官に「事実ならアウト」と述べた。その上で「今の段階で処分を考えているわけではない」と説明した。アウトの事案を調査もしない、処分もしない、麻生さん論理的にどうつながるのか説明して下さい。
 この件の卑劣なのは、単に女性に関心を持つ、胸触りたい、浮気したいという願望を持つというここではない。記者は情報を取りたいからどうしても情報源(この場合は次官)に近づきたいと思う。相手の弱い立場を利用し自分の欲望を吐露するという、そのような人間が省の代表であるという事だ。
 財務省はここまで落ちたか。週刊新潮「女性記者に「胸触っていい?」「浮気しよう」財務省トップがセクハラ発言」、麻生財務相、福田次官を口頭注意。かつては次官と言えば人柄も重視された。一体今の財務省は迫田氏、佐川氏そして次官といいどうなったのか。
孫崎享

【セクハラ内閣】
レイプ疑惑隠しのアベ内閣はセクハラまみれの内閣だ。アベ友財務省3人組の福田財務次官の最低レベルのセクハラ発言に加え、厚生省の局長も部下にセクハラだ。アソウはセクハラは調査も処分もしないという。もうアベ、アソウやめろ、しかない。
金子勝

これってセクハラそのもののキモさに加えて、ノーチェックの権力を牛耳ってるからそのキモさをノーチェックで出していいと思ってるキモさもある。まあ、こいつら何やっても捕まらないと思ってるよね。
中野晃一

麻生氏セクハラ報道の事務次官処分せず。
望月記者「事務次官のセクハラの件。財務省は調査も処分もしないとの事。前川氏の出会い系バーについて菅さんは繰返しあるまじき行為と厳しく批判した。今回の件は?」
ポンコツ「麻生大臣の答弁通り」
女性舐めんな。
消えろ、菅。
Umekichi

財務事務次官のセクハラ疑惑。麻生大臣は「事実か分からない」と調査・処分に言及せず。新潮の音源の一部公開を受け、改めて菅長官に「最低限の調査が必要では?」と問うと「大臣が言った通り」。官邸や麻生大臣の問題意識の低さには愕然とする。
望月衣塑子

 11日の衆院予算委員会で玉木雄一郎議員(希望)が安倍首相を追及中、はるか後ろの席にいた佐伯耕三首相秘書官が、何やら叫んだ。
 玉木議員は「秘書官ですか? あなたは。質問者にヤジを飛ばすのはやめてもらいたい」と抗議した。
 議員ならともかく、秘書官のヤジは前代未聞だ。朝からワイドショーを賑わした。官邸御用達のコメンテーター、田ア史郎氏は「安倍総理にアドバイスしていただけですよ」と佐伯秘書官を擁護する。「あぁ、そうだったのか」と思わされた視聴者は少なくないはずだ。
 田中は玉木議員本人に事情を聞いた。玉木氏は「(佐伯秘書官は)私(玉木)の目を見て『違うよ』と言った」と証言した。
 助言は普通、耳元で囁くかメモを渡すか、だ。3mも4mも後方から安倍首相に助言などできるわけがない。
 佐伯秘書官はやはりヤジを飛ばしていたのである。スシローに騙されてはならない。
 いつものことながら安倍首相の答弁もお粗末だった。「国有地の8億円値引きは適正だと思うか?」と玉木議員に問われると、首相は「適正かどうか答弁できる立場でない」と答えた。
 近畿財務局が「ダンプカー4千台分のゴミが埋まっていたことにしてくれ」と森友学園側に口裏合わせを依頼していたことまで明らかになっているのである。中学生でも適正でないことが分かる。

 財務官僚出身の玉木議員が、中学生以下の知的レベルしかない安倍首相を一喝した。
 「国の財産を適正な対価なくして譲渡または貸しつけてはならない。法律(財政法9条)に明確に規定されてるんですよ。そのことを一国の総理大臣がトップとして答えられない。どうなってるんですかこれは」と。

 あまりの酷さに森ゆうこ参院議員は、衆院予算委員会を中継していたテレビを途中で切った、という。
 「私がもしあの場(衆院予算委)にいたら議長席をひっくり返して蹴りを入れる」と憤った。
 森ゆうこ議員はプロレスラー出身の自民党議員をド突いた武勇伝を持つ(註※)。本当に議長席をひっくり返して蹴りを入れるだろう。

