2017年02月28日

町立湯河原美術館

 7人の侍はこのあと「不動滝」へ。

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 どうしてかといいますと、ヤッホー君、この「不動滝」は夏目漱石ミカンの小説『明暗』に登場し、湯河原の「天野屋旅館」に逗留して執筆にいそしんだことまではつきとめていたのです。
 だけど、その「天野屋旅館」が湯河原の温泉場のどこかまでは分からない。
 そこで同行の志士たちにお願いして、イマの姿を見届けるように、という御触れが発布されていたのであります。

 大正初年、リウマチを患っていた夏目漱石は、親友中村是公の勧めで湯河原にやってきて、天野屋旅館に逗留した。
 最初が1913(大正4)年11月の7日間、翌年には1月から2月にかけて20日間も滞在した。
 この年5月26日から『朝日新聞』に『明暗』を連載したが、作者の死(12/9)で未完に終わった。
 その『明暗』に天野屋旅館らしい宿が登場するし、宿の前を流れる藤木川上流の、不動滝をモデルにしたと思われる「滝」も出てくる。
 漱石の『日記』には不動の滝そのものが出てくる。
 大正4年11月11日の項に、「不動の敵。橋二つ渡る。左の下河と田、右山(稍開きたる)の間を行く。其先に一軒の茶店あり。渓流に臨む。右に上る数間にして滝二筋天辺より来る」とある。
 現在滝は一筋だが、当時は二筋だったことが分かる。
 「御茶屋の御神さん、色白く眉濃く赤い襦袢を裾より下へ一寸出して……」という観察、宿に帰って下女からその女性が元芸者だったいう話を聞いたことなども記してある。
 天野屋旅館には、漱石の「山是 山 水是 水」の書なども保存されているというが、現在は営業を中止している。
 所有が他に移って、別の物に生まれ変わるような話も聞いたが、どういうものになるのか、はっきりしなかった。

夏目漱石と湯河原温泉
http://www.geocities.jp/seppa06/06010yugawara/soseki.htm 

 赤い橋に見当をつけて道を下ってきたものの見つからず、とうとう「湯河原町立美術館」まで来てしまいました。
 ここの中庭がすごい、と同志たちを案内した時に、奥ちゃんがここが「元天野屋旅館」だって、とご注進。
 へぇ〜、そうだったのか、と。
 
 本誌既報の登録有形文化財「天野屋旅館」(神奈川県湯河原町)が、ついに解体される見込みとなってしまった。
 2008年5月21日午前11時に放送されたフジテレビ系列の「FNNニュース」が報じている。
 それによると、すでに天野屋旅館は、工事車両の出入りが始まっており、解体をただ待つだけの状況になっているという。
 本誌の取材に応じてくれた地元関係者も、「4月には、中にあった調度品などが運び出されている。天野屋は非常に価値の高い銘木が随所に使われており、これも解体前に持ち去ってしまうのではないか。たいへん残念だ」と語る。

 同旅館は1877(明治10)年に創業し、伊藤博文など各界の著名人が定宿としたほか、夏目漱石の小説「明暗」の中に登場するなど、湯河原を代表する老舗旅館だったが、経営の悪化で3年前に閉館。
 創業一族から同旅館を買収した都内の不動産会社「クリスタルゲート」(池口正浩・代表取締役)が保存を前提に2007年7月、国の登録有形文化財に登録していた。
 ところが、この登録決定の直前に、ク社は名古屋市のリゾート開発会社「リゾートトラスト」に転売。
 関係者によれば、「5億円を超える転売益を得ている」という。
 一方、12億円を超える額で天野屋旅館を買ったリ社は、1年も経たずに解体工事を強行し、跡地には会員制リゾートホテルを建設するという。
 
 ところで今回のように、登録文化財が転売されたのは全国でも初めてのケースだった。
 そのため文化庁は、全国にある登録文化財の所有者に「保存の意思」を再度確認するよう通達を出している。
 しかし結局のところ、この登録制度は、取り壊しを阻む有効な手立てを持ち得なかった。
 さらに、地元の湯河原町でも目立った保存運動は最後までおきなかった。

 実は、今回の取り壊しにつながった天野屋の転売には、横浜銀行が大きく関与していたのである。
 そもそも、天野屋を買収したクリスタルゲートは、代表の池口氏と役員A氏の2人が、受け皿として急遽、設立したような会社だった。
 購入資金は7億円余まりだったが、これをファイナンスしたのは横浜銀行湯河原支店。

 関係者は次のようにいう。
「最初は、リホームして営業を再開する予定だった。しかし、池口らの計画はズサンそのもので、出てきた設計図もまともじゃなかった。これを見た横浜銀行側が慌て出したわけです。そこで、横銀に地元出身の一級建築士を紹介してもらい、改めて設計図を引いてもらうことになる。文化財登録の件も横銀のアドバイスで、鑑定を東海大学の先生に依頼した。ところが、池口らは月々の利払いにも窮する有り様で、このままでは横銀側としても融資の焦げ付きを心配せざるを得なくなった。横銀が最終的に決断したのは2007年の初めだったと思う。ここから一気に転売へと話が進んでいったのです」

 この関係者によれば、転売先を探してきたのも実は横浜銀行の関連会社で、ク社の池口氏らはせいぜい言い値をつり上げることくらいしか出来なかったという。
 つまり、横浜銀行側は今回の転売で、資金を利子付きでキッチリと回収、不動産仲介料までせしめていたという次第だ。

 ここまで来ると、ク社自体も相当怪しげな会社だったと言わざるを得ない。
 役員のA氏は4年前に、3億4000万円を脱税したとしてアダルトサイト社長と共に東京地検特捜部に逮捕されていた。
 さらに、このA氏は「パリバ投資顧問」の社長だったことも最近になって分かった。
 このパリバ投資顧問という会社は、1997年におきたTDF株の「鉄砲事件」にその名が登場。
 この事件で55億円を騙し取ったとして詐欺罪にとわれた宇津木普是受刑者(懲役8年確定)とは当時、「盟友関係」にあったという。

 前出の関係者は結局、「(ク社の)池口とAは怪しげな投資仲間だった」と語る。
 このような連中によって翻弄され、天野屋旅館が取り壊しになるとしたら何ともやり切れない話である。


2008年05月25日付け東京アウトローズ「退避」速報版
国の登録有形文化財「天野屋旅館」、ついにリゾートトラストが解体工事に着手へ
http://blog.livedoor.jp/tokyo_outlaws/archives/43632.html

 土地取引、解体、転売、のかげにうごめく札束・・・
 これも背後まで追及されることなくお尻がしぼむのか、つぼむのか、すぼるのか、遠い、とお〜いムカシの出来事になってへんな平常になっていくんでしょうかね(注)。
 あとはほら居酒屋談議にお任せして、と。
 そう、イマは会員制リゾートホテルではなくって、町立の美術館になってるんですぅ〜:

 日本画家・平松礼二さん(74)の作品を常設する「平松礼二館」が、湯河原町宮上の町立湯河原美術館内に設けられて2016年10月で10周年となる。
 客足減の傾向に歯止めをかけようと設けられた一室に固定ファンもついた。
 現在は記念企画として「10周年プロローグ〜寄贈作品セレクト展」が開かれている。
 同美術館は「継続して魅力を伝えていきたい」と話している。

 平松さんは鎌倉市在住。
 2000年から10年末まで月刊誌「文芸春秋」の表紙絵を担当したことで知られる。
 同美術館によると、色彩豊かな作風で風景画や花鳥図などを描き、湯河原の町並みも題材にしている。

 02年に同美術館が平松さんの作品を特集したことがきっかけで、06年の館内リニューアル時に県内ゆかりの作家であることなどから、一室を平松さんの特集スペースとした。

 同美術館で1人の作家を紹介する部屋を設けるのは初めて。
 作品が重ならないよう、毎年100点程度を一度に借り受けるなどして、年に複数回、題材をかえて展示を行なってきた。
 それまで減少傾向だった来館者数が、リニューアル後の2007年度には2005年度比で約1300人増の約2万3千人と増加に転じるなど、客足回復の一助にもなった。

 現在、開かれている企画展では昨年末に平松さんから贈られた作品を中心に約40点を紹介。
 古都の花火を題材にした同美術館初公開の作品や、町内の幕山公園を描いた作品などが並ぶ。
 静岡県焼津市から訪れていた自営業者(59)と妻(53)は「色使いが豊か。インパクトがある」と見入っていた。
 同美術館は「町の誘客などにつながる形で平松礼二館を発展させていきたい」と話している。


2016/7/23 05:00更新、カナロコ
「平松礼二館」が10月で10周年 湯河原町
https://this.kiji.is/129320981749678086

(注)2017年2月28日(火)植草一秀の『知られざる真実』
森友・近畿財務局の1年内交渉記録を開示させよ。
アベ友事案は、アベ友事件に発展するのが順当だ。

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-5396.html

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2017年02月27日

城願寺のビャクシン

五月みどり&渥美二郎「東京ナイト」
https://www.youtube.com/watch?v=BjfEgr6LeNI

 えっ、2.26事件のあといきなりムード歌謡?
 実は昨日の2017年2月26日日曜日は、ヤッホー君は「山歩クラブ」7人の侍たちとお散歩会で湯河原へ。
 駅前にいきなり五月みどり(1939年生まれ)のお店「ヴィーナス湯河原店」(神奈川県足柄下郡湯河原町門川497橋本ビル1F Tel 0465-64-0187)を発見したのです。
 朝の9時ちょい過ぎ、お店は開店前でした。 
http://www.satsukimidori.net/sp/index.html

 女優で歌手の五月みどり(73)が25日、東京都千代田区の日比谷公会堂で、歌手・渥美二郎(60)とともにコンサートを行った。渥美とのデュエット曲「東京ナイト」のロングヒット記念コンサート。オープニングで、約2000人の観客で埋まった客席に五月は「ありがとうございます」と感激の涙を流した。実は1961年に発売したシングル「おひまなら来てね」がヒットして、翌62年に初めてコンサートを行ったのが同会場だった。客席には96歳の実母の姿もあり「長くやってこれたっていう思いがこみ上げてきました」と振り返った。
2013年7月26日付けデイリースポーツ
五月みどり、満員の日比谷公会堂に涙
https://www.daily.co.jp/gossip/2013/07/26/0006192760.shtml

 すかさず仲間の奥ちゃんが「この人は江戸川の平井、肉屋の娘でした。お母さんは山形県の舟形町出身のはず」って。
 そして都立深川高等学校を卒業しております。
 肉屋さん、へえ〜、そうでしたか。
 そ、そういえばあの歌手の実家は花屋さんでしたよね、と言いかけるも、固有名詞がでてこなくってもじもじ・・・

秋元順子♬「テイ・アモ〜風が吹いて〜」
https://www.youtube.com/watch?v=PEiSRtrrNJ0

 さて、と、徘徊のし過ぎですので、本題に戻りまして駅前でまずは写真をとって:

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土肥實平公並夫人像
 土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。
 1180(治承4)年、源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、 土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。
 公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。
 公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。
 ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。


 この「土肥實平公並夫人」のお墓参りにまずは足を運びます。
 春のうららの湯河原、歴史散策兼ねたタウンウオーキングのはじまり、はじまり〜
 この古寺には「ビャクシン」があって、パワースポット!

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樹齢800年、国の天然記念物の巨木
 城願寺境内にある推定樹齢800年の南方系の木。成願寺の境内の石段を上がっていくと、本堂に向かい右側に、高さ20メートル、目通6メートルあるビャクシンの巨木があります。
 合戦に敗れた源頼朝を大庭景親の軍勢から守った土肥次郎実平が植えたものと伝わり、国の天然記念物に指定されています。


 城願寺境内には土地の豪族「土肥実平・遠平」父子の像、土肥一族の墓所(五輪塔:神奈川県指定史跡)、七騎堂もあります。

 城願寺は、古くは密教の寺院だったが、土肥実平の末裔兵衛入道(土肥真順居士)が清拙正澄の弟子雲林清深を招いて再建し、臨済宗に改めました。
 鎌倉時代後期には五山十刹につぐ寺格である諸山に指定され、西相模地方では指折りの禅刹でした。

 しかし土肥氏が追われ小田原北条氏時代になると衰退し、やがて大州梵守によって曹洞宗寺院として再興されました。


静岡県観光
城願寺のビャクシン
http://shizuoka.mytabi.net/hakone/archives/byakushin.php

謡曲「七騎落」と城願寺
 謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。
 石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かうことになった。
 頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。
 主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合いの和田義盛に救われ、歎喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。
 城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鏗禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。
 土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木像が収められている。

(謡曲史跡保存会)


大島伊織、舞囃子「七騎落」
https://www.youtube.com/watch?v=h7twDxvpHOo

https://www.youtube.com/watch?v=DW1z8gceEhg

 これは「忠臣蔵、櫻花の巻、菊花の巻 予告編」でしたね。
 どうしてかといいますと、墓地にもうひとつお墓を発見したからです「   

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 植木一族は、湯河原の名家出身で、土肥實平の菩提寺「城願寺」に、先祖を弔う片岡千恵蔵建立の墓碑がありますし、植木義晴さん(1952年生まれ)が子供の頃、城願寺で子供達が相撲を取っていると、墓参りにやって来た片岡千恵蔵(本名は植木正義、1903-1983)が「うちの子供も仲間に入れてやってくれ。」と、あの低音の声で依頼したといいます。
 体格の大きな義晴さんと相撲を取った思い出を語る人がいます。
 植木さんは その後、パイロットを目指し、JALパイロット出身の初の社長に就任しました。


2013/05/0811:21、酒場で歴史を語る会
http://060636.blog24.fc2.com/blog-entry-3859.html?sp

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2017年02月26日

2・26事件

 1936年に起きた「2・26事件」に参加した将校からの手紙を、元毎日新聞浦和(現・さいたま)支局長の石綿清一さん(94)=さいたま市浦和区=が保管していることが分かった。
 首謀した青年将校らに思想的影響を与えたとされる国家社会主義者・北一輝(きた・いっき)(1883〜1937年)をたたえる内容で、事件から半世紀以上が過ぎた91年に受け取った。
 事件を「昭和維新」と記した文面などに、石綿さんは「『自分たちの行動に間違いはなかった』と思い続けていたのだろう」と思いを巡らせた。

 手紙の差出人は埼玉県寄居町に住み、2006年に96歳で亡くなった麦屋清済(むぎや・きよずみ)さん。
 事件では斎藤実内大臣の襲撃に参加し、裁判で無期禁錮の判決を受け、42年に出所した。

 石綿さんは毎日新聞退職後、障害児入所施設などを運営する社会福祉法人「埼玉療育友の会」理事長などに就いた。
 施設に麦屋さんの義理の娘が管理栄養士として勤めていた縁で麦屋さんと知り合い、親交を深めた。

 石綿さんが保管していた手紙は、91年5月27日付と6月4日付の2通。
 今月に入り、荷物整理をしている最中に見つけた。

 1通目の手紙では、麦屋さんが、
「私は今日迄(まで)事件関係の事はオブラートに包んだ発言だけで通してまいりました。人はどう云(い)おうと北一輝は昭和日本を形成した偉大なる人物であると私は今でも思って居(お)ります」と記している。

 また2通目の手紙では、
「昭和維新は当時日本の現状改革と相まって将来像の青写真を巡った朝野(ちょうや)二分の巨(おお)きな事件でありました。随(したが)って事件は一切厳秘非公開の原則下の暗黒裁判でありました。裁判記録も実は軍法法廷長官は時の陸軍大臣寺内大将の指揮統制による軍事裁判でありました」などと非公開で開かれた特設軍法会議を振り返っている。

 事件当時、石綿さんは中学生で現在の東京都港区に住んでおり、決起した陸軍兵士らが家の前を行進していったことを今も覚えているという。
 石綿さんは手紙を手に「自分たちが革命を起こそうとしたことを、最後まで正しかったと考えていたのだろう」と話した。

 【ことば】2・26事件
 1936(昭和11)年2月26日、陸軍皇道派の青年将校らが「昭和維新」を掲げ、下士官や兵士約1400人を率いて首相官邸などを襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害したクーデター。
 3日後に鎮圧され、非公開の特設軍法会議の末、19人が処刑された。
 事件に直接関わっていなかった北一輝も「黒幕」と扱われて処刑された。


2017年2月26(日)20:00配信、毎日新聞【内田幸一】
<2・26事件>
「行動、間違いなかった」将校からの手紙

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170226-00000051-mai-soci

 昨年2016年末に89歳で死去した学校法人ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんと長年交流があった安田善三郎さん(91)=神奈川県葉山町=が、2017年2月12日に岡山市である学園葬に参列する。
 安田さんの兄は2・26事件(1936年)で、陸軍教育総監だった和子さんの父、錠太郎氏を殺害したとされる青年将校。
 被害者、加害者の家族という関係を超えて手紙を交わし続けた安田さんは、和子さんに「人を許すことの大切さ」を教えられたといい、学園葬で感謝を伝える。

 安田さんの兄、優(ゆたか)少尉は事件の際、渡辺邸で当時9歳だった和子さんの目の前で錠太郎氏を殺害したとされる。
 安田さんと和子さんの出会いは86年7月、賢崇寺(東京都港区)であった青年将校らの死後50年の法要。
 初参列の和子さんを安田さんが案内することになったが、「申し訳なさと後ろめたさで安田優の弟とは言えなかった」という。

 境内にある将校らの墓前で手を合わせる和子さんの姿に「父親がひどい殺され方をしたのになぜ手を合わせられるのか」と涙があふれた。
 安田さんはそこで初めて名乗り、「私が先にお父様の墓を参らなければいけないのに申し訳ありません」と頭を下げた。

 翌87年5月、安田さんはもう一度会いたいと和子さんに手紙を出し、6月に岡山市内で再会した。
 以来、30年間にわたり交流が続き、和子さんからは、錠太郎氏の遺品を整理したことや墓参りのお礼などをつづった手紙100通以上が届き、安田さんもほぼ同数を返信した。

 安田さんは毎年のように自宅に和子さんを招いて夕食を共にし、旅行や宗教、地元の話などに花を咲かせた。
 安田さんは現在の熊本県天草市出身。
 兄とは13歳差で一緒に暮らした経験はなく、会うのは休暇で帰ってくる時だけだが、魚取りに連れて行ってくれる優しい兄だった。
 「もし兄が人を殺していなかったら私もここまで苦しまなかったかも」と胸の内を語る。

 昨年2016年12月30日の和子さんの訃報が入る直前の同19日にも手紙をもらい、文末には「お寒い折、くれぐれもお大切に」と書かれ、「相手のことを思いやっていて最後まで先生らしかった」と振り返る。

 安田さんは和子さんに導かれ、91年にカトリックの洗礼を受けた。
 その際、和子さんから贈られたロザリオ(数珠様の祈りの用具)を今も大事にする。
「先生は私にとって人生の師。つらく苦しんでいた私を導いてくれた」

 学園葬当日も、ロザリオを持って祈りをささげるつもりだ。
 学園葬は12日午後1時から岡山市中区の岡山国際ホテルで。


2017年2月9日付け毎日新聞・東京朝刊【竹田迅岐】
渡辺和子さん死去
青年将校の弟と陸軍教育総監の娘、2・26許しの往復書簡
12日学園葬で感謝の祈り

http://mainichi.jp/articles/20170209/ddm/012/040/051000c

Q1. 二・二六事件とは何ですか?

 1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件です。
 陸軍の「皇道派」に属する青年将校らは、東京の近衛歩兵第3連隊などの部隊を率い、首相官邸や政府要人宅を襲撃。海軍出身の斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、陸軍トップ3の教育総監である渡辺錠太郎陸軍大将らを惨殺し、ほかにも海軍出身の鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)が重傷など、多数の死傷者が出ました。
 部隊は、国会議事堂を中心とする官庁街(永田町、三宅坂一帯)で警視庁を含む諸官庁を占拠。東京は一時、戒厳令下に置かれます。
 しかしその後、騒ぎはわずか4日で鎮圧されました。


Q2. 陸軍の「皇道派」とは何ですか?

 当時あった「陸軍内の派閥のひとつ」です。
 天皇親政や極端な精神主義を唱え、クーデターを画策するなど、急進的な思想行動を実践することを持論としていました。
 事件の前年、「皇道派」の相沢中佐が、陸軍省内で永田鉄山軍務局長(「統制派」といわれた)を殺害する事件を起こしているのは、その一例です。
 これと対立する「統制派」は、政党・財閥・官僚機構と協調して政治統制を進めるという考えでした。


Q3. 皇道派の「青年将校たちの目的」は何だったのですか?

 大きく2つあります。
(1)国内外の経済危機を招き、国を滅ぼそうとする「元凶」と彼らがみなした政財界の要人を実力で排除し、自分たちの理想とする天皇中心の新政府を樹立して、国家改造を実現すること。
(2)そのころ台頭していたもう1つの陸軍派閥「統制派」から実権を取り返すこと。
「統制派」は当時、徐々に陸軍内部の人事権を掌握し、「皇道派」の重鎮たちを重要ポストから更迭していました。(2)こそが「決起の最大の目的」だったと思われます。

Q4. 一般市民の「事件への反応」は?

 意外に冷静でした。事件の当日、異変を察した周辺住民の多くが、大雪にもかかわらず興味本位で決起部隊のやじ馬見物に足を運んだほどでした。
 また、一部誤報もありましたが、翌日には新聞各紙が詳細を報じており、事件現場となった永田町周辺住民に出されていた避難命令も、クーデターが鎮圧された29日に即日解除され、東京は日常を取り戻しました。


Q5.「クーデター計画のシナリオ」は完璧だったのですか?

 はじめの段階では、ほぼ予定どおりに計画は遂行されました。
 彼らは政府要人を襲い、首相官邸や陸軍省、参謀本部、国会議事堂といった主要官庁や一部のマスコミを制圧しました。ここまでの過程をみれば、一連の行為は紛れもなく「クーデター」そのものです。
 ところが、この計画は「重大な欠陥」がすぐに露呈するのです。


Q6. 決起した青年将校らも、その次の行動については「上官の将軍たち任せ」だったのですか?

 そうなのです。決起した青年将校らは、「自分たちの役割はあくまで現政府を破壊し、政治の混乱を招くこと」と考えており、実際のシナリオもそこまでで終わりでした。
 決起に際しての声明文(趣意書)でも、「『統制派』要人の罷免」と「『皇道派』の抜擢」のほかは、陸軍大臣に向けて「この混乱の収拾と自分たちの意図する新政府の実現に努めるよう要求」するのみで、具体性に欠けています。
 そして、「ここから先は皇道派の将軍たちに実行してもらう」というあいまいな内容でした。


Q7. なぜ彼らは、自分たちで新政府を立ち上げなかったのですか?

 「はじめから、そのつもりがなかった」からです。
 現政府を倒し、政治の混乱を招いたあと、その先の新政府樹立に向けた具体的な行動については、彼らの「上司」である皇道派上層部の幕僚が、自分たちの決起に呼応して、暗黙のうちに引き継いでくれるものと考えていました。
 趣意書の内容にもその点がよく表れています。

Q8. ということは、事件は「青年将校と上層部の共謀」だった?

 そのあたりは非常にグレーゾーンで、種々の記録をみても判然としません。
 表向きには両者はあくまで無関係を装いつつ、青年将校らは日頃の接触から「自分たちの決起を上層部は暗に期待している」という確信を得ていたようです。
 現に事件後すぐには、陸軍内の「皇道派」上層部がさも機に乗じる姿勢で、クーデター部隊を「蹶起(けっき)部隊」と呼び、趣旨に理解をみせたりもしました。
 最初の1日は、クーデター部隊に有利な展開もあったのです。


Q9. でも、上層部の将軍たちは立ち上がらなかった、と。

 はい。最終的には立ち上がりませんでした。
 同じ「皇道派」でも「青年将校と上層部」の間には若干の温度差がありました。そして決定的だったのは、このとき頼みとする「皇道派」上層の将軍たちには、青年将校らが考えるほどの陸軍を動かす力がなかったのです。
 青年将校は、この「思い違い」に気づかぬまま、計画がまだ不完全ながらも、「上層部頼み」で計画を実行に移してしまったのです。


Q10. なぜ計画が不完全ながらも、決起したのですか?

 「統制派」が掌握した陸軍本省によって、当時「皇道派」の中心とみられた東京の第1師団を3月に満州に派遣することが急きょ、決まったからです。
 そのため青年将校らは決起を焦り、計画がまだ不完全なままクーデターを実行。肝心の詰めの部分は計画しないままの中途半端な行動になってしまいました。
 なお、彼らに率いられた1400人もの将兵は、下士官、兵のほとんどが出動に際して内容を何も知らされていませんでした。

Q11. 最終的に「決起」が失敗に終わったのは、なぜですか?

 最大のポイントは、対応に煮え切らない陸軍に対して天皇が激怒し、「朕(ちん)自ら近衛師団を率いて鎮圧に乗り出す」とまで発言したことです。さらに、海軍も鎮圧に強い意向を示しました。
 はじめはクーデター部隊にも理解を示していた陸軍上層部も、天皇の理解が得られないとみると、突如として、手のひらを返します。
 「蹶起部隊」「行動隊」と呼んでいた青年将校らを「反乱軍」「叛徒(はんと)」と呼び、戦車を含めた総計2万4000人もの包囲軍を組織して、自らも鎮圧する側に回ってしまったのです。
 クーデターの成功を待っていた青年将校は、思わぬ形で上司にはしごを外され、さらには「逆賊の汚名」まで着せられて、完全に孤立してしまいました。


Q12.「海軍」も鎮圧部隊を出したのですか?

 すぐに鎮圧の意向を示し、横須賀から戦艦「長門」をはじめ40隻の軍艦をお台場沖に展開させ、さらに陸戦隊を芝浦に上陸させました。
 海軍側は、殺害された斎藤内大臣や鈴木侍従長、殺害されたとされて後に存命がわかった岡田首相らの重臣が海軍の出身者だったことから、海軍に対する陸軍のクーデターとも考えたのです。
 昭和天皇の記録をみると、このときの海軍側の鎮圧の対応を天皇が評価している記述があります。
 実際には砲撃は行われなかったものの、お台場沖の軍艦の大砲の照準は、国会議事堂に定められていたといわれます。

 2月29日朝、甲府や佐倉から派遣された鎮圧部隊に完全包囲され、いまや反乱軍となった部隊に向けて、投降を呼びかけるビラが投じられました。
 その中の一文「一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」の「今からでも遅くない」は、後に流行語となります。
 これをきっかけに、続々と投降が相次いだため、青年将校もついに計画を断念。わずか4日で決起は終息しました。
 それでも、多くの青年将校らは自決せず、裁判で自分たちの正義を広く世間に主張するつもりでした。
 しかし、4月28日から開廷された裁判は「一審制」「上告なし」「非公開」「弁護人なし」というもので、7月5日に中心となった将校ら17人に死刑判決が下り、1週間後にはほとんどの者に刑が執行されました。「皇道派」の思想的支柱人物とされた民間人の北一輝らも、1年後に処刑されました。
 一方、「皇道派」の上層部は、法的な処罰はほぼ受けませんでした。ただし、この事件によって「皇道派」は失脚し、青年将校らが排除しようとしていた「統制派」が軍の中枢をさらに強固に掌握していきます。
 そして、「粛軍」の名の下に反対勢力を一掃。「事件の遠因は政財界にある」と政府にも責任を追及し、軍の意のままになる政治体制が次第に固められて、日本は戦争への道を突き進んでいきました。


2017年02月26日、東洋経済Online
2.26事件は「上司に恵まれない部下」の悲劇だ
「土壇場で梯子を外された」青年将校の末路

山岸良二:歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師
http://toyokeizai.net/articles/-/159796

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2017年02月25日

ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ

 ヘイトデマや保護者への恫喝的行為を行う幼稚園・学校に行政が「認可」を与えている。。。
 その小学校に首相の名前が冠せられ、国有地が異常な安値で払い下げられていた。。。

 こんな飛んでない、くらい話が連日、話題になっていますが、飛び交っているのは「衆院予算委」!
 しかし年度末で予算が成立したら質疑する場も閉場、追及の手も及ばず、お尻がしぼむのか、つぼむのか、すぼるのか、遠い、とお〜いムカシの出来事になってへんな平常になっていくんでしょうかね。
 あとはほら居酒屋談議にお任せして、期待するは子どもたち!
 国歌を斉唱し、国旗を遥拝し、首相の号令一下、武器を撃つ、いや、持って王道を粛々と進み、気付いたら自分もあの世に、とそんな国づくりに一億総火の玉。
 居酒屋談議も盗聴して、うるせえにもほどがある奴らは共謀罪でひっ捕らえ、拷問死。

2017年2月24日18:30、田中龍作ジャーナル
【アベ小学校疑惑】
森友学園側と価格交渉した役人は額に脂汗を浮かべていた

http://tanakaryusaku.jp/2017/02/00015425

2017-02-25、天木直人のブログ
予算案年度内成立をすんなり認めた野党の本気度を疑う
http://kenpo9.com/archives/1034

 いやぁ〜ヤッホー君、俳諧を究めんと徘徊するエリアに今度は突然「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ Happy Science University(HSU)」が目の前に現れたんで、びっくり。
 この「ユニバーシティ」は2015年8月にはもう幸福の科学学園名義で、江東区南砂の東陽町トーセイビルを取得して東京キャンパスになっているんですねぇ〜

 これって「大学」?
http://happy-science.university/

 「認可」されなかったようで、2019年10月31日まで「私塾」?:

 学校教育法(昭和22年法律第26号)第83条第1項、大学設置基準(昭和31 年文部省令第28号)第19条第1項及び第2項に基づき「不可」とする。

「幸福の科学の精神に基づき、知力と創造力と精神性の豊かな人材を育成」することを目的とする大学を設置する計画であるが、以下に示すとおり、設置の趣旨・必要 性、設置の目的を実現するための教育課程について、大学教育を提供できるものとは 認められない。
。。。
 以上のことから、このような科学的合理性が立証できていない「霊言(霊言集)」を本大学における教育の根底に据えるということは、学校教育法第83条第1項の「学術の中心」としての大学の目的を達成できるものとは認められない。また、大学設置 基準第19条第1項の「体系的に教育課程を編成する」及び同条第2項の「専門の学芸を教授し、幅広く深い教養及び総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養するよう適切に配慮」の各要件を満たしているものとは認められない。
 なお、念のため付言すると、本指摘は、宗教活動における「霊言(霊言集)」の意味や妥当性に言及しているものではなく、あくまで学問的な見地からの指摘である。


平成26年10月http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/daigaku/toushin/attach/__icsFiles/afieldfile/2014/10/29/1357077_4_2.pdf

 。。。もしかして、産経は国家主義や歴史修正主義と、霊界・オカルト信仰を合体させようとでもしているのか。ゾッとするような話だが、実は産経のこうした路線は今に始まった事ではない。数年前からかなり意識的に、右派思想と親和性の高い宗教やオカルトに秋波を送り、タッグを組もうという動きを見せてきた。
 たとえば、そのひとつが幸福の科学との接近だ。産経新聞のここ2、3年の紙面を見てみればいい。幸福の科学関連の広告が大量に掲載されていることに気がつくはずだ。

 しかも、産経は記事でも、幸福の科学のPRとしか思えないようなニュースを報じている。たとえば、14年9月17日付朝刊では、当時、文科省で設置認可の審査を受けている段階だった「幸福の科学大学」を大々的に取り上げ、幸福の科学学園副理事長のインタビューのかたちで「入試の際に幸福の科学の信者でないから不利になる、あるいは入学後に入信させるようなことはありません」などとアピールさせた(ちなみに16年現在でも文科省は「幸福の科学大学」の設置を認可しておらず、15年に幸福の科学グループが開校した「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ」は無認可の私塾である)。
 また最近では、ウェブ版の産経ニュース11月14日付で「【アイドル発見】政党に次いで女性6人組アイドルを結成 幸福の科学12月に正式発表 『だって、あなたの幸せをまもりたいから。』」なる記事も掲載している。
 その内容は、幸福の科学学生部から生まれた女性アイドルグループ「anjewel」を紹介するというものだが、これがただのベタ記事でないから驚き。学生部広報のコメントなどをふんだんに取り入れるなど妙に力が込められた長文で、ちゃっかり12月に開催された大川総裁の講演の日時・場所のPRもしていた。
 しかも、12月12日には「『幸福の科学』信者アイドルユニット ツイッターでデビュー 宗教学者は信者獲得につながるか注目」なる続報を出して、記者がメンバーにインタビューまでしている。
 なお、他紙もこの“幸福の科学アイドル結成”を報じているか念のため調べてみたのだが、読売、朝日、毎日、日経いずれも、紙面あるいはウェブ版で一文字たりともも触れてなかった。産経の特ダネ!だ、というのは冗談だが、他にも産経新聞社刊行「夕刊フジ」のウェブ版「zakzak」では、大川総裁のニューヨークでの講演の模様をレポ。〈その迫力ある英語説法に会場は感動と興奮に包まれた〉などと猛烈にヨイショしてきた(16年10月8日付)。
 普通の新聞社ではありえない今回の「別冊正論」霊界特集も、つまり、こうした路線の延長線上にあるということらしい。
 もっとも、産経の宗教やオカルトへの接近の背後には、思想的な問題よりも経済的な事情もあるのではないかとささやかれている。ネットでは安倍政権と日本社会の右傾化に乗っかって勢いがあるようにみえる産経だが、新聞は部数が激減し、経営事情はかなり逼迫している。17年3月期の中間決算短信でも、売上高は前年同期比5%減の594億円で、営業利益、経常利益ともに赤字に転落してしまった。フジテレビに見放されればいつ倒産してもおかしくないという業界ウォッチャーもいるほどだ。

 その産経がいま、金づるとして目をつけてるのが、こうした右派系宗教団体らしいのだ。

「産経の広告営業はたしかに、紙面の右派的な主張を材料にして、金をもっている宗教団体にかなり積極的にアプローチしていますね。今回の『正論別冊』もその営業ツールという意味合いもあるのかもしれません。『正論別冊』では幸福の科学はもちろん、日本会議に参加しているような宗教右派、とくに神社本庁、国柱会、佛所護念会教団、念法眞教、黒住教のことも好意的に紹介していますからね」(新聞業界関係者)

 産経新聞が金儲けのためにどんどんトンデモ化して一般読者に呆れられていくのは勝手だが、しかし、一方で産経は「官邸の広報紙」ともいわれるくらい安倍政権とべったりの関係を築き上げている新聞でもある。それが、オカルトや宗教右派とタッグを組むというのは、なんとも不気味に感じられるのだが……。

2016.12.21付けリテラ(宮島みつや)
産経「別冊正論」が丸ごと一冊「霊界特集」! オカルトに急接近する産経新聞のグロテスクな思惑
http://lite-ra.com/dev/print/?url=http://lite-ra.com/2016/12/post-2791.html

 女優・清水富美加の幸福の科学“出家”問題に大騒ぎを繰り広げるマスコミだが、そのトーンはあいかわらず奥歯に物が挟まったようなものだ。バーニング系列の所属時事務所・レプロエンタテインメントにも気をつかいながらも、幸福の科学という宗教団体タブーに腰が引け、ワイドショーなどでは「出家するのは信教の自由だが、仕事を放り出した清水は無責任すぎる」と、清水への個人攻撃に終始している。
 が、しかし、今回の問題はたんなる信教の自由にとどまるものでもないし、清水の個人的な責任に帰することができるような話ではない。それは清水が幸福の科学を信仰するようになった経緯だ。
 報道によると、そもそも清水の両親が幸福の科学の信者であり、そのため清水自身も幼少期からその教えを固く信じた熱心な信者となった。つまり生まれ育った環境から、自分の意思とは関係なく、その価値観を植えつけられ、必然のように信者となった“幸福の科学の子ども”だということだ。
 しかも、熱心な信者である父親は昨年、会社を経営破綻させ、自己破産していたという。教団は否定しているが、借金を肩代わりしたという報道もあった。そのことと、清水の出家の関連はまだはっきしりしないが、いずれにしても、今回の騒動は清水の親が信者であること抜きには考えられないはずだ。
 ファナティックな新興宗教の信者を親にもつ子どもたちについては、これまでも様々な問題が指摘されてきた。たとえば『カルトの子 心を盗まれた家族』(米本和宏/文藝春秋)では、そうした特殊な環境に置かれた子どもたちの心情に焦点を当て、数多くの実例とその後の深刻な影響が描かれている。
 戦後日本で宗教と子どもに大きな焦点が当たったのは、1985年に起きた“エホバの証人児童輸血拒否事件”だろう。当時、10歳だった男児が交通事故に遭ったが、エホバの証人の信者だった両親が輸血を拒否、助かるはずの命が失われた衝撃的事件だったが、しかし問題は輸血だけではない。

。。。
2017.02.15付けリテラ
幸福の科学出家騒動は清水富美加個人の責任なのか? カルト宗教信者の子どもたちが抱える問題
http://lite-ra.com/2017/02/post-2922.html 

 ではここで歌でも聞いて、「美しい国」づくりにはげんでみましょうか・・・
忍者-日本
https://www.youtube.com/watch?v=Eanxu8b0U_M

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2017年02月24日

Moritomo Gakuen, an educational institution that plans to open an elementary school in April with the prime minister's wife as honorary principal

A Japanese kindergarten that has ties to Prime Minister Shinzo Abe's wife, Akie, has apologized over online comments that domestic media described as possible hate speech against Koreans and Chinese people.

The private Tsukamoto kindergarten in Osaka, western Japan, has been visited by Akie Abe and is operated by Moritomo Gakuen, an educational institution that plans to open an elementary school in April with the prime minister's wife as honorary principal.

Kyodo news agency reported on Friday that the kindergarten had apologized after referring to "irresponsible" South Korean and Chinese parents on its home page.

"We apologize for expressions about foreigners that caused misunderstanding," the kindergarten said on its web site.

The school, however, denounced "unjust, slanderous and defamatory Internet-based articles about this kindergarten" and it said it would keep fighting against "malicious criticism".

Criticism of Korean residents and Chinese people is a common feature of right-wing rhetoric in Japan, where ethnic homogeneity has been a source of pride for many conservatives.

Separately, the Osaka prefectural government is considering whether to take action over derogatory expressions about Koreans living in Japan and Chinese used by the kindergarten in a document sent to students' parents last year, an Osaka official said.

The Tsukamoto kindergarten aims to instill in its 3- to 5-year-old students a sense of patriotism with a curriculum focused on Japanese traditions and culture.
Abe was grilled in parliament last week about possible ties to Moritomo Gakuen, including whether he knew his name had been used to solicit donations for the elementary school.

Abe said then he had rejected a request to have the school bear his name because it was not appropriate for an incumbent lawmaker and was unaware his name had been used in seeking donations.

An official at the prime minister's office declined comment on any specific remarks by the school because they had not seen them.

But the official, who declined to be identified because of the sensitivity of the subject, added: "When it comes to the issue of discrimination based on nationality, ethnicity or race, it cannot be tolerated and it is extremely important to have consideration for others and to have mutual understanding."

Yasunori Kagoike, the principal of the kindergarten and president of Moritomo Gakuen, heads the Osaka branch of Nippon Kaigi, or Japan Conference, a nationalist lobby group with close ties to the prime minister and his cabinet.

Kindergarten officials were not available for comment.


Reuters, Tue Feb 21, 2017 - 2:13am EST
Japan kindergarten apologizes after possible hate-speech comment
Reporting by Linda Sieg and Kiyoshi Takenaka; Editing by Robert Birsel
http://www.reuters.com/article/us-japan-education-abe-idUSKBN1600KO

A Japanese kindergarten known for its nationalist curriculum has apologised after coming under fire for hostile comments about Korean and Chinese parents.

The operator of Tsukamoto Kindergarten in the western city of Osaka was questioned by local education authorities last month after complaints from parents in December.

Kyodo news agency reported last week that the school had handed parents copies of a statement which described the parents of Chinese and Korean children as having "evil thoughts."

The private pre-school had also posted a statement on its home page referring to "delinquent" South Korean and Chinese parents.

But it has now deleted that from its website and replaced it with another expressing remorse.

"We apologise for our expression about foreigners that led to misunderstanding," it said.

The kindergarten previously had said the insults were provoked by criticism it had received from Chinese and South Korean parents.

The kindergarten has drawn attention for introducing a curriculum that includes the memorisation of an 1890 imperial edict which was widely used to promote militaristic education during World War II.

A number of incidents of hate speech against specific ethnic groups on the streets or online have been reported in Japan in recent years.

They are most commonly directed at Koreans who came to Japan when the Korean peninsula was under Japanese colonial rule between 1910-1945, and at their descendants who stayed in the country.

China's rising economic and military profile, as well as a simmering territorial dispute with Japan over uninhabited islands in the East China Sea, have also raised tensions.

Business Standard, Last Updated: February 21, 2017 - 18:42 IST
Japan kindergarten apologises after slurring Koreans, Chinese
AFP - Tokyo
http://www.business-standard.com/article/pti-stories/japan-kindergarten-apologises-after-slurring-koreans-chinese-117022100864_1.html

Prime Minister Shinzo Abe's wife has cut ties with an elementary school involved in a land deal that provoked opposition questions just as the Japanese leader was basking in the glow of a friendly summit with U.S. President Donald Trump.

Abe has said neither he nor his wife, Akie, was involved in a murky deal for the purchase of state-owned land by Moritomo Gakuen, an educational body in the western city of Osaka that also runs a kindergarten promoting patriotism.

The affair has energized the often-floundering opposition, offering a reminder of the unexpected pitfalls that could still emerge for Abe's seemingly stable rule, now in its fifth year.

Abe, grilled about the purchase of the land at a rock-bottom price, said on Friday his wife would scrap a plan to become honorary principal of an elementary school the institution will open in April.

Last year, Moritomo Gakuen paid 134 million yen ($1.2 million), or 14 percent of the appraisal price, for an 8,770-sq-m (94,400-square-foot) plot on which to build the elementary school, official data show.

The difference reflects the cost of waste cleanup at the site, officials have said. Finance Minister Taro Aso told parliament this week there were no problems with the deal.

Abe said his wife had tried to refuse the role as honorary principal, and only accepted after it was announced to parents.

"Despite this, she decided that it would be detrimental for both the students and the parents if she continued, and so she told them she would resign," he added.

OPPOSITION ENERGIZED

The institution's president, Yasunori Kagoike, heads the Osaka branch of Nippon Kaigi, or Japan Conference, a nationalist lobby group with close ties to Abe and his cabinet.

On the school's website, Akie had said: "I was impressed by Mr. Kagoike's passion for education and have assumed the post of honorary principal."

Abe said the comments were removed from the website on Thursday at his wife's request.

Abe reiterated that he had declined to let his name be used when Moritomo Gakuen sought donations for what it called the "Abe Shinzo Memorial Elementary School".

He has also denied that either he or his wife was involved in obtaining approval for the school, or in the land acquisition, saying last Friday that he would resign if evidence to the contrary were found.

The main opposition Democratic Party has seized on the affair. "The prime minister is talking as if he were the victim, but it is the people who should be angry," Democratic Party lawmaker Kiyomi Tsujimoto told reporters.

Abe returned to office in 2012 for a rare second term, promising to reboot the economy and bolster defense policies, after having abruptly quit in 2007, following a year marked by scandals in his cabinet, a big election loss and ill-health.

His cabinet this time has lost several ministers to money scandals, but Abe himself has been untainted by scandal.

Abe's approval rating rose five points to 66 percent in a media survey after his summit with Trump, where the leaders hugged, golfed and reaffirmed the U.S.-Japan alliance.

But his popularity could take a hit if the scandal continues to preoccupy the media, some political analysts said.

"The thing that makes a scandal really serious is when it keeps getting headlines," said Chuo University political science professor Steven Reed.

Reuters, Fri Feb 24, 2017 - 4:06am EST
Japan PM's wife cuts ties with school at heart of political furor
By Kaori Kaneko and Linda Sieg, TOKYO
Additional writing by Elaine Lies; Additional reporting by Kiyoshi Takenaka; Editing by Clarence Fernandez
http://www.reuters.com/article/us-japan-politics-abe-idUSKBN16308L

Japan’s prime minister, Shinzo Abe, and his wife, Akie, have attempted to distance themselves from an ultra-nationalist educational institution mired in allegations of racism and a sweetheart land deal.

Akie Abe’s links to Moritomo Gakuen, a private kindergarten in Osaka, have come under scrutiny after the media reported that the preschool had bought state-owned land at a seventh of its listed price for a primary school it plans to open in April. She stepped down as honorary principal of the primary school on Friday, soon after it had removed her message of support from its website.

In the message, she endorsed the school’s attempts to foster national pride through moral education – an approach that harks back to pre-war militarism – adding that she had been impressed by the passion shown by the Moritomo president, Yasunori Kagoike.

The issue has dominated parliamentary debate this week, with opposition MPs demanding an explanation as to why the school was allowed to buy land at such a low price.

Shinzo Abe said he had protested against the use of his name when Moritomo was seeking donations for the Abe Shinzo memorial primary school. It has since decided to call itself the Mizuho no Kuni – meaning “land of rice” – primary school.

He said his wife had decided to step down after the couple discussed the controversy, adding that she had been left with no choice but to accept the role of honorary principal after her appointment was announced in front of parents.

“Despite this, she decided that it would be detrimental for both the students and the parents if she continued and so she told them she would resign,” Abe told a parliamentary committee on Friday. “It is true that she was on the website as honorary principal but at her request, this was removed.”

He denied that either of them had played any role in helping Moritomo gain approval to purchase government-owned land for below its listed price. He has offered to resign if proof of his involvement is produced.

Moritomo’s curriculum is designed to instil patriotism in its pupils, who are required to bow before portraits of members of the imperial family and go on field trips to military bases. Children aged between three and five sing the national anthem every morning and memorise the 1890 imperial rescript on education (pdf), which demands loyalty to the emperor and sacrifice for one’s country. The US occupation authorities banned the rescript, believing it had fuelled pre-war militarism.

Kagoike is the Osaka branch leader of Nippon Kaigi, an ultra-conservative lobby group whose members include Shinzo Abe and more than a dozen members of his cabinet. The group wants to rebuild the military, claims that Japan “liberated” east Asia from western colonialism during the war, and that the US-authored post-war constitution has emasculated the country’s “true, original characteristics”.

Japanese media recently revealed that Moritomo had bought the 8,770 sq metre plot of government-owned land for 134m yen (£950,000), 14% of its appraisal price.

Government officials claim the deduction was made to factor in the cost of cleaning up industrial waste on the site.

Earlier this month, Osaka officials questioned Kagoike after the kindergarten sent a letter to parents that denigrated Chinese people and Korean residents of Japan – for which it later apologised.

Kagoike has denied any wrongdoing in the land purchase. “I haven’t done anything wrong,” he said in a radio interview. Instead, he blamed the “non-conservative media” for attempting to “crush our plans for a school that respects history and tradition”.

Akie Abe’s connections to Moritomo run deeper than her short-lived role as honorary principal. Footage of a visit she made to its sister kindergarten in 2015 shows her telling parents: “My husband also thinks that education policy here is excellent.”

She has won plaudits for appearing to support liberal causes, having attended the Tokyo rainbow pride event in 2014 and spoken of her admiration for South Korean culture.

She has also questioned the government’s decision to build hundreds of miles of concrete sea walls to protect the coastline against tsunamis.


(photo)
Shinzo Abe and his wife, Akie, who is accused of endorsing an educational approach that harks back to pre-war militarism.

The Guardian, Last modified on Friday 24 February 2017 09.09 GMT

Shinzo Abe and wife under pressure over ties to ultra-nationalist school

Akie Abe’s links to kindergarten under intense scrutiny in Japan after reports it bought state land at a knockdown price

Justin McCurry in Tokyo
https://www.theguardian.com/world/2017/feb/24/shinzo-abe-wife-akie-under-pressure-ties-ultra-nationalist-school-japan
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丹那神社

 来宮神社は「来宮駅」(熱海市福道町)そば。
 この駅は「熱海駅」(熱海市田原本町)から分かれて「伊東駅」(伊東市湯川三丁目)まで走るJR東日本・伊東線の一つ目の駅です。
 東海道線の「熱海駅」の次は、「函南駅」(静岡県田方郡函南町)でJR東海の駅。
 へえ、そうでしたか、東海道線は東海道線だけど会社がJR東日本とJR東海と違う、じゃあ境界は?
 だから熱海駅が「境界駅」なんだそうで。
 はぁ〜でも、厳密には、「熱海駅」-「函南駅」間にある伊東線「来宮」駅の上り場内信号機が線路上の境界だって。
 で東海道新幹線はJR東海で、JR東日本じゃないんだって。
 そして「熱海駅」-「函南駅」間にあるトンネルが「丹那トンネル」(1918=大正7年=着工、1934=昭和9年=開通)、で、工事中の犠牲者を悼む神社が「丹那神社」。
 東海道新幹線のトンネルは「新丹那トンネル」(1941=昭和16年=工事開始、1964=昭和39年=工事完成)。
 この「丹那神社」奉賛会が例祭を行う4月の神事を執り行うのは「来宮神社」の宮司!
http://www.kinomiya.or.jp/tanna/
http://www.kinomiya.or.jp/tanna/index.html

 だから、来宮駅で駅構内をよく観察して熱海の湯につかって、山歩クラブのタウンウオーキングのもいいね、いつか江戸ちゃんに提案しようっと。

新かどや.png

◇ おすすめコース
JR来宮駅 – 徒歩15分(少し急な上り坂)-> 熱海梅園 – 徒歩5分 -> 丹那神社・救命石 – 徒歩10分(緩い下り坂)-> 来宮神社 – 徒歩5分 -> JR来宮駅

◇ 丹那神社とは
丹那トンネルの工事で殉職された方をまつる神社で、丹那トンネルの熱海側坑口の上にあり、危機一発のタイミングで命を救った「救命石」も祀ってあります。またこの場所は、日本で8番目の水力発電所の跡地でもあります。

◇ 散策路の略図 JR来宮駅は「新かどや」から徒歩で20分程の距離です。
 ※「新かどや」から来宮駅は上り坂となります。
 ※来宮駅から「新かどや」は下り坂となります。


 「新かどや」は熱海市小嵐町14-8 Tel(0557)81-6185。
http://shinkadoya.jp/index.html
http://iiyado.tv-tokyo.co.jp/top/detail/asp/detail.asp?lodging_facility_code=1623&yid=1623

 1921(大正10)年4月1日、丹那トンネルの東口工事現場で起工以来最初の大崩壊事故が発生、多数の犠牲を伴う大惨事となりました。
 坑口から300m(現在の熱海梅園内「香林亭」あたりの直下)の地点で、長さ約70mにわたって崩壊が起き、作業中の33名が生き埋めとなりました。関係者を先頭に必死の救援活動もむなしく、8日後奇跡的に救出された17名を除く16名の命が奪われ、尊い人柱になってしまったのです。
 同年6月26日、鉄道大臣をはじめ、関係者400余名により慰霊祭が挙行されました。
 丹那神社は、このトンネル工事の犠牲者の英霊の鎮魂の意味を込めて、工事の守り神として坑口上に建立、当初「隧道神社」と命名されて現在地に祀られましたが、後に「丹那神社」と改称されて今日に至っています。
 なおその後、1924(大正13)年の西口の湧水事故や1930(昭和5)年の北伊豆地震による崩壊事故、その他の事故による犠牲者も合わせ合計67柱の英霊を祭神として祀っています。
 その他の祭神は、大地主命(おおとこぬしのみこと)、大己貴命(おおなもちのみこと)、手力男命(たぢからおのみこと)、豊岩門戸命 (とよいわまどのみこと)、櫛岩門戸命(くしいわまどのみこと)です。
 毎年4月第一日曜日に、奉賛会の手により、例祭が挙行されています。


丹那神社の由来
http://www.kinomiya.or.jp/tanna/index.html

 この小説には数多くの人物が登場するが、主人公といえる人物はいない。吉村さんの記録小説によくみられるように、群像劇といえばよいだろうか。それとも『戦艦武蔵』の主人公が戦艦武蔵という建造物であったと同様に、ここでも丹那トンネルという構造物といえるだろうか。
 そう考えてみたけれど、どれもしっくりこない。
 描かれるのは、伊豆半島の付け根の山塊を掘り抜く丹那トンネル貫通までの16年におよぶ自然と人間の格闘、地元農村共同体と建設者たちの軋轢、そして多くの人間がいかに犠牲となって完成に至ったか、という物語である。
 着工は第一次大戦末期、それから関東大震災、昭和恐慌、東北の飢饉、北伊豆地震、柳条湖事件、満洲国建国、国際連盟脱退といった天災や動乱の時代を経て、昭和9年の完成までを描く。

 私は読み進めながら、同時代を生きた詩人金子光晴の言葉が、ある段階から耳について離れなくなり、とうとう最後まで離れなかった。

「人間の理想ほど、無慈悲で、僭上なものはない。これほどやすやすと、犠牲をもとめるものはないし、平気で人間を見ごろしにできるものもない。いかなる理想にも加担しないことで、辛うじて、人は悲惨から身をまもることができるかもしれない」(「日本人について」)

 小説の主人公は、富国強兵の「理想」に燃え、そのために数多くの人間を「犠牲」として呑み込んでいった日本の近代化という化け物であるのかもしれない。吉村さんの視点の置きかたも、そこにあるように感じられる。

 小説の第一章で描かれる丹那盆地の美しい自然とたおやかな農民たちの姿は、やがて巻き起こる悲劇を予感させる。よそ者を拒まない人間の情にあふれる風土。トンネル工事がはじまるまえに、このあたりを見ておこうと訪れた新聞記者に、どうぞ、どうぞ、と一夜の宿をすすめる旧家のあるじは、「富士山や箱根の山に積る雪のとけ水が、いたる所に湧き出ています。水質がよく、しかも豊かです。水田など水が多くて困るほどです」と教える。
 乳牛があちこちに放牧され、水田やワサビ田がひろがる。村人は水道ではなく湧き水を直接家に引いて飲料水に使っている。白梅や紅梅が美しい。
 丹那トンネルの完成によって、熱海線が開通する。そうなれば東海道線が一本につながる。自分たちの村にも駅ができる。土地のだれもが期待に胸をふくらませている。
 吉村さんは、第一章の最後で記者にこのように語らせる。

「かれは、海の輝きに眼をむけながら、熱海線の開通が、東海道線を名実ともに日本の大動脈とさせるのだ、と思った」

 希望に満ちた序曲は、しかしやがて無残に解体され、黙示録のような世界がいくつもくりひろげられるのである。

 火山地帯の複雑な地層、そこに集まる壮大な湧水、こうした自然条件が盆地の暮らしを豊かにしていた。ところが、いざトンネルを掘りはじめてみると、そうした自然の恵みが一転、獰猛な牙(きば)を剥(む)いて人間に襲いかかってくる。坑内には大湧水と土砂が噴出し、熱海口からの坑道では大崩壊がおこり、16人の坑夫たちが死亡する。暗黒の坑内に閉じこめられた坑夫たちは8日間を経て救出されるのだが、吉村さんはその救出作業の詳細を3章にわたって入念に描き出す。
 三島口の迂回坑の奥でも崩壊事故がおきて、閉じこめられた16人全員が死亡。鼻を抉りとられて死んでいる坑夫たちの凄惨な姿からは、断末魔の叫びが聞こえてくるようだ。

 関東大震災での被害の詳細な叙述もさることながら、まるで掘削現場を狙い撃ちするかのような昭和5年、北伊豆地震の襲来を描き出すくだりは圧巻である。坑内の断層がついに裂け、それを境に東西の土塊が猛獣のように動いて、西側が2.44mも水平に移動してしまっているのを確認するときの驚愕と絶望の入り混じった時間は、国家事業の挫折の予感を充分に伝えて迫力がある。
 吉村さんは「自然の計り知れぬ偉大な力」と書いているが、ここまで読んできて私は、自然を主人公として書かれたとしてもおかしくはないと思った。

 自然の力によって生かされてきた丹那盆地の農民にも、恐ろしい災厄が降りかかる。あんなに豊かにあった湧水がすっかり涸れてしまい、ワサビをはじめとするあらゆる農作物の収穫ができなくなってしまった。トンネル掘削のために地下水の流れが変わり、坑道内にどんどんもっていかれるのだ。
 穏やかだった農民たちの顔はしだいに変わり、やがて蓆旗を押し立てて事務所に押しかけるようになる。ガラスを割る者もいる。はげしくにじり寄る者たちがいる。
 事業の大元の国が結局は乗り出して補償金で解決するのはいまの世の中と同じであるが、いきなりそうするのではなく、村の有力者6名が、応急処置にばかり終始して根本対策を先延ばしにしようとする鉄道省にたいして、これ以上先延ばしにせず根本対策をとることを求める歎願書を綴り、熱海から列車で上京する。
 吉村さんはそのときの彼らの服装を書くことを忘れていない。「かれらは、羽織、袴をつけて正装し」、「『水利系統調査願』と表書きされた歎願書を提出」するのである。

 私は宮本常一の『忘れられた日本人』を思い出す。
 門外不出の古文書を宮本の懇請に応じて貸し出すとき、対馬の人びとはやはり羽織、袴の正装でそれぞれの島から古文書をたずさえてやって来る。すでに都会の人間から失われかけた折り目正しい日本人の姿を書き残すことによって、吉村さんは、近代というものが地方に辛うじて残っている日本人の美徳までをも引き剥ごうとしていることを伝えたかったのではなかろうか。

 坑夫として使われる者も、土地を提供する者も、自然というものをあいだに置いて見たとき、どちらも被害者のように映る。到底征服し得ぬ自然というものにたいして、いっぽうは命がけの労働を挑み、いっぽうは生活の転換と共同体の破壊を強制される。
 昭和9年、丹那トンネルは完成し、東京発神戸行きの列車が同トンネルを走り抜けていくシーンを吉村さんは感動的に書いているが、その7804mの闇の底から聞こえてくる線路の軋み音には、それだけでない別の悲鳴に似た声もたくさん混じっているのではないだろうか。
 第一章に登場する新聞記者のみ架空の人物で、これを小説と吉村さんが言うのは、その一点を理由としているのだろう。その他の登場人物はほとんどすべてが実名で書かれているらしく、ここに吉村さんの愛のもちかたが見えてくる。
 事故死した人びとも、村の人びとも、難工事を推進した人びとも、そのひとりひとりの実名を紙に刻んで、長谷川伸いうところの「紙碑=紙の記念碑」としたかったのではないか。慰霊碑ではけっして刻み尽くせぬひとりひとりの息づかいを、こんな人たちがほんとうに実在したのだということを、紙碑として後世に伝えたかったのだ。

 金子光晴のような自由人は、なんとでも言える。個人意識というものに、ほとんどの日本人が目覚めていなかった時代の話だ。金子光晴は、

「日本のような国では、自分たちが、ほんとうに幸せなのか、不幸せなのかがわからなくなる。だから、統治者が、日本は神国だと言えば神国ということになり(略)」「そういったことから発生する絶望や悲劇を、今日まで日本人がたくさん背負ってきたのではないか」(「絶望の風土・日本」)

とも述べているが、まさしくそうした人びとのことを吉村さんは書いたのである。


2016.02.14 07:30文春オンライン、本の話Web
多くの人間の「犠牲」と自然の計り知れない力。吉村昭が紙碑として伝えたかったこと
吉村昭『闇を裂く道』(2016年02月10日、文春文庫版)
高山文彦(作家)解説
http://hon.bunshun.jp/articles/-/4539

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2017年02月23日

来宮神社

 こうして2月18日土曜日、「姫の沢公園」からバスでJR熱海駅に向かったのですが、途中、「来宮神社」のバス停のところは人出でごったがえして、ヤッホー君、またまたビックリ。
 駐車場満杯を知らせるおじさんがたくさんのクルマを誘導、そしてたくさんの若いお兄ちゃんやカップル。
 バスにもたくさんの人が乗ってきました。なかには手に升をもって呑みながらの方も。
 雨水(あまみず)を飲んでいるのかな、お神酒をいただいているのかな、2月19日は「雨水」(うすい)。
 「雨水」に升酒を飲むとこりゃあ、ますますすすむわぁ〜なんて行事でもあるのかしらん。

 関東ほか各地で春一番が吹いた昨日2月17日金曜日は、すっかり春の陽気でしたが、気温も平年並に戻った本日2月18日土曜日は、二十四節気「雨水(うすい)」。立春から数えてちょうど15日目にあたり、雪が雨に変わり、大地がしっとりと潤ってくるころ。雪や氷も溶け出し、霞がたなびき、草木の芽が目覚めだす時節です。

陽気地上に発し、雪氷とけて雨水(うすい)となればなり
 立春から早や15日ほどがたち、本日から春の2番目の節気「雨水」となりました。天文学的には太陽黄径230度の点を通過するときをいい、空から舞い降りるものが雪から雨に変わり、張り詰めた氷がゆっくりと溶けて水になっていきます。その水によって草木が芽生える頃で、昔から、農耕の準備を始める目安とされてきました。
 江戸時代に刊行された暦便覧でも「雨水」は、「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記され、雪や氷が溶け、雨や水となるころと表されています。
 また「雨水」の日に雛人形を飾ると、女の子が良縁に恵まれるといういいつたえも。すでに立春から出しているご家庭も多いかと思いますが、まだでしたら今日から飾ってみてもいいかもしれません。
 上巳(じょうし)の節句、3月3日まではあと2週間ほど。わが子のため(あるいは自分のため)に雛飾りを出すたび、慈しみ育ててくれた母や祖母の深い愛情に包まれるような、春のように暖かい気持ちになれるのもこの時季ならではです。

春一番、三寒四温、氷下待ち網漁
 春一番が吹いた昨日から一転、関東エリアでは10度以上も気温も下がって冬へ逆戻り。三寒四温の頃でもありますね。
 寒い日が3日ほど続くと、その後4日間ぐらいは暖かいということをさし、これを繰り返しながら、だんだん暖かくなり、春へと向かってゆきます。
 一方、北国ではまだまだ氷も雪も溶けるにはまだ早く、根室市では凍った湖の氷に穴を開けて仕掛けた網で魚をとる伝統の「氷下待ち網漁」が行われます。これは、100年以上前から続く根室地方の冬の風物詩。スノーモービルに乗って漁場に向かい、氷に開けた穴から仕掛けてあった網をゆっくりと引き上げるといった漁で、氷が薄くなる3月中旬ごろまで続きます。不要とされ捨てられる魚を目当てに、天然記念物のオオワシやオジロワシなどが数多く集まってくるのだそうです。

飛信子、風信子とも書く、香り高く咲く花、ヒヤシンス
 この時期花屋の店頭に出回る花にヒヤシンスがあります。香りも姿もいいことから、毎年2月に誕生日を迎える友人のために、ブーケにしてもらいます。
 ヒヤシンスが日本へやって来たのは江戸時代末。風に漂って香るこの花の匂いに春の便りを感じたのか、明治時代には「飛信子(ひやしんす)」「風信子(はやしんす)」などの字が当てられたとか。子供のころ学校で、球根を水栽培したこともありましたっけ。
 須賀敦子さん(1929-1998)の小品「ヒヤシンスの記憶」には、野に咲くヒヤシンスを詠ったサッポオの詩や、彼女自身が幼いころ庭に植えたヒヤシンスが紫色ばかりだったこと。パリで過ごした春、森に咲いていたヒヤシンスをハンカチにそっと包んでもって帰ったことなど、いくつもの花をめぐる思い出が綴られています。

燦めく蒼さで、燃える蒼さで、希望とおなじ、いい匂いで。
 冒頭に掲げられたトリエステ生まれの詩人・ジョッティの情情詩の一節は、須賀さん自身の訳でしょうか。2人の息子を戦争で亡くし、妻が精神を病むという境遇だったというジョッティ。詩の一節一節をたどるだけで、家族で囲んだ食卓に飾られたヒヤシンスの香りが、切ないまでに胸いっぱいに広がってきます。


2017/2/18 11:00更新、dot.
春一番吹いて、二十四節気「雨水」。
氷も溶けて水になりゆくころ

https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2017021800012.html

それで、来宮神社。
http://www.kinomiya.or.jp/#pagetop

 ここには大楠が植わっていてパワースポットで人気急上昇中!
 音楽評論家・作詞家の湯川れい子さん(1936年生まれ)も!

愛に傷ついて 歌:大澤一恵 作詞:湯川れい子
https://www.youtube.com/watch?v=E4lyBvVqXSM

続・青春のゴールデンポップス/湯川れい子スペシャル・トーク
https://www.youtube.com/watch?v=kG1k4NEggG8
https://www.youtube.com/watch?v=6fEYr6vcxN4

■ 静かで清らかな熱海を選んで
 JR熱海駅から賑やかな温泉街を抜け、車で約5分。線路をくぐるトンネルを抜けると、明らかに辺りの空気感が変わった。
 ここ熱海の地主の神である来宮神社は、来福・縁起の神様として古くから信仰され、地元の人びとはもとより、多くの旅行者も参拝する。
 昨今、国内でも屈指のパワースポットとして話題を呼び、人気を集めているが、「ここに決めたのは本当に偶然なの」と語るのは、音楽評論家で作詞家の湯川れい子さん。

 東京から新幹線を利用すれば1時間もかからない熱海へ、静かな仕事場を求めてやって来た。熱海は海岸線が大きな入江になって広がり、そのため海は穏やか、2月でも早咲きの熱海桜が咲くほど、気候も温暖だ。周囲の山に守られた地形で台風の被害にも遭わず、今まで津波も一度もないという、何とも心も体も安らぐ土地なのだ。

「ここへ来るとスイッチが切り替わるの。静かで、ぐっすりとよく眠れるのよ」と微笑む湯川さん。仕事部屋のすぐ近くの来宮神社を知ったのはこの地に住んでから。「来宮神社へはほんの数分。熱海にいるときは毎日お詣りします」

■ 大楠のパワーにあやかって
 とにかく気がいい、と言う来宮神社で、特にお気に入りなのは、国指定天然記念物のご神木の大楠。樹齢が2000年以上で、高さが約25m、周囲が約24m。まさにご神体ともいうべき神々しいお姿の巨木だ。江戸末期まで「木宮明神」といわれ、神様の降臨した聖なる木として崇められていた。長い年月に耐え、衰えるどころか、ますます強く根を張る生命力に不老長寿、心願成就を願い、人びとは手を合わせる。お詣りすると清浄な気に包まれ心が澄んでくるようだ。

 熱海ライフを満喫する湯川さんだが、公園に隣接するという東京のご自宅でも、緑や花を取り入れた暮らしを楽しんでいる。天井が高く、大きな窓からはたっぷりの日差しが入り、ベランダでストレチアなどの植物を育てたり、どこよりも早くソーラーパネルを設置するなど、自然の恵みをいっぱいに受けて暮らしている。
 オンとオフを上手に切り替えている湯川さん、最近のイチオシ・アーチストは?との問いに、ズバリ「ル・ヴェルヴェッツよ」とにっこり。全員音楽大学出身のテノール3人、バリトン2人の男声ボーカルグループで、実力とビジュアルを備えた彼らに注目し、応援している(注1)。湯川さんはこれからも独自の感性で、新しい音楽シーンを紹介し続けてくれるに違いない。

■ 湯川 れい子(ゆかわ れいこ)
 東京都目黒区生まれ。1960年にジャズ専門誌『スイング・ジャーナル』へ投稿しジャズ評論家としてデビュー。72年からアメリカのヒットチャート番組「全米TOP40」のDJを始め、以来、エルヴィス・プレスリーやビートルズをいち早く日本に紹介するなど、国内外のポップスを広く評論・解説を手がける。また、作詞家としても活躍。数々のヒット作を生み出し続けている。(注2)

2015/1/1更新、dot.【私の好きな場所】
樹齢2000年のご神木が見守り続ける熱海の来宮神社の清浄な気に包まれる
https://dot.asahi.com/homeclub/column/2015010100001.html

 熱海市の来宮神社境内に1日、新たな憩いの空間「大楠(おおくす)五色の杜(もり)」が誕生した。
 神社が進める「心清らかに参拝できる境内環境づくり」の一環で、樹齢2千年以上、本州1位の巨樹とされる国指定天然記念物「大楠」を側面から堪能できる。
 倉庫などがあった約200平方メートルの自然林を整備した。既存の樹木を残しながら、竹や白樫の成木約50本を植え、参拝者の休憩施設や奉納行事の舞台として活用できる木製の円形ステージを造った。神前結婚式や披露宴、屋外展示場としての利用も検討する。湧き水の演出を施したほか、夜間はライトアップして近隣施設の宿泊客らにも楽しんでもらう。
 五色の杜から本殿へとつながる循環路も年内に増設するという。
 完成を記念した神事を1日に執り行った。雨宮盛克宮司は「参拝客は10年前と比べて4倍に増えた。今まで以上に長時間の滞在を可能にし、癒やしを提供できるよう、有効に活用したい」と話した。

2016/9/2 09:16静岡新聞
境内に「大楠五色の杜」
熱海・来宮神社、憩いの場に

http://www.at-s.com/news/article/local/east/277626.html

(注1)ル・ヴェルヴェッツhttp://www.le-velvets.com/
LE VELVETS コンサート2015 “魅惑のクラシカル・エンターテイメント” スペシャルBOX トレーラー映像
https://www.youtube.com/watch?v=WrrU8Df1FhE

(注2)「武力で平和は守れません!」
 朝日新聞DIGITALは2015年5月14日午後0時40分、「『戦争法案反対』抗議の声 安保法制、官邸前や銀座で」という見出しをつけて、以下のように配信した。

 東京の首相官邸前などでは14日、法案に反対する市民グループや労働組合などが抗議の声を上げた。午前8時から官邸前で開かれた抗議活動は、作家の鎌田慧さんらが発起人を務める「戦争をさせない1000人委員会」など3グループが呼びかけた。約500人(主催者発表)が集まり、「戦争法案、絶対反対」「閣議決定、勝手に決めるな」などとかけ声を合わせた。
 東京都台東区の元教員、吉野典子さん(58)は「戦争のための法律を『平和支援』と呼ぶなど、政権の言葉はごまかしに聞こえる」。東京都八王子市の男子大学生(19)は「自分が社会に出たとき、日本がどうなっているか怖い。選挙に行けない分、ここで意思表明をしたい」と語った。官邸前の抗議は、全労連系や旧総評系の労組も党派を超えて連携している。民主、共産、社民の国会議員も駆け付け、マイクで「憲法違反の法律を止めよう」などと訴えた。法案の審議に合わせて、今後も毎週木曜日の夜に国会周辺で抗議活動を開き、市民に参加を呼びかけるという。
 東京・銀座では14日正午すぎ、法案に反対する女性たち400人余りが抗議の思いを示すため、赤色のTシャツや帽子などを身に着けてパレードした。主催団体によると、「戦争する国づくりと安倍政権への『レッドカード』の意味を込めた」という。お笑いコンビの爆笑問題の太田光さんの妻で芸能事務所社長の太田光代さんや、音楽評論家の湯川れい子さんらが呼びかけ人になった。「戦争立法とんでもない」「武力で平和は守れません」と訴えながら街を歩いた。


2015年05月15日06時19分30秒、板垣英憲「マスコミに出ない政治経済の裏話」
安倍晋三首相は「安全保障法制の関連法案」を閣議決定するも、「東アジア外交」は「四面楚歌」状態だ
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/77acaafa195f4de26e4f8698bcaaa3ee

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2017年02月22日

姫の沢公園

P1040558.JPG

 19日の日曜日、「十国峠」から「姫の沢公園」を下ったところのバス停近くに咲いていた河津桜!

 こんにちは。静岡の手塚です。
 静岡第一テレビ前の河津桜は、だいぶ葉が増えてきました。
 今年は例年より、見ごろが10日ほど早かったです。
 そして・・・
 この桜の花びらも明日2月23日にはだいぶ散ってしまうかもしれません。
 というのも低気圧が発達しながら日本付近を通過します。。。
 すでに春一番が吹いたところでは、「春二番・三番」と言えそうです。
 3〜4日で周期的に来ていた春の嵐。
 今回過ぎ去ると、いったん落ち着きそうです。


2017/2/22(水) 午前11:08「チーム森田の“天気で斬る!”」
今夜から再び春の嵐に
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map

 われわれは春の嵐の合間をぬっての山行だったんですね。
 この「姫の沢公園」もいいところ、「日本の都市公園100選指定公園であり、山の斜面に1,080,000uの敷地を有する自然公園です」って。
http://atami-kousha.com/park/

熱海姫の沢公園
https://www.youtube.com/watch?v=vuVNJ97X7c0

あたみ旅日記、姫の沢公園
https://www.youtube.com/watch?v=EAnXRt_SsGM

 それにしても熱海、あたみ、アタミ・・・

雨の熱海/島津悦子
https://www.youtube.com/watch?v=Q9EDg1ojdr4

 団体・社員旅行に人気の高いイメージが強かった熱海温泉の宿泊客層が、変わりつつある。
 インターネットの宿泊予約サイトを運営する業界大手「楽天トラベル」が行った2016年大型連休の「家族旅行の人気急上昇エリアランキング」で、熱海が5位となった。
 県内唯一のベスト10入り。
 市や民間団体、宿泊施設はファミリーという新たな客層を得ている実態を踏まえ、満足度向上策などに本格着手する。

 4月29日〜5月8日の子ども連れ旅行の予約人泊数を基に伸び率をランキングにした。
 楽天トラベルが扱う国内宿泊などを対象に、3月時点で、期間中に千人泊以上の予約がある全国の大都市や観光・温泉地を調べた。
 熱海を予約した人泊数は前年同期比63・8%の伸び率で、首都圏に加え、愛知県など東海地方からの予約が急増したのが特徴。
 1位は京都駅周辺(前年同期比85・1%増)で、大分県別府市、長崎県佐世保・平戸・ハウステンボスと続く。

 熱海は同社の「人気温泉地ランキング」で2014、2015年の2年連続1位を獲得し、若年層を中心に認知度が高まっている。
 同社は「家族で楽しめるイベントなどが多いイメージが強くなった」と分析し、四季ごとに統一テーマを設けた観光ブランドプロモーションが女性人気を集め、都心に近く新幹線駅がある立地も要因に挙げた。

 市内には乳幼児向けサービスを充実させたホテルが近年増えた。
 連休中は毎年、沿岸部を中心に多彩な観光行事を繰り広げ、今年は市振興公社が「姫の沢公園」に子ども向け「ボルダリングウォール」を試行的に無料設置し、山の魅力を発信する。
 市観光経済課は「トップ10は全国を代表するエリアばかり。新しい切り口として、継続して呼び込める策に力を入れたい」と話す。


2016/4/15 10:30静岡新聞
「家族旅行は熱海」GW人気ランク5位 ネット調査
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/230019.html?page=2

 同じく静岡新聞情報によりますと、「2015年度の市内宿泊客数は14年ぶりに300万人を突破し、業界は好況感に沸いた」そうですが、団体旅行、社員旅行からファミリーへ、という流れなんでしょうか・・・でもそうすると団体客の減少がどう熱海市宿泊客数に影響を与えるかですよね。

 熱海市にある二つの有名大型宿泊施設が31日、営業を終えた。
 熱海後楽園ホテル(同市和田浜南町、小野沢紀雄社長)の「みさき館」と、ホテル「水葉亭」(すいようてい)(同市伊豆山、千葉香織社長)。
 昨年2015年、宿泊客数が13年ぶりに300万人台を超えた同市だが、老舗が閉館したマイナスイメージをできるだけ抑えようと、首都圏へのプロモーションを強化する。

 「みさき館」は1965年8月に開館した。
 11階建て142室で宿泊定員約680人。
 年間宿泊客は約12万人に上った。
 800人収容できるホールなど大小12の会議・宴会場があるホール棟もこの日をもって営業を終えた。
 小野沢社長によると、老朽化に伴い新施設に建て替える計画で、開業時期は未定だが、2020年東京五輪・パラリンピックを大きなビジネスチャンスととらえて計画を進めるという。
 みさき館の解体が始まる9月からは、隣接する18階建て「タワー館」(89室、宿泊定員約500人)だけでの営業となる。

 一方のホテル「水葉亭」はこの日、玄関に「昭和26年の開業以来、皆様のご厚情を賜り65年間営業を続けて参りましたが、諸般の事情により8月31日をもちまして閉館させていただきました」と書いた「閉館のお知らせ」を張り出した。
 後片付けをする従業員は「何も話せない」と言い、同日朝に千葉社長名で出された報道各社向けファクスでは「9月以降につきましては流動的な部分もあり、現状で確たるお話はできかねます」と説明している。
 水葉亭のホームページなどによると、11階建て72室で宿泊定員350人。
 広さ700畳の「平安の間」など大小9宴会場があった。
 市も「水葉亭」側と接触できず、閉館の理由や従業員の雇用、施設の今後など不明としながら、両ホテルとも団体客を多く受け入れ、年間宿泊客が市全体の6〜7%に相当する計約20万人に上るため、影響を案じている。

 市の宿泊・休憩客数の合計は5、6月と4年以上ぶりに2ヶ月続けて前年を割り、好調さに陰りも見え始めている。
 市は、JR熱海駅の新駅ビル「ラスカ熱海」が11月25日にオープンする機会にプロモーションを行なうため、2016年8月31日開会した市議会9月定例会に3000万円の広告宣伝経費を盛った補正予算案を提出した。

(写真)
みさき館最終日の宿泊客を約100人の従業員が見送った=熱海後楽園ホテルで

2016年9月1日付け毎日新聞地方版/静岡【梁川淑広】
熱海の2ホテル閉館
みさき館、ホテル水葉亭
http://mainichi.jp/articles/20160901/ddl/k22/020/163000c

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2017年02月21日

十国峠の歌碑

 ヤッホー君のこのブログ、昨日月曜日付け日記「十国峠770m」参照。
 「この歌碑は1933(昭和8)年、熱海に在住の藤原銀次郎氏が私財を投じて建立したものである」・・・
 奇しくもこの年は、プロレタリア文学の作家、小林多喜二が拷問死した年でしたね。
 でもいったいどなたでしょうか、こんな奇特な富裕者は。

政財界の要人たち、藤原銀次郎
http://www.city.atami.shizuoka.jp/www/contents/1236648879417/files/kohoatami_P08.pdf

藤原銀次郎〜長野出身の「政財界人の範」〜
http://weekly-nagano.main.jp/2016/04/186.html

(財)藤原科学財団は1959年(昭和34年)、藤原銀次郎翁によって創設されました。
http://www.ojiholdings.co.jp/sustainability/social_contribution/fujiwara.html

藤原銀次郎と理工学部
http://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1001_1.html#story

長野市にある藤原公園です。
http://blogs.yahoo.co.jp/tatebayashi_harunoyume/34489993.html

 私財は社会貢献、公益事業への寄付だったのでしょうか、けっしてタックスヘイブンに財産隠しをしたり、ペーパー会社を作って資金移動したりしなかったお金持ち、というわけでして。
 どんなお方?

 今年2014年も早いもので半年が過ぎようとしていますが、後半も大変厳しい月日になるだろうと今から戦々恐々としております。
 さて、そんな厳しさにもへこたれず志に生きた男・製紙王と言われた藤原銀次郎氏と電力の鬼と言われた松永安左ぇ門を対比し、現代にも通じる両名の生き方を学びたいと思います。
 非常に対照的な藤原・松永両氏に敢えて共通点を求めるならば藤原氏(92歳)松永氏(97歳)と長命であり精神力旺盛で死を迎える瞬間まで意識は鮮明であったと言います。
 中国の宋の言葉により良く生きる為の五計があります。

@ 生計:人間として如何に健やかに生きるか。
A 身計:己の一生を如何に世の中に役に立てるか。
B 家計:家を如何に律するか。
C 労計:如何に歳を重ねていくか。正しく対処するか。
D 死計:如何に死を迎えるか。人間時が来れば必ず死を迎える。

 この五計をまさに実践した二人の生涯を学びたい。まずは、藤原氏の五計から…。

 藤原銀次郎氏は長野県生まれ。長野県人特有の理屈っぽい気質。良く言えば論理的冷静な判断力の持ち主であったと言う。学歴は慶応義塾大学卒。ビジネスマンとしては優等生。三井物産上海支店次長、台湾支店長を経て本社木材部門に就任。就任後、地下足袋を履き北海道の山から山を自らの目で確認し現状把握をして廻ったと言う。
 その後、ボロボロの倒産寸前の王子製紙に出向を命じられ時、友人先輩の反対の中、己のそれ迄に貯えた全てを王子製紙の株に変え背水の陣にて対処したと言う。その際に王子製紙再建の手段とし常識の枠を捨てて学歴尊重、肩書き尊重を止め、思いきった人材の抜擢登用を自ら行ったと言う。
 その頃、残された自己完成の十ヶ条を提示し後々の仕事に臨んだ。戦後は戦犯容疑を受けてからは一切の公職活動はしなかった。趣味としては茶道を好んだが己の事業や商売に役に立たない人は茶室には招かなかったので「ソロバン茶」との批判を受けたそうだ。このことは一期一会の精神を基盤とする茶道においてはこれ以上の無い最大の悪口ではあった。が唯我独尊と言うか他人の言葉には耳を貸さなかったと言う。
 座右の銘は『事上練磨』(じじょうれんま)。
 では、藤原氏自己完成の十ヶ条に続きます。

【自己完成の十ヶ条】
1934年・昭和9年。王子・富士・樺太の三大製紙会社を合併し新しい王子製紙を作った実業界の雄藤原銀次郎氏訓

第一条: 仕事を必ず自分のものにせよ。己のやっている仕事は上司のものでも同僚のものでもない。あくまでも自分の仕事である。
第二条: 仕事を自分の学問にせよ。どんなつまらない仕事でも決して馬鹿にしてはならない。仕事を通じて謙虚に学ぶ気持ちを持て。
第三条: 仕事を自分の趣味にせよ。趣味や道楽は楽しい。趣味と仕事を同化させよ。嫌々では成果が上がらない。
第四条: 卒業証書は無きものと思え。不平不満は概ね学卒者に多い。
第五条: 月給の額を忘れよ。給料は己の働く姿そのもの。給料の額に不満がある者は黙って去れ。
第六条: 仕事に追われても人には使われるな。人に言われてから動くのではだめ。状況の原則を考えよ。
第七条: 時々は大息を抜け。元気に任せて突っ走っていては必ず息が切れをする。時には緊張を緩めよ。
第八条: 先輩の言行に学べ。経験・思想等の長所を学びとれ。
第九条: 新しい発明・発見に努めよ。何事にも完成されたものはないと言う問題意識を持つこと。
第十条: 仕事の報酬は仕事である。無為に過ごすことほど悲惨なものはない。

次は、松永安左ェ門氏に続く。
松永安左ェ門氏は長崎県生まれ。壱岐の島で育ち典型的なネアカタイプ。気宇壮大でがらっぱちで人生は平坦であることが間違いであると言う発想。学歴は慶應義塾大学中退。ビジネスマンとしては劣等生。慶応中退後、日本銀行に入行するもすぐに退職。持ち前のヤマッ気で株式相場に熱中し明治39年に60万円を手にしたと言う。この60万円を10倍にして政界進出を目論み総理大臣を夢見るが明治40年の株の大暴落で無一文になった。
 この時33歳。当時、人生50年と言われていたが普通の人ならば『あと、17〜20年しかない』と考えるだろうに松永氏は『まだ20年もある』とここ数年は遊んでも良かろうと遊びに夢中になったと言うことです。
 『何の為に生まれてきたのか』『何のための実業家なのか』と言う原点より原理原則の勉強を志したと言う。そして真剣勝負の極意即ち、『構えだけでは人は斬れない』=『肩書きなんぞで人は斬れない』『斬ると言うことは斬られること』=『皮を斬らせて肉を斬る』を己の挫折経験を通じて実業に活かしたと言う。
 実業家になる目的は『世の中・人の為になること』→『人づくり・国づくり』こそ自らの天命と言わしめることに。その後、電力業界に身を投じ『電力の鬼』と言われる存在になったが昭和43年に国鉄(現在JR各社)の民営化を提案するなどその先見性は他に類をみない。
 97歳の生涯を閉じた時、政府叙勲を家族は故人の意志として辞退。野火止の平林寺で故一子夫人の眠る墓地に納骨・葬儀・法号なしを貫いた。
 趣味としては、藤原氏と同様に茶道を好んだがソロバン茶ではなかった。交際範囲も広くまた、文化人としての交流も多く相手の言葉に素直に耳を傾けたと言われる。座右の銘は『知行合一』。

 藤原氏、松永氏の偉大な人物を対比して思うことに『人間の幸不幸は人と人との巡り合いにあり』と言う通り、人間と人間が出会ったとき。また、何かを共に志すときに互いの魂のやり取りがなければその何かを活かすことはできないと言うこと。自分を磨き、心が澄んでいなければ本質を掴むことはできないと言うこと。異質の人間同士でも目指す方向さえ同じであれば大業は為すと言うことをお二人の対比の中で学ぶことができた。

 自論ではあるが本質は勇気であり勇気は行動であるのです。どんな良いアイデアや仲間があっても何も行動しないのではただ、存在することにのみ執着する。執着をするからこそ妬みや恨み等の感情が芽生えるのだと思う。

 両氏を対比するなどは大変おこがましいことではありますが、昨今の我が国の多くが自己中心的な考えが蔓延するばかりと言われますが、人は、自分中心に生きたところで満足するものではありません。
 家族のため。仲間のため。そんな人の為・社会の為になろうと行動を起こした時に初めて満足することを覚え、覚えたと同時に『徳』が生まれ、品性が宿るのです。

 『国の根本は人民にあり』と言うように政治家・官僚・企業のトップが揶揄されることばかりですが、国の乱れは国民一人一人の責任でもあることを心に刻みこんだ。
 半年のスタートに両氏の生き様を書き始めました。ありがとうございました。


2014年6月11日 16:50
製紙王と言われた藤原銀次郎氏と電力の鬼と言われた松永安左ェ門
https://www.facebook.com/notes/takashi-saito/

 ところで、藤原銀次郎の十訓や寄付行為の背景には、この国の戦前の格差や労使関係の歴史も見過ごしてはいけません:

安田暗殺の衝撃

 三菱川崎労働争議が生じた1921(大正10)年は、エリート実業家たちにとって、いわば大衆的な批判が身辺にまで及び始めた年と言えるであろう。
 言ってみれば、戦後不況によってもたらされた実業家批判の小康状態が、衝撃的な事件によって打ち破られていくという状況である。
 争議の前哨が岩崎にまで及んだ三菱川崎労働争議が終息していった同年9月に、安田財閥の創始者である安田善次郎が右翼活動家・朝日平吾によって暗殺された。
 寄付の要求を断られたというのが直接的な殺害理由とされる。
 安田には公益事業への寄付を嫌う吝嗇漢という評判があり、事件後の新聞・雑誌には朝日を英雄視する向きもあった。
 安田は『実業之日本』の奮闘言説を支えた一人であったが、同誌の安田関連記事を見ると、安田への同情の記事ばかりではなかったことがわかる。。。
 実業家たちの動揺を伝える記事もある。次は同誌の記者による記事である。

「財界の巨人安田翁の卒去は如何ばかり世の人心に激動を与へたことであらう。聞く処によれば或る富豪は狼狽の餘り俄に警衛の巡査を増した、或る富豪は不安の餘り俄にその財産組織を変へた、又ある商店の青年は此の意外の変事の為に従来の所信に一大矛盾を来し、煩悶の餘り、現業を棄てたとさへ言はれてゐる。何れにしても今回の出来事が世の人心に、ある考ふべき何物かを与へたことは事実であらう。…」
(「安田善次郎翁の一生は世の富豪と実業青年に何を語るか」同誌第24巻第20号(大正10年))

 記事内容が事実を伝えているかどうかは不明だが、安田の死は実業家たちに大きな衝撃をもたらしたはずである。また、堀越商店主の堀越善重郎は、格差問題の先鋭化を事件の原因と見て、富豪へと実害が及び始めた不安を語っている。

「小売商品……騰貴して……不景気の結果人民の其職を失ひ……多数の貧者を生じ……自暴自棄に陥らしむるの局、……或は富豪征伐と云ふが如き暴挙を企つる者を生ずる虞れなしとせず……」
(同誌、第25巻第12号(大正11年))

 ただ、このように率直に現状を伝える記事は少ない。
 むしろ際立つのは、安田が怠った寄付を富者の義務として実業家たちは行なうべきであるという、事件に関する識者の冷静な批判的論評である。
 東洋大学の中島徳蔵は「安田氏は現代の憧憬の人物で、非凡なモデルではあるが」、「富豪には其富の蓄積されるに比例する社会的義務がある」と述べる。
 また、東京女子高等師 範学校長の湯原元一は「大なる富を積むには大なる意志の力を要すると同時に、之れを運用するには道徳……人格の力が加はらねばならぬ」と主張し、安田は後者が足りなかったと論評する。
(中島徳蔵「翁に対する哲理的観察」および湯原元一「大富豪たるの資格は何か」ともに同誌第24号第20号(大正10年))
 米騒動の時にも語られた富者の責務論(寄付奨励論)が、ここでも繰り返されている。
 おそらく富者の責務論は、安田事件に対する同誌の基本的立場と見てもよいであろう。
 事件の翌年には「育英慈善の為めに全財産を寄附した実業家(日本鋼管会社常務・伊藤幸次郎氏)」など、富裕な経営者には高額の寄付を行った者が多いという趣旨の記事が相次いで掲載された。
(五十峯生「育英慈善の為めに全財産を寄附した実業家」同誌第25巻第6号(大正11年)など)
 こうした一連の記事からは、安田を特殊事例として位置づけて大多数の実業家たちを弁護するとともに、富裕な実業家たちへは社会事業への寄付を奨励するという同誌の編集意図を、容易に見出すことができよう。


人文論叢(三重大学)第33号2016年
戦前期日本の社会階層をめぐる諸問題と実業エリート
永谷健
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/15029/1/10C17645.pdf


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2017年02月20日

山尾志桜里バッシング

 もうひとりバッシングを受けたお方がおりました。今度は政治家。
 山尾志桜里(1974年生まれ、愛知県7区選出衆議院議員)。

https://www.yamaoshiori.jp/blog/

 「共謀罪」と同じ趣旨で政府が創設を目指す「テロ等準備罪」の処罰対象に関して、安倍晋三首相は2月17日の衆院予算委員会で、普通の団体でも性質が変わった場合は「組織的犯罪集団と認めるのは当然だ」と述べた。
 「そもそも犯罪目的の集団でなければならない」という三週間前の答弁から変更した。
 捜査機関の裁量で普通の団体が組織的犯罪集団と認定される余地が残る説明で、「一般市民は対象外」「過去の共謀罪とは全くの別物」とする政府のイメージ戦略にほころびが生じている。 

 「もともと正当な活動を行っていた団体でも、目的が犯罪を実行することに一変したと認められる場合は、組織的犯罪集団に当たり得る」という16日の政府統一見解を受け、山尾志桜里(しおり)氏(民進党)が「一般市民が処罰対象になるのではないか」と質問。
 首相がこれに答弁した。

 首相は新たな共謀罪法案について「犯罪の主体を限定し、一般の方々が対象となり得ないことがより明確になるよう検討している」との説明を繰り返し、一般市民が処罰対象となる懸念などから三度廃案になった共謀罪法案とは全く別物だと強調。
 1月26日の衆院予算委員会では「かつての共謀罪はぱらぱら集まって今度やってやろうぜという話をしただけで罪になる」「今回は、そもそも犯罪を目的としている集団でなければならない。これが全然違う」と説明していた。

 しかし、政府は過去の共謀罪の国会審議でも、「共謀罪が適用されるのは、犯罪行為が共同目的の団体」(2005年7月)、「初めは正常なものから走りだしたが、完全に詐欺集団として切り替わったと認定されるケースはある」(同年10月)などと、今回と同様の説明をしている。

 山尾氏が答弁の矛盾を指摘すると、安倍首相は「犯罪集団に一変した段階で一般人であるわけがない」「組織が性質を一変させることがポイントだ」とかわしたが、過去の共謀罪法案との共通点が浮かび上がった。

◆ 対象犯罪277に 政府方針「676」から見直し

 菅義偉(すがよしひで)官房長官は2月17日、自民党本部に二階俊博幹事長を訪ね、「共謀罪」と趣旨が同じ「テロ等準備罪」を創設する組織犯罪処罰法改正案について、対象となる罪を277とする方針を伝えた。
 菅氏は同改正案について、今国会での成立を目指す考えも説明し、二階氏はいずれも了承した。
 政府は3月上旬にも閣議決定し、国会に提出する見通し。

 具体的な罪名は明らかになっていない。

 同改正案の政府原案は懲役・禁錮4年以上の犯罪676を対象としていた。
 公明党の見直し要求を受けて、政府は与党に対し、テロや薬物、組織犯罪集団の資金源に関する罪など300弱とする方針を伝えていた。
 政府の与党に対する原案説明によると、テロに関する罪は167。

 共謀罪を新設する法案を巡っては、自民党の小委員会が2007年、対象犯罪をテロや薬物犯罪などの145程度とする案をまとめている。

 菅氏は17日の記者会見で、政府が同改正案を、2000年に署名した国際組織犯罪防止条約を締結するための国内法整備と位置付けていることに関し「条約の締結に支障を来さない中で、ぎりぎりの見直しを行なっている」と説明した。


2017年2月18日付け東京新聞朝刊(山田祐一郎、横山大輔)
首相答弁「犯罪目的集団」→「普通の団体性質一変なら」「共謀罪と別物」ほころび
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201702/CK2017021802000132.html

 この法案も「強行採決」で来月成立するんですか、まったくやりたい放題の強権暴走政治を許していますが、それで血の海になっても黙認するのでしょうか、この国の人びと。
 いや大本営発表だけしか伝えてないのでヤッホー君のような人には知らされていないのでは、と思います。
 山尾議員、一般国民に対して昨日の日曜日、こんな演説を:

民進党・山尾志桜里国民運動局長が総がかり行動であいさつ 2017年2月19日
https://www.youtube.com/watch?v=qkpSTEUjc88

 目障りな杭はじゃまだ、とばかりに政権は潰しにかかったことがありました(注)。
 でも取り上げると自分のところに火の粉が回ってくる、と観念したのか、それっきり。
 これっきり これっきり もうこれっきりですか。

山口百恵 横須賀ストーリー
https://www.youtube.com/watch?v=TaVd-hPxUW4

安倍応援団が民進党・山尾志桜里の「地球5周分」ガソリン代を追及も、安倍首相はその倍以上「地球12周分」を計上!
http://lite-ra.com/2016/04/post-2127_3.html

 衆参156人で2016年3月27日発足した「民進党」。
 週末の共同通信の世論調査では「期待しない」が67%にも上り、前途多難だが、唯一の明るい材料が山尾志桜里衆院議員(41)の政調会長抜擢だ。
 テレビやスポーツ紙も大きく取り上げている。
 山尾が前面に出れば、支持率がアップする可能性がある。
 だからだろう、安倍政権は早速、“山尾潰し”を画策し始めているという。

 27日の結党大会は岡田克也代表が党名を「新進党」と言い間違えたり、維新の党代表だった松野頼久が「民主党」と言い誤ったりと、どうにも締まらない船出だった。
 そんな中、注目されるのは当選2回で政調会長に就任する山尾志桜里だ。

 政策に強く、弁も立つだけに、政調会長として連日、記者会見やテレビ討論で顔を売れば、民進党のイメージアップにつながる可能性が高い。
 岡田代表も、4月24日に行われる2つの衆院補選などで、山尾を現地に入れ、フル活用するつもりだ。

 「ちょうど保育園問題が大きくなり、安倍政権に対する“女性の怒り”が強まっている。もちろん党内にはやっかみもありますが、『保育園落ちた』の匿名ブログを国会で取り上げた山尾さんは、女性からの支持も高く、安倍批判の世論を広げていくのにもってこいです」(民進党中堅議員)

■ 山尾政調会長の夫は元ライブドア役員

 これに焦りまくっているのが安倍首相だ。
 ただでさえ自民党議員のゲス不倫や失言の連発で女性票がどんどん減っている上、山尾には国会の論争で徹底的にやり込められているからだ。
 安倍官邸が「山尾を潰せ!」の大号令をかけ、自民党は山尾のスキャンダル探しに躍起になっているらしい。
 国民の人気が急上昇している山尾さえ潰してしまえば、民進党は怖くないと考えているようだ。

 「検事時代から政治家になるまでの経歴や政治資金など、金銭関係はもちろんですが、調べているのは山尾本人だけではありません。山尾さんの夫はIT系企業の経営者で、元ライブドア役員。夫の素性を洗いざらい調べれば、何か出てくるのではないかというワケです」(自民党関係者)

 安倍政権の悪辣さはこれだけじゃない。
 自公は待機児童解消の緊急対策を慌ててまとめ上げたが、そのウラでは「保育園落ちた」の匿名ブログを書いた母親の身元まで調査させているという。
 自民党担当の全国紙記者がこう言う。

「複数の自民党議員から、『あのブログを書いた女性のバックは共産党系らしいですね』と言われました。共産党とつながっているという情報を拡散したがっているんだな、と思いました」

 権力を使って何でもやるのが安倍政権だ。
 そういう体質に女性が嫌悪感を抱いているのを、まったく分かっていない。


2016年3月29日付け日刊ゲンダイ
スキャンダル探しに躍起 安倍政権が狙う“山尾志桜里潰し”
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/178197/1

 ところが・・・東京都では民進党の名前がもう消えてしまっていますぅ〜:

 2017年7月の東京都議選に向け、旧民主党系の都議会民進党(14人)と旧維新の党系の民進党都議団(4人)が2月14日、合流して新会派「東京改革議員団」を結成した。
 新会派は自民党(57人)、公明党(22人)に次ぐ規模になる。

 国政で民主と維新が合併した後も、両会派の合併は政策の不一致を理由に見送られてきた。
 幹事長に就任する尾崎大介都議(1974年生まれ、北多摩3区=調布市、狛江市=選出)は都庁で記者会見し、会派名に「民進」を使わなかった理由について「幅広く会派への合流を呼びかける」ためと説明。
 地域政党の生活者ネット(3人)と2人の無所属議員にも合流を呼びかけているとした。

 小池百合子知事の政治姿勢については、
 「大変共鳴している。連動して私たちもしっかり議会改革をしていきたい」と話し、連携に前向きな姿勢を示した。

2017年2月14日21時14分最終更新毎日新聞【柳澤一男、円谷美晶】
都議会、民進党の2会派合流、「東京改革議員団」を結成
http://mainichi.jp/senkyo/articles/20170215/k00/00m/010/078000c

(注)イマから84年も前の今日のことです。また復活するのかな、いまのアホノ政権のもとで!

 戦前の刑事手続では極めてひどい権力の濫用が行なわれた。
 その代表的な例として通常挙げられるのは 小林多喜二である。
 小林多喜二は1933年2月20日正午過ぎに築地署の特別高等警察により逮捕されたが,その日の夕方には警察により拷問で虐殺された。
 小林多喜二の死体は
「指や前歯が折られ、蹴り上げられた睾丸や陰茎は通常の3倍にも膨れ上がり、こめかみや二の腕には焼け火箸を突き刺した跡があり、太腿には錐か千枚通しで刺されたような穴が15、6ヵ所も残っている」(個人情報保護法拒否!共同アピールの会編『あなたのプライバシーが国家管理される!個人情報保護法をぶっ潰せ』(現代人文社、2001年、64頁)という状態だった。
 次に、近・現代最大の言論弾圧事件と言われる「横浜事件」。
 23人の出版関係者がでっち上げられた犯罪によって検挙され、拷問が加えられた。
 その結果、4名が獄中死、2名が保釈後、または出獄後に死亡した。
 3人の警察官が戦後に有罪判決を受けている横浜事件では、
「小林多喜二がどんな死に方をしたか知っているか!」
「共産主義者のアバラの1、2本はみんなへし折っているんだ。検事局でもな、共産主義者は殺してもいいことになっているんだ」などと特高課員は述べて拷問を行なった。
 そして、こうした拷問のすえに「私は共産主義の運動をいたしました」という文面の書面に捺印させた(畑中繁雄著梅田正己編『日本ファシズムの言論弾圧抄史』(高文研、1986年、196頁)。
 日本の敗戦までは、「たとえ10人の無罪の者を有罪としても、1人の罪ある者を逃すな」という「実体的真実主義」に基づいた刑事手続がなされていた。
 そのような考え方に基づいて刑事手続を進めたため、自白を得るために拷問などを行なうことが当然とされた。
 戦前では「公務員による拷問」こそがむしろ当然だった。
 そして、実際に犯罪を犯していない者が言語に絶する拷問のすえに自白し、その結果有罪とされてしまうことが多々存在した。
 現行憲法は、このような戦前の刑事手続のあり方を反省し、適正手続主義・当事者主義を実現するさまざまな規定を憲法に導入した。
 拷問によって自白を得るといった戦前の刑事手続に対する反省として、現在の憲法では「公務員による拷問および残虐な刑罰は,絶対にこれを禁止する」(憲法36条)とされている。
 また「自白は証拠の王である」と言われる。
 自白が必ずしも真実ではない場合があり、自白だけで有罪とすれば無実の者を罰してしまう可能性がある。
 そこで現在の憲法では「強制・拷問もしくは脅迫による自白または不当に長く抑留もしくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」(憲法38条2項)として、一定の自白の証拠能力を認めていない。
 さらには「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、または刑罰を科せられない」(憲法38条3項)として、有罪との判決を下す際には被告人の自白以外の補強証拠も必要とされている。。。

名古屋学院大学論集社会科学篇第44巻第2号(2007年10月)
研究ノート
飯島滋明『憲法からみた「あるべき刑事手続」とその現状(1)』
http://www2.ngu.ac.jp/uri/syakai/pdf/syakai_vol4402_13.pdf

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十国峠770m

 さてもさてさて、末代上人(まつだいしょうにん)に呼び止められ、そうでしたかぁ〜と首をさげてお詣りし、石仏に励まされるようにして歩いてきたら、ヤッホー君の前に現れ出でたもうひとつのお山。
 それが「日金山」東光寺。
http://higanesan.com/

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日金山東光寺の由来
 応神天皇2年(271)伊豆山の浜辺に、光る不思議な鏡が現われました。
 鏡は波間を飛び交っていましたが、やがて、西の峰にとんでいきました。
 その様子は日輪のようで、峰は火を噴き上げているように見えたので、日が峰と呼ばれ、やがて、日金山と呼ぶようになりました。
 同4年(273)松葉仙人が、この光る不思議な鏡をあがめ、小さな祠を建てて祀ったのが、開山と伝えられています。
 推古天皇の頃(594)走湯権現の神号を賜り、その後、仁明天皇の承和3年(838)甲斐国の僧、賢安が、日金山本宮から神霊を現在の伊豆山神社のある地に移したと言われています。
 鎌倉時代は、源頼朝の篤い信仰に支えられ、現在本尊として祀られている延命地蔵菩薩像も、頼朝公の建立によるものです。
 地蔵菩薩は、地獄に其の身を置いて、地獄で苦しむ者を救ってくれる仏であることから、死者の霊の集まる霊山として、篤い信仰があり、今も尚、春秋の彼岸には多くの人が登山して、新仏や先祖供養のために、卒塔婆供養をしています。


 そうでしたかぁ〜
 あれですよね、山歩きってからだとこころに良いその訳はいろいろ、人さまざまでしょうが、ヤッホー君、いつも思うのは、われわれのご先祖様との出会い、歴史の再認、それによるアタマのなかの考え、見方、動きの広がりと深まり、なんでしょうかねぇ〜
 アタマがはちきれそうなほどの発見と驚愕があるんですねぇ〜

 とま、そういうわけで大ぜいが一糸乱れぬ隊列で歩く山行の集団をよく見ますが、山歩クラブは違う、と。
 休憩時間も50分歩いてはい、10分とかいつも時計を見ながら距離を測り、目的地への到着時間を気にする軍隊分列行進とはわけが違う、と。
https://www.youtube.com/watch?v=64o_YkKncFI

 山歩クラブはピークハンターでもない、と(アメリカ由来の会社の成果主義とか目標による管理とかのようなものとも違う、と)。
 
 さて日金山をあとにしますと、「姫の沢公園」!
http://atami-kousha.com/

 こんな景色が広がるのです。
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 さらに・・・

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右大臣実朝の歌碑

箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ


 詩歌を愛した将軍源実朝は、この峠をいくたびも越えています。
 二所詣でのために鎌倉から箱根権現に詣でるためです(二所とは伊豆山権現、箱根権現のこと)。
 この歌は22才のときに詠まれたといわれています。
 この歌碑は昭和8年熱海に在住の藤原銀次郎氏が私財を投じて建立したものである。
 平成4年12月伊豆箱根鉄道(株)の協力を得て熱海市が更に眺望のきくこの場所に移設したものである。


 そして・・・

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 十国峠770m。
 十国峠からは箱根の山々越しに雄大な富士山が望めるはずなのですが、ヤッホー君のミラーレスのデジカメには写りませんでしたね。
 雲の上にガスってはいましたがお見えになったお富士さま、またおいで、と言われたような。
 十国峠の名の通り、伊豆・駿河・遠江・甲斐・陸奥・武蔵・上総・下総・安房・相模の十国が望める素晴らしい所です。
 振り返ると、左手には相模湾に突き出した真鶴半島や初島、そして沼津アルプス、伊豆七島の大島、正面には伊豆の山々、右手には駿河湾が見渡せます。

十国峠碑
伊豆国加茂群日金山頂
所観望者十国五島
 自子至卯 相模国 武蔵国 安房国 上総国 下総国
 自辰至申 其国所隷之 五箇島 及 遠江国
 自西至亥 駿河国 信濃国 甲斐国
天明三年八月東都林居士諸島出雲光英源清候等應熱海里長渡辺房求之需建之

 十国五島を俯瞰できることから、この峠の名ができました。
 今から230年以上前の1783年(天明3)年8月、江戸から来訪した有志が日金山を訪れた際に、景色の素晴らしいことを後世に伝えようと当時の熱海里長に依頼して建てた古い「いしぶみ」です。
 記念碑には文字通り「伊豆国加茂郡日金山頂からは、十国五島を見渡すことができる。相模(神奈川県)、武蔵(神奈川県と東京都)・安房・上総・下総(千葉県)、遠江・駿河・伊豆(静岡県)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)が見える」と記されています。

 熱海をこよなく愛した高山樗牛は有名な『わがそでの記』の中で「十国峠に登る遊びはことのほか壮快で、北は足柄、南は大島、東は江ノ島、西は田子の浦まで壮大な眺めたぐふべきものなし・・・」と記しています。


箱根十国峠ケーブルカー
十国峠山頂のご案内

http://www.izuhakone.co.jp/jukkoku-cable/monument/index.html/

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 では最後に「伊豆の山々」を大きな声で歌っておしまいにしましょう:
https://www.youtube.com/watch?v=c4uPVclzMHI
https://www.youtube.com/watch?v=J7DjZL1nWeY

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2017年02月19日

若者バッシング

「アタマがはちきれそう」なヤッホー君、
 ココロがもうちぎれそうなヤッホー君、
 おちついて、ね、「過労死」について。
 動画も「イマ」この日記で見られます。
 動画も明日には削除されてしまうかも:

 過労自殺した高橋まつりさんの母親、幸美(ゆきみ)さんは今年1月20日の記者会見で、「本日合意書調印にあたって石井社長に話した内容」と題した文書を配布した。全文は次の通り。

 本日、合意しましたが、娘は二度と生きて帰ってこないし、抱きしめることはできません。
 娘が死ぬほど辛かった、死の原因となった連続の深夜残業・休日出勤。これらの業務が私的情報収集・自己啓発などの名目で業務として認められていなかったこと。
 このことが原因で、娘の残業申告時間は月70時間に収まっていました。
 そのため、娘は産業医との面談も受診もしていませんでした。
 これらが業務として認められていたら、残業時間を正確に申告することが許されていたら、娘はどこかで誰かに救われていたかもしれません。
 娘は死なずにすんだかもしれません。
 「ハラスメントや長時間勤務に関する相談が本人からなかった。」といわれていますが、彼女のメールには、くり返し
 「会社に行くのが恐い」
 「上司が恐い」
 「先輩が恐い」
 「相談したことがわかったら恐い」
とありました。
 電通における社風「体育会系レベルではない異常な上下関係」「年次の壁は海より深い」と娘が言っていた社風であるのに、新入社員が相談できる相手は年のごく近い先輩だけしかいなかったのです。
 人事に相談しても有効ではなかった。
 12月には特別条項まで出されていました。
 11月に勇気を出して、人事や上司に相談していたのに、誰も娘を助けてくれなかったのです。
 娘が生きていたら、誰かが娘を助けてくれていたら、娘は今でも電通のために働いていたでしょう。
 娘の希望どおりに英語や中国語を活かして仕事をしていたかもしれません。
 そして、娘の描いていた夢のとおり、将来は母と弟を招いてハワイで結婚式を挙げ、子どもを産み、母を東京に呼んで一緒に住んでいたかもしれません。私は、娘と一緒に孫を育てていたでしょう。
 日本の発展に貢献するために教育を受けてきた娘は、それを実現することができたでしょう。
 私は今でも娘を抱きしめることができたでしょう。
 みなさんは、このことをしっかりと心に刻んで下さい。
 彼女の配属希望では、デジタル部門は7部門中一番希望しない7番目でしたが、娘は電通の仲間として迎えられたことを誇りに思っていました。
 世間では、彼女は電通に入社しなければよかったのにと言われています。
 こう言われていることを返上できるよう、ひとり残らずすべての社員が幸せにいられる会社に変えてください。


2017年1月21日08時16分朝日新聞デジタル
高橋まつりさんの母・幸美さんが配布した文書(全文)
http://www.asahi.com/articles/ASK1N6Q7KK1NULFA03P.html

 ひとり残らずすべての国民が幸せにいられる社会に変えてください!
 私たちは国や会社の奴隷ではありません!

20160320 AEQUITAS 新宿アルタ前街頭宣伝02 本田由紀さん(東京大学教授)スピーチ
https://www.youtube.com/watch?v=Cvwhzys8xXc

 こんにちは、教育社会学を専門としている本田由紀です。
 これまで、フリーターやいわゆるニートの現状、大学生の就職活動の問題点、日本の教育の特徴と問題点などを、さまざまなデータを使って把握する仕事をしてきました。
 今日は、日本の働き方の特徴は何か、それが現在はどのように変わってきたか、どうしてそうなったか、そして教育の課題についてお話ししたいと思います。。。

 みなさん、「標準労働者」という言葉をご存知ですか?
 これは、賃金構造基本統計調査という日本の政府統計で使われている用語で、「学校卒業後直ちに企業に就職し、同一企業に継続勤務しているとみなされる労働者」のことを意味しています。
 賃金構造基本統計調査そのものは、1948年から実施されていますが、「標準労働者」という統計用語を使った集計が行われ始めたのは、高度経済成長に邁進していた1969年からです。

 この用語は、世界の他の国にはありません。
 日本だけが、戦後の高度成長期に若者が学校を出たとたんに、正社員として企業が抱え込み、そのまま抱え込み続けるという働き方を「標準」とみなすようになっていったのです。
 ただし、これは主に男性についてのことであり、女性は仕事に就いたとしても一時的なものとみなされることが普通でした。 

 高度成長期には、一方ではモーレツ社員という言葉が生まれ、他方では「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ!」というようなですね、歌が流行るような、勢いと明るさがありました。
 しかし、1970年代はじめに石油危機が起きたあと、80年代にかけて、状況は変化します。
 この70年代から80年代にかけての時期は、経済成長率は年平均で4%という水準を維持し、ジャパンアズナンバーワンと世界から称賛されるような、いわゆる安定成長期ではありましたが、その陰で、企業が従業員を働かせるやり方には、厳しさが増していました。

 高度成長期と比べれば社内に人余り感が強くなっていたので、だぶつき気味の人員をより効率的に働かせるために、配置転換や遠くの事業所への転勤など、雇う側の指一本で従業員を動かし、こき使うようなやり方がすでに目立ってきていたのです。
 労働者たちは、雇用と賃金を失わないために、そうした企業の厳しい指示に従うしかありませんでした。
 当時のそのような状況を言い表していたのが、会社人間とか、社畜、あるいは過労死といった言葉です。
 そのようなだんだん厳しくなる働き方を主に担っていたのは、働き盛りの年齢層であった団塊世代でした。
 
 4%という水準を維持し、ジャパンアズナンバーワンと世界から称賛されるような、いわゆる安定成長期ではありましたが、その陰で、企業が従業員を働かせるやり方には、厳しさが増していました。
 高度成長期と比べれば社内に人余り感が強くなっていたので、だぶつき気味の人員をより効率的に働かせるために、配置転換や遠くの事業所への転勤など、雇う側の指一本で従業員を動かし、こき使うようなやり方がすでに目立ってきていたのです。
 労働者たちは、雇用と賃金を失わないために、そうした企業の厳しい指示に従うしかありませんでした。。。

 80年代の後半にはバブル経済で日本中が浮足立っていたような時期がありましたが、それは90年代初めのバブル崩壊によっていっきに暗がりへと突き落とされます。
 その後、今日にいたるまで、経済成長率は年平均で0.9%と、1%にも満たない状態が続いています。
 長引く景気低迷に加えて、90年代から2000年代にかけて、人口の多い団塊世代は50代という年齢に達しており、企業にとっては人件費の負担が重くなっていたため、企業は新規学卒者の正社員採用を極力減らして、代わりにパート、アルバイト、契約社員、派遣社員などさまざまな非正社員を増やして、何とか業務を維持するというやり方をどんどん進めるようになりました。

 もはや、「標準労働者」ではない働き手が以前よりぐっと増える時代になったのです。
 若者の中にフリーターが増えている、いやフリーターどころか働く意欲のないニートが増えている、ということが指摘され、それは、若者が甘えている、努力が足りない、根性がないせいにされました。
 実際には原因は若者側というよりも企業の側にあったにもかかわらず、若者がバッシングされてきたのです
 
 ひどいと思いませんか? 

 それ以降、今世紀に入ると、増加した非正社員の雇用の不安定さや賃金の低さ、つまり正社員との格差問題が注目されるようになります。
 確かに非正社員の労働条件は悪いです。
 この集会のメインテーマである、低すぎる最低賃金すれすれの賃金しか得られず、必要なくなればいつでも首を切られてしまう、非正社員の問題は明らかです。 

 しかしこの間に、他方の正社員の労働条件も、かつてよりいっそう過酷になってきました。
 もともと日本の正社員は、「組織の一員なんだから言われたことは何でもやれ」ということが前提だったわけですが、それがさらにひどくなり、長時間労働、過重労働で命を落とすケースさえ後を絶たなくなります。
 不払い残業も蔓延しています。
 このように、不安定すぎてつらい非正社員と、働かされ過ぎてつらい正社員という、両極端ですがどちらも極めてつらい働き方の二択のような状態が進んできました。 

 そしてさらに今、非正社員と正社員の悪いところどりをしたような働き方が広がり始めています。
 つまり、何でもさせられるのに、賃金は低く雇用の保証もおぼつかないような働き方が、正社員の中にも非正社員の中にも増えてきています。
 正社員の場合はブラック企業、非正社員の場合はブラックバイトという言葉で呼ばれています。
 一方にはとても負担の大きい就職活動を乗り越えて、何とか正社員になったと思ったら、そこはブラック企業で、唖然とするような長時間労働だったり、ひどいハラスメントで自己都合退職に追い込まれる場合もあります。

 あるいは、学生アルバイトのはずだったのに、いつの間にかシフトが増やされ、レジや建物の伴の管理まで任され、学業に力を入れたいからやめたいと言ってもやめさせてくれないようなブラックバイトの被害例がどんどん報告されています。
 このブラックバイトを後押ししているのが、日本のひどい奨学金制度です。
 奨学金とは名ばかりで、すべてローンで、卒業時には莫大な負債となって若者の肩にのしかかってくるような奨学金制度が、劣悪な労働条件であっても働き続けざるをえないような状況を生み出しているのです。 

 そして今、これらすべてにかかわる大きな問題として浮上しているのが、いわゆる求人詐欺です。
 求人票に書かれていた労働条件とまったく違う仕事内容や労働時間、賃金で働かされるというケースです。
 さらに詳しく見れば、固定残業代制の問題もそこに含まれています。
 固定残業代制とは、あらかじめ支払う残業代が決められているという仕組みですが、それに見合った残業時間を超えて残業しても、その分は一切支払わないという、まさに賃金泥棒と言えるやり方です。 

 ひどいと思いませんか!? 

 要するに、経済の低迷が長引く中で、企業は利益を上げることが難しくなっており、そのしわよせをすべて働き手にかぶせるような働かせ方が蔓延している。
 そのノウハウを企業に入れ知恵するようなブラック社労士などのビジネスも広がっています。
 少子高齢化が進む中で、減っていく人口の一人ひとりが最大限大切にされることが重要な社会的課題なのに、こんなやり方を続けていては、働く者はどんどんすり減り、消耗し、いっそう生産も消費も活性化から遠ざかるような悪循環がつのるだけです。 

 最後に教育についても触れておきたいと思います。
 高校であれ大学であれ、日本の教育機関は、かつてのような「標準労働者」的な働き方を前提として、組織にうまくなじむような人材を育てて卒業時にうまく企業に送り込みさえすればいいのであって、具体的な仕事のスキルや、あるいは企業が違法な働かせ方をしてきた時に、きちんとノーを言う方法などをしっかり若者に伝える責任をこれまで果たしてきていませんでした。
 部活や組体操などのしごきに耐えられる人間、あるいはコミュ力のある感じの良い人間を学校が育てていれば、企業に重宝されるはずだという風に考えられてきているのです。

 しかし今、これまで説明してきたように、日本の仕事の世界は、正社員であっても非正社員であっても、かつてよりずっと劣悪な労働条件にさらされるリスクが高まっています。
 学校を通じてであれ、あるいは今日のこの場のような集会を通じてであれ、きちんと要求を示し、仲間とともにそれを実現させてゆく、そういう姿勢とパワーを、若者はもちろん、すべての人びとがもつことが望まれます。
 個人で入れる労働組合であるユニオンとともに、声を上げてコンビニに不払い残業代を支払わせた高校3年生、素晴らしいですね!
 あるいは「保育園落ちたの私だ」というブログの叫びが生み出した大きな動きは、そのよい例です。 

 私たちは、怒り、動き、ひどい状態をやめさせ、改善し、人間らしい生活を、政府と企業から勝ち取っていくべきです。
 今日のこの場のようなうねりを、もっともっと大きくしていきましょう!


AEQUITAS (エキタス)
http://aequitas1500.tumblr.com/

 「少子高齢化が進む中、減っていく人口の中、一人ひとりが最大限大切にされる社会」、そのためには声をあげていく、その声に耳をかたむける政治家がいる、そういう世の中に変えていかなくっちゃ。

  政府は2016年10月7日、過労死等防止対策推進法に基づく初めての「過労死等防止対策白書」を閣議決定した。。。
 「全国過労死を考える家族の会」の寺西笑子(えみこ)代表に、白書の意義や過労死対策を聞いた。

− 白書の閣議決定をどう評価するか。

「国が白書という具体的な形をまとめたことは評価したい。客観的な調査研究は重要で、個別事案の背景などをもっと掘り下げ、具体的な対策につなげてほしい」

− 家族の会の取り組みは。

「過労自殺した私の夫は飲食店で長時間働き、亡くなる直前は人が変わったよう。食欲もなく、口数も少なくなった。本当に悔しい。私たちの経験を心で受け止めてもらうために、シンポジウムなどで発信を続けていきたい」

− 政府の働き方改革実現会議の動きをどう見るか。残業時間の上限設定を検討する見通しだ。

「テーマとして取り上げるのはいいが、上限を決めても、それを監督する体制をつくらなければ意味がない。しかも会議で労働者側の代表は連合の会長だけ。過労死は職場で起こっているのに、なぜ労働者側の割合が少ないのか」

− 政府が国会に提出している労働基準法改正案はどうか。一部労働者を労働時間規制の対象から外す新制度や、あらかじめ定めた時間を超えて働いてもその分の残業代が出ない「裁量労働制」の対象業務を拡大する内容だ。

「残業代は長時間労働へのある程度のブレーキになっている。今でも問題のある働き方なのに、改正案でさらに広げることになる。過労死が増えると懸念している。残業代ゼロより過労死ゼロにしてほしい

2016年10月7日付け東京新聞夕刊
過労死対策で初の白書 残業代ゼロより過労死ゼロに
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201610/CK2016100702000262.html

 しかし、「働き方改革実現会議」などとという暴君の親睦会ができ、ここがなんやら「月80時間」とか「月100時間」とか時間外労働の上限を決める法案化へのイニシアティブを握っているらしいのですが、おい、おいって、ヤッホー君。
 働いている側、労働者の代表がどんだけ入っているんや、と。
 働いている労働者の声に、どんだけ耳を傾けているんや、と。
 この会議はもう「はじめに結論ありき」と違うんやろな、と。

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安倍晋三小学校

 「アタマがはちきれそう」なヤッホー君、
 ココロがもう、ちぎれそうなヤッホー君、
 おちついて、ね、「愛国学校」について
 動画にここから、「イマ」入れますので
 ぜひ。明日は確かに削除の運命なのかも:

 安倍政権が倒れるとすれば、それはアベノミクスの失敗でも、外交の行き詰まりでもない。
 土地問題をめぐるスキャンダルだ。
 そう思わせるような、とんでもない事件が起きている。
 その事を私が知ったのはインターネット情報であるが、それを最初に紙媒体で取り上げたのは、2月11日付の日刊ゲンダイであった。
 そして、日刊ゲンダイはきのう2月15日付でも追及している。
 そのスキャンダルとは、財務省近畿財務局が大阪府豊中市の学校法人「森友学園」に払い下げた土地の疑惑問題だ。
 なにしろ市場価格の10分の1で売却されていたというのだ。
 その疑惑が発覚したのは、売買契約書類の公開請求をしていた木村真という豊中市議が、いつまでたっても公開請求に応じないため、大阪地裁に提訴したためだ。
 そうしたら慌てて公表された。
 そこではじめて売却価格が不当に低い事が発覚したのだ。
 「森友学園」は、学校建設の寄付金集めの際に、なんと「安倍晋三記念小学校」をつくると、説明してきたという。
 しかも、その小学校の名誉校長は安倍昭恵夫人であるという。
 そして「森友学園」の総裁は、日本最大の右翼団体である「日本会議」の大阪代表であるという。
 その学校の教育方針が「愛国心と誇りを育てる」ことだと言う。
 「森友学園」の経営する幼稚園に安倍昭恵夫人が訪れた時、「安倍首相ってどんな人?」と学園長から聞かれた園児が「日本を守ってくれる人」と答え、昭恵夫人は涙を浮かべて「ありがとう。(安倍首相に)ちゃんと伝えます」と応じたという。
 何から何まで出来過ぎた話だ。
 とりわけ国有地の売却価格が市価の10分の1という話が犯罪的だ。
 こんな一大スキャンダルがどうしてメディアで騒がれないのか。
 そう思っていたら発売中の週刊朝日(2月24日号)が書いた。
 近く民進党が国会でこの問題を追及する構えだと。
 民進党だけでは心もとない。
 共産党の力を借りて、徹底的に安倍首相を追及すべきだ。
 そうすれば大手新聞も書かざるを得ない。
 大手新聞が大きく書くと、国民の知るところとなる。
 国民が知れば、さすがにこれは許せない、となる。
 安倍首相は窮地に追い込まれるかもしれない。
 これこそが野党共闘である。


2017-02-15、天木直人のブログ
「安倍晋三記念小学校」問題が国会で火を噴く日が来るか
http://kenpo9.com/archives/1002

 安倍昭恵夫人は二年前に名誉校長を引き受けたそうです。
 2年前といえば松井大阪府知事が「瑞穂の國記念小學院=安倍晋三小学校」の設置認可をした年です。
 森友学園が国有地の購入希望を出したのは2016年ですので、財務省は「名誉校長」が誰かを知っていたことになります。
 もうそれだけでも怪しい臭いが漂ってきます。
 ただ問題なのは、この疑惑がマスコミではほとんど報じられないことです。
 昼間のワイドショーではこの問題はまったく報じられていません。
 NHKのニュースを見ても、肝心な部分はカットしてうまく編集した国会審議の録画を短く流すだけです。
 この森友学園がどんな内容の教育をしているかも含めて、安倍総理に都合の悪い部分はすべてスルーです。
 したがってほとんどの国民はこの疑惑の存在すら知りません。


投稿日:2017年 2月18日(土)00時41分21秒
森友学園「安倍晋三小学校」問題
投稿者:風太
http://9123.teacup.com/uekusajiken/bbs/14153

 いくら暇な私でも、国会審議を一日中テレビで見るほど暇ではない。
 だからきのうの衆院予算委員会で、森友学園に対する国有地払下げ疑惑が追及され事をきょうの各紙で知った。
 そして驚いた。
 ついに予算委員の集中審議で追及された。
 その事に驚いたのではない。
 追及された安倍首相が激怒してこう答えた事に驚いたのだ。
 つまり、売却への関与を否定した上で、「私(安倍首相)や妻(昭恵夫人)が(売却に)関与していたとなれば、首相も国会議員も辞める」と述べたというのだ。
 とんでもない開き直りだ。
 売却に関与していたなら犯罪だ。
 辞める前に捕まっている。
 売却に関与していなくても、自分や妻が学園と懇意にしていたことは認めたらしい。
 昭恵夫人が建設予定の小学校の名誉校長になる事も、その学校の名前を安倍晋三記念小学校にするという話も、断ったらしいが、知っていた事を認めた。
 それだけでも辞職ものだろう。
 国有地払下げ価格が市価の10分の1になった理由として、財務官僚は地下のごみ撤去費約8億円を差し引いた価格だと説明したらしいが、ごみ撤去は確認されていないという。
 これでは8億円を割り引いたことと同じだ。
 森友学園を証人喚問して確かめるほかはない。
 それよりもなによりも、森友学園の最大の問題は学園の理事長が日本会議大阪の運営委員であるということだ。
 森友学園が経営する幼稚園がヘイト文書を保護者に配布していたとして大阪府から事情聴取を受けていたという。
 大問題だ。
 森友学園が、間違った歴史認識を持つ安倍首相の応援団であることは明らかである。
 それにもかかわわず、野党が安倍首相に開き直られてお終いでは、安倍政権はやりたい放題となる。
 稲田防衛相も居直り、共謀罪も強行採決され、辺野古本格工事は止められない。
 その行き着く先は改憲だ。
 このままでは日本の政治は崩壊する。
 政治家もメディアも有識者も、そんな安倍政治をこれ以上、やりたい放題させていいのか。
 激怒したいのは国民のほうである。


2017-02-18、天木直人のブログ
激怒したいのは国民の方だ
http://kenpo9.com/archives/1015

 
 今ならばテレビ東京の報道番組「夕方サテライト」で放送された内容を各動画サイトで見ることができます:

https://www.youtube.com/watch?v=XKaiweWAhKM

 もしご覧になられていない方がいたら視聴をお薦めします。
 森友学園理事長は教育の基本を教育勅語に置いて、それこそが伝統的な日本の価値観とみているようです。
 しかし教育勅語こそが、明治維新時に時の新政府が欧米に対応して中央集権国家を作り出そうとしたときに、作り出した国体という概念の中核をなすもの。
 それがゆえに日本は全体主義国家となり、多様な意見を押しつぶした結果戦争に突き進み、日本は崩壊の危機に陥るわけです。
 この戦後否定された考え方を戦争を知らない世代の人間が、戦争を知る世代が退場しだすと途端に復活させようとする。
 そんな森友学園に便宜を図ったのか、国有地が異様な低価格で売却されたわけです。
 この問題をうやむやにしてしまうと今後大きな禍根を残すことになると思います。
 それにしても幼稚園児に教育勅語を暗唱させている異様な光景。
 世間が無関心でいる間に日本はこんなことも許されるような国になりつつあるのです。
 もはや傍観することは彼らの日本改悪計画に手を貸すようなものと思わなければならない。
 何も知らない園児たちが洗脳されている異様な光景には怒りすら感じました。
 安倍晋三夫人の昭恵名誉校長は、幼稚園で叩き込まれたイズムが、公立小学校に進学することで失われてしまうと述べています。
 さすがにこの夫にこの妻ありですね。
 ただ残念なことのこの異様な森友学園の実態と、今回の疑惑を報じたメディアはテレビ東京くらいしかありませんでした。
 したがってほとんどの国民はこの異常な森友学園及びその疑惑を知ることはありません。

投稿日:2017年 2月19日(日)12時23分52秒
安倍晋三小学校の実態と問題の国有地
投稿者:風太  
http://9123.teacup.com/uekusajiken/bbs

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岩戸山734m

 本市には伊豆山、日金山、岩戸山などへのハイキングコースがあり、人びとが潤いや安らぎの環境があります。
 そこにはすぐれた自然があり、そこではさまざまな動物や貴重な植物を見ることができます。


 「本市」ってどこ?ヤッホー君の俳諧を究める徘徊はどこだったのかな?

 じゃあ〜ん、静岡県熱海市!
 神奈川県湯河原町に降り立ったヤッホー君、すぐ「七尾峠」に向かって、ミカン畑のなかを歩き出します。
 そうなんです、九尾のきつねか、七尾のねこか、さまざまな動物が俳諧してきて、ヤッホー君のあたまはノウタリン状態・・・
 沖電気、IBM、伊藤忠とかはまだしも、パソナの社内ベンチャー第一号企業直営ホテルとかほけんの窓口などヤッホー君のアタマん中、ぐっちゃぐちゃ・・・
 ひゃあ〜、とまぁ、また山ん中に分け入り、うん、やっぱり山はいい、山を削ったり、谷を埋めたり、動植物を蹴散らしちゃだめ、めっ、とか商売だったら街ん中になんぼでもあるでしょ、樹木の代わりにコンクリートを立てたり覆ったりするお金があるんだったら、かわいい従業員のために分配してやるべきでしょ、税金を納めるべきでしょ、とか、とかアタマがはちきれそう。
 頂上は岩戸山(いわとやま)734m。

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 山頂からの眺めです:

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 2003年4月に静岡市と清水市が合併・・・
 2005年4月にはその静岡市が政令指定都市に・・・
 そんなことまで知らなかったヤッホー君でした・・・
 その清水からの山大好き人間たちご一行様とばったり・・・

 お弁当を摂ったあとは、日金山東光寺へ、と向かいます。

■ 山と人々=霊山と修験道の山 世界のパワースポットに
 熱海市の日金山や岩戸山はその昔、霊山や修験道の山だった。
 一帯の見渡す限りが領地で、平安時代には関八州の総鎮護として崇められた伊豆山神社の原口尚文宮司(62)は、
 「走湯山縁起によれば応神天皇の2(271)年、相模国唐浜(大磯)の海に直径3尺(約1メートル)の光る円鏡が出現し、熱海との間を7周巡って日金峰の木の枝に引っかかった。それを松葉仙人(松葉と松に生えるキノコを常食)が祠を建て、祭ったのが伊豆山神社の始まり」という。

 日金山などの歴史を調べ、観光にも生かそうと取り組む「富士山と末代上人(まつだいしょうにん)熱海の会」の真鍋梅美会長(74)=同市梅園町=は、
 「松葉仙人は先祖が高句麗=韓国=の貴族で、大和朝廷の助けで渡来した。日金山には錦ケ浦から上陸したといわれる」と説明する。

 時がたち、平安時代に走湯山(伊豆山神社)出身の僧で、富士山に初めて登頂、富士修験の開祖とされる末代上人(1103年〜)が、灼熱を発し地獄の様相を呈していた熱海の人々を救うため、日金山に地蔵菩薩を安置し信仰の礎を築いた。
 末代上人と日金山の関わりの証拠も20年ほど前に見つかった。

 「熱海の市民グループが石仏の道ハイキングコースを調査中に、37丁目付近の竹やぶに倒れている末代上人の供養塔、宝筐印塔(ほうきょいんとう)=1818年、伊豆山・般若院の9代住職・周道によって再建=を発見した」と真鍋会長。
 宝筐印塔は熱海の会の尽力で市指定文化財になり、9月末には富士山麓にある村山浅間神社の宮司も訪れ、供養祭を行っている。

 山口弘子副会長(74)=同市桃山町=は、
 「宝筐印塔のある辺りからも雑木を切れば富士山の眺めが良い」とし、末代上人が聖地に選んだ理由もうなずける。
 岩戸観音については「ここに本来あった観音像が泉の岩殿観音堂にあることも突き止めた」と話す。

 岩戸山は中尊で、光と東西南北の字が付く四つの寺院を周囲に配して胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)を示すとの考えもあり、日金山、伊豆山神社と一体となった信仰の山である。

 真鍋会長は、
 「十国峠は今、函南町分。日金山は雷電信仰(雨乞い)の山でもあり、函南の大土肥と軽井沢の雷電神社、田代の火雷神社などと関わりがあり、お隣の函南とも手を携えアピールしていきたい」という。

 続けて、
 「東光寺から宝筐印塔前を通り笹の広場までの間に、彼岸に満開になるような品種の桜を土地所有者(伊豆箱根鉄道)の許可を得て植えたい。東光寺は頼朝が源氏再興を祈願し成就、末代上人と関わりが深い富士山は世界遺産になった。日金山一帯を世界のパワースポットとして国内外に発信し、昔のように多くの人が訪れる地にしたい」と夢を語った。


【写説】末代上人の宝筐印塔前で手を合わせる真鍋会長(左端)ら「富士山と末代上人 熱海の会」の会員=日金山・東光寺近く

2016年09月12日付け伊豆新聞
(伊豆半島ジオパーク推進協議会専任研究員・鈴木雄介)
伊豆の低山を歩く ジオてくの楽しみ23
日金山・岩戸山(熱海市・函南町)

http://izu-np.co.jp/feature/news/20160911iz0004000008000c.html

 そうなんです、ヤッホー君、末代上人(まつだいしょうにん)が急に目の前にあらわれて、それは、それはびっくりしましたぁ〜:

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 1149(久安5)年、駿河国の末代上人が富士山頂に大日寺を建立し、如法経を埋経。
 『浅間大菩薩縁起』によれば、垂髪(すいはつ=稚児)の時代から修験道(しげんどう)で栄えた伊豆・走湯山(そうとうさん=伊豆山神社の前身)に入って苦行を重ね、1132(長承元)年4月19日、同志の頼然とともに富士山の登頂に成功。
 山頂では、過去に登頂した金時上人、覧薩上人、日代上人らの遺品を発見したと記録されています。
 この末代上人、4度目の富士登頂で山頂に仏具と不動明王を刻んだ鏡を奉納。
 さらに富士山に登ること数百度と回を重ね、ついに1149(久安5)年、山頂に大日寺を建立します。
 修験道は、日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合したもので神仏習合思想のひとつ。
 そして当時の神仏習合思想は、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説。
 八百万(やおよろず)の神々は、さまざまな仏様(菩薩も含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えです(神々は仏の化身というのが教え)。
 つまり、それまで「赫夜姫(かぐやひめ)=浅間大神」と考えられてきた富士山を大日如来とし、富士山頂に仏の世界(または仏が神の形となって現れる場所)があるとしたのです。
 末代上人の大日寺建立は、まさに「富士山=大日如来」とする考えの公布で、朝廷などにもこの思想は届いたのです。

(図)富士参詣曼荼羅(国の重要文化財)


2016.04.17付け、静岡・浜松・伊豆情報局

世界遺産「大宮・村山口登山道」と村山浅間神社

富士山に最初に登頂した人は、わかっていません。
富士登山が登拝という目的を持って始まったのは、平安時代の末。
最初にできた登山道が世界遺産にも登録の「大宮・村山口登山道」です。

末代上人が富士山頂に大日寺を建立
http://shizuoka-hamamatsu-izu.com/shizuoka/fujisankouhouji/

 大日如来に誘われるように続くヤッホー君の俳諧の道、
 路傍には急にお地蔵さまが現れたり、当時の求道者を偲ぶことができます。

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2017年02月17日

寂聴バッシング

 宗主国の大統領にこの国の年金を献上しても怒らないこの国の人びと、うそ・いつわりの政権を支持するこの国の人びと、戦争する国づくりを黙って受け入れるしかないと思い込まされているこの国の人びと、どうしてぇ〜と2月17日深夜、すっかり落ち込んでしまっているヤッホー君。。。
 こんなこともあったのですね、がんばってください、嫌なことやおかしいと思ったことは黙ってないで、イマのなんか変な空気を扇子でばたばた仰ぎますからってヤッホー君。。。
 
 天台宗の尼僧で小説家の瀬戸内寂聴氏(92)が2015年5月14日、NHK『クローズアップ現代』(月〜木 後7:30)に出演。昨年、胆のうがんで寝たきりとなった際の闘病の苦しみや、復帰第一作小説に込めた思いなどをインタビューで語った。
 かつて同番組のインタビューで「書いてる時にバタッと死ねたら最高」と語っていたが、昨年は病気によってペンも握れないほど体調が悪化。懸命のリハビリにより、今年2015年4月には一人で歩けるまで回復した寂聴氏は、自分が痛みを味わったことで、「これまで体の弱い人の相談にも乗ってきたが、その人の本当の気持ちがわかっていなかった」と回想した。
 闘病中、寝たきり生活で気持ちが落ち込む日々が続くなかで、もともとは陽気な性格だったが、「うつ状態になっていた」と告白。「これを回復させないと病気も治らないんだ」と考え、本をたくさん読むことでうつを乗り越えたと打ち明けた
 闘病生活を乗り越え1年ぶりに執筆したのは、愛に飢えた91歳の老人を主人公にした小説『どりーむ・きゃっちゃー』。
 「小説を書くことが欲望」と語る寂聴氏は、年を取るごとに「むしろ色っぽくなった」といい、「年をとって思考力や体力が低下してくると思い込み過ぎ。人間は死ぬまで元気なはず」と持論を展開する。
 若い世代に残したいことを聞かれると、「青春は恋と革命」と断言。
 「若い時は恋を夢中になってしなさい」
 「親に反対されても、周りとあつれきを生んでも、自分の革命を起こして自分の好きなことをしなさい」と、含蓄のあるメッセージを送った。
 あした5月15日で93歳を迎える自身の人生を「本当に短い。あっという間」と振り返り、自分の墓石に彫りたい言葉として「愛した 書いた 祈った 寂聴」と締めくくった。


2016年10月09日16時26分 JST 更新 The Huffington Post Japan
瀬戸内寂聴氏、胆のうがん乗り越え「色っぽくなった」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/14/jakuchou-cancer_n_7288426.html

 へえ、そんなことがあったのですね、2015年!
 そうしますと、これは昨年の2016年のこと?!

 1922(大正11)年5月15日生まれの私は、ただ今、満94歳である。防空壕(ごう)で焼死した母は51歳だったし、父は56歳、姉は64歳で、共に病死している。短命の家系と信じこんでいたが、近頃、会う人ごとに別れ際には、
 「どうかいつまでもお元気で」
 「100歳まで生きて」
と言われる。
 さすがに身体は傷んできて、ここ、2、3年は、背骨の圧迫骨折から始まり、胆嚢癌(たんのうがん)まで見つかったものの、いつの間にやら持ち直し、寝たきりになるかと思われたのが、今では家の中では杖もなしにスタスタ歩いている。外では用心のため、まだ車椅子を用いているが。
 そんな私を見限らず、このような短文を書かせてくれる新聞や雑誌もあれば、連載小説を始めさせてくれた文芸誌さえある。振り返ってみても満94歳で、これほど仕事をし続けた作家はいないだろう。
 それは感謝すべきだけれど、ここへきて、老体に似合わぬみっともない舌禍事件を起こしてしまった。
    *
 ある日、日本弁護士連合会から電話があり、
 「福井で人権擁護大会が開催される。その1日目で死刑廃止のシンポジウムを行う予定である。そこへビデオメッセージを送ってほしい」と言ってきた。私が日頃、「死刑廃止」について関心を持ち、日本の現死刑制度に批判的なのを承知の上の要求である。私は即、メッセージの収録に応じた。
 「……人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください」
と言った。その後に
 「そして殺したがるバカどもと戦ってください」
と結んだ。
    *
 私の気持ちは、殺したがっているのは、今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった。常日頃、書いたり、口にしたりしている私の死刑制度反対の考えから、当然、今も世界の趨勢(すうせい)に遅れ、死刑制度をつづけている我が国の政府に対して、人権擁護の立場から発した意見であった。バカという言葉は94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと、深く反省しているものの、発言の流れからしても「バカども」は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである。
 それを私が犯罪被害者たちをバカ呼ばわりしたととられ、ネットで炎上して、私への非難が燃え上がっているという。
 秘書から炎上を知らされた時、真っ先に浮かんだのは「もの言えば唇寒し秋の風」であり、「だから長生きは厭(いや)なんだ」であった。そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。耄碌(もうろく)のせいだなどと私は逃げない。お心を傷つけた方々には、心底お詫(わ)びします。
 「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」という釈迦の言葉を忘れないままに。

2016年10月14日(金)付け朝日新聞
寂聴 残された日々:17
バカは私 恨みを繰り返さぬために


 これが寂聴バッシング!
 どうしてこの国は「出る杭は撃たれる」式の「同調圧力 Peer pressure (注)」、なんか変な空気のその「空気」を「読めないのか」と睨まれ、怒られ、仲間はずれにする無言の、気持ち悪い力が働くんだろうか。。。
 ヤッホー君、不思議でしようがないのです。

 作家の瀬戸内寂聴の発言が大きな批判を浴びている。2016年10月6日、日本弁護士連合会(日弁連)が福井市内で開催した死刑制度存廃をめぐるシンポジウムにビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで、このように述べたためだ。

 「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」

 「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」

 この「殺したがるばかども」発言について、会場にいた全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや犯罪被害者支援に取り組む弁護士らが「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発。
 これを受け、日弁連も翌日の人権擁護大会のなかで「犯罪被害者への配慮がなかったことは、おわび申し上げる」と謝罪することになった。
 そして、ネットでは、寂聴に対するこんな非難、悪罵が連ねられている。

〈もし自分が被害者や被害者の家族や関係者だったら同じことを言えるのかね?〉

〈殺したがるばかどもは加害者の方じゃボケ左翼老人め。お前こそ、はよう死ね〉

〈加害者の人権は尊重するが被害者とその家族の人権は平気で踏み躙る。反日気狂い左翼の死に損ない〉

 しかし、寂聴の発言は、本当にここまで糾弾され、日弁連が謝罪しなければならないようなことなのだろうか。
 そもそも、寂聴は被害者遺族を「ばか」よばわりしたしたわけではなく、死刑制度を維持しようとする政府や権力を批判したにすぎない。
 そして、寂聴の「人間が人間を殺すことは一番野蛮」「日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」という死刑制度批判は、表現が情緒的ではあるが、本質をついている。
 なぜなら、死刑は誰がどう見ても「国家による殺人」であり、民主主義国家の理念とは相容れない制度だからだ。
。。。
 だが、最近の日本で死刑支持が広がっている背景には、もっと大きな要因がある。
 それこそが「被害者遺族の感情を考えれば死刑は当然」という声の存在だ。
 この声は今の日本社会では絶対的な正義とされ、死刑廃止論を唱えようものなら、今回、瀬戸内寂聴に向けられたのと同じように必ず
 「被害者の気持ちをふみにじるものだ」
 「自分が被害者の親だったら同じことがいえるのか」という批判が浴びせられる。

 しかし、この主張こそ、おかしいと言わざるをえない。
 もちろん、愛する人を奪われた被害者遺族の怒りと悲しみは当然だし、被害者が厳罰を求める気持ちは理解できる。また、日本では長らく被害者遺族の知る権利や補償がないがしろにされてきた。しかし、そうした犯罪被害者遺族の救済と、犯罪者への量刑をどう設定するかということはまったく別問題だろう。

 もし、被害者遺族の感情が理由で死刑判決が下されるのであれば、被害者が天涯孤独で親族がいない場合、どうなるのか。悲しむ遺族が少なければ殺人犯の量刑は軽く、悲しむ遺族が多ければ死刑になるのか。

 そもそも、近代刑法は、犯罪を抑止する目的からのみ刑罰を科せられるという「目的刑論」を原則としている。

 遺族感情によって量刑を決めるのは、罪への報いとして刑罰を科すという前近代的な「応報刑論」的考え方だ。いや、それどころか、「国家の仇討ち代行」という封建時代に逆戻りするものと言ってもいいかもしれない。

 だが、日本ではある時期から、むしろその「仇討ち代行」が刑罰の根拠となってしまった。
 それは、世論やメディアだけではない。司法の世界も2000年代に入ったあたりから、この「被害者感情を考えろ」という空気に押されて、死刑に前のめりになり始めた。

 その典型は、光市母子殺害事件だろう。
 被害者遺族の訴えがメディアで盛んにクローズアップされ、元少年の死刑を望む世論が過熱したことは記憶に新しい。
 犯行当時、元少年は死刑が認められる18歳をわずか1カ月超えていた。一審と二審では、1968年の永山事件(犯行当時19歳)で最高裁が示したいわゆる永山基準が考慮され、ともに更生の機会を残した無期懲役の判決が下る。ところが最高裁は「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」などとし、この永山基準を事実上破棄する新たな基準を示し、差し戻し審で死刑判決が出た。

 こうした司法の変化について、法務省刑事局元幹部は、このように語っている。

 「最近の日本の刑事司法を取り巻く傾向──特にここ10年ほどの、いわゆる『厳罰化』傾向は相当に異常だと私でも思います。世界全体の流れからすれば明らかに逆行している。これは一種の揺り戻しというか、バックラッシュ現象でしょう」

 「かつての検事は、私もそうでしたが、本当にどうしようもない事件は別として、できるだけ死刑求刑を避ける傾向がいまより遥かに強かった。検察側も量刑不当で控訴することに慎重だった。裁判官もそう。死刑判決にはいまよりずっと慎重に臨んだ。誰だって死刑を求めたり、言い渡したりするのは避けたい。嫌なものですから。(後略)」

 「(前略)ただ、社会の閉塞感なども影響しているのでしょうが、『厳罰』を求める国民の声が極めて大きい。マスコミ報道の影響もある。検察にせよ、裁判にせよ、それは反映させざるを得ませんから。(後略)」
(青木理『絞首刑』講談社、2009年)


 繰り返しになるが、本来、刑事事件は、刑法の枠組みのなかであくまで事実に基づき理性的かつ論理的に審理されるべきものだ。法や判例ではなく、熱せられた世論に押され、「被害者の感情」を考慮する求刑と判決を出す検察や裁判所の姿勢は明らかに司法の独立という原則に反するものだ。

 いや、検察や裁判所だけではない。弁護士の世界でも同様の事態が起きている。

 実は、今回の瀬戸内寂聴のビデオメッセージが流されたシンポの翌日の日弁連による人権擁護大会では「死刑廃止」の採択がされたのだが、この採択をめぐっては反対意見が続出。寂聴問題も採択へのカウンターとしてクローズアップされた側面もある。

 しかも、日弁連の「死刑廃止」をめぐって露わになったのは、犯罪被害者の支援弁護士たちによる反対意見の存在だけではない。多くの弁護士がやはり「被害者遺族の感情」を理由に、消極的な態度を示しているという。

 本来、国家権力に対して人権を守る役割であるはずの弁護士までが、「犯罪被害者の感情を考えろ」という空気に抗しきれず、死刑廃止を主張できないでいるのだ。
 いや、それどころか、最近では凶悪殺人事件の弁護を引き受けると、弁護士に非難が浴びせられるため、こうした事件の弁護に尻込みする傾向まで出てきた。

 おそらく、この状況下では、日本で死刑制度が廃止されるなんていうことはほぼ不可能だろう。それどころか、これからますます厳罰化が進んでいくはずだ。

 だが、私たちは凶悪事件を憎み、犯罪被害者やその遺族に同情を感じるその感情の動きとは別のところで、国家のあり方として、死刑制度がありかなしかを冷静に考えるべきではないのか。さらに、「死刑」はほんとうにすべての被害者遺族が望んでいるものなのか。そして、その結果はほんとうに被害者遺族を救うのか、ということも考える必要がある。

 フランスの作家、アルベール・カミュは「ギロチン」と題した論考のなかで、農家の一家族を子供もろとも殺し、アルジェリアの首都・アルジェで死刑の宣言を受けた殺人犯の処刑の現場を見に行った、自身の父親の話をしている。この犯罪を憎み、殺人犯に激しい怒りを見せていた父親は、しかし、処刑場から帰ると、しばらく寝台に横になり、突然、吐き始めたという。

〈虐殺された子供たちのことを想い浮かべるかわりに、父はいまや、首を断ち切るために台のうえに無理矢理に抑えつけられた、そのひくひく動く肉体のことしか思い浮かべられなくなっていたのだ。
 死刑というこの儀式ばった行為は、犯罪にたいする単純で実直なひとりの男の怒りをも鎮めてしまうほどに、また、その男がなんどとなく正当なものとみなしていた刑罰も、結局のところ、彼の胸をむかつかせるといった効果以外のものはなにも生まなかったほどに、まさにおぞましい行為であると信じないわけにはいかない。〉

 死刑は、犯罪を憎んだ実直な父親を、嘔吐させるだけのことしかなさない。であれば、その裁きは、社会にいかなる善良もたらすというのか。カミュはこう続けている。

〈その裁きが犯罪に劣らず非道なものであり、この新たなる殺人行為は、社会集団に加えられた攻撃を償うどころか、最初の殺人行為に新しい汚点を付け加えるものであることは明白である。このことがまさに真実である証拠に、誰も直接にはこの儀式について語ろうとはしないのだ。〉(『カミュ全集』新潮社/山崎庸一郎・訳、原文初出1957年)

 犯罪被害者やその遺族を救済し、社会がフォローアップする仕組みは絶対に必要だ。しかし、それは犯人を死刑に処し、厳罰化を進めることではない。


2016.10.10付けリテラ(エンジョウトオル)
瀬戸内寂聴「殺したがるばか」発言の何が問題なのか?
“被害者感情”を錦の御旗にした死刑・厳罰化要求の危うさ

http://lite-ra.com/2016/10/post-2613.html

 戦争する国づくりをこの道しかないとイマ、信じ切って進めているこの国の指導者層、富裕者層にとって、人ひとりの命の重さなんて説いても、ま、せいぜい自己責任、ぬかに釘といったところでしょうか。
 変えましょうよ、この国のすがた、かたちを。
 99%の大ぜいの人のちからで。

(注)"peer pressure"って、英英辞典で調べてみますと:
a strong feeling that you must do the same things as other people of your age if you want them to like you.
(eg) Teenagers often start smoking because of peer pressure.

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小保方晴子バッシング

 放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会(坂井真委員長)は2月10日、理化学研究所元研究員の小保方晴子(おぼかたはるこ)氏らのSTAP細胞に関する論文を検証した「NHKスペシャル」について、不正行為によってSTAP細胞を作製したと視聴者に受け取られる内容だったとして、小保方氏への名誉毀損(きそん)の人権侵害を認めた。NHKに委員会の決定内容を放送し、再発防止に努めるよう勧告した。勧告は、同委員会の判断の三段階で最も重い。
 番組は「調査報告 STAP細胞 不正の深層」と題し、2014年7月27日に放送された。同委員会は、番組が「小保方氏が何らかの不正行為によりES細胞を入手し、STAP細胞を作製したとの疑惑がある」と視聴者に受け取られる内容で、裏付ける根拠が示されておらず真実性が認められないと認定。看板番組の一つで、全国放送され、小保方氏が受けた名誉毀損の被害は小さくないと加えた。
 原因として、取材が不十分だったというよりも、配慮を欠いた「編集上の問題」を挙げ、説明を加えればこうした事態を避けることはできたとした。一方で、「この決定が調査報道を萎縮させるという見方は適当ではない」としている。
 また、取材を拒否する小保方氏をしつこく追跡し、挟み撃ちにする行為などは「放送倫理上の問題がある」と指摘した。その上で「小保方氏が世間の注目を浴びている点に引きずられ、不正の犯人として追及するような姿勢があったのではないか」と疑問視し、報道が過熱した事例の取材の在り方も検討するよう求めた。
 同委員会は弁護士ら9人の委員で構成。多数が名誉毀損による人権侵害に当たるとしたが、2人の委員からは「名誉毀損の人権侵害があったとまでは言えない」「名誉毀損とは考えず、放送倫理上の問題があった」とする意見も出た。
 小保方氏は2015年7月に人権侵害を申し立て、同委員会は同年8月から審理していた。

◆「番組の事実に誤りない」
 NHKの話 「真摯(しんし)に受け止めるが、人権侵害はしていないと考える。関係者への取材を尽くし、番組の中の事実関係に誤りはない」

◆「放送の影響 一生消えない」
 小保方晴子氏の話 「放送が私の人生に及ぼした影響は一生消えない。人権侵害や放送倫理上の問題点が正当に認定され、感謝している」

◆BPO放送人権委員会の決定概要
▼ 小保方晴子氏が何らかの不正行為によりES細胞を入手し、STAP細胞を作製したとの疑惑は真実性・相当性が認められず、名誉毀損(きそん)の人権侵害が認められる
▼ 放送直前に行われた取材は、拒否する小保方氏を追跡するなど放送倫理上の問題があった
▼ 小保方氏と論文共著者との電子メールのやり取りを報じたことについては、科学報道番組としての品位を欠く表現方法だったが、プライバシーの侵害や放送倫理上の問題があったとまでは言えない

◆ 人権と研究は分けて
 研究不正に詳しい榎木英介・近畿大医学部講師の話 決定は重いものだと思う。実際にSTAP細胞問題が起こったころは、かなり突っ込んだ報道がされ、事実の確認以上にプライバシーを暴くような過剰な演出もあったように思う。その点はきちんと受け止めてほしい。ただ、小保方氏の人権は回復されるべきだが、だから研究の不正もなかったということにならないように気を付けるべきだ。二つの問題をきちんと切り分けて扱ってほしい。

<STAP細胞問題> 理化学研究所で研究していた小保方晴子氏らが2014年1月、マウスの細胞を刺激し新たな万能細胞の「STAP細胞」を作ったと英科学誌ネイチャーに発表した。理研の調査委員会は、論文の画像に捏造(ねつぞう)と改ざんの不正があったと認定。理研や小保方氏本人が実施した検証実験でSTAP細胞は作製できず、小保方氏は14年12月に理研を退職した。理研の調査委は、STAP細胞はES細胞の混入と結論付けた。


2017年2月11日付け東京新聞朝刊
NHK番組「人権侵害」でBPO認定 「不正に細胞入手」根拠なく
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201702/CK2017021102000145.html

 ふう〜、もう3年もたつのですか。。。
 小保方晴子さんは、寂聴さんと会ってましたぁ〜、昨年のこと:

 彗星のごとく現れた“リケジョの星“が一転、捏造バッシングに晒された小保方晴子 STAP 細胞騒動。今年2016年1月には小保方氏による反論手記『あの日』(講談社)が出版されたが、それでもなお小保方氏はメディアの前に姿を現すことはなかった。そんな小保方氏が本日5月24日発売の「婦人公論」(中央公論新社)6月14日号で作家・瀬戸内寂聴氏との対談に会見以来2年ぶりに登場した。

 「小保方さん、あなたは必ず甦ります」と題されたカラー7ページに渡るこの対談は、「婦人公論」4月26日号の連載「わくわく日より」で瀬戸内氏が小保方氏にエールを送ったことがきっかけだったという。
 それまでほとんど外出せず体が弱っていく一方だったという小保方氏はこの対談のため「私生きないといけないわ」と決意し、4キロ体重を戻したというが、白いレースのワンピースに白いハイヒール姿の小保方氏は、それでも会見時よりかなりほっそりとした様子だ。
 対談は瀬戸内氏の「あなたがされたことは、いじめ。ひどいわね」という報道批判から始まり、瀬戸内氏と小保方氏2人が共通して受けたメディアバッシングの詳細や、この2年間の小保方氏の生活、心情、家族、手記『あの日』、そして恋愛にまで及んだのだが、やはり注目すべきは対談中盤での瀬戸内氏による STAP 騒動への言及だ。

 手記『あの日』についての話題になった際、瀬戸内氏はこう切り出した。
 「書かれた人からは何か反応がありましたか?」
 それに対し小保方氏は「だれからも、何もありません」と答えているのだが、瀬戸内氏はさらに突っ込んだ。
 「一番困っているのは若山(照彦)さんでしょう。ここまで詳細に書かれたら、言い訳できないのではないかしら。あなたは、死ぬかもしれないという気持ちで書いた。それが強みです。若山さんはあなたを『今まで見た学生の中で一番優秀』と何度もほめちぎっていた。変わるものね、人間って」

 さすがは瀬戸内氏。この言葉は今回の STAP 騒動の本質を見事に見抜き、それを指摘するものだ。
 小保方氏は『あの日』で、STAP 細胞の作製は論文の共著者である若山照彦・山梨大学教授が主導していたと述べている。しかし、若山教授は論文に不正が発覚すると一転、手のひらを返してマスコミに情報をリーク。自分を捏造犯に仕立てあげた、つまり、あれは〈仕組まれた〉疑惑だった、とした。
 本サイトの検証でも、小保方氏の主張どおり、STAP 細胞の作製が途中から小保方氏ではなく若山氏の主導で進められ、しかも、若山氏は途中から小保方氏が捏造・すり替え犯であるかのような情報をマスコミに流していたことが判明している。
 さらに小保方氏が ES 細胞にすぎないものを STAP 細胞として若山氏に提供していたのだとしたら、若山氏はなぜその正体に気づかなかったのか。若山氏はかなり早い段階から STAP 細胞の正体を知っていたという可能性さえ存在する。他にも、“若山首謀説”を物語る多くの傍証があるが、それは本サイトの過去記事を読んでほしい。

 もちろん、本サイトは小保方氏が STAP 細胞不正にまったく関わっていないとは考えていない。しかし、プロジェクトリーダーである若山氏はそれ以上の責任があるにもかかわらず、小保方氏にすべて押し付け、自分だけ逃げ切ろうとした。その STAP 騒動の本質を御年94歳の瀬戸内氏が見抜いていたのである。さすがというほかはない。

 しかも、瀬戸内氏が凄いのは、さまざまな呼び水で小保方氏の“本音”を引き出したことだ。

〈小保方 人が変わるのか、もともとそうだったのを見抜けなかったのか。
 瀬戸内 非常に小説家的な人です。彼が理研から山梨大学に移るときに誘われたそうだけれど、行かなくてよかった。(略)
 小保方 “男の嫉妬”なんて言ったら、また大バッシングを受けそうですが、男性からの攻撃は女性の“いけず”とはまったく性質の異なるものです。ものすごく暴力的で、本当に殺されると思いました〉

 他にも、この対談には寂聴センセイと小保方氏のビックリなやりとりがいろいろと掲載されている。
 たとえば、小保方氏がいきなり「小説の書き方を教えてください」と弟子入り志願し、寂聴先生がこう答える一幕も。

 「私には人の才能を見抜く力があります。私がものになると言ったら、必ずなる。だから小説を書きなさい。あなたが腹を立てていることを、書けばいい。男のことも」

 小保方さんが故・笹井芳樹氏や若山教授をモデルにした小説を出版!なんてことが本当に起きるかもしれない。恐ろしいような読みたいような。


2016.05.24付けリテラ(伊勢崎馨)
小保方さんが瀬戸内寂聴との対談に登場!
二人で辛辣な若山教授批判、寂聴センセイに「小説の書き方教えて」

http://lite-ra.com/2016/05/post-2272.html

 そして2017年お正月早々のこと:

 STAP騒動から3年。筆頭著者として論文をネイチャー誌に発表した小保方晴子さん(33)が、1月6日発売の「婦人公論」(1月24日号)で新連載「小保方晴子日記」をスタートした。2014年4月の釈明会見では「STAP細胞は、あります」と持論を繰り返したが、新連載ではSTAP細胞の話題に一切触れず、昨年11月10日から2週間の生活がつづられている。思わず小保方さんの身を案じる読者もいそうだ。

 連載初日の11月10日付は
〈今は栄養療法に取り組んでいる。今日からの1カ月は夜に眠れるようになりたい〉と始まり、
〈前の家はマスコミの人に何度もインターホンを鳴らされて、応答がないとドンドン叩かれる。一切の外出ができないばかりか、窓も開けられない〉
〈うつとPTSDの治療中だが病院にも行けない。もはや引越しせざるをえなかった〉と自分を追い回した記者への恨みがつづられている。

 その後は、症状に苦しむくだりが次々と出てくる。

〈朝からいろいろなことが不安になり頭を占領されてしまった。考えても仕方がないとわかっているのに、どうしても考えてしまう〉(11日付)

〈頭が働かない。ぼーっとしている。起きている時はぼーっとしているのに、寝ようとすると眠れない〉(15日付)

〈昨夜も3時まで眠れず、朝5時には目が覚めた〉(19日付)

〈久しぶりに日本語のテレビをつけた。アナウンサーの声が聞こえた途端、眩暈、吐き気、頭痛に襲われ、慌てて消した〉(22日付)

 ほかにも、心が落ち着かない時は料理をして気を紛らわしていること、本を開くとすぐに目が回ってしまい全く読めなかったことなどが書かれている。
 昨年2016年1月に手記『あの日』を発表した時も、研究不正の有無など、STAP問題にほとんど言及しなかったため、一部で批判の声が上がった。もはや今の小保方氏は反論どころではないかもしれない。

 医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏は、
「STAP騒動はすでに決着がついたといえますし、今さら、小保方氏も触れたくないのでしょう。科学者からフィクションの道に進んだとしても、彼女の人生だから自由だと思います」と語った。

 本格的な小説家デビューも遠くないかもしれない。


2017年1月7日付け日刊ゲンダイ
小保方晴子氏が雑誌に連載
うつ病激白も STAP 細胞触れず

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/197169/1

 でも、でも「瀬戸内氏と小保方氏2人が共通して受けたメディアバッシングの詳細」ってなに?
 寂聴さんもそんなことあったの?いつ?なんで?どこと?
 またいつか、ねぇ〜

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2017年02月16日

金正男 Kim Jong Nam

 いえね、突然マルセル・プルーストが登場しちゃいましたね。
 これは、北朝鮮のキムさん、あの暗殺されたキムさんを探しに徘徊してたら、たまたまヤッホー君の東芝製「ダイナブック」(注1)に Kim Willsher in Paris さんがマルセル・プルーストの記事を書いた記者として登場しちまったのです。
 どうしてか、と言いますと、読者からこんな問い合わせが:

 マレーシアでは金正男氏が暗殺されましたね。現地ではどんなことが報じられ注目されているのでしょうか?

 で、ヤッホー君、なんと答えたか、と申しますと:

 マレーシアで起こった北朝鮮の事件にはびっくりしましたね。以下2点ご紹介しましょう:

(1) Clearer image of Kim Jong Nam's alleged killer caught on CCTV
The Star Online
https://www.youtube.com/watch?v=ZPh4OpiTSD8

CCTV cameras at klia2 have captured a clearer image of a woman believed to be one of the assassins who killed Kim Jong Nam before fleeing in a taxi with an accomplice.

(2)The Star, Published: Thursday, 16 February 2017 - MYT 12:56 PM
Jong-nam couldn’t resist FB, may have given himself away
http://www.thestar.com.my/news/nation/2017/02/16/kim-jong-nam-on-fb-couldnt-resist/

 ごらんください、お読みください、そして感想をお聞かせください。

 で、もう一度 Kim Jong Nam を調べにいったところ、Kim willsher さん(注2)が現れた、ということで。

A man and a second woman have been arrested in connection with the killing of Kim Jong-nam, the North Korean leader’s half-brother, who was reportedly poisoned by two female assassins as he waited for a flight in Malaysia, police have said.

The suspects were picked up separately on Wednesday and Thursday. The female suspects were identified using surveillance footage from Kuala Lumpur International airport, where Kim Jong-nam fell ill on Monday morning before dying on the way to the hospital.

The Malaysian inspector general said the second female suspect had been identified as Siti Aishah, an Indonesian national. Her birthday was given as 11 February 1992, and place of birth as Serang, Indonesia. It is not clear if her passport was genuine.

Police official Abdul Samah said officers had also detained a Malaysian man, who is believed to be the boyfriend of the second female suspect.

Samah said the man had provided information that led to the arrest of the woman.

The confirmed arrest of two more suspects follows the detention on Wednesday of 28-year-old woman, whose Vietnamese passport bore the name Doan Thi Huong.

She too had been positively identified from CCTV footage and was alone at the time of her arrest, the inspector general said. Still photos from the video, confirmed as authentic by police, showed a woman in a skirt and long-sleeved white T-shirt with “LOL” emblazoned on it.

Investigators are trying to piece together the details of a death that set off a torrent of speculation over whether Kim Jong-un dispatched a hit squad to kill his estranged older sibling.

An autopsy was finished late Wednesday, but the results have not been released.

Malaysian police have reportedly been granted permission to remand both women in custody for seven days.

Police are also seeking “a few” other suspects in connection with the killing of Kim Jong-nam, apparently carried out with a fast-acting poison, as he prepared to board a flight from Kuala Lumpur to his home in Macau on Monday morning.

“We are looking for more suspects,” Selangor state police chief Abdul Samah Mat said, but declined to say how many were being sought, or their nationalities.

Intelligence officials in South Korea have said they suspect Kim’s killing was carried out by people working on behalf of the North Korean regime.

There is mounting speculation that his death was ordered by Kim Jong-un, possibly as retribution for criticisms his elder brother made against his leadership in interviews with the Japanese journalist, Yoji Gomi, in 2012.

As Malaysian authorities searched for other suspects in a case that has focused attention on the apparent lengths to which North Korea will go to ensure the regime’s stability.

Malaysian media cited unnamed sources as saying that North Korean officials had spent hours trying to persuade Malaysia not to conduct an autopsy and for Kim’s body be handed over to Pyongyang.

Malaysia refused the request, since North Korea did not submit a formal protest, according to Abdul Samah Mat, a senior Malaysian police official. However, Malaysian authorities confirmed on Thursday that the man was Kim Jong-nam and that his body would be taken to North Korea after the autopsy.

While Pyongyang has made no official comment on Kim’s death, it has not attempted to conceal its interest in his fate. On Wednesday, it sent a black Jaguar car with diplomatic number plates and flags to the mortuary at Kuala Lumpur hospital, where an autopsy was conducted on Wednesday evening.

It was not immediately clear if or when the autopsy results would be made public.

Kim, who was 45, fell ill after apparently being attacked from behind with a chemical spray, and died in an ambulance on the way to hospital.

At the time of his death he was carrying a North Korean passport that gave his name as Kim Chol, born in Pyongyang on 10 June 1970.

His death has sparked speculation about the possible involvement of Kim Jong-un, whose five-year rule of North Korea has been marked by purges and executions of people perceived as a threat to his leadership.

The highest-profile victim of Kim’s “reign of terror” was his uncle, Jang Song-thaek, who was executed on treason charges in late 2013. Jang, once considered his nephew’s most trusted adviser, was also believed to have been close to Kim Jong-nam, whom he had helped raise.

Kim Jong-nam attempted to lead an unremarkable life with his family in Macau, according to exchanges with Gomi.

“Because I was educated in the west, I was able to enjoy freedom from early age and I still love being free,” he told Gomi, whose book on Kim was published in 2012. “The reason I visit Macau so often is because it’s the most free and liberal place near China, where my family lives.”

Kim Byung-kee, a South Korean MP, said intelligence services had told him Kim Jong-un professed to “hate” his half brother, whom he feared could one day play a role in the overthrow of his regime.

The spy agency’s has also made unverified claims that North Korea had spent five years attempting to kill Kim Jong-nam.

They cited a “genuine” attempt in 2012 after he had described his brother as “just a nominal figure”, and lambasted the county’s hereditary transfer of power as a “joke to the outside world”.

“The Kim Jong-un regime will not last long,” he told Gomi. “Without reforms, North Korea will collapse, and when such changes take place, the regime will collapse.”

A terrified Kim is reported to have written to Kim Kong-un after the 2012 assassination attempt in which he pleaded with his brother to assure his safety and that of his family.

The letter said: “I hope you cancel the order for the punishment of me and my family. We have nowhere to go, nowhere to hide, and we know that the only way to escape is committing suicide.”

Kim Jong-nam may have succeeded his father, Kim Jong-il, had he not embarrassed the regime in May 2001 with an attempt to enter Japan on a faked Dominican Republic passport.

Kim, accompanied by his wife, another woman believed to be a nanny, and his four-year-old son, were attempting to visit Tokyo Disneyland. They were sent back to North Korea via Beijing, but the incident appears to have ended any hopes Kim had of succeeding his father.

Before his death, he reportedly led a comfortable life touring the casinos of Macau, indulging his love of French and Portuguese wine, and staying at luxury hotels across Asia.

He moved around Macau without bodyguards, but the fear of assassination was never far from his thoughts, according to a resident of the former Portuguese colony who, along with other locals, referred to Kim as “John”.

The South China Morning Post quoted an unnamed source who had known Kim for 10 years as saying: “He knew his life was at risk … and he was aware his brother was after him.”

“He was very cheerful and mingled easily,” the friend, who had requested anonymity, told the newspaper. “He was very humane, he used to help many people here, particularly fellow citizens from South Korea … It is a shame he was not given the chance to live longer.”


The Guardian, Published: Thursday 16 February 2017 09.17 GMT

North Korea killing: man and second woman held over death of Kim Jong-nam

Two more suspects held in Malaysia as South Korean spy chief says apparent assassination was ordered by Kim Jong-un


By Justin McCurry in Tokyo, Oliver Holmes in Kuala Lumpur and agencies
Additional reporting by Benjamin Haas in Hong Kong
https://www.theguardian.com/world/2017/feb/16/north-korea-killing-second-woman-held-over-death-of-kim-jong-nam

KUALA LUMPUR: The car driver who was detained on Wednesday to assist investigations into the death of Kim Jong-nam, the half-brother of North Korean leader Kim Jong-un, is the boyfriend of the second woman detained early this morning.

"He is not one of the prime suspects but he is assisting us with the investigation," said Selangor police chief Comm Datuk Seri Abdul Samah Mat.

"Information that he gave led us to the arrest of the second woman," he said when contacted on Thursday.

The woman, who was arrested in the city at 2am, was using an Indonesian passport bearing the name Siti Aishah from Serang, Indonesia.

Police said she was identified based on CCTV footage at the airport and was alone at the time of arrest.

Her date of birth as listed in the passport is Feb 11, 1992.

The first suspect with the Vietnamese passport bearing the name Doan Thi Huong was arrested at KL International Airport 2 (KLIA2) on Wednesday as she was preparing to board a flight to Vietnam.

Kim Jong-nam, 45, was killed by two women who splashed his face with a chemical at the KLIA2 departure hall at about 9am on Monday. He was about to leave for Macau.

Comm Abdul Samah also confirmed that Siti Aishah and the first suspect have been remanded for seven days.

On Wednesday, Deputy Inspector-General of Police Tan Sri Noor Rashid Ibrahim confirmed the arrest of the driver.


The Star, Published: Thursday, 16 February 2017 - MYT 5:06 PM
Boyfriend helps in arrest of second woman in Jong-nam murder
By Farik Zolkepli
http://www.thestar.com.my/news/nation/2017/02/16/cops-detained-taxi-driver-is-boyfriend-of-second-woman/

PETALING JAYA: Slain Kim Jong-nam's family is uncontactable and not to be seen at their two properties in Macau, says a report.

South Korean's daily Chosun Ilbo reported that it had visited Jong-nam's two properties in Macau's old quarter on Wednesday - an eight-storey apartment and a high-rise condominium - but "no one would talk".

Jong-nam had moved into the condominium with his family at around 2008 to make it easier for his two children to attend the international school, which is just five minutes away.

However, Jong-nam moved from the condominium unit in 2011 after South Korean residents found out where it was after his son Han-sol brought home a South Korean girlfriend.

Chosun Ilbo noted that there were no signs of Jong-nam's family anywhere.

Han-sol, 23, last year said he was heading to Macau as he left France, where he studies. But South Korean expats there said they have not seen him recently.

Jong-nam's daughter Sol-hui, 18, who graduated from school last September, has also not been seen.

"I tried to call Jong-nam's wife after learning about his assassination on the news last night, but her mobile phone was turned off. They probably had an action plan in case something bad happened to him," said a family friend.

Jong-nam settled in Macau at around 2002, where he entered on a visitor visa and later gaining citizenship.

One person said Jong-nam regularly frequented three or four Korean restaurants and went to the casinos.

He reportedly did not smoke but drank one to two bottles of soju or 10 shots of boilermakers (a beer cocktail) in one sitting.

Jong-nam was also said to have a dragon tattoo on his stomach and chest, according to a person who spotted him in a sauna.

Until his father Kim Jong-il died in December 2011, Jong-nam travelled widely throughout South-East Asia and Europe.

When Jong-il suffered a massive stroke in August 2008, he flew to France and brought back neurologists to Pyongyang.

It was reported that Jong-nam always flew alone, but would show up with "female companions" when dining in restaurants across the region.

Jong-nam had been described as a “playboy heir-apparent” and reportedly had mistresses in Malaysia, Singapore and Indonesia.

However, Jong-nam became depressed and reclusive after his half-brother and North Korean leader Kim Jong-un executed their uncle Jang Song-taek.

He started to limit his travels to South-East Asia after his uncle's death in December 2013, supposedly because his allowance from Jang had been cut off.

Chosun Ilbo quoted a family friend of Jong-nam who said he had a personality change after his uncle's death.

"Kim Jong-nam had a bright personality, but he grew depressed after Jang Song-taek was executed and often said 'life is so sad' and expressed dismay at how his uncle was killed," said the family friend.

A North Korean source was also quoted as saying that Jong-nam had made a lot of money by running a trading business with North Korea with his uncle's help.

"The execution of his uncle and benefactor must have been a huge shock," said the source.

Jong-nam was assassinated at the Kuala Lumpur International Airport 2 after being poisoned allegedly by two female operatives from North Korea on Monday.

The Star, Published: Thursday, 16 February 2017 - MYT 12:55 PM
Report: Jong-nam's family uncontactable after his assassination
By Victoria Brown
http://www.thestar.com.my/news/nation/2017/02/16/report-jongnam-family-uncontactable-after-assassination/

PETALING JAYA: The murdered Kim Jong-nam used to enjoy coming to Malaysia but always had bodyguards with him as he feared for his life, says a restaurant owner who knew him.

“I suspect he had a device to jam the CCTVs. Whenever I checked the cameras after he left, there would be nothing,” said Alex Hwang, a South Korean whose restaurant Jong-nam frequented.

“He feared being assassinated, hence he always travelled with bodyguards,” he said.

Hwang said Jong-nam would stay at five-star hotels whenever he was in town.

“Sometimes, he would bring his wife here,” he said, adding that Jong-nam had also brought his Singaporean girlfriend to Malay--sia.

Hwang, who is the National Unification Advisory Council (Ma--lay-sia) chairman and former president of the Korean Association in Malaysia, said: “There are so many restaurants in town but he preferred Starhill Gallery because of the security there.”

He said Jong-nam would often travel to Singapore, Malaysia and Macau. “His family lives in Macau. His son is back in Macau from Europe.”

Hwang believed that Jong-nam was here this time because he had some business or associates here in Malaysia who could help him financially.

“He used to get financial aid from the North Korean embassy but not after his father died and he went into exile.

“He may have other financial sources here.

“I had tried persuading him to visit South Korea but he declined,” he said.

Hwang described the assassination of Jong-nam as an act of terror.

“It was done in a public place. They came to Malaysia to do such a terrible thing and we are now living in fear,” he said.

Another source said Jong-nam regularly visited between 2010 and 2013 when his cousin, Jang Yong-chol, was North Korea’s ambassador to Malaysia.

“Then, Jong-nam would stay at a double-storey house at Bukit Da--mansara.

“He would stay here for between 10 and 15 days on each trip. Some-times with his family,” said the source.

The source said Jong-nam was fond of the neighbourhood pubs in the Bukit Damansara commercial centre and the nightlife, party and club scene at Changkat Bukit Bin-tang.

Jong-nam stopped coming to Malaysia for a while after Yong-chol was recalled to Pyongyang in De--cember 2013 and executed.

Yong-chol was the nephew of Jang Song-thaek, Jong-nam’s uncle.

Song-thaek and his entire fa--mily were executed on the orders of North Korean leader Kim Jong-un.

The source said Jong-nam did not return to Malaysia for about a year but was sighted again in 2015 and 2016.

The source also said Jong-nam was involved in the IT business, distributing hardware and software to businesses in Malaysia, Singapore and Indonesia.

“He was aware that there would be attempts on his life and had on few occasions travelled to Kuala Lum-pur with a bodyguard,” said the source.


The Star, Published: Thursday, 16 February 2017
Slain North Korean always had bodyguards in Malaysia, says friend
By Farik Zolkepli, Nicholas Cheng, Rahimy Rahim, Jastin Ahmad Tarmizi, Natasha Joibi, Oh Ing Yeen, Eddie Chua, Hemananthani Sivanandam, Hanis Zainal, Jo Timbuong, Mazwin Nik Anis, Joseph Kaos Jr, Iwan Shu-Aswad Shuaib, Loh Foon Fong, and Tho Xin Yi
http://www.thestar.com.my/news/nation/2017/02/16/jongnam-feared-for-his-life-slain-north-korean-always-had-bodyguards-in-malaysia-says-friend/

(注)東芝のパソコン事業
 1985年に世界で初めてノートパソコンを発売した。
 1989年から現在も続いている「ダイナブック」ブランドが登場。
 東芝はその後も液晶画面のカラー化やキーボードにタッチパネルを採用するなど世界初となる技術を盛り込んだ製品を次々と投入し、1991年と1994〜2000年にはノートパソコンで世界トップのシェアを記録。
 1997年には出荷台数が累計1000万台を突破した。
 しかし、近年は中国や韓国など価格競争力に勝る海外メーカーが台頭。
 さらにスマートフォンやタブレット端末の登場でパソコンの需要が減少傾向にあり、東芝のパソコン事業は赤字に転落。
 不正会計問題をきっかけに事業見直しが進められ、今年4月に「東芝クライアントソリューション」として分社化された。

(注2)Kim willsher さんの次の記事も必読です:

The Guardian, Last modified on Sunday 22 January 2017 00.07 GMT

French Socialists in hunt for the candidate with a populist touch to challenge Le Pen

Leftists in today’s presidential primaries hope to end far right’s appeal

https://www.theguardian.com/world/2017/jan/22/french-jeremy-corbyn-benoit-hamon-gains-ground-presidential-race
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マルセル・プルースト『失われた時を求めて』

A-t-on retrouvé le premier film connu montrant Marcel Proust ? C'est l'opinion de Jean-Pierre Sirois-Trahan, professeur à l'Université Laval, à Québec. Il vient de révéler sa découverte dans le dernier numéro de la Revue d'études proustiennes (Classiques Garnier). Sur ces images de 1904, conservées aux archives du Centre national du cinéma, on voit un peu plus d'une minute du cortège nuptial d'Elaine Greffulhe, fille de la comtesse Greffulhe (principal modèle d'Oriane de Guermantes dans À la recherche du temps perdu) et d'Armand de Guiche, qui fut l'ami de Proust. Commandé par les Greffulhe, le film était sans doute destiné à leurs archives privées.

L'événement survient à la 37e seconde. Un homme seul, en redingote gris perle et chapeau melon, descend précipitamment les marches de l'église où a lieu la cérémonie. ≪ Tout tend à faire penser qu'il s'agit de Proust, explique Jean-Pierre Sirois-Trahan. La silhouette et le profil lui correspondent, même s'il est toujours difficile d'identifier avec certitude quelqu'un sur un film de ce type, surtout si on ne le connaît que par des photographies où il pose. ≫

≪ Dandy à la mode anglaise ≫

Il est vrai que l'apparition est brève. Mais outre la ressemblance physique, plusieurs faits convergent. La présence de l'écrivain au mariage est attestée. Les images montrent un homme seul, or Proust était l'un des rares invités à ne pas être accompagné. Autre indice décisif : sa tenue. ≪ Les habits qu'il porte, élégants mais qui tranchent avec ceux des autres hommes de cette noce, correspondent à ceux qu'il portait à l'époque, où il est un dandy à la mode anglaise. ≫ Proust est alors un jeune trentenaire, mais surtout un mondain, admis dans les cercles aristocratiques parce qu'il est l'un des hommes les plus spirituels de Paris – loin du reclus peu soucieux de son apparence qui construira un livre monstre dans sa chambre tapissée de liège.

≪ Puisqu'on connaît chaque détail de la vie de Proust, sourit Luc Fraisse, directeur de la Revue d'études proustiennes, on sait aussi par plusieurs sources que, dans ces années, il portait chapeau melon et tenue gris perle… ≫ Pour lui, aucun doute : ≪ Il est émouvant de se dire que nous sommes les premiers à voir Proust depuis ses contemporains… Même si on aurait préféré qu'il descende ces marches un peu moins vite ! Mais cela s'arrangera quand on aura ralenti le film. ≫

Plaisir et prudence

Le grand spécialiste proustien Jean-Yves Tadié, qui a dirigé l'édition en Pléiade de La Recherche, ne cache pas non plus son plaisir : ≪ J'ai toujours pensé qu'on finirait par le voir un jour sur un film d'actualité. La forme du visage, cette manière approximative de s'habiller : tout cela lui correspond, et l'identification me paraît tout à fait probante. Je trouve cette découverte très émouvante. ≫ Et d'autant plus que Proust a toujours entretenu un rapport ambigu aux images filmées… Pourtant, Jean-Pierre Sirois-Trahan tient à demeurer prudent : ≪ Il ne peut pas y avoir de preuve absolue qu'il s'agit bien de Proust. Mais dans tous les cas, c'est un document précieux sur le monde de La Recherche. ≫

Cette ≪ vue animée ≫ d'un peu plus d'une minute est en effet une plongée dans le monde de ces aristocrates à partir desquels Proust inventa les Guermantes. Et en particulier la comtesse Greffulhe. ≪ Sur les photographies d'époque, elle a souvent l'air d'une petite chose fragile et mélancolique, explique encore Jean-Pierre Sirois-Trahan. Quand on la voit en mouvement, on comprend quelle femme conquérante elle devait également être – et c'est ainsi que Proust l'a décrite. ≫ Bien qu'elle ait toujours refusé de se reconnaître dans ce portrait. ≪ Il est étonnant qu'on n'ait jamais pensé à chercher Proust dans les archives filmées des Greffulhe, et cela aurait pu survenir plus tôt ! ≫ estime Jean-Yves Tadié. ≪ Cela en dit long sur les découvertes qui sont encore possibles – même sur un auteur chez qui tout semblait avoir été si minutieusement examiné… ≫

Le Point, Modifié le 15/02/2017 à 17:08

Et soudain apparaît... Marcel Proust

VIDÉO. Émoi dans la communauté proustienne : on aurait retrouvé les seules images filmées connues à ce jour de l'auteur de "À la recherche du temps perdu".


Par Sophie Pujas
http://www.lepoint.fr/livres/et-soudain-apparait-marcel-proust-15-02-2017-2104891_37.php

 ごめんなさい、フランス語でした。日本語でも分かります:

 長編小説「失われた時を求めて(In Search of Lost Time)」で知られるフランスの文豪、マルセル・プルースト(Marcel Proust)の姿を収めているとする映像をカナダ人研究者が発掘し、15日に仏誌のウェブサイトで公開された。プルーストの写真は何枚か現存するが、映像が見つかったのは初めてとしている。

 映像が撮影されたのは1904年11月14日でプルーストは当時33歳。1分11秒の無声の映像の中に、卵形の顔に細く黒い口ひげをたくわえたプルーストとみられる男性が数秒間写っている。

 映像はカナダのケベック(Quebec)州にあるラバル大学(Laval University)のジャンピエール・シロワトラン(Jean-Pierre Sirois-Trahan)教授が発見し、プルースト研究誌「ラ・ルビュ・デチュード・プルースティエンヌ(La Revue d'Etudes Proustiennes)」で発表した。「プルーストの姿を収めたフィルムが発見されたのは初めてとみられる」と説明している。

 映像はプルーストの親しい友人男性と、「失われた時を求めて」に登場するシャルリュス男爵のモデルとされるロベール・ド・モンテスキュー(Robert de Montesquiou)の大姪(おおめい)の結婚式の様子を写したもの。プルーストとされる人物は会場の教会の階段を駆け降りていく。

 映画を専門とするシロワトラン氏は、当時注目を集め、プルーストが招待客に含まれていたこの上流階級の結婚式に関する報道を詳しく調べた末、フィルムがパリ(Paris)近郊で保管されていることを突き止めた。

 映像に写っている貴族の男性がほぼ全員、黒いジャケットとシルクハットを着用しているのに対して、プルーストとされる男性はグレーの外套(がいとう)に黒い山高帽といういでたちで、独り足早に教会を去っていく。

 シロワトレハン氏は「プルーストにとっては、こうした身なりや所作が人目を引く優雅な方法だったのかもしれない」と指摘している。


2/16(木)12:34配信、【AFP=時事】
仏文豪プルースト、初の映像発見か 式場でダンディーぶり発揮
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170216-00000016-jij_afp-int

 英語では・・・

A Canadian university professor claims to have found the only existing moving picture of French writer Marcel Proust.

The black-and-white footage of a wedding cortège filmed in 1904 shows a brief glimpse of a man in his 30s with a neat moustache, wearing a bowler hat and pearl-grey formal suit, descending a flight of stairs on his own. Most of the other guests are in couples.

Jean-Pierre Sirois-Trahan, a professor at the Laval University in Quebec, believes the film, which he found in the Canadian National Cinema Centre archives, could contain the only known footage of the author.

Sirois-Trahan says the film is of the marriage of Élaine Greffulhe, daughter of the Countess of Greffulhe, who was one of Proust’s close friends and the principle inspiration for his character Oriane de Guermantes in À La Recherche du Temps Perdu (In Search of Lost Time).

Luc Fraisse, director of the Revue of Proustian Studies, has no doubt the film shows Proust.

“Because we know every detail of Proust’s life, we know from several sources that during those years he wore a bowler hat and pearl grey suit... It’s moving to say to ourselves that we are the first to see Proust since his contemporaries... even if it would be better if he was descending the steps a little less quickly! It’ll be fine when we have slowed the film down,” Fraisse told Le Point magazine.

Sorbonne professor Jean-Yves Tadié, another Proust specialist, said he was delighted. “I’ve always thought we’d end up seeing him in a news film. The shape of the face, the approximate way of dressing, all corresponds to him, and the identification seems quite convincing,” Tadié told Le Point.

He added: “I find this discovery very moving, and all the more so because Proust always had an ambiguous relationship with moving images.

“It’s astonishing that nobody has thought to look for Proust in the archives of films of the Greffulhes before... It shows that new discoveries are still possible, even about an author who, it would seem, has already been so minutely studied.”

Proust, who died in 1922 aged 51, published In Search of Lost Time between 1913 and 1927.

Sirois-Trahan, however, remains cautious about his find. “Everything leads us to believe this could be Proust,” he said, but added: “There can be no absolute proof that it is indeed Proust. But in any case, it’s a valuable document about the world of In Search of Lost Time.”

The Guardian, Last modified on Thursday 16 February 2017 06.02 GMT

Canadian professor discovers what could be only footage of Marcel Proust

Black-and-white film shows man who could be French writer at wedding of daughter of one of Proust’s close friends, says Jean-Pierre Sirois-Trahan


Kim Willsher in Paris
https://www.theguardian.com/books/2017/feb/16/canadian-professor-discovers-what-could-be-only-footage-of-marcel-proust

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NHK

 さてヤッホー君の俳諧の道を究める徘徊、まだまだ続きます。
 渋谷、であればNHK。えっ?!

 20代の女性宅に侵入、性的暴行を加えたとして、NHK山形放送局酒田支局の記者・弦本康孝容疑者(28)が2017年2月6日、山形県警に強姦致傷と住居侵入の疑いで逮捕された。

 弦本容疑者は昨年2月23日午前5時ごろ、当時、同じ村山地方に住んでいた女性宅に押し入り、「騒いだら危害を加える」と就寝中の女性を脅迫。わいせつ行為に及んで2週間のケガを負わせたという。2人に面識はなく、女性は事件当日、山形県警に被害届を出していたという。

 逮捕まで1年かかった理由を県警に尋ねたところ、「捜査に時間がかかった。聞き込みなど、丹念に調べていった結果、逮捕につながりました」(県警広報課)。

 同地方では同じ時期に、他の女性が暴行されそうになるといった被害が出ているため、「県警はさらに余罪があるとみて捜査を進めている」(捜査事情通)という。

 「(弦本容疑者は)早稲田大付属の本庄高等学院から、早大政経学部に進みました。政経学部に入れるのは、1学年240〜250人のうち、30〜50人の狭き門です。高校時代は、文科省が将来の科学技術系人材を育てるために指定したスーパーサイエンスクラブに取り組んだり、国際交流プログラムに参加していました。大学時代は、早大英語会に所属し、『もっちゃん』という愛称で皆に親しまれていました」(知人)

 弦本容疑者は早大卒業後の2011年にNHKに入局、甲府放送局に赴任した。15年7月、山形放送局に異動となり、昨年7月から酒田支局に勤務していた。

 弦本容疑者の勤務地である酒田市は、人口約11万人の山形県第3の都市。支局といっても、事務所は7階建ての古いビルの一室にあり、支局員は弦本容疑者ただ1人だった。地域のニュースや災害、行事などの取材が主な業務だが、同世代の記者たちが永田町や霞が関を駆けずり回り、政治家や官僚相手にネタを取ってくるのとは“格差”があり過ぎる。

 「何か問題があって山形放送局から酒田支局に異動したというわけではありません。支局は地方の取材拠点ですから、1年で支局勤務になったと聞いても、特に違和感はない。本局と支局を行ったり来たりするケースはありますし、他にも1人とか複数いるところもあります。『(山形放送局に)何か(人間的に)問題があったのか』と聞いてみましたが、特にあったとは聞いていません」(NHK広報部)

 だが、あるNHK関係者はこう首をひねる。

 「甲府から山形に行かされ、そのうえ酒田ですから、よっぽどの事情がない限り、こんな人事異動は不可解です。(弦本容疑者は)甲府放送局時代(12年)に戦場で銃弾に倒れた地元出身のジャーナリスト、山本美香さんの取材をして“全国デビュー”を果たしています。入局6年目で、ある程度経験を積み、知識と行動力もある優秀な人材だったら、なおさら片田舎に飛ばされることは考えにくい」

 弦本容疑者は6日午前に逮捕される直前まで、いつも通りシレッと勤務していたという。“問題記者”をのさばらせていたのだとしたら、NHKの罪も重い。


2017年2月6日付け日刊ゲンダイ
強姦致傷で逮捕 NHK早大卒エリート記者「1年で異動」の怪
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/199016/1

 「2011年にNHKに入局、甲府放送局に赴任した。。。」ですかぁ〜ふぅ〜
 ヤッホー君、その前後のことを思い出しております。
 ヤッホ−君のこのブログ、次の日付けの日記をお読みくださいませ:

★ 2012年8月25日付け「山本美香」
★ 2012年9月2日付け「渡辺玉枝」

 ジャーナリスト、山本美香さん(当時45)がシリアで取材中に銃撃され、死亡してから2013年8月20日で1年になるのに合わせ、地元の山梨県都留市では同窓生らが「山本美香さんを偲(しの)ぶ写真展」を開いている。
 長年取材活動を共にしたパートナーのジャーナリスト、佐藤和孝さんは、シリアの内戦取材のため隣国のヨル
ダンに渡航。父、孝治さんは「美香はそれぞれの心の中で生き続けている」と話す。

 「体の半分を失った気分だった。実生活でも取材でも一番大切な人だったと実感している」。ヨルダンで電話取材に応じた佐藤さんは、1年間を振り返った。
 山本さんの死後、海外取材は2回目。「美香が撃たれた時と、今のシリア情勢がどう変化しているのかをこの目で見たかった」と話す。

 写真展は、山本さんの母校、桂高校や都留文科大の同窓生らが主催。アフガニスタンやイラクで子供たちと交流する山本さんの写真や、銃撃事件の新聞記事などを展示し、都留市ふるさと会館で25日まで開かれている。

 「写真展や本を通じて、今後は私が平和の尊さを生徒に教えたい」と話すのは中、高校の同級生で、都留市の中学教諭、岩沢宏行さん。
 高校時代の担任だった阿部邦彦さんは「明るくて真面目な生徒だった。多くの人が力を合わせて生前の仕事ぶりを伝えてくれたことを喜んでいると思う」と話す。

 父、孝治さんの元には、山本さんの著書の感想や死を悼む手紙が全国から届いた。
 「美香のまいた種が、いろいろな人の胸の中に芽を出していると知り、ありがたかった」
 母、和子さんとともに毎朝、山本さんが好きだった庭のツユクサを摘み、仏前に供えているという。


2013/8/19付け日本経済新聞〔共同〕
山本美香さん死亡1年、同窓生らが偲ぶ写真展
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1800I_Y3A810C1CC1000/

 ジャーナリスト、山本美香さん(当時45)がシリア内戦取材中に銃撃され死亡してから20日で1年。
 「伝えることで状況が少しでも良くなれば」と願った山本さんの遺志を受け継ぎ、収束の兆しを見せない内戦の取材を続ける同僚がいる。山本さんに同行し、銃撃で負傷したまま行方不明となったパレスチナ人記者の家族は、今も帰りを待ち続けている。
 「命日には取材現場にいると決めていた」。
 山本さんと事実婚関係にありシリアでも行動を共にしたジャーナリスト、佐藤和孝さん(57)は2013年8月12日、シリア内戦取材のため中東入りした。
 生前の山本さんと「この問題が決着するまで取材を続ける」と決めた約束を果たすためだ。

 佐藤さんは18日、トルコ南部キリスの国境検問所近くでシリア人難民の男性の話に耳を傾けていた。
 政権側による空爆の激化でシリア北部イドリブ郊外からトルコに逃れてきたオマル・ダモさん(50)一家は、検問所近くで野宿する生活を2カ月続ける。水も食料も満足に手に入らないといい、照り付ける日差しの中、娘のラナさん(12)が「シリアに帰りたい。でも戦争で帰れない」と漏らした。

 佐藤さんは「美香と一緒に取材しているという気持ち。現状を伝え続けることが最大の供養」との思いで21日までキリスに滞在する。

 山本さんに同行していたトルコ人カメラマン、ジュネイト・ウナルさん(36)は、腹部を撃たれたパレスチナ人記者、バッシャール・カドウミさん(42)を肩で支え、近くの建物に飛び込んだ。だが逃げ切れず、離ればなれに。シリア軍に3カ月間拘束されたウナルさんは兵士に血の付いた山本さんのカメラを見せられ、彼女の死を悟った。
 「生きていると信じている」

 トルコ在住20年だったカドウミさんの妻アルズさん(37)は、イスタンブールで息子のエネス君(12)と娘のゼフラさん(6)と暮らす。子供から「どうしてお父さんを迎えに行かないの」と聞かれるのがつらい。

 アルズさんも、山本さんの死を知り泣いた一人。
 「日本にはいくらでも楽な仕事、楽な生活があるだろうに。遠いシリアに来て、命を懸けて世界中にこの惨状を伝える道を選んだ」
 電話取材に山本さんへの尊敬の念を述べた後、最後にこう付け加えた。
 「そんな彼女が今いるのは、きっと天国の一番いい場所に違いない」


2013/8/20付け日本経済新聞(キリス=共同)
山本美香さん銃撃死から1年 同僚、遺志胸にシリア取材
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2002Q_Q3A820C1CR8000/

 そして「美香のまいた種」はこんなふうに実をつけています。
 もっと、もっと花を咲かせ、実も大きくな〜れ!

山本美香記念財団
http://www.mymf.or.jp/index.html

 あっ、ヤッホー君のしぶや徘徊、実はこんな催しものがあったんです:

 『うたコン』
 バレンタインデー当日!
 「トキメイテ 恋の魔法をあなたに」初出演の森昌子・伊東ゆかり ほか、豪華女性歌手が名曲をお届け!
 昭和30年代の洋楽・オールディーズを特集。
 必見の貴重映像は昭和の名女優の青春映画名シーン&妖艶かつクールに歌う懐かし歌手の掘り出し映像。
 絶景映像とともに話題曲を伍代夏子が披露。
 国生さゆりがバレンタインの“あの名曲”を披露!!
 小柳ゆきが初ミリオン達成のデビュー曲を熱唱。
【出演】石川さゆり、石川ひとみ、伊東ゆかり、川上大輔、国生さゆり、伍代夏子、小柳ゆき、純烈、chay、水森かおり、森昌子、フラッシュ金子、MUSIC CONCERTO
【司会】谷原章介、橋本奈穂子

http://www4.nhk.or.jp/utacon/5/

 では、2016.6.14 コラニー文化ホール(山梨県甲府市)での『うたコン』をどうぞ!
https://www.youtube.com/watch?v=jTCP98sl67w



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2017年02月15日

二・二六事件

 さてヤッホー君の俳諧の道を究める徘徊、まだ続きます。
 まずは湯河原。えっ?!

いい旅・夢気分「秋めく古都の街道あるき 鎌倉〜湯河原〜箱根」
34分頃から湯河原
https://www.youtube.com/watch?v=iI47CLOpzcY

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 昭和11年2月26日に日本帝国陸軍若手将校が決起した2.26事件は、陸軍の皇道派の青年将校が対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等を襲撃した事件です。
 この時、元内大臣であった牧野伸顕伯爵が宿泊していたのが「伊藤屋」で、東京以外で唯一事件の舞台となりました。
 宿泊者は牧野元内大臣夫妻とそれぞれのお付の女中、看護婦、護衛の巡査の計7名。宿泊先の条件は独立した建物であるということから、弊館別館「光風荘」が選ばれました。
 牧野伯は滞在10日の予定でお見えになり、3日目に事件に遭遇。襲撃の責任者、河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助夫妻と偵察のため弊館本館に宿泊。
 牧野伯の動向を確認後一旦東京に戻ります。
 その後兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って光風荘を襲撃しました。
 その際牧野伯はお付の女中の機転で女物の着物をかぶり勝手口から脱出、塀を乗り越えて裏山に逃れました。
 河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったとのことです。
 襲撃の際光風荘は全焼し、現在ある建物はその後建てられたものです。河野大尉らが襲撃前の偵察に宿泊した本館の客室は、当時のまま現在も利用されています。


2.26事件と伊藤屋
http://www.itouya-net.jp/about/itouya02.html

湯河原温泉旅館 伊藤屋−2.26事件−
https://www.youtube.com/watch?v=t8U2Dm0CdTo

 河野寿(こうの・ひさし、1907年3月7日-1936年3月6日、陸軍病院裏手で自殺を図り30歳で失血死)の実の兄が河野司(1905-1990)。

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 二.二六事件慰霊像(2.26事件)

 昭和11年2月26日未明、東京衛戍歩兵第一第三連隊を主体とする1500余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた。野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
 当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
 蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
 齊藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い、岡田総理大臣、牧野前内大臣は危く難を免れた。
 此の間、重臣警護の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
 蹶起部隊に対する処置は4日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
 世に是れを二・二六事件という。

 昭和維新の企図壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下19名は軍法会議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
 此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した19名と是れに先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した処刑場跡の一角である。
 此の因縁の地を選び刑死した20名と自決2名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件30年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに其の竣工をみた。
 謹んで諸霊の冥福を祈る
昭和40(1965)年2月26日 佛心會代表 河野司 誌


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 『ある遺族の二・二六事件』(河出書房新社、1982年2月)の著者河野司は、2・26事件で湯河原の牧野伯爵を襲撃した後に自決した河野寿大尉のお兄さん。
 本書は、著者本人の人生記と、戦後の2・26事件犠牲者等の慰霊の話・・・
 河野司氏の波瀾万丈の人生記は、こう言っては失礼かもしれないが面白い。
 この波瀾万丈な人生になったのには身内が2・26事件に参加したということも大いに関係しているだろう。
 軍人の家庭に育ちながら大学卒業後は、なぜかデパートの松坂屋に就職。
 もうその段階で面白いと笑いたくなる。
 その後、海南島など外地で生活・・・
 やくざとの関わりも面白い話。
 「あの2・26事件の河野大尉のお兄さんですか!」ということで一目置かれてしまうところも面白い。
 必ずしも、事件の首謀者の兄だから不幸な人生を歩んだというわけでもないと思う。
 人生、色々だが、読んでいるうち、こういう波瀾に満ちた人生に、ついつい憧れてしまう。(笑)

 2・26事件処刑者と犠牲者の遺族会「仏心会」についても詳しく書かれている。
 また慰霊像の建立の経緯等は、いい記録である。

 実は、本書の著者、河野司氏とは一度だけお電話でお話をしたことがある。
 20年ほど前だろうか・・・
 2・26事件の慰霊像の存在を知り、お参りに行った時に名刺入れに名刺を入れたのである。
 私の祖父は、2・26事件後、軍法会議が開かれた留守第1師団の副官を務めていた。
 事件の首謀者の処刑にも関わり、遺体を遺族に引き渡す役も務めたという。
 また、それに先立ち、2・26事件に参加しないかと誘われてもいたという。
 当時、祖父は習志野の騎兵連隊の中隊長代理の中尉だった。
 決起への参加を断った理由を尋ねたが教えてはくれなかった。
 2・26事件の首謀者の一人である栗原安秀中尉が士官学校に在学していた同じ時期に祖父も士官学校に在学していた。
 ただ、祖父は少尉候補者制度で士官学校に入校していたので、かれらより10才ほど年長である。
 各連隊の中から優秀な下士官を1名だけ士官学校に進学させるという制度での入学。
 すでに長い軍隊生活を送っているので、中学校からストレートに陸軍士官学校に入って来た「エリート」とは少々毛並みが違う。
 少尉候補者は、そういうわけで一般学生より10才ほど年を食っていたのだ。
 たぶんそういうことも関係していたと思う。
 心情的にはわかるが・・・というところだったのだろう。

 「あの時参加していたら、俺はこうして生きてはおらんよ」とだけ言っていた・・・
 決起部隊に参加していたら、当然指揮官として参加したということだろう。
 決起への参加を拒否した祖父が、どういう運命の悪戯か、処刑する側に回ることになったのである。

 そういうことを名刺の裏に書いて名刺受に入れたところ、数日後、河野氏から会社にお電話をいただいたのである。
 その時に、連絡先を教えいていただいたのだが、仕事中に電話を受けたせいか・・・そのメモを失くしてしまったので、とうとう、その後、連絡を取ることが出来ず、そのままとなってしまったのである。
 本書を、もっと早いうちに読んでいれば・・・と今頃になって後悔している。
 あの時は、河野氏が、どういう方か知らなかったのである。
 が・・・これも運命だと諦めるしかない。
 本書の著者、河野司氏は、もうお亡くなりになっているだろうと思うが・・・
 本書を読んでいて、もっと直接お話を伺いたかったと思った。
 久し振りに河野氏との電話でのやり取りを思い出した・・・・

 今は「仏心会」はどうなっているのだろう?
 多くの方に本書を読んでいただいた上で、東京の渋谷税務署脇にある慰霊像にお参りに足を運んでいただきたい・・・
 そう思う・・・・


2015-09-07 Mon投稿、脱藩浪士の日々
『ある遺族の二・二六事件』
http://jyube.blog56.fc2.com/blog-entry-4336.html

二・二六事件 消された真実〜陸軍軍法会議秘録〜
https://www.youtube.com/watch?v=_Yu70Jp1g5A

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2017年02月14日

ハチ公

 さてヤッホー君、今日も俳諧の道を究めんとておでかけ。
 まずは灯台脳学部へ。

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 ご紹介頂きました古谷でございます。「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会」および東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部を代表して一言ご挨拶を申し上げます。本日はご多忙の中、また足下の悪い中、「ハチ公と上野英三郎博士像」除幕式に参列頂きまして、誠に有難うございます。ここで、この像の建立の経緯について簡単にお話しさせて頂きます。
 秋田犬のハチは1923年、大正12年ですが、11月に現在の大館市に生まれ、生後ほぼ50日で東京帝国大学農学部教授の上野英三郎博士(農業工学・農業土木学)に贈られました。犬好きだった博士はハチを大切に育て、大いに可愛がり、当時は駒場にあった農学部への通勤や渋谷駅からの出張に送り迎えをさせました。当時、上野博士の学生達は教授の愛犬を「ハチ」と呼び捨てにすることをはばかり、「ハチ公」と呼んで敬意を表しました。飼い始めてから1年半ほどの1925年5月21日、上野博士は大学構内で急逝しました。それからハチは死ぬまでのほぼ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めました。
 ハチは上野博士が長期不在の後は渋谷駅から戻ることを知っていました。生前のある日、博士が長期出張から渋谷駅に戻った時、改札口でひとり待つハチに驚き、互いにじゃれ合って喜んだことがあったといいます。私達が作ったこの像は、待っていたハチと上野博士が喜ぶところを捉えたものであり、犬の純真さとそれを受けとめる人の素直な心が表現されています。東大のキャンパスには多くの銅像がありますが、それらは全て、それぞれの学問分野の碩学の業績をたたえるものです。それに対して、このハチ公と上野博士の像は二人の物語をとおして、動物と人との関係、深い愛情の交流を表すものであり、このキャンパスでは、大変ユニークな像であると思います。
 東大にハチ公と上野博士の像を作ろうと発案したのは、本学文学部・人文社会系研究科の一ノ瀬正樹教授です。哲学研究室に所属し、動物と人との関係を研究テーマにしています。ハチ公のことは日本人ばかりか世界の多くの人に知られていますが、飼い主が東大の教授であったことは、ほとんど知られていません。今回、私たちがこのような活動を始めてみると本学の教職員にも知る人が少ないことが判りました。こうした状況から、一ノ瀬教授は東大構内に像をつくろうと発想され、大学執行部や農学部教員と相談し、2012年1月に「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会」が結成されました。初代会長は当時の研究科長でいらっしゃった長澤寛道現名誉教授です。作る会では像のデザインや制作者、募金の進め方を議論いたしました。同じ年の6月に像の制作者として植田努氏に内定し、像のデザインは、昨年3月にこの場で開催されたシンポジウム「東大ハチ公物語」において公表されました。植田努氏は、現在40歳の名古屋在住の気鋭の彫刻家であり、このあとでご覧頂きますように、ハチ公と上野博士の交流を表現した、大変すばらしい像を製作して頂きました。
 この像の制作経費は全て皆様からの寄附金によりました。学内外から個人、企業、団体の総計約450件、総額1000万円以上の寄附を頂きました。これから、像の周囲の敷石や、周辺の木の剪定、説明板の設置などの整備をすすめます。ご寄付を頂いた方々、ならびにさまざまな形で貢献頂いた方々に主催者を代表して心より御礼申し上げます。これをもちまして、私からの挨拶とさせて頂きます。有難うございました。


東大ハチ公物語
ハチ公没後80年にあたる2015年3月8日に、無事、ハチ公と上野英三郎博士像除幕式を行なうことができました。
http://www.en.a.u-tokyo.ac.jp/hachi_ueno_hp/hp/

 東京大学大学院農学生命科学研究科で保管している忠犬ハチ公の臓器について、獣医外科学研究室にて MRI による肺と心臓の断層撮影を行ない、また獣医病理学研究室にて組織標本を作製し顕微鏡観察を行ないました。
 その結果、肺と心臓に広範な悪性腫瘍の増殖巣がみとめられ、この腫瘍もハチ公の死因として重要であったと考えられたので、発表いたします。
忠犬ハチ公は 1935(昭和10)年3月8日午前2時に死亡しました。死後13時間経過した午後3時に東京帝国大学農学部獣医学科病理細菌学教室(現・東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻獣医病理学研究室)にて解剖されました。
 当時の解剖記録によると、死因はフィラリア症(犬糸状虫 Dilofilaria immitis が心臓・右心室から肺動脈にかけて重度に寄生)で、腹水症および肝臓の線維症を併発していました。
。。。
ハチ公の臓器(肺、心臓、肝臓、脾臓)は解剖直後にホルマリン液に入れられ、以後76年間獣医病理学研究室で保管されてきました。
 2006年からは農学部正門の脇にある農学資料館で展示しています。
 これまで死因についての詳細な検討は行なわれず、今回初めて MRI および顕微鏡の観察を行ない新たな事実が明らかになりました。


農学資料館
新たに判明した忠犬ハチ公の死因について
http://www.a.u-tokyo.ac.jp/shiryoukan/

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 合掌!
 すぐ渋谷に向かいまして、忠犬ハチ公の写真を撮ってまいりました。

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 JR渋谷駅西口のシンボルとして親しまれている忠犬ハチ公の銅像を、モデルとなった秋田犬ハチの古里・秋田県大館市に一時的に移す話が浮上している。渋谷駅周辺の整備事業に伴う。移転時期は2020年ごろと先だが、実現すれば、1924年に秋田を離れたハチにとって、96年ぶりの「里帰り」となる。
 渋谷駅周辺の整備工事は10年に始まり、27年春ごろ完了予定。現在は東口を整備中で、西口の着手は20年ごろと見込まれる。工事が始まればハチ公像を移動させる必要がある。
 銅像の一時移転は、「忠犬ハチ公のふるさと」を掲げる大館市が渋谷区長や区議会などに非公式に持ち掛けている。福原淳嗣市長は「ぜひ大館に里帰りしてもらいたい。観光面でも効果がある」と意欲的。今月22日に東京である「忠犬ハチ公銅像維持会」(渋谷区)の賀詞交換会に出席し、熱意を伝える考えだ。
 「忠犬ハチ公銅像及び秋田犬群像維持会」(大館市)の富樫安民会長(71)も「里帰りは大歓迎。にぎやかな渋谷から静かな田舎に帰ってきて、ゆっくり休んでほしい」と期待する。
 大館市内には、ハチ公をはじめ秋田犬の銅像やモニュメントが十数体ある。気の早い関係者からは「JR大館駅前の銅像と仲良く並べてはどうか」といったアイデアが出ている。
 ハチ公像の大館移転は今後、渋谷駅西口の工期が具体化する中、区役所内で一つの案として協議される見込み。だが、渋谷区民のハチ公像に対する思い入れが強いこともあって、実現は容易ではない。
 渋谷区渋谷駅周辺整備課は「ハチ公像は観光名所でもあるので、今後関係者を含めて議論する」と慎重だ。忠犬ハチ公銅像維持会事務局の担当者も「移動が具体的に決まれば話し合っていく」と語るにとどまる。

[忠犬ハチ公]
 1923年秋田県二井田村(現大館市)で誕生した雄の秋田犬。
 24年東京帝大教授上野英三郎氏の飼い犬となった(注)。
 25年に上野氏が急死した後も渋谷駅前で帰りを待つ姿が話題となり、美談となった。
 35年に死んだ。
 渋谷駅の銅像は34年に建立されたが、戦時中に供出され、48年に再建された。


2016年01月19日火曜日付け河北新報
渋谷のハチ公像 96年ぶり秋田に里帰り?
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201601/20160119_43015.html

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 ヤッホー君、思い出しているのがマレーシアに残してきた子猫の Lucky と Bobby !
 いつの日か再会した時に、子猫たちはヤッホー君のことを覚えていてくれるかしらん?

(注)
 忠犬ハチ公は、牡の秋田犬で、大正12年11月、大館市大子内(おおしない)の斎藤義一宅で、父:大子内山号、母:胡麻号の間に生まれました。
 ちょうどそのころ、東京帝国大学農学部教授・上野英三郎博士が、純系の日本犬を捜していました。それを聞いた博士の教え子の世間瀬千代松氏は、部下・栗田礼蔵氏の知り合いの斉藤宅から子犬をもらうことを思い付いたのです。大正13年1月14日、こうして生後50日前後の幼犬が上野博士のもとへ送られました。幼犬は、博士と共に食事をするほど可愛がられ、「ハチ」と名付けられました。
 やがてハチは立派な秋田犬に成長し、博士の送り迎えもするようになり、ハチと博士の間に強い絆が結ばれました。
 しかし、大正14年5月21日、いつものようにハチに送られて出勤した博士は大学の教授会において講演中、脳溢血に倒れ急逝。通夜・葬儀の間、ハチは食事を与えても口にせず、その状態はしばらく続いたといいます。
 博士の没後、浅草に引っ越した後も、夜、8キロ離れた渋谷方面に走って行くハチの姿がたびたび見られました。そんな状況が1年も続いたため、ハチの心情を想って顔なじみの代々木の植木職人・小林菊三郎宅に預けられることになりました。
 しかし、夕食を終えると小林宅から700m〜800mの上野邸あたりをうろつき、その後渋谷駅の改札口前にじっと座ります。暑い日も、雨の日も、雪の日もハチは改札口前に座り続けました。
 ハチは、人間や仔犬に対しては決して牙を向けたり吠えたりしませんでしたが、一度だけ、ほかの犬に咬みつかれたことがあり、それ以降左耳が垂れてしまいました。
 このようなハチの姿に、いつしか多くの人々が同情を寄せるようになり、次第に弱りはじめたハチを気遣い渋谷駅の職員も面倒を見るようになりました。
 昭和10年、ハチは海外にも紹介されたり、映画になったりと有名になっていましたが、フィラリアにより3月5日、容態が急変、その3日後の3月8日、ハチは駅から離れ、孤独に13年(人間にすると90歳)の一生を終えました。

 ハチは、青山墓地の上野博士とともに眠っています。

 あまりにも有名なその美談は、邦画『ハチ公物語』、ハリウッド映画『HACHI 約束の犬』(*)のほか、多くの書籍などでも伝えられています。


大館市公式サイト、産業部 観光課 観光振興係
忠犬ハチ公のふるさと 大館
http://www.city.odate.akita.jp/dcity/sitemanager.nsf/doc/1596170476AC0007492577760029A50B.html

(*)
https://www.youtube.com/watch?v=JSPkf7Crwug
https://www.youtube.com/watch?v=xyDXJRigyOk
https://www.youtube.com/watch?v=kE5Jds-fmNc

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安倍朝貢外交

As US President Donald Trump proceeds to destabilise the postwar global economic order, much of the world is collectively holding its breath. Commentators search for words to describe his assault on conventional norms of leadership and tolerance in a modern liberal democracy. The mainstream media, faced with a president who might sometimes be badly uninformed and yet really believes what he is saying, hesitate to label conspicuously false statements as lies.

But some would argue that beneath the chaos and bluster, there is an economic rationale to the Trump administration’s disorderly retreat from globalisation. According to this view, the US has been duped into enabling China’s ascendency, and one day Americans will come to regret it. We economists tend to view abdication of US world leadership as a historic mistake.

It is important to acknowledge that the roots of the anti-globalisation movement in the United States run much deeper than disenfranchised blue-collar workers. For example, some economists opposed the Trans-Pacific Partnership (a 12-country trade deal that would have covered 40% of the global economy) on the questionable grounds that it would have harmed American workers. It fact, the TPP would have opened Japan far more than it would have affected the US. Rejecting it only opens the door to Chinese economic dominance across the Pacific.

US populists, perhaps inspired by the writings of Thomas Piketty, seem unimpressed by the fact that globalisation has lifted hundreds of millions of desperately poor people in China and India into the global middle class. The liberal view of Asia’s rise is that it makes the world a fairer and more just place, where a person’s economic fate does not depend quite so much on where they happen to have been born.

But a more cynical view permeates populist logic, namely that in its excessive adherence to globalism, the US has sown the seeds of its own political and economic destruction. Trumpism taps into this sense of national mortality; here is someone who thinks he can do something about it. The aim is not just to “bring home” American jobs, but to create a system that will extend US dominance.

“We should focus on our own” is the mantra of Trump and others. Unfortunately, with this attitude, it is hard to see how America can maintain the world order that has benefited it so much for so many decades. And make no mistake: America has been the big winner. No other large country is nearly as rich, and the US middle class is still very well off by global standards.

Yes, Democratic Presidential candidate Bernie Sanders was right that Denmark is a great place to live and does many things right. He might have mentioned, however, that Denmark is a relatively homogeneous country of 5.6 million people with a very low tolerance for immigration.

For better or for worse, the globalisation train has long since left the station, and the idea that one can turn it back is utterly naive. Whatever might have been done differently before US President Richard Nixon visited China in 1972 is no longer possible. The fate of China, and its role in the world, is now in the hands of the Chinese and their leaders. If the Trump administration thinks it can reset the clock by starting a trade war with China, it is as likely to accelerate China’s economic and military development as it is to slow it down.

So far, the Trump administration has only sparred with China, concentrating its early anti-trade rhetoric on Mexico. Although the North American Free Trade Agreement (Nafta), which Trump reviles, has likely had only modest effects on US trade and jobs, he has attempted to humiliate Mexicans insisting that they pay for his border wall, as if Mexico were a US colony.

The US is ill-advised to destabilise its Latin American neighbours. In the near term, Mexican institutions should prove quite robust; but in the long run, Trumpism, by encouraging anti-American sentiment, will undermine leaders otherwise sympathetic to US interests.

If the Trump administration tries such crude tactics with China, it will be in for a rude surprise. China has financial weapons, including trillions of dollars of US debt. A disruption of trade with China could lead to massive price increases in the low-cost stores – for example, Wal-Mart and Target – on which many Americans rely.

Moreover, huge swaths of Asia, from Taiwan to India, are vulnerable to Chinese aggression. For the moment, China’s military is relatively weak and would likely lose a conventional war with the US; but this situation is rapidly evolving, and China may soon have its own aircraft carriers and other more advanced military capabilities.

The US cannot “win” a trade war with China, and any victory will be pyrrhic. The US needs to negotiate hard with China to protect its friends in Asia and deal with the rogue state of North Korea. And the best way to get the good deals Trump says he seeks is to pursue a more open trade policy with China, not a destructive trade war.


The Guardian, Last modified on Thursday 9 February 2017 16.21 GMT

Why Donald Trump can't bully China on trade

Beijing holds trillions of dollars in US debt and any trade disruption could lead to huge price rises in the budget stores on which many Americans rely

Kenneth Rogoff, a professor of economics and public policy at Harvard University
https://www.theguardian.com/business/2017/feb/09/why-donald-trump-cant-bully-china-on-trade

 この新聞への投稿者はハーバード大学教授でした。彼がアジアを観て、米中関係を憂慮しています。
 この国のデマゴーグのプロフィルを見ると:

1954年安倍晋太郎、洋子夫妻の二男として生まれる
1977年成蹊大学法学部政治学科卒業
1979年株式会社神戸製鋼所入社
1982年外務大臣秘書官
http://www.s-abe.or.jp/profile

とあって一昔前までは、大学を卒業した後、「南カリフォルニア大学」に留学したとあったそうですが「削除」したそうです。また大学時代と言ったって、次の記事が出ていました:

2016.06.05 リテラ

安倍首相の成蹊大学の恩師が涙ながらに批判!

「安倍くんは間違っている」「勉強していない」「もっとまともな保守に」

http://lite-ra.com/2016/06/post-2310.html

 トランプ大統領についてはこちら:

新大統領となったドナルド・トランプ氏の経歴・学歴・人柄は?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161110-00010000-senkyocom-pol&p=1

 いえ、学歴を問題にするわけではないのですが、リーダーの資質、ignorant(無知)とshameless(無恥)を問題にしたいわけですが、件のドナルド・トランプ氏、お金儲けに長けていても、政治は素人に近いので選挙戦をリードさせていくに political power broker である Paul Manafort 氏を寵愛した、と先の新聞 The Guardian 紙はこう伝えていました:

Donald Trump has turned to one of the most experienced Republican political fixers in a bid to get his campaign across the finish line in first place and secure the party’s nomination.

Defeat in the Wisconsin primary this week made increasingly difficult the Republican frontrunner’s prospects of reaching the 1,237 delegate threshold needed.

So he has looked to one of the few backroom dealmakers with hands-on experience of successfully navigating a contested convention.

Paul Manafort, 67, has worked in Republican politics for 40 years. The last time there was a contested convention in 1976, he played a key role in securing Gerald Ford’s nomination, helping run the convention floor and woo delegates for the incumbent president..

He also worked on President Ronald Reagan’s 1980 campaign and has been an adviser to other Republican candidates such as former president George HW Bush and Bob Dole. Manafort has also become a powerful Washington lobbyist and has consulted for controversial international political figures such as Viktor Yanukovych, the pro-Russian president of Ukraine overthrown in the Orange Revolution.

His emergence on the Trump campaign comes as a brokered convention – where no candidate arrives in Cleveland with a majority of delegates – has become likely. Trump seems to have realized that he needs an organized, methodical effort to woo delegates, who are often the types of party activist that the New York billionaire’s campaign has long scorned. Manafort will help steady the ship in that regard – but with a campaign scrambling to catch up organizationally, the question is whether it will be too little, too late.

On the campaign trail, Trump has repeatedly complained about his operation being out-organized in Louisiana in particular, a state where he won the primary but tied with Ted Cruz in the delegate count. An embarrassing example of Trump’s organizational flaws were revealed in a district convention in Colorado on Thursday where the campaign handed out glossy literature to urge attendees to vote for delegates who weren’t on the ballot.
。。。


The Guardian, Last modified on Tuesday 31 January 2017 15.58 GMT

Eyeing open convention, Trump turns to man who helped win the last one

Paul Manafort will help steady the ship – but with a campaign scrambling to catch up organizationally, the question is whether it will be too little, too late

Ben Jacobs in Colorado Springs, Colorado
https://www.theguardian.com/us-news/2016/apr/08/donald-trump-delegate-count-open-convention-paul-manafort

 いえ、ね、デマゴーグの出す「嫌中」の臭い匂いと、
 その取り巻き、茶坊主オトモダチ、「パワーブローカー」たちとの対中政策、
 そのからみあいがどんな味付けになるのか、それによって今年の非戦、世界平和へのカギとなる、
 そう思って聖バレンタインデーの朝、「日記」に記しておかなくっちゃだってぇ〜、ヤッホー君。
 だってぇ〜、Kenneth Rogoff 教授の論評はマレーシアの日刊紙 The Star にも掲載されたのです。
 うん、マレーシアのほうがアジアの安定を訴求している、と言えなくもないな〜ともヤッホー君。

http://www.thestar.com.my/business/business-news/2017/02/13/why-trump-cant-bully-china/

 そして、Paul Manafort 氏については、天木直人氏が2017-02-14付けブログで:

トランプ密使の助言に沿って作られていた安倍朝貢外交の衝撃
http://kenpo9.com/archives/994

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2017年02月13日

銭湯バレンタインズデー

 昨日の12日、長瀞アルプスを歩いた日、墨田区の「薬師湯」(墨田区向島3-46-5 Tel 3622-1545)ではこんなイベントがあったのです!

 地下から汲み上げた天然水を、薪で沸かした自慢の湯。
 麦飯石で濾過することで、温泉効果を高めています。
 毎日変わる100種類以上のバラエティ豊かな薬湯も必見です。

 2月12日(日)は「銭湯バレンタインズデー」
 夢のチョコレート工場気分♪ 【チョコレート湯】
 ☆ 薬師湯オリジナル『チョコレート煎餅』プレゼント!

http://yakushiyu.com/

 製造販売を担当したのは、「坂本せん餅」(墨田区東向島5-8-3 Tel 3611-2275)

 ★ バレンタインチョコ煎餅
冬季限定のチョコ醤油煎餅。
バレンタインシーズンには、ハート型のメッセージ印刷入りチョコ醤油煎餅を限定販売しております。

http://sakasen.jp/

 お店の歴史
 昭和7年、東京都北区王子本町にて、個人商店「つた屋」の屋号で創業(創業者 常吉とタキの頭文字をとって屋号命名)。戦時中の強制疎開、足立区での営業再開、埼玉県谷塚移転等を経て昭和33年、現在の墨田区東向島へ店舗移転。昭和47年、木造店舗から鉄筋4F建てへ建て替え、昭和59年本店改装、工場増築。現在に至る。
 昭和51年8月に、有限会社坂本せん餅を登記。 TBSはなまるマーケット 北野大さんのおめざの品「堅焼き大丸煎餅」。


e-すみだ電子商店街 
http://e-sumida.gr.jp/author/saka-sen/

 いいね、下町は!
 下町の銭湯といえば:

 千住クレイジーボーイズの舞台にもなっている銭湯のお話。
 今回のドラマの中にも銭湯が出てくるんですけど、昔から近所には銭湯と駄菓子屋が必ずありましてね。遊びに出かけて遠出するときは銭湯の煙突を目印にしてたり、いろいろお役立ちになったんですよ。

 ガキんちょの頃、友達と土手やら公園やら、路地裏などを駆けずり回って遊んでたもんですから、服は砂ぼこりだらけで頭にはクモの巣なんて日もよくありまして、家に入る前に玄関で体をぞうきんで拭かれて、そのまま、銭湯に行ってたんですよ。当時の子ども料金は80円か90円とかだったかな。小遣いが50円だったけど、銭湯に行くからって母ちゃんに言うとお金をくれるんです。友達と遊んで、家に帰って、また銭湯で集合する。銭湯が遊びの延長みたいでしたね。

 楽しい思い出しかないから、今でも銭湯は好きなんですよ。

 熱〜いお風呂で、体全体を伸ばせるところがいいんですよね。昔は背中一面に入れ墨を入れたおじいちゃんがいて、よく、「これは親不孝の証拠だからな、こんなの入れちゃだめだぞ」って、言われたもんですよ。
 騒いでいたりすると、知らないおじさんにすんげぇー怒られる。銭湯で湯船につかっていたら、隣にいた知らないおっちゃんが「家の風呂は体を洗うとこでよ、銭湯は心を洗うとこなんだよ」って言ってたんです。友達とみんなで「あのおっちゃん、毎日銭湯で見るけどさ、どんだけ心が汚れてんだよ」って、ヒソヒソと話してましたね。でも、今はその気持ちが理解できるような気がしますよ。

 熱〜いお湯につかって、足を思いっきり伸ばしながら、高い天井を見上げる。
 ふぅ〜っと息を抜くと、ストレスが消えちゃう。

 北千住には歴史のある銭湯がいくつもありましてね。街を散策しながら、お団子を食べたりして、その足で銭湯はいかがですか。
 風呂上がりに、腰に手を当ててキンキンに冷えたコーヒー牛乳をグイッと飲み干す。
これ、かなり気持ち良いですよ。


2017年2⽉6日第7回千住クレイジーボーイズ、足立・千住サポーターズ、足立・千住スマイリーコラム
スマイリーキクチ、銭湯は心を洗うところ
http://www.nhk.or.jp/adachidra/supporters/column/#no07

 そうなんです、2月15日(水)夜10時からNHK BSプレミアムで放送されます!

 足立区も応援しています:
https://www.city.adachi.tokyo.jp/miryoku/jiman/scb.html

 うわさの銭湯は、「タカラ湯」(足立区千住元町27-1 Tel 3881-2660)

 俳優の塚本高史、小池徹平が2016年10月25日、東京・足立区の銭湯「タカラ湯」で行われたNHK BSプレミアムドラマ『千住クレイジーボーイズ』取材会に出席した。
 同作で芸人を演じており、2人で漫才を披露する場面もあるが、塚本は「このあいだリハをした。まぁ問題ないね! ないっすね!」と手応えをにじませた。


2016-10-25 13:58 ORICON NEWS
塚本高史、小池徹平との漫才に手応え「問題ないね!」 ドラマで元相方役
http://www.oricon.co.jp/news/2080473/full/

 テレビのない生活を送っている貧民のヤッホー君、どなたかビデオで撮っててくれないかなぁ、だって・・・

 (でもさ、ビデオって言ったってぇ〜再生できるテレビがなかったら、見れないでしょにぃ・・・)

 (しようがないね、≪地域発ドラマ東京版・第二弾「千住クレイジーボーイズ」の予告動画が完成しました!「古くて新しい町」北千住エリアを舞台に、笑って泣けるヒューマンコメディードラマです。ぜひご覧ください≫。これで我慢して・・・)
http://www.nhk.or.jp/adachidra/news/detail/050.html

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バレンタインデー粉砕

 昨日の日曜日、長瀞アルプスを歩いていた日、渋谷ではこんなことが:

 バレンタインデー直前の2月12日、東京・渋谷では「非モテ(モテないこと)」を自称する人びとが集結し、デモ行進で「バレンタインデー粉砕」を叫んだ。
 この「バレンタインデー粉砕デモ」は、恋愛感情を経済活動に結び付ける「恋愛資本主義」への反対を掲げる「革命的非モテ同盟(革非同)」が主催。
 2006年の「クリスマス粉砕デモ」を皮切りに、バレンタインデー、ホワイトデー、クリスマスの粉砕を叫ぶデモ活動をほぼ毎年実施。革非同は「モテない人の明るい未来を築き上げるべく、非モテ同士の連帯を」と提唱している。
 デモ隊は午後2時ごろ、渋谷・宮下公園を出発。約30分にわたって20人(主催者発表)ほどの参加者が渋谷の街を練り歩いた。

「もらったチョコの数で人間の価値を決めるな!」
「カップルは自己批判せよ!」
「リア充は爆発しろ!」

 デモの参加者は、こうしたシュプレヒコールを叫んだ。また、「『(ホワイトデーの)3倍返し』は利息制限法違反だ!」「お菓子メーカーの陰謀に踊らされるな!」と警鐘を鳴らした。

■ 日本のバレンタインデーは「ジェンダー的な要素を過剰に押し付けている」
 今回のデモにあたって、革非同の広報担当(代表代行)の秋元貴之氏(33)が報道陣の取材に応じた。

 秋元氏は「クリスマス、バレンタインデー、ホワイトデーなどは恋愛に価値を見出さない人や非モテの人びとを圧迫している。偏見を強くする社会に抵抗する」と、デモの目的を語った。
 また秋元氏は、日本でのバレンタインデーの雰囲気が「ジェンダー的な要素を過剰に押し付けており、LGBTなどを含む性的マイノリティへの圧迫にもつながる。(親しい人に感謝の気持ちを伝える)バレンタインデー本来の形をゆがめている」と強く批判した。

 その一方で、キリスト教の聖バレンティヌスに触れつつ、「我々は宗教的なヘイトを煽るつもりは全くない。我々の活動は、バレンタインを金儲けの道具にすることや、モテない人々を劣っていると見下す風潮への抗議だ」と述べた。
 その上で、「女性からも『バレンタインデーはめんどくさい』という声も聞く。変化の兆しはあると思う。我々は長期的に戦う覚悟はできている」と、デモに対する決意を述べた。
 デモに参加した40代の女性は、「義理チョコは廃止すべきだと思う。私は派遣社員だが、チョコの金銭的な負担も大きい」と話した。
 デモ終了後、秋元氏は「バレンタインデーは粉砕された。まごうことなき大勝利だ」と明言。次回のデモ開催については「ホワイトデーもデモをやるかもしれない」と、さらなる活動の拡大を匂わせた。


The Huffington Post Japan、2017年02月12日18時31分 JST 更新
「チョコの数で人間の価値を決めるな」バレンタインデー粉砕デモ、渋谷で開催
http://www.huffingtonpost.jp/2017/02/12/anti-valentines-day-demo_n_14698548.html

 たしかに儀式化、定例化、社会の風潮にのってする表現が、はたして本当の愛なのか、と言われれば、人それぞれの愛の表現があっていい、となるのかなぁ、と:

My wife and I won’t be celebrating Valentine’s Day this year. Valentine’s Day is about romance and 15 years together has tested that particular fantasy – like many others – to the limit. Real life has the upper hand.

For love and romance (whatever romance is, as Prince Charles once nearly said) seem to me largely unconnected. Love has nothing to do with gifts or meals or surprises – or even, at times, liking one another. For all its power, love is the great unknowable, and love between couples, particularly those who have been together for a long while, is a vital, real, but often undetectable backdrop to the actual business of the day. If I have forgotten how much I love my wife (and I do sometimes), then all the chocolates and roses in the world aren’t going to remind me or reassure her.

Also, sitting in a restaurant with a roomful of couples sipping champagne and wondering why they don’t feel the way they are meant to strikes me as a depressing way of spending the night when I could be sitting down alongside said wife with her be-socked feet on my lap, watching Fargo with a box of Jaffa Cakes. It isn’t romantic, but it’s part of a love more profound and resilient than anything I had when I was 21 and trying to work out some novel way to wow whatever girlfriend I had in those days.

I am not so curmudgeonly as to suggest that Valentine’s Day is a waste of time – although I do tend to think that most occasions you are instructed to enjoy by the greetings card industry tend not to live up to the occasion, simply by dint of the hype with which they come burdened. For those in a relationship who possess sufficient imagination and sensitivity to come up with the “right” gesture (a box of chocolates and a bunch of roses doesn’t really cut the ice any more), it can be a touching occasion, even if it is devalued by being compulsory. But in truth, it’s often a disappointment – and that’s for those who actually have, or receive, a Valentine.

For those armies of people who do not get Valentine cards, Valentine’s Day is for the lonely – like Christmas Day – a rebuff and a reproof. I speak from experience – outside of a relationship, I don’t think I can ever remember receiving a single Valentine. Not that I could care less nowadays, but when I was a teenager, I felt the absence very acutely as the barren welcome mat by the letterbox mocked me, or as the other kids compared their cards in the classroom. Janis Ian summed up the feeling in At Seventeen – “The valentines I never knew / the Friday night charades of youth.”

The propaganda of romance, as opposed to love, is largely divisive – and also strangely one-way, from a gender point of view. Yes, Valentine’s can travel in both directions, but nearly all the love poems are to women from men, all the flowers likewise. It seems to be some kind of outdated courtly love that we continue to pay lip service to, increasingly ridiculous in the age of Tinder and fast internet hookups.

Me, I’m getting ready to celebrate with a jumbo pack of Jaffa Cakes.


The Guardian, Friday 12 February 2016 13.30 GMT

Valentine’s Day is divisive in a way love isn’t meant to be

I’m not against the idea, just the romantic propaganda. I’ll be celebrating at home on the sofa with a packet of biscuits

By Tim Lott
https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2016/feb/12/valentines-day-is-divisive-in-a-way-love-isnt-meant-to-be

 マレーシアでも紹介されてしまったキリスト教国でもない昨日の日本における Valentine’s Day :

TOKYO: As Japan prepares to celebrate Valentine's Day, a cranky group of marxist protesters have called for an end to public displays of love, claiming it hurts their feelings.

Members of 'Kakuhido', or the Revolutionary Alliance of Men that Women find Unattractive, unfurled a giant "Smash Valentine's Day" banner as the party-poopers set off to try and overthrow the annual celebration of romance.

The grumpy comrades elicited curious looks from passers-by in the trendy Shibuya district where they rallied against commercialism and chanted other buzz-kill slogans such as "public smooching is terrorism!"

"Our aim is to crush this love capitalism," the group's public relations chief Takayuki Akimoto told AFP.

"People like us who don't seek value in love are being oppressed by society," he added.

"It's a conspiracy by people who think unattractive guys are inferior, or losers - like cuddling in public, it makes us feel bad. It's unforgivable."

Previously, the group has also protested against "housewives who control Japan's future" as their hapless husbands work all hours at the office.

Valentine's Day in Japan is a huge money-spinner for the confectionery business as women are traditionally expected to buy chocolates for the men in their lives - from lovers to work colleagues.

Men reciprocate a month later on White Day, a Japanese marketing brainwave dreamt up by confectioners in the 1980s to keep the cash tills ringing.

"The tradition of giving chocolates means you're always competing," said Akimoto, 33, blasting what his group calls the "passion-based capitalism" of Valentine's Day.

"You're judged by how many sweets you get. It's a business strategy by the chocolate capitalists, it's ridiculous." Valentine's Day originated as an ancient Christian and Roman tradition and Akimoto fumed: "Religious overtones have been twisted and turned into a vehicle to make money."

Japan is experiencing a loss of mojo with couples apparently too stressed or busy to have sex, frustrating government efforts to raise the birthrate as policymakers struggle to cope with a shrinking population.

Akimoto claims the group's message has begun to hit home after 10 years of protests.

"Recently you hear of more people spending Christmas alone or women growing tired of Valentine's Day," he said.

"We believe that through our fight, we've helped contribute to that social shift."

Kakuhido was founded in 2006 by Katsuhiro Furusawa, who began reading the Communist Manifesto after being dumped by his girlfriend and came to the conclusion that being unpopular with the opposite sex was a class issue, fuelling his anti-Valentine message.

Akimoto offered some advice for would-be disciples of the spoil-sport group, which also protests White Day and Christmas.

"We're saying you don't have to enjoy Christmas or Valentine's Day," he said joylessly, adding that Kakuhido is also taking aim at Halloween.

"Just spend the day doing normal things. Our enemy is formidable, but we are ready for a long, drawn-out war."


The Star, Published: Sunday, 12 February 2017 - MYT 6:10 PM
Japan's league of unloved gentlemen wage war on Valentine's 'conspiracy'
By AFP
http://www.thestar.com.my/news/regional/2017/02/12/japans-league-of-unloved-gentlemen-wage-war-on-valentines-conspiracy/

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2017年02月12日

宝登山497m

 今日の日曜日は初午!お忙しかったことと思います。
 そこをなんとか工面した忙中閑ありの7人の侍たち。
 実は立春も過ぎたことですし、小さな春を探す山旅。

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 実は長瀞アルプスを縦走、宝の山を目指したのです。

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 実は「この道を力強く前へ」なんて言われたら、年金のお金までトランプに賭けて、儲けたら返す、すったら責任とるんかな、あの見栄っ張りで、意地っ張りで、嘘でごまかす売国奴のデマゴーグ、ヘンなおっさんは・・・とばかりに、実地検分だったのです!

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 こんな「観光トイレ」なんてムカシはなかったな〜

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 山頂直下には「毒キノコ」に注意、との看板もあり、旨い話には罠がある、ごまかされないよう、だまされないよう、おどらされないよう注意しよう、と気をあらためて締め直しました。

 山頂では初春の青空に映える黄色い香り豊かな蠟梅にすっかりろうばい、

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 山頂からロープウエイを使わず歩いて下ったアイスバーンの山路にすっかりろうばい、

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 宝登山神社ではなかなか固有名詞が出てこないのですが宝登山は当て字で、古来の日本人の火(ほ)を止(ど)めるに由来しちるんだよとろうばいしながらおしゃべり、

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 さらに下ったところでいただいた熱燗にほろ酔い気分、すっかりろうばいして迷子になって、荒川の岩畳できょろきょろきょろりん、ろうばいして固まっていたお 方若干一名、

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とハプニング続きでしたが、優しい仲間たち、笑顔でうなづきあっておられましたぁ〜。

 山はいいね、
 仲間は良いね。
 季節感の漂う自然のまっただなかの山路を歩くのはなんと気持ちのいいことか、
 日本はいいね、
 日本人はいいね、
 次回まで仲間の皆さ〜ん、風邪などひかずにお元気で、ごきげんよう!


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2017年02月11日

Flattery

 お問い合わせありがとうございました。
 まずはマレーシア紀行です。
 これはマレーシアの首都にあるクアラルンプール国際空港(KL International Airport、KLIA)に着いた時のターミナルの写真です。12月11日日曜日です:

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 もう懐かしくなっているペナン州の写真です。
 これはペナン州のジョージタウン、世界遺産の街からフェリーでマレー半島に渡ったペナン州のバタワース Butterworth にひろがる田んぼ、田園風景です:

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 ヤツホー君の大好きなペナン植物園(Penang Botanic Gardens)の写真を3枚。1枚目はエントランスで枯れた大木は「雨の木(レイン・ツリー)」。2枚目はバットレス(板根、buttress root)。3枚目はトラムが走る園内の風景です:

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 そしてヤッホー君が通っていたペナン図書館の駐車場に置いた愛車です:

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 そしてこれは今年お正月明け、ペナンを離れる1月29日日曜日のペナン国際空港(Penang International Airport)のターミナル内の写真です:

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 そしてお問い合わせの2点目。
 インドヒンドゥー教のお正月のお祭りについてですが、これは地元紙の次の記事と記事に貼り付けられている写真をご覧ください:

photo-1
Large crowds gathering at the bottom of the Arulmigu Balathandayuthapani Hilltop Temple in Jalan Kebun Bunga.

photo-2
Volunteers accompanying an elderly devotee shouldering a golden pole bearing the Vel of Muruga as other devotees carry paal kudam (milk pots) up to the hilltop temple.

photo-3
A group of devotees carrying kavadis bearing rooster designs in Jalan Utama.

photo-4
Devotees carrying out their vows as two friends encourage them in Jalan Utama.

photo-5
The silver chariot of Lord Muruga being pulled by a pair of bulls along Jalan Datuk Keramat in George Town, during the grand procession on the eve of Thaipusam. 

The Star, Published: Saturday, 11 February 2017
Spectrum of religious piety
http://www.thestar.com.my/metro/community/2017/02/11/spectrum-of-religious-piety-lensmen-capture-the-essence-of-thaipusam-with-devotees-fulfilling-their/

 そしてお問い合わせの3点目。
 アベノミステーク、トランプと会った肝心のアメリカのメディアはどう伝えたか、についてですが、少なくとも以下は要チェックですね:

Trump’s protectionist talk on trade stood to tank Japan’s economy, and his withdrawal from the Trans-Pacific Partnership stood to provide a boost to China in the region. Abe needed to develop a personal relationship with the new president−and fast. After all, Japan is no ordinary partner. The U.S. literally wrote its constitution, restricting its military for decades, and economic and military ties run deep.

At the time, Trump transition officials said the incoming president, who was looking to prove himself on the international stage, welcomed Abe’s eagerness. His daughter, Ivanka, was also present, simultaneously working to seal a deal to license her clothing line in Japan. Abe presented Trump with a $3,800 gold-inlayed driver.

Time, Published: Feb 10, 2017
Japan's Prime Minister Showed the Way to President Trump's Heart: Flattery
By Zeke J Miller
http://time.com/4667744/donald-trump-shinzo-abe-flattery/

 え〜と、手元にある英英辞典によりますと、Flattery は”insincere praise"
 例文としては:
”She uses a mixture of charm and flattery to get what she wants."

Abe, on a charm offensive, refrained from criticising Trump over the TPP. He hailed the US as a “champion of democracy” and Trump as “an excellent businessman” who had learned political skills during last year’s election campaign.

Although he nodded along and seemed to be listening intently, Trump was not wearing a translation earpiece during Abe’s remarks. Asked if Trump had worn an earpiece, Sarah Huckabee Sanders, the White House deputy press secretary, said: “I don’t believe during that time. But he did see the text and they spoke quite extensively before the remarks.” Trump did put a small speaker to his right ear during the question and answer session.On Saturday, Trump will host Abe and his wife at his luxury Mar-a-Lago Club in Florida. The two leaders are scheduled to play golf on Saturday. A White House official said Trump was paying for Abe and his wife to travel to Mar-a-Lago as a “gift” – sidestepping ethical concerns that his properties might profit from a foreign visitor.

Abe said modestly: “My score in golf is not up to the level of Donald at all.”

At the press conference Trump took only two questions from western media outlets: the New York Post and Fox Business Network, both owned by Rupert Murdoch, who has been supportive of his campaign and administration. There was no opportunity during the short question-and-answer session for reporters from other organisations to ask about the controversies swirling around Trump’s aides Kellyanne Conway and Michael Flynn.


The Guadian, Published: Friday 10 February 2017 22.37 GMT

Trump says he is considering 'brand new' immigration order after setback

President says he believes he will win court fight over travel ban as confusion reigns over whether he will appeal decision to supreme court

By David Smith and Ben Jacobs in Washington
https://www.theguardian.com/us-news/2017/feb/10/trump-travel-ban-new-policy-japan-shinzo-abe

posted by fom_club at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遠藤周作“沈黙”から50年

 今日2月11日土曜日、建国記念の日は、清洲城修繕委員会。
 ところで「明治大学発祥の地」(ヤッホー君のこのブログ、2月9日付け日記参照)。
 あそこは「肥前天草藩上屋敷」(碑文参照)。
 といえばイマからちょうど380年前の「島原の乱」だしぃ、それと松平家とはどういう関係にあったのかな、と:

 島原の乱とは、島原半島と天草諸島(熊本県)のキリシタン農民が主体となっておこした一揆のことです。

 300年以上の昔、島原や天草は、キリシタン(キリスト教)の中心地だったので、当時の幕府により厳しい宗門改め(キリスト教から仏教へ変えること)が行なわれていました。

 この時「キリスト教信者」かどうかを見極める方法がイエス・キリストや聖母マリアが彫られた木製あるいは銅板の板を踏んで確かめる「踏み絵」です。

 この時代、キリシタン弾圧だけでなく、天草領主「寺沢氏」、島原領主「松倉氏」は、財政難もあって年貢を増やすなどの負担を農民に強いていました。
 年貢負担をしぶればキリシタンとして弾圧されるという悪政に反抗し、ついに一揆が起こったのです。

 1637(寛永14)年、天草四郎を総大将として島原半島南部で一揆がおき、やがて、半島中に広がりました。

 海の向こう天草でも、天草四郎の出身地を中心に一揆がおこり、島原勢の応援を得て肥後国富岡城(熊本県天草)を襲いました。

 そして、両一揆勢は合流し、廃城となっていた「原城」(現在の南島原市南有馬町)に約3万7000人の農民が立てこもりました。
※ この時農民達が食べたのが早く食べられて、栄養がある「具雑煮」と伝えられています。

 幕府は、「板倉重昌」を派遣し、島原藩のほか近隣三藩に鎮圧を命じましたが、足並みのそろわない攻撃が続き、板倉重昌は戦死しました。

 そして、次に派遣された徳川家光の側近「松平信綱」は、全九州の大名を動員し、12万人で、原城を厳重に包囲して攻撃しました。
 この時に「二刀流」で有名な「宮本武蔵」もこの戦いに参加していました。

 幕府軍は一揆勢の食料がつきるのを待ち、1638(寛永15)年2月に総攻撃をかけ、「原城」に立てこもっていた子供をふくむほぼ全員を殺し、乱を鎮圧したのです。


島原青年会議所、島原半島キッズセミナリオ
島原の乱とは?
http://www.pine-o.co.jp/users/jc/christian/kids/sima-ran/setsumei.html

 キリシタン弾圧。。。首を斬る、火あぶり、槍で突くなんてあたりまえ、ヤッホー君の頭に三っつ、シーンがでてきます。
 雲仙地獄責めでしょ、簑踊りでしょ、それに穴吊り・・・

 幕府は、最初こそキリシタンを次々と殉教させていったが、崇拝の対象となる栄光の殉教者を作ることを良しとせず、拷問により棄教を迫ることに方針を切り替えた。
 これによりさらなる悲劇が生まれていくこととなる。
 一例を遠藤周作(1923-1996)『沈黙』(新潮文庫)で有名なフェレイラ神父の棄教で紹介しよう。

 1609(慶長14)年(将軍は徳川秀忠のころ〜1623年)日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように熱心に布教活動を行った。
 1614(慶長19)年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続することになった。
 その後フェレイラは日本準管区長として、潜伏司祭達の柱として活躍する。
 そんな彼も1633(寛永10)年(将軍は徳川家光のころ〜1651年)ついに捕らえられることとなった。キリシタン教界は彼が殉教するものと信じて疑わなかった。

 彼は、元天正遣欧使節の中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。
 「穴吊り」は、この時代最も過酷な拷問と言われた。
 その内容は、1mほどの穴の中に逆さに吊す、というものであったが、そのやり方は残酷極まりない。
 吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、などそう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。

 5時間に及ぶ拷問の末、フェレイラは転んだ。
 その棄教の時、吐いた言葉は「南無阿弥陀仏」であったという話がある。
 
 幕府は家康の祖法を守るため、仏教中心の思想統制を行なっていた。
 キリスト教否定のために仏教を用いるのが幕府のやり方であった。

 穴吊りで意識が朦朧とした者に刑吏が「念仏を唱えよ」と迫るのである。
 これが棄教した転びキリシタンに、どれほどの精神的苦痛を与えたかは計り知れない。

 転んだフェレイラを待っていたのは、さらなる生き地獄であった。
 江戸の小日向にある宗門改方・井上筑後守政重の下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることとなった。
 沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。
 そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに棄教をすすめ、宣教師との通訳を務めた。
 彼は1650(慶安3)年、長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた。
 ちなみに同じ時同じ拷問を受けた中浦ジュリアンは、穴吊りに屈せず殉教している。

 棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。
 火あぶり、、雲仙地獄責め、竹鋸引きなど、残酷な方法が採られた。
 「火あぶり」は、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。
他にも両手両足を引っ張って、回転させながらあぶることもあった。その際、口から煙が出たという。
 また「簑踊り」という火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いたのである。
 「雲仙地獄責め」というのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。
 「竹鋸引き」というのは、路傍の柱にキリシタンを括りつけ、首に刀傷を付けておく。そばに竹鋸を置いておき、通行人にそれを引かせた。竹鋸のため切れが悪く、苦しみが長引いた。
 ホントに人間のやることか、とか思ってしまう。
 他にも、木馬責め、切・支・丹の焼印押し、硫黄と灰を鼻に押しあて口を閉じさせる、前回書いた穴吊り、など苦しみが長くなかなか死なないような拷問が数多く採用された。
 これらの拷問を考え出したのは、島原領主松倉重政、唐津領主寺沢広高、長崎奉行竹中重義らであった。
 彼らの非人道的な拷問はキリシタンに、過酷な重税による圧政は農民達に、それぞれ反感を買わせ、それが島原の乱へと繋がっていくのであった。

 殺すだけなら斬首で十分、見せしめのためなら磔で十分である。
 このような残酷な拷問が行われたのは、キリシタン達の心を砕き殉教の栄光を味わわせないこと、凄惨な拷問を見せ他のキリシタンを棄教させることがねらいであった。
 またキリシタン宗は邪教であるから、どんな残酷な処刑も当然、というキリシタン邪教観を民衆に植え付けようとしたのである。

 そして幕藩体制固めのための神仏中心の思想統制と、鎖国の口実作りに、キリシタン禁制は大いに役立ってくれたのである。
 そのためキリシタンの処刑は残酷なだけではなく、神州が穢れる、と言う理由から、キリシタンの遺体は焼かれ、その灰は長崎の伊王島の沖まで持っていって捨てたという。

 幕府はキリシタンへの弾圧を強化する一方、段々鎖国体制を固めていく。
 日本人の海外渡航・出入国禁止、海外船の入港制限、外国人の日本国内移動禁止、混血児追放、などが段階的に押し進められていった。
 1639(寛永16)年のポルトガル船来航全面禁止で鎖国体制は完成する。
 この事態を打破しようとやって来たポルトガルの使者船に対し、乗組員を処刑、船を焼却したことから、その体制の厳しさがわかる。
 日本の周りは監視船が巡回し、外国船渡来に目を光らせ、発見すれば攻撃も辞さなかった。

 1614(慶長19)年の禁教令から1644(正保1)年までの30年間で、密入国しようとした宣教師は百名以上にのぼった。彼らは、キリシタン禁制がゆるく、流刑にあったキリシタンも多くいた東北地方などで布教を行なっていた。
 1629(寛永6)年までにフランシスコ会は東北で26000人の信者を獲得した、と自認しているし、1626(寛永2)年までにイエズス会も2万人以上の受洗者を獲得している。
 しかしそれも禁教令が強化されていく中、迫害は厳しく、殉教者、棄教者が次第と増えていった。

 1638(寛永15)年、イエズス会士で日本巡察使に任命されたアントニオ・ルビノは、転んだ(棄教した)フェレイラを立ち返らせようと、日本潜入を計画し二つの宣教隊を組織した。
 ルビノを含む宣教師5人と小者4人の一行(ルビノ第一隊)は、1642(寛永19)年マニラを出発したが、薩摩の下甑に着いたとたん捕縛され、長崎で全員が穴吊り刑で殉教した。
 一年後、日本管区長ペドロ・マルケスを頭とし、ジュゼッペ・キャラ(『沈黙』のロドリゴ神父にあたる人物)を含む10人の一行(ルビノ第二隊)は、筑前の大島で捕らえられ、江戸の切支丹屋敷に護送される。ここで彼らは立ち返らそうとしたフェレイラこと沢野忠庵に会っている。こちらは10人そろって棄教するはめになった。
 彼らはフェレイラと同じく、日本名を与えられ、妻を強制的に娶らされ、小日向の屋敷で生涯を送ることとなった。
 この内二人がキリスト教に立ち返ろうとしたが、一人は女囚の牢に入れられ(宣教師への拷問の一つ。女囚の牢に入れ、性的欲望を促し転ばせる)そこで病死。一人は家族(強制的に作られた)の反対により断念した。
 キャラは岡本三右衛門と名付けられ、フェレイラと同じ宗門改方となり余生を過ごした。
 10人の宣教師が全員棄教し、日本人にならされ、念仏を唱え、死して戒名をつけられた、というのは無残としか言いようがない。皮肉にも棄教した10人は、長生きしてしまった者が多い。
 キャラはこの小日向の屋敷で42年間過ごし、84歳で死亡。他にも80歳前後まで生きた者が3人もいた。人生50年の時代というのに。潜入当時21歳であった同宿トナトは、78歳、1700(元禄13)年(将軍は徳川綱吉のころ〜1709年」まで生きた。人生の三分の二以上を切支丹屋敷という名の生き地獄で過ごしたのである。
 この後65年間、1708(宝永5)年のジョヴァンニ・シドッティまで宣教師潜入は途絶えることとなる。


2008.6.6 Updated! たけちゃんのホームページ
キリシタン史 江戸初期の大迫害
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi3.html

 島原の乱鎮圧のため、徳川家光の側近、知恵伊豆「松平信綱」が派遣される、と。
 でこの松平家の江戸時代最後の藩主、松平忠和が明治法律学校の支援者で、上屋敷をに使えと提供した、と。
 しなみにこの松平忠和は、江戸幕府の最後の将軍、徳川慶喜の実弟。
 1851(嘉永4)2月12日、常陸 水戸藩主徳川斉昭の16男として生まれている、と。
が、天童藩の宮城ら三人の明治法律学校設立の支援者で、天童藩の宮城ら三人に上屋敷を校舎にせよとなったらしい。

 いやあ、なんだったのか、とヤッホー君、筆が止まったまんま。
 だって、この「明治大学発祥の地」をヤッホー君愛用のミラーレスのデジカメで撮ったあと、映画『沈黙』を観ているんですって。
 ヤッホー君のこのブログ、2017年01月21日付け日記“literary legacy”、
 さらには、2016年12月21日付け日記”hidden Christians”、いずれも英文記事ですが、辞書をひきひきお読みくださいな。
 映画『沈黙』について: 

『沈黙−サイレンス−』特別映像 | nippon.com
https://www.youtube.com/watch?v=wBwjy890lP4

俳優・イッセー尾形 映画「沈黙 -サイレンス-」 高田純次 日曜テキトォールノ
https://www.youtube.com/watch?v=fICBrWlZ2bE

こころの時代 「母なる神への旅〜遠藤周作“沈黙”から50年〜」
https://www.youtube.com/watch?v=xA3SQlb9vmI

映画『沈黙−サイレンス−』特別映像
https://www.youtube.com/watch?v=Xw3lmnFWZOk

映画『沈黙−サイレンス−』本予告
https://www.youtube.com/watch?v=0cUtOR-DL1A

映画『沈黙−サイレンス−』アメリカ版予告編
https://www.youtube.com/watch?v=M2e_JmGfRlc

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2017年02月10日

日本橋人形町

 銀座、ギンザ、ぎんざ・・・と言えば、人形町にもあってぇ〜、清澄白河駅近く霊巌寺には松平定信のお墓もあってぇ〜、松平定信というと寛政の改革だしぃ〜!

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 人形町・蛎殻銀座跡(かきがらぎんざあと)は、人形町通りと甘酒横丁の交差点の歩道に案内板が建っている:

 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所(ぎんざかいしょ)と
通用銀貨の検査や銀地金(ぎんじがね)の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。
 そして、その経営は幕府の直営ではなく、御用達(ごようたし)町人に委託しました。
 江戸の銀座は、慶長17年(1611)に現在の銀座2丁目の場所に置かれた。
 188年後の寛政12年(1800)6月に寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため、一旦廃止された。
 寛政12年11月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が発足されました。
 当時の地名が蛎殻町(かきがらちょう)だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治2年(1869)に新政府の造幣局(ぞうへいきょく)が設置されるまでの69年間存続した。

(平成9年3月 中央区教育委員会 案内板抜粋)


 蛎殻町は、漁師の小網の干し場であり、牡蠣(かき)の殻(から)が堆積した海浜であったことに由来した町名。
 又、時代劇で有名な大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)が、火の粉から家屋を守るために、牡蠣の殻を屋根で葺(ふ)くようにとのお達しがあったことからとも云われています。
 蛎殻町は、明治維新後になると米穀取引所(べいこくとりひきしょ)が設けられ、昭和初期に廃止されるまで全国の米相場の中心となっていた。
 戦後は、東京穀物取引所(とうきょうこくもつとりひきしょ)が開設された。

日本橋人形町観光ガイド
殻銀座跡(かきがらぎんざあと)
日本橋人形町1丁目5・6・7・17・18番地域

http://ningyou.3zoku.com/303-kakigaraginzaato.html

 さらに歩くと、「谷崎潤一郎 生誕の地」がでてきます:

谷崎潤一郎生誕の地(たにざきじゅんいちろうせいたんのち)
日本橋人形町1丁目7−10

http://ningyou.3zoku.com/301-tanizaki.html

 ではここで「細雪」!

 まずは佐久間良子 古手川祐子 吉永小百合で:
https://www.youtube.com/watch?v=_RMlNAeBCx8
https://www.youtube.com/watch?v=q7bP09BzRY0

 ついで五木ひろしで:
https://www.youtube.com/watch?v=qDubBaLultQ

 昨日は☔、外は細雪か、みぞれ舞う凍えるような寒い都心でした。
 今日も皆さまにとりまして、良き一日を

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2017年02月09日

明治大学発祥の地

 明治大学発祥の地って説明はあるのに写真が添付されてない!と、ヤッホー君のこのブログ、2月7日付け日記「銀座の柳」を読まれた読者から、ご指摘がありました。。。(すみません)。。。
 これです:

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 恒例となっている東京都南部支部(坂井道男委員長)主催の「明治大学発祥の地・記念碑祭」の第8回が1月22日、東京・銀座で催されました。
 まず、記念祭に先立って実行委員会の片山義則委員長、廣野宏士、阿部剣朗副委員長らメンバー有志が、明治14(1881)年に旧備前島原藩主松平氏の上屋敷のあった当時の麹町区有楽町に開校した明治法律学校の跡地で、千代田区有楽町2の2に1995年11月2日建立した記念碑の清掃を行いました。
 そして、記念碑祭が午前11時からほど近い東京・銀座のフォーエタニティで100人を超す参加者を集めて盛大に催されました。
 まず、特別講演として長沼秀明兼任講師による「矢代操に見る大学教育の原点」があり、あらためて明治法律学校の発足や存在の意義が語られ、記念碑にちなんでそれぞれが母校への想いを重ねました。
 そして、ご来賓の柳谷孝理事長(注1)や土屋恵一郎学長(注2)、そして、記念碑除幕式にも立ち会った石川雅己千代田区長(注3)などから祝辞をいただき、向殿政男会長(注4)の乾杯の音頭で祝宴に入りました。
 会も半ばで11月18日に開かれる第53回で本土復帰45周年記念でもある全国校友沖縄大会の案内が沖縄県支部の宮里博史支部長、長濱弘真実幹事長からあって、「めんそ〜れ沖縄(ウチナー)いちゃりば兄弟(チョーデー) 明治はひとつ」を合言葉に参加を約束し合いました。
 最後は廣野氏のリードで高らかに校歌を斉唱し、今年で136年目を迎える母校の伝統を噛みしめました。


2017.01.24 明治大学校友会
第8回明治大学発祥の地記念碑祭を開催
http://meiji-shikon.net/?p=5725

 それに日記に書いた「ニユートーキヨー」ビルなる建物はもうないぞ、とも。。。(すみません)。。。

 再開発にともなって、77年間営業をし続けたニユートーキヨー数寄屋橋本店のビルが取り壊される。最後の約一ヶ月、さまざまなキャンペーンが行われるそうだ。かつては銀座のランドマークであった老舗ビアホールでいただく「復刻ビール」と「カミカツ」は絶品だった。

2015年2月9日更新、All About NEWS「昭和を振り返る散歩ルート」
閉店・移転するニユートーキヨー数寄屋橋本店へ
散歩ガイド 増田 剛己
https://allabout.co.jp/gm/gc/451652/all/

(注1)新理事長の就任について
https://www.meiji.ac.jp/koho/news/2016/6t5h7p00000lcuxi.html

(注2)明治大学の次期学長が決定、土屋恵一郎教授(法学部)が就任
https://www.meiji.ac.jp/koho/press/2015/6t5h7p00000kqs33.html

(注3)石川雅己千代田区長
 石川氏は1963年に都庁に入庁。75年に千代田区役所へ企画課長として出向した。

「この時から、都議会自民党のドン内田に見込まれた」(元都庁幹部)とされる。都庁に戻ってからは港湾局長、福祉局長などを歴任して99年に退職。首都高速道路公団理事を務めた後、2001年に千代田区長選に初当選して以降、今回で5期目を迎える。

 石川氏が築地市場に関わったとされるのは95年6月、港湾局長就任時だ。

 この年4月に行われた都知事選で、臨海副都心地区で開催が予定されていた世界都市博覧会の中止を公約に掲げた青島幸男氏が圧勝。青島氏は公約を守って同年5月31日に都市博の中止を発表した。

 臨海副都心開発の起爆剤とされた都市博の中止により、多くの企業が予定していた開発計画の見直しを余儀なくされ、後に豊洲市場用地を都に売却した東京ガスも例外ではなかった。

 築地市場幹部が語る。
「東京ガスが豊洲に計画していたのは、レインボーブリッジから豊洲に橋をかけるというマンハッタン・ベネチア構想といわれるものでしたが、都市博中止で頓挫。東京ガスは同時に計画されていた豊洲の護岸強化工事などを進めていましたが、都が撤退したことにより、約60億〜70億円の工事費を自前で拠出しなければならなくなった。その時に助け舟を出したのが、監督官庁でもある都の港湾局長(当時)、つまり石川千代田区長でした」

 街づくりを手掛けていたのは東京ガスの子会社、東京ガス豊洲開発(現在は東京ガス用地開発)だった。

「当時の東京ガス幹部が豊洲の所有地に公的な施設を誘致すれば、莫大な工事費が減免できるのではないかと考え、港湾局長の石川さんに相談した。石川さんが目をつけたのが、築地市場の移転でした。石川さんが初めて築地の豊洲移転の構想を提案したのです」(同前)

 築地市場は当時、現在地で営業しながら再整備を進める方針を決定し、工事も始まっていた。

 しかし、95年秋になると、この方針が急変したのだ。95年10月に水産卸など3団体が築地市場再整備の工事促進を求める要望書を提出していた。

 ところが11月には、逆に買荷など3団体が工事見直しの要望書を出している。

 このわずか1カ月の間に何があったのだろうか。

「もちろん、石川局長だけで市場移転の話が進むはずもなく、95年夏頃、番所(宏育)築地市場長(当時)、自民党の政治家らが秘密の会合を持ったとされています。この時から築地再整備の流れがガラリと変わった」(築地市場関係者)

 95年夏には青島都知事の特別秘書を務めていた辺見廣明氏が市場関係者らとの面談の席で、「いまは豊洲への移転の方向で動いている」と言い出し、市場関係者らを驚かせたという。

「築地市場ではまだ豊洲の『と』の字も出ていません。本当にびっくりした」(別の築地市場関係者)

 辺見氏に真相を確かめると、次のように語った。
「95年夏にそう話したことは覚えていないが、当時から豊洲が移設先という話は聞いていました。石川氏がどの程度関与していたかはわかりませんが、彼は自民党の内田都議と仲が良く、業者との蜜月が過ぎるという噂が絶えなかった。このため青島知事の判断で港湾局長職は1年間だけで代わってもらい、福祉局長に就いて頂いたという経緯がありました」

 青島知事時代に副知事を務め、市場を担当した植野正明氏もこう振り返る。
「番所築地市場長が、築地は豊洲へ移転しなければならないという趣旨の話をあちこちで吹聴していたので、『市場長の立場で言うべきことではない』とクギを刺した覚えがあります」

 番所氏を直撃したが、「もう引退させて頂いておりますから」と語るのみだ。

 長年にわたって築地市場移転問題を取材しているジャーナリストの池上正樹氏もこう話す。
「都は市場の人たちには内緒にしたまま、港湾局主導で調査や交渉が行われていたのです。95年7月に臨海地区を調査し、8月に初めて豊洲の名が移転候補地の一つとして挙がったのです。築地再整備と並行して、移転先が模索され始めた。しかし、そもそも臨海再開発失敗による財政悪化で、築地を売却して移転させるしかなくなったのです」

 都が臨海地区の調査を始めたのは、石川氏が港湾局長だった時と重なる。

 ところが、都が秘密裏に進めていた豊洲への移転の調査や交渉が、市場の卸、仲卸など業者たちの知るところとなる。

 寝耳に水の話に、業界6団体は態度を硬化させる。対処に当たったのは、番所氏の後任の市場長の宮城哲夫氏だった。
「豊洲は40ヘクタールもあって広いし、いい場所を見つけたと思った。だけど市場の卸とか仲卸の組合は理事長が推進派か反対派かで、方針が変わるんです。私の時もまとめ切れなかったですね」(宮城氏)

 都が改めて、各業界団体に意思の確認をしたところ、移転推進派と反対派に真っ二つに分かれた。

 都は一転して「現時点で移転可能性は極めて困難」と判断せざるを得なかった。

 01年、千代田区長選出馬を控えた石川氏は内田事務所に立ち寄り、市場関係者に悔しげにこう漏らしたという。
「(豊洲移転を)番所(市場長)の野郎がベラベラしゃべっちゃったからダメになったんだ」

 内田氏と蜜月だったころのエピソードだが、いまや石川氏は内田氏と袂を分かって敵対関係にある。


2017年2月17日号「週刊朝日」より抜粋
市場幹部ら激白「石川雅己氏は港湾局長時代、東京ガス側に“移転”を提案」
https://dot.asahi.com/wa/2017020700044.html

(注4)校友会2015年度定時代議員総会、向殿政男会長を再任
https://www.meiji.ac.jp/koho/meidaikouhou/201509/p01_02.html

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日本人医師、肥沼信次

 ヤッホー君のこのブログ、からっ風、北風でも吹いたかと思うほど一時、強風が吹きアクセスした読者がなんと2000人に近づいたのは2月5日(日)のことでした。
 ブログの記事は、2011年03月02日付け日記「リーツェンの桜」でした。
 どうして?
 ある読者が教えてくれました:

 こんにちは!昨日の強風は酷かったです。
 ルーツェンの桜の話が良すぎて、あれからスマホを開いて見たりしました。
 日曜日の5日に日テレで放送されたのですね。それをみた1人が感想を寄せていました。
 肥沼信次のドイツでの足跡をある俳優が訪ねる番組だったようで、見たかったです。
 今度、本を読んでみようと思ってます。


 そうだったんですかぁ〜

ドイツ人が神と慕う日本人医師 肥沼信次(1908年10月9日-1946年3月8日)リーツェンの桜 
https://www.youtube.com/watch?v=ki9-NPyG2Ds

 八王子市出身で、第二次大戦後のドイツで感染症対策にあたり現地で死去した医師、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)博士(1908〜46年)の現地の墓前にそなえてもらおうと、市民らでつくる「Dr・肥沼の偉業を後世に伝える会」(塚本回子代表)の会員ら約300人が千羽鶴約2600羽を折り、同市の石森孝志市長に手渡した。

 肥沼博士は同市中町にあった医院で生まれ、日本医科大に進学。1937(昭和12)年にベルリン・フンボルト大学の研究所の客員研究員となり教授の資格も取得した。終戦後も旧ソ連軍の命令で感染症が発生していたベルリン近くのブリーツェン市で医療活動を続けたが、46年に自身もチフスにかかり現地で亡くなった。
 同市は94年、市民への献身的な活動をたたえて博士を名誉市民にした。

 昨年2015年の秋、博士の活動を知った八王子市民12人が会を結成。八王子市内に顕彰碑を建てる要望活動などを始めた。千羽鶴も活動の一環で、ドイツと交流のある私立八王子学園八王子高校や、博士の出身校の市立第三小などにも呼びかけ、会員に加え生徒、児童らも鶴を折った。

 2月に同会の塚本代表や同小の吉村潔校長、同高の教諭らが市役所に石森市長を訪問し鶴を手渡した。塚本代表は「多くの人のために生きた博士の存在を知ってもらいたい。また、戦争のため、故郷に戻れなかった博士を通じて平和への思いも感じてほしい」と話した。同市は千羽鶴に石森市長のメッセージを添え、70回目の命日にあたる8日までにドイツに送ることにしている。


2016年3月1日付け毎日新聞・地方版、黒川将光
肥沼信次博士
墓前に千羽鶴を 終戦直後の独で感染症と戦い病死 市民団体、八王子市通じ贈る/東京

http://mainichi.jp/articles/20160301/ddl/k13/040/229000c

 佐々木蔵之介が先ごろ、読テレ「ドイツが愛した日本人 −佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語−」(5日午後3時〜)の取材会を都内で。現地で没した日本人医師に着目し「ぜひ多くの方に知ってほしい」

 俳優の佐々木蔵之介(48)が先ごろ、都内で読売テレビ・日本テレビ系で5日に放送されるドキュメンタリー特番「ドイツ人が愛した日本人 −佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語−」(午後3時〜、一部地域を除く)の取材会に出席した。
 
 日本を離れ、現地の人々のために尽くした知られざる日本人の偉業に迫る番組で、昨年2月に放送した「キューバが愛した日本人 〜向井理、最後の楽園へ〜」に続く第2弾。

 第二次世界大戦時のドイツ・ヴリーツェンで人々をチフスの猛威から救った日本人医師、肥沼信次氏の足跡を追っている。
 
 佐々木も「番組のオファーがあるまで、知らなかった」という人物だが、現地では献身ぶりが死後70年の今も語り継がれているという。「日本に帰ることもできたのに、ドイツに残って、食料も飲み物も火も電気もない焼け野原で、自分でベルリンから薬を運んで、命を賭して住民の命を救った。自分も半年後に(30代で)死んでいる。ぜひ多くの方に、知ってほしい」と熱く呼びかけた。
 
 ロケは昨年12月14日〜19日まで、ドイツ各地で。
 すべての撮影が終わり、食事をしていた際、ドイツの首都、ベルリンのクリスマスマーケットにトラックが突っ込むというテロがあった。佐々木は「コーディネーターの方がスマホを見て、テロがあったことを教えてくれた。取材した現場でした。翌日、起きて現場に行ったら、報道陣がいて、規制線が張られていて……、命の大切さをあらためて感じましたね」と、静かな口調で振り返った。


2017年2月1日10:00、日テレNEWS24
佐々木蔵之介、ドイツで献身した医師に迫る
http://www.news24.jp/articles/2017/02/01/08352975.html

 俳優・佐々木蔵之介が出演する読売テレビ・日本テレビ系『ドイツが愛した日本人 〜佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語〜』が、5日の午後3時より放送される。第二次世界大戦のさなか、ドイツの地方都市・ヴリーツェンで自らの命と引換えに人々を救い続けた日本人医師・肥沼信次さんの足跡を追うドキュメンタリー番組。12月中旬には実際に現地に足を運んだ佐々木だったが、ベルリン中心部のカイザー・ヴィルヘルム記念教会では訪れた二日後にテロ事件が発生。命の重みを強く実感することとなったドイツロケを振り返った。

 肥沼さんは第二次世界大戦前夜の1937年にドイツに渡り、名門・フンボルト大学に留学。戦況が悪化する中、その功績を認められアジア人初の教授資格を得るかと思われたが、39年に開戦した第二次世界大戦の戦況が悪化し、その夢は叶うことはなかった。大使館から日本人に帰国を促す指示が出る中、肥沼さんはドイツに残り、北東部のポーランドとの国境に近い古都・ヴリーツェンへ。十分な薬もない中、伝染病の発疹チフスに苦しむ人々の治療にあたり続けた。

 佐々木はドイツ訪問前、ナチス台頭の時代に同性愛者迫害をテーマにした舞台『BENTO ベント』に主演していたこともあり、「肥沼さんの足跡はぜひたどってみたいし、とても興味があったので、すぐに引き受けました」とオファーを快諾。肥沼さんが歩んだ道のりを追ってヴリーツェンやブランデンブルク門、ベルリンの壁などを訪れた。

 そして当時、ドイツで一番有名だというクリスマスマーケットが開催されていたカイザー・ヴィルヘルム記念教会周辺でロケを行った二日後の晩、最後のカットを撮り終え現地でスタッフとともに食事をしていた佐々木の元に舞い込んだのは、同所で発生したテロ事件の一報だった。

 「クリスマスマーケットをあちこちでやっていて、本当にきれいなんですよ。マーケットを取材した日の夜、日本の大使館に行きまして、お話をさせていただいた。その時に『人混みは気をつけて』という話もして…その翌々日ですね。ブランデンブルク門で最後のカットを撮って、夜の食事に行った時にコーディネーターが『あっ、テロがあった』と…。『あそこだ。どういう事だ』と…」。ちょうど佐々木が歩いた場所の通りを挟んだ向かい側にトラックが突っ込んだ。

 「翌日、帰路のフライトはお昼出発だったので、朝、起きてもう一度そこに行きました。警察、中継車が来ていて、各国からの報道陣もいっぱいいました。あんなに楽しかった所でこんな残念な事が起きるなんて…。なんでこんな事で人の命が…と思いました。悔しいです」と無念さをにじませた。

 肥沼さんの存在を知り、墓を守り続ける現地の人とふれあい、その偉業を確かめつつも間近でテロの恐怖を実感した佐々木。「僕がここで何か言うことでもないですけど、番組を見ていただいたら、命の大切さ、命の尊さは感じていただけるのではないだろうかと思います」と力を込めていた。


2月1日(水)06時00分配信、
佐々木蔵之介、命の尊さ実感した独取材 ロケ2日後にテロ事件
http://www.tv-tokyo.co.jp/e_news/entertainment/entry/70131.html

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2017年02月08日

Jose Rizal's Japanese Girlfriend

 昨日2月7日の徘徊、いやあ、びっくりしました。
 ヤッホー君の日記、まだ続くようです:

 東京・日比谷公園の心字池の近く、フィリピン独立の先駆的指導者ホセ・リサールの胸像は建っている。ひっそりとした感じである。
 建国の礎となった英雄であり、マニラにある記念碑には外国からの国賓、要人が訪ねる。1月にフィリピンをご訪問の天皇、皇后両陛下も供花される予定という。
 彼はごく短期間ながら明治の日本に滞在し、親日感情が強かったと伝えられる。後年、遠く海を隔てた東京にも像が建てられたゆえんだ。
 リサールはフィリピンがスペインに植民地支配されていた1861年、ルソン島に生まれた。欧州に留学して医学、文学、語学など多様な分野を修め帰国。不屈の民族意識と改革志向は支配層に危険視され、再び欧州へ渡る。途中寄ったのが日本である。
 1988(明治21)年、日本が憲法制定準備を急ぎ、不平等条約の改正に懸命なころだ。
 在日スペイン公使館の監視を受ける立場ながら、リサールは英語通訳の日本人女性「おせいさん」を通して日本社会や人々に接し、京都や大阪などへも旅行する。
 木村毅(き)編著「ホセ・リサールと日本」(1961年、アポロン社)によれば、その間、歌舞伎見物をし、柔道のてほどきも受けた。リサールの旺盛な探求心と、応じる日本人たちの優しさ、親切さもうかがえるのである。
 1カ月半の滞在だが、彼の短い生涯の中でも特筆すべき思い出となる。96年、危険を承知で帰国したが、後にマニラで銃殺刑に処せられた。
 中国やインドなどアジア各地から、留学生や当局の追及を逃れた革命家を受け止めた明治期の日本である。その好印象や友好の感情を育んだのは、多くは歴史に名を残さない人々だった。
 いま公開中の映画「海難1890」で描かれるトルコ軍艦遭難と漁民らの献身的な救助は、リサールが見たほぼ同時代の日本での出来事だ。
 日露戦争の日本海海戦では沿岸にロシア水兵らの救助の話が残る。例えば現在の島根県江津市和木町では、荒波の中漂着したロシア艦乗組員235人を漁民らが総出で救い、食物や衣服も提供した。
 この日を記念した行事「ロシア祭り」が続けられ、これまでロシア側からの参加者もあった。
 10年前、海戦100周年を区切りにいったんやめたが、住民から「先人が残した人類愛は子や孫に語り継ぎたい」と声が上がり、復活した。
 今の世であればこそなお、その灯はともし続けてほしいと思う。


2015年12月8日付け毎日新聞・東京朝刊
日比谷公園の胸像
火論=玉木研二 http://mainichi.jp/articles/20151208/ddm/003/070/099000c

 2016年1月、天皇、皇后両陛下はあの15年戦争で死んでいった兵士たちの慰霊と平和への希求の旅にフィリピンを訪問した際、ホセ・リサールの記念碑にも供花されておられました:

Japanese Emperor and Empress wreath lay at Rizal Monument and Libingan ng mga Bayani
https://www.youtube.com/watch?v=jVGczZctjZg

 ところで、この日本人女性「おせいさん」って誰?
 肖像画がマニラのリサール記念館にあります:

Oseisan2[1].jpg

If only Jose Rizal had no patriotic mission and no political will, he would have married her and settled in Japan for good.  
 
It was during Rizal’s second trip abroad when he met Seiko Usui. From Hong Kong, he arrived in Japan in February 1888 and moved to the Spanish Legation in the Azabu district of Tokyo upon the invitation of an official in the legation.
 
One day, Rizal saw Seiko passing by the legation in one of her daily afternoon walks. Fascinated by her charm, Rizal inquired and learned from a Japanese gardener some basic information about her. The next day, Rizal and the Japanese gardener waited at the legation gate for Seiko. Acting as a go-between and interpreter, the gardener introduced the gracious Filipino doctor and the pretty Japanese woman to each other. The gardener’s role as intermediary was cut short however when Seiko spoke in English. She also knew French, and so she and Rizal began to converse in both languages.


Posted Tue, 08/06/2013 - 09:31 by Our Happy School admin
Seiko Usui: Jose Rizal's Japanese Girlfriend
By Jensen DG. Mañebog
http://ourhappyschool.com/history/seiko-usui-jose-rizals-japanese-girlfriend-0

A popular song among ex-couples, who had let go of one another for the reason that breaking apart is the right thing to do, is “Somewhere Down the Road”. It’s lyrics tells the story of a love that was lost, but one that still clings to the hope that someday and somewhere lovers who fell apart will find themselves in each others arms again. It was written by Cynthia Weil and Tom Snow recorded in 1981 by Barry Manilow (note).

If O-sei-san were still alive in the 1980’s, she could have dedicated this song to Jose Rizal, as she had to let go of Rizal in order for him to fulfill his dream for his country. Rizal could have lived longer and established his own family had he opted staying in Japan with O-sei-san. However, Rizal made a great sacrifice when he chose to return to the Philippines and devote his precious life for his fellow countrymen.

It was only in recent years that interests have arisen to unravel the mystery of Rizal’s Japanese love- ‘Osei-san’. His relationship with O-sei-san and his residence in Japan for over a little month has been one of the highlights of Philippine-Japan relations.  Leonor Rivera may be Jose Rizal’s greatest love as she was his girlfriend for quite long years. However, their relationship did not last as Rivera was forced to marry an English Engineer named Charles Kipping. On the other hand, a Japanese maiden named Seiko Usui (Osei-san) had loved Rizal like no other woman.

Novelist historian Ki Kimura helped the Philippine embassy in Japan to identify the Japanese girl that Rizal had love in his short stay in the Land of the Rising Sun. Mr. Kimura’s quest for the identity of Osei-san started during the war when he was dispatched to the Philippines by the Army Air Force to write for a Japanese newspaper. His frequent visit in the the National Library to look into Rizal’s diary and other documents was a success as he found the photo of Osei-san which was said to have been preserved by Trinidad, Rizal’s younger sister. O-Sei-San must be very special to Rizal that he had kept a photo of her.

Rizal left Hong Kong for Japan aboard the S.S Oceanic to accept the invitation of Don Juan Perez Caballero, secretary of the Spanish Legation, to live with him in February 1888. He was offered a position in the Spanish Legation with a handsome salary of P100 a month. Jose Rizal penned a letter to his family in Calamba in which he described Yokohama as a town inferior to Manila in respect to outside appearances. He stayed at Grande Hotel in Yokohama. The next day, he went to Tokyo and stayed at Tokyo Hotel, located inside the Hibiya Gate, from March 2 to 7, 1888. He left Tokyo Hotel and resided with Perez Caballero in the Spanish Legation in Azabu, Tokyo Japan.

In his first days in Tokyo, Rizal found difficulty in communication with the Japanese because only few could understand English.  Hence, he spent a month and a half in learning the language, Japanese art, judo, theater (kabuki), and music. He also learned the Japanese way of life, their customs and progress. Rizal admired the industry, courtesy, cleanliness of the Japanese.  He found out their homes clean, that beggars were rare, but he could not stand the sight of human beings pulling cars (kuruma). He was surprised to discover that many members of a Japanese brass band were not Japanese but Filipinos. While in Tokyo, Rizal marveled at the architecture of the shrines and temples. He frequented the National Museum to appreciate Japanese fine arts. He also visited Meguro, Nikko, Miyanoshita, Hakone and other cities.

Rizal was entertained by Kabuki plays in Tokyo and Osaka. He appreciated the play Sendaihagi in which Masaoka, court-nurse of a daimyo, played by Kikuguro saves her young lord’s life at the sacrifice of his son.  In Osaka, he watched the Chushingura and was inspired by the chivalrous spirit of Amagawaya Gihei who placed allegiance on top of his life and even his son’s.

One spring afternoon, Rizal set his eyes on a beautiful Japanese woman who passed by at the Spanish Legation. His eyes were captured by her charm and lovely face. Rizal went on asking information about the name of this woman whose beauty captivated him. Finally, he learned from the gardener that her name was Seiko Usui and she took a walk every afternoon near the legation.

Rizal did all means just to introduce himself to Seiko. Seiko was born in 1865, three years before the Meiji Restoration, in Edo (now Tokyo) to a samurai, who became a trader in Yokohama after the Restoration. The Japanese lady was impressed with Rizal’s wit and charm and eventually their admiration for each other developed into a romantic bond. Rizal was 27 and O-Sei-San was 23 when they met. Osei-san conversed in English and French with Rizal, thus, it removed the language barrier. From thereon, the two meet everyday and they visited all interesting places in the city. She helped Rizal understand the Japanese language and also related to him the culture of the Japanese. O-sei-san was truly an epitome of a high-cultured Japanese woman.

This short-lived residence in Japan proved to be one of the happiest days in Rizal’s life for he was not only fascinated with the sceneries in Japan but he also fell in love with O-Sei-San. Their love came to an end when Rizal had to leave. His heart was filled with grief as he bid sayonara to O-Sei-San.  Rizal left Japan for San Francisco on board the English ship Belgic in April 1888. A day before he left Japan, Rizal wrote in his diary his regret for leaving, and his longing for the love of O-sei-san.

“. . . O-Sei-san, sayonara, goodbye! I have spent a lovely golden month; I do not know if I will have another one like it in all my life. Love, money, friendship, esteem, privileges… no woman like you has ever loved me..no woman has made such sacrifices as you have…you shall never know what I still think of you, and that your image lives on in my memory..when shall I return to spend another divine afternoon like that in the temple of Meguro?..when will the sweet hours I  spent with you come back?…everything is at an end! Sayonara, goodbye!

Rizal might not have left a promise that he will return to Japan to be with O-Sei-San which was probably the reason that Seiko got married to another man. She became the wife of Englishman, Alfred Charlton, who was an English teacher in the Peer’s High School, then the Yamaguchi High School in Imaguchi, and later taught chemistry in the prestigious Gakushuin High School. He was decorated with the Japanese Order of Merit, 5th class, as indicated on his tombstone. Charlton and Seiko had a daughter named Yuriko who married the son of a senator named Yoshiharu Takiguchi. They had a son (no name) who was a Japanese diplomat assigned in Geneva. Charlton died in 1925 while Seiko survived World War II. Seiko died on May 1, 1947 in Hagi City in Yamaguchi Prefecture in Western Japan where she relocated during the war from Tokyo to avoid the bombing. She died at age 80.

On December 30, 1960, officials of the Philippine Embassy in Tokyo placed a bouquet of flowers on a grave at Zoshigaya Cemetery in Tokyo. The inscription of the tomb reads: “Alfred Charlton and his wife Sei-Ko”


National Historical Commission of the Phillipines, Posted on September 4, 2012
THE SONG OF O-SEI-SAN
By Quennie Ann J. Palafox 
http://nhcp.gov.ph/the-song-of-o-sei-san/

 とは違って、こんなお話しも:

 比島の偉人ホセ・リサール博士を恋ゆえ親日家にした謎の女性“おせいさん”比島のリサール研究家が待望している“おせいさん”は「どうも私の血族の者らしい」と本社の木村毅特派員がマニラから寄せた記事にある写真によく似た婦人の写真と戸籍謄本を携えて昭和17年4月17日、本社浜松通信部に名乗り出た人がある。

 父の生前語っていたこと、家に残って居る写真等から判断してどうも新聞に出ている“おせい”という人が自分のをばさんのように思えるが、何分私などが生れない以前のことでありさっぱり判りません。「袴田」という姓が出ておれば間違いないのですが、その姓を何んとかして調べて頂くわけにはゆきませんでしょうか。とに角明治22、23年ごろまで横浜にいたことは確で、その後外国へ渡る時に難船したといわれておりますが、生死がわからないので除籍することも出来ず全く弱っております。

 戸籍上からは“おせいさん”の甥に当る静岡県浜名郡新居町新居221、現住所浜松市佐藤町袴田幸吉氏(48)だ。“おせいさん”も今生きていれば86歳のお婆さん、しかも若いころに故郷を出ているので幸吉氏は“おせいさん”の面影を知る由もなく、ただ父親小八氏(73)からこれが戸籍上生死不明となっている自分(小八氏)の姉であり、お前(幸吉氏)のをばさんに当るおせいさんの若い頃の写真だと云われて父から貰ったのがこれです、と古ぼけた一葉の写真を示した。

 その小八氏は例の浅蜊猛毒事件で去る昭和17年3月31日死亡し“おせいさん”を知る唯一人の生存者は彼女の幼友達であった新居町高見区洋服仕立商太田憲一氏祖母だいさん(87)だけとなった。だいさんは新聞の写真を一目見て、額の広いところ、鼻筋の通った眼ざしの涼しいところ、髪の結い方、非常に美人だったあの私の友達だった“おせいさん”に間違いない、私より一つ年下だったから生きておればもう86歳のお婆さんでさ
と太鼓判を捺した。だいさんが語る“おせいさん”とは次のような女性であった。

破婚の秋結ぶ恋 幼友達が語る半生
 箱根に次ぐ関所と漁師の宿で知られた浜松市新居町に網元であり船主の袴田又吉さん、よしさんとの間に長女として(安政4年7月16日)出生したのが“おせいさん”だった。しかし母よしさんが先夫との仲に生れたまきさん(安政3年生れ)を連れ子で嫁いで来たので、“おせいさん”は異父の姉娘まきさんと弟小八さん(明治3年生れ)、妹はるさん(明治6年生れ)という4人姉弟で富裕な家庭に育まれていたが、異父の姉娘まきさんが14歳(明治元年)の春、横浜の南京屋敷(当時外人居留地の総称)に働いていた実父の元に引きとられ、“おせいさん”は19歳の秋(明治8年)土地の船大工芳さんと同棲3年ばかりして、一人の愛児まで生れたのに夫芳さんに捨てられ、加えて愛児にも死別し、若き寡婦生活をするうちに、“おせいさん”の性格が一変するときが来た。

 それは横浜に行った異父の姉娘まきさんが明治12年の彼岸過ぎに先祖の墓参にあでやかな姿で故郷の新居町へ帰って来て、親戚の誰れ彼れに「お土産代りよ」と札ビラを切った、そのあでやかな振舞いを見詰めていた“おせいさん”は、夫に裏切られ、愛児を奪われた矢先きであり「どうせ暮すなら花やかに…」と23歳になったその年の秋、8歳になる妹はるさんを伴って、憧れの開港地横浜へ、それから妹はるさんは、伊勢佐木町の伯母へ預け、姉まきさんの口添えで南京屋敷勤めをすることになった。

 こうして花やかな生活を続けるうちに、ときたまたま明治21年の春、リサール博士が日本に来て、僅かの間であるが“おせいさん”と恋におち、その比島人は支那大陸研究調査のため間もなく横浜港を出帆したので、後を追って23年、34歳の春、日本で最初の無電汽船だという沖縄丸で支那へ渡ったが、愛人にめぐり合わず、後をしたってフィリッピンへ渡ったとまで伝えられるが、その後の消息は杳として絶たれているというのだ。


神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア諸国(13-104)
大阪毎日新聞 1942.4.23(昭和17)
おせいさんの一生 リサールの研究家ヘ新事実
博士慕って比島へ? 『私の伯母らしい』と本社へ報告

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentView

(note)
Somewhere Down The Road - Barry Manilow
https://www.youtube.com/watch?v=OFpVCCzaVwY

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フィリピン独立運動の父、ホセ・リサール

 今日、6月12日は、フィリピンの人たちにとって大きな意味を持つ日です。
 111年前(1898年)の今日、「エミリオ・アギナルドーEmilio Aguinaldo」というフィリピン独立運動の指導者が、3百年以上続いたスペイン統治(植民地)に終止符を打つべく、フィリピンの独立を宣言しました。
 その前年1897年末、スペインとの和平協定を結んで香港に亡命、一旦は独立運動から離れたアギナルドでしたが、翌1898年2月に勃発した米西戦争(アメリカとスペインの利権争い)で事態が急変します。アメリカから、フィリピンの独立に全面協力することを条件に、米西戦争に協力するようにとの要請を受け入れたアギナルドは、米艦隊とともにフィリピンに帰国し独立運動を再開、この6月12日の独立宣言となったのでした。
 アギナルドは、その翌1899年1月にフィリピン共和国を樹立、初代大統領となりましたが、実はその1か月前にスペインとアメリカとの間で結ばれたパリ講和条約で、フィリピンの領有権がスペインからアメリカに、約2千万ドルで売却されていたのです。
 実質は、戦後1946年7月4日に第3次フィリピン共和国として独立するまで、アメリカの統治下(1942〜1945年の3年間は旧日本軍の占領下)にあった訳ですが、フィリピン国民にとっては、その6月12日が「独立記念日−Araw ng Kalayaan(Independence Day)」として大切にされており(祝日)、毎年記念行事が盛大に行われています。現在の国旗と国歌も、その時にアギナルドの依頼によって作られたものです。

 そして、そのスペインからの独立運動の闘士として、フィリピンの国民的英雄とされているのが、「ホセ・リサール博士−Dr.Jose Rizal」です。
 スペインの圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状、諸問題を厳しく告発した『ノリ・メ・タンヘレ−Noli Me Tangere(我に触れるな)』(1987)と、『エル・フィリブステリスモ−El Filibusterismo(反対者)』(1891)の二つの著書は、フィリピン独立への気運を高め、自らも1892年に「フィリピン民族同盟」を設立して、フィリピン人の奮起を促そうとしますが、まもなくスペインに対する反逆罪で逮捕され、ミンダナオ島のダピタン(Dapitan)へ追放されました。その流刑の地にあってさえも、四年間、リサール博士は病院と学校を作り、住民の啓蒙に努めました。

 「学校を苦痛の場所ではなく、知的な楽しみの場所にしよう」
 「何よりもまず、子供たちに、自信、安心、自尊の心を教え込む事が大切だ」
 「私は大衆の福祉を愛する。だからこそ学校を建てるのだ。その幸福を、教育を手段として、順を追った前進によって私は追及していく。光のないところに道はない」
。。。博士の強い意志で建てられたその学校で教わった生徒たちは、後に各方面でのリーダーとなり、博士の教えを周囲に伝授していったそうです。
 1896年7月、流刑生活が終わり、キューバでのスペイン軍医を志願してスペインに渡りましたが、フィリピンでは「カティプナン」による独立闘争が開始され、その扇動容疑でスペイン到着と同時に逮捕されてしまいます。マニラに送還され、サンチャゴ要塞(Fort_Santiago)に投獄の後、裁判により銃殺刑が宣告されます。

 1896年12月30日、「あけぼのを染めるのに紅がいるのなら、私の血で染めよ、頃よい時にまき散らし、さしのぼる君の光で金色に照らせ!」という言葉を残して処刑されました。

 アギナルドの独立宣言の1年半前のこと、享年35歳という若さでした。

 国内のみならず、アジアの民族運動にも影響を与えたとされているリサール博士は、1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』をベルリンで公刊した後、1888年2月には日本にも来日し、4月まで東京都内に滞在しています。
 日本には「おせいさん」という恋人もいたそうです(注)。この日本訪問を記念して、東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されています。


2009-06-12 18:09:08 アイ!サラマッポ in バギオ
フィイリピン独立記念日に…。(111周年)
http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/0966b80d62ee54bdf053bd22ec8abcb5

フィリピン独立運動の父 ホセ・リサール
 ホセ・リサール(José Rizal 1861-1896)は、フィリピンの独立運動の英雄で、医師、文筆家でもありました。マニラの大学で学んだ後、スペインに渡り、マドリードで医師免許を取得し、パリやハイデルベルクで研鑽を積みました。医業の傍ら、スペイン語で著述活動を行い、スペイン支配下のフィリピンの現状を告発すると同時に、フィリピン人の対等な権利を主張しました。

 バルセロナなどで在留フィリピン人を相手にした運動を開始しましたが、1892年にマニラに戻ってからは、辺地に追放され、1896年の独立運動の激化(1896年革命)に巻き込まれ、スペイン当局に逮捕され銃殺刑に処されました。リサールは1888に日本に来たことがあり、一ヶ月ほど東京に滞在しています。これを記念して1961年に東京の日比谷公園に銅像がたてられました。

フィリピンの独立
切手のデータ
発行国:アメリカ合衆国領フィリピン
発行年:1941年
額面:2センタボ
主題:ホセ・P・リサール

文面
UNITED STATES OF AMERICA
2CENTAVOS
POSTAGE
JOSE P. RIZAL 1851 1896
COMMONWEALTH OF THE PHILIPPINES

 1941年発行のこの切手の文面を読んでいくと、まず一番上に「UNITED STATES OF AMERICA」とあります。そして最後に「COMMONWEALTH OF THE PHILIPPINES」とある。つまり、1941年当時のフィリピンはアメリカ合衆国の領土だったのです。では、コモンウェルスとは何なのか?ウィキペディアの説明では、米国の海外領土でありながら、自治権が認められた属領・保護領のことです。
1.外交は米国が行うが、自治政府による内政が認められ、
2.合衆国憲法と連邦法の適用を受け、
3.主権はアメリカ合衆国、
4.合衆国の承認による地域国際機関への加盟は可能、とのことです。

 現在のコモンウェルスは、プエルトリコと北マリアナ諸島の2地域だけですが、1946年に独立する以前のフィリピンも、コモンウェルスでした。

 フィリピンの独立というのも苦難の連続でした。ホセ・リサールに代表される独立運動の以前にも、スペインに対する反抗は各地で散発していたのですがすぐに鎮圧されました。1896年の大規模な独立運動でリサールが処刑されますが、転機は1898年の米西戦争でした。1998年にキューバの独立戦争にアメリカが介入する形で始まった米西戦争は、フィリピンにも波及し、アメリカはエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo y Famy 1869-1964)らによる独立運動を支援します。ただし、これはフィリピンをスペインから奪うという下心があっての支援で、1898年にフィリピンは独立を宣言、翌1899年にはアギナルドを初代大統領にフィリピン共和国(フィリピン第一共和国)が成立しますが、すでに1898年のパリ条約でフィリピンの領有権はスペインからアメリカ合衆国に移行していました。
 1899年に米比戦争が起こり、1902年ごろに主要な戦闘は終わりました。1913年まで散発的なゲリラ戦が続きますが、合計で60万人のフィリピン人が死亡しました。この戦争は米国国内でも論争の的で、米軍による残虐行為が反対派による非難を呼びました。強国が植民地で好き放題できる時代は終わりつつありました。国際的な非難を受けた米国は早くからフィリピンの独立を約束していましたが、正式の独立は太平洋戦争中の日本による占領を経た1946年でした。
 考えてみれば、1941年にアメリカが発行したフィリピンの切手にホセ・リサールが登場しているのも皮肉な話です。反逆者として処刑したのはスペインですから、米国には関係ないということなのでしょう。そして同じ年の12月には太平洋戦争が始まり、翌1942年1月にはマニラが陥落します。


2013/4/11(木) 午後 1:01、切手に学ぶ世界@net-切手から広がる知の世界-
フィリピン(アメリカ統治下)1941 ホセ・リサール
http://blogs.yahoo.co.jp/kittekensaku/archive/2013/04/11

President Rodrigo Duterte called on the Filipino people to emulate the traits of Dr. Jose Rizal and push the true change that the national hero had unselfishly started for the country.

President Duterte made this challenge as he led the commemoration of the 120th anniversary of Rizal’s martyrdom at the Rizal National Monument in Rizal Park, Manila on Friday, December 30.

“This day of commemoration is a day of grateful remembrance of his martyrdom so that we may also awaken and become our own heroes,” the president said in his message.

President Duterte said the Filipinos could be heroes on their own little way by committing to advocate good governance and uphold the rule of law, steadfast to end criminality and all of forms of government corruption, and compassionate to the plight of the poor and less privileged.

The President said the Filipino people are fortunate recipients of the fruits of Dr. Jose Rizal’s sacrifices, freedom he fought for, and the self-identity and honor that he strongly believed the Filipinos ought to defend.

“Beyond his prodigious and various talents, Rizal is best honored when we regard him as a beacon and moral compass in these challenging and perilous times,” he said.

President Duterte emphasized that the country is still fighting for independence from bondage of poverty, crime, illegal drugs and corruption.

“Indeed, they are our present enemies; they are the modern invaders that subjugate our people’s hearts, minds and spirits. The government needs the active involvement of all sectors to help us in this war to bring about genuine change in our society.”

The president said the national unity that calls for cooperation, patience and sacrifice is necessary as the nation undergoes a significant phase of social development and economic growth.

“Each of us should manifest the same fervor and dedication that moved and motivated Jose Rizal to action. Let us therefore emulate the traits of Rizal; let us be willing heroes−patriotic, faithful, and loyal tour motherland.

“Sa ngalan ni Rizal, ituloy natin ang sinimulang pagbabago. Mabuhay ang ating Inang Bayan. (In the name of Rizal, let us continue the change he had started. Long live to our mother nation),” the president said.

Commemorating Rizal’s martyrdom for the first time as president, Duterte arrived at the Rizal Park five minutes ahead of the 7:00 a.m. program.

Accompanied by Armed Forces of the Philippines chief of staff Lt. Gen. Eduardo Año, the president received arrival military honor before joining other officials including former president and now Manila mayor Joseph Ejercito Estrada in raising the national flag.

The president spearheaded the traditional wreath-laying ceremonies in front of Rizal’s monument.

Before leaving, President Duterte spent at least 30 minutes greeting, talking and even gamely posing for photo opportunity with hundreds of well-wishers including Jose Rizal’s descendants and foreign diplomats.

“It’s my honor to meet you guys. Our country is okay now. I will finish my fight against illegal drugs even if it cost my life, my presidency and my honor,” the president told well-wishers.

He said six years of his presidency will be “kind of adjustment for everybody” but assured that it will be a comfortable life.

The president said he will proceed to Leyte to visit the victims of the last Wednesday’s bombing that injured 34 people during Hilongos town’s fiesta before flying back home to Davao City to spend New Year with his family.


photo:
President Rodrigo Duterte accompanied by National Historical Commission of the Philippines (NHCP) Acting Chair and Commissioner Dr. Rene R. Escalante(left) and Lieutenant General Eduardo Año(right) Armed Forces chief of staff, leads the wreath laying ceremony during the 120th celebration of the martyrdom of Dr. Jose Rizal on December 30, 2016 at the Rizal National Monument in Rizal Park, Manila.

Manila Bulletin, Updated: December 30, 2016, 6:37 PM
Duterte challenges Filipinos: push change Rizal had started
By Philippine News Agency
http://news.mb.com.ph/2016/12/30/duterte-challenges-filipinos-push-change-rizal-had-started/

(注)マニラのリサール博物館に展示されている写真…。
「Usui Seiko・臼井勢以子」さん(おせいさん)
Usui Seiko, A daughter of a powerful Samurai. She was better known to Rizal as Osei-san.

See more:
President Duterte leads the 120th Commemoration of the martyrdom of Dr. Jose Rizal
https://www.youtube.com/watch?v=ML_YCmjQqgo

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2017年02月07日

銀座の柳

 ヤッホー君でも歌える、だけどデュエット相手がいなくて歌えない歌をこのへんでひとつ:

銀座の恋の物語 五木ひろし・由紀さおり
https://www.youtube.com/watch?v=frs3u1plvKQ

銀座の恋の物語  《作詞:大高ひさを 作曲:鏑木創》
 心の底までしびれる様な
 吐息が切ない囁きだから
 泪がおもわず湧いてきて
 泣きたくなるのさ この俺も
 東京で一つ 銀座で一つ
 若い二人が 始めて逢った
 真実(ほんと)の 恋の 物語り


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 この碑は今日のヤッホー君の徘徊中、銀座でみつけました。

 有楽町マリオン前、数寄屋橋交差点のニュートーキョービル前にある公園に「明治大学発祥の地」の碑があります。

 明治法律学校(現明治大学)は, 明治14年(1881)に 旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校しました。
 創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の三人は、明治政府の命をうけた藩の選抜生(貢進生)として鳥取藩、天童藩、鯖江藩を代表して大学南校(後の東京大学)に遊学した。その後、明法寮(のちに司法省法学校)で「お雇い外国人」教師のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らは、フランスに留学し, とくに「権利自由, 独立自治」の精神の普及をめざして明治法律学校を創設しました。
 当時彼らは いずれも三十歳に満たぬ 白面の書生でありました。

千代田区観光協会、明治大学発祥の地
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/299/Default.aspx

銀座発祥の地、銀座役所趾:

1612(慶長17)年、徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称せしも、通称を銀座町と呼称せられ、1869(明治2)年、逐に銀座を町名とする事に公示さる。
昭和30年4月1日建之銀座通連合会

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 『銀座の象徴 柳並木』:

 銀座の柳は明治10年(1877年)頃銀座に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和43年(1968年)銀座通りの改修と共に姿を消した。
 このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石舗装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした。
 西銀座連合会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する。
 平成11年(1999年)11月 西銀座通会会長 柳澤政一

銀座の柳1971初代コロムビア・ローズ
https://www.youtube.com/watch?v=HLPAMP_GooM

佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草
https://www.youtube.com/watch?v=gY9u5FPyAis

 1951(昭和26)年7月、「銀座フェアー」と「矯正保護キャンペーン」を通じて、犯罪の防止と犯罪をした人たちの立ち直りには、一般市民の理解と協力が不可欠であるという認識を深めた法務府(現在の法務省)は、この啓発活動を将来とも継続して一層発展させる必要があるとして、“社会を明るくする運動”と名付け、国民運動として世に広げることにしました。
 この度、中央区の保護司会と更正保護女性会が創立50周年・30周年を記念して、この運動の意義と理念を新しい世代に伝え、平和で明るい社会の実現を祈念して、「社会を明るくする運動」発祥の地銀座に記念碑を建てました。

2004(平成16)年1月中央区保護司会、中央区更正保護女性会

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 日比谷公園に抜けようとすると、ま、なんとまあ、昭和、ショウワ、しょうわの匂いが:

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 日比谷公園に入ります:

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 これも:

ホセ・リサール像:
ホセ・リサール(Dr. Jose Rizal フィリピン 1861-1896)はフィリピンの独立運動に命を捧げた国民的英雄です。1888年の滞日中、現在の日比谷交差点付近にあった東京 ホテルに滞在したことから、日本人有志などの尽力により、1961年6月19日に設置されたものです。


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Listen

Beyonce (1981年生まれ) - Listen
https://www.youtube.com/watch?v=6MFjSOwIkH4

Shila Amzah(1990年生まれ) - Listen
https://www.youtube.com/watch?v=YWZ7KtRSoAo

Singer Shila Amzah capped off 2016 with a remarkable win at the Music Pioneer Awards event held in Guangzhou, China.

The event recognised excellence based on artiste performance in leading Chinese music charts from Taiwan, Hong Kong and China.

Hong Kong-based Shila won the award for Best Female Singer (Hong Kong and Taiwan) and her Mandopop single Goodbye earned a Top 10 Song award. She also received the Top Five Most Popular Female Artiste award.

Shila, who released her debut Mandarin album My Journey in April last year, described the win as a “great achievement”.

“I am really grateful and ecstatic about my win at the Music Pioneer Awards(note). To get three awards at the same time is wonderful. It also drives me to work harder,” she said in an interview.

For this year, the daughter of veteran folk singer ND Lala hopes to hold a series of concerts for her fans. The 26-year-old Shila is in the middle of planning a tour in Singapore, Indonesia, China, Hong Kong, Taiwan as well as Malaysia.

Never one to rest on her laurels, Shila is thinking of ways to reach out to more audiences.

“Knowing three languages these days is just not enough. I’m planning to learn more such as Spanish and Korean,” Shila offered.

Shila is also proud to see young Malaysian singers like Adinda Tasya and Jeryl Lee Pei Ling trying out for singing competitions in China. Adinda was a contestant in Let’s Sing Kids and Jeryl was a finalist in Sing! China.

“I watched their performances. I think it’s good to see them step up their game and think about a career outside Malaysia. The audiences overseas are open-minded; they want to see something unique and it doesn’t matter where you are from.”

In 2012, Shila joined reality talent singing show Asian Wave in Shanghai and emerged as champion. That was the catalyst for the singer to start a music career in China.

“If you think you can’t gain any support from local fans, then it’s fine. You can fly out there. There are no boundaries. It’s a huge market. Once you make it big out there and you come back home, you will feel more appreciated,” she added.

She also advised aspiring singers like Adinda and Jeryl to be strong and passionate about music.

“Do it wholeheartedly. Don’t just do it for the fame,” she said.


The Star2, Published: January 20, 2017
Shila Amzah plans to learn new languages
By ANGELIN YEOH
http://www.star2.com/entertainment/music/music-news/2017/01/20/shila-amzah-plans-to-learn-new-languages/

(note)
Malaysian singer Shila Amzah has won big at the 2016 Music Pioneer Awards (音樂先鋒榜)! The ceremony was held in Guangzhou, China earlier this month.

Not only did the songstress cinch the award for “Top 10 Song (Hong Kong and Taiwan)” and “Top 5 Most Popular Female Artiste”, but she also won “Best Female Singer (Hong Kong and Taiwan)”. During the event, Amzah also sang “Say You Love Me Then” (到时说爱我) off her Mandarin album, “My Journey” (心旅).

“I want to thank my parents and my family, my management team in Hong Kong and Kuala Lumpur, Shilala HK PTE LTD, as well as my fans from Taiwan, Hong Kong, and China for supporting me and voted for me. Also thank you to all the DJs and media for playing my song,” said the Kuala Lumpur-born singer.

The Music Pioneer Awards is China’s leading radio chart event that is based on results from 24 major radio stations around China, Hong Kong, and Taiwan, as well as audience vote. According to The Hive, Amzah gained more than 1 million votes for the “Most Popular Female Artiste” category...

26-year-old Shila Amzah (real name NurShahila binti Amir Amzah) first rose to fame in China, Hong Kong, and Taiwan when she won the Chinese reality singing competition, “Asian Wave”.

She also took part in “I Am a Singer Season 2”, a popular Chinese TV talent show. To date, Shila is the only Malay artiste with the highest number of Mandarin single sales in Hong Kong, China, and Taiwan.

December 23, 2016
ShilaAmzah: Songstress Wins “Best Female Singer” At Music Pioneer Awards

By Estee
https://hype.my/2016/128555/shilaamzah-songstress-wins-best-female-singer-at-music-pioneer-awards/

 では、この項の締めくくりに「再見」を聴いてみましょう:

Shila Amzah -《再見》Zaijian (Goodbye)
https://www.youtube.com/watch?v=vFPqJwLi9XM

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2017年02月06日

Malaysian girl group Q-Genz

 新年を寿ぐマレーシアの若いグループによる新しい流れの歌もお聞きください:

Q-Genz 2017:
https://www.youtube.com/watch?v=TzKG3E-8Hd4
https://www.youtube.com/watch?v=dfJr_FdOTsY
https://www.youtube.com/watch?v=B60hciVEVNU

Gong xi gong xi! Xin nian kuai le! Chun feng de yi!

Every Chinese New Year, you will hear these auspicious greetings, which also happen to be the titles for some of the most played songs during this festive season.

This is also the liveliest and busiest time of the year for local girl group Q-Genz, which has been putting out CNY albums for the past 12 years.

They may be seasoned entertainers, but believe it or not, the members of Q-Genz are only in their teens.

Q-Genz is short for Q-generation – also known as Qiao Qian Jin in Mandarin – and its line-up currently consists of Veron Lin, Joanne Fu, Miko Oh and Ivian Wong.

The group was originally known as Xiao Qian Jin (Little Princesses), when it was formed in 2005 with members who were four to five years old.

Its first album titled Sung Ni Yi Ge Da Nian Gao (Give You A Big New Year Cake) was released in 2006.

After that album, the group was renamed Qiao Qian Jin (Cute Princesses), on the advice of a fortune teller.

When Qiao Qian Jin celebrated its 10th year anniversary in 2015, the group changed its name to Q-Genz to reflect its coming of age.

This year, the group has reinvented itself yet again, as the cute little girls have blossomed into lovely young ladies. The group has released a full-length album titled Chun Feng De Yi (Triumphantly).

Apart from recording 10 songs for the album, the girls also shot 11 music videos – all within the short period of two months.

Having done this for so long, this was all in a day’s work for the four.

As the only original founding member left, Lin is practically a veteran in the business, even though she is just 16 years old.

She was only four when she was spotted by a talent scout at the Mary Sia Arts Performance Centre in Kepong, and was recruited into Xiao Qian Jin in 2005, together with three other precocious child performers, Viki Yap, Alicia Low and Cecelia Lee.

“I remember I was three when I started learning how to sing, and in just a few months, I was recruited to form a group,” Lin recalled.

“I’m now 16, and looking back to the time when I first started, I can say things are very different – there’s more of a storyline in our songs now and a lot more things to see in our music videos.”

She also said the group decided to change its image this year to reflect their transition from girls to young women.

“People used to call us tong xing (child stars). But we are well into our teen years now,” said Lin, who is also currently pursuing an acting career. She had a role in Hong Kong action flick Special Female Force last year.

At 15, Fu is the youngest member of Q-Genz, having joined the group in late 2011, replacing Alicia Low.

Fu recalled how her mother received a call asking whether she would be interested in letting her daughter be a child entertainer.

“My mother explained to me that becoming a child entertainer would fill my life with lots of sunshine, yet at the same time I would stand to lose some of my freedom and time. But if I gave up this rare opportunity, then I would surely regret it,” Fu said, adding that she does envy her classmates sometimes.

“There are moments when I wished for the kind of childhood that my friends are enjoying. I have few opportunities to go on vacation or get together with friends. Even school holidays are all spent singing, dancing, studying music, training, recording songs, shooting music videos, and doing rehearsals, album roadshows and other promotional activities. I find that I can barely catch my breath sometimes,” she mused.

All the same, Fu still hasn’t lost her passion for performing.

“It is something I enjoy so much. I always feel energised when I get on stage to perform for an audience,” she said.

Juggling school and showbiz was more of a challenge for Oh, who also joined Q-Genz in 2011, replacing Cecelia Lee.

The oldest member of the group, Oh, 17, had to sit for her SPM last year, so she had her hands full between preparing for her exams and making the album.

“It was quite a challenge, having to distribute my time and energy between my studies and music.

“I couldn’t attend some of the practice sessions, but we managed to get everything to gel together in the end,” she said.

Judging by the number of plushies and other gifts she received from fans during the first stop of the album promotion at Sungei Wang Plaza in Kuala Lumpur last month, Oh definitely won over a lot of fans with her efforts.

“Seeing how everyone loves the music, I’d say every-thing was worth it!” she exclaimed.

Compared to her fellow members, 16-year-old Wong is practically a baby in the business. Before she joined the group last year, Q-Genz was operating with just three members, and released two albums in 2014 and 2015 as a trio.

The group decided to recruit a fourth member for their 2017 effort.

Wong shared: “My vocal coach was the one who alerted me about Q-Genz looking for a fourth member.

“Since my voice was a good match with the other girls’, I was recommended for the part.”

Apart from music, Wong’s other passion lies in movement arts, and she chose to specialise in Latin dance and martial arts.

In fact, she has started working as a dance instructor despite being in her teens.
On how the group has lasted for so long, Lin said it was all thanks to their fans.
“Every year, we’d release a Chinese New Year album; at mid-year, we’d sometimes release another album of tong yao (children’s songs).

“Fans will leave us messages asking for a new album, if they don’t hear from us after awhile,” said Lin.

“We’re really thankful for the support of our fans, who continue to buy our albums and visit us at roadshows. Hopefully, they’ll keep on supporting us in the future!”


The Star2, Published: January 28, 2017
You’ve probably heard these girls sing CNY songs
By SETO KIT YAN
http://www.star2.com/entertainment/music/music-news/2017/01/28/youve-probably-heard-these-girls-sing-cny-songs-q-genz/

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阿部真央

 枕元のラジオに手を伸ばしたヤッホー君、今朝はその思わず聞き惚れたシンガーソングライターをご紹介。
 番組はNHK FM「サウンドクリエイターズファイル」:

 2月のDJは、阿部真央さんです。

 2009年アルバム「ふりぃ」でデビュー。
 10代の等身大なリリックに比類ないヴォーカルで、あっという間にその存在を世に知らしめたシンガーソングライターです。
 その後も、精力的な楽曲制作とライブ活動で、さらにその存在感を増してきた阿部さん。
 今回、産休明け最初のアルバム「Babe.」を発表、およそ2年ぶりの全国ツアーも目前と、久々に大きな活動を始めます。
 母となった阿部真央さんをDJに迎え、4週にわたりお届けします。

 1回目2月5日(日)は、阿部さんの音楽のルーツや、パーソナルな部分をたくさんお話ししていただきます。
 インスパイアされたミュージシャンや、ご自身の曲についての秘話など盛りだくさん。

 2回目2月12日(日)は、今まで発表してきた作品を「アルバムヒストリー」という形で大特集!
 ファーストアルバム「ふりぃ」から最新アルバム「Babe.」まで怒涛の1時間半です。

 3回目2月19日(日)は、今回発表する7枚目のアルバム「Babe.」の話をじっくりと。
 曲作りやレコーディングの話などをしていただきます。

 4回目2月26日(日)は、ライブにまつわる話。

 皆さんからのメールも紹介します。
 メールテーマは、「阿部真央に、相談したいのです」
 進路や就職などまじめな相談から、明日の夜ご飯に何を食べるか?とか、初デートでどんな洋服を着ていくかなどライトな相談まで、どんなことでも構いません。
 質問や曲のリクエストもお待ちしています!
 放送は毎回、夜9時からの放送です。


サウンドクリエイターズ・ファイル
http://www4.nhk.or.jp/scf/

 阿部真央が前作『おっぱじめ!』をリリースしてから約2年ぶりとなるニューアルバム『Babe.』を、2017年2月15日にリリースすることを発表した。

 7作目となるニューアルバム『Babe.』は自身の出産や、作品を産み出すという意を込めたタイトル。
 常に等身大の感情を剥き出しに楽曲制作をしてきた阿部真央がリリースする新作『Babe.』は紛れもなく、27歳を迎える阿部真央が偽りなく表現された1枚となった。
 復帰第一弾となった「Don' t let me down」やテレビ朝日系木曜ミステリー「女たちの特捜最前線」の主題歌となった「女たち」をはじめ、多彩な楽曲が並ぶ本作は怒り、喜び、悲しみ、などさまざまな感情が鮮明に打ち出された作品。
 そのほかにも多彩な楽曲が詰め込まれた1枚で、女性シンガーソングライターが乱立する現在の音楽シーンの中で、2年の沈黙を破り、発売される今作はまさしく“待望”の一言に尽きる名盤となっている。

 そして、アルバムリリースと同時に最新ビジュアルも公開!
 アルバムは、限定特典DVD「あべまおらじお〜超超番外編〜」を収録したLoppi・HMV限定盤と通常盤の2形態がリリースされる。

【阿部真央コメント】
「またこうして新たな作品を発表させて頂けること、本当に嬉しく思います。多くの方にこのアルバムが届きますように」

■アルバム『Babe.』特設サイト
http://babe.ponycanyon.co.jp

アルバム『Babe.』2017年2月15日発売
【通常盤】(CD)PCCA-04492/¥3,000
【Loppi・HMV限定盤】(CD+DVD)BRCA-00078/¥3,500


12月17日(土)11時0分、OKMusic
阿部真央、2017年2月にニューアルバム発売決定
https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/1217/okm_161217_5280688100.html

 では、昨夜聞いたすごい歌を三曲ばかりご紹介:

阿部真央「母である為に」
https://www.youtube.com/watch?v=7bBKHZpCvgw
わたしがあなたの母である為に
あなたが寂しいとき側にいれないかもしれない
わたしがあなたの母である為に
あなたの母はいつでも悪口言われてばかり
母があなたの母である為にあなたは傷つくかもしれない
母があなたの母であること
あなたはいつの日か少し嫌になるかもしれない
だけど母は幸せです あなたが来てくれて
あなたの母になれたこと 母はとても嬉しいです
私はあなたの母である限り いつでもあなたを守って 味方で居続けるつもり
立派なあなたの母になる為に 私は出来る限りを尽くしてゆく所存です

母はあなたの母になる為に 真面目に貯金もはじめます
母はあなたの母であること その背丈が延びてゆく度とても誇らしく感じます
母は幸せです あなたが居てくれて
あなたの母になれたこと 母はとても嬉しいです

ご飯の美味しいところは全部あなたが先に食べてください
身も凍えるような寒い夜には母のコートを巻いてください
母より綺麗で気立てがよくて強い彼女を連れてきなさい
とにもかくにもどうかそのまま元気に歳を重ねて無事母を看取ってください
母は幸せです あなたが来てくれて
あなたの母にしてくれて本当にありがとう
母は幸せです あなたが居てくれて
あなたの母になれたこと母はとても嬉しいです
母はとても幸せです

阿部真央「コトバ」
https://www.youtube.com/watch?v=UFAE73o5D9g
掛けようとした言葉 あなたは「明日でいいや」って先延ばしにする
今日掛けて欲しかった言葉 私は寂しさ拭えずに探してる
伝えたいことなんて本当単純だけど 生きて今を 見せてあなたを
今日言わなければ後悔する言葉があるよ 明日消えちゃってもいいように伝えてよ
心を隠して許すことはキレイじゃない それは逃げじゃないか
愛を以って伝えられることを嫌う人などいない ...そう信じてる

阿部真央「世界はまだ君を知らない」
https://www.youtube.com/watch?v=FH4M4j7PLEE

 時とともに大きく伸びる阿部真央、応援していますよ!

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2017年02月05日

内田樹

 さきの日本、そして日本人論の続きで、内田樹(たつる、1950年生まれ)のブログからです・・・

 8年前のオバマ大統領の就任式(2009年)のあとに書いた文章が『日本辺境論』(内田樹著、新潮新書)に含まれている。
 模試に使われたので、コピーが送られてきた。読んだら、なんだか今になると身につまされる話だったので、その部分を再録しておく。


 オバマ大統領の就任演説のあと、感想を求められたわが国の総理大臣は「世界一位と二位の経済大国が協力してゆくことが必要だ」というコメントを出しました。
 これは典型的に「日本人」的な発言だと言ってよいでしょう。
 「日本は世界の中でどのような国であるか」ということを言おうとしたとき、首相の脳裏にまず浮かんだのが「経済力ランキング表」のイメージであったというのはまことに徴候的です。
 もし、日本が軍事力でもいい順位にあれば、あるいはODAや国際学力テストの得点でいい順位にあれば、首相はその「ランキング表」をまず頭に浮かべ、それをもって日本の国際社会における役割を言い表そうとしたでしょう。

 ある国の国民性格は、そのGDPや軍事予算の額やノーベル賞受賞者の数などとは無関係に本態的に定まっているという発想がここにはありません。
 私たちにとって、国民性格の問題は「誰それに比べたときに、どの順位にいるか。“トップ”とどれくらい離れているか」というかたちでしか立てられない。

 ぼくはこのようなもっぱら他国との劣等比較を通じてしか国民性格を規定することのできない不能こそが日本人のもっともきわだった国民性格ではないかと思っています。
。。。
 
 日本人の国民性格は非日本人との比較を通じてしか自己の性格を特定できないという他者依存のうちに存する。

 「日本人はイエスとノーをはっきり言わない」とよく言われます。
 たぶん、その理由は、日本人は「誰が何と言おうと言いたいこと、言わなければならないこと」を持っていないからだとぼくは思います。
 「自分が言いたいこと」よりも、「相手が聞きたいこと」「相手が聞きたくないこと」の方が気になる。
 だから、そちらをまず優先的に配慮する。
 相手との関係の中で、相手に好かれるか嫌われるか、尊敬されるか軽蔑されるか、そのことが最初に意識される。
 相手が自分をどう思おうと、「私は言いたいことを言う」ということがない。
 コンテンツの整合性や論理性よりも、「それを言ったら相手にどう思われるだろうか」という気遣いの方が優先する。

 それは巷間にあふれる「アメリカ論」「中国論」「韓国論」などなどすべての国民論に共通しています。

 オバマ大統領就任の後、あらゆる新聞の社説は「新大統領は日本に対して、親和的だろうか、それとも威圧的だろうか。日本の要求に耳を貸してくれるだろうか、日本を軽視するだろうか」ということをまず論じました。
 アメリカの東アジア戦略が「何であるか」よりも、それを物質化する際に「どういう口調で、どういう表情で、どういう物腰で」日本に触れてくるのか優先的に論じられた。

 これはまことに徴候的な態度であるとぼくは思います。
 これがまことに徴候的な態度であるということにメディアの当事者が誰も気づいていないという点で際だって徴候的であると思います。

 相手の出方が宥和的であれば、ある程度言いたいことを言える。
 相手の出方が非妥協的であれば、不本意でも黙るしかない。
 要は相手の出方次第である。
 相手はどう出るか。
 それをどうかわし、どう防ぎ、どう反撃するか。

 相手がまず仕掛けてきたことにどう効果的に反応するかという発想のことを武道の術語では「後手に回る」と言います。
 日本は外交において、決して「先手を取る」ということがない。
 進んで「場を主宰する」ということがない。
 つねに誰かが主宰した場に後から出向いて、相手の出方をまず見て、とりあえずもっともフリクションの少ない対応をする、というのが日本外交の基本姿勢です。

 日米関係でもそうですね。アメリカの外交戦略の「コンテンツ」よりも、それを差し出す「マナー」の方に日本人は関心がある。
 「何をしたいのか」よりも、それを日本に対して「どういう態度で要求してくるのか」の方を重視する。

 ですから、外交通を任じる人たちは「政策の中身」ではなく「それを差し出す態度」を選択的に論じます。
 彼らはまず例外なしに口を揃えて「日米同盟が日本外交の基軸である」と言います。
 でも、彼らが言っているのは、アメリカと日本の国益は一致しているという意味ではありません。
 アメリカは日本の国益を他国よりも優先的に配慮しているという意味でもありません。
 当然ながら、アメリカはアメリカの国益のことしか考えていない。

 そんなことは実は誰でもわかっている。
 でも、アメリカが自国の国益を最大化するために日本を相手にあれこれと注文をつけてくるときの「出方」はいろいろと変化があります。

 これについては、日本側は長年の蓄積がある。
 居酒屋でなじみの客がカウンターに座って「おやじ、いつものね」と言うと「はいよ」と「いつもの」を差し出す呼吸と同じです。
 アメリカが自己利益を追求するときの「出方」はもう経験を積んでいるからよくわかっている。
 「こういうこと」を言うときは何を言いたいのかという外交的シグナルの「暗号解読表」が整っている。
 日本に向かって何を要求をしてきても、「それ以上でもそれ以下でもない正味の要求」をぴたりと言い当てることができる。
 「アメリカとはコミュニケーションが成立している」というその安心感が、アメリカが日本の国益を損なう要求をしてくる場合でさえ、「やはり日米同盟しかない」という確証を「外交通」に与えている。
 ぼくはそう見ています。

 中国や韓国に対するほとんどヒステリックな「嫌中国」「嫌韓国」言説の理由も同じロジックで説明できます。
 それは彼らが「そう言うことによって、ほんとうは何を言いたいのか」をうまく言い当てることができないからです。
 先方が日本の国益にかないそうな提案をしてきても、真意が測れない。
 「それを言うことによって、あなたは何を言いたいのか」という問いに誰も答えてくれない。
 でも、日本の国益を損なう提案についてだけは、真意がわかる(と信じている)。
 だから、中国や韓国と誤解の余地のないコミュニケーションが成立するのは、彼らが日本の国益を損なうような要求をしてくる場合だけです。
 彼らが国境問題や防衛問題や経済問題で日本に不利な要求をしてくると不思議なことに日本人は「ほっ」とする。
 「これなら、わかる」と思えるからです。
 外交交渉で国益が損なわれたことの損失を、コミュニケーションの相手が「何を言いたいのか、わかった」ことのもたらす安心感が上回ることがある。
 ナショナリストはどこの国でも同様の傾向(病態)を示しますけれど、日本の場合はとくに顕著だとぼくは思っています。


2017年2月4日12:31更新、内田樹の研究室
大統領が就任したときの日本人
http://blog.tatsuru.com/

■「二流」は恥ずかしいことじゃない
 事業仕分けのスパコンの話がひとしきり盛り上がっていた。
 「なんで1位じゃなきゃいけないの」という仕分け人の疑問に、ノーベル賞を受賞した科学者のみなさんが怒っていた。
 頭から湯気を立てて、というのはあれか。
 だけど、「べつに1位じゃなくても」と思ってるのは仕分け人だけではないだろう。
 1位になっても、あんまりいいことないんじゃないの?

 そもそも日本人に「世界一」は似合わない。
 1980年代の末、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮かれ、『「NO」と言える日本』なんて威張ったけれども、そのあとどうなったか。
 バブルがはじけて長期不況。
 「NO」と言えるはずの会社は、いつのまにか英国生まれの米国人が会長兼CEOと社長を兼任している。

 こんなことを考えている私にとって、内田樹の『日本辺境論』はたいへん腑に落ちるというか、同意できるところがたくさんある本である。
 日本は辺境であり後進国なのである。
 しかしそれは欠点ではなくて長所。
 進んでいる外国に追いつこうとするとき、日本人の才能は最もよく発揮される……
 この本の主張をまとめるとこんなところか。
 内田はいろんな例を出して辺境の良さを説く。

 2位以下は気楽だ。
 先頭についていけばいいんだから。
 前の人が石につまずいたり道を間違えたら、自分は間違えないように気をつければいい。
 人生も同じ。
 個性的じゃなきゃいけない、オリジナルじゃなきゃいけない、と自分を追い詰めるから苦しくなる。
 人まねでいいじゃないの。
 先生のあとを黙ってついていくだけでいい。
 B級、二流であることは、ちっとも恥ずかしいことじゃない。

 もちろん辺境には辺境のいやらしさがある。
 たとえば、少しでも中心に近いほうが偉い、と威張る人がいる。
 近かろうが遠かろうが、中心以外はみんな辺境なのに。

 内田によると、日本人の日本人性の根本をなしているのは日本語なのだそうだ。
 日本語を使う限りは、ずっと辺境でいられる。


2009年12月25日号「週刊朝日」掲載
日本辺境論 [著]内田樹
[評者]永江朗(1958年生まれ)
http://book.asahi.com/aisare/TKY200912210193.html

■「独特さ」への新たな補助線
 しばらく前、『ウェブ進化論』(ちくま新書)で知られる梅田望夫氏が「日本のインターネットは残念だ」と発言して強い批判を浴びたことがあった。
 「知に関する最高峰の人たちが知をオープン化している」英語圏のネットに比べて、日本はサブカルチャー領域以外ではネットがほとんど使われない現実が「残念」と彼は言った。

 この指摘は正しい。
 だがこれはネットに限ったことではなく、日本文化は昔から軟弱で傍観者的で冷笑的だったのだ。
 背景には、日本人にとっては権力がつねに「世間」「空気」のような不定形の存在でしかなく、参加の実感が薄いということがある。
 だからそこに生まれる文化は傍観者的でしかない。
 権力装置を血みどろの戦いで構築してきた欧米とは違うのだ。

 そういう文化構造を日本人は自嘲し、中心的ではないことに「残念」と思い、でも逆にその酔狂な独特さに誇らしさも感じてきた。
 そして過去の幾多の日本文化論も、その独特さを批判したり、称賛したりしてきたのである。

 しかし、その独特さがいったいなぜ生まれたのかは根源から解き明かされてこなかった。

 本書はそこに「辺境」という新たな補助線を引くことによって、日本文化の独特さの理由を浮かび上がらせることに成功している。
 「独特さ」の内容をただ描くのではなく、世界という枠組みの中における日本の居場所を特定することによって、普遍性を持つロジックを提示できているのだ。

 かつてネグリとハートが指摘した(注)ように、国民国家はグローバリゼーションへとのみ込まれていき、国境が消滅して中心もどこかわからなくなっていく〈帝国〉化の流れはいまやさらに加速している。
 そういう状況の中で、この本が売れている。
 われわれが〈帝国〉外周の「辺境」で孤立しているということの意味を、いまここでとらえ直す時期に来ているのかもしれない。


2009年12月20日掲載、ブック・アサヒ・コム
日本辺境論[著]内田樹
[評者]佐々木俊尚(1961年生まれ)
http://book.asahi.com/reviews/column/2011071702891.html

(注)A・ネグリとM・ハートによる『Empire』の日本語版
福井県立大学地域経済研究所 奥山研究室
経済学を学ぼう お勧め図書1
http://www.s.fpu.ac.jp/okuyama/stu/1001.html

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原田伊織

 江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
 私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
 ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
 そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
 『三流の維新 一流の江戸』が話題の著者に、「親日家ベルツ博士の怒り」について聞いた。


平成日本にも通じる医学者エルウィン・フォン・ベルツの怒り

 1876(明治9)年に新政府がドイツから招いたベルツ博士が日記を残している(『ベルツの日記』上・下 岩波書店)。
 医学者エルウィン・フォン・ベルツは、一般には草津温泉を世界に紹介した人として知られているが、所謂「お雇い外国人」の一人でもある。
 ベルツは、怒り、忠告する。
 その主旨だけを列記すると、以下の通りである。

 「日本人は、ほんの10年にもならぬ前まで我々の中世騎士時代と同じ文化状態にあったのに、ヨーロッパが文化発展に要した500年を一気に飛び越えて、19世紀の全ての成果を一瞬にして横領しようとしている

 「多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想は勿論、その生活様式を誤解して取り入れ、とんでもない間違いを犯している。日本に招聘された者たちまでもが無理解で、一部の者は日本のすべてをこきおろし、日本が西洋から取り入れるものはすべて賞賛する

 「不思議なことに、今の日本人は自分たちの過去を何も知りたがらない。それどころか、自分たちの過去=歴史を恥じている。何もかも野蛮でした、我々には歴史なんかありません、これから始まるのです、という者さえいる

 「これらの現象は、大変不愉快なものである。日本人が自国固有の文化を軽視すれば、却って外国人の信頼を得ることはできない

 「日本人はお雇い外国人を学問の果実の切り売り人としてしか扱っていない。つまり、根本にある精神を探求することなく、最新の成果さえ受け取れば十分と考えている

 真に辛辣に聞こえるが、すべて核心を衝いているといえるのではないか。
 そして、驚くほどそのまま、バブル世代を中心とした戦後日本人、平成日本人にも当てはまらないか。
 ベルツ自身は、来日5年目に日本女性と結婚し、約30年も日本で生活した知日家、親日家であるが、それ故の激烈たる維新日本人に対する批判であり、忠告であったと解すべきであろう。
 こういう見識あるヨーロッパ人が嘆くほど、日本人が日本的なるものを根底から否定し、自らを卑下していたのである。
 ベルツが接した日本人の多くは、「成り上がり」といっていい当時の新しい上流階級、即ち、薩摩長州人やそれに与した勢力の新興階級である。
 豊かな教養環境とはほど遠い下層階級社会から政治闘争(具体的にはテロ活動)に身を投じた彼らは、せいぜい俄か仕立ての水戸学程度の論理を頼りに「王政復古」「大和への復古」を唱えて江戸幕府を倒した。

『三流の維新 一流の江戸』著者・原田伊織からのメッセージ

 このたび、『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』を渾身の気持ちをこめて書いた。江戸を描くのは初めてである。
 江戸という時代は、明治近代政権によって全否定された。
 歴史から抹殺されたといっても過言ではない位置づけをされて、今日に至っているのである。
 その存在力は、新政権の正統性を示すためだけに土深く埋められたといっていいだろう。
 しかし、今、世界がこの「江戸」という時代とその様式、価値観に何かを求めて視線を当てている。
 国内でも、リーマンショックで覚醒させられたかのように、無意識であろうが「江戸」へ回帰する「時代の気分」が、特に「江戸」が何たるかを全く知らないであろう若年層を中心に充満している。
 私は、一連の著作に於いて、史実に忠実に従えば、明治維新とは民族としての過ちではなかったかと問いかけてきた。
 これは、一度国家を壊しながらも今もなお政権を維持している薩長政権に対する問いかけでもある。
 もし、明治維新が過ちであったとすれば、その最大の過ちが直前の時代である江戸を全否定したことである。
 或いは、少なくとも江戸を全否定したことだけは、明白な過ちであったといえるのではないか。
 本書は、その是非を問うことをメインテーマとするものではなく、埋められたままの江戸を一度掘り返してみて引き継ぐべきDNAを解き明かしてみようと試みるものである。
 しかし、江戸は多様であり、多彩である。
 この拙い一篇の書き物で解き明かせるような貧弱な仕組みで成り立っていたものではない。
 そのことを理解しながら、その一端でも掘り起こすことができれば、私たちが子どもたちの時代の「無事」のために何を為すべきかのヒントが得られるものと信じたい。
 そして、世の諸賢が“寄ってたかって”全容を解明すれば、江戸は確かに未来構築の一つの指針になるであろうことを、私自身が固く信じたいのである。


2017年2月4日 ダイヤモンド社のビジネス情報サイト
親日家ベルツ博士の怒りは、平成日本人へのメッセージか?
http://diamond.jp/articles/-/114626

 もうひとつ、原田伊織さんのお考えに耳を傾けてみましょう。

 衝撃的なタイトル『三流の維新 一流の江戸』が「プレジデント」書評でも取り上げられた著者に、「大蔵省と宮内庁の発端」について聞いた。

西欧近代を金で買いまくった 明治復古政権

 明治も三十年代に入った頃のことであったかと思うが、薩摩の大山巌(おおやまいわお)を面詰(めんきつ)した者がいた。

 いうまでもなく大山とは、後の日露戦争に於いて陸軍総司令官を務めた、あの大山である。

 「閣下、我々は尊皇攘夷ではなかったのですか」

 この大山にとって厳しい問いには、自分たちは諸外国と和親条約、通商条約を締結し、対外協調路線を採った徳川幕府を、古(いにしえ)より神聖な天皇を奉じ、麗しき伝統を守ってきたこの国を汚らわしい夷狄(いてき)に売り渡すものとして打倒したのではなかったのかという素朴な疑問が込められていたはずである。

 これに対して大山は、

 「あの時はあれしかなかったのだ」

 という意味のことを、苦し紛れに答えたという逸話が残っている。

 あれしかなかった――やはり、方便だったというのである。幕末文久年間をピークとして、“天誅(てんちゅう)”の名のもとに残虐な殺戮を繰り広げた尊皇テロは方便に過ぎなかったというのだ。

 こういう逸話が残るほど、明治新政府という“復古政権”は、成立するや否や一夜にして豹変し、西欧近代というものを金で買いまくったのである。

 大英帝国の軍事支援を受けながら、討幕という政争に勝利するためには、攘夷、復古という単調で分かり易いキャッチフレーズを大音量で喚かないと、大衆参加のムーブメントを創ることができなかったという、明治維新というクーデターの抱えるそもそもの不幸がこの点にある。

 やはり留学経験のある幕臣田辺太一が、「攘夷を唱える狂夫」という表現をしたことがあるが、復古だ、攘夷だと喚いていたテロリストたち本人ですら、少し冷静で頭の回る者はそれが単に名分に過ぎないことをある程度自覚していたはずである。

 目的は討幕であって、復古、攘夷はその目的を達成するための思想の装いをしたキャッチフレーズであったはずなのだ。

 ところが、余りにも激しくこれを囃(はや)し立てている間に気分が高揚し、キャッチフレーズの域を超えてしまい、彼ら自身が錯乱してしまったとしか思えないのだ。

復古とは何か

 復古、復古というが、では一体どこへ復古すべきだというのか。それは、律令制の時代、即ち、奈良朝あたりである。

 彼らの唱える、天皇を神格化した狂信的な尊皇原理主義からいえばこれもおかしな話で、奈良朝にしても飛鳥朝にしても政治的にも文化的にも中国の影響なくして成立し得たはずはないのだ。

 復古主義者、尊皇原理主義者たちも、当然このことは分かっている。
 彼らは、実のところ神代(かみよ)の古代に復古したかったのである。

 このことはもはや、勤皇思想の過熱、暴走が生んだ妄想というべきであろう。
 記紀が叙述する神話の世界とは、史実かどうかを云々する対象ではない。

 これを史実とすれば、神武天皇以下、日本開闢(かいびゃく)初期の天皇は、二百歳、三百歳という長寿の天皇が何人も存在したことになるのだが、これに目くじらを立てることはナンセンスであろう。神話の世界とは、民族の精神文化を生んだ母胎として長閑(のどか)に好ましい気分で大事に抱いていていいものではないだろうか。

 ただ、愚かで卑劣なりとはいえ、尊皇原理主義者たちを多少擁護するとすれば、いつの世に於いても新しい政権が成立早々盤石というケースは、まず存在しないのではないか。政権奪取に役立った建て前、方便というものを一定期間は具現化することもまた、政権を固めるには必要となるものであろう。

「大蔵省」「宮内庁」の発端は ここにあり

 現実に、幕府から政権を奪って間もない1869(明治2)年7月、新政府は二官六省を設置した。

 二官とは、神祗(じんぎ)官、太政(だじょう)官、六省とは、民部、大蔵、兵部(ひょうぶ)、刑部(ぎょうぶ)、宮内、外務の六省をいう。

 何という名称であろうか。
 まるで律令時代へ遡ったようではないか。
 さすがに神代の時代には役所は存在しなかったので、可能な限り復古したということである。

 そして、この名称のほとんどは、昭和まで使われていたことをご存じであろう。
 大蔵省は2001(平成13)年1月に財務省と改称されるまで存続していたし、外務省は現在もその名称のまま存在する。

 宮内省は、内閣府宮内庁となったが、実質的に名称は変わっていない。
 斯様(かよう)に私たちの社会は、民族の歴史上初めて外国の軍隊に占領されるという、一時的にせよ国家としては滅亡しながら、それでも薩長新政権の性根(しょうね)といってもいい骨格のようなものを引き継いでいるのである。

 このことも、王政復古クーデター以降の歴史を全く検証していないことを、何よりも雄弁に物語っているといえるのではないか。

 明治2年のこの時、現在の内閣に当たる組織を太政官と呼称することになった。これも律令時代、即ち、おおよそ1200年前への復古に他ならない。
 太政官の構成は、右大臣三条実美(さんじょうさねとみ)、大納言岩倉具視、参議に大久保利道、広沢真臣(ひらさわさねおみ)、前原一誠(まえばらいっせい)、副島種臣(そえじまたねおみ)が名を連ねた。

 右大臣だ、大納言だとなれば、光源氏がここへ名を連ねていても全く違和感を感じないであろう、紛れもない復古政権なのである。

 このように、名分、方便というものを具体的なかたちに表現して成立した、我が国の「近代」を切り拓いたとされてきた明治復古政府は、ひたすら西欧の模倣に邁進したのである。

 彼らは、討幕戦争、会津戦争、そして、箱館戦争を戦って、欧米製の武器の優位性を知っている。
 自分たちに脅威を与えた幕府海軍の軍艦も、欧米の工業力が産み出したものだ。

西欧=文明、日本=非文明

 彼らは、何よりも先ず武器、軍艦の強弱、つまりは軍事力、それを産み出した工業力の差異を以て彼我(ひが)の優劣を痛感したに違いない。

 そして、この「工業力の優位」というほとんど一点の差異を以て、西欧=文明、日本=非文明と自らの世界的な位置づけを明快に行ったのである。

 そこには、例えば芸術的独創性や学識レベルといったソフト的な要素も併せて意識されたという形跡は全くなく、彼らはただ西欧の大砲や小銃、軍艦に対する恐怖や尊崇、或いはコンプレックスといった感情に支配されて、自国を非文明、野蛮と貶(おとし)めたとしか思えないのだ。

 この感情が、直近の前時代である江戸期を、ひいては江戸期以前の我が国そのものを全否定することに繋がったと観察される。


原田伊織(Iori Harada):作家。クリエイティブ・プロデューサー。
 JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。
 株式会社Jプロジェクト代表取締役。
 1946(昭和21)年、京都生まれ。
 近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。
 主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など。

2/3(金)11:00配信、ダイヤモンド・オンライン
大蔵省と宮内庁はいかにして生まれたのか?
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170203-00114623-diamond-bus_all&p=1

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2017年02月03日

テロ等組織犯罪準備罪

 ヤッホー君のこのブログ、つい先だってのことですが、『この国では宗教団体が政治団体をつくって政権与党となっています』と書きましたが(2017年2月1日)、次は戦前のお話し。
 ヤッホー君がお慕い申し上げている北関東の小児科先生の昨日、2017/2/3 08:15投稿記事からです。
 だってぇ〜、ヤッホー君が生まれおちた地、山形県のお話しなんだもん:

 以前、キリスト教独立学園高校、その創設者の鈴木弼美のことを記したことがある(注1)。
 このところ、両親の残した蔵書を整理していて、同高校の創立50周年の記念誌を発見した。
 1980年代に編まれたもののようだ。
 鈴木自身、さらに同高校の設立・維持・発展に関わってこられた方々、卒業生の方々が長短取り交ぜた文章を寄稿している。
 1000ページにも及ぼうかという浩瀚な書物だ。

 そのなかで、渡辺彌一郎という方の記した、鈴木弼美との交流記が目を引いた。
 1920年代だったか、同地で無教会主義の伝道を始めた鈴木が同地に定着するための手助けをし、さらに鈴木がそこに高校(の前身の学校)を建設した際に援助をした現地の方のお一人が、渡辺であった。
 個人的な苦悩から鈴木の下でキリスト教に入信した渡辺は、しかし、戦時中、特高警察に鈴木とともに逮捕されてしまう。
 当初、「国体」に反逆する者達だけを検挙するためとして導入された、治安維持法が、どんどん拡大されて行き、山形の山奥で静かにキリスト教信仰に基づく学びと信仰の生活を送っていた彼らをも、逮捕するまでになっていったのである。
 鈴木と渡辺は、特高警察の執拗な尋問に対して、自らの潔白と、信仰とを表明した。
 その拘禁は8ヶ月にも及んだ。
 外部の人々の援助と、何よりも彼ら自身の毅然とした態度によって、検察は彼らを釈放せざるを得なくなった。
 その一部始終が、手に取るように記録されていた。
 平和な生活を送っていた二人が、特高警察(現在でいえば、公安警察となるのだろう)によって、何も容疑がないのに突然逮捕され、日常生活から連れ去られる恐怖はいかばかりだったかと思う。
 ご家族・仕事をともになさっていた方々はどのような思いだったことだろうか。
 彼らは、堅固な信仰に立ち、何らやましいところがなかく、助かることができた。
 が、特高警察の尋問は苛烈を極めた様子が、この記録に記されている。
 朝、拘置所から尋問のために連れ出された人が、帰ってくるときには、自力で歩けぬほどになるのを何度も目にした、とある。
 拷問が行われていたのだ。
 治安維持法によって、こうした狂った警察活動が、いたるところで繰り広げられた。
 国民の間に疑心暗鬼が広がり、密告も多くなされたという。
 お二人がその信仰によってその過酷な運命を生き延びたことにまずは驚嘆させられる。
 が同時に、治安維持法がいかに国民を苦しめるだけの悪法であったかということを改めて教えてくれる。

 この記事を読んで思い起こしたのは、沖縄で反基地活動を行い、微罪で逮捕され、現在も拘置され続けている、山城博治のことだ(注2)。
 彼は、起訴されて、拘留される理由がないのに、100日以上拘留され続けている。
 彼は2年前に悪性リンパ腫を患っている。
 そのフォローも十分されていない。
 家族との面会もゆるされていない。
 国際人権NGOアムネスティが、彼の逮捕・長期間拘留の非人道性を国際的に訴えている(注3)。
 これも一種の治安維持法的な拘禁ではないか。
 テロ等組織犯罪対策法ができれば(注4)、このようなケースでは、さらに多くの方を逮捕し、長期間拘留する根拠を権力側に与えることになる。
 また、国民の間の密告が奨励されることになる。

 現在、国会で審議されているテロ等組織犯罪対策法という名の共謀罪法案は、戦前の治安維持法とその法的意味合いは同様である。
 国会答弁で、安倍首相は、この法案の対象は、テロ等の組織犯罪であり、一般人は対象にならないと繰り返し述べている。
 だが、昨日の審議で「オレオレ詐欺」を対象にするとも述べた。
 オレオレ詐欺のどこが一体テロ等組織犯罪なのだろうか。
 安倍首相は、オレオレ詐欺という身近な犯罪にもこの法律で対処できるようになる、だからこの法案を支持してほしい、という積りだったのかもしれないが、この論理は、同法案がいかようにも拡大解釈できることを示している。
 安倍首相と警察・検察の意図は、治安対策にこの法律を用いることなのではないか。
 安保法制の審議中に、安倍首相がその必要性を外国で有事の際に、邦人を救い出すためと説明していた。
 だが、実際は内戦状態にある南スーダンへの自衛隊派遣、駆けつけ警護という名の内戦への参画であった。
 また、米軍との統一行動にも結び付けようとしている。
 安保法制の国民への説明は、ほとんど詐欺同然であった。
 それと同じことが、このテロ等組織犯罪対策法の説明でも行われている。


 戦前、治安維持法により、国民がどれだけの災禍に見舞われたか、先に述べたキリスト教独立学園高校のお二人の経験から我々は学ぶべきだ。
 そして、沖縄でも同じようなことが進行している。
 次はわれわれがターゲットにされる可能性がある。
 このテロ等組織犯罪準備罪という新たな犯罪名は、オリンピックのための一時的なものではなく、今後われわれの思想信条の自由を永続的に縛り上げる根拠になる。


(注1)
山形県西置賜郡小国町に、基督教独立学園高校という小さな高校がある。私は訪れたことがないのだが、静かな山間にある小さな学校だ。一学年25名で、無教会主義のキリスト教に基づいた教育を行なっている。その淵源は、1920年代、内村鑑三の主導によってこの地にキリスト教の伝導が行われ、鈴木弼美等によって開設されたと、その沿革に記されている。

何故この学校の存在を知っているかというと、この学校に在学し、またそこから卒業なさった方数名と知り合う機会が、若いころにあったからだ。とくに、遠縁にあたるNMは、この学校を出て、看護師の道を歩み、現在東海地方の基幹病院で看護の責任者になっている。私が高専から大学に進むころに親しくさせて頂いた方である。私が現在住む地域にも何人かこの学校の卒業生がおられる。この学校は、決して進学教育をするところではないので、有名大学に進学し、所謂世の中で高い地位についた方は多くはない。が、卒業生全般に言えることは、その人柄に共通して、裏表のなさ、透明さを感じることだ。そして、純朴であり、人の上に立とうとしたり決してしない。この学校の卒業生とは、それと知らずにお会いしても、すぐにそうではないかと想像がつくほどだ。

昨年2012年12月号の月刊誌「世界」に、鈴木弼美のことが記されていた。この気骨の伝道者については、若いころに、いろいろなところで耳にしていた。彼は、東大の物理学科を出るのだが、内村鑑三と出会い、キリスト教伝道で生きることを志す。最初に記したとおり、山形県の山村で伝道を行い、そこに移り住み私塾を開く。それが、現在の同学園に発展してゆく。

「世界」の記事には、鈴木弼美が、戦後、自衛隊の違憲訴訟を立ち上げた経緯が記されていた。彼は、自衛隊が戦力にあたり、違憲であることを主張し、自衛隊戦力予算に相当する税金分の不払いを行い、同時に自衛隊の違憲訴訟を一人で提起する。結局は、敗訴するのだが、口頭弁論が実際には開かれず、書面での審議になることを不服とし、裁判官忌避の訴えを起こす。だが、それも門前払いを受けてしまう。彼は、なぜ裁判官忌避の訴えが一度しか認められないのか(これは法的規定はなく、慣例でそうのようになっているらしい)を、裁判官に厳しく問い詰めるが、裁判官は無視をする。そして、彼が定めた回答期限までに裁判官からの返答はなかった。そこで、彼は自らを「勝訴した」と結論づけ、その文書を裁判官に送りつけるのである。

このように記すと、ドンキホーテのように見える。だが、戦争中に天皇を神と認めず、それによって1年近くを監獄で過ごした彼の経歴を思い返すと、この戦いが、ぴしっと筋の通った精神に基づくことが分かる。ここまでしっかり筋を通し、非戦の戦いを権力に挑んだことに私は驚嘆し、敬意を抱かざるを得ない。これほどに、自分の意志をしっかりもって生きることは、やはりキリスト教信仰があったからなのだろうか。

あのような卒業生を輩出する学校のバックボーンに、鈴木弼美の持っていた強靭で変わることのない信仰があったのだということを改めて教えられた。


2013/01/29 01:00更新、ステトスコープ・チェロ・電鍵
基督教独立学園高校 
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/blog-date-201301.html#entry2812

(注2)
 ヘリパッド工事現場の鉄条網をペンチで切った(器物損壊)。沖縄防衛局職員の胸倉をつかんだ(公務執行妨害・傷害)。米軍基地ゲート前にブロックを積んだ(威力業務妨害)〜微罪であるのにもかかわらず長期拘束が続く山城博治・沖縄平和運動センター議長の釈放を求める集会が、きょう2017年1月12日、国会内で開かれた。
 リーダーばかりでない。ヤンバルの森の大規模伐採を克明に記録し続けていたカメラマンも逮捕された。容疑は転び公妨である。
 山城議長と一緒にブロックを置いたとするサブリーダーも逮捕された。2016年1月にブロックを置いたことで、12月に逮捕されたのである。
 基地建設に反対する人びとやそれを記録・告発する人びとが次々と逮捕されていった。自分、田中龍作も「出頭リスト」に入っていると言われた時期があった。
 現地の事情に詳しい福島みずほ議員は「共謀罪の先取りが、緊急事態条項の先取りが沖縄で行われている」と警鐘を鳴らす。
 ブロックを置こうと話し合っただけで共謀罪に問われ、適用法条がないのにもかかわらず、適当な理由をつけて鎮圧してくる。安倍政権にとって沖縄は弾圧立法の実験場となっているようだ。山城氏らは明らかに政治犯である。
 ルポライターの鎌田慧氏は「このまま許していると必ずやこれからの大衆運動に向かってくる」と危機感を露わにした。
 日本国際法律家協会によれば、山城氏らの逮捕拘束は世界人権宣言9条に違反する。同9条は「何人も恣意的に逮捕、拘禁、または追放されることはない」と明記している。日本国憲法31条で規定されている「適正手続きの保障」にも違反する。
 集会主催者の一人で評論家の佐高信氏は「憲法を踏みにじるアベと沖縄を弾圧するアベは同じ。そこどけそこどけ、国家が通る、だ」と指摘した。
 山城氏はリンパのガンである「悪性リンパ腫」の持病を抱える。弁護士でもある福島議員は先月12月20日、氏に接見した。
 「山城さんは白血球の数が減っている。ヒゲをカミソリで剃ると血が止まらなくなると医師から注意されたそうだ。『ヒゲぼうぼうでゴメンね』と山城さんは言った」・・・福島議員は氏の体調を気遣った。
 治安当局は山城氏もろとも基地反対運動を潰すつもりではないのだろうか。
 治安維持法の時代に逆戻りしたような事態が沖縄で起きているにもかかわらず、本土のメディアはそれを報道しない。
 集会主催者で作家の落合恵子さんは「全国紙の記者がいたら、沖縄の問題は私たちの問題として捉えてくださることを心から願います」と訴えた。
 「あす同じ事が、ここにいるどなたにも起きる」。落合さんが締めくくると会場は静まり返った。


2017年1月12日 17:49更新、田中龍作ジャーナル
「ヒロジを釈放せよ」 沖縄の弾圧は本土の大衆運動に向かってくる
http://tanakaryusaku.jp/2017/01/00015150

(注3)
2017年1月27日[日本支部声明]

山城さんは2016年10月17日、沖縄県の米軍北部訓練場において、有刺鉄線を1本切ったとして器物損壊容疑で逮捕された。同20日に勾留が決定、同時に公務執行妨害と傷害の容疑で再逮捕された。現在、山城さんは、3つの罪で逮捕・起訴されている。当局は、軽微な犯罪での逮捕・勾留・起訴を繰り返している。勾留のためには証拠隠滅の恐れがあるなど必要な要件はあるが、上記の罪の証拠に関して隠滅の可能性は極めて低く、その他の要件についても該当する理由はない。国際人権基準は、公判前に釈放することを前提としており、このような拘禁は身体の自由への侵害である。

さらに、山城さんは、家族とも面会できない状態が続いている。被拘禁者処遇最低基準規則(マンデラルール)は、定期的に家族および友人の訪問を受けることが許されなければならないとしている(58条1項)。山城さんは、2015年の大病からは回復したものの体調が心配されており、家族の訪問は保障されるべきである。

山城さんは、沖縄における米軍基地反対運動のリーダーとして、政治信条に基づいて長年にわたって活動してきた。沖縄は、日本における米軍基地の7割が集中する地域であり、基地に関わる問題には、常に政治的な文脈が影響している。今回の逮捕と長期拘禁は、そうした影響の表れであって、日本政府による沖縄米軍基地反対運動の抑圧とも指摘されている。アムネスティ日本は、デモや座り込みを含む抗議行動を表現の自由として保障する義務を日本政府が負っていることを想起させ、山城さんの逮捕・拘禁が運動への委縮効果を生むおそれがあることに懸念を表明する。

国際社会は、政府による抑圧を防ぐため数々の努力を重ね、自由権規約や被拘禁者処遇最低基準規則、ならびに保護原則を作り上げてきた。日本政府は、こうした国際人権基準を遵守すべきである。

アムネスティは、表現、結社、集会の自由の権利を尊重し保障するよう日本政府に求めるとともに、国際人権基準に則って山城さんを速やかに釈放するよう検察当局に強く求める。また、アムネスティは、山城さんが釈放されるまでの間に家族に会えること、必要な医療を受けることができることを求め、国際的な行動を展開する。


日本:山城博治さんの速やかな釈放を求める

沖縄平和運動センターの山城博治さんが公務執行妨害などの罪に問われ、昨年10月17日に逮捕されて以来100日を超える。アムネスティ・インターナショナル日本は、山城さんの勾留が長期に及んでいることに強い懸念を表明する。山城さんは直ちに釈放されるべきである。


http://www.amnesty.or.jp/news/2017/0127_6627.html

(注4)
 今度の国会で最大の問題は何か。
 それは、トランプの米国との同盟強化問題でも、改憲問題でも、残業廃止法案でもない。
 ズバリ共謀罪法案だ。
 この法案だけは成立させてはいけない。
 ところが、国会審議を見ていると、あの安保法の時のように、この法案も強行成立させられるだろう。
 しかし、この法案が国民に与える悪影響は安保法の比ではない。
 国民生活を直に脅かす事になる悪法中の悪法だ。
 なぜそんな共謀罪法の成立を防ぐことが出来ないのか。
 それは安倍首相が何としても通そうとするからだ。
 それに対して野党があまりにも非力だからだ。
 非力であっても、知恵があればまだ防げる。
 野党は、非力な上に、知恵がなさすぎる。
 考えても見るがいい。
 我々はまだ一度もテロ等準備組織犯罪法案なるものを見ていない。
 つまり、安倍自民党はまだ法案を提出していないのだ。
 過去に何度も廃案になった共謀罪法案に基づいて、野党は質問し、反対しているのだ。
 こんな馬鹿な話はない。
 こんな事をやっているから野党は安倍首相を追い込めないのだ。
 今、野党がなすべきは、早く成案を出してみろ、国会審議はその後だ、と突き放せばいいだけの話である。
 公明党の反対でたちどころに対象範囲が半減される。
 こんないい加減な法案など、審議以前の問題だ。
 外務官僚と法務官僚の間で意見の調整が手間取っているという。
 こんな状態で国会議論につき合っている野党は、本当にお人好しだ。
 あの安保法の時もそうだった。
 まともに議論につき合うから、安倍首相のウソ、バカ答弁に言い負かされてしまうのだ。
 十分に審議は尽くしたと強弁され強行採決されるのだ。
 野党は共謀罪の議論をいますぐ止めて、はやく成案を出せと迫るのだ。
 成案が出て来たら、徹底的に批判すればいい。
 それでも安倍首相が強行しようとすれば国会をボイコットするのだ。
 共謀罪は、何があっても成立させてはいけない。
 野党の最強の手段は国会審議拒否だ。
 国民の批判など恐れる必要はない。
 今の野党には、もはや失うものは何もない。
 国会審議が行き詰れば安倍首相は解散・総選挙に打って出るかもしれない。
 それこそ思うつぼだ。
 今選挙をしても野党共闘は政権をとれっこないが、安倍自民党の議席は確実に減らす事が出来る。
 そうなれば、自民党内部で動きが出てくる。
 安倍一強多弱の政局は、たちどころに流動化する。
 いまこそ共謀罪阻止の一点で野党共闘すべきだ。
 野党共闘の起死回生のチャンスである。


2017-02-03更新、天木直人のブログ
共謀罪法案だけは成立させてはいけない
http://kenpo9.com/archives/925

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2017年02月02日

一帯一路 One Belt, One Road

 マレーシアでは中国人の旧正月、春節も終わり、これからはインド人のタイプーサンのお祭りでにぎわうことでしょう。
 ところで今日は資本主義もびっくり、中国本土のすさまじい海外進出について、です。
 朝日新聞でも昨日付けで報道していました(注):

 インド洋に浮かぶ島国スリランカ。その主要な港や周辺の土地を、中国の国有企業が借り上げることになった。期間は99年間。似た例は周辺各国でも相次ぐ。帝国主義の時代、日本や欧州の列強に租借地を供出させられた中国が1世紀を経た今、反対の動きをしているかのように見える。
 スリランカ最大の都市コロンボの海沿いを埋め立て、国際金融センターをつくろうという「コロンボ・ポート・シティー(CPC)」プロジェクト。開発を一手に担う中国の国有企業「中国港湾(CHEC)」の子会社の事務所は、英領時代の歴史的建造物「旧中央銀行」の上層階にある。
 取材に応じた営業担当幹部リャン・ゾウ・ミン氏が言った。「我々が投資しなければ、何の価値もない海だった。ただ魚がいるだけ。そこを埋め立て、都市をつくる。14億ドル(約1600億円)の資金も用意する。すべてこちらの負担だ。スリランカ政府単独ではできない」
 力関係はスリランカ政府との合意にも表れている。開発用地のうち、116ヘクタールを同社が99年間保有するため、政府が受け取るのは62ヘクタールにとどまる。
 完成は埋め立てが終わってから30年後。8万人が居住し、通勤者も含め25万人が活動すると見込む。周辺のインドやパキスタン、バングラデシュの富裕層を呼び込む考えだ。
 リャン氏は「ここではスリランカ国内とは異なる税制、法体系が適用され、裁判所も別の、いわば中国の香港のようになるかもしれない」と指摘。「スリランカ側が決めること」としながらも、何らかの治外法権を求める構えを示した。一方、投資を認可したスリランカ投資庁は「詳細は未定」と言葉を濁す。
 同社は「あくまで商業目的で軍事利用の可能性はない」と説明するが、すでに別の中国企業が管理している埋め立て地の北隣の埠頭(ふとう)には、2014年に中国の潜水艦が入港し、物議を醸した。
 開発にゴーサインが出たのは、中国寄りで知られたラジャパクサ前大統領の時代だった。14年の起工式には習近平(シーチンピン)・中国国家主席が立ち会った。
 しかし、翌15年の大統領選でラジャパクサ氏が敗北。シリセナ新政権は親欧米派で、埋め立て計画の白紙撤回を表明した。
 工事が中断されると、すでに1億ドル(約114億円)近くを投資していた中国側は、賠償金請求をちらつかせて強く反発した。再交渉の結果、16年8月に工事は再開された。中国側の取り分は、当初案よりも7%余り増えていた。

■ 11億ドル債務免除と引き換え
 シリセナ政権が中国側に押し切られた背景には、前政権が中国から借りた巨額の債務がある。
 前大統領の地元の南部ハンバントタは04年末、インド洋大津波で5800人の死者を出し、壊滅的な被害を受けた。手をさしのべたのが中国だった。
 ペルシャ湾岸からマラッカ海峡へ向かう大型タンカーがすぐ目の前の海を行き交うシーレーン(海上交通路)上の要衝で、中国側が85%を融資して中継用の港を建設した。ほかにも、中国の融資で国際空港や高速道路網が造られた。
 当時、ラジャパクサ政権は少数派タミル人の武装勢力との内戦をめぐり、人権侵害や戦争犯罪を疑う欧米諸国と激しく対立。中国は、国際社会では貴重な頼れる存在で、融資額は14年までの5年間だけで3700億円に達した。
 港は10年に完成したが、利用する船の数はまったく伸びなかった。国際空港も同様で、定期便の発着は1日に1〜2便程度。片側2車線の高速道路は、どこまで走っても他の車両とすれ違うことがほとんどない。
 巨費を投じたインフラが何の利益も生み出さないまま、中国側への借金の返済が始まった。国家歳入が100億ドル(約1兆1400億円)の同国で、対外債務の返済額は昨年の18億ドルから今年は24億ドルに急増。2年後には40億ドルに達する。港の建設資金の金利は最大6%を超え、金利がゼロに近い日本の円借款と比べて非常に高いのが響いている。
 結局、新政権は今年に入って、11億ドル分の実質的な債務免除と引き換えに、港の8割と周辺の土地6千ヘクタールを経済特区として中国側に貸し出すことを決断。ここでも期間は99年間だ。
 港近くの村では昨年の暮れごろから、地元役場の職員が「土地は収用する。ほかの場所へ移ってもらう」と通告し始めていた。今年1月、特区の起工式が行われると、地元住民らが反対デモを始め、20人以上が負傷した。デモに参加した地元商店主アマラバシ・パティンゲさん(54)は「中国に土地を奪われ、支配される」と憤る。
 起工式を強行したウィクラマシンハ首相は前政権の失敗だと強調。「債務を帳消しにするには、ほかに方法がない」と話した。

■ 将来の軍事利用、懸念
 中国による長期借地の動きは、インド洋周辺の各地で起きている。
 ペルシャ湾に近いパキスタン南部のグワダル港は中国の融資で07年に開港した。まったく利用されないまま、13年に港の運営はシンガポール企業から中国企業に移管された。15年には海岸の土地約800ヘクタールも約40年間、中国側が借りることが決まった。
 オーストラリア北部のダーウィンの港も、15年に中国企業が99年間賃借する契約が結ばれた。モルディブでは昨年、国際空港近くのフェイドゥフィノルフ島を、中国企業が50年間の長期契約で借りた。
 これらは、習国家主席が13年に提唱した陸と海のシルクロードを復活させる構想「一帯一路」の先行例と位置づけられている。
 構想の対象はアジアから西太平洋、中東アフリカ、欧州の60カ国以上にまたがる。中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB、資金量1千億ドル)と、シルクロード基金(同400億ドル)が今後、資金提供を本格化する予定だ。
 対象国では強い期待感が広がる半面、案件選びは採算性よりも、将来の軍事利用など、中国の戦略的価値が優先されているのでは、との疑念もつきまとう。
 港のほか道路や発電所なども含め、総事業費約450億ドルの大半を中国側が投融資するパキスタンについては、国際通貨基金(IMF)が昨年、債務返済が今後重くのしかかるとの警告を出した。


2017年2月1日05時09分更新、朝日新聞デジタル、コロンボ=武石英史郎
中国企業、外国土地を次々「借り上げ」 治外法権要請も
http://digital.asahi.com/articles/ASK105JDTK10UHBI021.html

 昨年春にはすでにガーディアン紙が次のようにAFP電として報道していた案件です:
 
Sri Lanka has granted permission for China to build a vast “port city” in the island’s capital, despite concerns the ambitious project could be an environmental disaster.

President Maithripala Sirisena had suspended the contentious $1.4bn plan to build on reclaimed land next to Colombo’s main harbour shortly after taking power in January last year.

But the port city, initiated by Chinese president Xi Jinping in September 2014 and expected to include housing, a marina and a Formula One racetrack, was again given the green light on Thursday.

“The cabinet committee on economic management has recommended allowing resumption of the project subject to limitations and conditions stipulated in the EIA (environmental impact assessment),” the government said in a statement.

It did not say what the conditions were, but official sources told AFP that Chinese investors were given permission to resume work on the project without any major modifications.

Prime minister Ranil Wickremesinghe has said reclaiming land next to the harbour could trigger erosion along the island’s western coastline and threaten its vital tourist industry.

The project, funded by Chinese state-owned company China Communications Construction, represents the biggest single foreign investment ever received by Sri Lanka.

It will add 233 hectares (575 acres) of new real estate in the congested capital.
Sirisena’s government had ordered a review of all big-ticket construction projects signed by his predecessor Mahinda Rajapakse, who is under investigation over allegations of corruption during his decade in power.

Rajapakse relied heavily on China to rebuild the country’s infrastructure after the end of the island’s decades-long ethnic war in May 2009.

China, the largest single lender to Sri Lanka, secured contracts to build roads, railways and ports under the Rajapakse regime.

However, the present administration has accused the previous government of agreeing to unfavourable terms for the Chinese loans.

Sirisena’s government is seeking an International Monetary Fund bail out of an unspecified amount of money to bolster the island’s foreign reserves.

Beijing has been accused of seeking to develop facilities around the Indian Ocean in a “string of pearls” strategy to counter the rise of rival India and secure its own economic interests.


The Guardian, Published: Friday 11 March 2016 00.42 GMT

China to build vast, controversial 'port city' in Sri Lanka

The $1.4bn plan had been suspended by president Maithripala Sirisena but is back on the table despite erosion fears

By Agence France-Presse
https://www.theguardian.com/world/2016/mar/11/china-to-build-vast-controversial-port-city-in-sri-lanka

 このような事例は次のようにマレーシアでもあって、指摘しているのは元首相のマハチール氏くらいなもの(ヤッホー君のこのブログでも既紹介)ですが、現首相含め、中国本土からの直接投資を大歓迎してる陣営からは総スカンをくっています:

The landscaped lawns and flowering shrubs of Country Garden Holdings Co.’s huge property showroom in southern Malaysia end abruptly at a small wire fence. Beyond, a desert of dirt stretches into the distance, filled with cranes and piling towers that the Chinese developer is using to build a $100 billion city in the sea.

While Chinese home buyers have sent prices soaring from Vancouver to Sydney, in this corner of Southeast Asia it’s China’s developers that are swamping the market, pushing prices lower with a glut of hundreds of thousands of new homes.

They’re betting that the city of Johor Bahru, bordering Singapore, will eventually become the next Shenzhen.

“These Chinese players build by the thousands at one go, and they scare the hell out of everybody,” said Siva Shanker, head of investments at Axis-REIT Managers Bhd. and a former president of the Malaysian Institute of Estate Agents. “God only knows who is going to buy all these units, and when it’s completed, the bigger question is, who is going to stay in them?”

The Chinese companies have come to Malaysia as growth in many of their home cities is slowing, forcing some of the world’s biggest builders to look abroad to keep erecting the giant residential complexes that sprouted across China during the boom years. They found a prime spot in this special economic zone, three times the size of Singapore, on the southern tip of the Asian mainland.

The scale of the projects is dizzying. Country Garden’s Forest City, on four artificial islands, will house 700,000 people on an area four times the size of New York’s Central Park. It will have office towers, parks, hotels, shopping malls and an international school, all draped with greenery. Construction began in February and about 8,000 apartments have been sold, the company said.

It’s the biggest of about 60 projects in the Iskandar Malaysia zone around Johor Bahru, known as JB, that could add more than half-a-million homes. The influx has contributed to a drop of almost one-third in the value of residential sales in the state last year, with some developers offering discounts of 20 percent or more.

Average resale prices per square foot for high-rise flats in JB fell 10 percent last year, according to property consultant CH Williams Talhar & Wong.

Country Garden, which has partnered with the investment arm of Johor state, launched another waterfront project down the coast in 2013 called Danga Bay, where it has sold all 9,539 apartments. China state-owned Greenland Group is building office towers, apartments and shops on 128 acres in Tebrau, about 20 minutes from the city center. Guangzhou R&F Properties Co. has begun construction on the first phase of Princess Cove, with about 3,000 homes.

Country Garden said in an e-mail it was “optimistic on the outlook of Forest City” because of the region’s growing economy and location next to Singapore. R&F didn’t respond to questions about the effects of so many new units and Greenland declined to comment.

Singapore Draw
“The Chinese are attracted by lower prices and the proximity to Singapore,” said Alice Tan, Singapore-based head of consultancy and research at real-estate brokers Knight Frank LLP. “It remains to be seen if the upcoming supply of homes can be absorbed in the next five years.”

The influx of Chinese competition has affected local developers like UEM Sunrise Bhd., Sunway Bhd. and SP Setia Bhd., who have been building projects around JB for years as part of a government plan to promote the area. First-half profit slumped 58 percent at UEM, the largest landowner in JB.

A decade ago, Malaysia decided to leverage Singapore’s success by building the Iskandar zone across the causeway that connects the two countries. It was modeled on Shenzhen, the neighbor of Hong Kong that grew from a fishing village to a city of 10 million people in three decades. Malaysian sovereign fund Khazanah Nasional Bhd. unveiled a 20-year plan in 2006 that required a total investment of 383 billion ringgit ($87 billion).

Singapore’s high costs and property prices encouraged some companies to relocate to Iskandar, while JB’s shopping malls and amusement parks have become a favorite for day-tripping Singaporeans. In the old city center, young Malaysians hang out in cafes and ice cream parlors on hipster street Jalan Dhoby, where the inflow of new money is refurbishing the colonial-era shophouses.

Outside the city, swathes of palm-oil plantations separate isolated gated developments like Horizon Hills, a 1,200-acre township with an 18-hole golf course.

“The Chinese developers see this as an opportunity. A lot of them say Iskandar is just like Shenzhen was 10 years ago,” said Jonathan Lo, manager of valuations at CH Williams Talhar & Wong, a property broker based in Johor Bahru. “Overseas investors coming to Malaysia is a new phenomenon so it’s hard to predict.”

Construction soon outpaced demand. To sell the hundreds of new units being built every month, some companies took to flying in planeloads of potential buyers from China, prompting low-cost carrier AirAsia Bhd. to start direct flights in May connecting JB with the southern Chinese city of Guangzhou.

On the first such flight, 150 of the 180 seats were taken by a subsidized tour group organized by Country Garden. Almost half of them ended up buying a residence, the developer said in an e-mail.

Buses disgorging Chinese tourists at Forest City in November were met by dozens of sales agents, with the women dressed in traditional Sarong Kebaya outfits similar to those worn by Singapore Airlines Ltd. stewardesses.

The visitors filed into a vast sales gallery where agents explained the enormity of the project using a replica of the finished town, with model buildings as tall as people. They viewed show flats with marble floors and golden-trimmed furniture, dined on a buffet spread and were encouraged to sign on the spot. A two-bedroom apartment cost as little as 1.25 million yuan ($181,400), about one-fifth of the price of a similar-sized private apartment in central Singapore.

But JB is not Shenzhen. The billions poured into the economic zone in southern Guangdong in the 1980s and 1990s by Hong Kong and Taiwanese firms was soon dwarfed by Chinese investment as factories sprang up all along China’s coast.

In Malaysia, investment growth is slowing, slipping to 2 percent year on year in the third quarter, from more than 6 percent in the previous quarter. The value of residential sales in Malaysia fell almost 11 percent last year, while in Johor the drop was 32 percent, according to government data.

“I am very concerned because the market is joined at the hip, if Johor goes down, the rest of Malaysia would follow,” said Shanker, at Axis-REIT Managers, who estimates that about half the units in Iskandar may remain empty. “If the developers stop building today, I think it would take 10 years for the condos to fill up the current supply. But they won’t stop.”

Property Pipeline
Developers have a pipeline of more than 350,000 private homes planned or under construction in Johor state, according to data from Malaysia’s National Property Information Centre. That’s more than all the privately built homes in Singapore.

Forest City could add another 160,000 over its 30-year construction period, according to Bloomberg estimates, based on the projected population.

“Land is plentiful and cheap,” said Alan Cheong, senior director of research & consultancy at Savills Singapore. “But buyers don’t understand how real estate values play out when there is no shortage of land.”

The developers haven’t been helped by government measures designed to prevent overseas investors pushing up prices. In 2014, Malaysia doubled the minimum price of homes that foreigners can buy to 1 million ringgit, and raised capital gains tax to as much as 30 per cent for most properties resold by foreigners within five years.

The stream of new developments has scared away some investors, pushing developers to concentrate more on finding families who will live in the apartments, said Lo at CH Williams. Profit margins have fallen to around 20 percent, from 30 percent when land was cheap a few years ago, according to his firm.

Singapore billionaire Peter Lim’s Rowsley Ltd. said last year it will no longer build homes in Iskandar and will instead turn its Vantage Bay site into a healthcare and wellness center.

“The Chinese players have deep financial resources and are building residential projects ahead of demand,” Ho Kiam Kheong, managing director of real estate at Rowsley said in an interview. “If we do residential in Iskandar, we would be only a drop in the ocean. We can’t compete with them on such a large scale.”

UEM Group Bhd., the biggest landowner in Iskandar, is selling plots to manufacturers to boost economic activity in the area.

“Industries are the queen bee,” creating jobs and wealth for local residents, said Chief Executive Officer Izzaddin Idris. “That will bring a demand for the houses we are building.”

U.S.-based chocolate maker Hershey Co. is among those building a plant in Iskandar, joining tenants such as amusement park Legoland Malaysia and Pinewood Iskandar Malaysia Studios−a franchise of the U.K.-based movie studio.

Meanwhile, sales reps sell a Utopian dream−a city of the future with smart, leafy buildings and offices full of happy, rich residents.

“It will take a while for all the parts to fall into place: infrastructure, manufacturing, education, healthcare and growth in population,” said Ho at Rowsley. “But I have no doubt it will happen eventually.”


Bloomberg, November 22, 2016
Planeloads of buyers fly in as condos rise from the sea
Pooja Thakur Mahrotri and En Han Choong
−With assistance from Emma Dong.
https://www.bloomberg.com/news/features/2016-11-21/-100-billion-chinese-made-city-near-singapore-scares-the-hell-out-of-everybody

 この国についても、ヤッホー君のこのブログで取り上げたことがありますが、おさらいです。
 まずは、2010年9月7日(火)報道、NHKクローズアップ現代から:

日本の森林が買われていく
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/2932/index.html

 次いで、2012年07月23日付け東洋経済OnLine記事から:

日本の森林が危ない、外資の買収に、所有者の所在不明
http://toyokeizai.net/articles/-/9536

(注)
The Star, Published: Thursday, 2 February 2017 - MYT 7:28 AM
China's 'Silk Road' push stirs resentment and protest in Sri Lanka
HAMBANTOTA, Sri Lanka (Reuters)
By Shihar Aneez
Read more at http://www.thestar.com.my/news/world/2017/02/02/chinas-silk-road-push-stirs-resentment-and-protest-in-sri-lanka/


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2017年02月01日

Islamophobia

 この国では宗教団体が政治団体をつくって政権与党となっていますが、他国ではどうなんでしょうね。
 イスラム教やムスリムに対する憎悪、宗教的偏見を表す英語に Islamophobia(イスラムフォビア、イスラモフォビア)というのがあり、問題となってますけど。
 まずはこちら:

 カナダのトルドー大統領が、トランプ大統領の移民規制策を見て、すかさず批判した。
 カナダはトランプ大統領の米国とは違うと。
 移民で出来ている国だと。
 その直後にテロが起きた。
 私はこのテロが、トランプ大統領の移民規制に反対して起きたイスラム過激派によるテロだとその時思った。
 イスラムに寛容なトルドー首相のトランプ批判の直後にテロが起きるとは、なんという皮肉かと。
 その時のテレビのアナウンサーも、そう表現していた。
 ところが事実は全く異なっていた。
 きょう2月1日の毎日新聞で知った。
 カナダ乱射事件の容疑者は極右の大学生だという。
 警察は動機を明らかにしていないが、カナダのメディアは、容疑者がインターネット上で極右的な投稿を繰り返し、トランプ米大統領への支持を表明していたと伝えたという。
 カナダのメディアが報じることが正しければ、トランプ大統領はイスラム過激派のテロとは全く逆の、トランプに熱狂する極右テロを生んだというわけだ。
 ますます世界は殺伐としてきた。
 誰かがトランプ大統領の暴走を止めなければいけない。


2017-02-01付け天木直人のブログ
ついにトランプ大統領が新手のテロの根源になった
http://kenpo9.com/archives/911

 海外ではこんなふうに報じられています:

 まずはイギリスから:

The office of the Canadian prime minister Justin Trudeau has forced Fox News to apologise and retract a “false and misleading” tweet that inaccurately described the suspect in the Québec City mosque shooting as a man of Moroccan origin.

Kate Purchase, the director of communications for the prime minister’s office, sent a letter to Fox News objecting to misinformation it had put out after the attack on the Québec City Islamic cultural center.

Six people were fatally shot in the back as they prayed at the mosque on Sunday. Another 19 people were wounded. On Tuesday two people remained in critical condition.

Shortly after the attack police had arrested two men, one of whom was a Moroccan-born Québecer. By midday on Monday, police had clarified that only one was a suspect, and they had released the Moroccan-born man – who was now being treated as a witness – without charge.

Fox News later tweeted on Monday afternoon – after the police clarification – that the suspect in the attack was of Moroccan origin.

The Fox News tweet made no mention of the other man arrested, French-Canadian Alexandre Bissonnette, who now faces six charges of first-degree murder and five of attempted murder. Those who know Bissonnette have described him as pro-Donald Trump, anti-immigration and sympathetic to the far right.

Hours after it was made clear that Bissonnette was the only suspect in the case, the “false and misleading” tweet was still on the Fox News Twitter account and remained in circulation, said Purchase.

While the Fox News story linked to the tweet had been corrected, the erroneous tweet had been retweeted more than 900 times and had racked up 1,600 likes.

In a letter to a top official at the network, Purchase asked Fox News to retract or update the tweet to reflect the suspect’s identity as a 27-year-old French-Canadian.

“These tweets by Fox News dishonour the memory of the six victims and their families by spreading misinformation, playing identity politics and perpetuating fear and division within our communities,” she wrote.

The letter continued: “We need to remain focused on keeping our communities safe and united instead of trying to build walls and scapegoat communities. To paint terrorists with a broad brush that extends to all Muslims is not just ignorant – it is irresponsible.

“If we allow individuals and organizations to succeed by scaring people, we do not actually end up any safer,” she added. “Fear does not make us safer. It makes us weaker. Ramping up fear and closing our borders is not a solution.”

Within hours, Fox News apologised for the error. “FoxNews.com initially corrected the misreported information with a tweet and an update to the story on Monday. The earlier tweets have now been deleted,” Refet Kaplan, the managing director at FoxNews.com, said in a statement. “We regret the error.”

Moroccan-born Québecer Mohamed Belkhadir has described how he spent the night in custody after a misunderstanding.

He said he had been clearing snow off the steps outside the mosque when he heard gunshots. When the noise stopped, he called 911 and entered the mosque, he said: “It was a reflex. You can’t leave people when they’re in need.”

He said he was giving first aid to a friend when he caught a glimpse of a man with a gun. “I didn’t know it was a police officer – I thought it was the gunman who had returned.”

Belkhadir said he bolted from the scene. Only when police ordered him to the ground did he realise what was going on. He was released hours later, but by then his identity had become synonymous with the attacks.


The Guardian, Last modified on Wednesday 1 February 2017 07.39 GMT

Fox News deletes false Québec shooting tweet after Canadian PM's office steps in

Justin Trudeau’s aide says US network claim that mosque attack suspect was of Moroccan origin ‘spread misinformation … and perpetuates fear and division’

Ashifa Kassam in Québec City
https://www.theguardian.com/world/2017/feb/01/fox-news-deletes-false-quebec-shooting-tweet-justin-trudeau-mosque

そして地元紙も:

MONTREAL − The massacre at a Quebec City mosque has provoked soul searching and regret in the province’s political and media class over their overheated rhetoric and frequent failure to draw a clear line between Islamist extremists and ordinary Muslims.

Those expressions of remorse were generally appreciated, but many Muslims received them with a dollop of skepticism.

Six men were killed and 19 others injured Sunday night in an attack on the Centre culturel islamique de Québec that the province’s Public Security Minister described Tuesday as an act of terror. Four men remain in hospital with two of them in critical condition. Alexandre Bissonnette, 27, is charged with six counts of first-degree murder and five counts of attempted murder.

Acquaintances say the suspect adhered to extreme anti-immigration and anti-Islam views. Taking care to point out heated debate and even extreme opinions shouldn’t be blamed for mass murder, Premier Philippe Couillard pushed Tuesday for greater understanding and careful choice of words in a province frequently inflamed over the place of religion, especially Islam.

“Every society has to deal with demons,” Mr. Couillard said in his fifth plea in 48 hours for conciliation. “Our society is not perfect; none is. These demons are named xenophobia, racism, exclusion. They are present here. We need to recognize that and act together to show the direction we want our society to evolve.

“Words can hurt. Words can be knives slashing at people’s consciousness.”

Many places in North America have a problem with Islamophobia but few have given the dominant place Quebec has to public debate over Islam. Over a decade, a public inquiry was held and reports shelved on religious accommodation. Elections were fought over it. Laws have been drafted, debated and (mostly) died on the order paper. News media regularly fill airwaves and websites with sensational headlines about scandals ranging from controversial Islamic books in university libraries to special public pool times for female religious swimmers to halal or kosher meals at public institutions.

Each time Muslims are mostly bystanders as their place in society is batted around. They account for just over 3.1 per cent of Quebec’s population. About 2,000 of them live in Quebec City, population 805,000.

“We’ve breached a barrier that we never thought would happen in Quebec. Someone fuelled by hate shot several people,” said Hakim Merdassi, a member of Quebec City’s Tunisian association. “Will this act lead to some kind of collective looking-out for one another? I wish it would. But my fear is that we’ll fall into the same identity politics and divisions we’ve seen in the past.”

Selma Yahiaoui, a daycare operator who emigrated from Algeria in 2005, hopes non-Muslims learn the dangers of generalization from the shooting.

“I will never say ‘Quebeckers, they’re all like that’ because of what happened Sunday. Never,” said Ms. Yahiaoui, who was in the mosque with her husband during the attack. “I will never say ‘They’re all terrorists.’ I will never say ‘They’re all racists.’ I will never put them all in the same basket.”

Across the province, political operators and media stars offered a range of regrets and conciliatory statements for their failure to take into account the weight carried by their constant analysis of the faith, practices and extremist fringes of Islam dating back more than 10 years.

Journal de Montréal columnist Lise Ravary wrote she has come to realize many citizens fail to catch the nuance between extremism and simple religious devotion in her writing as she has argued for a more secular state.

Parti Québécois Leader Jean-François Lisée admitted he has gone too far sometimes. His party long pushed for legislation that would limit religious accommodation in the province and restrict religious symbols and clothing in interactions with the state. Mr. Lisée once warned the burka – a head-to-toe covering some Muslim women wear – is a security risk because it could conceal firearms for a terrorist attacker.

“It wasn’t a good idea to bring that idea into the Quebec debate,” Mr. Lisée told reporters Tuesday. “It’s not easy to be Muslim in the 21st century. We could turn down our language while still debating our values.”

The Bloc Québécois federal party quietly took down an ad from the 2015 election that depicted a niqab – an all-covering black Muslim veil – transforming into a puddle of oil.

As for “radio poubelle” or “trash radio” as critics call it, Quebec City Mayor Régis Labeaume said the province must “reject … those who enrich themselves with hatred.”

One emotional talk radio host in the city admitted Tuesday to an airwave obsession with radical Islam and expressed his shame that his address book was empty when he needed to talk to local Muslim citizens. “I don’t think a week passes that I don’t talk about their religion, about radical Islam. When I wanted to talk to our own [Muslim] people, I figured out we don’t know any. We didn’t have a number,” said Sylvain Bouchard, morning host on FM93. Mr. Bouchard is far from the meanest host on Quebec City airwaves, and several of his competitors angrily denied going too far.

Muslims in Quebec City and across the province were buoyed by large public rallies of support in recent days but they wonder how much the public debate can change.

“Trash radio constantly wants to talk about Islam and it does us immense harm. We are a small community here and huge numbers of people listen to that radio. They see us, they don’t talk to us, they think we’re monsters,” said Yassin Boulnemour, a friend and co-worker of Abdelkrim Hassane, a 41-year-old father of two who was killed in the attack. “If you want to show us your solidarity, stop listening to the radio.”

Majdi Dridi, an organizer with the Quebec arm of the Muslim Association of Canada, said he hopes authorities will take more seriously routine acts of hate and Islamophobia the community encounters. “It’s time now to fine our points of commonality instead of talking about differences and how to accommodate them.”

Not all of the political and media actors are ready to forget about their agenda for limiting the place of Islam in the public sphere. Bernard Drainville, the former PQ member cabinet minister who in 2013 drafted the failed charter of values that would have limited religious dress in the public service among other measures, took to his current TV and radio commenting gigs to say the debate must go on – after a respectful pause.


The Globe and Mail, Last updated Wednesday, Feb. 01, 2017 12:49AM EST
Quebec media, politicians express regret over Islam rhetoric in wake of mosque attack
With reports from Verity Stevenson in Quebec City, Nicolas Van Praet in Montreal and Eric Andrew-Gee in Toronto
http://www.theglobeandmail.com/news/national/two-remain-in-critical-condition-in-quebec-mosque-attack/article33846243/

 地球の反対側だけど、ヤッホー君が12月初旬から1月末まで過ごしていたマレーシアの『スター紙』でも若手法学者が一読の価値あるこんなコメントを残してくれています:

PRESIDENT Donald Trump’s executive order to ban anyone from Iran, Iraq, Libya, Somalia, Sudan, Syria and Yemen from entering America is not only discriminatory, it is also foolish and pointless.

Let’s examine why, shall we?

The biggest terrorist attack on American soil is the Sept 11, 2001 airplane hijacks and crashes.

Who were the people involved? They were Saudis. Strangely enough, Saudi Arabia is not on the list above. Which makes one wonder whether Trump is really serious about stopping terrorists (who are exclusively Muslim, naturally) from entering his wonderful country or he is just making a great big show-and-tell to make his voters happy.

Furthermore, since 2001, according to the New America Foundation, 82% of terrorist attacks in America have come from American citizens and Permanent Residents. And according to the Cato Institute, an American is over 250 times more likely to be
killed by ordinary homicide than a terrorist attack.

So by taking aim at the peoples of these seven countries, what we have, therefore, is a policy that is utterly misguided and pointless.

Well, maybe I am being overly harsh. There is a point to this policy. It makes racist, misinformed bigots happy. That is surely a good thing for Trump. Also, it is great news for the Islamic State and their ilk because the “Great Satan USA” now has a leader who is an Islamophobe and proud of it. Trump is the ideal poster boy for extremist recruiters.

And what can the world do about it?

In Britain, the answer is to be as subservient as possible. Theresa May, the British PM, was the first world leader to go rushing to pant at Trump’s door and she was quite happy to excuse his vile policies as something within his right to do. The United States has its policies and we have ours, is roughly what she said when asked. How convenient.

However, the people of Britain have not been so pliant. Nearly 1.5 million have signed a petition demanding that the planned state visit of Trump be cancelled. It takes only 100,000 signatures to force a debate in the House of Commons. Within hours, this number was exceeded many times over.

Now, will the government cancel the visit? Of course not, the Brits have no friends in Europe any more so they have to play ball with the Americans. It would be nice for the government to admit that this is the case.

Instead, we have seen the usual political squirming along the lines that Trump was democratically elected and thus we have to respect the will of the American people. How wonderfully hypocritical.

When America chose to cut all aid to Palestine because the people of that country voted Hamas into power, it was perfectly acceptable for them to disregard the democratic will of the Palestinian people.

Of course, their reasoning was that Hamas was a “terrorist” organisation.

If it is acceptable to not respect the democratic choice of a country because you don’t like their elected leaders, why then is it not acceptable for a country to minimise relations with a country that voted a misanthropic, uninformed bigot into power?

If you don’t have the guts to do so, just admit it. Please don’t hide behind the false high horse of respecting democracy, as it seems that the powerful are more than happy to disrespect democracy when it suits them.


The Star, Published: Wednesday, 1 February 2017
Why the US travel ban is pointless
By Azmi Sharom
http://www.thestar.com.my/opinion/columnists/brave-new-world/2017/02/01/why-the-us-travel-ban-is-pointless-rather-than-stopping-terrorists-the-policy-could-even-provide-mor/


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愛の旅人

 今朝もシューベルトから。

Fischer-Dieskau: 2 Famous Schubert Songs
https://www.youtube.com/watch?v=OmBqDthi1Fw

冬の新宿御苑とシューベルトの「冬の旅」
https://www.youtube.com/watch?v=nsHSSoZfUtQ

 まずは、シューベルトが思い焦がれた相手のこと:

 ステンドグラスからこぼれる日の光と、透き通った歌声が、小さな礼拝堂に降りそそぐ。

 オーストリアのウィーン中心部にあるホーフブルク宮殿。「女帝」と呼ばれたマリア・テレジアやフランス王妃となったマリー・アントワネットらハプスブルク家の人たちが祈りをささげた宮廷礼拝堂で、日曜朝のミサが行われていた。
 このミサの主役は、上層階のテラスでミサ曲を奏でる礼拝堂のオーケストラとウィーン少年合唱団だ。
 ミサの終わり。セーラーカラーの制服に身を包んだ合唱団員たちが、祭壇の前に進み出て、カメラのフラッシュの中、はにかみながらも真剣な表情で「アベ・マリア」を歌った。
 約200年前、この合唱団の前身にあたる宮廷少年合唱団の中に、美しいボーイソプラノを響かせるフランツ・ペーター・シューベルトの小さな丸い顔があった。
 非凡な音感で家族や音楽の師を驚かせていた11歳のシューベルトは、小学校長だった父の勧めで、欠員の出たこの合唱団の試験を受けて合格。特典としてコンビクト(国立の寄宿制神学校)で最高の教育を受け始めた。
 がっしりした小柄な体。度の強い眼鏡をかけ、あまり身なりにかまわず、友人たちから「キノコ」と呼ばれたおとなしい少年は、バイオリンの演奏や指揮に熱中し、その才能と人柄を愛した友たちが贈った五線紙で、作曲に没頭した。
 しかし、16歳の秋に退学。音楽家になることに強く反対する父の希望で師範学校へ通い、17歳で教員になったものの、音楽に心を奪われたシューベルトにとって、3年間の教員生活は息苦しくて仕方がなかった。
 そのころ、彼は恋をしていた。
 退学から1年後の1814年秋、初めてのミサ曲を生家近くのリヒテンタール教会で披露する機会に恵まれた。
 生まれた翌日に洗礼を授かって以来、ずっと親しんできた教会での作曲家デビュー。美しいソプラノソロで花を添えた、1歳年下の幼なじみテレーゼ・グロープこそ、シューベルトの初恋の人だった。
 「でもね、ふたりの間に愛が存在していたかどうかはわかりませんよ」。『シューベルト』の著書があるドイツ文学者で音楽評論家の喜多尾道冬(きたお・みちふゆ)さん(70)は言う。「シューベルトは内気で、女性からみると風采のあがらない男だった。テレーゼの愛を獲得できたとは思えないな」
 友達に「君は恋などしたことがないんじゃないのか」とからかわれて、「いや、ないことはない」と話を大きくした可能性はある、というのだ。
 そこに愛はあったのか。シューベルトの愛を探して、私がウィーンに足を踏み入れたのは、日曜のミサの4日前のことだった。

孤独と絶望、静かに肯定
 ホーフブルク宮殿を出て、オペラ座を通りすぎると、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の本拠地で、ニューイヤーコンサートの会場としても知られるウィーン楽友協会が見えてくる。
 この建物には広い資料館が隠れている。作曲家直筆の楽譜、千を超える楽器……。ありとあらゆる音楽の資料が眠る巨大な宝箱を守る、館長のオットー・ビーバさん(60)を訪ねた。
 セキュリティーシステムが幾重にも施された重厚な木の扉を抜けて、たどりついた部屋に待っていたのは、人なつこい笑顔が魅力的な紳士だった。
 ここの資料を縦横に駆使して、作曲家とその作品の像に迫る研究者でもあるビーバさんに、「テレーゼとシューベルトの間に、愛はあったのでしょうか」と単刀直入に聞いてみた。
 「もちろんです」。ビーバさんは力強くうなずいた。「テレーゼもまたシューベルトを愛していたと思われる資料が存在していますよ」。どうやらここには、非公開も含めて多くの資料があるらしい。

♪♪♪
 では、相思相愛だった幼なじみ同士の愛を何が阻んだのか。
 「楽長などの職は別として、単なる作曲家は定職として認められなかった。テレーゼの親も、娘を嫁がせるわけにはいかなかったのでしょう」。娘にとって親の意思は絶対だった。
 しかも当時のオーストリアは厳格な警察・官僚国家で、教育や国家への忠誠心のない男女、家庭を守れる財産のない男女の結婚は許されなかった。
 シューベルトは父に従い教職に就いたが耐えきれず、3年後の1816年、家を出て作曲家として歩み始めた。音楽関係の職に就こうとしたが実らず、4年後、テレーゼはパン屋の親方ヨハン・ベルクマンに嫁いだ。
 「何人もの女性を好きになり、何回も結婚しようと思った。しかし、娘の父親は、貧乏作曲家などだめだと言い、愛は終わった。私は悲しかった。しかし私は、音楽のためには戦う力を持っていても、自分のことのために戦う力は持っていなかった」
 シューベルトが敬愛したベートーベンの高弟カール・ツェルニーの残したこの文をビーバさんが教えてくれた。「このときのシューベルトもまた、そうだったのではないでしょうか」
 そしてテレーゼの晩年の写真を見せてくれた。「非常に悲しそうな顔です。結婚生活はおそらく幸せではなかった。彼女もシューベルトを思い続けていただろうと、私は思います」

♪♪♪
 宮廷礼拝堂での日曜ミサの後、その日の曲をホームページで確かめた。
 「シューベルト ヘ長調」。リヒテンタール教会100年祭のためにシューベルトが書いて指揮し、テレーゼが歌った、あのミサ曲第1番ヘ長調だ。
 やさしく、素直な喜びにあふれた旋律が、胸によみがえった。たしかにそこには、みずみずしい愛があった。
 シューベルトは後年、友人にこう話したという。「僕はある少女を心から愛し、彼女も僕を愛していた。彼女は親の希望で他の人と結婚してしまった。僕はとても悲しかった。今でも彼女を愛している。それ以来、彼女以上に気に入る女の子はいない」
 誠実で率直。控えめだが人付き合いがよく、うれしいことはどんどん話し、悲しみは胸に秘める。シューベルトの人柄と才能は多くの友人をひきつけ、独身貴族の友たちが彼を囲んで支援する「シューベルティアーデ」が生まれた。集まっては詩を読み、音楽を奏でた。そして、そのころ誕生したワルツを夜が更けるまで踊った。踊りが苦手だったシューベルトは、即興のワルツを次々と弾き続けたという。
 孤独を愛しながら寂しがりやで人なつこい、典型的なウィーン人気質をもつシューベルトは、作曲以外のほとんどの時間を友の間で過ごした。しかし、音楽の世界に奥深く分け入るにつれ、孤独は深まり、25歳で当時は不治の病だった梅毒とみられる病気にかかると、絶望に襲われた。
 その中で、美しく、影に満ちた連作歌曲「美しい水車小屋の娘」「冬の旅」や交響曲「未完成」を、何かにつかれたように書いた。

♪♪♪
 「彼は、報われなくても愛することはやめず、つらさも孤独も静かに肯定した」。ウィーン大名誉教授の前田昭雄さん(72)はそうとらえる。「晩年の曲は、孤独は決して恐ろしいものではない、そこには光もあると教えてくれる」と喜多尾道冬さんも言う。
 「僕が愛を歌おうとすると、それは悲しみになった。そこで悲しみを歌おうとすると、それは愛になった」。そう書き残したシューベルトの音楽は今も、孤独な人、絶望した人の心に寄り添い、小さな光をともしている。


2007年08月25日付け朝日新聞、文・魚住ゆかり
「ミサ曲第1番ヘ長調」シューベルトとテレーゼ・グロープ
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200708250071.html

 それとシューベルトが思い焦がれていた大先輩のこと:

 今回の旅の大きな目的であった、この墓参りについて書きたい。
 ベートーヴェンたち楽聖の墓は、「ウイーン中央墓地」にあるのだが、場所は、郊外である。中央墓地自体は、ものすごく広いところで、いろんな有名人の墓があり、時計の服部セイコーの元社長のお墓とかあったりするんだが、それとは別に、いわゆる楽聖の墓の集まる区画があって、そして、ちょっとビックリしたのは、その区画は案外狭く、その狭い区画にバンバンバンともったいぶらず、超有名作曲家のお墓がおしげもなくならんでいる。

 まず、中央に、モーツアルトの祈念碑があり、右奧にシューベルトのお墓、左奧はベートーベンのお墓である。

 シューベルトは、生存時、ベートーヴェンに匹敵する作曲家になりたいと夢見、そして、死んだらベートーヴェンの隣に葬ってほしいと希望したということであるが、まさに、今、ベートーヴェンの隣で永遠の眠りについている。もっとも、若干、曲折があって、最初は別の墓地に眠っていたそうであるが、のちに、こちらに移されたそうである。

 モーツアルトに関しては、なんと、遺骨のありかがわかってかっていなく、それどころか、墓もない。モーツアルトの墓はここなのではないかと推測されている場所はあるんだが、はっきりしないということである。かなり下級レベルの葬式をあげたモーツアルトの場合、集団で埋葬されたのではないかといった話もあるようである。モーツアルトの妻でさえ、よくわかっていなかったとか。それが、当時としてはごく普通の事だったそうなのであるが、それにしても、ベートーヴェンやシューベルトのお墓はちゃんとあるのだから、驚きの話である。

 シューベルトのちょっと右の方には、私が大学時代に大好きであったブラームスのお墓、そして、ウイーンにとって忘れてはいけない、ヨハン・シュトラウス(父・子)のお墓。


ウイーン・ザルツブルク音楽紀行(2001年4月)
ベートーヴェンの墓は花がいっぱい;ウイーン中央墓地
http://www.geocities.jp/jinseishugyo/wienohaka.htm

posted by fom_club at 08:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする