2017年04月30日

江東区高橋「のら天市場」

 ひょいとeチャリで通ったら、のらくろードから楽隊の音色がチャンチャカ、チャカチャカ聞こえるではあ〜りませんか。
 通りすがりのヤッホー君でしたが、思わず足を止めてしまいましたよ、三田の芝桜見た後だというのに。

 「高橋のらくろード商店街」にて毎春恒例の「のら天市場」が開催されます。
 今年も色々な楽しいイベントが続々!
 4月29・30日はダンス・バンドライブやお相撲さんに会えたりします。
 5月3・4日はゲーム大会や縁日が楽しめます。
 その他、無料で楽しめる催しがいろいろ!!
 詳しくはのらくろード内のポスターをご覧ください。


高橋商店街振興組合
2017 春ののら天市場開催情報
https://www.facebook.com/pg/高橋のらくろード-1643877205903343/about/

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 そうなんです、音を鳴らしていたのは「リーム」さん。
 何だろうな、leaf とかreef とかは分かるんですがぁ、「リーム」はヤッホー君、お手上げ。
 そうしたらこんな記事を発見!

 公益財団法人江東区文化コミュニティ財団で認定したKOTO街かどアーティストが、江東区内文化センターをはじめとする公立施設、区内商店街、商業施設などのパブリックスペースでライブパフォーマンスを行なうことによって、地域の活性化と芸術家のいるにぎわいのある街を創出していくために実施する事業です。
【事業の目的】
・アーティストの発掘と発表機会の提供
・地域の活性化
・江東区(街)のイメージアップ

江東区文化コミュニティ財団公式サイト
KOTO街かどアーティスト
https://www.kcf.or.jp/koto/jigyo/artist/

 この「音楽系パフォーマンス部門」にきちんと登録されている「おやじバンド」でしたねぇ〜
 で、このバンドの歌い手さんが披露してくださった歌は、2曲:

亜麻色の髪の乙女(島谷ひとみ)
https://www.youtube.com/watch?v=0i31mObROv0
亜麻色の髪の乙女(村治佳織)
https://www.youtube.com/watch?v=7eSPif4qtzY

なだそうそう(夏川りみ)
https://www.youtube.com/watch?v=lqMbKU3BINM
なだそうそう(BEGIN)
https://www.youtube.com/watch?v=ehC4N-0_aaI

 リズムをとっていたヤッホー君、終わるたびに拍手を送っていたヤッホー君、
 歌い手さんは、「この街の人たちは皆さん、こころ優しい人たちばかり、いいいですね、のらくろード!」ってマイクから語りかけてくださいました。
 それにしても「リーム」、いいですよ、ムカシ懐かしい曲を奏でて下さって。
 これはこの下 ↓ の URL をクリック!
http://cross-roads-bar.com/  

あのぉ、南砂町の「60−80’s Music Bar 南砂町クロスロード」(江東区南砂7-1-23、Tel 03-3644-9772)を根城になさっている楽隊でしたね。

 公益財団法人「江東区文化コミュニティ財団」で認定したKOTO街かどアーチストエレキバンド
https://www.kcf.or.jp/koto/jigyo/artist/
 
 「REAM(リーム)」のサイド・ギターにマスターが加入させていただいております。
 主にインストゥルメンタル曲(ベンチャーズなど)を演奏、ボーカル曲は邦楽を演奏しております。
 リード・ギター 寺田耕三(プロ・ギター演奏者)
 サイド・ギター 松本安雄
 ベース     西田和之(プロ・ベースギター演奏者)
 ドラム     柳泉佳正
 キーボード   小林貴之
 ボーカル    エミ


2017年4月9日(日曜日)
江東区の高橋商店街「のらくろーど」で演奏しました
http://cross-roads-bar.com/2017/04/11/koto 

 だから歌い手さんはエミさんでした(拍手)!
 リーム「REAM」の由来はこのお店にお伺いしないと聞けないようですね。
 このお店「CROSS ROAD」の由来はね、クリーム CREAM に由来するって。

 このバンドについてはね、下 ↓ が詳しいっす:
https://en.wikipedia.org/wiki/Cream_(band)

 では Cream のアルバム Wheels of Fire (1968)から”Crossroads"をどうぞ:

cream crossroads (wheels of fire)
https://www.youtube.com/watch?v=1qogsVUEnjw
 
 でも良かったぁ〜、イマ人気急上昇中の「のらくろード」、春の「のら天市場」! 
 こんなのも:
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 こんなのも:
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 のらくろードから清洲橋通りに戻ったら、つつじがきれい、キレイ、綺麗!
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港区三田の芝桜

 ヤッホー君の昨日、「昭和の日」の俳諧は芝桜を鑑賞しようと、三田駅(都営三田線、都営浅草線)・田町駅(JR)。つまり港区!

 ヤッホー君のこのブログ、2014年06月04日付け日記「東藻琴芝桜公園」をお読みくださいね。
 翌5日付け日記「榎森進」も。

 『開拓移民、集団入植、団体移住、…
 2014年6月1日はまれにみる素晴らしいお天気、しかしそればかりではありません。
 おおむね雨と霧に閉ざされ、真冬は厳寒に、地あらしの吹雪、とそれはそれは遠慮のない自然を相手に、原生林の生い茂る土地のまっただなかで、それぞれに、いろんな物語があったのでは、とヤッホー君、自然に頬に熱いものが流れてきます

なんて綴っていますが、こちらもぜひお読みください:

福島県公式サイト、福島県と北海道の交流のあゆみ  
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11015a/kikaku-hokkaido-04.html

 あれからもう3年にもなりなんとしているんですね、感慨深いものがあります。

 そんなことを想いながら歩いて行くと、東京のど真ん中になんと見事な芝桜の公園がありました。
 「住友不動産三田ツィンビル西館の公開空地」なんですぅ。

 総合設計制度を利用して建物を建てる時、一定の条件で誰でも利用できる空地を確保すればその空地の量に応じて建物の容積の緩和を受けることができる。
 この空地を公開空地というが、公開空地が周辺地域の環境の向上に貢献するので、容積が緩和することができるという理屈になっている。
 しかし、この公開空地は地域の環境の向上につながるものは少なく、現行の総合設計制度はいたずらに高層建築物の建設を助長しているだけの制度として筆者(安藤)は疑問に感じている。
 その中で、比較的好感のもてる公開空地をご紹介したい。
 それが、三田3丁目の「住友不動産三田ツィンビル西館の公開空地」である。
 公開空地は西側の既存の樹木を生かしつつ、芝桜を広い面積に植え質の高い公園(庭園)となっている。
 計画した造園家の発想がよかったのであろう。
 来週、「芝桜まつり」も行われるようである。難を言えば、芝桜の生育がまだ十分でなく完璧な状態ではない。
 この公開空地の特筆すべきもう一つのことは三田4丁目側の道路と三田3丁目のツィンビルの敷地では15m以上の高低差があり、三田4丁目側の人も利用できるようエレベータを設置したことである。
 このエレベータは屋外で誰でも利用できるようになっている。
 これは三田4丁目などの方の利用にとても便利になっている。
 これこそ、地域に貢献できる施設である。
 この公開空地は大勢の人が公園としてまた通路として利用している。


2012-04-15 13:28:06、港区まち創り研究会(まち研)ブログ
港区のできごとあれこれ
http://blog.goo.ne.jp/machikenminato/e/dba4461f6de596bbb204b0261bf57430

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 都心にしては、この空き地、そして空き地の高低差がこんなにも・・・
 ヤッホー君の破屋、寓居は、じゃないでしょ、清洲城は江東区!
 高低差は大川や運河に架かる橋を登ったり、下りたりするとき、
 eチャリのペダルを漕ぐのがしんどいんです、その江東区から俳諧の道を究めんとやってきたヤッホー君、
 とっても不思議がいっっぱい、って顔つきをしはじめました。
 これは、港区の地形を歴史を坂登ってみる必要があるんですよ:

 港区の地形は、大きくは東側に広がる低地と西側の台地に分けられます。
 最高地は 標高34m(北青山三丁目)、最低地は 標高0.08m(JR浜松町駅前ガード付近)です。
 台地(武蔵野台地)は標高約30〜40m の平坦面を有し、区の中央を流れて現在の浜松町駅周辺で埋め立て前の河口域を形成する古川及びその支沢によって樹枝状に刻まれて、 いくつかの台地群をなしています。
 台地群は、北から
  赤坂台地、
  青山台地、
  飯倉台地、
  麻布台地、
  三田台地、
  白金台地、
  高輪台地などと呼ばれています。
 一方、低地は古川及びその支沢の形成する沖積低地と東京湾に面する砂州・砂堆及び埋立地からできていま す。
 台地と低地の境では急な斜面を形成し道路は急坂となっており、これらの急斜面は、海食崖であり、およそ0.6万年前の海水の浸食作用によって作られた地形です。
 そのため、 港区には人工改変による坂が多く見られ、
  乃木坂、
  鉄砲坂、
  魚籃坂などさまざまな名前のつけられた90余りの坂の名前からは港区の歴史や文化だけではなく、地理的環境を知ることができます。


2013(平成25)年11月発行
一般社団法人東京都地質調査業協会
技術ノートNo.46「港区」
http://www.tokyo-geo.or.jp/tech-note-pdf/No46.pdf

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2017年04月29日

KODAIRA祭  

 「昭和の日」かぁ〜、イマはもう、平成29年!

2017年4月26日22時18分更新、朝日新聞デジタル
報道の自由度ランク、日本は72位 G7最下位に http://www.asahi.com/articles/ASK4V5VV7K4VUHBI02S.html

2016年12月09日WebRonza
権力を持った側がやってはいけないことがある
http://webronza.asahi.com/politics/articles/2016100500005.html

2016年4月20日05時02分更新、朝日新聞デジタル
「表現の自由」国連報告者、高市総務相との面会かなわず
http://www.asahi.com/articles/ASJ4M4GBTJ4MUTIL02Q.html

 これらを読んでみるに、いろいろ問題のあるメディア。
 ひとつには、メディア側からの「忖度」しすぎ、
 もうひとつは政権側からの「お節介」のしすぎ、
 ジャーナリストも読者も、「批判精神」のなさ、かなあああ。
 最近では、天下の国立大学の大学祭企画者側にも問われています。
 でもあ偏差値秀才ほど、2足す2は4と言えず、言わず、黙ってる。
 ウエが5と言ったら5、100と言ったら100になっちゃうんだって。
 『1984』?『1Q84』?イマ2017なんだけどなあああ。

 一橋大学KODAIRA祭は差別禁止ルールをつくり、テロと差別を煽動する百田尚樹氏に絶対差別をさせないでください。または企画を中止してください。
 一橋大学の学園祭であるKODAIRA祭で、来る2017年6月10日に、百田尚樹氏(作家)の講演会「現代社会におけるマスコミのあり方」が企画されています。
 しかし百田尚樹氏は、悪質なヘイトスピーチ(差別煽動)を繰り返してきました。下記はその一例です。

♦(千葉大医学部の「集団レイプ事件」について)
「私は在日外国人たちではないかという気がする。」(2016年11月24日ツイッター)
♦(「遺体を陵辱するなどの行為は支那人特有のものですね。」というツイートへのリツイートに)
「 そうです!中国人は昔からやります。日本人にはない特性です。」(2013年9月19日ツイッター)
♦「もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私はテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく。」(2017年4月13日ツイッター)(以上、政治家レイシズムデータベースより)

 これらヘイトスピーチは、日本も95年に批准した人種差別撤廃条約が法規制の対象としている極右活動・差別の煽動行為に当たる違法行為です。欧州では百田氏の発言・言動はほぼ間違いなくネオナチなどの極右として法規制の対象となります。国立大学などの公共機関が極右・ネオナチに公的な発言機会を与えることは人種差別撤廃条約によって禁じられています。(昨年5月に制定されたヘイトスピーチ解消法の精神にも反します)
 しかも百田氏は単なる私人ではなく、NHK経営委員(2013年11月〜2015年2月)を務める等、準公人として極めて大きな社会的影響力を持ちます。実際に彼がテロを煽動した4月13日のツイートは、17万のフォロワーによってまたたくまに拡散され、無数の賛同ツイートを誘発しました。そのなかには、

「一兵卒として参加します」「俺も殺りますよ!」
「最低一人の在○○○人を道連れにする覚悟です!」
「駅前のパチンコ屋の打ちこわし」
「総連打ち壊しオフ会」

などといった、マイノリティへの殺人・ジェノサイドの予告を含む、極めて危険なヘイトスピーチが数多く散見されます。
 このような殺人・テロをふくむ差別煽動を繰り返す百田尚樹氏が、学園祭に招かれることで、私たちは学園祭期間中に深刻な差別・暴力が誘発されることを憂慮せざるをえません。じっさいに影響力のある公人の差別は、庶民の差別よりもはるかに深刻な差別煽動効果をもつことが知られています。また国立大学法人一橋大学という公共性ある大学の施設で、公式に学園祭のゲストとして招かれることじたい、彼の差別・テロ煽動に大学がお墨付きを与えることにもなります。
 したがって、私たちはKODAIRA祭が差別のない学園祭であってほしいとの願いから、私たちは百田氏をゲストに招くことに反対するとともに、以下のような実効的な差別撤廃措置を求めます。

1.差別を許さないKODAIRA祭の実現を求めます。
 KODAIRA祭を誰もが楽しめる学園祭にするために、KODAIRA祭ではいかなる差別・極右活動も許さない旨を公に宣言し、それを徹底してください。
 1)「差別の許さないKODAIRA祭宣言」(仮)等、貴会が性・人種/民族・障がい・宗教などへの差別を禁止する明示的ルールを新たに制定してください。
 2)KODAIRA祭期間中に来場者が安心して楽しめるよう、来場者が差別に遭わないような実効的な差別防止策・対処策を策定・実行してください。
 3)貴会スタッフ全員が実効的な反差別研修を受け、KODAIRA祭期間中に差別発生時にきちんと対処できる体制を整えてください。
 4)策定した反差別ルールは来場者全員が容易に知ることができるようにしてください。

2.KODAIRA祭のイベントに登壇する全てのゲストに対し、上記に定めた反差別ルール・ポリシーとそれを貴会が徹底する旨を通知し、万が一その約束を守れない方がいた場合その方の登壇をすべて断ってください。

3.百田尚樹氏講演会「現代社会におけるマスコミのあり方」に関しては、百田氏が絶対に差別を行わない事を誓約したうえで、講演会冒頭でいままでの差別煽動を撤回し今後準公人として人種差別撤廃条約の精神を順守し差別を行わない旨を宣言する等の、特別の差別防止措置の徹底を求めます。同時にこの条件が満たされない場合、講演会を無期限延期あるいは中止にしてください。

 以上よろしくお願いします。
 賛同者の署名は以下の宛先へ届けられます
 外部打診担当、一橋大学第21回KODAIRA祭実行委員会

 KODAIRA祭実行委に差別禁止ルール案「差別のないKODAIRA祭開催のために(仮)」を提案しました!
 反レイシズム情報センター(ARIC)
 2017年4月25日 − みなさん

 こんにちは。反レイシズム情報センター(ARIC)です。
 4月25日11時現在、KODAIRA祭実行委員会からは未だに何の連絡もありません。

 私たちARICは、差別のない学祭実現のための差別禁止ルール制定を求めていますが、その一案として、下記のようなモデル案を作成し、今朝KODAIRA祭実行委員会に送付しましたのでご報告します。

 私たちが知る限り、大学祭の自主ルールとして差別禁止ルールを制定した例は聞いたことがありません。しかしここまでヘイトスピーチが頻発する時代になり、来場者の安全を守るためにも、このような取り組みは一橋大学に限らず、日本の大学すべてに求められていると思われます。

 私たちはこのモデル案を公開することで、差別のない大学祭実現に向けて差別撤廃ポリシー制定を求めるための、さらなる声をKODAIRA祭実行委員会に届けたいと考えています。
 同時に、ヘイトスピーチ頻発時代の日本で、実効的な差別撤廃ポリシーのあり方を、広く議論する契機といたしたいと考えています。

 みなさまにおかれましては、多くの声をKODAIRA祭実行委員会に届けるためにも、本キャンペーンのご拡散にご協力頂けるようお願い申し上げます。

 反レイシズム情報センター(ARIC)
(以下、ルール案)
差別のないKODAIRA祭開催のために(仮)
一、KODAIRA祭は、誰もが安心して楽しめる学園祭開催を目指します。

一、KODAIRA祭は、国境を越えた普遍的人権の実現を謳う世界人権宣言と日本国憲法を尊重し、教育研究の自由を保障する一橋大学ハラスメント防止ガイドラインに従い、会場内における人種/民族・性・障がい等に基づいたいかなる差別(1)も許しません。

一、KODAIRA祭は、極右組織等による差別煽動(2)の禁止を義務付けた人種差別撤廃条約を尊重し、会場内における暴力を含むいかなる差別煽動 も許さず、国立大学法人一橋大学が順守すべき本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律を踏まえ、それら差別煽動の防止に努めます。

一、KODAIRA祭は、会場内においてもしも差別・差別煽動が起きた場合、実行委員会または警備員が見つけ次第、当人に当該行為を止めるよう警告を行い、なおも警告に従わない方にはすみやかにご退場いただきます。また悪質な差別・差別煽動については、必要に応じて警察・法務省・一橋大学当局・NGOなど関係各機関と協力し、以後の差別抑止と被害回復に尽力します。

一、KODAIRA祭は、会場内においてもしも差別・差別煽動を見かけた場合、あるいは被害を受けたりした場合に、通報・相談できる窓口を設けています。すみやかに下記連絡先までご連絡ください。

以上

(1) ここでいう差別とは世界人権宣言や日本国憲法、人種差別撤廃条約等諸国際人権条約が法規制を義務付けている様々な差別のことです。

(2) ここでいう差別煽動とは人種差別撤廃条約第4条が禁止を義務付ける差別の「差別のあらゆる扇動又は行為」のことです。同条約第4条は「人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止する」ことを求め、また国立大学法人のような公的機関が「人種差別を助長し又は扇動することを認めない」ことを義務付けています。

【通報先】
○ KODAIRA祭実行委員会:(担当部署、連絡先)
○ 一橋大学ハラスメント相談室(月・金のみ):(担当部署、連絡先)
○ 法務省人権相談窓口
相談フォーム:http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken21.html

○ 反レイシズム情報センター(ARIC)
相談フォーム: http://antiracism-info.com/soudan
メール: soudan@antiracism-info.com

【差別・差別煽動の例】
 ・ヒジャブ/スカーフなど着用者に「イスラム教徒はテロリストだ」等と中傷する、暴力を振るう。
 ・在日コリアンや中国人に「朝鮮へ帰れ」「中国人は反日だ」などと言う。
 ・女性に対して痴漢行為を行う、お酌を強要する、卑猥な冗談を言う。
 ・妊婦やベビーカーを引く人に「甘えているんじゃない」などと言い嫌がらせをする。
 等々

【参考資料】
○ 世界人権宣言(第二条)
「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」

○ 日本国憲法(第14条)
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

○ 人種差別撤廃条約
(第1条)「この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。」
(第4条)
「締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。
(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。
(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。」

○本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律
(第三条)「国民は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性に対する理解を深めるとともに、本邦外出身者に対する不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない。」
(第六条)「国は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動を解消するための教育活動を実施するとともに、そのために必要な取組を行うものとする。」

○ 一橋大学ハラスメント防止ガイドライン
 人権とは、人間が人間として決して侵されてはならない権利のことであり、日本国憲法は法の下の平等や思想・良心の自由、学問の自由などを定めています。
 国際社会もまた、世界人権宣言において、「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と謳っています。
 本学は、いかなる人権侵害も許しません。
 差別なく学ぶ権利や教育研究を行う自由を保証することは大学の社会的責務です。
 本学が世界中の留学生を受入れ国際化するなかで、人権意識を向上させていくことがますます求められています。

 ハラスメントとは、広義には人権侵害であり、性別、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、信条、年齢、職業、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは、広く人格に関する言動等によって、相手に不利益や不快感を与え、その尊厳を傷つけることをいいます。

https://www.change.org/

 ところで百田尚樹はメディアについては、こんなことを明言しているようです:

 作家の百田尚樹氏が自民党の勉強会で「沖縄の二つの新聞社はつぶさなあかん」などと発言した問題で、百田氏は2015年6月27日、自らのTwitterで、言論弾圧には断固反対との姿勢を示す一方、「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です」などと持論を展開した。
 百田氏はまた、自らの発言について26日、自身のFacebookでも「私的な集まりで軽口で言ったにすぎない」などと釈明した。
 この問題について、松井一郎・大阪府知事(維新の党顧問)は26日、百田氏の自民党議員の勉強会での発言について、「(メディアに)『圧力をかけよ』と言ったのは自民党。自民党をたたくのはいいが、講師として行った百田さんにも表現と言論の自由はある」と擁護した。朝日新聞デジタルが報じた。
 一方、沖縄タイムスと琉球新報は26日、両社編集局長の連名で共同の抗議声明を発表した。


2015年06月27日10時50分JST更新、The Huffington Post
百田尚樹氏「本当につぶれてほしいのは朝日新聞」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/06/26/naoki-hyakuta-twitter-about-papers_n_7675870.html

[補足〕
2017.04.30付けリテラ
百田尚樹が中国憎しで「漢文の授業を廃止せよ」とバカ丸出し!
右派の大好きな教育勅語も明治憲法も漢文なんですけど…

http://lite-ra.com/2017/04/post-3122.html

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美しい国、豊かな国土

 日本という国を見てください。
 四季折々の変化があって、富士山があってね。
 春には桜が咲き、夏には蛍が飛び交い、秋には紅葉が赤く染まり、冬には雪が降る。
 山の緑を見てみなさい。
 豊かでしょう。
 その豊かな国土を壊したら元も子もないでしょう。
 世界でも日本はもっとも美しい国のひとつです。


 これは五十嵐敬喜先生のことばでした。
 だから大事なのは平和なんだ、
 平和憲法なんだ、
 われわれのご先祖様が命をささげて与えてくれたこの国の屋台骨なんだ、
 勝手にいじくるな、
 「主権在民」でしょ、
とヤッホー君、朝からつぶやいております、2017年4月29日「昭和の日」!

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
 われらとわれらの子孫のために
 諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
 政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
 ここに主権が国民に存することを宣言し、
 この憲法を確定する。

…日本国憲法


 日本国憲法の「三原則」って何なの ?
 「国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」の三つの原則のことだよ !

…学研教育情報資料センター、6年、社会学習相談
https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026215010.pdf

 「戦没者230万人」という数字(注1)を、私たちはどのように読み解けばいいのだろうか。昭和史の著作が多い「歴史探偵」こと作家の半藤一利さん(84)に聞いた。

 戦前の日本は近代国家の体をなしていなかった。
 「戦没者230万人」という数字はそのことを端的に示していると思います。国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。いつ、どこで、どのように戦没したのか。確実に把握していなければならない。ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。厚生省(当時)は戦後、戦域別で戦没者数を算出しましたが、そこまで。死因までは分類できていない。230万人というざっくりとした数字も、私は過小評価ではないかと疑っていますよ。

 詳細が分からないということは道義的にはもちろん、軍事的にも非常に問題があります。
 前線に送り込んだ部隊のうち、戦闘に耐えうる兵士は何人なのか。あるいは戦傷、戦病者は何人いるのか。正確な戦力を測れずして、作戦を立てることはできません。そもそも、前線に送らなければならない武器弾薬、糧食、医薬品などを算出するためにも、絶対に必要です。それができていなかったのではないか。

 兵站(へいたん)を軽視した、あるいは無視したのが日本軍でした。
 「輜重(しちょう)が兵隊ならば チョウチョ、トンボも鳥のうち」というざれ言があります。輜重とは兵站部門のことです。そもそも、陸軍参謀本部や海軍軍令部のエリート将校にとって、兵卒はしょせん、1銭5厘(当時のはがき代)で集められる存在。作戦時には3日間分のコメ6合など25キロの荷物を背負わせ、前線へとおっぽり出した。食糧がなくなれば、現地調達しろと。降伏はありえないのだから、負け戦になれば玉砕しかありえません。敗残兵の消息など気にもとめなかった。
 これに比べ、米国の手厚さは語るまでもないでしょう。
 あるエピソードがあります。ブッシュ元大統領(第41代ジョージ・H・W・ブッシュ、第43代大統領の父)は戦時中に小笠原諸島の父島沖で撃墜されました。元大統領は救助されましたが、この時に捕虜になった同僚がいました。戦後、米軍の調査団が父島を訪れ、彼が埋葬された墓地を掘り返したんです。すると、遺骨の首は切断されており、日本軍に処刑されたことが明らかになった。一兵士に対するまで、その死をないがしろにしない。国家としての責任を果たしているんですね。

 日本軍は自己の実力を顧みず、攻勢の限界線をはるかに越えました。
 餓死者が続出するのは当然のことです。私は戦没者のうちの7割が、広義での餓死だと思っています。このような軍隊は古今東西にありません。人間をまるで、将棋の駒のように扱っている。

 海上を移動中に乗船が沈められ、死亡した陸軍将兵は18万人にも上ると見積もっています。これも補給軽視、つまりは人命軽視の表れです。開明的とされている海軍ですが、陸軍とそんなに違いはありません。レイテ沖海戦で、小沢艦隊はおとりになりました。基幹の空母4隻に搭載した航空機は定数をはるかに下回る100機余りしかなかったのに、整備員は必要もないのに定数を乗せた。帳簿上の員数合わせだけを気にする官僚主義としかいいようがない。
 軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやりました。
 特攻作戦も同様です。特攻隊員たちの純粋な気持ちを利用した。「日本的美学」などと言われるが、とんでもない。立派な作戦であるような顔をして、机の上で「今日は何機出撃」などと記していた参謀らを許すべからずです。

 集団的自衛権の行使について、容認する声があります。何を言ってんだ、と思いますよ(注2)。
 戦後の日本は平和だった。その権利を行使しなかったため、何か問題があったのでしょうか。

 太平洋戦争を巡り、これまで各国の将軍、提督たちを数多くインタビューしてきました。みんな、偉い人は生きているんですよ。戦争とはそういうものです。「戦没者230万人」の犠牲のうえに日本は成り立っています。その数が示していることは何か、考えてみるべきじゃないでしょうか。


2014年8月15日付け毎日新聞【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
戦没者230万人
兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち 半藤一利さんインタビュー

https://mainichi.jp/articles/20140815/mog/00m/040/002000c#csidxc5d88a934459aeba848ed781a77fc27

 『「日本国憲法」には、どんな不備があるのか。不備があるのに、なぜ改正されずにきたのか。今回はこの問題を考えたい』【特集】「憲法」を考える・・・
 来月5月3日(水)は「憲法記念日」でもあることだし、小熊英二さんといっしょに皆んなでじっくり、われわれの「憲法」を考えてみませんか。

 月刊誌が自民・民進・公明・維新の4党に憲法観を聞いた〈1〉〈2〉。
 各党とも、「憲法はいまの日本の姿に見事に定着しています」(保岡興治・自民党憲法改正推進本部長)という点では、ほぼ共通しているようだ。
 だが一方で、時代の変化に応じた改正が必要だという認識でも、4党は共通している。各党が挙げている改正点は、9条を別にすると、環境権、地方自治、緊急事態対応、合区解消、教育無償化、首相の解散権などだ。
 とはいえ上記の諸問題の多くは、改憲せずとも法律の改正で対応できる。総じて「これは急いで改憲しないと困る――といった具体的な提案はどの党からも出ていない。変えたほうが望ましいといった議論があるのみ」(枝野幸男・民進党憲法調査会長)なのだ。
*    
 実はこうした状態は、今に始まったものではない。
 敗戦直後から、憲法の不備を指摘する意見は多かった。それでも改憲は実現しなかったし、また実現しなくても大きな問題はなかった。
 その理由は何だろうか。
 改憲への反対が強かったこととは別の理由として、ケネス・盛・マッケルウェイン(Kenneth Mori McElwain、東京大学社会科学研究所准教授)は、日本国憲法の特性を指摘する〈3〉。
 実は日本国憲法は非常に短い。
 各国憲法を英訳した単語数を比較すると、日本国憲法はインド憲法の29分の1、ドイツ基本法の5分の1に満たず、世界平均の4分の1以下なのである。
 なぜ短いのか。
 日本国憲法制定以後の他国の憲法が、環境権など新しい権利を記していることが多いのも一因だ。だがそれ以上に大きな理由は、条文に具体的規定が少ないことである。例えば他国の憲法では、選挙や地方自治の制度などを具体的に書いてあることが多い。だが日本国憲法では「法律でこれを定める」と書いてあるだけだ。
 マッケルウェインはこれが、日本国憲法が改憲されなかった理由だという。他国では改憲が必要な制度改正でも、日本では公職選挙法や地方自治法の改正で対応できたからだ。
 なお議会での改正手続きをもつ憲法のうち、3分の2の賛成を必要とするものは78%だという。
 つまり日本国憲法は、特段に改正が難しいわけではない。改憲しなくても「事足りた」から改憲されなかったというのである。
 私が確認してみたところ、日本国憲法で「法律でこれを定める」と書いてある条文は10ヶ所もある。それには選挙制度や地方自治、会計検査院の権限など統治機構の条文、さらに国民の要件、財産権の内容、労働条件、参政権資格など人権に関する条文が含まれる。他にも教育を受ける権利、納税の義務など、法律で詳細を決めるという条文は数多い。

 このことを踏まえると、昨今の改憲論の背景がわかる。
 例えば民進党の細野豪志は、現憲法は「国と地方の関係」を「法律に丸投げ」しているとして、地方自治や教育権などの条文を詳細にする私案を公表した〈4〉。確かにそういう不備はあるといえるだろう。
 とはいえ、そうした不備は細野が指摘した条文だけにあるのではない。このやり方で各条文を詳細にすれば、憲法全体を書き直す作業になる。その困難さと、過渡期の混乱を考えれば、政策の実現手段としては現実的ではない。

 なおこれとは別に、「押しつけ憲法」だから改憲しようという声もある。
 だが木村草太は「『押しつけだから気に入らない』というのでは、『いまの日本国憲法に内容的問題がない』と自白しているようなもの」と評する〈2〉。こうした心情的改憲では、条文の具体的内容がよくなる目途はないだろう。
 だが現憲法も人間が作ったものである以上、完全無欠ではない。マッケルウェインは「ここで改めて憲法とはなんであるかを確認しておきたい」「憲法は権力者が守るべきものとして定められたものである」と述べ、憲法の規定が簡略すぎるのは問題だと指摘している。憲法が簡略であるほど、政権党や政府の裁量や解釈が入りこみやすいからだ。
 つまり問題はこうだ。憲法が簡略すぎるのは、確かに一種の不備ともいえる。とはいえ、憲法全体の書き直しは現実的でない。ではどうするか。

 ここで発想を変えてみよう。
 安易に憲法を変える前に、まず憲法の不備を別の形で補う努力をするべきだ。例えば国民が国政への関心と権力への監視を高めれば、上記のような不備を補う機能を果たしうる。そもそも「憲法の不備は自分たちで補う」というくらいの国民意識の高まりがないのなら、形だけの改憲をしても混乱を生むだけではないか。
 木村はこのようにも述べている。

「改憲が必要かどうかは、これまでに生じている問題を分析した上で、法律の運用の適正化でも、法律改正でも対応できない、となって始めて議論されるべきものだ」
 だが「権力者の問いを待っているだけでは国民のための国家は実現しない。国民の側から、『こんなことに困っている』『この制度はおかしい』と声を上げていかねばならない」

 そうした状態をめざすことが、憲法をめぐる全ての議論の前提だ。それなしには、「憲法を変える」ことも、「憲法を守る」ことも、ありえないのだから。

〈1〉田原総一朗・司会の座談会「70年間改憲できなかった本当の理由」(中央公論5月号)
〈2〉木村草太による連続インタビュー「憲法改正 自公維民4党の論点」(文芸春秋5月号)
〈3〉ケネス・盛・マッケルウェイン「日本国憲法の特異な構造が改憲を必要としてこなかった」(中央公論5月号)公式サイトは
https://www.kennethmcelwain.com/
〈4〉細野豪志「現実的な憲法改正案を提示する」(同)
    ◇
小熊英二(おぐま・えいじ、1962年生まれ)
 慶応大学教授。近著『首相官邸の前で』は、監督を務めた同名の記録映画のDVD付きで、脱原発運動の分析論文なども。論壇時評の執筆は今月2017年4月から2年目に。


2017年4月27日05時00分朝日新聞デジタル(論壇時評)
日本国憲法 改正されずにきた訳は
歴史社会学者・小熊英二

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12911625.html?rm=150

(注1)アジア・太平洋戦争
 1941(昭和16)年12月8日から1945年8月15日まで、日本とアメリカ、イギリス、中国など連合国との間で戦われた戦争。国際的にみれば第2次世界大戦の一環。日本にとっては1937年からの中国への侵略戦争の決着もからんだものだった。
 戦争の始まりは日本時間の12月8日(ハワイでは7日朝)、ハワイの真珠湾基地への攻撃と思われているが、1時間ほど早くイギリス領マレー半島のコタバルへの上陸から始まった。このように戦争の目的は「自給自足体制」を確立するため、イギリスやオランダの植民地を武力制圧し、石油などさまざまな資源を確保することだった。イギリス領などを攻撃すればアメリカとの戦争は避けられないと考え、太平洋側の拠点を攻撃した。
 戦争は1945年8月、広島、長崎への原爆投下とソ連の参戦で、日本が連合国側のポツダム宣言と呼ばれた降伏勧告を受け入れることによって終結。
 日本歴史史上で最大の惨禍をもたらしたほか、アジア・太平洋で犠牲が広がった。軍人や一般国民を含む日本の死者は約310万人とされているが、外地での生死不明者や原爆を含む空爆での死者がはっきりしていないことから、さらに上回るとみられる。

2007年12月30〜12月31日朝日新聞「歴史は生きている、7章:アジア・太平洋戦争と国共内戦
「戦死者に申し訳ない」という呪縛
http://www.asahi.com/international/history/chapter07/01.html

(注2)
 こうした状況を垣間見るだけでも日本が戦争法に基づいて、戦争体制の軍事的基盤が形成されつつあるといえる。
 安倍政権は歴史の教訓を顧みることもなく、立憲主義・平和主義・民主主義を踏みにじる道を暴走している。
 戦争関連法の廃止と「集団的自衛権」容認の閣議決定を撤回させることは、この間の運動の延長線上にある当然の方向である。

立教大学コミュニティ福祉研究所紀要第3号(2015)
戦争をする国・しない国の分岐点
政治的判断力が問われる時代のなかで、学術的であるために

浅井春夫
file:///C:/Users/shuei%20hiratsuka/Downloads/AA12646974_03_10.pdf

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2017年04月28日

美しい都市

 ヤッホー君のこのブログ、昨日の日記「美の条例によるまちづくり」をもう一度お読みくださいな。
 朝霞市基地跡地問題さんの2009/4/7(火)午前5:41更新による「五十嵐敬喜教授講演、具体的な『美の基準』がまちづくりのキーワード、『聖なる場所』『静かな背戸』『お年寄り』『夜光虫』」をご紹介申し上げました。
 この講演を聴いてブログにしたのが市議会議員黒川滋さん(無所属の会)です。

〈キーワード〉お年寄り
〈前提条件〉お年寄りはお年寄りを必要とするが、同時に若者も必要である。また、若者もお年寄りとの接触を必要としている。車通りが激しく、休む場のない長い道や坂は、体力のないお年寄りにとって外出するチャンスを奪ってしまう
〈解決法〉お年寄りが散歩するための敷地内歩行路、小広場、それが不可能ならば、ぬれえん、ベンチ、雨宿り場又は木立の日影でも良い。建築の一部にお年寄りのためのシェルターを創ること
といった感覚でまちづくりのルールを決めている。
 五十嵐さんが「コミュニティーがあっても公園ばかりあってもまちは死んでしまう。公園がなくてコミュニティーがあれば人間は何とか生きていける」という話にとても動かされたように思う。
 全国の古い都市を守ろうとしている住民運動にとってとても参考になっていると思う。
● 真鶴の活き活きとしたまちづくりの条例と、朝霞市の空虚な言葉にちりばめられた数々のまちづくり関連の計画を比べると、作る過程でヒアリングと行動観察のないまちづくり計画、福祉計画に全く意味がないということを改めて教わった。地域福祉計画のように市民発でヒアリングと議論の固まりで活き活きとした内容にして作った計画もあるのに、それがおざなりにされるのだから、それを咀嚼する側の問題なんだろうということは明白。
● 地図にペインティングしていくような平板な都市計画のやり方が問題だろう。
● 地域福祉計画では、そういう浮ついた美しいスローガンを作ることをやめて、方法論に徹した。これは私が強硬に主張したことで、14年前に札幌市で五十嵐さんや、その技術を担った野口和雄さんの話を聴き、交通評論家の岡並木さんの話を聴いていたからだ。
● コミュニティーというと、生活実態そっちのけで、町内会を軍事組織みたいな縦系統の組織にするか、行政の使いやすい連絡組織化することを求めるは間違っている。集い、そこに自然発生的に言葉を交わす関係性を創るための舞台装置づくりにコミュニティーの意義を求めなければ「うるおい」「やすらぎ」がありえない。町内会の強化だけではなくて、市内にあるいくつかの自然発生的な場を大切にしていくことが大切。そういう意味で10年以上前に公民館から一斉にベンチと丸テーブルを撤去したことは良くない。高校生がたむろするというのが問題だったようだが、たむろすることからコミュニティーが作られる。コンビニでのたむろがいつも問題になるが、それをどう積極的なものにしていくのか考えるべき。地域福祉計画づくりでそれを問題にして、公民館のロビーにテーブルを置き、自然発生的な市民の集いと横のつながりを創り出すべきと主張したが、生涯学習課は咀嚼できなかった。
 もちろんコミュニティーづくりに、広告代理店的発想のイベント一発主義もダメだということ。
。。。

2009.04.06、きょうも歩く
4/5 五十嵐敬喜さんの講演
http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/04/44-6f62.html

 そんなこんなで朝霞市のイマは:

「ススキはかつて武蔵野台地に生い茂っていたけれど、今となっては希少な植物。刈り取らないように目印を付けておきましょう」

 朝霞市役所近くにある市民広場「朝霞の森」で2016年6月24日、「朝霞の森」運営委員会委員長の大野良夫さん(67)が、園内の草木の手入れ作業に参加した市民十人余りに呼び掛けた。
 約3ヘクタールの朝霞の森は、戦後に米軍に接収され、その後に日本に返還された旧米軍朝霞基地跡地の一部にあたる。現在は国が市に管理を委託し、“公園”として利用されている。その管理運営を担うのが市民13人でつくる運営委だ。
 「朝霞の森」の入り口に立つと、都市部には珍しい広い空間を感じられる。園内にはエノキやスズカケノキなど高さ10m以上の大木が点在するが遊具はほとんどなく、中央の広場や広場を囲むかつての管理道路を子どもたちが駆け回る。昆虫採集を楽しめるように草木をそのままにしたエリアや、ボール遊びができるエリアなどを設けているが、運営委はできるだけ規則で縛らない方針を掲げている。大野さんは「ここは朝霞の宝物。周囲の基地跡地を含め、豊かな緑を守り続けたい」と力を込める。
 「朝霞の森」を巡っては紆余(うよ)曲折があった。2006年に国家公務員宿舎の建設計画が持ち上がり、2009年の「事業仕分け」で凍結。その後、計画は再開、再凍結と二転三転した末に中止となった。大野さんは2005年、基地跡地利用計画を協議する市民懇談会に参加したのをきっかけに、「朝霞の森」に関わるようになり「緑地として守るべきだ」と訴えてきた。
 3年7ヶ月前に市民広場としてオープンした「朝霞の森」を、大野さんは「皆の努力の成果」と振り返る。
 ただ、現在の利用方法は暫定的なもの。市は昨年2015年12月、「朝霞の森」と周辺の計約19ヘクタールの基地跡地利用計画を国に提出。2016年の来月7月から約2年かけて、より具体的な計画を策定し、整備を進める方針だ。大野さんも市民や有識者による策定メンバーの一人となる予定で「朝霞の森は今の姿のままがいいのでは。そうできるように議論を深めていきたい」と話す。
 「朝霞の森」では、NPO法人「あさかプレーパークの会」など子どもの遊びを支援する団体が活動しており、平日も天気が良い日は親子連れでにぎわう。長女咲希ちゃん(3つ)と一緒に週に2、3回は訪れる主婦中野真帆さん(29)は「端から端まで見渡せる広い空間があるからこそ安心して子どもを遊ばせておける。ずっとこのままでいてくれれば」と願っていた。
 
 <おおの・よしお>
旧東吾野村(現飯能市)出身。県立狭山工業高校を卒業後、東京電力に入社。主に県内で送電線設計業務などに携わり、再雇用を経て2013年に退職した。同年、「朝霞の森」運営委員会委員長に就任。ほかに市民団体「朝霞基地跡地利用市民連絡会」代表や「朝霞基地跡地の自然を守る会」会長も務めている。


2016年6月27日東京新聞[埼玉]<ひと物語>(服部展和)
宝物の緑地守りたい
朝霞の森運営委員長・大野良夫さん
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201606/CK2016062702000182.html

 五十嵐さんがお話しをした場所、ホントにいろいろ。
 岩手県・平泉でも:

美の景観条例が真鶴町で成立した理由
Q 先生、先生が日本初の画期的な美の「景観条例」制定に係わった真鶴町があると思うんですが、この町と平泉を比較してどうでしょうか。まだ平泉の場合は、世界遺産の運動をしているにも拘わらず、景観条例もないため、さっき見て頂いたように、金鶏山の向かいで毛越寺の裏に当たる地域に温泉付き分譲住宅地が売り出されて景観が台無しになってしまっているのですが、比較してみていただけますか。

 両町とも、歴史も古く人口も1万人ほどで、ほとんど同じような規模の町だと思いますよ。真鶴もね。平泉より早く、開発ラッシュの時期があってね。そこで、町民は開発ということはどんなことかということで、見に行ったわけですね。新潟の越後湯沢です。丁度この湯沢が開発のピークでした。それで「あれは、いやだ」となった。
 真鶴も頼朝も訪れた800年以上の歴史のある町です。しかし町民がいくらいやといっても法律上はそれを合法として認めなければならない。そこで町長が市民と法律の板ばさみとなり、悩んで辞任してしまう。それで改めて町長選挙があってね。「たとえ、違法でも私は開発を止める」、具体的には「水道を止める」という公約で立候補した町議会議員が、町長選で圧倒的に勝った。ここは平泉と違うところかなあ。そこで彼は、まず当選して1ヶ月以内に「上水道禁止条例 」というものを作った。一定規模以上の建物に対しては水道を出さない。
 当然業者の方からは訴訟が起こされてきた。それで町長が困って、学会に相談にいかせた。それで都市計画学会の事務局から都市計画も解り法律も分かるということで私に声が掛かった。いろんな議論のすえ、結論として、「いい開発をしよう」ということになったんです。そして「今の計画は、ほとんど全部駄目だ」。そして40幾つのプロジェクトを全部中止させた。そのまま立ち消えになったのもあれば、倒産して競売になったものもある。
 では「いい開発とは何か」ということでね。これを研究して「美の基準」というのを作り、さらにこれを条例化しようということで、真鶴町の町づくり条例(通称、美の条例)を制定したわけです。それからかれこれ10年経った。しかし最近ここにも決定的な問題が出てきた。それが合併です。真鶴は近くの湯河原町と合併することになった。湯河原は、どちらかというと開発理論の町、一方真鶴は、開発抑止理論の町。そこでこの美の条例は将来どうなるのか?ということです。さまざまな議論があって、現在では、香港が中国に返還されることになった時に、採られた「一国二制度」ということをここでも採用できないかという話になっています。湯河原市真鶴地区の条例ということですが、これが本当に認められ、遺るかどうか。国の方の結論はまだ出ていないようです。


平泉という歴史的な地名が消えていいのか?
Q 真鶴という名は、消えるわけですか。

 そうなんです。しかし名前というのはその地域のアイデンティティそのものです。平泉とか衣川、消えてはならない大切な地名だ。奈良の明日香村がある。あそこも一時合併によって名前がなくなりかけた。しかし、このような歴史的な地名を消してはならない、として合併をやめた。それと同じように平泉と衣川が合併したとして、そこにどんな意味があるの、と言いたい。このようなアイデンティティの高い地名は残した方がいい。
 長野県の田中知事は「長野県を信州に」と言い出した。だって「南アルプス市」なんてハイカラな名前をつけるところもあるが、長野県では市民は圧倒的に「信州」という地名を望んでいると聞きました。金沢などでも、職人の名前の付いた町名を復元するというようなことも始まった。どこもかしこも中央一丁目一番地では、いかにも芸がないものね。鍛冶町や馬喰町、旅篭町なんて、そのままで昔の景色が浮かんで来るような気がする。古い地名を残すというのは大切です。


平泉の存在意義は平和都市の概念
 この地名を残す運動。各地域で、議論を深めて、小さくても十分に美しい町、アイデンティティのある町としてやっていけるような制度を創造できればと思っているんです。平泉の場合で言えば、失礼ですけど、何か、中尊寺・僧侶と町役場そして町民の意識が遊離しているように感じるんですよ。やはりどうでしょう。平泉という地名が消えるようでは、世界遺産といってもピンと来ないものになってしまうのではないですか。
 平泉は、世界でも有数の平和の聖都です。清衡さんの恒久平和への願いは、イラク戦争のある現在、世界中から求められている思想・考え方でしょう。平泉の「平」は平和の「平」であり、平泉の「泉」は、水の集まる場所という意味でしょう。だから、水辺の景観は、人一倍気を付けなければいけないと思いますよ。さっきの衣川の河口付近の、テトラポッドの群れは、おぞまし過ぎますよ。あれでは平泉という地名が泣きます。平泉とか衣川とか明日香、真鶴、このような名前を聞いただけで、その懐かしい風景がふっと浮かぶようにしなければならない。地名を消しては駄目です。


EU諸国のような開かれた議論を日本でも
 昨年、何で私がヨーロッパに行ったかというと本当の目的はEUの憲法にありました。超国家のEUが、15ヶ国 で、話し合って、EUの憲法を作ろうとしている。その憲法前文に、「神」の規定を入れるかどうか、という点をめぐってイタリア・バチカン・スペインとフランスなどとの間で猛烈な論争があった。
 バチカンはEUのアイデンテイとして、その「国家」、ベートーベンの「歓喜の歌」と同様に、カソリックを入れよと主張し、これに対しフランスが「政教分離」の観点から反撃したというものですが、とにもかくにも最も近代的な憲法を作るに当たって、「神」を考えてみるという、その姿勢に感激したというわけです。もしこれが日本だったら、どうでしょうか。神など当になくなっていますからほとんど議論にすらならないでしょう。日本にはある種のタブーが厳然と存在する。見方によっては、健全といえば健全かもしれませんが、薄っぺらといえば実に薄っぺら、という感じです。「神は必要である」「神は尊敬しなければいけない」。「歓喜の歌」は周知のように恒久平和を賛美する歌です。
 何でこんなことを大真面目で議論しているかと思って聞いたら、大いに根拠がある。それはアメリカのアフガニスタンとイラクに対する戦争に対して、ヨーロッパ・EUはあまりに無力であった。バチカンの法王は、中世における十字軍のやり方に行きすぎがあったと遺憾の意を表明したでしょう。その上で、やはりアメリカの戦争にも反対しなければならない。ヨーロッパのアイデンティティの源泉はまさにキリスト教にあるということなんです。現在の15ヶ国は、この憲法を批准するかどうか国会で議論し、場合によっては国民投票にかける。さらに今後加盟を予定している10ヶ国にとってはこの憲法を認めるかどうかが、踏み絵になる。こういうようにしてここでは議論が開かれている。このスケールの大きさねえ。これが民主主義の成熟ということだ。

かつて平泉は美と祈りの美しい聖都だった
 この平泉の写真を見てもね。どうみてもこれは満身創痍だ。弁慶の立ち往生みたいなものだ。そう言えば、弁慶の立ち往生は、この辺りであったわけですね。伝説かもしれないけどね。この聖地がこんなに侵されているにもかかわらず議論にもならないというのはいかにも妙だ。市民は押し黙って、おかしいとも言わない。どう見ても変でしょう。
 昔、平泉では3千とも5千人とも言われる僧侶が勉強していた大都市だ。ここは大学の町といってもよい。本当に豊かな社会だった。それは拝金主義的ということではなく、恒久平和を志向した創業者が存在して、その思想的な求心力で、平泉は燦然と輝くような威光を持った堂々たる都市だった。その思想を打ち壊すような開発は止めなければならない。
 日本という国を見てください。四季折々の変化があって、富士山があってね。春には桜が咲き、夏には蛍が飛び交い、秋には紅葉が赤く染まり、冬には雪が降る。山の緑を見てみなさい。豊かでしょう。その豊かな国土を壊したら元も子もないでしょう。世界でも日本はもっとも美しい国のひとつです。
 ヨーロッパは、美しいけれども、冬に行ったらその厳しさは、日本の比ではない。冬は長い。食べ物だって、日本のように考え抜かれたものはない。日本は居ながらにして、さまざまな情景を味わえる、世界屈指のドリームランドだったのです。何でその美しいものを守ろうとせず、壊してしまうのでしょうか


祈りがあるから平泉は美しい
Q 先生最後の質問です。私はね。ギリシャのパルテノン神殿に足を踏み入れた時、美も祈りも感じなかったんですが、先生が今述べられたことで、その意味がよく分かりました。つまり、パルテノンそのものから、祈りというものが消えていて、単なる観光資源になってしまっていたから、きっと感動がわき上がって来なかったのでしょうね。ギリシャ人は、世界に冠たるギリシャ神話を持ち、日本の八百万の神のような凄い力のある神の概念と祈りを捨ててしまって、キリスト教に走ったことがその根本にあったのでしょうね。

 その通りですよ。哲学者の梅原猛も、まったく同じことを、ギリシャに行った時の感想として語っています。極端なことをいえば、祈りがなければパルテノンもディズニーランドも変わりません。日本人は、ギリシャから反面教師として学ぶことは多いですよ。平泉がギリシャのようになってはいけません。絶対にね。

2004年新春・五十嵐敬喜教授インタビュー
民主主義は美の都を再興できるか
http://www.st.rim.or.jp/~success/P_Igarasi_in.html

 五十嵐敬喜先生は、沖縄の辺野古新基地工事についても:

2015年12月号『世界』「沖縄・辺野古 公有水面埋め立て承認の取り消しを考える」

2016年1月27日10:07更新、沖縄タイムス
辺野古代執行訴訟 破綻した国の「継続性理論」(上)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/50055
2016年1月29日13:13更新、沖縄タイムス
同(中)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/50051
2016年1月29日13:59更新、
同(下)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/50050

2014年3月1日、五十嵐敬喜教授法政大学最終講義
美しい都市」(法学志林第112巻第1号)
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/9832/3/14_hougaku_112-1_igarashi.pdf

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2017年04月27日

杉野希妃、そしてヤスミン監督

 もうじき2017年4月もおしまいですね、早い速い、ハヤッ…
 なにげなく『アエラ』をめくっていたら目に飛び込んできたのです。
 マレーシアの映画監督ヤスミン(1958-2009)!
 それを語る杉野希妃(1984年生まれ)!
 なぜかっていうと、ヤッホー君のこのブログ、2015年09月18日付け日記「無」をお読みくださいね!

 2009年に51歳で夭逝したヤスミン・アフマド監督が、再び注目を集める。現在、遺作も公開中。監督をよく知る杉野希妃さんに聞いた。

 杉野希妃さん(33)とヤスミン・アフマド監督の出会いは運命的だ。

「2006年の東京国際映画祭の会場で、知らないおじさんに『見られなくなっちゃったので』とチケットを譲ってもらったんです。それがヤスミン監督の『ムクシン』でした」

 その「ムクシン」に、杉野さんは号泣したという。

「彼女のすべての作品に通じますが、宗教や人種や国籍……何もかも超えて人はつながっていける、ということが描かれていた。『こんなにみずみずしい作品があるのか!』と衝撃でした」

“境界”を包む優しさ
 1年後、ヤスミン監督が日本人の祖母をモデルにした「ワスレナグサ」を日本で撮影したがっていると聞き、とっさに手を挙げて、プロデューサーとして企画の実現に尽力した。

「初めて彼女に会ったときの印象はまさに“マザー・アース”。包容力があって、チャーミングで、大好きになりました」

 2009年の春に日本でロケハンを終え、秋に撮影を控えていた矢先、ヤスミン監督は脳出血で倒れ、帰らぬ人となった。

「お会いしたときは元気そのものだったので、信じられなかった。ずっと泣いていました」

 遺作となった「タレンタイム〜優しい歌」はまさにヤスミンワールドの集大成だ。高校の音楽コンクール「タレンタイム」で出会ったマレー系の少女とインド系の少年。だがヒンドゥー教徒である少年の母は、イスラム教徒である少女との交際を禁じる。

私たちは国境や人種など、目に見えないものに線を引いてカテゴライズしようとする。でも『もともとそんな線はなかったよね?』と、ヤスミンは言っているんです。“境界”は私たちの心が生み出している。彼女の作品を見るとそう思えるんです。日本にルーツを持つ彼女自身がマレーシアのなかで闘った経験も関係しているでしょう。どこか“諦めた末の優しさ”のようなものが、魅力だと思います

 世界が閉じた方向に進むいま、彼女の評価が高まるのは必然だと杉野さん。ヤスミン監督が残した長編6作品でおすすめは?

「難しい!『細い目』と『タレンタイム』は同じくらい好き。『ラブン』『細い目』『グブラ』には同じヒロインが登場するので、やはり制作年順に見て最後に『タレンタイム』でどかんと泣く!のがおすすめかな」

寅さんと無印が大好き
 杉野さんは、ヤスミン監督との出会いで女優業からプロデュース、監督業にまで活動を広げることになった。

「常に『彼女に対して恥ずかしくないか』という思いがありますね。私の最新作『雪女』も実はヤスミンの影響が大きいんです。人間や世界は揺るぎあるもので実体も境目もない、がテーマ。アプローチは違っても伝えようとしていることは同じだと思っています」

 ゴダールよりもトリュフォーが、松尾芭蕉よりも小林一茶が好きだったというヤスミン監督。

「“人情”に惹かれるんでしょうね。すごく共感できます。山田洋次監督の『男はつらいよ』も好きで、来日中に寅さんのトランクケース型のDVDボックスをゲットしようとみんなで探し回ったことも(笑)。小津安二郎監督のお墓参りにも一緒に行きました。それにヤスミンは、無印良品が大好きだったんですよ。白のシンプルな服をよく着ていました」

 いまヤスミン監督が求められる理由が、わかったような。

※AERA 2017年4月3日号(ライター・中村千晶)

2017年4月3日10時52分更新
ヤスミン・アフマド監督がひそかなブーム
杉野希妃が語る珠玉の6作品

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20170401/asahi_2017033000063.html

 女優として、そして映画監督として数々の映画祭で賞を獲得する杉野希妃。今年2015年は初の長編映画「マンガ肉と僕」(監督・プロデュース・主演)も公開が予定され、さらに注目されている。そんな彼女がいまあるのは、慶應義塾大学への進学だった。

***
 広島で進学校の女子高に通い、親も学校もすさまじく厳しい中で18歳まで暮らした私には、抑圧されて生きてきた感覚がありました。だから、ここから抜け出したい、エンターテインメントの中心の東京で、華やかで刺激がありそうな慶應大学に行って個性豊かな人たちに感化されたい、と思ったんです。苦しい受験勉強も、得意な数学で経済学部に入る、という明確な目標で乗り越えられました。

 いざ入学すると、自由に解放されてしまったがゆえに、いろいろと見定めているうち、あっという間に2年が過ぎていました。

 3年で周りの友人が就職活動を始めたとき、私は全く就職する気がなかったんです。映画に興味はあるけれど、どういう道をたどればいいかもわからず、女優になりたいとは友人にも恥ずかしくて言えなかった。自分には何もないと気づいて、「この生活から抜け出してもっと新しいことを学ぶべきじゃないか」と思い、韓国映画が好きなこともあって、休学して1年、韓国に語学留学することにしたんです。3年の2月、テストが終わった1週間後には韓国に発っていました。

 韓国では、オーディションで女優デビューしました。その上映のために参加した釜山国際映画祭で、こんなかっこうの出会いの場はないと思い、いろんな人に、「キム・ギドク監督が現れたら教えて」とお願いしたんです。そこで映画会社の会食に行ったら、たまたまキム監督がいらっしゃって、たまたま前の席が空いていた。私はそこに座り、いかにキム監督の映画が好きかを、つたない韓国語で必死に話しました。監督は喜ばれて、そこから親交が続き、作品にも出演させていただきました。

 韓国でもっとやれそうだな、と後ろ髪を引かれましたが、決めていたとおりに1年で帰国しました。ズルズルとして卒業が遅れるのは嫌だったので。

 私にとってのターニングポイントは韓国でしたが、大学3年で入ったゼミの藤田康範先生からの影響も大きかった。とても奇抜で、例えば試験でも漫画が出てきて、「この吹き出しの中に入る台詞は何でしょう」と問うような、経済学部なのに想像力豊かで自由なものだったんです。韓国の留学を相談したときに「行きなよ!」と背中を押してくれたのも先生です。

 私がプロデューサーでもある「おだやかな日常」や「ほとりの朔子」という映画を作ったときには、先生がゼミの後輩をたくさん紹介してくださり、「どうやったら映画を世の中に広められるか」というテーマで、週に1回、有志で集まって意見を出してもらいました。

 今でも映画の資金集めにどんな企業にあたるといいか、なんて話で先生にご相談することがありますよ。

※週刊朝日 2015年3月27日号

2015/3/24 07:00更新、朝日ドットコム
女優・映画監督の杉野希妃は慶大教授が育てた?
https://dot.asahi.com/wa/2015032000109.html

 へえ〜、慶応の藤田康範先生・・・
 いったいどんな先生なんでしょう:

プロジェクト思考でイノベーションを起こす
Q 藤田先生の教育理念を教えてください
 今の日本って、GDP が伸び悩んでいるとか、格差が広がっているとか、なかなか危ないじゃないですか。これまでの日本企業のビジネスモデルは、極端に言えば「真似をして安くする」という感じだったけど、これからは違う。このような中で、まず良い人生を歩み、その上で、世の中を引っ張っていく大人になってもらいたいと思っています。
つまり、「第二のスティーブ・ジョブス」のような革新的な人になって欲しいので、知識そのものを教えるよりも、「知識を収集し、分析・編集して発信する方法」を教えることを教育理念とし、しかも、知識として、「形式知」だけでな く、「暗黙知」を重視しています。
 高校までは、主として、文字にできる「形式知」を学んでいますよね。そのような勉強も大事だけれど、自転車の乗り方のように、マニュアル化された文字情報だけでは不十分で、やってみてはじめて分かるという「暗黙知」もあります。
 また、「呼吸」って言葉がありますが、これは「吐いて吸う」という意味です よね。だからアウトプットをしなければ、輪読の時に吸収する効率も上がらないと考えています。
 さらに、高校までは、日本史とか国語とか、個別の科目(subject)を学びますが、世の中の問題は、それらを組み合わせて総合的に考えないと解決しにくいですよね。
 そこで、ゼミではプロジェクトを通じて、みんなが自立する手助けをしています。
 具体的には、企業から課題をいただいて、その課題を解決し、プレゼンテーションさせていただいています。基本的には、「よい財・サービスを作ってそれを普及させるための戦略」の立案です。そういう意味でうちのゼミはコンサルっぽいですね。
 何かを提案する時にはその提案が最善である理由も示さなければなりませんが、「最善」な提案をする時に、ミクロ経済理論の最適化手法を応用しています。
 「教授」という文字通り「教え授ける」という感じではなく、先輩として必要なことを要領よく教え、その上で共通の目標に向かって走っていきたい、と思っています。放課後や休日に、ファースト・フードやファミリー・レストランでのグループ・ワークに加わることもよくあります。


実は行き当たりばったりだった進路選択
Q 将来の進路についてはどう考えていましたか?
 勉強がとても好きだったのでもっと勉強したいなという気持ちはあったけど、うちはごく普通のサラリーマンの家なので、銀行員になろうと思っていました。
 銀行なら勉強しながら働けるかなと思っていたのですが、どの銀行でも、すぐに最終面接まであげてくれるけれども、何が好きなのかと尋ねられて「勉強です」と答えると「うちには来ない方がいいよ」って断られました。志望動機が弱かったし、こっちのことを思ってくれたのかなと感謝しています。
 そこで大学院に行くことにしたのですが、大学の先生になるのっていろいろと難しそうなので、高校の先生になって、野球部か音楽部の顧問をしつつ、勉強を個人的に続けられればいいなと何となく思っていました。
 すると、幸運なことに出身高校で数学を教えることになり、その後、さらに幸運なことに、開成高校で社会科を教えることになって専任に決まりかけていたのですが、縁があって大学に残ることになりました。
 少し美化すれば、スティーブ・ジョブスの connecting the dots のような感じですが、要するに「行き当たりばったり」ですよね。
 今だったら一度働いてから大学院に行くのも良いかもしれませんね。これまでは大学院からずっと研究して大学教授になることが多かったようですけど、最近はそうでない人も増えていますよね。これから大学も変わってくると思いますし、たとえば、ビジネススクールで教えるのであれば、一度働いてからの方が良いのかもしれませんね。


あきらめず頑張ろうという意識
Q 藤田ゼミを志望する2年生に求めるものは何ですか?
 真面目で、自分の意見を述べることや対面のコミュニケーションに抵抗が無いことーこれらを求めていて、ゼミの選考ではこれらの点を確認させていただくようにしています。
 まず、試験をしますが、テキストと範囲を明確にして、真面目に勉強すれば絶対に大丈夫なようにしています。次に、事前レポート。コラムや名文等、興味を持ってもらえそうな文章をたくさん提示し、その中から1つを選択して感想をまとめてもらっています。そして、5〜10分ではあるけれど、面接をしています。
 基本的に、明るくて前向きな人がいいかな、と思っています。それと、何かを考える時に、「楽観的シナリオ」と「悲観的シナリオ」を同時に思い浮かべることを習慣にしている人がいいかな、と思っています。物事を決めつけて考える人はあまり向いていないかもしれませんね。
(少人数セミナーに落ちた人は入れないという噂は本当ですか?という質問に対し)少人数セミナーの選考は、ゼミ選考に比べると、かなり抽選に近いので、たとえ少人数セミナーに落ちたとしても、全く関係ないので、「自分は藤田ゼミに向いていない」と決めつけないで欲しいと思っています。


2014年度 教授インタビュー一人目
藤田康範教授(専門:応用経済理論)  
(インタビュアー:経済学部ゼミナール委員会・菊井郭)
http://keizemi-keio.com/wordpress/wp-content/uploads/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%95%99%E6%8E%88.pdf

 そうでしたか・・・
 ところでこの藤田康範教授のもとで学んだ杉野希妃について2011年、東日本大震災の前に「シネマトゥデイ」はこんなことを:

 第40回ロッテルダム国際映画祭に短編映画『避けられる事』と長編映画『歓待』の2作品で主演とプロデューサーを務めた女優・杉野希妃がこのほど、現地でインタビューに応じた。杉野は韓国留学中にオーディションを受けた韓国のオムニバス映画『まぶしい一日』(2006年8月に日本で公開)の一編『宝島』で女優デビューし、現在26歳。アジアを股にかけて精力的に作品を作り続ける若きプロデューサーに期待が寄せられている。
 杉野がプロデューサー業を始めるきっかけは、篠原哲雄監督『クリアネス』(2008年2月公開)に主演したときだった。同作品のプロデューサー小野光輔が、マレーシアの女性監督ヤスミン・アハマドと合作『ワスレナグサ』の製作を進めていることを耳にする。アハマド監督の映画『ムクシン』を観て才能に惚れ込んでいた杉野は小野に「その企画に参加させて欲しい」と直談判。小野と共に製作会社を設立し、資金集めやロケハンなどに奔走。2008年には釜山国際映画祭の企画マーケットPPP(釜山プロモーション・プラン)にも参加し優秀企画賞も獲得した。

「もともと映画が好きだったので、自分が出演するか否かは関係なく、自分で企画したいという気持ちがありました。それに今の日本映画は同じテイストのものを繰り返し、量産しているように思えるんです。それよりも才能ある監督たちと、チャレンジングなものを生み出したい」

 だがクランクイン3か月前の2009年7月25日にアハマド監督が脳卒中で急逝してしまう。杉野のプロデューサー第1作は幻となってしまった。

「倒れる直前までメールでやり取りしていたので信じられなくて……ほかの監督で何とか形にしたいと思ってます」

 失意の最中出逢ったのが、今回携わった2人の監督だ。『避けられる事』のシンガポール生まれのマレーシア人エドモンド楊監督とは、2009年の釜山国際映画祭でマレーシアのウー・ミンジン監督(映画『タイガー・ファクトリー』)から紹介されて知り合った。楊監督の短編『Love Suicides−手紙』の詩的な映像表現に惹(ひ)かれたこともあるが、ノリの良い監督のキャラクターもあって、出逢って2か月で撮影したという。
 一方、『歓待』の深田晃司監督は前作『東京人間喜劇』を観て「この人なら日本だけじゃなく、ワールドワイドな作品を作ってくれるかも」と自ら声を掛けたという。『歓待』は当初20分程度の脚本だったが、杉野が「他人同士だけど共に暮らせば家族になれるという普遍的なテーマがあった。短編ではもったいない」と長編にすることを勧めた。そして昨年の東京国際映画祭ある視点部門で見事、作品賞を受賞した。両作品とも質の高さはもちろん、『避けられる事』は、製作費約70万円で撮影期間3日半、『歓待』は製作費1千万円以下で撮影期間に至っては長編ながらわずか8日間と製作体制の手腕もお見事だ。

「プロデューサーをやってみて思うのは、契約書作成などの事務作業に、資金集めとこんな事までしなきゃいけないのかと(苦笑)。製作費分だってまだ回収できていないし、夢と現実の狭間でツライと思うこともあります。でも、映画作りは楽しい! ロッテルダム国際映画祭なんて新しい才能を探すのに恰好の映画祭なんですよ」

 すでに新しいプロジェクトも進行中だ。マレーシアのホー・ユーハン監督の日本・マレーシア合作『Dirty Verdict』と、タイのアノーチャ・スィッチャーコーンポン監督によるタイ・日本・英国合作『The White Room』、そして深田監督の新作『Human Comedy in Paris』という、いずれも国際映画祭で受賞歴のある気鋭監督たちとの企画だ。杉野はこの3作品を引っさげ、先述した釜山国際映画祭などの企画マーケットや、カンヌ国際映画祭のプロデューサー・ネットワークなどに参加して世界各国を飛び回り、出資者集めやプロデューサーとしてのノウハウを積極的に学んでいる。「増村保造監督やキム・ギドク監督が好きなのでギトギトの映画とか、世界に通じるようなミュージカル映画も作りたい。そしていずれ監督にも挑戦したい」
 また3月5日から13日に開催される「大阪アジアン映画祭2010」コンペティション部門に主演&プロデューサーを務めた映画『マジック&ロス』(日本・マレーシア・韓国・香港・フランス合作、リム・カーワイ監督)が選出された。同作品には韓国映画『息もできない』の監督&主演のヤン・イクチュンと女優キム・コッピが出演しており、こちらも話題を呼びそうだ。


2011年2月10日付けシネマトゥデイ(取材・文:中山治美)
超美人プロデューサーは主演女優!
26歳・杉野希妃、手掛けた『歓待』に高い評価!海外オファーも殺到中

https://www.cinematoday.jp/news/N0030298


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美の条例によるまちづくり

 「美」の条例・・・奥深い意味をもっています。
 もうすこし見ていきましょう、貢献した当時法政大学の五十嵐敬喜教授と当時の三木邦之町長。

 真鶴町まちづくり条例は「美」の条例である。
 もっともここでいう美とは必ずしもいわゆる「芸術的な美」に限られず、 真鶴町の人びとが古来から自然とともに暮らしてつくりあげてきた生活全般のうち「良質」と思われるものを指している。
 条例ではこれを(1)場所、 (2)格づけ、 (3)尺度、 (4)調和、 (5)材料、 (6)装飾と芸術、 (7)コミュニティ、 (8)眺めという8原則にまとめ、 これを条文本文とし、 さらに規則としてこの原則を具体化する69のキーワードを集めた。
 真鶴町では国の定めた建築基準法の他に、 この美の原則に適合しなければ建築はできない。

 法律家である私、五十嵐敬喜(1944年生まれ)、都市計画家野口和雄(1953年生まれ)、 そして建築家池上修一の3人がどうしてこのような条例の作成に関与するようになったのかを『美の条例----いきづく町をつくる----真鶴町・1万人の選択』(学芸出版社、1996年)としてまとめていたころ、 これと対照的な町づくり方法が論じられていた。

 それは本誌、『造景』第2号に掲載された建築家磯崎新(1931年生まれ)と編集長平良敬一(1926年生まれ)の「小さくてやわらかい都市づくりの手法へ」というものである。詳しくはこの対談を読んでもらう以外にないが、 私なりにまとめていうとこの二つには大きな共通点と相違点がある。

 対談でイニシアチブをとっているのは磯崎である。
 磯崎は、 マスタープランをつくり、 ゾーニングをやり、 線引きをし、 というふうに(大から小に)ブレイクダウンしていく現在の都市計画法や建築基準法は、根本的に日本の都市づくりの実態と合わず、 敷地の限りない細分化にみられるような危機に対処できないでいるとした。
 これは私たちと同一認識である。
 真鶴町ではバブル期に何十もの開発プロジェクトに襲われ、 それらの法律は全く何の役にも立たなかった
 それゆえ、 誰かが根本的に都市計画法や建築基準法を書き換えなければならない。

 しかしここから論点が分かれてくる。
 とりあえずそのような法律ができるまで私たちは条例をつくった。
 磯崎のほうは、 首長を補佐するマスターアーキテクト(コミッショナー方式)として、 熊本「アートポリスの実験」を始めた。
 条例の場合は真鶴町で行われるすべての建築について「美の原則」によって誘導していこうとするのに対し、 アートポリスはいい建築家による建築物を町のあちこちに、 碁でいう布石のように置いて、 そのネットワークによって都市を再生させようというのである。

 そして磯崎は返す刀で私たちのようなやり方について、 「アーバン・デザインというものを、 美しい景観はこうだといって、 一つの理念を掲げてそれに突進する。 そのことは英雄的なのだけれども、 やっても空振りしてしまう」と予言した。
 この違いは、 法律家と建築家の違いということもあるが、 もっと大きくは世界観の違いでもあるようである。

 そこで一つ呼びかけたいことがある。
 日本ももうすぐ「地方分権時代」に入る。
 いってみれば従来の全国画一的な基準の世界から、 いろいろな世界観を自治体ごとに実現できる時代になるということであろう。


 私たちは「美の条例」の世界、つまりユートピアを夢みて「突進」する。
 アートポリスだけでなく、 その他の方法を含めていずれが有効か、 確かめつつ競争しようということである。


1996年『造景』3号より
ユートピアを夢みて「突進」
法政大学法学部教授 五十嵐敬喜
http://www.gakugei-pub.jp/mokuroku/tosi/manazuru/syohyo.htm

 真鶴町の条例は「マンションなどに水の供給を止め、開発を規制する」ことが有名だが、この「美の基準」を作るのには大変な努力があった。「美しい」とする概念も人によって違いがある。
 真鶴では、町民に地図を渡し、どこが良い場所か、悪い場所かを点検した。その結果、みんなが良いと思う場所と悪いと思う場所が一致した。同じようにパリやドイツの田舎をみて、60%程の人が良いと思う。100%の人が同意しなくても、多くの人が同意すれば、美は客観となる。この手法、パターン・ランゲージを提唱しているのが、カルフォルニア大学のアレグザンダー教授だ。言葉の基準ともいう。

 美の基準は、単純に建築物単体をいっているのではない。町全体がつくりだしている秩序を重視する。
 農業、漁業などを思い出せばすぐわかるように、美は生活のありようが作り出す。
 この「生活の全体」を“言葉で語り継ぐ”必要がある。


 その言葉を聞くと誰もがその空間が目に浮かぶ。これは客観だが、これをだれもが解る言葉で記述する(祭り、静かな背戸、実のなる木など)

◆ 静かな背戸
 真鶴では美の基準を8つに分類した。場所、格付け、尺度、調和、材料、装飾と芸術、コミュニティ、眺めだ。「場所」は8つのキーワードとして「聖なる所」「静かな背戸」「海と触れる場所」などを提示している。「聖なる所」として御林、歴史ゆかりの地として貴船神社や記念碑などを挙げ、建築は場所を尊重し、風景を支配しないようにしなければならないとしている。
 「静かな背戸」とは昔からある、狭くて曲がりくねった家の裏の道や路地だ。背戸は真っ直ぐに拡幅し、舗装することはない。昔のままのたたずまいで保存する。ここが大切という。朝霞のシンボルロードは50m幅というが、これが朝霞市民の心の原点として生活、文化の中には根付くことはないと断言した。

◆ お年寄り
 「コミュニティ」には、「お年寄り」というキーワードがある。
 車通りが激しく、休む場のない長い道や坂は体力のないお年寄りにはきつい。巣鴨はお年寄りのメッカと言われる「とげ抜き地蔵」があるから?商店街がお年寄りに魅力的だからか?実は違うという。それは「ベンチ」があるからだという。ベンチにすわったお年寄りに聞くと、おしゃべりがしたくて巣鴨来るという。ウオッチングすると見ず知らずの隣にすわった方と楽しそうに戦争時代の話をしているという。当然、真鶴にもベンチ、ぬれえん、雨宿り場所を設置した。

 お年寄りはお年寄りを必要とするが、同時に若者も必要である。若者もお年寄りとの接触を必要としている。「コミュニティ」のキーワードとして他に「店先学校」「世帯の混合」「子どもの家」などを挙げている。
 朝霞のまちは高層マンションばかりが目につく。人と人とのつながりの無いまちに見える。朝霞市にはひとびとの生活領域としてのコミュニティを守り、育てる環境があるのだろうか。特に超高層の国家公務員宿舎は公務員が市民を見下す構図であり、市民と官僚では良好なコミュニティ作りは困難だろうと指摘。

◆ 夜光虫
 「夜光虫」というキーワードがある。最後の「眺め」の項に入っているキーワードだ。
 ほんのひと昔前ほど、真鶴の海は夜光虫の舞台であったという。マンションやリゾートの林立する豊かさと「少し違う豊かさ」を求めようとすれば、昔を振り返れば良い。中性洗剤や生活雑排水が流れ込んで汚れてしまった海。生物多様性とは言わず「夜光虫」という言葉を使用した。最近は沖を泳ぐ鯨が確認されるほど海がよみ返ってきたという。
 
 真鶴はいま世界遺産候補に挙げられるという。歴史的建物も風景もなく、ありふれた真鶴がなぜ、世界遺産候補かというと「なにもないが、美の条例は世界で初めて」なのだそうだ。生き生きした空間が存在し、町民一人一人が町のデザイナーでこんなに自分のまちに誇りをもっている町はないという。
 朝鮮日報の記者が日本の都市政策を取材にきた。全国の先進的な都市をまわったが、記事にしたのは真鶴の「美の条例」によるまちづくりであったという。

 真鶴にはまちづくり公聴会制度が条例化している。20歳以上の町民の1/20以上の請求があれば開催する。公聴会で決まらなければ、議会の議決を請求することができる。議会で決まらないときは町長が判断し、冒頭のデュー・プロセス(適正手続き)による「水停止の措置」となる。民主的で強い条例である。

◆ 京都の町屋
 欧米は「建築の不自由」が原則であり、建築申請は「許可制」をとっている。
 日本は「建築の自由」が原則であり、規制がないとすべて自由となる。建築申請は「確認制」
であり、建物が一切フリーパスとなり、高さの不揃いや色とりどりの建物が環境や風景を無視して乱立してしまった。京都の美しい町屋の家並みも高層マンションの建設で台無しになってしまった。
 真鶴の「美の条例」には今後の方向性が示されているのかもしれない。


2009/4/7(火)午前5:41更新、朝霞市基地跡地問題
五十嵐敬喜教授講演
具体的な「美の基準」がまちづくりのキーワード
「聖なる場所」「静かな背戸」「お年寄り」「夜光虫」

https://blogs.yahoo.co.jp/asaka_kichimondai/51126113.html

 ここは太平洋を前にした小さな岬で、海辺は砂地の無い岩場。岸壁から直ぐに登り降りの多い深い森となる。大きな松林をすり抜けて明るい陽の光が届き、気持ちのいい潮風が顔をなでる。そこに波の音が聴えるが、鳥のさえずりさえも加わっている。
 岬と言ったって一時間も歩けば、ほぼ全周してしまえそうな大きさなのである。
 入り江は波静かで、そこにある小さな漁村はひなびて穏やかな佇まいが続き、ひっそりと軒の影を落している。
 
 確か、高校生になった頃の僕は本気で考えていた… もし将来、大金持ちになれるなら、この岬を買い占めてここをこの自然のままの公園にしよう、と。
 当時、ここが美しく、東京からも近いだけに、乱開発で(もちろん、こんな言葉は知りもしなかったが)見る影もなくなりそうな予感をすでに抱いていたのだ。
 これほどに想い込んだのは、行ったこともない南仏のコート・ダジュールかどこかの海辺への想いが強烈だったからだろう。そこから身近なこの場所が、僕の心に代理景観地役を引き受けるようになった。今と違って少ない情報から、海辺の街と自然も区別がつかず、美意識から勝手な想像に走っていたのだ。

◆ 「絶対、似ている!」
 敗戦後に育った世代には日本は魅力が無く、美しい場所はヨーロッパにあると思い込んでいたことも関係あろう。もちろん、最初の内はピサロやシスレーの描いたセーヌ河畔の絵画だったりしたが、段々、小説や映画のシーンに助けられていった。
 徐々に募るその勝手な想いも手伝って、何度かこの岬をさまよった。ここは子供の頃の遠足などで知る人も多いはずの、神奈川県西部にある真鶴岬のことである。

 このように、なぜコート・ダジュールなどに憧れるようになったのかは複雑だ。
 時代は前後するが、元をたどればコレットの「青い麦」を読んで、エスプリ溢れる青春の影を一身に感じて、この舞台はどこなんだろうと思い捜し始めたことなども接点がある。確か、カンカルとパメラの間(コレットの別荘のあるところ)とか聞いたが、実はここはノルマンディー半島(俗称)で南仏ではなかった。でも海辺のある半島だった。
 また南仏は、カンヌ、ニース、モナコ、モンテ・カルロやサン・レモなどがある場所とは知っていたが、後からセザンヌの絵画を見ていると、サント・ヴィクトワール山がやたらと出てきて、これがあるのがこの地方だった。で、ミラノに定住を予定した時にもコート・ダジュールなら行き易いと喜んだものだ。
 もっと遡ると、僕の小中高時代は小田原で育ったので、最初から海辺とそこに近接する山辺は身近な存在だった。子供時代の遊び場は海岸だった。山辺とは当然、箱根山の裾野である。
 当時、自家用車を持つ家はほとんど無かったから、真鶴へはたった3駅だが東海道線で行くしかなかった。それでも高校になってだろうが一度は古い荷物自転車で行ったことがある。未舗装の山沿いの道は尾根に沿って出たり入ったりしてなかなかたどり着けない。当時の海沿いの道は狭い上、カーブが多く自動車が危なくて走れなかった。母方の実家が静岡県三島市だったから、真鶴は降りなくても小学生の頃から何度も通過していた。新幹線が出来ても、東海道線で小田原から熱海を抜けて伊豆方面に行くことの多い人は、この辺の海辺の車窓風景を十分ご存知だろう。よく「東洋のニース」とか、「日本のリビエラ海岸」などと言われている景勝地である。
 こうして、青い海辺と岸壁、深い森、そして漁村(岩村)は自分の心の友となっていった。中川一政など、多くの画家が魅了されたのもむしろ当然だ。が、それが町長となって行政が仕事となれば、こんな美しい話だけではとても済まなくなる…というのが、次の話である。

◆ 三木邦之君講演と「美の条例」に至った真鶴町
 この真鶴町がわが国の都市計画(法)上、大きな足跡を残したことはご存知だろうか。
 今をときめく「まちづくり計画」などの話題の前に、何も問題の深さは分からぬまま、三木邦之氏は地元で立候補し、真鶴町長に当選してから「わが町への想いの深さ」で、狂乱の高度成長期にあって、迫っていたホテル、リゾート・マンションなどの大開発のうねりに、結果的に釘を刺し、一方でまちづくりに「美の基準」(後述)をもたらした。
 この実績で都市計画問題研究者たちの評価を浴び、その後の地域開発問題解決への大きな例証となっているのである。このことは専門関係者なら多くが知っていることだが、彼が追い詰められた実務の恐るべき実態までは知らないのではないだろうか。
 まさか、その三木氏が同じ高校で同級生だったとは気がつかなかった!(以下親しみを込めて敢て三木君と呼ぶ)。 
 言い訳めくが、10年あまり日本にいなかった我が身でもこの頃(1990年代)には帰国していたが、会話もおかしく日本の実情に馴染めず、また主に工業デザイン界の業務に明け暮れていたからだったからだろうか。それにこの頃は高校の同級生で集まるなんて考えてもいなかった。
 あれほど惚れていた真鶴町について、景観を優先して「まちづくり条例」を創り話題になっていると知ったのは、10年ほど前だろうか。
 法政大の五十嵐敬喜教授のセミナーか著書による。そしてその主役がこの三木邦之君と確認したのは,去る2015年5月17日の神奈川県立小田原高校での全卒業生対象ホーム・カミング・デイ(OHCD)に合わせて行なわれた、我々高校11期生同窓会の講師に彼が呼ばれたからだ。ちなみに昨年は僕が講演をしている。彼は3年の時2組、僕は6組だったから、1学年8クラス、1クラス50人もいれば1年の時同じでも、よほど縁が無ければ記憶に残りにくい。会ってみれば、「ああ、君だったか」という具合だ。

 今日はその関連の話をしたい。
 担当幹事の佐々木洋君が丁寧にも、ホームページに長文の紹介記事を載せてくれていて、一段といろいろのことが明快になった。彼の了解を得て引用もさせて貰おう。

 その一つが、彼の努力で「湯河原新聞2015/5/20」(以下に引用)と「西湘タイムス2015/5/23」が取り上げてくれた三木君の講演紹介で、手短にまとめられていた。

「真鶴町に一番足りないものを『平らな土地』と『飲み水』と上げた三木氏。珈琲好きの中川一政画伯(定住し個人美術館を建てた:大倉補記)が『塩気のある真鶴の水を使ったコーヒーは飲めぬ』と熱海の喫茶店にわざわざ出かけて行った逸話や、湯河原からの友情給水などの“水事情”を語り、自然が破壊され、人心が荒んだエピソードを披露した」

 ここでわかるが、自らの町で、押し寄せるホテルやマンション建設計画などに対応するのに、まず水資源、ついで対応建設用地の絶対的不足(水はホテルなどに取られれば住民に回らない。用地は斜面を切り崩せば私有地ばかりとなり、景観も壊す)からこれらを断らざるを得ないことにその戦いは始まり、それは「水の2条例」として結実した。
 建築基準法では建設を断る理由が見つからず、どんどん確認申請がおりていたはずだから、建設業者などからの圧力は凄いものがあったに違いない。しかも地方分権の実績がほとんどない時代だった(建築基準法や都市計画法は国法。順当に行くと、景観などの地域条例は国法に勝てないと思われてきた)。
 佐々木君も、自分の視線を加えた三木紹介を続ける。

「町長就任後、(中略)町への投機的不動産投資の流入の阻止に成功した時にも、『この条例は国の法律と抵触するのではないか』という懸念が根強くあったのですが、『違法かどうか判断するのは裁判所の仕事』と“不惑”の姿勢を示す事によって周囲を納得させたのだそうです。また、これとは別に、住民の参加を得て、世界に類例がないという街づくり計画のための『美の条例』を押し出したのも、『真鶴の持てる良さは大切にし続けたい』という“不惑”の一念を示したものなのだとか。講演会終了後の質疑応答でも『後継者は残したのか』という質問に対して、『後の世にも受け継がれる条例を残すことの方が、後継者を残すことより遥かに重要』と胸を張って答えていました」

 実際この言葉によって、条例制定への大変な努力とその重みがひしひしと伝わってくる。
 三木君のコメントにこうある。「いま声高に『限界集落』『地域消滅』が叫ばれる中、四半世紀前バブルの圧力から町の環境破壊を守った真鶴町の経験の中にそのヒントを見出す」と。
 その一つに、「開発圧力に対抗するための独自の政策」として、成した次の条例を挙げている(もう一つが「平成の大合併」で、後の話題に続いている)。
* 開発を抑制するための『水の2条例』(1991・9・17制定施行)
* 『まちづくり条例』(1993・6・15制定、1994・1・1施行)

 この条例は建設計画の規制と誘導に関して定めるばかりにとどまらず、『美の基準』という項目をもつ特色ある条例として名高い。また、さらに3年の年月をかけ、徹底した町民参加により町の将来像を描く『まちづくり計画』を制定した」

◆ 「地域は消滅しない」
――地域には地域の問題があり、全国一括の法施行は難しいし、地域はもっと主体性を持たねばならない――
 次に、この日の講演会のテーマであった「地域は消滅するか」という大きな問題に対しての三木君自らのコメントに移る。

「『まちづくり計画』の実践で、身の丈にあった投資しかしない結果、(真鶴)町は健全財政を維持してきたが、この頃から全国的に広がる少子高齢化の波は、小規模自治体を飲み込んだ。(中略)私もまた自分の意思とは裏腹に「町村合併」「小学校統合」のケジメをつけるため四期目の立候補をせざるを得なかったのです。ご存知の通り合併は不調に終りましたが…(後略)」

ここからが核心部分だが彼はこう言う。

「(日本創世会議の発表した消滅の可能性の高い市町村から見て)、しからば地域は消滅するのか。そうではあるまいと私は思う。(中略)(日本創世会議は)任意の団体の発表として896自治体を名指しした。神奈川県でも1市8町が該当するとされた。箱根、真鶴、松田、山北の順だと言います。箱根がなくなると思いますか。(中略)数年の内に、この県西地区で小田原を中心とした自治体合併の協議が始まることに間違いはなさそうです」

 それにしても、と佐々木君は自問する。
 このような地域での広域行政に常に付いて回るのが、市町村合併での地域行政担当者自身が「抵抗勢力になり得る」問題であり、また一方で「何の責任も権限も無い『日本創世会議』が、三木さんの言う“合併の肩たたき”をしたり、叱咤激励をしたりしているだけでは、市町村合併を期待しがたい」と。そして、「当事者同士の協議に委ねているのではなくて、『日本創世会議』の背後にいる国や都道府県の然るべき行政機関が、自らの責任と権限を持って介入し促進する必要がある」と、講演から改めて思い知らされたと言う。それゆえ、「“有識者による××会議や××委員会”任せにすることがやたらと多い日本行政の陰には『行政機関による責任回避』という由々しき問題が潜んでいるのかも」と言い、「『地方分権』というと聞こえは良いのですが、その美名の後ろにどんな実態があるのか、三木さんが町政のプロとしての体験を通じて示唆してくれたように思います。安倍内閣が唱える『地方創世』という美名も然りで、それを鵜呑みにしたり受け売りしたりしてはならず、地方、ひいては我々住民にどのような権限と責任が及ぶのか見極めなくてならない」と結んでいる。

♦ 地域に生きる
 これが一地方都市の高校OBの集まりの様子であり、語られていた内容だ。OHCDの中でもこの学年の組織力はトップだそうだ。ついでに言えば、東京に在住することになった同窓生で創る「小田高東京会」もあり、これも年に一度俊秀が多く集まっている。
 ホームページにしろ、こんな議論がまかり通っている「文化水準」をうれしく思い、自慢もしたくなり、出来るだけ公知したくて意図的にかなり引用させて貰い紹介した。他にもたくさん同級生の感想が寄せられていた。この話の最後の部分で、いくつか、断りも無く簡略化させてもらうが紹介したい。
 まさしく地方の時代だ。僕が若い頃、大切に心に抱いた夢のような願望は、奇跡的にこのような形で継続されたのである。三木君、ともかくも有難う。
 長くなるが、終わる前に、とても良く書けている三木君のお嬢さんが書いた「覚え書き」を添付する。一読に値する。

♦ 「美の基準」についての覚え書き
2013年9月、三木邦之さんのご令嬢、三木菓苗さん
 1980年代後半、大きな大きな経済の波が、真鶴町にも押し寄せてきました。この小さな半島に、持ち上がったリゾートマンション建築計画は、全部で43棟。そのすべてが国の建築基準法・都市計画法に見合ったものであり、県の指導にも従っているのだと、当然のように、財産権・建てる権利を主張してきます。
 国の法律で、真鶴町は守れない。
 「きちんとした拘束力のある、この町独自の条例をつくる必要がある」
 自己水源の乏しい、真鶴半島の現実的な弱さを武器に、基準以上の大きさの建築物には、水を供給しないという「水の条例」。建蔽率・容積率に加え、風致地区や、細かな基準を設けて、景観を守る「美の条例」。
 2段階の条例構想をかかげて立ち上がったのが、私の父でした。
 このように小さな町が、独自の法律を設けるというのは、並大抵のことではありません。開発業者だけでなく、国や県も圧力をかけてきます。そして、規制の厳しい条例に、住民からもさまざまな主張が起りました。
 各所をまわり、「話し合い」に力を尽くす日々。
 当時の父との会話で、私の胸に深く刻まれているものがあります。

「建蔽率50% 容積率200%という数字を見て、厳しすぎるという意見があるが、今現在、この真鶴にたつ建物の中で、この基準に反しているものなどほとんどない。自分たちはずっとこのように暮らしてきた。もちろん土地所有権・財産権を主張することはできる。けれど、自分の権利を主張することで、隣の人の権利を侵すようなことはよそう。ただ、それだけのことなんだ

 ”美”という主観的なものを、どのように客観的な言葉におきかえるのか?

この土地に人が住み、集落を形成し始めた頃から考えると、真鶴には千年の歴史がある。その時間の重みを加えることで、その営みを言葉にかえることで、真鶴独自の“美”を客観的、かつ、普遍的なものにすることができる

 1993年に制定され、翌年に施行された「美の基準」によって、当時の開発計画の、ほぼすべてが白紙に戻されました。
 私は今日も、懐かしい町並みを歩き、鬱蒼としたお林に分け入り、木々の隙間から、かがやく海を眺めています。
 その暮らし方ひとつで、その生き方ひとつで、私たちは、大きな力に打ち勝つことができる。それが「美の基準」が私に教えてくれたことです。 できあがった条例の素案をもって、説明にまわる父は、「これを真鶴の“決意”と受けとめて欲しい。」といいました。
 施行から来年で20年。
 平易であたたかく、芯の強い言葉で綴られた真鶴の決意が、改めて多くの人に読み継がれ、受け継がれていくことを心から願います。

【付録】同級生の感想の一部紹介。
「『中央集権>地方分権』と、人口減・高齢化と地方の衰退について、身近な例として考えさせられた」(江木紀彦君)
「オリジナリティのある施策! 今、我が国の地方都市に欠如している事が此処にあるような気がした」(久野厚夫君)
「『地域消滅』の対策に答えはないという話になってしまったね。住民の知恵を出さねばね。利己的でない人にならねば!」(辻秀志君)
「外圧は大変だったろうがこれに抗し、町の方針を貫いたことは大変立派な見識だったと思う。私は小中が箱根湯本で、臨海学校で真鶴小学校に泊まり海水浴をしたのが楽しい思い出。(今は)箱根では、労働者たちが教育環境などの理由で小田原など町の外に住み通勤して来るのだとか。観光業を持ちながら消滅可能都市になっている状況が良く理解出来た」(植田研二君)
「真鶴町の問題は日本国全体の縮図のように感じられる」(真壁徳光君)
「今日の東京の一極集中の中で一石を投じる講演であった」(高橋佳子さん)
「当時、陰ながら応援し続けていたことを思い出し、誇らしい気持ちにさせてくれた」(山田泰昌君)
「どこでも考えていかなければならない行政の係わりを考える有意義な話だった」(山本悟正君)

【補記】上記のいわば全文としての引用は佐々木洋君の了解は得ていますが、個々人の方々の直接の了解は得ていません。問題はないと思いますが、ご了解方々、お許しくださいます様。

【付記】より専門的な話になりますが、「いかに地方行政として独自の条例制定が『大冒険』であるか、が、いくらか判る話を当ブログでも取り上げている」とした記事を、参考までにご紹介します。
 本ブログのトップにあるカレンダーをクリックすると記録日時が表示されますから、そこから日付を検索しクリックします:
● 2015/3/12 「良質な建築と美しいまちづくりのために必要なこと」


2015-06-15、大倉冨美雄のデザインエッセイ〜OK Design〜
地域は消滅するのか
http://d.hatena.ne.jp/FumioOKURA/20150615

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2017年04月26日

真鶴町、美の原則

 4月23日日曜日の山歩クラブお散歩会で歩いた真鶴って、いったいどんな場所?
 ここは箱根ジオサイト、真鶴エリアなんですね:

真鶴エリア(神奈川県真鶴町)Manazuru Area

 真鶴ではジオの恵みを生かした産業が古くから盛んで、溶岩を活用した石材業、豊富な緑の好影響を受けた漁業が営まれ、ジオと密接に生活を営んできました。
 真鶴の至る所でジオパークを体感することができます。

 全町域が起伏に富んだ複雑な地形をなしており、平たん地はほとんどなく、JR東海道本線を境にして、北部と南部に区分することができます。
 北部は、小田原市と湯河原町に接し、箱根火山の山麓部であり、主として星ヶ山に源を発する岩沢川に沿う地域です。
 この北部の高地部分は、一部で石材採掘が行われていますが、そのほとんどは森林に覆われており、約1km2は自然環境保全地域となっています。
 
http://www.hakone-geopark.jp/area-guide/manazuru/

 星ヶ山815m、行きたいな、歩きたいな、頂上を踏みたいなと思いました。
 しかし真鶴に下りるのは無理、無茶なよう。
 まるで展望のきかない背丈を超える藪や踏み跡のない斜面とかが待ち構えていて、道迷いしそう。
 GPSは必携品とのことで、南郷山611mからの往復にした方が良さそうですね。

 いつかわ行ってみたかった星ヶ山。遠くから見ると草原の様に見えるが全部背丈を超える笹藪であった。乾燥していて濡れることは無くてよかったが風も通らないので陽が射すと汗ばむ様であった。
 藪に入るとき丁度出てきた人が居たので色々聞いてみたが、いざ入って見ると全く孤独であった。増してときどき踏み跡が不明になりあせった。
 星ヶ山から真鶴方面は、国土地理院の地図に点線や細線があるので作業路や樵道があるものと思っていたが、残念ながら大昔の道で現在は雑木が生えて歩けない。下草は笹藪と茨で痛かった。
 幕山の上空のトンビには要注意です。手に持ったメロンパンを持って行った。これで一気にテンション下がる。


2016年03月05日(土)enari
湯河原駅〜幕山〜南郷山〜星ヶ山〜真鶴駅
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-822729.html

 真鶴に戻って、と。
 これについては、ヤッホー君に奥ちゃん、メールを送ってくれていました:

4月20日(木)朝、NHKあさイチの番組に「特集・真鶴」が放送されていました。
 あさイチホームペイジで過去の番組の要綱を見ることが出来ます


 奥ちゃん、いつもありがとうね。
 でもサ、テレビはもうないの、ってヤッホー君。
 テレビを見れないヤッホー君の代わりに、どれどれ・・・

 小田原、箱根、熱海といった有名観光地に囲まれた、人口7500人の小さな港町・真鶴。
 俳優の哀川翔さん(1961年生まれ)と、豊かな海の幸や美しい景観が自慢の真鶴を訪ねました。
 最近は若い人たちが移住して、1日1組限定のアットホームな宿を始めたり、海の幸たっぷりのピザ店を開いたりと、新たな人気スポットも増えています。
 散歩をすれば狭い「背戸道」や石の階段が残り、家々の間には生け垣や実のなる木が・・・。
 どこかなつかしく、人の暮らしの気配がただようこの景観は、町の人々が24年前に「美の基準」というロマンチックな条例を制定するなどして、大切に守ってきたものなのです。
 ほかにも、数百万円という最高級の墓石が生まれる石切り場や、国内でも珍しい完全無農薬のレモン畑なども訪ねました。

ゲスト:哀川翔さん、May J.さん
リポーター:雨宮萌果アナウンサー
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/170420/1.html

 えっ、May J.さんってあのMay J.さん?
 ヤッホー君のこのブログ、2017年04月05日付け日記「春よ、来い」をお読みくださいな。
 どれどれ、真鶴町の「美の基準」って・・・

(美の原則)
第10条 町は、まちづくり計画に基づいて、自然環境、生活環境及び歴史的文化的環境を守り、かつ発展させるために、次の各号に掲げる美の原則に配慮するものとし、その基準については規則で定める。
 一 場所=建築場場所を尊重し、風景を支配しないようにしなければならない。
 二 格付け=建築は私たちの場所の記憶を再現し、私たちの町を表現するものである。
 三 尺度=すべての物の基準は人間である。建築はまず人間の大きさと調和した比率をもち、次に周囲の建築を尊重しなければならない。
 四 調和=建築は青い海と輝く緑の自然に調和し、かつ町全体と調和しなければならない。
 五 材料=建築は町の材料を活かして作らなければならない。
 六 装飾と芸術=建築には装飾が必要であり、私たちは町に独自な装飾を作り出す。芸術は人の心を豊かにする。建築は芸術と一体化しなければならない。
 七 コミュニティ=建築は人々のコミュニティを守り育てるためにある。人々は建築に参加するべきであり、コミュニティを守り育てる権利と義務を有す  る。
 八 眺め=建築は人々の眺めの中にあり、美しい眺めを育てるためにあらゆる努力をしなければならない。


1991(平成5)年6月16日
神奈川県足柄下郡真鶴町条例第6号
真鶴町まちづくり条例

http://up.t.u-tokyo.ac.jp/koizumi/manaduru.html

 いいね、いいね、真鶴、だからホッとした気分で街歩きができてたんだ、と納得、納得。
 いいね、いいね、真鶴、観光が目玉でトンビのように人の財布をさらうことはないんだ。
 いいね、いいね、真鶴、だからトトロの森のように、ラブホが乱立することもないんだ。
 どれどれ・・・真鶴町:

荒井城址のしだれ桜
https://www.youtube.com/watch?v=6N5i6HhFTWk

見事な花のカーテン、荒井城址公園の枝垂れ桜が見ごろ/真鶴町
https://www.youtube.com/watch?v=MnTdYTMgxKo

かながわ らく楽ウォーキング 真鶴編
https://www.youtube.com/watch?v=bRNQK_8xNv0

あっぱれ!KANAGAWA大行進 2017年2月11日放送 真鶴町
https://www.youtube.com/watch?v=o30dg9dzyuI

http://www.tvk-yokohama.com/

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2017年04月25日

西室泰三

 雨宮敬次郎(1846−1911)。

 雨宮が、結核の療養のために訪れた熱海。
 東海道線国府津からの人力車道が、病人には相当な辛苦な道であったことから熱海への鉄道の敷設を考える。
 「事業」の裏には、いつも「人のため」があった。
 自分のやった事業が末代まで続けば、魂がとどまるから、自分は永久に死なない≠ニ(小林和夫『鉄道王 雨宮敬次郎 ど根性一代』東洋出版、2010年)。
 今日も明日も、雨宮鉄道は、日本全国を走る。


オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
鉄道王雨敬 日本を走らす
http://www.cheers.com.au/entertainment/dancingman/1093/

 いや、いまの富裕層、特権階級、政治を家業とする政治屋、指導者と目されている連中たちに、本当に「人のため」があるのか、むしろ「宗主国のため」「自分のため」なのではないのか、とヤッホー君、首をかしげてしまうのです。
 下↓ の記事は2年も前のものですが。。。

 総額2000億円超の巨額“粉飾”が発覚し、歴代3人の社長のクビが飛んだ東芝が7日午後、9月末に発足する再生のための新体制の説明をした。だが、その中身は信頼回復とはほど遠い、トンデモ人事といわざるを得ないものだった。
 まず、何より疑問符がつくのは新体制の新社長に、緊急避難の暫定として社長兼務になっていた室町正志会長(65)がそのまま残留になったことだ。室町会長は2009年の社長レースに敗れて一時期経営の中枢から遠ざかっていたことが幸いし、今回の不正には直接手を染めていないとみられたことからワンポイントで社長を兼務することになった。
 しかし、まさに不正経理が日常化していた田中久雄社長時代(2013年〜2015年)に会長職にあった旧体制のシンボルだったことも間違いない。事実、不正発覚直後は責任を取って辞めるつもりだったという(後述)。

 過去の粉飾事例では、カネボウが約2000億円、オリンパスが約1100億円、ライブドアが約53億円で、いずれも旧経営者が次々と逮捕されている。2000億円超もの不正を働いた企業で責任ある地位にいた人物が新体制のトップに残るというのは、まっとうな上場企業ではあり得ない。

 しかも、これを強引に推し進めたのが一連の不正の“下地”をつくったとされる現日本郵政社長の西室泰三相談役(1935年生まれ山梨県都留市出身、79)だったというのだ。全国紙経済部記者が解説する。

「室町“新”社長の選任をはじめ新体制のトップ人事を主導した“黒幕”は西室さんです。室町社長は西室相談役の大のお気に入りで、若い頃からの子飼いでした。西室さんは一連の不正発覚直後から、まるで自分が東芝立て直しの責任者であるかのように振舞っている。確かに、不正経理があったのは西室さんが東芝の社長をしていた時期(1996年〜2000年)とはズレているので、本人は“セーフ”だと思っているのでしょうが、不正を生む土壌というか、社風をつくりあげたのは間違いなく西室さん。“戦犯”の一人として、身を引くべき立場なんですが……」

 だが、西室氏自身は一連の人事への介入を隠そうともしない。東芝の不正発覚後の7月22日に行われた日本郵政社長としての定例記者会見で、不正経理については「悲しい」「非常に大きなショック」などと他人事を装いながら、こんな内輪話を披露している。

「実は、(室町氏)ご本人は辞めると言っていたんですね。それで、私が東芝の相談役として絶対に辞めないでくれと。一人はリーダーシップを取る人がいなければ困るから、残る方がつらいかもしれないけれど、それをあなたに期待するということで残ってもらいました」

 将来の東芝トップについても「私の方にも手を挙げている方がボチボチ来ています」「コーポレートガバナンスがわかっている人なら、弁護士、会計士、企業経営者など、適任者がいれば誰でもいい」などと、まるで自分に人事権があるかのような発言も飛び出した。

 さらにこの会見で西室氏は、「(経営刷新)委員会を設置します。これは社外の方に参加していただきますが、責任者は東京理科大教授の伊丹(敬之)先生にやっていただく。(東芝の)社外取締役でもあるし、会社のことはある程度わかっている」と、未発表の人事まで“発表”する始末だった。先の経済部記者が続ける。

「それだけではありません。9月末の株主総会で室町氏は社長専任(会長職は返上)になって、新たに取締役会議長に資生堂相談役の前田新造氏が就任する予定なんですが、彼は西室さんの慶応の後輩です。ことほどさように選任される社外取締役はすべて西室さんのお友だちと言っていい。例えば、前出の東京理科大の伊丹氏は経営学者ですが、西室社長時代の東芝を絶賛していた。公認会計士の野田晃子氏は西室さんと同期(1961年)入社の元東芝社員。三菱ケミカルホールディングス会長の小林喜光氏やアサヒグループホールディングス相談役の池田弘一氏も、西室さんは自分が頭を下げて引っ張ってきたと話しています」

 名門上場企業でありながらまるで個人商店のようなこうした振る舞いが許されるのは、安倍官邸の“後ろ盾”があるからだ、というのがもっぱらの評判だ。

 もともと東芝は原発輸出や軍需など、政権と近い国策企業のひとつだった。とくに、今回の不正経理の張本人である佐々木則夫元副会長(2009年〜13年まで社長)は社内で「原発野郎」と揶揄される存在だった。その佐々木氏は、12年に第2次安倍政権が発足するや経済財政諮問会議(13年)や産業競争力会議(14年)の民間議員に立て続けに選ばれ、安倍晋三首相がUAEやトルコなどを訪問した際には同行し、原発を売り込むほどの“仲”だった。

 こうした政権との“蜜月”というか“癒着”を生み出したのが、他ならぬ西室泰三氏だったといわれている。ジャーナリストの杜耕次氏は新潮社のwebサイト「フォーサイト」(9月1日付)で西室氏の所業を〈官邸や経済産業省と一体となって国策事業の受注に血道をあげる「エレキのゼネコン」へと化した昨今の東芝を作り上げた〉と喝破している。
 とくに安倍政権と西室氏の親密ぶりは尋常ではなく、第2次安倍政権発足翌年の13年には菅義偉官房長官が当時の日本郵政社長・坂篤郎氏(当時66)を強引に解任し、後任に西室氏(同77)を据え、政財界の関係者を驚かせたことは記憶に新しい。

 そして何よりその親密ぶりが露わになったのが、15年の安倍政権の“目玉政策”である「戦後70年談話」の有識者会議の座長を務めたことだ。西室氏は談話について「いたずらに謝罪することを基調にするより、これから先を考えて未来志向に」と、首相の意向を最大限尊重した。安倍首相のメンツのためにも官邸が「東芝と西室を守れ」となるのも当然なのだ。

 だが前述のように、その西室氏こそが不正経理の元凶であるとの声は根強い。東芝に詳しい別のジャーナリストが言う。

「西室さんを東芝きっての国際派と持ち上げる人もいますが、要は親米経済人の典型で、新自由主義者です。1996年に社長に就任するや、米国流の経営を積極的に取り入れ、98年には執行役員制を導入して取締役会を少人数で牛耳ることに成功した。99年には社内カンパニー制を敷いて、業績の責任を下に押し付ける体制をつくり上げた。目先の収益にこだわる短期的視点のリストラを繰り返し、“社会に貢献する東芝”から“株主のみに貢献する東芝”にすっかり変えてしまったのです。第三者委員会から不正経理の原因と指摘された『上司に逆らえない企業風土』は、西室体制が生んだと言ってもいいでしょう」

 東芝は企業理念の「豊かな価値を創造し、世界の人々の生活・文化に貢献する」を技術で実現してきた会社だった。それが、西室氏の台頭によって株主利益の最大化を求める米国流の会社に変わってしまった。西室氏以降の歴代経営者は四半期ごとの利益水準を厳しく問われ、最後はインチキをしてでも数字を“つくる”会社にまでなってしまったわけである。

 それだけではない。今回の不正経理の背景には、引責辞任した佐々木副会長と西田厚聰相談役(2005年〜09年まで社長)の人事抗争があったと指摘する声が多いが、そもそもその確執の原因をつくったのも西室氏だったというのだ。先のジャーナリストはこう続ける。

「東芝はもともと重電メーカーの芝浦製作所と弱電メーカーの東京電気が戦前に合併してできた会社です。歴代トップは東大卒の重電畑と決まっていたのですが、長く非重電の営業畑を歩いた西室氏が抜擢されたことでこの慣例が崩れたんです。以来、重電系と弱電系の抗争が始まった。西室さんと後任社長の岡村正氏(=重電系、00年〜05年まで社長)の確執が発端で、社内の重電vs.弱電の溝が深まった。いわれている西田vs.佐々木の対立も、西田氏がパソコン=弱電出身、佐々木氏が原発=重電出身という関係です」

 西室氏は2000年に社長を退いてから5年(通常は4年)の長きにわたって会長職に留まり、相談役になった。東芝の相談役と顧問はこれまで十数人もいて、現役の社長や会長らと同じ東京・芝浦の本社ビル38階に個室を持っていた。歴代のトップ人事はこの長老たちが決めるといわれ、その頂点に君臨していたのが西室氏だ。

 西室氏はその影響力を内外に示すため、かつて土光敏夫会長が使っていた部屋に陣取っている。日本郵政の社長を務め多忙ないまも週1回はこの部屋に出勤しているという。今回、引責辞任した歴代3人の社長の“任命責任”は当然、西室氏にもある。いや、これまでの経緯を考えると冒頭の経済部記者の言うとおり、不正経理の“戦犯”と言っても過言ではないのである。

 そんな不正経理の“戦犯”が「戦後70年談話」に深く関与し、不正発覚後もまた安倍政権の威光をカサに東芝新体制のトップ人事に影響力を行使している。どんな不正を働いても、オトモダチの間で利権やポストを回し合う構図、これは東芝に限った話ではないかもしれない。いままさに安倍政権の下で着々と進む「日本劣化」の氷山の一角なのである。

2015.09.08、リテラ
東芝“巨額粉飾決算”の戦犯は「戦後70年談話」にも関与した安倍首相のオトモダチだった!
官邸の威光で責任逃れか

http://lite-ra.com/2015/09/post-1465.html

 日本郵政の巨額損失を巡り、市場の判断が揺れている。

 日本郵政は2015年に子会社の日本郵便を通じて、オーストラリアの物流会社トール・ホールディングスを6200億円で買収した。ところが、オーストラリア経済の低迷などでトール社の業績は悪化。3000億〜4000億円程度の減損を計上する可能性が指摘されている。2017年3月期の最終損益で赤字転落する恐れも出てきたのだ。

「ウミを一気に出し切ることは悪くない。ダラダラと損失を処理するより、よっぽどマシでしょう」(株式アナリストの黒岩泰氏)

「悪材料がまだあるのでは…」
 一方で、トール社買収を主導した人物が、西室泰三元社長だったことから、市場がざわついている

「西室氏といえば東芝の元社長です。“東芝の天皇”とすら呼ばれ、その影響力は計り知れません。東芝が不正会計に手を染めたキッカケとされる経営トップの人事抗争をつくり出した張本人ともいわれます。日本郵政の巨額損失は、東芝と同じ海外M&Aに絡んでいます。もしかすると日本郵政も東芝と同じように、次々と悪材料が出てくるのではないか……と勘繰っているのです」(市場関係者)

 室氏はトール社買収に際し、「日本郵政は世界をリードする物流企業だ。アジア太平洋で最大級のトール社との組み合わせは強力」と自信満々にコメントした。だが、西室氏の見立ては、わずか2年あまりで崩壊。買収当時、市場がささやいていた「株式上場(2015年11月)に向けた“お化粧”にすぎない」「高い買い物」が正解だった。

 東芝の米ウェスチングハウス(WH)社買収(2006年)に暗躍したのも西室氏だ。当時、西室氏は相談役に退き、社長は西田厚聰氏に譲っていた。WH社を巡っては日立製作所や三菱重工も熱心だったが、最終的には東芝が手中にした。決め手は、院政を敷いていたといわれる西室氏が人脈を駆使し、ベーカー元駐日米国大使に働きかけたからだといわれている。

「ただ、その過程でWHの買収額は倍以上の約6000億円にハネ上がっています。日本郵政のトール社買収も西室氏の鶴の一声で決定したといいます。企業価値をキチンと精査しなかったので、今回のような巨額損失が生じるのです」(証券アナリスト)

 日本郵政にとって「西室つながり」は悲劇だが、投資家の不安は高まるばかりだ。


2017年4月25日付け日刊ゲンダイ
東芝に続き…日本郵政の巨額損失招いた西室元社長の罪
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/204179/1

【日本を取り戻す?老害】
 東芝を潰し、日本郵政でも西室泰三、
 日本原子力産業協会会長という原発輸出の親玉で天皇退位問題まで口出す今井敬、
 日立の原発屋で新東電会長になっった川村隆、
 3大バカ老害が闊歩するようになっている。
 この老い先短い、失敗の戦犯たちが日本を食いつぶして死にたいだけ。


2017年4月23日、金子勝さんのツイッター
https://twitter.com/masaru_kaneko

 でんでん首相、まんが副総理、老害とか、次の選挙で変えないといけないね、でないとこの国の行く末、子や孫の希望や未来、お年寄りや学生の社会福祉 social welfare system がホント、心配で、心配で・・・

辞任しろ!安倍内閣の暴言、失言、トンデモ発言
http://lite-ra.com/

なぜ国会議員は子どもだらけになったのか
カネ、不倫、放言…安倍チルドレンは酷すぎる
http://toyokeizai.net/articles/-/169266

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豆相人車鉄道

 豆相人車鉄道…

 かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原〜熱海間を走っていました。
 1895(明治28)年7月に熱海〜吉浜間で営業を開始し、翌1896(明治29)年3月に熱海〜小田原間が開通しました。
 当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。
 豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。
豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2〜3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。雨宮敬次郎(注1)を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、1908(明治41)年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。
 しかし、1923(大正12)年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌1924(大正13)年に鉄道事業の幕を閉じました。

2016年04月28日最終更新、小田原市公式サイト
豆相(ずそう)人車鉄道
人車鉄道、小田原〜熱海を走る

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/spot/p16553.html

 人車鉄道で特に有名な豆相人車鉄道(軌間610mm、熱海−小田原間)は、明治時代の鉄道資本家で「軽便鉄道王」と言われた雨宮敬次郎の発案であった。

 1882(明治15)年頃、結核療養で熱海に湯治に来た雨宮敬次郎は、当時人力車しかなかった往復の交通に不便と苦痛を感じ、熱海の有志と人車鉄道の建設を計画して特許申請を行い、1890(明治23)年に軌道特許が交付された。

 その後、当初予定していた岩崎財閥(三菱)の資金援助が得られず資金調達に苦労したが、安田財閥の融資を受けた豆相人車鉄道株式会社は1895(明治28)年に熱海−吉浜間の10.4kmを開通させた。そして翌年の1896(明治29)年に吉浜−早川間の14.4kmが開通し小田原まで全通した。
 その後、小田原馬車鉄道が電化(小田原電気鉄道)された1900(明治33)年、早川から0.52km延長して小田原電気鉄道と早川口で接続した。これにより熱海−小田原間は路線長25.3kmとなり、途中9の駅があって全線単線軌道で内13kmが現在の熱海街道との併用軌道であった。

 人車は、長さ1.62m、幅1.5mで、上等(定員4人)、中等(定員5人)、下等(定員6人)に等級区別され、各々客室の内装が異なっていた。
 運賃は、1898(明治31)年時点で熱海−小田原間が下等で50銭、中等75銭、上等1円であった。

 人車は車丁が2、3人で押していたが、一番難所と言われた真鶴−江の浦間の急坂では下等の客は降りて人車押しを手伝わされた。そして下り坂になると、車丁は乗降口ステップに乗りブレーキ操作をしながら一気に下って行った。

 1898(明治31)年頃には、一日14往復で熱海−小田原間を3時間50分で結んでいた(現在の東海道新幹線は10分で結ぶ)。
 人車は熱海と小田原に常時20輌ほどあり、車丁は発車・到着・カーブ通過時に長さ約30cmの真鍮製ラッパ(豆腐屋のラッパ)を吹いていた。

 また大正天皇が皇太子であらせられた時、熱海に行啓されたおりこの人車に御乗車された。

 その後、豆相人車鉄道株式会社は1905(明治38)年に熱海鉄道株式会社と社名を変更すると同時に蒸気動力への変更を計画し、1907(明治40)年に小田原−熱海間の蒸気運転を開始した。
 しかしその後、営業不振が続き、1908(明治41)年に「軽便王」雨宮敬次郎率いる大日本軌道株式会社に吸収合併され、同社の小田原支社となった。軌間は後に762mmに改軌された。

 その後の経緯は、1920(大正9)年に国鉄熱海線の建設に伴い、大日本軌道小田原支社は財産と権利を国に売却し、国から路線を借りて熱海軌道組合が運営していたが、熱海線の伸長に伴い路線が縮小され、1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な打撃を受け、復旧の見通しが立たないまま同年営業廃止に追い込まれた。

 参考までに、国木田独歩の小説「湯河原ゆき」に豆相人車鉄道の様子が、芥川龍之介の小説「トロッコ」に762mmに改軌中の大日本軌道小田原支社の様子が、更に志賀直哉の小説「真鶴」「子供四題・軽便鉄道」に大日本軌道小田原支社の蒸機列車の様子や運転風景が描写されている。

 写真提供ならびに著書引用に関して下記の方々に深謝の意を表します。

 中川浩一氏ほか共著「軽便王国雨宮」(丹沢新社 1972年)と同氏所蔵写真
 宮田憲誠氏著「遠い日の鉄道風景」(径草社 2001年)
 伊佐九三四郎著「幻の人車鉄道」(河出書房新社 2000年)
 森信勝著「静岡県鉄道興亡史」(静岡新聞社 1997年)
 鎌ヶ谷市郷土資料館所蔵写真
 葛飾区郷土と天文の博物館所蔵写真
 静岡新聞社編「静岡県鉄道物語」(静岡新聞社 1981年)
 加藤利之氏著「箱根山の近代交通」(神奈川新聞社 1995年)


豆相人車鉄道、明治28年−大正12年
軌道路線図と概要

http://mirai660.net/jinsha/zuso.html

 以上が「豆相人車鉄道」でしょ、それで熱海から先はどうなっていたんでしょ。
 ヤッホー君のこのブログ、2017年02月24日付け日記「丹那神社」ご参照。
 『「熱海駅」-「函南駅」間にあるトンネルが「丹那トンネル」で1918(大正7)年着工、開通は1934(昭和9)年』でしたかぁ〜
 真鶴で「城口駅」を知った以上、次のお散歩会はやっぱり「丹那神社」詣でだねぇ、江戸ちゃん! 
 で、ね、もうひとつ。
 「豆相人車鉄道」から「人車」を除くと「豆相鉄道」。
 これも箱根の先、静岡県でしたが、伊豆の名湯「大仁温泉」までの鉄道がありました。
 1893(明治25)年、「豆相鉄道株式会社」が設立。。。
 1899(明治31)年には三島〜大仁間約17.1qを約40分で運転したそうです。
伊豆箱根鉄道の会社の歴史
http://www.izuhakone.co.jp/corporate/history/zenshi_1893-1916/index.html/

 1998(平成10)年、伊豆箱根鉄道駿豆線、三島田町駅前で、約100年前に作られた『豆相鉄道唱歌』が三島市少年少女合唱団により披露されました。この歌は1番から30番まであります。このイベントが好評だったため、2001(平成13)年5月「郷土の唄」としてCDが発売されました。
作曲者 静岡県師範(しはん)学校教諭 永井幸次
著作者 静岡県伊豆国三島町 三島高等小学校
発 行 明治33年(1900)10月25日
1 雲井を凌(しの)ぐ白妙(しろたえ)の
  うしろに三島立出(たちい)づる 
  富士と富士見の滝つ瀬を
  豆相線路の汽車の旅
2 おなじ名に聞く三島町
  伊豆の都会(みやこ)と知られたり
  常盤(ときわ)に見ゆる御邸宅(みやかた)は
  志(し)げる小松の宮殿下
3 森陰(もりかげ)清(きよ)く奥まりて
  事代主(ことしろぬし)の神います
  いざや我(われ)等(ら)詣(もう)でこん
  官幣大社(かんぺいたいしゃ)の宮どころ
4 神(かみ)祈(いの)らんと頼朝(よりとも)が
  人目(ひとめ)を忍びて仮寝(かりね)せし
  夢は消えても消え残る
  名は間眠(まどろみ)の松の陰
5 軒を並べし町つづき
  戸数(こすう)は二千と聞こえたり
  富と栄えと便利とを
  あつめてここに人は住む

CDを吹き込んだFMボイス・キューのパーソナリティー小坂真智子さん(注2)


静岡県三島市公式サイト
豆相鉄道唱歌
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/kurashi/kotsu/kotu.html

(注1)
 明治期に活躍した実業家、雨宮敬次郎は甲州財閥の一人で、「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた投資家でもありました。のちに甲州財閥と言われる一人となりましたが、もとは父親からもらった1両を握りしめ開港したばかりの横浜にやってきた田舎の少年でした。その少年がやがて経済界の重鎮となり、多くの人々から尊敬を集め、惜しまれて世を去っていきます。その豪胆な投資家の人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

経済人の逝去が大ニュースになったのは岩崎弥太郎以来

 1911(明治44)年1月20日、「天下の雨敬」雨宮敬次郎が死んだ。それは大ニュースだった。折しも幸徳秋水による大逆事件の判決(幸徳秋水ら24名に死刑判決、翌日12名が無期懲役に減刑されるも、1週間後に処刑)が出た直後で物情騒然たる中、各紙は雨敬の死を大きく報じた。臨終の枕元で安田財閥の祖安田善次郎が語りかけた。

 「雨敬さん。病気は大丈夫ですよ。全快するから心配なさるな。今日松方(正義)侯に面会したが、明日は見舞いに行くといっておられた。安心して気長く治療なさるがよい」

 雨敬は安田の言葉に「ありがとう」と答え瞑目し、黙想すること20分、にわかに呼吸が荒くなる。

 「思い残すことはありません。さようなら」と言って息を引き取った。

 雨敬が逝去する直前の肩書きは次の通り。東京商品取引所理事長、熱海鉄道、江ノ島電鉄各社長、日本防腐木材、川越鉄道、北海道炭鉱汽船、山梨軽便鉄道、静岡鉄道、武相中央鉄道各取締役など。

 死亡広告には友人総代として前記の安田善次郎以下、2代目田中平八、井上角五郎、岩田作兵衛ら錚々たる名前が並んだ。朝日新聞は雨敬の生涯や人柄についてくわしく報じた。

 「1870(明治3)年郷里を辞してまず横浜に赴き、わずかの資本で洋銀(為替)相場に手を出し、1876(同9)年西洋各国の蚕業不作なりと聞き、生糸、蚕種紙の騰貴すべきを信じ、大いにこれを仕入れようと思い、所持していた銀時計を、質に入れ、金1円50銭を得、これを旅費に当て、昼夜兼行、郷里に帰り、人々に謀りて1000円余の繭を借り受け、急いでこれを生糸にして横浜に売り、3000円を得たり」

 また、雨敬と親交のあった鬼怒川電鉄社長(後に小田急電鉄社長)の利光鶴松の談活が雨敬の業績を端的に物語っている。

 「雨宮君は政権や財閥の保護を受けず、全く独自、一個の奮闘によって、何びとの助力も受けず、種々の事業をやったのは偉い」と次のように述べている。

 「人物の価値については色々いう人があるが、事業家としての道義上においても傑出した点があった。大ていの事業家は事業そのものに死に身になれず、権利株を売り飛ばしたり、株を売って金もうけをしようとのみ心掛けているが、雨敬君はその身体も、その財産もすべて事業に賭けて、一身を事業の盛衰と共にするだけの雄々しい信念と覚悟があった。要するに雨敬という一人物について学ぶべき点は事業に熱心であったこと、精力の旺盛であったこと、不撓不屈の奮闘精神があった点である。人物がどことなく鷹楊で大きかった」

 当時の国民的人気者は大相撲の常陸山、梅ヶ谷であったが、徒手空拳で上京し、獅子奮迅、一代で巨富を築いた雨敬の生涯が市民の称賛を浴びたのだ。かつて三菱財閥の始祖・岩崎弥太郎が死んだとき、3万人とも5万人ともいわれる東京市民がその葬列に加わって大ニュースとなったことがある。経済人の死が大きく報じられるのは岩崎以来のことかも知れない。

文豪・夏目漱石の日記にも登場

 雨敬の死から5カ月後、夏目漱石の日記に雨敬の豪胆振りが記される。要約すると以下のようになる。

1、雨敬は紳商(紳士と称されるほどの身分の商人)であった。
1、雨敬は花札が好きで、2晩続きで徹夜することもあった。
1、雨敬は花札で負けが込んできても、平然としていた。
1、「神色自若」たる態度であった。(神色=顔色。自若=大事に直面しても沈着冷静で態度は平常と少しも変わらぬさま)
1、名門久松家が甲武鉄道の株をどっさり買ったのは、雨敬のようなハラの座った大物が投資をしている会社なら安心できると、雨敬にチョウチンをつけたこと。

 勝負事は人格がよく表れるといわれるが、花札賭博で負けが込んでくると、目が血走って電話口に呼び出されてもうわの空で話にならない人が多い中で、雨敬だけは平常心を保ち続けた−と漱石を感服させた。

 19世紀最強の相場師といわれた「天下の糸平」こと田中平八とは無二の親友で、糸平が他界したとき、記念碑を建てることになり、碑文を巡ってかんかんがくがくの議論になった。この時、雨敬が「ごたごた長い文章じゃいらない。『天下の糸平』だけでいい」と結論づけた。その碑は東京隅田川の左岸、木母寺(墨田区堤通2-16-1)の境内に今もそびえ立っている(※)。

(※)天下の糸平の碑
高さ5m、幅3mを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

雨宮敬次郎(1846−1911)の横顔

 1946(弘化3)年甲斐国牛奥村(山梨県塩山市)に生まれる。9歳で甲州随一の学者古屋同斉について学ぶ。14歳のとき、父にもらった1両を元手に商売の道に入る。18歳ころ横浜に出て蚕糸関連(種紙、繭、生糸、絹織物)の取引で一攫千金を夢見るが、失敗して自殺しようとする。が、それもできず帰郷。1872(明治5)年(一説には1970<明治3>年)捲土重来を期して横浜に出て、蚕糸、為替の売買に従事。1878(同11)年、蚕種紙焼却事件では主導的役割を果たす。株、公債や土地の売買で巨利を占め、鉄道経営で巨歩を残す。

THE PAGE 2016/12/2(金) 15:00配信
漱石の日記にも登場 経済人逝去の大ニュースは弥太郎以来 雨宮敬次郎
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161125-00000012-wordleaf-bus_all

(注2)
【CRESC.】みしまコロッケンロール
https://www.youtube.com/watch?v=0_upm8hof0s

http://cresc-music.com/kosaka.html

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2017年04月24日

真鶴駅頭

 昨日の山歩クラブのお散歩会「真鶴半島一周の巻」。
 奥ちゃんがまたしてもヒット、それを顔面に直撃くらったヤッホー君、地面にへんへなと崩れ落ちました。
 だって、奥ちゃんの口からすぅ〜っと、芥川龍之介!
 だって、振り返って「山歩クラブのお散歩会」を見てみましょう。
 歴史・文学散歩という名で「芥川龍之介詣で」をしてきたのです:

 「蜘蛛の糸」(1918年)「トロッコ」(1922年)「羅生門」(1915年)「杜子春」(1920年)などの作品で知られる作家・芥川龍之介(1892-1927)が、すみだで育ったことをご存じですか。
 龍之介は、1892(明治25)年、生後7か月のとき、母親が病気になったため、本所区小泉町(現・両国三丁目)の伯父の家に引き取られました。
 その後、江東小学校(現・両国小学校)、府立第三中学校(現・都立両国高等学校)に通い、18歳で転居するまでの多感な時期をこの地で過ごしました。
 江戸の風情を残しつつも近代化の足音が聞こえ始めた明治時代後半の両国で、龍之介は幼いころから読書に親しみ、小学校時代には友人たちと回覧雑誌の作成を始めました。
 大学在学中に小説「鼻」(1916)で華々しく文壇に登場する龍之介の作家としての第一歩は、両国の地にあったのです。
 両国を離れた後に執筆した「大川の水」(1914)「追憶」(1926)などには、大川(隅田川の別称)や両国に対する龍之介の深い愛情を感じ取ることができますので、 読んでみてはいかがでしょうか。


2012.8.1、墨田区公式サイト
墨田区のお知らせ
両国と隅田川を愛した作家・芥川龍之介

http://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/120801/pdf/kuhou01.pdf

 「府立第三中学校(現・都立両国高等学校)に通い、18歳で転居」…、どこへ?

中央区
 1892(明治25)年3月1日、京橋区入船町八丁目一番地(現・中央区明石町10番地、聖路加病院の西南隈のあたり)に生まれる。
 病院南側の「あかつき公園」の一隅に碑がある。
 芥川8ヶ月の頃実母フクが発狂したため、母の実家芥川家にひきとられる。

新宿区
 1910(明治43)年秋、隅田川の大水罹災のあと芥川の一家は、実父敏三の持家である府下内藤新宿町2丁目71番地(耕牧舎牧場のわき)に越している。
 その秋、龍之介は三中を卒業し一高に入学している。
 1914(大正3)年10月、田端に越すまでここにいた。
 現在の新宿御苑の北側、新宿二丁目である。

北区
 1914(大正3)年10月下旬、芥川の一家は新宿から府下豊島郡滝野川町字田端435番地(現・北区田端1-20-7)に移転する。
 途中龍之介自身は、1916(大正5)年11月鎌倉に下宿し、横須賀、鎌倉に住み、1919(大正8)年4月28日、再び田端に引きあげ、1927(昭和2)年7月24日、自裁するまで当所に住んだ。
 同所へは山手線田端駅で降り、駅前からすぐ左上の崖上に登る急な階段を登る。
 登り終わって右へ曲がり、東台橋からの東台通りにつき当たる。
 やや広くなった道を左へ曲がる。
 左側は都営田端アパート。
 100mも行くと突き当たりになり、床屋がある。
 信号を右へ曲がるとやや下りの細い道だ。
 左に「芳月」という旅館を見て6、70m下ると右手へ入るさらに細い道がある。
 サロン「古高」がそこにある。
 細道を右へ入り、7、80メートル行くと変則の小さな三叉路に出る。
 この角の左向こうが芥川の家跡である。
 中央はアパート、右手には、芥川時代の裏門を門とした武田家、左側にも一軒家が建っている。
 コンクリートの壁やそれにそった木は芥川時代のものと言う。
 この三叉路を左へ曲がり、まっすぐ行くと動坂の通りにかかった人や自転車だけ通れる童橋になる。
 この橋を渡った先に、萩原朔太郎、室生犀星、堀辰雄らが住んでおり、親交を深めたのである。
 まわり中、坂に囲まれた高台に住んだわけだが、1910(明治43)年夏の、大水の体験が、こうした土地を選ばせたのだろうか。


芥川龍之介文学散歩
中央大学名誉教授・渡部芳紀(1940年生まれ)
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~houki/akutagawa/sanpo/akutagawa.htm
 
 そして奥ちゃん、「芥川龍之介」のあと口に出たのが「『トロッコ』(1922年)」だったのです!
 なんだって!どうして?へぇ〜っ!

 「小田原から先は例の人車鉄道」と国木田独歩が『湯河原より』に書き、
 芥川龍之介が『トロッコ』で「小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった」と記したのが、小田原〜熱海間25.6qを結んでいた2ftゲージの豆相(ずそう)人車鉄道です。

 1895(明治28)年に開業、わが国最初の営業用人車鉄道でした。
 1905(明治38)年には熱海鉄道と改名、翌年には2ft6inに改軌のうえ蒸気動力に変更していますから、人車鉄道としては10年ほどの命だったことになります。

 この豆相人車鉄道が近年にわかにクローズアップされてきています。
 小田原商工会議所などが中心となって「豆相人車鉄道 温泉夢物語」と題した立派なパンフレットを作成、軌道跡の随所に旧駅の位置等を示す案内板が設置されました。
 しかもそれぞれの案内板には人車鉄道時代の貴重な写真が嵌め込まれており、最近ではハイキングを兼ねてこのルートを辿る方も少なくないようです。

2010年12月8日 23:56 鉄道ホビダス
甦った「豆相人車鉄道」
http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/12/post_85.html

 そうなんです、それはJR真鶴駅頭にひっそりとたたずんでいる案内板「城口駅跡」でのことでした。
 江戸ちゃんに無理言ってお散歩会を真鶴にしていただいたのでヤッホー君、すっかり今日は案内人。
 
 「皆さん、これはなんと読むのでしょうか、豆相人車鉄道!」なんて得意気に話していたのですが、
 全く予期もしなかった奥ちゃんのお言葉が顔面ヒット、アッパーカットの二段撃ちにあったもんで、
 「芥川龍之介の『トロッコ』だって、そうなんだ。皆んな帰ったら読んでみようね」とヤッホー君、
 打撃のショックよりもうそれはそれは嬉しくもなって、小躍りして思わず叫んでいました、大声で。
 そして付け加えるのを忘れませんでした。
 「奥ちゃん、今日もありがとう!」

「芥川龍之介 トロッコ」朗読 日高恵 松浦このみ(おしゃべり朗読館)
https://www.youtube.com/watch?v=NEYAXeeyV7M


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2017年04月23日

真鶴半島一周

 今日4月23日日曜日は山歩クラブお散歩会。
 11人が集って真鶴半島を一周する旅でした。
 朝、小田急線の車窓からは丹沢に雲がかかり、富士の霊峰も見えず、ちょっとお天気が心配だったのですが、真鶴半島はわれわれ11人を歓迎してくれていたかのように快晴。
 コースは物足りなかったかも知れませんが、江戸時代からの魚付き林として御林、明治の時代になっても官営林として守られてきた森、良かったことと思います。
 この間4月15日の甲斐は小菅の森。都が水源の森として開発の手から守ってきた巨樹の森でした。
 今日の真鶴。山も森も海も良かったですね。
 里山の恵み、掘りたてのたけのこは壮観でしたし、海からの恵みのお魚も美味しかったです。
 自然が一番、そしてそこを同じ心で歩ける下町の仲間がいる、美味しい魚が食べられる、山歩クラブで歩けるのが本当に幸せです。
 見てください、今日の仲間の素晴らしい笑顔!
 またお会いしましょう。
 またお話ししましょう。
 また歩きましょう。
 そして笑いあいましょう。
 次回まで、お互いに元気で、ヤッホー!


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2017年04月22日

命と向き合う

 今朝、トイレにたったついでに、なにげなくラジオのスイッチを入れたら、「熱帯雨林」のことばが!
 これは聞き捨てならんとばかりに日記に記しておくことにしたんだそうです、4月22日土曜日のこと!

 多様な動植物を育み人びとのくらしの基盤になっている熱帯林を守るため、現地や国内の人と一緒に考え、行動するのが「ウータン・森と生活を考える会」だ。今、現地での活動は、インドネシア・ボルネオ島での植林森林農法森林火災防止の支援が柱になっている。
 発足のきっかけは、東南アジアの先住民が1987年(30年前!)に大阪を訪れ「熱帯林が大規模に伐採され、生活が脅かされている」と訴えたことだった。伐採された木材は、日本など先進国が安く購入しており「現地だけでなく、私たちの生活にもかかわる問題」と翌1988年、ウータンができた。
 現地の人たちと手を携え、違法伐採を止めるための調査や提言などを続けてきた。2007年ごろから大規模伐採は沈静化した。しかし、最近は食品用などの植物油脂の原料となるパーム油(アブラヤシ)のプランテーション開発が盛んになった。それに伴って熱帯林は全て伐採されるため、土地は乾燥して保水力を失う。熱帯林でくらす生き物は、生存できない。
 そんな中、ウータンのメンバーが出会ったのが、国立公園近くに住んでいて、植林を進める現地のNGOの人びとだ。多くは現地の村人で、中には、かつて木材の伐採を仕事にしていた人もいたが、森の恵みを認識し、活動に加わった。原生種の樹木二十数種類を苗から育てて、植林をしている。苗は、国や企業、他のグループにも売って収入を得ている。
 こうしてウータンが2008年から現地のNGOと始めたのが「オランウータンの棲(す)める森づくり」だ。
 日本の参加者が植林などを体験し、開発の現状を学ぶエコツアーやホームステイを企画し、現地の人たちが観光収入を得て活動に誇りを持ってもらう仕組みにしている。

 ところが昨年2015年、異変が起きた。
 史上最強クラスのエルニーニョ現象(南米ペルー沖水温の異常な高まり)に伴い、インドネシアで干ばつが続き、平年は9月末には降る雨もまったく降らなくなった。開発による乾燥などによって森林火災が頻発。一昨年2014年の火災は約6000ヶ所程度だったが、昨年2015年は14万ヶ所で発生し、消失面積は約200万ヘクタール、損失は約2000億円に上ったという。この火災で放出された温室効果ガスは、日本からの昨年放出量を上回ったと推定される。森林火災の一因に、アブラヤシ開発の際に森を燃やす「火入れ」があるという。

 代表の西岡良夫さん(64)は昨年2015年9月、現地に行った際、消火を手伝った。
 「現地には消防車が入れず、有機物がたい積した泥炭湿地に火災が及ぶと鎮火しにくいなど、消火は大変困難でした」と、当時を振り返る。結局、支援地域の国立公園の4分の1にあたる9万ヘクタールが焼けた。
 ウータンでは「初期消火が大変重要」と認識し、消火器材を現地NGOに贈る活動を始めた。
 資金の寄付は「ゆうちょ銀行00930−4−3880 ウータン・モリトセイカツヲカンガエルカイ」。用紙に「インドネシア火災寄付」と記載する。
◇◇
 活動には最近、学生ら若者も参加。
 会社員の武田裕希子さん(26)は「国内でも勉強会やイベント、PR活動など共通の意識と目標を持った仲間と、楽しく活動を続けられ、やりがいがある」と話す。
 事務局長の石崎雄一郎さん(36)は「現地では美しい景色と、森を守る情熱を持った現地の仲間に出会えた。一緒に活動してみませんか」と呼びかける。

「ウータン・森と生活を考える会」
【名称由来】ウータンはインドネシア語の森(オランウータンは「森の人」の意)。
【所在地】大阪市北区中崎西1−6−36−308 Tel 090-8145-1146
http://www.hutangroup.org
メールはinfo@hutangroup.org


2016年1月25日付け毎日新聞地方版【大島秀利】
おおさかの市民パワー、ウータン・森と生活を考える会
インドネシアで植林など支援 現地の仲間と共に/大阪

https://mainichi.jp/articles/20160125/ddl/k27/040/231000c

 この会の代表、西岡さんが「明日へのことば」で話しかけていました:

 ボルネオ島では大量に伐採された木材が日本などの先進国に輸出され、熱帯林の減少が続いて問題となっていましたが、近年油ヤシのプランテーション、大規模農園の開発が進み新たな問題となっています。
 西岡さんは何度もボルネオ島に渡って現地のNGOと連携し、熱帯林を守る活動を続けています。
 熱帯林で何が起きて居るのか、私たちの暮らしとどうかかわっているのか、伺いました。

 65歳で退職し現在無職です。
 休耕田を利用して「虹の畑片野」という名前でやろうとしています。
 ウータンと言うのは森と言う意味です。
 「ウ―タン・森と生活を考える会」、1987年にマレーシアのサラワク州と言うところで森林伐採が大変なことになっているということで日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、それから始まったわけです。
事務局のメンバーが20名、当時公務員、教師のメンバーが多かったが、今は退職された方が多く無職が多いです。
 小さい頃、母親の家が高島の浜にあり、海水浴が出来た綺麗なところでしたが、コンビナートを増設と言うことで海辺がいっぺんに変わってしまいました。
 父親に誘われて山に虫取りなどもしていました。
 高校時代になって環境がずいぶん変わってきました。

 ボルネオ島の大半は森林におおわれていて町だけが開けていて、1965年以降に独立して、日本企業が入って森林破壊が進んできた。
 日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、募金活動をしましたが、集まったお金を持って帰らなくて途中で姿を消してしまった。
 現地のNGOの組織と組織としてやっていかないといけないと言ううことになり、「ウ―タン・森と生活を考える会」を立ち上げました。
 マレーシアのサラワク州では原生林が85%ぐらいが、すでに伐採権が与えられていることが分かってきた。
 欧米のNGOとも交流をもつようになり、ドイツの代表が日本に来て、一緒になって熱帯材の使用削減をしようと言うことになりました。
 1990年から企業、自治体に対して2〜3回で使い捨てになっているベニアの合板を長く使ってもらったり、使用量を少なくしてもらうとか、いろいろ話し合いを持ちかけに行きました。
 建築方式も見直してほしいと言うようなことも申し入れをしました。
 現地の森林の調査も行いました。
 最初大阪府が対象でしたが、1995年ぐらいには関西レベルの取り組みとなり、全国でも300ぐらいの自治体が熱帯材の使用削減に取り組みをしていただきました。
 環境省が環境基本計画を策定しようと言うことになり、熱帯材の保全、熱帯材の使用料を減らすことを提言しました。
 違法な伐採が世界各地で行われていることが判ってきて、1998年G8サミットの時にG8のなかで検討してほしいとブレア首相にグリーンピースが申し入れをして、検討してほしいということになりました。
 ボルネオ、アマゾンでも違法な伐採がされていた。
 1992年違法な形でシンガポール経由で日本に輸入されていたことが分かった。
 違法伐採、運ばれ方など、現場への調査などを行いました。

 2007年私はマレーシアで単独で調査をしていました。
 EIA、テラパックの団体がホテルにいたが、悪徳警官が来て2人留置されてしまい、カメラ、お金など取りあげられたりしていました。
 私もカメラをとられたが、急遽別のカメラを出して難を逃れた。
 2003年からラミン(ゴニスチラ(ジンチョウゲ)科 Gonystylus 属の広葉樹。散孔材)を使わないキャンペーンを行い、モップの柄の部分を使わない運動を展開しました。
 半年で50社、1年目に100社、3年後に200社という目標を立てたら、あるデパートが調査をしてくれました。
 目標より早く進み、2007年では500社が辞めていただくことになりました。
 最終的に日本では750社が辞めていただき、世界では2000社以上が取り組み、2010年以降違法ラミンの取引は世界で出来なくなりました。

 森林伐採をした後に油ヤシを作っていて、紙パルプのための植林もしていました。
 パームオイルはマーガリン、ファーストフード、洗剤、工業用燃料などに使われています。
 植物油と書いてるのは油ヤシが大半です。
 日本では昔は米油、ゴマ油、菜種油があったが、パームオイル、油ヤシは安価です。
 油ヤシに転換していくという形があり、拡大して行った。
 泥炭湿地だったところが、乾燥していき、泥炭湿地を保全しようという取り組みを進めて居る。
 雨が降らない時があり、火災が発生している。2015年インドネシアは世界3番目の二酸化炭素排出量になっている。

 ある国立公園の1/4が燃えてしまいました。再植林を展開しています。
 5日間のツアーを組んで植林したりボルネオの人たちとの交流なども行っています。
 オランウータンが棲む森が無くなってきて、油ヤシばかりになり、火災が起きてきてインドネシア政府も対応しているが、われわれ自身も生活の見直しをやっていかなければならないと思う。
 持続可能な社会を作っていこうと米国でも取り組んでいます。
 違法伐採を無くして森林再生をして持続可能な開発を目指していきたいと思います。
 皆さんの生活も振り返って見直して頂けませんでしょうか。


2017年4月22日土曜日
西岡良夫(ウ―タン・森と生活を考える会代表)・熱帯林の再生を願って
65歳、東南アジアのボルネオ島の熱帯林を守ろうとNGO非政府組織、「ウータン・森と生活を考える会」を1988(昭和63)年に結成し、代表を務めています。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/

 国際協力をしているNGOにはほかにもあります。
 今日は、そんな市民団体からひとつだけご紹介:

 年間200万人近くが訪れる人気動物園で、動物を生き生きと見せるプロ。なのに野生のオランウータンを見たことがなかった。5年前、マレーシア・ボルネオ島の熱帯雨林を初めて訪れ、「たくさんの命が守られている」と圧倒された。
 その熱帯雨林が、パーム油生産のためのアブラヤシ農園に姿を変えている。野生動物はすみかを追われ、互いに距離を置いて暮らすボルネオゾウは農園に迷い込み、害獣として時に殺される。「だから森林破壊はいけない、と言うのは簡単ですが、日本がパーム油を年間約60万トンも輸入していると知ったら?」
 野生動物が人と衝突せずに移動できる「緑の回廊」作りを目指すNPO「ボルネオ保全トラスト・ジャパン」の理事として、「恩返しプロジェクト」を率いる。売り上げの一部が寄付される専用自動販売機の設置を呼びかけ、集まった寄付金でゾウの一時保護施設を計画した。大成建設などの協力で秋にも開所式の運びだ。
 地元の北海道旭川市では、小学生が自分の暮らしとボルネオのつながりを1年かけて学ぶ。「現地に恩返ししたい」という言葉が子どもから自然に出てくる。「即席麺、菓子、粉ミルク、洗剤。パーム油の恩恵を受ける僕らが、ボルネオから奪ったものを何かの形で返せる仕組みを作りたい」
 まずは ONGAESHI を国際語にしたい。「ぴったりの英語がないんです」。アイデア園長の発想は休む暇もない。
===
■人物略歴
 旭川市生まれ、獣医。2009年から旭山動物園長。プロジェクト概要は ↓
 http://www.bctj.jp/project/rescue.html

2013年07月11日付け毎日新聞東京朝刊<ひと><文と写真・元村有希子>
坂東元さん=ボルネオ島の熱帯雨林に日本から「恩返し」
http://archive.fo/9SIOw#selection-1171.4-1174.1

ボルネオ 野生からのSOS
今、ボルネオで熱帯雨林が減少し、ゾウやオランウータンなど野生動物が住みかを追われている。原因のひとつはパーム油の需要拡大。パーム油が得られるアブラヤシ農園が増え、熱帯雨林が破壊されているのだ。パーム油は、石けんや菓子として日本をはじめ世界中で消費されている。番組キャスターの元村有希子(毎日新聞科学環境部編集委員)が、現地ボルネオを取材。野生動物が置かれた現状や日本人も参加している熱帯雨林保護計画などを紹介する。
http://www.dailymotion.com/video/x16hliv_

 坂東さんも2012年9月29日土曜日、「明日へのことば」でお話しなさっておられました:

 ペンギン、オランウータン、アザラシ館等の施設を手掛けてきました。
 動物本来の能力をありのままの姿で引き出す工夫をした行動展示と言われる方法で、今ある「旭山動物園」を形造った方です。
 父が転勤族で、本州を転々としたいじめられっ子だった。虫等を飼って過ごしていた。
 2004(平成16)年アザラシ館ができて、有名に成り、全国区になった。 
 動物園は観光施設ではないと考えているが、経済的な評価だけが先行するようになった。
 受け入れる能力を越えた人たちが来場した。
 今は200万人ぐらいで等身大の規模になったと思っている。
 獣医として入った。死の迎え方が違っていた。  
 象の朝子と係わっていた時、朝子は歳を取っていた。  
 堅いものを食べられない状況で、足の裏に小さな怪我をしていた。
 象はすごい社会性が強く、コミュニケーションを細かに取る動物であるが、それがたった一頭で何十年も生きてきた。ちゃんと象として生きている。  
 人間一人ぼっちになって生きていたら、人としていられるのかなあと思った。 
 象は体重が4〜5トンになる。治療するのに麻酔を掛ける方法があるが、体重が重いために同じ体勢でいると問題がある。麻酔はかけられなくて、痛みを伴わない治療をしていたが、段々悪くなってきた。  
 象の足は周囲1mある。足音はしない(衝撃を吸収するような構造になっている)。
 化膿してくる(クッションが潰れてくる)。眼が合うが、元気な時のような眼をしている。痛みを感じないわけが無いのに如何してこうなのかと思った。
 もっと悪くない脚は付けずに、肘を突くようになった。24時間寝ない象で、金が無かったので要らなくなったマットを学校から貰ってきて、少しでも柔らかいようにしてやった。
 半年後、いよいよ倒れてしまい、1週間で死を迎えた  
 倒れて初めて検査ができたが、右前脚は肩まで骨が腐っていた。死ぬまで眼が変わらなかった。恨まない眼、何でこんな目で最後を迎えられるのか。

 動物たちは食物連鎖の中で食べ、食べられる、殺し、殺される、そうした中で、全部が命の輝く仕組みの中で生きている。  
 人間のように自分だけが、という生き方ではない。

 一部に痛みが降りかかる苦しみが降りかかった時に、それをどうにかしてでは無くて、受け入れて生きると言う生き方をする。だから誰かを怨むということをしないし、どうして自分だけがこうなるかという眼をしない。
 自分に降りかかったことを受け入れたなかで生きて、生きれなかったら、そのまま死んでゆくだけですよ、という生き方をする。すごい、どの生き物も、僕らって何なんだろうと思うくらい。   

 当時、動物園はつまらないと言われていた。可愛い可愛くない、珍しい珍しくない、というようなわれわれ人間の薄っぺらい基準で動物が見捨てられていた。
 そしてうちの動物園は無くなろうとしていた。経済的に立ちいかなくなって止めるのではなく、こんな動物園はつまらないということから止めちまえということなんですよ。
 ラッコブームでラッコが入ってきた(北海道の水族館)けど、当園にはラッコがいなかった。動物園は楽しければ良いと言うような傾向がある。 
 子供たちはずっとアザラシを見続けていた。次に行こうと先生が言ったが子供達はまだ見たいと言う。これラッコじゃないよ ただのアザラシだよと言う。子供達は「なあんだ ただのアザラシなの」ということになってしまう。大人の価値観が子供に移ってゆく瞬間なのだと思う。
 子供の価値観を育てることが必要だと思う。黙っていたんでは動物園が無くなってしまうので、ワンポイントガイドで、お客に動物の説明する。これは画期的なことだった。
 ひと前でと言うのはあり得ないことだった。予行演習でもぶるぶる震えて緊張した。暗記したことをどこまでしゃべれるか、だけで、面白くないと段々と人がいなくなってゆく。分かってくれない人にどう伝えたらいいのか考えて、段々結果が出てきた。
 動物本来の能力や習性を見せる「行動展示」を考案、同園躍進のきっかけをつくった。動物園、水族館の概念を変えた。   
 命は誕生があり、死がある。
 動物園は楽しいところで誕生は伝えられていたが、小さな動物の死は伝えられなかった。タブーだった。
 ライオンだったら30年ぐらい生きられると思っているが、そんなに長く生きてはいない。
 ペンギンは群れているので一匹死んでしまっても解らない。個体選別ができるようにして、死を知らせるようにした。
 淡々と死を伝える、これが大きな議論を呼んだ。
 ペンギンの散歩が一つの風物詩となっていた。命を閉じ込めているのはわれわれのエゴで、死を当たり前に伝えないといけないと思う。
 動物の死は難しい。  
 動物園で過ごす動物はペットとは違って、何万年もかけて人が飼いやすいようにした動物ではないので、狭い檻に居ても本能は持ち続ける。飼育係との関係は成り立つが、これ以上は絶対に駄目ですよという線は絶対に崩さない。
 治療されているとは思わない。エゾリスは寿命3〜4年といわれているが 最長動物園で16年生きた経験がある、老衰。
 動物園はある意味、終われない命。そして死は必ず来る。
 動物らしく暮らさせたい。動物らしく終わらせてあげないと飼育は完結しない。最後は安楽死を選択に入れながら、治療をして最後を迎えさせたい。ちゃんと死を受け止めてあげないといけないんじゃないかと思う。
 死んでから心の中に生きてくる。動物は常に死とむき合って生きている。

命と向き合う
坂東元(旭山動物園園長)
酪農学園大学獣医学部を卒業。1986(昭和61)年旭山動物園に勤務、2009(平成21)年に9代目園長になる。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/09/blog-post_29.html


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個人情報保護法案拒否!

 イマ、とんでもない「共謀罪」法案の審議が衆議院法務委員会ではじまっています。
 「個人情報保護」法案の審議があった頃の城山三郎、彼の憤りと動きを見てみます。
 この法案は2003年5月23日に成立、2005年4月1日に全面施行してしまいましたが。

 作家・城山三郎は、この2007年3月22日に茅ケ崎の病院にて亡くなった。享年79。遺稿集『嬉しうて、そして…』(文藝春秋、2007年)のあとがきで、最後の2ヶ月を一緒に過ごした娘の井上紀子さんは「一番心配していた長患いをすることもなく……さらりと逝ってしまった」と書いている。紀子さんによれば、城山は経済小説家として有名だが「原点は戦争でした」(『城山三郎が娘に語った戦争』朝日新聞社、2007年)という。

 17歳の城山が徴兵猶予を返上し「一身を国に捧(ささ)げ」る覚悟で、海軍特別幹部練習生として志願入隊したのは敗戦の3ヶ月前である。そこで城山が体験したのは「ただ狂ったように、部下を撲(なぐ)りつけるだけ」の非人間的な帝国海軍と、「玉砕と呼ばれる事態を繰り返す他なかった戦争末期」の狂乱だった。
 戦争とは国民という個人に対する国家という組織の「裏切り」である。言論の自由がなければ個人は組織の理不尽な「大義」に抵抗できない。晩年の城山がテレビに出演したりデモに参加したりして、個人情報保護法に激しく反対したのも同法が「運用次第では言論統制法につなが」る危惧(きぐ)を覚えたからだ。

 城山の小説には、組織の「大義」や時代の流れに抗して生きた男たちが多く登場する。その男たちが『官僚たちの夏』(新潮社、1975年)や『乗取り』(光文社、1960年)のようなフィクションから、次第に『雄気堂々』(新潮社、1972年)の渋沢栄一(1840-1931)のようなノンフィクションへと変わった背景について、城山は佐高信(1945年生まれ)氏との対談(『城山三郎の遺志』岩波書店、2007年)で「存在そのものが美学であるというような人……を知って、書いてみようという気持ちがだんだん強くなってき」たと述べている。旧平価で金輸出の解禁を断行した浜口雄幸(1870-1931)と井上準之助(1869-1932)を『男子の本懐』(新潮社、1980年)で取り上げたのも、膨張する軍の予算を抑えるためには国民にデフレの痛みを強いても「それしかない」と、命を賭して決断した2人の「覚悟」を書きたかったからである。

 2000年にかけがえのない容子夫人を亡くしてから、城山の視点は「大切な人を失って、なお生き続けなければならない者」へ移ったと紀子さんは回顧する。そのとき、城山は改めて戦争の理不尽さを実感したのかもしれない。夫人の死後に書き上げた『指揮官たちの特攻』(新潮社、2001年)には、共に23歳で世を去った最初と最後の特攻隊員の「花びらのようにはかなかった」幸せな新婚生活の後で、残された家族が敗戦後に送らざるを得なかった長く、切ない余生が綴(つづ)られている。

 指導者としての浜口と井上の「覚悟」をテーマにした講演で、城山はイギリスの経済学者J.S.ミル(1806-1873)の言葉 “My work is done(我が仕事は為(な)せり)”を引用し「この一言を残して世を去りたい」と願いを述べた。それが叶(かな)ったことは、紀子さんの「とてもやすらかに、ほっとしたような顔で亡くなりました」という言葉に表れている。城山は逝ったが、城山の作品は生きている。自らの筆によるエッセーと紀子さんに語った積年の思いを通して人間・城山の日常と心の奥を知ることは、作家・城山の作品に対する読者の理解をいっそう深めるに違いない。


2007年09月23日付け朝日新聞
理不尽な組織の「大義」に抗し続けて
立命館大学国際関係学部教授 高橋伸彰(1958年生まれ)
http://lex.juris.hokudai.ac.jp/csdemocracy/ronkou/takahashi070924.html

 あの頃、「個人情報保護」法案が審議されていました。
 参議院特別委員会での参考人質疑で、城山三郎はどんな意見陳述をしたのか、残されておりました!

書き手と書く場を分断
作家 城山三郎氏
 (法案を通すため)官僚たちが演出したと思いますが、手口として分断作戦というものをやった。新聞、テレビは(適用除外のなかの)別枠で「報道機関」という名前をつけた。そのために、新聞やテレビはほとんどとりあげなかった。
 私のところにも、読者から手紙がきて、「城山さん一人が騒いでいるけれども、何で騒ぐんだ。新聞もテレビもとりあげていないじゃないかと」。完全に、向こう(政府側)の分断作戦の成功です。それぐらい、新聞、テレビはとりあげなかった。
 その分断作戦はいまも続いていて、今度「改正」になった法案でも、私たちが調べる自由とか書く自由は与えてくれました。けれども、発表する場はないんです。雑誌とか出版は全部、コントロール下に置かれますから、雑誌や出版が「ノー」といったら、書いても発表する場所がない。自分の原稿を見せて歩くよりしょうがないですね。つまり、物書きが生きていけなくなる。書き手と書く場を分断してしまうという悪質な分断作戦です
 私は、言論・表現の自由というのは、自由主義の根本にあるといいますか、地下茎に等しいものだと思います。その上に、職業選択の自由とか、いろんなものが芽を出しているわけです。根幹にある言論の自由という地下茎を駄目にしてしまえば、さまざまな自由が全部枯れてしまう。消えてしまう。そういう非常な危険を持っています。
 そういう恐ろしさを、いったいどこまで考えて、いまの内閣は、こういう乱暴な法律をつくってくるのかということで、私は肌寒くなる思いがします。こういう人たちは、二度と議場に立ってほしくない。これは、憲法を曲げかねないことですから、当然、公約にうたうべきです。公約には一言もうたっていないで、政権とったらこういうことをやる。とんでもない話です

2003年5月21日(水)「しんぶん赤旗」
個人情報保護法案
発表する場なくなる
参院委 城山三郎氏(作家)ら陳述
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-05-21/02_03.html

拝啓 小泉純一郎さま!!
 個人情報保護法案をめぐって小泉政権は現在、新聞・テレビ・出版の全メディア(読売系を除く)の反対の声に包囲されています。メディアvs国家の対決図は、おそらく1960年安保以来のデキゴトでしょう。あの時の岸内閣は安保条約締結を強行した後、崩壊しました。あなたはいまその歴史的教訓の前に立たされているのです---それでもなお、与党三党で強行突破なさいますか?

 私たち「個人情報保護法案拒否!共同アピールの会」は、秘書給与問題や愛人スキャンダルなど与野党議員不祥事が続発しているいまの国会に絶望し、作家の城山三郎、井上ひさしさん等とともに、「国会は、色と欲とカネにまみれて、いわば液状化してしまった状態にある。いまの国会議員に日本の針路を決める重要な法案を審議する資格はない」として《衆院解散》の声をあげました。

 城山三郎さんは「もし法案が通ったら、私は『言論の死』の碑を建てる。そこに、法案に賛成した議員全員の名前を記す」と叫んでいます。

 私たち「共同アピールの会」も、「法案賛成の議員を再び国会に送るな」をスローガンにして、2002年4月29日には、福田官房長官の地元選挙区・群馬県高崎市で大規模な抗議パフォーマンス行進を決行し、2002年の今日5月26日には、あなたの地元・神奈川県横須賀の地で、あなたを支持する人々に「小泉NO!」の声をあげるよう呼びかける国民行進を展開しています(注1)。

 私たちの個人情報保護法案反対 !! の心が如何なるものかは、同封した市民向けビラにお目通しください。

 私たちは「戦時の有事法制、平時の個人情報保護法案」どちらにも反対 !! です。

 この2つがセットになって、日本は戦国国家の情報統制時代にひきずりこまれてゆくからです。どうか小泉首相、サワヤカ笑顔の息子・孝太郎クン(注2)に召集令状の赤紙が舞い込む日が来ないように願いながら、あなたと戦う日本人もいるのだということを心にご記憶ください。

 靖国の英霊だけが「至純の魂」ではないのです。


2002年5月26日
個人情報保護法案拒否!共同アピールの会
http://www.interq.or.jp/japan/s9d/log/020526_c.htm
http://www.interq.or.jp/japan/s9d/

(注1)
西暦2002年5月―――。
長引く不況の中
日本は大きな曲がり角にあった……
高度にデジタル化する社会へ
移行するための法整備という名目で
日本特有の戸籍というシステムが今、
個人情報保護法=住基ネット=有事法制
と結びつこうとしていたのである。

絶望的なまでの全体主義国家への道……

だが希望を捨てずに
立ち向かう漢達がいた―!!
ミューッジック
スターーート!
(てきとーに自分で口ずさんでください)

彼らはいつもやってくる〜♪
どこからともなくやってくる〜♪
言論の危機を感じたら〜♪
(ピープルズ・エルボー!)
自由の危機を感じたら〜♪
(ラスト・ライド!)
勇気を出して闘うぞ〜♪
それいけ、今だ、合体だ〜♪

とおぉぉーーーーっ!!!
言論パフォレンジャー
只今参上ッ!!
。。。

5.26 横須賀統一行動告知
http://www.interq.or.jp/japan/s9d/

(注2)女性セブン2016年9月15日号
小泉純一郎が息子たちに「ママは実の母ではない」と告げた日
http://www.news-postseven.com/archives/20160901_444116.html

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2017年04月21日

瞼の母

 ≪城山さんも逝った。最後の言葉は「ママは?」だった。死に顔は斜め上を見て、幸せそうな表情だ。「お母さんが迎えに来てくれたんだね。よかったね」と、紀子さんは思わず声をかけた≫
……ふるさとを失ったヤッホー君、父母も失ったヤッホー君、とてもこころにしみいる情景です。

歌謡浪曲「瞼の母」(三波春夫)
https://www.youtube.com/watch?v=j64R_Tzp2I4

 ヤッホー君の尊敬して止まない小児科のお医者さまが、こんなことを2017年4月20日19:50に記されております。

 6年前の今頃、東北自動車道を北上していた。道路が、震災のためにところどころ、でこぼこしていた。震災時のライフラインの喪失によって、恐らくストレスを生じ、体調を崩して入院した母を見舞いに仙台に向かっていた。優しい山並みの安達太良の山々を左手に望みながら、助手席に乗った姉と、子供時代の思い出話をとりとめなくし続けた。この見舞いの旅については以前にも記した。とても具合が悪いはずの母だったが、時折笑みを浮かべて我々を迎えてくれた。こちらに戻りたい、(すでに7年前に他界していた)父はどうしているかと繰り返し、私に尋ねた。姉が病室で母に讃美歌を歌うのを聴きながら、帰路に就いた。母はその後数日て亡くなった。ふっとろうそくの火が消えるような最後であった、と後で聞いた。

 先日、弟から手紙が来た。母が弟に出した手紙のコピーが添えられていた。40数年前のことになる。弟が東北大の医学部に入学し、仙台のYMCAだったか、寮に落ち着いた。それを見届けて、東京の自宅に戻った母が、帰宅早々に弟に宛てた手紙だ。仙台のプラットホームで別れ、途中武蔵野線に乗り換え、自宅近くの駅についたこと、小雨が降っていたが、濡れたまま歩いて帰ったこと、夜なかなか寝付かれなかったこと等が淡々と記されていた。裕福ではないので、いろいろと揃えてあげられなくて申し訳ない、枕はそれまで使っていたものをきれいにして送るから、とあった。最後に、キリスト教信仰にたって、また歩みだすと記されていた。

 母が、こうして私たち子供を思い、そのために生きてくれたのだった。父も同じように私たちにしてくれた。その愛情を、この年齢になって、改めてありがたく感じる。両親に何事か恩返しをできただろうか、と自問する。親から受けた愛情の幾分かでも、自分の家族に与えること、それがいかに難しくてもその努力をすることだろう。もし両親に会いまみえることが再びできるなら、自分はこうして生きたと胸を張って言えるように・・・。

 あと8日で、母の6回忌がやってくる。
 

 亡くなってもこころに生き続ける父と母、合掌。
 そんなつながりのある家族、居場所のある家庭ってもっと、もっと大事にしなければいけません。
 イマ、はたしてどんなことになっているのか、ちょっとだけご紹介しましょう。
 まずは昨日の紙面から:

 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣されていた陸上自衛隊施設部隊の撤収が始まった。
「治安は安定していた」
 4月19日に帰国した第1陣の隊員はそう語った。だが、LINE(ライン)などで現地の情勢を伝え聞いていた家族には、危険性を不安視する声も。隊員や家族の心のケアをめざす動きも出ている。

 午前11時半。任務を終えた石井究(きわむ)3等陸佐(34)ら隊員が青森空港(青森市)の到着ロビーに姿を見せた。出迎えた幹部たちが、「お疲れさま」「お帰りなさい」と握手をすると、日焼けした迷彩服姿の隊員たちも「ありがとうございます」と笑顔をのぞかせた。
 バスに乗り込む隊員の中に、おいの姿を見つけた40代の女性は、駆け寄ってハイタッチ。「無事に帰ってきてくれて、本当によかった」と喜んでいた。
 5月末までに順次、帰国するのは第11次隊として派遣された約350人。今回は青森や八戸(青森県)、岩手、船岡(宮城県)などの駐屯地に所属する68人が帰国した。青森駐屯地で帰国報告を受けた陸自第9師団長の納冨中(のうどみみつる)陸将は、「自衛官としての誇りを胸に、建国まもない南スーダンの発展に十分貢献してくれた」とねぎらった。
 石井3等陸佐は、首都ジュバの治安について「安定していた。安全確保に万全を期し、緊張感を持って活動してきた」と説明。武装集団に襲われた国連職員らを武器を使って助ける「駆けつけ警護」など、新たな任務についても「派遣前に訓練をしていたので、不安なく行けた」と強調した。
 3月には、隊員5人が一時、南スーダン政府軍の兵士に誤って連行される事態があったが、「けが人はなく、大きな動揺はなかった」。防衛省が「廃棄した」としていた日報が保存されていた問題を尋ねられると、「お答えできる立場にない」と述べた。(桑原紀彦、安西裕莉子)

安否確認、LINEがよりどころ
 派遣中、多くの家族が安否確認のよりどころにしていたのがLINEだ。
 「大丈夫?」
 20代の息子が帰国した岩手県の40代女性は、現地の治安が心配で、メッセージを送ったことがある。
 「本当にぜんぜん大丈夫。気にしなくていい」
 女性は「言ってはいけないこともあるだろう」と思い、それ以上は聞かなかった。実際に帰国するまでは、不安は消えなかった。戻ってきた息子の姿を見て「一つの大きな仕事を成し遂げて、一回りも二回りも大きくなって帰って来たんだ」と涙ぐんだ。
 派遣された夫と毎日、LINEでやり取りしてきた20代の妻は、ジュバの治安は他の場所と比べて「良い方だ」と陸自から聞いていた。だが、夫から届いた内容は予想をはるかに超えていた。
 「道に死体がゴロゴロ転がっているのが普通だ」
 「目の前で銃撃戦があってひやっとした」
 隊員が3月、南スーダン政府軍の兵士に誤って拘束される事件が起きてから、不安は一気に大きくなった。妻は「ここまでとは思っていなかった。(派遣に)反対しておけばよかった」。LINEの返事が遅いと、「何かに巻き込まれたのでは」と不安が募ったという。
 岩手駐屯地から派遣された30代の夫を出迎えた盛岡市の30代の女性は「どこに行っても、テロは起こります。『駆けつけ警護』が付与されて初めての派遣だったので、どうなるのか不安でした」と話した。
 3月に起きた拘束事件の際、「パパじゃないよね」とLINEでメッセージを送り、「大丈夫だよ」という返信で安心した。「行くこと自体が危ないので不安はある。でも、仕事なので、しょうがないかな」。小学生の長女を引き寄せ、そうつぶやいた。(姫野直行、山本知佳)

 海外に派遣された自衛隊員が帰国した後、本人や家族たちの医療や精神面をサポートする民間団体も誕生した。イラク支援ボランティアの高遠菜穂子さんらが1月末に立ち上げた「海外派遣自衛官と家族の健康を考える会」(注1)。自衛隊内では相談しづらい隊員たちの受け皿をめざし、電子メールで相談を受け付け始めた。
 会では、新任務に「駆けつけ警護」が加わったため、派遣隊員の心理的負荷は高まると想定。戦闘だけでなく、軍事演習などによっても「コンバット・ストレス」と呼ばれる睡眠障害やフラッシュバック、激しい動悸(どうき)などの症状が出ることがあり、家族に影響を及ぼすこともあるという。
 PKOに派遣される隊員の妻が、現地での活動を想像して「換気扇の音を聞くだけで怖い」と訴えた例を把握。海外では、戦地に派遣された兵士が帰国後、精神状態が不安定になり、その子どもが抑うつ状態になったり、いじめの加害者になったりした例も報告されているという。
 第9師団長の納冨陸将もこの日、「肉体的な休養はすぐ取れるが、精神的な休養は時間がかかるかもしれない」と述べ、隊員たちの心のケアを課題に挙げた。
 沖縄戦などをめぐる心的外傷後ストレス障害(PTSD)の診療を続けてきた精神科医で、会の共同代表を務める蟻塚(ありつか)亮二さん(70)は「新たな任務が加わった負担感は『他人には分かってもらえない』と思いがち。本人も苦しむが家族にも波及する恐れがあり、周囲の理解が必要だ」と指摘する。
 これまでに隊員や家族からの相談はないが、隊員らの帰国に合わせて5月、北海道と青森市で学習会を開く。


2017年4月20日05時02分更新、朝日新聞デジタル(桑原紀彦、安西裕莉子 姫野直行、山本知佳 岡本玄)
「死体がゴロゴロ」 南スーダン派遣、家族へのLINE
http://digital.asahi.com/articles/ASK4M4GT7K4MUTIL01D.html

 この隊員のトップは誰だっけ。。。こんなのが美しい国を守る仕事をしていて良いのでしょうかね。。。

 さすがに自衛隊員もカンカンになっている。稲田朋美防衛相が、ゴールデンウイークを利用してノンビリと外遊することが分かったからだ。東南アジアとの防衛協力を強化するために、5月上旬にベトナムを訪れ、日程が整えばタイも訪問するという。

 しかし、朝鮮半島が緊迫し、4月26日にも米軍が北朝鮮を「空爆」する可能性があるのに防衛省のトップが日本を離れるとは、どういうつもりなのかと批判が噴出しているのだ。

「最近の稲田大臣は、ご機嫌です。もう森友問題は終わったと思っているのでしょう。ただ、次の内閣改造では外されるのは確実。そこで本人は大臣に就いている間に世界中を回りたいようです。閣僚ならVIP扱いですからね。だから大した用事もないのに外遊を決めたのでしょう。昨年、ジブチを訪問した時、彼女は公務だというのに、ド派手なサングラスにキャップという格好で成田から飛び立っている。今回もバカンス気分で行くのでしょう」(防衛省事情通)

 ド素人のくせにエラソーな態度を取っていることもあって、ただでさえ稲田大臣は省内で嫌われている。ゴールデンウイーク中の外遊が明らかになって、自衛隊員の怒りは頂点に達しているという。元外交官の天木直人氏がこう言う。

国会でキツイ質問をされただけで泣き、ハイヒールで護衛艦を歩きと、どう考えても稲田防衛相は大臣失格です。そのうえ、日本の安全が脅かされる恐れがあるのにノンキに外遊とは話にならない。いますぐ大臣を辞めるべきです。だいたい、マティス米国防長官からダメ出しされた彼女が、ベトナムやタイに行って何ができるのか。いまごろ、ベトナムとタイは『朝鮮半島が危機なのに本当に来るのか』と驚いているはず。もし、直前でキャンセルとなったら、迎える準備をした両国にも失礼です。彼女はそうした外交儀礼も分からないのでしょう

 防衛省に大臣の外遊日程を聞いたら、NHKもベトナム訪問を報じているのに「ホームページに載っていること以外、答えない」とのことだった。

 こんな指揮官の命令に従わなければならない現場の自衛隊員が哀れだ。


2017年4月15日付け日刊ゲンダイ
朝鮮半島危機も他人事 稲田防衛相の“GW外遊”に批判噴出
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/203544/1

 のんびり”GW外遊”して愛国シュギシャぶってるもいいけど、貧困層は刑務所に行き、そこを住みかする、なんてそんな「国づくり」を、これしかないと進めて本当にいいんだろうか、ということですよね:

社会との縁、再犯防ぐ鍵
 受刑者が高齢化している。
 法務省によると、2015年に刑務所に入った人のうち65歳以上の高齢者の割合は10.7%で、20年前の2.2%からほぼ一貫して増え、受刑者全体の高齢化率も上昇している。昨年2016年12月までの1年余りの間、私は全国3ヶ所の刑務所を取材し、身寄りのない高齢者が刑務所に戻ってくる現状や、刑務官が介護のような仕事に追われる現場の一端を見た。老人ホーム化の側面が深刻になってきた今、刑務所のあり方の変革が急務だ。

 「好んで刑務所に来ているわけではない。今回で最後と決めている」
 無銭飲食を繰り返し、2014年夏から高松刑務所(高松市)に服役中の男性(75)は昨年2016年12月、こう語った。服役は二十数回目、通算40年以上も刑務所で過ごす。
 「酒を飲むと強気になれた。店の人もちやほやしてくれる」
 その快感が忘れられず、金がなくても店に行った。29歳で初めて刑務所に入ると、両親やきょうだいから縁を切られた。「出所する時は『もう飲まない』と決意するが、すぐに飲んでしまう」。男性は声を落とした。
 出所しても再び罪を犯して入所する人の割合も増加傾向で、2006年は50.0%だったが、2015年は59.4%に上昇した。満期出所者に対する調査で、家族や雇用主など適切な受け入れ者がいない人の割合も年々増え、2015年は56.0%だった。これらのデータから行き先のない人が刑務所に戻る実態が垣間見える。
 特に女性受刑者は2015年に刑務所に入った人が2124人と、20年前の2倍以上になるとともに、高齢化率も上昇し、大きな影響が出ている。

「介護」の仕事に追われる刑務官
 女性受刑者を収容する西条刑務支所(愛媛県西条市)。
 果物を盗んだ窃盗罪で服役する女性(82)は身寄りがないという。初めて刑務所に入ったのは70歳を過ぎてからだ。
 「出所しても金がなかった」
 生活に困窮し、盗みを繰り返した。服役は4回目。「年も年なので残りの刑期を真面目に務めて帰りたい」と言うが、こんな本音も漏れた。
 「食事や風呂、寝るところもあり、外の生活より楽。刑務作業もきついと思わない」
 昨年2016年12月末現在、同支所の受刑者71人のうち20人が65歳以上だ。30代の女性刑務官は、5年ほど前からトイレや入浴の介助のような仕事が増えたと感じている。認知症とみられる受刑者もおり、刑務作業を覚えられなかったり、ロッカーの場所を忘れたりするという。この刑務官は「急に凶暴になる受刑者もいる。冷静に根気よく接するようにしている」と話す。
 重い負担のせいか、2010〜2012年度採用の女性刑務官の3年未満の離職率は37.7%。2008〜2010年度の採用者に比べ6.4ポイントも上昇した。男性が15%前後で推移しているのとは対照的だ。法務省は女性刑務官の採用を増やしているが、好景気の影響もあり受験者は減っている。30年以上勤務するベテラン女性刑務官は「女性がこの仕事を続けるのは難しいかもしれない」と漏らす。
 受刑者が高齢化したことで外部の病院へ搬送するケースも増えた。
 全国の受刑者の延べ入院日数は1万3350日(15年)と10年前の1.3倍以上に。移送や入院の際は逃走を防ぐために原則3人の刑務官を付ける必要があり、施設側の負担も大きい。
 刑務所で働く医師も不足している。
 毎日新聞の昨年2016年12月の調査では、全国156矯正施設(拘置所、少年院など含む)のうち23施設で常勤医が不在で、約3割が定員割れだった。

一定の自由確保、イタリアで実践
 刑務所の将来像について参考になるのがイタリア・ミラノ市郊外にあるボラーテ刑務所の取り組みだ。
 所長を9年務めたルチア・カステラーノさんは今年2017年3月に京都市で講演し(注2)、「生活の全てを指示する抑圧的な処遇では再教育や社会復帰はできない」と訴えた。カステラーノさんは改革に着手し、所内の図書館や劇場の運営を受刑者に任せるなど一定の自由を確保した。条件を満たした者には所外での就労を認め、刑務所から通勤させた。所内で大学の授業を開き、外部にも開放した。
 その結果、出所から5年間の再犯率は明らかな減少傾向を見せたという。カステラーノさんは「外部との関係で社会的責任を負わせた。リスクは伴うが、再犯率は下がった」と話した。高齢受刑者の再犯防止を考える上でも大きなヒントになりそうだ。
 刑務所での勤務経験がある龍谷大法学部の浜井浩一教授(犯罪学)も「日本の刑務所の処遇ではコミュニケーションが奪われ、問題解決能力や就労適応性が育たない。刑務所の内と外をつなぎ、社会との縁をどう取り戻すかを考える必要がある」と指摘する。
 法務省は2017年度、高齢受刑者率が高い刑務所に介護専門スタッフを非常勤職員として新たに配置する。出所後に福祉サービスにつなげるなどの対策も進めている。法制審議会(法相の諮問機関)でも、若年者や高齢者、障害者がそれぞれの特性に合った矯正教育や就労支援を受けられる刑のあり方について議論が始まった。高齢受刑者が服役中から社会との接点を持てるような処遇の実現が、問題解決の鍵になるだろう。


2017年4月21日付け毎日新聞<記者の目>岩崎邦宏(高松支局)
高齢化する刑務所の受刑者
https://mainichi.jp/articles/20170421/org/00m/070/005000c

(注1)海外派遣自衛官と家族の健康を考える会
https://kaigaihakensdf.wixsite.com/health
(注2)
2017年3月20日(月)日伊シンポジウム「ボラーテ刑務所の奇跡〜ソーシャルファームを活用した社会復帰〜」を開催(主催:矯正・保護総合センター、後援:法務省等)於龍谷大学 深草キャンパス
※「矯正・保護総合センター」は、龍谷大学にしかない、日本で唯一のセンターです。犯罪や少年非行を中心にしたやや限られた対象ではあるものの、広く法学、社会学、政策学、心理学、福祉学、教育学、医学などの分野にかかわり、学際的に教育や研究、社会貢献活動をしています。
http://www.ryukoku.ac.jp/news/detail.php

『約120名の方が参加しました。講演会1では、「ボラーテ刑務所の挑戦〜再犯率60%から18%へ〜」と題し、イタリア司法省・少年・社会内処遇局(社会内処遇担当)局長のLucia Castellano氏をお迎えし、ボラーテ刑務所で実行された社会協同組合を受刑者処遇に活用した改革についてお話しを伺いました』
http://rcrc.ryukoku.ac.jp/news/detail.php?id=9113

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そうか、もう君はいないのか

 作家、つまり言葉を大事にする人の物語って教えていただくことがたくさんあるね。
 今日はもう少し、城山三郎におつきあいください: 

 中天に広がる楕円形のガラス屋根の水が陽光を受け、緑の波紋を描く。名古屋市東区にある公園「オアシス21」(注1)。若いカップルがベンチで肩を寄せ、じっと水面を見つめる。かつてここには名古屋公衆図書館があった。

 終戦から6年後、大学生だった城山三郎さんはこの図書館の前で「本日休館」の札を見てとまどった。そこに来た赤いワンピースの高校生が容子さんだ。城山さんは「天から妖精が落ちてきた」と感じた。連れだって歩き、映画「グレン・ミラー物語」(注2)を見る。

 城山さんの初恋だった。結婚まで考えた。しかし、男女の仲にうるさい当時、交際は親に禁じられた。1年以上たって市内のダンスホールで「奇跡的に」再会して踊り、1954年に結ばれた。

 どちらか体調を崩すと、互いに寝間着のひもをつかんで眠った。城山さんは「50億の中で、ただ一人『おい』と呼べるおまえ」と詩に書いた。46年の結婚生活で夫婦げんからしいのは、城山さんが褒章を断ったさい、容子さんが言い方をたしなめたときだけだ

 神経質な城山さんと物事に動じない容子さん。
「母あっての父でした。母は父の精神安定剤。おおらかな母が不器用な父を優しく包み込んだ。お互いに脅かしっこをするなど、晩年までふたりは少年と少女のままでした」と次女の井上紀子さん(48)は思い起こす。

 城山さんと親しい評論家佐高信さん(63)は「ふたりは天の配剤だ。城山さんはみずみずしい少年の恋を最後まで貫いた。容子さんがいなければ作家城山三郎はなかったろう」と言い切る。

 それだけに容子さんが亡くなったとき、城山さんはうろたえた。葬式に行かないと言い張った。式場に無理に連れて行こうとすると、靴を左右ではき違えた。墓参りにも行かなかった。妻の死を認めたくなかったのだ。

 最後の小説『指揮官たちの特攻、幸福は花びらのごとく』(新潮社、2001年)は容子さんの死でテーマが変わった。水上機で特攻した兵士を描く予定だったが、主人公を変え、残された遺族の哀しみや消えない後遺症を書き込んだ。

 2001年、容子さんが夢枕に立ったのを機に、思い出をつづり始めた。城山さんの死後に未完の原稿を集めたのが『そうか、もう君はいないのか』(新潮社、2008年)だ。新潮社の編集者楠瀬啓之(くすのせ・ひろゆき)さん(41)は「文章が若々しくなった。格闘のあとがありありだった」と言う。

 楠瀬さんが一読して思ったのは「この原稿を書いている間だけは容子さんと一緒にいられる」という城山さんの心情だ。だから城山さんはいつまでも書き続けたかっただろう。「この作品は完成しない運命だった」のだ。

 容子さんの死から7年後に城山さんも逝った。最後の言葉は「ママは?」だった。死に顔は斜め上を見て、幸せそうな表情だ。「お母さんが迎えに来てくれたんだね。よかったね」と、紀子さんは思わず声をかけた。

 きょうは城山さんの一周忌である。

書斎の隅に残る心の面会場
 早春の海から照り返す日差しがまぶしい。神奈川県のJR茅ケ崎駅前のマンションの10階から望む相模湾はキラキラ光る。ここは城山三郎さんの仕事場だった。窓から見える風景を城山さんは「海は平らで巨大な発光体になって、横滑りしていく。黄金にまぶされて海が動いていく」と表現した。

 10畳ほどの書斎に大きな机があり、城山さんは海を正面に見てイスに座った。机の上もわきのテーブルも本や手紙が山積みだ。『そうか、もう君はいないのか』の原稿は、この部屋のあちこちに分散していた。

 図書館で出会ったとき城山さんは容子さんを勉強好きだと感心したが、実は容子さんは運動会をさぼって時間つぶしに来たのだった。亡くなる前年、精密検診でがんとわかった容子さんは「ガン、ガン、ガンちゃん ガンたらららら」と明るく歌いながら帰って来た。城山さんはあきれながら「大丈夫だ、おれがついてる」と抱きしめた。こんなエピソードがつづられる。
♪♪♪
 城山さんの机の後ろの棚に、ほほえむ容子さんの遺影が置いてある。その前には男女の天使がろうそくを掲げ、ふたりの旅行の思い出の品が並ぶ。「ここは父の心の面会場。ここで父は、母が生きてるときと同じように会話していたのでしょう」と娘の井上紀子さんは推しはかる。
 本棚に並ぶ城山文学の多くを手がけたのは、城山さんと半世紀にわたるつきあいをした新潮社の元出版部長、梅澤英樹さん(74)だ。「人生の雑事は奥様がすべて引き受け、口べたな城山さんを補った。ふたりはまるで母親と息子だった。奥様の死後、城山さんは気力も体力も急速に衰えた」と語る。

 城山さんの代表作『落日燃ゆ』(新潮社、1974年)のタイトルを考え出したのは梅澤さんだ。城山さんには別の案があったが、「あなたの作品の中で一番いいタイトル」という容子さんの一言で決まった。

 そもそも城山さんに筆一本で生きる決意をさせたのが容子さんだった。1956年、同人誌に戦争体験を書いた最初の小説『生命の歌』(城山三郎『昭和の戦争文学第二巻所収、角川書店、2015年)は仲間からは不評だったが、容子さんは「泣けたわ」と言った。「その一言で、自分の気持ちが固まった」と城山さんは語った。

 写真で見る容子さんはふっくらとしている。句作が趣味で「立春や裏側リオのカーニバル」など破天荒な句を詠んだ。俳句仲間で親友の水野君枝さん(73)は「お嬢様がそのまま奥様に育ったような感じ。落ち込んでも、それを人前では見せなかった」と言う。

 城山さんはよく夫妻で旅行し、手帳などに俳句を書き付けた。「窓の灯が川面に語るこの一年」と城山さんが細い字で書いたあと、容子さんが「年重ね聖夜を語る夫婦かな」と太い字で続ける。ぴったりと身を寄せて書き込む姿が、筆跡から目に浮かぶようだ。
♪♪♪
 茅ケ崎の書斎は家族の聖域だが、城山さんの仕事ぶりを目にできる場所がある。名古屋市東区の「文化のみち二葉館」(注3)だ。城山さんが寄贈した段ボール300箱、2万点の資料をもとに、茅ケ崎の旧宅の書斎を再現した。ここで2008年3月23日まで城山三郎展が開催中だ。

 小学生時代の日記、学生時代の詩集など初公開のものもある。その中に城山さんの文学の恩師だった英文学者、小林歳雄の資料があった。脊椎(せきつい)損傷で30年間寝たきりだった彼は戦後、軍隊から帰った城山さんに英語を教えた。それもいきなり原書を読ませた。

 城山さんの寄贈した本の中には、小林さんの妻で歌人の玲子さんの歌集があった。「たたみの上に雨の降る家貧乏を屁(へ)とも思はぬ君に嫁ぎ来つ」と、あえて貧窮の学者に嫁いだ心を歌う。

 二葉館の副館長西尾典祐さん(51)は「学問に対する真摯(しんし)な姿勢を、城山さんは小林さんから学んだ。孤立を恐れない小林さんの生きる姿勢は、城山作品の主人公の原型です」と指摘する。

 城山さんは名古屋の文学仲間と読書会「くれとす」を結成し、ひんぱんに勉強会をした。2004年までちょうど50年、300回に及ぶ。ビールを飲みながら、つかみ合いのけんか一歩手前の激しい議論を戦わせた。それが城山さんの次の作品に生きた。

 名古屋市東区の英文学者国司(くにし)通さん(83)はその仲間だ。私が訪ねた日が国司さんの亡き妻の命日だった。「先立たれて寂しく、ひと思いに飛び降りて死にたいと思ったことがある。『そうか、もう君はいないのか』は、私にとっても実感ですよ」とつぶやいた。
♪♪♪
 城山さんのペンネームの由来となった城山の八幡宮(注4)の境内に「連理木(れんりぼく)」がそびえる。いったん分かれた幹が再びつながるため、縁結びのご神木となった。目の前で若い男女が手をつないで幹の周囲を回った。この2人もいつか同じ思いにとらわれるのだろうか。

ふたり
 作家の城山三郎さん(本名・杉浦英一)は名古屋市に生まれ、第2次大戦中は理工系学生で徴兵猶予になりながら志願して海軍に入隊した。戦後は東京商科大学(現一橋大)で経済学を学び、愛知県岡崎市の愛知学芸大学(現愛知教育大)で景気論などを講義した。1957年に『輸出』で文学界新人賞、1959年に『総会屋錦城』で直木賞を受賞。1963年から作家に専念した。ペンネームは名古屋市の城山に3月に引っ越したのが由来だ。元首相で戦犯として処刑された広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』で1975年、吉川英治文学賞などを受賞した。
 容子さんがデパートの秘書課に勤務していたときに再会し、結婚。城山のあと神奈川県茅ケ崎市に移った。容子さんは2000年にがんのために死亡。城山さんは2007年に肺炎のため亡くなった。


2008年03月22日付け朝日新聞〈ふたり〉へ
「そうか、もう君はいないのか」
城山三郎と容子

http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200803210134.html

▼ 作家の城山三郎さんは、学校の人間関係に悩んだ孫娘が学校に行けなくなった時、一枚の紙をそっと手渡したそうだ。そこに書かれていたのは「鈍(どん)・鈍(どん)・楽(らく)」という言葉だった。(注5)
鈍=人間関係に気を使わない。
 鈍=まわりが何を言っても気にしない。
 楽=そうすれば、どんどん気が楽になり楽しくなる。

 さりげなく、祖父はそんなことを伝えたかったのだろう。
▼「父は自分にも言い聞かせるように、周囲の目、声は必要なものだけキャッチして、あとはケ・セラ・セラ(なるようになる)でいけばよいと、優しく諭してくれた」と次女の井上紀子さんが自著に書いている
▼ お孫さんは多くの人の励ましを得て立ち直ったそうだ。周囲が静かに見守っていれば、少しぐらいの挫折を乗り越える力は子どもたちに自然に備わっている。今もそう信じているが、この数字には衝撃を受けた。
▼ 14年連続で3万人を超えた昨年の自殺者のうち学生と生徒の自殺者が前年より101人(10.9%)も増えた。統計を取り始めた1978年以来、初めて1000人を突破したという。
多くの若い人たちの未来も震災によって突然奪われ、命の尊さはずっと語られてきた。その間にも、生きる希望を失った若者は自らの命を絶っていた。この悲しい現実に胸がふさがれる。何ができるか分からない。せめて、「鈍・鈍・楽」の言葉を届けたいと思う。

……2012年3月19日付け毎日新聞【筆洗】

戦争で得たものは憲法九条だけだ」−。
 2007年に亡くなった作家城山三郎さんが、よく口にした言葉だ。その城山さんが暮らした神奈川県茅ケ崎市で明2016年6月4日、「九条かながわ大集会2016 in 湘南ちがさき」が開かれる。
 実行委員長を務めるのは、城山さんの次女で「九条の会・ちがさき」の井上紀子さん(57)。「怒るべきときに怒らなければいけない、と父は言っていた。今、声を上げなければ」と語る。

 井上さんに言わせれば、「父は戦争の実態を伝えるために作家になった人」。
 17歳で志願して海軍特別幹部練習生となり、18歳の誕生日を迎える3日前に終戦を迎えた。経済小説の書き手として名をはせる一方、戦争を題材にした作品を残した。
 ただ、井上さんが父の口から戦争の話を聞くようになったのは晩年だ。
「つらすぎて口にできなかったんですね」

 2001年、城山さんは当時の小泉純一郎首相に会い、個人情報保護法案に異を唱えた。
 井上さんが当時を振り返る。
 「焦燥感に包まれていた。表現や報道の自由が奪われれば、戦争に突入していったあの時代と同じになる、大変なことになると」

 2006年6月、城山さんは「九条の会・ちがさき」の依頼に応え、メッセージを寄せた。戦争が長引いていたら相模湾で水中特攻「伏龍(ふくりゅう)」隊員として命果てていたはずだ−と。伏龍は、爆雷の付いた棒を持って海底に潜み敵船を突き上げて自爆する部隊だ。そして「平和憲法こそ生き残る者の夢であり、守ることが使命だ」とつづった。同年2006年11月には、市内の催しに参加した九条の会のテントにも足を運んだ。

 「市民の活動を心強く思って共感していた」と井上さん。翌年2007年3月に城山さんが亡くなると、「父の遺志を継ぎたい」と会に加わった。

 昨年2015年9月、強行採決を経て安全保障関連法が成立した。
 「何をやっているのかと父に怒られそうな気がする。諦めてはいけない
 明6月4日の集会を「今の政治をおかしいと感じ、それを選挙の投票行動につなげる契機にしたい」と話す。


2016年6月3日 東京新聞朝刊(吉岡潤)
9条守れ「怒るべきとき」 父・城山三郎氏の遺志継ぐ大集会
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201606/CK2016060302000126.html

(注1)ネットワーク2010、名古屋100キロ圏内の情報発信ネットワーク
オアシス21が完成するまでには、紆余曲折がありました。もともとここには愛知県図書館、愛知県美術館があり北側にはNHK名古屋放送センターがありました。栄公園という大きな公園があり、これを一体として開発してゆこうというコンセプトのなかで、愛知県と名古屋市、名古屋市とNHK、それぞれ三者が協力する 形で、今のオアシス21が完成しました。オアシス21は日本国内でも珍しい地上と地下を一体的に開発した立体公園という形になっています。
http://network2010.org/article/1656
(注2)
1954年1月8日公開
https://www.youtube.com/watch?v=sFWvk7Xg_Fk
(注3)文化のみち二葉館
ひときわ目立つオレンジ色の洋風屋根、ステンドグラスの光がこぼれる大広間、そして落ち着いた伝統的な和室――東洋と西洋の文化が溶け合った大正ロマンの香り高い館が、名古屋城から徳川園にいたる「文化のみち」の拠点施設として甦りました。日本初の女優と謳われた川上貞奴と、 電力王と称された福沢桃介が、大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元し、貞奴の関連資料を展示するとともに、郷土ゆかりの文学資料の保存・展示を行っています。
http://www.futabakan.jp/
(注4)末森城と城山八幡宮
 当宮は、もと城山(末森城)の東北の麓、旧田代町字楠(現、千種区春里町2丁目南端)の地(現在地より300m程東北)に鎮座し、500年以上前から産土神として崇敬を集めて来たが、明治期村内の八幡社、浅間社、山神社、一ノ御前社、白山社を合併合祀したことで、非常に広い氏子の区域をもつことになり、1936(昭和11)年氏子崇敬者の浄財寄進により、旧来から飛び地境内であった末森城址に遷座された。
 なお、作家「城山三郎」のペンネームはこの地名に由来するのも、時折語られるエピソードである。
http://www.shiroyama.or.jp/siroyama-3.htm
(注5)城山三郎『仕事と人生』(角川文庫版)所収、163頁
井上裕子「祖父のこと」
(注6)輝け憲法!九条「九条の会・ちがさき」2017年4月NEWS
「憲法は誰のもの?自民党改憲案の検証」
http://www.geocities.jp/qjo_chigasaki/news/news136.pdf



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2017年04月20日

忖度ジョーク

 この国の指導者のレベル低下がここにきて、ひどすぎる、むごすぎる、あきれる!
 この国を緑豊かな美しい笑顔が飛び交う住みやすい国に一刻も早く戻してほしい!
 人びとが安穏に、普通に、当たり前に生きられる、平和な社会にしてほしいんだ!

 「私が申し上げたことを忖度(そんたく)していただきたい」
 
 森友学園が大阪府豊中市の国有地を取得する過程で、財務省側による安倍晋三首相や妻昭恵さんへの「忖度」の有無が疑惑の焦点となる中、安倍首相がこのキーワードをあいさつのジョークに使ったことが物議を醸している。
 いくら何だって、冗談が過ぎやしませんか。

首相のジョーク……透けて見える「余裕」
 問題のジョークは2017年4月17日夜、東京・銀座にオープンした商業施設「GINZA SIX」(注)の式典あいさつで飛び出した。
 売り場に並ぶ各地の名産品について、原稿を読み上げる安倍首相は「おやつには北海道が誇る『白い恋人』、仙台銘菓の『萩の月』が買える、食べられる」などと紹介した上で「(この)原稿には残念ながら山口県の物産等々が書いてありませんが、おそらく(店頭には)あるんだろうと思います。よく私が申し上げたことを忖度していただきたいと、こう思うわけであります」。

 ここで安倍首相、にっこり笑顔。会場は笑いと拍手に包まれた。当然、野党は反発した。「問題が終わったと勘違いしている」と。

 郷土愛はわかるにしても、「忖度」の有無が国会で問題にされている今、なぜあえて「忖度していただきたい」などという不用意で危ういジョークを口にできてしまうのか。もしや、やけっぱちで「笑い」を取りに行ったとか?

 「それはない。むしろ、安倍首相の余裕の表れと見るべきでしょう」と解説するのは、政治ジャーナリストの鈴木哲夫さん(1958年生まれ)だ。「森友学園問題について、ここまで来ればもう逃げ切れる、と踏んだから、ああいう冗談も許されると考えたのでしょう」

 それには、二つの背景があるという。

 一つは、森友学園問題が長期化し、国民の関心が薄れていること。「『関係していたとなれば、首相も国会議員も辞める』などという自分の軽率な答弁のせいで、一時期、相当に追い詰められていました」。
 確かに、3月の国会では野党の追及に「忖度はない」と気色ばむ場面が何度かあった。「だが、疑惑を追及し切れない野党の体たらくに加え、国民の批判も山を越し、あとは『時間切れによる沈静化』を待つばかり……そんな余裕が今回の冗談、いや、失言につながった」と指摘する。

 もう一つ、鈴木さんが挙げるのは、外交シーンでの自信だ。
 「長期政権となった今、安倍首相は外交でも自信をつけている。G7(主要7ヶ国)各国リーダーの中でも古参となり、毎月外遊するなど『今こそ私の出番』と考えている。
 そんな高揚感ゆえに、まだカタの付いていない森友問題ですら冗談にできたのでしょう」とも。

 安倍首相がジョークに使った「忖度」という言葉、森友学園問題で一気に世の中に広まった感がある。今や「流行語大賞」の最有力候補かも。

元々の意味は「相手の心を推し量る」
 でもそもそも、「忖度」ってどういう意味なのか。
 日本語学者で「三省堂国語辞典」編集委員の飯間浩明さん(1967年生まれ)によると、「忖度」は元々は中国の詩経にも登場するぐらい古くからある表現だという。

 「りっしんべんの『忖』は『推し量る』意味、『度』にも『はかる』という意味があり、『忖度』は相手の心を推し量る、という意味です」

 つまり元々は、相手の心を思いやる、推察する、といった意味で、「上役や権力者の意を体して動く」という批判的な意味はなかったのだ。

 気になって、毎日新聞の過去記事を調べてみた。

 1990年代に「忖度」という言葉が多く使われたのは、脳死や臓器移植問題の記事の中でだった。
 「家族が患者本人の生前の意思を忖度し、臓器提供を承諾できるかどうか」といった具合で、つまり、本来通りの意味で使われている。

 権力者におもねるニュアンスが初めて登場するのは、1997年夏の政治部記者による記事。
 <若手(小沢チルドレン)が党首(小沢一郎・現自由党共同代表)の意向を忖度して……>とある。

そんな話を飯間さんにすると、自身の記録も調べてくれた。
 辞書編さんに携わる飯間さんは、普段から気になる言葉の用例を集めている。出典や日付を記録し、パソコンに保存する。これを辞書編さんの世界では「用例採集」と呼ぶのだそうだ。

 「忖度」が「上役などの意向を推し量る」というニュアンスで使われているのを、飯間さんが初めて用例採集したのは2006年12月15日付の朝日新聞社説だ。

 <「消費税の引き上げは避けられないが、いまは国民を刺激したくない。しかし、ほおかむりも無責任」。
 そんな首相の思いを忖度したような党税調>

 その後、NHK会長職に籾井勝人氏が就任した2014年以降、籾井前会長の意向を職員が「忖度」するのではないか……というような内容の報道記事をよく目にするようになったという。

 飯間さんは言う。
「言葉は使われる中で、人の手あかがつき、否定的な意味が強まるものもある。それは自然なことです」

■「sontaku」と報じたFT紙
 なるほど、それで思いついた言葉がある。
 「粛々」だ。
 2年前、菅義偉官房長官は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設作業を「粛々と進める」と繰り返し述べてきたことについて、今後は「粛々」を使わないようにする、と語った。
 これは当時、翁長雄志(おなが・たけし)県知事からその表現を「上から目線」と批判されたためだ。
 ところが手元の大辞林を確認すると<しずかなさま/おごそかなさま>といった意味しか載っていない。

 飯間さんによると「『粛々』は元々、江戸時代の漢詩『鞭声粛々夜河(べんせいしゅくしゅくよるかわ)を渡る』に登場するように、物静かな、おごそかな様子を意味していました。ところが『何が起こっても、予定通り着実に行う様子』という意味で使われることが増えたため、三省堂国語辞典には新たな説明を既に加えています」。
 なるほど。

 では、外国ではこの「忖度」、どう報じられたのか。森友学園の籠池泰典前理事長の国会での証人喚問に続いて3月23日、日本外国特派員協会(東京都千代田区)で開かれた記者会見でも、「忖度」という言葉に特派員たちは注目した。

 籠池氏が国会で「大きな力が働いた」「神風が吹いた」などと表現した点について、「意味がわかりにくい」と外国人記者から質問が出た。
 籠池氏はこの時、「安倍首相または夫人の意思を忖度して動いたのではないかと思っています」と答えたのだ。

 さて、英語でどう訳すか。
 surmise(推測する)か?
 read between the lines(行間を読む)か?
 ぴたりとくる英単語がない。
 英フィナンシャル・タイムズ(FT)紙は結局、「sontaku」という表記のまま、この言葉が森友学園問題だけでなく東芝の経営危機の背景も説明できるキーワードとして紹介。
 ウェブ上の記事で数えてみたら、記事1本に「sontaku」の文字が13回も登場していた。

 飯間さんは言う。
 「実は、日本語に関してもそうなんです。上司や権力者に対して『おもねる』『へつらう』などの言葉はあっても、そういう姿勢で上司や権力者の意向を推し量る、という意味を示すピッタリの言葉は、日本語にもありませんでした。だから『忖度』がそういったニュアンスで使われたとも考えられます」
 振り仮名なしで読めるようになったけれど……
 言葉が変わる時、それは社会を映すということか。

 もっとも、政治の世界では「権力におもねる」ニュアンスの「忖度」はそれほど特別な言葉ではなかったようだ。

 前出の鈴木さんは
「永田町では以前から『忖度』という言葉や考え方が普通に存在していたように思いますよ」と証言する。

「日常的な言葉というよりは、むしろ隠語。本来は『相手の気持ちを推し量る』という日本的な美しい思いやりの意味でしょうが、親分子分の情がことさら大事にされる政界では、子分が汚れ役を買って出たり、親分が泣いて子分の首を切ったり、そういう場面でよく使われてきたのです」

 今回は、永田町の隠語のニュアンスが社会にも広まった、とも言えるのだろう。

 言葉は社会を映す鏡。
 権力者の意向をおもんぱかる空気が社会に広がっているから、「忖度」の新しい使われ方がジワジワと広がっているのかも。
 小学校「道徳」教科書の記述が、文部科学省の検定意見を踏まえ、「パン屋さん」から「和菓子屋さん」に変わったのなんか、まさに「忖度」じゃないか。

 <忖度を振り仮名なしで読めるよに>(藤岡・雨恋子)

 これ、4月12日付の毎日新聞朝刊「万能川柳」に掲載された投稿作品だ。
 「忖度」という漢字を読める人が増えるのは良いことだろうけれど、権力におもねる行為や、おもねらせる行為までが社会に広がっては、それこそ冗談にならない。

 鈴木さんは今回の安倍首相のジョークをこう批判する。

 「忖度、つまり相手の意向を推し量る行為は、権力関係や場面によっては大きな問題を生む。その典型例が今回の森友学園問題です。それなのに『忖度していただきたい』と、忖度を強いるような表現は、たとえ冗談だとしても度を越している。この本質は、安倍首相の言葉に対する警戒感のなさ、言葉の重みに対する無理解の表れです


2017年4月20日19時11分更新、毎日新聞【小国綾子/統合デジタル取材センター】
安倍首相:「忖度ジョーク」が物議
https://mainichi.jp/articles/20170421/k00/00m/010/023000c

 トップがトップなら漢字の読めないこのお方はこんなことをまた、アメリカで発表しています。
 なんとまあ、言葉の軽いことか、とヤッホー君、唖然、茫然、憤然としています:

【ニューヨーク=有光裕】麻生副総理兼財務相は4月19日、ニューヨーク市内で講演し、2019年10月に予定される消費税率の10%への引き上げについて、「上げやすい景気状況になりつつあることは確かだ」と語った

 10%への引き上げは2度延期されており、「三度目の正直」での実現に意欲を示した。

 麻生氏は「今までとは状況が全然違う。少しずつ消費が伸びており、今年の後半には、そうした姿が出てくると思う」と語った。

 一方、麻生氏は環太平洋経済連携協定(TPP)について「米国なしで11ヶ国でTPPをやろうという話は、5月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)で出る」と述べた。
 米国はTPPからの離脱を通知しており、日本として米国を除く11ヶ国での発効を目指す方針を示したものだ。


2017/4/20(木)16:49更新、読売新聞
麻生氏「上げやすい景気状況に」消費増税に意欲
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170420-00050099-yom-bus_all

 コクミン目線でなく、アメリカを忖度して「アメリカ・ファースト」のイマの政治指導者たち…
 底辺はこんなにもミゼラブルだと現実、事実、真実に思いをはせることはもちろんないだろう。
 あいつらがあぁなったのも自己責任で、それを政治のせいにするなどもってのほかと一刀両断!
 しかし……

 すべてはこの1枚のファックスから始まった。
 2015年12月31日、立川市の共産党市議団控え室に届いたものだ。
 2016年の年明け、市議がこのファックスに気づく。上條彰一・立川市議(共産党)は事実関係を明らかにするよう市に求めるが、市は「個人情報」を盾に応じない。そうしてファックスが届いてから1年と4ヶ月経った2017年4月11日、弁護士などによって「立川市生活保護廃止自殺事件調査団」が結成され、東京都に質問状と要請書を提出。記者会見を行なった。私も調査団の呼びかけ人の一人である。
 ここで経緯を振り返ろう。
 亡くなったのは、立川市で生活保護を受けていた48歳のAさん。2015年12月10日に自殺した。
 自殺前日、Aさんには、生活保護の廃止通知書が送られていた。このことから、生活保護廃止という通知を受け、絶望して自殺したことが推測される。保護の廃止理由は、「就労指導違反」。
 そんなAさんの経歴を見ていくと、「この20年間の雇用破壊の犠牲者」という言葉が浮かぶ。
 高校卒業の頃はまだバブルの時代。27歳頃までは、正社員や期間工として自動車工場などの職場を転々としている。当時は「期間工」でもまだまだ稼げた時期。途中、陸上自衛隊に2年間所属。
 しかし、1990年代後半頃から、派遣会社を転々とするようになる。2004年には製造業への派遣が解禁となり、派遣労働がどんどん低賃金、短期雇用になっていった。2008年にはリーマンショックが起き、派遣切りの嵐が日本を襲い、多くの人が路上へ追いやられるが、Aさんはそれを先取りするような形で、2007年頃、39歳頃から路上生活に追いやられてしまう。その理由はやはり派遣切りらしい。
 そうして2010年、42歳の頃、国分寺で路上生活をしていた彼は、府中緊急派遣村に繋がり、生活保護を受け国分寺市内のアパートに入居。
 が、2014年6月頃には居場所がわからなくなり、同年7月、立川市内で路上生活をしていた彼はおそらく生活保護を受けて、市内の無料低額宿泊所に入所。同年12月、そこを退所してアパートへ移る。この無料低額宿泊所を出る条件は、「仕事があること」「携帯電話があること」「転居先アパート物件があること」。リサイクル品回収の仕事か、土木・建築関係の仕事をしていたとみられている。
 彼が自殺するのは、アパートへ転居して1年後のことだ。
 その間、何があったのか。
 私の手元には、彼に対する「生活保護法第27条第一項の規定に基づく指導指示書」と銘打たれた文書がある。
 Aさんに対して役所から出されたものだ。働く能力がある人が生活保護を受けた場合、就労指導といって、「仕事を見つけてください」と役所から指導される。
 Aさんがどのような形で求職活動をしていたか、今となってはわからない。が、役所が出したこの指導指示書は、要約すると「とにかく早く仕事につけ、じゃないと生活保護を打ち切るぞ」という内容のものだった。これらの指示書が、9月には同日に3通も出され、10月には「保護停止決定書」が出され、またまた就労指導の通知が出され、そうして12月、「廃止通知書」が出されるのだ。この翌日、Aさんは自ら命を絶っている。
 問題なのは、この「廃止」が妥当だったのか、ということだ。
 生活保護を打ち切られるということは、収入を絶たれるということだ。自分だったら、と想像してみてほしい。
 派遣切りなどで職を失い、過酷な路上生活も経験し、生活保護を受けてやっと取り戻した「住まいのある生活」。が、仕事はなかなか見つからない。そんな中、保護を廃止すると言われたら。
 家賃も払えず、生活費、食費もない。また路上に戻るのか、それとも死ぬしかないのかという究極の選択を迫られる。
 この廃止処分について、立川市議の上條氏は、市の担当課長に聞き取りした際のことを記者会見で話した。
 担当課長は「就労指導に従わないから保護を廃止した」と述べ、Aさんには「路上生活の経験があるので、保護を廃止してもなんらかの形で生きていけるんじゃないか」と話したという。
 その話を聞いた時、目の前が暗くなった。これほど剥き出しの「差別」があるだろうか。あいつは路上で暮らしていたから、また路上に追い出しても生きていけるはず、という決めつけ。これは人間に対して使われていい言葉では決してない。そして廃止処分を受け、彼は路上に戻ることを選ばず、死を選択しているのだ
 上條議員は、その担当課長に聞いたという。
 「指導に従わないということで、懲らしめの意味で保護を切ったのか」と。
 すると答えは「そうだ」というもの。また、「困ったら相談に来るだろう」とも述べていたという。が、彼は相談になど訪れていない。彼の中で、立川市はとっくに「相談できる相手」ではなくなっていたのだろう。
 「でも、ちゃんと仕事探していれば保護を切られることもなかったんじゃないの?」そんな意見もあるだろう。が、果たして彼は「働ける」状態だったのだろうか。
 彼と接した支援団体の人などによると、「死にたい」と口にすることもあり、うつ状態が疑われたという。また、高校卒業後、短期で職を転々とするという経歴や、路上にまで追いやられてしまったという事実から推測できるのは、軽度の知的障害や発達障害などがあった可能性だ。
 しかし、立川市が、彼の病気や障害の疑いについて、なんらかの対応をしていたかは明確ではない。というか、そのような疑いをもっていたら、それほど厳しい就労指導はしないだろう。うつや発達障害、知的障害があったかもしれないのに「とにかく働け」と言われ続ける辛さ。この日、申し入れに参加した稲葉剛氏によると、このような厳しい就労指導は、稲葉氏がこれまで支援したケースでもあったという。
 「文書で、何月何日までに月10万円以上の仕事につくこと、という指導を出している自治体もあります」
 それはあまりにも非現実的な要求である。本人がいくら働きたくても、雇ってもらえないことには話は始まらない。
 一方で、生活保護受給者の「厳しい就労指導を苦にした自殺」について耳にしたことは一度や二度ではないという現実もある。とにかく働け、この日までに働け、じゃないと保護を打ち切るぞ、という脅しにも似た「指導」。
 真面目な人であればあるほど自分自身を責めるだろう。連日のようにそんなことを言われていたら、生きていて申し訳ない、なんて気持ちになってしまうかもしれない。その上、仕事を探しても探しても落ち続けていたら、更に生きていく自信を失ってしまう。自分なんか生きていても……、なんて気持ちになってしまうことだってある。そんな時、いつにもまして厳しい就労指導に晒されたら、心が折れてしまうこともある。
 さて、それではなぜ、立川市ではAさんに文書で何度も就労指導が行なわれ、「従わないから廃止」というやり方が横行したのか。
 私の手元にある資料に、その「回答」と言えるものがある。立川市の「平成27年事務事業評価表」だ。事務事業名は「生活保護費」。
 ここに平成27年の「目標値」が書かれている。
 「就労支援による保護廃止」の目標値として、「20」という数字が書かれているのだ。
 平成27年度は20人、就労支援によって働いてもらい、生活保護から卒業してもらいましょう、という目標である。
 これで思い出したのは、10年ほど前に北九州で、生活保護を「辞退」させたり、水際で申請できなくしたりし、餓死や自殺が相次いだことだ。そんな北九州市には、やはり厳しい数値目標があった。「ノルマ」があるからこそ、申請を受け付けず、打ち切りや「辞退」の強制が続き、それが多くの死者を生み出してしまったのだ。
 その時の反省がなんら生かされず、2015年末、失われたAさんの命。
 が、このような状況の背景にあるのもまた、福祉事務所の人員不足だ。生活保護のケースワーカーの一人当たりの担当は80ケースが基準とされている。しかし、立川市では、ケースワーカー一人当たりの担当が96.7世帯、人数にして127.8人。現場はやはりオーバーワークなのだ。
 この日の記者会見で、稲葉氏は、このような厳しい就労指導の背景にあるのは「国の生活保護費抑制の方針」と指摘した。とにかく利用者を減らしたい、予算を減らしたいという国の圧力。それが現場を苦しめ、結局は、もっとも弱い立場の人の命を奪っている。皺寄せは、いつも弱者にだけ押し寄せる。そんな光景を、どれくらい見てきただろう。
 彼の死から、1年と4ヶ月。
 とにかくこうして調査団が結成され、真相究明が始まった。彼の無念に突き動かされるように多くの人が集まり、今、いろんな事態が動き出している。

2017年4月19日up、雨宮処凛がゆく!
第413回立川生活保護廃止自殺事件。の巻
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/33048/

(注)
 東京・銀座の松坂屋銀座店跡地に完成した複合商業ビル「GINZA SIX(ギンザ シックス)」が2017年4月20日、開業した。施設周辺には、朝から開業を待つ約2500人が列をつくり、予定より10分早い午前10時20分にオープンした。
 ビルは地上13階、地下6階で、延べ床面積は約15万平方メートル。仏ディオールや伊フェンディといった高級ブランドなど241店があり、オフィスのほか、地下に能楽堂も設けた。東京の新たな名所として富裕層を引き付けるだけでなく、観光バスの乗降場を設けて訪日外国人客もターゲットにする
 近くに住む尾崎信子さん(75)は約50年前、松坂屋銀座店に勤務。開業を待つ列に並び、「銀座は時代とともに変わってきた。人一倍感慨深いです」と話した。

2017年4月20日12時29分更新、朝日新聞デジタル(牛尾梓)
「GINZA SIX」オープン 2500人が列つくる
http://www.asahi.com/articles/ASK4N30PMK4NULFA007.html

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父、城山三郎

 がんばらない山歩き。
 それを終えたとき、定年後ってどんな一日を過ごしているんですかって急に問われたヤッホー君、いやあ、びっくり、あわくって、ごくごくとあわを喉に流し込んでから、
『「8万時間しかない」定年後はね、加藤仁(1947-『定年後、豊かに生きるための知恵』(岩波新書、2007年)を読むことだね』
とか思い出したかのようにゆっくり話していました。
 しかしまぁ、1947年生まれの加藤仁さん、2009年12月18日午前3時40分、脳腫瘍のためお亡くなりになっておられました。享年63。合掌。
 というのも加藤仁さんには著書『筆に限りなし、城山三郎伝』(講談社、2009年3月)があって、ヤッホー君、ここんとこ枕頭の書としていたのです。
 「あとがき」で2009年3月、こんなことを書き綴っていました:

 作家でなくとも、どなたにも「筆」に象徴される打ち込むべき対象はあるかと思う。
 城山作品を一作も読んだことのない人たちであっても、一人の人間がいかに深く、そして真摯に、おのれの道に立ち向かっていったかという点において、関心をもって読んでいただけるようこの伝記をまとめた。
 。。。
 私の仕事場も資料が山積、散乱して、足の踏み場もなくなり、ようやく心からのこの謝辞を書くところまでこぎつけました。
 城山三郎さん、ほんとうにありがとうございました。


 書き出しはこんなふうにはじまります:

 朦朧とした意識のなかで、「仕事…」と「原稿…」という言葉を繰りかえしつぶやき、最後に「ママは?」とささやいて、城山三郎が間質性肺炎により逝ったのは、2007(平成19)年3月22日のことである。享年79。
 「城山三郎」という筆名を使うようになって、ちょうど50年が経過していた。


 ね、ということはですよ、今年2017年は城山三郎没後10年の節目に当たる年:

復員後、本から得た「生きる」指針
 「ただいま」その声に振り返ると、お決まりの散歩姿の父が。
 帽子にジャケット、そしてごく薄い色の入った眼鏡をかけ、どこか嬉しそう。
 案の定、その手には見慣れた袋がひとつ。
 深い緑に黒いロゴ。「YURINDO」の文字がちらり。

 自宅も仕事場も本で埋め尽くされ、というより侵食され、さすがに「もう、本は買わない」と宣言していたのも束の間。
 あっけない翻意に、むしろこちらも、「ほら、やっぱりね」と納得。
 いそいそと書斎へ向かう後ろ姿に、「よほど面白い出会いがあったのかな」と、苦笑する。
 昆虫採集の少年よろしく、どこかの書店に立ち寄ってはお宝を探す日々。
 おかげで、主を亡くした仕事場には、本の山と、緑や紺の書店袋の小さな丘が点々と残されていた。

 それから、丸10年。
 いまでも街の書店をのぞくと、父がこっそり来ているような錯覚に陥る。
 特に、帽子をちょこんと被った老紳士にはっとすることしばしば。

 「好きなときに、好きな本を、好きなだけ読む

 これが、晩年の理想であり夢であった父。
 さぞや今は、何事に煩わされることもなく、存分に楽しんでいるにちがいない。
 大好きな空で、大好きな海を眼下に眺めながら、大好きな本に埋もれて。

 そんな父にとって本は、友であり、師であり、救世主であり、恩人であった。
 戦後を生き抜く礎、命そのものと言っていいほどの存在。
 単に文学青年だったから、とか、作家だったから、と一言では片づけられないことに、亡くなってから気付かされた。

 『シートン動物記』を愛読していた少年は、青年になっても本の魔力に取り憑かれ、読書三昧の日々を送っていた。
 商家の長男でありながら、商売とは無縁の生活、商人には不向きな性格。
 そう言えば、「正月だというのに、三日三晩、自室に籠って本ばかり読んでいる」と、祖父が嘆いていたと、他人事のように笑っていた。

 だが、時は同じくして戦争まっしぐら。
 時流に純粋培養された父は、杉本五郎の『大義』にのめり込み、そのまままっすぐ皇国少年に。
 徴兵猶予を自ら返上してまで志願した、海軍特別幹部練習生。
 しかし、入ってまもなく、数か月後に終戦。
 戦争末期の実態に愕然としたまま迎えた終焉。
 志高く臨んだだけ、深く傷つき、戸惑い、悩み続けることになる。
 一体、あの戦争は何だったのか。
 そもそも、何のために、なぜ始まったのか…。

 思えば、1927(昭和2)年生まれの父は、物心ついた頃から戦争の足音とともに成長していった。
 社会の空気も、学校も、新聞、ラジオもひとつの方向を指す中で、自ずとそのひとつの道だけを信じて邁進し、多感な10代を迎えた。
 そして、18の誕生日直前に終戦。
 一夜にして、大転換。
 今まで信じていたものが一瞬に崩壊した。
 戦争という悪夢から解き放たれても、失意と絶望と自己嫌悪に苛まれ続ける。
 一体、これから何を信じて生きていけばよいものか。
 それより、なぜ、自分だけ生き残ってしまったのか。新たな苦しみの中へ突き落されていく。

 「生きる」ということ、生きていかねばならぬこと。
 何より、人はなぜ生まれてくるのか。何のために。
 さまざまに襲いくる疑問に打ちのめされた父は、片っ端から本に救いを求めていく。
 洋の東西を問わず、分野も詩から哲学から宗教まで。
 多岐にわたってひたすらに、ただひたすらに。貪るように読み漁り、読み尽くす。
 「生きる」意味を死に物狂いで追い求め…。

 戦後まもなく物のない中で、古書店を巡りに巡って探し求める。
 かつての敵国からの払い下げでやっと手にした哲学書は、友人数人で回し読み。
 父は昼夜問わず、黙々と丸ごと一冊書き写したという。
 父にとって戦後を生き抜くためには、身体への栄養より、心、魂への点滴が必要だった。
 事実、かなりがりがりの状態で帰還した父は、しばらく静養した先でも、本を養分とするかのような生活だったらしい。
 洋書を原文で読ませてくれる師がいると聞けば、飛んでいく。骨と皮の体で。

 そうこうしているうちに、あるとき、ふと悟った。

人は皆、幸せになるために生まれてくる

 そんな、当たり前のことに、生まれてこのかた、まったく思いも至らずにきたのである。
 そして、自分だけ生き残ってしまった意味は、
先の戦争、その実態を後世に伝えること
と、気付く。
 このふたつの結論に達するまで、どれだけの本に導かれ、支えられ、励まされ、勇気づけられたか。
 やっと見出した「生きる」指針。

 まず、前者を具体化するために選んだ学問が、経済学。
 「経国済民」…人が誰しも安心、安全、豊かに暮らせる世の中、国づくり。ひとりひとりの幸せな生活を目指した。
 また、後者については、自分は「書く」ことしか術がないゆえ、「書き残す」ことで伝えていこうと決意する。
 これこそが、作家・城山三郎の原点であり、使命であった。


生涯を通じて描き続けた「戦争」
 いわゆる「経済小説」の印象の強い父ではあるが、国家と個人の関係が根幹を担っている。
 父の中では、企業や政治の世界においても、組織の中でいかに生き抜くか苦悩する個の姿が、国家に翻弄される個人のもがきと重なったのだろう。

 「輸出」で文学界新人賞、『総会屋錦城』で直木賞を受け、異色の分野で人物を描く作家として世に出るが、実際には、『生命の歌』『大義の末』『一歩の距離』といった、初期の(少年兵)3作こそが、作家・城山三郎の出発点、土台となっていると言える。
 これらの作品は未熟であまり顧みられることはないが、そこには「書く」ことの責務が、そして「書く」ために「生きる」ことの意義が込められている。
 そんなことに、今頃気付く娘である。
 生前も、戦争の話はほとんどしていなかったので、作家・城山三郎に戦争がそこまで深く、大きく影響していたとは思い至らなかった。

 ただ振り返るに、作家人生の中盤、そして終末期にも、たしかに戦争をテーマにした作品を残している。
 経済、伝記小説で脂ののっていた頃、『落日燃ゆ』を、そして、人生の終盤、命の翳りが見えてきたときに、『指揮官たちの特攻』を書き上げた。初期の3作では、自身と重ねて、知らず知らず戦争に巻き込まれていく少年兵の姿を、中盤の『落日燃ゆ』では、逆に国民を戦争に導いてしまった側の葛藤を、終盤の『指揮官たちの特攻』では、家庭を持ったばかりの若き指揮官が愛する者を残して逝かなければならない苦悩を描こうとした。
 
 各々の立場から戦争という魔物の正体を書き残そうとしたのだが、最後の『指揮官たちの特攻』では、取材に奔走している最中に妻を亡くしたことで、作品の視点が変わっていく。
 大事な人を残して旅立つ者から、大事な人を失い残されてしまった者の苦しみに移っていったのである。
 長年連れ添った妻を突然奪われてしまう辛さ、その壮絶な悲しみに本人自身が驚き、苦悩の沼に沈んでいく。
 想定以上の傷の深さ、癒えることのない永遠の苦痛。
 実際、母亡き後の父は、半身を削がれたようであった。
 いわんや戦争の残酷さは、大事な存在を奪われてしまった人びとにこそ襲いかかるのだ、と気づかされる。

 戦争の痛み、苦しみ、嘆きは、その人の人生が終わるまで続いていく。
 決して、薄れたり、消えたりすることはない。
 むしろ、死を前にその傷が益々大きくなっていく。
 『指揮官たちの特攻』を書き上げた父を見て、つくづくそう思った。

 「書くのはつらい。だが、書き残すのはもっとつらい」との思いで書き上げた、この作品。
 これで、いつ死んでも構わない。父は、本気でそう思っていたにちがいない。
 父が作家・城山三郎として生かされた後半生。いま、その思いが重くのしかかる。

今こそ伝えたい父が残したメッセージ
 風のようにふわりと旅立って、早10年。
 父が、城山三郎が、本当に伝えたかったメッセージが日に日に大きく迫りくる。
 「ムード」や「ブーム」という言葉を嫌悪していた真意が、今頃、理解できるようになってきた。
 「決して流されてはいけない」
 「波にのみ込まれるまえに、しっかり立ち止まってよく考えよ」
 父の声が聞こえてくる。


 二度とあの時代に戻らぬために、ひとりひとりが自分の頭でじっくり考え、判断し、行動する。そして、その言動に責任をとること。
 それには、一方通行の情報ではなく、必ず、多角的、多方面からの見方を収集し、検討せねばならない。
 逆に、それができるということは、世の中が平和であり、人々が自由である証である。
 情報の自由、表現の自由があってこその平穏な世、幸福な暮らし。
 この当たり前のことが当たり前にできる世の中であり続けること。
 そのためには、個々が敏感なアンテナを持たねばならない。
 まさに、その一助となるのが、「本なのだよ」頷く父が見えた。
 自らの人生を救ってくれた本。読むこと、想像すること、考えること。
 閉塞感漂う今こそ、必要なのかもしれない。


 私事だが、昨年、兄も私も孫を授かった。
 ひいじいじとなった父の思いはただひとつ。
 この子たちが、いつまでも自由に本が読める世でありますように。
 緑の袋を小さな手に持って…。
 遺影の父が、一層優しく微笑んだ。


2017(平成29)年3月10日発行、Web版「有鄰」第549号
父、城山三郎 ―― 没後10年に寄せて
井上紀子(1959年神奈川県生まれ)

http://www.yurindo.co.jp/yurin/4665


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2017年04月19日

がんばらないハイキング

トイレの神様(植村花菜)
https://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE
http://www.uemurakana.jp/
http://ameblo.jp/uemurakana/

 そうなんです。4月15日土曜日、上野原駅からバスで鶴峠に降り立った山歩クラブ5人衆、トイレで用を足したのですが、これはバイオトイレ!

 弊社は環境にやさしい自己処理型バイオトイレの製造販売メーカーとして、開発・改良を重ねて参りました。
 この度、独立行政法人科学技術振興機構(JST)より開発を許諾されました「尿内有価物分離装置」の製造に着手いたします。
 この特許は、京都大学教授陣が発明し、JSTの戦略的創造研究推進事業の研究成果として完成させたものです。弊社独自の、し尿分離システムと尿内有価物分離装置を組み合わせることにより、地球資源の循環システムが完成します。
 これにより、し尿は廃棄物ではなく地球の大切な資源に生まれ変わります。
 昨今、あらゆる場面で地球環境の保護が大きな課題となり、これまで当然のように求めていた利便性を見直す時がきています。
 日本では水洗トイレが普及し、し尿は大量の浄水を使用して処理場まで流されます。浄化槽で有機物を分解する際に作られる無機の窒素・リンが水中に溶け出し、河川・湖に排出されると、植物プランクトンに吸収されます。太陽の下では植物プランクトン(有機物)の増殖が促され、COD数値を上げることになります。
 特に尿には、窒素・リン酸・カリウムなど、植物にとって即効性の養分がバランス良く含まれています
 大便と違い大腸菌等有害菌の心配もありません。そのため、弊社独自開発のセパレート便器を使って尿を分離し、栄養分のみを取り出せば、優良な肥料として活用する事ができるだけでなく、貴重な水資源の浪費も抑制できます。
 また、弊社のバイオトイレは、災害対策仕様になっていますので、山小屋や観光地だけでなく、災害時の避難所となる公園や学校の校庭等に常設されることをお薦めいたします。
 今後も資源循環型トイレの完成に向けて、より一層の努力を重ねて参ります。


大央電設工業株式会社(長野県茅野市豊平1872 Tel 0266-82-2233)、ごあいさつ
http://www.daiobio.co.jp/i-kaisha-aisatu.html 
http://www.daiobio.co.jp/i-sekou-big-turu.html

 そして、奈良倉山へと歩を進めますが、早くも下りてくる二人組と遭遇。
 もうお帰りですか、早いですね、どちらから登ったのですかってお聞きしましたら、奈良倉山をピストンで往復して三頭山に向かう、と。
 へぇ〜、ヤツホー君、もう少しで腰をぬかすほどでした:

 中央の「低山ハイク」を目にするたび、いつかは取り上げなくては、と思っていた。
 しなくては、と取材にかかるのはこの連載では初めて。
 山歩きは、ずっと苦手と思ってきたからだ。

 午前5時。
 目覚まし3つで起き、用意した雨具や防寒具などの入ったナップザックを背負い、山用の革靴を履いた。
 靴はいつ、何の目的で買ったか思い出せず、前日、東京都三鷹市の登山用品店「むさしの山荘」(三鷹駅北口からスグ、北口左の花屋を通り過ぎると、左側、玉川上水の向こう側にレンガ色のマンションがあり、その1階ですので徒歩45秒ぐらい)経営の大賀由晋さん(64)に見てもらっていた。
 大賀さんはこの日の「がんばらないハイキング」の主宰者。
 「古い靴は心配だから」と大賀さんは靴底部分の接着状況などをチェック。
 “合格”となったが、今は足の負担を和らげるクッション付きで、軽く防水性に優れたゴアテックス製が主流という。
 「ゴアテックス」の言葉は雨具や服など何度も耳にした。

 午前7時前に集合場所の国立駅。
 途中のコンビニでおにぎりとペットボトルのお茶を用意した。
 ここからマイクロバス。
 この日の目的地は、東京都・奥多摩の山梨県境にある三頭山(標高1531m)。
 平日とあって24人の参加者の大半が女性。
 楽しげな声が弾む。
 大賀さんがコースを説明。
 通常の都民の森からではなく、山梨県側の鶴峠から登る。
 標高差約660メートル。約4.5キロ。2時間半ほどという。

 9時に同峠。
 参加者のほとんどがストックを手にした。あり合わせのこちらの服装と違い、アノラックやベスト姿の服装もさまになっている。
 準備体操の後、山歩き開始。
 山を登るのは、10年以上も前の高尾山以来。
 山道は前日の雨でぬれてはいたが、滑るほどではなく、大賀さんがいう「だらだら歩き」になんとかついてゆく。30分も歩くと汗がにじみ、上着を脱いだ。

 ブナやナナカマドなどの雑木林は紅葉が始まっていた。
 前をゆく調布市の笹本容子さん(50)ら女性2人が「あれはヤマブドウかな」と植物談議。
 山歩きをすると、植物好きになるという。
 「土の上を歩く足裏の感触も気持ちいい」と笹本さんは言う。

 もやのような霧が晴れず、視界はいまひとつ。
 それでも昼前に青空が広がり、雲の上に富士山の頂が少しだけ見えた。
 新幹線で見る富士山と違う別の姿に喜びを感じた。
 尾根を登ったり、時には枝をつかんで下ったり。
 時間通りの11時30分に三頭山山頂に。
 別の中高年グループが先に来ていた。
 残念ながら富士山は見えなかったものの、登り切った満足感が心地いい。

 埼玉県入間市の会社員、田中早苗さん(59)は50歳すぎ、ひざの痛みを感じたのが山歩きのきっかけ。
 足腰を鍛えようと思ったという。週1回ペースで続け、ほどなくひざの痛みは薄らいだ。
 「四季の花を見たり、自然に触れるのが楽しい」と話す。

 帰りは都民の森口へ。
 紅葉の美しい三頭大滝に寄って約2時間で下りた。
 近くの民宿でお風呂に入り、山菜料理を囲んで遅い昼食懇親会。
 女性の華やいだ声があちこちでわいた。

 翌日はまだ良かったが、2日後の朝、筋肉痛で駅の階段は手すりがなくては下りられなかった。

 
2007年11月30日付け東京新聞(朽木直文)
山歩き ブナ林の自然に心弾む
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2009/guide/list/2007/CK2007113002068508.html

 11月7日の三頭山がんばらないハイキングに、中高年の生活の紹介をしたいと記者の方から連絡があり、一緒に歩いて来ました。
 鶴峠から都民の森までのコースで、三頭山山頂からの最短の道が台風の影響で崩れていて通行止めになっていましたが、無事下山をし、民宿でおいしい料理を頂きました。

 この記事のおかげで、今日何名かから記事を読みましたと連絡を頂きました。
 是非参加したいという方もいらっしゃいました・・・。

 しかしむさしの山荘では、山行計画の会報等は特別配布はしていません。
 一応「むさしのくらぶ」という名前で月に数回は山行計画をしていますが、会員制度も無く、会費も無いので会報を定期的に配布する等はしていません。
 お店に来て頂いたお客さんに、入り口の所に予定表がありますので、それを見て頂いて参加してもらっていますので、その辺の事情を御理解ください。

 ちなみに12月は年末で皆さん忙しいので、あまり予定はありません。
 1月の終わりから、毎年恒例のスノーシュー山行をする予定です。


2007年11月30日(金)22時01分更新、むさしの山荘
東京新聞の記事
http://yaplog.jp/musasinosansou/archive/42

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2017年04月18日

源流の恵み

 「源流の恵み」、良い言葉ですね。
 でもいったいどんな村?小菅村は。

住民との意見交換が基本
 2012年6月の選挙で初当選した山梨県小菅村(800人)の舩木直美村長(ふなき・なおよし=55)は「押し付けではなく、ニーズがあって役所が動くシステムづくりをしたい」と強調する。
 「それには住民とじっくり話をしていくことが大切だ」と説明。
 村民との意見交換を基本に観光振興や高齢化対策といった課題に対応し、「村をトータルにデザインしていきたい」と目を輝かせる。

 村は県東北部に位置し、1000メートル級の山に囲まれている
 交通の便は東京方面の方が良く、南に隣接する同県大月市に出るには、車で1時間かけて松姫峠の曲がりくねった道を通らなければならない。
 2014年度末に予定されている国道139号の松姫トンネル開通で、これが30分も短縮できる。
 舩木村長は「南北の交通網が確立できる。人と物の流れが大きく変わる。村の歴史上大きな一歩になる可能性がある」と心待ちにしている。

 ただ、交通網が整備されても、「通過型にならないよう、集客をどうするのか考えないといけない。人口流出にも歯止めをかけなければいけない」と解決すべきテーマは多い。
 集客面では「(観光客に)とどまってもらえる形をつくる」ため、村の産品を置いている物産館をさらに充実させ、「道の駅」に指定してもらうよう、国土交通省に働き掛ける考えだ。
 「道の駅になれば、マップに載ったり、インフォメーションしてくれたりするし、安心感も高まる。それによって、(物産館に隣接する)温泉に来る人も増やしたい」と期待を込める。

 このほかにも、高齢者対策や耐震化を含めた役場庁舎の見直しなどの課題を抱える。
 村の人口は800人弱で、高齢化率は4割と高いため、舩木村長は予防医療などの確立を通じ、「高齢者が笑顔で元気に暮らせる村をつくっていきたい」と願う。
 役場庁舎については、「住民が使いやすく、入りやすい庁舎を造っていければいいと思う」と話し、2013年度には方向を出す考えだ。

 舩木村長はこれらの事業の実施に当たり、「住民ベースの考え方で物事を進めたい。過程を大切にしたい」という基本的な理念を掲げている。
 「それには村民が加わる検討会のようなものが必要だ」として、分野ごとに意見交換の場を設ける方針で、「できるだけ多くの参加者を募りたい」と力を込める。

【横顔】
 小菅村出身で、県立桂高校卒業。
 村の教育課長や会計管理者、議会事務局長を務め、2010年に退職。
 村長選は、今年2012年6月に20年ぶりに選挙戦になり、現職を破って初当選した。
 「職員だったので昔に戻ったようだ。普段通りという感じ」と笑う。
 趣味は山歩き。

【村の自慢】
 東京都心から80キロ圏内だが、自然が豊かでミズナラやブナなどの原生林が残っている。
 観光客は、釣りや温泉を目当てに訪れる。
 多摩川の源流地域に当たり、水源を守るため下水道普及率は100%。


時事ドットコムニュース、トップインタビュー
舩木直美・山梨県小菅村長
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20120102top_interview26_87

 小菅村にほれ込んだ方のご紹介:

源流の水のお茶で歓迎
 ゴールデンウィーク中の5月4日、新緑に包まれた奥多摩は、初夏の日差しが降り注いでいます。
 空を見上げると、川をまたがって張られた綱に、鯉のぼりが列をなして泳いでいます。
 多摩川の支流である小菅川には渓流釣りの家族で大賑わい。
 山や川の味を求めて多くの人が集まっています。
 小菅村でもう20年も続いている「多摩源流まつり」です。
 まつりでは、太鼓や火祭りなど、地域ならでは芸能が催され、地元小学生も大太鼓を披露するなど、地域の文化の継承を担っています。

 「源流の水でお茶を立てました」
 土手の上では紅白幕が張られた一角で、中村さんの家族が野点で遠来の客を迎えます。
 茶には「水の流れ」や川魚を形取った和菓子が添えられています。
 「川の水でも違うのです。今年はまろやかな水を沢から運んできました」

滝の連続との出会いに始まった
 中村文明さんが、多摩川の源流と出会ったのは12年前に遡ります。
 塩山市(現甲州市)で奥さんと娘さん2人の家族、中学生の学習塾や公民館、看護協会の仕事などをやっていました。
 「運命を変えた」のは、1994年7月18日午前10時。
 源流の写真を撮りたいと思い、「竜喰(りゅうばみ)谷」に入ったとき。
 3時間半歩く間に、13もの滝に出会ってびっくりしたのが、きっかけでした。
 それぞれの滝には名の由来があったことを知ったのです。
 中村さんは、当時の感動をそのままに、こう説明してくれました。

 「『精錬場の滝』は、近くに金山があり、金の精錬場があったからです。『ヤソウ小屋の滝』は木を倒していた木こりの名が『ヤソウ爺』だったから。『ゲタ小屋の滝』は下駄を作るために、桐は高価なのでサワグルミを使って作ろうとして沢の深い所に入り、その場で木を下駄の寸法に切ったから。滝の名は、暮らし・仕事を反映しているのです」

 「文明(ぶんめい)さん」と周囲の人からは親しみを込めて呼ばれている中村さんの縁で、この日も多くの人たちがこのまつりを訪れました。

地名に暮らしと感謝があった
 中村さんが最も感動したのは、都の水源林の地図に「千苦(せんぐの)滝」と記されている滝でした。
 「この滝は千の苦しみを味わわないとたどり着けない。『千苦』とはいい漢字を当てたものだな」と思っていたのでしたが、その後、丹波山村の守岡只さんに、「千の苦しみではない」と聞いた。

 「その滝には、滝つぼがないから、30メートルの落差を上流からいい材を落とせない。商品に傷がついてしまう。そこで足場が悪いところで修羅を張る。二股の枝を並べてそこに丸太を置き、巨大な雨樋のようにする。その上を伝わせて大事な木を下ろしていった。修羅を張るには匠の技が要る。千人の大工が必要だったから、『千工の滝』という名前が付いたのだといいます」

 「何百年かけて育った名木の材質をそのまま下流に届けるために、渾身の力を込めて修羅を張る、そういう山の恵みに対する感謝の気持ちを下流に届けようという人びとの思いがその滝に込められているのです。源流の地名や由来に、日本の先人たちが自然とどんな付き合いをしてきたか、自然の恵みに感謝して愛着を持ち、崇拝し、畏敬の念など日本人の自然観の源、原点が色濃く、そこに刻まれているのですね。それは驚きの連続でした」

古老からの聞き取りで地図づくり
 日本人の自然とのつきあいのすごさに心を動かされ、これを子どもに伝えたいと思った中村さん。
 そうした名前や由来が載っているかと思って市販の地図を見たものの、どこにも載っていなかった。
 それが、70歳以上のお年寄りの頭の中にあったのです。
 「お年寄りの頭の中にあるものを聞き取って保存して、次の世代にその思いを伝えていきたい。そう思ってがんばってきました」
 5年間で420回歩いて最初の絵図『多摩川源流絵図』を作った。
 その絵図を見た小菅村の廣瀬村長が『源流絵図小菅版』を作ってほしいと依頼したのが、小菅村との出会いでした。
 小菅川に「五段の滝」があったが、長老に聞いても「見たことがない」と言う。
 2000年4月に滝と出会ってから半年間、名を聞き続けてまわったが、名がわからない。
 村長から「名前をつけてみたら」と言われた。
 「あの滝の名を私が…」と喜んだ。
 小菅川をずっと遡っていくと、1975メートルの「妙見の頭」がある。
 そこに立つと、北斗妙見大菩薩という木が昔から立っていて、大菩薩の由来の一つにもなっている。
 全国の武将たちが戦勝祈願でここに来ていた由緒ある場所です。
 「ただ『五段の滝』とするのでは寂しいので、『妙見五段の滝』でどうでしょう」と廣瀬村長に聞いたら、「いいですね」と言われて、名を付けさせていただいた。

体の中に川が流れる
 中村さんが多摩川の源流に、熱い思いを抱くようになった背景には何があったのでしょうか。
 中村さんは昭和22年10月、九州の宮崎県高岡町に生まれました。
 「大淀川というゆったり流れる川が家のすぐ近くにあり、明けても暮れても川で遊んでいました。6人兄弟だったので、帰らなくてもあまり気づかれない。夕飯の料理のためにアユを釣った。『かかしら』という毛針の黄色いのを買って、うきを早瀬に流すと、3匹、4匹一気に釣れる。20分ほどでいっぱい釣れるので持って帰ると、母親が片栗粉でからっと揚げて、三倍酢で出してくれる。自分で釣ったものが家族のおかずになり、みんながおいしいと喜んでくれるのが嬉しくて、鼻が高くなった。毎日、楽しく魚を捕っていました」
 夜もカーバイトの光を持って川に行く。
 すばしっこいアユもフナもコイもウナギもエビも、みんな寝ている。
 エビは必ずバックするので、烏帽子のような網かごを置いて、エビの前のほうをトントンと突くと、後ろのかごに入っていく。
 テナガエビは砂糖と醤油でカラリと揚げるとうまい。
 大きな湾になっている所では、カーバイトを照らすと岸から2メートルの範囲でアユがビシャビシャ跳ねた。 何万匹、何百万匹のアユを見て育ったのです。
 大淀川で育てられたという原体験。
 「私の体の中に川が流れているんですね。その川が30歳になっても40になっても流れ続けている。それが嫁さんの郷里の源流に出会って、自分の中の川が氾濫して抑えきれなくなった」
 そんな表現で自分の心の内を語っています。

人間らしさを取り戻したい
 今、過疎の村・小菅村は、流域の上下流の連携や、全国の同様な源流地域とを結ぶネットワークの拠点になろうとしています。
 平成16年に島根県高津川の源流、匹見峡で第4回全国源流シンポジウムが開催され、中国地方の子どもたちや保護者、青少年リーダーが130人集まって源流体験教室が実施されたことも、全国的なネットに広がるステップになったと言います。
 「子どもたちが高さ1メートル、2メートルの岩から飛び込んでいく。それを繰り返していくうちに、最後には5メートルの高さから、姉妹が手を取り合って飛び込んでいく。そしてものすごくいい顔をする。自ら川とふれあうことによって、川の怖さも知り、川のおもしろさも知る。子どもたち自身が自ら体験して、成長する姿を目撃できたのです」
 源流の再生で何を目指すのでしょうか。
 「自然、歴史、文化、暮らしなどの失われたもともとの姿を今、見直して、再生し、新しい形で新しい価値づけをして次の世代に受け継いでいきたい」と話す中村さん。
 多摩川源流では、
(1)森林の再生
(2)源流文化の再生
(3)源流景観の再生
(4)上下流域との連携
(5)環境学習、源流体験などの教育活動の推進──の5つの課題を挙げました。
 では、もっとも目指していることは何でしょうか。
 「日本に一番欠けているのは人間らしさですよ。一番取り戻したいのは、日本人がもともと自然とつきあいながら、培ってきた自然観です。自然とともに生きるのだ、自然を大事にすることで人間も大事にする。人間の身の丈をわきまえた生き方をする。自分の命を守ろうとするならば、皆で手を結んでいかないと困難を乗り越えていけないんです」と答える中村さん。
 続けて、「これまで日本人は協働しながら力を合わせながら、生きてきたのです。狩猟時代、人間は自然とのつき合いで、魚の稚魚を突くことはしない。動物の雌を捕りすぎることもしない。自分がいのちをもらって生きいていることを知っていた。でも今、そのことを忘れてしまっているのではないでしょうか」と一気に話しました。
 中村さんの自然再生に向けた情熱を突き動かしているは、自然とともにある人の暮らし、人への思いやりなのでしょう。

環境省公式サイト
源流で暮らしと人の心を取り戻したい
中村文明・多摩川源流研究所長

https://www.env.go.jp/nature/saisei/network/law/law1_3_1/k2_c.html

 大学だって、ほれ込んでいます。そのご紹介:

地域連携協定
 山梨県小菅村と東京農業大学は、2006年10月に連携協定を締結しました。
 おもな活動としては、
1. 源流域の再生のための連携事業、
2. 源流学の構築と源流文化発展のための連携事業、
3. 人材育成のための連携事業、
4. 源流の里づくりのための連携事業等を主な柱としています。

はじまり
 2001年から小菅村、住民、関連企業と連携して、森林再生事業に取り組み、「多摩川源流大学」が2006年10月に設立されました。
 現地校舎となったのは、源流の間伐材を利用してリニューアルされた旧小菅小学校白沢分校。
 東京農大の人材育成教育プログラムである多摩川源流大学は、農業や森林作業、文化体験などの体験実習を行い、それを通して農山村地域の暮らしを理解し、農山村地域を好きになり、将来さまざまな分野で活躍できる人材を育成することを目的としています。

学生・地元の声
 農業をするには、あらゆる場面で知恵が必要となってくる。
 源流域での暮らしを学び理解することは、人間として生きる力を学ぶことになるんだと実感しました。


東京農業大学公式サイト、地域連携活動
山梨県小菅村
http://www.nodai.ac.jp/about/activities/cooperation/activity/yamanashi_kosuge/

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わさびの花

 「大王わさび農場」(長野県安曇野市穂高3640 Tel 0263-82-2118)。・
 ここは、清流でしか育たないワサビの農園として、安曇野の人気スポットです。
 夏は、美しい水辺のせせらぎを求めて、大勢の人や観光バスが来てにぎわいますが、わさびが白い花をつけるこの時期は、それほど混雑せず、アルプスの雪景色や敷地内に梅の花も見られて格別です。

 見頃は3月初旬〜4月中旬(花は年により2月下旬〜5月上旬頃まで見られます)。
 「わさびの花の収穫祭」は、2017年は3/11〜4/9です。

 食用のわさびの花の販売は、大王わさび農場では例年3/10頃から行われますが、安曇野や松本などでは八百屋の店先にもこの時期だけ出回ります。
 おひたし・和え物・天ぶらなどで食べると、その香りと味わいに病みつきになること請け合いです。


2017.1.28更新、信州とっておき情報
安曇野のわさびの花・わさびの花の収穫祭(花まつり)
http://www.mtlabs.co.jp/shinshu/event/wasabi.htm

 なに小菅村だって負けてません:

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 何見てんの?じゃあ〜ん「わさびの花」?

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 そうなんです、小菅村に降り立つと、そこはもう多摩川の源流!
 われわれを源流の花が歓迎してくれていたのです、ありがとう!

 村に住む酒井ーさんが、民間で日本一早くヤマメの人口孵化に成功したことをきっかけとして、村内でヤマメやイワナの養殖が盛んに行なわれています。
 村の宿に宿泊するとイワナ・ヤマメ料理を堪能できます。

 ヤマメの養殖と同様に、ワサビ栽培も盛んでその生産量は県内1番です。
 秋に旬を迎えるワサビを食べてその風味を確かめてください。


 どちらの特産品も冷たくきれいな水が欠かせません。
 村の特産品はまさに源流の恵みです。


小菅村公式サイト
多摩源流の魅力に迫る
ヤマメとワサビの里「小菅」

http://www.vill.kosuge.yamanashi.jp/tourism/2010/11/post-6.php

 どうやって食べんの?

 清涼で豊富な流水のある、自然環境豊かな場所で育つ山葵。
 通常すりおろして食べられる部分は根茎の部分だが、葉や茎、花も食べることができる。
 白くて小さく可憐なワサビの花。
 3月頃に花を咲かせるが、やや蕾の状態で収穫され出荷される。
 春の訪れを告げる花わさびは、もともとワサビの生育場所が限られているうえ、葉茎や花茎が食べられる旬はごく短い間に限られている。
 この時期だけのお楽しみ。
 独特の辛みとほろ苦さを存分に楽しみたい。

1. わさびの花を水で洗い、食べやすい長さ(2〜5cm)に切る。

2. 少量の塩でもみ、2〜30分ほど置く。

3. 鍋にたっぷりのお湯を沸かした中に、わさびの花を入れ、さっとくぐらす程度に茹で(ひたして)、手でギュッと絞るなど、刺激を与えるように水気をとる。高温で長時間茹でると辛さがなくなるため、お湯の温度は70〜80度程度で。

 下処理後は、お浸しやサラダ、パスタなどのお料理や、醤油漬けなどでどうぞ。


2014/03/15
わさびの花を食べる。花わさびの下処理
http://www.organic-press.com/feature/feature_recipe_43/


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2017年04月17日

熊追い歌

 「子熊がいるってことは親熊が近くにいるんだ、われわれのこと知らせてやらないと」
 さ、山歩クラブご一行様5人、どんなことをはじめたのでしょう、ヤッホー君から帰宅後の一斉メールが発信されたようなのでご紹介:

 こんにちは。日曜日4月16日、たっぷりの日差しと暖かな南風で今年はじめて最高気温が25度以上の夏日になったとか、春のビューティフルサンデ−を堪能なされたことと存じます。
 われわれは5人でしたが、土曜日4月15日、「巨樹の森」へお山歩会にでかけました。「巨樹のみち」で深呼吸、良かったですね。
 小熊と遭遇、親熊もいるはずと佐藤さん指揮による「花」、「森のくまさん」でわれわれ山歩クラブの仲間が歩いているよって皆んなでお伝え申し上げ、事なきを得ました。
 熊追い歌でリクエストあった春の歌、サイクリング、わかりました!サイクリング サイクリング ヤッホー ヤッホーの「青春サイクリング」でしたね。
 山歩クラブの会歌じゃぁ、ありませんか。
 あせったヤッホー君は、南国土佐を前にして、とか錆びたナイフ(秋の歌でしたね!)を大声で歌ったのですが次回、またカラオケに歌を歌いに行きましょう!
 立ち寄り湯は高アルカリの温泉で気持ちよかぁ〜、湯上りのビールも甘露、甘露!
 では次回まで、お元気で、ごきげんよう、ヤッホー!


 森トモでなく森クマの歌はこれ:
https://www.youtube.com/watch?v=dZLG1yB7wy8

 「花」は倍賞千恵子で:
https://www.youtube.com/watch?v=DcexTLF-IbI

 倍賞千恵子、懐かしいなあ、あと2曲:
「早春賦」
https://www.youtube.com/watch?v=A5ndbR6otcU&list=PLlN_Uw5WNTAX48TxwCZDvgF1e8KooI5PK

「学生時代」
https://www.youtube.com/watch?v=Sb3Ywdv_Z7o

 そして隅田川といえば外してならない歌はこれ:
「すみだ川」
https://www.youtube.com/watch?v=kl6agFUU4j4

 学生時代、寮の友の部屋にいくと友がワンカップを片手にご機嫌よく歌ってくれたのがこれ、ね、はるちゃん!:
「明治一代女」
https://www.youtube.com/watch?v=tK-xDj-2vWc

 リクエストあった「サイクリング」とはこれ:
「青春サイクリング」(林あさ美)
https://www.youtube.com/watch?v=cDXNobVmYU4

 ヤッホー君のアタマをよぎった歌はこれ:
「青い山脈」(吉永小百合)
https://www.youtube.com/watch?v=-XMr3SsJUK8

 代わりに大声、だみ声で歌いだしたのはこれ:
「錆びたナイフ」(石原裕次郎)
https://www.youtube.com/watch?v=eQIhbHH9NrY

 山路もお終い、もう小菅村の人家も見えてきたころ、ぽつり、ぽつりと降雨量ゼロでしたが、通り雨。
 ヤッホー君のアタマをよぎった歌はこれ:
「酔歌」(吉幾三)
https://www.youtube.com/watch?v=lY2vYbfduPo

 それじゃ〜花咲く森の道で出会ったクマさんだって驚いて逃げてくはずだって…
 歌ってあげるからお聴きになって、それともいっしょに、歌いましょうかって…
 お誘いしたかったんでしょ… ぷんぷん、誰ですか、そんなことおっしゃるのは
 ではここで写真、一挙に4葉、添付いたしましょう:

奈良倉山 ↓
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霞んでるけど輪郭が見える富士山展望台で ↓
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鶴寝山 ↓
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鶴寝山と2山縦走達成に喜ぶ三人娘 ↓
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2017年04月16日

子熊に遭遇

 4月15日土曜日は「山歩クラブ」番外編山行で、奈良倉山 1349mと鶴寝山 1368m!
 タイムキーパーと称して先頭を歩いていたヤッホー君ですが、おずおずと、後ずさり。
 山行チームリーダー、カッシーの所にまで行くと立ち止まって今来た道を見やります。
 「あのね、クマ、ぼくが置き去りにしたのかな、クマの子どもと会っちまったんだよ」
 「子熊がいるってことは親熊が近くにいるんだ、われわれのこと知らせてやらないと」
 あれはいつのころ?
 山歩クラブできたてのころ、東北は秋田駒を歩いていて遠くに残雪の谷あいを走る熊の姿を目撃したことがありました。
 あれはいつのころ?
 山歩クラブできたてのころ、3泊4日で国師ヶ岳2592mから奥秩父を縦走し、甲武信岳2475mの山頂を踏んで山小屋泊。
 翌日、雁坂峠2050mへ向かい、もう里では春が過ぎてるというのにストーブをたいて山小屋泊。
 その日が梅雨入り。
 その夜は激しい雨が屋根をたたきますが、雨はやみましたが翌朝はやく、幻想的な霧のなか、西沢渓谷にどんどん下ります。
 その途中で姿が見えませんでしたが、ガサコソッとクマの音を聞いて一同ギクってした想い出がよみがえってきますね。
 あれ以来、ですねぇ〜、お〜い、あの頃の仲間たち、元気にしてるかぁ〜、ヤッホー!

 秋田県鹿角市十和田大湯の山林で「連続殺人」が止まらない。2016年6月10日、自営業・鈴木ツワさん(74才)の遺体が発見された。周辺では5月下旬から熊の襲撃による死亡事件が相次いでおり、鈴木さんが4人目の犠牲者となる。

 これから夏の行楽シーズンを控え、熊に出会う機会がますます増加するが、絶対に避けるべき行為は、「走って逃げる」だ

熊には逃げるものを追いかける習性があります。しかも熊は最高時速50kmで走るので、人間の足で一目散に逃げてもあっという間に追いつかれて、鋭い爪で背中を一撃されておしまいです。絶対に背中を見せて走って逃げてはいけません」(日本クマネットワーク代表の大井徹さん、注1)

 熊対策としてよく指摘される「死んだふり」はまったくの逆効果だ。無抵抗で地面に横たわったら、熊に急所を襲われて致命傷になる。熊は死肉も食べるので、本当に“死体”と勘違いされて、補食される恐れもある。

 突然の遭遇にパニックになり、大声で叫んだり悲鳴を上げることもNGだ。

突然の出会いにびっくりするのは熊も同じで、人間が熊を恐れるように、熊も人間が怖いんです。それなのに大声でわめくと熊もパニックに陥り、自分の身を守るため本能的に人間に襲いかかってくる。慌てる気持ちはわかりますが、熊の出方をよく観察することが重要です」(大井代表)

 山で子熊を見かけたら要注意だ。子熊の近くには必ず母熊がいる。愛らしい子熊を見かけた人間が「カワイイ〜」と近づけば、母熊が“外敵”からわが子を守るため、命懸けで突進してくる。子熊は大人の熊よりも不用意に近づいてはいけない。

 では、実際に熊に出会ったらどうすべきか。熊が人間に気づいていなかったり、無視していたら、まずは静かにその場を離れればいい。熊がゆっくりと近づいて来る場合は、こちらが「人間」であることを知らせたい。

相手が人間とわからず、熊が近づいてくるケースがあります。その場合、両手を挙げてできるだけ体を大きく見せながら、人間がいることを熊に知らせましょう。気づけばほとんどの熊は離れていくはずです。熊が困惑している様子ならば、穏やかにやさしく語りかけることも効果的です。そこで熊が動くことをやめたら、背中を見せずにゆっくりと後ずさりし、静かにその場を離れましょう」(大井代表)

 それでも近づいてくる熊には人間を攻撃する意志があり危険だ。熊が数メートルまで近づいてきた場合、「熊撃退スプレー」を持っていれば、迷わず一気に噴射する。もし熊撃退スプレーがなく、熊が攻撃をしかけてきた場合はできるかぎり反撃したい。

周りに木材や石など武器になるようなものがあれば、すぐに手に取る。武器がなくても全力で抵抗することです。こちらが反撃の意志を見せ、少しでも相手にダメージを与えられたら熊があきらめて退散するケースもあります」(大井代表)

 万が一、押し倒されてなすすべがない場合でも諦めてはいけない。

後頭部から頸部、腹部を攻撃されると致命傷になるので、地面にうつぶせになって顔と腹部を守り、両手を頭の後ろで組んだり、リュックサックなどで頭と首をガードします。熊は人間が自分を攻撃する意図がないとわかればその場を立ち去ることが多く、一時の攻撃さえやり過ごせば生き延びられる可能性があります」(大井代表)

 なかなか勇気のいることではあるが、「死んだふり」ではなく、「生き残る」ための強い意志が必要だ。


2016.06.20 07:00※女性セブン2016年6月30日号
熊に遭遇時の対策
「走って逃げる」「死んだふり」は厳禁
http://www.news-postseven.com/archives/20160620_422301.html

 11と3っつの注意事項を山梨県が公表しております。
 山は人間だけの専有物ではありません、ほかの生き物との共存共栄も考えなくっちゃ、ね。

(2)登山、山菜採り等のレジャーで入山する方
@ 一般的によく知られている、比較的通行者の多い登山道等を利用し、安易にそれらの道から外れて行動することは控えましょう。
A ツキノワグマの存在を知らせる形跡(足跡、糞、熊棚等)があった場合は、辺りに注意して引き返しましょう。
B 春先から秋までは採食行動が活発で、 かつ子連れで気が立っている親グマもいます。子グマを見つけた場合は付近に親グマがいる可能性が高いので、速やかにその場を離れましょう。
C 山林内にある樹木の株穴や岩穴等は越冬場所となっている場合があるので、注意が必要です。
D 食品を持ち込む際は、それがツキノワグマを誘引するおそれがあることを認識して、きちんと管理するとともに、ゴミは必ず持ち帰りましょう。
E 朝夕や霧が出ているときの入山はできるだけ避けましょう。
F 鈴、笛、ラジオなど音のするものを身につけ、人間の存在を常に知らせるようにしましょう。ただし、鈴の場合、移動しないときは音が鳴らないので注意が必要です。
G 山菜採り等をされる方は、採集に夢中になって奥に分け入ったり周囲への注意力がなくなったりと、ツキノワグマとの遭遇の危険性を高めるおそれがあるので注意しましょう。また、笹等で見通しが利かないところでの採集も控えましょう。
H 渓流釣りをされる方は、水音で人もツキノワグマも双方が接近に気付かない場合があります。周囲への注意力を持って釣りをするよう心懸けてください。
I 犬を連れて入山する方は、必ず手綱を犬につないでください(長野県や富山県で、手綱から放れた犬に挑発されたと考えられるツキノワグマに飼い主が襲われる被害が発生しました)。
J 万一の遭遇に備えてクマ除けスプレーを携行する場合、使用環境によっては効果を十分に発揮できない場合があるので、注意が必要です。

(4)遭遇してしまった場合
@ あわてず、急な動作をせずに静かにその場を立ち去りましょう。
A 近距離で遭遇した場合は、騒いだりして刺激せずに、ゆっくりとツキノワグマを見つつ後退していきましょう。背を見せて走り出すと、ツキノワグマが襲う姿勢を取る可能性があります。
B ツキノワグマから攻撃を受けたときは、弱点である顔面、のど、後頭部、腹部を守ることができる姿勢(後頭部と首を両腕で覆いうつ伏せる。顔を覆って膝を抱え、体を丸くして横になる)を取り、重大な障害を被ることを回避しましょう


2007(平成19)年9月、山梨県
山梨県ツキノワグマ出没対応マニュアル
http://www.pref.yamanashi.jp/midori/documents/file_1191302560039.pdf

 最近、日本のクマに関する興味深い書籍が次々と出版されている。
 例えば『ヒグマ学入門』(天野他編著、北海道大学出版会、2006)、『ツキノワグマ』(大井徹著、東海大学出版会、2009)、『ヒグマとつきあう』(ヒグマの会編、エコ・ネットワーク発売、2010)などがあげられる。このことは日本のクマ類の研究の進行度や社会的認知が成熟期に達した一つの現れであろう。
。。。
 クマ研究者、特に若手、は技術的進歩に目を奪われるだけではなく、「何をするか、何が疑問なのか」といった原点を忘れずに研究を進めて頂きたい。もっと頑張れ!日本の若手クマ研究者よ。
 本書の内容については私の興味あるところにのみ少々のコメントをしたいと思う。
 書評者一押しの章は、編者の一人の坪田氏(北海道大学教授)による序章「クマの生物学」である。
 この章の中でも特に、クマ類の冬眠と繁殖についての最新の研究成果のレビューが最も興味深かった。
 温帯や寒冷地のクマ類は雄雌共に多くの個体が冬眠し、妊娠雌は冬眠中に出産を行なう一方、極北のホッキョクグマや熱帯のツキノワグマでは妊娠雌のみ冬眠をする(雄や非妊娠雌は冬眠しない)。
 つまり冬眠と繁殖生理の進化はお互いに深く結びついていることがわかる。
 また、冬期にも給餌されている飼育ヒグマやツキノワグマは冬眠しない。
 ということは、栄養状態も冬眠開始の至近要因として重要であることを示している。
 さらにクロクマとホッキョクグマでは少々異なる冬眠の生理メカニズムをもっているので、クマ科内での冬眠の進化過程を調べる必要もある。
 クマ類における冬眠と繁殖との関係は生態学・進化学的課題としても将来性のあるテーマではないだろうか。
 今後、冬眠の至近要因と究極要因を生理学、生態学、進化の各レベルで、クマ類の進化過程を考慮して詳細に調査することが望まれよう。


2011-09、日本生態学会ニュースレター No 25
坪田敏男・山ア晃司編著『日本のクマ:ヒグマとツキノワグマの生物学』(東京大学出版会、2011年)
【評者:大舘智志】(注2)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/47372/3/newsletter25.pdf

(注1)大井徹
自己紹介
 高校時代まで富山県高岡市で過ごしました。
 その後、京都、犬山(愛知県)、盛岡、京都、つくばと渡りあるきました。
 また、サルの調査のため、屋久島やスマトラの山奥でも長期間過ごしました。
 いずれも印象深く、そこでの生活を楽しんできました。
 ここ石川県での暮らしにも期待しています。
 何しろ、美味しいお酒と料理がありますし、能登半島、白山の自然、歴史ある街の佇まいなど眼福が得られ、また味のある場所がいろいろあるようです。期待は十分かなうと考えています。
 趣味は硬式テニスと映画鑑賞ですが、漆器など石川の伝統工芸のことも勉強したいと考えています。
研究テーマと意気込み
 クマ、サル、シカなど野生動物の生活と環境との関係、野生動物と人間との共存の方法について研究しています。
 日本には、約120種の哺乳類が生息していますが、野生動物による被害、絶滅の危険など人間活動との調整が必要なさまざまな問題が生じています。石川県など北陸でも同様です。
 これらの問題をいかに解決していくか、野外での行動観察、捕獲個体の体組織の分析など実験室で行なう作業によって研究を進めます。
 研究室の窓からは、新緑の萌え出した里山を前景に、雪をいただく白山頂上を遠景にした素晴らしい風景の広がりが見えます(どこかの鉄塔がちょっと邪魔ですが)。
どっぷりとこの自然に浸かって、活きの良い学生たちと野生動物の研究に明け暮れたいと考えています。また、北陸に野生動物研究の拠点を作りたいとも考えています。

2015.7.31発行、石川県立大学「産学官ネットワークナウ」vol.15
http://www.ishikawa-pu.ac.jp/uploads/research/files/2012/09/NetworkNow_15.pdf

(注2)
 北海道大学の大舘智志助教らの国際研究チームは、世界各地のジャコウネズミの遺伝子を調べ、タイプ別に分布をまとめた。
 タンザニアのザンジバル島と遠く離れたイラン南西部で同じ遺伝子のタイプが見つかる一方、近い場所でもタイプが大きく異なる結果もあった。
 ジャコウネズミは民家に住むため、分布からは人類が東シナ海からアフリカ東部にかけて広大な範囲で海を渡り交易していた様子がうかがえるという。
 成果は英科学誌マンマル・スタディー Mammal Study に掲載された。
http://www.bioone.org/doi/abs/10.3106/041.041.0408

 ジャコウネズミはモグラの仲間で、インドからインドシナ半島が原産地とされる。研究チームは世界44地点から169匹を集め、細胞にある小器官のミトコンドリアの配列を解析した。
 沖縄や中国南部、ベトナムなどは、ほぼ同じ遺伝子のタイプだった。スリランカやミャンマーでは、同じ場所でも複数の遺伝子のタイプがいた。
 マダガスカルとフランス領のレユニオン島では、地理的に近いにもかかわらず遺伝子タイプが異なった。仏領では東南アジアタイプが検出され、労働者として中国系の人が移住した歴史との関連を示唆していた。
 今後も調べる場所を増やし、解析を続けるほか、歴史学者や人類学者と共同研究して、ジャコウネズミと人類の歴史との関連を明らかにする方針だ。

2017/1/15 20:52日本経済新聞
ジャコウネズミの分布から人類移動の跡示す
北大調査

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGG10H3J_V10C17A1TJM000/


posted by fom_club at 18:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週刊「日本百名山」改訂新版

 4月15日土曜日は「山歩クラブ」番外編山行で、奈良倉山 1349mと鶴寝山 1368m!
 ふたつあわせたら標高は?ってカッシー! え、いきなり言われたって計算できない!
 1349+1368=2717m!すごい、やりましたね!
 深田久弥のふるさとの山、白山2702mよりも高いんですぅ!
 あのね、ヤッホー君は「日本百名山」はとっくのムカシに、あきらめたんだって。
 貧困クライシスにあるヤッホー君、時間も、資金も、体力面でも余裕なしだって。
 でもさ、せめて「ふるさとの山」は、いつかこころのなかに持ちたい、その一心で
 山の高低にはこだわらず、「ふるさとの山」探しに仲間といっしょに歩く旅まわり
 山の呼ぶ声と、はてしなき、あてなき旅情に誘われて「山歩クラブ」始めたんです

日本人は大ていふるさとの山を持っている。
山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。
そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。
どんなに世相が変っても、その山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。
私のふるさとの山は白山(はくさん)であった。

深田久弥『日本百名山』

山の文化館ホームページ(石川県加賀市大聖寺番場町18-2 Tel 0761-72-3313)
http://www2.kagacable.ne.jp/~yamabun/index.htm

 深田久弥は1903年3月11日、石川県江沼郡大聖寺町(いまの加賀市内)に生まれ、1971年3月21日、山梨県の茅ケ岳山頂近くの尾根で、脳卒中のため急逝いてしまいました。享年68歳!

 朝日新聞出版では、朝日ビジュアルシリーズ「週刊 日本百名山 改訂新版」を2017年4月6日に創刊いたします。
 毎号、迫力ある山々の写真とともに、深田久弥・著「日本百名山」の珠玉のエッセイを楽しめる分冊百科シリーズです。代表的な登山ルートだけでなく初心者や中高年向けのトレッキングコースも紹介。温泉や宿、食事処の最新情報も満載で、ページをめくるたびに山の魅力が広がります。
[画像1: https://prtimes.jp/i/4702/183/resize/d4702-183-977173-0.jpg ]

 9年ぶりの改訂版となる本シリーズは、「日本百名山」の100座に加え、深田久弥が百名山を選ぶ際にふるいにかけた“準百名山”も合わせた合計200の山々を網羅した<最新完全版>です。
 創刊号は「富士山・丹沢山」。以降、2号「槍ケ岳・常念岳」、3号「穂高岳・焼岳」、4号「剣岳・黒部五郎岳」、5号「白馬岳・五竜岳」…と、人気の名峰が続々と登場いたします。

 深田久弥の名文の他にも、人気登山家でイラストレーターの鈴木みきさん(注1)が思い出を綴る「深田百名山からの贈りもの」、医師で登山家の増山茂さん(注2)が健康登山をレクチャーする「登山とからだのはなし」、人気登山インストラクター・岩崎元郎さんの「HOW TO 心登山」など、毎号連載コラムも充実しています。

 創刊号〜50号には登山の思い出を記録できる「実録登山マップ」を毎号収録。2号には特別付録として「北アルプス空撮写真集&赤色立体地図」がつきます。NHK「ブラタモリ」でもおなじみの赤色立体地図では、日本百名山の新たな一面をご覧頂くことが出来ます。
[画像2: https://prtimes.jp/i/4702/183/resize/d4702-183-675487-2.jpg ]
[画像3: https://prtimes.jp/i/4702/183/resize/d4702-183-253751-1.jpg ]
【商品概要】
毎週木曜日発売(※一部地域で発売日が異なります)、全80号予定
定価:創刊号サービス定価390円(税込)、2号以降 定価600円(税込)。
体裁:A4判変型、オールカラー36頁(創刊号のみ44頁)
■ 特設サイト  http://publications.asahi.com/100/


PR TIMES 3月24日(金)16時59分
「週刊 日本百名山 改訂新版」 4月6日(木) 創刊!
深田久弥の名随筆とともに、憧れの山々へ誘う <最新完全版>。

https://news.biglobe.ne.jp/economy/0324/prt_170324_1908805086.html

 雲上のかなたは、びょうぶのように連なる荘厳なパノラマだった。
 北東から南側へ展望をめぐらすと、剱(つるぎ)岳、立山、槍(やり)ケ岳、穂高岳、乗鞍岳、御岳と北アルプスの山々がくっきり見える。金沢市から来た63歳の男性にコーヒーをごちそうになりながら、心地よい疲労と達成感に浸った。
 深田久弥『日本百名山』に87番目に登場する白山は、「仰いで美しいばかりでなく、登っても美しい山」だと書かれている。私は、百名山では初級の山を6つしか登ったことのない初心者だが、秋晴れの一日、中級に分類されるこの山を思い切って登ってみた。
 午前7時20分、南麓(なんろく)の別当出合(であい)(石川県白山市)。「霊峰白山登拝道」とある標柱わきの鳥居をくぐって出発した。室堂平に出ると、宿泊棟は2週間前に営業を終え、既に冬支度。道理で下りてくる人には出会わなかった。登り始めて3時間半、最高峰の御前峰(ごぜんがみね)2702mに立つことができた。
 近年の登山ブーム、特に中高年が山を目指す背景に、1964(昭和39)年出版の『日本百名山』(新潮社)がある。深田がすべて頂を極めた山の中からえりすぐった百山だ。選定基準は「品格」「歴史」「個性」。「山高きをもって尊しとせずだが」と断りながら、標高1500m以上も一応の基準とする。一山につき原稿用紙5枚、それ以上は「だれるから」と嫌った――簡にして要を得た山岳随想を集めた古典的名著である。
 深田は東京帝大在学中の1927(昭和2)年、24歳で改造社に採用された。翌年、懸賞小説に応募してきた北畠八穂という女性に心ひかれる。青森市生まれの八穂は青森高女から実践女学校(現実践女子大)を中退。青森県内で代用教員をしていたが、脊椎(せきつい)カリエスが悪化して退職し、自宅でふせっていた。深田が手紙を出して青森まで会いに行ったのをきっかけに、11年間の同居生活の末、1940年に正式に結婚する。
 深田の初恋は、20歳の時だった。ある秋の日、一高生の深田は東京・本郷通りで、聡明(そうめい)そうな一少女に目をとめる。菊と蘭(らん)の記章がついた焦げ茶色のバンドを締めた、東京女子高等師範付属高女(現お茶の水女子大付属高)の女子学生。通りですれ違うたびにひかれていったが、それだけだった。
 運命のいたずらのような再会は、18年後の1941年――深田がようやく八穂と結婚した翌年のことだった。文芸評論家の中村光夫(本名・木庭(こば)一郎)の結婚披露宴の席。かの女学生の名前は木庭志げ子といい、中村の姉だったのである。深田は、志げ子と初めて言葉を交わしたこの時のことを、「わが青春記」(1952年)で「一高時代の私の風貌(ふうぼう)を彼女は細かな点までおぼえていた。まことにこの世は偶然なものである」と回想し、こう記している。
 「この偶然が私の後半生を支配するようになろうとは!」

ふるさとで雌伏の8年間
 北畠八穂と知り合って1年後の1929(昭和4)年、深田久弥は「津軽の野づら」を発表。「オロッコの娘」が文芸春秋で採用され、文壇で注目される。1932年には「あすならう」。翌年には神奈川・鎌倉へ移り、久米正雄、今日出海、小林秀雄ら「鎌倉文士」の仲間入りをした。互いの家に出入りした文士仲間は「深田の作品には八穂が関与している」と薄々感づいていく。
 1935年、深田は小説集「津軽の野づら」の単行本化でこんな弱気な調子の後書きを記す。「この幼い物語が、批評家の剛い手にかかることなく、ただ少数の人々にのみ愛されんことを」。すべてを見抜いていた友人の小林は朝日新聞紙上で厳しく評した。「何というおづおづした手付きで、作者は自分の青春の書を世に送り出しているか。そして、そういう手つきは、この作者一人の手つきではない」
♪♪♪
 川端康成も看破した。1937年、「鎌倉夫人」の朝日新聞への連載が決まった直後のことを八穂は回想している。
 「庭から茶の間に入ってこられた川端さんが、『これくらいの連載は、スケッチをするつもりで』と、聞かして下さいました。私は慌てて、『こんど当人に、そうおっしゃって下さいまし』と、頼みました。川端さんは頭を振り、『あなたにそういっとけば』と微笑してさっと帰られました」
 八穂との「二人三脚」――。「深田久弥 山の文学全集」(朝日新聞社)の編集委員だった近藤信行・山梨県立文学館長(75)は「深田さんは『津軽の野づら』から『あすなろう』へ、八穂さんの文体で通している。旧制高校出らしくバンカラなところもあり、鉄面皮と言えばまことに鉄面皮」としながらも、「深田さんは文壇へ出るのに焦っていた。八穂さんも、深田さんのために仕事をした、という部分が見える」と分析する。
♪♪♪
 その一方で深田は、1941年に志げ子と再会した翌月にはもう、山行へ誘う。百名山の一つ、新潟・長野県境の雨飾(あまかざり)山1963m。長野側から登ろうとして雨に降り込められ、ふたりは小谷(おたり)温泉の旅館に4日も滞在する。
 再会から1年余りで男子が生まれ、八穂も知るところとなった。夫婦の冷戦状態は深田の応召で中断したが、1946年に復員した深田は、八穂のいる鎌倉へは顔を出した程度で、すぐに志げ子が疎開していた新潟・越後湯沢に合流した。翌年には八穂と離婚し、志げ子と結婚。一家は深田のふるさと石川・大聖寺(加賀市)に身を寄せた。
 そのころ八穂は深田との合作について、鎌倉を人力車で出歩いては、文士仲間にすべてぶちまけていたという。
 夫婦でいれば済まされたことが、別れたことで表面化し、戦前の名声も打ち砕かれた。深田は文壇に背を向け、ふるさとでの隠遁(いんとん)生活を強いられる。地味な短編を書くが、鳴かず飛ばず。「百名山」にこんなくだりもある。

「戦後私はふるさとに帰って三年半の孤独な疎開生活を送ったが、白山はどれほど私を慰めてくれたことか」

 金沢に移って4年余りを過ごした後の1955年、8年間の充電を終えた深田は、ついに上京を決意する。「自分には好きな山しか道はない」と山の文学者として再生を期すのだ。
 志げ子の献身ぶりは見事だった。長男で日経広告研究所顧問の深田森太郎さん(64)(注3)によると、当初こそ「私と一緒になってからちっともいいものを書いてくれない」と嘆いた。「志は高く、暮らしは低く」が深田のモットーで、稼ぎは本や資料代に消える。志げ子は丸善から請求書が届くたびに「こわいこわい」と言いながら開封したが、深田が頼んだ洋書が入荷したと聞けばたとえ重くても抱えて帰り「またこれを使って稼いでね」と励ました。
 新潮社の編集者だった佐野英夫さん(84)によると、百名山の単行本化を持ちかけてから間もなく、「そんな話は簡単にはいかないから信用するなよと弟(中村光夫)が言うんです」と志げ子は笑っていたという。
♪♪♪
 「山と高原」に1959年から連載された「日本百名山」が本になり、1964年の東京五輪のさなかに出版記念会も開かれた。同席した志げ子の感慨が「『日本百名山』余話」でつづられている。

 「内助の功?とやらで私にも出るようにとの有難い思召。晴がましい席へ急ぐ私の胸には多少の感慨があった」

 深田は1971年の春分の日、登山中に脳卒中で急死。志げ子は7年後、交通事故に遭ったのがきっかけで死去した。
 八穂は離婚後、児童文学者として活躍。健康に恵まれなかった八穂が、78歳と3人の中で最も長生きをした。
 偶然の再会が、山の文学者・深田久弥と児童文学者・北畠八穂を生んだ、と見ることもできる。


2006年11月25日付け朝日新聞【文・小西淳一 写真・永曽康仁】
愛の旅人
『日本百名山』
深田久弥と志げ子―石川・大聖寺、白山

http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611250173.html#TOP

(注1)鈴木みきのとりあえず裏日記
山を登って絵を描いて、山を登って酒を飲み、
山を登って日記を書いて、山を登って。
イラストレーター鈴木みきの表はないけど裏日記☆2

http://ameblo.jp/suzukimiki/

(注2)
 山岳診療所で活動する上で必要な医療スキルは?
 これはなかなか難しい問いだとは思いますが、私は敢えてこう答えたいと思います。
「市民向けの基本的な応急手当の知識と技術」
 これは主にナース向けの言葉として聞いてほしいのですが、夏山診療所でのボランティア活動に際して勉強していくとしたら、まずは「市民向けの基本的な応急手当の知識と技術」をしっかり押えておいてほしいと思います。
 看護師というのは医療の専門家と思われがちですが、教育課程では病院内の、しかも病棟で働くことを前提としたことしか教わりません。
 ですので、なんの設備もない場所でどう対応したらいいかということなんかは、ほとんど教わってこなかったはずです。
 勤務部署が救急外来だったら、多少はスキルはあるかもしれませんが、それとて病院という設備も医材も薬もスタッフも揃った場所という前提条件付き。
 つまり看護師といえど、野外で突発的に遭遇した事故などにきちんと対応できる能力を持った人は非常に限られているというのが現実だと思います。
 山岳診療所は、診療所という名前が付いていても、場所は山奥の孤立した山小屋。電気も不自由だし、医療器具も限られる場所。基本的には自分の身ひとつですべてに対応するくらいの気構えがあった方がいいくらいの場所です。
 そんな場所でもっとも必要なのは、器材も医薬品も使わないで応急の手当てを行なうという市民向け救急法の内容と言えます。
 それを最低限押さえた上で、看護師として何ができるか、という視点に入っていくのだと思います。
ということで、まずは医学書ではなく、アウトドア関係のファーストエイド読本のようなものを一冊きちんと読み込むことをお薦めします。
 私のお薦めは次の2冊。
◆ 藤原尚雄・羽根田治『アウトドア・レスキューハンドブック』(山と渓谷社、新版が2012年6月)
 トレッキングをする人にまずお勧めしたい危機管理読本。野外事情に即した実践的なファーストエイド・エマージェンシーテクニックに関してわかりやすく書かれていてオススメ。
 トレッキングやリバーカヤック、海辺など、各種アウトドア・フィールドを想定した具体的な内容でとても興味深く読める。それほど厚くないポケットサイズの本ながら、危険回避の知識から救急法まで野外での危機管理が一冊にギュッと凝縮されている。実践書として最初に手に取る一冊としては最適。
◆ 増山茂『登山医学入門』(山と溪谷社、2006年7月)
 『登山医学入門』は、アウトドア向けファーストエイド・テキストとしては最新の本になる。『レスキューハンドブック』がアウトドア全般を想定していたのに対して、この本は、タイトル通り、登山の場面で起りうるトラブルを掘り下げて取り上げている。高山病、凍傷、落雷、高地での生理メカニズムなど、これまでのファーストエイド・マニュアルとは一線を画する専門的な内容も含まれている。素人向けの一般書としてはかなり難しい部分もあるけど、看護婦向けとしてはかなり手頃な感じ。医療者として山に登る人には必ず目を通してもらいたい本。

夏山・山岳診療所 医療ボランティア入門
山岳診療ボランティア看護師に必要な登山医学の基礎知識
http://sangaku-shinryou.treknz.net/index.html

(注3)
 振り返ってみますと、父親と一緒に暮らしたとか、一緒に山へ行ったとかいう経験は、そう多くはありません。私が生まれた1942(昭和17)年には、父は支那(現中国)に応右されておりました。1945(昭和20)年、東京が空襲されるようになって、母の志げ子と母方の祖母と3人で越後湯沢に疎開しました。最初は高半旅館という川端康成の『雪国』で有名な宿にいたのですが、そこへ海軍軍司令部の一部が疎開してくることになって、民間人は出て行け と言われて近くの小さな旅館に移りました。そのとき、母と祖母とが「海に行かなきやならない海軍さんが、湯沢の山の中に逃げてくるようじや、日本も敗けだね」と言ったそうです。もちろん、後で聞いた話ですけど。
 1947(昭和22)年になって、母のところに連絡があったのでしょう。「お父さんが帰ってくるよ」と言って、私の手を引いて湯沢の駅へ行ったのです。兵隊さんはたくさん降りてくるけれど「お父さんはいないわねえ」と母は言うのですが、私は会ったことがないからわからない。そんなことを繰り返しているうちに、ある日、父親が帰って来ました。
 「あ、お父さんがいた!」と母が駆け寄ったのですが、私は、髭ぼうぼうの人を見てクマにでも遭ったようで「キヤツ!」と言つて母の後ろに隠れてしまった(笑い)。それが父親 に会った最初の記憶です。
 5歳のとき、母が身ごもったということもあって、父の郷里の江沼郡大聖寺町(現加賀市)に移住します。父の実家は印刷業で、父の弟が後を継いでいたのですが、母のお産のためにそこを頼って行ったのです。小さな町でコミュニテイが濃密ですから、「久弥さんが帰ってきた」というので家を貸してくださる人がいて、そこで弟が生まれたのです。
 私はその町の錦城小学校に入学したのですが、そこの校歌は父親が作詞したもので、私もその校歌を歌いました。
 戦後すぐには、父も文士としての仕事はなかったのでしょう。私を連れてよく散歩に行きました。大聖寺は海辺の町ですが、すぐ裏に錦城山という里山があって、そこへよく連れて行ってくれました。
 あまり話したくないことではありますが、私の母は父の2度目の妻で、最初の奥さんは北畠八穂さんという高名な童話作家です。弟が生まれて、ようやく北畠さんとの離婚が成立したのです。その頃になると、だんだん中央の出版社から人が訪ねて見えるようになって、そうした方たちに大聖寺ではあまりにも不便だというので、金沢へ転居したのです。
小学校3年から中学1年までは金沢で過ごしました。その頃が、私にとっては山との蜜月時代だったと思います。近くの医王山(いおうぜん)などに行ったり、能登半島の低い山や、海で泳いだり。何といっても毎年のように登ったのは白山でした。当時は登山用具もなくて、普通の靴で自山に登ったのですから足は冷たいし、雨に降られると木綿の学生服がずぶ濡れで辛い思いをしました。室堂も今と違って汚い小屋で、父親と二人きりでいるとヒューヒュー風の音がして、怖くて一晩中父にしがみついていたこともありました。
 あるとき、父親と白山に行って、大雨の中をほうほうの態で下りてくると、金沢は洪水で我が家の一階は完全に浸水して畳がぶかぶか浮いていました。
「こんなときにお父さんは頼りにならないんだから」とか言いながら、母親が七面六臂の活躍で、階下にあった父の蔵書や原稿を三階に運んで、なんとか商売道具だけはコトなきを得たのですが、私のランドセルや教科書は全部流されてしまった(笑い)という記憶があります。
 白山へ行ったのは私と父だけでしたが、立山に登る頃には、弟も5歳くらいになっていたので、家族登山でした。室堂の小屋に泊って、日の下に雲海を見て感激したことを覚えています。
 東京へ来てからは、反抗期でもあったし、山へ行くより、友達との付き合いが大事になってきた。進学したのが戸山高校で受験校だったのと、山以外にも面白いことがあるのではないかと目覚めたりして、あまり山へは行かなくなった。ここにおいでの大森久雄さんがご苦労して出してくださった『わが愛する山々』(ヤマケイ文庫)という本がありますが、それは親子3人の家族登山で、登場するのは弟の沢二なんですね。友人から「君は全然出て来ないじゃないか」と言われました。あの頃は、親父に反抗して一緒に山に行かなかったのです。
 山に関して言えば、父との関係は金沢時代がいちばん濃密でした。東京に来てからは、同じ家に住んでいますから、玄関に父のキスリングが置いてあったり、山靴が脱いであったりする中で育ったのですが、山のことでコミュニケーションがあったという記憶はありません。私は早く結婚して家を出てしまったので、父親と一緒に暮らした期間は短いのです。それでも新聞社に就職して数年たった頃、「親孝行もせにゃいかんかな」という気持ちになり、母親も父子の間を取り持つように「今度お父さんが××に行くから、あなたも時間があったらお伴したら」と言うので、比較的近場の筑波山とか、丹沢の山へ付いて行ったことがあります。まもなく父が茅ケ岳で急逝したので、それが最後の親孝行になりました。
 父との関係はそれで途切れてしまったのですが、父がモノ書きでよかったなと思うのは、父親のことを追憶したいときには書いたものがあること。それを読んで「これを書いたのは、自分の今の年齢だった」と、サラリーマン時代にはよく考えていました。私が40代で部長になったときも、その年の父親はどうしていたかなと考えたりして、常に自分の人生を父親と重ね合わせてきました。今年、私は70歳になりました。久弥は68歳で亡くなつたので、もう重ね合わせることはできません。後は、父親以上に生きているから、親が足を踏み入れなかった、大げさに言えば未踏の世界を歩いているという気誉ちでいます。
 最後に、よく皆さんから、「深田さんはお父さんの百名山をいくつ登ったの」と聞かれます(笑い)。今日、ここへ来る前に数えてみたら48座。 まだ半分も登っていないのですね。生涯に果たして全部登れるかどうか。そんなにこだわることもないのかなとも思います。

2012年11月26日、日本山岳会緑爽会、会報第113号
鼎談「深田久弥を語る」
http://jac.or.jp/images/rokusoukai_20120122_1.pdf

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2017年04月14日

安倍さん、トランプさん、

 「戦後」とか呼んでいますが、「占領」はいまだに続いています!
 ヤッホー君はそう思い、だからこそ「平和」を訴え続けています!
 米軍基地には「思いやり予算」をつけて、手厚く「おもてなし」。
 首都圏の空だって「横田空域」が広がっていて、立ち入り禁止!
 そんななか「小ささ」「低さ」も一刻のこと、次第にフェードアウト
 皆、民はおれのいまの金で偉さを図り「大きく」「高く」「広く」へ
 
 「近年亡くなった大切な人々について書いた文章」(あとがき)が中心の文集だ。
 2011年の東日本大震災の後、翌2012年に吉本隆明氏、2015年に鶴見俊輔氏と、戦後日本の思想界を担った二人が没した。2013年には自身の長男を事故のため35歳の若さで亡くした。「最後に息子のことを書いたものを載せるつもりでしたが、ダメでしたね」
 太宰治らを論じた文学論や震災以前に執筆した論考も含むが、一冊の全体を静けさが包んでいると感じられる。「太宰論は息子の死の直後に準備したもの。自分の中ではつながっています」
 巻頭には、生前にそれぞれ交流を持ち影響を受けた吉本、鶴見両氏に関する追悼文などが並ぶ。「お二人の一方と親しかった物書きはたくさんいますが、両方と、というのは珍しいかもしれません」
 二人について著者ならではの比喩で描いているのが興味深い。吉本氏は「戦後という大きな河」に架かる橋のうち、「最長不倒距離」の橋桁を持っていたと記した。「敗戦という経験から、誰よりも深く思想的課題を受け取った人です」
 鶴見氏との出会いにより、「うさんくさい」ことや「不自然さ」が、むしろ「自由の湧き出てくる泉のように感じられるようになった」とつづる。雑誌「思想の科学」などで多彩な人々を集め、育てた鶴見氏の存在を表現したものだ。
 1922年生まれの鶴見氏、1924年生まれの吉本氏は、ともに戦中派だった。「不思議と、私が深くつきあった人にはこの世代が多い」という。
 最終章のソクラテス論が面白い。毒杯による刑死の前、ソクラテスが友人からの脱獄の勧めを拒否した理由を読み解き、そこから吉本、鶴見両氏の戦後思想の特徴までが見いだされていく。彼らには「小ささ」「低さ」があったと論じる。
 「戦前と戦後では偉大さの質が変わります。戦後の偉大さは、偉くならないところ、むしろ卑小さの中に深さとして表れる種類のものだと思います。二人から得た影響は違いますが、どちらも世間的なエラさとは無縁。見たこともない、強烈な一個人です


2016年12月6日付け毎日新聞、東京夕刊<文・大井浩一 写真・北山夏帆>
読書日記「著者のことば」加藤典洋さん
『言葉の降る日』(岩波書店)
戦後の「偉大さ」を体現
https://mainichi.jp/articles/20161206/dde/012/070/008000c

 イマは空気を読んでまわりに同調するようになって、一人ひとりと名前をもった個々人はフェードアウトしていきます。
 かつての「強烈な一個人」、菅原文太(1933-2014)とペギー葉山(1933-2017年4月12日)と、二人ばかりご紹介。

 先月末2015年11月、一周忌にあわせて発売されたのは、『菅原文太 日本人の底力』(宝島社)という本。
 これは2003年4月から2014年12月まで放送された同名ラジオ番組を書籍化したものなのだが、それがまるで、菅原氏がいまの日本に生きる人びとへ「考えつづけることを止めてはいけない」と鼓舞しているかのような内容なのだ。
 力を入れていた食と農業の問題だけでなく、晩年は沖縄基地や原発の問題に積極的に反対の意志を示し、憲法改正の動きを警戒していた菅原氏。なかでも第二次安倍政権後の2013年には、はっきりとした安倍政権への危機感を口にしていた。

「安倍さんの言動は、われわれのような政治の素人から見ても、いろんなボロが見えてきます。深く考えていないのではないかと疑ってしまうぐらい、ポロポロとおかしなことが出てくる」

 しかも、それは漠然とした不安から発せられたものではない。菅原氏は一例として内閣法制局の人事を俎上に載せる。

「先月2013年8月、内閣法制局の長官が小松一郎さんという人に替えられたじゃないですか。彼は外務省出身で、法律家ではない。そんな人が「憲法解釈の変更がおよそ許されないことはないと考えられる」という発言をする。そうなると、これはもう出来レースなんじゃないかと思わざるを得ない」

 この指摘は、その後の“暴走”を見事に言い当てているかのようだ。実際、この人事を皮切りに内閣法制局は政権に完全服従、過去40年以上も違憲としてきた集団的自衛権の行使容認を認め、挙げ句、憲法解釈変更の検討過程の資料さえ公文書として残していないことが毎日新聞のスクープによって明らかになっている。タガが外れた瞬間を見逃さなかった菅原氏は、このように言葉をつづけている。

「われわれ国民にしてみれば、憲法の冒頭にはまず「主権在民」とあるでしょ。主権在民ということは、主権は国民にあるわけです。そこのところを今の政治家は勘違いしているんでしょうかね」

 この「主権在民」をまったく無視した安保法成立や、現在の普天間基地の辺野古移設問題など現在の政権の動乱を、菅原氏が生きていたなら何と発言していただろう。きっと、こんな言葉だったのではないかと思えるものが、本書には散りばめられている。たとえば、菅原氏が沖縄の基地問題を語る際、何度も「日米地位協定」の不条理さを訴えていた。
 まず2013年8月11日、18日の放送では、ゲストの前泊博盛・沖縄国際大学大学院教授に“フィリピンやイラクは米軍を追い出しているのに、どうして日本はできないのか?”と疑問をぶつけ、こう述べている。

「そういう国があるにもかかわらず、日本だけが戦後70年になろうとしているというのに、唯々諾々とアメリカから言われるとおりに行動している。言うなれば「操り人形」のような状態がいまだに続いている。それに対して、「いったいなぜなんだろう?」と。一片の気概もないんだろうかと思わざるを得ないんだよ」

 また、元外交官の佐藤優氏(13年5月5日、12日放送回ゲスト)には、「アメリカにとってフィリピンが沖縄ほど重要じゃなかったということなのか、それともフィリピンの人たちの強い意志だったのか」と質問。佐藤氏が「後者でしょうね。(中略)アメリカはやはり民主主義国ですから、米軍が配備された国の人たちが「本当に嫌だ」「出ていってくれ」と本気で言っている場合は無理強いはしないです」と答えると、菅原氏はやはり

「それだったら、どうしてね、日本は安保条約や地位協定を変えようとしないんだろう。別に気色ばんで言うことでもなく、普通にアメリカに「出ていってくれ」と言えばいいんでしょ。それをどうして今まで言えなかったんだろうかと思うと、日本人として情けないなぁと」

 なぜ、アメリカにはっきりと主張ができないのか。なぜ、日本は敗戦から得た教訓を手放そうとするのか。そのことについて考える菅原氏は、“日本の民主主義”を疑う。

「敗戦を迎えたとき、日本人があらゆることをあいまいにしたまま、戦後という時代に突入してしまったことは間違いない。それまで「撃ちてし止まむ、憎きアメリカ」と言っていた大人たちが、敗戦を境にして急に口をそろえて民主主義、民主主義と言い出した。国民が突然民主主義者になった、奇妙な国なんだよ、日本は」

 この言葉には、菅原氏の戦争体験がもとにある。

「自分はあのとき10歳だったのかな。われわれは子供だったけど、大人よりも大きな声で「撃ちてし止まむ」とか「鬼畜米英」とか、言っていたんですよ。竹やりなんかを持たされて。子供は敗戦の次の日に民主主義者にはなっていない。わけがわからないまま、ただ何となく「負けたんだ」「終わったんだ」ということで敗戦を通過してきただけで。
 だから、どうなんだろう、あのときの大人たちはやはり罪の意識を感じながら民主主義者になったんだろうか」

 この夏、民主主義を見つめ直そうという声がさまざまな場面で立ち上がっていた。それはひとえに安倍政権が民主主義を軽んじ、何の躊躇もなく否定してみせたからだが、菅原氏が言い残したように、ほんとうにいまこそ、主体的に民主主義を選び取るという強い意識をひとりひとりがもたなくてはいけないときがきているのだろう。そして、そのためにも戦争を憎み、徹底して戦争へつながる可能性の芽を摘まなくてはいけない。菅原氏は言う。

「やはり憲法9条は死守していかなければならない。広島や長崎に原子爆弾が落ちたのも、普天間の問題がくすぶっているのも、そもそも戦争がなければなかったことですからね」

「(原爆を)わが身で経験された方が亡くなっていくとともに、人々の記憶が薄れていくかもしれない。しかし、大げさに言えば、世界が続くかぎり、人類が続くかぎり、再び同じような悲劇を起こしてはいけないと訴え続けなければいけないわけで」

……それにしても、あらためて菅原氏の言葉に触れると、その勉強熱心さ、政治や社会問題を他人事にしない主体者意識の強さに脱帽させられる。同番組のディレクターを務めた加藤晋氏も、本書のなかで〈お迎えする客人が決まると、菅原さんは多くの時間を割いて、入念な予習をされました〉と菅原氏の姿勢を振り返る。
〈オンエアするときには菅原さんが聞き役になるように編集をしていましたが、収録では客人の方だけではなく、菅原さんもご自分の意見や思いをよくお話されていました。ただ、そんなときはたいてい、収録後に「今日は俺、しゃべりすぎちゃったから、俺の話はカットしておいて」「客人がいい話をしてくれたから、そこの話は絶対に切らないで残しておいてくれ」と電話がかかってきました〉

菅原氏のことを、〈客人に向ける真っ直ぐな視線は、「輝かしい経歴を持つ往年の銀幕の大スター」ではなく、みずみずしい青年のようでした〉と述べる加藤氏。氏によれば、菅原氏はこんな言葉をよく口にしていたという。

「俺はもうすぐ死んじゃうけど、このままの日本じゃ、子供や孫の世代がかわいそうじゃないか」

「今きちんとこの問題に向き合っておかないと、これからの日本がダメになってしまう」

「自分はこれまでヤクザ映画の俳優をやってきたけど、世間の人に何の貢献もしてこなかった。だから、老い先短い年齢になって、少しぐらいは人の役に立ちたいと思ったんだ。こんな地味な番組だけどね」

 “文太兄ぃ”の、静かだけれど熱いこの思い。再びその声に直接触れることはできなくても、しかし、残された者は思いを引き継ぐことができる。ぜひ、この機会に菅原氏の言葉に接してみてほしいと思う。


2015.12.13リテラ(水井多賀子)
一周忌に改めて明かされた菅原文太の憂国の思い…
「安倍首相は深く考えていない」「憲法9条は死守せねば」

http://lite-ra.com/2015/12/post-1779.html

 「ドレミの歌」「学生時代」などのヒット曲で知られる歌手ペギー葉山(ぺぎー・はやま)さん(本名・森シゲ子=もり・しげこ)が2017年4月12日午前11時55分、肺炎のため、都内の病院で死去した。83歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。今年がデビュー65周年の節目で、亡くなる直前まで精力的に音楽活動に取り組んでいた。
。。。
 歌の持つ力を信じ、83年の生涯を歌にささげたペギーさんが急逝した。
 体調を崩したのは今月4月10日。風邪の症状が抜けず、都内の病院で診察を受けたところ、そのまま入院。2日後のこの日、長男や親族、仕事関係者らにみとられながら静かに旅立った。
 音楽好きのクリスチャンの家庭に生まれ育った。青山学院高等部在学中に、「渡辺弘とスターダスターズ」の専属歌手になり、米軍キャンプを回ってジャズを歌唱。卒業後の1952(昭27)年に「ドミノ/火の接吻」でレコードデビューした。1958年にNHK高知放送局のテレビ放送開始の記念で歌唱した「南国土佐を後にして」がミリオンヒットを記録した。
 音楽と平和を愛する気持ちは人一倍強かった。
 1960年に訪米した際、ニューヨークで鑑賞した反戦ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」に感激。劇中で流れていた「ドレミの歌」に日本語の訳詞を付けた。
 「ド」の「ドーナツ」は戦時中、砂糖のたくさんかかったドーナツを食べたかった思いからしたためた。学童疎開先は福島県いわき市。東日本大震災の後に現地の小学校を訪問し、同曲を児童らと合唱した。
 今年2017年2月、所属するキングレコード主催の歌唱イベントで「歌は元気と生きる力を与えてくれるもの。今が一番、歌の存在が大切な時代だと思います」と、平和への思いを強く訴えていた。


2017年04月13日07時56分日刊スポーツ
ペギー葉山さん死去「南国土佐」はミリオンヒット
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12168-04130012/

 ミリオンヒットとなった「南国土佐」には逸話が残っていました:
 
 戦後70年の今年2015年、スポットライトを当てたい名曲がある。歌手のペギー葉山(81)が1959(昭和34)年にレコードで発売し、大ヒットした「南国土佐を後にして」だ。先の大戦時、高知県出身らによる通称「鯨(くじら)部隊」が遠く離れた戦地で、故郷をしのんで口ずさんだ愛唱歌が原曲とされる。葉山は「平和への祈りを込めて歌い続けたい」と話す。
 葉山が「南国土佐−」を最初に公の場で歌ったのは1958(昭和33)年、NHK高知放送局のテレビ放送開始記念番組の収録のとき。当時はジャズ・ポピュラー歌手として知られていたが、番組サイドから、民謡調の曲「南国土佐−」を依頼された。「笑顔を作らず、渋々、歌ったんです。一回だけ歌えばいいや、という気持ちで…」と振り返る。
 ところが、この曲への問い合わせが殺到し、レコード会社から収録を求められた。リリースすると、大ヒットにつながった。
 こうなると、一回だけの歌唱では世間が許してくれない。リメークも重ねた。
 「『南国土佐−』は他の歌と“性格”が違う。コンサートでは、いつ歌うかが問題になりました」。ボサノバ調に編曲したり、バラードで歌ってみたり…。全く違う形で披露した後、観客から「『南国土佐−』を歌いました?」と聞かれた経験もあるという。
 そんな曲への思いを新たにしたのは2012(平成24)年。高知市の観光名所「はりまや橋公園」に、この曲の歌碑が建立された。除幕式に出席するため、高知市を訪れ、かつて「鯨部隊」に所属した人たちが直立不動で『南国土佐−』を歌う姿を目の当たりにした。

「戦争中でも、歌うときだけは故郷をしのんだのでしょうね。ステージで『平和を祈る歌』と伝えるようになりました」

 戦前生まれの葉山は東京で生まれ育ったが、小学5年生のとき、親元を離れ、福島県へ学童疎開。6年生のときに終戦を迎えた。戦中の記憶は自身の郷愁に重なる。

戦争で亡くなった多くの方々への想いを、この曲により、つないでもらいたいな、と思っています


2015.8.12 15:16 イザ(竹中文)
ペギー葉山「南国土佐を後にして」 平和への祈り込め歌い継ぐ
http://www.iza.ne.jp/kiji/entertainments/news/150812/ent15081215160016-n1.html

 あの方がアメリカの大統領になられるのですね・・記者会見を拝見していると、もう喧嘩の会見でしたね。
今までに、あまり見たことのない大統領ですね。大丈夫かしら?喧嘩の果てに戦争!なんてことがないように・・・
 なんていっても、「平和」を大事にしてくださいね!あの声高の態度はかつてのヒットラーを私の年代は・・つい思い出してしまうのですから。。


2017.01.15 Sunday ペギー葉山のブログです。
トランプさん・・
http://blog.peggy.sunnyday.jp/

 では締めくくりに『南国土佐−』
https://www.youtube.com/watch?v=yS1Oi4_CAOI

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Mother of All Bombs

トランプ政権、WP [Trump takes a centrist tack on economic policy, abandoning campaign pledges」トランプは選挙民への訴えを捨て、ヒラリー的、軍産複合体と経済のグローバリズムへの回帰が起こっている事、最重要
19:20 - 2017年4月12日 孫崎享さんのツイート
https://twitter.com/magosaki_ukeru

 そうしたら翌日の13日にこんなニュースが飛び交い、ヤッホー君は14日金曜日朝にそのニュースに接し、もうびっくり! 

【AFP=時事】(更新)米軍は13日、非核兵器では史上最大の爆弾とされる大規模爆風爆弾(GBU-43/B Massive Ordnance Air Blast)、通称「MOAB(モアブ)」を、アフガニスタンのイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」施設に対し投下した。同爆弾の実戦使用は初めて。米国防総省が発表した。

 アフガン駐留米軍の声明によると、MOABは同国ナンガルハル(Nangarhar)州アチン(Achin)地区で午後7時32分(日本時間14日午前0時2分)ごろ、ISの「トンネル複合施設」に対し使用された。

 米空軍報道官のパット・ライダー(Pat Ryder)大佐によると、MOABは実戦配備された中で最大の非核兵器。また国防総省のアダム・スタンプ(Adam Stump)報道官は、投下したのはMC130特殊作戦機だったと明かした。

 アフガン駐留米軍を率いるジョン・ニコルソン(John Nicholson)司令官は、アフガニスタンのISが劣勢に追い込まれる中で即席爆発装置(IED)や壕(ごう)、トンネルで防御を強化しており、これらを排除し攻勢を維持するためにも、MOABは適切な兵器だと強調した。

 MOABは「すべての爆弾の母」を意味する「Mother of All Bombs」の頭字語でもある。2002〜03年、米主導のイラク進攻の前後に開発が急速に進められた。


AFP=時事 4/14(金) 2:28配信
米軍、最強の非核爆弾を初使用 アフガンのIS空爆で
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170414-00000000-jij_afp-int

 でもこの最強の爆弾と北朝鮮先制攻撃との関連については、、、

The US has dropped its largest non-nuclear bomb ever used in combat on Afghanistan, the US military said on Thursday.

To target what the military described as a “tunnel complex” used by the Islamic State’s Afghanistan affiliate, the US for the first time used what the military colloquially calls the “mother of all bombs”, the GBU-43/B.

Designed for destroying underground targets but not itself a deep-earth penetrator weapon, the GBU-43/B has the explosive yield of more than 11 tons of TNT. The massive bomb is dropped from air force planes and detonates before reaching the ground, resulting in an enormous blast radius. Only the Massive Ordnance Penetrator GBU-57, which has never been used in war, is a larger conventional weapon.

The psychological effect on survivors or observers is considered an added impact of the weapon.

Asked whether he had authorized the bombing, Donald Trump said: “Everybody knows exactly what happened. What I do is I authorize my military. We have the greatest military in the world and they’ve done a job as usual. We have given them total authorization and that’s what they’re doing and frankly that’s why they’ve been so successful lately.”

Did this bombing send a message to North Korea?

“I don’t know if this sends a message; it doesn’t make any difference if it does or not,” the president said.

“North Korea is a problem, the problem will be taken care of.” He implied that China was “working very hard” on this issue.

Army Gen John W Nicholson, the commander of US forces in Afghanistan, said in a statement that the GBU-43/B was the “right munition” to use against the Islamic State in Khorosan, or Isis-K.

“As Isis-K’s losses have mounted, they are using IEDs, bunkers and tunnels to thicken their defense. This is the right munition to reduce these obstacles and maintain the momentum of our offensive against Isis-K,” Nicholson said.

The blast detonated at 7.32pm local time in the Achin district of the eastern province of Nangarhar, according to the US military.

Sarab, a local resident from Asadkhel in Achin, close to the mountain where the bomb targeted Isis tunnels, said he saw a giant flame before the blast made the ground shake. “It was the biggest blast I have ever heard,” he said. Sarab added that the targeted area had recently been completely occupied by Isis fighters.

“There is no way that civilians were still living there,” he said.

However, a parliamentarian from Nangarhar, Esmatullah Shinwari, said locals had told him one teacher and his young son had been killed. One man, the MP recounted, had told him before the phone lines went down: “I have grown up in the war, and I have heard different kinds of explosions through 30 years: suicide attacks, earthquakes different kinds of blasts. I have never heard anything like this.”

Phone connections are regularly interrupted in Achin and there were no immediate indication of casualties.

Haji Ghalib Mujahed, a local veteran commander, said he felt “tremors” all the way to Bati Kot, a neighbouring district where he is now the administrative chief.

According to the most recent estimates from the US military in Afghanistan, there are between 600 and 800 Isis-K fighters in the country. Most of them are based in southern Nangarhar province, including in Achin.

An American special forces soldier was killed last week in Achin while fighting Isis-K, but a US military spokesman in Kabul, Capt William Salvin, said there was “absolutely no connection” between that death and Thursday’s bombing.

Nicholson’s command said it took “every precaution to avoid civilian casualties”, without defining those steps, but gave no word on the impact to Afghan civilians.

The military said it used the GBU-43/B to “minimize the risk” to Afghan and US forces fighting Isis-K in Achin.

Following the bombing, US and Afghan forces began clearing operations in the targeted area.

An Afghan army soldier told the Guardian, as he was driving toward the targeted area: “The explosion felt like a big earthquake, even in the surrounding districts.”

Trump has said practically nothing about Afghanistan, either as candidate or president. Nicholson told Congress in February that he wanted a few thousand more troops to bolster the 8,400-strong force Barack Obama left to wage America’s longest war, now in its 16th year.

Trump on Wednesday said he would dispatch his national security adviser, HR McMaster, to meet with Nicholson and conduct a policy review. As a three-star army general on active duty, McMaster is outranked by Nicholson, making it difficult for McMaster to resist Nicholson’s recommendations.

The US military is currently facing widespread concerns that its accelerated bombing campaigns in Syria, Iraq and Yemen are increasing civilian casualties. A 17 March strike on a building in Mosul is currently under investigation after killing scores of Iraqis.

US allies have also felt the brunt of escalated US airstrikes. On Thursday, the Pentagon revealed that its Syrian allies in a Kurdish-led ground force, the Syrian Democratic Forces, requested an airstrike on an errant position erroneously believed to be held by Isis. The 11 April strike killed 18 fighters belonging to the Syrian Democratic Forces themselves.

Air Force statistics released on Thursday show that March 2017 was the most intense month of the US-led bombing campaign against Isis in Iraq and Syria, a war nearly three years old. US warplanes fired 3,878 munitions in March, topping January 2017’s previous high of 3,600.

In Afghanistan, US warplanes fired 203 weapons in March, the highest volume since October.

Hamid Karzai, the former president of Afghanistan installed in 2001 by the US and backed by the international community, tweeted that the bombing meant Afghans needed to “stop the USA”.

Trump said on the campaign trail that he would “bomb the shit” out of Isis.
His spokesman, Sean Spicer, said on Thursday the use of the GBU-43/B showed the US “takes the fight against Isis very seriously and in order to defeat the group we must deny them operational space, which we did”.

Describing the bombing at his regular White House press briefing, he told reporters: “At around 7pm local time in Afghanistan last night the United States military used a GBU-43 weapon in Afghanistan. The GBU-43 is a large, powerful and accurately delivered weapon. We targeted a system of tunnels and caves that Isis fighters used to move around freely, making it easier for them to target US military advisers and Afghan forces in the area.”

He refused to answer further questions about the bomb at his regular press briefing, referring journalists to the Department of Defense.


The Guardian, Thursday 13 April 2017 18.30 BST

US drops largest ever non-nuclear bomb on Isis affiliate in Afghanistan, military says

GBU-43/B, known as the ‘mother of all bombs’, dropped for the first time, to target ‘tunnel complex’ used by Islamic State in Khorosan


Spencer Ackerman in New York and Sune Engel Rasmussen in Kabul
Additional reporting by David Smith in Washington

https://www.theguardian.com/world/2017/apr/13/us-military-drops-non-nuclear-bomb-afghanistan-islamic-state


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2017年04月13日

桜が散るまえに…

 さくら、咲いたと思う間もなく、もうさくら、散る!
 見納めなのかな、とヤッホー君の朝キンは清澄公園!

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 さくらが散る前に歌でも、と流しはじめたのが、これ ↓

松田陽子「桜が散るまえに…」
https://www.youtube.com/watch?v=sjd6e8DqXpo

 そしてこの歌の誕生秘話が、これ ↓

 がんで2005年に55歳で亡くなった元都議の新井美沙子さん(生活者ネットワーク)と、闘病生活を支えた夫芳昭さん(60)=多摩市鶴牧=を歌った曲「桜が散るまえに…」を収録したCD「生命〜いのち〜」が今月発売された。作曲したのは、自らもがんと闘った大阪府豊中市出身のシンガー・ソングライター、松田陽子さん(37)
。美沙子さんが亡くなって間もなく3年。今も変わらない妻への思いを優しく歌っている。

 美沙子さんは1987年から多摩市議を2期務め、都議1期目の2003年5月に大腸がんを発病。腰骨、肺、脳へと転移し2005年11月30日に息を引き取った。

 「遺骨は庭にまいてほしい」。そう言い残した美沙子さんだったが、芳昭さんは悩んでいた。「愛した女性の骨を庭にまくなんてできない」

 果たせない約束が気にかかっていた2006年3月、フリーの放送作家の芳昭さんは、知り合いに紹介され、新宿の居酒屋で松田さんと初めて会った。松田さんは2003年、32歳でがんを告知された。その後離婚し、がんと闘いながら幼い長女を育てていた。初対面なのに不思議と話が合った。妻の遺骨の話をすると、松田さんは少し考え込み「庭に桜があるならその下に埋めたら」と提案した。

 自宅の庭には、美沙子さんが植えた桜があった。隣に植えたシラカバが芳昭さんの木、桜が美沙子さんの木と言って笑ったことを思い出した。後日、絹のハンカチに遺骨を包み桜の根元に埋めた。それから1年半後、同じ新宿の居酒屋で酒を飲んでいると、松田さんから電話がかかってきた。「2人の歌を作ったから、明日のライブで歌ってもいいですか」。話を聞いて以来、2人のことが頭から離れなかったという。芳昭さんはその場で携帯メールに歌詞を送ってもらった。

さくらが散る前にあなたに伝えたいことがあるから
(中略)
君がこの世のどこにも居ないこと
ずっと受け入れずに何も見えなかった


 39年前、桜が咲き乱れる東京外国語大のキャンパス(当時北区)で、初めて出会った美沙子さんはブルーのワンピース姿だった。1973年に結婚。明るく話好きで、多くの人と立ち話をした。2人で歩くと、多摩市の自宅から最寄り駅まで倍の時間がかかった。美沙子さんが亡くなる1週間前に渡された手紙の冒頭には「初めて会ったときあなたはピンクのスカーフをしていましたね」。最後まで努めて明るく振る舞っていたが、便せんの文字は弱々しかった。

 次々と思い出がよみがえり、芳昭さんは画面の歌詞を追いながら人目をはばからず泣いた。

 「もう一度僕の人生を生きよう」

 曲を聴いて決意した芳昭さんは2007年、がんと闘う人や支える人たちのメッセージで1週間のラジオ特番「命のうた〜君の笑顔を忘れない〜」を作った。反響を呼び800通を超えるメールが届いた。

 今回制作されたCDは1800枚。芳昭さんも1枚ずつ知人らに手売りして歩くという。「この歌は僕から美沙子へのラブソング。大切な人を失っても、ずっと思いはつながっている。その思いを直接届けたいんです」。価格は1800円(税込み)。問い合わせはユナイテッドジェイズ(072・724・8041)。


2008年8月25日付け毎日新聞都内版【堀智行】
がん:「僕から妻へのラブソング」 闘病支えた夫の思いCDに/東京
◇ がんで死去の元都議・新井美沙子さん
◇ がん克服のシンガー・ソングライター松田陽子さん作曲「桜が散るまえに…」を収録


 イマ、松田陽子さんは:

 熊本県から東京に到着し、広報委員をさせていただく国連UNHCR協会へ。https://www.japanforunhcr.org/archives/1660/

 思えば学生の頃、当時国内粉争が続くスリランカのスラム街で、手足の無い子ども達が家族のために必死で物乞いをしている姿を見て、世界平和のために国連関係の職員になりたいと思った。条件は、4年生大学卒業していることや、3ヶ国語以上話せることなど。
 がんばってスペインへ留学もし、英語・西語・日本語と日常会話をマスターしたのに、外国語大学は受けさせてもらえなかった。幼年期になりたかった歌手の夢も、国連関係の職員の夢も、全く叶わなかった。

 結婚して娘が出来て専業主婦になり、「これでいい。家族だけが幸せで、小さな幸せでいい」と、思った。
 恵まれた幸せなはずなのに、私の人生はこれで終わるんだな。と、何故か洗濯物を干しながら涙がこぼれていた。

 それから予期せぬ命に関わる病になり、家族が崩壊し、せっかく助けてもらった命なのに、娘と一緒に生き抜くことが出来ず寝たきりになった。

 そこからの国連UNHCR協会との出会い、NPO法人selfの立ち上げ、「私と娘、家族だけが幸せだったらいい」から、「世界の難民も児童養護施設の子ども達もみんな幸せに一緒になりたい」に、変わってきた。

 「自他共に幸福」
 私は、この仏法の言葉が好き。

 私1人では、世界は何も変わらないかも知れない。だけどみんなの力を借りて、明日たとえ地球が滅びても、今日リンゴの木を植えようと思う。


2017-03-27 22:20 松田陽子公式ブログ
国連職員になる夢
http://selfyoko.exblog.jp/25648678/

草野心平(1903-1988)『さくら散る』

はながちる
はながちる
ちるちるおちるまいおちるおちるまいおちる
光と影がいりまじり
雪よりも
死よりもしずかにまいおちる
まいおちるおちるまいおちる

光と夢といりまじり
ガスライト色のちらちら影が
生まれては消え

はながちる
はながちる
東洋の時間のなかで
夢をおこし
夢をちらし

はながちる
はながちる
はながちるちる
ちるちるおちるまいおちるおちるまいおちる


https://www.youtube.com/watch?v=lPvH7DcXcyA


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2017年04月12日

Reflections on World Health Day

 映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を観た4月7日は、世界保健デー!
 定年間近のヤッホ−君の「熱い愛」を込めたお仕事は、と言えば3Kでした。
 からだとこころの健康、そして共済、金(おフランスの人たちのように、キャッシュレス・ライフなんて叫んでいましたね)!
 だからもっと敏感になっててもいいはずなのに、素通りしちゃって、ま、めっ!

 禁煙か分煙か――。厚生労働省の受動喫煙対策を強化する法改正案をめぐり、与党内から異論がでて法案提出が見通せない中、世界保健機関(WHO)のダグラス・ベッチャー生活習慣病予防部長が4月7日、塩崎恭久厚労相を訪ね、公共の場での屋内完全禁煙を要請する文書を渡した。
 WHOのマーガレット・チャン事務局長による厚労相宛ての文書は、受動喫煙のない東京五輪の実施や、飲食店や事業所を含む公共の場での国レベルでの禁煙を求めている。
 文書を受けた塩崎厚労相は「(現在の法改正の)厚労省案を下回らない水準で、対策をとらなければならない」と述べた。
 ベッチャー氏は世界保健デーの7日に合わせて来日。東京・新橋の飲食店の視察もし、「分煙では不十分。たばこを吸う場所で食事をするなんてありえない」と話した。
 厚労省によると、日本の規制は、WHOの4段階評価で最低に分類されている


2017年4月8日05時00分更新、朝日新聞デジタル(福地慶太郎)
WHO、完全禁煙要請 「喫煙場所で食事、ありえない」
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12882279.html?rm=150

 今年、2017年のテーマはといいますと、デプレッションDepression!
 この意味を英英辞典で引きますとこんなふうに説明されているのですよ:

 ≪ a feeling of sadness that makes you think there is no hope for the future

 世界保健機構(WHO: World Health Organization)は1948年4月7日に設立された。以来4月7日を世界保健デーと定め、国際保健において重要性の高い健康課題を取り上げ、世界規模で啓発活動を展開している。
 2017年の健康課題は「うつ病 (Depression: Let’s Talk)」である。精神保健が世界保健デーに取り上げられるのは、2001年の「精神保健:偏見・差別をやめて、もっとケアを(Mental Health:Stop exclusion―Dare to care)」以来である。

 うつ病は、世界全ての人に関係し、どの国でもどの年齢層でもどの社会背景でも患いうる疾患である。うつ病を患うと、何気ない日常を営むことすら難しくなり、仕事に支障を来したり、人間関係を損ねたりと生活に大きな影響を及ぼし、最悪の場合は自殺に至る。世界で3億人がうつ病に罹患していると言われ、年間少なくとも80万人が自殺で死亡し、自殺は世界の若者の死因の第2位である。
 また、日本の12ヶ月有病率(過去12カ月に経験した者の割合)は1〜2%、生涯有病率(これまでにうつ病を経験した者の割合)は3〜7%である。

 うつ病は社会的要因、心理的要因、身体的要因が絡み合って発症するものだが、特に貧困、人生に悪影響を与える転機(失職、死別など)、アルコール・薬物乱用、身体的疾患は危険因子とされている。これらを避けたり、適切に管理・克服することが予防につながる。
 また、効果的な治療も開発されており、精神療法(認知行動療法、対人関係療法など)や薬物療法(抗うつ薬など)やその組み合わせが用いられる。

 このように、うつ病を患うことは、本人、友人や家族にとって負担であるとともに、社会・経済活動にも影響し、会社や国にとっても負担である。
 しかし、世界でうつ病対策が不足しており、適切な予防・治療が広がらないのは、うつ病の正確な知識が世界的に欠如していることと、うつ病を話題から外そうとする偏見が原因であるとWHOは指摘する。
 今回の世界保健デーをきっかけに、まず多くの人がうつ病について知り、そしてうつ病で困っている人が支援を求めることができ、さらに周囲の者が適切に支援を提供できるようになると良い。
 つまり、信頼出来る誰かとうつ病について話せることは、うつ病からの回復の第一歩であると言える。
 Let’s talk


世界のうつ病
東京大学大学院医学系研究科精神保健学分野博士課程 杉浦寛奈
http://wmh.m.u-tokyo.ac.jp/gmhw/

 マレーシア紙『The Star』での評論を次に紹介します:

KUALA LUMPUR: Japan's Crown Prince Naruhito will be accorded an official welcome on his first official visit to the country.

Naruhito, 57, is expected to arrive in Malaysia on Thursday for a four-day official visit marking the 60th anniversary of Malaysia-Japan diplomatic ties.

During his time in Malaysia, the Crown Prince is scheduled to have lunch with Prime Minister Datuk Seri Najib Tun Razak and attend a state banquet hosted by the Yang di-Pertuan Agong Sultan Muhammad V.

He is also scheduled to attend a commemorative tree-planting ceremony at Universiti Malaya and speak to former and prospective overseas students of Japan.

Associated Press reported that Naruhito, the oldest son of Emperor Akihito, said at a rare news conference at his palace that he looks forward to learning from the country's experience in using its ethnic, religious and cultural diversity as a source for development.


The Star, Published: Wednesday, 12 April 2017 - MYT 2:03 PM
Japan's Prince Naruhito to visit Malaysia on Thursday
By Natasha Joibi
http://www.thestar.com.my/news/nation/2017/04/12/japans-prince-naruhito-to-visit-malaysia-on-thursday/
 
 あ、この記事は、皇太子が初めての4月13〜17日の日程でマレーシアを公式訪問することについて書かれていまして、「世界保健デー」についてはこちら ↓

There is nothing as precious as good health, the basis of life itself. But the goal of providing healthcare for all is still elusive. 

WHAT is the most precious thing in the world which unfortunately we take for granted and realise its true value when it is impaired? Good health, of course.

In the last Global Trends, I wrote about the importance of water on World Water Day.

On April 7 we celebrated World Health Day.

Water and health are the most critical things in our daily life. In the 1980s, the World Health Organisation’s director-general Half-dan Mahler steered through a declaration with the popular slogan “Health for all by the year 2000”.

We crossed into the 21st century without realising that noble goal. Although health has improved in most countries, due mainly to cleaner water and sanitation and also better treatment, much remains to be done.

In recent years, the slogan “Health for All” has been strengthened by the recognition in the United Nations of health as a human right. It has been further boosted by the adoption of the principle of universal healthcare.

This means that no one should be deprived of healthcare, even if he is too poor to afford it.


Unfortunately, while the prices of old medicines whose patents have expired have gone down, there are many newer medicines which are too expensive for the ordinary person to afford.

That’s because a company that owns the patent has a monopoly over the production and sale of the medicine.

Since there are no competitors, the price can skyrocket to high or even astronomical levels. The pa--tent normally lasts 20 years.

For example, the prices of medicines for HIV AIDS were at the level of US$15,000 per person per year in the United States.

For most AIDS patients in Africa and other developing countries this meant they just could not afford them.

Since those medicines were not yet patented in India, because India had until 2005 to implement the TRIPS Agreement of the World Trade Organisation, Indian drug company CIPLA was able to sell and distribute a three-in-one combination drug for about US$300 per person per year.

Later, the price levels of the generic producers fell further to about US$60.

Millions of lives around the world were saved by competitor generic companies which could sell the medicines at a more affordable price.

Health agencies like the Global Fund to fight AIDS, Tuberculosis and Malaria were set up and took advantage of the falling prices to make AIDS medicines available to poor countries.

In recent years a similar storm has been brewing over the prices of new drugs for Hepatitis C, a life-threatening disease which millions around the world suffer from.

One of the drugs, Sofosbuvir, has an efficacy rate of 95% and with fewer side effects, but is being sold in the United States for about US$85,000.

Some generic companies in India are allowed to sell it at their own price level, which is currently around US$200-300 per patient for a course of treatment.

They are also allowed to sell these drugs in India and in lower-income countries at these much cheaper prices.

But they are not allowed to sell in most middle-income countries, including Malaysia, which has around 300,000 people with Hepatitis C.

What can be done?

While the TRIPS Agreement pa--tents for genuine inventions, countries are also allowed to issue a compulsory licence or a government use licence to import or manu-facture the patented drug, if the original medicine is found to be too expensive.

The patent owner will receive remuneration from the generic company or the Government for making use of or selling the generic product.

Countries can also carefully examine a company’s application for patents and reject those that are not genuine inventions, for example if a new patent is applied for with just a different dosage or use for another disease.

There are many new medicines already in existence or coming on stream that are patented and therefore out of reach of most patients.

This tension between monopoly for patent holders (usually the big drug companies) and access to me--dicines for all has become very strong and there are social movements around the world that are fighting for patient’s rights and against excessive monopolies by companies.

Another interesting recent deve-lopment is the recognition that consumption of too much sugar can lead to and has led to an epidemic of many ailments, such as obesity, heart problems and diabetes.

The authorities in more and more countries are taking action to limit the sugar content, for example, of soft drinks.

The WHO has guidelines on sugar consumption and on how to avoid excessive sugar in many foods, especially those taken by children.

For World Health Day, consumers should resolve to cut down on sugar in their drinks and food.

An emerging threat that endangers human life is the resistance of bacteria and other pathogens to antibiotics and other antimicro-bials.

Many antibiotics can no longer work on an increasing number of patients in a wide range of ailments, including TB, malaria, gonorrhoea and stomach ailments.

Diseases that were once easily cured are now developing resis-tance, meaning the drugs don’t work anymore.

We have stark warnings from top public health offices like WHO director-general Margaret Chan and the Britain’s Chief Medical Officer Dame Sally Davies, that we are approaching a post-antibiotic era.

In the future, even a simple scratch on a child’s knee or infection during surgery could lead to death, according to these officials.

Last September, political leaders meeting at the UN General Assembly pledged to take serious action to deal with antibiotic resistance.

A coordinating group from UN agencies and selected individuals has been formed to review the si--tuation and to recommend further action.

Finally, the World Health Assembly next month will be electing a new director-general for WHO.

There are three candidates from Pakistan, Ethiopia and Britain.

May the successful candidate do a superb job in addressing all the ailments, diseases and problems in world health.


The Star, Published: Monday, 10 April 2017
Reflections on World Health Day
By Martin Khor
http://www.thestar.com.my/opinion/columnists/global-trends/2017/04/10/reflections-on-world-health-day-there-is-nothing-as-precious-as-good-health-the-basis-of-life-itself/

 そうなんですよう、健康と水は「商品化」しちゃいけませんよね、藤田孝典さん!


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きらめく星座

エノケン(1904-1970)

 1904(明治37)年10月11日東京青山にて、喜劇王と呼ばれた「エノケン」こと榎本健一が生まれました。幼い頃に母を亡くし、川越に住む母方の祖母のもとで育てられました。祖母の死後は父親のもとに戻されますが、父親とは何かと対立。中学を登校拒否してしばしば家を飛び出し、親戚の家を渡り歩く生活を続けます。そんな中で彼を一番よく面倒見ていたのが、後に彼のマネージャー役となる叔父の榎本幸吉でした。

 南洋や満州へ行きたいとか、外国航路の船員になりたいとかいった冒険心に揺れたあげく、役者になりたいという希望から、浅草の人気劇団・根岸歌劇団の歌手・柳田貞一に入門、やがてこの歌劇団のコーラスボーイに採用されます。これが「エノケン」の役者人生の出発点でした。

 彼は歌もうまくまた覚えが良かったので、急速に頭角を現して行ったようです。そのまま順調に行っていれば、彼は大オペラ歌手になっていたかも知れませんでしたが、ここに関東大震災が襲いかかりました。

 浅草の劇場はみな壊滅。根岸歌劇団も舞台のある場所を求めて地方巡業をしますが、当時浅草だからこそ奇跡的にオペラが成立したのであって、地方で客を呼ぶことはできませんでした。劇団は自然消滅。彼は小銭稼ぎのため、京都嵐山で何人かの仲間の団員と組んで野外コントを上演。この経験が後の彼の喜劇のベースとなったようです。

 東京が復興してきたところで彼は浅草に戻り、1929年浅草公園水族館の2階のレビュー「カジノ・フォーリー」に参加します。しかし客が入らず2ヶ月で閉鎖。経営者は別の劇団を誘致しようとしたようですが成功せず、榎本に君がやらないかと持ちかけます。そこで彼は昔の仲間に声を掛け「(新生)カジノ・フォーリー」を結成。榎本の原案と演出で、コントが上演されるようになりました。

 この新しい劇団はたいへん好評で、ここに熱心に通った若き川端康成などの紹介で全国にもその名が知られるようになり、水族館には毎日大勢の人が詰めかけてきて(水族館の入館料を払うと「余興」のカジノ・フォーリーが見られる仕組み)、客席は連日満員でした。

 榎本はその後、この水族館を出て観音劇場、玉木劇場と移動して、やがて浅草オペラ館で「ピエル・ブリアント」を結成。ここでお金の計算が全くできない健一に代わって叔父の幸吉を経営者に迎えました。なお、観音劇場時代の文芸部長がサトー・ハチロウでした。

 この「ピエル・ブリアント」に注目したのが松竹でした。松竹は榎本と高額のギャラで専属契約。彼の劇団は浅草や新宿の松竹座に出演することになります。あわせて1934年からはPCL(現東宝)と提携して映画も制作、太平洋戦争へと突き進んでいく暗い世相の中、彼の劇団の笑いはつかのまの庶民の心の安らぎとなりました。

 戦後は焼け野原になった浅草に代わって、日比谷の有楽座で活動開始。この時ブギウギの笠置シヅ子と共演。この強烈な個性のぶつかり合いは新しい日本の価値観を求める大衆に支持され、エノケン一座は第三の黄金期を迎えます。この共演は1950年頃まで続きますが、この年榎本は公演中に突然倒れます。左足の激痛。脱疽でした。

 彼の入院でエノケン劇団は解散。この時は何とか1ヶ月ほどで退院にこぎつけますが、2年後再発。今度は右足でした。入院した慶應病院で右足を切断しなければならないと告げられますが、彼はそれを拒否して東大の大槻正路博士を訪ね、博士の治療によって右足の指の切断だけで何とか済ませます。

 リハビリを経て、1953年まずはテレビで復帰。1955年には舞台にも戻って来ました。そしてその年の秋、彼は柳家金五郎・古川ロッパと組んで「アチャラカ誕生」を上演。これまでの喜劇の集大成ともいうべきもので、喜劇にまた新しい時代を作り出すものでした。この時の出演者に三木のり平、トニー谷らがいました。

 ここで「アチャラカ」というのは洋物を意味する「アチラ」と、チャラにするなどといった時に使う「チャラ」の合成語で、要するに計算し尽くされたドタバタ喜劇を指します。この豪華メンバーだからなしえたものでしょう。

 その後もエノケンは舞台でTVで映画でと精力的な活動を続けます。1960年には長年の功績を称えて紫綬褒章が贈られました。この時、舞台で共演した森光子がエノケンと喧嘩するシーンで森がアドリブで「紫綬褒章までもらっておいてアチャラカなんかやってんじゃないよ」というと、エノケンは「アチャラカやってたからもらえたんじゃないか」と応酬したとのことです。

 しかし病魔が彼をまた襲います。1962年右足の脱疽が再発。今度は右足の腿から下を切断せざるを得ませんでした。手術が終わってしばらくした時、彼の病室を訪ねた人物がいました。チャップリンと並び称された大喜劇俳優ハロルド・ロイドでした。

 ロイドは自分の右手を見せこういいました。「私も撮影中の事故でこのように親指と人差し指を失いました。ハリウッドにも片足を無くして義足で頑張っている俳優はいます。次に日本に来る時はあなたがまた舞台や映画で活躍しているところを見たい」

 エノケンは再び再起。特製の動かしやすい義足をつけて、TVや舞台に臨みました。そして亡くなる前年までTVや舞台で活動を続けました。

 1970年1月7日14時50分。肝硬変のため日本大学駿河台病院にて死去。享年65。
 その生涯や若き日の姿は後に彼と共演したこともある坂本九によっても演じられることになります。


http://www.ffortune.net/social/people/nihon-today/enoken.htm

 戦時中は、と言えば、こんなエピソードがありました:

 その栄光の日々にも暗雲が…。1937(昭和12)年7月の日中戦争勃発です。そしてその2ヶ月後、喜劇作家の菊谷栄の元に一通の手紙が届きました。召集令状――いわゆる赤紙でした。故郷青森の部隊に合流すべく、菊谷は一旦帰郷。いよいよ出征の日を迎えました。一方、エノケンは、新宿で菊谷の脚本作品「ノー・ハット」を上演中。

 そこに、「菊谷を乗せた列車が品川駅を通過する」という知らせが入ったのです。すると彼は、突然幕前に立ち、観客に向かって深々と頭を下げました。

「今、この本を書いた一座の座付作家が、お国に召されて品川駅を通過します。わがままを言って済いませんが、一時間半だけ暇を下さい。どうかお許しください!!」

 この切なる訴えを聞いた客席からは、「行ってこい!」「みんなこのまま待ってるぞ」と声が上がり、拍手が巻き起こりました。エノケンは、一座を率いて品川駅へと急ぎました。プラットフォームで静かに出発を待つ列車。そこに駆けつけたエノケンは、僅かばかりの停車時間、無二の親友にして、最高の恩人である菊谷栄を激励し、その雄姿を見送りました。そしてこれが、ふたりにとって今生の別れとなったのです。出征から2ヶ月後の1937年11月9日、中国・河郭鎮の激戦で菊谷栄は、敵の銃弾をこめかみに受け即死。35歳の若さでした。日本喜劇界に大輪の花を咲かせようとしていた不世出の才能が、異国の大地で無残に散ってしまったのです。菊谷は自らの死が近づいている事を察知していたのか、激戦の直前、作家仲間に宛てた手紙に次のような言葉をしたためています。

「今こそ本心を語りたいのです。忘れようと努めて忘れ得ない愛着のレビュウです。僕は敵弾にたおれる最後の時迄、レビュウ人として、ものを見るでしょう」

 無言の帰国を果たした菊谷を、エノケンは劇団葬で弔りました。式場では、生前菊谷が愛したジャズが鳴り響いていたそうです。もし菊谷栄が戦死せず、その後も活躍し続ければ、日本の喜劇、そしてミュージカルは現在とは違うものになっていただろうともいわれているのです。


ニッポンを知ろう!日本の喜劇-テレビ朝日
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/137/japan/top.html

 やっぱり戦争しちゃぁいけない、共謀罪なんてもってのほか、と今日もヤッホー君、平和を願っています。
 エノケンとジャズ、そうしたら井上ひさしとジャズも:

井上ひさし(1934-2010)

 劇作家井上ひさしの『きらめく星座』が10年ぶりに上演される。東京・浅草のレコード店を舞台に、太平洋戦争前夜の世の中の空気の移り変わりを描く音楽劇。膨大な資料と奔放な想像力で多彩な作品を生んできた井上だが、本作は実体験を反映させた「私戯曲」と語る。
■ 「大きな潮流つくりたい」
 「生家は田舎(現・山形県川西町)の薬屋。文房具やレコードも売る『文化よろず屋』でした」
 1940(昭和15)年暮れのある夜、警防団の人びとが来て、死別した父が集めたジャズのレコードを次々と割り出す
 「抗議する母。憤る幼い僕を必死に押さえる兄。2人の姿が原体験」

 戯曲に結実したのは45年後の85年。前年に旗揚げした「こまつ座」が井上自身の演出で初演した。
 「敵性音楽」を愛するレコード店主一家と間借り人らの暮らしが、脱走兵の長男を追う憲兵伍長や長女の夫となる傷病兵の登場で揺らぎだす
 「歌や音楽が好きという“憲法”を持つ家に、異なる主義主張の人を入れて、るつぼにしたらどんな変化が起きるかを描いた」と井上。
 1940年の明治節(11月3日)から1941年の開戦前夜(12月7日)までの約1年間を、当時の流行歌を織りこみながらつづる。
 「一家の運命は人間の運命に似ている。せっかく生まれてきたからには楽しく生きたいのに、どうして力のある人が弱い人を道具にするのか。そんな思いをこめた

 二つの意味で、その後の井上の歩みを決めた作品だ。
 ひとつは、庶民の暮らしから歴史のうねりを描く作劇術を確立させたこと。『きらめく星座』に『闇に咲く花』『雪やこんこん』(ともに1987年初演)を合わせた「昭和庶民伝三部作」は、再演を繰り返す代表作となった。
 もうひとつは、この作品の再演(1987年)を機に演出を自らに禁じたことだ。「演出は面白すぎて、僕の場合は続けたら物書きとしてダメになると思った。一番楽しい場所から一歩引き、しっかりした芝居の設計図を書くことに専念しようと決めた」
 1999年以来6演目の今回はこまつ座とホリプロが初共催。初演時に演出助手をつとめた栗山民也の新演出で、リンパ腫を克服した元宝塚トップスターの愛華みれをはじめ、久保酎吉、阿部力、前田亜季、木場勝己らが出演する。
 井上は言う。
 「北朝鮮のミサイル問題を見ても、ムードに流される日本人の風潮は変わらない。こまつ座の芝居は時々の時流や流行の最先端ではないが、もう少し大きなところで潮流をつくりたい

2009年4月16日付け朝日新聞デジタル(藤谷浩二)
『きらめく星座』10年ぶり上演
井上ひさしの実体験

http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY200904160210.html

 『きらめく星座』は、灰田勝彦の戦前のヒット曲の題名に由来している。
 舞台は第2次世界大戦の直前、日本の社会が軍国主義と侵略戦争の泥沼に半分おぼれかかっていた重苦しいねずみ色の時代の浅草、そこに洋物レコードを置くレコード店があった。
 鬼畜米英、横文字排斥、敵性音楽排斥の政策の中で、一家は明るい外国音楽が大好き、時代が暗いがゆえにこそ明るさを求める思いはひとしお。
 作者は暗い夜を明るくするために「きらめく星座」、暗雲を払うために「私の青い空」、押しつぶされた私生活と青春を取り返すために「小さな喫茶店」を登場人物に歌わせる。
 一家の音楽好きの一人息子は志願して陸軍に入るのだが、そこで音楽のための耳を大砲の音で蹂躙されて脱走、それ以来この家は憲兵の絶えざる監視のもとに置かれることになる。
 暗黒の時代に何とか光り輝く明るい世界を作ろうとした一家が、結局は時代に押し流されて破滅していく運命を最後に暗示しながら、作者はむしろそれに屈せずに、今の一瞬を輝く一瞬に作り替えようと懸命に努力する家族の様を描こうとしているのだと思う。
 いかなる時代のいかなる人間にも、今の瞬間を幻想の力を借りてでも幸福に生きる権利があるはずだ、きらめく世界、青い空の世界はいつ来るとも知れぬ未来にお預けにされてはたまらない、こんなことを作者は訴えたいのではないかと思う。
 作者によれば、ユートピアは革命が実現された後の世界、あるいは死後の天国極楽の世界、遠い過去(古典古代、アルカディア、縄文時代)、遠い外国(モアのユートピア島、西洋近代)といったところにあるのではなく、今現在にあるのだ、あらせるべきだということになるのだろう。

元明治大学政治経済学部准教授生方卓(1946年生まれ)のページ
井上ひさし「きらめく星座」を観る
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~ubukata/oriori/ori_files/1996/0318_1.html

 では、ここで灰田勝彦(1911-1982)『きらめく星座』:
https://www.youtube.com/watch?v=F_g6HHuEGlk

 そして「こまつ座」では第120回記念公演として2017年11月、紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA にて『きらめく星座』を公演予定です。見逃せません!


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2017年04月11日

せまいながらも楽しい我家

 なんでしょうね、深川に別離の友思う春の雨。
 これは映画『ララランド』の影響でしょうか。
 もう半世紀も前、ヤッホー君の部屋に入るなり
 木刀を買った、素振りをするんだ、といきなり
 全国回ってさ、今日から道場破りを夢とする!
 どこを回ったか、イマじゃ知る術も伝手もなし
 「れきはくジャズコンサート」から3曲だけ特選!
 ひとつは Memories of You、
 ふたつめは Dream、
 最後に My Blue Heaven、
 おまけに Get Out and Get Under the Moon.

Frank Sinatra "Memories of You"
https://www.youtube.com/watch?v=4iuA24wrOF8

Rosemary Clooney & Benny Goodman "Memories of You"
https://www.youtube.com/watch?v=26EVJzc0m8g

 フランク・シナトラ(1915-1998)ですか、20世紀の美声!
Waking skies at sunrise
Every sunset too
Seems to be bringing me
Memories of you

Here and there, everywhere
Scenes that we once knew
And they all just recall
Memories of you

How I wish, I could forget those
Those happy yesteryears
That have left a rosary of tears

Your face beams in my dreams
'Spite of all I do
Everything seems to bring
Memories of you

And your face beams in my dreams
'Spite of all I do
Everything seems to bring
Memories, just memories of you


 ベニー・グッドマン(1909〜86)だって!20世紀の巨匠!
 映画『ベニー・グッドマン物語』(The Benny Goodman Story – One O’Clock Jump 1955)もありました!
https://www.youtube.com/watch?v=Z2Z1DWIgfCs
https://www.youtube.com/watch?v=Wtm9YUGnqNA

 さらに、Manhattan Jazz Orchestra で"Dream"(1943)
https://www.youtube.com/watch?v=5Sp_iwq0aag

 このJohnny Mercer(1909–1976)もすごい! 

"Moon River" For the film Breakfast at Tiffany's(1960)
https://www.youtube.com/watch?v=lDJJLZVkYqs
Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Oh, dream maker, you heart breaker
Wherever you're goin', I'm goin' your way
Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end, waitin' 'round the bend
My huckleberry friend, moon river, and me
(Moon river, wider than a mile)
(I'm crossin' you in style some day)
Oh, dream maker, you heart breaker
Wherever you're goin', I'm goin' your way
Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after that same rainbow's end, waitin' 'round the bend
My huckleberry friend, moon river, and me
(Moon river)
(Moon river, ooh)


"Days of Wine and Roses" For the film Days of Wine and Roses(1961)
Johnny Mercer Sings The Songs Of Johnny Mercer -The Days Of Wine And Roses
https://www.youtube.com/watch?v=v3Dl4-I6UVc

 さ、最後はですね、『私の青空』("My Blue Heaven"、1927)
夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて辿(たど)るは わが家の細道

せまいながらも 楽しい我家
愛の灯影(ほかげ)の さすところ
恋しい家こそ 私の青空(繰り返す)

Whippoorwills call, evenin' is nigh
Hurry to my Blue Heaven
Turn to the right, there's a little white light
Will lead you to my Blue Heaven
You'll see a smilin' face, a fireplace, a cozy room
Little nest that nestles where the roses bloom
Molly and me, and the baby makes three
We're happy in my, in my Blue Heaven
You're gonna see a smilin' face, fireplace, cozy room
And a little nest nestled where the roses bloom
Just Molly and me, and the baby is three
We're so happy in my Blue Heaven
We're happy in my Blue Heaven
We're happy in my Blue Heaven!
  

Gene Austin-My Blue Heaven(1927)
https://www.youtube.com/watch?v=5w-_xbBmXJ4

https://www.youtube.com/watch?v=AaLNCAArmgo

 おっ、ヤッホー君、宵から夜へ、せまいながらも我家の書庫へと足を延ばし、おもむろに取り出したるは近藤光男『中国名詩鑑賞7 蘇東坡』(小沢書店、1996)!

春夜
春宵一刻直千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)
花有清香月有陰(はなにせいこうあり つきにかげあり)
歌管楼臺聲細細(かかんろうだいこえさいさい)
鞦韆院落夜沈沈(しゅうせんいんらくよるしんしん)

 春の夜のすばらしさは、一刻が千金に価するかと思われる。花は清らかな香りを漂わせ、月はおぼろにかすんでいる。歌声や管弦の音でにぎわっていた楼台も、イマはひっそりと閑まって、ぶらんこが静かにたれている人気のない庭に、夜はしんしんとふけてゆく。

榎本健一『エノケンの月光値千金』(1936)
https://www.youtube.com/watch?v=LQu83rtNYec

美しいシとに出会ったときにゃ やさしくしとやかにシざまずいて
ニヤニヤッとエッヘッヘ笑って手を握りなさい 大声あげず逃げださないならば
「ア、ラ、マ、いけ好かないひとですわね まあ! およしなさいましよ」
てなことを云ったってもう大丈夫 彼女はわたしの両手を待ってます

美しいシとに思いこまれて 朝から晩まで愛の囁き
イヤーンと鼻声で いちゃつくときは 小鳥も仔猫もあら これにゃあ顔負けだ
おっ おっ 愛しいおまえ むね が燃える 「あ、ら、まあ、キマリが悪いわよ」
暁の朝風がしみじみと 二人の愛の巣は ヘッ、へックション、夢だった

"Get Out And Get Under The Moon"(1928)
Whadda you do in the evening
When you don't know what to do?
Read a book?
Play a game?
Every night it's just the same!

Whadda you say if I tell you
How to keep from feeling blue?
My advice is good to take,
And it's easier to do!

When you're all alone, any old night,
And you're feeling mighty blue,
Pick up your hat,
Close up your flat,
Get out, get under the moon.

Underneath the bright silvery light,
You'll be feeling better soon!
Pick up your hat,
Close up your flat,
Get out, get under the moon.

Ba-da-da-da-da-da,
Look, look, look at those stars above,
Ah look, look, look at those sweeties love!
Oh boy, give me a night in June,
I mean it!

When you're all alone, any old night,
And you're feeling out of tune,
Pick up your hat,
Close up your flat,
Get out, get under the moon.

When you make a date, any old night,
You're gonna meet your sweetie soon? (are yuh, huh?)
Well then pick up your hat,
Close up that flat,
Get out, get under the moon.

Underneath that bright silvery light,
You'll be feelin' better soon!
Pick up your hat,
Close up your flat,
Get out, get under the moon.

Ba-da-da-da-da-da,
Walk, walk, kiss me then
Walk again,
And talk, talk, kiss and then
Talk again,
Oh boy, sweethearts are all in tune,
I mean it!

When it's raining out,
Oh stay in your flat,
But on a lovely night in June,
Pick up your hat,
Close up your flat,
Get out, get under the moon.


Nat King Cole - Get Out and Get Under the Moon
https://www.youtube.com/watch?v=eCTLFZhAVI0

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2017年04月10日

れきはくジャズコンサート

 なんでしょうね、深川に別離の友思う春の宵。
 これは映画『ララランド』の影響でしょうか。
 もう半世紀も前、ヤッホー君の部屋に入るなり
 ベース買った、弾き方覚えないと、といきなり
 バイトも夢がないとね、オラぁ〜、ベース弾き
 どこへ行ったか、イマじゃ知る術も伝手もなし

Thelonious Monk - Live In '66 Norway & Denmark concerts
https://www.youtube.com/watch?v=b-aDFlMIglg

Charlie Parker and Dizzy Gillespie - Hot House - 1951
https://www.youtube.com/watch?v=NcTrx0hL1ag

Miles Davis - So What
https://www.youtube.com/watch?v=zqNTltOGh5c

 そうなんですよ、江戸ちゃんまで誘って、興亡を尋ねる日曜日の山歩クラブお散歩会の旅に出る前日。
 土曜日は四ツ谷駅から歩いて「新宿歴博」へ。<れきはくジャズコンサート、レガスまつり 2017>
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/0221/94451/
 出演は新宿トラッド・ジャズトリオ。
 菅野淳史(トランペット)・阿部寛(ギター)・新井健太郎(ベース)
 講堂で昼間だというのにヤッホー君、おいおい、また涙。
 権威をかさにきたり、権力を振りかざす輩にはNO!とはっきり物が言えたあのころ、
 フーテンだったり、アングラだったり、学生運動だったり、若者であふれてた新宿、
 疲れたらジャズ喫茶に入りたった一杯のコーヒーでジャズ聞いて粘ってた若者たち、
 あ、ギター一本でフォークソングも歌ってたね、駅の西口は通路でなく広場だった、
 あ、東口は夜行の電車で向かおうとしている山登りの恰好した若者が座り込んでた、
 だからイマこそ新宿からトラッドジャズにもう一度光をあて、イマの若者に刺激を!

ではおひとりづつ紹介してみましょうか……

CD: 菅野淳史『ATSUSHI KANNO TRIO』(2017年4月7日発売)
01. Swing That Music
02. Black And Tan Fantasy
03. Liza
04. Lotus Blossom
05. You're Getting To Be A Habit With Me
06. It Don't Mean A Thing
07. Should I?
08. Under A Blanket Of Blue
09. Riverboat Shuffle
10. Do You Know What It Means To Miss New Orleans
11. Panama
12. There's A Small Hotel
13. West End Blues

“菅野 淳史トリオ”
菅野淳史(tp)、大橋高志(p)、矢野伸行(b)

“ほろ苦い大人のトラッドジャズ”
 ほのかな愁いを含むサウンドで、静かに心躍るひとときを…。
 僕がジャズに取り憑かれた頃、ジャズは“ほろ苦い大人の音楽”でした。
 一杯のコーヒーで粘り、ひたすら耳を傾けるジャズ愛好家たち。
 その雰囲気が今でも好きで、トラッドジャズをそんな風に演奏したい…
 当時の空気を知る、敬愛する先輩ミュージシャンを口説いて「菅野淳史トリオ」を結成し、アルバムが完成しました。
 トリオで奏でる“ほろ苦い大人のトラッドジャズ”をお楽しみください。


2017年3月29日(水)
トランペッター菅野淳史(1974年生まれ)のサイト
http://tp-kannoatsushi.cocolog-nifty.com/blog/cat39918021/index.html

“El Cumbanchero” Atsushi Kanno(Hiraring Tokyo Quartet)
https://www.youtube.com/watch?v=Xv1iW2XmCCM

阿部さんに聞く
 祖父は勤勉で、そして三味線やお琴が好きな人でした。
 その影響でか、父はマンドリンを弾き、祖父は勤勉で、そして三味線やお琴が好きな人でした。
 その影響でか、叔父たちはそれぞれ歌を歌っていたり、ジャズ・ピアノを弾いていたり、、、という感じで、ウチは割りと音楽に恵まれた環境でした。

 もともとウチは東京の押上あたりにありましたが、東京大空襲で焼けてしまい、川崎に引っ越し、そこで私が生まれました(1993年に40歳を目前にする、1954年生まれ)。

 子供の頃、よく音楽を聴きました。
 その頃聴いた音楽ですか?
 父がその頃、出始めの「オープンリールデッキ」を持っていて、ラジオで流れていた音楽を録音して聴いたりしていました。
 ポピュラー・オーケストラものなどよく聴きました(小学生の頃)。

2012年09月07日、ギター、バンジョー奏者、阿部寛Homepage
阿部サンに聞く@
http://abegtrbj.grupo.jp/blog/587058

Duke Ellington - Caravan - Orchestra version
https://www.youtube.com/watch?v=emE6QGaRPHs

新井健太郎 Kentaro Arai (bass)
 1982年横浜市生まれ。
 14歳でエリクトリックベースを弾き始める。
 早稲田大学進学後、ニューオルリンズジャズクラブに所属、コントラバスバスを演奏。
 学生時代にこの分野の聖地であるニューオーリンズを訪問し本物に触れること2回。
 現在は都内を中心に、阿部寛「新宿アコギの会」(注)、松本耕司「スヰング評議会」、「マルカートバンド」、「lucy」などでレギュラー演奏。


http://www.impetus.ne.jp/tsdsweb/french-swing-dance-night/

 トラッドジャズとはなに?

Trombonist Chris Barber, now 86, is the last big-name trad jazz survivor and on 9 September the current incarnation of his group will play a celebratory concert in London to mark his 67th year as a bandleader. The official histories insist that trad abruptly crashed and burned, brushed aside by rock’n’roll, then was comprehensively decapitated by the arrival of the Beatles in 1962. But trad couldn’t be stuffed back into the bottle that easily, and residual traces of the music, not to mention wholesale borrowings, run deep through the DNA of British pop.

At a time when American radicals such as Charles Mingus, Ornette Coleman and John Coltrane were pushing towards increasingly urgent expressions of musical abstraction and political freedom, Chris Barber was recording reconstructions of early ragtime and taking meticulous care to faithfully invoke the texture of early New Orleans groups. This was music that gripped British youth for the same reason that screwball comedies or gangster films had captured their imagination. Slices of mythic America could now be part of everyday British life. Perhaps the music also reawakened a sense of purism in its adherents.


The Guardian, Last modified on Tuesday 14 February 2017 17.39 GMT

Trad jazz: don't mock it - it's part of British pop's DNA

Unloved, untrendy and underappreciated, British traditional jazz has a chequered history, but its influence - and its performers - survive and resurface in unlikely places


By Philip Clark
https://www.theguardian.com/music/musicblog/2016/sep/08/british-traditional-jazz-chris-barber-band-humphrey-lyttleton-acker-bilk

(注)阿部寛「新宿アコギの会」
 現代のジャズではギターといえば電気ギターですが、私達は電気を使わないアコースティックギターをP.A.無しで演奏しますので、もしかすると世界で一番音の小さいジャズバンドかもしれません。
 ライブの後の反省会で、一般の人が聞いても何をしゃべっているのかがわからないくらいのマニアックなギター談義をするのもバンド活動のメインだと考えられている節もありますが、頻度は少ないもののちゃんとライブ活動を行っています。
 カーブドトップ・ギターの至高の音色と最高の選曲で聴く人を魅了します。
 現在、稀に地方公演をする場合もありますが、新宿三丁目「銅鑼」(新宿区新宿3-9-5 ゴールドビルB1)を中心にライブさせていただいております。
 随時出演依頼を受け付けており、皆様方のご招聘をお待ちしております。
 サポートとして、コントラバスとシロフォンが参加することもあります。

http://www.archtop.jp/akg48/

 新宿アコギの会メンバーの瀬谷徹さんは、ジャズSPレコードコレクターとして世界的にも有名です。
 今年はジャズが録音されて100年という記念すべき年です。
 瀬谷さん主催による表題の催しが、アコギ会のホーム・新宿三丁目「呑者家銅鑼」で開催されます。
 ゴールデンウィークの昼間、貴重な新品同様のSPレコードを聴きながらジャズ録音100年に浸って下さい。
 途中、ジャズ録音100周年記念セッションバンドによる演奏があります。
 一流ミュージシャンによるトラッドで古いジャズの新鮮な演奏をお楽しみ下さい。
 日時:2017年5月3日(水・祝)午後1時から

http://www.archtop.jp/2017/04/04/100th-anniversary-sp/

 新宿文化センターで行われる「春の楽しいジャズ祭り」に出演させていただきます。
 この催しは、館内14会場で40分刻みのライブが楽しめます。
 出演はプロからセミプロまで在関東の実力バンドが100を超すのではないでしょうか。
 関西や地方からの来演もあるようです。
 演奏されるジャンルも戦前のジャズを中心に周辺の音楽となっております。
 新宿アコギの会は、16:30〜17:10の間、大ホールホワイエ3階(3階ロビー)にて演奏します。
 11:00開演〜20:30終演(入退場自由)
・会場
 新宿文化センター 全館14会場

http://www.archtop.jp/2017/04/04/100th-anniversary-sp/

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2017年04月09日

弘法山2371m

 4月9日日曜日、山歩クラブ2017年度第一回目山行日。
 山域は神奈川県秦野市!
 土曜日夜、雨で行きません連絡多く、ホントにそうかな、とヤッホー君。
 天気予報チェックに入り、行く予定の方には「土曜日は朝から昼まで弱い雨パラついてましたが(降水量0ミリ)、午後からは上がって曇り。日曜日も曇り、降水量0ミリ。ですので予定通り実施します」と連絡しました。
 でも、しかし、だけど、お集まりいただいた仲間は5人。
 しかも今日は、午後の早い時間に小一時間ほど、弘法山から吾妻山に向かう山中で本降りの雨。
 濡れちゃいました。
 お風呂入ってさ、同じ濡れたズボン履くの嫌だよね、と結局立ち寄り湯に入らずじまいで急行電車で下町へ。
 ヤッホー君から一斉報告メールが発信されたようです:

 良い山域をおすすめしてくださって高畠さん、ありがとう!
 でもせっかく開いたのに桜の花びらもかわいそう、この雨には勝てないようでして。
 今日は、秦野市の昨夜の天気予報では降水量ゼロミリの曇りのはずだったのに行ってみたら午後、本降りになって傘さしながらの山歩き、でもこれまた良し!
 だけど立ち寄り湯はなし、早めに撤退、ということで電車のなかで労をねぎらい合いました。
 ヤッホー君は、地酒「相模大山純米酒」(注1)!

 だけど濡れた着物で気持ち悪くてヤッホー君、自宅に帰ってから、自転車で銭湯に行き体を温めてきました。
 あの映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を観た影響なのかも、ね。

 江戸ちゃんも今日は参加。
 だってヤッホー君、お大師さまのことがあるからお誘いしてのであります。
 平安時代初期の僧空海は、774年に讃岐(さぬき)の国(現在の香川県善通寺)で生まれ、835年高野山で62歳の生涯を終えられています。
 これに由来する井戸が「弘法の清水」(注2)で、山は「弘法山」237.1m、帰りは「弘法の里湯」、だから江戸ちゃんは行かねばならないんだと。
 行って良かったって(ホッ)。


■ 弘法の清水 ↓
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■ 権現山2435m展望台 ↓
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■ 弘法山2371m ↓
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(注1)「菊勇」吉川醸造(株)伊勢原市神戸681 Tel 0463-95-3071
 1912(大正元)年、吉川兼吉氏が創業した現在6代続く酒蔵です。
 かつて伊勢原市や隣の秦野市は、葉たばこの産地であり吉川兼吉氏の家は、煙草の製造販売を行なっていました。しかし兼吉氏の代になり、煙草は国の専売になり商売替えを迫られます。
 かつてこの周囲には小さな酒蔵が何軒もあり、新たな事業をするための投資先の1つとして酒蔵を買い取り酒造業へ参入します。
 まだ何をするか定まっておらず、さまざまな事業への投資をされたそうで、その一つの投資先が酒造業であり、味噌、醤油の醸造も行ったそうです。
 現在は日本酒のみ造られていますが、社名が「酒造」ではなく「醸造」であることから、かつてはお酒以外にも味噌や醤油を醸造されていた事が伺えます。
 蔵の主力商品は「菊勇」(きくゆう)。
http://sanoya.jizake.com/e1636.html
http://www.kikuyu.co.jp/index.html

(注2)弘法の清水(臼井戸)の由来
 地元では臼井戸と呼び、湧水地主の代々の言い伝えは次のとおりです。
 夏の暑い日盛りに、一人の法師が立ち寄られ水を所望された。
 妻女は水がめを見たが一滴の水もありません。
 「ただいま汲んでまいりますのでしばらくお待ちください」と、寺の地まで水を汲みにいって立ち返った。
 法師は恐縮し、その親切と労に感謝をし、錫杖を地面に突きさし穴をあけ、「三日たったら、底をくり抜いた臼をここに据え置きなさい。必ず水が出るであろう」と立ち去られた。
 法師の言ったとおりにしたところ臼の中から清水が湧き出してきた。
 臼の中から湧き出る水、臼井戸と呼ばれ、古来この地の地名となり、後に、子々孫々へ語り継がれる中で弘法大師の伝説と結びつき、立派な民話となった。
 この天然の清水は、深い地層の洪積層から湧き出ており、どんな日照りの年でも水が枯れることはなく、水量が日量130トンと安定している。
(地元管理者臼井戸水神講、秦野市観光協会)


全国名水百選 秦野盆地湧水群
 秦野市前身の曽屋村は、横浜市・函館市水道に次ぎ全国で三番目の歴史を有する近代水道を、1890(明治23)年3月に湧水を水源として始めた。
 秦野盆地の地下構造は、地下水を貯留する天然の水がめとなっており、3億トン(芦ノ湖の1.5倍)と推計される豊富な地下水の恩恵を享受してきた。
 しかし、昭和40年代に入り水需要の増大と広域水道の導水路築造工事により、地下水の水位低下と一部井戸の枯渇を経験し、これを契機に昭和45年から秦野盆地の地質や地下水の水収支調査に着手した。
 昭和50年からは、地下水の人工かん養事業と地下水利用協力金制度を始めるなど、水とのかかわりや水に対する意識が大変高い土地柄です。
 1985(昭和60)年には、こうした地下水利用の歴史や地下水保全活動が評価され、「秦野盆地湧水群」が環境庁(現環境省)の選定した全国名水百選に選ばれ、自他ともの認める名水の里となった。
 「弘法の清水」は、長年にわたり地元水神講の皆様が管理・保全し、秦野盆地湧水群を代表する湧水です。
 秦野駅周辺には、多くの湧水や自噴井戸が点在しており、おいしい水の里を散策してみてはいかがでしょう。

名水復活への道のり
 名水選定の喜びも束の間、1989(平成元)年1月にこの「弘法の清水」が、発がん性の疑いのある化学物質「テトラクロロエチレン」に汚染されていると判明、市民に大きな衝撃と不安を与えた。
 当時、地中の汚染物質を取り除く技術は未確立、地下水の入れ替えも困難、不治の病といわれた。
 暗中模索の中で、地下水汚染機構の解明調査に着手し、幸いにも表層土壌の汚染状況や地層・地下水流動を明らかにすることができた。
 1994(平成6)年1月、全国に先駆けて「秦野市地下水汚染の防止及び浄化に関する条例」を施行、市が対象物質を使用した131社を調査、うち基準値を超過した45社を関係事業者に指定し、汚染原因者の負担で詳細調査を行なった。
 汚染状況から浄化費用が200億円と積算され、関係事業者の費用負担が新たな課題となった。
 市では中小事業者の支援策として、土壌ガスを吸引する掃除機のような小型の浄化システムを開発し、無償で貸与する制度を新設。
 大手企業は自ら浄化装置を設置するなど、公民協働で本格的に浄化事業に取り組んだ。
 地中からの回収汚染物質総量は1万7千kg(飲料水に換算すると約60年分の汚染量)を超え、汚染地直下の地下水は急速に改善をみた。
 この効果を早急に波及させるため、市は独自に地下水の人工透析的浄化装置を考案し、1996(平成8)年から浄化事業の更なる推進に努めた。
 こうした市民全体の懸命な努力が結実し、浄化費用を当初積算額の40分の1(5億円)に軽減し、2年間の測定結果、市条例の基準に全て適合したので、2004(平成16)年1月1日、地元水神講の皆様と共に「秦野盆地湧水群」の「弘法の清水名水復活」を宣言した。
(秦野市)

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2017年04月08日

山形市の老舗書店、若さで復活

 4月8日土曜日は、「花まつり」。
 ヤッホー君は脳内彷徨で故郷へ。

 「やまがたコミュニティ新聞」の発刊にあたり、16年ぶりに山形市に帰郷した豊田記者。七日町通りを歩けば、よみがえるのは活気あふれる商店街の思い出。往時と「今」との変化に戸惑いながら、最後に行き着いた実家の跡地で、ぼくは一つの決心をした。

 ぼくの名前は豊田裕一。34年前に七日町で生まれ、山形南高を出て進学のため上京するまで七日町で育った。大学卒業後はそのまま東京で就職、この間、商売をしていた実家が倒産したこともあって、七日町からはすっかり足が遠のいていた。
 ぼくが生まれた1972(昭和47)年ごろは大沼デパートの増築、ジャスコ山形店のオープンなど、七日町がもっとも活気にあふれていた時期にあたる。地元商店主などが設立した丸久デパート、スーパーの「みつます」なども店を構え、ぼくの記憶では七日町は文字通り山形を代表する中心商店街だった。

みつますソングが聞けない!?
 それなのに、この静けさはどうだ。天気のいい週末だというのに、歩いている人も、車もまばら。あとで調べてみると、七日町一丁目周辺の1日の通行量は1990(平成2)年の7332人が直近では4298人まで減っている。悄然としながら八文字屋書店を起点に商店街を北に歩いていく。
 ああ、家電量販店の「電巧堂」がなくなっている。我が家のテレビはここで買った。わき道を入ったところにあった家電量販店のライバル「庄子デンキ」も別の店になっていた。
 編集長に聞くと、家電量販店は全国的に郊外の大型店が主流とか。山形市でも大野目にあるヤマダ電機や若宮のケーズデンキが客を集めており、中心街の店舗はどこも苦しいのだという。ただ「電巧堂」「庄子デンキ」とも会社がなくなったわけではなく、それぞれ「スーパーデンコードー」「電激倉庫」と名前を変えて郊外での展開に活路を求めていると教えてくれた。
 「みつます」はコンビニエンスストアのセブンイレブンに変わっていた。「みつます」の店舗はウナギの寝床のように細長い妙なつくりだった記憶がある。2003(平成15)年6月に倒産したのか。ぼくたちの世代は「そうよ、まっすぐみつますよ」のテーマソングで育った。あの曲はもう聞けないんだ。
 「あっ、ジャスコがあった建物がない!」

ジャスコはどこへ行ったの
 周辺の人に聞くと、ジャスコは1993(平成5)年に撤退し、その後、建物は複数のテナントが営業する商業ビル「CoCo21」に変わったが、施設の老朽化で2005(平成17)年10月から解体作業が始まったという。
 編集長によれば、「CoCo21」は当初は川西町出身の作家、井上ひさし氏が提唱する「七日町劇場」が入る新ビルに建て替える計画だったという。だが紆余曲折の末、跡地には住友不動産が24階建ての高層マンションを建設する予定だとか。七日町通りの南端、「ホテルキャッスル」の向かい側にも、ぼくが知らない高層マンションが建っており、これが七日町商店街にとっていいことなのか、そうではないことなのか、今のぼくには判断がつかない。
 解体作業の写真を高い場所から撮ろうと、道路をはさんだファッションビル「セブンプラザ」に入る。エレベーターで4階まで上っていくと、「閉店セール」のチラシが目に飛び込んできた。鎌倉市に本社がある生地専門店「ケイト屋」だった。
 店長で東根市神町出身の武田英幸さん(54)が話してくれた。
 「25年間、山形のお客様に支えられてきたんですが、本社の決定で7ヶ月後に閉店することになりました。生地を専門に扱う店は山形ではうちだけだったんですが...。うちに限らず、七日町から専門店が姿を消していくのはさびしい限りです」
 くしの歯が欠けるように進む空洞化の実態を痛感しながらセブンプラザを後にする。ぼくがいた当時、「カバンのフジタ」の横から路地を入ったところに東宝系の2つの映画館があった。小さいころは親にせがんで、成長してからは友達と誘い合って(彼女ができなかった!)、数多くの映画をここで観た。懐かしい思いで路地を入っていったが、2館とも営業している形跡はなかった。

思い出の交差点に立つ
 七日町交差点にさしかかる。昔はここの道を挟んだ電柱と電柱の高いところに「七日町商店街」のアーチがかかっていた。
 ぼくの実家は花小路の先の宝林寺の手前にあったので、商店街を進む時は今回とは順路が逆。あのアーチをくぐる瞬間、「にぎやかなところに行くんだ」っていう、ちょっとした高揚感があったのを覚えている。
 でも今、交差点に立って周囲を見回すと、角にあった百貨店の松坂屋、向かい角の老舗の和菓子屋だった梅月堂はなくなっている。
 松坂屋の屋上にあったいろんな遊戯施設は、ぼくにとって、成人後の東京時代に行った東京ディズニーランドのスプラッシュ・マウンテン以上のドキドキだった。

哀愁のシバタモデル
 七日町ではないが、隣接する旅篭町にあったシバタモデルもない。シバタモデル−。なんて懐かしい響きだろう。ガンダムのプラモデル、いわゆるガンプラ全盛期に育ったぼくは、お小遣いの大半をこの店で費やした。新作の発売日ともなると、財布を握り締め、弟と一緒に開店前から並んだりもした。

シャッターが閉じられたままの「郁文堂書店」
 事実上16年ぶりに歩く七日町。七日町交差点を東に折れ、シネマ通りを進む。よく立ち読みをして店のおじさんから叱られた2軒の書店。「郁文堂書店」は週末なのにシャッターが閉じられたままだし、「高橋書店」は洋服屋になっている。焼きそばがおいしかった「ヤマニ食堂」が健在なのだけが救いか。
 ホッとした後、映画館「シネマ旭」の角を再び北に折れ、花小路入り口へと向かう。ぼくが幼少期と青春期を過ごした実家−倒産してしまったため人手にわたってしまったが−はどうなっているのだろう。
 花小路を進む。右手に新しい建物、左手には懐かしいモルモン教会。この教会ではよく卓球をして遊ばせてもらった。そして、その先にあったのがぼくの実家。16年ぶりに訪ねてみたけど、当たり前だけど当時を偲ばせるよすがはなく、跡地には瀟洒な家が3軒建っている。

でも、「あった!」
 不動産屋が撤去し忘れたのだろうか、古ぼけた「不二印刷専用駐車場」の立て看板。不二印刷がぼくの実家だったんだ。もう何もなくなっているだろうと思っていたけど、確かに「ぼく」がこの場所に存在していたという形跡を見つけた。
 ぼくは、これから第二の人生を山形市でスタートさせる。生まれ育った七日町の再生は山形市の大きなテーマだ。この大きなテーマを商店街の人たちや行政の人たち、そして山形市民の皆さんたちと考えていきたい。


2006年9月8日付け山形に徹底して密着したフリーぺーパーやまコミ(やまがたコミュニティ新聞)
ぼくが育った「七日町」は今
http://www.yamacomi.com/897.html

 これが2006年、10年も前の山形市七日町の風景。
 シャッターが閉じられたままの『郁文堂書店』
 それが10年経って実はこんな企てを若い学生が!
 
はじめにご挨拶
 数ある案件の中から、このプロジェクトに興味を持って頂きありがとうございます。
 私は、東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科で学んでいる3年生です。
 山形に住み、そして山形にあるこの大学で学んでいく中で、自分たちが住む地域や、社会で起きている問題に疑問を持っても、実際にどうにかしようと行動を起こす人がいないということに、常日頃違和感を感じていました。
 山形の中心市街地である七日町では、シャッター商店街化が進んでいます。
 何年もの間シャッターが閉まったまま活用されていない空き店舗の姿を見て、とてももったいないことだと感じました。その建物にも歴史があり、物語があります。さまざまな事情により機能を失ってしまった建物に、その歴史を継承しつつ、新しいコンテンツを与えて自分たちの手で、新しい物語を作りたいと考えるようになりました。
 私たちはこのたび CAMP FIRE を通して賛同者を広く集め、七日町にある郁文堂を舞台に「結び」を立ち上げ、街を変えていきます。そして「学生でもまちは変えられる」「まちはみんなで変えていく」そのような思いを持って活動しています。

きっかけ
 かつて七日町は、地元商店主が店を構え、人びとが行き交う活気付いた街でした。しかし近年、地方都市では人口が減少し、それに加えてショッピングモールなどの大型商業施設が増加、通販サイトも発達し充実してきました。
 その影響から、昔から親しまれてきたお店は次々にシャッターを下ろし、空き店舗となっているのです。
 空間はある、しかし魅力的な機能がない。
 そのように感じていた時に、なんとも味わい深い外観と歴史的文脈を持った郁文堂書店が目にとまりました。

 このプロジェクトは、2016/11/08に募集を開始し、148人の支援により1,007,500円の資金を集め、2016/12/24 23:59に募集を終了しました

追沼翼(Tsubasa Oinuma)
 1995年宮城県生まれ。東北芸術工科大学 デザイン工学部 建築・環境デザイン学科在学中。
 2016年デザインユニット OF THE BOX を芳賀耕介と結成。
 山形県中心市街地七日町を『アートの街』にするため、文学を中心に点となる郁文堂書店にてクラウドファンンディングをスタート。
 「学生のちからで街を変えたい」「市民とともに街を変えたい」そのような思いで活動しています。


知の集積場「結び」を山形に作ります!
https://camp-fire.jp/projects/view/12383

 そして、今日4月8日付け毎日新聞夕刊では、じゃじゃ〜ん:

 歌人の斎藤茂吉ら文化人に愛された山形市の老舗書店が4月8日、10年ぶりに復活した。
 昭和初期の創業時から県内外の文化人らが集まったが、不況の波に閉店を余儀なくされた。
 亡くなった店主の妻に力を貸し、再出発を担ったのは地元の大学生2人。
 「地域のサロンをよみがえらせたい」と夢を語る。

 古ぼけた2階建て建物の1階で、シャッターがガラリと上げられた。
 4月8日に営業を再開した「郁文堂書店」。
 外壁の木板は新たに張り付けられたが、看板は往時のまま。
 変色していた内壁は手作業で磨き上げ、かつての輝きを取り戻した。

 1933(昭和8)年に創業し、初代店主の方針で県内の郷土史家や歴史家の自社出版を手掛け、談話室を設けるなど地方文化を発信。
 茂吉は太平洋戦争で疎開中に度々訪れ、小説家・劇作家の井上ひさしや地元の直木賞作家も通った。

 作家の司馬遼太郎は紀行集「街道をゆく」で店を取り上げた。
 2代目店主・原田吉則さん(故人)の妻伸子さん(81)は「郷土料理の芋煮の話で盛り上がってね。たばこの箱の裏側に一生懸命メモする姿が印象的でした」と振り返る。

 その後、通販など本を取り巻く環境は変わり、各地で「まちの本屋さん」が閉店。
 同店も例外ではなく、原田さんが亡くなった2007年、70余年の歴史に幕を下ろした。

 戦前に建てられた店舗に注目したのが、東北芸術工科大(山形市)のデザイン工学部・ゼミ生として、改修先を探していた追沼翼さん(21)と芳賀耕介さん(21)。
 2016年夏に訪れた2人は当初、店舗のリノベーション(大規模改修)を構想したが、伸子さんに話を聞き、店の歴史を刻む店舗の改修を最小限にとどめることにした。

 2人はインターネットで不特定多数の人から資金を募る「クラウドファンディング」を活用し、集まった約100万円を充てた。
 好きな本が読めるスペースを設け、談話室も拡充した。

 全国の書店数は10年前に比べて2割以上減少したといわれる中、追沼さんらは「本好きな人たちが集まる新たな交流拠点にしたい」と意気込む。


2017年4月8日付け毎日新聞東京夕刊【二村祐士朗】
郁文堂書店
茂吉も愛した老舗書店、若さで復活
大学生、ネットで資金募る
山形

http://mainichi.jp/articles/20170408/dde/041/100/029000c

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湯を沸かすほどの熱い愛

 昨日4月7日金曜日のヤッホー君は、万民救済を乞い願い、やっほ、やっほとぶつぶつつぶやぎながら終日、徘徊!
 映画『スノーデン』が最終日と聞き知ったヤッホー君、午後のチョイと暇のできたひととき映画館で過ごそうと!
 しかし満席でダメ、でもこうして佇んでる映画館も何かの縁、と映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を観ることに!

2016/10/29(土)公開 『湯を沸かすほどの熱い愛』本予告篇
https://www.youtube.com/watch?v=CQsS-ekufiM

きのこ帝国「愛のゆくえ」
https://www.youtube.com/watch?v=DskrX3suqb0

第40回日本アカデミー賞受賞者決定(2017.3.3)
最優秀主演女優賞 宮沢りえ『湯を沸かすほどの熱い愛』
最優秀助演女優賞 杉咲 花『湯を沸かすほどの熱い愛』
新人俳優賞    杉咲 花『湯を沸かすほどの熱い愛』
http://www.japan-academy-prize.jp/news/index_news2017.php

 いやぁ、わけもわからず飛び込んだ館内は女性客でこれも満席!

 余命宣告を受けた母と遺される家族の愛を描く感動の家族ドラマ。
 ヒロインが残された時間で家族を成長させようと奮闘する中、家族は、すべての秘密が取り除かれて強い絆で結ばれていく。
 出演は『紙の月』(2014年作品)の宮沢りえ(1973年4月6日生まれ)が母を演じるほか、杉咲花(1997年生まれ)、オダギリジョー、松坂桃李ら、豪華キャストが揃う。
 監督と脚本は『チチを撮りに』(2013年作品)の中野量太(1973年生まれ)。母親と娘、そして家族の強い絆に感動する物語には、予想をもしない驚きと愛が込められた究極のラストが用意されている。

 銭湯・幸の湯を営む幸野家。
 しかし父が1年前にふらっと行方不明になり、銭湯は休業状態だった。
 母の双葉は、持ち前の明るさと強さで、パートをしながら娘を育てていたが、ある日、突然倒れてしまう。
 余命2ヶ月という宣告を受けた双葉は、ショックを受けるが、その日から彼女は「絶対にやっておくべきこと」を決め、実行に移し始めた。
 家出した夫を連れ帰り稼業の銭湯を再開させる。
 気が優しすぎる娘を独り立ちさせる。
 娘をある人に合わせる。
 そして4つ目は誰も知らない双葉だけの秘密だった。
 双葉の行動によって、家族の秘密は取り除かれ、時にぶつかり合いながらもより強い絆で結びついていく。
 そして家族は、究極の愛を込めて母・双葉を送ることを決意するのだった…。
監督:中野量太
出演:宮沢りえ、杉咲花、篠原ゆき子
配給:クロックワークス
公式サイト:
http://atsui-ai.com/


2016年10月21日13時32分更新、西日本新聞
『湯を沸かすほどの熱い愛』
https://www.nishinippon.co.jp/nlp/cinema_pickup/article/283463

2016年10月17日更新、映画.com
今、ある新人監督による珠玉の「家族の物語」に映画界がざわついている! 
業界騒然! 映画ファン驚嘆! 《ラスト》を見れば“語らずにはいられない”
http://eiga.com/movie/82308/special/

 『湯を沸かすほどの熱い愛』で、何事にも熱くてまっすぐで真っ正直なお母ちゃん、双葉を熱演した宮沢りえ。突然、余命宣告された彼女は家出中の夫を迎えに行き、傾きかけた銭湯を立て直し、繊細すぎる娘を自力で生きていけるよう鍛え、残された時間を家族のために精いっぱい使おうとする。母として、娘として、女性として、双葉のことを深く考えずにはいられなかったという宮沢が、何よりも熱かった撮影現場の日々を振り返る。
自分の心にふっと余裕があるときに、ぽんと届いた台本
―― 割と早い段階に出演を承諾したそうですが、台本を読んで、すぐ心が決まったのでしょうか

台本をいただいて読むタイミングって、すごくさまざまで、いま目の前にある作品に集中しているときには、いただいても1ヶ月くらい読めないこともあります。逆に目の前のものに対して客観的になりたいときに次の舞台の台本やオファーしていただいたものを手に取ることもある。今回の台本は自分の心にふっと余裕があるときに、ぽんと届いたものでした。まず、「とても素敵なタイトルだな。どんな内容なんだろう」と思い、監督のプロフィールを読んで、商業映画を撮ったことがないと知り、「自主映画しか撮ったことない監督の作品って面白そう。みんなびっくりするだろうな」とか、いろいろ考えながら台本を読みました。ラストのシーンは脚本でも衝撃的で、限りある命をこういう時間の過ごし方で全うした双葉さんという女性の生きざまにとても興味がわいて、オファーを受けたんです

―― 中野量太監督は宮沢さんと同い年だそうですね。世界の映画祭で評価されて、本作は商業映画1本目の作品でしたが、どんな撮影現場だったのでしょう?

もちろん、自主映画をちゃんと撮られている監督だし、何よりもこの台本を書いた監督だから、なんの戸惑いもなかったです。こういう作品を作りたいという思いがしっかりある。それだけでもうわたしたちは、手取り足取り演出してもらわなくても大丈夫。撮りたいものがはっきりしていることが、演じる上で何よりの原動力になります。スタッフもまた素晴らしくて、この脚本に惚れて、現場に来てくれている人たちの集まりだったんです。みんなが「いいシーンを撮りたい。いい芝居を観たい」という人たちだったので、毎日、ハードルは高かったですけどね(笑)。「これは中途半端なことはできないぞ」という空気が毎日漂っていました。

―― 双葉を演じる際に心掛けていたことはありますか?

やっぱり、自分が好きになった脚本に対して、誠実に向き合うことですね。そういうことを重ねていくことで、スタッフと共演者たちとの信頼関係が膨らんでいく。いままでやってきた作品もそうですけど、今回は特にほとんどが自分の出演しているシーンなので、シーンを重ねるごとに豊かに熱くなっていく現場をすごく体感していました。その温度や密度に背中を押されて演じていた感覚です。特に最初のシーンなんてすごく注目されていて、全員が間隙(かんげき)を縫うようにして、わたしや(娘役の杉咲)花の芝居を見ているんです。心地いい緊張感がありましたね。花はわたしのことをいまでも「お母ちゃん」って呼んでくれるんですが、あの時は撮影後、「怖かったよ、お母ちゃん」って言っていたくらいです。

親として、多くのことを考えさせられた
―― 杉咲さんをはじめ、娘役二人の演技が素晴らしかったですが、宮沢さんが引き出したところも多いと思います。どんなことを意識して、接していたのでしょうか

わたしも引き出してもらいましたし、それはお互いさまです。とにかく正直に接しました。探り合いなんて必要なかったから、できるだけコミュニケーションを取って思ってることしか言わなかった。優しく包みこむような愛情じゃなく、突き放す愛情も表現できたと思います。互いに演じるということを忘れて、遠慮なく対峙(たいじ)できたのがすごく大きかった気がします。

―― 毎日、家族みんなでご飯を食べたり、お互いに秘密を持たず、いつも家族と向き合って接する双葉には感心するところも多いです

わたしも一人の娘を持つ親として、演じながら考えさせられることもたくさんありました。この脚本に書いてある「双葉を生きる」ことで、包むことだけが愛情じゃないと痛感しました。双葉という役は、人間としての豊かさをくれたって思っています。これまでもそうですが、自分が演じた役から得るものっていっぱいあります。

―― 影響を受けることもありますか

もちろん。盲目で三味線を弾く女性の役をやったとき(2016年舞台「元禄港歌、千年の恋の森」)は、目が見えないってどういうことだろうと深く考えました。その人を生きるためには、自分の血と肉と骨と声とで役を表現しなければならない。深く深く考えることで演じてきた役から教わったことはいっぱいあるし、得たものもあります。そういう機会を与えてくれる自分の仕事にとても感謝しています。

一生忘れられない、現場で飲むビールのおいしさ
―― 今回は役づくりのために、絶食もしたそうですね

もともと痩せているので、さらに痩せるのが意外と大変で。大好きなお酒を抜いたり、水分代謝をよくするようにしました。どうやったら、水分が抜けるのか、かなり勉強しましたね。一番病にむしばまれているラストのシーンは最終日に撮ったのですが、わたしのクランクアップの日でもありました。撮影が終わったことと、5日間我慢していたビールを一気に飲んだあの幸せな気持ち。現場でスタッフと乾杯したビールのおいしさは一生忘れません

―― ダメだけど憎めないオダギリジョーさん演じるお父ちゃんと双葉の夫婦関係がまた、面白いです

双葉さんは約束していた旅行に実際に連れて行ってくれる人より、別の形で彼女を喜ばせようとした彼を愛する人なんですよね。それがまたいいなって思う。オダギリさんとこんなにちゃんとお芝居するのは初めてだったんですが、以前から、共演してみたい役者さんだったから、とても楽しみでした。芝居でもそうですが、オダギリさんが双葉に対してすごく愛があるんです。そう感じることで演じてはいるんだけど、嘘がない空気が忠実に流れている気がしました。

―― 自分の演じる役を愛されてるなと感じるというのは、うれしいとか、嫉妬するとか、どんな気持ちなんですか

オダギリさんに「すごくいいよね」って言われて、「あ、双葉が褒められた」と思った感覚しか残ってないんですけど、うれしいものですよ。人って一面性じゃない。二面性だけでもない。多面性がある。わたしは演じるということは、完全に違う人になるわけではなくて、わたしの一面が出ると思っているんです。だって、機械みたいに「今日はこの魂」って入れ替えられるわけではなくて、やっぱり自分でもありますから。その役を愛してもらえたり、共感してもらえたり、時には憎まれたり、そういうこと、とってもうれしいです。

―― 最後にタイトルが出て、多くの人が「そういうことか」と衝撃を受けると思います

ラストの衝撃はわたしも台本を読んでいてありましたね。渦巻く人間の思いや愛とかがすごいうねりを持って、ラストに向かっていく。ぜひ観ていただきたい作品、おすすめです。演じるところを離れると、その後は編集されて、もう監督のものじゃないですか。そうすると完全に観客になるんですよね。面白くないときは「あんまり面白くないよ」ってはっきり言います(笑)。でも、この作品は友だちにも「絶対、観て」って、言います。


2016年10月28日シネマトゥデイ(取材・文:高山亜紀、写真:高野広美)
『湯を沸かすほどの熱い愛』宮沢りえ単独インタビュー
親として、演じながら考えさせられた
http://www.cinematoday.jp/page/A0005245

俳優、女優に求めるものを「感度」という言い方を僕はするんですけど、その感度がまぁ豊かなんですよ(中野)
−− この映画は、双葉と向かい合う安澄の成長物語でもあるように感じました。杉咲さんが安澄を演じることで、それが色濃くなったんじゃないでしょうか?
中野:この映画で唯一、当て書きをしたのが、安澄なんです。もちろん、双葉(宮沢りえ)が主役ではあるんですけど、「残された人がどう生きるか」が常に僕の映画のテーマであるので、今回、残される側の中心となる安澄が成長するシーンはどうしても撮りたくて、この役に相応しいのは誰だろうと考えた時に浮かんだのが、花でした。実は2年前くらいから一緒にやりたいと思っていたんです。
 
−− それは杉咲さんの出演作品を観て、感じたんでしょうか?

中野:CMか何かでほんの些細な瞬間を見てのことなんです。俳優、女優に求めるものを「感度」という言い方を僕はするんですけど、その感度がまぁ豊かなんですよ。ほんの一瞬、見ただけですぐにそれは分かって。
杉咲:ちょっと恥ずかしいです(笑) 自分では分からないので。
中野:あるんですよ、自覚していないだけで。
杉咲:日常で、深く深く考えてまうところはあります。例えば、母親と喧嘩してる時に、ふと我に返って、今、自分はこんな顔をしてる気がすると思ったり、集中して映画を観てる時に、集中して映画を観てるなって思う自分がいるんです。それが邪魔して、逆に集中して観られなくなったり。
 
−− 常に俯瞰してるというのは、感受性が豊かなんでしょうね

中野:安澄って難しい役だと思うんですけど、杉咲花でやると決めてから、書けたところはあるんです。とか言いながら、一回も会ったことはなかったんですけど(笑)

−− 初めて会ったのは、本読みや衣装合わせになるんですか?

中野:それが違うんです。オファーを出して、出演OKの返事は貰っていたんですけど、まだ会ってはいなくて、いつ会えるかなと思っていた頃に、ちょうど『トイレのピエタ』(松永大司監督、2015年作品)の試写があって、個人的に足を運んでいたんです。試写室の席に座っていたら、前から花が現れて(笑)
杉咲:(笑)
中野:こんなところで会ってしまったと焦りつつ、なるほど、こんな感じか、と思ったりもしながら(笑)
杉咲:私は中野監督の映画ということを知らなかったんです。宮沢りえさんの主演映画としかまだ聞いてなくて。脚本も頂いていなかったので。
中野:ご挨拶した方がいいのかなとか考えを巡らせていたら、偶然にも僕の席の隣に座ったんです。これは不味いと思って、その場で声を掛けるべきか、プロデューサーの深瀬さんに相談のメールをしたんです。そしたら、「怪しい人にならないように気をつけて下さい」って返信がきて(笑)
杉咲:そうだったんですね(笑)
中野:それで話し掛けたら、「え?」みたいな表情で。たぶん変なおじさんと思われたんじゃないかな。
 
−− いや、いや(笑)そんなことはないと思います
 
杉咲:私は映画のタイトルも聞いていなかったので、「『湯を沸かすほどの熱い愛』の中野です」と言われてもすぐに分からなかったんです。監督の代表作をおっしゃったのかと思って、申し訳ないけど分からない、どうしようって。
中野:話してる途中で、「もしかして、宮沢りえさんの出演映画ですか?」って気付いてくれたんです。それでもまだ、監督じゃなくて、関係者の誰かと思ってたでしょ?
杉咲:そんなことはないです。だって、酷いんですよ。まだ脚本を読む前だったのに、そこで映画の結末を言われてしまったんです。それには本当にビックリでした(笑)
中野:ごめんなさい(笑)もう全部読んでくれているものだと思っていたから。そんな感じの出会いでした。

「家族に見えるように、家族になって欲しい」と言って頂いて、私にはそのやり方はすごく向いていると思いました(杉咲)
−− 脚本を読んでみて、自身が演じる安澄にどんな印象を持ちました?
杉咲:当て書きをして下さったと聞いて、私は自分の中にあるものだけで演じようとしていたんですよ。それで初めて本読みをした時に、少し違ったみたいで。最初は強すぎたんです。お母ちゃんとの喧嘩のシーンでも、力任せにやり返すみたいなことをしていて、監督から「安澄はもっと弱いから、そうじゃないよ」って言ってもらったのを覚えています。
中野:今回、花だけ事前リハーサルを何回もやって、僕はプレッシャーをかけていたんです。この映画の要は安澄だからって。プラス、僕もこの映画は安澄をちゃんと構築出来れば、他はみんな付いてくると確信していたので。
 
−− 安澄を立体的にするためのブレない軸は何でしたか?

中野:ちゃんと親子の関係性に見えること。親子なら親子、姉妹なら姉妹に見せるのではなく、見えるところまで持っていきたかったんです。妹の鮎子役の伊東蒼ちゃんは、そこまで演技経験のある子ではなかったので、初日からシリアスな病院のシーンという中、待ち時間も花が蒼の手をずっと握ってくれていました。確か、現場に入る前からコンタクトしてくれてたんだよね?
杉咲:連絡はずっと取り合っていました。
 
−− 鮎子役の伊東蒼さんと事前に関係性を深めようと意識したんですね
 
杉咲:蒼は周囲にとても気を使うし、遠慮がちな女の子で、私自身もひとりっ子で妹がいないので、歳が下の子と仲良くなれるかなって不安があったんです。でも鮎子とはちゃんと繋がっていたいと思ったので、どうしたらいいか私なりにいつも考えていました。写真を1日1回ずつメールで送り合う約束を監督としていたんです。
中野:それは宮沢さんも含めて、必ず毎日メールをし合うと決めました。
杉咲:だから、蒼とは毎日、変顔を送り合ってました(笑)
 
−− なるほど(笑)そういった役作りの経験はこれまでありましたか?
 
杉咲:初めての経験でした。「家族に見えるように、家族になって欲しい」と言って頂いて、私にはそのやり方はすごく向いていると思いました。そのおかげで現場の居心地が良かったんだなって振り返ると改めて思います。
中野:そういうことを花を中心にしてやって欲しいと思っていたんです。それに100%に近く応えてくれたと思います。長い撮影の中で、宮沢さんが花に引っ張られたシーンもありましたから。
 
−− 冒頭の安澄の成長物語という話に繋がるんですが、安澄が最初に乗り越えるものにいじめがありますよね
 
杉咲:いじめっ子役の3人とは、初日から距離を置いて話さない関係に自然となっていました。
中野:いじめのシーンについては、いじめる側の3人の演出を集中的にしましたね。3人にはずっと一緒に行動するように求めました。いじめではなくて、嫌がらせの延長がいじめに見えるようにして欲しい、と。「This is いじめ」にならないようにという言い方をしていました。それは噓臭くなるからなんです。いじめって、ちょっとした悪意の重なりがいじめに発展してると思うので。
 
−− 安澄が絵の具でのいじめを受けた後に、双葉が呼び出されて保健室にやってくるシーン。ここの2人の表情のカットバックが素晴らしくて
 
中野:実はあのシーンが、宮沢さんが花に引っ張られたと思うシーンなんです。ここから宮沢さんは花に一目置くようになったんじゃないかな。花を認めたという言い方は変ですけど、あのシーンで、宮沢さんは本当の母と子の関係を築けると感じたと思うんです。
杉咲:このシーンを演じきらないと、この映画は成功しないって私は思っていたんです。だからすごく緊張してました。
中野:あのシーンで、どんなことがあっても救おうとする母と子の関係性に観ている人をグッとさせられたら、と思っていたんですよ。そうすれば、それ以降はどんな事件が起きても感情移入してしまうはずだと思ったから、そこまでが勝負だよって言い続けていたんです。それもあって、かなりテイクを重ねたシーンになりました。

宮沢さんのカットを撮っている時に、おそらく、カメラには映っていない花の芝居が宮沢さんには刺さっていたんです(中野)
−− 双葉、安澄、鮎子の3人は車で旅をすることになります。静岡ロケだったそうですが、ロケを通じて、関係性に深まりは感じましたか?
中野:何気ないことなんですけど、ドライブインで拓海(松坂桃季)と3人が別れるシーンで、双葉の「走ると滑るよ〜!」って台本に無い台詞に対して、安澄と鮎子が同時に「は〜い!」って言うんです。それを見た時にいいなって思って。宮沢さんが自然に言った言葉に、2人が同時に答えられるような関係性になっていたから。前半の撮影を経て、安澄と鮎子の2人はいい関係性になっていましたね。
杉咲:前半は栃木でのロケが多くて、栃木のホテルに泊まっていたんですけど、基本的に蒼と一緒に寝てました。それぞれに部屋は用意されてたんですけど。
 
−− 旅を通じて、双葉と安澄の関係は大きな岐路を迎えますが、あらためて、宮沢さんとのお芝居について聞いてもいいですか?
 
杉咲:クランクインする前に、お母ちゃんが…
 
−− 宮沢さんは、今でもまだお母ちゃんなんですね。
 
杉咲:はい。今になって、何て呼べばいいか分からなくて(笑)

−− お母ちゃんのままで大丈夫です
 
杉咲:常に「どれだけ時間が掛かってもいいから、気にしないで」って言って下さったんですよ。お母ちゃんにそう言ってもらえたことで、宮沢りえさんとご一緒することへの緊張感が一切無くなったんです。お母ちゃんは自分が映ってない時も本番と同じお芝居をして下さるんです。それは、簡単なことではないと思っていて、それに救われました。さっきの保健室の絵の具のシーンも何回も撮ったんですけど、お母ちゃんがずっと同じ表情をしてくれて。
 
−− 2人の表情をそれぞれ別で撮る必要があるからですね
 
杉咲:そうなんです。まだ自分のカットを撮っていない時に、相手のためにお芝居をして、自分のカットを撮る時に同じように出来なかったらどうしようって私なら思うし、それでも何度もやって下さるのが本当に有り難かったですし、私も相手のためにそうしたいって思わせてくれました。
中野:そういう意味では、2人が完全に呼応し合ってると思った最高峰が、港のシーンでした。それぞれワンテイクずつで終わってはいるんですけど、映っていない時も相手を受ける芝居をして欲しいとお願いしていたんですね。宮沢さんと後日話す機会があったんですけど、「あんな顔をされたら、私はあの芝居をするしかない」って。宮沢さんのカットを撮っている時に、おそらく、カメラには映っていない花の芝居が宮沢さんには刺さっていたんです。だから、僕が求めることが花は出来ていたってことだと思います。
杉咲:ありがとうございます。
 
−− その直後に、ある伏線が回収されます。安い言い方ですが、涙を流さずにはいられませんでした。この映画は脚本が本当に巧みで唸らされるんですけど、それだけではなく、血の通った人間が生きていると感じるからこそ胸を打たれます。中野監督の映画に共通している「ウェルメイド」では終わらせない、その神髄はどこにあるんでしょうか?
 
中野:たった1人のキャラクターを作ることなんです。安澄という人間は1人しかいない。安澄という人間の感情表現は1つしかない。僕はそういう言い方をしているんですけど、たった1人の唯一無二の人間を作って、その人らしさを表現したら、それに観客は感動してくれるはずなんです。僕らが何に感動するかって、人間としてのその人らしさだと思うので。例えば、安澄が教室である姿になって訴えるシーンでは、普段は絶対に出来ない子がそれでも懸命にやることに重みがある。平気で出来る子では駄目なんです。それを汲んだ芝居を花がちゃんとしてくれたことで、それが安澄らしさになる。全シーン、そういう細部に拘りましたし、花はそれに応えてくれたと思います。


2016.10.21付けサブポッケSUBPOKKE
『湯を沸かすほどの熱い愛』杉咲花 & 中野量太監督 インタビュー
http://subpokke.net/archives/6627

 今日本で最も注目を集める若手監督の一人、中野量太監督に映画の見所について伺いました。
廃業直後の都内最古級の銭湯で撮影を敢行
 この映画は、実は2ヶ所の銭湯で撮影を行っています。外観のシーンは足利市にある「花の湯」、脱衣場や浴室は文京区にあった都内最古級の木造建築銭湯「月の湯」で撮影しました。
 一軒で撮影を済ませられたらよかったんですが、僕が昔ながらの銭湯にある番台と富士山にこだわりがあって、その2つがある銭湯をスタッフに探してもらったんです。それで見つかったのが「月の湯」でした。営業中の銭湯で撮影するのは大変ですが、「月の湯」は廃業していて自由にやらせてもらうことができたので、結果的にはよかったです。
 撮影を行ったのは2015年6月の3週間だったんですが、「月の湯」は5月末で廃業し、取り壊しも決まっていたんですね。それを映画の撮影で使いたいということで待ってもらい、撮影することができたんです。撮影が終わった直後の7月には取り壊されましたから、本当の最後の姿を記録することができました。タイミング的にも、月の湯とはすごく縁があったんだなと思います。

商業映画デビュー作の舞台に銭湯を選んだ理由
 僕は、これまで家族や人のつながりをテーマにした自主制作映画を撮ってきました。今回、商業映画の監督としてデビューするにあたり銭湯をテーマに選んだのは、知らない人同士が一つの湯船に入ってくつろいだり、癒されたりする銭湯という場所が、自分のテーマにどんぴしゃに合ったからです。小さいときから兄や友達と銭湯に通っていたので楽しい場所というイメージがあって、その雰囲気も好きだったんですね。喫茶店で知らない人から話しかけられたら驚きますけど、銭湯なら話しかけられても違和感がない。それが許される銭湯という場所が好きなんです。人と人が生きる基本が、銭湯にあるような気がしますね。
 それと実は16年前に日本映画学校(現:日本映画大学)の卒業制作で、初めて撮影した映画の舞台が銭湯だったんです。そこで、商業映画デビューするにあたって、自分の原点でもある銭湯へ立ち返ってみようかなと。
 また、海外でも通用する映画を作りたいということを強く意識していました。知らない人同士が銭湯で同じ湯船につかるのって、日本人にしてみたら当たり前のことですけど、海外から見たら独特の文化。番台だって、客のほうを向いている。外国人が見たら「なんだこれは」って、言われると思います(笑)。極めて日本的な場所である銭湯を通して、海外の人へ「日本らしさ」を伝えたい。そんな理由で自分の大好きな銭湯を舞台に、オリジナルの脚本で家族愛の物語を撮ろうと決めました。

宮沢りえさんへ出演を依頼した、2つのこだわり
 主人公である銭湯の女将・双葉をどなたにお願いするかにあたっては、2つこだわりがありました。一つはちゃんとお母さんをしている人であること、もう一つは死にゆく母の話なので、その点を理解している人に出演してほしかったんです。
 宮沢さんは娘さんを育てていて、なおかつ数年前にお母さんを亡くされている。今、宮沢さんがこの役を演じたら、絶対すごいことになると勝手に縁を感じていたんです。宮沢さんが脚本を読んで出演する気になってくれたのも、僕のそんな思いが通じたからかもしれませんね。
 今回の映画は宮沢りえさん演じる銭湯の女将さんが、余命2ヶ月を宣告された残りの日々を生き抜く姿を描いたわけですが、衝撃のラストに向かっていかに人間関係を丁寧に丁寧に描くかを大事にしました。最後に「ああ、よかったね。お母ちゃん」と観客に思ってもらうためにその部分は絶対必要で、そこで手を抜いたらファンタジーの「逃げ」にしかならない。だから怖かったですよ。ラストシーンが受け入られない人がいたらどうしようと思って(笑)。

肉親を失っても力強く生きる家族を描きたい
 人はみんないつか亡くなるし、家族ができれば、家族は順番に送っていかなければならない。残された人がどう生きるかというのは僕がずっとテーマにしていて、今回もお母さんが亡くなったあと、残された家族はどう生きればいいのか、そのためにお母さんは何を準備すればいいのか、そのへんのやりとりですかね、僕が描きたかったのは。お母さんがいなくなっても、家族は前に進んでちゃんと生きていける。子どもが番台に座ったりして、しっかり銭湯を続けていくと思うし、頑張って生きていくんだろうなと観客に思ってもらえたら、お母さんの死は意味のあるものになるというか……。

「月の湯」で最後に見たゾクッとする風景
「花の湯」では営業中に撮影を行っていたのですが、映画のシーンで使った「店主が蒸発しました」という貼紙を、お客さんが本物と勘違いするハプニングもあったようです(笑)。
 そういえば、撮影中に印象的だったできごとがあります。撮影で使わせてもらった「月の湯」では、家族全員でお風呂に入るシーンを撮影するために、廃業した後でしたがご主人にお風呂を沸かしてもらったんです。そのシーンの撮影が終わって僕らが帰り支度をしていた時、ご主人がひっそり湯船につかっていたんですね。たぶん、最後の最後は自分が入っておきたかったんじゃないかなと思うんです。「最後に俺が入って終わるんだ」って。その風景を見たときは、ちょっとゾクッとしましたね。

風呂がどの家にもある時代、銭湯の存在とは
 今、全国で銭湯が減っているそうですけど、どの家にも風呂がある時代ですから、難しいですよね。古いままのところと新しく直したところと極端になっていますけど、どちらも共通しているのは、疲れをとりに行く特別な場所という意識ですよね。そこをいい感じにしてもらえたら、続いていくのでは……。
 それと、気軽にコミュニケーションを取れる場が今の世の中にはないですよね。他人同士が一緒にお風呂に入って「今日は暑いですね」なんて、知らない人がしゃべったりする場所はない。そういうことをみんな避けるけど、心の中ではつながりたがっている。それができるのが銭湯なんじゃないでしょうか。だから、今回の映画の舞台にも選んだわけだし、気軽に行ける場所として、これからも湯を沸かし続けてほしいですね。

家族に見せたいと思える映画にしたい
 今回クランクイン前のスタッフ会議では、「皆さんが自分の家族に見せたいと思える映画にしたい」と話しました。試写会ではオダギリジョーさんや杉咲花さんのお母さんをはじめ、出演者やスタッフの家族がたくさん見に来てくれて嬉しかったですね。スタッフやキャストが自分の家族に見せたいと思うことができる映画は、きっとヒットするんじゃないかな、と思っているんですけど(笑)。親子や家族で本作を見た後は、お風呂屋さんへみんなで行って、ほっこりしてほしいですね。映画の感想を話し合ったりして。


2016/10/7付け、東京銭湯(写真:望月ロウ 文:タナカユウジ)
映画『湯を沸かすほどの熱い愛』:中野量太監督インタビュー
http://www.1010.or.jp/mag-suki-nakanoryota/

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2017年04月07日

江戸派の春

 4月5日の水曜日、ヤッホー君の俳諧道を究める徘徊は、以前より気にかかっていた「本誓寺」(江東区清澄3-4)。

由来
 本誓寺は浄土宗で、当知山重願院と号します。
 1501(文亀元)年、小田原(神奈川県)に創建され、1590(天正18)年、小田原落城の際に焼失し、江戸桜田に移り、1595(文禄4)年、幕府より八重洲河岸に寺地を拝領し再興しました。
 1606(慶長11)年、馬喰町に転じ、1657(明暦3)年と1682(天和2)年、2度の大火に見舞われ、1683(天和3)年、現在地に移りました。
 墓地には、江戸中期の歌人でもあり、国学者でもあった村田春海とその一族が眠っています。


 そうでしたかぁ〜、廃人ではなく佳人でしたかぁ〜
 桜も満開、実に気持ちがいいですね。

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 春と言えば春の海!

春の海(Haru No Umi) 宮城道雄
https://www.youtube.com/watch?v=BeVYO-2wDK0

 春の海と言えば春海、村田春海(むらたはるみ、1746-1811)!

あくまでも 花見るたびに うれしきは
世にいとなみの なき身なりけり


【通釈】飽きるまで花を見るたびに嬉しく思うのは、この世に勤めを持たない身であるということなのだ。
【語釈】◇いとなみのなき身 「いとなみ」は生活のための仕事、忙しく勤める仕事などの意。作者の春海は、若くして家産を傾けた遊び人であり、零落して後は歌文で身を立てた人である。
【補記】「花」の題にまとめられた十二首の最初。同歌群には述懐色の濃い歌が多く、掲出歌は中でも作者の人となりが窺われ印象に残る。他に「咲き咲かぬほどをあはれと思ふかな春も奧ある花の日数に」「咲き散るをしたふ桜の花ゆゑに夢とすぐさぬ春はなかりき」などがある。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/harumi.html#SP

 春の海、村田春海は江戸派。
 えっ、江戸派?

 江戸派とは、賀茂真淵の門弟である加藤千蔭と村田春海を双璧として、1789(寛政初)年に結成された派閥であり、和歌・和文の面ですぐれた作品を残したことにより、文学史に位置づけられている。
 江戸派は寛政・享和・文化の約20年の間に、千蔭と春海を中心として活動し、近世後期都市江戸の雅の文化を創り上げたのである。 

 そもそも江戸派という名称は、しばしば本居宣長の率いる鈴屋派に対比する形で用いられてきた。
 古道論を主張した鈴屋派に対して、日本に「道」はないと喝破し、和歌・和文に長じた江戸派という構図である。
 旧著『村田春海の研究』(汲古書院、2000年)においても、徹底的に宣長と比較しつつ、春海および江戸派の特質を顕在化させた(日本古典文学会賞を受賞)。
 この観点は同時代的に見ても有効であり、江戸対松坂という人文地理学的見地の設定によって、近世後期の文化現象としてとらえることも可能である。  

 江戸派には宣長以外にも数多くの人々との交流があり、たくさんの書物の往来がある。
 そういった人的つながりや物的つながりという側面から江戸派をとらえると、これまでとは異なる像が立ち現れる。
 そのような人の交流と書物の往来の拠点となったという認識から本書を執筆した。  

 第一部は主に江戸派の和歌表現を論じ、第二部は江戸派の出版の問題を扱い、第三部は主に江戸派における学説の継承の問題を扱い、第四部は江戸派を取り巻く同時代の人々を論じた。
 全四部の構成を通じて、交差点としての江戸派の特質を論じ、国学が有する学問体系とその同時代的特徴を析出することを目指した。


神戸大学、神大人の本
田中康二(1965年生まれ)『江戸派の研究』(汲古書院、2010年)
http://www.kobe-u.ac.jp/info/public-relations/book/2010/1002_01.html

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2017年04月06日

今村復興大臣の辞任を求め

 安倍内閣の今村雅弘復興相が4月4日の記者会見で、3月31日で住宅支援を打ち切られた東日本大震災の自主避難者に対し、「自己責任」であると明言した。
 自主避難者に対する国の住宅支援を打ち切り、福島県を通した「サポート」に切り替える方針に対する質問に対して、今村復興相は、自主避難等の対応は「自己責任」の下にあるとの認識を示すとともに、不満があるなら「裁判でも何でもやったらいい」と突き放した。

 今村復興相と記者とのやり取りは次のとおり(後半部分):

今村「ここは論争の場ではありませんから」
記者「責任を持って回答してください」
今村「責任もってやっているじゃないですか、君は何て無礼なことを言うんだ!ここは公式の場なんだよ」
記者「そうです」
今村「だからなんで無責任だと言うんだよ!」
記者「ですからちゃんと…」
今村「撤回しなさい!!!」
記者「撤回しません」
今村「しなさい!出て行きなさい!!もう二度とこないでくださいあなたは!!」
記者「はい、これはちゃんと記述に残してください」
今村「はいどうぞ!こんなね、人を誹謗するようなことは許さんよ、絶対」
記者「避難者を困らせてるのはあなたです」
今村「うるさい!!!!」
記者「路頭に迷わせないでください」

 前橋地方裁判所は3月17日、東京電力福島第1原発事故で福島県から群馬県に避難した住民らが、国と東電に計約15億円の損害賠償を求めた訴訟について、津波を予見し、事故を防ぐことはできたと判断し、国と東電に総額約3855万円の支払いを命じる判決を示した。
 裁判長は原道子氏。
 原裁判長は、政府の地震調査研究推進本部が2002年7月に「マグニチュード8クラスの大地震が起こる可能性がある」と指摘した「長期評価」を重視した。

 「地震学者の見解を最大公約数的にまとめたもので、津波対策に当たり考慮しなければならない合理的なものだった」とした。

 国と東電は遅くとも長期評価が公表された数ヶ月後には、原発の安全施設が浸水する津波を予見できたと認定し、長期評価に基づいて2008年5月に15.7メートルの津波を試算した東電が「実際に予見していた」と指摘した。
 そのうえで、東電は、

「常に安全側に立った対策を取る方針を堅持しなければならないのに、経済的合理性を優先させたと評されてもやむを得ない」

と厳しく指摘した。
 他方、国について原裁判長は、長期評価から5年が過ぎた2007年8月ごろには、自発的な対応が期待できなかった東電に対し、対策を取るよう権限を行使すべきだったと判断。国の権限不行使は「著しく合理性を欠く」として違法と結論付けた。

 日本国憲法前文には、

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

と明記されている。

 そして、第13条には、

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

と明記されている。

 国民の平和的生存権、幸福追求権は、立法その他の国政の上で最大の尊重をされなければならない。
 自主避難者は自分や子どもの命と健康を守るために避難している。
 東電の原発事故がなければ避難する必要などなかった。
 ICRPは2007年勧告において、累積被曝線量について100ミリシーベルト以上では確率的影響が観察され、100ミリシーベルトで発がん率が0.5%上昇するとの見解を示している。
 日本政府および福島県は現在、年間線量20ミリシーベルトを許容しているが、年間線量20ミリシーベルトの数値は、わずか5年で健康への影響が明確に発生するというものである。
 こうした人命を無視した恐ろしい行政が、まかり通っている。
 健康被害を回避するために自主避難することは、平和的生存権の行使であって、国は国政の上で最大の配慮を行なう責務を負っている。

 これを今村復興相は「自己責任」と述べ、「裁判でも何でもやったらいい」と言い放ったのである。
 国民の命とくらしを守る意思がない安倍政権の基本姿勢をそのまま示すものだ。
 今村復興相の辞任を求める必要がある。


2017年4月5日(水)植草一秀の『知られざる真実』
国には国民の平和的生存権守る責任がある
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-1362.html

 きょうの大手紙の一部が小さく報じた。
 今村雅弘復興相が4日の記者会見で暴言を吐き、そのあと謝罪したと。
 福島の自主避難の矛盾を突かれて、怒ったという。
 この記事を読んだだけではその暴言の酷さは伝わらない。
 しかし、私は早朝のTBSで偶然にその記者会見の模様を画像でみた。
 これは酷い。
 質問した記者を無礼だ、発言を撤回しろ、出ていけ、と怒鳴っている。
 世界中で話題になったあのトランプの記者会見の模様とそっくりだ。
 こんな暴言を吐くような大臣は、それだけで罷免に値する。
 なぜ大きく報道しないのだろう。
 今村復興相の暴言が更迭問題に発展しないのだろう。
 そう思って読み進んで行って分かった。
 鋭い質問をしたのはフリーの記者だったのだ。
 そういえばTBSのニュースを解説した局アナも、わざわざ解説していた。
 質問したのはフリーの記者だったんですよね、と。
 あたかも質問したフリーの記者にも責任があるかのごとくだ。
 記者クラブ制に甘やかされた大手メディアの腰抜けぶりと、フリー記者に対する差別意識を見事あらわした山本復興相の暴言事件である。


2017-04-05新党憲法9条「天木直人のブログ」
今村復興大臣の暴言を厳しく追及しない腰抜け大手メディア
http://kenpo9.com/archives/1224

 『貧困クライシス』(毎日新聞出版、2017年3月)の著者、藤田孝則さんは、4月4日、立て続きに3本もツイートしていらっしゃいました:

 これはひどい。大臣自身の人間としての心の復興が何より必要だと思う。人間に戻ってほしい。

 『自己責任』とは対話も個別性も多様性も民主主義も、全て破壊して受け付けない呪いの言葉だと思う。この言葉を公然と誰かに向けて使用する人を信頼しない。

 自主避難って改めてすごいワードだな。何もないのに自主的に住まいを変える必要性があるか、自分自身に照らし合わせて考えてみたらいいと思う。

 
https://twitter.com/fujitatakanori

 風太さんも、2017年4月5日(水)02時39分33秒、あまりにも酷い低レベルの復興大臣」として以下の文を 投稿してくれていました:

 記者会見で記者の真摯な問いかけに対して、今村大臣の論理で対応できずに地位で抑え込もうとする幼稚性に私はあきれ果てました。
 記者の問いかけは、自主避難を続ける世帯への住宅支援打ち切りに対してのものでした。
 しかしまともに応えられない今村大臣は、ついに記者に対して大声で恫喝を繰り返してしまいました。
 対して記者は怯まずに応戦し、大臣は負け犬の遠吠えのごとく会場を出て行ってしまいました。
 国民はもっとこの現実を深刻に捉えなくてはなりません。
 今村大臣は自主避難をしている人たちに対して、自分の都合で勝手に避難している人は自己責任だと強弁したのです。
 しかし本来、人がいてはいけない高放射線量の地域に、子供ずれの夫婦がいていいわけはありません。
 国の本来の基準は年間1ミリシーベルトなのに、それをはるかに超える高放射線量地域なのですからね。
 しかも国民に忍耐を押し付ける遠因も、原発エネがアメリカ様の言いつけであり、彼らがそれを撥ねつけられないことに原因があります。
 だがこの本質に気が付かない国民の中には、福島から避難してきた人たちを差別する人もいるのです。
 その結果がこの大臣発言姿勢であり、そして避難してきた子供への虐めにつながるのです。
 今の日本は、この本当の姿を世界の人が知ったら、世界中から軽蔑されるようになるでしょう。
 弱きを助け強きをくじくといった日本人の心意気は、安倍亜政権下、日本からは死語になりつつあるようです

 でもそれではダメなのです、絶対に!


 復興大臣の辞任を求めます

 この署名は、2017年4月5日にキックオフしました。4月6日夕方の復興庁への提出を予定していますが、その後も当面継続予定です。

 国の責任を蔑ろにしたあげくの “自主避難は「自己責任」”発言
 現在の被害者切り捨て政策を露呈


 4月4日の記者会見で、記者から避難者が住宅提供を打ち切られ、困窮していることに対する国の対応を問われた貴職は、避難について自己責任である、裁判でもなんでもやればよい、という趣旨のご発言をなさいました。 また、その前段のやりとりで、避難者の対応は福島県がやると、国の責任を放棄するかの発言をされました。
 東京電力福島第一原発事故の責任は、国と東京電力にあります。
 避難者は、原発事故さえ起らなければ、故郷を離れ、違う土地で苦しい思いをすることもありませんでした。
 2012年に制定された、「原発事故子ども・被災者支援法」の中でも、原子力政策を推進してきた国の責任を明記し、被害者が居住・避難・帰還のいずれを選択した場合でも、国が支援を行う旨が書き込まれています。
 貴職の発言は、これらを一切無視し、国の責任を放棄し、避難者の想いを踏みにじるものです。
 現在まで、復興庁は、住宅提供打ち切りおよびその後の責任を福島県に押し付け、避難者の実情の把握すら行ってきませんでした。
 貴職の発言は、復興庁のこうした被害者切り捨て政策の本音がでたものなのでしょうが、原発事故ゆえに故郷を離れたすべての人たちのことを考えると、私たちはこれを許すわけにはいきません。
 発言の撤回と謝罪、そして復興大臣を辞任することを求めます。


今村復興大臣の辞任を求める避難当事者・支援者有志一同
https://www.change.org/p/復興大臣の辞任を求めます

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宇野重昭、死去

 成蹊大学の元学長で、国際政治学者の宇野重昭氏が2017年4月1日、肺炎のため86歳で死去していたことがわかった。
 宇野氏は元外交官で、北東アジアや中国政治史を専門とする国際政治学者。そして、安倍晋三首相の母校である成蹊大学の専務理事、学長まで務めた学園の最高碩学ともいえる人物。安倍首相にとっては名実ともに“成蹊大時代の恩師”であり、政界に入ってからも付き合いがあったという。
 その宇野氏が、2015年から「AERA」(朝日新聞出版)誌上で断続的に連載されたジャーナリスト・青木理(1966年生まれ)のルポ「安倍家三代 世襲の果てに」(『安倍三代』として2017年1月、朝日新聞出版より書籍化)の最終回(2016年5月2・9日合併号)に登場。
 青木の取材に応じた宇野氏は、なんと涙ながらに安倍首相のことを批判していたのだ。

 安倍首相の恩師であり理解者である宇野氏は、この教え子を批判する者たちからかばってきたという。だが、その宇野氏ですら、現在の安倍首相の姿や政策には忸怩たる思いを抱かずにはいられなかったようだ。

「(安保法制は)間違っている、と思います。正直いいますと、忠告したい気持ちもあった。よっぽど、手紙を書こうかと思ったんです」

「彼は首相として、ここ2、3年に大変なことをしてしまったと思います。平和国家としての日本のありようを変え、危険な道に引っ張り込んでしまった」

「現行憲法は国際社会でも最も優れた思想を先取りした面もある。彼はそうしたことが分かっていない。もっと勉強してもらいたいと思います」

「彼の保守主義は、本当の保守主義ではない(略)彼らの保守は『なんとなく保守』で、ナショナリズムばかりを押し出します(略)私は彼を……安倍さんを、100%否定する立場ではありません。数%の可能性を、いまも信じています。自己を見つめ直し、反省してほしい。もっとまともな保守、健全な意味での保守になってほしい。心からそう願っています」

 もっとまともな保守になってほしい──。宇野氏の心からの願いは、はたして安倍首相の耳に届いているのか。現在の状況を鑑みるに、残念ながらそうは思えない。
。。。


2017.04.05付けリテラ
安倍首相の恩師・宇野重昭氏が死去
生前涙ながらに「安倍くんは間違っている」「勉強していない」「もっとまともな保守に」と批判

http://lite-ra.com/2017/04/post-3050.html

 誰も熱烈に支持しているわけではないのに、歴史的な長期政権となった安倍政権。
 いったい安倍晋三とは何者か――。
 これまでも多くの記事や関連書籍が世に出てきたが、その答えに辿りつくことはできなかった。
 『安倍三代』(青木理著・朝日新聞出版)は安倍晋三という人物の核心をついたノンフィクションとして政界・財界・マスコミ界で大きな注目を集めている。
 著者の青木理氏に、取材の舞台裏を聞いた。

―― 本書では、これまで取材に応じてこなかった関係者の証言が数多く紹介されています。そのなかで、もっとも印象の残った人物(インタビューした人)は誰でしょう?

青木 取材に応じてくれた方はすべて印象に残っていますが、あえて一人名前を挙げるなら、成蹊大学の元学長の宇野重昭さんです。宇野さんは東大教養学部を卒業後、外交官を経て1960年代の後半に成蹊大の教授に就任しました。法学部で長く教鞭をとった成蹊大の最高碩学で、安倍首相の学生時代には国際政治学とアジア研究を教えていました。多くの学生の一人として安倍首相の成績をつけたことも覚えているそうです。

―― 宇野さんは安倍政権が強力に推し進めた「安全保障関連法制」に反対だそうですね

青木 宇野さんは決して「反安倍」ではありません。また、かつての教え子に対する論評をこれまで控えてきたようでした。しかし、私の取材では、安保法制にはっきりと「(安倍首相は)間違っている」と断言しました。憲法解釈の変更によって平和国家としての日本のありようを変え、危険な道に引っ張りこんでしまった。そのことをかつての教え子である安倍首相に忠告するべきではないかと考え、手紙を書くかどうか、かなり悩んだそうです。その思いを語るとき、宇野さんの目から涙があふれ出そうになっていました。その涙は安倍首相に対する憤りなのか、それとも失望なのか、私は聞くことはできませんでしたが、宇野さんの真摯な姿勢が伝わってきて、強く印象に残っています。

―― 本書は安倍晋三、父である安倍晋太郎、そのまた父である安倍寛という三代続く政治家を取材対象としています。安倍首相といえば、昭和の妖怪といわれた岸信介の孫という印象が強いですが、父方の祖父は安倍寛という筋金入りの「反戦政治家」でした。興味深い人物ですね

青木 日本が戦時ファッショ体制下の最中、安倍寛は東条内閣に敢然と反旗を翻し、特高警察や憲兵の監視や嫌がらせを受けながらも翼賛選挙を非推薦で勝ち抜いた反戦、反骨の政治家です。いまでも地元・山口では熱烈な支持者がいるほど地域社会に根ざした政治家でした。

―― ところが、安倍寛や安倍晋太郎を応援していた支持者たちはあまり安倍首相は好きではないようです

青木 寛や父の晋太郎を熱烈に支持してきた人たちにとって、安倍首相もその系譜を継ぐ地元選出の政治家であることに違いはありません。ただ、その存在感は寛や晋太郎とやはり違う。寛や晋太郎は地元で生まれ育ち、地元の人にとってみると、まさに地域から巣立っていった“郷土の偉人”なわけです。しかし、安倍首相は東京生まれの東京育ち。地元を選挙基盤にはしていても、親近感はほとんどない。だからなのでしょう、寛や晋太郎を熱烈に支持してきた人たちも、晋三を見る目はかなり覚めていて、「父(晋太郎)や祖父(寛)の平和主義を見習ってほしい」という不安の声を数多く聞くことができました。

―― 安倍総理の支持者には愛国、嫌韓、嫌中、ネトウヨ的な考えを持つ人が多い。一方で、本書には安倍晋太郎氏は在日韓国・朝鮮人の支持者が多く、本人も在日コリアンへの理解やシンパシーを持っていたことが描かれています。

青木 かつて安倍晋太郎の地元事務所や邸宅の敷地が在日コリアンのパチンコ業者から提供され、幾度かメディアで問題提起されてきました。ネトウヨ的な立場から疑心の目で見られることもあったし、大手メディアや週刊誌は「安倍のパチンコ御殿」といったスキャンダルとして書いてきたわけです。
 しかし私は、在日コリアンと晋太郎のつながりをそうした偏見なしに取材してみたかった。晋三とは違い、晋太郎は完全な温室育ちではありません。地元・山口で幼少期を過ごし、旧制六高に在学中には同級の在日コリアンと仲良くなって、生涯の友として深く付き合った。選挙区で最大の都市・下関は日本で有数の在日コリアンの街ですから、そこで選挙活動をする中で在日社会とのつながりが深まるのは当然です。
 実際に取材してみると、民団(在日本大韓民国民団)系の在日コリアンばかりか、総聯(在日本朝鮮人総聯合会)系の在日コリアンも晋太郎に敬意を寄せていたことに驚きました。保守政治家でありながら、新聞記者も経験した晋太郎には豊富な経験と懐の深さ、そして絶妙なバランス感覚があった。ところが、息子の晋三にはそういう経験もバランス感覚もまったくない。

―― 父親の人脈や環境が、安倍首相に受け継がれなかったのは何故でしょう

青木 安倍首相自身、知的な教養や政治哲学を本気で身につけようとしてこなかったのが一つ。また、寛は立派な人だったのだけど、46年に亡くなっているので、安倍首相は寛を知らない。晋太郎は選挙や政治活動が多忙でほとんど触れ合わなかった。安倍首相自身、晋太郎が亡くなったときの追悼文集で、「幼い頃、父と遊んだ記憶がほとんどない」といった趣旨のことを書いています。
 一方で母方の祖父である岸信介は、孫を溺愛しました。安倍首相の方も、立派でやさしいお祖父さんなのに、世の中からは不当に批判されているという反発を幼い頃から抱いたのでしょう。それが政治的原点といえば原点です。とはいえ、岸信介のような知性、教養、経験、迫力があるわけでもない。岸に対する敬慕が背景にあり、いまもそれを範としているのは間違いありませんが、率直に言って相当に質の低いカーボンコピーみたいなものだと思います。

―― ところで、安倍首相が小学校から大学まで成蹊学園で過ごしたことは、どう思いますか?

青木 いわゆる良家の子女が集う成蹊学園で小学校から大学までを過ごしたことは、別に責められるべきことではありませんが、安倍首相自身、受験の経験がないのは「コンプレックスだ」と自白しています。同じような家庭環境、経済状態、価値観の子どもたちとばかり小学校から大学まで一貫して過ごせば、多感な幼少期や青年期、はぐれ者ややんちゃ者といった“異物”と触れ合う機会は圧倒的に少ない。温室育ちを一括りに否定するつもりはないとはいえ、政治家としてはかなり決定的な欠点、弱点だと思います。

―― 安倍首相は成蹊大を卒業した後、米国留学を経て神戸製鋼所に就職します。当時の直属の上司が安倍首相の思い出を語っていて、興味深く読みました。

青木 神戸製鋼所で副社長まで務めた矢野信治さんですね。矢野さんは東京本社の鋼板輸出課長だった頃、上司として安倍首相と深く付き合いました。確かに矢野さんの話は前出の宇野さんと同じくらい強い印象が残っています。ある種の理想的な上司像と思うほど率直で、そして状況を冷静に分析できる人物でした。

―― 安倍首相はいつ頃から右寄りでタカ派、好戦的な政治信条を持つに至ったのでしょう

青木 矢野さんによれば、神戸製鋼時代、安倍首相と政治談義をしたことは一度もなかったそうです。要領が良く、先輩たちに可愛がられていたけれど、特に何の変哲もない普通のおぼっちゃまで、現在のような政治志向は微塵も感じられなかったと。成蹊学園時代の同級生や恩師たちの証言もまったく同じでした。凡庸で、可もなく不可もなく、何の変哲もないおぼっちゃま。成績が良いわけではなく、かといって悪いわけでもなく、突出したところがまったくない。矢野さんは「可愛い子犬が狼と群れているうちにあんなふうになってしまった」とおっしゃっていた。私も同感です。
 つまり、政界入りするまでの安倍首相にいまのような政治志向はなかった。岸信介に憧れているとはいえ、岸ほどの知性や教養があるわけでもなく、それを鍛え上げようと努力を尽くした気配もない。ではいったい安倍首相とは何者なのか。この点、昭恵夫人は私のインタビューにこんなことを語っています。

主人は、政治家にならなければ、映画監督になりたかったという人なんです。映像の中の主人公をイメージして、自分だったらこうするっていうのを、いつも考えているんです。だから私は、主人は安倍晋三という日本国の総理大臣を、ある意味では演じているところがあるのかなと思っています

 青年期の安倍首相を取材しても、映画監督になるための努力を尽くした気配もない。映画監督になれるほどの才もおそらくない。ただ、これはかなり核心を突いた証言だと思う。ようするに、内側から湧き出るような政治への思いが安倍首相を規定しているわけではなく、名門政治一家に生まれた運命を受け入れ、岸信介へのうっすらとした憧れを抱きつつ、その役目をなんとか無難に、できれば華麗に演じたいと思っている程度の空疎な世襲政治家。そのあたりが安倍首相の本質でしょう。
 だとするならば、安倍首相ばかりを批評したり批判したりしても、どこか詮無い。そのような男がトコロテンのように政界に押し出され、あっという間に右派のプリンスとして宰相の座を射止めさせてしまう日本政治のシステムや社会の側の問題点も問わざるを得ないと思います。

―― 日本の政治システム、社会の側の問題とは?

青木 選挙制度の問題、世襲の問題、安倍政治に対抗できる勢力の脆弱さ、そして、社会にうっすらと広がる排他や不寛容のムード。そうしたものを跳躍台にして首相に就き、長期政権をなしとげつつある安倍晋三は運の良い男だとはいえるでしょう。
 しかし、そんな男に戦後70年積み重ねた日本の矜持が次々となぎ倒されつつある。後付けの政治思想らしきものにとりつかれた凡庸な男が「歴史的」と評されるような長期政権を成し遂げつつある。果たしてそれでいいのか。私は断固としてそれは違う、と叫びたくなります。

青木理
1966年、長野県生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクションライター。慶應義塾大学卒業後、共同通信社に入社。警視庁公安担当、ソウル特派員などを務めた後、2006年に退社、フリーに。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活動している。


FRIDAY 2017/3/7(火)17:00配信、Yahoo! JAPANニュース
昭恵夫人、大学の恩師、元上司が語った 安倍晋三の「本心」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170307-00010000-friday-soci

 安倍晋三政権は、長期化の様相を呈している。
 晋三は母方の祖父でA級戦犯容疑から返り咲いた岸信介元首相の血統だと繰り返すも、父方の祖父で反戦を貫いた有名な国会議員・安倍寛(かん)や、寛の後継者たる父晋太郎のことを語ることは少ない。
 辣腕(らつわん)政治家たる元首相の威を借りたいのか、個人的に受けた溺愛のためか。
 本書は安倍を知る関係者の生の声を集め、安倍家男系三代の人物像を明らかにする。

 戦時に反東條を貫き、地元山口では、「昭和の吉田松陰」と称されるほどに人望を集めた祖父寛と、戦後はその地盤を継いだ父晋太郎は、先の大戦を「誤った戦争」と見る点で共通する。
 地元では、寛の人気は絶大で、晋太郎も「寛の息子」を誇りに選挙を戦った。
 対照的に、改憲に意気込む安倍晋三だが、昔の彼を知る人にとっては、ほとんど政治談議に無関心な、凡庸に育った気弱なボンボンで、現在のようなタカ派への萌芽(ほうが)すら微塵(みじん)も窺(うかが)えなかった、というのが共通認識だった。

 出身である成蹊大学の恩師で、憲法論の権威・加藤節は、「過去の歴史を学ぼうともせず、敬意すら持たない」と安倍を断じ、夥(おびただ)しい数の戦争犠牲者に対する贖罪(しょくざい)が現憲法を支えるという歴史的経緯に対する安倍の無知を批判する。
 同大学長を務めた国際政治学の泰斗・宇野重昭も、安倍政権は「平和国家としての日本のありようを変え、危険な道に引っ張り込んでしまった」と、涙ながらに評する。

 では、なぜ、そんな安倍がそれなりに人気を集め、大手メディアは政権に好意的な提灯(ちょうちん)記事ばかりを垂れ流すのか。
 著者の言う、期待を集めた民主党政権が幻滅に終わった反動だけでは説明はつくまい。

 「戦後レジームの解体」と言いながら、対米依存という名の戦後レジームに呪縛され、自主も自律もすっかり忘れ、まるで「アメリカ・ファースト」のような日本でいいのだろうか。
 言論の自由が萎縮し、真相から遠い情緒的情報が覆う今の日本に、多数の人々が危惧を抱いていることを、著者のルポが教えてくれた。


2017/02/26、どうしんWeb「本の森」から抜粋
青木理著『安倍三代』(朝日新聞出版、1728円)
祖父、父と対極 タカ派首相

【評者】中尾茂夫(明治学院大教授)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/books/2-0110340.html?page=2017-02-26

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2017年04月05日

春よ、来い

May J. 「春よ、来い」
https://www.youtube.com/watch?v=ObkSh740DAk

 ね、いい歌はいいね、歌ってる歌手もいいね!
 でも May Day って知ってるけど、May J ってヤッホー君、はじめて。
 あの、ね。May J は『アナと雪の女王』(Frozen, 2013)の主題歌、「Let it Go〜ありのままで」を歌ったんだよ。

http://frozen.disney.com/?cmp=wdsmp_frozen_url_dcomfrozen_Extl

https://www.youtube.com/watch?v=moSFlvxnbgk

(英語歌)
https://www.youtube.com/watch?v=GCw-_UIqQ6U
(日本語版)
https://www.youtube.com/watch?v=Mt1e9wsnRKY

 2014年、最もブレークした歌手といえば、多くの人が May J(26)の名前を挙げるだろう。大ヒットしたディズニー映画『アナと雪の女王』の日本語版エンディング「Let It Go〜ありのままで〜」を歌う姿は毎日のように見られた。その一方、テレビなどに多く出たため、ネットを中心にバッシングが起きたのも事実。「アナ雪」ブームとともに起きた大ブレーク、バッシングの逆風、そして2015年の目標――。May J 本人が本紙だけにすべてを語った。

―― NHK「紅白歌合戦」に初出場。でも「Let It Go」を歌った後に、本家イディナ・メンゼル(Idina Menzel、43)の歌が流れたが、どう感じたか

May J イディナ・メンゼルさんと神田沙也加さんのコラボは本当にすごかったです。私も聴いてて感動して涙をこらえてたら、隣の松田聖子さんが泣いていらしたので、もらい泣きしながら歌わせていただいた。

―― 大ブレークした2014年を振り返って

May J 去年はまず、小さいころからずっと夢だったディズニーの曲を歌わせていただけたというのが本当にうれしかったです。紅白にも初出場させていただいたり、いろんなところで皆さんと一緒に歌わせていただいて、幸せな1年でした。

―― 1年前はこうなることを予想していた?

May J 想像していなかったです。プライベートはほとんどなくて、お仕事に行って帰って寝るだけです(笑)。でも逆に、毎日こうやって歌わせていただける環境があるというのが昔から夢だったし、苦に思ったことはないですね。

―― “出るくいは打たれる”なのか、多く露出したことで、ネットを中心に「カバーソング芸人」などというバッシングも起きたが

May J 特にテレビで歌わせていただいた後にさまざまな反応がいつもあるんですけど、もちろん私もそういうの(バッシング)を見たことありますし… 自分が思っていたのと違う反応というのが本当に多くて、正直すごくつらかったですし、寂しくなりましたね。

―― バッシングの書き込みを見ることは

May J 見ないようにはしてるんですけど… 難しいですね。テレビに出させていただくたびにそういった反応を頂いて、正直つらくなるんですけど、その後にライブがあると本当に怖かったです。「テレビと同じような反応があったらどうしよう」と恐怖感がある中で、それでもしっかり歌おうと思って毎回ステージに出るんですけど、歌い終わったときに、拍手が鳴りやまなかったりとか、子供が一緒に「ありの〜」と歌ってくれてるのとか見ると、自分は間違ってなかったんだなって。この曲でお客さんと一つになれたというのが、また次に向かっていくパワーになっていたので、毎回歌い続けられたんじゃないかなと思っていて。ただその後またテレビで歌うと、またいろんな反応があって、落ち込んで、つらくなって、その繰り返しでしたね。

―― 9月にリリースした「本当の恋」は、オリコンシングル週間ランキングで初のトップ10入り。元日にはベストアルバム「May J W Best―Original & Covers―」をリリースした

May J オリジナルでしっかりたくさんの人に届くような曲を作るというのを課題にしていかなきゃいけないなと思います。(ベストアルバムは)私の履歴書みたいな感じなので、これを聴けば、私のすべてが分かっていただけるのでは、と思います。

―― 今年の目標を

May J 1月18日に初めての日本武道館の公演があります。ずっと目標にしていた場所で、今までずっと応援してくださった皆さんに感謝の気持ちを込めて恩返しというか、皆さんに思いっ切り楽しんでいただけるようなライブにしたいと思います。今までの8年分のMay J のすべてが見られるライブにしたいと思います。

―― 個人的にやりたいことは

May J 最近の目標はエッグベネディクト(注・パンと卵などを使った軽食)を作る(笑)。去年初めて食べたんですけど、すごくおいしくて、自分で作れたらいいなと。自分は小さいころから、音楽に常にパワーをもらったりとか、つらいときも常に支えてもらいました。私も自分の歌声で誰かを少しでも笑顔にしたりとか、前に進んでいくパワーを届け続けられたらいいなと思いますね。

☆ May J =1988年6月20日生まれ。神奈川県横浜市出身。本名・橋本芽生(めい)。日本とイラン、トルコ、ロシア、英国、スペインのバックグラウンドを持つ両親の間に生まれる。ピアノ、ダンス、オペラのレッスンに励み、2006年に発売されたミニアルバムで歌手デビュー。2009年の2枚目アルバム「ファミリー」がオリコンで最高4位、iTunesで1位を獲得するなどヒットし、代表作となる。年に約100回のライブをこなす一方、2008年からNHKワールドの音楽番組「J―MELO」(注)に司会としてレギュラー出演している。


2015年01月07日 11時00分更新、東スポ
May J 激白「幸せな1年」「バッシングは正直つらかった」
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/353162/

(注)
http://www.nhk.or.jp/j-melo/nhkworld/english/team/
 
 今年2017年も大活躍:

【ワシントン共同】桜が開花し春本番を迎えた米首都ワシントンで3月25日、「全米桜祭り」の開会式が行われ、歌手の May J さんがヒット曲を披露するなど観客を沸かせた。観光名所のポトマック川沿いは多くの花見客でにぎわった。
 桜祭りは日米友好を願い、1912年に東京から苗木約3千本が贈られたことにちなむ。3月中旬に米東部を襲った寒波で多くの桜のつぼみがダメージを受けたが、米国立公園局によると、25日に見頃を迎えた。
 この日朝に桜を見に行ったという May J さんは取材に「とてもすてき。一瞬、日本にいるのではないかと思った」とうれしそうに語った。


2017年3月26日10時47分更新、東京新聞
日米友好の桜祭り開会式 首都ワシントン、見頃に
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017032601001133.html

 どんな育ち方をしたのかな。

―― お父さんは日本人、お母さんはイラン出身ですね

May J 母はイランのテヘラン大学の交換留学制度で日本に来ました。建築学専攻で日本の立体交差する高速道路に興味を持ったそうです。東京大学に進んで博士号をとるほど勉強好きだったというのはつい最近知りました。父と結婚後はずっと日本に住んでおり、日本語はペラペラです。
 私が生まれた時は両親は英会話学校を経営していました。家での会話は日本語でしたが、幼い頃から母が教えるクラスに参加したので英語は自然に耳から覚えました。父は勤勉な人で、60歳を超えた今でも定期的に英語のテストを受け、様々な資格取得に挑戦しています。

―― 歌手を目指したのはお父さんの影響だったとか

May J 父は家の中でセリーヌ・ディオンやマライア・キャリーなど世界で活躍する歌姫の音楽をかけていました。母によると私は3歳の時に『歌手になりたい』と言ったそうです。自分の中でスイッチが入ったのは、小学校高学年で宇多田ヒカルさんのアルバムを初めて聴いた時です。無造作にラジカセの上に置いてあって、自分でセットして聴いてみるとすごく格好良かった。『日本にこんなにすごい人がいる! 私も歌手になる!』と決めました。
 父はとても優しかったのに、この頃、私は反抗していました。自分がどうしたいか分からずにイライラしている時に、父に先回りしてアドバイスされるのが嫌だったのです。後で知ったのですが、父はわざと見える所に宇多田さんのアルバムを置いたそうです。父が薦めたものは私が拒否すると思ったからで、完全に父の戦略勝ちです。

―― 14歳でオーディションに合格したものの、デビューまで4年かかりました

May J なかなか決まらず焦りました。自己表現したい思いは募るのですが、一方で日本の中学校になじめなくなるし、何かを変えなきゃ、と思うようになりました。結局、両親に相談して、高校はアメリカンスクールを受験しました。勉強はあまり好きではありませんが、歌手になるためだ、と思って猛勉強しました。
 高校は自己主張を大切にする環境で、多くの刺激を受けました。高校まで電車通学で2時間の距離。少しでも時間を短縮するために父が卒業まで毎日送迎してくれました。心のアップダウンがあった時は母にもよく励ましてもらいました。学費も高いし、高校の時は特に迷惑をかけたと思います。
 実は臆病な性格なんです。両親はこれまで何度も私の背中をそっと押してくれました。デビューが決まった時は家族で『やっとか』と胸をなで下ろしました。最近はファンの一人として、私の音楽を楽しみにしてくれていて、うれしいです。


2016年11月1日付け日本経済新聞夕刊
メイジェイさん 父がわざと置いたCD、歌手を決意
http://style.nikkei.com/article/DGXMZO08984360R31C16A0NZBP00?channel=DF260120166512

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2017年04月04日

忖度(そんたく)

 昨日4月3日の月曜日は、レンちゃんでお花見の宴!
 その場で最初から最後まで盛り上がったんが忖度
 この漢字って読めるのかな、から始まってまぁ、
 もう、なんでもかんでも、センタクしっぱなし!
 ヤッホー君は故郷の小中学校同期生と上野公園。

 学校法人「森友学園」の籠池泰典理事長の国会での証人喚問に続いて、3月23日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見が開かれ、多くの外国人記者が参加した。
 「安倍晋三氏や昭恵夫人の直接の口利きはあったのか?」との質問に対して、籠池氏は証人喚問と同様に「直接ではなかったが忖度があったと思う」と答えた。
 記者会見は通訳を介して英語と日本語で行われたが、籠池氏が話した日本語「忖度」の表現について、通訳の男性が苦心したため、籠池氏の代理人で、国会では補佐人も務めていた山口貴士弁護士が割って入り、解説する場面もあった。
■「忖度」とは
 コトバンク(大辞林 第三版)によると、忖度(そんたく)とは、「他人の気持ちをおしはかること。推察」とされている。
 籠池氏は、「忖度」という言葉を使って、国有地の売買や値下げについて、国会の証人喚問などで「安倍晋三氏や昭恵夫人は直接口利きをしたわけではないが、財務省の官僚がその気持を推し量って動いたのでは」という内容の見解を繰り返し証言していた。

NYタイムズの記者が質問
 記者会見の質疑応答の終盤で、NYタイムズの記者は、籠池氏が「100万円の寄付」などについて明確に証言した一方で、「大きな力が働いた」「神風が吹いた」などの部分について、不明瞭であると指摘した。
 これに対して籠池氏は「安倍首相または夫人の意志を忖度して動いたのではないかと思っています」と回答。
英語では初め、このように通訳された。

I believe that perhaps PM Abe or his wife were reading between the lines, that there was a mutual understanding between us.

 この回答だと、安倍首相と昭恵夫人が「行間を読んだ」という意味になっている。NYタイムズの記者はさらに「もうちょっとはっきり答えて欲しい。安倍首相は直接に口利きしたのでしょうか?」と畳み掛けたが、籠池氏は再び「安倍首相は口利きしてないでしょ。(周囲の人が)忖度したということです」と答えた。
 この部分で忖度は初め、「surmise」と訳されていた。この言葉は「推測する」などの意味がある。

I don’t think there is direct influence from Prime Minister Abe.
I think that he, that there was a, “surmise,” he read between the lines about what, there was a… Excuse me.

 しかしここで、山口弁護士が引き取り、以下のように「忖度」を英語で解説した:

いくつか言葉足らずだったようですが、籠池氏が「忖度」という言葉で表現しようとしたのは、安倍首相によってではなく、安倍首相の周りにいる人々が、何らかの手を加えたということです。「忖度」というのは自分自身で何かするという時に使われる言葉ではなく、安倍首相の周囲の人間、もしくは子分の人間が何かしたという意味になります。

I think he is missing a couple of words, what he is trying to say is, when he said he was doing “sontaku”, that something done by people around him, and not by Abe. “Sontaku” is not a word that you use by yourself. When you say “sontaku,” Abe is probably, people around, or you know, people who are underlings of Abe.

続いて、もう一人の通訳もこのように付け加えた:

通訳からの情報として付け加えますが、「忖度」という言葉が英語通訳で少々混乱を招いているようです。何通りかの言い方がありますが、「conjecture(推測)」「surmise(推測する)」「reading between the lines(行間を読む)」「reading what someone is implying(誰かが暗示していることを汲み取る)」などがそれに当たります。英語で「忖度」を直接言い換える言葉はありません。念のため申し上げました。

Just to add as an interpreter’s note, the word “sontaku” is leading to some confusion in the English translation. There are several different ways to say this; whether it’s “conjecture” or “surmise,” “reading between the lines,” “reading what someone is implying.” So there is not one direct word in English which is what lead to this, just to add some information.

デーブさん「ずるい日本語」
 朝日新聞デジタルは、「忖度」についてアメリカ人放送プロデューサーのデーブ・スペクターさんの談話を以下のように紹介している:

忖度(そんたく)」は、便利なようでずるい日本語。「よろしくお願いします」って、色んな意味を含み過ぎて英訳できない。その悪い部分が前面に出たのが、森友学園の問題なんだと分かった。当人たちはその自覚もなさそうで、なおさら怖い。
(「籠池氏、率直に語っていると感じた」元検事の見方は:朝日新聞デジタルより 2017年3月24日05時44分)

NYタイムズではどう報じられた?
 NYタイムズはこの記者会見に出席していた記者の署名で、この会見の模様も含んだ記事を3月23日に公開している。「忖度」に関する部分は、以下のように報じられた:

木曜の夜(記者会見で)、籠池氏は国有地の値下げについて、安倍首相による「直接の口利き」はなかったと思うと話した。
彼は「舞台裏の力」を匂わせ、「財務省の官僚の誰かが土地の売買の迅速化を助けた」と話した。

Thursday afternoon, Mr. Kagoike said he did not believe Mr. Abe had “direct influence” on the discounted land deal.
He hinted at “powers at work behind the scenes” and said that unidentified officials in the Ministry of Finance had helped facilitate the deal.
(Fax-Wielding Witness Tries to Link Japan’s Prime Minister to Scandal - The New York Timesより 2016/03/23)


The Huffington Post、2017年03月27日 09時24分 JST
【森友学園】「忖度」は英語でどう通訳された? 籠池氏会見で外国人記者に
http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/23/moritomo-sontaku-in-english_n_15572790.html

 ガラ系ってなにもケイタイだけでなくこの国の指導者までそんなんだから、ひとりよがりのこの国はますます世界から孤立しちゃいます。
 それにしても【森友学園】、またしても【森友学園】。

 「自民党の竹下亘国対委員長は3月16日、籠池氏の寄付金発言について記者団に『首相に対する侮辱だ』と怒りをあらわにした。『籠池氏がいろいろなことを話し始めた。放っておけない』と証人喚問に踏み切った理由を説明した。喚問実施の方針を伝えると、首相は『そうしてくれ』と語った」(3月17日付け産経新聞「籠池氏発言は「首相への侮辱」 与党「放っておけない」と判断し証人喚問を容認」)んだそうで、これも「忖度」「忖度」!

 長男の籠池佳茂氏が3月29日に始めたツイッター(注1)、フォロワーが1万1000人を突破。気を良くしたのか頻繁に更新し、安倍首相夫妻に対する失望や不信を繰り返し書き込んでいる。

〈安倍夫妻は本当の事を言うべき。政府がやっている事は全体主義。それ以上、嘘の塗り替えはすべきでない。安倍総理の手のひら返しが、総理自身の自滅の始まり。明恵夫人は官邸に本当の事を言うべき〉(原文ママ)
。。。
 3月24日に立ち上がったHP「アキエリークス」(注2)には、籠池夫人の諄子氏と昭恵氏とのメールのやりとりなど画像73枚が公開。昭恵氏が籠池氏に寄付金100万円を手渡したとされるリアルな「再現動画」までアップされている。。。。


2017年4月4日付け日刊ゲンダイ
さらなる爆弾も 籠池ファミリー猛反撃で安倍自民に倍返し
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/202757/1

(注1)
https://mobile.twitter.com/hFooVlSSUtGKvvJ
(注2)
https://akie-leaks.com/

 「手のひら返し」に、今度は「倍返し」?
 いや、あのヤッホー君、ガラ系として変なクニに成り下がるのか、
 それとも【森友学園】についてのコクミンのギワクを解明できるのか、
 アホノミクス成長戦略の柱とされた TPP や「国家戦略特別区域」など、
 指導者の私物化とまで言われているギワクの解明に、
 野党やコクミンが向かうのか、向かえるのか、ですよね。
 それが問われてるんだと思ってますよ。

 「忖度」「忖度」と幕が引かれ、
 もはやムシロの上の笑い話、床屋談義で終わるのかな、
 かっかっと天守閣でおとのさまはお笑いになり、
 かっかっとコクミンは靴底を鳴らして銃剣を担がされるのかな、と。

 あぁ〜、悲しい、寂しい、痛い、疼くよぉ。
 美しい国、あの日本はいったいイマ、どこ?
 徳や仁や義を説く日本人はいったいどこに?
 嘘八百や八百長は、だめなんだけどなぁ〜
 あ、ヤッホー君、笑い上戸から泣き上戸に。
 う、うっと、ムシロの上で独り「悲しい酒」

坂本冬美「悲しい酒」:
https://www.youtube.com/watch?v=kxjxJNHWiXY

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2017年04月03日

山歩クラブ第15回目「爽快」

 昨日の4月2日日曜日は山歩クラブ「爽快」!
 ヤッホー君のこのブログ、2017年03月28日付け日記「佐倉へ歴史散策」で綴ったように、ですね、『「総会」なんてそんじょそこらの形式的・皮相的・手続き的懐疑を山歩クラブ、お断りぃ〜、爽快に15年』

 「爽快」ではこんなヤッホー君のメッセージが読み上げられました:

 この間、墨田区、江東区の自然大好きな愉快な仲間たちは埼玉県にも広がっています。
 そして最近では夏の猛暑の8月を避けていますが、ほぼ毎月欠かさず、山域に向かっています。
 地域のご近所の方々が春夏秋冬、四季おりおりに山を歩いて、こころもからだもいつまでも健やかに、そしていつまでも美しい日本の自然を子や孫に伝えていけたら、と願って山歩クラブは活動を続けてきています。
 山歩クラブの特徴は専用バスで登山口に向かい、下山後は出湯で汗を流し、地酒を楽しむことでした。
 時間と距離、季節によってバス料金が大幅に値上がりし、また山歩クラブの会員数も減少し、バスハイクは年数回に減りました。
 2016年は伊豆の大室山580m、そして奥多摩の三頭山1525mにバスハイクを実施しました。
 また山歩クラブ活動の多様化で、お山歩会のほかに、歴史散策、文学散歩などのお散歩会も定着、お山歩会同様、ほぼ毎月欠かさず、タウンウオーキングを実施しています。
 2016年度は4月の三浦半島の観音崎・走水神社から2017年3月の千葉は佐倉市まで各地を歩いてきました。

 山並みはとても季節ごとに装いを新たにし、われわれ仲間もうれしそうに、にっこにこ!

 2017年度も美しい日本各地の山をわいわいがやがや、大っきな笑顔を絶やさず、たくさん歩こう、そのためにもこころもからだも健やかに、と決意をあらたにしています。

 山歩クラブの更なる前進のため「初心不可忘」、発足時の初心に立ち返り、安全な山行、ホッと安心できるクラブを目指していきます!

 ところで2017年3月27日、栃木県那須町のスキー場付近で雪崩事故が発生し、県立大田原高山岳部の生徒ら8人が死亡しました。雪崩事故で、警察や消防への通報は雪崩発生から約50分後だったこと、現場にいた教諭は無線機を持っていたが、現地責任者で本部の旅館にいた県高体連登山専門部の委員長が無線機から離れる時間帯があったこと、などが明らかになってきました。

 日刊スポーツ紙の記事をみますと、あの「だろう運転」のようなことだけはしちゃいけないなとあらためて気を引き締めております。

 生徒7人が亡くなった大田原高山岳部の顧問でもある委員長は会見で、「不用意だった。片時も目を離せないような危険な場所に行っているという認識がなかった」とうつむいたそうです。
 指導歴は20年を超すそうです。雪崩の危険性について「雪崩が発生するかもしれないと前日に認知していたが、歩行訓練は雪崩が起きやすい場所に近づかなければ大丈夫だろうと判断した」と述べました。
 当日は、委員長と登山経験が豊富な教員2人の3人で雪の状態を確認。午前6時にラッセル訓練への変更を決めたといいます。
 決定の理由について「雪も強くなく風もほとんどなく、新雪は30センチちょっとで、歩行訓練に向いていると判断した」と説明。今はどう思っているか尋ねられると、「当時は絶対安全と判断したが、こういう事態に陥ったことを本当に反省しなければいけないと思っている」「全員の顔は今でも思い出す」「取り返しのつかないことをした」と涙ぐんで謝罪したそうです。
 ほか会見には、大田原高の校長(県高体連副会長)も同席。「痛切な思い。誠意をもって原因の究明にあたりたい」と頭を下げたが、会見を見た遺族からは「顧問の委員長はベテランだと聞いていたが経験が長いだけで知識は持ち合わせていなかったのではないか。人災だ」との声も上がったそうです。

 自戒を込めつつ、新年度の所感に代えさせて頂きます。


 終わって暇と時間のある方たちで近くの公園へ行き蓆を敷いてお花見会をしてぇ、足の運動の代わりに喉の運動、とばかりにカラオケスナックに向かいぃ、さらに駅前の二階で反省会をしぃ、と元気な山歩クラブの面々でした。
 ここで写真を2枚。
 お花見 ↓

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 2016年度ベストショット ↓

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2016年4月29日GW企画で歩いた菊花山。そこで出会ったお富士さま


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2017年04月02日

日本遺産「北総四都市江戸紀行」佐倉編

 もうあれから1週間とはちと早すぎ。
 ヤッホー君のこのブログ、2017年03月28日付け日記「佐倉へ歴史散策」に戻りましょう!
 駆け足でスライドショーをご覧ください:
 まずは「佐倉高校記念館」(国登録有形文化財)↓
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 「佐倉高校地域交流施設」で桜井さんのガイドにより「鹿山文庫」を見やる山歩クラブご一行様 ↓
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 ご一行様、「佐倉順天堂記念館」におなりぃ〜↓
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 さっそく徳富さんのガイドで歴史のお勉強 ↓
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 ご一行様、旧堀田邸にお呼ばれ ↓
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 滝田さまのガイドで邸宅を案内していただきました ↓
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 佐倉の街角で、NPO法人「佐倉一里塚」とお会いしました。ここは旅籠「油屋」跡:
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 佐倉は城下町。ご一行様、武家屋敷通りからこの「ひよどり坂」を下って今宵の宴会場「はなの舞」へと向かいます ↓
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 かくして日本遺産「北総四都市江戸紀行」(注)佐倉編の巻は、とりあえずの幕引き。
 ありがとうございました、江戸ちゃん!

(注)
 文化庁は2016年4月25日、昨年度始めた「日本遺産」に、「政宗が育んだ“伊達”な文化」や「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島」など新たに19件(19府県の80市町村が申請)を認定した。
 有形・無形の文化財を織り込んだ「ストーリー」を通して土地の歴史や文化を国内外に発信し、地域の活性化を狙う。今回を含め計37件となった認定数を、2020年度までに100件程度まで増やす方針だ。

 42都府県の219市町村から計67件の申請があり、有識者による審査委員会(委員長・稲葉信子・筑波大大学院教授)が選んだ。
 前回は「西高東低」だったが、今回は仙台市などが申請した「“伊達”な文化」や福島県会津若松市などが申請した「会津の三十三観音めぐり」など東北から4件認定された。

 佐賀県唐津市や長崎県佐世保市など2県8市町が合同で申請した「日本磁器のふるさと 肥前」など、複数の市町村にまたがって展開する「シリアル型」は15件を占め、昨年度の10件よりさらに増えた。
 「信濃川流域の火焔(かえん)型土器と雪国の文化」(新潟県三条市など)や、「飛驒匠の技・こころ」(岐阜県高山市)など各地域の特色を打ち出した物語が選ばれている。

 神社仏閣や祭りを保存する目的で重要文化財や民俗文化財に指定する従来型の文化財行政と違い、日本遺産は指定の有無を問わず地域に点在する文化財を「物語」に取り込み、観光資源として活用していく。
 政府は文化財を核とした観光拠点を2020年までに全国200ヶ所整備する方針で、「日本遺産」が中軸を担う見込みだ。

 今年度の予算は約12億円。多言語のHPやパンフレットの作成、ボランティアガイドの育成、説明板やトイレ・ベンチの設置といった情報発信や人材育成、環境整備の費用として、初年度は平均すると1件につき4千万円前後が補助される計算だ。

 遺跡などを保護する目的でユネスコ(国連教育科学文化機関)が実施する世界遺産に比べ、知名度の低さが課題だ。文化庁は4千万円の予算を別途計上し、「シンポジウムを開いたり、PR力に長(た)けたアドバイザーを各地に派遣したりして、ブランド力を高めたい」(記念物課)と意気込む。

2016年度認定の日本遺産(所在地)
◆ 政宗が育んだ“伊達”な文化(宮城県仙台市など)
◆ 自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」〜樹齢300年を超える杉並木につつまれた2446段の石段から始まる出羽三山〜(山形県鶴岡市など)
◆ 会津の三十三観音めぐり〜巡礼を通して観(み)た往時の会津の文化〜(福島県会津若松市など)
◆ 未来を拓(ひら)いた「一本の水路」―大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代―(福島県郡山市、猪苗代町)
◆「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」―佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の4つの代表的町並み群―(千葉県佐倉市など)
◆ 江戸庶民の信仰と行楽の地〜巨大な木太刀を担いで「大山詣(まい)り」〜(神奈川県伊勢原市)
◆「いざ、鎌倉」〜歴史と文化が描くモザイク画のまちへ〜(神奈川県鎌倉市)
◆「なんだ、コレは!」信濃川流域の火焔(かえん)型土器と雪国の文化(新潟県三条市など)
◆「珠玉と歩む物語」小松〜時の流れの中で磨き上げた石の文化〜(石川県小松市)
◆ 木曽路はすべて山の中〜山を守り 山に生きる〜(長野県南木曽町など)
◆ 飛驒匠(たくみ)の技・こころ―木とともに、今に引き継ぐ1300年―(岐阜県高山市)
◆『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」〜古代国家を支えた海人の営み〜(兵庫県淡路市など)
◆ 森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ〜美林連なる造林発祥の地“吉野”〜(奈良県吉野町など)
◆ 鯨とともに生きる(和歌山県新宮市など)
◆ 地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市(鳥取県大山町など)
◆ 出雲國たたら風土記〜鉄づくり千年が生んだ物語〜(島根県雲南市など)
◆ 鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴〜日本近代化の躍動を体感できるまち〜(広島県呉市・神奈川県横須賀市・長崎県佐世保市・京都府舞鶴市)
◆“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島―よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶―(愛媛県今治市・広島県尾道市)
◆ 日本磁器のふるさと 肥前〜百花繚乱(りょうらん)のやきもの散歩〜(佐賀県唐津市など・長崎県佐世保市など)


2016年4月25日18時06分更新、朝日新聞デジタル(佐々波幸子)
「日本遺産」新たに19件
「“伊達”な文化」など認定

http://www.asahi.com/articles/ASJ4P53D0J4PUCVL00W.html

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2017年04月01日

「自己責任」の一言で見捨てられ、見殺しに

 藤田孝典さん、1982年生まれだから35歳という若い藤田さんが老人の代弁をしてくれてたんですよね:

 2016年11月25日の衆院厚生労働委員会につづき、本日11月29日、衆院本会議で公的年金改革法案、いわゆる年金カット法案が強行採決された。
 25日の同委で安倍首相は野党からの問題指摘に対し「それで民進党の支持率が上がるわけではないんですよ!」と言い放ち、挙げ句、「私が述べたことを理解いただかないなら何時間やっても一緒だ」と独裁者丸出しの暴言を吐いたが、それを反省するでもなく、きょうもまた強行採決
 もはや安倍首相は、反対意見など無視してなんでも強行採決で通してしまうつもりなのだろう。

 しかし、この年金カット法案は、現在、年金を受給する高齢者たちにとっては死活問題だ。
 今回の法案は、物価と賃金で下落幅がより大きいほうに合わせて年金も減額するというもので、民進党の試算では年金支給額は現在よりも5.2%も減少。2014年のデータにこの新たなルールを当てはめると、国民年金は年間約4万円減、厚生年金ではなんと年間約14.2万円も減るという。
 何度もお伝えしているように、安倍政権はこの4年のあいだに公的年金を3.4%も減らし、医療面でも70〜74歳の窓口負担を2割に引き上げるなど高齢者の生活に追い打ちをかけてきた。
 それだけではない。昨日明らかになった2017年度から予定されている公的医療保険制度の見直し案では、70歳以上の医療費自己負担上限を、住民税を支払う全員を対象に引き上げるとした。たとえば、約1200万人いる年収約370万円未満の所得層も、外来で月額の自己負担額上限は1万2000円だったが、来年8月からは倍の2万4600円に引き上げる。しかも、年金が153〜211万円という低所得層への所得に応じた保険料5割軽減という特例も廃止するという。こうした見直しによって、国は350億円を浮かせるらしい。

 医療費見直しや年金カット法案といった高齢者への社会保障の厳格化は、一体、何をもたらすのか。
 NPO法人ほっとプラス代表理事で、『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新書)の著者である藤田孝典氏は、25日の厚労委で参考人として法案反対の立場から、「65歳以上の高齢者の相対的貧困率は18%」という高水準にあること、そしていま、高齢者は「相当、生活が逼迫されている」と説明した。

「年金がこのままもし景気浮揚等なく減らされていくという状況では、まず生活困窮状態にある高齢者はどういうふうな状況に陥っていくのか。わたしたちのもとに相談に来られる人たちは、病院の受診回数、服薬回数を減らしています。年金が不十分な人は、なるべく病院に行かない。ほんとうは受診しないといけないのに、医師の指導に従えない、そういう状況が見られています」

「ほんとうは要介護4という介護サービスを入れないと普通の生活がしていけないという状態にある女性も、年金金額が少ないために要介護1ぶんのサービスしか入っていない」

「多くの研究者の方たちも、低所得にある高齢者の人たちがいかに健康を害しているのかという調査(結果)も、すでに多く出されています。(年金の減額は)その金額だけを見ると、たかが数千円、数万円とわずかなものだと思われがちだと思いますが、この影響は非常に大きい」

 相談に訪れる人のなかには、「自殺や一家心中、介護殺人を考えているというような声がすでに数多くあります」と言う藤田氏。
 いま、高齢者が置かれた状況がこうした切迫したものであると知った上で、安倍政権はそれでも年金カット法案を強行採決したのである。
 命にかかわる社会保障費を抑え込み、一方では国家公務員の年収を平均5万1000円増額する改正給与法が参院で成立している。
 弱い者は「自己責任」の一言で見捨てられ、見殺しにされていく──
 安倍政権のままでは、そんな恐ろしい社会がどんどんと進んでいく
のだろう。


2016.11.29リテラ
年金カット法案が本会議でも強行採決、70歳以上の医療費も倍額に!
追い詰められる貧困高齢者

http://lite-ra.com/2016/11/post-2733.html

 日本老年学会と日本老年医学会の「高齢者は75歳以上」という提言が波紋を呼んでいる。
 現在、65歳を基準にしている社会保障の制度が多く、基礎年金の支給が始まり、介護保険で原因に関わらずサービスを受けられるのは65歳以上だ。もし実現した場合、その基準も引き上げられるのではないかと懸念されているのだ。さらに、自分で資産を運用する個人型の確定拠出年金(DC)に、今年から原則として誰でも入れるようするなど、政府は社会保障のカットに向けて対策をとっている。

 「自助努力」や「自己責任」で人生の後半を築き上げる社会が到来した場合、晴耕雨読の生活や、趣味やボランティアに力を入れる理想の「老後」は夢物語になるのはいうまでもない

 社会福祉士で『続・下流老人』(朝日新書)などの著作があるNPO法人ほっとプラスの藤田孝典代表理事は「政府は財源がないのでなるべく社会保障の対象者を減らしたい。年金は当てにできず、ずっと働き続けるよう求められる」と警告する。

 実は、いまも日本の高齢者は働き者だ。2013年の就業率を国際的に比べると、ドイツは5.4%、米国は17.7%なのに、日本は20.1%。
 65歳以上の5人に1人は働いている。
高齢者の基準が上がれば、さらに増えるのは間違いない。

 働く理由も自己実現のためというより、収入が必要なため仕方なく働いているケースが目立つ。蓄えた資産を取り崩せばいいと思うかもしれないが、持つものと持たざるものとの差は大きい。1億円を超える富裕層がいる一方で、蓄えがない世帯も少なくないのだ。

 厚生労働省の国民生活基礎調査(2013年)によると、貯蓄が500万円未満しかない高齢者の世帯は4割超。そのうち2割弱は貯蓄がないとしている。

 藤田さんは「富裕層もいるので全体でみると貯蓄の平均値は高いが、実際は余裕のない世帯が多い。年金だけでは暮らしていけず労働力を売るしかない高齢者は、いまもたくさんいるのです」という。

 仕事も、事務職といった人気の求人はほとんどない。採用に積極的なのは、飲食関係や警備、清掃や介護など賃金が低めできついとされる分野だ。工事現場での交通整理、飲食店やコンビニエンスストアなどで深夜も頑張る人がいる。働きすぎで体調を崩し、藤田さんのところに相談に来る高齢者も多い。
 「生涯現役」のかけ声のもとで死ぬまで働くことが普通になれば、こうした「過労老人」は急増していく

 働けなくなれば生活保護を受けることも選択肢だ。受給しているうち高齢者の世帯は2016年3月に5割を超えた。制度ができた1950年以降で初めてだ。

 だが、財政の余裕がないとして受け付けに消極的な自治体もある。藤田さんによると、生活保護の基準に当てはまるのに実際には受けていない人は、いまの受給者の6〜7倍はいるという。保護が受けられないまま食べるものがなく、万引きや無銭飲食をして捕まった人もいる。

 藤田さんは、セーフティーネットからこぼれ落ちる人はますます増えると危惧している。

 「地域の活動などで人間関係を豊かにし、いざというとき頼れる人をつくっておくことが大事でしょう」

 社会保障制度に詳しい慶応大学の駒村康平教授(社会政策)も、米国を例に、健康と収入の負の連鎖が深刻になると心配する。米国では医療保険制度の問題もあって、所得階層や住む地域によって健康の格差が広がっている。

「日本でも同じような傾向が見え始めている。高齢者の定義を見直しても、社会保障を一律にカットするのはよくない。セーフティーネットを充実させることが必要。高齢者だからというだけでは優遇されず、健康で所得のある人には現役並みの負担を求める一方で、働けない人には公的に助成する。まだ時間がある。いまから準備すべきです」


2017年2月3日号「週刊朝日」より抜粋
医療費、介護費の負担もズシリ…
75歳高齢者で下流老人急増も

https://dot.asahi.com/wa/2017012400165.html

 2016年6月17日、自民党の麻生太郎副総理兼財務相が北海道小樽市での講演で「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイ いつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」と語ったというのは記憶に新しいところです。
 こういう「わけの分かんないこと言っている人」がこの国のナンバー2だって・・・
 ナンバー1は?
 「訂正うんぬん」と読むべきところを「訂正でんでんというご指摘は、まったくあたりません」と2017年1月24日の参院代表質問で民進党の蓮舫代表への答弁で言った、というのですから・・・
 あら?どうなってんの、そのレベルの連中に憲法無視の政策、憲法改正の発議をさせようとしているの、とこれも4月1日のジョーク?

 現実の社会にイマの制度や仕組みを同調すべく、リセットもアップデートもしていないし、しようともしないイマの支配階級にお役所のコウムイン!
 どうしてこうなったの?!

 文壇、論壇が明確な形を失った一方で、自由や平等といった近代の価値観を否定するかのような動きが国内外で目立つ。いずれも東京大の北田暁大教授(社会学)と小森陽一教授(日本近代文学)が、文学や公共の言説はどうあるべきかを語り合った。

崩れた近代の公共空間 身体からの発話が重要

北田 小林秀雄から吉本隆明、江藤淳、そして柄谷行人さんに至る、文学的な素養と教養をもとに社会や政治と批評を接続していく回路が一定期間、戦後日本社会の左派もしくはリベラルな勢力の知的な資源になっていました。文学、哲学、思想、社会問題、政治問題が交差する地点で、論壇、文壇が長らく成立していた。その状況を体現した人の最後が柄谷さんのような気がします。

小森 そうですね。柄谷さんは自ら「文学は終わった」と宣言して文芸評論を閉じました。

北田 1990年代半ばの当時ニューアカ(ニューアカデミズム)青年の一人としてはショックでした。1995年以降、この世代でも、もう一度近代的な価値を考えていかなければならないという形で問題を引き受けていく者と、非政治化、生活保守の方向に流れていく者とに分かれました。相対主義的な生活保守に向かった人びとにとって、戦うべき相手は近代です。彼らは近代は乗り越えなければいけないといいますが、その価値観はそもそも社会で共有されていない。

小森 近代的価値が現在では社会で共有されていないのです。英国の欧州連合離脱、今回の米大統領選と、「やってびっくり直接民主主義」というのが連続しました。近代的な価値観が嫌なので離脱します、という感覚と言説ばかりが目立つ傾向が広がっています。

北田 白人の中流・ブルーカラーで相対的に見れば所得にも恵まれているのに、何かを奪われたという思いの強い人たちが、米大統領選でトランプ氏を支持したという分析もあります。彼らは、移民や貧困層に「自分たちの享受できたはずの日常」が奪われたという「理由」で、トランプ的な近代的価値の蹂躙を、スルーしたり乗ったりしている。近代・多文化うざい、の剥奪感が蔓延している。最悪の「ポストモダン」です。そこに相対化の極北にあるジジェク氏(哲学者)のような人も乗った。

小森 同感です。この20年で、近代が創り出した言説の公共空間が急速に崩れていきました。日本でもかつての文壇と論壇のあり方が維持できなくなり、崩壊しています。今年は夏目漱石の没後100年で、来年が生誕150年です。100年、150年という単位で考えると、日本の遅れて始まった近代の構図が見える。漱石は、ヨーロッパが400年かけて進めた近代化を、日本は40年で実現したと認識しています。ヨーロッパにおけるグーテンベルク=注<1>=の印刷技術の発明、レコンキスタ=注<2>=の終わり、新大陸発見以来の歴史を、日本は明治のわずか40年でやってしまったという漱石の見切り方を改めて今総括することが必要です。

北田 急ぎすぎた近代、短縮された近代のゆがみが明治の後期にも噴出し、大正を経て昭和においても噴出しました。

小森 まさに太平洋戦争に突入するただ中で「近代の超克」=注<3>=が論じられました。

北田 高等教育を受ける人が急増し、都市化が進み、中産階級が広がっていく。中産階級や労働者階級でも比較的裕福な層が社会全体を見渡した時に、自分たちを苦しめているものは手続き的に硬直した近代の政党政治や官僚政治だ、となっていきました。では、自分たちの中にある本来の価値は何かと問い始め、日本的なものや東洋的なものと言い出す、というのが「近代の超克」のベースです。今起こっていることは何かというと、戦後民主主義という、もう一回反復された「短縮された近代」の中で一時期、1970年代から1980年代の初めにかけて実現したように見えた家族像や社会像のモデルが、団塊ジュニアの世代ではなぜかデフォルト(初期設定)になっている。夫が働き、女性は専業主婦で、子供は大量の教育費を投入され、一流大学に入れば一流企業に行けるという夢がモデルケースだという思い込みだけは継続していますが、実際はそういう状態は希少だった。幻想からの剥奪感が起きます。

小森 中産階級が成立していたかに見えた幻想ですよね。漱石が明治の新中間層の読者に向かって、何を書くかを考えた結果が新聞社への入社でした。日清・日露の戦間期のバブルにより一定の生活条件を作ったものの、それが日露戦争後に崩壊することが目に見えている連中に向かって、「あなたがたの生活感覚はこうではないか」と挑発したのが漱石の新聞小説です。だから今読んでもリアリティーがある。これが小説という領域を、この国の遅れた近代において作っていきました。

剥奪感が生む被害意識 補強する論調恐ろしい

北田 幻想の何かから剥奪された、疎外されたという感覚を持つ中産階級予備軍の葛藤を書いてみせたのですね。今も30代後半から40代の団塊ジュニア、ポスト団塊ジュニア世代は、「父母より裕福になれない」というだけの話を、自分たちは被害者であるかのように捉えています。剥奪感はあくまで相対的なもので、貧困層の苦しみや非正規雇用のシングルマザーの苦しみとは水準の違う話ですが、逆に発想する人たちがいる。原因は他にあるのに、生活保護を受けている人などが自分たちのパイを奪っているという発想になってしまっています。これを一部の論壇の論調が補強しているのは恐ろしいことです。

小森 150年間の日本の近代も、半分の70年は戦後、今の憲法体制の中でやってきました。その過程をきちんと考え直さないとまずい。今復元すべき、公共空間に通用する言説をどう作っていくのか。ネット時代の今、身体的存在としての人間と、生身の身体から発話される言葉によるコミュニケーションが重要です。実際、そこから改めて自分にとって必要な文学を議論する動きも出ています。

北田 対面し信頼を前提とした人間関係と、電子空間とのバランスをどう取るのかが、個々人の幸福と公正性の実現のために、本格的に考えられないといけません。その均衡点を見つけていく仕掛けが必要です。そのためには論壇、文壇といった「壇」の外に出る、あるいは壇を元に戻す。論壇と文壇と講壇などが一緒だった、つまり一つの「壇」だったところまで戻っていく仕掛けを作り出すことが課題かもしれません。

小森 日本近代文学は、ロシア文学をやっていた二葉亭四迷が三遊亭円朝の落語の筆記録をベースにしながら言文一致体を作ったところから始まりました。明治の日本が思いついた英知を、今の閉塞を突破するツールとして使いこなすことが大事だと思います。


注<1>=15世紀ドイツの人で、活版印刷術を実用化した。42行聖書で知られる。
注<2>=キリスト教徒がイベリア半島で、イスラム勢力に行った国土回復運動。8世紀初めに始まり、1492年に終わった。
注<3>=1942年の評論家らによる座談会。明治以降の西洋文化の影響と超克を論じ、全体主義を擁護したと見られた。

対談の背景
 北田さんが冒頭で指摘したように、日本の論壇では広い意味での文学者が重要な一角を占める時代が長く続いた。
 名前の挙がった文芸評論家以外に、小説家や劇作家らも社会や政治のテーマに関し積極的に発言してきた。
 小森さんが論じた漱石は代表的な例だが、確かに文学的な想像力は論壇に対し、創作と、評論やエッセーの両方で多大な滋養をもたらしてきたといえる。
 すると、文壇と論壇の盛衰は常にセットで起こるとも考えられそうだ。

人物略歴
きただ・あきひろ: 1971年神奈川県生まれ。東京大大学院博士課程退学。博士(社会情報学)。筑波大講師などを経て現職。著書に『嗤(わら)う日本の「ナショナリズム」』『広告の誕生』など。

こもり・よういち: 1953年東京生まれ。北海道大大学院博士後期課程退学。成城大助教授などを経て現職。「九条の会」事務局長。著書に『漱石を読みなおす』『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』など。

2016年11月26日(土)付け『毎日新聞』
危機の20年 北田暁大が聞く 第8回 ゲスト・小森陽一さん
文壇、論壇と言説


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とんでもハップン

 今日はエイプリルフール。今日から卯月!

 昨年のイギリスのエイプリルフールは「ブレグジット」が話題を集めてましたが、ジョークでなくホントにそうなってしまいました。
 2016年6月23日の国民投票では、EU離脱支持が得票率51.9%(EU残留支持が得票率48.1%)と離脱派が過半数を占めてしまったのです。
 アメリカでは「トランプゲーム」。11月、トランプ氏が獲得選挙人総数を306人集め(民主党のクリントン前国務長官は232人)になり、大統領になります。

 今年は?この国では?ジョーク?どうなってるんでしょうか・・・

 来年2018年4月から科目化する道徳の初の教科書検定を巡り、波紋が広がっている。
 教科書のなかに出てくる「パン屋」に対し、文科省が「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」と指摘し、「和菓子」へ変更されたというやつだ。
 報道によれば、「パン屋」から「和菓子屋」への“修正”が入ったのは小学校1年生用の検定教科書。「散歩中に友達の家のパン屋を見つけた話」について、文科省が「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」点が足りないとして変更された。また、町を探検する話でも、同じ理由の検定意見によって、子どもたちが公園の「アスレチック遊具」で遊ぶ写真が「和楽器店」の写真に差し替えられたという。
 つまり、パン屋やアスレチックは“愛国的”でないのでNG、和菓子屋や和楽器だったら“愛国的”なのでOK、ということらしい。まるで外来語を「敵性語」として排除し、不自然な言い換えを強要された戦中を彷彿とさせるではないか。
 ウェブメディア「キャリコネニュース」の取材によれば、文科省初等中等教育局の教科書課はこの“パン屋・和菓子屋問題”についてこのように回答したという。

「文科省がパン屋を和菓子屋に修正するよう指示した訳ではありません。修正箇所はあくまでも出版社の判断に基づくものです」
「パン屋が和菓子屋に修正された教材は、検定時に書籍全体として『我が国や郷土の文化と生活に親しみ,愛着をもつこと』という項目の、特に『我が国』の部分の記載が充足していませんでした。そのため、教科書全体を通してこの部分を記載するよう指摘したまでです」
キャリコネニュース3月27日付

 だが、どう言い繕おうとも、文科省が“検定教科書は愛国心が足りない”と指導し、出版社が「パン屋」を「和菓子屋」に変えてきたからOKを出した、というバカげた事実は変わらない。
 そんな安っぽい“愛国心”とは、いったいなんなのか。
 出版社側は「和菓子屋」への変更について、〈「日本文化的である点と、四季の変化が表現されるという特徴」が、項目を充足させるために相応しいと判断した〉(前掲キャリコネニュース)というが、ようするに文科省も「パンは外国だけど和菓子は日本文化だね!合格っ!」と安直に判断したということだろう。
。。。

2017.03.31リテラ
戦中か! 道徳教科書検定で「パン屋」を「和菓子屋」に…
安倍政権はやっぱり日本全体の“森友”化を狙っている

http://lite-ra.com/2017/03/post-3037.html

 安倍内閣は2017年3月31日、戦前・戦中に道徳や教育の基本方針とされた教育勅語について、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定した。
 だが、教育勅語は、過去に国会で排除・失効決議が出ており、答弁書との整合性や、教育現場でどのように使われるのかが問題になりそうだ。
 民進党の初鹿明博衆院議員の質問主意書に答えた。
 教育勅語は、明治天皇が1890年に国民に授ける形で示した「教え」。両親への孝行など一般的な道徳を表す項目がある一方、国民は君主に支配される「臣民」とされ、国に「万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のためにつくせ」(旧文部省図書局の通釈)とも書かれている。
 だが、戦後の1948年、国会が「主権在君並びに神話的国体観に基づいている」ことから、「基本的人権を損」なうなどとして教育勅語の排除・失効の確認を決議。森戸辰男文部相(当時)は同年6月の衆院本会議で「教育上の指導原理たる性格を否定してきた」とし、憲法や教育基本法などの制定で「法制上明確にされた」と答弁した。
 今回の答弁書でも「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導」は「不適切」としている。松野博一文部科学相はこれまでの記者会見で、憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」と発言していた。
 一方、第1次安倍政権時の2006年の国会で、伊吹文明文科相(当時)は「戦中の教育に対する反省などから、天皇陛下のお言葉を基本に戦後の教育を作ることは、そぐわないということになり、教育基本法が作られ、衆参両院の議決によって教育勅語は実質的に廃止されたと理解している」と述べている。
 教育勅語は、学校法人「森友学園」が運営する幼稚園で園児が暗唱していたことが報道などで取り上げられるようになり、国会でも勅語をめぐる閣僚の認識が論点になった。

権威主義的な使い方されかねない

 島薗進・上智大教授(日本宗教史)の話:

 問題は「教育の唯一の根本」かどうかではない。
 臣民である国民に天皇の命ずる教えに従うことを強いたことが問題。
 権威に従う態度を強い、神聖な天皇に命を捧げるということまで含む。
 個々人の命が軽んじられた歴史を学ぶためなら必要かもしれないが、教育現場で一方的に教え込む権威主義的な使い方をされかねない。
 日本の未来に関わる判断であり、時の政府の都合で閣議決定などすべきものではない。


2017年4月1日00時43分朝日新聞デジタル
教材に教育勅語、否定せず
政府「憲法に反しない形で」

http://www.asahi.com/articles/ASK305RC2K30UTIL03Y.html

 とんでもはっぷん、ですよね・・・(注)
 そればかりではありませんよ・・・
 ヤッホー君がお慕い申し上げている小児科の先生がこんなつぶやきを昨夕に(2017/03/31 17:41):

 文科省は、新学習指導要領で、中学校の武道の選択に、「銃剣道」を加えた。
 銃剣というと、銃の先に短剣を装着して、白兵戦の戦闘行為で殺し合う武器を思い描く。
 が、確かに、スポーツとしての銃剣道なるものがあるらしい。
 日本銃剣道連盟という団体もある。だが、その会長は、元自衛隊北部方面隊総監の酒井健氏である。
 銃剣の訓練は、自衛隊のなかで必須項目として行われているらしい(米軍では、海兵隊以外銃剣の訓練をすでに中止している)。
 東京都銃剣道連盟会長は、かの小池都知事だ。小池女史は、いまでこそ都民ファーストとして、やわらかな印象を与えているが、以前からかなり極右的な言動の多い政治家だ。
 銃剣道を、柔道や剣道と並列することは、違和感がある。
 銃剣は、基本的に殺傷することを直接の目的とする武器であり、剣道のような長い歴史があり現在殺傷とは無縁のスポーツとは、異なる。
 だからこそ、自衛隊の必須の訓練項目になっているのだ。直接的な殺傷を目的とする訓練である。
。。。
 銃剣道の武道としての選択、教育勅語の教育現場への導入、これらから、現政権がわが国をどのような方向に導こうとしているのか、明白な形で見えてくるのではないだろうか。
 これからお子さんを育てる世代の方々は、この現実を十二分に考えた方が良い。


 昭和天皇の末弟で、今上天皇の叔父にあたる三笠宮崇仁親王が、昨日2016年10月27日、心不全により逝去した。享年100歳だった。
 一部メディアは、崇仁親王の先の戦争に対する反省の念や、戦争反対への思いなどを伝えているが、その発言は、マスコミが報じている以上に踏み込んだものだった。
 崇仁親王は、いまこの時代を支配している右傾化に対して、早くから警鐘を鳴らしてきたとさえ言える
 それを象徴するのが、右派の“南京大虐殺はなかった”という歴史修正主義に対する強い批判だろう。
 1915年生まれの崇仁親王は、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1943年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。
 このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書き、日本の侵略主義を批判したのだが、その文書が発見された1994年には、月刊誌のインタビューで“南京大虐殺はなかった”という論についてどう思うか聞かれ、このように述べている。

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」
読売新聞社「This is 読売」1994年8月号

 このインタビューが収録された当時は、羽田内閣の永野茂門法相が毎日新聞のインタビューで「南京大虐殺はでっち上げだと思う」「太平洋戦争を侵略戦争というのは間違っている」などと発言するなど、戦中日本の戦争犯罪を公然と否定する流れが、すでに一部の右派だけでなくかなりの勢いを持ち始めていた時期である。
 とくに、日中戦争初期の1937年12月の首都・南京陥落以降に日本軍が行った捕虜や民間人の殺害行為については、論者・研究者によってその人数に20万人から数百人、そして「そもそも虐殺は存在しなかった」といういわゆる“マボロシ論”まで論じられていた。
 その“数字”をとりたてる流れは現在も続き、現日本政府もまた「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である」としている。

 だが、崇仁親王はこうした“数字”の論に対して“むごたらしく殺せば人数は関係ありません”と、はっきりと批判したのだ。
 さらに同インタビューでは、自身の南京での従軍経験としてこうも述べている。

「また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう」

 言うまでもなく、崇仁親王が戦争犯罪を正視し、歴史修正主義をけん制したのは、再びこの国が戦争をすることがないようにという強い思いがあったからだ。
 1956年の著書『帝王と墓と民衆』(光文社)に付した「わが思い出の記」のなかでも、南京に配属された当時を振り返り、こう記している。

〈わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった〉

わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである

 昨年2015年、ユネスコの世界記憶遺産に「南京大虐殺」が登録されたことに対して、ユネスコへの分担金を留保するという“報復”に出た安倍首相にこそ聞かせたい言葉だ。
 だが、そうした誠実な態度を貫き通した崇仁親王に対し、これまで右派は「赤い宮様」などと揶揄し、「左翼」と批判してきた。
 前述した著書の一部が新聞で紹介されたときには、“これは日本軍を傷つけるものだ”という趣旨の脅迫まがいの手紙が当時品川区にあった三笠宮邸に届いたこともあったという。
 しかし、崇仁親王はイデオロギーから発言したわけではない。
 崇仁親王がオリエント史などの歴史研究を愛し、大学の教壇にも立ったことはよく知られているが、その根本には、たとえそれがどれほど自分にとって正視し難い事実であったとしても、歴史には真摯に向き合わなければならないという覚悟があった。
 そしてなにより、崇仁親王自身が皇族という極めて特殊な立場にありながら、“権威”が大衆を惑わすこと、そして、自由な言論が封鎖されることこそ、民主主義にとって一番の障壁であると、60年以上前から指摘してきた。
 マスコミはあまり取り上げないが、崇仁親王の思いが、皇室と国民の垣根を越える“民主主義”にあったことは明らかだ。
 たとえば1952年の「婦人公論」(中央公論社、当時)2月号に掲載された「皇族と自由」と題した聞き書きのなかで、崇仁親王は、昭和天皇の地方巡幸の際に警官が万歳しない人に対して叱りつけたという話を受けて、
「これでは少しも人間と人間との感情が流れてきません。こんなとき号令をかけられた人がなぜ抗議しないのでしょう」「同じ人間同しなのですからハダカとハダカでぶつかり合ってほしい」としたうえで、「これが民主主義の基礎であることはいうまでもありません」と語っている。
。。。

2016.10.28リテラ
逝去した三笠宮が語っていた歴史修正主義批判!
日本軍の南京での行為を「虐殺以外の何物でもない」と

http://lite-ra.com/2016/10/post-2651.html

(注)
「とんでもはっぷん」とは日本語の「とんでもない」と英語「never happen」の合成語で、「 とんでもない」「まさか」といった意味で使われる。もともと戦後の学生間で使われていた 言葉だが、後に獅子文六が朝日新聞に連載した長編小説「自由学校」で使用。

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