2017年03月31日

長嶋茂雄

 長嶋茂雄(1936年生まれ)選手や王貞治(1940年生まれ)選手は、戦後の日本で活躍した野球選手である。
 特に、長嶋選手は第二次世界大戦後の日本野球界最大のスターであり、「ミスター・プロ野球」の意から「ミスター」の愛称で現在においても多くの人から親しまれている。
 長嶋選手は現役時代、1958年から1974年まで巨人で活躍し、日本シリーズにおける記録やオールスターゲームの日本記録など多くの記録を保持している。
 そして、当時「王貞治は記録に残る名選手、長嶋茂雄は記憶に残る名選手」と言われ、王選手と共に「ON 砲」と呼ばれた。

 長嶋選手の打者としての素晴らしさ動物的直感力にあると言われ、日本球史に残る大捕手の野村克也(1935年生まれ)選手も「普通の打者は投手のコースや球種を読んで打席に立つものだが、長嶋は来た球を打つ天才だった」と脱帽している。
 また、長嶋選手独特の人間離れした鋭い勘は「カンピュータ ー」と称され、それは舞台が大きくなればなる程研ぎ澄まされた。
 加えて、長嶋選手は守備の華麗でも有名であり、常に魅せるプレイを心掛け、それが人びとに希望や夢を与えたのである。
 引退後もその群を抜いたカリスマ性は衰えず、監督となってからも何かと話題を提供し続け、現役時代を知らない世代にさえ存在を知らしめ、1988年に殿堂入りとなり、背番号「3」は巨人の永久欠番となっている。
 そして、長嶋選手の後輩である王選手も現在においても通算本塁打868本の世界記録に代表されるように、厳しく自己を鍛錬し続けた球史に残る大選手である。
 この二人の活躍は疲弊した戦後日本に多く夢や希望を与え、それが戦後復興の大きな原動力となったのである。


中村学園大学短期大学部「幼花」論文集Vol.2(2010)
YAKYUと平和・戦争
金子由美/中村学園大学短期大学部幼児保育学科
http://www.nakamura-u.ac.jp/~hashimot/members/papers/Vol2/Vol2-3.pdf

 そうなんですぅ、
 1965年 日本の製造業の就業人口が農林水産業を抜く
 1994年 日本のサービス業の就業人口が製造業を抜く
 1965年〜1994年 日本は製造業中心の社会
 1967年〜1979年 美濃部革新都政が3期12年続く
 1960年〜1973年 経済成長率が平均10%
 1970年 大量の若者が東京など工業地帯に出ていき、主要な農産物コメは供給過剰となり、1970年から政府の命令で補助金と引き換えの生産調整に入る
 1972年 選挙。共産党が大幅に議席を増やす

1972(昭和47)年12月中日ニュースNo.987 2「総選挙特集-共産党大躍進-」
https://www.youtube.com/watch?v=gi7nqQQC4Is

 1973年 石油ショックが起きる
 1974年〜1991年 経済成長率が平均4%ほどになる

 「多くの夢や希望を与えた」かぁ〜
 そうすると、イマ大ぜいの人びとの多くの夢や希望を与えるにはどうするのか、でしょうね。
 この隙を狙って登場したのがネオリベ、ネオコン。
 表向き「美しき日本」だけど、裏で「宗主国への従属」姿勢を強め、政権の長期化と政策の私物化を狙う自称ウヨク連中の跋扈。
 これに対する、反対勢力のどうしようもない体たらくと劣勢。
 でも昨夜、30台の若いソーシャルワーカーさんと出会ったヤッホー君、買い求めた『貧困クライシス』(毎日新聞出版、2017年3月)の著者、藤田孝典さんにサインしてもらおうとヤッホー君、
「夢と希望を感じました、ぼくも身近かなところで夢と希望を実現しようと勇気をいただきました、ありがとうございました」とご挨拶。

 あっ、今日の日記はそうじゃなくって、佐倉高校が母校の長嶋茂雄!

【天覧試合】長嶋茂雄【9回裏サヨナラ本塁打】
https://www.youtube.com/watch?hl=ja&gl=JP&guid=ON&client=mv-google&v=ErOkGVziuN8&app=desktop

 でも、時の流れに身をゆだねるといろいろ、さまざま、あんなこと、こんなこと:

「もともと長嶋家はバラバラです」
 
 東京地裁の法廷でこんな衝撃的な証言が飛び出した。証言者は国民的英雄・長嶋茂雄の長男でタレントの長嶋一茂。一茂は「週刊新潮」(新潮社)2013年5月16日号の〈「長嶋茂雄」晴れの舞台の後の寂寥〉という記事をめぐり、「記事は事実無根」として新潮社を名誉棄損で訴えており、その証人尋問で自らこう発言したのだ。
 一茂といえば、一時期、父親の長嶋茂雄との確執が報じられていたが、「新潮」の記事もその延長で出てきたものだった。長嶋茂雄が、2013年5月5日に東京ドームで行われた国民栄誉賞授与式の夜にまっすぐ田園調布の自宅に帰ったことを取材。自宅には家族がおらず、華やかな授与式の夜にお祝いの席も囲む会も開かれなかったとして、「長嶋家では、もはやごく普通の家族の光景を目にすることは望むべくもない」と長嶋家が家族崩壊を起こしていることを報じた。
 これに対して一茂側は、こういった家族関係が報じられる背景には、一茂が「おばさん」と呼ぶ親族のAさん(法廷では実名)の存在があると主張。Aさんさえ関与しなければ、長嶋家は平穏だったとしている。
 Aさんとはミスターの妻である故・亜希子夫人の弟の妻。ミスターからすれば義理の妹にあたる人物で、07年に亜希子夫人が亡くなってからは、茂雄氏の身の周りの世話をしているという。
「Aさんと一茂の対立が表面化したのは09年。茂雄氏の肖像権や資産管理をめぐる両者のトラブルが週刊誌で相次いで報じられました。すぐ後には、田園調布の長嶋邸で保管されていたミスターゆかりのグッズが、福井県のミュージアム(現在は閉館)に大量に売却されていたという報道も出ました。この記事では一茂がミスターに無断で処分したとされましたが、一茂はこれを否定。Aさんサイドのメディアへのリークを疑うようになったようです」(週刊誌記者)

 これを機に、週刊誌を中心に"長嶋家骨肉の争い"という見出しが相次ぎ、世間の耳目を集めることとなった。とくに、テレビ朝日に勤める次女の三奈はミスターとA氏に近いとされ、一茂とは対立の構図にあるとされている。
 「新潮」との裁判では、一茂本人も出廷してAさんとの確執の詳細が語られた。一茂によれば、茂雄氏は脳梗塞の後遺症もあってAさんへの依存が強まり、「すべて言いなり」の状態だという。また、現状ではAさんを"後妻"と認識していることも明かされた。
 さらに、一茂本人の口からは思わぬかたちで"長嶋家の実像"をさらけ出すような発言も飛び出した。「新潮」は記事のなかで三奈との関係を「兄妹の絶縁状態は今も続いている」と書いているのだが、これに関して一茂は冒頭のようにこう証言したのだった。

「(絶縁とは)何を持ってなのかな、と。話せば長くなりますけど、もともと長嶋家はバラバラで、母の生前も6人そろって旅行に行ったことも、食事だってそろってしたことは一度もないです」
「僕は中学から家を出ましたし、弟(次男・正興)もアメリカに行った。去年手紙はやりとりしましたけど、一度も会っていない。だいたい弟の所在を知る人間もいません。妹(長女のこと、法廷では実名)にしても、会っても年に1回です。このように、基本的にバラバラなので、もともとが家族断絶といってもよいと思います」

 なんと、ミスターの現役時代からも含め、いわゆる"普通の家族像"などはまったくなく、きょうだい間の交流も事実上の断絶状態であったことを明かしたのだ。
 弁護士からは、「家族関係がドライということですか?」と補足質問があったのだが、一茂は「ドライというか、これが普通だと思っていました」と受け流した。
 つまり、長嶋家は世間一般の家族像とはちがうものであるがゆえ、「新潮」がいうような「普通の家族の光景」などなくて当然ということなのだ。言い換えれば、一茂は"国民栄誉賞授与式の夜に家族でお祝いなどをしませんけど何か?"と主張しているのである。
 もちろん、家族のあり方にはさまざまな形態があるだろうし、率直にいえば、"普通の家族が何か"という問いに正解などないのかもしれない。
 だが、世間一般の人々が長年抱いてきた、"理想の家族像"的な長嶋ファミリーのイメージを根底から覆すような証言だったことは間違いないだろう。
 ところが、こんな衝撃的な事実が、法廷で当事者によって語られたにもかかわらず、メディアでは一切報じられていない。一茂の発言は、スキャンダル好きなマスコミにとっては、いかにもおいしいネタにも思えるのだが、どうしてまったく報じられないのか。
 前出の週刊誌記者がその背景を解説してくれた。

「実は一茂は、ほかにもいくつかの裁判を起こしています。前述したグッズ売却を報じた『週刊ポスト』とは係争中ですし、同様に『週刊文春』とは、昨年最高裁までいって勝訴しています。いずれも弁護士は最強とうたわれる弘中惇一郎氏。どの媒体も下手なことを書けば訴えられると尻込みして、一茂関連の話題には触れないようにしているという状態なんですよ」

 なるほど、ここにもマスコミお得意の自主規制が働いているということなのである。
 だが、一茂はただのタレントにとどまらず、テレビ朝日『モーニングバード』でコメンテーターも務めて、自らの意見を発信する立場にある人物である。こういった人物の実像を伝えることは、メディアにとって重要な役割の一つであろう。
 思考停止して、すぐにタブーを作るメディアの体質はどうにかならないものなのか。

2015年5月10日12時30分LITERA(窪川 弓)
「長嶋家はもともとバラバラ、家族断絶」
長嶋一茂が父との確執報道めぐり法廷で衝撃証言

http://news.livedoor.com/article/detail/10095213/

 縄文時代の遺跡群に、上人塚古墳、本佐倉城跡等、数多の指定文化財を擁する関東きっての古都、千葉県佐倉市は、歴史情緒溢れる町として発展してきた。だが、往年のプロ野球ファンにとっては、別の意味で馴染み深い地である。
 市内北部、京成電鉄臼井駅の北口に降りると、大きな看板が目に飛び込んでくる。《ようこそ、印旛沼湖畔のまち 長嶋茂雄さんのふるさと佐倉市臼井へ》。ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄(80才)は、同市臼井町で生まれ育った。
 彼は市民の誇りであり、長嶋の通った佐倉高校には偉業を讃えるパネルがズラリと並ぶ。市内の岩名野球場は2013年7月、「長嶋茂雄記念岩名球場」に改名された。

 長嶋ファンにとって長く“聖地”とされてきた同市だが、長嶋の生家を知る地元住民の表情は暗い。「悪いこと言わん。彼の生家は見に行かない方がいい」──。国民的スター生誕の地が今、揺れている。
 京成臼井駅から徒歩10分、閑静な住宅地にひときわ目立つ一戸建てがある。600平方メートルを超える広大な敷地内には足の踏み場もないほどの雑草が生い茂り、樹木は伸び放題。欝蒼とした蔦が幾重にも絡みついた家屋はすでに腐りかけており、裏庭は異様な湿気が漂っている。
 ここが、長嶋が高校卒業まで過ごし、バットを振った生家である。近隣住民が眉をひそめる。

「長嶋さんのご両親が亡くなった後、長男(茂雄の兄)が住んでいたんですが、彼も5年前に亡くなってね。以降は空き家になってしまったんです。息子さんが相続したんですが、ここには住んでいません。誰も手入れせず放置された結果、この有様です」

 家屋の蔦は隣宅のコンクリート塀にまで絡みつき、伸びきって曲がった樹木は、隣宅の敷地内に侵入している。

「雑草の繁殖があまりにひどくて、近所住民が休日にボランティアで草抜きをしているんです。目の前の道路は小学校の通学路なんですが、放っておくとススキが道路まで浸食してきて、子供たちが通れなくなっちゃうから。家屋内には大量のネズミがいるし、水場にボウフラが湧くので夏場は蚊だらけ。あっ、庭の中は気をつけてください! 蛇がうじゃうじゃいますので」(別の近隣住民)

 国民栄誉賞を受賞した人物の生家だとはにわかには信じられぬ光景である。廃墟と化した生家では最近、別の問題も出てきている。

「ゴミの不法投棄がよくあって。敷地内に家電が捨てられたり。このあいだはテレビが捨てられていたから、わざわざ正規の場所に捨て直しました」(前出・別の近隣住民)

 これまで、地域の人々の胸には共通してひとつの“負い目”があり、だからこそ大事にできなかった。

「駅前の看板を見てもわかるでしょう。私ら長嶋さんの故郷ってことで散々町おこしをしてきました。記念館作って、球場も作った。今更文句言うのはどうなんだろう…。そんな気持ちがあったんです」

 地元住民の1人がポツリと話すように、彼らは「長嶋茂雄」という名前に、恩恵を受けてきた。だが、住民の感謝の念を塗りつぶすほど、廃墟の弊害は今やのっぴきならない所まできている。

「クレームを入れようにも、住人がいないんですから。万一、火事が起きたり、倒壊したら隣近所は大惨事になります。子供たちにも実害が出ている。本音を言えば、茂雄さんがどうにかしてくれるのがいちばんなんですが、今まで放置されている時点で望み薄でしょう。私たちはもう限界です。今は行政代執行による強制解体ができると聞いて、残された道はそれしかないと、みなで話し合っているんです。あの家は、一日も早く更地にした方がいい」(前出・別の近隣住民)

 町内会の会長も本誌・女性セブンの取材にこう証言する。
「実は、長男の生前から草木の弊害は出始めていて、町内会から手入れするよう申し入れたことがあったんです。でも、門前払い。手紙を入れたら今度はポストをガムテープでふさがれました。誰も住まなくなったら一層手がつけられなくなり、この状況です。住民一同、本当に迷惑しております。近く町内会で意見をまとめ、強制解体も含めて解決してもらうよう、市役所に直訴する予定です」

 女性セブンは10月初旬の週末、長嶋の生家を所有する親族男性のA氏を訪れた。現在、高校で教員を務めるA氏だが、この日対応したのは妻だった。

── 佐倉市の長嶋茂雄さんの生家について、Aさんにお話を伺いたいのですが
「えーと、主人に繋ぐことはできません。無理です」
── 現在の所有者はAさんですよね
「そうですけど、何もお答えすることはありません」
── 手入れが一切されず、近隣住民が困り果てています
「そういうの、よくわからないんで」
── 今後、Aさんではなく、他の長嶋さんの親族が生家を見ることはないのですか
「特にそういうことはないでしょうね」
── このままだと強制解体もありうる状況です
「…。すみませんけど、もう失礼します」

 それだけ話すと自宅に戻っていった。

※女性セブン2016年10月20日号


2016年10月5日16時0分、NEWSポストセブン
長嶋茂雄の生家が廃墟化で近隣から苦情
不法投棄被害も

http://news.livedoor.com/article/detail/12107307/

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貧困クライシス

 今日で2017年3月もおしまい。
 月日の経つことの早いこと、早いこと、あっという間ですね。
 ヤッホー君は3月晦日の日、竹橋にある毎日新聞東京本社(竹橋:パレスサイドビル)B1「毎日ホール」へ。

 毎日メディアカフェのセミナー「藤田孝典さんと考える『ニッポンの未来』」が3月30日、毎日ホールで開かれました。
 講師は、困窮者支援のNPO法人「ほっとプラス」代表理事で、社会福祉士(ソーシャルワーカー)の藤田孝典さんです。藤田さんは3月、毎日新聞の経済ニュースサイト「経済プレミア」の連載をまとめて加筆した『貧困クライシス 国民総『最底辺』社会』(毎日新聞出版、972円)を出版しました。今回は、出版記念イベントとなります。連載を担当する「経済プレミア」編集部、戸嶋誠司記者が司会進行を務めました。

 藤田さんは、
「さまざまな現場を見て来ましたが、本当に困っている人が多いという現状をメディアとともに伝えていくことが重要だと思っています。社会のシステムが古くなっているという視点から問題提起をしていきたいです」と話しました。

 貧困の現状について、OECD(経済協力開発機構)の調査で、6番目に高いという日本の貧困率16.1%という数値を提示。藤田さんは、
「日本では貧困はないと思われていますが、生活のしづらさ、苦しさを抱えている人は多いです。声を上げにくいという現状があるようです。貧困を可視化することで、徐々に社会に問題が認識され、古くて新しい問題と思われているようです」と話しました。
 65歳以上の高齢者に限ると、貧困率は18%に。

「昨年『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新聞出版)とうい本を出版し、『下流老人』という言葉は流行語大賞にもノミネートされました。1人ひとりの物語から、生活に困っている現状を知ってもらいたいと思います」

 藤田さんは、貧困を「絶対的貧困」と「相対的貧困」に区別しました。

「内戦状態にあるような国で、食べるものがなく、肉体の維持が難しいという状況を『絶対的貧困』と言います。日本のような先進国で、食べるものや住居はあったとしても、友人と食事をしたり、映画を見たりといった、健康で文化的な人間らしい暮らしができない状況を『相対的貧困』と言います。日本では家族や地域の崩壊によって、孤立化が進んでいます。社会の仕組みや我々の意識が追いついていないと思っています」

 社会保険や社会福祉、公的扶助などの社会制度について藤田さんは、
「どんな制度を使えば生活が楽になるか、なかなか知られていないと思います。友人・知人に聞いたり、教えてあげたり。病院にはソーシャルワーカーがいるので、相談するのもいいでしょう。困った時は、早めに『助けて』と訴えることが大事です」と話しました。

 ここで戸嶋記者が、参加者に「貧困は自己責任だと思いますか、社会にも責任があると思いますか」と質問しました。ほとんどの人が後者に手を挙げました。戸嶋記者は「この20年間で賃金が100万円ぐらい下がっています。実質所得は下がりっぱなしで、不安を感じている人も多いと思います」と話しました。
 藤田さんは、
「まず、貧困は自分と無縁ではないと思ってほしいです。10数年間にわたって支援を行う中で、社会が変わりつつあるように思います。生活保護や貧困に対して社会の目が厳しくなっているのは、社会全体が不安を抱え、生活が苦しく、ゆとりがなくなってきているからではないでしょうか。そうした対策に税金を使うくらいなら、ゆとりのない生活をしている自分に返してほしい、と考えるのかもしれません」と分析しました。

 ここからは、参加者の質問をもとに議論を進めました。
 大学に行く必要がない人は大学に行かなくてもいいのでは、という質問。
 藤田さんは、
「大学進学には大変な学費がかかり、所得に左右されるのは平等ではないと考えるのではなく、いろいろな選択肢があっていいのではと考えるのは、もっともだと思います。ですが、現実問題で言うと、大学に進学した方が経済効果があり、投資効果があります。その結果、高い所得を得られやすいという現状があります。このため、私たちは奨学金制度の見直しと学費の軽減という2つの要求をしてきました。奨学金については、2017年度から給付型が導入され、実現することとなりました」と回答しました。
 貧困について考える上で、重要なポイントはなんでしょうか、という質問。
 藤田さんは、
私たちは、医療、介護、保育、教育、住宅の5点について、市場原理の適用対象と見なさず、無償化できればいいと考えています。『脱商品化』です。ここが無償化できれば、あくせくせずに、老後に対して過度の不安を感じる必要もなくなると思います。税金の投入が不可避なので、市民の合意を得られるかがポイントです。ただ、給付型奨学金の導入など、実現しつつあると思っています。高齢者は介護や医療のために貯蓄し、子育て世代は子供の学費のために貯蓄します。貯蓄をしなくてもすむ社会を作るべきだと思います」と話しました。

 自分のように障害のある人はどうしたらいいでしょうか、という質問。
 藤田さんは、
「(障害に限らず)1人で不安を抱えている人は多いと思いますが、いろいろな場に参加してみてはどうですか、と言いたいです。孤独が原因で、不安が起こるのではないかと思います。いごこちのいい集団を探して、入ってみてはどうでしょうか」と回答しました。
 30代ですが、年収もライフスタイルも違い、同世代でもわかり合えないように感じています。この厭世観をどう乗り越えましたか、という質問。
 藤田さんは、
「2極化が進んでいると思います。年収1000万円の人と、100万円の人が理解し合えるかというと難しいと思います。みんながよりよく進む方がいいのですが、上と下をつなぐ人がいない、世代を代弁する人がいない。自分の話していることは夢、希望だとは思いますが、諦めずにやっていくしかないと思っています」と回答しました。
 最後に藤田さんは、
どんな人でも最低限安心して暮らせ、無条件で認められる社会を作っていかないといけないと思います」と締めくくりました。

2017年3月30日、毎日メディアカフェ
https://www.facebook.com/mainichimediacafe

 うん、昨夜は藤田孝典による「貧困クライシス」の話しだったのです。
 彼は1982年生まれのソーシャルワーカーで埼玉をベースにNPOを作って困窮者・貧乏人のため働き、つい最近「下流老人」という言葉を流行らせたのです。
@ とにかくあきらめないで分断をなくすようにする、
A あっち側にはこっち側を放置していくことは社会的損失だと語っていき、あっちとこっちの架け橋となること、
B 介護、保育、医療、教育、住宅は商品化しちゃいけない、
C 運動に参加すること、どこか組合とか団体に入っていっしょに声をあげていくこと、仲間と酒でも飲んで語り合うこと、
D 政府を信頼していないので増税を嫌がる、政府はいつも財源がぁと言うけど、税金を払っても還ってくる社会を目指す、貯蓄がなくとも暮らせる社会に変えること、
 ヤッホー君の胸にぐさっと来たのは、この5本の指かな……
 とにかく税金の使い道も含めて、私たちが声をあげて社会のしくみを変えていくんだ、
 だって低賃金、長時間労働だって、育児ノイローゼも、ダブルワークもトリプルワークも、イマの社会をアップデートされていないんだから、と。
 皆んなでいまの社会を変えていく、というお話しでした、パチパチ!

 明治でも大正でもなく、2017年3月のニュースなんですよ、皆の衆!
 サザエさんの漫画の世界のような三世代家族で家庭が構成されていて、地域には子どもが走り回っていて、地域のご隠居さんが目を光らせてるなんて光景は雲散霧消、
 学生がタテカン書いてスクラム組んで、労働者運動と労学共同なんて旗のもとに集まる風景なんて海市蜃楼、
 だからぁ、ムカシへのノスタルジーを捨てる、藤田さんのような若い方々の社会運動のニューウエーブに夢と希望を繋いで、ともに歩むって姿勢が大切なんじゃ、ないのヤッホー君、と。

 生活困窮者に対して、NPO法人などが一時的な滞在の場を提供する埼玉県内の無料低額宿泊所で、昨年1年間に少なくとも計約46人の入居者が死亡していることが、埼玉新聞の実施した市町村への調査で分かった。
 60歳以上の入居者が6割超に上り、入居期間も長期化していることが背景とみられる。
 県はガイドラインで入居期間を原則1年と定め、事業者に転居支援をするように求めているが、専門家は行き場のない高齢者の「終(つい)のすみか」として利用される恐れがあると指摘している。

 県によると、昨年2016年4月時点の県内の宿泊所は56施設で、入居者数は2573人。
 約98%が生活保護受給者でほとんどが男性だった。
 平均年齢は59.2歳。60歳以上が6割、70歳以上が2割に上る。

 県はガイドラインで入居期間を原則1年と定め、事業者に対して安定した住まいへの移行を支援するように明記。
 だが、入居期間は平均3年1ヶ月で、7年以上は約2割と長期化している。

 県社会福祉課の担当者は高齢・長期化の背景として、「自活できない人が多く、安住してしまう傾向がある」と分析。
 身寄りのない高齢者を受け入れる施設が不足し、全体の約8割は福祉事務所の紹介で入居しているという。

 県内の各福祉事務所やさいたま市によると、昨年1年間で約46人が入居中に死亡退所した。
 さいたま市の16人に次ぎ、戸田市の7人、川口市の5人、草加、越谷、所沢市の各3人が続いた。
 さいたま市は所管する15施設から回答を得た数字で、入院後に一定期間経過して死亡したケースなどは数に入っていない。
 同市は本年度、初めて死亡者数を調べたとしており、「入居者の高齢化で今後、死亡者が増える可能性はある」と話した。

 一部の無料低額宿泊所では生活保護受給者を囲い込み、保護費の大半を受け取っているなど、「貧困ビジネス」の温床となっている。
 県社会福祉課の担当者は「無料低額宿泊所は届け出制で、業者側の専門性や資格を定める基準はなく、悪質な業者も入り込みやすい。立ち入り調査をするなどして指導している」としている。
 宿泊所の開設を許認可制にするなど、運営基準を強化するよう厚生労働省に要望を続けているという。

 貧困問題に取り組むNPO法人ほっとプラスの藤田孝典代表理事は、
「無料低額宿泊所に入ったら『終のすみか』としてそのまま放置されてしまう現状がまん延している。転居する場合には保証人を求められる場合も多く、低所得で身寄りのない人の行き場を探しにくい現状がある」と指摘。
 その上で、
「一時的な場であることを念頭に、ケースワーカーが半年から1年の間で転居させるという倫理観で取り組む必要がある」と話した。


2017年3月29日(水)付け埼玉新聞
46人死亡…昨年、県内の困窮者宿泊所
今後増の可能性、その背景は

http://www.saitama-np.co.jp/news/2017/03/30/06_.html

 わたしは高齢者の貧困問題について、『下流老人』(朝日新聞出版)を書いた。その過程で気づいたことがある。それは、若者の貧困と高齢者の貧困は密接につながっているということだ。若者たちへの支援が十分でないと、彼らが年齢を重ね、老後を迎えた際の生活状況が凄惨なものとなる。
 消費意欲が高いにもかかわらず、多くの若者がすでに消費できない状況にある。下流老人の実態をテレビ報道などで目の当たりにすればするほど、若者たちは老後を憂い、保身的になり、萎縮してしまう。自分自身もああなってしまうのではないかと、不安に駆られ、消費行動にそれは現れる。モノを買ったり、積極的に何かを学習するなどの「自分への投資」をできる資金を稼いでいたとしても、老後のためにせっせと貯蓄に走る。

貧困は、物質的にも精神的にも・・・

 定年を迎えた時、年金がもらえるかどうか分からず、自分の生活の先行きも不透明で、禁欲的な生活を送らざるを得ない。しかしそのことで結局、精神的にも豊かな生活ができず、ますます若者らしい快適な生活ができないという悪循環に陥ることになる。
 自動車をひとつの例にとろう。
 1990年代以降、トヨタ自動車の国内販売台数と海外の販売台数は反比例している。少子高齢社会の特徴は、個人消費の落ち込みだし、日本を象徴する企業であるトヨタ自動車が過去最高益を上げていても、国内にはトヨタを買えない若者たちが大ぜいいる。過去最高益の背景は、海外の販売が好調であることで、もはや日本国内の消費は減り続けているのだ。
 しかし、若者が貯蓄に走れるならまだいいほうだ。これらの貯蓄をはじめとする資産形成ができない環境が貧困世代に急速に広がっている。若者の雇用環境と賃金、生活状況を見るかぎりにおいては、貯蓄するには極めて困難が付きまとう。
 経済学者の森岡孝二氏(関西大学経済学部教授、1944年生まれ)も、著書『雇用身分社会』(岩波新書、2015年)において、「労働者がさまざまな雇用形態に引き裂かれ、雇用の不安定化が進み、正規と非正規の格差にとどまらず、それぞれの雇用形態が階層化し身分化することによって作り出された現代日本の社会構造」が問題だと指摘する。
 森岡氏は同じ企業内において、厳然と身分が形成されていることを指摘し、非正規雇用と正社員の間にある「断絶」を問題視している。そのような雇用形態としての身分は、戦前にあった繊維産業の工場労働者における正社員と、差別を受けていた「職工」や「女工」のようであるとすら記述している。
 若者たちは、日々の生活を送るだけで精一杯だ。現代日本の社会構造の問題として若者の労働環境を是正しなければ、日本は生涯にわたって低賃金で不安定な階層を作り出し、温存していくこととなる。若者に自動車を買うなどの消費をするための余力を与えてほしい。

「1億総下流老人社会」が到来する

 そして、現在年金を受け取る立場の人よりもさらに現役時代の賃金が低い場合は、生活保護基準を割り込んだ年金収入しか老後に得られないことは明らかだ。若者の貧困と高齢者の貧困は相当に関連性があり、密接なつながりを有している。いまここで対策を打たなければ、「1億総下流老人社会」が到来することは目に見えているのである。
 にもかかわらず、若者たちへのまなざしや支援の希薄さは顕著である。下流老人や貧困世代の抱える問題は、もはや個人的な問題ではなく、社会政策として対応を求められているのだということは繰り返し強調しておかなければならない。
 現在の雇用形態や賃金が続けば、生活保護制度を利用せざるを得なくなる人びとが、ちらほらというレベルではなく、間違いなく膨大な数に及ぶ。これは社会保障制度の根幹にかかわる問題である。
 国税庁の調査によると、日本の民間企業の従業員・役員が1年間に得た平均給与は、415万円とされる(2014年時点)。この平均年収が40年間続くことを前提すると、前述したとおり、老後におよそ月額16万5000円の年金が支給される。
 東京都23区の生活保護基準額は、生活扶助費と住宅扶助費(上限額)を合計して、約14万円程度(単身世帯の場合)である。その場合、福祉事務所が継続的に生活保護を必要としなくなるための水準(生活保護自立水準=生活扶助基準+住宅扶助特別基準+基礎控除100%)だと想定しているのは、約17万円強である(2014年時点)。
 この基準に医療費や各種税金、保険料などの減免も入れれば、東京都23区内において、ひとりで健康で文化的な生活を送るためには、20万円程度必要であることが理解できる。年収にすると、ひとり暮らしの場合、240万円程度は手取りとして必要な金額と言えよう。年収が平均程度の会社員でも、老後の年金水準では、都内23区に住み続けることが困難な指標だ。だから、正社員にはなれなかった若者たちが年老いたときに、現在同様、年金以外のセーフティネットが整っていないなら、生活保護でしか生活を維持できない世帯は明らかに増えるだろう。

「子育てはぜいたく」というのが、貧困世代の本音

 2016年1月1日付朝日新聞のオピニオン欄で、わたしは「非正規雇用、年金問題などで将来に不安を抱える若い世代には、結婚して子どもを産むという当たり前のことさえ、ぜいたくになってしまっています」と述べた。それは何も誇張ではない。
 少子化問題を貧困問題とセットで考えることなく、結婚・出産しない若い世代だけのせいにしてしまう中高年の方々が、残念ながらまだ多いように思う。実際、2016年1月には、千葉県浦安市の成人式で、市長が「人口減少のままで今の日本の社会は成り立たない。若い皆さんにおおいに期待をしたい」と発言した。しかし、期待をする以前に大事なことは、若者たちの現状に対する、豊かな想像力だ。
 大人たちには、子どもを産みたくても産んで育てるほどのゆとりがない若者たちの姿が見えていない。子育てはぜいたくというのが、貧困世代のホンネである。
 ましてや、貯蓄などの資産形成もできない。そんな多くの若者たちは生活保護受給者予備軍であり、下流老人予備軍であり、それは相当に分厚い層をすでに形成している。

 貧困世代を放置すれば、近い将来、社会保障や社会福祉の対象として厳然と現れてくるだろう。いまから手を打てる限り、打っておくべきだというのが、社会福祉の専門家であるわたしの立場である。


2016年12月6日、東洋経済Online
生活保護受給者の爆発的増加は避けられない
貧困に陥った若者が、「下流老人」になる未来

藤田孝典(ふじた たかのり)NPO法人ほっとプラス代表理事
http://toyokeizai.net/articles/-/147757


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2017年03月30日

巨樹の会

 ヤッホー君、佐賀県武雄市のことでびっくり!

 レンタル大手「ツタヤ」を展開する会社が全国に先駆けて指定管理者を務めている佐賀県の武雄市図書館に関して、市民が市の施策を批判する投書を新聞にしたところ、「事実誤認」があるとして市幹部らが投稿者や家族を訪問した。市議会一般質問でも市議が投稿者を個人情報を交えて批判。こうした直接の働きかけについて「圧力になりかねない」「反論は紙面ですべきだ」という指摘がでている。
 投稿者は「市図書館・歴史資料館を学習する市民の会」代表を務めている同市の70代男性。市図書館の郷土史の展示スペースのあり方などについて市政を批判する内容で、3月4日付の佐賀新聞に掲載された。
 市こども教育部は、内容の数ヶ所が市の見解と異なり「事実誤認」だと判断。3月6日に水町直久理事ら3人が男性宅を訪れた。男性は「一部説明不足や数字の誤りはあったが、自分の主張に間違いはない」などと話したという。翌7日には諸岡隆裕・こども教育部長が男性の家族の職場に行き、投稿内容について説明した。
 水町理事は「説明不足の文章で、みなさんが勘違いされても困る。知っている仲なので、直接会って我々の考え方を理解して頂きたいという思いだった」。諸岡部長は「ご家族とは仕事上で付き合いがある。市議会の一般質問の中で話題に上がる可能性があるともお伝えした。ご家族は恐縮されていた」と話す。
 9日の市議会一般質問では、山口昌宏市議が投書を「あることないこと書いてある」と批判。市側に対応などをただした。山口市議は男性を名字で挙げたうえで、家族について職業や、仕事柄、市図書館にも縁があることに触れ、「そういう中でこの投稿は通常ありえない」「当たり前のことを書かないで、皆さん方に迷惑をかけている」などと男性を批判した。
 山口市議は取材に「事実誤認について市民に知らせるためには、公の場でしっかりやった方がいいと思った。圧力ではない」と説明。「新聞にも出ているので名字は言ってもいいと思った。家族のことは多くの武雄市民が知っているので問題ない」と話した。
 投稿した男性と家族は、市側の訪問について「圧力とは感じていない」という。ただ、市議の発言については、男性は「家族は関係ない。何でそういうことを議会で言うのか真意をはかりかねる」と話す。

「圧力」「紙面で反論を」識者
 佐賀大の畑山敏夫教授(政治学)は「市職員が投稿者や家族を訪問するのは、一般的に圧力となることが考えられる」と指摘する。「事実誤認と言うのであれば、市は読者に伝えるためにも同じ紙面上で反論すべきだった。こういった前例があると、市民は気軽に投稿したり、市を批判したりしにくくなる」
 畑山教授は市議については「議会で取り上げるにしても、個人を名指しして批判する必要はなかった。家族への言及も含め、配慮がない」と苦言を呈する。


2017年03月30日09時24分更新、朝日新聞デジタル
ツタヤ図書館の批判、新聞に投書したら武雄市幹部が家に来た
http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/29/tsutaya_n_15699260.html

 いろんなことがあって話題になった武雄市とそのおとのさま、でも今日も図書館のことがニュースヴァリューあると報道されるとはね。
 市図書館だけでなく、市民病院まで:

民間移譲をめぐる市長辞職に伴う出直し武雄市長選

 2008年12月28日投票、即日開票され、前市長の樋渡啓祐氏(39)=武雄町=が、合併前の旧市長を務めた古庄健介氏(70)=同=を約2800票差で破り再選を果たした。市民病院の経営形態を最大の争点とした「医療選択選挙」で、市民は民営化による医療機能充実を訴えた樋渡氏をリーダーに選んだ。公選法の規定に基づき、当選した樋渡氏の任期は2010年4月15日まで。
 投票率は同じ顔ぶれによる一騎打ちとなった2006年4月の前回を12ポイント下回る70.84%だった。
 当選した樋渡氏は「民間移譲を市民の多くに理解していただいた。2次医療を中心に、救急など市民のニーズに応えられる病院となるよう、市長としてリードしていきたい」と、力強く抱負を語った。
 樋渡氏は市長だった今年2008年5月、県内の自治体病院では初となる民間移譲方針を発表。一般公募を経て、7月には医療法人財団「池友会」(北九州市)と移譲協定を結んだが、地元医師会などが猛反発。11月、移譲に反対する市民グループによるリコール(解職請求)の動きに対し、「民意を問いたい」と辞職、出直し選に打って出た。
 選挙戦では市議会(定数30)の約3分の2に当たる移譲賛成派の市議19人らと市内各地で連日のように集会を開催。開設以来続く赤字経営などの問題点を指摘し「病院がつぶれてから改革するのでは遅い」と移譲の正当性を訴えた。
 古庄氏は、移譲に反対した市民グループの要請を受けて立候補。医師会の全面支援を受け「財政面だけを理由とした移譲は許されない」と市営での存続を掲げた。樋渡氏の市政運営に対する批判票も取り込み、終盤は激しく追い上げたものの、出馬表明が告示1週間前と出遅れも響き及ばなかった。
 当日有権者数は4万978人(男1万8982人、女2万1996人)。

樋渡氏「市民病院民営化に理解」

 市民病院の民間移譲問題を争点とした28日の武雄市長選。市民は「民営化」の正当性を訴え続けた樋渡啓祐さん(39)に地域医療の将来を託した。市民グループのリコール(解職請求)を受けて立つ形で、自ら出直し選に打って出た樋渡さんは「市民のニーズに応じた病院を目指す」と力強く決意。万歳三唱で喜びを爆発させた。
 午後10時37分。「当確」の一報が届くと、同市武雄町の選挙事務所に詰めかけた支持者約300人から、耳をつんざくような歓声と拍手が起こった。樋渡さんは「移譲を市民の多くに理解していただいた。ありがとうございます。議会、市民との対話を深め、ぬくもりのある元気な武雄市を目指します」と語り、支持者と喜びを分かち合った。
 今年5月、市長として県内自治体で初となる市民病院の民間移譲を打ち出した樋渡さん。反発する市民グループによるリコールの動きを受け、11月21日に辞職。直後から移譲賛成の市議らと辞職の「おわび行脚」を兼ねた説明会を市内各地で実施。約20万枚にも及ぶビラ配布などで政策の浸透を図った。
 選挙戦に入っても、街宣活動のほか、10―100人規模の地区集会を連日開催した。しかし、医療問題とは別に「独断、性急」ともいわれる政治手法への批判も徐々に顕在化。急激に追い上げられる展開に危機感を募らせた陣営は終盤、電話作戦などで支援者がフル回転、てこ入れを図って逃げ切った。
 全国各地で公立病院の運営をめぐり議論が巻き起こっている。陣営幹部は「今回の勝利は地域医療を守る先進事例として受け入れられるはずだ」と興奮気味に話した。

古庄氏「力足りなかった」出遅れ響く

 「市民病院存続」を強く訴えた古庄健介さん(70)。独断ともいわれた樋渡市政の批判票も取り込み、終盤は猛烈な追い上げをみせたが、出馬の出遅れなどが響き、“返り咲き”はならなかった。
 樋渡氏リードが伝えられた午後10時45分、支援者が待つ武雄市武雄町の事務所に入った古庄さんは「皆さんの熱い思いを市民に十分届けることができなかった。私の力が足りなかった」と深々と頭を下げた。その上で「市民病院を残すべきという訴えはかなり理解を得られた。その思いを生かせるような病院にしていただきたい」と要望を口にした。
 出馬表明は告示の1週間前。地元医師会や自民、共産、社民など「超党派」の市議が結集し、半年前から活動していた市民運動の延長として選挙戦を展開した。樋渡市政に反発する同市選出の石丸博県議会議長も全面的にバックアップ。武雄市中心街から支持を広げたが届かなかった。


2008年12月29日更新、佐賀新聞ニュース
武雄市長選
樋渡氏が2800票差で当選
http://www1.saga-s.co.jp/news/saga.0.1144247.article.html

 佐賀県武雄市は、市のウェブサイトをフェイスブックに移管した。自らもツイッターで発信を続ける樋渡啓祐市長(43)は「ソーシャルメディアを使わない首長に存在価値はない」と言い切る。

―― ツイッターやフェイスブックを使い始めたのはなぜですか。

「地方だから。(自身が官僚として)霞が関にいたころは何もしなくてもメディアが来た。武雄市長のところには来ない。自分で発信するしかない。地方都市は、知ってもらい、来てもらわないと」

―― 使い分けは?

「ツイッターは権力者に厳しい。フェイスブックは権力者に厳しくても、仲間には温かい。政治家は二つやらないと馬鹿になる」

―― 双方向性を生かして議論するんですか。

「議論には関心がない。一人ひとりの意見を聞いて、一から政策をつくるなんて不可能」
「政治家にとってソーシャルメディアが優れているのは、打ち出した政策のマーケティングができるところ。その政策が人気か不人気か、間違ってないか、リアルタイムでわかる。iPhoneが生まれたとき、アップル社は事前に客に意見を聞いてはいない。発表後に評判を聞き、次回作に修正を加える。そういう使い方だ」

―― 批判的な意見はブロックして無視しているとの批判があります。

「かつては、ツイッターで深い議論をすれば、集合知が生まれると思ったが、人間はそれほど行儀がよくない。匿名で罵倒されるほうが多い。私は聖人君子でも苦情処理機関でもないので、匿名で罵倒を繰り返す人間の相手をしている時間はない」

―― ソーシャルメディアでは、自分と似た意見ばかり集める危険性があると言われます。

「それでも10年前よりずっといい。かつては自分の意見を述べるツールも機会もなかった。これは劇的な、コペルニクス的転回。自分と違う意見はマーケティングで取り入れればいい。罵倒ばかりの人はフォロワーが少ないし、リツイートもされない。そういう人が淘汰され、よりよいソーシャルメディアが発展していくと楽観している」

―― 市長は、批判や罵倒が多いツイッターを「便所の落書き」と言ったことがあります。

「落書き、嫌いでも見るでしょ? 何が書かれているかって。悪口だとしょげるけれど、そう見られているんだと思うと学べる。自分を相対化する能力が求められている」

1969年生まれ。1993年総務庁(現総務省)に入り、出向先の大阪府高槻市で市長公室長などを務めた。2006年に武雄市長に初当選し現在2期目。2011年夏に市のウェブサイトをフェイスブックに移した。


2013年5月29日18時5分更新、朝日新聞デジタル・ソーシャルA特集
「議論に関心ない」樋渡啓祐・武雄市長
http://www.asahi.com/special/news/articles/TKY201305290323.html

 気になるニュース、いまこのお方、「樋渡社中」(株)代表取締役であると同時に、一般社団法人「巨樹の会」の理事を務めていらっしゃいます。

 大町町の臨時町議会が2017年1月23日開かれ、町立病院を民間に移譲するため、同病院の設置などに関する条例を廃止する条例と、財産の処分についての2議案を賛成多数で可決した。町立病院は4月から、民間病院に引き継がれることになった。
 議案は、町が地域医療の継続を目的として、町立病院の土地約4600平方メートルと、鉄筋コンクリート造り4階建て病棟など延べ床面積約3400平方メートルの建物を、武雄市で新武雄病院を運営する一般社団法人巨樹の会に3億5千万円で譲渡する、というのが主な内容。


2017年1月24日03時00分更新、朝日新聞デジタル
佐賀)4月から大町町立病院の民間移譲決まる
http://www.asahi.com/articles/ASK1R43WYK1RTTHB00Q.html

 「巨樹の会」は関東にも名をはせております。

熊谷総合病院・社会医療法人北斗が経営支援!
久喜総合病院・巨樹の会へ売却!
設備投資重く・医師確保が困難!


 帝国データバンクによると埼玉県厚生農業協同組合連合会(熊谷市、出資総額18億4230万円、五月女直樹代表清算人)は2016年7月22日、東京地裁から破産手続きの開始決定を受けた。
 負債は約65億3374万円。

 2年前に無茶な投資をしたのが問題とも言われ、厚生連全体のタガがゆるみ始めたのではないか。各地のJA協同病院は地域の中核的病院と目され「地方自治体の手厚い補助金が出されている」のも特徴だ。

 熊谷総合病院(熊谷市)、久喜総合病院(久喜市)運営での、備品調達費用がかさんだことなどから両病院を売却。6月30日に総会の決議で解散していた。

 当法人は、1934(昭和9)年12月に創業された医療利用組合病院が前身で、1948(昭和23)年10月に農協系の病院として法人改組した。かつては、熊谷総合病院、幸手総合病院の2つの病院を経営、地域の中核的な病院として、2009年3月期には年収入高約67億800万円を計上していた。

 その後、2011年に幸手総合病院を閉鎖して新たに久喜総合病院を開業。また、2013年には熊谷総合病院を新築するなど業容拡大に努めていた。しかし、厳しい経営環境が続くなか、設備投資負担が重く、医師の確保が困難になってきたことなども重なり、2014年3月期は年収入高約110億円としていたものの、当期純損失約14億8600万円に陥るなど苦しい状況に追い込まれていた。

 こうしたなか、再建の見込みが立たなくなったことで自主再建を断念し、今年2016年1月には両病院を売却することを発表。

 『熊谷総合病院』は、社会医療法人北斗(北海道帯広市)が経営支援し、新たに設立された医療法人熊谷総合病院が運営。『久喜総合病院』は、一般社団法人巨樹の会(佐賀県武雄市)へ売却し、『新久喜総合病院』として運営。両病院ともに新体制下で運営がスタートしている。

 帝国データバンク大宮支店は「両病院ともに新体制下での運営がスタートしており、地域医療に影響が出ることはない」とみている。


2016年8月4日付けkyoto-seikei
JA埼玉県厚生連・破産開始決定:負債は65億円!
http://kyoto-seikei.com/hp/2016/08/04/

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佐倉高校

舟木一夫/高校三年生
https://www.youtube.com/watch?v=jnNvTTDZJvc

舟木一夫/君たちがいて僕がいた
https://www.youtube.com/watch?v=IwxBJnOgbFE

 ヤッホー君にだって高校時代はあったはず。
 でもびっくり、佐倉高校の長い、長い歴史。
 225年前にまで遡ります、って本当の話し?

鹿山文庫
来歴と概要
 千葉県立佐倉高等学校は、1792(寛政4)年に創立された佐倉藩校佐倉学問所に由来する。
 そのため高校としてはめずらしく、藩校時代を中心とする古書籍を所有していることは有名であり、和装本のすべてと、1912(明治45)年以前に刊行された洋装本を総称して「鹿山文庫」とよぶ。
 佐倉城跡のある高台が鹿島山と呼ばれており、佐倉高校が1910(明治43)年に現在地に移転するまでは佐倉城追手門前に所在していたので、校名も「鹿山精舎」「鹿山中学」などと称されていた歴史もあり、ゆかりの地であることにちなんで命名された。
 本文庫の成り立ちは、
一、藩主堀田氏をはじめ、佐藤泰然、松本良順などの個人の蔵書から藩校の蔵書となったもの。
二、佐倉成徳書院や医学所の蔵書であったもの。
三、佐倉軍事調所をはじめ藩の機関の蔵書であったもの。
四、佐倉英学校や佐倉中学校など、近代の教育機関の蔵書として収集されたものなどである。
 これらはぞれぞれの蔵書印が押されていることによって、その由来を確定することができる。
。。。
 佐倉藩では蘭学をはじめとする洋学が盛んであったので多数の蘭害が現存し、とくに「江戸ハルマ」とよばれた『ハルマ和解』と、「長崎ハルマ」とよばれた『ドゥーフ・ハルマ』は貴重な存在である。
 これらに『訳鍵』と『和蘭 字彙」をくわえて、わが国におけるオランダ語学習の歴史においてもっとも貴重な辞書が勢揃いしている。
。。。


日本医史学雑誌第47巻第2号(2001)
文庫めぐり
http://jsmh.umin.jp/journal/47-2/366.pdf

 県立佐倉高校同窓会「鹿山会」(鈴木博会長)は、同校の前身となる旧佐倉藩校創立220周年記念事業として、藩校のあった佐倉市民体育館敷地内に記念碑「佐倉藩校・成徳書院跡」を建立。
 2012年12月22日に除幕式を行い、同窓会関係者ら約30人が完成を祝った。

 碑の表には「佐倉藩藩校成徳書院跡」の文字。
 裏には成徳書院の絵図と1792(寛政4)年の藩校設立から1871(明治4)年の廃藩置県による藩校廃止を経て、1910(明治43)年に現校地の佐倉市鍋山町に移転するまでの経緯が刻まれている。

 式典には同窓会員と、藩校を創立した佐倉藩主・堀田正順の子孫、堀田正典(まさのり)さん、蕨和雄市長、佐倉高生徒会役員らが出席。
 除幕後、鈴木会長は「記念事業を機に同窓会として220年の歴史をさらに継承していき、文武両道の教育指針の下、立派な人材を送り出す学校の存続を願っている」とあいさつした。


2012年12月24日16:19更新、千葉日報
佐倉藩校跡に記念碑建立
220周年で佐倉高同窓会

http://www.chibanippo.co.jp/news/local/115841

 「藩校を創立した下総国佐倉藩第2代藩主・堀田正順(まさなり、1745-1805)の子孫、堀田正典(まさのり)さん」ですかぁ〜

 佐倉藩藩主として栄えた堀田家。その13代当主堀田正典(まさのり)氏が先祖の秘話を明かした。
***
 堀田家と聞いてピンとこなくても、幕末に米国総領事ハリスと交渉した老中の堀田正睦(まさよし、下総国佐倉藩第5代藩主、1810-1864)なら知っている人も多いのではないでしょうか。
 私は正睦の孫の孫になります。

 祖先の堀田正吉(下総国佐倉藩第3代藩主、1761-1811)は、関ケ原の戦いのあとに徳川家康に仕えた武将でした。
 正吉の長男・正盛(1642-1651)は、春日局の義理の孫になります。
 その縁で、春日局が乳母をつとめた家光のそばに仕えました。
 将軍になった家光に取り立てられて老中になり、今の千葉県にあった佐倉藩11万石の大名になったのは破格の扱いです。
 もちろん恩義を感じていたようで、家光が亡くなったときには殉死しています。

 そのあとを継いだ長男の正信(1631-1680)は、事件を起こして領地没収となります。
 幕府への断りなしに佐倉に帰ってしまったのです。
 無断で領地へ帰れば謀反と思われてもしかたのないことでした。
 正信はすべてを失いましたが、子どもの代で琵琶湖近くの近江宮川藩1万石の大名として復帰します。
 ここが堀田家の本家になります。

 私の家は堀田家の分家ですが、正睦のような有名人が出たこともあり、知名度は本家よりもあるようです。
 うちの初代は、正信の弟・正俊(1634-1684)です。
 春日局の養子となり、大奥で育てられました。
 父親の正盛と同じように春日局の縁をきっかけに、幕府役人の出世街道を順調にすすみます。
 老中のときには4代将軍・家綱が亡くなり、ただひとり綱吉を5代将軍に推しました。
 結果、綱吉は将軍になり、正俊は幕府のトップ、大老にまでのぼりつめたのです。

 領地も、正盛と春日局の遺領としてもらった1万3千石から、群馬県の安中藩2万石、さらに茨城県の古河藩13万石に移りました。
 石高が増えていますから、今で言えば“栄転”ですね。

 次の代からしばらくは、藩がかわっても石高は増えない“転勤族”でした。
 国替えをくりかえし、5代正亮のときに、山形藩から正盛が治めていた佐倉藩に戻りました。
 それ以降は、ずっと佐倉藩です。

 家に伝わっていたものの多くは戦後の混乱期に失ってしまいました。
 残っているものは、家光に殉死した正盛の辞世の歌を掛け軸にしたもの、初代・正俊が愛用した桑の小机などですが、いちばん大事なのは「扇の小箱」でしょうか。

 「将軍家にさしさわりがあるから開けてはいけない」と言い伝えられてきたものです。
 初代・正俊に関する文書を封印したもので、代々ずーっと開けないで引き継いできました。
 ところが、父・正久はどうしても中を見たくなった。

 1956年、父は日本史学者の東大教授、伊東多三郎博士を自宅に招いて扇の小箱を開けました。
 家光や家綱らの直筆書画や正俊のメモ帳などが出てきました。
 なかでも伊東博士が「日本史上重要なもの」と指摘したのは、家綱からの手紙でした。
 死の3日前に正俊あてに書いたもので、この手紙によって綱吉が5代将軍になったというものです。

 父は扇の小箱の古文書を読みこんで、「正俊は自分が将軍にした綱吉の狂的な一面を知ってジレンマに陥っていたようだ」とも言っていました。
 扇の小箱が封印されていたのは、そこらへんが原因かもしれませんね。


2014年8月15日号『週刊朝日』(構成 本誌・横山健)
幕末にハリスと交渉した堀田家が握る将軍家の秘密とは
https://dot.asahi.com/news/domestic/2014080800038.html?page=2  


 佐倉藩藩主として栄えた堀田家。その13代当主堀田正典氏が先祖の秘話を明かした。
***
 5代・正亮(まさすけ)のときに山形藩から佐倉藩に移りますが、山形には4万石ほどの領地が幕末まで残りました。
 堀田家が治めていたからでしょう、山形市の蔵王地区は、もとは堀田村といったらしい。
 今でも蔵王堀田という地名がありますし、陣屋があったところには堀田永久稲荷という神社が残っています。

 幕末にハリスと交渉した正睦(まさよし)は、「西洋堀田」と言われるくらい洋学にのめり込んでいた。
 長崎でオランダ医学を学んだ佐藤泰然(たいぜん)を佐倉に招き、私立病院「順天堂」を開かせます。
 医学塾でもあった順天堂には全国から医学生が集まってきて、「西の長崎、東の佐倉」と言われるほどだったそうです。

 泰然の養子・尚中(しょうちゅう)は、東京に順天堂を開き、現在の順天堂大の前身となりました。
 東京のほうが大きくなりましたけど、おおもとになる佐倉の順天堂も、佐倉順天堂医院としてちゃんと残っています。

 最後の藩主だった正倫(まさとも)は維新のあと佐倉に住みましたが、祖父・正恒の代では東京住まいでした。
 久しく誰も住んでいなかった佐倉の屋敷は、厚生園という結核療養所に貸していました。
 ところが戦時中、佐倉に疎開することになり、父は厚生園の患者の方たちと屋敷に住むことになったとか。
 戦後、結婚して私が生まれたときも、座敷は結核の病人でいっぱいだったと聞いてます。

 私が生まれてすぐに、祖父が亡くなりました。
 財産税やら相続税で大変だったのでしょう、屋敷は厚生園に売却して甚大寺というお寺に引っ越しました。

 甚大寺は堀田家の菩提寺です。
 正亮のときに、堀田家とともに山形から佐倉に移ってきました。
 そこの離れの客殿に一家で住んだのです。

 ほぼ正方形の15畳の部屋が二つ。
 奥の客間で両親が寝起きしていました。
 手前は私と弟が机を並べていた子ども部屋です。
 お客さまが来れば、子ども部屋を通り抜けて客間へ入っていく。
 出入りはけっこう激しくて、常に誰かしら来ていました。

 お客さまが多かったのは、父・正久が佐倉市長をしてたからでしょう。
 彦根市長だった井伊直愛さんとともに、「殿様市長」なんて騒がれたこともあったようです。

 余談ですが、叔母が“政商”小佐野賢治さんと結婚したときも騒がれたらしい。
 古い写真を見ればわかりますが、叔母はたいへんな美人だったそうです。
 お公家さまと結婚が決まっていたのを、小佐野さんが熱心にアプローチして奪い取ったというふうに聞いています。

 私自身は堀田家ということで騒がれたことはないです。
 中学まで地元の学校でしたが、まわりは特別扱いしてくれませんでしたよ。
 でも、領地だった山形の旧堀田村に行くとちがいます。

 あちらはとにかく情があつい。
 父の葬儀のときには、山形から多くの方が来て参列してくださいました。
 翌年にお礼をかねて佐倉の「藩友会」という旧家臣の面々と山形へ行ったら、「お殿様ご一行」という横断幕で出迎えてくださいました。
 そういえば父も、「佐倉では一般の市民だけど、山形に行くとお殿様だ」って笑ってましたっけ。
 山形に引っ越そうかな(笑)。


2014年8月22日号『週刊朝日』(構成 本誌・横山健)
私立病院「順天堂」を開かせた西洋好きの堀田正睦
https://dot.asahi.com/wa/2014081400057.html

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2017年03月29日

ユネスコスクール

 へぇ〜、「ユネスコスクール」!
 ではここでユネスコ憲章を読んでみましょう:

前文
 この憲章の当事国政府は、その国民に代って次のとおり宣言する。
 戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
 相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
 ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
 文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
 政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない
 これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。
 その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する。

第1条  目的及び任務
1 この機関の目的は、国際連合憲章が世界の諸人民に対して人種、性、言語又は宗教の差別なく確認している正義、法の支配、人権及び基本的自由に対する普遍的な尊重を助長するために教育、科学及び文化を通じて諸国民の間の協力を促進することによって、平和及び安全に貢献することである。
>

文科省公式サイト
国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)/The Constitution of UNESCO
http://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm

 無知、偏見、人間と人間との間の不平等、人種と人種との間の不平等、こんなものがなくなるといいよね。
 そんなんで差別したり、排除したり、仲間外れにしたりするような言動は慎み、なくしていきましょうね。
 こんなんが跋扈しているんですよ、21世紀も17年たつというこのご時世に:

 モンゴル出身の大関・照ノ富士が大相撲春場所14日目(3月25日)に関脇・琴奨菊に勝利したが、この取り組みについて観客のヤジ「モンゴル帰れ」という言葉を見出しにしたニュース記事に対し、外国人に対する差別的な「ヘイトスピーチだ」といった批判が相次いでいる。
 問題となっているのは、「スポーツ報知」が3月26日に配信した記事。
 見出しは「照ノ富士、変化で王手も大ブーイング!『モンゴル帰れ』」となっている。
。。。
 Twitterでは、「モンゴルに帰れ」というヤジが「人種差別」「ヘイトスピーチだ」と問題視する声が出ている。
 さらに、このヤジを見出しにしたスポーツ報知の記事についても批判が相次いでいる。
 2016年6月、外国人に対する差別的な言動の解消をはかるために「ヘイトスピーチ対策法」が施行されたが、これを受けて法務省では「ヘイトスピーチ」の具体例をまとめている。
 その中では「地域社会からの排除をあおる言動」の例として「○○人はこの町から出て行け」「○○人は祖国へ帰れ」が挙げられている。
。。。
 「スポーツ報知」では2015年8月、全国高校野球選手権大会に出場していた関東第一高校のオコエ瑠偉選手(現楽天)について、「野性味全開」「本能むき出し」 などと、ナイジェリア出身の父を持つオコエ選手をアフリカの動物にたとえたような表現をしたことで、批判を受けた過去がある。
 報知新聞社は当時、ハフィントンポストの取材に対し「記事へのご批判があった事実を真摯に受け止め、今後の報道に生かしたいと考えます」とコメント。オコエ選手に関する記事を削除した。
 ハフィントンポスト編集部では27日午後2時ごろ、報知新聞社・東京本社に取材を申し入れた。
 同日午後6時ごろ、改めて報知新聞社・企画本部に質問をメールで送付した。
。。。

2017年03月28日15時06分JST更新、The Huffington Post
照ノ富士へのヤジ「モンゴル帰れ」を見出しに
スポーツ報知に「ヘイトスピーチだ」と批判相次ぐ

http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/27/terunofuji-hochi-report_n_15633468.html

 ユネスコスクールで学んだ若い子たちが育っていければ、こうした差別を助長したり、特定のイデオロギーにそまってどっかの国のように指導者個人を崇拝したりする、そんな一部支配層、富裕層、特権階層のための社会にならないんじゃないか、とヤッホー君、強く思う次第。
 ほら、うなづいているでしょ。
 こちとら下町だって、ちゃぁ〜んと「ユネスコスクール」に登録されとるよ!
 江東区立八名川小学校(江東区新大橋3-1-15 Tel 3631-2260)!
 
