2016年04月30日

川口リリア

 ヤッホー君の大型連休、といっても毎日がサンダー、毎週がシルバーウイークなので改めてGWと言われてもこそばゆいのですが……
 今日4月30日、卯月最後の日は、川口駅周辺への俳諧の道……

 会社が待遇改善に応じない。ならば労働組合がストライキに打って出て、改善を勝ち取る――。かつては「日常」だったこんな光景は、すっかり下火だ。労組の存在感が薄れたことなどが背景にあるが、今もストが労組活動の強い「武器」なのは変わらない。
 いったん解雇されたが、復職が決まった鋳物職人は、会社に抗議して守ってくれた労組の青年と酒を飲み喜びあった。

 「ありがてえもんよ、組合っつうものはな」

 「鋳物のまち」として知られた埼玉県川口市を舞台にした吉永小百合の代表作「キューポラのある街」(1962年)の一場面だ。労組が「ヒーロー」として描かれるのは、当時の映画では珍しくなかった。

 「ストをするのは当たり前。当時は世論もそう受け止めていた」

 全日本金属情報機器労働組合の生熊茂実・中央執行委員長(67)は、中小企業が多い東京都大田区で組合活動をした70年代を振り返る。交通機関が止まることも多かったが、通勤を心配して旅館を押さえたり、貸布団を手配したりする会社も珍しくなかったという。

 働く人に占める組合員の割合は、2014年は17・5%で、ピークだった1949年(55・8%)の3分の1以下になった。非正規や派遣が増え、同じ職場で机を並べる。求める待遇改善の内容や利害も同じではない。主に正社員でつくる労組では幅広い働き手の声を代弁できなくなった。

 ストなど積極的な活動もかげりを見せる。60〜70年代には賃上げ交渉でストに踏み切る労組は珍しくなかった。石油危機後の「狂乱物価」で国民生活が混乱した1974年にはストや怠業などの争議が過去最多の9581件。その後は減少傾向が続き、1991年には1千件を下回った。2014年は80件とピーク時の1%にも満たない。
 デフレと低成長の時代。労組も強硬に戦うよりは労使協調の色合いが濃くなった。大幅な賃上げなどは見込めないなか、雇用を守るため「物わかり」が良くなり、「御用組合が増えた」(労組関係者)。

■「譲歩引き出す意義ある」
 働き手の権利や生活を守るのに、ストや「スト辞さずの構え」が強い武器であることには変わりない。中小企業の働き手でつくる全国一般東京東部労組の須田光照書記長は「真剣に闘う姿を見せることは経営側から譲歩を引き出す意義がある」と力を込める。

 「生活できるだけのボーナスを払え」

 2015年7月、鉄道のレール修繕を担う全溶(東京都練馬区)の本社前で、約40人の組合員が抗議の声をあげた。業績回復を背景に、労組は会社にカットしてきた手当や人員を戻すよう求めた。会社側との交渉が決裂したため、初のストに踏み切った。会社は要求を拒否したままだが、「譲歩の兆しはなくはない」(労組幹部)。10月9日には再度ストを構える。
 森永乳業の下請けで食品の輸送などをする「多摩ミルクグループ」の東部労組の支部組合員約60人は、ストを武器に会社から譲歩を引き出すことに成功した。
 一部の部門にだけ夏のボーナスを払うという会社の方針に反発。労組は24時間ストを予告した。攻防が続いたが、スト決行5日前になって、会社が全部門へのボーナス支給をのんだ。労組の山岸学副委員長は「団結して本気でストを構えたことで、権力を持つ経営者にも言うことを聞かせることができた」と振り返る。

■ 強く聡明な労組、不可欠 野川忍・明大法科大学院専任教授(労働法)
 日本ではかつて国鉄などが労働運動を引っ張っていたが、「ストは迷惑」とのイメージも広がった。民営化で運動が弱くなると私鉄もストをしなくなり、ほかの産業にも波及した。
 ただ世界共通の現象ではない。例えばパリではよく交通機関のストが起き、ゴミ収集が滞ることもある。でも世論調査では7割が「労働者を代表してストしている」と支持する。労働者がストなど強い手段に訴えることを否定的にみるのは結果的に、働き手全体の不利益になりかねない。
 日本では労働運動の意義や実践方法が継承されていない労組も増えてきた。労使協調も対等であってこそ成り立つ。ストを打つことが目的ではないが、強く聡明(そうめい)な労組は不可欠だ。


2015年10月9日05時00分更新、朝日新聞デジタル
ストは消えるのか 14年は80件、下がる労組組織率 増える非正規
強硬より協調

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12007027.html?rm=150

 ではここで映画『キューポラのある街』の予告編を:
https://www.youtube.com/watch?v=5XnvN2KBvLs

 やはり吉永小百合で主題歌「キューポラのある街」も: 
https://www.youtube.com/watch?v=7DHECj8WXgw

 川口駅におりたったヤッホー君、キューポラと書かれたビルは見つけましたが、肝心のキューポラはどこにもなく、もう一度歩いてみたいと言ってます:

 映画『キューポラのある街』ロケ地を訪ねて
https://www.youtube.com/watch?v=aPObv8UCZwQ

 川口駅東口から「川口市立アートギャラリー・アトリア」(川口市並木元町1-76 Tel:048-253-0222)へ。
 そしてJRをまたぐ川口陸橋を渡りますが、ここは映画のロケ地でもありました!
 さらに「吉祥院」(川口市南町2丁目6−8 Tel:048-252-5949)。

吉祥院.JPG

 熊本地震に被災された皆さまへ「心からのお見舞いを申し上げます」
 亡きみ魂のご冥福を祈ります
 4月中旬に発生した熊本地方の地震は、これまでの観測史上類を見ないかたちでの地震発生、とニュースでも話題となり、その後も余震が880回を超えていると伝えられています。
 被災された皆さまには、とてもご不自由な暮らしを余儀なくされて、さぞ辛い暮らしを強いられていることと存じます。心よりお見舞いを申し上げ、今の暮らしが少しでも良いものへと変わりますよう願っております。
 また、この度の震災にてお亡くなりになられたみ魂へご冥福をお祈りいたします。さらにご遺族にはお悔やみの言葉を申し上げます。
 まだまだ悲しみや不安が募る毎日とは思いますが、そうした想いがいささかでも拭われますように、また、さまざまな困難やしんどい暮らしであっても、きっと仏さまのご加護があまねく一切に及び、生きる力が育まれるよう信じて、祈り続けてまいります。


2016.04.28、吉祥院公式サイト
http://www.kichijyoin.jp/index2.html

 さらに足は「喜沢橋」を左折して「荒川」の土手へあがります。

荒川の土手.JPG

 「三領水門」を越します。
三領水門.JPG

 道すがら土手で弁当を食べてから川口駅西口にある「 川口総合文化センター・LILIA」(川口市川口3-1-1 Tel:048-258-2000)。
 音楽ホールで実は、東京管弦楽倶楽部による第32回定期演奏会があったのです。

Beethoven Symphony n. 7 - Karajan Berliner Philharmoniker
https://www.youtube.com/watch?v=wq9Gu5N42HQ

 おやすみなさい……


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御前山730mと菊花山644m

 かくして、春の大型連休がスタート!
 ヤッホー君、朝の7時半に家を出て山梨県は大月駅へと向かいました。
 ところが京王線も中央線も架線にビニールがひっかかり、その除去で電車が予定より30分も遅れ、大月駅へ到着したのは、9時半をまわっていましたぁ〜
 でも、ということは関東地方は北よりの強い風が吹くと言ってた天気予報があたったのか、と一瞬ひやり。
 低体温症になったらどうしようって。
 4月29日「昭和の日」はGW企画第一弾「富士見山行」。
 選んだ山域は、御前山(厄王山)730mと菊花山644m。
 これで山歩クラブは、駅北側に聳える岩峰、岩殿山(いわどのさん・634m)も、駅南側に聳える二山もすべて、歩いたことになります。
 おめでとう

 まずは登山口(厄王参道入り口)で朝のストレッチ体操を:
厄王権現参道入り口.JPG

 足許にけなげに咲くイカリソウを見ながら厄王権現へ、そしてまずは御前山に登りましたよ:
御前山山頂.JPG

 富士さんも山歩クラブ8人の勇者をにっこにこ、大っきな笑顔で迎えてくれましたぁ~
御前山から富士.JPG

 富士さんを見ながら特等席でランチタイム:
富士.JPG

 それから山路にけなげに咲くフデリンドウを見ながら、ふたつのピークを超えて菊花山へ:
菊花山頂上.JPG

 2時半には下山していたと思います。
 それから山歩クラブの山友、タムさんの紹介してくれたお店「濱野屋」に直行!
 入ってすぐ出していただいたお水、このおいしさとお店のやさしさにすっかり感動!
 「笹一酒造」の地酒がまた山歩クラブの富士見山行を祝ってくれて、美味しいの、美味しいのってありゃしない!
 藤野駅で途中下車して立ち寄り湯、っていうオリジナル企画もそっちのけ、なんと5時半の電車にのりこんだというほどに甘露、甘露、満足、満腹、豊年満作!
 ヤッホー君、近所の赤札堂で半額のお惣菜を買って帰りまた腹ごしらえ、それから洗濯、風呂と大忙し。
 腹の山、じゃないでしょ、春の山は大笑い。
 お天気に恵まれ、風もさわやか、緑はさわやか、山路には春の花が咲き誇り、見上げると遠くの山並みは、新緑のグラデーションが目に優しく鶯鳴き、春の山は大笑い。

 こんな大自然を砲弾、爆弾、ドローンで空爆なんてしてはなりません。
 ゼッタイ許しません、とひとり決意を新たにしています。
 エースの「世界のカバン博物館」でいただいてきた日めくりカレンダー、30日はドイツの作家、ヨハン・ゲーテ(1749-1832)の次のことばでした:

一人で石を持ち上げる気がなかったら、
二人がかりでも持ち上がらない




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2016年04月29日

敗者の身ぶり

 4月29日「昭和の日」、昭和と言えば忘れてはならない戦争と平和のことを考えていました、ヤッホー君。
 今日は、敗戦が今日もなお固定化されたまんまの、その幕開けについて、日記にしておかないと、だって。

 自民党の稲田朋美政調会長(1959年生まれ)は4月28日午前、東京・九段北の靖国神社に参拝した。
 サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国の占領から脱した「主権回復の日」に合わせた。

 稲田氏は、自らが会長を務める「伝統と創造の会」の高鳥修一内閣府副大臣ら自民党の衆参10議員とともに参拝。
 「祖国のために命を捧げた方々に感謝と敬意と追悼の気持ちをもって参拝した。参拝は国民一人一人の心の問題だ」と記者団に語った。


2016年4月28日10時51分更新、朝日新聞デジタル
自民・稲田氏が靖国神社参拝 主権回復の日に合わせる
http://www.asahi.com/articles/ASJ4X3F26J4XUTFK002.html

 またしてもニュースピークの例です。
 「主権」を勝者に差し出した「主権回復の日」。
 だから沖縄からは「屈辱の日」とされているのです。

 沖縄を日本の施政権から切り離した1952年のサンフランシスコ講和条約発効から64年を迎えた4月28日、那覇市の県庁前広場で「4・28県民屈辱の日 軍事支配を忘れない県民集会」(主催・沖縄平和運動センター)があった。
 参加した約300人(主催者発表)は辺野古新基地建設など政府の強硬姿勢を挙げて「沖縄差別を許さない」「真の主権を回復する」などと声を上げた。


4月29日(金)5時3分配信、沖縄タイムス
「沖縄差別ノー」 4・28集会で訴え
http://www.okinawatimes.co.jp/

 当時の1952年だって……

 4月28日は条約発効についてわずか一行を書き留めたに過ぎない山田風太郎(1922-2001)は、しかし3週ほど前の4月8日の日記にはこんな一節を含む時事的な所感を記していたのだった。

独立の暁は――などいうが、日本は独立などできはしないではないか、講和条約は発効しても、行政協定が新たに結ばれたではないか、自由未だ遼遠なり。

 事実、4月28日に発効したのは平和条約だけではない。
 前年1951年9月に平和条約とともに結ばれた日米安全保障条約も、さらに、その第三条にもとづいて日本国内およびその付近における米軍の配備について定めた日米行政協定(同年2月調印)も、同時に発効したのである。
 そのとき日本政府は、占領終結後も自国内に米軍が駐留することを認めただけでなく、その米軍関係者に対する裁判権も実質的に放棄することになった。
 「自由未だ遼遠なり」とは、そのような事態を前にしてひとりの「戦中派」作家がもらした深い嘆息にほかならない。


中村秀之(1955年生まれ)『敗者の身ぶり、ポスト占領期の日本映画』
(岩波書店、2014年10月)2~3頁

 そういえば、こんなこともありました:

<序言 鳩山由起夫(1947年生まれ)>
 良くぞ、この本が生まれたものである。
 この本の出版に関わったすべての方々の勇気に感謝を捧げたい。
 さらに、この本を手に取ってくださった方々の勇気にも感謝したい。
 今まで、日米関係の実相をディープに描くことはなんとなくタブー視されてきた。日米関係を描いた出版物は数限りなくあるが、 日本の戦後史を「対米従属」vs「対米自立」と言う視点から見つめ直した書物はほとんど無かったと言える。
 孫崎享氏が『戦後史の正体』の中でその道を拓いた。それは外務・防衛官僚たちが築き上げ、大手メディアたちが無批判的に流してきた「あらすじ」とは大きく異なるものだった。外務・防衛官僚も大手メディアも東西冷戦構造の名残を惜しむのか、世界を見る目がどうしても偏りがちになってしまっている。しかし、日本人はとくに官僚と大手メディアに対する信頼が厚いので、偏った見方に何の違和感も抱かない。と言うよりも、偏っていると思ってもいないのである。
 したがって、多くの国民は「対米依存」「対米従属」は当たり前と思っている。
 日米安全保障条約によって、万一のときにはアメリカが日本を守ってくれるのだから、アメリカの言うことを聞くことは当然であると思っている。日本を守るために米軍基地が存在することも当たり前で、地理的な状況から米軍基地は主として沖縄にあることが必然で、自分の故郷には置いてもらいたくないと考えている。これが平均的日本人の思考である。

 毎年アメリカから年次改革要望書が突き付けられると、日本政府は唯々諾々とこの要望の実現を図ってきた。
 いわゆる郵政民営化もアメリカは自分の国は民営化しもしないのに、自国の利益のために日本にはこれを突き付けてきた。小泉内閣はさも郵政民営化が日本のためであるかのように、この実現に力を入れてアメリカを喜ばせた。年次改革要望書は私の政権の時に一時廃止されたが、その後復活したどころか、TPPにまで尾を振る日本に舞い戻ってしまっている。
 彼らから眺めると、偏らない発想こそ偏っているように見えるのである。偏らない世界観は官僚から忌み嫌われ、大手メディアからは徹底的に批判される。
 「対米自立」路線などもっての外ということになる。

 それだけに、「対米依存」から、より「対米自立」へと進むことが日本のあるべき姿であるとの思いで書かれた本書は、既得権の勢力やその感化に浴している方々を中心に、多くの批判を受けることになるであろう。その批判を恐れぬ覚悟を持った執筆者たちに敬意を表したい。

 それにしても、この国は不思議な国である。
 私の願いは日本を真の意味で独立国に育てたいと言うことである。
 この本の根底に流れる共通の願望は、TPP参加交渉に見られるように、何でもアメリカの顔色を見ながら政策判断をしなければならない日本ではなく、この国の生きざまは尊厳を持って日本人自身が決められる独立国日本を創り上げたい、ということであると信じる。そしてそれは決して突飛な考えではなく、至極当然の主張である。
 ところが、余りにも長くアメリカにお世話になっているからであろうか、この国ではアメリカに依存して生きることが日本人の遺伝子に組み込まれてしまっていて、「対米依存」が「保守」の思想の中核となってしまっている。なぜアメリカに守られている日本をそのままにしておいて「保守」 なのか分からない。昔、「巨人、大鵬、卵焼き」 と言う言葉が流行ったが、大鵬は鬼籍に入られたが、どうも「巨人、大鵬、卵焼き、そして自民党、さらにはアメリカ」が代表的な日本人を形成しているかの如くである。
 この国の「保守」には、日本をもっと尊厳を持った自立した国にしようという気概は見えない。そして、その気概を持った人物たちは官僚たちから嫌われ、大手メディアから批判を受け、「変わり者」さらには「間違った思想の持ち主」扱いされるのである。

 いや、私は何もアメリカを批判するつもりはない。嫌米でも反米でもない。そのようなスタンスを取るべきではないと思っている。実際、スタンフォード大学に留学して多くのことを学んだし、アメリカ人は大好きである。ただ、だからと言って、何をするにもアメリカの意向を忖度しなければならないというのでは、独立国ではないのである。。。


2013.7.4 NPJ通信
時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学
特別寄稿:日本は真の独立国家なのか 、『終わらない〈占領〉』を問う

http://www.news-pj.net/npj/kimura/20130704-owaranaisenryou.html

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2016年04月28日

古山高麗雄

 戦争だけは嫌じゃ、殺し、殺される、しかも「命令」で強制的にそうしなければならないって言われるのは嫌じゃ、と理屈抜きで説いてまわっているヤッホー君。
 これを観ましょう、とだしてきました:
 
龍陵会戦・一兵卒の戦争(2004年、NHKスペシャル)
https://www.youtube.com/watch?v=2o8haj5wVFE

 観た後、こんなコメントもありました:

 自分はこの当時のこの手のNHK番組は良かったと思います。他にも大岡昇平のフィリピンの話やNHKスペシャル等民放では扱わない題材が多かったような。
 上層部や作戦参謀らは作戦、戦略等あっての戦争だったかもしれないが、末端の兵隊さん達は何もその辺の事情を知らされず、上官の命令で死ななければならなかった当時の現実を番組にしたわかりやすい表現だと思います。
 コメントの中には大東亜戦争賛美の人や日本批判の人がいるようですが、この番組はそういう観点ではないのでは? 当時、こういう事があった。それでいいのではないかと思います。
 最近、あつくなりすぎてる人が多いような気がします。自分はそんな人が一番危険な気がしますよ。


 古山高麗雄(1920-2002)の戦争三部作(2000年、菊池寛賞を受賞)第二作『龍陵会戦』(文春文庫)です:

……この三部作の背景にある戦闘は、ほとんど日本で知られていない。
 簡単に言うと、ビルマ(ミャンマー)の北部から中国雲南省にかけて展開された作戦である。
 日本の侵攻に対して、中国国民党の蒋介石は、四川省の重慶に首都を移して抗日戦争を戦った。
 重慶に対する英米の支援ルートはいろいろあったが、戦争末期の1944年時点でビルマから雲南を通して重慶に至る「援蒋ルート」の遮断を図ったのが「断作戦」である。
 その前にビルマ駐留軍をインドに向かわせ大失敗に終わったインパール作戦があった。
 軍上層部の無能で多くの日本兵が死んだ典型的作戦である。
 インパール作戦は有名だが、その直後に行われた「断作戦」以後の戦争は日本ではほとんど知られないままである(なお、断作戦を進めたのは、かの悪名高き辻正信参謀である)。

 理由としては、敗走するだけの戦闘だから宣伝されないし、戦争の悲惨としてはインパール作戦が有名過ぎたということもあるだろう。
 またアメリカの支援を受け重装備した国民党軍が主敵だったということもあるんじゃないか。
 日本では「アメリカの物量には負けたけど、中国には負けていない」とか「中国人民は中国共産党の八路軍を中心に抵抗した」とか思い込んでる人がいる。
 中国正規軍(国民党軍)は腐敗してるだけではなく、このように強い軍隊だったという認識が不足していたことも大きいと思う。

 古山自身は「龍陵会戦」に参加した。

……戦争というものは、兵士には全貌が見えない。
……そういう体力がない兵隊にとって、軍隊がいかに大変か。
 とにかく移動、移動で重い荷を背負って歩き、着いたところで穴を掘る。その「塹壕」で眠る。でも雨が降り続き寒い。山地なのである。マッチが濡れないように支給された衛生サック(コンドーム)に入れておくが、それでも濡れる。
 そして、死を見る。初めは動揺するが、だんだん当たり前になる。「死」さえ、日常化するのである。
 人間は何にでも慣れてしまう。死ぬか生きるかは運次第。たまたま命令で離れていたら助かったり、ぐずぐずして遅れたら助かったり。
 日本軍も少しは大砲がある。でも主人公は日本軍が反撃しないでくれと祈る。こっちの場所を教えるだけで、日本の撃った数倍の大砲が撃ち返されるだけだと判っているから。
 そして敵の砲弾に当たるかどうかは偶然。

……熱帯だから熱帯の病気があり、吸血ヒルも猛威を振るう。もちろんマラリアもある。
 そんな中で、原住民の人びとの村を焼く。虐殺がある。
 主人公は当たらないように銃を上に向けて打つが、ヘタだから当たらないと思われるような兵隊だった。
 塹壕に入りながら、「思うこと」だけは自由である。食べものを思い、家族を思う。
 村にいる原住民の可愛い女性と仲良くなり、一緒に脱走して共に暮らす夢を思い描く。
 「慰安所」もある。内地にいた時は玉ノ井に通ったのに、戦場で「慰安所」に行く気はしない。三人一緒じゃないと外出できないから、慰安所へ行く兵と外出して自分は原住民に言葉を教えてもらったりしていた。
 でも「女を知らずに死ぬのは耐えられない」という戦友に頼まれて、一緒に連れて行ったこともあった。
 自分たちも「強制連行」された兵士であり、「慰安婦」も「強制連行」されている存在。

……兵士は命令のまま動かされるだけで、運次第で生命を投げ出す。
 しかしそれさえ「日常化」してしまい、単に日常のように死んで行くのである。


2013年09月22日00時03分15秒更新、尾形修一の教員免許更新制反対日記
(教員免許更新制に反対して2011年3月退職。「週刊金曜日」2011年8月26日号に出ています。現在「高等遊民生活」中)
古山高麗雄の戦争小説
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/e1a194166e3782cbf64f7a7cbb46c5e3

……戦争に負けて教科書に墨を塗った人びとは、厭なことに耐えてそれをしたのかどうか。
……あのような恥しいことはなかったのに、わが民族は、それを恥とも屈辱とも思わなかったのである。
 日本人は恥を知る民族だ、と言っていたが、私たちは何を恥だとして来たのか。
 中国や朝鮮や東南アジアでいばりちらすことは、私は恥だと思うが、わが国は恥だと思わない。
 帝国軍隊のお偉方には、敗戦を恥じて自殺した人もいるが、彼らにとって恥とは何だったのだろうか。
 戦争に勝てなかったということだろうか。
 第二次大戦で、フィリピンでは約7割、ビルマでは約6割の日本兵が死んだ。
 そのほとんどは、栄養失調とそれにともなう病気で死んだのである。
 飢えて死んだのである。
 人をそんな状態にするとは、同じ人間として恥ではないか。
 勝とうが負けようが恥ではないか。……


古山高麗雄「懐かしい懐かしい戦争」1988年、『反時代的、反教養的、反叙情的』(ベストセラーズ、2001年6月)所収、34-35頁

……国民精神を復興させるために。
 そのときに校長が出てきまして、大東亜共栄圏というのを説明したんです。
 非常に幼稚な理論で、日本は東洋のお兄さんであるという話をしたんです。
 日本がお兄さんになって、弟たちをみんな引き連れて東洋平和を築かなければならない、支那事変もそのための戦いであるということを言ったわけです。
 それで私は当時20歳で非常に純真ですから、手をあげまして、校長に、日本人が東洋のお兄さんであるという考えを起こすことが許されるならば、中国人もまた、中国人は東洋のお兄さんという考えを起こしてもいいことになりますね、と言ったんです。
 そうしたら校長、うつむいてしまって、黙ってしまいましてね。
 そのときに私ははじめて、ああ教育者というのは、心にもないことを言う生活というのがあるんだなあということを感じたんです。
 もうそういう心にもないことを言う教育なんかは受けたくないという考えを起こしたわけです。
 しかし、自分の気持ちの中に出世したい気持ちもありますしたから、その場で退学届を出すというふんぎりはつかないのです。
 そういう煮えきらない気持ちで、それから放蕩を始めたんです。
 もう学校には行かないで花柳界ばっかり入りびたって……


大岡昇平x古山高麗雄「戦争体験と文学」1970年、大岡昇平『対談 戦争と文学と』(文春学藝ライブラリー、2015年)所収、141頁

■ 兵士体験通じて自らの魂と対話
 古山高麗雄(ふるやまこまお)は、2002年1月26日に「孤独死」という随想をある新聞の夕刊に書いた。その40日余りあとに実際に自宅で孤独死している。
 古山の人生には「戦争」「孤独」それに「運不運」などといった語が重なるのだが、その81年の歩みは、自らの魂との対話だったように思う。
 朝鮮で医師の息子として生まれ、三高に入学するも成績劣等、素行不良で退学、その後第二師団に一兵士として入隊、東南アジア戦線で戦う。
 著者は古山作品にふれただけという関係で、この「評伝」を書いたわけだが、取材、著作の分析を通じて、その人生の心の深奥に入りこむ。
 古山には皇軍兵士として、戦争を通じて人間の本質を見たとの懊悩(おうのう)があった。
 戦後は編集者生活などを経ながら、戦争体験と向き合い、「自分に書けることが何であるか」を考え続けた。
 晩年の「戦争三部作」(『断作戦』『龍陵(りゅうりょう)会戦』『フーコン戦記』)執筆に至る道筋に、著者の筆は優しく、畏敬(いけい)の念がある。


2015年10月25日05時00分更新、朝日新聞デジタル(書評)
評者:保阪正康(評論家)
玉居子精宏(1976年生まれ)『戦争小説家 古山高麗雄伝』(平凡社、1995年)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015102500014.html


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故加藤周一のパートナー

 「九条の会」10周年で、ノーベル賞作家の大江健三郎さん(1935年生まれ)は次のように講演しております(2014年6月10日):
https://www.youtube.com/watch?v=dwrEhlbl-xQ

 恩師渡辺一夫(1901-1975年)と同じく、加藤周一(1919-2008)へのオマージュをささげています。
 その加藤周一を支えた奥様(加藤はパートナーと呼び慣わしていたといいます)のお話しを日記につけておかないと、とヤッホー君。
 パートナーの矢島翠さんは、2008年に亡くなった加藤周一の棺にフランス語版聖書、ドイツ語版カント『実践理性批判』そして岩波文庫版『論語』の三冊を収めたと言います(前述、鷲巣力先生による)。
 そして翌2009年、「九条の会」の会報にこんなことを書いておられましたよぉ〜:

 物書きというのは、エゴイスティックなもので、いま自分がしている仕事、これからしようとしている仕事がいちばん大事で、読んだり書いたり、話したり、の方に重点をおくものですが、加藤の最晩年には、私たちも一緒に経験した大きな事件がつぎつぎに起って、むしろ実践活動の方に比重がうつるようになりました。
 それは大きな変化でした。横でみていて、加藤がよく、これだけ動くようになったという感じがいたしました。
 21世紀になったとたんに、アメリカでおこった「同時多発テロ」、それに日本が同情して、日米安保条約のもとで、テロ対策特別措置法ができて、アメリカ等の後方支援を始めました。
 さらに、イラクの戦いを援助するということがおきたわけです。
 それを見ていて加藤はたいへん危機感をもったようです。
 日本の憲法こそは人類の理想の先取りだと信じておりましたから、どうにかしなければならない、アメリカの言いなりなってその支援を始める、それを阻止しなければならない、というので、「九条の会」のアピールで皆様によびかけて、そして5年前の2004年6月に発足したわけです。
 ですから加藤の人生は大きく変わって、物書きのエゴイズムから抜け出し、「九条の会」を広げる運動、これもビラミット型ではなくて、既成の組織に乗っからずに、一人ひとり生きて、暮して、ものを考える、そういう人たちが手をつないで、ゆるやかなネットワークをつくるという、そういう最初のねらいはまず達成できたのではないかと思います。
 世界の理想である憲法を、このゆるやかなネットワークの中で生かしていく、それを根づかせていく、ということができましたら、加藤の遺志は達成できると思います。


2009・6・8「九条の会」第125号
加藤周一さんの志受けつぐことを決意
http://www.9-jo.jp/news/9jouNews/090608news125.pdf

 幼少時代から親しんだ英語をきっかけに、文学少女から共同通信女性初のニューヨーク特派員となった矢島翠さん。
 女性運動が活発だった1970年代半ばに米国各地を精力的に取材することで、それまで感じてきた「女性」というしがらみから脱皮する。
 興味を持った外国語を次々と会得し、翻訳・執筆活動にも余念がない知的好奇心に彩られた半生を振り返ってもらった。
By Kazue Suzuki, Asahi Weekly, April 30, 2006より

 Japan's surrender to the Allied Powers in August 1945 surprised 13-year-old Midori Yajima.
 "I didn't have the slightest idea that Japan would be defeated," said Yajima, a prominent writer and critic. It was an overturn of values overnight. Militarism was out. Democracy was in. The emperor was no longer the sovereign power but a symbol. New education emphasized the importance of individuals. Learning English became a national passion.
 "I remember the excitement of watching the U.S. movie 'His Butler's Sister,'" she said. "In the film America was radiant."
 Even with all these windfalls of democracy, she could not help but be cynical and cautious about Japan's future.
 "I feared vaguely that a certain Japanese mentality could push history backward."
 Yajima passed an entrance exam and enrolled at the University of Tokyo, which had recently opened its doors to women. She majored in English literature. It was a time when Japan-U.S. relations became precarious regarding security issues and students passionately discussed politics.
 "Job prospects for literature students, male or female, were dim," she recalled. "English classes were not designed to train practical skills."
 English had been a favorite subject since she first learned children's poems at 6 from a nun at a Catholic elementary school.
 "Twenty froggies went to school down beside a plashy pool," she recited. English was part of her school curriculum, and teachers from different parts of the globe spoke their native languages outside their classrooms.
 After being interrupted during the war, English classes were resumed, although Yajima regretted the lost years.
 "When a nun teacher introduced an anthology of poems, which included Keats' and Poe's, which was rather exceptional, I wished I had more such classes," she said.
 Yajima was one of the first women in the newsroom when she joined Kyodo News Service in 1955.
 "While I knew I was just a 'token,' I felt as if I were a representative of women and worked hard to keep up with male colleagues."
 Her first assignment included translating wire news for society and feature pages.
 "I was frustrated as I translated 'woman,' for example, finding the right Japanese word, fujin, onna, josei, joshi or uman in katakana."
 Her frustrations ended when she became a New York correspondent - again the first Japanese woman in the post - in 1974.
 "It was an eye-opener for me," she said.
 "Women's movement is a 'women's movement' in English," she said. "By sharing the fundamental concept, all women shared women's problems and hopes."
 Meeting with many women in the midst of the second wave of the U.S. women's movement, Yajima felt freed from the many constraints she had in Tokyo.
 "Many women here treated me as another woman friend; not a journalist from Japan. I could be myself."
 She found that she had been bound by her role as a woman reporter, an elite career woman, who must constantly prove that she is as competent as her male colleagues.
 "From a public service employee in a small Midwest town to New York activists, I met women who vividly talk about themselves. They opened my heart. I learned to write stories as I saw them."
 She reported what she saw - not through the eyes of America or those of men - which perhaps changed the tone of women's news being reported from America in the Japanese press, she said.
 "Women's liberation used to be reported as something weird done by a small number of militant feminists who burnt their bras during demonstrations."

偶然出会った日本人女性
 Yajima never failed to talk to people who were less visible and not as outspoken as many Americans. Yajima recalled a Japanese woman she unexpectedly met in Windsor, Missouri, in 1976 when she was on assignment writing about a "typical American town" during the U.S. bicentennial.
 "I did not expect I would see a Japanese woman in a tiny town of 3,000 people," she recalled. "The wife of a U.S. Air Force member, Masako, had settled there after moving from several military bases in Japan."
 Masako told Yajima her story. "I am in the America I dreamed of in my girlhood. But there is no movie theater in town and I have no friends to talk to. People stare at me when I go to church."
 "Masako showed me 12 suits, still new, which she said her parents presented to her, saying she would need them for parties."
 Yajima felt empathy for Masako, since she too had dreamed after the war of going to America.
 When her assignment to Kyodo's New York office ended, Yajima faced a career dilemma. The Japanese emperor had visited America in September-October 1975 to celebrate the 50th anniversary of his accession. Two hundred Japanese journalists covered his visit.
 "It was the most miserable time in my two-year sojourn in New York," she wrote in her memoirs.
 Yajima said she had thought the media people were professional enough, but what they produced was mass praise for the emperor's personality and the success of his visit, as if it marked the end of the long postwar era.
 "It reminded me of wartime reporting when the media was a mouthpiece of the government," she wrote.
 Yajima had reached her limit, and felt pain in her stomach and anger. When she returned home, she quit her job. She said, "I had no regrets about my decision."
 Over the years, Yajima's passion for writing and for learning other languages never dwindled.
 In 1979 her translation of the American poet Maya Angelou's autobiography, "I Know Why the Caged Bird Sings," was published.
 She also learned French and Italian to translate biographies and books on the cinema.
 "Learning a language is to come closer and to blend into another culture," she said. "With Italian, you do not have to worry about the twisted relationship with the country you tend to have with English - war, occupation and those long years of 'alliance' -through which you are bounced necessarily between admiration and disillusion, and intimacy and criticism."

 Allied Powers 連合軍
 overturn of values 価値観の転覆
 Job prospects 就職の見込み
 anthology of poems 詩選集
 worked...with 〜に負けないよう懸命に働いた
 eye-opener 目を見晴らせるような発見
 constraints...in 〜で自分が感じていたしがらみ
 were...visible あまり目立たなかった
 felt...for 〜に共感をおぼえた
 mouthpiece 代弁機関

矢島翠 (やじま・みどり): 1932年東京都生まれ。東京大学文学部英文科卒。1955年共同通信社入社。外信部、ホノルル特派員、ニューヨーク特派員などを経て、1976年共同通信を退社。フリーで文筆活動。著書に『女性特派員ノート』(人文書院)、『ヴェネツィア暮らし』(朝日新聞社)。翻訳書にマヤ・アンジェロウ『歌え、翔べない鳥たちよ』(人文書院)、L. ブニュエル『映画、わが自由の幻想』(早川書房)


My Life, My English 草の根レベルで見た素顔のアメリカ
http://www.asahi.com/english/weekly/column/mylife.html

 しかし、その矢島翠さんも2011年お亡くなりになっておられました、合掌。

 今年も数多くの映画人の訃報に接した。8月30日には、矢島翠が呼吸不全で亡くなっている。享年79。ああ、間に合わなかったという思いがこみあげてきた。実は、数年前から、矢島翠の映画エッセイ集をつくりたいと思っていたからである。
 新聞の訃報では、評論家の故加藤周一のパートナーであることばかりが強調されていて、名著『ヴェネティア暮し』(平凡社ライブラリー)を始めとする彼女の優れた仕事について言及したものはほとんどなかった。まともな追悼文すら出なかったのではないだろうか。
 矢島翠は、『現代のシネマ・アントニオーニ』(ピエール・ルブロオン著、三一書房)、ルイス・ブニュエルの自伝『映画 わが自由の幻想』(早川書房)などの優れた翻訳者としても知られるが、私にとっては、なによりもまず、戦後最高の女性映画批評家であった。とくに、小川徹が編集長として辣腕をふるっていた1960年代半ば頃の『映画芸術』では、ほぼ毎号のように映画評論を書いており、どれも読みごたえがあった。
 この頃の『映画芸術』については、三島由紀夫の次の評言が正鵠を得ている。

「『映画芸術』という雑誌は全く面白い雑誌で映画をサカナにして、竹林の七賢人が、浮世離れのした高遠な議論を毎号やっている。浮世とは低俗なる大衆であり、その低俗なる大衆の無意識の部分を、知的に、あるときは社会科学的に分析して、とんでもない結論をみちびき出す。その結論がとてつもなく面白い。世間で悪評高く大コケにコケた映画がここでは傑作の折紙をつけられたりする。なまぬるい良識派の映画批評や、平和主義と見せかけながら政府の文化政策のお先棒をかついでいるような映画批評は、ここには見当たらない」

 恐らくは、小川徹自身の<文芸コンプレックス>のなせるわざでもあったのだが、1960年代の『映画芸術』は、高名な文学者や哲学者、文芸評論家などによる<局外批評>が主流を占めていた。しかし、こうした<裏目読み批評>の大半は、その悪しき<政治主義>ゆえに、今となってはまったく読むに耐えるシロモノではない。だが、矢島翠の映画批評には、そうした時代思潮には左右されない、しなやかな知性と批評精神が脈打っており、今、読んでも、充分に刺激的なのである。
 なかでも、吉田喜重とミケランジェロ・アントニオーニについての優れた論考が多かった。
 たとえば、今、私の手許にある『映画芸術』(1967年8月号)は、「アントニオーニ 日本での9日間」という特集が組まれ、『欲望』の公開に合わせて来日したアントニオーニに、吉田喜重がインタビューした記事が載っている。これは、かつて吉田喜重が書いたアントニオーニ論を矢島翠がフランス語に訳してアントニオーニに送ったところ、彼がとても秀逸な批評であると高く評価したことから実現したものである。
 矢島翠には『出会いの遠近法――私の映画論』(潮出版社)という映画評論集がある。追悼の思いもこめて、ひさびさに読み返してみたが、黒澤明、今村昌平、大島渚から若松孝二までを視野に入れて、日本映画における<母性信仰>を批判的に検証した「勤勉な巫女たち」がやはり圧倒的だ。
 アントニオーニと吉田喜重の映像には<女の視線によるエロティシズムがふくまれている>という仮説から論をすすめる「現代映画にあらわれた性」も、フロイトや柳田國男の『妹の力』、吉本隆明の『共同幻想論』を自在に引用しながら、まったく晦渋さを感じさせない平易な語り口で、映画におけるセックスの主題を深く追求している。
 なかでも「思慕の流れ――フランソワ・トリュフォーの世界」は、トリュフォーの映画のにおける<女の顏>へのオブセッション、そして<トリュフォーの描く弱い男たちは、?棄てられた少年?の遠い記憶を、その内部にもっている」という指摘には深く啓発させられた。
 「そして何も変わらなかった――ジョセフ・ロージーの世界」も、赤狩りでアメリカを追われたロージーの<独特の女性嫌悪>を読み解きながら、傑作『恋』を周到に分析したくだりには感嘆させられた。達意の日本語によって書かれた批評を読む悦びというものを味わった気がする。
 そういえば、幼少時から矢島翠と親交があり、名文家として知られた須賀敦子は『ヴェネティア暮し』の解説の中で、「対象を忍耐ぶかくじっくり見定める著者の、まれな教養と素質が、爽やかな理性に支えられてどの章にも光を放っている」と書いている。
 矢島翠の映画批評の魅力は、まさに、「まれな教養と素質が、爽やかな理性にささえられて」いるところにあるのだ。
 私は、一度だけ、矢島翠と言葉を交わしたことがある。もう、15、6年ほど前になるが、ヴェネティア映画祭グランプリを獲った台湾の鬼才ツァイ・ミンリャンの『愛情萬歳』が公開された時のことだ。配給会社のプレノン・アッシュから劇場用パンフレットの編集を頼まれた私は、ぜひ、矢島翠に作品評を書いてもらおうと思った。
 というのも、急激な高度成長を遂げた台北を舞台に、高級マンションをセールスする若い女性の空漠とした内面と凄絶な孤独を描いたこの傑作は、<愛の不毛三部作>を撮っていた頃のアントニオーニを、否応なく思い起こさせたからだ。
 たしか、試写の後で、お茶に誘って、感想を尋ねた記憶があるのだが、その時に、矢島翠が、開口一番、言った言葉が忘れられない。

 「アントニオーニじゃなくて、蔵原惟繕に似ているわね」

 まったく意外な指摘だったが、考えてみれば、たしかにマレーシア出身で、台北に留学したツァイ・ミンリャンが描く無機的な都市景観と、ボルネオで生まれた蔵原惟繕が『憎いあンちくしょう』等で追求した観念至上的な愛のモチーフは、自分の居場所を<異郷>として眺めてしまう根無し草のような虚ろさ、コスモポリタンな感覚が漂っている点ではとても似ているという気がする。
 結局、矢島翠には作品評は書いてもらえなかったが、その代わりに彼女を深く尊敬していた故石原郁子さん(1953-2002)が見事な批評を寄せてくれた。
 石原さんは、すでに『アントニオーニの誘惑――事物と女たち』(リュミエール証叢書・筑摩書房)を上梓していたが、たしか、この著作は矢島翠に捧げていたはずだ。
その後、矢島翠は、フランス映画社の完成披露試写の際に、足元がおぼつかない加藤周一を支えるようにして一緒に見に来ているのを、たびたび見かけたぐらいで、彼女自身、その頃は、もはや映画について書くこともほとんどなかったように思う。
 『出会いの遠近法』はすばらしい映画評論集だが、長編エッセイが中心で、1960年代の『映画芸術』に書かれた膨大な時評、作品評はまだ手つかずのままである。
 フェミニズムなどという言葉がまだ一般に認知されていなかった時代に、矢島翠は、<女であること>の甘えや虚栄を排し、自らの女性性を深く認識しながら、柔らかな批評言語を研ぎ澄まし、果敢に闘ったといえるだろう。
 その業績を決して忘れてはならない。


清流出版、高崎俊夫(1954年生まれ)の「映画アットランダム」
遅ればせながら矢島翠を追悼する
http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2011/12/post-36.html


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2016年04月27日

九条の会

 「八十八カ所めぐり」かぁ〜、で米寿、八十八歳だと……
 4月27日水曜日、暮れないうちに日記をつけておかないと、とヤッホー君!

88歳!最高齢の介護職員が誕生!〜QOLアカデミー川崎校〜
https://www.youtube.com/watch?v=lvJYpJPvKhk

 川崎市川崎区の竹島静枝さん(88)が介護資格を取得した。約1カ月間、講座に通い、2015年12月17日に修了試験を受けて合格した。尋常小学校を卒業して以来の米寿での学び。子や孫の世代に囲まれて、高齢者の「リアルな姿」も伝えた。これから介護の現場で働くつもりだ。
 11日、川崎区の「介護の学校・QOLアカデミー」。旧ホームヘルパー2級にあたる介護職員初任者の研修で、17人が学んでいた。睡眠をテーマにした実習では、竹島さんは手早くシーツを交換していた。
 「受講生の中で一番上手」と講師の宮田和樹さん(38)。「講義でも一番熱心にメモをとっている」とたたえる。眠りにつくための習慣(入眠儀式)についての討議では、「韓流ドラマを見ると、いつの間にか気持ちよく眠っているのよ」と言って笑わせた。
 竹島さんが通い始めたのは11月半ば。糖尿病や心臓病の持病があり、「勉強しておけば、介護される時に相手も自分も楽なはず」と思い立ったという。同居する長女の敬子さん(59)は「これまでデイサービスやカルチャーセンターへ通うことを提案しても乗り気でなかったのに」と驚いた。
 厚生労働省の担当者も「聞いたことがない」と驚く高齢での挑戦だが、受講生たちの飲み会にも毎回参加するなど、溶け込んでいった。平日は毎日講義があったが、皆勤を果たした。
 同級の根岸太一さん(20)は「高血圧の薬を飲んで眠れなくなったことなど、高齢者のリアルな経験も聞けて、とても勉強になる」。大谷恵洋さん(46)は「88歳でも介護サービスを提供する側になれるということに気づかされた」と話す。
 竹島さんは尋常小学校を卒業後、女中として奉公に出された。21歳の時に結婚し、3人の子どもをもうけたが、夫と2人の息子はすでに亡くなった。「息子に先立たれたのは、本当につらかった」と竹島さん。
 約75年ぶりの学校は、「教わることをなかなか覚えられないのは困るけれど、新しいことを知ることができて面白い」。娘の敬子さんは「この年になって母が幸せそうでうれしい。これまでの苦労が実ったのだと思います」と語る。
 17日の合格者発表では、竹島さんの名前がスクリーンに映し出され、教室から大きな拍手が起こった。今後は、実際に介護施設で働くことを考えている。本人は「タオルをたたむぐらいの仕事しかできない」と控えめだが、QOLアカデミーの矢野憲彦代表(50)は「食事の介助や傾聴ボランティアも十分にできる力がある」と太鼓判を押す。「米寿で学び、人のために役立とうとする静枝さんは、高齢者の希望の星だ」


2015年12月19日13時52分更新、朝日新聞デジタル(佐藤陽)
88歳、介護のプロに 高齢者のリアル生かし資格取得
http://digital.asahi.com/articles/ASHDF7TWQHDFULOB007.html

 う〜ん、素晴らしい生き方ですよね。
 もう一人、素晴らしい生き方をなさった方をどうしてもヤッホー君、ご紹介したいんだって。
 その方は加藤周一さん(1919-2008)!

 「戦死したのがどうして私じゃなく彼(戦死した戦友、中西哲吉)なのか、と。
 その後、半世紀以上、私は生きたわけでしょう。
 88だから。
 だけど、彼は、だから25ぐらいだからね。
 サバイバル・コンプレックスですよ。
 生き残りコンプレックスだな。
 で、それは、私にもちょっとあるのかもしれない。
 そこで、その、私はどうするかということになるとね(中略)
 彼だったらやるかもしれないというようなことを全然やらないでいるっていうことの一種の後ろめたさというか――があると思うんですね。
 だから、それと闘うために戦争反対なんかの話をする、運動するということになるかもしれない」

(「シネ・フロント」2010年2、3月号)

 
平和じゃなけりゃ生きられないでしょ。
 戦争をやって何をするんですか。
 なんのために戦争するんですか。

http://cine-front.co.jp/backnumber/index_373.html
映画『しかしそれだけではない。加藤周一幽霊と語る』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=Gv7japsBGgQ
http://www.ghibli.jp/kato/

 これは、加藤周一自選集10(1999-2008)の巻末解説(鷲巣力)より。
 さらに加藤周一未完の原稿まで:

 私は戦争で二人の親友を失った。
 もし彼らが生きていたら、決して日本が再び戦争への道を歩みだすのを黙って見てはいないだろう。
 南の海で死んだ私の親友は、日本が再び戦争をしないことを願ったにちがいない。
 憲法9条にはその願いがこめられている。
 私は親友を裏切りたくないし、9条を改め(未完)

(同書、484頁)

 戦後日本を代表する知識人・評論家で、2008年に89歳で亡くなった加藤周一さんの膨大な蔵書やノートなどを収めた「加藤周一文庫」が2016年4月1日、立命館大衣笠キャンパス(京都市北区)にできる。和漢洋にわたる深い教養をもとに政治や社会、文化を縦横に論じた「知の巨人」の思想に迫る拠点となりそうだ。
 開設されるのは、新規開館する平井嘉一郎(かいちろう)記念図書館2階。加藤さんが客員教授や国際平和ミュージアム初代館長を務めた縁で、散逸防止と一般公開を望む遺族から2011年に寄贈された。
 開架書棚に、朝日新聞に1984〜08年に連載した「夕陽妄語(せきようもうご)」などの自著や蔵書が約1万2千冊並べられ、愛用の机や書棚も展示。閉架書庫には、書き込みのある蔵書や貴重書約8千冊や、1千を超すファイルにまとめられたルーズリーフノート、来信、資料類などを収蔵する。「夕陽妄語」の自筆原稿もあり、いずれ公開予定という。
 17〜22歳ごろに日記や詩歌、短編小説などを記したノート8冊も見つかった。今回、「青春ノート」と名づけられて展示ケースで初公開され、デジタルアーカイブでも閲覧できるようになる。
 30日の内覧会で吉田美喜夫総長は「学生や市民が難しい問題に出会ったとき、加藤さんならどう考えるだろうと思いをいたし、自ら考える場になることを期待している」と話した。
 一般の人も図書館受付を通じて入館でき、開架資料に限って閲覧できる。デジタルアーカイブは図書館のホームページ(http://www.ritsumei.ac.jp/library/ )から。

■ 知人が語る「努力家」
 開設準備に携わってきたのが、編集者として40年近く加藤さんと付き合った立命館大加藤周一現代思想研究センター長の鷲巣力(わしずつとむ)さん(71)だ。
 見えてきたのは努力家だった加藤さんの姿だという。編集者時代は天才的なひらめきの人と思っていたが、資料には小さな字で整然と記された膨大な数のノートがあった。「親族の一人は、加藤さんが家にいる時は机に向かっている姿しか思い浮かばないと言います。ほとんどの時間を本を読み、文を書くことに費やされていたのでしょう」
 「青春ノート」の、太平洋戦争が開戦した1941年12月8日のところにはフランス語でこう書かれていた。
 ついに戦争が始まった。
 我々の国で。
 我が国の政府は宣戦布告をした。
 誰がしたんだ?
 なぜだ?


 折しも3月29日に安全保障関連法が施行された。鷲巣さんは「平和と民主主義を信じていたはずだが、何の痛痒(つうよう)も感じずにそれを捨て、安保法制を通してしまう。加藤さんを通じて、我々自身のものの考え方を検証することにつながるのでは」と話す。

◇ かとう・しゅういち
東京帝国大医学部を卒業した医師だったが、その後評論・創作に専念。古今東西にわたる幅広い教養と感性で「日本文学史序説」「雑種文化論」などを発表。リベラルな立場から平和問題に積極的に発言し、2004年に作家の大江健三郎さんらと「九条の会」を設立した。1993年度の朝日賞受賞。


2016年3月31日06時54分更新、朝日新聞デジタル(久保智祥)
加藤周一文庫、立命館大に誕生 「知の巨人」に迫る
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3W3W49J3WPLZB004.html?rm=401



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高村薫『空海』

 昨日ご紹介しました医療ジャーナリストの藍原寛子さん(1967年生まれ)。
 作家の高村薫さん(1953年生まれ)と 『婦人之友』4月号でこんな対談をしておられましたのでご紹介:

 東日本大震災から丸5年、そして福島第一原発が最初の爆発をした日からちょうど丸5年の日、3月12日発売『婦人之友』4月号に、村薫さんとの対談が掲載されました。
 昨日、編集部から『婦人之友』が届きました。
 表紙は4月にふさわしい、桜をイメージさせるピンク色です。。。

 ウエブサイトからも直接購入、また定期購読ができます。
 『婦人之友』ウエブサイト
http://www.fujinnotomo.co.jp/magazine/fujinnotomo/f201604/

 対談は1月下旬に行われました。
 村さんはその日、夜からの直木賞の選考会のために上京され、お忙しい中でお時間を取ってくださいました。
 帝国ホテルの上階ラウンジ個室という、とても静かで落ち着いた最高の雰囲気で、ゆっくりと、十分に、お話しさせていただきました。

 村さんは1991年の30代後半、まだまだ社会が安全神話にどっぷりつかっている時に原発の脆さに迫る小説『神の火』(新潮文庫版は1995年)を執筆しました。
 阪神淡路大震災の体験が「人生を根こそぎひっくり返す」ものだったこと。
 それから20年後に、実際に起きた東日本大震災で何を考え、何を思ったのか。
 祈り、鎮魂が満ち溢れた福島県の原発被災地も訪れ、取材しています。
 その内容は共同通信の大型連載記事「空海」(2015年9月に新潮社より書籍として出版)にもまとめられています。
 空海の思想や祈りが人々にどのようなインパクトを与えたのか。
 残念ながら福島県内の地方紙では連載されていないようです。

 私は、福島で生活しながら取材しているフリーランスのジャーナリストとして、原発という高度技術と人間の生活、被災者の今、格差拡大の社会の中で日本が目指すべき道などについて話しました。
 もちろん、村さんから、『神の火』執筆の秘話もバッチリ伺ってます!

 それから…、震災があって書くものが変わってきたという村さん。
 「物書きは悲観的、根暗な人間がやることですよ」と。
 どうしても悲観的にならざるを得ない震災後の現状で、ものを書いていくという行為について、力強く励ましてもらいました。
 とても優しく、ほんの1ミリも媚びることのない方でした。
 村さんがくれたワクワクするような静かな力強さや感動を、たくさんの人に伝えたいです。
 村さんから頂いた言葉を宝物にします!

 大事故が起きて、原発が人びとの暮らしや命に深くつながった、深刻な問題であることが鮮明になった今、原発のある国日本で生きている今、今回の対談の内容は、きっとみなさんの勇気と希望につながると思います。

 ぜひ多くの方に読んでいただきたいです。


EdgeなNewsを掘り起こす ジャーナリスト藍原寛子のブログ
「未知を生きる――原発を抱えた国で」
http://ameblo.jp/mydearsupermoon/

 4月17日、高野山でなく高尾山で空海を求めて「八十八カ所めぐり」の半日順礼をしてきたばかりのヤッホー君、<高村薫『空海』>が目に飛び込んできてびっくり!
 書評「信仰を追体験する旅」として、評者の篠原資明(京都大教授)先生はこんなことを:

  著名な作家による空海本としては、戦前なら菊池寛、戦後なら司馬遼太郎のものが思い浮かぶが、21世紀に新たな一書が加わった。
 本書が提示する空海とは、まずもって特異きわまりない身体経験の人、そしてその身体経験を言語化できた人である。
 そこに空海生前の並外れた存在感もあれば、限界もあった。
 なぜなら、その比類を絶する身体と言語のありようゆえに、何者も空海を継承することができなかったからだ。
 空海その人は忘れられ、神話化ばかりが進んでいく。

 本書が好ましいのは、著者自らが空海の体験を、さらには今日まで生きつづける空海信仰の姿を、可能なかぎり現場に身を置き入れつつ、探ろうとしているからだろう。
 高野山はもとより、四国遍路に、東日本大震災の跡地に、そしてハンセン病患者にまで、その探求は向けられる。
 悲惨な話にも事欠かない。にもかかわらず、本書をとおして浮かび上がる空海信仰のありようは、なぜか不思議に明るいのだ。

 「空海」が「空気」となった、と著者はいう。とすれば、日本は空海を呼吸しているともいえる。
 空海を探る旅は、日本を探る旅とならざるをえない。
 空海の論理が時代に置き去りにされたかのような論調には、違和感を覚えもするが、空海とともに日本を考えてみるにも好著といえるだろう。
<たかむら・かおる> 小説家。著書『マークスの山』『新リア王』『冷血』など。

◆ もう1冊
武内孝善著『空海はいかにして空海となったか』(角川選書)。神秘体験や中国での求法(ぐほう)などから空海の実像を探る。


2015年11月1日付け東京新聞【書評】
高村薫著『空海』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2015110102000182.html

 2001年発足の山歩クラブが15年目を迎えた節目の年の春に、高尾山で「八十八カ所めぐり」ができたのも何かの縁でしょう、きっと。
 そして、「八十八カ所めぐり」は奈良県にも古く江戸時代から受け継がれてきておりましたぁ:

 弘法大師空海が高野山を開いて今年2015年で1200年目。
 弘法大師が修行した四国霊場のように、集落を一周すると八十八カ所めぐりができる。
 そんな珍しい風習が、大和郡山市番条町(ばんじょうちょう)に伝わっている。
 年に1回だけ開かれる「番条のお大師さん」だ。

 4月21日。
 昔ながらの家並みが残る集落では、各家の門前に、守り継いだ小さな弘法大師の木像が出開帳されていた。
 大師像の入っている厨子(ずし)は、四国八十八カ所霊場の札所の番号と寺院名が朱書きされ、餅や季節の野菜などが供えられた。

 参拝者は、大師像の前で般若心経を唱えたり、手を合わせたりして巡っていた。
 元々は集落内の静かな風習だったが、数年前にテレビで紹介されるなどして、遠方から訪れる人も増えた。
 集落に住む奥本佳子さん(36)は4歳の子と参拝した。
 「普段は静かな集落がにぎやかになる一日」と話した。

 番条町は、周りを川と濠(ほり)に囲まれた環濠(かんごう)集落。
 東西200メートル、南北700メートルあり、伝承では、江戸時代に88軒の家があった。
 文政13(1830)年、コレラの流行に対して村人が相談し、弘法大師を信仰することになったと伝わる。
 幕末の動乱期に至り、揺らぎ始めた村の秩序を守ろうと、各家が平等に参加する八十八カ所めぐりが始まった、と考えられている。

 転居で集落を去る時、その家の大師像は、集落の近所の家や寺に預けられた。
 80軒余りとなった今でも、88の像は集落内で守られている。
 市内に住む四国八十八ケ所霊場会公認先達(せんだつ)の山下正樹さんは「貴重な集落の遍路文化を守るため、保存会の設立を呼びかけたい」と今後に期待を寄せる。

■ 文化財級の価値 奈良民俗文化研究所の鹿谷勲代表の話
 18世紀後半に開かれた県内北部の寺院を巡礼する「大和北部八十八カ所霊場」の札所に番条町の寺院も含まれることから、これを集落が取り入れた可能性もある。
 ミニ巡礼は、地域の寺院や、境内の石仏をめぐる例はあるが、このような形式は全国的にも珍しいのでは。
 無形民俗文化財として保存継承していく価値があると思う。


2015年5月14日03時00分更新、朝日新聞デジタル(筒井次郎)
奈良)集落一周で八十八カ所めぐり 大和郡山に残る風習
http://digital.asahi.com/articles/ASH4P5KP0H4PPOMB01D.html?rm=374



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2016年04月26日

みんなでやっぺ!!きれいな6国

変革者たれ!ふたば未来学園高校
https://www.youtube.com/watch?v=tjgwgoBWY6k

 はぁ〜すごぉ〜い!ふたば未来学園高校
 でもさ、応援団からの熱烈なフレー、フレー、カッセ、カッセ、ファイトー……でポチみたいにお尻ふってると疲れるから、ゆっくり、のんびり、たのしくの三拍子でいいよ。
 昨秋、国道の清掃をしたんだって、というか、やらされましたかぁ〜そうでしょうね…
 はぁ〜すごぉ〜い!ふたば未来学園高校:

 広野町にある福島県立ふたば未来学園高校から参加したというふたり組の女子高生に話を聞いてみた。

 「参加したのは学校の美化委員だったから。強制参加でした。放射能の話? 学校では誰もしないし、みんな気にしていないと思います。今日の清掃活動をすることで反対運動があったのですか? 全然知りませんでした

 記者がなぜ反対運動が起きたのかを説明し、ふたりと話し終えると、いつの間にか後ろにいた付き添いの先生にこう言われた。

「取材は清掃活動が終わってからにしてください」

 そこで、先生に「今日の活動は強制参加なのか?」と尋ねると、「そんなことはありません。希望者だけです」と慌てて否定。
 そんなやり取りを聞いたのか、間髪を開けず主催者団体のひとりが飛んできた。
 事前に取材に関する規制も注意もなかったが、やはり反対運動があったからだろうか…
 報道陣を警戒している様子が窺える。


2015年年10月17日付け週プレニュース(取材・文・撮影/桐島瞬)
地元高校生が強制参加? 放射能に汚された福島“6国”清掃活動は美談でいいのか
http://wpb.shueisha.co.jp/2015/10/17/55093/

 清掃活動が終わってから、主催者であるNPO法人ハッピーロードネット代表の西本由美子氏に聞いた。

― 開会式の挨拶で「(この清掃活動を開催することには)いろいろなご意見があったが」と発言されましたが、その「いろいろなご意見」というのは?
西本氏「原発反対の人が、なぜそんなところ(6国)に子供を入れて清掃をやるのかという意見が多かった。しかし、私たちはここに住んでいる。広野町の6号線は通学路にもなっていて安全なところと思っている。子供たちに故郷を作る、頑張る勇気を与えてあげたいと思ってゴミ拾いを再開した」

― ゴミ拾いすることで、子供が被曝するリスクはどう考えている?
西本氏「私も子供の親。子供に被曝させようと思ってやっているわけではない。空間線量も日々見ているし、子供たちも広野町に戻ってきて、親と一緒に住んでいる。6号は通学路になっているし、生活して安全なところだと思っている。
 原発の様子を見ると1時間後が安全かどうかはわからないが、ここで生活している人はそういうリスクを選択した上で帰ってきている。放射線量について判断するのは個々の責任だ」

― ボランティアの測定員が放射線量を測定したら、地表で毎時1.3マイクロシーベルトもあった。「ここに近づいてはいけない」と参加した子供たちに説明していた。
西本氏「線量の高い低いは測る場所にもよる。わざわざ草むらの中を測っても、子供たちはそんな場所を歩かない。場所による線量の違いを子供たちに教えていかないといけない。ここに住む以上はそういうことを私たちが指導することが必要」

― そうは言っても、ゴミ拾い中に子供たちは草むらに入っていたが。
西本氏「毎日ゴミ拾いをしているわけではない。線量の高い場所があるという指導を今日いただき、子供たちはよい勉強をしたと思う」

― 事前にゴミ拾いをする場所の放射線測定はしたのか。
西本氏「事前に測定したが、人間だから細かい草むらの中までは測っていなかったのかもしれない。それに線量は日々変わる。広野町は東京と同じくらいの線量だと思っている。私の旦那は横でタバコを一日3箱吸うが、そのほうが広野町の線量よりも体に悪い。化粧品の中にも放射線は含まれている」

― 子供たちへの指導が大切というなら、なぜ開会式の挨拶の中で、放射線量の話に全く触れなかったのか。
西本氏「時間に縛られて、ただの主婦の私はそこまで話す余裕がなかった。私はプロではないから挨拶も上手でない」

 ちなみに、西本氏は双葉地方の観光交流大使を務め、福島県のハンサムウーマン第一号。
 ジャーナリストの櫻井よしこ氏を招いた放射能を考える講演会で司会を務めたり、やはり櫻井氏のTV番組に「プルトニウムを飲んでも毒性は塩と大差ない」と述べた奈良林直北大教授と一緒に出演したりしている。
 明らかに普通の主婦ではないが、それでも「ただの主婦」、「プロではない」というのは謙遜(けんそん)だろうか?

― 来年もこのイベントをやるのか。
西本氏「子供たちがやりたいといえば、続けたい」

― やるのであれば、せめて細かな線量測定をして、情報公開をしてほしいとの声がある。
西本氏「皆さんには線量がなくなる応援をしていただきたい。私にわからないことがあれば、教えてください」


2015年10月18日付け週プレニュース(取材・文・撮影/桐島 瞬)
放射能に汚された福島“6国”清掃活動が波紋! 子供を使った除染なのか?
http://wpb.shueisha.co.jp/2015/10/18/55102/

 東京電力福島第一原発の被災地を南北に走る福島県の国道6号線延べ50キロ・8区間で、10月10日、中高生を含む約1400人がごみ拾いをする清掃活動「みんなでやっぺ!! きれいな6国」があった。
 事務局はNPO法人ハッピーロードネット(西本由美子理事長、広野町)。

 開催前から、全国70を超える市民団体が中止を求める提言書を提出。
 理由は放射能問題で、活動ルートの放射線測定値も公表されず、参加可否の判断材料に乏しいことや、被曝防護措置の不十分さを挙げた。
 西本理事長は「多数の抗議の電話やファクスがあった」ことを明らかにし、「親から参加承諾をもらい、強要はしていない。中高生のごみ拾いは高校の通学路で、線量も低い。線量計も持ち、事前に落ちていたごみの線量も測っている」と弁明する。

 広島・長崎の原爆降下物と健康影響に詳しい沢田昭二・名古屋大学名誉教授(素粒子物理学)は「最近の原爆の放射性降下物の研究では、原子雲から降った黒い雨よりも、広がった原子雲から降下した放射性微粒子を呼吸などで人体に取り入れた方が大きな影響を与えたことが分かっている。ほこりなどに含まれる放射性微粒子を取り込んで、がんのリスクを高めるのではないかと心配だ」と話す。

 国道6号線は昨年、佐藤雄平知事(当時)が東京五輪組織委に聖火リレーを要望した道路。
 10月10日は動員された除染関連業者ののぼりが目立った。
 経済効果を狙う地元の思惑も透ける。これは善意で彩られた無償奉仕と表裏一体で、被曝リスクを個人負担させる足がかりなのか。

 西本理事長からは筆者に「対応できない」と取材お断りの電話があった。
 地元のメディアは抗議について伝えないが、十分な説明が求められる。
 かつて福島第一、第二原発で働いていた今野寿美雄さんは言う。
 「新たな安全神話が今、まさに作られようとしている


2015年10月29日1:31PM更新、週刊金曜日10月16日号(藍原寛子・ジャーナリスト)
福島、国道6号線清掃活動――抗議無視の安全神話作り
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=5559

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福島は大震災から復興

 フクシマとちがって、30年たってまだ「アンダーコントロール」とは言えないチェルノブイリ。
 チェルノブイリとちがって、5年もたたぬうち「アンダーコントロール」したとほざくフクシマ。

フランスFR3テレビ「フクシマ・地球規模の汚染へ
https://www.youtube.com/watch?v=ZNYvKm04fXg

 安倍晋三首相は今年の今月4月4日、東京電力福島第一原発事故の被災地、福島県双葉郡の双葉高校と双葉翔陽高校の生徒らと面会した。
 生徒たちは事故後に桜の植樹をしてきた県沿岸部の国道6号を、2020年の東京五輪・パラリンピックの聖火リレーのコースにするよう要望。
 首相も
世界に福島は大震災から復興したと示すことができる。実現できるように皆さんとともに頑張っていきたい」と応じた。


2016年4月4日23時24分更新、朝日新聞デジタル
福島・沿岸部で聖火リレーを 首相に地元の高校生が要望
http://www.asahi.com/articles/ASJ445K45J44ULFA029.html

 双葉高校ってかつては名門校!

 福島県双葉郡双葉町〜東京電力福島第一原発が立地し、東日本大震災による原発事故で町の96%が「帰宅困難地域」に指定され、震災当時の町民およそ7000人全員が避難した。しかし、いまだに帰還の目途はまったくたっていない。
 双葉町にある「福島県立双葉高校」は過去夏の甲子園に3回出場した野球名門校だ。
 東電福島第1原発からおよそ3キロに位置する双葉高校は震災後、県内のサテライト校4校に分散し、授業を継続していたが、震災から1年経過した2012年からは、いわき市にあるいわき明星大学構内の施設を臨時校舎としている。
 名門、双高野球部も単独ではチームが編成できず、相馬農業などと合同チームを編成し「相双福島」としてチームを存続させ、予選を戦ってきた。
 しかし、昨年2013年夏の大会が終わり、3年生4人が引退した後、残った野球部員は1人。
 その後、野球経験はないものの双高野球部存続の意気に感じてくれた2人の2年生が新たに入部してくれた。1人は女子だ(マネージャーではなく「選手」として入部!)。
 実は昨年2013年末、県の教育委員会は双葉高校を含む双葉郡内5高校の生徒募集は2014年度で停止し、2016年度末で休校にする方針を示している。
 その後、休校する5校を統合して広野町へ中高一貫校を設置する。
 事実上の統廃合であり、学校も野球部も新たなスタートが余儀なくされる。

2014年3月10日、文化放送報道部ブログ
震災から3年〜頑張れ!双葉高校球児たち
http://www.joqr.co.jp/hodo/2014/03/post-464.html

 双葉翔陽高校というのは?

 2016(平成28)年4月8日、休校前の最後の一年が始まりました。
 3年生12名でのスタートです。
 本校は、1958(昭和33)年に双葉郡大熊町に県立双葉農業高等学校として独立以来、双葉郡の農業・家庭科教育の中心的役割を果たしてきました。
 1997(平成9)年からは現在の双葉翔陽高校と改称し、多彩な選択科目を持つ総合学科として教育活動を展開してまいりました。
 2011(平成23)年3月の東日本大震災・原発事故により避難を余儀なくされ、同年5月には県内4校の各サテライト校に分かれての教育活動、翌2012(平成24)年からいわき明星大学内にサテライト校を集約し、現在に至ります。

「学校長より」校長・菅野利彦
二十四の瞳
http://www.futabashoyo-h.fks.ed.jp/0_koutyou.html

 そして、広野町へ中高一貫校を設置しました。

 原発事故の影響が続く福島県双葉郡の教育復興を目的に、広野町に来年2015年4月に開校する県立中高一貫校「ふたば未来学園高校」の制服と校章のデザインが決まった。

 制服は、アイドルグループ「AKB48」の衣装製作に携わる茅野しのぶさんがデザイン。
 制服は、同応援団のメンバーで作詞家の秋元康さんから茅野さんの紹介を受け、県が依頼していた。
 デザインは男女とも紺を基調とし、襟を白く縁取ったブレザー。
 男子はグレーのチェックのズボン、女子は緑と水色のチェックのスカートで、「スマートで格好よく、品よく見える」ようにデザインされたという。
 着心地も重視し、素材には伸縮性のある生地が採用されている。

 校章は「ふたばの教育復興応援団」のメンバーで、数々の大手広告賞の受賞歴を持つクリエーティブディレクター、佐々木宏さんが提案した。
 校章は、同応援団のメンバーの佐々木さんが「未来」という漢字を建築物の骨組みのように表現したロゴの回りを、英語名の「FUTABA FUTURE SCHOOL」で囲み、タンポポの綿毛をイメージ。
 綿毛が風に乗って飛んでいくように「生徒が学びの成果を世界中に届けてほしい」との願いが込められている。

 同校の定員は120人。うち7割を、双葉郡の中学生を優先的に受け入れる「連携型選抜」で、残る3割を双葉郡外が対象の「1期選抜」で募集する。。。


2014.12.30 rfcラジオ福島 【岡田英】
ふたば未来学園:「AKB48」衣装担当が制服デザイン
http://www.rfc.co.jp/news/details.php?id=29270

 rfcラジオ福島によりますと
地震で大きな被害を受けた熊本県で、小中高校や幼稚園など計446ヶ所が休校・休園となり、通学・通園できない児童生徒、園児が計約15万7千人に上ることが4月25日、熊本県などへの取材で分かった」そうです。



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2016年04月25日

チェルノブイリ法

 フクシマとちがって、30年たってまだ「アンダーコントロール」とは言えないチェルノブイリ。
 続きがあります、それは「チェルノブイリ法」!
 ぜひ動画をご覧ください:

 2016年3月11日、未曾有の大災害となった東日本大震災から5年。
 復興のかけ声は響いても、原発事故の未来はまだまだ先が見通せません。
 「避難をする権利」を訴え、自主避難者に対する法律支援を行ってきた「SAFLAN」(Save Fukushima Children Lawyers’ Network : 略称SAFLAN)が、現在をどのように捉え、これからどのような活動を続けていくのか。
 「SAFLAN」の共同代表である福田健治弁護士にお話をお伺いしました。

▽ SAFLANのご紹介
 「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」(略称:SAFLAN)は政府指示による避難区域の外側からの避難者(区域外避難・自主避難)を支援することを目的とした法律家のネットワークです。
 政府指示による避難と比較して、区域外避難への支援が遅れていることを懸念した東京や福島の子育て世代の弁護士を中心に、原発事故後の2011年7月に結成されました。
 2012年3月25日現在、35名の法律家が「SAFLAN」に参加しています。


2016・3・11更新、SAFLAN-TV 第28回(特別編)
震災5年目を迎えて
https://www.youtube.com/watch?v=uHc_3eHg_vM

 5年という歳月を経てもなお、原発事故の収束は遠く、この事故に起因する放射線被ばくをめぐる問題は継続しています。
 一方で、この問題に正面から取り組むために設立された復興庁は「2021(平成33)年3月31日までに廃止する」ことが法律で定められており、設置期間である10年間のうちの半分がすでに経過したことになります。
 この間、原発事故被災者が抱える問題は個別化、複雑化し、深刻の度を増してきました。
 しかし、問題が深刻さを増す一方で、政府は原発事故による避難者の人数を把握すらしていません。
 。。。


2016年3月11日、SAFLAN 意見書
震災から5年を迎えて
http://www.saflan.jp/opi/932

 東京電力福島第一原発の事故で避難を余儀なくされた人たちの実態を記録した「原発避難白書」が2015年9月に出版される(人文書院)。弁護士や支援者、ジャーナリストらがまとめた。いまなお続く問題の早期解決につなげたいとの願いが込められている。
 編集したのは、関西学院大災害復興制度研究所と、避難者を支援する「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」と「東日本大震災支援全国ネットワーク」。2013年末から、「原発避難の全体像が把握されていないのではないか」として、関係者で会議や取材を重ねてきた。
 避難者と一言で言っても、どこから避難したかによって事情や悩みは異なる。避難慰謝料の違いによる経済基盤の差、住宅の入居要件の違いなど支援に差もある。避難指示区域外からの、いわゆる自主避難者の中には、自ら「避難者」と言えず、交流会に出るのをためらう人もいる。
 こうした一人ひとりの抱える問題をより的確に把握するために、避難指示区域や区域外など「避難元」ごとに分類した上で、16人の避難者に聞き取りした。
  全町避難が続く福島県双葉町から埼玉県加須市に避難する男性(67)は「自分の心が負った被ばくがとれない。原発のことがテレビで流れると、光景が浮かぶんです。(中略)消したいんだけれど、消えない」と答えている。
 避難先によって差があるとされる、就労や住宅提供などの支援状況も調べ、全都道府県分を掲載した。
 原発事故は影響が長期に及ぶうえ、自治体をまたぐ広域避難も多いことから、避難者の実態把握が大きな課題だ。
 復興庁によると、原発などによる避難者は47都道府県に20万2433人(7月16日現在)。ただ、国からは避難者の明確な定義は示されておらず、都道府県ごとに集計方法もまちまちだ。
 埼玉県では昨夏になって集計方法を見直したところ、数が倍増。正確な把握ができているとは言えない状況だ。
 白書は「政策の対象となる人数すらわからないのに、的確な避難者の補償・救済・支援ができるだろうか」と疑問を投げかける。
 編集幹事で関西学院大の松田曜子特任准教授は「世界でも例のない事故の教訓として、原発事故が起きるとここまでの避難を強いられるんだということを、将来のために記録しておく必要がある」と話す。

 
2015年9月1日11時25分更新、朝日新聞デジタル(稲垣大志郎)
原発事故被災者の声を記録に 「避難白書」9月発刊
http://digital.asahi.com/articles/ASH8T64MXH8TPTFC01G.html?rm=439

 かたや、チェルノブイリ……

 旧ソ連・チェルノブイリ原発事故から4月26日で30年を迎える。事故の5年後、被災地は年1ミリシーベルトを超える被曝(ひばく)線量が推定される地域の住人の移住などを国が支援する通称「チェルノブイリ法」を定めた。一方、東京電力福島第一原発事故から5年が経った日本では、年20ミリシーベルトを下回ったら避難指示を解除し、住民を帰そうとしている。同法に日本が学ぶべき点も多いとする研究者・尾松亮氏に、同法の理念や仕組みを聞いた。

― 今後、日本は避難者に対する保護・支援策をどうするべきでしょう。
 「日本では、2017年3月末で自主避難者への住宅の無償提供が打ち切られ、多くの方が望まないタイミングでの帰還を求められる状況になります。繰り返しになりますが、チェルノブイリ法は、当時のソ連が何もしてくれないので、一共和国、いわば一地方議会だったウクライナなどの議会が、自分たちの手で法律をつくり、自分たちを守ろうとしたのです。日本でも、原発事故の避難者がいる地方自治体の議会が、その地に避難せざるをえなかった人びと、つまりいま、同じ地域に住んでいる人びとの権利をどう保障するのか、それを考えて欲しいと思うのです。その際、チェルノブイリ法のアイデアが改めて役に立つと思います」

◇ 尾松亮(おまつ・りょう)氏
 1978年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。モスクワ国立大学に留学。通信社、民間シンクタンクに勤務。チェルノブイリ被災者保護制度の日本への紹介と政策提言に取り組む。2012年には政府のワーキングチームで「子ども・被災者支援法」の策定に向けた作業にも参加。単著に「3・11とチェルノブイリ法」、共著に「原発事故 国家はどう責任を負ったか」(いずれも東洋書店新社)。


2016年4月14日17時32分更新、朝日新聞デジタル(核リポート、小森敦司)
事故から30年、チェルノブイリ法に学ぶ
http://digital.asahi.com/articles/ASJ4F6V6LJ4FPTIL01Z.html?rm=861

 チェルノブイリ原発事故から30年の26日を前に、「避難の権利」を明記したチェルノブイリ法を日本に初めて体系的に紹介したロシア研究者の尾松亮氏がこのほど、東京都内で講演した。「ロシア報告書」を取り上げ、県や県立医大が県内の小児甲状腺がんの「多発」について原発事故の影響を否定する論拠にした「チェルノブイリ後の事実」とは異なる事実が報告されている、と指摘した。

 東京電力福島第一原発事故事故後、子どもたちの甲状腺検査を進めてきた県は有識者による検討委員会などで、罹患(りかん)統計から推定される有病数に比べ「数十倍のオーダーで多い甲状腺がんが発見されている」と認めつつ、「放射線の影響とは考えにくい」と主張。その論拠として、
チェルノブイリ事故後に甲状腺がんが多発したのは
@ 事故から5年後
A 5歳以下であるのに対し、
福島では
@ がん発見が1〜4年で早い
A 事故当時5歳以下の発見がない
B 被曝(ひばく)線量がはるかに少ない――などとしてきた。

 2011年発表の「ロシア政府報告書」を詳細に検討した尾松氏は、報告書の内容が、県側の説明と「大きく食い違う」と批判。同報告書では甲状腺がんは、
@ 事故翌年から著しく増え(年平均1・7倍)、4〜5年後にさらに大幅に増加
A 事故時5歳以下に急増するのは事故約10年後で彼らが10代半ばになって以降
B 被曝推計の最高値比較では大差があるが、低線量被災地でも増加――などと分析していることを明らかにした。

 そのうえで尾松氏は「現時点でデータは少ないが、チェルノブイリ後の10代での増え方などは違いより類似が目立つ」とし、「先例となる被災国の知見をゆがめて伝えることで、教訓を生かせなくなるのではないか」との懸念を表明した。


2016年4月18日03時00分更新、朝日新聞デジタル(本田雅和)
福島)甲状腺がんの県見解、ロ報告書と矛盾 尾松氏講演
http://www.asahi.com/articles/ASJ4H3JLHJ4HUGTB007.html


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三浦半島は観音崎巡り

 4月24日日曜日は、山歩クラブのお散歩会!
 早朝(といっても午前4時半ころ)、下町は雨風が強く、お散歩会の催行が危ぶまれました。
 いくら山歩クラブの辞書に「雨天中止」という言葉は登録されていないとはいえ、今日のお散歩会(タウンウオーキング)は実施されるの?という不安な朝を迎えました。
 午前9時以降は、降雨率は20%に下がる予報だし、お散歩会はドンマイとか、テンポよく行ってきました6人組。
 いえ、やっぱり無理はしないでおこうと、お一人は取りやめになさいました。
 しかし夕方、浅草橋での打ち上げ会にはご出席!
 もうお一方は手が腫れ上がり絶不調、楽しみにしていたそうですが取りやめ!
 しかし、新年度の会費は払いたいからと朝、ご挨拶がてら、浅草橋駅へ。
 つごう8人が出席となるはずでした。

 目指す観音崎の灯台は日本初の洋式灯台で、1869(明治2)年1月1日の初点灯ですって。
 現在の灯台は3代目だそうですけど。
 東大に登れば、狭い浦賀水道航路を行き交う船舶が見えました。
 この航路、幅約1.4kmで、「航路の中央より右側を航行する」のだそうで、東の房総半島側が東京湾に入る北向き、西の三浦半島側が東京湾から出ていく南向きの航路となるのだそうです。

浦賀水道.JPG

 説明してくださった観音崎灯台の燈光会(Japan Lighthouse Association)のおばさま、ありがとうございました!
http://www.tokokai.org/about/index.html
 集合写真まで撮ってくださいましたよ:

観音崎灯台.JPG

 走水神社では、日本武尊と弟橘媛命に想いを馳せてきました。
 では、集合写真を:

走水神社.JPG
 
 そしてご説明してくださった社務所にお勤めの方、お世話になりました&ありがとうございました:

おとたちばなひめ.JPG

 これは弟橘媛命の記念碑の建立のときの写真でした!

入水の図.JPG

 これは弟橘媛命の入水の図でした!

 パワースポットといわれるほどの走水神社をあとにし、京急馬堀海岸駅までまたよちよち俳諧の道。
 そして帰京した次第ですが、通い詰めているわれわれ山歩クラブの三浦半島お散歩会、そろそろ来月でしばらくはお休みかな。
 では、次回までごきげんよう!



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2016年04月24日

チェルノブイリは今

 フクシマとちがって、30年たってまだ「アンダーコントロール」とは言えないチェルノブイリ。
 もう一度、立ち返ってみませんか?

 1986年4月に起きた旧ソ連・チェルノブイリ原発事故から、来年2016年で30年になるのを前に、本紙は1985年11月下旬から今月12月にかけ、原発と周辺地域の現状を取材した。現場では爆発した4号機を覆う巨大なカバーができつつあるが、溶けた核燃料など抜本的な対策は未定。廃炉はまだ遠い。
 事故は原子炉の欠陥や運転員の熟練不足などが絡み合って発生。4号機を停止させようとして出力が急上昇し、爆発炎上した。同原発は格納容器がなく、炉内の放射性物質が飛散して本州に匹敵する20万平方キロメートルを汚染。汚染地域に当たるウクライナ、ベラルーシ、ロシアで移住を迫られた人は40万人に上り、がんなどの犠牲者は集計機関により数千人から数十万人まで諸説ある。

◆ 老朽化、さらに石棺 チェルノブイリ廃炉まだ先
 事故を起こしたチェルノブイリ原発4号機では、吹き飛んだ原子炉建屋上部や側面を大量のコンクリートや鋼材で覆う「石棺(せきかん)」にして核燃料を封じ込めた。しかし、半年で急造した石棺は30年の間に傷み、さらなる風化を防ぐため建屋をカバーで覆う必要に迫られている。
 現場に近づくと、遠目からも石棺の外壁にはさびが目立ち、雨水が流れた跡で茶色く汚れ、老朽化は明らかだった。現地の広報施設で、詳細な石棺の構造模型を見せてもらったが、鋼材は溶接やボルト固定されておらず、大破した建屋で支えているという。
 突貫工事で造り上げた石棺は風雪でもろくなり、隙間が広がって雨水が入り、放射性物質が漏出している。鉄骨で補強をしたが、一昨年冬には雪の重みで屋根の一部が崩れた。
 現在、4号機の西300メートルの地点で、石棺や周辺の建屋をすっぽり覆う間口260メートルのステンレスなどでできた巨大カバーの建設が進む。「新石棺」や「第二石棺」と呼ばれるが、石棺を風雨から守り、放射性物質の漏出を防ぐためだ。
 作業員の無用の被ばくを避けるため、離れた場所で造り、完成後にレール上をスライドさせて建屋にかぶせる。費用は15億ユーロ(約2000億円)。完成予定は当初の計画より5年遅れの2017年で、遅れの原因を広報担当者は「想定外の積雪と強風。設計になかった工事も必要だったから」と話した。国の資金繰りの悪化も一因とされる。
 4号機に近づくと線量計の値が跳ね上がり、建屋内は毎時20マイクロシーベルトの地点もあった。ここに2日ほどいれば一般人の年間被ばく限度(1ミリシーベルト)に達する。
 事故時に溶岩状になって原子炉から建屋内に流れ出た「ゾウの足」と呼ばれる核燃料には、人が近づけない状態が続く。カバーが完成しても、外側を覆うだけで、本格的な廃炉作業はその後となる。広報担当者は「核燃料をどう処理するか決まっていない。これから検討する」と説明した。


2015年12月29日付け東京新聞朝刊(大野孝志)
チェルノブイリは今 事故から来年30年
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015122902000127.html

 この悲劇をどう表現したか、昨年ノーベル賞を受賞した作家がおりますのでご紹介:

9 Oct 2015 16:00
Novelist and translator Keith Gessen writes:

When the world is really mad at Russia, that’s when you know someone from over there is going to win the Nobel prize. Svetlana Alexievich, born in Soviet Ukraine and based, since her time as a young journalist, in Belarus, is primarily an oral historian – she’s done books with the Soviet veterans of the second world war and the disastrous invasion of Afghanistan, another with the victims of the Chernobyl nuclear disaster, and most recently one with the people who found themselves caught off guard, and most of what they had spent their lives building destroyed, by the onslaught of the Soviet collapse.

I am most intimate with her book about Chernobyl, Voices from Chernobyl: The Oral History of a Nuclear Disaster which I translated in 2004. It is about a major historical event, but done in a kind of miniature. It is framed by two interviews with the widows of men who fought the huge nuclear fire that broke out at Chernobyl after the meltdown, and then suffered from acute radiation poisoning, their limbs literally falling off as their wives watched. But in between these terrible interviews are stories about people getting divorced, couples arguing, someone with toothache. This is history, major history, but written, as all history should be, from below.

When a critic of the Russian (as well as, in this case, Belarusian) regime receives a prize, it’s hard not to read it as a rebuke to the Kremlin. Surely, this is the best kind of rebuke. But Alexievich’s work is also very much the opposite of most rebukes coming at Russia from the west. The people she talks to, the co-authors of her books, are working people, women and elderly people – precisely those who are left behind when we bring the former USSR our IMF-tailored “reforms,” our sharp-looking investment bankers, our latest anti-tank weapons. Alexievich’s voices are those of the people no one cares about, but the ones whose lives constitute the vast majority of what history actually is.


Last modified on Friday 9 October 2015 11.55 BST The Guardian
Nobel prize in literature: Svetlana Alexievich wins 'for her polyphonic writings' – as it happened
By Claire Armitstead, Alison Flood and Marta Bausells
http://www.theguardian.com/books/live/2015/oct/08/nobel-prize-in-literature-follow-it-live

 チェルノブイリと福島は一つの鎖です。科学は、その前には無力なのです」――。
 ノーベル文学賞を昨年受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさん(67)が、朝日新聞記者の単独インタビューに応じた。旧ソ連のチェルノブイリ原発事故を描いてきた作家は、福島での事故同様に科学では対処できなかった現実に言及し、事故が人類に何をもたらしたのかを語った。

■ アレクシエービッチさん単独インタビュー 「チェルノブイリの祈り」著者
 「チェルノブイリの祈り〜未来の物語」の作者アレクシエービッチさんは今月4月26日で事故から30年になるのを前に、一時滞在先のベルリンで取材に応じた。
 広島・長崎に惨禍を招いた「軍事の原子力」に対し、安全と信じ込んでいた「平和の原子力」の事故が人類の歴史を変えたと指摘。「人間は放射線に対処する準備はできない」とし、「自然に対する人間の立ち位置を見直す新しい哲学が必要です」と述べた。
 また、何が起きているのか分からない時点からソ連指導部は「すべてコントロール下にある」と偽っていたと振り返り、こう続けた。「だからこそ、砂粒のような民衆の声、それら『個人の真実』を掘り起こすことが重要なのです」
 福島を訪問する意向も示し、「原発事故で避難した人々と会話をし、私たちの体験したことも伝えたい。学者たちにも会って研究成果を聞いてみたい。特に作家たちが事故の意味についてどう思索を深めているかに関心がある」と話した。
 チェルノブイリ事故はウクライナ、ベラルーシ、ロシアにまたがって汚染地を残した。この事故と1991年のソ連崩壊を「二つのカタストロフィー」と位置づけ、その歴史を「苦難と涙の文明」と表現した。

― チェルノブイリ事故の後、人間はそれまでとは違う「チェルノブイリ人に変わった」と語っていますね。どういうことですか?
 「チェルノブイリは人類の歴史を変えました。その感覚がどのように生まれたかお話しします。事故発生の直後、チェルノブイリに行きました。そこには軍用車があふれ、自動小銃を持った兵士がたくさんいました。私は彼らに『誰を撃つの?』と尋ねました。彼らはただぼうぜんとしており、その光景は今までとは別世界でした」
 「まだ(原発事故の放射能汚染による)強制移住が始まる前、軍人たちが家の屋根を洗い、まきを洗い、村人はここの食べ物は口にするなと言われました。ジャガイモは5回ゆでろとも。人々は理解不能な世界に置かれたのです」
 「ゾーナ(汚染地域)から避難させられた人たちは、鉄条網のそばで私にこう頼んできました。『家がそこにあるか、子猫が死んでないか見てきて』と。犬や猫は撃ち殺されました。動物が殺されるのを見るのは耐え難かった。人間に慣れて信じ込んでいたのに。まさに戦争に思えました」

― 兵士の証言に「原子力の戦争」という言葉が出てきます。
 「これは、従来とは違う戦争の姿です。強制避難を拒んだおばあさんを思い出します。私が兵士と一緒に訪ねた時、彼女は私にこう言いました。『これは本当に戦争なの? 私は第2次世界大戦を生き延びた。煙に包まれ、すべてが焼かれ、周りは敵国の兵士だった。でも、今はすべてが普段のまま。自国の兵士がいて、朝からネズミが駆け回っている』と。つまり、誰も理解できなかったのです。この新しい戦争の姿を」

―「軍事の原子力と、平和の原子力が、双生児だとは、誰も思い浮かばなかった」とも書いていますね。
 「広島・長崎への原爆投下は戦時下でした。私たちはこのような戦争には備えをし、演習もありました。しかし『原子力の戦争』はまったく違う形をしていました」
 「原子力の平和利用には何の心配もしていなかったのです。ソ連の学者は『赤の広場のサモワール(ロシアの湯沸かし器)のように安全だ』とも言っていました。クレムリンの赤の広場に原発を建てても大丈夫、という意味です」

― だから避難も遅れた。
 「原子炉の黒鉛は2日間燃え続けました。とても美しく燃えたと言います。通常の火災とは違う何らかの発光があったそうです。近くの村の住民たちは子どもを連れ、その光景を見に行きました。中には物理の先生もいました。原発の排水をためる貯水池では、子どもたちが魚を釣っていたのを今でも覚えています」

― あなたも「平和の原子力」の安全を疑いませんでしたか。
 「19世紀以降、『科学は人類を救う』と信じられてきました。でも、チェルノブイリで私は、ロシアや米国や日本の学者がぼうぜんとしている姿を見ました。チェルノブイリがこの信仰をぐらつかせました。ソ連ではこの時まで多くの教会は閉鎖されていましたが、この事故で教会が再開され、人々が駆け込みました。科学もマルクス・レーニン主義も答えを与えてくれなかった。神のみが残り、祈るしかなくなったのです」

― 作品に登場するのは一貫して、名も無き人々の証言ですね。
 「私は決してインタビューはしません。人々に寄り添い、ただ生活について会話するのです。あらゆる声がシンフォニーのように響く、新しい形の長編小説です。ある人は5ページの語り。ある人は3、4行だけ。でも、これはとても重要です。たとえば、あるリクビダートル(事故処理作業者)はこう語ります。『庭はリンゴやナシが枝もたわわなのに、村中の誰も薦めてくれない』と。なぜなら、みんな知っているのです。もう放射能汚染で食べられないことを」
 「人間には放射線に対処する準備はできません。目に見えないし、触ることもできないのです」

― チェルノブイリ後に公開された黒澤明監督の映画「夢」をご存じですか。原発が爆発する場面では、放射線に色が付いて可視化され、人々が逃げ惑います。
 「その映画、見なければなりませんね。チェルノブイリでも村の住民たちは、放射線が見えたと話していました。ある人はうすら白く花壇で光っていたといい、別の人は『いや、青かった』と言いました。それがどんなだったか、お互いに論争もしていました」
 「私はこれらすべてを記録しました。人間の意識がこの恐ろしい出来事にどう適応していくのか、とても重要でした。これはまったく新しい恐怖です。彼らは最初、それを戦争と比べました。戦争こそ人々にとって最も恐ろしい出来事だからです。でも、何か別のことが起きていることを理解し始めました。そこで放射線の色などの夢想が始まったのです」

― なぜ一般の民の声にこだわるのですか。
 「誰からも一度も話を聞かれないような人々が20世紀の歴史を語る。それが重要でした。彼らは砂粒のように扱われた人たちです。彼らの話こそ本当に深いのです。主人公や英雄と呼ばれる人よりもはるかに興味深いものでした」
 「それは『個人の真実』とでも言いましょうか。私が愛するドストエフスキーの作品と同様、それぞれの登場人物が自分の真実を語ります。私も、加害者、被害者、共産主義者、民主主義者などすべてに言葉を与え、それぞれが自らの真実を語るのです。私たちはみな、同じ時代を生きる多種多様な存在です。これらの『個人の真実』が集まって、時代の姿が作り出される。一人の主人公がすべてを知っているような設定は、もはやできないのです」

― 原語版に「老婦人から母乳が出たと語られている。科学用語では『弛緩(しかん)』という現象」との下りがあります。この話を引用したロシアの学者の科学論文が、原子力関連の科学者たちから、あり得ない、と批判されたと聞きます。
 「これは村で語られていた話です。このようなうわさは実際にありました。覚えています。私の本にも攻撃が来ました。でも、人々が支持してくれました。これは実際にあったことだと。その後、科学者たちは黙りました」
 「政権は、あたかもすべてがコントロール下にあるかのように、あらゆることを一定の枠に押し込もうとします。(当時のソ連最高指導者の)ゴルバチョフ書記長は事故当初、すべてがアンダーコントロールだと語りました。何が起きたのか誰も分からないのに」
 「だからこそ今、こうした『小さな人たち』の証言がとても重要なのです。私が書くことは私のファンタジーではありません。どんな天才でも、これらの人々の話を考え出すのは不可能です。たとえドストエフスキーでも」

― 人間が説明しにくいことも起こりえるんだと。
 「何が起きたのか誰もまだ理解できないころ、たとえば漁師は餌のミミズを一匹も見つけられなかったといいます。村からミミズが消えたのです。ミツバチは1週間、巣箱から飛び立たなかった。チーズ工場では2カ月間、酵母が働かずチーズができなかった。私たちには放射線を察知する能力がなかったのです。何かが起きた、でも理解できない。それほど奇妙なことが起きたのです」

― 福島をどう見ましたか。
 「チェルノブイリと福島は一つの小さな鎖。科学は本来、その前には無力なのです」
 「日本語版(岩波書店)が出版されて初めて日本を訪れたとき、原発のある北海道で本について議論しました。一人の男性が言いました。『だらしないロシア人だからあのような事故が起きた。日本では学者たちがすべて精密に計算している。我々にはありえない』と。すごい自信でした。その8年後です。福島が起きたのは」

―「チェルノブイリの祈り」の副題は「未来の物語」ですね。
 「同様の事故が、いつかどこかで起こるとは思っていました。でも、こんなに早く起きるとは思いませんでした」
 「北海道の男性にはその時、私はこう言いました。『私たちには自然と争う力はない』と。自然との調和でしか生きられない。自然との関係をどう築くのか、新しい哲学が必要なのです」
 「人間は、自ら生み出した技術の力とは対等ではありません。東日本大震災の津波で巨大な船が宙に浮いているように見える映像に圧倒されました。その時、私は思いました。私たちは誰と戦っているのかと。最も文明的な国の一つである日本にこの時、がれきの山が残されたのです」

― 新しい哲学とはどんなものですか。
 「かつてメキシコに行ったとき、原住民がいました。彼らは食べるために必要なだけの動物を狩ります。彼らは自然に許しを請います。自然とのつきあい方がまったく違うのです。私たちが今のような生活を続けていると、難民はもっと増えます。まもなく環境の難民が生まれることでしょう。自然に対する人間の立ち位置を見直さなければなりません」
 「数年前、北極に近いヘイス島に行ったとき、流れ着いた大量のペットボトルを見て恐ろしくなりました。人類の活動の廃棄物はどれほどなのか、痛感しました」

― 核と決別できますか。
 「私は、今すぐ原子力の禁止を求める立場ではありません。将来的には他のエネルギーに代わると思いますが、それはまだ現実的ではありません。ただし、すべては厳しいコントロール下でなければなりません。3月のベルギーのテロでは、原発を破壊しようとしたと伝えられています。もちろん、人類は原子力に代わるエネルギーに到達するはずです」

― 人類はチェルノブイリを克服できますか。
 「原子力が危険なものであるということを知り、それを意識に刻んだことは重要だと思います。でも、哲学や文学のような形で深く思想化されているでしょうか。多くのことがよく分からないまま残されました。今もまだチェルノブイリには勝てないままでいます」

― 約10年の国外生活の後、強権体制のベラルーシに戻りました。なぜですか。
 「この旧ソ連の小国が何も変わっていないからです。私が書きたい『主人公』の人々はベラルーシにいます。ルカシェンコ大統領の全体主義的な政権下で、反核運動も抑え込まれています。ベラルーシ語での出版もできません。でも、ロシアでは5冊とも出版され、多くの人がそれを買ってベラルーシに持ち込んでくれます」
 「この危険な強権体制のトップ層は、教養の足りない人々が占めています。もちろん大統領は、チェルノブイリとは何なのか、今もまったく理解できていません」

◆ Svetlana Alexievich 1948年生まれ。ベラルーシ国立大学ジャーナリズム学部卒。新聞や雑誌の記者を経て、第2次大戦のソ連従軍女性の証言による「戦争は女の顔をしていない」(85年)で注目される。主著の5作品はいずれも、苦難を背負った民衆の声で構成される。邦訳は「チェルノブイリの祈り」「戦争は女の顔をしていない」「ボタン穴から見た戦争」は岩波現代文庫。「セカンドハンドの時代」は岩波書店から今年9月に発売予定。「アフガン帰還兵の証言」(日本経済新聞社)は品切れ。

■ 取材を終えて
 記者出身の彼女からは、何度も「福島ではどうなの」と尋ねられた。事故前の安全神話。事故現場の正確な実態を把握できないまま「アンダーコントロール」を唱える政権……。彼女が振り返る旧ソ連の姿は、今の日本の姿にそのまま重なるように思えた。核の被害は人知を超える。その教訓を将来に生かさなければならない。「未来の物語」という副題の意味は重い。


2016年4月15日16時04分朝日新聞デジタル(核と人類取材センター事務局長・副島英樹)
チェルノブイリと福島 核惨禍描いた作家「科学は無力」
http://digital.asahi.com/articles/ASJ470PC3J46PTIL01Y.html?rm=785


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2016年04月23日

私たち、忘れないでいようね

 今日4月23日土曜日は、吉永小百合の「夢千代日記」から: 
https://www.youtube.com/watch?v=MDWDTztmMz4
 映画「夢千代日記」(1985年、東映)も:
https://www.youtube.com/watch?v=P0Nge6Mpk1c

 これはヒロシマのあの原爆による「胎内被爆」という宿命を背負いながらも、ひたむきに生きた芸者、夢千代の物語でした(テレビドラマは1981〜1984年、NHK)。
 吉永小百合、ちょっとだけ振り返ってみましょうか:

 「私たちの仕事って年齢不詳でいたいと思うんです」というのだけれど、敗戦の1945年、大空襲の3日後の東京で女優吉永小百合は生まれた。「戦後60年」の歳月と重なる。

 「朝を呼ぶ口笛」で新聞配達少年を励ます少女の役でデビューしたのが14歳、今年2006年の「北の零年」まで出演した映画は111本。この時代の夢を体現してきた人である。どんな人と出会っていまの彼女があるのだろう。小百合版「人脈記」を聞く。

 「演ずること」を教えられたのは小学校5年の担任の奥野幸文先生。学芸会の劇で母ウサギの役をした。「医療少年院で上演したら、少年たちが泣きながら見てくれたんですよ」

 16歳で名作「キューポラのある街」に出演。浦山桐郎監督、当時30歳から「貧乏について考えてごらん」と問われる。「ダボハゼの子はダボハゼなんだ」という鋳物職人の父に「私は家の犠牲にならないわ」と反発する少女ジュン。あのころは貧しくても明るかった。サユリストと呼ばれるファンは、そこに共感した。

 安保闘争から所得倍増へ、日本は高度成長の波に乗る。1964年、東京オリンピックの年、自分からその役を演じたいと申し出た「愛と死をみつめて」。「大人の世界は汚い、大人になる前にこの世を去りたいみたいなところがあったんですけれど、顔の半分を失うがんなのに、なおかつ生きることにこだわった大島みち子さんの手記を読んで、ほんとに感動したんです」


 石油危機から日本は変調をきたすようになる。役作りに悩みつつ忙しがっていた20代の吉永に「悠々と生きる」ことを教えてくれたのは「寅さん」の渥美清。高倉健からは「仕事への集中力」を学んだ。「人間らしい生活に戻らねばだめになる。違う自分を見つけられそうな気がしたんですね」

 防空壕(ぼうくうごう)でおままごと、お屋敷の焼け跡で遊んだ幼い頃の自分。広島の実話をもとにした「愛と死の記録」で、原爆ドームや原爆病院を舞台に、白血病で死ぬ被爆青年を後追い自殺する恋人を演じた自分……。

 それは「自分発見」の旅だったのだろう。1985年の「夢千代日記」で胎内被爆した芸者を演じ、被爆者と知り合った縁が吉永を動かす。

 「脚本の早坂暁さんが復員して広島に来ると、焼け野原でリンが燃えている感じだったというんです。そのとき赤ん坊の泣き声を聞いた気がしたんですって」「温泉町のぬくもりの中で、肩をよせあって生きる人々。現代のメルヘンですね」

 1986年、自分で選んだ「原爆詩」の朗読を始める。

 「生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも」――この3月、亡くなった原爆詩人栗原貞子。「骨太の、すばらしい方でした」

 原爆詩CDを「第二楽章」と名付けたのは? 「シンフォニーの第二楽章って、緩やかでしょう。過去を声高でなく静かに語りかけたい。聞いた人の心に残ってほしいから」

 2004年11月、吉永は「映画人九条の会」結成に参加する。

 「イラク戦争支持とか先制攻撃がどうとか……。ここはしっかりみんなで考えて、声にださないと大変なことになるという危機感が強いんです。憲法九条は読めば読むほどすばらしい。一人一人の命を守るという原点に世界が帰ってくれたら。まあ私なんか、そんな力はないんですけど」

 先日、東京駅のギャラリーで「無言館」(長野県上田市)収蔵の戦没画学生の絵を見た。「みんなすすり泣いて見ていました。絵の中からもっと生きたかったと叫んでいるようだった」


 私たちはつながりあい支え合って、戦後60年のニッポンという共有空間をつくっている。どこから来てどこへ向かおうとしているのか。いま、ここに生きる人々の物語を始める。

◆ 吉永小百合さんの主な出演作とその時代
(『 』は映画名< >内は社会の動き)

45年<東京大空襲(3月10日)>
   東京で誕生(3月13日)
59年『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー
60年<安保闘争>
62年『キューポラのある街』
64年『愛と死をみつめて』
   <東京オリンピック>
66年『愛と死の記録』
70年<大阪万博>
73年<第1次石油危機>
85年『夢千代日記』
86年原爆詩の朗読活動を始める
89年<東西冷戦終わる>
90年<バブル景気が崩壊へ>
97年原爆詩のCD「第二楽章」
01年<9・11同時多発テロ>
04年「映画人九条の会」結成
05年『北の零年』


2006年11月07日13時28分更新、朝日新聞(私も1945年生まれ東京育ち、本社コラムニスト・早野透)
時代の花、戦後60年 吉永小百合さん
http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200611070267.html

 それから8年後、戦後70年を目前にしたニッポンの2014年夏:

 原爆詩の朗読を続ける俳優の吉永小百合さん(69)が、朝日新聞のインタビューに応じた。終戦の年と同じ1945年に生まれた吉永さんの人生は、広島、長崎への原爆投下で幕を開けた「核の時代」と日本の戦後の歩みに重なる。吉永さんは「日本人だけはずっと、未来永劫(えいごう)、核に対してアレルギーを持ってほしい」と求めた。

 唯一の戦争被爆国・日本はいま、核兵器廃絶を唱える一方で米国の「核の傘」に頼るジレンマを抱える。吉永さんは「どういう形にせよ、核の傘に入っているにせよ、あれだけひどい広島、長崎の原爆被害があったんだから、それをみんなしっかり勉強して、どんな状況でも核兵器はノーと言ってほしい」と述べた。

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故で、日本は「核と人類は共存できるか」という課題とも向き合う。吉永さんは「本当の核の威力というものが私にはまだ分かっていない」としつつ、こう語った。「でも、原子力の発電というのは、特に日本ではやめなくてはいけない。これだけ地震の多い国で、まったく安全ではない造り方、管理の仕方をしているわけですから。どうやって廃炉にしていくかを考えないと

 原発の再稼働や輸出の動きがあることには「『さよなら原発』と私は声を出していきたい。みんなの命を守るために、今、せっかく原発が止まっているのだから、今やめましょうと」。そして「まだ毎日、汚染水など現場で苦しい思いの中で作業していらっしゃる方がたくさんいる。そういう中で、外国に原発を売るというのは、とても考えられないことです」と述べた。

 被爆・戦後69年となる今年、日本では戦争放棄をうたう憲法9条の解釈が変えられ、自衛隊が他国を守るために海外で戦う集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。吉永さんは「今の流れはとても怖い。大変なことになりそうな気がしているんです」と懸念を示しながら続けた。「政治が悪いから、と言っている段階ではない気がします。一人一人の権利を大事にし、しっかり考え、自分はどう思うかを語らなければいけない」

 核のない世界をめざし、吉永さんは原爆詩の朗読CD「第二楽章」の広島版と長崎版を作ってきた。「私は俳優だから、詩を読むことが一番伝わる」と述べ、「次は福島の第二楽章を作りたい」と語った。

 
2014年8月6日付け朝日新聞朝刊(岡本玄、核と人類取材センター・副島英樹、写真は山本和生)
2014年の夏
(核といのちを考える)核にアレルギー持って 吉永小百合さん 広島原爆69年

http://www.asahi.com/hibakusha/shimen/2014natsu/2014natsu-12.html

 えっ、映画「夢千代日記」が1985年とすれば、その翌年1986年の春にチェルノブイリ原発事故だったから、その前年だったのですね。
 では、次にこんな映画も:

カリーナの林檎〜チェルノブイリの森〜予告編
http://kalina-movie.com/

https://www.youtube.com/watch?v=KypJEW7YBtg&ebc=ANyPxKpAvOoaxLCXOs9amyh1kXmRpjvd3u_SEs9QgRctbHWMM2B-Nez3-QOv243qBdSxV2EeCpWlv1gUvyUbzJd_RaifiEPAGA

 2011年の暮れに映画を見た感想も: 

 昨日、六本木シネマートで今関あきよし監督の映画「カリーナの林檎」を見てきた。
 チェルノブイリの原発事故を題材に、実際の女の子をモデルにして9年の年月をかけて制作された、物語映画だ。

 震災の話題がtwitterのタイムラインにほとんど流れなくなって、どれくらい経つだろう。
 原発の話題も、今では一部のコンシャスな人たちが警鐘を鳴らし続けてるだけで、多くの人々は、新しいスタートアップだったり、TPPだったり就活だったり(もちろん、どの話題も関心がある人にとっては等しく大事で、そのことを批難するつもりは全然ない)と、新しい話題に夢中だ。
 ソーシャルメディアは大量のトレンドが前のトレンドを押し流してゆく形で、どんな話題も量的に同じひとまとまりの波として、次の波が来れば強制的に押し流されてしまう。
 その波の間隔が、過去の歴史の中で最短なのが、今だと思う。
 忘れることが悪いことではない。
 忘却にも価値はある。
 記憶から消すことで、前に進めることはたくさんある。
 けれど、ソーシャルメディアのおびただしい情報の中で、震災が、フクシマがチェルノブイリが、すべて等しく、いち情報のトレンドとして遙か後方に押し流されてしまうのは、賢さだとは思えない
◇◆◇
 内田樹は新刊「呪いの時代 」の中で、原子力は20世紀に登場したいわゆる「荒ぶる神」であり、日本はその祀り方を間違えた、と述べる。
 テクノロジーによって厳重に祀られ、畏怖され、管理されるべき存在を、政治とマーケットによって支配することでその価値を貶め、見くびり、危機管理を怠ったからこその事故だった、と。
 神を怒らせたことをわたしたちは忘れてはならない。
 繰り返してもいけない。
 だから、チェルノブイリの事故を、映画という形で、人の心に残そうとした今関さんの功績は偉大だ。
◇◆◇
 「チェルノブイリ・ハート」などの原発ドキュメンタリーに比べると、「カリーナの林檎」は、一見おとぎ話かと見まごうような温かみのある可愛らしいタッチで描かれた物語なので、直接的に原発事故のもたらす被害を描いているわけではない。
 でも、原発事故後のベラルーシでの暮らしが、放射能に汚染された村での暮らしが、直接そこにいるようなリアルさで、丹念に描かれている。
 放射能汚染地域のりんごを美味しそうにほおばるカリーナ。見ているほうは「ああ…!」と思う。
 でも、これは暮らしなのだ。
 放射能で汚染されていようと、そこに育ち、そこにあるものを食べる。毎日の神への祈りと同じくらい、当たり前のこと。
 そのことが胸をえぐる。
 今のわたしが東京で行っていること、福島の人びとが行っていることと、同じだからだ。
 原発の影響で、母親が病に倒れる。そして、祖母も。幼いカリーナも。
 そこにいるカリーナは、カリーナの母は、カリーナの祖母は、等身大の「わたし」だし、「わたしたちのこども」だし、「わたしたちの家族」だ。
 登場するひとびとの肌の温度が感じられそうなほど、ぬくもりを持って描かれた物語だからこそ、わたしはそれを痛感する。
 原発事故の恐ろしさが、日々の暮らしと情報と、時間の波に流され、遠のいてしまったいまだからこそ、見られるべき映画だ。


12月2日2011•1:51AM、コラムニスト・小野美由紀のブログ
http://onomiyuki.com/?p=372


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2016年04月22日

川内原発

 熊本地震から一週間、あそこの再稼働したゲンパツ、そしてそれを推進した「イマ、ココ、オレ」さえ良ければって言い張る人たちも、おぉ嫌だ、嫌だ、……

 原発再稼働に向けた動きが着々と進んでいます。九州電力の川内(せんだい)原子力発電所(鹿児島県)は、周囲を日本有数の火山に囲まれ、地震・津波のリスクに加え、火山による噴火のリスクが議論された初めてのケースです。ただし、再稼働の前提となる原子力規制委員会の審査では、噴火リスクは「小さい」と判断され、安全対策は新規制基準を満たしていると結論づけられました(2014年9月11日、朝日新聞)。

 規制委員会の出した結論とは、平たく言えば「長い年月を見通せば、いつかは巨大噴火が起きるかもしれないが、私たちが生きている間には大丈夫だろう」というもので、東京電力関係者が、太平洋岸を巨大津波が襲った過去の歴史から危険性が指摘されていた時に「まあ大丈夫だろう」と無視した態度と共通するものを感じます。

 9月末、御嶽山が突然、噴火しました。多くの登山者が煙にまかれ、降下してきた噴石によって身体を打たれるなどして、57人が亡くなり、いまなお6人が行方不明となっています。「噴火予知」がいかに難しいかをショッキングな事態によって示したのでした。

 私たちが衝撃を受けながら連想したのは、川内原発周辺の火山による噴火もやはり予想できないのではないか、ということでした。毎日新聞によれば、規制委員会の田中俊一委員長は10月1日の記者会見で「(御嶽山の)水蒸気噴火と(川内原発で想定される)巨大噴火では起こる現象が違う。一緒に議論するのは非科学的だ」と述べ、審査の妥当性を強調したといいます(10月1日、毎日新聞)。

 このとき、田中委員長はこんな本音をもらしています。

「巨大噴火はここ30年、40年の間に起こるものではない。天災がいつ起きるか分からないので社会的活動をやめてください、という考え方では仕事はできない」

 1万年に1度の爆発はこの30年、40年で起きるはずがないから気にしないでいこうよ、とも聞こえます。これこそ科学的な発言とは思えません。 田中委員長によれば、御嶽山の噴火は水蒸気噴火で、川内原発で安全性を審査した巨大噴火とはそもそも違うといいます。巨大噴火なら前兆があり、予知できるのでしょうか。

 日本火山学会では、静岡大防災総合センターの小山真人教授が、原子力規制委員会の審査で焦点となった巨大噴火の予測について「現代火山学はほとんど知見を持っていない」などと話し、「規制委が監視を強化すれば前兆の把握は可能」とした判断は「楽観的すぎる」と指摘、噴火の数年前に予測することは不可能との見方を示しています(11月2日、時事通信)。

 さらに、原発事故の地元はどこなのか、という問題も置き去りにされています。福島で起きたことを直視すれば、原発立地自治体と県だけが当事者でないことは歴然としています。たとえば、30キロ圏内に位置する姶良市議会は、7月に「再稼働反対、川内原発廃炉へ」の決議を採択しています。

 にもかかわらず、国や九州電力は薩摩川内市と市議会、鹿児島県知事と県議会の4者のみの合意を取りつけて再稼働を進めようとしています。4者のうち、残る鹿児島県議会は11月5日からの臨時議会で「合意」する可能性が高い、と報道されています。

 その直前には、就任早々、自身の資金管理団体による不適切な支出が問題となった宮沢洋一・経産相が薩摩川内市の川内第1、第2原発を視察しています。会談した伊藤祐一郎・鹿児島県知事に対して原発再稼働の必要性を説き、万が一の事故の際には「国が責任をもって対応する」と明言するなど、再稼働に向けた環境づくりに余念がないようです。

 九州電力といえば、再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度(FIT)の下で、予想以上に大規模な太陽光発電のポテンシャルが高まったことから、9月中旬に「買い取り中断」というニュースが話題になりました(九州電力は10月、「接続申し込みへの回答保留」を一部解除)。再生可能エネルギーが送電線に殺到すると、周波数が乱れ、停電を引き起こす恐れがあるためとされていますが、富士通総研の高橋洋さんは、その解決策として、「余剰電力を利用して水を高い場所にくみ上げ、電力需要が大きくなる時間帯に水を落下させて発電する揚水発電を活用すればいい」と提案しています(10月31日、東京新聞)。

 再生可能エネルギーを底上げする工夫をせず、火山リスクも曖昧(あいまい)なまま、周辺自治体の反対の声も押し切って「原発再稼働」に突き進む姿は、「3.11」以前にこの国の「日常の風景」だったことを思い起こさせます。福島第1原発事故では汚染水遮断を始めとした課題が山積し、全般として収束が見通せなくなっている今、川内原発の再稼働に踏み切るべきではないと思います。


2014年11月4日付け、朝日新聞デジタル
福島原発事故を忘れた川内原発再稼働
文 保坂展人

http://www.asahi.com/and_w/life/SDI2014110491781.html

 でも再稼働!そして昨日付け朝日新聞「天声人語」では:

 自動車免許の教習で「だろう運転」と「かもしれない運転」を習ったことがある。人が飛び出して来ることはないだろう。前の車が急に止まることはないだろう。そんな思い込みを戒め「危険なことがあるかもしれない」と注意して運転すべきだと。

 熊本地震の活断層のずれは鹿児島まで及ばないだろう、川内原発に影響はないだろう。できればそう思いたい。しかし地震の発生から6日で、すでにいくつかの「だろう」が裏切られている。

 最初の地震よりも大きな「本震」が起きるとは、誰も予想しなかった。その後も続く大きな揺れに、専門家から「経験則から外れている」との声が出た。本震の原因とみられる活断層は考えられていたより長いことが分かってきた。

 川内原発のある薩摩川内市の岩切秀雄市長は一昨年、事故時の避難に九州新幹線を使う案を示していた。地震で原発が壊れても、なぜか新幹線は動く「だろう」と考えていたようだ。

 SF作家、小松左京氏の短編に「戦争はなかった」がある。戦後二十数年、主人公には鮮明な戦争体験があるのだが、周りの人には全くなく、探しても記録すら見つからない。戦争がなければ今の日本は考えられないじゃないか、という主人公の言葉がむなしく響く。

 まさか「福島の事故はなかった」という気分になっているわけではあるまい。今からでも遅くはない、余震が完全に収まるまで、川内原発をいったん止めることを考えてはどうか。全国に広がる不安の声に耳を傾けて。


2016年4月21日05時00分更新、朝日新聞デジタル(天声人語)
「かもしれない運転」のすすめ
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12320463.html?rm=150

 ちまたではこんな署名運動もあり、ヤッホー君も共鳴しさっそく賛同しました:

 私は、現在は県外在住ですが熊本市の出身です。
 2016年4月14日及び4月16日に発生した震度7、震度6といった巨大地震及び百数十回を超える余震が続いています。
 報道を見るにつれ、被害の状況が拡大し故郷の町が変わり果てた姿を見るに堪えません。
 にもかかわらず、熊本県に隣接する鹿児島県にあり、今回の地震の震源となったと考えられる活断層上に建設されているといわれる川内原発は稼働を続けています。
 万が一、福島第一原子力発電所のように事故が起きれば、九州全体が放射線の海と化することは想像に難くありません。
 美味しい水と美しい自然に囲まれた熊本、そして九州のために川内原発の稼働の即時停止を決断してください。


川内原発を止めてください。
高木博史

https://www.change.org/p/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%82%92%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84

 署名は、あっと言う間に10万筆を超え、発案者の高木博史(岐阜県在住の大学の先生)は昨日の21日、内閣府に署名を提出したそうです。
 しかし、メディアはニュースにとりあげたのでしょうか……
 人の声をすくいとった政党はどこかあったのでしょうか……
 10万人の民意が国の政策に反映されることもないのか……
 ミンシュシュギはどこにあるの、ジユウはどこにあるの……

 原子力防災担当相を兼務している丸川珠代環境相は4月16日午前11時半からの政府の地震非常災害対策本部会議で、稼働中の九州電力川内原発(鹿児島県)について、「原子力規制委員会において停止させる必要はないと判断されている」と報告した。

2016年4月16日12時41分更新、朝日新聞デジタル
川内原発「停止させる必要ないと判断」 丸川環境相
http://www.asahi.com/articles/ASJ4J40XNJ4JULFA006.html

 田中俊一委員長は記者会見で「科学的根拠がなければ、国民や政治家が止めてほしいと言ってもそうするつもりはない」と述べた。

2016年4月18日18時58分最終更新、毎日新聞
原子力規制委「川内原発を現状では停止させず」方針決定
http://mainichi.jp/articles/20160419/k00/00m/040/022000c

 民進党の岡田克也代表は20日、首相官邸で安倍晋三首相と会談し、熊本地震を受けて九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県薩摩川内市)について、避難計画の再検証などを行なうよう申し入れた。
 党内には「一時停止」を求める意見があったが、原発推進派に配慮したとの見方が出ている。


2016年4月21日05時00分更新、朝日新聞デジタル
川内原発停止、民進は求めず 官邸への申し入れ
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12320417.html?rm=150


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2016年04月21日

デービッド・ケイ

 「表現の自由」に関する国連特別報告者として初めて公式に訪日したデービッド・ケイ氏(米国)が日本での調査を終え、19日に東京都内で記者会見した。
 「日本の報道の独立性は重大な脅威に直面している」として、メディアの独立性保護や国民の知る権利促進のための対策を講じるよう政府に求めた。
 ケイ氏は日本政府の招きで11日から訪日。政府職員や国会議員、報道機関関係者やNGO関係者らの話を聞き、「特定秘密保護法や、『中立性』『公平性』を求める政府の圧力がメディアの自己検閲を生み出している」と分析。「ジャーナリストの多くが匿名を条件に面会に応じた。政治家からの間接的圧力で仕事を外され、沈黙を強いられたと訴えた」と述べた。
 放送法をめぐっては「政府に放送局を直接規制する権限を与えた放送法のうち(政治的公平性などを定めた)第4条を廃止し、政府はメディア規制から手を引くべきだ」と提言。高市早苗総務相が番組の公平性を理由に放送局の「電波停止」に言及した発言をめぐって、滞在中に高市氏との面会を希望したが「国会会期中との理由で会えなかった」と明かした。
 特定秘密保護法については「原発や災害対応、安全保障など国民の関心が高い問題の政府情報が規制される可能性があり、内部告発者の保護体制も弱い。報道すれば処罰されるのではないかとの恐れから、メディアを萎縮させる効果を生んでいる」と懸念を示した。
 ヘイトスピーチ対策については「ヘイトスピーチの法律は悪用の恐れがある。まずは人種差別禁止法を作るべきだ」と提言。
 慰安婦問題など歴史問題については「戦争中の罪を教科書でどう扱うかについて政府が介入することは、国民の知る権利を脅かし、過去の問題に取り組む力を低下させる。文部科学省からは政治の影響はないと聞いたが、実際は教科書検定などに影響が直接及んでいるように感じた」と懸念を示した。
 記者クラブの排他性も指摘し「記者クラブは廃止すべきだ。情報へのアクセスを制限し、メディアの独立を妨害している制度だ」と批判した。
 ケイ氏は米カリフォルニア大アーバイン校教授で国際人権法などが専門。2014年、国連人権理事会から特別報告者に任命された。今回の訪日についての報告書は17年に人権理事会に提出する予定という。


2016年4月20日05時02分更新、朝日新聞デジタル(編集委員・北野隆一)
「表現の自由」国連報告者、高市総務相との面会かなわず
http://digital.asahi.com/articles/ASJ4M4GBTJ4MUTIL02Q.html?rm=470

 この「表現の自由に関する国連特別報告者として初めて公式に訪日した」デビッド・ケイ氏(David Kaye、47)は、本当は「12月1〜8日の日程で来日し、報道の自由や特定秘密保護法などについて調査する予定だったが、先週になって突然、ジュネーブ国際機関の日本政府代表部からドタキャンの連絡が入ったという」。

2015年11月22日付け日刊ゲンダイ
国連の「表現の自由」調査を延期 … 安倍政権が“隠したい”コト
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/170254/1

 イギリス紙ガーディアンも、日本政府によるキャンセルを報道済みでした:

Many British politicians would doubtless rejoice at the news that Andrew Marr, Emily Maitlis and Andrew Neil were to leave their jobs almost simultaneously.

That is the fate that has befallen what could loosely be described as their counterparts in Japan – Ichiro Furutachi, Hiroko Kuniya and Shigetada Kishii – three respected broadcasters with a reputation for asking tough questions.

Their imminent departure from evening news programmes is not just a loss to their profession; critics say they were forced out as part of a crackdown on media dissent by an increasingly intolerant prime minister, Shinzo Abe, and his supporters.

Only last week, the internal affairs minister, Sanae Takaichi, sent a clear message to media organisations. Broadcasters that repeatedly failed to show “fairness” in their political coverage, despite official warnings, could be taken off the air, she told MPs.

Under broadcast laws, the internal affairs minister has the power to suspend broadcasting that does not maintain political neutrality.

“This is nothing but intimidation against broadcasters,” the Japan Federation of Commercial Broadcast Workers’ Union said in a statement. “[Takaichi’s] remarks represent a glaring misinterpretation of the law and we demand that she promptly retract her remarks.”

What passes for a probing interview in Japan would be unlikely to set political pulses racing in Britain. But the three Japanese anchors have all courted controversy for refusing to follow the anodyne approach many of their colleagues take towards political coverage.

As the host of Hodo Station, a popular evening news programme on TV Asahi, Ichiro Furutachi was at the centre of a row last spring over claims by one of the show’s regular pundits, Shigeaki Koga, that he had been forced to quit under pressure from government officials angered by his criticism of the Abe administration.

Shigetada Kishii, who appears on News 23 on the TBS network, angered government supporters last year after criticising security legislation pushed through parliament by Abe’s Liberal Democratic party (LDP).

Perhaps most striking of all is the departure of Kuniya, the veteran presenter of Close-up Gendai, a current affairs programme on public broadcaster NHK.

Her “crime” had been to irritate Yoshihide Suga, the chief cabinet secretary and a close Abe ally, with an unscripted follow-up question during a discussion about the security legislation.

While the anchors themselves have refused to comment, experts say Abe and his allies had made their feelings known about the broadcasters during secretive dinners with top media executives.

“It was not their decision to leave,” said Sanae Fujita of the Human Rights Centre at Essex University. “But their bosses gave in to pressure from their senior colleagues, who are ‘friends’ with Abe.

“It is very worrying that the Japanese media are practising self-censorship in this way. They do not seem to be aware of their role as a watchdog.”

Koichi Nakano, a politics professor at Sophia University, said it was impossible to prove a direct link between the government and the termination of the anchors’ contracts.

“But there is plenty of anecdotal evidence that shows that Abe, and Suga in particular, have been very active in applying pressure and wining and dining media bosses,” Nakano said.

Critics cite the LDP’s decision last April to summon TV Asahi and NHK before a commission, where party officials accused the former of failing to be impartial in its political coverage – a reprimand Tatsuro Hanada, a professor of media studies at Waseda University in Tokyo, calls “de facto intimidation”.

Hanada said it was “no accident” that the trio of broadcasters had been targeted, since they all believed in the role of journalism as a guardian of the public interest against the abuse of power. “It was obvious that all three were unwilling to leave their jobs voluntarily,” he added.

It is not the first time that Abe has been embroiled in controversy over broadcasters’ editorial independence. In 2005, he admitted he had urged NHK staff to alter the contents of a documentary about wartime sex slaves.

When he called a snap election in late 2014, the LDP wrote to TV networks in Tokyo demanding that they “ensure fairness, neutrality and correctness” in their coverage.

Abe has also been accused of attempting to influence editorial decisions at NHK by hand-picking Katsuto Momii, a fellow conservative, as chairman.

Momii caused consternation after his appointment when he suggested that NHK would toe the government line on key diplomatic issues, including Japan’s territorial dispute with China. “International broadcasting is different from domestic,” he said. “It would not do for us to say ‘left’ when the government is saying ‘right’.”

Attempts to intimidate the media as well as the passage of a state secrets law in 2013 under which reporters can be imprisoned for up to five years have battered Japan’s international reputation.

Last year it came 61st out of 180 countries in Reporters Without Borders’ global press freedom rankings. That compares with 12th place in 2010.

Fears that Japan’s government is resisting international scrutiny arose last December when it abruptly cancelled a visit by David Kaye, the UN special rapporteur for freedom of expression, saying it had been unable to arrange meetings with officials. Kaye is now scheduled to visit Japan in April.

“The ongoing attack on media freedom in Japan by the government and its rightwing associates is not about being on the right or the left − it is about destroying the foundations of a liberal democracy,” Nakano said.

“I find it very disappointing that the press is incapable of presenting a united front. It is as if the media are accepting the government’s position that anything critical of the government is politically biased, and that reporting factually about government policies is commendable, neutral journalism.”


Last modified on Thursday 18 February 2016 16.39 GMT, The Guardian
Japanese TV anchors lose their jobs amid claims of political pressure ;

Supporters of the three news broadcasters say prime minister had private dinners with top media executives before the departures


http://www.theguardian.com/world/2016/feb/17/japanese-tv-anchors-lose-their-jobs-amid-claims-of-political-pressure

 アメリカ、ニューヨークタイムズはさっそくデービッド・ケイ氏(米国)が日本での調査を終え、4月19日に東京都内で記者会見した様子をこんなふうに報道しております:

TOKYO − A U.N. rights expert warned Tuesday of "serious threats" to the independence of the press in Japan, including laws meant to protect coverage fairness and national security that he said could work as censorship.

U.N. Special Rapporteur David Kaye, finishing a weeklong visit to Japan in which he interviewed journalists and government officials, said many Japanese journalists were feeling pressured to avoid sensitive topics, and that some told of being sidelined because of complaints from politicians.

"The independence of the press is facing serious threats − a weak system of legal protection, persistent government exploitation of a media lacking in professional solidarity," Kaye told reporters at the Foreign Correspondents' Club in Tokyo.

He said he was taken aback by a widespread fear among journalists in Japan, many of whom requested anonymity to talk to him, fearing repercussions.

The picture of Japanese journalism he painted was unflattering, including newspapers delaying or killing stories critical of the government. He also said a reporter was demoted and given a salary cut after writing an article on the nuclear plant in Fukushima, which went into meltdowns in 2011.

Among Kaye's concerns is a law meant to ensure media-coverage fairness that allows the government to revoke broadcasting licenses over perceived violations. He also said the so-called "secrets act" law, meant to protect national security and public safety, is so broad it could obstruct people's right to know.

Japan's government has repeatedly said freedom of the press is protected in the country, and sees nothing wrong with the law about the broadcasting license.

That penalty has never been carried out on a broadcaster, but Kaye noted such measures can work as a threat to keep outspoken journalists in check.

He said he decided to visit Japan after hearing about well-known broadcasters quitting, fueling speculation that they had been forced out.

Kaye, whose report Tuesday was preliminary, is making a full report next year to the U.N. Human Rights Council. He said his job is not to take action but to identify problems, and urged reporters and activists in Japan to work together to change the climate for journalists.

Japan needs to pass anti-discrimination laws, instead of focusing on hate speech, which could backfire and curb the freedom of expression, he said.

It also needs to protect whistleblowers, crucial for providing reporters with information about nuclear power, disaster response, national security and other topics of public interest, Kaye said.


APRIL 19, 2016, 2:48 A.M. E.D.T., The New York Times
UN Rights Expert Sees Threats to Press Independence in Japan
By THE ASSOCIATED PRESS
http://www.nytimes.com/aponline/2016/04/19/world/asia/ap-as-japan-press-freedom.html


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2016年04月20日

メディアへの圧力

 「イマ日本のメディアは大変厳しい局面に立たされています」って白石草、がんばってぇ〜。
 
 OurPlanetTVが国と国会記者会を訴えていた「国会記者会館屋上裁判」について、最高裁判所は3月24日、OurPlanetTVの上告を棄却する判決を下しました。この判決により、OurPlanetTVの敗訴が確定しました。
 最高裁の判断は、国と国会記者会の主張に矛盾があることを認識しながらも、上告理由には当らないとするもので、報道の自由について踏み込んだ憲法判断を行いませんでした。大変残念な内容と言わざるを得ません。
 しかし、今回の裁判を通して国会記者会館をめぐる様々な課題が次々と明らかとなり、また東京地裁の判決では、記者クラブに加盟していないフリーランスやネットメディアに対して使用ルールを決める必要があると言及しました。提訴した時点では、訴える先さえ分からなかった「伏魔殿」である国会記者会館の歪みを社会化できたことは、この裁判の大きな意義だったと思います。OurPlanetTVとしては、引き続き、衆議院と国会記者会の間で適切なルール作りが行われるよう注視し、国会記者会館が開かれた場となるよう働きかけを続けていく所存です。
 いま、日本のメディアは大変厳しい局面に立たされています。国会記者会館を拠点にしている政治部の記者らが政府の要人を食事を重ねる一方、テレビニュースの顔であった有名なキャスターが次々と降板。総務大臣が放送免許の剥奪や停波にまで言及しています。
 大手のマスメディアでさえ、権力による圧力や選別により右往左往する中で、規模の小さな新参者であるネットメディアが、その既得権益の一角を崩すことは大変困難な時代に入ったことを痛感しています。しかしOurPlanetTVとしては、今回の敗訴や困難をバネとして、これからも言論の自由やコミュニケーションの権利の拡大に努めていく所存です。
 支援をいただいた皆様には大変残念なご報告となりましたが、引き続き、OurPlaneTVをご支援いただけますよう何とぞよろしくお願いいたします。
2016年3月30日、安保法制が施行された翌日に、OurPlanetTV代表理事白石草


03/30/2016-02:13 ourplanet
「国会記者会館裁判」敗訴を受けて〜代表理事コメント
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/2040

 「イマ日本のメディアは大変厳しい局面に立たされています」の例は枚挙にいとまがないのですが、例えば、熊本地震へのオスプレイ投入:

 オスプレイ投入であからさまな「地震被害の政治利用」が明らかになった安倍政権。
 しかし、安倍応援団はオスプレイ投入に疑義をはさんだメディアに片っ端から攻撃を仕掛けている。
 朝日新聞、毎日新聞、そして、我々リテラに対しても同様だ。
 本サイトは19日夕方に配信した記事で、
「すでに物資の輸送は、被災地近くの海上自衛隊の鹿屋基地(鹿児島県鹿屋市)から出動したヘリ部隊が16日時点行っている。この部隊が機能しているのに、オスプレイをわざわざ投入するのは不自然」
「木更津の陸上自衛隊第1ヘリコプター団のCH-47を使えばいいのに、そちらに要請の動きもなかった。はっきりいって、昨日の作業なら、CH-47で十分対応できる」
という防衛省中堅幹部のコメントを紹介した。
 すると、「陸上自衛隊の第1ヘリコプター団のHPに、16日、CH-47が被災地支援に向かったことが書かれている」として、記事をデマだと決めつけるツイートが殺到したのである。
 たしかに、木更津の第1ヘリコプター団は16日、4機を各基地から熊本周辺の駐屯地への隊員輸送と物資輸送に派遣しており、新たに取材したところ、18日にも熊本への輸送業務を行っていたこともわかった。
 しかし、だからなんだというのか。18日にオスプレイが行った空輸任務からCH-47が外されていたことには変わりはない。
 しかも、熊本大地震にこれまで木更津から投入されたCH-47は数機。多くは、今も待機状態にあるのも事実だ。
 また、CH-47が熊本に派遣されていたとすれば、オスプレイはますます必要がなかったということになるだろう。それこそ、オスプレイが行なった物資輸送をそのまま熊本にいるCH-47にやらせることができたはずだからだ。
 オスプレイが行なった陸上自衛隊高遊原分屯地から南阿蘇村の白水運動公園への空輸はもちろん、CH-47でも十分可能だった。というか、オスプレイが行った任務は、CH-47すらも必要なかった。
 18日、2機のオスプレイが輸送したのは、ペットボトル1200本、食料、テント80張り、簡易トイレ160個など。共同通信によれば、段ボールの数は「200個以上」という程度だったという。
 しかも、運んだ先の南阿蘇村・白水運動公園は比較的、離着陸のしやすい場所だった。自衛隊ヘリはもっと難しい場所でも離着陸していたが、オスプレイにはわざわざ安全な場所が選ばれ、そこから、自衛隊が車両で各避難所に運んだのだ。
 これらを見れば、オスプレイ投入が安倍政権による政治的パフォーマンスであることは明らかだろう。
 中谷元防衛相は18日の参院決算委員会で、
「自衛隊が持っているヘリなどの運用をもってしてもまだ十分に行き届いていない」
とオスプレイ導入の理由を述べたが、これは大ウソだ。
 西日本新聞によると、「自衛隊は輸送だけで80機以上、救難や哨戒などの用途を含めると530機のヘリを所有している」が、防衛省の18日17時の発表では、熊本大地震に投入された航空機の数はこの6分の1にも満たない。
 安倍政権が一方で自衛隊機のヘリを出し惜しみし、そのかわりに無理やりオスプレイを投入したのはまぎれもない事実だ。
 そして、その裏には先の記事で示したように、米軍との密約、そして、自衛隊のオスプレイ佐賀空港配備のための地ならしという意図がある。
 何度でも言う。オスプレイ投入は、安倍政権による震災のもっとも悪質な政治利用だ。これは、安倍応援団がいくら「デマ」「嘘」とわめいてみても、絶対に変わることのない事実である。


2016.04.20 リテラ
オスプレイが運んだのは段ボール200個強だけ! 何度でも言う、オスプレイ投入は安倍政権の震災政治利用だ
http://lite-ra.com/2016/04/post-2173.html

 そして、沖縄でも:

【東京】日本での表現の自由の現状を調査するために来日した国連のデービッド・ケイ特別報告者(米国)が19日、都内で記者会見して暫定の調査結果を発表し、沖縄県名護市辺野古の新基地建設に反対する市民らの抗議行動に対する海上保安庁などの制圧行為などに対して懸念を示した。沖縄のメディアへの圧力には「非常に重大な問題だと認識している」との見解を示した。調査結果をまとめて国連人権理事会に提出される報告書にこうした内容が盛り込まれる見込みだ。
 ケイ氏は会見で、辺野古での抗議行動に対する警察や海保の関与について、「個人的にも調査し政府に対して懸念を伝えてきた」と関心の高さを示した。その上で、今回の調査期間中に、警察庁と海上保安庁の関係者らと意見交換し、両機関の対応について今後も注視する考えを伝えた。
 ケイ氏は沖縄の市民団体からも情報提供を受けて暫定報告書をまとめた。「昨年、当局に対して抗議行動に対する不相応な規制がされているとの懸念を伝えた」とこれまでの取り組みを紹介。過剰な実力行使や多くの逮捕と並んで、「抗議の様子を撮影するジャーナリストへの実力行使を特に懸念している」とした。その上で、沖縄の状況を注意深く見守り、必要であれば平和的な抗議活動ができるよう必要な発信を続ける考えを示した。


2016年4月20日 05:00更新、沖縄タイムス
辺野古抗議への弾圧「懸念」 表現の自由で国連報告者
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=164507

 ミンシュシュギとジユウはどこへ渡った?
 キョロキョロ辺りを見渡しているヤッホー君……

 仏パリ(Paris)に本部を置く国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団(RSF)」は20日、2015年の世界での報道の自由に関する報告書を発表した。報道の自由は世界的に低下しており、とりわけ南米地域で損なわれたとしている。
 RSFは、メディアの独立性や自己検閲、法の支配、透明性などを基準に世界180か国を評価する「世界報道の自由度ランキング(World Press Freedom Index)」を発表。日本は、安倍晋三(Shinzo Abe)首相に迎合する自己検閲が行われているとの理由で、前年の61位から72位へと後退した。
 最下位はエリトリアで、その次に低い179位には北朝鮮がつけた。中国は176位、シリアは177位だった。
 一方で最も報道の自由度が高い国にはフィンランドが6年連続で選ばれ、オランダ、ノルウェーが以下に続いた。
 RSFのクリストフ・ドロワール(Christophe Deloire)事務局長はAFPの取材に対し、「われわれは、新技術により(当局が)自分たちのメッセージや情報を低コストで意のままに流布することが可能となる、新たなプロパガンダの時代に突入している。一方でジャーナリストがその障壁の役割を果たしている」と述べた。
 報告書は、とりわけ南米の状況は深刻だと指摘。報道の自由への主要な障害として、ベネズエラやエクアドルでは「制度化された暴力」、ホンジュラスでは組織犯罪、コロンビアでは犯罪者の免責、ブラジルでは汚職、アルゼンチンではメディアの寡占化を挙げている。


2016年04月20日 15:36 AFP発信地:パリ/フランス
報道の自由、世界で低下 日本72位に後退 「国境なき記者団」報告
http://www.afpbb.com/articles/-/3084647



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チェルノブイリ事故30年目

 ソチまで渡ったら、チェルノブイリにもよりませんか。
 あの原発事故から30年。
 そして、直線距離にして1000Kmもないんだもん:

 筆者が地図を示すので見てほしい。
 五輪が開催されたソチはウクライナ国境に近い場所にあり、ウクライナの首都・キエフとは直線距離で約800kmしか離れていない場所にある。
 東京を起点にすれば、西は広島県福山市、北は津軽海峡を望む青森県・竜飛岬とほぼ同じ距離だ。
 旧ソ連時代は、世界の大陸面積の6分の1を1国だけで占めると言われた。そのソ連の広大な国土の大半を引き継いだロシアにとって、800kmは文字通り目と鼻の先である。
 ヤヌコビッチ政権に反感を抱くウクライナ市民が、「五輪期間中に、開催地の目と鼻の先で騒動を起こせば世界に注目され、ヤヌコビッチを支援するプーチン政権のメンツも潰すことができる」と最大級のアピール効果を狙ったとしても不思議なことではない。
 誤解を恐れず言えば、この騒動から政変に至る一連の出来事は五輪期間中「だからこそ」起きたのだといえよう。
 

2014年3月1日付け、黒鉄好のレイバーコラム「時事寸評」第18回
ソチ五輪とウクライナ動乱、そしてチェルノブイリ
http://www.labornetjp.org/news/2014/0301kuro

 では、動画を:

映像報告「チェルノブイリ・28年目の子どもたち」
https://www.youtube.com/watch?v=3hv-5bW17Rs

 本書の著者である白石草さんは、インターネットOurPlanet-TV(アワープラネット・ティービー http://www.ourplanet-tv.org/)を主催するバイタリティあふれる女性です。
 マスメディアが取り上げないテーマに独自の視点で切り込み、ネットの特性を生かして機敏に伝える活動は、放送ウーマン賞2011を受賞するなど高く評価されています(前著『メディアをつくる――「小さな声」を伝えるために』もご参照ください)。
 白石さんは、3.11以降、東京電力福島原子力発電所事故の問題、特に放射能と子どもに関する問題の追求に力を注いでいます。
 その白石さんが2012年と2014年の二度にわたり、チェルノブイリ事故(1986年4月)の影響下にあるウクライナで現地取材を行いました。
 そのきっかけは、福島原発事故の被害に遭った子どもたちを支援する人たちからの「チェルノブイリをビデオで取材してほしい」という声でした。
 3.11から3年以上が経ち、震災や原発事故に対する「風化」が強まっています。
 それに乗じるように政府は、放射能汚染の実態を軽視し、子どもをはじめ被害者への対策をないがしろにしています。
 福島県の「県民健康調査」などによって、甲状腺がんと診断される子どもが増えていますが「被曝の影響とは因果関係はない」という判断ばかりが前面に出されます。
 では、チェルノブイリ事故から30年近く経つウクライナではどうでしょうか。
 白石さんが現地で見たものは、甲状腺がんに限らず、白血病やがんなどさまざまな疾患を抱えている子どもたちが増えているという現実です。
 と同時に、そうした状況に対して、学校や医療機関、行政などが連携し、子どもたちの命と健康を守っていこうとする多様な取り組みに驚かされます。
 なかでも、国家事業として、子どもたちを放射能汚染の低い地域で一定期間生活させる「保養」などが注目されます。
 IAEA(国際原子力機関)などの国際機関は、チェルノブイリ事故による子どもの被曝の影響について、甲状腺がんしか認めていません。
 ウクライナの医師たちも、子どもたちの疾患について、すべてを被曝の影響と判断しているわけではありません。
 しかし、現実に起きている子どもたちのさまざまな疾患について研究・調査を続け、そして医療的な支援や対策を行なっています。
 こうしたウクライナの経験に日本が学ぶべきことはけっして少なくないでしょう。
 「被曝の影響はない」「チェルノブイリ事故と福島原発事故はまったく別」と決めつけずに、何が起きているのか、何をすべきなのかを本書を通して考えることができれば、と思います

※なお,本書の映像版『チェルノブイリ事故28年目の子どもたち――長期低線量被曝の現場から』(OurPlanet-TV制作)上映権付DVDも,OurPlanet-TVよりお求めいたただけます(Email: info@ourplanet-tv.org Fax: 03-3296-2730).

※白石草(しらいし・はじめ)
早稲田大学卒業後、テレビ局勤務などを経て、2001年に独立。同年10月に非営利のインターネット放送局「OurPlanet-TV」を設立。一橋大学大学院地球社会研究科客員准教授。2012年に放送ウーマン賞、JCJ賞、やよりジャーナリスト賞特別賞、2014年に科学ジャーナリスト大賞を受賞。著書に『メディアをつくる「小さな声」を伝えるために』(岩波ブックレット)、『ビデオカメラでいこうゼロから始めるドキュメンタリー制作』(七つ森書館)など。

※特定非営利活動法人OurPlanet-TV(アワー・プラネット・ティービー)
マスメディアでは扱われない事がらなどを映像化し配信している非営利のインターネット放送局。2001年10月に設立し、2005年にNPO法人化。現在、独自番組を制作・配信しているほか、東京・神保町にメディアセンターを開設し、市民やNPOのメディア支援を行っている。
http://www.ourplanet-tv.org/

※本ウクライナ取材は、認定NPO法人まちぽっとのソーシャル・ジャスティス基金の助成事業、および東京学芸大学教育実践研究支援センターによる2014年度共同研究「チェルノブイリ原発災害と学校」の一環によるものである。


岩波書店(編集部・田中宏幸)
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/2709170/top.html

 3基の原子炉がメルトダウン(燃料溶融)するという前代未聞の事態に発展した東京電力福島第1原発事故(2011年3月)。
 対応に追われる東電内の様子を克明に記録したテレビ会議映像を基に作られたドキュメンタリー「東電テレビ会議 49時間の記録」(206分、2013年)が話題を呼んでいる。制作したのは非営利のインターネットテレビ局「OurPlanet−TV」(東京都千代田区)。スタッフは白石草(はじめ)代表(44)らわずか3人と小規模ながら、平和や環境、原発などについて市民の視点から鋭く情報発信を続けている。白石代表に、作品への思いやメディアのありかたなどを聞いた。

細切れ274本つなぎ合わせる
− この作品は2014年の「科学ジャーナリスト大賞」を受賞しました。3時間を超える大作ですが、BGMもナレーションもなく、「動かない画面」の公開映像だけを素材にしていますね。

白石氏 映像制作者としては、なかなか勇気のいる手法だと思います。最初に東電本店でこの映像を見た時、「すごい記録だ、多くの人に見てもらいたい」と思いました。でも実際には「外部に映像を持ち出さない」という誓約書を書かされるなど、見せることができない。その後、メディア側の要請で徐々に一般公開範囲が拡大していくわけですが、最初の段階でどうにかしたいと思っていました。
 当初は、米国のドラマ「24」のように、複数の場所で起きていることを同時進行で追うような構成を考えていました。他メディアが撮った住民避難の様子や、東電や原子力安全・保安院の記者会見、テレビ報道などを編集し、当時何が起きていたか再現したいと思いました。そのころたまたま、映画監督の森達也さんにアイデアを話したら「これだけを淡々と見せるのもありじゃないか」と言われて。2013年の年明け、私たちが主催する「福島映像祭」の上映作品を検討する中で、劇場の人から「画面が動かなくても、音しかしなくても、やりましょう」と言われ、本格始動しました。
 作る際にもっともこだわったのは「時間を感じてほしい」ということです。事態が悪化して、手立てがなくなっていく時間的な経過と事故の全体像を感じてもらう方が生々しく伝わるのかなと。
 私たちは3人のスタッフで年間150本ぐらいの映像を送出していて、日常的な取材の合間に長編を作っています。公開映像の中に使えるものがどれだけあるか心配でしたが、実際に整理してみたらなんとかいけそうだと。で一気に作業して、13年9月の映像祭で上映することができました。今回、科学ジャーナリスト大賞をいただいて「本当にいいんですか?」という気持ちですが、みんなに見せたいものを実験のつもりで作りました。


− どのように作ったのですか。
白石氏 東電がインターネットで公開したものは、報道目的であれば自由に使用可能だと許諾を受けたので、時系列につなぎ直したのです。映像は細切れで274本。1本あたり数秒から10分ぐらいです。通し番号は打ってあるんですが、撮影時間は明記されていない。別の資料とつき合わせながらつないでいき、話の流れが分かるようにある程度整理しながら縮めました。
 状態が刻々と悪化して、資材が調達できなくなる場面は削れなかった。プレス発表をどうするかについてのやりとりや、作業員も含めた被ばくについての内容も重要です。本来であれば、東電は一部でなく全部公開すべきだし、もっと画質のいいもの、ボカシのないものを使用したかったです。住民のスクリーニングレベルを上げる場面など追加公開するよう申し入れましたが、ダメでした。


「原発に負ける」様子ありあり
− 冒頭は3月12日、官邸から本店に戻って来た武黒一郎フェロー(当時)が民主党の対応にぼやくシーン。最後は15日早朝、菅直人首相(当時)が東電本店に乗り込むシーンです。

白石氏 東電と民主党政権、それまで付き合ったことがない者同士の間にギャップがあったことが映像から分かります。武黒フェローの愚痴は私自身、衝撃を受けたし、1号機が爆発した日の夜にこんな愚痴を言っているのもどうかなと思いました。福島が大変なことになっているあの日に、東電本店では幹部が帰宅していたのも驚きでした。
公開するつもりがなかったからこそ、本音が映し出されている。3月16日以降はおとなしくなります。東電の対策本部に国が介入してくるからです。それ以前の方が言葉も荒っぽいし、内輪だけに本音の世界。「おもしろい」といったら不適切かもしれませんが、ここまで克明な記録は歴史的な資料になると思いました。自分の知らない現実、東電が原発に負けていくさまをありありと残している。なるほど、物事はこうやって破綻していくのかと思いながら見ました。


− 上映の輪は広がっていますか。
白石氏 初披露は福島映画祭で、20回ぐらいあちこちで自主上映してもらっています。山形、新潟、福島、広島、岡山、大阪、あとは関東。自主上映をする人にDVDを貸し出す形が基本です。見てもらうだけでなく解説をしたりもします。しかし、実験的な映像なので公開する時はいつも不安です。最近は反響をもらって、それほど不安はなくなりましたが。

− どんな反応、反響がありますか。
白石氏 衝撃を受ける人が多いです。東電のマネジメント力のなさに怒って、上映途中で帰る人もいました。身近に原発で作業をしている知り合いがいて、すごく過酷な状況に涙する方もいる。福島の人はよく、おとなしくて感情を表に出さないと言われますが、放射線量に関するやりとりの場面ではため息をついたり、怒りが出てきたりする。テレビ会議でやりとりされている情報を、なぜ少しでも外に出せなかったのかと。
 たとえば高橋明男フェローが13日、3号機の危機的状況について「プレス発表したらどうか」と提案しますが、保安院の反対で発表されない。そういうプロセスを見ると、悔しい思いがわいてきます。避難指示で避難したけれど、14日や15日に車で自宅に一時的に戻った人もいます。その時に、危機的状況と知らされず被ばくした人もいたのではと。


− 原発事故は白石さんにとってどんな出来事でしたか。
白石氏 私たちの団体はもともと、環境や教育や原発、社会問題も扱ってきました。ただこの3年間は原発一色。特に原発事故の健康影響については、継続的に追いかけているメディアは少ないし、一度かかわった以上は長期的にやっていかないといけないと思います。
 いま、南相馬市の中学校を定点観測的に取材しています。去年から始めて、教頭先生に「あと2年は来い」と言われています。できれば4、5年はかけたい。健康被害の問題、避難区域指定や解除の問題も。原発事故は横断的なので、その時々のトピックを取材する中から問題提起したいと思っています。


− NPOということで取材を制限されたりすることはありますか。
白石氏 住民の側はむしろ取材しやすいかもしれません。仮設住宅でも他の地域でも、大手メディア、特にテレビを嫌がる人がけっこういるので。福島の人たちには「消費されたくないけど、忘れられたくない」思いがある。できれば静かにしてほしい気持がありながら、現実は復興が止まっている。そういう思いに応えたいと思います。

大手から新設局、そしてNPOへ
− メディアの仕事のスタートは大手テレビ局だったのですね。

白石氏 テレビ朝日系列の制作会社でビデオエンジニアとして働いていました。最初の1年は国会の中の記者クラブを担当。この世界は徒弟制度というか上下関係が厳しい上に、記者やデスクからの伝票に従って発注内容をこなす。自分の視点で一から十までやるというイメージとは違いました。その後、東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)に転職して、ビデオジャーナリストとして働き始めました。

− 楽しかった?
白石氏 20人ぐらいしか記者がいないのに、報道の枠が毎日12時間もあったのです。当時、ゼネラルプロデューサーを務めていた村木良彦さんは日本初の番組製作会社「テレビマンユニオン」を設立した伝説的人物で、記者クラブには入らず地域に入り込んで自分の足で稼ぐ報道を目指していました。スポンサーも代理店を通さないやり方でしたが、テレビの世界はビデオリサーチ(視聴率調査)と電通(広告代理店)によって仕切られているので、それを無視したやり方には限界がありました。
 2人の子どもを出産後、報道の現場からは離れて「デジタル放送推進室」という部署に異動しました。地デジ化に向け、新たなコンテンツを考える部署です。ここがネットとの出会いになりました。インターネットというメディアの可能性に気づき、具体的なアイデアはなかったけれど、1年後に会社を辞めました。


− その直後に「OurPlanet−TV」を設立されるのですね。
白石氏 退職の10日後に米同時多発テロ(2001年9月)が起きました。マスコミの報道は「対テロ戦争」の色を強めていましたが、ネットには平和的な解決を求める声があふれていました。そこで、知識や技術を持った知人に頼りながら、そうした声を映像で伝えるサイトをスタートしたのです。当時は「パソコンで動画を見るなんて意味が分からない」と言われたりしました。ネット動画の黎明(れいめい)期だったんですね。しばらくしてオフィスを借り、2005年にNPO法人の認証を受けて今に至ります。

− メディアのあり方として「非営利」を選択した理由は何ですか。
白石氏 最初からNPOに深いこだわりがあったわけではありません。続けるうちに収支が大きくなってきて、模索する中でこの形に落ち着きました。NPOって面倒くさいんですよ。監督官庁が東京都で、公開性、透明性が求められる。NPOは寄付を受けたりする関係で、ステークホルダーの対象が幅広いのも特徴です。
 ただ、その「面倒くさい」感じが大切なのかもしれません。寄付をする人、寄付はしないけど番組を見てくれる人、情報を寄せてくれる人、そういう人たちあっての活動。利潤が目的ではありません。私たちは行動指針として「Standing together, Creating the future」を掲げています。それをきちっと実現できているかが重要です。株式会社みたいに決算で判断されるわけではなく、赤字でも自分たちが(給料が減って)困るという程度。むしろ独立を確保し、きちんとした内容のものを出していることが重要です。


独立性と継続性が大切
− 大手メディアはそういう意味で不自由ですか。

白石氏 国が直接免許を与えるという日本の放送制度については根本的に問題があると思っています。スポンサーの影響力も大きい。見えない圧力に囲まれて、全方位に配慮しながら放送している印象があります。いい番組もあるけれど、これだけ人と予算があるのになぜこんな報道しかできないのかと思います。
 日本って強大なメディアと小さいメディアしかなくて、中間的なメディアがないんですよね。米国のNPOメディアは、運営予算が年間5億円ぐらいの規模だけど、ニューヨーク・タイムズの1面に載るような記事を配信したり、有機的につながっています。日本では構造的に厳しい。大きいメディアが系列化しているため、参入する隙間(すきま)がないのです。


− 具体的には。
白石氏 2010年と11年にピュリツァー賞を受けた「プロパブリカ(ProPublica)」は30人ぐらいの規模。アメリカでは一つの役所に記者をはり付けて競争し、同じニュースを横並びに報じるような効率の悪いことはしません。そういうニュースは通信社から買う。だから、プロパブリカが良質な調査報道をやれば1面トップに載るわけです。「デモクラシーナウ!(Democracy Now!)」も有名です。30人のプロデューサーとボランティア100人ぐらいでやっている。毎日1時間のニュース番組を作り、ケーブルテレビ、インターネット、ラジオで同時に配信し、世界中に視聴者がいる。内容も独自の視点で面白い。財源は寄付が半分、あとはイベントやノベルティー収入ですね。

− 非営利の強みをどう生かしますか。
白石氏 組織が小さく異動もないので、被ばくによる健康被害の問題や原発の問題はしつこく、みんなに嫌がられるぐらいやりたい。多くの人に見てもらう事も大切だけど、継続性が大切だなと。他のメディアが関心を持たないことや、すぐに忘れられてしまうテーマを私たちはやる。隠そうとする、論点をずらそうとする行政や政治に対し、粘着質でありたいと思います。

2014年7月11日付け毎日新聞
キーパーソンインタビュー【聞き手・元村有希子/デジタル報道センター】
非営利メディアの可能性 「OurPlanet-TV」白石草代表
http://mainichi.jp/articles/20140711/mog/00m/040/014000c



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2016年04月19日

訪露

 シベリアから目を転ずると北方領土……いや、それをいいことにGWはロシアのリゾート地、ソチ Sochi だって……
 まずは2週間ほど前、4月6日付けニューヨークタイムズ紙から:

MOSCOW − Japanese Prime Minister Shinzo Abe may visit Russia in May for a long-awaited meeting with President Vladimir Putin, the Kremlin said Wednesday.

"Such a possibility is being considered," Putin spokesman Dmitry Peskov told reporters.

Abe has sought to make progress in a dispute over Russian-held islands that are called the southern Kurils in Russia and the Northern Territories in Japan. The dispute has kept the two countries from signing a peace treaty ending their World War II hostilities.

Japanese and Russian media have reported a possible visit and there was renewed diplomatic activity on Wednesday to prepare for one, but there has been no confirmation from either side. The Kremlin-loyal Izvestia newspaper, citing diplomatic sources, reported Wednesday that Abe may meet Putin in Sochi on May 6.

Tomomi Inada, a senior lawmaker of Abe's ruling Liberal Democratic Party who is visiting Moscow, held talks Wednesday with Trade and Industry Minister Denis Manturov and handed him a letter from Abe to Putin, according to Kyodo News.

Inada told Manturov that this year will be an important one for Japan-Russia relations, Kyodo quoted her as saying.

Also Wednesday, the Russian Foreign Ministry announced that Foreign Minister Sergey Lavrov was headed to Tokyo, where he would meet with his Japanese counterpart on April 15 to discuss preparations for a meeting between the two leaders.


APRIL 6, 2016, 8:30 A.M. E.D.T.
Russia Says Japanese Leader Abe May Visit in May, Meet Putin
By THE ASSOCIATED PRESS
http://www.nytimes.com/aponline/2016/04/06/world/europe/ap-eu-russia-japan.html?_r=0

 岸田文雄外相は4月15日、ロシアのラブロフ外相と東京都内の外務省飯倉公館で会談した。
 両外相は、5月上旬で調整している安倍晋三首相の訪ロ後、できるだけ早期に高級事務レベルによる平和条約締結交渉を行うことで合意。
 両政府が目指すプーチン大統領の来日に向け、政治、経済両分野で積極的に対話を進めることで一致した。

 平和条約交渉は昨年10月にモスクワで行われたのが最後。
 岸田氏は会談後の共同記者会見で「政治対話を積み重ねつつ精力的に交渉を行いたい」と述べ、北方領土問題の前進に意欲を示した。

 一方、ラブロフ氏は会見で「日本は第2次世界大戦の結果を確認しなければならない」と述べ、平和条約締結は領土問題と切り離すべきだとの従来の立場を強調。
 「あらゆる環境の中で対話を続ける用意がある」とも語り、交渉自体は否定しなかった。

 日ロ関係について、会見で岸田氏は「幅広い分野で日ロ間の対話を進め、肯定的な流れを後押ししたい」と強調。
 ラブロフ氏も「両国関係を全ての分野で発展させなければならない」と応じた。


2016/04/15-22:41 時事
首相訪ロ後に平和条約交渉=安保協議を開催へ−日ロ外相
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041500897&g=pol

 アホノミクスも失敗、でもショウヒゼイもゲンパツもやめられないし、センキョに負けたからってやめられないし。
 いったいどうなってんの、ここであのゆるみっぱなしでもろくなってしまったけど、「渡り」に聞いてみましょう:

 熊本で一昨日夜の地震から昨日、今日と大きな地震が起き、被害が拡がっている。
 自然の力の前になすすべのない現実を改めて思い知る次第だ。

 3日も続くと地盤もゆるみ、住宅等建物もズレが生じ脆(もろ)くなってくる。
 くれぐれも安全な場所に避難退避する必要がある。
 亡くなられた方々、被災された皆さんに心からのお悔やみ、お見舞いを申し上げるのみである。

 昨日、日露外相会談が行われ、岸田外相は「率直な議論が出来た」と安堵した様子がテレビから伝わってくる。
 昨年2015年9月21日、岸田外相が訪露した際の会談後、ラブロフ外相が手を出しているにも関わらず、すねたようにしばらく座ったまま机の上の書類整理をしていた姿と今回は全く違う雰囲気である。
 これだけでも会談は成功したと受け止める。

 5月6日、ロシアで行われる首脳会談に向け、良い環境作りになった。
 北方領土問題について「中身を深く議論していない」しかし「あらゆる問題について対話をして行く」とラブロフ外相は述べている。

 国家主権、就中(なかんずく)領土問題、国境画定については両国の最高首脳の決断しかない。
 安倍首相が裂帛(れっぱく)の気合を持って挑む首脳会談に期待したい。

 13時半から札幌市において「新党大地・鈴木宗男北海道セミナー」を開く。
 森元総理が私が進めた北方領土交渉について講演された。
 タイミングの良いテーマで佐藤優さんも話され、出席者も北方領土問題解決に向け認識を新たにしたことだろう。
 衆議院北海道第5選挙区補欠選挙に出馬している和田よしあきさんも挨拶に来られ、力強い挨拶をされた。
 森元総理がエールを送り、1800人の出席者が頑張れ、負けるなコールで送り出した。
 和田候補と会場が一体となり大変な盛り上がりだった。

 日一日と和田候補へ対する応援が拡がっていると聞こえてくる。
 この一週間、まさに天王山勝負どころと見る。
 手を抜かないことが一番であり、頑張り抜くことにより結果が付いてくる。
 出席者の皆さんが「和田さん、負けるな。和田さん応援するぞ、応援しているぞ」と温かい声をかけて下さったのが何より有難かった。
 新党大地は和田よしあきさんを推薦している。
 「結果を出さなくては」と一生懸命な新党大地鈴木宗男後援会の皆さんに心から感謝するものである。


2016-04-16 16:53:29 ムネオ日記
http://ameblo.jp/muneo-suzuki/entry-12150873288.html

 飛行機や戦車に乗るのが大好き選挙屋どもはパフォーマンスに興じ、芸能屋はおひねりが大事だから、そんなのばっかりや、やんなっちゃうとヤッホー君、やあぁねえぇ〜:

 衆院道5区(札幌市厚別区、石狩管内)補欠選挙(4月24日投開票)は4月12日、告示される。
 告示前最後の日曜日となった4月10日、自民党公認の新人で公明党、新党大地などが推薦する和田義明氏(44)、無所属新人で民進、共産、社民、生活の4野党が推薦する池田真紀氏(43)の両陣営に、知名度の高い「応援弁士」が駆け付け、舌戦を繰り広げた。

 和田氏の陣営では、菅義偉官房長官が応援演説を行った。
 厚別区の街頭で、選挙区内にある新千歳空港などの民営化に意欲を示し「外国の航空会社が全部乗り入れられる環境を整備する」と強調。
 野党共闘については「共産党の綱領は『日米安保条約破棄』『自衛隊解散』だ。国民の安全を守ることができるのか」と批判した。

 中央区の集会では、新党大地を後援する歌手松山千春氏が「この中にも自民党政権に不満がある方がいると思う。その気持ちを和田君にぶつけて」と訴えた。
 和田氏は「力強い経済があってはじめて福祉に再分配できる」と呼び掛けた。

 池田氏の陣営は、千歳市で大規模集会を開き、ジャーナリスト鳥越俊太郎氏、安全保障関連法に反対する若者グループ「SEALDs(シールズ)」の奥田愛基(あき)氏らが参加した。

 鳥越氏は「野党は『反安倍』で一致し、手を結び戦うべきだ。安倍政権は日本を壊し、戦争に巻き込ませる」と主張。
 「池田氏が勝つことで日本中に野党統一候補が広がる」と呼び掛けた。

 奥田氏は「選挙の主役は僕たちだ。市民が一つになれば政治は変えられる」と強調。
 池田氏は「私は自衛官の命を守りたい。大変厳しい戦いだが、市民の力を信じている」と訴えた。

2016/04/11 20:29更新、北海道新聞
道5区補選 和田氏に菅長官/池田氏は鳥越氏 告示前に応援合戦
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/politics/1-0257956.html



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シベリア抑留体験

 シベリア、嗚呼シベリア……
 まずは山形放送製作の動画からです:

2011・5・28 YBC山形放送「誉れ高き捕虜として」
https://www.youtube.com/watch?v=RxalUgJQlqU

 戦争はゼッタイ二度としてはなりません。
 殺すとか死ぬとかじゃなく、生きる、幸せに元気に笑いあって命を全うすることを考えましょう。
 家族も友人も、地域の人も、周りの人が皆んな、心身ともに健康で、命をたたむようにしないと。
 政権交代で民主党が政権についたときのことです。
 2010年6月2日、鳩山首相は退陣を表明し、後任には菅副総理兼財務相が就任します:

 第2次世界大戦直後に旧ソ連によってシベリアやモンゴルに抑留され、強制的に働かされた元日本兵らに特別給付金を支給する「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」が2010年6月16日、衆院本会議で可決、成立した。
 「生存している」約7万人が対象で、抑留期間に応じて25万〜150万円を支給する。
 元抑留者たちが平均88歳あまりと高齢で早期の支給が望まれるとして、同法は遅くとも17日中には施行され、給付金をもらえる人が確定する。
 元抑留者たちは、過酷な労働の対価が支払われなかったとして、日本政府に補償を長年求めてきた。
 しかし、政府は「戦後処理は終わった」として応じてこなかった。


 法案は議員立法。
 条文に「補償」という文言は盛り込まれなかったが、提案した佐藤泰介・参院総務委員長は国会での趣旨説明で「長期間にわたる強制労働にもかかわらず、その対価が支払われていない。問題解決に長い歳月がかかったことを社会全体として反省し、その労苦を慰謝することが必要だ」と述べ、給付金に補償・謝罪の趣旨を込めた。
 財源には、1988年から元抑留者らへの慰謝事業を行ってきた独立行政法人「平和祈念事業特別基金」が国庫へ返納した資本金約200億円をあてる。基金は今年9月に廃止する予定だったが、2013年3月末まで存続させ、支給の事務を行わせる。

 厚生労働省などによると、シベリアやモンゴルなどへ約58万人が抑留され、うち約47万人が帰還したとされる。
 全国抑留者補償協議会(注)によると、現在の生存者は7万人余りという。
 しかし抑留の実態にはなお不明な部分が多く、同法は抑留中に死亡した人の埋葬場所の調査や遺骨の収集なども政府に義務づけた。

 政府は1956年の日ソ共同宣言で旧ソ連への賠償請求権を放棄した。
 2006年以降、10万円相当の旅行券などを慰労品として配ったが、「問題の幕引きだ」と元抑留者たちは反発。
 国家賠償請求訴訟も続いている。


2010年6月16日20時5分更新、朝日新聞デジタル
シベリア特措法が成立 元抑留者に給付金、対象7万人
http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201006160380.html

 それから、5年経って:

 厚生労働省は2015年4月末、戦後旧ソ連に抑留されて死亡した日本人約1万人分の名簿を公表した。
 今回は初めて朝鮮半島北部や旧満州(中国東北部)、樺太(現ロシア・サハリン)などでの死亡者名簿が明らかにされたが、「遅きに失した」という声も多い。

 旧ソ連による抑留をめぐっては、2010年に「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)が議員立法で制定され、国の措置が定められたが、この時も「遅すぎた」と批判された。
 それから間もなく5年を迎えるが、法の制定時から指摘された三つの課題は未解決のままだ。

 一つ目は、特措法が対象としている地理的な範囲だ。
 特措法に基づき、抑留を体験した生存者約6万9千人が抑留期間に応じて25万〜150万円の特別給付金を受け取ったが、対象範囲を旧ソ連かモンゴルでの抑留者としたため、今回公表された朝鮮半島北部や旧満州などでの収容者が対象から除外されてしまった。
 実態はまだ解明されていないが、シベリアなどでの抑留者と同じく、武装解除後、寒さと飢えに苦しみ、強制労働させられ、「民主教育」も受けたと聞く。
 実態が同じなら同様の措置を取るべきではないか。

 二つ目は、対象者を日本人に限定し、朝鮮・台湾出身の抑留被害者を排除したままになっている問題だ。
 私は長年にわたり韓国の元抑留者とも交流を続けているが、近年鬼籍に入る仲間が増えている。
 台湾の仲間には戦後も日本に住んでいる人がいるが、同じ境遇だったのに対象から外れるというのは理不尽だ。

 三つ目は、給付金の対象者が、特措法が施行された2010年6月16日時点での生存者にされたことである。
 これ以前に亡くなった約40万人の帰還抑留者はなにも受け取っていない

 特措法は、抑留の実態解明や遺骨収集、追悼、次世代への継承事業などに取り組む責任を国に負わせている。
 しかしこの5年間、大きく進展したようには見えない。
 抑留死者数は東日本大震災の死者・行方不明者のほぼ3倍と聞くが、国による追悼式典もない。
 国のトップが責任を認め、早急に特措法を改正して対象を広げ、実態解明のための体制強化も図るべきだと思う。


2015年6月12日05時00分更新、朝日新聞デジタル(私の視点)
シベリア特措法 対象広げ調査体制の強化を
池田幸一(シベリア立法推進会議代表、注)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11803860.html

 1945(昭和20)年8月9日、「長崎原爆の日」、旧ソ連軍が一斉に、当時いた旧満州へ攻め込んできた。
 肋膜炎(ろくまくえん)で陸軍病院に入院中だった私もすぐ軍服に着替えた。
 ただ自動小銃や戦車の敵に対し、こっちは明治時代の歩兵銃。
 とても戦闘にはなりません。山野を逃げるだけだった。

 満蒙開拓団が忘れられない。
 危険な国境沿いに入植させられ、戦争末期の臨時召集で男は兵隊にとられ、残ったのは女子ばかり。
 トラックで移動する我々に「子どもだけでも車に乗せて」と頼んだ。
 断ると、「兵隊のバカ」と罵声を浴びせてきた。
 彼女たちはどうなったのだろう。

 私は結局、一発も撃つことなく、翌9月捕虜になり、そのまま1949年10月までシベリアに抑留された。
 最初の冬が一番きつかった。
 戸外はマイナス30度まで下がるのに夏服しか持っていない。
 食事はパンとニシンのスープだけ。
 先の見通しは立たず、発狂する人、自殺する人、逃亡する人も……。
 徒歩で逃げてもスキーで追いかけられ、射殺された。
 遺体は放置され、ソ連兵はそいだ耳を収容所に持ち帰り、見せた。
 逃げたのは40代の開拓団の男が多かった。
 家族が心配だったんだろう。

 収容所で、人間には2種類あると知った。
 一日の作業の後、破れた靴や服を直して翌日の準備をする人と、故郷での食事や祭りの思い出話にふける人の二つです。
 後者の人はだんだん弱って死んでいった。
 深さ1メートルもの凍土を解かして、遺体を埋葬するのは大変だった。
 深く埋めなかったからオオカミに食われたことがあった。

 仲間が死ぬと、一番の友人がまず上着をもらった。
 次がズボン、その次が下着だ。
 悲しくはなかった。
 重ね着をすれば一緒にいる気になった。
 俺は体を大事にして帰るぞ、と誓った。

 最初の収容所は森林伐採が仕事だった。
 まだ旧軍の秩序が生きていて、元上官の指示で、病み上がりの私は、風呂と洗濯の担当になった。
 次に農場の収容所へ回され、食事が少し改善された。
 帰国直前のナホトカでは壁新聞を作った。
 作業のノルマ遂行や共産主義を宣伝する記事を書かされた。

 シベリアで初めて日本のプロレタリア作家の小林多喜二やレーニンの著作を読んだ。
 日露戦争で帝政ロシアが弱り、革命を準備した、とレーニンが書いているのに、ソ連は「日露戦争のあだ討ちだ」といって満州に攻め込んでいた。
 変だなと思ったことを覚えている。

 過酷な「民主運動」も経験した。
 同じ捕虜なのに旧軍秩序が維持され、将校は監督だけ、という差別に怒ったのが最初。
 ナホトカでの学習会が最も恐ろしかった。
 「思想的に偽物だ」と仲間を壇上に上げ、つるし上げた。
 高等農林学校卒業で肉体労働者出身でない私も自己批判を迫られた。
 帰国どころか、強制収容所送りにされかねず、恐怖だった。

 ようやく帰国ができた日本は緑がまぶしかった。
 でも舞鶴に留め置かれ、健康診断ばかりか全身の写真撮影、指紋まで採られ、取り調べを受けた。
 翌年、教員に採用される時も、面接で「資本主義と共産主義のどちらがいいか」と尋ねられた。
 名古屋市のGHQに2回出頭を命じられた。

 戦後の日本では「シベリア帰り」というだけで警戒されたんです。

◇〈シベリア抑留〉
 旧ソ連が旧満州、朝鮮半島北部、樺太などの軍人ら約60万人を連行。
 復興の労働力として、鉄道建設や森林伐採といった重労働をさせ、栄養失調や病気のため約5万人以上が死亡した。
 日本は旧ソ連への賠償請求権を放棄しており、政府に国家補償を求める運動が続き、2010年、特措法が成立。
 生存する元抑留者約7万人に25万〜150万円を支給した。


2015年12月15日03時00分更新、朝日新聞デジタル【伊藤智章】
岐阜)シベリア抑留体験を語る 安藤嘉久男さん
http://www.asahi.com/articles/ASH4N7265H4NOIPE03B.html

 嗚呼シベリア……合掌……

(注)
☆ 全国抑留者補償協議会(全抑協)は2011年5月23日、「全抑協解散・記念と感謝の集い」を開いています。全抑協は1979年5月に結成。32年間、50万人近い元抑留者を代表して運動を続け、会員は最高時14万人。
☆ 全抑協の諸課題は「シベリア抑留者支援・記録センター」が引き継いでいます。
http://sdcpis.webnode.jp/
☆「シベリア抑留研究会」代表世話人は富田武成蹊大学名誉教授。
 『現代の理論』第4号に寄稿した文「戦後日本社会にとってのシベリア抑留、急がれる実態解明と後世への伝承」参照:
http://gendainoriron.jp/vol.04/rostrum/ro04.php
☆「シベリア立法推進会議」は2003(平成15年)5月に結成。代表者の池田幸一さんは1921年舞鶴生まれ。ブログ「蟷螂余話〜憲法9条を 潰してしまえと いう声に 私は黙って いられない〜」参照:
http://blog.livedoor.jp/kamakiriikeda


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2016年04月18日

高尾山599m

 ヤッホー君、飛んでシベリアへ。
 実は昨17日の日曜日、高尾山でも「渡り」をするてふてふ、アサギマダラと鬼女蘭のお話しと再会したから:

 このチョウは海を渡って1000km以上も大移動するというのがわかってきました。これが「渡り」といわれるもので、その飛行距離は、1日に何十キロと推定されます。海を渡って本州から台湾や沖縄までも飛んでいくといいます。実際、2000年には台湾台北市北部の陽明山でマークされた2個体が,鹿児島県と滋賀県でそれぞれ再捕獲され,この蝶の移動範囲が日本周辺の国外にも及ぶことが明らかになった。しかし,その移動の範囲の全貌はまだ明確でなく謎の蝶と言えます。

 しかし、たかだか4ヶ月程度の寿命のチョウが、どうして自分達が時期がくれば渡りをすることを知っているのでしょうか。秋に南下する時、あんなか細いチョウが、どうやって偏西風に逆らって飛びながらどのように自分が行くべき方向を判断し、南西諸島の小島を探しあてることができるのでしょうか。
 また、海を渡っている間の食物はどう確保するのでしょうか、海の夜では何処で休んでいるのでしょうか。アサギマダラには、不可解な行動や不思議な習性があり、まだその生態もよく知られていません。


高尾通信
アサギマダラの神秘
http://www.takaosan.info/mame1-1.html

 ヤッホー君のこのブログ、2016年3月27日付け日記「猿島」ご参照ください。
 
 そして実は、実は、ウニよりもカニよりも、高尾山でシベリア抑留の碑を発見したから:

 有喜苑内に新たに建立されたシベリア抑留者供養碑の開眼法要が御貫首御導師のもと執り行われました。

 シベリアの寒さを思わせる雨の中、120名以上の方が参列されました。

 発起人の方は、亡くなった多くの戦友の魂を弔うために、道志村で見つけた自然石を長らく保管し、今回の建立にこぎつけたそうです。

 戦後65年の月日が経ちますが、高尾山にはシベリア抑留者慰霊碑の他にも戦争で亡くなった方々の慰霊碑がしっかりと建っています。


2010(平成22)年10月28日(木)高尾山ブログ天狗のひとり言
シベリア抑留者供養碑開眼法要
http://www.takaosan.or.jp/WordPress/?p=1051

 17日は四月の第三日曜日、高尾山春季大祭の行なわれる日。
 山歩クラブは別の目的をもって、3人で高尾山に舞い降りました。
 富士と高尾の高嶺には行かないよ、と豪語していた山歩クラブでしたが、高尾山で四国88ヶ所の霊場巡礼ができると聞いたら行かないわけにはいきません。
 春の嵐となり、森は呻き、山は泣き、琵琶滝不動尊から二本松広場に上り詰めたところで、ついに雨具をだしました。


二本松広場.JPG

 山頂でお昼、稲荷山コースを高尾山口に下ったころようやく鳥は鳴き、青空がでてまいりました。
 高尾も春らんまん!


紅いシャクナゲ.JPG

春の花.JPG

 88ヶ所、しかし蛇滝方面の御大師さまは今回パス、晴天のときに回してとっておこうと相成りまして候。

お大師様.JPG

 江戸ちゃんは本場四国の巡礼を二度も回ったとのこと、この高尾山、たぶんもっと効率よく回るコースもあるのかも知れませんが、仏舎利塔の周囲にはシベリア抑留、硫黄島玉砕、そして5年前の東日本大震災の慰霊塔があってじっくりお参りできたことなど収穫の多い山行日となりました。

高尾88大師巡礼.JPG


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2016年04月17日

シベリア抑留

 「徹子の部屋」4月12日に松島トモ子がでました:
https://www.youtube.com/watch?v=1RSo46BWjQk

 ♪過ぎたことだから♪by松島トモ子(詞・曲:荒井由実)
https://www.youtube.com/watch?v=0Wzc-ZCCvZA

 戦後、旧ソ連に捕らえられ、強制労働に従事させられたシベリア抑留の犠牲者を追悼する集いが2015年8月23日、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で開かれた。
 墓苑には抑留犠牲者の遺骨約1万2千柱が納められており、遺族ら約200人が黙とうをささげ、献花した。

 この日は旧ソ連の指導者スターリンが1945年に旧日本兵の移送を命じる極秘指令を出してから70年に当たる。
 集いは2003年に始まり、13回目。在日ロシア大使館職員が初めて参列した。

 抑留で父を亡くした女優の松島トモ子さんは母志奈枝さん(94)と参列し、遺族代表として「戦争は二度と繰り返してはいけない」と述べた。


2015/8/23 16:59更新、共同通信
シベリア抑留の犠牲者を追悼
「戦争繰り返さない」

http://this.kiji.is/42242706709135361?c=39546741839462401

 北極圏内にあるロシア・ノリリスク市に、戦後70年の今年2015年、日本人慰霊碑が建立された。
 3歳のときに別れた父親がこの地に抑留され、死亡した東京都八王子市の渡辺祥子(さちこ)さん(73)が11年がかりで実現させた。
 その陰には、東京外大で学ぶモスクワ出身のロシア人留学生マリヤ・レブロワさん(25)の尽力があった。

 「生存の権利」と書かれた慰霊碑は幅90センチ、高さ1・8メートル。
 コンクリートの上部に日本語とロシア語で碑文が刻まれた黒い花崗岩(かこうがん)の板がはめ込まれている。
 板は、この地で果てた抑留者が思い続けた祖国・日本がある東南の方角を向く。

 10月2日、現地で除幕式が行われた。
 零下10度。
 渡辺さんはレブロワさんとともに参加し、持参した折り鶴を慰霊碑にかけた。

折り鶴よ 羽ばたけ故郷(くに)へ 魂(たま)乗せて


 肉体は祖国に帰ることができなくても、魂が鶴に乗って帰ってほしい、との思いを込めて短歌も詠んだ。

 「戦争ほど恐ろしいものはない。全世界の人々は等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を持っていることを改めて確認し、二度と忌まわしい出来事が起こらぬよう、貧困や抑留に苦しまぬよう、全力をあげて共に努力していきましょう」
 集まった地元の市民約30人に、渡辺さんはそうあいさつした。

 渡辺さんの父親は当時日本領だった樺太(現サハリン)から戦後、ノリリスクに連行され死亡した。
 病死とされるが、はっきりしない。
 内地に引き揚げた母親は女手ひとつで渡辺さんを育て、2002年に脳腫瘍(しゅよう)で亡くなるまで、父親のことを思い、語り続けた。

 渡辺さんが慰霊碑の建立を思い立ったのは、2004年。
 母親の遺骨を散骨するために、ノリリスク市を訪れたときだ。
 同市が管理する慰霊の広場には、収容所で働かされたロシア人のほか、ポーランド人、ユダヤ人、バルト3国の人のための慰霊碑や墓が建立されていた。
 戦争や紛争、テロが続く世界の情勢をみて、「父の記憶もない自分のような人間がいまも生まれている」と感じ、世界の平和を祈念する気持ちを形に残したいと考えた。

 レブロワさんが2年前に来日した際、「慰霊碑を建てようとしている人がいる」と知人に紹介してもらい、話が一気に進み出した。
 「渡辺さんの情熱に心を動かされた」
 レブロワさんは全面的に協力を約束。
 現地の建築家ら関係者との交渉を進めた。
 建立費用約90万円は、日本全国から集めた寄付でまかなった。

 渡辺さんは「ロシア人は残虐な人という思いが私の中にあるはずだが、粘り強く行動するレブロワさんと出会い、ロシア人を学び直した。現地の方々にも協力していただいた」
 レブロワさんは「出会ったのは運命」と言う。
 祖母は孤児院で育ち、苦労の人生を歩んだ。
 祖母の父は第2次世界大戦の対独戦で戦死、どこに埋葬されたかもわからない。
 祖母と渡辺さんは父親を戦争で亡くした、似たような境遇だった。

 「祖母のためにできなかったことを、渡辺さんのためにできるのではないかと思った。慰霊碑は日本とロシアの民間のさまざまな人たちが協力してできた。新しい日ロ関係です」
 そう話すレブロワさんに、渡辺さんが笑顔でうなずいた。

 渡辺さんは今年2015年、シベリア抑留者支援・記録センターが設けた第1回「シベリア抑留記録・文化賞」を受賞、11月7日に贈呈式がある。

■ 花崗岩に刻まれた碑文

今を生きる私たちは吹雪の向こうから聞こえてくる
日本人抑留者たちの声に耳を傾け
その思いを決して忘れず
この痛みや苦しみが二度と繰り返されることがないよう
精いっぱいの努力を惜しまず 行動し生きていきます

◇〈シベリア抑留〉

 1945年8月9日に第2次世界大戦で対日参戦した旧ソ連が戦後、旧満州(中国東北部)、樺太、千島から日本の軍人や民間人をシベリアなどの収容所に連行、強制労働に従事させた。
 抑留者は、極寒、飢餓、重労働に苦しんだ。
 厚生労働省によると、約57万5千人が抑留され、うち約5万5千人が死亡したとされる。
 ノリリスクの収容所にどれぐらいの日本人が収容されていたかは不明だが、生還者の手記によると、約300人。うち日本に帰国したのは110人余という。


2015年11月6日15時42分更新、朝日新聞デジタル(編集委員・大久保真紀)
シベリア抑留の地に日本人慰霊碑 ロシア人留学生が尽力
http://www.asahi.com/articles/ASHBQ6VJJHBQUTIL070.html

 瞬きをすると、まぶたがくっついた。
 白いひげがあるように見えた馬は、よだれが凍っていた。
 寝ている間に凍死した仲間もいた。
 氷点下三〇度の世界は、想像を絶していた。

 陸軍の飛行兵だった木内信夫さん(90)=柏市根戸=は、出征先の満州(現中国東北部)で終戦を迎え、直前の8月9日に参戦した旧ソ連(現ロシア)の捕虜となった。

 捕虜約57万5千人(厚生労働省推計)はソ連全域の強制収容所に送られ、重労働を強いられた。
 そうした元兵士らは「シベリア抑留者」と呼ばれた。

 木内さんがシベリア鉄道で送られた先は、最も遠い東欧のウクライナ。
 線路に敷く石を鉄の棒で削り出す作業などに従事した。

◆ 何度か死にかけた
 「私も何度か死にかけました」
 作業を終え、薪をかついで帰る途中だった。
 数十センチ先も見えない吹雪の夜。
 前を行く兵士が合図代わりに撃つ小銃音が頼りだった。
 突然、谷を転げ落ちた。
 雪に埋もれ、眠ってしまった。

 助かったのは偶然だった。
 後から来た別の捕虜が、上から落ちてきて目が覚めた。
 二人で歩き続け、なんとか朝を迎えた。
 「でも、当時は死んでもいいとも思っていた。捕虜になって帰国するのは恥、でしたから」

 そんな気持ちは、同じ収容所にいたポーランドやチェコなどの捕虜から不思議がられた。
 「みんな喜ぶだろう。胸を張って帰ればいい」
 軍国少年として育った身には、新鮮な言葉だった。

◆ ソ連兵と交流も
 少しずつ覚えたロシア語では、ソ連兵とも交流した。
 歌を歌い「赤鬼」というあだ名の兵士と相撲をした。
 子どもたちとソリに乗って遊んだこともあった。
 「国は違っても、戦争が嫌いないい人間ばかりだと気付いた。敵も味方もなかった」

 抑留生活は2年半ほど続き、引き揚げ者の受け入れをしていた京都・舞鶴港に着いたのは1948年7月。
 抑留者のうち約5万5千人が命を落とした。

◆ 戦後、絵日記を再開
 戦後、パン屋や菓子店などで働きながら、趣味だった絵日記を再開し、抑留生活も「後世の記録に」と描き始めた。
 水彩画は、つらい場面でもどことなくユーモラスだ。
 服や風景の描写は忠実で、戦友たちからは「確かにこうだった」と、もっと描くようにせがまれた。
 絵は十数年前から、舞鶴港そばの「舞鶴引揚記念館」に寄贈してきた。
 館の資料は今年2014年6月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産の国内推薦候補の一つになった。
 木内さんの作品四十点も含まれている。

 「戦争の犠牲になるのはいつも庶民。登録されれば、こんな体験をした若者たちがいたと世界に知ってもらえる。天国にいる仲間たちも、きっと喜んでくれるはずです」

◆ 取材後記
 厳しい抑留体験にもかかわらず、木内さんは取材中、笑顔を絶やさなかった。
 「死を覚悟していたから、つらくなかった」
 それが笑って振り返ることのできる理由の一つだ。
 もう一つは、さまざまな国の人と接し「みんな同じ人間だ」と視野が広がったためだという。
 ソ連兵への憎しみもない。
 ただ、「戦争」そのものへの嫌悪と、仲間を失った悲しみが胸の内にある。
 戦後をどう生きるか。
 「対話」の必要性についてあらためて考えている。

 
2014年8月19日東京新聞、【千葉から語り継ぐ戦争】(内田淳二)(6)
シベリア抑留 極寒、重労働 絵で残す
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/chiba_kataritugu/list/CK2014091202100026.html


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2016年04月16日

コバイケイソウ

 ところで4月10日の御前山山行。
 カタクリもいいんですけどわれわれの足はコバイケイソウ自生の地で止まりました。
 「シカはコバイケイソウを食べないからこんなふうに柵で仕切らなくっとも群落ができるんだね」
 カッシーがヤッホー君に教えてくれました。
 「え?シカは食べないんだ」
 「え〜シカには有毒なんだそうで」
 「しかし、どうしてシカは親から子へ<あれ食べちゃダメ>って教えるんだろう?言葉はないし文字もないから伝えられないのにね」とヤッホー君、またぁ〜、皆んなを唖然とさせていました。

 コバイケイソウです。あとに写真があるように、弥陀ヶ原の湿原をまわるコースを歩きました。ですから、湿地に生育するコバイケイソウが出てくるのは、納得ですね。
 バイケイソウとの違いですが、次のような違いがあります。
 1. 花の違い。
 バイケイソウは一つ一つの花が大きく(直径25mmとか)、その分、花序の中の花の数が少ない。また花被(はなびら、ですね)の外側は緑色です。一方コバイケイソウは花が小さく(10mm未満)、その分、花序中の花数が多く見える。また花びらの外側が緑色にならないので、花序全体が白く見える。
 花がない場合は...2. 葉を見ましょう。
 コバイケイソウの葉は、10-20cm程度の長さで、バイケイソウに比べ小さいためか、茎をくるむように、何というか、お椀型に葉が立っています。一方バイケイソウの葉は20cm程度、大きいためか、お椀型に茎をくるまず、下にたれている場合が多い。もっとも春先の葉の小さいときは、難しいかも。
 どちらも有毒植物で、シカがある程度いる場所でも食べられずに残っていることを見ることがあります(これは立山の話ではありませんが)。

信州大学理学部物質循環学科「植生と生態」の島野研究室
先日2004年6月26、27日の両日、立山で日本生態学会・中部地区会が行なわれました

http://science.shinshu-u.ac.jp/~shimano/0010_tateyama.htm

 そうなんです、霧ヶ峰。

 車山の肩には、小屋とレストハウス各一軒が並んでいる。
 「ころぼっくるひゅって」は、白樺湖から霧が峰に通じるビーナスラインが通じる前は、一面の草原の真ん中にあって360度周りを高山植物に囲まれていた。
 そして、眼下には八島湿原やイエローストーンにも似た広々とした草原が広がっていた。
 数年前には、ニッコウキスゲの花の最盛期、この草原は、その黄色い花で一面覆われていた。
 だが、その翌年から花は減り始め、ついには自力で花を咲かせることができなくなった。
 今は電気柵で囲われたところにしか花をつけない。
 すべてシカに食われてしまったのだ。
 電気柵のすぐ脇には、シカの踏み跡やぬた場があり、シカの食べないコバイケイソウの群落ができ始めていた。


2013年6月11日火曜日2:02PM「一般社団法人日本オオカミ協会」
霧が峰・八ヶ岳山小屋訪問:シカ急増、天然林被害激増、対策なし!
http://japan-wolf.org/content/2013/06/11/

 北岳の草すべりを登り詰めたところにシカよけ柵がでてきたときはびっくりしたけど、南アも北アも:

 北アルプス一帯の現在の生息数は1000羽強、ということは、以前の推計値2000羽から、やはり半減です。
 これらを合計すると、現在の日本のライチョウ生息数は、1500羽前後ということになりそうです。
 なかでもとりわけ事態が深刻なのは、おそらく南アルプスなのだろうと思います。

 大きな要因は、シカの高山帯への進出だろうと思われます。
 もともと、ニホンジカは高山帯を住処とする動物ではありません(カモシカは元々高山帯に住んでいましたが)。
 しかし、この十数年、シカが急増したのに伴い、もともと住んでいなかった高山帯にまで、シカが進出するようになって来ました。

 先に書いたように、日本の高山帯の植生が最近まで豊富なままに保たれてきた大きな要因は、日本には家畜を野山に放牧する文化がなかったことだと思われます。
 ところが、家畜が放たれない代わりに、最近は増えすぎた野生のシカが高山帯に進出して、その植生を丸裸かにし始めているのです。

 高山帯の植生は、日本全国でたった1100平方キロあまりしかないことを思い出してください。
 しかも、その相当部分は、ライチョウのいない北海道にありますから、ライチョウのすみかである中部山岳地帯の高山帯の面積は、その半分くらいでしょうか。
 食い荒らされ始めてしまえば、あっという間に食い尽くされてしまうくらいの広さしかないのです。

 目下のところ、シカの食害が深刻なのは、高山帯に限れば主に南アルプスです。
 しかし、北海道でもシカ(エゾジカ)が増えすぎており、その食害が深刻化しています。
 北アルプスでも、おそらく時間の問題でしょう。
 シカに食い荒らされたお花畑は、シカが食べられないマルハダケブキだけが残る状態になるようです。そういえば、バイケイソウ・コバイケイソウも有毒なのでシカは食べられないはずですが。

2013.11.09 12:21:18 inti-sol
ライチョウ、南アルプスで半減
http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/201311090000/

 尾瀬でも、やはりシカによる貴重な植物の食害が問題となっている。
 ニッコウキスゲなどは食べられてしまうが、一方で毒素があるといわれるコバイケイソウはシカが食べずに繁茂している。

 シカが尾瀬沼や尾瀬ヶ原に侵入しないように、周囲をネットで囲い、登山道にはシカのヒズメが滑って侵入しにくくするための鉄板(グレーチング)が設置されている。


2016-01-31 02:03 人と自然
オオカミ復活!?  − シカの増加と生態系かく乱を考える [生物多様性]
by高橋進@共栄大学
http://staka-kyoeiac.blog.so-net.ne.jp/2016-01-31

環境通信(7)シカの生態と被害
蓼科ビレッジ内でもシカによる被害は山野草や山菜の食害のみならず樹皮剥ぎによる樹木の枯死被害など甚大です。シカの害をなんとか抑えたいと考えておられる方も多いでしょう。すぐに対策に入るのも結構ですが一通りシカの生態と食害の特徴を知っておくことも役に立つものと思います。
 蓼科にいるシカは正式にはニホンジカで偶蹄目シカ科の大形哺乳類で体長100cm〜170cm。肩高はオスで70cm〜130cm、メスで60cm〜110cm。
 自然界での平均寿命はオスで4〜6才、メスで6〜8才、長いものだと14才程度まで生きているそうです。
 通常オスとメスは別々の群れを作りますが子供のメスは母親と同じ群れで暮らしますが、オスは1〜2歳で母親から離れます。一夫多妻制でメスは1才になった冬から発情し、毎年5月〜7月に通常1匹の子供を産みます。
 運動能力は高く 助走なしに1.5mは飛び越えることができ1.7m程度まで越えられるそうです。
 昼夜問わず活動しますが農耕地には夜間に入ることが多く、山荘のすぐそばでも餌を求めて近づいてきます。
 食物の嗜好性としては植物ならば殆ど何でも食べるようですが、有毒のものや特定の種は食べないものもあるようです。地域によっても嗜好は違っているようですし、個体差もあるようです。
 ビレッジ内でも以前は沢山採れていた山菜も ウド、タラノメ、フキノトウは普通のところでは目にすることも珍しいほどになってしまっています。シダ類はあまり食べないのでワラビなどはかろうじて残っていますが よく見ていると 先端を食べられているワラビやゼッタ(オニゼンマイ)もあります。
 山野草では有毒のトリカブト、コバイケイソウ、キンポウゲ類、ハーブ類などは食べず、クリンソウも食べません。
 キク科の花もあまり食べないようで ヨツバヒヨドリ、アザミ、タンポポなどは多数見かけられますし スミレなども食べられている形跡がないようです。
 逆に 私たちが大事にする山野草は殆どが好みのようです。
 霧ヶ峰・車山のニッコウキスゲが一時壊滅的な被害をうけたほか ヤナギラン、シモツケソウ、マツムシソウ、ツリガネニンジン、クガイソウなど高原を代表する美しい花は特に被害を受けやすいようです。

 シカは上顎の前歯がないので前歯のかみ合わせは良くなく地表すれすれまで食べつくすということは出来ません。
 草を食べ尽くさないようにして再生が図れるようになっているのでしょう。

http://www.joyful-tateshina.com/

 「殖えすぎたシカ、だからね、ぼくの帽子はエゾシカでできてんだ」
 「へぇ、そんなお高いのよく買えましたね」
 「山の神がきげんの良い時をみはからって、そく許しを得たんだ」
 「へぇ、オオカミがいたらなぁ〜」とハット気づいたヤッホー君、口にだしたら仲間の間にしらけ鳥が飛んだそうです。

 では、ここで土曜特集、小松政夫(1942年生まれ)で「しらけ鳥」:
https://www.youtube.com/watch?v=A-SG8IRuJL4


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2016年04月15日

国谷裕子

 キャスターといえば、スーツケースだけではありませんでした。
 
強まる「同調圧力」。メディアは加担していないか。
 NHKクローズアップ現代の元キャスターで、先月降板したばかりの国谷裕子さんが論壇誌「世界」5月号に寄稿し、23年間のキャスター生活を振り返った。
 タイトルは「インタビューという仕事」。
 その中で、国谷さんは少数派や異質なものを排除しようとする「同調圧力が強くなってきている気がする。流れに逆らうことなく多数に同調しなさい、同調するのが当たり前だ、といった圧力。そのなかで、メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか」と書く。
 国谷さんがこだわってきたのは「言葉の持つ力」。インタビューという仕事だった。キャスターとして「最初に抱いた疑問を最後まで持ち続け、視聴者の思いを掬い取り、納得がいくように伝えるということが大事だ」という。

問いを発する理由 フェアなインタビューとは何か。
 例示されたのが、集団的自衛権の部分的行使を可能したことについて、菅義偉官房長官に問うたインタビューだ。この放送は菅長官周辺から抗議があり、降板の伏線になったのでは、という声もあがったいわくつきのインタビューだ。
 時間は14分弱。大筋は、ホームページで確認できるが、カットされた部分がある。
 国谷さんが番組の最後、残り30秒を切った時「しつこく」問いを発した箇所だ。
 国谷さん「しかし、そもそも解釈を変更したということに対する原則の部分での違和感や不安はどうやって払拭していくのか」
 菅官房長官が答えようとした時に、番組は終わった。時間も少ないのに、なぜ問うのか。

「日本では、政治家、企業経営者など説明責任のある人たちに対してでさえ、インタビューでは、深追いはしない、相手があまり話したがらないことは、しつこく追及しないのが礼儀といった雰囲気がまだ残っている。(中略)批判的な内容を挙げてのインタビューは、その批判そのものが聞き手の自身の意見だとみなされてしまい、番組は公平性を欠いているとの指摘もたびたび受ける」。

 こうした批判を受けてもなお、必要なフェアなインタビューとは何か。国谷さんはこう書く。

聞くべきことはきちんと角度を変えて繰り返し聞く、とりわけ批判的な側面からインタビューをし、そのことによって事実を浮かび上がらせる、それがフェアなインタビューではないだろうか

「問いを出し続けること」
 だからこそ、クローズアップ現代では、NHK批判の声も避けなかった。2014年3月、国谷さんは駐日米大使、キャロライン・ケネディさんへのインタビューでこう語った。

日本とアメリカの関係は、安倍政権の一員、それにNHKの経営委員や会長の発言によって影響を受けていると言わざるを得ません

キャスターとは何か、国谷さんの言葉は核心へと向かう。
「(キャスターの仕事とは)問いを出し続けることであったように思う。それはインタビューの相手にだけでなく視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあったような気がしている」。


Posted on 2016/04/08 12:03 BuzzFeed News(石戸諭)
クロ現元キャスター、国谷裕子さん あの菅官房長官インタビューを語る
こだわってきた「問いを出し続けること」

https://www.buzzfeed.com/satoruishido/yuko-kuniya#.su62jqWE7

 安倍政権からの圧力によって、23年間キャスターを務めてきた『クローズアップ現代』(NHK)を3月で降板した国谷裕子キャスター。最後の放送以降、国谷氏はメディアに姿を現していないが、じつは降板後初となる文章を、現在発売中の月刊誌「世界」(岩波書店)5月号に寄せているのをご存じだろうか。
 しかも、国谷氏はこの寄稿文のなかで、あの“事件”についても言及。それは国谷氏のキャスター降板にいたるきっかけとなったと言われている、2014年7月に『クロ現』で行った菅義偉官房長官へのインタビューだ。
 この日の放送は、閣議決定されたばかりだった集団的自衛権の行使容認について政権の要である菅官房長官に話を聞くという主旨だった。官邸としては格好の説明の場だと踏んだのだろうが、しかし、キャスターの国谷氏は厳しい質問を繰り出し、菅官房長官ならびに官邸は激怒。その後、政権側は『クロ現』のやらせ問題を隠れ蓑にして圧力を強め、最終的に国谷氏のキャスター降板まで追い詰めた。
 それにしても、メディアへの圧力担当ともいえる菅官房長官に生放送で相対し、国谷氏はどのような心構えで挑んだのか。その思いを、国谷氏はこのように綴っている。

〈インタビュー部分は一四分ほど。安全保障にかかわる大きなテーマだったが与えられた時間は長くはなかった。私はこの憲法解釈の変更に、世論の中で漠然とした不安が広がっていることを強く意識していた。視聴者はいま政府に何を一番聞いてほしいのか。その思いを背に私は何にこだわるべきなのか〉

 そして国谷氏は、菅官房長官に集団的自衛権の行使にかかわる問題点を次々に質した。──このときの国谷氏の質問内容はいずれも正鵠を射るものだった。国谷氏の仕事ぶりを振り返るためにも、以下に並べよう。

 「確認ですけれど、他国を守るための戦争には参加しないと?」
 「なぜ今まで憲法では許されないとしてきたことが容認されるとなったのか、安全保障環境の変化によって日米安保条約だけではなく集団的自衛権によって補わなくてはならない事態になったという認識なのでしょうか」
「憲法の解釈を変えるということは、ある意味では、日本の国のあり方を変えることにもつながるような変更だと思いますが、外的な要因が変わった、国際的な状況が変わったということだけで本当に変更していいのだろうかという声もあります」
「非常に密接な関係のある他国が強力に支援要請をしてきた場合、これまでは憲法九条で認められないということが大きな歯止めになっていましたが、果たして断りきれるのでしょうか」

 こうした質問に対し、菅官房長官は「日米同盟の強化によって抑止力が高まる。それによって武力行使をせざるをえなくなる状況は大幅に減少する」などと詭弁を弄したが、国谷氏は一歩も引き下がらず「戦争というものは、自国の論理だけでは説明しきれない、どんな展開になるかわからない危険を持っています」と指摘。菅官房長官の答えは「こちらから攻撃することはありえないです」の一点張りだった。

 そうして残り時間がわずかとなったところで、菅官房長官は「国会審議のなかで国民に間違いなく理解していただけると思う」と主張。だが、国谷氏はこのとき、もう時間は少ないと理解しつつも〈再び問いを発していた〉という。それは、こんな質問だった。

 「しかし、そもそも解釈を変更したということに対する原則の部分での違和感や不安はどうやって払拭していくのか

 この問いかけに、菅官房長官は「42年間たって世の中が変わり、一国で平和を守る時代ではない」と言い、そのまま放送は終了した。国谷氏は〈生放送における時間キープも当然キャスターの仕事であり私のミスだった〉と振り返っているが、同時に、なぜ時間がないなかで、菅官房長官にさらなる質問を重ねたのか、その理由も述べている。

〈なぜあえて問いを発してしまったのか。もっともっと聞いてほしいというテレビの向こう側の声を感じてしまったのだろうか〉

 国谷氏が貫いたキャスターとしての矜持。当然、国谷氏もこのインタビュー後にどんな事態が起こるか、そのときすでに理解していたのだろう。事実、国谷氏は、〈批判的な内容を挙げてのインタビューは、その批判そのものが聞き手の自身の意見だとみなされてしまい、番組は公平性を欠いているとの指摘もたびたび受ける〉と綴っている。
 だが、視聴者の「知る権利」を守るための「公平性」とは、そのようなものではない。国谷氏はこうつづける。

聞くべきことはきちんと角度を変えて繰り返し聞く、とりわけ批判的な側面からインタビューをし、そのことによって事実を浮かび上がらせる、それがフェアなインタビューではないだろうか

 テレビというメディアの特性は映像がもつ力にある。しかし、それに頼ってばかりでは視聴者の想像力を奪ってしまう。だからこそ、国谷氏は『クロ現』において「言葉の持つ力」を大事にしてきた、という。さらに、国谷氏がめざしたのは、“一見わかりやすいことの裏側にある難しさ”を提示するということだった。国谷氏のそんな「こだわり」が発揮されたのが、インタビューだったのだ。
 だが、番組づくりを通して国谷氏が直面したのは、〈人気の高い人物に対して切り込んだインタビューを行なうと視聴者の方々から想像以上の強い反発が寄せられるという事実〉だった。これを国谷氏は“日本の社会に特有の、インタビューにたいする「風圧」”と表現する。
。。。
 同調圧力と言うべき批判に対し、しかし国谷氏はインタビュアーとしての姿勢を曲げなかった。

世の中の多くの人が支持している人にたいして、寄り添う形ではなく批判の声を直接投げかけたり、重要な点を繰り返し問うと、こういった反応がしばしばおきる。しかし、この人に感謝したい、この人の改革を支持したいという感情の共同体とも言うべきものがあるなかでインタビューする場合、私は、そういう一体感があるからこそ、あえてネガティブな方向からの質問をすべきと考えている

 ところが、この同調圧力はどんどんと強まる一方だ。国谷氏はこの寄稿文のなかで〈メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか〉と疑問を呈しながら、武田砂鉄氏の著書『紋切型社会』(朝日出版社)のなかで取り上げられている「国益を損なう」という言葉を拾い、このように述べている。

この言葉もとても強い同調圧力を持っている。本来ならば、どう具体的に損なうのかと問うべきときに、その問いさえ国益を損なうと言われてしまいそうで、問うこと自体をひるませる力を持っているのだ

 同調圧力が強くなれば、その一方で〈少数派、異質なものの排除〉は進んでいく。そんな時代にあってメディアが果たすべきは、異質なもの、少数の声を掬い取ることや、大きな声に覆い尽くされて見えにくくなっている問題をあぶり出すことだろう。そう、国谷氏が『クロ現』でこだわってきた“一見わかりやすいことの裏側にある難しさ”を提示する、という仕事が極めて重要な意味をもつのだ。
 しかし、その国谷氏は政治的圧力によって番組を降板させられてしまった。そしてこの、政権が報道を意のままに操るという異常事態を引き起こしてしまった一因には、メディア自体がジャーナリズムの使命よりも既得権益を守るべきという同調圧力に支配されている問題がある。だが、政治的な問題を個人的な問題へと矮小化させ「自己責任」と切り捨てる空気や、それに伴う「政治的な話題は口にすべきではない」という空気、そうした社会に流れる同調圧力も無関係ではないはずだ。
 国谷氏はこの論考で、〈直接情報を発信する手軽な手段を誰しもが手に入れ、ややもすればジャーナリズムというものを“余計なフィルター”と見なそうとする動きさえ出てきている〉と分析し、それ故に〈人々の情報へのリテラシーを高めるためにも、権力を持ち、多くの人々の生活に影響を及ぼすような決断をする人物を多角的にチェックする必要性はむしろ高まっている〉と指摘している。
 国谷氏が去り、さらには膳場貴子、古舘伊知郎といった職分を果たそうとしたキャスターたちも報道番組から消えた。
 いまや帯の報道番組は、無難を至上命題にするキャスターと本質をはぐらかそうとする解説者による、政権の広報番組かのような状態だ。
 もし、国谷氏がいう“権力者を多角的にチェックする”というメディアの使命がこのまま失われてしまえば、この国は民主主義国家とは名乗れなくなる。
 さらには、いまがそんな危機的状況にあることさえ、多くの人は気づいていない。

 国谷氏からの警告ともいえるこの文章を、放送人をはじめとするメディアに携わる人々は、ぜひ心して読んでほしいと思う。


2016.04.14.リテラ(水井多賀子)
『クロ現』降板の国谷裕子が問題の菅官房長官インタビューの内幕を告白!
「メディアが同調圧力に加担」との警鐘も

http://lite-ra.com/2016/04/post-2160.html

 その人物がいなくなってみて、初めてその不在の意味の大きさを実感するという経験が誰にでもあるのではないか。
 大切な友人や身近な先達たちが去っていく時、僕らは本当に人間という存在が「つながり=社会的関係」の中で生き、生かされていたことを思う。
 それは、毎日のようにテレビ画面を通じて「疑似的に」つながっていた報道番組のキャスターや司会者と視聴者との関係においても言えることかもしれない。
 だから去っていった人を惜しむ気持ちが湧くのは自然な成り行きというものだ。
 いけない、何だか道徳の教師みたいな口調で書き出しているな。

 この春、テレビ報道番組の「顔」の多くが交代した。
 テレビ報道の仕事を40年近くも続けてきたので、似たようなことは以前にもあったが、この春の場合はちょっと特別なような気がする。
 とりわけNHKの「クローズアップ現代」の変わり方については、冒頭の文章の文言に尽きる。
 退場した国谷裕子キャスターがその心情の一端を書いた文章を読む機会があった(岩波書店「世界」5月号「インタビューという仕事」)。
 実に品格のある文章で内容が深い。

 <劇作家の井上ひさしさんが、「風向きの原則」と呼んでいた現象がある。
 風向きがメディアによって広められているうちに、その風が強くなり、誰も逆らえないほどになると、「みんながそう言っている」ということになってしまう。
 そしてその中で少数派、異質なものの排除が進んでいく。
 最近、ますますそうした同調圧力が強くなってきている気がする。
 流れに逆らうことなく多数に同調しなさい、同調するのが当たり前だ、といった圧力。
 そのなかで、メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか


 深く共感する。

 何年たっても喪失感が消えないという点では、僕らの大先輩、筑紫哲也キャスターの例があるが、その筑紫さんがニコニコしながら生前語っていた。
「(メディアの世界では)活字は記録で、テレビは記憶だ」

 日本語のことわざで「去るものは日々に疎し」という格言の英訳は「Out of sight, out of mind」とされているらしいが、英語の方のニュアンスは、テレビの世界にとってはより直截(ちょくせつ)だ。
 つまり、テレビに出なくなったら忘れられる。
 でも僕は、人間の集合的な記憶はそれほど柔(やわ)ではないと信じる。

 この春去っていった国谷さんやその他の人々は確実に記憶に残る。
 かつての筑紫さんや久米宏さんや、田英夫さんやウォルター・クロンカイトのように。


2016年4月15日付け毎日新聞・東京夕刊「週刊テレビ評」=金平茂紀
記憶の中に生き続けるキャスターたち
「顔」が変わった今春に思う

http://mainichi.jp/articles/20160415/dde/012/070/015000c


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エースのスーツケース

 浅草への俳諧の道。
 帰ってヤッホー君、あわててスーツケース2個をとりだしてこれはなんのメーカーだっけ、とためつすがめつ見入っています。
 だってぇ、「世界のカバン博物館」のお姉さまとの相変わらず、頓珍漢問答:
 「エースのスーツケースって日本製とはしりませんでした。地産地消ですので、そくエースを買っていたのに、なんと自分のスーツケースはサムソナイトなんですぅ〜」
 「あの、エースはサムソナイトのスーツケースも作っていたんですよ」
 「うそぉ〜。ホントですかぁ〜」

 サムソナイト製品には「海外製サムソナイト」と「エース(株)製サムソナイト」があり、2004年末まで日本国内で店頭販売されたサムソナイト製品はエース(株)製です。
 エース(株)製サムソナイトの「修理」や「カギの紛失」、「保証」などに関しましては、エース(株)までお問い合わせください。
 エース(株)製サムソナイト製品の確認には鞄の内側(内装部分)をご確認ください。布製のタグ、またはシールのようなものに文字が書かれているものが取り付けてあります。そこに「JAPAN」、「ACE」等の文字が含まれていれば、エース(株)製サムソナイトとなります。


サムソナイト・ジャパン オフィシャルサイト
http://www.samsonite.co.jp/customer/repair_kokunai.html

 それでよくよくみれば、ヤッホー君のスーツケースは「サムソナイト製」でなく「デルセー」Delsey Paris、Made in Franceでしたぁ〜
 もう俳諧の道を歩んでいるヤッホー君、記憶はまだら模様、今晩のごちそうは「まあじの塩焼き」!

 カラー、デザイン、ディティール・・・フレンチテイストにこだわりぬくのが世界トップレベルのトラベルケースブランド、デルセーです。
 旅行鞄の領域を越えた、エレガンスと上質。
 それは、人を旅へと駆り立てるエキサイティングなファッションアイテムです。
 日本市場では「生産」「物流」「修理」をサンコー鞄(台東区柳橋1-23-4浅草橋杉浦ビル3F TEL 3864-3515)が受け持ちます。
 デルセーのソフトウェアとサンコー鞄のハードウェアを融合させた日本オリジナルモデルを作成いたします。


デルセーのコンセプト
http://delsey.co.jp/concept/index.php 

 え?じゃあ、これは、ともうひとつのスーツケースを精査したら、なんとイタリア製!
 ヤッホー君は現役のころ、愛国シュギシャじゃなく<ゴロー場リフト>なんて言ってましたもん:

 ようこそ!軽くて丈夫なスーツケースをお探しでしょうか?
 いつも荷物が多くて重量オーバーで追加料金が気になったり、重くて持ち運びに苦労した経験をお持ちの方なら当然だと思います。
 もちろん機能性は大切ですが、旅行には、もう一つ大切なものがあります。それは、あなたの気持ちが旅行前から最高にウキウキ、ワクワクするかです。
 旅行前からテンションが高いほど旅行が楽しくなると思いませんか?
 そんな気持ちにさせてくれるのがイタリア製のロンカートです。
 見た目のカッコよさ、活躍してくれそうな機能性、きっと旅行が待ち遠しくなるでしょう。
 世界150ヶ国以上で販売されている一流のブランド品をご覧ください。
 弊社はロンカートの日本代理店です。


鞄のジャーニーマン
http://www.ohg.co.jp/SHOP/702524/list.html

 海外旅行のお供と言えばスーツケース。昔風に言えば旅行カバン、トランクだ。世界初の旅行カバン専門店はパリで1854年(注)に開業したルイ・ヴィトンだとされる。
 当時はまだ馬車が主流だったが、その後移動手段が鉄道、汽船、飛行機と進化し、20世紀に入って海外旅行が一般化するとスーツケースは日常的な存在になった。日本でもよく知られているアメリカのサムソナイトが1910年、ドイツのリモワが1898年の創業で、今から100年ちょっと前ということになる。構造や機能が単純なだけに、この間の変化はそれほど大きくない。実際、軽合金製スーツケースのパイオニアとなったゼロハリバートンの製品は、50年前にデザインされたプレスラインの「ダブルリブ」の伝統を引き継き、2013年にZR-Geoシリーズとして進化させている。最大の変化は、スーツケースが「転がして運ぶもの」になったことだろう。

■ 意外に新しい「キャスター」の歴史
 スーツケースにキャスターが装備されるようになったのは、その長い歴史からみればごく最近のことだ。
 1972年にアメリカでバーナード・D・シャドウ氏が4輪付きの旅行カバンの特許を取得したが、製品としてはヒットしなかった。
 1974年にサムソナイトが「シルエット」に4輪キャスターを採用し、これが大量生産品としては世界初とされる。当時、サムソナイトは日本のエースとライセンス契約を結んでいた。東京・浅草にあるエースの「世界のカバン博物館」によれば、縦型4輪キャスターの開発には、体格的に劣る日本人に合ったスーツケースの開発という要請が背景にあったという。
 一方でシャドウ氏は、1970年代にキャスター式カバンが米国市場に受け入れられなかった理由を、軟弱で男らしくないと受け止められたことにあると分析している。

■ 素人発明家だが、空の旅のプロ
 キャスター式の発明から15年経た1987年、ノースウェスト航空のジャンボ機長ボブ・プラス氏が画期的な発明をした。
 伸び縮みするキャリーハンドルで引っ張るというスタイルだ。素人発明家だった彼は、同業の友人だけにこのスタイルのソフトスーツケースを提供していたがたちまち大評判となり、結局パイロットを辞めてトラベルプロという会社を起業してしまった。頻繁にフライトする米国航空会社のクルーが好む丈夫さが売り。一般的なスーツケースは1年保証が普通だが、トラベルプロの製品は「永久保証」が基本で、補修部品もしっかり用意されている。
 もともとスーツケースは本人ではなく、使用人やポーター(赤帽)が運ぶものだった。空の旅が中心になると、自分で運ばなければならない状況が増え、また、旅行者にも女性や高齢者が増えた。「転がし革命」は単純に技術の進歩によって起こったわけではない。

■ 新しい「軽量化革命」の時代
 現在、スーツケースの世界は、この「転がし革命」に匹敵する大きな変化のまっただ中にある。
「911」以来、米国の空港では合い鍵で検査できるTSAロック以外の鍵が掛かっている場合、破壊して調べる。
 一方、格安航空会社の進出などで航空会社の価格競争が激化し、無料で運べる荷物の条件が厳しくなってきた。重量オーバーには超過料金が課されるケースが増えたため、より軽いスーツケースのニーズが高まった。それを反映して、従来型のおよそ半分の重量の新世代のスーツケースが続々と登場している。
 今まで使ってきたスーツケースに特に不満がない人も、一度店頭で手に取ってみるといいだろう。その軽さに驚くはずだ。旅の荷物を3kg減らすより、3kg軽いスーツケースに買い換える方がはるかに簡単なのだ。
 特にTSAロック登場以前の古いスーツケースを使っている場合、新製品の動向だけでもチェックしておくべきだろう。


2014年3月18日付け朝日新聞
スーツケース 「転がし革命」と軽量化
文・ジュラ 高橋洋、取材協力:世界のカバン博物館
http://www.asahi.com/shopping/travel/SDI201403052210.html

 今度、買うときは「エース」だな、と思いつつ、ヤッホー君、生きてる間、買うことはもうないんじゃないかなぁ、ととっても弱気!
 気を強く持って、と仲間から言われているんだって……


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ハナミズキ開花

 つつがなく1日を終えること……
 これが最近のヤッホー君の最重要課題。

 4月15日金曜日の早朝、清洲橋通りの裏通り、深川江戸資料館通りへカメラをもってeちゃり。
 実は昨日、冬物のコートをクリーニングにだして仕舞おう、衣替えだと思って、近くにみつけておいたクリーニング屋さんに行ったのですが、木曜休業日だって。
 これも運か、偶然、必然……
 それで以前お世話になっていた深川江戸資料館通りのクリーニング屋さんへ久しぶりに顔をだしました。
 おかみさんがにこにこ、ヤッホー君の顔を覚えてくれていて「久しぶりね」と。
 もうここ何年か、貧乏神にとりつかれてしまい、貧民窮民難民の人民ヤッホー君、クリーニングにだすなんて贅沢をしたことがなかったのでした。
 まるで爛漫をいただいた呑み屋のおかみさんとの会話のよう。
 そんなおしゃべりを楽しんで表にでたヤッホー君、目ざとく見つけました。
 ハナミズキ並木に咲き句う赤、白、ピンク花々。
 いいな、いいな、もう春らんまんなんだね、と。
 ウメのあとはユキヤナギ、ハクモクレン、サクラ、そしてハナミズキ……

 昨日の夜間、おしっこにたったヤッホー君、つけたラジオから流れるのはもう、熊本県の地震速報のニュースばっかり。
 昨夜午後9時26分ごろ、熊本県益城町(ましきまち)で震度7の揺れを観測したって。
 町の花はウメでした。

http://www.town.mashiki.lg.jp/one_html3/pub/default.aspx?c_id=24

 被災者の寒さ、痛さ、惑いにすっかり同情し、まんじりともしないで一夜を明かした金曜日の朝は、春の青空。
 もう出なくっちゃ、あの花々をLumixミラーレスにおさめなくっちゃ、とま、こういうことがあったのでした。

 これは善徳寺墓苑前。

善徳寺前.JPG

2012-05-14 17:35:02「石仏散歩」31
シリーズ東京の寺町(2)ー江東区深川(前編)ー
http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/9d1f988ba063a3fd760d9ee238ad4ab8

 これは双葉菓子司前。

双葉前.JPG

公式サイト:
http://onkashiji-futaba.com/index.html

 帰って日めくりカレンダーをめくりました:

立派な人、偉い人もよいが、謙虚な人になることです

エース株式会社創業者新川柳作(1915−2008)

 エース(森下宏明社長、本社東京都渋谷区)は、創業者・新川柳作氏の生誕100周年、ならびにエース創業75周年の周年事業の一環として「新川柳作記念館」を、エース東京店(東京都台東区)の「世界のカバン博物館」に併設し2015年7月31日オープンした。「世界のカバン博物館」と同様に「新川柳作記念館」も無料で見学でき、東京スカイツリーを一望することができるラウンジも設置している。
 「世界のカバン博物館」は、エースの創業者の新川氏が「かばんを天職として生業を営ませて頂いた感謝の気持ちと社会の恩恵に対し、何かお返しができないものか」という思いから1975年に開館、2010年の全面リニューアルを経て、40余年にわたり世界約50か国、約550点の収蔵品を公開してきた。
 このほどこの博物館に併設オープンする「新川柳作記念館」は、新川氏の生涯とあわせ、エースが歩んできた歴史上でのエポックメイキングの数々を展示。日本のかばん業界発展にも大きく貢献した製品の開発秘話や、それに至るまでの想いを通しかばんそのものに興味をもってもらえるような展示にした。
 エースでは、この「新川柳作記念館」ならびに「世界のカバン博物館」は学校教育の一環として課外活動や社会科見学にも利用できるものとしており、台東区の産業の一つでもある皮革産業の産業振興への一助になればと考えている。

▽ ース創業者・新川柳作氏について
・1915年、石川県松任市(現・白山市)に生まれる。
・1932年に大阪船場の株式会社加藤忠商店に入社し、生涯の生業となるかばんとの出逢いを果たす。かばんを通して商売の基礎を体得し、その後1940年に独立。かばん製造卸業を開業したのち、1950年に株式会社新川柳商店(現在のエース株式会社)を設立。エースグループの社長、会長を歴任する。
・1988年にエースグループの相談役に就任。
・2008年1月没。
・その生涯のうち1976年に藍綬褒章、1996年に勲四等瑞宝章を受賞。
・1979年以降の中国進出に伴う親交から1997年には「上海市栄誉市民」の称号を受賞。


2015年9月20日投稿、WEB中日フォーラム
新川柳作記念館開館 <エース> 創業者の意思を後世に
http://www.chunichi-forum.com/

 そうなんです。ヤッホー君の俳諧の道は浅草の「新川柳作記念館」にも。
 そこでいただいたのが日めくり「こころのふるさと名言集」、大事に使わせていただいて日ごと夜ごと、肝にめいじているんだって。



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2016年04月14日

武田砂鉄

 いつもたちどまっては、あんぐりと口をあけてしまうヤッホー君。
 いつも他人の言葉のひとつひとつに、あたまを抱えるヤッホー君。
 いつも仕様もないことにこだわって、空気が読めないヤッホー君。
 ま、性分、性格だろうからそのまんまでいいのかも、ヤッホー君。

 武田砂鉄『紋切型(もんきりがた)社会』(朝日出版社、2015年4月、注1)のはじまりぃ〜はじまりぃ。

 前書きのたとえ話がさえている。
 ボウリング場に行くと、十ポンドと十五ポンドの球のどちらが良いか選ばされる。自分に合うのは十二ポンドなのに「このどちらかで」と求められる。そこで素直に二者択一に委ねてしまう。それが「いまの社会」と喝破する。
 「あらゆる選択肢が自分の側に用意されているのにそれを自分から放棄してしまう」。そんな社会だと思う。

 「育ててくれてありがとう」「若い人は、本当の貧しさを知らない」「国益を損なうことになる」…。
 ちまたで繰り返されるこんなフレーズをたぐって、背後に見え隠れする日本社会の病理を考察した。
 誰かのつくった言葉に頼ることで、私たちは知らず知らず、不用意に、自分たちの本当の気持ちを紡ぐ機会を捨てているのではないか。そんな問題提起である。

 「言葉は社会を形成します。だから言葉に注目したい。でも今の世の中って、言葉の存在があまりにも軽いんじゃないか」。執筆の背景にあるのは危機感だ。

 「この一年、政治家の失言が日替わりのように放たれているのに、世の中はすぐにそれに慣れてしまう。それについてごにょごにょ言っていると、『またマス“ゴミ”はさまつな議論ばかりで、本質をよけようとしている』なんて言われてしまう。だけど政治家は言葉の仕事でしょう

 報じる側も報じる側で、ちょっと行儀が良すぎで物足りない。昨年2015年7月、衆院本会議で強行採決された安保関連法案で、報道によると、自民党などから「採決後の三連休を挟めば国民も忘れる」という声があがったのは、印象的だった。

 「安保の前にも、秘密保護法や原発事故があった。この五年くらいで大きな山が三つも四つもあった。そのたびにわれわれは怒ったのに、法案が通過したりすると、引き下がってしまう。『まだやってんの』って言われてもいいじゃないですか、追及しつづければ。メディアも個々の書き手も責任は大きい

 武田さんは現代の言論について「批評性を失った」と嘆く。確かに、SNSの発達で、ウェブ上では、自分と同じ意見には「いいね」で応え、批判はブロックする状況が生まれた。空気を読んで、いつの間にか相手の考えに寄せていく自分に気付くことはないか。
。。。
 武田さんはきっとこんなふうにヌルヌルして緩い社会を変えたいと思っている。そのずばりとした語り口で。それは鋭くて遠慮がない分、時として攻撃的にも聞こえてくるのだが「いまの僕、めちゃ辛口の人みたいに思われてるんですけど、以前の社会なら普通のことだと思うんですよね」。

 大学卒業後に入社した出版社を9年半で辞め、2014年に独立した。
 自らを「拗(す)ね者」と呼び、記者として信じる道を愚直に貫いたジャーナリストの本田靖春さん(1933-2004、注2)を敬愛する。
 「本田さんは人と群れず自分のスタイルを貫いた。おこがましいけど、僕も、本当に面倒くさい奴(やつ)だな、と思われるような仕事がしたい

 砂鉄は、ペンネームである。磁石を使って砂場で砂鉄を吸い寄せると、集める時は楽しいけれど、剥がそうとするとくっついて面倒くさい。しつこく、ねちねち、行儀悪く。そんな書き手の登場である。


2016年3月19日付け東京新聞「土曜訪問」(森本智之)
群れず 自分の言葉で 「いまの社会」を痛快に斬る 武田砂鉄さん(1982年生まれ、ライター)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2016031902000234.html

 今、「共感」や「共有」できることを、あらゆる価値の上位におく人が増えてきましたよね。
 わかるわかる、あるある、みたいな感じ。これはAI的な社会とリンクしやすい状況なのでしょう。

― 日本という国や日本人の「らしさ」を語ることについては、どう思いますか。

 実は、いま日本で一番こじつけ力があるのは安倍晋三首相だと思っています。
 安倍さんが年末に内外情勢調査会で行ったスピーチには、1年の話題が全部出てきました。
 日本人がノーベル賞をとったから、同じ日本人として誇らしい。羽生結弦選手が世界最高得点を出した、だから日本も世界へ。ドラマ「下町ロケット」の話からいきなり日本のイノベーションの話へ。
 なんでももりこんでくる。
 実際には日本政治と羽生選手とは距離があるのですが、羽生選手を自分たちの側に引き寄せていきます。
 安倍話法ですね。

 私が文章を書くときに「こじつけ」をしているとお話ししましたが、それは本棚の本をたよりにするといった、細い線をつなぐものです。
 安倍話法は、何でもいれられる「日本」という最大のでかい袋を用意します。歴史も、自分たちのやりたいことも、全部袋の中に入れられます。

 でもその袋をふくらませたら、その袋の表面や外で暮らしていた人たちは、どんどん追いやられます。
 はみ出し者やはぐれ者がつくられやすい。
 同時に「安倍さんがこんなにでっかい袋を用意してくださっているのに、何でお前は『日本はだめだ』というんだ」という意見も出てくる。

― この袋は嫌だ、「反対だ」と言うことに、オリジナリティーはあると思いますか。

 「物を申すなら対案を出せ」という主張は、安倍首相や橋下徹氏に共通するものです。
 対案を用意しないと物申しにいけない、と考えるべきではありません。
 本来、物事に反論するときに、別の要素を用意しなくたって構いません。
 例えば目の前に腐ったリンゴがあるならば、別のリンゴを出す前に「腐っているのでは」と伝えることを優先すべきですよね。

 安保法制にしても、明らかに憲法違反だという時に、なぜ対案を出さないといけないのか。
 物申した結果として取り下げられたのならば、その後で、次の道を示すことは必要でしょうが、最初の時点で、セットで出さないといけない、という感覚は分かりません。

 安保法に反対する学生たちの団体SEALDsが大きなムーブメントを起こしたのは、対案を出したからではなく、憤りを持続させたからです。
 原発事故で問題意識を持ち、秘密保護法では反対団体「SASPL」を作り、安保でSEALDsを作った。
 対案ではなく、怒りをぶつけ続けたことに意味がありました。

― ここでも反復が大事なのですね。人には、変わることと、変わらないことがあります。

 人の考えは流動しています。
 1年前とは考えていたことが変わりますよね。好きだった人を嫌いになったり、話したことのなかった人と仲良くなったりする。自分も動いているから、アマゾンの「おすすめ」のように流れを管理しようとする働きには従いたくない。来年には私がすっかり右傾化している可能性だってある。ぐるぐる回転しながら歩みを進めている。世の中の情報、あるいはそのヒエラルキーも回転している。互いに回りながら、その先へ進んでいきます。

 いろんな人や出来事と接触するとガリガリ削られて変わっていくけれど、変わらない部分もあります。
 感情だったり記憶だったり。
 反復することで、それがどんどん明確になる。
 年を重ねれば意固地になるのかもしれませんが、それが個性になっていくのだと思います。


2016年1月6日22時43分更新、朝日新聞デジタル(聞き手・高重治香、神庭亮介)
「オリジナリティーとは反復力」 ライター・武田砂鉄氏
http://digital.asahi.com/articles/ASJ136JLXJ13UCVL009.html?rm=1351

 デフォルト、初期設定、そういえばヤッホー君のこのパソコン、お店で買ったときの状態に戻しますと言われ、2月2日初期化しておりますぅ〜

「僕はこう思う」の精査は必要か
 年が経つにつれ、「立ち上がった」や「前を向いている」という状況が知らぬ間にデフォルトになってきた。
 マスコミが暗めの伝え方をすると、“マスゴミ”が風評被害を作り出すといった声が寄り集まる。
 メディアは恒例行事のようにこの時期だけ被災地に入り、「まだまだそうはいっても」の声を拾い上げて、暗めの編集で興味を惹き付けるが、「こういうときだけ」という声がかぶさる。

 一つの最適解を探そうとすること自体が健全だと思えない。
 震災から5年の日、一日中パソコンの前で原稿と向き合っていたが、あの数分だけを引っこ抜いても、児童館から聞こえる子どもたちが黙祷に興奮している様子を微笑ましく思い、追悼中に掃除機をかけ始めた住民に対して憤り、その後理解し、直後に家にやってきた公明党のアンケート「小さな声を、聴く力。」に気分を害した。
 その夜には、「帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます」と「復興は確実に前進しています」を比べ、テレビを見て、皆に絶賛されていた「こういう撮り方は、地元の人はやめてくれと言っている」にどうも納得がいかなかった。
 半日で頭がこれだけ揺さぶられているわけだ。

 「こういう態度で臨むべきではないか」というサンプルが、影響力を持つ人から提示されると、どうしてもそっちに列を成してしまう。
 前を向いている人もいれば、前を向けない人もいる。
 楽しそうに黙祷する子供がいれば、いつも通り掃除機をかける人がいる。
 この選択肢、それぞれが正しい。
 「これはおかしい、僕はこう思う」の精度や地力が、「うーん、それはどうかな?」と問われるようなムードを、歓待すべきではないと思う。
 悲しみをとどめるために、戸惑ったままではいけないのだろうか。
 その戸惑いは「小さな声を、聴く力。」にも繋がると思っている。


Posted on 2016-03-17 晶文社
武田砂鉄、日本の「気配」
第6回 悲しみをとどめる

http://s-scrap.com/807

(注1)http://www.asahipress.com/extra/monkiri/

(注2)「これを書き終えるまで、死なない、死ねない――」(本田靖春)
『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社文庫、2007年)
『誘拐』(ちくま文庫)、2016年2月14日付け朝日新聞デジタル「売れてる本」書評は武田砂鉄。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12209027.html?rm=150



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2016年04月13日

三吉橋

 御前山の翌日は、月曜日でした。
 空気はひんやりしていましたが、お日さまは「春」!
 eチャリを飛ばして人形町交差点から昭和通りにでました。
 日本橋郵便局から鍛冶橋通りを超えて銀座柳通りへ。
 三吉橋、築地橋、そして佃大橋で大川を越えて月島、それから相生橋を越えて戻ってくる一周コース!

 みよしばし、かたわらに三島由紀夫の文学碑が……

 中央区は昭和30年代半ばからその街相を一変させました。
 1964(昭和39)年10月に催される東京オリンピック開催に際し、首都高速道路建設のため、河川の埋め立てが施工されたからです。
 築地川も1962(昭和37)年に埋め立てられました。

 しかし、三島由紀夫(1925〜1970)が1956(昭和31)年末に発表した佳作『橋づくし』により、往時のこの周辺の風情を窺い知ることができます。
 この短編小説では、中央区役所(建て替え以前の)、聖路加病院、築地本願寺などの建物が描写されていますが、その他の風景及び風俗、風習は現在とはまったく装いを異にしています。

 物語は、4人の女性が願掛けで築地川に架かる7つの橋を支障なく無事渡りきれれば各自その願が叶う、というサスペンス仕立ての構成になっています。
 渡らなければならない橋は7つとなっていますが、実際は、三吉橋、築地橋、入船橋、暁橋、堺橋(この橋は現在ありません)、備前橋の6つになります。
 しかし、ここ三吉橋が三叉橋になっているため、コースを変えて2度渡ることにより、2つ橋を渡ったと勘定します。


2009年9月9日 09:00更新、中央区観光協会特派員ブログ
「三吉橋」碑〜三島由紀夫『橋づくし』〜
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2009/09/post-157.html

 このブログで紹介されているのが映画『流れる』(東宝、成瀬巳喜夫監督作品、1931年):
https://www.youtube.com/watch?v=iiqZC5zpTf0

 確かに当時、昭和のトウキョウの大川、橋、情景が描かれていますね(原作;幸田文、脚本:田中澄江)。
 
 1970年、三島由紀夫の最後の檄文に目をみはったヤッホー君:

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?
 アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。
 あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは4年待つた。最後の1年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。
 共に起つて義のために共に死ぬのだ。


 これは、桶谷秀昭(1932年生まれ)『日本人の遺訓』(文春新書、2006年3月)に記載されていました!

 人のまさに死なんとする、その言や善し(論語)。この一冊は、34人の日本人が後世に言い残した「最後の言葉の語録」である。
 遺訓は遺書ではない。形式の制約はなく、特定の個人に宛(あ)てられる文書でもない。多くは生涯ついに飼い慣らせなかったエゴの発話でありながら、なぜだか不思議な無私性がにじみ出る。
 時代的には、『古事記』のヤマトタケルの「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば」に始まって三島由紀夫の檄文(げきぶん)に終わり、人選としては、特攻隊中尉の遺書から変人永井荷風の日記に及ぶまでの幅がある。顔ぶれはすべて著者の好みで選(よ)り抜かれ、和泉式部に親鸞が続き、武田信玄と芭蕉が隣り合わせ、乃木大将と夏目漱石が連接するなど、各人の魂の孤独な旋律が雅楽のように多声法的に響き交わし、天来の楽曲を奏でる趣だ。
 2000年の歴史からわずか34顆(か)の珠玉を拾い出すのは容易な業ではない。
 著者は260枚を書き下ろすために5年の歳月を要したという。
 文章の結晶度の高さに努力のありかが見える。各章は古典的な歌物語の様式をそなえている。先人の言葉はウタであり、著者の解説はそのちょうど詞書(ことばがき)に当たる。めいめいの叙情的な頂点に向かってまっすぐ登りつめてゆく個々人の生命の時間を緻密(ちみつ)に語りこめるのである。
 本書で紹介される遺訓は決して悟り澄ました名言ではなく、むしろ執着や迷妄や動揺の跡をとどめているからこそ非凡だったといえる。
 たしかに「少数の天才の最後の言葉は、多数の声なき生活人の最後の言葉と連続してゐる」のだ。
 著者は西郷隆盛の遺戒の教訓性にではなく、この人物の「巨大な感情量」に感動する。
 太宰治を論じては、その死後、「日本の現代文学から、含羞(がんしゅう)が急速に失はれていつた」としめくくる。
 日常の言葉が万事につけて軽くなってきた昨今、人々が求めているのは力強く心を打つ言葉である。
 著者の浪漫人の風骨は、「品格」といわずに品格への渇きを満たしてくれる文章が存在することをおのずと示している。


2006年5月7日掲載、朝日新聞【書評】
人のまさに死なんとする、その言やよし
[評者]野口武彦(文芸評論家)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072701367.html

 三島由紀夫について桶谷はこんなふうに評しています:

 この檄文は、平岡公威でも縦の会でもない、三島由紀夫の署名になつてゐる。
 文学者三島由紀夫が、最後の行動人と一体になつている。
 多彩な絢爛たる多くの小説を生みつづけてきた文学者が、言葉を寄せ付けぬ悲劇に参加するところに死に場所を求めた。

(同書、209頁、注)

 夢智蒙昧、夢学文盲のヤッホー君、
 言葉を寄せつけないんじゃなく、
 どもってもいい、まともなこと言えなくってもいい、
 正直にことばを発しつづけていくことで、
 日劇に参加しないよう、そして生き場所を求めていこうかな、
 とeチャリをしまいこんだのでした。

 「正直に」、ということはつまり、
 大勢に影響されない、同調しない、群れない、
 う〜ん、自分の脳みそで感じたことを、自由にことばにすること、
 ことばにできる自由を手放さないってことかな。

(注)10年後は「ニュースピーク」。ヤッホー君のお慕いしておられるお医者さまは今日4月13日:

 今月4月1日には、政府は核兵器の保持、使用が憲法に抵触しないと、答弁書で述べたばかり(「憲法は核使用禁じず、必要最小限度内なら」-政府答弁書-2016年4月1日(金)11時54分時事通信配信)。
 その舌の乾かぬうちに、この広島宣言を出すことに何も抵抗がないのか。
 我が国が「自衛のために」核兵器を持ち、使用するという政府の方針にもあきれるが、そう言っておきながら核軍縮を進めるという偽善、一体何なのだろうか。
 福島第一原発がコントロールされていると国際社会でしゃあしゃあと言ってのける欺瞞と、同じ類の
である。
 核軍縮等は外相会議での外交辞令程度に考えているのだろう。
 確かなことは、核兵器を保有し、使用するという安倍内閣の意思だ。
 安倍首相が核軍縮という時には、核兵器保持・使用を意味し、平和という時には、戦争を意味するということだ。



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2016年04月12日

ホモルーデンス

 4月12日火曜日、どうしても気になるイマ風のご宣託!
 「ムカシのことってさ、済んだことだからさ、もう、いちいちほじくり返さなくってもいいんだよ」
 でもね、淋しくて言うんじゃないだけど、やっぱり気になります、「東大話法」の安富歩先生:

北島三郎(1936年生まれ)で「帰ろかな」(作詞:永六輔、作編曲:中村八大、1965年):
https://www.youtube.com/watch?v=AmUXHQ6SHlg

 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をお読みください:
☆ 2013年6月4日「大隈庭園」
☆ 2013年12月21日「犬飯」
☆ 2014年1月25日「栗林忠男」
☆ 2014年12月2日「マック赤坂」

 あの〜残り15分ぐらいになりましたけれども、その間、私がしゃべらせてもらいたいと思います。えーと、私は東京大学の安富と申します。え〜一応、東京大学で教授をやっているんですけれども、なぜこんな所に応援に来ているのかということをちょっとご説明したいと思います。
 皆さん、今日のですね、高島屋の前の、維新の会の演説の様子をご覧になりましたか。
 橋下さんはニコニコしながらしゃべっていたかもしれないけれども、回りにどんな人が立っていたんですか。私はものすごく怖かったです。その背後に、彼らのですね、背後に秘められたいる暴力性をひしひしと感じます。それはどういう暴力なのか、法律を破ったりして人をぶん殴ったりする、そういう暴力じゃないんですよ。
 そういうものをうまく使って追い込んでいく、暴力です。そういう暴力に一歩一歩、私達が追い詰められているっていうこと。それが皆さんがですね、みなさんが毎日暮らしてて、何か気が重いとか、うっとおしいとか、空が鉛色にみえるとか、そういうことの背後には、見えない暴力、見えないようにする力が働いているんです。それが、私達にですね、毎日の仕事とか、毎日のご飯とか、毎日の家族との触れ合いとか、そういうものを奪っていくんです。
 そういう力、見えない力によって、毎日うっとおしい、だけどそれは、我慢しなければならないといけない。なぜなら、おれは駄目な人間だからだ、そういう風に思い込まされている。そういう力をですね、私はああいう場面でひしひしと感じるんです。
 そこで、それに対して少しでも反抗しようとしたら、そこに本当の暴力が振りかざされます。そうやって人間をですね、追い込んで、思うように使って、はみ出す奴は蹴落とす。そういうことを続けていると、世の中、滅茶苦茶になります。見た面はちゃんとしているかもしれないけれども、滅茶苦茶になっていきます。
 そんなときにどうやって戦っていけばいいのか、、、

 日本は、そういう露骨な暴力、そういう目に見えるような暴力っていうのがあまりない社会なので、私達はまるで暴力が振るわれていないように思い込んでいますが、見ていると違うんです!
 皆んな暴力を振るわれているんです。
 例えば、受験勉強とか、東大に入らなかったやつは全員駄目な奴なんだという国なんです、この国は。
 そうやって、劣等感植え付けて、東大出たようなやつが、権力握って、決まり作って、押し付けてきます。

 そうやって、毎日、皆んな段々息が苦しくなっていくんです。
 それを打ち破らないと、楽しい生活なんてできないんですよ。そういうときにどうやればいいってことを、マックさんは教えてくれています。
 嫌なやつみたらスマイルです。
 維新の会の怖いおっちゃんをみたら、スマイルしてください。
 警察の怖いおっちゃんみたら、スマイルして下さい。
 NHKの集金のおっちゃん来たら、スマイルして下さい。
 いいですか、そうやって、楽しくなって繋がっていくってことだけが、唯一のですね、私達の力なんですよ。
 それを知らん顔して、お互い知らんぷりして、、、暇つぶししていたら駄目なんです。そうじゃなくて、本気で遊びましょう。本気であそばなんといかんのです。
 選挙は本来遊びです。
 これはオランダのホイジンガーという、ものすごい偉い歴史家、思想家、歴史家がいました。彼は1927年、20年代後半に、ファシズムがどんどん世界中を覆っていくそのすごい嫌な雰囲気を見てですね、「ホモルーデンス」という本を書きました。その本は、、、「ホモ・サピエンスではなく」、知恵のある人間なんて糞なもんじゃないんですよ。「ホモルーデンス」とは、遊ぶ人間という意味です。
 「文明は遊び」それはホイジンガーの結論でした。彼の主張でした。実は、政治も、法律も、経済も、学問も、みんな遊びなんだ。人間が真剣に楽しく、遊ぶ時に初めて本当に文明が生まれるんだ。
 そうじゃなくて生真面目、生真面目さというのは、遊びを破壊する。遊びを破壊するのは、それは文明を破壊することだと言いました。
 人間は遊ばないと駄目なんです。
 生真面目にやったら戦争になるんですよ。
 生真面目さというのは、糞真面目な顔をして、都構想だとかなんかといっておしかけてくるのは、やがてその暴力が積み重なっていったら、社会が壊れて、やけくそになって戦争しちゃうんです。。。

 その戦争はもう地球を破壊してしまう戦争です。
 そんな一歩に進んだら、大変なことになります。
 ところが、日本は今一歩一歩そういうアホなことに進んでいっています。

 皆さん真面目にやったら駄目ですよ。あそばなあかんのです。スマイルです。
 マックさんは政治という場に遊びを持ち込んでくれたんです。彼はいったいどんだけ、カネを使いましたか。既に供託金だけで3000万円すってるんです。今回の選挙も240万円。1%とらへんかったら、また彼は240万円すります(注:10%です)。どうぞ、1票でも多く投票して下さい。そうしたら、240万円帰ってきたら、彼はまたどっかで選挙に出ます。そのときにですね、みんなで一緒に遊びましょう。
 この公職選挙法があるのですから、選挙の時は好きなことをやっていいんです。
 好きなこと言うていいんです。
 そういう風な場を作ってくれる人に、知らん顔するんじゃなくて、冷たい顔向けるんじゃなくて、白い目向けるのではなくて、一緒に入って遊んで下さい。
 そのためにですね、私達は選挙という制度をもっているんですよ。
 政治に参加する人権というものをもっているんですよ。

 なんのためにもっているんですか、言われた通り、権力も知らずに一票投票しにいって何の意味があるんですか。違います。
 選挙の時には、皆さん楽しく遊んで下さい。そういう場を作っているんですから、法律で守っているんですから、「ホモルーデンス」遊ぶ人間にならないと、「ホモルーデンス」にならないと、私達は文明を守れなんですよ。
 だから、マックさんを、私は彼の政策とかをそういうこと抜きにして、スマイル、すいません。糞真面目に話して、そのために応援に来ました。今日昼に、マックさんのことを思っていて、考えていて、歌を作りました。さっき流しましたが、もう一度流します。マックという歌という作品です。


2014-03-22 22:14:21わんわんらっぱー@アメブロ
【大阪市長選挙】安富歩教授、マック赤坂候補渾身の応援演説!
http://ameblo.jp/takaomorimoto/entry-11802254151.html

 最近、「星の王子さま」の解釈は、こんなふうに:

安冨歩 星の王子さま The Little Prince
https://www.youtube.com/watch?v=qKTqobuU6Lw

 この度、安冨先生の『誰が星の王子さまを殺したのか』を読んだところ、もっと鋭い、深い理解があることを知りました。
 この物語は単なる優しい男の悲劇ではなかったのです。
 簡単にいうと、安冨先生は、王子さまはバラからモラル・ハラスメントを受けていて、それが嫌で小さな星から逃げ出して、星めぐりのすえ、ようやく地球にやってきたときに、友達になったキツネからハラスメントの二次被害を受け、最終的に、バラについて「自分は責任がある」などと思わせられて、精神的に混乱して、自らを毒ヘビに噛ませて自殺した、というのです。

 安冨先生によると、モラル・ハラスメントとは、単に、ひどいことを相手に言って精神的な暴力・虐待を加えることではありません。
 よく小さい子供に対して、親が「自分が叱っているのはあなたが悪いからだ。あなたのために叱っているのだ」などと言って、実は親が子供を虐待しているのに、子供(被害者)の方では自分が悪いと思い込んでいる場合のように、被害者側に悪いと思わせる特徴があるとのことです。
 ドメスティック・バイオレンス(DV)の場合は、肉体的な暴力・虐待が伴うので、モラル・ハラスメント(物理的でないハラスメントの意味)ではありませんが、被害者(多くの場合は女性側)の心の中では「相手が暴力をふるう原因の一端は自分にある」などと思っており、また加害者(多くの場合は男性側)側もそのように思わせるような言動をしているということで、被害者側の心象としては、モラル・ハラスメントと同じことが多いらしいです。

 また、モラル・ハラスメントのもう一つの特徴として、被害者自身にもモラル・ハラスメントを受けていることがわからないように巧妙に行われるというところがあり(ハラスメントの隠ぺい)、そのために、加害者側は、脅し、すかし、なだめ等々、さまざまな手段を使い、ときには「誰にもいっちゃだめ」というふうに情報統制をすることがあるとのことなのです。

 で、前述のとおり、安冨先生は、王子さまはバラからモラル・ハラスメントを受けていたというのですが、その論旨はかなり説得的です。
 たしかに、王子さまは「一輪の花があってね・・ぼくが思うに、彼女はぼくを飼いならした・・」と言っており、王子さまがバラを飼いならしたとは言っていないのです。それなのに、キツネは、王子さまに「本質的なものは何であれ、目には見えない」「きみのバラのためにきみが無駄にした時間のゆえに、きみのバラはそんなにも大切なんだ」とか、「きみは忘れてはならない。きみが飼いならしたものに対しては、きみは永遠に責任を負うことになる。きみは、きみのバラに責任がある・・」などと論理のすり替えをして話すのです。
 王子さまは、キツネの説教を聞いて、すっかり混乱して、「ぼくは、ぼくのバラに責任がある・・」などと立ちすくむのです。

 この描写について、安冨先生は、夫のDVで目の周りに痣を作って、必死の思いで警察に避難して来た女性が、警察官から「目に見えるものは、本質ではない」(夫の暴力の背後にある愛情を心で受け止めなさい)とか「あなたが夫のために時間を無駄にすればするほど(殴られれば殴られるほど)、夫はあなたにとって大切になる」などと言われているのと同じで、強烈なハラスメントの二次被害だ、というのです。

 ところで、サン=テグジュペリ自身は、この物語をどういうつもりで書いたのでしょう?
 おそらく、この本でも書かれていますが、私も、彼自身は、モラル・ハラスメントのことなど何も意識しないで、子供の純粋な気持ちや、大事なものは目に見えない、というような価値観を強調したくて書いたのだと思います。
 ところが(おそらく奥さんとの関係で悩んでいたとのことですので)そこに無意識的にモラル・ハラスメントの物語が隠れこんでしまった。
 そこがこの物語が傑作であるゆえんとのことです。
 興味のある方は是非!


2015年5月12日 飛田&パートナーズ法律事務所ブログ
書評:安冨渉著『誰が星の王子さまを殺したのか モラル・ハラスメントの罠』(明石書店、2014年8月)
http://blog.tplo.jp/archives/43998823.html

 あわせて安富歩先生のパートナー、大阪大学准教授深尾葉子先生(1963年生まれ)の話題作2冊もぜひ:

 この本を専業主婦批判と読む人はもう少なくなったと思いますが、それゆえにかえってこの本の重要性は増してきたように思います。

 言うまでもありませんが、太平洋戦争終了後、日本の「民主主義」はアメリカによって刷り込まれてきました。これが「正義」だ、こうしていれば国民は幸せなはずだという価値観は彼らによって植えつけられたのです。言い換えると、日本はアメリカによって「箍(たが)」をはめられたわけです。自分たちがどう思っているかではなく、アメリカが唱える価値観を無批判にもてはやす。(本書より)

 タガメ女とは何かは本文中の「タガメ女度チェックシート」でわかると思いますが、一昔前のアメリカのホームドラマに描かれたような、家庭を渇望してやまない女性のことです。例として『奥様は魔女』(もちろんアメリカ版です)があげられています。郊外の、できれば庭付き一戸建てに住み、安定した生活で趣味や楽しみ(ディズニーランドに行くというようなもの)を満喫するためにカエル男≠捕食しようとしている女性と、ひとまずはいっておきます。狙われたカエル男≠ェ被害者のように思えるかもしれませんが、もちろん違います。相補的な関係にあります。カエル男度チェックシートもありますのでチェックしてみてはどうでしょうか。

 深尾さんの問題提起は、なぜこのような型どおりの幸福感≠ェ常識、あるいは一般化されてきたかということにあります。それを深尾さんは「魂の植民地化」によるものだといっています。


 本来自由であるはずの魂が、人間社会のさまざまな慣習によって呪縛され、型にはめられて本来の自分を発揮できない状態。まさしく「箍」をはめられた状態のことなのです。政治、経済、産業などの分野における現在の閉塞感は、まさしくその代表的な形での表れですが、じつは最も深刻だったのが、日本人の価値観だったのではないかと私は思います。(本書より)

 敗戦とともに圧倒的な文化力で日本に浸透してきたアメリカ=Aその「アメリカ的幸福」のイメージが輸入されて、「外来種である『エプロンをした専業主婦』像と田んぼに住む日本の田亀がミックスした混血種」であるタガメ女が生まれました。

 ある意味では彼女たちはアメリカ化した日本を象徴しているのかもしれません。けれどそれをもたらせたアメリカはどうなっているのでしょうか……


 価値観を世界中に押しつけたことの報復としてテロの標的となり、国内でも「箍」をはめられた息苦しさから多くの若者が銃で殺し合い、多くの夫婦がかりそめの幸せに辟易(へきえき)として離婚する。アメリカ的価値観がガラガラと崩れ落ちそうになっている今、その「箍」によって拡大成長をしてきた「タガメ女・カエル男システム」も破綻しないわけがないのです。(本書より)

 アメリカ的幸福はアメリカの自己肯定、自己主張によって自ら隘路(あいろ)に入っていったのではないかと思います。そしてそれを映し出したように、アメリカ的幸福を出発点として一般化した「タガメ女・カエル男システム」も行き詰まり、日本に閉塞感をもたらしているものとなっているのです。
 専業主婦モデルは雇用形態の劣悪化で、ごく一部の階層にしか実現できないようになっています。この隘路ゆえにタガメ女♂サはより激しくなっているとも思えます。あるいは、非タガメ女♂サが新しい道を開かせるかもしれないのに、「タガメ女・カエル男システム」の信奉者からは脱落者とみなされているのかもしれません。
 それが生きづらい日本を作っているのです。
 「魂の植民地化」から逃れる道はひとつしかありません。
 それは「ひとりひとりが自分の頭で考えて、自分の魂と向き合って正直に生きる」ことだ、と深尾さんは記しています。
 もちろん常識化されたものから自分を解放するということは簡単ではありません。
 けれど「約束によって縛る、王国の支配手段」である「箍」から解放されるには自らが気づかなければならないことも確かです。
 しかもこの「植民地化」は家庭というものだけにあるのではありません。
 それもまたこの本が教えてくれたものでした。
 続編の『日本の社会を埋め尽くすカエル男の末路』も読んでみたくなります。


2016.04.09「講談社BOOK倶楽部」 ‎
【専業主婦を問い直す】日米の混血「タガメ女」は幸せか?
『日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体』(深尾葉子)
(レビュアー野中幸宏)
http://news.kodansha.co.jp/20160409_b02


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2016年04月11日

外苑西通り

 昨日10日日曜日の御前山山行。
 その日のために心こめ心がけたのが、なんと俳諧の道。
 少しでも足腰を鍛え、仲間の足を引っ張らないように。
 ヤッホー君の足は、JR千駄ヶ谷駅で降り歩きました。
 あれは、4月8日金曜日のことのような気がしてます。
 「外苑西通り」から「新宿御苑」の塀沿いに一周するかな、と……

 「沖田総司終焉の地」パネルが:

今戸神社(台東区今戸1-5-22)
 沖田総司終焉の地は、今戸神社とされ、境内には「沖田総司終焉之地」の碑があります。
 新選組隊士の永倉新八の「同志連名記」によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは今戸神社に収容されたとあります。


台東区の公式観光情報サイト
http://taitonavi.jp/enjoy_detail.html?no=275

 しかし、ここにもあったのです、千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅跡。
 
 戊辰戦役に倒幕に勢いを得た薩長軍に対して、幕府も崩れ、最前戦に居た新選組も西から引き揚げる。
 1868(慶応4)年1月大坂城から退去した新選組は富士山丸で品川に入港する。
 近藤と沖田は介護役の隊士と神田和泉橋の医学所に入り、その後、稍福寺の野戦病院に運ばれ 、松本良順の手当てを受けたと思われる。
 沖田の謎めいた史実に、終焉の地も、浅草の今戸節とここ千駄ヶ谷(明治の半ば迄は南豊島郡大字千駄ヶ谷村、現新宿区大京町)説がある。
 千駄ヶ谷の当地は雑木林に覆われた「御焔焇(えんしょう)蔵」といって幕府の火薬庫、西側には内藤駿河の守の広大な屋敷、南側は雑木林、新政府軍から探索を受けても、隠れ場所はいくらでもあった。


2012年4月2日(月)幕末掲示板
http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1b78.html

 「内藤駿河の守の広大な屋敷」?そうなんです、ヤッホー君のあるかないか小さな目がパチクリ:

 内藤清成の駿馬の伝説にかかわる石碑である。
 徳川家康は江戸入府後、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と語ったという。
 清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったので、大樫の下に埋めたと伝えられる。
 後に内藤家の森林の管理役となった中家休昌と木下正敷が、1816(文化13)年8月に樫の古木の跡に塚を造り、駿馬塚の碑を建てた。
 碑はその後、1872(明治5)年9月に現在地に移されたものである。
1993(平成5)年11月東京都新宿区教育委員会


駿馬塚(多武峯内藤神社)内藤町1
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/collection/shinjuku-collection/rekishishiryo/485/

 短足の歩をさらに進めると「真崎鉛筆製造所跡」が:

 三菱鉛筆株式会社の礎となった「眞崎鉛筆製造所」は創業者眞崎仁六により、1887(明治20)年に内藤新宿(現:新宿区内藤町)にて創業されました。
 1878(明治11)年にパリで行なわれた万博で鉛筆というものを初めて見た眞崎仁六は、その感動をずっと携えたまま、さまざまな研究と努力を重ね、日本初の鉛筆工業生産に成功しました。
 数々の失敗を重ね、試行錯誤を繰り返しながら、1901(明治34)年に、「逓信省(現:総務省)御用品」として採用されたのが『局用鉛筆』です。
 このときの感動を後世にまで残したいと考えた眞崎仁六は、記念の商標を登録するという考えに辿り着きました。
 『局用鉛筆』には一号、二号、三号という3種類の硬度(芯の濃さ)があったこと、また、これに合わせて眞崎家の家紋である「三鱗(みつうろこ)」を図案化し、“三菱”というマークを考案しました。
 この“三菱”マークと「三菱」という商標は、1903(明治36)年に商標登録されました。
 三菱財閥の商標登録に先立つこと10年になります。
 “三菱”マークは、創業者の誇りや伝統とともに、現在に受け継がれています。


三菱鉛筆の商標について
http://www.mpuni.co.jp/company/ci.html

 そしてヤッホー君、人だかりを見つけてなんだ、かんだ、そうだ、と近づいてみますと:

岡田有希子(1967-1986)で「くちびるNetwork」(作詞: Seiko 作曲:坂本龍一、1986年1月):
https://www.youtube.com/watch?v=VxoCLokOyOc&nohtml5=False

 伝説のアイドル・岡田有希子が旅立ってから、4月8日でちょうど30年となる。少しウェーブのかかった髪と笑顔からのぞく白い歯、そしてキラキラ輝く大きな目──。アイドル史に瑞々しい記憶を残し、語り継がれるユッコ。彼女はなぜ、今なお愛され続けるのか。

 ポニーキャニオンの名プロデューサーだった故・渡辺有三の指示のもと、著名なアレンジャーも交えて進んだ岡田のプロジェクトは、作詞家・作曲家としては駆けだしに近かった竹内まりやにとっても貴重な体験だった。

「後年、有三さんとお会いするたびに、有希子ちゃんとのレコーディングの思い出話をしていました。私が彼女のデビュー3部作をセルフカバーする日を楽しみにしてくださっていた。いつか実現させたいと思っている今日この頃です」

 岡田は1984年のレコード大賞で、最優秀新人賞を受賞した。同賞を争ったひとりに、岡田と同じ4月にソロデビューした1歳下の荻野目洋子がいる。彼女が眠っている成満寺(愛知県愛西市)の住職は、成満寺でたびたび荻野目の姿を目撃し、ある時、彼女がアメリカのお土産として一冊のノートと鉛筆を納骨堂に残していったことを覚えていた。一見、どこにでもあるノートだったが、目立たないように後ろから数枚目に荻野目自作の詩と、サインが書かれていた。そのエピソードを荻野目にぶつけた。

「当時、私自身も彼女の死を受け止めきれてはいなかった。心にぽっかり穴が開いたような……。詩については覚えていません。たぶん、その時の私にはそういう形でしか感情をうまく表現できなかったんだと思います。今ならブログやツイッターにその気持ちを書いたんでしょうが。強い精神力と少女の魅力を併せ持った歌手でした」

 岡田と同年齢のアイドルで、堀越でもクラスメートだったのが南野陽子だ。南野は、デビュー直前の高校2年生の3学期に堀越に転校した。岡田は、既にヒット曲を飛ばしていた大先輩だった。

「学校で顔を合わせる機会というのは、実は少なかったんだけど、お互いに忙しかった卒業の年(1986年)の2月、二人して出席日数が足りず、学校で机を並べて自習していたことがありました。その時に『ナンノちゃんはこれからどうしたいの?』とか、『ドラマの撮影っていうのはね……』とか、そんな話をいっぱいしてくれました。それはね、彼女が姉さん肌だったとか、世話焼きだったとかいうのではなく、彼女が抱え込んでいたものをはき出すための、“ゴミ箱”が私だったんだと思う。仕事現場に行けばたくさんの方に囲まれるけれども、年配の方も多く、本音で会話できる仲間って少ないんです」

 死の直後、岡田が死を選ぶにいたった真相を巡り、さまざまな臆測報道が流れた。

「堀越の同級生とは今でも集まるし、ユッコの話もしますが、自殺の真相みたいな話はしません。みんなそれぞれに何度も振り返って、分析したはずだけど、どれが本当の理由かわからないし。ただ、世の中で言われているようなこととは違うなって思ったりします」

 同時代を生きたアイドルとして、死後30年が経っても岡田がファンに愛される理由を、南野は次のように考察する。

「アイドルとしての彼女が裏切ることがないからじゃないかな。劣化したなって思われることもないし、誰かのお嫁さんになったわけでもないし……彼女が変わらないでいてくれるからこそ、愛され続けるのだと思います」

 3年という短い時を駆け抜けた岡田は、自ら死を選ぶことで永久のアイドルとなった。


週刊朝日2016年4月15日号より抜粋
http://dot.asahi.com/wa/2016040600188.html?page=2



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2016年04月10日

御前山1405m

 山にも春が来ました!
 いいですねえ〜待ちに待った春の訪れです。
 花は咲き、鳥は歌い、心も軽やか、足なんかスキップしちゃいます。
 山歩クラブも2016年度、元気に始動しました。
 今日4月10日日曜日、14人で御前山を歩いてきました。

三つ葉つつじ.JPG

 山は静か、というのもカタクリの花が開いたばっかりだったからかもしれません。

カタクリ.JPG

 わいわいがやがや、山歩クラブの仲間は山域を占拠、相変わらず、皆んな肩を組んで前進していきます。
 ナンダ坂、コンナ坂、お山の中行く 汽車ぽっぽ ぽっぽ ぽっぽ 黒い煙を出し しゅしゅしゅしゅ 白いゆげふいてがんばりました。
 カタクリに見とれて遅れた方、若干2名。
 カタクリはそれほど春を告げる花ですもん、いいよ。
 ここ惣岳山1348.5mで集合写真。

御前山.JPG

 さらに御前山1405mの高みをとらえた方は9名、ということになります。
 
 下山後、駅前に陣取った仲間たち、缶ビール片手に山談義。

 あっ、そう、そう、うつむいて咲くカタクリの花言葉は「初恋」!
 どう自分の気持ちを伝えたらいいんだろうって恥じらう姿、あ〜いいね、春の酔い、じゃない、宵!

唐澤まゆこで「初恋」(詞:石川啄木):
https://www.youtube.com/watch?v=cHeVA8Y7MkQ&nohtml5=False



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2016年04月09日

安倍政権の「話法」

 ヤッホー君のこのブログ、2012年12月28日付け日記「HNとはハンドルネーム」をぜひお読みくださいね。
 実はあの、その、この「ニュースピーク」って辺見庸の<心の杖>にぶつかったときヤッホー君、え?
 山歩クラブはピークハンターじゃないし、山には名山も迷山もない、山を高さで選ばない、山に向かう人を初級、中級、上級とか格差付けをしないし難易度だってつけないと言い張ってきたのに……
 そうしたら、ピークが、霧のなか、目の前に現れてきて、墜落してしまったのでした。
 相変わらず夢学文盲、夢知蒙昧なヤッホー君、知らんって放っておきましょうか、ですよね。
 これはニュース・ピークと切ると迷走するんで、ニュー・スピークとスピークなんでしたね。
 でもさ、スピークって動詞でしょ?どうして?なんてぶつぶつ辞書に手をやろうとするから、
 め、そんなことどうでもいいじゃん、でも、ね、どうでもいいんだろうか……
 メンド臭いから、やっぱり放っとくことにしましょ:

 安倍政権は今月、2015年5月、閣議決定した安全保障関連法案を「平和安全法制」と名付けた。
 憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使容認に踏み切ったことで「戦争法案」との批判も浴びるが、政権は「日本の安全と世界平和に貢献する」と説明する。
 長谷部恭男・早稲田大教授と、杉田敦・法政大教授の連続対談は今回、政治家の「話法」から、日本の民主主義の現在地について語り合ってもらった。


■ 「平和安全法制」名前アベコベ 長谷部恭男・早稲田大教授/戦闘犠牲、当然視してないか 杉田敦・法政大教授
杉田 安全保障法制の関連11法案が国会に提出されました。安倍政権は「平和安全法制」と銘打っていますが。
長谷部 「戦争は平和である」

杉田 「新語法(ニュースピーク)」ですね。ジョージ・オーウェルの小説「1984」で、独裁者が国民に植え付け、復唱させたスローガンでした。
長谷部 安倍政権の語法はまさにニュースピークです。「平和への積極的貢献」とは、地球上のどこへでも行って米軍の軍事作戦を支援すること。それなのに、日本が米国の戦争に巻き込まれることは「絶対にありえない」。自衛隊の活動範囲を拡大しても、隊員のリスクは高まらない。自分への批判は「レッテル貼り」だが、自らが行う批判は「言論の自由」。国会に法案を提出してもいないのに、米議会で「成立させる」と約束し、同時に民主主義のすばらしさを熱く語る。どれもこれもアベコベです。

杉田 そう言えば、「無知は力である」も独裁者のスローガンの一つでした。安倍晋三首相は党首討論で、ポツダム宣言を「読んでいない」とし、先の戦争の評価についての質問に答えなかった。「戦後レジーム」からの脱却というなら、大前提の知識ですが。
長谷部 読んでもいないものから脱却しようとは、マジシャンそこのけです。そしてアベコベの集大成とも言えるのが、今回の安保法制です。そもそも憲法9条は集団的自衛権の行使を認めていません。行使容認に基づく法整備も当然認められない。法制化されれば、憲法9条は変えられたも同然です。日本を、地球上どこでも武力行使できる国に変えようというなら、正々堂々と憲法改正するのが筋です。

杉田 安倍さんは記者会見で、安保法制が成立したら自衛隊員の危険が増すのではという質問に、「発足以来、今までにも1800名の自衛隊員が殉職している」と応じました。しかし、これまで戦闘での死者はゼロです。かつて著書で軍事同盟を「血の同盟」と表現した安倍さんだけに、犠牲を当然視していないか気がかりです。
長谷部 実際に戦場から戦死者の遺体が帰ってきた時、1800プラス1になっただけだとでも言うつもりでしょうか。

杉田 踏まえておきたいのは、警察と軍隊の違いです。警察は、基本的には暴力を使うことが禁止され、例外としてこういう場合は使えるという「ポジティブリスト」に基づいて行動します。それに対して軍隊は「ネガティブリスト」に従う。基本的には暴力を使えるが、こういう場合は使ってはいけないという制約を受ける。暴力についての考え方が根本的に違います。
長谷部 その通りです。そして自衛隊は、一般的な軍隊とは違い、ポジティブリストで動いています。

杉田 つまり、自衛隊はこれまで警察に近い存在としてやってきた。ところが安保法制が整備されると、ぐっと軍隊に近づくと。
長谷部 憲法9条がある限り、ネガティブリストにはできないはずです。ただ「こういう場合は暴力を使える」の枠があまりにも広がるため、実際の運用において、ポジティブリストとして制約する意味が失われる明白な危険性がある。

■ 憲法縛られぬ「期限付き独裁」 長谷部/疲れた国民、現状打破を支持 杉田
杉田 戦後、日本という国自体も、いわばポジティブリストでやってきたと言えます。憲法という外側からの縛りだけでなく、戦前の反省という内側の縛りもあって、権力は抑制的に行使されるべきだという国民的合意があった。ところが安倍さんや橋下徹・大阪市長は、それはおかしい、ネガティブリストにするべきだという発想です。政治の手を縛るのは非民主的だ、民主主義とは、選挙で選ばれた代表による、いわば期限付きの独裁なのだ―という安倍・橋下流の政治観が、支持を広げているようです。
長谷部 戦前の大日本帝国憲法はネガティブリストでした。天皇が全権力を持っているという前提で、天皇の名のもとでは元来、政府や軍隊はやりたいことを何でもできるはずだと主張されていた。それが戦後は、全権力が国民に移ったのだから、国民に選ばれた政治家が憲法に縛られるなんておかしいというのが「期限付き独裁」の発想でしょう。
 しかし日本国憲法は多様な価値観を抱く人々が公平に、尊厳をもって扱われるべきだとの立憲主義に立脚している。そこでは、政府は憲法によって与えられた権限のみを行使できる。誰かが全権力を保持しているという発想はありません。

杉田 そのように慎重に事を進めることに多くの国民が疲れてきたのかもしれません。景気が悪い中、なんでもいいから、強いリーダーに閉塞(へいそく)感を打ち破ってほしいと。そういう文脈で橋下さんという政治家も登場し、「大阪都構想」をぶち上げたわけですが、肝心の改革の内容がわかりにくかった。それでも、このままではじり貧だから、とにかく変えてみようという人々もいるわけです。
長谷部 ひょっとするとその先に何かいいことがあるかもしれないと。

杉田 昨今の改憲論議と構造がよく似ています。何か具体的な問題から出発して、その解決のためには憲法を変えるしかないというのではなく、改正ありきで、どこが変えやすそうかと、みんなで探している。転倒した論理になっています。

■ 政治判断、信用できるか 杉田/戦後の権力抑制に意義 長谷部
長谷部 政治家個人への支持と、その人が掲げる個別の政策に対する賛否は本来、別ものです。しかし橋下さんのように人気のある政治家は、一緒にしようとする。「私が言ってるんだから賛成して」と。ただ、このやり方には必ず賞味期限がある。飽きられたら終わりです。安倍さんが安保法制の関連法案を一気に短時間で成立させようとしているのも、その辺を意識しているかもしれない。
杉田 安全保障に関しては、これまでは憲法が、政治家の決定に枠をはめてきました。しかし安保法制が成立すれば、集団的自衛権行使の要件に該当するのか、自衛隊を海外に出すべきかなど、非常に重大な判断を、究極的には数人の政治家がすることになる。
 ここをどう考えるか。戦後の日本は、戦前の日本が安全保障についてまともな判断ができず、国内外に多大な犠牲と被害をもたらしたという苦い悔恨の上に成立しました。

長谷部 まともな判断ができないばかりか、誰が決めたのか、誰に責任があるのかすらわかりません。
杉田 安保法制の問題を突き詰めていくと、最後は、政治を信用できるかという問題に突き当たる。戦前の「無責任の体系」は、戦後日本において払拭(ふっしょく)されたのか。原発政策などを見る限り、私は懐疑的です。国の存立にかかわる重大な判断を委ねてしまえるほど、政治を信頼できるかという思いがあります。
 それに対して、「できない」「危ない」と縛っているから、いつまでたっても日本の政治が成熟しないのだ、緊急性の高い問題は、民主的に選ばれた代表である政治家の決定に委ねるしかないという批判が聞こえてきます。

長谷部 立憲主義は、たとえ民主国家であっても、政治家の判断は完全には信頼できないとの前提に立ちます。戦争について言えば、いま世界のどこに信頼できる国家があるでしょうか。米国は、軍事介入した中東各国を軒並み大混乱に陥れて、それが過激派組織「イスラム国」(IS)が跋扈(ばっこ)するきっかけにもなっている。権力をポジティブリストで抑制的に運用する戦後日本のプロジェクトの意義を、改めて見直すべき時期ではないでしょうか。

2015年5月24日05時00分更新、朝日新聞デジタル(構成・高橋純子)
(考論 長谷部×杉田)安保法制、安倍政権の「話法」から考える
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11770977.html?rm=150

 ちょっと前まで「東大話法」:

--『原発危機と「東大話法」』、『幻影からの脱出』に続く、「東大話法」シリーズ第三弾となる『もう「東大話法」にはだまされない 「立場主義」エリートの欺瞞を見抜く』(講談社+α新書)が刊行されました。
 こうした悪事の微分化に手を染めている企業人が使いたがる「東大話法」が「弊社といたしましては」「我が社においては」です。当事者意識など微塵も感じさせずに、ひたすら傍観者ぶります。
 こういう「我が国」「我が社」男は、聞いてもないのに「女房がさ〜」「カミさんがねえ〜」と言いたがります。
 これはけっして愛妻家の証などではなく、「東大話法」のファミリーバージョン。
 自分はこう思うという主体性が欠落した、「夫」という立場を守るためだけに発言している「立場主義者」というわけです。


-- 本書では、「立場三原則」という日本社会の隠れた規則を紹介されています。
 1.役を果たすためには、なんでもやらなくてはならない。
 2.立場を守るためには何をしてもいい。
 3.人の立場を侵害してはいけない。
 以上の3つです。「東大話法」の使い手たちは、間違いなくこの3原則に縛られています。
。。。
 そんな現実に気づいて絶望し、上司に相談したとしましょう。「立場主義者」の上司なら、こんな「東大話法」で慰めてくれるはずです。

「夫婦なんて、どこだって、そんなものだよ」


--なんだかよくわかりませんが、納得してしまいそうですね。
「どこだって」と、まるで自分が社会のスタンダードを知り尽くしたかのように装って、ケムに巻くのです。

--しかしそんな風に「東大話法」で事の本質をごまかすエリートは日本社会にいっぱいいます。そんな人たちからどうやって身を守ればいいのでしょうか?
 簡単です。「東大話法」はあくまでテクニックで話しているので、内容がありません。なので、上司に対して「なんかもっともらしく適当なこと言ってるなあ」と感じたなら、その適当に言っていることを真に受けて質問することです。

 そうすると「やればいいんだよ、やれば」とか言います。そしたら「承知しました」と言って、それをトコトンやってしまいましょう。すると、そもそも適当なことを言ったくせに責任を取りたくない上司は、必ずこんな「東大話法」で"休戦"を申し入れてきます。

「そこまでやるとは思ってなかったなあ」

 これを言わせたらしめたもの。
。。。
2012年09月26日(水)現代ビジネス
「立場主義者」にはどう立ち向かうべきか
〜『もう「東大話法」にはだまされない』著者:安冨歩(東京大学東洋文化研究所教授)〜

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33627

 へ〜、イマは「東大話法」から身を護る<マニュアル>まである……
 じゃあ、イマ話題の官房長官の睨めまわすような「菅話法」には?

 その指摘はまったく当たらない。
 まったく問題ない。
 その批判は当たらない。
 そのようなことは断じてない。
 しゅくしゅくと進めるだけ。
 レッテル貼りはやめていただきたい。
 言っている意味がよくわからないというのが率直なところだ。
 違憲という指摘は当たらないと、政府は考えている。


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2016年04月08日

ニュースピーク

 桜がはらはら舞い散り、地面をころころ転がっていく
 イマや軽すぎる、軽い言の葉がどんどん変わっていく
 
 サンデー毎日のヤッホー君の身近にももう押し寄せてきてしまった毎日エープリルフール!
 でもこう言われたら、ヤッホー君口をぽかんと開けたまんま、どう反応すればいいんだろ?

 そんなことどうでもいいじゃん

 どうでもいいんだろうか、という疑問も声もあげられない社会は、どうでもいいんだろうか
 昨年のつぶやき:

 2012年の総選挙当時、自民党は「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない」と大書したポスターを全国で掲出し勝利、政権を奪還した。。。
 それにしても、日本の政治はいつからここまでの堕落・劣化に陥ってしまったのだろうか。


2015年12月22日 4時0分配信
白井聡「政治の根本転換を見据えよーいつまで騙され続けるのか? TPP大筋合意に思う」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shiraisatoshi/20151222-00052683/

 昨日のつぶやきから:

 いずれにしろ、現ナマで票を釣る安倍政権の姑息極まりない猿芝居を二度も成功させてはならない。
 日本国民はそんなにバカではないはずではないか。


田畑光永「また始まった安倍首相の見え透いた得票戦術」
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-3524.html

嘘つく人(安倍首相を含め)と記憶:
 嘘をつく人は真実や信条を述べているわけではなく、その場に一番有利と判断する発言をするから、状況が変われば何が有利かも変わる。
 だから発言内容も変わる。
 だから過去何をいったか正確な記憶がない。
 「その場のでまかせ」を一々記憶出来ない。


孫崎享
https://twitter.com/magosaki_ukeru

 ヤッホー君、辺見庸さんの言葉探しに出かけました:

辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」
(2013年8月31日の講演記録)

 1989年でしょうか、昭和天皇が亡くなりそうになったころ、私は外信部におりましたから、昭和天皇死去にかんする外電がくる。当時フランスはミッテラン大統領でしたが、昭和天皇が亡くなり国葬をしても、ミッテランは国葬に出席するべきではない、なんとならばヒロヒトは戦犯なのだから、という投書がフランスの新聞「ル・モンド」に載り、パリの特派員がそれを送ってきました。これは他国の新聞の読者のひとつの見識なわけですから、こういう感じ方もあるんだ、欧州の感覚のなかにはまだアンチ・ヒロヒトがあるのだなあと、私はデスクをやっておりましたので、これは出稿しようということになって、この原稿をだしたわけです。
 そしたら五分もたたないうちに、整理本部から部長クラスの人間がすっとんでくる。これはだめだと言うのです。なぜか。

 で、大声あげて、編集局のど真ん中で30分、いや小1時間くらい言いあいをしたことがあります。問題はなんだったか。天皇がまだ亡くなってもいないのに、逝去を前提にした内容の原稿をだすのはいかがなものか、というわけです。いかがなものかもなにも、これはル・モンドに載った投書なのです。
 もうひとつは、天皇に「陛下」という敬称がついていないという。開いた口が塞がらないというのはこのことです。「ミッテランよ、日本の戦犯の国葬なんかにでるんじゃない」という投書なのに、わざわざ「陛下」をつける阿呆がどこにいるでしょうか。

 でも新聞というのは、こんな程度です。いまや議論すらないと聞きます。ぼくはよく尋ねるんです。新聞記者ないしは雑誌の記者なんかに訊く。
  いまこの社会のヒーローは誰なの?
  この社会の敵は誰か?
  それから、あなたがたはいまどんな議論をしているか?
  最近喧嘩したか?
  職場で怒鳴り合いをしたか?

 そんなことを訊くんです。すると、ヒーローもアンチ・ヒーローも敵もよくわからない、という。議論は特にない、怒鳴り合いはしないという。どうやら部下を「バカ」「やめちまえ」などと言うのはコンプライアンス上、絶対にいけないらしい。呼び捨てもいけない。大声、怒鳴り声、小突きあい、つかみ合いはもってのほか。そしたらぼくはもう、おそらく千回以上処分を受けてなければならないくらいのひどいことをやってきたわけですけども……。

【不自由を希求?】
 脱線しました。けれども、その「個」の戦い、つまり「どつきあい」と熾烈な議論が少なくなってしまったということです。
 なぜかはわかりません。だいいち、声が聞こえてこない。
いまは、人間の声がどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかり聞こえる時代です」と詩人、石原吉郎が言ったのは1972年のことでした。石原は深い絶望とともに、われわれは言葉に見放されている、とも嘆きました。
 41年後のいま、不思議なことに、私はまったく同じことを思います。われわれは言葉に見放されている。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりが聞こえる。いや、ひとの声さえも、心の底からの声は聞こえてこなくなっている。地声が聞こえない。なぜでしょうか? わたしはわかりません。ただ、声がとどかない、言葉に見放される状態というのも原ファシズムの特徴の一つではないかと感じます。言葉を失う過程、ひとの胸にとどける声を失うなりゆきは、とりもなおさず、人間存在つまり「個」の内奥への熱烈な関心を薄めてゆく過程にちがいありません。そして、人間存在= 個の内面への切実な関心をなくしてゆく過程も、ウル・ファシズムと関係があるように思えてなりません。テクノロジー、モノ、お金の獲得とひきかえに、ひとと言葉への無関心、無感動が「虚の波」として押し寄せています。。。。

【歴史の大転換】
 2013年のいま、歴史の大転換が、まったく大転換ではないかのように、当然のように進んでいます。現在はたとえば、オーウェルの『1984年』にでてくる奇怪な社会と相通じる現象が、少しも奇怪とはされずに横行しています。この社会にはすでに「ニュースピーク」(新語法=newspeak)も「二重思考」(doublethink)も、文法と語彙、思考の単純化も、略語の多用も、『1984年』の世界とつながるものだらけです。。。。

 不自由を強制する、力によって他人を従わせる、無理強いをする。「日の丸・君が代」に関わる身体的行動がまるでア・プリオリに、生得的な、本有的な義務であるかのように公言するというのはですね、おそらくは、今上天皇でさえも、現在の天皇も、眉を顰めるにちがいないのです。天皇はかつて秋の園遊会で、将棋の米長邦雄・元名人に対し「(教育現場で「日の丸・君が代」が)強制になるというようなことでないほうが望ましい」と発言しています。この問題では神奈川県教育委員会など押しつけや強制、詭弁をなんとも思わない各地の教育委員会より、天皇のほうが常識的で、開明的、進歩的です。にしても状況は劇的に変化しています。いわゆる「慰安婦」の問題もそうです。安倍晋三は2007年、日本軍の慰安婦問題について
「強制性については、従来から議論があったが、かつての定義である強制性について、それを裏づけるものや証拠はなかった」と日本軍に責任はなかったとし、これが現在のこの国の多数派の主張になっている。安倍は、戦争放棄をうたう憲法9条の「平和条項」についても
「憲法9条の規定は独立国としての要件を欠くことになった」
「当時の米国の日本にたいする姿勢が色濃くあらわれているのが、憲法9条の『戦争の放棄』の条項だ。米国は、自らと連合国の国益を守るために、日本が二度と欧米中心の秩序に挑戦できないよう、強い意志をもって憲法草案の作成にあたらせた」と述べ、第二次世界大戦での日本人の戦犯問題に関しても
「いわゆるA級戦犯と言われる方々は東京裁判において戦争犯罪人として裁かれたわけだが、国内法的には戦争犯罪人ではない」と再三居直っている。
 また、中国との領有権問題については
「この問題に外交交渉の余地などない。尖閣海域で求められているのは、交渉ではなく、誤解を恐れずにいえば物理的な力だ」と断言しています。
 核兵器保有に関しては2002年5月に早稲田大学で開かれた講演で
「憲法上は原子爆弾だって問題はない。小型であれば……」とまで語ったことがあります。
 彼はこの考えをまだ捨ててはいないと思う。いざとなったら、戦術核ぐらいもって中国に対抗する、というのが安倍の好戦的な本音ではないでしょうか。歴史は目下、修正どころか安倍内閣により「転覆」されています。しかもこの内閣が世論の高い支持率をえてますます夜郎自大になっている。不思議で怪しい時代にわれわれはいる。

【ナチスに学べ?】
 耐えがたい局面はすでにおとずれています。結局は、どのみち戦端を開かざるをえない。戦端を開くのは個人です。個であると思うんです。
 個としていわば一歩も引かずに、不正義を睨む。暴力をふるえというのではないのです。
 でも睨みつける。絶対に引かない睨みつけかたというものがあるにちがいないのです。
 「注意しなさい。これが歴史的瞬間ですよ!」という声がいま必要です。
 にもかかわらず、「これが歴史的瞬間ですよ!」と言う人間がいないだけではなく、歴史が崩壊している、転覆されているという実感が何者かに奪われている。
 総毛立ったり、鳥肌がたつ、ということにさえ、どこかわれわれは慣れてきはじめている。一番恐いのはそれだと思うのです。
 歴史の崩壊だけではなく、われわれの内面が崩れはじめているのではないでしょうか。
。。。

2013.10.19 Blog「みずき」
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-690.html

 辺見庸につきましてはヤッホ−君のこのブログ、次の日付けの日記をご参照ください:
☆ 2011年4月11日「われら青春!」
☆ 2011年8月19日「言葉が心の杖」
☆ 2011年8月20日「海が海らしく、空が空らしく戻る日を祈って」



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2016年04月07日

笹正宗

 社会の劣化症候群が進行して、自分の周りにまで及んでいたか、と嘆いた昨日のヤッホー君、
 姿見に移った自分を見つめて、ちょっぴり寂しげ、哀しげ、抜け毛、で、どうしたか、うん、
 この Community Degradation Syndrome (CDS) を5つにまとめその対策まで考えたって:
 @ 目をそらす A 話をそらす B はぐらかす C おちょくる D にやける
 対策@ 勝とうとしない、懲らしめない、戦わない(相手を痛めつけない)
 対策A 負けないようにする(自分の尊厳や名誉人格を含め否定されない)
 うん、そうだね、やっぱりサルにならず、ゴリラを見習えかあ〜、と(注1)

 で、再会した大熊町の同窓生とは和気あいあいとムカシからイマへと話が盛り上がったのですが、その味付け調味料はもちろん、福島県の地酒「笹正宗」:

 ウイークデー。会社から帰り、ささっと着替え、近くのH居酒屋へ。いつもは週末に行くことが多い店だが、たまにウイークデーに行くことも。外飲み宴会の間が空いたときなど、ついふらふらとH居酒屋の暖簾をくぐる。考えてみれば、家飲みするより、H居酒屋で飲む方が多い。
 H居酒屋で飲むときは、これまで飲んだことのない蔵の酒を中心に、酒メニューの上から順番に飲んでいくことにしている。こう決めてしまえば、酒の選択で悩むことはない。今回は「ささまさむね 特別純米」を飲む番だ。
 笹正宗酒造の酒を飲むのは初めてだが、ラベルを見てびっくり仰天だ。雄渾な字が多い酒ラベルの中にあって、なんとも目立たない字。良く言えば、雅な字。悪く言えば、弱々しい字。写真に撮ろうとしても、ちゃんと撮れない。激戦の酒造業界の中にあって、よくまあ、こういうラベルで勝負をかけるもんだ、と驚いてしまうが、これだけは蔵元さんの好みなので、他人がとやかく言う筋合いのものではない。しかし、やっぱり驚きは隠せない。さて、「ささまさむね 特別純米」をいただいてみる。まずは冷酒で。
 
 会津の蔵元さんが広島県生まれのコメ(「千本錦」)を使うのは珍しい。
 ところで、蔵元さんが口上で述べている「当蔵でできる現代的なお酒をテーマに醸造しました」の部分が興味深い。「当蔵でできる現代的なお酒」とはいったい何なんだろう。勝手に想像するに、甘・旨・酸を出している酒質が現代的、という意味なのだろうか。さらに、アルコール分16度で酵母の動きをとめ、原酒にしては低めのアルコール分に設定しているのも現代的、という意味なのだろうか。素人のわたくしには、それぐらいしか考えつかない。


2015年07月01日 18:25更新、47ニュース
ささまさむね 特別純米 【福島】福島県喜多方市 笹正宗酒造
http://www.47news.jp/feature/sake/2015/07/2010.html

 ずっとワイン党でしたが福島に住んでいるせいで最近はすっかり日本酒党になりました。
 福島県民の「日本酒好き」は筋金入りです。居酒屋や和食店は言うに及ばず、洋食店や中華料理店ですら吟醸酒や純米酒などこだわりの日本酒が置いてあるのは珍しくありませんし、JR福島駅構内のコーヒースタンドでも日本酒が飲めますし、ホームパーティではそれぞれお気に入りのお酒を持ち寄り酒談義、といった具合です。
 ただし、日本酒ならどこの産地でもよいわけではなく「福島県産のお酒」にこだわるのが特徴で、飲食店でも県産銘柄のリクエストが圧倒的に多いそうです。コンビニの日本酒棚も一般有名銘柄より県産銘柄が充実しています。
 「福島県の酒を心から愛し、誇りに思い、応援している」というのが正しい?福島の酒好き。蔵元もそういった県民の熱い「日本酒愛」に応えるべく研究を続け、いい酒を次々に出してきました。
 その結果、いま「福島の日本酒」の評価が国内外で急上昇しているのです。

福島の酒が世界チャンピオンになった日
 今年2015年5月、福島県は全国新酒鑑評会の金賞受賞銘柄数で3年連続日本一となりました(注2)。「八海山」「越乃寒梅」などを擁する新潟を押さえての堂々の一位。突出した銘柄で他を引っ張るのではなく、全体的に酒蔵のレベルが高く、味もバラエティに富んでいるのが福島のお酒の特徴です。
 そしてつい先日(5月17日)、ロンドンで行われた「IWC(インターナショナルワインチャレンジ)の日本酒部門で、福島県喜多方市の「会津ほまれ」の「播州産山田錦仕込 純米大吟醸」がチャンピオンに選ばれました。喜多方市と言えばラーメンで有名ですが、人口5万人に満たない小さな町に酒蔵が9つもある、県内でも有数の酒どころでもあるのです。
 「ワイン界のアカデミー賞」とも言われるこのコンテストは、2007年より日本酒部門が設けられ、今年は過去最多の300の蔵元、876もの銘柄が出品し、審査を受けました。
 審査方法はラベルを見ないオールブラインド(目隠し)の投票方式ですから、純粋に「味」のみの勝負。
 「被災地の酒はいやだ」とか、逆に「被災地福島を応援しよう」といったバイアスなしに、シンプルに「外国人が飲んで一番うまい酒」と世界的に認められたことになります。
 原発事故から4年4ヶ月。酒造業界のみならず福島のすべての生産者が受けてきた苦難、戦ってきた経緯を考えると、この受賞はまさに「快挙」と言うほかはありません。

安全をいくら強調しても世界では売れない
 福島の復興の最大の課題は、言うまでもなく原発事故による「風評被害」の払拭であり、それはいまなお続いています。
 上記のTBSニュースでも会場のワイン業者の女性が「農業が(原発事故の)影響を受けて、まだ5年くらいしか経ってないでしょ。飲むのをためらいます」と言っています。
 風評被害がやっかいなのは、不安に思っている人に対していくらデータで証明しても、いくら安全であることを強調してもあまり効果がないということです。
 たとえば、福島県内で生産した玄米は、全量・全袋検査を実施し、その上で食品衛生法に定める一般食品の基準値(100ベクレル/Kg)以下であることを確認し出荷していますが、その事実を言ったところで人の心の中の負のイメージはなかなか消えません。

 「原発事故直後、ほまれの海外向け販売額は約25%落ち込んだ。海外から『福島の酒をもらったけど飲みたくないから送り返してもいいか』という電話もあった。原料のコメも水も放射性物質検査を徹底している。これまでに一度も検出されたことはない。だが風評は消えない」(ほまれ酒造の唐橋裕幸社長)

 今も韓国への輸出はゼロ。中国への輸出も奮わない状況が続く中、唐橋社長はこう考えたそうです。

 「今まで我々は安心安全というものを、すごく集中してやってきたが、もうそれだけじゃ、世界の人たちは受け取ってくれないので、本当にいいものを作るしかない」

 安心安全をアピールするだけではダメで、本当にいいもの、圧倒的に「美味しい」酒を造らなければ海外では売れない。
 確かに、人がお金を払ってお酒を買うのは「美味しい」からであって、「安全だから」というのは購入のモチベーションにはなりません。それは海外だけでなく国内でも同じでしょう。
 「安全性」をまず打ち出さなくてはならなかった福島の事情がありましたが、その次の段階に行くという唐橋社長のコミット通りとなりました。

福島の酒蔵「強さ」の秘密
 ではなぜ福島の酒がこれほど強いのでしょうか。
。。。
 喜多方はラーメンや蔵の風景で有名な街ですが、さらに「チャンピオンサケの蔵」を始めとした蔵元めぐりという魅力も加わり、海外からの観光客にとってさらに魅力的なツアーになることでしょう。
 今回の受賞によって福島の「酒ツーリズム」での観光活性化も期待しています。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/kumasakahitomi/20150720-00047695/

(注1)
ヤッホー君のこのブログ、2016年2月2日付け日記「サル化する人間社会」をご参照ください。

(注2)
 全国の日本酒の蔵元が新酒の出来栄えを競う全国新酒鑑評会の審査結果が2015年5月20日発表され、222点の金賞受賞酒のうち24点を福島県内の蔵元が占めた。
 福島勢は都道府県別の金賞受賞数で3年連続1位を達成した。2位の山形、新潟の各15点を大きく引き離した。
 独立行政法人酒類総合研究所と日本酒造組合中央会の共催。昨年2014年7月以降に造られた吟醸酒の原酒が対象で、国税庁の鑑定企画官ら24人が利き酒をして受賞酒を決めた。受賞酒の中での順位はつかない。
 金賞を受賞した「飛露喜(ひろき)」の蔵元「廣木酒造本店」(会津坂下町)代表の廣木健司さん(48)は
 「福島の生産者は原発事故の逆境に負けないように『いい商品をつくろう』と努めている。福島の生産物のレベルが高く評価されたと喜びたい」と話した。

2015年5月20日18時44分更新、朝日新聞デジタル
福島の酒、3年連続金賞数1位に 全国新酒鑑評会
http://www.asahi.com/articles/ASH5N4VQ8H5NUGTB00H.html


 
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2016年04月06日

大熊町

 もう済んだことなんだからさ、いちいち掘りかえさなくっともいいんじゃないの?
 いちいちお会いした皆んなに挨拶しようなんて声かけなくっといいんじゃないの?
 面倒なことって決まり事をつくらなくっても、自由にお任せでいいんじゃないの?
 そうそう目くじら立てなくっともさ、丸く収まるところに収めることじゃないの?
 大人(おとな)の会話だよ、もっと大人になってさあ、大人の振る舞いなんだな〜

 ヤッホー君、ばりばりの現役の年下の人にそう言われてま、びっくりしてました!
 絆とかつながりとか友だちとかない!ないからあんときキャンペーンはったんだ!
 「イマ」が良ければいい、「ここ」が良ければいい、「自分」だけ良ければいい!

 震災5年:帰還困難区域ルポ 福島・大熊町
https://www.youtube.com/watch?v=bfoFDEuxt6I

 2015-05-23 福島県大熊町
https://www.youtube.com/watch?v=wxzB0KGnn2U

 Goose House 花は咲く
http://goosehouse.jp/

 日本の劣化がここまで進行していたのか、とヤッホー君、ちょっぴり寂しげ、哀しげ、抜け毛、でどうしたか、
 福島県大熊町の農家に嫁いだんだけど、5年前のフクシマで逃げて、イマ会津若松の仮設住宅で暮らしているという同窓生に会ってきました。 

 大熊町は、2011(平成23)年に発生した東日本大震災と、これに起因する福島第一原子力発電所の事故の影響で、全域が警戒区域に指定され、2016(平成28)年3月現在においても、全町が避難中である。

 町民が元々居住していた地域の約96%が帰還困難区域に指定されており、避難指示解除の見込みもたっていない
 このため、町民の町への帰還意思は他の被災自治体と比較しても低く、避難先で自宅を購入し、新たな生活を開始する町民も見られるようになっている。
 町としても、医療・福祉等を始めとする必需的な対人社会サービスの享受にも不都合が生じている状況において、住民票の異動は、今後の選択肢の一つとするべきであり、町土の復興を通して、町民が帰町したいと思う時に、帰町できる環境を整備していくことが重要であると考えている。


平成28年3月
大熊町まち・ひと・しごと創生人口ビジョン
http://www.town.okuma.fukushima.jp/fukkou/syashinkan/fukkou/fukkou/sites/fukkou/files/jinnkoubijon_0.pdf

 ふるさとの福島県大熊町から引き離されて5年。
 町立大熊中学校の卒業式が3月11日、避難先の会津若松市であった。
 原発事故で住民はばらばらとなり、生徒数は10分の1近くまで減った。
 それでも卒業生たちは故郷を思い、手探りで未来と向き合っている。

 卒業式は、授業や部活で使わせてもらってきた短大の体育館で開かれた。

 「きょうは、あの日と同じ3月11日。すべてが変わり、日常生活は一変しました」

 式典の終盤、26人の卒業生を代表して、答辞に立った生徒会長の遠藤瞭君(15)は
「将来への不安、友達と離ればなれになった悲しみで心が折れそうになった時もありました。卒業の日を迎えられたのは、学校の仲間のおかげです」とこの5年を振り返った。

 あの日、町立小の4年生だった遠藤君は校内で激しい揺れに見舞われた。
 夜には原発事故に伴う避難指示などが発令され、両親や姉と、福島県のいわき市や東京都の親戚宅を転々とした。
 町の小中学校が再開されると聞いて、4月に会津若松市にやってきたが、同級生は半分になっていた。

 沿岸部の大熊町から、内陸の会津若松市まで約90キロ離れている。
 震災まで371人いた大熊中の生徒は43人に。
 町の人口は住民票でみるといまも約1万人いるが、町内は「無人」。
 町役場や学校が避難している会津地域に1500人ほどが暮らし、残りは県内のいわき市や郡山市のほか、県外の38都道府県に散らばっている。

 この日の卒業式には、かつての住所にもとづいて区長を務める坂上信行さん(68)も出席した。
 2年前から宇都宮市に暮らすが、卒業式に駆けつけた。
 「大熊では登下校の生徒とあいさつするのが楽しみだった。卒業おめでとうと、以前は簡単に声をかけられたのにね。自分の年齢では将来、町に戻るのは難しい。でも、若い人なら戻ろうと考える人もいるのでは」

 遠藤君は春から、大熊町と同じ沿岸部にある広野町の県立ふたば未来学園高へ進学する。
 原発事故の影響で、ばらばらになった地域の子どもたちのために昨春開校した。
 復興の担い手の育成を建学の精神のひとつに掲げる。

 進路を決める前の昨秋、遠藤君は震災後初めて大熊町の自宅に戻った。
 放射線量が高く、15歳未満の一時帰宅は禁止されているが、「自分の目で見たい」とずっと思ってきた。
 誕生日を迎えた2日後、防護服に身を包んで町に入った。

 「記憶があいまいになっていて、現実とかみ合わない」
 避難から4年半が過ぎ、身長が30センチ以上伸びたからだろうか。
 家や庭、道が思っていたよりも狭く感じた。
 「頭の中のきれいな町と、目の前の現実が違う。この現状をどうにか変えたい」
 そんな感情が芽生えたという。

 遠藤君は今月、広野町の隣のいわき市へ家族と引っ越す。
 卒業生26人のうち半数は会津地域に残る見通しだが、残りは県内のほかの地域の高校に進むことを希望しているという。

 町にとって、子どもらが集う学校は未来のシンボルでもある。
 この日、祝辞に立った渡辺利綱町長は卒業生に呼びかけた。
 「明るく一生懸命に取り組んできたみなさんの姿に、大人たちはどれほど励まされたか。みなさんはすでに、どのような困難にも立ち向かう力を身につけていると信じています」

■ 卒業生「復興に関わる仕事に携わりたい」
 5年前の3月11日も、大熊中の卒業式の日だった。卒業生代表としてあいさつに立った石黒隼哉さん(20)ら当時の3年生120人の多くは成人となった。
 あの日。地震が襲ったのは、卒業式の後だった。石黒さんは母校の小学校に出かけて、校長先生にあいさつをしていた。ゴゴーッと地面から音が聞こえ、歴代の校長の写真の額縁が壁から落ちてきた。
 慌てて校庭に逃げると、子どもたちがしゃがみ込み泣いていた。「みんな、パニック状態でした」。もともと進学が決まっていた郡山市内の高校に入学する4月まで、県内外で避難生活を送った。いまは、東京の大学に通う。
 今年1月にあった成人式など、機会を見つけては、両親が落ち着いた郡山市に帰省している。「戻ったときは、大熊中時代の同級生と集まるのが楽しみ」という。3月上旬も、同級生2人と郡山市で会った。
 田村大輔さん(20)も都内の大学に通う。震災後、千葉県柏市に避難した。本来は大熊町の近くにある高校に進学するはずだったが、千葉の高校に進んだ。故郷から離れ、さびしさを感じていた高校2年のとき、福島まで石黒さんに会いに出かけ、ホッとしたのを覚えている。
 吉田和樹さん(20)は、家族と川崎市やいわき市などを転々とし、高校卒業後に大熊町職員となった。現在は会津若松市内にある町役場で働いている。就職のきっかけは、親戚の役場職員から無人となった大熊町の現状を聞いて、「元の町に戻すための仕事がしたい」と思ったからだった。現在は住民課に配属され、国民健康保険に関わる仕事をしている。
 「将来は復興に直接関係した仕事に携わりたい。同級生が戻りたいと言ってくれる町にするのが夢です」


2016年3月11日18時44分更新、朝日新聞デジタル」(伊沢健司)
5年前もこの日に卒業式 大熊中の元生徒、故郷思い前へ
http://www.asahi.com/articles/ASJ3B02J8J39UGTB01J.html

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から丸5年を迎えた11日、県内各地で追悼式などが行われた。
 大熊町の合同追悼式は、いわき市好間町のライフケア好間会堂で営まれた。昨年まで町役場の中枢機能がある会津若松市が会場だったが、多くの町民がいわき地方で暮らすようになったのに合わせて初めていわき市で行なった。
 遺族28組・約40人をはじめ一般町民や町幹部、町議、行政区長ら合わせて約100人が参列した。政府主催の追悼式で町民の佐久間国幸さんが県代表として追悼の言葉を述べるのを中継映像で見守った。
 渡辺利綱町長が式辞で犠牲者を悼み、町民の苦労をねぎらうとともに「大熊町が原発事故からの復興の先導役となり、町民の暮らしや希望を支え、双葉地方全体の再生をけん引していくよう、立ち止まることなく一歩ずつ前に進んでいく」と誓った。鈴木光一町議会議長らが追悼の言葉を贈った。全員で献花して祈りをささげた。
 東京電力福島第一原発事故の影響で母親を亡くした稲垣たま子さん(55)は、夫の巌さん(61)とともに郡山市の避難先から参列した。たま子さんは「5年たつが、復興はちょっと遅い感じがする。あの時、もう少し母に何かしてあげられたのではないかと今も考える。古里の友達と長電話をして気をまぎらわせている」と心情を明かした。
 町によると、地震と津波で11人が命を落とし、1人が行方不明。震災(原発事故)関連死は115人となっている。


2016/03/12 12:43更新、福島民報「震災から5年」
教訓忘れず前へ 故郷再生「一歩ずつ」 大熊町合同追悼式
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2016/03/post_13454.html

 高速道路のインターチェンジに近い、五階建ての復興住宅は、都会のマンションのような、無機質なにおいがした。
 表札を出している家はわずかだ。

 福島県大熊町から会津若松市の仮設住宅に避難していた門馬五子(もんまいつこ)さん(73)は一年ほど前、郡山市内のこの復興住宅に移った。
 長女宅に近く、東京の息子も来やすいだろうと選んだ。
 4階の3LDKに一人暮らし。
 年金から月1万円ほどの家賃を払う。
 100万円近くかけて家具をそろえ、孫が遊びに来た時のために大きなこたつも買った。
 だが、表情は晴れない。
 今年の正月明け、上の階の住人が亡くなった。
 救急車が下に来るまで、異変に気付かなかった。
 「ドアの向こうで誰が、どんな暮らしをしているのか。部屋に入ってしまうと、お互い分からない」と嘆く。
 安倍晋三首相が視察に来たとき、こう言った。「ここは監獄と同じよ」

 顔見知りは民生委員の夫婦だけ。
 会津の仮設で親しかった人は、いったん同じ復興住宅に入ったが、子と同居すると言って引っ越してしまった。

 ペットは禁止で、事故前から一緒に暮らしていた愛猫は長女に預けた。
 30分歩いて会いに行くが、「私の顔を忘れてしまった」と寂しそうに笑う。

 仮設での暮らしは、つらかった。
 薄い畳が体を冷やした。
 壁は石こうボード一枚で、隣の音が筒抜け。
 窓の結露にも悩まされた。
 台所は狭く、まな板を置く場所もなかった。

 大熊町にある築百年の自宅は、避難中に動物に荒らされている。
「直すには1000万円じゃきかない。もう住めない」
 月10万円の慰謝料は早晩打ち切られ、年金だけが頼りの暮らしになる。
 家を借りたり買ったりできる余裕はない。
 復興住宅に入るしかなかった。

 終(つい)の棲家(すみか)と思い、「私はここで死ぬんだ」と繰り返す。
 でも、知り合いが多く、濃い近所付き合いがあった大熊町での暮らしは、取り戻せない。
 避難生活は幕を閉じていない。 


2016年3月21日付け、東京新聞朝刊(大野孝志)
「ここは監獄と同じ」 ぬくもりない復興住宅
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201603/CK2016032102000121.html


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Panama Papers

A group of global news organizations published articles this week based on a trove of leaked confidential documents from a law firm in Panama. They exposed how some of the world’s most powerful people were said to have used offshore bank accounts to conceal their wealth or avoid taxes.

The documents, known as the “Panama Papers,” named international politicians, business leaders and celebrities in a web of unseemly financial transactions, according to the articles, and raised questions about corruption in the global financial system. Many of the figures named in the leak have denied in the strongest terms that they had broken any laws.

This explainer has been tracking significant developments resulting from the disclosures. Among them:

• The prime minister of Iceland, Sigmundur David Gunnlaugsson, resigned Tuesday.

• Gonzalo Delaveau Swett, the president of Transparency Chile, a branch of a global anti-corruption group, stepped down on Monday.

What are the Panama Papers?

The Panama Papers are 11.5 million documents − or 2.6 terabytes of data − provided by an unnamed source to a German newspaper, Süddeutsche Zeitung, more than one year ago. They were taken from the files of the Panamanian law firm Mossack Fonseca, described as the fourth-largest offshore law firm in the world.
...


The New York Times, April 4, 2016
The Panama Papers: Here’s What We Know
By LIAM STACK
http://www.nytimes.com/2016/04/05/world/panama-papers-explainer.html?_r=0

In Iceland, over 10,000 protesters took to the streets Monday calling for Iceland’s prime minister to resign after it was revealed he had benefited from offshore investment accounts in tax havens.

Einar Bergmundur: "I’m just protesting the corruption of the government. The prime minister has been hiding his money in Tortola and lying about it. The financial minister has also been lying about his participation in secret companies. And everybody is just fed up with this."

Details of Icelandic Prime Minister Sigmundur David Gunnlaugsson’s offshore account were exposed on Sunday as part of the Panama Papers−a massive journalistic exposé revealing how a Panamanian firm had set up a global network of shell companies for heads of state, politicians, CEOs and celebrities to store their money offshore to avoid taxes and oversight.


April 05, 2016, Democracy Now!
Independent Global News, Headlines 
Over 10,000 Protest in Iceland After Prime Minister Exposed in Panama Papers
http://www.democracynow.org/2016/4/5/headlines/over_10_000_protest_in_iceland_after_prime_minister_exposed_in_panama_papers

Iceland's Prime Minister Sigmundur David Gunnlaugsson resigned on Tuesday, becoming the first casualty of leaked documents from a Panamanian law firm which have shone a spotlight on the offshore wealth of politicians and public figures worldwide.

The Panama Papers showed the premier's wife owned an offshore company with big claims on Iceland's banks, a undeclared conflict of interest for Gunnlaugsson, infuriating many who hurled eggs and bananas in street protests calling for him to step down.

The banks collapsed as the global financial crisis hit in 2008 and many Icelanders blame politicians for not reining in their debt-fueled binge and averting a deep recession.

The more than 11.5 million documents, leaked from the Panamanian law firm Mossack Fonseca, have caused public outrage over how the world's rich and powerful are able to stash their wealth and avoid taxes while many people suffer austerity and hardship.
...
With the fallout from the leaks reverberating across the globe, British Prime Minister David Cameron also came under fire from opponents who accused him of allowing a rich elite to dodge their taxes.

And in China, the Beijing government dismissed as "groundless" reports that the families of President Xi Jinping and other current and former Chinese leaders were linked to offshore accounts.

U.S. President Barack Obama said the Panama Papers showed tax avoidance was a major problem and urged the U.S. Congress to take action to stop U.S. companies from taking advantage of loopholes allowing them to avoid paying taxes.

"We’ve had another reminder in this big dump of data coming out of Panama that tax avoidance is a big, global problem," he told reporters.

Reuters, Tue Apr 5, 2016 5:41pm EDT
Iceland's leader resigns, first casualty of Panama Papers
By Kylie MacLellan and Ragnhildur Sigurdardottir
http://www.reuters.com/article/us-panama-tax-idUSKCN0X10C2


Are any Americans named in the leaked documents?
Are any Japaneses named in the leaked documents?

 「国際調査報道ジャーナリスト連合」(ICIJ)と提携する朝日新聞が分析・取材したところ、政治家ら公職者は見当たらなかったものの、医者や実業家らが資産や利益を租税回避地に移そうと試みていたことがわかった。

 兵庫県内の医師(60)によると、東南アジアで病院を開業しようとした際、香港のコンサルタント会社から勧められ、2011年に英領バージン諸島にある会社の株主になった。「病院で利益が出たらこの法人にまわす考えだが、今のところ余裕はなく、メリットは享受していない」という。さらに別の病院も開きたいと考えており、「海外からの投資を集める窓口としても使いたい」と語った。

 2012年8月には同諸島の別の会社で、日本の私立医科大学の現役教授が筆頭株主になった。この教授によると、抗がん剤の開発に資金を出してくれる人を探していたところ、中国人投資家が応じてくれた。バージン諸島に会社が作られ、そこに特許の権利を移した。将来、開発が実現し、製薬会社に権利を売却できた際に、売却益の1〜2割を受け取るつもりだった。

 ところが、設立直後、中国人投資家に連絡がつかなくなった。尖閣諸島問題で日中関係が悪化した時期と重なり、この教授は「政治的な事情が背景にあるのでは」と推測する。

 知的財産をタックスヘイブンなどに移してその利益への課税額を抑える手法はその年の秋、コーヒーチェーン大手のスターバックスなどで発覚し、社会問題になった。経済協力開発機構(OECD)の主導で規制強化が進められている。

 大分県内の実業家(41)は香港のコンサル会社から「前の日本人株主が手放したがっていて、手続きが早く済む」と勧められ、2013年6月にバージン諸島の会社を譲り受けた。「中国企業との間で環境関連商品の取引話があり、海外に口座を作る必要があった」という。その後、取引話はなくなり、この会社を利用することはなかったという。


2016年4月4日05時07分更新、朝日新聞デジタル(五十嵐聖士郎、編集委員・奥山俊宏)
租税回避地の秘密ファイル、日本からも400の人・企業(*)
http://digital.asahi.com/articles/ASJ417W4SJ41ULZU00D.html?rm=356

(*)
The Star, Published: Wednesday, 6 April 2016
Panama Papers: I am no longer involved in firms, says Nazifuddin
http://www.thestar.com.my/news/nation/2016/04/06/panama-papers-nazifuddin-i-am-no-longer-involved-in-firms/



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2016年04月05日

塩分

 伯方の塩。
 塩分、艶文、艶聞。

由紀さおりで『恋文』(1973年):
https://www.youtube.com/watch?v=OawgAFI0x0w

 県はこのほど、2013年の県民の健康寿命は男性で72・52歳、女性で75・78歳と、それぞれ全国1位だったと発表した。この結果に、後藤斎知事も「『健康寿命日本一』が山梨の魅力に加わった」と胸を張る。ただ、これまで県民の食塩摂取量が全国平均よりも多いなど、なにかと不健康な要素が多いと言われていたはず。この結果をどう読み解くべきか。

 健康寿命は、病気などで制限されることなく生活できる期間を示す。厚生労働省が国民生活基礎調査で「健康上の問題で日常生活に何か影響がありますか」との質問に「ない」と答えた人を年齢別に整理したものをもとに、3年ごとに算出している。前回(10年)は男性は71・20歳で全国5位、女性は74・47歳で12位だったという。

 県民の生活習慣については、食塩摂取量は全国平均より多く、1日当たりの歩数は少ないなど不健康な要素が多いとされてきた。県健康増進課によると健康診断の受診率は全国平均よりも高いといい、病気が早期に発見されて、健康寿命の伸びにつながっているとの見方もある。

 ただ、健康寿命の算定基準は「影響がない」と答えた人の数であり、主観に左右される。同課は今回の結果にかかわらず、今後も減塩などを訴えていく方針だ。


2016年1月20日03時00分更新、朝日新聞デジタル
山梨)県民の「健康寿命日本一」本当? 今後も減塩訴え
http://www.asahi.com/articles/ASJ186F99J18UZOB00V.html

 「塩分は高血圧や脳卒中の元凶である」
 「心臓病には、塩分の摂取を控えるべき」
 「糖尿病の人は、減塩食にすべきだ」……。
 こうした「塩悪玉説」が唱えられるようになって久しい。

 1950年代、日本に来た米国のダール博士が、鹿児島から青森までを調査した。当時、鹿児島の人たちの平均塩分摂取量は14g/日で高血圧の発症率が約20%だった。北に行くに従って、塩分の摂取量が増加するとともに高血圧も増加し、青森の人たちの塩分摂取量が約28g/日、高血圧の発症率が約40%にも達していることがわかった。そのため、「塩分=高血圧の元凶」と結論づけられたのである。

 この調査結果を受けて、1960年ごろより東北地方を中心に減塩運動が始まり、やがてそれが全国に波及していく。おかげで減塩醤油、減塩味噌、減塩梅干しなどが増えていった。それで、高血圧が減ったかというと、減るどころかむしろ増加傾向にある。いまや高血圧患者は5000万人もいるという。

 東北など寒冷な地域でくらす人たちが、大量の塩分をとる習慣があったのは、寒さを防ぐために必要だったからである。塩分は体を温める働きをもっているのだ。現在のように暖房が十分に発達していなかった厳寒の冬を乗り切るためには、塩分を多めにとって体を温める必要があった。もし当時、塩分を控えていたら、高血圧や脳卒中を発症するずっと前に、冷えから起きる肺炎や結核、リウマチ、うつ病などにかかって生命を落とす原因になっていたかもしれない。

 また、寒い地方の人々の高血圧の原因としては、冬の間に屋外での運動ができなかったこと、新鮮な野菜の摂取が不足していたこと、厳しい寒さそのものが血管を収縮させて血圧を上昇させていたこと等も考えられる。塩のみを高血圧の元凶とするのは間違いだろう。

 塩分は体に悪いのではなく、要は出すことなのだ。塩分は十分にとって体内で利用し、汗や尿で体の外へ排泄すればよいのである。というのは、塩分(特に化学的な合成塩の食塩ではなく、約100種類のミネラルを含む自然塩)には、新陳代謝を促して体温を上げたり、体内の有害物を解毒したりする作用があるからである。

 スポーツや入浴、サウナで十分に発汗する、あるいはニンジン・リンゴジュースや生姜入りの紅茶など利尿を促進する飲み物を飲んでいるという前提で、きちんと塩をとることは、健康を促進することはあっても、健康に害になることはない。

※本連載は『なぜ「おなかをすかせる」と病気にならないのか?』(石原結實 著)からの抜粋です。


2015年2月14日(土)PRESIDENT Online
高血圧は塩のせいなのか?
http://president.jp/articles/-/14576

 健康寿命と平均寿命の差は、2014年で男性が10.1歳、女性が13.2歳。
 これだけの期間、介護や支援が必要ということです。
 健康寿命を延ばすには、特に脳卒中を防ぐのが大事です。
 寝たきりになる原因の35.5%を脳卒中が占めているからです。
 筋肉は脳からの指示で動きます。脳に障害を負うとコントロールできなくなり、運動障害、すなわちロコモティブシンドロームになるのです。

 では、なぜ脳卒中は起きるのか。
 私は、
 食べ過ぎ、
 飲み過ぎ、
 働き過ぎ、
 怠け過ぎ、
 そしてたばこが、脳卒中の原因となる高血圧や糖尿病、脂質異常症、高尿酸血症などの生活習慣病、心房細動を招くと警告しています。

 このうち、心臓が不規則にふるえる心房細動は自覚症状がないことが多いのですが、心臓の中に血栓ができ脳梗塞(こうそく)につながります。
 心房細動からの脳卒中は重症になることが多いので、年1回は検査を受けてください。

 日本脳卒中協会は、3月9日を「脈の日」と定めています。
 自分で脈をしっかりチェックして、心房細動による脳梗塞防止を意識してもらうためです。
 また、「脳卒中予防10カ条」を作り、塩分や脂肪を控えめにし、体力に合った運動の必要性を訴えています。
 長時間座ると喫煙に匹敵するリスクを招きます。
 会議の時などは30分ごとに立つようにしましょう。

 脳卒中の前触れに一過性脳虚血発作というのがあります。
 突然、片方の手がまひしたり、ろれつが回らなくなったりして短時間のうちによくなります。
 これが起きると、3カ月以内に10〜15%が脳梗塞を起こし、その半数が発作から48時間以内です。
 必ず病院へ行ってください。

 脳卒中を発症した時は時間との勝負です。迷わず救急車を呼んでください。

脳卒中予防のポイント

▼ 高血圧が最も要注意。上は140、下は90まで
▼ 自分で脈のチェック。不規則かなと思ったら心電図検査を受けよう
▼ きちんと服薬。高血圧や糖尿病、不整脈(心房細動)も薬で脳卒中のリスクが軽減できる
▼ まず禁煙。2年たつと効果あり
▼ 食べ過ぎない。脂分は控え、食物繊維をとろう。脳の加齢を抑える魚や野菜を多くとり、赤ワインを 適量飲む地中海式食事がお勧め
▼ 塩分の取りすぎを防ぐため、酢やレモン、コショウ、サンショウなどで味付けに工夫を
▼ 体力に合った運動を。毎日やるなら30分以上、できれば60分。男性 は9200歩、女性は8300歩歩こう
▼ 体重チェックを怠りなく。標準体重は身長(メートル)の2乗x22


塩分と脂肪、控えめに 日本脳卒中協会理事長、国立循環器病研究センター名誉総長・山口武典さん

2016年3月9日付け毎日新聞東京朝刊
毎日新聞「学んでのばそう健康寿命キャンペーン第1弾」
シンポジウム「今日から始める脳卒中・ロコモ予防」

http://mainichi.jp/articles/20160309/ddm/010/100/023000c



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2016年04月04日

陽光桜

陽光.JPG

 4月4日月曜日、上野公園への俳諧の道。
 出会いました桜「陽光」!
 ヤッホー君のこのブログ、3月20日付け日記「ベートーベンの春」に張らせていただいた「佃公園の桜」と同じ品種。
 いやぁ〜、まさかまたお会いするとは。
 きっと日記につけてって言われているんだろうと思い、以下記します。
 どこからいこうかな、まず映画:

陽光桜 -YOKO THE CHERRY BLOSSOM-』(2015年11月公開)予告編
https://www.youtube.com/watch?v=kZKYVAQcQk0

http://www.movie-yoko.com/

 この桜の開花のニュースが:
 
 我孫子市の手賀沼公園にある「陽光桜」が咲き始めた。
 平和のシンボルとして知られ、今年2016年1月に「我孫子市原爆被爆者の会」のメンバーが植樹した。
 木の周りには、平和を願うモニュメントがあり、被爆者らは「花を見ながら、平和について思いをはせてもらえたら」と願っている。
 陽光桜は、愛媛県の元教師の高岡正明さん(1909〜2001年)が戦時中に、教え子たちを戦地に送り出したことへの償いと鎮魂のため、開発した。
 およそ30年かけて品種改良を重ね、病気や暑さ、寒さに強い、濃いピンク色の大きな花を付ける陽光桜を誕生させた。
 反戦と平和のシンボルとして、世界中に植えられている。
 我孫子市は昨年から、手賀沼周辺にあるサクラを生かしたまちづくりを進めてきた。その中で、陽光桜の逸話を知った星野順一郎市長の提案で、手賀沼公園に植えることが決まった。
 戦後70年の平和事業に取り組んできた「被爆者の会」のメンバーは1月、被爆した旧広島市庁舎の壁と敷石で作った「平和の記念碑」の脇に植樹した。
 近くには昨夏に、広島市の平和記念公園から分火を受け、常時点灯をする「平和の灯」もある。
 会長の宮田将則さん(75)は、ほころび始めた花を眺め、「植えたばかりなのにきれいに咲いてうれしい。公園のこの一角が、次世代に平和を伝える象徴になった」と笑顔。
 陽光桜を紹介する案内板の前で、「かわいい花だね」とほほ笑み合う親子の姿を見ながら、宮田さんは
サクラの由来を知ると、平和への思いが一段と深まる。毎年咲き続けて、いつまでも花見を楽しめる平和の世であり続けてほしい」と話した。 


2016年3月31日付け東京新聞(三輪喜人)
平和の陽光桜 我孫子に咲いた 「被爆者の会」が1月に植樹
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201603/CK2016033102000207.html

 「陽光(ようこう)」という桜の種類をご存知でしょうか?
「陽光」は鮮やかなピンク色が特徴で、「ソメイヨシノ」と比べて見ごろが早く、愛媛では3月下旬から4月上旬に咲く桜です。

 実は、当社「伯方の塩」初代社長の故高岡正明氏がこの桜の生みの親なのです。

 高岡氏は先の大戦中に青年学校の教員をしており、多くの教え子たちの戦死を目の当たりにしました。戦後、その教え子たちの鎮魂と世界平和を願って各地に桜を贈ることを決意。
 しかし、当時どんな土地にでも適応する桜はありませんでした。そこで、200種類もある桜の中から交配を試し続け、ようやく寒さに強い「アマギヨシノ」と暑さに強い「タイワンヒザクラ」を選び出し、25年かけて生まれたのが「陽光」なのです。

 2009年9月30日に愛媛県伊予郡砥部町(とべちょう)の赤坂泉にて、高岡氏生誕100周年を記念し、NPO団体「日本さくら交流協会」によって建てられた顕彰碑の除幕式が行われました。
 子息の高岡照海氏は
 「父は死ぬまで世界平和のため桜の交流に力を注ぎましたが、私も死ぬまで携わりたい」と決意を述べられました。

 赤坂泉は「陽光」と「ソメイヨシノ」が160本植えられた重信川の土手沿いにあり、お花見の名所として地元では有名です。
 ぜひ3月には「陽光」で一足早いお花見を!


2009/10/9「伯方の塩」
「陽光」桜の父、初代高岡社長の顕彰碑が建てられました!
http://www.hakatanoshio.co.jp/news/blog/news/news_125.html

〜見ている人に向いて咲く〜
 父、高岡正明は、1940(昭和15)年から青年学校で教鞭をとっていました。
 戦争開戦で、村の若者は次々と戦場に駆り出された。
 「日本は強い国だ、絶対に負けない国だ」と言い聞かせ、数百名の教え子の出征を見送り「絶対に負けない」ほんとうに父は心からそう信じていたそうです。
 1945(昭和20)年終戦。
 戦争中もそして戦後も教え子たちの戦死の知らせが次々と父のところに届いた。
 「私はなんということを生徒たちに話してきたのだろう!」
 父は落胆と自責の念で胸が張り裂けんばかりだった。
 泣きながら毎日自分を責めて暮らす日々が続いた。
 あのきれいに咲いたさくらの下で記念写真を撮った生徒の一人一人の面影を思い出して、できるなら教え子一人一人の亡くなった地を訪ね、供養をして歩きたい、そんな思いにかられたこともあったそうです。
 終戦後、青年学校もなくなり父・正明は狭い畑を耕しながら細々と暮らしを続けていたそうです。
 そんなある日、父が青年学校の跡地を訪ねた折、ふと見上げると、思い出の校庭にさくらが満開に咲いているのを見て、当時の教え子たちとの思い出が次から次へと脳裏をよぎったそうです。
 父はその時決心し
 「二度と戦争のない平和な世界は自分たちの手でつくらなければならない。そのためには生徒一人一人の命の証であり平和の象徴でもあるさくらをつくり、世界に広めてゆくことが自分の残された人生の最大の仕事だ。世界を視野に、どこにでも適応できる桜を開発する必要がある」と考えました。
 その後の父の執念には凄まじいものがあった。
 私財を投げ出し、新しいさくらをつくるため日本中を尋ね歩く日々が始まった。
 尋ねた土地から色々な品種のさくらが自宅に届けられた。
 朝から晩まで毎日々文字通りのさくら、さくらの日々が続き、失敗を繰り返しながら、品種改良に没頭し、20数年が経過、ようやく病気にも強く、厳しい気候にも耐えうることを発見、この時にようやく今までにみたこともない大輪で紅色の強い丈夫な品種が誕生し、新しいさくらとして注目されるようになりました。
 父はこの新しい品種のさくらを「天地に恵みを与える太陽」という意味を持つ「陽光」と名づけた、以来この「陽光」の量産に取り組み、おかげさまで、ようやく、花期、花色、樹勢ともに満足できる新しい桜「陽光」を完成する事ができました。
 日本では戦国時代には、散り際のいさぎ良さが尊ばれてまいりました。
 俳句の世界では単に「花」と言えば「桜」を指すきまりになっており、いつの時代でも桜が日本人の心と深く結び合ってきたことがわかります。
 今、桜は日本人の平和と繁栄の象徴として、各地に新しい「桜並木」や「桜群落」を形成し始めています。
 国外では尾崎行雄(旧東京市長)が贈ったワシントン・ポットマム河畔の桜が有名ですが、弘法大師ゆかりの中国・西安市へ四国の友好団体が寄贈した1,000本や、杉原千畝が6,000人のユダヤ人に命のビザを発行した、リトアニア共和国の1,200本の桜が開花するようになりました。
 「バチカン法王庁の庭園で桜を見た」というお便りをいただき、特徴の花色から父がローマ法王にお贈りした「陽光」とわかり大変感激いたしました。
 父は2001年9月、享年92才歳で亡くなりましたが、無償で寄贈した桜の苗木は約5万本余でした。
 日本の花「桜・陽光」が国際親善や国土緑化に役立っており、桜が平和と友好国際交流の一役を担ってくれています。
 多くの国々の方々の生活や交流の場を益々豊かに彩ってくれることを願って、現在も年間約3000本のさくらを日本はもとより、世界各国に無償で贈りつづけています。
 これからも日本とトルコの交流の輪が広がります事を希望いたしましてご挨拶とさせて頂きます。


2005年10月23日 高岡令恵(のりえ)トルコへの旅でのスピーチ
平和のさくら「陽光」誕生秘話
http://sakura-yoko.org/turk_tour2007_s02.html

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2016年04月03日

平成28年4月3日夕刻

 4月3日は山歩クラブの爽快(総会を爽快と呼びならわしているって、そうかい?)。
 ヤッホー君、花見の宴でにぎわう清澄公園を通りました。

清澄公園.JPG

 さらに、富岡八幡宮の桜を横目に見ながら俳諧の道。

富岡八幡宮.JPG

 なかに入ると、じゃじゃじゃ、じゃ〜ん、あの方の銅像が!
 俳諧の道ではなく測量の旅姿:

伊能忠敬銅像.JPG

 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をご参照あれ:
☆ 2010年9月10日「秋山紀行」
☆ 2016年3月22日「北のソノリテ」

 仲間の若松さんが、銅像は佐原にもあるって教えてくださいました(香取市佐原公園)。
 さすが、物知り揃いの山歩クラブ、何も知らない無知蒙昧、あんぽんたんのヤッホー君はへぇ〜と口をぽかんと開けたまんま。

 佐原の人びとは、伊能忠敬(いのう ただたか)のことを、尊敬と親しみを込めて『いのう ちゅうけい』と呼びます。
 私も小さい頃は、『ちゅうけい』が正しい読み方だと信じていました。
 また、佐原小学校の校歌の中でも『ちゅうけい』と歌われていました。
 その忠敬が、生涯学習時代や高齢化社会の今日、日本を代表する希望の星として注目を集めています。
 1998(平成10)年5月22日(金)に、忠敬の業績と生涯を展示した「伊能忠敬記念館」(佐原市、現香取市佐原イ1722−1、忠敬旧宅の小野川対岸)が開館しました。


伊能忠敬記念館のページ
http://www.sawara.com/tadataka/

 佐原市が生んだ伊能忠敬翁は、江戸時代の世界的な地理学者として、広く知られております。
 1995(平成7)年は翁の生誕250年ということから、佐原市といたしても、その偉大な業績を顕彰するために、いくつかの行事をおこなってまいりました。
。。。
 永年の念願でありました新伊能忠敬記念館(仮称)の建設については、昨年、建築の実施設計を完了し、本年1月9日には起工式を執り行ないました。
 1998(平成10)年の開館を目途にしております。


佐原市長・鈴木全一
「伊能忠敬研究会」の発足を祝して
http://www.inopedia.jp/img/f_users/r_7881714img20100406145603.pdf

 そうなんですね、「伊能忠敬研究会」!イマ名誉代表の渡辺一郎さん(1929年生まれ)はこんなことをおっしゃっておられます:

 この10年間、第二の人生の達人・伊能忠敬さんは、若い人たちには努力の積み上げの大切さを教え、
 壮年には第一歩を踏み出す勇気を与え、
 中高年にはまだまだこれからだ、という元気を与えました。
 いっぽうで語らずして世の人びとに、地図、測量の仕事の重要性を知らしめる役割も果たしております。
 一歩を踏み出す勇気と、たゆまぬ努力を続ける愚直さを持った忠敬さんを、ますます多くの人びとに知れ渡るよう努力しなければと考えてここまできました。。。


2004年、伊能忠敬研究第38号
渡辺一郎 ドキュメント伊能忠敬研究会10年の歩み、伊能大図214枚史上初の全国公開まで
https://www.inopedia.tokyo/side01/r_10787743img20100720112850.pdf

 近代的日本地図の先駆者、伊能忠敬(1745〜1818)が日本列島を歩いて測量した際、宿を提供したり測量を支援したりした人たちの子孫を、研究者らでつくる「伊能忠敬研究会」が探している。
 ホームページで2016年2月15日から、伊能の測量日記を基にしたのべ1万2千人の人名を公開。
 没後200年にあたる2018年に、子孫の人たちに感謝状を贈呈したいという。

 「大日本沿海輿地(よち)全図」を作成した伊能忠敬は、測量の際、毎日の作業内容や沿道の人々の協力の様子などを日記に記していた。
 研究会は、後に清書した「伊能忠敬測量日記」(28冊)を電子化。
 これを基に研究会の関連ホームページ「伊能忠敬e史料館」の「伊能測量旅程・人物全覧」(http://www.inopedia.tokyo/database/)に協力者らの人名を公開した。
 現在の市区町村別に検索できる。

 研究会の渡辺一郎名誉代表は
「日記をみると測量隊の行く先々では、郷土の名誉をかけて支援しているのがわかる。先祖が江戸の国家事業に参画したという誇りを持っていただきたい」と話している。


2016年2月16日05時08分更新、朝日新聞デジタル(上林格)
伊能忠敬に協力した人の子孫どこ? 1万人余の氏名公開
http://www.asahi.com/articles/ASJ2H5SQ0J2HUCVL03X.html

ほか参考資料には:

井上ひさし『四千万歩の男 忠敬の生き方』(講談社文庫)

伊能図への道のり(NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会が、簡単な言葉を選び伊能忠敬の偉業を解説)  
https://www.youtube.com/watch?v=mrP9ON2rMJE



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2016年04月02日

慶応4年4月3日夕刻

 4月2日土曜日、ヤッホー君は千葉県流山市への俳諧の道。

 地元の言い伝えでは、その新選組残党が流山入りしたのは3月20日頃といい、近藤は大久保大和、土方は内藤隼人と名乗り、20数名であったといわれる。
 なぜ、流山を選んだかは不明であるが、当時の流山は江戸川の水運によって大いに栄えており、幕府や水戸浪士が付近にいたこともあって、兵力増強の上でも適地であったと思われる。
 近藤勇が本陣に選んだのは、酒造家長岡屋で、日増しに集まる兵士のために諸家に分宿したという。
 後に、長岡屋は志摩屋を経て現在は鰹H元となっている。

 一方、官軍の東山道隊は、板橋にあり、参謀は香川啓三であった。
 4月1日板橋を出発して粕壁(春日部)に宿陣したが、流山に賊徒が集まっているとの情報を同隊は聴取した。
 4月3日、香川の指揮する一隊が「羽口の渡」を渡って長岡屋にせまって来た。
 香川は交渉のため、先遺隊を長岡屋におくったところ、大久保大和と名乗る代表が出てきた。
 もちろん、このときは近藤や土方がいるとは夢にも思わなかったが、かつて旧御綾衛士で伏見襲撃組の一人であった加納道之助(又は渡辺九郎衛門ともいう)という隊上が近藤勇であることを見破ってしまう。

 近藤勇はこの時すでに時勢の流れを見極め、これ以上官軍と戦うことは徳川慶喜公の志にそむき、流山に兵火を上げることは町の人々を苦しめることになると判断し、自ら名乗り出る決意を固めた。
 近藤勇が自首したのは、慶応4年4月3日の夕刻と言われている。
 近藤勇は情の人、逆心の無い人といわれ、これを物語る勝沼のエピソードがある。
 近藤勇が官軍とくらべていかにも小勢であったため、民兵の一隊を送ろうとした人に「相手は先頭に錦の御旗を立てている天朝方の軍であるからその必要はない」と、民間人までも朝敵といわれないように心づかったという。

 幕末史に大きな波乱を残した近藤勇は板橋に護送された。
 近藤勇の処置については、官軍の中でも賛否両論であったが、ついに3週間後の4月25日、板橋の露と消えた。
 時に近藤勇35歳の若さであった。


流山市観光協会のホームページ
流山は、新選組局長 近藤勇と副長土方歳三の最後の別れの地です。
http://nagareyamakankou.com/sinnsenngumi/sinnsenngumi.html

 ながれやま、流山、近藤勇…
 ヤッホー君のこのブログ、2012年11月9日付け日記「近藤勇」をご参照ください。
 ながれやま、山? 赤城山?

 流山のまちは江戸川に面した低地上に開けた。
 太古は海のなかであり、地球の寒冷化により海退が起こると、太日川流域のデルタ地帯になった。
 その低地に椀をふせたような海抜15メートルの小山がある。これが赤城山であり、山頂に赤城神社が祀られている。伝説によると、
 「そのむかし大洪水によって上州赤城山の崩れた土塊が流れついたのがこの小山であり、“山が流れてきた”から“流山”という地名がついた」となっている。


流山市観光協会のホームページ
赤城山と流山の地名のおこり
http://nagareyamakankou.com/index.html

 ここに国際HPHネットワークの登録施設「東葛病院」(流山市下花輪409 Tel 04-7159-1011)があります。
 
 昨年2015年、当院は、国際HPHネットワークの登録施設となりました。
 日本でも、国際HPHネットワーク日本支部が結成され、各地でさまざまな取り組みが行われています。
 東葛病院がある流山市は、2007年1月に「健康都市宣言」を発表し、4月には健康都市連合日本支部に加盟し、WHOが提唱している健康都市の理念に基づいた施策を策定しています。
 当院は医療機関として、病院の中だけでなく、健康に暮らせる地域づくりのために、病院外での活動にも、共同組織のみなさんや地域のみなさんとともに、旺盛に取り組んでいきたいと考えています。
 ご一緒に頑張っていきましょう。
<説明>
 地域の健康づくりに貢献する「健康増進活動拠点病院」(HPH)の「HPH国際ネットワーク」。
 誕生のきっかけは、1986年にWHOが採択したオタワ憲章です。
 「ヘルスプロモーション」(健康増進)という理念を掲げ、「人びとが自らの健康をコントロールし、改善できるようにするプロセス」と定義しました。
 このヘルスプロモーションを地域で実践する病院(HPH)を世界に広げるため、国際ネットワークが1990年に発足しました。
 世界43ヶ国・約1000施設が加盟。現在加盟している日本の施設は22施設(2015年2月末現在)です。
 同ネットワーク事務局長のハンヌ・ターネセン医師(スウェーデン・スコーネ大学病院教授)は、「民医連と共同組織(友の会)の活動こそ、HPHのすばらしい実践例」と発言しています。


2016年1月号『病院だより』「東葛の健康」
新病院の活動展望
http://www.tokatsu-hp.com/tayori/no378.html

 この病院の裏の土手には菜の花がイマ満開に咲き誇っておりました!

菜の花.JPG

 東葛病院は1982年の開院から30年余りが経過しました。この間、旧東葛病院の事実上の倒産・再建運動から1993年の東京勤労者医療会への法人合同、2003年の旧東葛病院の住民債返済完了を経て策定した法人「新3カ年計画」の中で東葛病院の建替えが計画されました。残念ながら、診療報酬引き下げもあって経営が悪化、計画の凍結を余儀なくされました。

 しかし東日本大震災が起き、築30年の東葛病院も被災したことを契機に、建替え議論が急速に進むことになり、震災の3ヶ月後には新病院建設を視野に入れた医療構想委員会が発足。約半年間の集中討議を経て11本の柱からなる医療構想が策定されました。
 一方で、資金調達や土地の確保といった新病院計画を可能にする条件面は厳しいものがありましたが、幸いにして現在地から2キロほど離れた「つくばエクスプレス・流山セントラルパーク駅」前の4300坪の千葉県所有地を落札することができ、また、福祉医療機構から長期・低利で建設費の8割の融資内定を得られたことで、新病院建設計画を進めることができました。
 新病院は2014年1月着工、2015年12月竣工、2016年5月開設の予定です。


東京民医連
東葛病院が新築移転へ
http://www.tokyominiren.gr.jp/01about/02new/2014/0979/0979_1.html

新しい東葛病院.JPG

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2016年04月01日

HPH

 エープリルフールはこれで。
中条きよし(1946年生まれ)で「うそ」(1974年):
https://www.youtube.com/watch?v=iAy5kThMkVI

 気が重いヤッホー君、足が重いヤッホー君、「笑い」たくとも作り笑いにしかならない絶不調のヤッホー君。
 ヤッホー君のこのブログ、おとといの日記「笑って暮らすことができる毎日」でご紹介申し上げた近藤尚己先生は「日本HPHネットワーク」の役員をなさっておられました。
 HPHってなに?
 いまからもう30年も前にさかのぼります:

◆「ヘルスプロモーション」という健康概念
 1986年、カナダのオタワで開催された世界保健機構(WHO)の会議で、「ヘルスプロモーション」という新しい健康観が提案されました。
 「ヘルスプロモーション」とは、「すべての人々があらゆる生活場面で健康を自らのものにすることができる社会を創造する」ことを指し、健康的な生活を送るための技術や能力を高めることを個人だけに求めるのではなく、それを支援する環境を社会的、経済的、政治的に作り出すことが強調されています。
 その「ヘルスプロモーション」を、病院という環境で実践するために提起されたものが、HPH(Health promoting hospitals and services:健康増進活動拠点病院)で、市民が健康に働き暮らすことが可能な支援的環境づくりを病院の使命と自認する病院を指します。
 HPHのネットワークは世界に広がり、日本では2008年に福岡県の千鳥橋病院が初めて加入、青森県の健生病院は2012年8月に加入しました。

2013年1月10日掲載
健生病院は、HPH(健康増進活動拠点病院)の認定病院となりました。
http://www.kensei-hp.jp/osirase/HPH.html

 「健康なまちづくり」「幸福・公平・公正な社会の実現」掲げ35組織で2015年10月17日、東京都内で日本HPH(Health Promoting Hospitals & Health Services)ネットワーク(略称:J―HPH)結成総会と結成の集いが開かれました。
 発起人、関係者など約120人が参加しました。
 全日本民医連はヘルスプロモーション活動を重視し、日本の主な病院団体・学会などに積極的な参加を呼びかけてきました。
 国際HPHネットワークは、1986年にWHOがヘルスプロモーションについて定義したオタワ憲章にもとづき、その実現をめざす組織です(1990年発足、43ヶ国の約900の病院・施設が加盟)。
 J―HPHは同ネットワークに加盟する日本国内の35病院・施設で構成し、患者、職員、住民の健康水準向上をめざし、住民や地域社会、自治体等とともに、健康なまちづくり、幸福・公平・公正な社会の実現をめざします。

2015年11月3日掲載
日本HPHネットワーク結成
http://www.min-iren.gr.jp/?p=25220

 日本では、病院などのヘルスサービスがヘルスプロモーションを先駆的に実践してきた歴史があります。
 長野県の佐久総合病院は、公的な医療保険制度がない時代から出張診療を実践し、「農民の暮らしの中」に病気の原因を見出し、地域住民、自治体とともに、その改善に取り組んできました。
 また、旧八千穂村で実践された全村健康管理の成果は、のちに、老人保健法の施策に取り入れられました。

 民医連に加入する施設もヘルスプロモーション活動を旺盛に展開してきた歴史を持っています。
 その特徴は、地域住民(友の会、医療生協組合員)とともに活動を進めている点です。
 例えば、友の会や生協組合員と主に、地域で健康教室を開催し、健康づくりを進めています。
 とりわけ、生活困窮者を対象とした支援を重視し、街頭での無料の健康と生活相談、無料低額診療の提供を全国各地で行っています。

 日本は、超高齢社会と健康格差の拡大という大きな困難に直面しています。
 特に、独居高齢者のように社会的立場が脆弱な高齢者の生活を支えることが医療と介護の現場でも大きな課題となっています。
 経済的に困難を抱えるために、病気を持っていても受診できない患者も少なくありません。
 こうした時代においては、ヘルスサービスが地域住民とともに実践するヘルスプロモーション活動の地域社会に貢献できる可能性はとても大きいものだと考えています。
 日本のネットワークでは、今までにネットワークに参加する病院が実践してきたヘルスプロモーション活動を基盤として、相互の交流や、国際ネットワークとの交流を通して、公正で公平な社会と健康な地域づくりに貢献していきたいと考えています。


J―HPH NEWSLETTER DEC 2015 No.1
日本HPHネットワーク コーディネーター 舟越光彦(千鳥橋病院)
http://hphnet.jp/common/images/pdf/Newsletter01.pdf

 わかりやすい動画をどうぞ:

HPH運動発展にむけてターネセン教授メッセージ
 2012年9月15日と16日、全日本民医連主催で初めて行われたHPHセミナーで講演をしてくれたハンヌ・ターネセン教授から民医連・共同組織にあててメッセージが届きました。
 教授はデンマークにあるWHOCC(WHO協力センター)の所長であり、国際HPHネットワークの事務局長でもあります。HPHの20年の歴史を担い発展させてきた中心人物です。
https://www.youtube.com/watch?v=pghsOHl_M0g&feature=youtu.be

★ さあ始めよう!HPH
 2013年3月、全日本民医連医療部制作。
 WHOが進めるHPH(Health promoting Hospitals & Services)を「千鳥橋病院」の実践などをからめながら、わかりやすく説明したビデオ。
https://www.youtube.com/watch?v=Q2od9HD43QQ&ebc=ANyPxKrEj8mWpe3GMjcfmZV3yYa8LOqoa4tM9bl72FfEtAh6E5paY-0j_jy1t7NEmIQycVAc1_-CK1knYZ5LUNQ42VeWcnvUWA

 今年、2016年6月8〜10日、アメリカ・エール大学で「第24回HPH国際カンファレンス2016 in コネチカット」が開催されます!



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