2016年10月31日

堀口天満天神社

 昨日10月30日日曜日、山歩クラブのお散歩会。
 終わってヤッホー君、こんな報告をしていました。

 🎃 ハロウイン本番を明日に控えた今日日曜日、7人の侍で9時〜3時歩いてきました、トロロの森。
 都民の水がめ、狭山湖(山口貯水池)で森の王者、オオタカにおかずを取られないよう気を付けながらお弁当を広げ、ムカシは田んぼがひろがっていたという谷戸をでるとそこはもう、早稲田大学所沢キャンパス、そうなんです、秋祭りでした。
 われわれ、若い若いあのころに戻ってノリノリ、学生カルテット、Marry にステージにあわせ、踊って歌って食べてきたのです。
 それでももの足りないと茶屋で打ち上げ、秋の良き好日でございました。

 
 トロロの森を抜けると、天満天神社が目の前に:

 「狭山丘陵いきものふれあいの里」は、狭山丘陵の身近な自然とのふれあいを通して、自然の大切さや自然と人との関わりなどを考えるために整備された、所沢市域約1000haの自然のエリアです。
 地形は複雑で、自然と人間の歴史を通じて雑木林や谷戸、湿地といった様々な環境が形成されており、そこに暮らす「いきもの」は、植物が約1000種、昆虫類約1000種、鳥類約210種と言われ、都市近郊にあって(都心から約40q圏)自然の大変豊かな「緑の孤島」といえる場所です。

埼玉県狭山丘陵いきものふれあいの里センターHPより)

 東京都の上水道用貯水池として1934(昭和9)年に完成した狭山湖とその周辺は、県立狭山自然公園にも指定され、県民の憩の場になっている。
 当地は、以前、堀口村と呼ばれており、狭山湖完成により、その西半分が湖底に沈み、残った土地に人家や社寺などが移転した。
 当社はそれまで字天神山に鎮座していたが、狭山湖の造成に伴い、現在の字長久保に遷座した。
 旧鎮座地は、村のほぼ中央に当たる所で、二ツ池をふもとに配し、村を見渡す小山の上にあった。
 旧地にあった社殿は現在社務所として利用され、現在の社殿は移転に際し新築されたものである。
 創建については『明細帳』に

「天正ノ末年徳川家ノ臣旧地頭久松氏崇敬シテ耕地ヲ寄附シ旧堀口村ノ鎮守トス、其後慶安二年十月十七日旧幕徳川氏ヨリ朱印高五石ヲ賜り、真言宗清照寺別当タリシカ、維新ニ至り同寺ノ別当ヲ解キ神官奉仕ス」

とある。なお久松家(注)は維新まで毎年二月二五日に幣物を寄せていた。
 祭神は菅原道真朝臣・天穂日命・花園姫である。
 境内には、天明年中清照寺境内へ勧請され、明治元年合祀された八坂神社と稲荷社がある。

埼玉県神社庁発行『埼玉の神社』より)

 社伝によれば日本武尊が東征時、この地に饒速日命と八千矛命を祀って両神社を創祀し、後の時代に京都北野天満宮の道真の分霊を勧請したとされている。
 物部天神社は武将の崇敬も厚く源頼朝が社領を寄せ、前田利家が社殿を再興、徳川家も代々所領を安堵した。
 祭神は饒速日命とするのが定説であるが、その子宇麻志摩治命また天穂日命(菅原氏=土師氏の祖)とする説もある。
 この付近には式内社が多く、物部天神社、國渭地祇神社、中氷川神社(所沢市三ヶ島)、出雲伊波比神社(入間市)等があり、古代武蔵の重要な地域であった。
山口小学校区の名所・旧跡
http://www.tokorozawa-stm.ed.jp/yamaguti-eh/meisho/horigutitenmantenjinja.html

堀口天満天神社をお散歩
https://www.youtube.com/watch?v=ahqaNr6VsIA

 ではさっそくに、と「都の上水道用貯水池として1934(昭和9)年に完成した狭山湖」(山口貯水池)への森の道をたどっていきます:

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(注)
「旗本久松氏の墓」は、久松定佳(ひさまつさだよし)とその子定弘(さだひろ)の墓石2基が並んで建っています。いずれも江戸時代初期に所沢市域を支配した旗本の地方知行の実相を示す貴重な歴史資料です。
 久松氏が武蔵国入間郡山口に200石の知行地を与えられたのは、1591(天正19)年定佳の父忠次(ただつぐ)の時です。以降、久松氏は幕末まで同地を知行しました。
 久松定佳(ひさまつさだよし)は、1600(慶長5)年から徳川家康に仕え、大坂夏の陣にも供奉します。
 その後、3代将軍家光の日光山参詣の折りに大押の役を務め、後に江戸城裏門の切手番頭、留守居番、4代将軍家綱付となります。『寛政重修諸家譜』によると、1659(万治2)年11月10日に死没し、堀口村の清照寺へ葬られました。
 久松定弘は、定佳の二男であり、書院番などを務めます。『寛政重修諸家譜』によると、1687(貞享4)年10月2日に死没し、父と同じく清照寺へ葬られました。定弘の墓は、墓石の刻銘から定弘の養子となった定持(さだもち、妻は定弘の娘)が建てたことが判ります。
 なお、清照寺は、寺伝では村山党の末裔といわれる星見小太郎が室町期に建てた持仏堂(星見堂)に始まり、後にこの地を知行した久松忠次が、東谷にあった安楽寺を勧請して菩提寺としました。
 もとは旧山口村堀口にありましたが、山口貯水池(狭山湖)の建設に伴い、1930(昭和5)年に現在地へ移転しています。
【所沢市指定文化財・指定年月日】2013(平成25)年8月1日
【所在地】所沢市上山口439番地の3(清照寺内)

所沢市公式サイト、旗本久松氏の墓
http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/shishiteibunkazai/rekisisiryo/hisamatushinohaka.html


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2016年10月30日

早稲田大学所沢キャンパス祭

 今日は山歩クラブのお散歩会でした。
 どうしてか、と申しますとトコサイ!
 ハロウィーンがテーマと聞けば行く!

10/30開催!早稲田大学所沢キャンパス祭
https://www.youtube.com/watch?v=ElpHeWJMCUo

早稲田大学所沢キャンパス祭実行委員会2016
https://www.youtube.com/watch?v=EcQUBRGrruI

 途中でこんなかぼちゃを見つけてしまいましたぁ
 「ひょうたんかぼちゃ」っていうらしいですねぇ
 
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でもかぼちゃは株、じゃない、かぶだったつて!

 ヨーロッパにアイルランドという小さな島国があります。その昔、その国にジャックという名前の男がいました。ジャックはお酒が好きでいつも飲んだくれていました。そしてジャックはケチで乱暴者で人をだましてばかりいました。あるハロウィーンの夜のことでした。ジャックはいつものように酒場で飲んで酔っ払っていると、地獄からやってきた悪魔に出会いました。ハロウィーンの夜はこの世とあの世の境がなくなり、その時だけ時間がとまってしまいます。この時を狙って多くのお化けたちが人間に取り付こうとやってくるのです

 悪魔は
「お前の魂をとってやる」と言ってジャックの魂をいただこうとしました。ジャックは魂をとられたくありません。ジャックは悪魔にこういいました。「わかった。わしの魂をあげよう。でもその前に酒を一杯ご馳走してくれ」
 一杯くらいいいかと悪魔は思って、その一杯のお酒を買うお金に変身しました。すると、ジャックはお金に変身した悪魔をすばやく自分の財布の中に入れました。悪魔は財布から出たいのですが、ジャックが財布の口を固く閉じていて出られません。
「出せ!出してくれ!」と悪魔は言いました。
 ジャックは「出して欲しければ取引をしよう」と言いました。
「何でも聞くから出してくれ!」
 ジャックは悪魔にこれから10年間は ジャックから魂をとらないと約束させて、悪魔を財布から出してあげました。

 そして10年の月日が経ちました。ジャックがハロウィーンの夜に道を歩いていると、またあの悪魔と出会いました。
「へっへっへ……今度こそお前の魂をもらうぞ」
 悪魔はジャックに言いました。ジャックは今度も魂をとられたくありません。ジャックは悪魔にこう言いました。「わかった。わしの魂をあげよう。でもその前にあの木になっているリンゴを一つとってくれないか?」  悪魔はリンゴくらいとってやってもいいかと思って木に登りました。すると、ジャックはすばやく木の幹に十字架を刻みました。悪魔は十字架が怖くて下に降りることができません。
「降ろしてくれ!頼むから降ろしてくれ」
 ジャックは「降ろして欲しければ取引をしよう」と言いました。ジャックは悪魔に自分の魂を絶対にとらないことを約束させて悪魔を木から降ろしてあげました。

 何年か経ち、ジャックは年をとって死んでしまいました。天国に行こうとしたジャックは生きている時にケチで乱暴者だったために天国には行けませんでした。仕方なく地獄の門をたたいたジャックはそこに立っているあの悪魔と出会いました。「地獄へ入れてくれ。」とジャックが頼むと、悪魔は
「お前の魂はとれない。だって、約束したからな」と言って地獄へ入れてくれません。
 ジャックは困り果てました。「だったらどこへ行けばいいんだ?」とジャックが悪魔に尋ねると悪魔は
「元いた所へ戻るんだ」と言いました。
 ジャックは来た道をトボトボと戻りはじめました。その道はとても暗く、風がひどく吹いていました。真っ暗では道がわかりません。ジャックは悪魔に頼みました。「わしに明かりをくれ。暗くて道がよく見えないから」と。悪魔は地獄で燃えている火の塊を一つジャックにあげました。ジャックはその火の塊をカブの中に入れてちょうちんを作りました。そしてそのちょうちんを持ってこの世とあの世をさまようようになりました。これが行く当てもないジャックの旅の始まりでした。

 いつしか、ジャックの持つちょうちんが死んだ人々の魂のシンボルとなりました。
 このお話がアメリカに伝わるとカブがカボチャになりました。
 アメリカではカブにあまり親しみがなく、カボチャがたくさん採れたのでカボチャでちょうちんを作るのが一般的になっていったようです。


ハロウィンのカボチャお化けの由来
ハロウィンのシンボル、カボチャのお化けの由来をご存知でしょうか? カボチャのお化けは英語では「Jack O' Lantern's(ジャック オウ ランターン)」と言い、"ジャックのちょうちん"を意味します。酒好きで人を騙してばかりのジャックは死後、天国にも地獄にもいけず、あの世とこの世をさまようになり、そのときに持っていたのがこのちょうちんだそう。ジャックのお話し"Jack O' Lantern's story"を紹介します。

https://allabout.co.jp/gm/gc/189281/

 そして、トコサイへ入るのです。若返りましたぁ

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 ステージでは大学生のグループ MARRY が大奮闘!
 か・わ・い・い!

Happy Halloween Song
https://www.youtube.com/watch?v=86WF70ZlFMY

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湖西のみち

 ヤッホー君、今朝の徘徊の道は「湖西」。
 手に持っている本は司馬遼太郎『街道をゆく』(朝日文芸文庫)!
 そうなんです、白髭神社って本社があるのか、と知ったら居ても立っても居られないんですって。
 その前に、お亡くなりになってもう20年、司馬遼太郎(1923-1996)のお考えをちょっとだけ:

映像アーカイブ「司馬遼太郎、思索紀行、この国のかたち』
https://www.youtube.com/watch?v=883j_2AvI9I

 ではさっそく:

◇「日本人」問う原点

 晩秋の週末、伸びやかな筋雲が広がる空の下、琵琶湖を右に見て車を北へと走らせると、もう「街道をゆく」の世界に自分がいる。ハンドルを握りながら記述を思い返せば、眼前の光景は、絵巻から写し取ったような輪郭と色彩を伴ってくる。
 「博覧強記」の作家は本作の取材と執筆にあたり、「かぼそい期待」と断りながら、こう記している。「道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならば」
 私は生前の司馬遼太郎を知る人を訪ね歩き、その「かぼそい期待」は「確信」だったのだと感じた。

 1971年1月に連載が始まった当時、司馬は多忙を極めていた。「坂の上の雲」を新聞連載中で、週刊や月刊の連載、対談などもこなした。取材は1日あるいは半日しかないこともあった。
 司馬遼太郎記念館長で義弟の上村洋行さん(71)によると、その数年前から短い正月休みは京都で過ごすことが多く、大学生だった上村さんや友人らを連れだって出かけるのは、決まって滋賀だったという。後に本人が「中毒のようだった」とも述懐しているが、上村さんはその道中を「(挿絵の)須田剋太画伯がいないだけで、まさに『街道』のスタイル」と振り返る。
 本や資料に囲まれ、書斎で黙々と執筆するのが常だったが、編集者の間では「座談の名手」と評判だった。語り部や聞き手となり、現地の空気に触れると、その思考や想像力をさらに縦横に巡らせた。
 「湖西のみち」は、朝鮮半島にルーツがある上代民族の先達を追い、戦国の世の一幕をたどる。国内外の『街道』を巡る記念館のツアーは、時を越えてファンに強い「同時体験」をもたらすという。

 準備は入念だった。上村さんによれば、当地に入る前には空で地図や年表を書けるほどだったらしい。年の瀬近く、初回の連れ合いに選ばれた滋賀民俗学会長の菅沼晃次郎さん(86)(高島市勝野)も、行く先々であふれるような知識に圧倒された。
 作中、2人は大阪弁で軽妙に掛け合ったように描かれたが、司馬は移動の車中で、執筆への率直な思いを語っていた。戦車隊で国民の命すら顧みない軍の愚かしさを知り、敗戦。絶望の底から、人間とは何か、日本人とは、日本とは何かを考え続けている、と。
 出身地の大阪で空襲に遭い、「いっぺん死んでる」と言う菅沼さんも、「自分と同じようで違う、面白い人やな」と四つ年上の作家に共鳴した。

 作品の舞台は姿を変えつつある。「こういう漁村が故郷であったならばどんなに懐かしいだろう」とつづった北小松(大津市)では、家々は紅殻(べんがら)を塗り直すことがほとんどなくなり、トタンや真新しい建材で繕われていた。港内では、外来魚が我が物顔で泳いでいる。
 往時を偲ばせたのは、比良の山並みの向こうにある朽木谷だった。室町末期に落ちのびた将軍を慰めたという興聖寺の庭(旧秀隣寺庭園)には、夕闇が迫っていた。32代目の住職、森泰孝さん(63)は、庭の風情とそこからの谷あいの眺めは「恐らくずっと変わらない」と語る。
 司馬はここで何を見たのだろうか。「高度成長のただ中で、本物の郷土と無常を感じたのでは」と森さん。私もその答えを探ろうと、安曇川にかかる橋上でせせらぎに耳を澄ませてみた。
 だが、答えが聞こえるはずもなく、谷は静かに深く暮れていった。
 
◆メモ
 作家・司馬遼太郎が1971年1月から96年3月まで、「週刊朝日」に計1147回連載した紀行シリーズ。初回の「湖西のみち」は、「楽浪の志賀」「湖西の安曇人」「朽木渓谷」「朽木の興聖寺」の4編。全体では海外も含めて72の街道を訪ね、未完の「濃尾参州記」が絶筆となった。挿絵を画家の須田剋太や安野光雅らが担当した。


2014年11月15日05時00分Yomiuri Online(矢沢寛茂)
名作探訪、湖西編「街道をゆく・湖西のみち」朽木谷
http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO007149/20141115-OYTAT50005.html

 湖西のみち、はそんな道です:

■ 作家・司馬遼太郎の『街道をゆく』の第1巻第1章は、「湖西のみち」です。あの有名な紀行文集『街道をゆく』は、滋賀県、それも湖西から始まるのです。雑誌『週刊朝日』に発表されたのが1971年のであることから、おそらくこの時の旅の取材は1970年の冬に行なわれたのではないかと思います。
 1970年といえば、大阪万博の年ですね。私は、小学校6年生でした。我が家では『週刊朝日』を定期購読していたので、『街道をゆく』を子どもながらに「ながめて」はいました。仕方のないことですが、この紀行文を味わうだけの知識が当時の私にはありませんでした。私の印象に残っているのは、司馬遼太郎の文章よりも、画家・須田剋太のカットの方でした。この「湖西のみち」の旅についても、もちろん須田剋太と『週刊朝日』編集部の橋本申一さんが同行されています(本文中では、H氏)。そして、この第1章「湖西のみち」には、さらに滋賀民俗学会の菅沼晃次郎さんが、案内役として登場しています。
■ 菅沼さんには、私が滋賀県立琵琶湖博物館の開設準備をしている時にお会いしたことがあります。もう20年ほど前のことだと思います。司馬遼太郎の文章では、「いかにも大阪人らしい率直な物の言い方」と説明した上で、この菅沼さんの語りが出てきますが、私の記憶の中に残っている菅沼さんのイメージとピッタリと重なりあいました。「さすが、司馬遼太郎だ…」と、多くの司馬遼太郎の読者にとってはどうでも良いところで感心してしまいました。
■ 菅沼さんは、本業のお仕事とは別に、面白いことがしたいと速記を習っておられました。そのようなこともあって、昭和24年に大阪で開催された、柳田國男と折口信夫(日本民俗学の巨頭)の講演会で、速記録を録る仕事が回ってきたきたのでした。記録を録りながら、民俗学の面白さに目覚められたようです。その時の講演会の幹事が、私が大学院時代にお世話になった鳥越皓之先生のお父様である鳥越憲三郎先生でした。その鳥越憲三郎先生の勧めで、菅沼さんは、滋賀で民俗学の研究を始めた…ということのようです。なるほど…。非常に個人的な反応で本当に申し訳ありません。
■ さて、『街道をゆく』「湖西の道」で司馬遼太郎の一行は、穴太、坂本、堅田、堅田、真野、北小松、白髭神社等を巡りながら、古代に、石積み等の技術を持って大陸から湖西に移り住んできた渡来人に、そして安曇川のあたりから朽木に向かう途中では、「安曇」という地名から日本人はどこからやってきたのかということに思いを馳せます。そして朽木街道から京都に向かうあたりでは、織田信長が越前攻略のさいに浅井長政の裏切りから朽木に逃げた…という史実について丁寧に述べた後、作家らしい想像を巡らすのです。


Wednesday, May 4, 2016龍谷大学社会学部の教員・脇田健一のホームページ
湖西路をゆく
http://www.soc.ryukoku.ac.jp/~wakita/?x=entry:entry160504-213824

濃密な渡来人との縁

 『源氏物語・千年紀 in 湖都大津』が2008年3月18日から始まった。12月14日まで、多彩なイベントが繰り広げられる。源氏物語にある「光源氏の名付け親は高麗人」という記述に寄せて、近江と渡来人との深い関係を考える千年紀とするのも悪くない。紫式部が源氏物語の構想を練り、物語誕生を祈願したのが大津市の石山寺とされている。『紫式部日記』によって、西暦1008年には源氏物語の執筆が確認されており、今年がその1000周年、「千年紀」ということになる。

光源氏名付け親
「日本人とは」司馬遼太郎も探究の地

 源氏物語第一帖「桐壷」では「高麗の相人」という人物が重要な役割を果たしている。ときの天皇(桐壷帝)の第二皇子はたぐいまれな美貌の持ち主で、彼の将来を案じた天皇は、高麗人の相人(観相学を行う占い師)に皇子の未来を占わせた。相人は、「帝王の位に上るほどの顔相だが、そうなれば世が乱れるかもしれない。かといって、補佐役という相でもない」と告げた。その託宣に天皇は、災いを避けるという理由で皇子を臣籍に降ろし、源氏を名乗らせる。

 だが、高麗の相人が皇子の美貌をあまりにもほめそやすので、彼は「光の君」と呼ばれるようになった。『光る君といふ名は、高麗人(こまうど)のめできこえてつけたてまつりけるとぞ言ひ伝へたるとなむ』と「桐壷」帖の最後に書かれている。高麗の相人は、光と源氏それぞれの命名に関係し、彼の運命をも暗示させる重要な役割を担った。この高麗人とは渤海人のことと考えられている。

 紫式部が源氏物語の構想を練ったとされる石山寺は、瀬田川を瀬田の唐橋(からはし=昔は韓橋とも呼ばれた)から少し下ったところにある。鎌倉時代の『石山寺縁起』によると、奈良時代の僧、良弁が琵琶湖畔に祀られている比良明神の導きにより建立したとある。

 良弁の出自は「姓は百済氏、近江の志賀の人、または相模の漆部氏」とあり、百済系渡来人の子孫である。比良明神とは琵琶湖畔・高島市の白鬚(しらひげ=新羅)神社に祀られている白鬚神。こちらは新羅系だが石山寺建立にかかわった僧・神とも渡来系である。百済氏は「志賀の漢人(あやひと)」と呼ばれる、今の大津市あたりに居住していた渡来系氏族グループの一つだ。

こだわり紀行「街道をゆく」

 琵琶湖を取り囲む近江の国そのものが、まるごと渡来人の里だと強く主張していたのが司馬遼太郎である。1996年に亡くなった司馬遼太郎が生涯をかけたテーマとは「日本人とは何か」だった。それは全ての作品に共通している。

 中でも紀行文集『街道をゆく』は問いに真正面から挑んだ作品だった。1971年1月から週刊朝日で連載され、本人の強い希望で最初のシリーズは琵琶湖畔「湖西のみち」となった。湖西をたどりながら「日本人はどこからきたのだろう」と彼は問い、はるか昔に韓半島から渡来した人々にその答えを求めている。

 「『朝鮮人などばかばかしい』という、明治後できあがった日本人の悪い癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にある近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである」
 彼が近江を選んだ理由は明快だ。「この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待を持ちながら歩いている」

 そして近江の風景は、彼の期待に応えた。「われわれに可視的な過去がある。それを遺跡によって、見ることができる。となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴(したた)り落ちてきたことはまぎれもないことである。その証拠は、この湖西を走る車の窓のそとをみよ。無数に存在しているではないか」と記している。

 あえて飛鳥や奈良や京都ではなく、近江こそ作家の問題意識を実現するのに最もふさわしい場所であった。

 また別の本では、「近江と朝鮮からの渡来人には濃密な関係がある。幼少期、竹内村(奈良県)での発掘遊びが朝鮮渡来の神々への関心を引き起こした。関東武士の原型は朝鮮渡来人である。古代葛城の地の豪族・鴨族は朝鮮渡来系である。長州人に特有の思考法は朝鮮半島の影響によるのではないかと想像される」と記した。

 近江、竹内、関東、葛城、長州の5回のシリーズはそっくりそのまま「街道を行く」第1巻に収まっている。そして第2巻「韓のくに紀行」へと続く。さらに「韓のくに紀行」は、近江の鬼室集斯(百済滅亡により渡来した百済王族)の墓がある鬼室神社を訪ねて終わる。作家の問題意識は円環し、その初めと終わりに「近江」があった。

琵琶湖周辺にゆかりずらり

 百済滅亡直後、天智天皇は大津宮に遷都した。そこは当時「志賀の漢人」と呼ばれていた渡来人集積地そのものであった。その北側、大津京の大極殿跡とされている場所は錦織氏、その北に最澄の実家である三津首(みつのおびと)氏、さらに上村氏、錦村氏、百済氏と続き、宮跡最北部の穴太(あのう)氏の本拠・穴太にはオンドル遺跡まである。どの氏族も百済系と推定される。

 湖北には新羅系の白鬚神社、湖東には新羅系秦氏の集積地などがある。琵琶湖を取り囲む近江の地は、まさに「渡来人の里」である。


2008.4.2 民団新聞
<源氏物語>千年紀 in 湖都大津に寄せて
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?newsid=9560



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2016年10月29日

白髭大岩

 奥多摩むかしみちに三っつの岩があって、ヤッホー君、ひとり楽しんでいましたが、ひとりじゃもったいない、公開しようと:

耳神様

 昔は耳だれや耳が痛いときは、お医者様もいないし、どうしようもなかったので、 穴のあいた小石を見つけて、耳神様に供えて御利益を一心に祈りました。
 民間信仰のひとつです。
(奥多摩町教育委員会)


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弁慶の腕ぬき岩

 高さ約3mの自然石。
 下の方に腕が入る程の穴があることから、旧道往来の人々に親しまれ、力の強い弁慶に付合されて誰れ言うことなく「弁慶の腕ぬき岩」と呼ばれるようになりました。
(奥多摩町教育委員会)


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白髭神社と大岩

 古代において白髭大神信仰の文化が多摩川をさかのぼり、古代人の思想に一致した神やどる聖地として巨岩のある清浄高顕のこの地に巨岩を御神体として、祭祀が営まれました。
 大岩は秩父古生層のうち石灰岩層の断層が露頭したもの。層脈は多摩川をはさんで対岸へも続いています。
(奥多摩町教育委員会)

都天然記念物 白髭大岩
 白髭神社脇の絶壁は石灰岩に残された断層面の大露頭である。
 境内近くには上部古生界の石灰岩のレンズが多摩川を横断して両側に分布している。
 走向は北西−南東でほとんど垂直に立ち、断層はこの石灰石体を北東−南西に横断し、北西に約70度傾斜している。
 したがって断層の北西側が上盤になり、この境内の絶壁は上盤で、下盤が失われ露出するようになった。
 高さ約30m、横巾約40mで、向って右上から左下に走る擦痕が一面に見られる。
 断層の規模はあまり大きくないが、このように断層面が大きく露出しているものは極めて稀であり、学術上貴重である。
 大切に保存したい。
(昭和44年10月1日建設 東京都教育委員会)


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 あのね、白髭神社って下町、墨田区にもあるけど、、、

 今から千年余の昔(天暦5年・西暦951年)、近江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の御分霊としてお祀りしたことが、東向島鎮座・白鬚神社の始まりです。
 墨田区の旧寺島町にあたる「東向島・墨田・堤通・京島・八広・押上」地区の氏神様として 地元の人々に支えられてきました
 主祭神・猿田彦大神様は、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。人を正しく導くことが叶うとのことから、旅立安全・交通安全・商売繁昌・方災除の神として広く信仰を集めています。
〒131−0032東京都墨田区東向島3−5−2電話03−3611−2750


http://members2.jcom.home.ne.jp/sirahige/sirahige/

 へえ〜、墨田区の白髭神社って分社で、本社は琵琶湖湖畔にあったんですかぁ〜

御祭神 猿田彦命(猿田彦大神)

 古事記によると、猿田彦神は「天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は芦原中津国を光す神」だと見えている。
 高天原からこの国土に降る道の途中に、四方八方に分岐する道があり、猿田彦神はそこに居られて道を守り、道を教えた神様である。
 このことは天孫の降臨について、天孫の一行にその行く手を教え導かれた功績を褒め称えたものである。
 これは大にしては国の行く手を示す神であり、小にしては道の守り神として悪いものを防ぎ、よき方への導きの神であったことを示したものと言えよう。

 古事記には更に、この神の出自をいって「吾は国つ神」とあり、この国土にあって国民のための導きの神であったことを知らしめる。
 その導きの神徳は「御前に仕へ奉らむとて参向に侍らふ」ともある。
 天孫を始め、延いては多くの人々の前に立ち、人の世のすべての業や営みを善い方に誘導されたことは、私どもはこの神を信じ奉ずることによって、常にこの神が自分の前に立って善き方に導いて下さることを知らしめるものである。

 日本書紀によると、この神は強い力の持ち主で威風堂々たる容姿の持ち主であったようだ。
「その鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余、また口尻明りて耀れり、眼は八咫鏡の如くにして耀輝けること、赤酸醤(ホウズキ)に似たり」とある。
 らんらんたる眼を持った偉丈夫の姿を彷彿とさせる大神である。
 そしてその威力はこの神に「目勝つ神」はなかったとあるように、その眼力が窺えるのである。
 この神が岐れ路道におられて睨みを聴かせているのだから、悪いものは近寄ることさえできない。


http://shirahigejinja.com/



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2016年10月28日

奥多摩湖(小河内ダム)

 山歩きでなく道歩きもまたいいですね。
 そのわけはみっつくらいあるのかな、とヤッホー君、昨日と打って変わって曇天の下町で頬杖ついて考えておりました:
 ひとつ、道だからむかしを偲ぶ縁(よすが)が残っている、
 ふたつ、村々に伝えられてきたむかし話がまちの教育委員会などのご尽力で案内文で読むことができる、
 みっつ、むかしの面影にいまがかぶさってきて、えっなんで、と考えさせられることが多い、
 まだあるんでしょうね、ま、そんなことで、ヤッホー君が歩いてきた一帯、いったいどんな記事をメディア(新聞)が残してくれているか、どうわれわれをいざなっているんだろうと、まずはそのあたりから読んでみることにしましょう。
 押さえておかなくっちゃ、「小河内ダム」、通称「奥多摩湖」は東京の水がめ。
 そうなんです、「トトロの森」の傍らの「狭山湖」も東京の水がめで、「山口貯水池」と呼ばれていましたね。
 まずは2011年6月20日付け東京新聞から:

 夏の電力不足を少しでも補おうと、東京都は、多摩川上流の景勝地「鳩ノ巣渓谷」(注1)への平日の観光放流を取りやめ、都が所有する水力発電所での発電量アップを目指す。地元・奥多摩町の理解も得られており、環境省と国土交通省の許認可を得られ次第、実施したい意向だ。
 都は、多摩川上流に多摩川第一、第三、白丸の三つの発電所を所有し、東京電力に売電している。最も新しい白丸発電所は、白丸調整池ダムから下流の第三発電所までの間が、枯れ川にならないよう最低限の水(維持流量)を流していたのを、発電も一緒に行おうと、2000年11月に完成した地下式の施設。ただ、調整池からの高低差が20数メートルしかないため、常時出力は第一の5400キロワット、第三の5300キロワットと比べ、白丸は130キロワットとかなり小さかった。
 白丸発電所の下流にある奇岩が見どころとなっている鳩ノ巣渓谷。1963年に第三発電所と白丸ダムが完成してから、水量が減少。観光に打撃となるため、3月から11月まではダムからの放流量を増やし、一方で第三発電所の出力を抑えていた。
 白丸調整池から導水路を通って第三発電所に至る高低差は白丸発電所の三倍。電力需給が逼迫(ひっぱく)する平日の観光放流をやめることで高低差のある第三発電所に多くの水を送り、発電量を増やす。全体では一般家庭500世帯分に相当する1500キロワットの出力増になるという。
 発電所を管轄する都交通局では「観光放流をやめても枯れ川になることはない。電力需給に余裕のある週末は観光放流を続けたい」と話している。

東京都の電気事業
 1911(明治44)年に交通局の前身の「電気局」が発足。路面電車を運行するため、火力発電所も運営した。戦時中の配電統制令で事業を国策会社に譲渡。1943年に「交通局」となったが、電気技術者を抱えていたため、電気事業も交通局が引き継いだ。1957年には、小河内ダムの直下に多摩川第一発電所を完成させた。


観光放流やめ発電強化 奥多摩の鳩ノ巣渓谷
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/scheduledstop/list/CK2011062002100003.html

 次いで、2012年4月20日付け朝日新聞から:

 東京にも秘湯がある。場所は東京都のただ一つの村、西多摩の檜原村。4月7日、土曜日。青梅線の青梅駅を起点とし、奥多摩湖から月夜見山をかすめ、風張峠を越える周遊道路を走りその温泉に向かった。

おやじコンビは127歳
 JRの「ホリデー快速おくたま号」は午前8時43分に青梅駅へ着く。今回はM君と二人でのサイクリング。M君は久々の登場なので、改めて簡単に紹介すれば、某著名企業の役員をしている。昨年自転車に目覚め、よくあるパターンでまずクロスバイクを買い、昨夏私と安曇野へ初輪行した。輪行にはクロスは重た過ぎるとわかると、すぐにカーボンのロードを買った。
 若者諸君からすれば贅沢(ぜいたく)に見える行動かもしれないが、これまであくせく働いてきたおやじの最後の遊びだから、ま、許してあげようではないか。なんてったって、私と二人合わせれば127歳なのだから。

お巡りさんあきれる
 「天気よさそうだね。どこまで行くの」
 「奥多摩湖まで行って、周遊道路の風張峠を越えて檜原村の温泉まで」
 「ええ〜、自転車で奥多摩周遊道路を上るの!」
 自転車を組み立てながら、駅前交番の年配の(それでも私らより若いはずだ)お巡りさんとの会話。私らの年格好を見て、驚いたというより、あきれ返ったという表情だった。でも「無謀だからやめたら」とは言わなかった。
 10kmの距離で600m上るという峠を数字で理解し、大丈夫だろうと思っていたのだが、「大分きついのかもしれない」と少し不安になる。しかしM君には気取られぬように「ハハ、たかが10kmですから」と何気ない風を装う。

青梅市の青梅
 9時10分過ぎ、駅前コンビニで飲料と昼飯用に食料を仕入れ、青梅街道をさかのぼり、一路奥多摩湖を目指す。駅を出て間もなくに金剛寺という寺があり、境内に梅の古木がある。この梅は季節が過ぎても黄色くならず落ちるまで青いままだという。都の天然記念物であり、青梅市の名称もこれにちなんでつけられたのだという。
 小説大菩薩峠に登場するニヒルな盲目の剣客机龍之介の甲源一刀流道場があったとされる沢井を過ぎる。桜はまだつぼみすら見えないが、梅の花は真っ盛りだった。
 「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道・・・」
 小説の基調である間の山節のうろ覚えの断片が頭をよぎる。緩やかなアップダウンの道をゆるゆると進む。快適だ。

バス停、その名も「将門」
 奥多摩町に入ったころだろうか、バス停に「将門」という文字が見えた。将門といえば江戸の鎮守である神田明神の神様であり、大手町の首塚も名高い。東京に縁が深いとはいえ、この奥多摩の山奥に将門というバス停があるのはすごい。
 深い山里を走る時にいつも思うのだが、徒歩しか手段のなかった時代から、人々はこうした所で生活を営んできた。不便という言葉すら及ばない日々であったに違いない。都会の生活で軟弱になった身は、「人間というのは不思議なものだ」と月並みな感想を漏らす以外に言葉がない。
 青梅から距離にしてざっと26km、標高で350mほど上ると小河内ダムに到着する。小河内ダムは東京の水がめであり、通称奥多摩湖と呼ばれる。湖岸の平坦路をゆっくりと時計周りの反対に進む。湖を半周したあたりで12時半。いよいよ周遊道路の上りが始まるのだが、まずは駐車場の隅の陽だまりにあぐらをかいて腹ごしらえ。

新語は「太もも休憩」
 この周遊道路、東京の自転車乗りの定番コースの一つとみえ、上り人下る人が次から次へとやってくる。みんな鮮やかなジャージー姿でスイスイと上り、下って行く。一人もいるしグループもいるし女性もいる。派手な衣装で年齢は定かでないのだが、なかには比較的ヨロヨロ上って行く人もいる。私らのご同輩なのだろうかと観察する。
 かなり急な上りに挑戦スタートだ。と、「太もも休憩!」、峠初体験のM君が叫ぶ。何度となくとまって自転車を降りる。深呼吸をして呼吸を整え、ストレッチを繰り返す。「奥多摩駅まで電車で」というM君だったが、やや強引に手前の青梅駅をスタートとした設定を「済まなかったかな」とちょっと反省。押して歩いたかどうかはM君の名誉のためにもコメントを避けておこう。

悲劇か喜劇か片側交互通行
 この坂での最大の悲劇あるいは喜劇は、何カ所か工事中の長い片側交互通行の箇所があったこと。私たちが信号を待って上り始める。当然乗用車は先に行き姿は見えなくなる。対向車のない坂をのろのろと歩くようなスピードで上って行く。
 出口では、「自転車、まだ後から1台行くから」と無線で連絡を受けた警備員がのぞき込むように私らを待っている。想像した通り信号待ちの対向車の長い行列ができている。むっつりした怖そうなトラックの運転手に、「すまんのう、のろくて」と言い訳をする。たいがいが「おやじでは仕方がないか」といった表情で苦笑されるだけで済んだが、みじめな気分には変わりがなかった。

吹雪の中の下り坂
 月夜見山(1147m)の展望台からは奥多摩湖が一望できる。大砲のようなレンズを付けたバードウオッチングの人たちがオオタカの姿をとらえようと三脚を立てていた。道路わきに表示されていた気温は3度。随所に雪が残っていた。止まると寒い。
 再び上り始めたらあられが舞い始めた。寒いはずだ。そのうち、峠の頂上付近と思われるあたりから、雪が本格的に降り始めた。1000m超える山での雪は静かには降らない。吹雪だ。数十キロしか離れていない下界では桜が満開というのに。
 パンツや手が濡れてきてひどく寒い。靴もびしょびしょで、歯がガチガチと鳴る。視界がだんだんぼやけ、ついにほとんど見えなくなった。気が付いたらサングラスに雪が吹き積もってふさいでいたのだ。手袋に雪が積もり、振り払おうとしても落ちない。後輪のはねが上がってお尻のあたりもぐちょぐちょ濡れてきた。こんな時の自転車はまことにみじめだ。

一目散に風呂へ飛び込む
 雪の路面に注意しながら500mほど下り、降りしきる雪の中、ようやく予約してあった秘湯・数馬の里の旅館「蛇の湯温泉 たから荘」にたどり着いた。走行はわずか54km前後の距離だったが、久々にしんから凍えた。入り口の提灯(ちょうちん)にほっとする。細かい手続きは後にし、おばちゃんに頼んでとにかく一目散に温泉に飛び込んだ。
 というわけで、温泉話は次回に。(次回は5月11日掲載予定)


東京に残る唯一の秘湯「蛇の湯温泉」(多摩・前編)
文と写真:三浦 壮介
http://www.asahi.com/travel/bicycle/TKY201204200193.html

 そして昨年、2015年5月11日付け毎日新聞・東京朝刊「余録:大型連休中、新緑の東京・奥多摩を歩いた…」から:

 大型連休中、新緑の東京・奥多摩を歩いた。奥多摩湖にかかる橋のたもとから、急な林道を15分ほど上り、台湾出身戦没者の慰霊碑にたどり着いた。慰霊碑から湖を見下ろすと、生い茂った杉林の間からわずかに湖面が見える。

「あなた方がかつてわが国の戦争によって尊いお命をうしなわれたことを深く心にきざみ永久に語り伝えます」

 40年前の1975年8月、日本の民間有志が建立した大理石の碑だ。隣に設置された慰霊塔はかつて「高砂(たかさご)族」と呼ばれた台湾の先住民が持つ蕃刀(ばんとう)を模したものだ。
 先の大戦では20万以上の台湾人が軍人、軍属として徴用され、約3万人が死亡したが、戦後、国籍を失ったため、補償の対象にならなかった。1974年12月、インドネシアのジャングルに30年近くも潜伏していた先住民出身の中村輝夫(なかむらてるお)(民族名・スニヨン)さんが発見され、台湾出身元日本兵の存在が改めてクローズアップされた。
 慰霊碑建立の中心だった弁護士の越山康(こしやまやすし)さん(故人)は初めて1票の格差訴訟を起こしたことで知られる。建立当時の経緯ははっきりしないが、関係者は「台湾人が平等に扱われていないことが許せなかったのではないか」と話す。
 1977年には台湾人元日本兵の戦傷者や遺族が補償を求める裁判を起こしたが、敗訴した。
 1980年代になって議員立法で弔慰金支給が決まり、約3万人の台湾人遺族らに1人当たり200万円が支払われたが、日本人との格差は残った。
 湖を望む奥多摩の地は台湾の景勝地、日月潭(にちげつたん)に似ていることから選ばれたという。今月5月28日には現地で法要が営まれる。戦後70年。語り継ぐべきことは多い。


日本李登輝友の会
5月28日、今年も奥多摩・笠松展望園で台湾出身戦没者慰霊碑を参詣
http://www.ritouki.jp/index.php/info/20150512/

(注1)昨日27日ヤッホー君が見た絶景は「惣岳渓谷」!
 奥多摩むかしみちの中間よりやや奥多摩湖よりにある渓谷。
 この渓谷は「御岳渓谷」や「鳩ノ巣渓谷」のように河原まで下りることができません。急峻な谷は人が近づくことを拒絶しているかのようです。
 むかしみちから見下ろす形でその景観を眺めますが、水は深い青で両岸の木々が水面に映り大変きれいです。 途中には「しだくら吊り橋」と「道所吊り橋」の2つの橋があり、橋の上から深い渓谷を眺めることができます。息をのむ絶景が広がります。


4travel.jp奥多摩のクチコミ、旅行時期:2012/11(約4年前)
http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/okutama/okutama/tips/10448802/

 ではとっておきの写真「惣岳渓谷」を一枚:

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2016年10月27日

奥多摩むかしみち

 今日10月27日木曜日は爽やかな秋晴れ。
 となったら居ても立っても居られないヤッホー君、さっそく徘徊に行ってまいりました。
 えっ、どこへ?
 「奥多摩むかし道」!

 旧青梅街道と呼ばれていた道で、氷川から小河内に達するまでの道です。
 この街道は、小菅から大菩薩峠を越えて甲府に至る甲州裏街道で、甲州街道より8kmほど近道であったそうです。
 現在の青梅街道は、柳沢峠を越えて塩山(甲州市)に至る道で1878(明治11)年に開通しました。
 昔、小河内の生活は、塩山との交易で支えられていました。
 大菩薩峠の無人小屋で物々交換をしていましたが、一度も間違いはなかったそうです。
 その後、小河内の物産は、氷川への厳しい山道(14km)を避け、歩きやすい五日市(20km)に運ばれ、生活物資に変えられていました。
 岫沢(くきざわ)から風張峠に出て、浅間尾根を通り、本宿に下りて五日市に向かう道を通りました。
 1899(明治32)年に、小河内と氷川間が、わりと平坦な山腹を通る道に改修され、道のりも10kmに短縮、交易ルートが氷川へと変わりました。
 以降、木炭の生産が飛躍的に増加しました。
 この後も氷川への道は、たびたび改修され生活の道となったのは大正から昭和初期に入ってからです。
 1938(昭和13)年、氷川〜西久保間にダム建設資材輸送専用として造られた道路が1945(昭和20)年に一般道として開放され、現在の国道411号線になりました。


一般社団法人 奥多摩観光協会
http://www.okutama.gr.jp/okutama-map/pdf-img/mukashi.pdf

 へえ〜青梅街道!
 甲州街道の裏街道でしたかぁ〜

 青梅街道は新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合流する道で、1606(慶長11)年江戸城修築の城壁用に、武州多摩郡の上成木村・北小曽木村(現青梅市)産出の石灰を運ぶ道として、大久保石見守長安によって開かれたと伝えられている。
 石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山への参詣や、甲州裏街道として旅人が行き交う街道でもあった。

 この青梅街道は内藤新宿の追分付近(新宿四丁目交差点)で甲州街道から分かれ中野、田無、小川(小平市)、箱根ヶ崎、青梅、氷川、丹波、小原(山梨市)の各宿場を経て、甲府の東(酒折)で再び甲州街道に合流する。
 このため「甲州裏街道」とも呼ばれている。
 距離は約167km。


青梅街道を歩く
http://home.att.ne.jp/sea/yahiro/oomekaido.html

 え〜と、ヤッホー君はこの裏街道の奥多摩湖⇒奥多摩駅までの約9Kmを午前10時から歩き出し、午後3時ころまであるいてきた、とこういうわけでして。
 平日ということもあり5人の旅人と行き交うことができました。
 ま、またおいおいご報告できるものとして、今日はお疲れ気味のヤッホー君、ここまでにしておきましょうか。
 そう、そう、写真。
 紅葉のはじまり、なんでしょうか、今日のお天気もあって、樹木たちがお色直しはちょっと待ってねという始まりの始まりをこっそりのぞいてきたよう、ヤッホー君のこころがざわざわとさんざめいたといいます。

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 あっ、それよりもヤッホー君、たちどまってしまいました。
 ここは、ね、山歩クラブで雲取山に登って、山頂の小屋に泊まり、翌日、ヘッドランプをつけて雲取山から富士山とご来光を拝み、奥多摩駅に降りたった場所がここだったんだ、ともう懐かしさでいっぱい。
 へたりこんでしまいました。
 あれは何年前?

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 清洲城の玄関を入った直ぐの廊下にいまも大事に、そのときの写真が貼り出されています。

 では秋の夜更かしもからだに悪いとか、裏街道を歩いていたことが分かってもいい、ふるさとの銘酒で「人生一路」(1976年)を聴きながら、歌いながら寝ようと思いますだって、ヤッホー君

https://www.youtube.com/watch?v=wI-Kj8shqLo
https://www.youtube.com/watch?v=x2oJA89uPTc


 
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2016年10月26日

ファシズム体制へ

 ヤッホー君、そうなんです、なんかちょっとあぶない、変だ、と感じているいまの政府。
 パリ協定の批准よりもTPPを10月中に批准採決したがってるし(なんでだろう?)コクドやコクミンの暮らしに目を向けるんじゃなくって、宗主国のほうににじり寄っていくカッコ悪いこの国のカタチを想っているんだって・・・

 アメリカの支配システムが揺らいでいる。東アジアではフィリピンが自立を宣言(注1)、ベトナムやタイもアメリカの属国であることを拒否する動きを見せ、中東ではアメリカの「友好国」だったはずのトルコとイスラエルがロシアとの結びつきを強めようとしている。それに対して日本人の米好戦派に対する忠誠は揺らいでいない。そうした忠誠心が安倍晋三政権を支えている。

 本ブログでは何度も書いてきたが、日本の体制は戦前も戦後も基本的に同じで、天皇制官僚国家。「国体」は護持されたと言えるだろう。そのつながりを象徴する人物が1932(昭和7)年6月から1941(昭和16)年12月まで駐日大使を務めたジョセフ・グルー。そのいとこにあたるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまり巨大金融機関J・P・モルガンを率いていた人物の妻だ。

 J・P・モルガンと最も近い関係にあった井上準之助は1932年2月に射殺されているものの、松岡洋右のように親しい日本人は残っていた。松岡の妹が結婚した佐藤松介の甥にあたる岸信介や佐藤栄作もグルーとはつながっていた。

 1932年にアメリカでは大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに、ウォール街に支援されていた現職のハーバート・フーバーが破れている。そこで、J・P・モルガンをはじめとするウォール街の金融資本がファシズム体制の樹立を目指してクーデターを計画した。この計画はスメドリー・バトラー少将の議会証言で明るみに出ている。

 J・P・モルガンが日本を属国化する切っ掛けは1923(大正12)年の関東大震災。復興資金の調達を引き受けたのがこの金融機関だった。「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上がこの金融機関と結びつくのは必然だったのかもしれない。

 震災後、1925(大正14)年に「治安維持法」が制定されて思想統制が本格化、1927(昭和2)年には第1次山東出兵、翌年に第2次山東出兵と張作霖爆殺があった。1928(昭和3)年には日本共産党関係者らが大量に検挙されている。

 そして1931(昭和6)年、関東軍参謀の石原莞爾中佐(当時)と板垣征四郎大佐(当時)が立案した計画に基づいてい満鉄の線路が爆破され、いわゆる満州事変が勃発、1932(昭和7)年には日本の傀儡国家である満州国の建国が宣言された。この満州国について、アジアにコミュニズムが広がるのを食い止める防壁だとウォール街の大物弁護士で、ロックフェラー財団の理事長でもあったジョン・フォスター・ダレスは考えていたという。(Mainichi Daily News, September 14, 1971)

 ウォール街がイデオロギーだけで動くとは考え難く、満州国の建国を中国略奪の一環として捉えていたのではないだろうか?

 それはともかく、グルーと親しくしていた日本人は少なくない。その中には吉田茂や白州次郎も含まれ、外務大臣だったことから豊田貞次郎海軍大将も親交があった。豊田の親戚の中には日本開発銀行の頭取になる小林中がいる。

 また、グルーを中心に活動していたアメリカ対日協議会(ジャパン・ロビー)を支えていたひとりであるウィリアム・ドレイパー(ディロン・リード銀行の出身で、陸軍次官を経験)は池田勇人と親しく、その池田の子分にあたる人物が福田赳夫。つまり、吉田、岸、池田、佐藤、福田はジャパン・ロビー、つまりウォール街に直結している首相だった。そして、岸の孫が安倍晋三だ。

 現在、アメリカが進めている政策は1992(平成4)年2月に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリン(Wolfowitz Doctrine、Defense Policy Guidance DPG草案)に基づき、日本の軍事化はその流れの中でのこと。日本が進む方向を戦争へと導いてきた人物として、ジョセフ・ナイ、リチャード・アーミテージ、マイケル・グリーン、パトリック・クローニンといった名前が挙がっているが、安倍を操っているのはI・ルイス・リビー Irving Lewis "Scooter" Libby Jr.(1950年生まれ)だとも言われている。リビーはウォルフォウィッツと一緒にドクトリンを書いたネオコン/シオニストの大物でもある。

 日米関係は戦前も戦後も基本的に同じだ。戦後はニューディール派の影響で民主的な要素も加わったのだが、それは数十年かけて消されてきた。その間、民主主義を破壊する作業を大半の日本人は傍観、戦前以上のファシズム体制が迫っている。

2016.10.26 04:09:05 櫻井ジャーナル
アジアの東と西で米国から離れる動きが見られるが、日本は米支配層へ従属し続ける歴史的背景
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610220000/

 こういう巨大悪にどのように抵抗すればいいのでしょうか、考えるだけでもアタマがいたくなってきます。
 だから考えなくっともいいんだよ、それがひとつ。
 そんなこと考えるだけで、あ〜ぁ、メンドくさい!
 いまが良けりゃ、それで良いんだよ、煩っせぇなぁ
 アタマのどっか片隅に巨大悪を置いておく、ま、そんなもんだろうと一応は知っとく、それがふたつめ。
 ヤッホー君は、そこから足を一歩前にだして、自分の周りにそうじゃない生き方を示していくことかなって、だってぇ〜、そんなことくらいしかできないもん。

 マレーシアの若い法学者だっていろんな矛盾は抱えつつ、三無シュギじゃなくって、ミンシュシュギってなんだってこと、示そうとしているし、示す人びとへの応援歌を歌っています:

IS it okay to want to choose a government? Well, duh.

Of course it is. That’s what a democracy is about. But reading some of the statements being made by one of the numerous Ministers in the Prime Minister’s Department, it appears that wanting a choice is like some sort of sin. And helping those who want the right to choose is also a sin.

I sometimes wonder what these people think a democracy is. If we believe a government is corrupt, incompetent and wicked, then surely we would want to speak out about it. Then hopefully others would agree and there could be a civilised debate.

I am embarrassed to type this out because this is how I would explain things to a toddler and I am quite certain that there are no toddlers reading this. If I sound like I am insulting your intelligence, dear reader, please forgive me, it is not your intelligence I am questioning.

I am writing as though I am speaking to a kindergarten class because sometimes I think that is the level of intellect of some. I mean, what is their idea of a democracy? We all vote and then whatever the Government does, we just sit around and quietly go about our business until the next elections when we vote again?

Anyway, while I am in the mood to teach infants, let me make a few more points.

When people ask for systemic changes and the Government has no intention whatsoever to make those systemic changes, then one has no choice but to campaign.
It does not mean one is a tool of the Opposition. It just means that the only way to get what one wants, like clean and fair elections, is to get rid of those who do not seem interested in giving what you want.

Simple, right? Obviously not simple enough.

Oh, there’s more. If a group acts unlawfully, violently and generally odiously, then they are not to be blamed.

Instead one should blame the victims whom this lot is being violent and odious towards. Even though these victims are doing nothing wrong.

It’s true, this was said by the Deputy Home Minister regarding the Red Shirts. He said that if Bersih stop their activities (which are peaceful and perfectly within their democratic rights), then so will the Red Shirts.

Well then, this being the case, the next time some rich titled person has their house robbed in Damansara Heights, or wherever it is these rich types live, then the Deputy Home Minister should go there and tell them off.

After all who asked them to have so much wealth, to live in a big house and to drive a fancy car? If they didn’t have any of that, then there wouldn’t be any thievery.

I sometimes wonder whether being obtuse is a prerequisite to holding power in this country. Or perhaps it is something that happens once you get into power.

I have no idea. What I do know is that some people are beyond teaching.

The Star, Published:Wednesday, 26 October 2016
Back to Politics 101
By Azmi Sharom
http://www.thestar.com.my/opinion/columnists/brave-new-world/2016/10/26/back-to-politics-101-it-seems-like-its-time-for-a-primer-on-how-a-democracy-really-works/

(注1)
During a speech addressing the Filipino community in Beijing Wednesday, the firebrand president said the Philippines had gained little from its long alliance with the US, its former colonial ruler.

“Your stay in my country was for your own benefit. So time to say goodbye, my friend,” he said, as if addressing the US.

He also repeated his denunciation of Obama as a “son of a whore”.

China, he said earlier, was “good”. “It has never invaded a piece of my country all these generations.”
。。。
Tensions have risen between the US and China over Washington’s so-called “pivot” to the Asia-Pacific, a move that Beijing says is intended to contain it.


The Guardian, Last modified on Thursday 20 October 2016 06.20 BST

Philippines president Duterte says 'time to say goodbye' to America

On visit to China the leader repeats his denunciation of Barack Obama as a ‘son of a whore’


By AFP
https://www.theguardian.com/world/2016/oct/20/philippines-president-duterte-says-time-to-say-goodbye-to-america

On the deterioration of ties with the Philippines, Trump aimed his criticism at Obama, saying the president "wants to focus on his golf game" rather than engage with world leaders.

Since assuming office, Duterte has expressed open hostility towards the United States, rejecting criticism of his violent anti-drug clampdown, using an expletive to describe Obama and telling the United States not to treat his country "like a dog with a leash."

The Obama administration has expressed optimism that the two countries can remain firm allies.

Trump said Duterte's latest comments showed "a lack of respect for our country."


Reuters, Tue Oct 25, 2016 | 6:11pm EDT

Trump says Clinton policy on Syria would lead to World War Three

DORAL, Florida - Donald Trump said that Democrat Hillary Clinton's plan for Syria would "lead to World War Three," because of the potential for conflict with military forces from nuclear-armed Russia.


http://www.reuters.com/article/us-usa-election-trump-exclusive-idUSKCN12P2PZ




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2016年10月25日

神津里季生

 いやはや、どうして日本は「戦前」へと舵をきっちゃったんですかね、恐ろしい、あんなすばらしい憲法をもっていながら。
 どうして日本はアメリカの猫になっちゃったんですかね、国際社会で堂々と皆んなをひっぱっていける憲法9条があるのにね。
 ヤッホー君、この夏、マレーシアにいたときしょっちゅう聞かれた質問です。
 う〜ん、コクミンが選んだ政府のお仕事といっても投票率は低いし、コクミンの無気力・無関心・無責任って三無シュギ、ビョウキなんですかねえ、とかごまかしていましたぁ〜
 ヤッホー君の昨日の日記だって、もう年初から芽がでていたんですかねぇ〜

 連合の神津里季生(りきお)会長は2月13日、宮崎市のホテルで行った記者会見で、市民団体などが夏の参院選宮崎選挙区で民主、社民、共産の野党共闘を求めていることに関し、「連合は過去の歴史や連合結成時の経緯を含めて、基本的に共産党の考え方とは相いれない」と述べた(注1)。

 一方で「選挙は政治の世界。なかなか(当選の)見通しのない選挙区で(共産党が)軒並み立候補することは、結果的に自民党を利するとの批判は聞いている」などと語り、共産党が独自候補の擁立を取り下げることには理解を示した。

 宮崎選挙区の野党は現在、民主推薦の無所属新人と、共産公認の新人が立候補を予定している。神津会長は13日に同市で開かれた連合宮崎主催のシンポジウムに出席するために来県した。


2016年2月14日 16時50分更新、毎日新聞【中山裕司】
夏の参院選
神津・連合会長「共産とは相いれない」/strong>
http://mainichi.jp/senkyo/articles/20160214/k00/00e/010/151000c


「前原元代表ら民主党内の保守系議員が共産党アレルギーを持っているのは周知の通りですが、かたくなに共闘を拒んでいる理由として連合の動きがあると指摘されています。連合の神津里季生会長は新年の交歓会で『共産党は目指す世界、目指す国家体系が異なる。同じ受け皿には成り得ない』とあいさつしました。支持団体のトップが断固拒否なのに、民主党も『共産党と手を組む』とは宣言はできないでしょう」(野党関係者)

 これじゃあ、いくら時間が経っても野党共闘は期待できない。
 八王子市長選なんて、共闘どころか、自公推薦の与党に民主党が相乗りした(注2)。
 敗れた政治学者の五十嵐仁氏もブログで選挙戦をこう振り返っている。

〈自民党市議の後援会、創価学会や町内会、労働組合の連合などの力が、そのまま石森さん(現職)の得票になって現れています〉

 八王子市は、安倍首相の側近である萩生田官房副長官の地元。そんな敵の“本丸”で連合は自公候補を支援したのだ。

 新日鉄出身の神津会長はなぜ、共産党を嫌うのか。「カギ」は90年から3年間、タイの日本大使館に「労組外交官」で派遣されたこと。当時のタイ大使は「安倍外交の師」と呼ばれた故・岡崎久彦氏。「強固な日米同盟がアジアでの日本の発言力を高める」と主張し、集団的自衛権の行使容認に向けて設置された懇談会のメンバーだ。

 元外務省国際情報局長の孫崎享氏は「岡崎氏は外務省内でも日米安保の旗頭だった人物。自分の考えをストレートに伝える強烈な性格で、神津氏の思想にも影響を与えた面は否めません」とみる。
 もともと「労組外交官」は日米安保賛成者から派遣されたらしいから、保守色にどっぷり染まっても不思議じゃない。
 つまり、今の連合幹部の考え方は安倍政権と同じではないか、と疑いたくなる。
 政治評論家の森田実氏はこう言う。

「いずれにしても、このままだと野党共闘はうまくいかず、相手を利するだけ。とはいえ、連合を見限ればそれまで。連合内部にも執行部の方針に批判的な意見は多数あり、そういった意見を少しずつ掘り起こし、民主党や他党がどう連携していくか。それに尽きるでしょう」

 まさに正念場だ。


2016年1月27日付け日刊ゲンダイ
進まぬ野党共闘…“黒幕”は共産党嫌いの「連合」神津会長
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/174091/3

(注1)参院選宮崎選挙区、投票率49.76%(2013年参院選のときは49.82%)
自民現職、松下新平氏(49)=公明推薦=282,407票、3選。松下氏は県内の農業団体などのほか、県内の現職国会議員らの支援を受け組織戦を展開。
野党統一候補の無所属新人、読谷山洋司氏(52)=民進、社民推薦=152,470票、落選。
幸福実現党、新人の河野一郎氏(56)=20,354票、落選。

(注2)八王子市長選、投票率32・60%(前回を2.35ポイント下回った)
無所属現職の石森孝志氏(58)=自民、公明推薦=93,641票、再選。
無所属新人の五十嵐仁氏(64)=共産党、社民党、生活者ネット推薦=51,811票、落選。
石森氏は、推薦を受けた自民、公明の両党に加え、市議会で与党に加わる民主党の市議らの応援も受け、選挙戦を有利に進めた。

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2016年10月24日

衆院補選東京10区

 ヤッホー君、3.11のときから原発擁護の立場であった勤労者、労働者のナショナル組織である連合が許せなかったわけですが、ここにきてさらに政治団体の政党まで牽制する始末。

「・・・その他の野党の皆様、心から感謝を申し上げたいと思います」。
 衆院補選東京10区。選挙戦最終日となった10月22日土曜日、大塚駅頭で開かれた民進党・鈴木ようすけ候補のマイク納めで、野田幹事長はこう応援演説を締めくくった。
 「その他の野党の皆様」とは何だ。なぜ具体的な党名を上げることができないのだろう。この日、マイク納めに東京都選出の民進党国会議員は顔を揃えたが、他党の国会議員は姿を見せていなかった。街宣車の周りには民進党のノボリだけがはためいている。
 民進党の推薦なしに市民と野党共闘で勝利した新潟知事選のように、各党から議員や支持者が結集すればもっと盛り上がり、華々しいマイク納めとなっただろう。民進ブルーだけの駅頭はどこか寂しいものがあった。
 “その他の野党” の地元区議が明かす。「民進党からは一貫して声が掛からなかった」と。また、共産党が独自に鈴木候補の応援運動をやると「保守票が減る」と文句を言ったりしたそうだ。候補を下ろしてくれたのは共産党である。

 まるで自分たちだけで選挙をやっているかのようなジコチュー民進党に “他党” の支持者が怒ったことがあった。10月20日木曜日に行なわれた池袋駅前街宣に、野党各党から党首クラスが参集したのに候補者本人が来なかったというのである。
 20日の街宣には共産党からは志位委員長、社民党・福島みずほ副党首、自由党・山本太郎共同代表、沖縄の風・糸数慶子代表というメンバーが駆けつけ、野党共闘を強く印象付けた。
 前日に公開された本人の行動日程に、池袋街宣と同時間の個人演説会が予定されていたため、「まさか党首が来るのに顔を出さないのか?」とSNS上では憶測が飛び交っていた。
 ところが本当に来なかったので、激怒する共産党支持者もいたようだ。

 一夜経つと、どこからともなく噂がネット上を駆け巡った。本人は出たかったが、連合が嫌がったと。しかも、連合本体は「野党共闘」に腹を立て、鈴木陣営を手伝っていた運動員を引き上げさせたという話だった。

 かわいそうなのは候補者本人だ。他党の協力なしに選挙できるわけではないのに、共闘を打ち出せば支持母体からそっぽを向かれる。

 最終街宣にはいかにも組合の動員というスーツ姿の男達があちこちにいた。連合傘下の会社から来たという男性は、本体が運動員を引き上げさせたという話を知らなかった。単組で鈴木候補の支援を続ける組合がいくつもあったからだ。

 鈴木候補を支えてきた地元市民グループの幹部が事情を明かした。
「運動員を引き上げさせたのは、連合が(野党共闘の)福岡衆院補選、新潟県知事選に不服がある。そういうメッセージだろう」。
「市民が手伝うことで、市民とやっていくことが王道だと民進党には分かって欲しい。候補者は分かっている。板ばさみでしょう。一緒にやれるんだという体験を積んで欲しい。いつかは(連合頼み)をふっ切らなきゃ。それが今だと思うんです」。

 市民グループは民進党が市民との共闘に目覚めることにかすかな期待を抱いていた。
 集会に参加した有権者は、口々に、自民党を勝たせたら「憲法改正される」「基本的人権が削除される」「格差が拡大する」とアベ政権に対する危機感を訴えていた。
 この声にどう応えるのか。民進党はそろそろ、本気で「脱連合依存」を考える時期に来ている。
 

2016年10月23日 15:43更新、田中龍作ジャーナル
【衆院補選・東京10区】連合がまたも足を引っ張る野党共闘
http://tanakaryusaku.jp/2016/10/00014693

 民進党が10月8日の全国幹事会で、次期衆院選でも野党統一候補の擁立を目指す方針を決めた。野田佳彦幹事長は、昨年末の自分のブログでは「共産党とは思想も政策も全然違うので、共闘することはありえない」と言っていたし、今年春には生活の党を含む野党結集について「一番ごちゃごちゃ言って(自分の政権の)足を引っ張った小沢一郎さえ来なければ、生活の党を受け入れる」と言っていたのだから、これはほとんど“変節”と言えるほどの路線転換である。

 しかしそれは当然で、目前の2つの衆議院補選も新潟知事選も、さらに1月と噂される総選挙も、独力で勝つ可能性が絶無なのだから、野党選挙協力をさらに深化させていくほか民進党の生き残る道はない。ところが、野田の本心である「反共産・反小沢」感情は根深いものがあり、そのためこのせっかくの路線転換もまだいくつもの問題点を残している。

 第1に、自力で勝てないからこそ他党に頭を下げて協力をお願いする立場だというのに、野田は補選に関して「政策協定は結ばない」「推薦は受けない。支援は自由だ」などと偉そうな口をきいている。政治家という以前に社会人としての礼儀を欠いている。

 第2に、参院選の場合には各選挙区ごとに候補者調整をしたり政策協定を結んだりしたのだが、次期衆院選についてはそのような“地方自主権”を認めず、すべて野田幹事長=馬淵澄夫選対委員長が取り仕切るという制約条件をつけた。しかし参院選の多くの1人区では、候補者は単に「野党統一候補」だったのではなく「野党プラス市民の統一候補」だった。地元で安保法制反対のデモ・集会を組織してきた市民団体などが積極的に政策協定の議論に加わり、場合によっては全国レベルの「市民連合」も出かけて行って市民と政党との調整役を果たすことで、それぞれに特徴のある政策協定と選挙体制が出来上がった。中央で仕切ったのではこういう知恵はむしろ圧殺される。

 第3に、野田も蓮舫代表も「共産党とは選挙協力はしても連立政権は組まない」と繰り返し述べている。党内反共派を安心させるためだろうが、思想や基本政策が違う党とも当面の課題で一致する限り、政策協定を結んで政権交代を図るのが連立で、それが違わないのなら1つの党になればいいのである。何を言っているのか分からない。

 「一番ごちゃごちゃ言って民進党の足を引っ張っている」のは野田である。


2016年10月13日付け日刊ゲンダイ
ごちゃごちゃ言って民進党の足を引っ張っているのは誰か
高野孟、永田町の裏を読む
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/191641/3

 原発、戦争法、TPPを推進する御用組合、
 さらに野党と呼ばれる政治組織にもいる隠れ与党一派、
 この人たちは政治信条を同じくする自公政権のサポーターとして自公に加わればもっとすっきりするのにね。

 でも野党のなかにいてね、という指示があるのかもしれませんよ、だってイマはもう戦前!
 あのとき、あのころの一億総火の玉を想いだしているヤッホー君です。
 83年前に国際連盟から脱退しているのですが、80年前に「産報」ができ、76年前にILOから脱退しているのです:

 大河内一男編『岩波小辞典 労働運動』によれば、産業報国会とは、国家総動員体制の一環として1936(昭和11)年以降、政府と軍部の指導の下に全国の主要な工場・事業所に設置された、戦争協力のための官製労働者組織である。
 1937(昭和12)年の日中戦争の勃発とともに、国家当局の労働運動に対する弾圧は一段と強化され、合法左派の全評は結社禁止を受け、総同盟もストライキ放棄、労資休戦宣言を発表するに至った。
 総同盟は1940(昭和15)年7月に解体し、産報運動に対する全面的協力を示した。
 1938(昭和13)年7月31日に「産業報国連盟」が結成された後、各地に設立された産業報国会を統合する「大日本産業報国会」が1940年11月23日に正式に創立され、産報運動の総司令部が確立した。
 その総裁には現職の厚生大臣があたり、会長・顧問・評議員にいたるまで一切の役員が天下り的官僚人選によって決められた。
 総同盟幹部もその人選にあずかったが,その指導権を握ったのは特高警察を中心とする内務官僚であった。
 このように産報は、労資協調にたつ労働組合すら否認するところの、皇運扶翼・事業一家・職域奉公のイデオロギーを指導精神とする労働関係におけるファシズムの組織であるとともに、労働者を職場において監視する軍事的組織であった。
 したがって、産報運動の進展は労働組合の壊滅を意味した。
 終戦後、1945(昭和20)年9月30日、産報は占領軍の命令により解散した。

また『資料日本現代史7』巻末に収められた「解説」によれば、産業報国運動とは「日中戦争開始後、戦時体制確立のために労働界および産業界の一元的組織化をめざし、その実現に成功した運動であ」り、そ「の果たした役割が決定的であったのは、日本全国の産業界、労働界を上から完全に組織した点にある。それを阻む力、あるいは多少なりとも労働者組織的に変える力はまったくなかった」。
上からの国家統制による支配が確定していたのである。そのため戦後の産報会の解散、労働組合への改編においても、下からの自発的な動きからではなく、占領軍の解散指令をまたなければならなかった。ここに産報運動の総決算が集中的に表現されている」。

産業報国会とドイツ労働戦線の比較に関する準備的考察
枡田大知彦(ますだ・たちひこ、1968年生まれ)
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/8947/1/664masuda.pdf



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柄谷行人

 7月の参議院選挙。
 われわれ一人ひとり、主権者として、自由で自発的な意思で立ちあがり、全国32の一人区すべてで野党統一候補を実現し、そのうちの11の選挙区で当選させました。
 北海道と秋田を除く東北、そして新潟、長野、山梨、三重、大分、沖縄でした。
 これは未来につながる希望のある、意味のある新しい市民運動だったのだなと思ったヤッホー君。
 これがぁ・・・2016年7月11日の『リテラ』を読みますと、こんな裏話が:

 昨日7月10日日曜日、投開票された参院選は、自公とおおさか維新の会などの改憲勢力が非改選と合わせて憲法改正の国会発議に必要な3分の2議席以上を確保した。
 安倍首相はこの選挙戦において、遊説で憲法改正について一度も言及することなく、「争点隠し」を行なってきたにもかかわらず、だ。

 まさに安倍首相が国民を“騙し討ち”したとしか言いようがない結果だが、しかし、そうした改憲勢力と同じように国民を騙してきたのは、テレビも同じだ。

 昨日、開票が開始された昨晩20時前からNHKおよび民放各局は一斉に選挙特番を放送したが、そこでは今回の選挙の争点が「憲法改正」であることを全面に打ち出し、出口調査結果を発表するなり
「改憲勢力が3分の2議席を確保する見込み」
「憲法改正発議可能に」
「野党共闘ふるわず」などと伝えはじめたからだ。

 …… 目がテンになるとはこのことだろう。
 この参院選の間、ほとんどのテレビは改憲の問題を無視していたんじゃなかったのか。
 そして、安倍政権の誘導に乗っかってあたかもアベノミクスが争点であるかのような報道を展開していた。
 いや、そのアベノミクスの検証さえ行naわずむしろ参院選のニュースを最小限に留め、今月末の都知事選のことばかりを取り上げる始末で、きちんと参院選の改憲問題をピックアップしていたのは、『NEWS23』『報道特集』などのTBSの報道番組と、テレビ朝日の『報道ステーション』くらいだったではないか。

 それを、いざ投票が終わった瞬間から「憲法改正発議可能に」などと言い出すのは、完全に視聴者に対して「争点隠し」を行ってきた証拠だ。
 

2016.07.11付けリテラ
参院選“改憲隠し”はテレビも同罪!
結果が出たとたん「改憲勢力3分の2確保」「バックに日本会議」と後出しジャンケン

http://lite-ra.com/2016/07/post-2408.html

 もう少し突っ込んだ論評を柄谷行人(1941年生まれ)で:

 憲法改正論の本丸が「戦争放棄」をうたった憲法9条にあることは明らかだ。
 自衛隊が米軍と合同演習をするような今日、この条文は非現実的という指摘もある。
 だが、日本人はこの理念を手放すだろうか。
 9条には別の可能性があるのではないか。
 9条の存在意義を探り、その実行を提言する柄谷行人さんに話を聞いた。

― 安倍晋三首相は歴代首相と違い、憲法改正の発議に必要な議席数の獲得をめざす意向を公にしています。改憲に慎重な国民は参院選の行方を懸念していますが、柄谷さんは講演などで「心配には及ばない」といっています。

柄谷 昔から保守派は改憲を唱えていましたが、いざ選挙となるとそれについて沈黙しました。改憲を争点にして選挙をやれば、負けるに決まっているからです。保守派はこれを60年以上くりかえしているのです。しかし、なぜ9条を争点にすると負けてしまうのかを考えず、この状態はそのうち変わると考えてきたのです。それでも、変わらない。事実、改憲を唱えていた安倍首相が、選挙が近づくと黙ってしまう。
 実は、そのようなごまかしで選挙に勝っても、そして万一、3分の2の議席をとったとしても、改憲はできません。なぜなら、その後に国民投票があるからです。その争点は明確で、投票率が高くなる。だから負けてしまう。改憲はどだい無理なのです。


― 安倍政権は今のところ憲法を変えられないので、解釈改憲して安全保障関連法を整え「海外派兵」できる体制を作った。そうなると9条は形だけになりますね。
柄谷 しかし、この『形』はあくまで残ります。それを残したままでは、軍事活動はできない。訴訟だらけになるでしょう。だから、どうしても改憲する必要がある。だけど、それはできないのです。

― なぜ9条は変えられないといえるのですか。
柄谷 9条は日本人の意識の問題ではなく、無意識の問題だからです。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識はたんに意識されないものであり、宣伝その他の操作によって変えることができます。
 それに対して、私がいう無意識はフロイトが『超自我』と呼ぶものですが、それは状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイトは超自我について、外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています。
 超自我は、内にある死の欲動が、外に向けられて攻撃欲動に転じたあと、さらに内に向けられたときに生じる。つまり、外から来たように見えるけれども、内から来るのです。その意味で、日本人の超自我は、戦争の後、憲法9条として形成されたといえます。


― 9条は占領軍が敗戦国日本にもたらしましたが、日本人が戦争体験の反省から作ったと考える人もいます。そうではないと。
柄谷 9条は確かに、占領軍によって押しつけられたものです。しかし、その後すぐ米国が再軍備を迫ったとき、日本人はそれを退けた。そのときすでに、9条は自発的なものとなっていたのです。
 おそらく占領軍の強制がなければ、9条のようなものはできなかったでしょう。しかし、この9条がその後も保持されたのは、日本人の反省からではなく、それが内部に根ざすものであったからです。この過程は精神分析をもってこないと理解できません。
 たとえば、戦後の日本のことは、ドイツと比較するとわかります。ドイツは第2次大戦に対する反省が深いということで称賛されます。が、ドイツには9条のようなものはなく徴兵制もあった。意識的な反省にもとづくと、たぶんそのような形をとるのでしょう。
 一方、日本人には倫理性や反省が欠けているといわれますが、そうではない。それは9条という形をとって存在するのです。いいかえれば、無意識において存在する。フロイトは、超自我は個人の心理よりも『文化』において顕著に示される、といっています。この場合、文化は茶の湯や生け花のようなものを意味するのではない。むしろ、9条こそが日本の『文化』であるといえます。


― 近著『憲法の無意識』(岩波新書、2016年)では、戦後憲法の先行形態は明治憲法ではなく「徳川の国制」と指摘していますね。
柄谷 徳川時代には、成文法ではないけれども、憲法(国制)がありました。その一つは、軍事力の放棄です。それによって、後醍醐天皇が『王政復古』をとなえた14世紀以後つづいた戦乱の時代を終わらせた。それが『徳川の平和(パクストクガワーナ)』と呼ばれるものです。それは、ある意味で9条の先行形態です。
 もう一つ、徳川は天皇を丁重にまつりあげて、政治から分離してしまった。これは憲法1条、象徴天皇制の先行形態です。徳川体制を否定した明治維新以後、70年あまり、日本人は経済的・軍事的に猛進してきたのですが、戦後、徳川の『国制』が回帰した。9条が日本に根深く定着した理由もそこにあります。その意味では、日本の伝統的な『文化』ですね。


― 9条と1条の関係にも考えさせられます。現在の天皇、皇后は率先して9条を支持しているように見えます。
柄谷 憲法の制定過程を見ると、次のことがわかります。マッカーサーは次期大統領に立候補する気でいたので、何をおいても日本統治を成功させたかった。そのために天皇制を存続させることが必要だったのです。彼がとったのは、歴代の日本の統治者がとってきたやり方です。ただ当時、ソ連や連合軍諸国だけでなく米国の世論でも、天皇の戦争責任を問う意見が強かった。その中であえて天皇制を存続させようとすれば、戦争放棄の条項が国際世論を説得する切り札として必要だったのです。
 だから、最初に重要なのは憲法1条で、9条は副次的なものにすぎなかった。今はその地位が逆転しています。9条のほうが重要になった。しかし、1条と9条のつながりは消えていません。たとえば、1条で規定されている天皇と皇后が9条を支援している。それは、9条を守ることが1条を守ることになるからです。

― 憲法9条はカントの「永遠平和のために」、またアウグスティヌスの「神の国」にさかのぼる理念にもとづくとされます。それが他ならぬ戦後日本の憲法で実現されたのは興味深いですね。
柄谷 私は、9条が日本に深く定着した謎を解明できたと思っています。それでも、なぜそれが日本に、という謎が残ります。日本人が9条を作ったのではなく、9条のほうが日本に来たのですから。それは、困難と感謝の二重の意味で『有(あ)り難(がた)い』と思います。

― 日本は国連安全保障理事会の常任理事国入りに熱心ですが、それは9条とどう関係しますか。
柄谷 今の国連で常任理事国になる意味はありません。しかし、国連で日本が憲法9条を実行すると宣言すれば、すぐ常任理事国になれます。9条はたんに武力の放棄ではなく、日本から世界に向けられた贈与なのです。贈与には強い力があります。日本に賛同する国が続出し、それがこれまで第2次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになるでしょう。それによって国連はカントの理念に近づくことになる。それはある意味で、9条をもった日本だけにできる平和の世界同時革命です(注1)。

― 現状では、非現実的という指摘が出そうです。
柄谷 カントもヘーゲルから現実的ではないと批判されました。諸国家連邦は、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければ成り立たない。カントの考えは甘い、というのです。
 しかし、カントの考える諸国家連邦は、人間の善意や反省によってできるのではない。それは、人間の本性にある攻撃欲動が発露され、戦争となった後にできるというのです。実際に国際連盟、国際連合、そして日本の憲法9条も、そのようにして生まれました。どうして、それが非現実的な考えでしょうか。
 非武装など現実的ではないという人が多い。しかし、集団的自衛権もそうですが、軍事同盟がある限り、ささいな地域紛争から世界規模の戦争に広がる可能性がある。第1次大戦がそうでした。


― 無意識が日本人を動かすとすれば、国民はどう政治にかかわっていくのでしょう。
柄谷 日本では、ここ数年の間に、デモについての考え方が変わったと思います(注2)。これまでは、デモと議会は別々のものだと思われてきた。しかし、どちらも本来、アセンブリー(集会)なのです。デモがないような民主主義はありえない。デモは議会政治に従属すべきではないが、議会政治を退ける必要もない。デモの続きとして、議会選挙をやればいいのです。
 現在はだいたい、そういう感じになっています。野党統一候補などは、デモによって実現されたようなものです。このような変化はやはり、憲法、とりわけ9条の問題が焦点になってきたことと関連していると思います。


2016年6月14日05時00分、朝日新聞デジタル、聞き手・依田彰
(憲法を考える)9条の根源 哲学者・柄谷行人さん
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12407144.html?rm=150

 あっ、いえね、柄谷行人には実は<山人(やまびと)>論があって、これを佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟、柳田國男と新渡戸稲造』(講談社、2015年)のあとに読んでみようと思ってるんです、冬が来る前に:
 柄谷行人『遊動論、柳田國男と山人』(文春新書、2014年)。

(注1)
自衛権を「贈与」せよ
基地撤去なければ独立を


 翁長雄志県知事が仲井真弘多前知事による辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消したことで、県と政府の対立は鮮明となった。『日本近代文学の起源』や『世界史の構造』などの著書が世界各国で翻訳されている現代日本を代表する哲学者の一人である柄谷行人氏が、「辺野古新基地建設は日本国憲法9条に反する」として新基地建設に反対する考えを示した。沖縄の基地問題やなどについて聞いた。

■ 在日米軍と憲法
−辺野古新基地建設問題についてどう考えるか。

柄谷 反対だ。軍隊を置くことは、もともと憲法9条に反する。憲法9条を段階的に実現するためには、今ある米軍基地を削減すべきだ。
 近年、日本で論じられている安保関連法は、法曹関係者の9割以上が憲法違反であると考えている。だが、私の考えでは、現状自体が憲法に反する。安保関連法は解釈改憲であるといわれているが、現状がすでに憲法9条の解釈改憲である。現状を肯定したいのなら、憲法9条を変えるべきだが、決してそうはしない。9条の改定を公約に掲げた政党は選挙で負けるに決まっているからだ。


■ 集団的自衛権
−集団的自衛権について。

柄谷 集団的自衛権というのは、もともと軍事同盟のことだ。軍事同盟といえば、みんな反対するだろうが、集団的自衛権というと意味がよく分からない。だから、ごまかしである。軍事同盟は怖いものだ。第1次世界大戦が小さな事件から世界戦争になってしまったのは、軍事同盟の連鎖があったからだ。軍事同盟があると戦争が世界中に及ぶ。例えば、これまで中東での戦争は日本と関係がなかった。しかし、今やそうではない。中東はロシアや中国とつながっている。軍事同盟によって、日本は世界戦争に巻き込まれる。しかし、集団的自衛権というと、何のことだか分からないので、今までと同じように考えている人が多い。今後、日本人が報復を受けることが多くなるだろう。今までは日本人は別、という信頼があった。特にアラビア語圏にあったが、それはもうなくなった。

■安保関連法
−安保関連法が強行採決されたことについて。

柄谷 私が驚いたのは、強行採決後にも、以前に劣らずデモがあったことだ。1960年の安保闘争の時、私の経験では、安保条約改定が自動成立した後、夏休みがあり、秋になるともう誰も政治の話をしなくなった。しかし、今回はそうではない。であれば、今後も違ってくるだろうと思う。
 議会選挙があるのだから、デモで政局を変えようとするのは民主主義的でないという人たちがいるが、民主主義には両方が必要だ。デモも議会も、英語では『アセンブリ』という。日本語でいえば『寄り合い』だ。もともと同じものだ。だから、この次は、選挙をデモのようなものにすればよい。つまり、政党に頼るのではなく、選挙における争点をこちらが作るようにしないといけない。むろん、争点は憲法9条を変えるかどうかだ。政府や政党が決めた争点ではない。国民が決めた争点で選挙を行う。デモの続きを選挙でやる。

■沖縄の基地撤去
−沖縄から基地がなくなることは可能だと思うか。

柄谷 可能だ。ただ、日本国家に頼っていたらできないと思う。日米安保条約は日本国が締結したのだから。ゆえに、基地を撤去しないなら独立する、という覚悟で日本国家に迫るほかない。2014年にイギリスで、スコットランドの独立を問う投票があった。スコットランド人が独立を要求するのだから、歴史的にはるかに不当な扱いを受けてきた沖縄の人が言うのは当たり前だ。
 私は『沖縄人は独立せよ』と言っているわけじゃない。ただ、独立に向かうほかに今の問題は解決することはできないと思う。そして、沖縄の独立は、次のことを目指すなら日本中、さらに世界中から熱烈な支援が得られるだろうと思う。それは『憲法9条』を沖縄で実行することだ。


−具体的には。
柄谷 国連で『われわれは自衛権を贈与する』と宣言する。それだけでよい。通常、戦争に負けた国は降伏して武力を放棄する。日本の憲法は敗戦後の占領下においてできたから、9条における戦力の放棄もそのようなものだと考えられている。しかし、憲法9条における自衛権の放棄は、国連に向けての自衛権の『贈与』である。贈与には、武力や金の力とは異質な強い力がある。贈与されたらお返しをしなければいけない、というのは未開社会の時代からある鉄則だ。例えば聖書で、イエスは『右の頬(ほお)を打たれたら左の頬を出せ』と言う。その場合、相手は左の頬を打てないだろう。戦争放棄を公然と掲げて実行することは、他の人たちにとって贈与になる。これは人類史において最も高邁(こうまい)なものだ。

■ 基地引き取り論
−基地を受け入れるという本土の人も出てきた。

柄谷 沖縄の基地を本土に持ってくることが解決になるのかな。そもそも無くすべきではないのか。だが、いずれにしても、今の安倍内閣や日米安保体制の下ではできない。安保条約は今や軍事同盟化してきた。そして、そのことは沖縄に一番響く。軍事基地があるところに、まず攻撃が来るのだから。しかし、差し当たり、このような軍事同盟の廃棄を目指すべきだ。それに関しては先ほど述べた。
「贈与の力」とは
 柄谷行人氏は交換様式の観点から、世界構造を解明する。
 交換様式はA=贈与と返礼、B=支配と保護、C=貨幣と商品、D=Aを高次元で回復したもの−
の四つに分けられる。
 AとDは贈与の力、Bは権力、Cは金力が主に支配している。
 贈与には未開社会の時代から、お返しをしなければならないという強い力がある。
 柄谷氏は、カントの描く「永遠平和」を実現する方法としてDに着目し、研究・発言を続けている。

2015年10月28日 15:09更新、琉球新報(聞き手・安富智希)
辺野古、安保法 柄谷行人氏に聞く
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-199237.html

(注2)柄谷行人の【書評】から:

■ 階級格差に抗する陽気な連帯
 2015年夏に、安保法案に反対する大きなデモがあった。
 マスメディアでは、それはサウンド・デモなど、旧来と異なる新鮮なものであり、学生集団シールズがそれをもたらしたと報じられていたが、それは不正確である。
 このようなデモは、2011年に高揚した反原発デモの延長としてあったのだ。
 そして、それに最も貢献したのは松本哉の率いる「素人の乱」であった。
 彼がサウンド・デモを最初に企てたのは、イラク戦争反対デモにおいてであるが、それ以前に、もっと珍奇なデモを幾つも企ててきたのである。
 その経緯をふりかえった著書が、『貧乏人の逆襲!――タダで生きる方法』(筑摩書房、2008年、その後ちくま文庫)である。

 しかし、彼がそこで追求していたのは、たんにデモのことではなく、まさに表題通りの問題であった。
 彼がいう「貧乏人」とは、1990年以後、新自由主義の下で貧窮化した人たちだといってよい。
 この状況に対して、二つの態度がある。
 一つは、中産階級の基準に固執する「賢い」生き方である。
 もう一つは、それを放棄した「マヌケ」な生き方だ。

 大概の人は前者を選ぶが、それは困難であって、努力しても実際にはますます貧窮化する。
 にもかかわらず、他人と交わり、助けあうことはしない。
 そして、結局、国家に頼り、排外的になる。
 一方、「マヌケ」たちは寄り集まり、国家にも企業にも依存しないで暮らせるように工夫する。
 前作ではそのやり方が書かれていた。
 たとえば、リサイクルショップ、日替わり店長バー、ゲストハウス、イベントスペースの運営など。
 つまり、資本主義的でないオルタナティブな空間を自分たちで作り出すこと。
 松本自身は東京・高円寺の商店街に拠点を見いだし、デモもそこから始めた。

 本書はその続きであり、やり方がもっと多彩になったとはいえ、基本的に同じことが書かれている。
 しかし、明らかに違っている点が一つある。
 それは、オルタナティブな空間を固定的に考えないことだ。
 実際に、つぎのような変化があった。
 前作がすぐに韓国、台湾で出版され、各地に「貧乏人の逆襲」、「マヌケ反乱」を生み出したのである。
 さらに、それらが相互につながるようになってきた。
 アジア以外のマヌケも参加するようになり、また、独自のパスポートや通貨を作るようになってきた。

 このような変化が生じたのは、世界各地で新自由主義経済が進行し、どこでも階級格差が深まっているからだ。
 それは排他的なナショナリズムをもたらす。
 それを避けるためには、マヌケたちの陽気な連帯が必要だ。
 その一例がここにある。

【評者、柄谷行人(哲学者)】

『世界マヌケ反乱の手引書 ふざけた場所の作り方』(筑摩書房、2016年9月)

【著者、松本哉(まつもと・はじめ、1974年生まれ。「世界マヌケ革命」を目指すリサイクルショップ「素人の乱5号店」店主。著書に『貧乏人大反乱』、共著に『素人の乱』『さよなら下流社会』『脱原発とデモ』など)

2016年9月18日05時00分更新、朝日新聞デジタル
(書評)『世界マヌケ反乱の手引書 ふざけた場所の作り方』松本哉〈著〉
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12565182.html?rm=150



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2016年10月23日

佐谷眞木人

 ヤッホー君が最近、注文した本に講談社選書メチエ、佐谷眞木人(さや・まきと、1962年生まれ、現在、恵泉女学園大学、日本語日本文化学科学科長)著『民俗学・台湾・国際連盟、柳田國男と新渡戸稲造』(2015年)があります。  
 土人、とののしるときの顔の表情や口の利き方を眼にした方、お聞きになった方もおありだと思いますが、そんな方がこの国の公務員なんですよ、へぇ〜と思って、行き当たった本なんですぅ〜
 そういえば山人(やまびと)なんて言葉もあったね、とか思って・・・

 柳田國男については、これまでさまざまな論究が蓄積されてきました。
 また、柳田に比べれば数は少ないものの、新渡戸稲造についても同様です。
 しかし、両者の関係、とくに思想的連関とその社会的背景に関するまとまった論考は今まで、ほとんど書かれていないません。

 しかしながら、二人はともに東京帝国大学で農政学を修めた同窓であり、学問的な領域は近いのです。
 柳田は内務官僚として、のちには朝日新聞社の論説委員として従事するかたわら、ほぼ独力で民俗学の研究者としての地位を築いていったために、民俗学における「師」と呼ぶような存在をもちませんでしたが、その柳田にとって新渡戸はただひとり「師」に当たる人物であったともいえます。
 柳田の、ひいては日本における民俗学の成立を考えるうえで、新渡戸と関係を丁寧にみていくことが不可欠だと著者は考えます。

 二人の関係が急速に接近したきっかけは、1907(明治40)年2月14日、台湾総督府の任を終えて帰国した新渡戸の講演「地方(じかた)の研究」を柳田が聴いたことであることは、ほぼ、まちがいありません。
 柳田はこの講演に大きな感銘を受け、その後1910(明治43)年12月、新渡戸邸を会場とした「郷土会」が発足します。
 この会は新渡戸を世話人とし、柳田を幹事役とした研究会で、地方文化に興味をもった農政官僚や研究者、知識人らが集い、自由で活発な議論がおこなわれました。
 この郷土会は新渡戸が国際連盟の事務次長としてスイスに赴任する1919(大正8)年まで60回以上続くことになります。
 この期間に柳田はみずからの学問の基礎をつくっていくのです。

 やがて柳田は、新渡戸の推挙によって国際連盟の委任統治委員に就任しますが、わずか2年あまりで辞任しています。
 その後、両者の関係は希薄になっていったものと思われますが、それでもこの関係こそが日本民俗学誕生の決定的契機だと見なせます。

 本書では柳田が確立した「民俗学」(一国民俗学)が、植民地における「治者」の視線に胚胎し、やがてそれが反転して「常民」の学となっていく過程を追います。
 また、それがある種の──文化人類学とはちがった意味での──文化相対主義の産物であり、それは国際連盟における新渡戸との経験の反映であったことを明らかにします。


版元ドットコム有限責任事業組合
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784062585941

 読後感についてはまたおいおい記していくことにしまして、今日は著者、佐谷眞木人先生ってどんな感性の持ち主?あたりからご紹介できれば、とヤッホー君、考えたそうです:

 1981年の初夏のことだった。
 日曜日の午後、私は小田急線成城学園前駅に立っていた。
 駅近くにある「緑蔭小舎」という画廊で開かれていた銅版画家の長谷川潔の展覧会が目当てである。
 私は大学に入学して上京したばかり、小田急線に乗るのも初めてだった。
 よく晴れた暑い日で、地図を片手に探し当てた画廊は、閑静な住宅街の中にある落ち着いた洋館だった。

 中に入ると、初夏の爽やかな風が気持ちよく吹き抜けた。
 当時の私はその画廊で会った品のいい婦人が柳田國男の長男、柳田為正氏夫人の柳田冨美子さんであることも、その場所にかつて柳田國男が住んでいたことも知らなかった。
 あとになって「ああ、あの時の」と思い当たったのだが、文献以外によって柳田の面影に触れたのは興味深い体験だった。
 生涯をかけて日本の民俗について考え続けた柳田が、実生活においては洋館に住んでいたということが、私にとっては小さな衝撃だったのだ。

 柳田が現在の新宿区市谷加賀町から世田谷区成城(当時は北多摩郡砧村)に転居したのは、1927(昭和2)年のこと。
 成城は今では高級住宅地だが、当時は小田急線が開通して間もない新興住宅地である。
 子息の為正氏が成城学園に在学していた縁で、成城学園から分譲されたものという。

 柳田は既に官を退いて、朝日新聞社の論説委員になっていた。さきの柳田冨美子さんは柳田の退官について、「将来を嘱望していた女婿が大臣を目の前にして野に下りたことは、直平お祖父様(註:柳田國男の義父、柳田直平)にとっては驚きばかりでなく大きな落胆でもあり、精神的な打撃ばかりでなく経済的な心配もあったはずと想像されます」と記している(「絵はがきの心」『柳田國男の絵葉書』(晶文社)所載)。
 私には大臣になった柳田國男を想像することは難しいが、身内からはそのように期待されていたのである。
 それは当然、本人の願望でもあったはずだ。

 柳田國男の仕事は、大きく三つの時期に分けることが可能だろう。
 一つは、1919(大正8)年に貴族院書記官長を辞任するまでの官僚時代。
 次いで、国際連盟委任統治委員としてのジュネーブ滞在を挟んで朝日新聞社に勤務した1930(昭和5)年まで。
 そして、それ以降である。

 このうち、最初の官僚時代においては新渡戸稲造を中心とした研究会「郷土会」を開催したり、雑誌「郷土研究」を発行したりするものの、学問はあくまでも余技であり(「余技」というにはいささかのめり込み過ぎているところが興味深いが)、本格的に学問で身を立てる決意をしたのは退官後である。

 そして今私たちが『柳田國男全集』で読むことのできるあの膨大な著作の大半は、朝日新聞社を退いた56歳以降に集中している。
 それは「文人官僚」の趣味がやがて本業になったという展開である。
 もし、柳田が貴族院書記官長を辞任せずに大臣になっていたら、柳田民俗学は成立しなかったかもしれない。
 そのような想像は、研究者としての柳田の異質性を浮かび上がらせると思う。

 柳田の個人史は、学問に濃厚な影響を与えている。
 その思想を辿ることは同時に日本の近代を生きた一人の知性の、個人的な経験を紐解くことである。
 官僚としてのスタンスと、研究者としてのスタンスは、柳田國男という個人の中で背反することなく同居していた。
 だから、柳田の学問を政治から切り離して考えることは難しい。
 国際連盟の委任統治委員として渡欧した柳田は、西洋文明と正面から向き合い、自らの学問の方向性を定めていった。
 また、渡欧体験によって西洋の最新の学問、特に人類学に触れたことが後の柳田の思想に大きな影響を与えている。
 西洋体験は柳田の思想の核を作っているのである。

 柳田が成城に転居したのは、委任統治委員辞任後である。
 イギリスの社会人類学者フレイザーの書斎に倣い、「喜多見」という地名にかけて「喜談書屋」と名付けられたというその洋館は、書斎であると同時に研究者が集う場所でもあった。
 それは柳田の西洋体験を象徴しているのではないだろうか。

 今回上梓した『民俗学・台湾・国際連盟』(講談社選書メチエ)も渡欧体験の意味を追っている。
 旧居は現在、柳田家の故地である長野県飯田市の飯田市美術博物館に移築されているが、私にとって柳田のイメージは、あの初夏の成城の瀟洒な洋館と結びついている。
 それは、近代の日本人が西洋思想を自らのうちに取り込んで血肉化した道筋を象徴しているように思われるのである。


読書人の雑誌「本」2015年2月号
成城の洋館
佐谷眞木人
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41827

 大学の先生として:

Q1. まずは学科の特徴を簡単に教えて下さい

佐谷 日本語や日本文学だけでなく、日本の美術史や歴史、日本の宗教や芸能など、日本について幅広い分野を学べることが特色です。
 本学科は、今から25年前に女子大で初の「日本文化学科」としてスタートし、その後、日本語に関する分野を強化して「日本語日本文化学科」となりました。
 「日本語」「日本文学・文芸創作」「日本文化史」が、学びの3つの柱です。
 また、日本語と日本文学、日本文化についての学びだけでなく、文芸創作にも力を入れていて、卒業論文の代わりに「卒業制作」として小説を書くこともできます。

 学科の特色として、さまざまな分野の学びを組み合わせることによって、より深く日本文化を理解することができるという点があります。
 たとえば、『源氏物語』の内容について学ぶだけでなく、平安時代の女性はどのように生きたかという歴史や、平安時代の日本語についても学ぶことができますし、『源氏物語』が絵巻物ではどのように表現されているか、あるいは、演劇や映画などの加工作品にはどのように作り変えられているか、といった物語とは質の異なる表現への展開についても学べます。
 あるいは、現代の日本語に関する知識や近代史の理解は、近代文学作品の読解や文芸創作にも役立ちます。

 そのような広がりを持った学びを通して、文化を一つの面からだけでなく、さまざまな面から総合的に見る目を養い、幅広い教養を身につけることができます。

 さまざまな分野で国際化が急速に進展する現代社会において、「日本文化とは何か」を正確に、かつ、深く学び、発信できる人材こそが真の国際的な教養をもつ人と言えるのではないでしょうか。
 自国の文化を正しく認識することによってはじめて、他の国や地域の人々に対するより深い認識が開かれていくのです。
 日本語日本文化学科は、そのような現代社会にふさわしい、真の国際人としての「日本文化のスペシャリスト」の養成を目指す学科です。


受験生に一言

佐谷 いまの若い人には、「自分に自信が持てない」人が多いですね。
 私も以前はそうでしたが、自信のない人に「自信を持ちなさい」と言っても、持てるようには簡単にはなれません。
 少しずつ、小さなことでも、ハードルを乗り越えていくことが大切です。
 そのような積み重ねがいつか、自信につながっていきます。
 みんなが少しでも生きやすく、自分の思い描いた場所にたどり着けるよう、最大限のサポートをしていきたいと思っています。


恵泉女子学園大学(多摩市南野2-10-1 Tel 042-376-8211) 
学科長インタビュー
http://www.keisen.ac.jp/faculty/humanties/japanese/message/


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2016年10月22日

田部井淳子さん、死去

 フクシマに行ってくださいね。
 フクシマの山を登ってくださいね。
 帰りにフクシマのお土産をどっさり買って東京に戻ってくださいね。。。
 3.11のあと、講演会で元気に都会人を激励、鼓舞してくださった田部井淳子さんは1939年、福島県・三春町生まれ。
 山歩クラブでは3.11のあとすぐにヤッホー君の荷車に乗り込んで安達太良山、そして田部井淳子さんのお話を聞くや即座に磐梯山に直行したもん。
 ・・・合掌・・・

 エベレストをはじめ、国内外の数々の高峰の登頂に成功した登山家の田部井淳子さんが10月20日、亡くなった。
 女性登山家の草分けとして世界のアルピニストのあこがれの存在だった田部井さん。
 人なつこい笑顔で登山の魅力を伝え、お茶の間でも親しまれた。

 小学4年の時、栃木・那須連峰に登ったことが登山家としての原点。
 後年、「体が弱く、学校も休みがちだったが、自分の足で頂上までたどり着いたのは強烈な印象だった」と振り返った。
 東京の大学に進学したが、なまりがコンプレックスで人と話すことができなくなってしまい、心配した友人に誘われ、定期的に山に出かけるようになった。

 1969年、女性だけの登山クラブを設立したが、当時は「女性は家庭」という風潮が根強かった時代。
 遠征費用が集まらず、75年のエベレスト(ネパール)登頂成功は準備に4年を要した。
 その後もアフリカのキリマンジャロ(タンザニア)、南米のアコンカグア(アルゼンチン)、北米のデナリ(米国、2015年にマッキンリーから改称)、南極のビンソンマッシーフと、次々に各大陸の最高峰を制した。
 1992年にはオセアニアのカルステンツ・ピラミッド(インドネシア)と欧州のエルブルース(ロシア)を登り、女性では世界初の7大陸最高峰登頂「セブン・サミッツ」を達成した。

 2006年には日本隊が初登頂したマナスル(ネパール、8163メートル)に挑戦。
 悪天候などで登頂は断念したが、7000メートル地点まで到達。
 今年4月には、マナスル初登頂60年を祝う記念式典に出席するため、カトマンズを訪問した。

 富士山を含め70カ国以上の最高峰・最高地点への登頂に成功。
 日本女性では今年7月に早大2年の南谷真鈴(まりん)さんが日本人最年少の19歳で7大陸最高峰登頂を達成した。
 田部井さんがパイオニアとなって次々に偉業を成し遂げたことが、その後の女性登山家らの活躍につながっている。


10月22日(土)21時23分配信、毎日新聞【村社拓信】
<田部井さん死去>女性登山家に道開く 7大陸の「頂」踏む
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161022-00000062-mai-spo

 「あなたも来ちゃいなさいよ」
 そう誘惑されたのは1990年秋、JR山手線の中だった。
 田部井淳子さんが7大陸最高峰登頂の一環で狙っていた、南極最高峰ビンソンマッシーフ(4892メートル)遠征について取材しているおりのこと。

 それから数ヶ月後、登山隊の一員としてチリ最南端の町プンタアレナスに飛び、そこから時代遅れの4発プロペラ機DC6で南極大陸に到達した。

 「女性初のエベレスト登頂者」であることは、もちろん知っていたが、DC6の機内は気温が0度近くまで下がる。
 女性としても小柄な体に「大丈夫かな」と案じた。

 頂上手前の最終キャンプでは悪天候で停滞した。
 食糧不足になり、補充のため他のメンバーと下部キャンプを往復して戻った私に「お疲れさま」とインスタントみそ汁を差し出した。
 山では、特に海外では、これが特にウマい。
 少しでも背負う重量を軽くしたい遠征登山。
 梅干し、おかゆ……私は必要最小限しか持たないが、彼女からは思わぬ日本食が飛び出してくる。
 ドラえもんのポケットのようだった。

 たどり着いた氷点下35度のビンソン頂上で、岩の下に隠されたメモ帳とチリ国旗を見つけた。
 メモ帳には、これまでの登頂者の署名。
 日の丸の用意はなかったが、代わりに、田部井さんは見つけたチリ国旗を広げて見せた。
 厳しい環境の中でも「なごみ」をくれた。

 頂上で旗を掲げた田部井さんは、疲れを見せず笑顔だったように記憶している。


10月22日(土)21時40分配信、毎日新聞【野崎勲】
<田部井さん死去>南極最高峰、厳しい中で「なごみ」くれた
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161022-00000064-mai-soci

 山で切羽詰まったときにどのように行動したか。
 天山山脈トムール峰で遭遇した雪崩やロッククライミングを始めて間もない頃に目撃した滑落事故など、田部井さん自身が直面した絶体絶命の状況がひしひしと伝わってくる体験の数々。
 だが山に登ることの難しさの多くは、大自然が相手でも人間関係にあるようだ。

 エベレスト登頂時、声高に意見を主張する人との軋轢やグループで不満を抱く人の与える影響など「一番のストレスは人。人とぶつかることなんですね」と百戦錬磨の田部井さんにしてそう言わしめる。
 「偏らずに見る」「どう思われているかにとらわれない」といった山で学んだ教訓は、意思決定やコミュニケーションに悩むビジネスマンにも目から鱗のアドバイスにもなるが「私は、ぶつかるぐらいなら逃げちゃう。逃げても自分の意思は通す。そうやって私は切り抜けてきた」とやはり田部井さんはタダモノではない。


 「大事なのは平常心。どういう方法で切り抜けられるか、頭で考えることができるのが人間。だからそのときにオタオタしない」
 それが困難を前にしたときに最も大事なことだという。
 だが「そうだ、騒ぐな、オタオタするな」と自らに言い聞かせるような土壇場が田部井さんにもやってくる。
 腹水の中にがん細胞が見つかり、余命「3ヶ月」と宣告されたのだ。
 この本の第二章はその闘病記でもある。

 2012年は厳しい年だったに違いない。
 本書を参考に田部井さんの行動をカレンダーに転記してみると、入っていた仕事はできるだけキャンセルせず、病気であることも公表しない。
 そして治療と手術の合間には「それでも」山に登り続ける凄まじい日程がそこにあった。

「病気になったことは受け入れるしかない。でもしっかり受け入れたのだから医学的なことは先生にお任せして、ただ体が治療でどんなに辛くても歩かなければ絶対にダメ! という体の声に応えること。それが私にできること」と思ったという。

 「五ツ星(ホテル)より満天星」。
 大自然の中に田部井さんは自分の人生を見出した。
 だから「歩けるうちは歩きたい。生きているうちは、1分1秒でも楽しく、やりたいことをやって生き抜けたい」という強い思いが、自らをいつも奮い立たせた。

 「山が好きになり、登り続けてきたことで今のわたしがある」
 寛解となった今も治療の副作用で手足の痺れが残るが、今年も数多くの山に登る。
 極限のサバイバルや究極の人心把握の秘訣にも感化されるが、この人の「生き様」にこそ鼓舞される。


PRESIDENT 2014年2月3日号
『それでもわたしは山に登る』田部井淳子著、文藝春秋
薈田純一=写真・文
http://president.jp/articles/-/12295

 ヤッホー君のこのブログ、2011年6月23日付け日記「田部井淳子」をぜひご参照ください。
 プラス、ヤッホー君がおしたい申し上げている小児科医の先生:

 登山家の田部井淳子氏が亡くなられた。

 彼女のことは、テレビやラジオの登山についての番組、それに福島原発事故後の福島の被災者を力づける活動などで知っていた。あたたかな人柄が、その相貌や語り口からにじみ出てくるような方だった。

 2、3年前だったろうか、裏磐梯を訪れる番組で、卵巣がんに侵されたが、治療でよくなったことを語っておられた。
 やはり完全緩解とはいかなかったのだろう。
 徐々に体力を奪われ、今年の夏福島の子供たちと富士山に登った(彼女自身は7合目で止めたらしい)のが最後の登山だったと報じられている。

 私自身、登山をするのではなかったが、彼女の自然を愛し、人々を愛した生き方に敬意を抱いていた。
 ご冥福を切に祈りたい。


2016/10/23 00:20 ステトスコープ・チェロ・電鍵
田部井淳子氏逝く 
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/


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2016年10月21日

旧土人

 池澤夏樹(福永武彦の子、1945年生まれ)の『静かな大地』(朝日新聞社、2004、のち文庫)の読後感をつづったブログの紹介から入ります:

 放たれた馬を探しに山に入った主人公の宗形三郎が、洞窟のなかで熊の神キムンカムイに出会う場面があります。
「わしの言うことを聞け」とキムンカムイが告げます。
「昔、たくさんの和人がやってきた。わしらアイヌモシリの神々は和人を迎えて心おだやかでなかった。アイヌはまだ辛い目に遭うのか。アイヌが力を失えば、誰がわしら神々にイナウを捧げて、篤く祀(まつ)ってくれるか。アイヌは己の非力をよく知っていた。世が変わり、和人が大挙してやってくる。アイヌはそれまで以上に押し込められ、飲む水、胸に吸う息まで奪われることになるのではないかとわしら神々は恐れた」

 この節を読んでいて、私ははっととしました。
 今福島で、住民たちがまさに、原発事故によって土地を奪われ「飲む水、胸に吸う息」まで奪われ、苦悩している。
 原発以前は、山と川と海に恵まれたその土地で人びとは、田畑を耕して米と野菜をつくり、牛と豚と鶏を飼って肉と牛乳と卵を産みだし、海へ出かけて魚と貝と海草を持ち帰りました。
 しかし、多くの人々は、貧しさのため現金収入を求めて出稼ぎへ出かけました。
 そこへ原発が、やってきました。
 広大な土地と漁業権を売却して巨額の現金を手に入れ、政府の地域対策費を得て、道路や会館などのインフラを整備しました。
 多数の雇用も生まれました。
 地域の人びとの生活は、豊かになりました。
 そして地域は年々、原発に強く依存する社会になりました。
 こうした3、40年つづいた豊かさのさなかに、今回の原発事故が起こりました。
 事故が起こる前、日本人の間でも、アイヌの熊の神キムンカムイと同様に、原発によって飲む水と胸に吸う息まで奪われることを警告していた人びとがいました。
 しかしその声は、止まることを知らない欲望のまえに、無視されつづけてきました。
 その飽くなき欲望は、地域住民と電力消費者と電力資本のあいだで、仲良く共有されてきたのです。

 熊の神キムンカムイは、「アイヌは追い詰められている。やがてもっと過酷なものが押し寄せる。今、目前に迫ったものがある」と語り、三郎に次のような予言(カムイイピリマ)を与えます。
「今、和人は奢っているが、それが世の末まで続くわけではない。大地を刻んで利を漁る所業がこのまま栄え続けるわけではない。与えられる以上を貪ってはいけないのだ。いつか、ずっと遠い先にだが、和人がアイヌの知恵を求める時が来るだろう。神と人と大地の調和の意味を覚る日が来るだろう。それまでの間、アイヌは己の知恵を保たねばならない。・・・時の流れのはるか先の方に、アイヌと知恵ある和人が手を取り合って踊る姿がわしに見える。天から降ったものを争うことなく分ける様が見える」

 この予言を聞いた三郎が、熊の神に対して、アイヌとともに進みましょう、と答えたとき、三郎は、河原の仮の寝床で目を覚ましました。

 8歳の時静内にやってきた三郎は、アイヌの子供たちと出会い、アイヌ語と日本語をともに学び合い、アイヌの昔話を聞きながら育ちました。
 アイヌとは、強い絆で結ばれたのです。
 札幌で学業を終えた16歳の時出会ったイギリス人旅行家イザベラ・バードは、三郎のアイヌに対する姿勢を決定付けました。
 バードの「アイヌは気高い人種だ」という一言で、三郎は「アイヌとともに生きよう」と心に決めたのです。
 三郎は、アイヌの生きかたについて、次のように語っています。

「アイヌの生きかた、山に獣を追い、野草を摘み、川に魚を求める生き方は、欲を抑えさせ、人を慎ましくする。いくら欲を張っても鹿が来なければしかたがない。祈って待つしかない。だから、大きな山の力によって生かしめられる己を知って、人は謙虚になる。
 山に狩る者は畑を耕す者より慎ましく、畑を耕す者は金を貸す者より慎ましい。強い相手があってのことだから、慎ましくならざるを得ない」

 こうしたアイヌの生きかたに、バードは気高さを感じたのです。
 それはまた、著者・池澤夏樹氏が、アイヌの生きかたに見い出した価値だと思います。


2011年9月3日(土)里山のフクロウ
池澤夏樹著『静かな大地』に読むアイヌの生き方
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2011/09/post-0025.html

 なぜって、あのね、「土人」って100年も続いた法律があったってこと、ヤッホー君、思い出したのです。
 1899(明治32)年成立し、1997(平成9)年の「アイヌ文化振興法」で廃止になった「北海道旧土人保護法」のことです:

ii「保護法」制定時の帝国議会における「土人」論争

 第5回帝国議会に加藤政之助が提案した「北海道土人保護法」も、1895(明治28年)の第8回帝国議会に鈴木充実外5名が提案した「北海道土人保護法」も、いずれも土人保護法であるのに、1899(明治32年)の第13回帝国議会に政府委員によって提案され、はじめて可決・制定され、今日(=当時)なお効力をもつ「北海道旧土人保護法」案だけが<旧土人保護法>の呼称をとっているのはなぜであろうか。
 3回にわたる帝国議会の論議を検討してその理由を考えるとともに当時の議員たちのアイヌ認識を追ってみたい。             

 第5回議会では、<土人>という表現をめぐる論争はなかった。
 提案者加藤は、アイヌを土人と呼び「人種の異った一種族」「弱者」「無智」、「幼者」と述べてはいるが、「左迄劣等な人種」とは見なかった。
 しかも彼は「優勝劣敗は世の中の自然の勢である。彼等アイノ人種である。我内地人は優等な人種である。此優等の人種が劣等なる所のアイノ人種に対するときには、彼等が自然消滅すると云ふことは勢のしからしむるところである」という差別的な議論に組みせず、これを「残酷な議論」として論破した。
 この加藤の勢いに気押されてか、あえて論争を挑む者はいなかったようである。

 ところが第8回議会では、提案者の1人、千葉胤昌が、一方では北海道の土人が「種類こそ吾々同胞と変りますけれども同じく王化の民」であるのに北海道庁は彼らを「度外視」していると批判しながら、政府というものは「縦令愚なる民でも又は智識のある者でも、此国を保護することは二つとないものであります。詰り我内地に於て乞丐の類、或は甚だしきに至りましては、白痴なる者の住民と同じく之に保護を加へなければならぬ。況してをや(笑声起る)」と甚だ不謹慎な差別的言辞を弄したことから、議論は紛糾した。
 質問に立った草刈親明は、まず「土人とは何を指す」かと問い、この土人が「彼のアイノなる者であるとすれば、提出者が此者に対しまして愚人である。人種が異になっている、殆ど日本人でないやうな語気を以て」提案理由を述べたが、この場において「土人の名称を北海道の旧アイノ人と申して居りました者に、今日此明治の聖明の時代に於ても区別する言葉として御用いになる言葉であるかということを第一に御尋致したい」、次に北海道土人という者に「彼の千島の所謂旧土人も這入って居りますか」、この千島の人びと「千葉君の言葉を以て言へば土人」を保護するという考えはないのかと鋭く迫った。
 千葉はこれに対し、土人といったのは「成程アイノと言った方が宜かったかも知れませぬが,通常土人と申して居りますから、土人と言ったのであります。別に悪意があって言った訳でもない、外国人視して言ふた訳でもない、同じく王化の民であるから、同じく保護を与えたい、吾々同様に日本の徳に浴したい一浴させたい、斯う云ふ趣意で言ひました」と答えた。
 草刈は再度質問に立ち「北海道土人の御解釈のことに就いては分りませぬけれども、まあ分ったとして置きましよう。北海道のアイヌを以て土人などと云ふことは今日ない。…私は人種を異にせぬと思ふ、矢張同じく日本人である。千葉君の如き者もある、私の如き人相の者もある、人相が違ふから人種が異なると云ふことは…」。
 千葉は「それはあなたの議論ですから、御答をするまでもない…土人と人々申しまするは、人種の異なって居ると云ふことに覚えて居った」と答えた。
 草刈は「それなら士族と百姓と云ふやうなものですな」と切り返した。
 ついで吉本栄吉は政府委員に尋ねたいとして「土人という名称は北海道に於きましては、戸籍其他公務上に使ふ名称でありますか、申さば方言でありまするか」と問うた。
 政府委員(都築馨六)は「土人と云ふことに就きましては、其意味判然と致して居りませぬ」として血統名,言語,風俗の例をあげるにとどまり、公務上の名称か方言かという吉本の問いには全く答えなかった。
 これに勢をえたのか草刈は「此提案者は北海道人を以て土人と言ひ、人種が違って居ると云ふことでございますから、能く区別を為し得るだけの御調が附いて居るかと云ふことを質問致した所が、千葉君は其要領をえない …軽率に此議案を議定すべきでない」として委員会付記の動議を行ない、結局廃案に追いこんだのである。

 この千葉と草刈の議論は、アイヌに対する本人の差別者の2つのタイプを浮彫りにしているように思われる。
 一つは千葉のようにアイヌを単に人種の異った者としてだけではなく「愚か者」「劣等」人種として「土人」と呼んで見下しながら、自分の差別観を自覚することもなく「同じく王化の民」と一括してしまうタイプである。
 もう一つの草刈のように無前提に「私は人種を異にせぬと思ふ。矢張同じく日本人である」と同一化し、「土人」と呼びさえしなければ、差別の実態もないと思いこむ、同じく無自覚の差別者のタイプである。
 両者は当時から今日まで連綿と続いている。

 第13回議会では、第8回議会での「土人」をめぐる激しいやりとりに懲りてか、提案者となった政府委員は、はじめから構えていたようである。
 政府委員松平正直は、冒頭の趣旨説明のなかで北海道旧土人保護法案の旧土人とは即ち「アイノ」であるとわざわざ断っている
 ついで田中芳男が「北海道土人と云ふものの頭に旧の字を附けたのはどう云ふ理由か」と質問したのに対し、政府委員白仁武は待ってましたとばかり「開拓使の頃に《アイヌ》を称して旧土人と称えたが宜からうと云ふ達」があり今でも「至極尤もな達と認めたに依って」この旧という字を加えたと答弁した。
 この達では、古民、土人、旧土人と区々の名称があって不都合だからこれからは旧土人と呼ぶことにするとあるだけで、特別の意味はないようで 、なにが「至極尤も」なのか分らない。
多分、第8回議会でのような「土人」という言葉をめぐる議論の紛糾を避け、法案を成立させたいという対策 的考慮から、開拓使の達という権威をかさにきて「旧土人」の語を選んだのであろう。
 政府委員にとってさえどちらでもよかったことは、松平正直が冒頭で 旧土人即ち「アイノ」と説明しながら、終りには土人即ち「アイノ」となり、法案名まで北海道土人保護法と呼び間違える始末であったことに象徴されている。
 むしろ、なぜアイヌ保護法と呼ばなかったのであろうか。


札幌学院大学人文学会紀要1989年第45号《論文》
北海道旧土人保護法とドーズ法、比較史的研究の試み
富田虎男(1928年生まれ、注)
http://ci.nii.ac.jp/els/110000471023.pdf

(注)
 立教大学の同僚でアメリカ史を研究している富田虎男という方がおられました。
 今年から他の大学に移られ残念に思っていますが、この方は、もともとジェファーソンなど初期アメリカの政治家について研究しておられたのですが、30年以上前の1961年、シカゴ大学で「全国アメリカ・インディアン会議」が開かれ、そこで彼らがインディアン固有の諸権利を宣言したことを知ったとき、目からうろこが落ちるような思いで、アメリカ民主主義の限界に気付き、1万8千年といわれるアメリカ・インディアンの歴史を根底に据えてアメリカ史を捉え直す作業に取り組んでこられたのです。
 その著書の『アメリカ・インディアンの歴史』〔雄山閣、第3版、1997年)は、これまで日本語で書かれたインディアンの歴史の中で最も信頼しうる包括的な労作であると言ってよいでしょう。


すべてのものの祈りの家(ろば116号・1993/5/30)
故木田献一牧師(青山学院大学、立教大学教授(旧約聖書学)、1930−2013)
http://hyakunincho-church.com/6column/kida/hncc-ki116.html




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狭山湖(山口貯水池)

 「トトロの森」を徘徊してきたヤッホー君、なんか今日のハナキン、不思議でしようがないことがあったのです。
 え〜と、所沢市って「とうきょう」でなく「さいたま」だよね〜でもね、でもさ、森の遊歩道に湖から何キロとか書いた標識があって「とうきょうと」と出てくるのです、フシギ。
 東京都民の水がめ water catchment area?

狭山湖(山口貯水池)は、はじめから湖だったのではないことを知っていましたか?
所沢の市内を流れる柳瀬川の上流をせき止めて作られた人造湖(じんぞうこ)なのです。
 そもそも、狭山湖の底には勝楽寺村(しょうらくじむら)と山口村の一部があったのです。
 
 1927(昭和2)年に東京市民(当時)の水がめとして多摩湖(村山貯水池)が完成しましが、東京市の人口が急激に増えたため、その水だけでは水量が足りなくなり、狭山湖も作られることになり、狭山湖は1934(昭和9)年に完成しました。

 狭山湖を作るためには、勝楽寺村と山口村の一部が湖の底に沈むことになり、282戸、1720人が住みなれた土地を手放して村を離れることになりました。
 村を離れた人々は、ほかの山口村、小手指村、村山村(武蔵村山市)などへ移転していきました。

 当時のこの村では、農業での生活が苦しかったので、織物製造業(おりものせいぞうぎょう)を営んでいましたが、不況で大変貧しい時代であったため、ある人びとは土地を手放したお金で、少しでも豊かな場所で生活できることを夢見て、またある人は狭山湖を造ることになればその工事現場で働けることを聞いて土地を手放しました。しかし、皆それぞれ口では言い表せない苦労を味わったそうで、そのことが「湖底(こてい)のふるさと」(1983年、昭和58年調査同好会発行)という本に書かれています。

 現在は、狭山湖の湖底を見ることはできませんが、取水塔(しゅすいとう)の修理のときなどには湖底が現れたことがありました。
 湖底が現れると、当時の道の跡や、道の分かれ目を示す石柱、柳瀬川の本流の跡など、勝楽寺村の地形をみることができました。


所沢市の公式サイト、狭山湖の歴史
http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/shokai/symbol/sayamakonorekishi.html

〇『湖底のふるさと』湖底の古里の調査同好会/編 佐藤印刷1983年
→ 山口貯水池(現・狭山湖)建設のために1929(昭和4)年、1930(昭和5)年に移転した山口村(勝楽寺を含む)、宮寺村、村山村の元村民たちの手記。移転先の統計や当時の様子が記述されている。地区ごとの名簿や地図も掲載。
〇『湖底の故郷 続編 勝楽寺村懐古』久保田義一/著1994年
→旧勝楽寺村の歴史、仏蔵院と七社神社、当時の交通、勝楽寺の松、生物、民話など記載あり。


http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000164513

 記録に残しておく、というのは風化していく時間(とき)の流れを記憶(おもいで)に残す意味で大事なことですよね。

 大正末期、山口村(現・所沢市山口地区)に東京市(当時)による貯水池建設計画が持ち上がりました。
 山口谷の最上流部に堰堤を築き、多摩川から水を引いて、東京市民の上水として供給しようという計画でした。
 山口貯水池と呼ばれるこの人造湖は、現在「狭山湖」とも呼ばれています。
 この計画により、旧勝楽寺の全住民と旧堀口の一部住民が住みなれた故郷を離れることになりました。
 そして、勝楽寺の子どもたちが通学した西狭山小学校も湖底に沈むことになりました。

 勝楽寺の学校の歴史は、教育令が布かれた1879(明治12)年に大坊、七社神社の薬師堂を仮校舎とした勝楽学校が創設されたことに始まります。
 1886(明治19)年には、山口、上山口、勝楽寺、荒幡の連合村立狭山小学校が創設されました。

 西狭山小学校は1891(明治24)年に堀口の清照寺を仮校舎として誕生しました。
 開校当初は、経済的に恵まれた家庭の子女しか通うことができず、児童の数も少なかったようです。
 1893(明治26)年の卒業生は男女合わせてわずか10名でした。
 1901(明治34)年の春には独立した新校舎が完成。
 翌1902(明治35)年には山口、上山口、勝楽寺の3村が合併し、新生山口村となりました。

 1920(大正9)年、同じ村内の山口小学校との合併問題がもち上がりました。
 西狭山小学区の住民の反対もむなしく、同年9月には両校の合併が決まりました。
 両校を統合した学校をどこに建てるかという問題も難航しました。
 山口村は東西に細長く、中央付近には川があるという難しい地形でした。
 最終的には中氷川神社の西側に落ち着きましたが、通学の面や校舎の移築など、さまざまな問題がありました。
 そこで、1929(昭和4)年の貯水池工事開始までは、1・2年生のみ分教場となった旧西狭山小学校へ残ることになりました。
 さまざまな問題を抱えたままの西狭山小学校は、この年を最後に湖底に姿を消しました。
 延べ1,078名の児童が通った小学校の跡も今は見ることができません。


所沢市立所沢図書館公式サイト(注1)、所沢の足跡〜歴史編〜
湖底の小学校 西狭山小学校
https://lib.city.tokorozawa.saitama.jp/history/history_kotei.html

 そうでしたか、そんなことがあったのでしたか・・・ 

 東京都の水源は、ほとんどが河川水で、78パーセントが利根川及び荒川水系、19パーセントが多摩川水系です。
 これまで100年余りにわたり、東京の水道は増加し続ける水道需要を懸命に支えてきましたが、これは、水源についても同様です。
 昭和30年代までは、水源の多くを多摩川水系に依存してきましたが、その後、急激な需要の増加に対応するため、利根川水系の水資源開発に合わせて、利根川水系への依存度を高めてきました。


東京の水源.gif

 現在、東京都の保有する水源量は日量630万立方メートルとなっています。

https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/antei/02.html

 水は大事に使いましょう。けして空気同様に「ただ」ではないのです!
 ではここでやっぱり一曲:

東海林太郎で『湖底の故郷』
https://www.youtube.com/watch?v=26c5xSP7KJQ
https://www.youtube.com/watch?v=eWqwQzCdqww

奥多摩湖に石川達三『日蔭の村』を偲ぶ
http://tekuteku.ciao.jp/mountain/sanpo/bungakusanpo12.ht

(注1)同図書館のコラムには若山牧水にまつわるお話も・・・
 所沢ゆかりの歌人といえば三ヶ島葭子が有名ですが、もう一人所沢に深い関わりのある歌人がいます。

白鳥はかなしからずや空の青
海のあをにも染まずただよふ


 この歌で知られる若山牧水です。
 旅を愛した牧水は旅にまつわる歌を数多く残しています。
 牧水自身は宮崎県の生まれですが、牧水の祖父・健海は所沢の出身です。

 若山健海は文化8年(1811年)所沢市神米金の農家に生まれました。
 長崎で西洋医学を学び、宮崎で医院を開業。
 その後、オランダ人モーニッケより種痘の方法を学び、宮崎で実施。
 日本における種痘の先覚者としてその名を残しています。

 牧水は、早稲田大学在学中の明治37年に祖父・健海の生家である若山家を訪れています。
 随筆「おもひでの記」には、若山家で祖父の従弟にあたる人物に会ったこと、その後もたびたび若山家を訪問し歓迎されたことなどが記されています。
 また、『牧水写真帖』には牧水訪問当時を思わせる、戦前の若山家の様子が写真として残されています。
 牧水は手前に写っている深い井戸の水で、所沢駅から6キロあまり歩いた喉の渇きを癒したそうです。
 昭和53年には若山家邸内に牧水の歌碑が建てられました。
 八雲神社の鳥居をくぐった木立の中にひっそりと佇む碑は、牧水自身の筆跡で刻まれています。

のむ湯にも焚火の煙匂ひたる
山家の冬のゆふげなりけり


※ 牧水歌碑(八雲神社) 
《所在地》所沢市神米金278
《交 通》新所沢駅より本川越行き または西武フラワーヒル行き
下富バス停下車すぐ

所沢ゆかりの歌人若山牧水と祖父・健海
https://lib.city.tokorozawa.saitama.jp/history/history_bokusui.html

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2016年10月20日

トトロの森

 ヤッホー君のこのブログ、2013年2月11日付け日記「大太法師」をお読みくださいね。

 「きょうは、北では季節先取りの寒さとなっている一方で、南は季節逆戻りの暑さとなっています」とチーム森田の福岡良子さん。
 空には雲一つない、なんてめったにない、徘徊びよりだわい、わ〜いわいとお出かけ。
 西武球場駅から「トトロの森」へ。

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 途中、妖精たち、だいだらぼっち、おばけたちが誘惑しにあらわれるのでいったい何度道迷いしたことか・・・

 追い払っても、追い払ってもヤッホー君を慕ってついてくるのです。
 今日はけっこうです、またね、お名前は?何を食べたの?天気が良くってけっこうです、とか追い払うのですが、ムカシ田んぼだったけど60年代末の豊作とこの国の米離れで「稲作転換」してこんな姿になったの、なんていう谷戸にまで迷い込んで・・・

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 その都度、徘徊しているヤッホー君の前に立ちはだかる幻影をなんとか消去、削除しながら、また現れたのが早稲田大学!
 こんな森にキャンパスができちゃったけど、自然破壊なんじゃないとコンクリートの異様なたたずまいを大隈重信港にお聞きするヤッホー君。

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 しかしせっかくなので、と所沢キャンパス学食では、ライス大盛りにしておなか一杯にしてきたのです。

 あっそう、そう”山歩クラブの歌”ってのが発足当時からあって、それは「さんぽ」なんだもん!

さんぽ(となりのトトロ)秋山カズ
https://www.youtube.com/watch?v=5ENHACSmlWI

となりのトトロ-予告編
https://www.youtube.com/watch?v=2wewX0QvHOk

となりのトトロ-秋山カズ
https://www.youtube.com/watch?v=CFEeUPatslw

 宮崎駿監督の名作アニメーション映画『となりのトトロ』(1988)の公開から2年後、『トトロ』の舞台となった狭山丘陵周辺を開発から守るために、ナショナルトラストの運動体“トトロのふるさと基金”が発足した。
 1991年に“トトロの森1号地”が取得され、現在は31号地まで確保したのだという。
 宮崎監督も基金の顧問を務めている。

 2015年11月に「トトロのふるさと基金」25周年記念行事“トトロのふるさと基金25年の歩みとこれから”が、埼玉県所沢市「所沢まちづくりセンター」にて行われた。
 まず『トトロ』の上映と地元の芸術総合高校の高校生の演奏、挿入歌の合唱があった。
 そして荻野豊・基金専務理事による25年間の基金の歩みの報告、宮崎駿監督と理事長の安藤聡彦・埼玉大学教授のトークという流れ。
 筆者の能力の限界により、宮崎監督の発言に絞ってレポしたい(以下はメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 トトロのふるさと基金への協力の要請に来た萩野氏に、宮崎監督は「自信を持って、地道にやりなさい」と助言したという。
 基金の初期の経緯は、1992年に工藤直子『あ、トトロの森だ』(徳間書店)にまとめられた。

宮崎監督「みんな自分が正しいことをやってると思っている。土地は値上がりしていろいろ大変な中で、摩擦が発生すると、厄介なのはみんな自分が正しいと思っていること。それで停滞したこともあったらしいけど、そこでまた別の方、考古学者の方が来て。事務局の女性数人を解雇して、法廷に持ち込まれて、何かよく判らない。いや、判るけど(笑)」

宮崎監督「2007年に(理事長の)安藤さんが現れたのが、(基金にとって)大きかった。理事会で延々と(基金の)憲法、取り決めを決めて。私はアッシー君で、理事会に参加した家内を車で運んで、まだやってるのってくらいやってましたね。取り決めを決めた安藤さんも逃げ損ねて、萩野さんもいろいろつらいことがあったらしいけど、よくやってきたな。次の安藤さん、次の荻野さんが出てきてほしい。安藤さんが50年やったみたいなことにならないように。ぼくは荻野さんより年上ですから、荻野さんが生きて、ぼくは死ぬ(一同笑)」

 運動の始まりは、1980年に早稲田大学が狭山丘陵に新キャンパス設置を発表したことであった。

宮崎監督「(現地の)写真を見ると、胸が痛くなる。ぼくはその土地へ行ったことがなかったんですけど、(運動をする人の)無念の思いが伝わってくる。ここにも早稲田の人がいると思うけど早稲田の悪口を言ってるんじゃなくて、むしろ大学があんな田舎にあっていいのかなって思うけど。
 土地は一度めちゃくちゃにすると、ほんとにめちゃくちゃになっちゃうんですね」

2015-12-02 私の中の見えない炎
〜おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー〜
宮崎駿監督 トークショー“トトロのふるさと基金 25年の歩みとこれから”レポート(1)(2)
http://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2015/12/02/062719

 地元の人が「トトロの森」と呼ぶ「淵(ふち)の森」は、埼玉県所沢市と東京都東村山市の境にある。
 住宅街にぽつんとある小さな森だが、西武池袋線脇の小道を入ってせせらぎにたどり着くと、山奥に迷い込んだような錯覚にとらわれた。

 アニメ映画「となりのトトロ」の監督宮崎駿さん(66)は、この近くに住む。
 散策しながらごみ拾いをするのが日課だ。
 9月上旬のある朝、宮崎さんは怒りを込めて話した。

「ここに昔、自転車が百台も捨ててあった。それを片づけて木を植え、きれいな森になった」

 森には、カワセミやイチリンソウなど貴重な動植物が息づく。
「この大切さを、開発業者だけでなく地主や近隣の人も意外に気付かない」

 かつて、宅地開発計画から森を守った地元住民は今春、森の対岸の雑木林に持ち上がった宅地開発計画を知る。
 宮崎さんは「開発で対岸にコンクリート護岸ができれば流れが変わり、土がえぐられる。景観、生態系すべてに影響する」と指摘。
 東村山市に公有地化してもらうため、全国に寄付を呼び掛けた。
 宮崎さんは直筆で領収書を書くなど支援したが、地元の不動産仲介業者は激しく反発した。
「宮崎さんのサインほしさに、詳しい事情も知らず寄付している人もいるはず。十三戸の住宅をつくり販売するだけ。駅から三分という土地に住みたい人はいる」

 著名な監督が先頭に立った保全運動は新聞やテレビで大きく報道され、9月中旬、業者側は事業撤回の意向を表明した。
 “翻意”の理由を聞くと「勘弁して。この問題で体調も悪くなった」と、言葉少なだった。

 首都圏では、大手開発業者が周到な準備で開発を進め、今回のように業者が計画自体を撤回するのは極めてまれだ。
 「宮崎駿」というビッグネームは、確かに有効だったといえる。
 しかし、宮崎さんが会長を務める淵の森保全連絡協議会のメンバーは「所沢市の前市長の中井真一郎弁護士もボランティアで参加。領収書を間違いなく送るとか、いろんな人が協力し、徹底的に闘う姿勢がとれたのが大きい」と強調する。

 国は「生物多様性国家戦略」と銘打って、都市近郊の里山を守ることに重点を置くが、身近な里山はその身近さゆえ、常に「開発と保全」のせめぎあいにさらされる。

 宮崎さんは森の木漏れ日を見上げながら、こうつぶやいた。

「地球温暖化が進んだとき、何が一番豊かなんだろう。身近な緑が、守られていることではないのか」

 都心回帰の住宅事情を背景に、首都圏で進む住宅開発。
 そのあおりで、昔から残っていた数少ない里山が一つ、また一つと消えていく。
 しかし、地元の緑を守ろうと、取り組む市民も増えてきた。
 映画などで人気者の森の妖精“トトロ”がすむといわれる、身近な森。
 開発と保全がぶつかり合う現場から、近所の自然との共生の道筋を考えた。

<メモ>「淵の森」の保全問題
 淵の森は約4600平方メートル。約10年前に宅地開発計画が浮上した際、宮崎駿さんが住民グループの中心となり、自身も3億円を提供し所沢、東村山両市が公有地化した。今年3月に宅地開発計画が浮上したのは、森の脇を流れる柳瀬川の対岸の雑木林約1500平方メートル。宮崎さんらの募金活動には全国から約2500万円が集まった。交渉は一時暗礁に乗り上げたが、業者側が一転して地主との契約解除の意向を表明。約7000万円で公有地化のめどがたった。


2007年10月1日付け東京新聞【トトロと生きる】
<1>淵の森 身近な緑住民が守る
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2007/totoro/news/071001.html

 「だいだらぼっち」ともヤッホー君は出会うのです:

でいだらの井戸
 大昔、狭山の山に”大平法師(だいだらぼっち)”という怪力無双の大男が棲んでいました。
 ある時、何を思ったかダイダラボッチ、藤づるで山をしょって、のっしのっしと歩いてきました。
 ところが丈夫なはずの藤づるがプッツリ切れて、背中の山を落としてしまいました。
 切れた藤づるは北の方角へ投げ出され、それ以後不思議なことに北には藤が生えても、南には一本も生えなくなったということです。
 不意を突かれたダイダラボッチは思わずのけぞり、ぐっとふんばった両足の跡が大きな穴になり、水がわき出て井戸になりました。
 常に豊富な水を満々とたたえて干ばつの時も涸れることもなく、近隣の人々は大変助かったといわれています。
 ダイダラボッチの恩恵に感謝して”でいだらの井戸”と名付けました。


狭山丘陵の昔話
http://homepage3.nifty.com/gns/htm/sayama/oldstory.html


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どこつかんどんじゃボケ。土人が

差別発言への反響と反省しない大阪府警機動隊員
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/ced24768daa7539e9e023642b6139a08

 秋晴れに浮かれて徘徊した後に見た上記投稿にヤッホー君、びっくりびっくり、またしても腰を抜かして「日本人の劣化」に涙しておりました。
 いま、なにが起こっているのか、自分で見て、聞いて、考えないととんでもないところに漂流する身の上となってしまいかねません。
 いま、現実にどこかで起こっていることはわが身にふりかかってくる、だから怒らないことには、命までとられてしまいかねません。

 なにがあったのかって、南の島・・・

 沖縄県東村高江周辺の米軍北部訓練場内のヘリパッド建設で10月18日、N1地区ゲート前で抗議していた芥川賞作家の目取真俊(めどるましゅん、1960年生まれ)さんに対し、機動隊員が「触るな。土人(どじん)」と発言したことが分かった。
 目取真さんは「あまりにもひどい。市民をばかにしている」と憤った。

 同日午前9時45分ごろ、目取真さんら市民数人がN1ゲートそばで、沖縄防衛局が市民の出入りを防ぐため設置したフェンス越しに工事用トラックの台数を確認していた。
 その際、機動隊員3人がフェンスから離れるよう指示した際、1人が「触るなクソ。どこつかんどんじゃボケ。土人が」と発言した。
 市民側は発言者を大阪府警の機動隊員とみている。
 機動隊員の発言について、県警は本紙の取材に「現時点で把握していない」としている。

 午前11時半ごろには、工事用トラックの進入を防ごうとした目取真さんを、機動隊員4人が地面に押さえ付ける場面もあった。

 同日は市民70人がN1ゲート前で抗議活動を展開。
 工事用トラック36台が同ゲートから訓練場に入り、資材を搬入した。
 市民5人が北部訓練場内に入り、工事の進捗(しんちょく)を確認した。

 17日に器物損壊容疑で現行犯逮捕された沖縄平和運動センターの山城博治議長の釈放を求め、市民らは名護署前で集会を開いた。


2016年10月19日 06:44更新、沖縄タイムス
「どこつかんどんじゃボケ。土人が」
機動隊員が沖縄で暴言
ヘリパッド反対の芥川賞作家に

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67175

https://www.youtube.com/watch?v=o6Xk5MzsRqQ

【音声】機動隊員が沖縄で「土人」発言 高江ヘリパッド建設現場
https://www.youtube.com/watch?v=xQdqGYsd8i8

大阪府警から派遣の機動隊員 土人発言 沖縄県の方々に出てきてきちんと謝罪しろよ!
https://www.youtube.com/watch?v=0CimeUkbe0A

 知事がこの程度の認識じゃあ、アホ警官も反省しないだろう。

 沖縄の米軍北部訓練場のヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)移設工事をめぐり、現地に大阪府警から派遣された20代の男性機動隊員が、地元住民に対して「ボケ、土人」と暴言を吐いた問題。

 全国から批判の声が上がる中、大阪府の松井一郎知事が19日、自身のツイッターで〈ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様〉と書き込んでいたことが分かった。

 松井知事は今朝のぶら下がり会見でも「相手もむちゃくちゃ言っている。売り言葉に買い言葉」などと改めて隊員を擁護した。


2016年10月20日付け日刊ゲンダイ
ア然…松井大阪府知事が「土人」発言の警察官をねぎらう
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/192221

 みっつほど、ヤッホー君は感想を日記として記して残しておかないといけないな、と感じているそうです。
 ひとつは、なんで「売り言葉に買い言葉」ですまないのか・・・ということです。

 差別はこれまでもたびたび繰り返されてきた。
 1903年には大阪で開かれた博覧会で、沖縄女性2人を「展示」した「人類館事件」があり、沖縄戦では日本兵による住民虐殺や「集団自決」(強制集団死)があった。
 戦後71年たった現在でも、在日米軍専用施設面積の約74%が集中する。
識者は「差別する側の意識が変わらないと問題は解決しない」と指摘している。

 1903年、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場で「7種の土人」として、朝鮮人や台湾先住民、沖縄県民らが見せ物として「展示」される「人類館事件」が起きた。
 当時の沖縄では「沖縄人差別」として激しい非難と抗議が起きた。

 事件から100年後の2003年に大阪で、事件をテーマにした戯曲「人類館」の公演を手掛けた、関西沖縄文庫主宰の金城馨さん=大阪府=(63)は「土人発言」について「特別な驚きはない。普段沖縄に対して思っていることが、表面化しただけ」と切り捨てた。
 「大阪府警では日常的に沖縄に対する差別があるのではないか。府警の責任を追及すべきだ」と語気を強めた。
 
 金城さんは1879年の琉球処分以降「歴史的に差別が続いている状態」とした上で「これから沖縄は本土と対等に向き合い、差別する側の意識を変えることが問題解決につながる」と話した。

 差別の問題に取り組む師岡康子弁護士は「土人」「シナ人」の二つの発言について公的機関が「人種差別を助長しまたは扇動すること」を禁じた人種差別撤廃条約に違反すると指摘。
 「弁明の余地はない。大阪府警は謝罪し、教育体制を洗い直す必要がある」と求める。

 「シナ人」の表現は「レイシスト(差別主義者)が基地に反対するのは中国に操られた売国奴、と言うのと全く同じ発想。
 基地に反対する沖縄の人々と中国の人々に対する二重の差別だ」と非難した。

 「土人」は新聞社が使う「記者ハンドブック」(共同通信社発行)でも差別語、不快用語とされており、記事にする場合は通常「先住民(族)」や「現地人」と表記することになっている。

2016年10月20日 14:48更新、沖縄タイムス
「土人」発言は何が問題なのか
100年前、沖縄女性らが見せ物にされた「人類館事件」

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67368

 ふたつめは、なんで大阪の公的機関が「出張」しているのか・・・ということです。

 米軍北部訓練場(沖縄県東村・国頭村)のヘリパッド建設に伴う県外機動隊の派遣を巡り、沖縄県公安委員会が派遣要請を決定する前に、警察庁が関係都府県警などへ事実上の“派遣指示”を出していた
 警察法で警察庁への事前連絡が義務付けられているが、従来のサミットなどとは違い、県知事も「過剰警備」と指摘する米軍施設建設に伴う警備なだけに、派遣には慎重な判断が求められるはずだ。
 ヘリパッド建設を進める政府の強硬姿勢が背景にある。
 機動隊派遣を巡り、政治的に中立なはずの県公安委の審議が形骸化していないか懸念される。

 要請は、県警警備第2課実施第2係の警部補が要請前日の7月11日付で起案した。
 起案文の件名は「警察職員の援助要求について」とし「みだしの件について、別添のとおり援助要求してよろしいか伺います」と判断を請う内容となっている。
 一方、同じ11日には既に警察庁から関係都府県警への事実上の派遣指示が出ている。

 起案は翌日の7月12日付で県公安委員長と2人の県公安委員が印鑑やサインをして決裁。
 県公安委の要請決定と、各都府県公安委への派遣要請文の発出は同じ12日付
 決定と同時に各県に依頼を出した格好だ。

 警察法は派遣要請に際し、県公安委が「あらかじめ必要な事項を警察庁に連絡しなければならない」と定めている。
 県公安委は取材に、事前調整について「県警と警察庁で調整していると承知している」との見解を示した。
 県公安委員不在の中、実働の警察サイドだけで根回しを進めていたことになる。

 県警は従来の派遣要請と同じ対応と強調するが、サミットや天皇来県などのイベントと、今回の米軍施設建設に伴う派遣要請では県知事の姿勢が全く異なる。

 東村高江などヘリパッド建設の現場周辺では、県外機動隊が投入されて県道が封鎖されるなどの異例の事態が連日起こっている。

 これに対し翁長雄志知事も「機動隊を500人とも800人ともいわれる形で動員すれば過剰警備であることは間違いない」と指摘。
 県公安委の要請に伴う派遣であることにも「大変忸怩(じくじ)たるものがある」と述べた。

 県公安委員は現場の混乱を直接視察し、承認した派遣要請を見直す時期に来ているのではないか。


2016年9月11日05:01更新、琉球新報(滝本匠)
沖縄県公安委の審議、形骸化
全国機動隊派遣の警察庁事前指示
警察内部で根回し

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-354716.html

 みっつめ、これは沖縄に限ったことでなく、権力を握った一部の者が権力にすりよっていく、くる一部のオトモダチ、オナカマといっしょに、ピープルズ、人びとを無視して勝手に暴走しはじめているということと重なるのではないか・・・ということです。たとえば:

 石原家の凋落ぶりは顕著で、「永田町では終わった人」(自民党議員)扱いだ。

「慎太郎の政治家としての凋落の要因は親ばかですよ。新銀行東京で多額の負債を都民に押し付けたこと。当時の副知事は『やめたほうがいい』と説得したが、慎太郎は『伸晃のアイデアなんだ。伸晃は金融の専門家だから、絶対に大丈夫』と強行し、結果、大失敗した。もうひとつは四男、延啓を都の美術館の審議会のメンバーに入れ、都議会で問題になったこと。自称画家だが、何の実積もない四男を『才能がある』と言い、一般人にもかかわらず、フランスなどへ公費で出張させていた」(都庁関係者)

 政治家を引退後、ベストセラーとなった、田中角栄を描いた『天才』(幻冬舎)を書くなど作家活動に専念している石原氏。
 「文學界」10月号に掲載された精神科医、斎藤環氏との対談は、過激さから波紋を呼んだ。

 7月に発生した相模原障害者施設殺傷事件について、「あれは僕、ある意味で分かるんですよ。昔、僕がドイツに行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、『父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません』と言ったので、恐ろしいやつだなと思って」(「文學界」から)

 こうしたマイノリティーに対する発言について、伸晃氏の地盤、東京都杉並区の太田哲二区議(民進)は「1983年の衆院選の際に騒がれた黒シール事件のときと全く変わっていない」と語る。
 黒シール事件とは、選挙期間中に衆院旧東京2区に立候補した故・新井将敬氏のポスターに石原氏の公設秘書が「(新井氏は)66年に北朝鮮から帰化」と記したシールを貼り付けた公職選挙法違反事件である。
 石原氏は「秘書がやった」と主張。
 そのときに逮捕された秘書が、豊洲新市場の建設を落札した鹿島建設の役員を務めている人物だ。

 「石原氏は著書『弟』で、石原プロなどが制作した映画『黒部の太陽』が資金難に陥り、裕次郎氏が電話で慎太郎氏に資金援助を申し出て、慎太郎氏がゼネコンに支出させたと美談のように書いているが、全くあほらしい話だ」(太田氏)

 落ち目に陥ったのは長男、伸晃氏も同じである。
 7月の都知事選敗北の責任を取って自民党都連会長を辞任したが、党内の会合で「敗北の責任は谷垣禎一幹事長(当時)にある。都連会長に公認の決定権はない」と言い逃れをし、批判を浴びた。
 石原一家に近い自民党関係者が言う。

「安倍首相は責任を取らせ、閣僚も交代させるのかと思ったが、残留させた。派内でも浮き、伸晃氏に付いていこうという議員は誰もいない」

 14日に臨時国会最大の焦点となる環太平洋経済連携協定(TPP)承認案などが審議入りしたが、「伸晃氏は農政に精通しておらず、国会答弁が大いに心配だ」(自民党国対)との声も聞こえてくる。

 石原家の三男、宏高氏は内閣府副大臣を務めるが、選挙区が民進党都連会長の松原仁氏と同じで2度の落選経験もある。

「銀座などで豪遊し、地元をおろそかにしていて落選した轍を再び踏みかねない」(前出の自民党関係者)

 石原氏と共に青嵐会で盟友だった故中川一郎元農水相の秘書を務めた新党大地の鈴木宗男代表は石原氏をこう評する。

「政治家として個性のある方だが、結果として何かをしたということはなかった」


※週刊朝日2016年10月28日号(本誌・上田耕司、小泉耕平、村上新太郎)
石原慎太郎、伸晃、宏高親子は「永田町で終わった人」
https://dot.asahi.com/wa/2016101800231.html

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2016年10月19日

千代田の街路樹を守る

 千代田区一ツ橋2の区道「神田警察通り」で、区が7月に歩道拡幅工事のため街路樹の伐採準備を始めたところ、区民らから反対の声が上がり、区は伐採を一時中断した。
 反対する区民らは「長年親しまれた街路樹を、何の説明もなく伐採するのは問題」と指摘。
 区は「区民の意見を聞き説明したい」としている。

 区によると、工事区間は共立女子大沿いの約220メートル。
 4車線(幅約15メートル)の一方通行道路を3車線(幅約13メートル)に減らして、道路両側の歩道を幅各約3・5メートルから各約4・5メートルに拡幅。
 歩道上の約半分を「自転車の走行空間」にする。
 今年3月に着工し、来年3月に完成予定で、総事業費は約2億円。

 伐採予定の街路樹はイチョウ32本、プラタナス5本で高さは約15〜20メートル。
 区の担当者は「記録が残っていないが、東京市が東京都になった1943年以前からあった」と話す。

 区は伐採理由について
(1)歩道上で歩行者と自転車の通行を分けるためには街路樹があると狭い
(2)老朽化して一部に倒木の恐れがある
(3)根が成長して凸凹に隆起した歩道をバリアフリー化する−−
を挙げる。
 伐採後は別の樹木を植える計画で、学識経験者や町内会、商店街の代表者らで構成する協議会で5年前から議論し、決めたとしている。
 街路樹を掘り出して移動する案も検討したが予算・技術両面の理由で断念した。

 区が7月に伐採準備のため並木の枝を払ったところ、区民や区内在勤者から「事前の説明がなく突然工事が始まった」「貴重な景観を守るべきだ」と保存を訴える声が寄せられた。
 このため区は伐採を中断。
 千賀行(こう)道路公園課長は「伐採は強行しない。区民の意見を聞き、きちんと説明したい」と話す。

 区内では白山通り(都道)や明大通り(区道)でも、電線地中化や歩道拡幅のため街路樹の伐採計画が進む。
 小枝寿美子区議(ちよだの声)は「すべて2020年の東京五輪までに環境や景観を整備しようと計画された。長年親しまれた街路樹を、区民や区議会への説明も不十分なまま拙速に伐採するのは問題だ」と指摘する。


2016年8月6日、毎日新聞/東京(早川健人)
街路樹伐採一時中断、「説明ない」反対の声で 
http://mainichi.jp/articles/20160806/ddl/k13/010/186000c

 「区民や区内在勤者から」の声、そうなんですよね、声をあげること、声を吸い上げてくれるところを確保することが、まずは強権政治への対抗手段です。
 けして「見ざる、聞かざる、言わざる」なんてことのないように・・・
 
宛先:千代田区議会議長戸張孝次郎と4人の別の宛先
100年の街路樹をオリンピック開発から守って下さい!
千代田の街路樹を守る会


 今年2016年、7月、通いなれた道のイチョウの大木に、突然「樹木撤去のお知らせ」が貼られました。
 100歳になろうかという大木で、都会の真ん中で排気ガスに負けず、いつも住民や通勤通学者に季節を教えてくれる木です。
 場所は東京神田、警察通り、学士会館の向かい、共立講堂と学術情報センターの間です。合計32本のイチョウと5本のプラタナスが並ぶ壮麗な街路樹です。

 現場の千代田区は、オリンピックに向けて大規模な道路工事を計画しています。
 工事に伴って合計300本もの街路樹を伐採しようとしています。
 100歳の街路樹の通りも、220mの道に自転車道を作るため2億円で業者に発注しました。

 区役所は伐採について、区議会にも住民にも知らせずに行なおうとしました。
 いざ伐採という夜に、木を愛する人に発見され工事は止まりました。
 伐採に怒った人びとから複数の陳情と2500筆以上の署名が出されました。
 しかし区役所はそれでも工事を続行しようと、陳情者に圧力的な行動をしたり、陳情を扱う委員会日程を早めたりしました。

 近くの都道でもオリンピックのマラソン道整備のために、強引な樹木の伐採が、都庁によって行われています。
 樹齢50〜60年ほどのイチョウです。
 100年の街路樹と300本の樹木を、区役所と都庁の強引なオリンピック開発から守らなければなりません。

 「愚者は木を伐る、賢者は木を残す」と言います。
 私たちが未来に残したいのは、開発道路ではなく、樹木であり環境であり伝統です。

 街路樹がある東京神田は、日本における大学の発祥の地で、かつ出版社、新聞社、書店が集まる、知識の歴史的発信地です。
 その規模は世界一だと思われます。
 街路樹はそのような歴史と伝統を風景として今に残すものです。
 伐採しないだけでなく、大事に守っていくべきです。
 そして未来のため、木を伐る時のルールも定める必要があります。

 皆様のご賛同とともに、この思いを千代田区政と東京都政に反映させるため、ご署名をお願いいたします。


https://www.change.org/p/100年の街路樹をオリンピック開発から守って下さい

 今一度、思い出してください。
 動物が生存するのに必要なのは酸素です。
 人間の生産活動にも酸素を使います。
 では酸素はどこから来るのか。
 植物が生み出しています。
 地球は植物と動物が互いに必要なものを交換してなりたっているのです。
 木を大切にすることは、自分たちと未来を大切にすることです。

 木がなければ、私たちは生きられません。

 千代田区内の街路樹が伐採されそうです!
 
神田警察通り
白山通り
明大通り


 合計300本の街路樹が危ない!


千代田の街路樹を守る会
「愚か者は木を伐る。賢者は木を残す。」
http://chiyodatrees.wixsite.com/trees

 そして今朝の東京新聞!

 東京都千代田区の区道に自転車道などを設ける工事に伴い、街路樹で樹齢70年を超えるイチョウ並木の伐採計画が進んでいたが、区民らの反対で保存する方向になった
 区は2020年の東京五輪・パラリンピックまでの区道整備を目指す一方で、区民や区議会に街路樹の伐採について十分説明していなかった。

 問題となったのは、区道「神田警察通り」(全長約1.4キロ)のうち一ツ橋の一期工事約220メートル。
 車道を4車線から3車線に減らし、道路両側の歩道を広げ、歩道の約半分を自転車道にする。
 区は倒木の危険や、木の根元が盛り上がって歩道に凹凸ができたことなどを理由に、沿道のイチョウ32本とプラタナス5本を伐採し、別の樹木に植え替えるとしていた。

 しかし、7月下旬に伐採準備として街路樹の枝を払うと「歴史的な建物が並ぶ地域にふさわしい並木を五輪のために切っていいのか」と抗議の声が上がり、区は整備を一時中断した。

 区が3年半前にまとめた「神田警察通り沿道賑(にぎ)わいガイドライン」は「既存の街路樹を活用」とうたい、区議会や地元関係者も区道整備は承知していたが、街路樹の伐採は寝耳に水だった。
 区議会10月定例会には街路樹の保存を求める陳情が5件出され、10月17日の区議会企画総務委員会では委員会の総意で計画の見直しなどを区側に求めた。

 区議会の要望を受け、区道路公園課の千賀行課長は「安全上、伐採せざるを得ない木もあるかもしれない」と前置きしつつ「年内をめどに街路樹を残す方向で整備内容を見直したい」と話した。

 千代田区では、神田警察通りの二期工事のほか、区道「明大通り」や都道「白山通り」でも、歩道拡幅や電線地中化のため街路樹の伐採計画がある。
 区議会に陳情した市民団体「千代田の街路樹を守る会」の愛みち子さんは「全ての街路樹を保存し、木を生かした街づくりを進めてほしい」と話す。
 会はインターネットで賛同の署名を集め、約4万件の署名が寄せられた(注1)という。

2016年10月19日 東京新聞朝刊(奥野斐)
一ツ橋のイチョウ並木保存へ 「五輪のために切っていいのか」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201610/CK2016101902000131.html

(注1)ヤッホー君も署名お願いメールが届いてすぐ賛同、署名しました:

 10月2日、拡散を始めてから2時間で賛同者が50人を超えました。
 またたく間に100人の署名です。
 若干1日で1500人を超えました。
 2日ちょっとで5千人を超えました。
 3日ちょっとで2万人を超えました。
 6日足らずで3万人を超えました。

 コメントも送ることができます:

 東京は世界の大都市の中では、緑が多い都市と言われています。
 それは東京の良いところであり、オリンピックで世界にアピールできる材料の一つです。

 それなのにオリンピック、パラリンピックの僅か数日間のためだけに、100年もかけて育った大木を伐採しようなどあり得ません。
 本来ならばその、歴史ある大木をどのように生かすべきか、という考えにならなければなりません。

 樹齢100年の大木ですよ。
 われわれの大先輩です。
 本当に、人間のみがってな理由で、伐採しないでほしい。
 いい加減にしてほしい。


https://www.change.org/p/100年の街路樹をオリンピック開発から守って下さい/u/18025874


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竜門峡(日川渓谷)

 10月14日金曜日「武田の秘境」歩き、7人の侍はようやく竜門峡(日川渓谷)入り口へ:

竜門峡入り口.jpg

 こんな素晴らしい渓谷沿いの遊歩道:

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 途中「天鼓林(太鼓林)」がでてきます:

 この歩道と周辺を強く踏むと下から湧いてくるような太鼓にも似た神秘的な音の響きがあり、昇仙峡の天鼓林とも似ております。
 これは凹凸(起伏)又は亀裂した岩とか固い土壌の表面に気根が細かく張り空間を作り、その上が腐葉土で固められた地表が作られ、踏むだけでも振動と微妙な音が発するので「太鼓林」とも名付けられております。
 定かでないが昔、天狗の生息した場所とも言い伝えられ、野獣や外敵に襲われた時、此処を力強く踏んで、その音で威圧退散させたと云う伝説もあります。
 このような場所が川辺に在るのも珍しく、流れの深い渕で、天狗が夜毎、行水や遊泳に興じた格好の場所とも云われております。
 又こうした渕を、所に依り天狗渕とも名付けられ種々の伝説が残っております。
 この1km上流にもその一つ天狗渕が在ります。

(案内板より)   

 さ、お昼です、お腹が空いては戦はできぬとばかりに7人の侍、むしゃ武者むしゃと食べております:

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 こんな通行のバリアも出てきましたが難なくクリア:

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 たどり着いた古寺が、天目山栖雲寺:

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 蕎麦は初め、実を粉にして食べるそばがき、そば餅として食べられており、今のような細く切って茹でた蕎麦(蕎麦切り)はありませんでした。
 蕎麦切り発祥の地は、ここ天目山栖雲寺です。
 尾張藩士で国学者の天野信景が江戸の元禄年間に出した雑録『塩尻』の宝永年間の条で
「蕎麦切りは甲州よりはじまる。初め天目山参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに米麦の少なかりし故、そばをねりて旅籠とせしに、其後うどんを学びて今のそば切りとはなりし、と信濃人のかたりし」
と記述されています。
 栖雲寺のある木賊(とくさ)地区は現在でもそうですが米は採れません。
 当時も米麦は少なかったために、うどんに学んで蕎麦切りを作って参拝の方々に食べさせていたのでしょう。
 境内には蕎麦切り発祥の地の碑があります。


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 庫裏東側の急斜面に広がる県指定名勝の庭園。
 禅寺の庭園と聞いて想像するような鎌倉や京都の庭とは全く異なり、多くの巨岩からなる豪快な自然の造形です。
 創建当時、修行僧達は石の上や樹の下で坐禅を組み、業海が庭園上段にある「坐禅石」の上に坐って弟子たちの坐禅の様子を検単(チェックすること)していました。
 坐禅をするための庭、すなわち「禅庭」として業海本浄が作庭されたものです。
 庭園の中には地蔵菩薩と文殊菩薩の磨崖仏があります。
 本県、山梨県では唯一の磨崖仏で、いずれも県指定文化財です。
 庭園には順路があり、坐禅石、三尊石、摩利支天堂、磨崖仏などを廻れます。
 秋には庭園のみならず、周囲の山々まで見渡す限りの紅葉がみられます(11月上旬〜中旬)。

http://www.tenmokusan.or.jp/index.html

 天目山栖雲寺のおっしょさん(御師匠様)は、なんとTV番組「ぶっちゃけ寺」への出演もはたしておられましたぁ〜
http://www.tv-asahi.co.jp/bucchakeji/

 当山所蔵の信玄公鉄製「軍配」が、テレビ朝日の人気番組「ぶっちゃけ寺」 に取り上げられ、私も出演して2月に放送されました。
 近年の武田勝頼人気もあって、放送後はなかなかの反響です。


http://www.tenmokusan.or.jp/pdf/tenmoku/tenmoku_20.pdf
http://www.56.com/u89/v_MTI2MTYzOTE4.html

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2016年10月18日

平岳大

 10月14日「武田の秘境」歩き、まだまだお話が尽きないようで・・・
 仲間のようこちゃんが語ってくれたのが「カツより団子」ですけど・・・

【武田勝頼、織田信忠、豊臣秀頼】無能じゃない!実はかなり有能だった戦国武将の息子たち
https://www.youtube.com/watch?v=XAi1aFmZ2NA

 NHK大河ドラマ『真田丸』で武田勝頼を演じたのは、平幹二郎(1933年生まれ)と佐久間良子(1939年生まれ)の子ども、平岳大(1974年生まれ)!

 1月10日にスタートした俳優・堺雅人(1973年生まれ)主演のNHK大河ドラマ『真田丸』の初回視聴率が19・9%で好発進したことが12日、ビデオリサーチの調べで分かった。
 第1回「船出」では、武田信玄の急死から9年後、滅亡前夜の武田家の混乱が描かれた中、俳優・平岳大演じる武田勝頼の悲哀に満ちた好演が話題に。
 ツイッターには放送後から「初回MVP」「勝頼泣けた」「格好よすぎる」など1万6000件を超える賞賛の投稿が相次いでいる。

 武田勝頼はこれまで歴史ドラマなどで、偉大な父信玄の築いた隆盛を継承できなかった人物として、評価の低い描かれ方が多かった。
 また他武将を主人公にした作品では、織田・徳川軍に大敗した長篠合戦後の滅亡までが詳細に描かれることも少なかった。

 一方『真田丸』では、勝頼が家臣の離反や裏切りを静かに受け止めながら、最後まで武田家を支えようとした真田家に生き延びるための道筋をつけるなど、やさしく、品格の高い人物として描かれた。
 自身は最後まで当主として気高く生きる道を選びながらも「もし父がいれば…そうだな、こんなことにはならないか…」と寂しそうにつぶやくシーンも。

 これにネット上では「こんな勝頼の描き方は良い」「この勝頼はすばらしい」と脚本に賛辞をおくる感想が相次いでいる。
 また決して多弁ではなく、哀愁を背中で演じる平岳大の好演に「悲しすぎて直視できない」「泣けた」「勝頼様、滅びないで」と賞賛の声が相次ぎ、次回には滅亡を迎える悲運の登場人物が人気となっている。


2016/01/12付けデイリースポーツ/神戸新聞社
「真田丸」武田勝頼“初回MVP”賛辞殺到 「泣けた」「この勝頼は良い」…1万6千超ツイート
http://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/


悲しみに満ちた武田勝頼を演じた平岳大さん。
クランクアップ直後のインタビューです!


 武田勝頼は無能だとか、ただ運が悪かっただけなど、いろいろな評価がありますが、三谷(幸喜、1961年生まれ)さんの脚本だけで判断するとすれば、ただ単に仲間に恵まれなかっただけでは? という気も(笑)。

 「有名な父」平幹二朗の息子である僕を、勝頼に重ねてキャスティングした意図もあるかと思い、あえて記者会見でそのことを口にしたら、予想以上に笑っていただきました。僕自身としては、昔はともかく、今はあまり父の存在を意識してはいなくて。しかしせっかくですので、見てくださる方がそう思ってくだされば、それで(笑)。

 脚本上では、勝頼にとっての父は、あまりにも大きな存在です。「父上が生きておれば、ここまで追い詰められはしなかった」(第1回)というセリフもありますし、「父だったらこうしていたのかも」「僕はこうしている」など、常に父を意識しながら生きてきた人だったのかな、と感じました。

 新府城を出る勝頼に信繁が頭をさげるシーンでは、勝頼はもう覚悟を決めていたと思っています。穴山梅雪に裏切られ、岩殿城へ向かう途中も手勢が次々に抜けていき、追い打ちをかけるように小山田信茂にも裏切られましたが、去る者を憎んだり恨んだりするよりも、むしろ「送り出す」というような心境だったかと。皆、いろいろな事情を抱えていることを勝頼は知っていたでしょう。ともかく、行き着いた地でしっかり生きろ。そんな気持ちになっていたと思います。

 最期のシーンで、勝頼の中で父の存在が大きかったことを改めて思いました。何も言わない父に対し、語りかける勝頼。そして切腹するのですが、死は「侍として潔く選ぶ」と意味もあるけれど、勝頼にとっての死は「これだけはやり遂げた。見ていてくれ」という意味合いの方が強い。そういった父への思いをこのシーンで感じました。

 無念は無念でしょうけれど、生き抜いた。決してハッピーエンドではないけれど、自分の中でも完結した感があります。物語も撮影も、スピード感あふれる中で、あっという間に駆け抜けた気がします。


武田勝頼 役/平岳大さん 〜父の存在を常に感じながら〜
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/interview/interview07.html

平岳大・・・

【人生を変える7日旅】第3回『平岳大×ニューヨーク〜ボストン〜バンクーバー後編』
https://www.youtube.com/watch?v=9Acazw93LZ8

 NHKドキュメンタリー番組「ファミリーヒストリー」、ちょっとだけ見てみましょう:

 物語は130年前の平岳大の曽祖父・池田福吉の時代まで遡る。福吉は上下町(広島)で誕生。豊かでない家庭に生まれた福吉は出稼ぎにラハイナ(アメリカ)へと渡った。そこで福吉は同じく出稼ぎにきていた、後に結婚するトキと出会った。
 
 福吉は次にバンクーバー(カナダ)へと出稼ぎに向かった。シンイチ大松さんらは当時の様子について語った。当時、この地のパウエルストリートは日系人に溢れ、日系ミュージアムの資料には福吉の名も記されていた。福吉は当時の移民に排他的な雰囲気に負けず、日系人の為の下宿屋をはじめた。

 福吉の下宿屋の現在の様子を伝えた。実際に日本人労働者が体を休めたという部屋を紹介。そして、カナダの知的財産庁のホームページを調べると、福吉は下水処理装置を開発するなどの功績を残していた。

 出稼ぎ先のカナダで福吉の娘であり、平岳大の祖母となる女性・久代が誕生した。久代は親の仕事を助け、文章が得意な利発な女性だったという。久代が通っていたストラコナ小学校の現在の様子を伝え、久代が常に成績上位者であったという資料を紹介。

 久代の母・トキが突如病に倒れ、帰らぬ人となった。世界恐慌の波が吹き荒れ、満州事変も起こり反日感情は一層高まった。福吉は娘だけは守ろうと、久代を日本に帰す決断をした。

 VTRを見て、平岳大、平幹二朗親子は曾祖母の顔をはじめてみたと語り、平岳大は自分もアメリカにいっていたので親近感がわいたとコメント。

 1933(昭和8)年、久代は日本に戻り、福吉の姉・平ショウのもとを訪れた。久代は平ショウの養子である平文雄と23歳の時に結婚。ここで長男・幹二朗が誕生した。戦争の渦に巻き込まれる中、文雄が死去。久代は女で一つで子育てに励んだ。

 1944(昭和19)年、幹二朗は峯松のもとへと疎開。久代は幹二朗と離れ離れになり広島市(広島)で郵便局で働いた。そんな折、原爆が投下され久代の行方がわからなくなったが終戦後、久代は奇跡の生還を果たした。

 回復した久代は幹二朗と二人、新しい暮らしを始めた。髪が抜け落ちてしまったが生活の為に、働いたが収入もままならずに頭を抱えた。何とか学校で事務員として働き出した久代は、進駐軍から通訳を頼まれるようになった。

 高校へ入学した幹二朗のために久代は、一人東京でメイドとして働いた。その頃、幹二朗は広島の高校で先輩から演劇部へ誘われ、演劇と出会った。卒業後は俳優座の養成所へ入門。久代は稼いだお金のほとんどを幹二朗へ注いだ。

 3年後、幹二朗は役者デビューを果たす。そして30歳の時に『三匹の侍』(注1)に出演して注目を浴びる。久代は息子が有名になるのを見守るのが生きがいとなる。久代が54歳の時、2人が一緒に暮らせるようになった。その後、幹二朗は女優の佐久間良子と結婚し双子に恵まれた(注2)。

 久代は年を重ねるに連れて原爆症による貧血がひどくなった。1992(平成4)年、幹二朗が大阪公演中に久代が死去。カナダ移民の子として生まれ差別と戦い、広島で被曝し後遺症に負けず幹二朗のために試練を乗り越えた人生だった。

 VTRを観て平幹二朗は涙を流した。母親について、息子意外に向かう事がなくてただ自分のために一生懸命だったと平幹二朗は語った。平岳大は、いろんな偶然が重なり合って自分がいると語った。

 平岳大は父・幹二朗の公演があるたびに足を運んでいる。平岳大が役者の道へ進もうと決めたのは、父の舞台稽古を見学したためである。社会人として順風満帆に行っていた岳大は、30歳手前で役者へ転身。そして役者デビューした岳大は、「鹿鳴館」で父と母と共演。

 カナダ・バンクーバーでかつて下宿屋だった建物には、アーティストら夢を追いかける人たちが暮らしている。1階の住民は映画製作をしている。


2013年2月18日(月)22:00〜22:49NHK総合放送「ファミリーヒストリー」
平幹二朗、佐久間良子を親に持つ俳優界のサラブレットである平岳大のファミリーヒストリーに迫る。
http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/23759/624273/

(注1)三匹の侍(監督・五社英雄、1964年/松竹)
https://www.youtube.com/watch?v=H_za316Fe8o

(注2)徹子の部屋 2016年8月2日 【佐久間良子】
https://www.youtube.com/watch?v=LL-3-SGyjlw


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2016年10月17日

米山隆一

 そうでしたかぁ、、、ヤッホー君がお慕い申し上げている北関東の小児科のお医者さんも:

 新潟知事選、野党統一候補が勝った。
 実質的に、原発再稼働が選挙の争点だった。
 先の参議院選挙でも、福島と沖縄では、現職閣僚が落選している(注1)。
 市民の声を、野党統一候補が受け止めたからだ。
 野党には、市民の視線が必要なのだ。
 当初、米山氏を応援しない選択をした民進党には大いに反省してもらいたい(注2)。

 年金を大幅に減額する法案が、政府から提案されている。
 年金基金から、株式運用に莫大な資金を出させ、資産バブルを起こし、それが破裂することを見込んでの法案だろう。
 現在の資産バブルの状況は絶対に継続しない。
 日銀も400兆円を超す国債を買い込み、そのバランスシートが何時崩れてもおかしくない状況にある。
 国民にさらなる痛みが生じるまで、国民は現政権の滅茶苦茶な政治に騙され続けるのだろうか。

 新潟県知事選は、野党が市民の視線に立てば、勝てることを示した。
 それを野党がどう受け止めるかだ。


 ではどんな政策を新潟知事選の野党統一候補、米山隆一(1967年生まれ)が選挙民に提示したのか、です:

1.安全への責任
 県民の安全を最優先してきた泉田路線を継承し、原発再稼働の議論の前に、福島原発事故の検証をしっかりと行います。
2.食と農を守る責任
 TPPから新潟の農業を守り、21世紀型の「農業大県」を実現します。
3.命への責任
 医師・弁護士としてこの地域の人々に寄り添ってきた経験をいかし、「子育て・医療・介護・福祉 日本一の新潟県」を実現します。
4.雇用の責任
 企業と人が集まる 「日本海側の表玄関 世界に開かれた新潟」を創ります。
5.住民参加への責任
 徹底した情報公開と住民参加でボトムアップの対話型県政を実現します。
6.教育への責任
 新潟の未来、日本の未来を作る子供たちが、一人一人の希望に応じて、豊かで、質の高い教育を受けることができる新潟県を作ります。


 小さい頃から、家業の農業を手伝いながら、「人の役に直接立てるような仕事をしたい」と漠然と考えていて、医師を志しました。
 医師になった後は、放射線科医として医療の現場で経験を積ませていただきました。日々、患者様あるいはご家族の皆様、同僚との関わりを通じて、医療の専門知識だけでは世の中に山積する課題の解決に寄与する「力」を蓄える上で不十分ではないか、という認識に至り、法律の勉強をしました。医療と法律、一見相反する領域と思われるかもしれませんが、診療現場において経験を積ませていただいたことは、法律を「人間的な」観点で効率的に勉強する上で大変役に立ちました。こうした文系、理系の垣根を超えた知識、経験を得たことから、現在は大学で教育の仕事にも携わらせていただいています。
 国内に限らず、社会の課題は大変複雑化しています。その解決のためには、いわゆる「文系」「理系」といった従来型の括り、役割分担ではなく、さまざまな領域の専門家が総合的、融合的に力を併せて、過去の経験に学びつつ、各領域の知恵・知識を結集して、創造的にことにあたらなければなりません。こうした「課題山積社会」で、さまざまな利害関係を調整しつつ、課題解決のための人・モノ・金をマネジメントする政治の役割は、重要性を増すと共に、大きな変革の時期を迎えています。
 私は、自身の農業、医療、教育における経験に根ざした知恵・知識を、課題解決のために総合的に活かし、目的を同じくする仲間と共に、このすばらしい地域、日本を次の世代に渡すことに全身全霊で当たる所存です。


米山隆一公式ホームページ
http://www.yoneyamaryuichi.com/index.html

 ブログもおつけになっております:

 相手候補の一つの売りが、「国から補助金をとってこれる。米山は補助金が取れない。」だそうなので、ひとつ反論させていただこうと思います。
 自治体が国からもらう補助金をとった経験は勿論私はありませんが、民間が国からもらう補助金であれば、私は、弁護士業務の一環としてクライアントから依頼されて、結構倍率の高い補助金の申請書を作成し、無事補助金を得てクライアントから感謝された経験が複数あります。
 補助金はそもそもの制度として、何かパイプがある特定の人にだけ取れるようなものではなく(それでは不公正な行政になってしまいます)、制度趣旨をよく理解し、担当官公庁に自らのプロジェクトを適切に文書に落としてプレゼンテーションする能力があれば誰にでも取れるもので(そうでなければ困ります)、多少自画自賛的になりますが、私はその能力はかなり持っていると思います。
 勿論県知事としての役割と、弁護士としての役割は違うでしょうが、私自身は、国のさまざまな補助制度を検討し、その趣旨をきちんと把握して、趣旨にそぐい、かつ実行する価値のあるプロジェクトを立案し、それを文書に落として適切にプレゼンすることで、国の補助金を獲得することは、恐らく相手候補と同等に、若しくはそれ以上にできるであろうと自負しています。
 新潟県のために、持てる力をすべて使って全力で頑張ります!どうぞよろしくお願いいたします
(最後の締めは突如街宣車調ですが、選挙最終日なのでお許しを−笑)!


2016/10/15 06:22:02 米山隆一の10年先のために
補助金
http://www.election.ne.jp/10840/99362.html

 ではここで、新潟県民の皆さまとの連帯に乾杯、もいいんですけど、大きな声で歌いましょう!

『雪椿』小林幸子(注3)
https://www.youtube.com/watch?v=YM2lpfDqFiM

(注1)『AERA』2016年7月25日号(編集部・渡辺豪)
 参院選の投票が締め切られた7月10日午後8時。マスコミ各社は、沖縄選挙区で野党統一候補の伊波洋一氏の「当確」を競うように流した。改選数1の同区ではこの瞬間、自民公認の沖縄北方担当相、島尻安伊子氏の落選が確実になった。
 初当選を決めた伊波氏が真っ先に握手を交わしたのは、傍らの翁長雄志知事だった。伊波氏の選対本部筆頭共同代表を務めた翁長知事は、余裕の口ぶりでこう強調した。
「沖縄県民の良識の勝利だ」
 沖縄選挙区は最終的に、伊波氏が35万6355票を集めたのに対し、島尻氏は24万9955票。10万6400票という大差だった。これにより、自民は沖縄の衆参選挙区で唯一の議席を失った。
 沖縄の政治アナリスト、比嘉良彦氏は伊波氏の勝因について、「安倍政権と翁長県政の代理戦争の側面が県民に明白」だった点を挙げる。
 島尻氏は選挙中、基地問題にはほとんど触れず、沖縄の振興策や県民所得の向上を訴えた。それでも沖縄の有権者は、両候補の明確な政策の違いである「辺野古」を争点回避することを許さなかった。
 その背景について、比嘉氏はこう指摘する。
「両候補は、沖縄では辺野古新基地建設の推進と反対の象徴的人物として知られています」
 伊波氏は普天間飛行場を抱える宜野湾市の市長時代から、辺野古新基地建設に反対し、県内移設なき普天間返還は可能だと訴えてきた「筋金入りの辺野古反対論者」だ。
 一方の島尻氏は、沖縄の有権者には辺野古新基地建設を強行する安倍政権の操り人形のようにしか映らなかった。

 それにはこんな経緯がある。
 2010年7月の2期目の参院選で島尻氏は普天間の県外移設を掲げて当選。「国会で県外・国外移設を求めて頑張りたい」と唱えていた。
 ところが、第2次安倍内閣が発足すると、態度を豹変させる。13年4月の参院予算委員会で「沖縄の取るべき道は、間違いなく日米合意の道だ」と表明。沖縄で「県外」を掲げて当選した自民党国会議員5人の先陣を切る形で公約をかなぐり捨て、辺野古推進に邁進する。
。。。
 東北6選挙区は、与党が東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島の3県を落とすなど、1勝5敗の惨敗を喫した。特に注目されるのは、東京電力福島第一原発事故の影響が続く福島選挙区(改選数1)の現職閣僚の岩城光英法相が、野党統一候補で民進党の増子輝彦氏に僅差で敗れたことだ。
 ただ、地域別の得票率を見ると、複雑な内実も浮かぶ。岩城氏は沿岸部の全自治体で優勢だった。原発事故の被害を最も受けた双葉郡では内陸部も岩城氏が制し、川内村ではほぼダブルスコアで引き離した。
 世代別では、岩城氏は10〜50代の全世代を制した一方、増子氏が上回ったのは60代、70代のみだった。
 こうしたデータを示した立命館大学衣笠総合研究機構准教授の開沼博氏は、
「『復興に一定のめどがついた地域』と『高齢者』が、現職大臣の落選に影響を与えたことが見えてきます」
 と指摘する。
 岩城氏は12日の閣議後の記者会見で、参院選の野党共闘について「安倍政権を打倒するという意味での野党共闘だった。福島に限って言えばそれなりの成果をあげた」と振り返った。前出の高橋氏はこう話す。
「沖縄、福島両県は、国の政策によって今、最も厳しい状況に置かれた地域です。そうした地域で現職閣僚が落選したことは、安倍政権の政治に対する根本的な批判を明示しています」

 参院選と同じ10日に投開票された鹿児島県知事選でも、脱原発を唱えた野党系候補が自民、公明両党の支援を得た現職を破り、初当選を果たした。
 アベノミクスの恩恵を実感できない農村部は、TPPへの反発も根強い。地方では従来の保守層の液状化も浮かぶ。与党批判の受け皿にとどまらない、信頼に足る対案を打ち出せる野党勢力の確立が急務だ。
「沖縄と東北で現職閣僚落選は何を意味するのか」
https://dot.asahi.com/aera/2016071500295.html?page=1

(注2)『週刊朝日』2016年8月26日号
 作家の室井佑月氏(1970年生まれ)は、代表に立候補した蓮舫氏(1967年生まれ)の会見内容に、疑問を呈する。
 民進党ってどうなってるの? 岡田さんの次の代表になるため第2自民党のような連中が暗躍しているのは知っているけど、それ以外はどうするつもり?
 今の執行部の路線を引き継ぐといわれている蓮舫代表代行が本命視されている。けど、彼女の立候補会見を見たけど、どうしたいのかがさっぱりわからない。
 代表選をするのなら、共産党を含む野党共闘を争点にしなくては意味がない。
 連合の有力メンバー、原発推進の「電力総連」などとの付き合いだって、どうしていくのか知りたい。
。。。
室井佑月 民進党の行く末に「さっぱりわからないんだよね」
https://dot.asahi.com/wa/2016081800201.html?page=2

(注3)『女性セブン』2015年7月2日号
 歌手の小林幸子(1953年生まれ)は、生まれ故郷の新潟市で観光大使として活動している。
「2007年頃から大使として活動を始めました。私の歌には県木の『雪椿』など、新潟に関係する歌が多く、日本各地や海外で歌を披露する時に、必ず歌と共に新潟の紹介をしています。それがいちばんの活動でしょうか。新潟に帰ると初対面のかたでも『“さっちゃん”お帰りなさい』と言ってくれるんです。
 それを聞くとうれしくて心が温かくなります。だから、故郷のためにできることは何でもやっていきますよ。新潟のお米も世界にPRしたいですね。少しずつ、少しずつですけど、ず〜っと長く、PRを続けていきたいですね」(小林)
。。。
 小林は大使としてある“野望”を口にする。
「実はあまり知られていないけれど、渡辺謙さんは新潟県出身です。あれだけ著名なかたですから、渡辺さんになんらかの形で新潟のPRに参加してもらおうと思っています。ニューヨークから戻られたら交渉しようと思っているんですよ」
新潟観光大使小林幸子の野望 同郷・渡辺謙に協力要請を画策
http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/postseven_330892


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武田ニ十四将

 「だって『真田丸』で行きたかった場所、だから行っといでって言われたのよ」と仲間。
 「武田の秘境」を歩いた7人の侍、歩き終わって浸かったお風呂が「やまと天目山温泉」。
 甲州市の指定管理施設となっていて、指定管理者はね、なんとあの「栄和交通」でした。
 (笛吹市春日居町別田361番地1 Tel 0553-26-2344) 
http://eiwa-kotsu.com/tenmoku.html

 湯上りにいただいたお酒は、笹一酒造「武田ニ十四将」、仲間でワンカップを回し飲み!
 旨いねえ、日本人だねえ、良いねえ、カップがあっという間に二個三個とテーブルの上!
 旨いはずです、このお酒・・・

 大量生産方式の設備を2013年酒造年度を最後に全廃し、麹作りと酒母工程を手作りに戻しました。
 地元で契約栽培された山田錦や夢山水といった酒造好適米を贅沢に使用し、手作りで丁寧にお酒にしています。
 笹一酒造(株)は山梨県の大月市に位置し、1661年寛文元年に花田屋として創業致しました。
 後に花田屋を継承し、初代蔵元となった天野久が、1919年に現在の笹一酒造と改名して統合した三百有余年の歴史を持つ会社です。
 弊社の所在地である笹子には、我が国の象徴である霊峰富士を起点としている地下水が流れています。
 笹一の水はその昔、明治天皇が東京から京都にご行幸の際に携行するのに選ばれた水で「御前水」と呼ばれる由緒正しい水です。
 我々はその水で酒を仕込んでおります。

http://sasaichi.co.jp/

 笹一酒造には「武田ニ十四将」というお酒がある。
 ガラスのコップに入ったいわゆるカップ酒である。
 ”コップ”に青いラベルが貼ってあり、二十四将の名前が書いてある。
 「甲州仕込み」と「本醸造」があり、ラベルの色、蓋の色、値段に違いがある。
 私のお気に入りのお酒でもある。
 武田軍団の二十四人の武将が書かれているので、お酒を飲みながら自分のお気に入りの武将を探すのも楽しい。
 モーニング娘より多いから選びがいもある。
 仲間と飲めば、それぞれのお気に入りに激論の刃で火花が散るかもしれない。
 しかし、激論の刃を激突させようにもニ十四将のことがわからなければ剣を抜けない。
 ということで、ニ十四将を調べてみた。

 ニ十四将は、信虎-信玄(晴信)-勝頼 武田三代に使えた武将達であるが、そんなに長い間二十四人が勢ぞろいしたのであろうか。
 年表を作ってみると、二十四人が同時に生存したのは、土屋昌次誕生の1544年から上田原の合戦で板垣信方と甘利虎泰が戦死した1548年のわずか5年だけである。
 すなわち二十四人が一同に会したことはなかったことになる。

 当時は15歳ころ成人式を迎え(元服)合戦に参加するようになる。
 これで武将の仲間入りをするわけであるが、武将としてニ十四将中最も多く生存したのは、土屋昌次が成人した1559年から1561年、第4回川中島の激戦の年に山本勘助(戦死)と小幡虎盛(病死)が没するまでのわずか三年の21人ということになる。

 何かと話題の多いニ十四将を生存年表とともに、簡単に各武将についてまとめてみた。
 あなたはどの武将が好みだろうか?
 銘酒笹一 ”武田ニ十四将” を飲みながら当時にトラベルしてみてはどうだろう。


小やじ健気愉快
http://www.ymnco2.sakura.ne.jp/me/24syo/sasaiti.htm

 武田二十四将は、信玄の家臣団から選ばれた智将・勇将。
 江戸時代、軍記物に基づき浮世絵師が描いたもので、信玄を含む二十四将、信玄と二十四将など、図柄も色々で、顔ぶれも異なる。
 「二十四」は日本人の好む数字で「二十四孝」と相通ずる。


信玄公のまち
http://www.city.kofu.yamanashi.jp/shingenkou-no-machi/24generals.html

 武将の名前が依拠しているのが『甲陽軍鑑』!
 この軍艦、待て、軍鑑の原本は、武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記とも言われ、江戸時代初期に成立。
 「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物としても知られている。

 「風林火山」で有名な武田信玄の『甲陽軍鑑』(武田信玄の戦略・戦術を記した軍学書)の中に、勝利の礎として「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、 仇は敵なり」とあります。
 勝敗を決する決め手は、堅固な城ではなく「人の力」である。
 個人の力や特徴を掴み、彼らの才能を十分に発揮できるような集団を作ることが大事である。
 また、人には情理を尽くすこと、誠実な態度こそが相手の心に届き、人を惹きつけることに繋がり、逆に相手を恨めば必ず反発にあい、害意を抱くようになる、ということです。
 戦国最強と謳われた信玄率いる武田軍。
 彼らは堀一重だけの、城と呼ぶには小さな館に居を構えていたと言われています。
 信玄は、信頼できる「人」の集まりは、強固な「城」に匹敵すると考えていたそうです。
 ただし「人」は、情をかけると味方になる一方、不信感を与えると敵になる、と戒めてもいます。
 また「信頼してこそ、人は尽くしてくれるもの」という言葉も残しています。
 信じてほしいなら、自分から先に相手を信じなければならない、信玄は積極的に「人」に話しかけたそうです。
 しかし、信じた分だけリスクが高くなるのが世の常、戦国時代に裏切られる代償は現在の比ではなかったはずです。
 それでも信玄は、時に頭を下げ、自分から先に「人」を信じようと心がけたそうです。
 この姿勢が、周囲の「人」を引きつけ、信玄の人柄を慕って大勢の猛者が集まり、天下一の軍団が誕生します。
 彼らの強みは、冷たい戦国時代における温かい信頼関係だったといえるでしょう。


千葉⼤大学医学部呼吸器内科科長
教授・巽浩一郎
http://www.m.chiba-u.ac.jp/class/respir/info/introduction/respi/pdf/r-5.pdf

 武田が「武田ニ十四将」だったら、真田は「真田十勇士」だい!

映画「真田十勇士」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=V1fpwSy--OU

映画「真田十勇士」主題歌『残火』松任谷由実
https://www.youtube.com/watch?v=Z6CRZd3nMD0

http://sanada10braves.jp/



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2016年10月16日

稲田朋美の化けの皮

 ウヨクってもっとこの国を愛し、そこに住む人びとのために尽力する愛国シュギシャの方々と思っていたのですが、まさか偉くなるとTPPもオッケーとかころっと変身して米を捨てて米国に国を売る輩、相手を刺激しまくってけんかを売っている輩、と同じ穴のむじなとは、ねえ、びっくりヤッホー君。

During a recent visit to Washington DC, Japan’s Defense Minister Tomomi Inada once again described China as a “rule-breaker” on the issues of the East China Sea and South China Sea. Inada proposed that Japan hold more joint patrols and military exercises with the US and countries in the region with the aim to enhance its involvement in the contested South China Sea.

These statements from a senior Japanese official not only run contrary to fact, but also have the potential to undermine regional stability by instigating conflict.

Frustrated at being only regarded as an “economic power,” Japan set a goal for itself in the 1990s to become a political power as well. While Japan’s ambitions ended up going up in smoke, after the US introduced its “Asia-Pacific Rebalance” strategy, Japan rekindled its hope of growing into a global political or even military power.

In other words, it was the US’ Asia-Pacific strategy that resurrected Japan’s military and political ambitions, at the same time granting the once vanquished country the green light to challenge the post-World War II order. Future historians are sure to see this as a disgrace for Washington.

The so-called “China threat” that Inada has been pushing does not stand up to the light of truth. The Diaoyu Islands have been an integral part of Chinese territory since ancient times. This is an indisputable fact that is backed up by a series of international legal documents.

For this reason China is obliged to safeguard its own territorial sovereignty. Looking at international regulations, this right and Inada’s depiction of China as a “rule-breaker” are worlds apart. As to the so-called “broken status quo” in the East China Sea, Japan should not be hypocritical. The world knows that the first to “break the status quo” when it comes to the Diaoyu Islands is none other than Japan itself.

When it comes to the South China Sea issue, the arbitration case unilaterally filed by the Philippines violated international law and the general practices of international arbitration, and thus was invalid and unlawful from the very beginning.

Amid such a backdrop, China’s non-acceptance, non-participation and non-recognition of the “verdict” actually safeguards the integrity of international law as it is ridiculous to recognize the legitimacy of an “arbitration” carried out by a makeshift organization without any connection with the UN.

Tensions involving this political farce have cooled down recently, but Japan, instead of reflecting on its disgraceful role in this farce, has decided to repeatedly attempt to instigate conflict by cooking up stories in the international arena.

During the 11th East Asia Summit held in Vientiane not long ago, some US media, such as the Wall Street Journal, noticed the sharp differences that exist between ASEAN countries and some countries outside the region. According to their reports, ASEAN members have realized that instead of unnecessarily escalating regional tension, disputes should be met with practical solutions.

So what is hidden behind Japan’s petty tricks? Is the country once again being motivated by the desire to control the security of Asia and undermine the relationships between Asian countries?

Japan, a country notorious for breaking international laws, is in no position to prate about rules and the rule of law in front of the international community.
At its most basic, the Diaoyu Islands and their historical recognition are closely related to the post-World War II order, which has been clearly laid out in major international legal documents such as the Potsdam Proclamation and the Cairo Declaration .

However, even though 70-plus years have passed since the end of WWII, Japan has still not given up on instigating conflict, confronting world order and challenging the international rule of law.

For instance, some of Japan’s senior officials have gone so far as to rail against the Potsdam Proclamation, exculpate the country’s invasion of other sovereign states and deny the Nanjing Massacre and the existence of “comfort women”. These irresponsible behaviors indicate that Japan is turning a blind eye to the rules and the rule of law.

In reality, Japan is well versed in the history of the South China Sea. Once occupied by Japan during WWII, the islands were recovered by China based on the Potsdam Proclamation and the Cairo Declaration after the war.

If Japan is a country that respects the rules and the rule of law as it claims, it should not neglect the legal and historical facts concerning the South China Sea.
Even if we consider the “China threat” mentioned in Inada’s speech an old rhetoric, military intervention in the South China Sea will without a doubt put regional stability at risk. The action plans detailed by Inada reveal not only Japan’s Cold War mentality, but also its intention to instigate group-confrontation.

Another dangerous sign is that after Japan adopted its new security bill lifting the ban on collective self-defense, the country has begun striding towards a military rise by instigating conflict.

However, today’s Asia-Pacific arena and the will of the people will not permit the reemergence of Japan’s over-confident strategic restlessness and intentions to instigate group-confrontation. This is because, in this new era that focuses on win-win cooperation, no country wants to join Japan’s ambitious fantasy. And if Japan continues to play this game thinking its allies will stand by it, it will find the price to play is too high.


Translated from Chinese
The original source of this article is People's Daily
By Zhong Sheng
Global Research, September 19, 2016
The “So-Called China Threat”: Japan’s Attempts to Instigate Conflict and Undermine Regional Stability
http://www.globalresearch.ca/the-so-called-china-threat-japans-attempts-to-instigate-conflict-and-undermine-regional-stability/5546573

稲田朋美がどうも変だ。 8月15日の「全国戦没者追悼式」も「靖国参拝」もすっぽかして、アフリカ東部ジブチを訪問したことを、9月30日の衆院予算委員会で、辻元清美に追及されて泣いていた。

もちろん「靖国参拝」から逃げるためのジブチ訪問だったからだ。

そのときの飛行機に搭乗する直前の稲田の様子がネットで見れるが、ジブチは安全だから、バカンス気分で、ニッコニコしながら、奇妙なオタク・ファッションで、出掛けているのだ。「靖国参拝」を回避できるのがそんなに嬉しかったのだろうか?

ついでに言っておくが、辻元清美は夏のお盆の時期を「全国戦没者追悼式」に参列するか、年老いた両親を連れて、父方の祖父が眠る戦没者の墓へ墓参するかの、どちらかで過ごしているという。

辻元はサヨクで、稲田はホシュなどという区分で人を見てはいけないということの証明のようなものだ。

さらに稲田朋美の真実の姿が明らかになったのは、9月17日に南スーダンの首都ジュバを訪問する予定だったのに、これをじんましんが出たという言い訳で、ドタキャンしているのだ。

そのドタキャン直後に、南スーダンPKOに参加している陸自宿営地の隣で銃撃戦があったらしい。そもそも7月にも首都ジュバで大規模な戦闘が発生したらしく、死者も出ているので、この事実を知って恐くなった稲田朋美は逃げたんじゃないかと疑われている。

去年の立憲主義を無視した乱暴な安保法の成立で、自衛隊はPKO活動で「駆けつけ警護」も行わなければならなくなった。その下見の訪問のはずなのに、防衛大臣である稲田朋美は逃げているのだ。
靖国参拝、回避!南スーダン訪問、逃避!辻元の追及、涙目!

防衛大臣がこんなヘタレで大丈夫か?

稲田朋美を主婦に戻せ!この女は言うだけ番長であって、覚悟がない!皇統の「男系原理主義」に心酔する「名誉男性」の正体なんてこんなものだ。

「男系オヤジ」のアイドル・稲田朋美は「ヘタレ」である!

2016年10月04日 18:08
稲田朋美の化けの皮が剥がれてきた
小林よしのり
http://blogos.com/article/192814/

JUBA, South Sudan − Japanese Defense Minister Tomomi Inada has visited troubled South Sudan as her country considers whether to give its peacekeepers broader abilities to use force.

About 350 Japanese peacekeepers take part in the U.N. mission there. Almost all engage in engineering activities.

Japanese media reports say the defense ministry is considering sending peacekeepers who would be able to undertake risky rescue missions in South Sudan. After meeting with U.N. officials, Inada did not address that in her English-language remarks.

More than 12,000 U.N. peacekeepers are in South Sudan, and they have been criticized repeatedly for failing protect civilians, most recently when fighting erupted in the capital in July.

Tens of thousands have died since civil war began in December 2013, and fighting has continued despite a peace deal reached last year.


October 8
Japanese defense minister in South Sudan over peacekeepers
The Associated Press
https://www.washingtonpost.com/national/japanese-defense-minister-in-south-sudan-over-peacekeepers/2016/10/08/d9592c20-8d6f-11e6-8cdc-4fbb1973b506_story.html

JUBA − Rebels attacked trucks carrying civilians in South Sudan, killing 21 people, the government said, as violence between rival forces loyal to President Salva Kiir and his former vice president risks dragging the country back into civil war.

The United Nations Mission in South Sudan (UNMISS) said in a statement on Monday it had received reports of horrific violence being perpetrated against civilians in Central Equatorial State and urged both rebel and government commanders to control their forces.

The government said on Monday 21 civilians were killed, some burned to death, and about 20 wounded when rebel gunmen ambushed their vehicles on a road connecting Yei town, in Central Equatorial State, to the capital Juba on Saturday.
Jacob Lem Chan, a local government official, said four trucks were ambushed and victims were burned and shot at.

"These are SPLA-IO force ... who laid the ambush," Chan said, referring to former vice president Riek Machar's rebel movement.

"We have confirmed 21 dead, and about 20 casualties were admitted in the hospital," Chan said, adding one truck was burnt with victims inside.

Dickson Gatluak Jock, military spokesman for SPLM-IO, denied its forces had carried out the attack and said it directed attacks against military installations only. "We are not intending to harm civilians or to kill them," he said.

Violence has been growing in Africa's youngest nation since July when the rival forces battled each other in Juba.

Machar fled the capital to Sudan from where he has urged his forces to re-organize for "armed resistance" to Kiir's government.

Rivalry between Kiir, an ethnic Dinka, and Machar, a Nuer, led to South Sudan's first war in December 2013 when Kiir sacked Machar as his vice president.

The conflict ended in a peace pact in August 2015 and Machar returned to Juba and was sworn in as vice president in April. But there has been frequent violations of the peace agreement and major fighting broke out again in July. Machar has since been replaced as vice president by General Taban Deng Gai.

Since the fighting broke out, the government has clamped down on its critics, including journalists.

On Monday, abducted South Sudanese journalist Malek Bol, who had been missing since Friday, was dumped at a graveyard in Juba, said Mathing Cirilo, editor of the Almugif Arabic newspaper where Bol worked. Bol said his captors had beaten him.
"He was told by those who abducted him that he has abused the president on his social media," Cirilo said. "He has a broken arm."

No government official was available for comment.

Bol is the seventh journalist kidnapped, beaten and dumped in South Sudan this year, Cirilo said. Ten journalists have been killed since the fighting erupted in 2013.


OCT. 10, 2016, 7:33 A.M. E.D.T.
South Sudan Says Rebels Kill 21 Civilians in Ambush
REUTERS
(Writing by Elias Biryabarema; Editing by Janet Lawrence)
http://www.nytimes.com/reuters/2016/10/10/world/10reuters-southsudan-security.html

 政府は、南スーダンで国連のPKO=平和維持活動にあたっている自衛隊について、来月、交代で派遣される見通しの部隊に、安全保障関連法に基づいて「駆け付け警護」などの新たな任務を付与する方向で検討を進めることになりました。

 アフリカの南スーダンでは、自衛隊が国連のPKO=平和維持活動にあたっていますが、来月、交代で派遣される見通しの部隊は、安全保障関連法に基づいて、武器を使って他国の部隊などを救援する「駆け付け警護」などの新たな任務が付与された場合に備えて訓練を行っています。

 政府は、この部隊に新たな任務を付与するかどうか、14日、NSC=国家安全保障会議の閣僚会合を開いて検討しました。この中で稲田防衛大臣は、先に南スーダンを訪れ、自衛隊の宿営地などを視察し、UNMISS=国連南スーダン派遣団の代表らと会談した結果、首都ジュバの治安状況は比較的落ち着いていたなどと報告しました。

 そのうえで閣僚会合では、引き続き南スーダンでのPKOに協力していく必要があるとして、今月末までとなっている自衛隊の派遣期間を延長したうえで、交代で派遣される部隊に「駆け付け警護」などの新たな任務を付与する方向で検討を進めることになりました。

 政府は、稲田大臣が近く、部隊が行っている「駆け付け警護」などの訓練を視察したうえで、現地の治安状況などもぎりぎりまで見極めて、来月にも新たな任務の付与を最終的に判断することにしています。


10月15日 4時23分NHK
政府 南スーダンに派遣見通しの部隊 新任務付与の方向で検討
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161015/k10010730641000.html

 日本の自衛隊がPKO(=国連平和維持活動)を行う南スーダンで武力衝突が拡大し、1週間で60人が死亡した。

 ロイター通信によると、南スーダン政府軍の報道官は14日、政府軍と反政府勢力の戦闘などにより、過去1週間で少なくとも60人が死亡したと発表した。反政府勢力が、政府軍兵士11人と市民28人を殺害し、反政府勢力も21人が死亡したとしている。

 南スーダンでは武力衝突が拡大していて、国連の南スーダン派遣団も12日、「非常に懸念している」と声明を発表している。

 日本政府は、来月派遣される予定の自衛隊の部隊に対し、離れた場所にいる他国軍やNGO職員などを助ける「駆けつけ警護」などの新たな任務を付与するかどうか検討している。


10月16日(日)1時26分配信日本テレビ系(NNN)
南スーダンで武力衝突拡大 自衛隊もPKO
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20161016-00000000-nnn-int



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武田勝頼

 そうなんです、この間の金曜日。
 ヤッホー君より昨夜の土曜日、一斉に報告メールが発信されたようです:

 皆さん、こんにちは。都立木場公園では「第34回江東区民まつり」で賑わっていますが、いかが秋の好日をお過ごしですか?
 山歩クラブでは秋企画として「竜門峡で紅葉狩り」を昨14日金曜日に実施しました。
 平日にもかかわらず7人の侍が勢ぞろい。
 まずは織田・徳川連合軍に敗退、滅亡する武田家の菩提寺をお詣り。
 勝頼公37歳、同夫人19歳、武田信勝16歳の墓に手を合わせ、竜門峡へと出陣。
 岩波さんも完歩で完治!江戸ちゃんも完歩、山歩大学を卒業した後、大学院でそのおみ足を深めていくそうで、はるちゃんの減量にかける石の力に恐れいいりまして、奥ちゃんのご説明に脱帽し、信長公と容子ちゃんの山談義に、久々の山歩クラブの立ち寄り湯会では、山っていいな、仲間っていいな、地酒もいいな、ヤッホー!とエンドレスに祝杯が続くのでした。次回まで皆さん、こけこっこう、ごきげんよう!


 ヤッホーに返るこだま:

昨日はおつかれさまでした。とても良かったです。長い距離ではありませんでしたが、アップダウンがあって変化に富み、楽しい山歩きができましたね。それにもまして歴史的遺産がたっくさんあって、いっ時であっても戦国の世の最後に思いを馳せることができました。ごくろうさまでした。

お世話になりました。お天気も良く 川の音を聞きながらの歩きは快適でした。でも結構キツイ場所もありましたね。岩波さんが歩き通して安心しました。江戸ちゃんも歩きましたね。次回また、よろしくお願いします。

 ふむ、文、ふむ、じゃあ、ね、ひとつづつ:

 まずは、甲斐大和駅から:

甲斐大和駅.jpg

 駅前にさっそく武田勝頼公がお出迎え、室町幕府も滅び戦国時代の440年ほども前にタイムスリップしていくのです。

武田勝頼.jpg

 歴史的には、甲斐の国を統治した武田家との関連が深く、天正10年3月に甲斐国主武田勝頼公が大和町内の天目山の戦いで敗れ、武田家の歴史に終止符をうったことから武田家終えんの地となっています。
 このことから、大和町内には関連する文化財・史跡等が数多く残されていて、「日川渓谷と武田の秘境」として山梨の歴史文化公園の指定を受けています。


甲州市過疎地域自立促進計画(自平成28年4月至平成33年3月)
http://www.city.koshu.yamanashi.jp/shisei/files/20160407/

 四郎作古戦場が:

四郎作古戦場.jpg

景徳院近くにある四郎作古戦場碑。
 蟄居(ちっきょ)の身から勝頼のもとに駆けつけた内膳友晴が壮絶な戦いの末に討ち死にした。

…城郭ライター・萩原さちこ『大河ドラマ「真田丸」の舞台(2)…武田氏を翻弄した3つの城』の写真の説明です。

 そして鳥居畑古戦場が:

鳥居畑古戦場.jpg

 天正10(1582)年3月11日、武田勝頼の一行を追撃するために、門井沢や不動沢の駒飼口から攻め寄せる織田・徳川の先鋒隊川尻・滝川の軍勢4,000に対し、武田勢は秋山紀伊守・阿部加賀守ら100人に足らない少数でこれを迎え撃ち、撃退させること数度におよんだ激戦地である。
 多勢に無勢と、戦いは武田方に利なく全員戦死となったが、この間に田野の勝頼一行は敵軍に撹乱されることなく死途についたと伝えられている。
 地名の鳥居畑は、近くに鎮座する田野の産士神として祀られる氷川神社への参道入口で、一の鳥居のあったところから名付けられたといわれる。
(大和村の文化財より)


2014年12月27日、武田家の史跡探訪
http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/toriibata.htm

 さらに姫ヶ淵が:

姫ヶ淵.jpg

姫ヶ淵の由来
 天正10(1582)年3月11日武田勝頼公一族は、織田、徳川の連合軍の攻撃を受け激戦の末家臣と共に悲惨な最期をとげ、新羅三郎義光以来甲斐の守護として連綿と続いた甲斐源氏はその歴史を閉じた。
 その折勝頼公夫人北条氏の侍女16人は若い生命を日川の淵に身を投じて殉死したと伝承され、後世の者はこの淵を姫ヶ淵と言い伝えているが、現在の日川は上流で発電用水として取水しているために水量が少なくその様相を変えている。
 この石碑は北条夫人を含めた17名を表現したもので、侍女らを顕彰し慰霊するものであり、山梨の歴史文化公園に指定されたを期に建立したものである。
(看板資料より)
2014年12月27日、武田家の史跡探訪
http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/himegafuchi.htm

 景徳院がついにあらわれました:

景徳院.jpg

 一歩、二歩、山歩と足を踏み入れると辞世の歌が:

辞世.jpg

黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒

 ヤッホー君、さっそく歌っておりました:

美空ひばり「みだれ髪」
https://www.youtube.com/watch?v=plH0t-sEJas

 なんなんでしょ、これはいったい、どうしたというんでしょ:

「武田家滅亡の謎」2005年4月13日NHK放送
https://www.youtube.com/watch?v=F_9XmapKEp0

 真田氏は現在の長野県上田市真田町を本拠地として、中世から勢力を広げた土豪です。
 大河ドラマの主人公である真田信繁(幸村)の祖父・幸隆の代に武田信玄に仕え、「信州先方衆」の旗頭として武田勢の第一線で活躍したといわれています。

 一方の武田氏は、甲斐源氏を祖とする名家。
 19代当主の武田信玄は甲斐(現在の山梨県)と信濃(現在の長野県)を拠点とし、騎馬軍団を率いた戦国最強の武将と呼ばれました。
 常勝無敵の家臣団のなかでも精鋭とされる武将は、後に「武田二十四将」と呼ばれ、このなかに幸隆や昌幸(信繁の父)、武田家滅亡のキーマンとなる穴山梅雪や小山田信茂も名を連ねています。

 ドラマは信玄の死後、武田氏が滅亡寸前に追い詰められた場面から始まりました。
 1575年(天正3年)の長篠の戦いでの大敗を機に、武田氏は弱体化。1581年(天正9年)、徳川家康に高天神城(静岡県掛川市)を奪還された際、勝頼が味方に援軍を出さなかったことがきっかけとなり、堰を切ったように家臣の造反が続出します。
 そして1582年(天正10年)、勝頼の義弟・木曽義昌が織田方に寝返ると、好機とばかりに織田信長・徳川家康連合軍に北条氏政軍も加わった大軍が総攻撃を開始。
 勝頼の実弟・仁科盛信が守る高遠城(長野県伊那市)が落城すると、ついに勝頼は四面楚歌となりました。

 武田氏は信玄の父・信虎の代から躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた、山梨県甲府市)を居城としていましたが、勝頼は信長の襲来に備え、より戦闘力の高い新府城(山梨県韮崎市)を築き移っていました。
 しかし、当時、新府城はまだ完成していなかったため、太刀打ちできないと判断。勝頼は、新府城を焼き払って逃亡することを決意します。

 このとき、「我が岩櫃(いわびつ)城(群馬県東吾妻町)へ退き、再起を」という真田昌幸の進言を断り、小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)へ入ることを決断します。この判断が、結果的に勝頼の命取りになりました。

 信茂は勝頼を裏切り、織田方へと離反。
「長年仕えた主君を裏切るとはなんてひどい男だ!」と憤りを覚えますが、当時は小山田氏に限らず、地方豪族が主従関係よりも家名存続の道を選ぶのは珍しいことではありませんでした。
 名門・武田氏であればそう簡単に離反するはずもなく、つまり武田氏の威信はそれほどまで失墜していたわけです。
 岩殿城への入城を拒否されて行き場を失った勝頼は、嫡男・信勝とともに天目山(てんもくざん、山梨県甲州市)で自刃。
 武田氏は滅亡しました。

 武田氏の滅亡は、真田氏にとっても一大転機となりました。
 主君を失い織田・徳川・北条・上杉という強大勢力に囲まれた真田氏は、生き残りをかけて戦国という大海原へと漕こぎ出すことになるのです。


前述、大河ドラマ「真田丸」の舞台(2)…武田氏を翻弄した3つの城
2016年01月18日 05時20分Yomiuri Online
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160115-OYT8T50076.html



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2016年10月15日

稲田朋美防衛相

 何度も何度もネタを提供するのが安倍晋三であり石原慎太郎であり、この稲田朋美です。もはや常連さんですね(笑)。
 今月9月15日、防衛省から以下のような発表があった。

稲田朋美防衛相、南スーダン訪問中止、抗マラリア薬の副作用で
 防衛省は15日、稲田朋美防衛相が17日に予定していた南スーダン訪問を取りやめると発表した。抗マラリア薬服用の副作用によるとみられるアレルギー症状を発症したため。南スーダンでは、首都ジュバで国連平和維持活動(PKO)に参加している陸上自衛隊部隊を視察する予定だった。
 稲田氏は15日未明に米国、南スーダン歴訪のため羽田空港を出発していた。米ワシントンで予定されている日米防衛相会談などは予定通り行われる見通し。稲田氏は17日に帰国する』
(産経ニュース9.15 12:21)

 南スーダン行きを中止しながらもアメリカには行き、そのアメリカ・ワシントンDCのシンクタンク、「戦略国際問題研究所(CSIS)」で講演した様子がこちらです。
 お元気そうで、何よりです。下手な英語での講演ということでやや緊張しているようですが、体調不良には見えませんね。
 稲田先生のような国士が自衛隊視察を取り止めるぐらいだから、アレルギー反応で高熱を発したとか、全身に蕁麻疹や浮腫みが発生したというぐらい症状が重いのかと大変心配していました。
 南スーダンには行けない体調不良だが、アメリカで英語で講演できる程度の体調不良ということですか。
 えっ?
 本当は体調不良は口実で、南スーダンの治安が悪く戦闘に巻き込まれる危険を感じて視察を中止したんじゃないかって?
 そんな〜、稲田先生ほどの愛国者にして人格者なら、わが身の危険を顧みず視察に行くでしょう。
 まさか自分が行けない危険地帯に自衛隊を派遣するなんて、そんな稲田の大好きな旧軍指導者みたいなこと、もちろんやるでしょう
(あれっ?)

 危険地帯に行くのは下僕ども、選ばれた大政治家は安全な場所でアゴで人を使っていればよい。
 こんな政治家や政党、支持する人もまだいるのですね。


2016-09-23 10:06:44 バカを斬る刀
稲田朋美防衛相、南スーダン行きを中止しながらもアメリカには行き、そのアメリカ・ワシントンDCのシンクタンク、「戦略国際問題研究所(CSIS)」で講演した。
http://ameblo.jp/mononofu2014/entry-12202729818.html

 海外では、どのように報道されているのかじっくり読んでいきましょう。

[Closing]
Whether or not the Asia-Pacific region can remain peaceful and prosperous is now a matter of global consequence.

To that end, all stakeholders must act in accordance with prevailing norms, refrain from parochial pursuit of self-interest, and promote mutual trust.

In accordance with our policy of Proactive Contribution to Peace based on the principle of international cooperation, Japan will work closely with the United States as well as with partners in the Asia-Pacific and beyond to actively promote the peace and stability of the Asia-Pacific.

In closing, let me quote the great American baseball legend, the late Yogi Berra.

He once quipped: It is difficult to make predictions, especially about the future.

The future is indeed inherently uncertain.

But I am quite certain that the Japan-U.S. Alliance will best prepare the two nations for the future.

Let me finally say yet again that I am committed to work hard to make the Alliance even stronger.

Thank you for your attention.


Transcript of Tomomi Inada's Remarks
The Evolving Japan-U.S. Alliance--Keeping Asia and the Pacific Peaceful and Prosperous
Thursday, September 15, 2016 1:00 pm - 2:00 pm
CSIS Headquarters, 2nd Floor Conference Room
https://www.csis.org/events/evolving-japan-us-alliance-keeping-asia-and-pacific-peaceful-and-prosperous-0

 ヤッホー君、びっくり、ヨギイズムってご存知でした?
 そうやって米にゴマするんだ、この国の国防大臣は!!

Baseball Legend Yogi Berra Dies at Age 90
https://www.youtube.com/watch?v=8__sfJ43EzA

 そして………

 Japan’s new defense minister, Tomomi Inada, is pushing her country to become a stronger, more independent actor on the world stage − and trying to make herself prime minister in the process. But as she gets closer to both goals, she’s finding that Japan’s success is more dependent than ever on deepening cooperation with its neighbors and the United States.

Inada rose to prominence in Japan as a conservative firebrand who embraced controversial views, including questioning the facts surrounding Japan’s wartime atrocities. She once suggested that Japan should get its own nuclear weapons.

She is often accused of being a revisionist − a term for those who seek to partly rehabilitate Japan’s wartime history. But as was clear to me after an hour-long interview last week during her first trip to Washington in her new role, Inada is coming to terms with the fact that if she wants to lead Japan into the future, she needs to be a globalist first.

“I think we should have a more global viewpoint and make strategies in that sense,” she said after meeting with Defense Secretary Ashton B. Carter at the Pentagon. “I think it is important to develop our own defense posture. But equally important is to enhance the U.S.-Japan alliance cooperation, and another important thing is to build up our relationships with other countries as well.”

In an event at the Center for Strategic and International Studies before our interview, Inada repeatedly called for better Japanese relations with its regional partners, especially South Korea, but India and Australia as well. She told me that her call for Japan to have a “global viewpoint” is meant to apply to both security and economic issues.

Inada knows that to be an effective advocate for Japan on the world stage, she must moderate her image as a nationalist hawk, an image that was born out of her previous work as a lawyer on cases that involved defending Japanese actions during World War II. Her comments on historical issues such as “comfort women” and her repeated visits to the controversial Yasukuni Shrine have riled Asian allies, many of whom are wary of her assuming leadership of Japan’s government.

Due to her penchant for stylish eyewear and her meteoric rise through the ranks of Japan’s conservative Liberal Democratic Party, some have called her the Japanese version of Sarah Palin. But in her latest iteration, she more closely resembles a Japanese Hillary Clinton: tough on national security, progressive on social issues and committed to moving Japanese politics incrementally from inside the system, not as a disruptive outsider.

Her explanation for her past work, including suing the media for the alleged defamation of two accused Japanese war criminals, may not satisfy her critics.
“From my lawyer days, due to cases I have been in charge of, people tend to call me a hawkish person,” she told me. “However, I don’t see myself as hawkish; I just want to know what the truth is in history.”

If not for that controversial work, current Prime Minister Shinzo Abe would never have plucked Inada from obscurity and encouraged her to run for parliament in 2005. Ever since, she has been groomed by Abe as his successor. She is not shy about her ambitions.
“I think every politician wants to be the prime minister,” she said.


Inada’s potential appeal to younger Japanese is rooted in her domestic policies. She started an office inside the parliament to work on LGBT issues. “Human rights should be accepted, and people should be able to live the way they want to live,” she said, noting that she became involved after meeting a gay friend of her son.

She is also trying to break Japan’s highest glass ceiling by becoming its first female head of government. In Japan, women in the workplace still face institutional and cultural disadvantages. When Inada became a lawyer, the only office that would hire her made her promise not to get married for at least five years.

Inada’s vision of a global Japan rooted in a strengthened U.S.-Japan alliance does not mesh with that of Donald Trump − even though Inada, like Trump, once suggested that Japan might develop its own nuclear option.

“I don’t agree with Donald Trump,” Inada now says. “Japan has not the intention nor the necessity to have a nuclear capability, as being the only country that has experienced a nuclear attack.”

Inada’s evolution from conservative firebrand to moderate globalist is a tricky endeavor that may or may not work. But it shows that even Japanese nationalists know that Japan’s future success is dependent on its ability to work with the rest of the world.


The Washington Post, September 18
Japan’s prime-minister-in-waiting trades nationalism for globalism

By Josh Rogin
https://www.washingtonpost.com/opinions/japans-prime-minister-in-waiting-trades-nationalism-for-globalism/2016/09/18/2c17abc2-7c3a-11e6-ac8e-cf8e0dd91dc7_story.html?utm_term=.9c0306f512b7


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涙の川を渉るとき

 昨日、10月14日金曜日は山歩クラブ秋企画「竜門峡で紅葉狩り」。
 平日、というのに嬉しいこと、なんとま、7人も集まってくださって。
 降り立った駅は中央線の「甲斐大和」、しかしと仲間の奥ちゃん登場。
 ムカシは初鹿野(はじかの)。名前が変わったのは平成になってから。
 1993年のことで明治36(1903)年開業からずうっと初鹿野。
 いやあ、そうでしたかぁ〜。

武田慕情
https://www.youtube.com/watch?v=DLxme3DgEQg

1 夕日に染まる 甲斐の山
  こだます鐘に 春おぼろ
  戦いくれた つわものの
  大和ごころを 知るように
  舞い散る花は 山桜
  
2 苔むす森に 蝉しぐれ
  夢うたかたの まぼろしか
  しずかに眠る 勝頼の
  無念の涙を 惜しむよに
  天目山の 夜半の雨

3 山狭深く せせらぎは
  紅葉をうつす 流れ帯
  人馬のひびき 歴史は過ぎ
  田野の河原に 月の影
  武田の里は 今しずか


 歌碑のおたまじゃくしでさっそく歌ってくださったのが山歩クラブの歌姫、佐藤さん。
 誰が歌を創ったんだろ、字があまりにも上手なので読めないよ、とアホなヤッホー君。
 「遠藤実」だね。遠藤実は小さいときよく遊びに店に来てたっていう自転車屋いるよ。
 奥ちゃん再登場。地元、墨田区のことは隅から隅まで知ってるんで、解説が入ります。
 「遠藤実」はいやあ、そうでしたかぁ〜。生まれは下町の南葛飾(今の墨田区立花)!

 遠藤実はもう鬼籍に入っていますが………(注1)

 2008年12月に死去した作曲家遠藤実さん(享年76)の七回忌をしのぶ会が1日、都内で行われた。
 歌手や関係者約250人が参加し、5000曲以上を手掛けて戦後の歌謡界を彩った作曲家を悼んだ。

 北島三郎(78)は、実父が死去した後で、遠藤さんが作ってくれた「父親」(注2)を娘婿の北山たけしと2人で歌唱した。
「この曲を聞いたときは泣けました。本当におやじそのまんまなんだよ」と振り返った。
 遠藤さんは、歌手それぞれの個性に合わせてさまざまな曲を作る「職人だった」という。

「焦ることはない。でも、遅れることもない。頑張って歩いていけと先生だったら言うはずです」とあいさつし、こまどり姉妹、五月みどり、千昌夫、森昌子ら19組21人で「北国の春」を大合唱した。


2014年12月1日20時56分更新、日刊スポーツ
遠藤実さん七回忌で北島三郎ら大合唱
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20141201-1403518.html

 じゃあ「いではく」は?ばんぱくだったら知ってるけどね、なんてアホなヤッホー君。 

 さて、そろそろ”北国の春”の誕生秘話に入って行きたいと思います。
 これが”いではく”さんが書いた原詩です。

白樺 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の春
季節が都会ではわからないだろうと
届いたおふくろの短い手紙
帰ろかな 川端の家


 星影のワルツ以降ベスト・ミリオン・セラーの曲が出でいなかっため、1977年4月に、新星レコード会社は仕掛けます。話題性のある歌を企画しようと・・・遠藤実さんが演歌師(流し)時代に書いた詩を、いではくさんに手直しをてもらい、新たに遠藤実自身が曲をつけて、千昌夫が歌う道筋が決まりました。
 曲名は、A面が、『東京のどこかで』、B面は『北国の春』です。
 A面に全精力をついやし出来上がりました。さて、B面はどうするか・・・A面は出来上がったので、『適当に詩を書いて』と、遠藤さん、スタッフから言われ、いではくさんは”気楽な気持ち”で書き上げたといいます。
 遠藤実さんは5分で曲を書き上げました。出だしの『白樺 青空 南風』に惚れ込んだと言います。
 そして、長靴姿、レインコート姿で千昌夫さんが、心に響く歌唱で歌い上げました。
 1年間”火”はつきませんでした。新曲のリリースを頑なに断り、『北国の春』にこだわり、歌い続けた千昌夫さんの勝利です。
 今も、国境を越え、中国、韓国、モンゴル、その他、世界の国々で歌い継がれている『北国の春』の誕生秘話ヒストリーでした。
 おしまい


2011年9月23日(金)相模原の館長ブログ
BS朝日「うたの旅人」
北国生まれの3人(遠藤実、いではく、千昌夫)が出会い、『北国の春』が産まれた!
http://sagamihara-curator.way-nifty.com/shigeo/2011/09/bs-f771.html

(注1)自伝に『涙の川を渉るとき』(日本経済新聞出版社、2007年):

 この本は遠藤実の遺言書である。遠藤実はこの本を書いた翌年に他界した。
 1945年日本は太平洋戦争に敗北、私達は貧困と絶望のどん底だった。飢えて死ぬ人も多くいた。こんなにも貧しい日々を生きた少年がいた。遠藤実(1932〜2008)だ。
 貧しさに挫けず夢を抱き続けた遠藤実だった。
 心の歌は彼の掌の中で温められた小さな希望から生まれた。「からたち日記」から「北国の春」まで遠藤メロディーの水脈を辿る旅。
 舟木一夫の歌う「高校三年生」の作曲家遠藤実は貧乏で高校行けなかった。
 少年時代の遠藤実の貧乏生活は想像を絶する。
 14歳で紡績工場に就職するも、歌の好きな彼は地方に来た楽団に入団し、星幸男として歌手デビュー。
 しかし楽団もすぐに解散し、その後は日雇い仕事やら門付け芸人の放浪芸、農家の年季奉公と極貧生活がつづく。
 だが歌手になりたくて17歳の時、家族に黙って東京へと出奔する。。。

2016年4月8日 20時31分37秒(Fri)歴史と文化
「涙の川を渉るとき 遠藤実自伝」を読む。
http://www5.hp-ez.com/hp/haikupoem/page45/bid-423871

(注2)
北島三郎で「父親」(2002年):
https://www.youtube.com/watch?v=23bQ_6gpn5Q

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2016年10月13日

稲田朋美

 改憲タカ派の発言を繰り返してきた稲田朋美防衛相が終戦記念日の8月15日に靖国参拝を強行するかが注目されていましたが、「公務」のために参拝は行いませんでした。

 稲田氏は13〜16日の日程で、ソマリア海賊対策の拠点としてアフリカ北東部・ジブチに置かれている自衛隊基地の部隊を視察することが11〜12日にかけて急きょ決まりました。稲田氏は12日、記者団から「靖国参拝は?」と問われ、「安倍内閣として適切に対処する」と涙声で答えています。

 同日発表されたジブチ視察の日程は多くが「調整中」で、「何をしに行くのか」とメディア関係者からも疑問の声が出ていました。自民党関係者からは「ジブチ行きは稲田氏本人の知らない間に首相官邸が決めた。“靖国参拝封じ”のための急ごしらえだったから日程がスカスカだ」という声が漏れます。

 自民党議員の一人は「官邸と稲田氏本人の両方の顔が立つようにした」と指摘。「中国や韓国、アメリカの批判が予想以上に強いことから、靖国参拝をやめさせなければならない。稲田氏に言い訳が立つようにするには、外国にいて行けなかったことにする。それで急に決めた視察だから中身があるわけがない」と解説します。

 さらに、「稲田氏を防衛相にするからにはこうなることはわかっていたはず。『日本会議』や右派は怒っている」と安倍政権の対応の“混迷”を指摘します。

 稲田氏は、日本会議議連の中心メンバーの一人で、「東京裁判史観からの脱却」を主張。自らも毎年8月15日に参拝を行い、第2次安倍内閣発足後、行政改革担当相に就任してからも参拝を続けてきました。稲田氏は、3日の内閣改造で防衛相に就任後、「参拝するとかしないとか言わない」として、参拝の可能性を否定しませんでした。

 安倍内閣の対応の混迷の根底には、日本の侵略戦争を正当化する「靖国」史観と世界の流れとの深い矛盾があります。


2016年8月16日(火)付け赤旗(中祖寅一)
稲田防衛相、参拝せず
ジブチ視察 急ごしらえ
安倍政権の対応で“混迷”

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-08-16/2016081602_02_1.html

 「なぜ?」この裏の事情がだんだんと明かされてきています:

TOKYO − Japan will lease additional land next year to expand a military base in Djibouti, eastern Africa, as a counterweight to what it sees as growing Chinese influence in the region, three Japanese government sources said.

China is seeking closer ties with African nations that could help it gain access to natural resources and provide new markets. Beijing said late last year it would pump $60 billion into development projects on the continent, cancel some debt and help boost agriculture.

Earlier this year, Japan also pledged to increase its support to infrastructure, education and healthcare projects in Africa, committing an extra $30 billion in public and private support.

"China is putting money into new infrastructure and raising its presence in Djibouti, and it is necessary for Japan gain more influence," said one of the sources, with knowledge of the plan.

China in February began construction in Djibouti of its first overseas military facility, a coastal logistics base that will resupply naval vessels taking part in peacekeeping and humanitarian missions.

Djibouti, which is about the size of Wales, is strategically located at the southern entrance to the Red Sea on the route to the Suez Canal. The tiny, barren nation sandwiched between Ethiopia, Eritrea and Somalia, also hosts U.S. and French bases.

Since 2011, a Japanese Self Defence Force contingent of 180 troops has occupied a 12 hectare (30 acre) site in Djibouti, next to Camp Lemonnier, the U.S. base at the country's international airport.

From there, the SDF have operated maritime patrol aircraft as part of an international force, including China, that hunts pirates in the seas of the Gulf of Aden and off the coast of Somalia.

A Japanese Defence Ministry spokesman confirmed discussions were taking place.
"In addition to the land Japan has borrowed, it is considering leasing the neighboring land to its east," the spokesman said in response to a Reuters query. "Japan is now in negotiations with Djibouti government."

Asked about the plans, Chinese Foreign Ministry spokesman Geng Shuang said Japan's military and security policies had garnered attention in Asia for historical reasons.

"We hope Japan can draw lessons from history, conform with the times, and truly follow the path of peaceful development," Geng told a daily news briefing in Beijing.

Japan is considering deploying C-130 transport aircraft, Bushmaster armored vehicles and extra personnel to the base but has not yet decided on how many, the sources said.

The size of the extra leased land would be smaller than the existing base and was expected to cost around $1 million a year, they added.

Tokyo will justify the expansion of personnel and aircraft in the Horn of Africa by pointing to a need to have aircraft there to evacuate Japanese citizens from nearby trouble spots or areas hit by natural disasters, the sources said.

Minister of Defence Tomomi Inada traveled to Djibouti in August, where she said Tokyo was considering expanding the "function" of the Japanese base. She didn't, however, indicate that new land would be added.

A month earlier Japan sent three C-130 aircraft from Japan to stand by in Djibouti for the evacuation of Japanese citizens trapped by fighting in South Sudan's capital, Juba.

The mission, only the second ever undertaken by SDF transport aircraft, showed the increasing ability of Japan's military to conduct operations far from home.
Prime Minister Shinzo Abe is seeking to give the SDF a greater regional and global role as his nation steps back from seven decades of state pacifism.


The New York Times, Published: OCT. 13, 2016, 12:33 A.M. E.D.T.
Japan to Expand Djibouti Military Base to Counter Chinese Influence
By Reuters
http://www.nytimes.com/reuters/2016/10/13/world/asia/13reuters-japan-military-djibouti.html

 いやあ、びっくり、このお方のためにこの国のコクミンは命をささげるのかな、なんのためなのかな、だれの命令なのかな、、、
 ムカシのことでなく、イマのことについても質問してほしいんですけどぉ、、、
 コクミンに「報道」しているメディアも海外のようにもっと掘り下げた記事を書いてほしいんですけどぉ。。。

 社民党の福島瑞穂参院議員が10月13日の参院予算委員会で、稲田朋美防衛相に対し、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に反対していた過去の言動を取り上げて「TPP反対で信念貫きなさいよ!」と声を荒らげる場面があった。
 福島氏は、稲田氏がかつて日本の核保有検討を主張いていたことも挙げ、「防衛相としての資格はない。辞めるべきだ」とも訴えた。稲田氏は「野党時代の発言だ」などと釈明した。


10月13日18:40更新、産経新聞
「TPP反対で信念貫け!」
社民・福島瑞穂氏が稲田朋美防衛相にかみつく

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/


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“無縁死”3万2千人の衝撃

 板垣淑子さんが「ディレクター」としてかかわった番組があります。
 ヤッホー君のこのブログでも取り上げたことがムカシあったはずですが、ま、もう一度。
 本も出版されました:
 『無縁社会〜“無縁死”3万2千人の衝撃』(文芸春秋、2010年11月)
 動画はこちら:
★「ストップ・ザ・無縁社会」全県キャンペーン紹介動画 【平成24年度版】
https://www.youtube.com/watch?v=djkDIZhphHU

★ NHKスペシャル ワーキングプア 〜働いても働いても豊かになれない〜
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010526_00000

★ 老人漂流社会
https://www.bing.com/videos/search?q=%e8%80%81%e4%ba%ba%e6%bc%82%e6%b5%81%e7%a4%be%e4%bc%9a+nhk%e5%8b%95%e7%94%bb&view=detail&mid=518EAA925F445206F6B2518EAA925F445206F6B2&FORM=VIRE

 2010年1月31日放送のNHKスペシャル「無縁社会〜“無縁死”3万2千人の衝撃」は、同Nスペの「ワーキングプア」を手がけたディレクターが担当したということもあってチェックしました。
 日本社会の病巣をリアルにドキュメントしながら最後に一定の角度から問題を分析するというスタイルと思い込んでいましたので、少々驚かされました。
 最初から最後まで番組は淡々と「無縁死」の軌跡を追い続け、観る者に日本社会の現実を提示するのみだったからです。
 しかし、それが逆に印象深い眼差しを持ったものとなりました。以下、淡々と番組をレポートします。
(※例によって相当丸めた要旨ですので御了承を。byノックオン)

 お台場に響く、もの悲しいサイレンと水しぶきの音。東京湾岸署の警備艇が身元不明の水死体のもとに向かいます。毎日のように身元不明の水死体が浮かぶ日本の首都・東京。全国の自治体には引き取り手の無い遺骨が多数持ち込まれ、死後の身辺整理や埋葬などを専門に請け負う「特殊清掃業者」やNPOがここ2〜3年で急増。「特殊清掃業者」には自治体からの依頼、NPOには将来の無縁死を恐れる多くの人からの生前予約などが増えています。

 全国1,783のすべての自治体を調査した結果、引き取り手がなく、自治体によって火葬・埋葬された人=無縁死した人は、2008年だけで3万2千人にものぼることが分かりました。3万2千人の無縁死のうち、警察でも自治体でも身元が分からなかった身元不明者は1千人にのぼります。この1千人は、「行旅死亡人(こうりょしぼうにん)」と呼ばれ、国が発行する官報には毎日のように「行旅死亡人」の記事が掲載されています。遺体の引き取りを親族に呼びかけるものです。性別、身長、所持品等、亡くなった人の情報はわずか数行です。死因には「飢餓死」「凍死」の文字が目立ちます。家族や会社とのつながりを失い孤立して生きる人たち。いま「無縁社会」とも言える状況に突入しているのです。

壊れる家族のつながりと地域社会の瓦解

 なぜ無縁死が増えているのでしょうか。昨年3月に掲載された行旅死亡人。自宅の居間で亡くなっていたにも関わらず、無縁死した男性の軌跡をたどってみました。

 遺体発見現場は、東京・大田区の住宅街にあるアパート。氏名不詳の男性の死は1週間以上気づかれず、音を流し続けていたテレビ。明かりが灯ったままの部屋。発見したアパートの住人も「夜亡くなったのか昼亡くなったのか、わからない」。このアパートの住人は地方出身の単身者ばかりで、住人同士のつきあいは皆無。家族もいないため、誰も男性の身元を特定することができませんでした。

 取材をする中で、男性の勤め先は近所の給食センターで、正社員として20年間、定年まで無遅刻無欠勤だったことも、出身地が秋田であることも分かり、取材班は秋田へ。男性の本籍地周辺は、近所の住人によると、「全部都市計画で変わった」。土地は人手に渡り、男性の両親はすでに亡くなっていました。男性は高校を卒業後、地元の木工所に就職。ところが木工所が32歳のときに倒産。地元に親を残し東京に働きに出ていました。近所に住む男性の小中学生時代の同級生が見つかります。小学校の同窓会名簿に、男性は「消息不明」と書かれており、この男性だけでなく、小学校の同窓生90人中19人が消息不明とされていました。男性は両親の死後、故郷とのつながりもなくしていたのです。この10年、衰退が一気に進んだ地方都市。都会へ出たまま、つながりを失い、故郷へ戻れない人たちが急増しているのです。

 男性の遺品に残されていた1枚の通行証。その通行証から男性が亡くなる半年前まで東京で日雇い派遣の仕事をしていたことが分かりました。男性は給食センターを定年退職した後も日雇い派遣で働き続けていました。繁忙期にだけ声がかかる日給1万円の仕事でした。男性は亡くなる直前まで両親の供養料を故郷の寺へ送り続けていました。それなのに、東京の無縁墓地に男性は埋葬され、両親の眠る故郷に戻ることはできませんでした。男性は故郷とのつながりをなくし、東京でもつながりを失ったまま無縁死してしまったのです。

家族をかえりみず会社中心の人生が壊れる

 取材を進める中で、無縁死は将来拡大していくきざしがあることが分かってきました。いま頼れる家族がいない人たちがNPOの窓口に殺到しているのです。家族の替わりに亡くなった後の諸手続きなどをおこなうNPOがここ数年相次いで設立されています。死後の葬儀や納骨、遺品整理などをするNPOと生前契約を結ぶ人が増えているのです。生活にある程度余裕のある人たちでも1人暮らしに不安を抱えやって来ます。設立から8年になるあるNPOは、年々会員が増え続け、いま4千人近くになっています。最近では、定年退職前の50代で入会を決める人もいます。58歳のときNPOに入会した男性Tさん。Tさんは会社を定年退職した途端、唯一の社会との接点を失いました。リストラや非正規労働の増加、そして団塊世代の大量退職、会社とのつながりを失ったとき、何が起きているのでしょうか。

 NPOに入会したTさんは孤独のうちに死にたくないと老人ホームで暮らしています。50代で熟年離婚、頼れる家族のいない暮らしです。Tさんは高校卒業後、大手都市銀行に就職し、営業の現場で会社中心の42年間の生活、ほとんどが仕事で築いた人間関係でした。

「本当に息つく暇もないというか、食事もまともにできない感じでした。毎日、帰宅は午前の2時3時でした」と、仕事時代の思い出を振り返るTさん。「三菱の100年です。これ私なんです」と社史に掲載された自分の写真を見せながら、「俺は三菱なんだって感じなんですよね」と語ります。

 毎日、午前2時3時まで仕事をし無理を重ねた結果、40歳のとき糖尿病などで体をこわし、仕事のストレスからうつ病にもなってしまいます。

「いま考えたら、あんなに仕事しておかしいんじゃないかと思う」、「全部自分にツケが返ってきた。今みたいな形で…」と語るTさん。家庭をまったくかえりみず仕事ばかりした結果、50代で熟年離婚。息子と娘は妻が引き取りました。

「これは私の宝物ですからね」と言ってTさんが見せてくれたのは、小学校の修学旅行で息子が買ってきたお土産のキーホルダーでした。

 Tさんは仕事をやめるまで自分の家族や人生をかえりみることはありませんでした。
「もちろん子どももいてね、孫を抱いて、そういう生活がいちばんの希望だった。退職して初めて親の墓参りにひとりで行ったとき出会ったお年寄り夫婦がね…」(長い沈黙のあと、嗚咽するTさん)「私もああいうふうになりたいと思っていたね…」

 家族より会社を優先して生きてきた人たち、家族とのつながりをなくし、会社とのつながりを失ったとき、無縁化する姿が見えてきました。

激増する「生涯未婚」

 名古屋市の中心部にあるNPOの合同墓地。ここを生前契約した人がすでに1千人。いまも増え続けています。その中で最近増えているのが「生涯未婚」の人たちです。

 NPOの合同墓地を生前契約しているWさん(79歳、女性)。父親を早くに亡くしたWさんは、看護師の仕事をしながら家族を支え働き続けました。母親の介護と仕事に追われ、結婚する余裕はありませんでした。

「女だから結婚して子どもを産んで幸せそうな人を見てると、私もという気持ちになります」、「寂しくないといえば嘘になりますし、どちらかと言えば男勝りで我慢強い方だったもんですから。だから、先に涙が出てきちゃいますね、最近はね、考えると…」、「棺桶の中に、ぬいぐるみ入れてもらおうかな」。看護師時代に患者からもらったぬいぐるみは、1年に1回袋を取り替えて大切にしてきたWさん、「心配なのはここにいて死んでても、骨だけになってても、電話がかかってきても自分には分からないし」と語ります。

「生涯未婚」の派遣労働者の無縁死

 男性の「生涯未婚」は、女性を上回るペースで増えています。その多くは非正規雇用などで安定した収入を得られない人たちです。特殊清掃業者が遺品を片付けるアパートの一室。この部屋で亡くなっていたDさん(享年57歳)は、30代半ばで職を失い、その後派遣会社を転々としていました。収入が安定せず、結婚することはありませんでした。密室のアパートでDさんは、死後1カ月発見されませんでした。孤独のなか、ひとり亡くなっていたDさんは、自治体によって火葬されました。

 家族をつくらず/つくれず、たったひとりで生きていく人たちが急増する時代。推計によると、20年後の2030年には、「生涯未婚」が、女性の4人に1人、男性の3人に1人にのぼります。

 無縁死3万2千人。取材を通して浮かび上がってきたのは、安心して老いることのできない社会、安心して死ぬことさえできない社会でした。無縁社会で、つながりを失った人たちはいまも置き去りにされたままです。
(※番組のレポートはここまで。段々疲れてきて、2つほど無縁死のケースを省略していますので御了承ください)


2010-02-03 07:16:12、すくらむ
国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ
★ 国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

NHKスペシャル「無縁社会 -無縁死3万2千人の衝撃」 -壊れる家族・地域・仕事
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10449424956.html



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2016年10月12日

板垣淑子

 10月8日土曜日午後、ヤッホー君はNHK大型企画開発センターのチーフプロデューサー板垣淑子(いたがき・よしこ)さんのお話しを聞いておりました。
 この国の社会の暗部が見えるように報道することに務めておられる方です。
 まずは昨年2015年夏、お書きになった文章から。
 知ってますでしょうか、皆さん、ありのまんまの高齢者の暮らしぶりを:

「お金がなくて病院に行けない……」

 ひとり暮らしの高齢者を取材していると、こうした言葉をよく耳にする。
 食費や光熱費を切り詰めても余裕がなく、医療や介護といった「命に関わる費用」を節約しなければならない高齢者が今、増えているのだ。

 昨年2014年9月に放送したNHKスペシャル『老人漂流社会〜“老後破産”の現実〜』では、こうした高齢者の実態をルポし、大きな反響を得た。

 厚生年金が月10万円で暮らしていた男性は、家賃6万円をひくと手元に残るのは4万円。
 公営住宅に引っ越す費用もなく、食べていくだけでやっとの暮らしを続けていた。
 男性は20年間勤めていた会社を辞め、飲食店を開いた。しかし、赤字続きで閉店。借金を返したら、手元にお金が残らなかった。
 仕事に邁進するあまり、結婚もしなかった男性には「頼れる家族」はなく、「頼るカネ」もなくなった。
 男性は口癖のようにこうつぶやく。
「こんな老後になるとは思わなかった……」

 超高齢社会を迎えた我が国で、急増している独居高齢者。
 600万人ほどが、自分の収入や貯蓄を頼りに暮らしている。

 単身高齢者の年金収入を分析すると、およそ200万人が「生活保護水準」を下回る額だということが分かった。
 貯蓄があるうちは、それを少しずつ使いながら生活費の赤字分を補えるが、なくなれば破産状態に陥る。
 結果、必要な医療さえ受けられず、追いつめられていく人が少なくない。
 本来であれば、生活保護で不足分を補填しながら暮らしていけるはずだが「墓に入るための貯金」など、手元にわずかでも貯蓄を残そうとすれば、生活保護は原則として受けられなくなる。
 そのため、自分の年金収入だけで暮らしていかなくてはならず、「老後破産」に陥ってしまうのだ。

 そして「老後破産」に陥った高齢者が同じように口にする言葉――。
「生きていてもしかたない。死んでしまいたい」
 番組のポスター制作の担当者にこの言葉を伝えると、ポスターに書き込むキャッチコピーが決まった。
「長寿という悪夢」

 長生きをするお年寄りが安心して暮らせないばかりか、長寿を呪いながら生きなければならない過酷な現実――それを伝えたかったのだ。

 今、老後に漠然とした不安を抱いている人は少なくない。
 しかし、本当に自分の親や身近な人が「老後破産」に陥りかねないことを想像できるだろうか。
「こんな老後になるとは思わなかった……」
 この言葉が再び耳に突き刺さってくる。当たり前に暮らしてきた人たちが「老後破産」に陥り、発する言葉だからだ。

 番組放送後、視聴者から届いた反響の多くは、同じように年金生活にゆとりがなく、苦しんでいるという声だった。

「年金4万円では暮らしていけず、生活保護を受けています。楽しみもなく、毎日、いつ死ねるのかと考えています」(80代女性)

「年金は毎月16万円もらっていますが、出費は16万円を超えるのです。それでも贅沢しているわけではありません。医療や介護を節約すれば、私の場合、死しかありません」(70代男性)

 さらに、驚いたのは「子どもと一緒に暮らしているが、それでも破産寸前だ」と訴える声が目立ったことだ。
 長引く不況、非正規労働の拡大などこの20年余りのしわ寄せが高齢者を支えるはずの家族に打撃を与えているのだろう。

 こうした「親子共倒れ」とでもいえる新たな老後破産について、私たちはさらなる取材を続けている。
 今夏、続編を放送予定だ。

 「老後破産」はもはや対岸の火事ではない。
 誰の未来にも起こり得る現実だ。
 老後にどう備えればいいのか――それを考えるためにも、まず現実を直視することから始めて欲しい。
 取材をまとめた『老後破産 長寿という悪夢』に描かれた現実は、私たちのすぐそばで起きている日常なのだ。


新潮社『波』(2015年8月号)
「老後破産」は対岸の火事ではない
――NHKスペシャル取材班『老後破産 長寿という悪夢』

板垣淑子
http://www.shincho-live.jp/ebook/s/nami/2015/08/201508_18.php

急増する老後破産!森永卓郎が語る老後の現実!
https://www.youtube.com/watch?v=VX2d0y6gNq0

NHK_あさイチ_老後破産しないためには?
https://www.youtube.com/watch?v=0DorLRrf2ZI

板垣淑子(NHKプロデューサー)
 2006年に「ワーキングプア」、2010年に「無縁社会」と社会的反響を巻き起こした番組を放送し、「格差と貧困」の問題を追い続けているのが「NHKスペシャル」だが、その取材班としてずっと関わって来たのが板垣淑子さんだ。
 このところは、「老人漂流社会」というシリーズ名で、昨年秋に「老後破産」(内容は「老後破産」という書名で新潮新書に)、そして今年8月に「親子共倒れを防げ」という番組を放送。板垣さんがチーフ・プロデューサーを務めた。
 長年にわたる取り組みで感じたことを板垣さんに聞いた。

――NHKスペシャルで「ワーキングプア」からもう10年越しの取り組みですね。
板垣 2005年の小泉構造改革の最後の年から取材を始めているので、11年目になります。取り上げてきたテーマは全部つながっています。「無縁社会」も独居高齢者の孤独死の話ですし、この人たちは生きている間にどんなことに困っているのかというと、見えてきたのが「老人漂流社会」だった、ということです。
 「老人漂流社会」というシリーズになってもう4回目ですが、第1回は2012年秋、居場所を持てなくて老人が漂流する、終(つい)の棲家(すみか)を持てない、という現象を取り上げました。
 次に認知症独居の問題を2回目にやって、そのあと昨年秋に「老後破産」、そして今年8月末の番組が「親子共倒れを防げ」というサブタイトルなんです。


――昨年の「老後破産」も大きな反響があったようですが、今度の番組はその反響を踏まえて作られたわけですね。
板垣 「老後破産」で取材した人たちの中で共通するのが「もう死んでしまいたい」という言葉でした。そこで続編では高齢者の自殺を取り上げようかと思って、秋田県藤里町など自殺対策をやっている自治体に取材をかけたんですね。
 そしたら「どうも50代の息子が引きこもっていて困っていて、就職先を探してくれ」という声が強いとかですね、そういう子どもが失職して大変だと高齢者が悩んでいるといった話をいろいろなところで聞くんですね。「えっ、これはなんだろう」と思いました。
 その一方で、前回の番組をご覧になってメールやお手紙を寄せてくれた声にも、「自分の体験はもっと深刻だ」として同じような体験を話される方が多かった。そこで調べてみると、親子の同居が予想外に増えている実態がわかりました。80年代から比べると、かなり増えています。30万人台だったのが300万人台くらいまで至っているんです。
 それは非正規で働いていた人たちが40代くらいになって一人暮らしを維持できなくなって、かつ生活保護には頼りたくないと、農家をやっている地方の親元に出戻っていくというパターンなのですね。実際に取材を始めると「自分の親戚にもこういう人がいる」とか、見回すとそういう人がかなりたくさんいて、身近な問題になりつつあるのです。
 一人暮らしでもやっとという一桁の年金受給額で暮らしている親にとっては、支えてほしいはずの子どもに逆にすねをかじられる。親子共倒れの破産が増えているんです。
 実態が見えにくいのは、お子さんと暮らしているので困っていることが周囲にわかりにくいし、生活保護も可動年齢層の子どもと住んでいると受けられません。支援の手が伸びにくい環境の中で、親子虐待が起こってしまったり、問題が複雑化してしまったり、困っている家庭が増えている。実際、今回番組で紹介するのも、一人暮らしをしている時よりも子どもが戻ってきてからの方が大変になったというご家族なんです。


老人だけでなく下の世代も生きていけない
――老人だけでなく、下の世代も生きていけない社会になっているわけですね。
板垣 非正規雇用が増えているのです。最初に「ワーキングプア」を取り上げた時は非正規雇用は3割だったんですけれど、今は4割です。かつ団塊ジュニアの世代が40代50代になってきている。20代30代の非正規って肉体労働とかできるので意外と困らないんですが、40代50代になってくると途端に不安定化する。そこで自分で生活できなくなって親元へ戻るのですが、親が介護が必要な状況になったりすると、もう経済的に助けることができない。親を助けるどころか、子どもの方も働き口がなくて共倒れするんです。

――年金制度も矛盾が噴出しているし、社会全体が行き詰まりを見せている。
板垣 日本の社会はどちらかを選択しなければいけない時期に至っているんです。社会保障の施策はミニマムにして、経済競争とか合理化を進め、基本的に税も少ないけど福祉も小さいという国にするのか、あるいは税は取られるけど手厚い福祉で安心できるという方向を選ぶのか。これまで日本は、行政も政府もその選択肢を明確に提示してこなかったのですね。

――新幹線で自殺した老人のケースも、年金受給額が少ないと不満を持っていたようですが、生活保護の申請は行っていなかったようで、そういう情報もきちんと国民に説明されていないようです。
板垣 私も取材を続けていて感じたのですが、年金を貰っていると生活保護を受けられないと誤解されている高齢者が非常に多い。「年金を貰っていてもその額が生活保護水準に達していなくて、かつ貯金がなければ生活保護を受けられるんですよ」と教えて差し上げると「そうだったの!」と言われる方も多い。
 その一方で、これ以上国の世話になりたくない、とか社会に迷惑をかけたくないというような律儀さや誠実さを口にされる方も多い。これは高齢者の方に共通なんだと思うのですが、自分が社会のお荷物だと思った瞬間に生きる希望を失ってしまい、生活保護の申請に二の足を踏んでしまう。どちらかというとこちらの要因が大きいかもしれません。


――それも日本社会が将来の方向性を示して国民に理解を求めるというのをやってこなかったためかもしれませんね。
板垣 「老後破産」寸前で困っている方が、年金受給額3万円で貧困にあえいでいるというのならわかるのですが、実際には10万円くらい貰っていて破産していくケースが多いのです。社会保障費抑制はもちろん必要ですし、負担が上がるのもやむを得ないことだと思っていながらも、目の前で負担のことで破産していく人を見るといろいろ考えさせられます。

月刊『創』(2015年9・10月号)
NHK「老人漂流社会」プロデューサーが見た親子共倒れの現実
http://ironna.jp/article/2183

 今年の夏には次のようなことを「書評・エッセイ」としてお書きになっております。
 知ってましたか、皆さん、イマの戦場のように、この国にもムカシ、Child soldiers がいたってこと:

 71年前の、あの戦争は何だったのか――。
 それを思い知らされたのが「少年ゲリラ兵」の取材だった。
 遠い異国の話ではない。
 わたしたちの国、日本で実際に起きていた事実だ。

 戦時中、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄で、子どもたちが兵士とされ、戦場でゲリラ兵として闘っていた。
 その知られざる歴史を初めて聞いた時には、身震いする思いだった。
 戦況が悪化し、兵力不足に陥った日本は、子どもを戦場に送り出していたのだ。

 今、世界の各地で普通の市民が巻き込まれるおぞましいテロが繰り返されている。
 中でも子どもたちが犠牲になる痛ましい出来事――しかも子どもが加害者としてテロ行為の実行犯とされる悲劇――が相次いでいる。
 戦後生まれの「戦争を知らない世代」にとって、それは海を隔てた遠い異国の地で起きている現実でしかないだろう。
 しかし、沖縄の歴史を知ることで、それは日本でも起きていたことだと知らされる。
 戦争の狂気は、本来守るべき子どもさえ戦争に利用していたのだ。
 ひとたび戦争が始まると、もはや後戻りできずにその道を進んだ、かつての日本。
 その戦争がもたらす狂気の正体を知りたい――それが取材の出発点だった。


 沖縄本島北部には、やんばる(山原)というジャングルに覆われた山岳地帯が広がっている。
 そこが少年ゲリラ兵たちの主戦場だった。
 彼らは山中に拠点を置いて、ゲリラ兵として奇襲・夜襲などの特殊な戦闘を行っていた。

 少年が集められた部隊の名前は「護郷隊(ごきょうたい)」――故郷を守るための戦争だと信じて戦場に立ったという。
 故郷を守るためという大義で戦地に送り出された少年たちは、純真で素直な子どもたちだからこそ、兵士に変えられていった。
 ある少年は、過酷な訓練の最中、上官に命じられた言葉を今も、はっきりと覚えていた。
「敵を10人殺したら死んでもよい」

 そして、敵と殺し合う激しい戦闘の最前線で少年たちの心は壊され、麻痺していった。
 ある少年は、幼なじみの友だちが目の前で撃ち殺されても、何も感じることはなかったと話した。
「敵が死ぬのも、友が死ぬのも、自分が死ぬことすら、どうでもよくなっていた」

 元少年兵たちは、「ゲリラ」という存在自体、隠し通さなければならなかった。
 そして、あまりに凄惨な体験だったことから、戦後、誰にも話すことができずに、ずっと心の奥底にしまい込んでいた。
 しかし、70年という時間を経て、ようやく「戦争の記憶を伝え残したい」と記憶の扉を開き、事実を語ってくれたのだ。

 私たちはこうして元少年兵から得られた貴重な証言や新たに発掘した資料などをもとに2015年8月、NHKスペシャル『あの日、僕らは戦場で〜少年兵の告白〜』を制作した。
 嬉しかったのは中学生や高校生など10代の若者――かつての少年ゲリラ兵と同じ年代の若者たち――が放送後に感想を寄せてくれたことだった。
「戦争の恐ろしさが分かった」
「戦争はしてはいけないことだと思う」

 今は80代後半となった元少年兵たちから、戦争を知らない子どもたちへ、その言葉が伝わっていることに何ともいえない感慨があった。
 番組の制作過程では元少年兵だけでなく、陸軍中野学校の関係者など数多くの取材を行なった。
 番組では到底、伝えきれなかった貴重な証言を形に残したい――取材に答えてくれた方々に誠意を尽くしたい、そうした思いを背負って、この「取材記」は綴られた。

 元少年兵の一人が語った忘れられない言葉。
「二度と戦争だけには行きたくない。戦争に近づくような道を、戦争からかけ離れた選択肢であっても、選択しないようにしないと。小さなのを重ねていくとね、ひどい目に遭いますから」

 数々の証言で語られる戦争の「狂気」――それは、ひとたび走り出すと誰も止められないということだった。
 本書を通じて、私たちはそれを今、伝えたい。
 そして、立ち止まって元少年兵たちの思いを受け止めて欲しい。

 
新潮社『波』(2016年8月号)書評エッセイ
二度と戦争だけには行きたくない
――NHKスペシャル取材班
『僕は少年ゲリラ兵だった 陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊』

(新潮社、2016年7月刊)
評者:板垣淑子
http://www.shincho-live.jp/ebook/nami/2016/08/201608_15.php


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2016年10月11日

羽田増便による都心低空飛行問題

 ヤッホー君のこのブログ、昨日10月10日付けの日記「1970年代」の注釈につけておいた岩波の『世界』2016年11月号はお読みいただけましたかぁ〜

(*1)秀島一生×奈須りえ、岩波、羽田空港飛行ルート変更「海から入って海へ出る」を手放すな
http://blog.goo.ne.jp/nasrie/e/55e8a218997694d8242b00058e3a85d0

 この話、秀島一生(1946年生まれ)の話をもう少し。
 羽田の増便で、われわれの頭上を飛行機が低空で飛行するって、
 羽田での北風運用時に、朝7時〜11時半と午後3時〜7時の間、1時間当たり22〜23機の出発機が江東区上空を低空(最も低い場合で900m〜1200m程度)で上昇していくって、
 国の案では、南風時には、午後3時〜7時に都心側から飛行機が到着するって、
 そのときは江東区の広い範囲で騒音被害が発生し、事故や落下物の危険もあるって、
 ・・・こんな国の計画の話しって皆さん、知ってましたかぁ〜

 都心の上空を、飛行機がスカイツリーよりも低い高度で飛ぶようになるかもしれません。
 2020年のオリンピック・パラリンピック開催までに、年間2000万人の訪日外国人を呼びたいと目標を掲げている日本。
 国際線を増便するため、羽田空港からの飛行ルートを変更する計画が進んでいます。
 この計画によると、これまでは海側から離着陸していた飛行機が、都心上空を飛行することになります。
 安全面での不安を抱え、地元合意が得られないまま計画が進められてもいいのでしょうか?
 航空評論を専門とする秀島一生さんにうかがいました。


人口密集地を飛ぶことで、騒音や落下物、事故の危険性も
編集部 羽田空港からの新しい飛行ルート計画を見ましたが、都心の真上を飛ぶことに驚きました。2020年のオリンピック・パラリンピックも控えて、空港の機能強化を行うとのことですが、なぜわざわざ都心上空を通るのでしょうか?

秀島 現在、羽田空港上空は混んでいて、いまの飛行ルートではこれ以上の増便ができません。リスクが大きいということでこれまで避けていた都心上空の低空飛行を解禁して、発着回数を1時間に80回から90回に増やすという案が国交省から出ているのです。安全性を後回しにして、経済優先で考えられたルートですよ。

編集部 空港近くでは飛行高度も低くなります。計画によれば、渋谷区や新宿区の上空ではスカイツリーよりも低い位置を飛行機が飛ぶことになりますね。人や建物が密集している都心を低空飛行することによって、具体的にはどんな問題が考えられるのでしょうか?

秀島 大きくは、3つの問題が挙げられます。それは、@騒音 A落下物 B飛行トラブルです。
 まず騒音ですが、羽田空港に近い地域での離着陸の騒音がありますね。その音は、60〜80デシベルになると言われています。これが2分に1機の頻度である。曇天のときは音が反響して、さらに大きく、また聞こえる範囲も広くなります。


編集部 60〜80デシベルというと、幹線道路脇くらいの音ですよね。

秀島 落下物の危険性もあります。飛行機は着陸に備えて、高度400〜500mのところで脚を出します。新しい飛行ルートでいうと、ちょうど渋谷・恵比寿あたり。このときに落下物の危険性があります。
 たとえば、成田空港が開港して以来、実質的な落下物被害の報告があったのは約150件。年間だと3〜4件あります。いまの飛行ルートだと下はほぼ海や畑なので、報告されていない落下物はもっとあるはずです。千葉県の森田知事が、国交省に警告を発しているほどです。


編集部 落下物というと?

秀島 主には氷です。飛行機はマイナス40〜50度のところから降りるので、次第に溶けていき、脚を出す動作によって刺激されて翼状の氷が落下します。高いところから落下するので、小さい塊でも人に当たれば殺傷能力がありますし、車に落ちれば穴だってあきますよ。それから、ゴム片やボルトのような部品もたまには落下します。ひどい場合には、パネルのような機体の一部がはがれて落ちたことも過去にはあります。海の上なら人にあたるようなことはないですが、人や建物が密集する都心に落ちたら被害がでるでしょう。ましてや、飛行機が新ルートで上空を飛ぶ時間帯が、15時から19時となっていますから、街の中も混み合う時間です。

編集部 渋谷の人混みの上に部品が落ちて来たら…、想像するだけでゾッとします。

秀島 そして、最も大きなリスクは、飛行トラブルです。僕はチーフパーサーとして30年乗務していましたが、飛行機のトラブルというのは、必ず起こるものなのです。飛行機には平均300万点以上の部品が使われていて、すぐに非常事態にはなることは多くないものの、どこかしらのトラブルは日常的にあります。なかでも、いちばん重大事故が起きるリスクが高いのが、「クリティカル11ミニッツ(魔の11分)」です。離陸後3分、着陸前8分に、エンジントラブルや火災、墜落など重大事故が集中しています。新ルートでは、この「魔の11分」の時間帯に、まさに都心上空を飛んでいることになっています。

編集部 都心に、もしジャンボジェット機が墜落したら…。まるでパニック映画のシーンを思い浮かべてしまいますが。

秀島 墜落事故の例は世界中にありますよ。重大事故がしょっちゅう起きるわけではないけれど、可能性は高い。ですから、これほどの住宅密集地帯や都心近くに国際空港を作るなんておかしいのです。かつてはそうだった香港の空港も、いまは郊外に移転しました。「危ない道は通らない」というのが、普通に考えたら当たり前じゃないでしょうか。

編集部 日本は世界の流れからも逆行しているんですね。そして、国交省は「安全だから問題ない」と言う。またどこかで聞いたセリフですが、信用できないですね。

「安全」さえもコストカット。蔓延する経済優先の考え方
編集部 そもそも規制緩和によって、飛行機が起こす事故のリスクが以前よりも高くなっているとも聞きます。

秀島 そうです。飛行機もタクシーや長距離バスと同じように、規制緩和して低運賃で競争するのがいいんだと言われてきました。かつては航空会社が自分たちで整備していたのが、子会社や孫会社、さらに委託先に任せてもよくなった。整備の外注化です。整備点検の間隔や項目もゆるくなっています。乗客が搭乗中の給油も、前は火災の危険があるからダメだったけど、いまはできるようになりました。なぜかというと、たとえばLCC(※)は一日6回もの離着陸をすることで儲けをだしているのに、整備や点検に毎回30分でも40分でも時間をとられてしまうと困るからです。儲けるためには整備を甘くしようとなった。安全基準はどんどん下がっています。
※「LCC」(Low Cost Carrier)従来の航空会社で行われていたサービスの簡素化と、運行の効率化によるコスト削減で、低価格での運航サービスを提供する「格安航空会社」。


編集部 たくさん飛ばすためには、慎重な安全点検をしている時間がもったいないということでしょうか…。

秀島 利用者は格安運賃になればうれしいでしょう。でも、それを理由に安全性がないがしろにされていることは知らされていないし、あまり問題にされていない。「多少の安全基準をゆるめても、効率のためなら仕方ない」。そういう考え方が、もう社会全体に蔓延しちゃっている。その延長線上にあるのが、今回の都心上空の低空飛行ルートですよ。

編集部 行き過ぎた価格競争やそのためのコストカットが原因とみられる長距離バスの事故が相次ぎましたが、飛行機でも事故が起きやすい状況になっているのでしょうか…。

秀島 運賃を下げるために、ブランケットや飲み物を有料にするくらいならいいですよ。でも、安全対策までコストカットされていることを誰も知らないで乗っている。しかし飛行機ですからね、墜落なんかしたら、それは大きな被害を出すことになる。それでいいんでしょうか。厳重に安全のための規制があった昔でさえ事故は起きていたのに、なおさら大丈夫なのかなと不安です。正直言って、僕はいまの飛行機に乗るのは怖いです。

羽田の国際線増便は、ただの「痛み止め」でしかない。
編集部 しかし、都心上空の低空飛行という無理をしてまで、羽田空港で国際線を増便するのはなぜでしょうか。

秀島 羽田のほうが都心に近いからなのでしょうが、それなら成田空港の交通の便をよくすればいい。そもそも、日本が航空政策の全体計画をちゃんと描いてこなかったことに問題があります。かつて国際線を成田空港へと移し、成田は国際線、羽田は国内線がメインになった。そのときに、羽田と成田、都心間を結ぶ交通整備をきちんとやればよかったのに、やらなかった。マレーシア、韓国、シンガポールなどアジアの他国では、空港の利便性を高めて機能強化を図ってきているのに、日本は取り残されてしまった。そのためにアメリカや欧州からアジアへの入り口となる空港としての役割を、他国にとられている状態です。2020年が近づいてあわてて羽田空港の国際線を増便しても根本的な解決にならない。ただの痛み止めみたいなものです。

編集部 羽田空港に機能が集中することにもなりますね。

秀島 それもとても危険です。3・11のときに仙台空港が使えなくなったのを覚えていますか。台風が来たって、羽田からの欠航が相次ぎます。内陸にある大きな空港は成田しかありません。自然災害が起きたとき、羽田に国内線・国際線が集中していては対応できないかもしれない。世界をみれば、パリではオルリーとシャルルドゴール、NYではJFKとラガーディア、ニューアークと大都市では複数の空港が機能しています。

編集部 どういった解決策が考えられるのでしょうか

秀島 政府はリニア新幹線に30兆円かけると言っていますよね。完成を8年も前倒ししようとしている。それをやるくらいなら、羽田と成田にストレスフリーな直行新幹線をつくればいい。すでに香港ではやっています。市街地に隣接していた啓徳国際空港をやめて、郊外に新しくチェクラップコク国際空港をつくりました。市街地からは離れたけれど、空港から香港まではエアポート・エクスプレスがあり25分弱で移動できます。アジアのハブ空港としても評判がいい。どうして同じことが日本ではできないのでしょうか。危険をおかして都心上空を低空飛行するより、成田を国際空港として充実させて、羽田空港と都心を結ぶ交通整備をすればいい。そのほうがよっぽどシンプルだし、簡単です。

特定地域の問題でなく、東京全体の、そして社会全体の問題として捉えよう
編集部 以前、羽田空港がもっと市街地に近い場所にあったときは、大田区で騒音や墜落の問題に対して住民運動が起こりましたよね。

秀島 そうです。1973年に大田区議会が「安全と快適な生活を確保できない限り空港は撤去する」という決議をしたことを受けて、国交省は羽田空港を沖合へと移転させたという経緯があります。この新しい飛行ルートは、そのときの大田区との約束を一方的に破る形にもなっています。

編集部 ひどいですね。私たちの生活に直撃する大問題だと思うのですが、市民はこの問題にどう対峙していけばいいでしょうか? 大田区・品川区・江戸川区では反対運動が、豊島区・練馬区・板橋区では地域の住民による勉強会が開かれていると聞きます。

秀島 僕も勉強会の講師として呼ばれることが多くなりました。いつも会場に入りきらないほどの人たちが集まり、みなさんものすごく真剣に話を聞いています。しかしながら心配しているのは、特定の地域の人たちだけの問題にされてしまうことです。飛行ルートといっても、電車の線路と違ってラインのうえをまっすぐに飛行機が飛ぶわけじゃない。気象条件や風向きによっても変わってきます。まして墜落の危機は、都内全域にあると言ってもいいわけです。また、神奈川県川崎市の臨海地域にある石油コンビナート上空を離陸後すぐに通るルート案もあり、川崎市の市民からも危険ではないかと声が上がっています。

編集部 この問題は、ちゃんと知りさえすれば、「危ないよね。ちょっとおかしいよね」とみんながわかることだと思うのですが。実際には、あまりにも知られていないようにも感じています。反対の声が大きくなれば、案が取り下げられる可能性もありますよね。

秀島 国交省の住民への説明会もまだまだ不十分だと思いますので、住民側から要望を出すことも必要でしょう。またこれは効率や経済を安全性より優先させていいのかという問いでもあります。社会全体で考えていかないといけない問題です。

※ 取材中、何度も「これは飛行ルートにあたる地域だけの問題ではない」と強調されていた秀島さん。便利さや効率性と、「安全」は天秤にかけることができるのものなのか−−これは私たちの社会全体のあり方や価値観にかかわる問題です。議論を広げるためにも、多くの方に知ってほしいと思います。この問題についてわかりやすくまとめたちらしを「羽田空港増便問題を考える会」が作成しています。こちらよりダウンロードできます。

2016年9月28日up「マガジン9」
この人に聞きたい、秀島一生さんに聞いた
安全より経済優先!? 羽田増便による都心低空飛行問題
http://www.magazine9.jp/article/konohito/30292/



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2016年10月10日

1970年代

 いつのことだか 思いだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう、思い出のアルバム。
 1972年といえば、堀田善衛『19階日本横丁』が朝日新聞社から発売された年でしたね。
 でもほかにもいっぱいあったでしょう! 
 まずは日中関係で2012年の映像から:

 1972年に田中角栄元首相の訪中で日中国交正常化が実現して40年、始まりは元通産相・高碕達之助を中心とする経済外交でした。
 1955年のバンドン会議で周恩来と対面した高碕は貿易による関係改善を模索し、1962年に国交が無い中で半官半民的な形のLT貿易協定を締結します。
 その後、大平正芳元外相はLT貿易で養われた人脈を生かして、田中訪中を実現します。
 新資料を基に日中外交の舞台裏を描きます。


NHKスペシャル「日中外交はこうして始まった」
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050058_00000

 そうなんです、時代は田中角栄が総理大臣を射止めた年が1972年。

 映像で「田中角栄」:
https://www.youtube.com/watch?v=3IICS3Hsyy8

 この70年代ってこんな年。まずはJA(農協)から:

日本人は不景気でも「旅」を続けた
中国人も決して「旅」を止めない


 中国の「バブル」がよしんば崩壊したとしても、中国人観光客は減らない。
 少なくともあと20年程度は高い数値を保ち続けるはずだ。
 それは日本人の過去を振り返っても自明である。

 図3のグラフは1980年から2012年までの日本人の国内宿泊旅行人数だ。
 日本人は年間でのべ約3億泊を旅先で過ごしており、この数字はここ30年大きく上下していない。
 バブルが崩壊して「失われた10年」が通過しても、人々は旅をし続けたのである。

 生命と生活の安全がある程度確保されると、人は外部へとその触手を伸ばす。
 未知の環境においてあらためて立ち現れる自己が、心理学者・マズローのいう段階欲求の最高位「自己実現欲求」を満たすからだ。
 言葉の通じない外国で相手に自分の意思が伝わったときに感じる嬉しさ、誇らしさは自分の能力や感性を再確認する喜びなのである。
 これを一度知ってしまうと、人は日常生活だけでは飽き足らなくなる。

 日本で外貨の持ち出し制限が緩和され、海外旅行が自由化されたのは1970年代になってから。
 農協ツアーなどの団体客がハワイ、ヨーロッパなどに繰り出した。
 SF作家の筒井康隆が彼らのマナーの悪さを強烈に揶揄した中編「農協月へ行く」を書いたのは1973年のことだ。


 筆者は学生だったが、「友達の○○ちゃんが家族でハワイに行ったんだって」「じゃあウチもこの夏はハワイに行くか!」といった会話が周囲でもドラマでも頻繁に交わされていた。
 現在は中国の一般家庭でこうした会話が交わされていることが、ありありと想像できる。
「まだ」1億人しか国を出ていないのだ。

 先にも述べたように、日本人が旅に出る動機や回数は、高度経済成長の頃から現在までそう変化していない。
 年に一度、楽しみにしている海外旅行や恒例の家族旅行が、景気や為替の動向で増減することはあまりないのである。
 マスコミが懸念していた今年10月の「爆買い」も、結局は前年を上回る勢いだったという。
 中国株バブル崩壊は、日本への買い物ツアーに影響を与えなかった。

爆買いはいずれ沈静化
旅行は個人旅行にシフト

 もちろん、家電や化粧品などの爆買いが永遠に続くことはありえない。
 中国の経済改革がうまく進まなければ、中国人観光客が買い物に使うお金は減るかもしれない。
 なにしろ現在は、訪日外国人の旅行支出が平均18万7000円なのに対し、中国人だけが28万円も使ってくれているのだ。
 これは中国の家庭にモノが行き渡るにつれ、沈静化していくだろう。

 しかし団体旅行で日本を訪れた中国人は、次は個人旅行で自由に各地を回りたいと考える。
 自由度の高い香港ではすでに海外個人旅行(FIT.Foreign Independent Tour)が主流になっている。
 団体旅行ではどうしても「自己実現」上の不満が残るからだ。
 日本でも80年代の後半には若者たちですら個人旅行を楽しむようになった。
 今の中国が日本の70年代初頭の旅行パターンだとしたら、あと20年近くは需要が伸び続けると予測することも可能なのである。。。


2015/11/30 16:03更新、ダイアモンド・オンライン
中国経済減速でも中国人訪日客が減らない理由
近藤康生(ホワイト・ベアーファミリー代表取締役)
https://dot.asahi.com/dol/2015113000069.html?page=2


 で、同時にこの年、航空業界ではJAL(日本航空)がたて続きに事故を起こします:

★ JA8012 ニューデリー事故

事故概要
 1972年6月14日、東京発ロンドン行き(東京-ホンコン-バンコク-ニューデリー-テヘラン-カイロ-ローマ-フランクフルト-ロンドン)日本航空471便は、バンコクを離陸しニューデリーへ・パラム空港へのILS進入許可を得たのちDMEから23マイル(43Km)のレポートを行なった直後に、ヤムナ川の土手に激突しました。
 乗客・乗員86名が亡くなられ、3名が重傷を負われました。
推定原因
 日本側の調査結果によると、471便は空港のグライドパス誤信号のため規定より低い高度で降下し、地上に衝突したと推定していますが、インド側では、乗員が定められたプロセジュアーを無視するとともに滑走路を十分に確認せず計器の表示に注意を払わなかったことが原因であるとしています。


NHKあすへの記録「日本航空ニューデリー墜落事故」
https://www.youtube.com/watch?v=NXvS3IWALRw

★ JA8040 モスクワ事故

事故概要
 1972年11月29日、コペンハーゲン発モスクワ経由東京行き日本航空446便は、モスクワのシェレメチボ空港滑走路から離陸滑走を開始し、浮揚後100メートル程度上昇し、その後急激に下降し始め、地面に激突して大破炎上しました。
 乗客・乗員62名が亡くなられ、14名が重傷を負われました。
推定原因
 離陸後の飛行中、誤ってスポイラを出したため、航空機を臨界迎角以上に至らしめたか、凍結のため、第1または第2エンジンの作動が異常となり、正常に操縦できなかったと推定されています。


JALグループにおける123便以外の主な事故/strong> https://www.jal.com/ja/flight/safety/center/accident.html  

 航空評論家の秀島一生さん(*1)はこんなことを:

 「明るい笑顔のANA」に対し「機内でもなにやら暗いJAL」というのが長い間の利用者からの代表的な声でした。
 その背景を垣間見るような判決です(2010年10月28日付け毎日新聞「JAL労組:敗訴 個人情報無断収集で慰謝料支払い命令」)。

 解り易く申し上げれば、もともと日本航空の労働組合は、現在のANAとほぼ似ていて、地上スタッフ(人事・総務・営業などの本社部門/整備部門/客室乗務員)をその構成とする「日本航空労働組合」とパイロット・航空機関士・ナビゲーターなどで構成する「日本航空乗員組合」でした。

 ここから先は、映画『沈まぬ太陽』(*2)で描かれていたストーリーに近似値です。

 経営側に篭絡されたグループが「現場の声」を消し去って「何でもそのときどきの経営方針に従って行く」そういう労働組合を新たに作りました。
 いわゆる「御用組合」ですね。
 勿論、こういう行為は、憲法で保障された「労働三権」「労働三法」を犯す行為で一般的には「不当労働行為」と言われています。
 
 映画では、三浦友和さん扮する「行天四郎」がこうした動きの代表格として描かれました。
 そして、その当時「全日本航空労働組合」(※その後名称変更してJALFIOと名乗ってきました。上記報道にある「JAL労働組合」を指します)が誕生しました。
 客室乗務員も「全日本航空労働組合」に属していましたが、組合脱退を迫られて、「日本航空客室乗務員組合」という職種別組合を作らされることになります。
 私は、この直後に入社をいたしました。

 しかし、なかなか経営陣の思うようにはいかない訳で、この「客室乗務員の群れ」も、航空機が巨大化(ダグラスDC−8中心からB747ジャンボ機へ)することで必然的に短期間に在籍者が多くなってきました。
 平均的に言えばその当時のJAL本体は2万名でそのうち3000〜5000名が客室乗務員という構図でした。

 この時代は、日本航空協力の下に映画『白い滑走路(*3)『アテンションプリーズ』(*4)が製作されました。

「ニューデリー事故」「モスクワ事故」「クアラルンプール事故」といわゆる三大連続事故が発生、いずれも「墜落」したもので、多数の乗客乗員を失いました。
「ニューデリー事故」では、離着陸時に着物を着用していた客室乗務員だけが、歯形しか残らないで燃えてしまった、という惨事でした。

 また、女性地上スタッフは男性並でも、客室乗務員は、「結婚したら」「30才になったら」退職せねばならない、という社内規則がありました。
 このため多くの素晴らしい人材が泣く泣くやめて行きました。

 ジャンボ機が導入された初期は、機内の編成人員は「17〜19名」でしたが、これを2名減らして「15名にする」という経営陣の提案が出てから、機内の現場は騒然となりました。
 もともと御用組合として出発した「客室乗務員組合」が賃金は別にしても、「明らかな旅客へのサービスダウン」には、「反対」の意思表示をし、スト権を発議するまでに至りました。

 このことは、全社員の4割ぐらいを占める人数であり、ストライキでも決行されると航空機が止まるという勢力でもありました。
「これは、大変!」と経営陣とJALFIO(JAL労働組合)幹部が癒着して、「新入CA社員は全部JALFIOに入らなければ、一人前のCAとして認めない」というシステムを作り、客室乗務員組合の構成員を増やさないように、もうひとつの組合創りを致しました。
 時間をかけて「組合つぶし」をするという方針でした。

 1970年代から「ジャパン アズ ナンバーワン」(*5)といわれていた時代の陰でこういうことが延々と行われてきた訳です。
 こうした経緯のなかで、「9800人の監視ファイル事件」が露見してしまいました。
 裁判官は、JAL労組のプライバシー侵害などを認めたものの会社とJAL労組が癒着した証拠がない、ということを言っておりますが、「問題から目をそらす」姿勢ともいえるのではないでしょうか。


2010.11.03 航空評論家 秀島一生のblog
映画「沈まぬ太陽」で結末に違和感を持たれた方々に!腐敗・癒着の証明「不正監視ファイル事件CA勝訴」!!
http://hideshima-issei.air-nifty.com/blog/2010/11/ca-ac8e.html

(*1)秀島一生×奈須りえ、岩波『世界』2016年11月号、羽田空港飛行ルート変更「海から入って海へ出る」を手放すな
http://blog.goo.ne.jp/nasrie/e/55e8a218997694d8242b00058e3a85d0
(*2)1995年から1999年に週刊新潮で連載、2009年に映画化。
https://www.youtube.com/watch?v=W0iBx54-3UU
https://www.youtube.com/watch?v=dkk7pwZRGhE
Wowow開局25周年記念ドラマもイマ放送中!
http://www.wowow.co.jp/dramaw/shizumanu2/
(*3)1974年4月5日から9月27日までの26話連続で、TBS系列で放映されたテレビドラマ。田宮二郎主演の「白いシリーズ」の第2作。
https://www.youtube.com/watch?v=ebnUttp0Btw
(*4)紀比呂子が主演し、1970年に東宝が制作しTBS系列で放映 された、脚本家・上條逸雄による。 初めて客室乗務員を扱ったテレビドラマ。Attention Please and JAL's Aircrafts:
https://www.youtube.com/watch?v=vXKTpQfyx7M
(*5)【上海・林哲平】日本が経済成長を遂げた理由を分析したエズラ・ボーゲル米ハーバード大名誉教授のベストセラー「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(中国語名「日本第一」)が中国で36年ぶりに再刊され、発売直後に重版されるほどの勢いで売れている。
 日本のような経済成長を経験し、米国との摩擦を抱える中国。
 隣国・日本から学ぶ点が多いと思われているようだ。

 1979年に出版された同書は日本型組織の特徴などに注目し、日本で約70万部が発行されるなど世界的なベストセラーになった。
 当時、中国でも出版されたが読者は研究者などに限定されていた。
 だが今年2016年3月に上海訳文出版社(上海市)が出版した再刊本は2週間で2万部が完売して1万部を増刷。上海市内の大手書店ではレジ前の「一等地」に平積みされ、次々と客が手に取っていた。

「若い読者が多いのが特徴」(同出版社の陳飛雪さん)で、市内の大学2年生、魏生さん(21)は本の感想を大学の仲間と議論したといい、「公害や交通過密など30年前の日本は現在の中国の姿に似ている。日本が問題をどう克服したか、興味がある」。
 任軍鋒・復旦大教授は「この本には急速な成長を果たした日本への米国の警戒が表れている。日米関係の歩みは我々が対米関係を考えるかがみになる」と話した。


2016年5月25日20時02分最終更新、毎日新聞
中国、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」再び人気
http://mainichi.jp/articles/20160525/k00/00e/030/166000c


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堀田善衛の日記発見

 原書にあたるか、翻訳を読むか、両方かな、中江さん。
 
 明治時代に自由民権思想を広めた思想家、中江兆民(1847〜1901)の代表作「三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)」の草稿がほぼ完全な形で見つかった。
 入手した「国文学研究資料館」(立川市)によると、草稿の一部は確認されていたが、ほぼ完全な形で見つかるのは初めて。
 紙を切り貼りするなどして推敲(すいこう)した跡がわかり、「明治の思想と文化を研究する上で極めて貴重な資料」という。

 資料館によると、草稿は114枚の半紙に細筆で墨書され、上下2冊。
 末尾の約580字分などが欠けているがほぼ完全だった。
 ほかの著書や翻訳書の草稿と比較し、「兆民の直筆による最終稿に非常に近い草稿」と判断した。

 丁寧な文字で清書したと思われる部分と、下書き段階とみられる部分が混在。
 言葉を後から書き足したり、不要な文章を囲って削除したり、紙を切り貼りしたりし、推敲の過程をたどることができる。
 清書部分については「過去に同じように書いた草稿がないので、直筆かどうかまだ判断できていない」という。
 
 資料館は文部科学省の大規模学術フロンティア促進事業として古典籍のデータベース化を進めており、その中で都内の古書店で見つけ、今年2016年3月に購入した。
 兆民の草稿は「策論」などわずかしか見つかっておらず、「三酔人経綸問答」はごく一部しか確認されていなかった。

 「三酔人経綸問答」は1887(明治20)年刊。
 理想主義的な民主化を説く「洋学紳士」、武力による海外進出を主張する「東洋豪傑」、平和外交を唱える「南海先生」が酒を酌み交わしながら、小国日本がいかにして独立を保つか議論する形式で書かれた政治評論書。

 分析した資料館副館長の谷川恵一教授(日本近代文学)は「これまで存在が知られていなかった極めて貴重な資料だ。現在出版されている文章と異なる表現が何カ所も見られる。兆民がどのように言葉を選んでいったのか、さらに分析したい」と話している。

 2016年9月15、16日に立川市緑町の資料館(050・5533・2900)で特別公開した後、10月8日〜12月25日に高知市立自由民権記念館で展示する。


2016年9月14日03時00分朝日新聞・東京版(宮坂麻子)
中江兆民「三酔人経綸問答」の草稿発見 推敲の跡
http://digital.asahi.com/articles/ASJ9F2RCVJ9FUTIL008.html?rm=440

 ん?草稿発見?そういえば堀田善衛だって「日記発見」!

 堀田が初めて踏んだ異郷の地・上海は亡命ロシア人やユダヤ人、インドや東南アジア、南米からの流入者、さらに南京・重慶・延安のそれぞれ異なる中国の政治権力が放った地下工作員や特務機関、テロリスト、そしてかれらと判別つきがたい膨大な市民、企業人、労働者、人夫、やくざなどが混在していた。…
 しかも、国際文化振興会の上海資料室に籍をおいたものの、堀田の仕事はなかった。
 海軍の関係を頼って弘報部に出入りして食事にありつき、文化工作の名目で講演活動を行ないながら、中国人学生や知識人と交流するのがやっとだった。
(紅野謙介『堀田善衛上海日記』解題)

 2007年夏、故堀田善衛宅で、遺族により2冊の自筆ノートが発見された。
 堀田善衛の原稿、資料、蔵書の大半は堀田が1998年に亡くなった後、神奈川近代文学館に寄贈された。
 2008年秋開催の堀田善衛展が企画され、その準備のさなか、文学館職員によって、さらにもう1冊ノートが発見された。
 この3冊のノートは、紅野謙介(こうの・けんすけ)氏によって『堀田善衛 上海日記 滬上天下1945』というタイトルで同年2008年11月集英社より刊行された。

 堀田善衛が1951年5月、『文学51』創刊号に発表した小説『歯車』は、『祖国喪失』、『歴史』、『時間』などと共にこの日記を材料にしたものと思われる。

 『歯車』の主人公・伊能という男は終戦のあくる年、上海で中国のある機関に徴用される。作者堀田自身がモデルのようである。主任委員の青白い、やせた男・何大金、いつも何につきそう張愛玲という女性、伊能の上司の陳秋瑾という女性など、機関に出入りする人々が登場し、物語は幕を開ける。
 登場人物の張愛玲、陳秋瑾という名前を見て、中国近代史や中国現代文学に詳しい方なら「おや」と思われるに違いない。張愛玲は、当時日本占領下の上海文壇に彗星のごとく登場した女性作家の名、秋瑾は「秋風秋雨人を愁殺す」という台詞で有名な、処刑された女性テロリストの名である。
 ある夜、伊能は上海の港の大倉庫群のあいだにある「血の雨横丁」と呼ばれた一角にある酒屋で陳秋瑾とばったり出会う。
 それから秋瑾は伊能が間借した家を度々訪れる。
 ある時秋瑾は 伊能に
まったくこの政治というものは、頭も尻尾もなくて、敵だ味方だといってみたところ で、結局は敵味方が相対的に歯車のようにがっちり食いあったうえで、政治にとってただ一つ絶対に必要なもの、血と肉をもった人間をがりがり食って生きているのですから、どこをどうといって切りようもありませんが
と身の上話を語る。
 『歯車』は、戦後の上海で不安と恐怖に覆われた1年半を過ごした作者の体験に基づく作品といえよう。


蔭山達弥・京都外国語大学助教授、堀田善衛『上海日記』・『歯車』
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl192/pdf/19210.pdf
 
 人がどこかへ行き、かつ行かねばならぬものだということだけは、いかに幼くても納得しないわけにはゆかなかった………

 かつて蝦夷(えぞ)地と大坂を結び、米や昆布などを運ぶ北前船交易で栄えた富山県高岡市伏木。
 富山湾を望む一角に大きな蔵を備えた廻船(かいせん)問屋の豪邸が立ち並び、町は発展した。

 西海屋、網屋……。江戸中期の記録には、八軒問屋(のちに七軒問屋)と呼ばれる有力問屋の屋号が記されている。
「中でも鶴屋さんは筆頭格でした」
 伏木北前船資料館の向井敬至さん(65)は言う。

 「鶴屋」は、堀田善衛の生家であった。
 広い庭に「千」と「萬(まん)」という名のつがいの鶴がいた。
 ひな鳥の時に釧路平野で捕獲され、下働きの老人が世話をしていた。
 羽を切られていて飛ぶことはできなかった。

 1918(大正7)年生まれの堀田は、幼少の一時期、「鶴屋」の繁盛ぶりを目の当たりにした。
 鶴屋の船標(ふなじるし)(ヤマイチを記した白い帆の和船が沖に見えると、望楼に詰めていた物見役が「御船の御帰り」と大声を発し、町中が沸き立った。
 入港した夜からは3日も4日もぶっ続けの大宴会が繰り広げられたと、つづっている。

 ところが、明治中期から大正末の年月は、船舶運送業の大変革時代でもあった。
 大量輸送可能な蒸気船が登場し、伏木の海でもウラジオストク定期航路が開設されて港湾整備が進んだ。
 近代化の波に取り残された家業は没落、1929年、高台の「小さな家」に転居を余儀なくされた。
 550石の帆船が解体され船板として新橋の料亭の板塀用に買われていくのを、涙を流して見送った祖母の記憶が、堀田にはある。

 旧堀田家の庭の池には秋から冬、何百もの渡り鳥が渡来した。
 春になると再びシベリア方面へと飛び立つのだが、羽を切られた千と萬は残され、ただ凝然と立ち尽くす。
 2羽の鶴に、鶴屋そのものの運命が重なる。
 繁栄と没落 ―― 人は「うつるべきときが来たならば、矢張りうつらなければならぬものであるらしいこと」を知り、堀田少年はこの時、「万物は流転す」というふうな言葉で表現できるものがうえつけられたと記す。
 歴史の荒波に生きる人間を追い続けた堀田の原点が、ここにある。


2016年09月20日 10時54分 Yomiuri Online(文・永峰好美 写真・佐藤俊和)
堀田善衛「人がどこかへ行き…」
飛べない鶴が見たものは

http://www.yomiuri.co.jp/life/travel/meigen/20160920-OYT8T50008.html?seq=04


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堀田善衛と日本の知識人

 先にも書いたように、上海での、いわゆる「終戦」は事実として8月11日に来ていた。
 そしてその当日から、私は自分に金も能力もなんにもないにもかかわらず、ひそかに、また人にも言い言いして、日本側に協力してくれた中国人諸氏の運命を胸に痛いものが刺さり込んで来たような気持ちで気づかっていた。
 殊に私は、私自身、ほんの一面識しかなかったのだが、大東亜文学者大会というものに参加した柳雨生や陶亢徳などの、侵略者であった日本側に協力した文学者たちの運命を気にした。
 私などが気にしてどうなるというわけのものではもとよりない。
 しかし、それを私は、気にした。
 彼らは一体どうなるのか。
 もとより、乱世経験では日本人とは比べものにならぬ人びとであるから、彼らなりの覚悟と準備があったかもしれぬ。
 だから私は、天皇が、いったいアジアの全領域における日本への協力者の運命についてなにを言うか、なんと挨拶するか、私はひたすらそればかりを注意して聞いていた。
 それは「終戦勅語」といわれているものの、まことに奇妙な聞き方というものであったかもしれない。
 そしてそういう聞き方をした日本人というものは、あるいはそう数が多くはなかったかもしれない。
 しかし、あのとき天皇はなんと挨拶をしたか。
 敗けたとも降伏したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この厭味な二重否定、それっきりであった。
 その余は、おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、それが可愛い、というだけのことである。
 その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の躯にこたえた。
 放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前の言うことはそれっきりか、それで事が済むと思っているのか、という、怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。


…堀田善衛『上海にて』(筑摩書房1959年、2008年に集英社文庫)

 そうして、もう一度私はおどろいた。
 焼け跡はすっかり整理されて、憲兵が四隅に立ち、高位のそれらしい警官のようなものも数を増し、背広に巻脚絆の文官のようなもの、国民服の役人らしいものもいて、ちょっとした人だかりがしていた。
 もとより憲兵などに近づくものではない。
 何事か、と遠くから私はうかがっていた。
 9時すぎかと思われる頃に、おどろいたことに自動車、ほとんどが外車である乗用車の列が永代橋の方向からあらわれ、なかに小豆色の自動車がまじっていた。
 それは焼け跡とは、まったく、なんとも言えずなじまない光景であって、現実とはとても信じ難いものであった。
 これ以上に不調和な景色はないと言い切ってよいほどに、生理的に不愉快なほどにも不調和な光景であった。
 焼け跡には、他人が通りがかると、時に狼のように光った限でぎらりと呪みつける、生き残りの羅災者のほかには似合うものはないのである。
 乗用者の列が、サイドカーなども伴い、焼け跡に特有の砂埃りをまきあげてやって来る。
 小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光りを浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。
 大きな勲章までつけていた。
 私が憲兵の眼をよけていた、なにかの工場跡であったらしいコンクリート塀のあたりから、200メートルはなかったであろうと思われる距離。
 私は瞬間に、身体が凍るような思いをした。


…堀田善衛『方丈記私記』(筑摩書房、1971年、1988年、ちくま文庫)

 2年ほど前に、マレーシアのクアラルンプールの町で、背筋が寒くなるような経験をしたことがあった。
 それは、ある日本商社の駐在員の家に招かれて、食事を頂きながらの話であったが、同席をしていた日本の紙・パルプ業者の代表が言ったことである。
「われわれがここを裸にしているあいだに、日本は緑になりますよ」
と。
 彼らがフィリピンからはじめて、ボルネオ、マレーシア、インドネシアなどのジャングルに木材資源を求めて、東南アジア一帯を裸にしているあいだに、つまりは日本国内の山を切らないでいれば、やがては日本は緑したたる国に復活するであろう、という話である。
………
 われわれの国の前途に、なんとしても悲劇的なことが起ってくれないように、というのがただの小説書きにすぎぬ私の願いである。

…堀田善衛『19階日本横丁』(朝日新聞社、1972年、1997年朝日文芸文庫)「おしまいの、挨拶」
1972年7月仏国パリ市第九区トレヴィス町第46番地にて

 かつて1945年の日本敗戦のとき、8月15日から一週間ほど過ぎたころ、当時上海にいた日本人の間に、どこからともなく、ひとつの流言が伝えられてきた。
 それは広島と長崎に投下された原子爆弾によって、当の広島と長崎はもとより、広島から始まって、中国地方及び近畿一帯、また長崎から始まって、九州全部に、じわじわと放射能が広がって、人々は全滅するであろう、というものであった。
 当時として、放射能に付いての知識や情報なども、ほとんど皆無の状況にあって、それは胸に重い錘鉛を打ち込んでくるような、暗く重い経験であった。
 そうして、その流言を流言として、明白に否定してくれる人も情報もまた、皆無であった。
 かくて、敗戦後の10日目ほどのある夜、故武田泰淳が、10枚ほどの原稿用紙にしるしたものを持って、日僑 - それは外国にいる中国人を華僑と呼ぶことと相対する言い方である - 抑留地区の、ある家にいた私を訪ねてきた。
 武田氏も私も、同人雑誌『批評』の同人で、私は詩人ということになっていた。
- 詩をひとつ書いたから見てくれないか。
と武田氏が言った。
 対して私は、
- 見るというより、あなた自身読んでくれないか。
と答えたことを覚えているが、奇妙なことに私は、武田氏のその詩が漢詩であろう、と早合点していたのであった。
 武田氏が、中国文学の専攻者からでもあったが、武田氏は、私のすすめに率直に応じてくれて朗々と朗読を始めたのであった。
 それは長い、長い、長詩であった。

 その冒頭だけがいま私の耳裡に残っていて、しかもそれは私の耳裡に残っているだけであって、そのあとの数十行、あるいは数百行は、武田氏の引き上げ帰路の混乱の間に、一切失われてしまったのである。
 その冒頭の一行、

 かつて東方に国ありき

 それが武田氏の長詩の開始一行であった。

 かつて東方に国ありき
 その国には、その国に固有なものと、中華大文明との混淆と相互醸成による、一つの確かな文化があった。
 しかしいま、その文化が、原子爆弾による放射能によって滅亡するとなれば、幸か不幸か、中国の地にあって敗戦を迎えた、われら日本の文学者は、中華大文明の庇護のもとにあって、かつて東方の島国にあった文化を、営々として継承しなければならなぬ運命にあるものではなかったか‥‥‥。

 武田氏の長詩は、おおむねかかる趣旨を、堂々かつ悲傷を籠めた調べの、文語体によるものであった。
 当時、私たちはまだ若かった。
 私は28歳で、武田氏は33歳であった。


…堀田善衛『天上大風、全同時代評1986年-1998年』(筑摩書房、1998、のち抄録してちくま学芸文庫)「国家消滅」(1990初出)

 われわれの平和憲法もまた、一つのイデオロギーであると言えるであろう。
 現実の世界に置いてみれば、まさにまだ若々しいものではあるけれども、われわれはこのイデオロギーによって、歴史を創って行こうとしたのではなかったか。
 このイデオロギーまでを、プロクルステスの寝台に横たえて、為政者が長すぎると見る足を切ったり、短足と見るものを、綱をつけて引っぱったりしてはならないのである。


…堀田善衞、同書、「プロクルステスの寝台」

 まだまだ秋深しとは言えず、これからも堀田善衛を枕頭の書にしていきたく、そう、そう筑摩書房、現代日本思想体系9『アジア主義』に収められている堀田善衛「日本の知識人」(初出は「現代思想」のために書き、のち「建設の時代」(1960年刊)に収めた)も必読書、あ、そうか、そのまえに中江桃民『三酔人経綸問答』も読まないとね。
 イマ翻訳で読むか(光文社古典新訳文庫)、図書館に行って原語を探すか、思案中なんですぅ。


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2016年10月09日

堀田善衛と下町の弁護士

 正月休みを利用して、堀田善衛の『時間』を読んだ。
 戦後間もない1955年に新潮社から刊行されたこの本は、南京事件を被害者である1人の中国人の手記の形で捉え、この事件が持つ意味を深く掘り下げている。
 今回私が手に取ったのは、2015年11月17日に岩波書店から「岩波現代文庫」で刊行されたものである。
 解説は辺見庸。

「日本は侵略をしていない。
 大東亜戦争はアジア解放の戦争だった。
 日本は戦争犯罪をしていない。
 南京大虐殺は、幻であり存在しなかった。
 慰安婦問題は、反日勢力の陰謀」等々。

 こんな主張が日本会議のような狂信的な集団だけでなく、この国の政権与党からまでも公然となされるようになった今だからこそ、この本が改めて手に取りやすい文庫本として刊行された意味は大きい。
 解説の辺見庸氏が指摘するように、南京大虐殺、従軍慰安婦などいわゆる歴史認識問題は、「政治に統制、左右されるものではないにかかわらず、」「げんざい、国家間の利害を反映する政治的な行為にすりかえられ、政治利用されることがしばしばであ」るが、本来「それは人間個体それぞれの記憶、回想、想起、記録、解析、伝承といった潜在力と営為にゆだねられるべきもの」であろう。

 『時間』は堀田善衛氏が造形した占領前後の南京市内で自宅を日本軍の大尉に接収され、その奴僕として仕えながらひそかに地下活動に従事する陳英諦という一人の知識人の手記の形で書かれている。
 そうすることで、この事件を第三者的な立場でもなく、加害者側でもない、被害者の目からは、どういうものとしてあったのかを語り、事件の加害者となる日軍の振る舞いや、主人公自身を含む事件に対する被害者たる中国人のさまざまな反応を掘り下げ、その意味を思索している。
 その思索の1つ1つが、過去と真摯に向きあい、そこにある問題を自分自身の問題として引き受け、事件の再発を防ぐために何をしなければならないかを、主体的に考え抜こうとしない日本人に対する鋭い告発になっている。

 それだけではない。
 この本の深さは、被害者国民である中国人についても、それを「被害者」として単純化するのではないことにある。
 主人公自身、機銃による処刑に遭いながら奇跡的に命拾いしたが、妊娠していた妻と息子は日本軍によって殺され、従妹は日本軍に強姦されて梅毒に罹患し、その苦痛から逃れるためにアヘン中毒患者になってしまったという境遇にある。
 そうした境遇にある主人公は、自分が日本軍によって、殺された市民たちをクリークに投棄する作業に従事させられたとき、その中にまだ息のある人がいたことに気づきながら、その人を、そのままクリークに投げ捨てた自分は何者であるのか、つきつめようとするのだ。
 それは、「戦争だから仕方なかった」として問題から逃げてきた戦後の多くの日本人の態度の対極にある態度であろう。

 手記の「記憶、回想、想起、記録、解析」の一端を紹介しよう。

「十数人に姦淫されて起ち走ることのできなくなった小婦も見た。小婦は死んでいた。
 膝まずき、手を合わせ、神も仏も絶対にその祈りを聞き届けねば已まぬ、完璧の祈りの姿勢をとった人びとを、何十人となく見た。
 砲弾に吹きとばされ、裂かれた樹木の、太く鋭利な枝に、裸体にされて突き刺された人も見た。
 人も樹木も二重に殺されていた。
 戦争で人が人を殺すのはあたりまえだ、と誰かが云った。
 骨と筋肉でかためられ、神経の通った、そして動き、感じ、考えることの美しいものを、何万、何十万も最も醜悪な物と化さねばならぬような価値がもしあるとすれば、それは妄想の世界にしか存在しえない。」

「日軍にさらわれて軍夫として荷を担ぎ、車両をひかされて放浪して歩いていた時、某所で日兵が娘を輪姦した。
 娘は、顔に糞便を塗り、局部には鶏血を注いで難を逃れるべく用意していた。
 けれども、日兵たちも、もはや欺かれはしなかった。
 彼らは娘に縄をつけてクリークに投げ込み、水中で彼女がもがくのを喜び眺めた。
 やがて、縄をひいてひきづり上げた。
 糞便も鶏血もきれいに洗い流されていた。
 私は荷車に電線で縛り付けられていた。
 事おわってから、兵のうち1人が、
『いいじゃないか、お前も一挺やらぬか』
と云った。
 その兵の顔は、用を済ませた獣と永遠に不満な人間との中間が、どんな顔つきのものであるかを明らかに示していた。
 失神した小婦は失神によってまことに人間らしかった。
(中略)
 この淫蠱毒虐な景色からほど遠からぬところに2人の年老いた農夫がいて地を耕していた。
 2人は傍目もふらずに働いていた。
 1鍬1鍬、頭上高くふりあげて規則正しく地にうちこんでいた。
 1鍬、1鍬、彼ら2人がどんなに深く強く我慢をしているかが眼に見えた。」

 この本の解説者、辺見氏は、作家の堀田氏が陳英諦に仮託するかたちで、南京事件を書いたことを「目玉のいれかえ」と述べ、目玉のいれかえによって、

「ほしいままに蛮性をむきだして殺し、犯し、略奪する『皇軍』兵士らが、蹂躙される者たちの目にはいったいどのように映じ、どのように感じられ、けっか、被害者たちにどのような思念と行動を励起したのか。
 おそらく近代のニッポンジンの多くにはこうした『他者』への観点と想像力がいちじるしく欠けていた。
 すなわち、侵攻され征服される人びとの身になって切実にかんがえてみる知性と想像力がまったく足りていなかった
 作家じしん本書で吐露している『到底筆にも口にもできない』ような蛮行が可能になったのは、それゆえでもあろう。」

と書いているが、まさにその通りであろう。
 あの戦争とあの戦争の中で「皇軍」とされた兵たちが、「五族共和」「王道楽土」「大東亜共栄圏」などなどの宣伝の下、何をしたのかを直視しようとせず、侵略はしていない、戦争犯罪は犯していない、アジア解放の戦争だったと云ってはばからない岸信介の妄執を受け継ぐ安部が、「戦後レジュームからの脱却」と正面から戦後の日本国憲法への正面攻撃をしている時だけに、この指摘は繰り返しかみしめてみる必要があろう。


2016-01-03、下町の弁護士鈴木篤が、日々の仕事等を通して感じたことを記す頁
堀田善衛『時間』
https://nagaikaow.wordpress.com/2016/01/03/

 下町の弁護士、鈴木篤先生は本をお書きになっております、この次、読んでみようって、ヤッホー君。
 読書の秋ですね。

 憲法が1人語りする本「わたくしは日本国憲法です。」(朗文堂)に、静かな注目が集まっている。
 作者は、子どもの安全や労働問題などに取り組んできた弁護士の鈴木篤さん(69)。
 憲法の精神をどのように生かすかを説いている。

 「あなたがた日本国民が、平和のうちに幸せな生活を送れるように、あなたがたを守るために生まれてきました」

 憲法は「わたくし」と一人称で語りかける。

 「多数決は民主主義の原則」という考え方は間違いだと語る。多数決は使い方を誤ると個人の尊厳を奪い、民主主義を骨抜きにしかねないと訴える。
 一方で、民主主義をうたう市民団体なども、根回しをして少数意見を封じがちだとも釘を刺す。

 冒頭、「最近わたくしを葬りさろうとする動きが急になっている」の一文で始まる。
 鈴木さんは、急速に進む憲法改正の動きに危機感を抱き、執筆を思い立った。
 昨年8月に1500部出版すると、インターネットなどを通じて評判が広まった。
 鈴木さんが勤める江戸川法律事務所(葛飾区)への注文だけで1千部を超え、10月には1千部を増刷した。

 鈴木さんは山梨県石和町(現・笛吹市)で生まれた。
 幼いころに父を亡くし、生活に苦労する母を見て育った。
 近所の人にも助けられ、「こういう人たちを裏切らない生き方をしたい」と思うようになる。

 1970年に弁護士になると、ふたのないどぶ川に子どもが落ちて亡くなる事故が相次いだ問題を追及したり、出稼ぎ労働者の労災訴訟や薬害訴訟の弁護団に参加したりした。
 多発性骨髄腫を患った原発作業員が、東京電力を相手取った損害賠償請求訴訟でも弁護を務めたが、2010年に最高裁で敗訴が確定した。

 地元の人たちとつくる「江戸川憲法を読む会」の代表を務め、2006年から毎月、憲法の学習会を続けてきた。
 鈴木さんは「何度も憲法を読み直し、深い意味に気づいていった。読んだ人には本の内容を広げ、憲法の思想を自分のものにしていってほしい」と話す。


2015年3月3日03時00分、朝日新聞東京版
「憲法<自ら>語る本 葛飾の弁護士が出版」
編集委員・林美子
http://kogotokoub.exblog.jp/22989828/

 朝日新聞の林美子さんはこんな記事もお書きになっております:
 池袋を拠点に活動する女性4人の社会派ロックバンド「新月灯花(しんげつとうか)」が、初の本格的なCDを出した。原発事故の起きた福島県に通ってライブをしたり、原発建設に反対する全国各地の住民と交流したり。率直に思いを語り、交流し合える場を作ることを目指している。
 身動きできないほど観客がすし詰めになった池袋の小さなライブハウス。7月のライブで、メンバーと親しい漫画家の浦沢直樹さんのバンドに続き、「新月灯花」が登場した。
 「待ちに待った日だ今日は選挙の日」「真実が知りたい」……。
 社会への感性を研ぎ澄ませた歌詞が、小気味良いリズムとメロディーに乗って流れる。ハイライトは「新しい朝、僕は生まれた」で始まる「新生紀」。福島県出身の2人を含むファンの女性6人が打楽器を抱えて加わり、にぎやかに盛り上げた。
 さまざまな音楽活動をしていたメンバーが集まり、今の形になったのは2009年ごろ。「ロックは政治や社会への意識とセット。自然とそういう歌を歌っていた」と、ボーカルとベースの山崎優子さん(31)は話す。「いつでもどこでも誰とでも」を合言葉に、埼玉県川口市内で4人で共同生活をしながらライブハウスや路上で演奏してきた。
 そんなメンバーに衝撃を与えたのが2011年の東京電力福島第一原発事故。「電気を使わないで路上ライブをするとか言っておいて、危機感がなかった」(山崎さん)。
 事故の翌月、救援物資を車に積んで福島県いわき市の避難所に向かった。
 以来毎月、福島に足を運び、いわき市内のライブハウスや路上で演奏する。「放射能」という言葉を含む曲も作った。「少し怖かったけれど意外と反応が良かった」と、ギターとボーカルの田中美知子さん(35)。地元の人たちと音楽動画も作った。
 住民が原発建設に反対している山口県の祝島などを訪ね、昨年夏には国会前で安保法制に反対するデモに加わった。
 集大成が、6月末に完成したCDだ。福島の路上イベントの様子や、放射性廃棄物の入った袋の山などの写真も載せた。原子力工学者の小出裕章さん(67)が「私も時々歌っています」とメッセージを寄せた。
 田中さんは「何かの犠牲になるような人が出ない世の中になってほしい。そのために歌っていきたい」と話す。
 CDは税込み2千円。
 注文は電子メール(shingetu@inglabel.com)で。


2016年9月30日03時00分、朝日新聞東京版
社会への思い、ロックに込めた 新月灯花がCD
林美子
http://digital.asahi.com/articles/ASJ9H5WFTJ9HULFA02L.html?rm=352

 では、ここで、新月灯花「誰かの贅沢で殺されたくはない」:
https://www.youtube.com/watch?v=YH9n7rQVmpg


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2016年10月08日

堀田善衛と辺見庸

 戦争はごく些細な事件から発生する。
 だが、いったんはじまった戦争は、容易には終わらない。
 その結果は悲惨な災厄を招く。
 第1次世界大戦、アジア・太平洋戦争、ベトナム戦争、アフガン・イラク戦争、現在のIS戦争もしかり。

 戦後70年はけっして平和な時代だったわけではない。
 そしていま、ふたたび日本が積極的に戦争に加わろうとする時代がはじまろうとしている。

 1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋で発生した日中間の偶発的な軍事衝突も、ほんらいすぐに収拾されてよい些細なできごとだった。

ところが、そうならず、それがあっという間に日中全面戦争へと広がるのは、それまでに日中間で根深い対立があったからである。

 1931年の満州事変によって、日本は満州国を樹立した。

 これにたいし、中国国民政府主席の蒋介石は、日本の不当性を世界に訴え、国際連盟もこの主張に同調する。

そこで、日本は国際連盟を脱退し、成立して間もない満州国を力ずくで守ろうとした。

 満州国を安定させるために、華北を国民政府から切り離し、ここに親日政権をつくるという構想が生まれた。
 さらに、その先には、南京に首都をおき、日本に敵対する国民政府を倒すという戦略が引かれていった。

こうしてみれば、日中全面戦争は起こるべくして起こったといえるだろう。

 国家の欲望と不安と虚栄が生んだ、際限のない妄想が暴発した。
 戦争マシーンはもうどうにもとまらなくなっていた。
 本書、辺見庸『]『1★9★3★7』(イクミナ「逝く皆」と読む、金曜日、2015年、増補版は河出書房、2016年)はそうした日中戦争のはじまった1937年に焦点を合わせている。

 盧溝橋事件のあと、日本軍は上海に戦力を投入し、12月に国民党の首都、南京を占領した。

 そこで発生するのが、いわゆる南京大虐殺である。
 いま日本では、南京大虐殺は忘れられるどころか、そんなものはなかったとされるような雰囲気すら感じさせる。
 最近は、事件の責任は中国にあるという開き直った主張さえ見かけるようになった。

 もっぱら論議されるのは、犠牲者の数であり、中国側が30万人と主張するのにたいし、日本では4万〜6万人という数字をあげる研究者が増え、日中双方で対立がつづいている。
 そんなさなか、ユネスコが南京大虐殺文書を世界記憶遺産に登録したことに、日本政府は強く反発した。

 しかし、中国が南京大虐殺を政治利用していると非難するだけでは、問題は解決しない。
 1937年に南京で、日本軍が中国人を大量に殺害したことはまちがいない事実だからである。

 虐殺の証言は、日本側からもいくつも出されている。
 たとえば、12月17日から18日にかけ、日本軍が南京で1万余人の捕虜を大量射殺したという、元日本陸軍伍長の信頼できる証言も残されている。
 その死体の山は、高さ3、4メートルになったという。
 軍司令部からは「捕虜は全員すみやかに処置すべし」との命令が出されていた。
 殺戮に疑問をもつ兵はいなかった。その年「父祖たちはおびただしい数のひとびとを、じつにさまざまなやり方で殺し、強姦し、略奪し、てっていてきに侮辱した」と、著者、辺見庸(1944年生まれ)は書いている。

 日本人はやさしい民族だとされ、そのことを自負してもいる。
 それがなぜ中国では、あのようなおぞましい蛮行に走ったのだろうか。

 同一人物のなかで、慈愛と獣性は共存しうるなどと、気取った言い方をしたところで、なにも意味をなさない、と著者はいう。
 それよりも、あのとき、あの場所に自分をおいてみること、そして「おい、おまえ、じぶんならばぜったいにやらなかったと言いきれるか」と問うてみること。
 それは過去に向けられた問いにとどまらない。
 未来につながる問いになるはずだという。

 本書はあの時代を丁寧に追っている。
 盧溝橋事件が発生した翌月、近衛文麿内閣は「国民精神総動員実施要項」を閣議決定、「挙国一致」の精神によって、国家総力戦に突入せよとの号令を発した。
 国民は「皇運」にこぞって寄与するよう求められた。
 国民を総動員するには、マスコミの役割が欠かせなかった。
 1937年10月にNHKは「国民唱歌」の放送を開始し、その第1回に「海ゆかば」(*)を流した。
「なにかただごとでない空気の重いうねりと震えがこの歌にはある」と、著者は書いている。
 「海ゆかば」は「大君のための死を美化して、それにひとをみちびいてゆく、あらかじめの『弔歌』」にほかならなかった。

 しかし、そのころ日本の世相は戦争でわきたっていた。
 マスコミも戦争をあおりたてた。
 日本各地で、さまざまなイベントやスポーツ大会が開かれ、百貨店や劇場もにぎわっていた。
 けっして、暗い時代ではない。

 金子光晴(1895-1975)は戦争を賛美する詩を書いた。
 小林秀雄(1902-1983)は「日本の国に生を享けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない」と高らかに宣言した。

 戦争がはじまる前から、すでに思想は統制されていた。特高警察が反逆的な思想をもつ人物を治安維持法によって逮捕し、転向を強要した。

 小林多喜二(1903-1933)は1933年2月に逮捕され、築地署で拷問を受け、その日のうちに殺された。
 埴谷雄高(1909-1997)や中野重治(1902-1979)は転向の道を選ぶ。
 転向声明書はいかにも形式的だったが、それでもそれを提出するのは、天皇をいただく国家の方針に逆らわないと誓うことを意味した。
 国家を批判する言論は封じられ、国民精神を鼓舞する明るく元気な声だけが、メディアを通じて日々流されていた。
 武田泰淳(1912-1976)は1937年秋に中国の戦線に送られ、一兵士として1939年まで中国各地を転戦した。
 南京大虐殺にはかかわらなかったが、上海、徐州、武漢の会戦に加わっている。
 それは人が人を殺すのがあたりまえの苛酷な戦場であり、泰淳は犯した罪とその苦しみを、戦後「審判」や「汝の母を!」などの小説に残した。
 著者はこれらの小説を読み解くことによって、天皇の軍隊、すなわち中国で「殺・掠・姦」の代名詞をつけられた皇軍の実態に迫っていく。

 著者は北京特派員時代に、中国人の側から南京大虐殺をえがいた堀田善衛(1918-1998)の小説『時間』(新潮社、1955年)を読んだという
 小説のなかには「積屍」ということばが、何度も出てくる。
 積屍とは積み重なったしかばね。
 事実、皇軍は国民党軍にかぎらず、憎き「敵」、すなわち敗残兵や難民、一般人を、命令にしたがって、ところかまわず殺戮した。
 強姦事件もあちこちで発生していただろう。
 南京では、捕虜の処理がつづいているなか、12月17日に皇軍の入城式が挙行された。
 式では、君が代が演奏され、日の丸が掲揚され、大元帥陛下の万歳が三唱された。

「つごうのわるい時間はかつてよりぶあつく塗りつぶされたままである」と著者は書いている。
 日本人は戦争の加害者ではなく、戦争の「被害者」だと思っている(思いこまされている)のではないか、ともいう。
 加害の記憶は継承されにくいものなのである。
 都合の悪い時間を忘却したままでいると、どうなるだろう。
 そこに生じるのは過去のくり返しにほかならない。

「過去の跫音に耳をすまさなければならない。あの忍び足に耳をすませ! げんざいが過去においぬかれ、未来に過去がやってくるかもしれない」

 著者はもう戦争がはじまっていると感じている。


2015年11月20日WebRonza
[書評]辺見庸著『1★9★3★7』
戦争はもうはじまっている
木村剛久(**)
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2015111200004.html

(*)海ゆかば
https://www.youtube.com/watch?v=6BYOo7WwCTM

(**)木村剛久
 1948年兵庫県高砂市生まれ。
 早稲田大学政経学部卒業。
 1975年、(株)共同通信社入社。
 在職中、約20年間、書籍編集者として働き、160冊ほどの本を出版。
 ホームページ「海神歴史文学館」:
http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/
 ブログ「海神日和」:
http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/



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堀田善衛と宮崎駿

 「読書の秋。ヤッホー君、イマ読んでいる本は堀田善衛『19階日本横丁』(1972年9月、朝日新聞社)」と記したのは10月5日のこと。
 良いね、読者の皆さまにも一読をお勧めします。
 だって、ね、みやざき・はやお

 僕にとって、堀田さんは格別の人なのだ。
 読者になって30年にもなるが、この間、堀田さんの歩みと作品が、どれほど僕の支えになってくれたか判らない。
 日本という国が大嫌いで、日本人であることが恥しくてたまらなかった若い頃に、堀田さんの『広場の孤独』をはじめとする諸作品に出会って、この人は自分と同じ問題をかかえているらしいと感じた。
 その人ははるかに深く、ずっと遠くへと背筋をのばして歩いていた。
 僕などいくら努力しても、とても追いつけないのだが、後姿がいつも進むべき道を示していてくれた。

 自分が、国家としての日本と、風土としての日本を、分けて考えようと努力できるようになったのは、ほんの最近のことなのだが、その裏返しで凶暴な攘夷思想が頭をもたげたり、諸事あやふやになって、安っぽいニヒリズムに流されたりする。
 そんな時に、不思議と堀田さんのエッセーに出会う。
 そして、やっぱり、はるかに深くずっと遠くを歩いている後姿を発見して、正気にかえるのである。

 湾岸戦争の時だった(1990年8月クウェートに侵攻。1991年1月、アメリカを主力とする多国籍軍が空爆を開始)。
 あの辺の国境は植民地時代の産物で、そこに住む人びとにかかわりなしに、利権で引いた線にすぎない。
 イラクのクウェート占領が悪いのは判っていても、イラン・イラク戦争を通じて武器をたれ流しにして、イラクを軍事大国にしてしまったのは、アメリカをはじめとする西欧諸国ではないかという反撥が僕にはあった。
 まして、クウェートは石油成金の不動産国家で、油太りした王族と、ひと握りの国民が財テクにうつつをぬかし、外国人労働者をアゴで使う国である。

 そんな国家を守るのが正義なのだろうか。
 ブッシュ大統領の演説にはウンザリした。
 まして、日本の石油資源確保のために国際貢献を口にする輩には、もっと腹が立った。
 国中を自動車だらけにして、息子をアッシー君にしたてて、まだ石油が足りないというのか。
 しかし、サダム・フセインはなおいけない。
 オベンチャラに気勢をあげる貧相な人々の前の、得意気な彼を見ると、理解しようと努力する気力もうせた。

 TVを観つづける間に、やたらに腹が立って来てしまった。
 そして、誰かが僕の中で怒鳴った。
「やっちまえ」
 戦争をしちまえ、アメリカもイラクもグシャグシャになってしまえ。そうすれば、もうちょっと風通しが良くなるかもしれない。そんな声なのだ。

 僕は困惑した。
 情報操作されたTVと判っているのに、正気を失う自分にあわてた。
「やっちまえ」気分に流されてしまいそうな自分に愕然とした。
 僕の父親が、日米開戦の日に、真珠湾攻撃のニュースで「やったァ」と興奮したという話を聞いた時、僕はなんと愚かな男だろうと思ったのだったが、なんだ、自分もちっともちがわないんだと、思い知らされたのである。

 戦後民主主義の、戦争は絶対にしてはならないというテーゼを、僕は無条件で受け入れて来た。
 そのテーゼは今も正しい。
 しかし、その根拠となる理念が、自分の中で何とも弱いのだ。
 多民族が入り乱れ、憎悪が、憎悪の拡大再生産をつづける現実に出会うと、その弱さがモロに出てしまう。
 危機管理能力がないのは、何も自民党の先生方だけではない。

 僕は、マスコミのどんな人達よりも、堀田さんの意見を聞きたかった。
 堀田さんなら正しい判断を示してくれる。
 少くとも、「やっちまえ」とは絶対にいわないはずだ。

 この本(『めぐりあいし人びと』集英社文庫版は1999年) で、堀田さんは、領土を持たない、だから国家利害のない立場で判断を下すヴァチカン放送の存在に触れながら、湾岸戦争について次のように述べている。

今回の湾岸戦争にたいするヴァチカンの見解というのは、簡単にいえば、意思疎通のできない者同士が戦おうとしている戦争であるということです。
 つまり、一方のイラクは、オスマン・トルコ帝国以来の歴史によって戦おうとしている。
 ところが、もう一方のアメリカ側は、現在の利害と現在の法、すなわち国連によって戦おうとしている。
 これでは話の通じようがない。話の通じない者同士が武器をとってはいけない。
………
 私は、この考えはたいへん妥当で、かつ公正だと思いました。
 だからこそ、話し合いをつづけるべきだ、ということですね


 お前は何をうろたえているんだ、本当に私の作品を読んで来たのか、という堀田さんの叱責が聞こえるようであった。
 政治にも経済にも「現在」しかない、<ひなたの溜り水>のような日本の現状では、堀田さんのいう重層的な歴史感覚へ過去も未来も現在も仏教の曼陀羅のように人間をとりまいているという見方を、身につけるのはとてもむずかしい。
 しかし、少くとも自分の歴史感覚や考えに欠陥があると自戒していこうと思う。
 さもないと、すぐ「やっちまえ」に押し流されてしまう。
 世界は混乱と崩壊の時代をむかえているのだから、自分の身のまわりに何が起こるか判らない。
 その時、堀田さんのようでありたい。


 プラハの春を押しつぶしたソ連軍のチェコ侵略の時、モスクワの作家会議の満座の敵意の中で、それを批判する堀田さん。

 第二次世界大戦の末期の上海で、中国の花嫁に無礼をはたらく日本兵を制止して、暴行を受けながら、日本国の中国侵略の実像を、肌で自分のものにした堀田さん。

 ブレジネフ時代のソ連で、危険すぎる反体制活動に身を挺する女性に、時代が折れるのを待て、ペンを血にひたすことはない、と止めつつ、その人の苦悩と絶望を受けとめる堀田さんの勇気。

 1945年3月の東京大空襲の焼跡で、知人の消息をたずね歩くうちに、昭和天皇の焼跡視察に出会い、戦災を受けた人々が、本来謝らねばならない立場の天皇に、逆に土下座して謝る様子を目撃して、日本と日本人に絶望した堀田さん。

 その運命的な体験を出発に、たくさんの人びとと出会い ―― それは同時代の人に限らず、鴨長明、藤原定家という人びとも含めて ―― 独特の歴史感覚を育て、堀田文学をつくった人。

「戦後派の文士に遺言のようなことになってしまいました」
とおっしゃるこの本を、50歳を越えたのに、堀田さんにとっては困ったものの若い諸君に入る自分だが、僕よりもっと若くて、バブルの中で大人になってしまった人達に、堀田善衞の全著作と共にすすめたい。

(初出「青春と読書」集英社1993年1月号、『出発点』(徳間書店)所収より)

■ 注釈
『めぐりあいし人びと』は、1993年に出版。
 内容は自伝的回想録で、上海での敗戦体験やアジア・アフリカ作家会議のこと、訪れた海外のことなどを記している。
 また「めぐりあった人」の中に歴史上の人物である西行や鴨長明、藤原定家らが含まれているのがいかにも堀田氏らしい。


2003.12.20、宮崎駿(1941年1月生まれ)エッセー再録

スタジオジブリは2004年2月、堀田善衞氏の著作の3作品を復刊し、堀田氏が出演した「NHK人間大学」などの番組をビデオグラム化します。このWEBサイトは、その書籍とビデオグラムを紹介するサイトです。

http://www.ghibli.jp/h_books/essay.htm

 では、今日も前を向いて、後ろを振り返り、左右よく見て、元気に歩いていきましょう
https://www.youtube.com/watch?v=9F_MNxGUl8U

 行ってきま〜す


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2016年10月07日

Beatles film

Sure, they were great, but it’s possible to get too much of the Beatles, isn’t it?

Nah.

Ron Howard’s new documentary, “The Beatles: Eight Days a Week − The Touring Years,” is 90 percent familiar and a bit hagiographic as well, but just try watching it without smiling.

That, at least, is likely to be your reaction if you were alive during Beatlemania. A trickier question is whether the film will enthrall or just bore the audiences Mr. Howard has said he is particularly interested in − millennials and whatever other generations weren’t yet born when John, Paul, George and Ringo took the world by storm. If these viewers can get past their “enough already with the ’60s” gag reflex, they too will surely warm to this study of full-force fame.

The film concentrates on the years through August 1966, when the Beatles stopped touring after a run that left thousands of screaming fans with sore throats. It’s a period that has already received a fair amount of attention lately, with the 50th anniversary of singular moments like the group’s first visit to the United States in 1964 and its Shea Stadium concert in 1965. Mr. Howard has some rarely seen or heard material in the film, but unless you’re a scholar, it’s hard to tell what it is, so familiar is the overall tale.

But he effectively conveys just how insane these years were. The Beatles weren’t the first to make women scream and faint − dial up footage of Frank Sinatra or Elvis Presley at his peak − but the pace and scale astonish even today. Paul McCartney and Ringo Starr, the surviving Beatles, provide fresh interviews, and John Lennon and George Harrison are heard in clips, all of them reflecting on what it was like to ride the beast.

The film is a project of Apple Corps, the Beatles’ company, so don’t expect a warts-and-all portrait − in this telling, the band members never misbehaved significantly or had creative differences. The way to watch is to ignore the image burnishing and just feel the moment.


The New York Times, Published:SEPT. 15, 2016
Review: ‘The Beatles: Eight Days a Week’ Taking the World by Storm
By NEIL GENZLINGER
http://www.nytimes.com/2016/09/16/movies/the-beatles-eight-days-a-week-review.html

London - The two surviving Beatles took to the blue carpet on Thursday for the London screening of a new documentary, with the film’s archive footage described as “very emotional” by Paul McCartney.

”Eight Days a Week: The Touring Years” follows the band on the road for four years from their native Liverpool in 1962 through a series of US tours characterised by Beatlemania.

Appearing at the screening in London, which followed the world premier in Liverpool earlier on Thursday, McCartney said the documentary brought back fond memories.

”We’re getting great memories obviously of playing with John and George.
”So that’s very emotional and very special to see that again,” he told reporters.

McCartney, 74, was joined at the screening by fellow Beatle, 76-year-old Ringo Starr.

John Lennon’s widow Yoko Ono, and Olivia Harrison, widow of George Harrison, also attended, in addition to celebrities including Madonna.

Half a century since the Beatles played their last major concert -- at Candlestick Park in San Francisco -- Starr said their enduring popularity was “beautiful”.

”People love the Beatles. We happen to be two of them and here we are,” he said.

The film, directed by Ron Howard, includes previously unseen footage which shows the toll fame put on the band as they were mobbed by fans around the world.

In one interview, Lennon said the hysteria at their performances turned Beatles concerts into “a freak show”.

”The music wasn’t being heard,” he said.

McCartney said he was the last of the band to decide to give up live performances.

”We did Candlestick Park and it was OK, a lot of screaming and we didn’t enjoy the gig and we were just hustled into this meat wagon which was just like a chrome box and we are all just sliding around looking at each other thinking‘bloody hell’,” he told BBC’s “The One Show” on Wednesday.

Starr told the BBC they realised it was the moment to stop: “We had just had enough, we knew that was the last gig, it was time. You can only do that for so long.”

The Beatles played their last live performance three years after the Candlestick Park concert, on the rooftop of their Apple Records headquarters in London.

Ahead of the screening, McCartney said he took pleasure from watching the Beatles perform.

”I think the basic thing about the Beatles is that we were a great little band,” he said.

”So to see us performing as a band is a great thing, because without that, we couldn’t have made the records. That was the foundation of everything we recorded.”


The Star, Published: Friday, 16 September 2016 | MYT 4:25 PM
Paul McCartney ‘emotional’ as Beatles film has UK premiere
By AFP
http://www.thestar.com.my/news/world/2016/09/16/paul-mccartney-emotional-as-beatles-film-has-uk-premiere/

The story of the Beatles is like the story of Watergate or the second world war, the civil rights movement or Vietnam: it contains a million smaller stories, a million witnesses, a million angles of approach. Ron Howard’s documentary Beatles: Eight Days A Week – The Touring Years extrudes yet another narrative fragment from the Fabs’ fable and makes it a story all of its own. It concerns the four years the group spent touring first Britain and Germany, then the US and the world; years that made them, and also broke them.

Eight Days A Week strips away layers of myth to give us back the Beatles who made the whole world scream. It also strips away the screaming, too – that wall of sexualised hysteria that was the signature soundtrack to Beatlemania – and permits us to hear what most Beatles audiences of the time barely could: the music itself. In addition, it puts us inside the bubble of their skyrocketing fame, an experience that these four men alone shared, and which only they fully understood.
To hear the Beatles live again is to remember the strength of their musical togetherness, the years of practice, friendship and collaboration that underpinned them. Eight Days a Week also reminds us that from within that constricted, hotel suite-bound, waited-on-hand-and-foot lifestyle, emerged the phenomenal nine-hour monolith of their recorded output, which artists and musicians are still facing down today.

“I was interested in that bubble they were in,” says Howard (who is exactly as nice, funny and enthusiastic as you’d expect the man who played Richie Cunningham to be). “I began to think of the story as like Das Boot: they’re in it together, they have each other, they know what their objective is, but, y’know, it’s a dangerous world out there.”

Howard and his team, including British producer Nigel Sinclair, found a huge amount of material, using the internet to send out feelers for fan footage of live shows, local TV news clips and bootleg recordings. They found tape that captured the music that screaming fans mostly couldn’t hear. “We were lucky enough to find a number of bootleg soundboards,” says Howard, “so we got them digitized and restored them to flesh out some of the concert moments, to add a lot more detail and bring the viewer in from arms-length, get them up close, intimate.”

The results are stunning. Restored footage of the band playing their first truly great rocker I Saw Her Standing There at the Washington DC Coliseum in 1964, during the short east coast tour after their epoch-making Ed Sullivan Show taping in February, features Harrison and Lennon’s guitars thrashing with an almost proto-punk ferocity, and Ringo going wild behind his kit, his hair scattering sweat drops as the teenagers scream and wail. Throughout the film there are revelatory live moments at Budokan in Japan, in Australia, at Shea Stadium and at Candlestick Park.

Howard and his editors also manage a number of celebrity Beatle-fan coups, like the day when, to their astonishment, they spotted a 14-year-old Sigourney Weaver looming lankily over her fellow teenyboppers in footage of a 1964 show, and then pulled Weaver in to share her memories. Whoopi Goldberg tells a beautiful story of her mother taking her on a “mystery tour” which ended up at Shea Stadium for the Beatles’ biggest live show ever.

When the Beatles appeared on Sullivan, Ronnie Howard, as he was credited then, had already been playing the iconic Opie Taylor on the top-rated The Andy Griffith Show for three years. A year earlier he had starred with Glenn Ford in Vincente Minnelli’s The Courtship of Eddie’s Father. He was nine. The Fab Four hit him right where he lived. “I was already acting and I was going to school, so I wasn’t out of touch,” he says. “I certainly knew enough about the Beatles to watch Ed Sullivan, which was in February. And my birthday’s in March so I asked for a Beatle wig and Beatle boots. They couldn’t find any boots, but they did find this, in retrospect, really nasty-looking Beatle wig, but I was delighted and I wore it all through my 10th birthday.”

As the band became a more complex prospect, Howard’s interest deepened. “I had a teacher who began to use lyrics off Rubber Soul as examples of poetry, to stimulate our imaginations. What I noticed even at that age was: ‘Two years ago they were singing I Wanna Hold Your Hand and She Loves You, but look at them now!’ They were changing with the times, reflecting a huge cultural shift – and leading it.I don’t know if they would have accepted that role if it hadn’t been thrust on them, but it was, and they did, and they excelled in it.” Even if they weren’t aware of it at the time. We both laugh as we recall the film’s funniest moment, when Paul tells an interviewer in 1964, “Culture? This isn’t culture. It’s just a good laff!”

This sense of quantum leaps in creative growth is what hooked Howard to the movie. “What makes it unique, to me, is the cultural pressures. It’s awe-inspiring – and I didn’t quite understand it, though I had a sense of it as a 10-year-old kid. The fact that they were able to be that creatively ambitious, and maintain it, and keep growing at that moment, while they were coping with this remarkably wonderful, but also kind of shocking, reality of their success, is kind of awesome. In a way, that sort of creative integrity is at the heart of the story for me. As a unit, they produced genius-level work and were four intelligent, charismatic but self-effacing artists. That whole approach they had to the music, to the press, their natural wit as a foursome fooling around for the cameras, was totally organic and unique to them and them alone, making them sort of this four-headed beast.”

Also highlighted is a moment on the 1965 tour when the Beatles refused to accept a segregated audience in Jacksonville, Florida, but in a Beatles way – “Nah, it’s stupid” – rather than in a political fashion. Nonetheless, the gig and the remainder of the southern leg of the tour unfolded in quietly desegregated venues, a little piece of progress not widely noted. “They were forced to do more, to take a position, once they became so huge. There’s a kind of intellectual logic that is theirs alone, that applies to art and, in this case, to life, and they cannot abide not following that logic.”

Whatever the Beatles did, they did first and did best. Where they led, everyone else followed. Eight Days A Week acknowledges all of that, but reminds us that at the centre of it all, for four tumultuous years of live performance, it was all about being four boys in a band. Until suddenly it wasn’t. On the plane to LA after what would turn out to be their last proper gig, in San Francisco, George Harrison was heard saying: “That’s it. I’m no longer a Beatle.” Thereafter, they confined themselves to the studio, only playing live once more, on the roof of their Apple HQ, shortly before their dissolution. For Howard, that decision to knock touring on the head plays into their mystique.

“What I take away from it, as an entertainer and a storyteller myself, is that incredible sense of commitment they had. The fact that they could turn their backs on what made the money – retire altogether from endless touring – to fulfil the creative needs they could all feel were bursting out of them? That blows me away.”


The Guardian, Last modified on Tuesday 20 September 2016 14.58 BST

Eight Days A Week: how Ron Howard brought the Beatles back to life ;

Howard’s new film captures the sweat, screams and cultural significance of the band’s touring years. He explains why the Fab Four still fascinates him

Photo:
The boys are back in town... The Beatles in 1962

By John Patterson
https://www.theguardian.com/music/2016/sep/13/beatles-eight-days-week-ron-howard



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ザ・ビートルズ

 10月5日「角川シネマ有楽町」の銀幕………

映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK』公式サイト
http://thebeatles-eightdaysaweek.jp/

 ザ・ビートルズの驚異的な初期のキャリアを描いたドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』で、数々のセレブリティーがインタビューに応じていることが明らかになった。

 映画は1970年の『レット・イット・ビー』以来46年ぶり、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』から実に21年ぶりとなるアップル公式作品。当時はモノクロだった映像がカラーで鮮明によみがえるほか、ポール・マッカートニーやリンゴ・スターのインタビューや、レアな映像の数々が収録される。

 今回出演が発表された一人は、女優のシガニー・ウィーバー(写真)。ロン・ハワード監督が集めたアーカイブの中に、ハリウッド・ボウルでのライブを鑑賞する14歳当時の姿(写真下)が発見され、インタビューが行われた。

 他にもウーピー・ゴールドバーグやエルヴィス・コステロ、『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ! 』『ヘルプ!4人はアイドル』の監督を務めたリチャード・レスターのインタビューがフィーチャーされている。

 日本で上映される本編は、50年前の来日時のパートが特別に長く編集されており、武道館でのライブシーンも収録されている。

 さらに、ザ・ビートルズ日本公演主催の中部日本放送(※後のCBCテレビ)の依頼で、写真集「ビートルズ 東京-100時間のロマン」を手掛け、彼らが宿泊したホテルの同フロアに寝泊まりし、4人の姿をカメラにおさめることを許された唯一の日本人カメラマン、浅井慎平のインタビューも紹介される。

 映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』は9月22日より全国公開される。監督は『ビューティフル・マインド』(2001)でアカデミー賞を受賞したロン・ハワード。ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ヨーコ・オノ・レノン、そしてオリヴィア・ハリスンの全面協力の下で制作された。


2016-09-05
ザ・ビートルズ、新作ドキュメンタリーに豪華セレブ出演
http://www.mtvjapan.com/news/cinema/27505

 映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAY A WEEK – The Touring Years』が9月22日に公開され、全国で大ヒット中だ。ますます盛り上がる日本のファンのために、ポール・マッカートニーとリンゴ・スターからのコメントが届いた。

 今回解禁されたのは、9月15日にロンドンで行われたワールドプレミアでのインタビュー。リンゴは映画が完成したことについて、「とてもいい気分だよ。僕たちはこの作品のために時間を費やしたんだけど、ロン・ハワードが監督してくれてラッキーだった」と述べた。

 ポールは当日着用していたジャケットについて、「このジャケットは『ハード・デイズ・ナイト』(1964)のプレミアで着たものなんだよ!」と明かし、ザ・ビートルズの仕立屋として知られているダグラス・ミリングのタグを見せた。これを見たリンゴは、「言ってくれたら僕のも出してきたのに!」と語っている。

 52年前のジャケットを大切に保管し、記念の日に着てくるポールからは、本作への思い入れが伝わってくる。また、22歳の頃のジャケットが今でもぴったり入ることにも驚きだ。

 リンゴは日本のファンへのメッセージを求められると、「日本のみんな、ピース&ラブ!10月に行くよ」とピースサインを見せた。

 一方のポールは得意の日本語を交えて、「ピース&ラブ!みんなコンニチハ!コンバンハ!日本!愛してるよ!」と投げキッスを贈った。


2016-09-29
ザ・ビートルズ映画大ヒット、ポールとリンゴからコメント到着
http://www.mtvjapan.com/news/cinema/27635

 今なお人気を誇るビートルズや早世した米ロックボーカリストのジャニス・ジョプリンら、音楽界の「レジェンド」を素材にしたドキュメンタリー映画の公開が相次いでいる。未公開映像・資料、新証言をもとに最新の映像処理が施された作品は、アーティストの新たな側面に光を当てている。

 真っ青なカーペットに彩られたロンドン中心部レスター・スクエア。ビートルズの元メンバー、ポール・マッカートニーとリンゴ・スターを、沸き上がる歓声が迎えた。別に会場入りしたマドンナやエリック・クラプトンを上回るファンの興奮ぶりに、2人はピースサインを掲げて応えた。
 日本でも公開中のドキュメンタリー映画「ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK」の先行上映会が先月15日、ロンドンの映画館で開かれた。メンバーが青空を背景に立つ写真が映画の「顔」として使われている。「ブルーカーペット」は、この空の青にちなんで採用された。
 上映前、舞台に上がったポールは「この映画には、僕らの夢のような冒険が収められている。リバプール出身のただの少年4人がお互いを尊重し、非常に優れた音楽を生み出した」と話した。
 映画は公演映像や写真、インタビューを交え、ビートルズが世界各地で公演した1963年から66年の活動を中心に追う。
 カラー化された公演映像はメンバーの演奏だけでなく、観客の熱狂も生々しく伝える。ドラムのリンゴが、観客の歓声で演奏が聞こえず、メンバーの後ろ姿を見て音を合わせたというエピソードも紹介されている。終盤には、65年にニューヨークのシェイ・スタジアムで開かれた「伝説の公演」が約30分間収められている。
 日本で劇場公開中のバージョンは、日本公演に関する映像が海外版より2倍以上長い約5分だ。当時、日本人で唯一、密着取材が認められたという写真家の浅井慎平氏がビートルズ人気を分析している。

 日本で配給を担当するKADOKAWA(カドカワ)の井野元直子さんは「公開4日間の興行収入は5600万円。音楽ドキュメンタリーとして好調な数字だ」と話している。
 映画評論家の森直人さんは「伝説のライブバンドとしてのビートルズを追体験した気分。伝説の向こう側にいたアーティストをデジタルの力で引き寄せることができるようになった」と話す。映画と並行して初CD化したライブ盤「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」の売り上げも好調だという。

 ビートルズ以外でも、アーティストのドキュメンタリー映画は目白押しだ。
 今年6月から順次公開中の歌手ジェームス・ブラウン(JB)の「ミスター・ダイナマイト」は、プロデュースしたミック・ジャガー自身がJBの影響を受けたパフォーマンスをしていたことを比較映像を通して紹介する。キング牧師暗殺直後の公演では、興奮して舞台に押し寄せた観客を鎮める様子がテレビで生中継された。こうした映像から、黒人の権利を求める活動家としての顔を知ることもできる。
 27歳でドラッグ死したジャニスの「リトル・ガール・ブルー」(順次公開中)では、家族や恋人にあてた手紙の数々を公開。断絶した母親に最後まで素直な気持ちをつづっていたことがわかる。
 「AMY」(同)は同じ27歳で亡くなったグラミー賞受賞の英歌手エイミー・ワインハウスの人生を描く。家族や恋人らに「優しさ」を求めた2人の姿がだぶる。
 年末には90年代に結成された人気バンド、オアシスのドキュメンタリー公開も決まった。

 このところ確かに、スポーツ中継やコンサートなど映画以外のコンテンツを映画館で上映するケースが増えてきている。森さんは「観客は音響のよい大きな画面で体感を楽しむ方向に向かっている。その意味で音楽映画のニーズは高まっている」とみる。
 作品の質も変化している。「ドキュメンタリーはアーティストが生きた時代の社会的背景も知ることができる。最近作は、彼らの心情や葛藤を掘り起こして、映画のようにストーリー性をもたせている」と言うのは、ラジオDJの今泉圭姫子(けいこ)さん。「アーティストの魅力を再発見するきっかけになりうる」と語る。


2016年10月2日19時02分朝日新聞デジタル(笹井継夫=ロンドン、上林格)
ビートルズ・ジャニス…「伝説」が映画に 相次ぎ公開/strong>
http://digital.asahi.com/articles/ASJ9X51FNJ9XUCVL00Q.html?rm=418

 では、ここで上の記事に出てきたビートルズの曲を聴いてみることにしましょう。
 映画でもどなたかがおっしゃっていましたが、音楽の力でここまで人を引き寄せ、その曲が半世紀たってもなお人のこころに響くというのはモーツアルト以来の天才かもしれません。

Eight Days A Week
https://www.youtube.com/watch?v=Vs5qsk0pc6Y

Help !
https://www.youtube.com/watch?v=aCGvZgDvtkU

A Hard Day's Night
https://www.youtube.com/watch?v=PlDdcCzKjsc

Let It Be
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be.
And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom
Let it be.
Let it be, let it be, let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be.
And when the broken-hearted people
Living in the world agree
There will be an answer
Let it be.
For though they may be parted there is
Still a chance that they will see
There will be an answer
Let it be.
Let it be, let it be, let it be, let it be
There will be an answer
Let it be.
And when the night is cloudy
There is still a light that shines on me
Shine until tomorrow
Let it be.
I wake up to the sound of music
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be.
Let it be, let it be, let it be, let it be
There will be an answer
Let it be.
Let it be, let it be, let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be




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2016年10月06日

ジョン・レノンの最初の妻シンシア

 読書の秋。
 ヤッホー君、イマ読んでいる本はシンシア・レノン(1939-2015)『ジョン・レノンに恋して』(吉野由樹訳、河出書房新社、2007年3月)。

 一読をおすすめしますが、シンシアは昨年ガンで亡くなっておりました、合掌。

John Lennon’s first wife, Cynthia, has died at her home in Spain, her family said. She was 75.

A message on her son Julian’s website said she died “following a short but brave battle with cancer”.

It said: “Her son Julian Lennon was at her bedside throughout. The family are thankful for your prayers. Please respect their privacy at this difficult time.”
Julian tweeted a picture of his mother inside a heart with the message “In Loving Memory”.

Cynthia met Lennon at art school in Liverpool in 1957 and the couple married just before Beatlemania transformed her husband from a jobbing musician into one of the most famous men in the world.

At the height of the Beatles’ early success, she was kept so far in the background that many of Lennon’s female fans were not even aware of her existence, and she stayed at home bringing up Julian while the Fab Four toured the world and topped the charts.

The couple divorced in 1968 after Cynthia discovered her husband’s relationship with the Japanese artist Yoko Ono.

Hunter Davies, who wrote the only official biography of The Beatles in 1968, said Cynthia was “a lovely woman”.

He said: “When I was writing the book I spent two years with them, visiting her home and spending time with her. She was totally different from John in that she was quiet and reserved and calm. She was not a hippy at all.

“I think it was the attraction of opposites between them. When they got together at art school everyone was amazed – she was seen as refined and reserved and nobody thought they would last.

Born Cynthia Powell, in Blackpool, she remarried several times after her divorce from Lennon and published memoirs of her time with him.

In an interview to publicise one of her books, 2005’s John, she told Good Morning America: “I have read so many books and seen so many films, and it’s like we don’t really exist. We are like walk-on parts in his life. We did spend 10 years together.”

Recalling their early days, she said: “You couldn’t resist being around him. You couldn’t resist watching what he was up to. I mean, he was a total rebel. Everybody was amazed by him.”

Ono, said in a statement: “I’m very saddened by Cynthia’s death. She was a great person and a wonderful mother to Julian.

“She had such a strong zest for life and I felt proud how we two women stood firm in the Beatles family. Please join me in sending love and support to Julian at this very sad time. Love, Yoko”.

Lennon’s former bandmate, Sir Paul McCartney, said: “The news of Cynthia’s passing is very sad. She was a lovely lady who I’ve known since our early days together in Liverpool.

“She was a good mother to Julian and will be missed by us all but I will always have great memories of our times together.”

Ringo Starr, tweeted a message from him and his wife Barbara Bach, which read: “Peace and love to Julian Lennon God bless Cynthia love Ringo and Barbara xx”.


The Guardian, Last modified on Thursday 2 April 2015 00.16 BST

Cynthia Lennon dies at 75 ;

John Lennon’s first wife dies at her home in Spain after a short battle with cancer

By Press Association
https://www.theguardian.com/music/2015/apr/01/cynthia-lennon-dies-beatles

As the first Mrs John Lennon, the former Cynthia Powell witnessed at first hand the reality-distorting effects of pop stardom on a hitherto unknown scale.

Cynthia, who has died of cancer aged 75, married Lennon in 1962, just before the Beatles released their first single, Love Me Do. By the time the couple’s marriage foundered in 1968, the Beatles had become more like a religion than a pop group.

Cynthia had done her best to share Lennon’s journey through drugs, mysticism and superstardom, but it proved an impossible challenge. When she returned that year from a trip to Greece to their Surrey mansion to find Lennon and the artist Yoko Ono, in matching towelling robes, gazing at each other, she realised the game was up. “The Beatles had overdosed on everything that fame can bring,” she reflected later.

The couple divorced that November, but Cynthia never managed to escape completely from Lennon’s giant shadow – “having tried to live an ordinary life for so many years since John and I parted, I have come to realise that I will always be known as John’s first wife,” she wrote in her 2005 memoir John – but for the rest of her life she kept trying her hand at a variety of roles. She opened restaurants, wrote books and even made a stab at becoming a recording artist. She married three more times and was a devoted mother to her son, the musician Julian Lennon.

Cynthia was the third child of Charles Powell, who worked for the electrical and engineering company GEC, and his wife, Lillian. She was born in the opening days of the second world war, in Blackpool, to where her mother had been evacuated from the family home in Liverpool. As the war got into full swing and the Luftwaffe began to target Liverpool, “my Liverpudlian parents moved across the Mersey to the relative safety of Hoylake, a sweet little seaside village,” she recalled.

Cynthia showed artistic flair, and after attending the city’s Junior Art School, began studying at the Liverpool College of Art in 1957. She met John Lennon in lettering classes (he mocked her middle-class manners by addressing her as “Miss Hoylake”), and despite her protests that she was already engaged to a boy in Hoylake, she rapidly succumbed to Lennon’s caustic charms.

Their relationship was volatile, with Lennon prone to jealousy and violence (“I was in sort of a blind rage for two years, I was either drunk or fighting,” he said). Nonetheless she stuck by him, and visited Hamburg in 1961 when the Beatles played a residency there, apparently remaining oblivious to the band’s frantic promiscuity. The following year, aged 22, she found herself pregnant, to which Lennon retorted: “We’ll have to get married then, Cyn.”

This they did, in Liverpool on 23 August 1962, with the Beatles’ manager, Brian Epstein, as best man. Cynthia had been intending to become an art teacher, but now found herself in a kind of limbo as a wife and, after Julian’s birth in 1963, mother. Epstein insisted that the fans should never know that John was married, to preserve his aura of laddish availability, so Cynthia was often left behind with Julian while John was away touring or recording. “There was John, rapidly becoming famous and wealthy … and there was I, in a grim little five-pounds-a-week bedsit, with his son,” she wrote later.

In 1964 the Lennons moved in to Kenwood, a mock-Tudor pile near Weybridge, Surrey. Cynthia enjoyed the company of her fellow Beatle wives Pattie Boyd (married to George Harrison) and Maureen Starkey (Mrs Ringo Starr), who lived nearby, and became accustomed to a life of social gatherings of the pop glitterati at her home or nights out in West End clubland. But drug use in their circle grew, with John becoming a compulsive taker of LSD. “John’s discovery of LSD made him vulnerable to anything bizarre, odd or exciting which knocked on his door – which, of course, is what Yoko did,” said Cynthia.

She had hoped the Beatles’ journey in February 1968 to Rishikesh in India to meditate with the Maharishi Mahesh Yogi might restore some calm to their marriage, but instead found that “it just presaged the end,” with John secretly receiving letters from Ono during the trip. Cynthia started divorce proceedings after hearing that Ono was pregnant. Eventually John grudgingly agreed to pay Cynthia £100,000, plus maintenance of £2,400 a year, with another £100,000 placed in a trust fund for Julian (though eventually he had to share this with John and Yoko’s son Sean).

The Italian hotelier Roberto Bassanini became the new man in Cynthia’s life. They were married in 1970 and divorced in 1973. Cynthia then opened Oliver’s Bistro, a restaurant and B&B in Ruthin, Wales, and in 1976 married John Twist. In 1978 she published a memoir, A Twist of Lennon, despite John Lennon’s attempts to block it.
In December 1980 she was staying with Maureen Starkey when Ringo called to break the news that John had been murdered in New York. Ono decreed that Cynthia should not attend the funeral, and although John had achieved a rapprochement with Julian during the 1970s after years of paternal indifference, there would be much legal wrangling before Ono would part with any financial support for Julian.

Cynthia was divorced from Twist in 1983, sold Oliver’s Bistro and changed her name back to Lennon by deed poll, frankly admitting that it made her more bankable. She raised money by auctioning Beatles memorabilia, but her business initiatives (including textile designing, the launch of a fragrance called Woman and a Lennon’s restaurant in Covent Garden, London) were not successful. In 1995 she tried her hand as a pop singer with a recording of Those Were the Days. The song had been a No 1 hit for Mary Hopkin in 1968, boosted by production by Paul McCartney, but Cynthia’s version did not make the charts.

In 2002 she married a nightclub owner, Noel Charles, and in 2005 published John, about her life with and without Lennon. There were signs of a thaw in relations with Ono when both attended the premiere of Cirque du Soleil’s Beatles-themed show Love in Las Vegas in 2006. In 2010 Cynthia joined Ono, Sean and John Lennon’s erstwhile lover May Pang in New York at the launch of Julian’s photo exhibition Timeless.

Cynthia lived in Majorca with Noel, and remained there after his death in 2013.

She is survived by Julian.

• Cynthia Lennon (Cynthia Lilian Powell), designer, restaurateur and writer, born 10 September 1939; died 1 April 2015


The Guardian, Last modified on Friday 3 April 2015 00.12 BST

Cynthia Lennon obituary

First wife of the Beatle John Lennon who never escaped his shadow

By Adam Sweeting
https://www.theguardian.com/music/2015/apr/02/cynthia-lennon

 日本語での情報もぜひご参考に:
 ここ日本では2011年の東日本大震災・原発事故以来、「きずな」という言葉がひとつのキーワードとして、テレビ、ラジオ、マスコミなどで盛んに使われている。
 きずな(絆)がそれだけ強調されるということは、裏返せば、いかにわれわれがつながっていなかったか、ということを示しているのではないかと思うのである。

 ジョン・レノンと先妻シンシアとの間の子ども、ジュリアンの2011年のアルバム『エブリシング・チェンジズ』には、この「きずな」について考えさせられる歌が収録されている。「ディスコネクテッド」(disconnected)という歌だ。
 意味は要するに、“つながっていない”ということである。
 「ディスコネクテッド」にはいくつかの段階があると思う。まずは個人的なレベルで他とのつながりを喪失した、させられた状態のことだ。
 ジュリアンの場合、ジョンや他のビートルズ・ファミリーとの関係がそれにあたる。
 ジョンとシンシアは68年に正式離婚する。ジュリアンが5歳の時だ。
 ジョンは自分の子どもであるジュリアンへの愛情を示すとともに、次のように語ってはばからなかった。

「この地球上にいる人間、特に西欧世界の人間の90パーセントは、土曜日のウィスキーひと瓶が原因で生まれてきたのだ。親が子どもをつくろうっていう意志なしで、生まれてきたのだ。だから、ぼくらの90パーセントは、誰もかれも、偶然この世に生まれてきたのさ」
「ショーン(ジョンとオノ・ヨーコとの間の息子)は、両親がつくりたいと思って生まれてきた子どもだよ。そこに差があるのだ」。

 ジュリアンが父に対して複雑な感情を抱いていたことは想像に難くない。
「父は確かに、偉大なる才能に恵まれ、世界に向けて平和と愛を訴えて立ち上がったすばらしい人間だ。でも同時に、その平和も愛も、最初の家族、つまり母(シンシア)とぼくに対して示すのは、とてもむずかしかったようだ」とシンシアの伝記本『ジョン・レノンに恋して』(河出書房新社)の序文に書いている。2005年のことだ。

 ジュリアンにとって、特に80年のジョンの死後に彼の歌などの権利の管理を一手に引き受けているヨーコとの折り合いが難しかったようだ。ヨーコのものごとのやりかたを軽蔑しているかのような発言をしたことさえあった。
 2009年にジュリアンは初めて父を許すことが出来たと語った。ジョンの名曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」のモデルになった、ジュリアンの旧友ルーシーを追悼して書いた「ルーシー」という曲がきっかけとなった。

「父が出て行って母と離婚し、ぼくは苦しみと怒りとともに生きてきた。友人のルーシーが亡くなって、この曲を書いたことによって、本当に父を許すことが出来た。もし父に対する怒りと恨みを感じ続けていたら、ぼくの頭の上には、一生雲があっただろう。この曲をレコーディングしたあと、ほとんど自然に父を許し、苦しみと怒りと恨みを過去に置いてきて、よいことに目を向け、享受することが適切だと感じられた」

 2010年にはニューヨークのギャラリーで行われたジュリアンの写真展のプライベート・プレミアで、彼と母シンシア、ヨーコ、そしてショーンが勢ぞろいしたのだ。
 ジュリアンは「カギを握っているのはショーンだ。もしぼくがショーンの母親を傷つけたとしたら、それはショーンを傷つけることになるからだ」と語っていた。
 しかし翌年、再び、ジュリアンは自分と母シンシアがビートルズの歴史から消し去られようとしているとして落胆を吐露することになる。つまり、ポールのナンシーとの結婚式に招かれなかったこと、シルク・ドゥ・ソレイユによるミュージカル「LOVE」の5周年記念式典に招かれなかったこと、ジョージ・ハリスンの伝記映画「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」のプレミアに招かれなかったことに対し「冷遇された」、「冷たくあしらわれた」(snubbed)とツイッターで心情を明かした。

 ジュリアンが他のビートルズ・ファミリーと「ディスコネクテッド」、要するにつながっていないということに対する不満なのだ。
 そして、「ディスコネクテッド」の究極的な段階とは、神とのかい離、隔絶だと示し、この歌で、そういう状況にあるわれわれをジュリアンは嘆き、神の救いを求め、やすらぎの場所を神が提供してくれるようにとお願いしている。

「目を閉じて、息をすることを学ぼう。命と愛をゆりかごに入れて眠らせよう、そしてそれらを流れるようにしよう。なぜなら、ぼくは、皆同じだと信じているから。なぜなら、ぼくたちはみんな隔絶させられているから」と歌う。
「ぼくたちの魂をお救いください」と懇願しているのである。

 84年にアルバム『ヴァロッテ』で鮮烈なデビューを果たしたジュリアン。その彼も2016年4月8日には53歳となった。約1年前にシンシアは他界した。75歳だった。シンシアの死に際してはビートルズ・ファミリーから追悼のメッセージが寄せられた。

 「コネクテッド」(connected)された絆を求めてやまないジュリアンの心にはたして平穏は訪れているのだろうか。


2016年4月17日共同通信社【スピリチュアル・ビートルズ】「きずな」とは何か ジョンの長男ジュリアンの揺れる心/strong>
文・桑原亘之介
http://www.kyodo.co.jp/col/2016-04-17_1541921/

Disconnected(Julian Lennon)
https://www.youtube.com/watch?v=lgXWO-pmTtc

Lucy In The Sky With Diamonds(The Beatles)
https://www.youtube.com/watch?v=eKXfqpg-Q-k

Valotte(Julian Lennon)
https://www.youtube.com/watch?v=NP4YHXnft1w

Too Late for Goodbyes(Julian Lennon)
https://www.youtube.com/watch?v=aQs1Ynq0rlk

 ジョン・レノンの1人目の妻シンシア・レノンが75歳で死去した。晩年はがんとの闘いであったという。ジョンとの間にもうけた1人息子ジュリアンに看取られ、1日にスペインの自宅で息を引き取った。訃報を受け、オノ・ヨーコがFacebookで哀悼の意を表している。
 
 レノンはシンシアと結婚していた1966年にアーティストのオノ・ヨーコと出会い、彼女に心酔。お互い配偶者と子どもがありながらも2年後には同棲を始め、既に破綻していた夫婦関係は1968年、離婚により幕を閉じた。
 
 “W不倫”の末の“略奪婚”というスキャンダラスな関係を、当然と言うべきか世論は歓迎しなかった。東洋人差別もありヨーコはひどいバッシングを浴び、今も「欧米で最も有名で、最も嫌われている日本人」という立場に変わりはない。
 
 ヨーコとショーン・レノン、そしてシンシアとジュリアンで撮った写真と共にFacebookに掲載されたヨーコの追悼文をここに引いてみよう。
 
「シンシアの死に非常に驚いています。彼女は素晴らしい人であり、ジュリアンにとって良き母でした。生きることへの情熱を持っていたあなた。私は、私たち二人がビートルズファミリーの中で確固たる姿勢を貫くことを誇りに思っていました。大いなる悲しみのときにあるジュリアンに、私と共に愛と支援を送りましょう」
 
 これが非常に不評を買っている。Mail Onlineに寄せられたコメントは、そのほぼ全てがシンシアへの追悼とヨーコを糾弾するものだ。
 
「黙れヨーコ。いいからジュリアンにジョンの遺産をやれよ」
「こんなコメントをするヨーコの神経が信じられない。彼女もジョン・レノンもひどいヤツだった。ジュリアンのために祈ります」
「シンシアとジュリアンはヨーコ・オノのせいで本当に苦労したと思う。安らかに眠ってほしい」
「ヨーコはジョンが結婚していることを知っているのに身を引かなかった。クソみたいな女だ」
「オノはまだお呼びじゃないところに顔を突っ込むクセが治ってないんだね」
 
 ごくわずかに、ヨーコを支持する声も散見されるが「オノ・ヨーコってとっても美しいね! ジョンがシンシアを捨てて彼女に走ったのも納得だよ」「おまえヨーコだろ」ときれいにオチがついている。
 
 母への非難はショーンにも飛び火し、「ショーン・レノンの見た目ってシリアルキラーみたい」という「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地で行くコメントもある。


2015年04月02日 12:00 JST『女性自身』
ジョン・レノンの最初の妻シンシアの死をオノ・ヨーコが追悼し、非難殺到
http://jisin.jp/serial/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%A1/hollywood/11782?rf=1

New York - Yoko Ono has been a prominent artist for decades but at age 83 she is again answering a familiar question -- No, she says, she didn't break up The Beatles.

The Japanese-born singer, artist and widow of John Lennon defended her record in entertainment magazine Us Weekly in the form of a listicle-style interview, "25 Things You Don't Know About Me."

Number 24 on the list: "I had nothing to do with breaking up The Beatles. And I think Paul (McCartney) is a pretty cool dude."

The reasons for the 1970 break-up of history's best-selling band have long been a matter of dispute among fans and historians, with some arguing that Ono's constant presence in the studio aggravated tensions among the Fab Four.

Lennon and Ono met in 1966 and eventually became constant romantic and artistic companions, famously sleeping together in "bed-ins" to protest the Vietnam War.

Ono said in the interview that she still missed Lennon every day. He was shot dead outside the couple's New York apartment building in 1980 by Mark David Chapman, who had earlier given a record to Lennon to autograph.

Among other insights in the interview, Ono said that she has not drunk alcohol since the 1950s and that, if she had to be reincarnated as an animal, would choose a sparrow.

Ono last week released a remix album, "Yes, I'm a Witch Too," that features versions of her songs reworked with other artists.

Contributors include prominent alternative rockers Death Cab for Cutie, punk rocker turned dark electronic DJ Moby and her son Sean Lennon.


February 25, 2016
At 83, Yoko Ono says she didn't break up The Beatles
By AFP
https://www.yahoo.com/news/83-yoko-ono-says-she-didnt-break-beatles-032133763.html


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ウーピー・ゴールドバーグ

I Will Follow Him 
https://www.youtube.com/watch?v=RO68XBO3D4I

 これは、1992年の映画『天使にラブソングを Sister Act』の主題歌!

 このシリーズ第3作目が制作されることになったってニュースが報道されたけど、ホントかなってヤッホー君:

Back in the habit: Sister Act to be remade by Disney ;

Whoopi Goldberg comedy, about a singer who hides from the mob in a nunnery, is being resurrected by the writers of Legally Blonde

The Guardian、Wednesday 3 June 2015 17.58 BST
https://www.theguardian.com/film/2015/jun/03/back-in-the-habit-sister-act-disney-whoopi-goldberg

 いきなりでびっくりしましたか?
 ウーピ―ゴールドバーグ Whoopi Goldberg (1955年マンハッタン生まれ)は、アカデミー賞について動画 video で次のように発言なさっております:

Whoopi Goldberg on Oscars diversity protests: ‘Boycotts are a pain in the butt’ – video ;

Whoopi Goldberg and Olivia Wilde discuss the controversy surrounding the lack of diversity among this year’s Oscar nominees, which has led to several high-profile actors refusing to attend. Whoopi Goldberg insisted that there were better ways to protest than the use of boycotts, while Olivia Wilde said she was looking forward to host Chris Rock’s commentary on the subject during the ceremony


https://www.theguardian.com/film/video/2016/feb/28/whoopi-goldberg-olivia-wilde-diversity-protests-oscars-red-carpet-boycotts-are-a-pain-in-the-butt-video

 映画「天使にラブ・ソングを」はミュージカルになっております:

Bunkamura 東急シアターオーブ 「天使にラブ・ソングを( シスター・アクト )」2015/7/15(水)〜8/2(日)
https://www.youtube.com/watch?v=8HGhd8X1ZaI

「天使にラブ・ソングを」2016/5/22初日〜6/20千秋楽
https://www.youtube.com/watch?v=AhaXNO7NNcI
「天使にラブ・ソングを」6/20(月)帝劇千穐楽カーテンコール
https://www.youtube.com/watch?v=9XFkmb7CzU4

 ところでこのウーピーちゃんと昨日10月5日角川シネマ有楽町の銀幕でヤッホー君再会、重量感を増したね、とびっくりしながらもお会いしていやあ〜、びっくり!

 ビートルズの軌跡を描くドキュメンタリー映画「ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK」(公開中)が面白い。
 世界中が熱狂したビートルズの社会現象が描かれており、興味深い。
 団塊世代を中心にズイキの涙だ。

 監督は「ビューティフル・マインド」でアカデミー賞最優秀監督賞をとったロン・ハワード(62)。
 ビートルズの大ファンだが、俳優としても「アメリカン・グラフィティ」に出演しているだけに、ビートルズの活躍した60年代の空気感を巧みに切り取っている。

 作品は英リバプール時代から始まり、数々のヒット曲とともに世界で公演したライブ映像とファンやメディアから集めた100時間以上の未公開映像の一部を挿入、当時の熱狂的な人気ぶりを伝える。

 美しく編集された高解像度のリマスター映像や5・1サラウンドで迫力ある音楽も楽しめる。

 60年代の世界の世相が随所にちりばめられ、若者が求めた変革や自由、人種差別の開放、ベトナム戦争反対といった空気がビートルズの激しい歌声と共に胸を打つ構成になっている。

 当時の米国の黒人差別の問題では、女優のウーピー・ゴールドバーグが「ビートルズは白人、黒人の入場差別なし。母親と行った公演では人種を超えて絶叫しました」と語る。

 ポール・マッカートニーとリンゴ・スターが新たに語る解散の真相も見どころ。
 アビーロードスタジオでのレコーディング風景もファン垂涎のシーンだ。


2016.10.04 ZakZak by 夕刊フジ
ビートルズ、ポール&リンゴが解散の真相語る ドキュメンタリー映画が面白い
映画評論家・石山眞一郎
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20161004/enn1610041202013-n1.htm

The Beatles: Eight Days A Week - The Touring Years: exclusive clip – video ; 

The first feature-length documentary authorised by The Beatles since the band’s breakup in 1970, Ron Howard’s new movie traces the history of the band through their concert performances, from early days playing small clubs in Liverpool and Hamburg to world tours in packed auditoriums around the globe. In this clip, the fallout from the 1965 Shea Stadium sell-out is explored. The film includes interviews with Paul McCartney and Ringo Starr, and opens in UK cinemas on 15 September


https://www.theguardian.com/film/video/2016/sep/06/the-beatles-eight-days-a-week-the-touring-years-exclusive-clip-video


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2016年10月05日

農民詩人、木村迪夫

 今朝のこと、お手洗いにたったヤッホー君、何気なくスイッチを入れたラジオから山形の農民詩人、木村迪夫(みちお、1935年10月9日生まれ)の声が聞こえてきました、びっくり。
 明日へのことば『詩にこめた銃後の叫び声を聞け』です。

にほんのひのまる
なだて あかい
かえらぬ
おらがむすこの
ち で
あかい

『わが八月十五日 木村迪夫詩集』(たいまつ社、1978)所収、「釣れぬ魚」から

 映画が公開されました:
「無音の叫び声」予告篇 ポレポレ東中野
https://www.youtube.com/watch?v=lDYvyLdt0xE

「無音の叫び声」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=8uSIQ8lpXGM

「無音の叫び声」朗読の田中泯さんに聞く
https://www.youtube.com/watch?v=3Y3Atz4Ytl8

 監督、原村正樹のことばが載りました:
 芸術は芸術家だけが生み出すものであろうか?
 20代の頃から30年余り、農業をテーマにドキュメンタリーの取材を続けてきた中で、私は農家の人たち(以後、農民と記述)の感性の豊かさに常に心を揺さぶられてきた。
 心の奥底に抱く農民の、自身、家族、地域、生命、大地、自然を見つめる眼差しの輝き。そうした精神世界を伝えたいとドキュメンタリー作品を創り続けてきた。
 「もの言わぬ農民」、かつて東北の農民たちを言った言葉がある。
 確かにそうなのかも知れない。表面的には。社会の重圧にさらされ、自己主張をすることへの自己規制が生きる知恵だったとも思える。
 しかし、ひとりひとり時間をかけて近づいていくと、個々、表現力の差はあるにしても、皆、素晴らしい心の世界を育んできたことが実感できるのだ。
 その背景に「農」の独自の存在があると思う。
 ひとつは人間存在を超える自然と対峙しながら作物という命を育てる営み。日々、変化する自然を見つめ続け、その恩恵に浴し、また脅威にさらされながら生きる中で、それぞれの農民が自己と自然との対話を繰り返す。自然というある意味、捉えがたい不可思議な存在とどう向き合うのかを、必然的に思考し続けなければならない。そこからそれぞれの農民の個性が進化していく。そう思う。
 山形県上山市在住の農家の木村迪夫さんは中学卒業後、家の農業の跡を継ぐと同時に詩を綴り始めた。
 それから60年余り、80歳を間近にした今まで詩の創作を続けてた。16冊の詩集を世に送り出し、数々の詩人賞を受賞、現代日本を代表する農民詩人である。反戦の詩も数多く創作し、反戦詩人とも呼ばれている。
 木村さん自身は「なぜ百姓が詩を書くと『農民詩人』と呼ばれるのか。銀行員だって詩人がいる。百姓だけが詩を書くと<農民>を頭につける。差別ではないか」と、そう呼ばれることを嫌うが、私はあえて「農民詩人」の言葉を使いたい。
 農民だからこそ見える世界があり、普通の詩人では表現できない至高の文学を産み出したと思うからである。
 それは大地と格闘しながら自然と対話し、また、農業という経済行為を通じて見通せる人間社会を、単なる個人的な抒情や技巧の詩とは全くことなる、リアルな世界を詩という言語の芸術に昇華しているからだ。
 朝から晩まで野良で汗を流しながら、その労働の中からわき上がる言葉を、練りにねって詩の表現に移し替えていく。
 これはスタートが「身体から発する言葉」であり、単なる「詩人」という範疇に収まらないと考えるからだ。

 今回、ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」の制作で木村廸夫さんと5年間、おつきあいしてきた。
 木村さんは実に多彩な経験を積んだ希有の人物で、その時々の体験を詩に叩きつけて来た。
 木村さんの詩を年代順に読み進めると、日本の戦中から戦後、今日に至るまでの姿が、街に暮らす私たちが想像もできない新鮮な姿で浮かび上がってくる。
 木村さんの詩の世界を通じて、私たちが暮らす日本を見つめ直してみたい、という想いで映画の制作を続けてきた。
 その完成まで5年の歳月を要したが、それだけの時間と労力をかけたからこそ見えてきた世界があった。


監督随想「何故、木村迪夫さんの映画を創るのか」
〜東北の小さな村から、戦争と平和、そして戦後の歩みを見つめ直し、日本の未来を考える長編ドキュメンタリー映画『無音の叫び声』〜

https://motion-gallery.net/projects/eiga-muon/updates/6507

 木村迪夫さんは、山形県を代表する農民詩人で野の思想家と呼ばれる。
 故・真壁仁(1907-1984)を第二の父と言う。
 青年時代、木村さん達、文学を志す農村青年たちが真壁仁のもとに集まり、農民の文学運動誌「地下水」を発行、木村さんも 1958年、その同人誌の創刊に参加した。
 以来55年間、「地下水」の発行は今日まで続く。
 そこには私、原村政樹が20年かけて完成させた長編記録映画「いのち耕す人々」(*)の主人公のひとり、山形県高畠町の農民詩人、星寛治さんも参加していた。
 星さんとの長年のお付き合いを通じて、「地下水」を知り、山形県には多く の魅力的な農民作家たちが活動を続けてきたことに驚いた。
 そのご縁で、真壁仁・野の文化賞に4年前の2010年冬に参加したが、その時、その賞の運営委員長である木村迪夫さんと出会った。木村さんはとてつもないオーラーを発していた。
 その後、木村さんの書いた詩やエッセーをむさぼるように読み、その豊饒な精神世界と多彩な社会活動歴に驚かされた。
 私は高畠町の星寛治さんのロマンティックな詩に農民ならではの優美な心象世界にとても私には無い清浄さを感じ心打たれていたが、木村さんの詩は星さんの作品とは対照的に極めて「リアリステック」なものであった。
 それは私自身の感受性にどことなく近く、親近感を覚えた。
 生々しい人間の真実が綴られていて、奇麗事では済まない不浄なる存在であることか ら逃避せずに書かれた作品が私自身に逆照射してくる。

 人間って真実、こうなんだよな、そこに目をつぶっての表現は絵空事だよな、と。
 そこをしっかりと見据えて自己の持つ魔性をそぎ落とさなければ開花すべき仏性への道はないのだよな、と。

 そんな勝手な解釈をしながら、木村さんの自宅を初めて訪ねたのはその年、2010年の9月。
 JRかみのやま温泉駅に出迎えに来てくださった木村さんは野の文化賞でお会いしたときとはうってかわった田舎の農家のお爺さんといった雰囲気。自宅へ向かう車の中で、「今日はどうする?」と聞かれたので「かみのやま温泉に宿を取っています」と答えたところ、「キャンセルして家に泊まっていけ」という。
 のっけからほとんど初対面の私を自宅に泊めようというのだ。私はもうその日は泊めていただいて、もう1日滞在を延ばして、宿は翌日泊まることにした。
 そしてその後に続く木村さんの自宅に泊めていただきながらの取材、撮影が今も続いている。


投稿日: 2013年2月24日
原村政樹「木村迪夫さんとの出会い
http://0311db.net/shin-magino/?p=8

(*)映画 『いのち耕す人』 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=1c613gCUJ54
http://www.cinematoday.jp/movie/T0006307

 小川紳介さん(1935-1992)が亡くなってから、すでに20年近くになる。 
 女房と、いまはアムールという会社を設立して記録映画を撮りつづけている飯塚俊男監督と3人で、小川さんの故郷、岐阜県瑞浪市に墓参りに行ってきた。
 小川さんの墓碑は、円型のまるで地球全体を抱きかかえるイメージで、小川家の墓地の真ん中に据えられていた。まるで生前の小川紳介の思想そのものであると思った。
 女房は「小川さん、会いに来るのが遅かったね」そう語りかけながら無情和讃をとなえた。小川さんの十三回忌の春まだ早い三月のことだった。
 
 小川さんに「牧野村に来ないか」と声をかけたのは、わたしのまったくの独断からであった。1972年だったか73年だったか、小川プロダクションは三里塚で撮った『辺田部落』という作品を携えて、わがマチの上映会にやってきた。わたしたち村の青年たちと共に上映会を成功させた。 
 この作品をわたしは、小川プロダクション三里塚シリーズの総括的作品と読んだ。
 上映会の後始末も終わったある日、「小川さん、この牧野村に来ないか」と、わたしは声をかけた。
 こうして小川紳介さんとスタッフ十数人もの牧野村移住が実現したのは、1974年春のことだった。 

 小川プロダクションが、なぜこの東北の一隅牧野村に移って来たのか?とは、いまだによく訊かれる質問である。
 わたし自身が小川さんに代わって身勝手な憶測をすれば、次のような結論になりはしないか。
〈村と人との根元的なありようを追い求めてやってきた〉と。
 農民とは、村とは、風土とは──、それは7年にわたる三里塚での闘争を記録する体験のなかから至りついたテーマでもあった。
 
 一方ではわたし自身のエゴイズムが作用してのことでもあった。この保守的でかつ閉鎖的な村から脱出したい、しかし脱出は不可能である、ならば小川プロダクションのような若い人びとを外から招き、村に入れることによって、わたし自身の活性化と、それが村の活性化につながればこの上ないよろこびであると思った。 

 小川プロダクションが、牧野村に移動して間もないころ、当時のわがまち上山市長から自宅に呼ばれた。 
「キムラ君、三里塚から赤い鳥が飛んで来たというもっぱらの噂だが大丈夫かね」と詰問されたことは忘れられない。
 わたしは「市長さんには決して迷惑はかけません。迷惑をかけた折には、わたしの首を差し上げます」と断言した。 

 それにしても牧野村の人たちは、小川プロダクションの人びとに、なかなか心を許してくれなかった。
 小川プロはこうした村の人びとの表情と雰囲気の中では、決してカメラを向けようとしなかった。
 「待つ」ことの重さを彼らは三里塚の体験をとおして身につけていた。 

 牧野村の人びとが彼らを心から受け入れるようになったのは、移住から10年目の『ニッポン国・古屋敷村』が、ベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞をとってからのことであった。
 1600人もの観客を収容したまちの市民会館の廊下で「小川さん、石の上にも3年というが、10年かかったね」と、小川さんと2人で抱きあって喜んだ。
 この思い出は生涯忘れることができない。 

 それにしても、この本を作るにあたり、大きな力を貸してくれた評論家の佐高信さんには心からお礼申し上げます。
 ましてや出版元の七つ森書館の中里社長には、お礼を申し上げる以上のお力添えと、ご苦労をおかけしました。ありがとうございます。
 
                                                  2010年2月9日木村迪夫
木村迪夫『山形の村に赤い鳥が飛んできた ― 小川紳介プロダクションとの25年―』(七つ森書館、2010.04)まえがき
http://blog.goo.ne.jp/bookguide/e/800eab06b557de35f057dc74e1dff977


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堀田善衛

 読書の秋。
 ヤッホー君、イマ読んでいる本は堀田善衛『19階日本横丁』(1972年9月、朝日新聞社)

 東京都知事選での奮闘が記憶に新しい鳥越俊太郎さん(76)に、自身にとっての「運命の3冊」を聞いた。

■『スフィンクス』(堀田善衛/毎日新聞社、1965年、のちに集英社文庫)

 時代は1962年、アルジェリアの独立を背景にした中東、ヨーロッパが舞台の国際スパイ小説。
 第二次世界大戦の影が随所に見られる。

「この『スフィンクス』は、僕が社会人になりたてのころに読んだものです」
 1965年、京都大学文学部を卒業後、毎日新聞社に入社した鳥越さんが、最も影響されたのが、戦後活躍した小説家であり評論家としても知られる堀田善衛だった。
 『スフィンクス』は、中東とヨーロッパを舞台に、国際政治の暗部と謀略を描いた物語である。

「この本に出会って本当に打ちのめされました。人生観、世界観が大きく変わりましたね。それまでの自分は、なんて浅はかだったのかと思い知らされました」

 以来、新聞社の仕事をする傍ら、堀田善衛に没頭する。
 『海鳴りの底から』(朝日新聞社、1961年、のちに新潮文庫、朝日文庫)
 『広場の孤独』(中央公論社、1951年、のちに新潮文庫、集英社文庫)
 『時間・歯車』(『時間』は新潮社、1955年、のちに岩波現代文庫、『歯車・至福千年』は講談社文芸文庫、2003年)
 『ゴヤ』全4巻(新潮社、1974-1977年、のちに集英社文庫)……。

 そしてあるとき、堀田の『方丈記私記』(筑摩書房、1971年、のちにちくま文庫)に巡りあう。

「鴨長明の『方丈記』は、高校時代に受験勉強で読んでいました。この堀田の『私記』は、戦中戦後、大震災や大空襲後の日本と、鴨長明が描いた鎌倉時代、災害や疫病、戦で荒廃した都を重ね合わせて描いたものでした。そのドキュメンタリーのすごさに触発され、鴨長明の『方丈記』を読み返してみようと思ったんです」
………

週刊女性2016年10月11日号
都知事選に敗れ普通の生活に戻った鳥越俊太郎「本気で勝てるとは思ってなかった」
http://www.jprime.jp/articles/-/8224?page=2

 堀田善衛さんが亡くなった(1998.9.5。訃報に接した瞬間、「鳴呼、戦後派も遂 に完全に終ったか」という感慨が沸々と湧 いてきた。
 戦後派とは「第一次戦後派」と称された一種の文学的エコールで、
梅崎春生(1915-1965)、
椎名麟三(1911-1973)、
武田泰淳(1912-1976)、
野間宏(1915-1991)、
埴谷雄高(1910-1997)の諸氏と堀田さん(1918-1998)達、明治末年 から大正初期にかけて生れ、戦前何らかの形でマルクス主義に係り、厳しい思想統制と弾圧 に屈することなくひっそりと信念を守りつづけた作家群を指していた。
 私の少年時代は、学齢に達した昭和七年には既にその前年の上海事変・満洲事変に象徴される、やや生硬な云い方になるが、日本の軍国化・ファッショ化は大きく第一歩を踏み出して居り、その後も日中戦争、太平洋戦争と戦域の拡大につれてその度合いは強まる一方、戦争に疑問を抱いたり体制を批判する声や雰囲気は学校にも一般社会にも全くなかった。
 一方、中学生になって文学書を読み漁るようになった私は『現代日本文学全集』(改造社版)の『プロレタリア文学集』で日本にも僅か十数年程前に真向から天皇制やファシズムと対決した人々が居たことを知った。そしてそういう人たちが、結果的にはうまく日本"帝国"圏外に脱出できた人々を除いては獄舎にほうりこまれて呻吟するか、"転向"して沈黙を強 いられるか、或いはファシストに変身してしまうか、何れにしても辛い屈辱的な日々を送 っていたことも同時に知った。
 私自身も、年を追う毎に"聖戦"に疑惑を持ち、皇国史観にマヤカシを感じ、天皇制に批判的になり、学校教練をサボルようになって行ったが、現状と心中の蟠りの矛盾を口にしたり書いたりすることには憶病だった。学校だけでなく警察の加わった処罰が恐く、勇気がなかったのである。
 戦争が終って取締法規が撤廃され、思想・言論・表現・出版の自由が認められて、戦時中沈黙を強いられていた言論界・文学界・出版業界が俄に生気を取り戻し、一斉に活動し始めた中で、学生であった私が
「桜島」「日の果て」「ルネタの市民兵」(梅崎春生)
「重き流れのなかに」「深尾正治の手記」「永遠なる序章」(椎名鱗三)
「蝮のすゑ」「愛のかたち」「異形の者」(武田泰淳)
「暗い絵」「顔の中の赤い月」「崩解感覚」(野間宏)
「死霊」(埴谷雄高)などを眩しい思いで読んだのも、中学時代の鬱屈した思いが下地になっていたのかも知れない。
 だから、昭和二十五年、改造社に入社し、『改造』編集部で創作欄を担当することになった私は早速この人達を訪ねて原稿を依頼したのだったが、堀田さんだけは私の執筆依頼リ ストから洩れていた。というのは、敗戦後も堀田さんは上海で昭和二十一年末まで中国国民党に留用されたため帰国が遅れた上に、当時の堀田さんは作家としてではなく詩人として評価されていると思っていたからである。
 しかし堀田さんとは程なく知り合うことになった。新宿の通称「ハモニカ横町」に在った屋台「ナルシス」という酒場に私はよく飲みに行っていたが、そこは草野心平(1903-1988)さんをはじめ詩誌『歴程』同人の溜り場のようになって居り、その店でたまたま来 合わせていた堀田さんを草野さんから紹介された。
 また、同じ新宿の紀伊國屋書店の茶房 で毎月催されていた「三田文学会」の例会「紅茶の会」でも親しく言葉を交わすようになり、会の後「ナルシス」に連れ立って飲みに行くこともあった。
 また、堀田さんはこの年「祖国喪失」「彷徨える猶太人」という作品を『群像』『人間』というそれぞれに権威のある新興の二つの文芸雑誌に発表し(昭25・五月号)、埴谷さんの云う「遅れて来た戦後派」として既に注目されていたが、全く気負ったところがなく、茫洋という表現がぴったりの挙措・口調には魅力があったし、話の内容も的確で含蓄があった。
 しかし、堀田善衛の名を決定的にしたのは「広場の孤独」であった。
 この作品は、『人間』(昭和26・八月号)に前半が発表され、次いで『中央公論文芸特集』(昭和26・秋季号)に既発表の前半も含めて全篇が一挙掲載されて文壇・出版界の話題になった。『文芸特集』というのは『中央公論』の別冊増刊季刊文芸誌で、この号は多分本誌の九月号と十月号の中間に発売されたように覚えているが、一度他誌に掲載された作品を再録するということは雑誌編集の常識に反した行為として話題になったのである。
 作品内容は、米ソが厳しく対立していた冷戦時代の真只中に起った朝鮮戦争を背景に、一人のジャーナリストを通じて「日本の知的現実の一横断面を描いたもの」(平野謙)であったが、国際的には資本主義対共産主義、国内では旧連合国との講和を巡って単独か全面かの選択を迫られていた知識人の間で大評判になった。そう云えば、あの頃は「知識人」という階層が厳として実在し、知識人は知識や娯楽だけでなく教養や思想を主として雑誌書籍から得ていた。
 そして「広場の孤独」の評判が高まるにつれて"中央公論の非常識"は快挙に変わり、単行本として発行(昭2 6・1 1・中央公論社)されるや忽ちベストセラーになると共に芥川賞の絶 対本命と目されることになった。
………
 しかし、その堀田さんも、もう居ない。
 「戦後派」という呼称も今では文学史の中に埋没してしまっている。
 また「戦後派作家」の一人一人皆「戦後派」で括るには大きな名前になっている。
 が、私にとって「戦後文学」は青春の文学であり、堀田さんは私の三十年間に及ぶ編集者生活の中で最も信頼し共感することの多かった作家の一人であった。
 嘗て埴谷さんが二十年(昭21・1〜平7・11)の歳月をかけて「死霊」(全9章)を完成した時に「これでやっと『戦後文学』も終ったな」と思ったものだったが、
 今回堀田さんを喪って「堀田善衛別れの会」(1988・10・14)に出席し、四年前の「全集完結記念パーテ ィー」と変らぬ参会者の顔触れを眺めながら、改めて「鳴呼、戦後派も遂に完全に終ったか」という感懐に耽ったことだった。


古山登・文教大学女子短期大学部文芸科「戦後派の終焉、堀田善衛さんと私」(1999)
http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=BKSL350008

東京新聞取材班編
戦後の地層、もう戦争はないと思っていました、そこに空洞はなかったか
(現代思潮新社、2016年4月)
〔書評〕
 戦争体験を当事者から聞く。
 本書はおそらく、その最後の本になるだろう。戦後70年余、戦地慰問の漫才を書いた作者は亡く、台本しか残っていない。広島と長崎で2度被爆した男を訪ねると、娘たちから原爆のことを何も語らなかった父の思い出を聞けただけだった。人体実験で悪名高い七三一部隊の元隊員がキノコ栽培しながら暮らしたという地下壕(ごう)はもぬけの殻。

 それでも若い記者たちは体験者とその遺族を訪ね、戦中の記録を探し、マレー半島まで足を伸ばして戦争の痕跡を必死で探っている。安倍政権が推し進めた特定秘密保護法や安保法制、世界各地で頻発するテロと戦争の応酬が「もう戦争はないと思っていました」という彼らの日常感覚を揺さぶったからだ。

 第2次大戦の犠牲者は、世界中で約5千万人と言われる。
 うち2千万人がアジアで死んだ。
 日本人の戦没者は軍人・軍属が230万人、民間人が80万人の合計310万人。
 言い換えれば日本は1690万のアジア人を死に追いやった。
 しかし、この陰惨な現実をくぐり抜けてきた人たちのほとんどが、何も語り残していかなかった。

 記者たちはわずかな手がかりから戦前戦中の匂いを嗅ぎ取り、現代の風潮に重ね合わせて、今日の日本の自己像を描き出そうとする。やたら「日本人の誇り」を口にし、「貧しさからの脱却を求め、国策に寄り添い続け」「成長、繁栄ばかり」を追いかけ、「集団の目的のため、個人に我慢を強い」「失敗を許さない」……。ここにはたしかにきな臭さがある。

 だが、私は記者たちにはさらに踏み込んで、当事者から聞く、というジャーナリズム手法の限界を超えてほしかったと思う。
 殺された側、たとえば中国に行けば、日本人のもうひとつの顔が覗(のぞ)けたかもしれない。
 武田泰淳や大岡昇平や堀田善衛らの戦争文学から引き出せるものもあったはずだ。
 現在を戦前にせず、いつまでも戦後をつづけようとするなら、手法自体を疑うところから始めなければならない。


<東京新聞取材班>
取材班には東京新聞社会部、中日新聞社会部などの主に30代の記者が参加した。

戦前、戦中の「声」を掘る
[評者]吉岡忍、ノンフィクション作家
2016年05月22日付け北海道新聞
http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/books/2-0060223.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/Postwar70th/sengonotisou/



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2016年10月04日

マクドナルド山本恵理

 神奈川県相模原市で起きた障がい者大量殺害事件をめぐって、一昨日、安倍政権支持のネトウヨの間で、「植松容疑者の主張は間違ってない」「障害者は税金を使う金食い虫」といった障がい者ヘイトが広がっていることを指摘した。
 さらに、自民党のネット応援部隊であるJ-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ)会員にいたっては、「植松が言うように障害者はいなくなるべき」と全面的な賛同を示し、障害者の子どもがいる野田聖子衆議院議員にまで「自民党の改憲案との矛盾をなくすために障害者の子ども殺せ」と迫っていたことがわかった。
 しかし、ネトウヨやネトサポ、そして植松容疑者にこうしたトンデモない障がい者差別意識を植え付けたのは、間違いなく、自民党政治家や保守系の知識人たちだ
 たとえば、くだんのネトサポの野田聖子攻撃の元になっていたのは、実は作家の曽野綾子の発言なのだ。安倍政権が道徳の教科書にも起用したこの保守知識人は、このネトサポよりずっと前に、野田に対して「障害者の子どもに税金を使っているのを申し訳なく思え」と、ひどい差別的な説教を行っていた。
 曽野が問題にしたのは、2012年12月1日に放送された高齢出産ドキュメント『私は母になりたかった〜野田聖子 愛するわが子との411日〜』(フジテレビ)と、「婦人公論」(13年5月7日号、中央公論新社)の野田インタビュー。周知のように、野田聖子の息子は複数の病気や障がいを抱えているのだが、その治療費について野田はこう答えていた。
「生まれてからの息子の医療費は、医療制度によって支えられています。高額医療は国が助けてくれるもので、みなさんも、もしものときは安心してください」
 障がいのある子どもをもつ国会議員として、自分のことだけでなく国民のことも考えたごく普通の発言に思えるが、曽野は13年に出版した『人間にとって成熟とは』(幻冬舎新書)のなかで、こう噛み付いた。
「この野田氏の発言は、重要な点に全く触れていない。それは自分の息子が、こんな高額医療を、国民の負担において受けさせてもらっていることに対する、一抹の申し訳なさ、か、感謝が全くない点である(略)私自身が、まず野田氏の言葉に違和感を覚えたのは、野田氏はこのことを、当然の権利の行使と考え、その医療費を負担している国民への配慮が全く欠けていることであった。」
 曽野は、障害をもって生まれた野田の子どもにかかる治療費は小児ICUや何度もの手術費を含めれば数千万円となる。それは国民が支払う国民健康保険から捻出されているのだから、感謝しないのはおかしいというのだ。
 いったいこの人は何を言ってるのだろう。難病や障がいを抱える子どもが医療を受けるのは、当然の権利であり、ほどこしではない。それをなぜ、申し訳ないなどと謝罪しなければならないのか。
 野田が高額医療について、自分だけが享受するのではなく、「高額医療は国が助けてくれるもので、みなさんも、もしものときは安心してください」と周知したのは、国会議員としてごく当たり前の行為だろう。むしろ、国会議員である野田が公の場で謝ったり過剰に感謝したりすることは、一般市民にとって「高額医療を受けるのは申し訳ないこと、悪いこと」という意識を植え付け、福祉を受けるべき人が受けられなくなるという弊害を生むことになる。
 しかし、曽野は"周囲の話"としながら、さらにトンデモない理論を展開する。
「私の周囲には『どうしてそんな巨額の費用を私たちが負担するんですか』という人もいる。『野田さんの子供さんがお使いになるのは、ご病気なんですから仕方ありませんけど、ありがとうの一言もないんですね』と言った人もいた。『もしもの時は安心してください、というのは。遠慮もせずにどんどん使えということですか? そういう空気を煽るから、健康保険は破産するんですよ』という意見もあった。
 増税論が始終話題になるこの時期に、仕方ないとは思いつつ、皆、健康保険料を払うのも大変なのだ。私も後期高齢者医療制度の保険料を年額五十万円以上支払っているが。私にできる唯一のこととして、できるだけ医師にかからないようにしている」
 曽野は「周囲」の意見をもち出して、さもそれが正論であるかのように語るのだが、たんに曽野のような人間の「周囲」にはグロテスクな差別思想の持ち主ばかり集まってきているだけの話なのだろう。それをあたかも一般化された真理のように語るこのばあさんの頭の中はいったいどうなっているのか、これで作家などとよく言えたものだ
 しかも、他人には医療にかかるな、などと脅しておいて、自分は「できるだけ医師にかからないようにしている」という程度で大自慢を繰り広げる。その唯我独尊ぶりには、ほとほとうんざりさせられるが、曽野の野田攻撃は止まらない。
「言い方は悪いが、夫婦の自然の生活の中でできた子に、こうした欠陥があるのは仕方がない。しかし野田夫妻は、体外受精という非常に計画的なやり方で子供を作った。
 その場合は、いささかご自分の責任において、費用の分担もされるのが当然という気がするのだ」
 子どもに対して「欠陥がある」という差別意識丸出しの表現も最低だが、体外受精でできた子どもの障がいや病気は自己責任だとワケのわからない論理をもち出すのだ。だいたい「体外受精という非常に計画的なやり方」などと言うが、体外受精は不妊治療のひとつであって、誰も自然妊娠より体外受精を好き好んで選択しているわけではない。自然妊娠で生まれたか体外受精で生まれたかによって、なぜ子どもの医療費が差別されなければならないのか。
 しかし、曽野はそんな当たり前のこともわからないようで、さらにお得意の「権利」批判に踏み込んでいく。
「野田氏のように権利を使うことは当然という人ばかりが増えたから、結果として日本社会、日本経済はどうなるのだろう、という全体の見通しに欠けるのである」
 つまり障がい者は高額の医療費がかかる。そしてその医療を負担することは国の健康保険を障がい者が破綻させる、国に迷惑をかけていると言っているのだ。相模原事件の植松容疑者の主張とまったく同じではないか。
 もっとも曽野の差別意識丸出し、弱者排除の発言はいまに始まったものではない。昨年2月にはアパルトヘイトを擁護する発言で世界的に非難を浴び、近年も、産休制度を利用する女性社員を「迷惑千万」と切り捨て、エリート男性のセクハラを全面肯定し、中越地震や東日本大震災の被害者を国に頼り過ぎだと叱っていた。
 しかもこのとんでもない差別思想の持ち主は、こうした思想を個人的に書き散らしているわけではない。安倍政権のもと教育再生実行会議などに名を連ね、自己責任や愛国教育を推し進めているのだ。
 安倍政権は、教育政策の目玉としてこれまで「教科外活動」だった「道徳」を、成績評価対象の「特別教科」に格上げすることを決定した。教科化に向け、2014年から文部科学省は『私たちの道徳』なるタイトルの教科書を制作し小中学校に配布しているのだが、その中学生版に、このおぞましい差別思想の持ち主・曽野綾子が「誠実」のお手本として登場しているのだ。
 自分の恵まれた環境を顧みることなく、弱者を叩き、国家に頼るなと自己責任を要求する。国家に貢献しない弱者は排除する。これは、まさに一昨日取り上げたネトサポをはじめとした安倍支持者と共通する心性であり、安倍政権としては、こんな曽野綾子こそが、学ぶべき教材、お手本とすべきモデルなのだ。
 実際こうした差別思想は、曽野綾子だけに限ったことでない。石原慎太郎や石原伸晃、麻生太郎らは、過去に障がい者や高齢者に対して安楽死を口にしたり、「いつまで生きているつもりなのか」などといった暴言を吐いてきた。公職にある大物政治家や大物作家たちが公然と障がい者差別や排除を声高に叫ぶ日本。
その歪んだ考えが蔓延した末に起こったのが今回の事件なのだ。
 曽野やネトサポに批判される野田は、相模原事件発生後の7月26日のブログで、こう記している。

「亡くなられた方々に、弔意を。
だけど、私の心は穏やかではない。
自ら望んで障害と共に産まれてきたわけではない。
こどもの障害を平気で受容出来る親はいない。
しかし、健常者を名乗る人たちの一部には、老若男女問わず、有名無名問わず、この世に障害者はいらないと考えている。
経済合理性やら優生思想やら、いろいろ。
容疑者も産まれたときには、こんな考えなかったはず。
社会のどこかで誰かの話に食いついたのだ。
同日、
厚化粧の年増女、なる発言。
全く脈絡が違うようには思えるが、根っこは繋がっている。
この国で活躍すべきは男性であり女性は不要、小賢しいだけ。
最近はそんな発言する男を正直とほめる人たちがいる。単にデリカシーない無礼な所作だけど。
先進国を標榜しながら、人は成熟しきれていない。
正直、今のままの日本で、息子を残しては逝けない。
大東京よ!
健常者という曖昧な言葉を捨て、都民同列の優しい大人の都市になっておくれ。ダイバシティ上等!」

 障がいをもつ子どもを育てる野田は、障がい者排除の思想が植松容疑者個人のものなどでなく、日本社会全体に蔓延していることを敏感に感じ取っている。植松容疑者に影響を与えた者がいた、と。そして、石原慎太郎の「厚化粧の年増女」発言も同根のものであると野田が指摘しているように、その排除の空気は、障がい者に対してのみ向けられるものでなく、女性、高齢者、外国人、あらゆる弱者、あらゆる人間に向けられ得るものだ。
 野田の「ダイバシティ上等」の言葉もどこか空しく響く。日本はもう後戻りできないところまで来ているのかもしれない。


2016年8月1日 12時0分 LITERA(リテラ)
安倍首相の盟友・曽野綾子も野田聖子議員に障がい者ヘイト!
「子どもの治療に税金を使っているのを申し訳なく思え」

伊勢崎馨
http://news.livedoor.com/article/detail/11833823/

SECRET SHAME
Seiko Noda, a prominent ruling party lawmaker who has suffered abuse on the internet for “wasting taxpayers’ money” on medical care for her five-year-old disabled son Masaki, was not surprised that the Sagamihara victims’ families chose anonymity.

“Some families are positive and try to change the world by being open about their disabled children. But the ‘silent majority’ still has a negative view and does not want it known that they have disabled children,” Noda, 56, told Reuters.

Victims’ families likely also worried about being accused of abandoning their relatives by institutionalising them, experts and activists said.

The identity blackout stands in stark contrast to coverage of other Japanese victims of mass killings, including seven who died in a July attack by Islamist militants in Bangladesh.

“Clearly, there is a difference in the treatment of those with disabilities and those without disabilities,” said Kiyoshi Harada of the Japan Disability Forum, an NGO network.

“We cannot tell what sort of lives the victims led, what their hobbies were, what their existence was like.”

The suspect in the Sagamihara killings, Satoshi Uematsu, had been briefly committed to hospital as a danger to himself and others after writing to a lawmaker advocating euthanasia for the severely disabled and outlining a plan for mass murder.

Some who work with disabled people worry ordinary Japanese share Uematsu’s extreme views but experts say they are not mainstream.

Neither euthanasia nor assisted suicide is legal in Japan. Efforts to pass a law protecting doctors who withhold life-prolonging care with the patient’s consent have stalled in the face of stiff opposition from disabilities rights groups, who fear it could be a first step to legalising euthanasia.

Those with cognitive disabilities, like residents of the Sagamihara facility, face greater discrimination than the physically impaired, who activists say have seen major progress in recent decades.

Disabled people in rural areas also face greater hurdles to integration than residents of cities, where there is trend toward care in small group homes away from large, isolated institutions that have increasingly come under criticism.

“Some things do trickle down from the big city but it takes a while,” said Suzanne Kamata, an American living in Tokushima, about 500 km west of Tokyo, whose 17-year-old daughter is deaf and has cerebral palsy.

Preparations for the 2020 Paralympics are providing impetus for an improved barrier-free environment, at least in Tokyo, where Tokyo Metro aims to have all subway stations equipped with multi-purpose elevators by March 2019, up from 81 percent now.

Optimists say the debate itself over the Sagamihara victims’ anonymity gives cause for hope.

“It was a bitter incident, but it is important that it is becoming a trigger for people to think about this seriously,” Japan Disability Forum’s Harada said.


The New Straits Times, Published: 16 September 2016 at 1:09 PM
Japan confronts disability stigma after silence over murder victims' names

By Reuters
http://www.nst.com.my/news/2016/09/173584/japan-confronts-disability-stigma-after-silence-over-murder-victims-names

 ふ〜とため息つくヤッホー君。
 さ、と気を取り直したかのようにして、アオガクに戻ろうとしているヤッホー君。

 今日の主人公は、マクドナルド山本恵理!

山本恵理 Eri Yamamoto MacDonald
2013-2015: A member of the women's sledge hockey team of Canada
アイススレッジホッケー元カナダ代表メンバー(2013-2015)
The Wish Project 共同発起人, co-founder

 カナダで大学院留学中に、カナダ人の友人を通じてアイススレッジホッケーと出会う。
 2012年、ファーストシーズン終了後、Paralympic Sports Association ルーキーオブザイヤーを獲得。
 2013年、女子カナダチームの代表メンバー入りを果たし、カナダ全土から集まる女子スレッジホッケープレーヤーと共に、トップスレッジホッケープレーヤーとしてのトレーニングを経験する。
 2014年、カナダ代表メンバーを選出するトライアウトを経て、代表メンバーとして2年目を迎える。
 世界初の女子スレッジホッケー世界選手権にはカナダ代表プレーヤーとして参加。
 
 カナダ代表のユニフォームを着てプレーする機会が増える度に、日本人としてのアイデンティティが強まることに気付く。
 同時に、カナダで経験したスレッジホッケーコミュニティを日本女子にも届けたいという思いが募り、The Wish Project の創設(*)に取り掛かる。
 日本初の女子スレッジホッケーチームの設立と、いつか日の丸のユニフォームを着たいという夢を胸に、2015年秋、日本に帰国。
 先天性の障がい(二分脊椎)を持つ車椅子ユーザー。
 
(*)
The WISH Project(ザ・ウィッシュ・プロジェクト)は、女性アイススレッジホッケーを意味するWomen's Ice Sledge Hockeyの頭文字からなる WISH に、日本初の女子アイススレッジホッケーチームを設立したいという願い(="WISH")を込めて、名付けられました。
 
 アイススレッジホッケーは、冬季パラリンピックの人気競技です。
 北米やヨーロッパでは、女子チームが設立されています。
 日本初の女子チームの設立に向けて、私たちと一緒に活動を始めませんか?
 プレーを希望される選手の方やサポーターを募集しております(スポーツ経験や障がいの有無を問わず)。


http://sledgejapanwomen.strikingly.com/

 そしてマックは、次のようなことを教えてくれました!

 青山学院大学は3月5日、今年正月の箱根駅伝で2連覇を達成した同大陸上競技部駅伝チームの優勝記念セレモニーを都内で行い、その席上で堀田宜彌(のぶみつ)理事長が幼稚園から大学院までの学院全体でパラリンピックやパラスポーツへの積極的な支援に取り組むことを発表した。
 さらに、駅伝チームの原晋(すすむ)監督も今後のチーム目標の一つとして、視覚障がい者マラソンのガイドランナー(伴走者)の普及・育成に協力していく考えを明かした。

 ガイドランナーとは、全盲や重度弱視のランナーの目の代わりとなり、ロープなどでつながり合って横を走り、誘導する役割を担う。
 ひとりでは走れない視覚障がいランナーには欠かせない存在であり、伴走者不足は慢性的な課題だ。
 日本盲人マラソン協会でも以前から、伴走者養成講習会を開いたり、大学や実業団に協力を仰ぐなど普及・育成に取り組んでいるが、昨今、パラリンピックを目指す選手の数も増え、レベルも上がっているなか、支援体制の広がりは心強いものとなる。

 ガイドランナーについて、新チームのキャプテンを務める安藤悠哉選手(3年)は、「自分たちでできることがあれば、しっかりと協力し、一緒に走りたい」と話し、今年の箱根で4区区間賞の田村和希選手(2年)は、「パラリンピック選手の皆さんも、僕たちと同じ思いで競技をやっていると思う。その思いに貢献できるなら、僕たちもすすんで貢献し、日本中を沸かせたい」と意欲を見せた。

 日本パラリンピック委員会委員長であり、日本財団パラリンピックサポートセンターの山脇康会長もセレモニーの来賓として登壇。
 同院のパラスポーツ支援の申し出に謝辞を述べるとともに、「駅伝チームの皆さんがガイドランナーの普及に協力いただけることは、『百人力』。パラリンピックやパラスポーツの知名度はまだ低いが、人々の心を豊かにし、勇気や気づきを与える大きな力がある。皆さんの協力は本当に楽しみ」と感謝した。


2016.03.06日本財団パラリンピックサポートセンター
【陸上競技】箱根王者の青学大、視覚障がい者マラソン伴走者の普及・育成への協力を表明
https://www.parasapo.tokyo/news/30/


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2016年10月03日

小山田雅人

 リオデジャネイロ・パラリンピックが閉幕した。五輪では金12個を含む史上最多の41個のメダルを獲得した日本だが、パラリンピックは1964年東京大会から13大会続いた金メダルの獲得が途切れた。これから加速する2020年東京五輪・パラリンピックの準備で、東京都の小池百合子知事はバリアフリー化を最優先に会場整備を進める姿勢を強調した。。。

2016年9月20日毎日新聞東京朝刊
パラリンピック金ゼロ 日本、強化遅れ
田原和宏、リオデジャネイロ飯山太郎
http://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20160920/ddm/003/050/034000c

 マレーシアでは…:

SEPANG: Trust our special schools; they got our children to the Paralympics, said the parents of Malaysia’s gold medallists.

The parents of Mohamad Ridzuan Mohamad Puzi, Muhammad Ziyad Zolkefli and Abdul Latif Romly beamed with pride when met at the Bunga Raya Complex in the KL International Airport (KLIA) yesterday, none of them expecting such a big show of support for their sons.

Asked how difficult it was for them to raise children with disabilities, the three parents’ said that with the help of the special schools, it was just as easy as raising their other children.

Zolkefli Othman, the 62-year-old father of shot putter Muhammad Ziyad, said the best thing he ever did for his son was allowing him out into the world.

“Parents might think we have to hold on to them, protect them. But if you do that, they will not succeed.

“We just need to let them go. Give them special education, because it will manage them and help find their talent,” said the retiree.

Muhammad Ziyad broke the world record in the F20 (learning disabilities) shot putt category in Rio on Sept 11.

Outside of sports, the gentle giant is a trained computer engineer and builds houses in his spare time.

Zolkefli said the programmes to aid para-athletes were the best they have ever been.

“Back then, it was hard to be a Paralympian. Now, they come looking for talent. They train you. We just need to let them go,” he said.

Mohd Puzi Mat Isa, 63 concurred. His son, Muhammad Ridzuan Mohd Puzi brought home the first gold medal in the Paralympic Games in the country’s history.

“Expose them to society so they can assimilate and be like everyone else.

“If they have an interest, it is our job to encourage them to pursue it,” said the former Felda settler, whose son began competing in sports when the family moved to Perlis.

Unlike other families, Mohd Puzi was unable to watch his son’s glory on television at home.

“But when I found out, I was so, so, so happy. I was confident he could do it,” he said.

Salmah Yatim, the mother of Abdul Latif, pushed for her son to continue improving even after breaking the world record in the long jump three times over.

She said that her son became interested in athletics, taking after his sister in school.

“I miss him so much. I haven’t seen him in a month,” said the rubber tapper from Perlis.


The Star, Published: Friday, 23 September 2016
Trust special education as well as your children, say Paralympian parents

See more: Star TV
photo 1:
Cheers all around: Paralympians meeting the fans at the Pavilion mall, Bukit Bintang
photo 2:
Bronze medallist Siti Noor Radiah Ismail signing The Star supplement at Pusat Kecemerlangan Paralimpik.
http://www.thestar.com.my/news/nation/2016/09/23/the-schools-made-them-great-trust-special-education-as-well-as-your-children-say-paralympian-parents/

 さて、おとといのアオガク、ヤッホー君がびっくりしたのはこの方:

 小山田雅人。

 幼いころからスポーツが大好きで、いろいろやりました。サッカーでは小6で国体に出場し、野球では中3のときにエースとして県大会で準優勝しました。
 高校でも野球部。当時の私は反骨心が人一倍強くて、周囲から「右手がないからサッカーを選んだ」と言われるのが嫌だったんです。
 右手がないことで嫌な思いもしました。マスコミから必要以上に注目され、チームメートの保護者から「小山田君が騒がれたせいで実力が出せなかった」と言われたこともありました。それでも気持ちが折れなかったのは、自信があったからかもしれません。
 「右手がないから」と思われるのが嫌で、帰宅後も走り込みをしたり、投げ込みをしたり、人が遊んでいるときも練習しました。そうした繰り返しで、普通の人と同じかそれ以上の実力を蓄えることができた。いつしか「ないものを嘆くよりも、あるものに感謝したい」と思えるようになったんです。
 高校卒業後は県庁で働きながら、ゴルフをたしなむようになりました。純粋な個人スポーツであることに魅力を感じたんです。練習を続けるうちに「障害者でもプロになれることを証明したい」と思うようになり、45歳で県職員を辞めました。
 18歳のころは将来について悩む時期だと思います。やりたいことがある人は簡単に諦めないで努力を続けてほしい。結果的に夢をかなえることができなくても、なにかしら得られるものが必ずありますから

 1967年、那須町生まれ。2歳の時に右手を事故で失う。国内の障害者ゴルフ大会で数多く優勝。県職員を2012年に退職し、2014年にティーチングプロのテストに合格。


2016年01月13日 朝日新聞デジタル(聞き手・竹内良介)
プロゴルファー 小山田 雅人
http://digital.asahi.com/area/tochigi/articles/MTW20160113091030004.html

アスリートの魂 2015年8月26日 150826 生きる証のバックスピン 片腕のゴルファー 小山田雅人
https://www.youtube.com/watch?v=7-V-TACVRUs



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地の塩、世の光

 青山学院の歴史は、米国メソジスト監督教会が日本に派遣した宣教師によって創設された3つの学校、
 1874(明治7)年にドーラ・E・スクーンメーカー女史によって麻布に開校された「女子小学校」、
 1878(明治11)年にジュリアス・ソーパー博士によって築地に開校された「耕教学舎」、
 そして1879(明治12)年にロバート・S・マクレイ博士によって横浜に開校された「美會神学校」
をその源流とします。
………
 関東大震災による復興事業は、かねてから考えられていた青山学院と青山女学院合同計画を具体化させる契機となった。
 1927(昭和2)年8月、青山学院財団寄付行為の一部変更が認可された。
 合同後の青山学院は神学部、高等学部、中学部合わせて2,000人を超える学生生徒に、旧青山女学院の学生生徒を加え、約3,000人の学生生徒を擁する学園となった。
 1941(昭和16)年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃をもって太平洋戦争が始まった。
 日本の教育体制は「皇国ノ道」を目的とする方向に転換されたのである。
 学院構内には教職員・学生生徒の姿が少なくなり、大部分の校舎は交通局や軍関係の諸機関に転用された。
 そして1945(昭和20)年5月25日の夜間大空襲により、青山学院の約7割の建物が焼失したのである。
 8月15日、太平洋戦争は日本の敗北をもって終わった。
………
 青山学院大学は、この青山学院を母体として1949(昭和24)年に新制大学として開設され、2009(平成21)年には開学60周年を迎えました。
 伝統を大切にしながら、21世紀の総合大学としてあるべき姿を求めて、常に変革をしています。


青山学院大学、沿革
http://www.aoyama.ac.jp/outline/history/

 本学は『地の塩、世の光』をスクールモットーとし、社会に開かれた大学を目ざして、教育研究活動を通じた社会への貢献に努めてきました。
 しかし最近の多様かつ高度な社会的ニーズに応えていくためには、個々の取り組みだけでは限界があります。
 また大学の社会貢献、あるいは社会との連携には産学、官学、産官学連携など様々なケースが予想され、全体としてどのように取り組むのかは、本学の理念にも大きく係わる問題となります。
 さらにこれら社会との連携には、広く高度な視点からの法的判断、専門技術等を要する場合が想定され、大学組織としても責任ある体制を構築していくことが重要な課題となっております。
………
 本学は2005年度文部科学省・現代的教育ニーズ支援プログラム(現代GP)に『渋谷・原宿・青山を繋ぐ商業観光拠点の育成〜本学の理念に基づく地域貢献の実践と社学連携体制の拡充』が採択されました。
 同プログラムは地域と交流・協働しながら、教育研究活動を展開する中で、まちづくりや都市環境・都市文化の創造など現代的な課題・ニーズに係わる諸事業の実施を通して、広く社会に貢献することを目的としています。
 またこれは、社会との連携を本学キャンパスの周辺地域とともに推進するユニークな試みであり、今後、本学が青山及び相模原キャンパスを通じて社会に貢献し、新たな知を発信していく上で、極めて意義深いプログラムであることは言うまでもありません。

 キリスト教信仰に基づく本学には、何よりもこのような社会的貢献に進んで取り組んでいくことが求められます。
 とりわけ渋谷・原宿・青山は、青山学院発祥の地であり、先端的な都市文化や情報を世界に発信する基地でもあります。
 本学が有する高度な文化創造力をもって、当該地域と連携する今回のプログラムは、各大学で個性ある教育研究を進めていくことが求められている現在、機構として最も相応しいものと思われます。
 このため、機構組織の設立と同時に「青山学院大学社学連携研究センター(Society-Academy Collaborative Research and Education Center、愛称 SACRE)」も設置することにいたしました。
 関係者の皆様の暖かいご支援とご協力をお願いする次第です。


青山学院大学学長・仙波憲一(1950年生まれ、経済学者)、ご挨拶
http://www.renkei.aoyama.ac.jp/message01-01.htm

 急に青山学院大学ってどうしたの、ヤッホー君。
 学食食べ比べに行ってきた話?
 実はあの、この、その、この「愛称 SACRE」が東京新聞と共催でおとといの10月1日土曜日午後、「旅・スポーツ・夢・挑戦・・・. 人生の幅を楽しもう ! 」シンポジウムがあって、ヤッホー君、歯の治療後、出席してきた、とま、こういう話でして。

http://www.tokyo-np.co.jp/ad/heart-design/symposium2/

 現学長の三木義一先生(1950年生まれ、法学者)は、終わったら銀杏の並木道をぜひ歩いてみてください、今年は試験的に落ち葉をはかない、黄金色の絨毯を敷いたようにしたいというお話があり、少しだけキャンパスも回ってきた、とま、こういう話でして。

 そのシンポジウムでトップランナーをつとめた方が、垣内俊哉氏(1989年生まれ、株ミライロ社長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アドバイザー )。
 「人生の長さは変えられないけど、人生の幅は変えられる」とおっしゃっていましたが、こんなことも:

 最悪のコンディションで挑んだ大学受験は、奇跡的に実を結び、私は立命館大学の経営学部に合格しました。
 病室で合格通知を確認したときは、喜びのあまりナースコールを押して、病棟の看護師さんたちを呼び寄せていました。
 病棟全体がお祝いムードになって、みんなに祝福してもらったことを、私は一生忘れないでしょう。

 毎日毎日、電話で勉強を教えてくれた予備校の先生がいました。
 メールや電話で応援し続けてくれた地元の友達がいました。
 勉強しやすいようにと専用の机を作ってくれたり、スポットライトを買ってきてくれたり、看護を通り越したサポートをしてくれた看護師さんたちがいました。
 そして、なによりも家族の力が一番大きな支えとなりました。
 高校を中退して、確証のない不安な日々を過ごしましたが、周りのみんなの力のおかげで一つの結果を勝ち得ることができたのです。
………
 あることがきっかけで、自分に残された時間、自分になにができるかを自問することがありました。
 そして、自分のためだけに自分の時間を使うのではなく、誰かのためにも自分の時間を使おうという考えにたどり着きました。
 そのためにも、私にできることを世界に広げ、それを通して社会に貢献していこうと、株式会社ミライロの設立を決めました。


株ミライロ代表あいさつ
http://www.mirairo.co.jp/company/profile

 リオデジャネイロで開催されたパラリンピック視察のため、人生初のブラジルへ行った。
 電車やバスに乗ったり、海岸へ行ったり、外で食事をしたり、街を散策したり。
 地球の裏側で、多くの場所へ行けたこと、多くの人と出会えたことに心から感動した。

 開会式や競技会場には、障害のある方やご高齢の方、多様な方が数多く足を運んでいた。
 周囲を見渡す限り、どこにでも車いすユーザーがいるのは、人生で初めての体験だった。
 あの瞬間、僕は、「違いが違いでなくなる」ような、そんな感覚を覚えた。

 ハード面をみれば、どの部分を切り取っても、日本の方が進んでいると言わざるを得なかった。
 そもそも、どの国が進んでいて、どの国が遅れている、といった比較をすること自体は用を成さない。
 日本は、高齢化先進国であるために、バリアフリーが進んでいることは当然のことである。

 リオにおいて、経済状況や社会情勢から鑑みても、バリアフリーが進みづらいことは仕方がない。
 それでも、リオには、あの場所だけの、あの場所にいる人たちの良さがあった。
 目が合えば、自然と逸らす日本とは対象的に、リオではみんなが微笑み返す。
 街中では、声をかけられ、ハイタッチを求められ、挙句、ハグをされ、キスをされ。
 地球の裏側で、人生初のモテ期を迎え、ブラジルが大好きになった(笑)。

………

ミライロ 垣内俊哉のブログ、2016/09/20 
違いを違いのままで終わらせない日本へ
http://t-kakiuchi.com/to-2020/


 
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2016年10月02日

TAKAO599

 こんばんは。
 今日10月2日日曜日は山歩クラブのお山歩会。
 山は高尾山。
 と申しますのもヤッホー君の4ヶ月にわたる海外生活からの無事の帰還を祈って、高尾山山頂で酒杯を傾けようとま、こういう算段だったのです。
 8人のリーダーは、高尾山については家の庭ほどに隅々まで熟知なさっている佐藤さん。
 まずは新しくできたという「TAKAO599Museum」へ。

http://www.takao599museum.jp/

Takao599.jpg

 ここの庭でさわやかな秋晴れの空のもと、弁当を広げました。

 そしていよいよ6号路を辿って山頂へ。え?ご飯を食べてから登るの?こんなの山歩クラブはじまって以来初の行程。
 山頂はほんのちょっぴり色づいてきた木の葉のもと、登山客でいっぱい。

高尾の秋.jpg

 われわれは「十三州大見晴台」で一服休憩です。

 高尾山縁起によれば、ここを開いたのは遠く聖武天皇の時代にさかのぼるらしい。
 この時代は、日本古代史の中で最も華やかな奈良時代であり、奈良の都には東大寺の大佛殿などが造営され、日本全国六十余州の各々の国には、国分寺が建立された。
 真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基菩薩が東国鎮護の祈願寺として、道を開いたと言われている。

 高尾山頂は、広くなっていて、茶店や自動販売機もいくつかあります。ここは、十三州見晴台の別名が示すように、眺望の良さが有名で13州が見えるといわれています。
 この13州とは、関八州(武蔵、相模、上野、下野、常陸、上総、下総、安房)とその外側の越後、信濃、甲斐、駿河、伊豆をいいます。現在は樹木の伐採が禁じられているために木立によって視界が遮られているが、海抜600メートルの山頂からの眺めはやはり素晴らしいものです。さて皆さん山頂に立って数えてみてはいかがでしょうか。


高尾通信
http://www.takaosan.info/mame5-5.html
 
十三州大見晴台.jpg

 そしていよいよビアマウントで乾杯、2時間ひっきりなしに食べて飲んでおしゃべり。

 世界のミシュランで三つ星(最高ランク)を獲得した高尾山。
 1千万ドルの夜景を「高尾山ビアマウント」の2時間制、飲み放題・食べ放題バイキングとともにお楽しみください!

https://www.mount-takao.com/

ビアマウンテン.jpg

 山の中でお酒を酌み交わすためには、山小屋に着いて荷をほどいてから、それ以外禁酒だったので、これも山歩クラブはじまって以来初の企画。
 ヤッホー君は仲間の皆んなの熱い友情に感服、涙腺うるうる。
 松前さんは山頂から夕陽を受けて刻々と変わる雲の色に感動。

 山はいいね、仲間はいいね、また歩こう!

 ではここでスイカ、じゃない、酔歌(吉幾三):

https://www.youtube.com/watch?v=s8rQ50hv0Mo


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義姉、死す

 ついせんだっての9月28日水曜夜のこと、ヤッホー君からこんな送信がありました:

 マレーシアのペナンよりもムシムシ、ジメジメ、ベタベタして、何をするにもすぐ汗ばんでしまい、過ごしにくい毎日ですが、お元気ですか?
 この間の石神井公園は秋の花も愛でることができたし、なによりも9時〜3時と6時間、なんとか皆さんのあとをおって歩きとおせたのが嬉しかったです。
 教育(今日、行く)と教養(今日、用がある)が高すぎるのか、用事だらけのヤッホー君、「かわらばん」は来週の発行にさせてくださいね(昨日もヤッホー山荘管理組合の臨時総会が6時から10時まで、明日も山荘の仕事!)。
 今日、ペナンから義姉が亡くなった連絡を受けました。
 この義姉、大学を出た後、ボルネオ島のサラワク州の公務員となり、退職後、腰痛で手術してから車いすの日常生活を過ごし、術後も経過がかんばしくなく愁訴ばっかり、と聞いていました。
 手術前に、ヤッホー君は手術の成功率って日本ですら100%でないんだから、できれば手術しないで、周りの筋肉強化に努めなさい、とアドバイス!皆さん、歩けるわれわれって幸せもんなんですよ。
 ダンナさんは、先住民族ですが、マレーシア航空の技師で退職、同い年。
 子どもがいないけど養女にした子が立派に社会人となり、この子、日本大好きな小学校教師。
 この夏、ペナンにいたヤッホー君に義姉から正月、東京に遊びに行きたいのでヤッホー山荘に泊まれないか問い合わせ受けたヤッホー君、年末年始はまたペナンなのでごめんね、って断ったばっかりで、いま涙うるうる。
 いま、かりんとうで晩酌しているのです。
 石神井公園ウオーキングで、教祖様が「あしたにみちをきかば、ゆうべにしすともかなり」とおっしゃったのをかみしめながら。
 こうして皆さんに慰めてもらいたくって送信しちゃいました。
 パソコンに亡くなったことを知らせるメールがあったころヤッホー君は、文京シビックセンター。
 礫川公園で学生時代酔っては教祖様とフレンチデモをしたあのあたり、で全労済や労金や退職者たちと連合の全国高齢者集会に出席してて、野田幹事長とか福島みずほ副党首といっしょに年金、介護、医療、削るな、減らすな、無くすなって気勢をあげていたんですよ。。。

 返ってきました。

こだま一号: 
 お悔やみ申し上げます。
 ご本人が満足されて旅立たれたことと信じ、故人の生きざまから教えて頂いたことを思い、故人を偲ぶことでその方の死を受け入れることだと思います。合掌。

こだま二号:
 悲しいお知らせですね。
 つい先日まであちらにいらしてたのに、そんなに具合が悪かったのですか。
 でも、ヤッホー君としては、十分に介護をされて来られたでしょうし、お義姉さまも感謝しつつ旅立たれたことと思います。
 謹んでお義姉さまのご冥福をお祈り申し上げます。合掌

こだま三号:
 今日は特に蒸し暑い一日でした。
 義姉さんのお悔やみ申し上げます。
 義姉さんて奥様のお姉さんでしょ。あちらに居る時そんなに悪かったのですか、奥様も寂しくなりますね。

 仲間っていいねってヤッホー君、慰められてまた感動にふるえ、涙の落ちたお猪口をまたそっと、口に運んで泣きながら亡き義姉を偲んでおります。

 「2016全国高齢者集会」の写真がでてまいりましたのでご紹介しつつ、元気な高齢者として定められた命を全うするようにしましょう、ボーナスだなんて、とんでもはっぷん(*)。

new_P1030865.jpg

花笠音頭

全国高齢者集会

 詳しい報告は次のブログで:

あんなこと。こんなことがありました。神奈川県支部協議会の活動状況をご報告致します。
http://blog.goo.ne.jp/ugoki-001/e/8cd6e38c44a0e5a1edf97465bd50e157

(*)
「とんでもはっぷん」とは日本語の「とんでもない」と英語「never happen」の合成語で、「とんでもない」「まさか」といった意味で使われる。もともと戦後の学生間で使われていた言葉だが、後に獅子文六が朝日新聞に連載した長編小説「自由学校」で使用。更に同小説の映画化の際も使用し、流行語となった。1980年代には派生語「飛んでも8分歩いて10分」という言葉も生まれている。


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2016年10月01日

南スーダンへ自衛隊

 ヤッホー君は昨日の眼科、内科に引き続き、今日は歯医者と医者通い。
 一方で今朝、小児科のお医者様はこんなつぶやきを。

 昨日9月30日の衆議院予算委員会を少し視聴した。

○ まず、安倍首相は、憲法改正問題について表面上柔軟姿勢を見せているが、結局は機会を見て一気呵成にやるつもりだろう。
 国会審議では、逐条審議を行わない、すべて憲法審査会で行う、憲法改正の是非は前の参議院選挙で国民に問い、自民党が支持を得た、というのである。自民党の国民主権を蔑ろにする憲法草案を、憲法審査会での議論の「ベースに据える」らしい。

 憲法を一括して、「改正」するということは、国の形を根本的に変えることだ。先進国では行われていない。これは一種のクーデターになる。

○ 自衛隊の南スーダンでの活動について。
 現地では、今年7月から政府軍と反政府軍の戦闘が激化しており、ソースによっても違うが、300から1000人程度の死者が出ている。中国軍PKOにも2名の死者が出た。自衛隊宿営地そのものには攻撃はないが、6km程度離れたところには、着弾がある由。政府は、これを「内戦状態とはとらえない」ばかりか、「戦闘でもない」と言い張っている。その目的は、自衛隊のPKO活動をあくまで続けさせることにある。

○ 自衛隊に下される「駆けつけ警護」の命令によって、自衛隊は政府軍、反政府軍と直接戦闘することになる。上記の通りの状況なので、負傷者、戦死者が出る可能性が極めて高い。安倍首相の意向は、そうした自衛隊の活動は、危険を伴う自衛隊職務の一環であり、たとえ戦死者が出たとしても、安保法制に基づく命令を下す安倍首相自身が責任を取る積りはない、ということのようだ。

○ 南スーダンには、3名の医官が派遣されているが、外科手術はできない。
 外科手術が必要になったら、負傷者を別な地域に送らなければならない。6mmの銃で銃撃を受けた場合、2分以内に止血処置をしないと、失命する危険が高くなる。が、南スーダンでは、そうした処置を負傷した自衛隊員が受けられる可能性は低い。
 ……… 救命処置のできる自衛隊員の教育は、これからカリキュラム、教材をそろえ、来年には開始したい、という防衛省幹部の意向だ(遅すぎる!)

 ここからは、南スーダンでの自衛隊による安保法制による業務についての私の感想になる・・・

 やはり、ここで自衛隊が戦闘に巻き込まれ、戦死者がでることを、政府は見込んでいる、というか、それを一種「期待している」のではないか。
 もちろん、戦死者が出ることを彼らが望んでいるとは思わないが、今後、米国とのガイドライン改定に沿って自衛隊を世界各地で米軍の補完軍隊として戦闘に加えさせるための「予行演習」をしているのではないか、と強く感じた。
 予行演習とは何か。
 国民がそうした自衛隊による戦争行為を受け入れ、戦死者が出れば、それはわが国の防衛に寄与したとして奉るように持ってゆくための予行である。


2016/10/01 06:49
南スーダンで自衛隊が戦闘行為に巻き込まれる 

His red football shirt is a slim association with a distant rich land. In the town of Nyal, in war-torn Unity state of South Sudan, similar thread-bare football shirts, bearing famous names, are seen on the backs of toddlers, teenagers and young men. But this young ‘Rooney’, if he can be called that, and others in the world’s youngest country, are different from other fans across the globe. He is one of 40,000 people facing a catastrophic famine that the United Nations believe has already begun. 

Over two recent days, the holds of mammoth low-flying cargo jets belonging to the UN’s food relief agency, the World Food Programme (WFP), emptied over the skies of Nyal. The bags of the staple grain, sorghum, along with pulses, vegetable oil, blends of corn soya and specialist supplements for young children and women suffering from severe malnutrition, were intended to keep the town and its neighbouring villages fed for a month.

It won’t be enough. The last air drop was in November. That was also intended to last four weeks. So every grain from any damaged bag is collected, swept together, carefully re-packed.

Analysis by the UN estimates that 2.8 million people are currently facing "acute" food and nutrition insecurity in South Sudan’s Greater Upper Nile states, including Unity. A two-year bloody conflict between mainly Dinka and Nuer groups, allied to warring government and opposition forces, and now spreading into other inter-ethnic struggles, is destroying the country’s once potentially oil-rich future. Only help from 140 NGOs, including a substantial input from Oxfam and other international aid agencies, is preventing a wider suffering. 

One UN report says there is "overwhelming evidence" of a humanitarian emergency in four Unity counties where communities are already using "severe coping strategies" not seen since the conflict began. 

A famine in all but name

The UN were reluctant to designate an official "famine" in South Sudan last year. This year that will soon change. A report waiting for authorisation from New York will say hell is already here.   

Off Nyal’s wide main dirt road, where he holds "evidence-gathering"  seminars in a dark hut with local volunteers, Francis Mauna, from Sierra Leone, who works for the "cluster" of organisations involved in food aid,  says figures from last year have been re-evaluated.

"People are dying and the situation is bad," he says. He knows his words underplay the problem. 

Hunger is driving a range of behaviors usually not recorded here.  "Families are running out of options," according to Jonathan Veitch, the Unicef representative in South Sudan.

Driven by desparation

The skin of cattle is being eaten; undigested food in slaughtered cattle’s stomachs is being removed and "squeezed" to create beef-smelling stock; the killing and eating of birds and animals, not usually hunted, is increasing. Those with no money are selling everything. Families who fled into the adjacent vast Sudd swamp to hide from marauding soldiers, are now living  in fishing camps on small outcrops of land. Mauna’s list keeps getting longer. 

These unusual patterns are indicators that  a humanitarian emergency has become a humanitarian catastrophe, with malnutrition levels and mortality rates already bordering "famine". 

People living on the so-called "highlands" of the Sudd swamp travel on thin canoes for days to register for food. The WFP also have evidence that children under 10, travelling on their own, walked over 120 miles over days to leave government-control locations for the thin security of Nuer-controlled Nyal.

Small children make mud models of their home. They shape dirt into circles of traditional tukul huts, make aircraft from twigs and drop tiny mud balls from the air. Food, they believe, isn’t grown, but comes from the sky. 

A queue of 40,000

The marked red, white and blue aid bags from the air drops are piled together at the edge of Nyal near the drop zone. The bags were in full view last week when 40,000 people queued in soaring temperatures that passed 90 degrees. They endured three, four-hour waits at five locations where the WFP counted, registered, and then finally distributed life-saving rations. 

The process was scheduled for three days. It started with long lines of women sitting with their young children, alongside separate queues for men. The lines radiated out from the stick and mud hut compounds at the edge of the town, into searing open-field heat. That there was no mass riot seems remarkable. Hunger has its own built-in patience. Only fish sold daily from catches in the swamp is preventing widespread starvation. But when the water-level falls?

A gunfight near the market stalls the registration. A soldier is killed, another man is wounded. Shots are fired across the empty-of-food market as the killer successfully escapes. The reasons offered are conflicting. In a place where AK-74 rifles are carried by youth militias as a badge of open intent and local homeland security, "incidents" are expected. 

'Rooney' is just one face among nearly 25 per cent of South Sudan’s population who are in urgent need of food aid. Just over 6 million require basic  humanitarian help. The UN’s Office for the Coordination of Humanitarian Affairs (OCHA) estimates the crisis needs $1.3 billion for the coming year. 

Killings, rapes, abductions

Unity is the worst hit state in the brutal ethnically-driven civil war that erupted not long after South Sudan won its independence from Sudan in 2011. Nyal in Panyijiar province is at the epicentre of the horrors that have included, according to a recent UN Human Rights report, indiscriminate civilian killings, rape, abductions, the forced conscription of children, stolen cattle, looting, and the burning of entire villages including crops. 

"The conflict" inhabits all conversation, magnifing everything from long-established tensions between Dinka and Nuer people, to smaller village and local wars. Since the country began ripping itself apart, 2.3 million people, one in five of the population, have been forced from their homes. The International Crisis Group estimates 100,000 people, possibly more, have been killed. It is rare for any family to have escaped tragedy. 

Although 185,000 people have sought refuge in UN-designated protection camps,  some 90 per cent of those displaced, remain on the run, hiding from the on-going violence. 

'The place I worked no longer exists'

In Francis Mauna’s group the stories are harrowing. John Chuol, a former school teacher, canoed for three days through the Sudd swamp to reach Nyal. Godfry Gat Luak Dak walked from Juba, the capital, to Nyal. It took him 2 months. Out of a group of 30 trying to make the same journey, he was the only one who made it.  The rest, he claims, were shot by government forces along the way. Elijah Puot offers a dark description of his former life. "The place I worked no longer exists."

Opposition forces have also been accused of atrocities. 

A peace agreement signed last August between President Salva Kiir, and his exiled former vice-president, Dr Riek Machar -  who was accused of mounting a coup attempt in December 2013 - offered hope that the war would end. But promises to form a unity government were undermined by a unexpected plan submitted by Kiir to nearly triple the number of states from 10 to 28. 

While international diplomats pressure and threaten sanctions on both Kiir and Machar, demanding compromise and fast-tracked peace, the WFP fear 2016’s $1.3 billion humanitarian budget will be severely eroded unless they successfully store food in key areas before the wet-season closes in. Then the 15-day drive along the "western corridor" of dirt-track roads between Juba in the south,  Wau in the west, and Bentui in northern Unity, will become impassable as it turns into a sea of mud. 

In a country almost the size of France, there is only 100 kilometres of tarmac
road. 

No way through for food

Dr Joyce Kanyangwa Luma is WFP’s director in South Sudan. Her organisation has less than 12 weeks to do the impossible. With the 2015/16 harvest non-existent, and nothing being planted because of the conflict, all of South Sudan’s food has to brought in from neighbouring states. Some 800 full trucks a month are needed to "preposition" food that will help South Sudan through the so-called "hunger gap" which begins in April or May. 

But violent attacks and looting of the trucks mean the corridor is currently too dangerous to risk. A tenth of the traffic needed is setting off, guarded by UN Blue Helmet forces. Dr Luma said: "Rising insecurity in Greater Equatoria [the state west of Juba] is hampering delivery of humanitarian aid through major routes." The government appears to have little control over the growing incidences of banditry, with WFP unwilling to risk the lives of staff and workers. 

Large barges could use the Nile from Juba. WFP once had access to five which carried 10 times what an aircraft can drop. But owned by private contractors, the Nile is now simply too high a risk, too dangerous, with barges being confiscated by the government or simply attacked. 

If prepositioning fails, the vast cost of using air drops will require a recalibrated larger budget – and that is seen as unlikely to happen.  The world has seen African famines before and reacted. But this time there is competition, with Syria’s crisis  currently  dominating international attention amid fears that donors may already be fatigued by this endless, unresolved war. 

For ‘Rooney’, everything in the opening months of 2016 appear to working against him. There is no winning or losing season for him. To simply be alive for another season would be a triumph.


The Independent, Published: Saturday 13 February 2016 

South Sudan: Inside the world's newest country – where starvation stalks 3 million people

The UN drops food from planes into a land decimated by a two-year bloody conflict that is destroying its oil rich future. But this won't be enough to pull it back from the brink of a humanitarian emergency. In his first of three special reports, James Cusick reports from Nyal

By James Cusick from Nyal
http://www.independent.co.uk/news/world/africa/south-sudan-inside-the-worlds-newest-country-where-40000-people-face-catastrophic-famine-a6870696.html

「危険」「危険でない」ではなく、今の南スーダンに対して日本に何ができるのか?

自衛隊には一発も撃たせず、ひとりも殺させず、そして自衛隊員をひとりも死なせない。自衛隊の任務拡大、あるいは自衛隊派遣そのものに反対するこうした主張は、日本の国内の議論としては当然のものだろうと思います。

しかし、私のように現地での生活が長くなると(それでも決して現地の人々と同じ目線に立つことはできないのですが)、いったい現地の人々にとってはどうなのだろう、と考えてしまいます。

日本人にとってではなく、南スーダンの人々にとって、日本の自衛隊が一発も撃たず一人も殺さないことが、何か特別な意味を持つのでしょうか。そんなこととは関係なく、現地では毎日数え切れないほどの弾薬が使われ、そして多くの命が失われているのです。

平和憲法の意味を積極的に受け止めるならば、それは単に自衛隊を派遣しないということではなく、日本は「武力の行使」以外のどのような方法で、南スーダンのような内戦や紛争の解決に貢献できるのか。いや解決とまで言わないまでも、現状を少しでも良くするために何ができるのか、それを考えることではないでしょうか。

南スーダンが「危険」「危険でない」の議論が国会でされましたが、日本に何ができるかを考えるなら、その国の現状をもっと注意深く見ていかなくてはなりません。

非軍事面でPKOに貢献する可能性も

統一政府を支えて、この国を立て直すために、日本にできることは少なくないと思います。リーダーの二人に直接和解を話しかける外交チャネルを日本は持っているのではないでしょうか。日本が主導して今年ケニアで開催されるTICAD(アフリカ開発会議)の場を活用しても良いかもしれません。欧米や中国と比較して日本は「中立的」というイメージを持たれているのですから、それを活かすべきです。

PKOについても、最近のPKOの任務は、停戦監視や市民保護だけでなく、内戦後の国づくりにおける法律や行政、警察機構の整備、兵士の武装・動員解除、復興支援など、実に多岐にわたっています。南スーダンにおいては内戦の勃発とともに市民保護に活動の重点が置かれていますが、統一政府が成立すれば、国家の再建と平和の定着に向けた活動が再びPKOの任務に大きく位置づけられるでしょう。

日本は、こうしたPKOの非軍事面での活動のための文民の派遣で貢献できるはずです。文民警察官の派遣という選択肢もあります。私は以前、インド人のPKO文民警察官と同じ宿舎で生活していたことがありますが(よくカレーをご馳走になった)、彼は現地の警察官への人権教育などを行っていました。社会の治安回復のためには、人々の間での和解の促進とともに、人権や非暴力の考えを理解した警察官の存在も重要ではないでしょうか。

PKO参加=自衛隊の部隊派遣というイメージがありますが、自衛隊の任務を拡大し武器使用基準を緩和することではなく、もっと別の方法でPKOを通じた南スーダンの平和構築に貢献する道筋があること、むしろそのほうが日本ならではの貢献ができるであろうことを多くの人に知って欲しいと思います。


2016年5月17日 更新
南スーダンはどうなっているのか?
−自衛隊「駆け付け警護」の議論に思うこと
今井高樹、JVCスーダン現地代表
https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/sudan-diary/2016/05/20160418-status-of-southsudan-2.html



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龍眼寺

 石神井公園で出会った秋の萩、われらが下町にもないのかなとヤッホー君、eチャリで向かったお寺さまが龍眼寺。江東区亀戸3-34-2:

 龍眼寺創建は応永2年(1395年)、良博大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、村に流行していた疾病を平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号しました。
 その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名しました。
 江戸初期には、住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。
 境内に咲く四季折々の花々は、訪れる人の心を和ませ、松尾芭蕉(1644-1694)「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」、落合直文(1861-1903)「萩寺の萩 おもしろし つゆの身の おくつきどころ こことさだめむ」など文人墨客の句碑が昔の風情を偲ばせます。


天台宗 慈雲山 無量院 龍眼寺(萩寺)
http://ryugenji.net/

 龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
 当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
 また境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
 亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。

江東区掲示より)

猫の足あと、龍眼寺、萩寺
http://www.tesshow.jp/koto/temple_kameido_ryugan.shtml

 ヤッホー君、聖観世音菩薩(江東区有形文化財、現在の区内最古の仏像)をお祀り他してある本堂でお詣りして、メモったお言葉がありますので共有しましょう:
 
 夢殿を模し、八聖(正)道にちなんだ八角のお堂。

 八正道とは、理想の境地に達するために実践する正しい行いや生活態度のこと。
1.正見(正しい見解)
2.正思(正しい思い)
3.正語(正しいことば)
4.正業(正しい行為)
5.正命(正しい生活)
6.正精進(正しい努力・勤め)
7.正念(正しい信念・気づかい)
8.正定(正しい精神統一)


 境内には曼珠沙華と萩のコラボレーションもあります:

萩と曼珠沙華.jpg

 萩よりも目をひくのがなんといっても鯉:

龍眼寺の鯉.jpg

 こうしてお別れした萩寺、龍眼寺。スカイツリーもまたおいでね、と手招きしておりました:

萩寺とスカイツリー.jpg

 帰り際に寄ったのが、旧安田庭園。
 安田講堂も堕ち、ひろびろとしておりました〜違った、領国公会堂でしたか〜
 跡地も公園緑地の拡大に勤めてほしいのですが、ハコモノ行政っていうくらいにすぐ何かを建てたがるのも日本人の扇子?:

旧安田庭園.jpg

 緑青のドームが象徴的な両国公会堂(墨田区横網)は89年の歴史に幕を閉じ、今夏から解体作業が始まる。同区は区役所1階アトリウムで28日までメモリアル企画展を開催し、写真パネルなどで、地域の記憶をたどっている。
 両国公会堂は、旧東京市政調査会(現在の後藤・安田記念東京都市研究所)が安田善次郎氏の寄付を受け、旧安田庭園に面して大正15(1926)年に完成させた。当時の名称は本所公会堂だった。
 設計したのは、台湾総督府(現・総統府)や旧久邇宮邸御常御殿(現・聖心女子大学パレス)などを手がけた森山松之助。鉄筋コンクリート4階建てで、庭園に面して定員790席のホールを備えた。大屋根のドーム、左右対称の四角い正面、ホールの形を表した円形の背面を持つ特徴的な外観だった。

◆ GHQのクラブ
 区によると、建設当時は講演などに使われたというが、当時の公式な文書は残っていないという。戦時中は食料配給所にあてられ、戦後は一時、連合国軍総司令部(GHQ)のクラブとして接収された。
 昭和16年に両国公会堂と改称。42年に安田庭園とともに都から区に移管。43年に補修と拡張を行い、音楽コンサート、映画上映、演劇公演、ピアノ発表会などに使われた。47年は802件の利用があった。
 しかし、老朽化が進み、平成13年3月末で使用を中止。区は建物保存を前提に、改修したうえで利用する方法を模索し、ブライダル業者と基本協定を結んだが、想定以上の耐震経費がかかることが分かって辞退され、保存を断念した。

◆ 跡地は刀剣博物館
 解体後の跡地には、公益財団法人日本美術刀剣保存協会が刀剣博物館を建設することになり、平成29年度中に開館する予定だ。
 区役所で開催中の企画展では、41枚のパネルを使って、建物の内部、イベントの様子などを振り返り、公会堂に刻まれた歴史を紹介している。
 来場した同区京島の広田啓二さん(62)は「中学校のときに吹奏楽部の演奏会で入った。天井が高いのが印象に残っている。建物を残し、活用してほしかったので、解体は残念」と見入っていた。


2015.5.23 07:02 産経ニュース
両国公会堂が89年の歴史に幕 刻まれた歴史を写真で 墨田区役所で企画展
http://www.sankei.com/region/news/150523/rgn1505230013-n1.html


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