 本校はユネスコスクールに認定されています。
 生活科・総合的な学習の時間では、「環境」「多文化共生」「人権・命」「国際的な協力」をテーマとした学習を行ない、子どもたちに問題解決力・表現力・行動力を育みます。


http://www.koto.ed.jp/yanagawa-sho/education.html

 この子らへの教育が、一部支配層、富裕層、特権階層らによってゆがめられることのないよう、この国の未来のために祈っています。 

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)に日本が供出している分担金について、菅義偉官房長官は2015年10月13日の記者会見で、支払い停止を検討する考えを示した。中国の申請した「南京大虐殺の記録」が世界記憶遺産に登録したことを受けて「問題がある」と指摘した。
 菅官房長官は「一方的な相手国の言い分のもとに決定される、そうした相手国が出した文章についても本物なのかどうか専門家の検証も受けていないとか、いろいろな問題があると思います」と指摘。
 「現在、審査の過程に加盟国が関与できないんです。申請文書に加盟国がアクセスできない。極めて不透明ですよね。どういうものが提出されたのか。透明性だとか公平性、当然のことです。そうしたことを含めて、現在のあり方といいますか、そこについては、見直しを強く求めていきたいと思いますし、我が国としては、ユネスコへの協力金のあり方を含め、支払いの停止等を含めてあらゆる見直しを検討していきたい」と述べた。
 菅官房長官のこの発言について、世界各国はどのように報じたのか。

日本がユネスコを脅迫
 国際通信社のロイターは菅氏の発言と対比させ、中国の華春瑩報道官の言葉を伝えた。
 華報道官はこの日の記者会見で、「日本は国連関連組織への資金提供を止めるといって、脅迫できるかもしれない。しかし、歴史の汚点を拭い去ることはできない。もしそのようなことをすれば、汚点はより、黒くなる」と述べた。
(「Japan may halt funds for UNESCO over Nanjing row with China」より 2015/10/13 9:38 BST)

 カタールの衛星放送「アル・ジャジーラ」は「ユネスコの南京大虐殺文書が日本を怒らせた」と題して、ロイターと同様の記事を配信。
 「日本と中国の見方に食い違いがあるにも関わらず登録が強行されたことに対し、日本政府は国連機関に資金提供をやめると脅迫した」としている。

東京はユネスコとのドアを閉めた
 アメリカのケーブルテレビ局「CNN」は「東京は南京大虐殺文書に怒り、ユネスコとのドアをピシャっと閉じた」という記事で、菅官房長官の発言を中心に報道した。
 一方で、華報道官が中国・新華社通信に述べた「中国はこの文書が、平和を願い、また将来を見通し、人間の尊厳を保護するという、歴史記憶として肯定的な役割をするものだと考えている」という内容も紹介している。

日本の新聞は、団結してユネスコを非難した
 イギリス・ガーディアン紙の記事見出しは「日本、南京大虐殺をめぐりユネスコへの資金提供を止めると脅迫」というもの。
 菅官房長官や華報道官の発言を報じると同時に、「日本の新聞は、団結してユネスコを非難した」として、日本の報道状況について伝えた。
 記事は「保守系」のメディアとして、10月11日付の読売新聞の社説の一文「文化財保護の制度を<反日宣伝>に政治利用し、独善的な歴史認識を国際社会に定着させようとする中国の姿勢は容認できない」を紹介。
 「リベラル」メディアとして、朝日新聞の11日の社説も取り上げた。
 そこには、「新華社によると、登録された記録には、事件の死者を30万人以上と記した文書もある。死者数を裏付ける手がかりは乏しく、中国でも多くの歴史学者が疑う数字だ。だが、それを公然と論じる自由な空気はない」とされている。

日本、自虐的報復
 中国の新華網は「日本、ユネスコへの唯一の自虐的報復」との記事で菅官房長官の発言を報じた。
 記事は、「お金で歴史を曲げることはできない」と主張。
 「世界は南京大虐殺の真実に注意を払うべきだ。また、世界は日本がお金で国際社会を脅す醜い行為の目撃者となる」と続けた。


2015年10月14日 10時32分 JST更新、The Huffington Post
「日本がユネスコを脅迫」拠出金停止の検討、海外メディアはどう報じたか
http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/13/japan-threatens-unesco_n_8289618.html

 日本のメディアは何度も国内外から批判されているにも関わらず、お上の発表を垂れ流すだけ:

 政府が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)への今年の分担金約38億5千万円を支払っていたことが2016年12月21日、分かった。
 ユネスコが昨年2015年、「南京大虐殺」の文書を「世界の記憶」(記憶遺産)に一方的に登録したことに反発し、支払いを保留していたが、今週始めに拠出に踏み切った。
 支払い保留を続ければ加盟国の反発を招き、日本が求める記憶遺産の登録制度改善にも支障をきたすと判断した。

 ユネスコ分担金は加盟国の義務で、日本は例年4〜5月に支払っており、12月まで保留したのは異例といえる。
 今年2016年の任意拠出金約7億7千万円も保留していたが、11月に支払った。

 記憶遺産をめぐっては今年2016年、日中韓などの民間団体が慰安婦問題の関連資料の登録を申請し、年明けから審査が始まる。
 政府は透明性確保など登録制度の改善を求めているが、成否は見通せない。
 自民党内には「慰安婦資料の登録が見送られるまで支払うべきではない」との意見も根強い。

 ただ、拠出しないまま越年すれば加盟国の反発を招き、制度改善の動きがかえって停滞するというジレンマもある。
 また、分担率2位の日本が拠出を停止すれば、3位の中国の存在感が増すという懸念もある。
 日本が登録を目指す世界文化・自然遺産などの他の審査にも影響が及びかねない。

 分担金を支払った上で来年の慰安婦資料の登録を許せば、政府への批判が高まることは必至。
 外務省幹部は「登録制度改善を強く働きかける」と強調する。


2016.12.22 09:23更新、産経ニュース
日本がユネスコ分担金38億円を支払い
南京登録で保留分
拠出停止で記憶遺産の登録制度改善に支障

http://www.sankei.com/politics/news/161222/plt1612220010-n1.html

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2017年03月28日

佐倉へ歴史散策

 戻り鰹か寒の戻りか、月曜日は冷えました。
 一昨日の日曜日は、山歩クラブのお散歩会。
 春寒にも、春雨ニモマケヌ強い体と心を持った6人衆。
 雨もまたよし、と元気に集まっていただけましたぁ〜
 京成佐倉へ遠征しました。
 江戸ちゃん、ありがとう。
 リーダーとして下見もしていただいて、おつかれさま。

 足を止めた先々でベテランのガイドさんが熱烈大歓迎!
 街ん中でも厚化粧のお女将さんに呼び止められました!
 懇切丁寧に佐倉に引っ越してきなさい、とまで口説かれ、ヤッホー君なんか飛び上がって喜んでいました。
 最初の訪問先は長嶋茂雄が卒業した佐倉高校(添付写真!)、そしたら西尾さんが佐倉第一じゃないか、と。
 その辺は詳しく桜井さんからご説明いただき、歩き締めのJR佐倉駅前でサクラにはちょい早かったのですが打ち上げの花の舞いをご披露。 
 帰りの電車で急にもよおしたヤッホー君、四街道の駅構内に立ち寄ったのですが、連れ立っていっしょにもよおしたガイドさんは、ユネスコスクールの佐倉南高校をお出になった若いお兄ちゃん。
 世が世なれば、の佐倉は今いずこ、と木村屋の蔵六餅をむしゃむしゃ、今日も濫読蘭学のヤッホー君。
 ほんじゃ爽快で!(「総会」なんてそこらにある形式的・皮相的・手続き的懐疑を山歩クラブ、お断りぃ〜して15年!)


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2017年03月27日

牛久入国管理センター

 寒かった3月27日月曜日、ヤッホー君またまた凍えていました。
 マレーシアの日刊紙、The Star を見ていたらこんな記事が:

TOKYO (Reuters) - A Vietnamese man held in a solitary cell at an immigration detention centre in Japan died on Saturday, raising fresh questions over the monitoring of individuals in the country's detention system.

The man died at the East Japan Immigration Center in Ibaraki prefecture, northeast of Tokyo, a spokesman for the centre said on Monday. Two men, one of whom was also held in a solitary cell, died at the same facility in 2014.

The dead man, Van Huan Nguyen, was one of more than 11,000 refugees taken in by Japan over the three decades to 2005 in the aftermath of the Vietnam War, two people who knew him said. Reuters was not able to independently verify the man's identity.

Nguyen did not have relatives in Japan but had many friends, said one of the people.

"He was a bright, fun person," she said. "I can't believe he died."

The East Japan Immigration Center said a guard found a Vietnamese man in his forties lying unconscious in his cell at around 1 a.m. on Saturday. The guard called an ambulance and performed cardiac massage on the detainee before he was sent to hospital, where his death was confirmed around 80 minutes later.

The centre said the cause of death was not yet known and the authorities would hold an autopsy. It declined to say why the man had been detained, or for how long.

"The fact that someone died in a detention centre should be taken seriously,"

Kiyoshi Yasutomi, chairman of a watchdog that monitors the centre, told Reuters, but declined further comment, because he did not know the cause of death.

A Reuters investigation last year into the death of a Sri Lankan held in a solitary cell at a different facility in Tokyo revealed serious gaps in medical care and monitoring in Japan's immigration detention system.

The Vietnamese man's death takes to 13 the toll of deaths in Japan's immigration detention system since 2006. Four of the cases before the most recent death were suicide.

Mental health problems are rife in Japan's immigration detention system, psychiatrists working at the centres and detainees have told Reuters.

Many detainees are held for months and even years without knowledge of when they will be released, and many develop depression, anxiety and insomnia.


The Star, Published: Monday, 27 March 2017 - MYT 1:25 PM
Vietnamese detainee dies in Japan immigration centre
By Minami Funakoshi and Thomas Wilson
(Additional reporting by Ami Miyazaki; Editing by Robert Birsel)
http://www.thestar.com.my/news/world/2017/03/27/vietnamese-detainee-dies-in-japan-immigration-centre/

 本件、日本のメディアで報道されてもせいぜい次のように圧縮されてしまいます:

東京、3月26日、ロイター(舩越みなみ)
 法務省入国管理局の東日本入国管理センター(茨城県牛久市)で3月25日に40代のベトナム人男性が死亡したことがわかった。複数の関係者が26日、明らかにした。
 支援団体関係者や弁護士、被収容者らによると、この男性はVan Huan Nguyen氏。ベトナム戦争後に日本に逃れてきたインドシナ難民の1人だというが、いつから日本にいるかなど、詳しいことは不明。 
 産経新聞によると、同日午前1時ごろ、巡回中の同センター職員が、男性が動かないことに気づき、意識がなかったため通報、午前2時20分ごろ死亡が確認されたという。司法解剖して死因を調べる。
 同センターでは、2014年にも2人の被収容者が死亡している。難民申請者や不法滞在者などが収容される入管の施設では、常駐の医師がいないなど医療体制が不十分であるとして、医師や弁護士団体から改善を求める声が出されている。また、将来に対する不安などから被収容者が精神疾患を患うケースも多く見つかっている。

 
2017年3月27日10時05分、朝日新聞デジタル
茨城県牛久市の入管収容所でベトナム人男性が死亡=関係者
http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKBN16X12C.html

 牛久入管収容所問題を考える会(つくば市高野1159-4 Tel 029-847-5338)が活動しています。
 その会の文書からふたつほどご紹介:

長期収容者の存在を隠すマジック 
 牛久入管収容所問題を考える会は年末年始にかけて、会として把握出来ている被収容者約160名に対し、タオル、石けん、歯ブラシ、ノート、ボールペン、手帳の一斉差し入れを行いました。多くの方々のご協力と賛同、有り難うございました。

 この差し入れ行動・被収容者への面会を通して、年末の「年次活動報告会」資料のために法務省の係官を通じて入手した東日本入国管理センター(牛久入管)の現況報告(2015年11月30日現在)中、収容期間別被収容者数に疑念がある事を見つけました。

 今年最初の一斉面会日・1月6日(水)、当会の面会参加者が上記「牛久入管の収容期間別被収容者数」に統計と合わない被収容者が存在するのではと疑問をもちました。実際に面会している複数の会員が「日系ブラジル人が2011年3月から収容されている。この3月で5年の長期収容である」との証言。法務省・入管局からの回答では3年以上の被収容者は0となっています。
 早速、牛久入管の総務課にこの日系ブラジル人の存在について問い合わせしました。すると、けんもほろろで頑なに「誰から得た現況報告か?問い合わせにコメントすることも回答するかどうかを回答することも出来ない」の1点張りです。あまりの不誠実な対応に「何か不都合なことがあるのかな?」とも勘ぐりたくなるようでした。

 1月12日(火)、東日本入国管理センターの現況報告の問い合わせに回答して下さった法務省の係官にこの日系ブラジル人の存在について問い合わせを行いました。秘書官の入管局、牛久入管への問い合わせへの回答によると、「2011年3月から収容されている日系ブラジル人は存在する。ただし、この方が2012年の12月、一時期他の収容施設に移されていたのでそれ以降のカウントとなる。従って2年6ヶ月以上3年未満1名に該当する」というものでした。

 1月13日(水)、本人に確認すべく当方が面会すると「間違いなく牛久のみでもうすぐ5年になる」とのことです。当方が「品川とか、大阪とかに行ったことがないか?」の問いかけに「2012年12月に2泊3日で品川に難民のインタビューに行った」ことを記憶していました。

 被収容者がインタビューのために品川入管(成田などにも)に2〜3日移送されることはよくあることです。この時本人の荷物は全て持参します。しかし、品川から戻ると同じ部屋にまた収容されます。牛久から品川、そして牛久に戻る過程で通算被収容日数が途切れるなどとは誰も思ってはいません。

 長期収容が問題です。当会は6ヶ月以上の収容で難民申請者等の「帰国を拒んでいる方」「帰れない事情を持っている方」には仮放免の弾力的運用を求めています。当該の日系ブラジル人も定住者として25年前に来日、もうブラジルには両親は亡くなり、兄弟もいません。間違いを起こし服役しましたが日本人なら刑期が終われば自由の身です。内外人平等の原則からしても、二重の刑罰を受けているか?のようです。勿論、入管は「帰国を望めばすぐにでも帰れますよ!」というかもしれませんが、彼も含めて「どうあっても帰れない」人にとっては非常に厳しいものがあります。「納得のいかない収容の現実に」肉体的にも精神的にも痛めつけられます。「人の安全保障」などと言うとき真っ先に日本における「出入国管理・難民認定法」を問題にすべきと思います。

 それにしてももうすぐ5年、誰が考えても人権上問題がある長期収容です。牛久入管はこの現実を隠蔽したかったのでしょうか?まずはこの日系ブラジル人が2011年3月から異常にも長期に収容され続けているという現実を認めるべきではないでしょうか。そして、早期の職権仮放免、日系人としての定住ビザに戻すべきと考えます。


2016年1月15日
長期収容者の存在を隠すマジック
田中喜美子

申し入れ書
 当・牛久入管収容所問題を考える会は、東日本入国管理センターにおいて長年にわたり被収容者に対し面会行動を行っているNGOグループです。
 2016年度となり貴局の新体制に際し、国際情勢の激動下、この国と関わる最初と最後の機関をになう出入国管理が「人の安全保障」の観点からもますます重要となっており、退去強制令書の発布に伴う貴センターへの収容とその処遇は更に人道的配慮が求められているとの思いから以下の点について申し入れをします。

一.被収容者のそれぞれの言語において「退去強制令書」について説明すること、被収容者であっても受けられる権利を説明すること。

一.長期収容の是正、収容は6ヶ月を超えないこと。退令発布後の収容が通算で5年に及ぶ方が現在もいる。名古屋入管、品川入管で2ヶ月以上(1年近く)収容され、牛久に移送されたケースが多く見受けられる。精神的、肉体的に仮放免後または帰国後PTSDの発症、社会生活への不適合など無きように配慮する。

一.仮放免のより柔軟な摘要。
  成田等で上陸拒否になった難民申請者に対しては難民条約等の国際法上の観点からも早期の仮放免許可をすること。

一.どうあっても帰ることが出来ない「出国拒否者」=日本に家族がいる者、日本にのみ生活の基盤がある者等の同意無き強制退去の執行はしない。

一.被収容者への医療体制の改善を求めます。
@ 医師の診察無く薬を処方しないこと。
A 外部医療機関(専門医)への通院診療を認めること。
B 外部医療機関への通院に際しては手錠・腰縄付きを廃止する。

一.処遇の改善について。
@ 運動時間の現行40分程度から1時間への延長。
A 夕食後の夜間居室内移動自由時間を再度PM6時から9時まで設けること。
B 差し入れ可能品のさらなる拡充を求めます。

一.チャーター機による一斉送還、無理矢理の退令の執行、大村収容所への移送等、被収容者が裁判を受ける権利、在留特別許可の道を閉ざさないで下さい。

一.貴局に関わるNGO、NPO、被収容者との話し合いに応じること。


牛久入管収容所問題を考える会
http://www011.upp.so-net.ne.jp/ushikunokai/

 『茨城新聞』の2010年4月4日付け記事を転載します。。。
 外国の人びとは、それぞれたいへんきびしい、複雑な状況にあるのだということをわかっていただきたいと思います。

 今年2010年2月8日、法務省東日本入国管理センター(牛久市久野町)の施設内で、入管難民法違反(不法滞在)で摘発され、強制送還処分を受け、収容されていた日系ブラジル人男性(25)が自殺した。男性は5歳の時に、母親に連れられ来日。ポルトガル語の読み書きはできず、母国に知人は1人もなく、頼るすべもない。母親(43)と妹(23)、妻(33)の家族3人が話す男性の生涯は、夢を求めて来日した日系ブラジル人の悲哀を浮き彫りにする。
 
▼ 来日後に両親別居
 男性は1984年7月、ブラジル・サンパウロ州生まれ。先に日本で働いていた父親の「家族一緒でないと寂しい」という求めに応じ、男性は1990年1月、母親と当時3歳の妹と共に来日。当初は三重県に住み、両親は自動車部品の工場で働いた。その後、愛知県内に転居したが、両親は不和になり別居。
 中1の終わり、男性は家に帰らなくなった。
 「ポルトガル語を話すだけで殴られていた」と妹。男性は不良たちにいじめられていた。それでも、男性は不良たちと一緒にいることを望んだ。妹は「兄は家族のようなものを求めていた」と振り返る。
 男性は中学卒業後、バイクの無免許運転で繰り返し逮捕された。
 20歳のころ、後に妻となる女性と暮らし始めた。しかし、2006年9月、男性に道交法違反容疑などで逮捕状が出た。女性の背負わされた借金を返すため、男性は姿を消したが翌年、同法違反と覚せい剤取締法違反などの疑いで逮捕された。
 
▼ ビザ更新できず 
 男性は約2年の服役中、ビザの更新を申請したが受理されなかった。2009年7月、刑務所を出た後、東京入国管理局横浜支局(横浜市)に収容。男性は、このまま出国すれば二度と戻れない「現実」を知り、特別在留許可を求めて訴えを起こす一方、10月に結婚した。
 男性は11月、牛久市の東日本入国管理センターに移送。午後4時半に居室の鍵を閉められる。落ち込んだ男性は、電話で妹に「家族って大事だと分かった」と話したという。
 2月8日午後4時ごろ。男性は死亡する直前に妻と電話で話した。男性はもうろうとし、ろれつが回らなかった。施設内で精神安定剤などを常用していたという。
 その夜、男性は首をつった。
 
▼「幸せになって」  
 「自分が死んだら、自分を忘れて、幸せになってください。愛しています」
 牛久に着いた家族に、同センターは男性の死亡の状況などについて説明。メモが家族の写真に張られていた。同センターは「中にいるのに疲れた」などと書かれた入管側にあてたメモもあったとも説明した。
 母親は今も「入管がちゃんと見ていれば、自殺を防げたのではないか」と嘆く。
 「もし、わたしがブラジルに帰れと言われたら…。ポルトガル語の読み書きもできない。どうやって生活したらよいか分からない」と妹は話した。


2010年05月12日00:00 池田香代子ブログ
牛久入国管理センターのハンスト
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51406636.html

 この国のお上はコクミンにはつめたいのです。
 ですので、よその国の人って人間とは思っていないんでしょうね、きっと。
 おお、コワ、コワ。


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水没した湯治場

 奥多摩湖、小河内ダム建設には87名もの犠牲者がでており、その慰霊碑がダム堤の先に建てられています ↓:

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 しっかりと手をあわせてきました。

 この慰霊碑とはべつに奥多摩湖には「台湾出身戦没者の慰霊碑」があるのだそうです。
 いつか近いうちに慰霊のウオーキングでぜひ訪れなくっちゃ、と考えているそうです。

 思わぬところにひっそりとたたずむモニュメントは、台湾出身戦没者の慰霊碑・慰霊塔でした。建立は1975年8月15日。塔は高砂族(たかさごぞく。台湾の山地原住民の総称)の蛮刀(ばんとう)をかたどったものだとか。
 第二次世界大戦中、台湾は日本の領土でしたが、台湾出身で戦死された方はおよそ3万人だそうです。
中でも高砂族は能力的にも規律の上でも優秀で、夜目がきいたため密林を蛮刀で切り開き、熱帯で食料を調達してくれたので、軍は非常に助かったそうです。
 なぜ慰霊碑をここ奥多摩の、それも湖畔ではなく林道をずいぶん登ったところに作ったのかはまったく不明。目立たせたくないのでしょうか。その奥ゆかしさには好感を抱いてしまいますが。
 異国のために戦死した人たちは、いったいどんな思いでいくさに出たのでしょう?異国のためではなく、日本人として一体感を持って戦ったのに、戦後日本から見捨てられて落胆したという話もあります。

 嬉しいことに、この文を読まれた関係者の方が資料を送ってくださいました(東京台湾の会。資料は「台湾と日本交流秘話」展転社)。
 それによると、1975年当時、

「日本政府は日本のために戦った台湾人兵士に何の補償も行っていなかった。それにもかかわらず、なお日本人に温かい心を寄せてくれる台湾の人びとに心を打たれた弁護士(越山康、こしやまやすし)ら有志の人びとが浄財を集めて」「土地は地元篤志家の提供を受けて」この慰霊碑を建てたのだそうです。
 碑の石は台湾から運んだ大理石だとか。

 高砂族の故郷である山地を思わせるこの場所は、関係者のあいだで「笠松(かさまつ)展望園」と呼ばれてきました。今は残念ながら林に囲まれてあまり展望がききませんが、きっと建立当時は周囲の木々がまだ低かったのでしょう。ここは奥多摩湖の中ほどに位置する山の南斜面であり、「湖の眺望随一といわれる場所」だったそうです。
 当時は空も広々として、はるか南方の台湾に思いを馳せるのにもふさわしい場所だったのではないでしょうか。
2013年5月追記


 慰霊塔は、峰谷橋から愛宕神社の横を通って「麦山峰線林道」を相当登ったところにあります。

台湾の歴史と高砂族
 「奥多摩」からは、はるかかなたの話。
 日本のために戦死した人の多い台湾ですが、その対日感情は、朝鮮、中国にくらべて、ずいぶん良いように聞かされてきました。それがずっと不思議だったので、この際、台湾の歴史をネットで(信ぴょう性がいくらか落ちるかもしれませんが)調べてみました。
 そうしたら驚きました。台湾は歴史的にもずっと中国民族が住んでいたと思ったら実はそうではなく、もともとオーストロネシア語族といって、フィリピン、インドネシアやマレーシア、太平洋からインド洋まで、ものすごく広い範囲に住んだ、海洋民族の島だったんですね。しかも台湾がそのルーツであるという説が有力だそうです。
 この原住民は、言語・文化により、多くの民族(2008年現在列挙できるだけでも27部族)に分かれていました。
(台湾では「先住民」という語は既に滅んだ民族を意味するため、彼らは現在、自ら「原住民」と称しているそうです)

 それが西暦1600年を過ぎてから、異民族に支配されてしまいます。
☆ 1624〜1662 オランダ植民地
☆ 1662〜1683 漢民族による初めての支配
☆ 1683〜1895 満州族である清の支配下。漢民族流入。次第に原住民と混血。

 清は台湾を「化外(けがい)の地」と称してほとんど放置し、流入する漢民族と先住民のまさつが続いたようです。土地も荒れたらしい。
 漢民族の人口が増加すると、主に平地に住む原住民の漢化が進みましたが、漢化しない民族もたくさんありました
(2008年現在、同化政策に反対し、原住民として承認されている部族が14あり、人口総数は約50万人)

☆ 1895〜1945 日本の支配

 日本は台湾を内地と同化させる政策をとり、義務教育を普及させました。
 日本語が民族間の共通語になったようです。
 日本は漢化しない原住民を「高砂族」と総称しました。

☆ 1945〜    中国の国民政府軍が入って支配

 国民政府軍は蒋介石の独裁的弾圧政治だったので、人びとは「犬が去って豚が来た」と言ったそうです。
 そして現在、共産党の中国が領有を宣言しています。

 台湾は、国としてまとまらないうちから、ずっと外部に支配されっぱなしなのですね!
 国家の歴史が長い朝鮮とは全然違います。日本の統治は、清に長く放置された後で、きっとタイミングが良かったのでしょう。
 たとえ良い面があったとしても、他民族に同化させられて、抵抗がないわけがありません。実際、現在の高校教科書(清水書院)には、日本軍への抗戦、島民の反抗、民軍ゲリラが載るようになりました。結局、本当に日本への好意が台湾の方々にあるのかどうかは、疑問のままです。
 ただ、高砂族と日本人は互いに尊敬しあっていたような雰囲気があります。
 高砂族は漢民族との同化に抵抗する少数民族でした。日本も歴史的には大中国をおそれ、学ぶ一方の小国でした。その日本が中国よりも先進の国となり、欧米列強と並びましたから、高砂族にとっては、日本が頼りがいのある味方と思えたかもしれません。
 いっぽう日本人兵士は、高砂族兵士のジャングルでの能力だけでなく、その勇敢さや忠誠心の高さに、舌を巻いたそうです。
 ひょっとして、台湾発祥の海洋民族の文化が日本人の中にも入っていて、互いに心の琴線に触れたのでは?などと想像してしまいます。何しろ、南西諸島伝いでも、黒潮でも、台湾から日本につながりますから。。。


2012年2月15日(水)、奥多摩を歩く
峰谷
http://dai11.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-c21c.html

 2015年の大型連休中、新緑の東京・奥多摩を歩いた。
 奥多摩湖にかかる橋のたもとから、急な林道を15分ほど上り、台湾出身戦没者の慰霊碑にたどり着いた。
 慰霊碑から湖を見下ろすと、生い茂った杉林の間からわずかに湖面が見える。

「あなた方がかつてわが国の戦争によって尊いお命をうしなわれたことを深く心にきざみ永久に語り伝えます」

 40年前の1975年8月、日本の民間有志が建立した大理石の碑だ。
 隣に設置された慰霊塔はかつて「高砂(たかさご)族」と呼ばれた台湾の先住民が持つ蕃刀(ばんとう)を模したものだ。

 先の大戦では20万以上の台湾人が軍人、軍属として徴用され、約3万人が死亡したが、戦後、国籍を失ったため、補償の対象にならなかった。
 1974年12月、インドネシアのジャングルに30年近くも潜伏していた先住民出身の中村輝夫(なかむらてるお)(民族名・スニヨン)さんが発見され、台湾出身元日本兵の存在が改めてクローズアップされた。

 慰霊碑建立の中心だった弁護士の越山康(こしやまやすし)さん(故人)は初めて1票の格差訴訟を起こしたことで知られる。
 建立当時の経緯ははっきりしないが、関係者は「台湾人が平等に扱われていないことが許せなかったのではないか」と話す。

 1977年には台湾人元日本兵の戦傷者や遺族が補償を求める裁判を起こしたが、敗訴した。
 1980年代になって議員立法で弔慰金支給が決まり、約3万人の台湾人遺族らに1人当たり200万円が支払われたが、日本人との格差は残った。

 湖を望む奥多摩の地は台湾の景勝地、日月潭(にちげつたん)に似ていることから選ばれたという。
 今月5月28日には現地で法要が営まれる。
 戦後70年。語り継ぐべきことは多い。


2015年05月11日付け毎日新聞東京朝刊「余録」
大型連休中、新緑の東京・奥多摩を歩いた…

 えっと、帰りは湖底に沈んだ温泉に泊まってくるってのも手、ですねぇ〜:

 鶴の湯温泉は、南北朝時代の延文年間(1356〜1361)頃から、利用され始めており、江戸時代には武州多摩郡原村温泉として、多摩川沿いの旧青梅街道わきにあって、伊豆方面にくらべ江戸に近いところから、多くの来遊客で賑わい、湖底に沈むまで、湯治場として600年の長い間、栄えてきました。

 その昔、弓矢で射られて傷ついた一羽の鶴が、崖から湧出する温泉に身を浸して、傷を癒し、元気に飛び去ったのを見て、初めてその効験を知り、人びとが浴するようになり「鶴の湯」と呼ばれるようになったと、伝えられています。

 1991(平成3)年、小河内ダム建設によって水没した、「シカの湯、ムシの湯、ツルの湯」の3つの源泉を合流して、湖底からポンプで汲み上げて、「鶴の湯温泉」として復活いたしました。

 現在は、奥多摩湖周辺の旅館、民宿及び販売所にタンクローリーで毎日、配湯されています。

 アルカリ性単純硫黄温泉で、かすかに「タマゴ」の香りがする、お肌にツルツルの美人の湯です。
 ほとんど無色透明で、諸病に効くことで名湯として、評判の温泉です。


鶴の湯温泉 利用者組合
http://www.okutama.gr.jp/aigo/aigo.htm

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湖底の故郷

 寒の戻りか、寒いこの日、ヤッホー君、25日土曜日、奥多摩湖で見た碑を思い起こしています:

湖底の故郷(昭和12年)
https://www.youtube.com/watch?v=26c5xSP7KJQ

https://www.youtube.com/watch?v=jpQ56YU_mhk

https://www.youtube.com/watch?v=eWqwQzCdqww

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湖底の故郷 歌碑建立の辞
 奥多摩湖は1億8千余万屯の清水を湛え毎日40数万屯に上る東京都民の用水を供給しているが、このダム建設のために、600戸、3000人の小河内村民は、幾千年来護って来た祖先墳墓の地に永劫の別れを告げることになり、その哀別離苦の心情は洵に切々たるものがあった。
 情熱の詩人島田磬也氏は当時の離村民の心境を汲んで歌謡詩「湖底の故郷」を綴った。
 鈴木武男氏作曲、東海林太郎氏独唱で発表を見るや湧然として世の共感を呼び、全国内に愛唱されるに至り、村民もこれに依って離郷の悲想を大いに慰められた。
 奥多摩湖建設当初から曲折を知る飛田栗山氏の推進により大方の協力を得て、湖底の故郷の歌碑を此処に建て、離郷民の哀感を永く世に伝えると共に、都民の命水を貯える奥多摩湖が永えに清浄であることを切に祈念する。
昭和41年4月10日 奥多摩湖愛護会理事長

湖底の故郷
夕陽は赤し 身はし
涙は熱く 頬濡らす
さらば湖底の わが村よ
幼なき夢の 揺籠悲よ


 やっと読み終った。途中、投げ出そうかと思った。結果的に読み終わらないほうがよかった。
 暗い話だった。最後まで暗かった。
 いい話、明るくなる話がひとつもない。最後にあるかと期待したが甘かった。
 「カタルシス」とか「感動」とかそれに類する話も一切ない。
 明るい日差しに向かって、伸びていこうというような人物は、まるっきり登場してこない。
 俗物的に「いい思い」をしたのは、出世した水道担当の役人と高利貸しやその他あくどく農民からむしりとったり、機に敏で利にさとく奔走した人間だけである。
 さもしくのさばって、懲らしめられてもいない。

 村長は、人がよく結局ただだまされただけ、で終わる。
 6年間に陳情60回以上。「もうすぐだから」と担当の役人に愚弄されただけだった。
 蓆旗(むしろばた)の抗議行動も一回あるが、若手のリーダーたちは身を崩してしまう。分断策に軽くつぶされる。金持ち土地持ちとまったく土地も金も持たない農民に分断される。

 芽生えた恋愛も、娘を売る父親の身勝手と本人たちの優柔不断でつぶれる。娘を売った父親は、帰りに自責の念で酔いつぶれ、崖から落ち事故で死んでしまう。娘は買い戻されたが、娘と恋人の男はどうなったか、小説的な示唆もない。

 都会のエゴに役人を手先として、一寒村が、ずたずたにされた、切り刻まれて歯向かいも出来なかった、ということだけが残る小説である。ただ暗然とする。救いとか、教訓とかはない。
 せめて恨み節のひとつも叩きつけて、都会の人よ、1000万大都市は、この山村のずたずたにされた犠牲のうえに乗っかっているのですよ、といいたいが、それも気弱い。
 この小説だけ読んでいると「長いものには早く巻かれなければいけない」かのような、無力感が漂ってくる。
 ここまで人間を愚弄した上に、東京の水がめが出来上がっているのかと思うと、うまいとかまずいとかでなくて、吐き気がして止まらなくなるかもしれない。
 一方の、さもしさ、他方の無力さ。それが感染しないように祈るばかりである。読まなければよかったと本気で思う。歴史的事実を何かの要約で知って考えたほうがいいだろうと思う。

 あらためて、戦後のダムのたたかいの到達点、蜂の巣城の室原知幸(1899-1970)氏らの偉さを思う。私は、九州生まれなので、当時、少年時代、新聞を教師の解説や年上の従兄弟や友達や周りの大人たちの論評を聞きながら育った。
 悪く言うものはいなかった。骨と筋が気持ちよく通っている。
 戦前と戦後の人権感覚の違いなのだろうか。
 ここに人々の基礎的なところでの権利主張の違いがあるからだろうか。
 それとも著者の視点と構成がおかしいのか。
 読みたいという人がいたら、とめることはしないが、とくにすすめたくもない本だ。

 松下竜一(1937-2004)著『砦に拠る』(筑摩書房、1977年、のち文庫)を読み直してみよう。
 どうにもこうにも気分の持っていきようがない。


2006年10月16日
石川達三(1905-1985)『日陰の村』(新潮社、1937年、のち文庫)読み終わる
http://atta-an.seesaa.net/article/25591675.html

石川達三『日陰の村』
 石川達三の作品に、『日陰の村』(1937年、昭和12年)という小説があります。小河内ダム(多摩川水系)建設をめぐる、小河内村内の動きを描いた小説です。日陰の村のタイトルの意味は、東京という大都市の発展につれ、大木の日陰にある草が枯れていくように犠牲となって枯れてゆく村という意味です。彼はこれを書く前に、入念な現地調査をしました。郷土史家でもある神主や、湖底に沈む小河内村の村長を訪ね、事件のあらましを調べました。
 1931(昭和6)年、東京市は水道貯水池を造るため小河内村を水底に沈める計画を発表します。村長は反対する村議を諭します。しかし、工事認可がなかなかおりないため、保障をあてにする村民の生活は疲弊していき、彼等は蓆旗をたてて集団陳情に出かけます。
 漸く1937(昭和12)年に起工式が行われますが、補償交渉は難航しました。そんなかで、小作・自作の零細農家は娘を売りとばさねばならないような窮地におちいり、足元を見すかされた村民にはきわめて低い補償金しか与えられず、遠くは満州開拓団、あるいは八が岳山麓の開拓団として、根を引き抜かれたように四散していく運命をたどります。
 都会文明に敗北していく一村落の哀史を、様々な人物像を織りなして力強く描きます。
 作品が書かれたのは、日中全面戦争前夜。養蚕モノカルチュアに単純化された山村の暮らしが、昭和恐慌とその後の不景気によって、破滅に瀕していた時代です。時代背景も、農林業切り捨て政策によって山村で暮らすのが困難になり、村をダムに売らざるを得なかった20世紀後半と重なるものがあります。


2015年02月15日06:30 mixiユーザー(id:7184021)
奥多摩町さんぽ「奥多摩湖・日陰の村を歩く」
http://open.mixi.jp/user/7184021/diary/1938805683

 1937(昭和12)年9月、雑誌『新潮』に320枚一挙に発表された作品『日蔭の村』は、当時社会問題となった大東京の水源地候補地の小河内村が貯水池として水底に没するまでのいきさつを描いた小説である。この作品で石川達三は作家としての地位を固めた。

 多摩川の水を堰き止めて大貯水池を造り、小河内村を水底に沈めてしまおうとする東京市水道局の計画は、1930(昭和5)年から立案され調査されたものであったが、東京市と小河内村との直接の交渉が始まったのは、翌1931(昭和6)年6月である。
 村長は即日村会を招集、反対意見に対し、東京市水道の重要性を説き、村を犠牲にすることの意義を語り、大乗的見地に立って賛成すべきであると説いた。

 正直で純朴な村民たちが、いち早く対応しているのに、その後の市の対応はというと、委員会だの調査だの認可だのと官庁仕事は一向にはかどらない。東京市は村の土地山林をいくらで買い上げるのか、移転先はどこか、いつまで待っても何も定まらない。工事認可や起債認可が済んでから、土地評価の調査決定をするという段取りになるというのである。

 そのうちに、計画変更があり、神奈川県の反対運動があり、候補地をよそに探すことになったりするが、地元には何も知らされない
 村人たちは「いよいよ立ち退く時期が来たのだ」と思い、「それならば屋根の修繕もしない方がいい、桑畑の施肥も無駄だ、山の木は成るべく早く売ってしまおう」と考え、村は荒廃して行く。
 「山林は濫伐され、畑は野草の茂みと化し」、窮乏その極に達し、それに付け込んだ悪徳金貸しのため「全村みな借金地獄となり」、さまざまな曲折の後、起工式が挙げられたのは、計画発表以来6年目の1937(昭和12)年1月のことであった。

 起工式の直後、村を訪れた石川達三は、事件の経過を聴き、小説に書くことを決意した。小説には村民たちの6年間に及ぶ辛苦の日々が記録小説風に描かれている。

 「そんなことを言ったって君、仕様がないじゃないか。それは君一つの必然だよ、社会の合理化運動の現われだよ。そうだろう、人口の都市集中というものも経済状態から来た必然だし、その必然が水道の拡張という次の必然を要求するんだ。そして小河内村がその要求に応ずる条件を備えていた訳だ


2016-08-06 09:05 のすたる爺の書斎から
「戦前」という時代『日蔭の村』
http://nostalz.exblog.jp/13478747/


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種子法廃止法案

 どうしてわれわれの大地をモンサントのような多国籍企業に渡しちゃうんだろう、どうして遺伝子組み換え作物なんてものつくらせようとするんだろう、これじゃ、アメリカファーストであって、ジャパンセカンドじゃない、とヤッホー君、今朝の寒さだけでなく、体を震わせています。

 大地を守る会が所属し事務局も務めている「全国有機農業推進協議会」が、「日本の種子(たね)を守る会」院内集会を、3月27日(月)に開催します。
「日本の種子(たね)を守る会」開催のご案内
【呼びかけ人】
山田 正彦(元農林水産大臣、弁護士)
金子 美登(全国有機農業推進協議会理事長、農家)
【開催趣旨】
 主要農作物種子法(種子法)の廃止法案が2月10日に閣議決定され、今国会の議案として衆参両院に提出されています。
 長年各都道府県で種子事業に関わってきた多くの研究者・行政担当者が懸念を表明していますが、同法が果たしてきた役割や廃止の影響についての議論もないまま、廃止ありきで法案提出が進められています。
 種子は最も基礎的な農業資材であり、どの国においても、基本食料である主要農作物の種子の政策は、農業政策上の基本事項とされ、日本の主要農作物の米・麦・大豆は、これまで「種子法」によって、安定供給が担保・維持されて来ました。
 しかし、種子法の廃止により、外資系企業の参入、供給不安、品種の減少、さらには、遺伝子組み換え作物(米・大豆など)が国内生産され、拡大していくことが懸念されます。
 主要農作物の種子の問題は、国民すべてに大きな影響を及ぼす問題であることは明らかです。
 それにもかかわらず、種子法廃止法案について主要メディアでの報道はなく、この重要な法を廃止しようとしている動きに、ほとんどの国民が気づかないまま進められています。
 私たちは、私たちの生命の源である種子(たね)を守るため、「日本の種子(たね)を守る会」の開催を呼びかけます。
 生産者、消費者、流通業者、研究者など、あらゆる分野、あらゆる世代から多くの方たちにお集まりいただき、種子法廃止がもたらす影響について学び、「日本の種子(たね)を守る」ことについて、さまざまな観点から意見を出し合い、共有しあうことから始めたいと思います。ぜひご参加ください。
 事前申し込み不要です。当日会場にお集まりください。
《開催概要》
【日時】2017年3月27日(月)14:00〜17:00(13:30開場)(13:30より会館入口にて通行証配布)
※通行証配布時間:13:30〜14:15。配布時間外は参院会館受付にて大会議室をお呼び出し下さい。
【場所】 衆議院第一議員会館・大会議室(地下鉄有楽町線永田町駅より徒歩4分、丸の内線国会議事堂前駅より徒歩7分)
【講師】久野秀二(ひさのしゅうじ)さん(京都大学大学院経済学研究科教授)
 そのほか、種子研究や種子政策に関わってきた現場の方、生産現場の方をお呼びする予定です。
【参加費】500円(資料代)
【主催】全国有機農業推進協議会/「 日本の種子(たね)を守る有志の会」山田正彦、印鑰智哉、杉山敦子、秋元浩治


2017年3月23日、大地を守る会
3/27開催
「日本の種子(たね)を守る会」のご案内
 
http://www.daichi-m.co.jp/info/news/2017/n17032301.html

 木を隠すならば森に、ということなのかもしれないが、全国民の関心が森友学園騒動に向けられ、視線が永田町、国会にまっすぐ注がれている時に、その同じ国会内で、続々とトンデモ法案が成立に向かって進められている。
 そのトンデモ重要法案の筆頭は共謀罪で、総理がいないのにも関わらず、ついに閣議決定までされてしまい、国会に上程される。この辺りまでは、マスメディアもネットも路上の抗議活動も気づいている。
 証人喚問で籠池は偽証罪でパクられ、口を封じられるかどうか。関心は高いが、その同じ23日、全国民の視線が集まる国会内の別の部屋、農水委員会では、種子法廃止が決議されてしまう。これで日本の伝統的な種子は保護を外され全滅されられる。
 これまでは各都道府県で、地域の伝統に合わせて、品種のいいコメの種を保存し、種籾としてきたのだ。そうした「公共財」を保護管理してきた自治体に、保護を一切やめさせるのが、種子法の廃止。もちろん、そこにモンサントら、アグリビジネスの利益が加わる。
 想像してほしい。美味しい伝統の種子のコメ、野菜に愛着のある人、作っている人、食べたい人、みんなに共通する思いのはずだ。それがモンサントの遺伝組換え作物の種子に取って代わられる。
 もうこれで、延々と長い時間をかけて、品種改良もしてきた日本伝統の種子や種籾らは、絶滅させられる。そしてモンサントのような外資に、毎年、種を買わされるハメになる。アグリビジネスへの隷従、農民の農奴化ですよ。これを自称保守・愛国者らは、止めたか?
 もう1点、国会では、共謀罪の次を狙い、改憲論議が憲法審査会で始まっている。不気味なのは、どのマスメディアもこの憲法審査会について、伝えないこと。23日は、私がインタビューした永井幸寿弁護士が参考人に立つ。が、それを報じた媒体はほとんどない。
 すごいと思いませんか?


2017.3.24 IWJ Independent Web Journal
森友学園問題の狂騒の脇をすりぬけ、水道民営化が、種子法廃案が、改憲論議が匍匐前進のように密かに進んでいく
政府とメディアの「黙示的共謀」

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/370196

 もう開いた口がふさがらいほどにこの国は、一部の支配層、富裕層の好き勝手なやりたい放題のまんま。
 きちんと批判し、運動もおこし、報道もしているのは共産党、しんぶん赤旗だけなんて、あんまりじゃあ、ありませんか:

 主要農作物種子法と農業機械化促進法の廃止法案の質疑と即日採決が3月23日、衆院農林水産委員会で行われ、自民、公明などの賛成多数で可決されました。
 機械化促進法廃止については、検査を農機具に限定する修正がされました。

 日本共産党の斉藤和子議員(1974年生まれ、比例南関東ブロック)が、2法案と修正案への反対討論を行いました。
 斉藤氏は、国の基本的・基幹的作物である稲、麦、大豆の優良な種子の生産・普及を国と都道府県に義務付けた種子法は日本の食糧自給を支えてきたもので、廃止は容認できないと強調。

 「種子の生産・普及体制を崩壊させ、外資系多国籍企業のもうけの場にされる恐れがある」と述べました。
 都道府県の知見を民間に提供することで遺伝資源の開放につながる懸念や、民間の開発コストの上乗せが種子の価格高騰につながる危険を指摘しました。
 機械化促進法廃止法案と同修正案については「安全のために必要な型式検査制度を廃止するもので容認できない」と主張。
 農業資材審議会の意見も聞かない拙速な廃止を批判しました。

公的責任後退 畠山氏が批判

反対討論に先立ち、日本共産党の畠山和也議員(1971年生まれ、比例北海道ブロック)は、種子法制定時(1952年)の「優良な種子を生産するためには国や地方公共団体が特別な指導や助成が必要」との議論を紹介し、「今日にも通ずるもの。この根本をなくすものではない」と強調しました。
 山本有二農水相は、都道府県が責任を負って継続するなどと述べ、「公的責任は後退しない」と強弁しました。
 畠山氏が「専門家や採種農家などから意見を聞いたのか」とただしたのに対し、政府は意見を聞いた事実を示せませんでした。
 畠山氏は、政府が規制改革推進会議で「もう少し民間企業に対しての配慮が必要ではないかということで廃止させていただきたい」などと発言していたことを告発。
 「配慮を廃止に結び付けるのか」と批判しました。


2017年3月25日(土)しんぶん赤旗ツイッター
自給支える種子法
斉藤氏 廃止法案に反対
衆院委可決

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-03-25/2017032502_03_1.html


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2017年03月25日

水道民営化

 識見も見識もない、漢字も読めないぼんぼん政治屋どもがこの国をヒットラーかアッキードか分かりませんがこの国を「私物化」してしまい、この国のコクミンを上から目線で見おろしています。
 ムカシ天守閣、イマ死角。
 
 麻生太郎財務相が2017年3月24日の参院予算委員会で、森友学園の問題に関して答弁した際、共産党議員の質問に「偉そうに」と色をなして反応したため議場が紛糾、山本一太委員長から注意を受けた。
 質問者は共産党の辰巳孝太郎氏。
 同党の小池晃書記局長が3月1日の参院予算委で取り上げた、同党が独自入手したとする森友学園と鴻池祥肇元防災相の事務所の面談記録について、麻生氏に事実関係をただした。
 麻生はこの日、先に質問に立った小池氏から、面談記録が鴻池氏のものか聞かれて「あなたが読まれた通りだと記憶している」と答弁。
 小池氏は人を指で指すように麻生氏や安倍首相に向かって話していた。
 小池氏は、辰巳氏の質問中には同氏の横に座っていた。
 麻生氏は辰巳氏の質問に対して、「都合のいいように、あんまり勘違いしてもらったら困るんだけど。間違えないでくださいよ。訳が分からないメモを取ったと偉そうに言っていたから、ちょっと待ってくださいよと」と発言した。
 この発言に野党側が激しく反発。
 麻生氏は声を張り上げて次のように答弁した。

 俺は偉そうに聞こえたんだからしゃあないもん。
 だろう。
 (人を指で指すしぐさをして)いつも人をこうやって指さしてしゃべってるだろ。
 偉そうに、さっきもしゃべってたじゃないですか。
 失礼だろ、それは。
 だからそうやって、ワンワン指差してやってんだから。
 だから、はっきりさせようや。
 だから私が言ったのは、鴻池さんにこのメモは誰かわからんというけれども、メモは自分ですかと言うから、そうだと答えただけです。


 麻生氏が答弁を終えると、山本委員長が「麻生大臣、答弁のご表現はお気をつけください」と注意した。


2017年03月25日 12時06分 JST 更新 The Huffington Post
麻生太郎財務相「偉そうに人差してワンワンしゃべって」共産党議員にかみつく【森友学園・参院予算委】
中野渉
http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/24/aso-at-the-diet_n_15591986.html

コクミンの死角、目に見えないところでやりたい放題、こんな「閣議決定」も:

 政府は2017年3月7日、市町村などが手掛ける水道事業の統合・広域化を促進する水道法改正案を閣議決定した。
 都道府県に再編計画の策定を求め、経営規模の拡大によって設備更新などに対応できるようにする。
 今国会での成立、2018年度の施行を目指す。

 市町村が主に担う水道事業は人口減などを背景に赤字体質のところが多い。
 都道府県を広域連携の推進役とし、経営基盤の強化を通じて水道網の維持につなげる。
 法改正を踏まえ、給水人口が少ない市町村と事業統合する中核都市への助成を拡充する方針。
 2018年度予算で要求する。


2017/3/7 10:34更新、日経
水道の広域化促進へ法改正案を閣議決定
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFB06HFU_X00C17A3EAF000/

 これだけだったらきれいごとなんですが、フェークニュース。
 マスゴミが報道しない、一般人は知らないことがこの背景にあるのでしたぁ〜:

 2013年4月19日、米ワシントンDCにある超党派シンクタンクCSIS(米戦略国際問題研究所)での講演で、麻生さんは「日本の水道を全て民営化します」と発言してしまったのだ。

政府が着々と進める水道事業の「完全民営化」
 麻生さんの講演は、以下のCSISの動画から全編観ることができる。
 問題の発言は、前半の堂々たる英語での講演が終わり、後半の質疑の中で麻生さんが語ったものだ。
 以下、その発言部分を掲載する。

 例えばいま、世界中ほとんどの国ではプライベートの会社が水道を運営しているが、日本では自治省以外ではこの水道を扱うことはできません。
 しかし水道の料金を回収する99.99%というようなシステムを持っている国は日本の水道会社以外にありませんけれども、この水道は全て国営もしくは市営・町営でできていて、こういったものをすべて、民営化します。

【CSISの動画】
※麻生さんの問題の発言は48分頃から(配信当時)

 「水道を全て民営化します」と言った瞬間、壇上の右端に座っていたジャパンハンドラーの一人、マイケル・グリーン氏が麻生さんを直視し、水を飲んだシーンが印象的だ。
 この発言は、その「真意」を探るまでもなく、「民営化します」と断言してしまっている。
 麻生さんらしい、男らしくて、はっきりとした物言いである。
 民営化するということはつまり、国内企業だけでなく、外国企業も水道事業の経営に参入することを意味する。
 だいたい、そうでなければ、米国のCSISでわざわざ公言する意味がない。そもそもが、米国向けの発言なのである。
 公共インフラの民営化事業に外資の参入を認めることは、「水道事業を外資に握られる」「収益を第一に考える民間企業が、設備投資などに掛かる費用を賄うために、水道料金を高騰させるのではないか」という懸念から、国内では未だ反発の声が根強い。
 日本人の冨と財産、国益を一番に考えているはずの麻生さんである。
 国民の命の源である水道事業を、外資に切り売りするようなことはしないはず。
 きっと何かの「言い間違い」か「言葉のあや」の類いか何かであろう、と麻生さんの隠れファンなら思いたいところだ。
 しかし残念なことに、この麻生さんの発言に呼応するように、国内では水道民営化の動きが加速している。


2013.8.12、IWJウィークリー13号
「日本のすべての水道を民営化します」
〜マスコミが一切報じない我が愛すべき「麻生さん」の超弩級問題発言

<IWJの視点>佐々木隼也の「斥候の眼」

 水源、山、森、ダム、あのぉ〜、水道事業って、コンビニでペットボトルの水を売ったり買ったりするようなもんなんだろうね、ああいった人種たちには、とヤッホー君、びっくり。
 こんなこともあったね、っという「美談」で幕引きですかぁ〜
 弊衣破帽のヤッホー君、またまた宗主国にクニ差し出すかぁ〜、
 クニ破れ、山河もなしになるのかなぁ〜と気分が萎えてきます。

 19日日曜日の逗子市二子山への山路の路傍にあった説明板 ↓

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旧制神中生徒による植林事業について
 ここ二子山は、頂から西に相模湾を望み、麓に森戸川の水源を擁する景勝の地である。
 この掲示板の右下、急峻な山腹に、旧制県立横浜一中(神中)の生徒が杉や檜を植林した。
 1939(昭和14)年に学校と地主とで報国造林契約を結び、翌昭和15年から19年にかけ、京急新逗子駅から徒歩でトンネルをくぐり、川を渡って急斜面を這い上がりながら、2メートル余りの竹薮を蝮に気をつけ、特注鎌を振るって苅り、苗を植え、約3千本の植林を完了したのである。
 戦後、神高生(現希望ヶ丘高校生)によって下刈り等が数年間行われた。
 現況は、水源涵養林として、森戸川の流れを生み、環境保全に貢献している。
 なお、この掲示板は現地主・鈴木久彌氏のご厚意により、往時を偲んで建立するものである。

2007年6月吉日 財団法人桜蔭会
(神中・神高・希望ヶ丘高 同窓会)


 そして今日、3月25日ヤッホー君は奥多摩湖を徘徊:

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皆んなの遊歩道・果実と野鳥の森から
森づくりの喜び 多摩川水源森林隊

https://www.youtube.com/watch?v=mGdd51CdNXA

 多摩川水系は、東京の約2割の水道水を供給する東京都独自の水源として重要な位置づけにあります。
 東京都水道局は、安全でおいしい水をいつでもお客さまにお届けするため、水道専用ダムである小河内貯水池と広大な水道水源林を所有・管理しており、東京で暮らす人びとのための水を蓄えています。
 水道水源林の歴史は100年以上にわたるものであり、当局は、水道水源林を適切に管理することによって、水源かん養機能、土砂流出防止機能、水質浄化機能のより一層の向上に努め、大切な水源地の環境を守っています。
 水道水源林の範囲は、東京都最西部の奥多摩町から山梨県北都留郡(きたつるぐん)小菅村(こすげむら)、丹波山村(たばやまむら)、甲州市に至る、東西30.9km、南北19.5kmに広がっており、面積は約22,000ha(ヘクタール)、多摩川上流域(羽村取水堰より上流のエリア)全体の面積の約4割にあたります。
 一方、水道水源林以外の多摩川上流域は、そのほとんどを民有林が占めており、手入れの行き届かない森林が多く存在します。
 これは、木材価格の低迷、林業就労者の高齢化や不足等、早急な改善の見込めない社会的問題が背景にあります。
 手入れが行われず林内が暗くなると、森林の地表面を覆う草が育たず、土がむき出しになる人工林が増加します。
 このような森林では、良好な土壌が形成されず、水を浄化し蓄えることができません。
 さらには、山林災害や土砂流出の拡大をもたらし、水質の悪化やダムの貯水機能の低下に悪影響を及ぼしか ねない状況にあります。
 そこで、当局では過去に培ってきた森林管理のノウハウを生かし、手入れ不足に陥った民有林を再生し、多くの方々に「良質な水を将来にわたって確保するためには良好な森づくりが欠かせない」ことを理解していただくため、2002(平成14)年にボランティアの方々と一体になって民有林を再生する「多摩川水源森林隊」を設立しました。
 多摩川水源森林隊(以下「森林隊」と表記)は、東京都水道局、水道局の監理団体、地元森林組合及びボランティアで構成される全国的にも例を見ない組織です。。。

多摩川水源森林隊による民有林の再生
東京都水道局 多摩川水源森林隊

http://www.japanriver.or.jp/taisyo/oubo_jyusyou/jyusyou_katudou/no15/no15_pdf/tokyo.pdf

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2017年03月24日

昭和三陸大津波

仕事でやってるんじゃない。津波と貧困に恨みがあるんだ
 東日本大震災の津波にのまれながら奇跡的に助かった津波研究者の故山下文男(1924-2011)は、震災直後、記者にこう絞り出すように語った。
 旧綾里(りょうり)村(現大船渡市三陸町綾里)の漁家に生まれ、明治三陸大津波(1896年)で、祖母ら身内9人を亡くした。小学生時代の昭和三陸大津波(1933年)では、自らはだしで山に逃げた。そして翌1934年の「昭和大凶作」で、山下少年は猛烈な飢えを経験する。
 その体験が、この男の原点となった。
 津波てんでんこ−。
 山下の代名詞となるこの言葉は、1990年に旧田老町(現宮古市田老、たろう)で開かれた「第1回全国津波サミット」で、父から伝え聞いた古くからの教えとして紹介したことが、世に出たきっかけとなった。
 津波で一家全員が犠牲になって荒れる墓を間近に見てきた山下。
家族の一人でも助かるには、他人に構わず逃げる『てんでんこ』しかないんだ
 その残酷にも聞こえる訴えに、会場は静まり返ったという。
 元東大地震研究所准教授で、歴史地震学の第一人者でもある都司嘉宣(つじよしのぶ)(建築研究所客員研究員)は「それは生易しい言葉じゃない。あまりに厳しく、切ない話だった」と当時受けた衝撃を語る。

 ただ、津波史研究で知られる山下だが、そのすごさは「天災」である津波から、戦争という「人災」をあぶり出した点にある。
 大津波と大凶作の中で、寒村にあふれた「欠食児童」や「娘身売り」の実態など、東北の埋もれた昭和史を掘り起こし続けた。
 自著『昭和の欠食児童』(本の泉社、2010年9月)では、満州事変(1931年)以降の軍事費の膨張で、東北の救農事業が打ち切られ、窮乏した農村に「志願兵」を募ったという国家の欺瞞(ぎまん)を、当時の資料を基に指摘した。
 主張は時に権力と鋭く対立した。
 それは「体験者」としての使命感からだろう。

自分の苦しみから、多くの人びとの痛みを共有していた
 古くから調査を手伝っていた牛山靖夫(72)=盛岡市愛宕町=は山下をこうしのぶ。

 人生の最終盤に迎えた東日本大震災。
 山下は「研究者として見届けたい」と、陸前高田市の病院のベッドから動かず、全身で津波を受け止めた。
 「津波は恐ろしい。本当に『てんでんこ』だ」。身を持って伝えた津波の恐怖。震災から9ヶ月後の2011年12月13日、87年の生涯に幕を閉じた。
 それはまさに、抗(あらが)い続けた人生だった。

 「てんでんこ」は今、「相互信頼の証し」「災害弱者への配慮の教訓」と、解釈が深化している。
 山下が残したこの遺産をどう生かし、世界に伝えていくのか。残されたわれわれの責任でもある。

【写真=親族宅に残るハンチング帽などの愛用品と笑顔の山下文男。その訴えは今、さらに重みを増している=大船渡市三陸町綾里】

【メモ】昭和東北大凶作
 やませによる冷害と長雨で、満州事変と同じ年の1931年、1934年に立て続けに大凶作となった。
 その間の1933年に昭和三陸大津波が発生。
 窮乏した農家では家計を助けようと、若い娘たちが身売り奉公に出される例もあった。
 これらの災害が日本の軍国主義化の背景になったとの指摘もある。
 世界的には1929年の世界恐慌を契機にブロック経済が進み、第2次世界大戦へと向かっていった。


2015年2月6日付け岩手日報、大型企画「戦後70年 伝える 生きる」
第2部二つの「災」
(6)抗い続けた男 「体験者」の使命胸に
http://www.iwate-np.co.jp/kikaku/sengo/sengo150206.html

 昭和三陸津波における労農救援運動としては、医療奉仕活動のために被災地に向かった医師たちのグループが逮捕された事件がよく知られている。
 昭和三陸津波の経験者であり、津波災害の歴史の研究者でもあった山下文男(1924−2011)は、しばしば自著でその事件を紹介している。
 たとえば、2005年に発行された『津波の恐怖 −三陸津波伝承禄−』(東北大学出版会叢書、2005年4月)の21頁には、次のように記されている。


≪ 苛酷な弾圧下にあって地下活動を余儀なくされていた共産党や労働運動の中でも「三陸震災救援委員会」が組織され、義捐金と医薬品を持った医師と看護婦、東北大学の医学生らが、最大の被災地・田老村に派遣された。しかし彼らは、金と物資を取り上げられて、即座に逮捕され、盛岡署送りになった ≫

 岩手県下閉伊郡田(た)老(ろう)村(1944年に町制施行、2005年に宮古市と合併)に派遣され、現地で逮捕された医師とは、渡辺宗治という人物である。
 渡辺は、1932年3月に東北帝国大学の医学部を卒業し、昭和三陸津波が発生した当時は、東京の亀有無産者診療所に医師として勤務していた。
。。。
仙台から田老へ
 山下文男が1982年に著した『哀史 三陸大津波』(青磁社、1982年)のなかに「最近、 秋子さんは、その時のことを次のように語った」という部分があるので、そこから引用する。


≪ 私たちはまず役場に行って持参した義捐金や衣料などを渡し、すぐ病人の診察を始めました。ところが3時間もそれをやっただけですぐ逮捕されてしまったのです。みんな行列を作って診療の準備を待っているのにです。私たちは別にビラをまいて宣伝活動をしたわけでもないのですが、役場に行った時、大崎無産者診療所から来たことと、“この義捐金や衣料は、粗末なものであるが東京の貧しい人びとの心づくしのものであるから罹災者の方々に分けてあげてほしい…”と正直に話したので、それが宮古か盛岡に報告され、特高警察から、逮捕しろと命令が出たのだと思います ≫

 (大崎無産者診療所で看護婦として働いていた)高島(秋子)らは、「3時間」ほど診療をした時点で逮捕されたという。
 (医師の)渡辺も「午後5時頃」に逮捕されたと記しており、午後1時に村役場に着いてから診療を開始したと考えれば、高島の談話と大きな違いはない。
 こうして、東京から仙台、盛岡、宮古を経由して田老村に向かった渡辺らの一行は、現地で数時間の診療活動を実施した後に、逮捕されたのであった。
。。。
学生4人の逮捕
 3月24日朝刊の『岩手日報』において、渡辺らが逮捕された第一報が出されたことは先述の通りであるが、翌3月25日朝刊の『岩手日報』では「大学生風の男」「更に4名入県」と題して、その続報が報じられた。


≪(宮古電話)田老村における赤化オルグ検挙から、県特高課では俄然色めき立ち、小舘盛岡署特高係は、宮古署に於て既報の3名の取調べを続行すると共に、後藤特高課長は、急遽釜石町に赴き、各署に手配を命ずるところがあつた。
 三陸沿岸罹災地には尚中央よりオ ルグが逐次潜入した形跡があり、彼らは巧妙なる方法で救護班となり、或は災震慰問団となつて堂々乗込み、人心の弱点につけ込んでプロカル運動を働きかけんとしたものである。
 尚、宮古署では23日に至り、同日早朝、山田町を出発した大学生風の4名が、同じく労農救援会より派遣されたオルグである事を探知し、あわてゝ各署に手配したが、未だ逮捕されぬ。
 彼らは21日頃、宮古町を経て、22日、山田へ赴き平半食堂に一泊し、翌朝徒歩で大槌に向つた事がレポの失策から判明したもので、取調べの進むにつれて、或は仙台労救支部及び中央本部のマツスアレストまでも進展するで〔ママ〕はないかと見られてゐる ≫


 田老で「赤化オルグ」を逮捕したために「県特高課」が「色めき立」っていることに加えて、「大学生風の4名」が被災地に「潜入」していることが報じられている。
 なお、「レポ」というのはレポートやレポーターの略で、連絡員のことを意味するが、被災地に潜入した「大学生風の4名」のことを指しているかについては不明である。
 また「マツスアレスト」とは、マッス(集団)をアレスト(逮捕)することから、組織的な検挙のことと考えられる。
 この時点でマークされていた「大学生風の4名」は、3月25日の未明に、釜石で逮捕された。
 3月27日朝刊の『岩手日報』では、「労農救援会員」「釜石で4名検挙」というタイトルで次のように報じられている。


≪ 釜石警察署では、来釜中の後藤特高課長の指揮で、町内の旅館、素人下宿を虱つぶしに赤色分子の潜入を厳重警戒して居るが、25日、同町大渡3丁目阿部旅館に投宿した学生風の男4名あつたので、同日午前2時頃、十余名の警官で以て包囲検挙した。
 右は和泉英助(33)、村田重高(24)、武井正一(24)、長谷川深(24)の4名で、労農救援会仙台支部員らしく、取調べの上、和泉をのぞく他の3名は26日釈放、和泉について追及取調べに当つて居る。
 尚、特高課長は26日午前7時遠野経由さかりに向つた ≫


 釜石警察署が、町内の旅館や下宿を「虱つぶし」に調べた結果、旅館に泊まっていた学生風の4人は逮捕されたという。
。。。
 逮捕された4名は、いずれも東北帝国大学の法文学部の学生であった。


東北大学史料館紀要、第11号(2016.3)
昭和三陸津波における労農救援運動と学生運動
伊藤大介
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/62993/1/1881-039X-2016-11-1.pdf

 被災者救援活動もボランティア活動もアカとケイサツ判断したらタイホ、そんなの嫌だあ、嫌だよ・・・
 トッコウ、チアンイジホウ、ゴウモン、ジハク、ゴクシ・・・カンシ社会、おぅ、嫌だあ、嫌だよ・・・

映画「母―小林多喜二の母の物語」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=xhuawSMjSUI

映画「母べえ」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=-p1yQuyMcjI

戦時中最大の言論弾圧事件“横浜事件”
https://www.youtube.com/watch?v=HZmPXUpl73U
https://www.youtube.com/watch?v=5ImPCECgIq8

戦後70年 表現の自由が弾圧された当時の様子を語りました(15/08/19)
https://www.youtube.com/watch?v=lHcNu8J5UU8

 共謀罪を今度の国会で、安倍首相の手で成立させては、絶対にいけない。
 しかし、野党の体たらくで、このままいけば強行採決は必至だった。
 なにしろ、野党は法案が提出されていないうちから議論を仕掛ける愚をおかしたからだ。
 あんなものは、自民党と公明党の間で喧嘩させておいて、どんな妥協案が出てくるか知らないが、それが出た時に、クソみそにこき下ろせばよかったのだ。
 そうしたら、自公の間でさらに亀裂が起こり、時間切れで廃案に持ち込めた。
 ところが、自公の間でもめている時に、さんざん野党の方から議論を吹っかけて手の内をばらし、自公がそれに譲歩した形で政府案を閣議決定して国会に提出して来た。
 これでは強行採決してくださいと言っているようなものだ。
 そう思っていたら千載一遇のチャンスがやってきた。
 もちろん森友疑惑のことだ。
 きのう2017年3月23日の籠池氏の証人喚問を報じるきょう24日の各紙は、疑惑がさらに深まった、いよいよ昭恵夫人の喚問しかない、という論調ばかりだ。
 いくら籠池氏を偽証罪で捕まえようと目論んでいたとしても、あの堂々とした自信に満ちた証言では誰が見ても籠池氏が本当のことを言っていると思うだろう。
 だから安倍首相は籠池氏を建設費の見積もり詐欺罪で捕まえようとしてくるだろうが、そんな事で幕引きしようとしても国民は納得しないだろう。
 だから野党は、その国民の不満を追い風に、昭恵夫人の承認喚問を要求し、それに応じなければ国会審議をボイコットすればいいのだ。
 政府は予算を通さなければいけないから、最後は譲歩する。
 国会が再開されて審議時間が大幅に短縮されれば、共謀罪を審議する時間切れで廃案に追い込める。
 それよりもなによりも、森友疑惑のさらなる進展次第では、安倍首相は解散・総選挙に追い込まれる。
 どっちに転んでも、もはや安倍首相は共謀罪どころではないのだ。
 共謀罪成立阻止の絶好のチャンスが来たということである。


2017-03-24 天木直人のブログ
共謀罪を廃案に追いこむ絶好のチャンスが来た
http://kenpo9.com/archives/1155

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「共謀罪」の創設に反対

 こんにちは。突然ですが、Change.orgをご存知ですか? Change.orgは「変えたい」気持ちを形にする、ソーシャルプラットフォームです。
 昨晩のことヤッホー君は、『「共謀罪」の創設に反対する緊急統一署名』というキャンペーンに賛同し、もう一晩で軽く2万人の賛同を超えたようで。
 一緒にこのキャンペーンを応援していただけませんか?
 以下のリンクからネット上で署名ができる仕組みになっています。
https://www.change.org/p/共謀罪-の創設に反対する緊急統一署名?utm_medium=email&utm_source=notification&utm_campaign=petition_signer_receipt&share_context=signature_receipt&recruiter=75118939
 ご支援をいただけますよう、よろしくお願いいたします。


 そうなんです、ヤッホー君、かごかきとかコウノトリとか、あほやアッキーといったウヨクのことでいっぱいでしょうが、ほかにも自公維は人をいためつけ、国をうりわたす画策をつづけています:
 ・共謀罪の創設
 ・主要農作物種子法廃止
 ・水道法改定
 ・家庭教育支援法案
 ・日米通商交渉

 今日は共謀罪。

 犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法の改正案が閣議決定されたことを受けて、学者やジャーナリスト、法律家らが2017年3月21日、参院議員会館(東京都)で抗議の集会を開いた。適用対象のあいまいさを危ぶむ声が相次いだ。
 日本ジャーナリスト会議(JCJ)の丸山重威さんは「2人で話し合ったり目配せしたりしただけで『共謀』となり、その判断は警察がする」と問題点を指摘した。JCJは6日に「出版、報道などの表現の自由を根本から奪う」などと反対声明を出している。「週刊金曜日」発行人の北村肇さんは「事実と真実は市民の武器だ。共謀罪は報道をつぶすための最大の武器になる」と警鐘を鳴らした。
 足立昌勝・関東学院大名誉教授(刑法)は、法案中の「テロリズム集団」に定義がない点などを指摘し、「内容的にこんなに未熟な法律をよく閣議決定できたものだ」と批判した。
 中東問題に詳しい藤田進・東京外大名誉教授(アラブ現代史)は、政府がテロ対策を強調している点について「イスラムとテロリズムを結びつけるアメリカの立場を無条件に追認していて危険だ」と話した。


2017年3月21日18時59分、朝日新聞デジタル(後藤遼太)
「共謀罪」閣議決定で抗議集会 対象のあいまいさ危ぶむ
http://www.asahi.com/articles/ASK3P4S65K3PUTIL02C.html

 官邸の主が不在のまま、共謀罪を盛り込んだ組織的犯罪処罰法の改正案が3月21日、閣議決定された。
 安倍首相は3月19日からドイツ、フランス、ベルギー、イタリアの4ヶ国を歴訪していて、3月22日に帰国予定。重要法案のアベ抜き閣議決定なんてアリなのか

 閣議は本来、総理大臣の呼び掛けで開かれる内閣の合議だ。内閣法第4条でこう、うたっている。

〈閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する。この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる〉

 2000年に提出された質問主意書に対しても、森元首相は、

〈閣議は、その主宰者である内閣総理大臣及びその他の国務大臣全員が集まって開かれるのを原則とする〉

と答弁書を出している。黒に近い灰色なのだ。

 高千穂大教授の五野井郁夫氏(政治学)は言う。

世間の関心が森友学園疑惑や豊洲市場問題に向けられている間に、ドサクサ紛れで閣議決定に持ち込んだのでしょう。実際、安倍首相が外遊中で大きなニュースにはなっていません。安倍政権は東京五輪のテロ対策を前面に出し、TOC条約(国際組織犯罪防止条約)の締結に必要だとしていますが、デタラメです。現行法で十分に対応できる。戦前の治安維持法さながらの悪法の恐ろしさが知れ渡る前に、審議時間を稼ごうという意図を感じます

 拙速さが奏功して、世論調査で半数が共謀罪の成立に賛成している。テロの脅威をことさらにあおる政権の術中にハマっているのだ。金田法相が国会で答弁している通り、これはトンデモナい法案だ。穏健な市民団体でも捜査機関が「活動が一変した」とみなし、「実行の準備行為を伴う合意」があったと認定すれば組織的犯罪集団にされてしまう。金田法相は「それを判断するのは捜査機関だ」と断言しているのである。

「花見シーズン入りして新宿御苑に足を運ぶ人が増える時期ですが、御苑は迎撃ミサイルのPAC3配備が検討され、過去には訓練も行われています。花見の流れで仲間と御苑をあちこち探索しようものなら、〈犯罪行為のための下見〉とされる可能性もある」
(前出の五野井氏)

 安倍政権は今国会での成立をもくろんでいるが、それを許したら官憲の気配に怯える戦前に逆戻りすることになる。


2017年3月22日日刊ゲンダイ
重要法案なぜ安倍首相抜き?
「共謀罪」閣議決定の怪しさ

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/201939/3

 共謀罪は日米支配階級にとって目障りな人びとや団体を攻撃するために使うことが想定されているだろう。
 そうした弾圧の手段を導入しようという目論見は、東アジアにおける軍事的な緊張の高まりと無縁ではない。

 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した翌年、言論関係者を中心に60名以上が逮捕され、30名以上が有罪判決を受けるという「横浜事件」があった。
 外務省と密接な関係にある世界経済調査会で働いていた川田寿と妻の定子が9月に逮捕され、川田の交友関係から同調査会の益田直彦が翌年1943年1月に、また高橋善雄が同年5月に逮捕され、満鉄関係者へと捜査の手は伸びた。

 その一方、川田夫妻が逮捕された1942年9月には雑誌「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」を書いた細川嘉六も検挙され、捜査の過程で発見された写真に写っていた細川の友人たちが逮捕されていく。

 問題の写真は細川の著作『植民史』の刊行記念で催された会食の際に撮影されたもので、細川や満鉄関係で逮捕済みの平館利雄と西沢富夫のほか、中央公論の木村亨、元改造の相川博、改造の小野康人、東洋経済新報の加藤政治、そして満鉄の西尾忠四郎が写っていた。
 特高警察はこの会食を「共産党再建準備の謀議」だとするストーリーを描いたのだ。

 裁判の結果、30名以上が有罪になり、そのうち浅石晴世、和田喜太郎、高橋義雄、田中正雄の4名が獄死、また相川博、西尾忠四郎、加藤政治、小野康人は釈放直後に獄中の心神衰弱が原因で死亡している。

 この事件がでっち上げだったことは間違いない。
 「共謀」の疑いがあったから摘発したのではなく、一部の支配層が主導権を握るために反対勢力を潰しにかかったのだ。
 その「陰謀」の中心には思想検察出身の平沼騏一郎たちがいた、あるいは東条英機の懐刀と言われた唐沢俊樹がシナリオを書いたとも言われている。

 この弾圧を実行したのは思想を取り締まった特別高等警察(特高)だが、その活動を統括していたのは内務省の警保局長。
 その警保局長を1932年から36年にかけて務めたのが唐沢だ。
 事件当時は内務次官で、警保局長は町村金五だった。
 ちなみに、平沼騏一郎の兄、叔郎のひ孫が衆議院議員になった平沼赳夫であり、町村金五の息子が町村信孝である。
 金五は1952年に衆議院議員、59年に北海道知事、71年には参議院議員、そして第2次田中角栄内閣では自治大臣に就任した。
 唐沢は1955年に衆議院議員になって岸信介内閣の法務大臣になる。

 治安体制に注目すると、日本は戦前も戦後も基本的に変化していないことがわかる。
 天皇制官僚国家は護持されたのだ。
 その背後にはアメリカの巨大金融機関JPモルガンが存在していた。そのキーパーソンがジョセフ・グルー。いとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚している人物で、1932年に駐日大使として来日、42年まで日本に滞在した。
 離日の直前、グルーは岸信介とゴルフをしている。

 日本が降伏した後に岸が関係した団体のひとつがMRA(道徳再武装運動)。
 CIAのフロント組織と言われる「疑似宗教団体」で、岸のほか三井本家の弟、三井高維も参加していた。
 このMRAに接近したひとりが中曽根康弘で、1950年にはスイスで開かれたMRA世界大会に出席している。
 MRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーと知り合いになるが、1953年に中曽根はキッシンジャーが責任者だった「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに参加した。
 そのスポンサーはフォード財団、ロックフェラー財団、あるいはCIA系の「中東の友」などだ。
 その翌年、中曽根は国会に原子炉購入予算を上程している。

 戦後、岸に近い政治家は「新日本政治経済調査会」を結成、そこに小泉純也なる人物も参加している。
 1953年に岸は40名の同志を虎ノ門の「晩翠軒」に集めたが、その中にも純也はいた。
 このグループが「岸派」の基礎になる。

 小泉純也は1969年8月に死亡、息子の純一郎が留学先のロンドンから呼び戻されて同年12月の衆議院議員選挙に立候補したが、落選している。
 通常、こうしたケースでは「弔い合戦」ということになり、当選することが多い。
 父親の地盤を受け継ぎながら落選したわけで、よほど地元では個人的に人気がなかったということになるだろう。
 その翌年から福田赳夫の書生を務めることになった。
 小泉純一郎が初当選したのは1972年のことだ。

 中曽根や小泉は「規制緩和」や「民営化」を叫び、新自由主義を日本へ導入、社会を破壊していった。
 その路線を岸の孫にあたる安倍晋三も推進
している。
 新自由主義が最初に導入されたチリを見ても明らかなように、この「経済政策」は破壊と殺戮を伴う。

 新自由主義は市場を絶対視するが、その市場は一部の巨大資本が支配する場にすぎない。
 つまり、強力な私的権力に対する規制を弱め、国家を上回る力を与えようとする政策だとも言える。
 そうした体制をフランクリン・ルーズベルトはファシズムと呼んだ。

 TPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TISA(新サービス貿易協定)は参加国全体をそうしたファシズム体制にすることが目的だ。
 ファシズムの創始者とも言えるベニト・ムッソリーニは巨大資本が支配するシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張していた。
 これがムッソリーニの考えたファシズムだ。

 安倍政権が共謀罪とTPPを推進しようとしているのは必然である。


2017.03.22 櫻井ジャーナル
共謀罪の導入は世界制覇戦争とファシズム化を推進しようとしている米国支配層の計画の反映
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703210000/

 戦争法が憲法9条を否定したように、共謀罪は、自由と人権を保障する憲法に反するとんでもないもの、これじゃあ、皆んなでわいわいがやがやしながらの山歩きもできなくなってしまうよぉ〜、空気を読まないと一歩も歩けないなんてとんでもない、とヤッホー君!

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2017年03月23日

タイワンリス

 逗子市の二子山についての記事がまだ終わっていませんでした。
 二子山っていうくらいの名ですので、二子山は上ノ山と下ノ山の二つからできています。
 まずは、上ノ山で ↓:

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 写真にはお昼のお弁当をいただくのに忙しく登場していませんが、小笠原からの美味しい写真を送ってくださった高畠さんが教えてくれました。

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 あの木肌についた傷はタイワンリスが歯を研いだ後なんだよって。
 ヤッホー君、鎌倉にタイワンリスが出没して被害をもたらしていることは耳にはさんだことがあるのですが、ココは逗子ですよ!

 タイワンリスが鎌倉に移入した経緯については二つの説があります。
 そのひとつは、植物園で飼育中に台風によりケージが壊れ逃げ出し鎌倉に棲みついたというもので、他は戦前、鎌倉が別荘地として成り立っていた時期に別荘の住民に飼われていたものが逃げ出したか捨てられたかしたことにより野生化したというものです。
 いずれの説も真のところは不明です。

 鎌倉で野生化が始まったころは、長谷や佐助の一部に生息するだけであったものが、近年は、市の全域に生息し、最近では本市域を越え逗子市から三浦市に至る三浦半島地域や近隣の藤沢市、横浜市にも拡大しています。
 本市におけるタイワンリスによる被害は1999(平成11)年ごろから急激に増え始め、今では市内全域に及んでいます。
 こんな被害が出ています:
 ・果実を食べられた
 ・戸袋、雨戸など家屋をかじられた
 ・戸袋などに営巣、子を産んでしまった
 ・電線や電話線をかじられた
 ・山林、庭などの樹木の樹皮をはがされた
 ・店の商品を食べられた

 これといった対策はないのが実情ですが、被害にあわれた方からは、リスが来るところにミント臭のする液や唐辛子を水につけた液、木酢液を吹き付けたところ、来なくなったなどある程度の効果があったというお知らせをいただいています。
 この場合、1週間ぐらいで効き目がなくなってしまうそうですから繰り返し吹き付けることになります。
 参考にしてみてください。
 なお、直接吹き付けたり塗ったりすると変色なども考えられますので、目立たないところで試してから行なうようにしてください。
 変色などが考えられる場合には、液をしみこませた木片などを吊るしたりくくりつけるなどしてみてください。

 タイワンリスは、枝から枝へ軽々と飛び移るため果実や樹皮食いを完全に防ぐことは困難と思われますが、例えば、果実であればひとつひとつをネットで包む、樹皮食いであれば木の幹や枝にネットなどを巻くなどが考えられます。
 市民の中には、タイワンリスの天敵が蛇やカラスであることから、蛇やカラスのおもちゃやホースをつるしているという話もあります。
 ただし、天敵の蛇に対しては、リスは仲間に呼びかけ集団で撃退してしまうという話もあります。
 電線や電話線をかじられた場合には、お近くの東京電力やNTTの事業所へご相談ください。


鎌倉市公式サイト、タイワンリスによる被害
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kan-hozen/higai_taiwanrisu2.html

 市内では、アライグマやタイワンリスなどの野生化した外来生物(もともと日本には生息していなかった生物)による生活被害が発生しています。
 自然生態系への影響も懸念されていることから、アライグマとタイワンリスは、外来生物法(特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)により、有害鳥獣として駆除の対象としています。
 また、ハクビシンは天井裏に住みついて糞尿をするなどの害を及ぼすことから、駆除の対象となります。
 
 逗子市では、アライグマやハクビシンが屋根裏に住みついたり庭を荒らしたりするなどの被害を受けている方のお宅に、捕獲檻の設置を行っています。
 また、タイワンリスに家庭菜園や果樹を荒らされるなどの被害を受けている方には、リス用の捕獲檻を無料で貸し出しています。
 いずれも、捕獲檻の設置は逗子市内に限ります。捕獲檻の設置を希望する方は、まず生活安全課にご相談ください。

 被害の原因を探し、それを減らすのが一番のポイントです。被害にあわないように工夫しましょう:
 ・ベランダやポーチの下、煙突や納屋、屋根、屋根裏への侵入を防ぐ。
 ・アライグマやタイワンリス、野鳥等の野生鳥獣に餌を与えない。
 ・屋根から1.5メートル以内の樹木の枝などは取り除く。
 ・屋外の生ごみは丈夫なプラスチック製の容器に入れ、しっかりフタを閉める。
 ・傷んだ排気口の網を修理する。
 ・ガレージやペット用のドアは必ず閉めておく。
 ・木の周りに落ちている果実は取り除いておく。
 ・屋外にある水がたまりそうな容器には、フタをするか中を空にしておく。
 ・果樹が実る時期にはネットをかける。


逗子市公式サイト、アライグマ、タイワンリス等の被害でお困りの方へ
http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/seian/choujyu/higai.html

 でも春が来た山路なので、里もすっかり春!
 ほら民家の軒先には、レンギョウに、ユキヤナギに、サクラの花が:

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 レンギョウの花言葉は、「希望」「かなえられた希望」「集中力」。
 ユキヤナギの花言葉は、「愛嬌」「気まま」「自由」「殊勝」「静かな思い」。
 サクラの花言葉は、「優れた美人」「純潔」「精神美」「淡泊」。
(ソメイヨシノ・染井吉野)「純潔」「優れた美人」
(シダレザクラ・枝垂れ桜)「優美」「ごまかし」
(ヤマザクラ・山桜)「あなたにほほえむ」
(フランス語での花言葉)「忘れないで(Ne m'oubliez pas)」

花言葉辞典
http://www.hanakotoba.name/

 あっ、ちなみに今日3月23日の誕生花は「ヤマブキ」で、花言葉は「富裕」ですって、咽ないでね、ヤッホー君。
山地の谷川沿いなどの湿り気の多い場所に生える落葉低木です。地下茎を伸ばして殖え、茎や枝は細く、初め緑色、やがて褐色となります

フラワーギフトの日比谷花壇、365日の誕生花
http://www.hibiyakadan.com/hanakotoba/m03.html

 そしてお山歩会が終わって東京の新橋に戻って:

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サルトルを覚えてますか

 あるフランス人の日本報告だ。

家具といえば、彼らはほとんど何も持たない。一隅(いちぐう)に小さなかまど、夜具を入れる引き戸つきの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る小皿が皆きちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に公明正大に暮らしているのだ

 むろん幕末の話である。実際、当時の庶民の暮らしは身軽だったようだ。無理して家財を持っても、ひんぱんに起きる火事で焼けてしまうと分かっていた。わずかな家財もリサイクルしながら使い回した昔の日本人である。
 
その日本人が欧米の文明に乗り換えて1世紀半、家にモノがあふれ、時には生活がモノに振り回される今日だ。そして体力や生活意欲の衰えなどでごみの処分ができなくなった高齢者が不要なモノに埋もれて暮らす「ごみ屋敷」「ごみ部屋」が各地で問題化している。

 自治体によってはお年寄りらのごみ出しを支援する制度があり、その利用者が増え続けているという。埼玉県所沢市の場合はこの10年で取り扱いが3倍になったが、ニーズはまだまだ潜んでいるようだ。なのに支援制度のある自治体はまだ全体の4分の1に満たない。

 ごみ屋敷問題の背景の一つには、人間関係の孤立などから自分自身への関心を失い、身の回りのことができなくなるセルフネグレクト(自己放任)の広がりがある。ごみ出し支援はセルフネグレクトの防止につながり、また長期的支援の端緒になるものと期待される。

 家にろくにモノがなかった昔はまた近隣同士の開けっぴろげな暮らしで欧米人を驚かせた。あふれるモノと孤立した人と −− 思えば遠くに来たものである。


2017年3月22日付け毎日新聞東京朝刊「余禄」
あるフランス人の日本報告だ…
http://mainichi.jp/articles/20170322/ddm/001/070/154000c

 昨日のヤッホー君、千駄ヶ谷の代々木病院で患者さん送迎のボランティア。
 その時、なにげなく手にとった毎日新聞に「思わず遠くへ来たもんだ」って妙に納得してしまったんですって。

山木康世(1950年生まれ)「思わず遠くへ来たもんだ」
https://www.youtube.com/watch?v=7GGdnvb5RyE
https://www.youtube.com/watch?v=71S1D9kPQHw
https://www.youtube.com/watch?v=vc5BiZRqyBQ

 あのぉ、この「余録」にでてくる幕末に来日した「あるフランス人」って誰かなってのが今日、彼岸明けの3月23日のテーマなんですって:

国立国会図書館、リサーチナビ
フランス人による日本論の源流をたどって : 日仏交流150周年記念稀覯書展示会 : 展示目録
2008.11/京都外国語大学付属図書館

http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000010002828.html

 えいや、とヤッホー君、候補2冊を独断と偏見で決めました:
☆ ルードヴィック・ド・ボーボワール/綾部友治郎『ジャポン1867年』(有隣堂、1984年)
☆ アルフレッド・ルサン/樋口裕一『フランス士官の下関海戦記』(新人物往来社、1987年)

 いえ、ね、シモーヌ・ド・ボーボワール(Simone de Beauvoir、1908-1986)は覚えていますが、ルードヴィック・ド・ボーボワール(Ludovic de Beauvoir、1846-1929)とはね、本を探してみようっと。
 今日は覚えている方のボーボワールから:

Simone de Beauvoir & Sartre - 1967
https://www.youtube.com/watch?v=xxEKiMTrHRc

 サルトルとボーヴォワールのカップルの間には距離がある。実際二人はお互いをvousで呼んでもいる。もちろんボーヴォワールはサルトルの死への接近に絶望をする。またサルトルの「ぼくのカストールに辛い思いはさせたくないな、ほんのわずかでも」(Je ne veux faire à mon Castor nulle peine même légère)という言葉を書き留めてもいる。死の間際には、サルトルとの最後のキスが次のように描かれる。

4月14日、私が着いた時、彼は眠っていた。彼は目をさまして、目を開かないまま私に何か言った。それから唇で私を求めた。私は彼の唇と、頬に接吻した。彼は再び眠った。

 それでもこのカップルは、共に生の時間を過ごし、また強く結びついてたとしても、決して「ひとつになる」ことはなかった。この主体のあり方をあいまいにするような恋人同士の融合という考えを、ボーヴォワールは決してとらなかった。それは『女ざかり』でも述べられていた。
 二人の間に厳然と存在する距離ーそれは、ボーヴォワールの死生観の反映でもある。ボーヴォワールにとっての死とは、人間の最終到達点ではなく、事故である。人間の存在には決定的な意味づけや価値づけはない。意味や価値の不在こそが人間の生きる確証であるとするならば、死はこうした人間の不断の意味づけを決定的に奪ってしまう暴力に他ならない。だから、わざわざボーヴォワールは最後に「彼の死は私たちを引離す。私の死は私たちを再び結びつけはしないだろう」(Sa mort nous sépare. Ma mort ne nous réunira pas)と書くのだ。死後を甘く彩ることなどボーヴォワールにはありえなかったろう。それほど死の事実は歴然としている。
 だが、このあとにボーヴォワールは最後のことばを書き記す。「こんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでにすばらしいことなのだ」(il est déjà beau que nos vies aient pu si longtemps s'accorder)。この日本語訳の「共鳴」に注目したい。共鳴とは決して一緒になることではない。そもそも共鳴とは二つのものが離れていなくては起きない現象なのだ。融合したものは決して響き合わない。主体の存在を前提としたnousであるからこそ、accordするのだ。「共鳴」こそ、このカップルの本質であったことを教えてくれる締めくくりである。


2009年11月28日付け國枝孝弘研究室
シモーヌ・ド・ボーヴォワール『別れの儀式』Simone de Beauvoir ”La cérémonie des adieux” 1981
慶応大学教授・國枝孝弘(1965年生まれ)
http://kunieda.sfc.keio.ac.jp/2009/11/simone-de-beauvoir-la-ceremonie-des-adieux-1981.html

映画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=auYLGOSBwLE

 日本に限らず戦後の世界で、サルトル(1905-1980)ほど大きな影響力を行使し続けた文学者はいなかった。そして20世紀の精神の歴史の上には、はっきりと“サルトルの時代”と名づけられる時代が、それも20年以上にもわたって存在していたというのが、わたしの偽らざる実感である。1945年から20余年間、それはサルトルの時代であって、その時代に生きた者はほとんど一人の例外もなくサルトルに問題を突きつけられ、その影響を受けずにはいられなかった。
 しかもサルトルは、戦後の幕を開け戦後の世界そのものを作りだしたばかりか、そうした戦後を支えた社会主義と「普遍性の神話」に自らいち早く疑念を表明し、戦後世界そのものの崩壊を促進したのであって、ある意味では戦後の崩壊ののちに生まれた、いわゆるポスト・モダンの世界を準備する先駆者であったとも見ることができる。

 
サルトルの時代について
渡辺一民(1932-2013)
http://starsands.com/tetsugakutoai/

 目の前のコップを見て「存在」を考える。そんな青春を過ごした人が、僕らの世代には少なくないだろう。喫茶店でコーヒーを飲み、飲み干せばあとはグラス――あのころはコップと言った――の水だけとなり、そのガラスの感触を手のひらに感じながら、事物の存在に思いをめぐらす。ときには、自分の前に同様のことを考える友がいて「このコップがここにあるってことは……」みたいな話になる。そんな青春が、少なくとも40年前にはあった。

 そんな「コップ派」のひとりだった僕はこの春、古本屋で懐かしい本に再会した。ジャン・ポール・サルトル著『嘔吐』(白井浩司訳、サルトル全集第6巻、人文書院)だ。京都へ出張したときに、京大に近い百万遍の古書店で見つけた。その柔らかな手触りや、生成り感のあるクリームがかった白の表紙は、僕をたちまち40年前の世界へタイムスリップさせた。

 さっそくこの本を買って、京大生の自習室ともいわれる喫茶店の進々堂にかけ込んだ。読み進むと、なんと出てくるではないか、そのコップが。

 それは、本文をかたちづくる「日記」の2日目に現れる。主人公のアントワーヌ・ロカンタンがキャフェでビールのグラスに向き合い、内省する場面だ。

 「いまや到るところにテーブルの上の、このビールのコップのようなものがある。私はそれを見ると、いいたくなるのだ。やめたよ、もうゲームはしないぞ、と」「ただとにかく、私は不安なのだ。このビールのコップを〈眺める〉のを避けようとして、もう三十分もたつ。私はその上を、その下を、その右を、その左を眺める。しかし〈それ〉を見まいとする」「私が見ているものを、私はもう説明することができない。だれに対してもできない。さあいま、水の底へ、恐怖の方へ、私は、徐々に滑って行く」(今回の引用は、すべて1971年の改訂版による)

 『嘔吐』といえば、なんといっても、マロニエの根っこだ。ロカンタンは、公園のベンチの足もとにある「黒い節くれだった、生地そのままの塊」を見て一つの啓示を受ける。物事の多彩さは「単なる仮象」に過ぎず、ベールをはぐと「怪物染みた軟い無秩序の塊」だけが残る、と気づくのだ。そして、「肝要なこと、それは偶然性」「存在とは必然ではない」「存在するとは、ただ単に〈そこに在る〉ということ」といった実存主義の核心に触れるフレーズがどんどん吐き出されていく。

 だが、このマロニエの根に先だって、コップをめぐる思索があった。やはり、コップは哲学の原点ということか。

 さて、古本の書棚で『嘔吐』を見つけてうれしくなった最大の理由は、奇しくも今春、この本をもう一度読みたいと思っていた、という事情がある。そのきっかけは、このブログの1回目と2回目でジャズの話に触れたことだった。僕がどんないきさつでジャズが好きになったのか。それを振りかえると、どうしてもこの本に行きあたる。

 僕の記憶のなかでは、この本の後段で女性シンガーのジャズのレコードが流れ、存在がもたらす吐き気からロカンタンを救いだしてくれる、というような筋書きになっていた。僕は十代のころ、これを読んでまもなくジャズ喫茶に通うようになり、そのジャズの実存主義的効用を実感したというわけだ。

 なんと青臭い、そして理屈っぽいジャズ事始めだろうか。たまたま今、僕は森山良子の“the jazz singer”というCDを聴きながらこのブログを書いているのだが、彼女のようにジャズマンの家に育ってそのリズムが身についた人をみると、ほんとうにうらやましくなる。森山良子はもともとジャズ畑の人ではなく、これは50歳を過ぎて初めて出したジャズアルバムだというのに、とても自然に、軽快に、スイングしているではないか。残念なことに、僕はジャズと無縁な家庭に育ち、サルトルによってその世界に引き込まれた。あんまり祝福される入り方だったとはいえまい。この歳になって肩肘張らないジャズの楽しみ方がわかってきたからこそ、そう思うのかもしれないが。

 さて、この本をめぐるジャズ話で、僕はひとつ思い違いをしていたらしい。再読してみると、ジャズの話が出てくるのは「後段」ではない。日記が始まって数日後、すでにロカンタンはキャフェでお気に入りのジャズのレコード――といっても、これは1930年代の話だ。僕らの世代がジャズ喫茶で聞いたモダンジャズとはだいぶ違う――をかけてほしい、とリクエストしている。

 「振動は、流れ押し合い、そして行き過ぎながら乾いたひびきで私を撃ち、消えて行く。私はそれを止めたいと思う。しかし私は知っている。よしんば私が一振動をとらえることができたにしても、それは私の指の間に、つまらない、すぐに衰えて行く一音としてしか、残らないだろうということを」。そのあとに「私の心は温まり、幸福を感じはじめる。これも別に少しも異常なことではない。〈嘔気〉の中のささやかな幸福なのだ」ということまで書いている。あたかも、この本1冊を出題範囲にした試験問題のヒントを早めの授業でこっそり教えてくれるように。

 ロカンタンのお気に入りは、黒人の女性歌手がしゃがれた声で歌う「いつか近いうちに」という歌だ。そのヤマ場、“Some of these days…”の声が聞こえると、ロカンタンは「自分のからだが硬ばり、〈嘔気〉が消えたのを感じた」。

 そこで、またも登場するのがビールのコップだ。手にとろうとすると、「腕の動作は、音楽の堂々たる主題のように進展した。それは黒人の女の歌に沿って滑って行った。自分が踊っているように思われた」。ジャズの軽やかさが、錘のようにまとわりつく存在のうっとうしさを解放していく。

 もちろん、僕の記憶通りのこともある。小説の最後の最後でも、この「いつか近いうちに」は重要な役回りを演じているのだ。あんまり立ち入って書くことはネタばらしになるので控えよう。ただ、ロカンタンは、「この旋律がレコードの針のかすれに、ぜんぜん影響されない」ことに思い至り、「旋律を〈通して〉」向こう側の世界にいる作曲家や歌い手を見ようとする。

 もはや僕の聴くジャズに針のかすれはなくなった。せめて、コップを見ながらもう一度、存在のことを考えてみようか。

[写真]
1966年に来日したときのサルトル。後方はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。『アサヒグラフ』1966年10月7日号の表紙になった。


2010年06月17日掲載、ブックアサヒコム
サルトルを覚えてますか
[文]尾関章(1951年東京生まれ)
http://book.asahi.com/reviews/column/2012082400009.html

では、またいつか近いうちに:
https://www.youtube.com/watch?v=6uaQui2pEgc

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2017年03月22日

二子山2078ⅿ

 沼間小学校を後にしたヤッホー君、7人のあとをトットロ、トロトロ、とろろ芋。
 足は二子山 2078m へ!
 「ただいまメール」は、またしても遅くなりました。

北山たけしで「花はおそかった」
https://www.youtube.com/watch?v=hGW1i0jUfXo

 いいえ、都心の花ははやかった!

 気象庁は3月21日、東京都心で桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。平年より5日早く、昨年と同日。開花宣言は全国で最も早い。
 21日午前、千代田区の靖国神社境内にある標本木の花が5輪開いているのを、気象庁の職員が確認した。満開までは1週間から10日程度かかるという。
 民間気象会社の予想では、3月に入って全国的に冷え込む日が多かったが、18〜20日の3連休は気温が高くつぼみの成長が進んだ。21日の東京都心は雨が降り冷え込んだが、20日夜までの暖かさで開花したとみられる。月末までに西日本や東海、関東で開花が進みそうだ。


2017年3月21日付け東京新聞夕刊
雨ニモマケズ桜咲く 東京が開花宣言一番乗り
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201703/CK2017032102000235.html

 気温が高かったのかぁ…、19日日曜日…、
 翌「春分の日」になってしかも夜の9時過ぎ、
 ようやくヤッホー君から一斉報告メールが…。
 
 春分の日、いかがお過ごしでしたでしょうか。お墓掃除してご先祖様にお参りでしたか?
 山歩クラブは19日の日曜日、二子山を歩いてきました。
 山はもう春の日差しがいっぱい。
 山路にはかわいいすみれが咲き乱れ、耳をすますともううぐいすの初音、それにコゲラのドラミング、歌う森の笑い声がきこえてきました。
 風もなく、穏やかな春の風情が漂い、前に歩いた方の山行記を頼りに、分岐の多い山路を7人の眼で目視点検しながら、うまく歩くことができました。
 でもヤッホー君、一か所、こころのなかでは「行っちゃだめよ」と固く刻んだはずなのに、実際は南郷上ノ山公園への道をたどって途中で気付いて慌てて戻ったりしました。
 これが道迷いなんですね、油断したのか、思い込みがあったのか、反省・・・
 帰りの車中でヤッホー君、反省のし過ぎか、気疲れか、よだれを垂らして爆睡、それでも新橋の「さくら水産」では、パッと起きだして、春の山の笑いが移ったのか、もう笑い転げて杯を重ね、杯を転がして遊んでいました


 反省だけなら、サルでもできる!

おさるの学校【日光さる軍団劇場 演目紹介】
https://www.youtube.com/watch?v=MyGJdLUhPxs

 かつて「反省猿次郎」で一世を風靡(ふうび)した猿まわし師・村崎太郎がドキュメンタリー番組「情熱大陸」(MBS/TBS系全国ネット、2015年5月3日午後11時10分〜11時40分)に登場する。

 村崎は2015年3月18日に行われた記者会見で、2013年末に閉園した「日光猿軍団」を引き継ぎ「日光さる軍団」の名称で復活させることを発表した。
 「反省ポーズ」が社会現象にもなった村崎だが「次郎おさるランド」の経営は失敗。莫大な借金を抱える中でうつ病を患い「死」を考えたほどの沈滞期を20年以上も続けてきた。
 だが、そんな時、ライバル関係にあった間中敏雄氏が率いる「日光猿軍団」が閉鎖されることを知る。村崎は施設を継承しようと一念発起した。
 初めて指揮する猿たちは、神社での大道芸でさえ観客におびえて芸を披露することができない。500人規模の大きな劇場で猿たちをまとめ、観客に高度な芸を披露させることができるのか? 開演はゴールデンウィーク初日の4月29日。この挑戦に敗れれば、自分に未来はない……村崎の決死の挑戦に密着する。

<プロフィル>村崎太郎(むらさき・たろう、1961年山口県生まれ)
 1978年、17歳で初代次郎とコンビを組み日本に途絶えた猿まわしを復活させる。
 銀座数寄屋橋交差点で大道芸を披露し話題となる。
 番組出演をきっかけに「反省ポーズ」が流行ると1991年文化庁芸術祭賞、ACC全日本CMフェスティバル優秀賞を立て続けに受賞。
 1996年に開いた常設劇場「次郎おさるランド」の経営に失敗するも現在は、テレビ番組出演、全国公演のほか執筆活動や後継者の育成にも力を注いでいる。


2015年5月1日付け毎日新聞
情熱大陸
“反省猿次郎”で社会現象にもなった猿まわし師・村崎太郎の再起をかけた挑戦に密着!

http://mainichi.jp/articles/20150501/org/00m/200/010000c

 またほかにも次もぜひ:
2015年03月20日 07時30分
「日光さる軍団」復活 カネより猿芸選んだ間中校長
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/379305/

 間中氏から“2代目校長”を引き継ぐ村崎太郎、こんなことをお話しになっております:

 小学1年のころには敏感にいろんなことを感じていましたね。
 たとえばぼくだけランドセルも靴も服も兄のお下がりで、友だちから「村アはビンボーやからのぉ」とからかわれてました。
 小学2年の時の担任には「村ア君は馬鹿なので、授業が終わっても九九の勉強をしましょう」と言われた。「そんなことを言う先生のほうが馬鹿じゃないの?」と思ったのをよく覚えています。
 でも当時は子どもだったからちゃんと言葉にできなかった。ただ、心のなかで教師に対して一線を引きました。

 それ以来、勉強がきらいになった。何のために勉強するのか、まったく理解できなくなったんです。
 近所のおっちゃんたちに「おまえは部落やから一般の子と同じにはならん」と、ことあるごとに言われてたのも大きいと思う。「どうせ部落の子どもじゃから」と卑屈になっていました。
 そんな気持ちを父は感じ取っていたと思う。ぼくが小学5年生になった時「部落に生まれようが生まれまいが、一生懸命やらんやつの人生はつまらんものだ。"どうせ"なんて卑屈になって生きることほど、つまらんものはない」と言ったんです。
 今思えば、自我が目覚めてくる大事な年ごろに、真正面から言った父は偉かったですね。
 すんなりとは受け入れられなかったけど、それから変わり始めました。
 まず、いつもビリだったマラソン大会で、5年生で5位入賞、6年生で優勝しました。
 努力すれば結果を出せると実感して、中学に入る頃にはすっかり強気なガキ大将になってましたね。

 中学1年の時、初恋を経験しました。女の子から告白されたんです。ところがぼくが被差別部落に住んでいると知った彼女の両親が「村アくんとはつきあってはいけない」と彼女に言ったんですね。それから彼女の態度がどんどんよそよそしくなって、自然消滅しました。つきあっているといっても完全にプラトニックだったんですけど、親にすれば10代の恋愛の先には結婚があると思い、敏感になったんでしょう。

 同じ頃、友だちの態度も変わっていきました。
 ぼくが住んでいた部落は川で一般地区と隔てられていました。同級生には川の向こうの高台に住む、大きな企業のお坊ちゃまもいました。
 小学生までは親も「みんなと仲よくするんだよ」と教えるんだけど、中学生になると「村アくんとはあんまりつきあうな」と言い始める。子どもが「なんで?」と訊くと、「あの子は部落の子だから」というわけです。
 だから友だちの数がぐっと減りました。

 ある時、ひとりの先生が「この本、どうだ」と手渡してきたのが『アンネの日記』でした。
 「なんじゃ、こんな女の話」と思いましたが、ちょっと気になる女の子を思い浮かべて「ちょっとは女の子の気持ちも知っとこか」と(笑)。
 しょうがなく読み進めていくと、普通の女の子の状況がどんどん変わっていって、否応なく巻き込まれていく。
 自分の気持ちとは関係なく、社会が徹底的に差別してくる。
 ぼくも、自分はまわりの友だちと同じ人間だと思ってるのに、部落や貧困であることで差別される。
 通じるものを感じて、途中から夢中で読みました。

 それまで1冊もちゃんと本を読んだことがなかったんですけど、突然、もっといろんなことを知りたいと思いました。
 勉強も、マラソンの時と同じようにがんばればできるはずだと猛勉強して、半年後にはクラスでトップの成績をとるまでになりました。


BeFlat
自分を語ることで、差別の「こっち側」と「あっち側」とに橋をかける
猿まわし師村崎太郎(text 社納葉子)
http://www.jinken.ne.jp/be/minority/murasaki/

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2017年03月21日

池子の森

 先の19日日曜日、東逗子駅に降り立ったヤッホー君、沼間小学校の方へと足を運んでいきますが、このあたりあの池子問題にも通じる場所でもあります。

 ヨシが茂る池のほとりを子どもが駆け、高齢者も豊かな自然に目を見張った。逗子市と横浜市にまたがる米軍池子住宅地区(288ヘクタール)のうち、逗子市側の40ヘクタールで日米共同使用が始まり、「池子の森自然公園」として2015年1月31日にオープニングイベントが開かれた。
 40ヘクタールという広さは、1970年代に返還された計8.6ヘクタールを大きく上回る。逗子市議会議長で、市池子接収地返還促進市民協議会長を務める真下政次さん(64)は記念式典で、「待ちに待った日が来た。共同使用とはいえ、市民が自由に使える。40ヘクタールについてはある意味、池子問題が解決したと言える」と誇らしげにあいさつした。
 同地区はかつて旧日本軍や米軍の弾薬庫だった。市がまとめた「池子の森 池子弾薬庫返還運動の記録」(1993年)によると、1947年11月には600トンの火薬が爆発する事故があった。返還運動は、こうした不安を取り除こうとする市民の切実な願いの表れだった。

 運動に火をつけたのは、1980年5月に表面化した米軍家族住宅の建設計画だ。「緑が削られ、返還が遠のく」。市民の声を受け、三島虎好市長(当時)は反対したが、4年後には「日米間の重要案件で、阻止する決め手がない」と条件付きで容認する姿勢に転じた。
 これを受け、市長の解職請求(リコール)の署名が始まり、三島市長は自ら辞職。容認派と反対派の一騎打ちとなった出直し市長選では、反対派の富野暉一郎氏が当選した。投票率は74.81%。1万6421票対1万5346票と、市民の判断は真っ二つに割れた。その後も建設を巡り、国を相手取った法廷闘争や市長や市議会のリコール合戦が起き、「池子問題」として全国の注目を浴びた。一方で、反対運動は「市政を停滞させた」との批判も受けた。

 真下さんによると、当時、住民たちは全世帯の住宅地図を広げ、反対派と容認派の家をペンで色分けして選挙戦に臨んだ。真下さんは「双方が相手を上回ろうと必死だった」と振り返る。
 その後も着々と工事は進み、1992年に当選した反対派の沢光代市長(当時)は2年後、「白紙撤回は無理」と、住宅高層化で緑化保全することなどを条件に建設を容認。国と県と市の3者が建設に合意し、「歴史的決着」と言われた。
 当時の住民運動について、関東学院大の安田八十五やそい教授(70)(環境政策学)は「主婦を中心とする『普通の市民』による運動で、新しい民主主義のモデルになった」と評価する。
 だが、市は一貫して将来的な全面返還を求めており、問題は終わったわけではない。平井竜一市長(48)は「池子の森の全面返還は市是。共同使用はその第一歩に過ぎない」との立場だ。

米軍池子住宅地区
 逗子市側は252ヘクタールで、市域の14.5%を占める。敷地内には、戦前から人の手がほぼ加えられず、東京近郊では貴重な緑が残る「池子の森」がある。オオタカ、コゲラなど100種を超える鳥を観察できる。

環境保全の理解深まる
逗子市前副市長・小田鈴子さん
(66)】

 市が建設計画を容認した1984年から、主婦の立場で池子問題に関わってきた。条件付きの建設受け入れを表明した市長のリコールの署名も集めた。
 子どもたちに何を残すべきかを考え、自然を破壊する住宅建設に「NO」の意思表示をした。だが、次第に現実的な対応をせざるを得ないと考えるようになった。2015年1月末まで副市長を務めたが、最後の公務が共同使用のオープニングイベントだったのは感慨深い。
 さまざまな立場の市民が地域について真剣に考え、街づくりに関わることで多くを学んだ。地域自治や環境保全への理解が深まるなど、意味ある運動だったと思っている。

戦前戦中戦後の動き

1937(昭和12)年
旧帝国海軍により、久木北部から池子にかけた一帯が弾薬庫用地として買収され、翌年、池子倉庫が設置される。
1945(昭和20)年
終戦とともに、池子弾薬庫を連合軍が接収、のち在日米陸軍に移管
1947(昭和22)年
沼間小学校開校。沼間小学校は逗子小学校から分かれて創設された。戦争中海軍の兵営だった建物で進駐軍が接収し一時使用していたものを沼間小学校として開校した。2階の窓ガラスが割れている。

「池子の森」返還運動の経緯
1980(昭和55)年5月 米軍家族住宅建設計画が表面化
1984(昭和59)年6月 市が33項目の条件付きで建設容認を表明
同年11月 市長選で、建設反対派の富野暉一郎氏(1944年生まれ)が当選。建設容認を撤回
1987(昭和62)年9月 国が建設に着手
1989(平成元)年12月 市が、工事禁止を求めて国を提訴(市が敗訴)
1992(平成4)年11月 市長選で、建設反対派の沢光代氏が当選
1994(平成6)年11月 緑地拡大などの条件で、国と県、市の3者が合意
2003(平成15)年7月 横浜市域の住宅追加建設計画が表面化
同年8月 長島一由市長(当時)が「市民の信を問う」と辞職。9月の出直し市長選で3選
2004(平成16)年9月 市が、建設撤回を求めて国を提訴(市が敗訴)
2010(平成22)年9月 日米合同委員会で40ヘクタールの共同使用と追加建設戸数の削減で合意
2015(平成27)年2月 共同使用地のうちスポーツエリアが開所


2015年02月07日05時00分、Yomiuri Online(福浦則和)
戦後70年 第1部 米軍施設は今
「池子」市民運動で前進

http://www.yomiuri.co.jp/local/kanagawa/feature/CO013451/20150209-OYTAT50037.html

 「池子」はこれで幕が引かれ、一件落着?!

 私(逗子市長 平井竜一)は、昨年2014年12月7日に告示された逗子市長選挙において、無投票という形で市民の皆様から信任をいただき、引き続き、今後4年間の市政を担わせていただくこととなりました。
 池子米軍家族住宅建設が政治問題化して今年で31年。
 昨年2014年11月30日に約40ヘクタールの土地の共同使用開始という大きな節目を迎えた中、図らずも33年ぶりとなった無投票当選という結果によって、長きにわたって市を二分した池子問題の歴史に終止符が打たれたと言えるのではないでしょうか。
 そして、いよいよ2015年1月31日に池子の森自然公園の開園式典を開催し、2月1日から運動施設の市民利用が始まります。
 これからは、池子の森自然公園の整備・活用を図るとともに、次なる目標である約40ヘクタールの土地の返還の実現と、さらにその先にある全面返還に向かって、今、正に全市が一丸となって力を結集する新たなスタートを切る時です。
 市長として、その先頭に立って全力を挙げて取り組むことをお約束いたします。


市長所信表明(2015、平成27年1月)
http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/hisho/mayor/message/syosin-3.html

 しかし、今度はこの国の南の島で国が、人を無視した変な動き方をしているようで・・・

 国が米空母艦載機の発着訓練(FCLP、Field Carrier Landing Practice)の移転候補地としている無人島「馬毛(まげ)島」を抱える鹿児島県西之表市長選の再選挙が3月19日、投開票された。
 移転反対を訴えた元新聞記者の八板俊輔氏(63)=無新=が、元市議の浜上幸十氏(66)、同榎元一已氏(63)、同小倉伸一氏(64)=いずれも無新=の3人を破って初当選した。
 投票率71.65%。

 市長選は、FCLPの移転に反対してきた長野力・前市長が勇退し、1月下旬に新顔6人が立候補して投開票された。
 しかし、法定得票(有効投票総数の4分の1)に達した候補者がおらず、再選挙となった。

 再選挙には、FCLP移転に賛成する1人、反対する3人が出馬して論戦を展開。
 当選を決めた八板氏は「馬毛島は観光、漁業の貴重な資源として活用していく」と述べ、FCLPの移転反対を改めて訴えた。
 「交付金などで新たな財源ができ、さまざまな事業に活用できる」などと訴えた賛成派の候補らを退けた。

 馬毛島へのFCLPの移転は、硫黄島(東京都)に代わる場所として2011年の日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)の合意文書に明記。
 防衛省は昨年、島のほぼ全域を所有する開発会社(採石販売会社「立石建設工業」)との間で、双方が不動産価格を鑑定した上で交渉する内容の覚書を締結し、島の買い取りに動き出している。


2017年3月19日22時31分更新、朝日新聞デジタル(島崎周)
米機訓練移転の反対派候補が当選 鹿児島・西之表市長選
http://www.asahi.com/articles/ASK3J5GC2K3JTLTB00M.html

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2017年03月20日

鎌倉の「友情」の像

 3月19日日曜日、ヤッホー君はJR東逗子駅に佇んでいました。
 春!風もなく空は青く澄んでいてとっても気持ち良い朝です。

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 約13年間にわたりJR鎌倉駅東口にあり、待ち合わせ場所などとして市民や観光客に親しまれていた少年像「友情」が東逗子駅(逗子市)前に移転し、2017年3月19日、除幕式があった。作者の彫刻家・岩田実さん(68)はじめ関係者約100人が出席、新たな出発を祝った。
 「友情」は2人の少年が肩を組む、高さ2.3mほどの白御影石の彫刻。少年の一人はボールを軽く踏んでいて、「ボール遊びの後、一休みしている様子。日常の中にこそある自然な感情を表現した」(岩田さん)という。
 2003年10月、「鎌倉の表玄関」東口に建てられ、その後駅ビル内に設置されていたが、駅ビル改修にあたり昨年撤去され、関係者の尽力で東逗子駅で再出発することになった。
 移設されたのは改札を出てすぐのロータリー広場。岩田さんは「少年には青空の下がよく似合う。逗子市民や駅を利用する人々に元気や生きる喜び、絆をもたらす象徴になってくれれば」と話した。


2017年3月20日03時00分更新、朝日新聞デジタル(菅尾保)
神奈川)鎌倉の「友情」の像、東逗子駅で再出発
http://www.asahi.com/articles/ASK3M4HPPK3MULOB00D.html

○… JR鎌倉駅東口に少年の像を寄贈する。小学生だろうか、二人の男の子が並んで肩を組み、前を見つめる。行き交う人々に作品「友情」はどう映るのか。「美しいだけでは済まされません。作品には思想が反映されますから」。2003年10月10日午前10時の除幕を控え、仕上げに余念が無い。

○… 鎌倉で創作を開始し、20数年。芸術家でありながら、いや芸術家であるからこそ、

街とは、街の発展とは何か」を考えてきた。「いかに文明が発達しても、それに伴って心も解放されなければ、発達とは言えない。街を育て発展させるのが人間なら、人間を育てるのは何か。振り返ると、その時その時、隣にいた友だと思うのです。人間の打算的でない部分、計算からは生まれない『友情』という人間らしさ。それを引き出す鍵が芸術ではないかと

 語り始めるや、深い思想に裏打ちされた言葉が、こんこんと溢れ出す。鎌倉の表玄関を芸術に満ちた佇まいに。そんな思いで今年2003年2月、作品設置をJRに提案し、寄贈が実現した。

○… 故郷・岐阜県多治見は粘土が採れる陶器の産地。祖父が営む骨董屋には、ノミやキリなどの道具が転がっていた。「造形的な遊びばかりで……ほら、手のひらの傷跡が記憶そのものです」と微笑。刻まれた数々の傷跡は、不思議と痛々しさを感じさせない。

「素材を知ることです。相手は何トンもの原石や丸木。重量や硬度、粘度を把握してかからないと、危険すらある」

 少年像に使ったのは岐阜県蛭川村産の白御影石。硬く粘り気があり、割れにくい。また、2トンの重さを支える骨組はどうするか。ノミを握る前に壮絶な試行錯誤がある。

○… 道なき道の先、電気も水道もない山奥。高木に囲まれた静寂の中で、早朝から深夜まで創作に没頭する。「不思議と暗闇や孤独に恐怖は感じませんね」と、ポツリ。だが、これには不思議が無い。「素材の中の、目に見えないが確かにあるもの」、「人間のもつあたたかさ」と対峙しているかぎり、孤独を感じることはないのだろう。


2003年10月3日号『タウンニュース 鎌倉版』より
いま、隣にいる友を感じて
JR鎌倉駅東口に設置される少年像「友情」を制作した彫刻家
岩田 実さん 山之内在住 54歳

http://iwata.art.coocan.jp/kamakura1010.html

 早、2016年9月も半ばを過ぎた。
 この2週間ほどは、人と会ったり話したりすることが多かった。メールを発信したり、郵便を送ったりすることも多かった。鎌倉駅が大幅にリニューアルされることになり、駅ビルの中に設置してある少年像「友情」(白御影石・170cm)の移動が必要になったからである。リニューアルの工事が始まるのは10月からで、春頃から関係者の間で検討を重ねてきたが、9月初め、ようやく移設の方向性が見えてきた。9月27日にその説明会を行うので、「鎌倉駅に少年像を設置する会」の元メンバーや、2003年の設置当時、ご協力くださった方たちにご連絡したりしていたのである。

 「友情」の像は、最初、岐阜県恵那市の蛭川村で行われた石彫シンポジウムで制作された。
 それから鎌倉郊外にある作家(夫の彫刻家岩田実)のアトリエで完成し、2003年10月に鎌倉駅の改札口の柱の前に設置された。その後、2007年の鎌倉駅のリニューアル時に、現在の設置場所である駅ビルのエントランスのところに移設された。あれから9年、また鎌倉駅は大幅なリニューアルをすることになり、少年の像は再び移動するのである。

 作品は作家(夫の彫刻家岩田実)にとっては分身であり、傍らにいる私たちにとっても家族のように大切なものである。
 とりわけ、この少年たちの像は、鎌倉駅にあって、長い間、市民や鎌倉を訪れる人びとに愛され、親しまれてきたものである。「少年たち」が、また新しい移設場所で、目を輝かせて生き生きと躍動できるように、改めて関係者の間で十分に検討したいと思う。

 2016年9月27日に、鎌倉NPOセンターで、JR東日本横浜支社の担当者から、「鎌倉駅に少年像を設置する会」のメンバーや関係者に対して、「友情」の像を鎌倉駅以外の地に移動せねばならなくなった事情と移設先候補地についての説明があった。詳細な報告書と的確な写真を使っての説明には、それなりの説得力があり、前もって、すべての事情を知り、移設先の見学もしていた会の代表であるマダムシャポーと仲間の4名、および作家(夫の彫刻家岩田実)にとっては、特に目新しいことはなかったが、JRの担当者の努力というより尽力がうかがわれて、ありがたく思った。

 少年像「友情」(白御影石、高さ175p)は、2003年10月に鎌倉駅に設置されてから、ちょうど13年たったところであるが、既に駅ビルはリニューアル工事のためシートで覆われ、少年像もほどなく取り外しの工事が行われることになっている。
 そして、少しの間、倉庫で保管された後、駅ビルがリニューアルオープンする2017年来春までには、東逗子駅の駅前ロータリーの中心部に再設置される予定である。
 東逗子の駅前にはロータリーこそあれ、バスの発着所も繁華街もなくて、静かで落ち着いた空間が開けていて、中央には植栽が伸び放題になっている花壇のような場所がある。
 JRから正式に紹介される前に、つまり駅名だけを聞いた段階で下見にいったとき、初めてその場所を見て、マダムシャポーも作家(夫の彫刻家岩田実)も、JRの推奨する場所が、もし、ここなら、少年像を設置するのにおあつらえ向きの場所だと直感した、まさにその場所に設置することに決まったのである。

 少年像の新たな場所への設置については、今後もいろいろとJRの関係者と打ち合わせしなければならないけれども、移設先が、広々とした場所でよかった。大空のもとでよかった。少年たちは狭いビルの中から、大空のもとに解き放たれるのである。「鎌倉駅に少年像を設置する会」の関係者も、13年間、市民に慣れ親しまれてきた像だけに、鎌倉駅からなくなるのはとても寂しいけれども、「『友情』の像は風と光と緑と広い空間があってこそ、真価を発揮するかと思う」という意見に代表されるように、来春、太陽の光を浴びて、のびのびと、そして堂々と立つ少年像との再会を期待する人が殆どである。


2016年09月18日、2016年10月08日、マダムシャポーの赤い手紙
少年像「友情」は大空の下へ
http://madamuk59.seesaa.net/index-2.html

 マダムしゃぽーは以下のブログも綴っておられますのでご紹介:
 
 先日、岐阜県立多治見北高等学校(多治見市上山町2丁目49番地 Tel 0572-22-3361)の東京支部同窓会が東京で行われた。
 1回生から50回生まで、来賓も含めると100名近くの同窓生や関係者が渋谷の「IVY HALL」に集まった。同窓会長が今年度から変わって、会場も変わった。初めての場所であることに加えて銀座線がたまたまSTOPしていたこともあり、表参道駅から会場まで随分歩かされたような気がする。しかし、会場に着いて懐かしい顔に出会えば、思わず笑みがこぼれる。それが同窓会である。

 今年も作家(夫の彫刻家岩田実)と共に参加した。懇親会の乾杯の後は、それぞれ好きなように行動するが、マダムシャポーにはお会いしてご本人かどうか確かめたい人がいた。多治見北高校の新校長のS先生のことである。同窓会の直前に届いた本部同窓会の会報に新校長の挨拶文と顔写真が載せられていたが、その名前に記憶があった。S.Mは、マダムシャポーが教員時代に受け持った生徒と同姓同名、その子の顔もなぜかありありと目に浮かぶけれども、顔写真では別人のようでもある。あいさつ文には、ずっと若い頃にも10年近く北高に在職していて、その間に校庭に創立30周年記念の「無限」の像が設置されたということも書かれていたので、40周年記念の名簿で職員欄を見たら、確かにS.Mの名があり、住所が恵那になっていた。やっぱり、この校長は恵那高(恵那市大井町1023-1 Tel 0573-26-1311)のあのS.M君ではないかと思い、同窓会でお会いしたら、確かめてみようと思っていたのである。

 果たして、その人はマダムシャポーの「教え子」のS.M君だった。作家(夫の彫刻家岩田実)が「無限」の像のことで話しかけ、そのあと、マダムシャポーが旧姓で名乗ったら、びっくりされていた。でも、しっかり覚えていてくださって、話していると、顔立ちも昔のままのように見えてくるから不思議である。彼は28回生。恵那高の同窓会でお会いした6名の「教え子」達の1年下である。

 瑞浪高校(瑞浪市土岐町7942 Tel 0572-68-4161)同窓会長から伺った話によれば、今の瑞浪高校の校長も恵那高校27回生だとか。つまり、恵那高校も多治見北高校も瑞浪高校も東濃の隣接する三つの高校の校長がそろって恵那高校の出身者ということになる。恵那には立派な教員になられる方が多いと感嘆したが、来春には恵那と瑞浪の、再来年の春には多治見北の校長も、みな定年退職されるのである。


2016年11月13日
同窓会で
http://madamuk59.seesaa.net/index-2.html
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2017年03月18日

旅立ちの日に

 東日本大震災の津波で被災し、今月末に閉校する仙台市若林区の東六郷小(児童8人)の卒業式が3月18日、児童が仮校舎として学ぶ六郷中であった。卒業生5人が恩師や在校生に見送られ、学びやを巣立った。
 震災直後の2011年4月に六郷中で入学式を迎え、小学校生活を過ごしてきた5人。将来の抱負を述べ、鈴木一彦校長から一人ひとり、卒業証書を受け取った。若生哉依(かい)君(12)は「プロ野球選手になって走塁王を目指し、支援してくれた人に恩返しができるよう活躍したい」と語った。
 鈴木校長は「未来への扉を開くのは皆さん自身だ。ここで身に付けたたくましい体、豊かな心、感謝の気持ちを持って、希望あふれる中学校生活を送ってほしい」とはなむけの言葉を贈った。
 東六郷小は1957年に六郷小種次分校から独立し開校した。震災の津波で校舎1階が浸水、児童が減少したため、2017年4月に六郷小と統合する。25日に閉校式を行い、60年の歴史に幕を下ろす。
[写真]
校歌を歌う東六郷小最後の卒業生


2017年03月18日土曜日河北新報
<最後の卒業式>閉校 巣立ち 別れの涙
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201703/20170318_13061.html

ブラスパーティ仙台東 涙そうそう 夏川りみ 於六郷市民センター
https://www.youtube.com/watch?v=VW8I9Z_grVU

仙台市 六郷中学校に津波がくる様子
2011年3月11日14時46分の東北地方太平洋沖地震発生直後からの撮影。
宮城県仙台市の海辺から約5km程離れた六郷中学校にも津波が押し寄せてきました。
https://www.youtube.com/watch?v=VZoZDtaiORI

【学校と震災】仙台市立東六郷小学校(1)
https://www.youtube.com/watch?v=L7nL2a7pTDI

【学校と震災】仙台市立東六郷小学校(2)
https://www.youtube.com/watch?v=IVJWRAuybqw

 私たちは、兵庫県西宮市にあるパン屋さん「エスケール」オーナーの三澤氏を中心にした音楽チームです。
 2011年の東北大震災発生後、同年7月より主に仙台市の被災地区の皆さまと「音楽」を通じてコミュニケーションを図る活動をしてまいりました。
 現在まで計8回のツアーを実施し、毎回必ずお伺いしている仙台市立東六郷小学校(校舎が被災し、六郷中学校に移設中)においては、音楽授業の一貫として当ツアーを受入れていただき、来賓として卒業式にお招きいただくまでの関係を構築するに至っております。
 同校は2017年に廃校が決まっており、僭越ながら私たちはその最後まで、同校に携わる方々と音楽を通じて「絆」を紡ぎたく思います。
 今回は、2017年3月25日に実施されます東六郷小学校の閉校式に当たって、新曲とライブのプレゼントを実施したいと願っております。
 皆様のご協力・ご支援をよろしくお願いいたします。


仙台市・東六郷小学校の閉校を音楽で送ってあげたい
https://camp-fire.jp/projects/view/14539

 このパン屋さんのパンづくりもすごい:

CONCEPT 「Simple & standard」

 1993年。縁あって西宮市の最北端の山口町で店を構えることになった。周りは田んぼだらけで通行人はゼロ。
 住宅街に囲まれたこの地で地域の方に長く愛されていく商品を作り続けて行くにはどうするべきか?
 そのためには「飽き」のこない「安心、安全」な商品を作るべきだ。できるだけシンプルでスタンダード
なものを。これが私が辿り着いた「ものつくり」の答え。

 エスケールのプロダクト達は出来るだけ余計なものは入れないシンプルでスタンダードな形。
 「引き算の美学」とも呼んでいる。たとえば、食パン。食パンは白米に近付けたいという思いから余計な味、香りは避けた。
 だから、バター、卵、生クリームも入れていない。こだわったのは「口解けの良さと粉の香り」。
 そのためにパン生地をじっくりと熟成させ小麦粉の香りと甘さと最大限に引き出すことにこだわった。
 毎日食べても飽きない理由はここにある。

 ハンバーガーもパティは手切りのオーストラリア産の牛肉100%を使用。つなぎは一切いれず、塩、コショウ、ナツメグだけ。バンズも砂糖を極端に減らしたハードパン。ボリュームはあるが胸焼けしないダイナマイトバーガーの秘密だ。

 身体に害を及ぼす食品はいれない。なので製造に時間がかかり製品は酸化が早い。エスケールのパンは酸化が早い。
 美味しさを保つためにも冷凍保存をお勧めしております。


Esquerre Bakery and Cafe(西宮市山口町上山口4-1-18 ベーカリー Tel:078-903-2631 カフェ Tel:078-903-0761)
http://yakitate-pan.com/concept/

 一方のヤッホー君、今日は代々木病院待合室での「ふれあいコンサート」。
 いっしょに「蛍の光」「高校三年生」「卒業写真」「旅立ちの日に」をうたってきました。
 (武田節も、じゃなかった・・・)

https://www.youtube.com/watch?v=drP4GpMEtd8

https://www.youtube.com/watch?v=U7fRUcKX8Pk

 それは、遠い他県の空の下、子育てに追われ、帰郷する暇もなく、すっかり秩父とは縁遠い生活を送っていたころのことです。
 息子の中学校のPTAの役員会で、校長先生が、「今度の卒業式には埼玉県秩父市で生まれた『旅立ちの日に』を歌います」とおっしゃられました。まさか秩父という言葉を聞くなんて、正直わが耳を疑いました。
 卒業式で初めて子供たちが合唱した「旅立ちの日に」を聞きながら、涙があふれたことを昨日のように覚えています。わが子の成長とともに歩んだ日々の思い出、希望を胸に新らしい世界の扉を開いていくわが子の逞しい背中に、共感できるその詩、力強いその旋律が花を添え、感動で胸が震えました。
 現在、ミューズパークには「旅立ちの丘」という場所があり、『旅立ちの日に』の音楽が流れ、歌詞が刻まれた場所があります。そこからは武甲山と秩父市が一望できます。今日は某高校の卒業式だったそうです。この丘に立ち、曲を聴きながら、遠い空の下で感動した昔を懐かしみノスタルジーに浸ってきました。

 本日ご卒業の皆様へ!
 ご卒業おめでとうございます!
 新しい世界へ向かって、希望を胸に秘め、つまづいたら立ち止まり、また前を向いて、一歩一歩、歩んでいってください。
 これからの皆様の前途が洋々であることをお祈り申し上げます。


2015年03月14日、秩父情報発信基地☆☆☆―秩父のあれこれ―☆☆☆
旅立ちの日に
http://blog.goo.ne.jp/chichibu-city/e/ea97dd18ec5d3f8f5eeccfa4fc005277

 「卒業」の季節がやってきた。さわやかで華々しい「入学」に比べ、卒業は喜びや安堵(あんど)と同時に、一抹の寂しさがある。
 いま日本中の学校で、卒業式に備えて合唱の練習が行われているはずだが、「仰げば尊し」や「蛍の光」が、卒業ソングの定番だったのははるか昔のこと。いまは新しい合唱曲やポップスから歌が選ばれている。
 「白い光のなかに〜」の歌詞で始まる「旅立ちの日に」(作詞・小嶋登、作曲・高橋浩美)は、埼玉県の中学校で生まれた名曲だ。
 おなじ「旅立ちの日に…」という曲で、シンガー・ソングライター、川嶋あいの作品も人気がある。ともに学校生活を振り返り、新しい世界への希望を歌っている。合唱曲では「この地球のどこかで」(作詞・三浦恵子、作曲・若松歓)が、友との思い出をかみしめる切なさとすがすがしさがある。

スコットランドの詩人バーンズの歌詞にもしみじみ
 このほかにもいろいろあるが、改めて「蛍の光」を聴いてみると、これはこれで心深くに響くものがある。
 「♪蛍の光 窓の雪……」と、七五調の歌詞が淡々と流れ、「あけてぞ今朝は 別れ行く」という言葉に、しんみりとしてしまう。学校生活を思わせる細かな描写はないが、わかりやすく情緒的なメロディーと、シンプルな歌詞が自然に入ってくる。
 日本の「蛍の光」は明治時代、教育者で歌人でもあった稲垣千頴(いながき・ちかい)が、原詞とはまったく違う歌詞を作って唱歌に取りあげられた。原曲は世界的にも知られる「Auld Lang Syne (オールド・ラング・サイン)」。これがまた実に味わい深いオールドソングだ。スコットランドの大詩人、ロバート・バーンズが1788年、29歳の時に作った詩に、メロディーがつけられた。

 Auld Lang Syne はスコットランド語で、英語に直訳すれば「Old Long Since」であり、「遠い昔」「その昔」といった意味だ。
 哀愁漂うメロディーを支える歌詞は、旧友と出会い、思い出を語り合いながら酒を酌み交わす、という内容。時の流れへの切ない思いがあらわれている。
 友との古き昔の日々に思いをはせ、過ぎ去った時が隔てた友との距離を惜しむ。そしてだからこそ友との再会を喜び、「古き昔のために、親愛(友情)の一杯を飲み干そう」と歌いあげるのだ。

多くの有名アーティストがカバー
 この歌は、英語圏ではよく知られていて、クラシックで演奏されたり、合唱曲として歌われたりしている。また、多くの有名アーティストもカバーしている。
 近年、アメリカのスタンダードを歌っているロッド・スチュワートや、オーディション番組からシンデレラ的にスターにのぼりつめたスーザン・ボイル(スコットランド出身)も、アルバムのなかで取りあげている。
 若くして世を去ったロック・ギタリスト、ジミ・ヘンドリックスは、かつてひずんだエレキサウンドで「蛍の光」のメロディーを奏でた。
 こうしたカバーのひとつに、1970年代から歌い続けるシンガー・ソングライター、ジェームス・テイラー(JT)の2006年クリスマス・アルバム「JAMES TAYLOR at Christmas」がある。彼が歌う「オールド・ラング・サイン」は、ジャジーな雰囲気が漂うしゃれたアレンジで聴かせる。

 JTの声は奥行きがあり、やさしい。友と過ごした昔と厚き友情を朗々と歌い上げる。ロバート・バーンズは若くしてこの詩を書いたが、友情や愛情の酸いも甘いも知る年になって聴けば、いまやもう別れた友のことなど思い出し、時の流れをかみしめるばかり。日本の「蛍の光」とは別の、遠くを振り返る人生の卒業歌のようだ。


2016年3月9日付け毎日新聞(森村潘/ジャーナリスト)
「蛍の光」が歌い上げる出会いと別れの切なさ
http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160308/biz/00m/010/006000c


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箱根ジオパーク

 3月11日土曜日の朝、どうもヤッホー君、どうもよくわからなくって気がかりで、あまりよく眠れなかったそうですよ。
 昨日付けの日記「箱根丸岳1156m」をお読みになっていただけたでしょうか。
 丸岳頂上での集合写真がありました。
 そのときの説明板にフォーカスしてずう〜っと近づけて見ますと:

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古期外輪山の一つです。東側は急なカルデル壁で、仙石原を眼下にに望み、壁下部には箱根火山の初期噴出物が見られます。西側には、標高1097.3mの溶岩円頂丘の寄生火山を持っています

 さあ、たいへん、西側ってどっち?あっちこっち、細い目を皿のようにして探しまくっているのですが、結局、弁当のおかずを載せた皿に舞い戻ってきてしまいました。
 rubber band ならわかるんですけど、"a parasitic lava dome"って何?
※ 「溶岩円頂丘」とは「溶岩ドーム」のこと?
※ 「寄生火山」とは「側火山」とも呼ばれ、大きな火山体の斜面やすそ野にできる小火山のこと?

 箱根山を歩いていると「箱根火山」についつい、のめりこんでいきます、もう無言です。
 悠久のムカシを想いやってか、昼食のあとの気持ち良い昼寝タイムからか、歩きながらヤッホー君の頭が重く前に垂れ下がってきています。

 箱根火山は、およそ65万年前に誕生し、複雑な生い立ちをたどった活火山である。
 4万年ほど前からはカルデラ内に次々と溶岩ドームが形成され、それらの崩壊による火砕流がたびたび発生した。
 最近3000年ほどの間は、大涌谷付近で平均600年に1度程度の水蒸気爆発が繰り返されている。
 今世紀になって地下の熱水活動によるとみられる群発地震が数年に1度起きてきたが、2015年の群発地震は噴気活動の顕著な異常をともない、6月29日のごく小規模な噴火に至った。
 その際、噴火警戒レベルが3に上げられて大涌谷周辺は立入禁止となったが、現在はレベル1に戻されて昼間の観光が可能となっている。


Jan.2017 Vol.87 No.1「科学」
ドローンで見る大地のいとなみ
箱根火山と大涌谷
小山真人
静岡大学防災総合センター教授。富士山火山防災対策協議会委員、伊豆東部火山群防災協議会委員、(元)箱根火山防災マップ作成検討委員会委員
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/onlinepaper/Kagaku_201701_Koyama2b.pdf

 箱根火山の噴火史については、かつて単一の成層火山が2度のカルデラ陥没を経て現在の姿に至ったとの古典的なモデルが提唱されたが、最近の研究によって噴火史はすっかり塗り替えられ、8つの時期に区分された複雑な生い立ちが明らかにされている。
 23万年ほど前からはプリニー式噴火に伴う規模の大きな火砕流がたびたび発生し、中でも6万6000年前に発生した火砕流(東京軽石に伴う火砕流)は、東は横浜市郊外、南は伊豆半島の修善寺や伊東、西は富士川河口付近にまで達する大規模かつ特異なものであった。
 その後、およそ4万年前からカルデラ内に次々と溶岩ドームが形成され、それらの崩壊による火砕流がたびたび発生した。
 これらの火砕流の多くはカルデラ内にとどまったが、長尾峠や湖尻峠を越えて静岡県の御殿場や裾野方面に流れたもの、早川や須雲川沿いを小田原方面に流れたものも知られている。
 約3000年前の噴火では、大涌谷の南に冠ヶ岳溶岩ドームが出現し、そこから発生した火砕流が仙石原を広くおおった。
 この火砕流の堆積物は長尾峠でも確認できる。
 この噴火以降、マグマが直接地表に現れた噴火は発生していないが、大涌谷付近で5回の水蒸気噴火の発生が堆積物から確認されている。
 つまり、過去3000年間の平均的な噴火発生頻度は600年に1度である。
 最新のものは放射性炭素年代によって12世紀末〜13世紀前半に起きたと考えられるが、文献記録は見つかっていない。
 この噴火に限らず、歴史時代の箱根火山の噴火記録とおぼしき文献史料は知られていないが、1933年5月に温泉供給施設の設置工事の際に水蒸気爆発が起き、噴出した高温の土砂に埋まって1名の死者を出す事件があった。
 水蒸気爆発は地下の過熱水が何らかのきっかけで突沸する現象なので、噴気口で過熱蒸気が観測されている場合はそのリスクが大きいと言えるだろう。
 大涌谷において過熱蒸気が観測されたのは1872年から1933年までであり、1933年の水蒸気爆発はその期間中に起きた。
 その後は2015年噴火まで地上の噴気口で観測された例はない。
 この過熱蒸気の消滅には、1954年以降の地すべり対策としての火山ガス圧低下を目論んだ掘削、ならびに1957年以降の温泉供給のための蒸気井の掘削が影響を与えたことが指摘されている。
 つまり、大涌谷での水蒸気噴火のリスクは、図らずも人為的に低く抑えられていたのかもしれない


Jan. 2017 Vol.87 No.1科学
箱根山の火山防災と2015年噴火
小山真人
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/onlinepaper/Kagaku_201701_Koyama1.pdf

 箱根火山の研究成果は教育現場でも生かされています:

平成19年度日本私立小学校連合会全国夏季教員研修大会理科部会発表資料
火山の発達史を追い、科学者の思考に挑戦する
箱根火山の新説を通して
岡田篤
精華小学校
http://www2s.biglobe.ne.jp/~OKA/19nendohakonekazansinsetu.pdf

 観光の目玉としても大噴闘中:

『男はつらいよ』主題歌/渥美清
https://www.youtube.com/watch?v=da9p6n3sDS4

 箱根火山の地形や地質を観光や地域振興に生かす「箱根ジオパーク」が南足柄市を加えて新たに出発した。小田原、箱根、湯河原、真鶴との2市3町体制となり、奥行きと厚みを増す。南足柄市では、住民が常駐する観光案内所の開設計画も浮上。ツアーコースの開拓を含め、集客に期待が高まっている。 
 大地の活動や地域の歴史、文化を体感できるポイントをジオサイトと呼ぶ。南足柄市の
(1)足柄峠と足柄道
(2)矢倉岳
(3)夕日の滝
(4)蛤(はまぐり)沢周辺
(5)文命堤(ぶんめいづつみ)
(6)最乗寺(さいじょうじ)と杉林
(7)清左衛門(せいざえもん)地獄池
(8)御嶽(みたけ)神社と矢佐芝石丁場(やさしばいしちょうば)
が、新たなジオサイトに仲間入りした。
 足柄道は東海道より古い官道で、矢倉岳は世界的にまれなスピードで隆起したマグマ由来の岩体。金太郎伝説を残す夕日の滝も地殻変動で生まれた。蛤沢周辺はハマグリの化石が多く、火山島だった伊豆半島が北上して70万年前に本州に接続した際、陸地化した海の痕跡をとどめる。
 文命堤は、太古に噴火した箱根火山の火砕流が堆積した台地を酒匂川(さかわがわ)が浸食してできた崖を利用。流れをZ形に変えて水流を弱め、氾濫を防いだ江戸時代の堤防だ。箱根外輪山を水源とする清左衛門地獄池は豊富な湧水量で、企業進出を促した。最乗寺と御嶽神社には見事な杉林などがある。
 南足柄市の編入で、三つのプレート(北米・ユーラシア・フィリピン海)がせめぎ合う境界に位置する箱根ジオパークの特性がより明確化した。箱根町の山口昇士町長は「プレート衝突のすさまじさを物語るエリア」と語り、日本ジオパーク委員会も「南北に延びる天然の障壁として箱根火山は多様な文化、歴史を生んだ」と意義づけている。
 観光客を案内する南足柄ジオガイドの会(20人)会長の植田勇次さん(72)によると、ジオサイトのある地域で、休眠公共施設にガイドを常駐させ、農産品販売や化石を展示する観光案内所を設ける動きがある。
 夕日の滝付近に一日限定で一流ホテルの野外レストランを設け、都会のツアー客に地元食材のフランス料理を楽しんでもらうイベントも2016年10月23日に開く。

◆ 自然と共存 随所に知恵
 北上するフィリピン海プレートの先端にある丹沢山地や箱根火山は、陸のプレートとせめぎあっている。
 海洋プレートと大陸プレートの代表的な衝突例はヒマラヤ山脈で、地震などの災害が多い。半面、大河の流域に文明や文化が花開き、人間や自然を相互につながり合う存在とみる仏教の縁起思想も生まれた。
 火山を抱える箱根ジオパークの自然も多様だ。時に災害をもたらす環境から命を守り、自然と共存する知恵が随所に息づく。
 箱根火山を源流とする利水では、江戸の水道網の手本となる国内最初の上水道、小田原用水が既にジオサイトになっている。文命堤の認定で、地形を活用した防災面にも光が当たる。
 温泉文化は平和にも通じる。『温泉の平和と戦争』(石川理夫著、彩流社、2015年11月)によると、18世紀の欧州・七年戦争で交戦国双方の傷病兵を療養させるため、温泉地では戦わない協定が結ばれ、その後の欧州の戦争でも引き継がれたという。
 「焦げたはし箱」(戦時下の小田原地方を記録する会編集、夢工房、1992年8月)によれば、日本も第二次世界大戦中、箱根地域を非戦闘地区として連合国側に通告。旧ソ連が大使館を置くなど、各国の職員ら1500人の外国人が安全な箱根町に転任した。
 一方、太平洋戦線のドイツ海軍も1947年まで、常時100人程度が旧芦之湯村(現箱根町)の温泉旅館で暮らし、疎開児童や住民と交流した。戦時下の箱根温泉も、日本人傷病兵や敵味方の外国人の心身を癒やしていた。
 旧芦之湯村は女性参政権が制度化される前から、公民総会という女性を含む有権者の直接民主制で村政を決めた。全国的に珍しい民主的な自治は、温泉を中心とする共同体意識が培ったとみられる。衆生(しゅじょう)を救う地蔵信仰に基づく石仏群のジオサイトも、近くにある。
 地形を生かして土塁や堀で城下全体を囲む総構え(9Km)で領民も守った北条氏の築城術は、豊臣秀吉との小田原合戦に参じた全国の大名の領国経営のモデルとなり、秀吉自身、大坂城に取り入れた。
 自然と共生する伝統は、県西地域で活発な自然エネルギー事業などに受け継がれている。箱根ジオパークはさまざまな角度から、歴史や自然とのつながりを教えてくれる。

<ジオパーク>
 大地の公園を意味し、地球や地域の成り立ちを地質や地層に残す学術的に貴重な地域。国内に43あり、うち8地域は世界ジオパークでもある。県内は箱根ジオパークのみ。箱根町や湯河原町の温泉、箱根町の大涌谷や仙石原湿原、芦ノ湖、小田原市の小田原城、真鶴町の三ツ石海岸などのジオサイトは、南足柄市の編入で49に増えた。年間の観光客は3000万人。


2016年9月23日付け東京新聞(西岡聖雄)
新生「箱根ジオパーク」南足柄市が仲間入り
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201609/CK2016092302000179.html

箱根ジオパーク構想PRビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=AGQdtohrFkI


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2017年03月17日

箱根丸岳1156m

 2017年3月17日金曜日は「彼岸の入り」!
 3月12日、山歩クラブ6人衆と歩いた箱根外輪山がまだ終わっていません!
 ヤッホー君から一斉報告メールが発信されていました。
 かおるちゃん、遅くなってごめんなさい。

美樹克彦「花はおそかった」 
https://www.youtube.com/watch?v=smDdTePKquk

 日曜日は6人で箱根丸岳!芦ノ湖と富士山の両方が見える絶景を楽しむ山路でした。
 紹介してくれた高畠さん、ありがとう!
 乙女峠の由来を記す標識、乙女峠の富士見台から見た富士山・・・
 これまでも山歩クラブのお山歩会で金時山に登る前に通っています。


 乙女峠↓

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 でもそこから長尾峠に向かって桃源台に下りるコースがあるらしい、そのルートをいつか辿ってみたいね、とその都度叫んでいたヤッホー君。

 長尾峠↓

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 それが日曜日とうとう実現できたのです。
 膝の故障でたいへんだった岩波さんはじめ皆さん、元気に出だしの急坂をがんばって登りつめることができました、乾杯!
 地蔵堂〜金時山、そして桃源台に下るルートで歩くご高齢の二人組とお会いしました。
 一人旅で箱根外輪山を回っているという初老のソロにお会いしました。
 地下旅に半ズボンといういでたちのおじさまにもお会いしました。
 たくさんの宇宙人が飛び交っては降り立つ箱根なのか、さすがでございました。
 そうそう、外輪山トレランを楽しんでいる若いカップルにもお会いしました。
 元気なお子さまが生まれますようにとかお節介な言葉を思わずかけてしまったヤッホー君。
 でもその若いご主人様がシャッター押してあげますよとご親切に撮ってくださったのがこれ。
 箱根丸岳山頂でのことです


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 次回のお山歩会、どんな景色が待ってるのでしょう。
 もうイマからわくわく楽しみ。。。


 ところでお山歩会のコース立案者の高畠さんからこんなメッセージが届きました。

 24時間を掛けて小笠原に着きました。
 到着後に地元のしま寿司とかめの刺身を食べてトレッキングと山からのホエールウォッチングをしました。
 写真三葉です:


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 いいね、いいね、山も自然も仲間も。
 ヤッホー 

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2017年03月16日

飯田進さんが残した魂の文章

 ヤッホー君のこのブログ、昨年2016年10月13日付けの2本の日記をぜひご参照くださいな:
☆ 「稲田朋美」(これについては2017.03.15付けリテラ「籠池の代わりに菅野完が会見、マスコミが中継を打ち切った爆弾発言の中身! 財務省の工作、稲田の父親、在特会…」もあわせてご参照ください)
☆ 「“無縁死”3万2千人の衝撃」

 いえ、この日、実は、こんなこともあったのです:

■ 93歳の「元戦犯」
 10月13日、元BC級戦犯で、戦争体験を著書としてまとめ、また講演活動などでも語り継いできた飯田進さんが、93歳で亡くなった。
 飯田さんが戦争についての記録を残そうとした背景には、強烈な怒りがある。自身の体験をまとめた『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』(新潮新書、2008年)は、「戦闘ではなく飢えと疲労と病で死んだ」兵士たちの無念が伝わってくる力作である。
 同書の「おわりに」は、飯田さんの血涙が感じられる文章となっている。少し長くなるが、追悼の意味で、以下に抜粋・引用してみよう。
 ***
 これまで、私の体験と元兵士たちの記録をたどって、ニューギニア戦線の実相を描いてきました。それは、勇戦敢闘したある兵士の物語ではなく、飢えて野垂れ死にしなければならなかった大勢の兵士たちの実態です。
 重ねて強調しておきますが、これはニューギニアに限りません。太平洋戦争戦域各地に共通していたことなのです。二百数十万人に達する戦没者の大多数が、本国から遠く離れて、同じような運命をたどらされたのでした。
 この酷いとも凄惨とも、喩えようのない最期を若者たちに強いたことを、戦後の日本人の大多数は、知らないまま過ごしてきました。この事実を知らずに、靖国問題についていくら議論をしても虚しいばかりだと私は思います。この思いが、人生の終末を生きている私に、この原稿を執筆させる動機を与えたのです。
 嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るのかもしれません。この習性は個人には許されても、国家や民族には許されません。60年前のことをすっかり忘れるような集団健忘症は、また違った形で、より大きな過ちを繰り返させるのではないかと危惧するからです。今日の日本を覆う腐敗や犯罪をもたらしている禍根は、ここに淵源していると私は考えています。

■ 死者の叫びを聞け
 戦後、とりわけバブル景気華やかだったころ、数多くの戦友会によって頻繁に行われた慰霊祭の祭文に、不思議に共通していた言葉がありました。
「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。どうか安らかにお眠りください」
 飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。怒り狂った死者たちの叫び声が、聞こえて来るようです。そんな理由付けは、生き残った者を慰める役割を果たしても、反省へはつながりません。逆に正当化に資するだけです。実際、そうなってしまいました。
 なぜあれだけ夥(おびただ)しい兵士たちが、戦場に上陸するやいなや補給を断たれ、飢え死にしなければならなかったのか、その事実こそが検証されねばならなかったのです。兵士たちはアメリカを始めとする連合軍に対してではなく、無謀で拙劣きわまりない戦略、戦術を強いた大本営参謀をこそ、恨みに怨んで死んでいったのです。
 その大本営の参謀たちは、戦後どのような責任をとったのでしょうか。象徴的な例をひとつ挙げます。

■ 生き延びた大本営参謀への怒り
 太平洋戦争発起時の大本営参謀本部の作戦課長に、服部卓四郎という人物がいました。まさに作戦の中枢に位していた人物です。彼はサイパン島の陥落を機に、中国の奥地に連隊長として左遷されていました。
 服部大佐は、戦後間もなく、GHQのウィロビー少将によって、一人任地から連れ戻されています。名目は太平洋戦争の戦史編集ということでしたが、実際には対ソ連戦に備えた軍事情報の提供と、再軍備の下工作に携わっていたのです。
 なぜ服部大佐だったのか。その理由は簡単でした。大本営に着任する前、彼は関東軍(満州[中国東北部]に駐屯していた日本陸軍部隊)の作戦主任でした。関東軍の長年の仮想敵国はソ連でした。もうお分かりになった筈です。服部大佐は、日本を片付けたアメリカ軍にとって重要な人物と判断されたのです。
 旧軍の職業軍人を集めた「服部機関」なるものが、GHQからの給与を受けながら再軍備の下工作に暗躍し、大佐自身は再軍備の総参謀長に擬せられていました。彼が仕えた東条首相が、A級戦犯として処刑される前後のことです。
 私がスガモ・プリズンに送還されて間もないころに朝鮮戦争が勃発し、警察予備隊が発足したことは先にお話ししました。服部大佐の幕僚長就任こそ、時の吉田首相によって忌避されましたが、旧軍人に対する公職追放令は解除され、職業軍人だった者たちが、続々と警察予備隊に入隊しました。それが、今日の自衛隊の発端です。
 その旧軍人たちを、ここで一概に非難するつもりはありません。家族を養わねばならなかったでしょうし、日本を赤化から防止する「建前」もあったでしょう。ですが、職業軍人とは、昔でいえば武士です。武士道の最重要な規範に、恥を知ることがあります。同義語に名誉を尊ぶ、という言葉もあります。
 彼らの大部分は、参謀の立案した作戦計画に従って戦場に投入され、命を落としました。運良く生き残って本国へ戻り、また懸章をぶら下げる軍人のどこに恥を知る心があったのでしょうか。

■ 日本人を殺戮した軍人に勲章
 もうひとつだけ事例を挙げます。戦争末期。日本の都市は、アメリカの絨毯爆撃によって壊滅的な打撃を受けました。何十万人もの老人や女、子供が焼き殺されました。さらに広島、長崎には、事前の警告なしに原爆が投下されました。これが戦争犯罪でなくてなんでしょう。一方で、落下傘降下して捕虜になった敵の飛行兵たちを処刑した日本軍の将兵は、戦後、戦争犯罪者としてスガモ・プリズンで処刑されています。
 その爆撃作戦を立案し、指揮したのは、アメリカ軍のカーチス・ルメイという空軍少将でした。戦後彼は、空軍元帥にまでなっています。その彼に、日本政府は昭和39年、勲一等旭日大綬章を授与しているのです。もちろん天皇の名によってです。授章の理由は、日本の航空自衛隊の育成に協力したことでした。
 ヘドが出そうです。ねじれにねじれた戦後日本の在り様こそが、ニューギニア島はじめ太平洋の島々で、飢えて野垂れ死にした兵士たちの実相を、直視することから目をそらしてきた結果としてあるのです。

 防衛庁が防衛省に昇格し、憲法改正のための国民投票が論議されているいまの日本に、最も求められている国民的課題は、60年前に行った大戦の真相と、それを覆い隠してきた歴史的経緯を、しかと検証する営為だと私は思います。醜いはらわたは、明るみに出されねばなりません。歴史の闇に閉ざされてきたこのおぞましい事実を、白日の下に晒すことによって初めて、今後の日本がたどるべき進路が、浮かび出て来るのではないでしょうか。腐臭に満ちた日本の道徳的、倫理的再建の糸口もまた、そのような営為を通してのみ、見出される筈だと、私は自責の念を込めて思うのです。
 そのために、自らの行為も敢えて曝しながら、この原稿をまとめる作業をしてきました。「あの戦争は酷かったんですね」という感想で終わることを、深く懸念しているからです。


亡くなった元BC級戦犯・飯田進さんが残した魂の文章
デイリー新潮編集部
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/10141900/?all=1

 元海軍の軍属で第2次大戦のBC級戦犯として自らの罪を明かし、あいまいにされた戦争責任と向き合うよう社会に訴え続けた飯田進さんが2016年10月13日に亡くなりました。サリドマイド被害児の父親として、障害児福祉の底上げにも取り組んできました。93年間の生涯で発してきたメッセージを今、次の世代が語り継ごうとしています。
 戦後70年だった昨年2015年の大みそか、飯田さんのメッセージがインターネットメディア「ポリタス」(http://politas.jp/)で配信された。編集長でジャーナリストの津田大介さん(42)が、その年の夏にインタビューした内容をまとめたものだ。
 メッセージは「あの戦争を生き残った私からあなたへ」と題する。
 戦犯として収監された獄中で、自分が信じた「正しさ」を全否定せざるを得なかった苦悩。戦争で命を落とした若者たちの無念さを代弁できる最後の一人として若い人たちにこう伝えた。

 〈心の中に壁厚き部屋を持ち、ものごとを深く考え、真理を追究しなさい。そのうえで、それぞれが大いに遊べ。大いに人生をエンジョイしろ

 津田さんは昨年2015年3月、テレビ番組での取材で飯田さんと初めて会った。
「脳梗塞(こうそく)でろれつが回らず、体力が落ちても、まだ語ろうとしていた。ネットの言葉でしか動かない層に『遺言』として読んでほしかった」と言う。4000字以上の長文は、フェイスブックで拡散された。
    *
 飯田さんが戦犯として服役中、朝鮮戦争が勃発。国内に警察予備隊が創設されると、「戦時中に逆戻りしている」と憤り、仲間とひそかに出版社へ手記を送るなど平和運動を進めた。サリドマイド被害を受けた長男伸一さんの親として、薬害訴訟への準備にも奔走。障害児福祉を充実させようと財団法人を設立した。
 飯田さんの激動の人生を描いたドキュメンタリー映画『昭和84年〜1億3千万分の1の覚え書き〜』を監督した映像プロデューサー伊藤善亮さん(41)は、
「仕事仲間が飯田さんを撮っていると聞き、会ってみるとスターウォーズに登場する『ヨーダ』のような威厳と気迫で、かっこよかった。自分の頭で考えろ、というメッセージを受け取った」と振り返る。
 飯田さんは70歳を過ぎたころから「戦争責任から目を背け続けた日本は再び過ちへの道をたどっている」と危機感を強め、執筆や講演に力を注いだ。その言葉を聞いた新潮社の若手編集者だった門文子さん(36)の申し出で、2008年に新書『地獄の日本兵』が出版された。門さんはスマトラ島で従軍した祖父が戦争のことを一切語らずに逝ったことに、疑問を感じていた。

「飯田さんは『戦争の一番醜い部分を書いておきたい』と国会図書館に通い、命からがら生還した無名兵士たちの手記を引用した。戦場の真相に迫るために他者の目も借りる構想力に引き付けられた」

 フォトジャーナリストの安田菜津紀さん(29)は大学4年生だった7年前、東京新聞の終戦記念日特集で対談し、ある小説の中の「明日世界が滅びるとしても私はリンゴの木を植え続ける」という言葉が座右の銘だと聞いた。

「戦争を伝える難しさを知った上で、それでも力を込めて言い続けた飯田さんから、私もリンゴの木の苗をいただいた」
    *
 飯田さんは6年前に1度だけ高校の授業で話をした。
 当時は87歳。高校生には伝わらないと悩んだ末に飛行機で島根県へ出向き、50人ほどの全校生徒を前に、
「自分を被告席に置くつもりで来た」と声を震わせた。
 ゲリラと疑われた現地住民の処刑現場に立ち会い、一人の男性を自らの刀で絶命させたことを語り、「遠慮しないで」と質問を受け付けた。ある女子生徒が「生き残って良かったか」と小声で尋ねると、「今そう思う」と即答し、「今日が人生で一番嬉しい1日だ」と笑った。
 その時、飯田さんの話を聞いていた一人に、当時2年生だった奥田愛基さん(24)がいた。

「言葉に詰まる場面、その呼吸……。罪の意識と葛藤した飯田さんの人生を知り、自分にもつながっているんだと気づいた」

 奥田さんは2016年8月に解散した学生団体「SEALDs(シールズ)」の中心メンバー。奥田さんたちが昨年、国会前で繰り広げた安全保障法制に対する抗議活動は、たびたびニュースで報じられた。飯田さんは70年近い年齢差を越えて思いが通じたことを寝たきりのベッドで喜んでいた。


2016年10月31日(月)付け朝日新聞(高橋美佐子)
戦争責任の「遺言」、次世代へ
BC級戦犯の葛藤語った飯田進さん、他界


 その奥田愛基はイマ、ReDEMOS で創設者、代表理事として活動を継続中!

 わたしたちが望むのは、日本に生きる一人ひとりの自由と尊厳を大切にする社会です。
 わたしたちはそのために、立憲主義に基づき、自由と民主主義の価値を尊重する政治を求めます。

 戦後70年を迎えた2015年の夏、日本では立憲主義と民主主義をないがしろにするかたちで安保法制の立法が強行されました。
 沖縄の辺野古基地建設の問題も、選挙によって示された沖縄の民意だけでなく、法治国家の正当な民主的プロセスも無視するものであると大きな反発を招きました。
 日本社会はいま、多くの課題を抱えています。
 その解決策については、さまざまな立場から自由闊達な議論が行われるべきです。
 しかし、そうした民主的な論争は、立憲主義、自由、民主主義といった根本理念が尊重されて、初めて健全に機能するものです。
 民主主義国家にふさわしい、尊厳ある個人の自由を保障するためには、一定の平等や公正な分配が達成されることも不可欠です。
 さらには、日本は国際社会と連帯し、東アジアの平和構築へ向けた責任ある判断をしていかなければなりません。

 わたしたちは経済や生活保障、安全保障といった個別の政策について、包括的かつ領域横断的に研究します。
 そしてその知見を日本社会に対して発信し、めざすべき社会とはどのようなものか、大局的なヴィジョンを提示していきたい、と考えています。
 わたしたちは個々の政策的な垣根を超え、個人の尊厳や自由を尊重する社会の実現に向けて、政策アイデアの刷新を行ない、具体的な制度づくりや取り組みを進めていきます。
 いま求められているのは、危機に瀕している立憲主義と民主主義とを取り戻すことだけではありません。
 自由、民主主義、平等、公正といった普遍的な理念を実現するアイデアと制度を、つねにアップデートさせていくこともまた、わたしたちの重要な仕事です。


 最後に、ReDEMOS とは、民衆(DEMOS)への応答(Re:)の意味です。
 国会前抗議やデモを原点とするわたしたちが、日本の民主主義を問い直し、わたしたちの考える社会のヴィジョンを示し、市民相互の広く活発な応答関係を構築することで、日本社会が進むべき未来のあり方を探りたい、その思いで名づけました。
 一人ひとりの尊厳を大切にする社会、それがわたしたちの構想する、未来の日本の姿です。

http://redemos.com/about-2

 2015年9月に成立した安全保障関連法に反対する学生グループ「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)のメンバーらが12月14日、東京・参議院議員会館で記者会見を開き、政治課題の分析や政策提言をおこなうシンクタンク、一般社団法人「ReDEMOS(リデモス)」を設立したことを発表した。

 代表理事には、SEALDsでリーダー的存在だった奥田愛基さんが就任。理事には上智大学の中野晃一教授、水上貴央弁護士が名を連ねた。このほかにも、SEALDsのメンバーがコアメンバーとして参加している。ただ、固定したメンバーではなく、外部から様々な有識者を招いて、議論や政策提言をおこなっていく予定。

● 奥田さん「自由で、活発な議論が行われるべき」

「ReDEMOS」は、活動方針として大きく次の3点を提示している。

(1)主権者である市民の熟議を行うために、重要な政治課題について分析し多様な視点を提示する。

(2)論争的な事柄に関して、異なる立場から自由闊達で建設的な議論を交わす場を提供する

(3)議論の深まりを踏まえて、市民、政府、政党および政治家に対する政策提言を行う。

 奥田さんは、「日本社会は多くの課題を抱えている。その解決のためには、さまざまな立場から自由で、活発な議論が行われるべきだ」と「ReDEMOS」を設立した意義を指摘。「『こういう社会にしたいけど、どうすればいいのかわからない』。そんなときに参照するツールとなっていきたい」と意気込みを語った。

 また、水上弁護士は安保法制に反対する人たちが、国会前で怒りのデモを行ったことに触れつつも、「本当に何かを成し遂げようと思ったら、(デモのような)怒りだけでは足りない」と指摘。具体的に政策や法案をわかりやすく市民に伝える必要性があるとして、次のように述べた。

「奥田君たちのデザイン力、発信力が合わされば、使いやすいコンテンツに仕上げていくことができると考えている。市民の人が使いやすい、わくわくするようなコンテンツをデザインしていきたい」

 「ReDEMOS」は最初の提言として、違憲な立法がされないための仕組みづくりの立法提言をウェブ上に発表している。


2015年12月14日19時33分、弁護士ドットコムニュース
「SEALDs」メンバーら政策提言シンクタンク設立
「わくわくするコンテンツ提供したい」

https://www.bengo4.com/other/1146/1287/n_4059/

「ニュースの深層・地獄の日本兵」ゲスト・飯田進
https://www.youtube.com/watch?v=k9jSutaes5o

見捨てられたニューギニア本島の日本陸軍─日本の南洋戦略
https://www.youtube.com/watch?v=fNJM8ovi2k0

すさまじい飢餓地獄で人肉に手を出さざるをえない地獄絵図─日本の南洋戦略
https://www.youtube.com/watch?v=EVHze7Pwbgk

 ひとりよがりな「思想」によって便宜供与が図られるという異常政治のなかでうごめくアホだの阿呆だのイナゴだの、のために親からさずかった命をさしあげたくないなって、ヤッホー君、決意をあらたにしていました、はい。

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芦之湯

 映画「箱根山」(1962年9月)。

【解説】
 1961年、朝日新聞に連載された獅子文六の原作を、井手俊郎と川島雄三が脚色したシニカルな社会派ドラマ。
 実際に「箱根山戦争」「箱根山サルカニ合戦」とも揶揄された、観光地・箱根を舞台とした西武グループと小田急グループの勢力争いを背景に、老舗旅館同士のいがみ合いの中に「ロミオとジュリエット」的ロマンスをからめている。
 劇中では西武を「箱根横断鉄道」、小田急を「函豆(かんず)交通」としており、昭和30年代の小涌園、芦ノ湖などの様子も興味深い。

【物語】
 箱根・芦刈の旅館「玉屋」と「若松屋」は150年来のライバル同士。89歳になる玉屋の主人・里(東山)は成績優秀な使用人の子・乙夫(加山)に跡を継がせようと考えている。考古学に凝っている若松屋の主人・幸右衛門(佐野)は、成績が悪いのに箱根を出たがっている娘・明日子(星)の家庭教師を乙夫に頼む。玉屋を訪れた政治家の大原(森繁)に「自動車道路よりも人間の通る道を作るべき」と乙夫が進言すると、大原は氏田観光の北条(東野)にアイデアを伝える。感心した北条は部下の塚田(有島)になんとしても乙夫を会社に入れるよう命令する。
 ある日、玉屋が火事になり、保険に入っていなかったため玉屋は窮地に陥る。里も寝込んでしまう。北条は幸右衛門に、玉屋と若松屋の合併を提案、幸右衛門は引退して明日子ともども東京へ移り住むことを考える。
 夏になり、里は乙夫の嫁にと考えている親戚の娘・フミ子(北)を呼び寄せるが乙夫は相手にせず、明日子に芦刈の将来のために氏田観光で10年間勉強して戻ってくると宣言。明日子も旅館経営を勉強することを決意する。
 そんな頃、乙夫が拾った石が考古学上の大発見だと幸右衛門は大喜びし、箱根に残ることにする。
 一方、玉屋では温泉を掘り当てて大騒ぎ。たちまち里も元気になって温泉経営に意欲を燃やすのだった。

【出演者】
 加山雄三、星由里子、藤原釜足、北あけみ、佐野周二、東山千栄子、東野英治郎ほか


映画演劇文化協会、キネマ写真館(※)
箱根山
http://kinema-shashinkan.jp/cinema/detail/-/2_0358

(※)2017.03.15
 勝手ながらキネマ写真館は、2017年3月31日(金)正午をもちましてサービスを全て終了いたします。

 あらら、このサイトはもうなくなるそうで・・・なんか「今だけ、オレだけ、カネだけ」が優先され国有財産含め、「公共財」があまりにも寡少なこの国にあってすぐ、削除だの、終了だの、早漏が早すぎませんか?
 ところで物語の舞台は「箱根・芦刈」。

 箱根でも、最も古い温泉場の足刈には鷲の湯と雁の湯の二泉があり、旅館も二軒しかないが、そのうちの一つ、ワシの湯の玉屋は、寛文二年の創業というから、ほんとの草分けである。
 国道から入って、近くの方に、もう一軒あって、これが若松屋−これも古い。
 しかし、創業者は、玉屋の出だということで、それだけ後代になるが、どっちみち、チョンマゲを結っていた時代の話である。


『獅子文六全集』第9巻「箱根山」(朝日新聞社、1968年11月)215頁

 しかしここは「芦之湯」なんですぅ〜
 今日は、「芦ノ湖」じゃなくって、「芦之湯」?

【温泉の歴史】
 鎌倉時代には湯本から湯坂山を越えて芦之湯を抜けて行く「湯坂路」が官道として使われていました。
 芦之湯には古くから温泉が自然湧出していますので、すでに鎌倉時代の1280(弘安3)年には、神山をご神体として修業する山岳信仰の行者たちが信仰的な湯治場として使っていたという記録が残っています。
 そして、1662(寛文2)年に勝間田清左衛門という人物がこの地を干拓し、現在の温泉場としての歴史が始まったと伝えられています。
 1817(文化14)年に作られた相撲番付ならぬ温泉番付『諸国温泉功能鏡』には、芦之湯温泉が東前頭筆頭としてお目見えしていますが、これは箱根の温泉場としては最上位。
 その賑わいぶりは歌川広重や鳥居清長の浮世絵にも描かれています。

【温泉の特徴】
 箱根七湯の一つ。標高870メートル。駒ヶ岳の南山麓に位置します。
 遠い昔、湿原だった芦之湯は、平らな草原のような地形であり、湿原だったその面影は阿字ヶ池弁財天が祀ってある周辺を中心に残っています。
 戦後、一世を風靡した人気作家獅子文六(1893-1969)の小説『箱根山』に登場する温泉場としても知られています。

【箱根町芦之湯観光協会長川辺ハルトさん(きのくにや、滝廉太郎先生の「箱根八里」ゆかりの宿)】
 芦之湯温泉の最大の特徴は、硫黄温泉としては極めて珍しいペーハー7.6の肌に優しい弱アルカリ性温泉であるということです。
 このため古来「その効験は比泉を最す」と言われ、さまざまな病を癒す湯治場として多くの人びとに愛されてきました。
 地内には江戸を代表する文人墨客の文化サロンとして賑わった東光庵熊野権現旧跡や国の重要文化財に指定されている石仏郡などの史跡も豊富で、箱根の中では唯一の「秘湯」の雰囲気を持つ貴重な温泉場であると言えると思います。
 また毎春、日本全国に大きな感動を与えている箱根駅伝の走者がコースの最高地点を走り抜けてゆくのもこの芦之湯温泉です。
 皆さんここ芦之湯でご一緒に応援しませんか?


箱根ナビ「芦之湯、文人墨客に愛された風雅の湯
http://www.hakonenavi.jp/basics/hot-sp/17h-sp/ashinoyu/

 獅子文六?

 獅子文六さんのゆかりの大磯で講演できることを大変うれしく思います。
 文六さんの生涯を簡単に説明いたします。本名は岩田豊雄。1893(明治26)年、横浜市生まれ。少年時代に亡くなった父は大分県中津藩の武士の出身で、福沢諭吉の門下生だった。
 慶応幼稚舎から普通部へ進み、文六は中退後、家で10年ぐらい文学青年をやっていた。
 28歳の時、母逝去。自分はこんなことでいいのかと自問し、29歳で父の最後の遺産を売ってフランス留学に賭けた。かの地では大学などに通うわけではなく、芝居をたくさん見て演劇を勉強した。ある意味で、これは一番まっとうな勉強の仕方だった。

【カルチャーの壁】
 留学での最大の出会いは、日本人の留学生相手にフランス語を教えていた女性マリー・ショウミーとの運命的なものだった。彼女は両親を説き伏せて文六と結婚し、相当な覚悟をして日本行きを望んで1925(大正14)年7月、文六と日本にくる。翌月、娘の巴絵(ともえ)が生まれ、フランス語を教えたり、演劇の翻訳などをして文六を助けた。
 が、あの時代の外国女性が日本式の生活をしていくのは無理だった。同じ人間だから分かり合えるというものでもなく、乗り越えることが難しいほどの「カルチャーの壁」にはばまれ、心身ともに大変なストレスを抱え込むことになっていた。マリーは巴絵が5歳になるころ発病、娘を残して故国で療養するため帰国する。1932(昭和7)年マリー逝去。文六と巴絵は二人きりの生活を強いられた。
 1934(昭和9)年4月、愛媛県出身の富永シズ子と再婚。わずらわしかった家事と娘の世話をシズ子が親身にやってくれたお蔭で執筆に専念することができるようになった。
 作家生活の中での主な作品としては、フランス人の先妻との間に生まれた巴絵の成長を見守る父親の自伝的小説『娘と私』がある。NHK朝の連続テレビ小説の第一作目として1961(昭和36)年4月〜1962(昭和37)年3月に放送され、当時国民的話題となった(※1)。
 その他に漫才の「獅子てんや瀬戸わんや」の芸名にもなった『てんやわんや』、『箱根山』、『大番』、『自由学校』など多数ある。
 また戦時体制の中で執筆した『海軍』が進駐軍の目にとまり、パージ(追放)になりはしないかと1945(昭和20)年12月、妻のシズ子さんの実家のある現在の宇和島市津島町岩松に疎開をする。

【また二人になっちゃたね】
 疎開から東京へ戻り、御茶ノ水の主婦の友社別棟に住む。
 マイノリティーの人びとに関心があった文六は駅近くにたむろしていたホームレスをテーマにした『自由学校』を書いた。しかし、大磯に移る直前、2度目の奥さんのシズ子さんが急死してしまう。私は2006年に be 取材のため巴絵さんにお目にかかったことがあるが、シズ子さんの死で大きなショックを受けた文六は巴絵に「また二人になっちゃったね」と言ったという。
 最初の妻のマリーさんの没後、再婚して落ち着いたと思ったら、また二人になってしまった。リアリティーに富んだ切実な言葉だった。亡くなった後、巴絵の養育の苦しみをいろいろなところで書いている。日英混血女性の『アンデルさんの記』、日独混血の少年を書いた小説『箱根山』などもそんな苦労がモチーフになって取り上げられている。

【小説『自由学校』とゴールデンウィーク】
 「ゴールデンウィーク」という言葉はこの『自由学校』から始まった。小説があまりにも当たったので大映と松竹の両方から映画化の話が文六のところに舞い込んだ。
 俳優は違うが同じ原作で同じ時期に同じタイトルの映画が二つ同時に上映される。
 今では信じられない話だが、1951(昭和26)年5月の第一週の憲法記念日、こどもの日の週に公開され大ヒット作になる。
 それまで映画ではお正月とお盆がかきいれ時だったが、映画の関係者がこれを機にかきいれどきをもう一つ作り、ゴールデンウィークにしようと言ったのが始まりだったらしい。ゴールデンウィークとは大映、松竹が『自由学校』という名の映画を2つ同時に公開したことによりできた言葉。
NHKだけは現在も「ゴールデンウィーク」という言葉は使わず、「大型連休」と言っている。NHKに問い合わせたところ、
@ できるだけ横文字は使わない。
A 映画の世界の「業界用語」
というのが理由だった。

【ドイツ兵と小説『箱根山』】
 『箱根山』という小説。箱根の観光開発をめぐって西武鉄道、東急電鉄、藤田観光、小田急電鉄などいくつかの企業が争奪戦を演じて大騒ぎをする。文六がもう少し長命だったら、これを背景にして書きたいといっていた日独混血少年の話がある。
 1942(昭和17)年、横浜港で停泊中のドイツの仮装巡洋艦が何かの事故で沈没する。戦争中のことだったから新聞には大きく載らなかったが、このときドイツ兵が60〜70人くらい死んで100人くらいの人が助かった。
 ドイツは日本の友軍だったから、政府は箱根の芦の湯の松坂屋旅館に生き残ったドイツ兵を集めた。100人ともなれば軍艦が一隻きたようなもの。日本にくる途中で、オーストラリアあたりで商船を捕獲してたので缶詰などの食糧はたくさん持っていた。コメなどは日本の海軍省やドイツ大使館などが調達してくれたので衣食住に事欠くことはなかった。
 調理をする人、洗濯する人。100人近くいたドイツ兵が生活するには何の不自由もなかった。敵がくるとかの緊張感はまったくなく平和そのもの、それでもやることがない。こんな状況で20代の若い男が身をもてあましていたら、関心はどこへ向くかはもう決まっている。
 日本の若い男性はほとんど出征していない。すぐそばに温泉はたくさんあり、旅館の仲居さんとなんとなく交友関係が生まれてもおかしくはなかった。贅沢なもの、おいしいもの、舶来のいろんなものを持ってきてくれる。となると周囲の女性たちも宮ノ下の芸者さんなども放ってはおかない。プロの人も結構稼ぎに来ていたらしい。
 日独友好の草の根レベルの交流が生まれる。そこで男と女の間にいろんなことが起きた。この抱腹絶倒のいろんな話を文六は松坂屋旅館の主人から聞いて小説『箱根山』に書いている。芦の湯温泉から一晩かけて山を越えて仙石原へ行き、朝の点呼の時刻までには帰ってくる。青い目の沢山の子供がうまれた。2年前に芦の湯に取材にいったが、日独混血の目の色の違う人がいたという話を聞いた。
 文六は1943(昭和18)年に宇和島へ行く前に湯河原に滞在していたが、地元の警察の人が「どうも箱根の山にいるドイツ兵と日本の女性はおかしい。防諜の関係で取り締まらなければいかんな」と言っていたのを聞いたことがある。これが小説「箱根山」の執筆につながっている。
 文六は男と女の物語が大好きなのでその辺の話を書きたいと言っていた。
 ある日、松坂屋旅館に初老のドイツ人が訪れた。昔を懐かしんで涙をポロポロながして身の上話を始めた。7〜8人が集まり日独の交流が始まった。そんな話はいくつもあった。

 1950(昭和25)年、57歳で作家として一番脂の乗り切った大磯時代の開始。彼の代表作はほとんどここ大磯で書かれている。そんな意味で文六はこの大磯の町を愛していたし、この町のことをエッセイでいろいろと書いている。わたくしは文六のことを「昭和の漱石」と呼んでいるのだが、そういう人がこの町にいてしかも代表作を書いた、大磯はそういう町であることを強調したい。


2013年10月20日(日)明治大学 大磯駿台会主催 文化講演会
牧村健一郎氏、獅子文六を語る(※2)
http://www.ksatou.com/bunnroku-hp/bunnroku.html

(※1)NHK朝の連続テレビ小説第一作『娘と私』
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010085_00000

(※2)牧村健一郎(1951年生まれ)『獅子文六の二つの昭和』(朝日新聞出版、2009年4月)

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2017年03月15日

芦ノ湖

箱根風雲録(1952)
 今から280年まえ(1666-1670)、約5年の歳月を掛けた箱根山中での隧道の長さ1280米/m、芦ノ湖の水を静岡県側に掘り抜く、動員総数833586名の大工事。
 発案者(江戸浅草の一町民 友野与右衛門(とものよえもん)他・出資者が民を弾圧する代官に殺害される。
 民衆が決起して、水田も出来ない不毛の地に箱根用水路を完成させた。
 しかし徳川幕府によリ抹殺され、一片の記録さえ残っていない。
 箱根用水路は三百年と同じ姿で今も生きている。
 日本歴史から忘られた、日本が世界に誇る科学的大工事である。

※ 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年)の解説
友野与右衛門(生年:生没年不詳):
 江戸前期、箱根用水(深良用水)開削の元締頭となった江戸浅草の町人。
 1663(寛文3)年、宮崎市兵衛次宗、松村浄真との連署で箱根権現へ用水開削の立願状を提出。
 駿河国(静岡県)駿東郡東部地域の水不足解消と新田開発を目的に、同じ江戸町人長浜半兵衛、尼崎加右衛門、浅井次郎兵衛との連署をもって同6年4月に小田原藩、同年5月に沼津代官へ開発請負手形を提出、許可された。
 この年より芦ノ湖から駿東郡側への隧道工事に着手、同10年には竣工、翌年の新川普請をもって用水は完成した。
 この結果多くの畑成田(畑が田に変わったもの)が生まれたが、用水の配分をめぐり新たな水論も発生した。
 また用水は完成したものの工事資金の回収には失敗したため、用水維持工事の負担などをめぐり元締と村々の対立が激化、1688(貞享5)年には用水支配権が元締から沼津代官に移った。
 しかし用水が地域に与えた恩恵は大きく、1711(正徳1)年には元締を祭る水仁碑、地蔵尊も建立されている。
 なお、与右衛門の出自については諸説があるが、同時期の史料に「元締頭」とみえることから、単なる金主ではなく技術者集団のリーダーであった可能性もある。
<参考文献>
『裾野市史』6巻、
静岡県芦ノ湖水利組合編『深良用水の沿革』
佐藤隆『箱根用水史』
(関根省治)

 『箱根風雲録』(はこねふううんろく)は、1952年に新星映画と前進座が製作し、北-星株式会社が配給した日本映画である。
(出演者)河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎国太郎、轟夕起子、山田五十鈴、岸旗江-、飯田蝶子、薄田研二、清水将夫、嵯峨善兵
 原作は、タカクラ・テル(1891-1986)の小説『ハコネ用水』(理論社、1951年)。
 主演の山田五十-鈴が第7回毎日映画コンクール女優主演賞受賞(「現代人」の出演も含む)、ブルーリボ-ン賞主演女優賞を受賞。
 戦前から映画製作会社と提携して時代劇映画を製作してきた劇団-前進座の戦後第1作目の時代劇作品。
 現代劇映画『どっこい生きてる』に続く戦後2作目-。


2015-05-27(10:00)「一円融合 心田開発」
http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-7067.html

 裾野市の市民文化センター(裾野市石脇586 Tel 055-993-9300)2階には、深良用水の展示室があります。
※ 2005(平成17)年には農林水産省の全国疎水百選にも選ばれている深良用水。
※ 2014(平成26)年には世界かんがい施設遺産として登録。

http://www.city.susono.shizuoka.jp/ss/place/fukarayousui.php
http://www.city.susono.shizuoka.jp/life/ed/yousui-sp-exhibition.php

 これはなんとか芦ノ湖の水を利用して、農業ができないかを考え実践した先人の偉業のお話。
 上流に遡ってみたあと、時代を下って、この用水の歴史をみますとどんなふうになるのかな。

芦ノ湖のお水の話し
 箱根に住んでいて知っているようであまり知らない、今回は芦ノ湖の水のお話し。
 私はマスコミ関連の方が取材に来られると真っ先に、何時もこの話しから入ります。
 長年、「芦ノ湖の水資源を考える会」の皆さんが研究を重ね歴史の事実を今でもご苦労され、発掘されていますが、それらの研究から是非皆さんにもこの現実を知っていただこうと今回は芦ノ湖のお水の話し。
 当時小田原藩の領地であった深良村は水不足で畑作中心の農業でした。
 幕府、小田原藩は年貢増量を図るため芦ノ湖の水を使っての新田開発に乗り出しました。
 しかし当時資金不足から江戸の商人、友野与右衛門に出資を依頼。
 用水造成を商いとして出資、1年の予定が4年の1670年、1342mのトンネル難工事の末、予算大幅超過の7300両で完成。
 完成後 深良村内では水争いが続いたと記録にあります。
 当初稲作の時期だけの放水ということで、9―3月までは堰を止めて、友好的な利用で水によるもめごとはありませんでした。
 ところが明治に入り、電力会社が芦ノ湖の水を使って水力発電を計画、年間を通しての水の利用を目指し始めて事は変わります。
 当時仙石では大規模な牧場が出来、水を必要としていた矢先、深良村側が湖尻にある早川出口に堰を箱根側に相談無しに作ったことから、1894(明治27)年、芦ノ湖を管理する御料局に意義申し立て。
 しかしそれを却下したことからこの堰を箱根側が壊した「逆川事件」が勃発。
 その結果裁判が始まり一審二審は箱根が勝訴、三審で敗訴が確定、堰を壊したという事実の判決がその後、器は神奈川県、水は静岡側という間違った方向に進んでいってしまいました。
 静岡側は堰への工事差し止め指導を受けても、現場が勝手にやっていると工事を繰り返し、頑強な水門堰の構築を強行。
 当時からもっと積極的に神奈川県が動いていればと思うばかりです。
 当時芝居や映画でこの箱根用水を使った創作劇が、幕府対農民という友野与右衛門を時の人として取り上げた劇が評判になりましたが実の所、深良村の年貢米横領などで村民をだました罪人で、深良村にも多大な損害を与えました。
 当時から台風のたびに芦ノ湖が増水、静岡側は水量確保から危険水域まで水が増えてやっと、深良用水を守るために早川水門を一気に開けるため、早川では水害がたびたびおき、その補修工事費用も神奈川県側が出す、このようなことが繰り返されました。
 その後神奈川県と箱根町は、200億をかけ芦ノ湖の水質を守るため、公共下水道を作ったところ、芦ノ湖への水の流入が減ると抗議にきたり、飲料用井戸を掘れば芦ノ湖の水が混ざっていると来たりで現在に至っています。
 現在深良では米作も減り、水も十分足りているのに水を一方的に独占、農作業の水利権より飲料用の水利権のが優先という事実も無視して、話し合いの席にもつかなく、話し合いのめどさえ立っていません。
 なんとか限られた資源、隣町どうしで仲良くやって行きたいのにとても残念な事実です。
 まさしく江戸時代、善意で貸した水、軒下貸して母屋を取られる。
 この現代の世の中でこんなことが現実にまかり通っている。
 神奈川県民は芦ノ湖の水を一滴も使えない、是非この事実を承知して欲しいと思います。 


2011/6/14(火)午後0:21、viragooの箱根通信
芦ノ湖の水のお話
http://blogs.yahoo.co.jp/viragoo/12626824.html

 神奈川県温泉地学研究所の「研究成果発表会」で、箱根に関する興味深い話を聞かせていただいた。
 板寺一洋・研究課長の「芦ノ湖の水収支の再検討」と題した講演だ。
 湖への降雨と周囲の山々からの地下水流入を「収入」に、大気への蒸発と、静岡県側の深良用水経由の流出を「支出」に例えたものだった。

 講演からの引用だが、環境省の調査によると、芦ノ湖の面積は約6.9平方キロ。平均水深は25メートルで、その貯水量は東京ドーム138杯分に相当する約1.7億トンと見積もられている。

 板寺課長は講演で「湖面に直接降る雨の量に匹敵する約2300万トンの地下水が、周囲の山々から湖に流れ込んでいることがわかった」とした上で「『収入』から『支出』を差し引くと、2500万トンの水が余るはずなのに、その水はどこに行ったのだろうか」と疑問を投げかける。

 昨年2015年5月以降の、火山活動活発化の影響で大涌谷周辺への立ち入り規制が続いているが、噴煙地に地下浸透した水は、地熱によって暖められ、温泉や火山性地震の発生につながる地下深部の熱水になっているとの話を聞いたことがある。

 駒ケ岳周辺の精進池や二子山西麓(せいろく)のお玉が池、それに台ケ岳北麓の仙石原湿原など、中央火口周辺の湖沼や湿地は、大量の地下水が湧出(ゆうしゅつ)することで維持されているという話も、「余った水」の行方を探るヒントになるのかもしれない。

 流入する大きな河川がない芦ノ湖で、あれだけ大量の水がどのように維持されているのか。
 湖水が箱根の地下水や温泉にどう関わっているのかという話に興味があった。
 板寺課長の講演は、いつも見慣れた芦ノ湖に別の見方があることを教えていただいたと思う。


2016年7月4日付け毎日新聞地方版「支局長だより」
芦ノ湖の水の行方=小田原支局長・澤晴夫/神奈川
http://mainichi.jp/articles/20160704/ddl/k14/070/099000c

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2017年03月14日

贈る言葉

 3月14日火曜日の夕方になってももやもやした気持ちは続いています。
 どうしても日記につけておきたいってヤッホー君。
 孫崎享は自身のツイッターで「安倍政権は詭弁、嘘のコンクール」って上も上なら配下のものまで皆、うそつきばかり。
 ヤッホー君は小さい頃から、ウソつくと閻魔様に舌抜かれるぞって叩き込まれてきましたね。
 親から続く家業の政治屋を営んでるボンボンどもはきっと、ウソも方便とかイマの自分と家名を汚さぬようにね、とか頼りになるのはお金だけなんだからとか言われて育ってきたんだろうか、
 大きくなって「美しい日本」「日本を取り戻す」「この道をまっしぐら」なんてウソでごまかしてれば、支持率があがるんだから、とかまあ。
 イマだけでなくってそんなことムカシからだって。。。

 故郷に帰れない多くの被災者を生み出し、放射性物質を広範囲にまき散らし、作物を汚染し、今も国土や海を汚し続けている福島原発事故。
 だが、この国家による犯罪ともいえる重大な事故をめぐって、ほとんど語られてこなかった事実がある。
 それは、現内閣総理大臣である安倍晋三の罪についてだ。
 こういうと、安倍支持者はおそらく原発事故が起きたときの首相は民主党の菅直人じゃないか、サヨクが安倍さん憎しで何をいっているのか、というだろう。
 そうでない人も、原発を推進してきたのは自民党だが、歴代の政権すべてがかかわっていることであり、安倍首相ひとりの問題じゃない、と考えるかもしれない。
 だが、福島原発の事故に関して安倍首相はきわめて直接的な責任を負っている。
 第一次政権で今と同じ内閣総理大臣の椅子に座っていた2006年、安倍首相は国会で福島原発事故と同じ事態が起きる可能性を指摘されながら、「日本の原発でそういう事態は考えられない」として、対策を拒否していたのだ。
 周知のように、福島原発の事故は津波によって全電源が喪失し、原子炉の冷却機能が失われたことが原因で、政府や電力会社はこうした事態を専門家さえ予測できない想定外のことだったと弁明してきた。
 しかし、実際にはそうではなく、原発事故の5年前に、国会質問でその可能性が指摘されていたのだ。
 質問をしたのは共産党の吉井英勝衆院議員(当時、2012年11月古希を迎えたのを機に引退)。
 京都大学工学部原子核工学科出身の吉井議員は以前から原発問題に取り組んでいたが、2006年から日本の原発が地震や津波で冷却機能を失う可能性があることを再三にわたって追及していた。
 2006年3月には、津波で冷却水を取水できなくなる可能性を国会で質問。4月には福島第一原発を視察して、老朽化している施設の危険性を訴えていた。
 そして、第一次安倍政権が誕生して3ヶ月後の2006年12月13日には「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を政府宛に提出。
 「巨大な地震の発生によって、原発の機器を作動させる電源が喪失する場合の問題も大きい」として、電源喪失によって原子炉が冷却できなくなる危険性があることを指摘した。
 ところが、この質問主意書に対して、同年12月22日、「内閣総理大臣 安倍晋三」名で答弁書が出されているのだが、これがひどいシロモノなのだ。質問に何一つまともに答えず、平気でデタラメを強弁する。

 まず、吉井議員は「原発からの高圧送電鉄塔が倒壊すると、原発の負荷電力ゼロになって原子炉停止(スクラムがかかる)だけでなく、停止した原発の機器冷却系を作動させるための外部電源が得られなくなるのではないか」という質問を投げかけていたのだが、安倍首相はこんな答弁をしている。

「外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能である」

 吉井議員はこうした回答を予測していたのか、次に「現実には、自家発電機(ディーゼル発電機)の事故で原子炉が停止するなど、バックアップ機能が働かない原発事故があったのではないか」とたたみかける。
 しかし、これについても、安倍首相は

「我が国において、非常用ディーゼル発電機のトラブルにより原子炉が停止した事例はなく、また、必要な電源が確保できずに冷却機能が失われた事例はない」と一蹴。

 これに対して、吉井議員はスウェーデンのフォルスマルク原発で、4系列あったバックアップ電源のうち2系列が事故にあって機能しなくなった事実を指摘。「日本の原発の約6割はバックアップ電源が2系列ではないのか。仮に、フォルクスマルク原発1号事故と同じように、2系列で事故が発生すると、機器冷却系の電源が全く取れなくなるのではないか」と糾した。
 すると、安倍首相はこの質問に対して、こう言い切ったのである。

「我が国の原子炉施設は、フォルスマルク発電所一号炉とは異なる設計となっていることなどから、同発電所一号炉の事案と同様の事態が発生するとは考えられない」

 吉井議員が問題にしているのはバックアップ電源の数のことであり、原子炉の設計とは関係ない。
 実際、福島原発はバックアップ電源が全部ダメになって、あの深刻な事故が起きた。
 それを安倍首相は「設計が違うから、同様の事態が発生するとは考えられない」とデタラメを強弁していたのだ。
 そして、吉井議員がこの非常用電源喪失に関する調査や対策強化を求めたことに対しても、安倍首相は

「地震、津波等の自然災害への対策を含めた原子炉の安全性については(中略)経済産業省が審査し、その審査の妥当性について原子力安全委員会が確認しているものであり、御指摘のような事態が生じないように安全の確保に万全を期しているところである」と、現状で十分との認識を示したのだ。

 重ね重ね言うが、福島原発が世界を震撼させるような重大な事故を起こした最大の原因は、バックアップ電源の喪失である。
 もし、このときに安倍首相がバックアップ電源の検証をして、海外並みに4系列などに増やす対策を講じていたら、福島原発事故は起きなかったかもしれないのだ。
 だが、安倍首相はそれを拒否し、事故を未然に防ぐ最大のチャンスを無視した。
 これは明らかに不作為の違法行為であり、本来なら、刑事責任さえ問われかねない犯罪行為だ。

2017.03.11付けリテラ
忘れるな!福島原発事故の主犯は安倍晋三だ!
第一次政権時に地震対策拒否、事故後もメディア恫喝で隠蔽…

http://lite-ra.com/2017/03/post-2983.html

 イマやもう、減給することさえ酒てるようですよ、ミナミナさま。

 東京都内で2017年3月11日に開かれた東日本大震災の政府主催の追悼式で、安倍晋三首相は「原発事故」の文言を式辞で使わなかった。
 追悼式は震災翌年の2012年から毎年開かれ、今回が6回目。
 昨年までは首相式辞の中で必ず触れていた。

 「原発事故との戦いは続いています」 2012年の式辞で当時の野田佳彦首相はこう述べた。
 安倍首相は2013、2014年に「原発事故のためにいまだ古里に戻れない方々も数多くおられます」と同じ表現で言及。
 2015、2016年は「原発事故のために住み慣れた土地に戻れない方々」との言い回しだった。
 今回は
復興は着実に進展していることを実感します
福島においても順次避難指示の解除が行われるなど、復興は新たな段階に入りつつある」などと復興の成果を強調した。


2017年3月12日付け東京新聞朝刊
首相式辞「原発事故」使わず
6回目の追悼式で初

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201703/CK2017031202000149.html

 地元の人たちは違和感を感じたって:

3/13(月)11:19配信Yahoo Japan ニュース 
<福島知事>安倍首相式辞に違和感 「原発事故」文言使わず
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170313-00000033-mai-pol

 そこでヤッホー君、今日はこんな卒業式での贈る言葉をご紹介:

 卒業生のみなさん、卒業おめでとうございます。保護者のみなさん、お子さんの卒業おめでとうございます。そして、これまでの学園に対するご支援とご協力に感謝申し上げます。

 私は今日、校長として初めて、みなさん一人ひとりに卒業証書を渡しました。証書を受け取る一人ひとりの表情はとても晴れやかで輝いていました。とてもいい時間でした。

 さて、みなさんが自由の森に入学したときのことを私は鮮明に覚えています。
 それは、2011年4月11日、あの3.11大震災と原発事故からたった1ヶ月しかたっていないときの入学式でした。
 延期していた自由の森学園中学校の卒業式が行われたのは4月2日、この日はようやく八高線が全線で運転を再開した日でもありました。
 本当だったら春休みの期間をかけて準備できるはずだった入学式の準備が再開できたのも、この日以降でした。
 みなさんを迎えたあの入学式は、まさに非常時の入学式だったと言えるでしょう。だからこそ、ひとしお強く私の中に残っています。

 入学した後、みなさんのなかには、この震災と原発事故の問題に向き合っていった人が多くいました。
 直接被災地に足を運びさまざまな活動をした人たちもいました。
 外遊びのできない福島の子どもたちを自由の森に来てもらい一緒に遊ぶという活動に参加した人たちもいました。
 福島の小学校の子どもたちのアートパフォーマンスをボランティアとして支えた人たちもいました。
 原子力発電所や放射能の問題に取り組んでいる人たちもいました。
 誰もが、この震災と原発事故の問題を心のどこかに位置づけて物事を考えていった、行動していった、そんな3年間だったのではないでしょうか。

 あれから3年が立ちました。
 しかし、3年しかたっていないにもかかわらず、また、何ら解決に向けた糸口が見つかっていないにもかかわらず、このことが風化しつつあることに危機感を抱いているのは私だけではないでしょう。さまざまな不安や疑問、なかには怒りのような感情を持っている人もいるかも知れません。

 私は、この卒業に当たり、みなさんにひとつの言葉を紹介したいと思います。
 それは「熱い胸と冷たい頭」という言葉です。
 もともとはイギリスの経済学者マーシャル(Alfred Marshall、1842-1924)の言葉なのですが、日本において社会福祉学の草分け的存在の一番ヶ瀬康子さん(1927-2012)によって紹介され、広く社会福祉に関わる人びとに浸透していった言葉です。

「福祉に携わる者には、支援を必要とする人たちを思い、その力になりたいと願う熱い心熱い胸がなければならないし、また、その熱い思いを生かすには、どのような条件や方法や行動が必要かを見極める冷静な判断や科学的認識がなければならない(1)」

 この言葉は社会福祉に関わる人だけでなく、私たち一人ひとりに関わる言葉だと私は思っています。
 そして、この言葉は、「さまざまな困難な状況に出会ったとき、この状況を何とかしたい、何とかしなければならない」と思う「熱い胸」はもちろん大切であるが、「熱い胸」だけで突き進んでいくこと、判断してしまうことの危うさを説いています。
 「熱い胸」を大切にしながらより深い実践を生み出すために「冷たい頭」が必要なのだといっているのです。
 「冷たい頭」とは表面的なことだけで決めつけるのではなくその背景にあるもの、つまりは目に見えないものを見ようとすることだと私は思っています。
 それは「新たに学ぶ」ということ無しにできないことでしょう。
 そして、一番ヶ瀬さんはこうも言っています。

「熱い胸から出発して、冷たい頭で練り上げていきながら、熱い胸の生かし方というものを互いに深めていこう(2)」と。

 今までため込んできた知識や経験だけで判断していくこと、結論づけていくことに限界が来ていることは、先の震災・原発事故の例をあげるまでもなく明らかです。
 「熱い胸」を抱き、「冷たい頭」で考えようとすることはつまり、学び続けていくことだと私は思っています。
 そしてその先に新しい考え方、新しいものの見方、新しい未来が見えてくるのだと思います。
 自由の森学園の授業は、さまざまな知識を単にため込むのではなく、いろいろな視点からものを見ていくこと、自分の考えを打ち出していくこと、そして自分自身を問い直すことを大切にしてきたはずです。
 こうした授業を通して、みなさんは自分で自分を育てること、自分をつくっていくことに取り組んできたのだと思います。
 みなさんのなかには、自分はこういう事を大切に生きていきたいというものが少しずつ見えてきた人もいることでしょう。
 その大切にしたい何かは、ある人は命ということだったり、またある人は人権、平和、自由、平等ということだったり、地球環境、生き物、ものをつくること、表現をすること、人を楽しませること、子どもやお年寄りと関わること、食べるということ、など人によってそれぞれ違うことでしょう。
 そして、その大切にしたいことは、学び続け、実践することにより、いずれ自分のなかで船の錨のような、重く確かなものになっていくのだと私は思っています。

 21世紀に入って14年目を迎えました。
 私たちの前にはまだまだも多くの問題が横たわっています。
 特に今の日本社会の現実は、若者たちにとって厳しく困難な状況です。
 この荒波のような社会のなかで、少しぐらいのことでは揺るがない、しっかりとした自分の錨・重りを保ち、作りつづけていってください。

 さて、最後に、3年前のあの入学式の時、その時の校長だった鬼沢さんがみなさんに送った言葉をもう一度伝えます。
 学ぶことは仲間とつながること、学ぶことは社会に参加すること、学ぶことは自分自身を発見すること、これを胸に刻んで新しい生活を送って下さい。

 健闘を祈ります。
 卒業おめでとう。

(注)1.財団法人日本知的障害者福祉協会「さぽーと」676号
   2.一番ヶ瀬康子『社会福祉の道』(風媒社、1972年)

自由の森学園高等学校校長 新井達也

2014年03月18日
2013年度 自由の森学園高等学校卒業式 校長の言葉
http://blog.goo.ne.jp/jiyunomori-nikki/m/201403

 この校長先生の贈る言葉をぜひ、年度ごとに味読されることをお勧めします。

2014年度:
http://blog.goo.ne.jp/jiyunomori-nikki/e/f566b671135cd5e925790deeaba8254c
2015年度:
http://blog.goo.ne.jp/jiyunomori-nikki/e/4d20d0b15c6fbbd3b5a0cc91664c3b6e
2016年度:
http://blog.goo.ne.jp/jiyunomori-nikki/e/7dd578c3b9231ceef8e531dbc3002fb2

 この学園は教育現場から、有志にて教育基本法の改正に明確に反対する発言も2006年12月15日付けにて公表しておりました:

 昨夜2006年12月14日、参院特別委員会で、教育基本法「改定」案が与党(自民党・公明党)によって採決が強行されました。今日12月15日にも、法案は可決・成立との見通しも出されています。
 一人ひとりの子ども・青年の成長と尊厳を大切にし、自由と自立を目指す、人間らしい人間を育てる自由の森学園にかかわるものとして、この暴挙を断じて許すわけにはいきません。

 この「改定」法案は、ひとことで言えば、教育基本法の性格を、

<国民が国家に対して、平等や平和、個人の尊厳を大切にする教育の条件整備を願う宣言書>
から

<国家が国民に対して、競争や格差、愛国心を煽る命令書>
に変えようというものです。

 現代日本と教育が多くの問題を抱えているのは事実ですが、今回の一連の「改定」は、その解決や克服を誠実に願う声や運動とは異なる、政治的・経済的文脈からの教育「改悪」作業に他なりません。

 問題点は多々ありますが、まずもって次のような問題があげられます。
1. 今、なぜ教育基本法「改定」なのか、理由がまったくはっきりしないこと
2. 「国を愛する心」の強要、能力主義・競争主義の拡大、国民の教育権から国家の教育権への明確な移行など、現行教育基本法の精神・理念を根本から踏みにじる、法に値しないひどい法案であること
3. やらせタウンミーティングなど、世論喚起のあり方、法案審議・進め方について大きな過ちを犯しており、そのことを首相自らが認めているなかでの「採決強行」であること
4. 世論の多くは、国民的課題である「教育問題」について、徹底的な審議を求める声であること
これらの理由により、現在の与党による教育基本法「改定」案に断固反対するものです。

 自由の森学園は、憲法・教育基本法の理念に基づいて建学されました。
 今回の法「改定」は、自由の森学園の教育理念・実践の土台を根本から掘り崩しかねない重大な事態であると考えます。
 のみならず、日本の教育や子ども・青年たちの未来を誤った方向に導くものです。
 そこで今日、まずは足元から、ということで自由の森学園関係者、自由の森学園ゆかりの人びとによる、「教育基本法『改定』案反対」「教育の自由を守れ!」「民主主義破壊の強行採決抗議」のアピールを社会に発信します。
 もし仮に教育基本法「改定」案が通ったとしても、私たちは、憲法・(現行)教育基本法の理念に沿った、自由で平等な教育をすすめる、学びと成長の場であることを誠実に求め続けていくことをここに宣言します。


教育基本法「改定」案に反対します
http://www.geocities.jp/kyokiho1215/

海援隊『贈る言葉』(1979年)
https://www.youtube.com/watch?v=ooqTLALNd_0

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辺野古埋め立て

 3月12日火曜日の朝、ヤッホー君のアタマはハコネからヘノコへとハ行の脳内徘徊:

 「漁協が漁業権を放棄したから県知事の許可は要らない(※1)」・・・悪徳デベロッパーのごとき強引な理屈で、米軍新基地建設を本格着工した日本政府。
 漁民が放棄したのではない。
 沖縄防衛局が札束で名護漁協の頬を叩き漁業権を放棄させた。漁師(組合員)1人につき年400〜500万円の補償であることが漁業関係者の証言で分かった(※2)。
 今回、漁業権を放棄させたのは「臨時制限区域(地図・灰色)」の約562ヘクタールだ。ここは米軍新基地の建設に伴い立入り禁止水域となっている。
 滑走路となる「埋め立て予定区域(地図参照・赤)」の160ヘクタールについては、漁業補償費として2013年に、沖縄防衛局から漁師(漁協組合員)1人あたり2千万円が支払われた。
 「埋め立て予定区域(赤色)」は永久に、「臨時制限区域内(灰色)」は建設工事が終わるまで漁ができない。そのための補償(2013年と今回)である。

 「漁ができないのは屈辱だ」
 腕の良さで定評のある海人(うみんちゅ)は語る。漁民に基地建設を反対されると沖縄防衛局は工事を進めにくくなる。
 そこで防衛局は漁業補償とは「もうひとつ別」の慰撫作戦を考え出した。漁師へのアルバイト発注である。
 漁師は自らの漁船を沖縄防衛局の「警戒船」として海に出すのである。臨時制限区域に入ってくる抗議船やカヌー隊を監視するのが警戒船の役目だ。日当は一隻5万円。ひと月に6回出動する。
 朝8時から夕方5時まで境界線に船を浮かべるだけ。警戒活動(見張り)は海上ガードマンが行う。

 「正直言ってキツイよ。何もしないので船酔いする」
 海人が船酔いするというのだ。
 それでも漁師には「漁業補償費」プラス「警戒船アルバイト料」が入ることになる。
 「(日米地位協定に基づき設定された)臨時制限区域では漁業にも規制がかかるんだからな」というのが政府の理屈のようだ。
 
 「建設に反対すれば補償金も入らない。警戒船のアルバイトもなくなるんだよ」
 ある漁師は漁協幹部からこう説き伏せられたという。
 沖縄防衛局は力づくで漁師を建設推進派の方につけたのである。

 「そもそもが海を奪われている」
 海人は悔しさとあきらめが入り混じった顔で話した。
 ◇
※1 漁業調整規則によれば、漁業権の免許権者は県知事となっている。
※2 漁師の手元にわたるのは3〜4月になる見込み。漁協には1月までに支払われた。漁協から組合員にわたる。


2017年2月10日11:42、田中龍作ジャーナル
【辺野古発】400〜500万円で政府に頬叩かれ
漁民「そもそもが海を奪われている」

http://tanakaryusaku.jp/2017/02/00015334

「ヒロジを返せ!ヒロジを返せ!」

 裁判所の職員が制止するのを振り切って数百人が敷地になだれ込んだ。「代表だけにしてください!」「プラカードはだめです!」
 しかし、集会参加者の熱を抑え込むことは、もうできなかった。
 2月24日。裁判所前で開かれた博治さんら3人の即時釈放を求める大集会で、那覇地裁の阿部正幸所長あての即時釈放を求める抗議文を決議した。代表がそれを提出するために裁判所の敷地に入っていくときのことである。

 集まった人々の思いは強く、沖縄県警もなすすべがない。裁判所の玄関を埋め尽くした人びとの歌「今こそ立ち上がろう」(※1)を聞いているしかなかった。右奥の建物には、沖縄の平和運動を牽引してきた唯一無二のリーダー・山城博治さんが勾留されている。もう4ヶ月も、家族に会うことさえできぬまま、手紙も受け取れない、人権を侵された状態で囚われの身となっている。
 でも、この日は1000人を超える人たちのシュプレヒコールが、冷たいコンクリートに囲まれた空間にも届いただろう。博治さんは自分で作詞した「今こそ立ち上がろう」の合唱を聞いて、3畳の部屋でむせび泣いていたかもしれない。参加者の目にも涙があった。何人も泣いていた。「ヒロジ」と書かれたプラカードが空につきあげられ、抗議の声は途絶えることなく那覇に街に響き渡っていた。「われらのリーダーを返せ!」の声は長い列となって、重い冬曇りの国際通りを練り歩いた。
 一本千数百円しかしない有刺鉄線を二本切った。それで逮捕拘束された例があるだろうか。器物損壊といってもごく微罪である。その後、辺野古のゲート前にブロックを積んだこと、防衛局員を揺さぶってけがを負わせたこと、いろいろ合わせて威力業務妨害と傷害容疑だという。証拠隠滅もできない、逃亡の恐れもない博治さんを4ヶ月も勾留するに足る正当な理由など全く見当たらない。それなのに最高裁は保釈を認めなかった。人権の最後の砦であるはずの司法は、またも沖縄のためには機能しなかった。これは明らかに、国の方針に背く表現などは認めませんよ、という権力を使った恫喝である。反対運動するとこうなりますよ、という表現行為の萎縮を狙った見せしめ行為に裁判所がお墨付きを与えたも同然であり、これは日本国民の表現の自由の一角が確実に崩れ始めている姿そのものである。
 「アノヒトタチ、無責任だわ。中国が攻めてきたらどうするの?」と沖縄の基地反対運動を白い目で見る人びとが増えているようだが、中国の脅威より先に、一人ひとりの人権が守れない国になっている恐怖になぜ鈍感でいられるのだろうか。弾圧が始まっている危機になぜ気づかないのだろうか。国の都合で人権が奪われても仕方がない人がいる、なんてことを認めてしまったら、どれだけ恐ろしい社会が復活してしまうのか想像できているだろうか。それは、こんな不当な長期勾留を傍観しているあなたがたが作り出してしまう社会なのだ。
 博治さんは稀有なリーダーである。よく泣く。人前でわんわん泣く。怒鳴るし怒るけど、豪快に笑う。すぐ踊る。大衆の抵抗運動を指揮する軍師としての才能は、いうまでもない。非暴力でありながらひるまずに実力阻止をする体制を次々と編み出して、ケガ人も逮捕者も極力出さない中で、継続可能な抵抗の形を維持する。何よりも、圧倒的に不利な状況にあるときにこそ、「今日はこちらが勝っているぞ! なぜなら…」と意気消沈する仲間を鼓舞する天才なのだ。小さな勝利を見つけるのがうまくて、小さな勝機を最大限に活かす。一緒にいると、もっと頑張れるという気持ちを全員が持てる。明日も来ようという楽しさまで生まれてくる。
 その中でも、私が博治さんを突出したリーダーだと思うのは、常連であれ初心者であれ、地元からだろうと本土からだろうと、まったく分け隔てなく来てくれる人たちを大切にする細やかさだ。名前を覚える。役割を与える。短気で怒鳴ったときでも、後で必ず頭を下げ、言い過ぎた、という。何より同じうちなーんちゅだろう? という姿勢で沖縄県警にも防衛局員にも、警備のアルソックにも話しかける。対立しながら、本当の敵はお前たちではない。こっち側に来たかったらいつでも大歓迎だ。電話してこい! と携帯番号も叫ぶ。そんな博治さんだから、悪性リンパ腫で入院生活に入るときにも、いつもは激しくぶつかり合っている沖縄県警のなじみの警官たちが心配して駆け寄ってきた。
 「新聞で読んだよ」「知らなかったよ」
 中には肩に手を当てて、一刻も早く良くなって。また戻ってこられるように…と言ってくれた警官もいたという。その日の様子は撮影できなかったが、6月23日の慰霊の日に合わせて、博治さんが抗がん剤治療のスケジュールの合間に、入院先から一度ゲートに戻った日に私はカメラを回していた。頭に毛がなくなり、マスクをして、両脇を抱えられるように歩く博治さんだったが、ゲート前まで来ると県警の3人が近づいてきた。
 「元気そうだね…」「嬉しいような。難しいね」と言って笑いあっていた。「高江からだから、もう長いもんな。情が移らないと言ったら、うそになるよな」。そういう博治さんも嬉しそうだった。名護署員だったと思う。サングラスをしていて目は見えなかったが、彼も嬉しそうだった。そしてこう言った。
 「元気になってから、また、お互い暴れましょう」
 彼に会ったことがある人は、30分で彼を好きになるだろう。私は15年博治さんを見てきたが、彼のことはよく知ってるつもりだ。でも今、モザイクをかけ、意図的に編集した博治さんの携帯電話レベルの動画が流布され、辺野古の過激派リーダーという虚像が作り上げられている。趣味の悪い戯言と言っていられないほど出回って、ついにテレビ番組で無批判に取り上げられる世の中になった。逮捕されても仕方がない悪人であると思い込みたい人たちも視聴者の中にはたくさんいるようで、沖縄ヘイトが一つの社会現象にまでなった感がある。
 『標的の村』『戦場ぬ止み』、いずれを見ていただいても、リーダー山城博治の魅力は伝わると思う。間もなく25日から公開になる(沖縄は11日から)『標的の島 風かたか』(※2)も、さらに人間臭い博治さんの姿が見る人の心をとらえるだろう。それでも、世の中の人たちが「ニュース女子」のような番組を見て基地反対運動を分かったかのような態度で切り捨てていく現象に歯止めがかけられない、追い付かない、と焦りが募る。
 私は考えた。一つ、私にできることとして、博治さんの魅力を25分にまとめたVTRを作った。そして、今月発売になるDVD『戦場ぬ止み』の特典映像とした。すでにこの映画を見た人でも、未公開映像25分『不死鳥 山城博治』を見るために、また手に取ってくれるかもしれない。DVDなら、自宅でゆっくり何度でも見ることができる。誰かにあげることもできる。そういう場所に、ちゃんと正面から博治さんをとらえた映像を、置いておきたかった。そこには、入院する前のゲート前最後の日の映像から、退院して歌と踊りで迎えられた2015年9月20日の復活の日、正月の大演説まで、人間・山城博治の名シーンが詰まっている。私たち映画スタッフから博治さん救済のためにできることはこんなことしかないが、最大の愛を込めて作った。
 今、予約販売をネットで受け付けているので、予約だとずいぶん安く、3000円ちょっとで買える。沖縄の平和運動を誤解しているかもしれない人がいたら、ぜひ紹介してほしい。このマガジン9の読者はここで私の動画でたくさん見てくれているかもしれないが、いずれもニュースでは全く流れてないものばかりである。どんな思いで基地建設に反対しているのか、どんな人たちが毎日踏ん張っているのか。日当をもらっているとか、外国人ばかりとか、まったくのデマを信じ込まされる前に、映像を見てほしい。
 ところで、私は今日金沢に来ている。昨夜遅くまでかかって、新しい映画の最後の作業を東京で終えて、その足でやってきた。石川県は3年前、県内9カ所で連続して『標的の村』上映活動を大成功させてくれた土地だ。まだ放送局員だった私に、こんな風に熱烈な支援で、沖縄も、動画製作者も支えようという人々がいることを力強く示してくれた場所だった。それは、アメリカ軍の試射場の建設問題と闘って勝った内灘とか、珠洲の原発反対運動に勝ったとか、そこに至る苦労をよく知る土地柄だったことと無縁ではない。
 内灘闘争のあった土地に生きるある女性が「金は一年 土地は万年」と書かれたむしろ旗を沖縄の闘争現場に持って行ったとき、博治さんがすかさず「内灘からですか」と笑顔で言ってくれたそうだ。彼女はすっかり感激し、博治ファンになったという。博治さんは日本各地の住民闘争について深い思いを持っていた。だから沖縄だけが被害者であるような言い方もしなかったし、遠くから来てくれる方々の思いに報いたいと懸命だった。
 この女性が言っていた。初めて辺野古に行っておろおろしていた時に、やさしく声をかけてくれたのが博治さんだった。そして、いつも来る人たちに対して、「周りを良く見てほしい。一人でいる人がいないか。遠くから一人でも来てくれている仲間を大切にしてほしい。目配りをしてほしい」と。
 私は今夜その話が聞けてとても嬉しかった。遠い金沢で、博治さんを知る人がたくさんいて、そのすごさを口々に語るのを見て誇らしかった。過激派呼ばわりされ貶められ幽閉されたままの今の状況に焦って空回りしていたけれど、全国には博治さんのことをちゃんと知ってる人がたくさんいる。自分のことのように心配してくれている人がたくさんいる。山城博治は沖縄県民の誇りであるだけでなく、日本中のがんばっている人たちの誇りでもあるのだ。また不死鳥のように現場に舞い戻ってくるその日まで、自分のやるべきことをやろう。彼の分まで頑張ろうと歯を食いしばっているたくさんの仲間たちと同じように。


2017年3月1日up、三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記
ヒロジを返せ! 県民大集会
http://www.magazine9.jp/article/mikami/32402/

 ◇
※1 加藤登紀子「今こそ立ち上がろう」11/29辺野古ゲート前
https://www.youtube.com/watch?v=jXjzbWF4SBM
※2『標的の島 風かたか』劇場予告編
https://www.youtube.com/watch?v=3a1h48_dQhU

 2016年6月19日、過去最も悲しい県民大会が那覇で開かれた。炎天下の競技場を覆いつくした6万5千人は、悔しさと自責の念で内面からも自分を焼くような痛みに耐えていた。20歳の女性がジョギング中に元海兵隊の男に後ろから殴られ、暴行の末、棄てられた。数えきれない米兵の凶悪犯罪。こんな惨事は最後にしたいと1995年、少女暴行事件で沖縄県民は立ち上がったはずだった。あれから21年。そのころ生まれた子を私たちは守ってやれなかった。
 大会冒頭に古謝美佐子さんの「童神(わらびがみ)」が歌われると聞いて、私は歌詞を聴かないことにした。子の成長を願う母の気持ちを歌ったもので、とても冷静に撮影できないと思ったからだ。ところが被害者の出身地の市長である稲嶺進さんが、歌の後にこう語った。

「今の歌に『風(かじ)かたか』という言葉がありました。私たちはまた、一つの命を守る風よけー『風かたか』になれなかった」

 そう言って泣いた。会場の女性たちも号泣した。
 できることなら、世間の強い雨風から我が子を守ってやりたいというのが親心。でも、どうやったら日米両政府が沖縄に課す残酷な暴風雨の防波堤になれるというのか。しかし勝算はなくても、沖縄県民は辺野古・高江で基地建設を進めるトラックの前に立ちはだかる。沖縄の人々は、未来の子供たちの防波堤になろうとする。
 一方で日本という国は今また、沖縄を防波堤にして安心を得ようとしている。中国の脅威を喧伝しながら自衛隊のミサイル部隊を石垣、宮古、沖縄本島、奄美に配備し、南西諸島を軍事要塞化する計画だ。その目的は南西諸島の海峡封鎖。だが、実はそれはアメリカの極東戦略の一環であり、日本の国土も、アメリカにとっては中国の拡大を封じ込める防波堤とみなされている。
 この映画はそれら三つの「風かたか」=防波堤を巡る物語である。


『標的の島 風かたか』監督メッセージ
3月11日(土)より沖縄・桜坂劇場にて
3月25日(土)より東京・ポレポレ東中野にて
他全国順次ロードショー

http://hyotekinoshima.com/

ピーター・バラカン(ブロードキャスター)
この映画で初めて知った「エアシー・バトル構想」にはぞっとするものがあります。改めて沖縄を犠牲にしようとするこの国の政府は本当に許せない。まずこれを見て、実態を知りましょう。

http://hyotekinoshima.com/comments/

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2017年03月13日

箱根山の2015年噴火

 まずはこれ。
 🎵季節はもう春だというのに北海道の釧路は寒く、外は冷たい風が吹いている…🎵:

高倉健・八代亜紀「挽歌」(1990年)
https://www.youtube.com/watch?v=4cWSInu03fA

 あっボタンの押し間違い、これでした:

八代亜紀「心をつなぐ十円玉」(2014年)
https://www.youtube.com/watch?v=IxsQsLRNp3Q

 えっどうして八代亜紀(1950年生まれ)?

 八代さんが15歳の時、地元のバス会社のバスガイドになる前の研修時の写真。当時はスチュワーデスより人気の職業だったが、勤務はハード。朝早くの出勤でバスを掃除し、お客様を観光へ案内。戻ってからまたバスを掃除して帰宅すると、真夜中になることもあったとか。

『これは中学を卒業し、バスガイドになる前の研修中の1枚です。
 私がバスガイドになったのは、ある真剣な思いからです。当時、会社を経営していた父は月末になると支払いに苦悩しておりました。大好きな父のその姿を見て、「よし!私が稼いでお父さんを助ける」と内緒で思っていたんです。私は12歳の時、アメリカのクラブシンガー、ジュリー・ロンドンに憧れ、自分もそうなると決めていました。ですが、まだクラブで歌える年齢ではなく、また、性格がとても内気だったので、まずはバスガイドになって度胸をつけ、歌は実地で学ぼうと思ったんです。
 進学を希望していた父や先生の大反対を押し切ったものの、お客さんの前で話すのが恥ずかしくて恥ずかしくて。男子大学生の貸し切りバスに乗った時など、マイクを出した途端、一斉にはやしたてられ、真っ赤になった私は何も説明できなくなってしまいました。そのまま名所も通り過ぎ、運転手さんにものすごく怒られたことがあります。
 何ヶ月やってもダメガイドだった私の夢が本当は歌手だと知っていた友人が、ある日地元のキャバレーに連れていってくれたんです。年齢をごまかした私は、採用試験代わりに、まだ歌詞の意味もわからない60年代に流行したムード歌謡「誰よりも君を愛す」を歌うことに。途端に、お店にいたお客さんやスタッフがみな立ち上がってホールに集まり、歌にあわせてダンスを始めたんです。あれが自分の歌に自信を持てた瞬間でした。
 結局、親に内緒でバスガイドをやめ、朝早く家を出て時間をつぶし、ステージを務めて帰宅していましたが、3日目にばれました。いつも大通りまで迎えにきてくれる父がいなくて、家に帰ったら、ちゃぶ台の前にいる父の背中が怖くて怖くて。「なぜそんな不良になったのか理由を言え」と、殺されると思うぐらい怒られました。ちゃぶ台をひっくり返し、柱時計まで飛んできて。お父さんを助けたかったなどと死んでも言えないので殴られても黙っていました。「どうして、そぎゃん、もっこす(頑固)とね」と言われた時、「お父さんの娘だけんね」と答えたら父は大泣きし、この後私は勘当されたんです。
 そして一人上京した私は、後がないと必死で頑張り、やがて歌手・八代亜紀が誕生しました。父は私がデビュー後に、一人で地方回りをしていた姿を見て涙を流したそうで、会社をたたみ、家族で上京し、私を支えてくれたんです。
 もしバスガイドにならなかったら。そしてあの日、お父さんが半端に許してくれ、熊本にあのまま居たら、八代亜紀は生まれなかったかもしれないと思うと、運命は不思議ですね』

◇ やしろ・あき 歌手。熊本県八代市出身。1971年デビュー。「なみだ恋」「舟唄」等、数々のヒット曲を出し、80年には「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞受賞。2012年には、ジャズアルバム「夜のアルバム」を発売。邦人アルバム史上最大級となる世界75ヶ国で配信された。

◆ 八代亜紀さんが昨年、2014年出したシングル「心をつなぐ10円玉」。心に残る・未来に残したいメッセージ企画「わたし遺産」で大賞を受賞した作品「命をつなぐ10円玉」を原案にした曲。その他、ささやきかけるようなバラード「あなたにありがとう」「五月雨の道」を収録。


2015年2月23日付け朝日新聞デジタル
何ヶ月やってもダメガイドだった 八代亜紀さん
http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2015022076531.html

 この八代亜紀は強羅にアトリエをかまえ、そんな縁があってか:

 2015年11月13日、役場本庁で「はこね親善大使」委嘱式が行われ、演歌歌手であり画家としても活躍している八代亜紀さんが就任しました。
 当日は職員一同で八代さんを出迎えた後、分庁舎4階の会議室で「はこね親善大使」委嘱式を執り行い、山口町長から八代さんに委嘱状が交付されました。
 八代さんには今後、コンサートをはじめとするさまざまな活動の中で「はこね親善大使」就任の話題や箱根町のPRなどに務めていただきます。


2016年3月20日更新、箱根町公式サイト
「はこね親善大使」に八代亜紀さんが就任!
https://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/11,2562,52,194,html

 箱根町の人口は、13,853人(平成22年10月1日現在)。そして:

 2015(平成27)年の入込観光客は、大涌谷周辺の火山活動の活発化による影響を大 きく受け、当町にとっては大変厳しい1年となった。
 入込観光客総数は、17,376千人(前年比82.0% 3,814千人の減)と前年を大きく下回る結果となった。その内訳は、宿泊客が3,665千人(前年比79.6% 942千人の減)、日帰り客が13,711千人(前年比82.7% 2,872千人の減)となっている。


平成28年6月箱根町企画観光部観光課
2015(平成27)年入込観光客総評
http://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/11,4552,c,html/4552/20160603-144453.pdf

 あんなこと、こんなこと、あったのです:

 箱根山は日本の110活火山のひとつである。
 その地下には生きたマグマだまりがあり、温泉や噴気を地表にもたらすとともに、数年に一度は火山性の群発地震も起きてきた。
 本年2015年4月下旬から始まった群発地震では、5月に入って大涌谷の噴気量が急激に増え、轟音とともに激しく噴き出る「暴噴」と呼ばれる状態になった。

 これを受けて気象庁は、5月6日に箱根山の噴火警戒レベルを2に上げ、箱根町は大涌谷付近の立入りを規制した。
 その後、群発地震は徐々に衰えを見せていたが、6月29日朝から再び活発化し、翌30日にかけて大涌谷の中に4つの新しい火口が開き、水蒸気噴火が生じた。
 この噴火は、昨年の御嶽山噴火と同種の、噴気の圧力が主因となったもので、マグマが地表に達して起きたものではない。
 噴出した火山灰の量は百トン程度(昨年の御嶽山噴火の約5千分の1)で、ごく小規模な噴火であった。
 ただし、箱根山で確認された噴火としては、13世紀頃に大涌谷で生じた水蒸気噴火以来のまれな出来事である。

 この噴火の発生によって警戒レベルは3となり、規制範囲が広げられた。
 しかし、幸いにしてその後は落ち着いた状態が続き、4月以来続いていた山体の膨張も8月中に収まったため、9月11日にレベル2に戻され、規制範囲も縮小されて現在に至っている。
 今後、山体の膨張が再開したりしなければ、今回の火山活動はこのまま収まっていくと思われる。
 ただし、暴噴は現在も継続しており、そのために大涌谷の火山ガス濃度も高く、風向きによっては健康を害する恐れがあるため、しばらくの間は警戒レベルを1に戻せないだろう。

 箱根山は、平均して3000年に1度ほど、マグマそのものが噴出する厳しい噴火をくり返してきた。
 今回そうした事態に至らなかったことは不幸中の幸いであったが、噴火の認定や情報の伝え方等に課題を残した。
 一方で、温泉や美しい景観に代表される火山独特の恵みのおかげで、箱根山は一大観光地となった訳である。
 火山の恵みと災害は表裏一体のものであり、人間の都合でどうにかなる相手ではない。
 箱根山での経験を他山の石とし、さまざまな検証を通じて火山との付き合い方を今一度見直す機会としてほしいと願う。


2015年10月21日付け静岡新聞「時評」
箱根山の2015年噴火
火山対策検証の機会

小山真人(静岡大学防災総合センター教授)
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/opinion/jihyo65.html

写真2―
 北西から見た箱根カルデラ。
 中央の高い山が中央火口丘の神山で、その右側に芦ノ湖が見える。
 神山の左肩付近の噴気を上げている場所が大涌谷。
 3000年ほど前に神山が山体崩壊を起こし、崩れた大量の土石が手前のゴルフ場とその奥の別荘地のある扇状の地形をつくった。
(2016年11月6日撮影)

http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/onlinepaper/Kagaku_201701_Koyama2b.pdf

 2017年3月12日ヤッホー君撮影↓
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 では、ここで動画を2本ほど
@ 美しき日本、神奈川・箱根町
https://www.youtube.com/watch?v=wnU9QZf3qhE

A 氷川きよし「箱根八里の半次郎」(2000年)
https://www.youtube.com/watch?v=F1dNRVNWs8E

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箱根外輪山

 2017年3月12日、山歩クラブ6人衆と歩いた箱根の三景:

 芦ノ湖↓
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 山の雪路↓
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 富士見↓
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 ね、富士山が見えて、振り返ると芦ノ湖が見え……
 まずは鳥になって、大空から箱根を見ましょう。

 都心から最も近いカルデラ地形は箱根にあります。ドライブするには程よい距離です。
 直径は阿蘇カルデラの半分程度ですが、外輪山が観光道路になっています。
 箱根火山は約50万年前から活動をはじめた古い火山です。
 金時山を含む古期外輪山は、推定標高2800mの円錐火山の名残であるとの説があります。
 つまり富士山のような均整の取れた火山がかつては箱根にあり、大規模な噴火により山体が吹き飛んでカルデラが形成されたと考えられています。
 このようなカルデラを「爆発カルデラ」と呼んだりします。
 また、古期外輪山はいくつかの成層火山の集合体で、個々の火山の数回の噴火によって、複数のカルデラが連接して形成されたという別の説もあります。
 カルデラ底に水がたまってできたのが観光船が運航されてる「芦ノ湖」です。
 実は箱根の外輪山は2重になっていて、芦ノ湖の内側にある山々は、16万年前からの火山活動により作られました(新期外輪山)。
 こちらでも大規模な噴火により、約6万6千年前に大量の軽石を放出しました。
 武蔵野台地に降り積もりましたし、火砕流は現在の横浜市まで達したようです。
 手前にある湯河原カルデラは、はるか昔にあった湯河原火山の火口が長年の侵食によって作られた「侵食カルデラ」であると考えられています。


駒澤大学、地理学特講V
「鳥瞰図の世界」活火山の鳥瞰図(カルデラ)
https://www.komazawa-u.ac.jp/~fumio/k2015/c-bird/c-3.html

 どうして「箱根」って名前がついたの?

4.箱根の観光地としての成立過程
 神奈川県南西部、足柄下郡に位置する、人口約14,000人(2007年)の町である。
 箱根山古期カルデラの外輪山内側一帯を町域とし、全域が富士箱根伊豆国立公園に含まれる。
 古代の箱根山は山岳信仰の聖地で、757(天平宝字1)年には箱根三所権現がまつられたと伝えられる。
 中世には鎌倉幕府の庇護のもと栄え、江戸時代に入ると箱根関が置かれ、中心集落の箱根は宿場町として、元箱根は箱根神社の門前町として、湯本は湯治場として発展した。
 1888(明治21)年に小田原馬車鉄道が開通し、ついで1900(明治33)年には小田原電気鉄道(のちの箱根登山鉄道)の路面電車に発展するに及び大正〜昭和初期にかけて箱根山一帯で観光開発が進み、近代的な観光保養地として発展を遂げた。
 芦ノ湖をはじめとする美しい自然景観と数多くの文化遺産、箱根湯本ほか18湯の豊富な温泉に恵まれ、日本を代表する国際観光保養地として 年間1900万人以上の内外観光客を集め、就業人口の9割が、サービス産業を中心とした第3次産業で占められている。
 保養所やキャンプ場、ゴルフ場、スケート場などレクリエーション施設も数多くあり、温泉供給事業といった公営事業も行われている。
 箱根登山鉄道のほか、国道1号、138号線、箱根ロープウェイ、芦ノ湖スカイライン、乙女道路など交通手段も整備されている。
 箱根旧街道箱根関所跡、元箱根石仏群などの国指定史跡や、天然記念物の箱根仙石原植物群落がある。
 また彫刻の森美術館、箱根美術館など文化施設も多い。
 なお、箱根は関東、中部以西を結ぶ交通の主要地点と位置づけられるが、箱根山は東海道が通過する位置に横たわる山であり、いずれかのルートで通過しなければならなかった。
 近代観光の時代に至るまでを開通した順に記すと、
@ 碓氷道(上古道)、
A 足柄道(中古道−平安時代)、
B 湯坂道(近古道−鎌倉時代)、
C 旧道(近世道−江戸時代)、
D 新道(国道1号線−大正時代)のさまざまなルートが開かれた。
 また、標高約720m以上の芦ノ湖付近では、海に近い小田原よりも気温は4℃以上低くなる。
 足之湯にある横浜気象台箱根地域雨量観測所の1974(昭和49)年から今日までの観測記録をみると、平均して年間約3500mmで、これは東京の2倍以上に当たり、箱根は雨の多いところといえる。
 地図をみると、箱根山は太平洋の相模湾や駿河湾のすぐ近くに位置し、海岸線に近いところから、最も高い標高1438m(神山)までわずかな距離で一気に高くなっていることがわかる。

4.1 箱根の地名の由来と箱根神社
 「箱(はこ)根(ね)」という名称は、今から1200年ほど前に作られた『万葉集』の中の巻七に収められている一首に「筥根」と書かれている。
 「箱型の山」という意味で付けられたと考えられている。
 1191(建久2)年に、箱根神社の創建について記された『箱(はこ)根(ね)山(さん)縁(えん)起(ぎ)幷(ならびに)序(じょ)』には、欽明天皇の時代(539-571)に、駒ケ岳に登った高僧が「この山は梵(ぼん)篋(きょう)(仏典を入れる箱)に似ている。筥は文殊菩薩の智恵の源だ」と言って、「筥根山」と名付けたと書かれている。
 この箱根神社は、もとは「箱根権現」と呼ばれていた。
 箱根神社の創建は、神仏習合が始まった奈良時代に遡り、万(まん)巻(がん)(満願)上人という山岳修行僧が757(天平宝字元)年に箱根山に入り開山されたと伝えられている。
 また、箱根山で、六道地蔵などの磨崖仏、石仏、石塔群がみられるのは、「地蔵信仰」の霊地であったことを示す。
 また、源頼朝が平家打倒の最初の挙兵をした1180(治承4)年8月17日、圧倒的な平家軍の前に敗れ、追手を逃れた頼朝は、土肥椙山(今の湯河原町)の山中に身を潜め一命を得た。
 頼朝を一時的にかくまったのが箱根権現の別当行実とその弟永実だった。
 鎌倉で幕府を開いた頼朝は、箱根権現から受けた恩を忘れず、箱根権現を伊豆山権現とともに関東の鎮護神として敬い、1188(文治4)年正月から二社に参詣する「二所詣」を始めた。
 以降、頼朝は、1199(正治元)年に亡くなるまで四回、二所詣に赴いた。
 『吾妻鏡』には、三代将軍実朝、四代頼経の代にも続けられた。


日光、箱根を対象とした観光地形成過程についての考察
──観光資源、交通環境と初期段階の外国人利用の差異に着目して──
東洋大学国際地域学研究科国際地域学専攻博士後期課程1年 野瀬元子
https://www.toyo.ac.jp/file/kiyo/pdf/45/e03.pdf

 もう少し、箱根山って整理すると:

 箱根山は、金時山をはじめとする外輪山がほぼ環状に連なる二重式火山で、中央火口丘として、北から神山・駒ヶ岳・上二子山・下二子山の4つの山がある。
 (※箱根山の外輪山は、金時山・明神岳・明星岳・鷹巣山・要害山・鞍掛山・山伏峠・三国山・丸山岳が環状に連なる)
 箱根の記述は、「山体の東北腹には大涌谷、早雲地獄、湯ノ花沢などの爆裂火口を存し、現今尚水蒸気及硫気を噴出し、また温泉を噴出して居る。その中大涌谷は最も盛で泥水を湛ふる熱池、泥火山、硫質噴気孔、噴泉などがあり、爆裂の余勢を示し、爆裂の結果流出した泥流は千石原、宮城野などの火口原に達して居る」(『日本案内記関東篇』(鉄道省、昭和5年)とあり、火山活動の結果形成された地であることを述べる。
 また、芦ノ湖とその周辺の原野について、「火口原は蹄鉄状をなし、その西南部には水を湛へて蘆湖となり、その北に千石原、東北に宮城野原がある。これらの原野はもと湖底を存して居たものである」(同書)と、火口原の形成について触れる。
 さらに、早川と須雲川について、「火口原の水は外輪山の一部を破つて火口瀬をなす。その北にあるものを早川と云ひ、南にあるものを須雲川と称す(中略)宮ノ下、堂ヶ島のあたりは早川の外輪山を破る処で渓谷が極めて深い」(同書)と、火口原から流れ出た二つの河川と、それが形づくる渓谷について記述が及ぶ。
。。。


愛知淑徳大学、現代社会研究科研究報告
『日本案内記』に見る国立公園の旅行記事に関する一考察(2)
-―昭和初期における観光文化研究―-

谷沢明
http://aska-r.aasa.ac.jp/dspace/bitstream/10638/5490/1/0034-010-201405-001-032.pdf

 そういえば冬の終わりの箱根路でヤッホー君たち、「箱根外輪山を歩いているんだ、三日はかかるね」と語ってくれた定年を過ぎたと思しき初老の一人旅の男性とお会いしました。
 じゃあ、山歩クラブ、これまでの15年間の歴史のなかで、どんだけの外輪山を歩ききったんだろうとヤッホー君、さっそく指折り数え始めたところで、どうやらお時間のようです。

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不来方高ダブル出場

 昨日の3月12日日曜日は山歩クラブの6人の仲間と箱根へのお山歩会!
 でもね「箱根って何なの?」って考えこんでしまったのがヤッホー君。
 昨夜雪が舞ったのか、遠くの山並みや木々にはうっすらと白いものが。
 地面だって白く覆われていて、「こりゃあ、霜柱じゃないよね」って。
 浅き春どころではありません、まだ箱根の季節は冬の終わりでしたぁ。

冬の終りが来るたびに
あなたの文字を思い出す
なんだか 鼻のあたりがつんとする
木の芽の香りかしら
夢見る私をまだ笑ってるの
ノートを借りたあの日のように
探してた 悩んでた
わけもなく不安だった
何を綴ってもうそになりそうで
返事を出せず月日は流れ
なぜかしら どこからか
ふと蘇える
あの頃の私達
同じだけ楽しかった

松任谷由美「冬の終わり」

 福島県の猪苗代湖では、冬の終わりを告げる白鳥の“北帰行”が始まった。
 2017年3月6日朝、猪苗代湖の三城潟で羽を休めていた白鳥たちが群れをつくり一斉に飛び立って行った。
 この冬、猪苗代湖には2000羽の白鳥が飛来したが、雪が多かったためか北帰行は去年より1週間ほど遅いという。
 白鳥の北帰行は、3月いっぱい続きそうだ。


2017年3月6日14:27、日テレNEWS24
冬の終わり告げる…白鳥“北帰行”猪苗代湖
http://www.news24.jp/articles/2017/03/06/07355765.html

 そうなんですよね、春の話題を持ち出すってことは、春を待ち望んでいるヤッホー君のこころ模様が現れたからなんで、まだまだ、体感できる春には遠ぉ〜いのかも知しれませんょ。
 でも春の足音だけはヤッホー君の耳に届くんだって、フ・シ・ギ!

 第89回選抜高校野球大会(2017年3月19日から12日間・甲子園)の組み合わせ抽選会は10日大阪市内で行なわれ、本県岩手県から4年ぶり4度目出場の盛岡大付は、富山の高岡商(7年ぶり5回目)と第2日の第1試合で対戦することが決まった。
 21世紀枠で初出場する不来方は、静岡(2年ぶり16度目)と第5日の第3試合で対戦することが決まった。

 
2017/03/10付け岩手日報 Web News
盛岡大付は高岡商、不来方は静岡
センバツ組み合わせ

https://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20170310_5

 盛岡大学附属高等学校(盛岡市厨川5丁目4-1 Tel 019-641-1121)。
 では不来方高校(岩手県紫波郡矢巾町南矢幅第9地割1番地1号 Tel 019-697-8247)って?まずなんて読むのかな?

 コンプライアンスなるものにビクビクして脇を固める我ら哀しき勤め人にとって、胸がすく話である。3月19日に開幕を迎える春のセンバツに、史上最少人数の部員10人で初出場する岩手県の不来方(こずかた)高校。彼らは守備度外視の超攻撃型スタイルで甲子園に挑むのだ。

「野球は楽しむことが一番。選手たちも、打って点を入れるのがとても楽しそうです」
と、同校野球部の小山健人監督は楽天的に語る。

 県立高校で強豪校ではない上に、部員が集まらず、わずか10人で練習を続けてきた不来方高校は、少人数で奮闘してきたことなどが評価され、「特別枠」の21世紀枠でセンバツへの切符を手に入れた。とはいえ、実力が伴っていないわけではなく、昨秋の県大会では準優勝を飾ってもいる。その力の源は、先に小山監督が述べた「攻撃」。なにしろ、練習の9割を打撃練習に割いているのだ。

「もともと、うちには接戦で勝ち抜く底力がないこともあり、甲子園を目指すなら打ち勝たなければならないと考えていましたが、昨年の夏、3年生が抜けて部員が10人しかいなくなってしまった。現実問題、ランナーを置いての実戦的な守備練習なんかはできないんですよ」(同)

 いわば瓢箪から駒の超攻撃型スタイルでもあるわけだが、地区大会では9対5、13対3といった具合に文字通り打ち勝ってきた。

■ 「エラーを責めない」
 例えば、レフトを守る2年生の菅原岳人くんは100キロの巨漢で、母親の吏香(りか)さんが、

「守備の動きは確かに鈍いですね」
と認め、同校野球部OBの昆(こん)竜洋さんも、
「ボールへの反応が遅いので、ダイビングキャッチになってしまうことが多い」
こう証言する。一方で、その巨躯から想像できるようにパワーヒッターであり、周囲からも守備より何より「一発」を期待されている。兎にも角にも、

「エラーを責めないようにしています」(小山監督)
という、攻撃野球を実践している不来方高校。そこで思い出されるのは、2014年に日本テレビ系列で放送された二宮和也主演のドラマだ。とにかく打ちまくることに専念して成長していく弱小高校の選手たちを描いて話題を集めたこのドラマは、あるノンフィクション作品が原作になっていた。『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』(新潮文庫)である。

 同作の著者でノンフィクション作家の高橋秀実(ひでみね)氏は、

「1番が塁に出て2番が送るといった野球のセオリーとは強豪校同士が戦う時のもので、開成高校のようにそうでない学校はそれでは勝てません」

とした上で、不来方高校にこうエールを送る。

「非強豪校は、野球のセオリーという『思い込み』から離れ、勝負に勝つにはどうしたらいいかを考えなければならない。これを突き詰めると、0点では絶対に勝てないわけですから、どうやって点を取るかに行き着く。不来方高校が守備よりも打撃に力を入れているのは戦略的に正しいと思います。甲子園で大量得点し、『こういう戦い方があったのか』と見せつけてくれたら、非常に歴史的なセンバツになるでしょうね」

楽天的な不来方野球部の、楽点野球に乞うご期待。
2017年3月9日号「週刊新潮」
ワイド特集「春の嵐おさまらず」より

3/9(木)5:58配信Yahooニュース
部員10人で甲子園 「不来方高校」必見の超攻撃型スタイル(デイリー新潮)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170309-00518534-shincho-base

 でもそれだけではなさそう・・・

 2017年3月19日に開幕する第89回選抜高校野球大会の開会式で、岩手県矢巾町の不来方(こずかた)高3年竹内菜緒さん(18)=盛岡市=が国歌独唱を務める。同校野球部は部員10人ながら、21世紀枠で春夏通じて初の甲子園出場を決めた。竹内さんは野球部との「ダブル出場」を喜び「一緒に岩手を元気づけたい」と練習に励んでいる。
 竹内さんは同校の音楽コースで声楽を専攻。昨年2016年12月に横浜市であった全日本学生音楽コンクール全国大会に出場し、声楽部門高校の部で1位に輝いた。
 音楽部に3年間所属し、合唱にも打ち込んだ。同年2016年10月の全日本合唱コンクール全国大会では、2年連続となる最高賞の文部科学大臣賞を受賞。実績の数々が大会運営委員会に評価され、国歌独唱の大役に抜てきされた。
 竹内さんにとって、球場で国歌を披露するのは2回目。昨年2016年5月に岩手県営野球場(盛岡市)であった東北楽天−オリックス戦で、音楽部の仲間40人との合唱を経験した。
 指導する音楽部顧問の村松玲子教頭(59)は
「開会式は大観衆を前にしての独唱なので不安だと思う。でも、本番に強くて努力を惜しまない彼女なら大丈夫」と見守る。
 竹内さんは3月1日に卒業式を終えた後も連日、学校に通って練習を重ねる。
 4月に東京の国立音楽大に進学し、国内外で活躍する声楽家を目指すという。
 竹内さんは
「開会式は不来方高の制服を着て立てる最後のステージ。選手に勇気を与えられるよう自信を持って歌う」と意気込む。

2017年03月13日月曜日付け河北新報
<センバツ>国歌独唱 不来方高ダブル出場
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201703/20170313_33021.html

 独唱も野球も、明るい平和な未来をつくる君たちの若い力を信じて、一生懸命応援してるよってヤッホー君!

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2017年03月11日

東京マグニチュード8.0

 3月11日土曜日、ヤッホー君は徘徊ではなくちゃんと目的をもっておでかけ。
 だってさ、全労済の役員研修会だったんだって。
 14時46分にはきちんと、2万人の犠牲者に1分間、黙祷をささげてきました!
 ホント?
 行った先は、ソナエリア。
 当初はこれ何語?ってしきりに首をかしげていたんです。
 が、現地に飛んで納得、「備えあれば憂いなし」でした。
 だから、あの「ソナエリア」でなくって「そなエリア」!
 そぉう?

 「東京臨海広域防災公園」は国の災害応急対策の拠点として整備された6.7haの国営公園、6.5haの都立公園の計13.2haの広域防災公園で、その中に防災体験学習施設「そなエリア東京」はあります。
 1名から15名前後で防災体験「東京直下72h TOUR」に参加する場合は、ご予約の必要はありません。
 ご来場頂き、エントランスに掲示しいている次回案内時間に、「東京直下72h TOUR」入口にお集まりください。
 なお、一般の来園・来館者用駐車場はございませんので、公共交通機関をご利用下さい。
 また、「そなエリア東京」正面に2台分の障がい者用駐車場をご用意しております。


東京臨海広域防災公園
防災体験学習(そなエリア東京)
http://www.tokyorinkai-koen.jp/sonaarea/

 岡橋ゆかりさんの案内で、広い施設のなかをあちこち、うろちょろ。
 ここで見たアニメの物語にヤッホー君、またまた泣いていましたぁ:

東京マグニチュード8.0
https://www.youtube.com/watch?v=LB06ZL49Hxg

 そして、イマ、絶望的に巨大な揺れが東京を襲った−
 もしもイマ、関東大震災を越えるマグニチュード8.0の大地震が首都・東京で発生したら…。
 そのとき、私たちは誰を想い、何をすべきなのか。
 『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』のボンズと、『劇場版交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』のキネマシトラス(アニメーション制作)が強力タッグ。
 圧倒的なスケールと迫力溢れる映像で描く!

 夏休みに入ったばかりのお台場。
 中学1年生の未来は、弟の悠貴に付き合わされロボット展を見に来ていた。
 はしゃぐ弟を横目に、反抗期真っ盛りの未来は退屈そうにケータイをいじっている。
 「毎日毎日ヤなことばっかり…。いっそのこと、こんな世界、壊れちゃえばいいのに」
 そう思った瞬間、突然地面が激しく揺れた。

 東京を襲った、マグニチュード8.0の海溝型大地震。
 連絡橋は崩れ落ち、東京タワーは倒壊−。一瞬にしてすべてが変わった東京。
 未来は悠貴の手をひき、お台場で出会ったバイク便ライダー・真理の力を借りながら世田谷にある自宅へ向かう。
 果たして3人は無事に家に帰ることができるのか−。


フジテレビホームページ、2009年9月17日(木)放送終了
東京マグニチュード8.0
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/tokyo-m8/

http://tokyo-m8.com/

 この施設は、東宝製作のゴジラシリーズの第29作映画『シンゴジラ』(総監督・脚本:庵野秀明、2016年7月)の撮影現場ともなりました。

http://shin-godzilla.jp/

https://www.youtube.com/watch?v=t1LNLf2JGLc

https://www.youtube.com/watch?v=M89VLZgo1Vg

災害対応を担う役人から勧められたリアルさ
 某省庁で災害対応を担当している友人から、シン・ゴジラを見た方がよいと盆中に勧められ、翌日、久しぶりに映画館にでかけました。確かに、我が国の災害対応の現状が、人、仕組み、場所など、いろいろな面でリアルに描かれていました。ですが、内容の面白さに圧倒され、思わず見入ってしまい、勉強は後回しになってしまいました。とはいえ、初志貫徹で、ストーリーを思い出しながらシン・ゴジラから見える我が国の防災対応の現状について考えてみたいと思います。
 映画から感じたのは、阪神淡路大震災以降に構築してきた我が国の防災体制、東日本大震災での政府の危機対応、首都直下地震に対する備えの現状などに関する検証の必要性でした。

災害対応の拠点
 映画の中では、いくつかの災害対応拠点が登場しました。首相官邸の地下にある「危機管理センター」、東京臨海広域防災公園にある「有明の丘基幹的防災拠点施設」のオペレーションルーム、「立川広域防災基地」の3か所です。映画では、当初は危機管理センターで対応をしていましたが、ゴジラが都心を破壊して以降は立川で対応が行われていました。
 序盤の場面の多くは官邸危機管理センターの様子でしたが、ときどき体育館のような巨大な部屋が登場しました。これが、東京臨海広域防災公園内の施設です。首都圏での大規模災害発生時の基幹的広域防災拠点として整備された場所で、「災害現地対策本部」等の設置、広域支援部隊等のベースキャンプ、災害医療の支援基地などになります。防災体験学習施設「そなエリア東京」も併設されていて、平時は啓発拠点の役割も担っています。
 一方、立川広域防災基地は、都心から30km離れた場所にあり、立川防災合同庁舎や、飛行場を含む陸上自衛隊立川駐屯地、災害医療センター、警視庁や東京消防庁の施設、立川防災館などがあり、敷地面積165haの昭和記念公園にも隣接しています。防災合同庁舎には、都心での対応が困難になったときのために、内閣府の災害対策本部予備施設も設置されています。映画では、後半、官邸機能をここに避難させて対応していました。


2016/8/21(日)6:30更新、Yahooニュース
「シン・ゴジラ」が一石を投じる、日本の災害対応の現状とあるべき姿
福和伸夫、名古屋大学減災連携研究センターセンター長・教授

合格発表直後に起きた東日本大震災
 東京大学や京都大学の合格者の中には、震災当日は東京や京都で下宿探しをしていた人も多いと思います。当日は新幹線などの交通機関が途絶し、宿泊場所に苦労しただろうと想像されます。また、東北大学など東北地方の大学の合格者は、被害を受けた大学キャンパスや市内の様子を見て、4月以降の学生生活に不安感を抱いたのではないかと思います。大きな津波被害を受けた石巻市では、石巻専修大学の施設が避難所として転用されました。

中止や延期になった後期日程の入学試験
 2011年の国立大学の後期日程入学試験は3月12日以降に予定されていました。多くの大学は震災翌日の3月12日が試験日でした。まさに、3月11日は、前期日程の合格発表と後期日程の入学試験の間の狭間の日でした。前期日程で不合格だった受験生は、震災当日は、後期日程入試の受験のために、遠隔の受験地に移動していました。被災地の大学では、受験する場所の下見中に、強い揺れに翻弄されることになり、翌日の受験に不安を覚えただろうと想像されます。また、被災地の受験生は試験どころではなかっただろうと思われます。
 東北地方や関東地方の大学では、後期日程入試が中止、延期されました。また、多くの大学で、被災地の受験生向けに追試験が行われました。入試が中止された大学の多くでは、入試センター試験の点数で合否が判定されました。震災当時の河合塾の調べで は、後期日程を取り止めた大学が25大学、延期した大学が4 大学、追試験を実施した大学が35大学であったようです。
 震災翌日に予定されていた入学試験を中止するには、受験生への連絡が必要になります。非常時の大学当局の対応の大変さが想像できます。


3/10(金)6:30更新、Yahooニュース
東日本大震災から6年、地震と大学受験
福和伸夫
https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20170310-00068532/

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2017年3月11日

 3月10日は戦災を想い起こす日、3月11日は震災を振り返る日、です。

 1945(昭和20)年3月10日の未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による東京下町地区を目標にした無差別爆撃で、人口過密地帯は火炎地獄と化し、罹災者は100万人をこえて、推定10万人もの尊い命が失われました。
 3月10日を含め、東京は100回以上もの空襲を受けて、市街地の5割を焼失したのです。


東京大空襲・戦災資料センター 館長 早乙女勝元
http://www.tokyo-sensai.net/concept/index.html

 そしてあの日がまためぐってきました。ヤッホー君がとぼとぼ自宅へ徒歩で何時間もかけて帰ったあの日。イマでも:

 全国の避難者等の数は、約12万3千人。

2017年2月28日復興庁
全国の避難者等の数
http://reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-1/hinanshasuu.html

 全国の死者15893人、行方不明者2553人。

2017年3月10日付け広報資料
2011年東北地方太平洋沖地震の被害状況
警察庁緊急災害警備本部
http://www.npa.go.jp/archive/keibi/biki/higaijokyo.pdf

 東北の復興なくして日本の再生なし・・・耳障りの酔い、これって誰のお言葉?

 安倍晋三首相は、東日本大震災の発生日に合わせて毎年続けてきた記者会見を、震災発生から6年となる今年は取りやめた。
 安倍首相は震災が起きた翌年の2012年12月に就任した。2013年は発生日にあたる3月11日に、2014年からは政府の「復興推進会議・原子力災害対策本部合同会合」が開かれた3月10日に首相官邸で記者会見して、復興の計画や見通し、支援策などを説明してきた。
 首相は、今年は3月11日に東京で政府主催の「東日本大震災6周年追悼式」に出席。12日には岩手県宮古市などを訪れ、中学校の卒業式などに参加する予定だ。
 菅義偉官房長官は10日の記者会見で、首相が記者会見しない理由について「岩手県を訪問し、お見舞いと復興に向けた取り組みについて発信する」と説明。
 「復興に対する政府の姿勢が後退したと受け止められないか」との質問には、「全くない」と述べた。


3月10日18:00更新、朝日新聞デジタル(大久保貴裕)
震災6年、首相会見は取りやめ
「岩手を訪問して発信」

http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASK3B5QNGK3BUTFK00R.html

 はっ、コクミンへのメッセージは取りやめにして幕開けか幕引きにでかけるもよう。
 Abe なのか apeなのか、出かけるのが好きなよう。外遊も控えているって。

 安倍首相は今月3月中旬のドイツ、フランス、イタリア歴訪に合わせ、ベルギー・ブリュッセルを訪れる方向で最終調整に入った。

2017年3月10日10時26分更新、読売新聞
首相、ベルギー訪問へ…独仏伊歴訪に合わせ
http://news.infoseek.co.jp/article/20170310_yol_oyt1t50018/

 こんなお方が教育にも嘴をつっこんでいたとはびっくり、びっくり!

 「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍晋三政権は、戦前の教育勅語教育体制を抜本的批判否定する教育原理と原則を込めた「旧・教育基本法」(1947年3月31日制定公布)を、政治的絶対多数を占める国会で改正(2006年12月15日)し、「新・教育基本法」を同年12月22日に公布・施行した。
 ついで2007年6月22日、教育関連3法案(学校教育法、教職員免許法、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の改正案)を可決した。
 これらの一連の教育法改正の本質は何か、それは教育科学的にいかなる問題点を持っているのか、本稿では、「新・教育基本法」に焦点を当て、その問題点の考察を通して、教育における「戦後レジームからの脱却」の本質とは何かについて明らかにして行きたい。
 なお,教育基本法は改正されても教育基本法であるので、本稿では混乱を避けるために、1947年の教育基本法を「旧・教育基本法」または「旧法」とし、改正教育基本法を「新・教育基本法」または「新法」と使用する。
1.教育基本法改正までの経緯
(1)日本国憲法と教育基本法の制定
 教育基本法が制定され60年を経て改正されるに至る経緯について簡単に整理しておこう。
 第1に、教育基本法は日本国憲法の精神に則って制定されたということである。
 旧・教育基本法は、教育刷新委員会でその原案が審議され、帝国議会で1947年3月31日に制定され、当日、公布施行された。
 日本国憲法が1947年5月3日施行であるので、教育基本法は無効であるなどという見解を主張する人びともいるが、これはためにする見解である。
 なぜならば、日本国憲法がすでに前年の1946年11月3日に公布されているからである。
 また日本国憲法の審議の過程で、当時の田中耕太郎文相によって教育の基本を定める「教育根本法の制定を考慮している」と表明、教育刷新委員会が設置され、教育基本法の原案の作成に着手されたという経緯がある。
 それゆえに日本国憲法の制定に続いて、教育基本法が制定されたのである。
 このことは、教育基本法の前文においても明言しているところである。

「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである(中略)ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」

 第2に、教育基本法は,戦前の教育勅語の教育的価値を根本的に批判し否定して制定されたものである。
 教育勅語の教育的価値は国民が天皇制国家に命を投げ出すことを至高とするものであり、その教育は超国家主義軍国主義的性格を有するものであった。
 これに対して教育基本法は、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」(前文)と「普遍 的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」(前文)をめざす教育を普及徹底するとともに、教育の目的を「人 格の完成」(第1条)であると宣言した。
。。。
 それでは私たちは、新教育基本法に対してどのように対応すればよいのであろうか。
 以下では,その視点について述べていこう。
 第1点は、日本国憲法と新教育基本法が規定している人類の普遍的価値と教育の普遍的価値を擁護していくことである。
 日本国憲法の平和主義・民主主義・基本的人権の尊重という3大基本原理規定は健在である。
 また新教育基本法においてさえも、
「民主的で文化的な国家」「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し」「豊かな人間性と創造性」(以上、前文)、
「人格の完成」「平和で民主的な国家及び社会の形成者」(以上、第1条)、
「学問の自由を尊重」「個人の価値を尊重」(以上、第2条)・・・といった人類の普遍的価値と教育の普遍的価値は、教育基本法の改正においても削除されなかった。
 旧教育基本法の精神は、依然として生き残っているのである。
 少なくとも、全面的に否定されたのではなかったということである。
 この点で、戦後教育改革を推進するために設置された教育刷新委員会の委員長で、教育改革を主導することに力のあった南原繁氏(当時、東京大学総長)が、

今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい

と言っていることは、今日でも味読すべき言葉である。
 私たちは、この人類の普遍的価値と教育の普遍的価値を擁護し強化していかなければならない。
 具体的には、日常の教育の理論と実践において、人類の普遍的価値と教育の普遍的価値を実現するよう、努力精進していかなければならないということである。
。。。
 第2点は、新教育基本法第16条第1項の「教育は、不当な支配に服することなく」という禁止規定の意味は、教育内容に対する国の関与は、たとえ法律によるものであっても「不当な支配」となり得るとの解釈を、憲法的にも教育学的にも緻密に展開していくことである。

Bull.Mukogawa Women’s Univ.Humanities and Social Sci.,55,9−20(2007)
武庫川女子大紀要(人文・社会科学)
新・教育基本法の問題点と批判
―教育における「戦後レジームからの脱却」の本質―
中谷彪(武庫川女子大学文学部教育学科)
http://libir.mukogawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10471/446/1/02%E4%B8%AD%E8%B0%B7.pdf

 ヤッホー君のお慕い申し上げている小児科の先生、2017年3月11日00:36に、こんなメッセージをお書き留めなさってくださっております。
 これも併せて未読したいものです:

○ 右思想が国を汚染しているのではないか

 万一、受託収賄などの犯罪行為が、なかったとすると、むしろその方が問題の根は深い。
 教育勅語を教育の現場に生かすべきだという、戦前の皇国史観の人間が、この社会を動かしていることを意味するからだ。
 時代錯誤の歴史観、教育観を持つ「日本会議」という極右の運動体が、自民党をはじめとする政治の背後におり、その思想が政治・行政・司法を動かしているということだ。
 行政は、内閣が官僚人事権を握るようになり、安倍首相の意向を忖度するようになっている。
 司法についても、もともとがそうだった。
 特定政治家の意向を、行政・司法が忖度して、その業務を行うようになるほど危険なことはない。

 教育勅語の内容は、優れたものがあると、文科省の官僚が国会で答弁していた。
 教育勅語は、明治時代に天皇を神格化し、天皇制を中心に国をまとめるための宗教的な枠組みのなかで、儒教道徳を述べたものだ。
 天皇制の宗教性が、その後日本を狂信的に戦争に突き進め、国内外に多大な人的・物的被害をもたらした。
 儒教道徳訓だけを持ち出して、教育勅語が素晴らしいというのは、天皇を神格化し、天皇のために戦えという宗教性に目を閉ざす議論だ。
 教育勅語が優れていると、何事も問題にならぬかのように答える文科省官僚に、私は衝撃を受けた。
 教育勅語を教育の根本に据えるという、森友学園が、政官の「忖度」によって、行政手続きを簡素化され、むしろ経済的な利益と利権を手に入れたとなると、この国はすでに過去の亡霊によって汚染されている。


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鶏鳴幼稚園

 はい、武蔵境駅でおりたヤッホー君、どういう徘徊のルートをたどったのか、行き着いたところが「鶏鳴幼稚園」(三鷹市深大寺1-15-14 Tel 0422-31-7457)
http://www.ans.co.jp/k/keimei/ 

 だってぇ〜、2017年は酉年!
 あっ、いま話題の「塚本幼稚園幼児教育学園」ではありませんよ、ぶぶっ!!
http://www.tukamotoyouchien.ed.jp/

 地域、家庭、幼稚園が協力して子育てをする目的で、開園以来続けている制度です。
 毎朝、天気が良ければ、担当の先生が地域の集合場所にお迎えに行きます(雨の日は行ないません)。
 年長児が下の学年の子と手をつなぎ、2列に並んで通園路を歩いて登園します。
 保護者のなかで当番を回していただき、担当の先生と列を守りながらつきそいます。
 帰りは当番の方に園に来ていただき、同じように集合場所まで歩いて帰ります。
 目的に向かって自分の足で歩くことは、体力だけでなく意欲や自信にもつながります。
 また、地域のお友だちとの関係が深まるだけでなく、縦の関係も育ちます。
 保護者間では、地域の子育て情報を共有し、大変な育児の時代を助け合って乗り切る関係ができます。
 適当な集合場所がない、お子様に体力がない等、集団登降園に参加しにくい方は個人で送迎されて構いません。
 集団を選ぶか、個人にするか、どこの集合場所を選ぶかはご家庭の自由です。
 途中で変更することもできます。


集団登降園について
http://www.ans.co.jp/k/keimei/

 幼児教育についてこんなすご〜い教育方針をもっていた幼稚園があったと知ってまたまたびっくり。
 三鷹市ってすごいね。

 陣地跡を保存している三鷹市大沢4丁目の保育園「椎(しい)の実子供の家」(三鷹市大沢4-8-8 Tel 0422-32-4103)で2017年2月17日、戦死者の慰霊祭が行われ、遺族や園児ら約70人が参加した。1945年2月17日に機銃掃射で兵士4人が死亡したことから同日に行われている。今回で41回目。
 1957年、三鷹市長だった鈴木平三郎さん(故人、1906-1984)が跡地を保存しようと個人でこの地を購入。保育園を創設し、永久保存するために同園の運営法人に寄贈した。鈴木さんは戦地で負傷しており「私は悲惨な苦労をなめながらも生きて帰れたのである。二度と戦争はごめんだ。平和を守り抜くことは、戦場の勇士より更に勇気が必要であることを深く胸に刻み込んでいただきたい」と書き記している。
 慰霊祭では戦死者と同じ部隊だった人の遺族や園児たちが「永遠の平和を希求する」などと書かれた碑の前で黙禱(もくとう)を捧げた。
 園では2月17日に慰霊祭を、8月15日には平和祈念行事を行なっており、卒園生が夏休みの宿題のために話を聞いたり、写真を撮りに来たりするという。
 父が同じ部隊にいた飛田正幸さん(70)は「部隊にいた人たちで連絡が取れるのはもうわずか3人になってしまった。二度と戦争を起こす国にしてはならない」と話しており、同園の柴田直樹常務理事(67)は「悲惨な戦争を二度と繰り返してはいけないと伝えていかなければならない」と話していた。
 同園では平日に跡地の見学もできる。事前申し込みが必要。申し込みは同園へ。

2017年2月18日03時00分更新、朝日新聞デジタル
東京)三鷹の戦跡で41回目の慰霊祭 園児ら参加
青木美希
http://digital.asahi.com/articles/ASK2K4R5YK2KUTIL02T.html?rm=364

 この市長さん、鈴木平三郎さんにもう少しアプローチ:

大本 三鷹市では1971(昭和46)年1月に公衆衛生の研究家で社会党左派から立った鈴木平三郎氏が、市長の時に『ゴールデン・プラン』(黄金計画)を市報で表明し、3月に1971(昭和46)年度市政方針でコミュニティセンターの建設を明示されます。この構想とその実現は全国からみてももっとも早い取り組みであるとともに、今日の三鷹の住民自治の礎ともなったものだと伺っております。
。。。
大石田 そう、トライしていましたね。 さまざまな課題によって在り方が違うんでしょうけど、三鷹市はベットタウンの住宅都市で、公害問題がいっぱいあったわけではないから、何が課題だったかというと、市民の意向が行政に伝わって、市民ニーズに基づいたサービスが行われる自治体でなければいけない、という市民の側からの自治体理想論がある。職員の側にも自主管理がおこなわれるような地域でないと本物の市民参加というのはできない。自治・分権・参加の実現のためには、地域に市民参加型の住民組織がしっかりと根付くことが必要だという理想論があった。それらがお互いに歩み寄って実践を始めた、そういうイメージですね

大本 三鷹市は、高度成長のなかでかなり知識人が住みますね。住民のほう、受け手のほうにもかなり質の高い住民がいたのではないのですか。

大石田 一般論では多分そうだったと言えるんですけれど、個別の場面で、知識人というと典型的には大学の先生とか研究者とかになりますが、そういう人たちが発言をしたかというと、そうでもない。

大本 そうしますと住民協議会のメンバーになるような住民とは、どういう層なんですか。自営業、それともサラリーマン。

大石田 名前を出してくるのは農業者だったり商店主だったり基本的に自営業。最初の大沢地区の町会はけっこう住民協議会に反発していましたから、町会の会長は出てこないでしょう。そうなると、町会の会計とか、町会のなかでは役職ではない人が顔を出してくることになります。だから大沢地区は主としてコミュニティ行政、あるいは自主管理に当初から関心があってコミュニティ研究会に出ていた志の高い個人、関心ある個人といった人たち。こういう市民で構成されたんですね。大沢地区では地元の商店主や町会の代表と拮抗するぐらい関心ある市民の割合が多かったのです。なかには特定郵便局の局長だった人もいたので、そういう人は行政の在り方について批判的でないんではないかと僕はイメージしたんですが、そうではないんです。批判的ではあるが、行政を批判するだけではなくて、建設的な意見をするようなスタイルを持っている感じの人も入って来たわけですね。だから、一般論で語れるようなことではなくて、この地域独特の人材の組み合わせですね。これはたまたま起きたことでしょうが、友人の石崎氏は今も大沢地区の副会長で残っていますよ。

大本 大沢方式はいろいろ問題があるので、町内会をベースにする方式になったのはどこの時点からなのですか。牟礼地区の第2のコミュニティセンターが1978(昭和53)年で、第3の井口地区が1979(昭和54)年ですね。

大石田 その辺で次々にできたんですよ。僕もコミュニティセンターのオープニングに出たりなんかして、いろいろ下働きしたのを覚えています。2号の牟礼地区の次の3号の井口地区からです。「井口地区コミュニティ研究会」も初めはやはり町会ではなくて、ということで立ち上げたのですけれど、大沢よりはもう少し町会の役員さんもかかわってはいたんです。

大本 第3号の井口地区のところでやっていくうちに町内会をベースにするほうに切り替わったのですね。

大石田 結果としてシフトした。なぜかというと、井口地区というのは4つの大きな町内会があって、ものすごくしっかりしたバランスを持っているんです。この町内会4つのリーダーシップをとった人が井上五郎(注)という人物なのです。鶏鳴幼稚園という幼稚園の園長さんでかつて教育委員をやった人物ですが、その当時の市政に対し厳しい意見をもっていたわけです。そういう立場もあり、地域をしっかりつくっていかなければいけないという問題意識も強くあって、この人がリーダーシップをとっていたのです。この4つの地域の一つの町会の会長でもあったので、この地域でしっかりとした議論をするためには関心ある個人ももちろん呼んでこなければいけないけれど、4つの町会それぞれ代表が出てくることが重要だと主張して連合組織的な住民組織をつくったわけです。

大本 町会連合。井口コミュニティセンターは西部地区住民協議会のもとにありますが、4つの町会長さんが住民協議会の正副会長になっているのは、そこからきているのですね。

大石田 そうです。町会連合会。スーパー町会のようなものですね。

大本 先ほど、コミュニティセンターをつくり住民協議会を組織していく取り組みを続けるなかで行政に対して、“行政の手先だ”とかいった言葉は聞かれなくなったとおっしゃいましたが、そのぐらい住民と行政側とのコラボレーションができているということなんですか。

大石田 そこはいろいろな評価があると思うんですけれど、行政とのコラボレーションということでは住民協議会には、団体として環境とか、福祉とか、町づくりとかものすごくたくさんの事業について、審議会の委員になってもらうし、直接参加もしてもらっています。他方、住民協議会もいろいろな取り組みについて提案もあるし、予算も要求してくるという関係では、間違いなくお互いのコラボレーションというのはできているんです。けれども行政が何かを押し付けるとか言われないのは、そういう場面のことではなくて、私の意見では、住民自が自治とか自主管理ということをあんまり強調しなくなった,という傾向が特徴的にみられると思うのです。というのは、なんで自治が必要なんだ、どうして自主管理なんだといったときに、最終的にはこの自治・分権・参加というものは結果を求めていくと、それは住み良い地域だったり、いいサービスだったりという自治体の行政サービスの向上ですから、自治体を批判してもしょうがないし、すばらしい自治ができたらすぐさまいい行政サービスを享受できる自治体になるわけではないということが判ってきて、自治を強調する市民が少なくなったんです。

大本 自治というのは手段ですからね。

大石田 そうなんです。やはり環境のいい地域にしてほしいし、高齢者にとって優しい、障害者も生活しやすい自治体にしてほしいし、道路とか広場とか公共施設といった都市装置もほしい。そういうことは言いますけれど、だからわれわれは自治を求めているなんていわないですよ。
。。。
 『炎の人』(七年祭発起人会、平成3年)のなかで井上五郎氏の回想である「新住居表示ができなかったのは残念」の項には、「鈴木さんを忘れ得ないことの一つは、私の鶏鳴幼稚園の認可を市長就任第一号の印を押していただいことだと思います。“俺が認可したんだから運動会には呼べよな” と少しうつむき加減で、背を曲げて、息を吸い込むような話し方が印象的でした。上水道の問題が大きくなり、公共水道の要望が強くなり始めた昭和32年頃、道で逢ったら、いきなり“長生きするには水、水が良くなければ長生きしませんよ”、市議会の流れを知りませんから「そうですね」とあいづちをうちました(……)。
 鈴木さんは「ずるい」「強情」「アイディアマン」等々批判されていましたが、どれも当たっているのでしょう。目的達成までは、いろいろ方便を考えられたに違いない。“目先は見えるが、遠目がきかない人が多くて困る”と、ポツンと隣の席で話された事がありました(……)。
 住居表示についてはさすがの鈴木さんも完結できませんでした(……)。
 もう市民は吸い込み式穴掘り下水に苦しんだことを知っている人は少なくなり、生放流下水が当たり前の世の中になりました」(244〜246ページ)と、下水事業で有名であるが、公衆衛生からみて当然上水道も問題となるが、市長当選当時の昭和32年頃から問題になっていた様子が伺え、当時の鈴木氏をかいま見ることができる。

2011年2月、東京経大学会誌第269号
『自治先進都市三鷹はいかに築かれたか(下)』
大本圭野
http://hdl.handle.net/11150/749

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2017年03月09日

JR中央線の謎学

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蒸気車往復繁栄之図
 1877(明治10)年の西南戦争の戦費調達等のために国は膨大な財政支出を迫られ、国家財政は窮地に立たされた。そこで、民間に任せたほうが望ましい分野の民営化が進められる中で、国は1881(明治14)年に「私設鉄道」を認める方向に転換した。約10年間続けてきた「官設官営鉄道」が終わりを告げた。

 甲武鉄道の敷設に際しては、さまざまな反対運動があった。甲州街道で栄えていた府中、調布では、商人、宿屋、人力車夫などが、客がとられるといって反対した。農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害する、火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になる、家畜に悪影響が生じるといったいろいろな理由をつけて反対を主張した。中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に貫く計画に対して、地主村民等が「鉄道は村を衰微せしむ」という理由で頑強な反対運動を展開した。こうした反対運動のため、甲武鉄道は計画を大きく変更して、抵抗の少ない武蔵野原野、現在の東中野あたりから立川まで一直線に敷設した。

 1889(明治22)年4月11日、後に中央線となる甲武鉄道が内藤新宿駅と立川駅間の27.2Kmで開通した。内藤新宿より中野・境(武蔵境)・国分寺の3駅を経て、立川まで運行されました。新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時間の8時14分に到着した。新宿からちょうど1時間かかっている。新宿駅発7時14分、中野駅7時25分、境駅7時48分、国分寺駅8時1分、途中の各駅に1分間停車し、終点の立川駅には8時14分に到着した。列車のスピードは、平均時速30Kmだった。

 車両は、イギリスから直輸入したナスミス・ウィルソン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・タンク蒸気機関車(国鉄400形蒸気機関車)という車両が、「マッチ箱」と呼んだ箱型客車を引っ張っている。

 通常の列車の運行は午前・午後2本ずつで1日4往復した(内藤新宿駅発7時9分 10時00分 14時30分 17時30分)、(立川発 8時40分 11時40分 16時10分 18時55分)。

 運賃は、上等・中等・下等と3段階に分けた。運賃の基準は、下等は1マイル(約1609m)1銭で、中等は下等の2倍、上等は下等の3倍とした。明治22年では、もり・かけそばが1銭だったというから運賃はかなり高額だった。


2012年2月8日付け「ようこそ中世の武蔵国へ」
甲武鉄道の開業(中央線誕生)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/koubutetudou.htm

 2017年3月9日木曜日、徘徊中のヤッホー君が降り立った駅がJR中央線の三鷹駅のひとつ先、武蔵境駅。
 北口に出るのか、南口に向かうのか、うろうろ、きょろきょろ、どぎまぎ。
 そこで見つけたのが、この説明図。
 へえ〜、武蔵境駅が、三鷹駅よりも吉祥寺駅よりも国立駅よりも、そしてなによりも東京駅よりも古いことにただ唖然、茫然自失、びっくり仰天、へえ〜

「甲武鉄道」という私鉄で産声を上げた中央線
 杉並を東西に走るJR中央線は、明治の昔『甲武鉄道』という「私鉄」で産声を上げた。

 当時は馬車が主な輸送機関であった。1869(明治2)年に中野村の深沢某が、日本橋から新宿・中野・杉並の青梅街道を通り、田無まで走った馬車が営業馬車の最初といわれる。だが馬車では、「より大量に・より速く・より遠くまで運ぶ」という輸送の役割を果たしきれない。

 そこで東京と多摩地方等を結ぶ新たな輸送機関である鉄道が求められ、甲武鉄道が誕生するのである。

 もともとこの鉄道は、多摩や山梨などからの、丸太や石灰石などの特産物を東京に輸送する役割を持って開業された。そこで路線名は、甲斐国(現・山梨県)と武蔵国(現・東京都)を結ぶ目的を持って計画されたので、国名の頭文字を取って「甲武鉄道」(最初は「甲武馬車鉄道」)としたのだ。

 当初、羽村(当時・神奈川県西多摩郡)から四谷大木戸(現・新宿区)間を玉川上水に沿って馬車鉄道を走らせる計画を立てた。玉川上水沿いならばすでに整地されているし、大半がなだらかで線路が敷きやすかったからである。しかし、江戸の人びとの飲み水を確保するために造られた上水路沿いを鉄道が走ると「不潔極まりない」と、許可されなかった。

 その後、豪商や元神奈川県知事、羽村の造り酒屋などを中心とする人びとが、同じ新宿〜羽村間で馬車鉄道の出願をしたものの、「羽村が終点では、営業的に成り立つ見通しがない」と、絹織物が盛んな八王子に変更して新宿〜八王子間で出願しなおしたのである。だが時代が進み「馬車から蒸気機関車の時代」に入ったので、甲武馬車鉄道では蒸気鉄道の建設に計画を変更して完成を急いだ。

 蒸気による鉄道計画は具体化して、新宿〜八王子間を敷設することにした。鉄道が通過するルートには、当然杉並区域も含まれており、人びとは鉄道の恩恵にあずかれるはずであった。
。。。

2006年04月24日、すぎなみ学倶楽部
甲武鉄道誕生
取材:中村 建治
http://www.suginamigaku.org/2014/10/old-chuosen-1.html

玉川上水の堤の活用案が 鉄道ルートの原型に
 現在、JR中央本線と西武鉄道の多摩川線が乗り入れる武蔵境駅は、今年2014年の4月で開通125周年を迎えます。武蔵境駅は明治22年、新宿―立川間を結ぶ甲武鉄道が開通した際、境停車場として開設され、大正8年に武蔵境駅に改称されました。

 甲武鉄道の前史を見ると、その始まりは17世紀中頃、江戸時代にまでさかのぼります。当時、江戸の人口が増え、市街地が拡大したことで、飲料水や防火用水が不足。その対策として引かれた玉川上水は、江戸市民の飲料水だけでなく、武蔵野の農業用水としても活用されていました。

 この用水に目を付けたのが、多摩地区の豪農たち。当時、多摩地区では石灰石のほか、木材、薪(まき)、野菜、生糸などの特産品がありました。これらの荷を江戸へ運ぶために、玉川上水を活用した船運の開業を発案。上水の利用を願い出ましたが、市民の飲料水が汚れることを懸念した江戸幕府によって却下されました。

 明治に入ってようやく船運業が解禁されたものの、上水の汚濁を理由に、わずか2年で中止に。しかし、今度は玉川上水の土堤(どて)を利用した、馬車鉄道の創業を出願する者が現れました。その1人が、当時呉服商を 営んでいた岩田作兵衛氏であり、後に「私鉄王」と呼ばれた人物です。
 
 当時の計画では、新宿-羽村、砂川-八王子路線を皮切りに、青梅、甲府まで延長する予定でした。社名は甲府のある「甲斐国」(現・山梨県)と羽村のある「武蔵国」(現・東京都)から頭文字をとり、「甲武馬車鉄道」に決まります。

 明治19年、甲武馬車鉄道会社に免許が下付されたものの、社内で分裂した者が設立したライバル会社「武甲鉄道」が登場。この武甲鉄道が蒸気鉄道を出願していたことを受け、甲武馬車鉄道も急きょ蒸気鉄道に切り替えて出願をし直しました。

紆余(うよ)曲折を経た鉄道敷設までの道のり
 政界の重鎮であり、鉄道を推進していた大隈重信氏らの支援を得て、武甲鉄道と合同した「甲武鉄道」が新たに誕生。新宿―八王子間の路線計画も認められ、甲武鉄道に免許が下付されたのが、明治21年です。同時期に、八王子―川崎間に鉄道計画を申請していた「武蔵鉄道」という会社も登場しましたが、旅客の多さや沿線の豊富な観光地などから、甲武鉄道に軍配が上がりました。

 新宿―八王子間を結ぶ甲武鉄道は 1ローカル路線にすぎず、十分な建設技術も持たないと見なされ、日本で最初の私鉄である日本鉄道の1支線という位置付けで誕生します。開設当時の社長も、日本鉄道の社長、奈良原繁氏が就任。日本鉄道の施工力を得て、甲武鉄道の開設工事が本格的に始まりました。
。。。

武蔵野ヒストリー、甲武鉄道 会社線の歴史
http://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/818/106_010-011_history.pdf

●武蔵境駅(p54)
 武蔵境駅、1889(明治22)年開業。
 開業当時、甲武鉄道は、起点駅の新宿、中野、境、国分寺、終点の立川の5駅。
 駅を作る三つの条件。@なるべく人の多いところ、A神社仏閣などの観光地がある、B駅の間隔をなるべく等しい距離にする。
 上の条件では、武蔵境に駅ができる可能性は低かった。ほぼ本決まりになっていたのは、大橋地区(現在の三鷹車庫のあたり)。
 「なんとしてもわが村に駅を設置してほしい」と熱心に運動したのが、秋本喜七(1861-1930)。20歳代の若者。
 湯島天神にあった甲武鉄道本社まで徹夜で歩き、「境村に駅をつくってくれるなら、駅までの道路は私財を投じてつくる。駅をつくるために必要な土地は寄付する」と直談判。


2015/10/10、ゆうどうの読書記録
ロム・インターナショナル/著『JR中央線の謎学』(河出書房新社、KAWADE夢文庫、2015年4月)
http://gotobooks.blog.so-net.ne.jp/2015-10-10

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2017年03月08日

2017年国際女性デー

 3月8日水曜日は、「国際婦人デー」。

 さすがに“自由奔放”にも程がある。国会で目下、大炎上中の森友学園問題。学園が開校予定の小学校の名誉校長に就任していた安倍昭恵首相夫人(54)が7日、東京・文京区内のセミナーに登壇した。日刊ゲンダイは、昭恵氏が3日から2泊3日でスキーツアーイベントに参加していたと報じたが、懲りずにイベントに登場した。
 セミナーは、女性の地位向上がメーンテーマだったとはいえ、約20分間の対談では、学園の問題には触れずじまい。野党に参考人招致を求められているくらいだから、すっかりお疲れかと思いきや、相変わらず“アッキー節”は健在だった。

■「時代の流れなんだろうな」
 「なんでこんなに私は注目を集めてしまっているんだろうかって、すごく戸惑っているんですけども」
 対談の前半、昭恵氏はかすかに苦笑いを浮かべながらこう話し、注目が集まる原因については「時代の流れなんだろうな」「そういう流れの中に今、身を置いているんだなという感じがしています」と、ノホホンと“分析”していた。
 さらに、安倍首相が家事を手伝ってくれることを紹介し、「国会で野党から攻められ、厳しいことがある中で、片付けたり、整理整頓することで気持ちがリセットすることがあるらしい」と言ったかと思えば、「こういうとこをメディアにまた取り上げられる」と言い、会場の笑いを誘っていた。他にも、「人間は生まれる時に大きな役割を担ってこの地球に生まれてきている」「日本の取り戻すべき精神性は、私は縄文時代にあると思っている」と、“珍説”を連発させていた。
 持論の展開は結構だが、肝心の学園問題の説明はどうしたのか。報道陣はみな、昭恵氏を追いかけたが、いつの間にか会場から立ち去ってしまった。

 政治評論家の山口朝雄氏はこう言う。

 「森友学園の問題は国民の関心事です。昭恵氏が公人なのか私人なのか、判断が分かれていますが、事実関係の説明が先でしょう。問題を深刻にとらえているとは思えませんし、真摯に説明する気がないようにしか見えません。結局、『時間が経てば風化するだろう』と高をくくっているのでしょう」

 セミナー終了後まもなく、自身のフェイスブックで報告した昭恵氏は、8日も講演会に登壇。イベント行脚より、国会で事実を明らかにすべきだ。


2017年3月8日付け日刊ゲンダイ
森友問題にも懲りず 安倍昭恵夫人がセミナーで“珍説”連発
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/201001/2

 国際女性デーの8日、女性が輝くイベント「HAPPY WOMAN FESTA 2017」が都内で行われ、安倍晋三首相夫人の安倍昭恵氏、アーティストの倉木麻衣らが登場した。
 トークセッションでの昭恵氏は、森友学園関連の報道もあったゆえか、最初は言葉少な毛だったが、自身が立ち上げた「UZUの学校」の話や、神田にオープンしている居酒屋「UZU」の話に及ぶと、堰を切ったように話を進めた。
 幾分かすれ気味の声だった昭恵氏、MCから「色々ご苦労はおありだと思いますが」と声をかけられると「メディアも(首相夫人の行動は)あまり注目されず、何かあったときだけ注目されますけど…」と、笑顔でコメント。
 昭恵氏は「私は何もできませんが、総理夫人という立場で、励まされた、と言ってくださる方がいっぱいいらっしゃるというのがうれしい」と、ファーストレディとしての実感を語り、「まあ、大変なこともありますが、こういうことをやっているんだ、というのはメディアを通してしかわからない方もいらっしゃるので、私に注目していただければ、活動にも注目されてくると思うので、それが私の役割だと。(今回のイベントを)いいように放送していただければと思います」とリップサービスをした。
 倉木は今回のイベントのテーマソングを担当(注1)。来年の3月8日に向けて、テーマソング歌詞を募集するという。自身のカンボジアでの活動(注2)を紹介したほか、恋愛についての質問が及ぶと、倉木は「ご縁ですから…」と戸惑いながらも「音楽でつないでいくことで将来素敵な方が現れれば。…なかなか出会いはないんです。理想は歌詞に込めていきたいなと思います」とかわした。


2017年3月8日(水)14:00配信 T-SITEニュース エンタメ
倉木麻衣、安倍昭恵氏と国際女性デーイベントに参加 理想の恋人は「歌詞に込める」
http://top.tsite.jp/news/geinou01/i/34732614/

(注1)
倉木麻衣「MY VICTORY」:
https://www.youtube.com/watch?v=2DDezoPz2sk

(注2)
 2016年2月25日(木)、カンボジアで14軒目の寺子屋となる「トレイニョル寺子屋」の開所式が行われました。ここは、人気歌手として活動する倉木麻衣さんが、カンボジアに寺子屋を建て、その後の運営費(計3年分)を支援するため、自らファンの方々に募金を呼びかけて誕生しました。

倉木さんは2014年3月、JICA「なんとかしなきゃ!プロジェクト」のメンバーとしてカンボジアを訪れ、リエンダイ寺子屋で音楽の授業をしました。そこで子どもたちの状況を目の当たりにしたことがきっかけとなり、帰国後、皆の学びの場である寺子屋を作って彼らの力になりたいと、ライブやイベントを通じて1年以上にわたる募金活動をしました。

倉木さんは集まった約600人の村人に向けて、クメール語でこう語りかけました。
「今日という日が来てとても嬉しいです。多くの子どもたちや大人の方々にこの寺子屋で沢山学んでもらい、将来の夢に役立ててほしいです。これからも寺子屋をサポートして、見守っていきたいと思っています」

寺子屋では今後、識字クラスや小学校をドロップアウトした子どもたちの復学支援クラスなどの実施に向けて、学習者募集や教員研修などの準備に入ります。6〜7月頃には、クラスが開かれる予定です。
倉木さんをはじめ支えてくれる方々の想いをしっかりと感じ取り、村の人びとはトレイニョル寺子屋で新たな一歩を踏み出します。

2016年03月03日日本ユネスコ協会連盟活動ニュース
カンボジア・倉木麻衣さんと迎えた寺子屋開所式!
http://www.unesco.or.jp/terakoya/news/2016/

 でも、でも、この国での「国際女性デー」。
 肝心な「女性」のデモってあったのかな、どこか上で決まったイベントに「女性」の姿が隠れ、有名人の陰になって、上は上で毎年、決められた日程を消化している感じがして、ちょこっとヘンだぞ。
 敗戦後、最初の女性デーがとりくまれたのは1947年、そして1949年には、なんと1万5千人が日比谷音楽堂を埋めつくした、というではありませんか、ね。

 大学出勤の東武東上線車内は「国際女性デー」のイベント広告一色。
「内閣総理大臣夫人」の肩書きで安倍昭恵さんも参加されますが、「名誉校長」の肩書きでのお話も出るのでしょうか?
 このイベントあまりに大がかりで…本当に女性のためになるのかなー


2017年2月23日18:28香山リカ、ツイッター
https://twitter.com/rkayama/status/834953229100199936

Women in more than 50 countries will go on strike from paid and unpaid labour on Wednesday while millions more will be taking part in direct action on what is set to be one of the most political International Women’s Days in history.

From Thailand to Poland, the United States to Australia, the first International Women’s Strike will see action on both the industrial and domestic fronts, with participants keen to show solidarity with an energised global women’s movement.

“We are united, we are international – and we are everywhere,” said Klementyna Suchanow, a Poland-based organiser of the International Women’s Strike, adding that the walkout would put governments and institutions under pressure by giving women a voice that has long been ignored. “We are an army of women across the globe and we are no longer asking to be listened to. The world is being forced to listen to us.”

The theme for 2017’s International Women’s Day – which celebrates the social, economic, cultural and political achievements of women – is #BeBoldForChange.

Organisers of the International Women’s Strike have joined forces with coordinators of the Women’s March and hundreds of human rights and women’s campaigners to capitalise on momentum in the movement in the wake of Donald Trump’s election. Up to 2 million people around the world marched for equality in January the day after his inauguration.

The Women’s March – which now has organisers across 200 cities in 80 countries – has called on supporters not to engage in paid or unpaid labour and only spend money in small and female-owned businesses.

Recognising that the poor financial situation and rigid work laws mean many will not be able to take part in a physical strike, organisers are urging supporters to wear red, a colour historically associated with the labour movement, in solidarity.

In other countries women will wear black, or different colours, while the focus on issues from femicide to abortion will be decided in each nation.

The International Women’s Strike, meanwhile, is suggesting that women “boycott local misogynists”, stop shopping, go on a sex strike, block roads and streets, and take part in marches or pickets. Women are also encouraged to leave creative and impassioned “out of office” replies, talking about why they are striking.

The strike is partly inspired by the women of Iceland, where in 1975 25,000 women gathered on the streets of Reykjavik and 90% of the female population did not go to work, cook, clean or take care of children. Last year thousands of female employees across Iceland walked out of workplaces at 2.38pm to protest against earning less than men.

In the US, where the feminist movement has been galvanised by the election of a president who has bragged of grabbing women “by the pussy”, organisers are expecting small demonstrations across the country, with some major gatherings of strikers expected in Chicago and Washington DC.

“We have the sense that people will spontaneously make a call for demonstrations in their town,” said Tithi Bhattacharya, an associate professor at Purdue University and one of the march’s organisers. “I think the most exciting thing about 8 March is the way it’s being interpreted in diverse ways by different groups.”

In some parts of the US the impact of the strike is already evident. In two districts of North Carolina and Virginia, so many teachers announced plans to miss work on Wednesday that school closures were announced. In the district of Alexandria, 300 staff requested the day off.

The day of action comes amid a recognition among campaigners that mass, headline-grabbing actions are the key to furthering the cause of women’s rights around the world.

“If we only fight our own battles – if that is abortion in Poland, or femicide in South America – we are only fighting one finger of the giant,” said Suchanow. “And we need to be taking down the giant, not the finger.”

Suchanow joined in the mass women’s strike in Poland last October, in which up to 100,000 women dressed in black took to the streets to protest against a near-total ban on abortion. Following the march, Poland’s parliament overwhelmingly rejected the ban drafted by the ruling Law and Justice party.

On Wednesday in Britain the “one day without a woman” mobilisation will urge women to refrain from labour. In London, there will be a protest outside the family court in Holborn at 9.45am, followed by a “speak out” outside parliament, said Nina Lopez, a coordinator for the International Women’s Strike.
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In Argentina many women will strike. Last year there was a national protest after a week of extreme violence against women including the violent rape and murder of 16-year-old Lucía Pérez in Mar Del Plata.

In Peru women are demanding an end to “violence against women in all its forms: physical, sexual, emotional and economic”, and marching in 10 regions, said Jill Ruiz. “This is a historical action in our country and worldwide. Solidarity is our weapon.”

In Brazil, where actions are planned in more than 70 cities, organiser Mariana Bastos said the focus would be on femicide.

Actions will range from a total strike at home and in the workplace to an hour’s strike at lunch, where people will gather with their colleagues to discuss equality issues. Supporters are being asked to wear violet in solidarity. “We are a huge country and it is a very complex picture, but each city and each woman will decide how they take part,” said Bastos.

In Kenya, women’s groups joined with government officials from the Nairobi county department of gender and health to mark the day on Tuesday – holding a procession and forum with speeches and testimonials, as well as offering free HIV testing and free cervical cancer screening at the event, said Ritah Mutheu Muia, founder of the women’s group Her Voice.

“Following the theme of this year I felt women in Kenya are now boldly standing up for their rights, that more men are joining us in this journey for equality and equity - they are taking a stand and being bold for women,” she said. “Women have taken the reins and are the ones spearheading change in society.”

The day’s origins go back to a mass mobilisation in 1908, when 15,000 women marched through New York City demanding the right to vote, better pay and shorter working hours. The first official National Women’s Day march, led by the Socialist Party of America, took place a year later on 28 February.

International Women’s Day moved to 8 March in 1913, and was recognised by the United Nations – which now decrees an annual theme – in 1975.


The Guardian, Last modified on Tuesday 7 March 2017 23.20 GMT

'We are international, we are everywhere': women unite in global strike

International Women’s Day 2017 set to be one of the most political yet, with women in more than 50 countries downing tools


Alexandra Topping in London and Molly Redden in New York
https://www.theguardian.com/world/2017/mar/08/international-womens-day-political-global-strike

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2017年03月07日

大分音楽幻想

 春うららなのか、春まだきなのか、浅き春なのか、淡き春なのか、3月7日火曜日の朝。
 ララランド「の映画の大事な場面に、われわれの美しい国、日本がでてまいります。イマのこの国の特権階層、指導者を称している輩ども、ぜひ大事なわれわれの国を教育勅語とか牡プレーとかに売り渡さぬよう、お気を付けあそばせ」と昨日の6日啓蟄の日に記したヤッホー君、「アメリカのジャズピアニスト、セロニアス・モンクが、滝廉太郎作曲の「荒城の月」をアレンジした曲」をご紹介しました。
 そうなんです、春うらら、と言えば滝廉太郎!

 滝廉太郎(1879-1903、肺結核で23歳、イマの大分市で没す)作曲の「花」ができたのは、1900(明治33)年のことでした。作詞は、日本女子大学教授で歌人の武島羽衣(はごろも、1872-1967)が担当しています。
 その一番の歌詞は、

春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が
櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき


となっています。
 のどかな隅田川の春の光景が、七五調で見事に描写されていますね。
 「うらら」は「うららか」でしょう。
 間違いやすいのは「舟人が」の「が」です。これは主格(主語)ではありません。いわゆる連体格の「が」で、「舟人の(手にしている)櫂」と次に続きます。ちょっと難しいですね。
 また末尾の「べき」は、上の「何に」と呼応して、反語の意味(何にもたとえられない)を表しています。末尾の「か・や」が省略されていると考えればわかりやすいかもしれません。
 明治といいながら、文体は古文そのものですね。
 それだけではありません。実はこの歌詞には、どうやら『源氏物語』胡蝶巻が踏まえられているようなのです。
 胡蝶巻というのは、光源氏が築いた六条院の春の御殿が舞台となっています。その女主人である紫の上が龍頭鷁首(げきしゅ)の船を池に浮かべて船楽を催し、そこに秋好中宮付きの女房を招待し、春のすばらしさをこれでもかと見せつける趣向になっています。見物にやってきた女房達はただもううっとりとして、本来はライバルであるはずの春の御殿を讃える和歌を詠じてしまいます(春秋優劣論としては秋の敗北を意味します)。その最後の歌こそが、

春の日のうららにさしていく船は棹のしづくも花ぞ散りける

でした。いかがですか。一見しただけで、「花」の一番の歌詞と類似していることがわかりますね。
 これについては、既に『源氏物語』の研究者として名高い玉上琢弥(1915-1996)氏が、胡蝶巻の「春の日の」歌の解説の中で、

滝廉太郎の作曲で今も歌われる「花」の作詞は武島羽衣だが「春のうららの隅田川、上り下りの舟人が、かいのしづくも花と散る、ながめを何にたとふべき」は、この歌によったのである。(『源氏物語評釈五』224頁)

と指摘しています。
 「うらら」は珍しい表現ですが、胡蝶巻と一致していることから、むしろ『源氏物語』を踏まえていることの証拠になりそうです。
 ただし「棹のしづく」が「櫂のしづく」に変っています。もちろん「棹」より「櫂」の方が、「花のように散るしずく」がたくさん散るはずです。というより『源氏物語』では、「さす」に「日が射す」と「棹指す」が掛けられているので、どうしても技法的に「棹」でなければならないのです。
 あるいは「のぼりくだりの舟」そのものが、「櫂」を用いる西洋的なボートをイメージしているのかもしれません。もしこれがボートレース(早慶レガッタ)の光景だとすると、従来想像されていた古風なイメージは、それこそ幻想だったことになります。さて、いかがでしょうか。
 ついでながら一番だけでなく、二番の歌詞にある「桜」・「青柳」も胡蝶巻に出ています。
 「あけぼの」に近い「朝ぼらけ」、「夕ぐれ」に近い「暮れ」もあります。
 また三番の「錦」も同様です。
 これだけ用語が一致・類似しているのですから、武島羽衣は『源氏物語』胡蝶巻の描写を踏まえて、「花」の作詞に利用したと断言しても間違いなさそうです。

 さてみなさんは「花」の歌詞から『源氏物語』のことが思い浮かびましたか。
 こんなところでも古典の教養が試されているようで恐いですね。


2015/03/13、教員によるコラム
「花」と『源氏物語』 
同志社女子大学教授・吉海直人(日本語日本文学科)
http://www.dwc.doshisha.ac.jp/faculty_column/representation/2014/post-200.html

 県内外の方々に、大分の魅力、楽しさを発見・再発見してもらうことを目的とした大分交通発行のフリーペーパー「Discover Oita」の1コーナーで、本学 中山学長が執筆を担当しています。
 大分の音楽の今昔について語る「Aria 大分音楽幻想」というコーナーで、今号では瀧廉太郎について書かれています。また、誌面では中山学長が書いたスケッチも掲載されています。
 「Discover Oita」は、エアライナーや大分交通が運行する高速バスのシートポケットに搭載されている季刊誌です。

2014.04.30付け大分県立芸術文化短期大学ニュース
フリーペーパー「Discover Oita」で中山学長が執筆を担当しています
http://www.oita-pjc.ac.jp/news/detail/45

 どれどれ:

 明治になって、近代文明が奔流のように日本に導入され始めた時代、最初に注目された西洋音楽を目指す若者の中に滝廉太郎がいた。生まれは東京だが、父親の仕事の関係で、子ども時代を郷里大分県で過ごし、直入郡高等小学校(現在の竹田市立岡本小学校、閉校)を卒業後、15歳で東京音楽学校に入学を果たした。そこで才能を評価されて、21歳でドイツのライプツィヒに留学したが、肺結核を患いわずか一年で帰国して、大分市の中心部にあった自宅でわずか23歳の一生を閉じた。しかし、その極めて限られた年月の間に彼が作曲した珠玉の曲の数々は、今も歌い継がれている日本を代表する名曲だ。
。。。
 滝の作曲した曲で、最も有名で演奏頻度が高いのは、おそらく「荒城の月」だろう。土井晩翠が仙台の青葉城址、一説には会津若松の鶴ヶ城を見て作った歌詞の、曲を募集した時に、当時学生だった滝が応募して入選した。滝は故郷竹田市の岡城址を想いながら作曲したといわれていて、今も岡城の城址公園に行くとこの歌が流されている。この歌はある日本人宣教師の紹介で、ベルギーの教会でも認められ、聖歌として歌われていると調べた人がいる。
。。。

Aria 大分音楽幻想、滝廉太郎
中山欽吾

 ベルギーのアルデンヌ高原の町シネー(Ciney)から10kmほど南に下った所に、シュヴトーニュ修道院(Monastere de Chevetogne)というのがある。
 この僧院で行われる典礼で『荒城の月』のメロディーが聖歌として20年ほど前から使われるている。
 このことは一部の人には知られていたが、あまり広く知られていない。
 この修道会はベネディクト会士ランベール・ボードワン師(Dom Lambert Beauduin, 1873-1960)によってカトリック教徒と東方正教徒の融合を目指し1925年に設立され、1939年に現在の地に移ったものだ。ここではカトリックと東方正教の両方式でサービスが行なわれている。
 ここの東方正教の聖体礼儀で用いられる聖クリュソストモス(クリソストモスと表記されることもある。英語では St. John Chrysostom ロシア語ではIoanna Zlatoust)の典礼の中の『ケルビム(またはヘルビム/ヘルヴィム)の歌』に滝廉太郎の『荒城の月』のメロディーが使われている。
 この典礼は古い教会スラブ語で執り行われ、CDになっている。
 その譜面を下に示す。
(この譜面は、筆者の依頼を受け、オランダ在住の村岡恵子氏が中山博幸氏に労をお願いしたところ、中山氏がシュヴトーニュにおもむき、直接芦田竜介神父より頂戴してくださったものである。関係された皆様に感謝申し上げる。2008年3月)


2008.03.22改定、斎藤基彦のホームページ
『荒城の月』が聖歌になった
http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/kojonotsuki/kojonotsuki.html

 ではここで、倍賞千恵子〜荒城の月
https://www.youtube.com/watch?v=DcexTLF-IbI
 あっ、間違い、こっちでした:
https://www.youtube.com/watch?v=YNVc_zkHWWM

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アベ政治を許さない

 3月7日月曜日、「上空には3月としては2年ぶりの強さの寒気が流れ込む見込みです。全国的に冷たい北風が吹くでしょう。日本海側は雪、太平洋側も一時的に雨や雪の降る所もありそうです」(tenki.jp)。
 そのせいか、背中がゾクゾクします。ララランド「の映画の大事な場面に、われわれの美しい国、日本がでてまいります。イマのこの国の特権階層、指導者を称している輩ども、ぜひ大事なわれわれの国を教育勅語とか牡プレーとかに売り渡さぬよう、お気を付けあそばせ」と昨日の6日啓蟄の日に記したヤッホー君、またまた3月7日朝、寒気、嘔吐感、嫌悪感が走りました。

 いったいなぜ、この連中はこうも平気で嘘をつくことができるのか。
 学校法人森友学園問題で籠池泰典理事長と面識がないなどと弁明していた安倍首相の嘘が次々とバレ始めたと思ったら、今度は稲田朋美防衛相のあからさまなゴマカシが明らかになった。


 稲田防衛相は先月末、防衛省が森友学園の籠池理事長に感謝状を送っていた問題を国会で取り上げられた際、籠池氏と面識があるか問われ、
「面識はありますが、ここ10年お会いしておりません」
「か、ご、い、け?やすのり?さん」とたどたどしく読み、
「面識はあるが、どういった機会で会ったか定かではない」などと曖昧な答弁をしていた。
 塚本幼稚園を知っていたかについても、
「聞いたことはありますけれど、その程度でございます」と答えていた。

 しかし「聞いたことがある程度」とは笑わせるではないか。
 実は、稲田防衛相は過去に、塚本幼稚園をめぐって、文科省に圧力をかけていたことがあるのだ。
 文科省が塚本幼稚園の教育勅語暗唱を「適当でない」とコメントしたのに対し、「なぜいけないのか」と恫喝していたのである。

 実は、この事実は稲田防衛相が自ら認めていることだ。
 「WiLL」(ワック)2006年10月号の新人議員座談会で稲田は自慢げにこう語っているのだ。

『教育勅語の素読をしている幼稚園が大阪にあるのですが、そこを取材した新聞が文科省に問い合わせをしたら、「教育勅語を幼稚園で教えるのは適当ではない」とコメントしたそうなんです。
 そこで文科省の方に、「教育勅語のどこがいけないのか」と聞きました。すると、「教育勅語が適当ではないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという主旨だった」と逃げたのです。
 しかし新聞の読者は、文科省が教育勅語の内容自体に反対していると理解します。今、国会で教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとしている時期に、このような誤ったメッセージが国民に伝えられることは非常に問題だと思います』

 稲田が擁護し、教育勅語の肝だと主張する「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という部分はまさに、国や天皇のために命を投げ出せ、という意味だ。
 こんな人間を自衛隊員を統括する防衛大臣に就任させて、この国は大丈夫なのか。

 しかも、稲田はたんに自分が森友学園そっくりのトンデモ思想をもっているというだけでなく、安倍首相とともに、その極右軍国主義的思想を「日本の教育の常識」にしようと、文部科学省やメディアに圧力をかけてきた。

 そして、それは確実に現実になっている。
 事実、10年前は新聞取材に「教育勅語を教えるのは適当ではない」と明言していた文科省が、いま国会で教育勅語をはじめとした森友学園の教育理念ついて問われても、教育勅語も「安倍首相がんばれ」も「安保法制国会通過よかったです」も一切否定せず「大阪府が判断すること」と逃げ続けているではないか。

 森友学園のトンデモぶりが次々と明らかになって、右派は籠池理事長にだけに責任を押し付けようと躍起になっているが、森友学園と籠池理事長をつくり出したのは、そのトンデモな人物を明らかに政権中枢、日本会議まわりの評論家たちが、お墨付きを与えもち上げてきたからだ。
 その最大の戦犯が安倍首相であり、稲田防衛相なのである。


2017.03.07付けリテラ
“教育勅語暗唱を妨害するな”稲田朋美が森友学園のために文科省を恫喝していた!
夫が顧問弁護士だった疑惑も

http://lite-ra.com/2017/03/post-2970.html

 この国は大丈夫なのか・・・
 「美しい国、日本」と言いながら宗主国の言いなり、噓とごまかしでコクミンを目くらまし、新点眼薬で目をくらくらさせて、自分とそのおトモだちだけが生き残る!
 「美しい国、日本」をイマ急いで目視点検しないと、クニ破れてさんが無し四だけとか、年老いても朝から夜遅くまで働かされる総活躍、見にも行けなくなっちゃう。

 これも・・・
安倍首相が2021年まで首相をやったら日本全体が「森友学園」になる!
改憲、治安維持法、教育勅語の復活も

2017.03.06付けリテラ
http://lite-ra.com/2017/03/post-2969.html

 新自由主義という考え方を導入した国では、腐敗した政治家や官僚と手を組んだ一部の人間が国民の財産を不正、あるいは不公正な手段で手に入れて巨万の富を築いてきた。
 国有地が格安の値段で学校法人に売却されても不思議ではない。

 ドナルド・トランプは離脱を宣言したが、安倍晋三政権を含む日本の支配層が今でも執着しているTPP(環太平洋連携協定)は私的権力に国を上回る権力を与えようとするものであり、そうした「新秩序」を前提にして、日本の「エリート」たちは動いているように見える。

 本ブログでは何度も指摘しているように、アメリカの第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは1938年4月29日、ファシズムについて次のように定義した:

「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ」

 ファシズムの創始者とも言えるベニト・ムッソリーニが1933年11月に書いた「資本主義と企業国家」によると、巨大資本の支配するシステムが「企業主義」で、それは資本主義や社会主義を上回るものだとしている。これが彼の考えたファシズムである。

 つまり、TPPはファシズムにほかならない。勿論、TTIP(環大西洋貿易投資協定)やTiSA(新サービス貿易協定)でも同じことが言える。「富める者が富めば貧しい者にも富がしたたり落ちる」という「トリクルダウン理論」なるものがあるようだが、これは人びとをファシズムへ導く虚言だ。ため込まれた富を強制的にはき出させる何らかの仕組みが作られない限り、そうしたことは起こらない。

 かつて、宗教がそうした仕組みの一端を担っていたことがある。例えば、カトリックでは貧困層を助けることが神の意志に合致すると考え、仏教の場合は「喜捨」、イスラムでは「ザカート」や「サダカ」などの教えがある。

 また、キリスト教の聖典である新約聖書のマタイによる福音書やマルコによる福音書では、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と書かれていて、富を蓄積すること自体が良くないとされている。かつて、カトリックではイスラムと同じように、金利を取ることも禁止されていた。

 こうした倫理規範を破壊したのはプロテスタントの主張だとする指摘がある。マックス・ウェーバーによると、プロテスタンティズムの「禁欲」は「心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放」ち、「利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまった」(マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年)というのだ。

 ジャン・カルバンらが唱える「予定説」によると、「神は人類のうち永遠の生命に予定された人びと」を選んだが、「これはすべて神の自由な恩恵と愛によるものであって、決して信仰あるいは善き行為」などのためではない(ウェストミンスター信仰告白)。つまり、人間にとって善行は無意味であり、自分が「選ばれた人間」だと信じる人びとは何をしても許されるということになる。強欲を認める教義だ。

 富と情報が流れていく先に権力が生じることは歴史が証明している。「トリクルダウン理論」は権力を集中させ、独裁体制を強化しようと目論んでいた連中が流した戯言にすぎないということ。

 不正を難しくするためには資金の流れを明確にする必要があるのだが、日本では逆の政策がとられてきた。つまり、政治家、官僚、大企業の経営者たちは不正を容易にする仕組みを作ってきたのだ。

 昔から証券界では相場が下がると「財投出動」を期待する声が高まった。「財政投融資計画」の資金、つまり郵便貯金、国民年金、厚生年金、大蔵省(現在の財務省)の資金運用部に預託される資金、簡易保険の積立金、金融機関から調達した資金などだ。この仕組みは2001年に変えられたというが、透明度が高まったとは思えない。事実上、日本の国家予算は「特定秘密」だ。安倍晋三政権が年金を怪しげなものに投入しようとしていることは最近、問題になった。そうした国民資産の略奪が話題になる中、国民資産を略奪する仕組みを確固たるものにするために共謀罪を安倍政権は導入しようとしている。

 アメリカでは1960年代に支配階級の利益に反する主張をしていた人びとが次々と暗殺された。1963年11月のジョン・F・ケネディ第35代大統領、65年6月のマルコムX、68年4月のマーティン・ルーサー・キング牧師、68年6月のロバート・ケネディなどだ。

 キング牧師が殺された直後にアメリカでは暴動が起こり、それに恐怖した支配層は暴動鎮圧を目的として2旅団(4800名)を編成、憲法の規定を無視して令状なしの盗聴、信書の開封、さまざまな監視、予防拘束などをFBIやCIAなどに許す計画を立てた。1970年に作成されたヒューストン計画だ。

 この計画を知ったジョン・ミッチェル司法長官はリチャード・ニクソン大統領を説得して公布の4日前、廃案にしてしまった。(Len Colodny & Tom Schachtman “The Forty Years Wars” HarperCollins, 2009)また、ケント州立大学やジャクソン州立大学で学生が銃撃されたことを受け、ニクソン政権は暴動鎮圧旅団を1971年に解散させてしまう。

 しかし、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で1974年8月に辞任、ジミー・カーター政権下の78年には「文明の衝突」で有名なサミュエル・ハンチントンがズビグネフ・ブレジンスキーと一緒にヒューストン計画を生き返らせている。そして創設されたのがFEMA(連邦緊急事態管理庁)だ。(Peter Dale Scott “The American Deep State” Rowman & Littlefield, 2015)

 ロナルド・レーガンが大統領になるとFEMAを発展させる形でCOGプロジェクトが始まり、1988年に出された大統領令12656でCOGの対象は核戦争から「国家安全保障上の緊急事態」に変更された。そして2001年9月11日、その「国家安全保障上の緊急事態」が発生したとされ、「愛国者法」が成立してアメリカ憲法は麻痺させられる。
 日本はその後を追いかけている。


2017.03.06 櫻井ジャーナル
安倍政権が推進する新自由主義は国民の資産を腐敗勢力に略奪させる仕組みで、ファシズムそのもの
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201702280000/

◇「新」がつく言葉にご注意!
 浜先生は、「リベラル」と「ネオリベラル」、「保守」と「ネオコン」は違うと冒頭に指摘。
 「大切なものを保持し守る」がコンサーブという意味の元義。しかし、「ネオコン」は「大切もの」をどんどん捨てる。
 大昔も新自由主義ということばはあったが、市場経済と社会主義の調和を取る道のことをさしていた。
 しかし、今は、『破壊主義』とでもいうべきイデオロギーだ。
と指摘しました。

 そして、新自由主義者はトリクルダウンの経済学が好きだ、と指摘しました。
 上が栄えれば、下にも恩恵が行く、という論理です。
 しかし、過去に行われた政策ではトリクルダウンの効果はみられないということです。
 レーガノミクスが典型的な例です。金持ち減税を主としました。トリクルダウンが来たかといえばそれはなかったのです。
 サッチャーリズムも同じでした。
 サッチャーさんの場合は、中小企業、商工業者を重視するはずだったのですが、最終的に大企業よりになってしまったのです。

 新自由主義=グローバリゼーションと同義と思われているが、どちらかというと、国家主義者の逆襲という部分もあるのではないか?と提起しました。
 本来のグローバル時代は、共生の生態系、経済の時代ということのはずではないか?と指摘しました。
 誰もが誰かの力を借りているということです。
 例えば東日本大震災で小さな部品メーカーが被害を受け、世界中=グローバルジャングルで自動車の生産が滞ってしまったという訳です。

 自由貿易協定というのは実は看板に偽りがあります。
 浜先生は『地域限定排他貿易協定』というべきだ、と指摘します。
 こうしたことが、世界中に広がり、いわゆるブロック経済化が進み、世界経済が切り刻まれ、第二次大戦になった、と警鐘を鳴らしました。

 そして、アベノミクスは『新自由主義の塊だ』と指摘しました。
 すなわち『世界との共生』ではなく、『自分たちだけが、一番になろう』という論理に基づいているのです。

 さらに、アベノミクス狙いは富国強兵であると指摘しました。
 『脱デフレ』などは看板として掲げているだけで、まともにデフレをなくすつもりなどない、ということです。
 今の日本は、欠陥商品のホットプレートであり、均等に熱がゆきわたるのではなく、ある部分は熱すぎてすぐ焦げてしまうし、ある部分はいつまでも熱が通らないというわけです。
 冷たい部分に置かれた人々に温かさがゆき渡らないとデフレ脱却などできないなどとおっしゃいます。
 また、突如としての人手不足については、結局、ホットプレートの熱い部分だけ人手不足になっているわけです。そもそも、賃金が乱高下していることが問題です。人間は本来、小麦でも銀でもないのです。

 憲法問題では、立憲主義が脅かされていますが、国民が国家を支えるためのもの、というのは、経済運営についても出ています。

 それにしても、安倍さんは『成長』に振り回されているのか?
 『成長=進歩』という観念が日本語にありました。
 そもそもしかし、成熟度が高まった今、今までようなペースで大きくなり続けるのはむしろ異常です。
 そして、ドーピングをして、無理にやっていけば、滅びしかない、その安倍さんの暴走を止めなければならない、と指摘しました。


2014年5月26日付け広島瀬戸内新聞ニュース
新自由主義は誰が「自由」になる経済か?浜矩子さん講演会
社主:さとうしゅういち
http://hiroseto.exblog.jp/22052298/

金子兜太「アベ政治を許さない」
https://matome.naver.jp/odai/2143886246909572601

 どうしてこんなクニになったの?誰がそうさせたの?誰が許したの?もっと酷く惨く悪くなるの?おお、やだやだ・・・


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2017年03月06日

セロニアス・モンクのいた風景

Toyota Prius
...for the first five minutes...
 そうなんです。最初の5分間が大事なんです。
 この映画の大事な場面に、われわれの美しい国、日本がでてまいります。
 イマのこの国の特権階層、指導者を称している輩ども、ぜひ大事なわれわれの国を教育勅語とか牡プレーとかに売り渡さぬよう、お気を付けあそばせ。
 大学も放棄し、弁護士になるのも棄て、「女優」を目指すミアは渋滞でも平気、だって愛車の「プリウス」でセリフの稽古ができるから。
 ヤッホー君の愛車は Toyota Ist ! 

:::"pure jazz":::
 自分の好きな、これがジャズだいう曲を思いっきり誰に気兼ねすることなく弾ける、そしてジャズ奏者が生き生きとプレーできるそんな店をもちたいセバスチャン。
 そしてもったお店。
 ロケ地に飛んだ方の報告記:

 ”SEB’s Bar” では、キャンドルと共にゆったりとしたソファがいくつも並んでいたが、実際のお店は木目調のスタンディングテーブルが縦に3台並んでおり、店内を流動的に行き来する客の導線を確保している。
 向かって右側にはグループで楽しめるソファ席があり、左側はカウンター席となっている。
 店内に流れているのは、セバスチャンが愛した古き良き時代のジャズ…ではなく、往年のロックナンバーだ。
 おまけに店内のモニターではSF映画が流れていた。
 どうやらNetlixを流しているようで、映画がひとつ終わると次の作品を店員が選んでいる様子が見られた。


2017年2月24日6:20PM、ORIVERcinema
映画『ラ・ラ・ランド』が好きすぎてロサンゼルスのロケ地を巡ってみたら、こんなトコだった!
中谷直登
https://oriver.style/cinema/la-la-land-filming-location/

 この映画でセバスチャンが練習する曲がなんと、なんと滝廉太郎!

Japanese Folk Song
 アメリカのジャズピアニスト「セロニアス・モンク」が、滝廉太郎作曲の「荒城の月」をアレンジした曲。
 第89回アカデミー賞で、1997年のタイタニックに並ぶアカデミー史上最多の13部門14ノミネート、同年最多の6部門を受賞した映画、「LA LA LAND」の中で、ジャズに全てを捧げる、主人公セブ(ライアン・ゴズリング)が、自宅のピアノで、この荒城の月を元にアレンジした曲「Japanese Folk Song」をかけながら、同じフレーズを繰り返し練習します。


2017-3-2、岡城.com
アカデミー賞映画「ララランド(LA LA LAND)で流れる「荒城の月(Japanese Folk Song)」を聞けるアルバム
https://okajou.com/archives/4382/

 どんな曲だったかというと、これ:

Japanese Folk Song
Written by Rentarô Taki
Arranged by Thelonious Monk
Performed by Thelonious Monk
Courtesy of Columbia Records
By arrangement with Sony Music Licensing

Thelonious Monk - Japanese Folk Song
https://www.youtube.com/watch?v=QD1p95nyeEc

 ヤッホー君も若いころ夢中になってたセロニアス・モンク(1917-1982)…
 
 この本にはモンクが活躍した50年代から60年代のジャズの世界が描かれていますけれど、私がプロになった80年代末から90年代初めのニューヨークは景気が悪くて、モンクの時代の雰囲気はもう残っていないんだけど、まだドラッグをやっているミュージシャンはいましたし、仕事の取り合いとかで神経をすり減らしたり、人間不信になったりしたことを思い出して、けっこう胸が痛くなりましたね(笑)。

 その頃はまだトラディショナルなフォービート・ジャズを勉強しようという若者も多かったんですけれど、ジャズの仕事はどんどん減っていったし、モンクの時代のミュージシャンの生き残りがまだいて、アルコールやドラッグでボロボロになっていた。私は彼らと共演してその「壊れっぷり」を間近に見た最後の世代ですね。

 そんな経験があるので、この本に書かれているような、破天荒に生きるのが格好いいというビートニク的な価値観とか、芸術家をとことんサポートする男爵夫人みたいな人がいた時代はもう本当に終わったんだなということを、読むほどに痛感させられました。
 さらに言うと、人前に出たりものを創ったりする人たちは情緒や神経が繊細で不安定な部分があって、この時代はそういう気質から来る精神的・肉体的な苦痛を紛らわすのにドラッグとかに手を出しやすかったのかもしれない。
 モンクは最後は音楽的に燃え尽き症候群になって死んじゃうわけだけど、やっぱり特別な何かを持った人だったと思うんですね。
 今の時代にこういう突然変異の天才が現れたとしても、残念ながら社会から見放されちゃうんじゃないかな。
 私も友達にはなりたくない(笑)。

 私の世代ではまだまだ演奏を続けているミュージシャンは沢山いますけれど、フォービートを捨ててしまっているところがある。
 やっぱりジャズはフォービートが格好良く出来ないとダメだと思うんですけれど、その意味ではちょっと先が暗いかなと思います。

 モンクの話に戻ると、この本で村上さんも書いているように、モンクの音楽って金太郎飴のようにどこを切っても同じなんです。
 ピカソの絵が時代ごとにまったく変わってしまうのとは正反対。
 そういう意味では、世の中全員が聴いたり好きになる必要はないけれど、たとえばムンクの絵や「太陽の塔」をみんなが知っているぐらいの音楽的な立ち位置ではあるはずで、やはりワン・アンド・オンリーです。


2014年10月号「波」
友達にはなりたくない、ワン・アンド・オンリーの人
――村上春樹編・訳『セロニアス・モンクのいた風景』
(新潮社、2014年9月)
大西順子(1967年生まれ)
http://www.shincho-live.jp/ebook/nami/2014/10/201410_13.php

http://junkoonishi.runinc.jp/

“It feels really nostalgic to me,” frets a self-conscious Mia (Emma Stone) in “La La Land,” after reading her one-woman play to her boyfriend, Sebastian (Ryan Gosling). “Do you think people are going to like it?”

Writer-director Damien Chazelle must have harbored the same doubts as he began working on this romantic musical film about love, art and ambition. Despite its contemporary Los Angeles setting amid Priuses and cellphones, “La La Land” is deeply nostalgic, drawing inspiration from Hollywood’s Golden Age, from Thelonious Monk and other jazz greats, and from the ruminative lyricism of French filmmaker Jacques Demy and his 1960s works.

So when Sebastian answers Mia with a defiant “F--- ’em!” it feels like Chazelle’s manifesto, a cri de coeur that echoes through this astonishing, poignant and beautifully realized film. For there is nothing tentative about “La La Land,” especially concerning its exuberant dance numbers. Like the great musical maestros Vincente Minnelli and Stanley Donen, Chazelle put his faith in dancing as good storytelling. As a result, dance makes a triumphant return as an expressive cinematic language in “La La Land,” in ways big and small.

The dance numbers are so physically rapturous and vicariously thrilling, they almost lift your heart out of your chest. There’s the exhilarating opening sequence during a traffic jam on an L.A. freeway, where drivers spin and stomp on the roofs of their cars while a BMX biker and a freewheeling skateboarder surf the concrete barriers. A hallucinatory pool-party number includes nods to Jerome Robbins’s “West Side Story,” with pretty young partygoers snapping open fans and Stone grabbing her skirt in mambo moves from the Rita Moreno playbook.

It’s during a starlit tap dance in the Hollywood Hills that Sebastian, a jazz pianist, and Mia, an aspiring actress, try to ward off their feelings for each other and then succumb to them. The irresistible couple finally fall in love during a waltz reverie at a planetarium that sends them spinning, airborne, through the stars. Later, a stylized dream sequence recalls Gene Kelly’s pursuit of Leslie Caron in the ballet that closes “An American in Paris.”
...

The Washington Post, Published: December 30, 2016
Triumphant ‘La La Land’ demonstrates the power of dance to tell a story
By Sarah L. Kaufman
https://www.washingtonpost.com/entertainment/theater_dance/triumphant-la-la-land-demonstrates-the-power-of-dance-to-tell-a-story/2016/12/30/22a28c10-cc85-11e6-a747-d03044780a02_story.html

 次の記事もぜひどうぞ:

The New Yorker, December 12, 2016 Issue

Fun in “La La Land”

Emma Stone and Ryan Gosling create dynamic thrills out of simple things in this grownup musical.


By Anthony Lane
http://www.newyorker.com/magazine/2016/12/12/dancing-with-the-stars

 マレーシアでも話題になったこの映画、
 観たかったけど行けなかったこの映画、
 日々の暮らしに忙殺されて映画館に行けなかったヤッホー君、
 今回、東京で山歩クラブの仲間たちと連れだって観に行けて、
 久しぶりに春、良い映画と出会って、
 満面笑みを浮かべ、満足肥満の様子。

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2017年03月05日

ララランド

 昨日「東京女子流」と出会ったのは「ららぽーと」

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 今日は山歩クラブの映画鑑賞会で "La La Land"

映画『ラ・ラ・ランド』公式サイト-GAGA
http://gaga.ne.jp/lalaland/

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 岩波さんも江戸ちゃんも松前さんも良かったねって。
 何が良かったかってヤッホー君、次の方と同じかな:

 実は昨日2月27日、もう一本映画を観ていて今話題の「ラ・ラ・ランド」がそれです。
 ミュージカル映画だと聞いていたので「レ・ミゼラブル」を観た時のような苦手意識が先に立ち、退屈して居眠りしてしまうことを予想していたのだけど、それはうれしい誤算に終わり、最後までスクリーンにくぎ付けとなりました。
 売れないジャズピアニストのセバスチャンとハリウッド女優を夢見るミア。
 夢追い人の二人が恋に落ち、夢と現実の狭間でもがき、挫折を繰り返しながらも、最後にはお互いの夢は叶ったけれど、恋愛は成就することなく、別々の道を歩むことに。
 ミアの最後のオーデションで語り部となって歌った歌のフレーズ:

「どうか乾杯を 夢追い人に たとえおろかに見えても」

「どうか乾杯を 心の痛みに どうか乾杯を 厄介な私たちに」

 それで飯が喰えるかどうかもわからないのに、夢を追い続けている夢追い人の悲痛な叫びに聞こえました。
 私の娘も夢追い人です。
 それで飯が喰えるかどうかもわからないことを、身を粉にしてまで一所懸命やっています。
 親の私からしてみれば、いつまでも遊んでいるようにしか見えない娘自身も、自分のことを厄介者だと蔑んで
どこかで心を痛めているような気がして。
 それでもいつかは、現実を見ないといけない時が来るかもしれないけれど、少なくとも今は、娘が一所懸命やっていることにエールを送り、ミアの語り部のように声高らかに乾杯したいと思いました。

 乾杯!


2017年02月28日(火)素顔のままで
〜50代おひとりさまの日々の暮らし。心の膿を絞り出し、にっこり笑って還暦を迎えたい〜
映画「ラ・ラ・ランド」を観て、夢追い人に乾杯!  
http://koinohana441.blog.fc2.com/blog-entry-1110.html

Emma Stone - Audition (The Fools Who Dream) LYRICS ON SCREEN
https://www.youtube.com/watch?v=UlunjmpaRVU

Emma Stone Singing her Amazing Audition
https://www.youtube.com/watch?v=P6HfeVX7TWA

How much work goes into a best original song or score?  “La La Land” composer Justin Hurwitz, who received Oscar nominations for both original score and two original songs this morning, and already won both prizes at the Golden Globes, said it required years of work at pianos and synthesizers, and the creation of hundreds, if not thousands, of piano demos.

“For each theme or melody, I go down a lot of roads, and go through many different demos,” he told the NewsHour, often sitting at the piano from the moment he woke up until he went to bed, which in the final polish of the score often meant four in the morning. “I sit there until I feel like I have something very good. Then I record it, email it to Damien [Chazelle, La La La Land’s director], and if he says no, I keep going… and going.”

Such was the process for most of Hurwitz’s songs in the romantic breakout musical, which tells the love story of Mia (Emma Stone), an aspiring actress, and Sebastian (Ryan Gosling), a jazz pianist who wants to open his own jazz club. In the end, Hurwitz had pulled 1,900 demos into his iTunes library for the film, each with many variations.

One song that went through multiple melodies was “Audition (The Fools Who Dream),” which was today nominated for an Oscar for best original song.

In the film, Mia sings “Audition” for her last audition before giving up her acting dream altogether. The song tells the story of how her aunt, who introduced Mia to Hollywood films, was herself a dreamer, having once jumped brazenly into the river Seine.

Hurwitz said he began composing “Audition,” back in 2011, after Chazelle had finished the screenplay for “La La Land.” But the musical stalled for years,  as it struggled to get studio funding for a genre considered nearly extinct. When it was finally picked up in 2014, Chazelle sent Hurwitz back to the drawing board with several songs − “Audition” included. This time, the melody for “Audition” came to him quickly, something he said never happens.

“I think because it had been percolating for so long, and because by that point I had such a connection to the story,” he said. “I connected very much to [Mia’s] character in the story… and the idea of being frustrated and not being able to do what you can do, and make what you want to make, because of so many years of not being able to get this movie made.”

As Hurwitz composed what would become the final version of “Audition,” he thought carefully about the shape of the scene, which begins with Mia telling the casting agents about her aunt, and then transitions to a tribute to all dreamers. The second stanza of the song begins: “She smiled / Leapt, without looking / And She tumbled into the Seine!” while the third starts very differently: “Here’s to the ones / who dream / Foolish, as they may seem.”

“It switches from ‘she’ to ‘we,’ and I thought that was a brilliant and beautiful switch in the lyrics,” said Hurwitz, which he wanted reflected in the larger shape of the song. And so the song “starts smaller, then it swells and becomes anthemic,” he said. “By the final chorus Mia is belting it.”

The song closes with Mia singing quietly as she did at the start.

Once Hurwitz had finally finished a piano demo he and Chazelle were happy with, he gave it to lyricists Benj Pasek and Justin Paul. After the lyrics were written, Hurwitz orchestrated it. The vocals were recorded live on set to just a piano track, without orchestration, while Hurwitz played piano as Stone sang. The orchestration was recorded in post production.
...


PBS NewsHour, January 24, 2017 at 1:31 PM EST
Inside ‘La La Land’s’ ‘Audition,’ and what it takes to compose an Oscar-nominated song
By Elizabeth Flock
http://www.pbs.org/newshour/author/elizabeth-flock/

The seasons of a love affair are played out beguilingly in this wonderfully sweet, sad, smart new movie from Damien Chazelle – the director of Whiplash – and the Venice film festival could not have wished for a bigger sugar rush to start the proceedings. It’s an unapologetically romantic homage to classic movie musicals, splashing its poster-paint energy and dream-chasing optimism on the screen. With no little audacity, La La Land seeks its own place somewhere on a continuum between Singin’ in the Rain and Woody Allen’s Everyone Says I Love You, with a hint of Alan Parker’s Fame for the opening sequence, in which a bunch of young kids with big dreams, symbolically stuck in a traffic jam on the freeway leading to Los Angeles, get out of their cars and stage a big dance number.

To be honest, this is where an audience might find its tolerance for this picture’s unironic bounce tested, coming as it does right at the top of the show. It takes a little while to get acclimatised, and for the first five minutes, the showtune feel to the musical score might make you feel you’re watching a Broadway adaptation. But very soon I was utterly absorbed by this movie’s simple storytelling verve and the terrific lead performances from Ryan Gosling and Emma Stone who are both excellent – particularly Stone, who has never been better, her huge doe eyes radiating wit and intelligence when they’re not filling with tears. Gosling, for his part, has a nice line in sardonic dismissal to conceal how hurt he is or how in love he is.

The two of them get a meet cute in the traffic jam. Stone is Mia, a wannabe movie star like pretty much everyone else, and while waiting, she is distractedly going through her pages for an audition she has later in the day. Chazelle, incidentally, creates a mischievous reveal in which we are later struck by the dull listless way she runs the lines to herself, and the passionate way she sells them later to the producer. I wonder if the director was influenced by Naomi Watts’s actress in that other La-La-Land extravaganza: Mulholland Drive, by David Lynch.

But she doesn’t notice the cars ahead starting, and holds up the driver behind her: a disagreeable guy in a macho convertible, who pulls belligerently round to overtake, scowling at Mia and receiving the finger in return. This is Seb, played by Gosling, a pianist and jazz evangelist who is living a scuzzy apartment in the city.

A little like Mr Fletcher, the terrifying jazz teacher played by JK Simmons in Chazelle’s Whiplash, Seb is a purist and an uncompromiser, a difficult guy to get to know or like. He is lonely and unhappy, claiming to his exasperated sister (Rosemarie DeWitt) that he is just playing rope-a-dope with life and fate, waiting for them to wear themselves out beating him, after which he will come storming back. Seb is fired from a restaurant, where the manager (a cameo for Simmons) is enraged by his tendency to favour brilliant free-jazz improvisations instead of the tinkling background music he gets paid for. But it is here, again, that Seb meets Mia, and then again at a party, where Seb has humiliatingly got a gig playing synth in an 80s-style band. It is fate.

Winter turns to spring and then to summer, and their affair begins to take off: Mia encourages Seb to find a way to open the jazz club he dreams of, but to prove to her he’s not a flake, he takes a regular gig playing the piano in a jazz-rock band led by an old frenemy of his. Suppressing his fears that he is selling out, Seb in his turn encourages Mia to write her one-woman show – that toe curling staple of the needy actress. But there is trouble in store: having been careless in what they wished for, Mia and Seb find that success and careers are to come between them. There is a brilliant scene in which a surprise supper Seb has cooked for Mia descends into a painful row as they quarrel about how their lives are panning out.

Chazelle creates musical numbers for the pair of them, and Gosling and Stone carry these off with delicacy and charm, despite or because of the fact that they are not real singers. The director must surely have considered the possibility of casting, say, Anna Kendrick in the role of Mia, who would undoubtedly have given the musical aspect some real punch. But Stone fits the part beautifully: something in the hesitancy and even frailty of her singing voice is just right. Both actors are also very accomplished dancers within a shrewdly limited range.

La La Land is such a happy, sweet-natured movie – something to give you a vitamin-D boost of sunshine.


The Guardian, Last modified on Thursday 9 February 2017 15.25 GMT

Ryan Gosling and Emma Stone shine in a sun-drenched musical masterpiece

The director of Whiplash delivers a musical romance that rushes from first love to heartache via showtunes, love songs and free jazz. Propelled by charming performances from its leads, it’s a sweet-natured drama that’s full of bounce


By Peter Bradshaw
https://www.theguardian.com/film/2016/aug/31/la-la-land-review-ryan-gosling-emma-stone

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ゆるふわ系愛国

 3月5日日曜日は「啓蟄」なんかムズムズするんですぅ〜
 昨夜の続き、といいますか、この国のことばも、この国を語ることばも、イマ危ういな、と感じているのです。この国だけではないのかもしれない、ですね。
 そんなことを指すあたらしいことばも生まれているから。ムカシだったら、ウソとかプロパガンダですんでいたのに、イマだったらこんなにことばも変えて:
 newspeak, alternative facts, fake news・・・

 安倍昭恵氏について、非常に興味深い原稿を読んだ。
 それは「文藝春秋」2017年3月号に掲載された「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」(石井妙子)。
 まず驚いたのは、首相夫人に経産省や外務省から公費で派遣されている秘書が5人もついているということだ。
 これだけの秘書がつくようになったのは、第二次安倍政権からだという。

 そんな昭恵氏の生家はご存知の通り森永製菓の創業家。
 記事によると、幼稚園から私立の聖心女子学院に進み、聖心女子専門学校へ。
 そして電通に入社。
 時代はバブル。
 「ゴルフやスキーを楽しみ、ディスコで踊る」、「やんちゃなお嬢様」だったようだ。

 昭恵氏に8歳年上の安倍晋三を紹介したのが電通の上司。
 当時の安倍晋三は父・晋太郎の秘書。
 そうして昭恵氏は24歳で結婚。
 昭恵氏が31歳の時に晋三は初当選。
 夫が総理大臣となり、ファーストレディとなったのは44歳の時だった。

 が、そんなファーストレディ時代が長く続かなかったのは誰もが知るところだ。
 昭恵氏は、夫の突然の辞任の頃を「どん底」と表現する。
 が、そこから彼女の「充電」が始まった。

 2012年には50歳、結婚25周年になるので、そこから人生を再スタートさせたいと目標を立て、人脈を広げたり、曾野綾子氏とカンボジアの地雷撤去を見に行ったり、ミャンマーに寺子屋を作る運動にかかわったり、フルマラソンをしたりと、まるで90年代の自分探しかってくらいのとっちらかり具合でいろいろ手をつけていく。
 居酒屋「UZU」の計画もこの頃生まれたらしい。
 同時に同じ頃に始めたのが、「神社めぐり」だったという。

 そんな神社めぐりを通して、昭恵氏はスピリチュアルカウンセラーや神道関係者、ニューエイジ系の人びととの交流を深めてどんどん神がかった方向に突き進んで行くのだが、この原稿で強調されているのは、安倍首相と昭恵氏が「価値観の基礎の部分を共有しており、結びつきが深い」ということだ。

 では、2人が共有する価値観とはどのようなものなのか。
 それは例えば「水の波動研究者」「スピリチュアルマスター」と自称した故・江本勝氏に影響を受けてしまうようなところである。

 江本氏は、水に「ありがとう」と言ったら綺麗な結晶ができ、汚い言葉をかけると結晶を結ばないなどと科学的根拠を一切無視した持論を提唱し、一時期いろんな意味で注目されていた。
 しかも3.11以降は福島県の放射能汚染を「愛と感謝の祈り」を日本中から送れば浄化できると主張していたという、まぁ、そういう人である。
 そんな江本氏の持論は当然多くの識者から「トンデモ科学」「エセ科学」と批判され、うっかり江本氏の持論を信じた人は笑い者になるという、そういう立ち位置の人物である。

 で、江本氏は、安倍晋太郎氏の代から安倍家と付き合いがあったようなのだ。
 その江本氏は、戦後、日本にGHQが入ってきて、「国家神道の廃止」「大麻栽培の禁止」「天皇制の現在の制度への移行」がなされたことを問題視していたようである。
 昭恵氏はそんな江本氏に影響を受けたのだろう、この1〜2年、大麻の国内栽培推進を訴え、「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」という対談までした上、若者たちが過疎地に移住して産業用大麻を栽培する活動を始めれば応援に駆けつけるなどしてきたが、若者たちは大麻所持で逮捕されるというオチがつく。

 そんなふうに大麻に肩入れする一方で、昭恵氏は随分と国粋主義的な発言もしている。
 「日本は世界で称賛されている」「日本人の精神性の高さが今後、世界をリードする」、また、先の戦争について、アジアの国々を解放するために日本は頑張った、中国や韓国にただ謝るのはおかしい、といった発言だ。

 そうして一見「自由奔放」に見える彼女は、このたび「天皇国日本を再認識」「教育勅語素読」を掲げる「瑞穂の國記念小學院」の名誉校長に就任していたことが大きく報じられ、辞任することを発表した。
 系列の塚本幼稚園では教育勅語の朗唱、自衛隊の慰問、伊勢神宮参拝など「戦前回帰」の教育がなされている上、保護者にヘイトスピーチ文書が配られ、虐待と思われるような事例が続々出てきているわけだが、昭恵氏はこの幼稚園をこれまで4回ほど訪問。
 「籠池先生の教育に対する熱き想いに感銘を受け、このたび名誉校長に就任させていただきました」と学校案内で書いている。

 一体、大麻と反原発とエコと国粋主義が矛盾なく共存する昭恵氏の脳内はどうなっているのだろう…。
 私でなくとも不安な思いに駆られるはずだが、石井氏の原稿には、そんな昭恵氏の脳内をうまく言い当てた一文がある。
反原発、反防潮堤、大麻、神社、農業、天皇、神、宇宙、夢、平和…といった彼女のキーワードは、彼女のなかでは矛盾なく、すべてつながっている。そして、そのベースにあるものは日本を神聖化する、危うさを含んだ、少し幼い思考ではないだろうか

 スピリチュアルやエコと同列にある、ゆるふわな愛国。
 なんだか昭恵氏の脳内では、「ラッセンの絵(あのイルカのやつ)」(注)を音楽にしたみたいな曲がかかってそうな気がする。
。。。
2017年03月02日 17時28分 JST 更新、ハフポスト
「ゆるふわ系愛国」のゆくえ〜安倍昭恵氏と稲田朋美氏、そして森友学園
雨宮処凛
http://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/moritomo-school-abeakie_b_15093740.html

(注)
http://biz-journal.jp/2013/09/post_2942.html

 ま、この後はあの稲田朋美に続くわけですが、併せて読んでいただくことにして「価値観の基礎の部分を共有しており、結びつきが深い」とされる旦那の方もめちゃくちゃ、言いたい放題:

 「安倍1強」のもとでの2016年秋の臨時国会も中盤戦。
 白熱したやりとりを繰り広げる政治家の言葉は、確かな事実に基づいているのか。大統領選などで米メディアが積極的に取り組む「ファクトチェック(事実確認)」の手法を使って、安倍晋三首相の答弁を調べた。

■ 安保法制、触れた?
 今国会は、与党が大勝したこの夏の参院選後、初の本格論戦の舞台だ。参院本会議の代表質問で、安全保障関連法について、国民への説明の不十分さを民進党議員に指摘された首相が答えた。

〈参院選において街頭演説等で、私は必ず必ず、平和安全法制(安保関連法)についてお話をさせていただきました〉

 朝日新聞は参院選の期間中、取材した64ヶ所での首相の演説内容を確認した。
 「日本をしっかり守っていくために日本とアメリカがお互いに力を合わせることができるようになった」など、首相は序盤で毎回のように安保関連法の成立に触れ、理解を求めていた。
 ところが、公示4日後に共産党政策委員長(当時)がNHKの討論番組で、防衛予算を「人を殺すための予算」と発言すると、共産や野党共闘の批判に力点を置くようになり、安保関連法に触れなくなった。
 結局、「平和安全法制」という言葉を出したのは20ヶ所。44ヶ所で出していなかった。
 首相や大臣答弁の原稿を書くのは、主に官邸や各省庁の官僚たちだ。与野党の議員から事前に質問通告を受け、想定問答を作る。全体的に官僚作成の部分には誤りが少ない。誇張や誤りがあったのは、政治家が自らの言葉で語った部分だ。

■ 大臣指名、してた?
 首相の

〈我々野党の時はちゃんと大臣を指名してましたよ〉
もそんな一つ。
年金問題を取り上げた今月10月4日の衆院予算委員会で、所管大臣の厚生労働相を委員会に呼ばず、首相に質問を集中させた民進議員を批判した後の言葉だ。
 実際には、自民も野党時代の2011年7月の参院予算委で原発問題を取り上げながら、原発担当相と経済産業相を呼ばず菅直人首相(当時)に質問を集中させた。このとき、菅氏は「当事者の大臣にお聞きになることが質疑をしっかりと進めるうえで重要だ」と語っていた。

■ 二重国籍、自民は? 
 民進の蓮舫代表の二重国籍問題に絡む今月10月3日の首相答弁

〈基本的にわが党の議員は、二重国籍ではないという認識に立っている〉
は、認識の誤りが翌4日に明るみに。
 参院選で初当選した自民の小野田紀美(きみ)氏が米国との二重国籍状態であることを産経新聞が報じ、小野田氏も認めた。

■ 強行採決、考えず?
 国会は事実の説明にとどまらず、さまざまなレトリック(修辞技法)を用いて主張の正当性を戦わせ、世間に印象づける場でもある。
 環太平洋経済連携協定(TPP)の承認案を審議する10月17日の衆院特別委員会。「強行採決という形で実現するよう頑張らせていただく」と述べて辞任した自民の特別委理事の発言に対する認識を民進議員に問われ、首相が答えた。

〈そもそもですね、我が党において、いままで結党以来ですね、強行採決をしようと考えたことはないわけであります〉
 野党が採決を拒否しているにもかかわらず、与党が審議を打ち切って採決してしまう事例は、最近でも2013年の特定秘密保護法や2015年の安保関連法があり、結党までさかのぼると枚挙にいとまがない。ただ、首相が語ったのは「強行採決をしようと考えたことはない」という内心の話。とはいえ、首相が歴代の総裁と幹事長、国対委員長に当時の国会戦略の真意を確認したはずもなく、委員会室では「えー」という声が上がった。

■ 南スーダン、危険は?

〈南スーダンはですね、例えば、我々が今いるこの永田町と比べればですね、はるかに危険な場所〉

10月12日の衆院予算委員会では、自衛隊が国連平和維持活動(PKO)に従事する南スーダンの治安情勢についての認識を共産議員に問われ、こう答えた。
 首都ジュバでは7月に大統領支持派と前副大統領支持派による戦闘が発生し、数百人が死亡。一方、警視庁麹町署の地区別犯罪発生状況などによると、14年に永田町・霞が関地区であった殺人はゼロ件。強盗やひったくりといった指定重点犯罪の発生件数もゼロだ。
 首相は「治安情勢は(日本と)比較にならないほど厳しいのは事実」と付け加えたが、日本の首都中枢と比べること自体が「内戦状態」と評される現地の厳しい状況を覆い隠しかねない。


2016年10月24日(月)付け朝日新聞
首相の答弁、正確? 「ファクトチェック」してみました 臨時国会中盤
首相の答弁 正しい?誤り?


 言いたい放題は今年になっても止まりません、暴走してますよ!

首相「兼山(けんざん)のハマグリは、土佐の海に定着しました。そして350年の時を経た今も、高知の人びとに大きな恵みをもたらしている」(2017年1月20日の施政方針演説)

 兼山は江戸時代の土佐藩家臣、野中兼山。
 江戸から持ち帰ったハマグリをすべて海に投げ入れ、いぶかる人たちに「これは君たちの子孫に贈るのだ」と語ったとの逸話が残る。
 首相は演説の結びで紹介し、日本の未来を切り開こうと呼びかけた。

■《言い過ぎ》高知のハマグリ、漁獲400キロだけ
 首相の言う「350年の時を経た今」の土佐の海の実情はどうか。
 高知県漁業振興課によると、2015年のハマグリの漁獲量は約400キロ、60万円相当だ。
 県内の主な産地にたずねると、県漁協入野支所(黒潮町)は「組合員が15人ほど従事しているが、メインはあくまでもウニなど他の漁だ」。甲浦支所(東洋町)は「自分で食べるか、人にあげるぐらい」。
 「大きな恵み」にはほど遠かった。地元紙の高知新聞は首相演説を「高知はハマグリ乏しい」「演説ウソ?」と報じた。
 兼山の逸話は、高知選出の中谷元・防衛庁長官(当時)も2002年の小泉内閣のメールマガジンで、政治姿勢のお手本として紹介したが、今も地元の恵みになっているとは書かなかった。
 演説で逸話を引くのは、政治姿勢をわかりやすく伝える方法として有用だ。
 ただ、閣議決定を経る施政方針演説にしては、事実確認が不十分だった。


2017年2月10日05時00分
(ファクトチェック)安倍首相 1月20日の施政方針演説

 ヤッホー君の信頼しておる小児科の先生もあきれかえっておられます:

 対「テロ等準備罪」法案に、テロという言葉がないことが明らかになった。
 政府与党は、それではまずいと、テロという言葉を法案のなかに入れる画策を今しているらしい。
 やはりテロ対策は、酒のツマミで、本音は、共謀罪対策だったことが明らかになった。
 対共謀罪法案は、国民を監視して、思想信条の自由を抑圧し、政権への国民の正当な批判を抑えるための法案である。
 それにしても、法務省当局、政権与党の何と杜撰なことか。

以下、引用〜〜〜
「共謀罪」法案、全容明らかに 条文に「テロ」表記なし
朝日新聞デジタル 2/28(火)11:56配信

 犯罪の計画段階で処罰する「共謀罪」の要件を変えた「テロ等準備罪」を新設する法案の全容が2月28日、明らかになった。対象となる犯罪は91の法律に規定された277種類の罪に及ぶ。政府は呼称として「テロ等準備罪」を使っているが、条文の中に「テロ」という文字が入っていないことも判明した。

 公明党は28日午前、全国会議員を対象にした会合を開催。自民党も同日午後に法務部会を開くなど、法案についての与党の事前審査が始まった。政府は審査を経たうえで、3月10日の閣議決定をめざす。

 明らかになった法案によると、正式な罪名は「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画」の罪。政府は今回の法整備の目的を2020年の東京五輪・パラリンピックなどに向けたテロ対策強化としているが、法案にはテロリズムの定義も文字もない。「テロ」を冠した呼称は、世論対策に過ぎなかった面もうかがえる。


2017/03/04 18:25
本音は共謀罪 

 現政権が、財務省の言いなりであるのか、税収を増やすことが少子化対策よりも重要と考えているのか・・・
 白井聡氏のFacebookでの発言に考えさせられた。その発言とは・・・

『16歳未満の子供に控除が適用されないって、本当にどういうことなんだ? 経緯は、民主党政権成立で子供手当制度創設⇒控除廃止⇒自民党が政権に復帰⇒子供手当制度廃止⇒控除廃止だけ存続(イマココ)。つまり、民主党政権以前と比較すると、
「子育て世帯に対して実質的に増税している」と理解していますが、正しいですよね?』

 民主党政権は当初官僚機構と一線を画していたが、官僚のサポートを十分得られず、政権運営に支障を来した。最終的に、政権を放り投げるようにして、下野した。
 その後、自公政権になって、官僚機構を支配したかに見えるが、実質、官僚機構のやりたいようにさせている、または官僚機構と同一化している、のではないだろうか。現政権は、何とか機構を林立させ、新たな規制とそれに伴う天下り・利権を官僚に与え続けている。
 この子供控除の廃止なぞ、官僚機構の言うがままに政権与党が税収拡大政策を続けている、ということなのではないだろうか。


2017/03/05 00:21
官僚機構と同一化した政権

 あの、ホントにこの国を美しいものにし、ホントにその美しい国に住む人びとの幸せを願ってるんでしたら、あのぉ〜政治家落第ですね!
 税金で食いつないで、一家の家業である政治屋のやることに成り下がってるとしたら、あのぉ〜軌道修正してください、今日は啓蟄です! 

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2017年03月04日

アッキード事件

 3月4日土曜日、ヤッホー君の俳諧を究める徘徊は東京湾を眺める旅でト・ヨ・スへ!
 ト・ヨ・スでは若い衆がリズムに合わせて手を上げたり腰を振ったり、舞台の「東京女子流 Tokyo Girls' Style」と呼吸を合わせ・・・
 あのぉ、ト・ヨ・スはもう、「やっさ踊り」じゃないみたいですね。
 「アーバンドック ららぽーと豊洲 シーサイドデッキメインステージ」で三日間、「22ndシングル ”predawn/Don't give it up”リリース記念&ツアー」開催中!

”predawn” 東京女子流
https://www.youtube.com/watch?v=6WiLf1BmmGA

Ayaka Yoshida 1週間前
 楽曲は勿論のこと、MVの世界観が素敵。
 私は「女子流」の強く優しく美しいところが本当に大好き。結成から7周年。さまざまな困難を乗り越えてきた「女子流」にはもっと輝かしい舞台に沢山立って欲しいし、立つべきグループだと思っています。
 これからもこの4人で歌い踊り続けて下さい。3月からのツアーに参加するので今からとても楽しみです!!


 こういうリズムには全くのれないヤッホー君、あのぉ、30年前(!)こういう映画がありました!

私をスキーに連れてって」(1987年)
https://www.youtube.com/watch?v=NXW2-5Iiq4o
https://www.youtube.com/watch?v=qNYY9-y8LiE
恋人がサンタクロース
https://www.youtube.com/watch?v=qNYY9-y8LiE

 30年後、こういう企画がありました。

第3回 私をスキーに連れてかなくても行くわよ 2017』PRムービー
https://www.youtube.com/watch?v=5VnuZMtWhCs

2016/11/05 に公開
『第3回 私をスキーに連れてかなくても行くわよ 2017』
安倍昭恵と行く 80年代のスキー復活! 〜東北の観光を応援しよう〜

山形県蔵王温泉スキー場で、2016年3月に開催された同イベント・第2回目の模様をご覧ください。

第3回目の開催も、2017年3月に決定いたしました。
皆様のご参加をお待ちしています!

開催日程:2017年3月3日(金)・4日(土)・5日(日)
場所:蔵王温泉スキー場(山形県)
公式サイト:http://ski80s.jp

『第2回 私をスキーに連れてかなくても行くわよ 2016』PRムービー
https://www.youtube.com/watch?v=tGUbPnNgLX8

2015/10/17 に公開
『私をスキーに連れてかなくても行くわよ 2016』
安倍昭恵と行く 80年代のスキー復活! 〜東北の観光を応援しよう〜

山形県蔵王温泉スキー場で、2015年2月に開催された同イベント・第1回目の模様をご覧ください。

開催日程:2016年3月4日(金)・5日(土)・6日(日)
場所:蔵王温泉スキー場(山形県)
公式サイト:http://ski80s.jp
http://ski80s.jp/archive/1st2015_outline.html


名誉会長 ご挨拶
安倍 昭恵(内閣総理大臣夫人)
 第1回「私をスキーに連れてかなくても行くわよ」はおかげさまで大盛況、大好評を頂きました。
 イベントの盛り上がりを通して、最終日にはすでにみんなの思いが2016年第2回の開催へ向けてひとつになって行きました。
 このイベントを通して私たちは、楽しみながら東北を応援するひとつのかたちを模索しています。
 第1回はすべて手作りでした。地元の皆さんや青年会議所の皆さん、スポンサーやボランティアの皆さん、そして参加者の皆さんと一緒に作り上げることが出来たのは大きな喜びです。
 そしてこのイベントが一度きりで終わらずに継続事業となることが、東北のみなさんとの絆を深める一助となることを願っています。
 80年代から比べるとスキーは進化しています。マテリアルの向上でずっと楽にターンが出来るようになりました。
 そして大人のスキーヤーとなった私たちは蔵王自慢の温泉や東北の味覚など地元の魅力をより深く楽しめるようになりました。
 このようなイベントをきっかけに、ブランクのあった元スキーファンが進化したゲレンデに戻ってくることが、地方活性にもつながることでしょう。
 スキーは自然との対話と動力を使わないスピードが魅力のスポーツです。
 2020年には東京オリンピックをホストする我が国ですが、スポーツを通した環境保全への貢献を模索する「環境とスポーツ」はロンドンオリンピック以来の世界的潮流となっています。
 パウダースノーや晴れた日のダイアモンドダスト、真冬の樹氷や春先の雪解け水。
 スキーは豊かな自然の恵みに感謝し、次世代に伝えて行く術を考えるきっかけを与えてくれます。
 懐かしい80年代の輝くような思い出を胸に、誰もがタイムスリップできるディスコ、全日本代表を務めた一流のスキーコーチ陣、東北の美味、蔵王自慢の温泉、そして地元の皆さんや参加者同士の交流を楽しみに、来年もみなさんのご参加をお待ちしています。


http://ski80s.jp/archive/2nd2016_outline.html

 で、ね、ヤッホー君、この実行委員会のメンバー、と言いますか「顧問」に馬場康夫(1954年生まれ、ホイチョイ・プロダクションズ)を見つけ、おやっと思ったんです。
 この人、映画『私をスキーに連れてって』の監督じゃんって。

 安倍晋三氏が総裁を務める自民党が今回の衆議院議員選挙で優勢との報道が流れています。

 そんな中で思い出したのが今年2012年の5月に発刊された雑誌『東京人』で6月号増刊の「成蹊学園と吉祥寺の100年」に安倍氏が登場されていました。

 いせや公園店で成蹊大学の同級生であるホイチョイの馬場康夫社長との対談でした。

 内容は忘れましたが成蹊高校から大学まで吉祥寺に通われていたので、大学時代は何回かこちらのお店に来ていたのではないでしょうか。

2012-12-16 20:06:33 他事空論
吉祥寺にまつわる安倍晋三氏と菅直人氏の関係
http://ameblo.jp/kuwata18m/entry-11428183023.html

 いやぁ、ここでもアベが大活躍!
 だって、『私をスキーに連れてって』から「私をスキーに連れてかなくても行くわよ」に深化、沈下してるんだもん!

 鳴りを潜めている“アッキード事件”の主役はナント都心から300キロ離れた温泉地にいた。しかも、ただの旅行ではない。スキーイベントに主催者として参加。3日から2泊3日の日程でハッチャケまくっているらしい。

 安倍首相夫人の昭恵氏(54)が主催しているのは「私をスキーに連れてかなくても行くわよ 2017」というイベント。3年前から「安倍晋三内閣総理大臣夫人」の肩書で名誉会長に就いている。森友学園が開校する右翼小学校とは百八十度異なり、映画「バブルへGO!!」を彷彿させるチャラそうなイベントだ。実行委員会の顧問は、成蹊大で安倍首相と同窓のホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫社長が務めている。

 3日の“前夜祭”で参加者はイタリア料理「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」の落合務シェフが作ったディナーに舌鼓を打ちながら乾杯。4日は元五輪選手の皆川賢太郎氏らのスキーレッスンの後、夜からド派手なディスコパーティーが開かれる。昭恵氏の名誉会長としての主な役目は、参加者と一緒にスキーを楽しんだり、乾杯の音頭を取ること。要するに客寄せパンダに利用された森友学園の問題と同じ構図だ。

「3日間の参加費用はリフト券つきで4万〜5万円。決して高額ではありませんが、イベント参加者は200人近くに上るし、キッコーマン、ソニー、ネスカフェなど一流どころが協賛企業に名を連ねている。数千万円単位のお金が動いているとみられています」(イベント関係者)

■この期に及んでバブル気分

 昭恵氏は森友学園の国有地取得問題が国会で本格的に火を噴き始めた2月26日から蔵王温泉スキー場に“前乗り”。プロスキーヤーの伊東秀人氏らと滑走を楽しんだ。まさかスキー場にも国家公務員の専属秘書を連れているのか。しかも、この状況下で3日間たっぷりイベントを満喫するつもりなら、つくづく「いい度胸」だ。

 イベントの実行委員長に聞いたところ、「昭恵氏が全日程に参加するかは未定だし(日刊ゲンダイの)取材にはお答えできません。ただ、国家公務員をイベントに同伴させていることは絶対ありません」と回答があった。

「昭恵氏は森友学園が開校予定の小学校の名誉校長を辞任してから国民に何も説明していません。国会で国有地取得問題が連日騒がれているのに、温泉地でスキーを楽しむのは常識的に考えて問題だと思います。襟を正して自重すべきです」(政治評論家の伊藤達美氏)

 スキー場から戻ったら、“公人”として一刻も早く説明責任を果たすべきだ。


2017年3月4日付け日刊ゲンダイ
救い難いチャラさ 昭恵夫人「蔵王温泉スキー」満喫の厚顔
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/200802/3

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やっさ踊り

 ところでまた湯河原歴史散策に急いで舞い戻りましょう。
 このウオーキングはヤッホー君のこのブログ、2017年02月27日付け日記「城願寺のビャクシン」でも触れましたがパワースポットを巡る旅でもあります。

 ヤッホー君のこのブログ、ビャクシンで元気をいただいた後、いきなり片岡千恵蔵のお墓参りになっていましたが、実はちゃんと「土肥一族の墓所」でお参りもしてきたんです。
 土肥實平は後年、広島県三原に移住し、かの地で亡くなった、との解説板があって、ヤッホー君は富実ちゃんを見やって「知ってた?」
 富実ちゃんは、縁は異なもの味なもの、と不思議がり、われわれ年を重ねるって、思いもかけないものが実はくっついていた、それが分かることなんだねって。
 湯河原に歩きにきたのに、それが故郷と縁があったんだ、失われていた時が、ひょいと目の前にわきでることなんだねって、富実ちゃんは広島県出身だったのです!

源頼朝股肱の臣
 土肥実平は、10世紀頃から関東に勢力を伸ばした平氏の一族の出で、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字としました。源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となりました。
 富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られています。平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後(吉備国、イマの岡山県)の守護職が、嫡男遠平に安芸国(あきのくに、イマの広島県)内の地頭職が与えられています。土肥氏と西国との関わりはここに始まります。
 平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けました。
 
小早川家の祖
 湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残されており、駅前広場に館跡碑と、実平夫妻の銅像が建てられています。
 土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いています。
 のち、遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏としました。
 土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となりました。
 土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600(慶長5)年の関が原合戦後のことで、宇喜多秀家に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられました。しかし秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶することになります。

岡山市東京事務所、江戸東京 岡山を歩く、先人の息吹、土肥氏館跡
http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/dohi/dohi.htm

 そんなこんなでイマ、湯河原町は土肥實平がらみで友好関係を結んでいるのです:

☆ 広島県三原市
親善都市: 昭和51年8月7日提携
 両市町は土肥氏とその子孫である小早川氏ゆかりの都市であり、また「やっさ踊り」を通じて両市町民の間に親睦の輪が広がったことから「親善都市」の提携をしました。
 主な交流事業として、平成8年度からそれぞれの小学生約40名が、1年おきに互いの都市を訪問し、「やっさまつり」への参加などを通じ交流を深めています。

☆ 東京都豊島区
文化交流都市提携: 平成27年2月21日提携
 湯河原温泉を訪れた池袋の皆さんがやっさ踊りを気に入り、昭和52年の池袋の「ふくろ祭り」で湯河原の芸妓約100人がやっさ踊りを披露したことから交流が始まり、昭和58年には「池袋やっさ」が誕生しました。
 その後は交流が一時途絶えていましたが、平成25年からお互いの祭りに踊り連が参加したり、豊島区民への宿泊助成や観光物産展出店など交流が盛んになったため、文化や観光などの幅広い分野での一層の交流を深めていくために提携しました。

http://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kyoiku/international-exchange/sister-city.html

 えっ、「やっさ踊り」?

 源頼朝の源氏復興の一大原動力となった、土肥郷(湯河原)の領主“土肥次郎實平”が領民の人身安定のために始めた「實平踊り」が起源であるといわれている「やっさまつり」。

 鎌倉幕府成立後、その手腕を高くかわれた實平は、瀬戸内海の治安確保のため、安芸国(広島県)に派遣され、かの地でもまた数々の事績を残しました。彼の没後、領民がその遺徳を偲んで生まれたのが現在の「三原やっさ」です。

 湯河原の「實平踊り」は久しく途絶えていましたが、町民の間で高まる實平敬慕の情からこの「三原やっさ」を取り入れ、「湯河原やっさ」として復活しました。

湯河原温泉観光協会
http://www.yugawara.or.jp/event/yassa/index.php

 どんなの?ちょっと覗いてみましょう、おひなさまの前で踊るのもま、よろしいかと・・・

三原やっさ祭り
https://www.youtube.com/watch?v=uV6lssrM5NU

2016年湯河原やっさ祭り
https://www.youtube.com/watch?v=FIu5Fo4c9Is

20161008ふくろ祭り、池袋やっさパレード
https://www.youtube.com/watch?v=5FB8zh0iSjo

 こうして旅は終わるのです。
 あっ、いやいや、最後のパワースポットが残っていました。
 五所神社は「かながわの名木100選」大クスノキの前:

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 いえいえ、旅は終わりません。
 せっかく湯河原に来たんだから美味しい魚を食べたいねって佐藤さんのお申し出で入った「さかなや道場」(湯河原町土肥1-4-11 緑風ビルB1 Tel 0465-60-0270)。
 海の幸もさることながら、丹沢山、箱根山など美酒にも酔いしれ、気付いた帰りの小田急線快速急行に座ってるのはヤッホー君だけ。
 他は皆さん、JRでお帰りになったようで。。。いやぁいつもながら、自然はいいね、戸外はいいね、いっしょに歩ける仲間がいていいね、と納得した山歩クラブの2月定例お散歩会でした。

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2017年03月03日

国家戦略特区

 安倍晋三記念小学校は一大疑獄事件の序章に過ぎなかった
 愛媛県今治市が36億7,500万円の土地(16.8ha)を学校法人・加計学園(岡山理科大学・獣医学部、応用生命科学部)に無償譲渡するというのである。森友学園の8億円値引きなんて可愛いものだ。
 加計学園の加計孝太郎理事長は、安倍晋三氏の米国留学時から友人で、卒業後も頻繁にゴルフや食事を共に楽しむ。首相にとってはお友だち中のお友だちである。
 無償譲渡は3日の今治市議会で承認される見通しだ。市民の血税で取得、開発した土地なのだが、市民の知らぬ間に私立の学校が作られることになる。
 土地ばかりではない。校舎やグラウンドなどの建設費用240億円のうち半分を今治市が負担する。これも3日の今治市議会で承認される見込みだ。田中は急きょ今治に飛んだ。
 まず加計学園の誘致をめぐる展開の速さに驚いた。
 今治市議会に明らかにされたのが昨年2016年11月。
 翌2016年12月、用地購入の議会上程があり、同月下旬、可決された。
 そして2017年3月3日、無償譲渡が正式に決まる。起工式は今月20日の予定だ。

 事が猛烈なスピードで進んだのには理由があった。
 今治市議会関係者によると、内閣府からの強い催促があった。「来年(2018年)4月に開校しなければ今治市の国家戦略特区を取り消す」と脅されたという。
 国家戦略特区を利用してさまざまな事業を展開しよう、という目論見が今治市にはあった。
 総工費280億円からのキックバックという甘い蜜に政治家たちが群がった。今治市議会(定数32議席)で加計学園の誘致に反対しているのは、わずか数名だ。
 学校の建設用地はタダで入手する。建物は補助金でまかなう。学生が集まるかは不透明だが、急いで開校しようとする。
 日本会議のHPによれば、今治市は「憲法改正早期実現意見書」を採択した愛媛県内の3市のうちの一つである。また、今治の市民運動家によれば、今治市は育鵬社の教科書を使用していた(反対運動が起こり、今は別の教科書会社を採用している)。
 学校建設は周辺住民に知らされず、首長と国とでこっそり進められる。学校の理事長または、首長が右翼的思想を持ち、安倍首相と共鳴している・・・
 森友学園のスキームと今治市の大学建設事案は外見が驚くほど酷似する。そしてスケールはさらに大きくなった。


2017年3月3日00:08、田中龍作ジャーナル
【今治発・アベ疑獄】
36億円の市有地を首相のお友達学園に無償譲渡

http://tanakaryusaku.jp/2017/03/00015446

 3月3日のひな祭りにこんなニュースが徘徊どころか、全国を駆け巡っています。
 ポツリポツリと報道はされてきていましたね、スイカで、かな?

「酔歌」吉幾三
https://www.youtube.com/watch?v=lY2vYbfduPo

【午前】
10時31分、公邸から東京・西新宿のホテル「ヒルトン東京」。「村儀理容室」で散髪。
11時53分、東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急。レストラン「ORIGAMI」で橋下徹前大阪市長、日本維新の会代表の松井一郎大阪府知事と会食。菅義偉官房長官同席。
【午後】
2時36分、東京・日本橋室町の日本橋三越本店。
2時39分、「2016年報道写真展」を観賞。
2時50分、報道各社のインタビュー。
3時13分、東京・富ケ谷の私邸。
6時2分、東京・丸の内の鉄鋼ビルディング。南館内のエグゼクティブラウンジで高橋精一郎三井住友銀行副頭取、加計孝太郎学校法人加計学園理事長、昭恵夫人らと食事。
10時8分、私邸。


2016年12月25日付け東京新聞
12月24日(土)首相の一日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/shusho/CK2016122502000171.html

 暴飲暴食、すごいっすね、この国の総統ともなればヤッホー君の税金で「ヒ・ミ・ツ・費」。
 そして…

「そして めぐり逢い」五木ひろし
https://www.youtube.com/watch?v=Au6fdkyEMZI

 学校法人加計学園(岡山市)は2017年1月10日、愛媛県今治市と広島県の国家戦略特区に獣医師系大を新設する事業者に応募した。内閣府が公募している。来春、岡山理科大の7番目の学部「獣医学部」として今治市にキャンパスを開設する計画。四国初となる獣医師系大の開学によって地域振興を図る。
 候補地は瀬戸内しまなみ海道今治インターチェンジの北約2キロにある今治市いこいの丘の16.8ヘクタール。市は用地を事業者に無償提供する計画で、加計学園はボーリング調査を終えている。
 加計学園グループは大学、高校など29校園を全国で運営。岡山理大の理学部に「動物学科」、倉敷芸術科学大の生命科学部に「動物生命科学科」、千葉科学大の危機管理学部に「動物危機管理学科」があり、経験や知識、人材を新設する獣医学部に生かす考え。
 獣医学部は国内では約50年間新設されていない。「地域における感染症対策」など新たなニーズへの対応も求められるが、加計学園の担当者は「期待に十分応えられる学部づくりを進める」と話す。
 獣医学部が内閣府の公募で選ばれれば、同大は3年連続の学部新設になる。


2017年1月11日付け毎日新聞地方版【松倉展人】
加計学園
「獣医学部」に応募/岡山

http://mainichi.jp/articles/20170111/ddl/k33/100/451000c

 岡山理科大学などを運営する学校法人加計学園(岡山市)は2017年1月20日、愛媛県今治市と広島県でつくる国家戦略特区に開設する獣医学部の事業主体に認定されたのを受け、設置計画を発表した。
 今治市に2018年4月、岡山理科大の7番目の学部として獣医学部を開設する。
 総事業費は192億円を見込む。

 文部科学省に3月設置申請する獣医学部は、6年制の「獣医学科」(入学定員160人)と4年制の「獣医保健看護学科」(同60人)で構成する。
 獣医学部の新設は1966年の北里大学以来となる。
 獣医学科には卒業後の四国での就職を条件に、30人の四国出身者向けの地域入学枠を設ける方向で調整している。

 今治市が無償譲渡する方針の同市いこいの丘の約17万平方メートルの敷地に「今治キャンパス」を整備する。
 7階建ての学部棟や4階建ての教育病院などを設け、2期工事の大動物実習棟を含めた施設の延べ床面積は3万6000平方メートルを計画。
 2017年4月に着工する予定。

 特区に新設する獣医学部として、学部長に就任予定の吉川泰弘千葉科学大学教授は「動物由来の感染症対策や、創薬プロセスにおける動物実験を用いた研究の推進など新たな需要に対応できる獣医師の養成をめざす」と話した。


2017/1/21 6:00日経新聞
獣医学部開設 2018年4月
今治の特区、加計学園認定

http://www.nikkei.com/article/DGXLZO11949260Q7A120C1LC0000/

 
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置かれた場所で咲きなさい

 山歩クラブの7人の侍、「光風荘」の案内人から、「渡辺和子」(1927-2016年12月30日のことを教わりました。
 ヤッホー君のこのブログ、2017年02月26日付け日記「2・26事件」で、2017年2月9日付け毎日新聞・東京朝刊「渡辺和子さん死去」を引用しましたが、これについてもいくつか5点ほど補足:
(1)
 私は昭和2年生まれで二・二六事件のときは9歳、正しくは8歳と2週間でした。
 現場で父の死を看取ったのは私一人となったので、当時の思い出を語っておこうと思いました。姉は22歳年上で次ぎが15歳と13歳の兄二人です。姉は久保家に嫁ぎすぐ近くに住んでいました。
 
 家では和室の応接間で、籃胎(らんたい)の座卓で客を持て成していました。洋間もあり和室は夜は寝室でした。私は寝室で父と母の間で川の字で寝ていました。
 
 母は5時に起きて、二人のお手伝いさんに雨戸を開けさせたりしていました。
 襲撃のあったときは6時前だったと思います。
 激しい怒号でトラック一台(に乗ってきた)三十数名の兵士が門を乗り越えて入ってきました。
 玄関のガラス戸に銃弾が撃ち込まれたようでした。
 父は左の襖を開けて戸棚の拳銃を手にして、覚悟していたものと思われます。

 和子はお母様のところへ行きなさい」と言いました。これが私に対する父の最後の言葉でした。
 母のところへ行きましたら、母は玄関で兵を入れまいとしていたために、私は父のところへ戻ったのです。そのとき既に弾が寝間に撃ち込まれていました。

 私は銃弾をかい潜って父のところへ行きました。父は掻い巻き(かいまき)を身体に巻きつけてピストルを構えていました。
 私が戻ったので父は困った顔をして、目で籃胎座卓の後へ隠れるよう指示しました。私はそこに隠れました。開けられた襖から見えた機関銃の銃口が父を狙っているようでした。

 父はドイツ駐在武官時代に射撃の名手だったので、ピストルで応戦しましたが、片脚は殆ど骨だけでした。
 玄関から入れなかった高橋、安田少尉が外へ回って、開けてあった縁側から茶の間に入ってきて射撃をして、トドメを刺して引き上げて行きました。

 母が玄関から戻ってきて「和子は向こうへ行きなさい」と言いました。
 午後になって検視のあと父の頬に触れましたが、とても冷たかったのを今でも覚えています。
 姉は、父が銃弾43発を受けたと言っていました。
 父の脚は骨だけで肉片が座敷に散らばっていました。
 憲兵二人は二階に泊まっていました。
 兵隊たちは斎藤内大臣を殺害したあとに来たので、なぜ電話が無かったのかと思っています。電話があったという話もありますが、電話の音は聞こえませんでした。電話があれば父を久保家(長女の嫁ぎ先で2〜3軒隣り)に隠すことが出来たのではなかったかと、今でも思います。

 血の海の中で父は死にました。
 あのとき逃げ隠れしないで死んでくれて、それでよいのだと思っています。
 死の直前、私を隠してくれた父を思い出すのです。雪の上に点々と血が残っていました。その血の赤さは今も私の頭に焼き付いています。
 安田少尉は近所に住んでいたから、家の構造を知っていたのではないかと思います。表玄関から入れないので裏へ回ったのでしょう。
 兄二人は子ども部屋に監禁されていました。母は兵士を阻止していたので私一人が戻り、父が、自分が死ぬ場面の見えるところに隠してくれたので相手も気づかなかったらしいのです。私は送り人ならぬ看取り人になりました。兵士たちが入ってくるのをちゃぶ台の後ろから私は見ていたし、引き上げるのも見ていました。ちゃぶ台には銃痕がありますが、それが私を守ってくれたのです。


すぎなみ学倶楽部
2009(平成21)年3月8日、事件を目の当たりにした二女の渡邉和子さんが「父渡邉錠太郎と私」と題して杉並区立郷土博物館で講演
http://www.suginamigaku.org/2014/10/h-226jiken-2.html

(2)
―― 今、年を重ねても活躍してらっしゃる方はたくさんいますが、超高齢社会の中で、高齢者の孤立や自殺も伝えられています。若い人でも老後の心配をする人も。老年期をどんな心持ちで過ごしたらいいのか、アドバイスをお願いします。

渡邉和子 ふがいなくなってしまった自分をいじめないで、嫌わないで、謙虚に受け止める。謙虚さというのはほんとに大事だと思います。私は高齢期を人生の冬と考えています。そりゃ私も、学生たちを見てたらね、うらやましいなと思うことはあります。ピンヒールをはいてカツカツカツカツ歩いていくし、階段なんかもパパパッと駆け降りて行くのを見ると、ああ私も昔はそうだったと。でも、冬がきた時に、春、夏、秋を懐かしんでばかりいてもしょうがないので、冬だけが持つ静けさや謙虚さ、個性のようなものを大切にして、感謝して笑顔でいること。機嫌よくしていること。機嫌の悪い年寄りはご免被りますよね(笑)。自分がそう思うんだったら、自分がそうならないように気をつける。そりゃ、腰が痛い日とか、足が痛くなったりとか、ありますけど、そのために暗くしても、よくなりませんもの

―― 春は門出の季節ですが、不本意な状況にある人もいるでしょう。そういう人を勇気づける言葉をいただけませんか。

置かれたところで咲きなさい(笑)。うちの大学の卒業生の97%は3月の時点で就職先が決まっていますが、希望と違うところに行く学生も結構いるんですよ。自分よりもできなかった学生が内定をもらって、自分は落ちたとか。落ち込んでおりますよ。そういう学生たちに、落ち込んでいても何も生まれてくるものはないんだから、自分が一番なりたい職業じゃなかったかもしれないし、行きたい会社でなかったかもしれないけど、暗い顔だけはよしなさいって言っています。今、非常に自分にあいそをつかしている学生たちもいると思います。でも、それがなかったら人生でないですもの。何もかもうまくいったら。

今しょげている人に言うとしたら、『きっとよくなりますよ』ということでしょうか。非常に無責任だと思いますけれど、きっとよくなりますよ。ただ、そのためには自分が努力しないといけない。手をこまねいて待ってたらよくなると思ったら大間違い。人が幸せにしてくれると思っても大間違い。

これはマザー・テレサが来日した時におっしゃったことですけど、『どんなに小さなお仕事でも、その小さなお仕事に大きな愛をこめて行いなさい』と。私は大きな仕事はできないけど、大きな愛をこめることができる。その言葉を学生たちにもよく贈ります。安楽な生活を求めるよりも、強い人になれるよう祈りなさい。自分にふさわしい仕事を求めるよりも、与えられた仕事を果たす力、果たすに必要な力を与えてくださいと祈りなさいと。結局この努力が、置かれたところで咲くのに必要なんですね。


2013年4月2日付け読売新聞、YomiDr.こころ元気塾
ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さん(5)人生の冬も機嫌よく
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20130402-OYTEW51915/

(3)
 ノートルダム清心学園(岡山市)理事長の渡辺和子さん(89)が父親の名前を冠した「渡辺錠太郎記念教育基金」を今月中にも設立する。岡山県内の高校生を対象にした奨学金給付と高校図書館への書籍寄贈が目的で、ベストセラーとなった「置かれた場所で咲きなさい」(注)など著書の収益1億円を充てる。

 奨学金は毎年10人程度に対して月2万円の支給を想定しており、学校推薦を基に成績や家計などを審査する。書籍は年間10校程度にそれぞれ10万円分を寄贈する見込み。運用は信託銀行に委託し、本年度中に奨学生らの選考を始める予定という。

 基金の名前となった錠太郎氏は、家が貧しかったため小学校時代に満足に学べず、好きな本を買うこともできなかったが、独学で知識を身に付け、陸軍大学校を首席で卒業した。軍隊教育機関の最高責任者である教育総監を務めていたが、1936年の二・二六事件で凶弾に倒れた。

 事件から今年で80年の節目で、渡辺さんは「苦しい経済環境の中で勉学に励んだ父の思いを基金に託し、私を育ててくれた岡山へ恩返ししたい。子どもたちが頑張って学び、有為な人材が育つ一助になれば」と話している。

 渡辺さんは、カトリックの洗礼を受けて修道院に入り、米国留学を経て、63年に36歳の若さで岡山市のノートルダム清心女子大学長に就任した。90年から現職。


2016年09月06日08時05分更新、山陽新聞
渡辺和子さんが教育基金設立へ 父の名前冠し高校生に奨学金
http://www.sanyonews.jp/article/410920/1/

(4)
 ノートルダム清心学園(岡山市北区伊福町)理事長の渡辺和子さんが2016年12月30日、89歳で亡くなった。
 〈神は決してあなたの力に余る試練は与えない〉
 キリストのこの言葉を心の支えに信仰と教育に身をささげ、縁もゆかりもなかった岡山の地で女子の高等教育や私学振興に貢献してきた。

 人を魅了する優しいまなざしからは想像し難い、壮絶で波乱に満ちた人生だった。

 陸軍教育総監の父が目の前で凶弾に倒れた二・二六事件は9歳の時。長じてカトリックの洗礼を受け、米国留学を経て、36歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に抜てきされた。それから半世紀余り。学長を27年間務め、1990年からは同学園の理事長の職に就く。若い時は責任の重さに押しつぶされそうになりながら、年を重ねてからは自らの病や老いと向き合いながら人の心に寄り添ってきた。

 「人生は思い通りになりませんよ」
 最後まで立ち続けた教壇から、ひ孫ほど年の離れた学生たちに試練に立ち向かうメッセージを穏やかに、しかし、きっぱりと伝えてきた。渡辺さんの母の教えでもあったという。

 どんな苦境にあっても、そこから逃げてはいけない。境遇を選ぶことができなくても、人にはそれに向き合う生き方を選ぶ自由がある。今いるその場所が、あなたの咲くべき場所――。
 自らの内面を素直につづったエッセー集「置かれた場所で咲きなさい」が200万部を超えるロングセラーになったのは、平明な言葉の一つ一つが、苦難を抱きしめるようにして生きてきた渡辺さんの揺るぎない信念に裏打ちされていたからだろう。その生き方は多くの人々の共感を呼んだ。

 昨春、旭日中綬章を受章した際の記者会見の光景が思い出される。

 「私にとっての宝は学生たち。学生の前(教壇)で倒れることができたら…それが私の一番の願いです」

 メモを取りながら「倒れる」という言葉が胸に引っ掛かった。生涯現役を貫く思いは何度か聞いていたが、こんなにストレートな言い回しは初めてだったからだ。その時の違和感のようなものがいま、突然の訃報に接してよみがえってくる。
 あの時にはもう、人生の残り時間を意識していたのかもしれない。
 昨秋、著書の印税で高校生に奨学金を給付する「渡辺錠太郎記念教育基金」の創設を発表した時もそうだった。最愛の父の名を基金に冠したのも、二・二六事件から80年の節目に心に期す何かがあったように思われる。

 2015年2月から11月まで山陽新聞朝刊に計63回連載した企画「強く、しなやかに 渡辺和子と戦後70年」の取材で、1年近くにわたってインタビューをさせていただいた。そのメモを繰りながら思い出があふれてくる。とりわけ両親の思い出を語る時の渡辺さんは印象深かった。
 米国留学へ船で旅立つ自分を紙テープを握り締めて見送る母。「映画のワンシーンのようでしょう」。
 一枚の写真を見つめるその表情は少女のようだった。
 シスター、安らかにお眠りください。


2017年01月01日00時32分更新、山陽新聞
渡辺和子さん安らかに 岡山で信仰、教育に献身
http://www.sanyonews.jp/article/468424/1/

(5)
 昨年2016年12月に89歳で亡くなったノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんが父親の名前を冠して設立した「渡辺錠太郎記念教育基金」の運営委員会が23日、岡山市内で開かれ、初の奨学金給付対象となる県内の高校生10人と、図書を寄贈する高校8校を決めた。

 県内の教育関係者らの委員6人が応募資料を基に選考。奨学金は4月から高校卒業まで月2万円を支給し、図書は各校に約10万円分を寄贈する。個人、学校名は公表しない。

 基金は、苦しい経済環境の中で勉学に励んだ錠太郎氏の教育への思いを名称に込め、渡辺さんが「育ててくれた岡山へ恩返ししたい」と昨年9月に設立。ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」など著書の収益1億円を充てた。

2017年01月23日21時26分更新、山陽新聞
「渡辺基金」初の奨学生決まる 岡山県内の高校生10人に
http://www.sanyonews.jp/article/478116

(注)
渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012/4/25)


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2017年03月02日

元寇

 かくして山歩クラブの7人の侍は2月26日日曜日、「光風荘」へと足を運びます。
 案内人から、「元寇」のことを教わりました。
☆ 1274(文永11)年、蒙古(元)軍、対馬・壱岐を侵し、ついで肥前・筑前に上陸、一夜大風雨起り敵船沈没。
☆ 1281(弘安4)年、元軍10万人、高麗軍と共に大挙襲来、筑前・長門を侵す。大風雨起り敵船また悉く沈没。
 この13世紀の出来事です。
 で、この20世紀の事件の指揮官、河野寿は「元寇」で活躍した瀬戸内の河野水軍にまでさかのぼる家系の出自であるんだそうです。
 これは戦前、小学校の修身の科目でとりあげられており、年上の方がたは皆さんご存知だったのでしょうが、なにせヤッホー君、こうみえても戦後生まれなんですって。
 敗戦後、教育のミンシュ化のなかで育ったヤッホー君は何も知りませんでした。
 ただ、口をポカンと開けて「へぇ〜」。

 「二・二六事件殉難物故者」としては、反乱軍として処刑され或いは自決した青年将校等22士と共に、襲撃された斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監・松尾伝蔵大佐(岡田啓介総理と間違われた)や殉職した5名の警察官も祀られている。
 私が、今回、港区元麻布の賢崇寺において執り行われた御法要に参列することになった理由は、昨年2006年8月、湯河原に転居したことによる。転居先の近くに「光風荘」という建物があり、「二・二六事件の時、牧野伸顕前内大臣が襲撃された場所」との説明をした看板があった。中に入るとボランティアの方が説明をしてくれた。
 「光風荘」は旅館伊藤屋の別館で、牧野伸顕伯爵が妻、孫の和子、看護婦、女中2人と共に滞在していた。天皇側近で欧米協調主義の牧野伯爵は、青年将校たちに「君側の奸」と見なされ襲撃の対象となった。
 河野壽大尉を隊長とする8名が「光風荘」を急襲、護衛官・皆川義孝巡査と銃撃戦になり、双方とも重傷を負う。その際、流れ弾が森静江看護婦の腕にあたり悲鳴を上げると、河野大尉は「女子供に手を出すな」と命ずる。森看護婦は、それを聞いて、牧野伯爵に女物の着物を着せる。重傷の河野大尉は放火を命じたが、牧野伯爵は地元消防団の協力を得て奥湯河原まで脱出した。皆川巡査は焼死体で発見され、河野大尉も部下の下士官と共に熱海の陸軍衛戍病院に入院した。
 河野大尉は2月29日、「兵に告ぐ」というラジオ放送で「逆賊」となったことが分かると、兄の河野司に果物と共に果物ナイフを差入れて貰い、3月5日夜に自決を図るが、小さな果物ナイフだったため、絶命したのは6日の早朝だった。
 「蹶起趣意書」を書いた野中四郎大尉は、2月29日に拳銃自決を遂げた。
 反乱軍として起訴されたのは123名だが、7月7日に17名が死刑判決を受け、12日陸軍刑務所で処刑された。北一輝と西田税は翌12年8月19日処刑された。
 尚、昭和10年8月12日、統制派の永田鉄山軍務局長を惨殺した皇道派の相沢三郎中佐も11年7月3日に同所で処刑され、22士として祀られている。
 鈴木貫太郎侍従長も安藤輝三大尉に襲撃されたが一命は取り留めた。血だらけの鈴木侍従長に対し下士官が安藤隊長にトドメを促した時、妻のたか(旧姓、足立たか:昭和天皇が御幼少の頃の侍女)が「トドメだけは」と懇願すると、安藤大尉は敬礼して引き上げた。ここで、安藤大尉がとどめを刺していたら、終戦時の昭和天皇と鈴木総理大臣の「あうんの呼吸」による「ポツダム宣言の受諾」というドラマも、違ったものになっていたであろう。
 青年将校等の蹶起の趣旨は「尊皇倒奸」であったが、昭和天皇は元来、立憲君主の立場をきちんと守られる方である上に、鈴木貫太郎を襲撃したことは感情的にも昭和天皇を激怒させ、青年将校の思いと逆に反乱軍と呼ばれることになったものであろう。
 牧野伸顕は大久保利通の二男で、娘が吉田茂と結婚し、その娘和子(事件の時、光風荘にいた)が石炭財閥の麻生太賀吉と結婚し、麻生太郎を産んだ。昨年は「二・二六事件」の70周年ということで、光風荘に於いて麻生太郎外相直筆の「二・二六事件の石碑」の除幕式が行われた。
 河野壽大尉の先祖は「伊予国守護」で瀬戸内の河野水軍である。
 河野通有(こうの みちあり)は、弘安の役(元寇)で、敵船を襲って敵将を捕虜にし、敵船に放火して帰った。

 現在の「光風荘」は焼失一年後に再建した物。平成15年に、全国で唯一の「二・二六事件資料館」として開館した。


2007年3月18日、維新政党・新風 神奈川県本部
二・二六事件法要に参加して
http://www.shimpu.jp/kanagawa/blog/20070318.html

 いやぁ〜山歩クラブのお散歩会、歴史散策は、失われた時を見いだす旅でもあるんですね:

 第二期固定修身教科書(1910年=明治43年〜)は、「忠義」及び「忠君愛国jといった教材を各学年に満遍なく取り上げている。修身教科書がなぜ「忠義」及び「忠君愛国」といった内容を教材として取り入れたのか、その動機を当時の社会的状況と照らし合わせて究明し、教材に付された国家権力の意図を推察する。

 まずはじめに、第二期固定修身教科書に登場した「忠義」及び「忠君愛国」の記述を見てみよう。
(1) 第一学年用『尋常小学校修身書』巻ーでは、日清戦争におけるラッパ手の陸軍歩兵二等卒木口小平の戦死が第十七「チュウギ」の教材として取り上げられている。
 児童用書は、巻ーの第15までが挿画のみであり、第16「テンノウへイカ」から文章と挿画の組み合わせで構成されている。第17「チュウギ」は児童が文章に触れる第二番目の教材である。児童用書は「キグチコへイハ ラッパ ヲ クチニアテタ ママ シニマシタ」と説き、日清戦争の緒戦である1894(明治27)年7月29日の成歓の戦闘でのラッパ卒の軍国美談を載せている。
 教師用書には、木口小平が松坂大尉に従って、ラッパ吹奏の命令を受け、「敵前数歩の所にありて、少しも恐れず、勇ましく進撃の譜を奏すること三度に及びしとき、忽ち弾丸に中りて舞れたり」と解説し、「諸子よ、日本人たるものは、天皇陛下の御命令あらば、勇んで戦場に出でざるべからず。ーたび戦場に出たるものは上官の命ずるままに火の中、水の中にも飛び入りて天皇陛下の御ために尽くさざるべからず」と「忠義」の実践に言及している。ここで、木口小平の実例は「天皇陛下に忠義を尽くしたるもの」として役割を果たしている。第一学年という小学校教育の最初に、このような実在の人物の社絶な戦闘死の例が教科書に登場するのである。
。。。
 第三学年用『尋常小学修身書』巻三では、第20「忠君」の教材として和気清麻呂が取り上げられている。
 第四学年用『尋常小学修身書』巻四では、第3「忠君愛国」の教材として谷村計介が取り上げられている。
 第五学年用『尋常小学修身書』巻五では、第3課及び第4課「忠君愛国」の教材が取り上げられている。
 第3課「忠君愛国」では弘安の役での河野通有を取り上げ、第四課「忠君愛国」では楠木正成が取り上げられている。
 このように、第三学年から第五学年までは、明治期以前の戦役や御神託の読み物が取り上げられている。


1999-03-05
第二期固定修身教科書の「忠義」及び「忠君愛国」の教材の背景
〜日露戦争に着目して〜

Jason S. Barrows(北海道大学教育学部研究生)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/13613/1/16_p123-134.pdf

(3)第一期国定教科書による道徳教育第1期国定教科書の中から『第1期尋常小学修身書第4学年用』の教科書を例に実際の修身教授案を見ていく。
第三「愛国」
 昔、元の兵が、我が国に攻め入ろうとした時、我が国の武士は、勇ましい働きをして、
 とうとう敵を討ち退けました。
 中にも、河野通有は、小さい船に乗って、大きな敵の船に近づき、帆柱を、はしごに
 して、その船に乗り移り、大将を虜にして、帰ってきました。
 通有は、身を捨てて、我が国を守った人であります。


以下、『道徳教育の研究』(10)より引用。

題目:愛国
教材:修身書第三(明治36年、文部省著作、尋常小学校修身書、第4学年)
目的:河野通有の事蹟を話して愛国の志気を起さしむるを持って目的とす。
準備:日本地図、通有敵船にのりうつる図
教法:
@予備
(1)この前に元から我が国に攻めて来たお話をしましたが、一番先に何処に攻めてきました。たろー、その次は。
(2)その時元の兵はどんな乱暴をしましたか。
(3)それから、進んで何処に攻め上がりましたか。それからどうなりましたか。
(4)一度逃げてそれからまたどうしたのですか。
(5)我が国ではその間にどんなことをしましたか。
(6)今日はこの戦で大そーえらい働きをしました河野通有のことをお話ししませう。
(目的指示)
A提示
(1)彼の武器戦艦の我にまさりしこと。
(2)河野通有のこと…生地…為人
(3)通有国防軍に加はりしこと。
(4)通有等が船に乗りて敵船に近づきしこと。
(5)敵船に踊り入て敵将を生擒して帰りしこと。
(6)元兵終に鏖殺せられしこと。
B比較
(1)昔の戦争の法と今の戦争の法とちがうこと。
C統括
(1)通有は元寇の時なんと思っていくさに出ましたか。
(2)通有はどんなにして進みましたか。
(3)通有はどんなてがらをいたしましたか。
D応用
(1)国難にあたりては誰も通有のよーな心がけをもたねばならぬこと。
(2)いくさのある時にあたりて軍人以外の人の心がけ。
(3)平時における愛国の道。

 この教案は、@予備で教授の目的を指示し、A提示で例話の内容を語る、B比較で現在との比較(場合によっては自己との比較)、C統括で今までの話を総括し、D応用で教訓を探求させるため生徒に問いかけるといった当時の修身教育で採用されていたヘルバルト学派の五段階教授法にのっとった教案であることから、当時の修身教育の教授案として一般的であったことが窺える。


修身教育の実像とその問題
2014年度山本ゼミ共同研究報告書(慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会)
http://web.flet.keio.ac.jp/~syosin/2014collabo.pdf

 この河野水軍ってのもヤッホー君、知りませんでしたね。
 ムカシ、山歩クラブの仲間に村上水軍の末裔という方がおられ、そのつてで広島から因島、しまなみ海道を歩いたことがあります。
 そのときでも河野水軍って耳にした覚えがないのです(もう記憶の底に沈んだまんまなのかも知れませんが)。
 河野水軍とか村上水軍とか、ちょこっとだけ俯瞰:

 平安時代(794−1192)に 入り、遣唐使が廃止されると、以後、一旦は大陸との行き来は途絶える。

≪海賊の台頭≫
 『三代実録(さんだいじつろく)』には「貞観(じょうがん)9年(867年)11月、伊予国宮崎、海賊群居して掠奪もっとも切なり」という 記述がある。
 伊予国宮崎という地名は今治市波方にある宮崎の鼻が有力視されていて、良くも悪くもこの地域には海賊が出没していたようである。
 この時代になると中央集権制度が有名無実化して、地方に朝廷の力が及ばなくなり海賊が横行してきた。
 朝廷は乱れていく地方の治安を取り戻すため、追捕使(ついぶし)を瀬戸内海沿岸に派遣し、国司や郡司に任命された地方官吏とともに海賊を鎮圧しようと試みた。
 しかし、国司や郡司はその地方の豪族たちと手を組み朝廷との関係は疎遠になっていった。
 伊予国日振島(ひぶりじま)で挙兵した藤原純友(ふじわらのすみとも)は伊予掾(いよじょう)という官僚であったが、土豪や有力農民と手を結び海賊となった。
 936年の純友の乱は失敗に終わったが、これを鎮圧したのは越智氏や河野氏などの地方豪族たちで、後に勢力を伸ばしていった。
 中でも河野氏は、平氏に叛旗を翻して源氏を助けたことにより伊予国の実権を握ることとなった。

 平安末期、平清盛(1118-1181)が再び海外との交易に着目する。
 清盛の宋貿易掌握への野望は、源氏の挙兵によって挫折するが、瀬戸内海航路の整備や大規模な港の修築など、海上交通発展への功績は、現在も高く評価されている。
 その後、鎌倉時代(1192−1338)には、国家レベルでの外国貿易は特に行われなかったが、民間では対宋貿易が盛んに行われ、宋からは、香料、医薬、陶器、絹織物などが輸入され、日本からは扇、刀剣、水銀などが輸出されていた。
 この頃、中国や朝鮮半島の沿 岸の町を襲うなど活動が活発化したのが「倭寇」である。
。。。
≪村上水軍と河野氏≫
 越智諸島を中心に活躍した村上氏は村上義弘(むらかみよしひろ)の跡を南朝方の武将・北畠師清(きたばたけもろきよ)が継いだといわれている。
 師清の孫たち三人がそれぞれ能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)という三家に分かれた。
 因島村上氏は河野氏や中国地方で勢力を振るった山名氏、大内氏、毛利氏などの守護との関係が強く、
 能島村上氏は河野氏に従いつつも独立的な性格を持っていた。
 来島村上氏は河野氏と密接な関係にあり、家臣団に組み込まれていた。
 村上氏たちはその力を増すに従い瀬戸内海の制海権を掌握していった。
 この地域を航行する船舶の帆の大小による帆別銭(ほべつせん)や櫓の多少による櫓別銭(ろべつせん)、荷駄別役銭(にだべつやくせん)などと呼ばれる通行料を徴収し、その代わりに航海の安全を保証した。
 また、これらの警固料(けごりょう)や水先案内料、他国との貿易などで村上氏は経済力を増していった。
 16世紀初めになると、道後湯築城主・河野通直(こうのみちなお)の後継者に来島の村上通康(むらかみみちやす)が選ばれたことから内紛がおこった。
 重臣たちは通直の居城する湯築城や通康の来島城を攻め、予州家の通政(みちまさ)を担いだ。
 しかし、通政は急死し、幼い通宣(みちのぶ)がその跡を継いだ。
 この争いは後に村上氏が河野氏から離反する遠因となっている。
。。。

2015年9月30日
世界に誇れる地場産業『愛媛船主』の概要
岡山昭一、愛媛銀行・船舶ファイナンス室、室長
https://www.himegin.co.jp/furusato/pdf/report_kaiun2015.pdf

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2017年03月01日

モネの睡蓮

 町立湯河原美術館に日本画家・平松礼二さん(74)の作品を常設する「平松礼二館」が設けられている・・・そして、なんと庭園にはモネ財団が平松さんに寄贈した「モネの睡蓮」があって開花を待ちわびているかのように池のなかで眠っているのです。
 またまた、びっくりヤッホー君。

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 河津桜はもう葉桜。

 パリの郊外にあるジベルニー村には、印象派を代表する画家、クロード・モネが晩年を過ごしたアトリエがあります。
 日本風の庭園の池には、モネが絵の題材にした睡蓮が咲き、世界中の美術ファンに知られています。

 平松礼二画伯は、モネが愛したジャポニスムを検証するため、ジベルニー村を四季折々に訪ね、睡蓮を描き続けました。
 日本画家の眼を通して見た光景は「印象派・ジャポニスムへの旅」シリーズに結実しています。

 のちに画伯は、モネ財団から友情の証として「モネの睡蓮の株」を譲られました。
 この貴重な睡蓮は、2006(平成18)年10月、町立湯河原美術館に平松礼二館が開館したことを記念して当館に株分けされ、庭園の池で育成されています。

 開花時期は年によって変わりますが、5月〜8月頃になります。
 
 美術館ブログで開花状況をお知らせしています☞/kyoiku/museum/teientayori/

2016年06月26日(日)
庭園の池の睡蓮が開花しました。
やっと池の睡蓮が開花しました。
今年は例年よりだいぶ遅れての開花です。
蕾も付いてきているので次々に咲くといいです。


湯河原町公式サイト、平松礼二館
モネの睡蓮について
http://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kyoiku/museum/hiramatsu-reiji.html#unit-71281

 びっくりしたまんまのヤッホー君、金縛りにあったよう。
 ここで画家の平松礼二さんにお話しを伺ってみませんか?
 ちなみに平松礼二さんは雑誌『文藝春秋』の表紙を担当、
 2000年から2010年まで描き続け本になってます。
 平松礼二『文藝春秋』表紙画集(求龍堂、2011年6月)。

モネの「睡蓮(すいれん)」の連作を見て金縛りにあった

 一昨年の2013年、クロード・モネが晩年暮らしたフランスの地方都市、ジヴェルニーの印象派美術館で日本人初の個展を開き、開館以来の入場者を集めた。
 明治初期、浮世絵などジャポニスムの影響を受けたモネの絵画と、歌川広重、葛飾北斎の版画、そして日本の美の心、固有の様式美を描いた平松礼二さん(73)の日本画が時空を超えて交錯。
 平松さんは「第2のジャポニスムの旗手」と高く評価された。昨年、独ベルリンの国立アジア美術館でも個展を開いた。

 「50歳の時です。パリのオランジュリー美術館でモネの80メートルにも及ぶ大壁画を見て、初め巻物かと思いました。日本人が愛する自然な色使いで、単色が美しく、自然感があふれている。『これは何だろう』と考え込みました。で、ああ、これは広重であり、北斎じゃないか。春夏秋冬の四季があり、雪月花もある。絵を区切れば屏風になる。日本そのものだと思いました」

 「僕は愛知県立旭丘高校美術科日本画コースを卒業後、大学を経て絵を修業しました。特に『日本文化の源流』を探りたいと日本の古代史を勉強し、朝鮮半島から中国、インドまで旅をしました。源流は大陸、東洋文化にあると信じていたのです」

 「ところが思いもよらないところに『日本』があった。新鮮な衝撃と驚きで、金縛りにあいました。それから猛勉強しました。なぜモネやセザンヌやルノアールといった巨匠が日本に興味を感じ、日本を織り込んでいったのか。そのエネルギーの正体は何なのか。実は1867年のパリ万博以降、画家たちが競って日本趣味、ジャポニスムに傾倒していきました。その先頭がモネだったのです。そこでパリへ行きクロード・モネ財団の仲介で彼が暮らしたジヴェルニーのアトリエと庭を訪問。ジャポニスムの源流を探るためのフランス通いが始まりました」

 「モネの世界を膠(にかわ)や泥絵の具など、日本画の画材で描いたらどうなるか。それが次のテーマでした。それには、モネの作った庭の情景を日本画で写すのが一番だと思いました。睡蓮を鉢に入れて池に置き、葉を散らし、やがてブローチのように花が咲く。それを等間隔に色違いでずーっと配置して描く。池自体がキャンバスで、空や雲や周囲の木々が映る。モネは日本画をヒントにそれを油絵で描いた。今度は、日本人の僕がそれを借りて『日本画だったら、こう描くよ』と見せた。『返し歌』のようなもので、この試みを人々が面白がってくれました」

職人に徹しないと密度の濃い作品は描けない

 平松さんの絵は、細部まで極めて緻密に描かれている。よく見ると、花なら花弁の一つひとつ、花芯まで丁寧に色づけされている。“職人芸”だ。

 「日本画は油絵と違い、制約が多い。絵の具は混ぜられません。単色を塗り重ねていくのです。乾かないと次の作業はできません。完成を予想した上で、僕の場合は一番下に黒、その上に青、そして緑とか群青とかを重ねていきます。つまり、逆算して作業しなければならない。日本画の絵の具は約2千色。青でも黒に近い青から、空色に近い青まで、約15通り。日本人が歴史の中で自然から得た色です。『浅黄色』とか『曙(あけぼの)色』とか、すべて名前があります。日本の職人が生み育てた友禅の色です。それを使う以上、僕も職人です。職人に徹しない限り日本画の伝統、様式美、技は発揮できないし、未来に繋(つな)げない」

 「伝統を大切にした上で、現代に合った日本画を創造したい。単なる懐古趣味ではありません。新しいジャポニスムへの挑戦です。モネたちも日本美術に新しさを見いだし、創造をなし遂げたのですから。モネたちに出会い、日本人としての誇りと自信、自分は間違っていないとの確信が生まれました」

 「考えてみれば、日本人は明治以降、西洋に追いつけ追い越せで、花鳥風月、山紫水明など自然を愛(め)でる心、風土感、遊び心、形、間など日本独特の美意識をどこかに置き忘れてきた。それをもう一度思い起こす時です。アニメから武道などまで日本文化の懐は深い。日本人は謙遜というか、どこか恥ずかしがり屋のようなところがありますが、世界の人々が肝心な所に目を付けて『堂々とやったら』と言ってくれているのですから」

 東日本大震災には大きな衝撃を受けたという。

 「自分には何ができるだろうと考えました。その結果、辛(つら)いけれども、この体験を後世に残そうと描いたのが『2011311―日本の祈り』です。日本人の心のありかである富士山、日の丸の象徴である紅白を、紅白梅、白は雪にも見立て、江戸文様の波姿に浮かぶ島国という構図にしました。花咲く故郷(ふるさと)は必ず巡ってくる、日本人の先祖、現在、未来まで抱擁してくれるのが日本の優しい風土なんだ、という思いを込めました」

 「僕は絵を通して日本の心、伝統を大切にし、未来に伝えようというメッセージを出していきたい。日本人は『島国だから、どこかに勝たなきゃ』と、戦後ずっと働き続け、競争してきた。でももう十分。これからは世界が注目するジャポニスム、良い所に目を向ける心の余裕を持とう。そう提案したいです」

2015/4/18付け日本経済新聞夕刊(こころ面編集長 小仲秀幸)
日本画とモネ 平松礼二さんに聞く
新しいジャポニスム創造 世界へ発信、堂々と

http://www.nikkei.com/article/DGKKZO85810940X10C15A4NNP000/

 2013年、フランス・ジヴェルニー印象派美術館で開催された「平松礼二・睡蓮の庭 モネへのオマージュ」展が、会期中約7万4千人という同館始まって以来最高の入場者数を記録するなど大反響を巻き起こした日本画家・平松礼二。
 その巡回展にあたる展覧会がドイツのベルリン国立アジア美術館で開催されている。
 近年、文化面でも世界の注目を集めるこの都市で平松の日本画はどのような評価を得るのだろうか。
 フランスで経験したこと、ドイツにむけて思うこと、開幕前の2014年5月の末、アトリエに作家を訪ねた。

 
― フランスでの展覧会はとても大きな反響を呼びました。
平松礼二(以下 平松) あの展覧会は「第2回ノルマンディー印象派フェスティバル」というイベントの特別展としてジヴェルニー印象派美術館が開催したもので、同館のD・カンディール館長のもと、オルセー美術館やロダン美術館を巻き込んでかなり大掛かりな広報活動をしてくれました。大きなポスターが地下鉄駅や市バスなどパリの街中に貼られ、記者会見にはフランスの国営テレビや周辺国からなど50以上のメディアが来てくれた。フェスティバルに参加する他の館(ルーアン美術館、カン美術館、アンドレ・マルロー美術館が参加した)に負けてなるものかという思いもあったのでしょう。おかげで入場者数だけでなく図録の販売記録も過去最高のものとなり、結果的に大変喜んでもらえました。
 
 また、フランス発というのはやはり影響力があるようで、展覧会は周辺国でも話題を集めた。会期中の8月には、在ドイツ日本大使の中根猛さんとドイツ展の会場であるベルリン国立アジア美術館のクラース・ルイテンビーク館長がいらっしゃって「これは良い展覧会だからうちでもやりたい」と巡回展がその場で決まりました。僕としては、開催まで1年足らずとあまりにも急で感慨に浸っている暇もありませんでしたが。そもそも日本画というものが国外で広く紹介されるのは珍しいことですから、今回の反響の大きさには僕自身が一番驚いています。

 
― 日本の画家が西欧で高く評価されたのは快挙と言えます。 
平松 江戸の浮世絵に影響を受けた画家たちによってフランスでジャポニズムが花開いた。そして現代、彼らに影響を受けた僕がジャポニズムシリーズを制作している。この奇縁にカンディール館長が非常に興味を持ってくれて「うちでモネと一緒に展覧会を」と実現に至りました。
 
 ただ、西欧で日本の画家と言えばいまだに北斎だとか広重だとか、江戸末期の絵師の名ばかりが出てくる。これほど頻繁に海外と往復できる時代なのに、なぜ今の日本人の生み出す芸術性、創造性が海外では知られていないのか。僕が今トライしているのは、あくまで日本を拠点にこの国固有の表現である日本画を制作し、それを国内や海外での評価に繋げていくこと。日本人の伝統を守り、日本人として声を挙げるということなんです。しかし、やはりなかなか難しい。世界の壁は高いなと思いました。


― 日本画の海外マーケットへの流通もそう多くありませんよね。その点はどのようにお考えですか?
平松 そもそも日本画というものがほとんど知られていませんからね。フランスでも「アニメ」とか「マンガ」はあるのですが「ニホンガ」なんてものは無い。それを展覧会でどのように伝えよう、日本人が持っている固有のジャンルをどう知らせようかと。それが「画材」だったんです。
 
 フランスではパリとジヴェルニーの2箇所で講演会をやりました。制作に使用した画材全てを持っていって、ワークショップのような形でそれぞれの画材や技法を解説した。結果とても好評で、多くの方がパリで日本画の美術学校をやってくれと。ただ、今は日本も日本画画材の質や量が乏しくなっていて、僕ですら自分の画材を手に入れるのに四苦八苦している状況ですから。そういう声に応えられないのは非常に残念なことですが、その場の熱狂的な空気がとても嬉しかった。


― 初めてパリにいらしたのは50歳になってからとか。
平松 ちょうど50歳の時だったと思います。資生堂が支援してくれてパリで個展を開いたんです。そのオープニングパーティーの翌日、飲み過ぎたから美術館でも行こうかと。ホテル近くのオランジュリー美術館でモネの「睡蓮」の大連作を見てびっくりしたんです。まさに日本の絵巻物だった。なぜ日本に来たこともない、パリサロンのような厳格な画壇がある国の作家が、東洋の一島国の様式を大胆に取入れた作品を残したのか。もうガツンときてしまって、頭から離れなかった。それからその理由を求めて彼らの足跡を辿って様々なところを訪ね歩き、風景を見るだけじゃ解決しないので自分でも作品を制作して、20年が経ちました。
 
― なぜ、ジャポニズムは生まれたのか。その答えは出ましたか?

平松 それは多くの研究者や評論家の方が既に書いていることですから。ただ、同じ画家という生き物の目線から言うと、画家というのは欲望でもって描く。浮世絵に見出したエッセンスを「自分だけのものにしたい」という欲望があったのだろうと思います。常に新しい絵画を切り拓く、つまり自分たちの新しい歴史を作ろうという開拓者魂が画家にはありますのからね。
 
 僕自身も常に変化をしながら新しい世界を切り拓きたいという思いがある。ただ、新しい表現とともに古い表現も大事に使っていかないと、日本人としての心が壊れてしまうのではないかとも思うのです。精密、精巧、精緻、意匠性。そういうものが割と現代の日本では希薄になっていますが、僕は作品に現代的な要素を込めつつも、江戸の琳派に連なる伝統的な様式美を求めて制作を続けています。「アーティスト」であると同時に「職人」でもあると。実際、日本画は粒上の荒い絵の具を何層にも重ねていき、その微妙な色彩変化を逆算しながら描く。フランスでそう説明すると言うわけです「よく分かった。しかしそれを辛抱強くやる根気強さは私たちには無い」とね。まさに日本人の職人性なんです。

 
― フランスではさまざまな収穫があったようですね。さて、間もなくドイツ展が開幕しますが、こちらはどのような展覧会になるのでしょうか?
平松 ベルリンではジヴェルニーに収蔵された27点のうち、14点が展示されます。フランス展のメインだった屏風作品は、愛知の刈谷市立美術館から借りたもので返却しなければならなかった。だから追加で2点の屏風を制作しました。そのうち「モネの池 微風」は、ドイツ展が初めての発表の場となります。巡回展なのでイニチアチブは美術館にあって、基本的に僕はドイツ展には関与していない。どのような展覧会になるのか僕自身も楽しみにしています。ドイツはフランスのようにジャポニズムの歴史はありません。フランスとは地続きのお隣ですが、気質もがらりと変わる。フランスがコレクションした僕の作品がドイツではどのように評価されるのか。何が出てくるか分からない不安と楽しみがありますね。
 
― 良いご報告を楽しみにお待ちしております。本日はお忙しいところ有難うございました。
2014年5月30日、鎌倉のアトリエにて

 
2014年07月22日 19:10
ベルリン国立アジア美術館「平松礼二展 睡蓮画・モネへのオマージュ」への思いを聞く
【インタビュー】 平松礼二 −日本画は世界に通用しうるのか

http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/39812/

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