2016年03月31日

新垣毅

 ね、もう少し、新垣毅さんを取材してみませんか。
 まずは、書評をもう一本:

◆ 歴史に光、独立も視野
 本書は、琉球新報の連載記事「道標(しるべ)求めて−琉米条約160年 主権を問う」を一冊の本にまとめたものだ。国家を相対化し、その呪縛から抜け出すための「道標」を探る連載が計100回、9ヶ月半もの永きにわたって続いた。
 民意を踏みにじって新基地建設が強行されている沖縄では、人びとがそれぞれの現場で異議申し立ての声を上げている。状況に言葉を与え、さらに状況から抜け出る道を示す本書は、「沖縄問題」の本質を理解する上で示唆に富むものだ。

 本書は前半部で、これまで「日本史」が無視、あるいは誤って伝えてきた「琉球併合」の歴史の細部にまで光を当てる。
 併合の事実を国内問題として矮小化(わいしょうか)し隠蔽(いんぺい)しようとした明治政府と、それを国際問題化することで各国の支持を得ようとした琉球の立場は真っ向から衝突した。
 琉球・沖縄の近代史は当初から国家の暴力と無関係ではあり得なかったわけだが、そこに大国の思惑が絡まることで、その後の歴史はさらに複雑なものとなった。重要なことはしかし、抑圧の構図が現在も沖縄を縛っていることだ。

 本書はいくつかの打開策を紹介している。自治州から独立まで、その方法は様々だが、自己決定権を求めるという点では一致している。
 沖縄は不退転の決意で動き始めている。
 今こそ、国家に翻弄(ほんろう)されてきた歴史に終止符を打つために。


2015年7月19日付け東京新聞<書評>
『沖縄の自己決定権』(編著:琉球新報社・新垣毅、高文研) 
[評者]田仲康博=国際基督教大教授

http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2015071902000179.html

 たとえば、どういう「道標(しるべ)求めて−琉米条約160年 主権を問う」の記事かと申しますと:

 琉球国が1855年にフランスと交わした琉仏修好条約のフランス側の原本が、フランス・パリ東部に隣接するヴァンセヌ市の海軍公文書館に保管されていることが2015年2月7日までに分かった。
 琉球国は前年の1854年に米国と、1859年にはオランダと同様の条約を締結した。

 フランスを合わせた3条約の琉球側の原本は現在、外務省外交史料館に保管されている。
 フランス側の原本が確認されたことで、フランスは当時、琉球国が主権を持つ独立国家と認識していたことが裏付けられた。

 フランス側の原本は、フランス科学研究センター名誉教授のパトリック・ベイヴェール氏が確認、2013年に写真撮影した。
 条約原本の大きさは、外交史料館にある原本(縦約36センチ、横約38センチ)とほぼ同じとみられる。表紙はなく全4枚で、漢文と仏文で書かれ、琉球王国の印と、フランスのゲラン提督のサインがある。ゲラン提督の航海史料の中につづられているという。条約は11カ条で構成。両国人民の友好、商品の自由購入の保証、土地・家屋・船舶などをフランス側が借用することなどをうたっている。第10条では、琉仏両国の違法者はお互いの法で処罰すると規定している。フランスは条約を批准していない。

 琉球側の原本については、琉米条約、琉蘭条約とともに1874(明治7)年5月に明治政府によって没収され、外務省が保管している。これら修好条約3原本は2015年2月27日から浦添市美術館で展示される。

 国際法の専門家は「3原本は琉球が当時、国際法の主体として主権を有していた証し」と指摘しており、今回フランス側の原本が確認されたことで、沖縄の自己決定権拡大や「主権回復」を求める議論に影響を与えそうだ。


2015年2月8日08:35更新、琉球新報(新垣毅)
琉仏条約、仏にも原本 「琉球は独立国」認識
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-238566.html

 こうした取材に対し、新垣毅記者は2015年、「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」を受賞します:

 膨大な記事をお一人で丹念に取材してきた、エネルギーと努力が感じられます。
 沖縄のプライドを発揮しようというモチーフが、全体をよく貫いています。
 沖縄の皆さんに対して、私たち本土に住むものは本当に申し訳ない、と日々思っているのですが、この作品はある種の被害の意識を抜け出して、自己決定権、自決権ということをテーマにし、琉球王国以来のプライドを持ってきた、ということを証明しようとしています。
 
 辺野古では海上保安庁と本土から入った機動隊が日夜デモ隊を弾圧しています。
 そのなかにあって、沖縄の人たちがプライドを持っている、ということに励まされます。
 本作品は、琉球王国の時、諸外国と条約を締結していた一個の独立国であった、という事実を掘り起こしています。
 本土と沖縄の関係が緊張するなか、どう私たちが沖縄と連帯してゆくか、という考察の導きの糸となる作品です。

Posted: Fri, 11 Dec 2015
公共奉仕部門 大賞
沖縄の自己決定権を問う一連のキャンペーン報道〜連載「道標求めて」を中心に〜
琉球新報社 編集局文化部記者兼編集委員 新垣 毅氏
講評:鎌田慧委員

https://www.waseda.jp/top/news/35621

 取材の発端は、社長から「来年が何の年かわかっているか?琉米修好条約から150年だ」と聞かされたことです。
 琉球王国が外交権を持っていた時代とはどのようなものか調べろ、というミッションでした。
 そこで、学生時代以来かもしれませんが、多くの本や資料を読みました。
 するとあまりに不条理が多い。
 特に1879年の琉球処分がどれだけ理不尽なものか、よくわかりました。

 私は米兵少女暴行事件から沖縄の問題に関わり始めました。
 それから20年経ちましたが、この事件をきっかけとして交渉が開始された普天間基地問題は、ますます対立と混迷を深めています。
 この20年何をしてきたのか、私の娘たちに何を残すのか、を考えながら書きました。
 これは20年というスパンの話ですが、一方で70年というスパンの問題もあります。
 沖縄戦経験者は、基地が残っていることによって、トラウマにナイフが刺さったままなのです。
 しかしこの作品が主張しているのは、単に沖縄戦から不条理が始まるわけではない、琉球処分の本質を見なければならない、ということです。
 今と全く変わらない─その驚きのあまり筆が進みました。
 沖縄が道具にされてきたこと、すなわち沖縄戦では捨て石にされ、戦後は安保の貢物にされてきた、そういう道具扱いはやめてください、という主張です。
 植民地主義と決別しましょう、それが、いま沖縄がやっている沖縄の自己決定権の戦いです。
 植民地主義との決別は、沖縄にとってだけでなく、日本にとっても大きい意義を持つのです。
 沖縄への基地集中をやめることで、沖縄を平和の要として生かし得るからです。
 植民地主義との決別の窓口、アジアとの共生の登竜門、第一歩として。

 さらに、立憲主義や国民主権が破壊されている今日、これに対して本当に声を上げなければならないのは日本国民です。
 沖縄の戦いは、その先駆になるのではないか、辺野古の戦いは日本の自主決定権の先触れではないか、と思います。

 琉球新報は今回で3回目の受賞です。
 私たちには先輩方から受け継いでいる精神があります。
 「ハブ噛み魂を忘れるな」というものです。
 ジャーナリズムは権力の番犬、という言いかたをよく聞きますが、番犬は手なづけられるかもしれませんよね。
 でもハブは、そういうわけにはいきません。
 今後もハブ噛み精神を持って頑張って行きたいと思います。


第15回「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」贈呈式
受賞者あいさつ
公共奉仕部門 大賞 受賞者 新垣毅氏の挨拶

https://www.waseda.jp/top/news/35621

 へえ、「処分」ですかぁ:

◆ 球処分と天皇の沖縄メッセージ
 普天間基地問題が論じられる時によく使われるようになった言葉の一つに「琉球処分」という言葉がある。
 これは歴史書によれば明治政府が琉球王国を強制的に日本の領土にしたことをいう。
 具体的には1872年に琉球王国を琉球藩とし(第一次琉球処分)、1879年に廃藩置県に従って琉球藩を沖縄県にした(第二次琉球処分)ということである。
 しかし、そのような面倒くさい定義を離れ、琉球処分とは「沖縄県民の意向を無視して日本政府の都合で沖縄の命運が決められた」というような意味で使われていいと私は思っている。
 そして琉球処分は戦後一貫して沖縄で繰り返されてきたのだ。

 その直近の例が、嫌がる沖縄県民の声を無視する形で普天間基地代替施設を辺野古周辺に作ると決めた日米共同声明であったことは言うまでもない。

 ところで、この琉球処分について、東京新聞が、沖縄文学専攻の与那覇恵子東洋英和女学院教授の手になる、「文学は沖縄をどう描いてきたか」という記事を三回にわたって連載していた。
 それは沖縄出身の作家の文学作品を紹介する形で、沖縄における「琉球処分」が戦後も繰り返され、その結果として基地が固定化され、沖縄が閉塞社会に押し込まれてしまった事を書いたものであるが、その連載第一回(6月23日)に、さりげなく、しかしとても深刻な文章が書かれていた。私はそれを見逃さなかった。
 それは次のような文章である。

 「・・・天皇がマッカーサーに伝えたといわれる『合衆国が沖縄および琉球の他の諸島を軍事的に占領し続けることを望んでいる』という『天皇メッセージ』が明らかになるのは1979年である・・・」

 この新聞記事を読んだ一般国民の果たして何人が、この文章の深刻な意味を理解したであろうか。
 私が近著『さらば日米同盟』(講談社)の中で問題提起した一つがまさにこの昭和天皇の「沖縄メッセージ」であった。
 そこで引用した豊下楢彦氏の著書『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)の中にに次のような指摘がある。

 「・・・沖縄における米軍の占領が『25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション』のもとで継続されることを望むという、有名な(昭和)天皇の『沖縄メッセージ』がマッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられたのは、(第4回の天皇・マッカーサー会談が行なわれた1947年)9月20日のことであった。
 このメッセージが(昭和)天皇自身の意思で出されたことは『入江相政日記』(第10巻)における、『アメリカに占領してもらふのが沖縄の安全を保つ上から一番よからうと仰有ったと思う旨の仰せ』(1979年5月7日付)、との記述によって確認された・・・」

 昭和天皇による沖縄メッセージ。これこそが琉球処分である。今日の沖縄問題の原点がここにある。
 あなたは昭和天皇の「沖縄メッセージ」を知っていましたか。

 もし我々日本国民の一人一人がこの歴史的なメッセージの事を正しく認識しているなら、沖縄県民が日本政府と日本国民にどのような要求を行なおうとも、それは許されることだと知るだろう。
 日本政府と日本国民は沖縄県民に対し、いかなる償いをしても償いきれないことを知るに違いない。

 それにもかかわらず、沖縄県民の意思よりも米国政府の要求に応えることを優先する政府。
 よりによって沖縄慰霊の日の挨拶で沖縄県民に米国と一緒になって更なる負担を求めて感謝する政府。
 そのような政府、政権とそれを演出する政治家と官僚たちには、いかなる意味においても正統性はない。


2010年6月28日付け天木直人
琉球処分と天皇の沖縄メッセージ
http://天木直人.com/2010/06/28/post-0/

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沖縄の軍事要塞化

 3月も最後の日。
 おなかの底から笑って過ごしたいヤッホー君、
 玄関に沖縄本島一周の旅の際にお土産にしたシーサーの置物まで真ん中に置いて、わが家の守り神としているヤッホー君、
 沖縄の人びとの考えを社説を通して二日続けてお聞きすると、「面白くって、楽しくって」おなかをかかえて笑える「愉快な笑い」にならないのです:

 集団的自衛権の行使を認め、自衛隊の海外活動を日本周辺以外にまで広げた安全保障関連法が施行された。集団的自衛権の行使に法的効力が生まれたことで、日本は戦争のできる国へと大きく変貌を遂げたことになる。
 他国の戦争に巻き込まれる危険性が常態化する社会は確実にやってくる。だが戦後70年余守り続けた「非戦の誓い」を捨ててはならない。将来世代に対する責任を果たすためにも広範な国民運動を展開し、安保法の廃止を勝ち取らねばならない。
 安倍晋三首相は、安保法制を国民の命と平和な暮らしを守るために「ベストな法制だ」と述べている。果たしてそうか。

 米国など「密接な関係にある他国」への武力攻撃に日本が反撃すれば、日本は当該国の敵国となる。攻撃される危険性が高まり、国民は危険にさらされる。自衛隊員に戦死者が出たり、自衛隊員が他国の兵士や罪のない国民を殺したりすることも十分あり得る。これが安保法の本質である。
 首相は安保法成立によって日米同盟が強化され、「抑止力が高まる」と説明してきた。だが法成立後も北朝鮮はミサイルとみられる飛翔体の発射を繰り返すなど、軍事挑発を続けている。抑止力が高まったとはとても言える状況にはない。
 安保法の施行日を決定した際の閣議で、首相は「重要なのは広範な国民の支持だ」と述べた。だが広範な支持は得られていない。
 共同通信社が26、27の両日に実施した全国電話世論調査で、安保法を「評価しない」は49.9%、「評価する」は39.0%である。「戦争法」に対する国民の強い危機感の表れとみるべきだ。

 武力攻撃による紛争解決は有効な手段ではない。欧米が軍事介入したシリアの内戦は終わりが見えない。テロ組織に対する武力攻撃も根本的な解決に至っていない。それどころか、フランスやベルギーでの過激派組織「イスラム国」による連続爆破テロに見られるように、報復の連鎖しか生み出さない。

 武力攻撃は多くの無辜(むこ)の民の死を伴う。その犠牲の上に成り立つ平和を真の平和と認めることはできない。戦争放棄をうたった憲法の理念に基づき、日本は対話による友好関係の構築、平和を目指すべきだ。国民もその原点に立ち返る時である。


2016年3月29日付け琉球新報<社説>
安保法施行 国民運動で廃止勝ち取ろう
http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-247170.html

 「防衛」の名の下に沖縄の軍事要塞(ようさい)化を進めるようなことが決してあってはならない。

 与那国島で陸上自衛隊の沿岸監視隊が発足した。中国の海洋進出をにらんだ防衛力強化の一環で、周辺の海域や空域で活動する船舶や航空機をレーダーで監視する。約160人の隊員が配置された。
 配備について防衛省は「自衛隊の空白地域を解消し、警戒監視と抑止に当たるため」などと説明しているが、違和感を禁じ得ない。
 沖縄の復帰後、自衛隊基地の新設は初めてだが、沖縄には既に在日米軍専用施設の74%が集中している。過重な米軍基地の負担に苦しむ中、自衛隊基地・部隊の創設に新たな重圧感や不安を覚える県民は少なくあるまい。

 日米安保体制下で広大な米軍基地負担を強いられる沖縄で何が「空白」で、どう「防衛力強化」を図るのか。政府から納得のゆく説明はなく、軍事的必然性の議論は不十分のままだ。
 防衛省は今後、宮古島や石垣島ほか奄美大島にも警備部隊やミサイル部隊などを配備する計画だ。南西諸島だけで合計約2千人を新たに配備することになる。
 だが脅威をあおるだけでは相手にむしろ軍拡の口実を与えかねない。ミサイルその他の軍事技術が発達した現代においては、不断の外交や信頼醸成の努力こそが最大の抑止になり得るはずだ。

 高い山のない与那国島からのレーダー監視効果には疑問の声もある。そもそも南西諸島への配備自体、冷戦後リストラを余儀なくされた陸自の組織防衛策との見方もある。間違っても自衛隊の生き残りのために離島地域が利用されるようなことがあってはならない。

 与那国町は経済活性化を理由に自衛隊を誘致したが、産業振興などの課題は残ったままだ。町は2005年に「自立へのビジョン」を策定しているが、島の将来像を今後どう描いていくのか。自衛隊員と家族が島の人口の約15%を占めることになる。選挙への影響も予想される。
 地元では依然配備に反対する声が強く、しこりが残っている。レーダーによる健康被害を心配する声もある。防衛省は住民の声に今後もより丁寧に対応すべきだ。
 石垣や宮古などでも同様だ。まず計画の全容を明らかにし、配備に反対する声に真剣に耳を傾けるべきだ。既成事実化は許されない。


2016年3月30日付け琉球新報<社説>
与那国自衛隊発足 軍事要塞化は許されない
http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-247789.html

 ね、進む軍事化路線。
 こういうのを「なしくずし」というんですか。
 従順な羊をうまく手なずけた羊飼いは、硬い岩盤をちょっとずつ、ちょっとづつ崩していって、最後にど〜んと丸ごと崩そうとしているんでしょうか。

 この琉球新報もたいへん、こんなことがあったそうです:

 『琉球新報』2016年3月20日8面の「記者の窓」というコラムで新垣毅編集委員は、今回東京に赴任になった際、借りようとした物件の大家から「琉球新報には貸さない」という理由で断られたという信じがたい出来事を書いている。
 人種差別を禁止する法律さえまだない日本では、賃貸などにおいて「外国人お断り」といった差別行為がいまだに横行している。しかし日本は国際人種差別撤廃条約を批准しており、日本国憲法は人種差別を禁止しているのだから、これは明らかに違憲、違法な沖縄差別、レイシズムである。
 たとえばカナダに住む自分が日系の新聞社に勤めていてそれを理由に賃貸を断られたら、ただちに州の人権裁判所に持ち込むであろう。
 沖縄は日本の一つの県であるが、独自の歴史、文化、言語を持つ地域であり、もとは独立王国であったところ日本に植民支配され、その地出身の人が日本本土で差別を受けてきたという歴史がある。その差別は今も米軍基地の大半を押し付けるという形で続いているのだ。
 だから、その地の名「琉球」を冠した、その地を代表するメディアの一つである新聞社の社員が、その社の構成員であるという理由で賃貸拒否されたということは、その地とその地の人々に対する差別行為である、つまりレイシズムであるということは明らかだ。
 これは絶対に看過してはいけない人権侵害事件である。このような差別を行った者は法的、社会的に処罰を受けるのは当然であり、内外のメディアも最大限に取り上げてほしい。
 もちろんこれは沖縄に対する差別だけではなく、在日コリアンの人々、在日外国人の人々など日本における少数派に対するすべての差別をなくしていくためのウェークアップ・コール(警鐘)となるべきものと思う。


Monday, March 21, 2016、peacephilosophy
東京の大家による「琉球新報」記者への賃貸拒否事件は絶対に許してはいけない
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2016/03/a-tokyo-landlord-denies-rental-to.html

 「琉球新報」記者の新垣毅(あらかき・つよし、1971年、那覇市生まれ)さんは大事な本を書かれておりました:

 「日本政府は、主体的生き方を法律でつぶそうとする。その象徴が辺野古の闘いだ」
 作家の大城立裕氏は、琉球新報の昨年からの長期連載「道標求めて―琉米条約160年 主権を問う」の中でそう述べた。
 本書『沖縄の自己決定権』(著:琉球新報社、新垣毅、高文研、2015/6)は、辺野古の闘いが浮き彫りにした沖縄の自己決定権を歴史的に探る、同連載の単行本化である。
 政府は沖縄の抗議に耳を貸さず、法律の合法性を盾に新基地建設をやめない。ならば沖縄は空間的にも時間的にも日本の枠を越え、政府が大義名分とする合法性の起源へとさかのぼり、1879年の「琉球併合」の不正を国際法の地平で明らかにする。
 著者で同紙編集委員の新垣毅氏は、取材を続けながら
「沖縄は独立を正当化できる歴史的要件や現状、経済的自立の可能性を十分持っている」と感じたという。

 スコットランド独立住民投票やパラオの独立、国連の議論など世界の動きも取材し、政治と経済の観点を含めて、沖縄の自治や独立の展望を具体的に提示した。
 本書を読むと、政府が繰り返す「法治国家」「地元の同意」は一層、空疎に響く。

 中国と冊封関係にあった非武の琉球に対し、明治政府は「廃琉置県」を断行し、土地を強制収用して兵営を造った。平和外交を脅かすと反対した琉球を“処分”し、尚泰王に同意を迫って主権をつぶした。この手前勝手な強権の論理は、日米の戦後沖縄統治まで一貫している。

 国連人種差別撤廃委員会は琉球人を先住民族とし、米軍基地押しつけは人種差別だと勧告した。だが政府は、県民が日本民族だとして人種差別に当たらないと主張する。琉球は独立国ではなく日本の一部で、併合は国内問題と強弁した姿と重なる。
 琉球が米仏蘭の三国と結んだ条約の原本は現在、外務省が保持している。だが同省はその理由を説明できないのだ。本書はこれらの条約が琉球の国際法の主体としての証明で、原本の所在こそが併合の不正を示す何よりの証拠だと説得的に論じる。
 歴史の検証が沖縄の主体的生き方を高め、現在を変える力となることを示した圧巻の書だ。


2015年6月21日付け琉球新報<書評>
『沖縄の自己決定権』 琉球併合の不正から道標探る
(ライター・米田綱路)
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-244586.html



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2016年03月30日

笑って暮らすことができる毎日

 声をだしておなかの底から笑うこと、笑い、笑いと病いですか…

「若い季節」をザ・ピーナッツで(1963年):
https://www.youtube.com/watch?v=1PmIg5MMsTE

 楽しそうな人や快活に笑う人ほど、年老いても介護を必要としない方が多いといわれています。
 東京大学が発表したデータによれば、日常生活で笑うことが少ない高齢者は、よく笑うお年寄りと比べて、脳卒中や心臓病になる割合が高く、特に高齢女性ほど危険性が高いとのことです。

 これは東京大学の研究チームによる調査で、65歳以上の男女を対象に毎日の笑いの頻度をはじめ、持病の有無などをリサーチ。
 約2万1,000名から寄せられた回答を詳細に分析したそう。データ分析に不要な項目を除いても、ほぼ笑わらない高齢女性は、毎日よく笑う高齢女性と比較すると、過去に脳卒中になったり、闘病中だったりする人の割合が1.95倍と約2倍のリスク。また、心臓病に罹患している高齢女性は、1.41倍とこちらも約1.5倍と高かったとのことです。

 男性では脳卒中が1.47倍、心臓病が1.11倍だった事実から考えると、女性の法が明らかにリスクが大きいため「できるだけ毎日楽しく笑った方がいい」という結果だといえるでしょう。
 東京大学の近藤尚己准教授によれば

笑うという行為はストレスを軽減するため、動脈硬化などを防ぐといわれている。女性の方が普段からよく笑う傾向があるため、大きな差が出たのでは

とのこと。男性も女性も楽しく笑って暮らすことができる毎日を目指したいものです。


2016/03/26 08:00 みんなの介護ニュース
笑わない高齢者ほど脳卒中や心臓病のリスクが高い?東京大学の研究チームが発表
http://www.minnanokaigo.com/news/N73137483/

 近藤尚己(こんどうなおき)先生は、2000年山梨医科大学医学部医学科を卒業して、2012年より東京大学大学院医学系研究科准教授です。
 公式ウェブサイトもお持ちです:
http://plaza.umin.ac.jp/~naoki_kondo/

 所得格差の拡大が世界中で懸念されています。行き過ぎた格差の拡大は、貧困層を増やすだけでなく、人々同士の結束やソーシャル・キャピタルの低下、社会的なストレスの増大を招き、ひいては不健康を引き起こす可能性があります(これを所得格差仮説といいます)。

 また、単に「お金がない」ということで貧困の問題をとらえるはなく、社会のあらゆる制度や仕組みとの関係において、「排除されている状態」としてとらえることで、現代社会における「貧困」問題を社会保障などの制度のあり方と併せて検討する動きがあります。

所得格差は健康をどのように、そしてどの程度むしばむのでしょうか。また、社会的に排除された状態では、健康が損なわれるのでしょうか。
所得格差と健康

 「長生きの秘訣」
 「健康づくり」というと、
 「運動しましょう」
 「野菜を食べましょう」というような習慣の話になりがちです。
 確かに今、がんや狭心症、脳卒中、糖尿病といった、いわゆる「生活習慣病」がかつてないほど増えています。これは世界的な傾向です。

 しかし、これらの病気を持つ人すべてに対して、
 「生活習慣が悪かったから」
 「自業自得だから」と批判できるでしょうか?
 私たちは決してそうは考えません。

 どんなに自分をしっかり律する人でも、常に理想的な生活習慣を送ることはできません。
 なぜなら、健康な習慣を送ることができるかどうかは、あなたを取り巻く「つながり」や「地域や社会のありよう」の影響を強く受けるからです。

「健康のヒケツ」というと、「ストレスをためない」というのをよく聞きますね。
 これは正しいと断言できます。ストレスがたまれば、やけ食い・やけ酒など不健康なことをしがちになりますし、ストレスそのものが血圧や血糖値を上げたり、免疫力を弱めたりして、臓器を痛めつけてしまうということも、医学研究の進歩によりわかってきています。
 でもどうやったらそうできるのでしょう?

 このように、私たちの健康は社会と密接に関わっています。
 健康な社会が健康な市民をつくり、健康な市民の存在はよりよい社会づくりのための「資源」になります。

 人びとを取り巻く社会背景や社会そのもののありようによって、健康状態がどう違ってくるのか、それを研究や実践、政策設計によって明らかにし、「健康な社会」づくりを目指すのが、パブリック・ヘルス:公衆衛生に関わる私たちの仕事です。
社会と健康について


- 生活環境の重要性を痛感した近藤先生。具体的に現在はどのような研究をなさっているのですか?

 メインは3つあります。
 1つ目は全国の高齢者約10万人を追跡する調査です。
 千葉大学の近藤克則先生がリーダーの日本老年学評価研究(JAGES)で、サブリーダーの一人として事務局の一端を担っています。高齢者の生活環境や、所得や学歴、過去に受けた虐待や逆境体験といった人生全般に渡る生活状況のアンケートを、全国30の市町村と提携して2003年(30市町村に拡大したのは2010年)からおおむね3年ごとに追跡調査しています。この調査データの分析から、どのような方が長生きするのか、どのような街だと元気で長生きできるのかを研究しています。

 2つ目は、被災地復興のための街づくりに関する研究です。
 最近の分析結果から例を挙げると、岩手県陸前高田市での、買い物環境までの距離と高齢者の閉じこもりとの関係の調査があります。陸前高田市は東日本大震災の津波で市街中心部のほとんどが流され、多くの住民が山間地へと移り住みました。その結果、買い物できる場所が遠くなり、外出の機会が減っている、という話を聞いていました。そこで、まず被災した高齢者の住所から最寄りの小売店や移動販売など買い物できる環境までの道路上の距離を測りました。次に同市が実施した訪問調査の結果とその地図データを合わせました。分析の結果、健康状態や所得などの影響を除いても、買い物環境までの距離が遠くなるほど、週のほとんどを自宅で過ごす、いわゆる「閉じこもり」が多いことが分かりました。高齢者の閉じこもりは、寝たきりの重要なリスクであることが知られています。買い物はただ必要なものを手に入れるだけでなく、そこに行くことで誰かに会い、交流する場としての機能もあります。このようなデータを基に復興の街づくりに貢献できたらと思っています。

 3つ目は不景気や災害、所得格差の拡大など、社会の大きな変化が私たちの健康に及ぼす影響について計量的に評価する研究です。
 主に国内外の全国調査など、大規模なデータを二次利用しています。世の中が大きく変化したときに最も影響を受けるのは、貧困層など社会的に不利な立場にある人たちです。そのため、健康格差が拡大することが懸念されます。こういう視点の研究はとても重要だと思うのですが、実際はあまりされていないのが現状です。社会環境の変化が健康格差にどのように影響を及ぼすかを統計的に分析することで、社会保障制度など、健康を守るための政策を検討するための資料を提供できるのではと思っています。

- 最後に、近藤先生の目標や展望を教えていただけますか?

 医療との関係で言うと、最近は総合診療医や家庭医といったプライマリケアを専門とする先生方との連携を深める活動をしています。
 臨床の先生たちと私たち社会疫学や公衆衛生の専門家、それぞれの知識とスキルを合わせれば、健康な街づくりに大きく貢献できるのではないかと思っています。医療従事者や研究者が公衆衛生と臨床の現場とを活発に行き来できる仕組みも作りたいですね。医療機関で働く多くの方々から、診療データをどうまとめたらいいのか、という悩みの声を聞きます。交流の機会や人材育成の機会を増やせたらと思います。

 日本が世界一の健康長寿国になった理由の一つに、住民と医療者が密に連携して日本各地で健康づくりを進めてきたという経緯があると思っています。
 古くは結核などの感染症予防や、安全なお産といった衛生の問題が課題の中心でしたが、現在の課題は少子高齢化や慢性疾患の健康格差など、多様化しています。
 データを活用して対策に優先順位を付けることが必要です。
 そしてこれらの新しい課題に立ち向かうべく、地域と医療者との連携の力を強めていくべきではないかと思います。


環境づくりで人びとを健康にする
http://coffeedoctors.jp/doctors/2510/



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2016年03月29日

笑う門には福来る

 へぇ「原爆乙女」ですかぁ。

 原爆は一瞬のうちに人の命を奪っただけではない。生き残った者にも過酷な生を強いた。とりわけ孤児や乙女の戦後は苦難に満ちた日々であった。広島市民の多くが平穏な生活を手に入れた後も、その人たちには「原爆」の二文字が重くのしかかった。心身とも深い傷を負い、逆境に立ち向かいながら、孤児や乙女の多くは世間の心ない視線の中で、いつしか口を閉ざすようになった。
 「今さら話して何になる」「原爆とマスコミはもうこりごり」。
 かつて原爆孤児、原爆乙女と呼ばれた人たちに接触すると、取材を拒む人が際立った。50年たっても、胸にうずく傷はいやされていない。こうした中であえて、日本と韓国で2つの戦禍を生き抜いた一人の孤児と、米国に渡りケロイド治療を受けた「ヒロシマ・ガールズ」を追った。最も弱い立場にある者をさいなむ戦争、原爆を憎むからである

 最大4000度。原爆の熱線は若い女性たちも容赦なく襲った。素肌に消し難い傷が残った。盛り上がったケロイドと、周囲からの無遠慮な視線は彼女たちからほほえみを奪い、心をも凍りつかせてしまった。

 被爆から10年後の1955年、広島から25人の独身女性がケロイド治療のため米国に渡る。「原爆乙女」と言えば、主に彼女たちを指すようになった。
。。。
 入院・手術は、渡米治療提唱者ノーマン・カズンズ氏が同じユダヤ系に働き掛け、マウント・サイナイ病院が無償で引き受けた。セントラル・パークに面したニューヨークでも一、二の規模を誇る大病院。そこに専用二室が用意された。
。。。
 「ヒロシマ・ガールズ」の渡米治療だけでなく原爆孤児の精神養子運動も提唱したノーマン・カズンズ氏。その人柄は「人種や宗教がどう違おうと、態度の変わらない本当の博愛主義者でした」。25人の1人、シゲコ・ササモリさん(62)=旧姓新本=はそう語る。

 ササモリさんは、カズンズ氏から生前、実の娘四人と同じように「マイ・ドーター(娘)」と呼ばれ、精神養女になった。学費や生活費の支援を受けて米国の看護学校で学び、市民権を取得。現在ロサンゼルスで医療関係の仕事に就く。この冬、広島市内の姉の元へ里帰りした。

 「人のいいところを見て笑顔をしなさい。笑う人は周りの気持ちもなごませる。そう言って、自分の病気も治したの

 ケネディ、フルシチョフ時代に米ソの核実験禁止交渉にも奔走したカズンズ氏は直後の1964年、難病の1つ膠(こう)原病に襲われた。

 それを毎日笑う療法で克服。後にはカリフォルニア州立大で脳医学を研究する教授となった。

 カズンズ氏から「自分に素直になることを学んだ」というササモリさんは1982年、米上院公聴会で被爆体験を語るなど平和のための活動も続ける。32歳になる1人息子の名はノーマン。「マイ・ファザー(カズンズ氏)」からとった。
。。。
<参考文献>
▽「人間の選択」(ノーマン・カズンズ)
▽「ヒロシマの外科医の回想」「平和の瞬間」(以上、原田東岷)
▽「恵子ゴー・オン」(笹森恵子)
▽「文芸ひろしま」(広島市文化新興事業団)
▽「精神養子The Moral Adoptionについて」(山本正憲)


1995年2月26日付け中国新聞朝刊掲載
原爆乙女
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20120215152005748_ja

 そうですか、<笑い>の効用を説いたノーマン・カズン(1915〜1990、注)と原爆乙女のひとり、笹森恵子。
 このノーマン・カズンの著書を薦めた著者が、船瀬俊介(1950年生まれ)。
 またまた「弁護士会の読書」からです:

 著者も団塊の世代です。北九州の荒牧啓一弁護士は早稲田大学の同級生だったそうです。消費者問題などの著書があり、私もいくつか読んだ覚えがあります。この本は、その延長線上にあるものでしょう。なかなか面白く、画期的な内容の本です。
 かの有名なシュバイツァー博士は、こう言った。
 いつも、自分がどんな病気にかかろうと、一番いい薬は、すべき仕事があるという自覚に、ユーモアの感覚を調合したものである。
 なるほど、ですね。たとえ若い人でも、健康な人でも、一日に約3000〜5000個くらい、がん細胞は発生している。毎年31万人が死んでいると言われるがん患者の8割、25万人は抗がん剤や放射線、手術などのがん治療で殺されている。白血病やリンパ球腫などを除いて、抗がん剤で治るがんはない。抗がん剤により、命を短くしている印象すらある。
 患者には抗がん剤をつかいながらも、自分ががん患者になったときには抗がん剤の投与を必死になって拒む。抗がん剤以外の代替療法でがんからの生還を期す医師(医学部教授)は少なくない。
 毎日、数千個も産まれているがん細胞が無限に増殖せずに、人類が100万年以上も生きのびてこられたのは、がん細胞の増殖を抑える免疫細胞があるから。キラー細胞の強い人の生存率は弱い人の2倍以上。だから、がん治療の最大の目的は、このキラー細胞を強くすることに尽きる。
 ところが、がんに対する三大療法は、どれも患者の免疫力を徹底的に叩き、弱らせてしまう。つまり、がんと戦うキラー細胞を徹底攻撃している。三大療法とは、抗がん剤、放射線、手術のこと。これは、実は、がん応援療法なのだ。
 抗がん剤の最大攻撃目標は、患者の造血機能。赤血球が殲滅されて、悪性貧血になる。血小板が壊滅して内臓出血で多臓器不全で死亡する。また、リンパ球も消滅させられる。ナチュラル・キラー細胞は、リンパ球の一種。だから、抗がん剤の投与で、がんを攻撃するキラー細胞は全滅し、がん細胞が大喜びする。放射線治療でも、造血機能が殲滅される。
 ところが、笑うことで脳血流が増加し、脳が活性化し、記憶力もアップすることが具体的な数値で立証されている。笑いは深呼吸に勝る。大量に息を吐くことで、その後、酸素を大量に取りこむ大深呼吸となる。ストレスで脳は興奮状態になり酸素を急激に消費する。すると脳細胞は酸欠となり、機能が低下する。しかし、笑うと大量の酸素が脳に取りこまれ、弱った脳細胞にいきわたり、脳のはたらきが活性化する。気分がスッキリすると、ストレス物質コルチゾールが減少し、ストレス状態が鎮められる。
 著者は、『笑うと免疫力』(ノーマン・カズンズ、岩波書店)を推奨しています。
 私も読みましたが、笑いはたしかに心身を健康にするものだと実感しています。
 私の法律事務所では、幸いなことに笑いが絶えません。ただし、深刻な相談を受けているときに大きな笑い声が聞こえてきて困ることもあります。それでも、深刻な内容を笑い飛ばせるような心の触れあいと交流を相談に来た人としたいものだと考えています。


2006年10月10日更新、弁護士会の読書
船瀬俊介『笑いの免疫学、笑いの「治療革命」最前線』(花伝社、2006年7月)
http://www.fben.jp/bookcolumn/2006/10/post_1230.html

 そうして「笑い」の研究も…

 「笑う門には福来る」と言うが、これは健康についても同様に言えることだろうか。笑うと気分がすっきりするから、心の健康には確かによさそうだが、体の健康となるとどうだろう。笑うと病気にかかりにくいとか、病気が治る、なんてこともあるのだろうか。

 「笑いの健康効果については、いろいろな研究で確かめられています。そもそもの始まりは、1976年に米国のジャーナリストのノーマン・カズンズが書いた闘病記。彼は笑うことで自らの難病を克服したと発表しました。これを皮切りに医学的な研究が始まり、笑いによって免疫力が上がる、痛みやストレスを感じにくくなるといった研究報告が相次ぐようになりました

 こう説明してくれたのは、東京家政大学家政学部栄養学科准教授の大西淳之氏(1964年生まれ)だ。大西氏は、筑波大学名誉教授の村上和雄氏らと共同で、遺伝子レベルで笑いの健康効果を研究している。
。。。
 「そもそも糖尿病の患者さんは、不安や恐怖、悲しみ、痛みなどのストレスがあると、血糖値が上がりやすくなることが分かっています。ところが、笑うと、それとは逆の現象が起こる。笑いは、喜びや楽しみ、心地よさ、満足感といった“快”の感情が表に現れ出たもの。そういった前向きな心の状態が身体によい影響を及ぼすのです。まさに『病は気から』ですね
(大西氏)

。。。
■ “作り笑顔“にも効果がある
 笑いは体と心に効く。家族や友人同士で冗談を言い合って笑うもよし、漫才や落語で爆笑するもよし、飲み会やカラオケで大笑いするもよし。楽しい“快”の感情が増えれば、緊張もほぐれ、人間関係も潤う。ただ、そうは言ってもなかなか笑えないという日もあるだろう。そんな時にぜひ試してほしいのが、“作り笑顔”だ。

 「笑うと、口角を上げる大頬骨筋(だいきょうこつきん)や目の周りの眼輪筋(がんりんきん)などの表情筋が動いて、笑顔ができる。別に楽しいことがなくても、この表情を作るだけで脳は笑っていると錯覚し、気分がほぐれてきます。箸を歯で横にくわえて、“作り笑顔”をするだけでも、脳のドーパミン系の神経活動が活発になって、快の感情が引き起こされたという報告もあります

 大西氏はそう言って、積極的な笑顔作りを勧める。
 『幸福論』(1925年)を書いたフランスの哲学者アラン(1868-1951)は、こんな言葉を残した。

 「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ

 これは医学的にも正しい。人生、笑ったもの勝ちである。


2015/2/16日経Goodayセレクト(佐田節子=ライター)
「笑うと健康になる」を遺伝子レベルで検証する、体と心に効果あり
http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83094230S5A210C1000000

(注)
「原爆や戦争で肉親を失った子どもたちの精神養子運動や被爆女性の米国でのケロイド治療に尽力し、核兵器の廃絶を世界に訴え続けたカズンズ氏の功績を称えるため」2003年8月、広島市の平和大通り緑地帯、平和大橋西詰に記念碑が建てられています。

"World peace will not be achieved by drift or default. The goal must be defined, the approaches must be accepted, the responsibilities must be fixed."
(Norman Cousins)

世界平和は努カしなけれぱ達成できるものではない。目標を明確に定め、責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である。



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2016年03月28日

笑う

 。。。がんにならないためにどうしたらいいのか。
 それから、手術は成功して終わったけど、再発をしないためにはどうしたらいいんだろうか。
 それから、既に再発している人たちにもがんに負けないためにはどうしたらいいのか

っていうことで、がんに負けないための7ヶ条というのを書きました。

 第1条は「闘い方を変幻自在にしよう」。。。
 第2条は「『がんばれない』とき、自分をダメ人間と思わない」。。。
 第3条は「つながりのなかでがんと闘う」。。。
 第4条は「希望を持ち続ける」。
 第5条は「笑う」。


 そうなんです、今日3月28日月曜日は、鎌田實先生(1948年生まれ)の提言、この「笑う」がテーマです。
 その前に7ヶ条ですので、最後まで行ってみましょう:

 第6条は「逃げない。がんと向き合うこと」。。。
 第7条は「ささやかな日々の営みをていねいに行う」。

 こういうふうに、僕なりに、
 がんになってない人ががんにならないための工夫や、
 がんに今なっているけど、今度、再発しないための工夫、
 或いは、既にがんが再発したけど、がんに負けないための工夫
というのを1冊の本、『がんに負けない、あきらめないコツ』(朝日新聞社、2006年3月)にしてみました。


2006年3月25日朝日新聞シンポジウム
鎌田實氏の基調講演「がんに負けない、あきらめないコツ」
http://www.asahi.com/sympo/060428/04.html

 鎌田實せんせいは「オフィシャルフェブサイト」をお持ちです:
www.kamataminoru.com/
 またブログも更新し続けております。
 2016年3月25日(金)10時05分の投稿「聴診器でテロと闘う(53)」から:

 マルチシムーニ診療所を訪ねた。
 みんなが握手を求めたり、声をかけてくれたりして迎えてくれた。
 前日のパーティーで、日ごろのボランティア活動を表彰したことがうれしかったのだろう。
 ほとんどの人が仕事をしていないので、わずかだけれど一回だけの給料を出したことも、喜ばれたようだ。
 代表をしているバッサム先生は「とにかく、みんなのやる気が変わりました」と言う。

 「避難民のつらさを癒せるような、医師や看護師の仕事ができると思う。
  日本の支援がなかったら、自分たちは仲間の難民を助けることができなかった。
  自分自身も難民であるが、患者さんを助けていることで、自分のアイデンティティを失わずにすんでいる。
  感謝している」

 バッサム先生は、ぼくの講演を聞いて、感動したとも話してくれた。
 健康のための5つの目標はわかりやすい。
 笑わせ、泣かせ、心を揺さぶっているのがよくわかったという。
 このドクターは、誠実だ。
 ぼくが講演しているときも、自ら下働きをし、だまって講演を聞いていた。
 イラク人にはこういう誠実な男が多い。

 マルチシムーニ診療所は一時、世界中から支援が入ったが、すでに撤退した。
 JCF(日本チェルノブイリ連帯基金)が年間1000万円近い薬剤費を出し、4つの診療所に薬を供給しているが、これが診療所の生命線となっている。
 そのことが、64人のスタッフたちもわかったようだ。
 民間の診療所はこれからが大変。
 JCFとしてできるだけ長く支援していこうと思う。
 日本の外務省からの応援ももらっている。
 感謝しているが、ぼくたちNPOをもっと支援してくれれば、子どもを助けるために力を尽せると思う。

http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/53-d61f.html
http://jcf.ne.jp/donation

 あっ、この鎌田實先生の第5条でしたね。

 笹森恵子さんという73歳の方。広島で被曝し、その後、2回がんになって乗り越えている方と、僕は去年2005年の9月、チェルノブイリへ行きました。
 その笹森恵子さんはアメリカに渡り、ノーマン・カズンズという『笑いと治癒力』という本を書いて世界的なベストセラーを書いた方の養女になっていくんですね。
 ノーマン・カズンズは膠原病になったのですが「笑う」ということで、ステロイドの薬やなんかを使わずに治した人です。その人の養女になった。被曝をしているからがんになりやすい。だけども「笑いなさい」って新しいお父さん、ノーマン・カズンズから言われ続けた。
 笹森恵子さんと僕は2週間ほど一緒にベラルーシ共和国の旅をしましたけども、本当に彼女はよく笑うんですね。
 笑うっていうことがこの人の命を支えてきたんだなとういことを感じました。


 そうなんですね、ノーマン・カズンズと笹森恵子さん。
 2005年夏のチェルノブイリ訪問(注)、もうひとつ、ここでご紹介しておきますね:

 2005年8月。夏のチェルノブイリ訪問は、笹森恵子さんに同行することになりました。
 最初に笹森恵子さんにお会いしたのは、出発の5日ほど前。待ち合わせの場所で、私は軽い衝撃を受けました。
 ヒロシマの被ばく者。
 しかも爆心地で大やけどを負った70 代の女性。
 そう聞いて想像していた何十倍、いや何百倍も明るくてパワフルな人が目の前に現れたからです。少しおしゃべりしただけで、こちらまで元気がわいてくる感じ。重荷を抱え、60年を生き抜いてきた彼女のオーラは、強くてとてもあたたかでした。
 60年前、広島に原爆が落とされたとき、笹森さんは13歳。
 激しい閃光と轟音の後、意識不明の数日を過ごし、奇跡的に一命をとりとめたものの、顔や手足にはひどいやけどの痕が残りました。
 何十回にもわたる手術。23歳のときには「原爆乙女」25人に選ばれて、治療を受けるために渡米。それがきっかけとなってアメリカへ移住。そして、異国で准看護婦として働き続けてきたのです。
 今でこそ穏やかに笑う笹森さんですが、この60年の間にはどれほどの涙を流したことでしょう。
 しかし私の問いかけに対し、彼女はこんなふうに語ります。

 「考えても仕方がないことは、落ち込んだってしょうがない。だから私は、やけどの顔や手を隠そうと思ったことは、一度もないんよ」

 被ばくの現実を受け入れ、前へ前へと歩んできた笹森さんが、戦後60年となる今年、自らチェルノブイリ行きを望みました。

 「同じ被ばく者として、チェルノブイリの人たちと心を響き合わせたい。戦争や核のない平和な世界を目指すため、一緒にメッセージを発信できたら……」

 それが、ヒロシマの証言者として全米各地で講演を行なう笹森さんの切なる願いでした。
。。。
 「アメリカのジャーナリスト、ノーマン・カズンズという人が、取材で訪れた広島で被爆の現実に衝撃を受け、日本とアメリカの心ある人たちから集めたお金で、25人の「原爆乙女」をアメリカに招いてくれました。
  アメリカに対しては、好きとか嫌いとか、原爆を落とした国だから行きたくないとか、そういう個人的な感情はありませんでした。それよりも治療を受けるチャンスだと思ったんです。
  もうひとつの理由は、年ごろになった二人の姉に縁談が来ていました。次は私の番でしたが、当時の私は眉も抜け、唇はめくれて化けもののようだったんです。でも、私自身が悲しんだら、母はもっと悲しむでしょう? 毎日私の顔を見なければならない、親のつらさを思いました。アメリカに行けば、そんな思いをさせなくてもいい。遠くで幸せを願ってもらうほうが気が楽でした」

 「ノーマン・カズンズは、笑顔でいることの大切さを私に教えてくれた人です。アメリカで特別扱いされることなく、普通に受け入れてもらったおかげで、私自身は恨む気持ちも持たず、ラッキーに生きてくることができたんです。だから、人々の笑顔を見ることが私の幸せ。そう思って、今は生きています。赤ちゃんや子どもの無心な笑顔が私の先生なの。
  親になって、孫ができて強く感じるのは、やはり命の大切さです。
  そして、戦争をしてはいけないということ。
  あれほど多くの人が原爆で亡くなったのに、私が生かされているのは、神さまから使命を与えられているからだと思うんです。
  だから生きている限り、戦争の恐ろしさを語り伝えたい。
  戦争が起きたら大事な人の命がなくなるのだとわかってほしい。
  生き残った私にできる仕事はこれしかないと思っています」


菅聖子(1965年広島生まれ)
「ヒロシマの被ばく者笹森恵子さんがチェルノブイリ被ばく者、ナターシャさんに会いに行く」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/suga-2.pdf

菅聖子『シゲコ!−ヒロシマから海をわたって』(偕成社、2010/7)

(注)2016年春「再稼働止める!代々木で大規模集会」(3月27日東京新聞朝刊):

 東京電力福島第一原発事故から5年が経過した中、原発再稼働ストップなどを呼び掛ける大規模集会が26日、東京都渋谷区の代々木公園で開かれた。主催者発表で約3万5千人が集まり、参加者らは「原発のない未来へ」「つながろう福島」などと訴えた紙を掲げ、脱原発への思いを新たにした。
 作家の沢地久枝さんが登壇し、原発輸出推進や安全保障関連法施行など安倍政権の政策に触れ、
「私たちはなめられている」
「それが日本人の意思であるように言う政治家らを、このままにしておいていいとは思わない」と憤った。
 東電元幹部らの刑事責任を追及している福島原発告訴団副団長の佐藤和良さんも
「福島を切り捨てる政権の原子力推進政策を許すわけにはいかない」と怒りをぶつけた。

 生後11ヶ月の長女を連れて参加した横浜市の主婦戸原貴子さん(39)は
「五年前の事故で原発や放射能の怖さを知った。事故処理も終わっていない中で原発を再稼働することには反対」ときっぱり。
 祖母が広島で被爆したという東京都練馬区の元教師西田昭司さん(69)も
「核兵器だけでなく、原発も絶対やめなければならない」と訴えた。
 参加者らは集会後、代々木公園周辺をデモ行進し、脱原発への理解を呼び掛けた。


東京新聞掲載.jpg



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2016年03月27日

猿島

 こんばんは。
 今日3月27日、大変お疲れさまでした。
 東京湾に唯一残る自然島「猿島」に横須賀から船で渡り、物知りのガイドさんとわれわれご一行様8名で島一周し、たいへん勉強になりました!

猿島.JPG

 晴れてきた春の美空の島でお弁当をひろげ待ちに待った昼食の会。
 それからゆっくり、横須賀に戻りました。

猿島にお別れ波止場.JPG

 今度は「よこすかポートマーケット」で海の幸を仕入れ、重いリュックを背負って、「横須賀本港とヴェルニー公園」へ。

ヴェルニー公園.JPG

 帰り「ドブ板通り」を歩いて京急の駅近くまで戻ったのですが足は、ぱたっと急ブレーキ!
 この間の3月山行で歩いた栃木県と茨城県の県境の山、鶏足山の帰りに寄った磯丸水産のお店(北千住)をヤッホー君、ここでも目ざとく見つけ、なんと5時まで楽しい打ち上げ会!

 猿島からは三浦半島はもとより、横浜、ベイブリッジ、アクアライン 、スカイツリー、房総半島まで見晴るかすことができました。
 磯の香りに包まれ、トンビのピ〜ヒョロロの音に心洗われ、鬼女蘭とその葉に産卵する蝶 々アサギマダラの話や猿島の由来を紙芝居で説明してくれたお話にうっとり、久々の好天好日、満足満腹肥満の一日でした。
 ありがとう、皆んな。
 次回までお元気で、ごきげんよう!ヤッホー!!


 ガイドさんの説明のなかで実はビックリしていたことがあったんですぅってヤッホー君、じつは東京タワーを横にしたような、そして2基の原子炉で動く巨大な原子力空母が入港しているんだそうで:

 米海軍の原子力空母「ロナルド・レーガン」(RR)が2015年10月1日午前、神奈川県横須賀市の米海軍横須賀基地に入港した。同基地への米空母配備は、1973年の「ミッドウェー」以来5隻目。地元では、原子炉事故に対する懸念や安全保障関連法成立で海上自衛隊と米海軍の一体化が進むとの警戒感から、配備に反対する声が根強い。この日も市民団体などが抗議活動を行った。

 RRはこれまで横須賀基地に配備されていた原子力空母「ジョージ・ワシントン」(GW)の後継艦で、西太平洋やインド洋を担当する米第7艦隊の主力となる。

 2003年に就役。東日本大震災の被災地支援「トモダチ作戦」に参加し、救援物資の搬送などを担った。その際に被ばくしたとして、乗組員が東京電力を相手に米国で訴訟を起こしている。

 入港後、RR前で記者会見した米国のレイ・メイバス海軍長官は、安保関連法の成立に関し「喜ばしいことだ。米海軍と海上自衛隊は今までも緊密に訓練してきたが、さらに進化、強化される」と話した。

 またクリス・ボルト艦長は、動力として搭載する2基の加圧水型原子炉の安全性について「米国の厳しい基準をクリアしており、100パーセント安全だと自負している」と強調した。

 RRについて、日本政府は「米海軍の強固なプレゼンス(軍事的影響力)が引き続き維持されることは、わが国の平和と安全の維持に寄与する」と歓迎している。

 GWは2008年、横須賀基地に配備され、ことし2015年5月、原子炉燃料の交換や改修のため米国へ帰った。

 横須賀配備中、北朝鮮による韓国・延坪島(ヨンピョンド)砲撃後の米韓合同大規模演習やフィリピン台風被害の救援活動などに参加した。

◆ 動く原発なぜ居座る 安全性不明 市民らに危機感
 「戦後70年たって、なぜここに空母がいるのだと、あらためて疑問がわいた」
 原子力空母「ロナルド・レーガン(RR)」の入港に海上から抗議した横須賀市の市民団体「原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会」メンバーの沢園昌夫さん(59)=横須賀市=は、かみしめるように話した。

 横須賀で生まれ育ち、基地への抵抗はなかったが、転機が訪れたのは2008年。RRの前任艦で、同型の「ジョージ・ワシントン(GW)」が、初の原子力空母として配備されることが決まった時だ。搭載する2基の加圧水型原子炉の熱出力は合計120万キロワットと推定され、福島第一原発1号機(同138万キロワット)に近い規模の原子炉が首都直近で稼働することになる。

 原発は国の原子力規制委員会の審査を受けるが、原子力空母は対象外で、安全管理は米国任せとなっているのが現状。沢園さんは、放射能漏れや事故の可能性に「相当まずいことだ」と危機感を覚え、本格的に反対運動を始めた。

 10月1日はメンバーら約15人と3隻に分乗してRRに近づき、シュプレヒコールをした。安全保障関連法が成立し、米軍と自衛隊の連携が強まる見通しの中、沢園さんが目にしたのは、水先案内人のようにRRの前方を航行する海上自衛隊の護衛艦。「GWの出港時も同じ光景。法案で明文化される前から(連携は)始まっていた」と語る。

 安全確保には、原子炉の情報公開▽万全な防災訓練の実施▽放射性廃棄物を搬出しないとの日米合意の順守−が重要と考えるが、改善されないまま入港に至ったことに悔しさをにじませる。「横須賀に居続けるなら、安全性に関する情報を公開すべきだ」

 横須賀市平成町のうみかぜ公園では、神奈川平和運動センターなどが主催する反対集会があり、約100人が「原子力空母母港化は許さないぞ」などとシュプレヒコールを上げた。

 第4次厚木基地騒音訴訟原告団の金子豊貴男団長代行は「騒音被害の原因は空母艦載機。空母は出て行ってもらいたい」と訴えた。原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会共同代表の呉東正彦弁護士は、市民約1万人のアンケートを基に「約半数は原子力空母配備は反対、安全対策は不十分と考えている。母港化を撤回させましょう」と呼び掛けた。

 京急横須賀中央駅前では、全労連系労組などでつくる原子力空母の母港化を阻止する三浦半島連絡会が抗議のアピール。市民グループ「いらない原子力空母」のメンバーら若い母親らもマイクを握った。基地から7キロ地点に住む大森亜希子さん(34)は生後6ヶカ月の次男を連れ、「戦争加担の空母は、子育て中の私たちとは相いれない」と訴えた。

<ロナルド・レーガン(RR)>
 ニミッツ級の原子力空母で、ジョージ・ワシントンと同型艦。これまで東太平洋を担当する米第3艦隊に所属し、米・カリフォルニア州サンディエゴに配備されていた。排水量9万7000トン、全長333メートルで東京タワーの高さと同じ。速力30ノット以上で航行し、航空機60機以上を搭載する。


2015年10月1日付け東京新聞夕刊(加藤寛太、寺岡秀樹、原昌志)
空母レーガンが横須賀に 安保法下の入港に抗議
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201510/CK2015100102000245.html



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2016年03月26日

No Nukes Day

 ヤッホー君、3月26日土曜日あわてて家を飛び出て、俳諧の道へ。

 大名屋敷の夜にタイムスリップ−。文京区にある国指定特別名勝「六義園」で3月21日(月)から4日間、獅子舞と曲芸を中心とした大衆芸能「江戸太神楽(だいかぐら)」が披露される。
 さまざまな屋敷を回って演じられた江戸太神楽は、1669年に江戸城の庭で上演されてから発展。1980年、都の無形民俗文化財に指定されている。
 今回演じるのは「丸一仙翁社中」。丸一は江戸時代から続く、太神楽を代表する屋号の一つ。六義園での公演はこれまでもあるが、夜は初めて。六義園のライトアップに合わせた趣向だ。
 丸一仙翁社中の「仙若」こと西田英智さん(47)は「明るすぎず、暗すぎずという演出をします。いつもと違う雰囲気を楽しんでください」と話す。
 六義園は、五代将軍徳川綱吉に重用された柳沢吉保が、屋敷に自ら設計した庭園。代表的な大名庭園で、シンボルのシダレザクラが開花し、夜間はライトアップされている。


2016年3月20日付け東京新聞
夜の「江戸太神楽」いかが ライトアップのシダレザクラ共演
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201603/CK2016032002000124.html

 そうなんです、JR駒込駅から「六義園」へ。

椿.JPG

 ライトアップ?あのぉまだ朝なんですけど!
 江戸太神楽?昨夜でおしまいなんですけど!

 シンボルのシダレサクラの下で記念写真!

シダレザクラ.JPG

 その前に…
 今日、ガイド役をつとめてくださった元、山男のイノウエ先生、100名山のうち80はもう登ってますと言いながら、われわれに「よく花びらをみてください」と。

案内役.JPG

学習.JPG

 「花の下の萼(がく)が、ひょうたんの形をしていますね」って。
 「これはエドヒガンのシダレサクラってことがわかります」って。
 そうだったんですけど、ザンネン、ムネン、お見せするのを断念!
 カメラはヤッホー君の腕を遥かに凌駕し帰宅後見たらボケが満開!
 仕方なく椿の写真をご提供(でもさくらも椿もバラ科なんだって)。

 エドヒガンの花色は白から紅まで様々ですが、御苑の木は淡い紅色の一重咲きです。花をよく観察すると萼(がく)がぷっくりと丸くふくらみ、まるでひょうたんの様にもみえますね。

 エドヒガンは本州から九州、朝鮮半島にかけて分布する自生種です。花つきが良いことから様々な品種の作出に使われました。桜でおなじみのソメイヨシノをはじめ、シダレザクラやコヒガンなどもエドヒガンから生まれた園芸品種です。


2014/03/31「新宿御苑最新情報」
エドヒガンがみごろです
http://fng.or.jp/shinjuku/blogarchive/cat6429596/

 そのあとヤッホー君たち、「六義園」から「とげぬき地蔵」を経て「代々木公園」へ。
 今日は NO NUKES DAY で会場には3万5千人の人びとが声をあげようと大集結!

NoNukes Day.JPG

 福島原発事故から5年、事故収束の道筋は見えず、放射能汚染水は海に流れ続けています。しかし、政府は原発事故がなかったかのように、各地で原発再稼働と、海外への原発輸出を加速させています。

 「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」

として、大飯原発の再稼働を厳しく糾弾した2014年5月の福井地裁判決は、経済優先の原発再稼働が人間社会の利益と合致しないことを明確にしました。

 しかし、政府・原子力規制委員会、電力会社と立地自治体は、周辺自治体や地域住民、そして市民社会の声を無視し、避難計画さえも不十分なままに、昨年2015年8月に九州電力川内原発1号機、10月には同2号機を再稼働させました。四国電力伊方原発3号機、関西電力高浜原発3・4号機も、地元知事の同意を得て再稼働に進もうとしています。
 万が一の事故に対して、いったい誰がどう責任を取るというのでしょうか。私たちは決して原発の再稼働を許しません。

 一方で、福島原発事故により、いまなお10万人を超える人びとが避難生活を続けており、故郷に帰ることができません。そのうち3万人ともいわれる自主避難者に対し福島県は、2017年3月をもって住宅支援を、2018年3月には強制避難区域への賠償を打ち切る方針を示しました。

 避難者は「被ばくか、貧困か」の選択を迫られています。今なお高い放射線量や甲状腺がんなどの健康への影響を無視して帰還を強要し、いのちの尊厳なき復興を進めようとしています。
 私たちはこれを認めません。
 私たちはこれを許しません。

 福島原発事故から5年を迎えた今、政府の不条理に対し、福島原発事故の被害者たちは、自ら懸命につながりあい、前を向いて進み始めています。被害者とつながり、支えるための大きな輪をつくり、ひろげていく必要があります。

 原発事故の惨禍を教訓として、再稼働を許さず、一日も早い脱原発社会を実現するため、また、棄てられようとしている原発事故被害者の救済と補償を求めるため、3月26日は全国から代々木公園に集まりましょう!
 人類と核は共存できません!
 経済優先の社会から、いのちが大切にされる社会へ!
 全国のさまざまな思いをつなぎあい、あらゆる知恵を出しあい、一人ひとりが動き出しましょう。
 わたしたちの声で歩を進めていきましょう!


つながろう福島!守ろういのち!
ー 福島原発事故から5年・チェルノブイリ事故から30年 ー
http://nonukesday.org/


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2016年03月25日

いつでも元気

 この国の劣化、なんてことから目を背けたいヤッホー君、しかし、・・・
 今日はまず、(1)幼児の虐待死、(2)そして困窮している結果、受診遅れで死亡したコクミン、(3)その背景にあるこの国の貧困の実態から見てみましょう。
 でも、この国のコッカコウムインは、調査もしていなければ、実態を把握しようともしていません。
 この引用はすべて、民間の機関が調べて発表したものからですので、氷山の一角ともいわれてます。
 悲しい、哀しい、ね。
 でも、今日はひさびさに太陽が顔をのぞかせた晴れた空、ヤッホー君、自分の当座の健康に感謝しつつ、さ、どこ行くのかな・・・

(1)
 「日本小児科学会」は、年間約350人の子どもが虐待で亡くなった可能性があるとの推計を初めてまとめた。
 2011〜13年度の厚生労働省の集計では年69〜99人(無理心中含む)で、その3〜5倍になる。
 厚労省は自治体の報告を基に虐待死を集計しているが、同学会は「虐待死が見逃されている恐れがある」と指摘する。

 防げる可能性のある子どもの死を分析するため、同学会の子どもの死亡登録・検証委員会が調査した。
 同委の小児科医が活動する東京都、群馬県、京都府、北九州市の4自治体で、11年に死亡した15歳未満の子ども(東京は5歳未満のみ)368人を分析した。全国で亡くなった15歳未満の子ども約5千人の約7%にあたる。

 医療機関に調査用紙を送り、死亡診断書では把握できない詳細について尋ね、一部は聞き取りも行った。
 その結果、全体の7・3%にあたる27人について「虐待で亡くなった可能性がある」と判断した。この割合を全国規模で換算すると約350人となった。

 具体的には強く揺さぶられて起こる「乳幼児揺さぶられ症候群」とみられたり、虐待特有の外傷があったりした事例があった。幼児だけで入浴させるなど保護者が監督を怠ったり、適切な治療を受けさせない「医療ネグレクト」があったりしたことが死亡につながったとみられる事例もあった。

 厚労省の集計と差が生じるのは、臨床医に生前の生活ぶりなどの関連情報が届かず、診断時に虐待を見抜きにくかったり、医療機関と児童相談所の認識のずれがあったりするためとみられる。
 また、予防可能性の観点から101人は出産や子育て状況の把握など行政機関の関与や、誤飲事故の予防啓発といった適切な対策を行えば、「今後の同様の死を防げる可能性がある」と認定した。

 同委の溝口史剛委員長(前橋赤十字病院)は「現状では生活ぶりや救急搬送時の様子など、今後の予防に生かすべき情報はさまざまな機関で散逸してしまっている。情報を共有する有効な仕組みが整備されれば、多くの子どもの死を防げる」と話している。

 厚労省によると、虐待による死亡が確認された子ども(18歳未満)は11年度は99人、12年度が90人、最新の13年度は69人だった。


2016年3月21日(月)7時21分配信、朝日新聞デジタル(山田佳奈)
虐待死の可能性、国集計の3〜5倍 小児科学会が初推計
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3K6SYGJ3KUUPI004.html?rm=422

(2)
 経済的な理由で国民健康保険の保険料が払えずに「無保険」状態になったり、保険証を持っていても医療費の窓口負担分が払えなかったりしたために受診が遅れ、死亡した人が2015年に32都道府県で63人に上ったことが22日、全日本民主医療機関連合会(民医連)の調査で分かった。
 無職や非正規労働者が多く、家族全員が無保険という世帯もあった。


 調査は民医連に加盟する病院と診療所計646施設が対象。担当者は「全体からみれば氷山の一角。働き盛りの世代も増えており、行政による早急な対策が必要だ」としている。


2016年3月22日17時24分配信、西日本新聞
受診遅れで63人死亡、15年 無保険、窓口負担分払えず
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/medical/article/233054

 全日本民主医療機関連合会(民医連)のサイトを見てみましょう:

☆ 自治体に相談するも「滞納は本人の責任」と相談にのってもらえなかった事例、70代男性
 妻、母の介護をしながら、アルバイトで生活費を稼ぐ日々。
 収入は月10万程。貯蓄もなく、本人のアルバイト収入だけが頼りの生活。
 年金や国保保険料を支払う余裕がなく、無保険、無年金の状態に。
 病院ソーシャルワーカーより自治体へ連絡したが「保険料を支払わなったのは本人の自己責任」「本人に連絡したが、生活保護を申請したいとは一言も言わなかったので申請はできない」「相談にのれないわけではな
いが、要綱に則った金額を支払ってもらわなければ保険証の発行はできない」などの返事だった。
 その後、生活保護を申請できたが、転院先の病院で亡くなられた。

☆ 経済的に医療費負担が大きく、がん治療を中断。50代女性
 2012年、乳がん、肝転移の診断(診断前は検診受診歴なし)。夫と2人暮らし。
 経済状況は不安定。貯蓄はなし。本人は無職、ホルモン療法など治療費の負担が大きいため、2015年4月より、通院中断していた。
 2015年救急搬送されたが、他院(A病院)入院中のベッド代と治療費が払えず退院。
 その後、当事業所へ地域包括支援センターから相談があったため、訪問診療などを行う。
 その後、他院(B病院)へ搬送され亡くなられた。


2016年3月22日(火)全日本民主医療機関連合会
2015年経済的事由による手遅れ死亡事例調査概要報告
http://www.min-iren.gr.jp/wp-content/uploads/2016/03/160324_01.pdf

 全日本民主医療機関連合会(民医連)の別の調査をもとにした記事を読んでみましょう:
(3)
 「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているやつの医療費はおれたちが払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」

 これは、4月24日夜の会合での麻生太郎副総理の発言だ(産経ニュースより)。首相時代の2008年11月にも同様の発言をしており、麻生副総理の「病気になるのは自己責任」というお考えは筋金入りのようだ。

 だが、糖尿病は生活習慣だけが引き起こす病気ではなく、遺伝や自己免疫とのかかわりが深いものだ。さらに、5月22日、全日本民主医療機関連合会(民医連)が公表した「暮らし・仕事と糖尿病についての研究」では、糖尿病発症の陰には社会的要因が影響している可能性が指摘されたのだ。
。。。
 こうした20〜40歳の2型糖尿病患者が抱える社会的背景が分かると、「自己責任」の一言で片づけることはできないだろう。
 病気の発症や進行が本人の生活習慣にあるにしても、それを見直すためには、遠因となっている低学歴や低収入などを考慮した対策を講じる必要がある。

 人は、生まれてくる環境を選ぶことはできない。それなのに、今の日本は親の職業や年収、生まれた場所など、本人の資質に関係のないことで人生が左右されることがあまりにも多いと思う。
。。。
 糖尿病患者の遠因に低学歴や不安定雇用の可能性が指摘されている今、国に求められているのは、親の年収や生まれた環境に関係なく、誰もが平等に教育を受けられるスタートラインの整備ではないだろうか。
 そして、糖尿病を誘発するような長時間労働を強いる企業を取り締まるなど、労働法制の見直しも必要だろう。

 また健康保険の保険料など医療費の負担に関して、「自己管理を怠らなかった健康な人にインセンティブをつけるべき」という考えは、一面では合理的だ。しかし、暴飲暴食しても糖尿病にならない人もいれば、ふだんカロリーに気を使っているのに突然、糖尿病を発症する人もいる。

 病気になるかならないかは、運しだいという面もある。病気の原因を明確に線引きすることなどできない。それなのに、営利目的の民間保険のようにリスクに応じた負担をさせようというのでは、病気がちな人は救われなくなる。

 持ち家の人は、万一の火事に備えて火災保険に加入するが、「保険料を払っているのに火事にならなくて損した」などと思う人はいないだろう。火事にあって保険金をもらったとしても、大切な家や思い出のつまったものを失ったことの辛さは計り知れない。

 健康保険もそれと同じだ。たとえ、保険料を払うだけで、自分は医療費を使わなかったとしても、病気やケガをして痛い思いをしたり、辛い思いをするより、健康でいられるほうが何倍も幸せなことではないか。

 健康保険は、不幸にして病を得た人をみんなで助け合うために作られた制度だ。その意味を、今一度、理解する必要がある。


ダイアモンドオンライン、男の健康、早川幸子(フリーライター)
20〜40歳に重症の糖尿病患者が増加中
背景に低学歴や不安定雇用に起因する貧困問題

http://diamond.jp/articles/-/37003

 こちらも:

2014年11月1日「いつでも元気」特集2
若い人の2型糖尿病/仕事や食事などが大きく影響/全日本民医連医療部 「暮らし、仕事と40歳以下 2型糖尿病についての研究」研究班
http://www.min-iren.gr.jp/?p=20538


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2016年03月24日

爆買い

 日本のトップメーカーが台湾企業に買収されるという事実に、日本国内は驚いているものの、これは“序の口”と考えた方がいい。
 アベノミクスの円安誘導政策によって、ドルベースで見ると日本企業は“お買い得”になっている。
 中国や台湾、インドなどの企業による日本企業買収が、今後増えるのは確実だ。

「円安にすれば輸出企業の業績が上向き、景気も良くなるというのがアベノミクスです。しかし、円の価値をおとしめたことで、多少株価が上昇したとはいえ、日本企業の市場価値はかなり割安になりました。安倍政権はいまだ日本がアジアで圧倒的な経済大国だと勘違いしているのでしょう。かつては、中国や台湾の企業が日本の大企業を買収するなんて全く考えられませんでしたが、時代は変わったのです。アジアから観光客が大勢訪日するのは、円安で日本の商品が安いから。爆買いが『企業レベル』のM&Aに拡大してきたということです」(シグマ・キャピタルのチーフエコノミスト・田代秀敏氏)

「中国や台湾には、松下幸之助氏や稲盛和夫氏らの著書を熱心に読んで崇拝している経営者が少なくありません。日本企業の技術やブランドが欲しいという現実的な理由とともに、日本企業への親しみや憧れも強い。日本がアジアの経済超大国という時代は終わったのですから、日本企業は逆に、アジア企業の資本力や販路を利用して再生する道もあるのではないかと思います」(田代秀敏氏)

 頭の切り替えが必要だ。


2016年2月6日付け日刊ゲンダイ
シャープだけじゃない アベノ円安で日本企業は爆買いされる

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/174896/1

 メッキが剥がれても、
 「アベノミクスで民主党政権より景気は良くなった」
 「給料が増えた」と言い張る安倍首相。
 だが、数字は正直だ。

 毎月の消費支出金額、つまり家庭が「1カ月で使うお金」は、民主党時代との比較はおろか過去15年間で見ても、第2次安倍政権での減り方が最も激しいことが分かった。

 過去15年の毎月の消費支出のデータを分析したのは、シグマ・キャピタルのチーフエコノミストの田代秀敏氏で、その結果が別掲の折れ線グラフだ。

。。。
2016年3月10日付け日刊ゲンダイ
グラフで鮮明に アベノミクスで消費の冷え込み“最速最大”

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/176894/1

 そして究極の記事が次。
 消費税率の引き上げを延期するための田舎芝居について、ついに暴露されてしまいましたぁ。
 それだけではありません、うそにまみれてよ〜

三橋美智也「達者でナ」(1960/昭和35年):
https://www.youtube.com/watch?v=TuVqpdHxSjI

 今朝の日記ではありませんが、「アンダーコントロール」同様、ドアホノミクスはあぶないからねぇ〜
 昨日のヤッホー君の日記「Keeping the US First」での Prof MICHAEL HUDSON だけではなかったんです。
 Prof JOSEPH STIGLITZ も。
 今日の記事なんですぅ: 

 2016年3月22日に第3回が開かれた「国際金融経済分析会合」。
 米ニューヨーク市立大・クルーグマン教授も来年4月の消費増税反対を提言したが、増税延期の風向きが強くなったのは、先週16日に行われた第1回の米コロンビア大・スティグリッツ教授の提言がきっかけだった。

 だが、ちょっと待って欲しい。
 会合から2日後の18日に政府が公表したスティグリッツ教授提出の資料を見ると、消費増税についての記述はどこにもない。
 むしろ教授が提言したのは、TPPの欺瞞や量的緩和政策の失敗、格差の是正、つまりアベノミクスの全否定だった。

 提言のレジュメとみられる資料は48ページにわたり、例えばTPPについて次のように手厳しい。

 〈米国にとってTPPの効果はほぼゼロと推計される〉
 〈TPPは悪い貿易協定であるというコンセンサスが広がりつつあり、米国議会で批准されないであろう〉
 〈特に投資条項が好ましくない ―― 新しい差別をもたらし、より強い成長や環境保護等のための経済規制手段を制限する〉

 ただ、これは官邸の事務局による和訳で、本来の英文と比較すると、これでも「意図的に差し障りのない表現にしている」と言うのは、シグマ・キャピタルのチーフエコノミスト、田代秀敏氏だ。

。。。
2016年3月24日付け日刊ゲンダイ
政府公表資料はウソ 安倍官邸が隠した米教授“本当の提言”

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/177851/

Even the way Obama argued for the new trade agreement showed how out of touch with the emerging global economy his administration is. He repeatedly said that the TPP would determine who – America or China – would write the twenty-first century’s trade rules. The correct approach is to arrive at such rules collectively, with all voices heard, and in a transparent way. Obama has sought to perpetuate business as usual, whereby the rules governing global trade and investment are written by US corporations for US corporations. This should be unacceptable to anyone committed to democratic principles.

In 2016, let's hope for better trade agreements - and the death of TPP
The Trans-Pacific Partnership may turn out to be the worst trade agreement in decades

<写真> Japanese protesters oppose Trans-Pacific Partnership trade talks. Obama has sought to perpetuate business as usual, whereby the rules governing global trade and investment are written by US corporations for US corporations.

The Guardian, Last modified on Sunday 10 January 2016 12.37 GMT
By Joseph Stiglitz
http://www.theguardian.com/business/2016/jan/10/in-2016-better-trade-agreements-trans-pacific-partnership



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命の平等

労働者の街で生まれた
 JR五反田駅から歩いて五分ほど。商業ビルが建ち並ぶ大通りから路地に入り、マンションが建つあたりが「大崎無産者診療所」の跡地です。その向かいには、診療所の雑用から警察対応までこなし、最後までささえ続けた住民が住んでいたと言います。
 診療所開所は1930年1月。
 中小の工場がひしめく労働者の街でした。
 大栗清実医師と妻・敏子さん(看護婦)夫妻は診療所の2階に居住。開所から2ヶ月後の3月、大栗丸人さんが誕生しました。

 初診料は無料、内服薬は一日一剤10銭、皮下注射50銭。三畳の待合室は住民や労働者でいつも満員。一日100人を診察し、往診も行っていました。治療費が払えない患者も多く、未収金に圧迫された経営は厳しく、日赤や慈恵医大などの医師が無報酬で応援に駆けつけたと言います。

「命の平等」を引き継ぎ
 開設当初から「健康友の会」があり、患者・地域住民にささえられ、必要とされた診療所。
 国民を総動員して戦争に突きすすむ国家権力にとっては「目の敵」でした。
 1933年3月の三陸地震・大津波で救援活動をしていた医師と看護婦が特高警察に検挙されました。
 診療所の職員が次々と検挙され、8月に大栗医師も検挙、10月には診療所は閉鎖に追い込まれました。丸人さんは3歳でした。

 「無産者医療運動」は、当時の国会でただ一人、治安維持法改悪に反対した山本宣治代議士の暗殺が大きな契機でした。
 大栗医師は「労働者農民の病院を作れ!」とのアピールを起草。
 アピールは、労働者農民が失業と貧困、無知のどん底にあり、医療から閉め出されていると指摘。労働者農民自身の医療機関が必要だと訴えました。この運動は全国に広がり、1病院、23診療所が誕生。
 しかし1941年までに特高警察の弾圧ですべてが閉鎖。この年、日本は太平洋戦争に突入しました。

 大栗医師はその後、故郷の徳島に戻り、戦後は地域の民主運動の発展に奔走。徳島民医連には、大栗医師から社会科学を学んだという職員もいます。跡地を辿った広永清子さん(徳島健生病院・看護師)は、
「“命の守り手”としての私たちの活動は、ここから始まったんですね。弾圧や拷問を乗り越えて、その精神は今の民医連に引き継がれている。命が軽んじられる今、ますますその役割は重要だと感じます」と語ります。

 跡地を辿った一行は、大崎警察署跡や荏原無産者託児所跡、農村の無産者診療所だった青砥無産者診療所跡(葛飾区)、その初代所長・中嶋辰猪医師の墓所などを巡りました。


2013/09/20 13:40「よこはま健康友の会みどり野支部」
“命の守り手”ここから始まった 2013年9月16日(民医連 新聞より)
http://midori-tomo.at.webry.info/201309/article_20.html

 へえ〜、こんなことがあったんだ、とヤッホー君。
 命を救おうと働いた人がムカシおったんですねぇ〜
 跡地をたどりながら歩いてみるのもいいかな、と。
 そんな街歩きを企画・提案するのもいいかな、と。
 真冬に逆戻りしたような寒い3月24日木曜日の朝のことでした。

 寒くなってきたわけには、もうひとつ、こんな記事を読んだのがきっかけ:

 大学の医学部の認可を巡り、官庁の不可解な動きが浮かび上がった。
 2016年3月17日の参院予算委で俎上に載ったのは、全国に4つの病院を展開する私立「国際医療福祉大学」(栃木・大田原市)が新たに来年4月に開校する千葉・成田市の医学部だ。
 事の発端は、内閣府と文科省、厚労省が2015年7月31日に示した「国家戦略特別区域における医学部新設に関する方針」だった。
 国家戦略特区に世界最高水準の国際医療拠点をつくることが目的で、同年11月12日に事業主の公募が行われた。
 ところが、公募に手を挙げたのは福祉大1校だけ。そのうえ、福祉大の幹部役員に文科省や厚労省のOBがゴロゴロ“天下って”いたのだ。
 17日の予算委でこの問題を追及した民主党の桜井充参院議員が入手した資料を見ると、元文部省事務次官や元厚生省保健医療局長、元厚生省健康政策局長など、官僚OB6人が大学の副理事長や学長などを務めていたことが分かる。


2016年3月19日付け日刊ゲンダイ
天下り官僚が暗躍か 私立医大“特区”認可にデキレース疑惑
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/177554/1

 海外から1%の富裕層を呼び込み、医療のバク買いをあおり、この国の1%も含め、高額な自由診療で病気を治そうとする、あっ温泉付きかな、「地獄の沙汰も金次第」な「メディカル・ツーリズム」なわけ。
 特区では農地に営利企業の参入も良しとするのだから、特区では病院への営利企業の参入も認めて、農地の売り買い、病院の売り買いが海外の企業や投資家にも開放するという日本売り渡しのはじまり、はじまりぃ〜
 この甘い汁をいただこう、利権をもとめよう、とコウムインがふところ手で天下ってくるのは、そうフシギじゃないですよねぇ〜
 「世界に誇る国民皆保険を断固として守る」とこの国のトップは明言したと言いますけど「アンダーコントロール」同様、ドアホノミクスはあぶないからねぇ〜
 マスゴミが権力にすり寄っていくのと同じように、エリート集団は皆さん、もうかるほうにもうかるほうに、楽な暮らしができるところへと、流れていくんでしょうか。
 日本人ってそうか、長い物には巻かれよ、目くじらたてないように、でしたっけ。
 今年は、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三サル化していくサル年でしたっけ。

 「医療崩壊」ってのも、もうはじまっていたんだねぇ〜 
 今日3月24日の誕生花は「ムスカリ」。花言葉は「明るい未来」ってNHKは言ってたけど:

 埼玉県厚生農業協同組合連合会(JA県厚生連)は2016年1月15日、運営する熊谷総合病院(熊谷市)と久喜総合病院(久喜市)の2病院について、それぞれ別の法人に譲渡すると発表した。経営難や医師不足が背景で、各病院が持つ機能は新法人にそのまま引き継がれる。休業はせず、4月中に新たに開業する予定だという。
 熊谷総合病院は社会医療法人「北斗」(北海道帯広市)が経営支援し、新たに県内に設立する医療法人に売却する。
 また、久喜総合病院は一般社団法人「巨樹の会」(佐賀県武雄市)に売却する。
 昨年12月下旬にそれぞれ譲渡基本契約を結んでおり、3月末に本契約を結ぶ予定としている。

 JA県厚生連によると、2010年3月期以降、JA県厚生連全体で赤字が続き、昨夏ごろから病院の譲渡先を探していた。関係者によると、病院単体でも赤字で、累積額は両病院あわせて数十億円にのぼるという。
 また会見では、譲渡の理由に「慢性的な医師不足」も挙げた。入院が必要な一般的な医療を行う「2次保健医療圏」の医師数を見ると、両病院のある地域はいずれも、人口10万人あたりの医師数(12年時点)が県全体を下回っている。


2016年1月16日03時00分更新、朝日新聞デジタル(清宮涼、高橋町彰、田中正一)
埼玉)JA県厚生連、2病院譲渡へ 経営難・医師不足で
http://www.asahi.com/articles/ASJ1H35KKJ1HUTNB003.html



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2016年03月23日

Keeping the US First

 本でも冒頭で取り上げましたが、「アホノミクス」がステージ2に入り、われわれの生活はとんでもない形で振り回されることになりかねないと非常に危惧しています。
 GDP(国内総生産)を600兆円に増やす。そのために「1億総活躍」、すなわち「1億総動員」である。そういう方向性があまりに露骨に出てきています。しかもその背景に「GDPを増やせれば国防費を増やせる」というアメリカでの発言があります(2015年4月29日、笹川平和財団米国でのスピーチ後の安倍首相の発言)。
 「強い日本国」の土台となる、強くて大きい経済をつくるため「総員、奮励努力せよ」と号令をかけてきたのです。憲法改正を露骨に前面に出していますが、それが「アホノミクス」の正体なのです。
 まさしく「ドアホノミクス」は富国強兵政策であり、憲法改正を実現して目指すは大日本帝国への立ち返りである。その構図にわれわれが引きずり込まれていく。そのために出生率を上げようとまで主張しており、全く驚くべき状況になっています。
 「マイナンバー」(社会保障・税番号制度における個人番号)だって、「国民に1億総活躍させるために、個々の国民をどのように活用できるか」と政府側が把握するための貴重な情報源として使われかねない。
 差し当たってはそうでないにしろ、金融資産の中身までが捕捉されることになる(15年9月の番号法改正により、18年から銀行預金にマイナンバーを付番できるようになった)。
 一方で、政府債務は1000兆円を突破し、事実上、倒産していると断言していいと思います。日本銀行がせっせと国債を買って「日本国は倒産している」という事実を必死に隠蔽(いんぺい)しているわけです。しかし、日銀の資産に占める国債の比率はものすごく大きくなり、民間金融機関より日銀の方が国債を持っている。続けていけば、日銀と円に対する信認の崩壊につながり、元も子もなくなる恐れがあるのです。
 もしそんな極限的な状況になれば、日本政府は「国民一人一人の金融資産の一定部分を国債に振り替える」というような命令を出しかねません。

。。。

2016年2月7日号「サンデー毎日」
浜矩子 ドアホノミクスを叱る!
年初来、日経平均株価は6日連続で下落した。株高は「アベノミクス」の明白な成果とされるだけに政権に与える衝撃は大きい。昨年11月に上梓した『さらばアホノミクス』(毎日新聞出版)が話題のエコノミスト、浜矩子氏に「安倍政権とわれわれの生活」を聞いた。
http://mainichibooks.com/sundaymainichi/society/2016/02/07/post-630.html

 逃げてばかりいられるか…
 今朝の河北新報は仙台からこんな声をあげました:

 環太平洋連携協定(TPP)の承認案と関連法案が国会に提出され、来月、4月から衆院の特別委員会で本格審議される見通しとなった。
 政府は5月中の承認と成立を目指すという。なぜ、そんなに急ぐのか。
 参加12カ国が国内手続きを終えたとしても、最短での協定発効は2018年4月とされる。時間はたっぷりある。
 政権には、夏の参院選での争点化を避けたい思惑があるという。交渉参加をめぐり国論を二分したテーマである。安倍晋三首相が「国家百年の計」と言うなら、その必要性を説き国民の是非を仰ぐのがむしろ筋なのではないか。
 首相の言葉通りTPPは、将来にわたって国民生活や産業に多大な影響を及ぼす。だが、交渉は秘密で行われ、協定の内容そのものを国民が理解できたとは言い難い。
 数を頼みにした与党による「承認ありき」の国会運営は許されない。国民の疑問、不安に応え、その本質をただす徹底した審議を求めたい。
 去年10月の大筋合意後、政府は承認に向け、協定という「素顔」に厚化粧を施してきた、そんな印象を否めない。
 11月に、あばたを隠すかのように農業支援を主とした対策大綱を決めた。12月には、農林水産物の生産減少額は最大2100億円にとどまる一方、国内総生産(GDP)は14兆円近くも増えるとの試算を公表。見栄えを調えた。
 だが、そのもくろみが奏功したのかどうかは疑問だ。
 特に対策を前提とした試算をめぐり、影響がゼロとされたコメ、維持されるという食料自給率に対し、東北の農業関係者から異論が絶えない。
 このことは、農業分野を中心に交渉と協定そのものに対する疑問、将来不安が根強いにもかかわらず、実効性が疑わしい対策を早々と決め、我田引水の試算を独り歩きさせた政府に、不信感を募らせている証しではないのか。
 TPPとは一体どんな協定か。国会審議で、その「素顔」を明らかにすべきだ。
 まず議論が必要なのは国会決議との整合性だ。決議が守るべき「聖域」としたコメや牛・豚肉を含む重要5農産物には、引き下げられたり撤廃されたりする関税項目が目立つ。これらが食と農の聖域を壊す「アリの一穴」になる恐れはないのか、検証が要る。
 協定には発効後の「再協議」「追加交渉」に言及した規定が目に付く。留意すべきは、モノ・カネ・ヒトの自由な移動を目指すTPPは自由化を後戻りさせず、進化を求める協定であることだ。再協議を定めるのもそのためだ。
 現に関税を引き上げたり、新設したりすることは原則できない規定がある。しかも、その規定は将来、主権者である国民が関税を強化したいと思っても、できないことを意味する。TPPは条約として国内法規に優先するからだ。
 ISDS(投資家と国の紛争解決)条項によって外国企業が国を提訴するリスクが増えることと併せ、協定は主権に関わる問題をもはらむ。
 貿易を含め高度な自由化が経済成長と共に、何をもたらすのか。徹底審議を通じ、国民の議論を喚起したい。


2016年3月23日水曜日付け河北新報
TPP承認案/協定の「素顔」徹底議論を
http://www.kahoku.co.jp/editorial/20160323_01.html

 逃げてばかりいられるか…
 農民作家だって、こんな声をあげていました:

 TPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加が決まった。「攻めの農業」を掲げる安倍政権は競争力強化の好機とみるが、1980年代の牛肉・オレンジ自由化交渉の衝撃を「いま、村は大ゆれ。」で描いた農民作家、山下惣一さんは違和感を抱く。参院選の争点となる農政をどう立て直すか。小規模農家の生産現場からみたTPP論とは。

 作品の舞台となった佐賀県唐津市湊町(旧湊村)岡地区を歩いた。くねくね曲がる農道を上ると、玄界灘に向かって棚田が何段も斜面にはりつく。ミカン畑の多くがイチゴ栽培のハウスや野菜畑にかわったが、約120戸の大半がいまでも農業を続ける。山下さん夫婦も水田7反のほかミカン、ウメ、野菜を作り、自家消費した残りは直売所などで売る。港につながる通りに17軒あった商店は1店を残すだけになった。

― 今度はTPPという自由化の大波です。小規模農家は市場競争に生き残れますか。


 政府のいうことを聞いて規模を拡大してきたコメ農家や酪農家のほうが大変です。いくら規模を広げてコストを下げても、米国の巨大穀物企業や豪州の大農場には勝てない。政府は農産品を関税撤廃の例外にしようと必死ですが、市場競争に直面する大規模農家は冷や水をかけられた思いでしょう。この辺は棚田が大半。地形的に規模を拡大できなかったのが幸いした。市場競争とは違う土俵で自分の相撲を取りたい。
 農業の基本は自分が暮らすこと。私たち小規模農家は年間を通して無収入の期間がないよう工夫し、多品目を作る。鉄瓶を乗せる五徳のように三本柱、四本柱で支えるのです。だから強いですよ。近代化に取り残された村だとか、さんざんいわれてきたが、いまでは専業の大規模農業のほうが補助金なしでは厳しい。大規模化、専業化には限界がある。私たちは大きなコストをかけず、生産者と消費者で小さなコミュニティーを築いて生き残った。都市の消費者とつながる『生消提携』や地域産品を地域で消費する『地産地消』も、小農が知恵を絞って作りあげた。小農や兼業農家、高齢農家の役割はもっと評価されるべきです。


― 農地を集約したり企業の参入をもっと自由にしたりしたほうが、日本の農業は再生するのでは。政府の産業競争力会議では、農地を所有できる農業生産法人の要件を撤廃する提案が民間議員からありました。

 政府はいずれ企業の農地所有に大きく道を開くでしょう。それで農業が活性化しても国民にとって望ましいかは別です。企業は利潤で動くから、失敗すれば農地を売却する。外資が買うかもしれない。ニュージーランドでは中国企業が農場を買収した。自国の土地を耕すのに外資に小作料を払う羽目になるのではないかと騒ぎになったそうです。農地を金もうけの手段にしてはいけない」。
 TPPはグローバリゼーションのひとつのゴールですが、食糧まで自由貿易にさらすのは危うい。インドは世界最大のコメ輸出国になったが、飢餓人口は高水準だ。農産物の貿易は余った国から足りない国に行くのではなく、価格の安い国から高い国に行くからです。こんな農業にすべきではありません。


― 関税撤廃で商品の価格が下がれば、消費者にはプラスです。

 牛肉の関税が下がると、安い輸入肉が入って牛丼の値段が下がる。これに対抗して牛肉と無関係の外食も値段を下げる。結局、労賃を下げて競争するしかなく、牛肉が安くなるだけでは済まない。それは大規模小売店舗法で経験したことです。大型スーパーが地方にも来て、消費者は安いものが買えると喜んだ。でも地元の商店街が寂れて仕事がなくなり、地域は貧しくなった。価格が下がっている背後で、それに見合った所得しかもらえない働き手が増えるのです。消費者の利益だけを考えたら、働き手の利益が失われる。
 農業は単なるひとつの産業ではありません。自然環境や地域コミュニティー、農村文化が合体したものです。田んぼを手放すときは、ご先祖とのお別れだという儀式もする。因習だといわれるかもしれないが、そんなことも含めて農村社会の文化伝統だと40歳を過ぎて悟りました。


 「村」を支えてきたもうひとつが原発だ。10キロほど離れた玄海町には九州電力玄海原発が立地する。牛肉・オレンジ自由化阻止集会で国会議員を突き上げた男性も、ミカン畑を手放し、原発を補修・点検する孫請けの作業員になった。

― 政権の成長戦略では農産物の輸出額を倍増する話がでています。


 経済成長するほど、農業や地方が疲弊してきたのがこれまでの歴史です。自然を相手にする農業は成長してはいけない。去年のように今年があり、今年のように来年があるのが一番いい。私たちはこれを安定といい、経済学者は停滞という。
 農業と工業は原理が違う。工業は競争による優勝劣敗の構図だが、農業は自然との調和と支え合い。棚田では、途中の田んぼでコメ作りをやめれば、下の田んぼに水が来なくなる。あんたがやめたら俺もやめなきゃいけないという世界なのです。ただ、グローバリズムという言葉がでてきた頃から、自分が豊かになるために隣を食うような雰囲気が農村社会にさえ漂うようになってきた。


― とはいえ農業の就業者は高齢化しているし後継者も探しにくい。耕作放棄地も解決できていません。

 農業が衰退してきた本質に目を向けるべきです。日本も韓国も戦後、農地解放して小農を土台にしたが、工業化政策の過程で農業や農村は疲弊した。高度成長期は農村から労働力を集め、出稼ぎが少なくなった代わりに原発や産業廃棄物処分場が地方にきた。工業で稼ぎ、痛みがあるところには補助金を与えればいいと。いま問われているのは、そういう生き方をいかに変えるかということでしょう。韓国は工業製品の輸出で成長しようと米国や欧州と自由貿易協定を結び、国内総生産の9割が貿易に依存する。カミソリの刃の上を渡るような危ういやり方です。
 農業の後継者問題は農業内部だけで解決できる話ではありません。この半世紀、農業以外の吸引力が強かったため、農業をやろうという人は減ってきた。この力関係が変われば嫌でも農業に人が来る。実はTPPがそれを促すと思っています。企業は市場や安い労働力を求めて海外に出ていくから国内の雇用は減る。都市に失業者が増えれば、必然的に農村に余剰人口が押し戻される。


― 家族経営にこだわると農業に新しい人が入ってこないのでは。

 都会が必要なときは地方から人を集め、いらなくなれば返す。随分都合のいい話です。新たに農業をやりたい人には、離農した人の跡地に入ってもらえばいい。ロシアの都市近郊には『ダーチャ』と呼ばれる別荘のようなものがたくさんあり、200坪ほどの土地を貸し与えられた多くの都市住民が週末農業を営んでいます。日本も『日本版ダーチャ』で農業のすそ野を広げるべきです。神奈川県の横浜市や茅ケ崎市などでは1反でも農地を買えるようにして、ふつうの人が農業をやりやすくしています。

― 農業の未来をどのように切り開くべきですか。

 日本の農業の唯一の強さは、地域に農家と消費者が混在したり、都市が近くにあったりすることです。作家の故井上ひさしさんは、日本人はまだ箸を捨てていないから、稲作は残ると希望を託していました。私が読んだ新聞の世論調査でも、TPPで外国から安い農産品が入るのはいいことかという問いに、そうは思わないと答えた人が半分近くいた。希望をみる思いでした。そういう人たちと農家はつながっていくべきでしょう。

*やましたそういち、1936年、佐賀県唐津市生まれ。農村に身を置き文筆活動を続ける。近著にグローバリズムやTPPの危うさを訴えた『市民皆農』(中島正との共著、創森社、2012年7月)。

2013.05.16付け朝日新聞朝刊、オピニオン(聞き手・西井泰之)
「攻めの農業」でいいのか 反TPPの農民作家・山下惣一さん
 
 農業は「富裕層向け」の付加価値の高いものばかり作れば、アメリカに十分対抗できるというTPP賛成派の論であるが、そうなれば日本には満々と水をたたえた田んぼが無くなる。
 美しい千枚田・棚田が消える。
 これが文化の崩壊でなくしてなんだというのか。
 山の上に住むたった一人のお年寄りのために手紙を運ぶ郵便局員がいなくなる。
 村が崩壊して祭りが消える。
 盆踊りが無くなる。
 地元の店がファストフードに取って代わられる。
 小分けでは豆腐は売ってくれなくなる。
 「もう、そんな文化は崩れ始めている」と思う人も多いだろう。
 でも、今はかろうじてこれを支えているところだけれど、なんとか支えようと思う心根、それが、日本人の文化なのではないかと私は思う。
 最後に、佐賀県の農民作家・山下惣一さんの言葉を引く。

俺は、金持ちに食わせるために百姓になったんじゃない


2014年10月25日22:59、BLOGOS、保科省吾(コラムニスト)
<TPPが日本固有の文化を破壊する>
TPPの正当化は「芸能人の降板」を「卒業」と言うのと同じ「まやかし」


 あの、さ、アメリカ人学者がこんなことを:

I could give a glib answer and say the aim is to reduce the population by 50%, to starve people, abolish pensions and spread poverty. That actually is the effect.

The cover story pretends to be about trade, but the real agenda is to force privatization and disable government regulation.

。。。
FEBRUARY 22, 2016
The New Global Financial Cold War
MICHAEL HUDSON
https://canadiandimension.com/articles/view/the-new-global-financial-cold-war

 あな、おそろしや、おそろしや。
 というのも、われわれがおさえておかなければならないのは「アメリカの(1%連中の)世界戦略」なんですぅ〜:

In a broad new policy statement that is in its final drafting stage, the Defense Department asserts that America's political and military mission in the post-cold-war era will be to insure that no rival superpower is allowed to emerge in Western Europe, Asia or the territory of the former Soviet Union.

The New York Times, Published: March 8, 1992
U.S. STRATEGY PLAN CALLS FOR INSURING NO RIVALS DEVELOP
By PATRICK E. TYLER
http://www.nytimes.com/1992/03/08/world/us-strategy-plan-calls-for-insuring-no-rivals-develop.html?pagewanted=1



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逃げてばかりいられるか

 3月23日水曜日、早いもので「彼岸明け」ですね。
 凡人、庶民がどうしても合点いかないこと、首をかしげてみたくなるってあるもんです。
 この国は独立国なんかでなく、どっかの属国、植民地なんじゃないのかなってこと、そのいち。
 この国は、なんで「やくざ」なんてほったらかしにしているんだろ、必要悪ってこと?そのに。
 この国の国家公務員って、国民のために奉仕するエリート集団なんやろかってこと、そのさん。
 まず、そのいち:

 那覇署は2016年3月13日、面識のない観光客の女性が寝ているのに乗じて性的暴行を加えたとして、準強姦容疑でキャンプ・シュワブ所属の米海軍1等水兵(24)を逮捕した。14日、同容疑で那覇地検に送検した。捜査関係者によると容疑者は「ずっとバーにいた。そこ(部屋)にはいなかった」などと話し、容疑を否認している。
 県警によると米軍人、軍属や家族による女性暴行事件の摘発は日本復帰後、2015年末までで129件、147人。
 逮捕を受け、翁長雄志知事は14日「人権を蹂躙(じゅうりん)する重大な犯罪だ」と強い不快感を示した。安慶田光男副知事は水上正史沖縄担当大使と井上一徳沖縄防衛局長に対して再発防止などを求めた。

 容疑者の逮捕容疑は13日午前1時14分ごろから同4時5分ごろまでの間に、那覇市内のビジネスホテルで観光客の40代女性が熟睡して抵抗できないことに乗じて性的な暴行を加えた疑い。那覇署によると容疑者と女性の間に面識はない。女性は共に沖縄を訪れた知人2人と自室にいたが、途中で飲み物を買いに部屋を出た。戻った際に部屋の中の知人が眠っていたため閉め出された。女性は知人の電話を鳴らすなどしたが、廊下で眠ってしまった。
 捜査関係者によると、容疑者は廊下で寝ていた女性を自室に連れ込んだ模様。午前4時ごろ、知人が女性の悲鳴を自室で聞き、容疑者の部屋のドアをたたくと容疑者と女性が室内にいた。知人が女性から話を聞いている間に容疑者はホテルの外に出て、午前5時45分ごろに戻ってきた。逮捕時に微量のアルコールが検出された。
 捜査関係者によると、容疑者は12日夕、同僚の米軍人数人と共にホテルに入り、各自部屋を取った。事件前にホテル周辺で酒を飲んでいた。他の兵士は容疑者と別々にホテルに帰っていたという。
 米軍が実施する飲酒規制措置(リバティー制度)に違反している可能性もある。
 英文へ→US soldier arrested on suspicion of raping Japanese tourist in Naha


2016年3月15日05:05更新、琉球新報
女性を暴行、シュワブ所属米兵逮捕 那覇、観光客が被害
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-238869.html

 沖縄県議会は沖縄タイムスによりますと昨日の22日火曜日に、
▽ 被害者へ謝罪と補償、
▽ 綱紀粛正・教育と休暇時の行動実態調査、
▽ 日米地位協定の抜本的な改定と基地の整理縮小
に加え、県の提案を踏まえた日米両政府による教育・規制の構築を要求し、抗議決議案と意見書案を全会一致で可決したということです。

 そして、ふたつめ。昨日の22日火曜日、11時53分最終更新のANN Newsだって放送していますが、どうして対テロ戦争のように、撲滅とか殲滅とか言わないんでしょ:
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20160322-00000018-ann-soci

 「弁護士会の読書」をまたひもといてみましょうか:

 まったく面識はありませんが、経歴をみると私とまったく同世代のようです(正確には、2008年1月に既に定年退職したということですので、1学年だけ上のようです)。
 終戦時、「朝日」社主の村上長挙は51歳。「朝日」の主筆などをつとめていた緒方竹虎は57歳だった。いずれも、今の私の年齢より若いわけですが、すごい権威と権力をもっていました。
 終戦直後に東久邇宮が首相に任命されたわけですが、この首相が児玉誉士夫を内閣参与に任命したというのを初めて知りました。児玉といえば右翼の親玉ですが、旧日本軍の軍需品を流用・私物化して巨萬の富を得た男です。児玉は、そんな汚れた資金をもとに自民党の黒幕として戦後ながく君臨していくわけです。
 私が右翼を忌み嫌うのは、いかがわしい新興成金体質にみちみちているからでもあります。
 福田内閣のメインである自由民主党は、児玉が日本陸軍からかすめとった財宝を資金(もとで)として結成されたものです。これが平和・民主主義の日本の七不思議の一つです。
 汚れたお金で結成された政党による政権が、戦後60年以上たっても、連綿として続いており、若い保守政治家が自民党と名乗るのに何の恥も感じていないというのです。いやあ、気の弱い私なんか、それだけでも自民党の議員になるなんて恥ずかしくて、よう言えませんが・・・。
 そして、朝日新聞は、戦時中に、日本帝国海軍「徴用」という名目によって少なからぬ特典・特権を享受したというのです。これでは戦争批判など、しようと思ってもできるものではありません。
 1945年9月29日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したときの写真が公表された。黒いモーニング姿で小柄な天皇が正面を向いて直立しているのに対して、頭一つ長身の元帥は襟元のボタンをはずし、両手を腰にあてリラックスした姿だった。
 会見に同席したのは通訳の外務省情報部長一人。元帥が30分間にわたって、とうとうと話し、天皇はごくわずかしか話さなかった。天皇は、このときマッカーサーを下手に怒らせて戦争責任を追及されるのが怖かったのです。
 東久邇宮首相と緒方竹虎書記官長は、内閣の基盤を強化するため、これまで野党あるいは反体制側だった無産政党や労働運動、農民運動などの政権参加が必要だと考えた。そして東久邇宮は、在日朝鮮人組織の指導者と会見(10月2日)するなど、左翼陣営や諸団体との協力を模索し、場合によっては共産党との連携も検討していた。ひえーっ、本当ですか、これ・・・。
 ところが、閣内の2人の大臣がとんでもない発言をした。山崎内相は、反皇室宣伝をする共産主義者は容赦なく逮捕する。共産党員は拘禁を続けると言い切った(10月5日)。岩田宙造法相も、政治犯の釈放は考えていないと高言した。これを聞いたマッカーサーは怒り、「自由の指令」を発した(10月4日)。これで東久邇内閣は発足して50日で総辞職した。後任は、73歳の幣原元外相が就いた。
 そして、近衛文麿は12月16日、マッカーサーから切り捨てられ、青酸カリを飲んで自殺した。1945年2月、近衛は昭和天皇に対して、「ここまで来ては、敗戦そのものより、その後に来たる共産革命が深刻だ」と述べ、さらに10月4日にはマッカーサーに対して「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」を述べていた。
 ええーっ、近衛の歴史認識って、こんなにひどいものだったんですか・・・。

 日本に進駐したGHQは、情報局総裁を兼務していた緒方書記官長を呼び、「占領政策に反する新聞をつくらない、米ソ関係を紙上でコメントしない、この2点に違反しない限り、日本の新聞の存続は認める」という方針を伝えた。同じ敗戦国のドイツ・イタリアの新聞は廃刊に追いこまれたのに、日本については、すべての新聞が戦前と同じ題号で発行を続けることが認められた。
 朝日、毎日で経営陣が退き、従業員の選出による新しい執行部が誕生するなか、読売新聞では正力松太郎がそのまま社長室に君臨していた。
 「この社はオレの社だ。勝手なことはさせない」
 自分の戦争責任につながる社内の動きは絶対に認めない。それが正力の強い決意だった。正力は、内務警察官僚として共産党弾圧の張本人の一人であり、また、ナチス・ドイツを崇拝する記事を読売にのせていた。
 その正力に対して労働者の怒りが爆発した。そのころ、日本共産党書記長になったばかりの徳田球一が読売新聞の実権を握るようになった。ところが、正力は依然として、半分近い株主を保持していた。これが復帰のバネとなった。
 鳩山の追放に成功したことによって、GSにとって皮肉なことに、鳩山より手ごわい吉田が登場した。吉田はGHQ内の反共派を代表するG2に近く、民主化最優先・容共派のGSにとっては不倶戴天の敵のような存在だった。
 やがてマッカーサーは、「共産党をキックアウトしろ」と言い、民主化を主導してきたコーエンらGS幹部を相次いでアメリカ本国に帰国させた。こうしてGHQ内の容共派は駆逐された。
 1947年の2.1ストにからみ、読売と毎日はゼネストを批判したが、朝日は、民主戦線結成と吉田内閣の打倒をうち出し、組合寄りだった。そこで、GHQは朝日打倒に乗り出した。GHQはゾルゲ事件と朝日を結びつけようとした。ゾルゲー尾崎秀実ー田中慎次郎ー笠信太郎というラインを浮かび上がらせ、朝日の論説を容共的なものとしてクレームアップしようとした。
 1950年7月28日、レッドパージが始まった。NHK119人、朝日104人など、報道8社で336人が解雇された。レッドパージされた労働者は2万人にのぼった。
 1949年に150万人を組織していた産別会議は、50年には、わずか4万7000人の少数派に転落した。
 朝日新聞の運営は経営が資本に対して優位を保つ形で続いているが、戦前戦後にわたって新聞人・緒方竹虎が苦悶した資本(村山家)と経営(執行部)との対立構図そのものは解消されていない。
 かつて日本の良識とも言われた朝日ですが、今や右翼のサンケイ・ヨミウリと大同小異の記事も多いように思われ、残念です。


2008年8月20日「弁護士会の読書」
今西光男『占領期の朝日新聞と戦争責任』(朝日新聞社、2008年3月)
http://www.fben.jp/bookcolumn/2008/08/post_1907.html

 ええーっ、こんな歴史があったんですか・・・これも:

Fri.2015.04.10
安倍晋三は、暴力団を非難したことがない唯一の首相である
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3539.html

 こっかこうむいん、だってコクミンそっちのけ、給料もいいし年金もいいし、のんきな商売です。
 スーダンには鉄砲かついで人殺しに行けるけど、フクシマには行けないんだって…
 今日、みっつめ:

 東京・池袋。
 雑多なビルが立ち並ぶ一角に「農民運動全国連合会」(略称・農民連)の本部がある。
 農産物の価格補償や輸入の自由化反対などを掲げる農民組織だ。
 2011年3月。福島県南相馬市で被災した三浦広志(56)が、ここに現れたのは震災から10日ほどたってからだった。
 常任委員の齋藤敏之(さいとうとしゆき)(66)は農民連の設立前から、三浦と一緒に有機農法や産直運動に取り組んできた。
 旧知の同志が元気な顔を見せたのでホッとした。
 三浦は、津波で田畑が洗われただけでなく、福島第一原発の事故で故郷を離れざるを得なくなり、避難所を渡り歩いた末、着の身着のまま、この春から東京に就職が決まった娘と、上京してきたのだった。
 齋藤の手元に、震災後、あわてて調達した線量計がちょうど届いていた。試しに、着たきりスズメだった三浦のコートにあててみた。
 たちまち針が振り切れた。
 居合わせた十数人は絶句した。あわてて三浦からコートを脱がし、ポリ袋を何重にもしてくるんだ。
 原発事故が目の前の現実であることを改めて突き付けられた。
 しかし、当の三浦はケロッとしたままで言った。
 「早く農水省交渉をセットしてほしい」
 三浦は20代で地元農協の支部長になる一方、農産物の輸入自由化などに対抗する農民運動に取り組んだ。
 この活動が農民連に発展。設立時から若手の中心メンバーとなる。
 農林水産省などとの交渉も数多く経験してきた。震災という非常時に、早く国に窮状を訴えたかった。
 3月24日、震災後初の交渉がもたれる。
 三浦は訴えた。
 「家を失い、田畑を失い、倉庫のコメも流され、放射能も浴びた。福島がどうなっているか、早急に見に来て欲しい」
 このときに返ってきたという言葉を、三浦は以後、いろんな場面で紹介している。
 「私たち国家公務員は福島のような危険なところには行けないことになっているんです
 未曽有の原発事故は、こんな言葉を、すらりと言ってしまえる空気を生んでいた。
 三浦はぐっとこらえた。怒ったら交渉は負けだ。でも思った。逃げてばかりいられるか。


2016年1月28日05時00分更新、朝日新聞デジタル(南井徹)
連載(プロメテウスの罠)食わんで結構:6 針が振り切れた上着
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12181121.html?rm=150

 朝日新聞、がんばれぇ〜 
 そして皆んな、凡人庶民のわれわれ、逃げてばかりいられるか、明るい未来に向かっていっしょに歩いて行こうね。


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2016年03月22日

北のソノリテ

 ベートーヴェンの春、春はベートーヴェン、いいでしょ。

 ベートーヴェンは1770年生まれ。
 この頃、第2次英仏百年戦争がイギリス優位に決着、窮乏に苦しんだフランス市民が革命というかたちでエネルギーを爆発させるのも間近・・・ヨーロッパはそういう時期でした。
 その爆発が起こったのはベートーヴェン19歳のとき。
 震源地フランスに近いボンで育ったルートヴィヒ少年は、新しい時代の息吹を自然と感じ、芸術家としての新しい生き方に思いを馳せながら育ちました。
 当時まだドイツという国はなく、神聖ローマ帝国という得体のしれぬ存在のなかに、プロイセンとオーストリアが台頭していました。経済や軍事ではイギリス・フランスの後塵を拝したこの地域でしたが、芸術は一級品でした。
 音楽はプロイセンのフリードリヒ大王のもと活躍したバッハのあと、オーストリアにモーツァルトが登場。
 哲学にカント、文学にゲーテ・シラーがあらわれ、文化の黄金期を迎えようとしていました。


第2回演奏会は、「ベートーヴェンとその時代」というテーマで開催しました。
http://snrt.web.fc2.com/report.html

 ベートーヴェンが「春」を出したころの日本は、といえば徳川家斉が将軍で、前年に伊能忠敬(1745〜1818)が蝦夷地を測量しています。

 今回の列伝は「大日本沿海輿地全図(だいにほん えんかい よちぜんず)」をつくった伊能忠敬。
 人生50年といわれた江戸時代に、50半ばから17年間、実に地球1周分を歩き続けた男の偉業を読み解く。日本地図を作れという幕命を天命と受け止め忠敬の執念とは!?
。。。
 1821(文政4)年7月、江戸城。「大日本沿海輿地全図」が大広間いっぱいに広げられた。
 それは、日本列島の姿が正確に記された史上初の地図。幕府はそのスケールと精密さに驚愕した。
。。。
 49歳のある日、決心する。家督を長男に譲り、ひとり家を出た。忠敬が向かったのは、江戸の幕府暦局(れききょく)。
 日夜天体の動きを観測し、国の暦を作成する天文学の最先端機関だ。忠敬は、暦局の第一人者・高橋至時にかけ合い、その情熱で異例の弟子入りを認めさせた。
 当時、暦局はある難問を抱えていた。それは“地球の大きさ”。
 地球が球体であることは西洋から伝わっていたが、その大きさが分からず、正確な暦づくりに支障をきたしていたのだ。
 高橋は、“最北の地、蝦夷地まで行って計測できれば、正確な値が出せるはずだ”と言い出した。当時蝦夷地と呼ばれた北海道は遥か北方の未開の地で、幕府の許可なく立ち入ることは出来ない。しかし、時代が後押しした。
 1792年、ロシア使節・ラクスマンが突如根室に来航し、鎖国状態の日本に通商を求めていた。
 幕府は、蝦夷地の形状を正確に把握していない。その海岸線を詳細に描いた地図が必要だった。そこで、高橋と忠敬は“正確な地図を作製する”という名目で、蝦夷地行きを申し立てた。
 果たして、狙い通り幕府から許可が下りた。忠敬はおよそ80両、現在の1200万円に当たる額を自ら持ち出し、壮大な挑戦を始める。

2014年5月9日(金)放送
『日本地図』を作った不屈の魂 伊能忠敬
http://www.bs-tbs.co.jp/retsuden/bknm/05.html

その時歴史が動いた「伊能忠敬56歳からの挑戦」(2000年)
https://www.youtube.com/watch?v=4fp1cUvUhNk

 ベートーヴェンが「春」を出したころの日本は、といえばもうひとつ。
 その翌年には十返舎一九(1765〜1831)の『東海道中膝栗毛』が出ます:

岩波文庫全二冊(麻生磯次:校注、日本文学古典[黄]):
 滑稽本の代表的作家たる十返舎一九の28歳から35歳までの8年間の苦心の作であり、彼の名を不朽にした傑作である。
 恬淡にしてしかも虚栄にみち、強がりではあるが実は臆病な江戸ッ子の特性をもった弥次郎兵衛、北八が伊勢参宮、大和めぐりと旅をする間に起る失敗談などを、おもしろおかしく記した滑稽小説。

http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/qsearch

なお、現代語訳も岩波現代文庫から(伊馬春部:翻訳):
 本書は、江戸期の最大のベストセラーである。
 放蕩のあげく神田に逼塞していた遊び人弥次郎兵衛と、その食客北八の江戸っ子二人組が、借金取りから逃げるため、東海道を辿る旅に出る。
 道中で繰り広げられる滑稽と醜態の失敗談が、駄洒落、狂歌、各地の風俗、奇聞をまじえながら語られる。
 今なお日本人に愛読されるユーモア文学の傑作。
 原作のリズムを伝える現代語で楽しむ。

https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/5/602242+.html

沼津市商工会「東海道中膝栗毛」
http://www.numazu-s.or.jp/yajikita/yajikita_flame.htm

弥次さん(加東大介)と喜多さん(小林桂樹)の弥次喜多道中記(1958年・東宝/監督:千葉泰樹)
https://www.youtube.com/watch?v=HgioDolMAmU

弥次郎兵衛(市川雷蔵)と喜多八(林成年)の弥次喜多道中記(1956年・大映/監督:斎藤寅次郎)
https://www.youtube.com/watch?v=m7LJdd3_vyY
 島倉千代子(1938〜2013)が若い声で「りんどう峠」を歌っています!

 へえ〜、ところで、ですよ。
 ヤッホー君、どうして≪第2回演奏会は、「ベートーヴェンとその時代」≫と日記につけておこうとしたのかな?
 といいますと、この出典のサイトは北区で演奏会を開催する室内楽グループ『北のソノリテ』さんなんですが、昨日の月曜日に演奏会があって、飛鳥山を山歩した後のヤッホー君、聴きに行ってたんですって:
 第4回演奏会は、「爛熟のヨーロッパ」というテーマ!
 早めに並んだので入場することができました!

 第4回演奏会は終了いたしました。
 ご来場くださった皆さま、心からありがとうございました。
 今回はいままでで最多、483人の皆さまにご入場いただきました。
 また、多額の寄付を賜り、心から感謝いたします。

 早々に満員となり、多くの皆さまにお帰り頂くことになってしまいました。
 本当に申し訳ございませんでした。
 とりわけ、昨年寄付を賜ったにも関わらずご入場頂けなかった皆さまに、心からお詫び申し上げます。
 今後はこのようなことがないように、最大の努力をさせて頂きます。


公式サイト、トップ
http://snrt.web.fc2.com/index.html

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2016年03月21日

糸と光と風景と

 昼前、ヤッホー君あわてて家を飛び出していきました。
 「飛鳥山公園」へ春を探しに。

桜の飛鳥山.JPG

飛鳥山の桜.JPG

 この公園は徳川吉宗によって江戸の町民に解放され、明治になって日本で最初の「公園」となり、いまは北区の区立公園です。
 ヤッホ−君のこのブログ、2014年4月11日付日記「飛鳥山」をお読みください。

 2016(平成28)年3月26日(土曜日)・27日(日曜日)、飛鳥山公園(王子1-1-3)で「第19回 北区さくらSA*KASO祭り」が開催される。
 飛鳥山公園の花見は約280年前、徳川八代将軍・吉宗が、享保の改革の一環として桜を植え、江戸庶民に開放したことから始まる。
 同イベントは、この花見を現在に復活させて未来に伝えていこうと、地元の有志によりはじめられたもの。
 ステージでは「琉と華」をテーマに、沖縄の伝統芸能「エイサー太鼓」や日本舞踊などが勇壮華麗に披露されるほか、地域の商店を中心に屋台の出店もあり、北区の名品や地方物産の販売が行われる。
 午前10時から午後4時まで。小雨決行。 


http://www.city.kita.tokyo.jp/koho/kuse/koho/hodo/press-releases/h2803/160304.html

北区でくらす〜北区若手職員×東京家政大学生〜
https://www.youtube.com/channel/UCiSeCBXysySWkkVDYdvQ94w
 
 ヤッホー君はこの公園にある「飛鳥山博物館」へ。

 明治期以降、女性の自立を支えた刺繍(ししゅう)の歴史を紹介する展示会が3月15日、北区飛鳥山博物館(王子1)で始まった。かつて、現在の文京区に校舎を構えた女子美術学校(現女子美術大学)の刺繍科で制作された、のどかな東京の風景画が並ぶ。 
 企画展「糸と光と風景と−刺繍を通してみる近代」で展示されている刺繍画は約140点。便せん大の刺繍が、30センチ角の色紙に貼り付けられている。
 卒業製作として明治40年代〜昭和初年に作られた作品とみられる。北区赤羽、滝野川の二地区のほか、目黒や三軒茶屋など都市化の波が及ぶ前の東京郊外の風景が多い。井の頭公園や国分寺など武蔵野の自然や、果物をモチーフにした作品もある。
 博物館によると、刺繍は絹製品の輸出の増加を背景に、女性の自立につながる技能として盛んに奨励されたという。学芸員の久保埜企美子(くぼのきみこ)さんは「女子美は美術としての刺繍に力を入れました。絹の輝きを間近で見ると、プロとは違った、女学生たちの真剣さが伝わってきます」と話す。
 5月8日まで。「刺繍体験講座」など関連イベントもある。観覧無料。午前10時〜午後5時。月曜休館(3月21日開館で翌日休館)。問い合わせは、北区飛鳥山博物館=電03(3916)1133=へ。


2016年3月16日付け、東京新聞(中村信也)
女性の自立を支えた刺繍 明治期からの歴史紹介 北区で企画展
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201603/CK2016031602000167.html

 女子美術学校創立当初から開設された刺繍教育の歴史を、近代の歴史の中の一コマとして紹介いたします。
 飛鳥山は江戸時代から桜の名所として親しまれた場所で、本郷菊坂時代の女子美生はピクニックやスケッチにたびたび訪れていたようです。
 前後期合わせて約250点の女子美卒業生の刺繍小品が展示されます。
 創立当時の写真の展示もあり、時代は変わっても女子美生のはつらつとした制作の様子がうかがえます。

2016.02.23
北区飛鳥山博物館における刺繍展「糸と光と風景と−刺繍を通してみる近代−」
http://www.joshibi.ac.jp/about/joshibinews/3224

女子美数え歌
http://joshibihistory.tumblr.com/

 え〜と、ヤッホー君、どうしても今日ブログ「日記」につけたかったのは、女子美の古い写真が展示されてあってその彼女らの底抜けの天真爛漫の笑顔にすっかり魅せられてしまったからです。
 こういう説明がついていました:

浮間ヶ原にて
1921(大正10)年。女子美・歴史資料館所蔵

 明治・大正期に桜草の名所として知られていた浮間ヶ原(現・北区浮間)での遠足風景である。
 本郷菊坂の女子美術学校からは路面電車などを乗り継ぎ、赤羽からは徒歩と渡し船で向かったのだろう。
 屈託なく笑う学生の表情から、解放感と高揚感が伝わってくる。
 浮間ヶ原を題材とした刺繍画は残されていないものの、こうした遠足が作品の構想やスケッチの機会となったのではないだろうか。


 行きたいところ、歩きたいところがまた出てきちゃいました、江戸ちゃぁ〜ん、お願い!

(その1)都立浮間公園(最寄駅:JR埼京線「浮間舟渡」駅)

『新編武蔵風土記稿』より
○ 浮間村 浮間村は江戸より行程3里半に及べり、民家50余、東は飯塚村に接し、南は荒川に限り豊島郡小豆沢・志村・蓮沼の3村にて、西は下戸田村、北は横曽根村なり、東西14町、南北10町許、荒川に添し地なれば水溢の患あり、皆畑の村なり、昔より御料所にして今に替わらず、検地は新田共に前村に同じ、又川を隔て茅野あり、御用地と唱えて野銭を上納す。
 かって、浮間の住所は埼玉県北足立郡横曽根村大字浮間でした。
 1910(明治43)年夏に発生した豪雨による大洪水で、江戸時代以来の堤防が決壊し、東京を中心に浸水は約27万戸、被災者約150万人という被害を出した。政府は抜本的な荒川改修に乗り出した。その基本プランは、岩淵から下流に隅田川から分岐する形で、荒川放水路を開削すること、かつ、洪水時には隅田川の増水を抑えるために岩淵水門を設けて、隅田川の入口を塞ぐといういうものであった。
 その工事により、都県境が新河岸川から新荒川に変わり、浮間は埼玉県と分断されてしまい、1926(大正15)年に、東京府北豊島郡岩淵町に編入されました。


浮間の歴史
http://www.ukima.info/meisho/sekibutu/siryo_ukima.htm

(その2)女子美術大学歴史資料室(杉並キャンパス1号館1階)、最寄り駅:東京メトロ丸ノ内線「東高円寺駅」から徒歩約8分

 私立女子美術学校創立当初は入学生が少なく、開校後まもなく経営難に陥ることとなった。横井玉子、藤田文蔵は、順天堂医院長夫人であった佐藤志津に協力を求めた。佐藤志津は、同校の建学精神を理解し、学校経営に乗り出すことを決意する。1901(明治34)年、志津は玉子、文蔵と誓約書を交わし、翌年1月、正式に私立女子美術学校校主となる。1904(明治37)年には二代目校長を兼任する。
 学校の運営に奔走した横井玉子は、体調の不調が続き、1902(明治35)年に病状が急変し、翌年1月逝去。私立女子美術学校のために精魂を傾けた晩年であった。
 志津は多岐に渡る人脈を生かし、積極的に寄付を求めていった。1908(明治41)年、弓町校舎が火災のため焼失した後、本郷菊坂に木造3階建校舎を建設し、多数の学生を受け入れる環境を整えた。1917(大正6)年には、佐藤進(二代目順天堂堂主)が理事長に就任する。


女子美のあゆみ
http://joshibihistory.tumblr.com/tagged/



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春望

 あっという間に削除され、読めなくなって「社会の木鐸」機能よりは、記事、情報を売って金にすることに専念するマスゴミ各社。
 昨日の「春分の日」の振り替え休日となっている3月21日のヤッホー君の日記はこれから始まりぃ〜:

 政府は、企業の農地所有を認める規制緩和に動きだした。

 さまざまな規制緩和で農村振興を進める国家戦略特区の兵庫県養父(やぶ)市を対象に、農地を所有する法人への企業の出資比率を50%以上でも認める方針だ。関連法改正案の今国会提出を目指している。

 50%以上の出資は、企業が農地を実質所有することを意味する。特区を突破口に、企業の農地所有に道を開く狙いのようだ。

 耕作放棄地の解消や農業の担い手不足の問題を、企業の参入で解決しようとの考え方がある。

 とはいえ、企業は短期の利益を追求する。農業で赤字になれば、耕作を放棄したり、将来、ごみ置き場などに用途を変えてしまう懸念が指摘されている。

 政府は規制緩和を急ぐのではなく、企業の農業参入の実態を見極めたうえで、農地所有をめぐる生産者の疑問に答えるべきだ。

 新たな規制緩和は、2016年2月初旬の国家戦略特区諮問会議で安倍晋三首相が前向きな発言をしたことで浮上した。

 養父市は企業の活力を取り入れたいとし、50%以上出資できるよう緩和を要請していた。

 企業の出資比率は4月に緩和され、従来の25%以下から50%未満まで引き上げられる。さらなる手だてを模索するのなら、今回の緩和の影響を検証することが先だろう。

 農地法などを「岩盤規制」と位置づけ、特区を皮切りに本格的な農地所有につなげる意図があるのなら、前のめりすぎる。

 全国には東京都の面積の2倍に及ぶ42万ヘクタールの耕作放棄地がある。中山間地に多く、傾斜地に狭い農地が点在するなど使いづらい。

 企業が参入すれば耕作放棄地が減るとの期待もあるが、企業は大消費地に近く、耕作可能な農地を優先するのは当然だろう。

 使いやすい農地を所有した企業が赤字で撤退すれば、かえって耕作放棄地が増える恐れさえある

 一方、企業による農地の賃借は2009年の規制緩和で自由化され、参入は緩和前と比べ5倍に増えた。農地所有より賃借の方が経費面で割安との見方が定着していることを政府は踏まえるべきだ。

 世界貿易機関(WTO)のルールには、国内と国外の企業を平等に扱う原則がある。企業の農地所有を認めれば、外国企業に買収される事態も念頭に入れたい

 農村に企業の力を取り入れる際の問題点について、農家をまじえた丁寧な議論が求められる。


2016/03/01 08:50更新、どうしん「社説」
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/opinion/editorial/2-0048682.html

 かねて経済界は「農業への参入は原則自由にして、農地利用の義務を厳格に規制すればよい」との主張を繰り返してきたが、実際には農地を守れない空論であることは、農地に関する農水省の検討会など過去何回もの政府内の議論でも論証済みだ。

 農業委員の公選制を廃止して首長の任命制にするとか、農地の権利移動を原則届け出制に改めるといった提案を認めれば、国民の公共財である農地を安定的に維持するために、現場の英知を積み上げて築かれてきた農地法を骨抜きにし、農地を企業の営利活動に委ねてしまうことになる。

 短期の利潤追求を使命とする企業が30年、50年にわたって地域の資源や環境保全の共同活動といった義務を果たし続けられるのか、大いに疑問だ。
 
 農地は地域の共同資源であり、地域社会が成り立つための基盤だ。だから住民自らが主体的に管理・活用しなければならない。農地を保全・活用する最善の仕組みは集落営農だと考えている。

 地域住民の英知を結集して皆で意思決定し、得意分野で生涯現役で参加できる。元気な農業と活力ある地域を両立させる大きな可能性がある。

 農地を有効活用するために、農家以外に所有権が移っている農地を地域で共同管理できる仕組みづくりの方が優先すべき課題だ。


2014/5/29付け日本農業新聞、e農ネット
企業の農地取得
農山村地域経済研究所長 楠本雅弘氏

http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=27963

杜甫『春望』
国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

https://www.youtube.com/watch?v=MugazUyg3Yo

Spring View
country ruined mountain & river remain
city in springtime grass & trees grow deep
facing hard times flowers trigger tears
hating separation birds startle my heart
beacon fires last for three months
a letter from home worth ten thousand gold coins
white hair shorter the more I scratch
it simply can't bear a hairpin


 これって「前のめり」すぎるっていうのは、農地法など農地の取得、維持管理、経営、歴史的経緯、継承について比較法的研究があって、その専門的知見にもとづいて指摘、警鐘、指針をしめす「学者」先生がいないから、こういう政府の「暴走」をゆるしているんじゃないか、と。
 生き残りをかけた農業とか、TPPをにらんだ農業とか、売れる農業とかそんなことばかりとりあげると、「国破山河無」になるんじゃないか、と心配してる売国しゅぎしゃじゃなくって愛国シュギシャのヤッホー君です。
 どなたか読者の学者先生、次の文章を無知蒙昧なヤッホー君にも、分かりやすく教えていただければ春になって、もっと心うきうきするんですが… 

To date, nine US states have enacted laws that restrict or prohibit corporate farming. The first of these laws were enacted in the 1930s by Kansas and North Dakota respectively. In the 1970s, similar laws were passed in Iowa, Minnesota, Missouri, South Dakota and Wisconsin. In 1982, after failure to pass an anti-corporate farming law, the citizens of Nebraska enacted by initiative a similar amendment into their state constitution. The citizens of South Dakota similarly amended their state constitution in 1998.

Note:"Corporate Farming Laws". National Agricultural Law Center. Retrieved 6 November 2014.

The precise wording of these laws has significant impact on how corporations can participate in agriculture in these states with the ultimate goal of protecting and empowering the family farm.

Note:"Corporate Farming (Restrictions on Corporate Farming/Family Farm Preservation)". National Agricultural Law Center. Retrieved 6 November 2014.



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2016年03月20日

べートーベンの春

 春はベートーベン(1770−1827)!
 いやベートーベンの「春」を聴きましょう!

The Violin Sonata No. 5 in F major, Opus 24 ("Spring"), published in 1801!
アンネ=ソフィー・ムター Anne Sophie Mutter(1963年生まれ)でどうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=PGFs7n6n3-8

 だってぇ、春分の日のヤッホー君、隅田川テラスお散歩!
 だってぇ、パリのセーヌ川と隅田川は友好河川なんだよ!

佃公園の桜.JPG

東京海洋大の桜.JPG

越中島公園の雪柳.JPG

 春の徴にこころうきうき。

Quelles sont ces belles couleurs qui me rendent de bonne humeur?
Tulipes, marguerites... Ce sont les belles fleurs!
Quel est ce son / que j'entends là-haut?
C'est le chant des petits oiseaux!

La nature se réveille,
Ce que je vois n'est plus pareil.
Des fois il pleut un peu,
Des fois il fait soleil

Le printemps est ici et moi je souris!!
Maintenant que va faire
Monsieur le soleil chaud?
Il fait fondre la neige / et la change en eau!

L'eau, le soleil, le vent
Aident à l'arrivée du printemps!!
La nature se réveille,
Ce que je vois n'est plus pareil.

Des fois il pleut un peu
Des fois il fait soleil
Le printemps est ici et moi je souris!!

Les animaux jouent dans le paysage.
Les arbres nus retrouvent leur feuillage.

La nature se réveille
Ce que je vois n'est plus pareil.
Des fois il pleut un peu, des fois il fait soleil

Le printemps est ici et moi je souris!!
Et moi je souris
Et moi je souris.


https://www.youtube.com/watch?v=oIdtkpznIIU

 しかし春に聴きたい名曲はヤッホー君、やっぱりベートーベンはベートーベンでも、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」だってぇ、
 では、内田光子(1948年生まれ)でどうぞ:

MITSUKO UCHIDA ~ Beethoven Piano Concerto # 5 / Seiji Ozawa / Saito Kinen Orchestra
https://www.youtube.com/watch?v=mQHrNdjUPDc

 ベートーヴェンの「皇帝」は、緩徐楽章(第2楽章)の美しさが際立つ。
 この楽章を聴くと、ベートーヴェンがいかにロマンあふれる人だったかが理解できる。彼は堅物でも、変人でも、人間嫌いでもなく、真に感情豊かな心やさしい人物だったのではないだろうか。
 こんなにも清らかで心が洗われるような音楽を生み出す人が、変人であろうはずがない。私はこの緩徐楽章を聴くと、いつもロマンティスト、ベートーヴェンの心情が映し出されたその類い稀なる美の世界に心が揺さぶられ、つい涙してしまう。
 しかし、ベートーヴェンの作品はその美しさゆえにピアニストにとって非常に難しいといわれる。この秘められたロマンを表現するためには、作曲家の魂に寄り添うよう、楽譜の奥深い部分まで迫っていかなくてはならないからである。
 あるときは威厳に満ち、またあるときは哲学的な味わいをもち、さらに神々しさも放つベートーヴェンの作品。その底にただようえもいわれぬロマンティシズム。それはベートーヴェンの生き方そのものが映し出されているといっても過言ではない。
 ベートーヴェンは生涯に5曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、とりわけ第5番は特別な輝きを発している。壮大なスケール、雄大な曲想、ピアノとオーケストラによる重厚で肉厚な音の対話は聴き手の心をとらえ、強い印象を与える。

 曲は3楽章で構成され、第1楽章は、オーケストラの輝かしい響きに次いでピアノの力強く即興的なカデンツァが登場する。カデンツァとは、自由な無伴奏の部分を指し、ここではピアニストがソロにより、華麗で壮麗な演奏を存分に発揮することになっている。
 第2楽章は自由な変奏曲で、ピアノが幻想的な美しさに彩られた旋律をゆったりと奏で、ベートーヴェン特有のロマンを表現している。
 第3楽章は巨人の舞踏を思わせるような、足を踏みならすような力動感あふれるロンド。ロンドとは、フランス語の「丸い」の意味で、輪舞またはその歌を指す。ここでは重厚なオーケストラの響きが勢いに満ちたピアノと雄弁な音の対話を繰り広げ、ダイナミックな踊りを展開し、力強く明るいクライマックスへと一気に突き進んでいく。


2013年12月12日、音楽ジャーナリスト&ライターの眼掲載
執筆記者:伊熊よし子
http://www.yamaha.co.jp/ongakukiji/news.php?no=14617

 内田光子は、といえば:

Fiona Maddocks: You were born in Japan, grew up in Vienna and live in London. This could be culturally confusing…
Mistuko Uchida: Yes. I have three mother tongues and I'm not perfect in any. I still speak Japanese with my sister and cousin. Most of the time I'm talking English. But I count music, and do my musical thinking, in German because it's the habit I grew up with.

Fiona: You have a reputation for self-discipline. Do you ever wind down?
Uchida: I love doing nothing and looking out at sea. It doesn't matter what sea. I like to swim in salt water.

Fiona: But you'd rather be playing the piano?
Uchida: Absolutely. When I'm at home I spend all day around my pianos. My fingers never tire. It's my back, shoulders and brain that need a rest.

Fiona: You live in a Notting Hill mews house with your piano studio opposite – in the centre of bustle yet separate from it…
Uchida: Yes, all I have to do is cross the street. Currently I have four pianos, all Steinways – one I call "the Oldie", who was born in 1962 and I bought in 1982. He is now full of new bits but the body is the same.

Fiona: You're sounding quite tender about these pianos…
Uchida: They're like human beings – all men. Number 2 is good for practising on. The third I call the Boy from Munich – the kind that would drive a sports car. The fourth is the youngster, just getting nappy trained. I'll probably find somewhere in Europe to house him so I don't always have to transport a piano – which is quite a business.


http://www.theguardian.com/music/2013/aug/04/mitsuko-uchida-proms-interview

 内田、さん付けでよばなくっちゃ、内田さんのモーツアルトもいいですね、すばらしい:

Mozart: Concerto for piano and Orchestra (d-minor) K.466
https://www.youtube.com/watch?v=yM8CFR01KwQ



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シールズ関西

 各地の学生だって声をあげはじめています。
 民主主義ってなんだ!?って叫んでいます。
 だってぇ、戦場に行って、人殺しの武器をもって、人間を殺すのは、あるいは殺されるのは若いひとだもん。

 平和や社会について考える「奈良市母親大会」が2015年12月5日、奈良市の県教育会館で開かれた。
 市内の女性を中心につくる実行委員会の主催。
 関西学院大4年で、安全保障関連法に反対する学生団体「SEALDs KANSAI」(シールズ関西)のメンバー、寺田ともかさん(22)らが登壇し、思いを語った。

 寺田さんはデモの様子を映した動画などを交えてシールズ関西の歩みを紹介。
 若者の政治観について、政治を考える余裕がなく、語ることに気恥ずかしさを感じていると指摘した。
 最後に、「何かを問いかけたい時に自由に声をあげられる社会を実現していきたい」と訴えると拍手が起きた。

 奈良市の保育園勤務の元田恵さん(58)は「寺田さんたちは社会の新しい風。きちんと考えを聞いて応援していきたい」と話した。


2015年12月6日03時00分更新、朝日新聞デジタル(小出大貴)
奈良)シールズ関西メンバー「声あげられる社会を」
http://www.asahi.com/articles/ASHD545D6HD5POMB009.html

 シールズの本間信和氏は「未来の世代が戦地に赴き、命を落とすことにつながるかもしれない。命を落とすのは私の子供かもしれないし、あなたの子供かもしれない。この未来を避けるために私たちは選挙に行き、デモで声を上げることが非常に大切になってくる」と訴えた。

 シールズ関西の寺田ともか氏
個人を尊重しない政党に、これ以上この国のことを決めてほしくはない。命の価値を理解できないむなしい価値観の人々に、これから生まれ来る子供たちの大切な命や未来を預けるわけにはいかない」と呼び掛けた。

 「安保関連法に反対するママの会」の西郷南海子氏は原発の話題に終始し、「すぐそこで世界最悪レベルの原発事故が起こっているのに、安倍政権はオリンピックのエンブレムやら競技場に何億円もつぎ込んでいる。もはや人が生きることをバカにしているとしか思えない」「安倍政権は妄想の中で見たいものだけを見ている。現実から目を背け続ける政権は、もういりません!」と訴えた。


2016.3.16 11:45更新、産経ニュース
「保育園落ちたの私だ」コール飛び出すが、記念撮影にも余念なく… 野党は「徴兵制」で政府批判
http://www.sankei.com/politics/news/160313/plt1603130038-n1.html

 もうちょっと詳しく:

◆ 学生団体 SEALDs KANSAI ◆
 通り雨が上がった。

 2015年8月7日午後7時過ぎ。湿った路面の匂いと、行き交う人の熱気がうずまく神戸市のJR元町駅前。関西学院大3年の大野至さん(23)=西ノ島町出身=が、拡声機のマイクを握った。

 「国家が勝手に事実上の改憲をしようとしている。この法案では、僕たちの平和や命は守れません」

 400人はいるだろうか。群衆から拍手が起こる。毎週金曜日の夜、安保関連法案への抗議活動を続けている学生団体「SEALDs(シールズ) KANSAI」の集まりだ。

 この日、大野さんは特別な思いで臨んでいた。70年前、広島、そして長崎に原爆が投下された。

 「昨日、そして明後日は日本にとってとても大事な日。今も核兵器で苦しんでいる人たちのことを思い、僕たちは路上に立ちます」

 島根で育ち、学んだ若者が今、声を上げている。

 大野さんらは、法案が立憲主義や議会制民主主義に反するとして2015年5月に関西で団体を立ち上げた。

 東京の国会前のように、明確な対象はない。「最後に決めるのは国民。自分たちの意思を表示したい」と関西各地の街頭に立つ。

 憲法学者、社会運動論や国際政治学の教授を招き、学習会も重ねる。

 西ノ島で生まれ育った。小学生の頃、島で原子力施設の誘致が検討されたが、町民の反対で立地拒否の条例が制定された。「動けば変わる」と信じる原点だ。

 江津市のキリスト教愛真高校で学んだ学生も参加している。

 関西学院大4年の寺田ともかさん(22)は、在学中に平和学習で聞いた証言を胸に活動している。広島で被爆した女性から「真実を見抜く目をつけなさい」、沖縄で基地問題に取り組む女性から「黙っていても平和はこない」と言われた

 「法案が命の価値を相対的に扱っていることにノーを言いたいです」

 若者たちの活動はうねりとなりつつある。この日、登壇した神戸大の教員は「皆さんを見て、自分も何かしなければと恥ずかしくなりました」と告白した。結成時に10人だった学生は120人に増えた。

 島根大1年の梶間了さん(19)はこの夏、夜行バスに揺られ、京都と大阪でのデモに参加した。

 法案についてのツイッター上の書き込みを見て、「憲法に反しているのに、与党だけで決めようとしているのはおかしい」と危機感を抱いた。

 友人にデモに行くと告げると、「感情に流されているのでは」と言われたこともある。でも、ただ無関心でいたり、遠巻きに見ていたりしたくなかった。

 「行動すれば周りに影響を与えます。そして、どんどん輪を大きくしていくのです」。今月上旬、自らが学内で呼びかけた勉強会に集まった30人に訴えた。

 午後8時半。元町駅前の人だかりは700人に達していた。
 
 神戸女学院大2年の山口晶子さん(19)は、思いを打ち込んだスマホを手に、壇上に向かった。山口さんも昨年3月まで愛真高校で学んだ卒業生だ。

 2年前の春休み、韓国への研修旅行に参加し、元従軍慰安婦のおばあさんの話を聞いた。深く知らなかった自分たちに、「来てくれて、ありがとう」と話をしてくれた。「自分の知らないところで人を傷つけていることがある」と思った。

 その思いを、この日のスピーチに込めた。

 「私と同じように、自衛隊の若者にも、大切な人がいるはずです。誰かの犠牲の上に幸せが成り立つのだとしたら、私の幸せなんていりません。よかったら、一緒に声を上げましょう」

 無関心でいることで人を傷つけたくない――。そこに利己的な考えはみじんもない。


2015年8月18日付け朝日新聞「戦後70年」(小早川遥平)
「自分たちの意思 示したい」
http://www.asahi.com/area/shimane/articles/MTW20150818331370001.html


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2016年03月19日

‘Farming to London’ march

 うまく言えないけど、戦争のない平和な社会って、黙ってたんじゃ、ただ座ってたんじゃ、実現しないな、と。
 「前文は人間に対するラブソング。そこには情熱と愛がある」と語るきたがわ・てつさんの「日本国憲法前文」をお聴きになったでしょうか(ヤッホ−君のこのブログ、2016年3月6日付け日記をお読みください)。
 「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ
 やっぱり全力をあげないと、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る」んだよ。
 だから声をあげていないといけないし、あげた声が届くような仕組みがないといけないよね。
 だって「主権が国民に存する」んだもん。そして、
 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する
 いいね、われわれの憲法は。
 尊い先輩たちが命を落として授けてくれた憲法を、自分たちの都合の良い「自民党改憲案」のように改憲して壊憲、なかったかのようにする「政府の行為」ってだめ、だめ!

 農業もそう、こんなニュースがイギリスのロンドンで飛び交っています。
 つまり農業従事者が声をあげています。家族経営で小規模ながら先祖伝来の農業で生計を立てている人びとの暮らしを、商品化、貨幣経済、市場経済でつぶすなってこと、フードをビジネスにして金もうけしようとする人物、企業、政策は許さない、異議ありってことですよね。

The Landworkers’ Alliance (LWA) are announcing official support for the ‘Farming to London’ march taking place on Wednesday 23rd March 2016. LWA members will be travelling to London from across the UK to take part in the demonstration and to show solidarity with the UK’s wider farming community whose livelihoods have been undermined by policies of the Conservative government.

“We commend Farmers For Action (FFA) for calling this demonstration to highlight the inequality of the UK’s agriculture industry” says LWA spokesperson Ed Hamer. “The Conservative government’s drive for ‘sustainable intensification’ has focused public support on intensive technologies and markets, leading to commodification and price volatility and directly undermining the livelihoods of thousands of small, traditional and family farms across the country”.

“We would instead like to see progressive agricultural policy combined with market regulations that allow farmers to maintain traditional farming skills and knowledge whilst also being able to earn a livelihood from their land. We should not be faced with the single choice of ‘getting big or getting out’. We stand in solidarity with the majority of the UK’s farmers in recognizing the social and environmental assets provided by a thriving rural economy”.

The LWA is an official member of the international peasant farming movement La Via Campesina which represents 200 million small-scale producers around the world. We campaign for the rights of small-scale producers and lobby the UK government and European parliament for policies that support the infrastructure and markets central to our livelihoods.

Notes: The Farming to London March is organized by Farmers For Action


For immediate release: 17.3.16
Landworkers’ Alliance join the Farming to London march
http://landworkersalliance.org.uk/press/press-releases/

 グローバル化、グローバル化って叫びますが、これはビジネスサイドで、お金や株やビジネスマンはひょいっと国境を超えることができますが、難民問題ひとつとったって、われわれのような人びとが国境を超えるのはそう簡単ではありません。
 しかしこれも不断の努力で国際組織をつくって、いっしょに手をつなぎ、肩を組み、声をあわせて歌おうとしています。
 Landworkers’ Alliance も Farmers For Action も La Via Campesina と連帯しているのです。 

Unity among peasants, landless, women farmers and rural youth

La Via Campesina is the international movement which brings together millions of peasants, small and medium-size farmers, landless people, women farmers, indigenous people, migrants and agricultural workers from around the world. It defends small-scale sustainable agriculture as a way to promote social justice and dignity. It strongly opposes corporate driven agriculture and transnational companies that are destroying people and nature.

La Via Campesina comprises about 164 local and national organizations in 73 countries from Africa, Asia, Europe and the Americas. Altogether, it represents about 200 million farmers. It is an autonomous, pluralist and multicultural movement, independent from any political, economic or other type of affiliation.

A movement born in 1993

A group of farmers’ representatives – women and men- from the four continents founded La Via Campesina in 1993 in Mons, Belgium. At that time, agricultural policies and the agribusiness were becoming globalized and small farmers needed to develop and struggle for a common vision. Small-scale farmers’ organizations also wanted to have their voice heard and to participate directly in the decisions that were affecting their lives.

La Via Campesina is now recognised as a main actor in the food and agricultural debates. It is heard by institutions such as the FAO and the UN Human Rights Council, and is broadly recognized among other social movements from local to global level.


La Via Campesina, Published on Wednesday, 09 February 2011 14:08
The international peasant's voice
http://viacampesina.org/en/index.php/organisation-mainmenu-44

 日本での紹介の仕方の一例です:

 開発社会学および農業・食料社会学の研究者は、国際的に展開しはじめた農業生産者の社会運動を、主に農業構造・農業問題に関する政治経済研究の文脈に位置づける。これには二つの立場があり、P. マクマイケルはラ・ビア・カンペシーナ(以下「カンペシーナ」と略記)の運動を、従来のマルクス主義農業問題の理解が当てはまらない、重要な課題を提起するものとみなす。
 カンペシーナは、先進国を含む70ヶ国から約150の組織が参加する農村住民の国際連帯組織であり、農村住民の生活向上と自給用食料生産の強化、民主的空間の形成を目的とする。
 そのために「食糧主権(food sovereignty)」という活動理念を掲げ、新自由主義政策にもとづく農村開発や農業の工業化、階層分化(小農の消滅)に抗する姿勢を明確にするとともに、それらに替わる持続可能な農業・食料のあり方として、地域の資源・伝統・文化と家族労働に依拠しつつ、主に自給・国内市場向けに生産する小規模営農モデルを提示・促進する。
 またこれに不可欠な条件として、家族農民や小・中規模営農者、農業労働者、土地なし層、先住民、女性、青年層など、地域社会を構成する多様な層の住民間の連帯(「多様性の中の統一」)を活動方針とし、土地や水など地域資源への住民のアクセス・支配の向上と土地改革を政府に要求する。
 マクマイケルによれば、こうして政府や国際政府機関への影響力を増すカンペシーナの活動が示すのは、国政や国際社会のガバナンスに積極参加する小規模農業者の権利主体性(subjectivity)であり、従来の農業問題研究が資本主義発展にともない解消されるとみなしてきた「小農の前近代性」ではない。
 世界の穀物生産・供給体制が危機に直面する今日、カンペシーナの運動は、利潤追求型農業に対するオルタナティブを提示する方法、すなわち「小農」存在論として理解する必要がある。


グローバル化と農民運動、バングラデシュ農村の環境運動にみるエイジェンシーと矛盾
大倉三和(立命館大学・国際関係学部・准教授)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-4/26-4-10_Okura.pdf

 うん、自分が食べるものって、農地から食卓まで、いつ、どこで、誰が、どんなふうに作って、どんなふうに運ばれてきたのかって知りたいですよねぇ〜。もういっちょ:

 「食料主権」の概念は、1996年にローマで行われた世界食料サミットにおいてはじめて明確化された。
 それは、
 「それぞれの国民がその基本的食料を生産する能力を、文化および生産の多様性を尊重しつつ、維持し発展させる権利… また、自分たち自身の食料を自分たちの領土で生産する権利」と定義される。
 この定義を聞くと保護主義的な響きをもつように感じるが…、「食料主権」は回顧的なロマンティシズムでもないし、反動的なナショナリズムでもないといえる。
 むしろそれは、たんに国内自給が達成されればよいとする保護主義的な考えではなく、「どのような食料を、どのように、どのような規模で生産するのか」という問題につながる。
 環境と文化の維持の担い手とみなされる小規模生産者が維持されるような、倫理と価値にのっとった「オルタナティヴ・モダニティ」を創り出そうとするものである。
 支配的なフード・セキュリティの認識と「食料主権」の概念を対置するとき、そのオルタナティヴなモデルとしての特徴がよりはっきりするだろう。
。。。
 ビア・カンペシーナのバンガロール宣言に明確にあらわれている:

 農業生産物における強制された地域的・世界的貿易自由化は、われわれの生産する食料の多くについて破壊的なまでの低価格をもたらしつつある。
 安価な輸入食料が地域市場を覆いつくすにつれて、農民の家族はもはや自分たちや共同体のために食料を生産することができなくなり、土地から追い立てられることになる。
 このような不公正な貿易協定は、世界中に新しい食習慣をおしつけることによって、農村共同体とその文化を破壊しつつある。
 地域的で伝統的な食料は低価格でしばしば低品質な輸入食品にとってかわられつつある。
 食料は文化の鍵となる部分であり、ネオリベラルな政策はわれわれの生活と文化のまさに礎を破壊しつつある。
 われわれは飢えと土地からの引き離しを受け入れない。
 われわれは食料主権を求める。
 それは自分たち自身の食料をつくる権利を意味する。
。。。
 このように、北と南の国々がお互いの農業の保護を主張して対立するモデルとは異なり、「食料主権」は北と南の双方において小規模農民の価値と権利を主張する点でオルタナティヴなモデルであるといえる。


2010-03-25、GLOCOLブックレット
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想、「食料主権」と「農民的農業」
中川理(大阪大学グローバルコラボレーションセンター特任講師)
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/48272/1/glocol03_107.pdf


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2016年03月18日

農のめぐみ

 なぜか好きになった栃木県茂木町!