 きょうも野党5党は合同で財務、国交省からヒアリングした。森議員は居並ぶ財務、国交官僚たちに諭すように言った―

「安倍内閣を守るためにウソをつかされて・・・国民のために能力を発揮すれば、いい法律を10本くらい作れる人たちがもったいない。何の生産性もないし、そんなことする必要もない」

 オツムの弱い首相のためにハイパー頭脳を持った官僚たちが法律さえも破る。
 国家が壊れて行くさまを我々は今、見せられている。


註※)2003年参院外交防衛委員会でイラク復興支援特別措置法を与党が強行採決しようとした際、乱闘となった。森ゆうこ議員(自由)は大仁田厚議員(自民)の髪をつかんで頭を叩いた。


[写真-1]
玉木雄一郎・希望の党代表。11日の衆院予算委では、論理的な追及で安倍首相のバカさ加減を引き出した。=12日、衆院第16控室

[写真―2]
「あるのは政治への不信、行政への不信だけ」「国会やっても意味がない」。うなだれる森ゆうこ議員(自由)。=12日、野党合同ヒアリング 衆院第16控室

[写真―3]
見え透いたウソを連日のように吐き続けなければならない官僚たち。「コントの世界ですよ」と森ゆうこ議員に指摘され、しばし呆然となった。=12日、野党合同ヒアリング 衆院第16控室

田中龍作ジャーナル、2018年4月12日21:14
首相秘書官は玉木議員の目を見て叫んだ スシローに騙されるな
http://tanakaryusaku.jp/2018/04/00017946

【国会でヤジの首相秘書官はイマイの子飼い】
国会ヤジの佐伯耕三秘書官は、首相官邸の内閣副参事官から昨年7月、史上最年少の事務の首相秘書官になった。イマイから秘書官=親衛隊に抜てきされたイマイの子飼いだ。アベは友を呼ぶ。同じ行動様式をとる。
金子勝

 首相官邸の内閣副参事官から2017年7月、史上最年少の事務の首相秘書官に抜てきされた。
 灘中高から東大に進み経済産業省に入る華麗な経歴だが、童顔から繰り出す関西弁はエリート臭を感じさせない。

 安倍晋三首相の最側近である政務秘書官の今井尚哉氏から秘書官の打診があった。
 第1次安倍政権時に事務秘書官を務めていた今井氏は経産省の16年先輩で、当時も秘書官付としてタッグを組んだ。
 前職で安倍晋三首相の国会演説などの草稿を書くスピーチライターを担った。
 日々の首相との会話から、首相の考えとぴったり合うエピソードを探し出す。
 ネタ探しに戦前の国語や修身の教科書まで読みあさった。
 現代日本人が知らない偉人の宝庫だという。
 首相が今年の施政方針演説で取り上げた土佐藩重臣の野中兼山は典型だ。

 現場主義がモットー。
 民主党政権時、円高で日本企業が海外進出を急ぐなか、産業空洞化を食い止めようと企業立地の補助金の大幅増額を目指し「財務省から出入り禁止を食らった」(佐伯氏)。
 説得の材料を探すため、週2回出張に出て全国の工場を歩き回った。
 官邸での仕事が長く計7年半。
 米国留学を合わせると経産省の外にいる期間が半分近くになった。
 省の後輩には難しい課題に逃げずに取り組むよう促すためこう訴え自らも奮い立たせる。

「やれることよりやるべきことをやろう」
=佐伯耕三(さいき・こうぞう、42歳)


日本経済新聞・夕刊、2017/8/9付
佐伯耕三さん
現場主義、難題と向き合う
最年少の事務首相秘書官

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO19813870Z00C17A8EAC000/

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能登立国1300年

 ヤッホーくん、もうひとつ、腰を抜かしてしまいました。
 能登立国1300年、これを記録せずんばしかに道を知らず!と

 来年2018年の能登立国1300年に向けて観光誘客で連携する羽咋市の日蓮(にちれん)宗本山妙成寺と、輪島市の曹洞(そうとう)宗大本山總持寺祖院は2017年12月18日、「のと鉄道」穴水駅で、新たに作成した「御朱印」を披露した。
 当初は共通デザインを取り入れる計画だったが、「能登立國千三百年」の文字以外は、両寺の特徴を表現するデザインに改めた。来年2018年1月から1年間、300円を納めた参拝者に印を押す。

 妙成寺の御朱印は、直径約4センチの円の中に五重塔と二王門が描かれている。總持寺祖院は約5センチ四方の中に御紋の「五七桐」をあしらい、その中に能登半島の図を入れた。

 御朱印の押印を求めた人には両寺院共通の説明書を手渡す。それぞれの印の特徴が書かれており、一方の寺を訪れた人が、別の寺を訪れる契機とする。仲介した「のと鉄道」(穴水町)と連携しながら、両寺院を回るツアーを県内外の旅行会社に提案していく。

 妙成寺の山川知則執事長(42)は「一目で妙成寺と分かるデザインにした。御朱印を集める人も喜んでくれると思う」とし、總持寺祖院の大橋紀宏副寺(ふうす)(55)は「能登立国1300年を県内外で盛り上げる一助になってほしい」と話した。


[写真]
御朱印紙を紹介する山川執事長(左)と大橋副寺=のと鉄道穴水駅

北国新聞、2017/12/19 02:02
能登立国1300年へ御朱印完成
妙成寺と總持寺祖院

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20171219103.htm

 今年2018年は、奈良時代の養老2年、西暦718年に、当時の越前の国から羽咋、能登、鳳至、珠洲の4郡を分けて、能登国が立国してから1300年という大きな節目の年にあたるわけであります。
 地元では、この節目の年を、能登を全国にアピールする絶好の機会と捉えまして、現在、能登の4市5町や観光協会、民間事業者等で組織する能登半島広域観光協会を中心に、県も参画しまして、これまで実施をしております、「能登ふるさと博」の充実など、具体の検討がなされとるところであります。

 一方昨年2017年は、白山が開山しまして1300年の節目の年でございました。
 私の方から岐阜県、福井県の両知事に提案をして、白山のガイドブック「まっぷる白山」(昭文社)を発行いたしました。昨年2017年5月から販売されまして、既に全国47都道府県での販売実績があり、発行元からは大変好評とお聞きしております。観光誘客の有効な手立てになっていると我々は理解しているわけであります。

 そこで、今年2018年、立国1300年を迎える能登においても、能登の魅力を満載したガイドブックを作成してはどうかと地元に提案しましたところ、ご賛同をいただき、現在、地元の皆さん方とともに発刊に向けた検討を進めているところでございます。
 ガイドブックの内容については、今後、具体的に詰めていくことになるわけでありますが、世界農業遺産「能登の里山里海」の豊かな自然や食はもとより、温泉や伝統工芸、さらには祭りといった、1300年にわたって培われてきた能登の魅力を紹介しますほか、能登の観光スポットや新鮮な海・山の幸を味わえる飲食店情報など、能登を巡りたくなる旅の情報を満載したガイドブックにしたい。
 このように考えておりまして、ゴールデンウィーク前に全国で発売できるよう準備を進めていきたいと考えております。


石川県公式サイト、知事記者会見(年頭知事会見)、2018(平成30)年1月4日
能登立国1300年に向けた観光誘客
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/chiji/kisya/h30_1_4/08.html

 第29回和倉温泉北國春花火(北國新聞社、和倉温泉観光協会、同温泉旅館協同組合主催)は2018年4月7日、七尾市和倉温泉の湯(ゆ)っ足(た)りパークをメーン会場として行われた。
 能登立国1300年を記念した「黄金100連発」など7色の大輪が温泉街を鮮やかに照らし、大勢の観光客や市民が能登の節目を祝した。

 七尾湾に浮かぶ台船から、「和倉春の彩」を皮切りに、「きらめき花模様」「海の花束」など趣向を凝らしたスターマインや10号玉が次々打ち上がった。
 「祝・能登立国1000年 未来へつなげる黄金の光」と題して100連発で豪快に締めくくると、見物客から歓声と拍手が湧き起こった。

 1月に実施してきた「北國冬花火」を4月第1土曜日に変更して今回で2回目の開催となった。
 例年は閑散期となる年度初めの旅館はほぼ満室となり、和倉温泉関係者は「北陸新幹線開業4年目の集客へ幸先いいスタートになった」と話した。

 湯っ足りパーク駐車場には飲食販売コーナーが設けられ、家族連れらが、シーズン終盤を迎えた「能登かき」の炉端焼きなど能登の味覚を堪能した。


[写真]春の夜空に大輪の花を咲かせた北國春花火=7日午後8時35分、七尾市和倉温泉

北国新聞、2018/04/08 01:51
能登立国1300年、記念の100連発
和倉温泉北國春花火

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/TR20180408701.htm

石川県七尾市 和倉温泉空中散歩の旅
https://www.youtube.com/watch?time_continue=6&v=JPHuG4Vntlo

 奈良時代に越中国守を務めた万葉歌人、大伴家持(718-785、大伴家持が国守として赴任してきたのは746(天平18)年、29歳の時でした。家持は越中の地に5年間滞在)の能登巡行を描いた障壁画が、七尾市和倉温泉の旅館「大観荘」(http://www.daikanso.jp/)にお目見えした。
 京都在住の絵描きユニット「だるま商店」(http://dalma.jp/)が、能登立国1300年と家持の生誕1300年を記念して制作した。
 躍動する家持と、万葉集に詠まれた七尾湾の風光明媚(めいび)な景色が描かれ、能登の歴史を鮮やかに浮かび上がらせている。
 「だるま商店」は、絵師の安西智(さとし)さんと、アートディレクターの島直也さんで結成し、極彩色で和の世界を描くグラフィック作品を特徴としている。
 広告、建築などさまざまな分野で活動するほか、六道珍皇寺(京都)の屏風(びょうぶ)、隨心院(同)の障壁画など有名寺院への作品奉納も多い。
 大観荘の女将(おかみ)、大井マ璃幸(りこ)さんの長女真由美さんが知り合いだったことから、宴会場に描いてもらうことになった。

 作品は高さ3メートル、幅4メートルの壁に墨で描かれた。
 家持が能登島の神々しさをたたえた歌で万葉集に残る「鳥(と)総(ぶさ)立て 船木伐(ふなきき)るという 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びそ」を題材とし、冬雷「ぶりおこし」や、和倉の湯煙など、遊び心もちりばめられている。
 作品名は「大伴家持卿能登賛歌」。
 2人は「家持が生まれた年と能登国の誕生が同じ718年であることに感銘した」とし、能登を巡った家持の心境と、現代の能登の景色を融合させた作品にしたという。
 大井さんは「能登が万葉集に詠まれていることは素晴らしいこと。多くの方に気軽に見に来ていただきたい」と話した。


[写真]
大伴家持の能登巡行を題材にした障壁画=七尾市内の旅館

Yahoo! Japan ニュース、最終更新:4/13(金)0:59
大伴家持を障壁画に
和倉温泉の旅館 能登立国、生誕1300年を記念

[出処]北国新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180413-00592235-hokkoku-l17

posted by fom_club at 17:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

能登半島地震から11年

 ヤッホーくんたち奥能登・春合宿ご一行様、昨日の4月12日、總持寺祖院、能登立国1300年特別拝観を終え門前町總持寺通りの堀端交流広場にて。
 突然ヤッホーくんは、江戸ちゃんに「あれは何?」と聞いていました。
 奥ちゃんが「復興感謝」って書いてあるねって。
 そういえば、總持寺も地震で損傷を受けたそうな、門や廊下を直すにはあと3年とか、まだまだ時間がかかりますって、仰っておられましたぁ〜
 そんな地震があったっけと毛の失せたアタマをぼりぼりかきながらヤッホーくん、もうきおくが記憶がおぼろ月夜、暗くってわかりましぇ〜ん。
 失礼ですよね、被災者の方々には、メッ、せめて記録に留めておこうと:

2007(平成19)年3月25日9時41分 能登半島地震
https://www.youtube.com/watch?v=bQYsy3gCzo0

 ライフラインが途絶え、急な連絡は放送や人の声など音で伝わってくる地震の被災地−。
 聴覚障害者は「情報過疎」に陥る危険性がある。
 能登半島地震では、聴覚障害者に何が起きたのか。
 被災者と石川県輪島市、同県聴覚障害者協会の関係者に聞き、聴覚障害者への防災支援の在り方を探った。

届かない 災害情報
携帯頼み 募る不安
公共の連絡体制整えて


 頼みの綱と思ったテレビのテロップは「避難」「能登半島で強い地震」などと、ひと言を伝えるだけだった。津波が来るのか山崩れなのか。それとも余震の恐れなのか。なぜ避難が必要なのか、理由までは教えてくれない。

字幕放送もなく

 輪島市新橋通りの臨床検査技師で、聴覚障害者の矢部美津子さん(59)は、市内の教会の台所で牧師の送別会用のごちそうを調理し終えた直後に被災した。近くの自宅に戻ると、とたんに“情報過疎”を感じた。地方用のテレビ放送の地震関連ニュースには、字幕や手話通訳がなかったからだ。
 「災害時は特に、自分で判断するためにはリアルタイムに情報が必要だ」と考えている矢部さんは、もどかしさでいっぱい。手にした携帯電話のメールで情報を集めた。
 輪島市からの聴覚障害者に向けた情報提供はない。代わりに災害情報を送ってくれたのは、要約筆記のサークル。余震も収まらない中、聴覚障害者らのために、地元のボランティアらが防災行政無線で流す情報を、事前に頼んだ障害者らに知らせていた。
 今回は携帯の情報が入り安心できた。しかし、そんなサービスも知らず、自宅が全壊して避難所生活を送っていたらと考えると、不安でいっぱいになる。
 県聴覚障害者協会と奥能登ろうあ協会には、地震で苦労した聴覚障害者の情報が伝わっている。

 輪島市の海沿いに住む能登町の70代の男性は、津波についての情報が聞こえなかったため、家に居続け、避難が遅れた。七尾市では断水・給水情報が伝わらない聴覚障害者もいた。

 矢部さんは「助けてくれるボランティアも仕事があり、防災行政無線をすべて聞けるわけではない。高齢化が進むにつれ、難聴者も増えるだろう。行政サービスの公平性という点からも、市は聴覚障害者への災害情報の提供体制を整えてほしい」と訴える。

重要な社会参加

 地震を踏まえ、県聴覚障害者協会は、輪島市や珠洲市、穴水町、能登町と共同で、聴覚障害者の戸別訪問をした。
 奥能登の聴覚障害者には
▽ 大半が家族と暮らしている
▽ 障害者同士の交流が少ない
▽ 文字や手話ができない人が多い
▽ 福祉制度を知らない人が多い−などの特徴がはっきりした。

 県聴覚障害者協会と、奥能登ろうあ協会の中谷勲会長(65)は、これらの点を踏まえた防災対策が必要だという。具体的には「聴覚障害者同士が気軽に集まることができる送迎付きのデイサービス事業が適している」と提案する。
 どんなに立派な情報提供体制をつくっても、日ごろの連携がなければ機能しない。県聴覚障害者協会は、デイサービス事業によって聴覚障害者が社会に参加し、障害者同士や地域住民、行政と情報交換できる場になるとみている。
 また、県聴覚障害者協会は、協会に加盟していない障害者と交流を進めようと、昨年2007年11月、輪島市内で料理講習会と交流会を兼ねたミニデイサービスを開き、数人が参加した。今後も年5回ほどは開き、さらに交流を深めていこうとしている。


北陸中日新聞、2008年1月25日
能登半島地震 10ヶ月
輪島
被災時 聴覚障害者は

http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/toku/hknotoeq/list/200801/CK2008012502082531.htm

 春が巡るたび、思い出す。
 感謝で胸が詰まる。
 能登半島地震から11年。
 まな娘は11歳になる。
「ほんと強い子に育った。心も体も」
 石川県輪島市鳳至町の岡田麻衣子さん(38)は口元を結んだ。
 あの日、能登を離れていてけがはなかった。
 が、自宅には戻れず、車中泊する事態に。
 身重の体。
「寒さに震え、祈るように朝を待った」
 10日後、市立輪島病院でわが子と対面した。
 地震後の「第一号ベビー」だった。

出産直前 震えた夜「伝え継ぐ」

 いつの間にか、少し見上げるほどになった。
 赤いランドセルの次女ひゅうさんは身長158.8センチ。5年生になる。その姿をみつめながら、母が言う。「この季節、頭に浮かぶのは能登の地震。ぺしゃんこの家とか、飛び散った瓦とか」

 あの日は当時小学生の長男の空手大会。応援のため、同じく小学生の長女を連れ、夫の春生(しゅんせい)さん(43)とともに金沢市へ。
 予定日の2週間余り前。
「出産前の最後の遠出のつもりだった」
 会場の体育館でふらっときて、天井が回った。
「金沢で大地震かと思った。テレビを見たら、輪島がえらいことになっとった」

 震度6強。
 住み慣れたまちが一変した。停電に断水。道路は陥没した。繰り返す余震。帰宅をあきらめ、少し離れた近郊の公園駐車場にマイカーを止めた。

 家族4人。そしておなかの子。狭い車内で肩を寄せ合った。マタニティー服のまま、目を閉じた。母子手帳はない。破水や陣痛を思うと、気が気でない。
「しんどいというより、怖くて眠れなかった」
 丸いおなかを何度もさすった。

 自宅に戻ると、壁にはひびが入り、玄関の扉は壊れていた。混乱はしばらく続いた。だから、陣痛がきた時、少しホッとした。予定日より一週間ほど早かったけど「これで助かった、と楽になった。病院は安全だと思ったから」。
 2007年4月4日午後8時32分。次女が生まれた。
「地震後、輪島病院で初めての赤ちゃんやよ」
 看護師の祝福が忘れられない。胸に抱いたわが子のぬくもりも忘れられない。

 だから、2011年に起きた東日本大震災を思うと切なくなる。
 海まで直線で100メートルほどにある自宅は波音が近い。
「地震や津波への備えを大切にしたい。ちゃんと伝えていく。あの時、すごくつらかった気持ちをむだにしたくない」


能登半島地震

2007年3月25日午前9時41分に発生。地震の規模を示すマグニチュード(M)は6.9。輪島や七尾、穴水の各市町では最大震度6強、志賀や中能登、能登の各町では震度6弱を観測したほか、北陸を中心に北海道から中国・四国地方にかけて震度5強〜1を観測した。珠洲市では最大22センチの津波を観測した。住宅2426棟が全半壊し、死者1人、重軽傷者は338人。仮設住宅ではピーク時に329世帯、736人が生活した。

[写真]
地震から10日後。次女のひゅうさんを胸に抱き、家族で写真におさまる岡田麻衣子さん=2007年4月4日、石川県輪島市の市立輪島病院で(岡田さん提供)

[写真]
今春、小学5年生になる岡田ひゅうさん(左)。母の麻衣子さんは、その成長を優しく見守る=石川県輪島市鳳至町で

北陸中日新聞、2018年3月26日
命の重み 育んだ11年
能登半島地震

(前口憲幸)
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2018032602100008.html

 最大震度6強を観測し、石川県内で1人が死亡、338人が負傷した能登半島地震から、3月25日で11年を迎えた。
 被害が大きかった輪島市門前町では、復興支援に感謝し、全国の自然災害の早期復興を祈願する式典が開かれ、住民らは震災の記憶を風化させずに語り継ぎ、防災意識を高める決意を新たにした。

 「復興感謝之碑」が立つ門前町總持寺通りの堀端交流広場では、追悼と感謝の式典「3.25の灯(ともしび)」が行なわれ、約50人が地震発生時刻の午前9時41分に黙とうした。
 鈴木永一(えいいつ)監院(かんにん)老師ら總持寺祖院の僧侶が般若心経を唱える中、参列者が焼香した。

 主催した總持寺通り協同組合の五十嵐義憲代表理事(70)は、今冬の寒波による断水で備蓄していた飲料水が役立ったことを紹介し、災害に備える大切さを呼び掛けた。

 總持寺通り商店街では39店舗のうち28店舗が全半壊し、2011年末に再建を果たした。
 住宅が全壊した門前町門前の音楽講師酒井人栄さん(63)は「地震から何年たっても、この日が来ると胸が詰まる」と手を合わせた。

 輪島市は3月25日を「市民防災の日」と定めている。
 市は地震を機に、防災士育成に力を入れ、3月末で人口の2.2%となる617人となる見通しだ。


[写真]
全国の自然災害被災地の早期復興などを祈願した式典=輪島市門前町の堀端交流広場

北国新聞、2018/03/26 02:29
全国の被災地復興願う
能登半島地震11年、門前で「3.25の灯」

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20180326102.htm

posted by fom_club at 14:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする