2016年11月30日

原子力緊急事態宣言

 「国民お一人お一人」の生活苦、生き辛さ。。。

 東京電力福島第1原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒(13)が、転入先の市立小学校でいじめを受けて不登校になった問題で、生徒側の代理人の弁護士が2016年11月15日、記者会見し、生徒の手記と保護者の声明を公表した。
 生徒は手記の中で「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」などと書き記していた。

 生徒は小学6年だった昨年7月、学校や加害者側との話し合いをする中でノート3ページにわたって思いを書き留めた。
 (原発事故の)賠償金をもらっているだろうなどと言い掛かりをつけられて金銭を要求されたり、ばい菌と呼ばれ「放射能の影響ではないか」と不安になったりした経緯が記されている。
 いじめは小学2年から5年まで続いたという。

 一方、保護者は声明で「学校は金銭の要求を知っていながら、(保護者に)連絡もしてくれなかった」と批判。
 問題発覚を受け、市教育委員会の第三者委員会が公表した報告書のうち、いじめの内容を記した多くの部分が黒塗りだったことに触れ「詳細を公表してほしいと市教委に伝えたのに遺憾だ」と訴えた。

 これに対して岡田優子教育長は同日、記者会見し「学校と市教委が共同して対応することができず申し訳なく思っている。報告書の全面公表を要求されたとは受け取っていない」と述べた。
 今後、関係者への聞き取りを改めて実施する。

悔しさ、絶望感記す
 代理人によると、手記は生徒が「同じようにいじめられている子どもの励みになれば」という思いで公表した。
 原発事故を「ネタ」にしたいじめに傷ついた心情や抵抗できなかったことへの悔しさが記されている。

 金銭の要求については「ばいしょう金あるだろと言われむかつくし、ていこうできなかったのもくやしい」と心情を吐露。
 「ていこうするとまたいじめがはじまるとおもってなにもできずにただこわくてしょうがなかった」とつづった。

 ばい菌と扱われたことには「ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった」と明かした。

 また、学校の対応について「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」などと振り返り、「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」と絶望感をにじませた。


11月15日 23時16分更新、毎日新聞(水戸健一、福永方人)
いじめ、福島から避難生徒、手記を公表 横浜の中1
http://mainichi.jp/articles/20161116/k00/00m/040/063000c#csidx4966756ee5195629d56f8fed259b34f

 支配的特権階層のいじめに抵抗もできず、絶望感をにじませ、上目遣いに息を殺して生きることを決めてるその他大ぜいの、この国の99%の庶民たち。

広大な汚染地帯に現在も人が住み続けていることの不条理
〜今も解除されていない「原子力緊急事態宣言」〜


 2011年3月11日、福島第一原子力発電所の事故で大気中に噴き上げられた放射性物質のうち、上空に達したものは偏西風に乗って太平洋へ流れた。
 だが、地上の風に吹かれたものは、東西南北にわたって日本の陸地を汚染した。
 小出裕章氏(1949年生まれ)は、国が発表している汚染地図(注1)をもとに、東北地方・関東地方にまで広がる広範囲なエリアで、1uあたり3〜6万ベクレル、または6万ベクレル以上のセシウムが降り積もったと指摘する。

「本当のことを言えば、福島県の東半分を中心にして、東北地方と関東地方の広大なところを『放射線管理区域』(※)にしなければいけないほど汚れたのです」

 本来であれば「放射線管理区域」に指定しなければならないほどの広大な汚染地帯に、現在も人が住みつづけている。
 それが今起こっている現実だと小出氏は語る。
 しかし、なぜそのような事態が許されるのか?

「2011年3月11日に事故が起きて、日本という国は『原子力緊急事態宣言』というものを発令しました。
 今は緊急事態だと。日本は法治国家と言ってきたけど、もう法律を守ることができない、法律を停止する緊急事態にあるという宣言をしたのです。
 その宣言は4年半経った現在も、実は解除されていないのです。
 本当なら『放射線管理区域』にしなきゃいけない汚染地帯に、人が住んでいる、赤ん坊も含めて住んでいる、本当に悲惨な状態が今でも続いていて、緊急事態が解除できないと。そういう事態にあるのです」

 2011年12月には、民主党政権下で当時の野田総理が、「事故収束宣言」を発表し、2013年9月には安倍総理がIOC(国際オリンピック委員会)の総会で、「事故はアンダーコントロールだ」と表明した。
 だが実際には、2011年3月11日に発令された『原子力緊急事態宣言』が、事故から4年半経った現在においても、解除されてはいなかったのである。

(※)「放射線管理区域」とは、原子炉や核燃料物質、放射線発生装置等を取り扱う従事者の安全を確保するため、法令で定められている区域である。
 一定の値を超えると管理区域として指定され、従事者の出入りの管理や被爆管理が行われる。
 セシウム137の場合、4万ベクレル/m2以上の表面汚染度で管理区域となる。
 管理区域内では水を飲むことや食べ物を食べることは許されない。
 一般人の立ち入りは禁止されている。


2015.9.19 IWJ Independent Web Journal
日本の原子力政策、その背景に「核兵器保有の隠された欲望」
小出裕章『原発と戦争を推し進める愚かな国、日本』(毎日新聞出版)出版記念講演会
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/265700#idx-2

https://www.youtube.com/watch?v=kFpf1W-n7Vk

 小出さん、うん、小出さん!

 私は昨年2015年3月末に京都大学を定年退職し、信州・松本市に移住しました。
 次第に歳を取って行くことは避けられませんので、仕事を厳選しながら退いて行くつもりでした。
 ただ、福島第一原子力発電所事故の収束は程遠く、放射能汚染地帯に棄てられてしまった人たちの苦しみも一向に軽くなっていません。
 原子力の場にいた人間として、容易には退くことができないまま、気が付けば、ほぼ1年が過ぎてしまいました。


 講演会の依頼もいまだにたくさん頂き、10件に1件程度しかお引き受けできない状態が続いています。
 2月が終わった時点で8月末までにお引き受けする講演会などの日程を決めました。
 でも、今後も同じようなペースでお引き受けすることはやめ、どうしても私でなければならない仕事だけを一層厳選しようと思います。
 これまでもお引き受けする優先順位を
敵地(原子力を推進する人たちとの論争の場など)』
現地(福島や原発を立地されてしまった地域など)』
若い人(これからの未来を担わざるを得ない人たち、及び、子どもたちに関わりのある人たち)』
としてきましたが、今後は、それ以外の一般的な講演会のお誘いは、特別な理由がない限りお受けしないことにします。
 特に、長年活動を続けられてきた力のある団体の方々には、私の力など不要と思いますので、辞退させてください。
 皆さんそれぞれのご活躍を祈念します。

2016年3月1日

小出裕章さんの講演会情報
http://healing-goods.info/koide/

 えっ、ヤッホー君、そうなんですぅ、昨日11月29日火曜日のこと、市川市へ俳諧の旅:

◎11.29「原発・放射能汚染とエネルギー政策を考える集い」
– 飯田哲也さん・小出裕章さんに聴く –
第1部 13:30〜15:30
環境エネルギー政策研究所(注2)・飯田哲也さん(1959年生まれ)講演
「エネルギーデモクラシー私たちの選択が未来を創る
再生可能エネルギー 可能性」
第2部 15:40〜16:20
飯田哲也さん × 小出裕章さんの対談
第3部 16:30〜18:00
小出裕章さん講演
「改めて考えよう!原発・放射能汚染」

(注1)東日本のセシウム汚染地図完成 飛散、山脈が遮る(文科省)
 文部科学省は2011年11月25日、愛知、青森、石川、福井の4県で放射性セシウムの沈着状況を示した汚染地図を公表した。
 東京電力福島第1原子力発電所の事故を受けて文科省が測定した、東日本1都21県の汚染地図が出そろった。

 地形とセシウム沈着との関係をまとめた地図もあわせて公表。
 福島第1原発から放出された放射性物質が、奥羽山脈や越後山脈、関東山地などの高い山に遮られ、それ以上遠くへはほとんど届かなかった様子がわかる。

 今回公表した4県では、放射線検出器を載せたヘリコプターで10月にセシウム沈着量と放射線量を測った。
 セシウム濃度は4県の全域で1平方メートルあたり1万ベクレル以下で、事故の影響とみられる沈着は見つからなかった。

 今後は西日本と北海道でも、セシウムの沈着がないことを確認するために地図の作製を進める予定で、年明け以降、測定を開始する。

 地図は文科省のウェブサイト(http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/11/1910_1125_2.pdf)で見られる。


2011/11/25付日経新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2503I_V21C11A1CR8000/

(注2)
http://www.isep.or.jp/


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自公維、年金カット法案強行

 11月霜月はもう月末、みそか。
 11月30日水曜日の朝のこと。

 厚生労働省においては、2014(平成26)年7月7日に開催した「年金の日(仮称)」検討会で議論していただいた結果、
国民お一人お一人、「ねんきんネット」等を活用しながら、高齢期の生活設計に思いを巡らしていただく日』
として、11月30日(いいみらい)を「年金の日」とすることとしました。


平成26年8月19日、厚生労働省報道発表資料
毎年11月30日を「年金の日」といたします
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000054689.html

 「いいみらい」を「ねんきん」で?
 口先がまだ乾かないはずなのに、先週金曜日2018年11月25日のこと:

 安倍政権の破綻は、外交では、習近平の中国と、プーチンのロシアと、そして何よりも米国にトランプが登場したことによって、完全に露呈してしまった。
 しかし、安倍政権の破綻は、内政においてこそ、もっと明白で深刻だ。
 きのう11月25日の衆院厚労委員会で年金制度を改革する関連法案が強行採決された。
 この関連法案は、年金制度の改革と謳っているが、その実は年金抑制法案である。
 読売、毎日、日経、産経はいずれも年金改革法案と垂れ流しているが、朝日、東京、共同(地方紙)は、はっきりと年金抑制法案と書いている。
 その内容を見れば。もちろん年金抑制法案が正しい。
 世代間の公平化を図ると言う、見え透いた大義名分を掲げて、国民の当然の権利である退職後の生活費支給を削るのだ。
 こんなフザケタ、反国民的法案はない。
 野党が反対するのは当然だ。
 しかし、安倍首相は民進党議員の質問に一切答えず、それどころか、年金改革法案に反対しても民進党の支持率は上がらないぞ、と言い返したのだ。
 私はこれを見て、安倍首相は終わったと思った。
 暴言の中の暴言だ。
 驕りの極みだ。
 言うまでもなく、年金問題は安倍首相の鬼門だ。
 2007年就任した時、年金問題の対応の不評で選挙に敗れ、腹イタ辞任に追い込まれた。
 今度こそ野党は安倍首相を、腹イタでなく、その失政、暴政で辞めさせる時だ。
 ところが、いまの政治にそのような緊迫感はまったくない。
 「反対しても民進党の支持率は上がらない」という安倍首相の暴言は、これまでの政治では、それだけでも内閣総辞職に値するが、残念ながらいまはそれは当たっている。
 民進党が何を言っても、何をやっても、国民の支持が戻ることはない。
 安倍首相が解散・総選挙に打って出れば、民進党に勝ち目はない。
 それどころか、野党共闘でさえも勝ち目がない。

 なぜか。
 それは野党が一つにならないからだ。
 選挙協力とかオリーブの木とか、およそ国民に通じない、野党と野党政治家の私利私欲から抜け出せないことを言っているようでは、国民の支持が得られるはずがない。
 おまけに、野党第一党の民進党と第二党の共産党の間に、イデオロギー対立があるからだ。
 志位共産党委員長が「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で唱えた国民連合政権にむけて結束するなら、安倍政権と十分に戦える。
 しかし、それが無理なことはもはや明白だ。
 その一義的責任は、共産党と国政の方針が相いれないと言って拒否する民進党側にある。
 しかし、同時に、この期に及んでも共産主義を掲げ、日本共産党の看板を下ろそうとしない共産党の側にも間違いなく責任がある。
 すなわち、志位委員長の共産党は、「清水の舞台から飛び降りる」と勇ましいことを言っておきながら、その実、飛び降りていないのだ。
 飛び降りる覚悟はないのだ。
 共産党の党勢拡大(劣勢防止)の本音があるのだ。
 これでは、民共の共闘はうまくいくはずがない。
 倒せるはずの安倍政権を倒せない。
 史上まれに見る暴言を繰り返す安倍首相にもかかわらず、いまの野党はそんな安倍首相の首を取れない。

 しかし、野党には「年金」という安倍首相にとっての最悪のジンクスを握っている。
 いまこそ野党は野党共闘などという中途半端なことにうつつを抜かすのではなく、憲法9条の下に一つの政党になるのだ。
 その口火を切るのが新党憲法9条である。

 いま世界は歴史的大転換期にさしかかっている。
 どの国も、どの指導者も、正し解決を見いだせなまま世界は漂流している。
 そんな中で、日本は憲法9条という世界に誇れる確固とした政治哲学を持っている。
 そしてその政治哲学こそ、これからの世界が等しく渇望するものだ。
 よりによって安倍暴政がそれを捨て去ろうとしている。
 この間違いの深刻さを本当に理解する政治家なら、いまこそ憲法9条の下に一つになって安倍首相と立ち向かおうとしないはずはない。
 捨て身の姿を見せれば国民分はついてくる。
 安倍首相はひとたまりもないだろう。
 今度こそ腹痛で逃がすのではなく、国民の怒りで追放し、逃がすことなく首相を辞めた後も責任を取らせるのだ。
 それが民主政治というものである。
 崩壊してしまった日本の政治を取り戻す唯一の方法である。


26 Nov 2016 天木直人のブログ
日本の政治崩壊を見せつけた11月25日の衆院厚労委員会
http://天木直人.com/2016/11/26/post-5702/

 そして、昨日の衆院本会議。

 年金支給額を抑制する新たなルールなどを盛り込んだ年金制度改革関連法案は11月29日の衆院本会議で、自民、公明の与党と日本維新の会などの賛成多数で可決され、衆院を通過した。
 民進党など野党四党が提出した塩崎恭久厚生労働相の不信任決議案は、与党などの反対多数で否決された。
 参院での審議時間を確保するため、11月30日までの国会会期を12月14日まで延長することも議決した。
 政府・与党は今国会での成立を目指している。

 採決に先立つ討論で、自民党の田村憲久氏は法案について「世代間の公平を確保し、現役世代が将来受給する基礎年金を低下しないようにするためのものだ」と意義を強調した。

 民進党の井坂信彦氏は「老後の生活の糧を減らす年金カット法案だ。適用期限がないため、現役世代や将来世代が老後に受け取る年金もどんどん下がる」と批判した。
 採決では、民進、自由、社民の三党は退席、共産党は反対した。

 野党四党は、丹羽秀樹・衆院厚労委員長(自民)の解任決議案も提出したが、与党などの反対多数で否決された。

 参院の審議日程を巡り、自民党の松山政司参院国対委員長は、民進党の榛葉賀津也参院国対委員長と会談し、30日の本会議での審議入りを提案した。
 榛葉氏は、与党が衆院厚労委で採決を強行したとして拒否し、30日の審議入りは見送られた。

 年金支給の新ルールでは、物価の下げ幅より賃金の下げ幅が大きい場合は賃金の下げ幅に合わせて年金を減額し、物価が上がり賃金が下がった場合も賃金の下げ幅に合わせて減らす。

2016年11月30日付け東京新聞朝刊
年金抑制法案 衆院通過 厚労相不信任案は否決
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201611/CK2016113002000126.html

 野党の各党はどうして一致協力して、ムカシのような牛歩戦術とかとらないのかな。。。
 お役所の木っ端役人とか、家業となってる政治屋は「国民お一人お一人」の生活苦なんて見て見ぬふり。
 あるいは知ったかぶり、暴言・戯言・好き勝手なこと言いたい放題、無責任すぎる。。。
 見ざる聞かざる言わざるの「国民お一人お一人」は、どうして抵抗をしないのかな。。。
 会社ばかり儲かって「国民お一人お一人」は貧困と格差に苦しんでるっていうのに。。。
 福祉も介護も医療も切り捨てるこの国の指導者にどうして退陣をせまらないのかな。。。
(注)

(注)
「安倍首相が異様なのは、当たり前のように強行採決を繰り返していることです。歴代政権も強行採決をしたことはありますが、民意を気にしながら、丁寧に答弁していました。ところが、安倍首相は審議を尽くそうとしない。野党に対して『こんな議論を何時間やっても同じですよ』と言い放っている。同じ強権派でも、過去の首相とはまったくタイプが違います」(政治評論家・本澤二郎氏)
 TPP承認案と年金カット法案を強行採決した安倍政権は、国民世論が割れている「カジノ法案」も強行成立させるつもりらしい。


2016年11月29日、日刊ゲンダイ
この政権は強行採決なんて朝飯前だ 国家乗っ取りが着々
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/194763/2


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2016年11月29日

大和川酒造店(喜多方市)

 秋は、地酒。
 ひやおろし。

吉幾三「酔歌」 
https://www.youtube.com/watch?v=lY2vYbfduPo

2013 倶楽部「蔵」 秋の酒
https://www.youtube.com/watch?v=kr58VxOrkkc

 ヤッホー君、田部井淳子さん以来、そして「奥の松」以来、フクシマに想いを馳せております。

大和川酒造店
http://www.yauemon.co.jp/

 で、9代目(1951年生まれ)の佐藤弥右衛門さんは”地酒”だけではないのです。   
 なんと、なんと”ご当地電力”までも醸造してました!
 はい、アイパワー!

会津電力(株)
http://aipower.co.jp/

 私たちは会津の豊かな自然に守られて歴史を重ねて来ました。
 日本国の中でも会津全域は大穀倉地帯であり、水資源や森林資源をはじめ再生可能エネルギーの資源に恵まれています。

 2011年3月11日以降、東京電力福島第一原子力発電所による未曾有の原発事故により、福島の人びとは放射能汚染と向き合わざるをえない状況に追い込まれました。
 補償、賠償、除染、汚染水の処理、中間処理施設、廃炉と直前の問題だけでも山積しています。

 事故の責任を取ると言うことは私たち国民全員にも向けられています。
 この10年間にどんなに困難でも、自然エネルギーへの転換をし、巨大で危険なエネルギー供給システムから地域分散型の安全で安心な、水力・風力・太陽光・地熱・バイオマスなどを組み合わせ、会津全域を自然エネルギーの産地とすることを実現しなければなりません。

 私たちは会津地域に生きていくことの覚悟に直面致しました。
 会津地方だけでも、電力会社に依存せずとも電力の自給が可能で、水力発電の能力は約500万キロワット(現在380万kW、県内の電力総使用量、154万kW)と原発5基分の発電力があります。

 また、会津の豊富な水資源による水力発電、地熱発電、太陽光発電、豊富な森林資源を活用する木質バイオマス発電とコジェネ、風力や雪の利用研究を促進し投資を行ない、地域に安全で安価なエネルギーを供給することで地場産業の活性化や産業の振興に寄与することが出来ると考えています。
 再生可能なエネルギーを産出して余剰電力を販売し、その利益を地域に還元して地域の自立が可能です。

 このようなことから、今までのエネルギーの依存体制から脱却し
 「自分の力でエネルギーを生み出して行こう」
 「会津の独占されていた資源の利用権を取り戻しエネルギーによる自立を目指そう」
と言う声が大きくなり、2013年3月には多くの有志によって「一般社団法人 会津自然エネルギー機構」が組織され、その中からエネルギーによる地域の自立の実践をするために会津電力株式会社が2013年8月に設立されました。

 福島県は脱原発を選択、
 「原子力に依存しない安全で持続的に発展可能な社会づくりを目指し新しい福島を創ること」
としています。
 会津から福島から、そしてこの国の再生を臨み、多様なエネルギーを組み合わせた日本の未来のエネルギーシステムの進化の一角を担うことで、次世代にこれ以上「負の遺産」を残さないように念じて、「会津電力」を成長させていく所存です。

※ 佐藤社長は9代続く会津の蔵元「大和川酒造店」の代表でもある。
 2014年5月23日に発足した「全国ご当地エネルギー協会」の代表幹事も務める。
 自らの酒蔵「飯豊蔵」の屋根にも太陽光パネルを設置。


2014年6月6日掲載『新エネルギー新聞』
全国ご当地エネルギー協会
http://communitypower.jp/news/940
 
 原発事故の影響が続く福島県ですが、元気な人もいます。
 ご当地電力で復興を図り、日本を変えようというのです。
 「始まりの地、福島」の物語です。

 JR福島駅の新幹線コンコースには、全国の駅でも珍しい大型の鉄道模型があります。
 太陽光発電量が世界一の駅(昨2015年4月現在)で、模型は「再生可能エネルギー情報館」の目玉展示なのです。

 情報館には福島県の計画を紹介したパネルがあります。
 「2040年にはすべてのエネルギーを再生可能エネルギーで賄う」
 ガソリンや灯油も含むエネルギー消費量と同量の再生可能エネルギーを生産する野心的な目標です。

◆ 再エネで人づくり
 政府の目標は2030年度、電力の22〜24%を再生可能エネルギーとすることですが、福島県は既に達成しています。
 広い県土には、水力発電はもちろん、風力発電も地熱発電もあります。
 
 住民も意欲的です。

 福島市郊外の土湯温泉では、土湯温泉町地区まちづくり協議会会長の加藤勝一さんが社長を務める「元気アップつちゆ」が、温泉熱を利用した地熱発電と小水力発電を昨年から始めました。
 誘客にも利用しようと考えています。

 浜通り(沿岸部)の南相馬市には福島復興ソーラーが同市と共同で太陽光発電所を造り、隣接の植物工場に電気を供給し、余剰電力を売っています。

 目的は発電だけではありません。
 設備を使って体験学習をさせ、志に満ちた子どもを育てることも狙いです。
 発電で得たお金を教育につぎ込んでいます。
 こうした活動は一般社団法人「あすびと福島」が担当します。
 「あすびと」とは「明日を切り拓(ひら)く人」の意味です。

 仕掛け人は同市出身で、震災前は東京電力の重役だった半谷栄寿(はんがいえいじゅ)さんです。
 半谷さんは
 「自分で考えることができる子、起業家精神を持つ子を育てることが地域の復興につながる」
と信じています。

 すでに女子高生のアイデアを元にした「高校生が伝える・ふくしま食べる通信」という福島県農産物の宅配事業がスタートしています。
 高校生が取材して書いた記事が付加価値となっています。
 
◆ 地域の雇用を生む
 ご当地電力としては、会津電力が有名です。
 原発事故で会津地方も混乱しました。
 その中で生まれたのが、会津電力です。
 社長の佐藤弥右衛門さんは、江戸時代から続く酒蔵が本業です。
 
 地産地消で、地域を活性化させるのが「ご当地電力」です。
 発電した電気は地元で使います。
 そうすれば、お金は地域で回り、外に吸い上げられる金額は少なくできます。
 雇用も生まれます。

 原発で作られた電気は、首都圏で使われ、お金は東京に本社のある東電に入る。
 地元に入る税金などは、事故が起きると割に合わないほど少額だった。
 そういう苦い思いが背景にあります。
 
 一昨年、会津電力のバックアップで、全村避難が続く飯舘村に飯舘電力が誕生しました。
 ご当地電力の輪は広がっています。

 さらに今年三月、佐藤さんは「ふくしま自然エネルギー基金」を設立しました。
 基金は企業や個人からの寄付を募り、福島県内の自然エネルギー事業や教育などへの出資や助成に使う予定です。
 きっかけは、ドイツ南西部の小さな町にあるシェーナウ電力から佐藤さんに環境賞が贈られたことです。
 シェーナウ電力は旧ソ連のチェルノブイリ原発事故を契機に生まれた、再生可能エネルギーで発電する電力会社です。
 会津電力とよく似ています。

 設立記念シンポジウムが2016年3月に福島市でありました。
 国内外のゲストが指摘した課題は二つです。
 もうけること、無理だという声に惑わされないこと、です。

 デンマーク・サムソ島にあるサムソ・エネルギー・アカデミーのソーレン・ハーマンセン代表は
 「サムソ島が100%再生可能エネルギーに切り替えると言ったとき、周りから無理だと言われました。でも、自然エネルギーは経済性があり、雇用を生みます。今、島の生活水準は上がりました。福島でも同じことが起きれば、と願っています」
と励ましました。

◆ 平和につながる
 河合弘之弁護士は現在、脱原発を訴える映画を制作中です。
映画のための取材で体験したことを話しました。
「米国防総省が自然エネルギー研究をしているのを知って、理由を尋ねたんです。答えは『歴史上の大きな戦争は資源争奪が原因だった。自然エネルギーが普及すれば石油の取り合いはなくなる』。自然エネルギーは平和につながるのです」

 シンポジウムの後、多くの人が口にした言葉があります。
 「始まりの地、福島から日本を変える」


2016年5月1日付け東京新聞「社説」
週のはじめに考える 福島から日本を変える

 福島県会津地方で太陽光発電事業を展開する会津電力(喜多方市)の高郷太陽光発電所が、喜多方市高郷町に完成した。
 東京電力福島第1原発事故を教訓に会社が設立されて3年。
 市民レベルの再生可能エネルギー開発を目指す小規模分散型の太陽光発電所は子会社分を含め、今回で50ヶ所目となる。

 新発電所は市有地2万8000平方メートルを借り、太陽光パネル約1700枚を設置した。
 出力は348キロワットで一般家庭約100世帯分に相当。
 発電した電力は全て東北電力に売却する。
 2016年10月9日の竣工(しゅんこう)式には山口信也市長らが出席する。

 会津電力の太陽光発電所は、会津地方11市町村の空き地や建物屋根などに整備してきた。
 出力50キロワット程度の小規模施設が大半で、災害時のリスクが分散、軽減されるようにしている。

 50ヶ所の総出力は4275キロワットとなり、1000キロワットの大規模太陽光発電所(メガソーラー)4基分に到達。
 年間発電量は一般家庭約1300世帯分に相当する計412万キロワット時を見込む。

 今後は県内の中通り地方での設置も計画。
 県外では100%子会社のアイパワー(喜多方市)が青森、秋田両県沿岸部での小型風力発電施設の設置に向け、事業用地を募集している。
 小水力発電の調査や木質バイオマスを利用したエネルギー事業の実験も進める。

 会津電力は2013年8月に設立。
 資本金7600万円で、地元自治体の7町村や企業など約70団体・個人が出資する。
 社長は大和川酒造店(喜多方市)の佐藤弥右衛門会長が務める。

 会津電力発電事業部の小林恵子さんは
 「原子力や化石燃料による発電から再生可能エネルギーに替えるため、1カ所でも多く発電所を増やしたい。地元で資金が循環し、雇用が生まれ、地域が自立できるようになることを目指す」
と話す。


2016年10月07日金曜日付け河北新報
<会津電力>太陽光50カ所目 総出力4275kw
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201610/20161007_62007.html



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中村酒造「奥多摩」

 秋は、酒。
 百薬の長。

美空ひばり「悲しい酒」
https://www.youtube.com/watch?v=9IRkA4fYViM

 そして、この燗の温度というものがすこぶるむずかしく、湯を入れてその中にちろりを浸す専門容器を購入してはみたものの、ぬるすぎたり、卵酒みたいに熱すぎたりで、なかなか適温にならない。
 また、呑んでいるうちに冷えてくるから、最後のほうは味が落ちる。
 
 たまたまほどよく温まったぬる燗の酒が喉もとから食道を無理なく下って胃に落ちた瞬間、からだの芯がほぐれて全身の関節がゆるみ、あらゆる世俗のことがらがどうでもよくなってくる。
 若いころは外で呑んで後輩相手に大言壮語をふりまいていたが、いまはそんな元気も失せ、ともに老いてゆく妻と、互いの老いた顔にあきれつつ静かに吞んでいる。

 「わたし」は不特定多数から認証されるのではなく、目の前の、呼びかければ答える「あなた」がいるからかろうじてその存在を実感できるだけのはかないものなのだと明確に自覚できる歳になった。

 テーブルの上に並ぶ肴は、きんぴらごぼうや里芋の煮つけで、田舎の安い居酒屋で呑んでいる気分になってくる。。。

南木佳士『生きているかい?』(文藝春秋、2011年6月)24-25頁


 うん、いいね、ヤッホー君、昨晩の独酌を思い出しておりました、11月29日火曜日の朝のこと。
 まあ、「ゆず大根」を肴に?

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 写真に向かって右からお馴染み「本醸 生」(澤乃井)、「吟醸原酒(限定)」(奥の松、福島県二本松市長命)、そして「奥多摩」(中村酒造)。
 そうなんです、三頭山の帰りに呑んだ喜正、そして澤乃井のほかにも銘酒をつくる蔵元があります。
 それが、中村酒造(あきる野市牛沼63 Teⅼ 042-558-0516)!

自然環境
 清酒「千代鶴」を醸す中村酒造は、あきる野の今でも鮎釣りの盛んな清流 秋川の流域に位置しています。
 仕込水は、秩父古生層(ちちぶこせいそう)によって磨かれた清冽な水を地下170メートルより汲み上げたものを使用しています。

歴史
 中村家は慶長以前400年以上前より当地に住み、現当主は17代目にあたり、1804(文化元)年より酒造業を興して200年余、酒造りを始めて現在9代目となります。
 仕込蔵は江戸時代に建築された土蔵と、一年を通じて10度以下に保たれる空調完備の近代蔵の両方の特長を活かし醸造しています。

銘柄の由来
 その昔、秋川流域に鶴が飛来したことがあり、これに因んで縁起の良い名前「千代鶴(ちよつる)」を銘柄としました。

 
中村酒造、奥多摩 あきる野の酒蔵
http://www.chiyotsuru.jp/

 日本酒をきっかけに外国人らに観光に来てもらおうと、酒蔵がある福生、青梅、あきる野、東村山の4市が共同でPRを始めた。
 6つの酒蔵の情報や、それぞれの銘酒の飲み口、つまみに最適な地元グルメを紹介するパンフレットを作り、多摩地域の地酒の魅力を発信していく。 

 4市の酒蔵は、主に多摩川や秋川のほとりにあり、古くは江戸時代から伏流水を生かした酒造りを続けている。
 共同PRするのは、
・「多満(たま)自慢」で知られる石川酒造(福生)、

・「嘉泉(かせん)」の田村酒造場(同)、

・「澤乃井」の小澤酒造(青梅)、

・「喜正(きしょう)」の野崎酒造(あきる野)、

・「千代鶴」の中村酒造(同)、

・「金婚正宗」の豊島屋酒造(東村山)。


 和食ブームなどによって、日本酒が海外から注目されるようになり、観光庁も「酒蔵ツーリズム」と銘打って外国人へのPRを本格化させている。
 4市も連携して売り込んでいこうと、協議会を設立し、初会合を5月26日に開いた。

 本年度は、酒蔵ごとの一押しの酒をグルメ評論家らに飲み比べてもらい、味わいの違いを図表に落とし込む。
 ブランド豚のハムのような多摩産のつまみや、日本酒が味わえる4市の店も選定し、図表とともにパンフレットで紹介する。
 パンフレットは英語版も作る。

 本年度の幹事役を務める福生市シティセールス推進課の担当者は「酒蔵から酒蔵を巡る広域的な観光の仕組みをつくり、海外のほか、日帰りができる都心向けにもアピールしていきたい」と話した。


2016年6月19日付け東京新聞(加藤健太)
多摩地域の4市が連携し地酒PR 酒蔵や地元グルメ紹介
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201606/CK2016061902000110.html

 さ、どうなるんでしょ、今年2016年の年末にむけた地酒の伸びは・・・

9蔵元が結束 “オール東京”で新地酒 (ビジネス - 2015年12月17日 20時27分)
http://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=4651590


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2016年11月28日

ゆず

 昨日の日曜日、車窓から仲間のみたちゃんが「ほら、ゆず!」って歓声をあげました。
 どれどれ、と愚図なヤッホー君はおずおずと振り返ります。
 いいですね、時おり射す晩秋の木漏れ日に黄金色に輝く「ゆず」!
 では、ゆず「友〜旅立ちの時〜」
https://www.youtube.com/watch?v=WgAhMfhdZ4c

 いいねぇ、こちらのゆずも、いいよ:
 ゆず「雨のち晴レルヤ」
https://www.youtube.com/watch?v=9n3h2DAgeno

 えっ、そうじゃないでしょ、これ:

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 そうなんです、さっそく清洲城に並びました。
 黄金色の輝きの失せない奥多摩の残照が・・・
 でもなんで「いかさし明太子」も並ぶの?
 山の幸と海の幸が揃ってこその秋だって・・・
 
 そしてイマ、こんなプロジェクトが現在進行中:

2015/08/12に公開、東京多摩国際プロジェクト
https://www.youtube.com/watch?v=k3OSASAmv2o&feature=youtu.be

イメージソング:“Step by Step” song by MIOSIC(注1)
制作・著作:東京多摩国際プロジェクト(注2)
プロデュース:ビビ21ドットコム
曲:MIOSIC "Step by Step"
映像:CLAP's Inc.

国境、人種、障がいを越えて
「笑顔と幸せの和」を広げていきたい。


 2009年、東京都多摩地区(青梅市のウメ)で、わが国初めてのプラムポックスウイルスによる病気が発見され、被害拡大を防ぐため、多摩地区の大切な資源であったウメが全て伐採されてしまいました。
 そんな時、「先人から受け継いだ農業を守り抜きたい」という、ゆず農家さんに出逢いました。

 2012年より、「銀座かずや」では、「澤井ゆず」を使った和菓子づくりに着手。
 ゆずを一緒に加工くださっているのは「NPO法人多摩草むらの会」の障がいを持った方々です。
 「夢を持ち、社会にかかわり、人の役に立ちたい」という皆さんの願いがそこで結実しました。
 これを機に、「東京多摩国際プロジェクト」が発足。

 「東京多摩国際プロジェクト」は、東京都多摩地域の活性化を目指し、
 「自然と人間との共存」
 「農業の推進」
 「障がい者の平等な雇用と自立」
 「文化の伝承」
を応援しています。

 みんなの力でこの活動の輪を日本全国、世界に拡げていきたい。

※ 映像の一番初めに出てくるシーンの「樹木」は樹齢200年の「澤井ゆず」の木です。
 青梅市には樹齢100年以上の「ゆずの木」が残っています。
 先人達から受け継いできたこの貴い「ゆずの木」を守り続けていきたい。

"Tokyo-Tama World Project"

"Ginza Kazuya" produces Japanese confectionary featuring 'Sawai Yuzu'.
We believe that our products, 'Tama Yuzu Monaka' and 'Tama Yuzu Warabi', are the way to send a message to the world.

Our project aims to achieve a number of objectives including:
・ world peace,
・ cooexistence with nature,
・ environmental protection,
・ community revitalization,
・ equal employment opportunities and economic independence of people with disabilities and agricultural promotion.

We launched this project with the hope of bringing happiness to people all over the world.


 山男、えへん、ヤッホー君、「ゆず」と聞いたら、こちら:

ゆずの里 勝仙閣(注3):
 JR青梅線の沢井駅と御嶽駅の中間地点、多摩川の左岸、青梅街道沿いに静かに建つ旅館です。
 食事付き日帰り入浴も楽しめます。

 最初にはっきりと云っておきますが、ここは温泉ではありません。
 地元名物の、たくさんの柚子が浮かぶ岩風呂風の内湯のみで、露天風呂はありません。
 でも、湯船から懇々と流れ落ちる、その湯量は相当なものです。
 誠実みのある宿の対応といい、昨今噂のアヤシイ温泉よりはずっとマシだ、と思いました。
 で、本項でも特にご紹介する次第です。

 柚子の香りをたっぷりと楽しんだ風呂上り、まず生ビールを飲んでから、澤ノ井の冷酒に舌鼓。
 懐石風の柚子料理をつまみながら、対岸山腹の緑を楽しむ。甘露、甘露、です。


2004(平成16)年9月5日「私達の山旅日記」
「ゆずの里」へ下山
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~tamu/58takamizu3zan.htm#2

(注1)MIOSIC
http://ameblo.jp/miosic30/

(注2)東京多摩国際プロジェクト
http://www.tokyo-tama.jp

(注3)ゆずの里 勝仙閣
青梅市沢井、Tel 0428-78-8221


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2016年11月27日

紅葉のむかし道

 今日11月27は山歩クラブのお散歩会。
 天気予報も一時期、降雨率80%と悪く、また皆さん休養ができたとかでキャンセルが相次ぎ、もうあきらめかけていましたが、昨夜、雨マークもとれ曇り、午後3時以降弱い雨。
 小躍りしてヤッホー君、予定通り実施しますよ旨のメールを出しました。
 朝早い「ホリデー快速おくたま号」3号車に4人お集まりいただきました。
 そして奥多摩湖から奥多摩駅までの長いトレイル、「奥多摩むかし道」を9時〜2時で完歩。
 お疲れさまでした。
 お天気にもめぐまれ、今年最後の紅葉にうっとりして酔い心地で気分よく歩いてきました。


 ではここで写真を添付します:

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…入り口

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…休憩所

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…道所橋

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…しだくら橋

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…いろは楓巨樹

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…白髭神社

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…廃線

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…羽黒坂・羽黒三田神社


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2016年11月26日

内野政光

 山はもう冬化粧。

 岐阜県側の民間団体「北飛山岳救助隊」の元隊長・内野政光さんから冬山登山の心構えを、毎日新聞から:
登山者あこがれの北アルプス。安全な冬山登山の心構えは。
十分な装備と引き返す勇気を 体力過信、携帯頼み禁物
 3000メートル級の山々が連なる岐阜・長野県境の北アルプスは登山者のあこがれだ。
 冬山シーズンに入り、越年登山の時期を迎える。
 これまで天候急変や体力消耗による遭難が繰り返されており、岐阜県側の民間団体「北飛山岳救助隊」の元隊長、内野政光さん(66)は
「稜(りょう)線(せん)付近は携帯電話が通じるので、携帯さえあれば、いつでも救助隊やヘリが来てくれると安易に考える登山者が増えている」
と憂う。
 十分な装備と、引き返す勇気を呼びかける。
 北飛山岳救助隊は、県警山岳警備隊と連携を取り、北ア飛騨側の救助にあたる民間団体。
 1959年、登山ブームで続発する遭難に対処するため地元の若者らが結成した。
 隊員36人で、過去50年で出動は724件。
 内野さんは1969年入隊、1995年から2003年まで隊長を務めるなど、生き字引だ。

 岐阜県側登山口の高山市奥飛騨温泉郷の新穂高温泉を起点にした冬山登山は、槍ケ岳(3180メートル)と西穂高岳(2909メートル)の人気が高い。
 槍ケ岳の場合、山ろくの槍平(1990メートル)までは夏ルートが比較的残りやすい。
 西穂高岳はロープウエーで終点まで行けば、山頂までルートが残っているという。

 内野さんによると、冬は新穂高温泉から槍平まで8時間以上、西穂高岳までは(ロープウエー経由で)4時間半が必要。
 新穂高温泉からは、槍ケ岳や奥穂高岳(3190メートル)方面のルートと、双六岳(2860メートル)や笠ケ岳(2897メートル)へのルートがある。
 両ルートには「雪崩の巣」と呼ばれる沢筋がいくつもある。
 表層雪崩の危険が絶えず潜み、地元では「冬は絶対入るな」が鉄則だ。

 県警によると、岐阜県側の北ア冬季(12〜2月)の登山者は2008年度までの3年間、1007〜1266人の間で推移した。
 遭難件数は2006年度5件、2007年度3件、2008年度7件。
 年によって雪の降り方は違い、内野さんは「ここは大丈夫という所は決してない」という。

 自治体などで作る岐阜県北アルプス山岳遭難対策協議会によると、2008年1〜12月の登山者(岐阜県側)は9825パーティー、2万5885人。
 遭難事故は40件49人あり、うち5人が死亡、1人が行方不明となった。
 原因は転倒、滑落、道迷い、発病−−と続く。
 死者、行方不明者、けが人計29人のうち40代以上が20人。

 「子育てが終わり、会社も卒業。医者からは健康づくりを勧められる。若いころ山登りの経験がある人たちが再び山へ向かう。そして、体力を過信し、アクシデントに見舞われる」(内野さん)が典型的パターンだ。

 ふもとの登山指導センターで「天候が悪い」と注意しても、「せっかく来たのだから」と耳を貸さない人も増えているという。
 内野さんは「天候をみて、事前に引き返す勇気を持てば遭難は減る」と強調する。

冬山に必要な主な携行品(内野さんのアドバイスから)
□ ビーコン(雪崩に遭遇して埋もれた場合、発見してもらうための発信装置)
□ テント設営のためのスコップ
□ 地図、コンパス
□ 予備食(ビスケット、乾燥牛肉など)
□ 予備の毛糸手袋、目だし帽
□ 寒冷地用の燃料(ガス)
□ ラジオ(天気予報・雪山情報)


2009/12/18(Fri)、お山へ行こう!
http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-708.html

 「北飛山岳救助隊」の元隊長・内野政光さん、いやあ、すっかりごぶさたしております、おひさしぶりです、山歩クラブです。
 実はヤッホー君、昨日の11月25日(金)朝、ひょいとラジオをつけましたら、内野政光さんの声が聞こえてくるではあ〜りませんか:

明日へのことば・アンコール(2016年9月9日放送)
山岳救助 50年の思い」(岐阜県北飛山岳救助隊元隊長…内野政光)

https://www.youtube.com/watch?v=cKQ_1KF2K8I

 こんなふうにはじまります:

 35年間山岳救助をしてきました。
 ひいお爺さんが内野常次郎という山案内人をしていて、山好きでした。
 上条嘉門次(かもんじ)に弟子入り、「上高地の常さん」とも「上高地の主」ともよばれ、死ぬ直前まで北アルプスの山案内をつづけた。
 ウォルター・ウェストン夫妻を北アルプスへ案内した。
 常次郎に顔が似てきたと言われますし、酒が好きだということも似ています。
 小学校2年生の時に、常次郎が上高地で脳梗塞で倒れて、実家に戻りなさいということで、皆んなで大八車でひっぱてきたことを覚えています。
 当時の大正池は大きくて、枯れた木が湖畔にあり、ボートが7〜8月はびっしりでした、今は1/10ぐらいになってしまっています。。。


 山歩クラブはこれまで何度も内野さんがやっておられるペンションで合宿をはってきました。
 ヤッホー君のこのブログ、例えば2012年5月26日付け日記「新緑ウオーキング」にも登場してきます。
 ではこの辺で、内野さんの文章を再読:

 金田さんの『北鎌輪舞曲』読ませていただきました。
 四十年前と言いますと私が北飛山岳救助隊に入隊して間もなくのころです。
 槍ヶ岳に登るたびにあの厳しい北鎌尾根にだけは行きたくない、そんな思いがありました。
 幸いに北鎌尾根は長野県の救助隊のエリアでした。
 自分は北穂の滝谷の遺体収容が主でした。
 「鳥も通わぬ滝谷」とは、よく言ったものだと思いました。

 遺体収容中に時々、石がヘルメット上をビューと跳んで行ったあの音が今でも耳の奥に残っています。
 初めての滝谷での救助活動のことだった。
 「痛かったろうに、つらかったろうに、寒かったろうに」
 母親は遺体にすがって泣き叫んだ。
 救助隊に入隊して初めての光景に、ただ驚き、自分も涙が込み上げてきた。
 1971(昭和46)年5月のゴールデンウイークを利用して穂高縦走中に転落した25才の男性だった。
 先輩の山本隊員も一緒とのこと、心強かった。
 朝5時出発。
 家の周りには桜の花が満開で木の葉も緑っぽくなってきたが、白出沢の出合からは、まだ1メートル以上の雪が切れ間なくつづく。
 「いつもの年より残雪が多い な・・・」先輩が言った。
 家を出発して4時間、滝谷出合に着いた。
 北穂の稜線がぶきみに光り輝いて見える。
 少し腹ごしらえをして出発。
 ここからはアイゼンを着ける。
 雄滝を左から巻いて上部にでた。
 立て込んだ岩肌の真ん中に白く一本の線のように雪渓が残り、その上に黒く点々と落石がある。
 ここが魔の滝谷なのか・・・一瞬体に身震いを覚えた。
 先輩の後を無言で必死についた
 「C沢出会いや、この辺りに遭難者が居るはずだが」副隊長の小瀬さんが言った。
 立っているのがやっとの傾斜で周りを見る。
 「あっ、あそこだ」先輩隊員が指を差す。
 自分には布切れのように見えた。
 そばに近付くと頭を谷下にうつぶせになっていた。
 靴は片方が脱げて無くなっていた。
 リュック、カメラなどが散らかっていた。
 先輩隊員が素早く持ってきたシートを広げ、梱包を始めた。
 自分にはどうしても触れることができなかった。
 遭難者の右手首には折れたピッケルが付いていた。
 幾度も滑落停止を試みただろうに魔の滝谷には通じなかったのか・・・
 今の滝谷はヘリが中まで入り収容します。
 ヘリを扱うパイロットの腕はすばらしく神技に近いように思います。
 金田さんの著書を拝読し、入隊当時を思い出して書いてみました
…内野政光(北飛騨山岳救助隊元隊長、現在岐阜県北アルプス山岳遭難対策協議会会員)

…金田博秋(日本山岳会東海支部&豊橋山岳会所属、1948年生まれ)『北鎌輪舞曲』(奥三河書房、定価1500円)のお申し込みは、〒441−1634 愛知県新城市長篠字殿関26−2奥三河書房Tel・FAX(0536)32−0140。
 

2013年03月21日20:09「北鎌輪舞曲」厳冬の2月・北鎌尾根登攀の記録
厳冬期・北鎌尾根登攀の記録です あたかも自分が登っているかのような臨場感にとらわれます
槍ヶ岳・北鎌尾根・内野政光(北飛騨山岳救助隊元隊長)
http://blog.livedoor.jp/mikawakurabu-oosimizu2/archives/51970514.html


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2016年11月25日

田部井淳子さんの追悼展示会

 11月25日金曜日のヤッホー君、昭島市に俳諧の道。
 ん?単なる徘徊でしょって外野席から・・・
 11月10日から「モリパーク・アウトドアヴィレッジ」で、田部井淳子さんの追悼展示会が開かれていたのです。
 実は山歩クラブの月刊かわらばん11月号で案内したあったのですが、当初予定した11月11日(金)は北茨城市をおじゃまする日で順延にして今日、25日(金)になった、とこういうわけでして。
 ただ平日ですので、仲間のどなたも来ていただけず、「ソロ」(単独行)でした。
 
長男が昭島で展示会
 世界最高峰エベレスト(8848メートル)に女性として世界で初めて登頂した登山家で、先月20日に77歳で亡くなった田部井淳子さん。
 その活動の軌跡をたどる展示会が、田部井さんの長男・進也さん(38)が昭島市で経営するクライミングジム「PLAY」で開かれている。

 商業施設「モリパーク アウトドアヴィレッジ」内にあり、展示されているのは、田部井さんが登山で愛用した道具類など約50点。
 エベレスト登頂で着用した登山服やリュック、腕時計などに加え、頂上で掲げたネパールの国旗、直筆の登山メモなどの貴重品も並ぶ。

 世界7大陸で最高峰を制覇した際の写真や新聞記事、エベレスト登頂40周年を記念して作られたタペストリーなどからは、輝かしい功績を当時の雰囲気の中で回顧することができる。

 また、経費節約のため、田部井さんがカーテンを縫い合わせて作ったというズボンや、自動車用のカバーを使った手袋なども展示されている。
 進也さんは「今から40年前に、このような道具でエベレストに挑戦したなんてすごい」と驚く。

 田部井さんが腹膜がんのため亡くなった後、多くの反響が寄せられ、「あらためて、母はものすごい人だったんだと実感した」と進也さん。
 自宅や、福島県内に所有する山小屋などに保管されていた遺品を集め、10日から展示を始めた。
 「これだけのものを残してくれた母に感謝したい。その活動をたくさんの人に知ってもらえたら」と、来場を呼びかけている。


2016年11月12日付け読売新聞
田部井淳子さん 活動の軌跡
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/news/20161111-OYTNT50304.html

 行ってきました「報告書」:
 
 皆さん、昨日は秋の雪を降らせ驚かせてしまったようで申し訳ございませんでした、すぐ復旧させ、今日は秋晴れに戻しました。
 先の連絡通り、本日行ってまいりました、昭島市!
 戦争中は零式輸送機などを製造していた昭和飛行機の遊休地に昨年春開業したのが「モリ パーク アウトドア ビレッジ」、ここが田部井淳子さんの展示会会場です。
 今年いっぱい展示会が開かれていますので、ぜひぶら〜り、訪問してみてはいかが。
 ヤッホー君は拝島から歩きだし、帰りは西武立川駅から電車に乗って帰りましたが、拝島駅からな、なんと、富士山がくっきり拝めました。
 展示会会場では田部井さんが、がん宣告されて、手も足もしびれているのに、福島の高校生たちを連れて富士登山するそのビデオが流れていました。
 ゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩づつだよ、人生も一日一日の積み重ねだねぇって、生きていればこそ病気にかかるんだよぉ、きっといいことが先にあるから、山歩きと同んなじだよって、自分が励まされたような、もう一言一言が遺言で、涙なしには見られない映像でした。
 またね、風邪なんかひかないでよぉ、ヤッホー!


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…モリパーク・アウトドアヴィレッジ

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…なかに Jack Wolfskin のマウンテンギアを扱うテナントも入っており感激!

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…「PLAY」の入っている施設の建物を外からパチッ!

 また見直した田部井淳子さん!動画で味わってみてください:

登山家・田部井さん“最後のラブレター”
https://www.youtube.com/watch?v=atCuxfhlCyg

田部井淳子さんを偲ぶ!女性初エベレスト登頂!
https://www.youtube.com/watch?v=VAgkcT4Qx44

徹子の部屋 登山家・田部井淳子(2016年9月1日)
https://www.youtube.com/watch?v=KLGeIqUq2gA

田部井淳子 応援メッセージ
https://www.youtube.com/watch?v=jtl2rcqFrME

 30代、40代のとき、山で「あぁ、これで終わり」「もう死ぬんだ」と思ったことが、3回ありました。
 雪崩と一緒に落ちたり、雪崩の下敷きになったり…。
 もう、にっちもさっちもいかない。
 雪崩と一緒に落ちたときは、何とかしなくてはと思いながらも、自分の力では何もできなかった。
 雪崩の下敷きになったときは、雪で鼻も口も塞がれて、全然、息ができませんでした。

 酸欠になって目の前が黄色くなったり、紫色になったりしながら、頭のなかでいろいろなことを思いめぐらせて。
 最後の1000分の1秒までがんばらなくてはいけないと思っても、苦しくて苦しくて…。

 あの恐怖は、もう絶対に味わいたくないものです。

 そのときのことに比べたら、清潔なベッドの上で横になり、医師が何人もいて、最先端の治療を受けられる。
 病気になっても、「あぁ、文句を言ってはいけない」と思いました。

 私は登山を始めてから、山で遭難して亡くなっている人のご遺体を何度も見ました。
 初めはショックを受けていましたが、いつしか自分自身も土に帰るんだと自然と思うようになりました。
 であれば、自分が死ぬ瞬間は、「あぁ、おもしろかった!」と死んでいけるようにしたい。

 「これをしたかった」「あれをやりたかった」「子どもが小さいからできなかった」という愚痴や後悔でなく、そのときそのときを一生懸命にこなしつつ、自分のやりたいことを続けていくのが私の理想です。
 「もし、雪崩に遭って、あのとき死んでいたら、今、“頭が痛い”“肩が凝った”なんてことはないんだな」
 「これぞ、生きている証拠。死んだら、こんなことは考えない」と思うと、ちょっとした不満や不調への愚痴は出てこなくなります。

 むしろ、「今日も生かされている」と感謝の気持ちが出てくるようになりました。
 がんを経験して、なおさらそう感じるようになりました。
 朝起きて、今日も生きられることに「ありがとうございます」と感謝するんですよ。

 こういう気持ちで過ごしているから、今を大切にしないと。
 夫や子どもたちを見送るときは、いつも「これが最後になるかもしれない」という気持ちで「いってらっしゃい」と言っています。
 そう思えば、怒りにまかせて、口をきかなくなったり、電話をガチャンと切るなんてできません。

 「昔とは、体が違う」ということは、私も痛感しています。
 階段を2段抜かしでスタスタ上っていたのが、2度目の手術後は体力が続かなくて息が切れたり、足が上がらなくなったり。
 「できないって、こういうことなの?」と、ビックリしました。

 全体的にペースも遅くなりました。
 だから、山に行くときも、自分から人を誘うことはなくなりました。
 誰かと一緒に行くときは、私のことをわかってくださる、ダメだと感じたときは遠慮せずにダメだと言える仲間と、自分のペースで歩けるように計画します。

 がんになる前は、登山ツアーのリーダーのご依頼も引き受けていましたが、いまは「これはできる」「これはできない」「こういう方たちとは引き受けられるかな」と身体優先で選んでいます。
 いままでのように「誰でもどんと来い!」はなくなりましたね。

 自分のできる範囲内で、最大のことをやりたいと思っています。

 国内だけでなく、海外を含めて、山には毎週、行くようにしています。
 「来週はここに行こう!」「次はどこに行こうか」「お金足りない? じゃ、こうしよう」と考えるときが、とにかく楽しい。

 山に登りながら自然を楽しんで、前日の残り物を詰めたお弁当を食べていると、「これぞ、山だ〜!」という実感を味わえます。
 山ではストレスを感じることが少ない。

 山は清涼剤であり、静養剤であり、生きるためのエネルギー源です。

 今年は私のエベレスト登山40周年記念にあたるのですが「何をしようか。学生時代の同級生を呼ぼうか」「コンサートをやろうか」と、あれこれ楽しいことを考えています。

 同級生からしばしば、「親が亡くなったあとの、片付けが大変。子どもに迷惑をかけたくないから、今のうちに身の回りの物を整理しておくわ」という話を聞くんですが、私はそんな死に支度をする時間があったら山へ行きたいと思います。
 だって、後片付けのために生きているわけではないですから。

 実は、「後片づけは残っている人に頼むぜ!」と言ってあります。
 
 いま75歳ですが、これまで十分やってきて、「明日さよならでも悔いない」と、いつでも思っています。
 医師から「来月までです」と言われたら、「さようですか」と、平常心のまま答えられると思います。
 
 登山を通して、そういう覚悟、そういう気持ちは、常に持つようになりました。
 だから、2度のがん闘病を経験しても、しっかり受け止めることができたと思います。


2015/4/27付け日経Gooday
田部井淳子「山での遭難に比べたら、がんの治療の方が恵まれている」
http://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/15/042400011/042400001/



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朝丘雪路

 昨日の雪には、びっくりしました。
 今朝、道路凍結で運転にはご注意!

雪の降る日も美しく
 伊東深水《雪の宵》には、しんしんと雪の降る中を、ふたりの芸者が連れ立って歩く様子が描かれています。
 深水は、なじみの芸者さんをモデルにして、たくさんの美人画を描いています。
 雪の降る中、一つの傘に仲良くおさまる芸者がふたり。お座敷へ向かう途中でしょうか?
 白梅には雪が積もり、灯籠にはぼんやりと明かりが灯って、なんとも幻想的な景色。
 つぶし島田に「稲穂のかんざし」を挿していることから、お正月「松の内」であることがわかります。

 彼女たちの左手のしぐさにご注目ください。
 左手で褄をとることを「左褄(ひだりづま)」といって、芸は売っても身を売らない芸者の誇りをあらわします。
 流れるような裾のドレープと、柳に結んだ帯によって、縦長のほっそりとした美しいシルエットが生まれています。
 全体的に、ひかえめな色味の着物を着ているふたりですが、「赤色」が効果的に「色気」を演出していることにお気づきでしょうか?
 玉簪(たまかんざし)、口紅、襟からのぞく肌着、帯揚げ、袖口・袂(たもと)・裾からのぞく襦袢、etc…

 モノトーンや渋い色のお着物を着る時に、襦袢や帯締めだけ「赤色」を使って「挿し色」にするというワザ。
 これって、私たちにも使えるスタイリングですよね。
 
 足元は、歯の細い日和下駄(ひよりげた)に爪皮(つまかわ)を引っ掛けています。
 地面が真っ白になるほどの雪の上を歩いているのに、爪皮の先に少し雪がかかるだけ。
 どうしたらそんな歩き方ができるのでしょうか?
 ちょっとしたコツをつかめば大丈夫。以下でご紹介します。

雨の日&雪の日の歩き方
 着物を着ているときは「内股で歩く」が基本です。
 歩くときには、内股になるように意識しましょう。
 (外股で歩いていると、男らしい後ろ姿になってしまいます)
 歩幅は小さく、さしている傘よりも、はみ出さないようにして歩きます。
 自分の足の裏と履き物(草履・下駄)が密着していないと、歩くたびに脱げてしまい、自分の後方へ泥をはね上げることになります。
 雨カバーと一体化している草履は手軽ですが、鼻緒の調節ができないので、サイズ選びは慎重に。

 雨コートは、かかとを覆ってしまうくらいの長さが良いです。
 また、コートを羽織るまえに、着物の裾をまくり、腰の上までたくしあげて、帯揚げの上から差し込んでおくと、跳ね上がってくる泥が着物に着きません。
 (裾よけは化繊にしておいたほうが安心です)
 たくし上げた着物がズリ落ちてしまいそうで心配なときは、腰紐でしっかりと帯の上から結んでしまいましょう。
 外から見られても誰にもわかりません。
 ただし、コートを脱ぐときにはご注意くださいませ。
 室内に入る前に、化粧室などで体裁をととのえておくのが良いでしょう。

 これで、雨の日も雪の日もコワくない!いつだって、きもの美人でいたいですね。


2014/01/05 美人画礼賛(中千尋)
《雪の宵》伊東深水|雪の日も美しく歩く極意とは
http://www.bijinshigusa.com/bijinga/bijinga01.html

 どうしたんですか、急に。
 いやぁ、実はね、11月23日は「山口小・中校感謝の日、芋煮会!」だったでしょ、そんとき深川徘徊と言いました。
 5人のお仲間をご案内したヤッホー君、森下文化センターに「田河水泡・のらくろ館」コーナー前で記念写真。
 ところがお仲間たち、伊東深水と関根正二の紹介コーナーで、足がぱたっと停まってしまったのです。
 さらに、お仲間たちを「深川神明宮」にご案内したときも「伊東深水誕生の地」の案内板でぱたっと。

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…「深川神明宮」にて。

伊東深水誕生の地
 伊東深水は、1898(明治31)年2月4日、深川西森下町の深川神明宮門前で生まれました。本名は一。
 深川尋常高等小学校に入学後、2年生のときに父が失職し、深川の地を離れました。
 しかし、深川との縁は深く、1908(明治41)年には深川東大工町の東京印刷株式会社(白河4-9)に勤務。
 ここで画才が認められ、1911(明治44)に日本画家の鏑木清方に入門しました。
 深水の雅号は、深川の水にちなむもので、清方がつけたものです。
 入門の翌年、巽画会展出品作「のどか」が初入選。
 1914(大正3)年に「桟敷の女」、翌年には「十六の女」がそれぞれ院展、文展で入選し、その後も高い評価をうけました。
 また、大正中ごろには、新版画運動に共鳴し、木版画「対鏡」を制作。
 雑誌や新聞小説の挿絵、口絵なども手がけました。
 深水は、江戸の浮世絵の伝統を受け継ぎ、女性の美しさを創出する日本画家として、日本の近代美術史に大きな功績を残しました。
 その功績から、1958(昭和33)年5月には日本芸術院会員になり、1972(昭和47)年5月8日に74歳で没しました。
2003(平成15)年10月 江東区教育委員会


 深水の美人画、そうでしたかぁ、ふぅ〜。
 それよりもびっくりしたのは、朝丘雪路のお父さんだったこと。
 秋の雪は一日限りで消えました。
 しかし伊東深水「雪の宵」と朝丘雪路とでヤッホー君、こと切れるまでアタマに残ることでしょう。 

 ではここで朝丘雪路の「雨がやんだら」:
https://www.youtube.com/watch?v=LbMbmjNmSws

 映画『男はつらいよ、第30作、花も嵐も寅次郎』(1982年12月公開)にも出演しています。
 予告篇で:
https://www.youtube.com/watch?v=rHa9DbVLvCM

 幼少時、住まいは築地。銀座の泰明小学校には、ばあやと二人で人力車で通いました。ばあやはおべべを持って待っていて、帰りがけに花柳流の踊りのおけいこに通いました。

 銀座はね、お風呂上がりによく父と浴衣姿で歩きました。銀座の柳がいいにおいをさせて、幸せに満ちていました。下町ですから、お店の人が店先に水をまくんです。そうすると、通りにかげろうのようなもやもやが上がって、向こうから最新のモードの洋服を着たスタイリッシュな女性、仕立てや柄のいい着物を着た女性が歩いてくるの。ああ、大きくなったらこうなりたい、と思いました。

 父は日本画家の伊東深水。パパは「あの人には老けすぎの着物柄だね」とか、いうんです。街で見た白地に紺色の水玉柄の服をあつらえてもらったこともあった。戦争が激しくなっていないころは、銀座は主に、付近の住民がぶらりと来るところでした。

 新橋芸者衆もよく目にしました。一流の花街ですから、着物も持ち物も一流。裏通りには芸者屋さんがあって、踊りを一緒にけいこしている芸者さんに会いに行くと、まだ引き戸でね。ガラガラガラと開けると、チリンチリンと音を立てて、上がり口の向こうには長火鉢があったりして。周辺には三味線屋さんや見番もありました。

 小学校5年のころかな、芸者衆と銀座の銭湯に行くと、芸者衆が首にえりおしろいを塗るんです。水おしろいを緩くして手でつける。これ、現代劇で着物を着る役の時、私も採り入れてます。燗冷(かんざ)ましのお酒で溶くと奇麗に塗れるというのも芸者衆仕込み。後に歌舞伎俳優の先代中村時蔵さんと共演した時、時蔵さんもそうしていた。

 父は歌舞伎や新派の俳優と親交があって、新派の花柳章太郎先生とは大親友でした。新橋演舞場で花柳のおじちゃまの楽屋入り口にあった、ひらひらしたのれんが目に焼き付いています。鏡台に向かっているおじちゃまの背中からは、おしろいのにおいがぷーんとしてきた。銀座のマダム役だった時は「じょりじょりしておくれ」というので、安全カミソリでおじちゃまの足の毛をそったこともありました。

 こんな環境もあって、芸能界入りは自然の流れでした。おじちゃまとは1962年、「箱根山」で共演させていただきました。おじちゃまは心臓の薬を飲みながらの舞台。おばちゃまから「ちゃんと見ててや」と頼まれました。おじちゃまは、おばあちゃん役だったのですが、花道で、おこつくところ(つまずく演技)を見て、私、どうかしちゃったのではと思って「おじちゃまー」と叫んじゃった。「おばあちゃん」なら分かりますけどね。

 舞台や映画に出演する時の支えの柱が、銀座でした。この場所には、今出演中の「三婆(さんばば)」が上演されている演舞場も、主宰する日本舞踊深水流の会をしてきた歌舞伎座もあって、アイスクリームやコーヒーや天丼やら、いろんな味がする。

 だから、一週間も銀座に来ないと、「銀座シック」になっちゃう。逆に銀座を思うと、何でも楽しくなる。でも、だめね、父に甘やかされて、つらい目に遭うと、辛抱が足りなくて……。でも、もし、世間知らずの私の明るさが周囲の人を少しでも明るくできるなら、そうね、銀座で楽しく育った私の意味もあるのかもしれませんね。

 自宅より銀座で過ごした時間が生き生きと思い起こされるという。好奇心に満ちた銀座の少女が、そのまま大人になった感じがした。

 あさおか・ゆきじ 1935年生まれ。俳優、歌手。幼少時に日本舞踊、洋舞などを始めた。宝塚歌劇団を経て、テレビや映画、舞台で活動。日本舞踊深水流家元でもある。夫は俳優津川雅彦。


2010年3月13日付け朝日新聞(米原範彦)
俳優 朝丘雪路 追憶の風景 東京(銀座)
http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201003130234.html

 では、最後にもう一度、伊東深水の美人画をとくとご覧あれ:
https://www.youtube.com/watch?v=G4UCVC0d6BE


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2016年11月24日

勤労感謝の日

 明け方、いつものようにホームテリトリーの見回り行動。
 モク拾い、ごみ拾い。
 冷たい雨が降ってるな、と身震いひとつ。
 でもイマ窓から見たら雪に変わってます。
 初雪。
 まだ11月というのにもう雪が舞ってます。

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 昨11月23日「勤労感謝の日」は清洲城で「山口小・中校感謝の日」で大なべ芋煮大会。
 終わってヤッホー君から一斉メール:

 朝の10時前から午後7時過ぎまで楽しかったですねぇ、皆さん無事にお帰りになりましたかぁ。
 午前中は深川徘徊。
 お昼から食べる会(むっちゃん、夢にまで出てくる懐かしさいっぱいの菊の花びら、おいしかったよ、注)と酒吞む会(ひろこちゃん、手作りの梅酒、古酒だからとろんとしてあんなの呑んだことない!)。
 いもこ(里芋)はもとより、食べ物は持ち寄りだから、山形料理のオンパレード。
 やまがたのお米、つや姫の新米を炊いて、山菜入りのおにぎり。
 デザートはもちろん、ラフランス!
 後片付けと思っても11名、食べ物なんにも残らず、皆さんの健啖ぶりにヤッホー君、皆さんの長寿を願って再度乾杯。
 良く集まってくれました。
 最後は皆んなで手拍子、山形、秋田、福島の民謡!
 いやあ〜サイコウの大なべ大芋煮会でした。
 ディレクターみよしちゃんととしおくん、シェフしょうぞうくん、エンターテイナーてつじくん、アンパイアちょうくん、シンガーむっちゃん、ナースひろこちゃん、ケアマネひろこちゃん、ありがとう&お疲れさまでした。
 今晩、暖ったかくして寝るんだよ、明日朝、雪とか言ってるから。
 水害からの復旧工事が終わってないヤッホー山荘?ん?じゃないよ、清洲城から、皆さんおやすみなさい。
 いや、また会おうね!仲間だもん。。。

 こだまもかえってきました:

 皆さん、芋煮会は大変にぎやかで楽しかったようですね。
 皆さんの笑い声や散策する姿が目に浮かびます。

 私は、当日は、神社の新嘗祭(収穫祭)で 儀式に参加しました。
 その後 参加者と談笑しながらの飲み会です。

 写真の送付どうもありがとうございます。
 次に皆さんに会える機会を楽しみにしています。

 ん?写真?

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謡い

(注)
 しゃきしゃきとした歯ごたえ、ほのかな香り、ふっと甘くてほろ苦く…。
 きくの花びらを食べる習慣は、江戸時代から始まったとされ、日本の伝統的なエディブルフラワー(食用花)の1つである。

 山形県は食用ぎくの生産量で全国1位。
 東京都中央卸売市場で扱う6割以上は山形産が占める。

 数ある品種の中でも、独特の香りと風味、味の良さで『食用ぎくの横綱』と評価されるのが、淡い紫色の「もってのほか」だ。
 名前の由来は、「天皇の御紋である菊の花を食べるとはもってのほか」とか、「もってのほかおいしい」といったことから転化したらしい。
 近年テレビのクイズ番組で、ユニークな名前をもつ食用ぎくとして出題されてから、知名度は一気に全国区だ。

 「もってのほか」は、食用ぎくの中では晩生で、収穫は10月下旬頃から。
 花びらが筒状に丸まった管弁なので、しゃきしゃきとした歯ざわりに特徴がある。

 一方、黄ぎくは比較的柔らかく、色の華やかさで安定した人気。
 山形県では、「寿」「岩風」などの品種を作付けしている。
 電照での抑制栽培、ハウス栽培などを導入、いくつもの品種を組み合わせて周年出荷を行っている。

 元来、中国では菊は不老長寿の霊草とされてきた。
 日本でも平安時代には中国に習い、天皇の御前に菊を飾り、菊の花を浸した酒を酌み交わして、長寿を願う儀式を行ったという。

おいしい山形推進機構事務局、山形県農林水産部6次産業推進課
食用ぎくの生産量で全国1位の山形県
http://www.yamagata.nmai.org/crops/umaimono/vegetables/kiku.html

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2016年11月23日

テータリックに魅せられて

 昨夜のラジオ「ないとエッセー『アフタヌーンティーに魅せられて』(英国食卓史研究家佐藤よし子)」お聞きになった方もおられるんじゃないか、と。
 ぜひ佐藤よし子さんのサイトを訪れてみてください。

 〜日々の暮らしには、さまざまな出会いがある。平凡な毎日を、ドラマに仕立てあげることができる主人公の女性として生まれてきたことを誇りに思いたい〜

 ザ・クイーンズ・フィニッシングスクールは1988年日本で初めて英国スタイルをベースとして、奥ふかい日本文化をとりいれた本格的なフィニッシングスクールとして開校し、以来多くの卒業生を送り出しています。
 短大や大学の授業では学ぶことの出来ない教養の仕上げとして、日本の礼儀作法や料理の基本から合理的なお掃除の仕方等までを学んでゆきます。
 働く女性であっても、主婦となる女性であっても、一人の独立した人間、そして 知的な女性として生活しているうえで 今内面を磨く事こそ大切なのではないでしょうか。
 日常の生活にもっとも近い形で、実習を交えながら少人数編成にて、各教科ごとに基礎重視のカリキュラム構成となっています。


http://www.qfskobe.jp/index.html

 あっピ、ピー、スクールじゃなくってティー!

 紅茶を入れるための「ゴールデンルール」というものがあります。
 これは、おいしい紅茶を入れる手順について述べたものですね。

 現在知られている「ゴールデンルール」はなんと19世紀からほとんど変わっていないのですよ。
 紅茶の国として知られるイギリスで、ヴィクトリア朝のカリスマ主婦、ビートン夫人が紅茶の入れ方について述べています。

その著書『The Book of Household Management』は1861年に初版が出版され、現代でも増刷や改訂されるなどして書店などで購入することができます。
 この本には現在呼ばれる「ゴールデンルール」の基本となるべき事柄が書かれているのでご紹介しましょう。

1.まず大切なのは水をしっかり沸騰させること。ビートン夫人は水に関しては特に強調していて、沸騰したお湯を使うことが茶葉を開かせ、おいしいお茶を浸出する上で重要だと説明しています。

2.使う茶葉の量については一人に付きティースプーン1杯とさらにポットにもう1杯加える。(このルールについてはビートン夫人が述べる以前からあったルールのようです。)

3.沸騰したお湯をティーポットに入れ、温める。2〜3分そのままにして、ポットが心から温まったら、湯を捨てる。

4.ポットに必要量の茶葉を入れ、沸騰したお湯を入れ浸出。(浸出時間はビートン夫人の時代では茶葉によって5〜10分だそうです。)

 ビートン夫人より先にも後にも「おいしい紅茶の入れ方」や「一杯の完璧な紅茶の入れ方」がいろいろと紹介されているのですが、今日広く知られている「ゴールデンルール」はビートン夫人の入れ方が基本になっているといえるでしょう。。。


紅茶/紅茶の淹れ方・飲み方
19世紀カリスマ主婦が説く紅茶の入れ方
現代知られる「ゴールデンルール」という紅茶の入れ方は19世紀のカリスマ主婦、ビートン夫人の入れ方が実践されています。当時の入れ方、現代の入れ方などを比べて自分流を見つけるのもいいですね

紅茶ガイド 桑原珠玉
https://allabout.co.jp/gm/gc/218224/

 本もお読みください:
 『おいしい紅茶の愉しみ方』 (PHPビジュアル実用BOOKS、2009年12月)

 あのぉ〜『The Book of Household Management』は1861年に初版が出版、そうですかぁ、我が岡倉天心の『The Book of Tea』は45年後の1906年に出版されています!
 えっ、日英比較でなくってぇ、ここでちょこっと今日までのイギリスでの茶の受容史についてまとめておきたいのです:

John Wesley deplored it, Samuel Pepys was an early adopter and George Orwell wrote an essay on how to make it perfectly – for 358 years, the British people have had a love affair with tea. Today, Google is celebrating the nation’s favourite drink with a doodle. The quirky animation shows a teabag with a union jack tag (followed by a strainer, sugar, milk and honey) being dunked in a succession of cheerful cups.

On 23 September 1658, the London republican newspaper Mercurius Politicus carried the first advert for tea in the British isles, announcing that a “China drink called by the Chinese, Tcha, by other Nations Tay alias Tee” was available in a coffee house in the city. But it was tea addict Catherine of Braganza – wife of Charles II – who turned it into a fashionable drink.

Soon the middle classes were drinking it, huge taxes were whacked on it, and tea-smuggling became a serious problem. It took William Pitt the Younger to see sense and remove the taxes before the working class could afford to settle down for a nice brew. By the mid-18th century, tea had became the country’s most popular drink – pushing ale and gin from their place in British hearts.

Before long, the East India Company was using tea clippers, such as the Cutty Sark, to bring the harvest from India and China as fast as possible, and, in 1908, the teabag was invented, revolutionising the making of the 165m cups of tea drunk in the UK every day.

Yet tea time is now under threat. It has been five years since ordinary teabag sales started to fall (5% this year to £614m), apparently because younger people have fallen out of love with builder’s brew. While a third of 55- to 64-year-olds have a restorative cup of char more than five times a day, only 16% of 16- to 34-year-olds do the same. Sales of green tea, on the other hand, have shot up.

One thing that is not yet over is the storm in a teacup: in June, Aung San Suu Kyi was slammed as a “disgrace” by the grandson of former dictator General Ne Win – for serving Lipton tea at a banquet. “It should be at least Twinning’s Earl Grey or Fortnum and Mason’s Queen Anne Tea,” he wrote on Facebook.


The Guardian, Last modified on Tuesday 27 September 2016 17.15 BST

A brief history of tea in the UK

Google is marking the beginning of Britain’s love affair with the humble cuppa with one of its homepage doodles

By Homa Khaleeli
https://www.theguardian.com/lifeandstyle/shortcuts/2016/sep/23/fancy-a-brew-google-doodle-celebrates-358-years-of-tea-in-the-uk

 お茶ひとつとっても面白いですね。
 ではここで、ヤッホー君の第二の故郷、マレーシアに渡ってみますかね。
 だってぇ、ヤッホー君がイマ毎朝、ブレックファーストで愛飲しているのは、Hi Top Tea:

Enrico’s Hi Top Tea leaves are harvested from the highlands of India. These tea leaves are carefully picked and only the young leaves are selected. The tea leaves are then processed using the Cut, Turn and Curl or otherwise known as the CTC process.

The special feature of this CTC tea is that you can actually see the tea leaves (Cut, Turned and Curled) unfold when boiled water is added to the tea leaves. This feature is unique to Hi Top Tea.


http://www.enrico.com.my/hitoptea.html

 は〜い、つまりティーからテへの徘徊でしたね:

Teh Tarik - Pulled Tea
https://www.youtube.com/watch?v=7X7W3lz9zi8
https://www.youtube.com/watch?v=1cvH8bCl14Y 
https://www.youtube.com/watch?v=i56CKortX9I


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2016年11月22日

生前退位が公務の負担軽減等にすり替え?

 天皇皇后両陛下の慰霊のための行幸啓は大したもんです。
 この道しかないと戦争に突き進む自公政権は、恐ろしい!

 天皇陛下のお言葉をめぐり、さまざまな論評がおこなわれている。
 しかし、そのお言葉の核心を言い当てたものは見当たらない。
 核心とは何か。
 それは、天皇は国事行為を行うだけの単なるお飾りではない。
 天皇は国民の象徴であるとともに、国民統合の象徴である。
 というお言葉の一節である。
 今上天皇ほど、憲法に定める象徴天皇制について真剣に思いをめぐらすお方がいただろうか。
 今上天皇が生前退位を唱え出したのは、高齢によりその任務が思うように出来なくなったことにあるが、そのことは、取りも直さず、天皇は政治の言いなりになってはいけない、という強い思いがあるからだ。
 その思いは、お言葉が発表された2016年8月8日の夜8時から放映されたNHKスペシャル「象徴天皇・模索の歳月」のなかのエピソードで見事に証明されている。
 すなわち、あの番組では繰り返しあるエピソードが流された。
 高齢化を心配する天皇陛下を心配した宮内庁高官が、象徴天皇であるから何もしなくてもよろしいのです、天皇であり続けるだけでいいのです、国民もそのところは良く理解してくれるでしょう、と、生前退位に反対する意見を述べた時、「それは違う」と強く否定された、そういうエピソードのことだ。
 そのようなやり今上天皇と宮内庁高官の間で行われていたのだ。
 これを要するに、お飾りだけなら、いっそ退位した方がいいということだ。
 今上天皇のこの二律背反的な思いこそ、こんどのお言葉の核心なのだ。
 そして、その思いの根底には天皇陛下の安倍首相に対する強い怒りがある。
 国民統合の象徴としての天皇のなすべきことは何か。
 それを日々考え、被災地訪問や平和の旅を繰り返し、国民と共にあろうと努めてきたのに、それをことごとく否定する政策を進める安倍晋三という男は一体何様だ。
 自分の目の黒いうちに勝手な真似はさせない。
 しかし、それが高齢でかなわなくなりつつある。
 そうであれば、いっそ生前退位をし、天皇の思いを継続させたい。
 これこそが、今度のお言葉の核心なのだ。
 国民統合の象徴としての今上天皇を怒らせた安倍首相は大失策をおかした。
 他の失策なら、弱小野党と御用メディアを相手にごまかして乗り切ることが出来ても、国民統合の象徴としての天皇を怒らせる失策をおかしたまま、首相を続けることは出来ない。
 もはや安倍首相はこれまでの安倍首相ではいられない。
 これまでの政策を改めるか、さもなければ首相の座をよりふさわしい政治家に譲るしかないだろう。
 ここまでの強い政治的メッセージを発した今上天皇は、憲法に定める天皇の政治的行為禁止に反することにならないのか。
 そのおそれはある。
 しかし憲法違反を繰り返す安倍首相に、そのことを批判することは出来ない。
 ここでも安倍首相は天皇陛下にかなわないのである。


10 Aug 2016 天木直人のブログ
天皇陛下を怒らせた安倍首相の大失策
http://天木直人.com/2016/08/10/post-5127/

 この件についてヤッホー君、一昨日の20日日曜日に訪れた明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長、山田朗教授の文章を参照します。

現代に相応しくあろうとする天皇と、明治天皇を理想とする一派
 8月8日に発表された天皇の声明は、生前退位の制度化を求めたメッセージであり、昭和天皇が重態に陥った際(1988年9月〜1989年1月)の過度な「自粛」のように、自身が高齢化して病床に伏せることで、日本社会の沈滞を招くことへの危惧が表明されています。
 また、「象徴天皇」について多く触れているのは、「象徴天皇」が制度化されて70年近くが経ちましたが、現天皇は、「象徴天皇」として最初に即位した天皇として、「象徴天皇」のあり方、現代に相応しい天皇のあり方が、いまだに未確立であるとの認識を示したものだと考えられます。
 つまり、現代に相応しい天皇のあり方と、それを支える世襲のシステムを確立しておかなければ、天皇制そのものの存続が危ぶまれる、との危惧からの発言であったと思われます。

 現行の皇室典範は天皇の引退(生前退位)が許されない制度となっていますが、それは極めて不自然であり、非人間的といわざるを得ません。
 今回の声明を、天皇という一人の人間の発言という点から見れば、極めて自然な気持ちの現われと感じます。
 世論調査では、8割以上の人が生前退位の制度化に賛成しているといいます。
 通常の市民感覚からすれば、当然のことでしょう。

 一部に、この天皇の発言を皇室典範の改正を希望すること、つまり天皇の政治的発言に当たるとして問題視する意見があるといいますが、それはおかしなことです。
 天皇の生前退位という問題は、現実には周囲から発議できるような事案ではありません。
 天皇の発言はそれを慮ったものでしょうし、さらに、象徴天皇として最初に即位した天皇として、自分の代で現代に相応しい天皇継承のあり方の制度を整えておきたい、という考えからの言動でしょう。
 実際、天皇はかなり前から生前退位の意向を周囲には伝えていたようであり、宮内庁でも制度改正の検討を進めていたといいます。
 ところが、天皇の発言を問題視する人たちは、政治的発言が問題と言っていますが、その本当の意図は、明治国家を天皇制のスタンダードと考え、国家の権威の源泉であった明治天皇のような存在を理想形としたいということでしょう。
 天皇は「国民統合の象徴」であるという際に、「象徴」よりも、「統合」を強調する見方です。
 このような明治時代を理想とする見方からすれば、現代に相応しくあろうとする現天皇の発言は、“問題”ということになるのです。

歴史上、明治天皇のようなあり方こそ例外
 日本の歴史を振り返ると、実は天皇の生前退位は非常に多くあります。
 7世紀末以降、天皇が退位し、太上天皇(上皇)となることはしばしば起き、平安時代あたりから増え始め、江戸時代に入っても、生前退位は行われていました。
 権力闘争や、政治的圧力で譲位せざるを得ないという状況もなかったわけではありませんが、ある意味、自由に譲りたいときに譲っていたのです。
 ところが明治時代になり、天皇を国家の権威と権力の源泉とするシステムが確立すると、天皇が退位することのデメリットが強調されるようになりました。
 天皇が上皇となることで権威・権力が分裂してしまうことを防ごうというのが、明治政府を創った人たちの基本的な考え方だったからです。
 そこで、天皇の生前退位は許されなくなりました。
 天皇に権威と権力を集中させてしまったが故の措置であったと言えます。
 ところが、アジア太平洋戦争の敗戦とともに大日本帝国憲法は日本国憲法へと改正され、皇室典範も改正されたのですが、皇位継承の制度は変わることなく戦後に引き継がれてしまいました。
 つまり、天皇は皇位継承にあたって、いまだに明治時代の発想に縛られているのです。

 日本の天皇制は古代から一貫して変わっていないと思っている人も多いと思いますが、歴史を見ると、天皇の役割や立場は変容していることがわかります。
 例えば、天皇は不可侵という意味で神聖であり、天皇が自ら政治を行う姿が古代からのあるべき姿だ、というイメージがありますが、実際に親政が行われていたのは古代の一時期と、南北朝時代の南朝を興した後醍醐天皇ぐらいです。
 天皇を国家の権威と権力の源泉とし、統帥権(軍隊を統率する権限)も行使するという明治時代のようなあり方は、むしろ例外です。
 平安時代くらいから天皇の直接的な役割は政治を司る立場から、儀礼を司る役割へと変わっていきました。
 それと時を同じくして、生前退位(譲位)が増え、頻繁に行われるようになったことは象徴的といえます。
 政治の実質的な権威・権力をもたなくなった時代、それに合わせて天皇は一定の自由な意思で“引退”ができていたのです。

男系男子主義では、もう天皇家は維持できない

天皇が投じた一石を重く受止め、21世紀の天皇制のあり方を検討すべき
 いま、私たちが抱いている天皇のイメージは、実は明治時代に形作られたものが多いのです。
 そして、明治天皇のような存在を天皇の理想と考える人たちがいます。
 例えば、自民党の改憲案の中には、天皇を元首化する内容が織り込まれています。
 しかし、時代はもう明治時代ではありません。
 時代を遡った制度を創れば、どうしても無理が生じます。

 世界を見れば、時代にそぐわない無理を重ねた王室は国民の恨みをかい、廃止に追い込まれています。
 日本の天皇制は古代から、権威と権力を併せもつことなく、時代に即してあり方を変えてきたことで維持されてきました。
 戦後は、憲法が変わり天皇の役割が代わったことを柔軟に受入れたことで、以後、安定してきました。
 これを戦前に戻すようなことは、逆に天皇制が維持できなくなるだけでなく、天皇・皇族を非常に非人間的な環境に固定化することになります。

 その意味で、今回、天皇が投じた一石は非常に重いと思います。
 戦後の、そして21世紀の日本の天皇制を、ここでしっかり考え、皇室典範の改正などを通して相応しい制度を整えていくべきだと考えます。


2016年10月5日
天皇の生前退位の「意志」を認めない「意図」の方が問題
明治大学文学部教授/明治大学平和教育登戸研究所資料館 館長 山田朗
http://www.meiji.net/opinion/culture/vol111_akira-yamada

 先生は「世論調査では、8割以上の人が生前退位の制度化に賛成しているといいます」とおっしゃいました。
 その一例なんでしょうけど、調査結果がヤッホー君が明治大学生田キャンパスを徘徊していた日の西日本新聞に掲載されています:

 本社加盟の日本世論調査会が11月5、6両日に実施した「皇室」に関する全国面接世論調査で、政府が有識者会議を設置し、天皇の生前退位の法整備を検討していることについて「早急に結論を出した方がよい」との回答が50%を占めた一方で、「慎重に検討した方がよい」も半数近い47%となり、賛否が分かれた。

 政府が今回の議論の対象にしていない「女性・女系天皇」や「女性宮家」についても、今の有識者会議で「議論した方がよい」との回答は82%に上った。
 女性・女系天皇の容認派は85%で、反対はわずか10%だった。

 8月のビデオメッセージの中で、天皇陛下が「人々の思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」と述べられたことに関連し、被災地訪問など国民に寄り添う活動と天皇の地位との関係をどう思うか尋ねたところ、78%が「活動を行うのが困難になれば退位した方がよい」と答え、生前退位の実現に強い思いを示した陛下の考え方に賛同した。
 「退位しなくてもよい」は19%にとどまった。

 天皇の生前退位は「できるようにした方がよい」が89%と圧倒的で、「現行制度のままでよい」は9%だった。
 生前退位の法整備を進める場合、70%が「今後の全ての天皇を対象にした方がよい」と回答。皇室典範の改正が必要となる恒久的な制度の必要性を認めた。
 特別法での対応を目指すとされる安倍政権の考えに近い「今の天皇陛下に限った方がよい」の26%を大きく上回った。

 天皇に対してどのような感じを持っているかについては「親しみを感じる」が47%で最も多かったが、2012年6月の調査の57%からは減少した。
 一方、2番目に多かった「すてきだと思う」は13%から20%に増加。
 次いで「何とも感じない」は20%から17%に減り、「尊くて恐れ多い」は8%から15%に倍増した。
 「反感を持つ」は1%で、大きな変化は見られなかった。

 陛下の活動を例示し、どれが重要か二つ選んでもらったところ、「外国訪問や国賓の接待など国際親善」が56%で最も多く、「被災地の見舞い」の41%が続いた。
 憲法が天皇の仕事として定める「国事行為」は25%で3位だった。


2016年11月20日03時20分更新、西日本新聞朝刊
「女性・女系の議論を」82% 「退位、恒久制度必要」70% 皇室世論調査
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/290380

 世論に背を向け、自分のつくりあげた幻想を追いかけるカレのこと、カレの結論に権威づけるためのオトモダチばっかりの「有識者会議」じゃん(注)、って思ってたんですが、今日の次の記事もご紹介しておきます:

 やはり、安倍晋三政権は、今上天皇の生前退位について、結論の引き延ばしを図っているようだ。
 天皇陛下の生前退位をめぐる「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(座長・今井敬経団連名誉会長)は、専門家からの意見聴取を始めた。対象は皇室制度や憲法、歴史分野の学者、ジャーナリストら計16人で、3回に分けて実施する。
 国事行為を代行する「摂政」設置や退位の是非、退位を恒久的に制度化する是非など8項目に関し意見を求め、来年初めに見込まれている論点整理に向けて検討する。

 しかし、そもそも生前退位を「公務の負担軽減等」と言い換えるあたり、本質的な議論を避けようとする意図が見え隠れしている。

 歴史研究者からは、次のような声も聞こえてくる。

「天皇が代替わりすると、時の内閣も替わってきたという歴史的経緯がある。安倍政権はそれを強く意識しているのではないか」

 明治以降の歴史を見ると、不思議な法則が浮かび上がってくる。
 先月の10月に『日本人が知らない「天皇と生前退位」』(双葉社刊)を上梓した八柏龍紀氏に聞いた。

「まず、孝明天皇から明治天皇に替わった1868年に、江戸幕府から明治政府に替わっていますが、その明治天皇は1912年の夏に崩御され、元号は『大正』になります。そして、このとき第2次西園寺内閣は陸軍の二個師団増設問題により、総辞職に追い込まれています。この時代は桂太郎と西園寺公望が交代で政権を担当し『桂園時代』と呼ばれていますが、第2次西園寺内閣の後に組閣した第3次桂内閣も『憲政擁護・門閥打破』を掲げた民衆の憲政擁護運動が高まり、62日間で総辞職。これがきっかけで桂園時代は終焉を迎えるという大きな変動が起こります」(八柏氏)

 大正天皇が1926年冬に崩御され、元号は「昭和」になる。

「1926年は加藤高明首相が1月に、現職総理のまま病で急逝。若槻礼次郎が組閣しますが、その翌年には、片岡直温蔵相の『東京渡辺銀行が破綻致しました』という失言をきっかけに金融不安が顕在化し金融恐慌が起きました。そのとき、経営危機に陥った台湾銀行を救済する緊急勅令案を、若槻内閣の外交政策に不満を持っていた枢密院が否決したことで、若槻内閣は総辞職に追い込まれています」(同)

 そして、昭和天皇が崩御された1989年は竹下登内閣だったが、消費税導入やリクルート事件への世論の反発で、内閣支持率が5%前後という歴史的な低さとなり、6月に総辞職に追い込まれた。
 次に成立した宇野宗佑内閣は、首相の女性問題もあって国民の不信が高まり、夏の参議院選挙で自由民主党は結党以来の惨敗を喫し総辞職した。在任期間は69日と短命な政権だった。

●「天皇が替わると内閣が総辞職」というジンクスを安倍政権も意識?
 元号の変わり目は時代の変わり目なのか。
 元号が変わる年には、ことごとく内閣が総辞職している。
 天皇は戦前も戦後も「日本国民統合の象徴」的存在だが、代替わりとともに国民のエネルギーが大きく吹き出し、内閣さえも吹き飛ばしてしまうのかもしれない。

 そのためか、安倍政権が天皇陛下の生前退位に関する“お気持ち”を受けて、まず行なったのは、自民党総裁の任期の延長だった。
 政治制度改革実行本部は10月19日の役員会で、現行の最長「連続2期6年」から「連続3期9年」へと変更する改正案を、来年2017年3月5日の定期党大会で図ることを決めたという。

 「天皇が替わるときに内閣は総辞職する」という不思議な法則を、もしかしたら安倍首相も強く意識しているのかもしれない。
 今上天皇の生前退位のご意向が示されてからの安倍政権の動きは、こうした歴史が繰り返されることを懸念しているように見える。

「本書にも書きましたが、天変地異に対し祈りのために譲位した清和天皇に見られるように、時代と天皇は常に共鳴し合う関係のように思われます。天変地異の鎮撫をはかり、被災者や犠牲者に祈りを捧げるといった日本古来の天皇の務めがあり、それを今上天皇は深く理解し行動なさっています。そして、多くの国民もまた、そのことを今上天皇・皇后のお姿から感じとっているのではないでしょうか。こうした歴史の底流にあるダイナミズムを止めることは難しい」(同)

 そう考えると、公務削減のみを前面に押し出そうとする安倍政権の動きは、少し方向が違っているのではないか。


2016.11.22 Business Journal
安倍政権、天皇の生前退位を是が非でも回避の「狡猾」な抵抗…「政権崩壊」という歴史的運命
椎名民生
http://biz-journal.jp/2016/11/post_17248_2.html

(注)
 民進党の野田佳彦幹事長は11月21日の記者会見で、天皇陛下の生前退位に関する政府の有識者会議が、専門家から聴取した8項目について「(陛下が)おっしゃった言葉と全く違う『公務負担軽減』とか『摂政』という項目が入っている。本質からあえてずらそうとしているのではないか」と批判した。
 専門家の人選にも「(陛下の)意に反する発言をする人を呼び集めるやり方に強い違和感を感じる。危惧を持つ」と述べた。
 野田氏は、特例法に基づく退位なら皇室典範改正より迅速に対応できるとする意見について、「限られた条文で対応するなら典範改正だって労力は同じだ。俗論が変に強く出ていることにも危惧を持つ」とけん制した。

11月21日19時46分更新、毎日新聞【朝日弘行】
民進・野田氏、生前退位議論で苦言
http://mainichi.jp/articles/20161122/k00/00m/010/047000c

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2016年11月21日

下町の紅葉

 11月21日(月)。
 墨田区にお住いの山歩クラブの仲間から電話あり呼び出されました、はい。
 そこで清洲城付近をご案内することにしたヤッホー君、さっそくeチャリ。
 待ち合わせは、清澄庭園!

 庭園内では日常の維持管理の中で、庭園独自の様々な作業が行われています。
 そうした伝統技能を皆さまに広く知っていただき、庭園に対する理解を深めていただくため、日頃作業を行う職員が分かりやすく解説を加えながらご紹介する機会を設けています。
 今回は庭園技法「マツの雪吊り」のご紹介です。
 都立文化財庭園では冬支度の作業の中で、コモ巻、ワラ囲い、ワラボッチなどの設置を行なっていますが、その代表的なものに冬の風物詩となるマツの「雪吊り」作業があります。
 都会の街角ではその姿を見ることが珍しくなっている「雪吊り」ですが、ぜひこの機会に皆さま、お誘い合わせの上、ご覧いただければと思います。

日時:平成28年11月23日(水・祝)12時30分〜(約30分間)
場所:大正記念館前庭
参加費:無料(入園料別途)


2016年11月18日東京都公園協会
11/23(水祝)伝統技能見学会「マツの雪吊り」開催のお知らせ
http://www.tokyo-park.or.jp/announcement/033/detail/36192.html

 では写真を:

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 「一之橋」を渡ります:

 幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。
 排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
 1659(万治2)年、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。
 堅川の両岸には全国から水運でもたらされるさまざまな物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人びとも多く、大いに賑わいました。
 一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。


 そして、都立横網町公園へ(注1)。

 都は、墨田区の都立横網町公園内にある「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」(注2)を彩る2016年度の花壇デザインの公募で、同区立曳舟小学校三年の大谷未来さんら4人の作品を採用すると発表した。
 碑は、都が2001年に設置し、内部に犠牲者名簿を納めている。
 花壇デザインは都内の小中高生から公募し、1075点の応募があった。
 大谷さんの作品はピンク、青、緑をベースにした水玉模様で、春季のデザインに決まり、来年2016年4月に植栽予定という。
 夏季は淑徳巣鴨高校二年の長柄紗月さん、秋季は台東区立浅草小二年の古山遙さん、冬季は同区立富士小四年の梁井亜里彩(ありさ)さんの作品がそれぞれ選ばれた。


2015年12月7日付け東京新聞
平和祈念の花壇に4デザイン採用 都立横網町公園
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201512/CK2015120702000151.html

 今日、撮れたての写真をどうぞ:

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 仲間からちょっと前、公園を通ったときの写真って送ってくださいました、ありがとう!

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(注1)都立横網町公園
 2015年5月26日(火)、天皇皇后両陛下におかれましては、戦後70周年にあたり「東京都慰霊堂」に行幸啓なされました。
 両陛下は、舛添東京都知事、高島都議会議長、檜垣東京都慰霊協会会長がお出迎えする中、午前11時に慰霊堂正面にご到着になりました。
 沿道や公園内には、両陛下をお迎えしようと大勢の都民のみなさんがお待ちしていました。
 都知事の先導で慰霊堂内にお入りになり、菊の花束を御供花されました。
 その後、都知事から慰霊堂の由来等をお聞きになり、午前11時12分、慰霊堂をお発ちになりました。
 両陛下の東京都慰霊堂への行幸啓は、1995(平成7)年の戦後50周年についで2度目です。


天皇皇后両陛下の行幸啓がありました。
http://tokyoireikyoukai.or.jp/

(注2)「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」
 第二次世界大戦で、東京は、1942(昭和17)年4月18日の初空襲から終戦当日の1945(昭和20)年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲となりました。
 こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました。
 この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄附が寄せられました。
 斜面を覆う花は生命を象徴しています。
 碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。

2001(平成13)年3月 東京都


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風船爆弾

 昨日の日曜日、明治大学生田キャンパスへの徘徊での興奮冷めやらぬ11月21日。
 だってさ、あの「風船爆弾」の司令塔があったんだよ!
 まずは:

昔ここに戦争があった
制作:福島県いわき市立勿来第一中学校(2013年度最優秀作品賞/リサーチ賞)
https://www.youtube.com/watch?v=uLFSwlM41ng

風船爆弾、報道規制が生んだ「悲劇」
https://www.youtube.com/watch?v=MSHrAk3Jb28

第148回多摩探検隊「女学生と風船爆弾−前篇−
制作:中央大学FLP松野良一ゼミ
https://www.youtube.com/watch?v=xeiI3MSL-Fo

第149回多摩探検隊「女学生と風船爆弾―後篇―
https://www.youtube.com/watch?v=dFhMMJ_CiCw

B29 VS 風船爆弾、国家プロジェクト対決、アメリカと日本の国力差、第2次世界大戦
https://www.youtube.com/watch?v=IaHAE5RAEcQ

 中央大学FLP松野良一ゼミでは、動画もつくって公開してる!
 このFLPってなんの略?
 ワープロ盛んなりしころ、フロッピーってムカシ、あったけど、それ?

 今週ご登壇願ったのは、中央大学総合政策学部の松野良一教授(1956年生まれ)である。
 先生は、朝日新聞にTBSと、わが国を代表するマスメディアで報道記者・ディレクターとして活躍した経歴の持ち主だ。
 まずは、その所属する中央大学総合政策学部のことから語ってもらおう。

中央大学総合政策学部松野良一研究室
http://www.matsuno-lab.com/blog/

ジャーナリズムの実践活動で人間力が育つ

歴史的事件の証言記録と地域再発見番組の制作
 総合政策学部の専門ゼミは「事例研究」と呼ばれ、学部の3〜4年次学生が対象。
 必修で卒業論文を作成することが最終目標である。
 松野教授のゼミでは例年各学年10人ほどのゼミ生を受け入れている。

 さらに、これとは別に、中央大学にはFLP(Faculty Linkage Program)なる制度が用意されている。
 これには「ジャーナリズム」「国際協力」など5つのプログラムが開設され、総合政策学部だけでなく全学部から応募できる。
 つまり、学部横断型のゼミである。
 学生は5つのプログラムの中からひとつを選んで参加履修できる(対象は2年生からで、1年次に選抜試験がある)。

 松野教授は、これら5つのうちの「ジャーナリズム」プログラムの指導を担当する。
 こちらには学部の枠を越えた50人の学生が集う。

「わたしが主宰しているゼミは、学部事例研究の3〜4年次20人とFLPプログラム50人の計70人。2年次から4年次までの学生を混ぜてグループをつくり、各グループでは、社会学分野のエスノグラフィー(民族誌学、英 ethnography)、あるいはジャーナリズム分野のルポルタージュ(現地報告、仏 Reportage)の方法論を使って、2つの課題に取り組んでもらいます」

 この2つの課題とは、「歴史的事件の証言記録」と「地域再発見番組の制作」のこと。
 ここで注目したいのは、これらの課題を淡々とこなして簡単なリポートを提出すれば良いというレベルではないということだ。

 2つのうち歴史的事件の証言記録については、成果が一般書籍として刊行されている。
 そして地域再発見番組のほうは10分間のドキュメンタリーとなり、多摩地区と首都圏・九州のケーブルテレビ計19局でレギュラー番組として放送されている。

「歴史的事件の証言記録については、中央大学から学徒出陣して戦場に駆り出されて戦死された方の遺族や生き残った方々に、後輩である現役学生たちが取材し、等身大のルポルタージュとしてまとめる作業をしています。これまで『戦争を生きた先輩たち』(中央大学出版部)というタイトルでTとUが出版されていて、まもなく刊行されるVで完結になります。台湾や韓国にも中央大学の卒業生がいることから、海外取材も敢行しています」

 さらに現在進行しているものに、
(1) 沖縄の戦中・戦後の証言を記録した「沖縄問題の証言」
(2) サハリン沖でソ連戦闘機に撃墜された「大韓航空機007便撃墜事件」(1983年)における日本人遺族の証言記録
(3)「台湾二・二八事件」(1947年2月28日勃発)に巻き込まれた中大卒業生の証言
――などがある。

 いずれも、これから書籍化が予定されているという。
 埋もれている歴史的事実を、学生たちの取材により、可視化させていこうという社会貢献度の高い活動である。
 一方の地域再発見番組については――

「『多摩探検隊』という番組タイトルで、企画から撮影・編集まで全て学生の力だけで進めています。放送開始から10年になりますが、いまでは多摩地区や首都圏・九州のケーブルテレビなど計19局で放送され、視聴可能世帯数は260万にも及んでいます。これはユーチューブなどWebでも配信されています」

 この『多摩探検隊』の番組内容の一部については「松野良一研究室」のURLでも見られるので、ぜひアクセスしてほしい。
 これら放送された番組は、「地方の時代」映像祭(NHK・民放連主催)や「東京ビデオフェスティバル」などのコンテストで多数の入賞実績を持っている。

 初めのうちは、取材対象者とうまくコミュニケーションをとることが出来なかった学生たちが、取材を繰り返して実社会と接触する過程で日ごとに大きく成長していくという。

マスコミ就職も夢ではない一生モノのゼミ

こんな学生に来てほしい
 冒険心や好奇心が旺盛で、国内外のどこでも行ってみたい人。
 仲間とディスカッションするのが好きな人。
 正義感の強い人。
――そんな人に来てほしいですね。


2013年11月07日早稲田塾 GOOD PROFESSOR
中央大学 松野良一教授
http://www.wasedajuku.com/channel/good-professor/detail.php?professorid=541

 へえ〜、そうですかぁ〜。その動画にも登場するのが明治大学の山田朗教授(1956年生まれ)。

編集部 前回のお話を掲載したところ、軍事の具体的な話をもとに憲法を論議することに賛成する声が読者から届きました。その一方で、「では山田さんは非武装で国が守れると思うのか」。。。という質問もありました。
山田 私は9条を変えないほうがいいという考えですが、全くの非武装は現実的ではないと思います。
 究極の理想ではありますが、不法入国や密輸の取締りなど国境警備を考えると無理でしょう。
 ですから現在の自衛隊の存在を認めつつも、段階的に縮小・再編していき、最終的には海上保安庁プラスαぐらいの武力を持つ、これが現実的な選択肢ではないかと思います。。。


編集部 それだけの武力で国土を守るのに充分だと?
山田 そう思いますよ。海保の保持している艦艇は相当強力です。この海保の部隊を中心に沿岸警備を実施して、縮小した空陸自衛隊を絡ませていけばいいと思います。
 だいたい現在の自衛隊の軍事力は、専守防衛を目的にしているにしては巨大すぎます。
 為替レートの換算の仕方によって多少の変動はありますが、日本の防衛費5兆円弱というのは世界で2〜4位にランクされます。しかも、冷戦後各国が防衛費を減らすなか、唯一日本だけは横ばい、もしくは増えているのです。
 冷戦時代は、ソ連の軍事力に対抗する極東のアメリカ軍を補完する役目を自衛隊は担っていました。ソ連の原子力潜水艦が北太平洋に進出するのを防ぐことが最大の目的で、自衛隊はそれに合わせた軍事力構成になっていました。
 たとえば対潜哨戒機P3Cという飛行機がありますが、日本は1機77億円(1997年度引き渡し価格)もするこの飛行機を97機も配備しています(通常型とEP3Cなどの発展型も合計すると導入数は112機)。
 全世界に展開するアメリカ軍ですらP3Cの稼働機およそ120機といわれていますので、艦艇のトン数規模で10分の1以下の日本が相対的にいかに多く保有しているかがわかりますよね。
 確かに冷戦時代はソ連の潜水艦に対する役割がありました。1980年代末には極東に配備されていたソ連の潜水艦は140隻(うち原潜70隻)で、日本近海にも常時30隻近くが行動していました。
 しかし、現在、極東に配備されているロシアの潜水艦は20隻程度で、実際稼動しているのは数隻です。外洋に進出するものもほとんどありません。


編集部 中国の潜水艦はどうですか?
山田 中国は約70隻の潜水艦を保有していますが、日本海や南西諸島の列島線よりも外洋に出て活動しているものはほとんどありません(石垣島近くでの領海侵犯事件はありましたが)。
 それに対して97機のP3C。明らかに過剰な戦力ですよね。
 つまり、冷戦時代の軍事力構成を引きずったまま、今度はそこに海外展開という新たな目的をつけるという具合に、自衛隊は場当たり的に軍備を拡大しているわけです。
 2004年12月に発表された防衛計画の大綱で、ようやく「冷戦型軍備の脱却」などと言っているのですからね。
だから、現在の自衛隊の軍事力が本当に適当なものなのか、そこからまず考えていく必要があります。


編集部 「海上保安庁プラスαの戦力と言えども軍事力には変わりないのだから、やはり憲法に武力保持を明記すべきだ」と考える改憲派の方もいるかと思いますが。
山田 それは、海保と自衛隊のどちらを中心に考えるかという問題だと思います。海保という警察力を強化するという考えであれば、9条の条文と矛盾はしません。あえて自衛軍にしなくても、警察(沿岸警備隊)的論理でかなりのことはできます。
 今の自衛隊が軍事力であることは間違いありませんが、この枠組みをいま変えなくても何の問題もないわけですよね。
 前回も話しましたが、9条がある現在ですら、国民の知らないところで自衛隊は暴走・肥大化しているわけで、正式に軍隊と認めればさらにその流れが強まります
 「軍隊になりました、では縮小しましょう」なんてことがありえないことは、誰が考えても当り前ですよね。
 改憲派の人たちが言うように「軍隊を持つことイコール戦争」ではないですが、肥大化を防ぐためにも軍事組織に自立性を持たせないほうがいいんです。


編集部 肥大化以外に軍隊を正式に認めることによる弊害は何でしょうか。
山田 例えば、日の丸・君が代は、国民の間にある程度定着していたにもかかわらず、あえて法制化したことによって強制力を持つようになりました。
 それと同じで、軍隊が憲法のお墨つきを得れば、軍隊を容認するかどうかが一種の「踏み絵」になり、批判することが難しくなるでしょう。
「自衛隊」から「自衛軍」に名称が変わるだけで、軍隊の社会的影響力や発言力は飛躍的に高まります


編集部 アメリカのように軍隊を中心にした社会になるのでしょうか。
山田 一般社会が踏み込めない「聖域」ができます。
 現在でも在日米軍には警察の捜査権は及びませんが、国内にそういう聖域がもうひとつできることになります


編集部 企業や学校など市民の社会生活にはどのような影響が出ますか?
山田 自衛軍が誕生すれば、軍人や軍隊経験者を優遇する風潮が生まれます。
 現在でも企業などに勤める人が短期間の訓練を受ける予備役制度が自衛隊にはありますが、こういう動きが加速するでしょう。
 短期間入隊して一定の訓練を受けた予備役兵が増えれば自衛軍は助かるし、企業も軍人精神的なものを若い社員に注入してもらえれば社員教育になって助かる。
 そういう面で、軍隊と企業の利害が一致してくるわけです。


 えっ、おぉ〜、やだ、嫌だ・・・

編集部 徴兵制はどうですか?今後、自衛軍が海外展開していくとなると当然死傷者は増え、その逆に入隊希望者は減るでしょう。
山田 確かにそういう事態はありうるでしょうが、私は徴兵制のようなストレートな形はとらないと思います。
 たくさんの人間を長期間雇うのは予算の面から言っても軍隊にとってメリットがありません。
 それに徴兵制を法律で定めなくても、「任意」による入隊を増やすことは可能だと思いますから。


編集部 任意ですか?
山田 先ほどの予備役制度ではないですが、企業や学校が自衛軍入隊経験者を優遇して採用し、そういう企業などについては国が税制面で優遇するとか、そういう流れが必ず出てきます。
 今のアメリカがまさにそうです。
 建前は志願制でありながら、実際は半ば強制というシステムですよ。
 軍隊に行けば大学の学費が免除されたり、医療的な控除も受けられます。
 そして、それを利用しない限り生きていけない貧困層がアメリカには大勢います。
 その人たちにとっては軍隊に入る以外選択がないわけです。
 一番怖いのは、任意と言いながら実質的には強制というシステムです。
 日本でも格差社会などと言われていますが、現在のアメリカのようになる可能性が強いのではないでしょうか。


 えっ?それは「経済的徴兵」ってやつですな(注1)

編集部 『マガジン9条』のアンケート調査では、改憲を支持する理由として北朝鮮や中国の軍事的脅威を理由にあげる人がたくさんいましたが、この辺をどうお考えですか。
山田 一般論として考えると、軍事力だけに頼って自分の国を守ろうとすれば、世界一の軍事大国にならない限り、100%の安心は得られません
 だから「軍事には軍事で」という論理でいけば、中国や北朝鮮の核に対抗するには日本も核武装するしかなくなります。
 中国が150発の核ミサイルを持っているのなら、日本も同じかそれ以上の核ミサイルを持つしかないわけです。
 改憲を支持する人でも、日本が核武装することに反対の人は多いと思います。


編集部 そうですね。日本が核武装するのではなく、アメリカに助けてもらえばいい、という人もいます。日米同盟を強化して、アメリカが望むように自衛軍を憲法に明記して集団的自衛権を行使すべきだという考えです。自民党の改正草案がまさにこれですが、この間の『マガジン9条』でのアンケート調査では、この選択肢、1番を支持する人が最も多くありました。
山田 いわゆる「核の傘」理論ですね。
 確かに北朝鮮が日本を攻撃できない理由のひとつには、もしそんなことをすればアメリカに攻撃されて国家が崩壊するという恐怖感があるでしょう。
しかし、実際のところ、アメリカの核の傘というのは、日本を守るためにあるのではなく、アメリカの国益を守るためのものです。
 その時の国際環境にもよりますが、何がなんでも日本を助けるというほど、アメリカは単純ではありませんよ。
 だから、アメリカに頼り切ってしまうのは危険です。


編集部 核の傘もそんなに有効ではないということですね。
山田 有効でないどころか、逆に弊害もあります。
 核の傘理論でいけば、当然「核には核を」という話になります。
 日本がアメリカの核抑止力に頼っている限り、「こちらも自衛のために核を開発するんだ」という口実を北朝鮮に与えることになります。
 核に限らず、日本が軍事力に頼れば頼るほど、中国ほか周辺国に軍拡する理由を与えてしまうわけです。
 ですから、私の基本的な考え方は、まず日本が軍縮を提起すべきだということです。


編集部 在日米軍や日米安保の見直しも含めてですか?
山田 そこに着手しないで、「軍縮しますと」言っても現実味がないですからね。
 軍縮が難しいのは事実です。
 軍縮に向けて各国が動き出しても、失敗するとその反動で軍拡競争になりますから。
 ワシントン海軍軍縮条約(1922年締結)やロンドン海軍軍縮条約(1930年締結)が結果的に失敗に終わり、その後の軍拡競争につながった事例を見ても明らかです。
だからといって軍縮交渉が構造的に不可能だというわけではありません。要はやり方の問題です。


編集部 冷戦時代の米ソ間でも軍縮が進んだ時期がありますよね。
山田 はい。戦略兵器制限交渉(SALT l・ll)は、1969年から予備交渉が始まって、中断を挟んで最終的には1979年まで続きましたが、この協定によって迎撃ミサイルの制限や新型戦略核兵器の研究・開発が禁止されるなど一定レベルの軍縮が実現しました。
 一時期は核戦争一歩手前までいった米ソ両国間でこのような軍縮が実現したわけです。
 何かと懸案事項を抱えている日本と中国ですが、冷戦時代の米ソ関係に比べれば経済的なつながりほか緊密な関係にあるわけですから、軍縮交渉は不可能ではありません。


編集部 具体的にはどう進めていけばいいのでしょうか。
山田 軍事力を現状レベルに凍結すること、それから軍事力の高度化にストップをかけることです。
 ただ、武器を旧式のままずっと置いておけというのは、現実的には難しいので、まずは数量の現状維持および削減から始める。
「万が一相手から攻められたら」という不安を持つ人もいるでしょう。確かに国際関係は何が起こるかわからないので、いきなり今の自衛隊をゼロにするのは難しい。その意味での最小限度の「拒否力」は残してもいい。ただし、それは今の軍事力よりももっと少ないものです。冒頭に言いました海保プラスαの武力ということです。


編集部『マガジン9条』でのアンケート調査は、システムの不備などもあって、不正確な部分もあるのですが、いずれにしても改憲を望む声が多数でした。この結果についてはどう思いますか。
山田 護憲派は、非武装中立論にこだわりすぎると逆に支持を失うのではないかと思うんですね。北朝鮮や中国の脅威論を「そんなことあるわけない」と一笑にふしてしまう護憲派の人がいますが、現状ではやはり国境侵犯そのほかの脅威があるわけですから、不安に思う人がいるのは当然だと思います。だからある程度の軍事力は必要だと感じる人が多いのも当然です。
 それなのに、護憲派側が何が何でも非武装、それ以外は認めないという態度だと、議論すら成り立たない。
 ある種の「必要悪」として、一定程度の軍事力を認めるところから始めないと、「海外派遣や軍拡には反対」「自民党の改憲案は少し不安」と思っている人たちとも話が通じなくなってしまいます。
 ある程度の軍事力といっても現実は過大すぎることはこれまで述べてきたとおりで、これを減らすことにまず目を向けて、縮小・再編にもっていく、と。
 そしてこれは別に9条を変えなくても十分にできるんだという考え方を広めていく。いや、むしろ9条を変えてしまったら縮小・再編どころか、軍拡、海外派遣の道につながってしまう、ということを伝えていくべきではないでしょうか。
 究極の理想として非武装を掲げるのはもちろんいいのですが、いきなりそこから入られると、共感を得られないと思うんですよね。
 憲法9条を使って、不必要に膨らんでしまった日本の軍備を縮小し、警察力(国境警備力)を強化した国土防衛の道を探り、現実のものにしていくべきではないでしょうか。


 中国や北朝鮮の脅威論と共に、「軍事力には軍事力で対抗すべき」との意見が今、大きな声となりつつありますが、本当にそれで安心した生活や平和な世界が築けるのでしょうか?
 山田先生は、今こそ、9条を使って軍拡競争にストップをかける時だと、指摘されています。
 アジアの周辺諸国との緊張が高まる中、軍拡か軍縮か?どちらが、未来を見据えた現実路線であるか、しっかりと考えるべき時だと感じています。
 山田先生、ありがとうございました!


2006年『マガジン9条』
明治大学の山田朗さんにお聞きしました。
http://www.magazine9.jp/interv/yamada/index2.html

(注)経済的徴兵についてヤッホー君が思慕している小児科の先生は:

 米国では、大学の学費が高い。年500万円などありふれた額だ。それで、奨学金を得るために、若い者が軍隊に入るのだ。裕福な者の子弟は、軍務につかない者が多い。建前は、自由意志による志願だが、実質は経済的な理由による徴兵に近い。

 今夕、TBS TV の報道番組で放映していたのだが、わが国でも、平均所得と大学進学率が低い地方自治体ほど、自衛隊への入隊率が高いと報じられていた。以前から、そうした統計があるのではないかと思っていたが、それは、教え子が自衛隊に多く入隊しているという高校の教師の方が自分で調べたものらしい。

 その方は、青森県の方だ。
 青森では、地場産業が少なく、経済的に厳しい家庭が多いために、高校を卒業すると、自衛隊入隊が一つの選択肢になっているようだ。
 最初に、「駆けつけ警護」の任務を命令されたのは、青森県の自衛隊部隊である。


2016/11/19 19:01更新
経済的徴兵
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/#entry4249


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2016年11月20日

登戸研究所

 小春日和となった11月20日日曜日、ヤッホー君は大忙し!
 まずはいつもの清洲城まわりのごみ拾い、次いで清澄公園へ!

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…深川図書館

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…清澄公園

 そして明治大学生田キャンパスへ紅葉狩りの徘徊!
 ここはムカシ、陸軍の登戸研究所があったところ!
 北茨城市のあの「風船爆弾」の指令塔でもあった!
 2013年、映画にもなったのです、登戸研究所!

 ドキュメンタリー映画とは言え、あらかじめシナリオめいた予想図はもってスタートを切るのだが、本作(2013年8月公開)はスタート時点から地図のない森に迷いこんだような、アテのない旅となった。

 何しろ秘密戦、謀略戦の資材や兵器づくりの基地である。
 当時、入所者は「国体護持」と「秘密厳守」だけは徹底させられ、違反しないかどうかは憲兵が監視していたと言う。
 守らなければ即銃殺だ。
 しかも敗戦の日、証拠隠滅命令が下され、焼けるものは焼き尽くし、壊せるものは破壊し、出来ないものは湖や海に沈めたらしい。
 加えて特殊技術をもった三科の所員などは米軍に言い寄られて情報ごと身をもって米軍基地内に消えた。
 帰国後は貝になってしまった。
 当事者の証言がなければ「登戸研究所」の闇に光は当てられない。
 ここでは人と人の関係が「秘密厳守」のために切れていた。

 だが、「登研会」というOB会があることを知り、その会合に参加させてもらったことから路はひらけてきた。
 驚いたことに参加者のOBは「登研」の全貌を知らない人たちが多かった。

 2006年、例年のように日本映画学校では一年生に「人間研究」の授業を課した。
 社会を知らない新入生(中には社会人から転入してくる若者もいるが)にテーマを与え、ナマの人間と向き合って調査・取材(インタビューと写真撮影)してルポを仕上げ、学内発表する。
 私は講師のひとりとして「陸軍登戸研究所」はどうかと提案、学生の賛成を得て取材にかかった。
 発表の成果は好評だった。

 「記録映画が残されていないのなら作ったらどうか」と無責任な講師発言に乗ってしまい、その気になってしまったのが始まりだった。
 映画チームに参加者を募ると三人の一年生が手を挙げた。
 新井愁一(撮影)、石原たみ(朗読・聞き手)、鈴木摩耶(撮影)である。
 翌年入学して来た渡辺蕗子(録音・聞き手)が参加(その他、単発的に手伝う学生は数名いた)。
 彼らが卒業するまでには完成させなくてはと思ったが、そんな生易しいテーマでなかったことは前述のとおり。
 運良くボランティアの後任を引受けてくれたのが友人の長倉徳生(編集技術)だった。

 シナリオがなかったと書いたが、二科などで活躍してきた故・伴繁雄氏の自伝的告発書『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房出版、2001年1月)や斎藤充功著『謀略戦−陸軍登戸研究所』(学習研究社、2001年11月)がバイブルだった。
 そして何よりも伴繁雄氏の後妻に入った和子さんと、明治大学非常勤講師の渡辺賢二氏(注1)が「語り継ぐ」この映画製作に大きな力添えを与えてくれた。
 こと和子さんは、夫の過去の所行に苦悩する姿を日々見つめてゆくうち、妻として、女として、「登研」の汚れた歴史を正視するに至り、戦争を動かしたモンスターを夫の中にも見つける。
 その心理のプロセスが撮れたことは、私たちが求めていた人間のドラマを引き寄せられたと思う。

 「もう十年早かったら」とか「ギリギリだったね」とまわりから言われてきたが、取材、撮影後に亡くなられた方は完成までに6人。
 高齢で会話がなりたたなくなった方々もいる。
 戦争の実体験者が生存しているうちにまだやっておかなければならない仕事はあるが、加害、被害の実態に止まらず、戦争は誰が動かし、何のために続けるのかを闇から引きづり出さなければ意義は薄い。
 この8月、シリアの内戦取材中に射殺されたジャーナリスト山本美香さん(注2)の状況からも、犯人の後ろで笑っているモンスターがいることを忘れてはなるまい。

 話はもどるが、モザイク状に撮っていった40人近い証言者の映像をつなげる「登研」の実体験者が現れたのは二年前。
 生田の近隣に住んでいて「登研」に就職したのが18歳だったという太田圓次氏。
 伴繁雄氏の下で雑務を受けもったが、伴氏は上下差別のない優しい人だったと語る。
 その伴氏が南京や上海で人体実験を好んでやったという事実。
 誰もが「洗脳」を受けると「人殺し」も抵抗なくなるのか−。

 太田氏の千葉・一宮における風船爆弾放球試験は真冬の海岸でのこと。
 その後に肺浸潤の病にかかったのも「戦争のせい」だ。
 その点では、風船爆弾の気球紙づくりに動員された全国の少女たちも同様に“奴隷扱い”を受けた(東京はゆるかった)。
 こうした姿をカメラで追ううち、後ろでいい思いをしている化物たちが見えて来た。
 “原発ムラ”に似て、天皇を守ることで彼らは戦場でさえうまい飯と酒と女に溺れていた。
 彼らにとって戦争は長びいてほしかったとしか思えない。

 ラストの和田一夫の言葉である「沖縄と同じことが本土でも起こり得た」は衝撃的だ。
 
 ところで太田圓次氏が見た夢の中の兵器とはどんなものだったのか、聞き忘れた。
 願わくば「戦争を忘れる花火弾」とか「笑い弾」だったらいいのだが。


楠山忠之(プロデューサー・監督・編集、著書に『陸軍登戸研究所』を撮る(風塵社、2014年05月)
http://www.rikugun-noborito.com/

 本日は大変光栄な賞をいただき、ありがとうございます。
 思ってもみない賞で、プロデューサーへの賞ということですが、まったくその自覚が無く、ただただ学生の先に立ってなんとかこれを映画にしなければという思いでやってきましたので、いただいていいのかなという気持ちが今もあります。

 私が長々としゃべるよりも、当時、学生だった連中が来ていますので壇上に上がってもらいたいと思います。
 今は「日本映画大学」(注3)になりましたが、当時、日本映画学校の1年生だった者たちです。
 「日本映画学校」は今村昌平が残した学校で、多くは高校生で入ってきますが、人間研究というカリキュラムがありまして、「社会を知らない、人間を知らないで映画が撮れるか」ということで、近現代史の中の事件や活動を取り上げて、写真と原稿でスライドショーを作ります。
 そこでこの「陸軍登戸研究所」を学生たちとやりたいと思ったのがきっかけです。
 3ヶ月間での学内発表が終わってみたら、講師たちから「これはいい。映画にしてみたらどうだろうか」ということになりました。
 けれども、「学校側が責任を持とう」という言葉は一切ありませんでした(笑)。
 とにかく学生側がやる気になってくれなければダメなので、「やりたいのはいるか?」と聞いたところ、この三人が手を挙げてくれました。
 こんなに「陸軍登戸研究所」が深くて迷路みたいなところだとは知らなかったものですから、三人いれば、カメラと録音とインタビューができるので、「じゃあ、やろうか」と非常に軽いノリで始めました。

 そして3年間一緒にやってきました。
 彼らは授業とアルバイトの合間に、アポを取ったりしながらやりました。
 そういう経緯もあって時間もかかったのですが、最後までやめたいということは言わなかった。
 僕はそのことにすごく感謝しています。
 よくやってくれたなと思っています。
 しかし、3年間でできるかと思ったんですが、とんでもなかった。
 そして彼らは卒業してしまう訳です。
 その後は私の友人にカメラマンとして手伝ってもらいました。
 彼も来ていますので、壇上へ。

 そして私が一番感謝しているのは、この映画の中に出てくる伴和子さんです。
 伴和子さんは、夫が伴繁雄といいまして、『陸軍登戸研究所の真実』という本の著者であります。
 著者と言っても彼はこの本ができる前、原稿があがってほぼ終わりという時に、「人体実験をしたことを告白して清々した」と言って数日後に突然亡くなりました。
 そして伴和子さんはその後、陸軍登戸研究所のことを歴史に埋もれさせたくないという気持ちでいた時に私たちと出会い、大変応援してくれました。
 途中でやめたい気持ちにもなりましたが、「伴さんが一生懸命やっているんだから、僕たちも頑張らなくては」ということで、ここまで来られました。
 残念ながら伴さんはこの映画を観ていません。
 今は介護老人ホームにいて、私たちが会っても認識してもらえないような状態で、これが非常に残念です。
 後見人の方に賞をもらったことは伝えたいと思います。
 皆さん、ありがとうございました。


2014年06月05日第33回「藤本賞」授賞式
楠山忠之プロデューサー
藤本賞・奨励賞(「陸軍登戸研究所」の製作に対して)

https://www.toho.co.jp/movie/news/1406/03fujimotosyo_ib.html

 旧陸軍登戸研究所の兵器開発や終戦後の証拠隠滅作業などに焦点をあてた企画展「NOBORITO 1945−登戸研究所70年前の真実−」が2015年8月5日から明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)で開かれる。

 戦前、旧日本陸軍によって開設された同研究所は、秘密戦兵器・資材を研究・開発していた。
 アジア太平洋戦争時には秘密戦の中核を担ったが、終戦とともに閉鎖された。
 その後、1950年代に同研究所跡地の一部を同大が購入し、現在の生田キャンパスが開設された。

 本土決戦をひかえた70年前、同研究所は4月まで風船爆弾作戦を大規模に実施。
 作戦終了後の同月29日には登戸の本部で分散・疎開の式典を行った。

 同研究所の本部と、風船爆弾・電波兵器の開発を行っていた第一科、毒物・爆薬・生物兵器の開発を行っていた第二科が5月、長野県に移り、偽札を製造していた第三科は生田に残った。

 長野に拠点を移した同研究所は、本土決戦用の新兵器開発と、遊撃隊が使用する破壊工作用の兵器の量産を進めた。
 しかし、日本は敗北し、同研究所は解散。
 長野と生田の同研究所では、膨大な証拠物件と兵器類の焼却・破壊が進められた。
 その後、米軍が研究所施設を接収し、関係者は米軍の尋問を受けた。

 今回の企画展は、2期に分けて公開される。
 第1期は終戦までの同研究所の活動実態と兵器開発・生産に焦点をあてる。
 11月18日公開の第2期では、終戦後の同研究所の証拠隠滅作業と、元所員たちの戦後を取り上げる。
 当時の貴重な現物展示をまじえて、70年前の同研究所の真実を明らかにする。


2015年7月30日付け毎日新聞
大学倶楽部・明治大
平和教育登戸研究所資料館展 兵器開発、証拠隠滅に焦点 http://mainichi.jp/univ/articles/20150729/org/00m/100/040000c

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…中央校舎6階メディアホール窓から見たヒマラヤ杉と銀杏

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…明治大学平和教育登戸研究所資料館

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…風船爆弾の模型

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…弥心(やごころ)神社

(注1)
1.明治大学平和教育登戸研究所の開館
 2010年4月、明治大学生田キャンパス内に明治大学平和教育登戸研究所資料館がオープンした。
 旧陸軍登戸研究所(以下、登戸研究所と略す)の生物兵器研究のために建てられた鉄筋棟を改装した資料館である。
 戦争遺跡をそのまま活用し、そこで何が行なわれていたのかを伝える資料館は類例のないものである。
 この資料館がオープンできたのは明治大学の英断による。
 大学が、この場を「歴史教育・平和教育・科学教育の発信地にするとともに、地域社会との連携の場にしていく」としていることもすばらしいことである。
 しかし、こうした成果を生む背景には二十余年の長きにわたって多くの人たちが努力してきたことがあった。
 とりわけ、ここ登戸研究所に勤務していた人たちが重い口を開き、資料を提供してくださり、また資料館建設を大学に要望されたことが決定的であった。
 小田急線生田駅で下車し、10分ばかり歩くと明治大学生田キャンパスに着く。
 入り口から急坂を登り切った右手にこんもりとした森があり、当時弥心神社と呼ばれた神社がある。
 そしてその境内に「登戸研究所跡碑」と記された碑がある。
 この碑の建立過程が資料館の原点である。
 実は、戦後37年を過ぎた1982(昭和57)年になって登戸研究所に勤務し「青春」を過ごしていた人びとが再会し登研会を結成し、碑の建立の立案をしたのである。
 そして6年後に会員のカンパで明治大学の許可を得て、現在の場所に碑は建立された。
 碑文の案も当初は3案だされ、会員の投票で正面には「登戸研究所跡碑」そして裏面には「すぎし日はこの丘に立ちめぐり逢う」という「想い」をこめた句が刻まれた。
 私は当初、この句に違和感を感じていた。
 しかし、登戸研究所に勤務していた方々に接するに従ってしだいに分かるようになっていった。
 この句はまず「すぎし日は」できって、当時を想い起こしてはじめて理解できるのである。
 この丘で行なった出来事の重さや戦争中にもかかわらず恵まれた環境、戦後も家族にも話せなかった孤独感などがすべて凝縮されている。
 そしてそれから解放される日が近づいたことを示していたのである。


明治大学平和教育登戸研究所
─資料で考える戦争と平和─

明治大学文学部講師 渡辺賢二
file:///C:/Users/shuei%20hiratsuka/Downloads/ti73_2.pdf

(注2)一般財団法人山本美香記念財団
http://www.mymf.or.jp/

(注3)日本映画大学 
http://www.eiga.ac.jp/


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2016年11月19日

藤原てい、老衰のため死去

 ヤッホー君のブログ、2015年12月2日付け日記「藤原てい」をご参照ください。

 ジェフリー・キングストン氏(Jeffrey "Jeff" Kingston 1957年生まれ)は、日本在住の政治学者でリベラルな視点を持つ識者として知られている。
 テンプル大学日本校で主にアジアの政治について教えている同氏は、天皇の2015年1月1日の新年所感に注目した。
 「満州事変に始まるこの戦争の歴史」と、あえて満州事変に言及したからだ。

 これまでも誕生日祝賀会などにおいて満州事変に言及したことがあるが、新年の挨拶でこのことに触れたのは今回が初めて。
 「これは政治的なことに立ち入らないよう配慮しながらも、安倍政権に対して牽制しようとする意思が込められているのではないか」とキングストン氏は推量している。

 天皇の発言は一般国民の認識、東アジアにおけるコンセンサスとかい離しているわけではない。
 そのため、天皇の発言を起点に戦後問題を考えることは有意義であると判断した。
 今回、3日連続でキングストン氏の論考を掲載する。
 今回はその第1回である。
(編集部)


 2015年の新年の所感で天皇が満州事変に言及した意図は、正確にはわかるわけではない。
 政治的な問題への天皇の介入を防ぐ憲法上の制限に違反しているという印象を与えないために、天皇の言葉は非常に曖昧なものになっているためだ。

 鍵となるのは次の一節だ。

「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」

 宮内庁は天皇の言葉を事前に注意深くチェックしているため、天皇が伝えようとしているメッセージの意図については文面から推測することしかできない。
 天皇がこの話題を取り上げた背景には、戦争責任とアジア全域における残虐行為について、過去四半世紀の間、日本の侵略の犠牲となった国々に対し天皇が行なってきた反省の意の表明という実績があり、満州事変への言及はこの文脈で考えなければならない、というのが私の意見だ。

天皇が一貫して目指してきたこと
 過去において、日本の政治家は、自国が与えた恐怖について、事実から目を逸らすことなく、深く悔いていることを示す努力をしてきた。
 だが、天皇はこうした多くの政治家よりも多くのことをしてきたといえる。
 現在、歴史修正主義の政治家や対外強硬主義のマスコミは、天皇の関係修復外交への努力を懸命に抑えこもうとしているようにみえる。

 しかし、明仁天皇はこれを昭和天皇が果たしえず自身が引き継いだ責務と考えている。
 そのため、天皇の限られた役割において、自分にできることを行うことにこだわっているのだ。

 天皇のこれまでの記録を見れば、長らく行われてこなかった、誠意ある清算を天皇が奨励していることがわかる。
 1978年以後、昭和天皇が靖国神社の参拝を拒否していたのは、同年のA級戦犯合祀が原因だと明仁天皇は明言している。。。

多くの日本人は憲法9条改正に反対している
 安倍首相とは対照的に、天皇や大半の真摯な日本人は、20世紀後半における日本の模範的ともいえる功績が、償いを実行し、国家の尊厳を取り戻すための指針として役立つものだったと感じている。
 安倍首相は現行の平和憲法を批判するが、実際には、日本のアイデンティティの基準を担保するものとしてこの憲法を捉え誇りに感じている日本人も多い。
 第9条の改正への安倍首相の取り組みが不興を買うのはこのためだ。

 集団的自衛権を認めるための第9条の再解釈を支持する日本人は極めて少数である。
 というのも多くの日本人は、集団的自衛権を認めることによって、米国政府が日本を戦争に引きずり込むことを懸念しており、見直しが行われた「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」がこの可能性を高めるものであることを理解しているからだ。

 日米両政府がガイドラインの正式採択に至っていないのはまさにこのためであり、ガイドラインの採択が、選挙において自民党の不利に働くことを避ける意味もあったのである。
(構成:ピーター・エニス記者)


2015年01月23日付け東洋経済オンライン 
天皇は、なぜ「満州事変」に言及したのか
「日本のリベラリズムの危機」を考える<1>

http://toyokeizai.net/articles/-/58687

 ところで天皇は、11月17日木曜日、あのヤッホー君のブログでも紹介した信州阿智村を訪問しておられました。

 天皇、皇后両陛下は11月17日、長野県下伊那郡阿智村の「満蒙(まんもう)開拓平和記念館」を訪れ、国策のもと多くの犠牲者を出した旧満州(現中国東北部)の元開拓団員らと懇談されました。
 終戦直前のソ連(当時)の満州侵攻と開拓団員らの逃避行は、機銃掃射による虐殺や集団自殺など凄惨(せいさん)を極めたとされますが、その事実は広くは知られていません。
 同館は「これを機にさらに多くの人々にこの歴史を知ってもらいたい」としています。

ソ連軍の機銃掃射や集団自決で多くの犠牲
 同館によると、満蒙開拓とは「満州国」に送り込まれた日本の農業移民。
 内モンゴルの一部が含まれていたため「満蒙」地域と呼びました。
 1931(昭和6)年の満州事変以後に関東軍(満州に駐留した日本陸軍)が旧満州を制圧して満州国を建国。
 1936(昭和11)年に「満州農業移民100万戸移住計画」が国策となり、終戦まで全国から27万人が中国に渡りました。

 貧しい農村が村を挙げて送り出す「分村(ぶんそん)」や複数の村が送り出す「分郷(ぶんごう)」の開拓団が多かったとされます。

 しかし、終戦直前の1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が戦車、航空機も動員して満州に侵攻。
 当時、関東軍の主力は南方に移動、開拓団の男性も軍に「根こそぎ動員」されていたため開拓団に残された女性、子ども、高齢者たちの逃避行が始まりました。

 ソ連軍に加え、日本の開拓の名のもとに土地を奪われた満州の住民らも長い間の恨みから開拓民を襲撃。
 各地で追いつめられた開拓民がソ連軍の機銃掃射で犠牲になった「葛根廟(かっこんびょう)事件」や、集団自決した「麻山(まさん)事件」などが相次ぎました。
 寒さや病気で亡くなる人も多く、開拓団のうち約8万人が犠牲になったとされます。

長野からは16000人超が未帰還
 長野県では下伊那・飯田地域の8389人を最多として全県で3万2992人を満蒙開拓に送出。
 未帰還者は1万6043人に上り、このうち1万4940人が死亡しました。

 長野県下高井郡が送り出した「万金山高社郷(まんきんざんこうしゃごう)開拓団」の場合は、1940(昭和15)年に入植した716人のうち日本に帰還できたのはわずか128人。
 未帰還の588人のうち副団長以下約500人は逃避行の末、集団自決しました。

 下伊那郡上久堅村(現飯田市)の「新立屯上久堅村(しんりっとんかみひさかたむら)開拓団も入植者836人のうち帰還できたのは250人。
 586人が現地で亡くなりました。

 当時の政府は開拓団のほかに16歳から19歳の男子を対象に「満蒙開拓青少年義勇軍」も募集。
 関東軍の予備軍として機能させたり、太平洋戦争開始後は応募が滞った開拓民を補充する狙いもありました。
 長野県は全国で最も多い5904人の青少年義勇軍を送り出し、割り当てで教師が強引に勧誘した例も少なくなかったとされます。

元開拓団員に声をかけられる
 満蒙開拓団の悲劇は戦後にも尾を引き、ソ連侵攻の混乱で孤児になったり現地の中国人に預けられた中国残留孤児や残留婦人(当時満13歳以上だった女性)が大きな問題になりました。
 これまでに帰国した残留孤児は約6700人に上ります。

 自国を侵害されながらも日本人孤児らを育て上げた中国人家族も多く、同館には日中双方の家族の交流の記録や写真が展示されています。

 教員として満州に渡り、逃避行、シベリア抑留を経て帰還した阿智村の元住職、山本慈昭さん=1990(平成2)年没=は戦後、残留孤児の肉親捜しに生涯をささげ、名誉村民となりました。
 「残留孤児の父」と慕われる一方、開拓関係者の深い傷を忘れさせない存在として長野県民に知られていました。

 天皇、皇后両陛下は、元開拓団員だった80〜90代の地元住民と懇談。
 同席した同館の寺沢秀文副館長によると、両陛下は熱心に多くの質問をされ、「詳しく知りたいという強いお気持ちが感じられました。皇后さまもかなり深く調べておられることが分かりました」。
 両陛下は「ご苦労されたのですね」と元開拓団員に声をかけられ、「この歴史を語り継いでほしいとの気持ちを述べられました」(寺沢副館長)。

 この日は県内外から多数の入館者があり、愛知県から来た中高年のグループは「戦時中に知人が名古屋大空襲で被害を受けたことも聞いた。開拓団もこれほどの犠牲を出しているとは知らなかった」と話していました。

開拓団をめぐる主な事件
・【葛根廟事件】1945年8月、興安総省の葛根廟近くで住民や開拓団の避難民らがソ連軍戦車部隊の機銃掃射を受け、1000人以上が死亡。
・【瑞穂(みずほ)村開拓団事件】1945年9月、北安省の瑞穂開拓団が現地住民の襲撃を受け、500人近くが服毒自殺。
・【麻山事件】1945年8月、東安省鶏寧県の麻山で哈達河(はたほ)開拓団がソ連軍に包囲され、400人以上が集団自決。


2016年11月18日 21:05更新、THE PAGE
満蒙開拓の悲劇「語り継いで」と両陛下 長野の記念館を訪問
高越良一(たかごし・りょういち)信濃毎日新聞記者、長野市民新聞編集者からライター。この間2年地元TVでニュース解説
http://blogos.com/article/198674/

 そうしましたら、よりによって11月19日土曜日、こんなニュースが飛び込んできて、ヤッホー君、手を合わせ深く首を下げて、献杯しておりました。
 ・・・合掌・・・:

 満州(現中国東北部)からの過酷な引き揚げ体験をつづった小説「流れる星は生きている」などで知られる茅野市出身の小説家・随筆家、藤原てい(ふじわら・てい)さんが11月15日午前10時ごろ、老衰のため東京都練馬区の病院で死去した。
 98歳。諏訪市出身の直木賞作家・故新田次郎の妻。
 葬儀・告別式は近親者のみで行った。喪主は長男の正広(まさひろ)氏。

 茅野市湖東の笹原地区で生まれ、諏訪高等女学校(現諏訪二葉高校)卒。
 1939(昭和14)年、中央気象台(現気象庁)職員だった新田(本名・藤原寛人)と結婚。
 夫の転勤で1943年、満州に渡り、終戦後の1945年、3人の子どもと共に引き揚げを経験。
 1949年、この体験を基に書いた「流れる星は生きている」がベストセラーになった。

 これに触発された新田が「強力伝」を執筆し、1956年に直木賞を受賞。
 文壇デビューのきっかけとなった。
 新田が死去した翌年の1981年、財団法人新田次郎記念会を設立し、新田次郎文学賞を創設。
 その後、新田の遺稿や蔵書、取材ノートなどを諏訪市に寄贈した。

 長女でエッセイストの藤原咲子さんによると、ていさんは20年ほど前から認知症を患っていた。
 東京都武蔵野市の老人ホームで暮らしていたが、2年半ほど前に急性肺炎のため練馬区の病院に移り、寝たきりの生活を送っていた。

 著作はほかに「いのち流れるとき」「旅路」「三つの国境線」「灰色の丘」「赤い丘赤い河」などがある。
 次男はお茶の水女子大名誉教授で数学者の藤原正彦氏。


11月19日付け信濃毎日新聞
茅野市出身の小説家・藤原ていさん死去 「流れる星は生きている」
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161119/KT161118FTI090011000.php

流れる星は生きている 中公文庫BIBLIO20世紀(藤原 てい)
https://www.youtube.com/watch?v=UL7jmDJXQks

流れる星は生きている 広報用レコード
https://www.youtube.com/watch?v=nojPbvQ__Tw

ヤッホー君のブログ:
2014年12月08日付け日記「語らねば、伝えねば、満蒙開拓団
2015年12月02日付け日記「藤原てい

 『流れる星は生きている』(藤原てい)で、当時26歳の藤原ていは、6歳の長男正宏、3歳の次男正彦、1か月の長女咲子を連れて壮絶な満州から引き揚げた。
 『祖国とは国語』(藤原正彦)はその次男、『父への恋文―新田次郎の娘に生まれて』(藤原咲子)はその長女が、それぞれ、それから半世紀の時を経て書いた作品である。

 『祖国とは国語』は、数学者藤原正彦が雑誌などに書いたの軽妙なエッセイをまとめたものだが、なかでも雑誌「考える人」に掲載された「満州再訪記」が満州引き揚げに関連して興味深い。
 彼は、半世紀の年月を経て、彼は自分が生まれた満州の地を母と訪れたかったというのだ。帯の引用がよく伝えている。

「混乱の中で脱出した満州の地を訪れることは、長い間、私の夢であった。母の衰えが目立つようになったここ数年は、早く母と一緒に訪れなくては、と年に何度も思った。母が歩けなくなったり、記憶がさらにおぼろになったら、二度と私は、自分の生まれた場所を見ることはできない、と思うようになっていた。他方では、80歳を超え、体力低下とわがまま増大の著しい母を、連れて旅することの憂鬱も感じていた」

 「わがまま増大の著しい母」というユーモラスな表現が今も気丈な藤原ていをよく表している。
 感傷的な物語ではない。
 また、この新京(長春)への旅行には、妹の藤原咲子も同伴していて、家族の会話も面白い。
 旅の話には当然、「流れる星は生きている」が出てくる。
 現在の文庫版には、1976(昭和51)年文庫版のあとがきが付いているが、そこで、この本が藤原ていにとって遺書として意識されていたことが書かれている。

「引き揚げて来てから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだったけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、歯を食いしばって生きぬいたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書きつづけた」

 『流れる星は生きている』の最後が死を暗示する暗いトーンで描かれているのは、まさに彼女が死に直面している現実があった。

 遺書を企図されていたという話は『祖国とは国語』の「満州再訪記」に続く。
 次男、藤原正彦は新京でこう思い出す。

「自宅にある『流れる星は生きている』の初版本を思い出した。引揚げの3年後に日々や出版から上梓された時、父と母は、3人の子供たちが大きくなったら読むようにと、3冊を大封筒に入れて大事にしまっておいたのである。
 引揚げの苦労がたたり病床に臥ていた母の、遺書がわりとして著されたこの本は、半世紀を経て、ぺらぺらの表紙も粗い手触りのページも、すべて茶色に変色している。それぞれの扉には、父と母からのおくる言葉が万年筆で書かれている。私あてのものにはこう書いてあった。。。」

 これに手短に新田次郎と藤原ていの、父母としての言葉が手短だが続く。
 引用はしない。

 藤原ていの引き揚げ後の病床のようすは、藤原咲子の『父への恋文―新田次郎の娘に生まれて』にも描かれている。

 彼女は、戦後の大ベストセラー「流れる星は生きている」の咲ちゃんとして周囲から見られて育った。
 誰もが、「咲ちゃん、よく生きていたわね」と驚愕の眼でその少女を見つめたのだろう。
 しかし、本人にしてみれば当然わかるものではない。

 大人である私からすれば、その咲ちゃんは、母の強い愛情を受けて強く育ったに違いないと思う。
 もちろん、そうでないわけもない。
 だが、この咲子本人の本には、少なくとも私にはぞっとするエピソードが描かれている。
 藤原咲子は『流れる星は生きている』を読んだことで自殺をもくろんだという。
 その小学校6年生の時の咲子の文章が『父への恋文―新田次郎の娘に生まれて』にそのまま掲載されている。

「大好きなお父さん、咲子は死にます。
 これ以上生きていると本当に悪い子になってしまいます。「チャキはいい子だね」とお父さんがいつも私の頭を撫でるでしょう。嬉しいけれど、そのたびに、お父さんの咲子でなくなりそうな気がします。どんどん良い子から離れていくからです」

 自殺を決意した遺書だ。
 そのきっかけは、母ていの『流れる星は生きている』を読んでのことだった。
 まさかと思うだが、咲子はこの物語を読んで、自分など生きていなければよかったのだというように了解してしまったようだ。
 兄二人と一歳の乳児の生命の重要性に順序をつけようと苦悩する描写なども、咲子の心情を傷つけたようだ。

 そんな受け止めかたがあるものだろうか。
 なぜ、そんな「誤読」になってしまうのか、と、私はここで、ある種呆然とした思いで立ち竦む。

 小学6年生の女の子の心情とは、そのようなものである。
 幼いと言えば幼いのだが、死をそこまで思い詰める心の動きにうたれる。
 私が、少女の父親なら、感受性のするどい小学6年生の少女に立ち向かえるものだろうか。
 小学6年生の咲子は長い遺書を書いたのち、風邪薬を大量に飲んだ。
 市販薬の風邪薬だから、結果は傍から見れば笑い話にもなろう。
 これが、親が睡眠薬を常用していたのなら、ぞっとする結果になりかねない。

 もちろん、成人し、この話を書きつづる大人の藤原咲子はこう見つめ直している。

「『流れる星は生きている』を読んだあとの絶望感は、日常のすべてにわたり、私を虚しくさせ、それをふり払うことができないまま、ついには母への不信感へと移行していった。風邪薬を飲むという行為そのものは、滑稽、幼稚であり、喜劇的な結末をもたらしたが、十二歳の、感性の豊かな少女の心をギリギリまで追いつめた数行の表現は、切なく、悲劇的なこと以外に、いったい何をもたらしたというのだろうか。しかし、戦時下でやむなを得なかったという重要な事実を、誰からも説明されなかったことは、それ以上に悲劇的であったといえるかもしれない」

 もちろん、そうだ。
 だが、と、私はここでも立ち止まる。
 では、誰かが戦争とはかくかくであったと説明すればよかったのだろうか?
 曰く、戦争の悲惨さを語り継げ、命の尊さを子供に理解させよう、と。
 私にはわからないという感じがする。
 傍の者がここまで言ってはいけないのかもしれないが、彼女の心を死にまで追いつめたのは、まさに1歳のときの生死を分ける惨事の無意識そのものではなかったか。
 そして、その無意識は、母藤原ていとシンビオティック(symbiotic)な、死に直面する凶暴な何かだったのではないか、と思う。

 歴史とは、そのように、恐ろしい爪痕を心の奥深くに残すことで、継承されるものだろう。
 むしろ、歴史とは、我々の無意識の、個人の意識だけに還元されない集合的な無意識の、凄惨な残滓であるかもしれない。
 そして、母性と女性性とは、その恐ろしい何かに耐えるように人類の意識の基盤としてあるのかもしれない。

 だからこそ、「父」がそこに立ち向かわなければいけない。
 彼女の父、新田次郎はそれを本能的に、あるいは、歴史心情的に理解していたのだろうと、この本を読んで察せられる。

 咲子の心の傷は、父新田次郎の物語によって癒されることになる。
 不思議な奇跡の物語である。
 新田次郎という「父」の存在が、歴史がもたらした凄惨な無意識をきちんと受け止めるように援助し、そのことで、「生」への回帰を親和的にもたらしている。

 と、言辞を弄しているきらいはあるが…。
 私は藤原咲子という人の存在がとても気になる。
 1976(昭和51)年文庫版『流れる星はいきている』の後書きで、母藤原ていは娘の咲子について、こう軽く触れている。

「当時生まれて間もなかった娘も、30歳になった。大学で文学を勉強していたので、小説でも書き出すのかと思っていたら、自分で結婚の道を選んだ。すでに2児の母になっている」

 母から見ても、この娘は小説を書き出すように見えたのだろう。
 父新田次郎も、自分の死後自分のことを書いてくれと彼女に残している。
 親から見れば、この子は作家になるとの確信を持っていたのではないだろうか。

 変な言い方だが、戦後史に藤原咲子という小説家が不在であることのほうが不思議であるようにも思えてくる。
 小説家というのは、若くして書き出せばいいものでもあるまい。
 八つ当たりのようだが、ここで、私はよしもとばななのことを連想する。
 彼女もその作品のあちこちに父吉本隆明のイメージを描きながら、いまだに父と母の物語の核心を描いていないのはなぜか。
 私は、彼女がそれを書くまで、どれほど素晴らしい作品を書いても、運命が彼女に書かせるべき小説を書き上げていないのではないかと思っている。


2004.08.12 finalvent(ふぁいなるべんと)極東ブログ
[書評]祖国とは国語(藤原正彦)・父への恋文(藤原咲子)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/08/post_10.html

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わすれじ平和の碑

 かくしてヤッホー君の徘徊はもう「茨城県天心記念五浦美術館」へと向かっていますが、その前に、と。
 そうなんです、こんな碑が近くにあって、びっくりしたこと、想い出していたのです。

風船爆弾放流地跡の碑(所在地 北茨城市平潟町)
風船爆弾放流地跡 わすれじ 平和の碑
新しい誓い
海のかなた 大空のかなたへ
消えて行った 青い気球よ
あれは幻か
今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない
青い気球よ さようなら
さようなら 戦争

鈴木俊平作・書


 鈴木俊平(1927-2006、茨城県の酒造家に生まれ、1951年に早大仏文科を卒業している)には小説『風船爆弾』(新潮文庫、1984年、光人社NF文庫、2001年)があります。

風船爆弾放流地跡
 この辺一帯は、1944(昭和19)年11月から1945(昭和20)年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。
 背後の低い丘と丘にはさまれ、現在は田んぼに復元されている幾つもの沢に、放流台や兵舎、倉庫、水素タンクなどが設置されていました。
 これは極秘の「ふ」号作戦といわれ、放流地はほかに福島県勿来関麓と千葉県一の宮海岸、あわせて3箇所でしたが、大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。
 晩秋から冬、太平洋の上空8千mから1万2千mの亜成層圏に最大秒速70mの偏西風が吹きます。
 いわゆるジェット気流です。
 風船爆弾は50時間前後でアメリカに着きます。
 精密な電気装置で爆弾と焼夷弾を投下したのち、和紙とコンニャクのりで作った直径10mの気球部は自動的に燃焼する仕掛けでした。
 第2次大戦中に日本本土から1万kmかなたのアメリカ合衆国へ、超長距離爆弾を実行したのはこれだけであり、世界史的にも珍しい事実として記録されるようになりました。
 約9千個放流し、3百個前後が到達、アメリカ側の被害は僅少でしたが、山火事を起こしたほか、送電線を故障させ原子爆弾製造を3日間遅らせた、という出来事もあとでわかりました。
 オレゴン州には風船爆弾による6人の死亡者の記念碑が建っています。
 ワシントンの博物館には不発で落下した風船の1個が今も展示され、深い関心の的になっています。
 しかし戦争はむなしく、はかないものです。
 もう2度と繰り返さないように努めましょう。

 この地で爆発事故のため、風船爆弾攻撃の日に、3人が戦死したことも銘記すべきでしょう。
 永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。

1984(昭和59)年11月25日建之


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風船爆弾の製作工程が知りたい
2016/09/23(回答)
(1) 和紙を漉く
(2) こんにゃく糊で張り合せ原紙をつくる
(3) なめし処理をする
(4) 裁断してパネルにする
(5) パネルをこんにゃく糊でつなぎ合わせ球体にする
(6) 口管と座帯を取り付ける
(7) 空気を入れて膨らませる
(8) ラッカーを塗り補強する
(9) たたんで円筒形に整え発送する。
以上がおおまかな作業工程です。


江戸東京博物館公式サイト
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/purpose/library/reference/alphabet/13267/

 いやぁ〜、ヤッホー君がびっくりしたのはお供の85歳のおばあちゃま。
 漫画みたいな風船爆弾ですけど、「和紙」と「こんにゃく糊」で真面目にお作りになっていたんですって。
 学徒勤労動員で亀戸の工場に駆り出され、
「こんなジェラルミンの板に和紙をこんにゃく糊で張る仕事をしていたの、中学校のときだから国語も漢字も習ってないんですぅ」
ってはつらつとしたお顔で、しかしイマは笑顔で、おっしゃってくださったのです。
 「いつまでもお達者で」というしかありませんでした。

 でも、さ、「こんにゃく糊」ってなに?
 ヤッホー君の亡き父は、師範学校時分、やはり学徒勤労動員で北海道に駆り出され、戦闘機の代替燃料を作るために森に分け入って、松の木から松脂をとっていたといいます。
 だから、「こんにゃく糊」って、ヤッホー君家(ち)の冷蔵庫にあるあの「こんにゃく」から糊を作ったんでしょうかね?
 まさか、ね…?

こんにゃく糊の製造法
和漢三才図会 紙衣より
『蒟蒻根を用いて洗浄煮熟し、稈(しべ)芯を刺し易く徹るを度と為して冷し定む。皮を剥き去り之れを擂りて糊と成し』
寺島良安著、島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳 『東洋文庫462 和漢三才図会5』(平凡社、1986年)

工農業事見聞録 染房之部より
『蒟蒻玉の糊拵様の事。蒟蒻玉を能烹て皮を削り去り、擂鉢に入能すり、粒なき様に急に擂立、右コンニヤクの煮たる汁サメン内二、少宛擂鉢へ入て能々擂事なり。少宛ノバシて粒二なき様二好き糊に仕立べし』
清水隆之著『日本農業全集48 特産4 工農業事見聞録 巻1〜巻4』(農山漁村文化協会、1998年)

 『工農業事見聞録』を主体として総合すると、江戸期のこんにゃく糊は
・ こんにゃく芋をよく洗う。
・ こんにゃく芋を丸のまま、芯にすっと串が(串は勝手な推測です)通るくらいまでよく煮る。
・ 熱いうちに皮を剥く(このとき『和漢』によると冷ましてからだが…?)。
・ すり鉢に入れてよくすり、粒のないように激しくすりたてる。
・ 芋を煮たときの汁が冷めないうちに、すり鉢に少しずつ入れて、尚よくする。
・ この作業によって糊を粒のないように少しづつのばしていく。
という感じで作られていたようです。

 現在のこんにゃく糊は
『こんにゃく糊は、こんにゃくの球茎を乾燥して粉末にしたものを水で溶いたものである。夏は水、冬は微温湯でかき混ぜながら溶かす』

 以下は全国手すき和紙連合会『和紙の手帳2』より抜粋(わがみ堂、1998年)。
『冷水10リットルに、こんにゃく粉、50から60グラムを、ままこにならぬよう攪拌しながら添加する。5から10分ごとに攪拌を続けると、こんにゃくの粒子が完全に溶解して透明な糊になる』とのことです。

 現代においてはこんにゃく芋そのものではなく、こんにゃく粉をつかって 糊を作ります。


創業明治19年の共栄蒟蒻株式会社のWEBサイト、こんにゃく雑学
こんにゃくで接着剤(こんにゃく糊)
第二次大戦中のアメリカ本土爆撃兵器”風船爆弾”の気球部分の接着にこんにゃく糊が使われましたが、こんにゃく糊について更に詳しく京都府S様から教えて頂きました。
http://www.konnyaku.com/info_konjac/kon47.html

 こちらも:
2009年1月18日放送「風船爆弾、女学生が作った幻の決戦兵器」
http://www.tbs.co.jp/houtama/last/090118.html

2004年8月7日更新「風船爆弾」
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/hondo-huusen.htm



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2016年11月18日

藤田東湖

 かくしてヤッホー君の徘徊はもう「茨城県天心記念五浦美術館」へと向かっていますが、途中、「館長の丸山さんからたくさん、お話しをおうかがいしました」(ヤッホー君のこのブログ、2016年11月12日付け日記「よう・そろー」)を想い出していました。
 そうなんです、こんな案内板も大津港にあったなってこと、想い出していたのです。
 200年近くも前のこと:

異国人上陸
 1824(文政7)年3月28日2艘の英国捕鯨船が、常陸大津浜沖に現れて碇泊、鉄砲を持った11名の船員が2隻のボートに分乗して富岡海岸に上陸してきた。
 はじめて見る巨大な黒船と異人の姿に村人たちは驚きあわて、平和な浜は忽ち大騒ぎとなった。

 急を聞いて駆けつけた領主中山氏の手勢によって船員は捕えられ浜辺の民家に監禁されたが、一部の船員が逃亡を企てたゝめ洞穴に押し込めた。
 沖合の本船は数十発の大筒空砲を轟かせ威嚇しながら船員の身柄引渡しを要求したが、拒否された為、上陸船員を残して退去、その後数日して、こんどは5艘の船団となって現れたが再び退去した。
 水戸藩からも出陣の兵が送られ幕府代官の下向によって取調べが行なわれた。
 結果船内に病人が出て、野菜等の補給の為の上陸とわかり、6月10日薪、水、食糧など給与し、ボートにて退去させた。
 この事件を知った水戸の藤田幽谷は一子東湖を大津浜に送り異人たちを斬るべく計ったが時すでに釈放のあとで果たせなかった。

「常陸なる大津の浜にイギリスの船を、つなぐと君はきかずや」の一首はそのときの歌である。

 異人たちは20日ほどの囚われの中で画をかき、相撲などとって里人と親しくなった。

 洞穴のそばに梅の老木があった。
 人呼んでイギリス梅という。
 昭和のはじめに枯死し、今は面影をとゞめていない。

 これ以後も常磐沖には、外国船が出没し、沿岸各藩の海岸防備は厳重をきわめた。
 1853(嘉永6)年、ペリーの浦賀来航に先立つ約30年前の事件であった。

北茨城市茨城民俗学会北茨城支部資料提供


 これがきっかけとなり一方では翌年1825(文政8)年、幕府の異国船打払令が出され、また一方では、尊王攘夷が芽生えていくのです。

 1844(弘化元)年5月、徳川幕府は7か条の罪状をもって、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)に隠居謹慎を命じました。
 この年、藤田東湖が詠んだのが『回天詩史』です。
 「回天」とは世の中の形勢を正しい道に引き戻すということです。
 主君である烈公が隠居謹慎を命じられて失意のうちにあり、自分もまた世間に容れられない状況にあるが、自分も主君も勤皇の志によって国家のために尽くしているのであり、やがて自分たちの志は報いられ、皇室の御威光も輝くようになり、国難も打開されるときがくるだろうという気持ちを込め、「回天」という言葉を冠したのです。

 『回天詩史』の冒頭にある有名な一節が「三たび死を決して 而も死せず」です。
 「三度」のうちの一度目は、1824(文政7)年の大津浜事件です。
 同年5月28日、大津浜(現北茨城市)にイギリスの捕鯨船が来航し、12名の船員が不法上陸してきました。
 船員たちが測量をするなど、不審な行動を取ったため、村民は彼らを捕らえて水戸藩当局に通報しました。

 藩当局はまず事態を幕府に報告し、会沢正志斎らを現地に派遣しました。
 船員たちは捕鯨が目的だと主張しましたが、正志斎らは彼らに領土的野心があると判断し、確固たる態度で臨むべきだと報告したのです。
 ところが、藩当局は強硬な処置をとることなく、処遇を幕府に委ねたのです。
 幕府は代官ら二十数名を派遣して取り調べを開始しました。
 これを知った東湖の父幽谷は、東湖を呼んで、次のように命じました。

「今の世の中、ことなかれ主義がはびこっている。私はこのことを恐れる。幕府は今回の事件でも強硬な態度を取れないで、イギリス人たちを放還するであろう。こうなれば日本の威厳と独立は失われてしまう。私はこのことが恥ずかしい。故に汝は私の代わりに大津浜に急行し、もしイギリス人が放免されたら無礼なる彼らを斬れ。斬った後、当局に自首し裁決を請うこと。今回の行動によって日本の正氣が発揚されることになる。わが家は女子が多く男子は汝一人だけである。一人息子の汝が死ねばわが藤田家は絶えることになる。これも運命である。日本の正氣が発揚されればそれでよい。このことは心配しないで死んでこい」

 東湖は父の命令通り、死を覚悟して大津浜に赴くことを決意しました。
 幽谷は感涙にむせび、「それでこそ自分の息子である」と言って、別れの杯を酌み交わしました。
 そのときです。
 東湖の伯父・丹一郎兵衛がやって来て、「代官らが船員を取り調べた結果、彼らに領土的野心はないと判断して、食料と燃料を与えて引き取らせた」と告げたのです。
 こうして、東湖の大津浜行きは中止となったのです。これが最初の決死です。


『月刊日本』平成27年7月号
逆境から生まれた『弘道館記述義』、藤田東湖の三度の決死
崎門学研究会
http://kimonngaku.com/?page_id=736

 藤田東湖の案内板は白山通りにあるし、石碑は小石川後楽園にあります:
http://japanserve.com/spt-edo-touko.html

 ヤッホー君は歴史徘徊の旅ですべて回り、もう確認を終えています:

 幕末の水戸藩士で勤王家として知られた藤田東湖(1806〜1855)は、水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭った。
 その際母を助けて外に出たが、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきた。
 東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。
 圧死した場所は、白山通りの拡幅により道路となったため、記念碑は小石川後楽園(文京区後楽1-6)の中に移された


2010年11月19日更新、文京区公式サイト
藤田東湖 護母致命の処(ふじたとうこ ごぼちめいのところ)
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/fujita.html

 こんなシーンも:
西郷隆盛と藤田東湖の会談(NHK大河ドラマ「徳川慶喜」より)
https://www.youtube.com/watch?v=qOR3MbPohFM

 水戸藩は、蝦夷地を警備した経験や自領の海岸線が長いことから、異国船の来航や国家の危機に対しては非常に敏感であった。
 1824(文政7)年5月、水戸領多賀郡大津村(現・北茨城市大津町)の沖に捕鯨船3隻が来航し、その中の乗組員12名(イギリス人)が上陸し、薪水食糧を求める事件が起った。
 このとき直接異人と会って筆談したのは、水戸藩の学者、会沢正志斎(あいざわ・せいしさい、1782-1863)、儒学者藤田幽谷の高弟、のち藩政家、彰考館総裁)であった。
 会沢は危機感の中心を北方問題においていたのだが、こともあろうに水戸領内に忽然と異国人が現われたことに驚憎し、改めて外夷の侵入にたいして危機意識をつのらせた。
 会沢はこの事件を契機として憂国の至情を傾けて、『新論』(上・下の2冊本、藤田幽谷によって藩主徳川斉脩(なりのぶ)に献上された。1857(安政4)年江戸書林玉山堂より刊行)を著した。

 明治維新の実現にもっとも影響力があったのは、水戸藩で興隆した「水戸学」であった。幕末期、明治維新の原動力となった強藩は、いずれも水戸学の洗礼をうけた。

 水戸学という名称は、水戸の学者がつけたものではなく、他藩の者が勝手にそのように呼んだにすぎない。
 水戸人は、これを「天朝正学」(略して「正学」「実学」と呼んだ)皇道を主体とした学問であり、皇道学といってもよかった。
 水戸学が確立したのは文化から天保年間(1820〜30年代)という。

 水戸学をもうすこし布桁すると、その根底にあるのは儒教的な日本中心主義である。
 すなわち、国学、史学、神道を根幹とする国家意識を統合したものであり、皇国の国体(国家形態)の尊厳を明らかにし、大義名分の精神を固く守り、皇室に奉仕する。
 中正不偏の日本精神をもって、儒教の長所を採りいれ、ときに西洋文明をも参考にし、政治・経済・教育の革新をなす。
 忠孝、文武調和、学問と事業は一致たるべきことなどが、水戸学の中心思想であった。
 その原理をつくったのは会沢の師、儒学者の藤田幽谷であった。
 水戸学の中心的人物であった会沢正志斎の「新論』の趣意は、擢夷によって国民の決起をうながし、民心を一つにし、しかるのち日本の伝統的精神にもとづいて、政治や教育などを一新しようとする切なる叫びであった。
 換言すれば、国家の非常時に際して、日本国民の覚醒をうながしたものであった。


富士山に登ったヨーロッパ人第1号
オールコック英公使

元法政大学教授・宮永孝(みやなが・たかし、1943年生まれ)
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6206/1/51-4miyanaga.pdf


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2016年11月17日

茶の本

復興支援映画「天心」公開!
https://www.youtube.com/watch?v=sOrMgxyuArM

松村克弥vs小泉晋弥...映画「天心」をめぐって
https://www.youtube.com/watch?v=K3c_MlM8Uoo

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…五浦岬公園にある映画「天心」のロケセット

 ここで岡倉天心の生涯を振り返ってみましょう:

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…「天心記念館」にて

 1880(明治13)年、東京大学を第一期生として卒業し、文部省に勤務、学事視察や古社寺調査を行いました。
 1885(明治18)年に図画取調掛が設置されると委員となり、美術学校創立の準備に携わることになります。
 1886(明治19)年から1887(明治20)年には美術取調委員として浜尾新やフェノロサとともに欧米各国の美術事情を視察、1889(明治22)年、帝国博物館が設置されると理事および美術部長に就任します。
 美術雑誌『国華』を創刊し、1890(明治23)年に「東京美術学校長」となりました。
 この間、東洋美術の伝統に西洋画の写実性を取り入れた新しい日本絵画の創造を推進して、1884(明治17)年、フェノロサらと鑑画会を組織、1891(明治24)年には日本青年絵画協会を発足させ、会頭となります。
 また1896(明治29)年に古社寺保存会の委員に任命され、古社寺保存法の制定に努めます。
 
 1898(明治31)年、天心を中傷する怪文書が配布され、いわゆる「東京美術学校騒動」が起こりました。
 天心は東京美術学校長の職を退き、橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山らと「日本美術院」を創設します。
 1901(明治34)年から1902(明治35)年にかけてはインドを歴遊、1904(明治37)年にボストン美術館のエキスパート(1910、明治43年に中国日本部長)となり、同館コレクションの調査、整理、蒐集を行い、日本とアメリカを行き来しました。
 1913(大正2)年、病気のためボストン美術館に休職願いを提出して帰国しますが、病状が悪化して9月2日、新潟県の赤倉山荘で逝去します。
。。。
 1913(大正2)年9月、岡倉天心は逝去しますが、翌1914(大正3)年9月、天心の精神を引き継いで、横山大観を中心に、谷中上三崎南町に研究所を建設し(現在、公益財団法人日本美術院のある場所です)、日本美術院を再興します。
。。。
 そして10月に日本橋三越旧館において「日本美術院再興記念展覧会」を開きました。
 これが現在、東京都美術館で9月に開催されている「日本美術院展覧会(院展)」の第1回展にあたり、1944(昭和19)年、1945(昭和20)年を除き、毎年秋に開催されてきました。
 日本美術院展覧会を開催できなかった1945(昭和20)年11月に日本美術院小品展覧会が日本橋三越で開かれました。
 こちらは第2回展から毎年春に開催されることになり、1959(昭和34)年に「日本美術院春季展覧会」と改称され、1970(昭和45)年からは「春の院展」として現在に至っています。

http://nihonbijutsuin.or.jp/about_us/index.html

 そうですか、で、どうして五浦だったんですかねぇ〜:

 2011年3月11日は、まるで遠い昔の様に感じられます。
 当日、私は避難中の大学中庭で六角堂流失の知らせを受けましたが、「信じられない」という思いしかわきませんでした。
 頻発する大きな余震の中、同僚の先生が付けたカーラジオから流れる情報でも、何が起っているのかよく分かりませんでした。
 天心邸の床下までに達した津波は10.7m、六角堂では7.8mだったとのこと。
 天心邸は壁に大きな亀裂が走り、六角堂は土台を残すのみの姿になっていました。


 こう語ってくださるのは、茨城大学教育学部の小泉晋弥先生(1953年生まれ)。

 1903(明治36)年の5月ごろ、天心は、茨城出身の日本画家、飛田周山の案内でこの地を訪れました。
 眼前の光景を眺めながら、「ホー、こりゃ大したものだ」という感嘆の言葉を連発していたと伝えられています。
 私にはその意味が長く理解できませんでした。
 海と断崖のせめぎ合う雄大な光景ならば、日本の至るところにあったはずで、文化財調査で全国を歩いた天心が、五浦の何に心を動かされたのかが分からなかったのです。

 その答えは、五浦の海中にそびえる岩だったのだと今は納得しています。
 炭酸塩コンクリーションという特殊な成り立ちの岩は、中国文人の庭園に必須とされる太湖石(たいこせき)にそっくりだったのです。
 地質学の先生によれば、この岩を日本で確認できるのは3ヶ所に過ぎず、しかも海岸にあるのは五浦だけだということです。
 天心は、ここに東屋を建てさえすれば、理想の文人庭園がおのずとでき上がることに興奮したに違いないのです。
 8月に土地が自分の名義になると、そこにあった鮑料理の元料亭「観浦楼」を住まいとし、すぐに二人の米国人女性や、六角紫水などの関係者を招待します。
 とにかく自慢の光景を見せたかったのだろうと思います。

 その翌年1904(明治37)年の2月に、天心は、大観、春草、紫水を引き連れてボストンへと旅立ちます。
 ボストン美術館と五浦を往復する天心の最後の10年の生活が始まったのです。
 ほぼ1年後の1905(明治38)年3月に帰国し、3ヶ月後の6月には六角堂の上棟を終えています。
 天心邸と長屋門も建設しました。
 天心は、ボストン美術館勤務の傍ら、六角堂を含んだ五浦整備の構想を練っていただろうと思われます。
 妻の基子がダイナマイトの音を恐がって避難したというほどの大工事でした。
 このとき岩盤に穿たれたドリルの跡は、現在も天心邸の裏の岩盤に数ヶ所に残っています。
 おそらくボストン美術館の給料がその工事資金の裏付けになっただろうと思われます。
 そして明くる1906(明治39)年には、日本美術院の五浦移転が決行されるのです。

 そもそも天心は、なぜ東京での生活を捨てようとしたのでしょうか。
 日本美術院の五浦移転は、大観の証言などから、五浦とバルビゾンを重ねたのだといわれたりしますが、私には、天心がフランスの芸術家村を目標とすることなど想像できません。
 五浦の六角堂は、仏堂、亭子、茶室のハイブリッド建築でした。
 それはそのまま、インド、中国、日本を象徴しているのです。
 五浦に土地を求める前年、天心はインドで『東洋の理想(The Ideals of the East)』を脱稿しています。
 天心は、情熱を傾けて、五浦に「アジア」を実現しようとしていたと思われます。
 その冒頭の「Asia is one.」という言葉を、天心は実体として示そうとしたのではないでしょうか。
 天心は、大きな人生の転換点に際し、生活の拠点そのものから変えようとしていたのです。


小泉晋弥「岡倉天心と五浦」五浦の発見
http://nihonbijutsuin.or.jp/colum/koizumi/index.html

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…「天心記念館」にて

 ほかに、清水恵美子「岡倉覚三とインド:転回点としての渡印」もご参照ください。
『茨城大学人文科学研究』2011年
http://ir.lib.ibaraki.ac.jp/bitstream/10109/2758/1/20110142.pdf

 どうして五浦だったんですかねぇ〜というヤッホー君の素朴な疑問にはもうひとつ、どうして東京美術学校長の職を退いたんですかねぇ〜:

 星崎波津(1860−1931)との恋愛は、天心が東京美術学校校長の地位を追はれるきつかけの一つともなつた福地復一(1862−1909)の怪文書にいふ、「その校長岡倉覚三なる者は一種の精神遺伝病を有し。。。」
 九鬼男爵夫人波津との恋愛は周知のこととして、今度平凡社版全集の年譜に明らかになつたのは、ほぼ同じ頃、異母姪八杉貞とのあひだに一子をまうけてゐることである。
 そして波津も貞もともに不幸な生涯を送つた。
 波津は天心との仲を割かれて、精神病院に送られ、その後の一生を病院の中で過した。
 また貞は天心の愛弟子早崎稉吉(1874-1956)と結婚するが、自殺未遂のことがあり、1915(大正4)年、天心の死後2年にして40代のなかばで死んでゐる。

岡倉天心『茶の本』英文収録(桶谷秀昭訳)講談社学術文庫、1994年
桶谷秀昭(1932年生まれ)解説「憂い顔の美の使徒」111頁

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六角堂

 茨城県。 
 11月11日の「ワンデートリップ、徘徊の巻」に巻き戻し、してみませんか。
 つくば市から北茨城市。
 北茨城市は、「よう・そろー」から「六角堂」へ。
 え〜と、ヤッホー君のこのブログ、これもちょっとだけ巻き戻してタイムスリップ。
 2012年の5月31日から6月3日あたり、翌2013年の9月24日から27日あたり。
 そうなんです。
 3.11の東日本大震災後、ず〜っと気にかけていた「六角堂」、再建なった「六角堂」への徘徊。

 ヤッホー君はおかげさまで岡倉天心の六角堂を三か所ともへめぐってるんですよ。
 へぇ〜、なんて言わないでね:
 
☆ 東京都台東区谷中5-7-10
 日本美術院の発祥の地でもある岡倉天心の旧宅跡。
 1967(昭和42)年に開園。
 約700平方メートルの小さな公園。
 「六角堂」と歌碑が立ち、「六角堂」の中には天心坐像が据えられている。

 入ったところに、「岡倉天心宅跡・日本美術院発祥の地」と書かれた石碑。
 東京都教育委員会によりますと、日本美術院は、1898(明治31年)、岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づき、その維持開発を図る」ことを目的に創設された民間団体で、当初、院長は天心(1863-1913)、主幹は橋本雅邦(1835-1908)、評議員に横山大観(1868-1958)、下村観山(1873-1930)などがいたということです。
 この場所に建てられた美術院は1898年9月に建てられた木造2階建てで、絵画研究室の南館と事務室・工芸研究室・書斎・集会室のある北館からなり、付属建物も2つ、3つあったそうです。
 1906(明治39)年に美術院が茨城県五浦に移るまで、この地が活動拠点となっていました。


☆ 茨城県北茨城市大津町五浦727-2 
 多様な文化をひとつの建物に、太平洋に臨む岸壁の上に立つ、天心遺跡のシンボル。

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 この建築には三つの意図が込められているといわれています。
 まず、杜甫の草堂である六角亭子の構造。
 つぎに、朱塗りの外壁と屋根の上の如意宝珠は仏堂の装い。
 そして内部に床の間と炉を備えた茶室としての役割。
 つまり六角堂には、中国、インド、日本といったアジアの伝統思想が、ひとつの建物全体で表現されているのです。
 東日本大震災の津波により流失、国の復旧予算に加え、多くの方々の寄付金によって、1年後の2012(平成24)年に創建当初の姿で再建されました。


☆ 新潟県妙高市赤倉557
 国立東京藝術大学の前身、東京美術学校を創設し、横山大観や菱田春草などを育てる一方、 ボストン美術館の中国・日本美術部長として日本美術を海外に広く紹介するなど明治期に活躍した美術行政家・思想家の岡倉天心。
 岡倉天心は、明治時代の日本美術界の先覚者として日本の美術を広く海外に紹介した。
 彼は赤倉の土地をこよなく愛し、ここに山荘を建てた。
 1913(大正2)年、病気療養で赤倉山荘に滞在、9月2日にこの地で亡くなった。
 その山荘跡に有志によって建てられた六角堂は、奈良法隆寺の夢殿(天心の調査でその美術的価値が確立された)を模しており、平櫛田中(1872-1979)作の天心の金色の胸像が安置されている。
 六角堂周辺のレンゲツツジは有名。


 え〜と。なぜ五浦に転身したのでしょうか、茨城大学は五浦とどんなふうにかかわりをもつようになったのか、整理してみたいんだって。
 ちょっとだけおつきあいください:

ここから「アジア」を発信する
 岡倉天心はその生涯の前半において日本文化の近代化に努め、華々しく活躍しました。
 いっぽう、生涯の後半においては、これまでの自身の仕事を支えてきた枠組みそのものに向かい、西洋を追いかけるばかりの近代化の動きに疑問を投げかけます。
 天心は、アジアには西洋と異なる文化の原理があると考えたのです。
 すでに近代化著しかった東京を離れ、移り住んだ自然豊かな五浦は、天心の人生における第二のスタートラインであり、新たな思想の発信地でした。
 そして、アジア文化を集約した六角堂は、大胆にも近代を乗り越えようとした天心の決意表明だったのです。

この地のこれまでの歩み
 新天地を求めた天心が、五浦に出会ったのは1903(明治36)年、天心40歳の頃のこと。
 1905(明治38)年にはみずからの設計により邸宅と六角堂を建築し、翌年1906(明治39)年には、横山大観らを呼び寄せます。
 国内外において精力的に活動しながら、天心は終生この地を拠点としました。
 1942(昭和17)年、天心偉績顕彰会が遺族より当地の管理を引き継いだのち、1955(昭和30)年に茨城大学に寄贈されたのを受けて、同年、五浦美術研究所(後に五浦美術文化研究所と改称)が設立され、現在へと続いています。 

「亜細亜ハ一なり」石碑
「アジア」を支える多様性

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 「ASIA is one」 天心がインドで書いた『東洋の理想』冒頭の一文です。
 インド、中国、日本など、それぞれ異なる個性を持つ国々が、目に見えない「アジア」というひとつの概念を支えていることを示したものです。
 西洋文化に対抗しうる東洋文化への思いが込められています。
 石碑は1942(昭和17)年、細川家当主・細川護立、横山大観、資生堂社長・福原信三ら天心偉績顕彰会のメンバーによって建立されました。
 太平洋戦争時に海外侵略を正当化するフレーズとして捉えられたことは残念な誤解といえるでしょう。

天心邸-登録有形文化財-
妙味をたたえる和の静謐
 この地に移り住んだ天心は、当初、古い料亭(観浦楼)を住まいとしていました。
 天心邸はその料亭の古材を用いて建築されたと伝えられています。

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 古民家に見られるような重厚なものではなく、意外にも粗末な木材が瀟洒に再利用されているのです。
 また、和風の母屋に対し、前庭はボストンから取り寄せた芝生が植えられた洋風の造りであったといわれています。
 さまざまな点で取り合わせの妙が光る、天心らしい邸宅と言えるのかもしれません。
※ 観浦楼
 1884(明治17)年頃、地元の実業家柴田稲作が建設した建物。
 天心が五浦を訪れたときにはすでに荒廃し、放置されていたという。


茨城大学五浦美術文化研究所
http://rokkakudo.izura.ibaraki.ac.jp/
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2016年11月16日

いがらし立青

 7日間の選挙期間を終えました。
 ここまで来ることができたのは、支えてくださったすべてのみなさまのおかげです。
 土砂降りの雨の中でも、突風吹きすさぶ中でも街頭活動を支えてくれた仲間、事務所でスケジュール管理から調整から会計からやってくれた仲間、足を棒にしてチラシを配り続けてくれた仲間、電話を掛けて支援の輪を広げてくれた仲間、私の知らない所で、見えないけれども一つひとつの作業を進めてくれた仲間。

 思えば4年前に落選してから毎日続けたきた街頭演説は、西武前で一人でスタートしました。
 今日の最後の演説に、寒い中党派を超えて、立場を超えて、こんなにも多くのみなさんが集まってくださりました。

 出馬表明以来3ヶ月、「市民無視の市政を、市民第一の市政へ変える」と訴え続けてきました。
 言葉に尽くせないほどのいろいろなことがありました。
 鈴木将県議をはじめ仲間たちにもとてつもない苦労を掛けました。
 でも、最後まで正々堂々戦い抜きました。政策と、まちのヴィジョンと、希望を語り続けました。

 私は新住民でも旧住民でもない、父が仕事でつくばに移り住んできて産まれた、つくば市民です。
 つくばの政治の世界で常に語られてきた旧住民・新住民といった枠を超えてひとつになる。
 市民の声と行政の乖離の時代を終えてひとつになる。
 先人たちが紡いできてくれた糸を、次の世代に責任と誇りを持って伝え過去と未来がひとつになる。

 つくばはひとつ。
 みながつくば市民。
 明日の投票日、どうかつくばが新しい一歩を踏み出すための力を私にください。


Posted on 2016年11月12日、いがらし立青公式サイト
ひとつのつくばへ、みなさまの力を私にください
http://igarashitatsuo.com/news

 そして、山歩クラブが「都民の森」ん中を歩いていた11月13日日曜日が投票日でした。
 結果はみごと当選!

 任期満了に伴う茨城県つくば市長選が13日投開票され、いずれも無所属新人で、元市議の五十嵐立青氏(38)=つくば・市民ネットワーク推薦=が、元市議長の飯岡宏之氏(54)=自民推薦、元衆院議員の大泉博子氏(66)の2候補を破って初当選した。
 投票率は53.31%(前回2012年は54.54%)。当日有権者数は17万4956人。


http://mainichi.jp/senkyo/articles/20161114/k00/00m/010/061000c
 
 えっ、元民主党衆院議員の大泉博子?

 2012年12月16日午後8時の開票と同時に相手候補の当確がニュースで知らされた。
 3年4ヶ月前に多くの人が熱気と共に私の当確を待った風景とは一変した。
 私は、人影もまばらな選挙事務所で、「応援してくださった皆様に申し訳ありません」と乾いた挨拶だけをして、その場を立ち去った。

 「ああ、また落選か」
 二度の落選後前回初めて当選した私は、再び「万年浪人」の自分の姿に還った。
 前回は、長年当たり前のように当選し続けていた二世議員を民主党の追い風で圧倒的にやぶった私が、今回は10万票以上も減らし、みじめすぎるほどの凋落ぶりを感じ取った。

 今回の選挙は、一義的には、民主党への「懲罰」であった。。。

 私は負けた。
 その負け方は驚愕といってもいいくらいのものだ。
 自民の二世議員が9万1千、地元の無所属二世議員が4万5千、現職だった私は三番手で3万9千、しかも、新参の維新党候補にほとんど追い上げられていた。
 私は前回の得票数から、なんと10万票以上も票を減らしていた。
 普通なら、こんなに減らすのは、汚職か醜聞でもなければありえないことだ。

 その晩は何も考えずに寝ることにした。
 選挙翌日の新聞で、同僚議員がバタバタと倒れた事実を知る。
 「惨敗したのは、私だけではなかった」という一種の免罪意識も覚えたが、前線の兵士をこれだけ戦死させた無謀な戦争への怒りがこみ上げた。
 民主党幹部がテレビの前で言い放った言葉は、
選挙は自己責任だ(党のせいにするな)
これで民主党は筋肉質になった(負けたやつらは無駄な脂肪だったにすぎない)」。。。

 転がっている屍は、何と叫んで死んでいったろうか。
 かつて戦場で死んだ兵士の多くは「お母さん」と言って息絶えたそうだ。
 「天皇陛下万歳」は全くない。
 だとすれば、「民主党万歳」と言って死んだわけではあるまい。
 「何でこんなことになったのだ、神様、仏様、お母さん、嫁さん、我が子よ・・・」
 
 多くの兵士は赤紙が来て理不尽な戦いに狩り出されたように、民主党員は、「絶対に負ける」と言われた理不尽な選挙に臨むしかなかった。
 離党して別の政党に移った者もいるが、それも芳しい成績を挙げることはできなかった。
 理念から言うと政権交代を成し遂げた民主党の功労者である小沢派「生活第一党」も民主党の瓦解を助長した存在として惨敗に終わった。

 討ちてし止まん、の戦争に突撃した大日本帝国陸軍は、「松下政経塾」軍である。
 徴兵された一兵卒は、宣戦布告が突然やってきて、徒手空拳のまま皆殺しにされた。
 軍率いる野田佳彦は、「近いうちに解散する」という他党との約束を優先し、自国軍を犠牲にした。

 かくして倒れた屍は何を語るのか。
 黙って朽ちていくのか、殊勝にも、こんな民主でも息を吹き返してやり直すと言うのか。
 それとも、怒髪天を突き、次の命はアンチ民主の道を選択するのか。

 改めて知ったのは、あれだけ地域活動はしたが、私自身に入った票は少なく、地元出身でなければ、いつでも、足元は崩れるということだ。
 国会議員は学歴、職歴を十分に持ち、討論会と演説で勝負すべきと考えてきたが、そんなものは、自己満足でしかないということだ。
 それが日本。良くも悪くもそれが日本


 若いときは、そんな日本が嫌いで、きちんと自分の言葉で答弁できない世襲政治家の大臣を横で見ながら、こんなつまらぬ日本でないところで生きたい、と何度も思った。
 実際に、日本を飛び出すこと3回。
 アメリカ2年、インド3年、オーストラリア1年。
 しかし、やはり、その度ごとに日本に帰ってきた。
 なぜなら、その日本を、生活する喜びがあって話の通じる国にしたいと思い、研鑽を積んできたのだから。
 一番恵まれた時期を生きた団塊の世代が次の世代に良き日本を用意して死ぬべきと考えたのだから。


 その思いが変わらなければ、私は政治から引退はできないはずだ。
 選挙直後のストレスのため働かなくなった頭で、これから自分はどこへ行くのかを見出そうと、これまで辿ってきた道を反芻し始めた。
 選挙に敗れた我が屍は、死んだふりしていただけだ。
 私は、まだ生きたい。
 なぜなら、健康で、世界を渡り歩き、行政知識を携えた身と自負し、そして、何よりも志半ばだから


大泉ひろこホームページ
http://ooizumi-hiroko.com/2013-02_01.html

 そうなんです、2012年の総選挙。
 2016年11月6日(日)植草一秀「知られざる真実」をお読みください:

たしかな野党強大化阻止するための第三極創設
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-a7bb.html

 これも参考までに。自公政権に寄り添う労働組合、そしてコクミンをそっちのけにして生き残りをかけるギインさんの政党集団、あ〜あ。

 2016年10月12日(水)「田中龍作ジャーナル」をお読みください。

えっ! 自民公認の森民夫・新潟県知事候補が民進党のHPに
http://tanakaryusaku.jp/2016/10/00014600

 2016年10月26日(水)植草一秀「知られざる真実」もお読みくださいな:

野党共闘妨害する原発推進御用組合「連合」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-cf2f.html

 そしてTPPは、2016年11月10日、自公政権に寄り添う政党集団がほとんど、大政翼賛会となった衆院本会議を苦もなく通過。
 ETCカードのおかげ?渋滞の情報もありませんでした。
 上官の真似をしただけ?大臣閣下たちへのお咎めもなし。

 安倍政権与党は衆議院本会議を強行開会し、TPP批准案を強行採決、可決した。
 採決に先立ち、野党4党は山本有二農水相の不信任決議案を上程したが、反対多数で否決された。
 TPP承認案の採決は議員の5分の1が求めれば、記名投票できたが、民進党が記名投票を求めずに退席、起立での採決になった。
 この場合、誰が賛成し、誰が反対したのかは記録に残らない。
 記名投票を選択し、牛歩戦術なども採用し、衆院可決を1日でも遅らせるべきだった。

 不信任決議案の理由説明でも指摘されたように、大統領就任当日にTPP交渉から離脱することを主権者と契約しているトランプ氏が11月8日の大統領選で勝利した。

 この直後に、日本がTPP批准案を承認するのは、まさにけんかを売る行為である。
 TPP交渉参加国は米国の動向を見守っており、トランプ氏当選の直後にTPP批准案を強行採決する行動は正気の沙汰でない。

2016年11月11日(金)植草一秀「知られざる真実」
11/14東京地裁でTPP違憲訴訟第6回口頭弁論期日
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/1114-af36.html

 正気が影を薄めて、裏で暗躍するのをほおっておくだけのこの国、この国の人びと?
 いえ、いえ、それは・・・
 いえいえ それはなりませぬ
 いえいえ それはなりませぬ
 いえいえ それはかわいそう

 新潟県の県民も、つくば市の市民の皆さんもわすれてなんかいません、
 歌いだし、声をだしはじめておりまする。

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2016年11月15日

枯葉

 秋の日はつるべ落とし。
 そして秋の紅葉を楽しむと言ったって、季節は足早に移ろい行きます。
 瞬く間の秋。
 短すぎる秋。

「里の秋」倍賞千恵子
https://www.youtube.com/watch?v=h144mLquMFs

 ヤッホー君のブログだって、
 11月11日の「ワンデートリップ、徘徊の巻」だって、
 11月13日日曜日の「都民の森」だって、
まだ日記をつけ終わっていないと、いうのにもう月半ば。
 今日11月15日火曜日は、京王線沿線へのワンデー徘徊だったのです。
 暑からず寒からず、紅葉狩りにはどこにでかけるにせよ、イマしかないのかもしれませんね。

Les Feuilles Mortes_Yves Montand à l´Olympia
https://www.youtube.com/watch?v=kLlBOmDpn1s

Oh je voudrais tant que tu te souviennes
Des jours heureux où nous étions amis
En ce temps là, la vie était plus belle
Et le soleil plus brûlant qu'aujourd'hui
Les feuilles mortes se ramassent à la pelle
Tu vois je n'ai pas oublié
Les feuilles mortes se ramassent à la pelle
Les souvenirs et les regrets aussi
Et le vent du nord les emportet
Dans la nuit froide de l'oubli
Tu vois, je n'ai pas oublié
La chanson que tu me chantais

C'est une chanson, qui nous ressemble
Toi tu m'aimais, et je t'aimais
Et nous vivions tout les deux ensemble
Toi qui m'aimais, moi qui t'aimais
Mais la vie sépare ceux qui s'aiment
Tout doucement sans faire de bruit
Et la mer efface sur le sable
Le pas des amants désunis

C'est une chanson, qui nous ressemble
Toi tu m'aimais et je t'aimais
Et nous vivions, tous deux ensemble
Toi qui m'aimait, moi qui t'aimais
Mais la vie sépare ceux qui s'aime
Tout doucement sans faire de bruit
Et la mer efface sur le sable
Le pas des amants désunis.


 ヤッホー君が Les Feuilles Mortes を求めさまよった場所はここ:

【耳をすませば】ジブリ作品の舞台はこんなだった◎聖蹟桜ヶ丘 カントリーロード
https://www.youtube.com/watch?v=Iz7DwFVL36U
https://www.youtube.com/watch?v=teI49w-OkV0
https://www.youtube.com/watch?v=XCjtHKxKCRA

 まずは紅葉でしょうか。
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…都立桜ケ丘公園もみじ平で

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…向こうの建物は多摩市指定有形文化財「旧多摩聖蹟記念館」

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…百草園にも三食最中がありました!

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…百草園のもみじ「オオサカズキ(大盃)」

 ではここいらで、「黒田節」:
https://www.youtube.com/watch?v=tjqbm9wH9GM
https://www.youtube.com/watch?v=UbbpiBV9mC8

 大型商業施設などが集まる京王線の聖蹟(せいせき)桜ケ丘駅。
 多摩川と緑豊かな丘陵地に囲まれた一帯は、「聖蹟桜ケ丘」としゃれた呼び名で親しまれている。
 だが、駅の所在地は「多摩市関戸」で、正式な地名ではない(注1)。

 市教育振興課によると、駅の南東側にある同市連光寺地区には江戸時代、名主たちがヤマザクラを植え、昔から桜の名所だった。
 地区内の都立桜ケ丘公園では毎春、ソメイヨシノなど約三百本の桜が咲き誇る。

 その一方で、駅近くの多摩川は、江戸時代から昭和初期にかけてアユ漁で知られた。
 同市関戸の郷土史研究家井上正吉さん(89)は「子どものころ、鵜(う)飼い漁などが盛んで、アユ専門の料亭もあった」と懐かしむ。

 資料によると、明治天皇は、多摩川のアユ漁と連光寺地区のウサギ狩りを天覧で四回訪れた。
 その「聖蹟」(行幸地)を顕彰しようと、関係者が1930年、桜ケ丘公園内に多摩聖蹟記念館を建設。
 これにちなんで1937年、駅名も「関戸」から「聖蹟」と桜の名所「桜ケ丘」を合わせた名前に変更された。
 その後、駅周辺は聖蹟桜ケ丘と呼ばれるようになったという。

 「旧多摩聖蹟記念館」は市指定文化財として、幕末から明治に活躍した人々の書画や多摩の植物の写真を展示。
 今は、市民の憩いの場だ。

 この地域は「丘陵の美しい景観と清流が人々を引きつけた」と、市教育振興課総務・文化財担当主査の山崎和巳学芸員(50)。
 しかし、近年は「ニュータウンの開発で、多くの自然が失われつつある」と先の井上さんは残念がる。

 地域の歴史を見直す動きもあり、多摩商工会議所は三月、地域おこしの「多摩桜プロジェクト」をスタートさせた(注2)。
 市内の桜を移植したり、桜ケ丘公園の再生に取り組んだりする計画で、「桜の街の復興」への取り組みは熱を帯びつつある。
 

2008年8月18日付け東京新聞「東京通」
<地名編>聖蹟桜ケ丘(多摩市)『桜の街』復興着実に
(堂畑圭吾)
http://www.tokyo-np.co.jp/tokyoguide/hold/tokyo-tu/CK2008081802000101.html

(注1)
2004(平成16)年7月20日アトミの花便り第29便
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter/s02-Kamakura%20Avenue.htm

(注2)
多摩桜プロジェクト
http://www.tamacci.or.jp/sakura_project/


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2016年11月14日

都民の森

 ヤッホー君たち、山歩クラブは12人で「都民の森」に紅葉狩り。
 「トロロの森」のあとは、「都民の森」を歩いてみなくっちゃね。
 「行楽に持っていけ」の天気となった11月13日日曜日のこと。
 山歩クラブ、ひさびさのバスハイク!怪我から癒えた仲間も完歩。

 三頭山西峰1525mの山頂からあんなに素晴らしい、でっかい富士山が見えて、三頭山があんな富士見の山とは知りませんでしたねぇ〜。

 前に何度か歩いたのに。きっと天気が悪かったんだね、覚えていないもん。

 反対の山裾を覗くと奥多摩湖が光っていました。

 いや〜、良い山でした。うん、山は良いね、とあらためて納得。

 それに三頭山はやっぱり東峰、中央峰、西峰と三つも、頂をもつことも知りませんでしたねぇ。

 三頭大滝からチップを敷いた山路を歩くと三色紅葉があって春ちゃんが説明してくれたし、それを受けて隣の仲間に、あれが三色最中なんだって、とバカだねぇ、ヤッホー君。

 皆んなから失笑を買っていました。

 真っ赤な紅葉といい、黄色に染まったブナといい、秋色の山歩きを満喫して帰りましたが、買ったのが地酒、「喜正」!

 歌姫、佐藤さんの素晴らしい、きれいな歌声、美声に聞き惚れ、ついつい飲みすぎてなかった?心配。


 ここで一挙、ご紹介、都民の森の秋:

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…これが「森林セラピーロード」大滝の路!

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…滝見橋から三頭大滝!

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…大滝の路からの展望、真正面に「なま富士」が、と一人わめくヤッホー君!

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…真正面にど、ど〜んとお富士さま!

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…紅葉のなかの散策!これぞ「もみじがり」!

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…これが例の三色最中!


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2016年11月12日

オトモダチ政治もしくは逆賊政権

 親しい人ばかりを登用する“おともだち政治”に触れずして、慎太郎都政は語れない。

 筆頭は秘書から副知事に抜擢した浜渦武生(1947年生まれ)。
 豊洲市場問題では、東京ガスと土地の取得交渉をした“当事者”としてクローズアップされた。
 実際、慎太郎は現知事の小池百合子からの質問に、〈(交渉は)すべて浜渦に任せておりました〉と回答している。
 秘書を副知事にしたのは、週2回程度しか登庁しない自分の代役として、仕事を“丸投げ”するためだった。

「いつしか側近の浜渦が都政をコントロールするようになった。浜渦に案件が集中しすぎて、なかなか時間をとってもらえないので、職員は『お手紙』でお伺いを立てていました」(都庁OB)

 しかし2005年、浜渦は百条委で都議会自民党とのバトルに敗れ、更迭される。
 警察沙汰の暴力事件を起こしても「余人をもって替え難い」と浜渦をかばっていた慎太郎だったが、自民党都連に長男と三男を“人質”に取られると、「泣いて馬謖を」と言って、最側近を切ったのだった。

 無名の芸術家の四男を起用し、“私物化”だとして大問題になった文化事業「ワンダーサイト」では、館長だった今村有策(建築家、1959年生まれ)も慎太郎と家族付き合いの間柄だった。

■ 知人しか信用できない
 “情実人事”はまだまだゴロゴロある。
 教育委員を委嘱した鳥海巌(丸紅相談役=当時、1933-2014)は、慎太郎と一橋大の同期生。
 鳥海は「東京の問題を考える懇談会」の委員や東京国際フォーラム社長などにも就いていた。
 悪名高い「新銀行東京」の初代取締役でもある。

 同じく一橋大の同期生の高橋宏(郵船航空サービス相談役=当時、1933年生まれ)は、首都大学東京の初代理事長だった。

 教育委員には慎太郎と同じタカ派思想の米長邦雄(将棋棋士、1943-2012)も起用された。
 教育現場での国旗・国歌強要や、他県に先駆けて「新しい教科書をつくる会」が主導する歴史教科書の採択に動いた。

 写真美術館館長には徳間康快(徳間書店会長=当時、1921-2000)や福原義春(資生堂名誉会長=当時、1931年生まれ)、現代美術館館長には樋口広太郎(アサヒビール相談役=当時、1926-2012)や氏家斉一郎(日本テレビ会長=当時、1926-2011)が就いた。
 氏家はこれら美術館・博物館を運営する歴史文化財団理事長も託された。

「基本、“丸投げ”だから、自分の知り合いしか信用できないのでしょう。長野県知事在任中の田中康夫が、『彼はカワード(臆病者)』と言いましたが、まさに的を射ていると思います」(前出の都庁OB)

 こんな公私混同の無責任男に13年も都政を預けた結果が、いまの大混乱につながっているのは間違いない。都民は大いに反省が必要だ。


2016年11月10日付け日刊ゲンダイ
親近者を登用し仕事丸投げ 13年も続いた“おともだち都政”
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/193486/1

 本物の独裁者は、本当に自分ひとりで何でも発案し決裁する天才肌の戦略家でなければ務まらず、ヒトラーは多分そうだったし、今ならプーチン露大統領がそうだろう。

 今も昔もむしろ多いのは、それほど有能ではなくて、陰に策略家や振付師がいて、その言うがままに表舞台で振る舞うことが上手なだけの「暗愚の帝王」タイプの疑似独裁者である。
 これは怪僧ラスプーチンに宮廷を牛耳られたロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世以来、米CIAの傀儡だったイランのパーレビ国王やチリのピノチェト大統領、ネオコン一派に政権中枢を乗っ取られて無駄な戦争に突っ込んだブッシュ・ジュニア米大統領、飯島勲秘書官(1945年生まれ)が取り仕切っていた小泉純一郎内閣など、枚挙に暇がない。

 今それで国民から糾弾され、議会による弾劾に直面しているのが、新興宗教の教祖の娘とかいう親友の言いなりになっていた韓国の朴槿恵大統領であるけれども、我が安倍晋三首相の「一強多弱」というのもこの疑似タイプに近い。
 今週の「週刊ポスト」は「安倍政権を影で動かす『今井家』の謎」という記事を掲げているが、これは「謎」でも何でもなく、少なくとも永田町では周知の事実であって、大手マスコミがこれまで書き立てるのを遠慮してきただけである。

 今井尚哉=総理首席秘書官(1958年生まれ)は、第1次安倍内閣の時に経産省派遣の総理秘書官となって安倍と親しくなり、第2次安倍政権で首席秘書官に引き立てられた。
 アベノミクスそのものに始まり、その失敗を糊塗するための消費再増税延期や、それを合理化するために伊勢志摩サミットを利用して偽データで国際社会と国民をだまそうとした策謀、「1億総活躍」という無意味な新目標の策定、原発再稼働、武器輸出、中国包囲網外交など、何から何まで今井プランだ。
 天皇の「生前退位」に関する有識者会議の座長に叔父の今井敬=元経団連会長(1929年生まれ)を据えて、一時的な「特別立法」でお茶を濁そうとしているのも今井である。

 12月にプーチンを来日させて山口県の温泉で会談し、日ソ共同宣言から60周年に当たる今年に北方領土問題解決の道筋をつけ、それをバネに年明け解散・総選挙という政権延命戦略を描いたのも彼で、その発想のベースには「ロシアはいま経済的に苦しいから経済協力を前面に出せば妥協してくるだろう」という外交ド素人の甘い判断がある。
 これでは本物の独裁者=プーチンと丁々発止戦うことは難しく、安倍は大恥をかくことになりかねない。
 疑似はしょせん疑似でしかないのである。


2016年11月10日付け日刊ゲンダイ
安倍首相も…振付師の言いなりに振る舞う疑似独裁者の暗愚
高野孟ジャーナリスト
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/193490/2

 天皇の「生前退位」に関する首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」が、とんでもないことになっている。
 そのメンバーの人選からして官邸寄りで、初会合で早くも極右界隈が死守したい皇室典範を改正せず、一代限りの特別法で対処するという“結論ありき”が露呈したことは、本サイトでも既報のとおり。
 しかし、さらに腰を抜かしそうになったのが、有識者会議がヒアリングを決めた「専門家」の面々だ。

 今月から始まったヒアリングは〈皇室制度、歴史、憲法の3分野を中心に各分野の「権威」を選定〉(時事通信)したというが、その実態は極右団体「日本会議」の関係者など、安倍首相に近い“オトモダチ”が大半を占めるという、バランス感覚もクソもないものだった。

 歴史学者の大原康男・国学院大学名誉教授(1942年生まれ)、憲法学者の百地章・国士舘大院客員教授(1946年生まれ)は、ともに日本会議政策委員で安倍政権の“御用学者”。
 また、渡部昇一・上智大学名誉教授(1930年生まれ)、所功・京都産業大学名誉教授(1941年生まれ)、平川祐弘・東京大学名誉教授(1931年生まれ)、八木秀次・麗澤大学教授(1962年生まれ)、そして“右翼の女神”こと櫻井よしこ氏(1945年生まれ)は、日本会議の講演や機関誌「日本の息吹」で弁舌をふるったり、そのフロント団体などの役員や発起人を務めている。
 いわば、極右イデオロギーの“顔役”ばかりではないか。

 と、思っていると、11月7日の初回ヒアリングでさっそく、その「専門家」からとんでもない発言が飛び出した。

「ご自分で定義された天皇の役割、拡大された役割を絶対的条件にして、それを果たせないから退位したいというのは、ちょっとおかしいのではないか」

 ヒアリング後に記者団にそう語ったのは、平川祐弘東大名誉教授。
 この平川氏も日本会議の別働隊「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の代表発起人、日本会議系シンクタンク「国家基本問題研究所」の理事をつとめる右派論客で、これまでもあからさまに「生前退位」そのものに反対してきた。
 「皇室への敬愛」を国民に強制しようとしている日本会議系の学者が天皇に対して「ちょっとおかしい」なんてセリフを口にすること自体、自己矛盾もいいところだが、もっとひどいのはその批判の論理だ。

 平川氏は、天皇がまるでわがまま勝手に自分の役割を拡大したかのように言っているが、天皇が国事行為に精力的に取り組み、かつての激戦地や被災地を訪問してきたのは、国民の総意にもとづく日本国憲法にさだめられた「象徴」の役割をまっとうしようとしたからだ。
 そして、「生前退位」を希望したのも、その“日本国憲法下の象徴としての天皇”のあり方を守るためにほかならない。

 ところが、平川氏は天皇のその憲法にもとづいた国民への向き合い方を“個人的なわがまま”に矮小化し、「お年をとられたら宮中にいて、民安かれと祈ってくださればそれでよろしいじゃないか、と」とうそぶくのである。

 ようするにこれは天皇を宮中に閉じ込めて、自分たちの都合のいいように政治利用しようとしているだけではないか。
 その発想は、連中の言葉で言えば、“逆賊”以外の何物でもない。

 だが、こうした天皇をないがしろにするような発言をしているヒアリングのメンバーは、なにも平川氏だけではない。
 前述したように、このヒアリング対象には日本会議に深く関わる人物がびっしりと顔を揃えているが、とりわけ渡部昇一氏と大原康男氏、そして八木秀次氏については、この間「生前退位」自体に猛反対するキャンペーンを張ってきた中心的存在。
 その言論は、今上天皇の人間としての尊厳すら踏みにじるような、目に余るものだった。

〈皇室の継承は、@「種」(タネ)の尊さ、A 神話時代から地続きである──この二つが最も重要です〉

〈種には資産の大小は関係ありません。種の尊さというのはそこにあると思います。それさえ守り続ければいいのです〉

〈万世一系が揺らぐようなことがあってはならない。それだけを考えればいいのです〉
(渡部昇一氏/ワック「WiLL」9月号)


〈何よりも留意せねばならないのは「国事行為」や「象徴としての公的行為」の次元の問題ではなく、「同じ天皇陛下がいつまでもいらっしゃる」という「ご存在」の継続そのものが「国民統合」の根幹を成していることではなかろうか〉
(大原康夫氏/同)


〈天皇にはそのお役割の重要性とともに、その大前提として、神話に由来し、初代の神武天皇以来一貫して男系の血だけで継承されてきた血統原理に基づくゆえの、他に代わるも者がいないというご存在自体の尊さがある。さらにいえば、陛下には天皇の位にいらっしゃること自体に十分意義があり、在位なさることで既にお役割を十分に果たしているとも言える〉
(八木秀次氏/産経新聞社「正論」10月号)


 人間をその言論や行動ではなく「血」でしか見ないというグロテスクさ、ここに極まれりといった感じだが、彼らの根底には日本国憲法を尊重する今上天皇への反感がある。

 実際、2014年には、八木氏は「正論」で「憲法巡る両陛下のご発言公表への違和感」なる文章を発表し、そこでモロに今上天皇と皇后を批判していた。
 前年に天皇と皇后が日本国憲法を高く評価したことに対して、八木氏は苛立ちを隠さずこう記したのだ

〈両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない〉

〈宮内庁のマネジメントはどうなっているのか〉

 さらに続けて、〈仄聞するところによれば、両陛下は安倍内閣や自民党の憲法に関する見解を誤解されているという〉なる信ぴょう性皆無の流言飛語を拡散しにかかるなど、明らかに安倍政権の意を受けて天皇批判を展開してきた。

 いずれにしても、天皇主義者を自称する彼ら極右言論人の本音は、天皇を隔離して戦前ばりに“神格化”を成し遂げ、同時に安倍政権による改憲の邪魔を絶対にさせないということなのだ。

 振り返れば、戦前日本は「万世一系」の天皇を頂点とした「国家神道」を支配イデオロギー化し、「万邦無比」の「国体」思想を国民に意識づけることで、侵略戦争を正当化した。
 八木氏らがいう「国体護持」は、そうした事実に立脚している。
 そういえば、八木氏は前述「正論」10月号で、天皇の「務め」には「存在」と「機能」の2つがあるとして、こう強調していた。

〈陛下はそのうち、専ら天皇としての「機能」を重視されている。しかしだからといって私たちが、天皇たる者、その「仕事」を全身全霊で果たさなければならない、それができて初めて「天皇」たり得ると考えるのは早計である。
 陛下がビデオメッセージで触れられた「務め」とは天皇としての「機能」の面だが、その大前提には「存在」されること自体の意義がある。徹底した血統原理によって他に代わる者がいない存在として、陛下が天皇の地位に就いておられること自体に尊い意義がある〉

 ここからも、再び天皇を人間から神話的存在としてまつりあげ、政治利用しようという意図があることは明らかだろう。
 連中がやろうとしているのは、天皇機関説を排撃し、立憲政治を骨抜きにした国体明徴運動の“現代版”なのだ。

 しかも、救いがたいのは、こうした時代錯誤の極右論客へのヒアリングをゴリ押ししたのが、安倍首相本人だったという事実だ。
 時事通信は、天皇に「ちょっとおかしいんじゃないか」と絡んだ平川氏と、「天皇は種さえあればいい」とうそぶく渡部氏からの意見聴取は、とくに安倍首相が希望したと報じたが、他の日本会議系メンバーも安倍首相のゴリ押しだったという。

「八木氏と櫻井氏も安倍首相の希望です。安倍首相は、有識者会議ではあまり露骨な人選はできなかったぶん、ヒアリングに自分の人脈をゴリ押しし、天皇の動きに釘を刺そうとしたのでしょう」
(宮内庁担当記者)


 戦前の国体明徴運動は個人主義、自由主義をも否定する運動に発展したが、安倍政権の狙いもそこにあるのだろう。
 まさにとんでもない“逆賊政権”というしかない。


2016.11.09リテラ(宮島みつや)
「天皇はちょっとおかしい」 安倍首相が生前退位ヒアリングにゴリ押しした“日本会議系学者”が天皇批判!
http://lite-ra.com/2016/11/post-2684_4.html


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よう・そろー

 昨日11月11日のワンデートリップ、徘徊の巻、続編。
 ランチのあとは北茨城市漁業歴史資料館「よう・そろー」
(北茨城市関南町仁井田789−2 Tel 0293−46−8600)!
http://www.yo-soro.org/

 館長の丸山さんからたくさん、お話しをおうかがいしました。
 「よう・そろー」のなかには船が ⁉
 
 北茨城市の大津漁港周辺で2014年5月2、3の両日開かれた5年に1度の大祭礼「常陸大津の御船祭」=国選択無形民俗文化財=は10万人以上の観衆を沸かせ、閉幕した。
 東日本大震災後、初めての開催。

 3日は巨大船がみこしを載せた状態で陸上を渡御。
 神船となった巨大船が民家の軒先や電柱に迫る勢いで激しく左右に揺さぶられ、煙をあげながら前進。
 約1.2キロの道のりを5時間ほどかけて渡御し、沿道に詰め掛けた観衆から大きな拍手や大歓声が沸き起こった。

2014年5月4日(日)付け茨城新聞(小室雅一)
常陸大津の御船祭 北茨城、神船迫力街中滑る
http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=13991188966501

 ということはこの勇壮な祭りを楽しめるのは次回、2019年 ⁉ 
 その後、「よう・そろー」物産館でお買い物。
 ヤッホー君は「まるさ商店」さんと「松野屋」さんで仕入れてきました。
 ごはんがすすみそうなおかず、お酒がすすみそうな肴ばっかり、えへへ。

 北茨城市内で、みりん干しといえば「まるさ商店」。
 脂の乗った青魚を、昔から受け継ぐみりんに漬け干した、みりん干しは絶品。
 特に「いわしみりん干し」(500円)は、茨城県知事賞を受賞したほどの逸品です。

 「松野屋」一番人気は、その日に水揚げされた旬の魚を、まるごと串にぶら下げ、その日のうちに加工するできたての干物。
 メヒカリや赤カレイ、イシモチなど、水揚げされたばかりの魚をすぐに加工するので新鮮さが違います。


観光いばらき
http://www.ibarakiguide.jp/seasons/osakana/yosoro/shops.html#yosoro02

大津町へようこそ
http://www.geocities.jp/otutyou/

 う〜ん、昨日の徘徊、実はこれ、震災鎮魂の旅でもあったのです。

【東日本大震災】茨城県北茨城市磯原町における津波被害の様子
https://www.youtube.com/watch?v=yfcm8oMm-7Q

原発事故影響 福島沖 操業できず
 地震と津波で県内に大きな被害をもたらした東日本大震災の発生から2016年3月11日で5年を迎えた。
 インフラの復興は進んでいるものの、福島第1原発事故によるさまざまな影響は依然として色濃く残る。
 北茨城市で漁業を営む夫婦は、漁獲量が震災前の3〜4割程度にとどまる中、「何とか乗り切りたい」と歯を食いしばりながら今日も船を出す。

 北茨城市大津町の井上清一さん(63)、淑恵(としえ)さん(64)は36年間、夫婦で漁業を営んできた。
 震災時の津波の記憶がよみがえる。
 揺れが収まり家族の安全を確認したのもつかの間、清一さんは大津漁港に向かった。

 船を沖に逃がさなければ-。

 船を係留していた綱を必死で解いていた時、押し寄せる津波が見えた。
 綱を放して、とにかく逃げた。

 「逃げ切れないと思った」
 すぐ後ろに濁流が迫ってくる。
 とっさに梅の木につかまり、運良く近くの納屋によじ登ることができた。
 屋根の上で津波にのみ込まれる港をぼうぜんと眺めていた。

 翌日、港に船の様子を見に行った。
 「あまりの光景に言葉を失った」
 夫婦の船「第7清進丸」は、津波で岸壁に乗り上げて市場に突っ込み、ガラスが割れ、エンジンも水が入っていた。

■ 命あってこそ
 淑恵さんにとっても、夫婦の船は思い出が詰まった掛け替えのないものだった。
 淑恵さんは24歳で結婚。
 清一さんと漁に出ていた祖父が亡くなったのをきっかけに、27歳の時に初めて漁に出た。

 漁を手伝わなければならないという一心で船に乗り込んだ。

 「船を大きくするのを目標に頑張った」
 夫婦で漁に出て8年ほどたった1987年、組合からお金を借りて新しい船を造った。
 それが被災した「第7清進丸」だった。

 幸い、船は修理できる状態だった。
 震災の4ヶ月後には修繕を終え、操業を再開した。

 「お父さんが生きていてくれて本当によかった。命があったからこそ、船を直すことができた」

■ 情報発信も
 今月、春が近いとはいえ水温はまだ冷たい。
 この時期、漁はコウナゴやシラウオが中心。
 「福島沖は良い漁場だった」
 淑恵さんは震災前を懐かしむように話す。

 震災前、漁獲量全体の6〜8割は、福島県沖を漁場としていた。
 現在は原発事故の影響で同県沖では漁ができない。
 平潟から高萩間の漁場での操業を余儀なくされている。

 清一さんは「漁獲量は震災前の3〜4割前後にとどまっている」といい、さらに「福島県の海域に入れないままでは、震災前の漁獲量には追い付かない」と悔しがる。

 「補償がなければ生活は難しい」と淑恵さん。
 ブログなどで大津の現状を発信し続けている。
 先が見通せない中、2人は今日も夜明けとともに漁に出る。


2016年3月11日(金)付け茨城新聞(成田愛)
震災5年 北茨城の夫婦船 漁獲減も「乗り切る」
http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14576215666493&utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

 情報発信はこちら「現地発・明日へブログ」。
http://www.nhk.or.jp/ashita-blog/800/

(2016年5月を持って更新を終了いたします。長い期間にわたりご愛読ありがとうございました。ブログを書いていただいたみなさんにも現地の今を伝えていただき、ありがとうございました。復興に向けた、喜び、悲しみ、様々な思いがよせられた貴重な記録です。東日本大震災プロジェクト事務局)

港湾から見る大津町
 嫁いだころ、あまりにも崖が多くて歩くのが大変でした。
 子供達は海で遊び、山で遊ぶ。
 あの津波が押し寄せた時に・・この町並みが沢山の命を救ったのだと思うのです。
 帰港した時、港湾間口から見えるこの景色に・・私はいつも感謝します。

 「大津町御船会館よう・そろー」に、震災前の我が家の船「第7清進丸」の写真があります。
 船首にローマ字で「SEISIN MARU」と書かれています。
 この船を作った時に視力が弱い姑のために、他の船と見分けがつくようにと書いたのです。
 20数年、操業していたら福島の保安庁から削除命令の伝達がきました。
 「日本国籍の船にローマ字は禁止です」とのことでした。
 消さなければと思っていた矢先、3.11の震災津波で座礁・・あちこち直しペンキを塗り替えました。
 そして「SEISIN MARU」の文字は震災と共に消えました。
 夢に見た新造船に・・輝く未来を信じたあの頃が、とても懐かしいです。

「現地発・明日へブログ」井上淑恵

大津町復興祈念碑完成式典〜「TOMORROW」明日に向かって羽ばたこう
 4月22日、「北茨城市漁業歴史資料館よう・そろー」芝生構内に台座を含めて全長3.2メートルのブロンズ像が設置されました。
 地元出身の米米CLUBの石井竜也さんがデザインしたブロンズ像「TOMORROW」の完成式典です。

 このブロンズ像は北茨城市社会福祉協議会大津支部が、先人が残してくださった福祉基金を活用して建立、役員の方たちが知恵を絞り、やっと実現しました。
 この日は穏やかな春の日、青い空に白い雲が浮かび、ブロンズの像が一際、輝いて見えました。

「現地発・明日へブログ」井上淑恵


 どれどれ、
アーティストの石井竜也さんがデザインした祈念碑建立
https://www.youtube.com/watch?v=5iuNOHIRhXg

石井竜也 「世界の絆〜命にありがとう〜」
https://www.youtube.com/watch?v=rui_lEqiCCs

 若い頃、私は故郷が嫌いだった。
 都会にあこがれて、振り返ることもなく故郷を後にした。
 帰郷した時に…好きではない故郷で、漁師の夫と知り合い結婚をした。
 子供ができて人情のあるこの町が…少し好きになった。
 そして海原が職場になった時に、この町が私には愛しい町になった。
 震災で破壊された街並みに涙し、津波で見る影も無くなった港に号泣した。
 歳と共に故郷はかけがえのないものになっていく。
 石井竜也さんがデビューした頃、某テレビのインタビューの中で、子供の頃、故郷大津町には、自分は…なじめない子供だったと答えていた。
 でも大津町が震災津波被害を受けた時、いちはやく駆けつけたと聞いた。
 それはただ芸能人ではなく、彼の中には愛しい故郷があったのでは…と私は思うのです。
 彼も50歳を過ぎ時々は、育った頃の波の音と磯の香りが、懐かしくなる…と思うのです。

「現地発・明日へブログ」井上淑恵


 「北茨城市漁業歴史資料館よう・そろー」構内に立っている「TOMORROW」を後にしたヤッホー君、
 あれあれ、まだ歩を進めていきます、いったいどこ行くの?

 『俺たちに明日はない(1968年2月劇場公開)Bonnie and Clyde』?
 『明日に向かって撃て(1970年2月劇場公開)Butch Cassidy and the Sundance Kid?
 サイモン&ガーファンクル『明日に架ける橋(1970年発表)Bridge over Troubled Water』?
https://www.youtube.com/watch?v=k0WU1ePzhOI
 吉田拓郎『今日までそして明日から(1971年発表)』?
https://www.youtube.com/watch?v=wXkpmQMiSwo


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2016年11月11日

Peace Day

 平和を求めるのはけっして宗教でもなければ、ましてやサヨクではありません。
 マレーシアの新聞の動画をどうぞ:

> Remembrance Day is observed on Nov 11 annually in the United Kingdom and Commonwealth countries to remember the end of the First World War on the same day in 1918 and as a way to remember the members of the armed forces who have died in the line of duty.

> Remembrance Day is marked by ceremonies held in the UK and Com-mon-wealth coun-tries on Remem-brance Sunday, the second Sunday in November which is the Sunday nearest to Nov 11.

> It was first observed in 1919 and was known as Armistice Day until the end of the Second World War.

> It is usually observed by a one- to two-minute silence at 11am to represent the eleventh hour of the eleventh day of the eleventh month in 1918 when the guns of Europe fell silent at the end of the First World War.

> It is also known informally as Poppy Day, where the remembrance poppy, a red articifial poppy, is worn in the days leading up to Remembrance Sunday.

> The red poppy symbol was inspired by the poem In Flanders Fields, where the first two lines “In Flanders fields the poppies blow, between the crosses, row on row” allude to flowers growing over the graves of the soldiers who fell in Flanders.

> The poem, by Canadian physician Lieutenant-Colonel John McCrae, was written on May 3, 1915. McCrae was inspired to write it after the death of a fellow soldier and friend Lieutenant Alexis Helmer at the Second Battle of Ypres in Belgium.

> For Malaysia, the British High Commission will be organising a Remembrance Sunday observation on Nov 13 at the Tugu Negara.


The Star, Published: Thursday, 10 November 2016
Do you ... know what Remembrance Day is?
https://www.theguardian.com/uk-news/gallery/2016/nov/11/remembrance-day-armistice-around-the-world-in-pictures

On 11 November 1919, one year after the war ended, a newspaper announced that it was "Peace Day".

People wore black as they would at a funeral. The king decided there should also be a period of silence to remember those who died.

When the church bells struck 11, people all over the country stood up and bowed their heads. Buses and trains stopped moving. People stopped working. Shopkeepers stopped serving. The electricity was cut off to stop the trams from running. Everyone just stayed silent to think about the soldiers who had died.

When the Cenotaph in London was built in 1920, people laid flowers there in memory of loved ones who had died in the war.

Ever since the first Remembrance Day, people have followed the same tradition: every year on 11 November they stop for a short moment of silence and reflection.

Since 1920 many people have also gathered around the tomb of the Unknown Warrior at Westminster Abbey. Here, there is a body of a soldier whose name and rank no one knows. People visit his grave to think about all the soldiers they did not know but who fought for them during the war.

Poppies
Poppies became used as a way to remember soldiers who died in battle, because of how the flowers sprung up and grew on the barren battlefields of World War One.

'In Flanders Fields' was written in May 1915 by a Canadian man called John McCrae and has become a famous wartime poem. It says, "We shall not sleep, though poppies grow in Flanders Fields".

Flanders Fields was a place where many battles took place. The poem meant that, even though soldiers got hurt and sometimes their lives ended in the war, the
poppies still grew. The poppies represented hope.

A French lady called Madame Guerin read the poem and liked it so much that she started to sell poppies in America. She did it to raise money for the places in France which had been damaged by the war. She persuaded the British Legion to use them too.

A man called George Howson made and sold the poppies in Britain. He wanted to raise money to help people who had been disabled by the war. A simple poppy design was used so men who had lost a hand could assemble them. Howson said at the time, "I do not think it can be a great success but it is worth trying". The poppy is still worn by millions of people every November.


End of the war and remembrance

Despite the jubilation, many people felt it was wrong to celebrate because so many people had died during the war.
http://www.bbc.co.uk/schools/0/ww1/25405394

The Guardian, Published: Friday 11 November 2016 12.57 GMT

Remembrance Day around the world

Remembrance Day, or Armistice Day, is observed in Commonwealth states and elsewhere to remember members of the armed forces who have died in the line of duty.

It is marked by the symbol of the poppy, and at the 11th hour on the 11 November two minutes’ silence is held

By Matt Fidler
https://www.theguardian.com/uk-news/gallery/2016/nov/11/remembrance-day-armistice-around-the-world-in-pictures

 で、ヤッホー君は、と言いますと今日11月11日、北茨城市におりました:

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 これは大津漁協直営「市場食堂」(北茨城市関南町仁井田789-3 Tel 0293-30-2345)でランチ。
 東京駅に戻ったらハロウインのあと、もうクリスマス?
 東京駅前の街路樹はもうイリュミネーションで飾られて…

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2016年11月10日

ニッポンの山里

 秋の夜長は読書だね、と思うもつかの間のこと、もう木枯らし一号だって…

 北海道はもう雪、札幌一気に冬 ササラ電車が初仕事(11月6日)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/video/?c=fuubutu&v=964727113002

 里山と北アルプス 四季のシンフォニー
https://www.youtube.com/watch?v=nsJFov_YtW4

 里山が山里になると:

 いつ、ここに人が住みついたのか。
 いったいどこから移ってきたのか。
 離れ小島のような集落であれば、共同体としてのつながりが強いだろう。
 それはどのような形態をとり、どうやって維持されているのか・・・。 
 学者が調査して、フィールドワークの成果が学会で報告され、研究誌に発表されたかもしれない。
 それはアカデミーの方々におまかせして、私の山里探訪記は、居候の見聞録である。
 ときには泊まりをかさねたが、いつも永遠によそ者だった。
 話を聞き、よくながめ、よく歩き、メモやスケッチをとったが、学問の作法とはいっさいかかわりがない。
 山里の風土と歳月と暮らし、いまや急テンポで消え失せかけたものを、なるたけこの目で見たままに書きとめておこうとした。
 印象深い人々と出会い、親しくなって再訪を約束したのに、めったに約束をはたしていない。

・・・
 池内紀『ニッポンの山里』(山と渓谷社、2012年12月)の効能は、「のんびりとした気分が味わえる」ことである。

 著者が全国の山里を巡るのだが、特別な事件は起こらない。

「ここにとりあげた三十の山里は、ほぼこの十年間に訪れた。おおかたが足の便の悪いところで車にたよらなくてはならなかったが、駅なりバス停から歩いたこともある。たいてい坂のきついうねうね道をたどっていった。歩く人はめったに見かけなかったが、かつてはみなが歩いたことは、道そのものが示していた。人の足がひらいた道であって、うねっているのが自然なのだ」

「山里はきまって突然あらわれる。曲り角を一つまがったとたん、あるいは坂を登りつめると、この身はすでに只中にいる。畑にトウモロコシがみのっていて、前方に納屋と母屋、縁側のゴザに豆が干してある。山道が一瞬でかき消えて、暮らしのまっ只中にいる。あまりの急転ぶりが腑に落ちず、しばらくぼんやりと佇んでいる。あらためて見まわすち、斜面に点々と屋根が見える。こんもりしたのは鎮守さまの杜だろう。町から隔絶したような一角に、レッキとした山里の暮らしがある」

 こう書かれたら、読まずにいられないではないか。
 「三山巡り 山形県・本道寺」の最後は、こう終わっている。

「バス停でバスを待っていると、杖のかわりに乳母車を押したおばあさんがやってきた。顔が合うと足をとめて腰をのばした。毎朝、運動しているので足は丈夫だと言って、幼稚園児のはくような運動靴を見せてくれた。  「おいくつですか?」
 「ハイ、来月で九十二になります」
 歌うような声を残して、ひとけない旧街道をゆっくりと遠ざかった」

 これは、もう一幅の俳画の世界だ。
 「山上集落 埼玉県・風影」は、このように締められている。

「見晴らしをたのしむのはやめにして、すぐまたトットと小道にもどった。人の声がいちどに消えて、風だけがサワサワと枝を吹き抜けていく。縁側に折りたたんだ新聞と湯呑み茶碗が置かれているところをみると、ご当主は昼のイップクをされたあと、裏の畑へでも行かれたらしい。そういえば、草を刈ったときにおなじみの甘ずっぱいような匂いが漂ってくる。そっと庭先を拝借して、少し遅いが昼食にしよう。若い父親時代と同様に、おにぎりと電車代だけで気持のいい一日が過ごせる。昔の人は年寄りのたのしみを『シワのばし』と言ったそうだが、心のシワも少しはのびてくれるだろう」

 懐かしい田舎の情景と匂いが甦ってくる。
 「古民家考 埼玉県・栃本」の最後の一節には、食欲をそそられる。

「わらび、たらの芽、やまうどなど、四季おりおりの山菜がとれる。鹿や猪がいて、鹿さし、猪鍋がいただける。渓流にはアユ、ヤマメがいる。アユのささ巻き、ハヤの甘露煮、ソバまんじゅう・・・。空気が澄んでいると、やたらに腹がすくものだ。落合にもどって道の駅付属の大滝温泉で汗を流し、よく歩いたゴホービに山里のごちそうにありつくとしよう」。

 これぞ、極楽、極楽。
 私は牧場を眺めるのが好きだ。
 「牧場の夢 群馬県・内山」の一節は堪らない。

「一面の牧草地にカラマツがちらばっていた。いくつもの窪地があって、そこに谷川が走っている。サイロに牛舎、牧夫小屋、チーズ工場。どの建物もどっしりとした山家風」

「物見山に登ると、名前どおり展望がいい。北アルプスから八ヶ岳、蓼科山、浅間山、さらに秩父の山々が見わたせた」

「南は黒木の山ばかりで、それがうちかさなり、ちょうど若葉をつけたころで、めまいを覚えるような景色だった。淡い黄色をつけた笹原が金色のしま模様をつくっていた。神津牧場のほかにも物見山の西の山裾に志賀牧場、南麓には内山牧場がある。上信国境のこの辺りは、わが国で珍しい酪農地帯としてひらかれた。もともとまわりに『馬収』『野牧』、あるいは『萱』のつく地名がちらばっているように、牛馬の放牧に適していたのだろう」

「それから沢沿いの道を歩いて初谷(しょや)温泉へ行った。小さな鉱泉宿で、つい最近まで宿の人が薪を割り、湯をわかしていたそうで、いまでも煙突のけむりがただよっているようなけはいだった。湯は少し赤っぽい。湯上がりにフキみそをサカナにビールをいただいた。汗をしぼったあとだったので、気が遠くなるほど旨かった」

 これで、妻との次の旅行先は決まりである。
 牧場巡りの後、鄙びた鉱泉宿で、気が遠くなるのだ。


2013年12月2日山椒読書論(320)
のんびりとした気分が味わえる池内紀の山里巡り・・
http://enokidoblog.net/sanshou/2013/12/10058

 池内紀(おさむ)さん(73)はいくつもの顔を持つ仕事人だ。
 専門のドイツ文学者、カフカやゲーテの翻訳家、「ちくま文学の森」「同哲学の森」「日本文学100年の名作」(新潮文庫)のアンソロジスト、恩地孝四郎(1891-1955)などの評伝作家、そして内外のユニークな文学・歴史・人物などを紹介するエッセイスト、さらに温泉や山野河海(さんやかかい)、町や集落を旅してまわる紀行作家…。
 書斎と野外を行き来するたくさんの引き出しを持っている。
 55歳で大学の先生を辞めて、物書きとして自由にいろいろなことをやり始めた。

「子どもの頃からどこか遠くに行きたいという願望が強く、未知への好奇心を糧に仕事をしてきました。でも長く続けてそれなりの権威になるのはいや」

 たくさんの引き出しを満たしているのはメディアの情報ではない。
 新聞は読まずテレビも見ない、パソコンやケータイも持たない。

 「仕事の道具は本と万年筆一本とファクス、最近は旅先の往来に転がるいろいろなものを記録するデジタルカメラだけ。外からの情報にわずらわされることも少なく、自分の関心事を自分のやり方で行うだけだから、日々あまり腹も立たない」

 何ともうらやましい池内流の生き方だ。
 そんな流儀は旅にも生かされる。
 何かで関心を持った場所だけを訪ねる。
 旅先での行動はいいかげんだが、準備は手早く周到に。
 裏情報はタクシーの運転手や宿屋のお年寄りから。
 同じ宿屋に二泊して、一日は荷物を持たず早朝から目いっぱい歩く。
 旅先でその土地の本を必ず入手。
 コンビニや安い居酒屋も活用…。
 「気取りなくあちこち歩く旅慣れた外国人たちに見習った」という。
 聞いているこちらも旅をしたくなる。

 「四角四面の新しいものに囲まれた場所より、古い記憶や風景や文化が息づいている土地が好きですね。何も知らないで訪ね、五感を遊ばせた方が発見が多い。自然体で覗(のぞ)きこむような具合がちょうどいい」

 旅や散歩で歩いた土地についてつづるエッセーには、風景や人々の暮らしぶりだけでなく、その土地ならではの歴史や伝承を紹介し、土地の息吹をさっと捉えた詩歌などを手掛かりにガイドしてゆく。
 <旅学>のような深まりも味わえる。

 最近の紀行文集は、より社会的なテーマが明瞭となってきたような印象だ。
 『きまぐれ歴史散歩』(中公新書、2013年9月)は、浅間山の噴火や伊勢湾台風など自然災害の歴史に見舞われた土地、広島原爆や足尾鉱毒事件など国家の力に向き合ってきた地域を歩く。
 『ニッポンの山里』(山と渓谷社、2012年12月)や『ニッポン周遊記』(青土社、2014年6月)は、過疎化や高齢化、合併や不景気に見舞われながら、独自に育んできた風土や人物を創造的なブランドに転化しているさまざまな町や集落を旅し、住民の声を拾い上げている。

 「僕のような風来坊が町づくりのヒントを提案できるものではありませんが、いろいろな土地を歩いてきたから別の土地との比較はできる。歴史や社会の本にはあまり書かれていないその土地の特徴や文化、補助金や政治の言葉で掬(すく)い取られることなくローカルに根付く人々を紹介することはできる」

 秀でた才能や個性はあるのになぜか報われず、群れず強い欲望も持たず、権威が嫌いで運命や時代の波に逆らった人々を、池内さんは「二列目の人」と呼ぶ。
 ハーン(小泉八雲、1850-1904)のような愛好とは異なり、醒(さ)めた控えめな目で日本を眺めたモラエス(1854−1929)、宮沢賢治(1896-1933)と同じピュアで孤独な精神を持ちながら理想とは無縁に生き死にした詩人の尾形亀之助(1900-1942)…。
 そんな人々を紹介した『二列目の人生 隠れた異才たち』(晶文社、2003年4月、2008年に集英社文庫)や、風刺的な文章や絵をかいた山好きの辻まことの放浪の人生を描いた『見知らぬオトカム』(みすず書房、1997年)など池内さんの書く評伝を偏愛してきた。

 「マイナーが好きなんです。ちょっとしたボタンの掛け違いで彼らは先頭にならず、甘んじた人生を送った。福田蘭童(らんどう、1905-1976)や秦豊吉(はたとよきち、1892-1956)のように多芸多才なのか器用貧乏なのかよくわからなかったり。でも僕は、彼らにこそ自由人の魂を感じる」

 もしかしたらそれは、どこかで池内さんの自画像でもあるのかもしれない。

 「ドイツ文学者としての最後の仕事になるかもしれないけれど、ナチス・ドイツについての本を書いています。短い間でしたが、どうしてドイツやその国民があれほど凶悪で無謀なことをしたのか。それを探りたい」
 

2014年10月18日付け東京新聞(大日方公男)
二列目に自由人の魂 書斎と野外を行き来する 池内紀さん(ドイツ文学者、エッセイスト)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2014101802000218.html

 人物紹介のエッセイストとしての池内紀は、こちら、今夏に発表した次のエッセイで:

 初版は1974年の刊行。
 多少の手直しを受け、「定本」として再登場した。
 42年の歳月が日本の山村をどう変えたか。
 今となれば「山村」という言葉自体が、なにやらなつかしい。
 「村」としての共同体が崩壊して、現在は多く山里、あるいは里山、あいまいな空間用語をあてている。
 復刊に際してのあとがきに、著者が当時の「日本の国状」を述べている。

「新幹線がはじめて登場し、人々の眼(め)は、大都会に傾き、ローカル線の沿線にある山村などは忘れられはじめていた」

 まさにその1970年代である。
 1960年代に所得倍増が時の言葉となり、エネルギーが石炭、木炭から石油にかわった。
 そして総選挙になろうとも、見向きもされない日本のエリアがあらわれた。
 面積でいうと国土のおよそ7割。
 山と山びと、山村の生活圏である。
 そこが実質的には空白さながらに見すごされる。

 岡田喜秋(きしゅう、1926年生まれ)は旅の雑誌の編集のかたわら、時代に「忘れられはじめ」た山村を探訪した。
 秩父の隠れ里、こけし名人のいた里、飛鳥路の「冬野」という風雅な名前をもつ集落、荷を満載した馬たちが行きかった三州街道……。
 ある里は、かつてのたたずまいが跡かたもなかった。
 べつの集落は大きく姿を変えていた。
 山崩れが一村を呑(の)みこんだ。あるいはダムに沈んだ。
 戦後の開拓でひらけた村から人が去って、元の荒地になっていた。

 「さっき見た分教場も、今や無人の館だ。人々は、ある土地を、さまざまな理由で逃げ出してゆく。単に経済的理由に限らない」

 土地ごとにその理由をたしかめて、納得しつつ同時に書かずにいられない。

「これが山村の宿命と思いたくなかった」

 1970年代は、全国の山々が大きく荒廃した時代だった。
 営林署の手が入り、「開発」という名で手当たりしだいに皆伐した。
 国立公園地帯では「見えないような裏側をコッソリ」、しかし大規模に伐(き)って、観光道路の両側だけがつい立て状にのこされたところもあった。
 林野庁管理下の営林署が独立採算を申し渡され、「緑の番人」から材木商に変貌したからである。
 朝日連峰の山村報告の結びに見える。

「先生は去る。子供たちはいなくなる。そしてブナは伐られる」

 自分を奮い立たせるようにして「昔日の風景」をのこした山村を見つけに行く。
 かわらず草競馬をひらいている山上の村。
 伝統的な「歌寄合」で日ごろのウップンを発散している信州の村。
 山々に隔離されたようでいて奥へ行くほどひらけてくるのは、旧道が通じているからで、トマトの産地として売り出し中。

 水深探知器のようにして読める。
 あるいはこの国の戦後復興が山村と呼ばれた生活圏にどのようにはたらきかけ、どのように変化させたか。
 その功罪をつき合わせる最初の証言役。

 現場で生きる人々の目とやさしさを思い出しながら、私のおぼつかない見聞から「その後」を少し書き加えておく。
 山村が暮らしやすくなったとしても、すべて都市の側の論理から実現したまでのことで、道路は川筋によって整備され、峠で結ばれていた集落の交流はなくなった。
 あらゆる情報が一方通行のかたちで送られてきて、わずかに昔の共同体のよすがをとどめていた祭礼や伝統行事も、平成の大合併のあと、観光イベントに組みこまれて大きく変質した。
 山びとの側に、どうして抵抗できようか。
 独自の山村文化圏が失われてしまったからだ。
 残念ながら人口減少と集落の消滅は、もはやとどめるすべがない。


2016年8月28日付け毎日新聞東京朝刊
今週の本棚
池内紀・評「時代に忘れられはじめて」
『定本 山村を歩く』=岡田喜秋・著(ヤマケイ文庫、2016年4月)
http://mainichi.jp/articles/20160828/ddm/015/070/006000c


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2016年11月09日

Trump elected US President

WASHINGTON: Republican Donald Trump stunned the world on Tuesday by defeating heavily favoured Hillary Clinton in the race for the White House, ending eight years of Democratic rule and sending the United States on a new, uncertain path.

A wealthy real-estate developer and former reality TV host, Trump rode a wave of anger toward Washington insiders to defeat Clinton, whose gold-plated establishment resume includes stints as a first lady, US senator and secretary of state.

Worried a Trump victory could cause economic and global uncertainty, investors were in full flight from risky assets such as stocks. In overnight trading, S&P 500 index futures fell 5% to hit their so-called limit down levels, indicating they would not be permitted to trade any lower until regular U.S. stock market hours on Wednesday.

The Associated Press and Fox News projected that Trump had collected just enough of the 270 state-by-state electoral votes needed to win a four-year term that starts on Jan 20, taking battleground states where presidential elections are traditionally decided.

CNN reported Clinton had called Trump to concede concede the election.
A short time earlier, Clinton campaign chairman John Podesta told supporters at her election rally in New York to go home.

"Several states are too close to call so we're not going to have anything more to say tonight," he said.

Victorious in a cliffhanger race that opinion polls had forecast was Clinton's to win, Trump won avid support among a core base of white non-college educated workers with his promise to be the "greatest jobs president that God ever created." His win raises a host of questions for the United States at home and abroad. He campaigned on a pledge to take the country on a more isolationist, protectionist "America First" path. He has vowed to impose a 35 percent tariff on goods exported to the United States by US companies that went abroad.

Both candidates, albeit Trump more than Clinton, had historically low popularity ratings in an election that many voters characterized as a choice between two unpleasant alternatives.

Trump, who at 70 will be the oldest first-term US president, came out on top after a bitter and divisive campaign that focused largely on the character of the candidates and whether they could be trusted to serve as the country's 45th president.

The presidency will be his first elected office, and it remains to be seen how he will work with Congress. During the campaign Trump was the target of sharp disapproval, not just from Democrats but from many in his own party.

Television networks projected Republicans would retain control of the US House of Representatives, where all 435 seats were up for grabs. In the US Senate, the party also put up an unexpectedly tough fight to protect its majority in the US Senate.

Trump entered the race 17 months ago and survived a series of seemingly crippling blows, many of them self-inflicted, including the emergence in October of a 2005 video in which he boasted about making unwanted sexual advances on women. He apologized but within days, several women emerged to say he had groped them, allegations he denied. He was judged the loser of all three presidential debates with Clinton.


The Star, Published: Wednesday, 9 November 2016 | MYT 3:40 PM
Trump elected US President
Reuters
http://www.thestar.com.my/news/world/2016/11/09/trump-elected-president/

Donald Trump has stunned America and the world, riding a wave of populist resentment to defeat Hillary Clinton in the race to become the 45th president of the United States.

The Republican mogul defeated his Democratic rival, plunging global markets into turmoil and casting the long-standing global political order, which hinges on Washington's leadership, into doubt.

"Now it is time for America to bind the wounds of division," Trump told a crowd of jubilant supporters in the early hours of Wednesday in New York.

"I pledge to every citizen of our land that I will be president for all Americans."

During a bitter two-year campaign that tugged at America's democratic fabric, the bombastic tycoon pledged to deport illegal immigrants, ban Muslims from the country and tear up free trade deals.

His message appears to have been embraced by much of America's white majority, disgruntled by the breath and scope of social change and economic change in the last eight years under their first black president, Barack Obama.

Trump openly courted Russian leader Vladimir Putin, called US support for NATO allies in Europe into question and suggested that South Korea and Japan should develop their own nuclear weapons.

The businessman turned TV star turned-politico -- who has never before held elected office -- will become commander-in-chief of the world's sole true superpower on January 20.

The results prompted a global market sell-off, with stocks plunging across Asia and Europe and billions being wiped off the value of investments.

Although he has no government experience and in recent years has spent as much time running beauty pageants and starring in reality television as he had building his property empire, Trump at 70 will be the oldest man to ever become president.
Yet, during his improbable rise, Trump has constantly proved the pundits and received political wisdom wrong.

Opposed by the entire senior hierarchy of his own Republican Party, he trounced more than a dozen better-funded and more experienced rivals in the party primary.

During the race, he was forced to ride out allegations of sexual assault and was embarrassed but apparently not shamed to have been caught on tape boasting about groping women.

And, unique in modern US political history, he refused to release his tax returns.
But the biggest upset came on Tuesday, as he swept to victory through a series of hard-fought wins in battleground states from Florida to Ohio.

Legacy of ashes
Clinton had been widely assumed to be on course to enter the history books as the first woman to become president in America's 240-year existence.

Americans have repudiated her call for unity amid the United States' wide cultural and racial diversity, opting instead for a leader who insisted the country is broken and that "I alone can fix it."

If early results hold out, Trump's party will have full control of Congress and he will be able to appoint a ninth Supreme Court justice to a vacant seat on the bench, deciding the balance of the body.

So great was the shock that Clinton did not come out to her supporters' poll-watching party to concede defeat, but instead called Trump and sent her campaign chairman to insist in vain the result was too close to call.

"I want every person in this hall to know, and I want every person across the country who supported Hillary to know that your voices and your enthusiasm mean so much to her and to him and to all of us. We are so proud of you. And we are so proud of her," chairman John Podesta told shell-shocked supporters.

"She's done an amazing job, and she is not done yet," he insisted.

The election result was also a brutal humiliation for the White House incumbent, Obama, who for eight years has repeated the credo that there is no black or white America, only the United States of America.

On the eve of the election, he told tens of thousands of people in Philadelphia that he was betting on the decency of the American people.

"I'm betting that tomorrow, most moms and dads across America won't cast their vote for someone who denigrates their daughters," Obama said.

"I'm betting that tomorrow, true conservatives won't cast their vote for somebody with no regard for the Constitution," he added.

His bet appears to have been flat out wrong, and America's first black president will be succeeded by a candidate who received the endorsement -- albeit unsought and unacknowledged -- of the white supremacist Ku Klux Klan.

Trump's shock victory is just the latest evidence that globalization has eroded faith in liberal political leadership.

From Britain's vote to leave the European Union to the rise of far right populists and nationalists in continental Europe, opposition to open trade and social and racial tensions are on the rise.


9 Nov 2016, AFP
Donald Trump wins White House in stunning upset
https://www.afp.com/en/news/15/donald-trump-wins-white-house-stunning-upset

We still don’t know who will win the electoral college, although as I write this it looks − incredibly, horribly − as if the odds now favor Donald J. Trump. What we do know is that people like me, and probably like most readers of The New York Times, truly didn’t understand the country we live in. We thought that our fellow citizens would not, in the end, vote for a candidate so manifestly unqualified for high office, so temperamentally unsound, so scary yet ludicrous.

We thought that the nation, while far from having transcended racial prejudice and misogyny, had become vastly more open and tolerant over time.

We thought that the great majority of Americans valued democratic norms and the rule of law.

It turns out that we were wrong. There turn out to be a huge number of people − white people, living mainly in rural areas − who don’t share at all our idea of what America is about. For them, it is about blood and soil, about traditional patriarchy and racial hierarchy. And there were many other people who might not share those anti-democratic values, but who nonetheless were willing to vote for anyone bearing the Republican label.

I don’t know how we go forward from here. Is America a failed state and society? It looks truly possible. I guess we have to pick ourselves up and try to find a way forward, but this has been a night of terrible revelations, and I don’t think it’s self-indulgent to feel quite a lot of despair.


The New York Times, Published: 9 Nov 2016, 10:58 PM ET
Our unknown country
By Paul Krugman
http://www.nytimes.com/interactive/projects/cp/opinion/election-night-2016/the-unknown-country



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平和への思いの強さ

 North Windが吹き付けてくる今朝、ヤッホー君はヒッキーを決め込むことにしました。
 これまで付けてた日記を読んでたら、おっ補足したいことがいっぱいあるなって突然吠えました。
 ヤッホー君のこのブログ、おとといの日記「カントの風」を開いてみてください。
 まずは、ムカシのケーニヒスベルク、イマのカリーニングラードから:

Kaliningrad has a turbulent history. After two nights of Allied aerial bombardment in 1944, the German city of Königsberg, associated with towering German intellectuals, such as Immanuel Kant and Johann Gottfried Herder, was almost completely destroyed.

It suffered further. After the Red Army conquered the city in April 1945, the Soviets forcibly removed the remaining Germans from the territory in 1946, settled Russians in their place and renamed it Kaliningrad. The harbour near Kaliningrad, called Baltisk, became the only ice-free harbour of the Soviet Union and was therefore of major military significance during the cold war.

Estonian officials have said that Russia appears to be moving powerful, nuclear capable missiles into Kaliningrad, a Russian outpost province sandwiched between Poland and Lithuania along the Baltic coast.

The Iskander-M missiles, which have a range of over 500km, are reportedly being transported by ship from the St Petersburg area. It had previously been reported that the Russians might seek to place the Iskander-M missiles in Kaliningrad but not until 2018-19.

If confirmed, the move would be seen by western governments as another sign that Russia is seeking to establish facts on the ground, from eastern Europe to the Middle East, before a new US president takes office in January.


The Guardian, Last modified on Friday 7 October 2016 23.40 BST

Russia moving nuclear-capable missiles into Kaliningrad, says Estonia

Reports of Iskander-M missiles being moved to outpost between Poland and Lithuania fuels fears that Russia is seeking to expand control of Baltic Sea


By Patrick Wintour, Diplomatic editor
https://www.theguardian.com/world/2016/oct/07/russia-moving-nuclear-capable-missiles-into-kaliningrad-says-estonia

 そして、10月20日木曜日付け日記「どこつかんどんじゃボケ。土人が」、10月21日金曜日付け日記「旧土人」

「動画を見てゾッとしました。子どもの時からこの言葉でひどい目に遭ってきたから……。記憶って、時間が経てば薄れると思っていたけど、違うんですね」

 北海道・浦幌アイヌ協会会長の差間正樹さん(65歳)は、こう話した。
 沖縄・高江の米軍ヘリパッド建設予定地で、公務中の大阪府警機動隊員が抵抗運動の市民に投げつけたナイフのような言葉は、列島の反対側で先住民族アイヌをも深く傷つけずにおかなかった。
 蔑視意識あふれる「土人」のワードは、長くアイヌを苦しめ続けてきたからだ。

 1869(明治2)年に蝦夷地(北海道島など)を内国化した明治政府は、その初期の公達(政府からの達し)で先住民族を「土人」と呼称した。
 またアイヌに戸籍登録を強いるに当たって、「平民」の中にわざわざ「舊(旧)土人」のカテゴリーを新設して公然と差別した。

 最初から差別語だったわけではない。
 歴史学者の榎森進・東北学院大学名誉教授によれば、江戸期の武士の出張報告文書などには、地元民を指して「土人いわく……」の定型表現が見られるという。
 上から目線ではあるものの、まだ暴力性は希薄だった。

 だが明治戸籍法が採用したこの公称は、アイヌに対してその後の“身分差別”を決定的にした。
 役土人、舊土人教育、舊土人部落……。
 明治期の行政文書はドジンだらけだ。
 きわめつけがその名も北海道舊土人保護法(1899年制定)で、1997年に廃止されるまで、アイヌを公式に土人よばわりし続けた。
 差間さんの脳裏によみがえったのはその記憶だ。

 とはいえ、若い世代の大半には現在すでに死語だろう。
 それを今回、20歳代の警官が口走った点は見逃せない。
 榎森さんは「警察学校などの教育過程でこの言葉が温存・伝承されている可能性がある」と指摘する。
 事件の根は深い。


2016年11月8日11:45AM週刊金曜日10月28日号(平田剛士・フリーランス記者)
身分差別に苦しめられてきたアイヌを傷つける――府警「土人」発言の根深さ
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=6324

 これも:
☆ 2016年9月2日号「週刊ポスト」
鶴保庸介沖縄・北方担当相が捨てた18歳年下妻と2歳の息子
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12180-440091/

鶴保庸介沖縄北方担当相は11月8日の参院内閣委員会で、沖縄県の米軍北部訓練場の工事反対派に大阪府警の機動隊員が「土人」と発言した問題について「差別だと断じることは到底できない」と述べた。
 差別用語として問題視してきた政府の従来の立場と異なる見解。
 鶴保氏は沖縄振興の担当閣僚にもかかわらず、8月の就任以降、沖縄に関する発言でたびたび物議を醸しており批判が強まっている。
2016年11月9日付け東京新聞朝刊
土人発言「差別と断定できず」 鶴保沖縄相また物議
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201611/CK2016110902000135.html

 ヤッホー君はせいぜい食べ放題・飲み放題、「支配的特権階層」はこれにプラスやりたい放題・言いたい放題・儲け放題ですね、おぉ〜、嫌だ、やだ…
 もうひとつは、10月10日月曜日付け日記「堀田善衛と日本の知識人」

昭和天皇、東京大空襲後の御視察
https://www.youtube.com/watch?v=wR-6I8NUBTs

昭和20年3月19日付け朝日新聞朝刊・社説
【畏し・天皇陛下戦災地を御巡幸・御仁慈の大御心、一億滅敵の誓い新た】
 朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを嘆き悲しむ。
 今はただ伏して不忠を詫び奉り、立ってはしこの御盾となり、皇国三千年の歴史を太しく護り抜かんことを誓うのみである。
 ああしかも、この不忠の民を不忠とも思召されず、民草憐れと思召し、垂れさす給う大御心のかしこさよ。


 3月18日、昭和天皇はもっとも被害が大きかったといわれる深川地区を視察されました。
 それが決まった時、側近から警視総監に電話が入って「遺体はいっさい片づけろ。見せてはならん」ということで、警防団や警官、軍人が総動員されました。
 深川のあたりは山のような遺体だったそうですが、大きな穴を掘って数も数えないでどんどん入れて、きれいにしました。
 昭和天皇はその上を踏んで視察されたそうです。
 もしこの時、遺体をありのままに見ていただければ、終戦の日が早まったのではないかと私は思っています。
 天皇にはひどいところは見せないというのが側近たちの心得のようです。
 ここに埋められた人たちがどんな思いだったかと考えると、本当に胸がつまります。


2005年8月3日・東京文京区民センター
画家・狩野光男氏の「絵と証言による東京大空襲」講演
http://www.kikanshi.co.jp/kikaku/daikusyu/daikusyu.htm

 おすすめの本、一冊。秋の夜長にぜひどうぞ。そして翌日にはぜひその本を手に、ぜひ歴史散策にお出かけしてみては:

 一坂太郎『昭和史跡散歩〔東京編〕(イースト新書、2016年10月)
 22頁、186-188頁
 時は流れて2012(平成24)年8月12日、今上天皇・皇后が富岡八幡宮に行幸した。
 父である昭和天皇が、大空襲後に立ち寄ったことを偲んでのことだという。。。
 天皇の、平和への思いの強さを物語る一幕である。



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2016年11月08日

US election 2016

MICHAEL MOORE: Donald Trump came to the Detroit Economic Club and stood there in front of the Ford Motor executives and said, "If you close these factories, as you’re planning to do in Detroit, and build them in Mexico, I’m going to put a 35 percent tariff on those cars when you send them back, and nobody is going to buy them." It was an amazing thing to see. No politician, Republican or Democrat, had ever said anything like that to these executives.

And it was music to the ears of people in Michigan and Ohio and Pennsylvania and Wisconsin−the Brexit states. If you live here in Ohio, you know what I’m talking about. Whether Trump means it or not is kind of irrelevant, because he’s saying the things to people who are hurting. And it’s why every beaten-down, nameless, forgotten working stiff who used to be part of what was called the middle class loves Trump. He is the human Molotov cocktail that they’ve been waiting for, the human hand grenade that they can legally throw into the system that stole their lives from them.

And on November 8th, Election Day, although they’ve lost their jobs, although they’ve been foreclosed on by the bank−next came the divorce, and now the wife and kids are gone, the car has been repoed, they haven’t had a real vacation in years, they’re stuck with the [bleep] Obamacare Bronze Plan, where you can’t even get a [bleep] Percocet−they’ve essentially lost everything they had−except one thing, the one thing that doesn’t cost them a cent and is guaranteed to them by the American Constitution: the right to vote. They might be penniless, they might be homeless, they might be [bleep] over and [bleep] up. It doesn’t matter, because it’s equalized on that day. A millionaire has the same number of votes as the person without a job: one. And there’s more of the former middle class than there are in the millionaire class.

So, on November 8th, the dispossessed will walk into the voting booth, be handed a ballot, close the curtain and take that lever, or felt pen or touchscreen, and put a big [bleep] X in the box by the name of the man who has threatened to upend and overturn the very system that has ruined their lives: Donald J. Trump. They see that the elites who ruined their lives hate Trump. Corporate America hates Trump.

Wall Street hates Trump. The career politicians hate Trump. The media hates Trump−after they loved him and created him, and now hate him. Thank you, media.

The enemy of my enemy is who I’m voting for on November 8th. Yes, on November 8th, you, Joe Blow, Steve Blow, Bob Blow, Billy Blow, Billy Bob Blow−all the Blows get to go and blow up the whole goddamn system, because it’s your right. Trump’s election is going to be the biggest "[bleep] you" ever recorded in human history.
And it will feel good−for a day, yeah, maybe a week, possibly a month. And then, like the Brits, who wanted to send a message, so they voted to leave Europe, only to find out that if you vote to leave Europe, you actually have to leave Europe.

And now they regret it. All the Ohioans, Pennsylvanians, Michiganders and Wisconsinites of Middle England−right?−they all voted to leave, and now they regret it, and over 4 million of them have signed a petition to have a do-over.

They want another election. It ain’t gonna happen, because you used the ballot as an anger management tool. And now you’re [bleep]. And the rest of Europe? The rest of Europe? They’re like, "Bye, Felicia."

So, when the rightfully angry people of Ohio and Michigan and Pennsylvania and Wisconsin find out after a few months in office that President Trump wasn’t going to do a damn thing for them, it will be too late to do anything about it. But I get it. You wanted to send a message. You had righteous anger and justifiable anger. Well, message sent. Good night, America. You’ve just elected the last president of the United States.


NOVEMBER 07, 2016 Democracy NOW!
Michael Moore: If Elected, Donald Trump Would Be "Last President of the United States"
http://www.democracynow.org/2016/11/7/michael_moore_if_elected_donald_trump

2016年09月29日 15時38分 JST 更新、The Huffington Post
【アメリカ大統領選・テレビ討論】
「トランプが勝った」マイケル・ムーア監督(1954年生まれ)が断言
Ron Dicker
http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/29/michael-moore_n_12242176.html

2016年10月20日 17:00 映画.com ニュース
マイケル・ムーア監督がドナルド・トランプを題材にした新作をサプライズ製作
http://eiga.com/news/20161020/16/

2016年10月28日 10時47分 JST 更新、The Huffington Post
トランプ氏、マイケル・ムーア監督の批判コメントにちゃっかり便乗する
Igor Bobic
http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/27/trump-michael-moore_n_12681038.html

 なぜ日本は米軍がいないと国土を守れないなどという幻想にとらわれ、リベラル派までが、「トランプが大統領になったら米軍に撤退されてしまう」と、大統領選を心配顔で見守っているのか。

 こうした空気は、「対米従属」が日本に浸透しきってしまっていることの表れだろう。
 『永続敗戦論──戦後日本の核心』(太田出版、2013年)で脚光を浴びた気鋭の政治学者・白井聡(1977年生まれ)は、発売中の「週刊東洋経済」(東洋経済新報社)11月12日号の特集「日米関係の大不安」で、こう書いている。

米軍基地移転問題など、沖縄に関する一連の問題に対する本土の無理解をみていると、「対米従属の自己目的化」がいかに進んでいるかがわかる。かつての親米保守派の対米従属には、従属を通した自立という目的が一応あった。だが、今は「従属のための従属」にしか見えない

 たしかに、歴代日本政府は日米安保を軸にする対米従属路線をずっと敷いてきたが、戦後の政権は占領体制からの脱却と、冷戦構造の中で日本が生き残るための戦略として行っていた。
 ところが、冷戦が終わり、対米従属の理由がなくなった後も、歴代の自民党政権はその関係を維持するどころか、白井のいう「対米従属の自己目的化」というかたちでさらにエスカレートさせていった。
 日米同盟が必要だというフィクションを無理やりつくりだし、アメリカのための政策を積極的に採用し、それがまるで自国の利益になるような虚偽の物語を国民に喧伝してきたのだ。

 その典型が安倍政権の集団的自衛権容認と新安保法制である。
 安倍政権は日本の防衛のため、などと謳いながら、アメリカの戦争に自衛隊を参加させ、自衛隊員の血を流させるという倒錯的な政策を強行したが、これなどまさに「対米従属の自己目的化」の極致だろう。

 いや、政権だけではない。
 マスコミや国民もこうした政権による喧伝によって「対米従属の自己目的化」が内面化してしまい、いまや日本中が理由もわからないまま「なんだかんだ言ってアメリカに頼らなければダメだよね」という空気に支配されている。

 白井氏は、今回の大統領選挙に対する議論や報道じたいが、この対米従属姿勢の典型だといっている。

本来、自分たちのあるべき姿のイメージがあって、それに対して相手はどう出てくるだろうかという話であるはずが、相変わらず「米国はどうなる」という話ばかりだ。日本自身のビジョンがまったく議論されていない

 そういう意味では、これは、トランプが大統領にならなかったからよかったね、で済む話ではない。
 そもそも、アメリカの「一国主義」への転換は、アメリカ国民全体に広がっている意識であり、仮にクリントンが大統領になっても、その流れにはさからえないはずだ。
 そして、これからもアメリカからは日本への「安全保障への負担要求」が出され続けるだろう。
 対米従属が自己目的化した政権はそのたびに要求に応じ、一方で、極右勢力はそれに便乗して、軍拡、さらには核武装まで主張し始めるだろう。

 こうした動きに騙されないためにも、私たちは白井氏のいうように、「米国はどうなる」ではなく、「自分たちがどうあるべきか」を自分の頭で考える必要がある。
 リベラルにこそ、覚悟が問われる時代なのだ。


2016.11.08付けリテラ(エンジョウトオル)
“トランプが大統領になったら日本はヤバい”は本当か?
日本の大統領選報道の裏にある「対米従属」意識

http://lite-ra.com/2016/11/post-2681_2.html

TOKYO/JAKARTA - Win or lose, Donald Trump's campaign has changed the way countries in Asia view their relationships with Washington.

Final polling suggests the most likely outcome is a victory for Hillary Clinton. But even Clinton, an architect of the U.S. strategic pivot to Asia, has some work ahead of her in rebuilding trust, analysts and former officials in Asia said.

"With or without Trump, this marks the end of U.S. leadership, in particular, moral leadership," said a former Japanese diplomat, who asked not to be identified because of the sensitivity of the topic.

"I don't think it's a question of Trump as an individual, but a question of the U.S. society that produced this man as the Republican candidate."

Trump upended U.S. democratic traditions during his White House campaign, drawing enthusiastic crowds where people cheered his often provocative and outrageous remarks. Critics labelled him ignorant, uncouth, a racist, hypocrite, demagogue and a sexual predator, all accusations he denied.

He described a dark America, knocked to its knees by China, Mexico and the Islamic state.

Trump's harnessing of a populist backlash against immigration and global trade has challenged the ideal of benevolent American power that helped shape the global economy - and the forces of globalisation - since the fall of the Soviet Union in the early 1990s.

Now the United States faces a rising China, long an economic force and now becoming more assertive in geopolitics - building its military capability and ignoring an international tribunal's ruling against its claims to most of the South China Sea.

TRANS-PACIFIC PARTNERSHIP(TPP)
Asia is most worried about trade protectionism - exports make up a quarter of Asia's GDP and a fifth of them go to the United States.

The Trans-Pacific Partnership (TPP) trade deal, championed by Barack Obama in part to increase U.S. influence in Asia, was to be an essential feature of Washington's strategic pivot to Asia - an "economic NATO".

It now looks dead in the water. Both Clinton and Trump oppose the deal, which would set up a free trade zone among 12 countries that excludes China.

Former Indonesian finance minister Chatib Basri told Reuters the TPP "is an important instrument for the U.S. pivot to Asia".

"There is some kind of a rivalry between America and China, and the way America can get into Asia is with TPP," said Basri, now a visiting professor at Australian National University.

With U.S. allies such as Japan, South Korea, Taiwan and Singapore among the biggest winners of an open trade regime, a more isolationist and protectionist stance will cost Washington influence in Asia.

Ironically, it would be China, the subject of many of Trump's tirades, that could emerge the big winner as uncertainty over Washington's future commitment to Asia pushes countries into dealing more closely with Beijing.

"If the U.S. pulls out of TPP, that will certainly increase China's influence in Asia," said Kanti Bajpai, Professor of Asian Studies at the Lee Kuan Yew School of Public Policy in Singapore.

"Already, U.S. criticism of domestic issues in Thailand, the Philippines, and Malaysia has alienated those countries and caused them to lean towards Beijing. Pulling out of the TPP will help China geopolitically."

Philippine President Rodrigo Duterte has been particularly hostile towards Washington over its criticism of his lethal anti-drugs campaign, announcing a "separation" from the United States during last month's visit to China.

Malaysian Prime Minister Najib Razak came back from a visit to China last week with $34 billion worth of deals and an agreement to buy four Chinese naval vessels.

SECURITY WORRIES
China has long been in Trump's sights, with promises to declare it a currency manipulator and impose punitive tariffs on imports. But any such moves could also hurt Asian exporters who ship components there for assembly and export to the United States, at a time when global trade is already weakening.

Gareth Leather, senior Asia economist at Capital Economics, said the Philippines, Taiwan and South Korea were the emerging Asia economies most vulnerable to a Trump presidency.

"Perhaps the biggest risk to the region's economies, however, stems not from Trump's trade policies, but from his foreign policy," Leather said.

Trump has created doubts over his commitment to security alliances, suggesting Japan and South Korea need to pay more for a U.S. military presence and that they should even develop their own nuclear capability to counter China and North Korea.

Clinton, who was secretary of state when the Obama administration launched its Asia pivot, is expected to maintain Obama's foreign policy, with some seeing her as being more hawkish.

The divisive U.S. presidential campaign has already done a lot of damage to the reputation of the United States in Asia, regardless of the election outcome, according to some analysts.

"The broader question is whether the United States can assert global leadership," said Jesper Koll, CEO at fund manager WisdomTree Japan.

"All my Chinese friends say, 'We thought we would run the world in 20 years. Now it's going to be in January'. This is not a joke. It's the natural state of development," Koll said.


The Star, Published: Tuesday, 8 November 2016, MYT 5:16 PM
Asia sees changed U.S. relationship, whoever wins
Reuters
By LINDA SIEG and GAYATRI SUROYO, Additional reporting: Nicole Nee in Singapore. Writing by John Mair. Editing by Bill Tarrant
http://www.thestar.com.my/news/world/2016/11/08/asia-sees-changed-us-relationship-whoever-wins/



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子どもと教育を守る11.5大集会

 カントの風に吹かれながら、「日比谷図書文化館」を出てヤッホー君、大きく伸びをしました。
 その時目にした「子どもたちを再び戦場に送るな」の文字が、カントの風に揺れていたのです!

 子どもと教育を守る11.5大集会に集まろう
 安倍政権による教育介入・憲法改悪に反対し、
「子どもたち、若者を戦場に送るな!」
「憲法改悪阻止」
「国民の思想・信条の自由、言論・表現の自由」
を掲げて、子どもと教育を守る11.5大集会が開かれます。
 時間は12時受付開始、13時開会15時15分閉会、集会後銀座パレード
 会場は、日比谷野外音楽堂

http://www16.plala.or.jp/santama-roren/html/2016/11-5.html

 そうなんです、あぶない、この国のかたち!
 もう今夏にははじまっていたんですねぇ〜!

 自民党が党公式ホームページ(HP)で、教育現場での「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」を募るネットアンケートを始めた。
 18、19歳に選挙権が拡大されたことを受け、「主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れ」があることを調査理由に挙げている。
 ネット上では「この調査こそ教育への政治的介入」と批判の声も出ている。

 自民党HPは、調査の呼びかけで「教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実」と断定。
「高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出される」などと主張し、「不適切な事例」をアンケート形式で情報提供するよう呼びかけている。

 HPには当初、教育現場で「子供たちを戦場に送るな」と主張する教員がいるとする表現があり、その後、「安保関連法は廃止にすべきだ」と訴える教員がいるとの表現に変えられたが、いずれも削除された。

 同党の木原稔文部科学部会長は2016年7月7日、この取り組みについて「18歳の高校生が特定のイデオロギーに染まった結論に導かれることを危惧してます」とツイッターで説明している。


2016年7月9日21時54分更新、朝日新聞デジタル
自民、「政治的中立を逸脱」した教師の事例をネット募集
http://www.asahi.com/articles/ASJ796GZSJ79UTFK00Z.html

 自民党が党公式ホームページ(HP)で、学校での「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」の情報提供を呼びかけていることについて、馳浩文部科学相は2016年7月12日、閣議後の記者会見で「党として、たぶん実態がどういうものか分からず、(把握するには)どうしたものか、と考えた中の一案だ」と理解を示した。

 馳文科相は「教育現場では政治的中立性を守ってほしい」とし、「例えば『給付型奨学金についてどの政党がどう主張しているか、なぜ今求められるのか』を考えるのなら中立性に配慮したことになるが、いい悪いとまで述べることは、私はよした方がいいと思っている」と語った。

 自民党は2016年6月、HP上に投稿フォームをつくり、「中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」と断定。
 投稿者の氏名や連絡先、職業とともに、「不適切事例」について
「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」
を明らかにして記入するよう求めている。


2016年7月12日20時27分更新、朝日新聞デジタル
教育の「政治的中立」調査 馳文科相が自民に理解
http://www.asahi.com/articles/ASJ7D4WF6J7DUTIL01Z.html

 先日、本サイトでは、自民党がホームページで「子供たちを戦場に送るな」と言う教員を取り締まる"密告フォーム"を設置していたことを伝えたが、どうやら安倍政権はまったく反省の色もなく、"御用新聞"を使ってこの戦前ばりの密告社会を推し進めていくらしい。

 念のためおさらいしておくと、問題の"密告フォーム"は、2016年7月に自民党のホームページに設けられた「学校教育における政治的中立性についての実態調査」なるタイトルのページのことだ。

 このなかで自民党は、〈「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる〉と書き、〈偏向教育〉だとして通報させる"密告"のための入力フォームを設置したのだ。
 しかもそこで「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」などと具体的な情報を記入するよう求めるなど、完全に教育を統制しようとしているのが丸見えだ。

 つまりこの国の政府与党は、教員が「子供たちを戦場に送るな」という当たり前のことすら糾弾し、監視によって教育現場を統制しようというのである。
 もはや完全に戦前の発想だろう。


 当然、この"密告フォーム"にはネットを中心に批判が殺到したわけだが、騒ぎが大きくなったのを見た自民党は、一度ページの閲覧ができないようにし、なんのアナウンスもなく問題の〈「子供たちを戦場に送るな」と主張し〜〉の箇所を〈「安保法制は廃止にすべき」と主張し〜〉にこっそり変更するという手段に出た。

 しかし、安保法は戦後日本の安全保障を180度変え、集団的自衛権の名の下、積極的に自衛隊を戦地へ送るようにした法制だ。
 子どもたちが将来的に戦場に送られる可能性が増えるのだから、教育者がその本質を伝えることにはなんの問題もない(というか、仮に「安保法制は最高です!」などと子どもたちの前で言う教師がいたとしても、絶対に自民党は「偏向教育」とは批判しないだろう)。
 自民党はその後、安保法制についての文言も削除した。

 だが、連中が今更どう取り繕おうとも、この密告フォームは現在でも党のHPにしっかり残っている。
 この教育への露骨な介入が"戦争のできる国"づくりの一環であることは明々白々だが、安倍政権はどれだけ批判されても密告社会を成立させたいらしい。

 実際、その社会は徐々に現実になろうとしている。
 先日7月13日、読売新聞ウェブ版が「中学教諭、授業で『与党2/3で戦争行くかも』」というタイトルの記事を掲載した。
 同記事によると、今月7月5、6日に名古屋市立中学校の男性教諭が〈社会の授業で「与党の自民・公明が議席の3分の2を獲得すると、憲法改正の手続きを取ることも可能になる」「そうなると、戦争になった時に行くことになるかもしれない」などと発言し〉たのだという。

 保護者らから発言を通報された市の教育委員会が、「政治的中立性の観点から不適切」として学校側を指導、その結果、この教諭は生徒に「誤解を与えた」と謝罪する事態になったのだという。

 いったいなぜこの発言が市教委から注意を受けなければならず、謝罪する必要があるのか。
 安倍政権は憲法改正によって国防軍を創設しようとしており、経済的な徴兵制を視野に入れていることはれっきとした事実。

 それは、テレビや新聞などのマスコミも報道していることだ。
 ゆえに、この教諭が言っていることは少しも「政治的中立」を害するものではなく、ましてや「不適切」ではありえない。
 憲法96条には、「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という規定があるのだ。
 むしろ、子どもたちにこうした社会の情勢を伝えないことこそ、教育者としてあってはならないこと
だろう。

 にもかかわらず、市教委がこういう理不尽な注意をし、この教諭は"密告"により謝罪に追い込まれてしまったのは、自民党が密告フォームをはじめ、取り締まりの体制を整えたことと無関係ではないはずだ。

 しかも、愕然とするのは、読売新聞がこのような市教委の介入やそれをつくり出した自民党の密告フォーム体制を批判するトーンでこの問題を取り上げたのではなく、むしろ、この教諭を追及するトーンで記事にしていたことだ。

 あれだけ批判が高まった自民党の密告フォームについて、実は読売、産経新聞はこれまでその事実すら一切触れてこなかった。
 それだけでも大きな問題だが、ここにきて、こうした御用新聞は、改憲や戦争を批判する教員がまるで問題であるかのような記事を垂れ流し始めたというわけだ。

 おそらくは今後、こうした空気はますます強まり、憲法を守れ、という教育をすることはさらに難しくなるだろう。

 現に、今年2016年5月、自民党は18歳選挙権を踏まえて教育公務員特例法の改正に着手。
 同法では公立高校の教職員の政治活動が禁止されているが、これにこれまでなかった罰則規定を設ける方針を固めた。
 改正案では教員の政治的行為の制限に違反に対し、3年以下の懲役又は100万円以下の罰金を科するという。
 完全に教育や思想の自由を奪う"特高警察の復活"的発想だ。
 民主主義国家としてありえない
だろう。

 しかし、何度でも繰り返すが、こういう戦前じみた方針を次々と打ち出して着実に日本を戦争へ突き進ませているのが、安倍首相率いる自民党なのである。
 そして、それまで密告フォーム問題を一切無視していた読売新聞がこのタイミングで名古屋市の教諭の記事を出したのも、あきらかに安倍政権をフォローする目的としか思えない。

 この国の新聞は、戦前戦中にさかんに戦意昂揚の記事を連発し、日本という国を破滅に突き進ませた。
 それとまったく同じ光景がいま、安倍政権下で起きている
のだ。

 事実、この問題について問われた馳浩文科相は、7月12日の記者会見で、
「先生に思い入れが有りすぎ、これが良い、悪いとまで言うのは、やめた方が良い。教職員の偏った一方的な主義主張を押し付けるのではなく、政治的中立を守りながら、子どもたちに主権者としての意識を涵養していく取り組みが必要と思う」と答えた(「エコノミックニュース」7月13日付)。
 ようするに、あれだけ"密告フォーム"が国民から批判されているにもかかわらず、その方針を曲げないということらしい。

 では、安倍政権がいう「政治的中立」は誰が決めるのか。
 その答えは明確だ。
 現在文科副大臣である義家弘介衆議院議員はかつて、石原慎太郎東京都知事(当時)との対談でこのように言い放っていた。

「まず第一に、善悪に関する明確な線引きが必要です。(中略)では、誰が共通の線引きをするのかといえば、私は今こそ国がやるべきだと思っています」(「諸君!」2007年3月号/文藝春秋)

 つまり、教育の「政治的中立」は国家が決める
 そう宣言しているのだ。
 これから安倍政権は教育に関する法律を改悪して、募った"密告"をもとに教員を恣意的に逮捕していくだろう。
 そして、こうした民主主義の根本を破壊する教育介入、思想統制を経て、日本を再び戦争への道へ引きずり込むだろう。
 子どもたちを戦場に送らないためにも、われわれはこの"戦前回帰政権"を一刻でも早く止めなければならない。


2016年7月17日13時0分 LITERA(リテラ編集部)
自民党の教師密告フォームの効果が早くも...
「与党2/3で改憲」「戦争に行くことも」と発言した教師が追及され謝罪

http://news.livedoor.com/article/detail/11775128/

 へぇ〜、大きく伸びをしたはずのヤッホー君、へなへなとその場にへたり込んでしまいました。
 しかし、「子どもたちを再び戦場に送るな」のキャッチのもと、そこに集う教育者がいました!
 アルバイトしか仕事がなくて暮らしが成り立たない若者を戦場に駆り出すなんてもってのほか!
 North Wind にあたたかい太陽の日差しをあてられるよう身近なところでさ、動こう!
 いまの大人でなくって、ましてや中高年でなく、ターゲットは子どもたち、
 子どもたちを洗脳する、その教育に狙いを定め、教育を手中に収めるのは、
 古今東西を問わず、「支配的特権階層」の常套手段とも言えるでしょう!
 ちょっと復習、いやもう、予習です!

▼ 戦争へかりたてた戦前の教育 
 戦前、教育は国民を戦争にかりたてるための強力なテコとして使われました。
その中心は、天皇を神として盲目的に崇拝することを教え、日本を、神である天皇の治める国として、アジア諸国を支配することを正当化し、そのための戦争を「聖戦」として美化することでした。
 子どもたちは、小学校のときから「陛下の赤子」(天皇の意のままに従うもの)となることを教えこまれ、天皇の命ずる戦争で死ぬことをもっとも尊い行ないとして教えられたのです。  

 そのために教育は、完全に国家の統制のもとにおかれ、教材を選ぶ自由もなく、教科書も「国定教科書」でした。
 国語や歴史の教科書には、天皇に「忠義」をつくした人の美談がみちあふれ、子どもたちはいやおうなしに、「天皇崇拝・忠君愛国」の教えをたたきこまれたのです。
 その一方で、天皇に逆らったものは「悪逆非道の徒」などといわれ、戦争に批判的なものには容赦なく「アカ」「非国民」などのレッテルがはりつけられました。
 このような教育とマスコミによる思想動員のなかで、何百万という若者が戦場にかりたてられていったのです。

 そればかりか、教師たちはもっと直接に、教え子を戦場に送る役割をになわされました。
 戦争が激しくなると、中学校生徒にたいしても、少年航空兵、海軍予科練習生、特別年少兵などの志願がつのられ、学校には軍からの割り当てまでおこなわれ、それをみたすことが教師に強要されたのです。
 戦争末期には、もう中学校以上にはまともな授業もなく、生徒たちは兵器工場に勤労動員でかりだされました。 

 子どもたちに生命の尊さを教え、「死ぬな」と教えさとした教師も少なくはありませんでしたが、日本の教師たちの多くは教え子を戦場に送る役割を、無権利のなかでになわされました。
 戦後の教育は、このことへの深い反省とともに出発したのです。

▼ 反動化の危機のなかで
 竹本源治の「戦死せる教え児よ」(注)は、1952年1月、高知県教組機関誌「るねさんす」に掲載された一人の教師の詩です。
 まさに「教え子を戦場に送るな」のスローガンの精神を吐露したものです。 

 この詩が、終戦から7年目の年に、「繰り返さぬぞ絶対に」とあらためて誓いをこめて書かれていることに注目してほしいのです。
 それは、この時期、それを「繰り返させられる」危険が教師たちにせまっていたことを意味します。

 女性参政権の実現、新憲法の制定・施行、教育の民主化など、戦後の日本では、占領下でも民主主義が大きく前進しました。
 しかし、やがてアメリカ占領軍は、日本を「反共の防波堤」にする方向へ大転換します。
 レッドパージの強行、共産党の非合法化、労働運動への分裂策動と反共・右翼再編、朝鮮戦争の開始、米軍基地の強化、そして日本の再軍備のはじまりと、戦争の悪夢をよびおこすような「逆コース」の方向が強まってきたのです。
 そのなかで、教育にも反動化の攻撃がかけられるようになりました。
 「国旗・国歌」の推進、天皇への敬愛の提唱など、戦前への回帰を思わせることが、文部省によってつぎつぎとうちだされるようになりました。

 当時はまた、講和問題をめぐって日本は歴史的な岐路にたっていました。
 アメリカ・西側陣営とだけ講和を結んでその陣営に入る道か、すぺての国との講和(全面講和)で中立の道をゆくのか。

 このような状況のなかで、一時右翼得編の潮流に屈服していた日教組も、しだいにたたかう姿勢をたて直していきました。
 全国の教職員の危機感と良心が、この転換をささえたのです。
 そして、1951年1月の第18回・中央委員会で「教え子を再び戦場に送るな」の歴史的なスローガンが採択されたのです。
 このスローガンとともに、講和と日本の進路について「4つの原則」を高くかかげた決議が採択されました。
 それは「全面講和」「中立堅持」「軍事基地提供反対」「再軍備反対」の4原則です。

 これらの原則のもとに、日本の教職員組合は、日米安保条約反対、基地撤去撤、平和憲法擁護などの課題に、国民的なたたかいの中心をになって、積極的なたたかいを展開したのです。

 それと同時にこの中央委員会では、教育の自主性の擁護、平和と民主主義の教育の確立をめざして教育研究集会を開催することをきめ、この年の2月には、はじめて全国教育研究集会が日光市でひらかれました。

 こうして、平和を守る国民的な闘争の先頭にたつこと、平和を青少年の心に根づかせる教育実践をおしすすめること、この2つの課題はまさに教職員組合運動の大原則となったのです。
 「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンは、過去への反省だけでなく、この2つの原則にたち、未来への決意をしめすスローガンとなったのです。

▼ いまに生きる歴史的なスローガン
 1980年代に入って、教職員組合にふたたび大きな苦難が生まれました。
 あらたな労働運動の右翼再編の攻撃のなかで、日教組にもその策動の手がのび、分裂がもちこまれたのです。

 「社会党一党支持」という路線が最悪の障害となり、社会党の右傾化とともに日教組の右旋回がはじまり、ついに「連合」にとりこまれるにいたりました。
 しかしその激動のなかで、教職員組合連動の積極的伝統を守る潮流によって、全日本教職員組合(全教)が結成されました。
 「教え子を再び戦場に送るな」の初心は、全教のたたかいにしっかりと受けつがれています。

 とりわけ1990年代に入ってから、このスローガンは現実味をもつスローガンとして、新たな意味をもつようにかりました。
 それは、湾岸戦争(1990〜1991年)を契機に、自衛隊の「海外派兵」が現実の問題となってきたからです。
 国連平和維持活動(PKO)協力の名で、自衛隊の派兵をたくらむPKO法、カンボジアへの自衛隊派兵、ペルシャ湾への掃海艇派遣など、つぎつぎと繰りだされる海外派兵合法化のたくらみにたいして、日本の教職員は全教を中心として、組織の違いをこえて、国民共同の中心となって果敢にたたかってきました。

  そしていま、新ガイドライン(「日米防衛協力のための指針」)によって、 教え子たちがアメリカのおこなう戦争に自動的にかりだされることも架空のことではなくなっているのです。
 この 新ガイドラインにたいして、「連合」 加盟の教組の多くも反対を堅持し、たたかう態勢をとりもどしつつあります。

 「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンと、それと同時に確立した「平和についての4つの原則」は、いまこそ新しい輝きをもつ、私たちの不滅のスローガンなのです。


『学習の友』1998年8月号
「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンは、どのように生まれたのか
三上満(みかみ・みつる/子どもと教育・文化を守る国民会議代表委員)

(注)
逝いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ
君を縊ったその綱の
端を私は持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は
汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」


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2016年11月07日

カントの風

 秋晴れにカントの風が吹きわたる、かぁ〜
 North Wind よりいいよね、だって冬のマントが必要ないもん。
 元月刊「PLAYBOY」編集長・池孝晃さんのおなはしを聞きました。
 今日はちょいと訳者池内紀先生のお話しに耳をかたむけてみましょうね。
 荻上(おぎうえ)チキ(男性、1981年生まれ)、
 南部広美(なんぶ・ひろみ、女性、1970年生まれ)、
 池内紀(いけうち・おさむ、1940年生まれ)
の鼎談です。

荻上 なぜ、この時期に訳したのですか?
池内 カントは『純粋理性批判』などの難しい本を残し、専門の人が研究する対象となる、特殊な哲学者。一般の人がなじめるような作品はほとんどない。唯一ことなるのが、70歳の頃の作品『永遠平和のために』。50頁たらずの小さな本で、ちょうど220年前に書かれたもの。
 220年前の平和論ですが、いま読んでも新しく感じる、意味を失っていないもの。
 いまの政治家に読ませたいものです。
 元はドイツ語で、ストーリーの構成は哲学的なもの。言葉遣いも哲学用語で、一般の人には馴染めないものですし、読ませたいと思う政治家はなおさら厚い・難解な本は読みそうもない…
 なので、ドイツ語の原文を元に、哲学用語や構成をときほぐし、意味に戻し、わかりやすい日本語で表現しなおしたら面白いだろうな、と思い、短い作品ながら、本文とそれを補い、220年前の情勢などを付加した補説・付録もあわせ、カントの住んだ街(ロシア領のカリニングラード)への取材もおこない、2年ほど作業にかけた。
 カントも旅行も好きなので、仕事としてはとても楽しかった。


荻上 カントが原文を書いた当時と現在では、国際情勢はいろいろ変化してますよね?
池内 変化しています。でも、戦争をしたがっている国がある、というのは一緒です。
 カントはなぜ晩年これを書いたのかというと…
 人間はいつまでたっても戦争をしたがる。
 カントが生きていたのは18世紀。
 いろんな国が王権や領土、利権を争い、やたらと軍備を増強して、数年〜10年近くかけて戦争をしていた。ヨーロッパ全体がいろんな組み合わせで戦争をしていた。
 それで老いた哲学者は、政治家や国王に対して、業を煮やした。
 なぜ、これだけバカバカしいことを繰り返すのか?
 軍備を常に増強していけば、兵器が非常に進歩する。
 傭兵を貸し付ける業者も出てきた。
 戦争が産業になり、盛んになった。
 ロスチャイルドなどの金融業者がそれでのしてきた。
 多くの死者がでた。
 その状況で、どうすれば永遠の平和が得られるのか?
 どうすれば地球上から戦争がなくなるのか?
 それをカントは考えた。

 カントが述べたことは、220年たった今にも通用することだし、国際連合や、日本の平和憲法である憲法9条もそこから生まれた。

 みんなに読んで欲しい、10代の学生にも読んで欲しい。
 こういうことで国と国の対立を超えられる、平和を維持するとはどういうことか、それが『永遠平和のために』につまってる。
 なので、なんとかわかりやすい日本語にすることが念願だった。


荻上 200年以上前の理性が今でも通用するというのは、理性の凄みを感じるのと同時に、通じてしまう社会の変わらなさも現れるわけですよね。
池内 反語的にはそういうことですね。

荻上 カント『永遠平和のために』の中では、常備軍を否定したり、あるいは、国際的な平和の連合を構想したり、今では部分的に導入されてるものがある。
池内 カントはこの本を政治家に読ませたかった。政治家は忙しいから、大きな本は読まないだろう、小冊子のようなハッキリという、簡単なものでないと読まないだろうとの配慮として作られた。

 第1章は『国と国とが、どのようにして永遠の平和を生み出すか』、それがテーマ。
 その1〜その6まで、そのための問題点を具体的に、短くまとめて展開していく。

 第2章のテーマは『国家間の永遠平和のために、とりわけ必要なことは何か?』
 これをその1〜その3まで語っている。

 原文は予備条項や確定条項など、哲学用語が使われているが、わかりやすくするために、構成を章でわけ、数字で割り振り、道順をつけた。

 内容は…
 例えば、行動派を自称するのはどういう政治家かということを書いてますが、すぐにそれに当てはまる日本の政治家が浮かぶ。


荻上 そうですね。行動派の政治家は責任をとらない、ということを説明するくだり、とか…
池内 そういう政治家の心情・タイプには3つの特徴がある。
 1. まず実行。そののちに正当化。そういう癖がある。
 2. あやまちと分かれば、自己責任を否定。他人・よそのせいにする。
 3. ライバル同士を争わせて、自分の地位を確保する。
 行動派を自称する政治家の特徴はこの3つである。
 すぐに思い浮かぶ。


荻上 野党を分断したり、他の国が先にやってるんだからしょうがないとか、誤解であって伝わらなかったかもしれないとか… こうした言葉の重みを確保しながらも、わかりやすく伝える。想定していた読者は、カントを読んだことがない方?
池内 カントは難しい哲学者というイメージがあったとしてもそれは白紙にしてもらって、
 『永遠平和』というのはどういうことかと感心を持って、
 今求められてる『平和』ってどういうことだろうと興味を持ってもらえ、
 手にしてもらえたらありがたいというのがあります。


荻上 せっかくですから、この一節からいくつか、南部さん紹介してもらえますか?
南部 平和というのはすべての敵意が終わった状態を指している。
 戦争状態とは、武力によって正義を主張する、悲しむべき非常手段にすぎない。
 常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである。
 国家は、所有物でも財産でもない。
 国家はひとつの人間社会であって、みずからで支配し、みずからで運営する。
 みずからが幹であり、みずからの根を持っている。


荻上 うん… こうやって一節を抜き出すと、なにか警句的、アフォリズムのような形で、なにかいい事・深い事言ってる感として読まれる面もあるかもしれませんけど、いろいろ、その後の、カントの補足とかいろいろを読むと、実は、警句的なというよりも、かなり社会的な制度を構想するような観点から書いているんだな、と感じます。訳しながらの作業で、あらためて発見した事などありますか?

池内 発見というか、常に目から鱗が落ちるような、そういう事が多かった。
 それから、アフォリズム… ひとつひとつの言葉の味わいに趣があると…
 これは確かにそう。
 このころの、パスカルを含め、フランスの人たちもそうだけど、非常に、洒落た言い回しが好きで、洗練された言い方をします。
 カントは、難しいだけの先生ではなくて、とっても教養があって、冗談が好きで、いたずらが好きで、生まれた街から生涯でなかった。

 この本は、難しい本でなく、非常に洒落た、オシャレな本という役目がある。

 最後のしめくくりに、決意表明というと野暮ですけど、なるほどな〜 そういう言い方で言うのが一番だなという言葉で、とじてます。

 例えば『永遠平和』は空虚な理念ではなく、我々に課せられた使命である。

 こう言う、自分の考察の閉じ方などが、非常に鮮やかです。


荻上 いま、また繰り返される、定型フレーズな…
 『平和主義は理想であって、われわれは、現実の平和のために軍を、軍備を備えさせようとしてる… 』という話はよくされますけど…

池内 さっきとおなじですよね?
 常に、『平和のために戦争をするんだ』と言うんです。
 大昔から言われてきたフレーズ、決まり文句なんです。
 自己矛盾が極まった表現でしょう?
 それを、多くの人は、おかしいと思わないんです。
 こういう、言葉で持ってる愚かしさを感じさせないのが、政治家なんです。
 そういう政治家たちに対して、この『永遠平和のために』のあちこちが痛烈に当てはまります。

 カントは『国同士が仲良く』というような、情緒的な事はいってません。
 国と国は常に、敵意やわだかまりがあるのが自然な状態。
 それを平和な状態にとどめることが政治。
 そのためには、知恵と工夫、叡智がいる。

 逆に、問題点を指摘し、敵意を煽ることは容易。

 カントは、それをいろんな言い方で述べている。


荻上 『平和のために』というのが、部分的な一部の人しか喜ばない、フレーズ的としての、限定的な『平和』に対して、『永遠平和』というのは、『誰にとっての』という垣根を越えて、思考しなけれな達成できないことですよね。
池内 国際連合の元になったのは、まさにこの本ですが、ヨーロッパの国際連合は、戦後、ずっと議論に議論を重ねて、共同体を作ってきた。
 その努力は、さすがだと感心します。
 今回のギリシャの財政問題でも、議論をきちんとやる。
 はなれている問題点も、議論を積み重ね、うめていく。
 お互いに考え、積み上げてきた関係をどうやって活かすか、という粘り強い議論の仕方は、すごい。
 すぐにさじを投げるのが普通。

 かつて日本が国際連合を脱退した時は、国民は喝采した。
 けれど、完全に孤立した国になった。

 一時的な喝采を得ることは、政治家にとっては楽なこと。
 でも、それは、大きな狂いを生む。

 議論を重ねて、共同体を維持する様は、ヨーロッパが見本を示してる。

 東洋は、仮想敵国を作り、先導するような、危険な状態。


2015年07月31日07:43 ◯ ラジオまとめ #102 TBSラジオ Session-22 2015.7.28
池内紀『なぜ、カントの『永遠平和のために』を訳したのか?』
TBSラジオ Session-22 2015/7/28 
http://blog.livedoor.jp/juntukada/archives/4914648.html

 カントの風〜〜〜
 ヤッホー君が買い求めた文庫版池内紀著『カント先生の散歩』の前、単行本(潮出版社、2013年)についての書評です:

 カントというと謹厳実直な哲学者を思い浮かべる人が多いだろう。
 なにしろ難解な本を書いた人である。
 毎日規則正しく散歩したので時計がわりになったという逸話がいよいよ気難しそうなイメージを強める。

 しかしカントを直接知る同時代人の書簡や回想によると、実際は座をとりもつのがうまい社交好的な人物だったらしい。

 当時の大学の教師には黒ずくめで通したり、身なりに気をつかわない人が多かったようだが、カントは流行に敏感でお洒落だった(本書の表紙はおかしい。もっと派手な服を着せなければ)。
 通いの召使には白と赤のお仕着せを着せていた。
 白と赤が好きだったからだ。

 授業も形而上学、論理学、神学、倫理学といった難しそうな科目だけではなく、自然地理学と人間学という「通俗的」な科目も担当していた。
 この二つはたいそうな人気で、学生以外も聴講にきていた。

 本書は一般向けの本ではあまりふれられてこなかった社交的なカントに焦点をあわせた伝記であり、哲学上の著作にも社交の影響があるとしている。

 著者はまずケーニヒスベルクの繁栄を描きだす。
 カントは生涯ケーニヒスベルクを出ることはなかったが、田舎町とか、北辺の港町と形容されることが多い。

 しかしケーニヒスベルクは700年つづいた東プロシアの首都であり、19世紀になってベルリンが台頭するまでは北ドイツ文化の中心地だった。
 出身者には作家のホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann、1776−1822)、哲学者のハーマン(Johann Georg Hamann、1730-1788)、数学者のゴルトバッハ(Christian Goldbach、1690-1764)やヒルベルト(David Hilbert、1862-1943)がいるし、オイラー(Leonhard Euler、1707-1783)も縁が深かった(「ケーニヒスベルクのブレーゲル川に7つの橋がかかっていました。この7つの橋を1回ずつ渡って,元の場所に帰ってきたいが,どうすればいいか?)。

 ケーニヒスベルク城や大聖堂をはじめとする歴史的建造物が林立し「バルト海の真珠」と称されたが、第二次大戦末期、連合軍の空襲と戦闘で街の98%が破壊された。

 街はソ連に編入されてカリーニングラードと名前を変えられた。
 ドイツ系住民は追いだされ、代りにスラブ系住民が送りこまれた。
 ドイツ系住民は一部はシベリアの収容所に、残りは東ドイツに強制移住させられた。

 同じように破壊されたドレスデンとワルシャワは民族の宝として国を挙げた復興事業がおこなわれ、戦前とたがわぬ街並が再建されたが、ケーニヒスベルクはつまらない田舎町になりさがった。
 ペレストロイカ後、ドイツからの寄付金と要請で大聖堂が復元されたが、市当局はまったく乗り気ではなかった。
 カント廟は奇跡的に無事だったが、現在のカリーニングラードには往時の繁栄をしのぶものはほとんど残っていない。

 著者によれば、ケーニヒスベルク大学はカントの時代までは新興のベルリン大学をしのぐ北ドイツ一の大学だった。
 私講師として不安定な生活をつづけていたカントが他の都市の大学からの誘いを拒みつづけたこともそれほど奇異なことではないのかもしれない。
 南ドイツの大学から教授に招聘された際、カントは身体の虚弱と街に多くの友人がいることを断りの理由にした。

 確かにカントはケーニヒスベルク社交界の人気者で、多くの友人がいた。
 しかし親友といえるのはジョゼフ・グリーン(Joseph Green、1727-1786)ただ一人だったろう。
 グリーンは穀物、鰊、石炭などを手広くあつかう英国人貿易商だったが、独身で遊びには興味がなく、自宅で「かたい本」を読むのが趣味という変わり者だった。
 カントは40歳の時にグリーンと知りあったが(50歳説もある。中島義道『カントの人間学』参照、注)、以来劇場通いやカードゲームはふっつりとやめ、毎日のようにグリーン邸を訪れるようになった。
 名うてのイギリス商人から口づたえに、刻々と変化する現実世界を知らされ、最新情勢にもとづいて「先を読む」コーチを受けていた。
 ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。
 グリーンを知ってのちのカントの生活が大きく変わり、グリーン家通いがすべてを押しのけるまでになったのには、カントにとって十分な理由があった。
 
 グリーンの部下で後に後継者となるロバート・マザビーが二人が議論する場に同席したことがある。
 話題は英国とアメリカ植民地の経済問題で、英国側・アメリカ側にわかれてディベートしたが、英製品ボイコットや印紙条例、フランスの財政破綻などその後の展開を的確に予測していた。

 二人が語りあったのは世界情勢だけではなかった。
 カントは社交の場で哲学の話題にふれることを嫌ったが、グリーンにだけは準備中の『純粋理性批判』の内容を語り、すべての部分で意見を聞いた。
 カント哲学は哲学者カントの頭から生まれたと思いがちだが、そこには二つの頭脳がはたらいていた。
 商都で成功した貿易商の優雅な客間の午後、思索が大好きな二人が、形而上的言葉をチェスの駒のように配置して知的ゲームに熱中した。
 18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの富裕層では国を問わずに見られた現象であって、おおかたの哲学書はそんなふうに誕生した。
 カントの場合のやや風変わりなのは、知的サロンが独身の中年男二人にかぎられていたことである。

 著者は『純粋理性批判』の第一稿には「資本」「借用」「担保」等々の経済用語がまじっていたのではないかと想像しているが、裁判用語が残っていることからするとありえない話ではないだろう。

 カントの時間厳守癖はグリーンの影響だったが、グリーンから学んだことがもう一つある。
 財テクだ。
 カントは貧乏な職人の家に生れ、かつかつの暮らしをしてきた。
 グリーンはカントのわずかな貯えを有利な条件で運用してやった。
 グリーンの薫陶よろしくカントは亡くなった時には一財産残すことができた。

 『純粋理性批判』刊行の5年後、グリーンが亡くなった。
 カントは料理女を雇わず外食で通していたが、店の開いていない日曜日はグリーン邸で食事に呼ばれた。

 親友を失ったカントは同じ哲学部の教授で後輩のクラウスを新たな話し相手にした。
 クラウスも独身だったが、彼を日曜の食事にまねくために料理女を雇うことにした。
 日曜の食事会はしだいに参加者が増えていった。

 著者は『実践理性批判』でグリーンの役割を果たしたのはクラウスではないかとしている。
 クラウスは実際的な道徳説を説いており、『実践理性批判』刊行後に仲たがいしたというから当たっているかもしれない。

 『判断力批判』はどうか。
 もし対話相手がいたとすれば、東プロシア政庁の高官でケーニヒスベルク言論界の影の仕掛人であり、カントの庇護者でもあったヒッペルではないかというのが著者の見立てだ。
 ちなみに彼も独身だった。
 ヒッペルは讃美歌やグリーンをモデルにした『時計男』という喜劇を書くなど多芸多才だったが、没後、マゾ趣味やきわどい挿画のはいった好色本のコレクションが暴露された。
 そういう風流才子が『判断力批判』にかかわっていたというのはなかなか楽しい空想である。


2013年9月19日「書評空間」
〔書評者]加藤弘一(文芸評論家)
https://www.kinokuniya.co.jp/c/20131004102355.html

(注)
 中島義道『カントの人間学』(講談社現代新書、1997/12)
 加藤弘一(文芸評論家)の書評参照:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2013/09/post_367.html


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2016年11月06日

永遠平和のために

 池内紀先生のカント『永遠平和のために』(綜合社よりの単行本は2007年11月、集英社よりの復刊版は2015年6月):

 私のとても尊敬する編集者にIさんという方がおります。
 大手出版社の取締役をしばらく務めたあと、その関連会社の社長に就任。やがて相談役を経て、このほど、長かった編集者生活に別れを告げることになりました。
 出版業界では、そうとうに有名な名編集者のお一人でした。

それは、中身も装丁も美しい本だった
 そのIさんが、「編集者としての最後の仕事」として携わったのが、『永遠平和のために』(イマヌエル・カント著、池内紀訳、発行・綜合社、発売・集英社、定価・本体1300円)という本です。
 120ページほどの、とても小さいけれど、でもほんとうに美しい本です。
(あの安倍晋三氏が使って以来、“美しい”という言葉はずいぶんと貶められてしまいましたが、言葉の本来の意味で、とても美しい本なのです)
 翻訳は池内紀さん、装画は山本容子さん、デザインは木村裕治さん、そして、藤原新也さん、野町和嘉さん、江成常夫さんという3人の写真家の素晴らしい写真が本の中身を引き立てています。
 帯の推薦文は、瀬戸内寂聴さんと江國香織さん。
 まさに、Iさんの編集者人生を象徴するように、当代一流、最高の芸術家たちが、Iさんのために力を結集してくれたような贅沢な本です。
 これほどの人たちに協力してもらえるということは、編集者冥利に尽きる、というものでしょう。

 本の帯に、こうあります。

16歳からの平和論
 この小さな本から「国連」や「憲法9条」の理念が生まれた


 Iさんの想いが込められた文章です。
 これまでさまざまな雑誌や単行本の編集に携わってきたIさんが、最後まで“平和”の意味を探し続け、その表現に苦心を重ねた集大成が、このとても小さな『永遠平和のために』という本なのだと思います。

カントが憲法9条の基を作った…
 Iさんはまた、この本のための宣伝用の文書に、次のように記しています。

<数年前、『新潮』の対談で、浅田彰さん(京大教授)と柄谷行人さん(哲学者)が、憲法9条は、カントの『永遠平和のために』を出発点としているのだ、と言っているのに接した。
 岩波の文庫を読んでみた。むつかしくて、とても読めない。
 これを、なんとか、わたしを含めて、高校生にも読めるようなものにできないものか、と思い、ドイツ文学者の池内紀さんに相談した。
 おりしも、改憲論議が盛んとなった。若い人たちに、ぜひ、自分で考え、自分の意見を持ってもらいたいと思った。
 この本は、その手がかりの基の基になる本だと考えた>

 編集者はよく、黒子(くろこ)だと言われます。黒子とは、歌舞伎の早替わりのときなどに、黒ずくめの衣装でそれを手伝う役目の人のことです。つまり、絶対に必要だけれど、目立ってはいけない仕事です。
 同じように、編集者が表面に出ることは、あまりありません。とくに、単行本の編集者は、著者の陰に隠れた存在に徹することが多いのです。
 名伯楽と呼ばれた編集者は数多いけれど、彼らの業績が一般に伝えられるのは、その職を去って、しかも、彼らが育て、伴走した著者たちが亡くなってからがほとんどです。大成する著者の陰には、有能な編集者が存在する、と言われるのは概ね正しい。
(残念なことに、そんな編集者は、めっきり少なくなりましたが)

 だから編集者の足跡は、こうした宣伝用パンフレットや帯の文章などに、ささやかに残るだけです。それで満足するのが、編集者なのです。
 Iさんも、そういう編集者のおひとりでした。そして、とても頑固な編集者でした。
 どんなセクションにいても、Iさんは、平和の希求という観点を捨てませんでした。平和を阻害するような、戦争への道筋を拓くような本や雑誌の特集に手を染めることは、断固拒否しました。いくら“売れ線”の本であっても、見向きもしませんでした。編集者としての“矜持”です。
 そんなIさんの、これが編集者としての最後の仕事です。
 やたら声高に、反日だとか国益だとか売国奴だとか、はては歴史の見直しまで叫ぶような昨今の出版物の横行に眉をひそめつつ、静かに平和の価値を再認識しようとする本を、ひとりの編集者の記念碑として、そっと私たちに残してくれたのです


風は、200年前から吹いてくる
 さて、ではこの『永遠平和のために』というのは、どんな本なのか。
 まさに、「新しい訳が新しい輝きを放つ」という好例です。小さな本ですから、じっくり向き合っても、ほんの数時間で読み終えられます。だから、何度でも読み返せます。
 3人の写真家の、訳文に合わせた“絵解き”も見事です。それらを見ているだけで、“平和の意味”が心に浮かびます。
 読後、風が吹きます。
 今から200年以上も前、戦乱のヨーロッパに生きた老哲学者の、祈りにも似た平和への渇望が、爽やかな風となって、読者の周りを吹き過ぎるはずです。
 詩人・吉本隆明がかつて書いていました。

風はどこから来るか
 風は過去のほうから来る


 カントの風です。
 カントは、難解なドイツ観念論の祖として有名です。
 『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という、いわゆる3大批判書を著し、批判哲学を確立した偉大な哲学者です。本を読んだことはなくても、その名前だけは知っている、という人も多いはずです。私もそんなひとりです。
 そのカントが、老境71歳のときに世に問うたのが、この小さな冊子『永遠平和のために』なのです。
 戦乱のヨーロッパにあって、パンドラの函の底に残っている“希望”を見つける努力が結実した本なのです。
 しかし、カントという名前から来る重い圧迫感は、この本にはありません。
 池内さんの柔らかな訳文が、砂に吸い込まれる水のように、読む者の頭に沁み込んでくるのです。

 本文はきわめて短い。
第一章・国と国とが、どのようにして永遠の平和をうみだすか。
第二章・国家間の永遠平和のために、とりわけ必要なこと。
 これに、補説、付録、がついている、というとてもシンプルな構成です。

 第一章は、私なりの要約では、
@ 国際間協定について
A 植民地主義(領土拡張主義)の否定
B 常備軍の廃止
C 戦争経済(国債、借款)の否定
D 内政不干渉
E 謀略の禁止
 ということになります。

 現代世界でも遵守しなければならない事項が、きちんと整理されています。
 とくに目を引くのは、むろんB 常備軍の廃止です。
 浅田・柄谷の両氏が「憲法9条の出発点」と述べた理由が、これでお分かりでしょう。

永遠平和はわれわれに課せられた使命である
 いま私たちが置かれているこの世界、この戦火の止まない地球上の国家というものの存在・役割を、老カントはきわめて明確に見透していました。
 まさにカントは“預言者”だったのです。
 預言は、「付録」の部分でも、見事に発揮されています。
 ここでは主に“政治とモラル”について語られます。

 モラル崩壊の政治が、いかに悲惨な結果をこの地上にもたらすか。

 それは、私たちの国の政治の崩壊寸前の現状を前にすれば、一目瞭然でしょう。
 武器調達をめぐる、あまりに汚れた政官財の密着・癒着・虚偽・不正。
 戦争(の道具)が人間を堕落させ、品性をドブに落とし込むことの証明を、私たちは最近、毎日のように見せつけられているではありませんか。
 人を殺すための道具が、いつの世でも、もっとも巨大でもっとも汚れた利益を生みだす。
 群がる者たちが手にするのは、人間の血が染みた札束。

 多分、カントの時代でも、同じことは起こっていたのでしょう。
 しかし、カントはそれでもなお、希望とそこに至る道筋を考え続けたのです。
 それがこの本です。
 そして、そこに新しい装いを与えてもう一度、カントの希望を世に送り出そうとした編集者の想いを、私はきちんと受け止めようと思うのです。

 本書の最後に、カントは次のように語っています。

 「永遠平和は空虚な理念ではなく、
       われわれに課せられた使命である


 ぜひ、この本を読んでいただきたいと思います。
 そして、編集者の魂にも触れてほしいのです。


071128upマガジン9条「デスク日誌」
『永遠平和のために』と、ある編集者
鈴木耕
http://www.magazine9.jp/desk/071128/071128.php

 敗戦を告げる玉音放送から70年7カ月と14日。月刊「PLAYBOY」など雑誌編集の最前線で大衆と向き合い、18世紀ドイツの哲学者、カントの名著「永遠平和のために」の新訳本を世に送った編集者は何を見てきたのか。今、何を語るのか。戦後の安全保障政策を転換する安保法が施行される29日。その言葉に耳を傾けた。

― 9年前に企画・編集した「永遠平和のために」が今、読まれているそうですね。

 カントの著作を、ドイツ文学者の池内紀さんにわかりやすい言葉で抄訳してもらい、2007年に出版しました。以後、絶版のような状態でしたが、安保法案が話題になっていた去年6月に復刊されました。じわじわ売れて3刷になったそうです。

― 積極的平和主義を掲げる安倍晋三首相にも、ぜひ読んでほしいですね。
 じつは、お渡ししたんです。復刊直後の7月15日、安保法案が衆院の委員会を通過した夜のことです。池内さんと私、担当編集者の3人で、東京・赤坂のそば屋で食事をしました。周囲には黒塗りの車がとまり、報道陣も集まっていました。店に安倍さんがいたんです。この本は彼にこそ読んでほしいと話していたので、おかみさんを介して差し上げました。こんな偶然って、あるんですね/span>

―その安保法が施行されます。カントは何と言うでしょう。
 平和への歩みは遅々としているけれども、いつか永遠の平和が実現するのを期待して歩むことが大事なんだ、とカントは言っています。人類の歴史は戦争の歴史だからこそ戦争のない社会を、と理想を掲げたんですね。隣り合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとって『自然な状態』ではなく、敵意で脅かされているのが『自然な状態』である。だからこそ、平和状態を根づかせなければならない、と。共通の敵でもない別の国を攻撃するために軍隊を他国に貸すことがあってはならない、とも言っています。まさに集団的自衛権のことでしょう。

― 戦後日本の安保政策の転換点になります。
 この70年あまり、僕たちの国は一度も戦争をしなかった。カントが照らした道を世界で最も忠実にたどったのは戦後の日本でしょう。転換点を迎える今、思い浮かぶのはカントのこんな一節です。『たまには、老哲学者の言葉に耳を傾けてはどうか』

― この本を編もうと思い立ったのはどうしてですか。
 2003年3月のことです。米国のイラク爆撃の様子をテレビで見ました。映像がすごくリアルで、それはもう驚きでした。

― 戦争と平和を論じる本が売れる、という編集者の嗅覚(きゅうかく)が働いた、ということですか。
 最初に思ったのは、あの爆撃の下には普通の人びとが暮らしているということです。身がすくむ思いでした。幼い頃、戦地で負傷した叔父が帰ってきて土間に担ぎ込まれた時、近所の人が集まって、ものすごくざわついた雰囲気だったのを覚えています。焼夷(しょうい)弾から逃げて転んだ祖母は腰の骨を折って、寝たきりになった。そんな記憶がいっぱいある。戦争が普通の人々の生活や人生を大きく変えるということは、やはり覚えておかねばなりません。

― そんな経験を……。
 戦争というのは、体験するのとそうでないのとでは全然、違うんですね。60年安保の時、僕は大学生でしたが、運動に参加した同世代も多かれ少なかれ、戦争を体験していました。戦争が終わり、これからは希望を持って、それぞれの道を歩もうという時代でした。けれども、岸信介首相は米国との同盟を強め、平和憲法を変えようと考えていました。だから安保に反対だ、と。
 しかし、70年安保の中心になったのは戦後生まれの団塊の世代です。当時、『戦争を知らない子供たち』という曲がヒットしました。まさに戦争を知らない若者たちの一部が、過激な暴力闘争に突入し、1972年に連合赤軍のあさま山荘事件が起きます。警察が鉄球で建物を壊す場面で、どこかのテレビ局がサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』を流していたのを覚えています。こんな闘いの先に、どんな夢や希望があるのか、僕にはさっぱり理解できなかった。


― その後、創刊に関わった月刊「PLAYBOY」日本版の読者は「戦争を知らない」若者たちだったのでしょう。
 米国版の翻訳とオリジナルの記事で編集しました。白人女性のヌードグラビアが話題になりましたが、藤原新也さんら当時の若手写真家によるアジアやアフリカの写真紀行、三島由紀夫に関するスクープ記事など政治や社会、文化まで硬派な記事を並べました。エロからサルトルまで、です。
 じつは、日本で若者が立ち上がる日は、もう来ないだろうと思っていました。でも、政治的に挫折しても問題意識を持つ若者の関心に応えたかった。権力に敗れた若い人たちに、世界へ飛び出して目を開いてほしかったのです。1975年5月21日に発売された創刊号は、45万8千部がその日の午前中に売り切れました。


― エロと哲学。まさに雑誌という感じがします。
 ところが、80年代に入ると、若い人たちは自分の半径3メートルにしか関心を向けなくなった。政治的闘争なんて、どこにもないのですから、当然かもしれません。ファッション誌やサブカルチャー誌が好まれ、若者は政治や社会を語ることを退屈だと考えるようになったようです。
 1986年、僕は46歳で書籍編集へ移り、好きだった欧州の作家の翻訳書を手がけます。プルーストやジョイスなどです。政治的な闘争に参加するより、本を読んでいたいというクチなので楽しかったですね。/span>

― しかし、と。
 僕が若い人たち相手の仕事を離れて、好きなことをしている間に、戦後生まれが7割を超え、戦争体験を持つ政治家も次々に政界を去っていった。自衛隊もイラクに派遣され、長く戦争とは無縁だった日本がそうもいかない感じになってきた。僕は編集者として何をやっていたのか、と考えました。子会社・綜合社での定年も見えはじめたころです。編集者人生の最後の1冊で若い人たちに何かを残したい。そう思った時、手に取ったのがカントの『永遠平和のために』でした。日本の憲法がその精神を受け継いでいる、と聞いたからです。

― 自信作ですね。
 難解な書ですが、平易な言葉で若い人に伝えたい。そう考えているうちに、2006年に安倍さんが首相になって、憲法改正を堂々と唱えた。戦後生まれの政治家の言葉に、頭を殴られたような気がしました。僕に残された時間は少なかった。カントを早く出したい、と焦る思いでした。刷り上がったのが07年11月、ちょうど定年退職の日です。安倍さんは出版の2カ月前に退陣していましたが

― 返り咲いた安倍首相は、1016年3月29日に施行される安保法が平和をもたらす、と訴えます。
 カントは行動派の政治家の特徴として『まず実行、そののちに正当化』『過ちとわかれば、自己責任を否定』と述べています。また『力でもって先んじなければ、力でもって先んじられると主張する』という指摘にもハッとさせられます。他国への侵略に絡んでの指摘なので安倍さんとは前提が違いますが、力でという発想は重なるようにも見えます。しかも、こうした主張を受け入れる国民が少なくない。多くの人にとって、僕が体験した戦争はもう、遠い出来事になっているのでしょう。

― 2016年夏の参院選では、18歳が選挙権を持ちます。戦争どころか、バブル景気も知らない世代です。

 18歳は、憲法改正の国民投票もできますね。だからこそ、自分の考えを持って政治に参加してほしい。そのために世界にはこんな考えもあるということを知ってほしい。今の日本は、200年前、遠い欧州の哲学者が唱えた『永遠平和のために』という呼びかけに応えているか。自身で考え続けてほしいのです。

いけたかあき、1939年生まれ。62年集英社入社。78〜82年まで「PLAYBOY」日本版編集長。文芸出版部取締役を経て、綜合社(当時)社長。2007年退職。 
 
■ 理性とユーモア、本質突く 上智大学教授・寺田俊郎さん
 「永遠平和のために」は、哲学者カントが亡くなる9年前、71歳のときの著作です。
 1724年生まれのカントが生きた18世紀は戦争が絶えませんでした。オーストリアがフランス、スペイン、スウェーデン、ロシアと結び、プロイセン、イギリスと戦った七年戦争など、ヨーロッパのほぼすべての国が戦争と関わり、時とともに死者が増えていくような時代でした。カントの言葉を借りれば、平和があるとすれば「墓場の平和」だと思われるような時代です。
 この本は、こうした戦乱期を生き抜いた老哲学者が、平和に向けた提案を世に問うたものです。理性によって考える道筋をつくったカント哲学の集大成、思索の結晶と言っていいでしょう。
 カントは、今でいう民主主義的な社会と、国籍にとらわれない世界市民の精神が「永遠平和」をもたらす、と訴えました。コスモポリタニズムと呼ばれます。高いモラルに支えられた崇高な理念には「絵空事」といった批判もありますが、きわめて現実的な思考の持ち主でした。
 たとえば、世界市民社会を実現するには一気に国境をなくすのではなく、あくまで国民国家をもとにすべきだと考え、国際連合を構想しました。また、紛争解決の手段としての暴力は否定しても、自衛のために武器を取ることは否定しませんでした。
 この著作を出したのは、国王が検閲を復活させるなど政治的な圧力がかかる中でのことでした。平和を唱えることはおのずと時の為政者との対決を意味します。それでも、ユーモアや諧謔(かいぎゃく)のオブラートに包みながら、巧みに、鋭く本質を突く言説を展開したのです。
 「政治家たちは、哲学者は夢のようなことばかり言う、とバカにしている。だから、私が夢のようなことを言っても目くじらを立てないでもらいたい」と皮肉を込めた言葉も残しています。
 「永遠平和のために」は冷戦後の新秩序を模索するなかで、刊行200年となる1995年ごろから、あらためて世界で読み直されています。カントは、理性的な思考力だけでなく、ジャーナリスティックな目と人間への鋭い洞察力を備えていました。だからこそ、その言葉は時を超えても色あせないのだと思います。
 (聞き手はいずれも諸永裕司)

てらだとしろう、1962年生まれ。専門は哲学。共著に「カントを学ぶ人のために」「世界市民の哲学」など。
*****************************
 上記は、今朝の朝日新聞の「オピニオン」に掲載された『(インタビュー)永遠平和と安保法、元月刊「PLAYBOY」編集長・池孝晃さん』の全文である。

 このインタビュー記事でわたしが最も注目すしたのは、次のような一文である。

―その安保法が施行されます。カントは何と言うでしょう。
 平和への歩みは遅々としているけれども、いつか永遠の平和が実現するのを期待して歩むことが大事なんだ、とカントは言っています。
 人類の歴史は戦争の歴史だからこそ戦争のない社会を、と理想を掲げたんですね。
 隣り合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとって『自然な状態』ではなく、敵意で脅かされているのが『自然な状態』である。
 だからこそ、平和状態を根づかせなければならない、と。
 共通の敵でもない別の国を攻撃するために軍隊を他国に貸すことがあってはならない、とも言っています。
 まさに集団的自衛権のことでしょう


 カントの『永久平和のために』という著作は、カントが人類がいかにして「自然な状態」から脱して、「理性的」に去勢共存を果てしていけるのかを書き遺した著作であり、永久平和を実現するためには、人類が一切の武器、武力を放棄することにあるとした、まさしく人類の名著≠フ一冊である。

 わたしは学生時代、このカントの『永久平和のために』の精神が『日本国憲法』第九条として結実していると習った記憶がある。
 だから『日本国憲法』第九条は、戦後の日本国民が世界に誇るべき、人類の宝≠ナあると習ったことを覚えている。

 小熊英二氏は、戦後の憲法の精神である、国民主権・平和憲法の国≠ェ戦後日本の国家のアイデンティティ≠ノ当たると語られる。
 国家のアイデンティティ≠ニは、たとえば、アメリカならば自由の国<tランスならば、自由・平等・博愛の国≠ェそうであろうし、日本ならば、戦後の憲法の精神である、国民主権・平和憲法の国≠ェそれに当たると語られるのである。

 小熊英二氏が語る 、戦後の憲法の精神である、国民主権・平和憲法の国≠ェ戦後日本の国家のアイデンティティ≠ヘ、日本国民の国家のアイデンティティ≠ニ当時に、人類の永久に希求する理想≠ネのである、人類の永久なる祈り≠ネのである。
 わたしたちが『日本国憲法』第9条には、全人類の永久に希求する理想≠ニ人類の永遠なる祈り≠ェ背景に存在することを忘れてはならないのである。

 今朝の朝日新聞に掲載された『(インタビュー)永遠平和と安保法、元月刊「PLAYBOY」編集長・池孝晃さん』という記事を読んでそんなことを考えたのである。

http://open.mixi.jp/user/26450852/diary/1951528220

 18世紀の哲学者カントの『永遠平和のために』を、ドイツ文学者池内紀さんが新訳した。
 16歳から読めるようにと簡明な日本語を意識した文章はじかに語りかけるようで、時をこえた平和の理念がくっきり見えてくる。

〈あるオランダの宿屋だったが、看板に「永遠の平和(やすらぎ)亭」とあって、わきに墓地の絵が描かれていた〉

 気のきいたエピソードからはじまる平和論は、
「国と国とが、どのようにして永遠の平和を生み出すか」
「国家間の永遠平和のために、とりわけ必要なこと」
の2章からなる。

「将来の戦争を見こして結んだ平和条約は、平和条約ではない」
「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」
「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」……。

 複雑な構文や哲学用語にこだわらない文章は、深い問題意識と人間理解、ユーモアがある。
 池内さんはカントが生まれ終生暮らした町にかつて滞在したことがある。

「哲学は専門ではないが、伝わるエピソードなどからその人となりを身体で感じた。そこで、カントがいま対話して地の声で語ったら、という想定で訳しました」
と語る。
 検閲をはぐらかすためにカントは「のんきな夢をみている哲学者のひとりごとなのか」ととぼけたが、その夢は国連や日本の憲法9条にもつながっている。
 本ではカントの言葉を藤原新也さんらの写真と組み合わせ、手にとりやすくした。
 発行元の綜合社社長を最近退いた池孝晃さん(68)が企画した。
「45年の編集者生活の最後に若い人たちのために何か残したかった。できれば、哲学者の言葉を響かせたい」
 発売元は集英社。1300円+税。


2007年12月20日付け朝日新聞
16歳でも読めるカントの平和論 池内紀さんが新訳
http://book.asahi.com/news/TKY200712200084.html

 哲学者カント、71歳の小著(池内紀訳)。
 国際的な平和連合の結成を訴え、現在の国際連合の前身にあたる国際連盟の結成に理念を与えたとして知られている。
 約20年前に岩波文庫の改訳、2006年には新訳が光文社新訳文庫で出ている。
 今回の新味は、「のんきな夢をみている哲学者のひとりごとなのか」と当人の生の声が聞こえるかのような池内紀のこなれた訳文と、その言葉をアフォリズムとして藤原新也・野町和嘉・江成常夫の写真と大胆に組み合わせたイメージ豊かな前半部にある。
 心に響く一節と印象的な写真のコラボレーションで若い世代にカントを繙(ひもと)かせようという編者のアイデアは斬新だ。
 だが評者には、直訳のこわばりを解いてくれたお陰で、従来語られてきた「戦争放棄」「民主主義」「理想主義」とは異なる文脈が浮かび上がったように感じられたのが収穫だった。
 18世紀のヨーロッパでは各地で戦争が続き、本書が発表された1795年は、フランスとプロイセンが「バーゼル平和条約」を結んだ年でもある。
 カントは1781年から『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』と続く三批判書を出版、人間の自然に対する認識から意思の自由、道徳のあるべき姿へと思索を進めていたが、その内省的で強力無比の哲学を戦火にまみれた現世にぶつけた成果が本書であった。
 だから本書には、カントの達した境地が詰まっている。
 人間は理性を有し道徳に従う意思力を持つがゆえに、尊厳ある人格性を認められる。
 人間はつねに目的とされるべきであって、手段とされてはならない。
 また、そのためには道徳律として理解したルールにはみずからも従わねばならない。
 本書のミソは、人間の尊厳を保ち人が人を殺す道具に見立てる戦争から遠ざける方策として、道徳の裏づけのある「法の支配」を持ち出した点にある。
 「法の支配」とは、立法と行政を分離し、行政に気ままに権力を振るわせない立場である。
 カントはそれを共和主義と呼び、君主制や貴族制に親和性を持つとした。
 先日邦訳が出たJ・ポーコックの『マキャヴェリアン・モーメント、フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』(注1)が詳説するように、16世紀以降の西欧ではギリシアの共和主義思想が再評価されていた。
 カントの平和主義もまた、そうした共和主義の一齣だったのだ。
 民主主義は不同意の少数者を無視し、立法者が思うままに執行できる専制になるという
 ヒトラーの出現を、百年以上前に言い当てていたのだ。
 「兵士が戦争を早く終えたがるよう常備軍ではなく民兵を」、
 「対外紛争のために国債発行をしてはならない」
という本書の主張も、18世紀イギリスで共和主義者たち(ハリントニアン)が唱えている(注2)。
 そして「法の支配」を国際社会にも適用したのが、民族間で国際法を締結し平和のための国家連合を広げるというアイデアだった。
 戦争放棄は、カントの目的ではあるが方法ではない。
 正義を主張する国同士がぶつかると戦争は避けられない。
 そこで各国に正当性を公開の場で表明させ、戦闘を法の下に置き、闘っても、相互の信頼を損ねないまま終結に向かわせよう、というのである。
 本書の執筆動機は秘密条項を含むバーゼル平和条約への批判だといわれるが、公開性の原則に反し戦争を永久に終わらせるには道徳を欠いていた点で、「法の支配」の誤った運用例と思われたのだろう。
 9.11後の世界は、まっとうな法に服しているのか。
 カントは我々にそう問いかけている。


2008.3.30付け毎日新聞
◇〔今週の本棚〕松原隆一郎(注3)評
『永遠平和のために』(イマヌエル・カント著、池内紀訳/綜合社/集英社)

(注1)名古屋大学出版会
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0575-3.html
(注2)関西大学・安武真隆論文「ポリス・抽籤・民主政―西欧政治思想史における「共和主義」理解をめぐって」
http://www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/publication/report/asset/sousho147/147_02.pdf
(注3)「思考の格闘技」
http://www.sikounokakutougi.sakura.ne.jp/


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池内紀

 11月5日土曜日のヤッホー君、eチャリで日比谷公園へ徘徊。
 紅葉の兆しがほら:

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 前日の金曜日に開館5周年を迎えたばかりの日比谷図書文化館!

 「日比谷図書文化館」は、2016(平成28)年11月4日に開館5周年を迎えます。
 「図書館機能」「ミュージアム機能」「文化活動・交流機能」「アカデミー機能(カレッジ)」を兼ね備えた複合文化施設、その四つの機能により本や資料を提供するのではなく、“想像力”や“好奇心”を刺激して、能力を引き出すお手伝いをする施設、つまり「知の拠点」となることを目指しています。
 この度、開館5周年にあたり日比谷図書文化館にふさわしいテーマの記念講演会を開催します。
 講演会1.野波健蔵さんと未来を読む ドローンが変える社会
 講演会2.再読の愉しみ

2016年9月20日更新、千代田区の公式サイト
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/koho/pressrelease/h28/h2809/h280920.html

 ヤッホー君が座ったのはこの「講演会2」のほうです。
 なぜって、池内紀『ひとつとなりの山』(光文社新書、2008年10月)を購入し読んでいたから。

 ひとつとなりがいい──と、本書の冒頭で池内紀さんは書いている。

 深田久弥の『日本百名山』に載っているわけでもなく、多くの登山者が行列をなして登ることも決してない山。
 熊笹が少し生い茂っているくらいの、普段はあまり人の来ない山。 

 静けさに満ちた登山道をゆっくりと、着実に、周囲の風景や植物を楽しみながら登る。

 20の山をめぐるエッセイが収められた『ひとつとなりの山』は、そんな〈ひとり登山〉を愛する著者の眼差しやユーモアに、ほっと癒される一冊だった。

 一つひとつの旅にはもちろん、それぞれテーマがある。

 ただ、そこは〈若いときはともかく、ある程度トシをとると、山とのかかわり方も、「ひとつとなり」がいい〉という著者のこと。

ピークハンターのように山頂ばかりめざさない。途中のどこかを自分の山頂にして、そこで切り上げてもいいのである

 あくまでも興味の赴くまま、山で見つけた逸話や出来事が、ふとした調子で描かれては後景に退いていく。

旅はつくるもの、材料は好奇心
 宿の主人が噂していた幻の魚を追い、名もない湖を大雪山系の秘境に探した一日。
 青森県の戸来岳ではキリスト伝説を検証しつつ、ツルの絡まったブナの古木の前でしばし足を止める。

 早池峰山を宮沢賢治の詩とともに登れば、長野県の独鈷山で「にわか修験道者」となり、槍ヶ岳のとなりの燕岳では「山で一泊 麓で二泊」の贅沢な旅程を組む。

 とことん深入りするようなことはないが、といって横目で見ながらあっさり通り過ぎるわけでもない。
 あれこれと思いを巡らせていた矢先、広大な風景が目前に現れて言葉を失うこともある。
 ドイツ文学者であると同時に旅エッセイの名手とも呼ばれる著者の筆致は、「旅人」としてのバランス感覚や、程よい好奇心の打ち出し方を教えてくれているかのようだった。

 併せて著者の『ひとり旅は楽し』(中公新書)を読んでいると、こんな記述に出会った。

実をいうと、ひとり旅にとりわけ欠かせない必需品がある。無限の好奇心であって、それを自分なりに表現する。そのときはじめて旅が自分のものになる。(中略)旅はするものではなく、つくるもの。旅の仕方で、その人がわかる

 では池内さんはこれら「ひとり登山」の旅を、どのように「自分のもの」にしていくのだろうか。

 「山ごころ」や「山の心」という表現が本書ではときどき使われる。。。


2008年12月24日(水)付け日経ビジネス「新書レビュー」
山頂だけを目指さない生き方〜『ひとつとなりの山』池内紀著
評者:稲泉連(注)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081222/181029/?rt=nocnt

 著者の池内先生はドイツ文学が専門だが、40年前に大学教養部で先生のドイツ語の授業を受けたことがある。
 ユダヤのジョーク集がテキストだった。
 どうして教養の語学の先生の名前を覚えているかというと、30歳前ですでに新進気鋭の学者として知られていたからである。
 その後、ドイツ文学者、エッセイストとして活躍され、多くの著書や訳書があり、さまざまな賞を受けられた。

 山好きでも知られ、50歳近くになって再開した山行きを、「小説宝石」に連載したものをまとめたのが本書である。
 「ひとつとなりの山」とはよく知られた山のひとつとなりで、静かな山のことである。
 そういう山をゆっくりとマイペースで「ひとり登山」で登る。
 そういう山行きが20ヵ所掲載されている。

 関東以北の聞いたことのない山が多く、私が登ったことがあるのは、燕岳と蝶ヶ岳である。
 著者は蝶ヶ岳では、蝶ヶ岳ヒュッテに2泊している。
 また、燕岳では、ふもとの温泉に前後2泊するという余裕のある山行きである。
 地元の人との交流や、人間観察がおもしろい。
 昔の本などを紹介する博学ぶりにも驚かされる。

 兵庫県の雪彦山が取り上げられているが、池内先生は姫路の出身である。
 小学生の頃に登った時の様子が書かれている。

 頂上をめざさないゆったりとした山行きには、あこがれるがなかなか余裕がない。
 いつか自由な時間がとれるようになったら、そんな山行きをしてみたいものである。
 かって登ったことのある蝶ヶ岳を再訪したいと思っているが、あわただしいスピード登山になりそうである。


2009-03-27 23:38、noriさんのひまつぶ誌
池内紀著「ひとつとなりの山」
http://nori126m.exblog.jp/9519648/

 先生のお話にとても惚れ込んでしまったヤッホー君、気が付いたら先生がサインと絵コンテを書いて下さるという長い列に並んでおりました。
 一冊目はお話しとも関係するであろう岩波新書『文学フシギ帖、日本の文学100年を読む』(2010年7月)!
 もう一冊は、イマ若い人にも再読されていて注目のまと、カントの『永久平和のために』を訳された際のエッセーが載っている、今年2016年の7月に出版されたばかりの潮文庫『カント先生の散歩』!

(注)稲泉連(いないずみ・れん)は1979年生まれ。1995年に高校中退後、大検を経て早稲田大学第二文学部へ。2002年3月に卒業。『文藝春秋』1997年10月号掲載の『僕が学校を辞めると言った日』によって、第59回文藝春秋読者賞を受賞。

 僕は高校を1年で中退し、大検から第二文学部に入学している。
 1度留年したせいで大学には5年間通った。
 その中で、心に残っている教授の言葉が2つある。
 思えば、それらも、決して『教育者』としての教授の口から語られたものではなかったのではないか。
 例えば、1つは大学に入って間もないころ、社会学系の講義で聞いた次のような言葉だ。

 「私の授業は君たちがこの学問に興味を持ったとき、自力で1冊の専門書が読めるようにするための授業だから、そのつもりで聞いてくれればいい

 そして、もう1つは文学に関する講義で。

 「大切なのは今まで正しいと思っていたことを検証すること。それだけで、いろいろなことが見えてくる。この講義ではその証拠を少しでも多く皆さんに提示できればと思っています

 ただ教科書を頭に叩き込むような勉強をしてきた僕は、妙な感激を抱きながら彼らの話を聞いていた。
 次に何が語られるのかと、講義への期待感がわきあがってくるのが嬉しかった。
 おそらく、僕が惹かれたのは2人の言葉そのものにではない。
 むしろ、彼らが『教育者』であろうとはせず、学問の面白さを少しでも伝えようと試みる1人の語り手に徹している姿勢に、惹かれたのだ。

 その時に胸の裡に小さく芽生えた好奇心や知識を得たいという欲求は、ある日社会の中で思い悩んだり立ち止まったりしたときに、進むべき道を選び取るための大きな力へと変わるはずだと僕は思う。
 そして同時に、豊かな「教育」の現場とは、そうした力を生徒に与える「語り手」たちの言葉の一つひとつから、結局は形作られていくしかないのだと信じている。

稲泉連著『僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由』(文藝春秋、2001年)
稲泉連著『僕の高校中退マニュアル』(文藝春秋、1998年)


2002年6月10日掲載、新鐘66「早稲田に聞け!シリーズ2教育」
特別寄稿『教育者』なんて言わないで
第二文学部2002年卒業 稲泉連
http://www.waseda.jp/student/shinsho/html/66/6620.html


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2016年11月05日

a multibillionaire Las Vegas casino tycoon

 国際化とかグローバリゼーションとか、要は国民生活がオオタカでなく、ハゲタカによって食い荒らされること、さ、はじまりますが、そのまえにも少し、支配的特権階層にのぼりつめたこの人物についてみていきましょう:

Kirk Kerkorian, the son of poor Armenian immigrants who used his gambler’s instincts to become a multibillionaire Las Vegas casino tycoon, Hollywood mogul, airline owner and auto industry investor, has died at age 98.

Kerkorian, who founded MGM Resorts International and was its largest shareholder, died in Los Angeles on Monday night, the company said in a statement on Tuesday.

He passed away after a brief illness, the Las Vegas Review-Journal reported.

Kerkorian had little formal education and dropped out of school at age 16. In his youth he was known as “rifle right Kerkorian” for his punching power as a small-time boxer. He would become an enduring American business heavyweight with a knack for placing winning bets in the corporate world.

Last month, Forbes magazine estimated Kerkorian’s wealth at $4.2bn (£2.7bn) after he took a hit on his investments in 2008, when the magazine said he was worth $16bn (£10bn).

Three different times – in 1969, 1973 and 1993 – Kerkorian built the world’s biggest hotel in Las Vegas, where he first made his fortune in the 1950s and 1960s.
On his way to becoming a casino magnate, he befriended Rat Pack stars Frank Sinatra, Dean Martin and other Las Vegas headliners.

Kerkorian owned some of the biggest and best-known Las Vegas hotels and casinos, at one time owning more than half the hotel rooms on the Las Vegas Strip. He also was instrumental in turning Las Vegas into a family destination rather than merely a pleasure spot for adults.

Kerkorian bought and sold the MGM film studio three times, acquired the United Artists studio and tried to buy Columbia Pictures.

Yet, even as a studio chief, he would stand in line to buy movie tickets at a theatre with everyone else rather than attend private screenings.

Kerkorian mounted high-stakes pursuits of US car manufacturers but never acquired one. He twice tried to buy Chrysler, triggering a massive legal tussle, and made big investments in General Motors and Ford.

He was a skilled aviator who flew dangerous missions delivering warplanes from Canada to Britain during the second world war and later opened a charter flight business serving gamblers wanting to get from Los Angeles to Las Vegas more quickly than a 10-hour drive.

He began buying property in Las Vegas in 1962 after selling his charter airline, which he later repurchased, and was on his way to becoming a Las Vegas power player.

“When you’re a self-made man you start very early in life,” Kerkorian once told the Las Vegas Review-Journal. “You get a drive that’s a little different, maybe a little stronger, than somebody who inherited.“

He later bought and sold airlines including Western Airlines, started the failed luxury airline MGM Grand Air and launched an unsuccessful bid for Trans World Airlines.

In the business world, he was known more for making a deal than for nurturing a company over the long haul, often taking a major risk, reaping the benefits and getting out. For example, MGM under Kerkorian often languished artistically and even sold off such items as its studio lot and movie props including Dorothy’s ruby slippers from The Wizard of Oz.

“He’s a born gambler with a sixth sense for sniffing out value,” former auto executive Lee Iacocca, who joined Kerkorian in the unsuccessful Chrysler takeover bid in 1995, told the Los Angeles Times in 2005. “Doing deals is what keeps him alive.”

Kerkorian agreed. “I’m a gambler at heart,” he told the Times. “That’s my life.”
The only other person with a CV like his – an aviator and owner of an airline, film studio and Las Vegas casinos – was billionaire recluse Howard Hughes, who died in 1976.

Kerkorian enjoyed the Las Vegas lifestyle and his second wife, Jean Maree Hardy, was a Las Vegas showgirl. They had two daughters, Tracy and Linda, whose names he combined to create the name of his holding company, Tracinda, and his charity, the Lincy Foundation.

Kerkorian remained vigorous into old age. He was an avid tennis player despite not starting until age 50, and liked to play lengthy doubles matches with friends in Beverly Hills.

Kerkorian’s third wife was former women’s professional tennis player Lisa Bonder, who was 49 years younger than him. They were married for just 28 days in 1998 and went through a child support fight in 2002.

Court papers showed Bonder falsified a DNA sample in order to claim Kerkorian was the biological father of her daughter. DNA tests later revealed Hollywood producer Steve Bing as the father. A security guard working for Kerkorian took dental floss from Bing’s rubbish to obtain the crucial DNA sample.

Kerkorian testified in 2008 in the trial of his lawyer, Terry Christensen, who was convicted of conspiring to wiretap Bonder during the dispute. Bonder had sought $320,000 in monthly child support for her then-3-year-old daughter, including $144,000 for travel, $14,000 for parties and play dates, and $436 for care of the girl’s rabbit and other pets.

In 2014 the Las Vegas Sun reported that at age 96 Kerkorian had married Una Davis, who was many years younger.

Kerkorian’s charitable work has included hundreds of millions of dollars in support of Armenia. He started providing medical and other supplies following a damaging 1988 earthquake in Armenia and helped build homes and repair infrastructure.

Kerkorian avoided public events, usually shunned publicity and rarely spoke to the media but was not a recluse.

He was born as Kerkor Kerkorian in Fresno, California, on June 6, 1917, the youngest of four children of Armenian immigrant parents. His family lost its farmland amid financial difficulties in the 1920s and he had to work to help out.

Kerkorian was sent to reform school and dropped out at age 16. A friend with whom he worked installing furnaces changed his life by taking him on a flight in a single-engine plane. Kerkorian then paid for flying lessons with famous female pilot Pancho Barnes by milking cows and shovelling manure at her ranch. His love of flight launched his business career.

The Guardian, Last modified on Wednesday 17 June 2015 19.49 BST

Kirk Kerkorian, multibillionaire casino tycoon and movie mogul, dies aged 98

Businessman who founded MGM Resorts International and bought and sold businesses including airlines and film studios died after a brief illness
By Reuters
https://www.theguardian.com/world/2015/jun/17/kirk-kerkorian-multibillionaire-casino-tycoon-movie-mogul-dies-aged-98


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きのうTPP強行採決

 国民生活はどうなってしまうのか――。
 スッタモンダの揚げ句、TPP承認案と関連法案が4日、衆院の特別委員会で強行採決された。野党が激しく抗議する中、自公と維新が採決に踏み切り、賛成多数で可決。ハナから見えていたことではあったが、それにしても、この間の経緯はデタラメだった。


2016年11月4日付け日刊ゲンダイ
与党がTPP強行採決 悪辣政治に「数の力」を持たせた絶望
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/193203

 はい満を持してその機会を待ってました、お次はこれ!
 政権が国をどんどんと、外資系に売り飛ばしていきます
 この国のかたち、日本人の良さ、自然が消えていきます
 それがイマどきのウヨクで、国を守るのがサヨクなの?
 やりたい放題の自公政権、カジノ法案も強行採決、か?

 いわゆる「カジノ法案」と呼ばれる「統合型リゾート(IR)整備推進法案」は、2014年の国会で廃案になったが、今国会で再び審議入りし、成立する機運が高まっている。

「自民党にとって、東京五輪後の景気浮揚策が至上命令となっています。それでカジノ誘致というわけです。安倍首相が“成長戦略”に掲げていたこともあって、自民党の二階幹事長、細田総務会長、菅官房長官など政権中枢がカジノ法案成立に動いています。政府が25年の誘致を目指す大阪万博との相乗効果を期待する声もあり、成立の可能性が高いといえます」(永田町関係者)

 小池都知事も国会議員の時はカジノ議連に所属していた推進派。
 都知事選の最中もカジノ賛成を聴衆に呼びかけていた。
 そこで、カジノ第1号の候補地のひとつとして豊洲市場の跡地が急浮上しているという。
 当初、有力視されていたお台場は、カジノに消極的な舛添前知事が都用地を外資系企業に貸与してしまい、計画が頓挫。
 建築の専門家から見ても、豊洲はカジノ用地に最適らしい。

 小池知事が、カジノに関心を示している有力企業のひとつである「セガサミーホールディングス」と近いことも、臆測を呼んでいる(注)。

「セガサミーの里見治会長は小池知事の有力支援者です。しかも、セガサミーは安倍首相とも近い。3年前、里見会長の娘の結婚式には安倍首相が出席しています」(関係者)

 大手通販会社が豊洲市場跡地を物流倉庫にしようとしているという噂もある。
 豊洲市場の「白紙」を前提とした話がどんどん出ている状況だ。


2016年10月4日付け日刊ゲンダイ
小池都知事に移転中止の秘策 「豊洲カジノ化計画」急浮上
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/191016/3

 は〜い、マスゴミも導入にもう期待を見せてきております:

 米カジノ運営大手、MGMリゾーツ・インターナショナルのジェームス・ムーレン会長・最高経営責任者(CEO)は10月31日、日本でカジノ運営を合法化する議員立法が今臨時国会で可決・成立すれば、2022─23年にも日本に第一号の統合型リゾート(IR)が開業でき、その際にMGMのIR投資規模は最大1兆円になる可能性があるとの見解を示した。
 ロイターとのインタビューで述べた。
 ムーレン氏は、大都市型と地方都市型の2種類のうち、MGMとしては大都市型にフォーカスを当てているとした上で、投資規模は「5000億円から1兆円になるだろう」と述べた。「MGM単体でも全額を確保できるが、運営には日本企業との提携(パートナーシップ)が重要で、彼らも出資をしたいだろう」と述べ、日本企業との事業、資本面での提携に前向きな姿勢を示した。
 地方都市型の場合、投資規模は1000億─3000億円になるだろうとの見方を示した。
 カジノを含む統合型リゾートの企画、運営などで提携する企業について、ムーレン氏は具体的な企業名の言及は避けたものの、航空会社、建設会社、旅行代理店、コンテンツ会社、金融機関など幅広い分野に及ぶとの見方を示した。

<リートも視野>
 MGMは米国でIR内のホテルやコンベンションセンターなどをポートフォリオに入れた不動産投資信託(REIT、リート)、MGMグロース・プロパティーズ を4月に新規上場(IPO)した。
 同リートの事例を挙げながら、ムーレン氏は「日本でも同じようなことができれば良いと思う。日本の投資家の想定を超える利回りが見込めるものになるだろう」と話し、日本での同社IRを対象にしたリート上場を視野に入れていることを明らかにした。

 IRを解禁するための法案(IR推進法案)は、今臨時国会で審議入りを目指している。
 法案の今臨時国会での可決・成立の可能性についてムーレン氏は「正直、分からない。われわれはオペレーターなので」と述べるにとどめた。

 推進法案はこれまで、審議入りした後に国会解散で廃案になったり、審議時間の不足で継続審議になるなど、10年以上進展がない。
 この間に海外のカジノ運営会社では、東京の拠点を縮小したところもある。
 
[写真]  
 10月31日、米カジノ運営大手、MGMリゾーツ・インターナショナルのジェームス・ムーレン会長・最高経営責任者(写真)は、日本でカジノ運営を合法化する議員立法が今臨時国会で可決・成立すれば、2022─23年にも日本に第一号の統合型リゾートが開業でき、その際にMGMのIR投資規模は最大1兆円になる可能性があるとの見解を示した。


2016年10月31日17時24分更新、朝日新聞デジタル
インタビュー:米MGM、日本カジノ投資は最大1兆円に=会長・CEO
東京31日、ロイター(江本恵美、トム・ウィルソン)
http://www.asahi.com/business/reuters/CRBKBN12V0PJ.html

(注)
 約1兆円の市場規模と見られる日本のカジノが、実現に向けて大きく踏み出した。
 カジノは現在日本国内で違法だが、東京が2020年夏季五輪の開催都市に決定したことを受け、法制化の期待が高まっている。
 日本のカジノ市場の創出に向けて、米ラスベガス・サンズやMGMリゾーツ・インターナショナルなど世界的なカジノ運営企業が具体的な投資計 画を明らかにしている。。。

 日本企業でも、パチンコホールなどを経営するダイナムジャパンホ ールディングスは、全てのエネルギーを日本におけるカジノの準備に集中すると、佐藤洋治取締役会議長が先月2012年11月28日、説明会で述べた。
 ラスベガスのシーザーズ・エンターテインメントの国際開発部門のスティーブン・タイト氏は2013年9月、セガサミーホールディングス、コナミなどと協議に入っていることを明らかにした


2013年12月6日00:01JST更新、Bloomberg(広川高史、山口祐輝)
カジノ法案:自民党など国会提出−1兆円市場実現に向け前進
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2013-12-05/MX6O616JIJX401#

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2016年11月04日

Steel Pan 奏者・珠(たまき)

 NHKラジオ深夜便、再放送ですが、最終日を終えました。
 最後は私のCDの中から、春の小川でした。
 本当に本当に、この素晴らしい機会をいただき、心から感謝です!!!
 CDについてお問い合わせをいただいたので、ブログに書いておきますーm(__)m
 …本当にありがたいです。。。
 CDはいつも持ち歩いてその都度販売していますが、Amazonなど、ネットでも購入できます!


2016-11-04 00:10:46更新、Steel Pan 珠(たまき)
珠の童謡唱歌のCD!
http://blog.goo.ne.jp/tamakipan
http://tamakisteelpan.wixsite.com/steel-pan-tamaki

 スティールパンってご存知でしたか?こちらも:
Skiffle - The Wedding
https://www.youtube.com/watch?v=oJcKWiiK43Q

 これってトリニダードに由来しますが、トリニダードってご存知でしたか?
 血税の垂れ流し、飛行機への搭乗だったら石の原にまけてません、アホノ首相も2014(平成26)年7月に訪れ顔見世興行に登場していました、はい。
 正式にはイマ、トリニダード&トバゴ共和国といってふたつの島から成り両方合わせても千葉県くらいの広さのよう。

 コロンブスによる発見以来しばらくの間スペインの植民下にあったが、トリニダード島はイギリスの支配下に置かれる。
 一方、トバゴ島は、ヨーロッパからアメリカに向かう航路において重要な位置にあったため、約150年にわたりフランス、イギリス、オランダの間で31回もの奪い合いが行われた。
 トリニダードとトバゴ両島が合併されたのは1889年。
 1962年にイギリスから独立、40年前、1976年にトリニダード&トバゴ共和国となる。
 島には1830年代の奴隷制度廃止後、インド人、中国人などが年季労働者として連れてこられたため、特にトリニダード島では、人口の半数近くをインド人で占めている。

地球の歩き方
http://www.arukikata.co.jp/country/samerica/TT_general_1.html

 色のついていない支配的特権階層に仕える色のついた人びと、きっとスティールパンという楽器は差別、抑圧、圧迫の歴史とも関係あるのかな、と。
 なんでドラム缶なの? なんでドラム缶から打楽器をつくるの? とヤッホー君、深夜、急に目が覚め天井の節穴を数えては覗き込んでおりましたぁ〜
 石油会社が掘削しているのかな、ドラム缶ってムカシ、風呂が家のなかになくって露天風呂だったとき、体を洗うのに使ったような記憶があるけど:

THE LONG ROAD TO ABOLITION
In 1807, parliament passed the Abolition of the Slave Trade Act, effective throughout the British empire.

It wasn’t until 1838 that slavery was abolished in British colonies through the Slavery Abolition Act, giving all slaves in the British empire their freedom

It is estimated about 12.5 million people were transported as slaves from Africa to the Americas and the Caribbean between the 16th century and 1807.

 When the Slavery Abolition Act was passed, there were 46,000 slave owners in Britain, according to the Slave Compensation Commission, the government body established to evaluate the claims of the slave owners

 British slave owners received a total of £20m (£16bn in today’s money) in compensation when slavery was abolished.
 Among those who received payouts were the ancestors of novelists George Orwell and Graham Greene.


The Guardian, Last modified on Sunday 11 September 2016 14.45 BST

The history of British slave ownership has been buried: now its scale can be revealed

A new BBC documentary tells how a trove of documents lays bare the names of Britain’s 46,000 slave owners, including relatives of Gladstone and Orwell

photo-1
A print shows African captives being taken on board a slave ship

photo-2
Plan of a slave ship showinmg how slaves were stowed, manacled, into the hold

By David Olusoga
https://www.theguardian.com/world/2015/jul/12/british-history-slavery-buried-scale-revealed

 あのぉ〜、奴隷解放というとリンカーン(1809–1865)の奴隷解放宣言 Emancipation Proclamation (1862年9月)だけしか知らなったヤッホー君、リンカーンが世界で初めて奴隷を解放し、しかるがゆえに「奴隷解放の父」とよばれているとばっかりヤッホー君の低能なアタマに刷り込まれていましたぁ〜
 
In the Laventille hills of east Port of Spain, drumming was a necessary part of cultural and spiritual observances for the Afro-Trinidadian communities that moved there after Emancipation in 1838. Colonial bans on drums called for greater (surreptitious) experimentation, birthing steel pans from the discarded oil drums of the nascent energy industry (注).

On VE Day (8 May 1945), the British colonial government permitted citizens to celebrate with a Victory Carnival in the streets (Carnival had been banned between 1942 and 45), marking the first ever public emergence of steel bands.

The Guardian, Last modified on Tuesday 27 October 2015 17.48 GMT

An insider's cultural guide to Port of Spain: steel, sass and sweat

Caroline Taylor shows us around the capital of Trinidad and Tobago, where partying is an impulse, soca is top of the playlist and the steel pan was born …

By Caroline Taylor
https://www.theguardian.com/cities/2015/oct/19/insider-cultural-guide-port-of-spain-steel-sass-sweat

Party Done (Official Music Video) | Angela Hunte and Machel Montano | Soca 2015
https://www.youtube.com/watch?v=eHr8zZfrU_Y

Steel drums in Trinidad & Tobago
https://www.youtube.com/watch?list=PLvRDkWb01XW4JsotdbnOu-LK_r9d69-7E&v=ReNbZFKKX7c

(注)
2016年5月16日ダイアモンドオンライン「海外レポート」
カリブ海の小国「トリニダード・トバゴ」で証券口座を開設する。
石油と天然ガスの資源国の将来性は?

カリブ海に浮かぶ小国・ドミニカ共和国に住み、中南米の新興国を舞台に貿易事業を展開する風間さんの体験レポート
http://diamond.jp/articles/-/91199



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2016年11月03日

きょう全労済60周年組合員イベント

 ヤッホー君、eチャリで浅草橋駅へ。
 おなじみの「福臨門」で中華ランチを摂ってから西口にある「浅草橋ヒューリックホール」へ。
 ハゲタカが狙いをさだめているこの国の市場、TPP で清浄機企業の草刈り場にさらされようとしている、いや、この国の支配的特権階層の方から「どうぞ、どうぞ美味しい儲け話があるのでさ、どうぞ、どうぞ」と首を差し出そうとしているけど、そんなんでいいんの?
 皆んな、ISDS とか投資家対国家紛争解決とか分かんない、面倒くさいと放ってる間にたいへんな事態を迎えそうなんです。

 戦後、労働組合や政党の活動が、自由に行えるようになり、協同組合においても1945年には「日本協同組合同盟」が結成され、賀川豊彦氏が会長になりました。
 1946年、金融制度の民主化の中で「保険業法」改正に際し、協同組合にも保険事業を認めようという案が、いったんは文章化されます。しかし、隣接業界等の反対により、ついに「協同組合保険」は実現しませんでした。
 その後、協同組合関係者は、各種協同組合法の立法にあたり、「共済」という形で事業の根拠を創り出していきました。

 1947年農協法成立、1948年生協法成立、1949年中小企業等協同組合法成立。
 いずれにも「共済事業」が挿入されました。
 そして北海道共済連(農協)・野田醤油生協等をかわきりに、協同組合による共済事業は大きく進展します。

 こうして1950年前後から、労働組合や生協関係者の間にも、労働者福祉運動の一つとしての共済事業に関する関心が高まり、労働組合福祉対策中央協議会(中央労福協)や、日本生協連が共済事業を提唱します。
 労働組合を中心とした共済活動は、こうした時代を背景に1954年12月に大阪で始まり、翌1955年には新潟で、また1956年には富山・長野・北海道・群馬・福島にも誕生しました。
 いずれも、発足にあたって、まず火災共済事業を手がけました。

 特に新潟では、発足のわずか5ヶ月後に大火災に遭遇しましたが、組合員の総力をあげて取り組んだ結果、掛金収入を上回る給付金の支払いという困錐を乗り越えることができ、共済事業の歴史に残る一歩を標すことになりました。
 この大火災を契機に、各地で共済事業が始まるとともに、さらなる非常事態や大災害に備えるために、事業の全国組織化が急がれることになりました。

 1957年、事業を開始していた18都道府県労済は、その中央組織として「全国労働者共済生活協同組合連合会」(労済連)を結成し、火災再共済事業を開始し、翌1958年に、労済連は正式に「消費生活協同組合法」にもとづく法人として、厚生大臣の許可を得ました。。。


全労済のあゆみ
http://www.zenrosai.coop/zenrosai/profile/about/ayumi.html

 きょうは全労済東京都本部『60周年組合員イベント』!

 東日本大震災という人類まれに見る自然災害後の人間の力を描いた映画『PRAY FOR JAPAN〜心を一つに〜』の上映後、宮城県気仙沼市出身で「みやぎ絆大使」を務めるマジシャン マギー審司のトーク・マジックショーを開催します!

http://www.zenrosai.coop/zenkoku/tokyo/2016/21296.html

 まずは映画。

Pray for Japan [Theatrical Trailer]
https://www.youtube.com/watch?v=LL0sL3HJ-60
https://www.youtube.com/watch?v=-LyHC4ArTaE

 2011年3月9日に成田に降り立ち、東京の自宅に戻りました。
 その2日後、マグニチュード9.0の地震が東日本を襲い、私の家はまるで嵐の中の小型ボートのように大きく揺れました。
 でもそれはほんの小さなことに過ぎなかったのです。
 その直後から、テレビで映し出された映像に驚愕しました。
 東北の美しい海岸線を冷たく、黒い水が大きな波となり、破壊していったのです。

 私はかつて気仙沼湾に浮かぶ小さな島、大島で地元の漁師が経営する民宿に泊まったことがあります。
 また松島へ行き、海水の味のする新鮮なホヤを食べ、石巻では風情のある古い街並みを散歩しました。
 日本でもっとも美しいところだと、日本人の友人にまで奨めていたほどです。

 それがすべて流されてしまったのです。
 私はテレビの映像に釘づけになりました。
 あの民宿はどうなったのでしょう。建ち並んでいた小さなお店は?親切な地元の人たちは?

 ほとんどパニック状態で、友人たちの伝手をたどり、なんとかボランティアをしに東北へ行く方法を模索しました。
 そんな中で奇跡的に非営利団体JEN(注1)が、被災地に支援物資を運搬するボランティアを探していることを聞きつけました。
 私はすぐそれに飛びつき、3月15日にボランティアのシダさんと一緒にガソリン、水、灯油、米を積んだトラックに乗り込みました。
 私たちがシェルターに着いた時、周りは雪でした。
 届いた物資を運ぶため、男性が列を作って待っていました。
 私が大きな米の袋を下ろしていると、よわよわしいお年寄りが受け取ろうとしました。私が、とても重いですよ、と言うと彼は大丈夫だ、と。彼は重い米の袋を肩に乗せ、堂々と運んでいきました。

 日本人にはそんな頑固さ、粘り強さ、協力し合う精神、そして自己犠牲の精神が備わっています。
 それを目の当たりにし、私はこの映画を作ることを決意したのです。
 炊き出しの手伝いや届けられる物資を運ぶボランティアをしながら、6週間で40時間もの映像を撮ることができました。
 その数か月後、各方面のプロの方々のご協力のもとに、この映画が完成しました。

 この作品はニュース映像ではありません。
 反核を訴えるものでもありません。
 普通の人びとが自分の家や命を救うため、たくさんのものを失いながらも前向きに生きる物語です。
 誰にも知られていない、ヒーローたちの物語です。


スチュウ・リービー STU LEVY (注2)監督からのメッセージ
https://prayforjapan-film.org/

 東日本大震災で被災した人びとが懸命に生きる姿を描いたドキュメンタリー映画「Pray for Japan 心を一つに」が2012年3月28日、沖縄・宜野湾で開催中の第4回沖縄国際映画祭の特別上映作品ドキュメンタリー部門で上映され、メガホンをとったスチュウ・リービー監督が舞台挨拶を行った。

 リービー監督は、日本の漫画やアニメを欧米市場に販売してきた TOKYOPOP の創立者。
 震災直前に来日し、東北の惨事をニュースで見て衝撃を受け、数日後にはボランティアとして被災地入りした。
 救援物資の運搬や炊き出しを行っていたところ、宮城・石巻で出会った被災者から「ドキュメンタリー映画を撮ってほしい」と懇願され、撮影したものが今作だ。

 テーマ曲の提供と演奏をミュージシャンの奥田民生、詩(福島出身の詩人、和合亮一)の朗読を(仙台出身の)女優の鈴木京香がボランティアで担当した(ほか、溝口真矢のオリジナル曲、M’s Japan Orchestra の印象的な和太鼓も)。
 製作資金も Kickstarter というサービスを通じ、世界中から2万ドル以上の寄付が集まり、3月14日からは北米16都市で公開中。
 ほとんどの上映回でチケットは完売しているそうで、「今もロサンゼルスではずっとやっています。みんな、結構泣いていますね」と通訳を必要としない流ちょうな日本語で語った。
 
 今作を製作するにあたり、リービー監督は“金もうけ”をしないことを宣言した。
「映画って本来は商売、商品ですが、僕らは一切商売をしない。入ってきたお金は、すべて寄付します。これは、僕らの誓い」と話すと、場内からは盛大な拍手が沸き起こった。


2012年3月28日17:26映画ドットコムニュース
震災ドキュメンタリー「Pray for Japan」北米で満員御礼
http://eiga.com/news/20120328/9/

 とても感動的なお話は、佐藤淳一(雄勝中学校の校長)。

雄勝中の卒業式当日、東日本大震災
 石巻市雄勝町は仙台の東南東、車で1時間半くらいのところにあります。
 リアス式海岸の入り組んだ地形で、基幹産業はウニやホタテなどの水産業、さらに日本最大の硯の産地でもあります。
 600年以上の伝統を持つ法印神楽もあり、自然、伝統文化、歴史等に恵まれたとても良い環境の土地でした。

 雄勝中は雄勝湾の一番入り組んだところにあり、道路を挟んだ向かいに雄勝小学校、峠を越えたところに船越中学校と3つの学校があります。
 東日本大震災では3校すべてが津波にのまれ、最も被害の大きかった学校の一つと言われています。

 震災当日は雄勝中の卒業式でした。
 心のこもった卒業式にしようと連日連夜、皆で準備をして、私自身も人生初のピースサインをしながら子供たちと一緒に写真を撮ったのが午後1時。
 その1時間46分後に地震が来て、集合写真を撮った体育館はまるごと持っていかれました。
 津波は3階建ての校舎の屋上をも超え、学校は廃墟と化し、雄勝の町は完全に消えました。
 子供たちは全員が下校していましたので、私たち教員は山の中に車で逃げました。
 翌朝、町の光景を初めて見たときには、呆然と立ち尽くしたまま言葉が出てこず、「とにかく子供たちが生きていてほしい」と願うだけでした。

 私たちが逃げた山のところには13人の生徒たちが避難してきていて、寒く長い時間を一緒に過ごしました。
 震災当日はもちろん食料はありませんでしたが、翌日は、山の中で流されなかった家の方から味噌とおにぎりを分けていただき、とにかく子供たちに食べさせるようにしていました。

安否確認
 3日目の朝、子供たちの安否確認を進めるため、私は一度山から降りて町に出ることを決意しました。
 このとき、地域の中に、1本の道が造られつつある光景を目にしました。
 周りから遮断されている状況を何とか改善しようと、地域の方々が重機を動かし、自分たちで道を作っていたのです。
 多くの人が山に避難していたので、二次避難のための道路は必須でした。
 
 とにかく安否確認を進めていかなければということで、私たちは手書きの名簿を作ります。
 このときに「本当に何もかもがなくなったのだ」とつくづく思ったことを今でも思い出します。
 一人の女性教員が全生徒の名前を覚えていたので、これが安否確認を進めていく唯一のデータになりました。
 私は3日目に5時間かけて職員と一緒に山を脱出したあと、雄勝地域の大勢の方々が避難している体育館の目の前にある教室を拠点とし、ここに一人で寝泊まりしながら、生徒の安否確認を続けました。
 眠れない日々が続きました。
 
全員生きていた! 学校教育は、この子たちに何ができるのか
 8日目の7時6分、「全員生きていた」という知らせが入ります。。。(注3)


2013年2月19日河合塾「キャリア教育推進連携シンポジウム」
「雄勝スタイル」のキャリア教育を目指して
佐藤淳一氏 前・石巻市立雄勝中学校長/仙台市教育局学びの連携推進室主幹

http://www.wakuwaku-catch.com/キャリア教育/topicsキャリア教育アワード/雄勝スタイル-のキャリア教育を目指して-佐藤淳一氏/

(注1)http://www.jen-npo.org/
 なお、作中に出てくるNGOヒューマニティファーストは http://www.ahmadiyya-islam.org/jp/
(注2)http://www.stulevy.com/philanthropy
(注3)11月3日付け河北新報<大川小訴訟>「遺族、控訴断念を県議会に要望」は http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201611/20161103_11032.html


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きょう憲法公布70年

 11月3日木曜日「文化の日」。

 数日間、宮城県東松島市の4か所の避難所を回っている中で、空いた時間に僕はこの本を読んでいた。

 実はずっと以前に買ったのに、古文が難しすぎてなかなか読み通せなかったのである。
 しかし、未曾有の災害現場のなかにいて、ようやくこの本は僕の心の中に流れるように入ってきた。

 本は読まれるべき時を待っているというのは本当である。

 鎌倉三代将軍源実朝(1192−1219、在職(1203-1219)と同時期に生きた鴨長明(1155?−1216)は、エッセー「方丈記」(1212年)に当時の日本や京都を襲った戦乱、火事、地震、津波について可能な限り実見聞をもとに記録している。

 時代が下ること700年、1945年3月10日の東京大空襲に出会った堀田善衛(1918-1998)は、鴨長明と自分を重ね合わせながら、被害の激しかった東京の下町を歩き回った。

 そこで堀田善衛が衝撃を受けたのは、焦土と化した江東を巡視する昭和天皇に被災民が土下座して、被害を被ったことを口々に詫びていることだった。

 いまこそ、自分たちをこのような目に合わせた最高責任者に詰め寄り糾弾して日本を変える時なのに、逆に被害者が加害者に詫びているのである。
 こうして古い日本は第2次大戦を生き延びえた

 そのような不条理を目の前にして、大戦争・大災害の中で生き延びた古い日本とは何か、それでも何を展望すべきかを、堀田善衛は「方丈記」を精読することから考えていく。

 鴨長明は、ただ一人貴族でない身分で宮廷の和歌所の寄人に任命される。
 当時の歌の第一人者である貴族・藤原定家には地下人と激しく蔑まれて差別的な扱いも受けている。

 長明が認識した和歌の本質とは、300年前の古い歌の応用・変形に終始するもの、すなわちフィクションの上にフィクションを重ねる「本歌どり」に過ぎず、そこにはまったく現実が反映していないというものだった。
 したがって300年前の古典を学ぶのに少々の努力は必要だが、いったんそれを覚え本歌取りする枠組みさえ知ってしまえば和歌づくりはしごく簡単なものだと彼は喝破する。

 その鋭い眼は当然周囲の反発を呼び、長明は不遇のうちに晩年に至り、世を捨て、京都郊外に小さな家を作り、乞食のような生活をしながら著述に励むこととなる。

 当時の政治情勢は、文化的な権威を保ち続けた宮廷貴族、権力を握りながら文化では宮廷に呑み込まれていこうとする武家政権と、彼らが全く見ようとしなかった災害にあえぐ大多数の庶民からなっていた。

 その社会の両端を同時に見ることができたその時、初めて彼には歴史が見えたのだと堀田善衛は言っている。

 それは、東京大空襲後を歩き回って、巡視する昭和天皇とそれにひれ伏す被災民の姿を見た堀田と重なるものである
 堀田の見た光景こそ、フィクションの上にフィクションを重ねる文化構造とそれに支えられる権力構造だった。

 しかし堀田は、世を捨ててそれを認識したに留まる長明の姿勢を批判せざるをえない。
 それだけでは、フィクションの上にフィクションを重ねる日本文化と権力の構造を覆せない。
 そして、彼はそれを成し遂げようとしたものとして、長明が庵を営んだ山の麓の日野の里に70年後に生まれる親鸞(1173−1262)を見出す。
 親鸞こそ、天皇を敵と宣言して、庶民救済をめざす自らの宗教を打ち建てた人だった。
 細いながらも長明ー親鸞とつながる系譜が浮かび上がる。

 しかし、20世紀の堀田の前には、まだ本歌取りを本質とする空虚な文化構造とそれを支えにしている権力構造が続いている。
 今後、長明ー親鸞の系譜はどのように現われるものだろうか?

 これが『方丈記私記』(『19階日本横丁』出版の前の年、1971年、筑摩書房から出て、のち新潮文庫、ちくま文庫)の僕流のざっとした紹介だが、今これを読む意味はどこにあるのだろう。

 地震・津波被害はどんなに激甚であってもいずれは復興するに違いない。
 しかし、原発事故に現れているのは鴨長明や堀田善衛の見た、フィクションの上にフィクションを重ねる古い日本の支配的な精神構造である。
 どんなに事故が深刻になろうとなおも「原発は安全だ」あるいは「エネルギー政策上は原発は必要だ」という人びとでTV画面は占領されている。
 彼らこそ現場で解決に努力している人、多数の避難している人たちの苦難を見ようとしない支配的特権階層である。

 原発問題の今に現れている文化的構造、それに支えられる権力構造を払拭することが、長明―親鸞―堀田に現れているもう一つの日本の系譜の仕事なのだということである。


2011年3月27日(日)「静かな日、医療構造改革に抗して」
堀田善衛「方丈記私記」1971、問題は原子力発電所の今後だ
http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2011/03/post-11e8.html

 天皇は江東を巡り、戦局は敗戦へ、そして占領から、新憲法公布、施行へと時代の波は動きます。
 この敗戦、すなわち大ぜいの人の死と被災民を顧みることなく戦前へ還ろうとするこんな動きが:

 2018年に明治維新から150年を迎えるのを前に、祝日法を改正して11月3日の「文化の日」を「明治の日」に改めようとする動きが、保守系の市民団体や国会議員を中心に本格化している。
 戦前の「明治節」の復活を意図しており、識者からは「文化の日は憲法記念日と一対のもので、名称変更は歴史に逆行する」との批判もある。

「日本の近代国家としての立脚の原点は明治。明治の時代こそ大切だったと全ての日本人が振り返る日にしたい」

 1日に東京都内で開かれた「明治の日推進協議会」(会長・塚本三郎元民社党委員長)主催の集会。
 あいさつした自民党の古屋圭司衆院議員は、約140人の参加者に力強く訴えた。
 稲田朋美防衛相らも駆け付け、超党派の国会議員連盟結成に意欲を示した

 同会は「昭和の日」制定を推進したメンバーらが11年に結成。
 役員にはジャーナリストの桜井よしこ氏や、安倍晋三首相のブレーンの1人とされる伊藤哲夫・日本政策研究センター代表らが名を連ねる。
 この日は約63万8000筆の請願署名を古屋氏に手渡した。

 11月3日は明治天皇の誕生日で、明治時代は天長節、その後は明治節として祝われていた。
 しかし、終戦後の1948年に成立した祝日法は明治節を廃止。
 日本国憲法の公布日とされたため、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ための祝日とした。

 同会の相沢宏明事務局長は「本来のあるべき姿に戻したいとの素朴な思いがあるだけ」と話す。
 政府も10月に明治維新150年を記念する施策を行うと発表し、「追い風になる」と期待を寄せる。


2016/11/02-16:27時事ドットコムニュース
「明治の日」制定へ動き=文化の日、改称狙う−歴史に逆行と批判も・憲法公布70年
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110200632&g=soc

 われわれにはなしえなかった憲法で、なんとか敗戦をしのいできたのに、またしても庶民の身体と命を奪い取り、国土を血生臭い焦土にし、被災民、難民を続出させんと、支配的特権階層が今日も画策しているのです。
 憲法9条をとくに重要視していますが、イマの政権与党、自民党や公明党によってほかにも「信教の自由」だって危ういのです。
 若松英輔(1968年生まれ)は著書『涙のしずくに 洗われて 咲きいづるもの』(河出書房新社、2014年1月)でこんなことを:

 現行の憲法と自民党案の間には、大きな変更がいくつかある。
 まず「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」との一文から「何人に対しても」の部分が削除されている。
 そして、先にもふれたように、国およびその機関は「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては」具体的な行動をとり得る。

 言葉は文脈と密接な関係にある。、、

 現行の憲法下では、国民は、一切の宗教行事に参加することを強制はされない。
 だが、改正案にしたがうと「社会的儀礼又は習俗的行為」と政府が認識するものへの強制は、この条文を読む限り違憲ではなくなる。
 そればかりか、為政者にそれを実行する力がすでにゆだねられていることになる。
 自民党案によると「信教の自由」は万人に保障されるものではなく、ある条件を満たした者に許される行為に変化してゆく可能性がある。

(112頁)

 憲法が改正されたら国民は総出で今夜、右手に提灯、左手に星条旗掲げてウオーキングにはげむ総活躍社会になるのかな、おぉ〜、いなだ嫌だ。
 神道が「国家神道」として「国教」化していったとすればヤッホー君、マレーシアでこんな質問を浴びせかけられたのです。「憲法改正で日本はムカシのように Shintoism が国教になるの?」
 はぁ〜? お茶を濁してごにょごにょって返事しましたが、危うい!この国のかたち。

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2016年11月02日

石原慎太郎

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 皆んな、なに見てるのかなぁ、10月30日の狭山湖で。

 山口貯水池は1927(昭和2)年から1934(昭和9)年にかけて築造された水道専用のアースフィルダムです。
 当時の先端技術を駆使して築造された貯水池は、1995(平成7)年に発生した阪神・淡路大震災を教訓として、より強固なダムにするため、1998(平成10)年から2002(平成14)年にかけて世界にも類のない堤体耐震強化工事を行い、生まれ変わりました。
 この石碑は蘇った貯水池の新たな第一歩を記念して設置したものです。
 碑文「五風十雨の味わい」は、東京都知事石原慎太郎の書です。。。
2002(平成14)年11月東京都水道局


 これと、荒川と隅田川の分岐点、岩淵水門のそばにある荒川放水路の記念碑の碑文を対照せよ:

此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ

 青山士(1878-1963)は登場しません。
 搭乗が好きな石原慎太郎(1932年生まれ)!

 舛添バッシングの端緒となった豪華外遊の先鞭をつけたのは、石原慎太郎元知事だ。
 任期13年で海外出張は34回、都合201日を数える。
 都庁に顔を出すのは週2、3回程度だったのに外遊は4カ月に1回ペース。
 西はスイス、東はエクアドルまで移動距離は27万キロを超え、地球7周分に及んだ。
 多い時は19人が随行する大名旅行。
 費用は当然かさむ。
 共産党都議団の調査によると、都が情報開示に応じたのは30回分のみ。
 「4回分は期限切れを理由に拒否された」(共産党都議団事務局)という。
 30回分の平均出張費は1681万8636万円。計5億455万円に達した。
■ お気に入り通訳に1回200万円
 石原氏の偏った思想を反映したのか、行き先にはかなり偏りがある。
 ご執心だったのが、大好きな台湾だ。
 就任半年後の初外遊はもちろん台湾。計7回も訪台し、計28日間を過ごした。。。


2016年10月25日付け日刊ゲンダイ
石原慎太郎 腐敗の13年
血税5億円で地球7周…“公私混同”トンデモ豪華出張

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/192437

 腐敗異臭の漂うこの爺さんについては「腐敗の13年」シリーズをぜひお読みください:

2016年11月2日 森元首相にそそのかされ…都知事4選と東京五輪再立候補
「森さんや体協は代々木周辺の老朽化施設の大規模改修を、『五輪』を旗印にすれば予算化できると考えたのです」(都議会関係者)不純な動機で始まった招致活動は、ムダ遣いとデタラメのオンパレード…

2016年11月1日 銀行税敗訴 国への“個人的”リベンジで都民に巨額の損失
1999年4月、慎太郎が都知事に初当選した時の状況は今の“小池劇場”と似ている。既成政党と対峙し、都民人気で選挙に勝利。国政では“終わった”とされた政治家が、圧倒的な世論の支持をバックに首都のトップ…

2016年10月29日 愛国心教育で日の丸・君が代強制 当の本人は「歌わない」
石原都政では、教育行政も歪められた。「心の東京革命」と称して、愛国心教育を強制したのだ。慎太郎のウェブサイト「宣戦布告」を見ると「心の東京革命」というタイトルでこんなことが書かれている。…

2016年10月28日 尖閣購入計画も頓挫 寄付金14億円はいまだに宙ぶらりん
「当時、尖閣諸島を守ることに必死だった」豊洲新市場の移転問題の責任について問われた慎太郎は、そう言い訳したという。だが、守るどころか“負の遺産”しか残さなかった。慎太郎が、もともと…

2016年10月27日 ぼったくり店を増やしただけだった「歌舞伎町浄化作戦」
今の監視社会は、ここから始まったとみる向きもある。2002年2月、新宿・歌舞伎町に50台の監視カメラが設置された。ところが同年9月、歌舞伎町のど真ん中にある喫茶店で日本の暴力団幹部が中国人マフィアに…

2016年10月26日 呆れた親バカ…三男・宏高議員の選挙をめぐる「裏金疑惑」
〈子どもが、自分が分かち与えた血の能力を上回った成果をもたらすと盲信しているのかもしれないが、笑止のさたである〉――。1969年に出版された慎太郎著書のベストセラー「スパルタ教育」(光文社)。〈強い子…

2016年10月21日 四男を重用「トーキョーワンダーサイト」で税金を私物化
石原一家の都政私物化を象徴するのが画家の四男・延啓氏(50)を重用しまくった問題だ。慎太郎元知事は肝いりの文化施設「トーキョーワンダーサイト」(TWS)の事業で、芸術家として全く無名の四男…

2016年10月20日 カラス退治に血まなこ 動機は「ゴルフ場で頭つつかれた」
慎太郎が知事時代、大マジメで取り組んだのが「カラス退治」だ。その動機は「ゴルフのプレー中、カラスにアイアンを投げつけたら逆襲され頭をつつかれた」という100パーセント個人的なもの。都庁役人は「…

2016年10月19日 公金で一晩数十万円の散財 超グルメ生活は舛添氏も真っ青
“セコイ”と非難囂々だった舛添要一前都知事は、参院議員時代に天ぷら屋や回転寿司、イタリア料理店での私的な支出を政治資金から拠出していたことを問題視された。しかし、石原慎太郎元都知事は“セコイ”どころ…

2016年10月18日 血税1400億円がパー 「新銀行東京」大失敗にも減らず口
知らぬ存ぜぬの逃げまくり――。豊洲市場問題に対する石原慎太郎元都知事の対応は見苦しさ極まりないが、振り返ってみれば、慎太郎の都知事時代は都民の税金を食い物にして好き勝手のやりたい放題、そのくせ責任は…

 このいかがわしい爺さん、そうなんですぅ、下町は豊洲でもイマ、ホット:

 豊洲市場(東京都江東区)の建物下に土壌汚染対策の盛り土がなかった問題で、小池百合子都知事は11月1日の会見で、盛り土をしない方針が決まった当時の知事だった石原慎太郎氏(84)について、小池氏サイドが送付した質問書に対する答えが「『NO回答』だった」と切り捨てた。
 「書面で答えてもらったが、記憶にないというようなことばかりだった」と指摘した。
 その上で、「今後どのような形で、より関係していた人をヒアリングするか、会うのか、(再び)書面を送るのか、引き続き検討する」と述べ、石原氏の責任についても、継続して検証する意向を示した。


2016年11月1日18時10分更新、日刊スポーツ
石原慎太郎氏、盛り土問題の質問書に「NO回答」
http://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1732338.html

 ほかにも:
 
2016.09.20 16:03更新、週刊文春
石原氏 豊洲移転を「副知事に任せていたことを反省」
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/6587

2016年10月26日16:09更新
【豊洲問題】「記憶ない」「分からない」「思い出せない」
小池百合子知事の質問書と石原慎太郎氏の回答文書全文

http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/local/sankei-plt1610260020.html

 これじゃあ、「五風十雨の味わい」どころか、五里雨中か十里夢中。
 TPPもそうだけど(注)、これって立法府はどう対応するんでしょ。
 どうも都民感情や都民益とは、相当かけ離れている議員さんだらけ?

2016年10月13日木曜日
豊洲市場問題 百条委員会否決で幕を閉じた小池知事初の定例会
東京みんなの改革代表、東京都議会議員・塩村あやか
http://shiomura-ayaka.com/2016/10/13/news-1724.html

(注)
「交渉過程は4年間秘密なので説明できない」
 我が国では今に至るまで、TPPの詳細が国民に示されていない。
 野党が国会審議で条文の背景説明を求めたところ、政府から返ってきたのが冒頭の回答だ。
 提出された交渉資料はタイトル以外、45ページが全面黒塗りという…


2016年11月1日付け日刊ゲンダイ
暴走TPP「10のウソ」
ウソ<5> 全面黒塗りに誤訳で「十分に国民に説明した」

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/192999



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2016年11月01日

狭山事件

 11月1日火曜日、外は雨だね、冷たい雨。

 先週末から日本の上空に強い寒気が流れ込んでいます。
 10月30日(日)の午後9時に稚内の上空5500メートル付近ではマイナス37度1分を記録しました。10月にマイナス37度以下の気温を観測したのは1983年以来、33年ぶりのことで、10月としては今世紀最強の寒気が流れ込みました。


2016年10月31日12時2分
今世紀最強寒気 冬日23年ぶりの多さ
吉田友海[日本気象協会本社]気象予報士
http://www.tenki.jp/forecaster/diary/t_yoshida/2016/10/31/57601.html#sub_title_a

 そうか、冷たい雨は秋を通り越してもう冬日?
 秋、真っ只中の徴、なんてもんじゃないんだ。
 起きるのが遅かった、今朝は。寒かったから。
 ね、知ってる?「狭山事件」のこと、と言われても、、、
 全然知らなかったね「狭山事件」と言われても、ね。
 もう半世紀以上も前のことでしょ?
 捜査に部落という予断があったの?
 自白と言ってもね、強制されたの?
 真相は闇の中、「冤罪事件」なの?
 気になったのは、死体の上の荒縄!
 日曜日歩いてきた「狭山湖」との関連性はあるの?
 なんで所沢にあるのに狭山って名がついたんだろ?
 ミステリーの世界入り口にひとり佇んでるよ。
 入ってみるのかな?止めといた方がいいかな?  

他人に奪われた人生を取り戻す
 秀逸なルポルタージュだという評価に異論はない。膨大な資料を渉猟し、事件に新たな光をあてた労作である。さらに誤解を恐れずにいえば、私は、一人の冤罪被害者の教養小説(ビルドゥングスロマン)として読んだ。
 狭山事件とは、1963(昭和38年、埼玉県狭山市の高校生・中田善枝が誘拐され、遺体で発見された事件である。当初から被差別部落を標的にした捜査が行われた。容疑者・石川一雄は関与を否定したが、その後自白し、一審で死刑判決を受ける。当時、24歳だった。
 ラブレターすら他人に代筆・代読してもらう石川に、脅迫状など書けるわけがない。警察は、認めれば10年で出してやると籠絡(ろうらく)し、調書をでっち上げた。
「十年ですむといわれて、本当にうれしかったもんね、当時のわたしは」
 石川はいう。ドラム缶を半分に切って浴槽にするほどの貧しさ。自白は家族を守るための「犠牲打」だった。死刑の意味もわかっていなかった。事態の深刻さを教えてくれたのは獄中の死刑囚や、「胸を張れ、頭を上げろ」と叱責(しっせき)する右翼だった。自分の無知に気づいたとき、独房で声をあげて泣いた。
 猛然と文字を学び始めた石川は調書の嘘(うそ)を見破り、闘うことを決意。逮捕された時、自分の名前が書けずに「一夫」と書いてごまかした人物が、118枚に及ぶ上告趣意書を書き上げるのである。
 仮出獄から10年。今では憤怒を自戒の念に変え、「中田善枝さんには、申し訳ないことをした。自分があともうすこしがんばっていれば、犯人はつかまったはずだ」と語る。曲折の生を生きる石川の凛(りん)とした佇(たたず)まいに、感動を覚えた。
 狭山事件の不幸とは、当事者不在のまま警察やマスコミや政治、善意の支援者までもが「狭山事件物語」を作り、過剰な装飾を施したことだ。本書でも真相を解明する新事実は発見されていないが、名誉回復とは冤罪を晴らすだけではあるまい。人に語られ、収奪された人生を自分の手に取り戻すこと。体温をもつ生身の人間である石川が決然と立ち上がる姿を描いた本書はその出発点であり、虚心坦懐(きょしんたんかい)に事件を見直す契機となるだろう。

鎌田慧(1938年生まれ)『狭山事件、石川一雄、41年目の真実』(草思社、2004年6月)


[掲載]2004年07月11日 Book.asahi.com
[評者]最相葉月(ノンフィクションライター)  http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072700296.html

 著者の鎌田慧は『狭山事件の真実』も著わします(岩波現代文庫、2010年4月)
 そして司法に再審裁判を求めています:

 2014年10月31日、「狭山事件」の再審を求める市民集会が、日比谷野外音楽堂で開かれ、約3000人が集まった。銀座を通り抜けて東京駅にむかうパレードで、石川一雄(75歳)さんの無実を訴えた。
 ちょうど40年前のこの日、東京高裁は、埼玉県狭山市で1963年5月に発生した女子高校生殺人事件の被告人、石川さんに対して、一審の死刑判決を減刑し、無期懲役の判決をだした。
 弁護団をふくめ支援者は、無罪判決を確信していたため、その日は「憤激の日」となっていた。この判決は弁護団の批判を無視したものとして記憶され、この日が判決撤回運動の原点となっている。
 事件発生からすでに51年半たった。31年半の獄中生活のあと、石川さんは1994年12月に仮釈放されたが、いまも再審裁判をもとめて全国で訴え続けている。月に2度ほど、妻の早智子(さちこ)さんとふたり、東京高裁前に立って「ぼくは無実だ。裁判をやり直して欲しい」と要請している。
 51年間、無念の想(おも)いで無実を訴えているのだが、日本の裁判所は、弁護団があらたに提出した証拠にもとづいて、その主張を聞いてみようと決断していない(注)。

 今年3月には静岡県で発生した一家4人殺しの「袴田(はかまだ)事件」の袴田巌(いわお)さんの再審が、静岡地裁で決定された。異例にも、裁判長は「これ以上、拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」といって、拘禁性精神障害に苦しんでいた確定死刑囚の袴田さんを、ただちに釈放させた。48年ぶりの釈放だった。
 日本の再審裁判は、「開かずの扉」あるいは「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」といわれていた。そうしたなか1980年代になり、裁判所は、4大冤罪(えんざい)死刑事件とも言われた「免田事件」「財田川(さいたがわ)事件」「松山事件」「島田事件」で4人の確定死刑囚の再審を認め、ずさんな取り調べを批判、無罪判決を出して被告人を釈放した。
 そして最近にいたって、幼児殺しの「足利事件」、強盗殺人の「布川(ふかわ)事件」などで、無罪判決がだされ、今年に入って袴田さんが釈放されたのである。

死刑廃止論は少数派
 日本では死刑制度が厳然と維持され、廃止論は少数である。年に十数人の処刑(絞首刑)が実施され、厳罰化もすすんでいる。
 以前なら15年程度で仮釈放されるとも言われていた無期懲役囚も、長期拘留となり終身刑化している。朝日新聞によると、昨年2013年1年間で釈放された無期懲役囚は8人だけ。この人たちの刑務所在所期間は、平均31年2カ月。20年前に比べると、13年も延びている。刑務所内で死亡した無期懲役者は14人で、5年連続で2桁となった。

 狭山事件で石川さんが逮捕された背景には、日本における根強い部落差別の問題があった。
 犯人とされた石川さんは、事件発生のとき、狭山市の被差別部落に住んでいた。彼のアリバイは証明されなかった。
 脅迫状が、殺害された被害者宅に届けられ、それに応じて、身代金が容疑者に手渡されるようとする際に犯人の取り逃がしがあったのだが、このとき、石川さんは自宅にいた。
 社会的に差別されている家族の証言など、聞き入れられなかった。見込み捜査も差別されていた地域の若者たちが対象だった。
 差別によって仕事もなく貧しく、教育を受ける機会のなかった若者が、文章を駆使した脅迫状でカネを取ろうとすることなど、思いつきもしないし、できもしない。いまなお、事件に結びつく証拠はない。
 その差別の実態を理解しようとしなかった裁判官は、差別の恐ろしさを理解できなかった。


2014年12月04日付け WEBRONZA 
狭山事件、無実訴え半世紀 市民ら再審求める
差別の実態を理解しようとしなかった裁判官は、差別の恐ろしさを理解できなかった

鎌田慧
http://webronza.asahi.com/national/articles/2014120300009.html

 事件は、埼玉県狭山市で1963年5月に発生したんでしょ。
 地図で見ても狭山湖は狭山市になくって、どう見たって所沢市と入間市の境界にまたがっているじゃあありませんか。
 その由来を探ってみると65年以上も前のこと?!

昔は多摩湖と狭山湖が逆だった
 今では、多摩湖・狭山湖の名称は当たり前に使われていますが、機関誌「狭山」第17号(昭和26年11月1日刊)によれば、1951(昭和26)年までこれらの名称は全く逆に使われていたようで、多摩湖が狭山湖、狭山湖が多摩湖だったそうです。
 すなわち、村山貯水池は狭山公園にあるので狭山湖、山口貯水池は多摩川から水を引いているので多摩湖の名称が通称として定着しつつありました(注・村山貯水池も多摩川から水を引いていますが・・・)。

 ところが、毎日新聞社が西武線池袋駅構内で、「村山、山口貯水池に観光地としてふさわしい名称をつける改名署名運動」として、村山貯水池=多摩湖、山口貯水池=狭山湖という投票を実施したのです。
 その理由は、まず村山貯水池は北多摩郡に属するから多摩湖、また周辺の観光開発に着手した西武鉄道としても多摩湖線の名を意義あらしめるためにも村山貯水池は多摩湖とした方が都合が良い、さらに山口貯水池一帯も埼玉県側は県立狭山公園になっているので狭山湖でよい、などです。

 西武鉄道はこのアンケート調査を踏まえ、1951(昭和26)年9月1日、多摩湖線の終点の狭山公園前駅を「多摩湖駅」と改称するとともに、同年10月7日、西所沢から分岐する路線の終点を「狭山湖駅」として再開させました(注・西武ライオンズ球場(当時)開設に先立つ1979(昭和54)年3月に「西武球場前駅」に改称)。

 こうして、新しい通称、村山貯水池⇒多摩湖、山口貯水池⇒狭山湖が正式名称以上に広く使われるようになっていきました。


多摩湖の昔
http://www.geocities.jp/akutamako/2-oldtimes.html

(注)
寺尾判決から42年をむかえて2016年10月28日(金)に、下記の通り、市民集会を開催する。
@日時 2016年10月28日(金)午後1時〜2時半(集会後デモを予定)
A会場 東京・日比谷野外音楽堂
B主催 狭山事件の再審を求める市民集会実行委員会
C名称 狭山事件の再審を求める市民集会
D内容 午後0時半 ☆大島花子ミニコンサート
    午後1時〜 ☆狭山再審弁護団報告「狭山再審はいま」
          中山武敏(主任弁護人)、中北龍太郎(事務局長)ほか
          ☆石川一雄、早智子挨拶
          ☆アピール
          神田香織(講談師)、鎌田慧(ルポライター)
          ☆連帯アピール
          袴田秀子(袴田事件)
          「えん罪をつくる取り調べの実態」
           菅家利和(足利事件)、桜井昌司(布川事件)、川畑幸夫(志布志踏み字事件)

http://www.sayama-case.com/col4/col4.cgi

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