◇ 農業と自動車レースの町
 「茂木町は交流人口で支えられている」と語るのは、栃木県茂木町(1万5600人)の古口達也町長(55)。
 「この町は典型的な中山間地。豊かな自然の中で有機肥料を使った安全で安心な作物を作り、道の駅や直販所で売っている。またユズや棚田のオーナー制度も盛んで、これら農業関係だけで年間約150万人の人が町を訪れてくれる」と、まずは「静」の一面を紹介する。
 一方、この町には「動」の面としてホンダが造った自動車レース場がある。楕円形の1周2.4キロのオーバルコースと、サーキットと呼ばれる1周4.8キロのロードレースコースを合わせ持つ「ツインリンクもてぎ」だ。「ツインリンクには年間約100万人の人が訪れてくれる。静と動を合わせ、この町を訪れてくれる約250万人に町は支えられている」と誇らしげだ。
 このレース場が縁で、米国インディアナ州のスピードウェイタウンと姉妹提携している。「茂木町と同程度の人口規模で町の中心に自動車レース場があるので2004年に友好都市になった。栃木県では日光市に続いて2番目に訪れる外国人の数が多い。お互いの子供たちが2年に一度交流をしていて、みんな大変喜んでいる」
。。。
 農水省の審議会委員でもある古口町長は農業でも一家言を持っている。
 「全国の中山間地に全人口の12%ぐらいが住んでいるが、その12%の人口で国土の65〜70%の土地を守っている。また、中山間地で農業生産物の約40%を生産している。ところがこの中山間地の人たちが大変苦しい思いをしている。もっと大事にしなければ国は成り立たない」
 「食料自給率に危機感を持っているのなら、この中山間地を活性化させなければならない。食料自給率を上げるのは農村の問題ではなく都市住民の意識の問題だ」と力説する


 いま注目を集めているのは有機堆肥(たいひ)づくりだ。
 「家畜の排せつ物や家庭の生ごみ、もみ殻やおがくずなどを原料にして無農薬の堆肥を作り、それを使って野菜などの作物を作って道の駅などで売っている」
 「少量多品種生産だが品質もよく安全・安心なことから大変評判がよい」
 「有機堆肥は町の農家に優先的に売るが、町以外からも引く手あまたで待ってもらっている状態。これからこの方法をもっと充実させたい」
 エコロジーとリサイクルによる地元農業の活性化に力を入れる。

〔横顔〕こぐち・たつや
 中央大学を卒業後、地元に戻って家業の鮮魚店を経営。商工会青年部を通じてまちづくりの大切さを学ぶ。1991年に町の助役に就任し2期務める。2002年に町長選に出馬して当選、現在2期目。趣味は山登りだが最近は多忙で遠のいている。
〔町の自慢〕
 日本で唯一のオーバルコースを併設する「ツインリンクもてぎ」。施設内にはホンダの自動車博物館のほか、里山を生かした自然体験施設もある。


時事ドットコム、トップインタビュー:古口達也・栃木県茂木町長
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20090910top_interview_07
http://www.twinring.jp/

 茂木町の農家でこんな活動をなさっている方が…

農業がもつ「社会的機能」とは
 「何かを作りだす経験は、子供たちに生きることの根本を気づかせるのです」――。
 栃木県茂木町でナメコを栽培する(有)深沢きのこセンターの上野隆さんはそう語って子供たちに視線を送る。
 上野家では小学生の男女3人がいわゆる里子として暮らし、農業に接しながら、学校に通っている。近年よく知られるようになった「ネグレクト(養育放棄)」という虐待を親から受け、行き場を失うと同時に心に深い傷を負った子供たちだ。

 10年前、上野さんは県の里親連合会に登録し、里子が義務教育か高校を終えるまで育てる養育里親になった。だが、虐待を受けた子供たちは、身勝手な親から離れることができても、「育ちが悪い」という偏見から、社会の冷たい壁に直面する。里親家庭が周囲の理解を得られないことも少なくない。
 「他の父兄の不安を気にするあまり、本来一番に子供の教育について考えるべき学校の対応も消極的。問題を起こすのではないかと心配するばかりで、子供たちの将来を考える真剣さが伝わってこない」

 上野さんは残念そうに語る。 里親としての苦労も絶えない。育児のできない親の元で生活してきたためか、里子たちは空腹が満たされ、布団で眠れることに満足してしまい、「我慢ができない子が多い」という。勉強や働くということに意味を感じない。仕事を1時間続けさせるのに4カ月かかることもある。
 「私たちにできることは被害者に同情することだけではない。生きるために最低限必要なことを、きちんと叱って身につけさせる必要がある」

 また、だからこそ、「受け入れる場が農家であることに大きな意味がある」と上野さんは訴える。
 農業には「生きるために作ること」を体験させ、自ら作り、売り、また良いものを作るという循環を感じさせる機能があるからだ。

 養育里親の数は全国的に不足している。多くの農業経営者に、農業がもつ社会的機能として、この制度を知ってもらいたいと上野さんは願っている。


2004年4月1日、農業ビジネス【小山明子】
(有)深沢きのこセンター(栃木県茂木町)、養育里親で被虐待児受け入れ
http://agri-biz.jp/item/detail/3327

アベノミクス農政への怒りが
 TPPを推進し、「政治とカネ」の問題で辞任に追い込まれた自民党「農林族」西川公也前農水大臣の地元、栃木県でも、アベノミクス農政への怒りが広がっています。
 栃木県はいわゆる「保守王国」。西川氏のほか、改憲の急先峰、船田元自民党憲法調査会長ら、自民党の有力議員の地盤でもあります。
 そんななか、栃木県農民連の事務所がある上三川町の農家から、「親戚や周りは自民党が多いけど、今度の選挙ではうちはもう違うところに入れるよ」という声が上がっています。
 20戸ほどの農家で集落営農組織をつくり、二条大麦(通称ビール麦)を23ヘクタール、米8ヘクタールを耕作しているこの60代の男性は、「米の値段が安すぎる。いろいろな説明会でもTPP参加が前提扱いされて、カリフォルニア米並みにもっと安くなるって聞いたけど、それじゃ若い人は農業が継げないよ」と、アベノミクス農政への疑問を口にします。
 「このままでは地域の農地が荒れてしまう。もう農家同士で争ってる時代じゃない。農家同士、助け合わなくちゃ」と集落営農組織をつくり、さまざまな助成制度も活用して、農地を守っていると言います。
 「安倍政権は沖縄でやってることもひどいよね」と、怒りを隠しません。
 今回のいっせい地方選挙では、栃木県でも県議会議員選挙が行われます。“オール与党”となっている現在の県議会では、「反対討論がなければ賛成討論もしない」という慣例がまかり通り、本会議の討論はこの3年半でわずかに5回しか行なわれませんでした。

 栃木県農民連の野村和史事務局長は、「アベノミクス農政推進でない議員を議会に送って、農民の声がちゃんと届く県議会にしていきましょう」と訴えると、男性は「そうだね!」と、笑顔で応えました。


20150406付け、「農民」
辞任に追い込まれた西川前農相の地元・栃木で怒り広がるアベノミクス農政
今度は自民以外に入れる
(注)
http://www.nouminren.ne.jp/newspaper.php?fname=dat/201504/2015040610.htm

(注)
 高濃度の放射性物質を含む「指定廃棄物」の最終処分場の候補地となった塩谷町では、指定廃棄物問題が県議選の争点の一つとなり、論戦が過熱している。塩谷町を含む「さくら市・塩谷郡選挙区」(定数2)に立候補した4人の候補は、それぞれ異なる立場から処分場問題の解決を目指しており、有権者は1票を託す人を慎重に見極めている。
 4候補のうち、現職2人は県議会最大会派の「とちぎ自民党議員会」に所属。県内に1カ所の最終処分場を造るとした国の方針に「苦渋の選択だが、最も現実的な解決策」と理解を示した福田富一知事の決断を支持する立場だ。
 「反対だと言っているだけでは何も変わらない。決めていけるのは私たちだ」
 塩谷町の街頭で2015年4月5日、こう力強く訴えたのは、2011年の前回選挙をトップで制した自民現職の花塚隆志氏(55)。国との太いパイプを持つ政権与党こそ、処分場問題の解決に道筋をつけられると主張し、他党との違いをアピールした。≪当選≫
。。。
 一方、新人の2人は、告示前から処分場計画への反対姿勢を鮮明にしてきた。しがらみのなさを武器に、処分場問題に正面から切り込むことを宣言。自民現職との差別化を図っている。
 処分場計画の白紙撤回で一点突破を図るのは、民主新人の船山幸雄氏(61)。候補では唯一、塩谷町に事務所を置く。5日にはさくら市で、処分場計画への反対のメッセージを書いた上着をはおり、「選挙区のさくら市や高根沢町も、処分場候補地がある高原山(たかはらやま)の恵みを受けている。命の水を守りたい」と呼び掛けた。≪当選≫
。。。
 日ごとに激しさを増す四候補の戦い。住民の反対同盟会は舌戦を見守りつつも、「同盟会は町民全体の組織なので、選挙には利用させない」とし、特定候補の応援はしていない。選挙期間中は選挙運動と間違われないよう、定例会議さえ開かないという徹底ぶりで、それぞれ支持する政党や候補がいる町民の対立を避けるための配慮だという。
 塩谷町の見形(みかた)和久町長も「指定廃棄物問題は、政党に関係なく解決を目指してもらわなければ」と、改選後の超党派での努力を期待する。応援演説の依頼には、政党を問わずに応じているという。


2015年4月8日付け、東京新聞(大野暢子)
県議選 さくら市・塩谷郡選挙区  指定廃棄物問題 論戦見つめる有権者
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chihosen15/tcg/CK2015040802100009.html

 へぇ〜、山歩クラブも歩いた高原山(主峰、釈迦ヶ岳は標高1795m)が、ねぇ。
 人間がコントロールできないものを「アンダーコントロール!」なんていうのは、思い上がりと言うか、ウソなんです!


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2016年03月17日

政業癒着、この道しかない

日本を、取り戻す。
https://www.youtube.com/watch?v=AHe92YRTiDE

経済再生、この道しかない。
https://www.youtube.com/watch?v=WgaowNNR5dk

 企業の陳情者が事務所や大臣室を訪問して、手土産代わりに50万円単位のカネを供与して、それを政治家自身が挨拶代わりに受け取って何の疑問をも感じないというのが、いまの安倍政治の現況なのである。

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-c2cd.html

 疑惑発覚後、元秘書2人も一切姿を見せていない。

「甘利さんも秘書も、しばらく姿を隠すつもりでしょう。入院ではなく自宅療養としたのは、入院だと病院にマスコミが張り込み、問題がさらに大きくなるからです。1カ月も2カ月も入院するわけにいきませんしね。いざ証人喚問となった場合は、病院に逃げ込むつもりなのかもしれません。ゴールデンウイーク後にはサミットがあり、参院選もある。それまであと2カ月半を乗り切れば大丈夫と思っているのでしょう。民主党も『睡眠障害』という理由に虚を突かれ、『もう証人喚問は要求しづらい』という声も上がっています」(政界関係者)

 3人を絶対に逃がしてはいけない。


http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/175479/2

 ひゃあ〜、政治とカネ、小沢一郎はこれで権力にボロボロにされちまいましたが、政権は余りにも今回甘い、と甘利山(1731m)を想って怒っているヤッホー君!(注1)
 空は晴天、彼岸入りの3月17日木曜日。
 
 <民主党は息を吐くように嘘をつく>――。かつて自身のフェイスブックにそう書き込んだ安倍首相。
 この過激な言葉がそっくり我が身にハネ返っている。
 先週の衆院予算委員会で飛ばした「ヤジ」の説明について、「正確性に欠く発言だった」と事実誤認を認め、訂正に追い込まれた。

 安倍首相は2015年2月19日の予算委で民主党議員が西川前農相の脱法献金を追及中、突然「日教組はどうするの」とヤジった。
 翌20日も「日教組は補助金をもらっていて、教育会館から献金をもらっている議員が民主党にいる」と答弁したが、日教組は国から補助金を受け取っていなければ、教育会館から献金をもらっていた民主党議員もゼロ。
 安倍首相は国会でデマをまき散らしたようなものである。

 安倍首相にとって今回の騒動は氷山の一角。
 論理の飛躍や根拠の乏しい情報に基づく誹謗中傷で「政敵」を陥れるのが常套手段だから、タチが悪い。

■ デマに基づく悪口雑言の数々
 昨年2014年秋の国会質疑中には民主党の枝野幹事長を面罵した。
 何の脈絡もなく「JR総連」や「JR東労組」から枝野氏が献金をもらっていると指摘。
 両労組に革マル派の活動家が浸透していることを背景に、両労組と過激派を一緒くたにして論理を飛躍させ、枝野氏が「殺人を行っている団体」から「献金を受け取った」と一方的に断罪した。

 朝日新聞についても、常に根拠を示さず「安倍政権打倒が社是」と繰り返し答弁。

 拉致交渉にあたった元外務省審議官の田中均氏が2013年に毎日新聞紙上で「外国での国際会議などで、日本が極端な右傾化をしているという声が聞こえる」と指摘すると、安倍首相は<田中均局長を通し伝えられた北朝鮮の主張の多くがデタラメ><彼に外交を語る資格はない>とフェイスブックで切り捨てた。

 野党時代の2011年5月には自身のメルマガで、福島原発事故の対応をめぐり<海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです>と断言。
 後にデマだと判明しても、今なお問題のメルマガを削除せず、菅元首相から名誉毀損で訴えられている。

 「安倍首相は『総理の言葉の重み』を理解していないのでしょう。政敵にはどんな誹謗中傷も許されるという姿勢なら、ネット右翼の書き込みと変わらない。ヘイトスピーチすら想起させ、不愉快になります」(政治評論家の山口朝雄氏)

 安倍首相は昨年2014年2月に国会で「ある夕刊紙は私を毎日“人間のくず”と報道している」と答弁。
 恐らく日刊ゲンダイ本紙を指したのだろうが、これもデマだ。
 本紙は安倍首相を「ボンクラ」「嘘つき」と評したことはあっても、創刊以来「人間のくず」と報じたことは一度もない。


2015年2月24日配信『日刊ゲンダイ』
日教組ヤジは氷山の一角… 安倍首相こそ「息吐く様に嘘つく」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/157480/1

 え〜と「西川前農相の脱法献金」ですか、しかし政業癒着は「疑惑」のまんまで問題ない、とおとがめなし(注2)。
 ふたつばかり週刊誌を読んでみましょう:

週刊朝日2015年3月13日号
田原総一朗「西川公也氏に批判の声が上がらない自民党の不気味さ」
http://dot.asahi.com/wa/2015030400085.html

週刊ポスト2015年3月6日号
 えっ、「西川前農相」は栃木県選出でしたかぁ〜:

 「疑惑の専門商社」と呼ばれる西川公也衆議院議員が、新疑惑続出で2015年2月23日に農水相を辞任した。

 農水省の補助金を受けた地元・栃木の木材加工会社からの300万円違法献金問題が報じられると、本人は「この1月に返した」と弁解し、菅義偉・官房長官は「すでに返金しているから問題ない」とかばった。

 すると次は農水省のさとうきび補助金交付団体「精糖工業会」の関連会社から100万円の違法献金を受けていた問題が発覚。本人はまたもや「いささかも疑問を持たれないよう、今朝一番で返金した」と開き直り、国会で任命責任を追及された安倍首相も「政治資金規正法上、問題ない」と強弁した。

 金銭スキャンダルの多さに、地元では「カネ持ってこーや(公也)」の異名まで取る。
 そもそもの発端は、本誌・週刊ポストが昨年10月にスクープした政治資金私物化問題だった。
 疑惑は国会で追及されたが、西川は謝罪するどころか、昨年末の総選挙では演説会で「週刊誌に余計なことを吹き込むやつがおる」と恨みつらみをぶつけた挙げ句、有権者にNO!を突きつけられて、小選挙区で敗北した(比例で復活当選)。

 それにもかかわらず、首相は農水相に再任し、傷口を広げた。
 ようやく辞任に至ったわけだが、遅きに失した感がある。


辞任した西川公也前農水相 地元で「カネ持ってこーや」の異名
http://www.news-postseven.com/archives/20150226_305368.html

 1年後の2016年も大事なお仕事があるようで…

 自民党は今月中旬にも衆院に設置する環太平洋経済連携協定(TPP)特別委員会の委員長に、西川公也元農林水産相を内定した。

2016年3月10日05時00分更新、朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/DA3S12249928.html

 栃木県ってTPPによる経済効果を試算したら、実質的に県内総生産を約2106億円押し上げるとの試算を発表したそうですが、ホント?

 参加12カ国が大筋合意した環太平洋経済連携協定(TPP)交渉。輸出企業への追い風になるとの期待感の一方、安い輸入品が農業や畜産業への打撃となる懸念もある。県内のコメや肉牛、野菜の生産者らに受け止めを聞いた。

■ 肉牛 将来若手育たぬ
 牛肉は、輸入肉にかけられていた38.5%の関税を段階的に引き下げ、TPP発効後16年目以降は税率が9%になる。鹿沼市で和牛60頭を飼育しているJAグループ栃木和牛販促委員会会長の菅野谷悟さん(59)は「今の政権は絵に描いた餅ばかり口にしており、初めから期待していない」と冷めた見方だ。

 30年近く牛を育ててきた。全国肉用牛枝肉共励会でも優秀な成績を収め、「とちぎ和牛」を全国ブランドに押し上げてきた。だがTPPが発効すれば、いずれは30%近く関税が引き下げられることになる。「こんな政策では20歳、30歳の若手が牛を育て、売ろうなんていう気にすらならない」と将来を憂える。

■ 野菜 努力しないと生き残れない
 多品種の野菜を作り学校給食にも納品してきた宇都宮市氷室町の小堀明男さん(65)は「TPPが動き出したら野菜の輸入も拡大して影響を受けるだろう。後継者不足で農業そのものが厳しい中、消費税10%も重なってきたら、どうなるのか」と不安を口にする。
 2010年に農水省が選定する「地産地消の仕事人」に選ばれ、JAうつのみや旬菜乃会会長として栽培技術を磨いてきた。
 「TPPに負けないように、安全でおいしい野菜を作る努力を続けるしかない。消費者を味方につけていかないと。生き残れる農家はほんの一握りだと思うよ」

■ コメ 農業なくなるかも
 米国や豪州向けに無関税の輸入枠が5.6万トン設けられるコメ。TPP発効後13年目以降は7万8400トンに拡大される。那須塩原市北和田のコメ農家、市村正行さん(78)は「いよいよ日本の農業はなくなるかもしれない。これまでは減反、米価安。今度はTPP。ますます成り立たなくなる」。

 農業一筋で60年余。コメ農家6軒の共同作業で年約22トンを出荷している。米どころの一角を担う自負の一方、「地域でも補助率のいい飼料米への転用が増えている。コメづくりに意欲がわかない」とも話す。

 若手コメ農家は別の見方をする。「TPPに絶対反対とは言えない。輸入で肥料が安く手に入って、見合った米価になれば、それでやるしかない。人口も消費も減る中で農家も生き残りを模索していく時代」と受け止める。

■ 県とJAが談話
 福田富一知事は「輸出産業を中心に好影響が期待される一方で、農林水産分野では関税引き下げによる影響が懸念され、関係者の間には不安が残る結果となった。今後、ものづくりと農林業の双方が並び立ち成長していけるよう、国に対して万全の対策を求めていきたい」とコメントした。

 一貫してTPPに反対してきたJA栃木中央会の高橋武会長は「報道の内容であれば県内農業や県民の暮らしに大きな影響が出ることは確実。今後は政府に対して万全な国内対策を講じるよう強く要求していきたい」との談話を発表した。


2015年10月7日03時00分更新、朝日新聞デジタル(堀井正明、佐藤太郎、矢鳴雄介)
栃木)TPP大筋合意に募る不安 県内農家に聞く
http://digital.asahi.com/articles/ASHB644QBHB6UUHB00L.html?rm=544

(注1)
甘利大臣をめぐる事件で真価を問われる検察
https://nobuogohara.wordpress.com/2016/01/22/
甘利問題なぜ動かず 弁護士・郷原信郎氏「検察の忖度」指摘
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/176980

(注2)
田中均の飯島訪朝批判に怒る安倍首相の矛盾と谷内正太郎の沈黙
http://天木直人.com/2013/06/13/post-0/


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2016年03月16日

ふみの森もてぎ

 歴史と文学と山と、そして地酒を愛するヤッホー君、これからもよろしくお願いいたしますーだって、仲間から。うれしくなったヤッホー君、こんな長いこだまをかえしていたって:

 そうですね、じぶんも含め、現実の世界からいつの日か消え失せていく定めにありますが、それだけにじぶんや周りの若い人、老いた人が息づくこの世をとっても愛おしく感じる今日このごろです。
 季節の変わり目だからなのか、じぶんが年をとってきたせいなのか、身にしみて感じているのです。
 それが人びとの暮らしの歴史だったり、暮らしの風景をきりとって書いた文学だったり、人の操作をはるかに超える自然、山、そこに暮らす生きものだったり、お天気だったり、いっぱい、いっぱい、じぶん以外のなかに放り込まれて生きているんですよね。
 日が暮れてきて、地酒をそっと口に運ぶ、そうするとこんな想像力がますますふくらんできて、じぶんの思いや感じたことがますますかき立てられ、じんわりと酔っていくんです。
 いやあ、いいですよね、山歩クラブでいっしょに味わっていきましょう。

 幼いころ、まだ雪が消えずに残っていましたね、着物を着こんだムラの娘さんたちが母といっしょに針供養していたのをおぼろげに思い出しながら起きた3月16日の朝ー
 まだ気持ちは栃木県茂木町に遊んでいるようです:

【茂木】古口達也(こぐちたつや)町長は2015年7月7日、町役場で記者会見を開き、来年2016年7月にオープン予定の図書館を中心とした中心市街地拠点施設の名称が「茂木町まちなか文化交流館 ふみの森もてぎ」に決まったと発表した。
 名称の意味について、古口町長は
 「(前半の)施設名は文化の拠点と人々の交流の場であることを表現した。(後半の)愛称は施設のテーマである歴史の『史』、文化の『文』、書物の『書』がいずれもふみと読め、古い酒蔵と町有林のスギ・ヒノキ約2千本を使用した建築は森のイメージにふさわしい」と説明。
 「子どもや若者が『森』の恵みで成長し、お年寄りが『森』に安らぎを感じることを願っている」と新施設に期待を寄せた。
 町はことし2015年3月に名称の一般公募を実施し、全国から458点の応募があった。6月25日に町内外の有識者からなる名称選考委員会を開き、最優秀賞に愛称を考案した宇都宮市在住で、栃木銀行茂木支店に勤務する高橋慶多(たかはしけいた)さん(27)、優秀賞には施設名につながる文言を提案した名古屋市在住、小寺光雄(こでらみつお)さん(69)をそれぞれ選んだ。
 町によると現在、建設工事の進捗(しんちょく)率は25%で、計画通りに進めば来年2016年2月に完成する予定。


2015年7月8日付け下野新聞朝刊
中心市街地の拠点施設 愛称は「ふみの森もてぎ」
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20150708/2014972

 ふみの森に分け入りたいヤッホー君。
 茂木町にタウンウオーキングかなんか企画して、もう一度おじゃましたいな、とヤッホー君
 江戸ちゃんに企画提案をお願いしちゃお〜かな、だって
(ずうずうしいったらありゃしない)
 でも気になる「古い酒蔵」⋯

 「中心市街地拠点施設オープン前年祭」が開催された。
 町が買い取った旧島ア酒造とその周辺約1700坪の土地に新たに建設予定の、図書館、資料館、ギャラリーなどの複合施設を、完成後どう利用してゆくのかをみんなで考えようとする集いである。
 講演をしていただいた太田剛先生の
 「これからの図書館は、単に本を読む、あるいは本を貸す場所というだけでなく、多くの人が集い、語らい、地域おこしの拠点となりうる可能性を秘めているのです。新しい施設に『心』を入れて茂木町の未来を編み出す拠点を創造するのは、町民の皆さんなのです」という言葉には、いたく感動させられた。
 施設の建設は予定通り順調に進んでいる。このままでいけば、来年2016年の7月中旬のころに開館できそうだ。
 「知と文化の拠点、ふみの森もてぎ」を、みんなで成功させたいと思う。


 茂木町公式サイト、町長の部屋、平成27年度の日記、8月に書いた日記
http://www.town.motegi.tochigi.jp/motegi/nextpage.php?cd=3516&syurui=2

 2012年5月30日、「東京商工リサーチ」公開の<「日本酒」メーカー倒産動向調査>のデータですが、それを読んで哀しくなったヤッホー君。
 時代の波とか環境変化とかで済ませていいのでしょうか、
 岩盤規制撤廃とか市場のやりたい放題経済でこの国のすがたが本当に守られるのでしょうか、
 お米は、
 (それを一年かけてつくる人は…
 地場野菜は、
 (ハウスにしても大事に育てている人は…
 農地は、
 (先祖代々受け継いできた人や、開拓して開墾してきた人は…
 田んぼは、
 (春になったら水をはって、秋には稲刈りして干してきた人は…
と日本人の景色まで荒れ放題になるんじゃないのか、と危惧しています:

 「日本酒」メーカーの倒産は、2002年から2011年の10年間で74社発生し、そのうち7割以上を業歴100年超の老舗企業が占めた。また、売上高が判明した51社のうち、10年間で売上高が30%以上落ち込んだメーカーは36社(構成比70.5%)を数えた。急速に縮小する「日本酒」市場で、深刻な業績悪化に苦悩する業界の姿が透けて見える。
。。。
 日本酒の歴史は1300年以上といわれ、日本酒メーカーには業歴100年超の老舗企業も多い。。。
 業歴100年以上の老舗企業は52社(同73.2%)と約7割を占め、平均業歴は140年だった。
 最も古い創業は、1650年創業の弥生酒造(株)(新潟県、2008年5月、破産)で、業歴358年の長寿企業だった。業歴300年以上が2社、200年以上〜300年未満も11社を数え、老舗の倒産が目立つのも日本酒業界の特色になっている。
。。。
 日本酒の消費量が低迷するなか2005年9月から酒類販売の自由化がスタートした。従来の酒屋さんに加え、スーパー、コンビニでも販売が始まり、高いブランド力や知名度を持つ有力商品に売れ筋が偏る傾向が強まった。こうした流通の変化も、地元中心に展開してきた中小メーカーが淘汰に追い込まれた原因のひとつにあげられる。


http://www.tsr-net.co.jp/news/analysis_before/2012/1219627_2004.html

 江戸時代に創業し、一昨年2014年に倒産した「美の川(みのがわ)酒造」の「最後の酒」が県内外で売られ始めた。「日本酒浪人」を自称する元経営者が「これだけは自分で売りたい」と自腹を切って保管してきた執念が実った形だ。
 「美の川酒造」は1827年に現在の新潟県長岡市で創業。
 「良寛」「朱鷺(とき)」などの銘柄で知られ、8代目蔵元の松本英資さん(54)が社長を務めていた。酒米「雄町(おまち)」で醸した大吟醸は、全国新酒鑑評会では11年間で8回の金賞を受賞。独立行政法人酒類総合研究所(旧・国税庁醸造研究所)は「雄町での受賞は珍しい。金賞をこれだけ取るのは、かなり良い蔵と言える」。
 ところが、2014年6月に突然廃業。
 「良い酒さえ造ればなんとかなると思っていた。経営者としては失格でした」と松本さんは振り返る。
 2004年の中越地震で酒蔵の土蔵が壊れ、2千〜2千5百石だった生産量が5百石に激減(1石は1・8リットル瓶に換算して原酒で100本)。ピーク時には4億円近くあった売り上げは約1億円に減少した。
 被害を公表して広く支援を呼びかけたり、売り上げに見合う従業員数に減らしたりができなかった。老舗のプライドが邪魔をした。
 「震災から10年、良い酒を造り続けましたが経営的には回復しない。このままでは先がない、と精神的にも追い込まれていました」
 資産管理は破産管財人に委ねられ、「朱鷺」などの商標も売却されたが、仕込んだ5百石の酒だけは大切にした。
 「蔵元が倒産すると酒は二束三文で買い取られ、適当な名をつけられたり、他の酒と混ぜられたりして売られる。それだけは避けたかった」
 日本酒は温度変化で劣化する。弁当配達のアルバイトをしながら、月20万円の電気代を払って冷蔵を続けた。昨夏、津南町の苗場酒造が不動産とともに引き取り、販売も任せてくれた。
 松本さんが従業員に廃業を告げたのは倒産公表の1日前だ。その1時間前に「美の川酒造」をたまたま訪れたのが高村秀夫さん(56)。越後湯沢駅などで日本酒を販売する「ぽんしゅ館」の社長だ。同館は県内全蔵の日本酒が有料試飲でき、観光名所にもなっている。
 「松本さんは自分の酒については全く語らず、『新潟にこれだけの蔵があるから商売が成り立っているんでしょ。だったら、新潟の酒を守り、その良さを広める責任もある』って言われ、正直カチンときた」と高村さん。その翌日に倒産を聞き、大きなショックを受けた。
 県酒造組合加盟の日本酒蔵は1997年には104蔵あったが、現在は90蔵。多くは家族など数人で営む零細企業だ。高村さんは、日本酒は新潟の文化と言いつつ、その維持は蔵の営業努力だけに頼ってきた事実に思い当たった。昨年4月からぽんしゅ館新潟駅店に2カ月交代で、特徴のある酒蔵を紹介するコーナーを作った。その第5弾が美の川酒造「最後の酒」。今月末まで続ける予定だ。
 現在、「最後の酒」を扱うのは県内外25店。松本さんはその営業を続ける一方で、「日本酒浪人」を名乗り、日本酒の楽しみ方を広める活動も行なう。県内外のイベントで声がかかるようになった。
 「日本酒の味は飲む酒器の種類や温度、特に燗(かん)の仕方で変わり、合う料理も違ってくる。それを知れば愛好者も増える」
 「美の川酒造」復活は?
 「難しいでしょう。でも浪人は何をするか分かりませんよ」と笑った。


2016年1月17日03時00分更新、朝日新聞デジタル(伊丹和弘)
新潟)美の川「最後の酒」販売中 倒産後も元経営者守る
http://digital.asahi.com/articles/ASJ1776BFJ17UOHB00Y.html?rm=760



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2016年03月15日

弘法大師と鶏足山

- 弘法大師様のお誕生日はいつなの?
 みんなは、弘法大師(こうぼうだいし=空海)様がいつの時代に生まれたのか、知っているかな?
 弘法大師様は、774年(宝亀5年)6月15日に讃岐(さぬき)の国(現在の香川県善通寺)で生まれたと伝えられています。6月15日は、中国のとっても偉いお坊様の不空三蔵(ふくうさんぞう)という人が亡くなった日だったので、弘法大師様はその人の生まれ変わりとも言われているんだ。実際のところ、正確な誕生日は、わかっていないのだけれども一般的には6月15日を誕生日として、弘法大師様のお誕生日を祝う催しが全国で開かれています。

― 弘法大師様はどんなふうに育ったの?
 弘法大師様の子供のころの名前は「真魚(まお)」と言い、お父さんは佐伯直田公善通(さえきのあたいだぎみよしみち)、お母さんは玉依御前(たまよりごぜん)で、とても大切に育てられました。
 子供のころは、粘土で仏像を作る遊びが好きだったと伝えられています。また、勉強もよくし、大変賢い子供で、18歳で奈良の大学に入学します。その後、大学の勉強だけでは足らずに自分から進んで数多くの修行と学問を学んでいきます。
 この頃から空海(くうかい)と名乗るようになりました。

― 弘法大師様が行ったことってどんなこと?
 804年(延暦23年)、弘法大師様は中国に留学し、たった2年で真言宗の元となる教えの全てを学びます。日本に戻った弘法大師様は、その実力を時の天皇にも認められるほど大出世をしていき、真言宗の教えをわかりやすく広めていきます。
 さらに、日本で初めて身分や貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という大学を作り、それまでの教育のありかたを変えていきました。
 また、弘法大師様の学んだ内容は、真言宗の教えだけでなく、土木関連の技術などもあったのでその技術をいかし、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池となっている満濃池(まんのういけ)の改修工事を行い、見事に成功を治めました。

- 弘法大師様と温泉
 ところで、みんなは、日本各地に弘法大師様ゆかりの温泉があることを知っているかな?
 弘法大師様が持っている杖を地についたところ湯が湧き出たという伝説が各地に残されているのは、弘法大師様が、土木技術にすぐれていたことも大いに関係しているのかも知れません。
 全国に多数ある弘法大師様にゆかりがあるとされる温泉を紹介します。温泉に行った時にはその伝説を読んでみてね。


なぜ・なに特集−弘法大師(空海)お大師さま−
http://www.kongohin-kids.com/montheve/06.html

 いやあ、鶏足山もお大師様と縁があるんです。

 むかし、弘法大師は百沢ある土地にお寺を開こうと、この地(茨城県城里町七会地区)にやってきて、大沢(現在の大字下赤沢地内)に入り修行をしました。
 ある朝、弘法大師が護摩焚きをしていたら鶏の鳴き声がしました。
 「こんな山の中に鶏がいるのか」と不思議に思い山に登ってみると、「とさか」の形をした岩(鶏石)があったので、この岩が鳴いたのだろうとこの山を『鶏足山』と名付けたと伝えられています。
 また、山頂西側にある断崖絶壁の場所は、弘法大師がその上で護摩を焚いて修行したと伝えられ、弘法大師の護摩焚石と言われています。
 鶏足山は、城里町最高峰(430.5m)で弘法大師伝説の残る山です。


城里町公式サイト 
http://www.town.shirosato.lg.jp/page/page000807.html

山頂の祠.JPG

 そして山頂にも案内板が建っております:

【弘法大師と鶏足山】
 平安時代の弘仁年間(810〜823年)、弘法大師空海上人が布教のため百沢(峰)ある土地に寺を開こうと、この地にやって来ました。
 当時この地は、大干ばつが続いていました。
 飢饉に苦しむ村人を助けようと、八瓶山の山頂で、八大竜王に降雨を祈り、見事雨を降らせ村人を飢餓から救ったと伝えられています。
 そして、弘法大師はこの八瓶山の南山麓に徳蔵寺を建立しました。
 その後、弘法大師はこの地に滞在し、大沢(現在の城里町大字下赤沢地内)に入って修行を続けられました。
 ある朝、弘法大師が護摩修行をしていたら、鶏の鳴き声がしました。
 「こんな山に鶏がいるのか」と不思議に思い、山に登ってみたら、鶏冠(とさか)の形をした大変大きな岩(「鶏石」と呼ばれています)があったので、この岩が鳴いたのだろうと、この山を「鶏足山」と命名したとされています。
 意外に知られていませんが、「鶏足山」という名称の山は海外(仏教発祥の地インド、そして中国)にも幾つかあります。特に中国では、四代仏教名山の一つにも数えられており、今日でも鶏足山信仰が行われています。
 茨城県と栃木県境のこの鶏足山にも弘法大師が護摩を焚いて修業したという「護摩焚石」がありますが、海外のそれの多くが山頂に寺院を建立し、修業の場としたのには共通するものがあり、あらためて信仰の伝播と不思議さには驚かざるを得ないものがあります。
平成19亥年11月吉祥日
鶏足山環境保全グループ建立
引布山金剛寺院徳蔵寺第90世
金剛佛子沙門教司撰文
【絵】弘法大師御尊像、徳蔵寺所蔵


弘法大師.JPG

 徳蔵寺… 山歩クラブではお参りしたことがあるんですよ、あれはおととしのこと。

徳蔵寺(とくぞうじ)
 引布山金剛光院徳蔵寺。真言宗智山派の寺。徳蔵大師(とくらだいし)。本尊は大日如来。
 弘仁年間(810〜23年)、弘法大師が山頂に八瓶(やつがめ)を設け雨を祈ったところ、 山上から白雲が起こり布をのばすように広がったことから引布山になったという伝説が残る。 開山は今から約800年前、弁海上人が諸仏と弘法大師の像を勧請、七堂伽藍を整備した。 往時は300坊を数える大寺院だった。
 境内には大師堂はじめ、観音堂や四国88ヶ所霊場の砂を埋め、ここに足を置けば四国88ヶ所霊場を巡礼したのと同じ御利益があるという御砂踏場がある。


つくば新聞
http://www.tsukubapress.com/ishi.html

 ヤッホー君のこのブログ、2014年の次の日付けの日記をご参照ください:
☆ 4月30日「茨城県城里町」
☆ 5月1日「花の寺、徳蔵寺」
☆ 5月2日「鶏足山4305m」
 
 では、ここでお大師様の映画『空海』(佐藤純彌監督、北大路欣也主演、東映、1984年)の予告篇をどうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=ZYAi6Rib6qs





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2016年03月14日

わが青春、戦場と日常と

 「いい里さかがわ館」(芳賀郡茂木町大字飯362−1 電話0285‐65‐7555)は、栃木県の東部茂木町の逆川地区にあります。
 逆川地区は町の南部に位置し茨城県笠間市との県境です。
 施設は、野菜直売所とそばレストラン、手造り惣菜、アイスコーナーがあります、ドライブの休憩ポイントにどうぞ。


蛍舞う清流の里「いい里さかがわ館」
http://sakagawakan.com/

 ヤッホー君がここの「そばレストラン」で購入した本があります。
 篠田増雄(1919年生まれ)『わが青春、戦場と日常と』(本の泉社、2014年11月)。
 篠田先生は、茂木町出身です。
 墨田区本所で現役の歯科のお医者さんです!

 1950(昭和25)年、焼土の本所の地において歯科医院を開業した。
 当時占領下の日本であり、特に朝鮮戦争中で近くの同愛病院はアメリカ軍の兵站病院であって吾が家の近くには病院関係者宿舎が多く、大方のアメリカ兵は日本人の婦人と同居が多く、その行動も目を見はることばかり、幼い子供達には教育上最も危険な土地柄であった。
 マッカーサーが厚木に着陸してから10月10日(受胎から出産まで)正確に日本の女とアメリカへの混血児(碧い眼)が街の小さいアパートに誕生して、街の風呂屋に他地区から見に来る程であった。

 女の方も衣食住が安定し、相手がアメリカ兵なので将来のことなど考える余地もなかったのだろう。
 大磯にエリザベス・サンダースホームという混血児収容施設ができるまで、吾が町にはいたるところ碧い眼の子供が当たり前に生活していた。
 今から考えると戦争の残した爪痕が如何に無残であるかが判るひとときであった。
同書、「天佑」−あとがきにかえて、228頁


 篠田先生には『徳不弧』に収録されている句、
出雲路の 旅快晴や 梨の花

があります。
 私のかつての感想を引用させて頂きます。

「敗戦と同時に作者はオーストラリア軍の捕虜になりましたが、やがて無事に帰国して、今はこうして出雲路を歩いております。
 空は眩しいばかりに晴れて梨の花が真っ白に咲いております。
 これからはますます仕事に打ち込み、やがて医学博士の学位を取得する博士は、旅をしながら生きる幸せを母校のため、隣人のためにつくそうと決心していたに違いありません」

 戦争では敵という名前を付けて人を殺しますが、名も知らぬ隣人のために力を尽くすのと、どっちが真っ当でしょうか。
 戦争はしない、敵という名をつけて人を殺すことはしない、こちらは特定グループの信条ではありません。
 戦争が終わり、人を殺さなくともよい時代が出現したからこそ、まともな心情、「出雲路の旅快晴や梨の花」が前面に出てきたのです。
同書、慶応義塾大学名誉教授・東郷秀光、まえがき


 篠田先生はこの著書の結論として

記憶のある限り表現し、地球上における生物の闘争の末は、いかにむなしいかを後世に伝え、今後再び繰り返すことのない社会の実現を望んで止みません

と述べています。更に、

なんといっても人間同士が作りだす戦争が地球上、唯一の大犯罪である。
 平和な生活を享受し、円満な市民生活をつづけるためにも、この大犯罪の発生を未然に防ぐ義務を再自覚し努力すべきです


と、平和の有難さを強調しているのです。
 篠田先生の力強い訴えに応え、私たちは、さらに政治や平和について考える努力をしなければなりません。

理学博士・宇都宮大学名誉教授 木村茂「書評」



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2016年03月13日

磯丸水産

 すっかり忘れました、無知蒙昧で、安保を自認するヤッホー君。
 山頂では戦災と震災の犠牲者の霊を鎮めるお祈り、です。
 2012年から毎年行なってきた山歩クラブの三月山行、今日はすっかり抜け落ちました。
 これが風化の始まりなのか。。。

 えっ、山行? お山歩会だったんですか?
 そうなんです、栃木県茂木町から焼森山4230m登ってさらに足を延ばして鶏足山4305mへ、という二山を踏破する山歩クラブ久々の山行!

焼森山.JPG

鶏足山.JPG

 下山後はお楽しみ打ち上げを北千住駅西口駅前「磯丸水産」で!

 東京都内の駅前を歩いていると、よく目にする居酒屋の看板がある。店の入り口付近には「トロ箱」と呼ばれる魚を輸送するための箱が積み上げられ、磯の雰囲気を演出する。店内に入ると、大きな水槽が存在感を放ち、サザエやホタテといった新鮮な貝類が食欲をそそる――。
 関東圏の駅前を中心に約120店の居酒屋を展開するSFPダイニングが2014年12月16日、東証2部に上場した。鶏料理専門店「鳥良」など複数の業態を展開している同社だが、その中でも成長ドライバーと位置づけるのが冒頭で紹介した海鮮居酒屋「磯丸水産」だ。水槽から出した新鮮な魚介を浜焼き形式で提供するのが、この居酒屋の最大の売りである。
 2009年2月に東京・吉祥寺に1号店を出した磯丸は、2010年度から2012年度にかけて年間10店ペースで店舗網を広げていった。前2014年9月期は2727出店と一気に拡大。同期のSFPの売上高200億円のうち、64%を磯丸事業が占めている。
 出店ペースが加速したのは、親会社のクリエイト・レストランツ・ホールディングス(CRH)の存在も大きい。
 同社は郊外のショッピングセンター(SC)を主な出店先とし、和洋中のビュッフェ形式の飲食店を展開してきた。だが、駅前など路面店の進出が遅れていたことから、2013年4月にSFPを買収。居酒屋の運営ノウハウを吸収することによって、SC依存からの脱却を狙った。
 SFPにとってもCRHの出店ノウハウ獲得や食材仕入れの共通化というメリットがあった。「商品戦略など経営のコアな部分についてCRHは口出ししない。規模拡大に向けた後押しをしてもらっている点が大きい」(佐藤社長)。
 今回の上場で調達する127億円のうち、85億円を新規出店費用に充当するが、その大半は磯丸に充てる。今2015年9月期は前期を上回る40出店を計画。「将来的な全国展開も視野に入れ、規模拡大を図っていく」と、佐藤社長の鼻息も荒い。

“二毛作戦略”で高成長
 ここまで磯丸が成長した理由の一つが、原則24時間営業という点だ。「都心では飲食店や病院など夜間に働く方が明け方に訪れる。郊外では24時間営業の飲食店がなく、店を開け続けることが差別化になっている」(佐藤誠社長)。
 実際、休日の昼間に磯丸を訪れると、海鮮丼を目当てにするシニア客に加え、夜間より安価に設定されたアルコール類を目的とする若い客でにぎわっている。こうした“二毛作戦略”も奏功し、2014年9月期の磯丸の売上高は128億円と前期比70%増を達成した。

 
2014年12月18日,東洋経済(又吉龍吾)
「磯丸水産」上場で過熱する、海鮮居酒屋戦争
首都圏の駅前で"磯の香り"がつばぜり合い
http://toyokeizai.net/articles/-/56155

 食事券やクオカードといった金券などがもらえる「株主優待制度」が盛り上がっている。導入する企業の数も過去最高を更新。そこで、“株主優待王” の桐谷広人さん(66)、経済ジャーナリストの雨宮京子さん、株主優待に詳しいブロガーのかすみちゃん(本名非公表)にボーナスで仕込むのにお薦めの銘柄、3月末に権利確定日を迎える銘柄を中心にピックアップしてもらった。
 まず桐谷さんは、配当金と優待の金額を合わせて4%以上の利回りがつく銘柄を選んだ。
 「年金生活に入ったら、意外と食費がかかるという話を聞きます。サラリーマンの人でも昼食代を浮かすために飲食店などで使える優待券を持っていると便利ですよ」
 桐谷さんは、100株(16万9千円=以下、2015年11月27日終値)で、4千円分の食事券が年2回もらえる「SFPダイニング」と、3千円分の食事券が年2回もらえる「クリエイト・レストランツ・ホールディングス」(100株、33万円)の優待を活用しているという。
 「1年前に上場した『SFPダイニング』は、24時間営業の居酒屋『磯丸水産』をはじめ、系列の飲食店で使えるので私もすぐに株主になりました」(桐谷さん)
 「磯丸水産」は朝からお酒を飲むシニアが多いことで話題になった。年間8千円分もの食事券がもらえるのも魅力の一つという。「クリエイト・レストランツ・ホールディングス」は、高級すし店やしゃぶしゃぶ店などワンランク上の食事が楽しめる。
...

2015/12/7 07:00更新、週刊朝日
家計に優しい「株主優待」 専門家3人がすすめる銘柄は外食産業
http://dot.asahi.com/wa/2015120300067.html

「小原庄助さん なんで身上つぶした 朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上つぶした」
 民謡「会津磐梯山」の一節だが、社会人生活を無事に全うしたシニア世代にとって、守るべき「身上」などもはやない。つまり、堂々と「朝寝朝酒朝湯」ができるのが、老人の特権なのである。
 小原庄助を地で行くのが、『不良定年』の著書もある作家の嵐山光三郎氏。
 「朝酒はいいね。俺は朝湯に入って酒を飲む。眠くてしょうがなくなるけど、眠くなったらまた眠ればいいわけで」
 実際に朝から営業している都内の居酒屋を訪れてみると、さっそく朝から飲んだくれている不良老人を発見。「朝飲むビールほどうまいものはない」(70代・元製造業)らしい。

 「定年になってから、飲み屋通いを始めてしまいました。駅前に行けば、24時間営業の居酒屋があるからね。明るいうちに飲む酒って、なぜかよく効いて、2〜3杯でもう十分。昼間っからほろ酔い気分でも誰にも文句をいわれない。汗流して歩いてるサラリーマン見ながら、“クールビズ”っていうけど大変だね、こっちは“ビールクズ”だもんね、って開き直ってね。ああ、最高」

 ほとんどの店舗で24時間営業を行なっている磯丸水産の店員は、朝から飲むシニア世代が多いことに驚いているという。

 「意外に夕方や夜以外にも居酒屋のニーズはあるのかもしれないと思って24時間営業を始めてみたところ、たしかに24時間、まんべんなくお客さんが来て、ニーズがあることを確信しました。とくにシニア世代には、まだ明るいうちから飲む方が多いですね。それも特別なメニューというわけではなく、おつまみも含めて飲み方は夜と一緒です」
(上野6丁目店店員)

週刊ポスト2015年8月21・28日号
24時間営業の居酒屋 朝から呑む「不良老人」集うニーズ発見
http://www.news-postseven.com/archives/20150814_341490.html

 では藤圭子(1951-2013)で「会津磐梯山」:
https://www.youtube.com/watch?v=C5gh_QQ80hU



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2016年03月12日

米田佐代子

 落ち着いて日記をつけてみますね。
 小林登美枝さん(1916−2004)は「らいてうの会」の会長でしたが、平塚らいてう(*)生誕120年の2006年5月に信州あずまや高原に建ち上がった「らいてうの家」(名誉館長は羽田澄子)を見ずに世を去りました。
 
http://img.wan.or.jp/document/web/images/uploads/_4151118c43824c74dae8115f23e63758d5c6b3.pdf

 ということはいまからちょうど10年まえのことです。
 ところでこの10年前の2006年にデビューしたのが、「いきものがかり」。
 いま卒業シーズンですが、この歌は歌われているのかな?

卒業写真 
https://www.youtube.com/watch?v=M-U-ZvOlTg0

 厚木、海老名両市出身者がメンバーの人気音楽グループ「いきものがかり」の3人が2016年2月15日、両市役所を訪れ、8、9月に両市で、「メジャーデビュー10周年」を記念した凱旋ライブを開催することを報告した。厚木市役所の正面玄関では、市民ら約百人が「お帰りなさい」と拍手や歓声で出迎え、メンバーは笑顔で応えていた=写真。
 メンバーは、厚木市出身で海老名高校卒のボーカル吉岡聖恵さんと、いずれも海老名市出身で厚木高校卒の水野良樹さん、山下穂尊さん。「サプライズ」で恩師や同級生から花束を贈られた3人は笑顔で応え、何度も頭を下げて感謝の気持ちを表していた。
 吉岡さんの高校時代の同級生の主婦若林香奈子さん(31)は「ここまで有名になるとは思わなかったのでうれしい。明るく元気なところは変わっていませんでした」とほほ笑んだ。
 ライブは「地元への恩返しと、全国のファンに地元を訪れてほしい」という3人の強い希望で実現。8月27、28日に海老名運動公園で、9月10、11日に厚木市荻野運動公園でそれぞれ開催する。


2016年2月16日付け東京新聞(寺岡秀樹)
いきものがかり 厚木、海老名で今夏に10周年凱旋ライブ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201602/CK2016021602000179.html

 これも聞いちゃいましょう。いきものがたりで:
春一番
https://www.youtube.com/watch?v=jYnftwmt0fM
SAKURA
https://www.youtube.com/watch?v=3jpIZo0eamc

 さて、小林登美枝から引き継いだのが米田佐代子さん(1934年生まれ)。

 2014年1月11日付朝日新聞夕刊の「瀬戸内寂聴さんに聞く」を拝読いたしました。
 「秘密法反対、命捧げる」という見出しで、「自らの戦争体験から(秘密保護法の)危険性を訴え、廃止を求めている」とリード記事があり、「私は、残りわずかな命を秘密法反対にささげます」と語っておられます。
 「日本人はあまり自分の意見を言いません。でも、もっと一人ひとりが、生きるためにこうしてほしいと心の欲求を口に出すべきです」ともあります。まことに我が意を得たご意見でした。
 瀬戸内さんがイラク戦争に反対され、さらに福島第一原発事故以後「原発ゼロ」を求めて反対運動に立ち上がられたことはよく知っています。2012年7月、わたしは代々木公園の「さようなら原発10万人集会」で「もう満員です。入れません」という制止をかいくぐって会場の隅にもぐりこみ、それでもお顔は見えませんでしたが、お話だけは聞きました。今また「卒寿」を越えて「秘密法廃止に命をかける」と発言されることに、深く敬意を表します。

 わたしはあなたより一回り下で、「子どものとき戦争に出会った」世代です。あのとき何も知らず、
勝ち抜く僕ら少国民
天皇陛下のおんために
死ねと教えた父母の

という歌を歌い、15歳の兄が少年兵になって軍隊に行くとき手を振って見送った少女の記憶をわすれません。「知らないことは罪」です。「依らしむべし、知らしむべからず」の政治を許してはならない、と痛感しています。

 わたしは信州で「らいてうの家」を運営しているNPO「平塚らいてうの会」の一員です。
 前身の「平塚らいてうを記念する会」時代には、平塚らいてうの記録映画製作にご助力いただき、また茅ケ崎にらいてうの記念碑を建設するときもお力添えをいただきました。羽田澄子監督の『元始、女性は太陽であった』の試写会をごらんになった瀬戸内さんが、『サンデー毎日』2002年1月31日号に書かれた「かきおき草子」のコピーを、わたしは今も大切に持っています。
 瀬戸内さんは試写をみながら
「途中で私は恥かしいほど涙があふれて困ってしまった。私は実に大きな誤りをしていた。これまで私はらいてうの真骨頂は、青春時代、「青鞜」から身を引くまでで、(奥村博史と結婚以後は)本来のオーラがなくなったと思い、戦後の平和運動は、らいてう以外の人も出来ると思っていた。…けれども羽田さんの、何のてらいもない、あるがままのらいてうのドキュメント映画を見せてもらい、後半生に至って涙がこみあげてきたのだった。らいてうの平和運動に至るまでの、長い人生の正直一途、純粋無垢な生き方こそ、ウーマンリブの元祖となるべきエネルギーの根源であり、そのパワーが結実しての必然的な平和運動なのだと、肝に銘じて初めて納得した」
と書かれました。
 わたしはこの文章に共感し、以来らいてうの平和思想を戦後にわかに出てきたものではなく、若い日の「青春の彷徨」から「元始女性は太陽であった」の宇宙観、恋愛と結婚、出産に至る過程での「他愛主義」の発見、いのちを産む女性の手で世界平和構築をという発想に立つ新婦人協会運動、そして戦中の動揺と錯誤を経て戦後日本国憲法と出会い、「戦争だけが敵」という平和構想に至る全過程のなかでとらえる必要があると考えるようになりました。
 2006年にオープンした「らいてうの家」には、そういう思いを込めて「平和・協同・自然のひろば」と名づけました。
 わたしは一度でいいから瀬戸内さんをらいてうの家にお招きしたいと思い続けてきました。何回かお手紙もさし上げたことがあります。長野市に講演に見えるご予定の時は予約して待っていましたが、そのときは体調を崩され、中止になりました。交通不便でクマも出るという山中にお招きすることが“無謀”であることはわかっています。でも、あの森の一角で瀬戸内さんに“青空説法”をしていただいたら、きっと森のウグイスやカッコウたちも歌をやめて聞き入り、シラカバやカラマツの木々のそよぎも一瞬静まるのではないか、テーマはもちろん「戦争反対」で…。今は冬期休館中ですが、やがて来る春を前に今もお待ちしています。
 ともあれ、これからも瀬戸内さんのご健康とご活躍を祈ってやみません。


2014/01/12 米田佐代子の「森のやまんば日記」
瀬戸内寂聴さまへ ― らいてうの家から
https://yonedasayoko.wordpress.com/2014/01/12/

 この米田佐代子さん、3月6日の「東京大空襲を語り継ぐつどい」に出席され、講演されています。その「つどい」の感想を次のように記されていますのでご紹介:

 先日お知らせしたこの会に講師としてお招きいただき、参加してきました。「東京大空襲・戦災資料センター」主催。このセンターは早乙女勝元さんが先頭に立ち(多分私財を投じて)、さらに東京大空襲を体験されたかたをはじめ多くの方の寄付によってできた民間施設で、今年14周年です。「らいてうの家」を建設するとき「自力で建設運営する記念施設」が成り立つかどうか、聞きに行ったことがあります。そのとき早乙女勝元さんは「建てるだけならつくれるが、自力で運営するのは大変だよ。やめた方がいいのではないか」と助言してくださったのですが、その「忠告」を聞き入れないでつくってしまった「らいてうの家」は、早乙女さんの予言通りアップアップしています。それでも10年持ちこたえてきたので、ともかく今年10周年記念行事だけはやり遂げたいと、よろめきながら走っているところです。

 こちらのセンターの来館者は、小中学生を含め年間1万人を超えているそうで、そこはらいてうの家と大違いですが、会員は高齢化もあって減少気味だとのこと、らいてうの家と同じ苦労があることもわかりました。けれども小中学生の見学学習をキチンと組織していること、スタッフに若い方が参加していること、意識的に「次世代への継承」を事業として進めていること、空襲体験者の証言を映像として記録する仕事を続けていること、新しい資料の発掘研究公開に取り組んでいることなど、学ぶべきことがたくさんありました。残念ながららいてうの会には今それだけの取り組みをする人手と能力がなく、役員も高齢化や健康問題、家族の介護等で新しいことに手が出せない状態です。ここをどう突破していくか、考えなくてはならないと痛感しました。

 それはさておき、つどいは会場いっぱい330人余りの参加でした。「憲法前文」の弾き語りで知られるきたがわてつさんの歌、「1945年3月10日は私の6歳の誕生日でした」という体験者の証言、そして証言記録の上映、小学生の学習感想文の発表と盛りだくさんで、初めから参加したわたしにとっても勉強になりました。これだけやれば、もうわたしの話などなくてもいいのではないかと思いましたが、それでもマジメに準備してきたので檀に上らないわけにいかない。実は2時間分くらいのレジュメと資料を用意したのですが、わたしの持ち時間は40分でした。あわてて短縮を試みましたが、いささか不消化な部分が残り、忸怩たる思いでした。

 それでも直接の戦争体験者が老いて行くとき、「体験の継承」はなぜ必要か、安倍首相は「戦後70年談話」で「戦後世代に加害責任を負わせるわけにいかない」と聞こえのいいことを言ったけれど、あれは「戦争責任をきちんと解決して次世代に引き渡す」のではなく、「加害」の事実を「無かった」ことにして次世代に隠してしまおうという意味にしか取れない。それは「慰安婦」問題に端的に表れているけれど、自国の国民に対しても「東京大空襲」の被害者の国家賠償請求訴訟に対して「受忍(がまん)せよ」と認めず、責任をとらなかったことにもあらわれていると思う。「被害体験を語るだけでは、加害責任を自覚できない」という声があるが、被害体験を一人ひとり、今なお語らないでいる方たちに口をひらいてもらい。語れるようになることで、自らの人間としての尊厳の回復が可能になるとともに、ここからはじめて他者(日本が侵略した国の人びと)がこうむった「被害体験」を受け止めることができるようになるのではないか、そこに働くのが「想像力」だと思う。自分が戦争を体験しなかった世代、シリアにもイラクにも行ったことがない日本の人びとが、過去の「戦争」で何が起きたか、今世界で何が起こっているかを「想像できる」力を持つことが今必要ではないか。

 ざっとこんなことをわたしの母の戦争体験、息子の少年兵志願を止めることができず、16歳の「兵士」として戦死させてしまったことを、「自分の責任」と自覚して「二度と戦争で子どもを死なせる母親をつくらないためには何をすべきか」と考え続けた一生―を紹介しながらお話したわけです。終ってから早乙女勝元さんがあいさつされ、「自分もほぼ同じ考え」とフォローしてくださったのでほっとしました。終わってから早乙女さんのサイン入り編著書『平和のための名言集』(大和書房、2012)を記念に頂きましたが、ルソー、チャップリンからマーティン・ルーサー・キング、魯迅、石川啄木から井上ひさし、吉永小百合、澤地久枝等々「366の名言、至言、警句を古今東西にわたって」収録したという本のなかに、なんと母、米田ひさの一言も入っていたのにはびっくり仰天。母があの世で目を回しているかもしれない・・・。早乙女先生、有難うございました!

 そこに引用された母のことばというのは、わたしが聞き書きしたものですが「ほんとうのことを知らないというのは、戦争に賛成しているのと同じことだったのよ。わたしは吉二を戦争で死なせた罪があるの。無知という罪が、ね」という一句でした。なお平塚らいてうも入っています。これは「らいてうの家」常備図書にしなくては。

 うれしかったのは、会場で思いがけない方がたに出会ったことです。メールのやりとりだけで「らいてうの家に行きたい」と言って下さった方も来てくださり、もう20年近く前にわたしと同じようにお兄さんが少年兵だったということで知り合った方が会場に来てくださっていました。彼女自身も東京大空襲で家族を亡くし、兄は戦死、という体験の持ち主です、ずっとお会いしてなかったのに、お互いに元気でいることを喜び合いました。初対面の方が「わたしは3月10日に両親を失い孤児になりました」と話しかけて来られ、「でも覚えている母は、戦時中らいてうさんと一緒に活動したことがあると言っていました」とおっしゃるのでまたびっくり。戦時中のことですし、1942年にはらいてうは茨城県に疎開してしまうのですからそれ以前です。「覚えていることがあったらぜひ聞かせて」と別れましたが、なんと人間のつながりというのは不思議なものか、と感じ入りました。

 ついでに、きたがわてつさんのCD『自由よ!』(「日本国憲法前文」が入っている)も買い、早乙女さんの新装文庫版『蛍の唄』も買って、お土産にお花までいただき、重たい荷物を抱えて春雨のぱらつく夜の街を帰ってきました。


2016/03/06 米田佐代子の「森のやまんば日記」
「東京大空襲を語り継ぐつどい」に参加しました。
https://yonedasayoko.wordpress.com/2016/03/06/

(*)
歴史にドキリ2015年度
平塚らいてう・田中正造〜市民運動の高まり〜
http://www.nhk.or.jp/syakai/dokiri/?das_id=D0005120248_00000


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小林登美枝

 1971年ってどんな時代?

 北海道からはトワ・エ・モワで「虹と雪のバラード」!
https://www.youtube.com/watch?v=MaLzkCp68eE

 沖縄では、…

 1971年の渋谷暴動事件で過激派に襲撃され亡くなった新潟県警の中村恒雄巡査=当時(21)、殉職後警部補に昇任=の供養のため、警視庁渋谷署のOB4人が2015年11月13日、東京都渋谷区の事件現場にある慰霊碑を訪れ、故人を悼んだ。
 事件は1971年11月14日、「沖縄返還協定の批准阻止」を主張する学生らが暴徒化し、機動隊と衝突。新潟県警から派遣されていた中村さんは火炎瓶を投げつけられるなどして翌日死亡した。実行役とされ指名手配された中核派の大坂正明容疑者(66)は逃亡を続け、今も行方は分かっていない。

2015年11月13日17:36更新、琉球新報
渋谷暴動で殉職した警官悼む 警視庁OB、44年前の事件
http://ryukyushimpo.jp/kyodo/entry-171181.html

 どうして「沖縄返還協定の批准阻止」を学生たちが叫び、先鋭化していったかというと…
 
 日の丸を掲げた島ぐるみの復帰運動に当時の自民党政権もようやく腰をあげ、佐藤栄作首相は1965年に沖縄を訪問した折りに「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本にとって戦後は終わってない」と言明し、対米交渉を進めた。
 1969年11月に訪米した佐藤首相は、ニクソン米大統領との会談に臨み、日米共同声明が発表された。それによると、沖縄の施政権返還は1972年中に達成されるとする一方、返還の中身は「核抜き・本土並み」と言えるものだった。要するに、返還時には、沖縄から核兵器を撤去する。が、沖縄に本土並みに日米安保条約を適用する(別な言い方をするならば、沖縄の米軍基地を引き続き存続させるということ)というものだった(有事の際には米軍が沖縄に核兵器を持ち込むことを認めるという密約があったことが、その後明らかになった)。
 これに対し、沖縄ではこの日米共同声明に反対し、あくまでも「即時無条件全面返還」を求める運動が続いた。1970年12月20日未明には、コザ市(現沖縄市)で、数千人から1万人の群衆が米軍の車両に放火する騒ぎ(コザ暴動)が起こり、内外に衝撃を与えた。
 しかし、日米共同声明に基づき、日米両国政府により沖縄返還協定が作成され、1971年6月17日、東京とワシントンで調印式が行われた。
 東京の首相官邸で行われた調印式には、沖縄の屋良朝苗・琉球政府主席(屋良氏は沖縄初の琉球政府主席公選で当選した)も招かれたが、「県民の立場からみた場合、わたしは協定の内容には満足するものではない」として、出席しなかった。沖縄住民の代表がいない返還協定の調印式。そのことに、沖縄の人たちが返還協定をどう受け止めたかが端的に示されていたと言ってよかった。

2012年5月21日「ちきゅう座」
進む本土の沖縄化、沖縄の日本復帰とは何だったのか
岩垂弘

http://chikyuza.net/archives/23080

 米軍統合参謀本部史によると、1973年に在韓米陸軍と在沖米海兵隊を撤退させる案が米政府で検討され、国務省が支持していた。同文書もテニアンの基地建設に言及しているが、計画は1974年に大幅縮小された。理由の一つに「日本政府が沖縄の兵力を維持することを望んだ」と記し、日本側が海兵隊を引き留めたこともあらためて明らかになった。
2015年11月6日05:05更新、琉球新報
米、在沖海兵隊撤退を検討 復帰直後 日本が残留望む
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-166835.html

 北も南も沸いていたあのころのニッポン!
 東京でも日本万国博覧会が開かれた年の1970年、11月に三島由紀夫が割腹自殺事件があり、翌年1月築地の本願寺で葬儀(注1)。
 5月下旬のこと、です。「初夏を前にして時ならぬうすら冷たい雨が一日降りつづいていた」そうですが、夜の千駄ヶ谷、代々木病院。

 10時36分、敦史、綾子、曙生の3人に見守られてらいてうの魂は天翔った。
 激しい痛みを解脱したらいてうの顔は、生前より幾分かひきしまり、しっかり結んだ口元には、日夜病魔とたたかったつよい意志力の名残りがただようかのようだ。
 85年の生涯かけて彫りあげた、稀有な女人像が所有した時間は、今、永久に畢った。 
 未完の人生でなく、美しい完結のデスマスク像を、私は目の奥にしっかりととどめなければいけないー。

 「わが生涯の体系を貫徹す、われはわが Cause によって斃れしなり、他人の犯すところにらず」

 森田草平と市の約束の」もとに「塩原事件」(注2)を起こすとき、家を出るにあたって書き残しておいたことばである。


小林登美枝(1916−2004、注3)『陽のかがやき、平塚らいてう・その戦後』(新日本出版社、1994)257頁

(注1)ヤッホ−君のこのブログ、以下の日付けの日記をご参照ください:
☆ 2015年10月16日「三島由紀夫」
☆ 2016年2月22日「<戦後>は<国民の時代>!」

(注2)
臼井吉見の安曇野を歩く・『青 鞜』以前のらいてう 
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/90.html

(注3)
平塚らいてうの会第44号(2004年4月1日)
http://img.wan.or.jp/document/web/images/uploads/_96741e3267bfe75821094f4a9514e5ba1203b.pdf

 さらに… 

 2014年2月1日、長野市の信濃毎日新聞の講堂で行なわれた小林登美枝さんの没後10年の集いに行ってまいりました。
 小林登美枝さんと言っても、ご存じないかもしれません。
 平塚らいてうの自伝書きに協力したことから、生涯、らいてうの研究に従事、らいてうとのかかわりで有名な方です。
 また、信濃毎日新聞に1959年から42年間「女の机」というコラムを書き続け、42年というのはギネスもの、と言われた方です。
 長野まで行くのは少し「しんどい」と思ったのですが、東京で小林さんを偲ぶ会等開けそうもないし、頑張っていってきました。
 というのは、小林さんは忘れられない(私の一方的思いかもしれませんが)先輩だからです。

 小林さんのことを知ったのは、戦後すぐです。
 旧姓の鷲沼登美枝で、そのころできた進歩的な女性雑誌に書きまくっておられました。
 毎日新聞政治部の記者! こんな人が居る!
 その頃私は女学校2年生でしたが驚き、懸命に読み、やがて、それが新聞記者という職への関心となり、女性の問題への関心へとつながって行くのですが。
 しかし、その後、冷戦、占領政策は変わります。
 戦後民主主義の改革の中で1950年、東京の共学の大学を選んだ私は、入るとすぐレッドパージ反対闘争の波に巻き込まれ、朝鮮戦争。
 その頃小林さんは、レッドパージで夫の小林勇さん(毎日新聞の欧米部記者)とともに毎日をパージされるのです。

 1954年、縁というか、不思議なことに私は毎日新聞に入るのですが、その頃もちろん小林さんの姿はなく、時折レッドパージが人の心に残した傷を感じるのでしたが、登美枝さんの名を聞いたのは一度だけ。
 その名を言ったのはレッドパージ賛成派の会社の偉い人で「うすぎたねえババア」とすごかったです。
 のちにあった本物の登美枝さんは薄汚いどころか、とてもおしゃれな美人でした。
。。。

2014-02-05 11:06更新、千枝子のブログ
2014年2月上旬号
http://ameblo.jp/gomametuusin/entry-11765336370.html


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2016年03月11日

蜘蛛となめくじと狸

 ネットで「腹黒い人に共通する10の特徴」というのを読みました。

 本心とは違うことを言う/
 良い人アピールが激しい/
 プライベートを隠そうとする/
 話を誘導するのがうまい/
 相手をコントロールしようとする/
 同性の友達が少ない/
 人脈作りがお好/
 計算高さが見え隠れする/
 「すげえ!」「マジか!」をよく使う」人のことだそうです(TABI LABOより)。

 ふんふん、と読みながら思い出したのは、宮沢賢治の「蜘蛛となめくじと狸」という童話です。
 蜘蛛もなめくじもまことに腹黒く、
 蜘蛛は近づいてきた哀れなかげろうの巡礼をだまして食べてしまい、
 なめくじは傷を治してやると言ってカタツムリやトカゲを食べてしまいます。
 そして狸は兎に説教をして「なまねこ なまねこ」と念仏ならぬ「念猫」を唱えながら食べてしまうのです。
 兎は涙を流して有難がりながら食べられるのですが、全部食べられてしまってから狸の腹のなかで叫びます。

「すっかりだまされた。お前の腹の中はまっくろだ。ああくやしい」

 子どものとき、この童話を読んで気持ち悪かったこと。
 以来「腹のなかがまっくろ」なものを信用してはいけないとかたく信じるようになりました。

 さてほんとうに新基地建設を止める気がないのに選挙対策に「辺野古和解」を公言し、
 「慰安婦」に心から謝罪する気もないのに当事者抜きの「日韓慰安婦合意」を手柄顔で語り、
 さらに「戦後70年談話」で「戦争の加害責任を次の世代に持ち越すわけにいかない」と言いながら、それは戦争責任を償うのではなく「いつまでも戦争責任などと言うな」という恫喝と隠ぺいを図ろうとするような人は、
 「本心とは違うこと」を言い、
 「話を誘導するのがうまく」
 「相手をコントロールしよう」とし、
 「お友達」だけを周りに据えて「人脈づくり」に熱中し、
 「計算高い」という点で、
 「腹黒い人」の条件を十分備えていると思います。

 どうか、その人の話を信じたり、支持したりしないでください。
 有難がってついて行くうちに食べられてしまってから「すっかりだまされた。ああくやしい」と叫んでも手遅れなのですから。


2016/03/07投稿、米田佐代子の「森のやまんば日記」
アベさん、あなたは腹黒い人ですね
https://yonedasayoko.wordpress.com/

 アメリカの海外メディアワシントンポスト紙の3月5日付け社説を読んでみましょう。
 もう信じたり支持していないのに、どうしてこの国の人は、ふんぞり返っている人に食べてくださいと身も心も差し出そうとするんでしょう(*):

SO FAR, not so good for Abenomics, the ambitious program for reviving Japan’s stagnant economy introduced by Shinzo Abe upon his election as prime minister three years ago. Mr. Abe promised to fire “three arrows”: fiscal stimulus, monetary easing and structural reforms. He has delivered most dramatically in the monetary area, where the Bank of Japan has tried radical anti-deflation measures, including, most recently, negative interest rates on commercial bank deposits at the central bank. Yet in view of the underwhelming results − including another three months of negative growth at the end of 2015 − Japanese are worried and the prime minister’s approval ratings are falling. Meanwhile, China and North Korea agitate militarily nearby.

Surrounded by bad news, many leaders resort to blaming the bearers of it; alas, Mr. Abe may be no exception. In fact, formal and informal pressure on Japan’s media, by the government and its allies, has been a sore point almost since Mr. Abe took office. To many, his disposition to rein in critical coverage was behind the rise of a loyalist to run NHK, Japan’s publicly supported television network, in January 2014. The new boss promptly gave a press conference observing that the World War II-era Japanese army’s forcing of women into its sexual service “could be found in any nation that was at war.” Since then, officials of both NHK and a rival, Asahi, have been dressed down by a commission of Mr. Abe’s Liberal Democratic Party, and a member of Mr. Abe’s parliamentary bloc has threatened two Okinawan papers’ advertising revenue. Mr. Abe apologized for that.

Recent weeks have seen the resignation of three television journalists, all known to be out of favor with the government, in circumstances suggestive of pressure from Mr. Abe’s friends in network management. The resignations coincided with a flap over comments Feb. 8 by Japan’s minister of internal affairs, to the effect that broadcasters who fail to show “fairness” in political coverage could lose their licenses, under previously little-used laws requiring neutrality in the news. The Japan Federation of Commercial Broadcast Workers condemned that as “intimidation.” Japan’s media remain powerful and robust, yet in 2015, Japan fell to 61st place among 180 countries on Reporters Without Borders’ global press freedom rankings, down from 11th in 2010.

Mr. Abe’s upset with the media seems to revolve mainly around their coverage − tepid by U.S. standards − of his national security policy, such as his plans to permit Japan’s military more latitude abroad. Japan does face challenges both economically and in the security realm. Mr. Abe is trying to modernize his nation to meet them, an inevitably controversial project. Nevertheless, the proudest of Japan’s post-World War II achievements was not its economic “miracle” but the establishment of free institutions, including independent media. None of Mr. Abe’s goals for Japan, however worthy, can, or should, be pursued at their expense.

Squelching bad news in Japan
By Editorial Board March 5
https://www.washingtonpost.com/opinions/squelching-bad-news-in-japan/2016/03/05/497b7be8-da60-11e5-925f-1d10062cc82d_story.html

 「日韓慰安婦合意」だって合意したからで終わりでなく、国連 Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women からの指摘、忠告、勧告に沿って動き出すのが相当とヤッホー君は思っております、腹を探られる前に腹をくくって。

The Committee, therefore, considers that it is not precluded ratione temporis from addressing such violations, and urges the State party to:

(a) Ensure that its leaders and public officials desist from making disparaging statements regarding responsibility, which have the effect of re-traumatising victims;

(b) Recognize the right of victims to a remedy, and accordingly provide full and effective redress and reparation, including compensation, satisfaction, official apologies and rehabilitative services;

(c) Ensure that in the implementation of the bilateral agreement announced jointly with the Republic of Korea in December 2015, the State party takes due account of the views of the victims/survivors and ensure their rights to truth, justice, and reparations;

(d) Adequately integrate the issue of “comfort women” in textbooks and ensure that historical facts are objectively presented to students and the public at large; and

(e) Provide information in its next periodic report on the extent of consultations and other measures taken to ensure the rights of victims/survivors to truth, justice and reparations.

Concluding observations on the combined seventh and eighth periodic reports of Japan
http://tbinternet.ohchr.org/Treaties/CEDAW/Shared%20Documents/JPN/CEDAW_C_JPN_CO_7-8_21666_E.pdf

(*)今夏、うわさされている衆参同日選。これが終わって政権が多数をとれば、さ、この国のだまされた何百万、何千万の人は米国に従軍してあるいは再び戦場となって死んでいくんでしょうか。死んだら宗教団体は儲かるし、おお、いやだ、いやだ……

「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名のブログをめぐり、与党内から、安倍晋三首相の当初の対応を疑問視する声が上がっている。首相は夏の参院選をにらんで「1億総活躍社会」を掲げるだけに、待機児童対策を早急に打ち出すなど、政権への不満の広がりを食い止めようと躍起だ。
 「(ブログへの)対応もそうだけれど、最初からぱっとやっておけばトラブルは起こらないんですよ。後先を見極める能力を、みなさんよく身につけておいてください」。伊吹文明元衆院議長は10日、自民党二階派の会合で首相に苦言を呈した。2月29日の衆院予算委員会で民主党の山尾志桜里氏がブログを取り上げた際、安倍首相は「実際に起こっているのか確認しようがない。これ以上、議論しようがない」と答えたのを念頭に置いたものだ。
 10日の政府与党連絡会議で、公明党の山口那津男代表が「切実な国民の声に丁寧な対応をしていく必要がある」と注文。自民の閣僚経験者も「初動を誤った。首相の答弁がはねつけるような印象を与え、(待機児童問題に)火を付けた」と指摘した。
 与党内からこうした声が出るのは、自民党内に苦い記憶があるからだ。第1次安倍政権では「消えた年金」など年金記録問題への対応が後手に回り、2007年の参院選で惨敗。当時の閣僚の一人は「国民に身近な問題だという認識が薄く対応が遅れた」と悔しがった。
 加えて政権は、今夏の衆参同日選も視野に火種の一掃を進める最中だ。甘利明・前経済再生相の現金授受問題は辞任で幕引きを図った。米軍普天間飛行場の移設をめぐる沖縄県との訴訟合戦では、裁判所の和解案を受け入れ、沖縄との対立を一時棚上げした。そんな中で子育て世代を中心に保育サービスの不足に対する不満が拡大すれば、こうした戦略が狂うことになる。


2016年3月11日07時26分更新、朝日新聞デジタル
「初動ミス」与党も苦言 「保育園落ちた」巡る首相答弁
http://www.asahi.com/articles/ASJ3B55T2J3BUTFK00R.html



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東京大空襲訴訟

 東京大空襲で被災しても、軍人は別だけどコクミンはがまんしなって、そんな冷たいこと言っているのがこの国でふんぞりかえっているエライひとたち:

 1945(昭和20)年3月の東京大空襲の被害者や遺族ら130人余りが「軍人やその遺族などには補償があるのに、空襲の被害者に援助がないのは不当だ」と主張して、国に謝罪と賠償を求めて提訴していた東京大空襲訴訟で、最高裁判所は2013年5月9日までに原告の上告を認めない決定を出し、被害者や遺族の訴えをすべて退けた判決が確定しました。
 この東京大空襲では、米軍機が東京の浅草など住宅密集地を爆撃し、約10万人が死亡したとされ、原告側は、軍人やその遺族に遺族年金などの手厚い援護があるのに、民間被災者が救済されないのは、法の下の平等を定めた憲法に反するなどと訴えていました。なんと、戦後支払われた遺族年金は1兆円に及びます(余談ですが、遺族らでつくる日本遺族会が強固な自民党の支持団体になっているのは当然です)。
 しかし、被告の国は
戦争被害 は国民が等しく受忍(我慢)しなければならない
という受忍論を展開して、1審・2審はこれを追認しました。さらに東京地裁・高裁は
「戦地で実際に戦闘行為を行った軍人らの救済には合理的な根拠があり、民間被災者の差別ではない」
「被災者は数多く存在しており、どんな救済措置を講じるかについて国会には広い裁量が認められる」
「原告らが旧軍人らとの間の不公平を感じることは心情的には理解できるが、戦争被害者にどのような援助をするかは立法を通じて解決すべきだ」
などと指摘し、訴えをすべて退けていました。
 原告は上告していましたが、最高裁判所第1小法廷の横田尤孝裁判長は、9日までに上告を認めない決定を出して、被害者や遺族の敗訴が確定しました。なお、空襲の被害に対しては昭和20年の大阪大空襲についても被害者や遺族が同じような訴えを起こしていますが、1、2審ともに訴えが退けられています。

なぜ、原告らはアメリカ政府に対して裁判を起こさないのか
 東京大空襲は、市民に対する無差別殺戮でした。無差別殺戮を第二次大戦当時でも国際人道法が禁じていたことは確立した考え方です。ですから、アメリカ軍が行なったこれらの空襲は国際法違反であることは明らかですから、本来、裁判はアメリカ政府に起こすこともできるはずなのです。
 ところが、米軍基地訴訟などで、アメリカ政府を日本の法律で日本の裁判所で裁くことはできない(日本の裁判所に裁判権がない)というのは最高裁判例として確立してしまっています。
 かたや、アメリカの裁判所でアメリカ政府を被告に裁判ができるかというと、アメリカは国家無答責(国家自体は損害賠償義務を負わない)という都合のいい法体制になってしまっています。国際刑事裁判所の条約に参加せず、政府要人も軍人も裁かれないようにしているのと同じ発想です。
 また、国際司法裁判所で原告になれるのは国か国連機関などだけです。
 というわけで、事実上アメリカ政府に対する裁判の道は閉ざされており、同じく無差別殺戮で、しかも不必要な苦痛(放射線による後遺症が続き、戦争に勝つために必要ない苦痛)を相手に与え、さらに違法性が高い原爆被爆者も、この壁でアメリカに裁判を起こせないでいるのです。
 そうしたことから、東京大空襲訴訟でも、日本政府を裁判の被告にすることになりました。
この裁判の目的はなんだったか
裁判所は戦争を追認した
 以上のような問題意識は、いわゆる戦後補償裁判全体に通じるものですが、司法はほとんど原告の訴えを認めたことがありません。それだけ大きな影響力を持つからで、原発訴訟と同様にここまで司法消極主義も徹底されると、司法は不要ではないかとさえ思えてしまいます。裁判所はいかに勇気がない人たちの集まったところなのか。
 原爆被爆者もいまだに放射線の被害の治療を受けている原爆症患者への給付制度などはあっても、国家補償の理念に基づく損失補償や損害賠償はなされていません。
 火の中を逃げまどい、家族を失い、家族を見捨て、生まれ育った故郷を失う。
 平均年齢80歳近い空襲被害者や被爆者ら戦争被害者は、自分の利益のためにお金を求めているのではないのです。後に続く私たちの世代に二度と同じ苦しみを味あわせないための訴訟が、東京大空襲訴訟であり、戦後補償裁判なのです。
 せめて、皆様にそのことを理解していただきたく、この記事を書きました。私たちが選挙で良い代表者を選び、法律と行政で戦争被害者を救済し、二度と戦争をしない誓いとしたいものです。


2013年5月9日Everyone says I love you ! 毎日、泣いて笑って喜んで哀しんでる、かなりラテンの血の濃い、そんな弁護士宮武嶺のエブリワンブログです!
最高裁で敗訴が確定した東京大空襲訴訟が問いかけたもの 戦争被害を国民は受忍できるのか
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/20a834edc56c2809022f8677b9dc4b0f

 ふぅ〜
 でも負けてなんかいません!

 米軍による東京大空襲の犠牲者の遺族やけがをした人らが、日本政府に謝罪と賠償を求めた訴訟を振り返って、「東京大空襲訴訟原告団報告集―援護法制定をめざして―」を発行した。
 原告らは、旧軍人・軍属には国の手厚い補償があるのに、民間人が切り捨てられているとして2007年に東京地裁に提訴した。一、二審判決は請求を棄却したが、国の道義的義務や立法による解決に言及。2013年に最高裁の上告棄却で敗訴が確定した後も、原告・弁護団は被害者救済のための援護法を求めて活動を続けている。
 報告集はA4判、160ページ。原告・弁護団や全国の支援者ら延べ約100人が手記や報告を寄せたほか、原告らの座談会、裁判での主な専門家や原告の証言を収録している。大空襲の日の今年3月10日付で1200冊発行し、このほど500冊の増刷に入った。
 出版を記念して足立区内で2015年4月11日に開いた集会には原告・弁護団メンバーら約70人が参加。議員立法による援護制度を目指す発言が相次いだ。
 中山武敏弁護団長(71)は、援護法を目指す運動に加わった小林節・慶応大名誉教授から届いた手紙を紹介。「戦争で民間人が狙い撃ちにされ、無補償でよいはずがありません」と記された内容を読み上げた。中山団長は「再びこの国を火の海にさせないためがんばりたい」と語った。
 東京大空襲の記録に取り組んできた作家の早乙女勝元さん(83)は「援護法に向かって、簡単な道のりではないが、死ぬ気でやれば道は開ける。こだわって生きる人がいなきゃ、歴史は動かない」と訴えた。


2015年4月16日03時00分朝日新聞デジタル(佐藤純)
東京)東京大空襲訴訟原告団が報告集出版
http://digital.asahi.com/articles/ASH4C7V6XH4CUTIL01Z.html?rm=356

 東京大空襲訴訟で弁護団長を務める中山氏は、「この裁判は、人権回復を求める裁判。国はこれまで軍人・軍属には54兆円を超える補償をしているのに、民間人空襲被害者には何ら補償もせず放置している。原告らは『軍人・軍属と同じ人間として認めてほしい。このままでは死んでも死に切れない』と訴えている」と語る。
 東京大空襲訴訟において、大きな障害となったのは戦争被害受忍論だという。
 これは、民間人空襲被害者にだけ、被害を等しく受忍せよという不条理なものだ。第一審、第二審の裁判官は被害の実態を認めたものの、訴えを棄却。最高裁は、2013年3月に本件上告を棄却する、との決定を出した。

「これにより、司法救済の道は閉ざされた。だが、判決の中で裁判官は、民間人空襲被害者に対しては立法措置で解決してほしいと判断した。現在は、援護法制定を実現する方針で動いている」と中山氏は説明した。
 2015年8月6日、民間人空襲被害者のための超党派の議員連盟が結成され、会長には鳩山邦夫衆議院議員が選出された。鳩山氏は、国家意思が関われない天災の被害は補償されるのに、国家意思による戦争での民間人被害者が、何の補償もされていないのはおかしい、と表明している。
 中山氏は、
「これまで14回、国会に提出された援護法は、審議未了及び廃案になった。空襲被害者は高齢になっている。1日も早い民間人空襲被害者救済のための立法を求める。戦争被害に対しては、軍人・軍属と民間人空襲被害者の区別はない」として、被害が国家補償されることが人権保障の国際水準だと力を込めた。

憲法学者・小林節氏からの手紙「妥協せず、信じることを語って死にたい」
 また、この立法化運動の中で、中山氏は慶応大学名誉教授の小林節氏と出会ったと語り、小林氏からの手紙を紹介した。

「私は先天的障害児として差別の中に生きてきた。ですから、自然に求めて憲法学者になったが、体制側に近いところに長居していた。しかし、権力者の傲慢さを嫌というほど見せつけられ、60歳の頃から、妥協せずに信ずることを語って死にたいと思うようになった。
 戦争で逃げる術もない民間人空襲被害者(の補償)が、無償で良いはずがない。中山先生と直接お目にかかることができ、人生の契機になった気がした。最高の強さを備えてきた人物の暖かさや居心地がよく、初対面でありながら何か懐かしい感じがした」


2015/10/04 IWJ Independent Web Journal(IWJテキストスタッフ・花山格章)
「戦争法は憲法秩序そのものを破壊する。今、違憲訴訟2本を準備中だ」
〜狭山事件、東京大空襲訴訟などの中山武敏弁護士が人権と平和を訴える

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/268594


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3月11日

 寒い朝ですね。昨夜早く寝たせいか枕元のラジオ入れたら【明日へのことば】が流れてきました。
 3.11にちなんでアンカーも仙台放送局の杉尾宗紀アナウンサー。

NHK仙台放送局アナウンサー杉尾宗紀さん(58歳)
 NHK仙台放送局に2015年3月末、杉尾宗紀(そうき)アナウンサーが宮崎放送局から戻ってきた。震災が起きた日の夜、ラジオで「明けない夜はありません」と何度も語りかけた。それでも、自分の声で命ひとつ救えなかった。その痛恨の思いから、二度目の仙台を希望した。
 杉尾さんは宮崎県出身、1983年にNHKに入局したベテランだ。前回は2007年から仙台に勤務し、そろそろ異動という時、震災はやって来た。
 地震が起きた時刻は自宅マンションにいて、床にはいつくばって耐えた。激しい揺れが収まり、市内の様子をリポートしようと、自転車で出た。信号は消えていたが、倒れたビルなどはなく、人々は意外と落ち着いて見えた。
 局に着いたのは午後4時前。ラジオブースに入ったちょうどその時、テレビ画面に名取川の河口をのみ込む大津波が映し出され、言葉を失った。それから1時間、何をしていたか記憶がない。
 その夜から翌朝までのラジオを担当。ところが、読むべきニュース原稿がほとんど入ってこない。記者たちは最前線にたどり着けていなかった。夜遅く「県警によると、仙台市若林区荒浜で200〜300人の遺体発見」との原稿に驚き、「これ読んで大丈夫なのか」と、デスクに確かめたのを覚えている。
 NHKには、防災士の資格を持つ「せんだい泉エフエム放送」の阿部清人アナウンサー(51)が、応援に駆けつけていた。空いた時間は阿部さんの話を交え、「新聞紙を服の間にはさんで暖をとって」などと呼びかけた。誰がどこでどんな風に聞いているか想像するしかない。「お互いに声をかけあって暗い夜を乗り切りましょう」と繰り返した。時間が止まったような、長い夜だった。
 それから毎日、被災地の情報を伝えた。3日ほど後のオンエア中、名取市閖上で家族を失った人のインタビューが流れた直後、不覚にも涙があふれた。「閖上は漁港の町で……」と言いかけたが、嗚咽(おえつ)でコメントにならなかった。
 数ヶ月がたち、少し落ち着いてきて、考えた。自分はアナウンサーとして何ができたのか。誰かを助けただろうか。もし、ラジオブースに飛び込んで大津波の映像を見た時、マイクに向かって「石巻逃げろ! 気仙沼逃げろ! 津波が来るから逃げろ!」と叫んでいたなら――。
 あの日ぼうぜんとしていた1時間は、アナウンサー人生最大の悔い。異動してサヨナラでなく、戻ってくるしかない。心に決めた。
 2012年6月に移った宮崎でも「防災」に力を入れた。司会になった番組では、津波が来たらどんな行動をとるべきか、クイズの形で紹介した。被災地の話を織り交ぜ、災害への備えを訴える講演に出た。
 仙台ではいま、NHKラジオ第1の情報番組「ゴジだっちゃ!」(月〜金曜の午後5〜6時)パーソナリティーを務める。「杉尾アナ、おかえりなさい。震災の夜の言葉が忘れられません」。リスナーからそんなメールも届いている。
 定年まであと2年。復興を見届けたいと、3年前には仙台市内に中古の自宅を買った。


2015年4月11日19時13分更新、朝日新聞デジタル(石橋英昭)
声で救えなかった 杉尾アナ、再び仙台に
http://www.asahi.com/articles/CMTW1504110400002.html

 【明日へのことば】のお話しは仙台市在住の直木賞作家、熊谷達也「被災地を書くということ」(2016/1/23宮城県南三陸町で収録)。
 震災でものが書けず廃業するかなと思いはじめた矢先、奥さんが函館の人で函館と縁があり、函館のバーに飲みに入ったら店内が賑やか、ワケを聞くと映画ロケがあったと言うお話で盛り上がっていたのです。
 店内で売っていた本をじゃあ、ぼくも、と買って読み出したのが、佐藤泰志『海炭市叙景』(小学館文庫、映画化は2010年)。公式サイトはこちら↓
http://www.kaitanshi.com/

 これで書くことの意義を教えられ、作家、物書きとして再生できた、と言うお話でした。

もう一度小説の可能性に賭けてみようと思わせてくれた本
 小説を再読することはめったにない私だが、函館出身の作家、佐藤泰志の『海炭市叙景』を4年ぶりに再読した。最初にこの本を読んだのは、東日本大震災があった年の夏だった。
 実は当時の私は、震災をきっかけに小説を楽しむことができなくなっていた。あの大津波による凄まじいまでの破壊と大量死を間近に見たせいだと思う。
 小説に描かれる世界にリアリティが感じられず、物語に入って行けない。そんな状態が続いていて、これでは小説家を廃業するしかないのではないかと、危惧すら覚えていた。
 そんな折りに偶然出会ったのが本書だった。函館をモデルとする「海炭市」という港町を舞台にした群像劇である。

 普段はあまり手に取ることのない純文学作品なのだが、震災後に初めて最後まで読み通せたばかりか、大きな刺激を受けた本となった。この本のおかげで、もう一度小説の可能性に賭けてみようという気になった。
 いったい何がそんなによかったのか、あらためて確かめたくなっての再読である。
 やはりよかった。これほど切れ味の鋭い文体の作品を読めるだけで、<ひとりの読者>として幸福だ。その文体がもたらすものは、登場人物たちと彼らが暮らす街の、圧倒的なリアリティだ。
 可能なら(実際には無理そうだが)こんな物語を書いてみたい。<ひとりの書き手>として切実にそう思う。

 ところで、佐藤泰志は1990年に41歳の若さで自死している。
 函館市文学館に自筆原稿が収蔵されているのだが、それを前にすると切なくなる。よって残念ながら、佐藤泰志の新しい作品は、決して読むことができない。


2015年9月21日(月)現代ビジネス
東日本大震災後、小説家は廃業かと悩んだときに出会った、切れ味鋭い文章の持つリアリティ
http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/45310

 こんにちは、ザーリャです。
 2014/4/3、仙台市で、ある講演会が開かれました。
 「震災後の文学〜仙河海市の物語を通して」。以下はその内容です:
気仙沼へ
 2011/4/1、ガソリンを入れることができたので、本吉町の津谷を経由して、気仙沼に向かいました。
そして初めて津波の被災地に入ります。
 熊谷さんは言葉を失ったと言います。
 熊谷さんは歩ける状態のところを、手あたり次第に歩いて見て回りました。
「沿岸部の被災地の状況を定期的に見なければいけない、少なくとも月に一度は回らなければ、見ていかなくては・・・」
 被災地の惨状を自分の目で見て、そう思ったと言います。
 しかし、その目的は、自分でもまだよくわかりませんでした。
 それから、月に1回、多い時には2回、津波被災地の変わってゆく光景を見ました。
 被災地に入ると、震災によって地盤が沈下し、海が大きくなったように見えます。
 それがとても印象的でした。
 やがて何もないところに、真新しい電柱が立ち始めました。
 その先に仮設住宅があるのです。弁当を持ってゆく必要もなくなりました。
 仮設商店が営業を始めたからでした。

訪れた危機
 震災から1年半の後、風景の変化が一度止まりました。
 瓦礫の撤去が終わり、何もなくなったのです。
 その変わらない、何もない停滞期間がしばらく続きました。
 今年に入って、ようやく復興の兆しが見えるようになりました。
 しかし一方で、小さな集落は解散してしまったところも沢山あります。
 高齢化、過疎化が進んでいた集落では、20、30年後に現れるだろうと考えられていた問題が、この震災で一気に加速して現れてしまったのです。
 そして、精神的な危機が、自分に訪れたことを感じました。
 「新しい小説が書けるのか?何も書けないな」
 仕事をしようと思っても、小説が書けなくなっていました。
 小説は人の生死を描くものだと言われます。
 しかし、現実に身近にあったあれだけの命が、あれだけの町が失われてしまいました。
 小説はフィクションです。震災後、何を書いてみても嘘くさくなる。
 どんな壮大なストーリーも、はたしてどんな意味があるのだろう?
 3/31、街の中で商売が始まり、日常が戻ってきました。
 みんな「日常」を取り戻すために頑張っている。
 自分も「日常」を取り戻したい、小説を書く生活を取り戻したい。
 しかし、実際には小説を書くだけではなく、小説を読むこともできなくなっていました。
 あんなに好きだった小説を、もう読めないという喪失感。
 致命的だった。

 熊谷さんはそう話しました。
 熊谷さんはどのようにして震災で喪失した「小説を読むという喜び」と、「小説を書く」という日常を取り戻したのでしょうか。
。。。
震災後、初めて読めた小説
 震災後しばらくたって訪れた函館で、佐藤泰志さんの『海炭市叙景』という短編小説が、函館を舞台に撮影されて映画化されていたことにあらためて気づきました。
 それで小説を読んでみたのです。
 震災後初めて、非常に感動した小説になりました。
 そして、「こんな物語を書きたいな」と思いました。
 これが「仙河海市」の出発点となります。
 この小説のように気仙沼をモデルに伝えたい、そうすれば書き続けられそうだなと思いました。


2014年5月18日日曜日23:12、ココロプレス
熊谷達也氏講演会(仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/05/blog-post_8702.html

東日本大震災5年
 東日本大震災以降の5年間で、直接震災から題材をとった作品をざっと思い浮かべてみただけで50冊近く(別表)挙がった。歴史・時代小説にも大震災を意識した作品はあるが、それを除いてこの数だ。近年、こんなふうに一つのテーマで文学作品が相次いで執筆されるのは、「戦争文学」をおいて他になかった。「震災文学」あるいは「3・11文学」に作家たちを駆り立てたものは何か。そしてどんな作品を書いてきたのか。
。。。

 「戦争が日本人にとって私事だったように、この震災は僕にとって私事だった」と語るのは、仙台市在住の熊谷達也さん。
 デビュー前に宮城・気仙沼市で3年間教師をしていた時の教え子たちが津波被害を受けた。
 初期は支援物資をもって駆けつけ、今でも沿岸部の各地を見つめ続ける。
 「被災地を内側から知っている作家はあまりいない」という東北の編集者の声に背中を押され、『リアスの子』に始まる気仙沼をモデルにした仙河海(せんがうみ)が舞台の連作など5冊執筆してきた。
 さらに熊谷さんは、
 「三角錐(すい)の頂点にある3月11日に向かって過去が収束して、未来はその一点から逆向きの三角錐となって広がっていく感じがある」と世界観を分析する。
 価値観を一変させた「戦後」に匹敵する「災後」のイメージだ。
 当然のことながら直接テーマと関係なくとも、全ての文学が何らかの影響を受けた災後文学でもある。
 過去5年の取材で、印象に残った作家の言葉の数々がある。
。。。

 出版界で震災文学は売れないといわれる。テーマの切実さにまだ手に取れない人はいるだろう。しかし、作家たちが総力を挙げて取り組んだ物語の多彩さを見てほしい。


2016年3月10日付け毎日新聞・東京夕刊【内藤麻里子】
作家を駆り立てたもの 「戦争」以来の切実なテーマ
http://mainichi.jp/articles/20160310/dde/014/040/006000c

 「海炭市」から「仙河海市」へ。
 「受け継がれて行く」とはこのこと、佐藤泰志は死んでなんかいないよ、ということですよね。
 そして山歩クラブで新宿までぶら〜り、佐藤泰志の映画を見に行きました。
 函館が見えるからとか言って、でも芥川賞をもらいそこね自死した佐藤泰志のこと知ってもらいたかったんだ。

 ヤッホー君のこのブログ、2013年10月3日からに山歩クラブ函館紀行記が始まっていますのでご参照ください。
 2013年10月5日付け日記「函館山334m」
 2013年10月6日付け日記「北海道駒ケ岳1131m」

 そしてヤッホー君のこのブログ、次も:
 2013年10月11日付け日記「書くことの重さ」
 2013年10月17日付け日記「そこのみにて光輝く」



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2016年03月10日

忘れてならぬ3・10と3・11

 3月10日…、
 昨日、山歩きをしていたヤッホー君ですが、次のような投書が朝日新聞に載って、コクミンの皆さまに届けられたとのことです:

 3月10日と11日は、共に決して忘れてはならない日である。
 1945年3月10日の東京大空襲では、一夜にして10万人もの命が失われている。
 2011年3月11日は東日本大震災の被災日だが、死者と行方不明者は2万人を超え、今も約17万4千人の避難者がいるという。

 数日前、私は福島県の東京電力福島第一原発による被災地まで足を延ばした。
 車でいくら走っても、除染の廃棄物袋が平積みで、かつての住宅街は一面の雑草地だった。
 大空襲後の惨状と重なるが、決定的に異なるのは、戦中の私たちはすぐに焼けトタンを拾い集めて、雨露をしのぐ場を確保したことだ。
 国破れても山河ありだったのが、こちらでは生活の基盤たる故郷と日常を失った人たちが多い。
 胸のふさがる思いがした。

 放射能の拡散により原発事故はなお進行中だというのに、再稼働はもってのほかだ。

 そればかりか、子どもたちの未来に残すべき平和憲法が目下、崖っぷちの危機にある。
 命を第一義とするならば、戦争も原発も次世代にあってはならない。
 小さな声ででも「それは違う」「これはおかしい」と言い続け、伝えていこう。


(声)忘れてならぬ、3・10と3・11
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12247841.html?rm=150

 当初の主は、作家・早乙女勝元(東京都83)とありますが肩書は「東京大空襲・戦災資料センター」の館長でもあります。
 昨年2015年の朝日新聞では、投書欄ではありませんでした:

 作家の早乙女勝元さん(82)は、1945年3月10日の東京大空襲を経験し、真相の究明と記録にこだわり続けてきた。10万人の命を奪った大空襲への思いを語ってもらった。
 大空襲に遭ったのは、当時の向島区、今の墨田区東向島です。国民学校高等科1年、12歳でした。自宅は焼け残りましたが、2カ月後の空襲では隣の中学校が一瞬で燃え上がり、危険でした。
 当時の国際法でも、民間人への爆撃は禁じられていましたから、米軍の行為は戦争犯罪です。巨費を投じて開発した爆撃機B29の威力を示したかったのでしょう。ただ、日本は私みたいな子どもまで軍需工場に投入していた。子どもといえども、100%の被害者ではないんです。本来は、子どもを子どもらしく守ることが、政府の責任でした。
 1970年に「東京空襲を記録する会」をつくり、1974年までに「東京大空襲・戦災誌」全5巻を世に出しました。844編もの体験記が集まった底流には、ベトナム戦争がありました。米軍のB52が、沖縄から北爆(当時の北ベトナムに対する爆撃)へ向かう。そのことに心のうずきを持つ方々が、改めて自分の戦争体験、空襲体験を振り返ったのだと思います。
 大空襲の被害者が国に謝罪と賠償を求めた裁判は、一昨年、最高裁で敗訴が確定しました。国は旧軍人・軍属に年金などで50兆円以上払いながら、民間の空襲被害者にビタ一文出していない。国民主権の憲法下にあるまじき不条理です。立法化はたやすくないが、とにかく死ぬまで声を上げ続けることが大事です。
 70年は歴史的な節目であると同時に、この国のありようが重大な岐路を迎えています。「記録する会」の活動が「東京大空襲・戦災資料センター」につながり、語り部の活動を続けてきましたが、体験者による語り継ぎは限界にきています。継承はコミックでもいいし、映像や写真でもいい。人間には、体験していないことを追体験できる「知性」があります。
 10年後はまだ戦後でしょうか。それとも戦前、戦中でしょうか。戦争体験に憲法9条が重なり、戦後の平和の礎となりました。民間人の被害を継承していくことが、戦争への道にいささかのブレーキになりはしないかと思ってやってきました。戦争を生き延びた者の使命だと思っています。
 次の世代のために、資料をいっぱい作りました。活用して、平和のうちに生きる権利を守り抜いてほしい。自分の意見をきちんと言うこと。何事も一人から始まります。その一人がいなければゼロです。一なる声に道理と感動が伴えば、声が声につながります。たいしたことはできませんが、私も「もうひと踏ん張り」と心しています。

* さおとめ・かつもと、1932年東京生まれ。戦後、働きながら青春小説を書く一方、空襲記録運動の中心に。「東京大空襲―昭和20年3月10日の記録―」(岩波新書)など著書多数。2002年開館の東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)館長。


2015年3月9日05時00分更新、朝日新聞デジタル(聞き手・佐藤純、写真は山本和生)
(東京大空襲70年)民間人被害、継承は生存者の使命 作家・早乙女勝元さん
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11640237.html?rm=150

 へぇ〜、はぁ〜、そうだったんですかぁ〜だって、ヤッホー君。
 だってぇ〜山歩クラブも2002年発足ですよって。

 2002年11月に活動を開始した山歩クラブは、2012年春の総会が第10回目というひとつの節目を迎えました。
http://www.ac.auone-net.jp/~fom-club/

 へぇ〜、はぁ〜、そうだったんですかぁ〜
 2013年の12月8日日曜日の朝日新聞「声」欄です:

 日曜日、朝刊を開いたら、ふっとある言葉に目を奪われた。朝日新聞の「声」欄。「朝、目覚めたら戦争だった」という見出しだった。
 投稿者は作家の早乙女勝元さん。直木賞作家で、たくさんの作品(ことに児童文学)で有名な方だが、『東京大空襲 ― 昭和20年3月10日の記録』(岩波新書)など「東京大空襲を記録する会」の活動でも有名だ。投書では、こんな風に書かれていた。


 1941(昭和16)年12月8日、私は東京・下町の国民学校4年生だった。霜が張った寒い朝、ラジオの臨時ニュースで太平洋戦争開戦を知った。
 「いつどこで始まったの」という私の問いに、母が「今朝、西太平洋だってさ」と答えたのを覚えている。みんなが寝ているうちに戦争になったのに驚いたが、ふと懸念が生じた。国民の知らぬところで始まった戦争。(略)
 誰も彼も歓迎ムードだった。だが貧しいガラス職人だった私の祖父は違った。「世界地図を見よ、小さな桜エビのような日本がスルメイカみたいな国を相手に戦争とは。もういかん、もう間に合わん」
 大通りでは寒風の中を「神国必勝、打倒米英」ののぼりを先頭にした旗行列が途切れることなく続いていた。

 遠い少年の日の記憶……。
 ただ、僕の目をひきつけたのは、この投書の見出しだった。
 『目覚めたら、戦争』(コモンズ)という、僕が2007年9月に出した本のタイトルに、そっくりだったからだ。僕はこの本に「過去(いま)を忘れないための現在(かこ)」というサブタイトルをつけた。その思いが、まざまざと蘇った。
 この本を出版した当時は、例の「私に反対するものは抵抗勢力」や「自民党は私がぶっ壊す」などといったワンフレーズを駆使して圧倒的な人気を誇った小泉純一郎首相の下で、次々と危うい政策が推し進められ、跡を継いだ安倍晋三新首相はさらに、それに輪をかけて危険な方向へと進みかけている、という政治状況だった。
 だから僕は、そんな世の進み行きへ“蟷螂の斧”とは分かっていても、小さな異議申し立てをせざるを得なかったのだ。
 僕はその本、『目覚めたら…』の帯に、こう記した。


 戦争は、こうして突然、私たちの目の前に現実となって立ち現われた。ある朝、銃声で目覚めるということが、絵空事ではなくなったのである。
 テレビが速報を伝える。
 「臨時ニュースをお伝えします。紛争地〇〇で活動中の自衛隊が、反政府勢力と交戦状態に陥り、自衛隊5名が戦死した模様です」
 そんなことが起きないと、誰が確約できようか。

 今から6年前に書いた文章だが、世が次第にこのような現実味を帯びてくることが恐ろしい。 
 前掲の早乙女さんの投書にもあるように、「国民の知らぬところで」戦争は始まるのだ。国民に知らさぬ法律、それが特定秘密保護法なのだ。そして、「目覚めたら、戦争」…への道
 早乙女さんのおじいさんは「もういかん、もう間に合わん」と呟いたというが、我々はそれを繰り返してはならない。ふたたび「間に合わん」と言ってはならない。戦争阻止は、まだ間に合う!
 TBS「報道特集」(12月7日)で、毎日新聞の東海林智記者が言っていた。「戦争は秘密から始まる」と。
 まさに、安倍は「太鼓たたいて笛ふいて」(井上ひさしさんの戯曲)国民を煽り立て、アメリカと一緒に戦争できる国へ我々を連れていこうとしている最悪の道化師、ハーメルンの笛吹き男…。

2013年12月11日up、鈴木耕(1945年生まれ)「お散歩日記」161
「大きな音だね」と「騒がしかった」…
http://www.magazine9.jp/article/osanpo/9793/


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3月10日

 3月10日木曜日、寒の戻りか寒い、っす。
 昨日のうちに山に行って良かったなって、ふう〜
 えっ、3月10日?

 いまも厚いベールに覆われた戦時中の出来事がある。
 東京大空襲はそのひとつ。
 死者の正確な数も不明のままだ。
 理由のひとつに、被災状況を伝える写真がほとんど残されていないことがある。
 過日、大空襲を収めた写真583枚が発見され、NHKスペシャルで放映された。
 発掘から放送に至る取材行を記したのが『ドキュメント東京大空襲』、写真を収録したのが『東京大空襲 未公開写真は語る』である。

 ネガは、民家の写真屋の押し入れの木箱に眠っていた。
 陸軍参謀本部に直属する「東方社」のカメラマンが残したもの。
 戦時期、「国威発揚」を目的に膨大な写真が撮られていたが、終戦時にほとんどが焼却された。
 奇跡的に“置き忘れ”られていたのである。

 燃え上がる民家、バケツリレーによる消火、廃墟に呆然とたたずむ人々……。
 空襲の日々が生々しく伝わってくる。
 取材班は、空襲を体験した高齢者たち、またB29の元搭乗員なども訪ねている。
 空襲は軍事施設を叩くことから「その辺へ」、さらに無差別爆撃へと拡大していく。
 存在の抹殺。
 それが東京大空襲だった。

 一枚、印象的な写真がある。
 九段界隈の、焼け跡の空き地。
 板を張り合わせた棺の周りを人びとが取り囲んでいる。
 ゲートルを巻いた男が手を合わせ、モンペ姿の婦人が黙祷している。
 棺の側、セーラー服を着たオカッパ髪の少女が下を向いている。
 棺に横たわっているのは少女の身内であろう。
 虫眼鏡で、棺に貼られた名札が「出浦よし江」と読めた。
 この手がかりだけで、取材班は少女を捜し歩く。
 もう少女は故人となっていたが、戦後、2人の娘に空襲のことを語り継いでいた。
 棺に入っていたのは、焼夷弾の直撃を受けた、当時17歳の姉だった。

 撮影者は光墨弘(1909−1977)。
 従軍カメラマンとして南方を転戦し、終戦間際、空襲を撮った。
 彼も亡くなっていたが、息子がフリーカメラマンとなっていた。
 父は息子に自分史を語ることはなかった。
 「酒びたり」「カメラを質屋に」……子に残る父親像である。
 この一枚を見せられ、息子はつぶやく。
 「ちゃんとこういう写真も撮っていたんですね……」

 戦後、東方社で活動したカメラマンたちは戦時下の仕事を黙したままに生きた。
 戦争に負けたからではあるまい。
 語るに値する仕事ではなかったからだ。
 だが、この一枚は−−。

 両書から伝わってくるのは「記録」の力である。
 一枚の写真が、糊塗も粉飾もできない、戦争の事実を直截に伝えている。
 そして、記録に〈物語〉が埋め込まれているとき、記録はより深みを帯びて読み手に迫ってくる。

◇ NHKスペシャル取材班『ドキュメント東京大空襲』と山辺昌彦、NHKスペシャル取材班『東京大空襲 未公開写真は語る』は、どちらも新潮社。『NHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真』は2012年3月18日に放送された。
 山辺昌彦氏(1945年生まれ)は「東京大空襲・戦災資料センター」主任研究員。


2012年9月16日付け朝日新聞、書評
生々しい被災状況、深み帯びる「記録」
[評者]後藤正治(ノンフィクション作家)

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012091600009.html

 「東京大空襲・戦災資料センター」…
 ヤッホー君のこのブログ、2013年3月9日「東京大空襲・戦災資料センター」もご参照ください。

 3月10日は、「東京大空襲」があった日である。アジア・太平洋戦争下の1945(昭和20)年3月10日未明に、東京の東部地区が米軍機による大規模な空襲で壊滅的な被害を受け、約10万人が死亡したとされる惨事だが、以前からずっと不思議に思っていたことがある。それは、広島・長崎の原爆被害に匹敵する犠牲者数にもかかわらず、国民の間でこの惨事に対する関心が薄いことだ。私たちは、「東京大空襲」にもっと注目すべきではないか。その実相を広く伝えようと、市民の運動によってつくられ、運営されている「東京大空襲・戦災資料センター」の見学をお勧めしたい。

 「東京大空襲」とは、『アジア・太平洋戦争事典』(吉川弘文館、2015年)よると「1945年3月10日、(東京の)下町を主な目標地域とし、推定約10万人の犠牲者を出したとされる空襲を東京大空襲と呼ぶ。この空襲は、サイパン・テニアン・グアム島のマリアナ基地を飛び立った第21爆撃機集団のB29約300機によって行われた。米軍の記録によれば、空襲は1945年3月10日零時7分から開始され、3時まで継続した。……投下された焼夷弾は全部で1665トン、その中心となったM69焼夷弾は約32万発に及んだ」「3月10日の東京大空襲の死者数については、関係機関によって集計された数字のうち、東京都による空襲日別の遺体処理数および改葬時に集計された死没者数などをもとに算定された数字が最大であり、少なくとも約9万5000人はあったと考えられる。このことから、当時行方不明や川から海に流されるなど処理されなかった多くの遺体の分を合わせて、一般に東京大空襲では推定約10万人の犠牲者があったとされる」というものである。

 東京大空襲の後、この年の8月6日には広島に、同9日には長崎に米軍機により原子爆弾が投下され、多数の市民が亡くなった。広島では「13万前後の人びとが11月はじめまでに死亡したと推定される」とされ、長崎では「死亡欠損は6万〜7万人と推定される」と言われている(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』、岩波書店、1979年)。

 東京大空襲における犠牲者数は、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者数に匹敵するものであったのだ。広島・長崎への原爆投下は非武装の市民を対象にした無差別爆撃であったが、東京大空襲もまた、非武装の市民を対象とした無差別爆撃であったと言っていいだろう。人道上、決して許されるものではない。
 軍事ジャーナリストの前田哲男氏は、ナチス・ドイツ空軍によるスペインのゲルニカへの爆撃(1937年)に始まり、日本軍による中国・重慶への爆撃(1938年)、米英軍によるドイツ・ドレスデンへの爆撃(1945年)、そして、東京、広島・長崎と続く無差別爆撃を「殺す相手を視認せず垂直包囲して都市の破壊を企図する空からのテロル」と呼び、その非人間性を告発している(『戦略爆撃の思想』、凱風社、2006年)。

 にもかかわらず、東京大空襲が国民の間で話題になってこなかったのは、行政側の対応に一因があったのでは、と思えてならない。
 よく知られているように、「広島原爆の日」の8月6日と、「長崎原爆の日」の8月9日には、それぞれ、広島市主催の原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式、長崎市主催の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が、被爆直後から毎年行われてきた。平和団体も1955年以来、この時期に毎年、両市で核兵器廃絶を目指す大会を開いてきた。そればかりでない。被爆の実相を広く伝えるための市立の原爆資料館が、広島と長崎にある。国立の原爆死没者追悼平和祈念館も、広島と長崎に設置されている。これらの催しや施設が、ヒロシマ・ナガサキへの関心を高め、持続させるうえで大きな役割を果たしてきたのは言うまでもない。

 しかるに、東京大空襲の方は、被害の実態を伝えるための公立の資料館なり博物館は存在しない。そうした施設として「平和祈念館」を東京都につくらせようという運動があったが、いまだに実現していない。その間のいきさつについて、自由国民社刊の『現代用語の基礎知識 2001』には次のような記述がある。
 「▼東京都平和祈念館 2001(平成13)年の開館を目標に墨田区の都立横網町公園に建設される予定だった祈念館。1979(昭和54)年の都知事選で「東京空襲を記録する会」が候補者に建設要請を行なったのが発端であり、目的は犠牲者追悼にあった。しかし1997年以後、展示内容をめぐって都議会などで議論が起こり、1999年には「展示内容については都議会の合意を得たうえで建設すること」で合意、同年7月には「施設の新設は原則禁止」の方針が決まり、計画は事実上ストップした(2000年2月16日付け日本経済新聞)」

 こうした経緯から、東京空襲を記録する会と財団法人政治経済研究所が民間募金を呼びかけ、4000人を超える人びとの協力を得て2002年3月9日に、空襲被害の最も大きかった江東区の一角に完成させたのが、東京大空襲・戦災資料センター(早乙女勝元・館長)である。
 センターは3階建てで、投下された焼夷弾や、被災品、焼け跡の写真、空襲体験者が描いた絵や手記など約1万点が所蔵、資料されている。

 これらの展示物を見てゆくにつれて、東京大空襲が東京都民にもたらした惨害に胸をつかれた。とりわけ空襲直後の焼け野原に累々と横たわる遺体の写真の前では、しばし足が止まった。と同時に、いい知れぬ憤りが心にわき上がってくるのを感じた。というのは、東京大空襲を指揮した米軍のカーチス・ルメイ少将(後に大将)に、佐藤栄作内閣が1964年に勲一等旭日大綬章を授与したことを思いだしたからだった。日本の航空自衛隊の育成に功績があったというのが、その理由だった。
 大空襲で生命を奪われた人たちは日本政府に侮辱されている。私はそう思わずにはいられなかった。

◇ 東京大空襲・戦災資料センターの所在地は、東京都江東区北砂1丁目5−4(Tel 03-5857-5631、開館日時:水曜日〜日曜日12時〜午後4時)


2016.03.09
東京大空襲・戦災資料センターを見学しよう 3月10日は大空襲から71年
(岩垂弘)

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-3493.html

 そう、そう、この「東京大空襲・戦災資料センター」による証言の映像化のこころみは高く評価されています:

Tokyo Air Raids Oral History Map is a digital archive that consists of the video interviews by the victims of the Tokyo Air Raids on the time and space mapping software.

The people who experienced the air raids are getting old now and it is very important to make a record of their stories. What is important is not only to record their video interviews, but also to hand down the stories to other people.

We are also interested in how we could distribute the stories in the current media environment. In c-loc, time and space mapping software, documents of objective facts such as maps and photographs and those of subjective stories of people having had special experiences such as video interviews are embedded in the same 3-D space and can be played and viewed freely by intuitive operations.

War experiences cannot be understood just by separating out the scenes where a town has been destroyed or people have been killed from other scenes, because people had ordinary lives before war and injured people still experienced pain after the war. To describe these, the content of their video interviews about their lives from birth to the present day is mapped on a map and the experiences are connected with a line of the same color. By listening to the videos following the line, we can understand how the war experiences of the people who experienced the air raids are connected from past to present.

The video interview map can be found at the Center of the Tokyo Raids and War Damage in Koto Ward, Tokyo. For current digital archives, attention tends to be concentrated on the technological or quantitative aspects of the archives. However, how the technology should be connected to actual situations where people use the technology also needs to be considered. In our case, the map project was executed mainly at this private center and experts of digital media and video production gathered at the center to produce and operate the map. So I think the project must be a possible means of connecting the technology to a situation in which it is used.

We’d like to increase the number of interview videos in future.


The Document of the Tokyo Air Raids Oral History Map
https://vimeo.com/138595407

 ぜひ、このサイト案内をクリックしてください。
 動画をご覧になり、センターを訪れたり、周りの人や家族で話題にしたり、わからないことを本で調べるなどして、われわれも、自分のことばで、語り継いでいきましょうね。



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2016年03月09日

焼森山4230m

 こんばんは。3月9日水曜日の朝は曇り空。
 いつものようにヤッホー君、思い立ったが吉日とばかりに、eチャリでJR秋葉原駅へ。
 いえいえ、電車ではなく高速バスに乗り込み、山歩クラブ3月山行の下見に行ってまいりました。

 山は、茨城県と栃木県の県境の山。
 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をご参照ください:
☆ 2014年4月30日「茨城県城里町」
☆ 2014年5月1日「花の寺、徳蔵寺」
☆ 2014年5月2日「鶏足山4305m」

 2014年のGW企画で4月30日に9人でバスハイク、鶏足山を目指しています。
 しかしお天気が悪く雨!
 そこでお山歩会をお散歩会にして、水戸黄門ご用達の田んぼのあぜ道をガマカエルの声を聴きながら麓の里歩きを楽しんだのを覚えています。
 景色がとにかくいい(富士から筑波山まで見晴るかすことができる)この鶏足山。
 麓の寺、徳蔵寺のご住職がお正月、山の無事、世界平和、家内安全を願って登るのを常としているというのでいつかまた行こうね、と言い交わしていた山が鶏足山。
 今回、奥野木さんが「バスあるよ」って、それで今回、お山歩会が実施できるのです、しかも今回は春の訪れを告げるミツマタを見ながら。
 ありがとう!奥野木さん!

 しかし今日はザンネン、もうバスに揺られるうちに春の氷雨やまず、おまけに冬の北風が吹き、手袋を忘れたヤッホー君、手先が冷たくこりゃ、凍傷で手首から切断か、こりゃコンゴだぁ〜と手ではなく顔が蒼白、真っ白になってしまいましたって。
 でも「雨もまたよし」の岩崎元朗先生の弟子を自認しているヤッホー君、雨具をつけて元気に下見。
 さらに鶏足山まで足を延ばすことは断念したものの、焼森山4230mの往復を成し遂げる快挙を果たすことができました。

焼森山.JPG

 まだまだ現地は、雪が解けて地肌が見えたばっかり。
 梅がいまや盛りと咲き誇っているという春の目覚め。

松任谷由実「春よ、来い」
https://www.youtube.com/watch?v=CqLrJKmcMeA

茂木町.JPG

 ヤッホー君、ひとり山旅、じゅうぶん楽しんできたとのことです。
 良かったね、本番は晴れるといいね。

Dreams Come True「晴れたらいいね」
https://www.youtube.com/watch?v=XvVRrpnSC4Q 

 おやすみなさい!



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2016年03月08日

Emma Watson’s speech at the UN

 弁護士・紀藤正樹先生のコメントにあった「邪悪な勢力が勝利を収めるためには、何も行動を起こさない善良な人々がそれなりにいるだけでよい」(国連での「エマワトソン(1990年生まれ)のスピーチ」より)…
 これって、国民主権なのにコクミンが主権を使っていないこの国の現状をついていると思いますって、「日記」をつけながらヤッホ−君うなづいていました。
 投票所に行きませんか!だって。
 だってぇ〜、アベ政権与党は、主権者の4分の1の支持しか得ていないのに、なんと衆議院議席の7割強をオキュパイ、占有しちまっているんですよ。
 ジユウもミンシュシギも削いでいるアベ自民党は主権者全体のわずか17%の支持しか得ていないのに、衆議院議席の58%をオキュパイ占有しちまっているんですよ。
 そしてコクミンは改憲、壊憲を許そうとしているのかなぁ。
 それを変えるには、イマ、イマしかないんですぅ〜
 
 あっ、この絵馬ワトソンって誰? 知らないのはヤッホー君だけ?

Emma Watson has announced that she will take a year away from acting to further her knowledge of feminism.

The actor, last seen in the supernatural thriller Regression, told author and activist bell hooks about her intention during an interview in Paper magazine.

“I’m taking a year away from acting to focus on two things, really,” she said. “My own personal development is one ... my own personal task is to read a book a week, and also to read [another] book a month as part of my book club. I’m doing a huge amount of reading and study just on my own.”

Watson was tempted to spend the time at university but decided against it. “I almost thought about going and doing a year of gender studies, then I realised that I was learning so much by being on the ground and just speaking with people and doing my reading,” she said. “That I was learning so much on my own. I actually wanted to keep on the path that I’m on. I’m reading a lot this year, and I want to do a lot of listening.”

The Harry Potter star will also focus on HeForShe, an initiative that she launched in her capacity as a UN Women goodwill ambassador, aimed at engaging men in the fight for gender equality. The campaign will include an arts week, a university tour and the launching of a new site. Watson has also launched a feminist book group on Twitter, called Our Shared Shelf.

“I’m on my journey with this and it might change, but I can tell you that what is really liberating and empowering me through being involved in feminism is that … so much of the self-critiquing is gone,” said Watson.

Before taking her break from Hollywood, Watson will be seen alongside John Boyega in the thriller The Circle, and in the lead role in Disney’s live-action Beauty and the Beast.


The Guardin, Last modified on Friday 19 February 2016 14.25 GMT
Emma Watson to take a year off acting to focus on feminism
The actor has revealed her plans for a forthcoming break in order to focus on personal development and self-taught gender studies by reading a book a week
http://www.theguardian.com/film/2016/feb/19/emma-watson-year-off-acting-to-focus-on-feminism

 この絵馬ワトソン、国連で演説したってどんなこと話されたのか…
 「ハフィトンポスト」紙に掲載されていますので、ご紹介:

 このブログはイギリスの女優で国連「UNウィメン」親善大使のエマ・ワトソンが2014年9月20日にニューヨークの国連本部で行われた「UNウィメン」の「HeForShe」キャンペーンの演説全文である。
...
 また、今まで自分の目で見てきたことを通して、そして機会も与えられたことで何か発言していくことが私の使命だと感じています。イギリスの政治家エドモンド・バーク( Edmund Burke、1729-1797)は「悪の勢力が勝つのに唯一必要なものは、十分な数の良い男と女が何もしないことだ」と言いました。

 この演説をするにあたって緊張感と疑念が頭をよぎる時、強く自分自身に言い聞かせました。私でなければ、誰がやるのか。今でなければ、いつやるのか。もしみなさんに機会が訪れて同じような迷いを感じたときには、この言葉が助けになるかもしれません。

 なぜなら、現実はもし私たちが何もしなければ、今後何十年先になっても、または私が100歳近くになっても、女性が同じ仕事をして男性と同額の報酬をもらえないかもしれません。世界の1550万人の女の子たちが、この先16年間の間に少女として結婚します。そして現在のスピードなら、アフリカ人の女の子たちが中等教育を受けられるようになるには2086年までかかります。

 もし、あなたが平等を信じるなら、あなたも私が先ほど述べた「隠れたフェミニスト」かもしれません。

 そうならば、私は拍手を贈ります。

 私たちは、私たちを一つにする言葉を見つけられていません。しかし良いニュースもあります。私たちが一つになれる運動があることです。それを「HeForShe」と呼びます。私はみなさんが一歩を踏み出し、声を上げて、彼女のために彼になることを奨励します。そして自分自身に問いかけてください、私でなければ、誰がやるのか。今でなければ、いつやるのか。
 ありがとうございました。


2014年11月23日19時12分 JST 更新
私たちは性の不平等を終わらせたいのです。そのためには、一人一人の参加が不可欠なのです
http://www.huffingtonpost.jp/emma-watson/we-want-to-end-gender-_b_5871850.html

Emma Watson to United Nations: I'm a feminist
https://www.youtube.com/watch?v=c9SUAcNlVQ4

 ほかにも以下の動画が参考になります:

ピープル・ツリーとエマ・ワトソン
https://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=muaxHQ4OzPc

The actor is becoming a powerful female force to be reckoned with. Back in 2010 her People Tree youth fashion collaboration launched in Summer 2010 spread the Fair Trade message and generated huge international interest. More recently Watson has worked on a series of sustainably produced pieces for Alberta Ferretti, and a collaboration with Net-a-Porter and Livia Firth.

Watson’s speech last month at the UN for the HeForShe campaign inviting men to be feminists has also given the actress a new foothold for women’s rights - something lacking in the apparel industry.


The Guardin, Last modified on Monday 27 October 2014 17.57 GMT
Emma Watson and Will.i.am back sustainable fashion
Featuring Pharrell Williams and Michelle Obama, these 10 household names have shown their support for a more sustainable fashion industry
By Amy DuFault
http://www.theguardian.com/sustainable-business/sustainable-fashion-blog/2014/oct/03/10-celebrities-backing-sustainable-fashion

Emma Watson and Safia Minney, Interview for People Tree
https://www.youtube.com/watch?v=WM9ta-J4RgQ

Emma Watson on the Oscars and Graduating
https://www.youtube.com/watch?v=Mmk6THwG5L0



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証言映像作品

 東京大空襲を語り継ぐつどい、次のプログラムは「証言映像作品の上映」です。
 「東京大空襲・戦災資料センター」には「証言映像プロジェクト」があります。
 今日は事例をご紹介しましょう。
 3月10日の下町ではなく、5月25日の青山表参道でのお話し:

 「山陽堂書店」は、青山という街、また街に住み、街を行き交う人々とともに120年余り年を重ねてきました。
 その間、青山表参道周辺は明治神宮創建・関東大震災・戦争.・東京オリンピック・バブル・バブル崩壊という時代の流れのなかで姿を変えてきました。
 中でも1945年5月25日の山の手空襲は、青山一帯を焼け野原にし、青山から離れる人も多かったようです。
 昨年の2015年6月4日に「山陽堂」のギャラリーで『青山に空襲があった−街角の書店から−』上映会を開催します。
 インタビューを受けているのは「山陽堂」三代目の姉、清水濱子(大正12年生まれ)です。
 青山に生まれ育ち、結婚後も「山陽堂」で65歳まで働いていました。
 この度、清水濱子の証言を「東京大空襲・戦災資料センター」の方々が映像にしてくださいました。

 『青山に空襲があった−街角の書店から−』(25分/2015年)語り:清水浜子、聞き手・考証:山本 唯人、企画・製作:「東京大空襲・戦災資料センター」東京大空襲証言映像プロジェクト「記録同人」

 みなさまのお申込みをお待ちしております。


2015年5月19日更新、山陽堂
http://sanyodo-shoten.co.jp/news/2015/05/post-82.html

 この上映会は新聞記事にもなっております:

 東京・表参道。
 流行の発信地として知られるこの付近は70年前の5月25日、2万人以上が死傷した「山の手大空襲」で、一夜にして焼け野原になった。
 当時多くの人が逃げ込んだ書店は、その記憶を絶やすまいと、いまも街角に立つ。

 1891年創業の「山陽堂書店」。
 表参道と青山通りの交差点にあり、4代目の遠山秀子さん(55)が営む。20平方メートルほどの1階には、女性誌や旅行ガイド本のほか、「表参道が燃えた日」など空襲関連の本が並ぶ。2階では6月5日まで、戦前や戦中の周辺の写真などを展示している。

 書店は空襲の夜も、今と同じ場所にあった。
 北西に明治神宮、東に青山霊園。
 安全とされた2カ所の間だ。
 逃げ惑う人たちが店の前を往来し、住居を兼ねた鉄筋3階建ての書店に、多くの人が逃げ込んだ。

 遠山さんの伯母で、当日の店番だった清水浜子さん(92)は1階にいた。
 焼夷弾の音が聞こえる。
 得意先から預かった品々を守ろうと、父や弟と、地下室につながる入り口を街路樹の土で固めた。
 それが逃げ遅れにつながる。
 霊園に行こうと外へ出たが、煙で前が見えない。
 熱風や火の粉が、目元までかぶった防空頭巾の隙間から入り込んでくる。
 手をつないでいた父とは、いつの間にかはぐれていた。
 なんとか隣の染物屋に入った。
 直後に「バリバリ」。
 裏手に炎が見える。
 ここもすぐ焼ける。逃げなくちゃ。その場にいたお年寄りの女性2人に声をかけた。「私たちはもう、いいから」。何もできず、外へ出た。
 何も見えない。立ちすくむ。死ぬんだ。せめて家に帰って死のう。
 だが、店に入ろうとすると「いっぱいだ」と断られた。
 「私のうちだから」。声を荒らげ、鉄のドアを開ける。100人ほどが肩を寄せ合っていた。
 商品の雑誌を踏み、台をつたって2階へ。
 父も弟もそこにいた。窓から外を見る。「火の玉」が転げ回っていた。そばには布が見える。人、だった。
 1階からはうなるような「水、水」の声。
 地下室の井戸から何度もくみ上げられた。

 翌朝。
 向かいの銀行の前に、2〜3メートルほど遺体が積み上げられていた。
 スコップでトラックに乗せられていく。
 言葉にできるのは「私は生きてる」。それだけだった――。

 65歳まで店で働き、今は西東京市に暮らす。
 「もっと詰めましょうと、あのとき誰かが言えれば」と悔やむ。
 5年前から視界がゆがむ。空襲の記憶もぽつぽつと抜け落ちていく。それでも、8月15日の空が晴れ渡っていたことを覚えている。
 ラジオで聞いた終戦の報には、悔しさよりも安堵の気持ちを強く感じたことも。
 「生きてこられて幸せ」。
 不戦を貫いてきた日本を「ありがたい」と思う。

光さす マットの上で 目を閉じて
体動かす 生きる喜び

 週2回通うデイサービス施設に最近、そんな短歌を投稿した。
 本が売れない時代。でも、清水さんは思う。
 「これからも、(店を)残していく必要があるのかもしれませんね」

 遠山さんは幼いころから、清水さんの戦争体験を何度も聞かされてきた。
 「自分の店、というよりも、思いのつまった、家族と地域の店なんです」
 今でも、当時の店を知る客が訪ねてきたり連絡してきたりする。
 「姉が助けられた」「私が最後に入った」。
 感謝を伝えられる度、店を残し、記憶を継がなくてはと思う。

 一方、美談にしてはいけないとも。ある高齢男性から、3年ほど前に電話でこう伝えられた。
 「夜明けごろ、店の前で人が重なっていたのを見たんです」。入りきれず亡くなった人もいることを、忘れてはいけないと感じている。
 「この店で紙一重で生死が分かれたことを、できる範囲で伝えていきたい」

山の手大空襲
 1945年5月25日夜から翌26日未明の約2時間、米軍爆撃機B29が東京・山の手地域を対象に行なった爆撃。空襲警報は25日午後10時22分に発令され、26日午前1時に解除された。当時の渋谷区や赤坂区などが標的になり、明治宮殿も焼失。「東京空襲の総仕上げ」とされる。
 「東京大空襲・戦災誌」に記載されている帝都防空本部情報によると、死者は約3600人、負傷者は約1万7900人に上った。投下された焼夷弾は計3258トンで、10万人以上が亡くなったとされる3月10日の2倍近くに及んだ。


2015年5月25日08時49分更新、朝日新聞デジタル(藤原学思)
表参道、生死を分けた書店 山の手大空襲伝え続け70年
https://blog.seesaa.jp/cms/access_log/report/index?log_type=hourly&id=5168233&start=2016-03-07&end=2016-03-07

 弁護士・紀藤正樹先生のコメントもあります:

 戦争下において、兵士間の戦闘行為は、許容されるほかありませんが、その範囲を超え、まったく不必要と思える、無抵抗な子どもを含めた民間人に対する、広島長崎への原爆投下、そして「空襲」は、誰が見ても、「集団虐殺」というほかないものです。
 「人道に対する罪」であり、戦争犯罪です。
 第二次大戦下であり、また売られた戦争とは言え、戦争犯罪を犯した米国は、十分その意味をかみしめるべきだろうと思います。
 もちろん「侵略戦争」をした日本も同様ですが、米国も、十分に、自国の歴史と責任を検証し、反省し、日本の国民に対し、謝罪すべきだろうと思います。
 現在でも、他国の戦争下、「空襲」は、「空爆」と名前を変えて報道されるなどしていますが、「空爆」が、民間人に対する集団虐殺化していないか、常に慎重な目が、日本人にも必要です。
 あまりに貴重で、今も山陽堂書店、そして特に、店主の遠山秀子さんの伯母で、当日の店番だった清水浜子さん(92)の経験と記憶は、後世に残すべきインタビュー記事として、歴史的遺産だと思いますので、あえて今日付けの朝日新聞の記事を、アップさせていただきます。清水さん、もっともっと長生きをしてください。
 そして今、平和の中にいる私たちも、山陽堂書店の経験と記憶を、後世に受け継いでいかなければなりません。
 「邪悪な勢力が勝利を収めるためには、何も行動を起こさない善良な人々がそれなりにいるだけでよい」(国連での「エマワトソンのスピーチ」より)
 ―そうならないためにも・・・


2015.05.25
日2015年5月25日は、最後の東京大空襲(山の手大空襲)から70年=表参道・山陽堂書店の経験と記憶は後世に受け継がれるべきものだと考えます!
http://kito.cocolog-nifty.com/topnews/2015/05/index.html

 2016年3月6日(日)「ティアラこうとう」での上映会で、インタヴューを受けたのは船渡和代さんの証言映像でした。
 船渡和代さんは1932年お生まれで、著書に『焼けた空』(汐文社・ジュニアノンフィクション、1984年8月)があります。
 今日は、詩『妹』をご紹介します:

わたしに妹がいた
顔もからだも丸こくて
やわらかい髪に赤い毛糸のリボン

わたしに妹がいた
歌うのが大好きで
お山の杉の子がお気に入り

ああ あの夜 サイレンが
妹の歌をかき消した

わたしに妹がいた
いつでもどこでも
わたしについて来たのに
ふり向いても もういない



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2016年03月07日

東京大空襲を語り継ぐ

 昨日の「ティアラこうとう」での「東京大空襲を語り継ぐつどい」。
 昨年は、と申しますと、削除して消えてしまう前に、ふたつほど記事をご紹介:

 「何気ない日常は平和だから存在する。過去を知ることで平和のありがたさを実感できた」
 2015年3月8日、東京都江東区で開かれた「東京大空襲を語り継ぐつどい」。

 日大豊山女子高(板橋区)の放送部員5人は、空襲体験者の二瓶治代(にへいはるよ)さん(78)に話を聞いて製作した映像作品を発表した。会場で見守った二瓶さんは「平和と命の大切さが伝わってうれしい」とほほ笑んだ。
 部員たちは昨夏、東京大空襲で多くの犠牲者が出た江東、江戸川両区の境を流れる旧中川で、毎年8月に行われる灯籠(とうろう)流しに興味を持ち、取材を始めた。江東区の東京大空襲・戦災資料センター(早乙女勝元館長)を訪問し、同センターで修学旅行生などに体験を語る二瓶さんに出会った。

 城東区(現在の江東区)に住んでいた二瓶さんは猛火の中を逃げ惑い、重なり合った遺体の下から助け出された。
 「なぜ日本が戦争の道を選んでしまったのか、過去の歴史を勉強してほしい」
 二瓶さんは映像の中で若い世代に向けて訴えた。放送部の松島美歩さん(17)は
 「まずは戦争について知ること、それを人に伝えることから始めたい」と話す。

 つどいでは、東京空襲犠牲者遺族会の星野弘会長(84)が体験を語る映像も公開された。
 同センターは2010年から、早乙女勝元(1932年生まれ)館長の長女で映像プロデューサーの愛さん(43)らが体験者の証言を映像に残すプロジェクトを進めている。「ただ撮るだけでは伝わらない」と、空襲がその人の人生にどんな影響を与えたのかをじっくり聞く。

 星野さんの映像は、14歳の「ヒロシ」がラッパを吹いて出征する人を見送ったり、遺体を運んだりする話が続く。戦後、空襲の民間人被害に対する国の責任を問う運動に星野さんを駆り立てた「原点」を描くことにこだわった。

 東京大空襲から10日で70年がたった。体験者の声を直接聞く機会は今後ますます限られていくだろう。 「戦争を知らない世代が、あの惨禍を『追体験』することは難しい」
 愛さんは「継承」の限界も感じている。ただ、体験者が見たこと、感じたことに触れるきっかけを作りたい。そんな思いでビデオカメラを回す。


2015年3月10日付け毎日新聞・東京夕刊【戸上文恵】
思い語り継ぐ・東京大空襲70年/下 若い世代に映像で訴え
http://mainichi.jp/articles/20150310/dde/041/040/018000c

 東京大空襲を語り継ぐ活動は江東区だけではありません:

 東京大空襲で大きな被害を受けた台東区で、若者たちが体験者の話を聞き取り、記録集を作る取り組みが進められている。区が戦後70年に合わせて企画。大学生ら11人が25人の証言をまとめた記録集は、11月に発行される予定だ。
 先月2015年2月25日、同区柳橋1丁目の町会事務所。区内在住の大学3年柳井理恵子さん(21)が、空襲体験者の河野悦子さん(83)の話に耳を傾けていた。
 「みんな、地をはって逃げたのよ。風が強くて、本当にひどかったんだから」
  河野さんは当時13歳。焼け野原となり、両国橋(中央区、墨田区)から約4キロ離れた靖国神社(千代田区)の鳥居が見えたという。柳井さんはこの日、内容の最終確認のために訪れた。
 都の「東京都戦災誌」によると、現在の台東区にあたる下谷、浅草両区だけで、計1万1825人が亡くなった。台東区に生まれ育った柳井さんだが、「空襲にはなじみがなかった。全体で10万人が亡くなったということぐらいしか知らなかった」。
 記録集に携わるきっかけとなったのが昨年の成人式。実行委員として区の見どころマップを制作したが、過去の歴史について何も知らないと気づかされた。外国人の友人から出身地のことを尋ねられた際、「上野と浅草で有名」としか答えられないこともあった。
 もやもやした気持ちを抱えていた昨年5月、区が戦争体験の聞き手を募集していると、知人から聞いた。すぐに応募すると、授業の合間をぬって図書館に通って当時の様子がわかる文献を読むなどし、インタビューに臨んだ。
 河野さんの話は「リアル」だった。「ザザザザザザ」という焼夷(しょうい)弾の音、燃えさかる船、遺体の山……。情景が頭に浮かぶ。一人ひとりの「生」があったと感じた。
 「本当は私だって話したくないけどさ」と河野さん。けれど「若い人に1人でも、あの大変さをわかってほしいからさ」
 柳井さんは4千字の記事にまとめた。話し言葉を尊重し、正確に、淡々と伝えようと心がけた。
 今回の経験を通じて、新たに決めたことがある。浅草で暮らしていた祖母に、空襲当時の様子を直接聞くこと。過去に一度、興味本位で尋ねたが、「すごい、つらかった」としか返ってこなかった。目を背けられ、そのときはそれ以上聞けなかった。
 「今でもつらいだろうけど、生きているうちに聞きたい。自分が親になったとき、私のおばあちゃんはねって、教える必要があると思うようになった」
 現在、就職活動中。卒業後、保育士になり、子どもたちにも河野さんの話を語りたい。「戦いからは、何もうまれないんだよ」と。
 柳井さんは10日、浅草公会堂で開かれる「平和のつどい」で、空襲で家族6人を失ったエッセイスト、海老名香葉子さん(1933年生まれ)とのトークセッションに臨む。記録集は学童疎開や戦時中の暮らしなどもテーマで、東京大空襲体験者7人による座談会の内容も掲載される予定だ。

■ 知らないことに気づいた 小学生ら発表
 江東区では3月8日、「東京大空襲を語り継ぐつどい」があった。東京大空襲・戦災資料センター(同区)を訪れた若者たちが、感想などを発表した。
 江東区立第五大島小は、児童3人が感想文を読み上げた。6年の南井大地君(12)のタイトルは「あたりまえの『平和』」。給食やお風呂、毛布にくるまっての睡眠、それは「戦争を知らない」から当たり前と感じていたことに気づかされた。「日本に戦争の歴史があったことを理解し、平和に生きられることに感謝したい」と語った。
 日本大学豊山女子高の放送部員は、沖縄戦の語り部が減りつつある現状を伝え、「教科書のどこにもない真実を語ってくれる方々がいなくなっている」。東京大空襲の日を知らない生徒もいる。部長の松島美歩さん(17)は「まず知り、そして伝えることが私たちにできること」と話した。
 集いは、会場に用意された約500席が埋まった。高齢者が大半だったが、若い世代の平和への思いに対して、大きな拍手が送られた。

 東京都江東区立第五大島小学校6年の南井大地君(12)が、東京大空襲・戦災資料センター(同区)を訪れた感想として、「東京大空襲を語り継ぐつどい」で読み上げた感想文は以下の通り(原文のまま)。

あたりまえの「平和」
 朝起きて、ご飯を食べ、学校へ行き、栄養のとれた給食。午後の授業が終われば家へ帰り、ランドセルを置いて遊びに行く。日が暮れる前には帰ってきて宿題を終わらせたら、待っているのは、ほかほかな夕飯。あたたかいお風呂に入ったら、毛布にくるまってすやすやねむる――。それは当たり前ではない、ということを戦災資料館で感じました。
 空襲の時代に生きた人は、満足な食事もとれず、配給制のご飯になったというお話を聞きました。買いに行こうと思っても、なかなか買えなかったと言っていました。空襲の時は、あちこちににげまわって家族とはぐれたり、亡くなったり、大変なことになっていました。
 でも、今の日本は戦争をしないと決めているので、ばくだんが落とされることはありません。ぼくたちは、満足に勉強、食事などのことができるのです。
 しかし、戦争を知らない人は、今日の生活があたり前だと思っているはずです。だから、ぼくはこれから、日本にも戦争の歴史があったことを理解し、平和に生きられることに感謝したいと思います。


■ 減る語り部、悩む自治体 墨田や江東区
 東京大空襲では台東区のほか、現在の墨田区(本所区、向島区)、江東区(城東区、深川区)にも大きな被害が出た。ただ、体験者は高齢化が進み、亡くなったり、健康状態から思うように話ができなかったりする。継承することは、年々、難しくなっている。
 墨田区は戦後50、60年の記録集では各約100人分を載せたが、今回は同規模の記録集にすることは難しいと判断した。今月末に発行する記録集「戦争から学ぶ平和の意味」では、1月に開いた4人の語り部による座談会の内容を載せるほか、戦後50年時の記録集の一部を再掲するという。
 江東区は3月10日にティアラこうとう(住吉2丁目)で開く「平和のつどい」で、以前発行した二つの記録集を各100冊ずつ販売する。集団疎開の体験を記録した1995年発行、2002年改訂の「戦火を逃れて新潟・山形へ」と、2006年発行の「いま語り継ぎたい あの日のこと」。
 区広報広聴課は「この2冊の内容を継承していくことが重要。今後の重版も検討する」としている。


2015年3月9日03時00分更新、朝日新聞デジタル【藤原学思】
東京)大学生ら空襲体験を聞き取り 記録集発行へ
http://digital.asahi.com/articles/ASH3676WCH36UTIL04S.html?rm=216

 昨年(ムカシ)があって今年(イマ)がある、のです。
 昨日の「東京大空襲を語り継ぐ」がもう記事になっています:

 約10万人が犠牲になったとされる1945年の東京大空襲を「語り継ぐつどい」が2016年3月6日、東京都内で開かれた。「戦争は全て破壊し、何も生み出さない」。生き延びた女性の体験談に、300人を超える参加者は静かに聞き入っていた。
 体験を語った西尾静子さん(76)は、今の江東区で両親と暮らしていた。医者だった父は救護班に駆り出されていて、母と一緒に近くの学校の地下室に避難した。
 夜中に「開けてくれ」と地下室の扉をたたく音がしたが、火が吹き込む恐れがあって開けられず、やがて声も聞こえなくなった。翌朝、扉の外は焼死体で埋まっていたという。


2016年3月6日21時42分更新、東京新聞
東京大空襲を語り継ぐ 生存者「戦争は何も生まない」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016030601001543.html

KYODO NEWS【共同通信社】
「戦争は何も生まない」 東京大空襲を語り継ぐ
https://www.youtube.com/watch?v=at3VHh11LYI


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2016年03月06日

きたがわてつ

 ヤッホー君のこのブログ、2013年4月4日付け日記「花のあと」をお読みくださいな。
 江東区の猿江橋西詰めにある「八百霊地蔵尊(やおたまじぞうそん)」が出てまいります。
 ところで昨日の2016年3月5日の新聞記事に次のような文を見つけましたのでご紹介:

 一夜で約10万人もの命が奪われたとされる1945年の東京大空襲から、10日で71年になる。
 大きな被害のあった東京都江東区では町会が犠牲者の名を刻んで、昨年の2015年に建てた墓誌に手を合わせる遺族の姿が増え、若い住民たちが惨事を知る場にもなりつつある。
 墓誌を建てたのは、森下5丁目町会。
 ここで大空襲に遭い、きょうだい3人を亡くした元町会長の築山実さん(87)は、「3人とも遺骨すら見つからなかった。ここがお墓だと思っている」とつぶやきながら、墓誌の名前を指でなぞった。
 築山さんによると、同町会では、住民1000人のうち約800人が大空襲の犠牲になった。
 動員学徒だった築山さんは両親と兄、妹の5人で住んでいた。
 米軍のB29爆撃機が襲来し自宅の防空壕に飛び込んだが、焼夷弾で街全体が炎に包まれた。
 酸欠状態になり、はうような姿勢でなんとか息を吸いながら逃げまどった。
 「熱く苦しい火炎地獄。息ができず死んだ方が楽だと思った」
 家族は離ればなれになり、兄、妹と近所の工場に住み込みで働いていた姉を亡くした。

 終戦直後、町会では犠牲者の名を記した巻物を作成した。
 戦後70年を機に「巻物より人の目に触れやすい、犠牲者の生きた証しを作りたい」と寄付を募り、786人の名を彫った墓誌を昨年、建てた。
 その後、追悼に訪れる人の姿が目立つようになり、隣に立つ鎮魂の「八百霊地蔵尊」の意味を若い住民が知る機会にもなっているという。
 前町会長の清水健二さん(69)は
 「墓誌を見れば多くの命が一瞬で奪われた事実が一目で分かる。時代を経ても、戦争の悲惨さ、平和の尊さを訴え続けられると思う」と話す。


2016年3月5日(土)12時35分配信、毎日新聞【柳澤一男】
<東京大空襲>墓誌、追悼絶えず 江東区786人の名刻む
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160305-00000039-mai-soci

 そうなんです、今年も3月10日がめぐってきます。
 ヤッホー君は、eチャリで「ティアラこうとう」へ。
 「東京大空襲・戦災資料センター開館14周年、東京大空襲を語り継ぐつどい」がありました。
 最初から感動しまくっておりましたぁ〜
 オープニングコンサートは「心に響く歌」を、きたがわ てつさんが:

日本国憲法前文
https://www.youtube.com/watch?v=90QN-gnJbKY

 このきたがわさん、日本そして世界のあちこちで歌で平和を訴えて活動なさっておられます:

 2004年6月13日、盛岡市永井の都南文化会館であった母親大会。主婦ら約500人を前に、北上市出身のシンガー・ソングライターのきたがわてつさん(50)は、ゆっくりと語りかけるように歌い始めた。
 歌詞は「憲法前文」。
 硬い言葉を、フォーク調のリズムに乗せて5分ほどで歌いきった。

 教師を目指していたきたがわさんは30年前、大病を患い入院したベッドの上で、ラジオから流れる歌から、生きる希望をもらった。
 「僕も歌で恩返しを」と、歌の世界に入った。
 前文に曲をつけたのは22年前。
 「9条の歌」も加え、学校や福祉施設で歌った。
 これまでに聞かせた人は延べ100万人にもなる。
 きたがわさんにとって、幸せを突き詰めたのが平和で、平和を体現したものが前文であり、9条だった。
 「こんなキナ臭い時代になって、日本の憲法の役割は大きくなっている。なのに、時代に合わないと言われるようになった。一体、何がどういうふうに合わないと言うのだろう」


2004/06/22付け朝日新聞
改憲論議 <思い届け・04年いわて参院選(5)>
http://www.asahi.com/2004senkyo/localnews/TKY200406220260.html

 なお、2004年の参院選岩手選挙区は当選、主濱了(しゅはま・りょう、1950年生まれ、当時は民主党。イマは「生活の党と山本太郎となかまたち」に所属)。

 「このきなくさい時代に、改めて憲法のありのままの姿を多くの人に知って欲しい」。
 シンガ― ・ソングライターのきたがわてつさん(50)が、20年ぶりにCD付きの本「日本国憲法前文と九条の歌」(あけび書房、税抜き1400円)を出版した。
 「護憲・改憲の議論の前に憲法を知っていますか。知った上で考え、議論しよう。それには理屈も右も左もないはず」と話す。
 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。
 憲法の硬い言葉をフォーク調の曲に乗せ、前文の前半を朗読し、後半を歌う。

 きたがわさんは
 「前文は人類や平和への大きな愛が流れている。ラブソングだと思って歌っている。音楽で憲法を輝かせたい」と話す。
 今回、新たに九条の歌も加わった。
 本はふりがなを振った憲法全文のほか、小学校高学年向けにわかりやすい言葉に直した前文と九条を載せる。
 「歌詞の原点と由来を知らない者にも感動的なサウンドで憲法のメッセージを伝えてくる」(森村誠一さん)、
 「憲法の作者は世界の良心であり、歴史の英知」(ジェームス三木さん)といったメッセージも盛り込まれている。
 前回ソノシート付きで出した1984年は、改憲を掲げた中曽根首相の時代。
 今回は小泉首相が前文の一節を引用しつつ、自衛隊をイラクヘ派遣した。
 「20年前は将来憲法が危ないと思った。そして今、いつ土台から変えるかという時代になっている」と言う。
 前回は2万部出版し、学校の先生だちから多くの反響が届いた。
 年間約100回のコンサートを合めると、延べ100万人が間いたことになるという。


2004/04/27付け朝日新聞
「憲法の前文はラブソング」CDつきの本を出版
「もっと知って」応援歌 きたがわてつさん


 高校1年生のとき、現代社会のテストで赤点が続出し、クラスの大半が追試を受けるはめになった。
 出題範囲は憲法。
 担当教師は試験対策として1枚のレコード盤を私たちに提供した。
 30年も前のことだ。
 それがシンガー・ソングライター、きたがわてつさんの「日本国憲法前文」。
 ふと思い立って憲法前文に3カ月がかりで曲をつけ、1983年に発表した。
 最初は反応がいま一つだったが、当時の中曽根康弘首相が「戦後政治の総決算」路線を進めるにつれ、みるみる共感が広がった。
 「だから中曽根さんにヒットさせてもらったようなもの」と笑う。
 もともとはあまりメッセージ性のない軟派な歌手だったと謙遜するきたがわさん。
 それが今では「なんて過激なやつ」と驚かれることも少なくない。
 「僕自身は変わらないのに、時代の方が変わった」
 61歳。
 「憲法と平和の大切さをまだまだ歌い足りない」となお意気軒高だ。
 それもそのはず。憲法問題はまさに現在進行形なのだから。


2015年1月30日付け毎日新聞【中田卓二】
憂楽帳:歌おう憲法


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揺り籠から墓場まで安心を

 3月6日日曜日。
 昨夜の21時43分、メールがありました。Change.org(チェンジ・ドット・オーグ)からです。
 チェンジ・ドット・オーグとは…

 「変えたい」気持ちを形にする、 ソーシャルプラットフォームです。
 現在は、オンライン署名サービスを提供することでユーザーの「変えたい」という気持ちを形にするお手伝いをしています。
 2007年にサイトが開始され、2013年現在、196ヶ国に住む3500万人以上のユーザーが Change.orgを使って思いをとどけ、社会を改善しています。


私たちについて
http://blog-jp.change.org/aboutus

 メールの内容はというと…

 「揺り籠から墓場まで安心を」さんが、あなたが賛同したキャンペーン #保育園落ちたの私と私の仲間だ# #保育園落ちたの私だ#に進捗報告を投稿しました:

 2016年3月5日 − 皆様、ありがとうございます。
 48時間で20,000人を超えました。20,000人!
 お一人お一人に直接お礼を申し上げられないのは心苦しいですが、本当にありがとうございます。
 キャンペーン「#保育園落ちたの私と私の仲間だ」は、保育園の待機児童の問題だけでなく、私達庶民の気持ちが届かないこと、声を上げても相手にされない日本の現状への問いかけにもなります。
 「鉄は熱いうちに打て」と言います。来週水曜にこちらの署名を提出したいと考えています。
 キャンペーン「#保育園落ちたの私と私の仲間だ」賛同頂ける方、是非、より一層の拡散をよろしくお願いします!


 どういうこと?

#保育園落ちた 日本死ね #保育園落ちたの私だ 実在するぞ、ちゃんと見ろ(国会議事堂 正門前)〔2016.03.05〕
https://www.youtube.com/watch?v=v_8C04daMno

 もう少し詳らかに、と思い、記事が削除される前に記録しておきます:

 認可保育園などから子供の入所を断られた当事者らが3月5日土曜日、国会前で政府に対する抗議集会を開いた。
 きっかけは、保育園の入所選考に落ちた母親が2月中旬、「保育園落ちた 日本死ね!!!」と題して怒りをつづったブログ。
 これに対し、安倍晋三首相が「匿名である以上、本当であるかどうかを確かめようがない」などと発言したため、怒りを爆発させた当事者たちが「保育園落ちたの私だ」と書かれたプラカードを手に集まった。

 5日午後1時半、国会前にはプラカードを手に乳児を抱いた母親や父親たちが集まった。
 10カ月の長女を連れた東京都調布市のシングルマザー、中沢知子さん(26)は、子供を預けていた実母が体調を崩したのを機に認可保育園に申し込み、入園できなかった。「ここ2カ月、収入がなく、どうすればいいのか分からない。ブログの内容にはすごく共感した。ここに来ることで少しでも何かが変われば」と話す。
 ブログは匿名で、職場復帰を果たせない現状に「会社やめなくちゃならねーだろ。ふざけんな日本」などと怒りがつづられている。安倍政権の掲げる「1億総活躍社会」のスローガンにも触れ「私活躍出来ねーじゃねーか」と嘆く。ブログはインターネット上で拡散され、共感の声が多数上がっていた。
 ところが2月29日の衆議院予算委員会で、安倍首相は「確かめようがない」と述べ、与党議員からも「誰が書いたんだ」などのヤジが飛んだ。
 これに反応した当事者たちが「私だ」と声を上げ始めた。

 短文投稿サイト「ツイッター」では「#保育園落ちたの私だ」というハッシュタグを付けた書き込みが急速に広がった。保育制度の充実を訴えた署名サイトには、5日午後6時時点で2万件以上の署名が集まっている。
 2015年4月1日現在の認可保育所などの待機児童数は2万3167人だが、実態はさらに多いとされる。

ブログの原文「保育園落ちた 日本死ね!!!」
何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
何が少子化だよクソ。
子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。


3月5日22時09分、毎日新聞最終更新【中村かさね】
保育園落ちたの私だ
ブログに共感、国会前で抗議集会

http://mainichi.jp/articles/20160306/k00/00m/040/022000c

 ハフィントンポストでも:

 匿名ブログ「保育園落ちた 日本死ね!!!」について、安倍晋三首相は2月29日、衆院予算委員会で答弁し、「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」などと述べた。また、野党議員がブログの内容を読み上げたところ、議員席から「中身のある議論をしろ」「誰が書いたんだよ」などのヤジが飛んだ。
 これらに対しネットには、「ヤジがひどすぎる」「匿名かどうかが問題ではないのではないか」など、怒りの声があがっている。あるTwitterユーザーが「#保育園落ちたの私だ」というハッシュタグを添えて投稿するよう提案し、これに応じたユーザーが続々、ツイートを始めた。「秋の入園枠ができないか」という提案も投稿された。
 以下は投稿の一部。。。


2016年3月3日10時27分更新、The Huffington Post【和田千才】
【#保育園落ちたの私だ】「保育園落ちた日本死ね」ブログへの国会ヤジに悲痛な声、続々
http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/02/nursery-schools_n_9364642.html

 そして「田中龍作ジャーナル」でも:

 「保育園落ちた 日本死ね」は他人事ではなかった ―
 進まぬ待機児童対策に業を煮やした人々が今夕、国会前で抗議のスタンディングを行った。

 認可保育園への入園を不承諾になった親たちが、集団で自治体に異議を申し立てる・・・それは入園シーズンを控えた2月〜3月の風物詩となっていた。だが今年は国権の最高機関の前で起きた。

 きっかけはネットに書き込まれるや、たちまち日本中に拡散され、国会で取り上げられるまでになった冒頭のフレーズ(ブログ記事のタイトル)だ。

 埼玉県草加市の母親(20代)は、今夕の抗議をツイッターで知り、国会前まで乳母車を押して来た。ゼロ歳児の我が子を認可保育園に預けたかったが、不承諾となった。
 「私もあれ位(「保育園落ちた 日本死ね」のブログ記事)書きたい。アベシンゾーの答弁は話にならない。(安倍首相は)『出典が分からない』だとか『匿名だから』だとか言ってばかりだが、そんなこと問題じゃない。子を持つ親たちの悲鳴が聞こえていないのが問題なのに・・・」
 若き母親は怒りを押し殺すようにして語った。

 スタンディングに参加した武蔵野市在住のあやこさん(40歳)は、保育園に2回「落ちた人」だ。

 「ニュースで聞いたが、とにかく与党議員のヤジ(「誰が書いたんだよ?」)がひどい。(保育園に)落ちた人はここにいるよ、と思って。だれか国会前に行く人いないかな?とキーワード検索をかけたらぶつかった。経験者だから来れる」

 30年前に「保育園落ちた」母親も参加した。「子供の数が減っているのに、待っている人が増えている。これはどういうこと?」と女性は首を傾げる。

 「まさかあんなヤジが飛んでいるとは・・・。正直、いてもたっても居られず、父ちゃん、国会行ってくるわと言って出てきた。そもそも落ちたお母さん達は来れない。だからなおのこと、行かなくちゃ」

 女性は抗議の声を上げに来ることができないお母さん達のために使命感にかられての参加だ。

 待機児童の解消は待ったなしの政治の課題である。これをなおざりにして「一億総活躍社会」も「女性が輝く社会」もあったものではない。


2016年3月4日21:18
♯保育園落ちたの私だ 国会前で母親たちが抗議
http://tanakaryusaku.jp/2016/03/00013135

 いつのまにか、コクミン生活の実態を知らない偽議員、知ろうとしない二世議員、知らなくっともふんぞりかえっていられる世襲議員だらけになってしまったのでした、黒会は。


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2016年03月05日

山田洋次

 3月5日土曜日は啓蟄(けいちつ)。
 今日は、昨夜見て感動した映画『おとうと』(2010年)の紹介です。
 監督は、山田洋次(1931年生まれ)。「十五才・学校IV」以来の10年ぶりの現代劇になるのだそうです。
 吉永小百合(1945年生まれ)と笑福亭鶴瓶(1951年生まれ)が姉弟役、吉永小百合の子ども役に蒼井優(1985年生まれ)、ほか加瀬亮(1974年生まれ)が共演しています。
 ところでこの映画は市川崑監督(1915-2008)にささげられています。
 どうしてかっていうと50年前に、市川崑監督も傑作『おとうと』(1960年)を撮っているからです。
 この映画の原作は、幸田文(1904-1990)の『おとうと』です。
 『婦人公論』の1956年1月号から1957年9月号にかけて連載され、その後「新潮文庫」入りしていますので今日ぜひ本屋さんに立ち寄ってみてください。
 文京区小石川の伝通院そばに居を構えていた幸田文は、市川市に旧居がそのまま残って、市民の手で維持管理がなされている脚本家・水木洋子とともに、ヤッホー君のこのブログにもこれまでもたびたび登場してきた作家です。

すれ違う思い 家族ってなんだろう(第一回)
 複雑な家庭のもと、さまざまな思いのすれ違いから放埒な生活を送ったあげく、結核に冒されてしまった弟の碧郎と、彼にどこまでも献身的な愛を注ぎ、最愛の弟の死を看取る3歳上の姉・げん――。

 〈なんと寂しい、悲しい姉弟の物語なのだろう〉と千葉県の金澤時生さん(77)が嘆息すれば、神奈川県の松本千寿さん(32)も〈読んでいて悲しくなった〉。実際、月アタマの時点ですでに310編を超えた投稿もほとんどが寂しさや悲しさを基調としたもので、福岡県の井村智子さん(61)の〈どうしてこんなことになってしまったのか。悲しい結末から時間を巻き戻して冒頭に戻りたい〉という声にうなずく人もきっと少なくないはずです。

 もちろん、本作は決してお涙頂戴だけの物語ではありません。〈げんと碧郎の両方に共感し、電車の中で本を読み進められなくなってしまった〉(愛知県・小樽さん・33)という姉弟愛があってこその寂しさや悲しさ、そしてやりきれなさも読者の胸に残っているようです。

 高名な作家の父と継母の夫婦仲は冷えていて、子どもとの意思の疎通もうまくいっていない。そんな家庭に悲劇の原因のすべてがあるのでは、と指摘する声が目立ちます。〈家族なんだから、もう少し気持ちをストレートに出し合えば、と歯がゆい〉(愛知県・角葉子さん・60)、〈みんなが思うことを素直に言葉にしていれば、弟は死なずにすんだのに〉(宮城県・おらんうーたんさん・44)、〈碧郎は家族につぶされた。不幸の極みだ〉(埼玉県・橋本実郎さん・53)……。そう考えると、〈登場人物たちの性格が好きになれないので、読み進むうちに嫌になってくる〉(千葉県・美濃律子さん・55)といった辛口の感想も、ここに描かれた家族像への拒否反応だと受け取ることもできそうです。

 その寂しい家族のありようにリアリティーを感じる、という声もありました。〈私の両親も不仲だったので碧郎とげんの気持ちがよくわかる。寂しく空しくつまらない家庭というものは確かにあるのだ〉と山口県の古田一美さん(60)が姉弟の孤独感に寄り添う一方、福岡県に単身赴任中という長野聡さん(46)は〈家族に対して自分はどういうことができるか〉と父親の立場から自問するのです。

 もっとも、さらに若い世代には、また別の感じ方も。

 〈げんの愛を感じることで、碧郎には「幸せな家族」はもはや不要になって、安らかに死を迎えたのだろう〉(愛知県・豊田素子さん・25)

 〈気詰まりな食事の場面が印象的。でも、どんな仲良し家族でも、こういう「ちょっと疲れる」時があるのでは? 場の空気を読みつつごはんを食べるげんに、わかるよー、とうなずいてしまいます〉(埼玉県・トモコさん・21)

 昔もいまも「家族」は難しい。それは「愛」の難しさでもあります。親子の愛、姉弟の愛を軸に、『おとうと』をさらに読み進めていきましょうか。

読み手の人生と重なり合う作品世界(第四回)
 読書会も6冊目ともなれば、それぞれの作品の読まれ方の「個性」も見えてきます。『おとうと』で特に目立ったのは、幸田文の文章を絶賛する声。〈磨き上げられた「言葉」の珠玉〉(神奈川県・奥原百合子さん・67)、〈波が繰り返し打ち寄せるようにさまざまな角度から心理描写や説明を重ねている〉(広島県・柴原布早子さん・56)、〈冷たい金属が光るような描写〉(大阪府・二宮宏智さん・43)……そんな〈読者の心に残る言葉をよく知っている〉(兵庫県・久里子さん・43)筆力があってこそ、一つひとつの場面や言葉が読み手の胸に深く刻まれるのでしょう。

 〈碧郎がげんに「島田髷を結って」という場面で涙が止まらなくなった〉(神奈川県・町田香子さん・53)

 〈病院の待合室で読んでいたら、碧郎がげんに鍋焼きうどんを薦める場面で人目もはばからず泣いてしまった〉(三重県・高芝美代子さん・55)

 〈医学生の私にとっては、碧郎に対する病院の人々の言葉や姿勢に学ぶところが多かった〉(沖縄県・ハナコさん・31)

 その他、土手を歩く場面や、げんと碧郎がピンクのリボンでお互いの手首を結ぶくだりなど、ほんとうに数多くのひとが心に残る名場面をあげて感動を伝えてくれました。

 さらに、その感動は作品世界を超えて読み手自身の人生とも重なり合うようです。

 〈十数年前、中学生だった娘が「非行」少女に変身してしまった時、何度も何度も読み返した忘れられない作品です。げんは、無条件に信じ愛することの強さを教えてくれました〉と振り返る東京都の春野すみれさんも、〈私も自分の育った家庭ではくつろげませんでした。もっと早くこの作品を読んでいたら、ずいぶん気持ちが救われたんじゃないかな、と思います〉と言う兵庫県のふうらんさんも、同じ50歳代。母の立場から、娘の立場から、光の角度が変われば輝きの色合いも変わります。現役の娘世代、16歳のせのじゅんさん(兵庫県)が打ち明ける〈昔の家族の濃いつながりが、うらやましいような面倒くさいようなしんどいような憧れるような……〉という困惑気味の乱反射もまた、思春期のいまだからこそのかけがえのない輝きを持っているはずです。

 〈人は常に間違いを犯す。後悔する。それをただそうと必死になる。どうもならない時もある。それらすべてが人間の生きざまだ、と幸田文は言っているようだ〉(大阪府・上田啓二さん・60)――それに付け加えるなら、祈ることや信じることも人間に与えられた美しい(そしてせつない)力でしょう。

 〈碧郎の死は、のこされた家族に絆という大切なものを残したと思います〉という熊本県の高田彰子さん(34)の言葉を引き取るように、東京都のりりさゆママ(39)は〈孤独だった継母も最後の最後に「継」の文字をはずせたのだ、と信じたい〉と書いて、〈私自身が継母と言われる身の上だから〉と付け加えていたのでした。


2009年9月6日&27日掲載、朝日新聞「百年読書会」9月
おとうと[著]幸田文、ナビゲーター重松清(1963年生まれ)
http://book.asahi.com/hyakunen/TKY200909090143.html

 ではさっそく予告篇を:
『おとうと』(1960年)
https://www.youtube.com/watch?v=b4YNj-NXl5M

 そしていよいよ、2010年の『おとうと』:

蒼井優「母に素直になれなくて・・・」/映画「おとうと」
https://www.youtube.com/watch?v=rWh1Bng0kAI

吉永さんをお母さんと思うなんて……
蒼井が同作で演じたのは、吉永小百合扮する吟子のひとり娘・小春。吉永とは、日本アカデミー賞の授賞式で言葉を交わしたことがある程度の面識だったため「最初は緊張してしまって、『吉永さんをお母さんと思うなんて絶対に無理だ!』と思ったのですが、私がどうこう考える前に吉永さんが色々と気遣ってくださいました」と振り返る。
撮影中、「ふだんから“小春ちゃん”か“春ちゃん”と呼んでもいい?」と吉永から提案を受けた蒼井。自然と本物の母親のように思えてきたというが、「ただ、恐れ多くて“お母さん”と呼ぶことはできませんでした。敬語を崩せる自信がなかったから、なんだか義理のお母さんみたいになってしまいそうで。結局、最後まで“吉永さん”か“小百合さん”としか呼べませんでした(笑)」と話した。

感動で胸がいっぱいに
そんな蒼井と同様に山田組初参加となった加瀬亮が、小春の幼なじみであり再婚相手となる。本編前半のクライマックスは、小春の結婚式で鶴瓶扮する鉄郎が大暴れするシーン。この事件が小春の新婚生活に小さなしこりを残し、育った環境の違いや多忙な夫とのすれ違いを浮き彫りにしていく。離婚して吟子が営む小さな薬局へ戻った小春に笑顔を取り戻させたのが、大工の亨だ。その亨から愛の告白を受ける場面は、蒼井の心の琴線を大きく揺さぶった。
「加瀬さんと『このシーンはキモだよね』と話していて、私も『楽しみにしているからね』とプレッシャーをかけたりしていたんです。実際に撮影に入ったら、加瀬さんが『やったぜ!』って恥ずかしそうに言っているのがおかしくなっちゃって。でも、監督が『もっと大きな声で言って』と指示されて、加瀬さんがそれに応じてお芝居をしたとき、さっきまで必死に笑いをこらえていたのに、とても感動して胸がいっぱいになってしまいました」

リアルなお芝居の上の芝居
 蒼井は、このシーンを撮り終えたあと「自分はふり幅が狭いなかでお芝居をしてしまうクセがあるんだな……と感じてしまいました」と猛省。さらに、2人は新たな問題に直面する。「私と加瀬さんが苦戦したのが、どうリアルなお芝居、日常に落とし込むお芝居にするかということでした。山田組のお芝居って独特で、言葉遣いも違いますし動きもシャープで無駄な動きがないので、日常に落とし込むことがなかなかできませんでした」。そんなときに救世主となったのは、笹野高史の「リアルなお芝居の上の芝居というものがあって、それが山田組の芝居なんだよ」というひと言だった。「知らなかった扉が開いてしまったような感じで『大変だあ』と思いました。今回は何カ月かにわたって撮影をしたのですが、最後の3日間くらいしかそれをつかめた感じがしなかったので、いつかこの経験を生かすことができればと思っています」とほがらかに笑う蒼井の視線はどこに焦点を合わせようとしているのか。山田組に“再登板”する機会がめぐってきたとき、その真価が問われる。


2010年1月23日更新、映画.com
蒼井優が苦悩した“リアルな芝居”の先に見たもの
http://eiga.com/movie/54336/interview/4/

 蒼井優は山田組に“再登板”する機会がめぐってきて、今月、スクリーンでまたお会いすることができるのです。
 さて、どのように進化、深化したか、見てみましょうね

 名匠・山田洋次監督が「男はつらいよ」シリーズ終了から約20年ぶりに手がけた喜劇「家族はつらいよ」の公開直前イベントが3月3日、都内の結婚式場で行われ、山田監督と今作に出演する橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵、妻夫木聡、蒼井優が勢ぞろいした。

 熟年夫婦の離婚騒動をきっかけに巻き起こる一家のドタバタを描き出した本作。山田監督の「東京家族」で一家を演じた8人のキャストが再結集し、前作とは異なる新たな家族の形を描き出している。

 これまで「お日柄もよくご愁傷さま」「大安に仏滅!?」「東京家族」「小さいおうち」、そして本作と5作で夫婦役を務めてきた橋爪と吉行。
 この日は、劇中で描かれなかった橋爪、吉行の両名による「金婚式」を実施することになり、登壇陣はヴァージンロードから入場。
 観客もフラワーシャワーを浴びせるなど、会場は晴れやかな雰囲気に包まれた。
 西村が「今日は父と母の金婚式を共に祝おうじゃありませんか!」と会場に呼びかけると、妻夫木も「本日は父と母の金婚式にお越しくださってありがとうございます」と続けた。

 これまでの共演を振り返り、「これまではいい奥さんをやっていたけど、今回はちょっと困ったなと思わせる奥さん。今回は言いたい放題で相手を困らせるのがとても気持ちよくて、楽しくやれました。これだけ言いたい放題でしたら、スッキリするだろうなと思うので、皆さんも参考になさってください」と話し、会場を沸かせた吉行。
 一方の橋爪は、「吉行さんに感謝しています。次回、あなたのところに夫婦役が来たら必ず亭主にしてください」とラブコール。思わず「怖いですね。言葉に裏があるような気がして」と返答する吉行に対し、橋爪も「蒼井優がバレたかと言っていましたよ」と舌をペロッと出してみせて、会場を沸かせた。

 また、この日は「共演者に対する不満」について聞かれた共演者たち。
 まずは正蔵が
「蒼井優さんに不満があります。NGが出るたびにひとりニヤニヤしていて。あなたに不満です」とぶちまけると、蒼井は笑いながら
「NGが出ると面白いんですもん。正蔵さんがお茶を飲むシーンで、お湯のみを持ったんですが、飲み過ぎてお湯のみで溺れたんです」と明かした。
 これには正蔵も照れ笑いを浮かべ、
「溺れるほど飲みました」と返すのが精一杯だった。


2016年3月3日19:10更新、映画.com ニュース
『家族はつらいよ』は、3月12日から全国で公開。
蒼井優、林家正蔵からぶちまけられた不満とは?

http://eiga.com/news/20160303/17/


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2016年03月04日

慈響の調べ

 駆けつけ三杯ってのは分かるけど、駆けつけ警護ってその敬語なのかな〜と無知蒙昧を誇るヤッホー君、意味不明と未だにのたまわっております。
 では、ここで音楽を聴きましょう、でないとこちらもおばかさんになってしまうので。

石川さゆりで「心のこり」から、どうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=qkCxQ8g3EQA

 ん、じゃないでしょ、こっち:
モーツァルト「クラリネット協奏曲」イ長調K.622第1楽章Allegro
https://www.youtube.com/watch?v=d_QczOZgw5U

 ん、どうしたの?バカだねえ〜

 福岡市西区の鐘ケ江進さん(66)が、昨年4月に亡くなった妻の佐保美さん(享年61)をしのんで、2月27日に福岡市内でクラシックコンサートを開く。弱視の子どもを支えたり、発展途上国のために寄付を続けたり人のためなら労を惜しまなかった佐保美さん。収益は全て非政府組織「ペシャワール会」に寄付するという。鐘ケ江さんの思いに打たれ、東京や九州で活躍する演奏家8人が舞台に立つ。
 鐘ケ江さんが佐保美さんと出会ったのは約40年前。福岡市内の市立高校の同僚教諭だった。悩みを抱える生徒に寄り添う姿に引かれた。校内図書館の選書や広報の係を一緒に務め、距離を縮めた。結婚後、佐保美さんは図書館司書に。仕事の傍ら、弱視の児童生徒のために文字が見えやすい教科書を作るボランティアに携わった。アフガニスタンでの農業支援に取り組むペシャワール会の講演を聞き寄付も始めた。誰かのためになりたい−。そんなことをいつも考える人だった。
 別れは突然だった。故郷の函館市に戻りたいという佐保美さんの思いに応え、移住の準備を進めていた昨年4月。購入した市内のマンションで一人、部屋の整理をしていて意識を失った。友人に発見された時は、すでに息がなかった。原因は分からなかった。
 告別式には佐保美さんの友人すら呼ぶ余裕がなかった。「自分も友人も妻にお別れができていない」との思いが募った。思いついたのは二人が好きだったクラシック音楽。「気軽に足を運べるコンサートを開いて、お別れ会をしよう」。以前コンサートを企画したのを機に知り合った演奏家たちに声をかけると快諾してくれた。
 曲目はバッハ、モーツァルト、ショパン、大江光を選んだ。コンサート名は「慈響(じこう)の調べ」。佐保美さんの人柄を表す法名を付けた。「かみさんの大好きだった曲で送ってあげたい。それがまた誰かの役に立てたら…」と鐘ケ江さん。心温まる調べに身を委ね、最愛の人への思いを巡らせる時が待ち遠しい。


2016年2月22日11時34分更新、西日本新聞
人を愛した亡き妻へ贈る調べ 27日、お別れコンサート
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/226147

 このコンサート、モーツァルトは「クラリネット五重奏」だったのです。
 ペシャワール会、といえば中村哲さん。
 ヤッホー君のこのブログ、以下の日記をぜひお読みください。すでに登壇しておりました:

☆ 2010年12月30日「飯盛山」
☆ 2010年12月31日「年納め」
☆ 2014年6月26日「ドーナツ外交」
 
アフガン人の為なら死んでもいい 中村哲さん
https://www.youtube.com/watch?v=2hS6Rtpsu1M

 「ペシャワールの会」の中村哲さんは、1946年福岡市生まれ。
 九州大学医学部卒。NGO「ペシャワール会」現地代表、PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長。専門は神経内科(現地では内科・外科もこなす)。国内の診療所勤務を経て、1984年パキスタン北西辺境州の州都のペシャワールに赴任。ハンセン病を中心としたアフガン難民の診療に携わったのをきっかけに、井戸・水路工事による水源確保事業など現地での支援活動を続ける。
 著書に『医者、用水路を拓く−−アフガンの大地から世界の虚構に挑む』(石風社、2007年12月)『アフガニスタンで考える−−国際貢献と憲法九条』(カラー板、岩波書店、2006年)など。
 痛ましい出来事もありましたぁ〜

The founder of a Japanese aid organisation flew to Pakistan on Wednesday, en route to Afghanistan, to bring home the body of one of his workers found dead after being kidnapped at gunpoint.

Dr. Tetsu Nakamura, the founder of Peshawar-kai flew into Pakistan from Bangkok. He said he planned to travel to Jalalabad on Thursday to assist with the speedy repatriation of Kazuya Ito, 31.

Officials from the Japanese Embassy in Kabul had earlier travelled to the eastern city of Jalalabad and identified Ito's body, Senior Vice Foreign Minister Ichita Yamamoto told a news conference at the foreign ministry in Tokyo.

He added that officials had doing their best to secure his safe release, but could now "to our great regret" confirm his death.

The Kyodo news agency said the body bore multiple bullet wounds.

Ito was abducted early on Tuesday along with an Afghan driver near Jalalabad.
He was an agriculture specialist with Peshawar-kai, which runs clinics in the region.

Dr. Nakamura told reporters in Islamabad he wanted to bring Ito's body home as soon as possible.

He gave his condolences to Ito's family and said everyone involved in working in Afghanistan should think very carefully about what had happened.

"Those of us involved, the Japanese government, the people of Japan, the international community, all of us must have a careful think about this matter," he said.

Ito was the first Japanese to be kidnapped and killed in Afghanistan, officials said.


2015/7/21公開
NEW Boss of Japanese worker found dead in Afghan arrives in Pakistan en route to return body
AP
https://www.youtube.com/watch?v=mjQSc9W6Rvs

 ちょっと、久々に登場の中村哲さん、ちょっとだけ聴いてみませんか:

 米軍などが「対テロ戦」を掲げ、タリバーンが支配するアフガニスタンを空爆してから15年。タリバーン政権は倒れたものの、いまだ混乱は収まらず、治安も悪化したままだ。この国の復興を、どう支えていけばいいのか。NGO「ペシャワール会」の現地代表として民生支援を続ける医師の中村哲さんに聞いた。

― 1980年代から90年代は医療支援でしたが、今は灌漑(かんがい)事業が中心です。お医者さんがなぜ用水路を引くのですか?
中村 農業の復興が国造りの最も重要な基盤だからです。2000年からアフガニスタンは記録的な干ばつに襲われ、水不足で作物が育たず、何百万という農民が村を捨てました。栄養失調になった子が泥水をすすり、下痢でいとも簡単に死ぬ。診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなるのです。
 医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。清潔な水を求めて1600本の井戸を掘り、一時は好転しました。しかし地下水位は下がるし、農業用水としては絶対量が足らない。そこで大河から水を引き、砂漠化した農地を復活させようと考えたのです。合言葉は『100の診療所より1本の用水路』でした。
 道路も通信網も、学校も女性の権利拡大も、大切な支援でしょう。でもその前に、まずは食うことです。彼らの唯一にして最大の望みは『故郷で家族と毎日3度のメシを食べる』です。国民の8割が農民です。農業が復活すれば外国軍や武装勢力に兵士として雇われる必要もなく、平和が戻る。『衣食足りて礼節を知る』です。


― 自身で重機を操作したこともあるとか。
中村 2003年から7年かけて27キロの用水路を掘り、取水堰(せき)の改修も重ねました。お手本は、福岡県朝倉市にある226年前に農民が造った斜め堰です。3千ヘクタールが農地になり、15万人が地元に戻りました。成功例を見て、次々に陳情が来た。20年までに1万6500ヘクタールを潤し、65万人が生活できるようにする計画ですが、ほぼメドが立ちました。政権の重鎮らが水利の大切さにやっと気づき、国策として推進しなければと言い始めました。現地の人たちの技術力を底上げする必要を感じています。

― 工事はだれが?
中村 毎日数百人の地元民が250〜350アフガニ(約450〜630円)の賃金で作業し、職の確保にもなります。元傭兵(ようへい)もゴロゴロいます。『湾岸戦争も戦った』と言うから『米軍相手か』と聞くと『米軍に雇われてた』とかね。思想は関係ない。家族が飢えれば父親は命をかけて出稼ぎします。
 最近は、JICA(国際協力機構)の協力も得て事業を進めていますが、基本は日本での募金だけが頼り。これまで30億円に迫る浄財を得て、数十万人が故郷に戻れました。欧米の支援はその何万倍にもなるのに、混乱が収まる気配はない。これが現実なのです。

■    ■
― 現地の治安は?
中村 私たちが活動しているアフガン東部は、旧ソ連が侵攻したアフガン戦争や、国民の1割にあたる200万人が死んだとされる内戦のころより悪い。この30年で最悪です。かつて危険地帯は点でしたが、今は面に広がった。地元の人ですら、怖くて移動できないと言います。ただ、我々が灌漑し、農地が戻った地域は安全です。

― 反政府勢力タリバーンが勢いを盛り返しているようです。
中村 タリバーンは海外からは悪の権化のように言われますが、地元の受け止めはかなり違う。内戦の頃、各地に割拠していた軍閥は暴力で地域を支配し、賄賂は取り放題。それを宗教的に厳格なタリバーンが押さえ、住民は当時、大歓迎しました。この国の伝統である地域の長老による自治を大幅に認めた土着性の高い政権でした。そうでなければ、たった1万5千人の兵士で全土を治められない。治安も良く、医療支援が最も円滑に進んだのもタリバーン時代です。
 欧米などの後押しでできた現政権は、タリバーンに駆逐された軍閥の有力者がたくさんいるから、歓迎されにくい。昼は政府が統治し、夜はタリバーンが支配する地域も多く、誰が味方か敵かさっぱり分からない。さらに(過激派組織)イスラム国(IS)と呼応する武装勢力が勢力を伸ばし、事態を複雑にしています。


― アフガンは世界のケシ生産の9割を占めるといわれます。
中村 我々の灌漑農地に作付け制限はありませんが、ケシ畑はありません。小麦の100倍の値段で売れますが、ケシがもたらす弊害を知っているから、農民も植えないで済むならそれに越したことはないと思っている。先日、国連の麻薬対策の専門家が『ケシ栽培を止めるのにどんなキャンペーンをしたんだ』と聞くから、『何もしていない。みんなが食えるようにしただけだ』と答えたら、信じられないという顔をしていました。
■    ■
― 戦争と混乱の中でよく約30年も支援を続けられましたね。
中村 日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。アフガンで日露戦争とヒロシマ・ナガサキを知らない人はいません。3度も大英帝国の侵攻をはねのけ、ソ連にも屈さなかったアフガンだから、明治時代にアジアの小国だった日本が大国ロシアに勝った歴史に共鳴し、尊敬してくれる。戦後は、原爆を落とされた廃虚から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を称賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです。
 NGO(非政府組織)にしてもJICAにしても、日本の支援には政治的野心がない。見返りを求めないし、市場開拓の先駆けにもしない。そういう見方が、アフガン社会の隅々に定着しているのです。だから診療所にしろ用水路掘りにしろ、協力してくれる。軍事力が背後にある欧米人が手がけたら、トラブル続きでうまくいかないでしょう。


―「平和国家・日本」というブランドの強さですか。
中村 その信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきました。診療所を展開していたころも、『日本人が開設する』ことが決め手になり、地元が協力してくれました。

― 日本では安保法制が転換されました。影響はありますか。
中村 アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する論議も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけです。だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。嫌われるところまではいってないかな。欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるけれど、日本人はまだ安心。漫画でハートが破れた絵が出てきますが、あれに近いかもしれない。愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と。

― 新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められます。
中村 日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が『軍服姿』を見せていないことが大きい。軍服は軍事力の最も分かりやすい表現ですから。米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ。
 それに、自衛隊にNGOの警護はできません。
アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか? 机上の空論です。
 軍隊に守られながら道路工事をしていたトルコやインドの会社は、狙撃されて殉職者を出しました。私たちも残念ながら日本人職員が1人、武装勢力に拉致され凶弾に倒れました。それでも、これまで通り、政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します。


2016年1月30日5時更新、朝日新聞デジタル
(インタビュー)アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12184935.html?rm=150

 NPO、NGO、NPO、PKO、PKFとかこれまで略語がいっぱいでてきましたけど、大丈夫ですか?ヤッホー君。
 いまの優れた平和憲法、その日本が誇る憲法がカイケンとかいって、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権が危機に瀕しています。
 憲法を護り、その憲法のもとで日本、そして日本人ができる「国際貢献」ってなんでしょうか?
 アメリカ兵の代わりに人殺しすることではない、
 アメリカ兵の指揮命令のもと動くことではない、
 アメリカ兵に思いやり予算をあげちゃことじゃない、
 軍服ではない、武器や弾丸ではない、原発ではない、
ってことですよね。


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梅園のさと

 あ、「ひな祭」はもうすんだんだっけ、時の流れは早いもので、ヤッホー君の「梅まつり」はまだすんでなかったのです。
 え、でも時の流れに抗してはだめ、梅色に染められたほうがましなようで…

ケ麗君(テレサ・テン)「時の流れに身をまかせ」
https://www.youtube.com/watch?v=UIyxF91Y3zk
「明日はきっといい日になる」
https://www.youtube.com/watch?v=jFWDf-Zpyqk

 そう、越生梅林への入り口にやっと到着。

越生梅林.JPG

越生梅林
 大宰府から小杉に天満宮を分祀した際、菅原道真にちなんで梅を植えたのが越生の梅の始まりと伝えられる。梅園神社(旧小杉天満宮)には1350(観応元)年の棟札が現存する。

 室町時代の名将太田道灌の父、道真は道灌に家督を譲ったのち越生に居を構えていた。文人としても名を成していた道真のもとには、親交を結んでいた連歌師の心敬や宗祇も訪れ、越生の梅を賞美した句を詠んでいる。

 幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』に「土地梅に宜く梅の樹を多く植ゆ、実を取って梅干として江戸へ送る」とあるように、梅は江戸時代には特産品になっていた。

 明治以降は観光地としても注目され、1900(明治33)年には保勝会が結成され、翌年には奈良の月ヶ瀬梅林にあやかり「新月ヶ瀬梅林」と命名された。

 「入間川高麗川こえて都より来しかひありき梅園のさと」の歌をのこした佐々木信綱をはじめ、田山花袋や野口雨情も来遊している。

 1942(昭和17)年には大字堂山字前河原を中心とする地域が埼玉県指定名勝に指定され、関東を代表する観梅の名所、埼玉県屈指の観光地に発展してきた。

 越生町の梅は栽培面積、出荷量ともに県内一を誇っている。

2013(平成25)年3月 越生町教育委員会


 う、佐々木信綱? どんな歌人?

佐々木信綱.JPG

利のやつこ位のやつこ多き世に
我はわが身のあるじなりけり

「思草(おもいぐさ)」

 「やつこ」とは奴(やっこ)、下僕の意味である。利得や地位に恋々とするのはさもしい― 91年の生涯を全うした気骨の歌人、佐佐木信綱がこの歌を詠むのは明治後半、30歳の頃だ。
 国学者、歌人として大成した厳格な父は既に亡く、森鴎外、樋口一葉、与謝野鉄幹ら知遇を得た同時代の傑物は皆、地歩を築いていた。己も世に歌集を問いたい。渇望の中で自らに込めた当時の決意、それが〈我はわが身のあるじなりけり〉なのだと、思いこんでいた。
 が、信綱の孫で、現代歌人の重鎮でもある幸綱さん(76)が意外な事実を明かす。「あの1首は祖父が自身を詠んだものではなく、モデルがいました」
 その時、信綱は初めて富士登山に挑み、山小屋で奇っ怪な中年男に出会う。歌うようなわめくような声に酔眼の千鳥足。屋根で大の字に寝てみたが、冷たい夜風にさっさと中へ入り、宿の主に酒をねだる。
 信綱も携えたビールを勧めると男は談論風発、語り出す。若い頃は武者修行に全国を巡った。日清戦争で働き、戻って選挙にも出た。今の政治家は政治を知らず、実業家は虚業家だ……散々吹いて寝込む“豪傑”に「祖父は彼を題材に連作をつくろうと、ひと晩呻吟(しんぎん)したようです」。
 程なく完成した最初の歌集「思草」で、この歌に「豪士吟」と題が付くのは、そういう事情があった。
× ×
 ただ、同じ題を添えた中にこの作もある。
志事とたがひてやせし影
うつすもはかなふるさとの水

 夢破れてうらぶれ、寄る辺なく帰郷に追い込まれた悲哀と虚栄。そこを淡々と見据え、「世間や時代にどうしても合わせられない性(さが)を、祖父はあの歌で自身にも重ねていたでしょう」(幸綱さん)
 歌人が晩年に著した「短歌入門」を、長年の秘書だった村田邦夫さん(故人)がこう評した。
 「時めくはなやかさはない。地味で、古めかしく(略)だから純粋で、篤実で、謙虚で、読者を裏切らない」
 旅に出れば帰着の前夜は必ず定宿で道中の礼状と作歌を済ませ、家に戻っては即、文机(ふづくえ)に向かう。
 勤勉と実直そのものの明治気質にとって、「我」とは「自律」であった。


2015年4月20日10時00分更新、読売新聞(文・宇佐美伸)
利のやつこ位のやつこ多き世に…佐佐木信綱歌集
http://www.yomiuri.co.jp/life/travel/meigen/20150609-OYT8T50335.html

 そうでしたか、「勤勉」と「実直」に「自律」ね、とハナキンの2月4日金曜日、ヤッホー君、鉛筆の芯をなめなめ手帳に書き取っていました。

 梅林のなかは、初春のお祭り気分:

武蔵越生高校和太鼓部「青龍」@越生梅林梅まつり2016年「灯(あかり)」
https://www.youtube.com/watch?v=y6dTDo3q_es

汽車ポッポ.JPG

獅子踊り.JPG

 初春、梅があるんだったら桜も、とムカシ、もう10年以上も前のことですが、欲張り強欲の面をかぶった御仁がここにもいたそうで:

 土屋義彦・前埼玉県知事の長女で、政治資金規正法違反容疑で逮捕された市川桃子容疑者(53)が、県が越生(おごせ)町で計画した県立の自然公園「さくらの郷(さと)」建設事業の基本構想の策定に携わり、事業化を県側に積極的に働きかけていた。県は96年度、開発予定地として同町の国有林を約25億円で購入するなど、昨年度までに総額35億円を投じたが、計画は99年10月、財政の悪化から事実上、頓挫した。
 95年度、県は財団法人「日本さくらの会」に基本構想の策定を1750万円で委託。同会は95年12月、構想検討のための調査委員会を設置した。委員は15人で、当時、同会理事の市川容疑者も名を連ねた。
 この基本構想をもとに県は96年3月22日、基本計画を発表。広大な国有林を買収して300種類の桜を植樹し、秋、冬、春の各季節で桜を楽しめるようにするとともに、桜の研究施設や迎賓施設、能楽堂などの大型施設を建設するという内容だった。年間500万人が訪れると見込んだ。
 計画発表の5日後には、県と日本さくらの会が連名で、さくらの郷の見開き広告を全国紙などに掲載した。広告制作は同会が県から1500万円で受託、市川容疑者の夫がデザインを手がけた。
 さくらの郷関連の予算は、土屋県政誕生翌年の93年度に基礎調査費として500万円が計上され、以来、10年間で総額約35億円に上った。日本さくらの会への委託費や現地の植生・地形調査費などで、96年度には約66ヘクタールの国有林を約25億円で購入した。県庁には専従の整備推進室が設けられ、一時は10人近い職員が配置された。
 桜を中心とした自然公園の建設は同会の「設立当初からの念願」といい、市川容疑者は積極的にさくらの郷の建設推進を県に働きかけた。県幹部の一人は、当時の様子を「(市川容疑者が)県庁に来て、盛んにはっぱをかけていた」と振り返った。
 しかし、実施計画も定めないまま、土屋前知事は99年10月、「厳しい財政事情」を理由に、事業を「繰り延べせざるを得ない」と発表した。
 事業は事実上、頓挫した形だが、県は予算を大幅に削りつつも、00年以降も調査費や桜の苗木の購入費として年間3千万円から1700万円を計上してきた。元県幹部は「部署も予算もつぶしたら(市川容疑者が怒って)大変なことになるから、凍結という形になったのではないか」と話している。
 一方、現地の越生町では早い時期から計画に疑問の声が出ていた。町は関東三大梅林の一つ「越生梅林」で知られる。「梅の名所になぜ桜なのか」といった声だ。計画に反対してきた同町の「緑とせせらぎを守る会」代表の中村克彦さんは「知事が代わったら当然消える事業。財政難で計画が進まなかったことが救いだ」と話した。


2003/07/22 06:24更新、朝日新聞デジタル
土屋知事政治資金問題、長女に配慮?頓挫後も予算 埼玉県「さくらの郷」計画
http://www.asahi.com/special/tsuchiya/TKY200307220067.html


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2016年03月03日

石川文洋

 「ひな祭」を始める前の午後のひと時、「伊勢崎賢治さんインタヴュー」に引き続いて『通販生活』「今週の読み物」からもう一度、引用してみましょう。
 今度は「石川文洋さんインタヴュー」です。
 人を殺したり、殺されたりする戦争って、そんなお金があれば人に向けること、そうしないのは儲かるのがいる、儲けようとするのがいるから、です。
 ウオーヘアー Warfare からウェルヘアー Welfare ってピース Peace といっしょに朝昼晩、唱えているヤッホー君が、良〜く、聞いててね、だって:

― 戦争の取材で得た教訓は何でしょうか。
石川  実は従軍取材を始めてすぐに「この戦争は間違っている」と感じていました。解放軍兵士の主体は農村の若者ですから、政府軍やアメリカ軍は彼らを捕まえたり殺したりするために農村を徹底的に攻撃します。肉親を傷つけられたり家を燃やされたりすれば、農民たちは当然、相手に憎しみを持ちます。作戦を続ければ続けるほど政府やアメリカに反感が強くなっていくのです。
 ベトナム戦争は、資本主義と共産主義の戦いだったと言われます。アメリカは資本主義=正義の名のもと、戦争に莫大な金を投じていました。大げさに言えば、爆弾1個が1つの村の年収ほどになるでしょうか。そのお金を農民に分けていれば、みんな「アメリカ様さま」だったのですよ
 農民にはイデオロギーは関係ない。家庭の平和と明日の生活が守れれば、それで良いのです。共産主義者を作っているのは、アメリカでした。

。。。
 軍隊は抑止力にならない、ということですね。
 むしろ、軍隊がいるから戦争になる。
 ベトナム戦争はアメリカ軍の侵略がなければ解放軍の抵抗もなく、あれだけの戦闘にはならなかった。
 沖縄戦にしても、日本軍がいたために地上戦になり、大勢の人間が犠牲になったのです。
 だから軍隊は必要ない、というのが私の持論です。
 日本で言えば、軍隊の存在、つまり自衛隊そのものが憲法9条に反する。

 戦争になれば、人命や公共財産、文化財、自然……と、たくさんのものが失われます。地域は復興しても、失われた人命は戻りません。しかも、民間人が巻き込まれます。ベトナムだけでなくボスニアやソマリアやアフガニスタンでも、病院に多くの民間人の死体が運び込まれる様子を目の当たりにしました。
 「日本が占領されたらどうするんだ」とよく問われます。
 私は北朝鮮にも6回行きましたが、一般の人たちは日本人と変わらない人間です。
 戦争になる前に、そうならない状態を作ることが大切です。

。。。
― 集団的自衛権の議論についても思うところがあるそうですね。
石川 安保法制懇の報告書を読みましたが、集団的自衛権を行使すれば日本が被害を受けること、特に沖縄が標的になる可能性に触れていませんね。
 そういうところに視点がいっていない人たちの報告だな、と感じます。
 集団的自衛権の行使が抑止力になって平和を保てるという主張ですから、そもそも平和に対する考え方が違うのです。

 尖閣諸島の状況は非常に危険です。今のままでは不測の事態が起こりかねない。
 もし自衛隊機が撃ち落とされたりするとナショナリズムのような雰囲気が盛り上がり、「中国は空母を持っているのにオレたちは持たなくていいのか」「日本に核はなくていいのか」というところまで至るかもしれない。
 軍事力にはキリがありません。ナショナリズムは怪物のようで恐ろしいものなのです。
 安倍首相にしても石破幹事長にしても安保法制懇のメンバーにしても、私は戦争の実態を知らない人たちだと思っています。


石川文洋さんインタヴュー
https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/140617/

 その石川文洋さん、今日の新聞報道です:

 戦場での取材経験を持つ報道カメラマン・石川文洋さんの講演会が3月2日、那覇市若狭の瀬長亀次郎資料館「不屈館」であった。
 石川さんはベトナム戦争で撮影した写真を示しながら「どんな戦争でも民間人が犠牲となり、自然、文化が破壊される」と平和を守る尊さを参加者に語り掛けた。
 不屈館が3周年を迎えた記念企画で開催したもので、約110人が足を運んだ。
 石川さんは、負傷した米軍兵士、ナパーム弾で燃える村、戦争で両親を亡くした孤児など、戦争の中で被害を受ける人にレンズを向けた作品を示し「米国が国益のために軍隊を送る権利があるのだろうか、と常に思っていた」と当時の心情を語った。
 また「日本で戦争への関心が薄くなるのは、過去の戦争を総括していないから」と述べ、関心を保つ大切さも強調した。
 糸満市から訪れた上原野亜さん(21)は「石川さんと同じように戦争を体験できないが、いろいろな人と話すことで関心を持ち続けたい」と話した。
 3月3日午後1時からは沖縄タイムス北部報道部長の阿部岳記者が「辺野古に生きる亀次郎の精神」と題して講演会を行う。


2016年3月3日 11:20更新、沖縄タイムス
「どんな戦争でも民間人が犠牲に」 写真家の石川文洋さん、ベトナム語る
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=156679

 この石川文洋さん、映画にもなっています:

『石川文洋を旅する』劇場予告編
https://www.youtube.com/watch?v=wddw9F2_NT8

 石川文洋さんは1938年沖縄に生まれた。世界一周無銭旅行を夢みて日本を脱出。1964年から南ベトナム政府軍・米軍に従軍し、戦場カメラマンとしてベトナム戦争を世界に伝えた。そして1968年末に帰国してから今日にいたるまで、ふるさと沖縄の姿を記録し続けている。
 本作は、75歳になった文洋さんとともにベトナムと沖縄を旅し、その生立ちと青春とを見つめる。切り売りした命がけのネガフィルム、サイゴンの下宿、アオザイを着たスチュワーデスの神秘的な魅力、解放戦線兵士が眠る烈士墓地、幾世代にも及ぶ枯葉剤の影響。そしていまなお沖縄に張り巡らされるフェンス、配備されたばかりのオスプレイ。
 従軍取材中、文洋さんはアメリカの市民権を求めて米兵となった沖縄出身の青年と出会う。二人は立場を超えて、本土の人にはわかってもらえない沖縄人の葛藤と切なさを語り合った。文洋さん自身、“侵している側”の米軍に同行しての取材は複雑な感情を伴うものだったと言う。しかし、かつて日本人が撮った沖縄戦の写真は一枚も無く、すべて米軍が記録したものだった。それでも沖縄戦がどうであったかがわかる。だから、ベトナム戦争を取材したネガは個人のものではなく世界の財産なのだと。文洋さんはいつも穏やかに訥々と話す。
 2014年は文洋さんが従軍取材をはじめてから50年の節目の年となる。その軌跡をたどるこの旅は、今という時代を生きる私たちを深く静かな思索へといざなっていく。


映画『石川文洋を旅する』(2014年)公式サイト
http://tabi-bunyo.com/introduction/

 ところで、戦争の実態を知らない人、知ろうとしない人、知らなくっともふんぞりかえっていられる人は昨日、国会で憲法99条『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』に背く発言をしていますよね。
 怒ったコクミンってヤッホー君だけ?

 安倍晋三首相は3月2日の参院予算委員会で、改憲について「私の在任中に成し遂げたい」と述べた。
 これまでも意欲を示す発言はあったが、自ら「在任中」と明言した。
 自民党は党則で党総裁任期を連続2期(6年)と定める。首相の2期目の総裁任期は2018年9月まで。党則変更がない限り、首相在任期間は残り約2年半となる。党内には党則を変更し、任期延長を可能にする意見もあるが、首相は在任中の改憲に決意を示すことで論議を積極的に進める狙いがあるとみられる。
 首相は予算委で「自民党の立党当初から党是として憲法改正を掲げている。私は総裁であり、それを目指したい」と、夏の参院選で改憲を争点に位置付ける考えを重ねて示した。
 同時に、改憲発議に衆参両院で3分の2以上の賛成が必要になるとして「自民党だけで確保することはほぼ不可能に近い。与党、さらには他党の協力もいただかなければ難しい」と、参院選で3分の2以上の改憲勢力の確保にも意欲を示した。改憲を目指す条項は具体的な言及を控えた。民主党の大塚耕平氏への答弁。
 首相は昨年2015年2月の衆院予算委員会で、改憲を目指す時期について「国会の議論を見定める。自民党総裁だから最終的な判断はする」と述べ、在任中の改憲に意欲を示していた。

 
2016年3月3日 東京新聞朝刊(関口克己)
首相明言「改憲、在任中に」 参院選3分の2確保に意欲
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201603/CK2016030302000135.html


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池田香代子

 今日3月3日は「ひな祭」!
 
https://www.youtube.com/watch?v=SFugKy3Baic

 その良き日、翻訳家・池田香代子(いけだかよこ)さんにご登壇をお願いします:

― 世界中でテロが相次いでいます。池田さんが社会に向け積極的に発言するきっかけも、2001年の米同時多発テロでした。

池田 当時と似ているのは『誰か』ではなくて『象徴』が標的になったことです。9・11は世界経済、マネー。昨年のパリは、週末のスポーツ、お酒、友達とのおしゃべり、音楽といった、フランスが苦しみながら取り組んできた世俗主義、多文化共生が狙われました。昔のテロは、自分が死んでも、この人を殺せば社会をひっくり返せる、というものだったけれど、今は象徴が狙われるんです。

 池田さんは、ドイツ文学のみずみずしい訳文で知られる。私にとっては、西洋哲学を易しく語った「ソフィーの世界」に夢中にさせてくれた人だ。インターネットでつづられた「民話」をまとめた「世界がもし100人の村だったら」では、世界に戦争や暴力におびえる子どもが少なくないと教えてくれた。インタビューを申し込んだのは、テロが頻発する世界で、日本にいる私たちはどう行動していけばいいか、と聞こうと思ったからだ。

― テロとの戦い、となると社会が結束します。テロは根絶したい。でも対テロ戦争が新たな憎悪を生むと考えると、よい解決策が浮かびません。

池田 パリにいる友達に聞いたら、デモで掲げられたスローガンの中に『あなたたちの戦争、私たちの死体』というのがあった。『あなたたち』はIS(過激派集団『イスラム国』)やテロリストだけでなく、『報復だ』と拳を上げる人も含んでいるんですね。そして、『私たち』は、パリ市民だけでなく、様々なテロや政府軍の空爆なんかで倒れている各国の市民たちも含まれる。私はその話にぐっときました。
 テロとの戦いは、テロリストではなくてテロリズムとの戦い。それには、かったるいんですが、武力ではなく人間の安全保障に力を入れるしかない。日本が頑張ってきた、武器を持たずにできる貢献です。私は自衛隊は認める立場ですが、武装して海外に出てはいけないと思う。病巣を摘出する外科手術が必要な病気もありますが、長期にわたる体質改善や薬物投与でなければ治らない病気もある。テロリズムは圧倒的に後者だからです。


 テロに直面した欧州では、難民受け入れ拒否の動きが広がる。米大統領選では「イスラム教徒入国禁止」を訴える候補が喝采を浴びる。テロの脅威にさらされ、多様性の維持が危機に直面しているようだ。

― 「テロとの戦争」に対しては、異論を挟みにくい空気があります。

池田 テロの脅威は、同調圧力を強めるための非常に有効なツールですよね。昨年、欧州に大勢の難民が来ましたが、その0・01%でも意図を持った人がいたらテロを起こせる。でも、残りの人たちは、そのテロリズムから逃げてきたんです。難民を拒否する理由も分かる。むしろ、受け入れたドイツはすごい。共感をもって踏みとどまることが大切なんじゃないかな。
 社会を一色にしないためにはノイズが必要です。いわゆる左派にも同調圧力はある。例えば、原発の議論で、放射線はどんな少量でも許してはならない、というような論調ですが、それに私は賛成しません。反原発の集会でも私は『何とでも批判してくれ』と言いながら、この持論を言うことにしています。あと3年で70歳です。年を取っていいところは、怖いものなしになる。どこにも所属していませんしね。小さいけれど、社会全体の中での役割があると思っています。


― 異なる意見を持った人同士の議論が成立しにくくなったと感じませんか。

池田 『100人の村』では、Weを『わたし・たち』と表現しました。そこで、読者につまずいてほしくて。我々、という集団は私と私が集まったもの。独立した個人が、安心して発言できるのが成熟社会。私たちは、まだ学習途上なのかもしれません。

池田香代子: 1948年生まれ。翻訳家。ゴルデル「ソフィーの世界」、フランクル「夜と霧」、ケストナー「飛ぶ教室」など訳書多数。
■ 取材後記
「自己規制していませんか」。ふと池田さんに問われ、恥じ入るばかりだった。取材中、表情も言葉遣いもずっと穏やかだったが、自分の責任で発言する覚悟が端々に感じられた。テロリズムを克服するためにも、社会に多様な言論がないといけない。池田さんは、昨年の安全保障関連法成立後、国会前で「私たちは勇気を持ちましょう。良くないことは良くないと言いましょう」と演説していた。新聞記者になって20年、私にその勇気は備わったか。勉強も足りないし、批判も怖い。だが、他者の発言に耳を澄ましながら、私も「多様さ」に貢献できれば、と思った。

2016年1月7日05時00分朝日新聞デジタル(本田修一)
社会と多様性 翻訳家・池田香代子さん 一色に染める空気、異論のノイズ必要
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12147331.html?rm=150

 池田香代子さん…、ヤッホー君のこのブログ、すでにこれまでにも登壇願っておりました、それはなんともう6年も前、3.11の前、2010年です!
 以下のヤッホー君の「日記」をご参照ください:

☆ 2010年5月14日付け「陝西省南鄭県」
☆ 2010年5月27日付け「縄文人」

 そしてめでたい「ひな祭」に、もう一度耳を傾けて聞いてみませんか:

 この国が最後の戦争を終えてから、70年がたちました。戦後生まれは80%を超え、戦争を記憶している方は少なくなりました。とはいえ、誰しも周りを見回せば、戦争に人生を左右された方がきっとおられるでしょう。その一例として、わたし自身のことをお話します。

 わたしの父は、3人兄弟の長男でした。戦争末期に召集され、小笠原諸島の父島で壕を掘っているうちに終戦になりました。次の弟は特攻隊員として、沖縄海域で死にました。末の弟は戦後、大学を卒業して商社に勤めました。

 そして敗戦から10年目、父は自ら命を絶ちました。もちろん、こんがらがった事情があったのですが、単純化するなら、父はすぐ下の弟のように戦争で死ぬことも、末の弟のように戦後を生きることもできなかったのです。父のような、時代のエアポケットに消えていった人々は、少なくなかったと思います。

 父の死は、わたしには大きな出来事だったとはいえ、戦争の間接的な影響の、小さなエピソードでしかありません。戦争が直接もたらすもっとも深刻な悲劇は、殺されることです。日本人も殺されました。その数は、軍民あわせておよそ310万人です。そして、日本人に殺されたおよそ2000万人といわれる死者には、その数倍、数十倍のご遺族がおられるうえ、人生を狂わされ、心に癒しがたい傷を負った方々の係累はさらに膨大です。
。。。
 70年前、国連がその憲章前文で、対ファシズム戦勝利を自賛するのではなく、「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨禍」と、みずから当事者として関わった戦争そのものを否定的にとらえたことに、わたしは光明を見ます。

 そして日本のわたしたちは、国連憲章の精神そのままに、「国権の発動たる戦争……を放棄する」(日本国憲法9条)という、近代国民国家であることを否定するような掟を、みずからの国に課しました。

 なのに現在、わたしたちは自衛隊という世界有数の軍事組織をもっています。それどころか、国外に武装派遣もしています。

 にもかかわらず、と、またしても逆接なのですが、今までかれらに他国の兵士や市民を殺させたことも、自衛隊員が殺されたこともありません。それは、幸運に恵まれた面もありますが、世論を重んじた慎重な政治判断のおかげもあったでしょうし、自衛隊の人々の高い練度と、憲法を踏まえた自重のたまものでもあったと思います。

 今さら自衛隊を否定はしないけれど、せめて殺さない、殺されない自衛隊であってほしいというわたしたちの無理難題が、現実に何十年もずっと叶えられているのです。これは奇跡です。軍事力を強めながら非戦の思想を70年かけて血肉とした人々の国というこのあやうい矛盾は、近代史の奇跡です。
。。。
 そんな日本が縁の下の力持ちとなって「世界非戦会議」を開催する、というのはいかがでしょう。たとえば10年ごとに、過去10年の間、対外戦争も内戦も免れた国々の政治家、軍人、外交官、研究者、文化人、ジャーナリスト、NGO活動家、経済人、そして子どもたちが集い、非戦の世界をつくるにはどうしたらいいか、戦争から抜け出せない国々にはどのような支援ができるか、話し合うのです。

 そこでは、目下焦眉の問題であるテロとの戦いとは、テロリストを武力で殲滅することではなく、テロリズムを生む社会問題を取り除くことだという、日本が官民をあげた実践の中で培ってきた「人間の安全保障」という考え方が、大いに役立つでしょう。
。。。
 戦争のない世界は、たとえばカントの『永遠の平和のために』(1795年)や、パリ不戦条約(1928年)が希求したように、連綿と続く人類の悲願です。すべての国が交戦権を手放し、あるいは極小化しても安心できる世界という人類史的な目標をたて、その具体的な道筋を探るこの会議は、近代国民国家の宿命ともいうべき戦争、すなわち人びと同士の殺し合いを、人びとが主体となって国際世論を形成し、克服するための道しるべとなると、わたしは確信しています。
。。。

2015年9月13日付けポリタス
戦後70年、日本は「世界非戦会議」を開催すべきである
池田香代子
http://politas.jp/features/8/article/458

 そんな池田香代子さん、アフリカについてはこんなことを:

 戦争法で、南スーダンPKOに派遣された自衛隊の任務が拡大されたら、どんなことになるのか。
 国会でもほとんど議論されていませんが、すごくリアルな問題です。
 自衛隊が少年兵に銃口を向けるんじゃないか。

(2016年2月14日付け「しんぶん赤旗日曜版」)


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2016年03月02日

伊勢崎賢治

 ジャズと出会ったのが2001年内戦中のシエラレオネ。
 国連PKO下、内戦終結のため民兵の武装解除の指揮をしていた時。
 現場から宿舎に帰還して部下のアイルランド人が聴いていたCannonballのSomethin' ELSEにシビレル。
 トランペットを手にしたのは2003年アフガニスタン。
 アメリカの占領政策でアフガン軍閥の武装解除の責任を日本政府代表として負うことになり、今度こそ死ぬかも、と買って持って行ったのが始まり。
 その後生き延び、精進を重ね2010年にプロデビュー!


Cannonball Adderley - Somethin' else
https://www.youtube.com/watch?v=fbZePcUGsVM

 伊勢崎賢治は東京外国語大学大学院教授(紛争予防と平和 構築講座長)。
 ご自身のホームページをお持ちです:

 「住民保護」とは、国連平和維持軍PKF(自衛隊の施設部隊もこれです)の主要任務になる場合、国民に降りかかる脅威をその国家に変わって除去する、つまり「戦争」することだという厳粛さが、日本の政局には皆無です。
 政党で括るのはなんですが、自民・公明をはじめ、民主、維新、そして社民もです。
 志位さん、ありがとうございます。(注1)
 「後方支援」なんて言葉、現場には、ありゃしませんが、なんか、これを反対派勢力たちも受け入れてきたことで、「控えめな戦争」なら、ま、いいか、みたいな。
 これが、歴代の日本の政局でした。
 実務家の感覚から言わせていただくと、実は、今回の安保法制では、これが、少しだけですが「控えめじゃない戦争」になるだけなんですが。
 立憲主義、つまり「集団的自衛権」という大義名分をめぐる政局は重大でも。
 控えめな戦争。
 これは、ありえません。
 兵站活動(後方支援と言うの止めましょう)を完全丸腰でやっても、です。
 国際法では、全て「戦争」です。
 戦時国際法・国際人道法という「戦争のルール」では、「敵からどう見えるか」が全てなのです。
 自衛隊だけヘルメットに「9」と書いておきますか? 
 自衛隊員は、ずっと、この世界に投入されつづけてきたのです。
 「警察組織」のまま(通常の逮捕権がないという意味では、これ以下かもしれません)、敵から見れば、軍事組織として他の部隊と「一体化」するのに。
 そして、そこでもし「過失」が起これば?
 軍法を持たない日本。
 軍事的過失(つまり戦時国際法・国際人道法)違反に国家として対応する法体系を持たない日本。
 今回の安保法制を含めて自衛隊関連法では、すべて、個々の自衛隊員が主語の「武器の使用」であり、国家が主語の「武力の行使」ではないのです。
 つまり、国家の責を個人が負う
 もう、この政局の”土俵”を根本的に壊すべきです。
 「控えめな戦争」の能天気は、政党だけではありません。
 メディア、世論、特に、そういうことに一番敏感に批判的でなければならないリベラルのそれです。
 「9条のおかげで日本は戦争しないで済んだ」は単なる事実誤認です。
 「このぐらいの戦争で済んだ」は、まさに「控えめ戦争」を後押ししてきた元凶です。
 「9条の下で犯してきた戦争」を、「このくらいで」ではなく、しっかりと「戦争」としてとらえて、是正するべきです。
 安部政権を倒してから?
 ふざけちゃいけません。
 「戦争」止めるのに、時期なんて、ありゃしません。
 ていうか、なぜ、それを野党結集の結節点にしないのですか?
 「戦争」の自覚のない野合が政権とって、どうなりましたか?
 ということで、ネット右翼と区別つかない下品な言葉を投げてくるサヨク(もしかして、なりすまし?)に頭にきている今日この頃ですので、その分、僕のジャズが面白くなっています。
 どうぞ、お越しを!
 2016年3月5日(土)午後7時半開演、大熊ワタル(cl)伊勢崎賢治(tp)ジャズヒケシ
 於:吉祥寺「メグ」http://www.meg-jazz.com/map.html
 with 坂本千恵(p)、鈴木堅登(b)、坂本貴啓(ds)

 その後もあります:
 2016年3月25日(金)午後7時半開演、伊勢崎賢治(tp)ジャズライブ
 於:吉祥寺「メグ」http://www.meg-jazz.com/map.html
 with 坂本千恵(p)、鈴木堅登(b)、坂本貴啓(ds)


伊勢崎賢治
http://kenjiisezaki.tumblr.com/

 志位氏は「今日の国連PKOは、憲法9条をもつ日本がとうてい参加できないようなものに変化している。そこを見ずに政府は20年前の議論をしている」と批判しました。

伊勢崎賢治さんの証言
 インドネシアから独立した東ティモールの暫定知事を務めて、PKF(平和維持軍)を統括していたとき、反独立派の住民によってPKFの一員であるニュージーランド軍の兵士が殺されました。彼は首が掻(か)き切られて耳がそぎ落とされた遺体で見つかりました。
 その時、僕らは復讐(ふくしゅう)に駆られてしまった。僕は武器使用基準を緩めました。敵を目視したら警告なしで発砲していいと。法の裁きを受けさせるために犯人を拘束するという警察行動ではありません。敵のせん滅が目的です。現場はどんどん「復讐戦」の様相を呈してきました。
 結果、全軍、武装ヘリまで動員して追い詰めていったのです。民家などしらみつぶしにして、十数名の敵を皆殺しにした。全員射殺したので、そのなかに民間人がいたかどうかは分かりません。


2016年2月5日(金)付け、しんぶん赤旗
南スーダンPKO任務拡大。「殺し、殺される」危険 現実に
衆院予算委 志位委員長の質問

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-02-05/2016020503_01_0.html

 へえい、じゃあどうするのか、寝る前にちょこっとだけ伊勢崎さんにお付き合いしてみませんか:

権力の暴走を止めるための「護憲的」改憲案を。

 僕はこれまで、憲法9条を変える必要はないという立場でした。
 変えるのであれば、平和や国防をどう考えるのか、しっかりと議論をする必要があるけれど、「中国の脅威」を煽るばかりの現政権のもとでは、そんなことはとても望めそうにない。
 だから、いつかは変えなくてはならないとしても、それは今ではないと思っていたんです。

 しかし、解釈改憲で集団的自衛権の行使が容認され、安全保障関連法(安保法)が成立した今の状況にあっては、そうも言っていられなくなりました。
 ただ「憲法を守れ」と言っているのではダメで、政府の暴走を防ぐための改憲案を、「護憲派」の側こそが示すべきではないか、そう考えるようになったのです。

 なにしろ、今回の安保法だって、あまりにもめちゃくちゃな法律です。
 改正PKO法一つとっても、安倍首相は「PKO5原則」を振りかざして、「停戦合意が破られたら撤退する」と繰り返していましたが、現在のPKOは紛争当事国の同意や停戦合意とは無関係に、「住民を保護する」ことが最優先任務。
 任務遂行のためなら、たとえ自分たち自身は攻撃を受けていなくても武力を行使します。
 戦闘が始まったから撤退するとか、そんなレベルの話じゃないんです。
 それなのに国内の議論はいつまでたっても、20年前の話で止まったまま。

 こんな無責任なことをこれ以上続けさせないためには、憲法でより明確な縛りをかけるしかない。
 そんな思いから考えてみたのが、この僕なりの「9条改憲案」です。
。。。
地位協定を改定して、真に対等な日米関係に。

 ただ、この「改憲」にあたっては、日米地位協定を改定することが大前提です。

【伊勢崎さんの9条改憲案】
日本の施政下のすべての在日米軍拠点(基地および空域)における日本の主権を回復する。具体的には、
1. 地位協定の時限立法化(更新可)、もしくは、米軍の(段階的・完全)撤退時の状況をビジョン化(日本がすべての隣国との領土、領海問題の完全解決等)
2. 在日米軍基地に米軍が持ち込むすべての兵器、軍事物資に対する日本政府の許可と随時の検閲権。
3. 在日米軍基地が日本の施政下以外の他国、領域への武力行使に使われることの禁止。

 現状の協定では、米軍はどこでも好きに軍用機を飛ばせるし、兵器の持ち込みに許可もいらないし、駐留期限の定めすらない。
 日本に、まったく統治権がないんです。
 こんなこと、他の主権国家ではありえません。


 この異常さは、アメリカが他の国と結んでいる地位協定を見てみれば分かります。
 対イラクの協定にさえ、僕がいま挙げたようなことはきちんと定められていました。
 駐留期限についても「2011年末までに米軍は完全撤退する」とある。
 国民の反米感情の高まりを受けて、イラク政府が米政府と粘り強く交渉した結果です。
 そういう条件交渉は、十分に可能だということです。

 多くの日本人にはそもそも、他国の軍が自国にいることがおかしいという感覚がありません。
 でも、ずっと占領状態が続いていていいはずはないんだから、「どういう状態になれば米軍基地がいらなくなるのか」というビジョンを持つべきです。
 例えば「すべての近隣諸国と領土・領海紛争がなくなったとき」というような……。

 これは、日米関係を解消するとか、そういう話ではありません。
 ただ、国内にある米軍基地を、他の国にあるのと同じレベルの「普通の基地」にしようということです。
 それによって初めて、日本は本当の意味でアメリカと対等な同盟国になり、主体性を取り戻すことができる。僕は、そう考えています。

※「新9条案」についても詳しく触れた、伊勢崎賢治さんの最新刊は、『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』(毎日新聞出版、2015年11月)


伊勢崎賢治さんインタヴュー
https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/160112/?sid=top_main

 2016年4月9日、伊勢崎賢治氏講演会を神戸で行ないます。
【戦争法の最初の適用は南スーダン?】
 安倍政権が戦争法を最初に適用するのは南スーダンでの自衛隊のPKO活動といわれています。
 現在は道路整備など、武力紛争で破壊されたインフラの整備に協力していて、武器をとって紛争当事者と戦うことはしません。
 しかし、これからは、「住民保護」などのため武装勢力を武力で掃討する場面が出てくるかもしれません。
 その武装勢力とは飢えを満たすために武装集団に入った少年たちかもしれません。
 私たちは、いや戦争法に賛成した議員のほとんども南スーダンの現実をほとんど知らず、自衛隊がどんな役に立つかも知らないままに、その活動を軍事側に拡大しようとしているのです。

【本当にPeaceをKeepしているのか?】
 Peace Keeping Operation なのだから平和を維持する活動だろう、それなら国際貢献ということで拡大してもいいじゃないか、と勘違いしている人もいます。
 公明党などは平和への国際貢献を推進する力になったとさえ主張していますが、実は政治家も市民も現実を知らなさすぎると伊勢崎さんは指摘しておられます。
 東チモールで国連PKO部隊の統括をする司令官として活動された伊勢崎さんから、PKO活動の内容と戦争法の影響を現実に即したかたちで学びましょう。

【日本ができる平和への国際貢献とは?】
 平和は万人の願い。
 でも私たちはキナ臭いことにいつも反対するけれど、日本ができる平和への国際貢献とは、現実的な平和構築の方法とは、ということに十分に気持ちを向けることができていません。
 反対したいことがいつもいっぱいあって、活動の大半が○○反対の運動になるという事情もあります。
 武力で平和はつくれない!!といくら叫んでも叫び足りない現実。
 でも、本当に必要なのは、平和構築のための対案かもしれません。
 憲法第9条を掲げているだけで、平和の思想を身につけているとは言えない日本人には9条はもったいない、という発言もしてこられた伊勢崎さんから、現実的な平和構築の方法を学びましょう。


2016/2/10 18:41更新
KOBEピースiネット(「非暴力で平和を!私たちにできること」を合言葉に、平和をめざして活動する市民のネットワークです。関連情報の共有、平和をめざす活動の紹介、サポート、そのための場の提供を行います)
PKOの専門家・伊勢崎賢治氏講演会 in 神戸
http://peace2014.blog.fc2.com/blog-entry-68.html


 
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コルタン

 またまた舞い戻ったアフリカ、野生動物、ジャングル、資源、難民、PKO…

 アフリカ大陸では、国連広報センターのHPで見る限り、国連PKO活動は西サハラ、マリ、中央アフリカ、コンゴ、ダルフール、スーダン、南スーダン、コート・ジボアール、リベリアで展開されています。国連広報センターで検索した16ヶ所のPKOのうち、何と9ヶ所がアフリカです。
 中国がアフリカ大陸への経済進出と政治的影響力の拡大に積極的に動いており、日本は米国の副官としてアフリカを舞台に中国をけん制する動きをしています。
 その意味で今後将来にわたり、アフリカ大陸は日米にとり戦略的重要地域と思われます。
 2007年にAFRICOMを創設したのは、米国がアフリカ大陸への軍事的、政治的覇権を及ぼすためであったのでしょう。
 ジプチはこのような米国の戦略に日本が協力するための重要な拠点基地となるはずです。日本政府は、ジプチを拠点として南スーダン以外にもアフリカでのPKO活動へ自衛隊を派遣するつもりではないでしょうか。その際に安保法制が機能することになるでしょう。自衛隊は今後アフリカ各地のPKO活動に参加し、アフリカ各地での部族紛争、内戦などに巻き込まれる恐れがあります。

 アフリカは2030年までにはインドをしのぐ人口となると見られています。サハラ以南の地域経済は2000年以降世界経済を上回る経済成長をしています。レアーアース、石油、天然ガスなど資源が豊富です。いわば「地球上の最後のフロンティア」なのでしょう。
 安倍政権はアフリカへの強い関心を持って取り組んでいます。
 2013年6月1日から3日、第5回アフリカ開発会議を横浜で日本政府が主催しました。
 2014年1月10日から14日、安倍首相はアフリカを訪問しました。コート・ジボアール、モザンビーク、エチオピアを訪問し、アフリカ連合(AU)本部で演説までしました。アフリカ訪問中に13ヶ国の首脳と会談し、アフリカ訪問には33の民間団体、企業団体、大学の代表者が随行してトップセールスを展開し、3.2億ドルの開発援助を約束しました。
 2014年9月26日、PKOに関する国連ハイレベル会合で安倍首相が演説し、PKO活動への積極的参加を述べ、特にアフリカにおけるPKOの早期展開を喫緊の課題と述べました。
 安倍政権のアフリカ政策は、米国に従属しながら軍事的協力を深め、その中で経済進出をすすめようとしています。
 PKO協力法改正はその手段となるでしょう。


 国連PKO活動は、停戦合意や受け入れ同意を前提にした兵力引き離しや停戦監視活動(ゴラン高原、キプロス、カシミールなど)や、新たな国家を建国・再建するための支援(カンボジアや東チモールなど)から、住民保護へと大きく変質してきています。
 2000年以降のPKOは、安保理決議により武力行使権限が付与されるようになっています。
 内戦が収束していない状態や、武装勢力が活動しているような状態で、派遣されたPKOは住民保護や治安維持活動とそのための武力行使権限を付与されています。
 いわば維持すべき平和がない状態での平和維持活動です。
 南スーダンPKOがそうなっています。アフリカでの多くのPKO活動も同様です。

 安保法制で改正されたPKO協力法はこのようなPKOの変質に対応するものです。
 安保法制で新たに付け加わった活動である「住民保護、特定地域の治安維持活動」(第3条5号ト)、「駆けつけ警護活動」(第3条5号ラ)、「宿営地共同防護」(第25条7項)や任務遂行のための武器使用(第26条1項)がそれです。
 これらの任務や武器使用権限を付与された自衛隊は、派遣地域で治安維持活動や住民保護活動、それを妨害する武装勢力に対する戦闘行為を行なうことが可能になります。


2016年2月12日NPJ通信
憲法9条と日本の安全を考える
弁護士・井上正信
http://www.news-pj.net/news/37231

 もう一度、レアーアースの「コルタン」登場!

【ヨハネスブルク高尾具成】アフリカ中部コンゴ民主共和国(旧ザイール)東部で、反政府勢力「人民防衛国民会議」(CNDP)が主要都市ゴマに向け進軍している問題で、戦闘は2008年10月31日、ゴマ北方を最前線に小康状態に入った。しかし避難民の大量移動はルワンダ、ウガンダへ向けなお続いている。戦闘の背景には携帯電話向けなどに世界的に需要が高まるレアメタル(希少金属)の一つ、コルタンを巡る利権争いがあるとされる。

 CNDPは31日、ゴマ空港に拠点を置く国連平和維持活動部隊「国連コンゴ監視団」(MONUC)とのにらみ合いを続けている。コンゴ民主共和国には国連最大規模の約1万7000人が展開するが、ゴマ周辺には約850人しか駐留しておらず、増員には数日かかる見通しだ。

 CNDPのツチ系指導者ヌクンダ将軍は30日、MONUCに対し、人道的な救援や避難の道は開くと伝えた。

 コルタン鉱石の鉱床は、CNDP支配地域の北キブ州などが中心で、武装勢力が採掘権を独占してきた地域に政府が入り込み、利権争いが戦闘に発展したとみられる。

 コルタン(コロンバイトとタンタライトの略語)はオーストラリアやカナダなどが主要産地だが、埋蔵量はコンゴ民主共和国が世界一ともいわれている。

 コルタンから精錬される金属タンタルは、電子部品に不可欠な鉱物資源で、携帯電話やコンピューターなどで使用されている。欧米や、日本を含むアジアの企業が大半を買い占めており、価格が上昇している。

 国連の報告書によると、コンゴ民主共和国では、武装勢力が配下に置く地元住民にコルタン鉱石などを不正に採掘させ、武装勢力を支援するウガンダ、ルワンダなどを介して輸出。武器調達の資金源としているという。

2008/11/01付け毎日新聞朝刊
コンゴ民主共和国:戦闘の背景に希少金属争奪 武装勢力利権に政府介入


出所:ブラッディ・コルタン あなたの携帯でコンゴは血まみれ―2009/06/06 09:04
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/06/06/4346362

 ごま? ゴマ? 酒? サケ?

 コンゴ(旧ザイール)の反政府武装勢力「M23」(注1)のメンバーにインタビューした。現地で知り合った朝日新聞ナイロビ支局の杉山正支局長が、連絡先を教えてくれた。パトリック・ムゼイさん(39)にはM23が撤退を始めると伝えられた2012年11月28日にゴマで取材し、彼は英語の質問に英語で答えてくれた。

 「正直に言いましょう。私が最初に加わったのはルワンダ軍、1993年のことです」
 ムゼイさんは、コンゴ東部、北キブ地方のルチュルで生まれたツチだ。ツチの人たちはルワンダ、ブルンジ、コンゴなどにまたがって暮らしている。ゴマの大学でマネジメントを学び、鉱石コルタンや金を商う地元の会社に入ってドイツとの商談にあたった。2年間勤めたとき、どうしても戦わなくてはならないと感じた。
 「コンゴのツチは、コンゴの中では認められず、ルワンダでも認められない中途半端な立場なのです。ツチによってルワンダの反政府武装勢力RPF(ルワンダ愛国戦線、後のルワンダ軍)が結成されたとき、参加しました。父親はルワンダで教師をしていましたが、私が戦いに行くと言うと、バス代を出してくれました。今もルワンダに住み、M23に加わったことも理解してくれ、私の妻と子どもを支えてくれます」
 「コンゴのツチのために、私はルワンダの軍に入った。コンゴのツチが自由になるには、ルワンダのツチを自由にしなければならないと考えていたのです。そのルワンダで1994年にフツによるツチの大虐殺が起きました。我々がそれを収束させ、追われたフツの武装勢力が大量にコンゴに逃げました。追討するため、コンゴに入ったのです」
 事態が収まった時、ムゼイさんはルワンダに戻らなかった。複雑なコンゴ内戦の展開で、反政府武装勢力が政府軍に統合される。だが、そのたびにツチに対する待遇をめぐり、政府軍の中から反政府武装勢力が組織される。ムゼイさんは、反政府武装勢力―政府軍―反政府武装勢力―政府軍と渡り歩いた。そして今年4月、反政府武装勢力のM23に加わった。
 「私は常に、ツチの自由のために戦ってきました。それが、コンゴ人の自由のためにもなると信じています。政府軍、武装勢力と立場を変える時も、その軸が揺らいだことはありません」
 「戦い続けたくはないのです。でも、戦い続けなければならない。私は目の前の敵を撃ち殺したことはありません。ですが、戦闘ですから私が撃った弾に当たって死んだ人はいるかもしれません。毎日、神に祈りますが、それは自分のための祈り、自分に力をくださいという祈りです」
 最初は戦うことが怖かったが、次第にその感覚は変わったという。
 「あまりに多くの仲間の死に居合わせました。次は自分の番だと思います。少しも死ぬのは怖くありません。そこで怖くなって逃げる人間は、何のために戦っているか、わかっていないのです。人はいつか死ぬのです。車の事故で死ぬかもしれない」
 政府軍、反政府武装勢力と立場がしばしば逆になるため、友人や知り合いが敵になることもある。
 「でも、それがね、軍隊というものなのですよ」
 11歳と3歳の娘がいる。もう半年、会っていない。
 「実はさっき、妻とは半年ぶりに会いました。もう戦うのをやめて家族の元で暮らして、と言われました。私だってそうしたいと思うことはあります。でも、崇高なことのために戦わなければならないということを、妻も理解してくれないといけない。もし、状況がよくならず、いつの日か娘が戦うと言い出したら、私の父がそうしたように、私も娘の背中を押すでしょうね」
 M23から給料は支給されないという。食べ物も十分ではないことがある。
 「今回のサケ(ゴマ西方にある交通の要衝)をめぐる戦闘で、私は2日間、何も食べませんでした。それでも戦える精鋭がそろっています。もちろん、いつも気持ちが強いわけではありません。正直に言って、娘たちのことを思うと気持ちが弱くなることがあります」
 「戦って楽しいことなど何もない。何もありません。ただ、今回、ゴマに入った時には気持ちが高揚しました。みんなすごく歓迎してくれましたよ。私はまだ撤退命令を受けていません。でも、私たちが撤退して一番困るのはゴマの人たちではないですか。私たちがここに入って、盗みはなくなり、銃を使った犯罪もなくなった」
 つい最近、M23の大尉に昇進したが、階級には興味がないという。もし戦うことをやめたら、商売で身を立てるか、学校に入り直してマネジメントを学びたいという。
 「私のおばが、福島に住んでいます。コンゴで学校を終えて、ルワンダに働きに出て、そこから日本に服飾を学びに行きました。その縁で、ルワンダの虐殺が起きた後、日本に渡りました。今も年に2度ほど戻ってきます。日本で何をしているのかまでは知りません」
 「ルワンダは悲惨な虐殺を体験しましたが、今の発展ぶりをみましたか。それはルワンダ人の一人一人が、ルワンダのことを真剣に考えた結果だと思うのです。コンゴの問題はコンゴの人間が解決するしかありません。この混乱が続くのは、コンゴ人がコンゴのことを真剣に考えていないということなのです」
 M23が残虐行為を行い、少年兵を使い、天然資源を戦闘の資金に使っているという疑惑についても聞いた。いずれも、それは全くないという「公式回答」以外を引き出すことができなかった。ルワンダの支援を受けているという指摘については「私は知らない、支援があるとしても、もっと上の人間でなければわからない」と言った。
 ムゼイさんは、終始、教え諭すような笑みを浮かべながら静かに語った。娘たちのことを思うと、と話した時、目が潤んでいるように見えたけれど、それはこちらの思い込みかもしれない。

 福島に住むおば、というのは朝日新聞にも何度も登場したことのあるカンベンガ・マリールイズさん。NPO法人「ルワンダの教育を考える会」(注2)の理事長を務めている。


2012年12月3日朝日新聞「アフリカの風に吹かれて」
「ツチの自由のために」 出口見えぬ戦闘と葛藤 @ゴマ
江木慎吾
http://www.asahi.com/special/news/articles/TKY201302260562.html

(注1)「M23」
The Guardian, Last modified on Wednesday 27 January 2016 02.18 GMT
Congo: Why UN peacekeepers have a credibility problem ;
Unraveling a war involving nine countries and 40 rebel groups was never going to be easy. But there's a glimmer of hope
Christoph Vogel in Bukavu
http://www.theguardian.com/world/2013/aug/30/congo-un-peacekeepers-problem

(注2)「ルワンダの教育を考える会」
http://www.rwanda-npo.org/introduction/


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2016年03月01日

越辺川沿い

 「越生梅林梅まつり」の続きがまだ残ってるってヤッホー君!
 「山吹の里歴史公園」から見えた「世界無名戦士の墓」です。

世界無名戦士の墓.JPG

 「かわらばん2月号」で案内したコースは、越生駅から「世界無名戦士の墓」を通って山に分け入り、山越えして越生梅林に向かうはずが、諸般の事情により2月最終日曜日は、越辺川( おっぺがわ)沿いに向かうことに修正、と相成っておりました。
 この「世界無名戦士の墓」、議会でも取り上げられています。

 白亜の塔は世界平和の象徴であり、築50年を経過し登録文化財も視野に入れ、顕彰会とも相談し平和記念の歴史公園にできないか検討、と町は木村正美議員(無所属)の質問に答えています。
http://www.town.ogose.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/13/gikai_146.pdf

 毎年5月の第二土曜日には「世界無名戦士之墓慰霊大祭」が開催されています。
 
 2013年、埼玉県越生町内で行われた「第50回世界無名戦士の墓 慰霊供養と平和の祈り」に参列しました。
 この世界無名戦士の墓、御霊廟は、元埼玉県議会議員・故長谷部秀邦先生が中心となられて、恒久平和を祈願することを目的に1954(昭和29)年に建てられた慰霊塔です。
 太平洋戦争で世界各地に散った戦没者の遺骨が土に埋もれているのを悲しみ、彼我の区別なく供養されていて、その建立にあたっては、越生町内を中心とするのみならず、全国の多くの方々の浄財がよせられたそうです。また本日も開催に当たられた立正佼成会川越教会の皆様により毎月御霊廟の清掃活動が続けられています。
 越生町により関東平野を一望できるよう木立が整備されていて、ここに毎日お参りされる本清顕彰会会長とご一緒に景色を堪能いたしました。
 今朝、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決定いたしました。
 東日本大震災からの復興、・福島第一原発事故・汚染水問題など乗り越えなければならない課題も山積していますが、世界中から安全安心な日本をと願われ、また日本人も世界の中で認識共有できる国際感覚が醸成されていく機会となる、“新たな飛躍のスタートライン”に立ったのだと感じます。
 慰霊祭に参加して、改めて平和の大切さを発信出来る国『日本』の国づくりに努めていきたいと強く思いました!


2013年9月8日、衆議院議員(民主党)小宮山泰子ホームページ
第50回世界無名戦士の墓 慰霊供養と平和の祈り
http://www.yasko.net/2013/09/post_1609.html

 実はこの人、世襲議員でお父さん小宮山重四郎の字が春日神社の舞殿に掲げられていました。

春日神社舞殿.JPG

 「春日神社」といえば古いですねぇ。「由緒」によりますと:

 782(延暦元)年創建。
 当地内裏山獅子岩の傍らに祭祀されたるを、征夷大将軍坂上田村麻呂、東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を増築し内裏大明神と称す。平将門が内裏を置いたとされる。後、延喜年中、常陸大掾、平国香(将門の伯父)が修繕、松山城主上田能登守の再建を経て、元禄4年「春日神社」と改称し、越生十六郷の総鎮守と定むる。

 集合写真をここでパチリ:

春日神社.JPG

 てくてく、越生梅林へとすすむとなにやら「医聖」の碑が:

医聖.JPG

 この医聖、「田代三喜」がヤッホー君、なめそこなった「一里飴」を発案した方でした:
 
 約400年前、武州越生(埼玉県越生町)に生まれた田代三喜は、関東管領 足利成氏の主治医となった。
 その頃蜂蜜入り医薬あめ玉を作る。
 その飴がこの「一里飴」。


埼玉県民涙目!「一里飴」は全国区の菓子ではない【埼玉三大銘菓】
http://news-act.com/archives/44808862.html

 田代三喜は室町時代の末期に越生(現・埼玉県)に生まれ、医学を学ぶために僧となり明に留学し、李東垣・朱丹渓の医学(李朱医学)を学び、我国に導入した人物である。。。
 近世における東洋医学の歴史に触れると、まず最初に登場する人物が田代三喜(1465〜1537)であり、その次に登場する人物は曲直瀬道三(1507〜1593)である。
 道三は京都に生まれ、22歳のとき足利学校に遊学し医学を学んだ。
 その後、田代三喜と出会い、三喜の門に入り師事すること7年間、李朱医学を学んで京都に帰り、啓迪院という学舎を開き医学教育を行った。
 啓迪院には多くの門人が集まり、道三流の一大学派を形成するに至っている。

 田代三喜が歴史上に名を残すことになったのは、道三が日本文化の中心地、京都で門人を教育したことによる。
 道三あっての三喜、三喜あっての道三との関係になる。
 三喜が住んで活躍した関東地方の古河や足利は京都から遠く隔たったところである。
 李朱医学を道三に伝授した師として、またその開祖として日本の近世医学に多大な貢献を果たしたのは確かであるが、残された資料も少なく不明となっている部分も多くある。
 三喜に関する資料は、没後350年を経て栃木県佐野の漢方医で浅田宗伯と親交のあった服部政世なる人物が1889(明治22)年9月、当時残されていた三喜に関する文献を整理し、正伝をまとめ「三喜備考」として出版したという。明治以後、三喜伝記の基本資料とされているものである。。。


2010年、東京有明医療大学(江東区有明2-9-1 Tel 03-6703-7000)
雑誌Vol.2:45‒48所収
中山清治、我国後世派医学の祖「田代三喜」、日本漢方医学の源
http://www.tau.ac.jp/outreach/TAUjournal/2010/11.pdf


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駆けつけ警護

 今日から早いものでもう、弥生。
 今日もピース、ピースと鳴いてるヤッホー君。
 がんばんなくってもいい「ふつう」が一番、ってひとり合点してるヤッホー君。

Jeremy Corbyn addresses anti-Trident demonstration
http://www.theguardian.com/world/video/2016/feb/27/jeremy-corbyn-addresses-anti-trident-demonstration-video

 英ロンドン(London)で2月27日、同国の核ミサイル「トライデント(Trident)」を搭載した潜水艦の再開発に反対する抗議集会が行われ、たくさんの人々が参加した。
AFPBB News 2月28日(日)9時49分配信
ロンドンで大規模な反核兵器デモ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160228-00010001-afpbbnewsv-int

 さっそく今日は「駆けつけ警護」って何〜に?

 特定秘密保護法は集団的自衛権と一体のものとして、10年も前に米国から押し付けられていた―
 元外務省国際情報局長の孫崎享氏が2015年9月29日、新橋駅頭で開かれた「秘密保護法に反対する集会」で改めて明らかにした。孫崎氏は外交文書をもとに以下のように話した。
 2005年10月、米国のラムズフェルド国防長官、ライス国務長官と日本の町村信孝外相、大野功統防衛長官が「日米同盟:未来のための変革と再編」と題する合意文書に調印した。
 内容は日米同盟の強化を謳った内容だ。別段驚きもしない。履行すべき事項がまるで夏休みの宿題のように事細かに並べられている。
 「機雷の掃海」「空中給油」…日本にとって集団的自衛権の行使に関わるオペレーションが書かれている。「PKOでの駆けつけ警護」も登場する。
 合意文書では「日米の相互活動を円滑化するため共有された秘密情報を保護するために必要な追加措置を取る」とある。孫崎氏によれば、これが特定秘密保護法である。
 安倍晋三総裁や山口那津男委員長をはじめとする自公の幹部が、ナントカの一つ覚えのように繰り返していた「安全保障環境の変化」もこの合意文書に出てくる。
 2005年に合意した時、日本は自民党政権だったが、2009年に民主党政権が誕生する。

 鳩山由紀夫首相が日米関係を「対等なパートナーシップ」と宣言したため、宗主国の逆鱗に触れた。
 2005年の日米合意を推進するのに目障りとなったため、米国は鳩山潰しにかかったのである。
 手直なネタとして「沖縄米軍基地の県外移設」という選挙公約を鳩山政権が履行できそうにないことがあった。
 米国はマスコミを使って徹底的に鳩山首相を叩き、官僚と共に鳩山氏を追い詰める。発足から半年余りで鳩山政権は倒れた。
 米国の意に沿わぬ政権は潰されるのである。宗主国に忠実な「アメポチ政権」ほど長続きする。


 特定秘密保護法は、米国の要望に沿う一方で日本国民の知る権利を奪う。アメポチ政権にとって実に好都合な法律なのである。


2015年10月1日 22:54BLOGOS(ブロゴス)- 意見をつなぐ。日本が変わる。
(田中龍作)10年前に決まっていた 秘密保護法と戦争法制
http://blogos.com/article/137036/

 そうでしたかぁ…2005年「日米同盟:未来のための変革と再編」合意、そして2009年民主党政権、そして2015年戦争法あ成立!
 だから、2007年に天木直人はブログにこんなことを記していたんですね。
 ということは、この国にはやはりコクミンに真実を伝え、その意味を問い、権力にブレーキを踏ませるセイジ家もジャーナリストもいない、ということのようですね。
 ひたすら耐えがたきを耐え、がまんしてこらえ、忍従し盲従し追従し、ついには従軍し命を落とす、と(注1):
 
 だから今日のブログでは「駆けつけ警護」問題について書く。
 この問題は、これまでのところまったくと言っていいほどメディアが取り上げない。
 インターネットの世界では毎日のように大騒ぎになっているというのに、新聞やテレビはまるで発言そのものがなかったかのように無視し続けている。
 これは異常だ。
 あたかも一つの大きな意思が働いて黙殺しているかのようだ。
 このまま「駆けつけ発言」問題は終ってしまうのか。
 いや、断じてそうさせてはならない。
 そうは行かないだろう。
 事の発端は2007年8月10日のJNNで、佐藤参議院議員(元陸上自衛隊サマワ派遣隊長)が、「駆けつけ警護」を行うつもりだった、法によって裁かれても覚悟のうえだった、と発言したことである。  
 「駆けつけ警護」という聞きなれない言葉の意味するところは概ね次のごとくである。
 すなわち、今の憲法の解釈では集団的自衛権は認められていない。
 だから同盟国の軍隊が戦闘に巻き込まれても自衛隊は助けることが出来ない。
 しかし情報収集などの理由により現場に駆けつけて敵の攻撃に巻き込まれれば、憲法で容認されている個別的自衛権の発動という名目で応戦できる。
 だから「意図的に駆けつけて戦闘に巻き込まれる状況を自らつくりだし、敵との戦闘に参加する」、そういう意味だ。
 佐藤発言は重大かつ深刻である。
 意図的な脱法行為であるというだけではない。
 違憲行為を承知の上で行おうとしていたのだ。
 そのことが図らずも本人の口から発覚したのだ。
 佐藤はただの自衛官ではない。
 サマワへ派遣された初代の陸自隊長である。
 その隊長が「法に裁かれる事を覚悟して行うつもり」でサマワ派遣隊を率いていたのだ。
 佐藤の意図を政府や官僚が知らなかったのであれば、もちろんシビリアンコントロールの逸脱である。
 しかもその考えが佐藤個人の考えにとどまることなく幹部が了承した自衛隊制服組の組織的な考え方であったとすれば、これはシビリアンコントロールの逸脱を通り越して軍事クーデターである(注2)。
 ひょっとして政府、防衛省が知っていたのかもしれない。
 そうであれば国家が違憲行為を犯していたということだ。 
 何としてでも真相が追究されなければならない。
 メディアはその重大性を国民に知らせ、国民に問題意識を持たせなければならない。
 それがジャーナリズムの使命ではないのか。
 国会の場であらゆる審議をした上で真実が国民の前に情報開示されなければならない。
 佐藤議員の議員辞職などで終らせてはならないのだ。
 それにしても、何故新聞やテレビが取り上げようとしないのか。
 佐藤の失言を大げさにしたくない理由が政府、防衛省にあるに違いない。
 だからこそ権力に迎合してしまったメディアが政府を窮地に追い込むことをしないのだ。
 そう思っていたら、ついに2007年8月21日の読売新聞が社説の中で「駆けつけ警護」を可能にすべきだと堂々と書くに至った。
 佐藤発言が問題になる前に、先手を打って佐藤発言の正当性をアピールしているのだ。
 しかも読売新聞の社説は、小沢民主党が国連平和維持活動への参加に前向きな発言をしたことを逆手にとって、「ならば国際標準にあわせて任務遂行の為に武器使用を認めるべきだ、自衛隊の海外派遣に関する恒久法の整備が必要だ」などと悪乗りする始末である。
 佐藤の「駆けつけ警護」発言が問題にされないばかりか、読売新聞のこのような社説が大手をふってまかり通ることことを許す今の風潮に政治の劣化を見る。
 その最大の責任はもちろん野党の問題意識の欠如にある。
 国会から安保論争がなくなって久しい今の政治状況がある。
 野党政治家が佐藤発言を追及しなくて誰ができるというのか。
 それこそが野党政治家の仕事である。
 そもそも野党第一党の民主党は安全保障問題について政府・自民党と立場が基本的に同じである。
 だから佐藤氏の「駆け込み警護」発言を正面から取り上げようとしない。
 今こそ護憲政党を売り物にしてきた日本共産党や社民党の出番のはずである。
 ところが、日本共産党や社民党にこの問題で政府、防衛省を追及しようとする気迫はまったく伝わってこない。
 日本の政治状況は深刻である。


2007-08-22 22:06:47
「駆けつけ警護」発言を報じないメディアと野党の責任(天木直人のブログ8/22)
http://ameblo.jp/wayakucha/entry-10044323958.html

 そして先月2月、と言っても10日前のこと:

 幅広い専門家らの「憲法違反」の指摘に反し、安倍政権が安全保障法制を成立させたのは昨年9月19日のことだった。
 それからちょうど5カ月。
 民主党と維新の党がきのう、対案として、領域警備法案、周辺事態法改正案、国連平和維持活動(PKO)協力法改正案の3法案を国会に共同提出した。
 さらにきょう、共産党、生活の党と山本太郎となかまたち、社民党も加えた野党5党が「違憲」の安保法制を廃止する2法案を国会に提出する。
 予定通りなら安保法制は3月に施行される。法制成立から5カ月後の対案提出は、遅きに失した感は否めない。
 それでも「違憲」法制をこのままにはできない、もう一度議論を巻き起こしたいと野党各党が一致した意義は大きい。
 政府の安保法制は、憲法9条の縛りを解き、地球規模での自衛隊の派遣と、他国軍への支援を可能にするものだ。
 これに対し、民主党は「専守防衛に徹し、近くは現実的に、遠くは抑制的に、人道支援は積極的に」と主張する。

 日本の安全に資するには、海外での武力行使に道を開くよりむしろ、日本防衛や日本周辺での活動を中心に、憲法の枠内での法整備を考えるべきだ、という指摘だろう。
 維新の党と共同提出した対案も、その線に沿っている。現実的な考え方として国会で議論する価値はある。
 与党多数の国会では、野党の対案はなかなか審議されず、たなざらしにされがちだ。
 だが、多くの疑問や反対を残したまま法制を施行することは、安保政策を安定的、継続的に運用する観点からも望ましくない。政府・与党も、すすんで議論に応じてはどうか
 夏には参院選がある。安保法制が本格的に運用されるのは、そのあとになりそうだ。
 PKOに派遣する自衛隊への「駆けつけ警護」任務の追加や、米軍への弾薬提供など後方支援を広げる日米物品役務相互提供協定(ACSA)改定案の国会提出は参院選後に先送りされる。反発を再燃させたくないという判断だろう。
 こうした政府の動きに、野党がどう向き合うかが問われる。
 憲法が権力を縛る立憲主義を守っていく。安保政策に違いはあっても、「違憲」法制を正す議論には党派を超えて粘り強く挑み、市民とともに幅広い連帯を育てていく。
 それが安保法制に疑問や不安を抱く民意に対する、野党の責任ではないか。


2016年2月19日05時00分更新、朝日新聞(社説)
安保・野党案 「違憲法制」正す議論を
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12216115.html?rm=150

(注1)
 最近、京都の大学で講演した際、参加者の女性からとても興味深い話を聞いたのだ。このことについては「週刊金曜日」2月12日号の「『戦争』というビジネスチャンス」という原稿でも触れたのだが、今一度、紹介したい。
 話を聞かせてくれたのは、児童養護施設で働く女性。その施設を「卒業」した若者の一人がガードマンとなったのだが、最近彼と会い、驚いたという。
 警備会社なのに、このところ海外での仕事が多いらしいのだ。しかも海外での仕事内容は、ライフル銃の扱い方なんかの「軍事訓練」のようなもの。彼いわく、「自衛隊は人を守れても人を殺せるわけじゃない、自分たちは自衛隊より人を殺すのが上手い」とのこと。また、今年の夏にはある国に行くことになっており、そこに行くととても高額な給料が貰えるのだという。現在も社内での募集がさかんに行われているそうだ。

 警備会社には、最初はアルバイトで入ったという。しかし、いつからか正社員となっていたその男性。会社名もわからなかったのでもちろん裏は取れていない。しかし、「給食から暗殺まで」が民営化され、数千の下請け会社が米軍の後方支援の仕事を請け負ったイラク戦争を思えば、さもありなんという気がしてくる。事実、戦争に必要なのは兵士だけではない。イラク戦争に関わる業務を請け負った民間企業は、基地建設や物資輸送、給食、洗濯、車両整備、売店やスポーツジム運営などあまりにも幅広い業務を担った。その中でももっとも重要視されていたのは「警備」の仕事だ。物資輸送の警備、基地や大使館の警備、移動の警備。戦場でもっとも必要とされる仕事であり、もっとも襲われるリスクが高く、もっとも死亡率が高い仕事だろう。

 ちなみに、自衛隊がイラク・サマワに派遣された際、現地に棺桶が持ち込まれたのは有名な話だが、同時に医官と衛生隊員が関西の葬儀社でエンバーミング(遺体の防腐処理や修復など)の研修を受けている。死者が出ることが想定され、既に10年以上前の時点でそんな研修がなされていたのだ。
 翻って、現在。警備会社や葬儀社を取材してみることで、なんだか見えてくることがありそうだ。
 なんたって、既に民間の船員は予備自衛官にされようとしているのである。


2016年2月24日up雨宮処凛がゆく!
戦争に必要なのって、別に軍事的なものだけじゃないという問題〜最近いろいろ気になること〜の巻
http://www.magazine9.jp/category/article/amamiya/

(注2)
 きょう2016年2月29日の産経新聞が一面トップで書いた。
 有事想定 自衛隊作戦、統幕が策定 来月にも手順決定、と。
 もし東京新聞がこのような記事を書いたなら、それは、文民統制(シビリアンコントロール)逸脱への警鐘を鳴らすはずだ。あまりにも危険だ、と国民に教える記事になっていたに違いない。

 しかし、きょうの産経新聞は真逆である。そのことを歓迎している。

 すなわち、昨年6月に改定された改正防衛省設置法により制服組と背広組の対等な立場が明確化された。
 だから、有事を想定した自衛隊の作戦計画を統合幕僚監部が作成するのは当然だ、といわんばかりだ。

 私が問題とするのは、こんなことを平気で一面トップに掲げた産経と、それを黙認するメディアの変わりようである。
 一人東京新聞だけが警鐘を鳴らしている。
 これは恐ろしいことである。
 一昔前なら国会がストップした産経新聞の記事だ。
 それなのに国会は騒がない。
 すべては一強多弱の政治のなせるわざである。
 なぜ野党が弱くなったのか。。。


29Feb2016 天木直人のブログ
「自衛隊作戦を討幕が策定するようになる」と報じた産経
http://天木直人.com/2016/02/29/post-4015/


posted by fom_club at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする