2018年02月28日

政府の犬は批判精神を持ち合わせていない

(クアラルンプール)--
 マレーシア政府が批判的意見を沈黙させるべく刑法に訴えるなか、公開討論と言論の自由のための場が急速に縮小していると、ヒューマン・ライツ・ウォッチは本日発表の報告書内で述べた。2015年11月18日、安倍首相、オバマ米大統領ほか世界各国の指導者がマレーシアの首都クアラルンプールに集結するが、これは厳格なマレーシア国内法の改正と検閲の廃止を促す好機といえる。
 ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア局 局長ブラッド・アダムスは、「ナジブ・ラザク首相とマレーシア政府は、平和的な表現を犯罪とみなす国内諸法を改正すると約束しながら、再三にわたりその約束を破ってきた」と指摘する。

「政府は批判を犯罪として扱うことで、民主主義および基本的権利を保障しているとする自らの主張を愚弄している」
 
 報告書「恐れの文化創造:マレーシアにおける平和的な政府批判の犯罪化」(全145ページ)は、公共の利益に関する討論など平和的な表現を犯罪とみなし、広くあいまいな一連の文言で構成される諸法を、政府が利用・悪用している実態を調査・検証したもの。また、深夜の逮捕や不当な再拘留、不平等な訴追など、法的手続の濫用の傾向にも光をあてている。
 本報告書は、煽動法・活字メディアおよび出版法・コミュニケーションおよびマルチメディア法・平和的集会法、そして刑法の様々な条文の徹底的な分析を基にしている。併せて市民社会活動家、ジャーナリスト、弁護士、研究者、野党政治家への聞き取り調査、政府の公式声明分析、言論の自由または平和的集会をめぐる刑事訴訟関連の記事分析も含まれる。
 ヒューマン・ライツ・ウォッチは内務相、検事総長、警察署監察総監、コミュニケーションおよびマルチメディア委員会委員長に書簡を送付。本報告書で提起した諸問題についての考えを求めたが、回答は得られなかった。

 ラザク首相が2009年4月に政権の座についたとき、「人権を支持する」ことや「人びとの基本的権利を考慮する」ことを公約した。
 しかし、2013年選挙で与党連合が敗北した後、政府批判に対する取締りが始まる。数々の社会問題に関するメディアの批判的な報道や一般の不満に直面し、政府の弾圧はこの1年で悪化した。これら社会問題には物品・サービス税の課税から、首相自身が経営諮問委員会委員長を務める政府系投資会社ワン・マレーシア開発(1MDB)をめぐり過熱する汚職スキャンダルまで、多岐にわたる。
 こうした問題の実態に関する議論を交わす代わりに、政府はむしろ野党政治家や活動家、ジャーナリスト、一般市民で批判的な意見を持つ個人を逮捕、そしてしばしば訴追することで応えている。批判的な立場をとる新聞2紙も、3カ月間の出版停止処分を受け、数々のウェブサイトが遮断されたり、平和的な集会が「不法」のレッテルを貼られたりしている。
 政府はこうした抑圧的な行動について、平和的な表現に刑事罰を科すことを認めた、広くあいまいな文言で構成される国内法を根拠にしている。これは諸権利の国際的な法的保護基準にそぐわない。
 前出のアダムス局長は「マレーシアはメディアを遮断し、批判者を沈黙させるのをやめるべきだ」と述べる。

「国際社会はこうした行動にますます注目しつつあり、法の支配が脅威にさらされていると指摘している」

 本報告書で調査・検証した多くの問題のなかには、マラヤ大学法学部アズミ・シャロム博士が、6年以上前に政府がペラ州で取った行動は違法だとする法的な意見を表明したことで、現在、煽動の罪に問われ裁判に直面しているケースがある。
 氏は自身の発言が煽動的とみなされたことに驚きを隠さなかった。「私は法的見解を表現した法学部の教授であった」と述べている。マレーシアの最高裁判所であるマレーシア連邦裁判所は2週間前、氏が煽動法を違憲とした訴えを退けた。連邦裁が、マレーシア憲法の言論の自由をめぐる条文に、同法が違反しないと判断を下したことで、氏の事案は公判手続きに入ることになる。

 アジアでもっとも著名な風刺漫画家の一人で、ズナールのペンネームで知られるズルキフリー・アンワル・ウルハケ氏は、汚職から警察の人権侵害行為まで、幅広く現在の政治問題を漫画で風刺する。それゆえに長きにわたって、政府による嫌がらせの標的となってきた。ズナール氏は9件の煽動罪で訴追されているが、アンワル・イブラヒム元副首相に対する同性愛行為による罪の有罪判決を、連邦裁が支持する判決を下したことをツイッターで9回批判したことがそれぞれ対象となった。
 マレーシア当局は複数の法律を適用して、氏の本を何百部も出版禁止および没収。本の印刷会社に対しては、出版ライセンスを取り上げると脅した。そして氏自身のみならず、スタッフも捜査している。もしすべての罪で有罪判決が確定すれば、最長で43年の禁固刑が科されることになる。

 自由で公正な選挙のための連合(Bersih)のマリア・チン・アブドラ議長は、2月の不法な「路上デモ」に参加したとして訴追されている。議長はアンワル元副首相の事案をめぐる連邦裁の判決に抗議する一連の集会のひとつに参加していた。起訴されたのは、汚職と闘うための組織的改革や、ナジブ大統領に1MDBに関する説明または辞職を求めた34時間の大規模な抗議集会を、 Bersihが平和的に主催した一週間後だった。
 政府は集会を「違法」とし、 Bersihのロゴと黄色の公式Tシャツを禁じて、アブドラ議長をはじめとする集会組織関係者6人を召喚。最長で20年の刑を定めた刑法の第124章に觝触する、「議会制民主主義に有害な行動」疑惑のためだ。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチはマレーシア政府に対し、政府への批判的な言論、および平和的な集会への参加で係争中の事案を取り下げ、人権侵害的な捜査および訴追をやめるよう求めた。マレーシアは、政府批判者に嫌がらせをしたり、彼らを拘禁するための法的手続きという人権侵害を停止すべきだ。かつ、言論や集会に刑事罰を科す諸法を改正または廃止することで、これら法律を国際的な基準に合わせるべきだろう。
 前出のアダムス局長は、「2014年3月には国連人権理事会に対し、国際人権基準に即して改善するための措置をとることを、マレーシア政府は公約した」と指摘する。

「国際社会で『人権尊重の国』と真剣にとらえられるためには、この公約をまもり、現在進行する反対・批判意見の犯罪化をやめなければならない。」

ハフポストBLOG、2015年11月02日19時13分JST
マレーシア:政府批判を犯罪扱いするな
(2015年10月27日「Human Rights Watch」より転載)
http://www.huffingtonpost.jp/human-rights-watch-japan/freedom-of-speech_b_8449672.html

ARE you easily annoyed? What does it take to get you annoyed?

Personally, I find that most annoyances are quite easily ignored (which is why I don’t use any form of social media).

Most annoyances are, except for that idiot with a ridiculously loud exhaust system who insists on revving his engines in the wee hours of the morning as he tears down the road in front of my house.

If I ever get my hands on him (and I presume it is a him as only men tend to do such stupid things), I will grab him by the lapels and gently tell him that such a loud car can only mean one thing: “You’re trying to compensate for something tiny, mate.”

Anyway, I digress.

The reason I raise this is because it is actually a crime in this country to be annoying.

You don’t believe me? Well then, allow me to quote the Communi-cations and Multimedia Act 1998, specifically Section 233, which states that it is an offence if a person intentionally uses the Internet to make “any comment, request, suggestion or other communication which is obscene, indecent, false, menacing or offensive in character with intent to annoy, abuse, threaten or harass another person”.

You can get a pretty hefty punishment if you are found guilty. Fahmi Reza, the artist, was recently slapped with a 30-day jail sentence and a whopping RM30,000 fine under this law.

And according to the police, the rapper (I must admit to giggling every time the term “rapper” is used on a person who is not African-American) Namewee is being investigated under the same law.

Both men were deemed to be offensive and annoying, I suppose – Fahmi for a spot of drawing and Namewee for a bit of music video making.

I have of course seen both works. One is an obvious satirical dig at a person of power and another is either a more subtle dig at corruption or an advert for dog masks, I am not quite sure which.

The point is, it seems ridiculous that such things can be seen as a crime.

Now, don’t get me wrong. The Internet is used for all sorts of nefarious purposes and this law was meant to deal with such things.

Threatening a person is not cool. Neither is sharing photos of people who at one point trusted you.

But these two men were both being critical of government via satire.

Could a law meant to be used to protect people from vindictive exes and criminals be used against government critics? Or to ask a more accurate question, should it?

I would say absolutely not. There are many ways to show displeasure at a government, and other than using violence or inciting violence, anything goes.

This includes satire. It is part and parcel of the democratic process.

Criticism, no matter how biting and crude, is something those in the public eye, especially those who wield power, will simply have to deal with. There is no place for using criminal law against such practices in a democracy.

There are limits to free speech, of course, but as was stated by the US Supreme Court, voices that are critical of public figures, particularly in matters of public interest, must be given as much freedom as possible with the highest level of protection.

Now, some will say that satire is not “our way”.

Well, I am sure there are historians and cultural anthropologists who could point out this is not so. I remember, for example, an old P. Ramlee movie that poked fun at a ruling political party.

But for me, that is not the point. If it is not “our way”, then you can criticise it, you can shun it, but if you criminalise it, then you are in effect placing another shackle on our democracy and stifling our freedom of expression.

And I find that extremely annoying.


The Star, Published: Wednesday, 28 Feb 2018
Criticism is part of democracy
By Azmi Sharom
https://www.thestar.com.my/opinion/columnists/brave-new-world/2018/02/28/criticism-is-part-of-democracy-yes-satire-can-be-annoying-but-should-it-be-treated-as-a-crime/

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白梅求めて観梅ウオーキング

 2月25日に行なわれた山歩クラブ梅見お散歩会:

 まずは、郷土博物館近くの「湯殿神社」:

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 戦国時代の後北条氏の家臣である梶原助五郎(かじわらすけごろう、三河守みかわのかみ)の所領で、東は北野神社(南馬込二丁目)、西は湯殿神社(南馬込五丁目)、南は臼田坂下(中央一丁目、中央四丁目)、北は大田区立馬込図書館(中馬込二丁目)までに及ぶ中世城郭でした。
 城の構えは周囲が急な崖で、周辺の谷に沼を配し、敵の侵攻に備えていました。
 特に西側の部分はかつて根古屋(ねごや)と呼ばれ、このあたりが城主の館の跡と伝えられています。
 写真は湯殿神社に隣接する湯殿公園の様子です。
 城の遺構は残されていません。


大田区公式サイト、馬込城跡
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/magome/magomejoushi.html

 次いで、龍子公園で「白梅」観梅:

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 龍子公園は、川端龍子自らが設計した旧宅とアトリエを当時のまま保存しています。
 旧宅は戦後1948〜54年、爆撃の難をのがれたアトリエは青龍社創立10周年となる1938年に建造されたものです。
 また龍子公園内の「爆弾散華の池」は、終戦まぎわの空襲で壊滅した住宅部分を龍子が池として造成しました。


大田区立龍子記念館、龍子公園
http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/ryushi_park/tabid/227/Default.aspx

 池上梅園で観梅しながらランチタイム:

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池上梅園2013
https://www.youtube.com/watch?v=7SEAOeo3XEY

 そして、日蓮入滅の地、大坊にて:

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 日蓮宗本山 池上 大坊 本行寺は、日蓮宗の宗祖である日蓮聖人がご入滅(にゅうめつ)、すなわちご臨終された地(ご霊場)。大聖人3大聖地の1つともされています。
 日蓮聖人は、今から700余年前の弘安5年(1282年)9月8日、常陸国(ひたちの国/現在の茨城県北部)での湯治療養などのため、9年間にわたり住み慣れた身延山久遠寺(みのぶさん くおんじ/現在の山梨県巨摩郡身延町に所在)を後にされ、同月18日、武蔵国池上郷(現在の東京都大田区)の鎌倉幕府の作事奉行であった池上宗仲公(いけがみむねなかこう)の館にお着きになられました。
 日蓮聖人は、この宗仲公邸で療養につとめながら、小康時には弟子や信者に「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」の講義などをされていましたが、病がいよいよ重くなられ、10月8日に6人の本弟子(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)を定めて後を託し、10日にはお形見分けもされました。
 さらに翌11日に14歳の経一丸(きょういちまる=後の日像上人)に京都開教を遺命、枕元に大曼荼羅本尊(だいまんだらほんぞん)を掛けさせました。そして13日辰の刻(午前8時)――。弟子や信者一同が静かに法華経(ほけきょう)を読誦する中、お亡くなりになられました。享年61歳でした。
 この時、大地は揺れ動き、庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたと伝えられます。
 日蓮聖人の滅後、池上宗仲公は日朗の弟子・日澄に館を寄進してお寺としました。こうして誕生したのが「長崇山 本行寺」(通称「大坊」)です。隣接する池上本門寺の末頭、理境院、照栄院と共に池上三院家の首席であり、正面の赤門はその証しとして、当寺院の格式の高さを示しています。
 なお、日蓮聖人がご入滅された池上家の仏間跡に建てられたお堂は、「ご臨終の間」と呼ばれ、昭和11年(1936年)3月、東京都の史跡に指定されました。
 また、聖人ご入滅時に時ならぬ花を咲かせた桜は、今も「お会式桜(おえしきざくら)」として敷地内に現存しており、旧暦10月頃に花を咲かせます。


本行寺由来
http://www.hongyozi.or.jp/history/

 池上本門寺では、北村西望作「日蓮大聖人説法像」の前で集合写真:

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日蓮大聖人説法像 星亨銅像跡
 この像は宗祖第七百遠忌記念として昭和五十八年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので斯界の権威北村西望先生の作品です。(像の材質は純アルミ、高さ三.四米、重量1屯)
 もとここには明治の政治家星亨先生の銅像がありましたが、今般星家の御協力により台座を奉納頂きこの像を建立しました。
  昭和五十八年十月吉日 大本山 池上本門寺


 星亨…、英国に留学し、バリスターの資格を得、帰国後は自由民権運動に加わり、薩長による藩閥政治を批判し、小異を捨て大同につく運動の提唱者でもあり、最後は刺殺される、という明治の骨太の政治家、う〜ん、北村西望かぁとヤッホー君、明日からはいよいよ弥生に入るな、という空をにらめてため息をついています。
 しばし放っておきましょうか……

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敗戦の翌春、占領軍司令部を訪ねた吉田茂外相

「働かせ方改革」の基礎データを、捏造しただけでなく、政権にとって不都合なデータを隠蔽した疑惑。
 こちら:

 雇用共同アクションは、きょう(2月26日)12時10分から「『アベ働き方改革』阻止!緊急国会行動〜政府のウソで過労死はごめんだ〜」を実施しました。
 この国会行動の中から、伊藤圭一全労連雇用・労働法制局長と、上西充子法政大教授の発言を紹介します。
 裁量労働制データ問題で追及すべきは厚労省でなく安倍政権、労働行政を歪めウソで固めた「働き方改革」
http://blogos.com/article/280257/

 これだけ問題が噴出しているのに、政府は、「働かせ方改革」法案を国会に上程し、通す積りらしい(*)。
 虚偽とでっち上げを行った挙句、力づくでこの法案を通す、
 財界と政府だけで作りあげた法案を、国民の意向を無視して通す、
分かりやすい構図ではある。

 政権が虚偽と隠蔽を常套とするならば、民主主義が成立しない。
 それは独裁である。
 この政権は、何をやっても良いと考えているらしい。
 数は力ということなのだろう。
 だが、その「数」自体、すなわち選挙結果自体も信じることができなくなる。

 安倍首相は、社会の秩序を根本から破壊する。
 安倍首相のような人物が、改憲をし、緊急事態条項を自分のものにするというのは悪夢以外のなにものでもない。


ステトスコープ・チェロ・電鍵、2018/02/28 00:30
社会秩序を根底から破壊する安倍政権
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/

(*)
「働き方改革法案」は、官邸直結の産業競争力会議で立ち上げられた。
 平成28年度メンバー一覧は、こちら:
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/skkkaigi/pdf/meibo.pdf

 政府閣僚と、財界人だけ。
 非正規雇用を推進し、それによって巨額の暴利を得た、政商・竹中平蔵が入っている。
 議長は、安倍首相本人。

 安倍首相が、データでっち上げを、厚労省に指示していないとは信じがたい。
 指示していることが分かれば、内閣総辞職ものである。
 もし安倍首相が、データでっち上げを知らない、知ろうとせずに、3年前から、でっち上げデータを野党の批判へ対抗するためにもちいていたとすると、行政の長としての責任がやはり出てくる。
 裁量労働制拡大の根本にかかわるデータだからだ。
 この一件で分かったことは、「働き方改革」は財界と政権が主導して進めていることであり、その内実は、残業代ゼロ、過労死ラインを超えた残業強制の法案である。

以下、引用〜〜〜
首相「指示していない」「裁量労働」データ答弁
2018年2月20日、東京新聞夕刊
 裁量労働制に関する不適切なデータを比較し、安倍晋三首相が国会答弁を撤回した問題で、首相は20日午前の衆院予算委員会で「精査中の情報に基づく答弁は撤回したが、データは撤回したわけではない」と述べた。厚生労働省調査に基づき裁量労働制で働く人の方が一般労働者より労働時間が21分短いというデータは撤回しないとした発言。データに関して「私や、私のスタッフから指示したことはない」とも強調した。
 首相はこの問題について「結果として、性格の異なる数値を比較していたことは不適切であり、深くおわびする」と陳謝した。
 これまで21分短いと答弁していた加藤勝信厚労相は「答弁で示したデータは撤回した」と述べた。裁量労働制について「自らの裁量で時間配分や出勤時間を決めることができ、自立的で創造的に働けることを目的とした制度だ」と、対象拡大の必要性を強調。長時間労働を助長するとの懸念については「制度の乱用などデメリットに対しては、しっかり監督指導して是正を図っていく」と述べた。
 今回問題となったのは、「2013年度労働時間等総合実態調査」。厚労省はこの調査を基に裁量労働制で働く人の労働時間が一般労働者より21分短いと算出し、加藤氏もこれまでの国会答弁で説明していた。
 首相は1月29日の衆院予算委で「裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均的な方で比べれば一般労働者より短いというデータもある」と答弁したが、「21分」に言及していなかった。この後、データに疑義があることが判明し、2月14日に答弁を撤回した。
 このデータについて、厚労省が19日に公表した精査内容によると、一般労働者について「1ヶ月で最長の残業時間」を尋ねる一方、裁量労働制は実際の労働時間を聞いていた。比較できない数字を比べていたとして、加藤氏が答弁を撤回、陳謝していた。


ステトスコープ・チェロ・電鍵、2018/02/25 15:07
「働き方改革」は産業競争力会議が始めた

 2月26日の毎日新聞が「低調な安保論議を危ぶむ」という見出しで防衛費をめぐる予算審議の不在に警鐘を鳴らしていた。
 我が意を得たりだ。
 まったくその通りだ。
 来年度の予算案はきょうにも衆院を通過するというから、このままでは安倍暴政の防衛予算がそのまま通ってしまう事になる。
 その中には、2基で約2000億円もする役立たずのイージス・アショア(陸上配備型)が含まれる。
 欠陥戦闘機であるF35の大幅購入も含まれる。
 前払いが当たり前の有償軍事援助(FMS)契約の不平等性も手つかずのままだ。
 なぜこんな事になってしまうのか。
 それは野党の間で国会質問の共闘がないからだ。
 森友疑惑追及もいい。
 裁量労働制のデータねつ造追及もいい。
 しかし北朝鮮問題を含む安保論争も重要だ。
 せめて野党は質問を分担して、それぞれを徹底追及すべきだ。
 すなわち、日米同盟容認の希望の党には森友疑惑の追及に専念させ、年金疑惑を追及して名を馳せ、政権交代で厚生労働相にまでなった長妻議員のいる立憲民主党には、裁量労働制に関するデータねつ造追及を任せる。
 そして共産党には安倍政権の防衛予算や安保政策を徹底追及させて、安倍首相を追い込むべきだ。
 このままでは、血税がただ同然でトランプの米国に吸い取られ、米国軍需産業を潤す事になる。
 いくら野党不在といっても、それだけは許してはいけない。


天木直人のブログ、2018-02-28
低調な安保論議を危ぶむ
http://kenpo9.com/archives/3331

 敗戦の翌春、占領軍司令部を訪ねた吉田茂(よしだ・しげる)外相はマッカーサー司令官になじられた。

「冬は数百万の餓死者が出るといって援助を求めてきたのに、そんなひどくなかったではないか。日本の統計はでたらめだ」

 吉田は平然とやり返したという。

「当たり前です。統計が正確ならあんなバカげた戦争はしないし、統計通りいけばこっちの勝ちいくさだ」

 吉田当人がマッカーサーとの信頼関係ができたきっかけとして披露していたエピソードだ。

 それから72年、今では日本の役所の調査統計の信頼度は世界最高クラスと思っていたら、この騒ぎだ。
 安倍(あべ)政権の鳴り物入り看板政策たる働き方改革関連法案を、提出前にしてピンチに追い込んだ厚生労働省のとんでもデータだった。

 もともと労働側が求める残業時間の上限規定など労働規制強化と、使用者側が求める裁量労働制の対象拡大など規制緩和を抱き合わせた関連法案だ。
 その裁量労働制に関する調査データから現実にはありえない異常値が続々出ている。
 裁量労働制は一般労働より労働時間が短いとのデータに言及した首相答弁撤回から広がったこの問題だ。

 この不適切なデータ比較は以前から使われ、調査データ自体からも疑問が噴出した。野党が再調査を求めるのは成り行きである。

 「統計は街灯の柱と酒を飲むようなものだ。照明よりも支え棒として使える」とはチャーチルの言葉という。
 抱き合わせた働き方改革の諸課題はどうなるのか。あまりにお粗末な目玉法案の支え棒である。


毎日新聞東京朝刊・余禄、2018年2月28日
敗戦の翌春、占領軍司令部を訪ねた吉田茂外相は…
https://mainichi.jp/articles/20180228/ddm/001/070/145000c

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アベ政治を許さない

 戦後70年余り、俳壇を泰然と歩んできた俳人の金子兜太さんが2018年2月20日、逝った。
 旧制水戸高校(水高)時代に俳句を始め、「水戸が創作の原点」と語っていた。
 
白梅や老子無心の旅に住む

 水高時代に初めて詠んだ句は、無心の境地に自らを重ね、80年にも及ぶ句歴の中で出発点にふさわしい作品と位置付けられている。
 薫陶を受けた県内俳人から惜しむ声が相次いだ。

 金子さんが生まれたのは「一句一句」と読める1919年。
 小中学生の頃から開業医の父が埼玉・秩父の自宅で頻繁に開いた句会を見学していた。
 37年に水高入学、3年間の寮生活の中で俳句を始めた。

 18歳で初めて詠んだ句は、水戸を象徴する「白梅」を景色として視覚化し、無為無心の旅に住む老子に自らの姿を重ねた。

 時を経た2010年、水高時代の友人、水戸市松本町で薬局を営む故笠原宏造さんらが金子さんの功績を伝えようと、近くの保和苑に処女句〈白梅や---〉を刻んだ句碑を建立した。
 2ヶ月後、句碑の前に立った金子さんは「この句は私の青春の基礎」と感慨深げに語った。
 笠原さんの思いに賛同し、句碑建立に協力した茨城大名誉教授の佐々木靖章さん(77)は「金子先生の句は素朴さと反骨精神、新しさがある。水高の文化力がこういう形で残されるのは歴史的意義がある」とたたえた。

 当時、同市東原の水高跡地も約70年ぶりに見て回った金子さんは「俳句の原点を感じた。さらに新鮮な気持ちで俳句を作れる」と笑顔を見せた。
 同時に「当時のこの辺りのことは思い出せない。学生時代は遊んでばかりだったので。そのくせここはにおいがする。これが思い出ってもんかな」と振り返った。

 訃報を受け、金子さんから薫陶を受けた県内の俳人は悼んだ。

 俳誌「〓(かおりぐさ)」主宰の成井惠子さん(80)=常陸太田市=は50歳を過ぎ、金子さんから学んだ。
 「繊細さと大胆さを備え、人間の幅が広かった。見る目が多角的で、一つの道がふさがれても別の活路を見いだそうとする人」と語り、「命にひた向きだったのは、戦地で極限状態を体験したからなのでは」と思いを巡らした。

 金子さん主宰の俳誌「海程」に所属する根本菜穂子さん(57)=筑西市=は「見掛けは温厚だが、内面は凄みを帯びていた。『あたりめいだよ』『普通過ぎるよ』など歯に衣着せぬ批評が聞けなくなり寂しい」と惜しんだ。
  
※〓は草冠に惠


茨木新聞、2018年2月22日(木)
金子兜太さん「水戸が原点」
県内俳人、惜しむ声
水高時代に処女句 白梅や老子無心の旅に住む

(沢畑浩二)
http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15192251593278

 今月2月、俳人の金子兜太氏が亡くなった。98歳だった。
 金子氏といえば、近年では、安保法制に対する抗議デモなどで盛んに用いられた「アベ政治を許さない」の文字を揮毫した人物としてもよく知られており、一貫して平和を訴え続けてきた人物であった。
 2015年からは東京新聞でいとうせいこう氏とともに、読者から募った平和に関する俳句を選評する「平和の俳句」欄を担当し、その仕事は『金子兜太 いとうせいこうが選んだ「平和の俳句」』(小学館)にまとまっている。
 2018年2月22日付東京新聞ではこの訃報を受けて、いとうせいこう氏が〈現代俳句における偉大な業績はもちろんのこと、社会に関わる筋の通った活動にも目覚ましいものがあった。文学者として、また戦争体験者としての世界、そして人間への深い洞察はいつまでも私たちを導くだろう〉と追悼の言葉を寄せているが、金子氏は、俳句はもちろんのこと、メディアへの出演なども通じて盛んに平和の尊さを伝えようとしてきた。
 その背景には自らの壮絶な戦争体験がある。1919年に埼玉県で生まれた金子氏は、東京帝国大学卒業後に日本銀行へ就職するものの、すぐに海軍経理学校に行き、1944年3月には海軍主計中尉としてトラック島(現在のチューク諸島)に送られている。
 トラック島は連合艦隊の拠点基地でもある重要な場所だったが、金子氏が着任したときにはもうすでにアメリカの機動部隊による激しい空襲を受け、軍艦や貨物船や航空機は壊滅的被害を受けていた。補給用の零戦もほぼ全滅という状態のなか、サイパン島が陥落するとトラック島は完全に孤立。武器や弾薬はもちろん、食料の補給も絶たれた。こうしてトラック島では多くの兵士が餓死していくことになる。

食料調達もうまくいきませんでした。
 島でサツマイモの栽培を始めたのですが、害虫が出て、ほぼ全滅してしまったのです。虫でもコウモリでも、何でも食べました。空腹に耐えかねて、拾い食いをしたり、南洋ホウレンソウと呼んでいた草を海水で煮て食べたり。当然、腹を下します。弱っているところに下痢でさらに体力を消耗して、次々と仲間が死んでいった。屈強でごつかった荒くれ者たちが、最後はやせ細り、仏さんのようなきれいな顔で冷たくなっていく。たまらなかったですね
」(「FRIDAY」15年8月28日号/講談社)

 トラック島で金子氏が襲われた命の危機は食糧難だけではない。もっと直接的な九死に一生を得るような体験もしている。「本の窓」(小学館)2012年10月号に掲載された菅原文太氏との対談ではこのような恐ろしい記憶を語っている。

金子氏がいまの日本に抱いた危機感
「社会全体がじわじわと、自由に物をいう雰囲気が奪われている」


日本とトラック島の交通が途絶えたんですね。補給がなくなった。そのため、食糧と手軽な武器は現地でつくることになって、まず実験的に手榴弾を作ったんです。私がいた隊の人間が実験をすることになったのですが、触撃と同時にダーンと爆発して、男の右腕が吹っ飛んじゃった。背中にも穴があいて、即死ですな。横で指揮していた少尉の姿も消えていて、ふと横を見たら海のなかに吹っ飛ばされていた。
 私はわずかの距離にいたにもかかわらず、不思議なことに無傷でしたが、「こんなひどいことをする戦争なんて、やるもんじゃない」と本能的に戦争に反対する気持ちが起こった


 金子氏はこの他にも、サツマイモをポンポン船で運んでいるところをアメリカの戦闘機に見つかって機銃掃射を浴び、すぐ横にいた仲間は撃たれてしまうという体験もしているという。無事に戦争を生き延びることができたのは奇跡のような偶然だったのだ。
 このように戦争で地獄のような光景を見た後、金子氏は1946年にトラック島からの最後の引き揚げ者として復員。その際、〈水脈の果炎天の墓碑を置きて去る〉という句を詠んだという。
 この句は、「トラック島に墓碑を置いて去っていくが、日本に帰ったらこの墓碑のために何かをやりたい」という決意をもって詠まれたものである。
 前述「本の窓」の対談では、悲しい死を遂げていった仲間たちのことを考えながら、

「この人たちのためにも戦争のない世の中というものを、無事に帰ったら自分は志してみたい、どういうかたちであれ志していきたい」と、そう思っておりました」と語っている。

 だからこそ、安倍政権が性急に進める「戦争ができる国づくり」には危機感を抱かずにはいられなかった。
 金子氏は多くの人が殺され、そして、極度の飢餓や緊張状態に晒され続けることで人としての倫理観がことごとく破壊されていく戦争の真の恐ろしさを身をもって知っているからだ。

 「清流」(清流出版)2016年10月号では、

最近の政治の動向を見ると、日本はまた悲惨な事態を招きかねないと危惧しています。「憲法改正」が現実味をもち、「第九条」が変えられる可能性も出てきた。なのに、いまの国民は「危うい」という危機意識が薄いようです」と語って警鐘を鳴らしていた。
 そのうえで、もうすでに「言論」の分野では70年以上前に辿ったものと同じ道筋を歩みつつあると危機感を募らせている。

権力が牙を剥くときは本当に怖いものです。昭和六年の満州事変以降、目に見えない形で言論統制や思想統制が進み、気づいたら太平洋戦争にまっしぐら。抜き差しならない状況に陥り、あれよ、あれよという間に敗戦への道を転げ落ちていきました。
 いまの日本も、同じ道をたどるかのように、社会全体がじわじわと、自由に物をいう雰囲気が奪われている。命の重みを軽んじる風潮も広がっていると思えます
」(前掲「清流」より)

 金子氏がこのように語るのは、これもまた若い頃に実際その目で見てきたことだからだ。

反戦の俳句を詠んだ金子兜太の師匠は特高に検挙され激しい拷問に

 1940年に新興俳句弾圧事件というものが起こっている。これは、反戦をテーマとした俳句を詠んでいた急進的な俳人と、それを載せた俳句誌が治安維持法で続々と検挙された事件である。
 このとき、金子氏が師事していた嶋田青峰氏も検挙された。嶋田氏は獄中で喀血したため仮釈放となったが、同じように特高警察に引っ張られていった先輩は尋常ではない拷問を受けている。
 「週刊朝日」(朝日新聞出版)2015年3月6日号では、そのときのことを振り返り、

先輩が特高に持っていかれて、1ヵ月ほど姿を見せないことがあった。それが青白い顔で現れて、黙って私に手を見せた。指の爪を全部はがされる拷問を受けていて、「お前、俺みたいなことにはなるな」と言われたことを、いまでも覚えています」と語っている。

 共謀罪が強行採決されてしまったいまとなっては、新興俳句弾圧事件のような事例も十分起こり得ることである。

 とはいえ、金子氏はまだかろうじて希望を見ている。それは民衆の力だ。前掲「FRIDAY」では、とくに女性たちの力に感銘を受けながら、

安保法案反対のデモには女性がたくさん参加しているでしょう。強くなった女性の姿に一筋の光明を見る思いです。戦争のような大きな流れに飲み込まれると、個人の力で抗うことはできなくなる。一度戦争を始めたら簡単には引き返せません。今こそ大事な時だということを、多くの人に考えてほしいと思うのです」と語っている。
 権力に対しアンチテーゼを唱えるようなことを言いづらい空気にはなっているが、止めるならいましかない、いまならばまだなんとかなる。だからこそ、平和のために行動を起こしている市民たちに金子氏は希望を見るのだ。
 水木しげる氏、野坂昭如氏、大橋巨泉氏、愛川欽也氏、菅原文太氏など、本当の「戦争」を体験し、それゆえに強く平和を訴えてきた世代が次々と鬼籍に入りつつある。
 金子氏は〈サーフィンの若者徴兵を知らぬ〉という俳句を詠んでいるのだが、しかし、それでも彼らの残した言葉からたくさんのものを学ぶことはできる。
 現在、安倍政権は、対話の動きを無視し北朝鮮危機を煽り続けており、その姿勢は戦争を始めたがっているとしか思えないものだ。
 そして敵愾心を煽り利用しながら、改憲へも本格的に動き始めている。
 だからいま一度立ち止まって金子氏らが残してくれた言葉を思い出したい。
 彼らは、その先に希望はなく、地獄しかないことを、自身の体験から教えてくれているのだから。


リテラ、2018.02.23
「アベ政治を許さない」と揮毫した俳人・金子兜太
生前語った戦争への危機感とデモへの期待「今こそ大事な時」

http://lite-ra.com/2018/02/post-3820.html

 97歳、いまだ第一線で活躍中の俳人・金子兜太さん。戦地・トラック島(現チューク諸島)での、爆撃や飢えで一日に何十人も仲間を失うような過酷な体験から「精神と肉体を支える根幹は“たべもの”である」というのが持論です。
 “たべもの”を軸に、戦地での人間のありようや実作の根底にあるふるさと・秩父についてなどお話しいただきます。


NHKラジオ、深夜便
金子兜太さん「舌の記憶 あの時、あの味」<12月22日(木)深夜放送>
https://www.nhk.or.jp/r1-blog/shinyabin/index_30.html

 そして今朝、ラジオ深夜便アーカイブスとして午前4時台に再放送あり、トイレに立ったヤッホー君、思わず入れたスイッチから流れてくる元気な金子兜太の声に、しびれながら、びっくりおののきながら、傾聴させていただきました。
 ご冥福をお祈りします。

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2018年02月27日

憲法軽視を徹底批判

 安倍政権与党が10月の衆院選で3分の2議席を維持したため、安倍政権が憲法改定に進む可能性が高まっている。憲法改正は国会が発議し、国民投票で過半数の賛成があれば成立することになる。国会議席数の上では自公の与党勢力が圧倒的多数を占めているが、主権者である国民の多数が憲法改定に賛成しているかどうかは明らかでない。主権者国民は国会の議席数に左右されずに問題を十分に理解して対応することが必要である。

 憲法改定の内容として浮上しているのは:

1 自衛隊の憲法への明記
2 教育無償化の憲法への明記
3 参院選地方区の合区解消
4 緊急事態条項の創設
であるが、1〜3をわざわざ実行する必要性は乏しい。いずれも現行憲法下で対応可能なことである。最大の問題は4番の緊急事態条項である。

 緊急事態条項の創設は、内閣総理大臣に独裁権限を付与することを目的とするものである。天変地異、戦乱、あるいは内乱などの事態に際して内閣総理大臣が緊急事態を宣言できることとする。緊急事態が宣言されると、内閣総理大臣はオールマイティの権限を獲得することになる:

★ 法律と同等の効力を持つ政令を制定できる
★ 予算措置を取ることができる
★ 基本的人権を制限できる
★ 議会議員の任期を延長できる。

このような権限が与えられる。

 1933年にドイツで全権委任法が制定されてナチスの暴走が加速した。この全権委任法と同等の内容を持つ緊急事態条項が創設される危険は計り知れない。四つの憲法改定具体案を列記したが、もっとも危険なものがこの緊急事態条項である。他の三つの改定案はあってもなくても本質に影響しないが、緊急事態条項だけは違う。

 安倍首相はこの緊急事態条項の創設を目論んでいると考えられる。他の三つの改定案は本当の狙いである緊急事態条項創設をカムフラージュするための提案であるとも言える。緊急事態の宣言に客観的な基準は設けられない。内閣総理大臣の腹ひとつで宣言されてしまう代物だ。「内乱等」という表現があるが、たとえば国会を包囲する10万人のデモが実施されるようなときに、これを「内乱等」と拡大解釈して緊急事態を宣言してしまうようなことも否定できない。

 重大なことは、緊急事態を宣言すると基本的人権をも制限できることになっていることだ。政治の暴走を牽制するための「表現の自由」、「集会・結社の自由」に制限がかけられることが予想される。国民の意思表示の機会を奪い、政権が法律と同等の効力を持つ政令を次から次に定めてしまえば、国家のあり方が根底から変えられてしまう可能性すら生じる。

 このような危険な憲法改定が目論まれている可能性があるのだ。憲法改定が発議されると、賛成、反対の両陣営ともに、メディアを使った情報流布活動が自由になる。改憲勢力は資金力を武器に情報空間を占拠する戦術を採用するだろう。この情報空間の選挙によって主権者が洗脳されてしまう危険もある。

 2018年の重要テーマとして憲法改定阻止を改めて明確に掲げておかねばならない。国会の議席攻勢を見ると、憲法改定を阻止することは困難であると錯覚してしまいやすい。しかし、国会議席構成は主権者の意思の分布とは大きくかけ離れている。「民意と議席配分」に大きな「ねじれ」が存在しているのだ。

 この点を踏まえると、憲法改定は発議されても国民投票で否決される可能性が高い。この可能性を踏まえて、憲法改定案を否決するべきである。このことは憲法改定を全面否定するものではない。内容が打倒であれば憲法改定を否定する必要はない。正しい方向に憲法を変える「改正」であるなら憲法改定をためらう必要はない。憲法には一切手をつけてはいけないということではない。「改正」ではない「改悪」を認めるべきでないということだ。

 2014年12月総選挙、2017年10月総選挙の比例代表選挙で自公の与党勢力が獲得した投票は、いずれも全有権者の24.6%だった。
 自公の与党が国会議席の3分の2以上を占有しているが、すべての主権者のなかで自公に投票している者は全体の4分の1に過ぎない。これに対して、野党勢力に投票した者は、2014年12月も2017年10月も自公への投票者を上回っている。このことを踏まえると、自公が提案する憲法改定が国民投票で可決される可能性は高いとは言えないのである。

 安倍政権が目指す憲法改定の筋が悪すぎる。とりわけ、緊急事態条項を創設することだけは絶対に阻止しなければならない。そのために、主権者国民に憲法改定案の内容を十分に理解してもらう情報の流布、周知が必要だ。そして、すべての主権者の基本的人権にも関わる内容であるから、すべての主権者が国民投票には参加する必要性も訴えなければならない。

 これを確実に実行するなら、憲法改悪は必ず阻止できるはずだし、阻止しなければならない。


植草一秀の『知られざる真実』、2017年12月24日 (日)
安倍壊憲案核心は緊急事態条項にあり
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-79c9.html

 来月2018年3月下旬には、自民党の改憲案が出来上がる。これまでの安倍政権の強引な政権運営をみても分かる通り、国民投票には、その改憲案がそのまま憲法草案として出される可能性が高い。

 今のところ、安倍政権下での改憲には否定的な世論調査結果が出ているが、国民投票では、与党の潤沢な資金と、財界・電通の支援を得た政権が自らの案を強引に押し通そうとするものと思われる。それまでは、株式市場に日銀・GPIFから莫大な公金が投下され続け、資産バブルが破裂するのを抑え込もうとする。

 自民党の改憲案は、まだ明らかになっていない。国民に議論を深めてもらうというが、深まっているとは到底思えない。さらに、現憲法に首相・政府には憲法擁護規定がある。だが、首相は改憲に突っ走る。どうも自らの業績として改憲をやり遂げたいという野望がその動機ではないかと言われている。

 彼らの主張する改憲のポイントは、自衛隊を憲法に書き込むかどうかという点だが、自ら、自らの正当に有利なように選挙制度について、こそこそと書き加えようとしている。参院選合区解消問題である。具体的な選挙制度について憲法に記すなぞ聞いたことがない。改憲を自らの利権のために利用しようとしている。

 改憲のもっとも重大な問題は、緊急事態条項である。これは、首相に三権の全権限を与えるもので、首相がその必要性を宣言できる。ナチスがワイマール憲法を実質なきものにしてヒットラー独裁を実現した、国家授権法と同じ構図であり、その内実は戦前の国家総動員法と同じである。政府は、自然災害時の対応としてこの条項が必要だというが、既存の法律、さらに参議院の存続によって、自然災害時の対応は十分可能であることが分かっている。この条項の導入について、マスコミは取りあげず、国民の間で議論されている様子はない。

 オリンピックは楽しい催しだが、その背後で、国の形を決める改憲への動きが進められている。


ステトスコープ・チェロ・電鍵、2018/02/21 06:57
改憲への動きが進められている
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/page-1.html

 都議選の大敗、支持率の急落で一気に危険水域に入った安倍政権だが、安倍首相は、自民党の憲法改正案を今年2017年秋の臨時国会に提出する方針を変えないと言い張っている。むしろ、憲法改正論議を自らの疑惑隠しに利用して、政権浮揚をはかるつもりらしい。
 実際、8月の内閣改造では、自分の出身派閥である細田派の右派議員たちを閣僚から外して党の要職につけ、改憲のための世論作りに投入する計画も報道されている。
 国民はこうした動きにのせられないためにも、日本国憲法の意義と重要性について改めて見つめ直しておく必要があるが、その格好のテキストになりそうなのが、『私にとっての憲法』(岩波書店)だ。
 この本には、坂本龍一、久米宏、内田樹、平野啓一郎、PANTA、想田和弘、仁藤夢乃ら53人の学者や作家、音楽家、文化人が登場、さまざまな角度から日本国憲法の価値を論じ、改憲の危険性に警鐘を鳴らしている。
 たとえば、先の戦争の反省からつくられ、大事にされてきた日本国憲法が、70年以上の時が経つなかで、軽んじられている風潮に警鐘を鳴らすのは坂本龍一だ。

戦後の匂いがまだ残っていた僕の子どもの頃は、「憲法」という理念の言葉がもう少し力を持っていたと思います。しかし、日本社会は、憲法をないがしろにするような感覚を長い間かけて醸成してきて、七〇年経ったいま、理念というものはきれいごとに過ぎず、現実は違うのだという感覚が日本人の中に深く根づいてしまったような気がします。それは非常にまずいことだと思うのです
(『私にとっての憲法』より。以下すべて同じ)

 同様のことを内田樹も指摘している。太平洋戦争を知る世代と、戦争を知らない世代とでは、日本国憲法に対する見方が変わってくると分析している。

私にとっての憲法は生まれたときからすでにそこにあった。だから、山とか海とか川とかと同じように、「自然物」としてこのままいつまでもあり続けるものだと思っていた。それがある歴史的条件下で生まれたものであり、その条件が失われたら消えるものだとは近年になるまで切実に感じたことがなかった。私たちの世代の憲法のこの「暫定性」に対する自覚の欠如こそが、憲法が壊されてゆくことの下地を作ったのだと今になって思う。
 父たちの世代はそうではなかった。彼らは憲法の「脆さ」と「可傷性」にもっと自覚的だった


久米宏やPANTAは九条改正は日本を守ることにならないと主張

 坂本龍一や内田樹の指摘するような段階を経て、安倍政権のように「みっともない憲法」と言う者が出てきたり、「憲法九条はお花畑思考」と述べる“自称”現実主義者のネトウヨが登場したのが現在の日本である。しかし、憲法九条を変えることで、本当に彼らがしきりに喧伝する問題が解決されるのか? ロックバンド・頭脳警察のPANTAは、そこに疑問を差し挟む。

改憲派は、九条を変えて戦力をもてるようにしようという。でも、重武装したからといって国を守れるとは限らない。実際、大国である中国やロシア、あるいはアメリカに武力で対抗しようとしたって、どだい無理な話。島国である日本に必要なのは、世界の情報を的確に察知し、収集する能力であり、それを活かすことのできる外交力だと思う。そして、それって憲法を改正する以前のことではないか。むしろ、いまの憲法をうまく活用することが大事なんじゃないかな。もっと、国民が賢くならなければ、憲法を改正したって、ロクな憲法にならない

 久米宏もPANTAと同様に、九条を守り通すことこそが、平和とこの国の安全を守る一番の策なのではないかと主張する。

私は子供の頃からずっと思ってきた。
「なんとかして、世界中の人から、日本という国があって良かった、そう思われる国になる方法はないものか」
 その方策として、愚直なまでに憲法九条を遵守するのがベストだと思い続けてきた。
 日本を憲法九条を遵守する国にするのは不可能なのだろうか。不可能と思わずに、それを信じて生きていくことは出来ないのだろうか。
 軍備をすべて放棄して、丸腰になる、これは極めてシンプルで、日本人の心にこそ通じるメッセージだと、今もそう信じている。
 世界から戦争はなくならない、そう声高に言っている人は、戦争で利益を得る、戦争で得をしているのは、武器商人と武器製造企業だけだという現実を知らないのだろうか


仁藤夢乃と平野啓一郎は自民党改憲案のファシズム的姿勢を批判

 自民党の改憲草案で問題なのは九条だけではない。「家族は、互いに助け合わなければならない」との文言を入れた家族条項も大変な問題をはらんでいる。これは、国が理想の家族像を国民に押し付け、個人の自由や尊厳を侵害することを許すものであると同時に、介護や子育てをはじめとした社会保障を国民に押し付けるものでもあるからだ。一般社団法人Colabo代表として、少女たちの自立支援を行ってきた仁藤夢乃はこのように語っている。それは、様々な事情を抱え、家族に助けを求めることのできない少女たちを支えてきたからこその、実体験に基づく危機感でもある。

特に、自民党による改憲草案第二十四条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」とあることを知ったとき、ぐったりしました。私は、家制度的な家族観から脱し、片親家庭やステップファミリー、里親や養子縁組、同性婚など血縁に縛られない、多様な「家族」を社会が受け入れ、家族という単位に縛られずに人々が支え合えるような社会になればと思っていますが、これはその反対です。弱者へ寄り添う目線がなく、「家族」に自己責任を押し付けるような一文です。もちろん、家族が助け合える関係性や状況があるに超したことはありません。しかし、憲法で規定すべきは、家族の助け合いが難しい状況にある人の生活も保障する国の責務と、一人ひとりの「助けを求める権利」であるはずです

 自民党の押し進める新しい憲法は、現在の日本国憲法にある多様性や自由の尊重がことごとく削られ、すべての個人に対し、国家に自らのすべてを奉仕するよう強いる。それは、大日本帝国憲法へと回帰していくような、前時代的なものなのだが、作家の平野啓一郎はこのように批判している。

私は、憲法は、多様性を前提とすべきだと思っています。国家は──ある共同体を維持しようというときには──常に分裂に至る可能性を含んでいますが、それを協調的な多様性に回収しようとするのか、単一的な価値で統合しようとするのか。現在の日本国憲法と自民党の改憲草案とは、その点で原理的に対立しています。端的な例が、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」と書き換えられている点でしょう。
 しかし、後者が不可能であることは、二〇世紀のファシズムやスターリニズムを見れば明らかです


想田和弘が実体験を通じて感じた大手メディアの政権忖度体質

 先の大戦の反省から生まれた日本国憲法が、いま、こんなとんでもないものに書き換えられようとしている。ただ、その一方で、国民の間で憲法についての論議が進んでいるとは言い難い。有権者全体で見れば、現在公開されている自民党の改憲草案の中身を知っている人のほうが圧倒的少数派だろう。
 そのような状況になっている原因は間違いなくメディアの報道姿勢にある。映画監督の想田和弘は、昨年2016年の参議院選挙のとき、投票に初めて参加する18歳の若者からの質問に応える新聞企画に参加した。その際、自分が投票先を決める基準について「僕の場合、悪法に賛成した人や政党には入れません。個人の人権や多様性、憲法を大切にしない人や政党にも入れません」と答えたのだが、それに対し、新聞社の担当編集者から「憲法については記載しないか、言い方を変えてもらえないか」と言われたという。
 自民党は必死に選挙戦の争点から隠そうとしていたが、憲法改正が選挙におけるテーマのひとつなのは間違いなく、それを指摘したことで「選挙期間中に若者を誘導している」と揚げ足をとられる可能性がある、というのが担当編集の主張だった。これに対し、想田和弘はこのように書いている。

同社は伝統的には権力の監視を担ってきた、リベラルな新聞社である。僕はびっくりして、メールで次のように反論した。
「憲法について削除することには同意できません。議員には憲法遵守の義務が課せられています。すべての議員や政党は憲法を大切にしなければならないのです。したがって「誘導」だという批判は的外れですし、また、もしそれが「誘導」だとしても、それの何がいけないのでしょうか。選挙期間中だからこそ、報道機関は自由に政策や政治について語るべきでしょう。とくに安倍政権の憲法を踏みにじるような政策や行動が問題になっている以上、それについて掘り下げた報道をすべきではないでしょうか。自主規制やバランス主義はメディアにとっては自殺行為だと僕は思います。御社まで大手テレビ局みたいになってしまっては、日本は終わりです」


 結局は、「皆さんも自分の価値観に照らし合わせて投票先を吟味してほしいと思います」との文言を付け加えることで「憲法」の二字を残すことができたのだが、想田和弘はこの一連の騒動で受けた所感をこのように書き記している。

想田和弘「憲法を守ることができるのは、国民の「不断の努力」だけ」

僕は新聞社から文言を変えるように頼まれたとき、波風を立たせるのも億劫なので「憲法」の二文字をおとなしく削除しようかと、一瞬だけ考えた。先述したように、四〇〇字に満たない、小さな小さな文章である。二文字を削ったところで、別にどうということもない。
 しかしそこで、「不戦敗」を選んで二文字を削るのであれば、日本の「言論の自由」は二文字分だけ後退することになる。それを許すのかどうか。私たち一人ひとりに問われているのは、まさにそのことだと思うのである。
(中略)
 日本国憲法第一二条には、次のように記されている。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」
 憲法の形骸化を防げるのは、私たち一人ひとりによる「不断の努力」以外にないと信じている


 安保法制や共謀罪の審議など、これまでさんざん繰り返されてきたような強権的な姿勢を憲法論議でも再現させるわけにはいかない。
 声をあげて、憲法を守ることができるのは、我々国民しかいないのだから。


リテラ、2017.07.18
支持率急落でも安倍首相は秋の改憲案提出!
坂本龍一、内田樹、久米宏、平野啓一郎、想田和弘らが憲法軽視を徹底批判

http://lite-ra.com/2017/07/post-3323_5.html

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日本はどういう国か

 日本はどういう国か。かつては「単一民族国家」とか「平和国家」とか言われたものだが、いまの現実はどうだろう。

 「週刊東洋経済」は、「隠れ移民大国ニッポン」という特集を組んだ〈1〉。OECDの人口移動調査によれば、日本は2015年時点で先進国4位の「移民大国」。在留外国人は年々増え、昨年は247万と1990年の約2・4倍だ。
 そしてストックホルム国際平和研究所の報告では、日本の16年の防衛支出は世界8位、東アジアでは2位だ〈2〉。これを根拠に「軍事大国」と呼ぶかはともかく、かなりの支出はしている。
 だが日本では、こうしたランキングを意外に思う人も多い。なぜなら移民と自衛隊は、その位置づけが混乱したままの状態で、実態が拡大してきたからだ。
 実は日本の外国人労働者のうち、就労ビザを持つ人は18%にすぎない。残りは技能実習生、留学生、日系外国人といった人々だ。しかし実態としては、繁忙期の村民の4分の1が技能実習生だった長野県川上村(日本一のレタス出荷量で知られる)のように、外国人なしに成り立たない地域や産業も少なくない〈3〉。
 つまり、公式には移民労働者は認められていないが、いわば「裏口」から入れている。そして移民の是非をめぐる対立や議論が盛んだったのに比べ、技能実習生の人権侵害などは注目が低かった。
 そして日本の憲法は「戦力」の保持を禁じている。自衛隊の位置づけも、様々な議論がある。だがそうした議論が盛んだった一方、兵士の人権を守るオンブズマン制度や労働組合など、他国の軍隊にある仕組みが自衛隊にはない〈4〉。自衛隊内の「いじめ・しごき」やセクシュアルハラスメントなどの人権状況は、あまり目が向けられてこなかった〈5〉。
 移民と自衛隊。そこに共通してみられるのは、それをどう位置づけるかの合意がないまま、実態の方が大きくなり、人権侵害などが生じていることだ。
 自衛官の人権弁護をしてきた佐藤博文は、ドイツと日本の再軍備の経緯の違いを指摘する〈5〉。ドイツでは、民主主義と軍隊をどう両立させるか議論して再軍備し、第2次大戦期の軍隊とは違う組織を作る合意を築いたことが、兵士の人権擁護につながった。だが日本では、再軍備が「日米両政府によって国内外でのオープンな議論を避けて進められた」ため、そうした合意が作られなかった。
     *
 合意がないまま実態が拡大している状況は、別の問題も招いている。それは政治の対立軸の混乱だ。
 冒頭で述べたように、日本は「単一民族国家」や「平和国家」と考えられてきた。そして移民を認めるか否か、自衛隊を認めるか否かは、日本が「単一民族国家」「平和国家」であるか否かという問題と直結する。つまり移民と自衛隊をめぐる「保守」「革新」の対立は、労働政策や防衛政策の対立という以上に、日本の国家像をめぐる対立だったのだ。
 だがここまで実態が変化してくると、移民や自衛隊の是非をめぐる対立の意味がなくなってくる。保守が「移民のいない日本」を守ろうとしても、革新が「自衛隊のない日本」を守ろうとしても、リアリティーがなくなってきた。それとともに「保守」も「革新」も足場を失い、対立軸が揺らいできている。
 最近の論壇では、「保守とリベラル」をめぐる議論が盛んだ。旧来の対立軸が無効化し、政治的立場の足場が揺らいでいるからだ。このテーマを論じる論者に共通しているのは、「保守」と「リベラル」の双方ともに、「守るべきもの」がみえなくなってきたという認識である。論者によって主張や論点が違っても、この認識だけは共通している〈6〉。
 つまりいま求められているのは、実態の変化に即した国家像と、新たな政治の立脚点だ。移民と自衛隊についてどんな合意を形成するかは、新しい日本の国家像を作るにあたっての試金石である。
 だがこの問題は、現実の変化を追認するだけでは解決しない。外国人や自衛官の人権状況にしても、ただ移民労働者を公認したり、ただ憲法に自衛隊の存在を書き込んだりするだけでは改善しない。何よりも必要なのは、ドイツで行われたといわれるような、新しい合意を作るための「オープンな議論」だろう。
     *
 とくに改憲は、そうした議論なしに行われるべきではない。改憲とは、国の立脚点を作り替えることだ。議論と合意形成をないがしろにして、ただ現実を追認するような改憲は望ましくない。
 現在、9条2項を維持したまま、自衛隊の存在を追加する改憲が議論されている。だが思うに、「自衛隊の存在はこれを認める」と追記するだけでは、自衛隊にどの範囲での武力行使が認められているのか不明だし、自衛隊は2項が禁じた「戦力」ではないかという素朴な疑念は残り続ける。それでは現実を追認し議論に蓋(ふた)をするだけで、新しい立脚点と合意を作ることにならない。また「前項(9条2項)の規定に関わらず、自衛隊の存在はこれを認める」と書くなら、阪田雅裕がいうように「『自衛隊』という名前である限り、何をやっても、どんな装備を持っていても、憲法で認められる」ことになり危険すぎる〈7〉。改憲をいうなら、安保法制で懸念が残った事項も含め議論し、幅広い合意を作るべきだ。
 現実の変化に対応することは大切だ。大切だからこそ、次の時代の立脚点を作るための、建設的な議論が欠かせない。
     *
 〈1〉特集「隠れ移民大国ニッポン」(週刊東洋経済2月3日号)
 〈2〉ストックホルム国際平和研究所の報告「TRENDS IN WORLD MILITARY EXPENDITURE,2016」(英字、https://www.sipri.org/sites/default/files/Trends-world-military-expenditure-2016.pdf
 〈3〉安田浩一「長野県川上村の反省」(週刊東洋経済2月3日号)
 〈4〉三浦耕喜『兵士を守る 自衛隊にオンブズマンを』(2010年刊)
 〈5〉佐藤博文 インタビュー「自衛隊のセクハラ・パワハラ訴訟から問う軍隊の『民主的統制』の可能性」(POSSE第29号、15年)
 〈6〉宇野重規・大澤真幸 対談「転倒する保守とリベラル」/北原みのり「不正義との戦い」/中西新太郎「若者の保守化という錯視」(いずれも現代思想2月号)
 〈7〉阪田雅裕 インタビュー「憲法を考える・自衛隊を明記するとは」(本紙2月7日朝刊)
     ◇
朝日新聞デジタル・論壇時評、2018年2月22日05時00分
移民と自衛隊
現実、追認せず合意形成を

歴史社会学者・小熊英二
おぐま・えいじ=1962年生まれ。慶応大学教授。『生きて帰ってきた男』で小林秀雄賞、『社会を変えるには』で新書大賞など受賞多数。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13370613.html

 ヤッホー君、ただ分からないのは、「オープンな議論」とか「建設的な議論」がこの国ではたして過去に行なったことがあったのか、イマ国会の最中だけど、「議論」になっているのか、ということ。
 評論家というのは、どっかに出向いたりメディアに出てお喋りしてお金をもらう、文章を書いてお金をもらう、とかじゃなくって、こうなんだけどどうなの?と「議論」を提起することだと思うんですぅ。
 以下の分析のほうが「まとも」と思うんだけど、どう?皆の衆:
(次回に続く)

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子供のようなこの国のトップ

米国で高校生が銃の犠牲になって1週間が経つが、今でもトランプ大統領が高校生の前で先生に銃を持たせれば良いと話したことが信じられないでいる。銃を連発できなくするとか性能を規制するとか言っても悪事を働く者には効果はないだろう。日本を見習って刀狩りを強行することを米国民が選択すべきだ。
6:44 - 2018年2月26日 鳩山由紀夫

過労死で、大事な娘・息子を亡くした親は、この、ニヤケながら野次を飛ばすこの国の総理大臣を見て、一体、どんなこと思うのだろう。
どんなに辛いか、
どんなに悔しいか、
あまりにも悲し過ぎる…
これ、辞任レベルの問題でしょ。
#国会中継

本田由紀さんがリツイート 19時間前

人が過労死で亡くなってる大事な議論なのに、にやけながらヤジを飛ばす安倍総理の映像。
4:42 - 2018年2月26日 ジョンレモン

#国会中継
自席でヤジを飛ばす子供のようなこの国のトップ!
国民が見ているのを知っていて質疑をバカにしたように笑うこの国のトップ!
国民にとって大切な議論を
冒涜するこの傲慢を、許す国民に成り果てて良いのか!我々国民は!

23:20 - 2018年2月25日 みく

 そうなんです。こんな国はけっして<美しい国、ニッポン>ではないはず。
 偉そうにふんぞりかえって、わがまま自分勝手にふるまうこの国のトップ。
 若者、会社員、主婦、高齢者、病人、生活保護受けてる日本人はどうなる?
 日本人より海の向こうの国のトっプの言い値で武器を買うこの国のトップ、
 日本人より海の向こうの国のトップのご機嫌ばかり伺うのが、ウヨクなの?
 どうするっていう議論もなければ、そんなトップを許すわれわれで良いの?
 この人ってホント〜に愛国シュギシャなのかな、やっぱり売国奴なのかな?

AN important and timely book has eluded the attention of the thinking public(注). This could be attributed to the fact that the book was not given due coverage by mainstream media or poor marketing by the publisher.

Dominance of the West over the Rest by Citizens International is a must-read book not only for intellectuals and academics, but also the masses. The compendium of essays in this book aims to raise critical consciousness by deconstructing the Western knowledge system.

As most of us are aware, the Western knowledge system was transplanted by the West over the rest during colonialism. From resisting Western intellectual discourse to confronting conspicuous consumption, the book offers an insight into Western hypocrisy.

In devouring the book, one is reminded of what Frantz Fanon had written in The Wretched of the Earth: “Colonialism is not simply content to impose its rule upon the present and the future of a dominated country. Colonialism is not satisfied merely with holding a people in its grip and emptying the native’s brain of all form and content. By a kind of perverse logic, it turns to the past of the oppressed people, and distorts it, disfigures and destroys it.”

Apart from boasting a list of impressive contributors, the book is a rarity mainly because few intellectuals in Malaysia challenge the Western knowledge system.

Our universities, for example, tend to accept knowledge from the West uncritically.

The same knowledge is then passed on to students. Herein lies one of the strengths of the book: it urges the reader to question major Western paradigms, such as modernity, globalisation and neo-liberalism, which together are packaged as the necessary ingredients for a trip to the promised land of happiness.

Yet, when people do not buy it or have other ideas on how the economy and society should be organised, they become subject to direct and indirect violence. The crooked rhetoric that naturalises dominant Western paradigms as a universal global process and as something that developing countries should emulate hides its darker side, the constant reproduction of coloniality.

To uncover the perverse logic that acts as the underlying philosophical conundrum of modernity and the political and economic structure of colonialism, the book argues that we must consider how to decolonise the mind and the imaginary. Since the mid-1970s, the idea that knowledge is also colonised and therefore needs to be de-colonised, was expressed in several ways and in different disciplinary domains.

In the Malaysian context, the pioneering works in decolonising knowledge were laid out by one of its leading public intellectuals, S.M. Idris through Consumers Association of Penang (CAP) and Citizens International. Dominance of the West over the Rest is just one example of the many publications by CAP and Citizens International that aims to decolonise knowledge.

Decolonisation is a double operation that includes colonised and coloniser. The colonised do not have epistemic privileges of course. The only epistemic privilege is in the side of the coloniser, even when the case in point are emancipating projects such as liberalism or Marxism.

Colonised knowledge simply refers to Eurocentric categories of thought that carries the seed of emancipation and the seed of regulation and oppression.

A book such as Dominance of the West of the Rest reminds us of the importance of keeping the memories and histories of coloniality alive. We should not lose sight of the wounds and humiliation that were brought about by colonialism. In confronting the demons of colonialism, decolonial epistemic and political projects are absolutely essential.

Decoloniality means working towards a vision of human life that is not dependent on or structured by the forced imposition of a single ideal of society on those that differ, which is exactly what modernity does, and hence, where decolonisation of the mind should begin. Dominance of the West over the Rest tries to change the terms and the content of the discourse on, among others, modernity.

One might ask why do we have to change the content and terms of the prevailing discourse on modernity.

The answer lies in the fact that the discourse has been changed in the colonial world by liberalism and Marxism. Decolonising requires that economic, political, philosophical and ethical conceptualisation that makes Adam Smith and Karl Marx necessary (because Western categories of thoughts have been globalised through the logic of coloniality and the rhetoric of modernity) but highly insufficient.

Dominance of the West over the Rest explores the different politics of knowledge organising the darker side of modernity, the irrational myth that justifies genocidal violence within the layered historical frame established the process of emancipation, liberation and decolonisation.

By changing the terms and the contents of the discourse that heavily rests on Western categories, we will be able to delink from the hegemonic ideas of what knowledge and understanding are and, consequently, what economy, politics, ethics, philosophy, technology, and the organisation of society are and should be. Dominance of the West over the Rest has fractured the hegemony of knowledge and understanding that have been ruled since the 15th century and throughout the modern, colonial world by Western categories.

New Straits Times, Published: February 25, 2018 - 10:00am
Fighting colonialism
By ASSOCIATE PROFESSOR DR AZEEM FAZWAN AHMAD FAROUK
The writer is director of Centre for Policy Research and International Studies, Universiti Sains Malaysia
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2017/09/278124/do-standardised-tests-measure

(注)
http://www.citizens-international.org/ci2017/wp-content/uploads/2012/11/dominance.pdf

posted by fom_club at 18:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヘイトと愛国ポルノの国

 本日、平昌冬季オリンピックの閉会式が行われる。今回のオリンピック報道で顕著だったのは、日本メディアによる「嫌韓」と「日本スゴイ」の大合唱でだ。開催前から日韓合意の見直し問題を理由に安倍首相が開会式欠席をちらつかせたのを支持したり、北朝鮮の参加を批判したりと、選手そっちのけで平昌五輪バッシングを繰り広げていた日本メディア。ワイドショーはいつものオリンピク大好きぶりとはうってかわって、まるで盛り上がってはいけないかのような異例の報道ぶりだった。
 まずやり玉にあげたのが大会運営だ。
 チケットが売れていないこと、シャトルバスなどの公共交通機関がスムーズに運行されていないこと、大会直前にスタッフ宿舎で起きたノロウイルスや食中毒の問題やボランティアスタッフの劣悪な待遇の問題、0℃を下回る寒さのうえ風も強いという過酷な天候、22時過ぎに試合が始まるなど遅すぎる競技時間──日本のワイドショーはどの番組もこれらのことを、まるで鬼の首でもとったかのように喜々として伝え続けた。
 端的に言ってしまえば、そのどれもが限りなく言いがかりに近い。
 たとえば、オリンピックだからってすべての競技のチケットが売れるわけではないし、券の売れ行きが芳しくない競技が出るのは、どの国のどの都市で行われるオリンピックも同じだろう。
 また、競技時間が遅いのは、北米およびヨーロッパのプライムタイムに合わせている時差の問題であり、これも昨日今日に始まった話ではない。この件で攻められるべきは、オリンピックをアスリートのための大会ではなく金儲けのための大会にさせているオリンピックの運営それ自体であって韓国ではないし、この状況が見直されなければ、2年後の東京大会でも同じような状況になるのだ。
 そして、さらにひどかったのが、「韓国ヘイト」を背景とした陰謀論めいた憶測の流布である。
 ショートトラック競技をはじめ、平昌オリンピック開催中にはことあるごとに「不正判定」の声があがったが、挙げ句の果てには、日本人選手のドーピング問題すら「韓国の陰謀」との声まであがったのだ。
 ショートトラック日本代表の斎藤慧選手は、大会前のドーピング検査にて禁止薬物であるアセタゾラミドの陽性反応を示し、暫定資格処分停止となった。
 冬季オリンピックで日本人選手がドーピング陽性反応を示すのは初めてのことで、東京オリンピックのためにクリーンなイメージを打ち出したい日本としては痛手となった事件だが、これに対し、インターネット上では〈韓国お得意のショートトラックだから、盛られた可能性はある〉などという愚にもつかない陰謀論が溢れた。そもそもドーピング検査をしているのも競技の判定をしているのも、国際組織であって韓国ではないのだが……。オリンピックは何のために行われる大会なのか理解して書いているのだろうか。

「嫌韓」から、日本人選手が活躍し始めると「日本スゴい」のオンパレード

先に述べた通り、北朝鮮の参加などをめぐり、日本のメディアは大会前から平昌オリンピックに対して冷や水をかけるような報道を繰り返してきたが、日本人選手がメダルを多く獲得し始めると、一転今度は「日本スゴイ」のオンパレードに。
 確かに、羽生結弦や平野歩夢や小平奈緒らをはじめとする選手たちの活躍は素晴らしいが、しかし、それを扱うメディアの姿勢は、歌人・枡野浩一氏による有名な短歌〈野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない〉を頭に思い浮かべずにはいられない恥ずかしい状況だった。
 それはワイドショーだけではない。安倍首相は羽生や小平がメダルを獲ると彼らに祝福の電話をかけているのだが、その様子は動画で撮影され、官邸のSNSに投稿された。選手を讃えるというより、“羽生選手や小平選手に電話する安倍首相”をアピールしたいようにしか見えない。
 羽生選手との電話のなかで安倍首相は「日本人として本当に誇りに思います」と語った。確かに、羽生選手は日本人かもしれないが、羽生選手の金メダルは、羽生選手個人の才能と努力や、カナダ人であるブライアン・オーサーコーチをはじめ日本人に限らないさまざまなルーツをもつ人たちのサポートによるもの。またそこにはプロスケーターだったオーサー氏をコーチになるよう口説き落とした韓国のキム・ヨナや、オーサー氏がキム・ヨナを通して得た成功経験も寄与しているだろう。
 そういった構造は小平選手も同じ。小平選手にメダルをもたらしたのは、小平選手個人の才能と努力はもちろん、ソチオリンピック後に単身留学したオランダでの経験が大きかったといわれている。また小平選手だけでなく、高木美帆選手や高木菜々選手、パシュートなど多数のメダルを獲得するなど大躍進を遂げたスピードスケートだが、それはナショナルチームのコーチを務めるオランダ人のヨハン・デビット氏によるオランダ流の指導体制への改革がもたらしたものだ。
 つまり「スゴいのは選手個人であって、日本はべつにスゴくない」はパヨクのイチャモンでもなんでもない。実際問題として選手たちの活躍を生み出したのは国籍を超えた人脈や経験であって、「日本スゴい」でも「日本人だから」ではないのだ。
 そもそもオリンピック憲章でも、オリンピック競技は個人間あるいは団体チーム間の競争であり国と国の競争ではないとして、国別のメダル獲得数ランキングの作成などを禁止している。にもかかわらず、日本では多くのメディアが国別のメダル獲得数を当たり前のように報じている。そこには、オリンピックをいまだ国威発揚の場としてとらえる感覚が根深いのだろう。

「カムサハムニダ」と叫んだ羽生結弦、韓国のライバルと讃え合った小平奈緒

 しかし、オリンピックに参加する当の選手たちは、周囲が煽る対立になど与していないようだ。その象徴が、2位となった韓国の李相花選手と小平選手が寄り添い、お互いに健闘をたたえ合った場面。これこそが「平和の祭典」たるオリンピックのあるべき姿だろう。また本日行われたフィギュアスケートのエキシビションでは、羽生選手は観客に向かって「カムサハムニダー」と韓国語で叫び、開催地への感謝を表していた。
 ちなみに、日本のメディアは平昌オリンピックにおける不手際を執拗に揚げ足取りし続けたが、言うまでもなくこれは2年後の東京オリンピックのときにそっくりそのままブーメランとして返ってくるものである。
 7月後半から8月頭の酷暑の時期の開催となる東京オリンピック。毎年熱中症の患者が数多く出るような天候のなかで行われる大会は、平昌五輪以上に過酷なものとなり、想定外のトラブルにも多く見舞われるだろう。
 そういった問題が起こった際、日本が、眼前に立ちはだかる障害をスムーズに乗り越えられるとは、とてもではないが思えない。実際、すでに新国立競技場建設問題をはじめ数多くのトラブルが発生し、いずれも根本的な解決ができていないままだ。
 ご存知の通り、東京オリンピックは招致段階で喧伝されていた「コンパクト五輪」の構想はもろくも崩れ去り、当初の予算を大幅に超過。雪だるま式に膨れ上がり続けている。
 日本のメディアは平昌オリンピックにおける公共交通機関の滞りを嘲っていたが、東京オリンピックだって輸送計画に不安を抱えている。平昌とは違って大都市での開催なので、「観客が終電を逃しました」レベルでは済まない大きなトラブルとなる可能性も指摘されている。
 しかし、この国のメディアには、平昌で起きた諸問題を他山の石と捉えようとする真摯な姿勢はついぞ見られなかった。このまま2020年まで自国の問題は見て見ぬふりをし、「日本スゴい」と愛国ポルノに耽溺し続けていくのだろうか。
 東京オリンピックはどんなグロテスク愛国ポルノショーになってしまうのか。そのことがあらためて恐ろしくなった、平昌オリンピック報道だった。

[写真]
安倍首相も金メダリストたちとの電話で自らをアピール(画像は首相官邸ホームページより)

リテラ、2018.02.25
「嫌韓」と「日本スゴい」まみれだった平昌五輪報道!
こんなヘイトと愛国ポルノの国で東京五輪など開催していいのか

http://lite-ra.com/2018/02/post-3825.html

 ヘイトと愛国ポルノは、アホノミクスが讃えて山ない海の向こうの国でも同じようですよ。
 脅しや騙し、ウソ八百、人殺しじゃなくって、どうして他の人と自分とが手を繋げる社会を racists and rightwing extremist たちは構想しないのかなって、日蓮上人さんをお詣りした後のヤッホー君・・・

Last week’s horrific school shooting reminded us that Donald Trump has made America less safe. While mass shootings predate Trump, he has done something his predecessors did not: domestically, he’s shifted our focus towards immigrants and Muslims as threats, while willfully neglecting the threat posed by racists and rightwing extremists.

Internationally, he’s imposed a Muslim ban that targets citizens of countries with no history of engaging in terrorism on US soil, at the expense of far more accurate predictors of violence.

There were many signs that Nikolas Cruz posed a severe threat. He wrote on social media that he was going to be a professional school shooter. He talked about killing animals. According to his fellow students, he held racist views, degrading black people, Latinos and Muslims.

“[H]e would degrade Islamic people as terrorists and bombers. I’ve seen him wear a Trump hat,” Ocean Parodie, a student at the school, told the Daily Beast.

“He would always talk about how he felt whites were a bit higher than everyone,” another student added.

But despite his classmates predicting that he’d shoot up a school, despite local police paying 39 visits to his house since 2011, and despite the FBI receiving at least two warnings about him, no investigation took place and Cruz could easily buy an arsenal of weapons.

Because Cruz did not match Trump’s definition of a threat: immigrants, African American youth, and Muslims – that is, non-white people.

Neither did the 17-year-old alleged neo-Nazi in Virginia who is charged with killing Scott and Buckley Fricker right before Christmas – parents of my son’s soccer teammate.

The teen’s neighbors said he mowed a swastika about 40ft across into the grass of a community field. They raised the issue with his parents, but they never called the police. A few weeks later, he was charged with murdering Scott and Buckley.

Would the neighbors have called the police had the 17-year-old mowed 40ft Isis logos? Or would they just have complained to his parents? Had the FBI received reports that Cruz was a dangerous Isis sympathizer, would they have failed to investigate?

We may never know. But much indicates that law enforcement would diligently follow up on any tips regarding Isis terrorists for a very simple reason: the political signal is that they are the priority – and everything else is not. It is a signal even ordinary people feel, people who would probably report an Isis sympathiser, but not an alleged neo-Nazi.

This Trumpian signal is not rooted in a neutral threat assessment. Rather, it is itself motivated by politics: Trump apparently considers neo-Nazis, white supremacists and those motivated by racial and cultural anxiety as his constituency. Depicting them as a threat counters his interests while depicting those whom they hate as dangerous serves his agenda. The more immigrants and Muslims are seen as threats, the more America’s racists are compelled to back Trump.

This makes Americans less safe. Not just because it turns Americans against Americans, but because Trump further shifts our focus away from the threat of rightwing extremists and racists even though they are at least as dangerous as Isis extremists. (Between 12 September 2001 and 31 December 2016, far-right elements committed 62 acts of terror, while Islamic extremists committed 23, though the latter group is responsible for more deaths, 119 to 106.)

But Trump is not only jeopardizing America’s security domestically. His Muslim ban follows the same pattern of shifting our focus towards politically convenient threats at the expense of real and existing threats. According to the Cato Institute, citizens of the seven countries included in Trump’s initial ban accounted for zero terrorist-related deaths in the United States.

More than 94% of all American terrorist-related deaths between 1975 and 2015 were perpetrated by citizens of three US allies who were not included in the ban. But more importantly, a homeland security report concluded that citizenship was “likely an unreliable indicator” of terrorist activity – undermining the very basis of Trump’s ban.

Isis-inspired terrorists obviously do constitute a threat. But instead of addressing them – which would entail pressuring US allies who fund the terrorist network – Trump chose the politically convenient path of targeting Muslim-majority countries whose citizens were less geopolitically costly to ban.

That way he could perpetuate the idea that immigrants and Muslims constitute a central threat, appease his base by imposing a ban, while willfully neglecting terror-supporting governments his administration considers allies.

As willfully neglected rightwing extremists perpetuate more massacres, Americans are starting to recognize how Trump is playing politics with their security. Hopefully, the American public will also recognize that he is doing the same with their border security.


[photo]
Students protested against gun violence on Wednesday on Capitol Hill, one week after 17 were killed in the latest mass school shooting at Marjory Stoneman Douglas high school in Parkland, Florida.

The Guardian, Published: Sun 25 Feb 2018 16.54 GMT
Muslims are seen as a threat in the US – but the Florida shooter wasn't. Why?

Trump has shifted our focus towards immigrants and Muslims as threats, while willfully neglecting the threat posed by racists and rightwing extremists

By Trita Parsi
Trita Parsi is president of the National Iranian American Council and author of Losing an Enemy – Obama, Iran and the Triumph of Diplomacy
https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/feb/25/florida-shooter-parkland-donald-trump

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2018年02月26日

山歩クラブのタウンウオーキング

 おはようございます。
 昨日2月25日日曜日の山歩クラブは、大田区の都営浅草線西馬込駅に集合しました。
 タウンウオーキング、お散歩会だったのです。
 コースですが、まずは彫刻家佐藤朝山(1888-1963)の旧居跡「大田区立郷土博物館」で大田区の歴史を学びました。
 ヤッホー君がね、みっつだけご説明したい、って。
 一つ目は、勝海舟が幕末、薩長軍が本陣を構えた池上本門寺に赴き、会談を行なったこと、
 二つ目は江東区の深川神明宮前で生まれた日本画家で朝丘雪路(1935年生まれ)の父、伊東深水のこと、
 そして三つ目が、ヤッホー君がマレーシアから飛行機で飛んできて着陸した羽田国際空港のこと、
 この羽田は1931年に「東京飛行場」として誕生し、敗戦後アメリカ軍により接収され ”Haneda Army Airbase”となり、日本に返還されたのは1952年でイマの「東京国際空港」となったこと。

 そのあと、湯殿神社にお詣りし、川端龍子(1885-1966)の旧居跡の龍子公園と記念館におじゃましました。
 公園では観梅もさることながら、学芸員の方のていねいなご説明に耳を傾けて、日本美術への理解を深めました。
 記念館を辞した後は、川端龍子の異母弟(注1)、川端茅舍(ぼうしゃ、1897-1941)の旧居跡、「青露庵」跡地に寄り、そこで俳句を読みあげて、徘徊、じゃない、徘徊の難しさの一端を知りました:


つばはいてはこべ花咲く溝と知る
せりの根を洗いし溝にかみそりも
草萌えて馬大王座を既に占む
万福寺門前あぜを塗る田なし
梅の丘をけずりてせりの田を埋む
鶯の丘をラッパや豆腐売り
鶯のこだまの九十九谷かな

 いよいよ、江東区森下1丁目に生まれ、朝丘雪路の父、伊東深水(1898−1972)の旧居跡、池上梅園で観梅兼ねた昼食会です。
 そして池上本門寺にて力道山のお墓でお参りし、星亨(1850-1901)銅像跡の「日蓮上人説法像」の前で記念写真を撮りました。
 だって、若松さんからこの像は、長崎のあの平和祈念像をつくった北村西望(1884-1987)作、と聞いたんですもの。
 その後はタウンウオーキングの終盤でございます。
 池上駅そばの天然黒湯温泉の久松温泉(大田区池上3-31-16 Tel 3751-0119、注2)に浴し、「養老の滝」(大田区池上6-4-18 ブリックタウン小林2F Tel 3751-8146)にて滝に打たれ、1万5千歩超の歩きを終えた、とこういうわけでございました。
 いつもながらリーダーの江戸ちゃん、ありがとう。


(注1)龍子と茅舎
 一大の画人として文化勲章をも受賞した川端茅舎とその12歳年下のその才能を惜しまれつつ夭逝した異母弟の俳人・茅舎とでは、まさに、両極端のようなに思われるけれども、この両者は、陰に陽に惹かれ合い、直接・間接を問わず影響し合った兄弟同士であったということを実感する。
 殊に、俳人・茅舎の生涯というのは、その年譜を比較対照して見ていくと、異母兄の龍子とその妻・夏子の庇護下のものであったということを実感する。
 茅舎が生まれた日本橋蛎殻町の家には、茅舎の両親と共にそこに同居して異母兄の龍子が居て、そして、その龍子の実母はこの家の近くの親戚の経営する日本橋病院に住み込みで働いているという、誠に龍子にとっては異常な境遇下で、やがて、龍子はその実父と茅舎の母とを嫌悪しつつ、この家から離れ、独立独歩の道を進んで行く。
 一方、茅舎は、この両親の溺愛の中で育ちつつ、やはり、この異常な環境下の家を離れ、青春彷徨をしつつ、龍子の庇護を受けて、その実母亡き後は、実父共々、龍子が建ててくれた青露庵に落ち着き、そこで、44歳の生涯を閉じることとなる。


ブログ俳諧鑑賞、2012年10月19日金曜日
茅舎追想(その1〜その20)
http://yahantei.blogspot.jp/2012/10/blog-post_19.html

(注2)久松温泉
 昭和30年に採掘に1年をかけて深さ200メートルから湧き出る「久松温泉」の黒湯温泉は、温泉許可書を取ったのは大田区内の黒湯の中でも濃い色をした無味無臭の上質な温泉(植物性泉)です。
 ミネラルが豊富な鉱泉のため多くの効能を得られます。
 お湯の温度は昔ながらの熱めのお湯ではございますが、黒湯の蛇口からは冷えた源泉の源泉が出ますのでゆっくりと浸かることが可能です。
 泉質名は“ナトリウム-炭酸水素塩冷鉱泉”となり、保湿、保温に効果を発揮しますので、黒湯は湯冷めしにくく、アルカリ性で肌がすべすべになることから、黒湯は「美人の湯」とも呼ばれております。
 また、冷え性の方はぜひ「プチ湯治」として1週間〜2週間くらいを目処に通っていただけると効果を実感頂けると思います。西洋医学のように即効性はございませんが、薬に負けない効果を実感ください。


http://www.hisamatsu-onsen.com/portfolio.html

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2018年02月24日

「残して活用」する再開発

 今日ではなくって昨日のことなんです、ヤッホー君は午後、「こいぶち歯科」へ歯の治療に(鯉淵先生はヤッホー君のこのブログに、これまで何度も登場してまいりました)。
 午後からの外出だから「朝キン」はダメだし、縮めてアフタヌーンのウオーキングだから「アキン」にしようかな、どうしようか迷っているうちに一日経ったって、暇だねぇ〜。
 まずは地下鉄「大手町駅」で千代田線に乗り換えるのですが、ようやく工事が終わりに近づいてきているようでホームがキレイ、キレイになってたんで、ヤッホー君、びっくり。
 大手町も、八重洲や丸の内のように再開発途上?再開発っていうと、「壊して新しく作り直す」イメージがありますが、このビルだけは「残して活用」だって…、いいね、いいね。

 再開発ラッシュが続く日本経済の中心地、東京・大手町で築60年のオフィスビル「大手町ビルヂング」が、「低層、横長」のレトロな姿をそのままに改修・保存されることになった。周辺では最古級の名物ビルで、三菱地所が長年、本社にしてきた。超高層ビルの谷間で、高度経済成長期の記憶を伝える役割を担う。 
 大手町ビルは1958(昭和33)年に完成。国内初の全館冷房など当時としては最新鋭の設備を誇った。高さ30mで地上9階地下3階建て。約140の企業・団体のほか、商業テナント約60店が入居する。三菱地所によると、東西約200mの細長い敷地に立ち、その規模から、かつて「東洋一のビル」といわれたという。
 隣接する丸の内地区も含め、昭和に建てられたオフィスビルが続々と100〜200m級の超高層ビルに建て替えられる中、低層で横長のレトロビルは存在感を放つ。大手町・丸の内地区のオフィスビルでは、重要文化財で見学施設になっている明治生命館(1934年完成)に次ぐ歴史がある。
 大手町・丸の内地区の明治時代からの大地主である三菱地所は、今年初めの本社移転に先立ち、これまでのような再開発ではなく「残して活用」することを考えた。今年中に改修に着手するが、鉄骨コンクリートの構造部には大きな手は加えず、階数もそのままにする。耐震調査で骨格の耐用年数が40年近く残っていたことが判断の理由にある。補修工事して100年使える建物にするという。
 大手町・丸の内地区の再開発では、日本工業倶楽部会館(1920年完成)、旧東京中央郵便局(1931年完成、現JPタワー)などが部分保存される一方で、多くのビルで全面建て替えが進む。
 大手町ビルのように現役のビルとして保存するのは珍しいが、三菱地所は「すべてのビルが建て替えではなく、サービスによって価値を高める方法がある」と説明している。

進む超高層化 街の「史跡」に

 「周りは高いビルばかりになったけど、その中で街の歴史を伝えるビルを残していくことは大切だと思う」。大手町ビルの開館と同時にビル内に花屋を出店した「長谷川商店」(東京都港区)の山田孝夫社長(59)は、こう話す。
 銀行や商社の本社、「財界総本山」と呼ばれる経団連会館などが囲む大手町ビルは、巨大ビジネス街の中心地にある。長谷川商店は、法人向けで実績を重ね、顧客には周辺企業の重役らも名を連ねてきた。
 ビル内の商業テナントでつくる大手町ビル商店会長も務める山田さんは「オフィス街と店を結び付けてくれたのが大手町ビルだった」と感謝する。
 大手町ビルは低層ながらも既存の小規模オフィスを活用しつつ、近年は中小のベンチャー企業を呼び込み起業家が集まる拠点となってきた。
 2002年の「丸の内ビル」の建て替え以降、国の規制緩和も後押しし、大手町・丸の内地区には100m以上のビルが30棟近くできた。2020年東京五輪・パラリンピックを見据え、高級ホテルの進出も相次ぐ。
 摩天楼となった大手町でのビル保存について日本建築家協会関東甲信越支部の加藤誠洋(のぶひろ)・保存問題委員長(52)は「開発優先のエリアでビルを残す決定は異例。都心のシンボル的なビルをどう残し、活用していくかの回答例になればいい」と評価した。


東京新聞・朝刊、2018年2月4日
「大手町ビル」低層・横長のまま保存
再開発より活用

(神野光伸)
www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018020402000132.html

 そんな大手町、ここに地下鉄が開通していくのも歴史、ですよねぇ〜

1956年丸ノ内線大手町駅開業(丸ノ内線 淡路町〜東京間開業)
 この年、日本が国際連合に加盟し、メルボルンオリンピックが開幕。
1966年東西線大手町駅開業(東西線 竹橋〜大手町間開業)
 この年、ビートルズの日本公演あり、国立劇場が開場し、建国記念の日を祝日に定める制令が制定された。
1969年千代田線大手町駅開業(千代田線 北千住〜大手町間開業)
 この年、NHK-NHKFMが本放送を開始し、テレビアニメ「サザエさん」し、の放送が開始された。
1989年半蔵門線大手町駅開業(半蔵門線 半蔵門〜三越前間開業)
 この年、元号が「平成」に改元され、横浜ベイブリッジが開通し、ベルリンの壁が崩壊する。

大手町駅、60年の軌跡

http://www.eki-metro.jp/otemachi/movie/movie-popup02.html?iframe=true&width=700&height=525

 は〜い、千代田線に乗り込んで「代々木公園」駅でおり、小田急線の「代々木八幡」駅に向かうのですが、ここはまだしばらく工事が続くようですね。

 代々木八幡駅から新宿方面へ線路沿いに数分歩いていくと、住宅街の中に小さな歌碑を見つけた。
 「春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれやれんげの花に」で始まる唱歌「春の小川」だ。
。。。


朝日新聞デジタル、2015年3月24日14時33分
(各駅停話)
代々木八幡駅 「春の小川」が伝えた風景

中野寛
https://www.asahi.com/articles/ASH3H761NH3HUTIL011.html

「春の小川」
 歌詞の文語体は、昭和17年国民学校初等科と戦後、昭和22年の新制小学校の教科書で、次の様に(一部は二回に亘って)口語体に改められた。
一番 流る → 行くよ
   にほいめでたく → すがたやさしく
   咲けよ 咲けよと ささやく 如く
   17年 → 咲いて いるねと ささやき ながら/22年 → 咲けよ 咲けよと ささやき ながら
二番 流る → 行くよ
   ひなたに いでて → ひなたで およぎ
また同時に三番の歌詞が削除された。
三番 春の小川は さらさら流る
   歌の上手よ いとしき子ども
   声をそろへて小川の歌を
   うたへ うたへと
   ささやく如く

 作詩をした高野辰之には子どもが無く、長野の妻の実家から兄の次女・弘子を養女に迎え大変な可愛がりようだったと言う。その子と毎日のように近くの小川 のほとりを散策したと伝えられている。高野辰之の思いが最も籠められた主題は、子供への愛情が溢れた三番にこそあるのではと、このエピソードから容易に想像される。
 確かに一番、二番のみだと詩句が日本の風景に集約されるが、口語体への改作とは別にして、特にこの第三節の削除は、彼にとっては残念極まりないことであろう。


日本歌曲・歌詞背景の研究(その2)文部省小学校学習指導要領共通教材曲において
坪田信子:仁愛大学人間生活学部
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180224195604.pdf?id=ART0009942567

 ではフォレスタで、削除される前の「春の小川」を:
https://www.youtube.com/watch?v=462_Nzb4GQA

 さて、歯の治療が済んだヤッホー君、代々木八幡駅を通過して新宿駅南口へ。
 いやあ、これもびっくり、腰をぬかしてしまいました。だって、「NEWoMan」ってなんて読むの?「バスタ新宿」って、ずうっと工事中だったバスターミナルが完成して、そのバスターミナルを省略してバスタ?じゃあ、「ミライナタワー」って未来なビルっていうわけ?

新宿の主役「ルミネ」

 東急プラザ銀座のオープンで銀座が賑わっていますが、新宿も新たなエリア開発が進みさらに人が集まる街へ進化し始めています。日本最大の乗降客数を誇る新宿の新南口に、駅直結のルミネの新業態「NEWoMan(ニュウマン)」がグランドオープンしました。
 すでに新宿においてルミネはルミネ新宿店(ルミネ1、2)とルミネエスト店を展開し、売上は900億円ほどあります。これにニュウマンが加わることで1000億を超える規模になることはまちがいないでしょう。
 しかし、ニュウマンの開業は単なる売上拡大だけを狙ったものではないようです。ニュウマンはルミネにとって、またJR東日本にとってどんな狙いをもった店舗なのでしょうか。ニュウマンのグランドオープンを機に考えてみます。

新宿駅の乗降客数は世界一

 新宿は日本でも最大のマーケットポテンシャルのある街です。
 新宿区の面積は18.23平方キロメートルで都内13位。区内世帯数は18万2865世帯で11位、夜間人口も31万6922人で12位となっています(2010年度国政調査参照)。このデータだけでは日本最大の街とは呼べそうもありません。
 ところが次のデータに新宿という街の最大の魅力が表れます。それは、昼間人口。新宿は実に77万94人で3位。さらに2020年の東京都人口予測では84万3000人で千代田区、港区を抜いて1位になるとされています。この昼間人口の多さが新宿という街のポテンシャルでもあるのです。
 さらに同区の人口ピラミッドを見てみると新宿の特徴が表れます。日本全体の人口構成と決定的に違うところがあるのです。それが、生産年齢人口です。
 住民基本台帳人口による年齢3区分別人口比率では新宿区の15〜64歳の生産年齢人口は23万4676人。3区分内での生産年齢人口比率は71.5%と非常に高くなっています。日本全体では62%程度で、生産年齢人口は現在も減少傾向にありますからその差は歴然です。
。。。
新宿南口地区基盤整備事業の一環としての商業施設開発
。。。
 このような肥沃な商圏を持つ街の一等地がJR新宿駅です。数多くの人がこの新宿駅を拠点としてさまざまな場所へ移動していくわけですから、新宿駅を制する者が新宿のリーダーとなるわけです。ルミネはグループ力を活かして新宿駅に拠点を構え、商業施設としての力を着実につけてきました。
 このような中で新宿南口基盤整備事業が2000年ごろから動き始めました。実は新宿駅南口は、商業地として発展してきた東口や、オフィス立地として拡大してきた西口に比べてほとんど開発されずにきたエリアです。そのために以下のような問題を抱えていました。

1.駅前広場やロータリーがないため接触事故が多かった
2.新宿跨線橋の老朽化
3.歩行空間不足
4.新宿交通結節点整備

 そこで南口地区を整備して、道路を拡幅し、歩行者の通路も広げ、さらに線路上空に人工地盤を作ることを決めたのです(国土交通省 関東地方整備局 東京国道事務所管轄)。そこに駅施設歩行者広場やタクシー、一般車の乗降場、そして「新宿バスタ」(高速路線バスの発着場を一箇所に集めた施設)などのすべての交通機能を持った建物としました。
 総合的な交通結節点としての駅前空間の中にルミネのニュウマンが入ったというのが同店誕生の背景にあります。単に新しくここに商業施設ができたというだけでなく、新宿の生活インフラ整備の一環として生まれたのです。
 ニュウマンはJR新宿ミライナタワーというビル内の6フロアと新宿駅新南口駅構内(駅ナカと駅ソト)の1フロア、また線路上空部の3フロア(屋上含む)に入居しています。施設のカタチが変形なのでどこからどこまでがニュウマンなのかが分かりにくいですが、それがかえって従来型の駅ビルにはない面白さを作っています。ちなみに2017年1月にLINEが本社をミライナタワーに移転する予定です。
 ニュウマンの売場面積は約7600平方メートルとそれほど大きくはありません。ミライナタワーなどに5600平方メートル、駅ナカと駅ソトに2000平方メートルという内訳です。トータルで約100店舗をテナントとして揃え、初年度の目標年商は200億円としています。
 ニュウマンが予定通りの売上となれば新宿地区のルミネ全体で1100億円程度(筆者推定)の売上規模となります。単体の売上だけで見れば新宿伊勢丹には追いつきませんが、すべてあわせても5万平方メートルに満たないルミネは圧倒的に坪効率の高い商業施設と言えるのです。
。。。


ダイヤモンドオンライン、2016.4.16
新生ルミネは“日本最高立地”の新宿で何を目指すのか?
〜新宿駅新南口・NEWoMan(ニュウマン)開業の狙い
岩崎剛幸:船井総合研究所上席コンサルタント
http://diamond.jp/articles/-/89741

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米国の在イスラエル大使館は5月にエルサレム移転!

 エルサレム: 中東歴訪中の河野太郎外相は2017年12月25日午後(日本時間26日未明)、エルサレム市内でイスラエルのネタニヤフ首相と会談した。
 米国がエルサレムをイスラエルの首都に認定したことがアラブ諸国の反発を招いているため、河野氏はイスラエルに抑制的な対応を促す。中東和平交渉をめぐり、平和的解決を日本が支持することも伝える。
 河野氏は「日本とイスラエルの2国間関係を次の段階に引き上げたい」と呼びかけ、ネタニヤフ氏は「日本は重要なパートナーだ」と応じた。
 中東和平に関し、日本はイスラエルとパレスチナが共存する「2国家解決」を支持してきた。当事者間の交渉による平和的解決も求めている。河野氏はこうした日本の立場を改めて伝える。河野氏はリブリン大統領とも協議した。
 河野氏はネタニヤフ氏と会った後、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラに移動し、パレスチナ自治政府のアッバス議長とも会談する予定だ。
 日本政府関係者は「今回の訪問の主眼は双方の本音の言い分を聞くことだ」と話す。トランプ米大統領が12月6日にエルサレムをイスラエルの首都と認定して以来、主要国の閣僚がエルサレムを訪れるのは初めて。国際社会に波紋が広がるなか、双方の当事者と意見を交わし、対立の緩和に貢献したい考えだ。
 6日以降、主要国ではマクロン仏大統領がパリでネタニヤフ、アッバス両氏とそれぞれ会談したが、議論は平行線をたどった。アッバス氏はペンス米副大統領との会談を拒否した経緯もある。
 河野氏は25日午前(日本時間同日午後)、エルサレム市内でナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の資料を展示するホロコースト博物館「ヤド・バシェム」も視察。犠牲者に献花し記帳した。

日本経済新聞、2017/12/26 1:00更新
河野外相、イスラエル首相と会談、抑制的対応と対話促す
(林咲希)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25045980V21C17A2PP8000/

 歴代最長首相へ向け、今秋の自民党総裁選で3選を目指す安倍首相。
 “一強”状態に早くも圧勝ムードが漂っていたが、年明け早々から浮上した思わぬ伏兵、河野太郎外相の出現に周囲は慌てふためいているという。
。。。
 そこで麻生氏は、数の力で攻めを仕掛けた。自派44人に山東昭子派閥11人、谷垣禎一グループの一部を取り込み、60人規模の『志公会』として細田派に次ぐ第二派閥にまで膨張した。

「その勢いで岸田派44人を取り込もうと蠢いていたのですが、結局は安倍さんと岸田さんの“密約”によって潰された。この事態に麻生さんは怒りを露わにし、次の総裁選に自分か自派の河野さんをぶつけると騒ぎ出し、安倍さんは沈静化のために河野さんを急きょ外相に抜擢したわけです」(前出・自民党関係者)

 これに麻生氏も納得、当時は鉾を収めたかに見えたのだが、ここへ来てその人事がジワジワと安倍首相の首を絞めているという。

「河野氏は、脱原発、自衛隊のイラク派遣反対などを唱える党内きっての異端児。外務省内でも、田中真紀子氏以来の変わり者として危険視されていました。しかし昨夏、中国の王毅外相とマニラで行った初会談で、日本の歴史認識を激しく問う王外相に『大国としての振る舞い方を身につけていただく必要がある』とピシャリと反論、王外相をタジタジにさせた。その後も王外相との電話会談で北朝鮮への圧力強化を働きかけるなど、内外に向けた歯に衣着せぬ発言に、評価がうなぎのぼりになったんです」(前出・政治部記者)

 昨年2017年末には、トランプ米大統領のエルサレムのイスラエル首都認定発言で緊張高まるイスラエルとパレスチナを、主要国閣僚として初訪問。それぞれネタニヤフ首相、アッバス議長と立て続けに会談し、存在感を示した。
 こうした一連の動きに自民党内では「新時代のリーダーとしてふさわしい」と、若手議員を中心に次期総裁候補への期待が高まっているという。

「一度は静かになった麻生さんも、再び野望が芽生えた様子。自分がワンポイントとして出るより、河野さんを担ぎ出した方が面白いのではないか、そう思い始めているようです。安倍さんへの言い訳は“説得したがあの性格で無視された”“総裁選を盛り上げる”などいくらでもある」(前出・麻生氏周辺関係者)
。。。


週刊実話、2018年01月18日17時55分
自民党総裁選で3選を目指す安倍晋三首相に、麻生太郎氏と河野太郎氏が阻止か
https://news.nifty.com/article/domestic/government/12151-14556/

 以上、日本の情勢、というか、コクミンから遠い、遠い政争の具になってるようで。
 マレーシア紙ではどんな紹介をしているか、と言いますと、ま、読者の疑問に答える形でロイター通信をだしています:

JERUSALEM: The United States plans to open a new embassy in Jerusalem in May to coincide with Israel's 70th anniversary.

The move, which the U.S. State Department called an "historic step," follows President Donald Trump's Dec. 6 decision to recognise Jerusalem as the capital of Israel.

Trump's announcement reversed decades of U.S. policy, delighting Israel's government but dismaying Palestinians, who want the eastern part of the city as their capital.

It also drew criticism from some U.S. allies in the region.

The proposed timeline is quicker than many expected. In January, U.S. Vice President Mike Pence told the Israeli parliament only that it would happen before the end of next year.

On Friday, a State Department spokeswoman said that in May the U.S. ambassador and a small staff would begin operating an "interim embassy" from inside a building in the Arnona neighbourhood of Jerusalem that currently houses consular operations.

She said the search had already begun for a permanent embassy site to replace the current one in Tel Aviv.

WHY DID TRUMP RECOGNISE JERUSALEM AS ISRAEL'S CAPITAL, AND ANNOUNCE THE EMBASSY WILL BE MOVED THERE?

There has long been pressure from pro-Israel politicians in Washington to move the U.S. Embassy from Tel Aviv to Jerusalem, and Trump made it a promise of his 2016 election campaign.

Pence and David Friedman, the ambassador to Israel appointed by Trump, are thought to have pushed hard for both recognition and embassy relocation. It is a decision that was popular with many conservative and evangelical Christians who voted for Trump and Pence.

Many of them support political recognition of Israel's claim to the city.

WHY DOES JERUSALEM PLAY SUCH AN IMPORTANT ROLE IN THE MIDDLE EAST CONFLICT?

Religion, politics and history.

Jerusalem is a city that is sacred to Judaism, Christianity and Islam, and each religion has sites of great significance there. Jerusalem has been fought over for millennia by its inhabitants, and by regional powers and invaders including the Egyptians, Babylonians, Romans, early Muslim rulers, Crusaders, Ottomans, the British Empire, and by the modern states of Israel and its Arab neighbours.

Israel's government regards Jerusalem as the eternal and indivisible capital of the country, although that is not recognised internationally. Palestinians feel equally strongly, saying that East Jerusalem must be the capital of a future Palestinian state.

The city has different names. Jews call it Jerusalem, or Yerushalayim, and Arabs call it Al-Quds, which means "The Holy".

But the city’s significance goes further.

At the heart of Jerusalem’s Old City is the hill known to Jews across the world as Har ha-Bayit, or Temple Mount, and to Muslims internationally as al-Haram al-Sharif, or The Noble Sanctuary. It was home to the Jewish temples of antiquity but all that remains of them above ground is a restraining wall for the foundations built by Herod the Great.

Known as the Western Wall, this is a sacred place of prayer for Jews.

Within yards of the wall, and overlooking it, are two Muslim holy places, the Dome of the Rock and the Al-Aqsa Mosque, which was built in the 8th century. Muslims regard the site as the third holiest in Islam, after Mecca and Medina. The city is also an important pilgrimage site for Christians, who revere it as the place where they believe that Jesus Christ preached, died and was resurrected.

WHAT IS THE CITY'S MODERN HISTORY AND STATUS?

In 1947, the United Nations General Assembly decided that the then British-ruled Palestine should be partitioned into an Arab state and a Jewish state. But it recognised that Jerusalem had special status and proposed international rule for the city, along with nearby Bethlehem, as a 'corpus separatum' to be administered by the United Nations.

That never happened. When British rule ended in 1948, Jordanian forces occupied the Old City and Arab East Jerusalem. Israel captured East Jerusalem from Jordan in the 1967 Middle East war and annexed it in a move not recognised internationally.

In 1980 the Israeli parliament passed a law declaring the "complete and united" city of Jerusalem to be the capital of Israel. But the United Nations regards East Jerusalem as occupied, and the city's status as disputed until resolved by negotiations between Israel and the Palestinians. The King of Jordan retains a role in ensuring the upkeep of the Muslim holy places.

DOES ANY OTHER COUNTRY HAVE AN EMBASSY IN JERUSALEM?

Other countries have had embassies in Jerusalem in the past, but moved them out of the city some years ago. In December Guatemala's president, Jimmy Morales, said that his country will move its embassy from Tel Aviv. Israeli Prime Minister Benjamin Netanyahu said several countries were considering following the U.S. lead, but he declined to identify them.

Also in December, 128 countries voted in a non-binding U.N. General Assembly resolution calling on the U.S. to drop its recognition of Jerusalem as Israel’s capital. Nine voted against, 35 abstained and 21 did not cast a vote.

WHAT IS LIKELY TO HAPPEN NEXT? HAS JERUSALEM BEEN A FLASHPOINT BEFORE?

Since the announcement there has been tension, with Palestinian protests in Jerusalem, Gaza and the West Bank.

Although clashes between Palestinian protesters and Israeli forces have not been on the scale of the first and second Palestinian intifadas in 1987-1993 and 2000-2005, violence has erupted before over matters of sovereignty and religion.

In 2000, the Israeli politician Ariel Sharon, then opposition leader, led a group of Israeli lawmakers onto the Temple Mount/al-Haram al-Sharif complex. Palestinians protested, and violent clashes quickly escalated into the second Palestinian uprising, also known as the Al-Aqsa Intifada.

Deadly confrontations also took place last July after Israel installed metal detectors at the entrance to the complex following the killing of two Israeli policemen there by Arab-Israeli gunmen.

Arab leaders across the Middle East have warned that a unilateral U.S move could lead to turmoil, and hamper U.S. efforts to restart long-stalled Israeli-Palestinian peace talks.


The Star, Published: Saturday, 24 Feb 2018 4:09 AM MYT
Explainer-
Why is there uproar over the U.S. moving its embassy to Jerusalem?

[source] Reuters
(Reporting by Stephen Farrell,; Editing by Matthew Mpoke Bigg and Angus MacSwan)
https://www.thestar.com.my/news/world/2018/02/24/explainer--why-is-there-uproar-over-the-us-moving-its-embassy-to-jerusalem/

ISRAELI Prime Minister Benjamin Netanyahu has done everything he possibly could to destroy any chance of peace with the Palestinians.

Netanyahu sees peace with the Palestinians as impossible. He has never made the shift to peacemaker that many have hoped.

For years, Netanyahu has portrayed himself as the person who can best keep Israel safe in the “tough neighbourhood” of the Middle East. He has taken a hard line towards the Palestinians, putting Israel’s security concerns at the top of any discussion of peace.

Critics commented that he would want to be remembered as “the protector of Israel. The one who created the means to be sure of the country’s future.

Last week, the White House strongly denied reported discussions between Netanyahu and Washington officials over plans to annex Jewish settlements in the occupied West Bank, in a rare display of discord between United States President Donald Trump and him.

Netanyahu said he wanted to coordinate any such move with the US because of the country’s strategic importance to Israel. Next month, Netanyahu will meet Trump in Washington.

Netanyahu has been put under pressure by the right-wing politicians to move ahead with legislation that will apply Israeli sovereignty to settlements in the occupied West Bank − the land that the Palestinians want for a future state which is currently under the jurisdiction of Israel’s military. This means that any annexation would destroy all effort to try and save the peace process.

The move will severely harm remaining prospects for a two-state solution to the Israeli-Palestinian conflict, and draw international outrage, though Netanyahu’s government has been backed by the unstinting support of Trump.

Last December, Trump recognised Jerusalem as Israel’s capital in a move praised by Netanyahu as “historic”, but denounced by the Palestinians and most of the world.

Netanyahu confessed that he managed to deceive then US president Bill Clinton into believing he was helping to implement the Oslo accords, the US-sponsored peace process between Israel and the Palestinians, by making minor withdrawals from the West Bank while actually entrenching the occupation.

According to Avi Shlaim, Israel’s historian, “The Oslo peace accords were wrecked by Netanyahu’s bad faith”.

He failed to conceal his deep antagonism to Oslo, denouncing it as incompatible with the historic right of the Jewish people to the whole land of Israel. Ghastly, he spent his first three years as prime minister in a largely successful attempt to undermine and subvert the accords concluded by his Labour predecessors.

In 1996, Netanyahu became Israel’s first youngest directly-elected prime minister following the assassination of Yitzhak Rabin in 1995.

Two years earlier, Rabin stood on the White House lawn with Yasser Arafat, the leader of the Palestine Liberation Organisation, to agree to a framework for limited Palestinian self-rule in the occupied territories.

Under the premiership of Netanyahu, the prospects for wider-ranging peace in the Middle East, which had seemed possible during Rabin’s time, were dead, too. More than 20 years later, the kind of peace that Rabin envisaged seems more distant than ever.

Netanyahu was defeated in 1999 by Labour leader Ehud Barak, who promised to push for a permanent peace deal and withdraw from southern Lebanon. In 2005, he resigned as finance minister when Ariel Sharon was prime minister, inprotest of the Israeli withdrawal from Gaza.

When Netanyahu was elected prime minister for the second time in March 2009, his government was criticised by some in the international community for not renewing a partial freeze on Jewish settlement-building, and for not avoiding a collapse in peace talks with the Palestinians.

Meanwhile, his right-wing party has tried to prevent or at least delay any pullout from the territories.

All of these claims have obvious parallels with the current situation. Netanyahu is again facing off White House attempts at a peace process. He has apparently made public by agreeing in principle to the creation of a Palestinian state, accepting indirect talks with the Palestinian leadership and implementing a temporary freeze on settlement building. At the same time, he has engaged the powerful pro-Israel lobby to exert pressure on the White House, which appears to have surrendered to Israel.

According to Gideon Levy, the columnist of the liberal newspaper Ha’aretz: “Netanyahu has always thought that Washington is in his pocket. Such a crooked way of thinking does not change over the years”.


[photo]
A Palestinian man looking at a house which was hit by an Israeli airstrike in Gaza City in 2014.

New Straits Times, Published: February 23, 2018 - 10:05am
Netanyahu betrays the peace
By DR PARIDAH ABD SAMAD
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/02/338177/netanyahu-betrays-peace

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貧困と格差がひろがらないように

The Government’s aim is to achieve a high income economy by 2020 must equally benefit all Malaysians.. We can not have a society where one small elite group living in luxury, while one big part of the society is struggling to survive.

The income inequality gap

According to Dr.Muhammed Abdul Khalid – a research fellow with University Kebangsaan Malaysia - although Malaysia has made great strides in reducing poverty and inequality (especially between ethnic groups) from 1970 to 1990, the inequality remains high post-1990. It has remained almost at the same level for the past twenty years; in fact, the inequality in Malaysia is among the highest in the region.

Before the 1990s, the inequality improved tremendously, due to commendable government policies that include the promotion of export-oriented industrialization, education, and training, and the restructuring of equity ownership and assistance in asset accumulation.

However, post-1990s, there is little change in inequality due to the difference in the growth rates of incomes of the rural and urban areas, return on assets against wages, inflows of migrant workers, and impediments to the process of internal migration.

Although there was huge improvement in the rural-urban gap, it also has stop improving in since the 90s, the income gap ratio between urban and rural in 2009 is almost at the same level as in the year 1989.. But in absolute terms, the income gap has in-fact widen considerably, it has jumped 3 times during the same period. The gap between the rich and the poor also remains wide and equally high across all ethnic groups in absolute terms.

Of course, the socio-economic conditions of the rural population and the poor have improved substantially, but despite the huge resources allocated by the Government towards rural development and for the poor, the income ratio between the rich and the poor, and of the rural population and their urban counterparts have not changed much post-1990s. Unless corrective measures are taken, inequality will widen in the future.

Narrowing the gap

Below are the two areas namely taxation and subsidies where changes have to be implemented in order to narrow the income inequality gap:

a) Taxation

i) Capital and property gains tax

In Malaysia, all sources of earnings are not treated equally – most notably, net asset incomes (e.g. financial capital and property gains) get more favourable treatment than salaried income. In other words, capitalists are favoured over the working class in this country.

For many working Malaysians, the top marginal tax rate of 26% is applied to their hard-earned wages and salaries, while for the small group of wealthy Malaysian whose income are earned from the capital gains derived from the stock market and financial transactions, the tax rate applied is zero. In comparison, the United States imposes a top rate of 15 percent on the capital gain.

The Real Property Gains Tax (RPGT) as announced in the 2012 budget is 10% for the 1st and 2nd yr, 5% for 3rd, 4th and 5th year. However, the 10% rate is not high enough to act as a deterrent to speculation by the rich and will continue to widen the income gap between the two classes.

We may need to consider introducing a similar tax for financial capital gains in Malaysia and perhaps at the same time increase the RPGT for the first 5 years.

ii) Income tax

The top marginal tax rate is set at a quite low bracket, for instance, a hard-working middle class household that earns a taxable income of RM100,000 annually is taxed at the same rate of those who earns millions, both are taxed at the marginal top rate of 26%.

Perhaps the income tax brackets can be increased so that the millionaires do not end up paying the same tax as those who earn a hundred thousand.

iii) Inheritance tax

The absence of an inheritance or estate tax has also contributed in widening the wealth disparity gap between generations. Such a tax is not new – Malaysia used to have it until it was repealed in 1991.

Maybe we can reintroduce the inheritance tax.

iv) Luxury goods

Taxes that affect the high-income groups such as taxes on luxury goods have been abolished or reduced.

Reinstate the taxes on luxury items.

b) Subsidies

Another way to reduce the inequalities is to revamp the subsidies regime so that only the target groups reap its benefits. ‘Blanket’ subsidies (given irrespective of the household income level) are unlikely to improve inequality. For instance the rich person driving a luxurious car reaps more subsidy benefit in absolute amount than a motorcyclist.

A study by IMF has shown that poor households benefit least from subsidies; in Malaysia, only 25 percent of social assistance goes to the poorest 20 percent.

However, social subsidies (e.g. for health, welfare, education) will have to be continued as there is need to ensure that they reach the targeted group. Subsidies for fuel should be phased, and its withdrawal will raise government revenue that can be used to provide social safety net to the vulnerable groups.

The Government should remain focus on reducing inequality because concentrating on growth alone is not enough: how it is distributed is equally important.

Importantly, wide inequalities, if left unchecked, can not only harm long-term growth and impede social mobility, but will also breed social resentment and generate political instability, which will also fuel populist policies.

Last year’s Arab Spring, and the current discontent with Wall Street -- are partly due to the unequal distribution of economic growth.

It is better if Malaysia can learn and remember these lessons, rather than experiencing it.

[The above is based on Dr Muhammed’s paper that was presented at CAP on 9 Feb 2012]

The Consumers' Association of Penang
A Tale of Two Classes: Inequalities in Malaysia
http://www.consumer.org.my/index.php/development/socio-economic/529-a-tale-of-two-classes-inequalities-in-malaysia

SINGAPORE - Income inequality in Singapore last year was the lowest in a decade, statistics released by the Government on Thursday (Feb 16) showed.

The Gini coefficient, which measures income inequality and assigns lower scores to more equal societies, went down from 0.463 in 2015 to 0.458 in 2016.

This was Singapore's lowest score in 10 years.

At the same time, the median monthly income for employed households grew from $8,666 in 2015 to $8,846 in 2016, the Department of Statistics' annual Key Household Income Trends survey showed.

That is a 2.1 per cent rise in nominal terms, or a 2.6 cent rise in real terms once inflation is taken into account.

But it was a decrease from the 4.9 per cent real growth recorded in 2015.

Households across all income groups earned more per household member last year, but at a slower rate compared to the year before.

In 2016, the average household income from work per household member in real terms grew by between 0.2 per cent and 4.3 per cent, depending on the income group.

This was lower than the range of 5.7 per cent to 10.7 per cent in 2015, and consistent with the slower wage growth in 2016 that the Manpower Ministry recently announced.

The survey also showed that households living in one-room and two-room HDB flats received more government transfers than those in larger flats or landed property.

On average, resident households in one-room and two-room HDB flats received $9,806 per household member from various government schemes in 2016. This was almost double the average of $4,168 received per household member across all housing types.


The Straits Times, Updated: Feb 16, 2017, 7:04 pm
Income inequality in Singapore lowest in a decade, monthly household income grows but at slower rate
By Charissa Yong, Regional Correspondent
http://www.straitstimes.com/singapore/income-inequality-lowest-in-a-decade-monthly-household-income-grows-but-at-slower-rate

Inequality is on the rise across the world, but it’s not increasing everywhere at the same pace. In many ways Europe stands out as a positive exception. Despite all the criticism thrown at the EU, it is a global leader in preserving a degree of fairness in the social fabric. This may seem unlikely – Europe is hardly devoid of problems and tensions. Parts of the left depict it as a vehicle for neoliberal economic policies, and parts of the right deride it as an inefficient administrative monster. So how is Europe really doing?

It’s hard to exaggerate the difference between western Europe and the USA when it comes to inequality. In 1980, these blocs of similar population and average income were also similar in income inequality: the top 1% captured around 10% of national income, while the poorest 50% took around 20%.

Things have changed dramatically since then. Today, the top 1% in Europe take 12% of income (in the US, 20%) while the bottom 50% have 22% (in the US, 10%).

It’s often said that globalisation and digitalisation explain the surge in global inequality, but that’s not a very convincing narrative. Since the 1980s, Europe and the US have had similar exposure to global markets and new technologies. But they have differed in policies and institutional direction. To date, Europe has shown that it’s much better at keeping inequality in check.

Put bluntly, the EU has resisted the notion of turning its market economy into a market society. It has partly rejected the thinking of Ronald Reagan and Margaret Thatcher, in which market forces, in the absence of any regulation, provide the best of all worlds in areas such as education, health and wages. There are large differences within Europe, though: the UK and Ireland have followed the American path more closely than continental Europe has. Nor can it be said that recent policy changes all go in the right direction.

France’s recent reforms are strikingly similar to Donald Trump’s in how they favour the rich.

That said, social healthcare systems in most European countries still guarantee universal protection for all – hardly the case in the US. Many of those countries offer free access to university. Indeed, when policymakers in Bavaria attempted to introduce university fees in 2007, a referendum later overturned the decision. A young European’s hopes of receiving higher education depend much less on his or her parents’ income than their American counterpart’s.

Labour markets are also more favourable to workers in Europe than in the US, where the minimum wage has fallen by a third in real terms since the 1970s (in France it has risen fourfold). In Sweden and Germany, trade unions are represented in corporate governance bodies, taking part in strategic decision-making.

European regulation against lethal, polluting substances is stricter than elsewhere, and European countries are at the forefront of the global fight against climate change, investing a growing share of their GDP in energy efficiency and renewables. That’s also key to reducing inequality, now and in the future. Studies show that environmental degradation and inequality are closely linked.

Generous welfare states need to be financed, of course. Europe is a patchwork of taxation systems. But overall the continent has been good at protecting progressive taxation – which has not been the case in the US, Britain and also countries such as India, where inequality has mushroomed. Progressive taxation is a proven tool against entrenched privileges at the very top; it also helps finance investment and public expenditure designed to lift income levels at the bottom.

The EU has been instrumental in helping its poorer member states, and its low-income regions, catch up with those that are better off. The picture is not perfect, but EU cohesion funds have done a lot to fill some of the gaps and help its newer members.

But this brings us to the less positive side. Since 2007, Europe has been rocked by economic and institutional crises. Germany’s powerful export-oriented economy – which contained wages and consumption – has benefited from the single currency at the expense of its neighbours, who have been tied down by strict monetary policies. Despite attempts by EU policymakers to solve this problem (and repeated claims that they have), public debt levels in Greece remain unsustainable. Austerity measures in southern Europe have cut into much-needed welfare programmes and led to a rise in poverty, fuelling legitimate resentment against the EU.

Europe stands at a crossroads. If it wants to avoid alienating younger generations, and the risk of implosion, it must find solutions other than austerity. In the 1950s, a combination of debt relief, progressive taxes and inflation were used to bring down public debt and invest in the future. It is no small paradox that those who, in another era, benefited from such measures (think Germany) are today fierce opponents of them. Yet those very policies allowed Europe to experience a true golden age of growth until the 1970s.

Europe’s disparate taxation systems surely need fixing. In recent decades, Ireland, Luxembourg and Malta have reaped the benefits of being tax havens. Other larger countries have paid a price, making the financing of the welfare state all the more difficult. The resulting period of corporate tax cuts has bred resentment among the lower-to-middle classes, who faced tax hikes to compensate for the losses.

Europe has done relatively well in the fight against inequality since 1980, and now it feels buoyed by signs of economic improvement. But European leaders would be naive to assume the status quo can be sustained. To preserve its social model, the EU needs to establish common progressive fiscal rules and relieve younger generations of debts they are not responsible for.

The EU must democratise its economic governance, integrate more – including politically – and establish common fiscal rules. That may seem like a tall order, but it isn’t when it’s set against some of the leaps Europe has taken in the past – which have helped make it, for all its flaws, the fairest region in the world.


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Since the 1970s, the minimum wage in France has risen four-fold.

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A wind farm near Dessau, Germany. ‘European countries are at the forefront of the global fight against climate change.

The Guardian, Last modified on Thu 25 Jan 2018 11.54 GMT
The fairest of them all: why Europe beats the US on equality

The inequality gap is widening across the globe – but Europe restricts the damage better than anywhere else
By Lucas Chancel
Lucas Chancel is a French economist who worked on the World Inequality Report 2018 with Thomas Piketty, and co-directs the World Inequality Lab
https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/jan/24/fairest-europeans-inequality-surged-us-europe

 ところで日本、日本人はイマでも「一億総中流社会」なの?
 「一億総活躍社会」になって仕事がない若者は兵隊にとられ、
 学校に行けない子どもや年老いた高齢者も死ぬまで働き続け、
 富裕層はますますリッチになって、貧困と格差がひろがるの?
 そんな社会を推し進める政治・経済・社会を選んでるのかな…

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三浦瑠麗

 2月19日、フジサンケイグループが主催する「フェイク大賞」、いや「正論大賞」の贈呈式が都内ホテルで行われた。
 周知の通り、正論大賞といえば“極右論壇のお手盛り賞”とも揶揄されている例のアレ。
 「正論」公式サイトによると、〈「自由と民主主義のために闘う正論路線」の基本理念を発展させた学者、文化人〉に「正論大賞」を、〈日本の論壇に新風を吹き込んだ新進気鋭の言論人〉に新人賞に当たる「正論新風賞」を授与するとのことだが、受賞者の顔ぶれをみると、ほとんどは産経新聞や「正論」執筆者の極右トンデモ文化人ばかり。
 特に最近は劣化が凄まじく、たとえば、2016年の「新風賞」は、昨年『ニュース女子』で取材とは名ばかりのフェイクレポートを展開した軍事ジャーナリスト・井上和彦氏が受賞する始末だった。

 そんな正論大賞だが、2017年の「新風賞」に小川榮太郎氏とあの三浦瑠麗センセイが選ばれたのだ。

 言わずもがなだが、小川サンといえば2012年に『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)という“安倍ヨイショ本”でデビューした文芸評論家。昨年は『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』(飛鳥新社)なる本で“加計問題は朝日とNHKの共謀”等の陰謀論を展開し、あまりに荒唐無稽すぎて朝日新聞から提訴されちゃったあの人だ。

 しかし、意外だったのは、もうひとりの三浦センセイの受賞である。
 たしかに、三浦瑠璃といえば、最近、安倍応援団や歴史修正主義者の地金がどんどん出てきているし 先日は“北朝鮮のスリーパー・セルがいてとくに大阪ヤバイ”発言や“大震災で北朝鮮の工作員の迫撃砲が発見された”発言で大炎上。その差別性やフェイクぶりがあらわになった。
 しかし、一方で三浦氏はこれまで“知的なアカデミズムの住人”“中立的な立場で政治状況を俯瞰して検証できる学者”というセルフブランディングで売れっ子になった御仁。こんな極右トンデモ文化人に贈られる賞を、あの“陰謀論”丸出し評論家の小川氏と一緒に受けて、自分のブランディングを崩すなんてことはさすがにしないだろう、と思っていた。

 ところが、その三浦センセイが、この正論大賞の贈呈式に嬉々として登場し、「(北朝鮮危機の)Xデーについても、専門家はそれに伴うリスクやコストもしっかり情報発信していくべきだ」などと件の“スリーパー・セル発言”を正当化してみせたのだという。
 主催の産経新聞記事によると、〈今後もタブーなく発言していく決意を示した〉のだとか。

 三浦氏の“北朝鮮のスリーパー・セルがいてとくに大阪ヤバイ”発言や“大震災で北朝鮮の工作員の迫撃砲が発見された”発言は、別にタブーに触れたから炎上したのでなく、何の根拠もないデマだったことがバレただけなのだが、それはともかく、この姿勢を見ていると、いよいよ三浦センセイは、これまでの中立ブランディングを捨てて、完全にアッチ側へ身を置く決断をしたということなのだろうか。

「週刊新潮」では日本会議系の百地章や八木秀次に失笑アドバイス

 そういえば、三浦センセイ、ちょっと前にも「週刊新潮」(新潮社)18年2月15日号の「異端の学者4人が座談会「我ら9条改正賛成派」」なる企画に登場していた。
 この座談会では三浦センセイのほか、百地章・日本大学名誉教授、八木秀次・麗澤大学教授、長尾一鉱・中央大学名誉教授が参加。
 ようは三浦センセイ、集団的自衛権を合憲とするなどバリバリの日本会議系憲法学者のサークルに仲良く加わっていたわけだ。
 それだけでも、現在の三浦瑠麗という人の立ち位置がはっきりするというものだが、しかし、笑ったのが座談の内容だ。極右学者たちが悲願である9条改憲への課題について語るなか、三浦センセイは「なぜそんな9条が人気なのか」と切り出し、こんな珍解説を述べている。

「私は(9条が)日本におけるナショナリズムの代替物だと思っています。アイデンティティーを強化したい時、ごく普通にナチュラルに選ぶのって大体ナショナリズムなわけじゃないですか。けれども、敗戦国だし、今の保守政権に対して親近感を覚えられない人たちは、9条が世界に一つだけの花、みたいに捉え、世界でもユニークな存在だとして自らのアイデンティティーを支えている。だから、9条を信奉する人たちは、必ずしもナショナリズムと対極にあるのではなく、そういうものに対しアイデンティティーを強化する必要のある「弱い個」なのだと思います」

 “9条護憲派はアイデンティティを強化する必要のある「弱い個」”──これぞ三浦センセイの得意技である“ナンチャッテ分析”の典型だろう。
 実際、三浦氏の前提に従えば、9条改憲派はまさに「ナショナリズム」そのものを選択しているから、したがってアイデンティティを強化したい「弱い個」である、なんて言うこともできるはずだが、なぜか三浦センセイは9条護憲派だけをそうだと決めつけている。
 というか「弱い個」だからなんなのかって話でもあるのだが、ようするに三浦センセイの言論のレベルって、こういう小手先だけの中身スカスカをそれっぽく味付けして話しているに過ぎないのである。

 まあ、それはおくとしても、さらに笑えるのは百地氏から“どうすれば女性たちが9条改憲を選ぶよう説得できるのか教えてほしい”と請われた三浦センセイが、自信満々にこんなアドバイスをしていたことだ。

「あれはこうなっているとか「教える」形ではダメですよね。あと、「国際的には」という言い回しも禁句。“君は無知だからね”という本音が見え隠れしてしまいますから」

「優しくない言い方をしたり、何となく騙しているように聞こえる説得の仕方もよくない」

 いやはや、それってまさに三浦センセイが『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)でやってることなんですけど……。
 さすがに、自分のことは一番自分がわかっている。そういうことなのかもしれない。

安倍首相が三浦瑠麗センセイに送ったメッセージとは?

 いずれにしても、この記事を読むと、三浦氏が“知的な中立派の学者”から“極右論壇のアイドル”に舵を切ろうとしていることがよくわかる。
 まあたしかに、あっちの世界では、いくら差別発言をしようが、トンデモ歴史観を披露しようが、フェイクを連発しようが、批判されることはない。それどころか「よくくいった」「さすがルーリー」とちやほやしてくれる。
 知性や知識の欠如がどんどん露呈し、国際政治学者というのがハリボテ、フェイクであることが明らかになりつつある三浦センセイにとって極右論壇は、自尊心を守ってくれ、“上から目線”を続けられる唯一の場所なのだ。
 しかも、これからは、日本の最高権力者も三浦センセイのことを全面的にバックアップしてくれそうだ。
 昨年、三浦氏が安倍首相のメシ友デビューを果たしたのは記憶に新しいが、安倍首相は今回の正論大賞贈呈式にもビデオメッセージを贈り、

「既存メディアの論調などに決して流されることなく、持ち前の冷静な分析力とわかりやすい語り口で、評論活動を通じておられる三浦さんには、初の女性受賞者としても、今後、さらなるご活躍をおおいに期待しております」と三浦センセイにエールを送ったという。

 安倍首相は三浦氏のことを相当に気に入っていると聞く。
 正論大賞に安倍首相がメッセージを送るのは恒例になっているが、このメッセージも社交辞令ではなく、「これからどんどん強力な安倍応援団になってくださいよ」という期待が込められたものだろう。
 三浦センセイがこの期待の声に応えて、いったいこれからどんな“御用文化人”ぶりを見せるのか。
 その“ご活躍ぶり”に注目していこうではないか。

リテラ、2018.02.23
三浦瑠麗が「正論大賞」授賞式でもスリーパー・セル発言を正当化!
安倍首相も応援メッセージで完全にあっち側の人に

http://lite-ra.com/2018/02/post-3821.html

 ね、自分は家系からしてエライんだよ、自分はムカシから特別なんだよ、あんたらはわたしの言うことについてくればいいのよ、どうしてこの超越性が分からないのかなぁと自己と他をくっきりと分断(護憲派と改憲派みたいに、強い子と弱い子のように)、他は無視できる存在と差別し排除、自分のアタマのなかに閉じこもって自分だけの心地よいアタマ磨きにいそしんでいます(自尊心のかたまり、ナルシスト)。
 そうしたとき、なにが大事なのか、ですよね、それは「現場主義」、そして自分だけでなく時・空間的に、人、その歴史、環境、未来などの他を俯瞰できるか、です!
 たとえば:

「え?」「なぜだ」と疑念を抱く問題が生じた時、立ち止まり、深呼吸をして、そこに潜む問題の本質を考えようというこの「深呼吸」が3月で閉じる。そこで、今回と最終回で全体を総括する議論を書こうと考える。

 問題の一つは、政治権力を持つ政権内政治家の相次ぐ暴言についてだ。
 その根底を総括することは、今という時代がはらむ危機を明確にするため欠かせないことだと考えてきた。
 その矢先に、松本文明副内閣相(当時)が、沖縄における米軍ヘリからの部品落下や不時着をめぐり、衆院本会議での野党側質問中に「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばす事件が起きた。
 こうした暴言やメディアで「失言」と称される発言は、本人が「誤解を招いたが本意はこうだった」と弁明し、発言を取り消すと、政治的に一件落着となる。
 しかし、発言者の政治思想やそれまでの言動を調べると、批判された発言は「失言」や「誤解」という次元のものではなく、まさに「本音」だと分かる。
 にもかかわらず、発言取り消しで幕を閉じる形式的な決着のつけ方をするから、発言の重大性が政治家に認識されず、他の政治家から暴言が飛び出す事件が繰り返されることになる。

 人は、心の中に思ってもいないことをしゃべることはない。
 選挙で選ばれた公的な人物が、思ってもいないことを公的な場で発言するとなれば、そもそも重要な職務を担う公人の地位に就いていいのか、と人格が問われよう。
 また、重要な案件について、被害者が傷つくような発言をした政治家が、「誤解だ」と主張するなら、言語表現力や実態の把握力・理解力が政治家として不十分ではないか、という問題が生じるはずだ。
 最近の政権内政治家の問題発言の3例について、筆者なりに分析した結果を記してみよう。

(1)2014年の石原伸晃環境相(当時)の記者団への発言。

 原発事故による汚染土保管の中間貯蔵施設の設置をめぐり、難航する被災地との交渉について、「最後は金目でしょ」と発言。
 石原氏は「(補償額など)最後はお金の話になるが、今は示すことができないという話だ」と弁明したが、環境省内の同様の発想パターンは、公害病の被害者救済をめぐって何度も見られたものだ。
 06年の水俣病公式確認50年の年、私も委員として参加した「水俣病問題に係る懇談会(大臣懇談会)」が提言書をまとめる際、環境省の事務局側は非公開の場で、訴訟の勝訴で得られる金額より政治解決にした方が得だという数字を示し、患者側の権利要求である訴訟を取り下げる方向に誘導しようとした。懇談会側はそれを受け入れなかった。石原氏の発言は環境省のこうした発想パターンをポロリともらしたもので、その意味で「本音」そのものだった。

(2)13年の高市早苗・自民党政調会長(当時)の講演での発言。

 原発事故から2年後、「原発事故によって死亡者が出ている状況ではない」と発言。
 その年の3月末までに福島県内で避難生活によるストレスなどで、1400人近くが災害関連死(自死を含む)と認定されていた。高市氏の発言は、事故被害者への驚くべき無関心・無知か、それとも原発推進のための虚言としかいいようがない。

(3)17年の今村雅弘復興相(当時)の記者会見での発言。

 福島県民の自主避難者への家賃補助などの打ち切りに関して、「(帰れないのは)本人の責任」「(不服なら)裁判でも何でもやればいい」と発言。
 批判を受けた今村氏は「自己責任」発言を取り消したが、「裁判でも……」は「一般論を述べただけ」として取り消さなかった。これも「本音」発言であることは明らかだ。

 列挙するときりがないが、なぜこのような暴言が続発するのか。
 第1の根源は、被害者・犠牲者に対する人間の意識・感情を左右する「いのち(生と死)の人称性」という問題だ。
 「一人称のいのち」は自分のこと。中でも不条理な「死」は、絶対に受容できない。
 「二人称のいのち」は家族、恋人、無二の親友らの「生と死」であり、死別では残された人が、愛する人の喪失という衝撃の中でどう生きるかという困難を背負う。
 これに対し、「三人称のいのち」は、身近な親類、友人、知人から全くの他人まで幅広い。
 戦争や民族紛争になると、敵対する国や民族の人たち一人一人が、家族や恋人や友人のいる人生を歩む人間だという意識など全く抱かず、平然と殺すという行為になる。
 そういう状況下では、相手への見方が「無人称化」するとさえ言える。

 政治家や官僚にとって、犠牲者や被害者を見る目は「三人称のいのち」の視点になるのが現実だ。
 財源をにらみながら法律や制度の枠に当てはめるだけ。
 犠牲者の家族や被害者個別の悲惨さを思いやる想像力はまるで欠落している。

 そこに暴言登場の第2の根源としてからんでくるのが、政治家・官僚の、時の政治権力者の政治思想と政権維持の政策になびく姿勢と、地位にまつわるおごりだ。

 この難問を克服するには、政治家・官僚が人間のいのちに対する冷たい「三人称の視点」を脱却し、「一人称・二人称のいのち」を理解して寄り添う姿勢を普遍化する以外に道はない。

 具体的には、事故、災害、事件の現場を訪れて、状況を肌で感じ、犠牲者の遺族や被害者の話をじっくりと聞き、被害の全体像の調査分析をするという取り組みが必要だ。
 そういう政治・行政の成熟した体質が根付くには大変な歳月がかかるだろう。
 しかし、それなくして国民のいのちを守る政治などとうたっても、虚構でしかない。


毎日新聞・東京朝刊、2018年2月24日
「深呼吸」
想像力欠落の政治家 冷たい「三人称の視点」脱却を
柳田邦男
https://mainichi.jp/articles/20180224/ddm/005/070/006000c

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2018年02月23日

森友問題で籠池夫妻が長期勾留中

 日本の司法が政治に侵され、三権分立が成り立たなくなっていると指摘されて久しい。
 籠池夫妻の長期勾留はおかしいのではないかと、なぜ、法曹界は意見表明しないのか。
 あるいはマスコミがなぜ、黙認しているのかが分からない。


リテラ、2018.02.18
 確定申告の受け付けが全国で始まった。納税者が書類整理や面倒臭い手続きにヒーヒー言っている一方で、徴税側の“トップ”は遁走を続けている。ご存知、森友学園問題をめぐる昨年の国会答弁で一躍有名になった、国税庁長官の佐川宣寿氏だ。
 振り返るまでもないが、佐川氏は当時、財務省理財局長として、タダ同然の国有地取引を「適切だった」と正当化。学園側との面会記録等を「すでに破棄した」「残っていない」と言い張って、疑惑の火消しをはかった。その“論功行賞”として財務省のナンバー2である国税庁長官に栄転したわけだが、就任会見すら行わず、現在に至るまで表から姿を消しているのは周知の通り。
 また、確定申告のシーズンが始まると例年、国税庁長官はそのご威光を見せびらかすかのごとく各地の会場を訪問視察して回るが、今年については、国税庁は佐川長官の視察は行うとしたものの日程や場所は非公表。徹底して佐川氏を市民の目に触れさせないとの魂胆らしい。
 実際、担当記者たちの間からも「登庁しているはずなんだが見かけない」「自宅にもいる様子もない」との声が漏れてくる佐川氏だが、そんななか、昨日17日、この“霞が関の幽霊”を発見したという貴重な報道がなされた。
 小学館のニュースサイト「NEWSポストセブン」が「雲隠れの佐川・国税庁長官を発見 まるで逃亡犯のような行動」と題して、退庁する佐川長官を尾行した一部始終を激写スクープしたのである。
 ポストセブンによれば、佐川氏は14日の夕方、国税庁の建物から一人で出てきて、〈あたりをキョロキョロと見回すと、停めてあった公用車に飛び乗った〉という。財務省のお偉いさんとは思えない挙動不審ぶりだが、車が向かった先は都内のホテルだったらしい。ようするに、自宅でマスコミに詰められないよう、わざわざホテル暮らしをしているようなのだ。これではまるでスキャンダルの渦中の有名芸能人ではないか。
ホテルから厳戒態勢で国税庁に出勤する佐川国税庁長官、公用車でたった10分の距離を…
 さらにポストセブンでは、佐川長官が仮住まいとするホテルに朝まで張り込んで追跡したらしく、その貴重な登庁シーンまで報じているのだが、これがまたギャグレベル。記事によれば、〈午前7時45分に公用車が地下駐車場に入ると、ホテル従業員が10分おきに地下駐車場とホテル正面の車寄せの見回りを始めた〉という。
 思わず麻薬ファミリーのボスか何かかとつっこみたくなるが、しかも、到着から1時間45分も経ってからホテルを出た公用車は霞が関とは別方向へ走り出し、〈普通なら10分もかからない距離を30分以上かけて遠回りして国税庁に入っていった〉という。
 念のため言っておくが、この人、指名手配犯などではない。全市民に奉仕するべきお役人である。本来ならコソコソする必要などないはずだが、逆言えば、ここまで人目につくのを恐れていることこそが、佐川長官自身、国会で虚偽答弁をしたことのやましさを強く感じていることの証左ではないか。
 実際、15日の衆院予算委員会では、麻生太郎財務相が「(佐川氏は)これまでの経歴等々を見ても、いろいろ、虚偽答弁等々あるが」などと口を滑らせ、すぐに「訂正させて頂きます」と言い繕う一幕があったが、佐川氏が虚偽答弁によって隠蔽を図ろうとしたのはほとんどの国民にバレてしまっている。
 周知の通り、近畿財務局は先月19日、毎日新聞などの情報公開請求で局内作成の森友学園側との交渉経緯等を記した文書を開示。また、今月9日には財務省が交渉内容の含まれる計300ページ超の文書を国会に提出した。何度でも言うが、「事前の交渉はない」「破棄した」と強弁してきた佐川氏の答弁はデタラメ、明確な虚偽だったのである。
 誰が納得できるというのか。長官が現在も“逃走中”の身でありながら、国税庁は納税者に確定申告をしに出てこいと命じ、源泉徴収票や領収書、控除証明書等の提出を細かく求め、さらに市民のささやかな節税にまで目を光らせているのだから、もはや悪い冗談である。市民が一斉に納税をボイコットしたって文句を言えないレベルだろう。
 いずれにしても、存在する交渉記録を「破棄した」と嘘をつき、マスコミや市民から隠れて“逃亡生活”を続けるような国税庁長官など前代未聞。公文書管理の問題も含め、今国会への佐川氏の招致は絶対的な国民の要求だが、しかし、それが実現するかどうかはかなり微妙だ。
佐川長官をスケープゴートにしたい官邸と守りたい財務省がせめぎ合い
 マスコミでは、官邸や自民党も裁量労働制の拡大などの法案を通すために佐川氏の国会招致もやむなしという姿勢に転換したといわれているが、そう単純な話ではないらしい。
「関連文書提出で財務省が省ぐるみで佐川氏を庇っていて、頑として首を縦にふらないからです。佐川氏の虚偽答弁は先日の約300ページ提出で言い逃れできない状況なので、国会に出て来れば、袋叩きにあって官僚生命が終わってしまうのは必至。財務省は“将来の次官候補”として佐川氏を温存するために、それだけは避けたいと抵抗しているようです。しかし、一方の安倍首相や官邸側も佐川氏に嘘をつかせたのは自分たちですから、なかなか強く言えないということがあるらしい。それに、トカゲの尻尾切りで佐川氏をスケープゴートにすれば、前川喜平・前文科事務次官のような“反乱”が今度は財務省で噴出する可能性も出てくる。いまは官邸が佐川氏や財務省に水面下で取引条件を提示して、せめぎあいをしているんじゃないでしょうか」(全国紙官邸担当記者)
 ようするに、安倍首相の嘘に蓋をするためにどこで尻尾切りをするか、という話で、いずれにしても、国民への背信行為であることは言をまたない。
 しかし、このまま佐川氏の虚偽答弁を政府が容認して、国税庁長官の椅子に居座るなら、確定申告で納税者が「記録は破棄したので残っていないけど、適切だったと思います」と言い出しても抗弁できなくなる。自分を守るためなら国家の基本である「税」への信用すら平気で破壊する──安倍首相といい佐川国税庁長官といい、本当にこの国のトップはみんなロクでもない。

佐川宣寿国税庁長官がマスコミから身を隠しホテルに潜伏!
納税者に正直申告を要求しながら逃げ回る卑怯ぶり

http://lite-ra.com/2018/02/post-3810.html

しんぶん赤旗、2018年2月20日(火)
 あまりにも、ひどすぎませんか。「不毛だ」「選挙目当て」「説明する必要はない」。発言の主は日本維新の会代表の松井一郎大阪府知事です。攻撃の矛先を向けているのは維新以外の野党です。
 何を「不毛だ」と言っているのか。財務省の佐川宣寿(のぶひさ)・前理財局長(現国税庁長官)を証人喚問せよと日本共産党などが求めていることです。学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地売却をめぐる財務省近畿財務局と学園の交渉記録は「ございません」「破棄した」と繰り返し国会答弁してきた佐川氏。
 ところが、ないはずの資料が次々と出てきました。虚偽の答弁をしたのか、国会で説明しなさいと求めるのは当然のことです。なぜ国有地を8億円も値引きしたのか、交渉で何があったのか。納税者は知る権利があります。
 それを「説明する必要はない」とはあきれます。松井知事はだれをかばおうとしているのか。佐川氏だけではないよう。学園が新設しようとしていた小学校の名誉校長が安倍首相夫人の昭恵氏だったからか。夫人の関与疑惑はいよいよ濃厚です。
 それとも維新に火の粉が降りかかることを恐れているのか。学園の求めに応じて小学校設置の認可基準を緩和し、府私学審議会で懸念の声が噴出したのに「認可適当」としたのは維新府政です。
 府議会で百条委員会設置に反対し、幕引きを図る維新。国有財産にかかわる疑惑で現国税庁長官に説明を求めず真実にフタをしておいて何が「身を切る改革」「納税者が納得できる政治」か。


きょうの潮流
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-02-20/2018022001_06_0.html

日本経済新聞、2018年2月20日17:30
 安倍晋三首相は20日の衆院予算委員会で、学校法人「森友学園」に国有地が約8億円値引きされ売却された問題について、自らや昭恵首相夫人の関与は一切なく、行政による忖度(そんたく)もなかったと強調した。学園の籠池泰典前理事長から昭恵氏に何回も電話があったことは改めて認めたが、夫人はほとんど電話に出ていなかったと述べた。
 2015年11月に、昭恵夫人付の政府職員が学園側に送ったファクスに関して「夫人付から籠池氏の要望に沿うことはできないと答えた。ゼロ回答で忖度していないことは明らかだ」と語った。
 15年当時、籠池氏から夫人の留守番電話に何度か短いメッセージがあったものの「妻は土地契約の内容について全く聞いていない。何回も電話があったが、妻はほとんど電話に出ていないのも事実だ」と説明した。
 麻生太郎副総理兼財務相は、野党の国会議員が佐川宣寿国税庁長官を同庁に訪ねたが面会できなかった16日には、佐川氏は仙台市で行われた税務署の合同会合に出席していたと明らかにした。立憲民主党の逢坂誠二、希望の党の稲富修二両氏への答弁。


首相「関与、忖度ない」森友学園への国有地売却
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO27145880Q8A220C1PP8000

植草一秀の『知られざる真実』2018年2月22日(木)
 この国会で、森友学園に対する国有地不正払下げ疑惑が取り上げられている。
 時価10億円の国有地が実質タダで払い下げられたのであるから、これは「事件」と呼ぶべきである。
 財務省理財局、近畿財務局による「背任」の疑いが濃厚である。
 国有財産を不当に安く譲渡することは財政法によって禁じられている。
 財政法違反、背任の疑いが強い事案である。
 森友学園と近畿財務局および財務省理財局は、事前に価格交渉をしていた。
 森友学園側が実質ゼロでの払い下げを求め、これに対して近畿財務局の池田靖前国有財産統括官(当時)が

「(籠池)理事長がおっしゃる0円に近い金額まで、私はできるだけ努力する作業を今やってます」

と答えている音声データが明らかにされている。
 事前に価格交渉をしていたという明白な証拠である。
 近畿財務局および財務省理財局が森友学園に対して異例の対応を示したのは、安倍昭恵氏が森友学園の学校用地問題に関与したからであると考えられる。
 安倍昭恵氏は新設小学校の名誉校長に就任し、籠池泰典理事長から学校用地の問題について相談を受けた。
 安倍昭恵氏はこれを受けて、公務員秘書の谷査恵子氏に指示して、財務省と折衝させたのだと考えられる。
 その結果として、財務省および近畿財務局が、財政法に違反するような国有地の不正払下げに突き進んだのだと考えられる。
 重大な刑事事件事案であり、本来は、検察当局が適正な捜査を行うべき事案であるが、大阪地検特捜部はまったく動かない。 
 裁判所も検察も完全に堕落し切ってしまっているのである。
 この意味で日本は完全なる後進国、前近代国家である。
 国会に安倍昭恵氏と佐川宣寿氏を招致して証人喚問を実施するべきことは当然のことである。
 これを安倍政権が拒絶するから、この問題がいつまでたっても終結しないのだ。
 「国会でこの問題ばかりやっている」との批判があるが、この結「果」があるのは原「因」があるからなのだ。
 安倍政権が必要な佐川氏と安倍昭恵氏の証人喚問から逃げ回っているために、この問題が終結しない。
 問題を追及する側を責めるのは筋違いであり、真相解明から逃げ回っている安倍政権の姿勢が糾弾されるべきである。


昭恵氏佐川氏証人喚問&働かせ方改悪阻止完遂を
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-3e1a.html

日刊ゲンダイ、2018年2月23日
 民事再生中の学校法人森友学園(大阪市)の籠池泰典前理事長と、妻の諄子氏が昨年7月、大阪地検特捜部に詐欺容疑で逮捕された。21日間の勾留後、同8月、両氏は再逮捕。そして以後、2人の長期勾留生活が続いている。
 私は法律の専門家ではないため、籠池夫妻を詐欺罪で逮捕することの法的問題を、十分に理解できない。そこで、元特捜部検事の郷原信郎氏の発言を探ると、こうあった。

〈籠池さんの逮捕は、本来補助金適正化法違反が適用されるべき案件です。検察実務としてはあり得ないやり方です〉
〈補助金の不正受給問題は特別法である適化法が適用され、法定刑も5年以下と定められています。補助金の受給の場合は、すでに国の厳格な審査を経た上で交付されていますから、法の趣旨は詐欺罪とは違います。それを勝手に「けしからん」と言って、詐欺罪を適用する権限など検察にはないはずです〉
〈籠池さんは不正に受け取った5600万円の補助金をすでに返しています。これを大阪地検が手を付けるに値する事件なのでしょうか〉
〈しかも5600万円全額の話ではなく、正規に受け取れる金額との差額ですから、おそらく1000万円から2000万円の額だと思います。それを全額弁済して返済済みという事であれば、通常はわざわざ検察がそれを取り上げるということはしませんね〉
〈要件が十分に整っていないのに補助金を貰っているケースについては、行政が指導して是正していくのが基本です〉

 表向き、籠池夫妻は証拠隠滅の恐れがあるために勾留期間が長期に及んでいる――というが、果たしてそうなのか。おそらく多くの国民は「籠池夫妻が保釈されて安倍首相の妻・昭恵氏との関係をいろいろ話されたら困るのではないか」という当局の政治的な思惑を感じ取っているはずだ。
 日本の司法が政治に侵され、三権分立が成り立たなくなっていると指摘されて久しい。籠池夫妻の長期勾留はおかしいのではないかと、なぜ、法曹界は意見表明しないのか。あるいはマスコミがなぜ、黙認しているのかが分からない。


森友問題で籠池夫妻の長期勾留から感じ取る政治的な思惑
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/223857/
 
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あの男たちへの批判

 マージョリー・ストーンマン・ダグラス高校生たちはエライですよね、なぜかってトランプに向かって声をあげてるてから。ミンシュシュギってこれだ!

 「誰だっけ、英国の映画監督……、ああ、ケン・ローチか。彼が描くように、英国の民衆は<自分たちは労働者だ>ってそういうことをね、身にまとうわけでしょう」
 50歳になったわたしは、一瞬、気持ちだけセーラー服の少女に戻ってその言葉に頷いていた。
 そうなのだ。
 日本にいた頃のわたしは貧乏を身にまとうことができなかった。
 わたしだけではない。
 あの頃の日本人は自分が貧乏だと高らかに言わせてもらえなかったのだ。


ブレイディみかこ「貧乏を身にまとい、地べたから突き上げろ」
岩波書店編集部編『私の「貧乏物語」、これからの希望をみつけるために』(岩波書店、2016年)所収、149−150頁 

 日章旗を振りかざすのと声を上げるのとは大違い。
 昨日観た映画「ロング、ロングバケーション」では大学で英語を教えていたジョン(ドナルド・サザーランド)は、大統領選キャンペーンに分け入って年の若い白人の支持者といっしょに「ユーエスエイ」、エイエイオーと声を上げて、腰をふっていました。
 もう一本、映画を観た人の感想を引用します:

 年代物のキャンピングカーに乗って老夫婦のジョン(ドナルド・サザーランド)とエラ(ヘレン・ミレン)が国道1号を南へ走る。米国北東部ボストンの自宅から最南端フロリダのキーウェストまで。そこには大学で文学を教えていたジョンが1訪ねたかったヘミングウェイの旧宅がある。

 長い結婚生活の間に家族を連れて何度も旅した道だが、認知症のジョンは物忘れが激しい。介護するエラも入院の予定があったが、息子と娘に何も告げずに家を飛び出した。ラジオから「ミー・アンド・ボビー・マギー」が流れる。ジャニス・ジョプリンが「自由ってことは、失う物が何もないってことなのよ」と歌う(注)。
 ここはどこか、何をしているのか、家族は誰なのか、そんなことも時にわからなくなるジョン。徘徊(はいかい)し、小便をもらし、妻を忘れて発車する。それなのに昔の教え子は覚えていて、ヘミングウェイを暗唱し、ウエートレスに文学論を説く。
 そんなジョンをエラは気丈に世話する。交通警官をうまくいなし、強盗を猟銃で撃退する。キャンプ場で毎晩、古い写真をスライドで映写しながら、ジョンと共に2人の半生を振り返る。記憶の薄れたジョンに対し、エラは思い出をかみしめながら、最後の旅の解放感を満喫している。
 長い年月を過ごした夫婦にも互いに知らない闇はある。結婚前のエラの恋人にえらく嫉妬するジョン。そしてジョンの思わぬ過去を知り、激怒するエラ……。
 人生の終着点に近づいた夫婦の心の機微が、東海岸の晩夏の陽光の中で描かれる。残り少ない生命の果実を味わいつくすような旅。それは甘く、苦い。威厳をもって生きたヘミングウェイの言葉がそこに重なる。
 監督は「人間の値打ち」のイタリア人、パオロ・ヴィルズィ。アメリカの光を軽やかにとらえながら、ずしりと重い終幕の余韻が残る。1時間52分。


日本経済新聞・夕刊、2018年1月19日付
『ロング,ロングバケーション』
老夫婦の終着点への旅

(編集委員 古賀重樹)
https://style.nikkei.com/article/DGXKZO25885160Z10C18A1BE0P00?channel=DF260120166507

 この奥の深い映画、トランプ支持者たちは赤い帽子もそうですし、プラカードの”Make America great again”もよく目立ちます。

 きれいな英語とは真逆な演説

 Make America great again.(アメリカを再び偉大な国にしよう)
 America is going to be strong again.(アメリカは再び強い国になる)
 We are losing but start winning again.(私たちは負けている。だが再び勝ち始める)

 これらは米大統領予備選・共和党候補のドナルド・トランプ氏(69)が選挙キャンペーンの演説等でよく使っているフレーズだ。とてもシンプルで短く、英語を母国語としない外国人にさえ容易に理解できる単語が並んでいる。
 米国人からいわせると、トランプ氏の話し言葉は「ブロークン・イングリッシュ」。ニューヨーク州クイーンズ生まれの同氏はニューヨーク独特の訛なまりも強いため、その他の地域の人にとっては聞きづらい部分もあるそうだ。きれいな英語を話さず、文法の間違いも多い。同氏が書く文章には綴つづりの間違いも多いため、その言葉からは知的な印象は受けない。
 米国、特にニューヨークでメディア業界の界隈かいわいに身を置いていると、ニューヨーカーたちはトランプ氏やそのスピーチをジョークのネタにして笑ったり、「なにそれ、トランプみたい」「オーマイガッ」といった会話を耳にしたりすることがある。一般企業に勤務している知人は「トランプって一体誰から支持されてるんだろうね、きっと私たちとは一生会うこともない人たちだよねと話してる」と言う。
 トランプ氏は不動産業で成功した大富豪であるため、エリートであるかのように誤解する人も多いだろうが、実際は真逆だ。同氏の支持者はブルーカラーの白人層が圧倒的に多く、簡単でわかりやすい英語を話すせいか、実は米国に住む移民労働者からも高い支持を得ていると米メディアは伝えている。

小6レベルの言葉遣い?

 大統領のスピーチ言語を研究する米ペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー・メロン大学・言語テクノロジー研究所が3月に発表した研究結果によると、米歴代大統領たちのスピーチで使われている英語はほとんどが6年生から8年生レベルのものだ。そして、肝心のトランプ氏の英語は、中でも最もレベルが低く、6年生をやや下回るという。
 日本の教育システムに置き換えると、6年生は小学6年生、8年生は中学2年生ということになる。同研究所の分析は、使われている単語と文法によって判定している。例えば、スピーチの中で使われている英語のうち5年生、6年生、中学1年生で覚える単語がそれぞれ含まれていたとして、6年生で覚える単語が中でも一番の頻度で使われていた場合、その平均値を取って6年生レベルと判定。これと同様に文法に関しても、6年生レベルで覚える文法が一番頻繁に使われていれば6年生レベルと判定している。
 研究結果が発表された3月というのは、まだマルコ・ルビオ氏もテッド・クルーズ氏も共和党予備選の候補から撤退しておらず、共和党主流派がトランプ氏の台頭に苦虫をかみつぶしつつもその流れを止めることができるだろう、という楽観論がまだ強かった。そんな中で発表されたこの研究結果は、今回の大統領選を違った角度から見ることができると話題になった。


Yomiuri Online、2016年05月30日05時20分
トランプの小学生英語が米国民にササる訳
水次祥子、在米ライター・作家
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160527-OYT8T50012.html

 不動産王の富豪トランプのアタマにあった「偉大な国」ってなんのことはない、金、カネ、銭、売ってなんぼの世界、儲かるか損するかだけ、人がいないんだって気付くも後の祭り!
 さきほどのヤッホー君の日記に登場した役者、ジョージ・クルーニーってどんな人?ちょっとだけ読んでみません?

 新聞「サンデー・タイムズ」のインタビューに「僕は随分長い間俳優をやってきた」と語ったジョージ。

「僕はもう56歳だし、女の子をものにするような年ではない。女の子をものにするような男でいるべきではないんだ」とコメント。
 女性を“ものにする”ような言動をしている、いい年齢の男性−例えば、若い女性と無理やり関係を持っていたハーヴェイ・ワインスタインや「スターだと女は何でもやらせてくれる」と発言したドナルド・トランプ大統領−への批判を匂わせるような発言も。
 ちなみに周囲の人たちから政界への進出も勧められることも多いとか。

「トランプ大統領が当選して以来、たくさんの人に実際に政治に関わるように勧められる。特に政府の最上層の立場にね。でも政治的な野心は持っていないんだ」

「僕は常に政治に関わってきた。父は議員に立候補したこともある。僕の家族はいつも政治に関心を持っている。でも僕は自分のよく理解している方法で助けたいと思う。有権者にメッセージを送るような方法でね」

 トランプ大統領について「彼は生まれながらにおぞましい性質を備えているけれど、とてもカリスマ性がある。テレビスターだよ。みんな、彼が何かを成し遂げてくれると思って彼に投票したわけではない。彼のことを知っていて、彼がエキサイティングだから投票したんだ」と語ったジョージ。

「民主党の候補者はもっと受身なんだ。ディベートでも共和党候補者は『これは悪人、これは善人』と分ける。民主党だと『君の言うことは理解できる。君の両親はアルコール依存症だから……』と言うだろう。でも現実には『これは善、これは悪』と言い切る人をみんな必要としている」

 「マスコミは嘘つき」「メキシコから来る人は悪人」とシンプルすぎる言葉でスピーチ、善悪を切り分けるトランプ大統領を的確に分析したジョージ。
 ますます政治界にプッシュする声が大きくなりそう。


ELLE Online、2017/11/9(木)
あの男たちへの批判?
ジョージ・クルーニー、「僕はもう女の子をものにするような年齢じゃない」

By Yoko Nagasaka
http://www.elle.co.jp/culture/celebgossip/george-clooney17_1109

(注)Janis Joplin - Me & Bobby McGee
"Freedom's just another word for nothin' left to lose"
https://www.youtube.com/watch?v=WXV_QjenbDw

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マージョリー・ストーンマン・ダグラス高校

 米南部フロリダ州パークランドの高校で生徒ら17人が死亡した2月14日の銃乱射事件を受け、在校生らが「二度と繰り返させない」と銃規制強化を求めて声を上げ始めた。全米ライフル協会(NRA)の支援を受けるトランプ大統領らはなおも銃規制に消極的だが、高校生らの訴えが全米で注目を集めている。
 「大統領が祈ることしかできないなら、被害者が変わるときだ」。事件が起きたマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で17日に開かれた集会で、在校生のエマ・ゴンザレスさん(19)が涙ながらに訴えた。銃規制に口をつぐんだまま「遺族に祈りをささげる」とツイッターに書いたトランプ氏を名指しし、NRAから献金を受ける政治家を「恥を知れ」と非難した。
 20日にはNRAを有力支持団体とする共和党が多数の州議会に規制強化を訴えるため、在校生ら100人が約600キロ離れた州都タラハシーにバスで向かった。クリス・グラディーさん(19)はAP通信の取材に、銃購入時の審査強化など「常識的な法規制」につながることを期待した。
 在校生らの動きを受け、俳優ジョージ・クルーニー(1961年生まれ、注)さん夫妻は20日、50万ドル(約5300万円)の寄付を表明。在校生らが3月24日に首都ワシントンで予定する街頭行進にも加わる意向という。
 米キニピアック大学による16〜19日の世論調査では規制強化に賛成が66%に上り、2012年12月に東部コネティカット州の小学校で児童ら26人が犠牲となった乱射事件以降、最も高かった。反対は31%だった。
 抗議が広がる中、トランプ氏は20日、「子どもたちを守るためにもっとすべきことがある」と述べ、銃の連射装置「バンプ・ストック」の禁止に向けた法整備の検討を司法長官に指示。一方で、銃そのものの規制には触れていない。トランプ氏は国民に銃保有の権利を認める憲法修正第2条を「完全に擁護」する立場で、NRAへの配慮からも本質的な規制に踏み込む可能性は低い。
 21日で発生から1週間となった事件は元生徒(19)=計画殺人容疑で訴追=が殺傷力の高い半自動小銃を乱射。銃は18歳のときに合法的に入手したとされる。

東京新聞・朝刊、2018年2月22日
生徒の銃規制訴え 全米注目
高校乱射から1週間

(ニューヨーク=赤川肇)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201802/CK2018022202000123.html

 政権の方向は世論と真逆、関係者にもっと銃で武装させよ、というNRA路線。

“more guns in schools” approach
https://www.theguardian.com/us-news/2018/feb/22/wayne-lepierres-speech-a-reminder-of-the-paranoia-that-gave-us-trump

 でもね、武装した守衛は高校の敷地に入っていませんでした。

The armed deputy who was on campus at Marjory Stoneman Douglas high school when a gunman massacred 17 people stood outside the building as it occurred and did not go in to engage the shooter, the Broward County sheriff, Scott Israel, said on Thursday.

Deputy Scott Peterson, who was the school resource officer at Stoneman Douglas in Parkland, Florida, resigned from the department on Thursday after being told he would be suspended, Israel said.

He did not say if Peterson would face criminal charges.

Israel said he made the decision after reviewing video surveillance and interviewing witnesses, including the deputy himself. The sheriff says Peterson responded to the building where the shooting took place, took up a position outside a door and never went in.

When asked what Peterson should have done, Israel said the deputy should have “went in, addressed the killer, killed the killer”.

The sheriff said he was “devastated, sick to my stomach. There are no words.”

Nikolas Cruz, 19, fatally shot 17 people at the high school on 14 February
in the second deadliest shooting at an American public school. The student survivors, supported by their families and teachers, have spoken out against Washington’s inaction and statements by the president.

The news of the deputy’s resignation came just hours after the NRA’s chief, Wayne LaPierre, broke his silence over the Parkland massacre, lambasting gun control advocates and repeating his notorious mantra from after the Sandy Hook school shooting in Newtown, Connecticut, in 2012: “To stop a bad guy with a gun, it takes a good guy with a gun.”

In his speech on Thursday to the Conservative Political Action Conference (CPAC) at the National Harbor in Maryland, he insisted that “the whole idea from some of our opponents that armed security makes us less safe is completely ridiculous. If that’s true, armed security makes us less safe, let’s just go ahead and remove it from everywhere.”

He continued: “We must immediately harden our schools. Every day young children are being dropped off at schools that are virtually wide open, soft targets for anyone bent on mass murder. It should not be easier for a madman to shoot up a school than a bank or jewellery store or some Hollywood gala.

“Schools should be the hardest target in this country. Evil must be confronted with all necessary force to protect our kids.”

This week, Donald Trump has repeatedly backed a proposal to arm teachers in US schools as a way to defend students in school shootings, despite opposition from the country’s largest teachers’ unions, school security guards and military veterans.

The state senator Bill Galvano, who is helping craft a bill in response to the shooting deaths, said an idea gaining traction is a program that would allow local sheriffs to deputize someone at a school to carry a gun on campus.

Galvano insisted the idea is not the same as arming teachers. He said the program would be optional and the deputized person would have to be trained by local law-enforcement agencies.

Joe Negron , the Florida Senate president, said both chambers are working on the legislation in response to the Parkland shootings. He said a final draft should be available “early next week at the latest”.

What won’t be considered is a ban on assault-style rifles.

That falls short of reform demanded by students who converged on Florida’s Capitol to take their concerns to state lawmakers Wednesday. Outside the building, many protesters complained that lawmakers were not serious about gun control and said that in future elections they would oppose any legislator who accepts campaign contributions from the NRA.


[photo-1]
Scott Israel, the Broward County sheriff, with Donald Trump. The president has suggested putting more guns in the hands of staff to prevent school shootings.

[video]
School shooting survivor Cameron Kasky asks Senator Marco Rubio to reject NRA money

The Guardian, Published: Thu 22 Feb 2018 23.50 GMT
Armed guard at Florida high school failed to enter building and stop shooter

An armed deputy, who was on campus at Stoneman Douglas, resigns after sheriff’s reviews finds he stood outside and did not go in
By Guardian staff and agencies
https://www.theguardian.com/us-news/2018/feb/22/stoneman-douglas-shooting-armed-guard-did-not-go-in

Before I fell into journalism and writing, I taught in classrooms. In college, I studied to be an English teacher, and I was a substitute teacher in New York City. It was a gratifying experience that came just before the most recent wave of horrific school shootings, including Sandy Hook and Parkland.

Teachers don’t ask for much. They want to be paid enough money so they don’t have to work a second job at Macy’s to earn a living wage. They want to be respected by their administrators and their students. They want enough resources, like books and school supplies, to actually be able to teach.

They don’t want guns.

Republicans like Donald Trump routinely try to undermine public education in America. Trump’s education secretary, Betsy DeVos, worships at the altar of privatization. This month, Trump proposed slashing $5bn from the Department of Education’s budget. Among the programs on the chopping block: those to help pay for counselors in schools and violence prevention programs.

Yes, the same Republicans so slavishly devoted to the NRA that they can only cry “mental health!” when another man with an AR-15 mows down innocents can’t even properly fund programs to address the mental health of our students.

Trump may have to reverse his own education cuts to start arming the 20% of teachers – he probably pulled the number out of thin air – he wants to send to battle in our classrooms. As the Washington Post pointed out on Thursday, Trump’s proposal, if taken literally, would mean giving guns to about 718,000 teachers. That’s almost as much as the army and navy combined.

Training these teachers alone could cost the federal government hundreds of millions.

That’s before the government starts purchasing pistols for each of these militarized educators.

Why should teachers be armed combatants? Why should time and money be spent on anything other than educating children?

Gun advocates like to point to countries like Israel and Switzerland where gun ownership is relatively high but shootings are rarer. Both countries, however, still manage to have lower rates of gun ownership than the US and impose far more stringent restrictions – mandatory background checks, for example – on acquiring weapons than Americans do.

Public-carrying permits are rarely issued to the Swiss. In Israel, gun control is strict.

Any individual who has access to a weapon must undergo some military training. Gun hobbyists don’t really exist. Few Israelis can obtain licenses for automatic weapons.

Does Trump support making it harder for everyone to get a gun in return for arming and training teachers? Probably not. What he is proposing has no serious precedent in a modern democracy because other nations, even those that are more tolerant of gun ownership, are much more committed to preventing gun deaths.

Trump still wants any American to be able to walk into a store and purchase an AR-15, an assault rifle that was banned from 1994 to 2004 and has since become a favorite weapon of mass killers. Designed for military combat, the AR-15 was clutched by the Parkland suspect, Nikolas Cruz, who is charged with murdering 17 high schoolers last week.

Were Trump’s teacher-arming scheme realized, it would still mean the most deranged Americans could access murder weapons at will. Armed teachers – again, most want to focus on actual education, not war preparations – would then have to enter their classrooms ready to trade fire with military weaponry.

This is Trump’s utopia, our dystopia. A war-world where gun manufacturers make billions, the NRA buys off an entire political party, and the rest of us cower in fear.

I didn’t want a gun as a teacher.
I just wanted to do my job – teach.


[photo-1]
‘Training these teachers alone could cost the federal government hundreds of millions.

[video]
Trump says arming teachers with concealed weapons could prevent school massacres

The Guardian, Last modified on Thu 22 Feb 2018 21.34 GMT
Giving guns to teachers? That's an army we don't need – or want

Trump wants to arm 20% of teachers to address school shootings. But why should teachers be armed combatants?
By Ross Barkan
Ross Barkan is a journalist and candidate for the New York state senate
https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/feb/22/arm-teachers-trump-nra-gun-safety-plan-why-its-wrong

(注)俳優ジョージ・クルーニー
The American (2010) Official Trailer - George Clooney Movie
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=hPYRslx1w4Y

BIFF (2014) - The Monuments Men Trailer - Matt Damon, George Clooney Movie
https://www.youtube.com/watch?v=3sNZhAh-4Ls

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2018年02月22日

アメリカ産“dirty meat”

 日本に輸入され、私たちが何気なく口にしているかもしれない「猛毒食品」は中国産だけではありません。『怖い中国食品、不気味なアメリカ食品』(講談社文庫、2017年)の著者・奥野修司氏(1948年生まれ)が「ホルモン漬けアメリカ産牛肉」の危険性を詳細なデータとともに解説します。
***
日本人のホルモン依存性がんが増えている

 日本人の前立腺がんが異常な勢いで増えている。もちろんPSAによる検査数が増えたこともあるが、尋常ではない数だ。10年前は胃がん、肺がん、大腸がんよりもずっと少なかったのに、今や大腸がんを抜いて肺がんと肩を並べる勢いである。
 乳がんも子宮がんも卵巣がんも増え続けている。今年の6月に小林麻央さんが亡くなったが、乳がんは女性のがんでは罹患率トップだ。
 これらはいずれもホルモン依存性がんと呼ばれているものだ。なぜ日本人にホルモン依存性がんが増えているのか。
 藤田博正医師(北海道対がん協会細胞診センター所長)は、昔からアメリカに移住すると卵巣がんや子宮体がんが増えると言われていたことを思い出し、食事の変化に注目した。

日本では70年代から牛肉の輸入が増加

 日本とアメリカのホルモン依存性がんのデータを比較すると、アメリカは年を重ねるごとに増えているのに、なぜか日本では40代50代で腰折れ的に減っている。
 細胞が悪性腫瘍になるまで20年、30年とかかる。では、40代50代の方たちの食生活が30年ぐらい前にどう変わったかを考えた時、アメリカからの輸入牛肉に思い当たったという。日本では70年代から牛肉の輸入が増加し、その頃からハンバーガーも食べ始めた。
 そこで半田康医師(北海道大学遺伝子病制御研究所客員研究員)を筆頭に、藤田医師を含めて8人の研究者が牛肉に含まれているエストロゲン(女性ホルモン)の濃度を調べた。藤田医師によれば、これらの牛肉は「札幌市内のあるスーパーマーケットで売っていた肉」だという。
 結果は驚くべき数値だった。なんと国産牛と比較して、アメリカ産牛肉は赤身で600倍、脂肪で140倍も高かったのだ。

高濃度のエストロゲンがスーパーの牛肉から

 検出されたのはエストロゲンの中でもエストラジオール(E2)とエストロン(E1)である。問題はこのE2で、半田医師によれば「圧倒的に怖いのがE2で、活性がE1の10倍あり、がんの発症に関連していると考えられている」という。
 牛肉から高濃度のエストロゲンが検出されるのは、ホルモン剤(デポ剤)を牛の耳に注入しているからだ。基本的に1回とされているが、2回、3回と注入することもある。ちなみにホルモンを注射した牛の耳は、屠畜するときにバイオハザード並の危険物として焼却処分される。
 牛にエストロゲンを注入するのは、こうすると肥育期間が短くなって利益が10%アップするからである。そのためにアメリカ、カナダ、オーストラリアなど主要な牛肉輸出国では「肥育ホルモン」としてエストロゲンの使用を認めている。
 ホルモン剤には天然型と合成型があり、日本も天然型の2種類を認めているが、実際には肥育に使っていない。
 では高濃度のエストロゲンのどこが問題なのか。

エストロゲンはホルモン依存性がんの危険因子

 「エストロゲンはホルモン依存性がんの危険因子だという事は、今や教科書レベルの話です」と半田医師が言うように、がんと密接に関係しているからである。エストロゲンががん化に関わっているとする論文はたくさんある。実際に日本人の牛肉消費量とホルモン依存性がんの発生数が比例していることを見ても明らかだろう。
 外食産業のハンバーガー、牛丼、カレーなどにはこうした残留ホルモン濃度が高い牛肉が使われている可能性が高いといわれる。
 EUではこのことが分かってから、1988年にホルモン剤を家畜に使用することを禁止し、翌年にはアメリカ産牛肉の輸入を禁止した。このためにEUとアメリカの間で“牛肉戦争”が起こったが、これは今も続いている。

日本がアメリカ産牛肉を輸入し続けている理由

 ではなぜ日本は輸入しているのか。それは、1999年に旧厚生省が「アメリカ産牛肉の残留エストロゲンは国産牛の2〜3倍程度」で、危険とはいえないと報告したからである。
 2〜3倍と600倍では天と地ほども違うが、これほど差が出たのは測定法が違っていたからだ。旧厚生省が使ったのはRIA法という古い検査法で、半田医師らが使った最新のLC-MS/MSにくらべ、精度は20分の1〜100分の1だ。つまり旧厚生省の数値はいい加減ということになるのだが、いまだに最新の測定法で計測していない。
 発がん性だけでなく、精子の減少にも関係しているといわれ、アメリカでは前立腺がんによる死者は2万9千人余(2013年)と肺がんに次ぐ。日本は現在でこそ6位だが、2020年には1995年の6倍に増加して、やはり肺がんに次いで2位になるといわれている。
 専門家は「エストロゲンの高いものを食べていい事は何一つない」と口をそろえて言う。さらにアメリカ産牛肉から検出されたホルモンには日本が禁止しているものもある。
 なぜ輸入を止めないのか。元厚労省の職員に尋ねるとこう言った。

高濃度のエストロゲンを理由にアメリカ産牛肉の輸入を禁止したらどうなりますか。日本はEUじゃないんですよ。牛肉戦争をして勝てると思いますか

 ちなみに輸入量が最も多いオーストラリア産牛肉は誰も正確には計測していない。
 官僚の不作為が、やがて医療費の増大となって、国民がそのツケを払うことになるのだろう。

文春オンライン、2017/11/16
「ホルモン漬けアメリカ産牛肉」が乳がん、前立腺がんを引き起こすリスク
『怖い中国食品、不気味なアメリカ食品』

奥野修司
http://bunshun.jp/articles/-/4917

Shocking hygiene failings have been discovered in some of the US’s biggest meat plants, as a new analysis reveals that as many as 15% (one in seven) of the US population suffers from foodborne illnesses annually.

A joint investigation by the Bureau of Investigative Journalism (TBIJ) and the Guardian found that hygiene incidents are at numbers that experts described as “deeply worrying”.

US campaigners are calling once again for the closure of a legal loophole that allows meat with salmonella to be sold in the human supply chain, and also warn about the industry’s push to speed up production in the country’s meat plants. And UK campaigners warn that the UK could be flooded with “dirty meat” if a US trade deal is signed post-Brexit.

The unpublished US-government records highlight numerous specific incidents including:

* Diseased poultry meat that had been condemned found in containers used to hold edible food products;

* Pig carcasses piling up on the factory floor after an equipment breakdown, leading to contamination with grease, blood and other filth;

* Meat destined for the human food chain found riddled with faecal matter and abscesses filled with pus;

* High-power hoses being used to clean dirty floors next to working production lines containing food products;

* Factory floors flooded with dirty water after drains became blocked by meat parts and other debris;

* Dirty chicken, soiled with faeces or having been dropped on the floor, being put back on to the production line after being rinsed with dilute chlorine.

All of the reported breaches resulted in immediate remedial action with no risk posed to consumers, according to the companies involved.

But campaigners warned that other violations may go undetected. Tony Corbo, senior lobbyist with Food and Water Watch, said: “While the inspectors are able to cite the plants for hundreds of violations per week, I am confident that they are not catching every instance of unsafe practices being committed in these plants.”

Meat hygiene inspectors interviewed by the Guardian agreed, saying fast line speeds and other pressures in some plants meant it was “inevitable” that some breaches slipped through the net.

The findings are worrying, according to Prof Erik Millstone, a food safety expert at Sussex University, “because of the risks of spreading infectious pathogens from carcass to carcass, and between portions of meat. The rates at which outbreaks of infectious food poisoning occur in the US are significantly higher than in the UK, or the EU, and poor hygiene in the meat supply chain is [a] leading cause of food poisoning in the US.”

The Bureau and the Guardian obtained previously unpublished documents relating to 47 meat plants across the US. Some of the documents relate to certain companies, including Pilgrim’s Pride, one of the US’s biggest poultry producers, and Swift Pork. Although not a comprehensive portrait of the sector - there are around 6,000 US plants regularly inspected by Food Safety and Inspection Service (FSIS) - the documents provide a snapshot of issues rarely detailed in public which has rung alarm bells with campaigners in both the US and UK.

“The US meat industry has a responsibility to clean up its act,” said David Wallinga, senior health officer at the Natural Resources Defence Council, which obtained some of the documents. He said the Pilgrim’s Pride records detailed “numerous food safety violations.”

Kerry McCarthy, former UK shadow environment minister and Labour MP, called for urgent reassurances from both the UK Food Standards Agency (FSA) and “the top of government” that standards would not be allowed to slip as trade negotiations with the US get underway.

“We cannot allow this to be a race to the bottom. We should insist the US raises its standards, and guarantees food safety, before we are prepared to allow in US meat imports,” she said. McCarthy has written to the environment secretary, Michael Gove, and Liam Fox, the trade secretary, to raise the matter.

The documents seen by the Bureau and Guardian do not reveal the full numbers of non-compliance reports across the whole sector. However, one dataset covering 13 large red meat and poultry plants over two years (2015-17) shows an average of more than 150 violations a week, and 15,000 violations over the entire period. Thousands of similar violations were recorded at 10 pork-producing plants over a five-year period up until 2016, further documents show.

Another batch of previously unpublished documents shows frequent failings at 24 plants operated by Pilgrim’s Pride who recently bought the British chicken giant Moy Park. The company slaughters 34 million birds each week and produces one in five of the chickens in the country.

More than 16,000 non-compliance reports on Pilgrim’s Pride operations detail 36,612 individual regulatory violations - an average of 1,464 a month - at the 24 plants during a 25-month period between 2014 and 2016.

In one incident, diseased meat – condemned from entering the human food chain – was placed in a container meant for edible product. An inspector discovered “carcasses of poultry showing evidence of septicemic disease ... carcasses showing evidence of having died from other causes than slaughter ... guts of carcasses, [and] poultry carcasses with heads attached.” He requested that the condemned items be removed. A similar incident was recorded some days later.

One inspector saw chicken drumsticks piling up on the floor, and instructed workers to pick them up “to be reconditioned with chlorinated water.” Again, a similar incident had occurred previously. In another incident in a bagging department, 36 shrink-wrapped whole birds were found scattered on the floor. An inspector noted: “in my presence the establishments began initiating their corrective action by picking up all affected product off the floor ... to be carried to the establishment’s designated wash station to be thoroughly rinsed off.”

Meat soiled with faecal matter was also recorded, with an inspector noting “... I observed a poultry intestine in the liver bin. The intestine was approximately 6.5 inches long and had visible faeces oozing out both ends.” The incident resulted in the livers being condemned from the human food chain.

At another Pilgrim’s Pride plant, the records reveal how deficient equipment led to a carcass becoming contaminated with faeces. “I observed one of my 10 test birds with a spot of faecal matter on the exterior of the right thigh. The spot of faecal [sic] was … brownish green in colour and had a pasty consistency,” an inspector notes. The affected bird was “retained by management for review then sent to reprocessing for reconditioning with chlorinated water.” Similar carcass contamination had been recorded before.

Internal FSIS records also highlight numerous violations at meat plants producing pork.

In an incident recorded at a plant run by Swift Pork, owned by meat giant JBS, 48 pig carcasses were found to have fallen on the floor because of defective equipment, leading to contamination with “black trolley grease, floor grime and bloody smears”. The records noted: “The line was stopped for about 15 minutes. The carcasses were sent to be trimmed first then steam vacuumed with 180F water.”

On another occasion, an employee cleaned the factory floor with meat products on an adjacent conveyor belt, creating a mist that could contaminate the meat. “This mist is contaminated by the inedible debris and ... comes into contact with edible product,” an inspector observed.

In a separate incident, a pig’s head was found to have partially covered a drain, leading to “bloody waste water filling the area”. This and another blockage caused by a buildup of skin led to dirty water flooding other areas. “Because of the plugged drains, an insanitary condition was created; the bloody water in the walkway could be splashed and carried throughout the kill floor after employees walked through the puddle,” an inspector wrote.

In a different part of the factory, inspectors found a stainless steel handwash sink “plugged and approximately one-quarter full of standing bloody water with pieces of fat and meat. Production employees use this sink to clean and sanitise their hands and gloves. This creates an insanitary condition.”

In a statement, JBS, which owns Pilgrim’s and Swift Pork, said all of the violations recorded were “immediately addressed” and that consumers were never put at risk. “The US meat and poultry sector is one of the most highly regulated industries in America,” said Al Almanza, JBS’s global head of food safety and quality assurance, and former head of FSIS for 39 years. “Non-compliance reports are issued by USDA [United States Department of Agriculture] inspection personnel to document when an establishment has not met a specific regulatory requirement. However, the vast majority of non-compliance issues are addressed immediately and have no impact on food safety.”

“All of the documented incidents regarding JBS [Swift Pork] and Pilgrim’s were immediately addressed by our facilities. None of these incidents put anyone at risk or resulted in any adulterated product released into commerce. Food safety is achieved by implementing processes that consistently detect and correct issues before products are released into commerce. Our team at JBS and Pilgrim’s is committed to the highest food safety standards and we partner with USDA each and every day to ensure that consumers can enjoy safe and quality products with confidence.”

Salmonella and other foodborne illnesses

The US has shockingly high levels of foodborne illness, according to a new analysis by UK pressure group Sustain. It says that annually, around 14.7% (48 million people) of the US population is estimated to suffer from an illness, compared to around 1.5% (1 million) in the UK. In the US, 128,000 are hospitalised, and 3,000 die each year of foodborne diseases.

One bug, salmonella, causes around 1m illnesses per year in the US, while in the UK the numbers of officially recorded incidents is relatively low, with just under 10,000 laboratory confirmed cases in 2016. However, unreported incidents could substantially increase those numbers. Salmonella takes hold on farms and is found in the guts of poultry and livestock: farm animals and birds can become contaminated with faeces containing the bacteria during transport to abattoirs, where slaughter and processing procedures can also spread it.

Kath Dalmeny, chief executive of Sustain, said the figures underscored concerns about future US-UK trade deals: “The US has already warned us that we will need to lower our food standards in exchange for a quick trade deal, but we need to fight this hard. They are desperate to sell us their chlorine-washed chicken, but we know chlorine and other unpalatable treatments can mask dirty meat, low hygiene standards and poor animal welfare, which the UK consumer will not stand for.

“In recent years, the UK meat, dairy and egg industries have improved food safety; so we should all be alarmed about any trade deal that opens up our market to products that undermine this progress.

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All of the reported breaches resulted in immediate remedial action with no risk posed to consumers, according to the companies involved.
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Black bacterial colonies of salmonella. Food poisoning outbreaks are much higher than in the UK.
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Pilgrim’s Pride chickens on display at a supermarket.
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Pigs are seen in a factory farm December 2003 in northern Missouri.

The Guardian, Last modified on Wed 21 Feb 2018 22.00 GMT
'Dirty meat': Shocking hygiene failings discovered in US pig and chicken plants

Previously unseen government records detail ‘deeply worrying’ incidents in pork and poultry plants, raising fears of ‘dirty meat’ entering the UK under a post-Brexit trade deal
By Andrew Wasley
https://www.theguardian.com/animals-farmed/2018/feb/21/dirty-meat-shocking-hygiene-failings-discovered-in-us-pig-and-chicken-plants

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ロング,ロングバケーション

 2月22日木曜日のヤッホー君、朝キンはですね、日本橋!目指したのは …
 三浦按針もそうですけど、ずぅ〜っと工事中で気になってた「福徳の森」:

 三井不動産株式会社(本社:東京都中央区)が、「(仮称)日本橋本町二丁目特定街区開発計画」地において開発を進めてきました「福徳の森」が、本日2016年9月28日(水)に森開きし、開設セレモニー及び竣工式が執り行われました。
 現在、日本橋では、「残しながら、蘇らせながら、創っていく」をテーマに官民地域が一体となって、「日本橋再生計画」を推進しており、当社は推進メンバーの一員として様々な取り組みを行っております。日本橋固有の歴史や文化、水辺空間、コミュニティなどのアイデンティティーをベースとして、働く、住まう、遊ぶ、憩うなどの様々な機能を複合した街づくりを目指し、ハードを創るだけでなく、ソフトの付加価値創出事業を展開しています。「福徳の森」もその計画の一環で人々の生活に潤いと街に賑わいをもたらす広場空間として誕生いたしました。
 「福徳の森」は、「福徳神社」や「コレド室町」などに隣接する1,000m2超の広場空間として、四季を感じる植栽演出を施した人々の憩いの場となります。さらに、人々が集い、交流し、地域コミュニティを新たに創出していく拠点となることを目指し、地元の住民の方々や団体、企業などにひらかれたイベントスペースとして運営していきます。また、日本橋に古くからある「薬祖神社」を移転するなど地域の歴史と伝統を再現する場となります。
 なお本日から10月9日(日)までの期間、「福徳の森」の誕生を記念し『日本橋 熈代祭(きだいまつり)』を開催いたします。『日本橋 熈代祭』は、日本橋老舗や地元企業など地域コミュニティの人々が受け継ぐ“技” や “伝統”を披露する秋祭りです。

三井不動産株式会社ニュースリリース、2016年9月28日
人々が集い日本の自然と日本橋の歴史と伝統を再現した憩いの空間『福徳の森』
9月28日(水)誕生

http://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2016/0928/

 でも、ね、「森」っていうから樹木の下に腰を下ろす、とかせめてベンチとかが置いてある通行人に優しい「憩いの空間」とはほど遠い、立ち止まれない、会話ができない、休めない、ま、通行するだけの歩道のような空間だったな、と。
 お友だち同志、語り合って憩うのであれば、隣接するカフェ「英遊齋水戯庵(えいゆうさいすいぎあん)」でどうぞ、ということ、つまり0円で市民が憩える場はないのです、三井不動産株式会社の「まちづくり」には。
 あ〜あ、そりゃそうだって、ここは「公共の空間」パブリック・スペースではないんだもん、とヤッホー君、あ〜あ、映画でも観ようかな、だって:

 人生の最後に、最愛の人と気ままな旅に出る。そんな老夫婦を描くロードムービー「ロング,ロングバケーション」(伊、1時間52分)が大阪ステーションシティシネマほかで公開中だ。超高齢社会の中でこの映画から何が学べるのか。高齢者の相互支援活動などをしているNPO法人「ニッポン・アクティブライフ・クラブ(ナルク、注)」(大阪市中央区)企画室長の早野矢須男さん(78)に聞いた。

 映画の舞台は米国東海岸を縦断する国道1号。ボストンに住むジョン(ドナルド・サザーランド)とエラ(ヘレン・ミレン)夫婦はある日、ヘミングウェーの家を見に行くため、キャンピングカーでフロリダに向け出発する。それを知った子供たちは大慌て。実はジョンはアルツハイマー病が進行中、エラは末期がんで入院するはずだったからだ。

 「人生の終わりの理想的な一つの姿ですね」と早野さんは笑う。ジョンの運転は危なっかしいが、旅は笑い声が絶えない。夜のキャンプ場でエラは、子供たちの年齢も分からなくなったジョンに昔のスライド写真を映して見せ、思い出を語り合う。

 「あんな最後の旅をしたいと思う人は多いのでは」

 ただ「実際には難しい」とも。全国に約2万人の会員がいるナルクで多くの高齢夫婦を見てきた早野さんは「夫か妻のどちらかが弱り、もう片方が世話をするようになる夫婦が多い。旅に出たくても思いを一致させるのは大変」と話す。エラは入院で夫婦バラバラになることに抵抗したが「どちらかが施設に入ると、仲良し夫婦でも疎遠になってしまうことが多い」という。
 夫婦の思いを合わせるためにできることはなにか。早野さんは「元気なうちに互いにどんな最期を迎えたいか伝え合っておくことが大事」という。ナルクでは2003年、会員からの声を受けいち早く「エンディングノート」を開発。ただ「死後のことは書きやすくても、死の直前については書きにくいという人が多い」という。「つらい場面を想像するしんどい作業かもしれないが、希望や思いをきちんと伝えて」と話す。
 映画の結末はショッキングだ。旅の終わり、エラは自分たちの人生の幕を自ら下ろす決断をする。「根底にあるのは『迷惑を掛けたくない』という思い。異論も多くあるだろうが、共感する人も多いのでは」と早野さん。周囲はそうした思いをいかにくみ取り、どう支えるのか。「答えは一つではなく、それぞれに考えさせられるはずです」。現代社会に大きな問いを突きつける作品だ。


毎日新聞・大阪夕刊、2018年1月26日
映画
米を縦断、ロードムービー「ロング,ロングバケーション」
仲良し老夫婦が選んだ結末 超高齢社会へ大きな問い
 
(花澤茂人)
https://mainichi.jp/articles/20180126/ddf/012/200/024000c

VENICE, Italy (AP) − The Italian nights are getting cooler as fall approaches, and there’s something autumnal about many of the movies at the Venice Film Festival this year.

The passage of time and the approach of death are on the minds of many filmmakers − including Italy’s Paolo Virzi, whose drama “The Leisure Seeker” premiered at the festival on Sunday.
 
It stars Helen Mirren and Donald Sutherland as a couple facing up to the end of their lives and embarking on one last trip across the U.S. in their battered old mobile home.

The 11-day Venice festival, which runs to Saturday, has already included Jane Fonda and Robert Redford trying to avoid a lonely old age in “Our Souls at Night.” Still to come is Michael Caine reflecting on his 1960s heyday in the documentary “My Generation.”

The title of “The Leisure Seeker” refers to a 1970s Winnebago used on family holidays by John and Ella Spencer (Sutherland and Mirren). John, a former English teacher, has dementia. Ella is completely lucid but getting physically frailer by the day.

The couple hit the road one last time, setting out on a pilgrimage of sorts to Ernest Hemingway’s Key West house. Like a pair of elderly Huckleberry Finns, they light out for freedom, in what Virzi called “a rebellion against a destiny of hospitalization.”

Mirren said she welcomed the chance the movie offered to look at questions of life and death.

The 72-year-old said the film was “a reflection of the way I hope to live my life.”

“I loved the character of Ella because she is facing the end of her life, but she is facing the end of her life full of energy and commitment to life and pleasure in life that I hope that I can maintain to the end of my days,” Mirren told reporters on Sunday.

This is the first U.S.-set film by acclaimed Italian director Virzi (“Like Crazy,” ”Human Capital”). Virzi said he was reluctant to make it, wary of what can go wrong when filmmakers venture outside of their cultural comfort zones.

He told himself he’d make the movie only if he could get Sutherland and Mirren − and to his shock, they both agreed.

“At this point I said to myself, I can’t avoid doing it,” he said.

Both Sutherland and Mirren are aficionados of Italian cinema and Italian directors. He has starred in Italian films including Federico Fellini’s “Casanova,” while she made “Caligula” for Tinto Brass.

Mirren said she thought Virzi brought a perceptive outsider’s eye to an American story.

“An Italian in America looking at the American culture, American way of life, American landscape − they have an eye which is fresh and individual and uninfluenced by politics or culture of history of family or anything,” she said. “And I think that’s a very powerful eye.

Mirren said Virzi’s view of America was “generous. Not critical in a crass way, because Paolo’s eye is ultimately a loving eye.”

Donald Trump has sometimes felt like a presiding spirit at this year’s Venice festival, because so many of the films deal with social divisions that have been heightened during his campaign and presidency. A notable example was George Clooney’s satirical thriller about racial conflict, “Suburbicon,” which premiered Saturday.

“The Leisure Seeker” was shot in the U.S. in 2016 and features a Trump rally that the crew came across while filming.

It was incorporated into the movie − although, said 82-year-old Sutherland, “we never for a moment dreamt (Trump) was going to be the current president of the United States.”

American writer Stephen Amidon, who worked with Virzi on the script, said he and the film’s American producer initially resisted the director’s desire to include the Trump phenomenon in the movie.

“We thought this Trump thing was a passing phenomenon that was just this blip, this parenthesis in American culture,” he said. “And lo and behold, Paolo was right.”


[photo]
Actors Donald Sutherland, left, and Helen Mirren pose for photographers upon arrival at the premiere of the film ‘The Leisure Seeker‘ during the 74th edition of the Venice Film.

The Seatle Times, Updated September 3, 2017 at 11:07 am
Helen Mirren hits the road in ‘The Leisure Seeker’ in Venice
By JILL LAWLESS, The Associated Press
https://www.seattletimes.com/nation-world/helen-mirren-hits-the-road-in-the-leisure-seeker-in-venice/

It’s an average morning in the town of Wellesley, Massachusetts, when a middle-aged man flips up the garage door outside his parents’ quiet home. What he sees there freezes his blood and has him fumbling for his phone. The garage is empty; the camper-van has vanished. “Mom and Dad are gone!” he wails. “And you won’t believe this – so is the Leisure Seeker!”

The starting pistol fired, Paolo Virzi’s film springs out of the gate with all the urgency of a well-fed housecat. Ella and John Spencer are ambling out of New England in their 1975 Winnebago, pointed south on Route 1 on a mission to visit Hemingway’s house in Key West. They’re cruising through red-state USA at the peak of the presidential election campaign with the sounds of yesteryear (Bob Dylan, Janis Joplin) playing on the tape-deck. But they are in no particular hurry to reach the end of the road, rarely nudging the camper-van above 50. They’re enjoying the ride and we, by and large, are enjoying it too.

The Leisure Seeker has many miles to cover, which leaves the audience plenty of time to get to know Ella and John. She’s a perky southern belle, as sweet as a slice of key lime pie; the one who’s holding the whole trip together. And he’s a handsome old horse, a retired professor in the early stages of dementia, with a habit of subjecting every young waitress he meets to a lengthy lecture on 20th-century literature. They are played by Helen Mirren and Donald Sutherland – both of whom give rousing, substantial performances even if they never quite match the pathos and chemistry managed by Jane Fonda and Robert Redford in the similarly-themed Our Souls at Night, which screened here at Venice just a few days ago.

Virzi’s characters are slightly broader, more obviously tragicomic and his film throws them through many more misadventures. As Chekhov very nearly said, if you show a gun in the glove compartment during the opening act, you can bet that at some point Ella will use it to see off some hoodlums. “You fellows should consider some evening classes,” interjects John, an academic to the end. “It’s not too late to turn your lives around.”

If this makes the film sound like a roustabout road trip, this turns out to be only partly the case.

On the way down Route 1, old quarrels flare up and buried secrets are unearthed and somewhere in South Carolina, Ella starts to wonder about John.

Also – as Chekhov didn’t say – if a director decides to send an elderly couple out on one last golden vacation, there’s a fair chance that one of these people will either fall ill or drop dead.

The Leisure Seeker isn’t the sort of picture to start meddling with that formula, but it sets about its business with a satisfying efficiency.

Watching it is akin to be being waylaid by an expert raconteur.

There is the curious sense that it has told this tale before; that every joke has been honed and rehearsed; every anecdote lovingly polished in advance.

I ducked out of The Leisure Seeker as soon as the end credits rolled, mildly concerned that it was about to reset and start telling me the whole story again.


[photo]
The Leisure Seeker film still

The Guardian, Last modified on Mon 4 Sep 2017 08.32 BST
Venice film festival 2017

The Leisure Seeker review – Helen Mirren camper van yarn sticks to the middle of the road

Mirren and Donald Sutherland head off along Route 1 for a well-constructed, but not especially original, study of a long-married couple in their golden years
By Xan Brooks
https://www.theguardian.com/film/2017/sep/03/the-leisure-seeker-review-helen-mirren-donald-sutherland-venice-film-2017

See more:
The Leisure Seeker | Official Trailer HD (2017)
https://www.youtube.com/watch?v=jvx4Kmf7_gY
https://www.youtube.com/watch?v=GcSDTGliF3g

https://www.youtube.com/watch?v=vGmE3ELpa7Q
https://www.youtube.com/watch?v=wUFpqcvIvMo

(注)「ニッポン・アクティブライフ・クラブ」の頭文字から通称「NALC」又は「ナルク」と略称しています。
http://nalc.jp/

posted by fom_club at 18:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

翼をください

 次の出処もヤッホー君が読んだ今日付けのマレーシア紙、ニュー・ストレイト・タイムからなんです。
 まずは、導入としてBBC(英国放送協会)の2018年2月19日付け記事から:

 米フロリダ州の高校で17人が死亡した乱射事件を受けて、銃規制の強化を強く求める高校の生徒たちが18日、3月24日にワシントンで抗議の行進を実施すると発表した。
 生徒たちは週末にかけて集会などで、銃規制強化に及び腰な政治家たちを「恥を知れ」 と強く非難している。
 ドナルド・トランプ米大統領の陣営は2016年米大統領選でNRA(圧力団体National Rifle Association 全米ライフル協会)から2000万〜3000万ドルの寄付を受け取ったとされている。
http://www.bbc.com/japanese/43108591

 ニュー・ストレイト・タイム紙はアメリカの銃規制を次のように解説しております:

IS it possible to stop gun violence in the United States? No, but it is possible to minimise it. The massacre of 17 students at a Florida high school this month offers a prime example of how laws can be changed to reduce the likelihood of mass shootings.

In Florida, a person over the age of 18, with no criminal record or documented history of mental illness, can purchase most commercially-sold firearms, including the AR-15 semi-automatic rifle used by a 19-year-old at Marjory Stoneman Douglas High School. Therefore, access to this powerful weapon would have been much more difficult, in this instance, by changing two laws: raising to 21 the minimum age to purchase any firearm and restricting the availability of this type of weapon to the military and police forces.

The oft-repeated objection to any restriction is that, prior to such a ban taking effect, gun-lovers will go into overdrive purchasing these war weapons. But this can be easily resolved, with passage of a third law: making the possession of such weapons a felony.

Many Americans would vehemently object to such a law, but very few would be willing to violate it.

Gun proponents often rattle off claims about the US Constitution’s second amendment without bothering to address its limitations. Ten years ago, the US Supreme Court, in the case Heller v. District of Columbia, held that the second amendment grants individuals the right to possess firearms. But the court did not even hint that restrictions on that right were unconstitutional. Indeed, no constitutional right is absolute − not even those rights considered the most basic, such as speech and religion.

(The speech right does not extend to endangering others with “fighting words”, and religious freedom does not allow parents to refuse, on religious grounds, life-saving medical treatment for their children.)

The fact of the matter is, gun-control laws vary tremendously from state to state, and restrictive laws − for example, on minimum age and waiting periods for purchasing firearms, and carrying concealed weapons − are perfectly legal. Furthermore, the Federal Government can pass its own gun-control laws, as it has done on rare occasion. In 1968, for example, congress passed a law prohibiting the interstate trade of handguns, and in 1993, passed the Brady Act, which requires background checks on most firearms sellers.

The National Rifle Association (NRA), the nation’s leading gun-advocacy interest group, insists that most American adults agree with its hard-line resistance to virtually any form of gun control. But opinion surveys suggest otherwise. A 2017 Gallup poll found that 51 per cent of Americans favoured more gun legislation, and about one-half of the public wishes to see existing laws enforced more strictly. So, why is it so difficult to pass laws that most Americans favour?

Part of the answer is federalism, the division of governmental power between the national and state governments. Even if most Americans feel one way about guns, a majority of those in a single state − in this instance, Florida − may disagree, and federalism weighs in favour of the people in the state. Another impediment to change is saliency.

The number one concern of members of congress and state legislatures is getting reelected. But even if a majority of voters in a legislator’s district favour gun control, the issue may not resonate as much with gun-control advocates as it does with gun-control opponents. Thus, taking a majority position on the issue may cost a candidate votes. This accounts for a good deal of the NRA’s potency. The group targets anti-gun legislators and attacks them furiously − and there is no group with the political or financial resources sufficient to effectively counter such attacks.

The lack of meaningful gun-control legislation frustrates millions of Americans, especially following a tragedy such as the one in Florida, or the 2017 slaughter of 58 people in Las Vegas, or the many other shootings in recent years. But there are two reasons to be optimistic that change may be on the horizon.

First, Americans have changed their collective mind on other things, such as women’s rights and racial segregation, and change has been achieved. Second, the recent spate of gun-related killings has caused national revulsion unmatched in times past, aided by round-the-clock television coverage reminding viewers, with alarming visuals, of the carnage owing in part to lax gun laws.

The popular demand for change can influence legislators to act. Perhaps, the Florida massacre will prove to be the turning point for meaningful change in the country’s gun laws.


[photo]
Hundreds of community members at a candlelight vigil to honour victims of a mass shooting at the Marjory Stoneman Douglas High School that left 17 dead. The lack of meaningful gun-control legislation has frustrated millions of Americans.

New Straits Times, Published: February 21, 2018 - 8:32am
Can gun violence in America be prevented?
By WILLIAM G. BORGES
William G. Borges is a faculty member in HELP University’s American Degree Programme.
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/02/337410/can-gun-violence-america-be-prevented

 ところであのトランプは、殺されないように関係者は銃で武装すればいいじゃないか、と。

Donald Trump has said he will consider a proposal to arm school teachers in an attempt to prevent mass shootings, a move certain to prove fiercely divisive.

The US president, holding a listening session at the White House with survivors of last week’s Florida school shooting and others affected by gun violence, claimed that allowing airline pilots to carry and conceal guns had demonstrated the measure could be a success.

“It only works when you have people very adept at using firearms, of which you have many,” Trump said during an emotionally searing session that, extraordinarily, was broadcast live on national television. “It would be teachers and coaches.”

...
[video]
Trump says arming teachers with concealed weapons could prevent school massacres

The Guardian, Last modified on Thu 22 Feb 2018 00.07 GMT
Trump's solution to school shootings: arm teachers with guns

‘It is the gun, it’s the person behind the gun and it’s about helping people before they ever reach that point,’ said a mother whose daughter died at Sandy Hook elementary
By David Smith in Washington
https://www.theguardian.com/us-news/2018/feb/21/donald-trump-solution-to-school-shootings-arm-teachers-with-guns

WASHINGTON: President Donald Trump floated the idea of arming teachers and promised more stringent background checks on gun owners as he hosted an emotional meeting Wednesday with students who survived last week’s mass shooting at a Florida school.

“I just want to say before we begin, because I want to hear you, but we’ll be very strong on background checks, very strong emphasis on the mental health of somebody,” Trump told the students from Marjory Stoneman Douglas High School in a meeting in the White House.

Trump also suggested some teachers could be trained in the use of firearms as a deterrent to would-be gunmen.

“This would only be obviously for people who are very adept at handling a gun,” said Trump.

“It’s called concealed carry. Where a teacher would have a concealed gun on them, they would go for special training and they would be there, and you would no longer have a gun-free zone.”

“A gun-free zone is, let’s go in and let’s attack,” he said.

“There are many ideas that I have, many ideas that other people have and we’ll pick out the most important ideas and work to get them done. It won’t be talk, it’s gone on too long.”

Julia Cordover, a senior class president at the school, was one of a number of students who pressed Trump to ensure that “no person in this world will ever have to go through” such a tragedy again.

“I was lucky enough to come home from school unlike some of my other class and it’s very scary knowing that a lot of people did not have this opportunity to be here,” Cordover said as she fought back tears in her address to the president.

“I feel like there is a lot to do and ... I’m confident that you will do the right thing.”
Samuel Zeif, who lost a close friend when Nikolas Cruz killed 17 people in his murderous rampage last Wednesday, said it was important to “be strong for the fallen who don’t have a voice to speak anymore“

“Let’s never let this happen again. Please,” he told the president.

“I don’t understand. I turned 18 the day after (the shooting). Woke up to the news that my best friend was gone. And I don’t understand why I can still go in a store and buy a weapon of war.”

Andrew Pollack, whose 18-year-old daughter Meadow was among the victims, told Trump that it was far too easy for people such as Cruz to acquire weapons.

“I’m here because my daughter has no voice. She was murdered last week and she was taken from us, shot nine times on the third floor.

“We as a country failed our children. This shouldn’t happen.

“We go to the airport, I can’t get on a plane with a bottle of water, but we leave some animal to walk into a school.

“It is just not right. And we need to come together as a country and work on what is important and that is protecting our children in the schools – that is the only thing that matters right now.”


[photo-1]
US President Donald Trump begins a listening session to discuss school safety and shootings with surviving students and the families of victims at the White House in Washington.

[photo-2]
Marjory Stoneman Douglas High School student Samuel Zeif wipes tears next to Nicole Hockley of Sandy Hook Promise as US President Donald Trump hosts a listening session with high school shooting survivors and students to discuss school safety at the White House in Washington, US.

New Straits Times, Published: February 22, 2018 - 6:59am
Trump meets Florida school shooting survivors, suggests arming teachers
[source] AFP
https://www.nst.com.my/world/2018/02/337738/trump-meets-florida-school-shooting-survivors-suggests-arming-teachers

 こんな大統領ですから、人が人を殺す銃乱射の世界はひろがるばかりです。
 
Bodycam footage shows children being rescued from rubble in eastern Ghouta, Syria
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=Pj-oH_TSk8s

https://www.theguardian.com/world/gallery/2018/feb/20/eastern-ghouta-hundreds-killed-by-assad-forces

 人殺しはダメです!まして兵器なんて、ダメです!子どもまで巻き込んではダメ!
 ダメなものはダメ!
 世界に平和を広げよう、世界に日本国憲法を、と今朝も大声で叫んでるヤッホー君。
 
Wings to Fly 〜 翼をください
https://www.youtube.com/watch?v=XNmzKikXZyY

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慢性的な大量飲酒、認知症との関連が明らかに

 次の出処もヤッホー君が読んだ昨日付けのマレーシア紙、ニュー・ストレイト・タイムからなんです。
 まずは、導入として東京新聞の記事から:

 人によって異なる認知症の症状を数値化し、介護に生かすプログラムを本格的に普及させるため、東京都は2018年度当初予算案に1億円を計上した。介護にかかわる人たちが症状の程度などを共有でき、よりきめ細かい対応ができると期待されている。
 認知症ケア先進国とされるスウェーデンのプログラムを参考に、都医学総合研究所が開発した。
 数値化するのは、徘徊(はいかい)や不安、抑うつ、興奮などの症状。デイサービス職員やケアマネジャーらが、「大きい声を出すか」「他人が自分の物を盗んでいると信じているか」といった約90問を、「はい」「いいえ」でタブレット端末などに入力。「不安」「興奮」「うつ」など11項目について、12点満点で症状の進み具合が数値化される。
 具体的な数字があることで、介護にかかわる関係者は、ケアの優先度などを議論しやすくなる。
 プログラムは2016年度、世田谷、足立両区と武蔵野市の居宅介護支援事業所やグループホームなどで先行的に導入し、症状に「一定の改善が見られた」(都の担当者)という。2018年度は新たに6自治体で導入を図り、2025年度までに都内の全自治体に導入する目標を掲げる。
 都内の65歳以上の高齢者は、2015年時点で全国最多の301万人。
 都内の認知症高齢者は2016年時点で41万人で、2025年には56万人に増え、高齢者の17・2%を占めるとみられている。人によって異なる認知症の症状を数値化し、介護に生かすプログラムを本格的に普及させるため、東京都は2018年度当初予算案に1億円を計上した。介護にかかわる人たちが症状の程度などを共有でき、よりきめ細かい対応ができると期待されている。

東京新聞・朝刊、2018年2月3日
認知症介護
症状を共有 徘徊・抑うつ、進み具合を数値化

www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018020302000134.html

PARIS: Chronic heavy drinking is a major risk factor for all types of dementia, especially early onset of the disease, according to a study published Wednesday in The Lancet Public Health.

Researchers examining more than 57,000 cases of early-onset dementia in France found that well over half were either alcohol-related, or accompanied by an additional diagnosis of alcohol abuse.

Overall, alcohol use disorders were associated with a three-fold higher risk of all types of dementia.

Alzheimer’s and other forms of dementia are said to be premature before the age of 65.
Previous research was inconclusive on the effect of alcohol on cognitive health.

Some studies have show a possible benefit of light-to-moderate drinking, while others have found that heavy drinking boosts the risk of dementia.

The World Health Organisation (WHO) defines “chronic heavy drinking” as more than 60 grammes of pure alcohol – six or more standard drinks – a day for men, and in excess of 40 grammes per day for women.

For the new study, researchers combed through medical records of more than one million adults in France diagnosed with dementia from 2008 to 2013.

The link with alcohol was statistically unmistakable, leading the authors to suggest screening, brief interventions for heavy drinking, and alcoholism treatment to help reduce cognitive decline.

“The link between dementia and alcohol use disorders ... is likely a result of alcohol leading to permanent structural and functional brain damage,” said lead author Michael Schwarzinger, a scientist at the Translational Health Economics Network in Paris.

Alcohol use disorders are also associated with high blood pressure, diabetes, stroke, and heart failure, which may in turn increase the risk of vascular dementia, he said in a statement.

Previous research has likewise established a link between heavy drinking and smoking, depression, and low educational attainment – all risk factors for dementia.

The study, based on discharge records from all French hospitals over a six-year period, excluded patients with diseases linked to rare dementias, and people with early-life mental health disorders.

During the same period, there were 94,5512 people – more than 85 percent of them alcohol dependent – diagnosed with alcohol use disorders.

“Our findings suggest that the burden of dementia attributable to alcohol use disorders is much larger than previously thought,” Schwarzinger said.

“Heavy drinking should be recognised as a major risk factor for all types of dementia.”
Clive Ballard, professor at the University of Exeter Medical School in Britain, described the findings as “immensely important.”

“We should move forward with clear public health messages about the relationship between both alcohol-use disorders and alcohol consumption, respectively, and dementia,” he commented in the same journal.


[photo]
A study published in The Lancet Public Health reveals that chronic drinking is a major risk factor for all types of dementia.

New Straits Times, Published: February 21, 2018 - 7:49am
Dementia clearly linked to chronic boozing: Study
[source] AFP
https://www.nst.com.my/lifestyle/heal/2018/02/337393/dementia-clearly-linked-chronic-boozing-study

 このニュースは世界を駆け巡ったようです。だって他人ごとではないんだもん、気を付けなくっちゃ。
 英国紙は次のように報道しています:

Heavy drinkers are putting themselves at risk of dementia, according to the largest study of its kind ever conducted.

Research published in the Lancet Public Health journal provides powerful evidence that people who drink enough to end up in hospital are putting themselves at serious risk of vascular dementia and Alzheimer’s disease. It will also raise questions for moderate drinkers about the possible long-term consequences of their social habit.

The study, which used the French National Hospital Discharge database, looked at more than a million people diagnosed with dementia between 2008 and 2013.

More than a third – 38% of the 57,000 cases of early-onset dementia – were directly alcohol-related and 18% had an additional diagnosis of alcohol use disorders. Overall, alcohol use disorders were associated with a three times greater risk of all types of dementia.

Dr Sara Imarisio, head of research at Alzheimer’s Research UK, said: “As this study only looked at the people who had been admitted to hospital due to chronic heavy drinking, it doesn’t reveal the full extent of the link between alcohol use and dementia risk.

Previous research has indicated that even moderate drinking may have a negative impact on brain health and people shouldn’t be under the impression that only drinking to the point of hospitalisation carries a risk.”

Experts said the new research should change attitudes. “What is most surprising about this paper is that it has taken us so long to recognise that alcohol misuse and dependence are such potent risk factors for the development of dementia,” said Robert Howard, professor of old age psychiatry at University College London.

“We have long known that alcohol is directly neurotoxic, thiamine deficiency in alcoholics devastates memory, alcohol-related conditions such as cirrhosis and epilepsy can damage the brain and that vascular brain damage is accelerated by alcohol.

Surprisingly, we’ve not traditionally considered alcohol and its misuse as an important risk factor for dementia and we were clearly wrong not to have done so.”

The study was not set up to look at the effects of moderate drinking on people’s dementia risk. But the lead author, Dr Michaël Schwarzinger of the Translational Health Economics Network in France, warned that the research showed damage done to the brain by alcohol is never repaired. Heavy drinkers who had given up alcohol for a time did not reduce their dementia risk, even though they were less likely to die early. “It is very striking that for people who were heavy drinkers and had at least a period of abstinence, the level of risk of dementia is about the same,” he told the Guardian.

That is in line with imaging studies that have shown even moderate drinking has a permanent effect. A study published in the British Medical Journal last year found that those who drank 14-21 units a week had three times the normal odds of damage to that part of the brain concerned with memory. Guidance in the UK is not to drink more than 14 units a week.

Advice on alcohol and dementia has been confusing. Some studies have suggested that one or two units a day – perhaps a small glass of wine – could be protective. But Schwarzinger said they were small studies and he personally would question whether that can be so.

“Alcohol is a devastating problem, whatever the organ. Now we can add the brain to the list of liver, kidney and heart,” he said.

“A variety of measures are needed, such as reducing availability, increasing taxation, and banning advertising and marketing of alcohol, alongside early detection and treatment of alcohol use disorders.”

Prof Clive Ballard of the University of Exeter Medical School, UK, writing a commentary for the journal, said: “Their study is immensely important and highlights the potential of alcohol use disorders, and possibly alcohol consumption, as modifiable risk factors for dementia prevention … In our view, this evidence is robust and we should move forward with clear public health messages about the relationship between both alcohol use disorders and alcohol consumption, respectively, and dementia.”

Dr James Nicholls, director of policy and research development at Alcohol Research UK, said the concerns raised by the study were very serious. “If heavy alcohol use increases the risk of dementia then there are enormous social and economic implications,” he said. “We must recognise that good quality, widely accessible alcohol treatment has important long-term benefits, including reducing the levels of dementia in society. And we must invest in these services, reversing the trend of recent years.”


[photo]
Those who drink enough to be hospitalised are at serious risk of vascular dementia and Alzheimer’s disease, say experts.

The Guardian, Last modified on Wed 21 Feb 2018 11.33 GMT
Chronic heavy drinking leads to serious risk of dementia, study warns

Questions also raised for moderate drinkers of alcohol about their social habit
By Sarah Boseley, Health editor
https://www.theguardian.com/society/2018/feb/20/chronic-heavy-drinking-leads-to-serious-risk-of-dementia-study-warns

 われわれの主食、お米でつくった美味しい日本酒は、”アルコール”じゃない、”百薬の長”や、って呑んでた酒、これもほどほどにしておこ、や、ね皆の衆!

It took a round of golf to convince Masashi Tsuda that something was really wrong with his memory. Then in his mid-50s, the sales rep couldn’t remember the four-digit number for his changing-room locker. Months earlier, he had struggled to get to grips with his office’s new computer system. On another occasion, his mind went blank as he was about to give a work presentation.

Despite twice being reassured by doctors that stress was the cause of his moments of absent-mindedness, Tsuda was eventually diagnosed with early-onset Alzheimer’s disease five years ago.

His wife, Kazuko, wipes away tears as she recalls the ensuing trauma. “We had just rebuilt our house, but all of the plans we had made together were shattered in an instant,” she tells the Guardian at a cafe she runs in Matsudo city, east of Tokyo. “I lost eight kilograms in weight and all my hair fell out. When it grew back, it was white.”

Her husband is not alone. Japan is at the forefront of a dementia crisis that experts warn will affect other societies with burgeoning elderly populations in decades to come. According to the health ministry, 4.6 million people are suffering from some form of dementia, with the total expected to soar to about 7.3 million people – or one in five Japanese aged 65 or over – by 2025.

Faced with spiralling health and welfare costs and a shortage of professional caregivers, towns and cities across Japan are attempting to move away from a medicine-based, institutional approach towards care to one that involves the entire community.

In 2015, Japan’s government released its Orange plan – a comprehensive package of measures to tackle dementia ranging from more specialised medical staff and the development of new drugs, to regular home visits and support for family caregivers.

Matsudo, however, put services for people living with dementia at the centre of its welfare policy much earlier, in 2010. And for good reason. By the end of the decade, more than 28% of the city’s 480,000 people will be aged 65 or older.

It means a commensurate rise in the number of people living with dementia, says Junko Yoshida, of Matsudo’s elderly welfare department. “We realised a while ago that with the rising number of older people living here dementia was going to be a huge challenge,” says Yoshida.

Currently, just over 11,000 people in the city in receipt of nursing care have some form of dementia, compared with around 8,000 just seven years ago. But they do not include a large number of people who have yet to be diagnosed. If they are included, local officials estimate Matsudo will be home to as many as 26,000 dementia sufferers by 2025.

Spearheaded by city hall, the plan includes raising public awareness among residents as well as businesses, such as banks and taxi services, which regularly come into contact with older people. There are cafes and drop-in centres for dementia patients and their families.

From last summer, the city began distributing stickers carrying a QR code that can be ironed onto items of clothing to help police locate the families of people who have wandered from their homes.

In return for attending a 90-minute lecture, residents can become “dementia supporters” who identify themselves with a bright orange bracelet. To date, 21,490 people have qualified as dementia-aware, while more than 3,000 regularly take part in neighbourhood patrols.

Several times a month, small groups of volunteers put on bright orange bibs and walk around neighbourhoods to distribute leaflets carrying information on dementia services and, occasionally, to help people in distress.

“We tend to pass by the very new houses as they’re occupied by young families,” says Manami Yoshii, a local welfare official while on patrol in a Matsudo suburb on a chilly January afternoon. “But if we see an older house that has the curtains drawn during the day or a big pile of newspapers in the mailbox, we tell the police.”

Hiroyuki Yamamoto knew exactly what to do when, one morning two years ago, he spotted a woman pushing a bicycle who, despite the rain, did not have an umbrella. She told him she was on her way to a town in Nagano prefecture, hundreds of miles away. Thanks to his awareness training, he managed to keep the woman talking until the police arrived to escort her home.

“A friendly greeting is the start of everything,” says Yamamoto, a regular patroller. “You don’t just suddenly ask people if they’re OK, as that could alienate them. It’s better to comment on the weather, or say something nice about their dog. We can usually tell if something is wrong by the way they respond.”

The number of people with dementia who go missing in Japan has reached crisis levels, reaching a record high of 15,432 in 2016, according to the national police agency – a rise of more than 25 percent from the previous year.

In Matsudo, the patrol initiative has produced results. Over the past six years, there have been more than 180 cases of people exhibiting signs of the condition found wandering the streets, all of whom were reunited with their families.

When they are not on patrol, dozens of dementia supporters run cafes for people with the condition and their families.

“It’s a casual place for people to come and talk openly over a cup of tea,” says Yukari Sakamoto, a cafe volunteer whose 69-year-old mother has the condition. “I can see that she gets a lot out of being able to talk at her own pace.”

After a series of minor mishaps at home while she was out at work, Kazuko Tsuda persuaded her husband to attend a day-care facility, where he and other people with dementia do light exercise, sing karaoke, grow vegetables and go on supervised walks.

Kazuko, who bought her cafe shortly before he was diagnosed, still struggles to cope with Masashi’s mood swings, but takes comfort from signs that he still appears to recognise her as his wife of more than 30 years.

“If I had one wish, it would be for my husband and I to do things together,” she says. “He’s a proud man … so it would help if he could also be given some sort of easy work to do. Yes, he has Alzheimer’s, but that doesn’t mean he has no dignity.”


* The Tsudas’ names have been changed at their request.

[photo]
Welfare officials Manami Yoshii and Yoko Kobayashi on patrol in Matsudo, Japan.

The Guardian, Last modified on Thu 15 Feb 2018 12.30 GMT
'Dementia towns': how Japan is evolving for its ageing population

With one in five elderly Japanese predicted to have dementia by 2025, entire communities are working to improve the lives of older citizens
By Justin McCurry in Matsudo
https://www.theguardian.com/world/2018/jan/15/dementia-towns-japan-ageing-population

ヤットン節(石川さゆり)
https://www.youtube.com/watch?v=x2oenQ7I5qk

 あ、朝からこれじゃあ、ダメだわ・・・

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2018年02月21日

私の「貧乏物語」

 次も出処はヤッホー君の尊敬してやまない小児科の先生:

 New York Times に、米国の篤志家が、チリに広大な土地を寄贈し、チリ政府自身の土地と合わせて、広大な国立公園が誕生したという記事が載っていた(注1)。

 Tompkins夫妻がその贈り主。ご主人は、1961年、18歳の時にロッククライマー・冒険家としてチリのパタゴニア地方を訪れた。その自然に魅了され、30年後から、パタゴニアの土地を少しづつ買収し始めた。Tompkins氏は、North Face and Esprit clothing社というアパレルメーカーで巨額の富を築き、土地の買収に34500万ドルを費やした。買収した土地は、100万エーカー。そこに、チリのBachelet政権は、900万エーカーを加え、パタゴニア国立公園機構を創立した、ということのようだ。その広さは、ヨセミテ・イェローストーン公園を合わせた土地の3倍に相当するという。2015年、Tompkins氏は、72歳のときに、カヤックで事故に遭い、亡くなられた。奥さまが実際の寄贈手続きを行ったらしい。

 この土地を購入し続けている間、チリの国土を分断するので安全保障上問題だとか、ユダヤ人入植地をつくるのではないかとか、様々な批判が続いたらしい。そうした批判を受けながらも買収を続け、この公園の実現にこぎ着けた。Bachelete氏は、この公園は、チリ国民のためだけでなく、地球レベルの財産になると述べている。

 この話に接して、その壮大な規模に驚嘆し、Tompkins夫妻の善意に感動する。

 その感動を一旦おいて考えると、やはり個人がこれだけの資産を持てることはやはり格差の問題を反映しているのではないか、という思いがもたげてくる。3億4500万ドルというと350億円超である。ご夫妻の善意の大きさに心底こころ動かされる一方で、それだけの資産が個人に集中することにいささか釈然としないものを感じるのだ。この格差社会では富める者と貧しい者の差が拡大をし続け、世界の富がごく少数の人間に集中するようになっている。多くの資産家は、残念ながら、Tompkins夫妻のように善意の人々ではない。彼らは、さらに利益を得ようと、政治と結びついて、社会の制度を自らに有利なように変えようとする・・・今進行中の「働き方改革」なぞ、その典型だ。この格差拡大社会は不安定化し、永続しない。

 だが、それでも、Tompkins夫妻は、我々に大きな贈り物をしてくださったと思う。NYTimesの記事にある画像を見ると、訪れてみたくなる。ドロドロした欲望と利権の渦巻く社会のニュースばかりが流れてくるなかで、この記事はまさに一幅の清涼剤だ。

ステトスコープ・チェロ・電鍵、2018/02/21 12:33
パタゴニア国立公園
nuttycellist.blog77.fc2.com/

 先生は、こんなことをおっしゃられています、もう一度噛みしめてみたいんです:

 ご夫妻の善意の大きさに心底こころ動かされる一方で、それだけの資産が個人に集中することにいささか釈然としないものを感じるのだ。
 この格差社会では富める者と貧しい者の差が拡大をし続け、世界の富がごく少数の人間に集中するようになっている。
 多くの資産家は、残念ながら、Tompkins夫妻のように善意の人々ではない。
 彼らは、さらに利益を得ようと、政治と結びついて、社会の制度を自らに有利なように変えようとする・・・今進行中の「働き方改革」なぞ、その典型だ。


 ね、これってヤッホー君がイマ読んでいる本にも関連し、ヤッホー君、なんだろうね、この「格差社会」って考え込んでいるんです:

ブレイディみかこ「貧乏を身にまとい、地べたから突き上げろ」(注2)…
岩波書店編集部編『私の「貧乏物語」、これからの希望をみつけるために』(岩波書店、2016年)所収

 そのなかに「企業組合あうん」(注3)中村光男さんとのお話がエピソードとして出てきます。
 この団体はね、:

 日雇い労働者の街・山谷地区にほど近い、荒川区東日暮里。住宅街の一角に、小さなリサイクルショップ「あうん」がある。そこは50代中心の元野宿者と、ネットカフェ難民や引きこもりなどだった若者が営む店。競争社会から距離を置いて生きる人たちの、ささやかな居場所を訪ねた。
 土曜日の午前11時。強い日差しが肌を刺す小さな駐車場で、人々が古着や雑貨を物色している。あうんのフリーマーケットには、地元の人や外国人留学生がやってくる。「これ、どう使うの」「安くしてよ」。あちこちで会話が飛び交う。

 あうん結成は2002年。山谷の住民や隅田川近辺の野宿者が、その日暮らしの生活から脱する「仕事おこし」のため、一人最低1万円を出し合ってつくった企業組合だ。主な仕事は、古着や家財道具などの販売と引越し作業など。給料は一律一日7千円。社会保険を完備し、住宅手当も出す。中心的存在の中村光男さんは「みんなが気持ち良く働き、対等である仕組みを植え付けたい」と話す。
 初めは50代が中心だった。最近は、雇用不安や心の傷を抱える若者も集まる。元ネットカフェ難民。うつ病だった人。10−60代約25人のメンバーのうち、30代以下は11人を占める。

 店の奥でアルバイトの女性(19)が、古着の寄贈者への礼状をつづっていた。時々客と話し、はにかむようにほほ笑む。「前は他人と目を合わせられない子だった」と、あうんのお母さん的存在、荒川茂子さん(53)は話す。女性は父から毎日暴力を振るわれた。母と一緒に逃げ出したものの、家に引きこもりがちになった。
 あうんへ来たのは、昨年夏。母や知人の紹介だった。「すごく緊張した。でもお客さんは、私の名前を覚えて話し掛けてくれる。落ち込んで来られなくなった時も、メンバーのおじさんが心配して電話をくれた。みんな優しい」。女性が懸命に言葉を紡ぐ。他人が怖くなくなり、少しだけ、自信も出てきたという。

 勤めていた会社を辞め、あうんで働く男性(25)は「人間は生きることに、プラスアルファの価値を求める。それは車、家、名誉と人それぞれ。自分は会社員の時に金を稼いだけれど、価値は得られなかった」と振り返る。
「ここでは金は減るが、社会や貧困の問題に触れられるし、前は見えなかったことを知る機会があると思う」

 初期からあうんで働く人には、とまどいもあった。「初めは若い人にどう接したらいいか分からなかった。理屈で納得しないと、動かないし」と元山谷住民の井上壮さん(58)は打ち明ける。
 仕事が終わると事務所の2階に集合し、缶ビール片手にとりとめなく語り合う。「年齢も経歴も違うけれど、社会から追いやられた者同士、でこぼこ進んでいる」と荒川さんは苦笑する。
 中村さんは「他人とどうやって力を合わせるか。ここはそれを学ぶ場所」と力を込めた。


東京新聞、2008年8月18日
仕事で再生
元野宿者ら営むリサイクル店

(文・中沢佳子/写真・戸上航一/紙面構成・朝井嘉奈子)
https://ameblo.jp/sai-mido/entry-10128750770.html

 イマでも元気です。
 仲間が増えています:

 家で使っていない食器などを持ち込み、必要な人が無料で持ち帰ることのできる「まつど0円マーケット」の第2弾が2017年3月26日、松戸市のまつど市民活動サポートセンターで開かれる。昨年十二月の初回と同様、「0円」で楽しめる映画上映会や食堂のほか、働くことをテーマにしたトークや「ゲーセン」もある。
 マーケットは午前11時〜午後4時で、持ち込むだけ、持ち帰るだけでもいい。午前10時半以降、家具や衣類、本などを持ち込む。汚れたものや使えないものは対象外。残った場合は持ち込んだ人が引き取る。
 上映会は午前11時半からで、映画は大量に廃棄さる食料をテーマに欧州で撮影された「0円キッチン」(2015年、注4)。食堂は正午〜午後2時で、メニューはお楽しみ。
 午後2時からのトークでは、2002年に東京都荒川区でリサイクルショップを始めた、元ホームレスらでつくる企業組合「あうん」の実践をもとに、働くことを考える。「ゲーセン」は正午〜午後3時で、外国発祥のボードゲームなどで遊べる。
 マーケットは、市民団体や個人でつくる実行委員会の主催。持ち込みの事前連絡は不要。問い合わせは実行委事務局のNPO法人「ディープデモクラシー・センター」(注5)=電050(5534)9081=へ。

 
東京新聞、2017年3月20
笑顔咲く「0円」マーケット
松戸で26日 食堂や「ゲーセン」も

(飯田克志)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201703/CK2017032002000135.html

(注1)The New York Times, Published: FEB. 19, 2018
With 10 Million Acres in Patagonia, a National Park System Is Born
By PASCALE BONNEFOY
https://www.nytimes.com/2018/02/19/world/americas/patagonia-national-park-chile.html

(注2)ヤッホー君の尊敬してやまないもうひとりの、hamachan先生はこんなコメントを2016年9月30日 (金)付けブログで:

 個人的には、バブル時代に高校生活を送ったブレイディみかこさんのこのエピソードが印象的です。
・・・それからしばらくすると、今度は学校帰りにスーパーでアルバイトをしていたのがばれた。着替える時間がなくてセーラー服のままでレジを売っている姿をOBに目撃され、学校にチクられたのである。担任に呼び出され、どうしてアルバイトをしているのかと聞かれたので、
「通学の定期を買うためです」と答えると、彼は顔を真っ赤にして言った。
「嘘をつくんじゃない。今どきそんな高校生がいるわけがない」
彼の瞳には一点の曇りもなく、ひたすら正義感に燃えていた。一億総中流幻想を信じすぎていたのである。私はため息をついた。やはり自分が貧しいということは絶対に他人に言ってはいけないことなのだった。
・・・・

 これを読んで、逆に今の若い人々からは、そんな幻想にみんなが浸っていた時代があったのか、と不思議に感じるかも知れません。高校生が貧しくてアルバイトで学費を稼がなくてはいけないという状況が違和感なく通じる今日には。
 いやそうだったのですよ。そういう時代が間違いなくあって、世の中のそれでもそれなりにあちこちにあるはずの貧困が見えなくなるほど豊かな日本万歳イデオロギーが津々浦々に浸み渡っていた時代が確かにあったのです。
『私の「貧乏物語」 』
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-d765.html

(注3)企業組合あうん(荒川区東日暮里 1-36-10 Tel 03-5604-0873)
http://www.awn-net.com/

(注4)映画『0円キッチン』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=745ys3ZmRgQ

(注5)NPO法人「ディープデモクラシー・センター」(Email: info@deepdemocracy.center / Tel 05055349081)
http://www.deepdemocracy.center/

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ベイビーファクトリー

 なんとも奇怪な“事件”が日本を騒がせている。24歳の独身日本人男性がタイで体外受精と代理母を使い、自分の子どもを16人も出産させていた。しかも、この問題はメディアの奇怪な対応も引き出すこととなった。
 このニュースがタイからもたらされたとき、当初、疑われたのは人身売買や臓器売買だった。東南アジアでは幼児が誘拐され売春婦にされたり、臓器を取られたりという犯罪が頻繁に起きていることからの憶測だったが、そういう事実はなかった。そして、かわりにマスコミが色めき立ったのが、この男性の正体だった。男性は大手IT企業の「光通信」創業者・重田康光氏の長男だったのである。
 「光通信」は今でこそIT企業の大手だが、90年代後半に携帯電話の販売で大きな注目を浴びたベンチャー企業だった。だが、その強引な手法は次第に大きな批判を浴びていく。
 それを決定づけたのが「文藝春秋」(2000年4月号)に掲載された記事だった。「光通信」が架空の契約書の捏造を行い、契約内容を偽って販売していたことなど、商法を批判したものだが、記事は創業者の重田社長(当時)が幼少期に飼っていたニシキヘビに生きたウサギを餌に与え「強い者が勝つんだ」と笑ったというような人格批判にも及んでいた。
 いずれにしても、これをきっかけに多くのマスコミが「光通信」商法への批判を強めていった。「実力主義、全員主義」という荒っぽい営業手法、ベンチャー企業への乗っ取りを前提とした出資攻勢などが問題とされた。そのため「光通信」の名前は今で言うブラック企業の代表として批判され、同時に株価の大暴落という事態を招き、さらにマスコミ報道は加熱していった。
 だが奇跡的というか重田の辣腕からなのか、その後はシャープやソフトバンクの営業を請け負うなどして奇跡的復活を果たし、現在にまで存続する大企業となっている。
 そんな過去の経緯もあり、週刊誌は御曹司の代理出産ネタをこんなふうに大きく取り上げた。

 「毎年10人子どもを作り、最終的には100人か1000人ももうけたいと語っている」
 「カンボジアに子どもを育成する秘密の隠れ家を持っていた」
 「光時の父親と母親も大量出産を支援している」
 「莫大な資産の相続税対策」
 「多くの子どもを作るのは選挙に出て勝つための人員」
 「新たなカルト集団を作ろうとではないか」
 「光時と行動を共にしているパートナーは性転換した元男性」
 特に「週刊文春」「週刊新潮」では、「光通信」の社名と本人の実名をタイトルに使った特集記事を掲載した。
 「タイ代理出産 光通信御曹司・重田光時 乳幼児『育成の農場』に初潜入!」(「週刊文春」8月28日号)
 「億万長者『光通信創業者』ご長男の人間牧場」(「週刊新潮」8月28日号)

 だが、その一方で、新聞では不可解な事が起きていた。全国紙が載せた「週刊文春」「週刊新潮」の新聞広告を見ると、該当タイトルの固有名詞の部分に奇妙な白マルが並んでおり、伏せ字になっていたのだ。
。。。
 今回の騒動は「光通信」という大企業の経営体質に加えて、生殖医療、生命倫理、子どもの将来など、さまざまな問題を内包している。
 しかし大手新聞社はそれらを検証することすら放棄し、自己保身のもとに週刊誌の広告タイトルにまで介入した。

「たしかにこれまで、自社の批判を掲載した週刊誌の広告タイトルをベタ塗りにしたり、シロ抜きにしたことはありました。しかし、それらのほとんどは性表現や差別表現、あるいは少年法などの法律に抵触する可能性のあるケースだった。一企業の社名を伏せるというのは、ちょっと異常です。それくらい、新聞は光通信にナーバスになっているということでしょう」(週刊誌関係者)

 問題の御曹司は未だにタイ警察からの事情聴取に応じず、公の場でコメントもしていない。そのため“本当の動機”は不明のままだ。大新聞がこの体たらくで、真相解明は果たされるのか。今後の動向に要注目だ。

リテラ、2014.08.26
タイ代理出産事件で大新聞が光通信御曹司の名前を伏せ字にした理由
(田部祥太)
http://lite-ra.com/2014/08/post-399.html

 こんなことがあったのですね、ちっとも知らなったヤッホー君。
 ヤッホー君のこのブログ、2014年の当時の日記を見ると英語の記事ばっかり並んでいますので、きっと他国に出かけていたんだろうと思います。

 いったい、だれが、罪もない子どもや普通の民間人を殺すのでしょうか。そして、17日夜にガザへの地上戦を開始したイスラエル軍は進軍を続けており、何百人もの民間人を殺戮しています。そういう戦争にこの国も加担するんでしょうか…
 ヤッホー君、7月22日早朝、涙を流しながら家を出てマレーシア航空にてマレーシアに向かいます。ヤッホー君のこのブログ、次はいつ、どこから更新できるのでしょうか…。しばらく休筆になるかもしれません…

http://fom-club.seesaa.net/archives/201407-1.html

 こんなことがあったのですね、ちっとも知らなったヤッホー君、2018年2月21日水曜日の朝、マレ―シア紙 The Star を読んでてもうびっくり。
 "baby factory" scandal in 2014・・・ですかぁ、どれどれ:

Bangkok (AFP) - A Bangkok court on Tuesday granted a Japanese man "sole parent" rights to 13 children he fathered through Thai surrogate mothers, a ruling that paves the way for him to take custody of the group.

Mitsutoki Shigeta caused a "baby factory" scandal in 2014 after Thai police said DNA samples linked him to nine infants found in a Bangkok apartment, plus at least four other babies born by surrogates.

The murky case threw the spotlight on Thailand's then unregulated rent-a-womb industry, and helped push authorities to bar foreigners from paying for Thai surrogates in 2015.
Shigeta, the son of a Japanese tycoon, left the country in the wake of the scandal but later sued Thailand's Ministry of Social Development and Human Security for custody of the children.

"For the happiness and opportunities which the 13 children will receive from their biological father, who does not have a history of bad behaviour, the court rules that all 13 born from surrogacy to be legal children of the plaintiff," Bangkok's Central Juvenile Court said in a statement.

Shigeta, who did not attend the trial in person, was deemed the "sole parent" of the children after the Thai surrogates had signed away their rights, the court said.

As he comes from a wealthy family, he has ample money and has prepared nurses and nannies to care for the children in Japan, the ruling stated.

Shigeta's lawyer said he would contact the Social Welfare Ministry, who has taken care of the children since the scandal broke in 2014, about the next steps in transferring them from state custody.

Shigeta hired the Thai surrogates before the kingdom banned the lucrative trade in 2015, following a string of scandals and custody tussles.

Surrogacy agencies quickly migrated to neighbouring Cambodia, who followed suit and barred the industry in 2016.

In recent months there have been signs the industry has shifted to Laos, an opaque communist country with no restrictions on surrogacy.

Some surrogacy agencies are now offering services to carry out the embryo transfer in Laos and then provide pregnancy care for the surrogate in Thailand, a wealthier country with vastly superior medical facilities.


[photo]
Kong Suriyamontol, the Thai lawyer for Japanese national Mitsutoki Shigeta, speaks to the press after his client was granted paternity rights to his 13 children fathered through Thai surrogate mothers.

The Star, Published: Tuesday, 20 Feb 2018 12:36 PM MYT
Japanese 'baby factory' man wins custody of 13 kids born to Thai surrogates
[source] AFP
https://www.thestar.com.my/news/regional/2018/02/20/japanese-baby-factory-man-wins-custody-of-13-kids-born-to-thai-surrogates/

 現地、タイの新聞の写真や動画もぜひ:

Bangkok Post, Published: 20 Feb 2018 at 13:55
Rich Japanese man wins custody of 13 surrogate children
https://www.bangkokpost.com/news/general/1414962/rich-japanese-man-wins-custody-of-13-surrogate-children.

 ヤッホー君が読んでいる英国紙もとりあげております:

A wealthy Japanese man at the centre of a “baby factory” scandal in Thailand has won sole parental rights to 13 children he fathered through Thai surrogate mothers.

Mitsutoki Shigeta, 28, reportedly wanted a large number of children so they could inherit his fortune in the future. The court ruling on Tuesday means he will now make preparations to take them to live in Japan, according to his lawyer.

Some campaigners have raised concerns over the case, suggesting it was “way outside the norm for cross-border surrogacy” and highlighted the need for strong regulation. The court found the father had no history of bad behaviour and would provide for the children’s happiness.

The case attracted international attention in 2014 after nine infants − then estimated to be aged between two weeks and two years – were found under the care of 24-hour nannies in a luxury Bangkok apartment. They were subsequently cared for by the Thai state, while another four infants were deemed also to have been fathered by the same man.

“What I can tell you so far is that I’ve never seen a case like this,” Thailand’s Interpol director, Maj Gen Apichart Suribunya, said at the time.

The discovery threw a spotlight on Thailand’s then-unregulated “rent-a-womb” industry, prompting authorities to bar foreigners in 2015 from paying for Thai surrogates.

Shigeta hired the Thai surrogates before the ban and paid them between $9,300 (£6,600) and $12,500 each, police said.

He appeared in a Bangkok court via video link two weeks ago to argue for his parental rights. His lawyer said his client wanted to have dozens of babies because he hoped for a large family and believed they could inherit his wealth, Kyodo News reported.

Officials from Thailand’s social development and human security ministry told the court they had visited places where the man intended to raise the children and were happy with the arrangements, Kyodo reported.

On Tuesday, the central juvenile court granted him legal rights to take the children, saying he had ample money to care for them and had prepared nurses and nannies at a safe residence in Japan.

“For the happiness and opportunities the 13 children will receive from their biological father – who does not have a history of bad behaviour – the court rules them to be the plaintiff’s legal children,” the court said in a statement that did not mention Shigeta by name for privacy reasons.

Shigeta was deemed “sole parent” of the children after the Thai surrogates had signed away their rights, the court added.

His lawyer, Kong Suriyamontol, said he would contact the ministry to discuss the next steps to transfer the children from state custody, but this could be delayed depending on the “readiness” of the children, most of whom are about four years old.

Sam Everingham, a director of the Australia-based consultancy Families Through Surrogacy, said the scandal had been instrumental in closing access to surrogacy in countries that had no laws protecting surrogates or parents, such as Thailand, India, Cambodia and Nepal.

“The case of Mitsutoki Shigeta is way outside the norm for cross-border surrogacy,” Everingham said. “Fathering 13 children via surrogacy highlights the need for regulation of surrogacy at a domestic level, as this is clearly an unacceptable abuse of the limited pool of gestational surrogates globally.”


[photo]
The court granted the father legal rights to take the children, saying he had prepared nurses and nannies at a safe residence in Japan.

The Guardian, Tue 20 Feb 2018 12.04 GMT
Japanese man wins sole custody of 13 surrogacy children

Children were taken into Thai state care in 2014 but will now move to Japan with father
By Daniel Hurst in Tokyo and agencies in Bangkok
https://www.theguardian.com/world/2018/feb/20/japanese-man-custody-13-surrogate-children-thai-court

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2018年02月20日

李相花と小平奈緒

 小平奈緒、韓国でも感動を与えています:

After winning silver in the women’s 500-meter speedskating Sunday, Lee Sang-hwa, South Korea’s two-time defending Olympic champion, burst into tears.

PyeongChang was her fourth and possibly her last Olympics, and Lee was aiming for a third straight gold in front of her home crowd. But it was Japan’s Nao Kodaira who took the gold with an Olympic-record 36.94 seconds, becoming the first Japanese female speedskater to win an Olympic title. Lee, a longtime friend of Kodaira, had to settle for silver with a time of 37.33 seconds.

Lee crying in public was an unusual sight for most of her fans, as the athlete had been known for not showing her emotions after her races. For PyeongChang Lee had to overcome a chronic injury in her leg, which required almost 18 months of rehabilitation on top of training. When she finally got off the bench in tears and stepped onto the ice for the lap of honor, it was Kodaira, having also battled enormous pressure from her home country, who put a comforting arm around Lee’s shoulder and gave her a hug -- while the crowd kept chanting Lee’s name.

“After the race, Kodaira told me she’s proud of me and respects me,” Lee told reporters after the awards ceremony. Lee and Kodaira have been friends since their middle school years.

“I told her I’m also very proud of her,” Lee said.

The two athletes, Lee holding her Korean flag and Kodaira having her Japanese flag wrapped around her back, skated together side-by-side during the lap of honor -- another rare sight considering the thorny South Korea-Japan relations. And it was a touching sight for many of Lee’s fans, who may have been witnessing the end of Lee’s remarkable Olympic career. (Lee earlier said she might compete at the Beijing Games in 2022.)

Born in 1989 in Seoul, South Korea, Lee started skating when she was 7, and competed in her first Olympics in 2006, when she was only 16. She finished fifth in the 500-meter at the time.

In 2010, Lee surprised the world by becoming the first Asian woman to win an Olympic speed skating title. Not many, even those in South Korea, predicted Lee’s win in Vancouver.

Even after her historic win, she did not stop. In 2014, at Sochi, she won her second straight 500 gold with an Olympic record time. Russian skater Olga Fatkulina, who claimed silver in that race, famously compared Lee and her speed to renowned Jamaican sprinter Usain Bolt.

“I didn’t want people to think that my Vancouver win was a pure luck,” Lee told reporters at the time. “I had to work extra hard to prove myself to the world once again.”

For Sunday’s race at PyeongChang, Lee had delayed surgery for a chronic injury to her left knee. She still received a dramatic ovation from her home crowd, in spite of failing in her bid to win gold on home ice.

After the event finished one race later, the athlete sobbed as she skated round the track. Kodaira, her long-term friend, was skating by her side.

Lee still holds the 500m world record of 36.36 seconds.

“Since the 2006 Turin Games to PyeongChang this year, Lee competed in a total of four Olympic Games and won two golds and one silver,” said a tweet by a user named Park So-ryong, which has been retweeted 42,000 times as of Monday afternoon.

“She was 16 when she attended her first Olympics, and now she is 28. I saw her sobbing face (after Sunday’s race), and as TV commentators said, I couldn’t even imagine what it must be going through her head at that moment.”

“I didn’t cry because I didn’t win a gold medal,” Lee told reporters. “(I cried as) I realized it was indeed over. I have no regrets. It was such an honor to compete on home ice.”

Lee’s remarkable career is appreciated by many sports fans, especially those who have followed her career since the Turin Games.

“No one would have blamed her if she retired after Vancouver or Sochi,” said Lim Ji-eun, a 31-year-old office worker in Seoul. “But she did not choose the easy way and kept on going. I’m grateful that I got to watch her compete for so many years. She truly is one of the greatest athletes of our times.”

What grabbed attention following the race on Sunday was inarguably Lee’s friendship with her Japanese rival Kodaira, who comforted Lee during the lap of honor.

Kodaira, 31, shared a number of memories of Lee, including what happened at the 2014-15 ISU Speed Skating World Cup which was held in Seoul. At the competition, Kodaira had won the gold for Women’s 500-meters, while Lee claimed the silver.

“I had to leave for Netherlands, where I was training at the time, right after the competition immediately,” Kodaira told reporters. “Sang-hwa did not win the race at the competition, but she had no hard feelings for me. She grabbed a cab for me so that I could go to the airport as soon as possible, and even paid for my cab-ride. I was very grateful and touched by her kindness.”

“I really respect and look up to Sang-hwa as a human being and a skater,” she told Japanese reporters.

“She is my friend.”


[photo]
South Korea`s Lee Sang-hwa (left) is being comforted by Japan`s Nao Kodaira during their lap of honor at PyeongChang Winter Games on Sunday. Lee claimed her silver, while Kodaira won the gold in Women`s 500-meter speedskating final.

The Korea Herald, Updated : Feb 19, 2018 - 18:42
Olympic fans touched by Lee Sang-hwa’s friendship with her Japanese rival Nao Kodaira
By Claire Lee
http://www.koreaherald.com/view.php?ud=20180219000764

The friendship between speed skaters Lee Sang-hwa of Korea and her archrival, Nao Kodaira of Japan, touched many spectators' hearts in the women's 500-m race on Sunday.
Kodaira took the gold medal to dash Lee's hopes of winning her third straight Olympic title in the discipline. Lee took the silver medal in what may be the last Olympics in her career.

When Lee broke into tears after finishing the race, Kodaira embraced her saying "well done" in Korean. The two then waved at their fans together, taking a turn around the rink hand in hand.

"Lee has been very nice to me since I first participated in the World Cup," Kodaira told Japanese media on Monday. "She's younger than me, but she's so professional and has many good traits I want to take on. I've learnt a lot of things from her."

"Lee is such a good friend who stood by me when I was in a slump," Kodaira said. "I remember one time I cried alone in the rink as my performance was not as good as I wanted. Lee won the race that day, but she came to me and cried for me. It's no wonder I also wanted to be with her in our latest match."

"I think we've built quite a strong friendship," she added. "I was in a desperate situation after a series of poor performances. I was getting afraid of skating itself at that time, but Lee would give me advice and it was really helpful."


[photo]
Speed skaters Lee Sang-hwa (left) and Nao Kodaira wave at spectators after the women's 500-m race in Gangneung, Gangwon Province on Sunday.

Chosunilbo & Chosun.com, Published: February 20, 2018 13:39
Rival Speed Skaters Bridge Korea-Japan Divide
http://english.chosun.com/site/data/html_dir/2018/02/20/2018022001589.html

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支えられ、遅咲きの小平奈緒

 次もまた冬季オリンピック。
 出処はヤッホー君の尊敬してやまない小児科の先生:

 小平奈緒さんのスピードスケート500m優勝には感動した。若いと思っていた彼女も、もう31歳。よくここまで努力なさったと思う。
 彼女を支えたのが、一民間医療機関であることも嬉しかった。私の親戚がかってお世話になっていた病院で、あちらでは有名な医療機関らしい。だが、昨今、医療事情は極めて厳しく、この病院も決して経営は安泰ではないはず。同病院の理事長がこの記事のインタビューで語る通り、スポンサーとしてのメリットは多くはない。だが、同郷のアスリートを支えたいという純粋な思いで、彼女を9年間も支え続けたわけだ。彼女がこの成績を得た背後にいる、影の功労者の一人だろう。
 彼女のように地道に努力を重ねているアスリートに対して、国はどれほどの援助をしてきたのだろうか。もちろん、国の財政が厳しいのは分かるのだが、小平氏のようなアスリートが、今、そして今後の生活の心配をしないで競技に打ち込めるような体制をとってもらいたいものだが・・・。
 一方、彼女が優勝した途端、自分の姿をでかでかと映し出して、SNSに祝賀の弁を乗せる、どこかの政治家・・・これこそ、オリンピックの政治利用ではないか?人間として、品位が問われる。

以下、引用〜〜〜

小平奈緒を救った 相沢病院の“無償支援” 無名の頃から支え続ける理由
2/19(月) 5:01配信 デイリースポーツ

 スピードスケート女子500メートルで金メダルを獲得した小平奈緒(31)=相沢病院。2009年からサポートしているのが、所属先の相沢孝夫理事長(70)だ。無名の頃から支え続ける理由などを語った。
 小平の“所属企業”は病院だ。長野県松本市にある相沢病院は、10年バンクーバー五輪のシーズンが始まる2009年から、当時まだ無名だった小平を支え続けてきた。
 長野の拠点を変えず競技を続けたいと希望していた小平。しかし不況もあって所属企業はなかなか決まらず、信州大卒業間近の3月、結城コーチと病院のスタッフとが知り合いだったことや、小平が病院でリハビリを受けていたという縁もあり、相沢病院を頼った。

 「長野の人が長野で五輪を目指したいと言っているのに、どうして長野の企業はできないの。みんなができないなら僕がやるよと」と振り返るのは相沢孝夫理事長だ。

 「一流になることは期待していなかった。(周囲からは)広告価値がって言われるけど、相沢病院の名前が出たからって患者さんが来るわけじゃない」

 初対面にして小平は、下心なしにその姿勢を支えたいと思える人だった。
 その後、バンクーバー五輪団体追い抜きで銀メダルを獲得。メダルを持って小平は病棟を回った。「持っているパワーを伝えてくれて患者さんもすごく元気になったし、小平さんのファンになっちゃった」と理事長。ひたむきな小平の姿とその魅力は、自然と病院内で広がった。

 ソチ五輪後のオランダへの武者修行も「スタッフの海外留学」という形で支援。小平は「金銭面のサポートがないと無理だった」と感謝する。W杯などの海外遠征へも、できるだけビジネスクラスを利用できるよう支援。17年4月からはサポート役としてソチ五輪代表で栄養士の石沢志穂氏も雇用した。
 支援金は年間約1000万円。それでも「(病院内から)不満もあまり聞かないし、もっと言えば、私がもらっている給料を半分にすればいい」と相沢理事長は笑って話す。これだけ小平が有名になった今も「病院そのものにとってメリットがあると思えない。盛り上がって、一体感があって、仲間意識を持てる。それが重要」と語った。そんな応援を小平は「すごく温かい」と感謝した。

 「今できることを全力でやる小平さんの生きざまが好き。だから人の心に何かを残すのだと思う」と周囲の思いを代弁した理事長。金メダルという結果以上に、小平の滑りは人を魅了し、力を与えた。

ステトスコープ・チェロ・電鍵、2018/02/20 07:46
小平奈緒氏の優勝に思うこと
nuttycellist.blog77.fc2.com/

 スピードスケート女子500mで小平奈緒が、ついに世界の頂点に立った。ただひたすら速く滑ることを追い求め、地道な努力を重ねて31歳で咲かせた大輪の花だった。

金メダル!
小平奈緒を支え続けた相澤病院


 そしてその快挙とともに一躍注目を集めたのが、所属先である相澤病院だ。
 冬季競技は華やかなフィギュアスケートを除いて五輪の時しか注目されることはない。選手をサポートしたところで広告効果はほとんど見込めず、受け入れる企業や活動資金を援助するスポンサーは数少ない。冬季競技の選手の多くは、トレーニングとは別に生活の基盤となる所属企業やスポンサー探しを行ないながら競技を続けているのだ。
 小平もそのひとりだった。師と仰ぐ結城匡啓コーチ(信州大学教授)と練習を続けたいという条件もあったが、大学卒業後の所属先が見つからず、競技継続が危うい状況にあったといわれる。そんな小平に手を差し伸べたのが長野県松本市の相澤病院。2009年、病院内のスポーツ障害予防治療センターのスタッフとして採用された。
 当時の小平は日本ではトップの実力を持っていたが、国際大会ではまだ無名。また、活躍したとしても、業種が病院ではメリットは少ない。受け入れを決めたのは理事長の「地元の選手を応援したい」という心意気だけだった。だが、副産物はあった。小平は2010年のバンクーバー五輪女子チームパシュートで銀メダルを獲得したが、帰国後、病棟をまわって入院患者にメダルを見せ、応援の感謝をしたという。それが患者を元気づけることになったそうだ。
 世界と戦えるレベルになった小平には、スケート部を持つ企業からの勧誘もあったようだが、相澤病院の恩に報いることを選び、病院側もレベルアップのためのオランダ留学に送り出すなど、できる限りの支援をした。そして9年が経ち、小平は500mで金、1000mで銀のふたつのメダルを獲得する偉業を成し遂げたのだ。
 当然、メディアは金メダリストの所属先が大企業ではなく地方都市の病院ということで注目し、支援のいきさつを紹介。相澤病院の小平を受け入れる英断がなければ金メダル獲得の快挙はなかったかもしれないわけで、世間は病院の姿勢を絶賛したわけだ。

 今回の日本選手団にはもうひとり病院所属の選手がいる。アルペン競技の女子大回転に出場した石川晴菜(23)だ。この選手も苦労して競技を続けてきた。高校2年時にはインターハイで回転と大回転の2冠を達成した逸材だが、スキー部のある企業には受け入れてもらえず、地元石川県の会社に就職した。しかし仕事と競技の両立が難しかったため退職。支援者が「崖っぷち募金」と名づけた募金活動を行いなんとか競技を続けた。

 才能を買っていた石川県スキー連盟も就職先探しに尽力し、それに応えたのが金沢市にある木島病院。2016年から病院の受付事務の仕事をしながら、トレーニングに励み五輪代表の座を得た。アルペン競技はヨーロッパ勢との実力差が大きく今大会は33位に終ったため、小平のように注目されることはなかったが、地味な冬季競技には同様の苦労をしている選手はたくさんいるし、見返りを求めず支援している企業などもあるのだ。

アスリートを熱烈支援!
「木下グループ」とは?


 こうした例とは色あいが異なるが、今回の五輪で急に存在感を増した選手の所属先がある。住宅メーカーの木下工務店などを傘下に持つ木下グループだ。今大会には6人の所属選手が出場した。スノーボード男子ハーフパイプで王者ショーン・ホワイトと金メダル争いをし惜しくも銀メダルに終わった平野歩夢、フィギュアスケート女子シングルの宮原知子、ペアの木原龍一と須崎海羽、アイスダンスのクリス・リードと村元哉中だ。
 所属選手は冬季競技にとどまらない。
 躍進が続く卓球でもトップ選手の多くが木下グループに所属している。リオ五輪男子シングルスで銅メダルを獲得した水谷隼、昨年8月のワールドツアー(チェコオープン)男子シングルスを史上最年少の14歳61日で制し、今年1月の全日本選手権でも優勝した張本智和、日本代表として活躍する松平健太、大島祐哉、そしてスポンサー契約ではあるが、昨年4月のアジア選手権女子シングルスで中国の強豪を次々と破り優勝した平野美宇も木下グループのサポートを受けている。
 また、今年10月から始まる卓球のTリーグにも木下グループはいち早く参加を表明し、男子と女子の両方にチームを送り出すことになった。スポーツ界ではこれまで、木下グループという名称を聞くことはほとんどなかったが、ここへきて急に存在感を増しているのだ。
 ただ、フィギュアスケートの支援は以前から力を入れており、世界のトップ選手が出場する「スターズ・オン・アイス」をはじめとする多くのアイスショーを協賛してきた。フィギュアのトップ選手の多くが所属しているのは、そのつながりだ。
 そして昨年3月、東京五輪に向けて活躍が見込める多くの選手の支援を始めたのだ。その手始めが卓球であり、スノーボードの平野(東京五輪にスケートボードで出場する意向を示している)やサーフィンの五十嵐カノアも所属選手になった。今後はスポーツクライミングや空手などの選手も支援していくという。卓球を除けば、派手さはあっても通常は注目されにくい競技であり、選手としてはこうした支援に乗り出してくれるのはうれしいことだろう。

 小平が所属する相澤病院も、支援を始めた頃は金メダルを獲るとは思ってもいなかったはずだ。また、支援が実を結んだ今も、喜びが共有できたり評価が高まったりということはあるにせよ、経営面のプラスはあまりないだろう。
 理事長は病院の3代目で父親からは「利益が出たら世間のために使え」と言われてきたという。
 一般に医療法人や企業は利益を追求するものであり、こうした姿勢での支援はなかなかできることではないが、小平効果で支援に乗り出す組織が増えていってほしいものだ。


[写真]
小平奈緒選手を9年間にわたって支えたのは、長野県の相澤病院だった

ダイヤモンド・オンライン、2018.2.20
相澤病院、木下グループ
平昌五輪日本代表を支える意外な所属先

(スポーツライター 相沢光一)
http://diamond.jp/articles/-/160503

スピードスケート女子500メートルで小平奈緒が五輪スピード女子で初めてとなる金メダルを獲得した。スプリント系の常識を打ち破り、30歳になってから急成長した「遅咲き」が大輪の花を咲かせた。日本の女子スポーツ全体に新たな可能性を示した。

▽ 最年長の金メダル

 今季までの2シーズンにまたがる国内外の無敗記録は24。絶対の自信を持って臨んだレースで、スタートから青写真通りに飛び出した。最初の100メートルは全体で2番目の10秒26で通過。バックストレートで滑らかに加速し、その勢いのまま最終カーブに入った。
 日本では20代の初めからトップ選手だったが、なかなか世界では勝てなかった。殻を破るために試行錯誤を繰り返して築き上げたフォームだ。日本伝統の前傾姿勢に、オランダ留学で会得したパワーを効率的に生かした。最後のストレートではひと蹴り、ひと蹴りに魂を込めて36秒94の五輪新記録でゴールした。
 宿敵、李相花(韓国)は37秒33で2位。3連覇を狙った李に快勝し、小平が「短距離の女王」の座についた。冬季大会での31歳での「金」は男女を通じ日本選手の歴代最年長の快挙でもある。
。。。
選手寿命の限界に挑戦

 女子のスポーツ選手、とりわけスピードを要求される瞬発系選手のピークは20代半ばごろというのが一般的だった。小平はその通念を覆した。

 4年前のソチ五輪惨敗後にオランダ留学を決意したのはまもなく28歳になろうかという時だった。
 普通なら、そろそろ引退も考える年齢での単身の武者修行。
 常識外の決断が、潜在能力を一気に開花させる引き金となった。

 成果が30歳以降の爆発につながった。
 500メートルではW杯15連勝を含めて連戦連勝を続け、1000メートルでも世界記録を樹立。
 スタートからのダッシュ力、スピードを維持する持久力も伸びた。

 日本では夏季競技も含めても、30歳すぎにこれほど力をつけた女子選手は珍しい。

 トレーニング方法の進化、競技生活への支援体制など、多くの要素が小平を支えた。
 信州大時代から指導を続ける結城匡啓氏(信州大教授)は、筑波大大学院時代にスピードスケートの加速理論を研究。
 現役選手時代は「スケート博士」の異名があった学究肌のスプリンターだった。

 小平自身の大学卒業論文のテーマは「世界一流選手のカーブワークの動作解析」だったという。
 指導者にも導かれ、現場にスポーツ科学を積極的に採用する先進性が、年齢的ハンディを克服するもう一つの支えになった。

 欧米諸国に比べて日本女子は選手寿命が短いとされる。
 小平が歩んだ金メダルへの道筋は、限界に挑む女子アスリートに勇気を与えた。


[写真]
スピードスケート女子500メートルで金メダルを獲得し、表彰台で目を潤ませる小平奈緒

信濃毎日新聞、2月18日23時16分
「遅咲き小平」大輪の花
女子スポーツの常識打破

(共同通信=荻田則夫)
www.shinmai.co.jp/news/world/article.php?date=20180218&id=2018021801002240

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教育って、なんだ?

 次もマレーシア紙。
 The Star への投稿記事なんだけど、字を大きくしたところ、いいこと言ってますよね。
 イマ時のこの国の偉い人って皆さん、上から目線、知ったかぶりの断定口調、東大話法、ばっか。
 そして平気で噓八百を並べ、知らん顔!
 いかにモテて、どうやって上に登っていくか、ばっかりで、そんな風にしてエラくなった下克上の人か、親かご先祖様かの七光りか、はたまた海の向こうの偉い人の威をかぶった狸か狐かみたいな人に、道徳とか公共心とか言ってほしくないんですって、ヤッホー君!

A RELATIVE of mine gave a rather desultory remark upon learning that my brother is doing a music course in university. Her exact response was “Oh, muzik senang lah. Tak macam kita, belajar biologi dan kimia (Oh, music is easy, unlike studying biology and chemistry).”

I guess it’s safe to say that she blatantly displayed a pretentious and know-it-all attitude which I deem malicious to society. What’s even more disappointing is that she’s a teacher.

It is upsetting to know that there are still people with such a narrow and backward mindset when it is already 2018. It is these people who make me feel the need to challenge their lame and archaic perceptions, which are due to their ignorance.

Every academic course is uniquely challenging; if it was easy, everyone would have obtained it, including her.

If one thinks doing a course in music is easy, then he or she should be able to acquire skills in playing the guitar together with the violin, piano, gambus and gamelan like my brother. He/she should also have no problem reading musical notes and composing while demonstrating the sound using an instrument.

And let’s not forget about being meticulous with tempo and harmony when combining sounds from different instruments. Can you arrange them all perfectly? After all this, is a music course still a no-brainer to you?


My father once told me that when he was doing his degree in music, there were about 30 students in the class but only six of them, including him, made it to graduation.

I am not a music student nor graduate but if people really identify themselves as educated, then they should acknowledge and respect the complexity of all knowledge and academic subjects instead of belittling any of them.

The more knowledge you acquire, the more humble you become. That’s how it should be anyway.

Letter to The Star, Published: Monday, 19 Feb 2018
All academic studies are challenging
By YASMIN RIDZUAN, Ampang, Selangor
https://www.thestar.com.my/opinion/letters/2018/02/19/all-academic-studies-are-challenging/

 東京の新宿区立江戸川小学校で、図工の授業で忘れ物について児童たちへの詰問が授業時間が終わっても続き、給食を食べさせなかったことが問題になった。罰としてそうしたのか、ただ教諭の時間配分が拙かったのかはわからないけれど、問題はそれだけではない。何と、教師はその事実を親に報告しないようくぎを刺していたのだという。
 「親に言うな」という指示が、どれだけ子供たちの大人に対する信頼を傷つけただろう。親や学校は何かがあればすぐに相談する対象として指導するのが当たり前ではないか。口止めをするということ自体がやましさの証左だが、子供たちは家に帰ってもその恐怖で親に言えなかった。
 一部の児童が帰宅後、「おなかが空いたから何かを食べていいか」と聞いてきたことから親が不審に思い、事実が発覚したのだという。「先生から言うなと言われていたので、自分が言ったことは先生に言わないで」と懇願したという。
 何度か保護者と学校の話し合いが持たれたようだが、図工の担当教諭は「生徒たちが忘れ物をした理由を言わなかったせいだ」と述べている。「忘れ物」は忘れた物であって、理由があるとすれば「忘れたから」以外にない。いったい何が知りたかったのか。
 そんな無意味な詰問をするために、給食を食べさせてもらえないなどということがあっていいはずがない。たまたま「おなかが空いた」と正直に訴える子供がいたから発覚したが、これが氷山の一角でないことを願う。

 同じく東京の中央区立泰明小学校(和田利次校長)は、8万円も9万円もかかる児童の制服の導入を発表した(*)。越境通学などの特別扱いが許されている学校とはいえ、相当な違和感を覚える。「銀座らしさ」を重視しているのだという。
 銀座はそもそもそういう街なのか。地価が高騰し、高級ブランドの店が多く集まっているということが、子供たちにとってどれほどの価値があることなのか。なぜイタリアの高級ブランドなのか。イタリアでもフランスでもよかったのだろう、複数のブランドに呼びかけ、それに応えてくれたのがたまたまアルマーニだったのだともいう。デザインのコンセプトやブランドの成り立ちに銀座と泰明小学校に通じるものがあるというわけでなく、応じてくれたのがそこだけだったのだという。
 今回のへんてこな発想の理由について、校長のコメントに「服育」「ビジュアルアイデンティティー」という不可思議な文言が使われている。体育、徳育、知育、食育という言葉は聞いたことがあるが、私が疎いのか、服育などという言葉は見たことも聞いたこともなかった。誰が発明したのかは知らないが、服育、アイデンティティーと言うなら、それこそ自己の確立のために制服など廃止すればいいのではないか。
 そろえるのに8万円だかがかかるというが、汚れて洗濯する間合いを保つためには「一式」だけでは済まないだろうし、成長期、毎年ぐんぐん大きくなる体格に合わせるため、さらなる出費が待っている。通っているほとんどの子の家庭は払えるだろうという読みだそうだが、ピントがずれすぎている。家計的に難しい家の子供に対するいじめやレッテル貼りの原因を作ることにもなるのは想像に難くない。一体何がしたいのか。
 この校長は、オカルトといってもいい「水からの伝言」や捏造(ねつぞう)された作法「江戸しぐさ」などの信奉者でもあると指摘されている。自身が何を信奉しようと自由だが、併設する区立泰明幼稚園(園長を兼任)の保護者便りなどで推奨する文章を発表しているのは、いささか深刻に感じる。


毎日新聞、最終更新2月18日05時24分
放送タレント、松尾貴史のちょっと違和感
小学生にアルマーニ 自己確立なら、いっそ制服廃止を

https://mainichi.jp/articles/20180218/ddv/010/070/021000c

(*) 2018/2/20(火)7:42読売新聞配信
「アルマーニか」銀座の小学生に嫌がらせ相次ぐ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180220-00050000-yom-soci

─ 教育無償化など、教育行政の問題が議論になるたびに考えさせられるのは、国や自治体が支える「公教育」はそもそも誰のために、何のためにあるのか…という素朴な疑問です。長年、文科省で教育行政に携わってきた前川さんはどうお考えですか?

前川 基本的に教育はそれを必要とするひとりひとりの「個人」のためにあると私は考えています。そして教育はカネやモノではなく「人間の心」を扱う。その本質は「現場」にしかないし、それを実践している主体は学校の先生たちです。
 しかし、文科省の官僚や政治家の中には「教育はこうあるべきだ」と考えて、それを現場にやらせるのが自分の仕事だと勘違いしている人も多い。今は特に、それなりの権力や影響力を持った政治家が教育の中身に介入して、ある意味「国家主義的」な観念を植え付けようという動きが強まっている。これは非常に警戒すべきことです。

― 特にここ数年、前川さんが指摘された「国家主義的」な、例えば子供たちに「愛国心」を強要するような教育や、経済の世界と同じように教育にも「自由な競争」「民営化」を進めるべきという「新自由主義的」な考え方を持ち込もうという動きも強いように感じます。

前川 ただ、それは最近に始まった話ではなく、おそらく中曽根内閣の頃からそうした国家主義的な方向性と新自由主義的な方向性が大きくなってきていると思います。それが小泉内閣、安倍内閣と時代を経るに従って、あからさまになってきたということでしょう。
 新自由主義的な部分でいうと、最近は自民党よりも、むしろ維新のほうが強いかもしれませんね。つまり「教育も経済と同じように市場原理に任せればいい。競争原理に任せれば、結果的にいい教育が残るはずだ…」という単純な信念を教育に持ち込んでしまうという。

― それって、例えば全国統一テストの点を公開して、学校間、地域間で競わせれば、お互いが切磋琢磨して結果的に教育レベルが上がる…みたいな発想ですよね。

前川 しかし、教育は「人間」を相手にするものですから、商品のように単純な尺度では測れない。市場で買われる教育が「いい教育」だということになれば、例えば「中学受験に強い小学校」というニーズに合わせて、国語・算数・理科・社会だけに集中して、体育や音楽の授業はやらないほうがいいということになってしまいます。
 そういったビジネス的な学校経営という発想から生まれたものに「勉強しなくても卒業できる高校」というものがあります。授業料を納めれば高校卒業資格をもらえるわけですから、これはニーズが大きい。そこでは低コストで、もはや教育とは呼べないくらいの極めて質の低い高校教育が行なわれています。

― 高校卒業証書販売ビジネスですね。

前川 「株式会社立学校」は小泉政権の時、「構造改革特区」で導入されたのですが、その弊害が明らかに表れています。
 その最たる例が一時期、メディアでも話題になった三重県のウィッツ青山学園でした。ここは通信制高校ですから、規定された日数のスクーリング(教室で教員と直接対面して行なう授業)が必要なのですが、ユニバーサル・スタジオへの旅行でスクーリングをしたことにしたり、学習の実態がない「幽霊生徒」を名前だけ入学させて県からの就学支援金を騙し取ったり…と本当にひどいもので、2016年度限りで廃校しました。

― その根底には、現在の加計学園問題に繋がる「規制緩和至上主義」がありますね。

前川 そうです。やはり市場経済はしっかりとしたパブリックな市民社会という土台の上でコントロールされるべきだと思います。その土台を取り除いて、全てを市場原理に委ねてしまうと人間の世の中が弱肉強食のジャングルになってしまう。
 株式会社立学校で言えば、そもそも株主の利益を最大化するのが株式会社なんですから、最悪の場合、株主のために教育の現場があるということになってしまいますよね。大阪市長時代の橋下徹さんにやんや言われて、「公設民営」という、公立学校を民間に運営させる制度を構造改革特区で導入したのですが、この制度にも同じような危険性があります。

― 規制緩和という言葉には官僚の既得権益を打破するというポジティブなイメージもありますが、市場の自由競争に委ねていいものと、教育や医療など社会で守るべき「パブリックなもの」は分けないといけませんね。新自由主義のほか、「国家主義的」な観念が教育に持ち込まれていると先ほど仰いました。小学校では今年から、中学校では来年から、いよいよ「道徳の教科化」が始まります。

前川 道徳の教科書や学習指導要領を読んでみると、とにかく「集団に帰属する」ことが強調されています。
 例えば、「みんなでよい校風を作りましょう」とかね。でも、私に言わせれば校風なんてものはいらないんですよ。そんなものは作ろうとするものではなく勝手に出来上がるものです。「よい校風を作りましょう」となれば、極端な話、「この校風に合わない人間はいらない」みたいなことになりかねない。
 道徳の教科書には集団のルールを守ること、日本という集団に帰属するアイデンティティが強調されていて、これは言ってしまえば「日本らしさ」や「日本の国柄」を強調する人たちの根底にある「国体思想」と変わりありません。

― つまり、学校が「わが校の校風にふさわしい人間になりなさい」と言うことと、国が「日本人らしさを大事にしなさい」と言うのは本質的に同じということですね。個人よりも学校、人類や世界よりも日本が優先される考え方だと。

前川 道徳の教科書には「家族」「郷土」「国」という言葉は出てきますが、「国」で止まっていて、「人類」「世界」「地球」といった言葉はほとんど出てきません。一応、「他の国と仲良くしましょう」みたいな国際親善には触れられていますが、いわゆる地球市民的な発想は全く反映されていないんです。
 でも、改正前の教育基本法の前文には「私たちは世界の平和と人類の福祉に貢献する」という理想があって、それは教育の力で実現できるんだって、ちゃんと書いてあったんです。ところが、そういう理想は道徳の教科書には出てこない。とにかく「日本の国柄を大事にしましょう」みたいな話が強調されていて、明らかに国体思想の影響があると思います。

― それは、これから日本の学校の中でも確実に増えていくであろう「日本にルーツを持たない子供たち」にとっては深刻な問題ですよね。

前川 本当に危険だと思います。日本は表向きには移民を受け入れていませんが、現実には外国人労働者も増えていて、教育の現場でも日本にルーツを持たない子供たちが増えている。
 「血で繋がった日本人であることが大事」という、国体思想的な考え方が教育の現場で広まれば、それは将来、日本にルーツを持つ子供たちと外国にルーツを持つ子供たちの間に分断を生じさせかねない。アメリカの白人至上主義のような「日本人至上主義」的な団体が先鋭化して「この土地は日本人のものだから、外国人は出て行け」というヘイトスピーチみたいなことが各地で起こるかもしれません。
 私はそうならないようにひとりひとりの違いを認め合う多様性のある社会を作ることが大事だと思っているんです。学校に宗教上の理由で豚肉を食べられない人がいてもいいし、障がい者がいても、もちろんLGBTの人がいてもいい。今のうちから学校という公教育の場で多文化共生の大切さを教えていかないといけない。教育が特定の理念を押し付けるのは良いことではないけれど、そうした「多様性」の大切さを伝えることは公教育の大切な役割だと思います。

― ところが、政治の側はそれとは全く逆の方向に向かっている…と。

前川 そうですね。ただ、この道徳教育に関しては、文科省が表向きに言っていることと、学校の現場に伝えていることはちょっとズレているんですよ。

― どういうことですか?

前川 道徳の学習指導要領の下には「学習指導要領解説」という、現場の先生向けに作った文書があるんです。そこには「特定の道徳的価値を教え込んではいけない」とか「これからの道徳は考え、議論する道徳でなければいけない」などと書いてある。

― あれ、そこは意外とちゃんとしてるじゃないですか。

前川 そう。確かに教科書には「国を愛しましょう」とか「父母や祖父母を敬愛しましょう」みたいな、まるで教育勅語を現代語に焼き直したようなことが書いてあるんですが、その裏で現場の先生向けのユーザーズマニュアル的な文書にはこっそりちゃんとしたことも書いてあるんです(笑)。
 私はこれを「木に竹を接(つ)ぐ道徳教育」と呼んでいます。一見、ガチガチの決め事のように見えるけれど、その中に「竹のようにしなやかな部分」が仕込んであって、今の文科省の連中はこの「しなやかな部分」をできるだけ現場に伝えようとしている。

― そういう意味では、前川さんのような先輩が文科省の中で連綿と続けてきた、権力に対する「面従腹背」の伝統がちゃんと生きているわけですね。

前川 「国を愛する心」は教科書にも学習指導要領にも出てきますが、だったらそれを授業では批判的に扱えばいいわけです。
 「国を愛するという時の『国』ってなんだ?」とか「そもそも『愛する』ってどういうことだろう」とか…
 それを自分で考え、みんなで議論することは決して悪いことじゃない。だって、「これからの道徳は考え、議論する道徳でなければいけない」と、文科省が作ったマニュアルにちゃんと書いてあるんですから(笑)。

● 前川喜平(まえかわ・きへい)
1955年生まれ。東京大学法学部卒業。79年、文部省(当時)へ入省。宮城県教育委員会行政課長などを経て、2001年に文部科学省初等中等教育局教職員課長、10年に大臣官房総括審議官、12年に官房長、13年に初等中等教育局長、14年に文部科学審議官、16年に文部科学事務次官を歴任。17年、退官。現在、自主夜間中学のボランティアスタッフとして活動中。
昨年2017年11月に『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)を上梓。


週プレNEWS、2018年02月15日
前文部科学事務次官・前川喜平が「道徳」教科化に警鐘──
「国体思想的な考え方は子供たちを“分断”させかねない」

(取材・文/川喜田 研 撮影/保高幸子)
http://wpb.shueisha.co.jp/2018/02/15/99743/

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平昌オリンピック、アイスダンスでハプニング発生!

 事件が起きたのは2月19日(月)に行われたフィギュアスケートのアイスダンスのショートプログラム。
 フランスのガブリエラ・パパダキスとギヨーム・シゼロン組の演技の序盤で、ガブリエラの衣装の首のホックが外れてしまうというハプニングが発生!ギヨームがリフトしたとき、ホックが外れてしまったと見られている。
 衣装がはだけそうになりながら、2人はパフォーマンスを続行。ガブリエラは何度も落ちそうになるトップスを押さえつつ滑り続けたけれど、胸が見えてしまう場面も……。試合後「とても気が散った」と語ったガブリエラ。
 「最悪の悪夢がオリンピックで起きてしまった。自分に『選択肢はないんだ。滑り続けなくては』って言い聞かせ、その通りやったの。こんな事故が起きてしまったのに素晴らしいパフォーマンスができた自分たちを誇りに思える」
 ちなみに衣装を着てリハーサルをしたときには何の問題もなかったそう。ガブリエラ曰く、衣装にハプニングが起きたのは「すぐにわかった。祈ることしかできなかった」。
 でもガブリエラの言葉通り、素晴らしい演技を披露した2人。81.93点という高得点を獲得し、カナダのテッサ・ヴァーチュとスコット・モイア組に次ぐ2位でフリースケーティングに挑む。
 今回のオリンピックでは、フィギュアスケート団体でも韓国のアイスダンスペア、ミン・ユラとアレクサンダー・ガメリンにも同じようなハプニングが。フィギュアスケートは美しい衣装も見どころの1つだけれど、今後は機能性が改めて重視されることになりそう。

[写真]
ガブリエラ・パパダキス(Gabriella Papadakis)、ギヨーム・シゼロン(Guillaume Cizeron)

ELLE、2018/2/20(火)
まさかの胸ポロ!?  平昌オリンピック、アイスダンスでハプニング発生!

熱戦が続く平昌オリンピック。フィギュアスケートのアイスダンスの試合で、フランスのペアに危機的ハプニングが発生!
http://www.elle.co.jp/culture/celebgossip/gabriella-papadakis18_0220

 ヤッホー君、この「事件」を知ったのは今朝、マレーシアの新聞「ニュー・ストレイツ・タイムス」紙を読んだとき:

PYEONGCHANG: French figure skater Gabriella Papadakis suffered an embarrassing wardrobe malfunction on Monday, revealing a little more than just her Olympic gold medal ambitions in the ice dance competition.

A heavy title favourite along with partner Guillaume Cizeron, Papadakis's skimpy dress slipped during a raunchy short routine in Pyeongchang to leave little to the imagination of millions of television viewers around the world.

Despite the sartorial setback the French pair were in second place behind Canada's Tessa Virtue and Scott Moir, who smashed the short dance world record.

The mishap happened when Papadakis leaned backwards early on and Cizeron inadvertently managed to unclip the back of her racy green costume.

Her halter-top, complete with tassels and spangles, edged sideways to offer an un-choreographed flash of her left breast.

The pair were still able to finish as Papadakis tried in vain to keep her chest covered.
And to add insult to injury, the incident was replayed in slow motion on screens at the arena.

The 22-year-old Papadakis left the ice in tears.

"It was pretty distracting, my worst nightmare at the Olympics," she said after drying her eyes.

"I felt it right away and I prayed," added Papadakis.

"I told myself 'you have to keep going' and that's what we did and we have to be proud of ourselves, delivering a great performance with that happening."

Cizeron added: "It's just frustrating to miss a few points because of a costume issue. It is not what we get ready for when we train."

Vancouver 2010 champions Virtue and Moir posted a score of 83.67 points to take a lead of 1.74 into Tuesday's free dance.

Papadakis is not the first figure skater to have a wardrobe fail at these Games.

South Korean Min Yura won the hearts of skate fans on her Olympic debut after bravely battling on after a hook popped on her dress just seconds into her routine in the team short dance.

Focusing on executing her spins with partner Alexander Gamelin, Min had to keep adjusting her flimsy red top to avoid total disaster, winning rich praise from commentators for not getting into a flap.

Both incidents still pale compared to Russian skater Ekaterina Rubleva's full-frontal boob flash at the 2009 European championships when her pink dress slipped down almost to her stomach.

Arguably worse still was British bobsledder Gillian Cooke's display at the 2010 world championships when her bodysuit split as she bent over to push off at the start, allowing her G-string to steal the spotlight.


[photo-1]
Gabriella Papadakis and Guillaume Cizeron of France compete in the Ice Dance Short Dance of the Figure Skating competition at the Gangneung Ice Arena during the PyeongChang 2018 Olympic Games, South Korea, 19 Feb 2018. A heavy title favourite along with partner Guillaume Cizeron, Papadakis's skimpy dress slipped during a raunchy short routine in Pyeongchang to leave little to the imagination of millions of television viewers around the world.

[photo-2]
France's Gabriella Papadakis and France's Guillaume Cizeron compete in the ice dance short dance of the figure skating event during the Pyeongchang 2018 Winter Olympic Games at the Gangneung Ice Arena in Gangneung on Feb 19, 2018.

New Straits Times, Published: February 19, 2018 - 3:12pm
Boo-boob! French figure skater suffers mortifying wardrobe malfunction
[source] AFP
https://www.nst.com.my/sports/others/2018/02/336903/boo-boob-french-figure-skater-suffers-mortifying-wardrobe-malfunction

 では、英国紙「ガーディアン」で今度の「事件」の奥行きの深さを読んでみましょう、写真を見てみましょう。
 フランスのペアだけではなさそう、日本人選手だって巻き込まれているんですよ:

The French ice dancers Gabriella Papadakis and Guillaume Cizeron have made Winter Olympics headlines for all the wrong reasons – because of a wardrobe malfunction that left Papadakis overexposed on the ice.

“I felt it right away and I prayed,” Papadakis said after the top of her costume became unhooked and slipped. “It was pretty distracting, kind of my worst nightmare happening at the Olympics. I told myself: ‘I don’t have a choice. I have to keep going.’ And that’s what we did. I think we can be proud of ourselves being able to deliver a great performance with that happening.”

The US broadcaster NBC, mindful of the furore when Janet Jackson was accidentally exposed at the Super Bowl half-time show in 2004 and a water polo player suffered similar misfortune at London 2012, issued a statement explaining “once a competitor’s brief wardrobe issue became evident, we purposely used wider camera shots and carefully selected replays to keep the issue obscured”.

Papadakis and Cizeron are far from being alone in the history of costume disasters at the Winter Olympics. Indeed, their misfortune isn’t even the first one on the ice in the Pyeongchang Games.

On day three the South Korean skater Yura Min’s costume came undone at the back. She later tweeted: “Despite the wardrobe malfunction, I had an amazing time competing in my home country! I promise to sew myself in for the individual event.” She also posted a video clip of her joking about the way she had covered herself up, with the single word: “Oopsie.”

It isn’t just in the ice rink that athletes experience problems. At Sochi in 2014 Henrik Harlaut’s trousers headed south during qualification for the men’s freestyle skiing slopestyle.

Fortunately his underwear held up – with the Swede claiming he was used to performing like that anyway: “I don’t find it difficult. I’ve skied like that the past 10 years. It’s been my style for a while. I’m pretty comfortable like that.”

It was also a costume mishap at Sochi that introduced the Winter Olympics to the phrase “Powerbelly”. The Canadian bobsledder Christopher Spring found the uniform he had been given to compete in was no match for his tummy, leading him to tweet: “I tried on my race suit ahead of tomorrow’s 2man Olympic race and its a little … er tight. #powerbelly”

The textbook “wardrobe malfunction” usually involves involuntary exposure, but the speed skater Olga Graf at the the Sochi Games is the exception. Having just secured bronze in the 3,000m, Graf absent-mindedly unzipped the front of her skating suit, having forgotten that she wasn’t wearing anything underneath.

As the realisation dawned, she clutched the suit closed and seemed to apologise to the crowd. “I totally forgot, we have very good suits and they are very tight. You just want to breathe and you want to take off your suit,” she said afterwards.

Even the smallest of costume mishaps can severely impede an athlete. At Vancouver 2010, Japanese figure skater Nobunari Oda became the victim of his shoelaces. Halfway through his free skate they broke and came undone. He approached the judges and was given three minutes to re-prepare and continue but the damage had been done.

“It came untied, it’s my fault, I feel guilty for myself for doing this. I will try to make sure it does not happen again,” he said afterwards. He had been in fourth place going into the routine but slipped to seventh.


[photo] Nobunari Oda shows the judges his broken lace as he performs.

With that in mind, Papadakis and Cizeron can perhaps feel lucky about their own moment in the spotlight. Somehow the French couple kept things together in Pyeongchang, producing a score of 81.93 points that left them second behind Canada’s Tessa Virtue and Scott Moir.

The Guardian, Last modified on Mon 19 Feb 2018 22.01 GMT
Overexposed: Gabriella Papadakis and Winter Olympic wardrobe malfunctions

At recent Games there have been a series of wardrobe woes and costume mishaps … with the French ice dancer being just the latest
By Martin Belam and agencies
https://www.theguardian.com/sport/2018/feb/19/gabriella-papadakis-and-winter-olympic-wardrobe-malfunctions

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2018年02月19日

ハチ公 in the Year of the Dog

 今年2018年は戊戌(つちのえいぬ・ぼじゅつ)!
 渋谷駅でハチ公を観ていろいろ、さまざまに旧正月への想いにふけったマレーシア紙 The Star の CEO のお話しを紹介:

I decided to celebrate Chinese New Year away from Malaysia this year, so my wife and I chose Tokyo as our destination.

We wanted somewhere that was a short flight’s distance for a brief getaway to celebrate our 28th wedding anniversary, an occasion marked auspiciously by Valentine’s Day and of course, this time around, the Chinese New Year holidays too.

Now, the problem with Tokyo is the absence of any form of Chinese New Year mood there since it is not observed by the Japanese. But the cool weather was a refreshing change from the stifling heat currently enveloping Malaysia.

That said, the Year of the Dog would not be complete without tipping the hat to Japan’s most revered dog at Tokyo’s Shibuya metro station.

There, a statue of the faithful and fabled canine Hachiko has been erected as a homage, where selfie opportunities are mandatory for anyone visiting Tokyo to realise their trip.

The dog, from the Akita prefecture, has long become a symbol of faithfulness, a trait familiar with dog lovers.

This legendary canine was born in the city of Odate but ended up being owned by university professor Hidesaburo Ueno, who lived in the Shiba neighbourhood.

Hachiko would wait patiently at the same spot in the train station for his owner to return on the 4pm train from his workplace, the Tokyo Imperial University.

But one day in May 1925, the professor never returned to greet his loyal friend after suffering a fatal cerebral haemorrhage on campus.

A forlorn Hachiko would return to that same spot for the next 10 years, hoping to be reunited with his master.

“It is said that the dog would wait outside the station every evening – a model of fidelity and patience,” the Japan Times reported.

To immortalise the canine’s loyalty, a shiny bronze sculpture stands at the Shibuya station. The art fixture was put up in 1934 and has since become one of the area’s main tourist attractions.

The story inspired the 2009 film Hachi: A Dog’s Tale, starring Richard Gere. And less known, perhaps, is Hachiko Monogatari from 1987, which relates the same tale.

The body of golden-brown Hachiko, which has been described as the most faithful dog in history, was found in a Tokyo street in 1935. He had died of old age. To keep his memory alive, he was preserved and placed on display at the National Science Museum.

He also has his own memorial beside his master’s grave at the Aoyam cemetery.

In 2015, a new statue was installed at the University of Tokyo, the new name of the imperial university, to mark the 90th anniversary of Ueno’s death and the 80th of his dog’s.

“The statue depicts a joyous image of the professor and his loyal dog being reunited. It tells a happy tale of master and dog reunited forever at last,” a news article reported.

As we celebrate the Year of the Dog, the Malaysian Islamic Development Department must be applauded for assuring Muslims that using images of dogs for Chinese New Year celebrations “is something that must be respected by all” and “according to the Islamic concept of co-existence, as well as Malaysia’s practice of moderate Islam”.

Jakim director-general Tan Sri Othman Mustapha’s statement was certainly welcome and was even a pleasant surprise for many non-Muslims, who often view the authority as conservative.

After all, this is the same agency that insisted popular pretzel chain Auntie Anne change the name of its “Pretzel Dog” to “Pretzel Sausage”.

Non-Muslims have always been respectful of how Muslims consider dogs unclean under Islamic tradition.

Some have gone to ridiculous lengths to ensure that such sensitivity is observed – even leaving out the likeness of two animals, the dog and pig, from the Chinese zodiac!

Believe it or not, a T-shirt maker printed tops like these to represent the 12 zodiac animals for the Chinese New Year recently.

And some malls even chose not to use image of dogs in their Chinese New Year decorations.
Not surprisingly, the over-reaction of these business entities have irked their Chinese customers, judging from the response on social media.

It may seem surprising that Universiti Putra Malaysia (UPM) has produced some of the best veterinary doctors in this country, the majority of them Muslim.

My late dog Jezz, a gorgeous white Spitz, lived for 16 years and endured that long because of the loving affection of a Muslim vet at UPM.

She showed her care, not just as an animal doctor, but as someone who consistently reminded her students and visiting pet owners that dogs are also God’s creations.

A young tudung-clad Muslim vet from a clinic in Aman Suria, Petaling Jaya, has also been doing a wonderful job of looking after the health of my poodle, Paris.

In all my visits to consult these two doctors, neither has ever displayed any apprehension or disdain in handling my pets. They have always been professional and are true animal lovers, even graciously accepting dogs.

Next year, the Chinese will celebrate the Year of the Pig. For whatever reason, we have become more afraid these days, a situation far different from the past.

Well, the last time we celebrated the Year of the Pig in 2008, nothing untoward happened and the chubby animal didn’t disappear into thin air then either.

I have always had complete faith in the sense of reasoning and maturity of our people, and I believe no one will lose their head over a zodiac sign.

[photo]
No puppy love: To immortalise Hachiko’s loyalty, a shiny bronze sculpture stands near the Shibuya train station.

The Star, Published: Sunday, 18 Feb 2018
Pooch and prejudice
By Wong Chun Wai
https://www.thestar.com.my/opinion/columnists/on-the-beat/2018/02/18/pooch-and-prejudice-some-animals-are-viewed-unfavourably-but-malaysians-have-proven-to-be-the-sort-o/

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インド太平洋戦略

SYDNEY: Australia, the United States, India and Japan are talking about establishing a joint regional infrastructure scheme as an alternative to China’s multibillion-dollar Belt and Road Initiative in an attempt to counter Beijing’s spreading influence, the Australian Financial Review reported on Monday, citing a senior U.S. official.

The unnamed official was quoted as saying the plan involving the four regional partners was still “nascent” and “won’t be ripe enough to be announced’ during Australian Prime Minister Turnbull’s visit to the United States later this week.

The official said, however, that the project was on the agenda for Turnbull’s talks with U.S. President Donald Trump during that trip and was being seriously discussed. The source added that the preferred terminology was to call the plan an “alternative” to China’s Belt and Road Initiative, rather than a “rival.”

“No one is saying China should not build infrastructure,” the official was quoted as saying. “China might build a port which, on its own is not economically viable. We could make it economically viable by building a road or rail line linking that port.”

Representatives for Turnbull, Foreign Minister Julie Bishop and Trade Minister Steven Ciobo did not immediately respond to requests for comment.

First mentioned during a speech by Chinese President Xi Jinping’s to university students in Kazakhstan in 2013, China’s Belt and Road plan is a vehicle for the Asian country to take a greater role on the international stage by funding and building global transport and trade links in more than 60 countries.

Xi has heavily promoted the initiative, inviting world leaders to Beijing last May for an inaugural summit at which he pledged US$124 billion in funding for the plan, and enshrining it into the ruling Communist Party’s constitution in October.

Local Chinese governments as well as state and private firms have rushed to offer support by investing overseas and making loans.

In January, Beijing outlined its ambitions to extend the initiative to the Arctic by developing shipping lanes opened up by global warming, forming a “Polar Silk Road.”

The United States, Japan, India and Australia have recently revived four-way talks to deepen security cooperation and coordinate alternatives for regional infrastructure financing to that offered by China.

The so-called Quad to discuss and cooperate on security first met as an initiative a decade ago - much to the annoyance of China, which saw it as an attempt by regional democracies to contain its advances. The quartet held talks in Manila on the sidelines of the November ASEAN and East Asia Summits.

[photo]
A ferry passes the Sydney Opera House where a large lantern shaped as a dog stands as part of celebrations for the Chinese Lunar New Year and marking the Year of the Dog in Sydney, Australia.

New Straits Times, Published: February 19, 2018 − 7:27am
Australia, U.S, India and Japan in talks to establish Belt and Road alternative: Report
[Source] REUTERS
https://www.nst.com.my/world/2018/02/336787/australia-us-india-and-japan-talks-establish-belt-and-road-alternative-report

 はい、でちゃいましたね、今朝のマレーシアの新聞「ニュー・ストレイツ・タイムズ紙」です。
 「由らしむべし、知らしむべからず」のいまの暴走政治、つまり主権者に諮らずに”Quad”も含め、どんどんと、なんでもやりたい放題、したい放題でものごとを決めてしまうやり方にヤッホー君、唖然としています。

 安倍晋三首相とトランプ米大統領は2017年11月6日の会談と共同記者会見で、核・ミサイル開発を進める北朝鮮への圧力を最大限に高めることを世界に向けて発信した。日米が協力して「自由で開かれたインド太平洋戦略」を進めることも表明。しかし、トランプ政権の対アジア政策は「生煮え」というのが実態で、日米首脳会談後も、対北朝鮮圧力の先にどういう出口を描いているかは不透明なままだ。

 「2日間にわたりドナルド(トランプ氏)と非常に深い議論を行うことができた。その中で圧倒的な重要性を占めたのは北朝鮮の問題だ」。安倍首相は6日の共同記者会見でそう語り、会談の最重要テーマが北朝鮮への対応だったことを強調した。
 トランプ氏は同日の東京・元赤坂の迎賓館での夕食会のあいさつで「ゴルフは休みの趣味と思うでしょうが、実は(5日の首相とのゴルフは)仕事の話ばかりでした」と明かした。日本政府関係者によると両首脳のゴルフは「ゴルフ談議から始まったが真剣な議論になり、北朝鮮問題に多くの時間が割かれた」という。
 北朝鮮に「最大限の圧力」をかけ、核放棄を迫るとのメッセージを日米首脳がそろって出し、想定されていた首脳会談の目的は達した。だが、その後の戦略が見えているとは言い難いのが実情だ。
 安倍首相は記者会見で「今は対話の時ではない」と強調した。トランプ氏も先月、北朝鮮との対話を模索していたティラーソン国務長官に対し「交渉は時間の無駄だと伝えた」とツイッターに書き込んだ。
 しかし、そのトランプ氏は訪日直前に収録された米メディアのインタビューで、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長と直接対話するか問われ、時期尚早との見方を示しつつも「誰とでも会う用意がある。悪い考えではない」と語った。
 トランプ政権の対北朝鮮政策には曖昧さが残ったままというのが多くの日本政府関係者の受け止めだ。トランプ氏の発言やツイッターでの書き込みが、米政府の方針としばしば食い違う。日本政府関係者からは「真意がどこにあるかは金氏よりも分からない」との声も漏れる。日本側には、日本の頭越しに米朝対話が急に始まるシナリオについての懸念も消えていない。
 トランプ氏は6日の記者会見で、軍事力行使の可能性についての質問には直接答えなかった。軍事攻撃も含めた「あらゆる選択肢」をちらつかせ、北朝鮮に政策転換を迫るのは、あえて「レッドライン(越えてはならない線)」を示さず、けん制の効果を高める意図があるためだとみられている。しかし、こうした姿勢がかえって不透明感に拍車をかけている側面もある。
 日本のミサイル防衛システムについて質問されたトランプ氏は、米国からの防衛装備品のさらなる購入に期待感を示し、「米国には多くの雇用が生まれ、日本は安全を手に入れる」と語り、安全保障政策もディール(取引)の一つとの考えを示唆した。その言葉を横に立つ安倍首相は無表情のまま聞いていた。

インド太平洋戦略 対中で迷い、政策「生煮え」

 6日の日米首脳会談では「自由で開かれたインド太平洋戦略」を共有していくことを確認した。太平洋からインド洋にまたがる広大な地域で民主主義や法の支配を重視した「秩序」の構築を目指すもので、経済・軍事的に台頭する中国への対抗意識が根底にある。安倍首相が第1次政権時から温めてきた構想に、いまだに明確なアジア戦略を打ち出せないトランプ大統領が乗っかった形だ。
 首相がインド太平洋戦略を提唱したのは、昨年8月にケニアで開かれたアフリカ開発会議(TICAD)。アフリカ諸国への影響力を強める中国の経済圏構想「一帯一路」に対抗する狙いと受け止められた。
 大統領は今年1月の就任直後、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)からの離脱を表明。国内産業保護の観点からの政策判断だったが、民主主義や自由貿易、法の支配といった秩序の枠組みを自ら手放したことで、アジア地域での影響力低下が懸念される事態を招いた。「アジアに生まれた力の空白」(米紙ワシントン・ポスト)を放置すれば、新たな秩序作りを模索する中国の覇権を許しかねないとの危機意識が米側に働いたとみられる。
 ただ、ホワイトハウス高官は記者団に「戦略に中国封じ込めの意図があるとの見方は間違っている」と何度も繰り返した。米国は中国の台頭を脅威と認識しつつも、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮への対応では協力が必要で、8日からの大統領訪中を前に中国を刺激したくないのが本音だ。
 対中関係の改善を進める日本政府も表向きは「特定の国を対象としたものではない」と説明する。その一方で、対日貿易赤字の改善を求めるトランプ政権との2国間交渉を回避するため、広域的な経済秩序の構築に米側を引っ張り込む狙いも日本側にはある。
 「日米両国でこの地域に公正で実効ある経済秩序を作り上げる努力を重ね、ひいては世界の経済成長を力強くリードする決意だ」
 安倍首相は首脳会談後の共同記者会見でこう述べ、アジア太平洋地域の貿易・投資の基準作りを日米で主導する考えを強調した。


毎日新聞・東京朝刊、2017年11月7日
クローズアップ2017
日米首脳会談 対北朝鮮、圧力の先は 米の真意見えず
(仙石恭、高本耕太)
https://mainichi.jp/articles/20171107/ddm/003/010/036000c

 「ゴルフは休みの趣味と思うでしょうが、実は(5日の首相とのゴルフは)仕事の話ばかりでした」うんぬんかんぬんあるけど、あの腹がよじれるほどのバンカー映像が拡散されたときの話しですね。
 それがしつこくうごめいているようで気持ちがわるいのです。
 先月も:

 安倍晋三首相とオーストラリアのターンブル首相は2018年1月18日の首脳会談で、防衛協力の強化で合意した。不安定さを増す東アジア情勢を背景に、日米同盟に準ずるいわゆる「準同盟国」との関係が一層重要になるとの判断からだ。安倍首相が掲げる「自由で開かれたインド太平洋戦略」の具体化に向け、日米豪印の連携を進めることも確認した。

 「日豪の安保・防衛協力が進展することはインド太平洋地域の平和と安定に直接的に貢献する」

 安倍氏は18日の会談でターンブル氏にこう呼びかけた。安倍氏はターンブル氏を国家安全保障会議(NSC)の特別会合に出席させ、在外邦人の救出などを担う陸上自衛隊「特殊作戦群」の訓練も披露した。同部隊の訓練を海外首脳に公開するのは初めてだ。
 ターンブル氏は今回、わざわざ日帰りの日程で来日した。日豪が緊密な連携をアピールする背景には、朝鮮半島情勢の緊迫に加え、南シナ海やインド洋での中国の活動への共通の懸念がある。トランプ政権になって米国が積極的に国際社会で指導力を発揮しようとしなくなっているとみえることも、日豪が「準同盟国」としての関係強化を急ぐ一因だ。
 18日の会談では日米豪3カ国、日米豪印4カ国の安保協力の枠組み強化で一致した。日本としては「準同盟国」との協力網を広げ、日米同盟を基軸としつつ、米国への過度な依存を避ける意味合いがある。
 安保協力の枠組み強化は自由で開かれたインド太平洋戦略にも沿ったものだ。同構想は太平洋とインド洋を結ぶ地域全体で、法の支配や市場経済を重視する国際秩序の維持を狙うもので、日米豪印の連携を前提にする。米国に加え、インドとも、17年11月の安倍氏とモディ首相との会談で戦略推進で一致している。
 18日の会談では、米国を除く11カ国による環太平洋経済連携協定(TPP)の早期署名をめざす方針も確認。安保と経済・通商の両面から2国間関係の強化を狙う。
 日本は同じく「準同盟国」と位置づける英国との関係も強化している。メイ首相が17年8月に来日した際は、ヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」を視察し、NSCの特別会合にも出席した。


[写真]
首脳会談を終えてターンブル豪首相(左)と共同記者発表をする安倍首相(18日、首相官邸)

日本経済新聞 朝刊 2018/1/19付
防衛、米豪印と連携強化 インド太平洋戦略を推進
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO25856460Y8A110C1PP8000/

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旧正月のお菓子

Chinese New Year usually heralds a time of feasting for most of us.

Pineapple tarts. Bak kwa. Love letters. Kueh lapis.

The list of goodies is never-ending, but you don’t want the same to be said of your weight gain.

Make a more informed decision this Chinese New Year by moderating your intake of snacks and keeping up with your exercise regime.

No time to hit the gym? Well, you can always walk off the calories – but be prepared that you’ll be walking for a long, long time.

Pineapple tart (93kcal per piece)

What’s Chinese New Year without some tasty, buttery pineapple tarts? Savour every bite of these though, because just four pieces of pineapple tarts already contain more calories than a bowl of rice.

You need to walk 28 minutes to burn off the calories.
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Bak kwa (370kcal per slice)

These slices of barbequed pork jerky are sticky, chewy and oh-so-tasty, but bak kwa is really one of the biggest calorie bombs during CNY. Eating just two slices already packs more calories than a plate of chicken rice or a bowl of laksa.

You need to walk 1 hour 53 minutes to burn off the calories.
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Kueh lapis (237kcal per slice)

This tasty layered cake is actually made with copious amounts of butter and sugar. Share a slice with a friend if you really can’t resist.

You need to walk 1 hour 13 minutes to burn off the calories.
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Kueh buloh (34kcal per piece)

These mini sponge cakes are also known as kueh bahulu. These fluffy treats are a lower-calorie alternate if you want to nibble on something sweet.

You need to walk 10 minutes to burn off the calories
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Dried shrimp roll (23kcal per piece)

Affectionately known as hae bee hiam, these tiny shrimp rolls are insanely addictive. The bad news? Each piece is deep fried and high in saturated fat – bummer for your waistline and your heart.

You need to walk 7 minutes to burn off the calories.

Kueh bangkit (15kcal per piece)

These coconut-flavoured cookies simply melt in your mouth. Make sure you watch how many you pop though, since you surely won’t be able to stop at just one.

You need to walk 4 minutes 30 seconds to burn off the calories.
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Yu sheng (561kcal per serving)

The combination of preserved vegetables, sesame seeds, fish and crackers is definitely tasty, but yu sheng is often drizzled in oil as well. Check out these healthy alternatives to traditional yu sheng here – at least you’ll be able to lo hei with less guilt.

You need to walk 2 hours 52 minutes to burn off the calories.

Prawn cracker (15kcal per piece)

When it comes to perfectly fried prawn crackers, each piece leaves you wanting more. These savoury snacks may feel very light but are actually full of fat and cholesterol.

You need to walk 4 minutes 30 seconds to burn off the calories.

Love letter (56kcal per piece)

These crispy, crumbly goodies are made with flour, eggs, coconut milk and sugar, so it’s a good idea to not go overboard with them.

You need to walk 17 minutes to burn off the calories.
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Cashew nut cookie (62kcal per piece)

This butter cookie is easily identified by the cashew nut on top of it. But don’t be fooled into thinking that it’s healthy just because it’s made with nuts – each piece still packs high amounts of fat and cholesterol.

You need to walk 19 minutes to burn off the calories.

Mandarin orange (39kcal per orange)

This may not boast the lowest calorie count, but this is still the healthiest snack you can eat this CNY. Mandarin oranges are high in vitamins and fibre, plus they’re unprocessed and very low in fat.

You need to walk 12 minutes to burn off the calories.
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Ate a piece of everything? Well, you’re looking at walking 7 hours 40 minutes to burn off a total of 1,505 calories. Huat ah!

* Calorie calculations are based on a 55kg woman who is walking at a moderate pace. Nutritional information is taken from Health Promotion Board (HPB) and MyFitnessPal.

The Straits Times, Published 1 hour ago
How long you must walk to burn off calories from Chinese New Year goodies
http://www.straitstimes.com/lifestyle/food/how-long-you-must-walk-to-burn-off-calories-from-chinese-new-year-goodies

IT is my eighteenth Chinese New Year (CNY) in Malaysia. My eighteenth week of sleepless nights due to firecrackers, invitation to celebratory food throwing, witnessing breath-taking acrobatics by lion dancers and hopeless overindulging on mandarin oranges and paper-thin love letter waffles.

But, let’s start from the beginning. To a foreigner in Asia, Chinese New Year is one of the most formidable holidays in the calendar. Without being privy to preparations happening in Chinese homes, hotels or department stores, we outsiders seem to wake up one morning to a sea of red lanterns blanketing the city skies.

In true Malaysian fashion, huge sales are being held in virtually every retail configuration in town, and some impatient kids in the neighbourhood light firecrackers days, or nights, rather, before the actual New Year’s Eve.

So far so good.

As is the human condition, however, many are the voices that lament the changes in recent years. Ah, the good old days.

“We used to be so excited to get ang pow from our elders,” I hear. Kids seem to expect much more these days.

“We always dressed up in traditional outfits,” they say. As long as it is red and bright, youngsters are good to go in casual attire nowadays.

“We loved the home-cooked goodies at Ah Ma’s house,” they regret. Family gatherings in restaurants are fast becoming the new norm.

“We used to visit every member of the extended family at their homes.” Sending well wishes through Facebook or WhatsApp instead is probably the saddest change in the century-old traditions of CNY.

Expectations, habits and traditions change, but not all hope is lost, far from it.
Lion dances are a wonderful custom. Not only is the artistic and acrobatic prowess of the dancers and musicians quite formidable, but once the masks come off, it is always uplifting to see how young the participants are. This particular aspect of the CNY tradition is alive and well among the young, the not so young and the young at heart alike.

Many features of these celebrations have grown close to my heart over the years. And yet, I cherish one characteristic most of all. CNY celebrations are a truly inclusive affair. No other cultural festival is as embracing of others as this one.

Every New Year’s day sees a traffic jam not outside, but inside our gated community. Each resident stops at the guarded gate to hand out copious amounts of red envelopes and cases of mandarin oranges to the faithful foreign souls that keep us safe in our little enclave all year long.

Every car porch features red lanterns and long chains of giant, fake firecrackers, mine included, and this regardless of the provenance or cultural background of the resident.

“Gong Xi, Gong Xi, Gong Xi Ni Ya.”

Every child in Malaysia knows the lyrics to this song. Including my children and their American, Korean, Russian and Indian friends.

Every year, on a particularly auspicious day, we are invited to gather around a massive plate to lou the yee sang as high as we can. Although making a huge mess with our food is not at all part of our culture, we are always grateful for the opportunity to join in this particular merriment.

Although these CNY-related activities are common for our Chinese friends and neighbours, it is not all that evident for us to be welcomed to partake in them so openly.

Cultural appropriation is a big bone of contention all over the world these days.

Yet, no one minds the paper lanterns in my car porch, nobody gives me “the look” at a lion dance performance, nobody takes offence at my children trying, and probably failing miserably, at singing the Gong Xi-song in public. And it is perfectly acceptable for me to try to squeeze into a bright red cheongsam. Although I have to admit, I really should not, it is not easy on the eyes.

As foreigners in Malaysia, we have many things to be thankful for. The readiness of the local Chinese community to share their New Year merriment with us is definitely one of them.


[photo]
Chinese New Year is one of the most formidable holidays in the calendar.

New Straits Times, Published: February 19, 2018 - 10:05am
CNY celebrations:
A truly inclusive affair

By FANNY BUCHELI-ROTTER
The writer is a long-term expatriate, a restless traveller, an observer of the human condition, and unapologetically insubordinate
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/02/336811/cny-celebrations-truly-inclusive-affair

posted by fom_club at 18:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トムヤンクン

 ヤッホー君、もんじゃを美味しくいただきました。
 マレーシアでは食事にはいつも「トムヤン・ぺースト」にして、タイ風の甘い、辛い、酸っぱいが一度に詰まっているような「トムヤンクン」が好きでしたね。
 ここで、タイレストランをマレーシアで、という記事をマレーシアの「ニュー・ストレイツ・タイム紙」からご紹介。
 記事は、これまで何度も登場している Alan Teh Leam Seng 記者さんが書いたものです:

“WHERE shall we go for dinner?” my friend asks, his voice excited, soon after we pass the Setia Alam toll plaza. “What do you suggest?” I retort in return, finding it difficult to concentrate after spending an entire day in Banting and Hulu Langat exploring ancient palaces and royal tombs.

Without taking his eyes off the road, my friend recommends that we find something to eat first before heading back to his place to rest rather than coming out later for a meal. “It’s Saturday evening and most popular restaurants around this area will be full by the time we come out again. I know of a restaurant nearby that serves authentic Thai food incorporating traditional ware.”

In less than 10 minutes, we arrive at the doorstep of Thai Syok Seafood Restaurant.

Located right in the middle of Setia Alam’s bustling commercial centre, the restaurant takes up two ground floor units of shop lots. I’m duly informed that the place is filled to the brim during weekday lunch hours and weekend dinner sessions. It seems late comers have to dine alfresco style.

“Unless you already have reservations, it’s always safer to be here before 7pm to ensure there are seats available,” explains my friend as he effortlessly pushes the sliding doors apart.

The separating panels reveal an interior that’s stylishly decorated in tones of orange and gold framed in dark wood. There are lots of beautiful accents, including a wide assortment of Thai-inspired artefacts. The warm, soft lighting coupled with carefully placed Thai Buddha statues, lanterns and a plethora of wood carvings successfully conjure the right atmosphere for a sumptuous Thai meal.

CULINARY JOURNEY

We’re fortunate to get a table in a cosy corner and the knowledgeable waitress is a great help in recommending the popular dishes. Coupled with my friend’s previous dining experiences here, we settle on the orders in less than 15 minutes. A record for me as I usually have lots of queries when it comes to food associated with our northern neighbour.

Taking advantage of the lull before the main dining crowd make their presence, I decide to take temporary leave of my friend and head off to explore the physical aspects of Thai Syok. The many eye-catching items on display certainly warrant a closer look.

While admiring the fine details on an attractive Asian elephant oil painting, I bump into the restaurant’s owner Jeffred Tham. My intense interest in his place must have prompted him to walk over for a chat.

An affable young man with a more than obvious passion for the good things in life, Tham regales me about his early days before he started Thai Syok, peeling back the years to the day he graduated with a Diploma in Hospitality Management from Sunway University College.

“Even though it was in 2007, I remember everything as if they happened yesterday. My goal then was to be successful in life and I was willing to do anything to achieve it,” Tham confides, conviction in his voice.

That very year itself, through the recommendation of a close friend, Tham applied for a job with Wynn Macau Resort. To him, overseas exposure would be most ideal as that would enable him to gain ideas and experiences that would otherwise not be available if he had opted to remain here.

“I started off as a novice restaurant captain serving VVIP and high roller guests. It was an eye-opening experience for me as I began adapting to the fast-paced working environment there,” shares Tham, adding that within three months of joining he was promoted to the post of F&B trainer.

A year later, after mastering adequate service skills and conversational Cantonese, he once again climbed the corporate ladder to become the F&B training manager. “I’m particularly proud of that achievement as I got it in record time. The new portfolio came with more responsibilities such as planning and developing a fully equipped learning kitchen from scratch. I also helped to redesign the learning room, which could accommodate 1,300 trainees,” continues Tham, while admitting that starting from the bottom helped him perform better.

The new facilities worked wonders as Tham relates how his F&B team won numerous accolades in competitions organised by the Macao Occupational Skills Recognition System (MORS).

Pointing to a trophy on display nearby, Tham says that he purposely brought the award back as a reminder of his success in the Chinese Special Administrative Region.

“Excuse me, sir. Your friend asks me to inform you that dinner is served,” a petite serving staff politely interjects from out of nowhere. I let out a quiet chuckle while glancing at my watch. My fascination with Tham’s determination and interesting work experience has made me lose track of time.

Walking me to my table, Tham manages to add: “A few months later, the management enrolled me in a programme that involved collaboration with the Macau Labour Department. My task was to develop an effective skills training programme for jobless Macanese.”

This was a very important responsibility as those who did well during training could qualify for a job at the resort. “Needless to say, that programme received overwhelming response and the government was very pleased with us,” says Tham, before excusing himself to check on the kitchen.

THAI TALES

Over the next hour, my friend and I tuck into a superbly prepared Thai meal. It’s amazing what a few mouthfuls of delicious food can do. I feel energised immediately and my earlier exhaustion is now a distant memory.

The pandan chicken presentation is the most interesting among all. I like the way the chef uses the kuih bunga mould handle to string up the pieces of wrapped chicken, turning them into an attractive towering gastronomic delight. My other favourite is the tomyam kung which comes with a generous portion of fresh marine caught prawns. The spicy and sour broth makes this dish an appetising addition to our meal.

“How’s everything?” asks Tham, suddenly appearing just as I’m about to scoop the last bits of galangal and lemongrass onto my plate. He’s at first a little taken aback to see me enjoying these condiments which are rarely eaten on their own. I tell him that these tender bits are actually very tasty after simmering in the broth for some time.

Joining us over some fresh mango and sticky rice desserts, Tham resumes his story.

“After six years in Macau, I finally decided it was time to come home to Malaysia. By that time, I was the restaurant manager of Cafe Encore, Wynn Macau Resort’s exclusive restaurant.”

Aware of a ready market for wholesome Thai food, Tham began planning to start one in the relatively new and fast growing township of Setia Alam, located in Shah Alam.

With Petaling Jaya and Klang close by, Tham figured that he could tap into both mature markets without having to incur excessively high rent.

“After coming up with the brand name on March 28, 2013, I suddenly realised I had erroneously failed to take into consideration the most important component in my plan − a chef. I panicked as there was no way I could come up with a menu without someone helming the kitchen,” recalls Tham, chuckling.

That revelation sent Tham scrambling up north. He took the next available flight to Thailand and tried to find a good chef. He admits meeting quite a few but another obstacle presented itself in the form of communication. They didn’t understand English and Tham couldn’t speak their language!

SEARCH FOR A CHEF

The genial restaurateur eventually returned to Malaysia. Despite this major setback, he was resolute in the pursuit of his dream. He passed word around and several weeks later a friend called up saying that he knew of a chef who had been laid off by his Malaysian employers.

“I acted on the tip and made several phone calls to the man who was in Hatyai at that time. You cannot imagine my delight when he replied in fluent English and Malay. We had a good ad hoc interview there and then. The week after, I went up to meet him. The rest, as they say, is history,” says Tham, his smile wide.

Today, 52-year-old Chef Khon is an integral part of Thai Syok. His resume boasts of work experiences with renowned hotels as well as restaurants in Malaysia and Thailand. Chef Khon, who joins us from the sanctuary of his kitchen, greets me with a firm handshake after I asked to compliment his labour of love.

With the evening crowd coming in fast and furious, the chef briefly shares a few thoughts before returning back to his realm. He reflects on Thai Syok’s early days and the restaurant’s teething problems.

“During the first week of opening, we kept getting complaints about the food. The customers felt that my creations were either too spicy or sour. I was a bit disheartened and began to think hard. Then, it dawned upon me that the Malaysian palate was not suited for the original Thai cooking style. I discussed the matter with Tham and he agreed to tweak the recipes. The fine tuning worked wonders. It was a relief!”

While finishing the remainder of my drink, it becomes clear to me that it hasn’t all been plain sailing for Tham. Thai Syok’s success today as one of the most popular Thai restaurants in Setia Alam comes as a result of sheer determination and perseverance. Apart from a great meal, my friend and I leave the restaurant with a great lesson − never ever give up in life!

Thai Syok Seafood Restaurant
No. 7-1-2, Ground Floor, Jalan Setia Prima H U13/H, 40170 Setia Alam, Shah Alam, Selangor.
Tel: +603-3359 6283


[photo-1] Tham ensures every section of his restaurant is functioning properly.
[photo-2] The pandan chicken is attractively served.
[photo-3] The alfresco dining area.
[photo-4] Tham (left) with Chef Khon.
[photo-5] Thai Syok also caters to larger groups and family gatherings.
[photo-6] The green curry is a must-try dish.
[photo-7] The daily offerings of authentic Thai food draws in a steady stream of customers.

New Straits Times, Published: February 10, 2018 - 2:00pm
Recipe for success
By Alan Teh Leam Seng
https://www.nst.com.my/lifestyle/pulse/2018/02/334104/recipe-success

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明治4年創業の築地の魚店が母体のもんじゃ焼き

 体重70キロ、体長1メートルのケヅメリクガメ 路地を闊歩

 もんじゃ焼きのソースの香り漂う東京・月島に、誰もが振り返るアイドルがいる。
 体重約70キロ、体長約1メートルのケヅメリクガメ「ぼんちゃん」。好天の日は飼い主の三谷久夫さん(63)と一緒に、のっしのっしと散歩する。下町情緒が残る路地を闊歩(かっぽ)する姿が評判を呼び、海外から観光客が来るほどの人気者だ。
 東京都中央区月島3の「三谷葬儀社」の一角。
 「葬儀屋が縁起もののカメなんて飼っちゃいけないよね。でもね、みんながにっこりしてくれるんだ」
 飼い主の三谷さんは明るい表情で話す。朝、登園前の子供たちが顔をのぞかせる。長寿のカメにあやかろうと、老人ホームの入所者たちが来ることもある。
 20年前の8月、爬虫(はちゅう)類好きの三谷さんの妻が、ペットショップで手のひらに乗る大きさのカメに一目ぼれして買ってきた。お盆の時期に家族の一員になったから「ぼんちゃん」。20年かけて巨大なカメに成長した。食事は1日1回。バナナ1本、リンゴ1個、キャベツ数枚が主なメニューだ。キャベツの葉は近所のスーパーが無償で提供してくれる。これまで大きな病気をしたことはなく、健康状態は良好という。
 昼下がり、歩き慣れた約1キロの散歩コースに出て月島もんじゃストリートを横切ると、多くの観光客が驚き、「可愛い」「びっくりした」とカメラのシャッターを切る。幼稚園帰りの子供たちが駆け寄り、ぼんちゃんに乗せてもらって浦島太郎気分を楽しむ。三谷さんによると、体重20キロまでの子なら甲羅に乗せられる。穏やかな性格で、人にかみついたことは一度もないという。
 「私たちには子供がいないから、本当の子供のような存在」
 三谷さんの目下の悩みは後継者問題。“万年生きる”ぼんちゃんの将来の飼い主を探すことだ。
 「ぼんちゃんに会いたい人は、自由に見に来てください」と話している。


[写真][動画]
晴れた日に散歩を楽しむぼんちゃん=東京都中央区月島で

毎日新聞、最終更新5月12日09時54分
東京・月島
誰もが振り返る「ぼんちゃん」海外から観光客

(坂根真理)
https://mainichi.jp/articles/20160512/k00/00e/040/167000c

 2月19日月曜日、「雨水」。
 ヤッホー君、昨日の朝キンの昼食は、人ごみにすっかり圧倒されてしまい、築地を断念、月島まで足を延ばしてしまいました。
 いえ、「ぼんちゃん」との出会いを楽しみにしていたわけではございません、昼食なんですぅ。
 ですので、もちろん「もんじゃ焼き」:

「もう1億パイは食べたかもしれない」

 こう言うのはお笑いトリオ「ジャングルポケット」のおたけさん。月島で生まれ、月島で育った下町っ子で、おやつも夜のご飯も、もんじゃという環境で育ち、「体がもんじゃでできている」。しかも、実家ももんじゃ焼きの店「竹の子」を営んでいる。お笑いタレントの来店も多く、店内にはサイン入り色紙が所狭しと並んでいる。

 おたけさんの母親のトシ子さん(59)が月島の出身。祖父が工務店を経営していて、トシ子さんも手伝っていたが、高校生の時に祖父が亡くなったのを機に、倉庫にしていた場所を店舗に改装して店を始めた。その際に子供のころから食べ慣れ親しんだもんじゃ焼きの店にした。

「今は月島に100軒くらいもんじゃ焼きの店がありますが、子供のころはその3分の1もなかったかな。増えたのは布団屋や魚屋など商店街の店が次々にもんじゃに店を替えたからです。布団屋さんの奥でもんじゃを焼いて食べさせたりしていたのが、そのままもんじゃの店になったんです」

 トシ子さんのもんじゃは格別で、味付けの特徴は切りイカ。細く乾燥したイカがアッサリしていて、とても香ばしい味に仕上がる。それに揚げ玉や桜エビが入れば、完璧な下町の味だ。

「特別なもんじゃもありました。僕は運動がよくできて、運動会や陸上大会では地元のちょっとしたスターだったんです。勝って家に帰るともんじゃにアワビ、サザエ、伊勢エビをトッピングした特製もんじゃを作ってくれた。祖母が千葉・千倉の出身で、千倉から海産物が送られてきて、それを入れてくれたんです」

「竹の子」にはさまざまな具をトッピングしたメニューが並び、中には真田広之由来の「コーンチーズカレーもんじゃ」もある。オープンしたころに足しげく通ってくれたのだという。

「ダウンタウン松本人志さんも来てくれたし、相方の斉藤(慎二)、太田(博久)も顔を出してくれます。困るのは斉藤かな。店に来て外に出しているコーラとか飲み物を勝手に持ってきて飲んだりする。マナーが悪いんですよ」

 トシ子さんに子供のころのおたけさんについて聞くと、「30歳前後まで美容師を目指していたので芸人になるとは思っていませんでした。でも、ヤンチャだったし、お友達が多くて」と今は納得の様子。親子の会話がまるで漫才のようで、下町情緒たっぷりの気の置けない店そのものだ。

◆ おたけ流レシピ
 もっともシンプルなもんじゃ…カツオベースの和風ダシにソースが味付けの基本。これが10に対して小麦粉が1の割合。キャベツを細かく切った上に切りイカ、桜エビ、揚げ玉をのせ、鉄板で焼く。


[写真-1]ジャングルポケットおたけさん
[写真-2]これがおたけ流レシピ

日刊ゲンダイ、2016年8月13日
オレのおふくろメシ
ジャンポケおたけさんと月島「体がもんじゃでできている」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/187743

 「竹の子」は、中央区月島3-28-12 Tel 3533-4711。
 ヤッホー君が食べたお店は、「海鮮もんじゃ もへじ はなれ」中央区月島 3-6-4 Tel 6312-8983。
 だって、築地とゆかりのあるお店だったんだもん:

 月島といえば「もんじゃ」ですよね。もう、駅を出た瞬間からもんじゃの香りがしてくる位ですからね。そんな月島に「おもしろいお店があるんです」とのお誘いをいただき、やって来ました。

 今年2015年の3月にオープンした『海鮮もんじゃ もへじ』は、明治4年創業の築地の魚店が母体。そこから仕入れる新鮮な魚介を使ったもんじゃが楽しめます。さらに一品料理が豊富すぎて、もんじゃに辿り着くまでが長い! との評判。否が応でも、期待が高まります。

 この日はお店の方のおまかせでお願いしたんですが、…… 確かにスゴイ!「ホタルイカ」に「じゃこ豆腐」、「もずく酢」、「ほたて」などが出てきたと思えば、そこからは怒濤の鉄板料理。「山芋とろろ焼き」、「のどぐろ」、「かきバター」などと、次々と出てきます。

 かきはぷっくり、ホタテはやわらかいのではなく、しっかり食感が残ったタイプ。じゃこも味わいが濃厚で、醤油なしでも充分に楽しめるほど。とにかく、魚介が驚くべきクオリティ。もんじゃを前に、すごい満足感です!ビールください!

 ここまで来て、やっと真打ちの登場! えび、いか、あさり、ホタテなどが入った『海鮮もへじスペシャル(¥1,680)』と、明らかに大きなサイズの明太子が乗った『明太子もち(¥1,480)』が目の前に!こちらの特徴は、何といってもダシ。アゴ、鰹、サバ節、煮干し、昆布、あごおとしを使ったダシは、鉄板に注がれた瞬間に香りが立つほど。非常に香り高い!

 しかも、この日は月島歴30年弱のオーナーが調理をしてくれました。「小学校のクラスでは7割が魚屋だった」「もんじゃで育ってきた」という、彼の手さばきは、まさにパーフェクト! 新鮮な魚介と、ダシが香りすぎるもんじゃ焼きは、なかなか他では食べられるものではありません! まだ、オープンしたてとのことなので、気になる方はぜひ訪れてみてください!


東京カレンダー、2015.06.04
明治4年創業の魚店が、月島にもんじゃ焼のお店をオープン!
https://tokyo-calendar.jp/article/3788

 以前、山歩クラブではよく月島にお出かけし、もんじゃをよく食したもんでした。
 そのお店はイマ、もうありません。
 また復活して、皆んなでワイワイがやがやしてみたいな、とそんな気にもなったヤッホー君の”舌見たび”でもありましたぁ〜、ごちそうさま …

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2018年02月18日

羽生くん

 新緑のまぶしい春の仙台でのことでした。
 透き通る眼差(まなざ)しの17歳の高校生が、ときに熱っぽく、ときに笑みをたたえつつ、話をしてくれたことを思い出します。

 五輪2連覇の偉業を成し遂げたフィギュアスケートの羽生結弦選手。
 6年前にインタビューする機会がありました。
 東日本大震災での経験を「今後の自分の基盤になる」と。

 震災当時、自宅もリンクも被災し避難所生活。
 何も考えられない日々が10日ほど続き、「このまま滑れなくなるかも」との思いがよぎったとか。
 まもなく知人から声がかかり横浜のリンクへ。
 でも「自分だけが練習していいのか」
 避難所の人たち、仲間の選手への申し訳なさから心は揺れました。

 霧が晴れたのは、震災から1ヶ月後のチャリティー演技会でのこと。
 予想を超える励ましに、「スケートをやっていてよかったと心から。みんなに支えられ、応援されて自分がいることがわかった」

 今回、羽生選手は2カ月余もリンクに立てない大けがに見舞われました。
 それをぎりぎりで乗り越えての金メダル。
 強さの陰には「支えられて自分がある」という、あのときの思いがあるように思えてなりません。

 フィギュアスケートは「自分を人として成長させてくれるもの」といい、「スケートと人間性ってつながっている。力がつけば人間的にも高まっていく」
 高校生らしからぬ核心を射抜く言葉にも驚かされました。
 平昌での研ぎ澄まされた演技。
 技と心を支え、積み重ねてきたものが少し見えた気がしました。

しんぶん赤旗、2018年2月18日(日)
きょうの潮流
www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-02-18/2018021801_06_0.html

 今年2014年の4月26日、ソチ冬季五輪フィギュアスケートで日本男子初の金メダルを獲得した羽生結弦選手のパレードが、出身地の仙台市で盛大に実施されました。
 約9万2000人(主催者発表)というすごい数の方々が、晴れ渡った空の下で「感動をありがとう!」と大きな声援を羽生選手に送っていました。
 そのパレード前に、村井宮城県知事が羽生選手に県民栄誉賞を授与したのですが、その際に彼が「どうか被災地のことを忘れないでいただきたい」とあいさつしたそうです。
 3.11当日あの時間に仙台のスケートリンクにいて実際に被災した彼からの声は本当に心にしみますし、大切なことは何なのか、考えさせられます。
 私の知り合いで石巻で被災された50代の男性は、

「まだ19歳の羽生選手の姿を見て、もっと大人がしっかりしなくちゃと思う。彼自身は“自分は何もできない、精いっぱい演技を見せるだけだ”と言っていたが、そんなことはない。彼の姿を見て一体何人の被災者が勇気づけられたことか。大人が一人一人自分に何ができるのかしっかり問い直して一歩ずつ進まないと、彼にも申し訳ない」

と目を潤ませながらおっしゃっていました。


[写真]
羽生結弦選手「金メダルおめでとう」パレード
宮城県公式ウェブサイトより(現在はサイト閉鎖)


東北復興のために新聞ができること(3)2014/07/18
シンブン!今だからできること。今しかできないこと
。 No 13
新聞局 x 北出 康博
https://dentsu-ho.com/articles/1399

 「宮城の誇りだ」−。
 平昌冬季五輪フィギュアスケート男子で、羽生結弦選手(23)=ANA、東北高出=が頂点に立った17日、県内は歓喜と感動と涙に包まれた。けがを乗り越えてつかんだ2大会連続の金メダル。東日本大震災の被災地では「パワーをもらった」と感謝の声が広がった。
 「よく踏ん張り、プレッシャーに勝ってくれた。勇気をもらい、感動した」。東日本大震災の津波で店舗が被災した石巻市双葉町の飲食店「東京屋食堂」の店主渋谷明彦さん(57)は喜びを語った。
 2014年6月、再建した店を訪ねた羽生選手は石巻五目焼きそばを平らげ、「とてもおいしかったです」と喜んだという。渋谷さんは「被災は大変ショックだったけれど、良いこともあった。羽生君は私たちにパワーを与えてくれた」と感謝を口にした。
 羽生選手の祖父、利衛(としえ)さんの出身地である登米市中田町浅水地区でも喜びが広がった。同市浅水ふれあいセンターでは、住民有志約50人がスクリーンで実況中継に見入り、金メダルに「万歳」の声を上げた。
 旧米谷工高(現登米総合産高)で同僚教師だった小野寺明男さん(81)は「演技を終えてから立てなくなるぐらい力を出し切っていた。けがの心配をみじんも感じさせなかった」と戦いぶりをたたえた。
 「けがから復帰して五輪連覇を果たすとはすごい根性の持ち主。宮城出身者として誇らしい」。蔵王町のスポーツ推進委員長を務める村上庄三さん(63)も感じ入った。
 JR仙台駅のパブリックビューイング(PV)で演技を見守った大崎市古川の会社員菊地和基さん(24)は「自分と同年代の羽生選手の活躍は刺激になった」と興奮した様子。
 仙台市太白区の市体育館であったPVで声援を送った同区の橋本文子さん(75)は涙を浮かべて言った。「生涯忘れられない日になった。また仙台で優勝パレードをしてほしい」


[写真]
羽生選手の金メダルが決まり、喜びに沸く市民=17日午後2時10分ごろ、JR仙台駅

河北新報、2018年02月18日日曜日
平昌五輪
宮城の誇り感動、感謝 羽生選手連覇、喜び広がる
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201802/20180218_14007.html

 ん?あの南国は熱帯雨林の国、マレーシアの選手 Julian Yee も氷のリンクで舞ってた?

I’VE always loved figure skating ever since I was a little girl. I never quite enjoyed skating myself, but loved watching others on the rink, twirling and jumping five feet into the air and landing oh-so-gracefully on the ice.

Everything about the sport seemed magical to me, and I never missed the chance to watch figure skaters doing what they do best in international competitions whenever I switched to the sports channel on television.

I’ve seen so many figure skaters from other countries, but never Malaysia.

I suppose it isn’t all that surprising, seeing that we are in the tropical region and don’t quite have anything much to do with sports that involve ice and snow. Still, I’ve always thought that it would be wonderful to see my country’s flag alongside others, especially in the quadrennial Winter Olympics event.

This year, we were all given the opportunity to witness just that.

Julian Yee, our very own national figure skater, made his mark in history by being the first-ever Malaysian to have qualified for the Pyeongchang 2018 Winter Olympics.
It was a feat that is nothing short of astonishing.

The 2017 SEA Games gold medallist had worked so hard all his life to have achieved what he has accomplished today.

A rigorous training schedule and having to cope with financial difficulties couldn’t stop him from being the best in our country.

It was a proud moment for our nation when we saw Julian Yee as the flag-bearer of the Malaysian contingent at the Pyeongchang 2018 Winter Olympics opening ceremony, alongside alpine skier Jeffrey Webb.

Yes, we may have been the smallest contingent, but we were there, nevertheless.

His performance during the short programme on Friday was astounding and earned him a personal best score. Unfortunately, the score missed the cut by a mere 1.15 points from qualifying for the final, where the top 24 would compete for the Olympic gold medal.

It was a pity that he was so close to making it to the final, but I was already so happy that he even made it this far.

His performance was unbelievably incredible, as he gracefully glided back and forth on the skating rink.

I had tears streaming down my face as he finished, because I was so proud to see him come such a long way.

Indeed, he had put Malaysia on the world map for being the first to qualify for a competition most could only dream of taking part in.

His determination to go against the odds, because he believed in his dream, is admirable.
His perseverance to never give up on his goal is respectable.

Truth be told, all of us could learn a thing or two from Yee.

He has taught us that there are no dreams too big, as long as we never give up trying.

He has taught us that there are no obstacles too difficult, as long as we tell ourselves that we’re capable of succeeding.

He has taught us that there are no ambitions too impossible, as long as we believe in ourselves and our true potential.

In life, we surely would face many hurdles. Some may be easier than the rest, and some may seem to be next to impossible to tackle.

That being said, isn’t it exactly what life is all about?

Life is about ups and downs, good and bad. There will be good days and bad days. There will be joy and pain.

It’s about our strength of mind to test how well we cope with pressure.

It’s about our willpower to see how far we can go to achieve something.

It’s about our tenacity to realise how imperative it is to never give up without even trying.

Thank you, Julian Yee, for showing us that determination can get you to your goals, no matter how far they seem to be.

Thank you for proving that true grit will always prevail, no matter how challenging the situation may be.

Thank you for inspiring us, and for making us all so proud.


[photo]
National figure skater Julian Yee performing for the men’s single skating short programme at the Pyeongchang 2018 Winter Olympics in Gangneung, South Korea, on Friday.

New Straits Times, Published: February 18, 2018 - 9:47am
Making Malaysia proud
By ASHLEY GREIG
Ashley Greig, a lecturer at Sunway College, is a Malaysian-born Eurasian with Scottish/Japanese/Indian lineage. She believes in a tomorrow where there is no existence of racism and hatred.
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/02/336506/making-malaysia-proud

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ヤッホー君、築地を訪問

 おとなりにいる相手の、ちゃんとしたことを何も知らない。それが築地市場について、あらためて記録を始めるきっかけになった。
 朝日新聞の東京本社とは道路一本はさんで向かい合い、風向きの加減で潮のにおいがあたりに立ちこめる。8階の社員食堂の窓からは、市場の特徴的な扇形の建物がよく見える。日付が変わる頃には全国のトラックがひしめく。「築地の新聞社に行ってみたい」と言う相手は、たいがい「後でおいしい魚も食べたい」と考えている。
 場外市場への観光バスには老若男女、マグロのせり見学に海外の旅行者が夢中になる背景には、世界に広がる和食人気がある。ただ、それだけで説明できない、人が魅せられる磁場を、歴史あるこの「まち」は持っている。
 日本橋にあった魚河岸と、京橋にあった大根河岸が、それぞれ築地に引っ越してきて、開場が1935(昭和10)年だから2015年で80年。中央卸売市場としての責任は、一日の始まる朝に向けて品物を集め、時には引き受け、必要とする人の手に届くように荷を分けて、短時間でさばくこと。その繰り返しで首都の旺盛な食欲を満たしてきた。

 生鮮食品は工業製品とは違う。どこかの畑が日照りに泣く夏も、どこかの海が時化(しけ)て船の出せない冬もあるが、卸売場は空っぽにできない。逆に、うれしいはずの豊作大漁で品物を持て余す時はしんどい。人とものとが出会い、情報を交換するのが市場。その複雑な世界に、なかで働く人も、まず驚き、戸惑うのだという。
 築地発といえば、最高とか世界一といった惹句(じゃっく)があふれている。だが、本当のすごさは「アジ1匹でもいろいろな質と相応の価格から選べる多様性」だと教わった。
 天然の魚であれば、いつ、どこの海で、どんな漁法で取って、どう運んだかで品質は変わる。
 日本の魚がおいしいのは、自然の恵みと関わる人の総合力だ。目利きとは、その細かな差を区別する力だという。築地は目利きで稼ぐ集団。それで高級料理屋も普段着の居酒屋も、毎日それぞれのベターやベストを手に入れられる。
 青果売り場の空気はいくぶん穏やか。カラフルな野菜を前に、シェフが料理談義をしていく。

 街の魚屋さんに「きょうのおすすめ」を聞く買い物が少数派になって久しい。買い物は近所のスーパーマーケットという日常から、多種多様な魚の並ぶ築地の光景は遠く感じる。魚食民族と言われながらも数字には魚離れが現れている。その理由はどこにあるのか。築地を起点に、日本の漁業や世界の水産資源と食卓とのつながりが見えてくるかもしれない。
 築地のページには、長い列島、世界から届く四季を盛り込んでいきます。好きなところから開いてください。


朝日新聞デジタル
築地 - 時代の台所
(長沢美津子)
http://www.asahi.com/special/tsukiji/prologue/

 さ、それがイマ大変、築地を豊洲に持っていって、築地再開発でカジノでもつくろうとしているのでしょうか、さあ、大変:

 東京都の小池百合子知事は17日午前、豊洲市場への移転(江東区)が決まっている築地市場(中央区)を視察した。
 築地市場跡地を通る都道・環状2号線(環2)の建設現場を見た後、市場業者と意見交換した。
 小池知事は視察後、豊洲市場の安全性について、追加の土壌汚染対策工事の終了後の検証を踏まえ、「表現は別にしても、安全・安心について宣言をする」と報道陣に語った。
 小池知事にとっては、昨年6月に豊洲移転の方針を市場業者に説明するために訪れて以来の築地市場訪問。
 小池知事や市場の業界団体幹部らによると、業者側は、円滑な移転と豊洲市場のPRを求めたほか、築地市場跡地の活用策について質問。
 小池知事は跡地の活用策について、伝統を生かした形で再開発をしていくと説明し、都として築地に市場をつくる考えはないと語ったという。
 環2は、2020年東京五輪・パラリンピックで都心と選手村などを結ぶ道路で、市場の流通にも重要な役割を果たす。
 移転延期により、築地市場跡地を通る区間の開通が遅れてきた。
 小池知事は隅田川にかかる築地大橋の現場を視察し、工事の担当者から進捗(しんちょく)状況を聞き取った。
 業者側は小池知事に道路の早期完成を求め、小池知事は市場跡地内の道路の早期建設のため、建物を所有する市場業者に協力を呼びかけたという。
 業者との意見交換は非公開で行われた。


朝日新聞、2018年2月17日13時16分
小池都知事が築地市場を視察 市場業者と意見交換
https://www.asahi.com/articles/ASL2K365TL2KUTIL008.html

 東京都の小池百合子知事は17日、築地市場(中央区)を訪れ、業界団体の代表と懇談しました。
 豊洲新市場(江東区、東京ガス工場跡地)の開場日が10月11日と決まってから、小池知事が築地を訪問したのは初めて。
 懇談は非公開で行われました。
 都水産物卸売業者協会の伊藤裕康会長によると、小池知事は、今後築地に都として新たな卸売市場を設ける考えのないことを明らかにしたといいます。
 小池知事は昨年6月に豊洲移転の方針を発表した際に「築地は守る」「築地の市場機能は確保する」としていました。今回の発言は、またしても都民への約束をほごにするものです。


しんぶん赤旗、2018年2月18日(日)
「築地に市場設けない」
小池都知事、また約束ほご
業界との懇談で

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-02-18/2018021815_01_1.html

 東京都が、築地市場(中央区)を有害物質で汚染された豊洲市場(江東区)に移転させると決めたことに反対し、現在地再整備を求める「築地女将さん会」の山口タイ会長らは、2018年1月18日、仲卸業者の東京魚市場卸協同組合(東卸)が築地市場内で開いた「豊洲市場に関する組合員説明会」に出席、都と同組合などでつくる新市場建設協議会が、昨年12月20日に豊洲への移転期日を2018年10月11日に決めたことなどに対して質問しようとした。
 だが、早山豊同組合理事長らは「築地での再整備という選択肢はありません」と打ち切り、代理人として宇都宮健児弁護士も同席を求めたが、「組合員対象の会だから」と断られた。

 「女将さん会」は、昨年末に移転の是非について全組合員投票を求める請願署名を仲卸538事業者中277事業者から集め(51・5%)、東卸に出した。
 山口会長は「過半数を超える署名が集まったんだから、全組合員投票をするのは当然です」と話す。
 この署名の扱いをどうするのか、筆者は昨年12月20日の新市場建設協議会後に開かれた記者会見で早山理事長に聞いた。
 理事長は、「(昨年6月に小池百合子都知事が)豊洲を中央卸売市場とするという方針を示し、築地を再整備するという選択肢はなくなったので、アンケート(全組合員投票)はできません」と答えた。

 東卸は、1998年11月に全組合員を対象に意向調査(全組合員投票)をやっている。
 その結果、現在地(築地)再整備495票、豊洲移転376票だった。
 そして、翌12月に臨時総代会(出席124人)に「現在地再整備」が上程され、採決した結果、現在地再整備賛成61、反対57で、原案通り現在地再整備が可決承認され、「機関決定」された。
 ただし、この時点では豊洲の土壌汚染はまだ明らかにされていない。
 その後、深刻な汚染が発覚、組合員が再三全組合員投票を求めたが、行なわれておらず、「1998年の機関決定はまだ生きている」というのが「女将さん会」の主張だ。

移転には全組合員の合意が必要

 これをどう考えるかも早山理事長に聞いたが、「(機関決定は)その後、組合の総代会で白紙になっています」と答えた。
 この点について、宇都宮弁護士は「国民投票の決定を国会で白紙にするようなもので、無効です」と批判する。
 この批判を紹介し、再度早山理事長の見解を質したが、「私は当時は幹部ではなく、事情は分かりませんが、白紙になったと聞いています」とくり返しただけだった。
 筆者は、「白紙化」を決定した2014年11月14日の東卸総代会議事録を入手した。それによれば、当時の伊藤淳一理事長が機関決定の白紙化を提案したことに、ある総代は「組合員の皆さんの意思を確認することが本当」と反対した。
 これに、伊藤理事長は「(全組合員投票の)議決をして意思を確認したところで現在地再整備っていうのは無いんですよね」と現在の早山理事長同様、都の方針に従順な発言をしている。
 そして、「移転に反対が多数になってしまった場合、(中略)誰も責任を取れない」と述べ、「私の方から白紙の宣言をさせて頂く」とし、それを受けて議長が拍手での承認を呼びかけ、採決せずに拍手で機関決定は「白紙化」されてしまった。
 前出の総代は、「機関決定というのは、組合員の意思。(中略)組合員の意思を自分達が執行出来ないんだったらば、それは理事が自分に能力がないって事で理事を辞めるしかない」(筆者注:理事は総代会で選ばれる)とも批判している。
 協同組合員の権利に詳しい明治学院大学の熊本一規教授は、仲卸業者は都に毎月市場使用料を払っており、借地権を持っていることに注目すべきだという。
 そして、「借地権は東卸ではなく、個々の仲卸業者が持っています。従って、移転するか否かは東卸(組合)ではなく、個々の仲卸業者(組合員)が決められます。ですから、移転には組合員全員の合意が必要です」と指摘した。


「週刊金曜日」2018年1月26日号、2018年2月6日12:02PM
豊洲への移転期日決定に「築地女将さん会」らが反対
「全組合員投票」を!

(永尾俊彦・ルポライター)
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/02/06/antena-168/

 ね、こりゃ大変だ、というのでヤッホー君の朝キンは築地に行くっきゃない!
 いつ? イマだ!
 隅田川リバーサイドウオーキングでした。

永代橋とスカイツリー
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行ったらタイヘンな賑いでした。
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2018年02月17日

英国在住の三浦按針(ウイリアム・アダムス)研究者

■「家康の世界観に影響

 日本の国際交易の礎を築いた英国人ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)にゆかりの深い4市(伊東市、大分県臼杵市、神奈川県横須賀市、長崎県平戸市)でつくるANJINプロジェクト連絡協議会(会長=中野五郎・臼杵市長)は2018年1月31日、NHKに「三浦按針と徳川家康」を題材とした大河ドラマ制作を求める要望署を提出した。
 要望に伊東市の小野達也市長が加わったのは、市長就任後初めて。
 4市の市長と市議会議長らが東京都渋谷区の放送センターを訪れ、佐藤高彰制作局長に上田良一会長宛ての要望署を手渡した。市長、議長らはそれぞれの市と按針のかかわりを熱く説き、大河ドラマ実現への強い気持ちを伝えた。
 小野市長は「年間650万人が訪れる観光地伊東市では、花火大会をメーンに70年間『按針祭』を開催している。名前はかなり知られてきたが、人物についてまだ理解されていない」と述べ「一日も早いドラマ化の実現を願っている」と期待した。井戸清司市議会議長は「按針が、家康を駿府城に招いて見せたのが、日本で初めての打ち上げ花火。その後、江戸で技術が高まった歴史がある」とアピールした。
 佐藤局長は「全国から非常に多くの要望があり、1年に1本しかできないので軽々には答えられないが、皆さんの要望を真摯(しんし)に受け止め、前向きに考えさせてもらう」と応じた。
 要望書には、家康に重用された按針が砲術、天文学、造船術、航海術などを日本にもらたし、家康の世界観に影響を与えたとされると説明。2020年は按針没後400年に当たる節目として、按針や家康にスポットを当てた地域連携が広がる中、ドラマ化を求めている。大河ドラマの要望書提出は13年、15年、17年に続いて4回目になる。

[写真]
大河ドラマ制作に向け、要望する4市の市長(右から2人目から5人目)ら=東京都渋谷区のNHK放送センター

伊豆新聞・伊東版 2018年02月01日
NHKに大河ドラマ化要望 三浦按針ゆかり、伊東など4市
http://izu-np.co.jp/ito/news/20180201iz0000000006000c.html

 大分県臼杵市にたどり着いた「ANJIN」の名を世界へ―。
 英国在住の三浦按針(ウイリアム・アダムス)研究者が、按針に関する英語の著書を臼杵市に寄贈した。出身地・英国で認知されていない按針の足跡を伝えるため、8年間の研究成果を込めた。市も昨年中止した「ANJINサミット」を開催することを決定、按針や市の魅力を広くPRしたい考えだ。

 按針は1600年、臼杵市佐志生黒島沖にオランダ商船「リーフデ号」でたどり着いた。その後、徳川家康の家臣となり、日本と外国の交流に大きな功績を残した。
 著書を出版したのは、英国南西部のデボン在住で日・英学研究家のロジャーズ弘実さん(58)。東京都生まれで、20代半ばで英国に渡り、現地の大学で文学を修めた。
 英国や欧州で按針に関する著書が少ないことや、その存在がほとんど知られていないことに気付き、本を出そうと決意。欧州や日本の史料を探し、調査を重ねて出版にこぎ着けた。大航海時代の欧州や日本の実態を紹介する他、リーフデ号から消えた大砲や按針が伝えた造船技術、日本での活躍などを網羅したという。
 ロジャーズさんは今後、研究のために臼杵に長期滞在する計画もあるといい、「歴史と文化を持つ素晴らしい土地で、按針の功績や当時の貿易関係などを調べたい」としている。
 一方、臼杵市は昨年の熊本・大分地震で中止した「第4回ANJINサミット」を11月初旬に開催する。按針ゆかりの他市と共に、功績を発信していく。


大分合同新聞、2017/06/21 03:01
三浦按針の功績知って
英国の研究者 臼杵市に著書寄贈

https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/06/21/JD0055868962

 では、その書評を:

In late August 1619 William Adams, now aged 55, returns to Hirado after a successful trading voyage to Indochina and finds that the British and Dutch are at war. News reaches him that English and Welsh sailors are being beaten and shackled as prisoners on board the Dutch ship ‘The Angell’, anchored in the middle of Hirado Bay. Richard Cocks, Head of the English Trading House, feels powerless to attempt a rescue, but though frail, with hollow eyes and cheeks, and hair and beard turned grey after a severe tropical disease, that night Adams boards ‘The Angell’ and with bluff and his fluency in Dutch saves William Gourden and Michael Payne. The next night with extraordinary courage and chutzpah, he goes back and rescues the last captive, Hugh Williams.

It is unlikely that more than a handful of scholars will have known this story, reported only partially in Richard Cocks’s Diary (1615-22), and it is an example of the many fascinating nuggets of information about the English pilot of the Dutch ship ‘De Liefde’, who made landfall in Usuki Bay in April 1600 and went on to achieve fame and fortune as Adviser to Tokugawa Ieyasu with an estate as a hatamoto or senior Samurai. The fans of the book, film and television series Shogun enjoyed the excitement of Anjin’s story, focussed only on his first seven months in Japan, though the 2013 play Anjin took the story further. However, in ANJIN-The Life & Times of Samurai William Adams, 1564-1620, Hiromi T. Rogers reveals a far more detailed and complex picture of Adams as a man and of the turbulent times he lived in. As well as the crucial interface between Adams and the Japanese, the book provides many insights into both cooperation and competition, and even conflict between the British, Spanish, Portuguese and Dutch.

This book is for the general public in Britain and Japan, as well as for experts. It is highly readable and can be strongly recommended. There are, however, a few caveats. The author’s special angle on Adams is that she is a Japanese PhD married to a former British diplomat, and is therefore very sensitive to cross-cultural issues. She also states in the Foreword that she has been able to gain access to the private archives of Daimyo and other important families, as well as studying official sources in both countries.

However, the author states from the outset that she is attempting to combine fact and fiction, mainly alerting the reader to ‘informed imagining’ when she switches the narrative to the present tense.

Nevertheless, it is sometimes frustrating not to find all sources clearly referenced, though many are, and inconsistencies in the spelling of names in various parts of the book are unhelpful. So are the inadequacies of the index, which often leaves out altogether people who are referred to in the main text. This militates against ease of cross-referencing for those who are attempting to research more deeply into this fascinating period of history. A few examples should suffice: Gisbert de Coning appears in the index once, compared to three times in the text, similarly for Toyotomi Hideyori, Melchior van Santvoort twice in the index rather than 19 times in the text, and Jan Joosten van Lodensteyn, after whom the Yaesu entrance to Tokyo Station is named, only three times in the index rather than 27 times in the text. Moreover, it can be confusing that the order of Japanese given and surnames can vary between Western and Japanese order, even in the same paragraph.

In addition, the author sometimes omits significant points, such as on page 80 where she leaves out the fact that the great warlord Oda Nobunaga, (whom she unusually refers to as Lord Oda), encouraged the spread of Christianity as a counterbalance to the excessive power of groups of militant, armed Buddhists. Sometimes she makes unsubstantiated statements, such as on page 147 when she fails to provide a source for the important quote after Adams has met Dutch emissaries: ‘he promised to do so, as “a friend of the Netherlands and to regard it as his fatherland.”’ Elsewhere she writes about the conflict between Spanish and Portuguese Jesuits, without also examining rivalries between Dominicans and Franciscans, or mentioning the Iberian Union between 1580 and 1640 and the impact a united Spanish and Portuguese crown might have had on policies and people.

One of the interesting illustrations in the book is of the statue of Erasmus, which is thought to have stood on the poop deck of ‘De Liefde’- rather than fixed to the stern, as the author claims. She writes that this important art historical object is to be found in the Ryuko-In temple in Tochigi Prefecture, but it has also been displayed among the late medieval Buddhist carvings of the Tokyo National Museum in Ueno Park, Tokyo. She goes a bit adrift on Erasmus himself, whom she describes as ‘the Dutch scholar who established some principles of Protestantism, a hundred years before Adams was born’. In fact, though born 98 years before Adams, Erasmus naturally only came into his prime as a thinker quite a while later.

The author claims on page 71 that there is no official record of samurai using cannons or muskets until the late seventeenth century, although muskets played a decisive role at the Battle of Nagashino in 1575 and she herself describes the use of cannon at Sekigahara. Perhaps she means “use” in a personal sense rather than use by generals in deploying their forces. Her fascinating and detailed account of the complicated Sekigahara campaign would have been enhanced by a map, though the book does provide several useful maps in its early pages. On page 87 she visualizes Adams having considered presenting a telescope to congratulate Ieyasu on his appointment as Shogun in 1603, whereas the telescope was not invented until 1608.

Surprisingly on page 190 the author does not mention the role played by King James’s Chief Minister, Lord Salisbury, in organizing the voyage of the East India Company’s ‘The Clove’ , though in 1613 Adams was to provide the crucial input to ensure the success of this first official British Mission to Japan. The author rightly highlights the very bad relationship between Adams and the Mission leader John Saris, but since Saris is a relatively unusual surname, the reader is left wondering if the Mary Hyn Mabel, whom Adams marries on page 6, ‘daughter of Master Saris, a wealthy London merchant’, is in some way related to John Saris. Later in the book, there is mention of interest in the North-West Passage but not also of the North-East Passage. Once Saris and Adams are engaged on their journey around Japan to conduct the British Mission’s official business, there is no mention of stones being thrown at them in Osaka, a striking incident in Saris’s logbook, or Adams going inside the great Buddha at Kamakura. Writing about Shogun Hidetada’s official gifts for King James, she states on page 209: ‘It is widely believed that one of those suits of armour can still be seen on display in the Tower of London today’. In fact, that suit of armour, originally worn by the loser at Nagashino, is in the Tower with its provenance clearly labelled. The second is in the Royal Armoury’s collection in Leeds.

Finally, the next edition of the book would be enhanced by more precision on dates. For instance, on page 266 the author writes about the ending of Japan’s sakoku or closure period, ‘until in fact 1868 when it was another Englishman, Sir Harry Parkes, who helped the American admiral Matthew Perry to open Japan up again to a very different world’.

There is no mention of the key date 1853 when Perry arrived in Japan with his flotilla and delivered his ultimatum to the Tokugawa authorities to end the sakoku policy. Parkes, of course, deserves credit for later modernization, but the young diplomat Ernest Satow played an earlier and more innovative role, closer to the culturally sensitive model set by Adams.

On the other hand, these blemishes in the book do not diminish its readability, nor its important contribution to achieving a deeper understanding of the crucial period, which preceded just over two centuries of sakoku. Persecution of Christians had already begun in Japan during Adams’s time there, and the book shows how the intense rivalry between the different Westerners was a factor in leading the Shogun to decide on the closure of Japan to all but the small Dutch and Chinese communities of traders, restricted to closely watched areas of Nagasaki. The colonization of the islands, renamed the Philippines in 1952, was naturally also a factor influencing official Japanese thinking -not mentioned in the book.

The author concludes her book with an interesting Epilogue and Afterword, though it is a pity that she does not mention attempts in the United Kingdom to redress the imbalance of knowledge about Adams in Britain compared with Japan. For instance, the first sister city links between Britain and Japan date from 1982 and consist appropriately of links between Yokosuka and Ito which both hold annual Anjinsai festivals to celebrate their Adams connections and his birthplace, Gillingham in Kent, where former Mayor Susan Haydock also organizes an annual festival in his honour.

The Japan Society banquet in the magnificent Painted Hall of the former Royal Naval College, Greenwich, arranged by Captain Robert Guy LVO, RN on the 400th anniversary year of Adams’s arrival in Japan, is another example of commemoration , and more recently numerous events were organized by Japan400, linking direct descendants of King James I and VI and his Chief Minister Lord Salisbury with the direct descendant of the Matsura Daimyo in Hirado with whom Adams cooperated and of Tokugawa Ieyasu and Tokugawa Hidetada. Adams might not have relished the attention also paid by Japan400 to British memorials to the East India Company’s Sir Thomas Smythe, John Saris and Richard Cocks, but he would undoubtedly have enjoyed the samurai tea ceremonies led by Matsura Akira and his society of loyal helpers in the Banqueting House, Whitehall, under the benevolent gaze of King James from the Rubens ceiling, and in the church of St. Mary Magdalene in Gillingham where Adams was christened. Key backers of Japan400 such as Robin Maynard have since formed the William Adams Club in Tokyo to promote UK-Japanese relations and the memory of Adams, and work is already under way in both countries to commemorate the 400th anniversary of Adams’s death on 16th May 1620. Miura Anjin would welcome the coincidence of this important Olympic year for Japan following Britain’s Olympics, with only Brazil’s in between.

All in all, having set the record straight, ANJIN is nevertheless a most entertainingly written book and a rattling good yarn, not to be missed.


[書評]
"ANJIN-The Life & Times of Samurai William Adams, 1564-1620"
by Hiromi T. Rogers

Renaissance Books (2017)
Review by Nicolas Maclean
Honorary Chairman of the Miura Anjinkai and Joint Chairman of Japan400
https://www.microsofttranslator.com/bv.aspx

 ところで、ね、この"Japan400"ってなに?
 
 英国の優れた機関や団体をはじめ、著名な歴史学者、ジャーナリスト、文化機関の代表者などのプロフェッショナル、また、日本の熱心な支持者がボランティアベースで協力し、2013年が日英の外交、通商、科学、文化交流400周年にあたることを記念するウェブサイト Japan400.com を開設しました。
 日本への航海や、英国王室と日本側が贈り物を交換したエピソードなど、日英交流がスタートした様子を伝えることで、「ジャパン400」は、既存の良好な関係を祝うと同時に、対話の促進とダイナミックな関係の強化を目指しています。
 ウェブサイトには、様々なギャラリーや地図が掲載されていますので、是非、アクセスしてみてください。 遠く離れた二つの国の協力関係、また、素晴らしい友情が芽生えるきっかけとなったジョン・セーリス船長の日本への航海を体験して頂くことができます。
 また、サイトには、芸術、演劇、科学、エンタープライズ関連、また、歴史をテーマとする講演や人気のあるフェスティバルなど、2013年に開催されるエキサイティングなイベントに関する情報も掲載されています。
 Japan400.com は、日英両言語でご覧頂くことができ、一年間を通して定期的にアップデートされる予定です。


Published 2013年2月12日
駐日英国大使館
https://www.gov.uk/government/world-location-news/uk-japan-relations-celebrated-with-launch-of-japan400-website.ja

第3回ANJINサミット(平成27年3月16日号)
https://search.yahoo.co.jp/video/

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マクドナルドのフライドポテトがハゲを治す!?

 今朝、マレーシア紙を読んでいたら、こんなニュースを載せてくれているのでヤッホー君、びっくり:

TOKYO: Japanese scientists have warned that eating french fries will not cure baldness, after research was published suggesting that chemicals used in cooking fried potatoes could help fight hair loss.

A research team at Yokohama National University succeeded in producing clusters of 5,000 hair follicle germs (HFGs), the base organs that produce hair, with the aid of dimethylpolysiloxane, a material that was key to cultivating large numbers of HFGs.

The team also succeeded in growing hair on the backs of mice after transplantation in a relatively short period of time.

After dimethylpolysiloxane was reported as being used in oil to fry potatoes, researchers received a number of inquiries asking how many french fries people should eat to cure baldness.

“No matter how many fried potatoes you eat, you’ll never grow more hair. That’s a total misunderstanding that’s gone viral,” lead researcher Junji Fukuda told Reuters.

Fukuda said the research, published in the journal Biomaterials this month, was a breakthrough as scientists had previously struggled to produce the large quantities of HFGs needed to generate significant hair growth.

“Up until now we’ve only been able to produce a few dozen hair follicle germs at a time, but with this new technology we’ve developed a simple method to produce hundreds and thousands,” Fukuda said.

The team have also received many serious inquiries from researchers and people seeking hair-regenerative medicine to offer their cells to test and develop the research, he said.


[photo]
After dimethylpolysiloxane was reported as being used in oil to fry potatoes, researchers received a number of inquiries asking how many french fries people should eat to cure baldness.

New Straits Times, Published: February 16, 2018 - 10:00pm
'Easy on the fries!', Japan scientists tell hopeful bald people
[source] Reuters
https://www.nst.com.my/world/2018/02/336218/easy-fries-japan-scientists-tell-hopeful-bald-people

 マクドナルドのフライドポテトがハゲを治す!?
 そんな夢のような研究が米大手メディアで話題となっている。しかも発表したのが日本の国立大の研究チームだというから驚きだ。研究者を直撃し、その真相について聞いてみた。

 注目を集めているのが、ニューズウィークの米国版ウェブサイトで5日に報じられた「マクドナルドのフライの化学物質がハゲを治すかもしれない」と題した記事(注)。
 フライを揚げる際に油の泡立ちや飛びはねを防ぐために加えられるシリコンの一種、ジメチルポリシロキサン dimethylpolysiloxane という成分が、マウスの毛髪再生実験で使われたという趣旨だった。

 この記事の元になったマウスの毛髪再生医療の論文を国際的な研究誌「バイオマテリアル Biomaterials」に発表したのは、横浜国立大学理工学部化学・生命系学科の福田淳二教授らの研究チームだ。
 福田教授に研究の内容について聞いてみると、「今回の研究は、ゴム状にしたジメチルポリシロキサンの培養器(毛髪再生チップ)を作り、移植すると発毛する特殊な細胞塊の大量作製に成功したという内容です」と説明した。
 本来、ジメチルポリシロキサンは液状で、消泡作用をもつ化合物。胃腸のガスに作用する医薬品などにも使われている。

 「一部の海外メディアでは間違って取り上げられていますが、ジメチルポリシロキサンを摂取しても、直接発毛に関係するわけではありません」と念を押す福田教授。
 当然ながらフライドポテトを食べたから毛が生えるというものでもないという。

 ジメチルポリシロキサンについて日本マクドナルドホールディングスに問い合わせたところ、「使用していません」(PR部)との回答だった。一方、米国やカナダのマクドナルドのサイトには使用が明記されている。

 研究がどこまで進んでいるのか気になるところだ。
 福田教授は「現段階ではマウスでの実験に成功しています。これから5年ほどかけて、人の細胞で同じ実験が成功するかどうか実験していきます。一般の人の手に渡るまでには、10年くらいの年月がかかると考えていて、金額的には、植毛の治療法と同じくらいにできればいいと思っています」と目標を掲げた。

 中高年男性の永遠の悩みである抜け毛。
 その悩みにも新たな光が差し込めてきたのかもしれない。


[写真]
フライドポテトを食べると生えてくるというわけではないが…

夕刊フジ、2018.2.15
マクドナルドのフライドポテトがハゲを治す!?
横浜国立大・福田教授らの研究チーム発表で注目

http://www.zakzak.co.jp/lif/news/180215/lif1802150002-n1.html

(注)
Japanese scientists may have discovered a cure for baldness−and it lies within a chemical used to make McDonald’s fries.
...
In 2016, the U.S. hair loss treatment manufacturing industry was worth $6 billion. This included companies that produced restorative hair equipment, such as grafts for hair restoration, as well as oral and topical treatments.

McDonald's did not respond to Newsweek's request for comment at the time of publication.


[photo-1]
A McDonald's employee prepares french fries in Miami. Japanese scientists recently discovered that a chemical used in McDonald's fries could be key in curing baldness.

[photo-2]
A culture vessel for the mass preparation of hair follicle germs (top); generated hairs on the back of a mouse (below).

Newsweek, Published: 2/5/18 at 10:01 AM
Chemical in McDonald’s Fries Could Cure Baldness, Study Says
By Christina Zhao
http://www.newsweek.com/chemical-mcdonalds-fries-may-cure-male-baldness-study-say-799439

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ぶらりふらり東京駅

 本稿は、かつてオランダ船リーフデ号で日本に来航した船員のなかで最も長生きしたメルヒオール・ファン・サントフォールト Melchior van Santvoort(以下「サントフォールト」) の生涯を明らかにすることである。
 リーフデ号自体はよく知られているが、その船員たちのその後については、ウィリアム・アダムズとヤン・ヨーステンを除いてほとんど知られていないし、この両者以外についてまとめた先行研究も寡聞にして把握していない。
 そこで本稿ではサントフォールトを例に、リーフデ号の生き残り船員と江戸初期の日本社会との関わり方を考察していく。

 初めにリーフデ号の日本到着までの経緯を大まかに述べておく。
 1600年4月19日(ユリウス暦、以下同じ)、豊後国佐志生付近に大型の異国船が出現した。
 オランダ船リーフデ号である。
 この船はロッテルダムを1598年6月に出港した後、大西洋を南下して難所マゼラン海峡を通過、さらに苦難の末太平洋を横断し、2年近くかけて日本に辿り着いた。
 出発時の乗組員は110名、元々司令官ジャックス・マフー Jacques Mahu率いる5隻編成の船隊として出帆したが、マゼラン海峡通過時に各船は離ればなれになってしまった。
 1隻はオランダに戻ったが、何とか同海峡を通過した4隻のうちチリ南部沖で再会できたのはリーフデ号と旗艦ホープ号だけで、この2隻の幹部は今後の針路を協議し、目的地を日本とすることを決めて一路太平洋を並走した。
 しかしホープ号は太平洋上の北緯28度付近で巻き込まれた激しい嵐によって消息不明になった。1)
 危うく海の藻屑となるのを免れたリーフデ号にも艱難辛苦が続いた。
 長期にわたる航海の途上、伝染病や炎暑、飢餓、スペイン人やアメリカ先住民との戦闘、マゼラン海峡付近の酷寒、壊血病などにより乗組員の多数が犠牲となり、豊後に辿り着いたとき生存者は24人に減っていた。
 翌日にはさらに3人が死亡し、別の3人もまもなく亡くなったので、日本で生活を始めたのは18人となった。2)
 しかしいくつかの証言から,到着した年にさらに4人が死亡したとみられる3)。
 それでも生き残った14人は到着から5年後の1605年にも依然日本で暮らしていたことがわかっている。4)
 その5年の間に日本でもオランダでも大きな情勢の変化があった。
 日本ではリーフデ号到着の半年後に起こった関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利を収めると、3年後には家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府が開かれ、1605年にはその家康が将軍位を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として駿府で政治を執り行うようになっていた。
 一方、オランダでは1590年代後半から盛んに東インドへの遠征隊が派遣され、マフー船隊もその一つであったが、無秩序な東洋遠征によって香辛料などのアジア物産がもたらされた結果、物価の乱高下を招き、これを防ぐため1602年には6支社から成る連合東インド会社が設立された。
 翌年には早くもパタニ(マレー半島中部)に同会社の支所が設けられている。
 同胞が比較的近くまでやって来ているとの情報はまもなくリーフデ号の船員たちに伝わり、彼らに大きな希望を与えた。
 では生き残り船員たちはその後どうなったのであろうか。
 現在高校の「日本史B」の教科書 は11種類あり、これらのほとんどに「リーフデ号」、「ウィリアム・アダムズ William Adams」(三浦按針、以下「アダムズ」)、「ヤン・ヨーステン Jan Joosten van Lodenstijn」(耶揚子、以下「ヨーステン」)の名が登場する。
 しかし他の船員たちが取り上げられることはないし、一般書でも誤解に基づいた記述が少なくない。
 例えば「アダムズとクワケルナック Jacob Quaeckernaeck(リーフデ号船長)、そしてもう一人の仲間(ヨーステン)を除けば,その後(リーフデ号船員のうち)だれ一人として痕跡を残したものはいない」 5)とか、「リーフデ号の船員はほとんどが本国に帰国した」 6)としているものがあるが、これらは明らかに誤りである。
 アダムズとヨーステンが家康から江戸の居宅のほか地方にも知行地を与えられ、旗本扱いで重用されたことはよく知られている7)。
 二人は何度か朱印状の交付を受けて東南アジア各地に渡り、貿易に励んでいる。
 また、ヤコブ・クワケルナックは同船の生き残り船員のなかで初めて日本出国を認められ、1605年に平戸藩主松浦鎮信(法印)に提供されたジャンク船で出帆したが8)、翌年マラッカ近郊で行われたポルトガル人との戦いで戦死した。9)
 アダムズについての史料は確かに少なくなく、日本語の著作に限っても研究書や伝記、小説の類まで含めるとかなり存在するが、ヨーステンやクワケルナックを単独で扱った書は見当たらない。
 一方、それ以外の船員のその後については、従来ほとんど一般に知られることがなかったが、断片的史料を含めれば多くの者たちの生きた証しを垣間見ることができる。10)
 実はリーフデ号の船員たちの大半は自らの意思で日本に残る選択をし、日本社会に溶け込んでいったため、だれ一人帰国することはなかった
 より正確には、帰国を示唆する史料は見つかっていない。
 その彼らのなかでも最も長生きをし、鎖国政策によって出国を余儀なくされるまでの40年近くを日本で過ごして、地道に貿易活動に勤しんだのがサントフォールトである。
 サントフォールトはアダムズやヨーステンのように旗本扱いとなったわけではなく、特別に華々しい成果を挙げたわけでもない。
 しかし一時期、オランダ・イギリスの両商館とも密接に関わり、日本と東南アジアを何度も往復して交易を行ったので、江戸初期外交のオランダ人生き証人と言える。
。。。
1)アダムズ「未知の友人および同胞への手紙」Rundall, Thomas(ed.), Memorials of the Empire of Japan in the XVI and XVII Centuries, New York, 1963[1850], p. 23。
2)オランダの歴史家ウィーデルはこの18人の名を特定している(うち4人は推定)。
Wieder, Frederik Caspar, Het eerste Hollandsche schip in Japan, De Reis van Mahu en de Cordes 1598―1600, 3de d. M., Nijhoff, 1925, p. 21。
3)岩生成一「蘭文史料から見た三浦按針とその家族」(日蘭学会編『日蘭学会創立十周年記念誌』所収,日 蘭学会,1985年,9頁。Charles R. Boxer, Christian Centuries in Japan 1549―1650, Los Angeles, 1951, p. 286。
4)『大日本史料 第十二編之四』443頁。
5)P. G. ロジャーズ(幸田礼雅訳)『初めて日本に来たイギリス人』新評論,1993年,64頁。
6)牧野正『青い目のサムライ三浦按針』,黒船出版社,1980年,18頁。
7)ただし,長崎にあったとされるヨーステンの知行地については不明点が多い。
8)渡海朱印状は松浦法印名で発行された(『大日本史料 第十二編之三』161頁)。翌年クワケルナックの名でも発行されており(『大日本史料 第十二編之四』437―8頁)、これは来航許可証と考えられるが、その時点でクワケルナックはすでに死亡していた。
9)この戦いの経過はBorschberg, Peter, The Singapore and Melaka Straits: Violence, Security and Diplomacy in the 17th century, Singapore, 2010. pp. 158―164に詳しい。
10)例えば:
☆ Barreveld, Dirk Jan, The Dutch Discovery of Japan: The True Story Behind James Clavell’s Famous Novel SHOGUN, Lincoln NE., 2001.
☆ Mulder, W. Z., Hollanders in Hirado 1597―1641, Haarlem, 1985.
☆ Massarella, Derek, A World elsewhere: Europe’s Encounter with Japan in the Sixteenth and Seventeenth Century. New Haven, 1990.
☆ Farrington, Anthony, The English Factory in Japan 1613― 1623, 2 vols., London, 1991.
などが参考になる。


メルヒオール・ファン・サントフォールト
―日本で生きることを選んだリーフデ号船員の生涯―

森良和
『論叢』玉川大学教育学部紀要2013,pp. 81〜98
http://libds.tamagawa.ac.jp/dspace/bitstream/11078/133/1/5_2013_81_98.pdf

日本とオランダ
(1) その歴史
 オランダ船リーフデ号が、初めて日本(豊後の国)に漂着したのは1600年、即ち徳川家康が関が原で勝利し、天下を制覇し始める時であった。
 ポルトガルがこれは海賊船だと中傷したのに、家康は同船を厚遇して浦賀に回航させ、乗組員のヤン・ヨーステンを外交の顧問とし、屋敷を与えた(その名をとったのが今東京の八重洲)
 ちょうどこの頃オランダはスペインの圧政から逃れ、自由・独立を得た時であり、東インド会社を通してアジアへの発展を図ろうとしていた。
 徳川幕府は、 1639年に世界でも珍しい鎖国政策をとったが、オランダは例外とし、長崎出島のオランダ商館は先進ヨーロッパに聞かれた日本唯一の窓となった。
 そして、一種の呪いに近い無力の漢方医に対し、シーボルトやボンべといった人々は先進医学を伝え、高野長英、伊東玄朴、松本良順、長与専斎といった日本のリーダーを育てた。
 シーボルトは1823年から、ボンベは1857年から、それぞれ滞在期間が僅か5年ほどだったが、この間本国オランダではまさに絵画のレンプラント、哲学のスピノザとい った高い文化活動を示していたのである。
 そして、単に医学のみならず、広く蘭学を通じて日本の文化・思想に大きな影響を与えた。
 例えば、ポンペの助言で建てられた日本で最初の病院「養生所」は、単にコレラ予防の医学を伝えたに止まらず、ボンベ自身は何気なく当然のしきたりを行ったつもりだったろうが、当時の日本に驚くべきことをもたらした。
 診察を先着順に行ったのである。
 小作人のせがれが、格式高い武士より列の先に立ったわけであり、封建制下に民主主義のまばゆい光が一瞬輝いたのである。
 高野長英が1845年に放火脱獄して、幕府の全国指名手配のなか5年間余も地下の逃亡生活を続け捕吏を前に自殺したのは、ただ医学を広めたいからだけでなく、新しい時代の思想を広め、それに殉じる情熱に燃えたからであろう。
 蘭学という言葉が、オランダの医学から広く近代民主主義を象徴する言葉だったのである。
 明治維新を前後して、産業革命から七つの海制覇へと英国の興隆が始まったため、蘭学は英米学へと移ったが、その後もオランダの国際的発展はめざましい。
 特に最近は、本文で紹介するように経済の奇跡的発展をみ、EU統合や環境保護、特に地球温暖化防止に大きな活動をしている。
(2) 国勢
。。。


首都大学「総合都市研究」第74号(2001)
オランダの政治経済と都市政策
柴田徳衛、花輪宗命
https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/index.php

 実はこれ、ヤッホー君のこのブログ、2018年02月15日付け日記「ぶらりふらり有楽町」の続きなんです。
 カメラを下げての朝キン、有楽町駅から東京駅八重洲口まで、ぶらりふらり…
 だってぇ〜、ヨーステンは家康から屋敷をあてがわれ、その屋敷跡が「八重洲」ってなったんだもん。

ヨーステン「耶揚子」の碑:
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ヨーステン「耶揚子」の像:
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オランダ船リーフデ号:
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 思い立ったが吉日、ヤッホー君、さらに歩を進めてアダムズ「三浦按針」屋敷跡まで。
 だってぇ〜、アダムズの江戸の居宅跡は、昭和の初期まで「按針町」と呼ばれてたんだもん:

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2018年02月16日

日本人を特徴づけるのは、単一性と均質性であり、多様性ではない

Japan accepted just 20 asylum seekers last year – despite a record 19,628 applications – drawing accusations that the country is unfairly closing its door on people in genuine need.

Since 2010, Japan has granted work permits to asylum seekers with valid visas to work while their refugee claims were reviewed, a change the government says has fuelled a dramatic rise in “bogus” applications from people who are simply seeking work.

According to figures released this week, the number of applicants in 2017 rose 80% from a year earlier, when 28 out of almost 11,000 requests were recognised.

Among the thousands of people whose applications have been turned down is Jean-Claude Hitimana, who arrived in 2001 after fleeing ethnic violence in his home country of Burundi.

Seventeen years on, Hitimana remains in legal limbo – a victim, campaigners say, of Japan’s strict policy towards refugees, and a wider resistance to immigration.

Hitimana, a Hutu, had been thrown on to a pile of burning tyres after refusing to join the fight against the Tutsi. He escaped, but the incident, which left him with burns to his right leg, convinced him he could never return.

“At that time I was just a simple person selling maize and peanuts on the street. I had no idea what they were fighting for,” he told the Guardian in an interview near his home east of Tokyo.

His attorney, Masako Suzuki, said government policy was punishing genuine asylum seekers.

“Jean-Claude should have been recognised as an asylum seeker by now,” she said. “It’s incredible that the immigration authorities have not even given him humanitarian status considering that ethnic violence in Burundi has worsened dramatically since 2016.”

Recent changes indicate Japan is getting even tougher. In an attempt to reduce the number of applicants, the government last month started limiting the right to work only to those it regards as genuine asylum seekers.

Repeat applicants, and those who fail initial screenings, risk being held in immigration detention centres after their permission to stay in Japan expires.

Eri Ishikawa, head of the Japan Association for Refugees, said the new regulation was part of a wider crackdown on refugees under the conservative prime minister, Shinzo Abe.

Abe courted controversy in 2015 when he said Japan should improve the lives of its own people – particularly women and the elderly – before accepting refugees from Syria.

Campaigners have contrasted his tough stance on asylum seekers with his recent visit to Lithuania, where he paid tribute to a wartime Japanese diplomat, Chiune Sugihara, who is credited with saving the lives of an estimated 6,000 Jewish people in 1940 by issuing them with Japanese visas.

“The government assumes that some people are applying for refugee status just to obtain a work permit in Japan,” said Ishikawa, whose group helps 700 people, mainly from countries in Africa, whose asylum applications have been turned down.

“The door has been closed to people applying for asylum. That worries us because among them are genuine asylum seekers.”

Japan’s immigration detention centres have been criticised for their harsh treatment of detainees. At least 10 people have died in the centres since 2006, including four suicides. In 2016, more than 40 detainees went on hunger strike at a facility in Osaka to protest against their living conditions and poor standards of medical care.

“Conditions at the centres are harsh, and there is no limit on how long people can be detained,” Ishikawa said. “People are usually given provisional release after a year, but they are not allowed to work and they are not entitled to any social security benefits.”

Despite experiencing its worst labour shortage for 44 years, Japan is unlikely to overcome a deep-seated cultural resistance to significant immigration, she added. “The government doesn’t like the word immigration: it sounds permanent and that’s why some people are resisting it. They are worried that it would change the nature of Japanese society.”

Today, Hitimana still experiences pain from burns to his leg. He has not seen his parents or two sisters since he fled Burundi.

He arrived in Tokyo in January 2001 on a 90-day tourist visa, relieved to have found what he thought would be a safe haven. He initially slept in a car and earned a modest living working in a spare parts yard. He said he had no idea he had overstayed his visa until he was questioned by immigration authorities.

The 48-year-old, who believes his life would be at immediate risk in Burundi, has spent months at a time in immigration detention centres, most recently in 2011. He is now awaiting the outcome of his third application for asylum.

His failure to seek asylum as soon as he arrived in Japan means he is banned from working and his movements are strictly monitored. He spends his days volunteering at a Catholic church in Tokyo and studying Japanese.

But he is grateful for the kindness shown to him by ordinary people, including the couple who have taken him into their home while immigration authorities decide his future.

“The Japanese people I know have been so kind to me,” he said. “I can’t believe how well they have treated me.

“They took me in like a member of their own family. Without them, I have no idea what would have become of me. This is what it means to be living in a peaceful country.”


[photo-1]
One asylum seeker’s lawyer said the policy of Japan’s government was punishing genuine applicants.

[photo-2]
Protesters against Japan’s refugee policy gather in Shibuya ward, Tokyo, in March 2016.

The Guardian, Last modified on Fri 16 Feb 2018 03.59 GMT
Japan had 20,000 applications for asylum in 2017. It accepted 20

Just 0.1% of asylum seekers won the right to remain, as campaigners say ‘door has been closed’ to those in need
By Justin McCurry in Tokyo
https://www.theguardian.com/world/2018/feb/16/japan-asylum-applications-2017-accepted-20

 日本は難民とどう向き合えばいいのか――。シンガポール出身で1994年に来日し、写真家として活躍するレスリー・キーさんと、長年難民支援の現場で活動してきた根本かおる国連広報センター所長。世界のさまざまな価値観に触れてきた2人が、日本ではあまり知られていない「難民問題」について語り合った。
 キーさんはこれまで国籍、性別などさまざまなカテゴライズを超えた作品を多く発表し、固定概念に揺さぶりをかけるような作品を提示してきたが、根本さんの『難民鎖国ニッポンのゆくえ』(ポプラ新書)刊行と2017年6月20日の世界難民デーにちなんで対談することになった。

■ レスリー・キーさん「日本に難民がいること、みんなあまり知らないのでは

キー まず、難民の問題があること自体、日本のみんなはあまり知らないんじゃないですか。
根本 外国の問題として、例えばシリア難民が問題になっているといった話は頭にあるんですよ。でも日本に来ている難民の人たちに関しては、ほとんど意識にないですね。

キー 日本にいる難民たちの報道やテレビ番組、ドキュメンタリーはどれくらいありますか。
根本 あまりないです。以前、私も日本で暮らしている難民の人たちについてテレビで話したことがありますけれど、そういう良心的な番組は、大海の一滴なんですよ。ただ、ある臨界点を越えると、急にみんなが知っている状況になる場合がありますよね。今は膨大な情報が流れていて、その中で人の意識を変えるほどには日本の難民の状況を知らせるための情報は足りていません。それが現状だと思います。
 ただし、2016年のリオデジャネイロオリンピック・パラリンピックの難民選手団はパワフルでしたね。普段、難民問題はニュースでほんの少し取り上げられるだけですが、それに留まらないで、スポーツ番組やエンターテイメント番組でも幅広く語られました。

キー 世界中の人たちが見ているオリンピックで、難民たちの存在とアイデンティティを堂々と世界にアピールできた。あのアイデアはヒントになるんじゃないですか。日本でも、難民の人たちが集まってイベントやショーに出演すれば、彼らの存在をアピールするチャンスになるかもしれない。
根本 エモーショナルに訴えかけられるから大きいでしょうね。あまり理屈や頭でっかちに難民の問題を考えてばかりいても仕方がない。それよりも難民の人たちのパワーを活かした方がいいかもしません。

キー 私が写真やドキュメンタリー動画を撮るから何か難民の人たちをもっと知ってもらえるようなアクションを起こしましょうよ。

■ 根本さん「日本の難民認定率は桁違いに少ないんです」

根本 東京オリンピック・パラリンピックにも、IOC(国際オリンピック委員会)は難民選手団を派遣しようとするでしょうから、それが大きなチャンスになります。世界中が注目しますから、日本もその人たちをまずは受け入れるでしょう。そして当然、普段、日本は難民の人たちにどう接しているかということにも目を向けられます。すると、今の日本の難民の受け入れ状況では、世界に対して恥ずかしいということになるのではないでしょうか。

キー 恥ずかしいというのは、具体的にどういう日本の状況に理由があるんですか。
根本 例えば2015年の難民認定の一次審査の認定率は、アメリカは約77%認定しています。それに比べて日本は約0.5%と、桁違いに少ないんです。そういう状態だから、日本に来ても、日本は難民申請に対して厳しいから、申請しても無駄だと思ってしない人もいます。それでも2016年は、日本で難民申請した人は1万人以上いたんです。その中で日本政府が難民と認めた数は28人なんです。

キー Oh My God! どういう基準で、そうなっているんですか。
根本 難民条約というものがあって、その定義に基づいて、難民に認定するかどうかを判断しているんです。でも日本の場合は、その数字から分かるように、他の国々に比べると、すごく厳しいんです。

キー 申請してもほとんど通さないということですね。日本の安全のためにいろいろな外国人が入ってこられないように、その人たちのすべてのバックグラウンドを調べてからでないと入れないようにしているようにも見えます。日本は東南アジアなどに比べたら豊かです。だから、難民の面倒を見る経済的な余裕が、他の国と比べたらあるはずだと思います。どうして日本はそんなに難民に対して厳しいのですか。
根本 一つは、日本には今、外国人がたくさん来ているけれど、それでもまだ単一の文化の色が強い国ですよね。そういう中で、もっと寛大な態度で難民を受け入れましょうという声がなかなか起こりにくいんです。もちろん国際的に決められたルールとして難民条約を守らなくてはいけないのですが、国民が強く求めない場合、政治家や政府は熱心に政策を変えようとしないんでしょう。

キー ということは、政府や政治家の問題よりも、国民の教育の問題ですか。
根本 両方です。政府のことで言えば、日本で難民認定を管轄しているのは、入国管理局の一部です。この名称からもわかるように、これでは入国を「管理」するという考え方で申請する人たちに対応しますよね。それは、難民はもちろん、本当に困った人の権利を保護しようというマインドとは少し違うんですよ。人を保護しようというところから入っていくのか、それとも「管理」から入っていくのかでは、全然意識が違うじゃないですか。

キー 日本では、人を保護しようというところから入っていくのと、アプローチが違うんですね。
根本 やはり独立した難民認定を扱う組織を日本でもつくるべきだろうし、法律も人々の権利を守るために整備していく必要があると思っています。

■ キーさん「難民を受け入れたら経済面でもいいことがあると思う」

キー 今、コンビニエンスストアへ買い物に行くと、留学生をはじめ、いろいろな国の人が日本でも働いているじゃないですか。私も日本に来て、1992年から95年頃、実はコンビニエンスストアで働こうと、面接に行ったんです。けれど一度も採用されたことがありませんでした。当時は私たち留学生にコンビニで働くチャンスなんてほとんどゼロだったんです。
 それが今、彼らが働いてくれないと困るでしょう。留学生たちは難民ではないですけれどね。でも、いろいろな国から日本にやって来て、コンビニだけではなくて、工場や農業、様々な産業の現場で働いてくれている彼らに感謝しないといけないと思います。だから難民の人たちを日本に入れても、きっと経済面などでももっといいことがあるんじゃないかと思うんです。
根本 留学生でアルバイトしている人たちも含めて、いわゆる外国人労働者は、日本ではじめて100万人を突破したんです。

キー 今後もどんどん増えていくでしょう。それから国際結婚もこれからもっと増えると思いますよ。そうすると、日本の人たちの外国人に対する意識も変わっていくと思うんです。
根本 三重の鈴鹿市をはじめ、ミャンマーの難民やシリアからの留学生を受け入れているんですが、公的な機関にだけには任せておけないと、民間の動きもいろいろと立ち上がっています。
 東京マラソンで難民の若者と日本の大学生が一緒にチームをつくってチャリティを募ったり、明治大学などの大学が「難民高等報告プログラム」というスキームで難民の学生を受け入れたりています。そして新たに、日本のNGOが日本語学校と連携して、プライベート・スポンサーシップという形でシリア難民を留学生として受け入れるようになりました。
 また、ユニクロでは世界中の店舗で45人の難民が働いています。難民が働いているお店の店長や研修担当者、難民スタッフ当事者らが定期的に集まって、何に苦労しているかなど、経験談を共有するために研修会を開いているんです。難民の方々は、とても大変な経験をしてきている人たちですから、他の店員さんたちもすごく刺激を受けるそうです。

キー 一緒に働いていたら、彼らのハングリーさや仕事への向き合い方、コミュニケーションの取り方、たくさん見習うところがあるでしょうね。
根本 今、日本には大きなチャンスがあると、私は思っているんです。難民はすごいサバイバルをしてきた人たちでしょう。そういう人たちを受け入れると、大きな刺激がありますよね。学びや気づきがあるはずなんです。それが日本の社会が成熟するための機会につながると思うんですが、そのチャンスを日本はまだ逸していると思うんですよね。
 難民申請をしている人たちは、なかなか認められないので、政府に対しては苦い思いを抱いている人もいますけれど、周りの日本人に対してはすごく感謝の気持ちを持っています。そういう人たちの中には、定期的に公園の清掃活動を日本のお年寄りたちと一緒にしている難民申請者の子供たちもいるんです。社会のために還元したいという気持ちを強く持っている難民の人たちがいて、そんな彼らのために日本はもっとしてあげられることがあると思うんです。

■ 根本かおるさん「join togetherの精神でかかわってほしい」

キー 自分も日本に来て、生き、暮らしやすい環境を自分である程度つくってきました。写真の仕事は、写真を撮って、それで完成するものではないですから、仲間が必要です。イベントで発表するにも、本をつくるために印刷するにも、撮影のときは照明やいろいろなことを手伝ってくれる人が必要です。
 そういう人たちと気さくにコミュニケートする姿を、わかりやすく日々みんなにシェアしています。それを周りがどう思うかは任せます。任せた方が彼らは自分で話し出すようになるから。私の方法でよければ、私のスタイルと同じようになればいいなと考えつつ、そうして自分のフォロワーのような人が増えていくことで、自分も暮らしやすくなってきました。
根本 レスリーはいろんな人たちお返しをしようという思いが強いですよね。

キー もちろん! いろいろな人たちにお返ししたい。それで喜んでくれたら、その喜びは自分の喜びになりますからね。
根本 難民の人たちも、自分が助けてもらう機会が多いじゃないですか。彼らは自分が助けてもらったから、苦しい状況にあっても、助けを必要としている人を見つけたら助けるんです。でも大変だろうから、まずは自分たちのことを大切にしたらと思うんだけれど、それでも余裕がない中、みんなで他人を助けますよね。

キー 感謝の気持ちが大きいのではないですか。
根本 人は本来、みんながその気持ちを持っているはずですから、それをもっと開いていく必要があります。 自分と異なるものを受け入れる、あるいは刺激を受けることに前向きなのは、ステレオタイプなどに凝り固まっていない柔軟な頭です。だから、若い人や子供たちに、異なることは楽しいことなんだ、自分たちが当たり前と思っていることが当たり前ではないんだと伝えたい。
 そして、私たちは日本に暮らしていて幸福だけれど、他国ではこういう事情があって、実は日本の足元にもこういう問題があると、それぞれをつなげて考えるためにも、難民や移民の問題に、まさにjoin togetherの精神でかかわってほしいと考えて、今行動しています。


ハフポ、2017年06月25日 16時08分 JST
「なぜ日本は難民を受け入れないのか」
写真家レスリー・キーさん、国連広報センター根本かおる所長と対談

中野渉(構成・小山晃)
http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/25/discussion-about-refugee_n_17286428.html

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アメリカにはスパイダーマンがいる、バッドマンがいる、でもインドには、パッドマンがいる!

 インドで法制度調査をなさっている弁護士先生のブログ、本日二本目のご紹介です:

 1月下旬に公開されたこの映画。まずは予告編をご覧下さい。

The Pad Man Song, Padman
https://www.youtube.com/watch?v=8ktEOccsbbI

 また、この映画の意義について、日本でも、昨日のハフィントンポストが報じています。#MeTooもそうでしたが、同社による、こういうムーブメント系の積極的な後押しは、マスコミの仕事として素敵だなあと思います。
 
スーパーモデルがナプキンと自撮りした深いワケ 「何も恥ずかしいことなんてない」
http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/14/padmanchalenge_a_23361081/
・・・・・・・
 以上の予備知識を仕入れ、加えて、他の動画で別のワンシーン、「アメリカにはスパイダーマンがいる、バッドマンがいる、でもインドには、パッドマンがいる!」というところだけ見たうえで、今日、劇場で鑑賞してきました。
 言語はヒンディー語で、英語字幕もありません。でも、「妻が生理用ナプキンを(おそらくは貧しくて)使えず、ぼろきれを使っている様子をみた主人公が、妻のため、自らナプキンを作り、やがては安価な大量生産を実現してインドにイノベーションを起こすストーリー」が、予告編のようなコメディーなタッチで描かれているのであれば、観ていて話がわからなくなることはないだろうと、思いました。そして、それは実際そうでした。
・・・・・・・
 しかし、予想と違ったのは、まず、上のような、どう考えても「良い取り組み」が、彼の妻を含めて、社会には(正確には、彼の住む社会には)、最後の最後まで、受け入れられないのです。
 主人公は困難にぶち当たったが努力と工夫と幸運で乗り切ってハッピー、などと一筋縄では、全然いかず、変人扱い、過剰に否定される様子が、丹念に、これでもか、と描かれていました。 
 インドではヒンドゥー教で女性の生理を不浄視する根強い慣習があると先のハフィントンポストの記事で言及されていましたが、映画では、セリフが理解できないので、どうしてそこまで、男性が生理の問題に介入することが拒否されるのかは、わかりませんでした。
 ただ、結論として、彼が彼だけで、妻を含め、自分のやろうとすることを地域に受け入れてもらうことは、できませんでした。

 そして、その流れで、もう一つ非常に心に残ったのは、ストーリーの途中から、なんというか、彼の活動に理解を示す「協力者」になる女性が現れるのですが、主人公は、彼女のお陰でビジネスチャンスを摑む、のみならず、彼女の存在のお陰で、社会の女性たちからも、その活動について、とうとう支持を得るに至ったことです。
 主人公は、見るからにいい人で、実に努力家で、そのことはその情熱あふれる語り口からも、容易に伝わります。でも、女性の心を解きほぐして、それでいいんだと思わせることは、できませんでした。それは、同じ女性でなければ、ダメだったのでした。
・・・・・・・
 この映画「PADMAN」を観て、上記のような印象を受けて、私が一つ目に言いたいことは、これは、めちゃくちゃ教育的効果が高い映画だな、と思ったということです。
 この映画に日本語字幕がつけられて、私ももう一度、次は子供も一緒に、家族で観られることを、願ってやみません。
 私がこの歳になってなお少々衝撃的だった、女性でなければできなかった、女性と一緒に取り組んでこそ、結果を出すことができた、という一連の話は、私たちの社会をよりよいものにしていくためには、
男女共同参画そうしなきゃねなどと規範的に考え始めるよりも、こういう映画を観て、それしかないんだなと、直接感じることが、はるかに有意義だろう
、と思わされました。
 そして、男性目線の話ですが、上の話を受けると、男性はもっと、女性についてわかろうとすべきであり、それは、結局はわかり合えないことがあるとしても、思いやりや敬意を持って接する、そのために、例えばせめて生理はどういうものでそれはどう大変なのかということを正しく知ることは、もっと必要なのだも思わされました。自分が生徒の歳の頃、なぜそれは学校でも家でも教えられず、なんとなく触れるべきじゃないんだろうなと思わせる扱いにされていたことは、今となると、本当にわけがわかりません。
 そして勿論、女子にとっては、こういう映画を観ることで、前述のハフィントンポストの記事のように、いろいろなことが話しやすくなる、ということはあると思いますし、またそれは、男性に対して、より物が言いやすくなる、ということにも繋がる話なのだと思います。

 加えて、教育的効果という点、なんなら英語についても言えます。
 映画のラスト前、主人公が国連でスピーチするシーンがありますが、英語教育を受けていない(という設定の)彼が、ほとばしる感情で片言英語でスピーチする姿は圧巻です。インド人は何で英語をしゃべれるんだろう、と考えたり、しゃべっちゃえばいいんだなと思ったり、子供でも、何かしら感銘を受けるに十分なシーンだと思います。

・・・・・・・
 そんなわけで、様々な困難と主人公の優しさと情熱、とうとう成し遂げた成功に、ひんぱんに、涙を溢れさせながら観た、この映画「PADMAN」でしたが。

 もう一つ、大人として語りたいのは、主人公と「協力者」の女性の、ロマンスでしょう。
 先に紹介した予告編には全くその片鱗も出されていなかったので、そういう展開になるとは全然思ってもいませんでしたが、鑑賞後にネットで検索したところ、以下のような予告編?も、やはり出されていました。

Hu Ba Hu - Lyrical, Padman
https://www.youtube.com/watch?v=IyCNnMZZTm8

 いかがでしょうか。
 この女性が、ただ一人、自分を理解してくれ、自分に足りない・できないことを一緒に行ってくれる「協力者」です。彼女とともに、夢中で働く主人公、そして、そんな彼に魅かれ始める「協力者」の女性。。。
 まあそんな感じで、自分もさすがにこの歳では、既視感のある話ではあるものの、素敵だな、と思う関係であり、また、そういうことって、それはあるよね、と思う、話でもあります。
 この映画を観た方とは、ベタではあるものの、「あのシーン、あの時、電話が鳴らなかったら、その日の2人はどうなっていたか?」「そして、そうなったら、次の日からの2人は、どうしたか?」なんてことを、大いに語り合いたいな、と思うわけなのであります。
 不倫はアウト、あり得ない、いいのか悪いのかどう思うの、とかいう切り口ではなく。
 こういう映画を観て、感じたことを素直に話しつつ、他人の話も聞きながら、いろいろな可能性を、想像する。
 そうすることで、人は優しくなれる心のはたらきを獲得していくのだと思いますし、仮にそうでないとしても、物事を受け止める幅が、広がるのだと思います。
・・・・・・・
 映画を観終わった時から、これは家族で絶対観たい、キスシーンもあるけど「ない」ので(観ればわかります)、子供と一緒に観てざわざわっとすることもないし(笑)、だからブログも家族向けに書こう、と思ったので、だいぶくどくなってしまったように思いますが。
 まずは、インドにいる方々に、ぜひ観ていただいて、且つ、感想を語り合えたらと思います。そんな思いを同じく持たれた方がいたら、ぜひともご一報ください。
 今日の投稿は以上です。
・・・・・・・
【追記】その他雑記
・グルガオンのメガモールのPVRで観ました。木曜日は安い日らしく、税込でわずか150ルピー(300円いかない)で観れました。
・始まったと思ったら間違いで別の映画が上映されました。それが何かと話題のpadmaavatで、padmanと名前が似ていたからだと思いますが、そんなこともあるんだと驚きでした(笑)。
・やり直しで上映されたので、インド国歌の演奏も2回行われました。お客さんは一昨年の最高裁の決定どおり、ちゃんと全員起立していました。
・感想をたくさん書きましたが、主人公の奥さん、そして協力者として登場する女性と、2人の女優さんが、まあ相当に美しく魅力的で、その意味でも観ていてハッピーな時間でした(笑)。


インドで法制度調査をしている弁護士のブログ、2018年02月15日23:45
これも名作!インド映画の話題作「PADMAN(パッドマン)」を観ました
http://takamichiyanai-india.blog.jp/archives/29713732.html

CHENNAI: Bollywood has an unlikely new superhero - bravely fighting taboos and discrimination faced by women during their periods with a unique weapon: the sanitary pad.
The trailer of “Padman“, unveiled over the weekend ahead of the movie’s release in January, shows one of Hindi cinema’s most popular action heroes, Akshay Kumar, wear a sanitary pad and talk about menstrual hygiene, creating a conversation around a topic rarely discussed in India.

“I am hopeful that something that has been hidden in the darkness ... will finally be in the spotlight so that a young girl can go up to her parents and say that she needs sanitary pads over the ubiquitous fairness creams,” said Twinkle Khanna, who wrote about the real-life Padman in a book and produced the film.

“After writing the book, the obvious way to get this inside the consciousness of both modern and rural India seemed to be through a movie, and here we are today,” she said in an email interview.

For many Indian women, especially adolescent girls, menstruation is shameful and uncomfortable. From being barred from religious shrines to dietary restrictions to a lack of toilets and sanitary products, they face many challenges when they have their periods, campaigners say.

“I did not personally face these taboos,” Khanna said.

“But some of my friends in boarding school faced several. Not allowed to enter temples or (the belief) that touching the pickle would make it sour were some of the age-old myths that were ingrained in them since day one.”

In a departure from formulaic Hindi cinema plots, “Padman” will be India’s first feature film focused on menstrual hygiene.

The film is inspired by the story of Arunachalam Muruganantham - the man who started out by wanting to “please his wife” by replacing her rag cloth with a sanitary pad.

His wife’s response that buying a sanitary pad would cut into their milk budget set Muruganantham on the mission to provide low-cost pads to women across India.

“I’m thrilled because the movie talks about a difficult subject in an entertaining manner and it will reach out to the masses,” the inventor of the low-cost sanitary pad making machine told the Thomson Reuters Foundation.

The film captures his trials with making a cheap sanitary pad, his experiment with wearing one and using animal blood to test if it leaked and the hostile reaction of his community for talking openly about menstruation.

A school drop out, Muruganantham now runs a company in Coimbatore in the southern state of Tamil Nadu, supplying women with sanitary pads in 4,500 villages and providing technology for his low cost hygiene products to 19 other countries.

“The trailer of this film has generated a buzz around periods,” said Kavya Menon of Sustainable Menstruation Kerala Collective, also in India’s south.

“We hope the conversations will also lead to discussions on what sanitary pads are made of, safe disposal and sustainable menstruation.”


New Straits Times, Published: December 19, 2017 - 11:07pm
Akshay Kumar becomes 'Padman' in latest Bollywood film, spotlights menstrual hygiene
[source] REUTERS
https://www.nst.com.my/lifestyle/groove/2017/12/316291/akshay-kumar-becomes-padman-latest-bollywood-film-spotlights#cxrecs_s

Menstruation isn’t the most obvious topic for a blockbuster, but the story of how a lower-caste man from a village in India dropped out of school at 14 and became the unlikely champion of menstrual health in the subcontinent has become the subject of a Bollywood film released this week.

Pad Man, produced by actress-turned-writer Twinkle Khanna, based on a short story from her book The Legend of Lakshmi Prasad, is inspired by the life of Arunachalam Muruganantham, a social activist from Tamil Nadu. A welder by trade, he set about creating affordable sanitary towels after discovering that his wife, Shanthi, had been using dirty rags during her periods.

“I wouldn’t use that cloth to clean my vehicle,” said Muruganantham, 55, who was named one of Time magazine’s 100 most influential people in 2014. “When I asked her why, she said we would have to cut half of our milk budget to buy sanitary pads.

“I went to the pharmacy to buy her the pads as a gift. The shop assistant wrapped it in newspaper like it was a smuggled item. It was only 10 grams of cotton, but cost 40 times its worth. I thought of how most women in rural areas couldn’t afford them. I wanted to change my wife from unhygienic to hygienic practices during menstruation. Everything started from my wife and now it’s gone global.”

While the all-singing, all-dancing genre may seem at odds with the complexity of the issue, both Khanna and Muruganantham hope the film will break down taboos that have a devastating effect on the health, education and social opportunities of women, particularly in rural areas.

In India, only 12% of women have access to sanitary products; the rest struggle to improvise, using old newspapers, rags and sawdust. The Indian ministry of health estimates that 70% of women are at risk of severe infection because of this. One in 53 women in India will be diagnosed with cervical cancer in her lifetime, compared with one in 135 in the UK.

Nearly a quarter of Indian girls stay away from school during their period, and the difficulties they face were brought to light in August last year, when a 12-year-old in Tamil Nadu killed herself after being humiliated by a teacher in front of her class when she accidentally bled through her uniform. At the time, the only menstrual hygiene products available were expensive imports, often only sold in urban areas.

But Muruganantham’s quest to create a sanitary towel that would be cheap and easy to manufacture domestically, using locally sourced materials, was far from straightforward.

For a man to drag the issue into the open was particularly controversial, especially in Muruganantham’s conservative village. In one humiliating episode, without any volunteers willing to try his prototype pad, he fashioned himself an artificial uterus made of an old ball filled with goat’s blood. When the ball split he ended up covered in blood in front of the villagers.

“I walked, cycled and ran with it under my clothes, constantly pumping blood out to test my sanitary pad’s absorption rates. Everyone thought I had gone mad. I used to wash my bloodied clothes at a public well and the village concluded I had a sexual disease.”

His quest took an emotional toll: he was ostracised by his village and his wife left him for several years, unable to cope with the humiliation. “My wife didn’t understand me.

She left me. My mother left me. This topic is such a taboo, even my mother won’t discuss it with her daughter and here I was, a man, trying to do something. The community thought I was a pervert. They wanted an exorcism because they thought I was possessed by demons.”

The lack of access to hygiene products was only half the battle. Tackling the misconceptions around menstruation was perhaps more challenging. “There are regions where it’s believed that if an unmarried girl uses a pad and a dog smells it, she will never get married. We worked at a village where they believed if women went out after sunset during menstruation, they will go blind.”

His breakthrough came in 2009, when he won an award from India’s National Innovation Foundation – which supports grassroots technological initiatives – to make and distribute machines for the manufacture of sanitary towels in rural communities. The machines are operated by local women in each area, which provides much-needed employment while also spreading awareness about menstrual hygiene. More than 600 machines have already been distributed in 23 states.

Muruganantham hopes the film will help him fulfil his dream of making India a 100% sanitary pad-using country. “The film will create more awareness. We still have a huge task ahead but things are changing. I’m ecstatic to be known as pad man, as it makes a difference to women’s lives.”


[photo]
Arunachalam Muruganantham with his low-cost sanitary towel machine.

The Guardian, Published: Sun 4 Feb 2018 00.05 GMT
India’s sanitary towel hero Pad Man bound for Bollywood glory

Big-screen musical tells story of welder Arunachalam Muruganantham, who became a pioneer for menstrual health
By Alia Waheed
https://www.theguardian.com/society/2018/feb/04/india-sanitary-towel-hero-padman-bollywood-glory-arunachalam-muruganantham

posted by fom_club at 16:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2月16日は旧暦の元日

 2月16日は旧暦の元日。
 中国の春節をはじめ、東アジアでは旧正月を祝う国が多い。日本もかつてはそうだった。その旧暦が最近、見直されている。
 太陽暦と旧暦の二つの暦の併用を呼びかけている美学者(広島大名誉教授)の金田晉さん(79)に「旧暦のススメ」を聞いた。

−−そもそも旧暦とは?

 暦には大きく分けて太陽暦、太陰暦、太陰太陽暦の3種類があります。
 約365・25日で太陽を一周する地球の動きを基にしたのが、いま普通に使っている太陽暦(グレゴリオ暦)で、「新暦」と呼ばれます。
 約29・5日で地球を一周する月の動きに基づくのが太陰暦。昼間暑く夜に活動することが多い西アジアの乾燥地帯などで使われています。
 太陰太陽暦は太陽、地球、月の3者の運行を基準にする暦で、江戸時代まで使っていた「旧暦」もその一つ。幕末の「天保暦」は世界で最も精度の高い太陰太陽暦と言われました。
 太陰暦と勘違いしている人もいますが、太陰太陽暦は複合暦で、生活者にとって生活や労働がしやすい太陰暦と、季節のずれが出にくい太陽暦を組み合わせたものです。古代から中国や日本では国家制度の基本であり、その制定は権力の誇示でした。
 二つの暦の間に生じる年11日の誤差は19年間に7回のうるう月を挿入することで調節しました。
 東アジアをはじめ、農業を主産業とする世界各地で使われてきました。
 日本では1872(明治5))年11月9日になって「12月3日をもって明治6年1月1日とする」という改暦令が公布されました。
 旧暦での生活や風習を一挙に無にする性急な政令でした。
 文明開化の一環として暦も西欧に合わせる目的もあったのでしょうが、実際は12月と翌年の1カ月分(旧暦だと明治6年は13カ月)の計2カ月分、公務員の「月給」を削減する打算もあったようです。
 それとともに「神武天皇の即位紀元(紀元前660年を元年)」という非合理な皇紀紀元を滑り込ませました。
 これはその後の日本の国粋化を進めることになる虚構でした。
 明治維新は功績ばかりが称賛されがちですが、失態も顧みる必要があると思います。


−−その後、旧暦は顧みられなかったのでしょうか。

 まったく忘れられたわけではないでしょう。
 現在でも農耕や漁業で古老たちは大切にしていますし、お茶やお花の世界では使われています。
 「二十四節気」や「七十二候(注1)」も私たちの生活の中に入り込んでいます。
 今年2018年1月、日本が大寒波に見舞われたのは「大寒」の時期でした。
 しかし「立春」になっても豪雪と寒波、少し異常ですね。

 一方では旧暦の日付を新暦に合わせたため、実態に合わない現象もみられます。
 例えば1月7日に「春の七草」を食べますが、本来は立春後の行事です。
 春の兆しが見え始める旧暦1月7日(今年は2月22日)に野草を採っていたのにちなんだ行事ですが、新暦に合わせているため、温室栽培の野草をスーパーで買わなければならない。
 七夕も本当は旧暦7月7日(今年は8月17日)の夜。ひこ星と織り姫星は夜空の高い位置にあって見やすいのですが、新暦では、いつも梅雨空になってしまう。
 もはや、私たちは「変だ」とさえ思わなくなっています。

 私は焼け跡の時代に大阪で育ち、東京で長く学生生活をした後、30歳で広島に移ってきました。
 広島で畑を耕したりすることで初めて季節のリズムの大切さ、旧暦が理にかなっていることに気付きました。
 冷蔵庫が発達し、真冬でも暖かい部屋で冷たいビールを飲んで……現代人、特に都市部で暮らす人たちは「脱暦化」しています。
 文明の恩恵を享受するのはいいとしても、便利さに過度に依存してしまうと、私たちの共同体が共有してきた健全な文化が理解できなくなってしまう。季節感や風土がなくなってしまいます。

−−「月」に対する意識や感覚も薄れてはいませんか。

 そこも重要な点です。「月」は旧暦の生命線です。
 最近の日本人は月を見なくなりました。高層ビルが建ち並び、照明も増えて月が見えにくくなりました。
 今年の1月2日は満月がいつもより大きな「スーパームーン」でした。31日は皆既月食が起こりました。
 みなさんは月を見ていますか?
 月の位置や動き、形は毎日変わっていて、基本を知れば「今日が何日で、今が何時か」だいたい分かります。

 さらに「月」の引力は、現代の最大の課題であるエネルギー創出のカギも担っていると思います。
 闇夜を照らすだけでなく、潮の干満に大きく関わっていて、この力を利用した「潮力発電(注2)」はフランスでは以前から実用化されています。
 日本では自然エネルギーとして太陽光発電が人気ですが、太陽は夜は出ないし、天候に左右されます。
 確実に計算できる潮力をもっと活用してはどうでしょうか。
 私は普段、瀬戸内海に面した町で仕事をすることが多いので、潮の流れの速さを実感しています。
 化石燃料や原子力にこれ以上依存できない現実を考えると、設備の規模は小さくても、海に囲まれた日本では潮力発電の開発にもっと力をいれていいと思います。

−−旧暦は日本伝統のエコな生活そのものなのですね。

 新暦をやめて旧暦に戻せ、と言っているわけではありません。
 旧暦を意識した生活を取り戻すことは、日本の豊かな四季や自然を楽しむことにもつながります。
 旧暦は日本人の美意識。これこそ「クール・ジャパン」でしょう。
 国際基準として太陽暦のカレンダーは不可欠でしょうが、旧暦というもう一つのカレンダーも併存させたい。
 それによって、生活や考え方に広がりやゆとりが生まれてきます。
 「バイリンガル」ならぬ「バイカレンダーのススメ」ですね。
 ぜひ市販のカレンダーには旧暦も載せるようにしてほしい。

 旧正月を迎える今週、正月休みの中国や韓国から大勢の観光客がやってくるでしょう。
 私たちも旧暦の習慣を取り戻せば、同じ東アジアの共通文化として一緒にお祝いすることもできます。
 中国や韓国はバイカレンダーでうまくやっているのですから、日本だって難しい話ではありません。
 何もかも欧米流になびくのはやめて、もっと日本らしい生活を取り戻すきっかけにしたいですね。


聞いて一言
 金田さんの専門は「美学」。
「現象学」という哲学的な思考から、暦という時間の中に隠された日本的生活の美的感動にたどり着いたという。最近は美学の核心に迫るテーマとして暦に引かれ、太陽暦と旧暦を併用する「バイカレンダー」を提唱し、普及に努めている。
 私自身、旧暦や二十四節気も表記された「日めくり暦」を愛用している。
 さまざまな先人の知恵や習慣、格言に加え、運勢占いまでが詰まっている。
 「今日はどんな日か」を考える指針として、実に奥深い。

■ (注)ことば
1 七十二候
 1年を24に分けた「二十四節気」をさらに3分割して、季節の変化を気象や動植物の動きで細かに言い表したもの。いま時分でいえば、「立春」(2月4日)の後に「東風(こち)氷を解く」(4〜8日ごろ)、「うぐいす鳴く」(9〜13日ごろ)、「魚氷を出(い)ずる」(14〜18日ごろ)となる。中国が起源だが、表現は日本風に変わっているものが多い。
2 潮力発電
 1日に2回起こる海の潮の満ち引きのエネルギーを利用した発電方法。フランスのランス発電所が有名。韓国でも導入されている。自然の海水を利用しているため、コストは低いが、発電所を作り、維持する費用がかかるとされる。日本での研究開発は遅れている。

■ 人物略歴(かなた・すすむ)
 1938年大阪府生まれ。東京大文学博士。69年から広島大で教え、83〜2000年同大総合科学部教授。東亜大(山口県下関市)特任教授。蘭島閣美術館(広島県呉市)名誉館長。「旧暦のある生活を」と講演活動を続ける。


毎日新聞・東京朝刊、2018年2月12日
そこが聞きたい
旧暦併用のススメ 日本の季節感残したい 美学者・金田晉氏

【聞き手・森忠彦】
https://mainichi.jp/articles/20180212/ddm/004/070/072000c

 では、今日のマレーシアの新聞から:

The family members of rubber tapper Lim Tang Too, who died in 2008, fly in from around the world to gather for their Chinese New Year reunion dinner. Each year, one of Lim’s 11 children will host the dinner which comprise mouth-watering home-cooked dishes.

The Star, Published: 15 Feb 2018 11:47:47 PM
Ex-rubber tapper’s 11 children, 47 grandchildren carry on proud tradition
https://www.thestartv.com/v/ex-rubber-tapper-s-11-children-47-grandchildren-carry-on-proud-tradition

Malaysians get in the spirit of Chinese New Year
https://www.youtube.com/watch?v=-v0T6S8mtsI

Chunyun 2018: A long train journey home for Chinese New Year
https://www.youtube.com/watch?v=zruFYZ8YR6Q

Getting home for Chinese New Year
https://www.youtube.com/watch?v=J7kuS1uAx6c

 シンガポールからも:

SINGAPORE - Why do we give mandarin oranges during Chinese New Year? Why do we eat yusheng? And why do married couples have to hand out red packets?

The Straits Times, Published: Feb 15, 2018, 7:23 pm SGT
Alyssa Woo explains the origins of Chinese New Year dos and don'ts.
http://www.straitstimes.com/singapore/aly-says-why-we-do-what-we-do-during-cny

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安倍9条改憲 No!

 マレーシアから戻ってすぐヤッホー君、署名しました。
 外地にいて日本を観ているとこの国のジユウとミンシュシュギは本当に大丈夫なんかなあ〜と感じてしまうことが多々あるからなんですぅ:

 2017年5月3日、安倍晋三首相は突然、「新たに憲法9条に自衛隊の存在を書きこむ」「2020年に新憲法施行をめざす」と述べました。
 この発言を受けて、改憲への動きが急速に強まっています。
 戦後70年以上にわたって、日本が海外で戦争をしてこなかった大きな力は憲法9条の存在と市民の粘り強い運動でした。
 いま、9条を変えたり、新たな文言を付け加えたりする必要は全くありません。
 私たちは、日本がふたたび海外で「戦争する国」になるのはゴメンです。
 私たちは、安倍首相らによる憲法9条などの改悪に反対し、日本国憲法の民主主義、基本的人権の尊重、平和主義の諸原則が生かされる政治を求めます。
【請願事項】
1.憲法第9条を変えないでください。
2.憲法の平和・人権・民主主義が生かされる政治を実現してください。


Change.org
https://www.change.org/p/内閣総理大臣-安倍晋三-安倍9条改憲no-憲法を生かす全国統一署名

 マレーシア、じゃなくってイマ、インドにおられる弁護士先生はこんなブログを:

 インドの1月26日は、Republic day(共和国記念日)で、祝日です。
 1950年の同日、インド憲法が施行されました。今年は69回目の記念日とのことです。

 というわけで、昨日は私も改めて、インド憲法を読みました。
 と言っても、395の条文に12の別表、世界で最も長い成文憲法です。
...
 関西大学の浅野宜之教授、インド法学者の孝忠延夫氏による「インド憲法の動態と改正」と題する論稿です。(以下「上記論稿」)
https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/11443/1/KU-1100-20170712-06.pdf
 昨年発表されたもののようで新しく、各種事実を知ることができてその点でも大変ためになったのですが、自分にはそれ以上に、このインドの憲法記念日的祝日に、まじめな話になりますが、「法の支配」の在り方を考える、とてもよい題材となりました。
 もう少し具体的に言うと、日本の統治機構における、司法権の存在感について、現状のやり方はそれでいいのか?ということであり、裁判所はもっとやれることをやるべきではないか(せめてインドの裁判所の50%くらいは)ということであり、また、そうなれば、弁護士が役に立つ余地も、大いに増えるだろう、ということです。
...
1、日本ではなぜ、法令の違憲審査が、すぐにできないのか?
...
 例えば、数年前、いわゆる安保法制については、その成立過程で、その合憲性が大いに議論になりました。
 違憲の意見を述べる憲法学者もいる、日弁連も違憲だとの意見を表明する中で、国会での決議が行われ、法案は成立しました。
 日本国憲法においても、インドと同様、国の立法が違憲がどうかを判断できる最終権限者は、最高裁判所であると規定されています(81条)。
 だったら、国会議員は良かれと思って法律を制定させたのだとしても、その内容が憲法に反するという声があるのであれば、最高裁はそれを聞き、法解釈の最終決定権原者として、合憲か違憲か、きちんとお墨付きを与えるのか、あるいは、憲法への適合性の理解を誤っているので直ちに無効とするかのを、憲法に定められた統治機構の役割分担にしたがって、(インドと同じように)腰を上げればいいのではないか、いや上げてほしいと、私は思います。
 しかし、日本では現在、このように、裁判所が法令の合憲性だけ、それ自体のみを判断することはできない、と考えられており、現実の裁判制度もその前提で運用されています。
 ここでは詳しくは述べませんが、「付随的違憲審査制」といって、司法制度は、何か具体的に自分の利害に直結する紛争がある時に使えるものであり、あの法律は違憲じゃないかということだけでは、個々人の利害関係には「遠すぎる」ので、そもそも訴訟ができませんよ、と理解されているのです。
 確か最高裁自身がそのように判断したという先例が昭和20年代にあるので、今でも、例えば「安保法制は違憲だと思う、それはこういう理由です、違憲審査権限を有する裁判所で判断してください」と言っても、そのような訴えは中身の検討に入ることなく、門前払いになります。

 しかし、このような裁判所の姿勢は、どうしてなんでしょうか?
 日本国憲法には、
第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
という条文があるだけに、なぜ、法律等の条文の規定が憲法に反するかどうかの判断を、直接取り扱うことを、控えようとするのでしょうか。

 もちろん、この問題は、「司法試験」でもいわゆる典型論点として、立場と理由付けを勉強します。
 そして私も、受験生当時は答案を書く時、多数説であり実務でもある、この「付随的審査制」をよしとしていて、その理由付けも、今でもちゃんと覚えています。
 インドで法制度調査をしてきて、インド裁判所は、インドを、より良い国にしていくため自らの役割を全うしているなあ、という印象を、とても強烈に受けてきました。
 そして、違憲立法審査はインドでも日本でも、裁判所の本来的な機能です。

 この国にいい価値観を及ぼすためにたくさん勉強してきた、そういう事実と自負心は少なくともある自分が、例えばインド弁護士のように、何か問題を感じればすぐ裁判所に違憲審査を申し出て、そして裁判所はこれを終局的に判断する。
 そういう仕組みが、日本でも受け入れられていくためには、何をどうしていくことが必要なのか。

 長文になりましたが、ここまでインド法制度調査をしてきて、日本に持ち帰ることができる問題意識として、一番感じていることです。

2、日本国憲法を改正するにあたっての限界論

 思っていたより1でたくさん書いてしまったので、こちらは少しだけ触れますが、上記論稿には、「インド憲法には、変えてはいけない内容がある」という議論も紹介されています。
 例えば、1で言及した「国家裁判官任命委員会法」の違憲判決に際しては、同法の成立に必要な内容の憲法改正も同時に行われていたのですが、大雑把に言うと、その憲法改正は、裁判官の任命に政府メンバーを関与させる内容を含むものだったところ、そのような内容の憲法改正は「司法権の独立」という「憲法の基本構造」にかかわるものであり、それを破壊する改正は認められない、として、無効と判断されたようです。

 これは、日本でも、憲法改正に限界はあるか、という論点として議論されているところで、限界有り説が多数説だったと思います。

 ただ、インドでも、改正してはならない「憲法の基本構造」とは何か、ということは、憲法自体に明記されているわけでもなく、解釈によるほかないところで、ただ、インド最高裁は、変えられない基本構造が何かの判断は最高裁がするもの、とも明言しているようです。
 そして、日本でも、憲法改正に限界はある、どの条項でも改正できるわけではない、という理解が多数であるようだとはいえ、やはり、具体的には何が変えられないのか、という議論は、煮詰まっているようには見受けられません。
 今後、日本も憲法改正の動きは活発になっていくと思いますが、その議論の際には、やはり、一定の訓練を受けている、私たち法曹が、積極的に議論を形成していくべきだという思いも抱いたと、そういう話でした。
 以上、残された時間、インド憲法のことも、もっと勉強していきたいと思います。
...

インドで法制度調査をしている弁護士のブログ、2018年01月28日23:34
インド憲法から日本国憲法のあり方を考える
〜1月26日「共和国記念日」に〜

http://takamichiyanai-india.blog.jp/archives/29202981.html

司法はいま何ができるのかを明確にすること

 安保法制違憲訴訟をきょうの話の素材に選んでいますが、一番重要と私が考えますのは、「いまこの日本で」司法の役割として何が求められているのか、これを明確にすることです。
 <安保関連法制定は憲法9条の下でできることだったのか>、
 <議会制民主主義が正常に機能しているのか>、
 <三権のバランスは取れているのか>、
 <米軍の活動の変化との関係で見た時に自衛隊を十分統制できる制度なのか>、等。
 これらの問題は、安保関連法制定だけではなく、関係する様々な法制度や現実、そして社会の状況などの検討を必要とします。
 先に、動態的に三権について考えなくてはいけないと申し上げましたが、近年特に行政権が巨大になっています。
 特定秘密保護法、日本版NSC法が2013年に制定されました。
 集団的自衛権の行使だって、内閣が決定します。
 行政権一つが、突出して大きくなっていて、国会、なかでも野党は期待されるブレーキ役を果たせない。
 国会でまともに答弁されない。
 強行採決が繰り返される。
 抽象的な問題としてではなく、こういう具体的な状況のなかで、司法権はいま何ができるのか、何を責務としているのかを考えることが不可欠であって、決定的に重要なんだろうと思います。

違憲審査権の意義を改めて考える

 先ほど口頭でも読み上げた81条ですが、憲法の危機を迎えてしまったいまの状況のなかで、日本国憲法が81条で違憲審査権を裁判所に認めていることの意義を改めて考えるべきでしょう。
 もし憲法判断が政治的な判断、高度な政治的な判断を必要とするからといって差し控えられるとするならば、81条を認めた意味というのがなくなってしまう。
 政治的であればあるほど、81条を行使できないということになってしまう。
 でもそうではなく、81条が最高裁判所をはじめとする裁判所にブレーキ役となれと命じているのではないか。
 政治的な問題だから控えるべきということにはならないのではないか。

 そして79条2項では、「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする」という最高裁判所の裁判官についての国民審査権が認められている。
 国民審査は何を指標としてするのかは最高裁がどれだけ自らの使命を果たしているのか、ということなしには、本来、国民審査というのはできないはずです。
 三権のなかで抑制・均衡を効果的に図っていく。
 「小さな司法」という言い方もされますけれども、民事、刑事といった昔から認められてきた裁判作用を超えて、どのようにほかの権力を統制するのか。
 違憲審査は、81条によって裁判所が適切に行使しなくてはいけない責務とされている。
 きちんと責務を果たしているかどうかは、国民審査の際に、重要な判断指標になるのであり、また最高裁が正しい判断を下すため、下級審裁判所での事実認定が重要であることも確認したいと思います。
。。。
「口を出したがる司法の危険」も

 さて、裁判所が果たす役割や大きな裁量を肯定するようなお話をしてきましたけれども、これはもちろん危険な話でもあるわけですよね。
 資料の6ページに「むやみに口を出したがる司法の危険」と書きましたが、これはだんだん現実のものとなってきているようにも思います。
 辺野古訴訟で、福岡高裁は、国防という利益と基地周辺の利益といった、大きさが最初から違う利益を赤裸々に比べるようなことをしています。
 となると、国の政策を単に承認するだけだったり、もっと悪くて、国の政策を積極的に正当化する機関として働いてしまう。
 もともとそういう形の利益衡量をすることを排除しているのが、9条の意味だったと私は解しますけれども、安全保障に関する利益を打ち出すようになってきているなかで、無邪気に裁判所の裁量の余地を広く認めるのは、いかがなものか。
 このような疑問は当然です。

 さらにレジュメに「呼び水論」とも書きましたけれども、次のような懸念も示されています。
 これまで自衛隊が合憲か違憲かということはグレーにされてきて、最高裁は判断をしていないということが、合憲論が正当なものとして通用することへの歯止めになってきたところ、安保法制違憲訴訟という形で提起することで、これが裁判所によって合憲とされてしまっては元も子もないのではないか、という問題です。
 それに、仮に安保関連法が「違憲」と判断されるなら、いまでも政治部門から司法部門へ介入が行われているところ、もっと露骨な介入がなされて、司法権の独立がさらに失われ、通常の民事、刑事の裁判もできなくなってしまうかもしれない。
 確かに、簡単なお話ではありません。
 でも、そういうことも含めて、私はこの安保法制違憲訴訟によって、司法の場に立憲主義、政治が憲法を守るということについての争点が提起されて、国に説明や理由づけが求められ、司法の手続きに従って事実関係が明らかにされ、文書として残されることは重要だと考えます。

 「9条を保持する日本国民」がノーベル平和賞の対象外となったということを最初にご紹介しましたけれども、「もういままで通りじゃない」と世界からも認識されている。
 変わってしまっているわけです。私たちが長年前提にしてきた「常識」をめぐる状況が変わって、実は今日では常識として通じなくなっているのかもしれない。
 もしかすると裁判所に問題を提起した結果が大きな反作用をもたらすかもしれないし、大きな問題を起こすかもしれないけれど、そのときはそのときでしょう。
 そういう危険や司法の状況も含めて、どの機関も単純に信じることはできないということを、すべて白日の下にさらさなくちゃいけないんじゃないか。
 いま、ブレーキ役になるものがない状態で暴走が進んでいる。
。。。

WEBRONZA、2017年07月26日
立憲デモクラシー講座・青井未帆教授
[4]重要なのは司法の役割の明確化
違憲訴訟により市民が外から立憲主義を統治の内部に注入する

青井未帆 学習院大学大学院教授(憲法学)
http://webronza.asahi.com/politics/articles/2017071800005.html

 米軍機の飛行差し止めを回避する判決がまたも繰り返された。
 米軍基地運用に司法は口を挟めないという思考停止を脱しない限り、基地被害は永久に救済されない。

 第3次嘉手納爆音訴訟の那覇地裁沖縄支部判決は米軍機の夜間・早朝の飛行差し止めを認めず、将来分の損害賠償も退けた。

 第2次訴訟で退けられた読谷村座喜味以北の原告への賠償が認められたことを「前進」とする声も原告団にある。
 しかし安眠を妨げる夜間・早朝の飛行差し止めに踏み込まない限り、爆音被害の抜本的な改善にはほど遠い。
 米軍基地の自由使用を容認する国策追従の判決と言わざるを得ない。

100デシベルの睡眠妨害

 最大の被害は米軍機の夜間飛行の爆音だ。
 最近でも昨年2016年10月19日の午前2時半にF16機6機が離陸し最大100・2デシベルを計測した。
 住民が熟睡する深夜に「電車が通るガード下」に相当する爆音が基地周辺住民の安眠を奪う「殺人的な爆音」が日常化している。

 第2次訴訟の控訴審判決は「飛行差し止めの司法救済が閉ざされている以上、国は騒音改善の政治的な責務を負う」と国の騒音改善の責任を指摘した。
 しかし夜間飛行の横行は何ら改まっていない。
 今回の判決も「午後10時から午前6時の飛行制限が十分に履行されず、違法な被害が漫然と放置されている」と国の怠慢を厳しく批判している。
 であれば飛行差し止めに踏み込むべきではなかったか。
 国の無作為で夜間飛行が放置され、その実態を知りつつ、地裁判決は飛行差し止めを回避した。
 被害救済を放棄する国と司法の無作為、無責任の連鎖と言うしかない。

 厚木基地訴訟の2014年5月の横浜地裁判決は初めて自衛隊機の夜間飛行差し止めを命じ、15年7月の東京高裁判決は将来分の賠償をも認める初判断を下した。
 しかし昨年2016年12月の最高裁判決は自衛隊機の飛行差し止め、将来の賠償のいずれも退けた。
 それを受け那覇地裁も将来の賠償を退けた。
 住民保護に傾きかけた東京高裁判決から後退する司法の反動に那覇地裁も追従した。

 米軍機の飛行差し止めを回避する裁判所の論理は「国は米軍機運航を制限できない」とする「/ins>第三者行為論」と、その背後にある「高度の政治性を有する安保条約は司法判断になじまない」とする「/ins>統治行為論」である。
 統治行為論は米軍駐留を違憲とする一審を破棄した1959年の「砂川事件」最高裁判決が源流だ。
 しかし同判決は近年、当時の最高裁長官が日米両政府の圧力を受けていたことが米公文書で判明している。

主権と司法の独立否定

 終戦後の米国の影響下で日本の司法が歪(ゆが)められたのである。
 「国は米軍に口出しできない」、
 「司法は高度の政治問題を判断できない」
との論理は日本の主権と司法の独立の否定にほかならない。
 米軍が夜間飛行を続け国がこれを漫然と放置し、司法も救済しないのなら、爆音の発生源の基地撤去を求めるしか手だてはないのではないか。
 沖縄国際大学の友知政樹教授は、嘉手納基地返還後の跡地利用の「直接経済効果」を年間1兆4600億円と試算する。
 嘉手納基地は沖縄戦時に日本軍が飛行場を建設し、占領米軍が基地として接収した。
 故郷を奪われた住民は周辺に移り住み、今なお爆音禍に苦しみ爆音訴訟の原告に名を連ねている。
 基地撤去の要求を不当とは決して言えない。

 嘉手納基地の爆音被害を放置する政府と司法に対しては、基地撤去要求をも辞さない強い決意で爆音解消を訴え続けねばならない。
 全国の米軍基地、自衛隊基地の騒音訴訟原告団との連携も重要だ。
 政府の無作為を突き動かし、司法の「第三者行為論」を突き破る理論武装が必要だ。
 将来の基地撤去をも視野に置く、たゆまぬ裁判闘争を原告団に期待したい。


琉球新報<社説>、2017年2月24日 06:01
嘉手納爆音訴訟判決
夜間飛行容認許されぬ 差し止めぬなら基地撤去を

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-449989.html

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2018年02月15日

春よ、来い

 ヤッホー君の2018年の暦を見ますと、1月1日は元旦、1月15日は小正月、2月4日が立春、明日2月16日が旧正月、そして2月19日が雨水とあります。
 まだまだ厳寒が続きます。
 そんななか、ヤッホー君はマレーシアでの半そでの「CNY」と故郷山形の鎮守の森での「おさいど」とを重ね合わせて思い出しております。
https://www.pref.yamagata.jp/ou/norinsuisan/140017/norari/vol7/norari7HP-P04-P05.pdf

 今日は山形から代表的なムカシからの民間伝統行事を三っつばかり紹介したいな、ですって。
 どうぞお付き合いくださいな。

 一つ目は「加勢鳥」(山形県上山市):

 カッカッカーのカッカッカー ――。大雪の中、巨大なミノをまとった神の化身がかけ声と共に跳ね回る。上山市の奇習「加勢鳥」が2018年2月11日、市中心部であり、県内外からの参加者35人が、「ケンダイ」と呼ばれるミノを頭からかぶり、わらじ履きで町を練り歩いた。
 江戸時代初期から地域に伝わる「旧正月」の伝統行事。一時途絶えたものの、1959年に復活した。名前の由来は、「稼ぎ鳥」や「火勢鳥」で商売繁盛や火伏せに縁起が良いとされる。沿道の市民や観光客らは手おけを手に祝い水をかけ、願掛けしていた。
 この日は大粒の雪が降り注ぎ、「絶好の加勢鳥日和だ」と参加者ら。仙台市の鏡直紀さん(33)は「寒さがつらい分、水をかけてくれた皆さんの1年間がより幸せになれば」と話した。


[動画]
巨大なミノをまとった神の化身がかけ声と共に跳ね回る奇習「加勢鳥」

朝日新聞(山形)、2017年2月12日03時00分
大雪の中、カッカッカー 上山の奇習「加勢鳥」
(田中紳顕)
https://www.asahi.com/articles/ASK2C4284K2CUZHB001.html

 二つ目が「お柴灯(おさいとう)」(山形県朝日町):

 平成21年1月10日頃から先週末にかけて、町内各地区で伝統行事の「お柴灯」が行われました。
 お柴灯については、小正月の1月15日の行事として行われていましたが、数年前に成人の日の祝日が1月第2月曜日に定められて以来、開催日は地区によってまちまちとなっているようです。
 お柴灯に合わせて、現在町で呼び掛けている「雪あかり キャンドル通りの街」への取組みも行われ、スノーランタンのあたたかな光が各村々を照らし出しました。
 今後もオリジナリティーあふれるスノーランタンをお待ちしています。(ご一報いただければ、町広報が取材にお伺いします)

 お柴灯について少し調べてみました。

 正式な名称としては「左義長(さぎちょう)」というのが一般的。地域により「どんど焼」「さいとやき」「おにび」など様々。小正月の火祭りの行事です。

 朝日町では、伝統的に門松や竹やワラで簡易な「やぐら」を組み、それを燃やすのが一般的な風習。その際、正月のしめ飾り、祈祷札なども一緒に燃やしたりします。子どもたちは書き初めの書や絵画を燃やし、それらが高く舞い上がれば上がるほど、「(絵や書道が)上手になる」「成績が上がる」との言いならわしがあるようです。
 また、ミズキの木にさした団子を焼くのも風習。めでたい行事の一つとして、「いわい いわい(祝い 祝い)」とかけ声をかけながら団子を焼き、その団子を食べることで1年間の無病息災、五穀豊穣、家内安全等を祈願します。

 柳田國男監修 「日本民族学辞典」によれば、「火にあたると若返る」「(やぐらの)竹の音が高くはねると、一年間の天気が良い」「残りの灰を体に塗ると病気にかからない」「燃え残りの木を持ち帰って家に置くとしあわせになる」との言い伝えもあり、お柴灯の火は神聖視されているようです。
… 朝日町町史編さん専門員 鈴木治郎氏より聞き取り

[写真]

朝日町公式サイト、掲載日:2009年1月17日
動画と画像で見る朝日町、まちの写真館
お柴灯とスノーランタン
http://www.town.asahi.yamagata.jp/site/syashinkan/735.html

 三つ目が、「黒森歌舞伎」(山形県酒田市):

 黒森歌舞伎は、山形県酒田市黒森地区に270年以上前から伝わる農村歌舞伎です。毎年、旧正月にあたる2月15・17日に日枝神社の例祭で奉納します。客席が屋外にあり、雪の降る中演じられる芝居は、「雪中芝居」「寒中芝居」とも言われています。

 いつごろ始まったのか詳しい記録は残っていませんが、公演で使用する古いお面に関してまつわる伝承があります。その昔、江戸の歌舞伎一座が巡業で黒森に来たとき、地元の人が「式三番叟」の面を気に入り、譲ってほしいと頼みましたが断られてしまいました。そこで、座員に自分の家に泊まる言うに勧め、彼らが眠っている間に面も形を映し、それを元にお面を作ったという事です。そのお面が享保20年(1735)なので、すでにその頃にはもう芝居が行われていたことが分かります。

 毎年2月という寒い時期に行う理由は、黒森歌舞伎は娯楽のための歌舞伎ではなく神様に捧げる歌舞伎である奉納歌舞伎だからです。奉納先の日枝神社の祭礼が旧暦の小正月に行われるため、2月に上演します。歌舞伎を舞う座員は、全員素人で、昔の人はほとんどが農業に従事していたので、農閑期であることも多少関係していたのかもしれません。

 演目のレパートリーは約60種類あって、近年上演するのは15作ほどで、大歌舞伎でもよく演じられる有名な作品が大半です。上演する演目はくじで選びます。その年の公演が終了した後に、太夫振舞(たゆうぶるまい)という打ち上げ会が関係者の間で行われます。その時に、歌舞伎一座の若い者が一名、神社の井戸水で身を清め、事前に選んでおいた3作品の中から古式にのっとた方法でくじ引きし、一作品を選び出します。その後、配役を9月ごろに決定し、1月10日を過ぎてから立ち稽古を開始するというのが習わしとなっています。
… 山形県指定民俗文化財

NPO法人日本伝統文化振興機構、伝統文化館、黒森歌舞伎
http://www.jtco.or.jp/japanese-culture/?act=detail&id=99&p=0&c=4

http://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/minzokugeino/kuromorikabuki.html

酒田・黒森歌舞伎の正月公演
https://www.youtube.com/watch?v=pIFF1OMicZk
https://www.youtube.com/watch?v=klALQ9zh_1g

 こんなふうにしてちょっとづつ、ちょっとづつ春に向かっていきます。

春よ、来い/松任谷由美
https://www.youtube.com/watch?v=gol5dFrv4Ao
https://www.youtube.com/watch?v=Lykhh52NEXk

Through the rain the sunlight warms my heart
Fragrance sweet, a memory it calls from afar
Tears of joy flowing deep from my soul
All around, I can feel new life unfold
Up ahead, can't you see, fills the sky up above
Breathe the air, oh so sweet, all that I've waited for

Celebrate the new life that we see
I close my eyes and I feel you near to me
On this day a brand new song to sing
Thankful for all the gifts that spring will bring

Oh so dear, you hold a place in my heart
I feel you near, we've been too long apart
Through the years seasons promise anew
Loyal friend, 'til the end, I'll be waiting for you
Up ahead, can't you see, how the future unfolds
Breathe the air, oh so sweet, all that I've waited for

Celebrate the joyous days to come
On the green grasses we are free to run
I feel your touch and I can hear you sing
Thankful for all the gifts that spring will bring

Celebrate this young and fragile dream
Don't you know this is where I'll always be
As I walk along this lonely road
Your spirit it dances around me
Like a river that flows on endlessly
Like a flower the love you give to me

Celebrate the new life that we see
Close my eyes, I can feel you near to me
On this day a brand new song to sing
Thankful for all the gifts that spring will bring

Celebrate the joyous days to come
On the green grasses we are free to run
I feel your touch and I can hear you sing
Thankful for all the gifts that spring will bring

Celebrate the new life that we see
Close my eyes, I can feel you near to me
I feel your touch and I can hear you sing
Thankful for all the gifts that spring will bring


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新年快乐

Happy new year! 新年快乐
Gong Xi Fa Cai! 恭喜发财

 ヤッホー君の今日のブログ、「沖縄メディア全体を批判する情報の拡散」はお読みいただけましたか?
 そのなかに登場した Azmi Sharom 先生の最後の締めのことば「Gong Xi Fa Cai!」は「恭喜发财」!
 以下にお届けする日産の製作した動画も含め、マレーシアの旧正月のショートビデオをぜひご覧下さい!
 どれも短いのにこころの心底からのメッセージがいっぱい凝縮されてつまったとっても良い動画ばかり。
 ヤッホー君は南の叡智と呼んでいます、どっかの国の「単一性」と「選別と排除」とは大きく違います!
 では、どうぞ:

Malaysia Airlines CNY 2018 | Tradition is at the heart of MH
https://www.youtube.com/watch?time_continue=135&v=F5xbJ8zVpmc

AirAsia Pawsperous Chinese New Year 2018
https://www.youtube.com/watch?time_continue=6&v=hOojgxepuiQ

The Coming Together - TNB Chinese New Year 2018
https://www.youtube.com/watch?v=jpqT1dNOAp8

#PETRONAS CNY 2018: A Long Way Home
https://www.youtube.com/watch?v=YHa-5DLiLR8

Mr Lim’s Reunion Dinner
https://www.youtube.com/watch?v=D7uHt5HIt6c

Nissan Malaysia CNY 2018 | My One Better Than Your One
https://www.youtube.com/watch?v=Y6wB9UvO-jI

Maybank Chinese New Year 2018 - Red Packet
https://www.youtube.com/watch?v=ueKc3CrDbcg
"Conversations bring us closer!"

Pepsi/7UP Chinese New Year 2018 "Your Name,Your Story"
https://www.youtube.com/watch?v=ty-_b922ZXI


For its 2018 Chinese New Year TV commercial, Tenaga Nasional Berhad focuses on bringing elements of feel-good, nostalgia and, most importantly, the theme of coming together for the festivity.

At the launch last Thursday, TNB’s Chief Corporate Officer, Datuk Wira Roslan Ab Rahman said: “No matter how busy you are, or where you are, everybody should come together for the festival. So balik kampung and be with your family this Chinese New Year.”

What he wants the commercial to remind its viewers, too, is that no matter how important technology may be, it will never replace the relationships we have with each other.

“Nowadays, people are constantly on their phones. The Coming Together commercial is a gentle reminder of how we celebrated CNY before, and as we reminisce, to celebrate the festival in the way it needs to be celebrated, together as a family with human contact.”

The 60-second TV commercial starts off with members of a family in a house together. But each one of them are on their phones or devices with zero interaction among them.

An old photo in the phone brings one of them back to a time when her younger self and her brothers – with the help of their neighbour – put together a lion dance show in front of their house. By the end of the commercial, the protagonist gets her brothers and their neighbour to recreate the show once again as adults.

Wira said: “We at TNB feel it is our duty to bring a spark, a brightness to this celebration … Every festival is a chance for Malaysians to forge a closer relationship besides remembering the importance of friendship and unity.”

The online version of the commercial is three minutes long, detailing some of the mischief the children were up to before putting up the show.

Director Quek Shio Chuan, who also directed TNB’s Dugaan Raya Aida TV commercial for last year’s Hari Raya, is also the man behind this commercial. According to Quek, the siblings in the show are not unlike his own.

“I have one older brother and one younger sister. And my younger sister was the one who took the lead when we’re up to anything,” Quek said with a laugh. “I also used elements from my own childhood in the commercial when it came to props.”

The ad was filmed at Section 17, Petaling Jaya, for three days – sometimes well into the night – involving some 50 people in the cast and crew.

“I shot the online version and then cut it to 60 seconds for the TV commercial. It was hard, but crucial to put out something different for online and TV audiences.”

Wira added: “Producing a TV commercial is no easy task. But we want to give something back and bring cheer. We hope the commercial will rekindle the old memory and impress upon the younger generation of how we celebrated the festivity.”

After all, to quote the saying in the commercial, Chinese New Year becomes brighter when we are all in it together.

The Star, Published: February 14, 2018
It’s all about ‘coming together’ in TNB’s CNY TV commercial
By MUMTAJ BEGUM
https://www.star2.com/entertainment/2018/02/14/coming-together-tnb-cny-tv-commercial/

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ぶらりふらり有楽町

 ところで朝キンの続編。
 南町奉行所にて執務するふりをしています。
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 ねえ「執務」するわきゃ、ねえだろうよ、北町奉行所のお白洲で裁きでも受けようってか。。。
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 フランク永井が歌った「有楽町で逢いましょう」は、当時、東京・有楽町に進出した大阪のデパートのコマーシャル曲だったそうである。企業とのタイアップ曲の先駆けとも言えるこの曲の発売は、1957年というから私の生まれる前である。しかし私が小学校の時でも、テレビやラジオからよく流れていたので、昔の曲は今と違いヒット寿命が長かったのだ。この曲は京マチ子主演の同名映画の主題歌でもあった。デパートは都庁の新宿移転やバブル崩壊による景気の低迷で来客数が減り、2000年に43年の歴史に幕を閉じた。有楽町駅前にある家電量販店が、かつてのデパートである。

 有楽町マリオン正面にある説明板に以下のようにあった:

「『有楽町』の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎<おだ・うらくさい>(長益<ながます>)に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ケ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋<すきやばし>御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に『有楽町』と名付けられたのです」

 さらに次のようにあったのには驚いた。

「江戸時代、大岡越前<おおおか・えちぜん>による、いわゆる『大岡政談』で有名な南町奉行所<みなみまちぶぎょうしょ>があったのもこのあたりです」。

 こんな史実を知ると、いっそう親近感がわくではないか。

「ぼくの有楽町」は朝日新聞東京本社の原点

 有楽町は朝日新聞東京本社の原点の地でもある。同じ説明板に「ぼくの有楽町」という作家の童門冬二さんの一文がある。

「ぼくにとって戦前の有楽町は“高級な街"だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している」。

 大手新聞社がひしめき合い、日劇などもあって活気があったのだろう。現在とはまた違う華やかな空間だったのだろうか。“高級な街"とはどんな雰囲気なのか、ちょっと経験してみたかった。

 朝日新聞社の跡に建てられたのがマリオンである。中央区の築地に移転した東京本社の2階コンコースに、かつて有楽町時代の編集局で使っていた六角形のデスク(机)が展示されていた。そこには次長が詰め、一線の記者に指示を出したり、原稿のチェックをしたりしていた。次長のことをデスクというが、語源がその机である。同じ机にはアルバイトの学生も座り、電話を取り次いだり使い走りをしたりと雑用をこなしていた。この学生を「小デスク」または「子供さん」と言っていた。しかし実際に呼ぶ時は様々な呼称があるらしく、私の周りではかつて「学生く〜ん」と呼ぶ声が響き渡っていた。

 昔は手書きの原稿だったので、乱雑で判別不能の文字が多く苦労したと思う。読めない1文字を確認するため記者を捕まえようにも、携帯電話のない時代、なかなか連絡がつかず、やきもきするデスクも多かったのではないか。
 真偽のほどは定かではないが、ある先輩に聞いた話によると、仕事が一段落すると会社から行方をくらまし、有楽町駅のガード下の飲み屋で少しひっかけて次の仕事に臨んだという豪傑もいたそうである。大らかな古き良き?時代のエピソードである。

「君の名は」も「明治大学」も有楽町

 晴海通りを挟んで、マリオンの向かいに数寄屋橋公園がある。皇居のお堀が埋められてしまいなくなってしまったが、戦後の混乱期に一世を風靡したラジオドラマ「君の名は」で有名になった数寄屋橋が名の由来である。今は作者の菊田一夫の筆による「数寄屋橋跡」の碑と岡本太郎が、1966年に制作した「若い時計台」というモニュメントが置かれている。このモニュメントは大阪万博会場の太陽の塔そっくりである。私はたまにここでぼんやり時間を過すことがあるが、周りは人波が途切れることがなく、せわしい都会の喧騒の中で自分も生活していることを改めて認識し、少しつらい思いがしたりする。
 公園のそばに明治大学発祥の地碑があるが、普通の大人の背丈の半分ほどの赤い目立たない碑なので、多くの人は忙しそうにその前を通り過ぎ注目する人はほとんどいない。もしかしたらOB、OGでもこの碑の存在を知らない人は多いかも知れない。明治政府が招いたボアソナードに学んだ岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3人はフランスへ留学し、「権利自由、独立自治」の精神を普及させるために明治法律学校を設立した。いずれもまだ20代の若者であった。近代日本の黎明期、大志を抱いた若者の夢はその後大きく開花した。その学校からは陸続と有為な人材群が輩出し、日本を代表する総合大学へと発展していった。今では受験生を日本一多く集める人気大学だが、その始まりの地が有楽町なのである。

「鹿鳴館」だった場所で

 さらに晴海通りを日比谷公園方面へ行き、公園角の交差点を左に曲がりしばらく歩くと、かつて「鹿鳴館」があった場所である。そこには今、投資法人のビルになっている。黒いスーツに身を包んだビジネスマン達が足早にビルに出入りしていた。中はどうなっているのか少し興味をもったので、ビル地下の食堂街に「潜入」してみた。何軒か店があったが、お寿司屋さんが目についたので入った。大将と女将さんの2人でやっているらしかった。ちょうどお昼時だったのでランチを頼んだ。私は港町育ちなので寿司には少しうるさいのだが、思いのほかネタは新鮮でおいしく頂いた。私が鹿鳴館の碑がどこにあるのか訪ねると、私のカメラを見ながら、「歴史の勉強をしているの」と女将さんに聞かれた。「ええ、少し」とだけ答えた。なぜか照れくさく、取材とは言えなかった。

 有楽町とは首都・東京の中心として、様々な歴史ドラマが展開された地である。2・26事件(1936年)では、朝日新聞社は反乱軍に占拠され、近くの泰明小学校には政府軍が駐屯し反乱軍と対峙していた。昭和30年代のロカビリーブームに火をつけた、日劇で開催されたウエスタンカーニバルは今では伝説となっている。映画やショッピングなどの娯楽色の強い繁華街の印象が強い有楽町であるが、日本史を語る上で欠かせない重要な街でもあるのだ。日本史は有楽町で展開されたと言ったら言い過ぎだろうが、まだまだ埋もれたドラマが眠っているに違いない。私にとっても興味の尽きない街である。有楽町に寄った際はぜひじっくりと街を味わって頂きたい。様々なドラマがあったことに気づかれるだろう。

朝日新聞「ことば談話室」、2012/05/03
有楽町を歩いてみると
(中島克幸)
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2012050200005.html

 江戸の町奉行所の年末年始はどんなだったか。仰天する記録がある。「御用(ごよう)納(おさめ)」は25日、その祝いに与力同心の知り合いも客として集まり、引き続き「歳忘(としわす)れ」と称して何と大みそかまで飲み明かしたという。
 園田英弘(そのだ・ひでひろ)さんの著書「忘年会」で知った天保年間の話だが、いやはやとんでもない大忘年会もあったものである。年明けも正月17日まで諸藩の留守居役などの年礼客、芸者やたいこ持ちらも入り乱れて気ままに飲み暮らしたそうな。
 武士の酒宴のけじめのなさにあきれていたら、それと対照的な武家の「酒道(しゅどう)」について醸造学者の小泉武夫(こいずみ・たけお)さんが書いているのに出合った。江戸時代は茶道や華道などと並んで、精神修養をめざす酒道もあった(「江戸の健康食」)。
 その「主人設け」という武家の酒宴は、「座主(ざす)」が2人の接伴役(せっぱんやく)とともに客を供応する。客は「肴(さかな)司(し)」という進行役に従い「廻(めぐ)り盃(さかずき)」「競(せ)り盃」などの作法で酒を飲むが、その間正座を崩さず背筋を伸ばし、酔って乱れる者はいない。
 かた苦しい「酒道」が明治になってすたれたのは分かるし、だらだらと続く酒宴がなくなったのもよかった。世は忘年会シーズンである。江戸時代からある年中行事で、現代の方がさかんに行われているものの筆頭が忘年会のようだ。
 背筋を伸ばして飲めば体内に送られる酸素が増えて悪酔いをしにくいというから、昔の酒道にも合理性はあった。酔ってのパワハラ、セクハラめいた言動、車の運転が断じて許されないのは今日の酒道である。


毎日新聞「余録」、2017年12月15日東京朝刊
江戸の町奉行所の年末年始はどんなだったか …
https://mainichi.jp/articles/20171215/ddm/001/070/122000c

 ヤッホー君の町奉行所巡りの朝キンです。
 ではまとめてきちんと復習しましょうね:

 町奉行は江戸の市政を担当しましたが、江戸町奉行ではなく単に町奉行と称しました。老中支配に属し、1723(享保8)年の足高の制施行以後は役高が3,000石です。

★ 定員: 奉行の定員は慶長期(1596-1615)以降2名でしたが、1702(元禄15)年に1名増員されて3名となりました。しかし、1719(享保4)年以降は再び2名になりました。

★ 場所: 町奉行所が呉服橋内(南)と八重洲河岸内(北)に設置されたのは1604(慶長9)年といいます。1702(元禄15)年には鍛冶橋内にも新役所が設置されましたが、1719(享保4)年に廃止されました。1806(文化3)年以降は、数寄屋橋門内が南町奉行所、呉服橋門内が北町奉行所として固定しました。

★ 職掌: 町奉行が管轄したのは、江戸市中から武家地・寺社地を除いた町地です。ここに属する町及び町人に関して、行政・立法・司法・治安警察・消防・災害救助などにわたり支配しました。奉行の勤務は南北奉行所の月番制で、当番の月には午前10時頃登城し、午後2時頃下城してから町奉行所で訴訟その他の政務を処理しました。

★ 組織: 奉行所内の属僚である与力・同心のほか、囚獄方・本所道役・本所奉行(享保4年廃止)などを配下とし、また、3人の町年寄を通して江戸の町を支配しました。
☆ 与力: 江戸幕府は、諸奉行や番頭・物頭などを隊長としてこれに与力を付属させました。付属された与力は騎士の称であったため、一人を一騎と称しました。なお、与力は御目見以下の御家人でした。町奉行支配下の与力は、一時を除いて奉行が2人であったため2組、各25騎、全体(南町・北町奉行所)で50騎でした。彼らの給地は各200石でしたが、個人に直接宛がわれたものではなく、与力全体に上総・下総国において1万石が与えられていました。
☆ 同心: 江戸時代の下級武士の役職名です。幕府は職制において番頭職・諸奉行職の主要なものに同心を付属させ、多くの場合同心の上役に与力をおきました。町奉行所の同心は240人(南町・北町奉行所各120人)といわれ、町方同心・町同心とも呼ばれました。彼らは町奉行配下の与力に分属して与力を補佐し、町奉行所の政務を分担しました。その多くは与力の職掌分掌(内与力・年番方・例繰方・吟味方・牢屋見廻りほか)ごとに同心2名位の割合で配属されました。他に用部屋手付や三廻りといわれる、隠密廻り・定廻り・臨時廻りのほか、下馬廻り、門前廻りなどがありました。身分的には御抱席一代限りの奉公ですが事実上は世襲されました。役格は年寄から無足見習までの11格がありました。また、俸禄は30俵2人扶持を標準とし、格によって若干の差がありました。
 与力・同心の組屋敷は、1719(享保4)年以降八丁堀に集中していたため、俗に「八丁堀の旦那」「八丁堀御役人衆」などと呼ばれました。
☆ 岡っ引(目明し): 手先・小者・御用聞きなどともいいます。江戸町奉行所では三廻り(隠密廻り・定廻り・臨時廻り)の同心が自筆の手札を渡し、建前は物持人足の名目で給金を与えて雇傭した私的使用人です。岡っ引は市中監察や情報収集のため同心が手先として使いましたが、やくざとの二足のわらじを履いた者も多かったといいます。幕末には南北奉行所で400人近くおり、子分も加えると1,000 人に達したといいます。


千葉市図書館
江戸の町と時代小説、宮部みゆき・池波正太郎・松本清張を中心に
町奉行所、町奉行ほか

http://www.library.city.chiba.jp/news/pdf/20140926hanadanchi.pdf

 でもヤッホー君、「一件落着」には程遠いようで、宿題ももらったような …

 地名は有名だが、「まだお年寄りじゃないから」という多少の抵抗感もあり、訪れたことがなかった巣鴨。実は気になっているところもあった。いざ、ぶらりふらり――。

 巣鴨には江戸六地蔵の一つ「地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)」のある眞性寺(しんしょうじ)など周辺にざっと数えても20を超えるお寺が点在している。その中でも有名なのは、巣鴨の代名詞となっている「とげぬき地蔵」で親しまれている高岩寺(こうがんじ)だ。もともと今の千代田区外神田にあった高岩寺は火事で焼失し、上野に移転。上野駅整備のため、1891年に巣鴨の現在地に移ってきた。

 地蔵通り商店街の入り口付近にある高岩寺。本堂にまつられている本尊「延命地蔵菩薩」は一寸ほどの地蔵尊像で、この俗称が「とげぬき地蔵」だ。本堂参拝後の多くの人が境内に列をなす。石像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰の「洗い観音」だ。以前はたわしでごしごしと洗っていたが、石像がすり減ったため、1992年に2代目となる今の石像に代わったという。初代は2代目の後ろの厨子(ずし)の中。今は布で洗うことになり、石像の横で売っているタオルを100円で購入し、腰痛に悩む腰をソフトにごしごし。おっと、中腰になった時点で痛みが走る。まだ信心が足りないようだ。

 千葉県松戸市からやってきた高松すえさん(76)は友人の槙原とみ子さん(74)と、高岩寺の縁日となる「四のつく日」にほぼ毎月訪れ、観音さまを洗う。

 「足が丈夫なのでこうして出歩くことができるのが幸せ。いつも観音さまのひざを丁寧に洗っているおかげ」と高松さん。「耳が遠いので、振り込め詐欺の電話を撃退したことがある。耳はこのままでいいんです」
◆ ◆ ◆
 記者として事件担当が長かったこともあり、巣鴨にあるという著名人のお墓を訪れてみたかった。「遠山景元(かげもと)」。一見すると分からないが、テレビドラマで有名な「遠山の金さん」だ。

 都中央卸売市場豊島市場のそばにある本妙寺に金さんは眠る。

 いろんな文献を調べてみると、北町と南町の両方の奉行を務めた異能の人だった金さん。今で例えると、警察官と裁判官を一人でこなす「ジャスティ〜ス」(正義)というところか。

 「遠山金四郎景元」は1793年生まれ。「桜吹雪」の入れ墨は「花びらだけ」「全身にあった」など諸説あり、そもそも本当にあったかどうかも分かっていないという。

 奉行時代に寄席など大衆文化を守ったことが縁で、金さん死後に講談や歌舞伎でも演じられるようになり、ドラマのような物語パターンが定着したとされる。金さんが手がけた事件や裁きを残す文献はないという。

本妙寺には剣豪・千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓などがある。金さんの墓は、その少し先にあった。

 墓前に立って手を合わせ、静寂の中に、しゃがんで改めて墓を見上げる。「引っ立ていっ」。お白洲(しらす)の前で半身になり遠山桜を見せる金さんに裁きを受けている姿が思い浮かぶ。

 自ら現場に潜入して証拠をつかみ、弱きを助ける。その姿は、仮に物語だとしても英雄像として心に残る。記者としては、金さんは取材してみたい人物だった。

 巣鴨を訪れ、金さんの墓前に手を合わせる願いはかなった。

 「これにて一件落着!


朝日新聞、2018年01月11日
ぶらりふらり
東京)念願の金さん墓参 一件落着 巣鴨

(佐々木健)
http://www.asahi.com/area/tokyo/articles/MTW20180111131520001.html

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沖縄メディア全体を批判する情報の拡散

THERE is going to be a law against fake news, it seems. How reassuring.

Personally, I hate the term “fake news” because every time it is used, it brings to mind a certain orange individual who pokes his tiny index fingers in the air and petulantly decries any news that he doesn’t agree with as fake news.

The overuse of the term is now actually a threat to logic and reason because if anything can simply be decried as false (as opposed to being proven as false) by the powerful and small-minded, then what is the fate of truth? (*)

However, it can’t be denied that in this information age, falsities are easily disseminated.

But do we need a new law to fight this? And more importantly, will this new law be used to quell dissent?

I can’t comment on the proposed law because I have not seen a draft of the Bill; however, my fears remain. Let me explain why.

When the Penal Code was amended to include offences that are a “threat to parliamentary democracy”, we were promised that it was aimed at terrorist activities. Instead, we see it as a tool to investigate and detain organisers of peaceful demonstrations.

Our multimedia laws have provisions that are supposed to protect individuals against cyber offences such as “revenge porn” and the like.

Instead, the law is used to punish news portals that are simply reporting the news. It’s just that there are people who don’t like what is being reported.

And specifically on the so-called false news (notice how I am studiously avoiding the popular term), let us not forget that the Printing Presses and Publications Act 1984 has a provision on the publication of such things already. And by the way, this provision was used against the late Irene Fernandez. For what reason?

Because she chose to expose the appalling conditions that undocumented migrants had to endure when in detention.

So it would appear that we have a history of laws being made and the people being told that the laws are for one thing and instead they are used for another thing, namely, the suppression and oppression of legitimate democratic dissent and the freedom of expression.
This being the case, I think that no matter how they may cloak the proposed new law under seemingly noble intentions, history has shown that the use of such laws is hardly noble.

I apologise for writing a cynical and rather dreary piece at this time when we should instead be celebrating and having a good time.

So I will end on a happy note, at least for me – Tottenham Hotspur 1 Arsenal 0 (**).

Gong Xi Fa Cai!

The Star, Published: Wednesday, 14 Feb 2018
Do we need new law for ‘fake news’?
By Azmi Sharom, a law teacher
https://www.thestar.com.my/opinion/columnists/brave-new-world/2018/02/14/do-we-need-new-law-for-fake-news-not-everything-that-starts-with-noble-intentions-ends-with-noble-ou/

【参照】
トランプ米大統領のツイッターに世界中がざわつくという異様な日々が始まっています。気に入らない事実を報道したメディアを「フェイクニュース」と罵倒しつつ、ツイッターで人々に直接働きかけて喝采を集める手法です。そんな「ポスト・トゥルース時代」の深層を、憲法学者の木村草太氏と作家の新城カズマ氏が3回に分けて読み解きます。

WEBRONZA、2017年03月15日
ポスト・トゥルース時代の深層に迫る
http://webronza.asahi.com/politics/themes/2017030700002.html

(*)
 昨年2017年12月1日に沖縄自動車道を走行中の米海兵隊曹長の男性が、意識不明の重体となった人身事故で、産経新聞が「曹長は日本人運転手を救出した後に事故に遭った」という内容の記事を掲載し、救出を報じない沖縄メディアを「報道機関を名乗る資格はない」などと批判した。

 しかし、米海兵隊は29日までに「(曹長は)救助行為はしていない」と本紙取材に回答し、県警も「救助の事実は確認されていない」としている。

 産経記事の内容は米軍から否定された格好だ。県警交通機動隊によると、産経新聞は事故後一度も同隊に取材していないという。産経新聞は事実確認が不十分なまま、誤った情報に基づいて沖縄メディアを批判した可能性が高い。産経新聞の高木桂一那覇支局長は「当時のしかるべき取材で得た情報に基づいて書いた」と答えた。

 昨年12月9日に産経新聞の高木支局長は、インターネットの「産経ニュース」で「沖縄2紙が報じないニュース」として、この事故を3千字を超える長文の署名記事で取り上げた。「日本人運転手が軽傷で済んだのは曹長の勇気ある行動があったからだ」と紹介し、沖縄メディアに対し「これからも無視を続けるようなら、メディア、報道機関を名乗る資格はない。日本人として恥だ」と断じた。

 同12日には産経新聞本紙でも「日本人救った米兵 沖縄2紙は黙殺」という見出しで、曹長の回復を祈る県民の運動と共に報じている。ネットでは県内メディアへの批判が集中し、本紙にも抗議の電話やメールが多数寄せられた。

 しかし海兵隊は現場で目撃した隊員の証言などから1月中旬、「(曹長は)他の車両の運転手の安否を確認したが、救助行為はしていない」と回答。県警交通機動隊によると、事故で最初に横転した車の運転手は当初「2人の日本人に救助された」と話していたという。

 海兵隊によると、曹長は意識を回復しリハビリに励んでいるという。産経ニュースはその後、曹長の回復や事実誤認については報じていない。

 批判を受けて琉球新報は高木支局長に
(1)どのように事実確認をしたのか
(2)県警に取材しなかったのはなぜか
(3)沖縄メディアには取材したのか
の3点を質問した。高木支局長は23日に取材に応じ「当時のしかるべき取材で得た情報に基づいて書いた」と答えた。

海兵隊、投稿を訂正/「誤った情報の結果」

 事故は昨年12月1日午前4時50分ごろ、沖縄市知花の沖縄自動車道北向け車線で発生した。最初に左側の車線で追突事故が発生し軽自動車が横転した。追突現場の後方で停車した別の車に曹長の運転する車が接触し、さらに後ろから米軍の貨物車が衝突した。その後、後方から追い越し車線を走ってきた米海兵隊員の運転する乗用車に、路上にいた曹長がはねられた。

 米海兵隊第3海兵兵站(たん)群の英語ホームページ記事によると、曹長は接触事故後に現場にいた別の隊員に近づき無事を確認した後「自分の車を動かすよ」と言って離れた直後にはねられたという。

 在日米海兵隊のツイッターでは12月、曹長へ回復を祈るメッセージを送る県民の運動について発信する際に「多重事故で横転した車から県民を救出した直後に車にひかれ」と、救助したと断定した書き方をしていた。その後、このツイートは「多重事故で車にひかれ意識不明の重体になった」と訂正された。

 海兵隊は取材に対し「事故に関わった人から誤った情報が寄せられた結果(誤りが)起こった」と説明している。

<視点> 事実確認を最重視

 本紙は12月2日付朝刊で事故の発生と曹長の男性が意識不明の重体で搬送されたことを報じた。インターネットの産経ニュースの報道後「なぜ救助を伝えないのか」という意見が本紙に多く寄せられた。

 続報を書かなかった最大の理由は、県警や米海兵隊から救助の事実確認ができなかったからだ。一方で救助していないという断定もできなかった。海兵隊は、現場にいた隊員の証言から「他の車の運転手の状況を確認はしたが救助行為はしていない」と回答したが、曹長が誰かを助けようとしてひかれた可能性は現時点でも否定できない。

 曹長自身も接触事故を起こしてはいるが、あくまでも人身事故の被害者であり、一時は意識不明に陥った。救助を否定することでいわれのない不名誉とならないか危惧した。

 それでも今回報道に至ったのは、産経新聞が不確かな「救助」情報を前提に、沖縄メディアに対して「これからも無視を続けるようなら、メディア、報道機関を名乗る資格はない。日本人として恥だ」と書いたことが大きい。

 産経新聞の報道が純粋に曹長をたたえるだけの記事なら、事実誤認があっても曹長個人の名誉に配慮して私たちが記事内容をただすことはなかったかもしれないが、沖縄メディア全体を批判する情報の拡散をこのまま放置すれば読者の信頼を失いかねない。

 曹長の回復を願う家族の思いや県民の活動は尊いものだ。しかし、報道機関が報道する際は、当然ながら事実確認が求められる。最初に米軍側が説明を誤った可能性を差し引いても、少なくとも県警に取材せずに書ける内容ではなかったと考える。

 産経新聞は、自らの胸に手を当てて「報道機関を名乗る資格があるか」を問うてほしい。


[写真]
車両6台の衝突事故が発生、北向け車線が通行止めとなった沖縄自動車道=2017年12月1日午前10時半ごろ、沖縄市知花

琉球新報、2018年1月30日11:56
産経報道「米兵が救助」米軍が否定 昨年12月沖縄自動車道多重事故
(本紙社会部・沖田 有吾)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-655697.html

(**) Tottenham Hotspur 1 Arsenal 0

我々が間違っていた。認めざるを得ない事実だ

 押しも押されもしないトッテナム・ホットスパーの大エースで、世界でも指折りのストライカーへと成長を遂げたハリー・ケイン。現在23得点を挙げ、3シーズン連続のプレミアリーグ得点王に邁進する24歳のイングランド代表FWが「ずっと忘れられない」と語ってきたのが、8歳で直面した出来事だ。
 
 当時アーセナルのアカデミーに籍を置いていたハリー少年は、入団からわずか1年で放出されてしまう。「本当にショックだったけど、いつか見返してやると誓い、悔しさを糧に頑張ってきた。いまとなれば輝かしい思い出」と本人は振り返る。その後ワトフォードを経て、ずっと心のクラブであったトッテナムに11歳で入団。「だからノースロンドン・ダービーは異常なまでに燃えるんだ」と話すケインは、土曜日のアーセナル戦でも決勝ヘッドをねじ込み、1−0の快勝に貢献。スパーズ(トッテナムの愛称)では142試合で101得点を挙げており、すでに生ける伝説となっている。

 アーセナルにとって「逃がした魚は大きかった」わけだが、なぜ目利きの指導者が揃う育成の名門が才能を見抜けなかったのか。その理由が明らかになった。
 
 イタリアの全国紙『Corriere della Sera』が2月11日の紙面で組んだ特集は、チャンピオンズ・リーグ(ラウンド・オブ16)のユベントス対トッテナム戦のプレビュー。そのなかで、かつてアーセナル、ユーベ、インテルで活躍した元アイルランド代表MF、リアム・ブレディ氏を直撃している。稀代のプレーメーカーは1996年から2014年まで、アーセナル育成部門で要職を歴任していた。
 
 ブレディ氏は、ケイン少年のことをよく覚えていると語り、こう続けた。
 
「早い話が、彼は太っていて、運動能力も低かったんだ。不幸にもね。当時の評価基準では諦めるほかなかった。でも、明らかに我々の間違いだったよ。それは認めざるを得ない事実だ。トッテナムは若い彼を3、4回、下部のクラブにローン移籍させたけど、一度トップでチャンスを掴んでからの歩みは本当に輝かしいものだった。素晴らしいキャラクターの持ち主で、常に進化するために貪欲な取り組みを続けている。いまやリオネル・メッシ、クリスチアーノ・ロナウド、ロベルト・レバンドフスキに次ぐ存在だろう。まだ24歳。末恐ろしいね」
 
 はたしてこの言葉を聞いて、ケインはどう感じるのだろうか。いまや推定市場価格が1億2000万ユーロ(約156億円)に達し、レアル・マドリーが引き抜きに本腰を入れるワールクラス。現地時間2月13日には、ユベントス・スタジアムでセリエA王者の牙城に挑む。


【動画】トッテナムが自画自賛! 11人全員でパスを繋いだ超絶ゴールがスゴイ!

Yahoo Japan ニュース、2/13(火) 6:10配信
8歳でアーセナルを“クビ”になったケイン…なんと理由は「太っていたからさ」
[出処]サッカーダイジェストWeb版
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180213-00035603-sdigestw-socc

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2018年02月14日

原油流出1ヶ月、日本への被害懸念

 先月、タンカー事故で原油流出したことがあって、その後の経緯を追った記事が載ってないようですので、ここで注意喚起!
 メディア各記者が徹底して各地に取材し、それに基ずく記事を新聞に即、掲載していただけるようお願いしたいと思います。
 といいますのは、本日のマレーシア紙にニューヨークタイムズ紙の記事が転載されていたからです:

New Straits Times, Published: February 14, 2018 - 12:40pm
Invisible oil spill threatens Asia's richest fisheries
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/02/335375/invisible-oil-spill-threatens-asias-richest-fisheries

 では順を追って:

 東シナ海でイランのタンカーが中国の貨物船と衝突した事故で、日本の排他的経済水域(EEZ)内で沈没したタンカーから油が漏れ出している。環境汚染への懸念から、日中の海洋当局が対応に当たっている。
 中国交通運輸省などによると、タンカー「SANCHI」(8万5000トン)はイランの海運会社の所有で軽質原油「コンデンセート」14万トンをイランから韓国に運んでいた。6日夜に長江河口沖300キロで中国の貨物船と衝突。炎上しながら日本に向かって漂流し、14日に奄美大島(鹿児島県)の西約300キロの地点で火勢が強くなり、沈没した。乗組員のイラン人とバングラデシュ人32人のうち、3人は遺体で発見され、残りも生存は絶望視されている。
 巡視船などを派遣している第10管区海上保安本部によると、17日午後2時現在、油は幅約300メートルの帯状になり、東西28キロ、南北35キロの範囲内で浮いているのが確認された。
 海保は油を揮発させるために船を走らせて拡散しており、「油膜は拡散して消滅しつつある」とした。
影響考えにくい
 海洋の油汚染問題に詳しい東海大海洋学部の斉藤雅樹教授は「コンデンセートは元は気体のものを液化しており、長時間の火災などで流出油の大半が燃えたか気化してしまった可能性が高い。気化したものを吸い込めば健康被害が出る可能性があるが、沿岸からかなり離れた場所なら影響は考えにくい」と指摘している。


毎日新聞、最終更新1月17日23時27分
EEZ内
沈没タンカーから油 日中海洋当局が対応

(林哲平/上海支局、工藤哲)
https://mainichi.jp/articles/20180118/k00/00m/030/110000c

 東シナ海で1月6日にタンカーが貨物船と衝突、積み荷の原油が大量に流出した事故から1カ月が経過した。ネット上では「黒潮に乗って日本近海が汚染される」「漁業が全滅する」と不安が広がっている。日本の海への影響を追った。

軽質原油の大規模流出は前例なし

 中国当局によると、衝突は上海の東約300キロで発生。タンカーは石油精製でできる軽質原油(コンデンセート)11万トンと重油1900トンを積み、衝突後に南東へ漂流。鹿児島・奄美大島の西約300キロの日本の排他的経済水域(EEZ)内で1月14日に炎上、沈没した。
 軽質原油10万トン超を積むタンカーの沈没は前例がなく、英国の国立海洋研究センターは拡散の予想を公表。3月初めに関東沖にも到達すると警戒を呼びかけ、ネット上で悲観論の根拠となっている。ただし同センターは、流出量が不明で正確な被害予測は難しいと説明している。予測には流出量や揮発しやすい軽質原油の性質を考慮する必要がある。
 中国当局は船や人工衛星で拡散状況を調べている。1月末時点で沈没海域延べ約80万平方キロを監視し、360カ所の水質検査で11カ所から基準値を超す油関連物を検出したとして「環境に一定の影響がある」と見る。
 日本の第10管区海上保安本部は現場で船を走らせ、スクリューで軽質原油を揮発、拡散させる作戦を進めている。

奄美には油回収のボランティアも

 よりやっかいなのは、揮発しにくい重油だ。1997年、島根県隠岐島沖の日本海で沈没したロシアのタンカー「ナホトカ号」から重油約6000トンが流出し、島根から福井、石川にかけて漂着。海辺が油で真っ黒になった。
 今回の事故の流出規模はそれらより小さいが、油断はできない。
 重油とみられる漂着物は1月27日に鹿児島県のトカラ列島で、2月1日以降は奄美大島や周辺の喜界島、徳之島、沖永良部島で確認された。奄美大島の朝仁(あさに)海岸では、人のこぶし大の黒い漂着物が波打ち際に大量に打ち寄せられ、表面を崩すと油のにおいがする。鹿児島県などは2次汚染防止のため、むやみに触らないよう呼びかけている。
 海岸を犬と毎日散歩するという女性(52)は「犬と一緒に砂浜に入ったら、足が油だらけになった。犬の足の油はまだ完全には取れていない」と戸惑う。地元の漁師は「サンゴが死滅してプランクトンがいなくなり、漁獲に影響が出る可能性もある。春に出荷するモズクの養殖網も心配だが、それ以上に奄美の海で油が流れているという風評被害が恐ろしい」と懸念している。
 すでに福岡県などから油回収のボランティアたちが来ており、県は6日、朝仁海岸に回収箱を置き、分別や処理の方法を検討している。

 首相官邸の危機管理センターには2日、情報連絡室が設置され、関係省庁の会議が開かれた。中川雅治環境相は6日、閣議後の記者会見で「3日に奄美大島で油の付いたヒヨドリの死骸が確認された。釣り糸がからまり、油漂着で死亡した可能性は低い」と述べ、現地調査を検討していると説明した。

英国研究所の予測を疑問視する声も

 鹿児島大の宇野誠一准教授(環境汚染学)によると、過去にこれほど大量の軽質原油が海に流出した例は聞いたことがないという。だが、軽質原油は短時間で揮発しやすく、水に溶けて拡散しやすい。その上、重油などに多く含まれる「多環芳香族(たかんほうこうぞく)炭化水素」という毒性の強い化学物質の含有量が少ない。
 英国の国立海洋研究センターなどの研究チームが関東や東北の沿岸に汚染が広がるとの予測を公表したが、宇野さんは「軽質原油の希釈、拡散を反映していない過大予測ではないか」と疑問視する。沈没時の火災で多くが燃焼した可能性も考えられるという。
 奄美大島などに漂着しているのは重油で、脱脂綿でも吸着できないほど粘り気が強いという。宇野さんは「放置すれば何年間も分解せず残り続ける」として、人の手で取り除くしかないと指摘。「付着性の貝への影響は出るかもしれない。しばらく食べるのは避けた方がよいだろう」と話す。
 宇野さんは、海面に浮かぶ油膜は減り、鳥や魚への影響も少ないと予想。「一時的、局所的な生態系への影響がないとは言い切れないが、海から強い油臭がするような状況でもなく、影響は小さいだろう」と冷静に受け止めている。


[写真―1]
1月に上海沖で貨物船と衝突したパナマ船籍のタンカー「サンチ」=2018年1月9日撮影、ロイター
[写真―2]
鹿児島・奄美大島の朝仁海岸に重油とみられる漂着物が大量に打ち上げられている=2018年2月1日午後4時38分、神田和明撮影
[図]1月の原油流出事故の経緯

毎日新聞、最終更新2月7日11時55分
東シナ海衝突
原油流出1カ月、日本への影響は 被害懸念

(林哲平/上海支局、神田和明/奄美通信部、阿部周一/科学環境部)
https://mainichi.jp/articles/20180207/k00/00m/040/066000c

ZHOUSHAN, China − A fiery collision that sank an Iranian tanker in the East China Sea a month ago has resulted in an environmental threat that experts say is unlike any before: An almost invisible type of petroleum has begun to contaminate some of the most important fishing grounds in Asia, from China to Japan and beyond.

It is the largest oil spill in decades, but the disaster has unfolded outside the glare of international attention that big spills have previously attracted. That is because of its remote location on the high seas and also the type of petroleum involved: condensate, a toxic, liquid byproduct of natural gas production.

Unlike the crude oil in better-known disasters like the Exxon Valdez and the Deepwater Horizon, condensate does not clump into black globules that can be easily spotted or produce heart-wrenching images of animals mired in muck. There’s no visible slick that can be pumped out. Experts said the only real solution is to let it evaporate or dissolve. Absorbed into the water, it will remain toxic for a time, though it will also disperse more quickly into the ocean than crude oil.

Experts say there has never been so large a spill of condensate; up to 111,000 metric tons has poured into the ocean. It has almost certainly already invaded an ecosystem that includes some of the world’s most bountiful fisheries off Zhoushan, the archipelago that rises where the Yangtze River flows into the East China Sea.

The area produced five million tons of seafood of up to four dozen species for China alone last year, according to Greenpeace, including crab, squid, yellow croaker, mackerel and a local favorite, hairtail. If projections are correct, the toxins could soon make their way into equally abundant Japanese fisheries.

Exposure to condensate is extremely unhealthy to humans and potentially fatal. The effects of eating fish contaminated with it remain essentially untested, but experts strongly advise against doing so.

“This is an oil spill of a type we haven’t seen before,” said Paul Johnston, a scientist at Greenpeace Research Laboratories at the University of Exeter in England. “Working out the impact is actually a huge task − probably next to impossible.”

For China, the disaster has become a test of its ambitions as a global and regional steward of the seas, especially at a time when it is reinforcing its territorial claims, including disputed territories with Japan in these waters. Given its proximity, China has taken the lead in investigating the disaster and monitoring the spill, but it has faced some criticism for what some see as a slow and inadequate response thus far.

Officials in Beijing announced on Feb. 1 that samples of fish taken within four to five nautical miles of the sunken ship contained traces of petroleum hydrocarbons, suggesting possible condensate contamination; they pledged to expand the range of testing to 90 miles, and closely monitor fish coming into markets.

The threat of contamination has raised anxiety in the ports that cling to the rugged coastlines of Zhoushan’s islands, though such fears are usually expressed with quiet resignation lest one offend the government.

“The quality will go down because of the oil in the water,” Hai Tao, a fish wholesaler at the International Aquatic Product City in Putuo, a district on Zhoushan’s biggest island, said as he watched a ship unload hundreds of crates of mantis shrimp, a delicacy headed to restaurants across China.

The spill began on the evening of Jan. 6, when the Sanchi, a Panamanian-flagged, Iranian-owned tanker, collided with a cargo ship in waters roughly 160 nautical miles east of Shanghai. The Sanchi exploded and burned for more than a week before sinking. All 32 crew members are presumed dead.

Katya Popova, a senior research scientist at the National Oceanography Center in England, said there had not been a sufficiently coordinated international operation, and that was exacerbating the scale of the disaster.

The lack of visible devastation has almost certainly dampened public reaction that might have galvanized a more vigorous response.

“A much larger-scale operation is needed,” she said. “It hasn’t been monitored. It’s a mystery.”

In Beijing, officials have been eager to demonstrate that the government was doing everything possible first to respond to the disaster and then to protect the health of its economically and politically sensitive fishing industry, which employs 14 million people.

They have issued regular statements and held briefings, showing video of efforts to clean up the condensate and to monitor the sunken wreck, which was located at a depth of 115 meters, or about 377 feet. It is believed to still be leaking condensate and other fuels.

Han Xu, deputy director of the fisheries administration bureau of the Ministry of Agriculture, told reporters at a news conference in Beijing late last month that the accident had “a certain impact on the density of fishery resources” in the area, but that the government did not yet know the extent of the threat.

“At present, the investigation and monitoring are still ongoing and we are awaiting results of investigations into pollution and successive fishery resource investigations,” he said.

In the meantime, the authorities have ordered a ban on fishing in the areas affected.
In the East River Fish Market in Putuo, one seller brusquely dismissed questions about the spill as she stood beside a stall full of fish, including a tuna selling for roughly $100. “Our fish are not from out there,” she said, though some of them very likely were.
The size of the area affected by the disaster has expanded and contracted. At one point in January, there were three different spills spotted on the surface, covering an area that measured more than 128 square miles. Complicating the calculations is uncertainty about the amount of condensate that ended up in the water.

China’s Ministry of Transportation initially played down the possibility of a spill, then said 136,000 metric tons had been lost. Later, it revised the figure downward to 111,000 tons − still enough to make it the worst tanker spill at sea since 1991.

Some of the condensate may have burned off in the fires, sparing the sea, but contaminating the air. Officials said they were testing air samples in the provinces around Shanghai.

If any fuel washes ashore, there may be ways to limit the damage in the immediate vicinity, with machines or by hand. But the biggest issue now seems to be that nobody knows the scale of the problem or which parts of the high seas are affected.

The spill is already drifting east toward Japan, but winds and currents can be unpredictable. The contamination could even reach waters as far off as Tokyo.

The Japanese Coast Guard has announced that black globules had been found on at least nine islands along the chain between Okinawa and the main Japanese islands. Those would not be from the condensate, though they could be other oil from the Sanchi wreck.

In any case, the discoveries suggested the condensate may have already reach Japan’s third most important fishery, teeming with bonito and yellowfin tuna. A dead sea turtle, evidently choked by oil, washed ashore on one island, Amami Oshima.

Hiroshi Takahashi, a fisheries official in Kagoshima, said that the impacts of the spill on seafood were “the biggest concern right now.”

The cause of the disaster remains a mystery. The Sanchi was nearing the end of its voyage to South Korea through one of the most heavily traversed parts of the world’s oceans when it collided with the CF Crystal, a bulk carrier flagged in Hong Kong that was delivering grain to China from the United States.

As the Sanchi erupted into flames, the Crystal managed to make harbor − and is now in one of Zhoushan’s many ports.

At least five Chinese Coast Guard ships, aided by fishing boats, led the rescue efforts and the long struggle to extinguish the blaze that consumed the tanker for eight days before it sank on Jan. 14. Japan and South Korea each sent one ship, and the United States Navy sent a P-8A Poseidon aircraft from Kadena Air Base on Okinawa.

A Chinese emergency team in flame-resistant suits at one point boarded the burning ship, recovering the bodies of two crewmen and the “black box” data recorder before the intensity of the heat drove them off. One other body was pulled from the sea.

On the Shengsi islands, the part of the Zhoushan archipelago that was closest to the accident, the spill could threaten an industry already strained by polluted runoff from the Yangtze and by overfishing.

At one village nestled in a harbor, three boats unloaded their final catches before the start this week of the Lunar New Year holidays. An astounding variety of fish were sorted dockside into plastic trays. Wu Zhihong, who with her husband owns one of the trawlers, said the catch over the last year had been an improvement over the year before.

Ms. Wu expressed hope that the damage from the spill would be limited, absorbed into a wider, forgiving ocean. “The sea is very big,” she said amid a cacophony of fishmongers who descended on the pier to bargain over the catch.


[photo-1]
A fishing boat approaching harbor in Zhoushan, China. When the Sanchi, an Iranian fuel tanker, sank in the East China Sea in January, it released the largest spill in decades, threatening important fisheries.
[photo-2]
At left, the tanker Sanchi billowing smoke off the coast of eastern China on Jan. 10. At right, six days later, a fuel spill visible on the East China Sea.
[photo-3]
Chinese fishermen in Zhoushan. The authorities have ordered a ban on fishing in nearby waters that last year produced five million tons of seafood, according to Greenpeace.
[photo-4]
A buyer checking fish on Sijiao Island, in the Zhoushan chain. There are fears that the spill could threaten the fishing industry that sustains ports like this one.
[photo-5]
A flotilla of fishing boats in one of Zhoushan’s harbors. China’s fishing industry employs 14 million people, making the spill a sensitive topic.
[picture]
A tanker carrying 111,000 metric tons of toxic fuel sank to the bottom of the East China Sea after a collision in January. China found the tanker and released this video of the wreckage from an underwater robot.
[map]

The New York Times, Published:FEB. 12, 2018
A Nearly Invisible Oil Spill Threatens Some of Asia’s Richest Fisheries
Steven Lee Myers reported from Beijing and Zhoushan, and Javier C. Hernández from Beijing. Olivia Mitchell Ryan contributed research from Zhoushan, Zoe Mou from Beijing, and Hisako Ueno from Tokyo.
https://www.nytimes.com/2018/02/12/world/asia/china-condensate-oil-spill-tanker-cleanup.html

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出発の歌を数寄屋橋公園で

上條恒彦(1940年生まれ)&六文銭/出発の歌-失なわれた時を求めて-(1971年):
https://www.youtube.com/watch?v=UpGAbw69sBk

 あっ、まちがい、どうしたんでしょ。これは「君の名は」(織井茂子、1953年)でした。
 こちら:
https://www.youtube.com/watch?v=rWNbtM2jHc0

上條恒彦は「男はつらいよ」第15作、寅次郎相合い傘にも出演しています:
https://www.youtube.com/watch?v=KtdxuPJWoqg

 ゴーギャン(1848‐1903)を描いた映画「楽園への旅」を観たあと、そう急に春の光りを慕って旅情、旅こころがヤッホー君に芽生えてきたんだそうで。
 まずは銀座の時計塔で時間をあわせて、と。
 だってさ、1893年8月にタヒチからパリに戻り、タヒチへの2度目の出国は1895年6月!
 そのころに銀座の初代時計台ができあがっていくのです。
 ちなみに日清戦争は1894〜1895年!清は日本に台湾を割譲。
 なんだか時空を飛ぶようですが、足慣らしのモーニング・ウオーキング、朝キンさ、だって。

 東京・銀座の高級商業施設「和光」は、東日本大震災の発生から1年になる2012年3月11日午後2時46分に、シンボルの時計塔の鐘を特別に11回鳴らすと発表した。
 ふだんは営業時間内に限って、時刻が59分から00分に変わるたびに鳴らしている。震災の犠牲者の追悼のため、今回はじめて定時以外に鳴らすことにした。黙祷(もくとう)の目安になるよう、11回鳴らし始める1分後の2時47分にもう1回鳴らす。
 銀座4丁目交差点に面した1階のショーウインドーには、被災地に向けた市民からのメッセージや東北6県の県鳥の絵の入ったポストカード1千枚をはりつける。それを通行人が自由に持ち帰ることができるようにして、「カードを誰かに出してもらうことで、メッセージが広がってくれたら」(広報)という。


朝日新聞、2012年3月9日18時17分
銀座・和光の鐘で震災追悼 地震発生時刻に初の試み
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201203070527.html

 初代時計塔が完成したのは1894(明治27)年。
 和光の前身である服部時計店の創業者・服部金太郎が、銀座4丁目交差点角地の朝野新聞社屋を買い取り、増改築の末に、1895(明治28年1月、服部時計店はこの新店舗で営業を開始しました。
 その後、大正の好況期に入り、建て替えが計画されたものの、1923(大正12)年の関東大震災により建設を中断。また、営業中の仮店舗も焼失しました。工事が再開されたのは1929(昭和4)年末になってからのことでした。

 現在の時計塔は建築家・渡辺仁氏の設計により、1932(昭和7)年6月に竣工した二代目です。
 ゆるい弧を描いた優雅な曲面で4丁目の交差点を見下ろすように建つこの建物の様式は、ネオ・ルネッサンス様式と呼ばれ、時計塔の四方にある文字盤はほぼ正確に東西南北を向いています。建物の外装材は、大震災直後ということもあり、火災や地震を考慮してすべて天然石が使われました。また、時計塔の文字盤の下や建物の窓部分には、ブロンズでアラベスク(唐草)の繊細な透かし模様の装飾などがあしらわれ、店内の壁面にはイタリアから輸入された大理石が使われました。

 銀座の街を見守ってきた和光の時計塔は、銀座を象徴するこの建築遺産を次の世代へ継承していくために、2008(平成20)年、和光本館を約300日間閉館し、建物の補修、整備のほか、石造りの外壁を洗浄、修復し、また店内も一部バリアフリー化するなど、より多くのお客様に快適に過ごしていただけるよう改装しました。2009(平成21)年には、経済産業省が日本の産業近代化に大きく貢献した建造物や機械などについて、その保存、活用を目的に認定する「近代化産業遺産」に認定されました。和光は、これからも銀座のシンボルとして、多くの方々から愛される「和光の時計塔」の維持に努めていきたいと考えております。


和光と時計塔の歴史
https://www.wako.co.jp/clock_tower/

和光の時計塔:
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ペナンのクロックタワー:
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 そうなんです。銀座にいて、時計塔を見上げているうちにペナンのクロックタワーを想い出してクシュン!

 この時計塔は1897年に建造。
 この年から、ゴーギャンは『D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?』を描きはじめています!
 ペナンの慈善家であるチア氏が、当時のヴィクトリア女王即位60周年を記念して建造されています。
 高さは即位の年数と同じ60フィート(約18.3m)なんですよ。
 この時計塔が「ラウンドアバウト」(信号機のない環状交差点)になっていて、盆踊り大会も毎年行う広いエスプラネード広場からクルマを走らせくる、としましょう。
 この交差点をまっすぐ進むと「ジェティ」というマレー半島に渡るフェリー乗り場があります。
 右に曲がるように折れると先に、美味しいジンジャーティの飲める「エンリコ」というお店があります。
 なにか、忘れ物をしてきたような気分になったって、ヤッホー君、目がウルウルしてきました。

 和光の時計塔を見上げた後は、すたこらさっさ、数寄屋橋公園まで。
 菊田一夫の「数寄屋橋此処にありき」の碑も、その後ろには岡本太郎作の「若い時計台」もあります:

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 その公園から、交番方向を眺めやりました。
 北日本や東日本は吹雪いているところもあるのに、都心は寒いけど陽があたって青空が広がっています。

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 う〜ん、まだ朝キンは続くようです。

[参照]
ヤッホー君のこのブログ、2017年02月09日付け日記「明治大学発祥の地」もご参照ください。

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平昌五輪外交

 平昌五輪は始まったばかりだが、どうやら北朝鮮の核問題は、文在寅大統領の見事な平昌五輪外交によって、はやくも、対話のシナリオが見えて来たようだ。
 ペンス大統領は帰国途中の政府専用機の中で、ワシントン・ポスト紙のコラムニストに語ったらしい。
 きょうの各紙が一斉に報じている。
 すなわち、文大統領はペンス副大統領に、まず韓国が五輪後に北朝鮮と対話し、米国がその後に続くことを提案し、これに米国が同意したと、ペンス副大統領が明かした、というのだ。
 もちろん、北朝鮮に譲歩したわけではない。
 文大統領は、ペンス副大統領に対し、南北対話を進めるにあたっては、「北朝鮮に対し、経済的、外交的な見返りは非核化の具体的な措置に対してのみ与えられ、対話だけでは得られないと、はっきり伝える」と言明し、それを条件にペンス副大統領は、韓国が北朝鮮と対話することを認めたというわけだ。
 ペンス副大統領は、毎日のようにトランプ大統領と連絡を取っているという。
 これはトランプ大統領の了解を得た米韓合意に違いない。
 キーワードは「非核化」だ。
 その前提が満たされる限り米国はメンツが立つ。
 しかし、北朝鮮は「北朝鮮の非核化」には絶対に応じない。
 それを文大統領も知っている。
 文大統領は、「北朝鮮の非核化」という言葉を逆手にとって、北朝鮮が「韓半島の非核化」で応酬して来た、という形をつくるに違いない。
 そして、その北朝鮮の応酬を、文在寅大統領は米国に伝え、米国の理解を求めるつもりだ。
 具体的には、ズバリ、短期的には米韓軍事演習の延期、凍結であり、究極的には米軍の韓国からの撤退である。
 そんなことを米国が応じるはずがない。
 常識的には皆、そう思うだろう。
 しかし、冷静に考えれば、米国には、ほかに選択肢がない事がわかる。
 もしこのまま米国が北朝鮮の核放棄に固執するなら、米国に残された選択は北朝鮮への攻撃しかない。
 そんなことを米国が出来る筈がない。
 それは平昌五輪で高まった民族融和の流れを真っ向から否定するものであり、北朝鮮のみならず韓国国民の反発を受ける。
 朝鮮半島全体が反米感情で団結することになる。
 何よりも国際社会が米国の攻撃を許さない。
 トランプは、韓国と北朝鮮の南北対話を、見守るしかないのだ。
 そして、その米国の意思は、平昌五輪の閉会式に明らかにされる。
 そのメッセージを伝えるのは閉会式に出席するイバンカだ。
 開会式の主役は金与正だった。
 きょう2月13日の産経新聞が特大のスクープを流した。
 すなわち、平昌五輪が開催されている江原道の崔文洵知事が、産経新聞の取材に応じてこう明らかにしたという。
 金与正氏が10日の晩さん会の席で、同じテーブルについた崔氏らに対し、「昨日までを過去の事にしましょう」と述べ、早急な南北の関係改善を訴えていた、というのだ。
 これは特大スクープである。
 北朝鮮は本気で対話へ舵を切ったということだ。
 この話がイバンカの耳に入らないはずがない。
 もし本当にイバンカが閉会式に出席するなら、和平の流れに水を差すようなことをするはずがない。
 閉会式に出席したイバンカは、南北対話の成功を米国は願う、と高らかに宣言するに違いない。
 北朝鮮と米国の二人のヒロインの手で、南北対話の開始が宣言される。
 このシナリオは、韓国と北朝鮮にとって、もうひとつのメリットがある。
 それは南北融和に中国の出る幕はない、と言う事を世界に知らしめることだ。
 北朝鮮も韓国も、中国のやり方には心底怒りを覚えている。
 つまり北朝鮮は米国に擦りよって北朝鮮への制裁強化に踏み切った中国を許さない。
 なによりも米国と通じて斬首作戦を進めようとした中国を許さない。
 一方の韓国も、米軍ミサイル導入に反発して韓国に制裁を加えた中国に怒り心頭であるに違いない。
 南北統一は、我々が米国と話し合って実現できることを中国に見せつけたいはずだ。
 かくして、北朝鮮と韓国の手で南北統一の話し合いが始まる。
 それが平昌五輪のハイライトであり、その後に続く、息の長い外交ゲームの始まりとなる。
 はたしてこのシナリオ通りに展開するのか。
 それは愚問だ。
 うまく行くも行かないも、このシナリオしかない。
 米国が北朝鮮を攻撃するシナリオは、世界を不幸にする。
 あってはならないシナリオである(了)

天木直人のブログ、2018-02-13
急浮上してきた南北対話のシナリオ
http://kenpo9.com/archives/3262

 きのう2月13日の国会で、安倍首相は、「北朝鮮のほほえみ外交に目を奪われてはならない」と、文在寅大統領に伝えたことを明らかにしたらしい。
 こんな事を堂々と国会で語る安倍首相は、おそらく南北融和を日本国民の中で一番不快に思っている一人に違いない。
 それとは正反対に、今度の南北融和の動きを、内心一番歓迎されているのが今上天皇であろう。
 ことほど左様に、この二人の平和に対する思いは真逆だ。
 その安倍首相の手で、今上天皇は来年4月末に退位させられる。

 なんともやりきれない思いの中で、きょうの地方紙(下野新聞)に掲載されていた保阪正康氏の「天皇二極化に向かう時代」という論考に私は勇気づけられた。
 そこには、要旨こう書かれている。
 皇太子が即位したといっても、すぐに天皇のイメージが確立していくとは思えないと。
 例えば私は「天皇・皇后」という言葉で上皇・上皇皇后を思い浮かべてしまうと。
 少なくとも今上天皇と時代を共にしてきた60代以上にとっては、この期間がしばらくは続くように思われると。
 そう書いた後で、保阪氏は次のように天皇二極化の前例と、その時の戦争に対する抑止力を語っている。
 近現代の歴史を見れば、このような「天皇が存在しているのに天皇がいない」という状況が一度だけあったと。
 それは大正末期の5年間、すなわち大正天皇が病気療養に専念することになり、20歳の皇太子(昭和天皇)が摂政に就いた大正10年11月から大正15年12月の5年間であったと。
 そして、重要な事は、この天皇の存在の二極化の5年間は、陸海空軍がただの一度も海外に兵を動かしていないということだ、というのだ。
 この事を保阪氏は、大元帥である天皇の存在が曖昧だったためだろうと書いている。
 そして、保阪氏は、実はこの大正末期の天皇二極化の5年間は、軍部が天皇の名を使って国民に威圧をかける事ができなくなった時代であったとともに、一方において共産党が結成されたり、大正デモクラシーが起こり、他方において大川周明や北一輝などの国家主義が起きるなど、日本社会の至るところに躍動の渦ができた時代だと指摘している。
 そして、保阪氏はその論考を次のように締めくくっている。
 実は大正末期の5年間については未だに正確に分析されてはいないと。
 天皇の二極化は、軍事主導の時代にそれを弱める役割を果たしたと言っていいが、今回の生前退位による天皇の二極化は、世代によって起こるとも言えるし、起こらないとも言える、はたして、結果はどうなるだろうかと。
 私はこの保阪氏の論考を読んでつくづく思った。
 このままでは、大正デモクラシーは起こらない。
 むしろ、大正が終わり昭和になった途端に軍部が「天皇は私たちのものだ」と言わんばかりに国民を圧迫して戦争の悲劇への道をまっしぐらに進んだように、日本はあらたな元号の下で戦争の出来る国にさせられてしまうおそれが強いのではないかと懸念する。
 いまこそ新党憲法9条の考えをひろめなければいけない。
 それは、いわば大正デモクラシーの現代版だ。
 私は60年代以上の国民を覚醒させて、天皇の二極化を敢えて起こしたい。
 天皇が上皇で健在であるうちは、新党憲法9条の存在感は高まりこそすれ、なくなることはあり得ないという思いが、ますます私の中に強まりつつある。
 そして、きょうから、新党憲法9条の公約は、憲法9条を国是とし日米安保体制からの自立することとともに、南北朝鮮の統一実現を全面的に支援することを二大公約として掲げる事にしたい。
 ここまで明確に党の公約を掲げる政党は今の政治の中でどこにもない。
 だからこそ必要なのである。


天木直人のブログ、2018-02-14
保阪正康氏の天皇二極化論に勇気づけられる
http://kenpo9.com/archives/3266

 ペンス副大統領が平昌五輪開会式に出席して北朝鮮のほほえみ外交をけん制していた時、ティラーソン国務長官の姿が見えないと思っていたら、ティラーソン国務長官はクウェートにいたのだ。
 その事を私はきのう2月13日の日経新聞で知った。
 2月12日、イラク政府はクウェート、世界銀行など50カ国の参加するイラク復興支援会議をクウェートで開いたという。
 イスラム国掃討作戦で荒廃した国土復興を話し合うためだという。
 もちろん日本も参加していたらしい。
 しかし、この復興支援会議は、かつてのアフガン支援会議の二の舞になる事は明らかだ。
 9・11が起きて一か月後に、米国がテロをかくまったとしてタリバンの支配するアフガンを攻撃した。
 その復興を支援するために、まるでマッチポンプのように米国はアフガン復興支援会議を招集し、度重なる会議をくり返し、巨額の資金をアフガンにつぎ込んだ。
 日本はその主要援助国としてアフガン復興に「貢献」させられた。
 ところが今のアフガンはどうなっているというのか。
 カルザイが援助をネコババしたまま逃げて、いまのアフガンは手の付けられないテロ頻発の破綻国家のままだ。
 同じことがイラクで繰り返されようとしている。
 イスラム国の掃討作戦が終わり、荒廃したイラクの国造りが必要だという。
 しかし、いまのイラクが復興支援に値する状況でない事は誰の目にも明らかだ。
 それだけではない。
 いまのイラクは、テロが終らないばかりか、イランとサウジの代理戦争の場になりつつある。
 そこへきて、米国がサウジの側に立ってイランと敵対しつつある。
 しかも米国はアサド政権を支持するイランやロシアとの戦いの場であるシリアで、手一杯だ。
 9・6兆円とも試算されているイラク復興支援に、米国はあらたな資金援助は表明しないと言っているらしい(2月13日日経)。
 そんなイラク復興支援会議に日本は慎重になるべきだ。
 間違っても真っ先に援助表明を行うような事をしてはならない。
 今、中東は、日本が関与するにはあまりにも不透明である。
 ましてや安倍政権の外交の道具になって血税を無駄遣いするには、あまりにもふさわしくない戦場と化している。
 その事をメディアは国民に知らせなければいけないと思う。


天木直人のブログ、2018-02-14
イラク復興支援会議に日本の援助を使ってはいけない
http://kenpo9.com/archives/3276

 南の暑い国からの意見にも耳を傾けてみましょう。
 理路整然とまとめ、新聞にきちんと載っています。

THE Winter Olympics games in the mountainous Pyeongchang region of South Korea are happening in mostly interesting circumstances. The Games, being held only 80km from the North Korean border, come at a time of heightened concerns over the North’s military capabilities.

After several missile and nuclear tests, North Korea, an unpredictable state, may have a nuclear weapon that could reach as far as the United States.

Whatever happens, the Olympic Games may provide a pause in the diplomatic row between North Korea and the US over the former’s nuclear weapons and ballistic missile programmes.

The supreme leader of North Korea Kim Jong-un has witnessed the role played by the US in having ruined Iraq, Libya, Afghanistan, Syria and Ukraine. These countries were accused of threatening peace with weapons of mass destruction. Kim Jong-un can safely assume that the US might do the same to North Korea.

North Korea is advancing its technology in such a way that could soon produce nuclear bombs for use, and worse, for sale to other rogue states. According to a confidential report by independent United Nations’ monitors, North Korea had supplied weapons to Syria and Myanmar.

Amidst this frightening insights, the Winter Olympics may yet bring renewed hopes of a unified Korea.

In reality, optimism about becoming a single nation has shifted since South Korea hosted Summer Olympics in Seoul in 1988.

On Nov 29, 1987, a bomb hidden by North Korean agents exploded on board Korean Airlines Flight 858, killing all 115 passengers and crew. It was later learned that the bombing was intended to scare off participants of the Olympic Games scheduled to be held in Seoul in the summer of that year.

The two agents who had placed the bomb in an overhead compartment of the ill-fated plane in Bahrain were later arrested. One committed suicide, while the other, a young Korean woman named Kim Hyon-hui, failed to kill herself after biting into a cyanide pill. She was taken back to Seoul. Though she was sentenced to death, Kim hyon-hui was pardoned by South Korean President Roh Tae-woo, who saw her as a victim of North Korean brainwashing.
Since the 1950-53 Korean War, relations between the North and South have remained uneasy.

But after a series of meetings in January this year, the two Koreas eventually agreed to march together bearing a united Korea flag with the hope that the Olympics will function as an initial contact point to repair their frayed relations.

In a surprise move, Kim Jong-un agreed to send a 500-strong delegation to the Games, including his sister Kim Yo-jong, a senior politburo official. Dispatching such top-level members of the delegation from Pyongyang to Pyeongchang may be read as a willingness of the North to improve its relations with the South.

There has not been much co-operation between the countries under the past two governments in South Korea. As the North boycotted the 1988 Olympic Games in Seoul, the willingness of such top-level members of delegation to travel to Pyeongchang is significant.

Some commented that the visit has charmed and intrigued the South Korean public but are still sceptical about the North’s sincerity in improving relations.

Hong Joon-pyo, leader of South Korea’s main opposition party said: “The government is being dragged around by Kim Jong-un’s false peace offensive and political show”.

Japan’s foreign minister, Taro Kono warned of North Korea using the Olympic Games as a chance to improve its image, and the world should not be blinded by Pyongyang’s recent “charm offensive”.

For South Korea’s liberal president Moon Jae-in, the Games are a “precious opportunity” to seek peace in the Korean peninsula since it was divided in 1945. Moon was the chief of staff to former South Korean President Roh Moo-hyun and a strong proponent of the “Sunshine Policy”, whose aims were to improve relations between the two Koreas from 1998 to 2008.

Now, with an invitation to meet Kim Jong-un in Pyongyang, Moon, the son of North Korean refugees, knows the risks. He has to take a cautious approach to the invitation. “The current state of the Korean Peninsula is so dizzying because South Korea, North Korea and the US are thinking too differently,” said the liberal Kyunghyang Sinmun newspaper.

Moon also knows that he cannot change the North Korean regime, but with a policy of engagement, he hopes to open the eyes of a few in the North to the importance of peace and solidarity. For Moon, “Both the South and the North must not allow the repeat of the unfortunate past where our fate was determined with not regard to our opinions”.


[photo]
The Games may provide a pause in the diplomatic row between North Korea and the United States over the former’s nuclear weapons and ballistic missile programmes.

New Straits Times, Published: February 14, 2018 - 11:30am
Peace through Winter Olympics
By DR PARIDAH ABD SAMAD
The writer, a former lecturer of UiTM Shah Alam and International Islamic University Malaysia, Gombak, is a Fulbright scholar and Japan Institute of International Affairs fellow.
https://www.nst.com.my/opinion/columnists/2018/02/335359/peace-through-winter-olympics

posted by fom_club at 13:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか
D'où Venons Nous / Que Sommes Nous / Où Allons Nous


我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか.jpg

 下線まで引いてしまったNancy Mowll Mathewsの手になる"A Paul Gauguin: An Erotic Life"(Yale Univ. 2001)!
 ヤッホー君、今朝になってもゴーギャンの「南の島への憧憬」が気になって食も喉を通らない様子。
 Nancy Mowll Mathewsは、そのあたりをどう記述しているのか、ちょっとだけ読んでみませんか? 

Chapter One

Ancestry

The Moscosos and the Gauguins

Gauguin was born to a family with a history of sexual violence and piquant cruelty.

Because his father died when he was an infant, the young Eugène Henri Paul Gauguin naturally gravitated to his mother's side of the family, which was dominated by the Spanish-Peruvian Moscosos. In this branch were colorful figures whose passions led them to form irregular liaisons, to carry on feuds across two continents, and to threaten each other with physical and psychological violence. Not only may we assume that Gauguin inherited some of his ancestors' personality traits, but we may also deduce that this extraordinary family had a practical impact on his life.

Gauguin was one-eighth Peruvian.

His great-grandfather Don Mariano de Tristan Moscoso was the scion of an old Spanish family that had been established in Arequipa, south of Lima, since the seventeenth century. Like many other Spanish-Peruvian upper-class children, Don Mariano was sent to Paris to be educated. He pursued a military career in Peru and, in the 1790s, was sent to Spain to command Peruvian troops there (Peru was still under Spanish rule). While in Spain he met and married a French woman, Anne-Pierre Laisnay, whose family had fled across the border during the Reign of Terror. The young couple had settled in Paris by 1800; there they led a fashionable life in the wealthy South American community, which included such figures as the future South American liberator, Simón Bolívar.

Because they had not filed the proper civil marriage forms, the union of Moscoso and Laisnay was deemed invalid in the eyes of both the French government and the Tristan Moscoso family in Peru, and upon the premature death of Don Mariano in 1807, the young widow and her two children were cut off from his considerable holdings in France and in South America. Laisnay spent the rest of her life in court trying to overturn this ruling.

When their daughter, Flora Célestine (Gauguin's grandmother), came of age, she took up the battle, journeying to Peru in 1833-34 to appeal to the family (fig. 2). This strategy was modestly successful in financial terms in spite of the resistance of her father's brother, the charming but wily Don Pio de Tristan Moscoso. The trip was even more fruitful socially: a connection was formed with the Peruvian relatives, many of whom had spent time in Paris as students, pleasure seekers, or merchants and investors. Flora brought up her daughter, Aline (Gauguin's mother), in these social circles in Paris, and Aline continued the connection while raising her own children, Paul and Marie. This fashionable group of wealthy and powerful South American expatriates was much like the better-known colony of international businessmen and pleasure seekers from the United States and Canada. Paul Gauguin's entrée into these rarefied circles bolstered his early successes on the stock exchange and in the art world. As important as Gauguin's Peruvian bloodline was, his later romantic claim to be descended from the Incas cannot be substantiated. The Spanish roots of the Tristan Moscosos could be traced back to the Borgias, and in Peru the family intermarried only with other Spanish ("Criole") families.

Some prominent Peruvians did indeed have Inca ancestry, because the Inca nobility occasionally married Spanish colonists in the early days after the conquest; but these members of Peruvian society were known to be of mixed blood and were not related to Gauguin. An anecdote that Gauguin told about his mother playing a practical joke on an army officer of Indian descent, a guest in Lima, demonstrates that even as a child Gauguin was aware of the distinction.

Inca or not, Gauguin drew on his Peruvian blood to fashion an exotic identity for himself, which had an impact in artistic circles. In this he imitated his grandmother, who had obtained special permission to use her Peruvian father's name rather than her French married name and thus achieved fame under the name Flora Tristan. The book she published about her voyage to Peru in 1833-34, Peregrinations of a Pariah (1838), gave her a start in the French literary world and gained her friends like George Sand. She went on to publish other observations of life in England and France and had become one of France's best-known advocates for poor and working-class people by the time of her death in 1844. Fifty years later, in 1894, Flora Tristan's fame as a writer and social reformer had diminished but not disappeared; during her grandson's struggle for artistic recognition, it not only opened many doors for him but gave him something to live up to.

He knew her books well and kept copies with him throughout his life. His use of the title "Avant et après" (Before and After) for his memoir curiously echoes that of her own unpublished manuscript, "Past and Future."

Flora Tristan's husband (Paul Gauguin's grandfather) was the artist and printmaker André Chazal. Tristan met him when she was apprenticed in his lithography shop in Paris around 1819, and showed artistic ability herself. Although Gauguin may not have known this grandfather personally, he certainly was aware of the artistic legacy of the Chazal family. The print shop had been founded by André Chazal's mother. André's brother, Antoine, and Antoine's son Charles Camille Chazal both had modestly successful careers as painters, forming a minor artistic dynasty that lasted in Paris until 1875. Even after the marriage between André Chazal and Flora Tristan ended, Tristan's interest in art continued, and in addition to publishing some articles on art topics, she was active in a Parisian art circle that included avant-garde painters like Eugène Delacroix.

When Paul Gauguin was born in 1848, his family lived only two doors from Delacroix on rue Notre-Dame-de-Lorette.

Such an exotic and artistic ancestry shaped Gauguin's view of himself and eased his entry into the Parisian artistic and intellectual world of the late nineteenth century.

It is also possible to detect in Gauguin some of the personality traits of his flamboyant forebears. Flora Tristan is often held up as the source of Gauguin's wanderlust and creativity, and there are indeed parallels between the passionate, crusading temperaments of grandmother and grandson. Both wrote and published in a highly personal manner that allows us to measure the pulse of their intense feelings and beliefs. But reading the diatribes of Tristan and Gauguin side by side reveals great differences in their approach to life and society. Tristan's writings show a profound empathy for the poor and the disadvantaged, particularly women. Her evocations of the degradation of prostitutes in London and the cruel working conditions of laundresses in Nîmes are vivid and moving.

Her grandson's writings, in contrast, tend to be short-tempered and sarcastic rather than philanthropic, even when he assumes the guise of a social reformer, as he later did in regard to the treatment of the Marquesan natives. His carping criticisms of women also contrast strongly with the gentle feminism of his grandmother.

Gauguin's personality may actually have been closer to his grandfather's.

The artist André Chazal and his beautiful young assistant Flora Tristan were passionately in love when they married, but Chazal's hot temper soon eclipsed his love for her, and his bullying caused Tristan to leave him after only four years of marriage. She took her son and daughter along and gave birth to their third child at the home of her mother, with whom she sought refuge. Because French law recognized only the father's rights to children, Chazal fought Tristan for custody of all of them, eventually taking their older son, Ernest, from her. He was also awarded custody of their daughter Aline (the younger died in infancy). When Tristan discovered that he had abused Aline sexually, she brought charges of incest and was able to resume custody. At this point Chazal's anger toward Tristan became obsessive. For several years he harassed and stalked her until he finally shot her in 1838 in a murderous rage. She survived the attack; he received a life sentence in prison.

The public nature of the struggle between the angry husband and the wife who worked to support her children alone prefigures Gauguin's later marital situation, about which he spoke and wrote at length. Although as far as we know he did not try to kill his wife, Gauguin physically and often verbally abused her with shocking hostility. He took one of their children from her and threatened to take them all. It is also well known that, like his grandfather, he was sexually attracted to girls in their early teens and possibly even to his own daughter.

Paul Gauguin was not the only one to inherit the Chazal temperament.

Both his mother and his sister were capable of sharp remarks and cruel practical jokes (fig. 3). In later life, Gauguin still chuckled over the joke his mother had played on the army officer of Indian descent who was part of their circle in Lima. Knowing the officer loved a dish made of peppers, she served him a specially prepared plateful of hot peppers; everyone else at the table was served sweet peppers. Playing the role of solicitous hostess, she forced the polite man to down the whole portion of the inedible dish. Gauguin would always think of the practical joke as the highest form of humor.

Paul's sister, Marie, only a year older, was his childhood companion (fig. 4). As they grew up, Marie maintained ties to the Spanish-American community in Paris, and, a beauty in the dark, Latin style of both her mother and her grandmother, she was courted by many of the young men in this group. After their mother died and until their respective marriages, Paul and Marie shared an apartment on the rue de la Bruyère in the same fashionable neighborhood where they were born. The mocking humor of both brother and sister shocked those who did not know them well, and in later years they never hesitated to turn their verbal knives on each other. As the only son and the youngest child in a close-knit but combative household, Gauguin developed a high opinion of himself; and his wife later claimed that he had not been sufficiently disciplined as a child. Since hot tempers ran in his family, an orderly, disciplined household must have been hard to achieve.

Gauguin's willful personality was not improved by living, until he was six, with his mother and sister amid the huge extended family of the Tristan Moscosos in Lima. In 1846, Aline Chazal had married Clovis Gauguin, a man associated with Republican politics and the newspaper Le National in Paris. Three years and two children later, the family set off for Lima, perhaps at the urging of the Moscosos, who may have persuaded Clovis to start a Republican newspaper there. The political power of the Moscosos had recently been strengthened, and, in 1851, the husband of one of Aline's cousins, Don José Rufino Echenique, was elected president of Peru. Sadly, Clovis Gauguin died of a stroke during the sea voyage, leaving his family to continue on to Lima alone.

They were welcomed warmly by Aline's great-uncle Don Pio de Tristan Moscoso, who was still head of the extended family; Aline and the children lived with the Moscosos in Lima for the next four years. Since her mother had died in 1844 and her father was still in prison, Aline had no closer relatives. She did not record her experiences there, but judging from the prickly relationships between factions of the family, described by her mother in Peregrinations of a Pariah, the situation was probably not entirely comfortable. Political, social, and sexual intrigue abounded in the city and country homes where the many branches of the family congregated. When the Gauguins were in Lima, they lived at the center of the intrigue: in the presidential palace, where, according to Gauguin's account, the displaced Parisians had been assigned quarters.

Thus it happened that Paul Gauguin's earliest memories were of the exotic city of Lima, where his family received all the privileges of being cousins by marriage to the president of the Republic, including living in the most luxurious setting in a wildly extravagant city. For centuries, wealth in Peru had been concentrated in the hands of those, like the Moscosos, who controlled the silver mines. The conspicuous display of wealth was a tradition in Lima, whose residents' stylish clothes and fine palaces were the envy of all South Americans. In the 1840s a new source of wealth had opened up with the systematic marketing of guano, the ancient deposits of bird droppings found on islands off the coast of Peru. This rich fertilizer was suddenly in demand all over the world. Peruvians with money, including Gauguin's family, invested in guano futures and prospered greatly from the 1840s to the 1860s. It was in this extraordinary environment that the young Paul Gauguin spent the early years of life.

The stories of Lima that Gauguin recounts in his memoirs include the many-hued servants of Asian and African descent, walls covered with portraits of ancestors that shook ominously during earthquakes, and lunatics chained to the rooftops who occasionally got free and wandered into children's rooms in the dark of night. He also wrote of the distinctive costume of Lima women, which was associated with the remarkable sexual freedom they claimed for themselves, when he described his mother dressed in the traditional Lima veil, which eerily revealed only one of her soft, beautiful eyes.

The whole costume, which consisted of the saya, a long, tight, pleated skirt, and the manto, a veil with one eyehole cut into it, had been written about by visitors to Lima for more than a hundred years.

Gauguin's grandmother Flora Tristan had been especially taken by the sensuousness of the skirt and the freedom that the women gained by hiding their features under the veil. She wrote of the amorous adventures that perfectly respectable women could pursue in this disguise: "Her husband doesn't ask where she has been for he knows perfectly well that if she wants to hide the truth, she will lie, and since there is no way to keep her from it, he takes the wisest course of not asking her. Thus these ladies go alone to the theater, to bull fights, to public meetings, balls, promenades, churches, go visiting, and are much seen everywhere ... [unlike] their European sisters who from childhood are slaves to laws, values, customs, prejudices, styles, and everything else." When Paul Gauguin wrote his own reminiscence of the Lima costume in 1903, he may have had vague memories of the sexual freedom of his own mother, a beautiful young widow. The boy, in Latin fashion, would have been spoiled by his relatives (if not by his mother) and encouraged by the amused adults to develop a precocious interest in sexual matters.

Despite the exclusive lifestyle of the Moscosos in Lima, when an opportunity arose to return home to France in 1854, Aline seized it. Aware that her presidential cousin Echenique was losing political power and that Don Pio's promises to leave her a comfortable legacy might not materialize, Aline decided that her best chances for an independent life lay in Europe. She had received word that her husband's father was near death and that he wanted to make Paul and Marie, his only grandchildren, his heirs. It was time for her Peruvian children to become French once again.

Up to this point, the six-year-old Paul had not attached much importance to his last name. He had always been surrounded by the more powerful Tristan Moscosos, Echeniques, and other Peruvian relatives. But when he arrived at his grandfather's home in Orléans, he quickly learned that being a Gauguin was very useful indeed. They were not a socially prominent or powerful family in Orléans, but in the quarter of Saint-Marceau, they were numerous and influential. Saint-Marceau, across the Loire River from downtown Orléans, was famous for its small-scale gardening. For generations the Gauguins and their neighbors had raised produce and flowers, which were exported by river and by road (and later railroad) to Paris, about one hundred miles to the north.

Paul Gauguin's grandparents Guillaume Gauguin and Elizabeth Juranville had started an épicerie, a general store that specialized in imported goods. They gradually relocated closer to the river, eventually obtaining property on the Quai Neuf (now Quai de Prague), a prime spot above the commercial boat landings of the Loire and very near the crossing of the new railroad. Trade in that section of Saint-Marceau was brisk. In a typical week in February 1844, the number of boats that docked there was 197, unloading cargo at an estimated value of 12 to 13 million francs. By that time, however, the Gauguin-Juranvilles had retired from the épicerie and were able to live off their investments. Other Gauguin and Juranville cousins also bought property along the Quai, and they formed a powerful family compound. Trade by riverboat succumbed to the quickly encroaching railroads after midcentury, but the family had invested well in land and stocks and remained in their fine houses overlooking the river for generations.

The successful Guillaume and Elizabeth Gauguin-Juranville had two sons, Clovis (born in 1814) and Isidore (born in 1819). Although the boys' education is not on record, they were apparently given good starts in their chosen careers, both of them leaving the more mundane family pursuits of gardening and shopkeeping behind. By the 1840s, Clovis had made his way into newspaper publishing in Paris. He frequented literary and artistic circles, where he met his future wife, Aline Chazal. They married when he was thirty-two and she was twenty-three. Clovis's younger brother, Isidore, established himself as a fine jeweler−an orfèvre joaillier, or specialist in gold jewelry. He lived with his parents and commuted across the river to his shop downtown on the old commercial rue de Petits-Souliers.

The families of Saint-Marceau were traditionally republican (antiroyalist and anti-Napoleon), and the two Gauguin sons proved to be no exception when revolution broke out in France in 1848. In Paris, Clovis and Le National were at the center of the new republican government that was set up and then taken over by Louis-Napoléon in less than a year. The rise of Napoléon (soon to call himself Napoléon III) and the start of the Second Empire sealed Clovis and Aline's decision to move to Peru. In Orléans, Isidore was also active in the local rebellion, which was quashed rather violently, leaving many young men wounded and at least one fellow jeweler dead. Isidore was arrested at a demonstration in front of the town hall and sentenced to be deported to Africa. After spending some time in prison, however, he was allowed to return to Saint-Marceau, where he quietly spent the rest of his life, surrounded by his family and old friends.

When Paul Gauguin arrived at his grandfather's house at the end of 1854, he began a new life as a comfortable middle-class French boy with republican sentiments.

His grandfather died a few months after seeing his "Peruvian" grandchildren once more. Enough of Guillaume Ganguin's estate was left to Isidore that he would never have to work again, and the property on Quai Neuf and the remainder of the assets were left to Clovis's children under the guardianship of their mother and uncle until they came of age. The Gauguin property had two houses back to back, one facing on Quai Neuf and the other facing the next street, rue Tudelle, with a large shared garden in between. Aline and her two children moved into the house looking out over the river, while Isidore continued to live in the smaller house, on rue Tudelle. For the next five years they enjoyed the peace and plenty of French small town life. Gentle Uncle Isidore, who remained unmarried and childless, adopted the two fatherless children in his heart.

By the time Paul Gauguin lived on the Quai Neuf, it had lost much of the commercial bustle of only ten years before. The natural beauty of the wide river interrupted at intervals by grassy islands and sandbars was enhanced by the view of old Orléans across the heavy, arched bridge (fig. 5). As Paul and Marie grew up, they had their carefully tended garden to play in, and, in the summer, could race around in their rowboats and try their luck in the many fishing holes formed in the shifting recesses of the islands. The children were healthy and athletic and would have had no trouble fitting in with their many Gauguin cousins from the neighborhood once their native tongue changed from Spanish to French. While Paul and Marie were still young, Aline sent them to local boarding schools as day students so that they could remain at home with her as long as possible.

Gauguin's memories of Orléans, where he spent the formative years of his life (from six to sixteen), were not nearly as colorful as his memories of Lima.

He was an aloof and indifferent student who frustrated teachers into making remarks like "That child will be either an idiot or a man of genius."

In general he felt that he received an excellent French classical education and was indeed so typical a student that none of his classmates came forward in later years to tell of any early indications of artistic greatness. A few incidents occurred to Gauguin when he wrote his memoirs: being inspired to run away from home by a picture of a pilgrim with his belongings slung across his back; a neighbor complimenting him on a cane that he had carved with a knife. Given the artistic leanings of his mother and his uncle, these would not be unusual experiences for an imaginative boy.

Some other incidents are more curious: Paul's uncle finds him in the garden stamping his feet and flinging sand in a self-destructive tantrum. Why, asks his uncle? "Baby is naughty," he declared. Gauguin says: "As a child I was already judging myself and feeling the need of making it known." He also remembers an incident with a cousin, "a child of about my own age, whom it appears I tried to violate; at the time I was six years old."

Although both masochistic behavior and sexual experimentation are common among children, it is significant that these episodes were among the few that Gauguin recorded.

When Paul was eleven, Aline sent him to the prestigious boarding school at La Chapelle-Saint-Mesmin, just a few miles outside Orléans. It had been founded in 1816 to provide an alternative to the cathedral school of Sainte-Croix in the center of town. Attached to the ancient Chapelle-Saint-Mesmin, which dates back to 530 A.D., the new "Petit Séminaire" gave the sons of local upper-class and professional-class citizens of Orléans a healthy rural spot by the river at which to gain an education. But after 1849, the new bishop of Orléans, Monsignor Félix-Antoine-Philibert Dupanloup, took an interest in the school and, through his own reputation as a scholar, catapulted it into national prominence. For the three years that Pard Gauguin was in residence, it was at the height of its fame and drew students from all over France. No records have survived to shed light on his performance as a student, but later he believed that he emerged a well-educated man, and felt free to drop the name of the school whenever it was useful.

With her younger child in boarding school, Aline decided it was time to leave the protective but provincial Gauguin family home in Orléans and return to her hometown of Paris. In 1861 she opened a dressmaking business on the rue de la Chaussée in the heart of the fashionable shopping district. Thanks to her mother's crusading ideals about the nobility of labor, Aline had been apprenticed to and had subsequently practiced as a dressmaker in Paris in her late teens and early twenties. It is unlikely that she could have returned to this employment on such a scale if she had not practiced it in some small way since her marriage in 1846, and it is probable that she kept her hand in by working for private clients during the years she spent in Lima and Orléans. Both Paul and Marie both seem to have acquired their lifelong interest in clothes, fabrics, and decorative design at their mother's knee. Paul's experience of his mother as a businesswoman and single mother no doubt affected his ready acceptance of his own wife's ability to do the same.
...
http://www.washingtonpost.com/wp-srv/style/longterm/books/chap1/paulgauguin.htm

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2018年02月13日

楽園への旅立ち

 フランス領ポリネシア、俗に「タヒチ」と呼ばれる島々には、我々フランス語とフランス語圏の文化に関わる人間が少なからず関心を抱くところであろう。
 ゴーギャンが最期の日々を過ごした楽園の島、等々。
 だがこれらのイメージはステレオタイプの分厚い壁となって、私たちの関心を押しとどめてしまいがちだ。
 例えば、ゴーギャンが死んだのはタヒチ島ではなくそれから1,500km以上離れたマルケサス諸島のひとつであることになると、大分知る人の数が少なくなりそうだ。
 そこで、このステレオタイプの壁を本書、『フランス領ポリネシア』(文庫クセジュ、白水社)で破ってみよう。
 フランスの地理学者、エマニュエル・ヴィニュロンによるフランス領ポリネシアの概説書である。

 地理学者によるものだけに、本書は地理的説明から始まる。
 フランス領ポリネシアはソシエテ諸島、マルケサス諸島、トゥアモトゥ諸島とガンビエ諸島、南に位置するオーストラル諸島からなる。
 さらに、ソシエテ諸島はタヒチ島やモーレア島等の「風上諸島」とボラボラ島やフアヒネ島等の「風下諸島」に分かれる。
 なにより、総面積がヨーロッパ全体に匹敵しそうな400万km2であるのに対し、陸地面積は3,673km2しかない。しかもその約3分の1をタヒチ島が占めており、100km2以上の島は6つしかない。
 この断片化と一極集中は、この地域の特徴の基底となっている。
 島々をのせたプレートは北西に移るに従って沈下し、島の周りにできた環礁だけが残ることになる。
 こうして、フランス領ポリネシアは「高い島」と「環礁」とに大きく分かれることになる。
 「高い島」は36あり,住民の86%がそこに住む。
 若干の平野を持ち、しばしばバリア・リーフで守られている。
 「環礁」は周りの王冠部と内側のラグーンからなるが、人が住むことができるのは王冠部にある「モトゥ」と呼ばれる小島だけである。
 この環境がこの地域の人々の生活の基盤となるのだが、著者いわく、この環境は「もろい」。
 「もろい」のは地理的環境だけではない。そこに住む生物は,動植物一般にわたって種類が少なく、固有性が強く、生態系が限定されており「もろい」。
 これがこの地域での自然資源や生物資源の利用を限定することになる。

 さて、歴史的側面に目を転じよう。
 北はハワイ諸島、南東のイースター島、南西のニュージーランドの3つを頂点とするポリネシア・トライアングル、そこに住むポリネシア人の起源はアジアのあたりにある。
 まず、トンガ、サモアからマルケサス、ソシエテ諸島へ移り、そこからハワイ諸島、イースター島、さらに はニュージーランドへと広がっていった。
 移動の手段は帆を張った大きなカヌー である。
 ヨーロッパ人到来までのフランス領ポリネシアの人々は、ココ椰子、パンノキ、バナナ、そしてタロに代表される塊茎類を栽培し、家畜には、豚、犬、鶏があった。
 フランス領ポリネシアが「発見」されたのは比較的遅く、1767年にイギリス人ワリスが発見した後、1768年にはブーガンヴィルが、そして1769年にはクックが立ち寄る。
 19世紀に入ると多様な目的の航海が行われ、科学的な調査がなされる。
 この間に、ヨーロッパ人は様々な疫病をもたらし、直接的、間接的に島々の人口を激減させ、マルケサスでは消滅の危機を迎えさえした。
 19世紀後半には遅まきながらフランスによる植民地化が行われ、1842年にマルケサスの領有とタヒチの保護領化、1897年に「風下諸島」がフランス領に、1903年にタヒチと周辺の島々がオセアニア・フランス植民地établissementsに統合された。
 1946年には「海外領土」Territoire d’Outre Merとなり、1957年に「フランス領ポリネシア」と呼ばれる。
 2004年から「海外国」Pays d’Outre Merとなり、特別に大統領を持つこと等が認められている。
 この間にこの地域は深くキリスト教化され、現在は、フランス領ポリネシア福音教会とカトリック教会が優位にたつ。
 植民地化の結果は、ヤシ油の原料となるコプラの生産のためのココ椰子畑である。
 その発達は土着の植物相を破壊し、自家消費用作物栽培を放棄させ、環礁をタヒチへ、そして本国へ依存させた。
 1950年代に入りコプラの価格が低下すると、環礁地域の経済的依存がさらに悪化する。
 現在見られる、珊瑚礁の島で風にそよぐ椰子の木の姿はその結果にすぎない。
 もう一つの産物、リン酸石灰採掘の終了とともに植民地時代が終わるが、この地域の人々に賃金労働という新しい人間関係をもたらす。
 1963年にフランスは「太平洋実験センター」CEPを開設する。
 トゥアモツが実験センターに選ばれ、さらにはモルロア環礁など基地ができる。
 一般的にこの間の変化の原因はCEP開設だとされているが、著者はこうした変化は既に50年代に始まっていたという。
 先に述べたように、リン酸石灰採掘が終わると、主な産業がなくなった。
 ファアア空港の開設後、観光産業に望みをかけるが、人口の増加と、農村人口の首都パペエテへの流入に対して、望ましい解決法は、実験センター開設だったのだ。
 CEPの効果は大きく、社会は大きく変化する。
 国内総生産に占める公共支出の割合は1960年代に30%から80%以上へと増加し、雇用を増やし、西欧化、官僚化、都市化を推し進めた。
 さらにその波及効果と相まって、1993年までに国民総生産を30倍にまで押し上げる。
 実際の生産努力なしに生活水準が劇的に向上し、人口増加を吸収して、失業率が低く抑えられた。
 同時に、消費習慣の西欧化と輸入への依存、そして熱帯生産物の価格低下から、伝統的生産がなくなっていく。

書評:
エマニュエル・ヴィニュロン著(菅啓次郎訳)『フランス領ポリネシア』(文庫クセジュ、白水社、2006)

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180213211029.pdf?id=ART0010496669

"This is not a biography" is the opening line of Nancy Mowll Mathews's "Paul Gauguin: An Erotic Life". The phrase may evoke Magritte's pipe that is not a pipe, but it is inspired by Gauguin's own claim "This is not a book," made in "Before and After," the memoir that he scratched out during the last painful months of his life. By then he had worn out his welcome in Tahiti and had moved to the nearby Marquesa Islands, where he died of the effects of syphilis in April 1903 at the age of 54.

There are few art-historical subjects as rich in drama as that formed by Gauguin's influential paintings, tumultuous life and sometimes exhibitionistic writings. Modernism would not be the same without his flat discordant colors, often sexually charged symbolism and passion for so-called primitive art. He contributed substantially to the myth of the modern artist as self-centered, charismatic, promiscuous renegade. To boot, he left a fabulous paper trail: alternately vituperative and self-pitying letters, especially to his Danish wife, Mette; autobiographical writings; notebooks and treatises on art; confessional ruminations; and assorted diatribes.

The defining act of Gauguin's selfish, tormented life was his abandonment of Mette and their five children after 12 years of marriage, ultimately for the tropical paradise of Tahiti. He remained obsessed with the Paris art world until his dying day, but he eventually had many more enemies than friends there and seemed to work best in isolated, exotic locales. After breakthroughs in Brittany and Martinique, it was off to Tahiti, whose heat and relaxed sexual mores drew him like a siren song; there he created a majority of his masterpieces and fathered at least four children with extremely young women.

The author contends that, unlike some biographies, her book is "not a narrow enterprise isolating Gauguin the person from the social and economic forces surrounding him." But while her study is hardly a simple account of the artist's sex life, it actually is rather narrow, especially compared with the panoramic sweep of David Sweetman's 1996 biography, and it relegates Gauguin's art to the background.

Ms. Mathews has proceeded on the assumption that Gauguin is a subject ripe for Freudian analysis. Her goal is to demonstrate "the centrality of sex and violence" to his existence and the "patent homoerotic element" in his close friendships with men. The book's main strength may be its tunnel-vision hold on the artist's drives and desires and the shifting ulterior motives that characterized most of his dealings. She focuses on the voracious competitiveness that enabled him to go in a few years from being a salty merchant marine, to a suave, art-collecting Parisian stockbroker, to a ruthlessly ambitious painter whose provocative behavior alienated many of his peers but attracted younger acolytes.

The transformation required a repudiation of all responsibilities and an ever-growing tendency to react by being domineering or playing the victim when reminded of them. In this, and his constant self-promotion and carefully created persona, he may have been ahead of his time, something akin to the first New York artist.

Most of the material in this book is not new, and quite a bit of it comes from the artist himself. For example, in "Noa Noa," Gauguin's semi-fictional account of his first, most productive period in Tahiti (1891-93), he described an epiphanic trek into the hills with Jotefa, a young Tahitian man whose beauty attracted him in a way that may or may not have been acted upon. In letters home he boasted that Tahitian maidens swarmed into his bed.
Like others, Ms. Mathews takes these claims with a grain of salt. She proposes that Gauguin had less sex than he implied and, sadly, after Mette, little in the way of real love. "Instead," she writes, "the erotica of his imagination most often flowed into his conversations, his writings and his art."

There are some startling conclusions, like characterizing Gauguin's willingness to trade time and attention for money as "dangerously close to prostitution," citing his relationship with van Gogh, which was prompted in part by Gauguin's desire to be represented by van Gogh's brother, Theo, an art dealer. This seems a bit harsh and naïve considering how many young struggling artists make similar compromises.

And there is possibly a new fact or two: an instance of Gauguin striking Mette, which may have indicated battering in addition to the emotional and verbal abuse he heaped upon her.

But Ms. Mathews's thoroughness manages to make familiar ground feel fresh. She details the legacy of domestic drama and violence Gauguin inherited from his parents and grandparents as well as the effects of an early childhood spent living in a luxurious, permissive household in Lima, Peru, where his great-uncle had been the last Spanish viceroy. She dwells on his courtship of Mette, the early years of their marriage and the emotional toll that its breakup, in 1885, exacted on both sides.

The book is full of telling observations about Gauguin's lack of manners, even in his stockbroker days, or the strict work habits instilled by his long hours at the Bourse that were later reflected in the patience with which this supposedly impetuous artist later copied and recopied his writings.

Ms. Mathews continues the rehabilitation of Mette, whom earlier art historians (especially French ones) demonized as a coarse spendthrift and harridan. The book concludes with 15 of her letters, written between 1885 and 1903 to a close friend in Paris, enabling us to gauge firsthand her intelligence, compassion and mounting resentment.

Unfortunately, Ms. Mathews writes in a flat, pedestrian style, as if taking extreme care to avoid making her account sensational or her subject heroic. The marginalization of Gauguin's art contributes to the flatness. It is one thing to highlight the psychological causes for the eroticized atmosphere and androgynous figures in the artist's Tahiti paintings, but another to move beyond subject matter to the style and visual power of his art.

Nonetheless, her book conveys an expanded sense of the demons that drove Gauguin, fueled his art and brought so much misery to himself and those who loved him. In a larger sense, it serves as a specific case study of the extremes of consciousness and denial, of hypersensitivity and brutal indifference that frequently rule the interior landscapes of creative overachievers.


The New York Times, Published: DEC. 14, 2001
The Artist as Bully and Self-Described Sex Machine
By ROBERTA SMITH
http://www.nytimes.com/2001/12/14/books/books-of-the-times-the-artist-as-bully-and-self-described-sex-machine.html 

 でも、南の島、ポリネシアにも雪が降ったのです!

 南太平洋に浮かぶ、仏領ポリネシア・タヒチ島。首都パペーテ港の南3番埠頭から、街はすぐ目の前である。船を降りて、レストランやお土産屋、銀行や観光案内所など、軒の低い建物が立ち並ぶ海岸通りを10分ほど歩く。
 海に面した公園の一角に、マホガニーの巨大な板に彫刻を施した、高さ3メートルほどの記念碑が、3本並んで立っている。「1966年7月2日広場」である。
 ムルロア環礁で、はじめてフランス軍の核実験がおこなわれた負の記念である。その日からはじまった、被曝者の記憶が刻まれている。

 記念碑の前が円形の祭壇(ポリネシア・マラエ)には、大小さまざまな石が置かれている。太平洋の島々では、訪問先へ自分の島の石を友情の証しとして持参する風習があるのだ。
 それらの石はムルロア、ファンガタウファなど仏領の島々ばかりか、アメリカ軍が核実験をおこなったビキニ環礁、エニウェトク環礁、ジョンストン島、イギリスのモンテ・ベロ島、クリスマス島、さらに実際に原爆が投下されたヒロシマ、ナガサキ、最近のフクシマの石も置かれている。
 わたしは、地元の被害者団体「ムルロアとわたしたち」のメンバーと日本のNGO「ピースボート」の代表と一緒に花束を添えて慰霊した。
 南太平洋では、フランスがポリネシアで211回、アメリカがマーシャル諸島、キリバスで107回、イギリスがミクロネシアで38回など合計350回以上の核実験を行った(前田哲男著『棄民の群島』による)。
 実験作業に従事したポリネシアやミクロネシアの住民が被曝し、緑豊かな美しい島々は、植民地支配の最後の負の遺産ともいうべき、核実験の悲劇の地にされた。

 アイゼンハワー・アメリカ大統領が、「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)を宣言したのは、1953年だった。が、翌年3月1日、ビキニ環礁のナム島で、米軍の15メガトンの水爆実験がおこなわれ、「ブラボー実験」と名付けられた。

「白い雪」が降った

 米軍は成功に拍手喝采だったかもしれない。しかし、この実験で爆心地から約200キロ離れたロンゲラップ環礁では、ヤシやパンやバナナの木の葉の上に、雪のような死の灰が降り続けた。被爆した86人の島民は、脱毛、嘔吐に苦しみ、「ヒバク難民」となって故郷に帰り着いていない。
 白い雪はおなじ時、おなじ環礁内で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」にも降り注いだ。この乗組員23人のほか、900隻、推定2万人にもおよぶ日本漁船の乗組員の被害の実態は、闇に閉ざされたままだ。
 3月1日は、第五福竜丸遭難の記念日であり、3月12日は、福島原発連続爆発事故の4周年であった。

 パペーテにある「1966年7月2日広場」は、昨年、ガストン・フロス仏領ポリネシア前大統領が、撤去することを閣議決定した。そのあと、世界的な反対運動が起きたが、大統領が不祥事によって失脚。
 破壊、撤去は免れた。

 いまだ核兵器依存の悪癖は、除去されていない。人類は原発をふくむ、もっとも危険な核施設を捨てるほどに、賢明になっていない。

「原子力の事実を知った市民は、きっと死のためではなく生のために行動してくれるであろうと信じている」(アインシュタイン。1947年、雑誌アンケートに答えて)


[写真]核被害の記憶を刻む記念碑

ハフポ、 2015年04月09日 01時33分 JST 更新
核実験の悲劇の地 南太平洋の体験
鎌田慧 ルポライター
http://www.huffingtonpost.jp/satoshi-kamata/nuclear-test_b_7022316.html

 そしてイマ、太平洋上の島々は地球温暖化により海面上昇に直面させられています。
 そしてそれをビジネスにしよう、としているのですから、空いた口が塞がりません:

Earlier this year, I wrote an article about the prospects of colonising Mars. There’s a tremendous amount of interest in this concept and chief amongst its promoters is Tesla founder Elon Musk. But as I had pointed out in my article, making Mars a habitable place is such a challenging task. It would make far more sense trying to make inhospitable places like the open seas liveable.

Much of the Earth is covered by water with 71 per cent of it being the ocean. We harvest the ocean for seafood and seaweed but so far there hasn’t been any real attempt to create homes on the ocean. The reason is obvious. The ocean is hardly an easy place to build structures. But with the Earth’s population steadily rising every year, it’s just a matter of time before we run out of land for people to live in.

Beyond land reclamation

Land reclamation projects are ongoing in many places throughout the world, including here in Malaysia, but to really make full use of the vast expanse of the ocean as liveable property, we need to look at building structures on the ocean.

This idea has been around for a long time, going back to 1967 when American architect, author and inventor Buckminster Fuller developed a concept for an offshore floating city named Triton City, in Tokyo Bay, which would house some 5,000 people. The idea received a lot of attention but it was never implemented.

“Three-quarters of our planet Earth is covered with water, most of which may float organic cities. Floating cities pay no rent to landlords. They’re situated on the water, which they desalinate and recirculate in many useful and non-polluting ways,” Fuller wrote in his book, Critical Path.

Now, 50 years since he introduced Triton City, the concept of floating cities is starting to take shape. In fact, the concept is now so mainstream that there’s officially a new word to describe it. “Seasteading”, or the practice of establishing permanent settlements in areas of the sea outside the jurisdiction of any governments, was added to the Oxford English Dictionary this year.

There’s even an organisation called the Seasteading Institute which is working towards making the floating city concept a reality. Its Floating Island Project calls for the use of concrete structures to float platforms chained to the ocean floor. The islands are meant to be modular and can be moved around and rearranged according to the needs of the inhabitants.

Proof of Concept

Its first ever floating community is likely to be off the coast of Tahiti, the largest island in French Polynesia. The Seasteading Institute’s associate company, Blue Frontiers, earlier this year signed a memorandum of understanding with the French Polynesian government to build a US$60 million (RM245 million) floating village with a target starting date of 2020.

Although the company’s ultimate aim is to create cities out in international waters, practical realities require that its proof-of-concept be done closer to land. The cost of building even a small township in the middle of the ocean would be prohibitive with today’s technology, which is why Seasteading Institute has partnered up with French Polynesia, which will establish an offshore special economic zone for the floating village.

It will be just inside the island’s protective coral reef and about 1,000 metres from the shore. The plan calls for up to 300 people to live there, on a dozen or so floating platforms, each the size of a baseball field. The platforms, which will be connected by walkways, will have a combined area of 696 square metres.

Testbed

The floating village will serve as a testbed for various things that will be needed to eventually create autonomous cities in the ocean. Sustainable technology is crucial and the aim is to try to use as much as possible recycled materials and coconut fibres as building materials. The floating village could also be a hub for oceanographic and climate resilience research.

For the village to be viable, it will need to have some economic activity. Eco-tourism and aquatic industries like seaweed farming and aquaculture are anticipated. It can also be a place where Internet companies situate themselves. And it can be the ultimate exotic conference centre.

Although it will be located within the French Polynesian waters, the MoU gives the project a kind of semi-autonomous governmental status under the protection of French Polynesia. The objective here is to see if experimental new forms of self-government can emerge.

Why Tahiti?

So why is French Polynesia willing to go along with this scheme? The answer has to do with rising sea level.

Some estimates say that as much as 12 per cent of French Polynesia islands (there are 118 in all, of which 51 are inhabited) could be totally submerged by 2100. The government is also worried about increasingly violent storms caused by warming seas.


Seasteading, which involves building artificial -− and therefore more resilient territory − can be a practical solution to these issues. In return for giving it protection and access to Tahiti’s economy, French Polynesia will be able to benefit from the progress and development that the Seasteading Institute makes through its pilot project there.
And of course if the pilot is successful, it can be replicated in other places that are in danger due to rising sea levels. Eventually, this concept could be deployed in international waters, far away from any island or land.

Cost

Like all new technological concepts, when still at its infancy, the cost would be astronomical. The Tahiti pilot project is estimated at US$60 million. But no matter how expensive it is, it would be but a mere fraction of what it would cost to do something similar on Mars. Transporting building materials and manpower to build these things 1,000 metres offshore is nothing compared to sending them 54.6 million kilometres through space to Mars.

“With seasteading, we can put tens of thousands or perhaps millions of people on platforms in our lifetime. With the Mars plan, the reality of many people going in our lifetime is slim. It’s cool to colonise the solar system, but there’s an atmosphere on earth and we can live here. Oceans are the only place we’re not really living. We should own our own planet first, and it will be much cheaper. How many billions or trillions of dollars would it take to put dozens, not to mention thousands, of people on Mars?” posed Randolph Hencken, the executive director of the Seasteading Institute.


New Straits Times, Published: December 24, 2017 - 2:01pm
Colonising the Seas
By OON YEOH
https://www.nst.com.my/lifestyle/sunday-vibes/2017/12/317953/savvy-colonising-seas

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映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』

 毎日寒い日が続くとどうしても南の暑い島のことが思ってしまいます。
 今日のヤッホー君、ギンザに出かけて、映画『ゴーギャン(1848-1903)タヒチ、楽園への旅』を観てまいりましたので、以下にご報告します:
GAUGUIN, VOYAGE DE TAHITI - Bande-annonce officielle - Vincent Cassel / Edouard Deluc (2017)
https://www.youtube.com/watch?v=NvJeANEDyCc

Cinéma - ≪Gauguin-voyage de Tahiti≫ d’Édouard Deluc
https://www.youtube.com/watch?v=KySggRXfupo

Gauguin - Original Soundtrack
https://www.youtube.com/watch?v=mmlumzTqFYs

Sur les traces de Gauguin, le Polynésien - Stupéfiant !
https://www.youtube.com/watch?v=kx1fpfSoJDA

Marin puis agent de change à la bourse, Gauguin se met tardivement à la peinture, au début des années 1880, sous l’influence des impressionnistes. Incapable de gagner sa vie et de subvenir aux besoins de sa nombreuse famille (une épouse danoise et cinq enfants).

Onze ans et moults voyages (Pont Aven, Panama, Martinique…) plus loin, il est ruiné.

Abandonnant sa famille, il décide alors de partir s’installer définitivement à Tahiti, puis, après un retour à Paris, sur l’île de Hiva Oa, fuyant la civilisation pour mieux se consacrer à son art. C’est à ce moment précis que le film d’Edouard Delluc le rejoint, imaginant de confier son rôle à Vincent Cassel (qui lui ressemble de fait) et de s’inspirer de ses nombreux écrits pour peindre à son tour le destin christique de ce génie de la peinture française.

Le film se déroule durant le premier séjour de Gauguin à Tahiti, décrit sa rencontre avec la jeune Tahura, qui devient à la fois son modèle et sa compagne, puis se focalise sur la déchéance du peintre qui, venu chercher le paradis sur terre et le regain primitiviste, va insensiblement tout perdre, dévoré par la maladie et la misère, en butte à la contrefaçon de ses œuvres comme à l’abandon de ses proches. L’ennui est que ce terrible et languissant tableau se repaît un peu de lui-même et des beautés naturelles environnantes. On aurait voulu en savoir plus sur le parcours du peintre, sur le sens accordé à sa peinture, sur les raisons profondes de l’expérience radicale qu’il aura décidé de vivre.

Film français d’Edouard Delluc. Avec Vincent Cassel, Tuhei Adams, Malek Zidi. (1h42). Sur le web : www.studiocanal.com,

[photo]
Tuheï Adams et Vincent Cassel dans le film ≪ Gauguin, voyage de Tahiti ≫.

Le Monde, Publié: 20.09.2017 à 08h49
≪Gauguin, voyage de Tahiti≫: un tableau qui garde ses mystères

Le film se focalise sur la déchéance du peintre, interprété par Vincent Cassel, lors de son premier séjour à Tahiti.
Par Jacques Mandelbaum
http://www.lemonde.fr/cinema/article/2017/09/20/gauguin-voyage-de-tahiti-un-tableau-qui-garde-ses-mysteres_5188204_3476.html

Paul Gauguin, renowned for his paintings of exotic idylls and Polynesian beauties, was a sadist who battered his wife, exploited his friends and lied to the world about the erotic Eden he claimed to have discovered on the South Sea island of Tahiti.

The most exhaustive study ever of Gauguin's life has revealed a brutal man who falsely cast himself as a creature of exotic sexuality, a defender of women's rights and a bastion of socialist ideals.

'No one has ever questioned Gauguin's own version of the man he was and the life he lived,' said Nancy Mowll Mathews, author of Paul Gauguin, An Erotic Life, to be published this week. 'But the reality couldn't be more different.'

Until now, the received opinion has been that Gauguin's wife was a bullying harridan who chased her husband from the family home. But Mathews has discovered letters that prove that Matte Gad was in fact a kind, clever woman who was victimised physically, verbally and emotionally by her husband.

'When I was 10 years old,' the couple's son, Emil, wrote in a previously unpublished letter, 'I saw my father bloody my mother's face with his fist.'

By 1890, Gauguin's career was in crisis: Matte had forced him from the family home, his paintings were out of favour and he had been dropped by the city's best art dealers. 'By the end of the year, Gauguin was like a cornered dog,' said Mathews. 'He was harrying friends for cash and desperately proposing one new money-making scheme after another.'

Eventually, in 1891, he hit on the idea of travelling to Tahiti to paint illustrations for the most popular novel of the day, Pierre Loti's The Marriage of Loti . He held a banquet for the cream of the literary and artistic world and explained how the primitive, erotic living conditions on Tahiti would revive his muse.

'He portrayed the natives as living only to sing and to make love,' said Mathews. That's how he got the money from his friends and raised the public's interest in his adventure.

But, of course, he knew the truth, which was that Tahiti was an unremarkable island with an international, Westernised community.'

'I stand at the edge of the abyss, yet I do not fall in,' Gauguin wrote to a friend on the eve of his departure.

Tahiti was more sexually liberated than turn-of-the-century Paris and there is no doubt that Gauguin revelled in the opportunities it offered, but his time there was not nearly as extreme as he claimed. Unfazed, Gauguin transformed his prosaic experiences into titillating erotic adventures.

'The island [and the realities of Gauguin's life there] are virtually unrecognisable in his representations, carefully calculated to intrigue the French audience,' said Mathews.

After two years, Gauguin returned to France, expecting a hero's welcome. But what should have been a triumphant return turned into a morass of misunderstanding and disappointment as his paintings remained unsold.

In a final attempt to spark the public's interest, Gauguin wrote Noa Noa, his autobiographical account of his life in Tahiti. 'Writing the book was the beginning of Gauguin's writing of an erotic life for himself,' said Mathews. 'He created a life for public consumption as part of his campaign to make his exhibitions - and therefore his future - a success.

Gauguin's efforts failed, however, and less than a year later, he was making plans to return to Tahiti. 'Gauguin seems to have fallen for the myth of Tahiti he created,' said Mathews. 'He returned expecting the erotic idyll that was only ever a figment of his imagination. Of course, he didn't find it and the disappointment was profound: he died a twisted and bitter man, having alienated everyone both at home and in Tahiti. It's a sad story of a man who believed his own fiction.'


The Guardian, Published: Sun 7 Oct 2001 14.16 BST
Gauguin's erotic Tahiti idyll exposed as a sham
By Amelia Hill
https://www.theguardian.com/world/2001/oct/07/arts.highereducation

 1891年6月9日にポール・ゴーギャンはタヒチのパペーテの港に初めて降り立った。このときのことは、彼を出迎えた海兵隊砲術大尉ジエノにより報告されている。タヒチ人たちは、長髪で他のヨーロッパ人には見られない風変わりな身なりのゴーギャンをマフー(女装の男性)ではないかと考え、フランス入植者にとっては、彼は目的不明の特使として派遣された者であった。
 この特使という身分は、オクターヴ・ミルボーやステファーヌ・マラルメなどの高名たる文学者に助けられて教育・美術省に働きかけて得たものであり、そのためゴーギャンは渡航費用の割引を得てタヒチまで船旅をすることができた。
 経過を詳しくたどると、ゴーギャンの友人であった象徴派の詩人シャルル・モリスは、マラルメを通じてミルボーに依頼し、ゴーギャンの紹介記事を『エコー・ド・パリ』紙や『フィガロ』紙に書かせていたが、このことはフランス社会でのゴーギャンの認知度を高めることにつながった。続いてモリスは、タヒチ渡航に公的な援助を求めるゴーギャンの政府への推薦をミルボーに頼み、ミルボーは当時議員だったジョルジュ・クレマンソーの助力を得た。ゴーギャンはモリスとともに美術局長との面会を果たし、首尾よく援助を取り付け、帰国の際には作品を買い取るという約束まで得た。文書上では、1891年3月15日付でゴーギャンとクレマンソーから大臣宛に手紙が送られ、これに対して3月26日付で大臣からクレマンソーあての公文書が発行され、ゴーギャンにあてては美術局長G.ラルメから手紙が出されている。続いてラルメは海軍省の政府次席秘書官ウジエーヌ・エティエンヌ、フランス郵船会社社長などにも書状を発しており、これに応じて、エティエンヌは4月5日付でフランス領オセアニア総督ラスカードに書状を発行する。タヒチにいたラスカードは少なくともゴーギャン到着の知らせを6月までに受けとっている。
 ゴーギャンはマルセイユから、1891年4月1日にオセアニアン号に乗り、フランスを出発した。オセアニアン号はマルセイユとニューカレドニアのヌメアを結ぶ船で、5月12日にヌメアに到着した。そこでゴーギャンはニューカレドニアとタヒチを結ぶ船ヴィ−ル号に乗船し、5月21日に出港する。ヴィール号はフランス海軍の公文書送達艦であり、連絡船としても用いられていた。
 ゴーギャンのタヒチ到着に関する資料は、先述のジユノによる記録のほかに、タヒチ官報に掲載されたヴィール号の寄航記録の中のゴーギャンに関する記事、タヒチの新聞『タヒチよりの使者』の中の記事などがあげられよう。
 特に今まで紹介されることのなかった『タヒチよりの使者』のなかの記事により、ゴーギャンを迎えたタ
ヒチ社会の様子をうかがうことができる。
 まず1891年6月21日の『タヒチよりの使者』のなかの「ポール・ゴーギャン」と題されたゴーギャンの紹介記事である(資料@)。ゴーギャンをGaugainと間違ってつづっているが、引き続いて引用されている『フィガロ』紙掲載のミルボーの記事中では正しくGauguinと記されている。同日の紙面の中の「ヴィール号の到着」は先立つ官報の記事(資料A)をそのまま引き写した内容と思われ、乗客の名簿が掲載され、「ゴーギャン‥画家、タヒチへ派遣」と記載されているが、名前は官報ではGoguin、『タヒチよりの使者』のなかではGaugainとされている。また、先のゴーギャンの渡航に関する紹介状のなかでは、美術局長ラルメがゴーギャンに宛てた3月26日の書状中、GAUGAINとしている。
 先述のとおりミルボーは、マラルメを通じてモリスより依頼され、ゴーギャンについての新聞記事を2回執筆しており、2月16日『エコー・ド・パリ』紙と2月18日『フィガロ』紙のものである。『タヒチよりの使者』中、フィガロ紙の記事の日付が2月16日となっているのは目付の引用間違いであろうが、タヒチに送られた新
聞の版の違いなどの可能性も考えられる。
 ミルボーの記事は、ゴーギャンの出立費用調達のための売りたてを盛りたてる意図もあり、次週の週末に行われる売り立てに出されるゴーギャンの絵画と陶器作品についての批評から始まっている。
 ミルボーはゴーギャンとその作品は「非常に高貴で、非常に風変わりで、非常に洗練されながらなおかつ野蛮」であり、「高度に文学的なその芸術には高い熱烈な評価がふさわしい」としている。最後にはゴーギャンがタヒチに旅立つことについて触れ、ゴーギャンはかつてマルティニク諸島に旅して成果を得たように、孤独を求めて南太平洋に旅立つのだと述べている。この売り立てではミルボーら象徴主義の批評家たちが賞賛した総合主義の作品、ブルターニュ時代やアルル時代までの作品が中心となり、《ヤコブと天使の格闘》をはじめとする代表作が売られ、予想を上回る売り上げを達成した。
 『タヒチよりの使者』はミルボーのこの記事の批評の内容については触れず、ヴィール号で到着したゴーギャンに歓迎の意を衣すること、ゴーギャンのタヒチ滞在はタヒチ社会にとっても幸運であること、その美しさゆえ「太平洋の真珠」の名にふさわしいこの豊かな島で快適な滞在を過ごすことを祈るとしている。
 名前をしばしば間違われたことからもわかるように、ゴーギャンの名前と作品のことは一般にあまり知られておらず、タヒチの人々にとっても『フィガロ』に載った人気執筆家ミルボーの記事が唯一の情報源であったと思われる。
 そしてその作品と活動に寄せる賞賛がフランス本土における象徴派の活動と結びつけられており、前衛的な画家としてミルボーが評価していることについて読み取ることは、パリの文化的な状況に詳しいものでなければ難しかったであろう。
 ゴーギャンの前衛的な画風に対する落胆が入植者の中で後に生じたことも、フランスの文化サークルから遠く隔たったタヒチ社会の状況として当然であったろうと理解しやすい。また、記事中ゴーギャンは客人としてもてなされるとあり、一応の敬意を表されていたことはわかるが、特使としての政治的な意図が不明確なこともあり、粗末には扱えないながらも、予期せざる、そして帰ることを初めから期待されている客人でもあったのだ。
 ゴーギャンはタヒチのフランス人入植者にとっても異邦人だったのである。


第一回タヒチ渡航におけるゴーギャン到着時に関する資料について
田平麻子(たひら・あさこ、1998年神戸大学大学院文学研究科修了、滋賀県立近代美術館学芸員)
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/6-2.pdf

監督のエドゥアルド・デルック氏に本作について聞いた。

――ゴーギャンの人生のどんな点に惹かれて映画化しようと思ったのでしょうか。
エドゥアルド・デルック監督(以下デルック):ゴーギャンは、大きなリスクを取りつつも、現代文明に対する批判精神をもって、モラルや宗教、あるいは型にはまった芸術など、あらゆる価値観を打破した人です。過激な部分もあったのですが、そうした人間性に惹かれました。彼のそうした側面が一度目のタヒチへの旅に凝縮されていると思い、この話を映画にしようと思いました。

――監督は前作『Welcome to Argentina(日本未公開)』でも国外を舞台にした映画を作っていて、今回もタヒチを舞台にしています。これはゴーギャンのようにフランス以外の場所で、インスピレーションを得ようという試みでしょうか。
デルック:意識的に選択したわけではなく、たまたま自分がどんな映画を作りたいのか考えていた時期に、旅行を重ねていて、アルゼンチンに興味を持ってそこで何か撮りたいと思いました。私はパリに住んでいて、パリの文化で生きていますが、異国の文化にはいつも興味を惹かれますので、刺激を得ているというのはあります。ゴーギャンに興味を持ったのも、彼が自分の芸術を前進させるために遠い異国の地を求めたというのは、自分と共通しているかもしれません。

――ゴーギャンがタヒチに旅立った大きな理由に、彼が当時のパリの文化に絶望していたというのもありますが、この映画には西洋文明への批判的な視座を込めたのでしょうか。
デルック:仰ったように、ゴーギャンがタヒチへと旅立ったのは、新たな芸術のインスピレーションと、西洋文明に落胆していたこととが絡み合っていると思います。彼はパリにいる時はお金のためばかりに働かないといけないことに絶望していました。彼は絵の中に真実を見つけたいと思っていて、人はそもそも裸で生まれてきたものだと信じていたのだと思います。彼は人類の真実は原始的な生活に戻ることだと思っていたのです。

資本主義文明とゴーギャンの芸術観

――映画の中でゴーギャンが現地の若者、ヨテファに彫刻を教えるシーンがあります。その彼が商売のために彫刻をやるようになっていき、ゴーギャンはそれを諌めますね。あのシーンにはゴーギャンの芸術に対する姿勢が現れていますね。
デルック:ヨテファは、ゴーギャンと仲が良く、彼がゴーギャンを森に連れて行ったりしていたのです。ゴーギャンが絵の具を買う金もなくなった時に、木というものは自然の森にいくらでもあるので、今度は木を彫りながら自分の芸術を追い求めるようになりました。ゴーギャンが彼に彫刻を教えたのは、芸術を学ぶことで原始的な文明が活性化できるんじゃないかと考えたからだったんですが、結局西洋の資本主義的な文明に侵されてしまったことに対して、ゴーギャンは怒りを憶えたのです。あのシークエンスは文明の衝突や変遷を描くのに有効だと思いましたね。

――監督の芸術観についてお伺いします。映画監督として、ゴーギャンと同じくお金のために芸術活動をすることは否定的ですか。
デルック:私も同じ問題に常に直面していて、アーティストとしては妥協せず自分のやりたいことをやるのが理想的ですが、現実には映画製作は絵を描くよりもお金がかかりますし、純粋な芸術愛でお金を出してくれる人もそうそういません。ただなるべく自分は考えすぎないようにしています。  

――この映画の製作で何か妥協せねばならなかったことはありましたか。
デルック:今回は妥協らしい妥協はほとんどしなくて済みました。国際的にヒットするようなアプローチをした方がビジネス面ではよかったかもしれませんが、自分はそういったことはしたくなかったのですが、思っていたほど予算も高くつきませんでしたし。今回は自分のやりたいことができたと感じています。慎み深く、奥行きのある作品に仕上がったと思います。


ハフポ、2018年01月26日14時05分JST
文明と対峙した画家描く『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』監督インタビュー
フランスの人気俳優、ヴァンサン・カッセルがゴーギャンを演じている。

杉本穂高、映画ブロガー・ライター
http://www.huffingtonpost.jp/hotaka-sugimoto/gauguin_a_23341873/

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