2016年02月29日

山吹の里歴史公園

 ではさっそく昨日の山歩クラブお散歩会「越生梅林梅まつり」の振り返り、です。
 越生駅を降りて10人で朝のごあいさつをし、大きな案内図で今日のコース説明をしました。
 ここで歩き出していたヤッホー君。
 もう行きそびれたところがでてきました、それは埼玉三大銘菓「一里飴(いちりあめ)」の製造販売店を訪れて、買って飴をなめなめ歩くことでした!
 駅そばの「住吉屋製菓」さん(埼玉県入間郡越生町越生699、Tel 049-292-2878)。

http://news-act.com/archives/44808862.html

 線路を渡っててくてく、よちよち、ぽこぽこ、ん?春の珍事?先頭はハルちゃん!
 まずは、「山吹の里歴史公園」

越生町役場公式サイト「山吹の里歴史公園
http://www.town.ogose.saitama.jp/div_keizai/sec_kankou/spot_yamabuki.html

 う〜ん、三浦海岸「小松ヶ池公園」に引き続いての哀しい話。
 このお話しはね、早稲田へのお散歩会のとき、「面影橋」のたもとで碑を読んで学んだはず…
 ヤッホー君のこのブログ、昨年の春、2015年3月23日付け日記「春は神田川」をご参照ください。

 都電荒川線「面影橋駅」(新宿区西早稲田3)のすぐ北に、神田川の上に架かった小橋が有ります。
 その名を”面影橋”と呼ばれ、たもとには「山吹の里」の碑(豊島区高田1-18)が建っています。
 この辺から下流の江戸川橋までの一帯は昔「山吹の里」と呼ばれていた所です。
 江戸川橋の右岸(南側)が「新宿区山吹町」と今も呼ばれています。
 この地にはこんな逸話があります。
 落語の中の逸話と同じで詳しく書くと、

 狩りをしているうちに豊島郡の高田という土地のあたりまで来たところ急に雨が降り出し、一軒の農家を見つけた。道灌は蓑を借りようと、農家に入り、声をかけると、出てきたのはまだ年端もいかぬ少女であった。貧しげな家屋に似合わず、どこか気品を感じさせる少女であったという。
「急な雨にあってしまった。後で城の者に届けさせる故、蓑(=みの、合羽)を貸してもらえないだろうか?」
 道灌がそう言うと、少女はしばらく道灌をじっと見つめてから、すっと外へ出ていってしまった。
 蓑をとりにいったのであろう、そう考え、道灌がしばし待っていると、少女はまもなく戻ってきた。
 しかし、少女が手にしていたのは蓑ではなく、山吹の花一輪であった。
 雨のしずくに濡れた花は、りんとして美しかったが、見ると少女もずぶ濡れである。
 だまってそれを差し出す少女は、じっと道灌を見つめている。
 この少女は頭がおかしいのであろうか、花の意味がわからぬまま、道灌は蓑を貸してもらえぬことを怒り、雨の中を帰途についた。
 その夜、道灌は近臣にこのことを語った。
 すると、近臣の一人、中村重頼が進み出て次のような話をした。
「そういえば、後拾遺集の中に醍醐天皇の皇子中務卿兼明親王が詠まれたものに、
七重八重
花は咲けども山吹の
実の(蓑)ひとつだに
なきぞかなしき

という歌がございます。その娘は、蓑ひとつなき貧しさを恥じたのでありましょうか。しかし、なぜそのような者がこの歌を…」
 そういうと、重頼も考え込んでしまった。
 道灌は己の不明を恥じ、翌日少女の家に、使者を使わした。
 使者の手には蓑ひとつが携えられていた。
 しかしながら、使者がその家についてみると、すでに家の者はだれもなく、空き家になっていたという。
 道灌はこの日を境にして、歌道に精進するようになったという。


落語「道灌」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/42doukan/doukan.htm

 道灌?そういえば、越生町に道灌(1432-1486)がお眠りになっているお墓があるんじゃありませんか…
 「一里飴」だけじゃあ、ありません、立ち寄らなっかった、越生町・龍穏寺(埼玉県入間郡越生町大字龍ケ谷452-1 Tel 049-292-3121)!

https://www.youtube.com/watch?v=stoPDPMA-UM

 龍穏寺はその環境や建物が大本山の永平寺に似ているところから小永平寺と言われている。
 今からおよそ1200年前、奈良平安時代に山岳仏教として開かれ、山伏や修験道の行者たちによって保たれていたが、時代の変遷とともに衰徴し、1430(永享2)年に至り、将軍足利義数が鎌倉時代後、関東における敵味方の戦死者の菩提を弔うため、関東管令上杉持朝(初代川越城主)に命じて義数が日頃帰依している無極禅師(児玉党・越生氏出身)を請して開山第1の道場とした。
 のち、うち続く兵乱のため荒発し、第三世、泰叟禅師に至って太田道真、道灌父子とともに義教の意思を継承し、また日頃より帰依する泰叟和尚のために再建した。
 以後、天下の鬼道場として一世を風靡し、多くの修験僧、魂胆を寒からしめた。
 かかる故に1590(天正18)年、豊臣秀吉より百石の御朱印(寺領山林は300町歩、現在の龍ヶ谷の全部を含む)の寄進をうけ、1612(慶長17)年、徳川家康より曹洞宗法度の制度を命ぜられ、関東三大寺流穏寺、大中寺(栃木県)、総寧寺(千葉県)の筆頭として活躍し、1636(寛永13)年、江戸幕府の寺社奉行諮門席に任ぜられ、格式10万石をもって遇せられた。
 而して江戸には別邸(現在の南麻布のイラン大使館)を与えられ、歴代の住職は、幕府将軍によって決定せられ、大本山、永平寺(福井県)に自動的に昇任した。
 現在末寺70余ヶ寺、全国に拡がっている。
 しかるに惜しいかな、明治維新の改革に際して寺領はすべて没収され、その後の廃仏棄釈令(神仏分離令)にあい、従来の特権は召し上げられ、その上1923(大正2)年、諸堂焼失の悲運にあい、昔日の面影はまったく失うに至った。
 しかも、当寺はこのように城主や将軍家によって保護せられ修験寺として、大名寺としても発展して来たがために当初から檀家はもたなかった。
 しかし近年に至ってささやかながらも徐々に復興の兆しが見えつつある昨今であります。
 かつて読売新聞埼玉版に「武蔵野は生きている」武者小路実篤監修に次のごとく紹介された。
 「武蔵野のはてる所、太田道灌公静かにねむる」と。
 道灌は神奈川県伊勢原市糟屋にて父より先立って1486(文明18)年に謀殺されたが、晩年の父、道真によって当寺に葬られ、風化した五輪の塔となって、父道真の墓と共に武蔵野の風に吹かれています。
龍穏寺縁起(龍穏寺64世住職、小林卓苗謹書)


越生町・龍穏寺、将軍足利義数ゆかりの寺
http://saitama.hiwadasan.com/ogose/ryuu/index.html

 ではここで野口雨情(1882-1945)で「越生小唄」を:
 「山吹の里歴史公園」には野口雨情の碑もあり、ヤッホ−君びっくりしました:

一、歌にゆかしいあの山吹の あの山吹の 里よ武蔵の アリャ 越生町
 オヤ 七重一重に越生の山吹 黄金に咲きます いとしやこの花
 ソレ ヤッチャラホイノサ ヤッチャラセ
 (以下、繰り返し)
二、月は啼きやせぬ高取山で 高取山で 啼くは夜明けの アリャ ホトトギス
三、越辺川原の蛍でさへも 蛍でさへも 石と寝やせぬ アリャ 草と寝る
四、東山見りゃ松の木ばかり 松の木ばかり たより待てよと アリャ なぞかしら
五、西に西山あの空あたり あの空あたり 今日も日暮れか アリャ 夕焼ける
六、越生名物生絹と団扇 生絹と団扇 誰が着るやら アリャ つかふやら
七、山といふ山つつじが咲くに つつじが咲くに なぜか私に アリャ 花咲かぬ
八、春の山々木の芽に蕨 木の芽に蕨 秋にゃ茸狩り アリャ 栗拾い
九、夏の三滝どんどと落ちて どんどと落ちて 肌に涼しい アリャ 霧となる
十、梅に名高い新月ヶ瀬よ 新月ヶ瀬よ 小雪降るのに アリャ 花が咲く
おまけ、梅に名高い新月ヶ瀬よ 新月ヶ瀬よ 小雪降るのに アリャ 花が咲く

 1933(昭和8)年、八高線開通の記念行事として、越生の民謡か音頭を作ることになり、依頼を受けた野口雨情は旅館「越生館」に10日ほど滞在して「越生小唄」と「山吹の里」を創った。
 そうとうの酒豪で町の人をやきもきさせたらしい。
 作曲は藤井清水。


野口雨情・越生小唄
http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/ogose_kouta.html

 えっ、立ち寄らなかったところがまた、でてきてしもうたぁ〜、道灌公が休むところのほかにも寝場所があったとは…

 歌詩に名をはせしあの雨情の あの雨情の 酒よ武蔵の アリャ 越生町

 旅荘「越生館」(埼玉県入間郡越生町大字越生793 Tel 049-292-3035):
http://www.ogosekan.jp/

 みっつも立ち寄らなかったところを見つけてしまったヤッホー君、
 野口雨情ってどんな歌詩書いた人って聞かれて答えられなかったヤッホー君、
 恥をかいてああ無情、如月最後の月曜日、春雨がしとしと降ったり止んだり、
 踏んだり蹴ったり、ヤッホー君、かなり動揺していますので、ここで巻き返し:

 https://www.youtube.com/watch?v=Qo8MqVri7EI


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2016年02月28日

越生梅林梅まつり

 春よ来い、早く来い
 https://www.youtube.com/watch?v=l-cIZl7qzmU

 これって、都の西北…を書いた新潟県糸魚川市出身の相馬御風(1883-1950)が作詞したんだって(注1)、へえ〜、だからかぁ〜おんもへ出たい、早く来い、はよ咲きたいって、待ち焦がれながら歌ってんだね。
 今日2月28日は春を待ち焦がれた10人の仲間で、山歩クラブお散歩会。
 おごせ、って読めないよね、出羽、とばかりに若松さんが教えてくれました。

 そして大田道灌と山吹の関係は江戸さんが。
 
 しかし、関東三大梅林っておごせのほか、どこか?
 謎に包まれています。
 吉野梅林が良いって人もいれば、湯河原梅林にこだわってる方もいて、熱海梅林はもうチリはじめ、とか皆んなのうんちくが相変わらずすご〜い!

 ハルちゃん情報じゃ、なんと2月20日に、アド街に取り上げられ、全国にオンエアー、とか。
 そのせいか今日はもう、すごい人、人の波、すごいクルマ、クルマの大渋滞!
 札幌ナンバーまでありましたぁ

 あっ、ヤッホー君は相変わらずのドカベン弁当、これに、浅川さんの自家製野沢菜でお昼をとったあと、創立45周年というアマチュア和太鼓集団「さかど太鼓」(注3)を陽だまりのなか、堪能してましたよ。
 お天気に恵まれ暖ったか、山歩クラブの皆んなの暖ったか心にもふれ、楽しい一日を過ごしてきました。


梅まつり.JPG

 ヤッホーにこだま、さっそく返信が:

 おつかれさまでした。
 越生の梅まつりを十分に堪能し、楽しみました。
 でも、あの人の波には予想だにしなかったですね。
 お風呂(注4)も芋を洗うようなと期待?していたのですが、あにはからんや、数えるばかりの借り切りのようでゆっくり手足を伸ばしました。
 ありがとうございました。


(注1)
 春を待ちわびる気持ちを表した歌といえば、童謡の「春よ来い」を真っ先に思い浮かべる人も多いだろう。♪春よ来い/はやく来い−で始まる歌は、糸魚川市出身の相馬御風が作詞した。雪国の長く厳しい冬を知る御風の作だけに、私たちの心に一層響くのかもしれない
 −あるきはじめた/みいちやんが/赤い鼻緒の/ジョジョはいて/おんもへ出たいと/待ってゐる−と詩は続く。「ジョジョ」は草履の幼児語で、みいちゃんは御風の長女の文子(あやこ)さんがモデルといわれる
 赤い鼻緒のジョジョならぬ、オレンジ色のユニホームを着て早く応援したいとうずうずしていたアルビレックス新潟のサポーターたちにあす、一足早く春が訪れる。J1リーグが開幕するのだ
。。。
 「春よ来い」の2番にはこうある。
 −おうちのまへの/桃の木の/蕾(つぼみ)もみんな/ふくらんで/はよ咲きたいと/待ってゐる−。
 アルビが開幕から好スタートを切り勝利の花をいっぱい咲かせ、大きな実をつけることを待ちわびたい。


2016/2/26【新潟日報抄】
http://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/nipposho/20160226237540.html

(注2)埼玉 越生
http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/backnumber/20160220/122094.html#top

(注3)子供から大人まで、心をひとつに世代を超えて、和太鼓を楽しんでいます。
http://www.sakadotaiko.com/

(注4)ヤッホー君、三浦海岸桜まつりで訪れた神奈川県三浦半島のリゾートホテル「マホロバマインズ三浦」からきびすを返したように、越生梅林梅まつりでにぎわう埼玉県越生町の「ニューサンピア埼玉おごせ」へ。
http://www.sunpiasaitama.com/



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2016年02月27日

TPP

 TPPって言えば、ですね、戦争法案のときと同じように、コクミンが死ねばカミもホトケも祭礼か葬礼か、儲かるんでしょうね、自公政権は関連法案を来週ですよね、もう三月にも一括して国会に出して、一括して審議するんだってね、やっぱり。
 
 政府は2016年1月6日、TPPに伴って改正が必要な11の法律の概要を自民党に示した。
 関連する法律はひとまとめにし、計8本の法案として3月にも提出する。
 農業関係では、国内対策である肉用牛や養豚の経営安定対策の法制化、加糖調製品を糖価調整金の対象に追加する法律など。
 TPPの承認案とともに特別委員会で一括審議される見通しだ。

 農業関係で改正が必要な法律は4本。
 国内対策として行う肉用牛肥育経営安定特別対策事業(新マルキン)や(豚マルキン)の法制化は、「畜産物の価格安定に関する法律」(畜安法)を改正する。
 加糖調製品の糖価調整金の対象への追加は、「砂糖及びでん粉の価格調整に関する法律」(糖価調整法)を改正。
 これらの事業を行う農畜産業振興機構の関連法も改正する。
 3本の法改正は、一つの法案として扱う。

 もう1本は、地理的表示(GI)保護制度を運用する「特定農林水産物等の名称の保護に関する法律」(地理的表示法)。
 地域の特色ある農産品や食品のブランドを登録するもので、法改正で各国と相互に保護できるようにする。

 農業関係以外では、セーフガード(緊急輸入制限措置)の手続きを定める関税暫定措置法、著作権の保護期間を死後70年に延長する著作権法、特許権の保護期間を延長する特許法、独占禁止法、商標法などを改正する。
 国会に特別委員会を設置し、TPPの承認案と一括審議する方針だ。

 また政府は法案の提出時期について、3月上旬予定と説明した。
 審議は2016年度予算の成立後、4月にも始まる見通しだ。
 ただ各国が2月に調整するTPPの署名式がずれこめば、法案の提出や審議入りの時期も変わる可能性がある。


2016/1/7付け日本農業新聞
TPP関連11法改正へ 承認案と一括審議 政府
http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=35899

 で、1月も末になるとアメリカから批准の見通しにつき、こんな情報も:

 民主党で元国務長官のヒラリー・クリントン候補は早期からTPP交渉に関わっており、TPP支持を表明していた。ところが最近になってTPPを批判するようになり、態度を翻している。TPPの「最終合意」の内容がクリントン氏の当初の期待を満たさない結果に終わったというのが、態度を変えた理由という。
 クリントン氏は「TPPの最終合意の内容は、アメリカ人の賃金を上昇させるものにはならない」と説明し、批判に転じた。しかしこうしたクリントン氏の態度の変化は、「言い訳だ」、「民主党左派からの支持を得るための変化で、不誠実だ」などの批判も浴びている。
 民主党の他の2人の候補も、TPPに明確に反対している。
 上院議員のバーニー・サンダース候補も「TPPは労働者の賃金に対する企業の勝利である」として、「TPPと戦う」と話している。元メリーランド州知事マーチン・オマリー候補は、TPPの存在が企業の環境保護や労働者保護のための規制を弱めかねないとして、反対を表明している。

 野党・共和党では、「賛成派」と「反対派」が拮抗している。
 反対派の筆頭は、過激な発言が話題を呼び、共和党候補の中で大きな人気を誇るドナルド・トランプ候補。TPPを「ひどい協定」と呼び、「アメリカを犠牲にして日本が大きな利益を得る協定で、その隙に中国が裏口から侵入してくる」として反対する。元アーカンソー州知事のマイク・ハッカビー候補も「アメリカ人の職を奪い、アメリカが交渉で『(日本に)寿司のように巻かれてしまう』」として、TPPに反対している。ニュージャージー州知事クリス・クリスティ候補、元ヒューレット・パッカード社CEOカーリー・フィオリーナ候補も、反対を表明している。
。。。(注1)


2016.01.31 15:00更新、The Page
民主党候補が全員TPPに反対 米大統領選で加熱するTPP論争
http://thepage.jp/detail/20160131-00000004-wordleaf

 2月になってすぐ、東京新聞は:

 交渉参加国による署名式を四日に控える環太平洋連携協定(TPP)をめぐり、国を相手に違憲訴訟中の弁護士らが協定案の英文を分析し、すべての農産品の関税が長期的に撤廃される恐れがあるとの結果をまとめた。他の経済協定にある関税撤廃の除外規定が、聖域と位置付けたコメなどの「重要五項目」も含め、ないことを指摘。聖域確保に関する条文上の担保がなく、将来的に「関税撤廃に進んでいく」と懸念している。
 分析したのは「TPP交渉差し止め・違憲訴訟の会」(注2)の幹事長を務める弁護士の山田正彦元農相、内田聖子・アジア太平洋資料センター事務局長、東山寛北海道大准教授ら十人余りのチーム。
。。。
<解説> 違憲訴訟に取り組む弁護士らのチームが行った今回の分析で、ニュージーランドでの署名式を控えるTPP協定案は「聖域なき関税撤廃」の基本原則が、明確に貫かれていることが浮き彫りになった。
 安倍晋三首相は1月に国会で行った施政方針演説で、TPPに関し「重要品目は関税撤廃の例外を確保した」と明言した。確かにコメなどは今回の関税撤廃の対象から外れた。二国間交渉の結果、関税の撤廃でなく、引き下げなどが付属文書で認められたためだ。
 だが、これは重要品目が関税撤廃の例外として担保されたことを意味するのではないことが、今回の分析で示された。協定案には、本文にも付属文書にも関税撤廃の「除外規定」を認める文言はない。
 関税撤廃率は他の11ヶ国が99%か100%なのに、日本は95%と突出して低い。
 それでも重要5項目の3割は既に関税撤廃に追い込まれ、残りも7年後に再協議が待つ。
 協定締結後も各国の圧力は強まるとみられる。関税を維持したのは「7年間の猶予」を得ただけ、との見方もできる。


2016年2月2日付け東京新聞朝刊(金杉貴雄)
全農産品で関税撤廃の恐れ TPP協定案を弁護士ら分析
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201602/CK2016020202000136.html

 あきれかえっているのが天木直人!

 本来なら、とんでもない暴挙だと怒るところだ。
 しかし米国大統領選挙がその怒りを笑いに変えてくれた。
 躍進を続ける共和党候補のトランプ氏がTPPでも吼えているらしい。
 「いま提案されているTPPはゴミ箱に放り込む事を皆さんに誓約する」と。
 トランプ氏が共和党候補になるとは限らない。
 たとえなっても民主党候補に勝って米国大統領になるとは限らない。
 しかし、民主党の最有力候補で、米国大統領になる可能性が最も高いとされているクリントン候補も、ついに言い出した。
 中国や日本は通貨の価値を下げて輸出の価格を人為的に高くしていると。
 TPPは賃金引き上げや安全保障の強化につながらないから反対だと。
 共和党も民主党も、いや他の候補ですら、皆TPPに反対だ。

 これでどうやって米国でTPPが批准されるというのか。
 米国で出来ないものを日本が批准してどうする。
 もはや国会のTPP審議は、そのことだけを追及すればいい。
 そう思えば、安倍政権がTPP関連法案を一括して審議したところで腹も立たない。
 かってにやってろ、と一笑すればいい。


25 Feb 2016 天木直人のブログ
もはや腹も立たない安倍政権のTPP批准の強行
http://天木直人.com/2016/02/25/post-3974/

(注1)参考サイト:
☆ The real danger in TPP
Lise Johnson, Lisa Sachs and Jeffrey Sachs
Updated 1952 GMT (0352 HKT) February 19, 2016
http://edition.cnn.com/2016/02/19/opinions/tpp-threatens-sustainable-development-sachs/index.html

☆ In 2016, let's hope for better trade agreements - and the death of TPP
Joseph Stiglitz
http://www.theguardian.com/business/2016/jan/10/in-2016-better-trade-agreements-trans-pacific-partnership

☆ Hillary Clinton voices opposition to Pacific trade deal
7 October 2015
http://www.bbc.com/news/business-34469293

(注2)立憲シュギじゃないイマの自公政権に違憲といっても、「はあ〜?」とコワモテ揃いの連中から、ねめつけられそうでこわいのですが、違憲と意見しなくっちゃ。
 拳法の番人がイマじゃあUSAの番犬、ポチに成り下がってしまったし、とあきらめたらしようがない、粗相のないよう寝た子を起こしましょ:

TPP交渉差し止め・違憲訴訟の会
TPPは違憲!
http://tpphantai.com/

裁判官(さいばんかん)は公平で正しい裁判(さいばん)をするために、国会や内閣(ないかく)からまったく独立(どくりつ)して、憲法(けんぽう)や法律(ほうりつ)のさだめと自分の良心(りょうしん)にしたがって裁判(さいばん)を行う。これを「司法(しほう)の独立(どくりつ)」といい、裁判官(さいばんかん)は「憲法(けんぽう)の番人」とよばれている。

ニューワイド学習百科事典
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30002630.html

 「この憲法を変えようとしているジユウ・ミンシュ党の改憲案に反対、むしろイマの憲法の精神をもっと活かして、世界に広げていきたいのです!」ってヤッホー君、2月27日の日記につけました。 


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国際ソロプチミスト

 あれってひっかかった国際NGO、「国際ソロプチミスト」SI!
 4つの連盟からできて、日本は「国際ソロプチミストアメリカ」SIAに属しています。

 1921年、カリフォルニア州オークランドに初めてのソロプチミストクラブが結成されました。
 多種多様な職業分野で活躍する80人の女性が、持てる能力と実行力を社会への奉仕に捧げるために集まりました。
 世界各地でも、女性が人類社会の進歩に果たす役割は大きく大切になっているという認識が盛り上がり、1924年に英国ロンドンでソロプチミストクラブが認証され、世界に広がっていきました。
。。。
 国際ソロプチミスト(SI)は国連における総合諮問資格をもつ非政府組織NGOで経済社会理事会(ECOSOC)に所属している。。。


http://www.sia-nishi.com/ism/
 
Last March, Japan was rocked by a series of disasters inlcuding a major earthquake and tsunami, which caused serious and dangerous damage to a nuclear facility.

Soroptimist remains concerned about members there and conditions in general. On this page, SIA will post information on what Soroptimist is doing to help women and girls in this affected area.

Read a report from Japan Kita Region Governor Eriko Shinojima about the work Soroptimists are doing in Japan.


http://www.soroptimist.org/members/japanupdate/japanupdate.html

http://www.soroptimistinternational.org/

 同じく、国連における総合諮問資格をもつ非政府組織NGOで経済社会理事会(ECOSOC)に所属している国際市民団体は、「国際コンシュマーズ(消費者)」CI。
 SIがあれば、CIもあるのです!
 サイキンでは、ヤクではなく、クスリの宣伝に関して公にしたこんなお話を英国紙ガーディアンは伝えてくれています(*):

The Consumers International report says drug companies use unscrupulous and unethical marketing tactics not only to influence doctors to prescribe their products but also subtly to persuade consumers that they need them, writes Sarah Boseley.

Consumers should be concerned because time and again the companies violate their own industry's ethical marketing codes. Patients' health may suffer if a drug such as Vioxx - a painkiller later withdrawn - is over-promoted. Yet, says Consumers International in its report, there is "a shocking lack of publicly available information about the $60bn spent annually by the industry on drug promotion".

The report examines the marketing practices of 20 of the world's biggest drug companies.

Drug companies are not permitted to advertise products to the public. But companies are increasingly looking to influence consumers through funding patient groups and launching "disease awareness campaigns", which do not name a product but are likely to encourage patients to seek treatment.

Pfizer sponsored a campaign by the Impotence Association that bore the company logo. The UK prescription medicines code of practice authority - part of the Association of the British Pharmaceutical Industry (ABPI) - ruled that this was inappropriate because it could encourage patients to ask doctors for Viagra, a Pfizer product, by name.

Eli Lilly, which has a rival drug, is currently sponsoring a TV advertising campaign in the UK for a website called Love Life Matters, which urges women whose husbands have an erection problem to see their doctor.

In the US, where advertising to consumers is allowed (日本は?なんて余計な質問はこれから不要!だってぇTPP後は、すべてUSAが世界標準基準になるんだもん。国会はコクミンの健康増進も、福祉医療介護も、USAの会社やGDPに有利なように法律改正をしていくだけの機関になるのでしょうね、だって51番目の州だっけ?!クスリ漬け。高くて買えないならそのさんじゃないけど死期を悟れぇって) a more subtle tactic has been employed. In 2002 Lauren Bacall, being interviewed on NBC's Today programme, told an anecdote about a friend who had gone blind from macular degeneration and mentioned a new drug for the condition made by Novartis - without disclosing that she had been paid by the company for her appearance.
。。。


Guardian Weekly
Report reveals tricks of pharmaceutical trade
http://www.theguardian.com/guardianweekly/story/0,,1807960,00.html

http://www.consumersinternational.org/

Stop the TPP!
https://www.youtube.com/watch?v=JGqREPciMSc

 インターナショナルがつく国際市民団体には、「ケアインターナショナル」も:

Seventy years ago charitable Americans sent Christmas food parcels and emergency supplies to a Britain devastated by war. Today the charity that organised the parcels, Care International, is calling on the British public to help with its latest Christmas campaign – and has revealed a remarkable archive of pictures, unseen for more than half a century, of the Hollywood greats who backed its campaigns in the 1940s and 1950s.

Care International was founded on 27 November 1945 to send “Care packages” to millions of people, not just in Britain but across Europe, in danger of starvation following the second world war.

Josephine Broughton, a spokeswoman for Care International’s UK arm, told Guardian Money that in researching its history ahead of its 70th birthday the charity had unearthed some striking publicity photos of Marlon Brando, Ingrid Bergman, Gregory Peck, Ronald Reagan and Marlene Dietrich.


Care International: a golden age of charitable giving – now it’s your turn to help  ;
The charity stepped in after Europe was ravaged by the second world war. Now it is helping developing nations by offering ethical Christmas gifts

The Guardin, Last modified on Saturday 5 December 2015 07.04 GMT
http://www.theguardian.com/money/2015/dec/05/charitable-giving-care-international-ethical-christmas-gifts

ケアインターナショナル
http://www.careintjp.org/whoiscare/04.html

 じゃあ、International Order of St. Hubertus ってのは…

When Supreme Court Justice Antonin Scalia died 12 days ago at a West Texas ranch, he was among high-ranking members of an exclusive fraternity for hunters called the International Order of St. Hubertus, an Austrian society that dates back to the 1600s.

High-ranking members of the elite hunting society, St. Hubertus, were staying at Cibolo Creek Ranch at the same time as Justice Scalia in the days leading up to his death. Here's what you need to know about the group.
(Monica Akhtar/The Washington Post)

https://www.washingtonpost.com/world/national-security/justice-scalia-spent-his-last-hours-with-members-of-this-secretive-society-of-elite-hunters/2016/02/24/1d77af38-db20-11e5-891a-4ed04f4213e8_story.html

(*)ヤッホー君がお慕い申し上げているお医者様です:

 「拡大治験」という制度ができるらしい。それは、患者の人道的な救済を目的とするというが、どうも実態は、製薬企業のためとしか思えない。
 治療に数百万円以上かかるのが常態となる。健康保険を縮小するのではなく、健康保険以外の領域を増やすというやり方で、混合診療・自費診療を拡大する。
 医療は、経済原則が通用しない領域だ。生命にかかわるとなれば、患者は経済的合理性を超えて医療費負担をせざるを得なくなる。そこに、グローバル資本主義が入り込むと、患者はいとも簡単に餌食となる。
 これで良いのか。




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2016年02月26日

三浦海岸桜まつり

 三浦半島通い詰めのヤッホー君、「三浦海岸桜まつり」と聞いたら居ても立っても居られない、昨日すぐに家を飛び出して徘徊の道へ、

http://www.miura-info.ne.jp/documents/20160128092754000.pdf

 京急・三浦海岸駅へ降り立ったら、すぐ目に飛び込んできたのが、「三浦海岸まちなみ事業協議会」の幟(のぼり)!
 こうやって皆んなが協力するってぇ〜と「まつり」になって人が大ぜい集まるんだね、と飛び上がって喜んでいました。

三浦海岸駅.JPG

 三浦海岸周辺の商店主らが中心となって活動している町おこしの団体で、会員数約85名で構成されています。
桜の咲く里づくり
 只今、三浦海岸地域に河津桜を植栽して「桜の咲く里づくり」に取り組んでいます。昨年は京浜急行さんのご協力もあり、駅前広場やホームにも河津桜を植えることが出来ました。
 この取り組みにご賛同していただいた横浜にお住まいの小池様は、桜の苗木約100本の寄贈があり、小松ヶ池公園にすでに植栽されています。
 皆様の御協力により「桜の咲く里づくり」は一歩一歩名所に近付いています。
 これから河津桜の苗木植栽と合わせて小松ヶ池公園までの歩道に水仙等を植えて、魅力ある名所づくりを推進していきたいと思います。

http://www.shiosai.net/kanko.htm

 ほかにも三浦市観光協会、「河津桜」開花状況のお知らせ:
http://www.miura-info.ne.jp/event/H25/sakurakaika.html

 この協議会、2011年4月吉日付けの案内板が、小松ヶ池公園の横の丘に立てられていましたが、名前のあがっている京急さん、横浜の小池様のほかにも、「国際ソロプチミスト三浦」さん、個人ですと河津町の相馬様、横浜市の今井様の名前が記されていました。
 「国際ソロプチミスト」というのがあるんですね。管理職・専門職に就いている女性の世界的奉仕団体だそうです。

 ヤッホー君、小松ヶ池公園へと足早に向かっ…、と実況中継しようとしましたが、しかし短い足は、立ち止まってしまいました。だってぇ〜

河津桜.JPG

 やっと行き着いた小松ヶ池公園!

小松が池.JPG
 
 イマが盛りとばかりに咲き誇っております。
 しかし、この池には悲しい物語が秘められていたのです:
 
 この大沼は「小松ヶ池」あるいは「お松ヶ池」といい、古くから里人の間に、この沼にまつわる物語が語り継がれています。
 むかし、この池のあたりがまだ、いくつかの小さな田に分かれていた頃、お松という働き者の嫁が一人、田植えに励んでいました。
 お松は、意地悪な姑に、一人ではとても無理なほどの、田植えを言いつけられたのです。
 すでに太陽は西山にかくれようとしているのに、田植えが終わらず、困り果てたお松は、天を仰いで「あと半刻あれば田植えを終わるものを」と嘆き悲しみました。
 すると不思議なことに、西山に沈もうとした太陽が、にわかに数尺も高く東ヘ戻り、おかげで、お松は無事に田植えを終えることができました。
 しかし、その時、あたり一面は深い沼田と変わり、お松は水に呑まれてしまいました。
 それからというもの、雨の多い年が続いてやがて、この一帯はごらんのような大沼になったといわれています。

三浦市


 また、この池を開発の手から守り抜いた、先人たちのご苦労がありました:

 小松ヶ池は古来より、当組合専用にかかる農業用灌漑池として、組合員等共同して堤防、水門、水路等水利施設の設置、維持管理、改修に当たり、かつ配水の統制、管理を行い現在に至ったものである。
 しかるに近時小松ヶ池周辺地域における開発の進展に伴い、当組合及び組合員等の同池に対する用水利用権並びに敷地所有権が危殆に瀕せしめられる事態が発生するに及んだ。
 よって、当組合及び組合員等55名は、横浜地方裁判所に対し、三浦市との間における水利権、並びに所有権確認の訴訟を提起し、3年有余に亘り、審理を遂げてきたところ、昭和54年11月24日要旨下記の如き和解が成立するに至った。
一.当組合及び右組合員等は、小松ヶ池につき、農業用灌漑水利権を有すべきこと。
一.小松ヶ池敷地所有権につき、三浦市がなした保存登記は現状のままとするも、水利保全行為を除き譲渡その他の処分もしくは現状を変更する行為については、当組合及び三浦市において協議し、合意のうえこれを行うべきこと。
一.一般市民は前記水利権に支障を生せしめない限度において、自由に小松ヶ池を利用し得べきこと。
 上記和解成立を記念するとともに、関係当事者において、同条項を確実に尊守することにより、当組合及び組合員等の各権利が永久に保全さるべきことを期して、ここに本記念碑を建立する。

昭和55年4月吉日 小松ヶ池水利組合建之


 ヤッホー君は足に、「三浦海岸まちなみ事業協議会」に協力してくれている京急さんを利用しました:

 京浜急行電鉄株式会社(本社:東京都港区、社長:原田 一之、以下 京急電鉄)では、2月13日(土)から3月13日(日)まで、「三浦海岸の河津桜を見に行こう!」キャンペーンを実施します。
 これは、同期間に開催される「三浦海岸桜まつり」(主催:三浦海岸まちなみ事業協議会 桜まつり運営委員会)に合わせて行うものです。
 「三浦海岸桜まつり」は、京急線三浦海岸駅から小松ヶ池公園まで約1キロにわたり植えられた河津桜の開花に合わせて行うお祭りです。
 三浦海岸の河津桜は、“桜の咲く里づくり”を目指し地元の方々が丹精込めて育ててきたもので、いまでは毎年多くのお客さまに訪れていただいております。


http://www.keikyu.co.jp/company/news/2015/20160201HP_15187YM.html

 3月13日までまだまだ、まだ行かれていない方はぜひご乗車してみてはいかがでしょうか。
 そしてヤッホー君は、菜の花の黄色、そして濃紅色の河津桜、これを横目に走る京急さんの赤い車体をタンノウした後、ホテル「マインズマホロバ三浦」でひと風呂浴びて、美味しい美味しいマグロのステーキをいただいて、こころもからだもすっかり英気を取り戻して帰ってきたのです。

http://www.maholova-minds.com/

 そう、そう、道端で売ってました地場産のほうれん草、小松菜、わかめ、そしてずっしり重い「三浦だいこん」をお土産にぶら下げて…

 三浦半島でのダイコンの歴史は古く、寛永年間から栽培されていたことが相模風土記に記録されています。
 1925(大正14)年に三浦産のダイコンが「三浦ダイコン」と正式に命名されて以来、三浦特産の冬ダイコンとして長年にわたって名声を維持してきました。
 しかし、1979(昭和54)年に大型20号台風が三浦地域を襲い、三浦ダイコンが大きな被害を受けたのを契機に、「青首ダイコン」が三浦のダイコンの座を取って替るようになりました。
 甘みと小振りなサイズが消費者ニーズに合い、台風被害後のまき直しでも威力を発揮したことや、三浦ダイコンに比べ栽培が容易で多収、軽量で作業が省力化されるという生産者側にとっても好ましいことなどから、わずか2〜3年で切り変わってしまいました。
 現在は99%が青首ダイコンになっています。

三浦市農協


http://www.ja-miurashi.or.jp/tokusan/daikon.html

 ん、そうするってぇ〜と、ヤッホー君が意気揚々とぶら下げて運んできたのは「青首だいこん」ってぇことになるのかな。
 でもさっそく大根おろしが食卓に並んでいた、とさ、めでたし、めでたし。



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2016年02月25日

安全確保活動

 何も知らされず、何も分からず、いつのまにか戦前に向かって、スピード違反!
 おれはお国のため奮闘努力の毎日だけど、国はおれのことを思っちょらんがな。
 普段からふんだんに米飯を食らい酒を喰らい、不断の努力で拳法守ってきたな…
 
🎶 俺がいたんじゃお嫁にゃ行けぬ わかあっちゃいるんだ妹よ
いつかお前が喜ぶような 偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の
今日も涙の陽が落ちる 陽が落ちる 🎶


 こんなニュースは「赤旗」ぐらい?

 アフリカ・南スーダン北東部マラカルの国連難民キャンプで発生した暴力事件(17〜18日)で、同国政府軍がキャンプ内に進入し放火や発砲で住民を攻撃する重大事態が発生しています。このような事態のもとで、南スーダンPKO(国連平和維持活動)に派遣されている約350人の自衛官の任務や武器使用権限が戦争法に基づいて拡大されれば、現地で政府軍などとの交戦を迫られかねない危険な状況が強まっています。

 PKOの任務はこの20年間余で大幅に変質し、中立性を投げ捨て自ら「交戦主体」=紛争当事者になっています。

掃討作戦転化も
 安倍政権が強行した戦争法の一部・改定PKO法は、国連PKOの危険な変質をそのまま「吸収」する内容を含んでいます。
 改定PKO法は、国連PKOが混乱状態の中で住民を「保護する責任」にもとづき武装勢力の制圧を辞さない活動に乗り出すもと、自衛隊による「住民の保護」を規定(➊)。
 それに対応し「特定の区域の保安のため」として、自衛隊が「監視、駐留、巡回、検問及び警護」を行ない(➋)、
 その任務を妨害する勢力が現れた場合は、妨害排除・粉砕のための「武器使用」(➌)を盛り込んでいます(安全確保活動)。
 このように、改定PKO法のもとでの自衛隊の任務は、停戦状態を“維持”“監視”するという従来のPKO法の活動とは異質な、混乱状態の中で暴力への対峙(たいじ)、制圧を任務とするものです。一定の地域で特定の場所を監視・巡回し、怪しい者は引きとめ尋問(検問)し、危険が生じれば武器を使う(警護)という「保安活動」です。一歩間違えば、掃討作戦に転化する危険もあります。
 現在、自衛隊が展開する南スーダンでは内戦状態が恒常化し、大統領派の武装勢力の襲撃を恐れた民衆が国連保護施設に大規模に避難する状態が続いています。国連保護施設が襲撃を受け、銃撃戦が何度も起きています。PKO部隊が必然的に武装勢力との交戦当事者になり「殺し殺される」状況です。

違憲の武力行使
 武器使用基準が任務遂行・妨害排除型に拡大されたことは何を意味するのでしょうか。
 従来の「自己保存」のための武器使用であれば、例えば自衛隊が巡回中に襲われた場合、まずは「巡回」任務は中止して退避し、自分と自分の「管理下」にある他人の生命を守るために「必要最小限」の武器使用ができるという限定がありました。建前では、不測の事態における「自然権的権利ともいうべき」やむを得ない反撃です。
 武器使用基準が「任務遂行」型になれば、自衛隊は巡回の任務継続を前提に、妨害勢力を排除するために積極的な応戦・攻撃を行なうことになります。「必要」なら相手を殲滅(せんめつ)することもありえます。
 自衛隊が任務遂行と一体に武器使用するもので、まさに軍としての組織的・計画的な武器使用、武力の行使です。従来は、武力の行使で憲法違反になる可能性があるとして、認められてこなかったものです。
 政府は、相手が国または国に準ずる組織でないので「国際的武力紛争ではなく武力行使にならない」といいます。
 しかし、南スーダンで国連PKO部隊に攻撃を仕掛ける最大の存在は南スーダン政府軍です。
 国連PKOは内戦に巻き込まれた状態です。
このような状況下での反撃は、紛れもなく違憲の武力行使です。


2016年2月24日(水)付け赤旗【中祖寅一】
変質PKO法、交戦の危険増す「安全確保活動」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-02-24/2016022402_02_1.html

 記者の中祖寅一さんは「トマトの会」で分かりやすく戦争法案(イマ「戦争法」ですが廃止しなくっちゃ…)について解説していますので、イマからでも決して遅くはありません、学習しましょう!
 「トマトの会」は2013年1月から始まった東京都北区の若者、子育て世代を中心に学習・交流会を行なっているグループなんだそうです、変だな、と思ったら知っている人に会って、聞いて、知ることです、がんばって ✋

中祖寅一さん「トマトの会、戦争法案の危険を考える」
https://www.youtube.com/watch?v=lgxKPqWlDdU

 米川正子さん、「安全保障関連法に反対する学者の会」のメンバーでした、もう「戦争法」が成立してしまったので自然消滅?と思いましたが、そんなことはありません、「廃止」に向けて活動中!

 2015年9月19日未明、与党自由民主党と公明党およびそれに迎合する野党3党は、前々日の参議院特別委員会の抜き打ち強行採決を受け、戦争法案以外の何ものでもない安全保障関連法案を参議院本会議で可決し成立させた。
 私たちは満身の怒りと憤りを込めて、この採決に断固として抗議する。

 国民の6割以上が反対し、大多数が今国会で成立させるべきではないと表明しているなかでの強行採決は、「国権の最高機関」であるはずの国会を、「最高責任者」を自称する首相の単なる追認機関におとしめる、議会制民主主義の蹂躙である。

 また圧倒的多数の憲法学者と学識経験者はもとより、歴代の内閣法制局長官が、衆参両委員会で安保法案は「違憲」だと表明し、参院での審議過程においては最高裁判所元長官が、明確に憲法違反の法案であると公表したなかでの強行採決は、立憲主義に対する冒涜にほかならない。
 
 歴代の政権が憲法違反と言明してきた集団的自衛権の行使を、解釈改憲にもとづいて法案化したこと自体が立憲主義と民主主義を侵犯するものであり、戦争を可能にする違憲法案の強行採決は、憲法9条のもとで68年間持続してきた平和主義を捨て去る暴挙である。

 こうした第3次安倍政権による、立憲主義と民主主義と平和主義を破壊する暴走に対し、多くの国民が自らの意思で立ち上がり抗議の声をあげ続けてきた。
 戦争法案の閣議決定直前の5月12日、2800人だった東京の反対集会の参加者は、衆院強行採決前後の7月14日から17日にかけて、4日連続で、国会周辺を2万人以上で包囲するにいたった。
 そして8月30日の行動においては12万人の人びとが、国会周辺を埋めつくした。

 これらの運動は「戦争をさせない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会」が、政治党派はもとより、思想や信条もこえた共同を実現するためにあらゆる努力をしてきたことによって形成された。
 「安全保障関連法案に反対する学者の会」と学生たちの「SEALDs」、そして日本弁護士連合会との共同行動も、こうした新しい運動の繋がりのなかで実現した。
 「安全保障関連法案に反対する学者の会」は学問と良識の名において組織され、発起人と呼びかけ人が発表した声明に、賛同署名を呼びかける活動によって一気に全国に拡がった。
 6月15日と7月20日の記者会見後、各大学において有志の会が組織され、学生、教職員はもとより、卒業生や退職者も含めた、それぞれに独自で多様な声明が発せられて、集会が開かれ、パレードが行われた。
 「学者の会」に寄せられた署名者の数は現在、学者・研究者14120人、市民30957人に達し、声明等の行動に立ち上がった大学は140大学以上に及んでいる。
 私たち「学者の会」は、知性と理性に反する現政権の政策を認めることはできないし、学問の軍事利用も容認することはできない。

 戦後70年の節目の年に、日本を戦争国家に転換させようとする現政権に対し、一人ひとりの個人が、日本国憲法が「保障する自由及び権利」を「保持」するための「不断の努力」(憲法第12条)を決意した主権者として立ち上がり、行動に移したのである。私たち「学者の会」も、この一翼を担っている

 この闘いをとおして、日本社会のあらゆる世代と階層の間で、新しい対等な連帯にもとづく立憲主義と民主主義と平和主義を希求する運動が生まれ続けている。
 この運動の思想は、路上から国会にもたらされ、地殻変動のごとく市民社会を揺るがし、生活の日常に根を下ろしつつある。ここに私たちの闘いの成果と希望がある。

 私たちはここに、安倍政権の独裁的な暴挙に憤りをもって抗議し、あらためて日本国憲法を高く掲げて、この違憲立法の適用を許さず廃止へと追い込む運動へと歩みを進めることを、主権者としての自覚と決意をこめて表明する。


2015年9月20日 抗議声明
安全保障関連法に反対する学者の会
http://anti-security-related-bill.jp/

 変質PKO法で国際協力?いえいえ、けしてそんなことはないし、南スーダンはテストケース、どんどん広がり、殺し殺されて、ますます棺桶が必要になっていくんです。
 そうしたらウオーキング、ピクニック、ハイキング、トレッキングどころじゃなく、息をひそめていつ命を落とすか、いつ自分の子どもが戦場に引っ張り出されるか、未知の不安のなかで過ごさなければなりません。
 そんなばかなこと、嫌じゃあ、平和が良い、皆んな平和で幸せに生きられる世の中をつくろうよってヤッホー君、2月25日の日記に書いております:

“In the last 15 years, the number of missions, number of crises have drastically multiplied,” said Ban Ki-moon, the UN secretary general. “In addition to using military and police forces, we have been deploying a lot of special political missions. This is preventative diplomacy. If we can prevent at the time of symptoms of a crisis, we can save a lot of human lives and human resources.”

Jack Christofides, who is on leave from the UN as director of peacekeeping operations for central and west Africa, described peacekeeping as “extremely taxing at the moment”.

“We’ve got more troops, we’ve got a bigger budget, we deployed in all sorts of very very difficult places, much more difficult than we’ve ever been, and we’re stretched, we’re really stretched,” he said.

“If you think of the old deployments in places like Lebanon and Bosnia, there is a certain infrastructure you could use and work with. The troops coming were generally from countries that had the means to launch expeditions. Today, when you’re talking about northern Mali and central Africa, you have both extremely dangerous conditions and geostrategic locations which are very difficult to get to.”

The UN is also grappling with persistent accusations of rape and sexual exploitation by its peacekeepers, which is further undermining confidence in the organisation, particularly in some of the countries where its soldiers are deployed.

And there are added demands as the US presses for peacekeepers to take on a more aggressive role, particularly against armed Islamist groups in Africa. President Barack Obama is jointly hosting a summit with Ban in New York later this month to seek commitments to strengthen peacekeeping with better trained troops, equipment and intelligence resources, to the alarm of some of the countries that provide substantial contingents of troops in blue helmets.


The Guardin, Last modified on Friday 18 September 2015 00.15 BST
What's the point of peacekeepers when they don't keep the peace?
From Rwanda to Bosnia, Haiti to Congo, failures raise questions about future of United Nations blue helmets
Guardian graphic: UN peacekeeping operations
Source: UN. *Sudan and South Sudan. Darfur region of Sudan

By Chris McGreal in New York
http://www.theguardian.com/world/2015/sep/17/un-united-nations-peacekeepers-rwanda-bosnia


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米川正子

 昨日付けの日記「命がけの旅」で田中真知さんはこんなことをつぶやいておりました。
 「元UNHCRでルワンダやコンゴに駐在し、いま立教で教えておられる米川正子さん]
 その米川正子さんはコンゴについて本、『世界最悪の紛争「コンゴ」、平和以外に何でもある国』(創成社新書、2010)を出されております。
 その書評から:

 アフリカには二つのコンゴがある。
 一つはコンゴ共和国(首都はブラザビル)で、日本の90%の国土に約400万の人口。
 もう一つはコンゴ民主共和国(首都はキンシャサ)で、日本の約6倍の国土(世界で12番目、アフリカ大陸で4番目の広さ)に6000万から7000万の人口がある。
 同じ名前を持つこの二つの国は、植民地前にはコンゴ王国(Royaume du Kongo)として、現在のような二分された形ではなかった。しかし、植民地統治により現在のコンゴ共和国はフランス領となり、コンゴ民主共和国はベルギー領となった。そしてそれが、それからの両国の歴史を大きく変えていくことになるのである。
 この本はベルギー領のコンゴ民主共和国の話である。
。。。
 著者は2007年から1年半にわたり、コンゴ東部のゴマという都市で、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の所長として勤務した。また、それ以前にも、アフリカ中部「大湖地域」周辺の人道支援に10年間携わっている。
。。。
 日本から見ればまだまだ遠い地域であるアフリカ大陸。
 その中でも、このコンゴがある赤道アフリカ地域は最も遠いといえるだろう。
 二つの「コンゴ」があることも知られていないことが多い。
 最貧国179ヵ国中、177番目の国で、その平均寿命は46歳とさえ言われている。
 アフリカ経済が世界的に見ても高度な成長率を記録する一方で、一般の人たちの多くがまだまだ貧困に苦しみ、さまざまな人権侵害にさらされている。

 2012年11月、東部で反政府部隊が武力蜂起をしたと報道された。
 主要都市であるゴマに向けて侵攻する部隊に対し、同国内で展開している国連平和維持部隊がヘリコプターなどで部隊に攻撃を加えた。しかし、反政府部隊は市街地に迫っており、住民はゴマから避難を開始し、近隣地帯のさらなる治安悪化が懸念されている。
 この本は2010年に出版されたものであるが、その中に書かれている状態は今も続いているのである。
 この国に「平和もある」と言える日がいつやってくるのだろうか。

おやさと研究所准教授・森洋明
http://www.tenri-u.ac.jp/topics/q3tncs00000gd2ni-att/q3tncs00000gd2vi.pdf

 米川正子さんには訳書、ジョセフ・セバレンジ Joseph Sebarenzi、ラウラ・アン・ムラネ Laura Ann Mullane『ルワンダ・ジェノサイド 生存者の証言、憎しみから赦しと和解へ』(有斐閣、2015年3月)もあります。
 その書評は:

 ルワンダのジェノサイドは1960年前後を端緒としているが、報道では知り得るものの内部からの被害者の声についてはまったく知る機会がなかった。本書はツチの一族の被害の実態をつぶさに語った書である。
 著者は少年期にはジェノサイドの被害者、目撃者として育ち、隣国のコンゴで学校教育を受ける。
 再びルワンダに戻り、高校教師、NPO団体で働き、やがて政界に入り議会議長を務める。
 だがカガメ独裁政権に命を狙われ、アメリカに亡命する。
 ジェノサイドの実態を知るがゆえに、ルワンダをその惨禍から救い、赦(ゆる)しと和解の道を模索する立場に立っている。

 著者の幼少年期の支えだったのは、「我々が殺されても、おまえは生き延びろ」という父の言であった。
 その父も兄弟、親戚もジェノサイドによる犠牲となっている。
 ルワンダの大量殺戮(さつりく)は、多数派のフツと少数派のツチの対立という形をとるが、著者はその歴史的経緯を丹念に紹介しながら、西欧列強による植民地支配の分断工作が背景にあると明かす。
 さらに独裁政権がツチの反政府活動をでっちあげて、フツの過激派をあおるという形をとった。
 ふつうの庶民が隣人を殺害するまでに至る。
 著者の筆を借りるなら、国土の至る所に斬殺された死体が山積みになる。過去50年間で100万人もの命が失われたという。

 著者はルワンダを訪れたクリントン大統領が、この惨劇の国際社会の責任について演説したことをとりあげ、「私も拍手をしたが、満足はしていなかった」と書く。
 ルワンダに国際社会の反応が鈍かったのはなぜか、資源もない小国だからとの見方も紹介する。
 和解は可能なのか、赦しに達する心理とはどういうことか、自らの提言を示しつつ、
「次世代のための平和は、私たちがお互い赦しあうことができた時」との著者の覚悟は、人類史を問うている。


2015年6月7日付け朝日新聞、【評者】保阪正康(ノンフィクション作家)
赦しあえた時、次世代の平和が
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015060700007.html?guid=on

 米川正子さん、イマをどんなふうにお考えになっているか、と申しあげますと、戦争法が強行採決される前のことですが(ということはイマ、マスゴミも知らせていない遠いところで、もっとこの国は暴走している、ということですよね):

 アフリカ各地では、ソマリアのイスラム武装勢力アルシャバブ、ナイジェリアのボコハラム、2013年1月に起きたアルジェリア人質拘束事件の責任者と言われるモフタール・ベルモフタール等による脅威が高まっています。
 2008年10月に創設したアメリカ・アフリカ軍(Africomアフリコム、Africa Command の略語。全アフリカ諸国に駐留を拒否されたため、司令部所在地はドイツのシュトゥットガルト)は、表向き、このような対テロ戦争抑止や、地域紛争への迅速な対応のために、アフリカ諸国の軍隊訓練の任務を有しています。
 その一環として、米軍は昨年、ニジェールで無人機基地を建設し、またエチオピアにも米軍の無人機基地を有しているという報道があります。
 しかし、中国のアフリカにおける資源アクセスは、これまで以上にアメリカに潜在的脅威を与えているため、アフリコムのそもそもの目的は中国権益の牽制ではないかという見方が高まっています。
 特にアフリコムが創設された前年の2007年に、コンゴ民主共和国と中国間に総額90億ドルの契約が結ばれました。アフリカにおける1つの投資として最大級で、中国がコンゴ国内のインフラ整備を請け負うのと引き替えに、天然資源を入手することになっていました。結局、IMF(国際通貨基金) の関与もあり、契約の総額は60億ドルに引き下げられましたが、中国進出が脅威であることが理解できる出来事でした。

 このような中国との勢力拡張競争に乗り出すために、日本は恐らくアメリカとの軍事協力の可能性を検討しており、その準備が着々と進んでいるようです。

 まず、ジブチにおける自衛隊は、ソマリア沖での「海賊対処活動」の長期化に備え、42億円をかけて「活動拠点」を建設しました。しかし共産党によると、これは米軍に要求されて建設された「軍事基地」です。
 2点目に、防衛省は昨年8月、現在派遣中のエジプトとスーダン以外に、2014年度には、アルジェリア、モロッコ、ナイジェリア、ジブチ、エチオピア、ケニアと南アの7ヶ国にも、防衛駐在官と呼ばれる自衛官を派遣することを発表しました。アルジェリアの人質事件を踏まえて、日本政府は、現地の軍事情報の収集と分析・安全業務の強化、反テロ活動に資金援助を行う一方で、自衛員の配備の拡大を決定したのです。

 そして3点目に、南スーダンの平和維持軍(PKO)への自衛隊の派遣です。孫崎享氏によると、PKO は「グローバルな範囲での日米協力を視野に入れたものであり、緊張の高い、地域有事への作戦準備としての絶好訓練」です。それに加えて「アメリカの戦略のために、米軍は自衛隊を傭兵として使いたい」とも指摘しています。

 日本の政治の悪影響がアジア地域に留まらず、アフリカにも拡大しつつあります。
 我々は、アフリカでの米日と中国の熾烈な軍事・諜報活動にもっと注目する必要があるでしょう。


2014・01・09 IWJ Independent Web Journal
【特別寄稿】元UNHCR職員・立教大学特任准教授、米川正子 
安倍総理のアフリカ訪問の動機とは? 〜中国、資源、そして米軍との軍事協力

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/119066

 安全保障関連法案によって自衛隊の海外活動が拡大していくことになりますが、その中でも「国連平和維持活動(PKO)等に対する協力に関する法律(国際平和協力法)」に関わる活動について考えてみましょう。
 国会ではPKO が、「平和維持のための必需品」という前提で、自衛隊のリスクや駆けつけ警護の任務が中心に議論されています。ところが、PKO が一部の派遣先にて、紛争や不安定な状況の長期化の原因になっていることは触れられていません。
 PKO が紛争を長期化させている原因として、PKO 参加5原則に含まれる紛争当事者間の停戦合意が脆いことや、PKO の中立性が疑問視されている点などが挙げられます。それ以外にも、PKO 派遣国がそもそも平和維持に関して政治的意思が弱く、政治的や経済的な動機を有している点にも留意しなくてはなりません。

 こうした国々が自国兵士をPKO に派遣する動機としては、主に以下の5点が指摘できます。
 1つ目の動機は、多国籍PKO の派遣先は軍事的専門知識を交換しあえる場であることです。例えば、2013年以降、PKO が偵察を目的に国連史上初めて非武装のドローンを使用しましたが、そのような実務経験を、派遣国は将来自国でも役立てたいと考えている可能性があります。
 2つ目は、「途上国」と「先進国」どちらの軍隊にとっても、PKO への参加は給料の面で、また派遣先が天然資源の産出地域であれば、資源のアクセスの面でも大きな収穫となるからです。インド、パキスタンや南アフリカなどが、資源が豊富なコンゴ東部における世界最大級のPKO に長年軍を派遣し続けている理由は、まさに利権が絡んでいるからだと指摘されてきました。
 3つ目は、PKO 派遣は、平和貢献のイメージや国の存在感を高めるには効果的であるためです。たとえば、日本のルワンダ難民救援隊はその名の通り、難民の救援のために派遣されたのですが、当時の指揮官曰く
「救援活動について達成すべき具体的な目標を示したい。でもそれが無理だと分かり、最小限滞在国ザイールの国旗とともに「日の丸」の掲揚することを具体的な目標にした」とのことです。
 また日本政府・自衛隊・企業・NGO が一体となる復興開発援助「オールジャパン・アプローチ」が、東ティモールやハイチ、そして現在南スーダンで実施されていますが、その目的は日本の顔をより見えるようにすること(visibility を高める)だと言われています。
 4つ目は、PKO 派遣が「政争の具」として利用されていることです。世界5番目の国連PKO 派遣国であるルワンダの事例を見てみましょう。リークされた国連報告書によると、ルワンダ軍は1990年代に隣国コンゴ東部で虐殺と特徴づけられる行為を犯しました。また、同軍の幹部がスーダンにおけるPKO の幹部に任命された際に、彼が過去に重大な人権侵害を犯したことが指摘されていました。ところがルワンダ政府は、同報告書が公表されたり、同幹部が解雇されるならば、スーダンから自国のPKO 部隊を撤退させると脅したのです。その結果、国連がルワンダ軍やこの幹部の犯罪を追及することはありませんでした。
 最後に、大国が政治的な働きかけをしたい場合に、その代替としてPKO を使用する可能性が高い点も問題です。例えば、南スーダンは米国にとって戦略的で重要な国ですが、なぜそこへ米国の同盟国の日本は優先的にPKO を派遣したのか疑問が残ります。
 また、この南スーダンでは2013年末に紛争が勃発し、PKO 参加5原則の「紛争当事者間で停戦合意が成立」について検討する必要が発生しました。厳密に言うと、自衛隊が南スーダンに派遣されたのは南スーダンが独立した2011年であり、南北スーダン間で締結された和平合意(CPA)が前提となっていました。ところが2013年末からは、それまでの南北間の内戦とは別に、独立した南スーダン内部で別の内戦が発生しました。この南スーダン内の内戦に関する停戦合意は2014年1月に結ばれましたが、現在まで戦闘は続いています。
 言い換えれば、自衛隊が当初派遣された時の紛争当事者以外のアクターによる紛争が新たに勃発したために、本事態は「想定外」でしたが、その場合、「紛争当事者間で停戦合意が成立」を拡大解釈して撤収すべきか否か、議論が必要であるのに、国民に向けた政府による説明が十分ではありませんでした
 このように、PKO は平和維持の名の下で、他の目的で利用されている場合があり、紛争解決に十分貢献できない点が問題となってきました。
 今後日本が平和の創出を目的とするPKO にどのように関わっていくのかを検討するためには、「国際平和協力法」を他の法案と一緒にして審議するのではなく、まずはPKO の本質から議論を深める必要があるのではないでしょうか。


「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者、立教大学特任准教授・米川正子
国連PKO は平和の創出に役立っているのでしょうか
http://iwj.co.jp/wj/open/anti-war-msg-00236


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2016年02月24日

命がけの旅

 ヤッホー君のこのブログ、昨日付けのブログ、「弁護士会の読書」で紹介した『たまたまザイール、またコンゴ』(田中真知著、偕成社、2015年6月)については、こんな書評もありましたのでご紹介:

■ 命がけの旅、許す意味を悟る
 文字通り命がけ、でも呆然(ぼうぜん)とするほどのんきで愉快な、実践哲学的コンゴ河旅行記。
 1991年当時、著者夫婦が住んでいたエジプトの政情不安が高まり、旅行でも、とモブツ独裁政権下のザイール(現コンゴ民主共和国)へ。

 クルーズ船に乗るはずが、姿を現したのは乗客5千人超のはしけ船。
 甲板に熱帯雨林の動植物と人間があふれ、トイレのドアには体長1メートル級の鰐(わに)と豚がつながれている。
 しかも2人はその船を途中で降りて、丸木舟を1カ月漕(こ)ぎ河を下る。
 ボート歴は都内の公園で1時間の著者、最初はホテイアオイと共にただ流れゆくのみ。
 蚊の猛攻でマラリアに罹(かか)り、川沿いの電気も水もなく医者もいない村に泊まって、笑われたり助けられたり。奥さんも泣くよね。

 2度目の旅は国名も河の名もモブツの勝手な命名によるザイールからコンゴに戻った2012年、日本人のシンゴ君やガイドのオギーらとまた丸木舟。
 「こんな旅するの、バカですよ」というシンゴ君、まさにね。
 21年を隔てた2度の珍道中に大笑いするうちに、
 コンゴ紛争の正体が豊かな天然資源を奪い合う「世界戦争」であること、
 植民地支配と産業構造の問題、
 日本の支援のあり方など、
複雑でハードな話が整理され、するする頭に入ってくる。


 東隣のルワンダで起きた大虐殺の余波を契機とする紛争でついにモブツ政権は崩壊、その後の泥沼化でコンゴは540万人の犠牲者を出した。
 2度目の丸木舟は軍人の厳しい審査や役人の賄賂要求の中を進む。
 一行は交渉や演技、ときにはナマズ料理で接待と「外交戦略」で切り抜ける。

 どうしようもないことばかりの旅で、怒りと心配の連続の後、著者は悟る。
 「世界は偶然と突然でできている」
 どこだっていつだって未来は不確かなのだ。
 だから、ゆるす。
 今日もあては外れた。
 「でも完璧な一日だった」
 そう思えればいい。
 うん。


2015年8月16日付け朝日新聞
評者:中村和恵(1966年生まれ、詩人・明治大学教授・比較文学) 
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015081600005.html

 田中真知は1960年生まれの作家・翻訳家。『アフリカ旅物語』(凱風社、1995年5月)『美しいをさがす旅にでよう』 (白水社、2009年4月)など。
 田中真知はブログをおつけになっております。
 中村和恵が上記書評で「こんな旅するの、バカですよ」と言ったというシンゴ君がブログに再登場:

 あらかじめ示し合わせたわけでもないのに、会場にコンゴ河下りパートナーのシンゴ君と、ザイール河下り仲間の尾崎さんも来ていた。
 こういう場で顔を合わせるとは。。。
 シンポジウムを企画された元UNHCRでルワンダやコンゴに駐在し、いま立教で教えておられる米川正子さんに「ペアンさんの話、とてもおもしろかったです」といったら、「本人にいってあげて」といわれて、ペアン氏に面白かったとあいさつした。
 77歳とのことだが、とてもそうは見えない。
 年とっておやじになったロックスターのような風貌で、講演の最中、演台に片足を上げて、波止場の男みたいな格好で話をするのも印象的だった。
 アフリカや湾岸やコソボなどの紛争についてフランス語で30冊以上の著書を出しているそうだが、邦訳どころか英訳もないそうで、だれか訳してくれないかな。


2015年7月14日(火)「王様の耳そうじ」更新はとどこおりがちでも、つづけます
雑記
http://earclean.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-6fd3.html

 今日は、さらにもう一冊!
 『週刊金曜日』の今週号で紹介され、注文が殺到、もう在庫もきれた、という亀山亮写真集!(*)
 第32回(2013年)土門拳賞を受賞しています。

 土門拳賞は、リアリズム写真を確立した巨匠・土門拳の業績をたたえ、1981(昭和56)年に毎日新聞社により設立された、国内でも有数の権威ある写真賞です。
 毎年1月から12月までの間に作品(写真集・展覧会など)を発表し、優れた成果をあげた中堅の写真家が受賞の対象となり、その受賞作品は土門拳記念館にパーマネントコレクションされることになっています。


土門拳記念館(山形県酒田市飯森山2丁目13番地、TEL/FAX0234-31-0028)
http://www.domonken-kinenkan.jp/

 『AFRIKA WAR JOURNAL』は、写真家の亀山亮氏が2003年から2010年までコンゴ、シエラレオネ、リベリア、ブルンジなど、殺戮と略奪が日常化したアフリカの紛争地域に通い続け撮影した写真の集大成だ。
 「マイマイ」と呼ばれる自衛民兵の群像。権益から紛争につながる希少金属の採掘現場。
 目の前で家族を殺された女性の虚ろな目……。
 ページをめくるたびに普段の生活からは想像できない描写が目に飛び込んでくる。

 中学生の頃、ベトナム戦争の写真に夢中になった。
 写真の“瞬間の強さ”に引き込まれ、いつかはアフリカに行ってみたいと思っていたが
 「いたるところに死体がころがる想像以上の暴力。誰が何のために戦っているのかわからずに戦闘を続ける現場にショックを受けた」
と写真集の契機となったモンロビア(リベリア共和国)の戦闘を振り返る。

 「現場に行っても戦争というものはわからなかった。ただ、そこの雰囲気を肉体で理解したい。凄惨な現場に身を置けば置くほど先入観が崩されて自分の考えが変質してゆく。それをしっかりと受け止めることが、僕にとっては重要だった」

 暴力と偶然性が入り交じった戦争は「善か悪か、白か黒ではない灰色」。
 説明できない状況を自分の肌で知った何かで伝えたい。
 「現場で呻吟する人たちの息づかい、そういう存在のかけらを写真に残したいと思うようになった」

 兵士やPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人、レイプ被害者といった戦争の当事者に目を向け、なるべく生活を共にしながら撮影した彼が見つめたのは、「傷」だ。
 割られた額の傷。
 縫合跡。
 凄まじい体験の後に精神科病院に収容された人たち。
 肉体と精神に残された生々しい「傷」に戦争の非情な刻印を見る。
 「肉体がなくなる怖さを少しは知っている」
と語る彼もまた2000年、パレスチナでの第二次インティファーダ(民衆蜂起)を撮影中に左目を失明した。

 「不条理な状況の中、見知らぬ僕を受け入れた人々の優しさがなければ、決して撮影はできなかった」
と亀山さんは語る。
 これは戦争の当事者たちの傍らで「受け入れられた」写真家が共感の眼差しを向けているということだ。
 その事実があるからこそ、読者は壮絶なイメージを最後まで見ることができる。

 「援助から投資へ」とビジネスチャンスの注目を集めるアフリカだが、“Win-Win”を標榜する経済の視点とは違う、傍らに寄り添う眼差しが表した知られざるサブサハラ諸国の苛酷な道程を、今こそ見るべきだろう。


2013年7月29日号「PRESIDENT」
著者インタビュー【薈田純一=文・撮影】
亀山亮著『AFRIKA WAR JOURNAL』(リトル・モア、2012年9月)

http://president.jp/articles/-/11129

 亀山亮は、1976年生まれ。現在、八丈島在住!

(*)
『週刊金曜日』2月19日号、連載「あしたがあるさ!当事者主権の胎動6」
戦場カメラマン・亀山亮さん✖金子勝

ほかにも『週刊金曜日』2013年8月9日号
亀山亮インタビュー(構成・聞き手:西山俊一・編集者)
写真の良さは物事を
白黒に分けることではなく
灰色の部分を大切にすること。



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2016年02月23日

弁護士会の読書

 ヤッホー君、サイキンよく読む書評欄がありまして、福岡県弁護士会は霧山昴先生のブログ「弁護士会の読書」です。
 これまで二度もご紹介してきましたが、今日は皆さんともっとよく読んでみたいなと思っているのです。

☆ 2007年4月12日付けジョセフ・コンラッド『闇の奥』(藤永茂訳、三交社、2006年5月)
(ヤッホー君のこのブログ、2月17日付け日記「コンゴ」参照)
☆ 2010年4月14日付け口武彦『鳥羽伏見の戦い、幕府の命運を決した4日間』(中公新書、2010年1月)
(ヤッホー君のこのブログ、2月18日付け日記「ニセ者だらけ」参照)

 そして今日も、まとめてみっつもご紹介したく思いました。
 だってね、
(1) 本が出版され世に出たころのこと、
(2) 本を読んだころの評者の思い、
(3) どうしてヤッホー君がその本をとりあげたくなったのかという思い… 
 このトライアングルが微妙に重なったり、ずれたり、すべったりしていて、その交差が面白いんだもん。

スベトラーナ・アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り』(松本妙子訳、岩波現代文庫、2011年6月)

 著者は私と同世代のロシアの作家です。2015年のノーベル文学賞を受賞しています。著者による『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳、群像社、2008年7月、2016年2月に岩波現代文庫として刊行)は、このコーナーでも紹介しましたが、涙を流さずには読めない傑作です。まだ読んでいない人には強く一読をおすすめします。
 チェルノブイリの事故のあと、その収拾作業にあたった消防士はまもなく大半の人が亡くなっています。その遺体は特別扱いです。遺体は放射能が強いので、特殊な方法でモスクワの墓地に埋葬される。亜鉛の棺に納め、ハンダづけをし、上にコンクリート板がのせられる。放射線症病棟に14日。14日で人は死んでしまう。生まれた赤ちゃんは肝硬変。肝臓に28レントゲン。それに、先天性の心臓欠陥もあった。
 チェルノブイリは、戦争に輪をかけた戦争だ。人には、どこにも救いがない。大地のうえにも、水のなかにも、空の上にも・・・。
 牛乳を飲んじゃだめ。豆もだめ。キノコもベリーも禁止されちまった。肉は3時間、水に漬けておく。ジャガイモは2度、湯でこぼせ。ここの水も飲んだらダメ。
 ぼくらは口外しないという念書をとられた。だから沈黙を守った。大量の放射線をあびた。バケツで黒鉛を引きずった。1万レントゲン。普通のコップで黒鉛をかき集めた。友だちは死ぬとき、むくんで腫れた。石炭のように真っ黒になり、やせこけて子どものように小さくなって死んだ。
 赤ちゃんが生まれた。でも、身体の穴という穴はみなふさがっていて、開いているのは両目だけ。多数の複合以上あり。肛門無形性。女児なのに膣無形成、左腎無形性。おしっこも、うんちも出るところがなく、腎臓は1個だけ。それでも、この子は、生後2日目、にっこりほほ笑んだ。生命力のすごさを感じますが、本当に悲惨ですね。言葉もありません。
 事故処理作業に投入されたのは、全部で210部隊、およそ34万人。屋上を片づけた連中は地獄を味わうことになった。鉛のエプロンが支給されていたが、放射線は下から来た。下は防護されていなかった。
 チェルノブイリ原発(原子力発電所)で事故が起きたのは今から25年以上も前の1986年4月26日。人口1000万人の小国ベラルーシにとって、事故は国民的な惨禍となった。チェルノブイリのあと、485の村や町を失った。うち70の村や町は永久に土のなかに埋められた。今日、ベラルーシの5人に1人が汚染された地域に住んでいる。その210万人のうち70万人が子どもだ。
 福島第一原発事故は今も収拾のメドがまったくたっていないのに、安倍政権は強引に原発再稼働をすすめています。そして、海外へ原発を輸出しようとすらしています。無責任きわまりありません。いったい事故が起きたとき、誰がどうやって責任をとるというのでしょうか。政権党である自民党・公明党の政治家にとって、今さえよければ、それも目先の今さえ利権が得られたら、すべて良しということのようです。残念です。子や孫そして、ずっとずっとこの日本列島に住んでいくはずの人々のことなんか、どうでもいいというのです。恐ろしい人たちです。それこそ神罰があたるのではないでしょうか・・・。
 チェルノブイリ事故は、日本人の私たちにとって決して対岸の火事ではありません


更新日:2016年2月19日
(出版社のサイト)
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6032250/top.html
http://gunzosha.com/books/ISBN4-903619-10-1.html
(今日のお勧め映画サイト)
予告編『大地を受け継ぐ』(監督:井上淳一)
https://daichiwo.wordpress.com/

☆ 武井博『泣くのはいやだ、笑っちゃおう、「ひょうたん島」航海記』(アルテスパブリッシング、2015年12月)

 昔なつかしいHHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」について、担当ディレクターだった著者が裏話をたっぷりふくめて書いています。
 『ひょうたん島』が始まったのは1964年4月のこと。私が高校に入学した年です。それから5年間続いて1969年4月に最終回をむかえました。私がまだ大学2年生、本当は3年生に進級するはずでしたが、例の安田講堂攻防戦が1月にあり、ほぼ1年ぶりに授業が再開されましたので、4月進級はありませんでした。
 高校生のときですから『ひょうたん島』をじっくり見た記憶はありません。でも、そのパンチのきいた人形劇はとても印象に残っています。
 博士、ダンディ、ガバチョ、トラヒゲ、サンデー先生という個性的な人形と声優、そしてセリフがすごく印象に残っています。
 毎年1回、かつての弁護士会役員仲間が奥様同伴で全国を旅行してまわっていますが、そのグループの名前が『ひょうたん島』なのです。そして、博士とガバチョがメンバーにいます。私は、そこではモノカキと称しています。
『ひょうたん島』は東京オリンピックそして東海道新幹線と同じ年にスタートしたのだそうです。ええっ、そうだったっけか・・・。
 テーマソングを歌ったのは、なんと当時はまだ中学1年生だった前川陽子。これはすごいですね。そして、テーマソングの歌詞をつくる生みの苦しみが紹介されています。丸2日間、なんのアイデアも出ずに苦しみ、ついにNHKへ戻っていく列車の中で、井上ひさしが、「まるい地球の水平線」という言葉を思いついた。「丸くて水平」。実に非凡な夢ふくらむ発想だった。そして、列車のなかで歌詞が完成したのです。
 泣くのはいやだ。笑っちゃおう。井上ひさしにとっても、これはこれからも生きていくうえでの、人生のモットーだった。
 5年間の番組の脚本を書いたのは井上ひさしと山元護久。どちらも同時はまだ20代。二人がケンカすることなく共同執筆を続けたというのも、すごいです。遅筆堂で有名な井上ひさしですが、5年間、一度も空白をつくらなかったというのもすごいですね。井上ひさしは、実は大変な速読ができたようです。私も本を読むのは早いほうですが、はるかに上回る量と内容です。とてもかないません。
 そして、この二人には、どちらもカトリック施設育ちという共通項があったのでした。
 二人は、人形劇に対する不信感から、その限界を乗りこえようと、「せりふ」で勝負した。
 NHKで、この50年間でもっとも良かった番組の人気投票をしたら、『ひょうたん島』は『おしん』に次いで堂々の第二位だった。これまた、すごいですね。それほど、私たちの心に残っているのです。
 惜しむらくは、その放送がほとんど残っていないことです。当時はテープが高価だったため、上書きされていて保存されていないのです。本当に残念なことです。この本は、その良さを再確認する手がかりとなっています。


更新日:2016年2月21日
(参考サイト)
博士の声で出演した中山千夏さん(67)は、ひょうたん島の“正史”と評している。。。「大人たちは戦争中、軍国主義に突き進み、戦後は民主主義へと変わった。『大人を信用しない』が私たち世代の感覚でした」と武井さん。子どもが大人と対等に話し、現実に向き合うという番組の特徴は、こうした世代感覚が背景にあったという。。。
(2016年2月5日21時39分更新、東京新聞・話題のニュース「井上さんらとの裏話満載、ひょうたん島“正史”出版」)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016020501002225.html
(モーニング娘でひょっこりひょうたん島)
https://www.youtube.com/watch?v=-V00wFBhVkg

田中真知『たまたまザイール、またコンゴ』(偕成社、2015年6月)

 いやはや、大変な旅です。アフリカの大河を若い夫婦で丸木船で旅行し、また20年後に青年と旅したのです。驚き、かつ呆れつつ、その蛮勇とも言うべき実行力には頭が下がります。おかげで、こうやってアフリカの生の情報が得られるのですから・・・。
 アフリカ大陸の中央部を流れるコンゴ川を妻と二人で丸木舟を漕ぎ、1ヶ月かけて川を下った21年後に、再びコンゴ河を今度は日本人青年とともに下った。
 この二つの体験記が写真とともに紹介されています。いずれも無事に旅を完遂できたのが奇跡のようなスリルにみちた冒険の旅でした。1991年のときのほうが2012年よりも、客観的には安全だったように思いました。
 コンゴ河があるのは、旧ザイール、今のコンゴ民主共和国です。まずは1991年のザイールの旅です。
 当時、ザイールはアフリカ好きの旅人の間では特別な存在だった。圧倒的なスケールの自然と、カオスの国に生きる人びとのパワーが旅人の好奇心を刺激してやまなかった。
 ザイール河(コンゴ河)には、オナトラと呼ばれる定期船があった。定期船とは名ばかりで、いつ入港するかもわからなければ、目的地までの日数も3週間だったり、1ヶ月だったり、まちまちの船だ。オナトラ船は船の形をしていない。一隻の船ではなく、六隻の船をいかだのようにワイヤーでつないだ全身200メートルほどの巨大な船の複合体だ。
 船内の屋台では、串にさして揚げたイモムシを辛そうな赤いタレにつけて売っている。子どもたちは、生きたやつをそのまま口に放り込んで食べる。踊り食いだ。
 猿のくん製は、独特のすっぱい臭気を発している。くん製というより焼死体に近い。
 流域の村人にとってオナトラ船は物資を手に入れる唯一の機会であり、現金を使える唯一の場所だった。村に現金をもち帰ったところで使う機会はないし、とほうもないインフレのために、お金を手元に置いておくと、またたく間に紙切れ化してしまう。だから、現金を手に入れたら、みな一刻も早く何かを買って現金を手放そうとする。ババヌキと同じだ。
 流域の村には、モコトと呼ばれるタイコがある。大木の幹をくりぬいたもので、トーキング・ドラムだ。流域の人々にとって、なくてはならない重要な通信手段になっている。モコトを使うと20キロ離れた村と対話ができる。
 ナオトラ船では屋台まで食べ物を買いにいくのに、往復300メートルに40分もかかる。ナオトラ船には5000人が乗っている。うひゃあ、とんでもない船です…。この中には100人か200人の無賃乗船客がいる。
 2012年のコンゴの旅のときには、このナオトラ船はありませんでした。そして、モコトも消えています。
 コンゴの首都キンシャサは、昼間でも外国人が外を歩いてはいけない。誘拐や強盗にあう危険があるから。外国人は自家用車でなければ外へ出ないのが常識になっている。
 キンシャサ市内は、ホテルもビルも中国資本が多い。ともかく中国の進出がすごい。
 コンゴでは、庶民から政治家まであらゆるレベルで、「これをくれ」「あれをくれ」という体質がしみついている。これがアフリカ諸国の中でもとくにひどい賄賂体質や汚職に結びついている。
 市場にある商店のほとんどは中国人やアラブ人、インド人の経営で、コンゴ人は、使われているばかり。鉱物資源の輸出は地元経済をうるおしてはいない。
 政府高官は賄賂をとることしか頭になく、地元経済の活性化には無関心だ。
 コンゴの紛争を大きくし、長期化させたのは、資金や武器を供与している外国勢力の存在があったから。モブツ独裁政権が32年にわたって存続できたのは、資金提供を続けたアメリカの存在があった。なぜ提供するのか、それはコンゴが世界有数の天然鉱物資源に恵まれた国だから。ダイアモンド、金、銅、タンタルやコバルトといったレアメタルを算出している。
 コンゴでは、毎年、東京都の1.6倍の森が焼失している。
 アフリカの旅で著者が得たことは何か? 不条理や理不尽が束になって襲いかかって来ても、なんとかなることが分った。そういうことが際限なく繰り返されているうちに、こうでなくてはダメだという思い込みのハードルがどんどん低くなっていった。
 世の中は、ありとあらゆる脅威にみちていて、それに対して保険をかけたり、備えをしたり、あるいは強大なものに寄りそったりしないことには生きていけない。そんな強迫観念を社会から常に意識させられているうちに、自分は無力で、弱く、傷つきやすい存在だと思い込まされてしまう。でも、ここでは自分でなんとかしないと、何も動かない。乏しい選択肢の中から、ベストとはほど遠い一つを選び、それを不完全な手段でなんとかする。状況がどんなに矛盾と不条理に満ちていても、それが現実である以上、葛藤なしに認めて取り組むしかない。そういうことを繰り返していると、意外になんとかなったりするし、なんとかならなくても、まあ、しょうがないやという気になる。まあ、しょうがないやと思えることが、実はタフということなのだと思う。いずれにしても、世界は偶然と突然でできている。それを必然にするのが生きるということだ。それがコンゴ河の教えだ。
 私のように、若いころから好奇心はあっても冒険心の乏しい人間にとっては、無茶すぎ、無謀すぎる危険きわまりない旅です。うらやましくて仕方がありませんでした。
 コンゴとも、元気に世界を旅行してレポートを書いてください。


更新日:2015年11月25日
(出版社のサイト)
http://www.kaiseisha.co.jp/books.html

 やっぱり、コンゴに舞い戻ってきてしまいました。
 続きはまた後で、今日も良き一日を…


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2016年02月22日

万民和楽

 旧小正月、浅き春の午後のことでした。

 「世界がグローバル化していけば、ナショナル・アイデンティティーを問う動きが必須となり、それを明確に意識して打ち出していくメッセージ性のある、国家デザインと歴史哲学を持つ政治家が必要とされています」…イマのペテン政治の指導者にはこれが欠けてるというか、求めるほうが無理難題、そもそも無いんだもん(*)。
 空っぽ、だましとおどしとうそをこねくりまわしたポーズだけ。
 うおーうおーと吠えまくってピース、ピースと鳴くのは許せない。
 プリンシプルのないまま米まで米国に国を明け渡すなんてサイテイ!
 そう思い「無」をもう一度、拝みに行きたくなって飛び乗ったのです!
 ヤッホー君、はとバスに揺られお昼寝タイム。

横浜・鎌倉いいとこどり
https://www.hatobus.co.jp/

 だって、バスガールのほたるさんが歌までご披露なさってくださったのでした。

港が見える丘
https://www.youtube.com/watch?v=Ve7HnqWGsmo

 バスは、鎌倉は円覚寺へ。
 念願の「無」へ。

小津安二郎.JPG

 ヤッホー君のこのブログ、2015年9月23日付け日記「秋分の日」をご参照ください。

 そのお隣りの「弁天堂」へ:

 執権北条貞時(時宗の子)が7日7夜、江の島弁天に参籠し天下泰平、万民和楽を祈り、霊夢を感じて大鐘を鋳造(1301年、正安3年)し、当山に奉納した。
 あわせて弁天堂を建立し、弁財天を祀り当山の鎮守とした。
 以来霊験あらたかにして所願すれば必ず感応を蒙むといわれて来た。
 またこの境地は、眺望絶佳にして遠く富士山をも望むことが出来、多くの人々より賞賛されてきた。
 因に当弁財天の祭礼は11月28日である。また60年毎の己の年に大祭を行い、江の島弁財天と当山との間で盛大にとり行なわれる。

円覚寺説明版


 715年も前の1301年に指導者は、天下泰平、万民和楽を祈っていますが、イマ年金は株に投資して失敗、アホノミクスで経済は悪化し、平和憲法を壊し、「国民の時代」からコクミンを無視して「独裁者の時代」に移行しつつあります。

 鳩サブレーだって、鶴岡八幡宮だってピース、ピースでした。

 店を開いて間もない明治30年頃だったそうです。
 当時海濱院に滞在されていた異人さん(どこの国の方か伺わなかったようです)がフト、店へお見えになり、当店初代に大きなビスケットを下さったそうです。
 それは掌に近いほど大きな楕円形をしており、ジャンヌ・ダルクが馬に乗り槍をかざしている図柄が刻まれてあったそうです。
 
 もともと、鶴岡八幡宮を崇敬していた初代は、八幡さまの本殿の掲額の(八)の字が鳩の抱き合わせであり、境内に一杯いる鳩が子供達に親しまれているところから、かねて「鳩」をモチーフに何かを創ろうと考えていました。
 そこにサブレー・三郎のヒラメキが来ました。
 あたかも八幡太郎義家、源九郎義経のごとく、鳩三郎(鳩サブレー)となったのです。
 鳩サブレーのネーミングには、こんないきさつがあったのでございます。


http://www.hato.co.jp/hato/story.html

八幡宮.JPG

 ね、そしてバスガールのほたるさんが静御前の哀しい物語と歌までご披露してくださいました。

 ヤッホー君はもう3,4年も前のこと、2012年の秋に、久喜市で「静御前の墓」とひょいと出会い、腰をぬかしたことがあります。ヤッホー君のこのブログ、2012年9月28日付け日記「静御前の墓」をご参照ください。

しづやしづ
しづのをだまきくりかえし
昔を今になすよしもがな

 有名なこの「静の舞」は、12世紀の後半1186年、頼朝の命でここ鎌倉に召し出された京の白拍子静御前が、吉野の山で別れてきた愛する人義経を、しのんで舞ったという古事にちなんで今に伝えられています。
このくだりは、鎌倉時代の正史とされる「吾妻鏡」に記されています。

 それによると、幕府を開いて武家政治の礎を築いた源頼朝は、平家追討に武勲のあった弟義経と不仲になり、義経追討の兵をあげます。
 義経は静とともに、武蔵坊弁慶らわずかな手兵をつれて吉野山に逃れます。
 頼朝側の追手が迫る中、義経一行は山伏姿になって東国に向かうこととし、静には金銀を持たせた供の者をつけて京都へ送らせます。
 ところが供の者達は途中で金銀を奪い、静は山の中に置き去りにされてしまい、捕らえられ京都の守護職の手で頼朝のもとへ送られました。
 鎌倉に着いた静は義経の行方を厳しく問われますが、静は答えません。

 その時、静は義経の子をお腹に宿していました。
 頼朝とその妻政子は、舞いの妙手として京に名高い白拍子である静の舞いを見たいと、静に鶴岡八幡宮での舞いを求めます。
 病気を理由にその申し出を断っていた静も熱心な求めに観念し、ついに舞の舞台に登ります。

 その舞台で静は、

よしの山
峰の白雪ふみ分けて
いりにし人の
あとぞこいしき

。。。
 そのあでやかな美しさは居並ぶ幕府の者たちを感動させました。
 しかし、頼朝は、自分に逆らう義経を恋い慕う歌をうたい舞うとは不届きだと激しく怒ります。
 それを見た政子は、かつて自分が頼朝を思い慕った日々の、女としての苦しさ、悲しさを教え諭して、頼朝の怒りをなだめます。
 おかげで処分を免れた静は、市内の片隅に住居を与えられ、静は男の子を産み落とします。
 幕府は男子を生かしておいては将来に禍根を残すと、その子を取り上げて由比ガ浜の海に沈め殺めてしまいました。

 傷心の静は京に帰されますが、それ以来静の消息は途絶えてしまいます。
 静御前のこの悲しい物語は、以後も人々の胸に残り、語りつがれ、謡曲や浄瑠璃にも作られて、今に残されています。

 鎌倉市観光協会では、この美しくも悲しい静御前の物語をしのび、毎年春に行っている鎌倉まつりの中で、鎌倉芸能連盟のお力添えのもと、4月第2日曜日に鶴岡八幡宮の舞殿に於いて「静の舞」を再現しています。


2014.3.3 鎌倉市観光協会
「静の舞」解説
http://www.kamakura-info.jp/news/18306/

川北瞳月”静御前舞いすがた” 
https://www.youtube.com/watch?v=MZs_OVbUDgg

フォレスタ”鎌倉”
https://www.youtube.com/watch?v=MbDPdx7v-ac

 さ、もう一度、読もうっと、確か枕元にあったはず。
 松本健一『司馬遼太郎が発見した日本、「街道をゆく」を読み解く』(朝日新聞社、2006年10月)
 とくに「2006年8月5日、長くつづいた梅雨のあとに」書いた「あとがきに代えて」を…

(*)
2016/02/22 14:47 ステトスコープ・チェロ・電鍵
国会のインターネット中継
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/#entry3889





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「戦後」は「国民の時代」!

 寅さん映画の松竹HPをご覧いただけましたでしょうか。
 このサイト、予告編ばかりではありませんよ、どんな時代だったのかも分かるようになっております。
 ひとつ、ひとつの事象はべつべつのもの、と思われるかもしれませんが、根っこが地中でつながっていたり、後ろ手で握手しているように、なんかきずながあるように感じられる時があります。
 氷山の一角?そんな関連づけてあるものが見えてくると、鳥瞰図となります。
 今日は1971年ってどんな時代、もう少し地面を掘ってみましょう!

 1971年1月24日 三島由紀夫の本葬が東京の築地本願寺で行われる。
https://www.tora-san.jp/movie/6/

 なんかあの頃って、振り返ってみれば、どこに向かって歩いているんだろう(イマはもう暴走していますが)ってそんな時代だったような。
 ヤッホー君のこのブログにもたびたび登場してきており、そのたびに腰をおろして見上げては、ため息をつくふたつの山があります。
 それは、司馬遼太郎と三島由紀夫!

 戦後日本の文学者として、司馬遼太郎(1923年生)と三島由紀夫(1925年生)は双璧の存在である。司馬は今なお根強い崇拝の対象であり(日本人にとっての「国民作家」は結局、村上春樹ではなく司馬遼太郎だろう)、三島は古典主義とロマン主義のせめぎあうその小説群に留まらず、戦後日本批判とパフォーマンス的な自殺によって、言論の参照点であり続けている。
 もっとも、この両者を関連づけるのは一筋縄ではいかない。1970年の三島の割腹自殺について、司馬が「さんたんたる死」「異常死」と形容し、あくまで「政治」ではなく、芥川や太宰の自殺のような「文学」の出来事として回収しようとしたことは、よく知られている(「異常な三島事件に接して」)。司馬なりの礼節が尽くされているものの、彼にとって晩年の三島は理解不能の人物にすぎなかっただろうし、ましてその死に深い政治的含意を認めようとするのはたんにナンセンスであった。
 だが、両者に同時代性がないわけではない。例えば、三島が自殺の直前「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」という有名な予言を残してすぐ、司馬が1971年以降『街道をゆく』によって日本の国土を輪郭づけたことは、明らかに共振するところがある。その対照的な生き様にもかかわらず、彼らは、日本のアイデンティティが自明でなくなっていく時代を共有していた。
 私は戦後日本のあり方を了解するにあたって、この両者の比較は有益だと考えている。このテーマについてはすでに松本健一『三島由紀夫と司馬遼太郎』(新潮社)等の著作があるが、本エッセイでは主に司馬を中心として私なりの見解を簡単に示したい。とりわけ「戦争」と「国家」がここでの主眼となる。

写生と虚構
 今日の私たちは、戦時中の日本は「軍国主義」であったと教えられている。しかし、司馬の考えでは、当時の日本はそれ以前の段階、すなわち軍国主義もまともに遂行できない不出来な国家であった。司馬の『歴史と視点』(1974年)所収の警抜なエッセイ「大正生れの『故老』」によれば「〔第二次大戦の頃の日本陸軍の装備は〕満州の“馬賊”を追っかけているのが似合いで、よくいわれる「軍国主義国家」などといったような内容のものではなかった。このことは1939(昭和14)年のノモンハンでの対ソ戦の完敗によって骨身に沁みてわかったはずであるのにその惨烈な敗北を国民にも相棒の海軍にも知らせなかった」。
 司馬によれば、こうした「集団的政治発狂者」による国家的な「愚行」を象徴するのが、合理的な軽便性を欠き、装甲も薄っぺらな九七式中戦車(通称チハ車)であった。戦場の司馬は、まさにこの見掛け倒しの「憂鬱な乗り物」であるところのチハ車に乗らされる。昭和期の行政官僚や陸軍が現実離れした「形而上的ポーズ」に支配され、正常な自己認識を失った結果として、兵士の命を脅かす時代遅れでポンコツの戦車ができてしまう――、戦争は善か悪かという問い以前に、司馬にとってはまずこの日本軍の奇怪な行動様式こそが最大級の批判に値するものであった。
 もっとも、ここで司馬は、下品な恨みつらみにならないように言葉を選んでいる。正岡子規を敬愛していた司馬は、国家の愚かさを高みから裁断するのではなく、自分自身をも客体視する「写生文」の手法を巧みに用いている。むろん、チハ車が徹甲弾にやられて「自分が挽肉になるという想像は愉快なものではなかった」にしても、この深刻な想像を描くとき、司馬の筆致は独特のユーモアを醸し出す(「挽肉のことを書こうとしているのではない。/機械のことを書くつもりだった」)。それはちょうど、死後の自分のありさまを落語のように描いた子規の写生文とどこか通じるものがある。
要するに、司馬は戦場に何のロマンも幻想も認めていない。彼にとって、戦場とはただ、軍国主義すらグズグズにする日本の愚かさが支配する空間にすぎない。彼の写生文は、一兵卒である自分自身も含めて、すべてを等価なモノのように扱う。そして、この非熱狂的な文章技術によって、馬鹿げた戦争の描写には奇妙な「おかしさ」が宿り得るだろう。

 それに対して、三島由紀夫は“戦場から疎外された人間”である。入隊検査で誤診されて即日帰郷を命ぜられたことが、後々まで彼の感情的負債になったことは、よく知られている。戦場で死ぬはずであった自分が戦後も生き延びて、なぜか時代の寵児になってしまったという不発感は、そのまま戦後日本のちぐはぐな状況――敗戦とともに滅亡するはずが、なぜかのうのうと生き延びて経済的繁栄を謳歌している――とぴたりと重なりあう。戦後日本社会も自分自身も死に損ないの漫画的存在だというところに、三島の立脚点がある。天皇主義を掲げて「文化防衛」を唱えたことも、所詮は三島一流の虚構、すなわちお笑いにすぎない……。
 こうした「戦場からの疎外」は、三島の小説にも反映される。例えば、日露戦争から戦後社会までを舞台とした畢生の大作『豊饒の海』の第三部『暁の寺』で、真珠湾攻撃の開始の報を聞いた主人公は、すぐさまインドの輪廻哲学に思いを馳せ、東京大空襲の廃墟を見渡した際には、そこに自らの「輪廻転生の研究」を投影する。それは戦場をファンタジーに変えることであった。三島はすでに戦時中の作品「中世」において、応仁の乱で廃墟化した日本に高貴な美男子の霊を降ろそうとする権力者を描いたが、『暁の寺』においてもなお、戦争のまっただ中にあえて仏教的な世界像を書き込んでいた。三島は戦争(戦場)を写生する気がまったくなかった
司馬が「写生」を旨とした作家であったとすれば、三島は「虚構」に取り憑かれた作家である。戦場においてあらゆる甘い幻想を打ち砕かれた作家と、戦場に行きそびれてヴァーチャルな幻想を再生産し続けた作家――、この両者はまさに日本の戦後文化の両極を指し示している。
。。。


2015.09.16 07:00 文藝春秋SPECIAL
昭和史大論争
司馬遼太郎と三島由紀夫 「国民作家」の戦争体験

福嶋亮大(文芸批評家・中国文学者)
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1396

ちょうど40年前、1970年11月25日、快晴のお昼頃、45歳の三島由紀夫は市谷台で自刃した。事件にもっとも早く反応したのは、47歳の司馬遼太郎であった。
 事のあらましを知った3時間後、「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりになまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない」という書き出しの原稿を毎日新聞に送った。合計9枚弱、新聞としては異例の長さの稿の執筆動機を、司馬はこう説明した。

「精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」

 司馬遼太郎は、共産主義であれカトリックであれ朱子学であれ、思想というものを信じなかった。とりわけ「知行合一」を旨とする陽明学には警戒的であった。
 おのれが是と感じ、真実と信じたことこそが絶対真理であり、ひとたびそう知った以上、行動を起こさねばならぬとする陽明学徒の「大狂気」に対して、日頃の温和な印象にそむく強い拒絶をあらわにした司馬遼太郎は、1968年から新聞連載して1972年までつづく大作『坂の上の雲』の中間点にあった。

 ところで本書の著者、松本健一は、その40代後半に至った1990年代なかば、小林虎三郎の評伝『われに万古の心あり』を書いている。
 長岡藩の小林虎三郎は、藩を官軍との戦闘に導いて城下を焼尽した陽明学徒・河井継之助の政敵で、合理主義的リアリストであった。松本健一は、革命的ロマン主義に傾きがちな自分の心情をやわらげる試みに、この本を書いたのである。司馬の考えの推移を検討しつつ、松本健一はこの「評論の物語」で、控えめながら自分の成熟への過程を語りもするのである。

 さらにのち、五十代後半の松本健一は『街道をゆく』全43巻を精読し直し、そこでは天皇の事跡がほとんど無視されていると気づいた。
 その第一巻、三島自刃直後に取材した「湖西のみち」には、大津京の天智天皇さえ登場しないのである
 また、日露戦争中四回開かれた御前会議の描写がほとんどない『坂の上の雲』は「国民の物語」であった。そして日露戦争は「天皇の戦争」ではなく、「国民の戦争」としてえがかれていた。
 
 三島由紀夫の行為は、司馬遼太郎の目に、せっかく手にした「国民の時代」である「戦後」の否定と映じた。
 それは大久保利通が、「征韓論」に固執して西南戦争を起こした西郷隆盛を、革命の実質を無に帰そうとする過激な陽明学徒とみなしたことに通じた。
 しかし事件から26年のち、司馬遼太郎も、バブルに浮かれた末にゆがんだ「知行合一」ともいうべきオウム事件を起こす「戦後の残骸」に、つねならぬ怒りを発しつつ病に倒れる。


2010年11月号『波』より
関川夏央、ふたつの「戦後」がぶつかった日
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/603667.html

 関川夏央は、松本健一『三島由紀夫と司馬遼太郎、「美しい日本」をめぐる激突』の書評としてこれを書きました。
 じゃあ、松本健一は安倍晋三をどう見ているのか、ここの2007年当時の文章が残っています。
 これもこの流れで考えてみませんか。
 何をって、ピース、ピースと鳴いて戦争法を通すことは、「国民の時代」を捨てアベノリスクもそうですけど、「アベノ時代」を創ろうとしているのではないか、イマは「アベノ時代」がくるまでの辛抱のときだ、何も明かさない、ひたすら戦時のときのように耐えよ、ということなのかな:

・・・
 世界がグローバル化していけば、ナショナル・アイデンティティーを問う動きが必須となり、それを明確に意識して打ち出していくメッセージ性のある、国家デザインと歴史哲学を持つ政治家が必要とされています。
 では、それに値するような人物がいるでしょうか。
 安倍さんは、問いを受けとめるところまでは正しかったという地点に来たのですが、答えを出し切れていない。教育基本法の改正や憲法改正まではいいのですが、新しい憲法をどうするのか、その中で出していく美しい国のイメージはどうなのかということを提示しなければなりません。

 世界の中の日本は金融でやっていくのではなく、例えば美しい水田があり、GDPでは5%にもならないかもしれませんが、農村を中心としたコメづくりの風土を作って、それを守ってきた。
 しかし、今、地域のコミュニティーはほとんど崩壊している。実際に地方でタウンミーティングをやれば、当然、日本の地方の山村がどのように崩れ、日本の地方都市がいかにシャッター街になっているかが見えるはずですが、それは全部"やらせ"だったわけです。
 地方にお金がないなら、ボランティア制度のような形で緑や山林、田畑を守っていく、地方の崩壊に対してはこういう手当てをする。その人々にお金ではなく誇りをあげる。グローバル化の世界の中では、農業や林業、中小企業や地方の小商店は、国際資本に太刀打ちできない。しかし、国は彼らによって守られているのだ、と。そういう形で国民をエンカレッジしていくという形をとればいいのです。

 しかし、安倍さんが国民に誇りを持たせるという形で路線を打ち出ても、その国民の思いをチャンネルとして吸い上げるのは官僚しかルートがなくなってしまった。安倍さんはステーツマンとしては有能だと言いますが、実務的な官僚が政府批判をする人々の意見はできるだけ避けておこうとする。教育再生会議などいろいろなことをするとしても、実際にそれを選ぶのが官僚になっている。つまり、小泉さんが「官から民へ」といいながら、官僚をそれだけ強くしてしまったのです。
・・・


2007/3/9 言論NPO
松本健一「『美しい国』とは『日本とは何か』に対する安倍氏なりの答え」
http://www.genron-npo.net/politics/archives/515.html


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2016年02月21日

The Song of the Birds

 イマから45年も前の1971年のこと…
 日本ではこの年の6月、密約もあった「沖縄返還協定」が調印されました。
 日本映画はこれから始まった年です:

車寅次郎らしさ 第6作 男はつらいよ 純情篇
https://www.tora-san.jp/movie/6/
https://www.youtube.com/watch?v=QgPX7oyL49g

 国連では事務総長がウタント(U Thant、1909-1974)氏のとき。
 パウ・カザルス(1876−1973)が「国連平和賞」(注1)を受賞しました。

Casals "El Cant dels Ocells" at the U.N. Day カザルス『鳥の歌』
https://www.youtube.com/watch?v=rt9iz3xApVg

Over the course of his life, Pau Casals struggled constantly for peace, justice and freedom. In recognition of his stance, in 1971 the Secretary-General of the United Nations, U-Thant, awarded Pau Casals the U.N. Peace Medal. The speech that Pau Casals gave to express his gratitude for this distinction, and afterwards his performance of "El cant dels ocells" (The Song of the Birds), form one of the most impressive testimonies to his human dimension.

WORDS OF PAU CASALS AT THE UNITED NATIONS - 24 October 1971

This is the greatest honour of my life. Peace has always been my greatest concern. I learnt to love it when I was but a child. When I was a boy, my mother - an exceptional, marvellous woman -, would talk to me about peace, because at that time there were also many wars. What is more, I am Catalan. Catalonia had the first democratic parliament, well before England did. And the first United Nations were in my country. At that time - the Eleventh Century - there was a meeting in Toluges - now France - to talk about peace, because in that epoch Catalans were already against, AGAINST war. That is why the United Nations, which works solely towards the peace ideal, is in my heart, because anything to do with peace goes straight to my heart.

I have not played the cello in public for many years, but I feel that the time has come to play again. I am going to play a melody from Catalan folklore: El cant dels ocells - The Song of the Birds. Birds sing when they are in the sky, they sing: "Peace, Peace, Peace", and it is a melody that Bach, Beethoven and all the greats would have admired and loved. What is more, it is born in the soul of my people, Catalonia.


United Nations speech - 1971
http://www.paucasals.org/en/-PAU-CASALS-United-Nations-speech/

■ 平和のとうとさを感じさせる音楽
 カザルスの「鳥の歌」は、あまりにも有名である。
「20世紀の楽聖」と謳われ、チェロの大家だったパブロ・カザルス。
 音楽は、スペイン カタロニア地方の民謡である。4分ほどの小曲である。それをカザルスが編曲し、世界平和への念をこめた。軍事政権を忌避し、亡命の途にあった老チェリストは、冷戦が過熱し、世界が核兵器のハルマゲドンに怯えていた季節(とき)、敢然と立ち、世界を巡った。「鳥の歌」を引っ提げて。
 そして、慄く人びとに向け 魂を削るように音楽を奏でた。
 1961年、ホワイトハウスに招かれ、J.F.ケネディの前で弾いた。
 10年後、国連総会でも「鳥の歌」を愛器のチェロにうたわせた。
 その時、演奏に先立ってカザルスは、語った。
「空を飛ぶ鳥は、ピース、ピース、ピースと歌っています」と。
 最後のことばは、むせび泣きだった。そして、イ短調の民謡をせつせつと弾いた。身体と精神を張って戦争に抗し続けてきた94歳の人生が見るものの脳裏に重なった。心は、トレモロに震え泣けた。その様子は、世界に中継された。カザルスは、地上の良心に訴えかけた。

■ 平和の音楽を受け継いだひと
 平井丈一朗(1937年生まれ、注2)は、カザルスの唯一の後継者である。音楽の神童としてスタートした音楽人生。高名な作曲家平井康三郎の長男である。作曲に秀でた。ピアノを能くした。チェロに転ずると若くして音楽賞を総なめにし、名声を得た。
 19歳でカザルスに入門した。カザルスの亡命地プエルトリコで内弟子となった。4年にわたって技術だけでなく、人格と思想の音楽を受け継いだ。カザルスは、1961年4月、このように述べている。
 「この弟子は、私の愛情と、私が与えうる音楽とチェロについてのすべてのものを受け取りました。私は、今まで彼のような弟子を持ったことがありません。彼は、音楽家として、演奏家として、希に見る域に到達しました」

■ カザルス、平井丈一朗、TBS
 カザルスのお墨付きを得た。平井丈一朗は、23歳だった。4月、凱旋帰国することになった。カザルスは、どうするのか。カザルスは、生涯「日本の土を踏まない」ということを信条としていた。祖国スペインがフランコによって軍事政権化した際に、それを承認した国々を許さない。そう決めていた。しかし、後継者と指名した平井の帰国デビューを祝うため、カザルスは、生涯でただ一度、己の禁を破った。
 1961年4月6日、午前6時40分、カザルスと平井丈一朗は、羽田の東京国際空港(当時)に降り立った。招聘したTBSは、ニュースをリリースした。見出しは、「20世紀の楽聖 パブロ・カザルス氏一行今朝来日」となっていた。演奏会は、4月14日。日比谷公会堂の客席には、皇太子ご夫妻(当時。現、今上陛下ご夫妻)をはじめ名望、名士が顔を揃えた。

 鹿倉吉次社長は、プログラム巻頭の挨拶にこう書いた:

「東京放送創立10周年にあたって、ここに20世紀の不世出のチェロ演奏者でありすぐれた指揮者であるパブロ・カザルス氏とその愛弟子であり世界の桧舞台へデビューしようとする平井丈一朗氏を迎えましたことは、弊社は勿論のこと日本の音楽史上にも特筆大書すべきことであろうと思います。
 (中略)
 カザルス氏が人を魅了するのは、比類のない音楽の巨匠であるばかりでなく、その高潔な人となりです。
 不正義と暴力をにくみ、人間の尊厳と自由を守り抜く人、物欲や名誉欲にとらわれない人、それがパブロ・カザルス氏であります。
 このような芸術的にも、道徳的にも、人間の誇りえる最高の人を迎え得ましたことは、日本の音楽愛好家の皆様と共に、この上もない喜びであります」

 指揮台には、パブロ・カザルス。84歳は、肘掛椅子にもたれての指揮となった。東京交響楽団がいかめしく構える。その前に平井丈一朗。若武者は、背筋を伸ばしてチェロを抱えた。
 この日、平井丈一朗は、二つのチェロ協奏曲を弾いた。円熟期のシューマンの作品を平井は、美しくも深玄にうたいあげた。カザルスは、それをスケール大きく豊かに高めた。ラロのチェロ協奏曲は、情熱と夢だった。
 異なる二曲だが通奏していたのは、カザルスの平和を思う心である。平和を欲するおだやかで高邁な気持ちがうまれてくる。カザルスの指揮とはそういうことだ。
 3日後の14日、東京での最後の「パブロ・カザルス指揮 平井丈一朗特別演奏会」が開催された。この日は、別のチェロ協奏曲の二曲が用意された。イタリアのボッケリーニとドボルザークのそれである。ボッケリーニは、第9番である。かもし出されたのは、明るさと郷愁と感情と情熱。平和の心に加えて、密度の高い師弟愛が響いた。絶賛の拍手のうちに2日限りの音楽会は終わった。
。。。

2015.7.23
戦後70年の今、TBSヴィンテージクラシックスと日本ワインの名門サドヤが思いをひとつに
「平和祈念ワイン、Chateau Brillant(シャトーブリヤン)−TBS VINTAGE CLASSICS 1992」
をつくりました。

http://www.tbs.co.jp/tbs-vintage-classics/news/201507231200.html

 20世紀最大のチェロ奏者パブロ・カザルス。その一番弟子の日本人チェリストとして知られる平井丈一朗(77)が演奏活動60周年を迎えた。彼の父は童謡「とんぼのめがね」で有名な作曲家の平井康三郎。7月23日の記念演奏会ではカザルス直伝のチェロを披露し、作曲家として自作も自演。長男の平井秀明が管弦楽団を指揮し、次男でピアニストの平井元喜が共演するなど、日本有数の音楽一家の存在感も示した。

 「これがバッハだ!」1957年の夏、カザルスが平井丈一朗に向かってそう叫んだ。ピレネー山脈の麓、スペイン国境に近いフランス南部のプラードでのこと。当時19歳の平井はその年、プエルトリコに居を構えたカザルスに弟子入りし、カリブ海のその島に暮らし始めた。だがカザルスは夏季の3〜4カ月をプラードで過ごすことが多かった。ニューヨーク経由でパリに飛び、プラードに滞在してみっちりレッスンを受けた。  「さんざんやり直した後、ようやくカザルスが褒めてくれた。バッハに開眼したと思った瞬間だった」と平井は振り返る。レッスンの課題曲はカザルス自身の十八番でもあったJ・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調BWV1009」。
 7月23日、紀尾井ホール(東京・千代田)での「演奏活動60周年記念 平井丈一朗チェロ演奏会」はまさにその曲から始まった。
。。。
 最後の演目は、カザルスがカタロニア地方の民謡をチェロ独奏用に編曲した「鳥の歌」。カザルスの代名詞ともいえる定番曲だ。この日は秀明の指揮による弦楽オーケストラの伴奏で丈一朗がチェロを独奏した。
 この編曲版はもともとがチェロ合奏による伴奏で、カザルスがメキシコでの演奏会の前に楽譜を紛失したものだという。同行していた丈一朗はカザルスに頼まれて「耳の記憶を頼りに、チェロ合奏のパートを書き取り、楽譜を復元した」
 自ら復元した楽譜に基づく弦楽オーケストラ伴奏版の「鳥の歌」は静かに祈るように奏でられ、巨匠への敬愛と郷愁をにじませた。

 遠い過去の記憶を呼び起こす鳥の歌。正確な音を出すだけの無味乾燥としたデジタル社会の中でも、森に一歩足を踏み入れれば、はるかな昔と変わらない鳥のさえずりが聞こえてくる。
 5月6日に紀尾井ホールで聴いた92歳の世界最高齢級のバイオリン奏者イヴリー・ギトリス(1922年生まれ、注3)のリサイタルでもそうだった。さすがに高齢のため技巧的にはかなりの難があったとはいえ、ギトリスの演奏はクライスラーに代表される19世紀ロマン派の流れをくむ古き良き音楽を伝えていた。
 カザルスと同世代の偉大な演奏家たちの音楽にじかに触れた経験を持つ平井丈一朗。
 これからますます貴重な存在となるだろう。


2015/8/3日本経済新聞(文化部 池上輝彦)
平井丈一朗の60周年記念チェロ公演
カザルスの高弟、古き良き時代を呼び起こす鳥の歌

http://style.nikkei.com/article/DGXMZO89927770Q5A730C1000000

(注1)
岸信介(1979年)、笹川良一(1982年)そして池田大作(1983年)も受賞しているようです。
(注2)
http://takeichiro-hirai.com/
(注3)
イヴリー・ギトリス 伝説のリサイタル〜2013年東京公演ライヴ映像〜
https://www.youtube.com/watch?v=nQnj8AvnBg0
Ivry Gitlis Live Rondo Capriccioso Saint-Saëns
https://www.youtube.com/watch?v=Tpq11I1ka0M



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Roger Casement

 ヤッホー君のこのブログ、昨日の日記「Union of Democratic Control」の続きです。
 今日は、3人目の方 Roger Casement Roger(1864-1916)ご紹介。
 この方、コンゴの真実の姿を世に知らしめましたが、ホモだとかなんだとかいわれ、生を絞首刑で閉じざるを得なかったのです。
 まずはイエーツ(William Butler Yeats、1865-1939)の死から、じゃない、ない、詩を読んでみることにいたしましょう(*):

O WHAT has made that sudden noise?
What on the threshold stands?
It never crossed the sea because
John Bull and the sea are friends;
But this is not the old sea
Nor this the old seashore.
What gave that roar of mockery,
That roar in the sea's roar?
The ghost of Roger Casement
Is beating on the door.

John Bull has stood for Parliament,
A dog must have his day,
The country thinks no end of him,
For he knows how to say,
At a beanfeast or a banquet,
That all must hang their trust
Upon the British Empire,
Upon the Church of Christ.
The ghost of Roger Casement
Is beating on the door.

John Bull has gone to India
And all must pay him heed,
For histories are there to prove
That none of another breed
Has had a like inheritance,
Or sucked such milk as he,
And there's no luck about a house
If it lack honesty.
The ghost of Roger Casement
Is beating on the door.

I poked about a village church
And found his family tomb
And copied out what I could read
In that religious gloom;
Found many a famous man there;
But fame and virtue rot.
Draw round, beloved and bitter men,
Draw round and raise a shout;
The ghost of Roger Casement
Is beating on the door.


 20世紀の初め、第一世界大戦のはじまる10年前のこと、こんなおぞましいエピソードも:

The black clergymen who had been summoned to Harlem’s Mount Olivet Baptist Church for an emergency meeting on the morning of Monday 10 September 1906, arrived in a state of outrage. A day earlier, the New York Times had reported that a young African man – a so-called “pygmy” – had been put on display in the monkey house of the city’s largest zoo. Under the headline “Bushman Shares a Cage With Bronx Park Apes”, the paper reported that crowds of up to 500 people at a time had gathered around the cage to gawk at the diminutive Ota Benga – just under 5ft tall, weighing 103lb – while he preoccupied himself with a pet parrot, deftly shot his bow and arrow, or wove a mat and hammock from bundles of twine placed in the cage. Children giggled and hooted with delight while adults laughed, many uneasily, at the sight.

In anticipation of larger crowds after the publicity in the New York Times, Benga was moved from a smaller chimpanzee cage to one far larger, to make him more visible to spectators. He was also joined by an orangutan called Dohang. While crowds massed to leer at him, the boyish Benga, who was said to be 23 but appeared far younger, sat silently on a stool, staring – sometimes glaring – through the bars.

The exhibition of a visibly shaken African with apes in the New York Zoological Gardens, four decades after the end of slavery in America, would highlight the precarious status of black people in the nation’s imperial city. It pitted the “coloured” ministers, and a few elite allies, against a wall of white indifference, as New York’s newspapers, scientists, public officials, and ordinary citizens revelled in the spectacle. By the end of September, more than 220,000 people had visited the zoo – twice as many as the same month one year earlier. Nearly all of them headed directly to the primate house to see Ota Benga.
。。。
The British consul Roger Casement’s recent inquiry in Congo had confirmed many earlier reports of mass atrocities under Leopold’s rule, including widespread enslavement, murder, and mutilation. Men came to Casement with missing hands, as the African American missionary William Sheppard and others had previously documented. Some claimed that they had been castrated or otherwise mutilated by government soldiers and sometimes by white state officials. The widespread and wanton practice of mutilation “is amply proved by the Kodak”, said Casement who submitted photographs of at least two dozen mutilated victims. Most observers during this period noted the common sight of Congolese chained by their necks and forced to work for the state. While Benga’s personal experience in Congo was not recorded, the incursions deeper into the forest for rubber and ivory would, for his forest-dwelling people, mean greater exposure and vulnerability to state abuses.

Casement’s report was submitted to the British crown around the time Benga and Verner met. The report brought overnight fame to Casement, and international scrutiny to Leopold, who set up a commission comprising a Swiss jurist, a Belgian appellate judge, and a Belgian baron, to investigate the allegations. But none of the revelations would spare Benga who was now securely in Verner’s net. After obtaining Benga, Verner advised McGee to send a statement to the prominent daily, weekly, and monthly publications to spread the news of his expedition.


The Guardin, Last modified on Friday 19 June 2015 10.46 BST

The audio long read The man who was caged in a zoo ;

In 1904, Ota Benga was kidnapped from Congo and taken to the US, where he was exhibited with monkeys. His appalling story reveals the roots of a racial prejudice that still haunts us

Photo: Ota Benga (second from left) and fellow countrymen at the St Louis World’s Fair, 1904 Photograph: University of South Carolina

By Pamela Newkirk
http://www.theguardian.com/world/2015/jun/03/the-man-who-was-caged-in-a-zoo

 いまだってぇ、エコツアーとか称して原住民を見に行ってるんじゃ、あ〜りませんか、ね。
 お土産にインスタントラーメンを持ってジャングルの奥地の「いえ」を訪ねたりして、ね。

Casement, Sir Roger David (1864-1916), Irish revolutionist, born in Sandycove, near Dublin. After holding consular posts in the British foreign service in several parts of Africa between 1892 and 1903, Casement returned to England to present to the British Foreign Office the results of his two-year study of the inhuman treatment of the native population in Congo Free State, then the personal holding of Leopold II, king of the Belgians. World opinion was aroused by Casement's report, with its detailed, eyewitness accounts of atrocities, and the Belgian king was eventually forced to relinquish his personal sovereignty over the Congo.

Plagued by ill health, and disdaining the posts offered by the Foreign Office, Casement remained in the British Isles for almost three years.

Casement retired from consular service and in 1913 returned to Ireland. A dedicated Irish nationalist, he took an active part in the movement for Irish independence. He sought help for the Irish cause, first in America and then, after World War I broke out, in Germany, where he remained until 1916. In March 1916, the Germans agreed to send 20,000 rifles to Ireland to help the Easter Rebellion, an uprising of Irish patriots. The British intercepted the arms and captured Casement after he landed from a German submarine in Ireland three days before the Easter Rebellion on April 24. Imprisoned in the Tower of London, he was convicted of high treason and hanged. The Irish consider Casement a martyr patriot; his remains were obtained from England in 1965 and reburied in Ireland.


Roger Casement
http://www.rogercasementsgac.com/about-us/roger-casement

In 1911, Roger Casement knelt before King George V and was knighted for his humanitarian work.

Five years later, he was hanged for treason at London's Pentonville prison and his naked body thrown into an open grave.

The knight who had served the British Empire with distinction had become a fervent Irish nationalist.

His activity in that cause, during a time of war, was deemed to be treason and a diary that held a dark secret would seal his fate at the gallows. There would be no mercy for the hero who had become a traitor in the eyes of Britain.

A life full of contradictions has inevitably left a legacy just as mixed and is still being debated.
。。。
After leaving school in 1880, Casement lived briefly in Liverpool before finding employment in administration and civil service work in Africa.

From 1895 he held consular appointments at various locations in Africa, including the Congo, where the British Foreign Office authorised him to report on Belgian mismanagement.

His report condemned the vicious treatment and infringement of human rights of the indigenous people.
。。。
Mario Vargas Llosa believes that in spite of the controversy of his life, it is time to redress the balance in terms of how Casement is remembered.

"His life was full of contractions and people don't like contradictory heroes, they like perfect heroes," he said.

"Roger Casement was not perfect. I think he was a tragic figure. But he should be regarded as a pioneer in the fight against colonialism, racism and prejudice."


25 November 2013, BBC
Roger Casement: How did a hero come to be considered a traitor?
By Peter Crutchley
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-25017936

 なお、Mario Vargas Llosa(ホルヘ・マリオ・ペドロ・バルガス・リョサ、1936年生まれ)はペルーの作家で、2010年にはノーベル賞を受賞しています。

(*)また、イエーツについての詳細はこちら:
2012年5月12日「東京大学イェイツ研究会」編・発行
東京大学駒場博物館特別展示、トリニティ・カレッジ・ダブリン=東京大学「学術協定締結記念」
W. B. イェイツとアイルランド
http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/images/Yeats_book.pdf


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2016年02月20日

Winter Dreams

 最後にアンコールにこたえて演奏なさった曲目ってなんでしたっけ?

 チャイコフスキー『くるみ割り人形』に出てくる「花のワルツ」です。初演は1892年3月です。

 そうですよね、お上手でしたね。

 ありがとうございます。

チャイコフスキー『くるみ割り人形』(指揮:小澤征爾)
https://www.youtube.com/watch?v=RyLzWX33Vak

 この楽隊は、Berliner Philharmoniker。
 ヤッホー君がスタッフの礼儀正しい、知識豊かな、若いお兄さまと会話を交わした楽隊は、Feuerwerk Philharmoniker。

 どうしたのか、と申しますと雨の下町、傘をさして、ふら〜りタウンウオーキング、2月20日の土曜日、お昼を食べてすぐに「ティアラこうとう」での音楽会へ。
 押し寄せる音の洪水に身をゆだね、クラシックの海を、ゆら〜り、たゆたっておりました。

 「Feuerwerk Philharmoniker」は「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団」です。

 新入生のみなさん、大学ご入学おめでとうございます。
 今年の新歓ページはまだ準備中です。
 もし東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団に興味をお持ちでしたら、ぜひ2月20日(土)の定期演奏会にお越しください。

第34回定期演奏会
 曲目
  ボロディン/歌劇『イーゴリ公』より『韃靼人の踊り』
  チャイコフスキー/幻想序曲『ロメオとジュリエット』
  チャイコフスキー/交響曲第1番ト短調作品13『冬の日の幻想』
 日時:2016年2月20日(土)開場13:30、開演14:00(予定)
 場所:ティアラこうとう大ホール
 指揮:原田幸一郎

東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団の沿革
 当団は特定の大学、身分、立場といったバックグラウンドを問わず、ただ純粋に音楽を愛する人々の集える場を目指して1999年秋、東京大学の学生を中心に約60名の有志によって創立されました。
 当初はフォイヤーヴェルクの名の通り、花火のように一発大輪の華を咲かせてみようというほんの好奇心から出発しましたが、いつしか二十数回の演奏会を重ね、現在では毎回の演奏会で満員近くのお客様にお越しいただくまでになりました。


http://feuerwerk-philharmoniker.com/

 音楽は脳みそをもみほぐしてくれます。
 音楽は想像力に刺激を与えてくれます。
 音楽は明日に望みをつないでくれます。

 ボロディン/歌劇『イーゴリ公』より『韃靼人の踊り』を聞いているうち、韃靼人って誰〜れ?どんな踊り?誰が舞うの?気になってお尻がむずむずしてきました。

ウクライナの草原の遊牧民
 ウクライナの南部を旅すると、見渡すかぎり麦畑がゆるやかなうねりを繰り返しながら地平線まで広がっている。そしてそれが永遠に続くかと思われるほど、どこまで行っても果てしがない。この平原は、平和な現在でこそ肥沃な黒土地帯としてヨーロッパの穀倉地帯になっているが、かつてはそうではなかった。

 この平原は、気温、雨量、土質の関係で樹木があまり育たず、古来より草原地帯(ステップ)であった。そしてこの草原地帯はウクライナ南部から中央アジアを経てモンゴル平原まで一つながりにつながっている。ユーラシア大陸の大山脈は、アルタイ、天山、コーカサス、カルパチアなどみな東西に伸びていて、草原を南北にさえぎるものは何もない。

 人類が牧畜を始め、馬を乗ることを覚えてから、遊牧民はこの草原地帯を東西に縦横無尽に駆けめぐった。この障壁のない草原を、古来よりスキタイ、フン、マジャール、ブルガール、ペチェネグなどイラン系、トルコ系、モンゴル系の遊牧民族が主に東から西へ侵入した。定住民にとってはこれほどの災難はなかった。この東西1万キロにもなる草原地帯から定住地域への遊牧民族の侵入こそが、中国でもヨーロッパでも歴史をひっくり返す最大の原動力であった。ロシア・ウクライナにおいても同様で、その歴史は、後から後から押し寄せてくる遊牧民族への抵抗と屈服そして反撃の歴史でもあった。

ポロヴェツ人とはどんな民族?
 ボロディンの歌劇《イーゴリ公》の中の「ダッタン(韃靼)人の踊り」は、最近では原題どおり「ポロヴェツ(ポロヴェッツ)人の踊りthe Polovtsian dances」とされることも多い。このポロヴェツ人も、東から西に侵入してきた諸遊牧民の長い系譜に連なる民族の一つだ。

 ポロヴェツ人は、トルコ系の遊牧民族で、11世紀に中央アジアから黒海のステップに進出し、それまでこの地域にいた同じくトルコ系のペチェネグ人を追い払って東はヴォルガ川の河畔から西はドナウ川の河口一帯まで広がった。彼らは、東ではキプチャク人、西のハンガリー・ブルガリア辺ではクマン人、中央のウクライナではポロヴェツ人と違った名前で呼ばれた。ポロヴェツの語源については、異説もあるがスラブ語の平原を意味するポーレから来ているとされる。もしそうなら、国名ポーランドや歌曲《ポーリュシカ・ポーレ》とも同根だ。

 彼らは、定住せずテントで生活した。ヒツジ、ヤギ、馬、牛などの家畜の飼育が主な生業だった。騎馬と弓矢に巧みで精悍な兵士であった。男は頭のてっぺんを剃り、その他の髪はいくつかの束に編んでいた。

 彼らは当時の遊牧民と同様、近隣国を頻繁に襲撃し、略奪を行った。1061年から1210年までの150年間に大規模なものだけでも約50回もキエフ・ルーシ大公国の町や村を襲ったといわれる。その大きな目的の一つは、人々を拉致して中東のイスラム社会に奴隷として売ることだった。
。。。


N響ライブラリー、カレイドスコープ
ダッタン人はどんな踊りを踊ったか
遊牧民たちの戦いの歴史に思いを馳せて

黒川祐次(日本大学教授、元駐ウクライナ大使)
http://www.nhkso.or.jp/library/kaleidoscope/3778/

ボロディン(1833-1887)オペラ「イーゴリ公」(初演1890年)より「韃靼人の踊り」:
https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI

 地平線まで広がる平原、21世紀になってもまだあるといいですね…

 さて、チャイコフスキー(1840-1893)。
 若いときの写真(The prodigiously gifted 20-something Tchaikovsky as a student at the conservatory in St Petersbury):

Tchaikovsky.png

 なんだってぇ、
 今日の演奏曲、交響曲第1番ト短調作品13『冬の日の幻想』は、1866年3月から6月にかけて作曲され、全曲の初演は作曲から2年後の1868年2月だったってぇ
 このころ日本では、この年1868年1月に鳥羽伏見の戦いがあり、9月に明治に改元しています。 
 
Tchaikovsky - Symphony No 1 in G minor, Op 13 "Winter Dreams"
https://www.youtube.com/watch?v=rPUgJ9GzUTc

 このころ20代半ばのチャイコフスキーは、精神的に追い詰められた、たいへん危機的なときを過ごしていたんですねぇ、知りませんでした:

Russia in the 1860s - the land without the symphony. Well, actually that's not quite true: Anton Rubinstein had written three, but, based in the language of Mendelssohn and Schumann, they propounded a backward-looking solution to the problem of finding what a Russian symphony might be. Thanks to the "Five", the loose group of composers (Mussorgsky, Borodin, Cui, Rimsky-Korsakov, and Balakirev), Russian musical culture was also trying to define itself as something distinctive rather than derivative, but by the mid-1860s, a truly Russian symphony was still proving elusive.

Bypassing what his elders were up to, the prodigiously gifted 20-something Pyotr Ilyich Tchaikovsky, just appointed to a job at the Moscow Conservatory, saw a chance to compose his First Symphony and provide what Russian musical culture desperately needed. And, given the ambition of what he was attempting, it's no surprise that the piece caused him a lot of personal pain – it was the single work that gave him more anguish than any other, according to his brother Modest – and that it proved controversial to both factions of the Russian music scene. His conservative, formalist teachers, including Rubinstein, refused to endorse or perform what they saw of the symphony when it was a work-in-progress, and the progessives weren't well-disposed to Tchaikovsky's ambitions either: Cui had written a devastatingly negative review of Tchaikovky's graduation piece.

That dichotomy between classical conformity – which Rubinstein demanded of symphonic music – and some other kind of still-to-be-discovered Russianness defines the scope of what Tchaikovsky is trying to make happen in his First Symphony. To say it's a musically tall order is putting it mildly. Tchaikovsky was throwing his hat into the most public, prestigious, but risky musical arena you could imagine, competing not just with his fractious, polemicised peers but with the greats of the German symphonic canon. His mental and physical health suffered so much during the composition of the piece that the 26-year-old thought he might not survive.

With these multiple pressures, and with the outside masters he felt he had to please and appease as well as his own pride and ambition, it's miraculous that this G minor symphony was completed at all. And the fact that in parts of this piece, Tchaikovsky does more than simply pull off a symphonic-stylistic balancing act but manages to find a melodic and structural confidence that's completely his own, was proof that this 26-year-od symphonic tyro was already on a path to a music that was distinctively his own, yet definitively Russian.


The Guardian, Last modified on Friday 29 January 2016 10.39 GMT
Tchaikovsky's First
Tchaikovsky's first symphony remodelled the form into a truly Russian style, staking out territory that his five other symphonies continued to explore
By Tom Service
http://www.theguardian.com/music/tomserviceblog/2014/jan/28/symphony-guide-tchaikovsky-first-tom-service


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Union of Democratic Control

Look at what the war wrought. More than nine million troops were killed, and, depending on how you count them, as many as 10 million civilians. In Turkey, Russia, the Balkans and elsewhere, unprecedented millions of people became homeless refugees. Some 21 million soldiers were wounded. In Britain, 41,000 men had one or more limbs amputated; in France, so many had mangled faces that they formed a National Union of Disfigured Men. The toll was particularly appalling among the young. Of every 20 British men between 18 and 32 in 1914, three were killed and six wounded. Surely many a family shared the feelings of a despairing couple who engraved on their son's tombstone at Gallipoli: "What harm did he do Thee, O Lord?"

Beyond the carnage, the war changed our world for the worse in almost every possible way. Without the vast slaughter, misery and upheaval of the war, would the most extreme group of revolutionaries still have come to power in Russia? And in Germany, the war left a toxic legacy of resentment that Hitler would brilliantly manipulate to win power. Already by 1918, rightwing Germans were blaming the country's military setbacks on the Jews. It is impossible to imagine the second world war without the first.

We will be asked to do a lot of commemorating over these next four and a half years, but whom and what should we commemorate, and in what spirit? Today most people would surely agree that the war of 1914-1918 was not fought for the lofty motives that each side claimed, and that we all would be better off if it had not been fought at all. Before he died, Harry Patch, the last surviving British veteran of the war, said it best: "It was not worth even one life." Yet all the traditional ways we remember wars make little space for this feeling.


The Guardian, Last modified on Friday 29 January 2016 10.51 GMT
First world war – a century on, time to hail the peacemakers :
On the 100th anniversary of the start of the Great War, we should remember those who tried to stop a catastrophe

By Adam Hochschild
http://www.theguardian.com/world/2014/jul/28/first-world-war-century-anniversary-peacemakers

 この記事にでかでかとでてまいりますのが、今日2月20日の日記「Edmund Dene Morel」の主人公!

Morel.png

 彼は、反戦 the anti-war movement を掲げて「Union of Democratic Control (UDC) 」に関わっております。
 もうひとつ、彼は、「The Congo Reform Association (first formed in 1904)」にも関わっております。
 英国紙ガーディンの記事にでてまいります写真のキャプションにはこう書いてあります:

Edmund Dene Morel, Britain's leading investigative journalist, imprisoned for his opposition to the war. Photograph: Library of Congress

 では、彼とコンゴとの関係についてみてみましょう:

Congo: White King, Red Rubber and Black Death
https://www.youtube.com/watch?v=dAHxRD8dZOM

BBC Two recently screened a documentary entitled 'Congo: White King, Red Rubber and Black Death' as part of their 'Africa Lives' season. It showed how Edmund Morel exposed the stripping of the Congo Free State (now Democratic Republic of Congo) of its main natural resource, by its European rulers at the end of the 19th century and the terrible suffering the Congolese people had to endure as a result.

edmund_morel.jpg

Edmund Dene Morel was born in Paris in 1873, son of an English mother and French father. He moved to Liverpool at the age of fifteen, where he found employment as a clerk for the Elder-Dempster shipping line. As Morel spoke both English and French he was made liaison officer between the line and officials in Belgium, covering trade with the Congo Free State. The African territory had been controlled by Belgium's ruler King Leopold II since 1870 and was part of his personal assets rather than an imperial territory of Belgium. It was whilst on his many visits to Antwerp from Liverpool to check records that Morel began to realise that a great fraud was being committed, and that even worse things were happening.
。。。
Morel became involved in the Liberal Party following his successful campaign, and stood as the candidate for Birkenhead. But by the time of World War I he found himself disagreeing with his party's actions, stating that the situation in Europe had been made worse by the 'secret diplomacy' going on between nations. He set up a group called the Union of Democratic Control (UDC) to fight against this and to argue that post-war peace terms should not humiliate the defeated nation nor should borders be artificially altered for one country's gain.

History has proved this to be true, but the 'Daily Express' ran a hate campaign against him and the UDC, denouncing them as 'Pro-German' and encouraging its readers to attack and break up UDC meetings. Morel himself was violently assaulted on several occasions. Police investigated the organisation and found nothing illegal, but in 1917 Morel was jailed for violating the Defence of the Realm Act. On his release Morel joined the Independent Labour Party but was denied high office and in 1924 he died after a heart attack.


Edmund Morel - Pioneer for Global Justice
The story of the determined efforts of a Liverpool resident to fight colonialism and human rights abuses at a time when they were accepted norms, and how he has been forgotten by history.

By Kenn Taylor
http://www.catalystmedia.org.uk/issues/nerve7/edmund_morel.htm

Almost immediately after WWI broke out in the summer of 1914, Morel became involved with the anti-war movement and founded the Union of Democratic Control, a body that became the most effective dissident organization in Britain. It condemned the British government’s entry into WWI and criticized the secret diplomacy that had contributed to the war in the pre-1914 era. Nine of its members later became ministers in the first Labour cabinet of 1924.

However, Morel’s anti-war efforts were seen as traitorous and he was imprisoned in 1917. He was released in 1918 and was elected to Parliament in 1922. However, his political career was short-lived. His short stay in prison had ruined his health and he died in 1924, at the age of 51.

Sources:
Bass, Jeff D. “Imperial Alterity and Identity Slippage: The Sin of Becoming ‘Other’ in Edmund D. Morel’s King Leopold’s Rule in Africa.” Rhetoric & Public Affairs 13, no. 2 (Summer 2010): 107-134.

Hochschild, Adam. King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror, and Heroism in Colonial Africa. New York: First Mariner Books, 1998.

Mitchell, Angus. “New Light on the ‘Heart of Darkness.'” History Today 49, no. 12 (December 1999): 20-27.


The William Morrison Project
https://williammorrisonproject.wordpress.com/morrisons-life/other-activists/e-d-morel/


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2016年02月19日

George Washington Williams

 イマのTPPAやグローバリゼーションへの動きを見ていますと、100年以上も前の「アフリカ分割」「アフリカの植民地化」そして第一次世界大戦へと岩盤が動くさまと似ているような。
 100年も前のグローバリゼーションで、本当に人は豊かになったのか、人を豊かにするためのグローバル化だったのか、ということです。
 イマもムカシも「お金儲けのためだったら、人 people なんてどうでもよい」のでは…とヤッホー君、思っております。
 アフリカのコンゴの土地を白人のキングが「私有地」King's private colony として占拠していた、なんてその典型なのですが、それに対峙した3人をここでとりあげたいと思います。
 「お金儲けのための犠牲に人 people がならないように」と祈りながら、人 people が犠牲にならないようにするには、どうするのか、歴史から学んでみたいんです。
 3人とは:
☆ George Washington Williams(1841-1891)
☆ Edmund Dene Morel(1873-1924)
☆ Roger Casement(1864-1916)
 ヤッホー君のこのブログ、昨日の日記「ニセ者だらけ」にも登場していましたね。
 まずは今日2月19日金曜日「雨水」、George Washington Williams から:

It was here in the Congo that the phrase "crimes against humanity" was coined, when in 1890 the black American journalist George Washington Williams wrote to King Leopold of Belgium protesting about forced labour, torture and massacres in the King's private colony.

Such horrors are still routine. Thousands of Hutu refugees were killed by Rwandan soldiers and Kabila's troops last year. In an echo of the 1994 genocide, the Tutsis are again the object of hatred-filled speeches and murder.

The Guardian, Last modified on Friday 8 January 2016 04.09 GMT
They came to save Kabila - not his people
By Lindsey Hilsum
http://www.theguardian.com/world/1998/aug/30/1

George Washington Williams's Open Letter to King Leopold on the Congo, 1890
See more at: http://www.blackpast.org/george-washington-williams-open-letter-king-leopold-congo-1890

Williams, George Washington
Born: October 16, 1849, in Bedford Springs, Pennsylvania
Died: August 2, 1891, in Blackpool, England
Vocations: Minister, Historian, Journalist, Orator

In 1883, shortly after his career as a politician, Williams’ History of the Negro Race in America from 1619 to 1880: Negroes as Slaves, as Soldiers, and as Citizens (*) was published. He had worked on the piece for seven years. In order to produce this historical account, Williams studied over 12,000 books, a thousand of which are mentioned in his historical account. It consists of two volumes, nine parts, and 60 chapters. It was perhaps one of the most definitive and extensive works chronicling the early life of African-Americans. It was this work that made him a person of recognition.

In 1885, President Chester Arthur took notice and appointed Williams to be a U.S. ambassador to Haiti, but he never took the position, because the following administration canceled it. His world travels, however, continued when, on a trip in Europe, he made the acquaintance of King Leopold of Belgium. The king sparked an interest in Williams for the Congo in Africa. He was later to make several visits there, and much to the dismay of the king, S.S. McClure, a well-known editor and publisher at the time, commissioned him to write articles on the treatment of the natives under Belgian rule. In 1890, Williams published two articles on Belgian rule in the Congo: An Open letter to His Serene Majesty Leopold II, King of the Belgians and Sovereign of the Independent State of Congo and A Report Upon the Congo-State and Country to the President of the Republic of the United States.

Williams later traveled to other colonies in Africa controlled by Great Britain, Portugal and Egypt. Unfortunately, when he returned to England in the summer of 1891, he fell ill with tuberculosis and pleurisy. Williams died in Blackpool, England on the second of August at the age of 42. He left behind his wife, Sarah Sterett Williams, whom he had married 17 years earlier, and one son.(**)


http://pabook2.libraries.psu.edu/palitmap/bios/Williams__George_Washington.html

(*) http://www.amazon.co.jp/History-Negro-Race-America-Vol/dp/1331018765
(**)http://www.amazon.co.jp/George-Washington-Williams-A-Biography/dp/0822321645

 動画も:

Dr. Franklin & Lea Fridman: George Washington Williams
In Franklin Center At Duke
https://www.youtube.com/watch?v=A8WC5l2unNA

Who was the first African-American writer to investigate and report the wrongdoings of a world leader?

George Washington Williams didn’t travel to the Congo in 1890 intending to expose King Leopold II of Belgium as a gross violator of human rights. If anything, Williams hoped the king’s venture there would offer an opportunity for Williams to fulfill his own quest. Ever since he graduated from seminary 16 years earlier, Williams had sought a place in the world where black men like him could make a difference for the black people still living on the African continent. What Williams found in the Congo, however, was a far different story, one almost too terrible for words. But he had the courage to try to tell the world what he had seen. In an open letter to the king from a base at Stanley Falls, Williams−who had already published his monumental History of the Negro Race in America in 1883−became the first investigative journalist to reveal the hypocrisy of one of the most exploitative rulers of the late-19th century, a European king whose designs on the resources of the Congo set off a furious, and notorious, “Scramble for Africa.”

Contrary to what most might think, the first whistleblower about Belgian atrocities in the Congo wasn’t the famous novelist Joseph Conrad in his 1899 novel, Heart of Darkness, but Williams, an African American writing from the heart of King Leopold’s “Congo Free State.” You can bet Leopold tried to trash Williams for his shocking exposé, but to W.E.B. Du Bois, George Washington Williams was “the greatest historian of the race.” In anguish, he blew the doors off one of the cruelest frauds in history, not long before his own story came to a tragic end.

Williams learned of Leopold’s efforts to modernize the Congo while visiting President Chester Arthur at the White House and, in support of the move, urged the Senate to join the international community in recognizing the association Leopold had founded to lead the mission. It was at the Congress of Berlin in 1884-1885 that German Chancellor Otto von Bismarck had given Leopold a free hand in running the Congo. Leopold himself had learned about the Congo from reading of the exploits of the notorious Henry Morton Stanley, a correspondent for the New York Herald who, in 1871, found the missing Scottish explorer and missionary David Livingstone in the Congo, greeting him with the famous line “Dr. Livingstone, I presume.” Leopold had made his own presumption about the lands “discovered” by Portuguese traders in the 15th century, calling the area a “magnifique gâteau africain,” as Paul Vallely explains in a 2006 piece for the BBC, “Forever in Chains: The Tragic History of the Congo.”

The Root, Posted: May 12 2014 3:00 AM
Who Was Black America’s 1st Investigative Journalist?
100 Amazing Facts About the Negro: Meet the man who exposed a colonial atrocity of epic proportions.

By: Henry Louis Gates Jr.
http://www.theroot.com/articles/history/2014/05/black_america_s_1st_investigative_journalist_who_was_he.html
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キリマンジャロの麓に

 朝からなんですけど、石川さゆりの「夕焼けとんび」で出発進行:

https://www.youtube.com/watch?v=PF7FzVI_ZIY

 夕焼け空が真っ赤っか、トンビがくるりと輪を描いた、ほ〜いのホイ、補遺。
 だって、アフリカだって市民交流って言って良いのか分かりませんけど、こんな動きも紹介されていたし

 米国ペンシルベニア州フィラデルフィアに本校を置くテンプル大学ジャパンキャンパス(TUJ/東京都港区/学長ブルース・ストロナク)の理事会レギュラー・メンバーを務める岩男壽美子氏は、女性の自立支援推進の取り組みとして、タンザニアのバンガタ村に「さくら女子中学校」の設立を進めている。その派遣チームの一人として、TUJで教育学修士を取得したアーロン・ジェームズ氏が、英語担当の教員として赴任予定。

 岩男氏はバンガタ村出身のフリーダ・トミト氏と出会ったことをきっかけに、2008年からタンザニアでマイクロクレジット事業(無担保少額融資)を開始。その事業を通じて、現地の女性の自立支援を行ってきた。トミト氏はマサイ族の女性としては極めて珍しい境遇にあり、アメリカの大学を卒業し、経済的成功を収めている。そのことから教育の重要性を実感し、女子教育の拠点を作るという志を抱くようになった。相談を受けた岩男氏がトミト氏の熱い思いに共感し、NGOさくら・ビジョン・タンザニアを2013年10月に共同設立。「さくら女子中学校」設立計画が始動した。

 2015年初頭には外務省から約50万ドルのODAの供与が決定。この資金により、教室、食堂(ホール)、寮、浄化槽、教職員住宅などの建設が急ピッチで進められ、8月には完成予定である。これまで数多くの民間企業・団体・教育機関や個人から受けた支援に加え、日本の政府資金も投与され、2016年1月の開校へ向けて着々と準備が進められている。

 全寮制の「さくら女子中学校」は1学年50名の4年制で、教科は英語で学習する。理数科目に特に力を入れ、現地に不足する医療関係者、技術者、科学者など、社会で活躍する次世代の女性リーダーの輩出を目指す。また、現地の文化に配慮しつつも、日本のものづくりの根底にある「緻密さや丁寧さ、また、細部へのこだわり」といった価値観を「さくらベーカリー」と名付けられたパン作り事業を通じて学ぶことも計画されている。陽光桜の植樹も進められ、日本の魅力の発信拠点としても活用が期待される。

 設立に向けて岩男氏は、「日本のODAが決まるまでは長い道のりだった。タンザニア政府は昨年理数系科目に重点を置く指針を発表し、私たちのプロジェクトと方向性が一致している。このプロジェクトが、積極的、主体的にものを考える次代の女性リーダー育成の一助となれば」と思いを語っている。

 日本からは理数科目担当(元青年海外協力隊員)3名と、TUJ大学院教育学研究科修士課程を2012年に卒業した英語担当のアーロン・ジェームズ氏が派遣される。ジェームズ氏は「大学で何年も教えてきたが、今度は私が考える “教育における正義”に貢献したいと思いこのプロジェクトに参加した。このプロジェクトでは、ある特定の文化や社会において、継続的で有能な人材を育てるために、教育や技能研修を最も必要とする人たちにその機会を提供する。明日のリーダーとなる、学ぶ意欲にあふれた若者たちの生活や経験を変えることに寄与できればと思っている」と意欲的だ。


2015年5月14日付け朝日新聞デジタル
テンプル大学ジャパンキャンパス理事会メンバーがタンザニアで女性リーダー育成プロジェクトを推進
卒業生が現地派遣チームに
「さくら女子中学校」2016年1月開校予定

http://www.asahi.com/and_M/information/pressrelease/CPRAP11507.html

 「さくら女子中学校」はこちら: 
http://sakura-project.info/

 岩男壽美子氏(一般社団法人キリマンジャロの会代表、慶応義塾大学・東京都市大学名誉教授)は、これも昨年2015年のことですが、9月30日(水)に東京ロータリークラブで「キリマンジャロの麓に女子中学をつくる」と題して講演をなさっております:

http://www.tokyo-rc.gr.jp/jtablespeech/ts.cgi?pid=jt1507_14

 タンザニアには高校野球も:

 1915(大正4)年7月1日。大阪朝日新聞1面に、第1回全国中等学校優勝野球大会の開催社告が掲載され、高校野球の歩みが始まった。それから100年。高校野球は海を渡ってアフリカ東部のタンザニアに伝わり、日本では約17万人の球児が甲子園の夢を追う。

 「オネガイシマース」。5月下旬、日本から約1万キロ離れたタンザニアの青空の下、日本語が聞こえてきた。砂浜のようなグラウンドで、本塁を挟み2列に並んだ選手が帽子を取って一礼し、紅白戦が始まった。決着がつくと、再び本塁付近に集まり、「アリガトウゴザイマシタ」。

 試合前後の礼は、全国高校野球選手権の前身である、第1回全国中等学校優勝野球大会を開くにあたり、定められた。国際大会にはないこの習慣が、タンザニアに根づく。

 3年前、現地に住む日本の元高校球児らが野球を教え始めた。ユニホームや靴、バットなどの野球用具を日本から調達し、環境を整えた。集合時間を守る、声を出して仲間を励ます。技術指導より、そんな姿勢を大切にした。アザニア・セカンダリースクール(SS)のコスマス主将は「規律と尊敬と正義の精神を学んだ。野球と出会って自分が変われた」。

 彼らが目指すのは、昨年から始まった「タンザニア甲子園大会」だ。国際協力機構(JICA)職員で、NPO法人「アフリカ野球友の会」の友成晋也代表が大会創設に尽力した。「野球を通じた『生きがい』を伝えたかった」

 昨年2月にあった第1回は、都市部のダルエスサラームで開催して4校約60人が参加。新聞などメディアにも大きく取り上げられた。10カ月後の第2回は6校約90人に増えた。第3回は今年12月に開かれる予定で、国内初の野球場建設の計画も進む。その名称には「甲子園」と入れることも検討されている。野球連盟のンチンビ事務局長は「野球は良質な市民を生み出す。取り組んだ子供がこの国を変えてくれるはず」。政府と協力し、今後も普及に力を入れる。


2015年7月1日付け朝日新聞デジタル
甲子園の夢、広がる 「試合の礼儀」海渡る タンザニア 高校野球100年
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11834676.html?rm=150

 2013年に友成さんは「安全運転キャンペーン」にも取り組みました:

 交通事故が多発するアフリカで安全運転を呼び掛けようと、国際協力機構(JICA)タンザニア事務所次長の友成晋也さん(49)らが啓発ソング「ANZEN UNTEN」を作った。友成さんの仕事仲間で、チュニジア事務所次長だった武豊町出身の竹本啓一さん=当時(46)=が現地で事故に遭い、命を落としたのがきっかけ。今秋にも現地警察がキャンペーンで使う予定で、将来はアフリカ全土に広めたい考えだ。

 家族ぐるみの付き合いをしていた竹本さんの悲報は昨年末に届いた。信号待ちをしていた竹本さんの車に、飲酒運転の車が突っ込んだ。

 竹本さんは若いころから途上国の生活環境の改善に関心を持ち、エイズ予防などの支援に力を注いでいた。妻と幼い子ども2人を残して逝った竹本さんの無念を思い、「彼の死を無駄にしたくない」と友成さんは事故の撲滅を誓った。

 JICA中部(名古屋市中村区)に勤務経験がある友成さんは昨年1月、タンザニアに赴任。アフリカ諸国は経済成長が続き、自動車の交通量が年々増えている一方、飲酒運転や信号無視などマナーの悪さが目立ち、道路が混雑していると歩道に乗り上げて走る車もいるという。

 今年に入り、タンザニアで教員を務めている青年海外協力隊員で、バンド経験がある知人の海老名利亮さん(30)に作詞作曲を依頼。現地の日本人を中心に事故撲滅の機運が盛り上がり、4月に「アフリカANZENプロジェクト実行委員会」が立ち上がった。

 メロディーは、タンザニアのポピュラー音楽「ボンゴフレーバー」調で、歌詞はスワヒリ語。無理な追い越しをした車に父親がひかれて亡くなり、悲しみにくれる少年の叫びを歌う内容で「運転手さん! 急がないで 注意深く運転して」と訴える。

 地元の有名歌手もボーカルで参加し、9月にはプロモーションビデオと合わせて発表する。ビデオ制作には資金が必要なため、友成さんは県内の企業などに支援を呼び掛けている。

 友成さんは「竹本さんのような悲惨な事故を少しでもなくしたい。アフリカのすべての人たちが、交通安全の歌として共有してくれるようになってほしい」と話している。

◆「ANZEN UNTEN」の歌詞の一部(日本語訳)
それから僕の生活はつらいものとなった
忘れることなんてできない
僕とパパとママは夕方
一緒に歩いていた
パパー!
僕のパパは無理な追い越しをしてきた大きなトラックにひかれてしまった
ママ! ママ!
僕のパパはどこ行ったの?
僕は悲しい気持ちでひどく泣いた
ああ、アンゼンウンテン
運転手さん! 急がないで
注意深く運転して
人の命はかけがえのないものなのに


2013年8月29日付け中日新聞【河郷丈史】
アフリカに広がれ、安全運転ソング JICAの友成さん
http://www.47news.jp/smp/localnews/hotnews/2013/08/post_20130829102336.php

 どれどれ、試聴:

Anzen Unten subtitled in Japanese
https://www.youtube.com/watch?v=ms2GSX3mgx4


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2016年02月18日

ニセ者だらけ

 またしても政権与党の議員による失言。今度は良識の府、参議院議員の丸山和也(1946年生まれ)。このかた、弁護士でタレント活動にも磯しんだ方。これじゃぁ、劣化ショーでなく劣化ウランだ〜ん攻撃だよぉ〜。選んだほうも、と言われちゃうね。

「日本が米国の51番目の州に」 自民・丸山氏が発言
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2705537.html

 失言というより、そうなって欲しいとこころから思って、トップのように「日本を売り渡す」ことに大賛成なんでしょ。この人たち、保守でも右翼でも愛国者でもなんでもない証し。あるいは良識の府を、安酒に酔った客通しの恨み節をきかされてる場末の赤ちょうちんか、銭湯の洗い場に変えてしまいたいのでしょうか。
 事務所に駆け込んでくる市民のために、地方で汗水流して働く弁護士先生のほうがず〜っと尊敬できる、とヤッホー君。
 福岡県の弁護士先生の読後感をもう一回、ご紹介。 
 これは、南畝先生について書いた野口武彦の別の本のお話を読んだ感想です:

 幕末に起きた戦争のうち、「禁門の変」というのは少し知っていましたが、「鳥羽伏見の戦い」については、その実相をまったく知らなかったことを、この本を読んでほとほと実感させられました。
 この本は、「幕府の命運を決した4日間」というサブタイトルをつけて、激戦だった鳥羽伏見の戦いを忠実に再現しようとした画期的な労作です。
 幕府軍は決して一方的に敗退していったのではなかったのです。フランスからヨーロッパ最新式の銃を大量に仕入れていて、それが戦場で大活躍したのでした。そして、両軍は白兵戦の前に大砲で撃ち合い、銃を活用して戦ったのです。
 幕府軍が決定的に敗北したのは、何より将軍慶喜の日和見にありました。やはり、戦争では司令官の姿勢はきわめて大きく、選挙区を左右するのですね。
 明治になってからも長生きした最後の将軍慶喜に対して酷評が加えられています。しかし、それも考えようによっては、それだからこそ、明治維新が早まったといえるのです。ただ、それは、上からの革命を推進してしまったことにつながっているから、下からの民衆主体の革命にならなかったという弱点をともなったという著者の指摘は鋭いと思いました。
 1868(慶応4)年1月3日から6日までの4日間、京都市南部の鳥羽と伏見で、薩摩軍を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激戦を交えた。両軍合わせて2万人の兵士が激突する。戦死者は幕府軍290人、新政府軍100人。戦闘は、武力討幕派の圧勝に終わった。幕府軍にはフランス伝習兵と呼ばれる最新装備の部隊がいた。伝習隊には2大隊があり、1大隊800人として、1600人が訓練されていた。そして、シャスポー銃という元込式の最新式をもっていた。
 大政奉還は、将軍職を差し出すのと引き換えに、徳川家の実験を残しておこうという捨て身の業だった。
 シャスポー銃は、1866年にフランスで制式歩兵銃に採用され、1870年の普仏戦争で活躍した。敗戦後のパリ・コミューンで反乱兵鎮圧に使われた悪名高い銃である。射程距離600メートル、充填は速く、1分間に6回発射できました。
 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が負けたのは銃砲の性能が悪かったからというのは、間違った俗説である。著者は、しきりにこの点を強調していますが、なるほど、と思いました。
 戦いの当初、徳川慶喜の脳裏には、先発勢が優勢な兵員数で薩摩藩を威圧しつつ二条城に入り、下地を整えたところで自分がおもむろに上京すると言うイメージがあった。その幻想がもろくも崩れてしまった。
 戦局の大勢を決したのは、大砲である。戦場の主役は、大砲対大砲の砲戦になっていた。
弾丸が命中して倒れた兵士は、たいがい短刀で自決した。この時代は、腹に銃創を受けるとまず助からない。たとえ即死しなくても、腹膜炎を発して苦しんだ末に絶命する。なまじ苦痛を長引かせるよりはと潔く自刃するのである。沼へ飛び込んでノドを突く姿は悲壮だった。
 徳川慶喜には、頭脳明晰、言語明瞭、音吐朗々と三拍子そろっていながら、惜しむらくはただ一つ、肉体的勇気が欠けていた。一陣の臆病風が歴史の流向を変えてしまった。
 慶喜がいなくなったと知った大坂城は、上を下への大混乱に陥った。それは260年ものあいだ、維持されてきた徳川家の権威が超スピードで消散していく数時間であり、とうに形骸化していた政治権力が屋体崩しのように自己解体していく光景でもあった。置き去りにされた将兵を支配した感情は、怒りでも悲しみでもなく、集団的なシラケだった。自分たちは、こんな主君のために我が身の血を流していたのか、という何ともやりきれない徒労感だった。
 徳川慶喜は大阪湾から船に乗って江戸に向かった。このとき、まずはアメリカの軍艦に乗り込んでいるが、これもあらかじめ用意されていた。つまり、徳川慶喜はアメリカの庇護のもとに逃亡したのだった。うへーっ、今も昔もアメリカ頼みなんですか……。
 そして、日本の軍艦「開陽」に乗り込んだあと、徳川慶喜は「自分は江戸に戻ったら抗戦せずに恭順するつもりだ」と初めて引き連れていた重臣たちに本心を明かした。
 そしてこのとき徳川慶喜は愛人まで連れて船に乗り込んでいたのです……。
 江戸に着いても、徳川慶喜はすぐには江戸城に乗り込まなかった。なぜなら、将軍になってから一度も江戸城に入ったことがなかったので、旗本たちの気心が分からず、不安だった。身辺の安全を確保できると慎重に見極めをつけてから入城した。
 なんとなんと、自分の身の安全しか考えていなかったというわけです……。
 いやはや、大した徳川将軍ですね。
 徳川慶喜は、12月16日に、英・仏・蘭・米・プロシア・伊の6国代表と謁見し、外交権は手放していなかった。そして、旧幕府から国体を引き継つぐのを忘れていた新政府は無一文であり、徳川慶喜に泣きついて5万両を引き出した。
 明治維新の成り立ちを知るうえでは、欠かせない本だと思いました。一読をおすすめします。


弁護士会の読書
野口武彦『鳥羽伏見の戦い。幕府の命運を決した4日間』(中公新書、2010年1月)
http://www.fben.jp/bookcolumn/2010/04/post_2501.html

 徳川慶喜も無責任男、明治を生き延び、公爵に列せられ、貴族院議員にもなり、1914(大正2)年に76歳で亡くなって、お墓は谷中霊園にあります。
 それと、ヤッホー君、どうも気になりますコンゴ。補遺、ふたつ。ひとつめは無責任国について:

 米国が北朝鮮をいじめ抜き、窮地に追い込もうとするのは、現政権下で苦しむ北朝鮮の国民を救うためではありません。自国の利益のためです。そのことが、現時点で一番あらわに分かるのはトルコです。米国とトルコの関係です。トルコのエルドアン政権は、政治的理由からの、自国民に対する抑圧殺傷の行為において、北朝鮮の一桁上の暴力を振るっています。この事実について西側のマスメディアは殆ど何も報じていませんが、ネット上で少し努力すれば、具体的な情報が十分の量見つかります。その上、エルドアン政権とIS(いわゆるイスラム国)との関係は、過去においても現在も、親密という言葉が適切だとさえ思われるものであることが暴露されています。
 最近、重装備のトルコ地上軍がイラク北部の要衝モスルの近くに、イラク政府の許可なしに、進駐しました。石油産出地域に近いこの都市から、2014年7月、比較的少数のIS軍の攻撃を受けたイラク政府軍の大部隊が多量の兵器弾薬を捨てて敗走し、これがISの軍事力の飛躍的増大をもたらしたと伝えられています。この軍事的大fiascoが、どこかのレベルで巧まれた芝居であった可能性は否定しきれません。米国のメディアの報道によれば、昨年2015年1月から、米空軍の支援の下にモスルの奪還作戦が行われていることになっていますが、それから1年経った今も、モスルは ISに掌握されたままです。ところで、今回のトルコ軍のモスル北辺への無断侵攻の目的は何か? イラク政府からの抗議と撤退要求を受けて、エルドアン政権は、ISと戦うための進駐だと答えていますが、これは嘘でしょう。ISがイラク北部の油田地帯から盗んだ石油をトルコ国内にうまく輸送するルートを確保することが、おそらく、その目的だろうと思われます。ISがシリアの油田から盗んでトルコに送り込んでいたシリア北部からトルコに抜けるルートはロシア空軍によって抑えられてしまったので、もう一つのイラク北部のルートを増強確保しようとしたのだと、私は、推測します。
 国内での自国民の大規模な抑圧と凶悪な国際的テロ組織ISとの結託という二つの罪状だけでも、エルドアンのトルコは金正恩の北朝鮮よりも、国際社会にとって、遙かに危険で罪深い国家です。国連で制裁の対象として取り上げなければならないのは、トルコであって北朝鮮でもエリトリアでもありません。


藤永茂 (2016年1月10日)私の闇の奥
いじめ抜いて自殺に追い込みたいのか
http://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru

 もうひとつは、無責任国に仕立て、裏でもうけようとして一味がいることです。「グローバリゼーション」なんて言いますが、真意はどうなんでしょ。国を守るのでなく、国民に犠牲を強いることなんではないか、とさえ考えてしまいますね:

 かつてベルギー領であったアフリカのコンゴでは、ベルギー国王レオポルト2世の経営する無数の大規模ゴム農園で、黒人が凄まじい奴隷労働を強制された事実があります。
 この奴隷農園を経営していた実働部隊が、ロスチャイルド一族とその盟友・銀行ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックです(拙稿「核兵器の密売人フランス」参照)。
 本書p28には、ロスチャイルドによって手首を切り落とされた黒人の少年の写真が掲載されております。
 黒人には1日に採集するゴムの量が1人1人割り当てられていました。
 1日でもその割り当てノルマが達成できないと、ロスチャイルドはその黒人奴隷の手首をオノで切断し、制裁を加えたのでした。
 相手が少年であっても容赦などされなかったのです。
 本書に掲載されている写真が残されている事は、「写真という技術が登場し、しかもアフリカの奥地にまで持ち込める携帯用のカメラが開発・販売されるようになったつい近年まで、ロスチャイルドによる黒人奴隷の手首切断が実行されていた」事実を指し示しています。

 この有色人種を奴隷とし人間とも思わない一族が、今後、中国を支配し、原発と核兵器を大量生産することになるでしょう。
 原発の事故が起こり、核戦争が起こり、アジア人=有色人種が死のうとロスチャイルドが「何とも思わない」こと、むしろ不要な人種が死んで喜ぶことをこの写真は事実として示しているとおもいます。
 今後、国連の中心となり、国連という国際機関を「動かす」中心国となるベルギーとロスチャイルドによる、この黒人・有色人種虐殺の犠牲者は、数百万人に上ります(p33)。
 国連が平和維持活動と称しPKO部隊を送り込み、有色人種の国々で虐殺を繰り返している事実は、このベルギーとロスチャイルドによるコンゴでの大虐殺に「同一起源・源流」を持つと考えられます。

 p79にも、切り落とされた黒人奴隷の手首を持つ黒人の写真が掲載されており、ロスチャイルドは、逆らった黒人、病気・ケガで働けなくなった黒人を射殺することを農園の監督人に命じました。
 しかしライフル銃の弾丸を節約するために、殺害に使用した弾丸の数と同一の数の黒人の手首を持ち帰ることを監督人に要求したのです。
 殺害された黒人1名につき弾丸1個しか使用してはならない、という弾丸の節約命令が出されていた訳です。
 黒人の命より、弾丸1個の方が「もったいない」ということでしょう。
 一方、監督人は木の棒等で黒人を撲殺し、弾丸を未使用のまま残し、「黒人が逆らったので銃殺した」とウソの報告を行い、弾丸を銃器販売店に「横流しし」、その利益を「小遣い」として着服することが常態化していたらしいのです。
 つまり逆らってもいない黒人を撲殺し、弾丸を横流し販売することで「小遣い」が得られたのです。
 ロスチャイルドの監督人達は、ビール1杯を飲む小銭のために、逆らってもいない黒人を殴り殺し続けて来たことになります。

 このベルギー国王(英国王室と同族のザクセン・コブルク・ゴータ一族)とロスチャイルドの行った大虐殺を知り、写真を撮り世界に知らせた勇敢なジャーナリストが三名おりました。

 最初の告発者ワシントン・ウィリアムズは、わずか32歳の若さで何者かに毒殺されてしまいました。

 盟友の毒殺にも屈せず政府とロスチャイルドの告発を行ったジャーナリスト、ロジャー・ケースメントは「国家反逆罪」で、ベルギー政府の手で逮捕され「絞首刑」となり処刑されてしまいました。

 3人目のE・D・モレルも逮捕され、ケースメントと同一の刑務所に収監され、出獄後、病死しています。

 こうした写真は、この勇敢なジャーナリスト達が自分の命と引き換えに撮影してきたものです。
 p142には、南アフリカで絞首刑にされ、「さらし者」にされている3名の黒人奴隷の木に吊り下げられた死体の写真が掲載されています。
 裁判抜きで、白人が「気に入らない黒人を自由にリンチ処刑している」。
 同時に、リンチにされた黒人の姿を「満足気に葉巻を吸いながら眺めている白人達の姿」も撮影されています。
 有色人種をリンチ殺害する事は、大好物の葉巻を吸いながらそれを眺める程、「最もリラックスできる楽しい時間」であったことを、この写真は物語っています。
 これは、携帯用の小型カメラが世界中に販売されるようになった時代のリンチであり、「つい最近」の出来事であることを写真撮影という事実が示しています。
 そしてコンゴだけでなく、南アというロスチャイルドの支配下に入った国・地域では、どこでもリンチ殺人が行われていた事実を、こうした写真は示しているのです。

 コンゴは、ゴムだけでなく核兵器原料のウランの最大手の生産国であり、ロスチャイルドの核兵器原料企業ソルベイ社が、コンゴでのウラン採掘と世界への販売を担当してきた。
 このソルベイ社とベルギー国王が「国連所在地のブリュッセル」で3年に1度開催する「ソルベイ会議」は、世界中の核兵器メーカーと核物理学者が集まり、今後の核兵器販売計画を密談する、ソルベイ社から招待された者だけが参加可能な、マスコミにも情報を出さない「隠密会議」となっているようです。
 かつて、第5回ソルベイ会議に出席したアインシュタインが、ソルベイ社に説得され、米国のルーズベルト大統領に書簡を送り、原爆開発の推進を「提言」した事実は有名である。著名であったアインシュタインの書簡であれば米国大統領も「核兵器開発を認め、説得されるであろう」と計算したソルベイ会議は、アインシュタインを「上手に誘導し説得した」のでした。
 このソルベイ会議が無ければ、日本の広島・長崎への原爆投下も原爆開発も無かったでしょう。
 この会議を開催している者が、ロスチャイルドとベルギー王室、つまりコンゴの奴隷虐殺者達。

 日本人という有色人種を大量に虐殺した広島・長崎への原爆投下と、コンゴでの有色人種=黒人大虐殺が、同じ「論理」、同じ企業・人間達によって行われてきた事実が浮かび上がってきます。
 その論理とは「有色人種虐殺」である。
 この企業・人間達が、今後アジアの盟主として中国の政権中枢を担当することになるのです。
 その金融面での動きがアジア統一通貨の形成であり、それは欧米・ロスチャイルドの新しい支配戦略です。
 アジア通貨の誕生をドル支配からのアジアの独立である等という寝呆けた主張は、国際情勢への無知か、自分がロスチャイルドの「手先」である事を自白していることになります。

 なお、ベルギーによるコンゴ支配を描いた小説「闇の奥」の作家ジョセフ・コンラッドは、「ベルギーのような遅れた国がこうした虐殺を行うが、自分達、英国人であれば、こうした虐殺は行わない」と英国人を自画自賛しています。
 英国王室とベルギー王室が同一一族である事実を知識人コンラッドが知らないはずは無く、悪質なデマをコンラッドは流していることになります。
 こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「大作家」「人種差別に最初に気付いた知識人」などと言う「名誉ある称号」は手に入らないのでしょう。

 またコンラッドの小説を映画化し「地獄の黙示録」を製作した映画監督・「巨匠」フランシス・コッポラは、ベルギー政府とロスチャイルドの行なった、この残虐な黒人奴隷の手首切断をベトナムに舞台を移し、「ベトナム共産軍の行った野蛮な行為」として描き出しています。
 ベトナム戦争でベトナム共産軍を敵として戦争を行った米国政府の「ご機嫌を伺うために」、ベルギー政府の行なった虐殺を「ネジ曲げ」、米国政府の敵=共産軍が行った野蛮な行為として手首切断を、「巨匠」コッポラは描いています。
 手首切断を行ったロスチャイルドの米国支部はロックフェラーであり、そのロックフェラーこそがベトナム戦争を行なった米国政府中枢であることを、無知からか意図的にかコッポラは無視し、デマを世界中にタレ流しているのです。
 こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「巨匠・映画監督」にはなれないということなのでしょう。
 真実を語るものは絞首刑になり、デマを「タレ流す」者だけが「大作家」、「巨匠」になる…。
 現代世界と芸術界は、ニセ者だけが表通りを歩くことの出来る肥溜めと化しているのか?


2009年5月5日「日本人はしってはいけない。ないしょの話」
ロスチャイルドとロックフェラー
http://cosmo-world.seesaa.net/article/118688119.html


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2016年02月17日

コンゴ

 ヤッホー君のこのブログ、2月14日付け日記「とろけ地蔵」をご参照ください。
 あの日は春一番が吹いた日、そして山歩クラブのお山歩会の日。
 あわてて家をとびださしてうまくまおめきれなかった(いつもそうなんですけど)ので、ちょこっとまた綴ってみたいって。
 それがコンラッド(Joseph Conrad、1857-1924)であり、アフリカのコンゴでした。
 まずは動画:

On Joseph Conrad's "Heart of Darkness"
By Paul Griffin
https://www.youtube.com/watch?v=Vr6UBofPZm4

Congo-The Brutal History
By BBC
https://www.youtube.com/watch?v=qx2Sj1fhSso

Congo 20million dead the role US and its allies played
By Pan Afrikan
https://www.youtube.com/watch?v=8YPldzhAKgk

 コンラッドの”Heart of Darkness”の邦訳はみっつもあります:

☆ 中野好夫訳、岩波書店(岩波文庫)、1958年。
☆ 藤永茂訳、三交社、2006年。
☆ 黒原敏行訳、光文社古典新訳文庫、2009年

 コンゴは「コンゴ共和国」っていうのと「コンゴ民主共和国」というのとふたつもあります:

アフリカ分割

 ヨーロッパ人が「暗黒大陸」と呼んでいたアフリカ大陸は、19世紀半ば以降、イギリスのリヴィングストンやアメリカのスタンレーが探検を行なったことで、列強の関心を集めた。
 19世紀後半以降、ヨーロッパ列強が帝国主義政策のもとアフリカに進出し、植民地分割を行なったことをアフリカ分割という(*)。
 この結果、1914年6月29日の第一次世界大戦勃発時には、エチオピア帝国とリベリア共和国(アメリカの解放奴隷が建国)をのぞくアフリカ全土がヨーロッパ列強の支配下におかれた。

ベルリン会議におけるアフリカ分割の原則の確認

 ベルギー王レオポルド2世(在位1865-1909年)のコンゴ領有をめぐって、ヨーロッパ列強の対立が起こったため、ビスマルクがベルリン会議を開催した(1884-1885年)。
 この会議でベルギー王の私領としてコンゴ自由国の設立が認められたほか、先に占領した国が領有できるというアフリカ分割の原則(先占権)が確認された


http://www.suginami.ac.jp/

 そしてイマ、コンゴにはふたつの国があるのです。フランスの植民地であった「コンゴ共和国」(首都はブラザヴィルで、公用語はフランス語)と、ベルギーの植民地であった「コンゴ民主共和国」。
  旧「ザイール」で知られるのは「コンゴ民主共和国」(首都はキンシャサで、公用語はフランス語)。

 ここまでは、予備知識による学習、だってぇ、アフリカなんてマスゴミが取り上げるのは、せいぜいゴリラの話題ぐらいでしょ。 
 でも今日は、コンラッドを訳された藤永茂さん(1926年生まれ。カナダ・アルバータ大学名誉教授。物理学者)の紹介です:
 まずはその著、『「闇の奥」の奥ーコンラッド・植民地主義・アフリカの重荷ー』(三交社、2006年12月)の書評から:

 冒頭からスリリングだ。
 コッポラの名画『地獄の黙示録』から、ベトナムの密林にカーツ大佐が出現するおどろおどろしさを再現し、その原作のコンラッド『闇の奥』から、主人公が狂気に絡め取られていく姿を引用する。
 これだけでも読者を捉(とら)えて放さないが、映画の一シーン、「ベトコンが子供たちの腕を切り落とした」との挿話に著者は着目し、『闇の奥』批判と、背景にあるベルギーの対コンゴ植民地政策批判を展開する。
 その迫力に、読んでいてぐいぐい引き込まれる。
 アフリカの大国、コンゴ王国がヨーロッパの小国ベルギーの植民地となったこと、しかもベルギー国王レオポルド二世の私有地だったのはなぜか、の解明から始めて、植民地期西欧の、対アフリカ政策と認識を鋭く批判する。
 著者は、当時の西欧知識人の「アフリカ大陸にひしめく黒人たちは『人間』ではあるが……断じて自分たちと同類ではない」(ハンナ・アーレント!)という認識を指摘し、コンゴでの黒人に対する白人の残虐行為を糾弾したコンラッドもまた、その偏見を免れるものではない、と論ずる。
 30歳代半ばで初代首相となったルムンバの、独立演説の清々(すがすが)しさに対して、ベルギー国王の植民地経験への無自覚さが何と対照的なことか。
 そこには、キプリングの詩に象徴されるように、「乱れさざめく野蛮な民どもの世話をする」ことを「白人の責務」と捉える、西欧のアジア、アフリカに対する優越意識が底流にある。
 アフリカを、人間を狂気と地獄に引きずり込む暗黒とみなす西欧の認識は、「原始の邪悪と西欧人の内心の邪悪」、すなわち西欧世界の闇自体を、アフリカに投影して見ることでしかない。
 サイードの「オリエンタリズム」論に、通底する視点だ。
 著者の経歴が、面白い。カナダで教鞭(きょうべん)を執っていた分子物理学の第一人者が、「白人」の非西欧への差別を、西欧文学に追う。
 『闇の奥』を翻訳したのも著者だ。
 専門とする研究分野と別に、追わずに居られぬテーマを抱え続ける。
 知に対する真摯(しんし)な姿勢に、学ぶところは大きい。


2007年2月4日付け朝日新聞掲載、書評
自らの邪悪を他者に投影した西欧人
【評者】酒井啓子(東京外国語大学教授)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071703524.html

 さらに弁護士の先生の書評も紹介:

 ベトナム戦争を描いた有名な映画に『地獄の黙示録』があります。
 ヘリコプターがワグナーの「ワルキューレ」の音楽を最大ボリュームで響かせながら地上のベトナム人をおもしろ半分に虐殺していくシーンは有名です。
 この映画『地獄の黙示録』(フランシス・コッポラ監督)のシナリオは、ジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』をもとにしている。
 この『闇の奥』は中央アフリカのコンゴ河周辺を舞台としている。
 そこでも、ベトナム戦争と同じように現地住民の大虐殺があったのです、初めて知りました。

 1900年ころ、中央アフリカのコンゴ河流域の広大な地域がベルギー国王レオポルト2世の私有地になっていた
 そこで先住民の腕が大量に切断された。
 レオポルド2世は 1885年からの20年間に、コンゴ人を数百万人規模で大量虐殺した。
 1880年当時、コンゴ内陸部には2000万人から3000万人という大量の黒人先住民が住んでいた。
 そこを人口希薄の土地と想像するのは誤りである。

 このコンゴ地域には天然ゴムがとれた。
 1888年にコンゴで産出された原料ゴムは80トン。
 それが1901年には6000トンにまで増大した。
 コンゴでのゴム採取の強制労働のため、レオポルド2世は公安軍をつくった。
 1895年には兵員総数6000人のうち、4000人がコンゴ現地で徴集された。
 1905年には、白人指揮官360人の下、1万6000人の黒人兵士から成っていた。
 公安軍の白人将校たちは、単に射撃の腕試しの標的として黒人の老若男女を射殺してはばからなかった。
 強制労働のあまりの苛酷さに耐え切れず、作業を捨てて黒人たちが密林の奥に逃げ込むのを防ぐのが公安軍の任務だった。
 銃弾は貴重なものだったから、白人支配者たちは小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、つかった証拠として、消費された弾の数に見合う死者の右手首の提出を黒人隊員に求めた。
 銃弾一発につき切断した手首一つというわけである。
 えーっ、そんなー・・・。
 2人のイギリス人宣教師にはさまれた3人の先住民の男たちが写っている写真があります。
 男たちは、右手首をいくつか手に持っています。ぞっとします。

 レオポルド2世はコンゴ自由国という名前の私有地をもち、公安軍という名前の私設暴力団を有してコンゴの現住黒人を想像を絶する苛酷さの奴隷労働に狩りたてていった。
 その結果、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減した。
 1885年から20年のあいだに人口は3000万人か2000万人いたのが800万人にまで減少してしまった。
 ところが、レオポルド2世はアフリカに私財を投入して未開の先住民の福祉の向上に力を尽くす慈悲深い君主としてヨーロッパとアメリカで賞賛され、尊敬されていた。
 なんということでしょう。まさに偽善です。

 レオポルド2世は、奴隷制度反対運動の先頭に立つ高貴な君主として広く知られていた。
 アフリカ大陸にひしめく黒人たちは、人間ではあるが、決して自分たちと同類の人間ではないとヨーロッパの白人は考えていた。
 黒人が人間として意味のある歴史と生活を有する人間集団であると考える白人は少なかった。
 しかし、個々の白人の病的な邪悪さや凶暴さが問題ではなかった。問題は、現地徴用の奴隷制度というレオポルド2世が編み出したシステムにあった。
 うむむ、そういうことなんでしょうか。

 1960年6月、コンゴ共和国は独立し、35歳の元郵便局員であるパトリス・ルムンバが初代首相に選ばれた。
 しかし、ルムンバ首相がソ連から軍事援助を受け入れたので、アメリカのCIAはルムンバ首相を抹殺することにした。
 コンゴ国軍参謀長のモブツを買収し、クーデターを起こさせ、ルムンバを拉致して銃殺した。
 このルムンバの処刑にはモブツの部下とともに、ベルギー軍兵士たちが立会していた。

 2006年7月、ルムンバを首相に選出した1960年から46年ぶりにコンゴで第2回の総選挙が行われた。
 いやはや、アフリカに民主主義が定着するのは大変のようです。
 しかし、それはヨーロッパ「文明」国が妨害してきた結果でもあるわけですね。

 アフリカの政治が混沌とした原因にヨーロッパとアメリカの責任があることを強烈に告発した本でもあります。


2007年4月12日、福岡県弁護士会、弁護士会の読書
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/04/post_1414.html

 いったい、コンゴでヤッホー君は今後、どんな話題提供したいって訳ぇ〜?

(*)
 「産業革命」により、イギリスは1807年、フランスは1817年、スペインは1820年に奴隷制度が廃止されます(アメリカでは1861-1865年南北戦争、1863年リンカーンの奴隷解放があります)が、1000万人以上のアフリカ人が奴隷市場に売られていった、つまりアフリカ大陸はそれまで、進出、侵略、支配、搾取というより、欧米への労働力、人的供給基地だったともいえます。



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2016年02月16日

国家権力と対峙

 ここで解説コーナーです。
 イマまで何んにも知らずに、ただ晩酌だけを楽しみに、朝の暗いうちから闇夜に包まれるまで、息せき切って日々、働いてきたヤッホー君、自分の勉強にもなるって言ってます。
 明日への糧となれば、それもまた良し!
 まず、上智大学教授、中野晃一先生とは…

◇ 市民が連携し右傾化正さねば 頼もしく声上げた学生らに続け
 国会議事堂や首相官邸から全国に広がった「安保法制反対」のデモは、今年のトピックとして記録されるだろう。なかでも若者たちの行動が注目された。その輪の中に気鋭の政治学者で上智大学教授、中野晃一さん(45)の姿があった。「新しい平和主義が生まれ、市民社会のうねりが始まっています」と語る、中野さんに聞いた。

− 学者の有志で2014年4月に「立憲デモクラシーの会」を結成し、研究室から飛び出しました。
中野 民主党政権から自民党政権に復帰したとき、2012年12月のことですが、戦後初めて政権にタガをはめる野党がなくなり、政党システムが壊れてしまいました。野党の中から自民党を後押しする政党まで現れ、全野党共闘が不可能になったのをいいことに、右傾化を強める安倍政権は集団的自衛権の行使容認を閣議決定するなど「暴走」を始めます。国家権力こそが立憲主義を受け入れるべきなのに、逆に挑戦するというか、踏みにじる政治を行う。国会のなかでバランスが取れないのなら、民衆の力であらがうしかない。そういうわけで「デモクラシー」とあえてカタカナ表記の会を発足させました。「デモス」(人民)と「クラトス」(支配、権力)で「民衆の力」なのです。

− 若者たちのデモに加わって、発見されたことは。
中野 学生たちの団体「シールズ」(SEALDs)も「自由と民主主義のための学生緊急行動」ですよね。国家権力は制限されなければいけない、市民の自由は守らないといけない−−つまり自由主義の流れが立憲主義ですから、そこまで立ち戻って、より広い市民の共闘を呼びかけていこうと活動を始めたのです。そんな我々のなかで、おそらく誰も予想できなかったのが学生をはじめとする若い人たち、特に女性のスピーチが素晴らしかった。
 たとえば札幌では19歳の高塚愛鳥(まお)さんが「戦争したくなくてふるえる」デモを発案して、「ふるえる」がデモのコールになりました。身体性に根ざすことで、平和主義を新しい言葉というか、人に伝えるかたちでよみがえらせたのです。
 「シールズ関西」の寺田ともかさんは関西学院大の4年生ですが、彼女のスピーチも、しなやかで感動的でした。平和主義がこんなに力強いかたちで、今年の夏に戻ってくるとは予想もしていなかったので、私はすごく驚いた。

− 寺田さんは「私は、海外で人を殺すことを肯定する勇気なんてありません。かけがえのない自衛隊員の命を、国防にすらならないことのために消費できるほど、私は心臓が強くありません」と訴え、ネットでも大反響でした。
中野 これは私の分析ですが、男性は得てして力に対して力の闘いをします。一方で女性は、どこまで一般化できるかはともかく、弱さを認める強さがあるのではないでしょうか。自分は力のない人間である、殺されたくないし、殺したくもない−−とはっきり踏まえる強さは、男性にはないと思いました。弱い人間のなかに宿る尊厳、気高さが非常に力強い。これこそが、とてつもない庶民の力であり、そこに強さがあることを、私たちは教えられました。

− シールズに特筆される点は。
中野 スピーチを取り入れたのは新鮮です。学生たちのスピーチは、完成された話をする学者より、感動的だし面白い。ただ、ハラハラ感もあり、大丈夫かなと思いつつ、ドキドキしながら聞いていると、最後に平和の言葉が出てきて、世代間で継承されてバトンタッチがなされていることもわかる。
 私は「ベクトルとしての平和主義」という言い方をしているのですが、終わったポジションではなく、守らなければならないポジションでもなく、私はこっちに向かいたいというエネルギーというか、明確なベクトルになっています。
 平和への願い−−生きているかぎり、力のない、権力のない私は、暴力に踏みにじられるかもしれない、そんな弱い立場から、あくまでも平和を志向していきたいという、決意表明なのです。シールズの場合、スピーチの最後に日付と名前を言って終わるので、そのたびに平和主義が生まれていると感じ入りました。その場にいて耳を傾け、あるいはビデオで見るとき、いわば出産の現場に立ち会ったような感動を覚えます。

− あらためてデモの原動力は。
中野 国家の権威、国家を中心にした考え方を振りかざす安倍政権なので、その対抗軸を個人の尊厳、個人の権利を守るというところに置いています。だから男女と立場を超えて、自発的にデモに参加している。戦後の平和主義は無駄ではなかった、とつくづく思います。

− 著書『右傾化する日本政治』(岩波新書)に、こう書かれました。<右傾化へのカウンター・バランスを築き直すためには、自由主義(リベラル)勢力と革新(左派)勢力がそれぞれに再生を果たし、何らかのかたちで相互連携を行うほかない>
中野 現在の小選挙区制度のなかで容易ではありませんが、市民社会のうねり、覚醒は始まっています。特にシールズの若者は触媒として、起爆剤として、大きな元気と勇気を与えてくれました。昔から平和運動をやってきた中高年を含めて、みんな元気づけられて勇気をもらった。ここまでゆがんだ政党システムの立て直しにつなげていくには、この市民社会のうねりを止めてはならないと同時に、いかにして永田町に届けていくかが、今後の焦点になります。

− 最後にメディアについては。
中野 憲法の解釈改憲までやって安保法制を強行する政治に対して、法曹界や学界が異を唱えて立ち上がったのは、立憲民主主義という日本の戦後政治の土台を安倍政権が壊そうとしているからです。内閣法制局長官や最高裁判事は、できるだけ政治に巻き込まれまいと心がけてきたと思います。そうした経歴の方々が「ノー」と発言した意味は小さくありません。これは、政治活動ではなく、最低限のルールを守りなさいとの忠言なのです。職業倫理でいえばメディアも同じで、客観報道、バランスのとれた報道を心がけているはずです。だが、この事態を前にしたら、メディアも多少は踏み込んで、暴走する国家権力と対峙(たいじ)すべきではないでしょうか。権力の監視は、メディアの使命であるはずです。
◇ なかの・こういち
 1970年生まれ。東京大学文学部哲学科、英オックスフォード大学哲学・政治コースを卒業、米プリンストン大学で博士号(政治学)を取得。現在、上智大学国際教養学部教授で、専門は比較政治学、日本政治、政治思想。著書に『戦後日本の国家保守主義 内務・自治官僚の軌跡』(岩波書店)などがあり、12月に英国の政治社会学者コリン・クラウチ氏らとの共著『いまこそ民主主義の再生を! 新しい政治参加への希望』(岩波ブックレット)を刊行。


2015年11月30日(月)つけ毎日新聞・大阪夕刊
今、平和を語る:戦後70年への伝言 政治学者・中野晃一さん
<聞き手・専門編集委員 広岩近広>

 そして、拉致被害者…

 北朝鮮による拉致被害者・蓮池薫さんの兄で、「救う会」元事務局長の蓮池透さんが2015年末、著書『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)を出版した。刺激的なタイトルの本だが、拉致問題が停滞し、国民的な関心も薄れる中、解決に向けて一石を投じようとの切迫した心境が表れている。
 蓮池さんに聞いた。

− 思い切ったタイトルにしましたね。
蓮池 表紙だけで「憂さ晴らしか」と思われることは本意ではないんです。拉致問題の発生から長時間経過したのに、何も変わっていない。今時「拉致問題」なんて言ってもアピールできない。世代交代で記憶も薄れていて、大学生になるとほとんど拉致問題を知らない。政府間の動きもほとんどない。関心を持ち続けてもらうために、捨て身の遺言を書きました。安倍首相を始め、拉致問題に関わったすべての人を、自分も含めて批判して、一応の対案も提案したと思っています。
。。。


(拉致被害者支援法の成立後)私は、
「国の不作為を問い国家賠償請求訴訟を起こしますよ」
と、安倍氏を追及した。
 すると安倍氏は、薄ら笑いを浮かべながら、こう答えたのだ。
「蓮池さん、国の不作為を立証するのは大変だよ」
……いったいどっちの味方なのか。
(75ページ)


 「『机を蹴飛ばして帰ろう』と言った」といった武勇伝をマスコミが書くわけですよ。やがて「拉致問題に関心が深い」とか「いろいろ功績があった」という都市伝説みたいになった。それは違う。
 北朝鮮に拉致されていた弟夫婦ら5人が2002年に日本に戻ったときは「一時帰国」で、やがて北朝鮮に戻すという、非常に理不尽なやり方を日朝間で決めました。それは日本政府の方針で、安倍さんはそのとき官房副長官で政府の一員だった。「安倍さんが5人を日本に引き留めた」と言われているが、政府方針で一時帰国と決めたのだから、止めるわけがない。戻らないという弟たちの意志を政府に伝えたら「じゃあ、本人の意思で北朝鮮に戻さない」ということになったわけで、安倍さんも中山さんも決して止めてはいない。世間を惑わすウソを言わないでほしい。


 2003年の憲法記念日に改憲派議員の集会に呼ばれ、困惑したこともある。
 「何を話すのか」と聞くと、「九条を変えろ」とでもいっておけとのこと……
 馬鹿だった私はそれを真に受け、「憲法九条が拉致問題の解決を遅らせている」と発言し、その場では称賛された覚えがある。
 なんて浅はかな発言だったのだろうと、いま思い出すだけでも冷や汗が出る。
(84ページ)


 私自身が解決を阻害した面もあります。世論の右傾化の急先鋒だったと言われたこともありました。私は右も左もない、みんなでやらなきゃいけないと思ってやっていたんだけど、私も政治利用されたと言われればそれまで。気づくのが遅かった。
 今でも言われます。「あんたが弟を止めたのがいちばん悪い。そのまま送り返していれば、日朝はうまくいったんだ」と。弟をいったん北朝鮮に送り返せば、次は全員帰ってくるという約束があったという説もあるけど、弟と話してそれはあり得ないと思った。これはもう、止めるしかないと思った。
 当時の判断について、福田康夫元首相が「本人の意思を尊重した」と、あるインタビューで答えていたけれど、日本が国民の生命、意思を最重視しているのであれば、そんなことをわざわざ言うはずがない。そもそも「一時帰国」という問題を作り出した日本政府に問題がある。そこに「日朝正常化のために家族を黙らせる必要がある」という意図が垣間見えるんです。過激派組織「イスラム国」(IS)に日本人が拘束されたときだって「あらゆる手段を尽くす」と言ったけど、尽くしたのか。
。。。


2016年2月13日10時52分JST更新、ハフィントンポスト
蓮池透さんが著書を『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三』と題した、その切迫した心境とは
http://www.huffingtonpost.jp/2016/01/15/hasuike-toru-interview-about-book_n_8987092.html


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安倍ノー!1万人パレード

 ヤッホー君が4人で三浦半島を歩いていた2月14日の日曜日、都心の繁華街、渋谷・原宿でもタウンウオーキング!
 大ぜいの市民がマーチを繰り広げ、歩いていたようですよ:

 安全保障関連法や原発再稼働などに反対し、安倍政権に抗議するデモと集会が14日、東京都渋谷区内であった。参加者たちは「立憲主義を無視した独裁的な政治を許さない」とアピール。今夏の参院選と安保法廃止へ向けた野党共闘の必要性などを訴えた。
 25の市民団体でつくる「安倍政権NO!☆実行委員会」が主催し、約1万人(主催者発表)が集まった。

 春一番が吹く暖かさの中、若者グループ「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動、シールズ)」の諏訪原健(たけし)さん(23)は半袖Tシャツ姿で街宣車の上へ。
 「安倍政権はこれまで日本が守ってきた戦後の平和主義の在り方を根底から覆す暴走を続けている」と語った。

 参院選での野党統一候補を支援する「市民連合」の中野晃一上智大教授は、
 「安倍さんの政策には将来性がない。個人の尊厳を大切にする、多様性を育むことをしないで日本の未来を描けるわけがない」と主張した。

 練馬区の会社員根岸健太さん(40)は妻子と参加。
 「91歳の祖父は戦争体験者。飛行機乗りで同僚を多く亡くし、戦争を絶対しちゃいけないと聞かされた。戦争する世の中になるのではと心配で怖い」と話していた。


2016年2月15日付け東京新聞夕刊
独裁的な政治NO デモ参加者、熱く平和訴え
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016021502000044.html

 元野球選手の覚せい剤疑惑、はたまた育児休暇を求めていた国会議員の不倫疑惑などで、甘利元経産相の口利き疑惑が忘れ去られようとしている。
 甘利議員が、大臣職を辞めるだけで済む話ではない。
 第一に、斡旋利得罪の疑いがあるからだ。
 一国会議員として責任は重い。
 100万円台の金で政治が動かされるとしたら、日本という国は一体どうなるのだろうか。

。。。
甘利元大臣斡旋利得罪疑惑は大臣を辞めて済む話ではない

 昨日の深夜、時計は12時をまわっていましたが、首をかしげていらっしゃる小児科の先生!
 ヤッホー君の尊敬しているお医者さまです!

 2月15日の23時13分の放送を見てみましょう!
 いや、そればっかりじゃないんです。
 どこを向いても、えっという日本の劣化ショーばかりを見せつけられているんだもん。

島尻沖縄北方担当大臣、「歯舞」という漢字が読めず
 大臣の問題発言相次ぐ、公明から不満の声

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2700241.html
2月10日16:49

“育休”宮崎議員が辞職表明、妻妊娠中の不倫認める
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2701298.html
2月12日17:50

丸川環境相「1ミリシーベルト根拠なし」失言
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2701736.html
2月12日21:59

高市総務相「電波停止」発言にみる「強面行政」
 放送法4条「政治的公平」めぐり、民主党が首相を追及

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2703806.html
2月15日19:55

甘利氏の元秘書が交渉関与か、民主党議員が音声データ公開
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2703629.html
2月15日23:13

GDPマイナス成長、東京・日暮里繊維街にも異変
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2703626.html
2月15日17:54

 きわめつけはこちら。
 うそばっかりの平成無責任男の音頭取りなんか、見飽きて聞き飽きています。
 本当はいまが旬のおいしいカブ。なのにおかげで食べ損ねて、捨てる羽目に…

首相、GPIF運用不調なら年金減額あり得るとの認識示す
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2703808.html
2月15日21:07(*)

 ヤッホー君、エヌエッチケーだなぁと臭い匂い、異臭を感じ取っていたんです。
 ヤッホー君のこのブログ、昨年2015年1月16日付け日記「GPIF」をお読みください。
 そして、「きわめつけ」ってもう言ったっけ、じゃあ、「しめ」:

 北朝鮮が拉致調査打ち切りを宣言した。
 しかも、外交ルートを通じた日本政府への通報ではなく、朝鮮中央通信による一方的な公開放送で宣言したのだ。
 考えられない北朝鮮の行動だ。
 これ以上の安倍外交の失敗はない。
 もはや安倍政権と金正恩体制の下では、拉致交渉の進展は100%あり得ない。
 拉致被害者の一人である蓮池薫さんの実兄である蓮池透氏が、安倍首相は拉致被害者たちを見殺しにしたという本を出版した時、安倍首相は怒りをあらわにし、国民の見ている国会答弁の中で、拉致問題を政治的に利用したという批判が正しいなら議員バッジを外す、とまで大見得を切って、その批判を否定した。
 当然だろう。
 利用していたとしたら議員の資格はない。
 そのようなことがあってはならない。
 しかし、安倍首相は拉致問題は自分の政権で必ず解決すると何度も公約している。
 ならばその責任をとって政権を降りなくてはいけない。
 そして政権を降りるということは、すなわち議員を辞めるということだ。
 総理になってわずか1年で政権を投げ出した政治家失格の安倍首相が、どういうめぐり合わせか知らないが、再び総理の座につく幸運を手に入れた。
 それにもかかわらず、なにひとつ国民のためにまともなことを成し遂げられないまま政権を降りるのだから、もはやそれ以上政治家を続ける資格はない。
 北朝鮮の拉致調査中止宣言は、安倍首相に議員辞職を迫ったということだ。
 拉致問題の解決は、まったく新しい政権によって再出発しなければどうにもならなくなった。
 少なくとも拉致問題の解決については安倍政権が続く限り時間の無駄だ。
 拉致被害者家族がいま発すべき言葉は、「北の脅しに屈しない」と憤ったり(2月13日読売新聞)、戸惑いながら北朝鮮の出方を「まつだけ」(2月13日朝日新聞)と嘆くことではない。
 一日も早く解決できる政権に代わってもらいたい、と政治に迫ることである。


Posted on 2016年2月13日付け天木直人のブログ
安倍首相は議員バッジを外さなければいけない
http://new-party-9.net/archives/category/

(*)「青トマト」さんの2016年2月15日(月)23時54分7秒投稿のコメントをご紹介:
 非常識発言だよな。あまりにも。
 あまりにも、あまりにも国民を馬鹿にしてる発言ですよ。
 それに、傲慢です。
 キチンと年金は給付して、アベ首相は退陣して、内閣は責任を取るべきです。
「年金運用失敗解散」でもおやりになりますか?
 その結果で、再び自民党勝利となれば、日本国民は見放されても当然なのではないでしょうか?
 何様の積もりで居るのだろうか?
 このアベシンゾーという男は。



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2016年02月15日

三浦按針と狩場蟲斎

 昨日はあんなに暖ったかったのに、今日は寒くって襟巻きしているヤッホー君。
 これを「山間シオン」って言うのか、「弛緩三温」って言うんだっけ、だって。
 昨日のお話が面白くって、まだ印象が残っている、って言うから、ちょっとだけ脳内点検。
 カネコさんは、キリガヤさんという研究者から教わったとかおっしゃっていました。
 ほかにも、例えばミステリー作家・山口雅也さん、1954年横須賀市生まれ。
 まずはちらっと覗いてみてください:

別冊『文藝春秋』2011年9月号、立ち読み
https://www.bunshun.co.jp/mag/bessatsu/bessatsu283.htm

 もう2014年には文春文庫入りしていますので、ぜひお買い求めの上、お読みください。
 そしてお聞きください:

『狩場最悪の航海記』インタビュー
http://www.nicovideo.jp/watch/1318998937

 こんなかに在野の研究家として登場するのが、キリガヤさん!
 
 そうした「風」に乗ってお会いした横須賀市職員の桐ケ谷良之氏は、公的なガリヴァー祭りの推進役である以前に、私的にも実に熱心なガリヴァー研究家で、面白いお話をたくさんお聞きすることができた。
 その中でも、特に興味を惹かれたのが、ガリヴァーは実は、横須賀市内でもある特定の地、観音崎に上陸したのではないかという研究仮説が存在しているという事実だった。
 その観音崎という場所は、まさに今現在、私が住んでいるところではないか!
 私はその時、作家として、自分の背中を押す大きな「風」の第二波が吹いてきたのかな、と感じたのだった。
 そんな最中に、また別方向からの「風」も吹いていた。文藝春秋から新連載の依頼が来ていたのである。
 私はその連載で、従来の自作とは違ったジャンル、つまり新たな作「風」に挑戦しようと考えていた。
 こうして、いくつもの風が束になって私の背中を押し、ガリヴァー続編の企図が私の中で再浮上し、『狩場最悪の航海記』の連載が始まることとなったのである。


2011年10月号「本の話」
http://hon.bunshun.jp/articles/-/377?page=2

 ではここからは、キリガヤさんにバトンタッチします:

松岡(NHKアナウンサー): 2つ目ですが市民団体がガリバーをテーマにまちづくり活動を行っているということですが、どんな団体?

桐ヶ谷良之: 横須賀のまちづくりを考える市民団体「よこすか未来塾」が3年前からガリバーに取り組んでいます。私もそのメンバーの一人です。ガリヴァー旅行記は、アイルランドの作家ジョナサン・スウィフトの作品です。小人の国、巨人の国、そして第3篇では日本に上陸しています。1709年5月、ガリヴァーは、日本のザモスキという小さな港町に上陸しました。北に首都のエドがあったとあり、一般的には、場所の説明から三浦半島のどこかとみられています。

松岡: 三浦半島のどこか「ザモスキ」というのが横須賀市を指すんですか?

桐ヶ谷: ガリヴァーの上陸地点のザモスキは、浦賀の観音崎との説があります。ザモスキはXamoschiと書くのですが、観音崎もローマ字で書くと良く似ています。世界的に知られるガリヴァーが上陸した地・観音崎をキーワードに浦賀そして横須賀の活性化に役立てられるのではないかと考えられます。


2006(平成18)年7月20日、NHK FM サンセットパーク(東京局)
http://members2.jcom.home.ne.jp/gulliver2009go/press2006_0720.html

 在野の研究家、桐ヶ谷良之さんはこんな方:

・横須賀市役所浦賀行政センター勤務(再任用)。
 1974(昭和49)年関東学院大学経済学部卒、同年横須賀市役所入所。観光課、広報課、港湾企画課、企画調整課(市制100周年記念事業)、国際交流課主査等を歴任。神奈川県の相模湾アーバン・リゾート・フェスティバル(サーフ90)に出向のほか、よこすか開国祭「帆船フェスタよこすか」、市制100周年「帆船パレードよこすか2007」を担当。
 
・ふるさとイベンター 市民団体「よこすか未来塾」ガリバー担当
 1994(平成6)年、横須賀市役所自主研究グループ「鳳雛会」(ほうすうかい)のメンバーとして、まちづくり市民団体「よこすか未来塾」に参加。2004(平成16)年からガリバー担当として「ガリバーファンタジー」を企画・開催。「観音崎フェスタ」、伊東市「按針祭」や原宿表参道、横浜元町の「セント・パトリック・デイ・パレード」にガリバーを派遣。チームガリバーの協力を得てガリバーイベントを幅広いジャンルで展開。2012(平成24)年度から中学2年生用の英語教科書「Sunshine」にガリバーの観音崎上陸説が採用され、今後4年間に全国の中学生延べ150万人が学ぶ。


http://members2.jcom.home.ne.jp/gulliver2009go/mail.html

 ガリバー旅行記によると、ガリバーは1709年5月に日本のザモスキに上陸しています。この地は観音崎でガリバーのモデルは、三浦按針といわれます。「よこすか未来塾」は、2009年の上陸300年イベントを開催します。

https://www.youtube.com/watch?v=4ATCrnAXBRI

 来春から全国で使用される中学2年生の英語教科書(開隆堂出版/サンシャイン)にジョナサン・スウィフトの名作小説「ガリバー旅行記」と観音崎にまつわるエピソードが登場する。
 物語では、小人の国、巨人の国を旅したガリバーが1709年5月に日本を訪れており、このときの上陸場所を観音崎とする説がある。
 ガリバーと観音崎とのつながりをテコにした街おこしに取り組む市民グループ「よこすか未来塾」の桐ヶ谷良之さんは、「全国的な認知度アップにつながる」と喜びを隠さない。

横須賀の観光名所、全国に
 ガリバーが日本に上陸した場所を観音崎とする根拠は2つの理由から。
 物語終盤に登場するザモスキ(Xamoschi)という地名が(Kannonsaki)に類似している点と、江戸時代に徳川家康の外交顧問を務めていた三浦按針(ウィリアム・アダムス)がイギリスに送っていた書簡を作者のスウィフトが所蔵していたことに由来する。
 『ガリバー旅行記』では、小人の国に迷い込み、地面に縛りつけられる話が有名だが、日本滞在の部分に関してはあまり知られていない。
 空想上の話ではあるが、江戸〜長崎を経由して祖国のイギリスに戻っている。

 英米文学作品を研究している教科書著者がこのエピソードに興味を抱き、「中学生にはなじみのある小説だが、(日本上陸は)新たな驚きと発見を提供できる」(開體ー出版)と今回はじめて教材に選んだ。
 一部のページでは、観音崎で毎年秋に催されている「ガリバーフェスティバル」も写真付きで紹介されている。
 同出版社の英語教科書は全国で20%のシェアがあり、横須賀の観光名所が中学生に広く発信されることになる。


2011年6月10日号掲載「タウンニュース」
「ガリバー観音崎上陸」の逸話 来春の中学英語教科書に登場
http://www.townnews.co.jp/0501/2011/06/10/107229.html


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Abenomics in poor health

 2月15日月曜日。
 今日のお話は、
 ウイリアム・アダムズ(1564-1620)でも、
 ジョナサン・スウィフト(1667-1745)でも、
 ジョゼフ ・コンラッド(1857-1924)でも、
 ジョイ・アダムソン(1910-1980)でも、
 ダイアン・フォッシー(1932-1985)でもないんです。
 アベノリスク(*)のお話、"Let me assure you the situation is under control !"を、ガーディアン紙で:

Not long ago, Shinzō Abe was being heralded for the early success of his grand design to bring Japan out of a deflationary spiral that had haunted the world’s third-biggest economy for two decades.

Soon after Abe became prime minister in December 2012, the first two of the three tenets of his “Abenomics” programme – monetary easing and fiscal stimulus – were having the desired effect.

In the first year of the programme, the Nikkei index jumped nearly 60%, and the strong yen, the scourge of the country’s exporters, finally ceded ground to the US dollar.

And in April 2013 came the appointment of Haruhiko Kuroda, a Bank of Japan governor who shared Abe’s zeal for deflation busting through ever looser monetary policy.

But by Friday, at the end of a dismal week for the Nikkei share index, market volatility caused by renewed fears over the health of the global economy has left Abe’s prescription for economic recovery in jeopardy.

While, as some suggest, it is too early to read the last rites for Abenomics, few would disagree that its symptoms are in danger of becoming terminal.

There is damning evidence for that claim; enough, in fact, for Abe to reportedly summon key economic advisers on Friday to discuss a way out of the impasse.

Japanese shares registered their biggest weekly drop for more than seven years after shedding 4.8% for the Nikkei’s lowest close since October 2014. That took the index below the 15,000 level investors regard as a psychological watershed, and erased all the gains made since the Bank of Japan made the shock decision in October 2014 to inject 80tn yen into the economy.

To compound the problem, another pillar of Abenomics – a weak yen – is also crumbling, with the Japanese currency rising to its strongest level for more than a year on Friday.

The intention was for a weak yen to push up corporate earnings and help generate inflation by raising import prices; instead, companies are now cutting earnings forecasts as speculation mounts that Japan will again intervene to rein in the yen’s surge.

In recent weeks, slumping oil costs and soft consumer spending – the driving force behind 60% of Japan’s economic activity – have brought inflation to a halt. Official data released last month showed that Japan’s inflation rate came in at 0.5% in 2015, way below the Bank of Japan’s 2% target, as the government struggled to convince cautious firms to usher in big wage rises to stir spending and drive up prices.

In response, the Bank of Japan extended the deadline for achieving its 2% inflation target to the first half of the fiscal year 2017, from its previous estimate of the second half of fiscal 2016.

In fairness, Abe is partly the victim of factors beyond his control, namely China’s slowdown, weak overseas demand and plunging oil prices.

The problem for Abe and Kuroda is that they are quickly running out of options: witness how the market boost from last week’s surprise decision to adopt negative interest rates ended after a couple of days with barely a whimper.

By the time Japan hosts G7 leaders this summer, Abe could be forced to concede defeat in his principal aim of dragging Japan out of deflation and boosting growth.

But higher share prices and a weaker yen were only part of the scheme.

He has barely started to address the structural reforms comprising the “third arrow” of Abenomics: a shrinking and ageing workforce and the urgent need to boost the role of women in the economy.

Next year, he is expected to introduce a highly controversial increase in the consumption tax – a move that will help Japan tackle its public debt and pay for rising health and social security costs, but which could also dampen consumer spending, the driving force behind 60% of the economy.

He may be inclined to disagree after a month of upheaval that also saw the resignation of his economics minister, but Abe’s troubles may be only just beginning.


The Guardian, Last modified on Friday 12 February 2016 12.23 GMT
Abenomics is in poor health after Nikkei slide – and it may be terminal
Shinzō Abe was heralded for his plan to pull Japan out of deflationary spiral but programme is on brink after dismal week
By Justin McCurry in Tokyo
http://www.theguardian.com/world/economics-blog/2016/feb/12/abenomics-shinzo-abe-japan-poor-health-nikkei-slide-terminal

(*)
もう半年以上も前、株価が上がっていたころすでに、アブナイ、キケンダ、ヘンダゾ、「異だ象」と吠えていたその内容もぜひ読んでみましょうか:

 株価は上がっても生活的な実感に結びつかないアベノミクスに警鐘を鳴らしつづけるエコノミスト・浜矩子氏。
 最新刊の『国民なき経済成長』(角川新書)も話題を集めている浜氏が、同書を推薦し、『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)などの著作がある水野和夫氏と対談。
 現代の経済状況を危惧する二人が「野生化」する資本主義の問題を語る。


2015年6月21日(日)「現代ビジネス」
浜矩子×水野和夫対談 
資本の野生化につき進む「アベノミクス」ならぬ「アホノミクス」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43815


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2016年02月14日

三浦按針はガリバー

 ただいまぁ〜、ヤッホー君の声が弾んでいます。
 なにか良いことあったのかな?
 今日2月14日日曜日は聖バレンタインデー!
 ヤッホー君、もらったそうですよ、チョコレート、しかも田浦梅林で…
 いいね、いいね。
 いえね、今日は山歩クラブのお山歩会だったんです。
 春一番が吹き荒れたそうですが、ヤッホー君たち、それほど影響されなかったみたいだったとか。
 いぜれにせよ、キャンディーズの出番です。

https://www.youtube.com/watch?v=G43mbLFTeh4
https://www.youtube.com/watch?v=rpS2yCAGu0g

 雨ニモマケズ風ニモマケヌ、上部な空駄をもった4人が京急・安針塚駅に集合。

『雨ニモマケズ(作:宮沢賢治)』〜朗読〜
https://www.youtube.com/watch?v=E36ROZh1QZ4

 三浦按針については「県立塚山公園保存会グループ」のボランティアのカネコさんが熱のこもった按針ちゃんを語ってくれ安心しました。
 小伝馬町でなく大伝馬町に行って、江戸ちゃん、屋敷跡、ぜひ写真に収めて送ってくださいね。

安針塚.JPG

県立塚山公園保存会グループ
http://www.kanagawa-park.or.jp/tsukayama/park.html
按針のまち、逸見を愛する会の公式サイト
http://www.y-anjin.com/index.html
会をリードしていらっしゃる(有)ハウスプラザ按針の公式サイト
http://h-anjin.e-yokosuka.jp/company.htm
横須賀市公式サイト、按針が繋いだ4つのまち『ANJINプロジェクト
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0140/g_info/anjin-p.html

 ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)著「ガリバー旅行記」第3部第11章でのガリバーは、三浦按針(ウイリアム・アダムス)がモデルだという説があります。
 ガリバーは、1709年5月に江戸湾(東京湾)の湾口(Xamoschi)に上陸し、江戸に向かい、長崎からオランダ経由でイギリスに帰りました。
 その日本上陸地の Xamoschi(ザモスキ)は、Kannonsaki(観音崎)であるというのです。
 観音崎は、現在の神奈川県横須賀市鴨居の一部で、按針が徳川家康から与えられた領地・逸見に近く、浦賀からはもっと近い処にあります。。。
 ガリバーが日本に来たときは、三浦按針が日本に住んでいたときから 約100年後のことです。
 スウィフトは、三浦按針が故国イギリスに宛てた手紙の写しを読んでいたようです。


三浦按針(ウイリアム・アダムス) William Adams
日本に来た最初のイギリス人(海の男・青い目のサムライ)

http://homepage2.nifty.com/anjintei/willadams0.html#gulliver

http://blog.goo.ne.jp/gulliver2009

https://www.youtube.com/watch?v=xHZPLXpjA8c

 それから古道歩きです。日本一急だったそうですが、「明治国道」を「十三峠」で越えて、田浦梅林へ。

横須賀市公式サイト「十三峠」
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2482/walk_taura/b10038.html

横須賀市公式サイト「浦賀道」を歩く
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/culture_info/uragamiti.html

 お弁当を広げ梅見の宴!歌ったのはもちろん、ココハヨコスカあ〜!

https://www.youtube.com/watch?v=TaVd-hPxUW4

田浦梅林.JPG

 さらに頂上へと足を延ばすと「田浦梅の里」。
 1976(昭和51)年、地元の石川宏さんがこの山一帯を横須賀市へ寄付!
 寄付したいのは山々なんですが、せめてもの山歩きで一生を終えるのかな、ヤッホー君は…

土の呼吸を
肌で感じるこの広場に
私は翳りなき魂の故里をみる

石川宏


 この碑の建つ「田浦緑地」は、表に刻んだ詩の作者石川宏さんが、昭和51年横須賀市へ寄附された山林約36万平方メートルを中心に造られたものである。
 石川宏さんは、先祖代々この地元田浦町の住人で大学教授、詩人でもある。
 寄贈の趣旨は、本市がすすめている「グリーン よこすか」運動に役立ててほしいということと、前年亡くなられた母親美枝さんの遺志によるものであった。
 市は市制施行70周年記念事業の一つとして造成に取りかかった。
 何れの日か寄付者の意図にそうた壮大で夢多き緑の宝が、この田浦の地に出現することを心から期待して、ゆえんをここに誌す。
昭和61年3月吉日 横須賀市長 横山和夫


 打ち上げは品川のスイーツよりも泡立つものを、と「隆昌酒家」でお疲れさま。

http://www.ryusyou-syuka.com/

 司馬遼太郎並みに三浦通いしている山歩クラブ、次はどこにしようかな…
 あ、そうだった、今日は本来、大楠山だったんだあ〜

三浦半島記
【旅の時期】1995年1月3日〜8日、1月19日、2月4日〜7日、4月24日〜26日
 司馬遼太郎の旅の拠点は、三浦半島の付け根部分にあたる横浜・磯子のホテル。
 ここから<毎日勤め人のように>半島に通い、鎌倉幕府出現の背景を考える。
 司馬さんは、源頼朝の挙兵成功の理由を、三浦、房総、伊豆の3半島の連動にあったと思い至る。
 それぞれの半島の勢力が海路を使って連携したのだ、と。
 大楠山の山頂から3半島の位置を改めて確認し、衣笠山では、頼朝を助けた三浦大介義明に思いを馳せる。
 そして、若宮大路、鶴岡八幡宮、極楽寺坂、朝比奈切通しなど、頼朝や義経、新田義貞らの足跡を辿る。
 半島を下り、横須賀で考えたのは、「スマートであれ」が教育方針だった旧海軍のこと。
 日露戦争で活躍した連合艦隊旗艦「三笠」を訪ねて、かつて出会った品のいい元海軍士官の紳士たちを思い出すのだった。


司馬遼太郎 街道をゆく 朝日新聞出版 公式サイト
http://publications.asahi.com/kaidou/42/index.shtml

 重い着物を脱ぎすてて、さ、どんどん歩こう!



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とろけ地蔵

 ヤッホー君の昨日の俳諧記の続きです。

 「目黒のらかんさん」として親しまれている当寺の羅漢像は、元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたものです。五百体以上の群像が完成してからもう三百年の星霜を重ね、現在は東京都重要文化財に指定されています(現存305体)。
 天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として人びとの人気を集めていました。
 しかし、明治維新とともに寺は没落し、二度移転し、明治四十一年に目黒のこの地に移ってきました。大正から昭和にかけて非常に衰退し、雨露をやっとしのぐほどの無残な状態になり、羅漢像の将来が心配されていました。
 1979(昭和54)年になって、日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、多くの困難をのりこえて、1981(昭和56)年に近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」としてよみがえりました。

http://www.rakan.or.jp/rakanji/index.html

 「原爆殉難碑」があるというので、「五百羅漢寺」にお邪魔したのですが、もともと「本所のらかんさん」が「目黒のらかんさん」になったのですね。

天恩山 羅漢寺(通称 天恩山 五百羅漢寺)
開山:1695(元禄8)年
武蔵国南葛飾郡西葛西領亀戸村 本所五ッ目堅川の南
http://www.rakan.or.jp/rakanji/profile.html

 その「原爆殉難碑」の隣になぜかこころをうつ象が建っており、思わずパチリ:

再起地蔵尊.JPG

「再起への希望の灯」
 失意の人の再起の願いを叶えてくれるお地蔵さま。
 身丈3.5メートル。
 おだやかな顔でお参りの人に気力と勇気を与えてくれます。

http://www.rakan.or.jp/rakanji/keidai.html#hinokomi

 さらに歩を進め、大円寺。ここにも、「五百羅漢像520体」があり、東京都の重要文化財(1776年)となっていましたが、目を引いたのが道祖神の隣にちょこんと建っているこちらのお地蔵さま。:

大円寺の地蔵.JPG

 ちなみに「とろけ地蔵」は、石仏群の手前:

とろけ地蔵.JPG
 
 「振袖火事」、「車町火事」と並んで江戸三大火のひとつである1772(明和9)年の「行人坂火事」は、この大円寺が火元といわれている。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
 石仏群はこの大火の犠牲者供養のために、石工が50年という歳月をかけて完成したといわれている。一体一体をよく見ると穏やかにほほ笑むもの、ほおづえをついて考え込んでいるもの、泣き出しそうなものと、その表情は実にさまざまで、個性あふれる石仏群を見ていると親しみがわいてくる。
 この石仏群の手前、本堂横に顔や手が溶けたような、一体の異様な地蔵が立っている。この地蔵は「とろけ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。

目黒区公式サイト、歴史を訪ねて「大円寺」
https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/tobu/daienji.html

 どうしてそんなにお地蔵さまにひかれたのか、なんで、なんでなんで…

http://www.theguardian.com/global-development/2016/jan/19/children-as-young-as-seven-mining-cobalt-for-use-in-smartphones-says-amnesty

Child Labour Mining in Democratic Republic of Congo
https://www.youtube.com/watch?v=VSQVCh2l_9k

Inside a tin mine in DR Congo
http://www.bbc.com/news/business-17922133

This is what we die for: Child labour in the DRC cobalt mines
https://www.youtube.com/watch?v=7x4ASxHIrEA

 遠い国? いや近いのです。
 スマホとかパソコンとかに使われている金属、レアメタルの発掘作業は子どもたちの手によるものです。
 こんなことに真剣に取り組んでいるジャーナリストはザンネンながらお目にかかったことがないような…
 また、おいおいお話していきたいなってヤッホー君、行ってきま〜すって。
 えっ、今日も?


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2016年02月13日

お静地蔵から市川市文学ミュージアムまで

 2月6日土曜日初午、ヤッホー君は大田南畝の狂歌にでてきた永代橋、その崩落による犠牲者の慰霊碑を目視確認するため大急ぎで海福寺へ。

 明から来朝した隠元隆埼が1658(万冶元)年に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、1910(明治43)年に現在地へ移転しました。
 本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内で現存している希少な例です。
 山門に赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、1807(文化4)年の深川富岡八幡宮大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。
 また境内の梵鐘(都指定文化財)は1683(天和3)年、武州江戸中村喜兵衛藤原正次の件で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。

目黒区教育委員会掲示による海福寺の縁起


海福寺.JPG

 1807(文化4)年8月の江戸深川富岡八幡宮の大祭は11年ぶりに催されたため大変な賑わいであった。当日、人びとは永代橋を渡って深川にやってきたが、その折、永代橋が崩落し多数の溺死者を出すという江戸はじまって以来の大惨事が発生した。
 この供養塔及び石碑は、その落橋事件の溺死者の100日忌、50回忌、77回忌、91回忌の折に、深川寺町通り(現江東区深川2丁目付近)にあった海福寺境内に建立された。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えていたかを明らかにすることができる都内における唯一の資料である。
 海福寺は、1910(明治43)年、目黒区下目黒3丁目の現在地に移転したが、これら供養塔もそのとき一緒に移設され、現在に至っている。

文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑2基
(平成3年3月8日東京都教育委員会指定)


永代寺.JPG

 しかし、と、今日の徘徊は山形にはじまり山形に終わるもので、ヤッホー君の大好きなおじいちゃんに報告したい一心でこの日記をつけています。
 と言いますのも、降りた駅が「不動前」なのですが、そこに「蛸薬師」を見つけたのです。

 成就院は、858(天安2)年、慈覚大師円仁によって開創されました。大師は若い時から眼病を患い40歳の時、自ら薬師仏を刻み、御入唐の時も此れを肌身につけて行きましたが、 帰りの海路、波風が荒れたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着きました。
 その後大師は、諸国巡化の砌、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神に捧げられたお薬師さまのお像が、蛸に乗って浮かんでいるのを観て、随喜の涙にむせび、その後、東国を巡り目黒の地に来た時、諸病平癒のために、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木に刻み、護持の小像を其の胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来と称え奉られました。
 かくして本尊の殊勝の12の大願による福徳威力、信心の人は、心願悉く成就し、除災長寿の利益遍く千年余の今に至るまで、弘く信仰されて来ました。
 元和の頃、家光公が、目黒の里に鷹狩のみちすがら親しく当山に参拝し、霊験を聞し召され、また当山の住侍舜興和尚と家光公との御談によって、保科正之は、生母お静の方が、当山での祈願を成就して、二代将軍秀忠公の第三子として世に出て、高遠城主に取りたてられ、のち山形城主、そして会津城主に転封され、松平家の祖となり、四代将軍家綱公をたすけて大いに善政をしきました。
 このお静の方が大願成就の為に奉納された地蔵尊がお静地蔵尊と呼ばれ境内にまつられています。

不老山薬師寺 成就院(通称:蛸薬師)
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/6jyojyuin/

お静地蔵.JPG

 さらに歩を進めていくと、「行人坂」。

 行人坂(ぎょうにんざか)は、下目黒1丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は、江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。いまは、権之助坂の方が広くてにぎやかだが…
 「江戸名所図会」には「目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す」とある。
 行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという
 また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は1772(明和9)年2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。
 現在、雅叙園のある付近一帯は、かつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺(かいあんじ)とともに、江戸中に知れわたっていたところである(「明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり」「江戸名所図会」)。
 行人坂が急坂であることは、権之助坂を下ったところにある「新橋」よりも「太鼓橋」が低い位置にあることからうかがえる。

目黒区公式サイト、目黒の坂
https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/saka/tobu/gyonin.html

 そして、ん?ヤッホー君は都営地下鉄を三田線、新宿線と乗り継いで「市川市文学ミュージアム」へ。
 「市川市・葛飾区文化交流事業 山田洋次✖井上ひさし」展がありました。
 井上ひさしは1934年山形県生まれ、永井荷風が好きで市川市に引っ越し、1967(昭和42)年から1987(昭和62)年まで、市川市で創作活動を行なっているのです。
 映画『母と暮らせば』上映にあわせた企画内容で、明日までです。
 まだ観てない方はお急ぎください:

 映画監督の山田洋次氏(84)と作家の故井上ひさし氏。2人の笑いや平和への思いをテーマにした「山田洋次✖井上ひさし展」が市川市鬼高の市文学ミュージアムで開催中だ。山田監督が井上氏に捧げた映画『「母と暮せば』の資料も展示されている。。。
 2人は、井上氏が2010年に75歳で亡くなるまで親交を温めてきた。
 笑いについては、主に山田監督の代表作『男はつらいよ』をクローズアップ。ポスターや台本のほか、「惹かれるのは、<顔で笑って心で泣いて>という<寅さん>の生き方なんですね」など寅さんファンだった井上氏の言葉も紹介されている。寅さんの実家「くるまや」の茶の間を再現したセットも目をひく。
 また、反戦をテーマにした井上氏の代表作『父と暮せば』(*)の創作メモや『きらめく星座 ― 昭和オデオン堂物語』『東京セブンローズ』の直筆原稿など合計約240点が並ぶ。
 長崎の原爆をテーマにした映画『母と暮せば』は二人をつなぐ作品ともいえる。井上氏の思いを山田監督が具現化した形だ。映画の特集コーナーも設けられており、主演の吉永小百合さんが着た衣装や、映画で使われた「助産婦」の看板や祭壇、画材道具、被爆したマリア像などが並ぶ。
<母と暮せば>では、戦争によって二人の息子を奪われた母親を演じました。お母さんの哀しみ、改めて非核、非戦の大切さをかみしめています」という吉永さんの直筆メッセージも飾られている。
 担当の山田真理子学芸員は「現代を代表する映画監督と作家の喜劇と戦争に対する思いを通じて、笑いと平和の大切さを再認識していただければ」と話す。
 2月14日まで。


2016年1月14日03時00分更新、朝日新聞デジタル【斉藤勝寿】
千葉)山田洋次×井上ひさし展 笑いと平和テーマ 市川
http://digital.asahi.com/articles/ASHDY7JZDHDYUDCB00G.html?rm=319

(*)
父と暮せば(予告)
https://www.youtube.com/watch?v=oMmUAqXRwjU


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蜀山人の出番

 春?人事異動?組織改革?心機一転?新年度?新学期?閉店?栄転?
 メディアも、そうなんだぁ〜、でも、なんか変だなぁ〜
 古館伊知郎(1954年生まれ)も、
 国谷裕子(1957年生まれ)も、
 岸井成格(1944年生まれ)も、
 各キャスター、3月末で番組を降板するってホント?
 共通していることは、戦争法に批判的だったからってホント?
 イマの自公政権、権力を批判すると、こうなるっていう「見せしめ」「見世物」「さらし者」「引き回し」だってホント?

 なんかNHK(なんか変な空気)がただよってきていて、ちっとも空気が読めず、臭い空気は避けて、いっつも新鮮な空気を求め、口をパクパク、こころときめかしているヤッホー君(*)。
 あの、この、その、大田南畝にずぅ〜っと入れ込んできているヤッホー君はイマ、
 野口武彦『蜀山残雨、大田南畝と江戸文明』(新潮社、2003年)を枕頭の書にして読んでいるのですが、その野口武彦(1937年生まれ)が「あとがき」でこんなことを:

 文芸界を見渡せば、戦後60年ごく当たり前のこととして享受されてきた「言論の自由」は、そろそろ危うくなっていると思った方がよさそうである。
 露骨な検閲こそ復活していないが、「自主規制」がそれを代行したら同じことだ。
 遠からずして、日本には大臣や代議士を「悪相」と評すると「法的手段」で威嚇されるような時代が到来するであろう。
 これからの文学者は《芸》がなくてはつとまるまい。
 すなわち『蜀山人』の出番である。


 え〜と、本がでたのが2003年12月で「あとがき」を書いたのがイマから13年も前、2003年6月28日。
 イマを予見しているような記述をなぜ書けたんだろう、なにがあったんだろう、とヤッホー君、アタマん中を徘徊して見渡してみました。だってぇ〜、「あとがき」を書いた半年前のこと:

 2002年11月に活動を開始した山歩クラブは、2012年春の総会が第10回目というひとつの節目を迎えました。
http://www.ac.auone-net.jp/~fom-club/

 あのころ、あんなこと、こんなことがあったのです:

 本日(1月12日)の朝日新聞朝刊で、NHKETVシリーズ2001「戦争をどう裁くか」の第二夜「問われる戦時性暴力」(2001年1月30日放送)の番組内容に対して、中川昭一、安倍晋三両自民党国会議員の圧力があったことが報じられた。

 報道によると放送前日の29日午後、当時の放送総局長松尾武氏と国会対策担当野島直樹氏らNHK幹部が中川・安倍両国会議員に呼ばれ、議員会館で面会した
 その席で両議員は
「一方的な放送はするな」
「公平で客観的な番組にするよう」求め、
「それができないならやめてしまえ」と、放送中止を求める発言を行なったという。

 番組改ざんについては、女性国際戦犯法廷を主催した国際実行委員会のメンバー「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)と同代表(当時)松井やよりが原告となり番組制作に関わったNHKとNHKエンタープライズ21、番組制作会社ドキュメンタリー・ジャパンを相手に提訴(2001年7月24日)した。
 一審判決(2004年3月24日)は責任を末端の番組制作会社に押し付けるものであり、NHKの行為については「編集の自由の範囲内」として責任が不明確にされたため、原告は控訴し、現在、控訴審を闘っている。。。


2005年1月12日「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)共同代表:西野瑠美子・東海林路得子
VAWW-NETジャパン抗議声明「安倍晋三氏の事実歪曲発言について」
表現の自由を侵害した政治家の介入と、 NHKの偽証を断じて許さない!!
徹底した真相究明とNHKの明確な責任を求める!!

http://vawwrac.org/nhk01/nhk03_04

 ヤッホー君のこのブログ、2015年6月4日付け日記「歴史から学ぶ」にもありますように、松井やよりは2002年に亡くなっています:

 アジア女性資料センターなどで活発な活動を続けてこられた松井やよりさんに、肝臓ガンが見つかり、入院加療中です。松井さんは、昨14日、友人たちにメールでそのことを伝えられました。以下に、松井さんの了承を得て、 全文を転載いたします。
 私は、昨日、すぐメールでお見舞いをお送りしましたが、それに対しても、
「メールありがとうございます。私の死の宣告を受けたのに笑顔なので、友人たちが驚いています。診断は残念ながら信頼できるものなのですが、それでも、生き物ですから、何かが起こるかも知れないと最後まで希望を捨てないつもりです。今はまだ、それほど痛みも感じていませんが、進行が異常に早いと医師からはいわれていますので、その準備をきちんとやろうと思っています。(後略)」という返信をいただきました。


2002/10/15掲載「松井やよりさん、肝臓ガンに。現在入院加療中。松井さんからのメール転載
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Iihito64MatsuiYayoriKanzogan.htm

(*)
 こんな記事を書くとほされたり、左遷させられたり、どっか関連のところに出向になるのかな…と心配:

 NHK「クローズアップ現代」の過剰演出問題に対する意見書で、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は、高市早苗総務相がNHKに文書による厳重注意をしたことなどについて「政府が個別番組の内容に介入することは許されない」などと厳しく批判した。政権や与党によるメディアへの威圧ともとれる言動が続くなか、強い姿勢を見せた形だ。
 「行政からの指導、それも総務大臣という、放送行政で許可権限を持っている人がそういうことをする。非常に問題がある」
 2015年11月6日の会見で、弁護士でBPO放送倫理検証委員長の川端和治氏は語気を強めた。

 報道を巡る権力側の「威圧」ともとれる言動が続いている。昨年2014年11月には自民党筆頭副幹事長らが在京テレビ局に選挙報道の「公平中立」を要請。今年3月には衆院予算委員会で安倍晋三首相が自らの発言について「圧力と考える人は世の中にいない」と語った。

 2015年4月には自民党の情報通信戦略調査会がNHKとテレビ朝日の幹部から事情聴取。終了後、同調査会の川崎二郎会長は「BPOはきちんと動いて欲しい」「(政府には)テレビ局に対する停波(放送停止)の権限まである」と発言した。
 6月にあった自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」でも参加した議員による「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」などの発言が問題視された。。。

2015年11月7日16時29分更新、朝日新聞デジタル【佐藤美鈴、松沢奈々子】
「番組介入許されない」 BPO、強い姿勢見せる
http://www.asahi.com/articles/ASHC66F9PHC6UCLV00M.html

 もっと:
2015年11月13日3時14分更新、朝日新聞デジタル【星賀亨弘、佐藤美鈴】
BPO委員長、首相らの批判に反論 政治介入に「NO」
http://www.asahi.com/articles/ASHCD5J3KHCDUTIL02P.html

 今月に入ってからだって:

 恐ろしい発言が国会で飛び出した。高市早苗総務相が、昨日の衆院予算委員会で“政治的に公平ではない放送をするなら電波を停止する”と言及、本日午前の国会でも「放送法を所管する立場から必要な対応は行うべきだ」と再び口にした。
 しかも、きょうの高市発言がとんでもないのは、答弁の前の質問にある。きょう、民主党の玉木雄一郎議員は「憲法9条改正に反対する内容を相当の時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるか」と質問し、高市総務相はこの問いかけに「1回の番組で電波停止はありえない」が「私が総務相のときに電波を停止することはないが、将来にわたって罰則規定を一切適用しないことまでは担保できない」と答えたのだ。
 つまり、高市総務相は、“憲法9条の改正に反対することは政治的に公平ではなく放送法に抵触する問題。電波停止もありえる”という認識を露わにしたのである。
 憲法改正に反対することが政治的に公平ではない、だと? そんな馬鹿な話があるだろうか。改憲はこの国のあり方を左右する重要な問題。それをメディアが反対の立場から論じることなくして、議論など深まりようもない。というよりも、改憲に反対し「憲法を守れ」とメディアが訴えることは、法治国家の報道機関として当然の姿勢であり、それを封じる行為はあきらかな言論弾圧ではないか。
 だいたい、現行憲法99条では「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と規定されている。ようするに、政治家には現在の憲法を守る義務があり、「9条改正に反対することが政治的に公平ではない」などと言うことは明確な憲法違反発言である。
 こんな発言が躊躇う様子もなく国会で堂々と行われていることに戦慄を覚えるが、くわえて高市総務相は重大なはき違えをしている。そもそも高市総務相は、放送法の解釈を完全に誤っている、ということだ。。。

2016.2.9.リテラ
高市早苗が憲法改正に反対したテレビ局に「電波停止ありうる」と…民主主義を破壊する発言になぜテレビは沈黙するのか
http://lite-ra.com/2016/02/post-1962.html


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2016年02月12日

きょうは祭礼あすは葬礼

 御家人大田南畝は「永代橋」にも出没したそうな。
 では、ここで一曲。

https://www.youtube.com/watch?v=kHFoO4L-KVw

 あ、これは初代のコロムビア・ローズで、間違っています!
 蓮の花は愛でても濁ったバスなんてないでしょ、江戸には。
 こちら三代目 コロムビア・ローズが正解:

深川ブルース/♫三代目 コロムビア・ローズ
https://www.youtube.com/watch?v=p_LpViNEZEs

 えっ?! ついでにもう一曲。永代橋/♫ 心に残るフォークソングの名曲
https://www.youtube.com/watch?v=wYl9yK0CDOs

 江戸時代、吾妻橋から下流の隅田川を大川といった。大川には大川橋(吾妻橋)、両国橋、新大橋、永代橋の四つの橋しかなかった。主要な交通手段は渡し船。幕府の馬小屋(厩舎きゅうしゃ)近くに渡船場があったのが御厩(おうまや)の渡しである。

「現代の隅田川に架かっている厩橋。これが明治26年に架設される前には舟渡しで、俗に〔御厩の渡し〕とよんだ。幕府御米蔵のたちならぶ西岸から東岸の本所へ、大川をわたるこの渡船は一人二文、馬一疋(ぴき)についても二文の渡銭をとったそうな」

 時代小説「鬼平犯科帳」第1巻第4話「浅草・御厩河岸」は、渡船場近くの居酒屋を舞台に物語が始まる。
 江戸切絵図「東都浅草絵図」に描かれた江戸の街並みが臨場感を伴って小説に再現されている。
 幕府御米蔵(浅草御蔵)は台東区蔵前の地名に名残をとどめ、現在の蔵前1、2丁目にまたがるコメ貯蔵施設。蓄えられたコメは、火付盗賊改方の与力、同心を含む御家人約1万7400人のほか、領地を持たない旗本ら幕臣の給与として現物支給された。コメの引き取り、運搬、換金と煩わしい。そこで札差(ふださし)と呼ばれた代行業者が誕生。やがて給与のコメを担保に融資する金融業者に成長した。
 経済発展とともにコメの値段が安定する一方で他の物価が上昇し、コメを換金して生活する武士の実質賃金は下がる。来年、再来年の給与を担保に借金を重ね、返済できずに「10人のうち6、7人が前々の借金のため今年の切米(給料のコメ)が一粒もない」(三田村鳶魚(えんぎょ)「札差考」)ありさまだった。
 江戸後期のルポルタージュ「世事見聞録」によると、傘張り、ちょうちん張りなど妻子ともども内職にいそしみ、甚だしきは町家に押し込み強盗を働く幕臣もいたとか。裕福な町人の子供を持参金付きで養子に迎える武家もあった。
 「鬼平犯科帳」にも薄給に泣く与力、同心が描かれている。茶問屋の娘を100両の持参金付きで妻に迎え借金を返済したのは同心の小野十蔵だ(「第1巻第1話「唖の十蔵」)。カネを工面するため強盗を計画した富田達五郎のような与力もいる(第13巻第2話「殺しの波紋」)。
 長谷川平蔵が火盗改方長官だった1789年、幕府は幕臣救済策として1784年以前の借金を帳消しにし、それ以降の貸金の利息を引き下げさせた。札差が失った債権は118万7800両。1両10万円として1187億8000万円! 火盗改方の与力、同心たちはホッとしたであろう。
 しかしそれもつかの間。札差が反撃に出た。「貸金の不良債権処理が大変なので今後の融資はできません」。貸し渋り。同心たちの生活は行き詰まり、慌てた幕府は2万両を札差に交付し融資継続を依頼した。今風に言えば、金融機関救済の公的資金投入で政府役人の生活は守られた。
 文人として有名だった御家人、大田南畝(おおたなんぽ)は借金をせびるサラリーマン武士の悲哀を自虐気味な句に託した。

蚊よ蠅(はえ)よ おせびり虫の やるせなさ


2016年1月29日、毎日新聞・地方版(小松健一)
鬼平を歩く、江戸・東京今昔/21浅草御蔵 蔵前 借金に泣く同心たち/東京
http://mainichi.jp/articles/20160129/ddl/k13/040/005000c

 え〜と、これは永代橋でなく厩橋の説明で、「長谷川平蔵が火盗改方長官だった1789年」頃の江戸の町事情でしょ…
 ハナキンとはいえ、もう朝から葉菜菌に禿頭まで侵され、夢の世界を徘徊しているヤッホー君、お許しくださいませ。

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方一円を襲った「関東大震災」により、死者行方不明者は10万人を超えた。凌雲閣や建築中だった内外ビルディングをはじめとした建物や橋梁が崩壊した。かくなる大惨事の中、「復興は橋より」が復興事業の合言葉のもと、帝都東京の復興は橋梁から始まったという。

 清洲橋と永代橋は、ヨーロッパに先進事例を求めている。構造形式に変化を付け、同じものがないように設計されたと思われる。構造の違いによって、女性らしさと男性らしさの対で語られることも多い。
 清洲橋(186メートル)は、中央区中洲と江東区清澄を結ぶことから、こう名付けられた。「放物線状の吊鎖と主桁等よりなる洗練された造形」(日本大学理工学部教授)であり、華やかな鋼のレースのように見えなくもない。夜には、女性らしさを意識してか、ピンク色で電飾される。
 
 対となる永代橋(約185メートル)の名は、五代将軍徳川綱吉が50才を迎えたことを祝ったからだとか、永代島に架けられたからと諸説ある。この構造は「放物線状の大規模ソリッドリブアーチを中心として、桁高を巧みに変化させた鈑桁(ばんげた)を左右に連続させる荘重な造形」(同)である。この荘重さが男性的であることの所以であろう。夜は、男性らしく青くライトアップされるのである。

 東京・隅田川にかかる橋梁は、90年経た現在「帝都たるに相応しい理想的な都市デザイン」(土木学会)として実現したと言える。なかでも清洲橋と永代橋は、「近代橋梁技術の粋を集めて造られた隅田川震災復興橋梁群の中核的存在」として、第一回選奨土木遺産(2000年)に選ばれている。2007年には、これら二つの橋梁は、勝鬨橋とともに国の重要文化財に指定されている

 清洲橋、永代橋からすれば、平成期のビルやタワーは“孫世代”といったところか。夜の帳が下りれば、大正末期から昭和初期に建設された復興橋梁を、現代の高層ビルやスカイツリーが優しく見守っているようにも思われる。


2015.09.05 07:00 The Page
<社会インフラを行く!>帝都東京を飾るツインゲイト「永代橋」「清洲橋」
(監修:吉川弘道・東京都市大学教授)
http://thepage.jp/detail/20150904-00000002-wordleaf

 あのお〜、この「永代橋」は関東大震災以降のお話しですけどぉ〜
 ヤッホー君、急坂過ぎて、江戸時代までさか登れないのお〜って。
 タイのハッチャイで赤米を買わなかったっけ、それ食べてそ〜れ:

 現在、国の重要文化財指定されている永代橋。
 今から約200年前に崩落したことはよく知られている。
 時は1807(文化4)年8月19日、深川富岡八幡宮の大祭は11年ぶりに執り行われた。
 祭りで賑わう人びとが永代橋を渡っているときに崩壊したのだ。
 当時は木橋でかなり痛んでいたともいう。
 犠牲者は約500人とも、はたまた1500人に達したとも言われ、確かな人数は不明だ。
 この大惨事を蜀山人(大田南畝)は狂歌で

永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼


と詠んでいる。落語「永代橋」でも演じられた。

 当時の犠牲者を悼んだ文化4年永代橋崩落横死者供養塔および石碑が目黒区下目黒の海福寺にある。
 同寺は江東区深川にあったが、1910(明治43)年、現在地に移転した。
 供養塔と石碑は1991(平成3)年に東京都指定有形文化財になっており、説明板が設置されている。

 これによると
「江戸はじまって以来の大惨事が発生した」
「溺死者の百日忌・五十回忌・七十七回忌・九十一回忌の折に海福寺境内に建立された」
「溺死者440人ともいわれた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えていたかを明らかにすることができる都内唯一の資料である」
と記されている。

 供養塔の台座はだいぶ古く、そこに彫られた刻字はかなり磨り減って読みにくいが、「京橋」や「八丁堀」と刻まれて、犠牲者の氏名がわずかに読み取れる。
 3年ごとに執り行われる深川八幡祭は現在でも、中央区側の新川や箱崎町が氏子であり、隅田川をはさんで幅広い社域を誇っている。
 当時も隅田川の西側から担ぎ手や観衆が集まっていたことが分かる貴重な史跡である。


2010年11月25日 08:30投稿、中央区観光協会特派員ブログ
永代橋崩落惨事の供養塔
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2010/11/post-555.html



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2016年02月11日

御家人南畝先生

 2月9日火曜日のヤッホー君徘徊記。
 御茶ノ水駅は聖橋に立っていました。
 あたりをキョロキョロ見回しています。本郷通りをソラシティにわたる横断歩道を歩きだしました。
 そこでまたあたりをキョロキョロ見回しております。モク拾い?あっ、なんか見つけたみたいです。

 JR御茶ノ水駅聖橋口の斜向かいに位置する高層ビルは「御茶ノ水ソラシティ」という大型複合施設で2013年に竣工、御茶ノ水の新しいランドマークとして注目されています。
 元は日立製作所の本社があった場所です。
 建物手前の広場の北側(線路側)の道に面して「蜀山人終焉の地」と「岩崎弥之助邸跡」の案内板がありました。
 蜀山人(大田南畝)は1749(寛延2)年に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として大坂銅座、長崎奉行所などへ赴任する一方、狂歌師、戯作者としても活躍します。
 1812(文化9)年より、1823(文政6)年に75歳で亡くなるまで、この地で過ごしています。
 辞世の句は
生き過ぎて七十五年くいつぶし 限り知られる天地の恩」。

 岩崎弥之助は三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟で、弥太郎の跡を継ぎ二代目社長に就任します。
 1874(明治7)年に後藤象二郎の長女と結婚したのを機に、この場所で暮らしたそうで、二代目社長となると、組織を「三菱社」に改め多角経営に乗り出します。
 そして「三菱社」の本社は、この場所に置いていたそうです。
 三菱の本社跡が日立本社跡でもある、というのは何か変な感じですが?


2015/03/23 烏鷺光一の「囲碁と歴史」蜀山人終焉の地と岩崎弥之助邸跡
http://igoshi.blog.fc2.com/blog-date-201503.html

歴史案内板.JPG

 大田蜀山人は名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。
 1749(寛永2)年に江戸の牛込で生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。
 また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。
 1767(明和4)年に狂詩集『寝惚先生文集』が評判となり、寛政初年まで『万載狂歌集』、洒落本『甲駅新話』を発表し、のちに随筆『半日閑話』、『一話一言』を執筆しました。
 1812(文化9)年に当地に移り住み、1823(文政6)年に没するまで過ごしています。

 この歴史案内板の煉瓦は、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦の保存・再利用したものです。


 蜀山人こと大田南畝…
 ヤッホー君、昨年の晩秋、新宿区内を徘徊した際、おじゃました市ヶ谷薬王寺町の浄栄寺を想い出しておりましたぁ〜
 アタマのなかもついでに徘徊:

 浄栄寺八世、壽徴は大田南畝の門下であり雪仙と称した。
 大田南畝の妾(お賎)は浄栄寺で加療中亡くなり、命日には多くの文人と共に浄栄寺に集った。
 また当寺宝の放下着(尺八)や枝垂桜の詩を残している。
 大田南畝と浄栄寺の詳細については、PDFファイル参照。


大田南畝(蜀山人)と浄栄寺
http://www.joueiji.jp/page011.html

 色恋や所帯の雑事に悩む中年男
 蜀山人こと大田南畝は、一般に狂歌師として記憶されることが多いが、随筆や紀行、考証、あるいは逸文編纂(へんさん)などの仕事にも、優れた業績を残した。
 さらには、役人としての勤めもりっぱに果たしたわけだから、異能の人と呼んでいいだろう。
 本書は、その南畝のもっとも人間的な面、すなわち松葉屋の遊女三保崎(みほざき)への〈恋〉に焦点を当てて、独自の南畝像を描き出そうとした、意欲作である。

 南畝は、一目惚(ぼ)れした三保崎を、妓楼(ぎろう)・大文字屋の主人で狂歌師仲間の加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、平秩東作(へずつとうさく)らの力を借りて、身請けする。
 通説によれば、南畝は三保崎をひとまず元成の別荘に住まわせたあと、増築した自宅に引き入れて妻子、両親と同居させたといわれる。
 身請けと増築の時期が近いので、そのように推断されたものらしい。
 しかし著者は、南畝の著作中にそれを示唆する記述がないことから、同居はなかったとする。
 妻妾(さいしょう)同居説は、従来の蜀山人研究者がおおむね男性で、女性の視点に欠けたための憶測だ、と断じる。
 三保崎身請けと、ほぼ時を同じくして田沼政権が崩壊し、側近の一人土山宗次郎が罪に問われると、土山と親交のあった南畝は父の忠告を入れ、狂歌から足を洗って勤めに精を出し始める。
 身請けして以来、病弱な三保崎をいたわる南畝の心情は、勤めのあいだも変わることがない。
 それでいて、自宅にいる両親や妻子との生活も、おろそかにしない。
 母親と妻里与との確執や、あいだに立つ南畝の気苦労にも、丹念に筆が割かれる。

 もっとも、この小説の眼目は南畝と三保崎との交情を縦糸としながら、当時彼を取り巻いていたさまざまな狂歌師、文人墨客との交流を、横糸に織り出した点にある、ともいえる。
 加保茶元成、朱楽菅江(あけらかんこう)、平秩東作、山東京伝らに加えて、智恵内子(ちえのないし)や節松嫁々(ふしまつかか)といった、女性狂歌師ら脇役陣が、生きいきと躍動する。
 それも含めて、当意即妙、機知縦横の印象が強い南畝を、色恋や所帯の雑事に悩む中年男として描いた視点は、女性作家ならではのものだろう。
 *
 竹田真砂子(1938年生まれ)『あとより恋の責めくれば、御家人南畝先生』(集英社・1785円/2010年2月、のち文庫)
評者・逢坂剛(作家)


2010年04月04日掲載 朝日新聞書評
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071704717.html

 ほかにも大田南畝、碑を徘徊してみましょう:
 
上野恩賜公園
一めんお花は基盤の
上野山 黒門前に
かかるしら雲

蜀山人


 碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
 蜀山人は姓を大田、名を蕈、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝(なんば)・四方赤良(よものあから)など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽管江(あけらかんこう)とともに、三大家と評された。文政6年(1823年)没。
 江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和13年(2001年)、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土色豊かな建碑といっていい。
1992(平成4)年11月 台東区教育委員会


太田南畝の墓
 日蓮宗 信弘山本念寺(白山4-34-7)、区指定史跡

 南畝の生まれは牛込御徒町で、終焉の地は神田駿河台である。生年寛延2年〜没年文政6年(1749〜1823)。
 17歳で幕府に出仕以後、能吏として活躍。一方19歳で「寝惚先生文集」を著し、文名を高め、以来多くの作品にみられる軽妙、酒脱な筆法によって町人文学の中心的存在となった。さらに狂歌の流行をみるに及び、彼の狂歌号「蜀山人(四方赤良)」の名声が高まった。本寺に眠る南畝の墓碑は「南畝太田先生之墓」とあるのみである。彼は一時、小日向金剛寺坂付近に住み、文京区にゆかりの深い文化人であるだけでなく、狂歌界にあって指導的役割を果たした文人として価値ある史跡である。

生き過ぎて
七十五年くいつぶし
限り知らぬ天地の恩

辞世
平成13年3月、文京区教育委員会



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2016年02月09日

世界を平和にする

 シリーズ「14歳の世渡り術」の一つ。
 作家やタレントら22人が世界平和のために「今日からできる」方法を提案する。
 「不穏な空気が流れてきたなと感じたら、自分の考えを素直に声に出せばよい」
 (ユニセフ親善大使の黒柳徹子、19331年生まれ)
 「されてイヤなことはしない」
  (タレントの中川翔子、1985年生まれ)
 「世界平和という理想をしっかりと掲げて、そのために本当は何が必要なのかを丁寧に考える」
  (憲法学者の木村草太、1980年生まれ、ヤッホー君のこのブログ、2015年11月2日、4日付け日記をお読みください)
など、シンプルだが力強い。

 
2015年6月14日05時00分更新、朝日新聞
(おすすめ)池澤春菜・ヨシタケシンスケほか著『世界を平和にするためのささやかな提案』(河出書房新社・1296円・2015年5月)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11807746.html

 14歳、というと何年先輩にあたるんだろ…
 そんなヤッホー君のこころにも染み入るやさしい、わかりやすい言葉で、平和の大切さを訴えている本です。
 ご自分でも手にとって、それから子どもさん、奥さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ご家族皆んなでまわし読み、うん、おすすめ 📖

 十分な説明や議論もなされないまま、拙速に国会運営が進み、いよいよ厳しさを増してきた安保法制。
 そんななか、芸能人や文化人、学者、ジャーナリスト等、さまざまなジャンルの人たちが「平和」について語った本が出版された。
 『世界を平和にするためのささやかな提案』(河出書房新社)だ。
 
 じつはこの本には、普段、こういうテーマで発言をすることがあまりない、意外な芸能人も参加していた。
 たとえば、そのひとりが『艦隊これくしょん―艦これ―』や『中二病でも恋がしたい!』などへの出演で知られる、声優の上坂すみれ(1991年生まれ)。
 彼女は、他の国を、世界を、もっと身近なものに感じることが平和のための手段だと語る。

〈私が提案したいのは、世界に、国家に、オマージュを捧げて遊んでみることです。思想を発信して世界に影響を与えるとか革命を起こすとか、大それたことをやるんじゃなくて、もうちょっとまろやかに、思想を刺激せずに、遊ぶという感覚で他の国を見てみませんか? きっと、他の国が、世界が、全然違って見えるようになります〉
 
 実際に彼女は、“ソビエト連邦”に着目し、ソ連を「物騒なものじゃなくて、過去に存在して今にはない面白いもの、刺激的なものという風にファッション的に眺める」といった遊びに夢中になった。
 そうして、共産主義の構造や、ソ連の軍歌・大仰なプロパガンダの方法などを調べるうちに、「何事もやりすぎる感じ」が面白く、その“アバンギャルド”な魅力にはまっていく。
 しかし、声優を始めてから、実際にモスクワで行なわれているイベントを訪れてみると、そこには、これまでインターネットを通じて受けてきた、ロシア・ソ連とはまったく違う印象の光景が広がっていた。
 世間でステレオタイプに描かれる「暗くて寒くて怖い」というイメージとはまったく異なり、会場には、日本や日本のアニメが好きな人たちがいっぱいいたのである。手作りのコスプレを楽しんだり、ロリータファッションをしている人がいて彼女は衝撃を受ける。そして、その経験が大事なことに気づかせた。

〈今まで思い込んでいたところがあったんだな、と分かったんです。興味を持ったものは現地で見るべきなんです。インターネットで知ったことはちゃんと確かめる。インターネットで満足して、頭で分かった気持ちになってしまって実際に行かなくなるのは、おそろしいことと思います。それに行った方が新しい面も見えて楽しいですし、どんどん世界が広がります〉

 こうやって肌で感じつつ、楽しみながら広げた“世界”を、人は壊す気にはならない。実際に現地に行ってみたら、そこで友だちができることもあるだろう。友だちが住んでいる国と戦争なんて絶対にしたくならない。上坂はそう言いたいのだろう。

 一方、この本には、普段から積極的に社会的発言をしている、もの言うタレントたちも参加しているが、その発言はやはり説得力がある。
 たとえば、元TBSアナウンサーでタレントの小島慶子(1972年生まれ)は、日本に横行している「排除の空気」を問題にしている。

〈自分と違うもの、自分と考えが相容れないものを排斥するのではなく、まずなぜ相手がそうであるのか、そうでなくなる方法が何かあるのではないか、と考えることが大事です。
 同時に、相手と自分がどう違うのかを知ろうとすらしないことも、また他者を排斥することなのです〉

 また、対話するときに大事なことがあると、小島は主張する。

〈そのときに気をつけなくてはいけないのは、正解というのは人の数だけあるということ。「自分にとっての正解が相手にとっての正解ではないかもしれない、だから、お互い違う正解を持っていてもなお殺し合わずにすむ方法ってあるだろうか」という問いが必要なのです。
「私は唯一の正解を知っている」という人間に対して、用心しなくてはなりません。つまり「私は唯一の正解を知っている」という人間は、決して「君の正解はなんですか?」とは問わない。そう問わないということは、君と私はどう違うのかを知りたいという問いを発しないということなのです。つまりすでに言ったように、違いを知ろうともしない人なのです〉

 この文章を読んで、みなさんの頭に浮かぶ人間は一人しかいないのではないだろうか?
 日本の未来を左右するような重要な法案なのにもかかわらず、野党の意見にまともに向かい合おうともせず、挙句の果てに「はやく質問しろよ」とまで言う人間。
 いまこそ丁寧な議論が必要なのにもかかわらず、新聞社を「つぶす」と言って議論の機会すらなくそうとする仲間に囲われている人間。
 彼は自分が「正解」を知っていると思い込んでいるようだが、「正解はひとつじゃない」ということに気づいてくれる日は果たしてやって来るのだろうか?

 この本には、あの黒柳徹子も登場する。黒柳はまず、第二次世界大戦中の自身の体験を語りだす。
 空襲が頻繁にあった東京では、一日の食料が大豆15粒。しかも、米軍機が飛来するたびに防空壕で怯える毎日が続いていた。
 そんな日々に耐えかね泣きながら街を歩いていると、それを見かけたおまわりさんに「どうして泣いているのか」と聞かれたという。
 当時、8歳の彼女は、戦争に対して不安な気持ちをありのまま伝えた。
 すると、慰められるどころか、「戦地に行っている兵隊さんはもっとつらい。兵隊さんのことを思ったら、つらいなんて言えないはずだ、泣くな!」と怒られる。
 まだ何も知らない子どもですら、自分の気持ちを言うことが許されない。
 そのことに黒柳は「ひどく絶望した」という。
 その経験をふまえて、黒柳は、いま我が国が突き進もうとしている“言論統制”の雰囲気に警鐘を鳴らすのだ。

〈自分の考えを自由に口に出せないというのは、不自由で窮屈で、そこに希望など全くありません。決められた考えや思想を押しつけられ、それ以外は許されないという世の中に、平和への道筋などないでしょう〉
〈「戦争反対!」と堂々と叫べる今が、どれだけ幸せで平和であるかを、ぜひ改めて考えてみてください。そして、この平和が少しでも長く続くよう、誰もが自分の考えや意見を声に出していったらよいと思うのです。
それは、決して言い争うためではなく、お互いの考えていることを知り、理解し合い、協力し合っていくきっかけをつくるためです〉

〈もっと広く周りを見てみましょう。刻々と日本も世界も変わっていきます。もし、悪い方へと変わりはじめたときに、ぼんやりしていたら、声をあげるタイミングを逃してしまい、今、あなたの目の前にあるものがすべてなくなってしまうかもしれません〉

 こうして見ると、彼女たちが主張していることには、一つの共通点がある。
 それは、相手を“知ること”“見ること”“対話すること”“お互いに理解すること”、これらの大事さだ。

 まるで、道徳の教科書のようだが、宗教・人種・石油などのエネルギー利権・領土など、さまざまな問題を乗り越えて、なお平和を得るためには、根気強い「対話」しかないのである。

 そういえば、安倍政権は、道徳の授業に力を入れるよう教育政策を進めていたはずだが、まずは、自分たちが「人の話はちゃんと聞きましょう」という補習授業を行なう必要がありそうだ。


2015.07.12 リテラ(井川健二)
上坂すみれ、小島慶子、黒柳徹子…安保法制論議の中で彼女達が語った「平和」のための提案とは
http://lite-ra.com/2015/07/post-1273.html

 ヤッホー君のこのブログの読者だったらすっかりおなじみになった、ゴリラの山極寿一先生も「提案」されていますので、ぜひお読みください。
 今日はお天気 ☀ 本屋さんに入ってお買い求めください、なかったら注文しましょうね。

 フマジメになる。
 味方をつくらない。
 大好きをたくさん見つける。
 5回に1回は怒らない。
 オモシロイ事を考える。
 「ゆるし」を育てる。
 本を読む。…
 これらは本書に登場する22名の方々による「世界を平和にするためのささやかな提案」の一部です。
 「世界平和」なんて文字にするだけで「実現不可能な途轍もなく大きなもの」と感じてしまいそうです。
 しかしながら、22名の提案を読んでいると、そこに書いてあることは、日常の些細な人間関係や家族関係にも当てはまることばかり。
 なるほど、そんな考えで生きれば、健やかで幸せな日常を過ごせるかも、というような。
 「世界」も結局、ひとりひとりの人間が集まってできている。
 一人の日常が、あなたやわたしの日常が「世界」に影響を与えうるのです。
 そしてそれが「世界の平和」に繋がり得るのです。
 今日から、今からできること、やってみましょうよ。
 些細なことでも、それが世界を変えるかもしれません。
 少しずつ、少しずつ、でも。


2016年1月13日 掲載[レビュアー] ブックセンターササエ(佐々栄文盛堂)(書店員)
【書店員レビュー】「まずは、ひとりひとりの小さな行動から
http://www.bookbang.jp/review/article/506861

 旧暦だってもう新年、そして春節。
 ヤッホー君の友だちもこんな新年のあいさつを、ショートメッセージで:

 イマ、なかなか思いとはウラハラに世の中が進んでいますね。
 嫌でしようがないけど、めげずにやれることをがんばります。



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2016年02月08日

安針塚駅から按針塚へ

木村> 後半は、リスナーの方から頂いたメールをもとにお話を伺います。ラジオネーネームなおさんからです。
 「私は就職をひかえている大学院2年の学生です。10月に内定式があるので、今回はどのような気持ちと準備で社会人を迎えるべきかお聞きしたく、メール致しました。来年の4月から不動産の会社に勤める予定です。ルーティンや国内での仕事をしながらどのように寺島さんのお話の中で触発される気持ちと仕事の間に接点を持たせることができるのでしょうか?」という内容のメールです。
 たしかに、誰でも仕事に就いたら、その時のルーティンと、ものを考えることの接点をどのようにしていくのかという問題にぶつかりますね。

寺島> たしかに、私も仲間たちからみると、当時、大学院までいく文化系の人は意外と少なかった時代だったのですが、私は大学院を出て三井物産という商社に入社しました。
 日本の経済の縮図のような総合商社で自分を一度見つめてみたいという気持ちが本音だったのですが、やはり当然のことながら、現実と自分が本当にやろうとしていることは一体何なのだろうかということに悩みました。

 私はその悩みが非常に大事だと思います。
 悩まないほうがおかしいのです。
 その際、私がよく申し上げる言葉で、「マージナルマン」という言葉を噛みしめて生きてきたつもりです。

 これは「境界人」ということ、つまり境界に立つ緊張感を噛みしめなければならなくて、会社の中に入って、腰かけ気分でいつも心ここにあらずという状態で仕事をしている人間が評価をされるわけがありませんし、その仕事をやっている意味もなくなってきます。
 私は参画している組織の中で一定以上の役割を果たし、評価を受けるということはとても大事なことだと思います。
 そこで、腰かけ気分のような人間が信頼できる人間になるわけがありません。

 このリスナーの方も、不動産の分野に身をおいて、その現場で精いっぱい汗を流して、知恵を出して、職場の中での信頼を勝ち得ていくことに真剣でなければなりません。

 しかし、マージナル=境界の観点からいえば、会社に埋没するということと、もう1回冷静になって片方の足を絶えず社会に置いている意識をもつこととは別なことで、絶えず緊張感をもって同時並行して持っていなければなりません。
 つまり、組織の中では本当に評価される人間として、自分が本物の職業人として、「就社」ではなくて「就職」するということです。
 会社に仕えたり、働いたりするというのではなくて、本当のJob、スキル、エクスパティーズ、本当に身につけなければならない専門的な力は何なのだろうと、自分の仕事を通じて身につけていくものなのです。

 それと同時に努力しなければならないことは、薄っぺらな意味においての異業種交流会の薦めをする気持ちはありませんが、会社の外にも身をおいて仲間のネットワークや友達をつくり、自分の足腰を使って自分の問題意識に近いもの、それは私がいつも申し上げている文献とフィールドワークで書籍を集めたり、同じような問題意識をもつネットワークをつくるなど、努力をしなければどんどんタコ壺の中に吸い込まれていくようになってしまいます。
 したがって、そこで頑張る緊張感が凄く大事なことで、会社のために真剣になって貢献して、評価をされると同時に、社会的存在として時代が抱えているテーマや自分が興味をもっていること等のテーマに関してネットワークをつくって、しっかりと踏みこたえていくことの両方をもって欲しいと思います。

 私はメールを下さったリスナーの方のように悩んでいることに可能性を感じます。
 何もかにもなく、会社の中にすっぽりハマっていく人が大部分で、いつもしらけて腰が砕けている人がかなりの数いると思います。
 そのような中で、情熱をもって自分の仕事に立ち向かいながら外にも広がりのある問題意識をもって頂きたいということが、いまの若い世代で知性に目覚めている人たちに言いたいことなのです。

木村> メールを下さったリスナーのなおさん、いかがでしょうか。
 寺島さんから力と熱のこもったメッセージがなおさんに発せられましたが、あと半年で社会人になられ、会社に入ることになりますが、既にいまから始めることがたくさんあるではないのかと感じました。


2010-10-29 ON THE WAY ジャーナル WEEKEND 月刊寺島実郎の世界
2010.10.23放送「17世紀オランダと日本2―1600年リーフデ号事件とは何か?
http://site.jfn.co.jp/tera/blog/entry/2714

 で、この「1600年リーフデ号事件」って何?
 これがどうして2010年「寺島実郎の世界」と結びつくの?

 江戸初期に徳川家康の外交顧問だった英国人航海士、ウイリアム・アダムス(三浦按針)の偉業を顕彰する「第3回ANJINサミット」が7日、横須賀市の「よこすか芸術劇場」で開かれた。ゆかりの自治体関係者や市民ら約1200人が出席し、按針の功績と家康の外交姿勢を現代社会にどう生かすかなどについて話し合った。

 按針は1600年、オランダ船リーフデ号で豊後・臼杵(大分県臼杵市)に漂着。
 家康の外交顧問になり、伊東(静岡県伊東市)で洋式帆船の建造を指揮し、日本に造船技術や航海術などを伝えた。
 功績を認められ、日本橋(東京都中央区)に屋敷、旧三浦郡逸見村(横須賀市)に領地を与えられ、日本人の妻をめとって武士となった。
 家康の死後、平戸(長崎県平戸市)に移住させられ、1620年亡くなった。

 評論家で日本総合研究所理事長、寺島実郎氏は基調講演で「按針は朱印船貿易のリーダーとして世界を駆け、異文化交流の先駆者だった」と説明した。
 按針の菩提寺(ぼだいじ)、横須賀市逸見町の浄土寺住職、逸見道郎氏は「按針は逸見村の住民に非常に親しまれ、住民は按針のおかげで恩恵を受けた」と紹介。
 徳川宗家18代目当主、徳川恒孝氏は「家康公はこれ以上戦わない、これからは交易だと強いメッセージを出した。戦後70年続いた平和。日本は巻き込まれないようこの平和を維持しなければ」と話した。


2015年4月8日付け毎日新聞地方版【田中義宏】
按針サミット「異文化交流の先駆者」の偉業顕彰、横須賀に1200人/神奈川
http://mainichi.jp/articles/20150408/ddl/k14/040/197000c

 あ、そう、三浦按針、ねぇ〜。これとどうして山歩クラブが結びつくの?
 ヤッホー君のこのブログ、2016年01月29日付け日記「タウンウオーキング」をご参照ください。
 あんときゃ、正直言って見つからなかったんだな、

 三浦按針(ウィリアム・アダムス)はイギリス人航海士で、オランダ船リーフデ号で東洋を目指し、1600(慶長5)年、豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。徳川家康に招かれた按針は、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられ、相模国(神奈川県)三浦郡に領地を、江戸に屋敷を与えられました。
 姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人です。
 屋敷地は現在の日本橋室町1丁目辺りで、昭和初期まで「按針町」と呼ばれました。
 今でも「按針通り」が残り、「史蹟三浦按針屋敷跡」の碑があります。


 按針と共にリーフデ号で漂着したヤン・ヨーステンも江戸に招かれ、屋敷地近くの「八代洲河岸」が現在の「八重洲」になりました。
 また、リーフデ号の積荷の大砲は、関が原の戦いや大坂の陣で活躍したそうです。


東京都教育委員会「三浦按針遺跡」(都旧跡1930年6月2日指定)
http://www.syougai.metro.tokyo.jp/bunkazai/week/chuo/chuo08.html

 で、ね、昨日の日曜日、山歩きをしてきたって言ったでしょ。
 どこまで出かけたのか、と言いますと京急「安針塚」でおり、まずは「塚山公園」に行ったんですって。
 日本を愛し、これまでの日本史を勉強しなおしているヤッホー君のことだから、もちろんお墓参り:

 当初は「軍需部前駅」として開設したが、戦時色が濃くなった1940(昭和15)年10月1日に、軍の施設の所在が明らかになるのはよくないと、「安針塚駅」と改称された。
 駅名の由来は歩いて約25分ほどのところの「塚山公園」に建つ「三浦按針(ウィリアム・アダムス)」の供養搭「按針塚」にちなんでいる。
 だが、どうして「按針塚」が「安針塚」になったのかは不明である。
 ガードをくぐって塚山公園へと向かう。
 山頂一帯は国指定の史跡で、国際色豊かな三浦按針祭が行われる。
 按針塚は江戸時代に作られた供養搭で、向かって右がアダムス、左が夫人のものである。


京急、安針塚駅、駅の概要
http://www.keikyu.co.jp/train-info/kakueki/KK56.html

按針供養塔.JPG

按針墓.JPG


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野生のエルザ

 昨日2月7日日曜日旧暦の大晦日、ヤッホー君、”思い立ったが吉日”とばかりに、家を飛び出しておりました、山が呼んでるぅ〜って
 帰って銭湯に行って汗を流し、日ごろのうっぷんまで流してきて爽快なはずなのに、2月8日月曜日旧暦の元旦、ほろびゆく野生の動物たちに想いをよせ、涙をこぼしはじめました。

☆ ジョイ・アダムソン『野生のエルザ』(藤原英司、辺見栄訳、文芸春秋、2003)

「ボーン・フリーBorn Free〜野生のエルザ主題曲」マットモンローMatt Monro ジョンバリーJohn Barry
https://www.youtube.com/watch?v=UneAJNqkjsc

☆ 野生に帰ったクリスチャンとの再会

The Guardian, Endangered species, Environment blog
Last modified on Friday 29 January 2016 04.37 GMT
If we cannot save the lion, no other species stands a chance

Our understanding of the lion, the symbolic heart of Africa, has improved greatly – but we have given it a desperate future
By Will Travers, CEO of UK charity the Born Free Foundation
http://www.theguardian.com/environment/blog/2011/mar/02/save-the-lion-endangered-africa

 ガーディアン紙に貼り付けられている動画は必見です。
 日本語版の動画もありました:

Christian The Lion 日本語版 クリスチャン ザ ライオン
https://www.youtube.com/watch?v=I4S3lk6mS2c

☆ Born Free Foundation

Conservationists have announced the “amazing discovery” of a previously unknown lion population in a remote north-western region of Ethiopia, confirming local reports with camera trap photographs for the first time.

Lions were spotted in the Alatash national park on Ethiopia’s border with Sudan, lion conservation group Born Free said.

“The confirmation that lions persist in this area is exciting news,” Born Free Foundation said in a statement.

“With lion numbers in steep decline across most of the African continent, the discovery of previously unconfirmed populations is hugely important.”
...
Lions have been put on the International Union for Conservation of Nature’s “red list” of threatened species.

In the past few decades they have disappeared from much of Ethiopia. With 96 million people, it is Africa’s second most populous nation, and the number is growing by some 2 million people every year.

Ethiopia’s famous black-maned lions once represented a former emperor, “Lion of Judah” Haile Selassie, and were immortalised in a song by reggae legend Bob Marley. Today, they struggle for survival.

Lion numbers are estimated to have declined by between as much as three-quarters since 1980, and occupy less than 10% of its historic range across Africa.


The Guardian, Last modified on Monday 1 February 2016 22.01 GMT
Lions rediscovered in Ethiopian national park ;

Local reports were confirmed when a population of previously unknown lions was caught on camera trap in the remote Alatash national park
By AFP
http://www.theguardian.com/environment/2016/feb/01/lions-rediscovered-in-ethiopian-national-park 

Pole Pole Foundation

I wanted to know more about the gorillas and the people who looked after them. I wanted to find out how mining affected people’s lives. As I delved deeper, I felt the tingle of anticipation a writer feels when the first strands of a story come together. My research led me to the brave men and women wildlife rangers who risk their lives on a daily basis protecting the gorillas and the national parks. But protecting the gorillas alone is not enough. Gorillas live in forest habitats surrounded by some of the highest human population densities on earth, and so if the gorillas are to survive, local communities must be ensured their livelihoods are protected too.

People like John Kahekwe, founder of the Pole Pole Foundation give their life’s work to ensure those people who live around the Kahuzi Beiga National Park benefit from it, and are involved with its protection. The Virunga National Park has seen the numbers of mountain gorillas rise in recent years as a result of such conservation strategies. International cooperation between conservation groups and the sharing of information and expertise helps to increase understanding of the natural world and our connection with it. Primatologists Jane Goodall and Ian Redmond educate and inspire people across the world, bringing to light the plight of magnificent primates and the habitats in which they live.

Safeguarding the future of the forests is not just important for the gorillas and the communities who live alongside them. It is vital for us all. The rainforests regulate our climate, drive our weather patterns and sequester carbon. They are not part of a benign paradise. They are essential to all life on earth.


Guardian, Children's Book, Author Opinion
Last modified on Thursday 3 September 2015 10.03 BST
Your mobile phone is killing gorillas ;

Vet turned bestselling children’s author Gill Lewis reveals how our mobile phones connect all of us to the fate of the gorilla - and how the discovery inspired her novel, Gorilla Dawn
Gill Lewis
* Gill Lewis’s Gorilla Dawn is published in paperback by Oxford University Press. Buy Gorilla Dawn at the Guardian bookshop.
http://www.theguardian.com/childrens-books-site/2015/sep/03/your-mobile-phone-is-killing-gorillas-gill-lewis

☆ 「ポポフ」だって元気

〒606-8502 京都市左京区北白川追分町 京都大学理学部人類進化論研究室ポポフ日本支部
http://popof-japan.com/blog/?page_id=2

 霊長類学の成果を発表する国際学会の大会が、2年に1度開かれます。
 その第25回目の大会が昨年2014年の8月にベトナムのハノイで開催されたので、バサボセ・カニュニさんと参加しました。
。。。
 同じ類人猿のチンパンジーやオランウータンでは食物を分配する行動はよく知られています。
 ゴリラでも母親が自分の食べている食物を育児中の子どもに取らせてやる行動は報告されています。
 これはコンゴの大湿地の中で、ミネラルに富んだ水草を引き抜き、泥を洗って食べる際に観察されたものです。
 でもまだ、おとなどうしで食物が分配されるのは誰も見ていませんでした。
 私たちは昨年、やっと人間に馴れ始めたニシローランドゴリラの群れで、ゴリラたちがトレキュリア・アフリカーナというフットボール大のフルーツを分配しているところを目撃したのです


2015年6月発行 Popof News 22号
山極寿一「バサボセさんと国際霊長類学会で発表しました」
http://popof-japan.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/PopofNews022Web.pdf


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2016年02月07日

茎たち菜

 読者の「菜の花御膳」さまよりメールが入りました。

 写真、色とりどりで、すごいです。
 とてもおいしそうに見えます。
 感心しました。
 お味噌汁はカボチャですか?
 タイの赤米はいいですね〜
 とまとやかわいいお団子見えますが、味噌汁の左はなんだろう…

 
 企業秘密ですので、ご質問に回答はしませんが、この方、ヤッホー君が山形生まれだったら「くきたず」(なまっていますね、クキタチかな?)のこと知ってるって言ってきました。
 山形生まれの深川育ちのヤッホー君、記憶があるような、ないような。。。

 秋田生まれのママンさんもこんなブログを:

 山形の多くの人は茎立ちのおひたしが大好きです。
 ママンもこんなおいしい〜口にあう野菜は初めてでした。
 秋田では若い頃は食べたことがありませんでした。
 茎立ち・・・と言う響きは大変きれいですが、地元では くぎだじ(ず)と、さも地元のやさい!!と言う風に発音は濁します。
 これは、外の土地では呼び名が違うようですね。


2008/03/02 18:58 山形ママンの日常
山形の春野菜・茎立ち・五月菜・つぼみ菜・アスパラ菜・紫菜・似ていて違うそれぞれの味!!
http://yamagatamaman.at.webry.info/200803/article_1.html

茎たち菜
 山にまんさくの花、畑の茎たち菜、いずれも雪国の春を告げる色は黄色。
 秋に種子をまき、20〜30p程に育った茎たち菜は降り積もる雪の中で、じっと葉を落として時を待ちます。
 やがて日射しが高くなり、雪が消えると、畑の中で春いちばんに目をさますのです。
 ハウス栽培や野菜の流通も思うようになかった時代、春の畑の野菜は「茎たち菜」でした。

■ 茎たち菜物語
 おひたし、つけもの、煮びたし、いため煮、置賜地方の郷土料理である冷や汁の具等、食卓全部が茎たち菜になることもあります。
 ほろにがい春の味です。
 「茎たち菜」は、春の日射しをあびて、四方にどんどん茎を伸ばし黄色の花が咲き、畑は花盛りとなります。
 そしてようやく食べ飽きた頃、家々のおばあさん達は、「茎たち菜」をゆでて庭先で干し物をつくりはじめます。
 もう春の始まりから、何ヶ月も後の冬の食の準備も始めるのです。
 日向のにおいのする「茎たち菜」の干し物は、茎たちぼしと呼ばれ、ニシンや豆等と一緒に煮て、野菜の少ない冬の雪国の食卓での貴重な一品となります。
 鉛色の空と閉ざされた雪の中で干し物を食しながら春を待ちわび、春になればまた冬に備える、雪国の人たちの自然と共に生きる営みです。
 何千年も前、まだこの地方に大きな湖があった頃、初めて人が住んだ、小高い山の裾野では、置賜地方で一番に「茎たち菜」の花が咲きます。


美味探求 山形美味屋(〒992-0323山形県東置賜郡高畠町大字露藤85(株)おきたま興農舎内Tel0238-57-4116) 
http://y-umaiya.com/okitama/yasai.html

 今年は秋冷が早く感じます。
 10月中旬になり、秋野菜の収穫を残すのみとなりました。
 今年の家庭菜園の出来は、いかがだったでしょうか。
 うまくいったこと、改善が必要なことなどを整理しておくことが大切です。

 また、来年の栽培に向けて、準備を今のうちからしっかりやっておくと良いでしょう。
 まず、今年作付けした野菜の種類と場所を書いた図(作付け図)を忘れないうちに残しましょう。
 同時に、種まきや定植、収穫の時期のほか、病害虫の発生状況や野菜の出来、不出来なども作付け図にメモすると、来年の作付けにとても役立ちます。

 排水の悪かった場所は、溝を切り直して、排水しやすくしておくことが大切です。
 今年のうちにしておくことで、雪解け水がたまりにくくなり、来年の栽培準備が進めやすくなります。
 特にタマネギ、ニンニク、クキタチなどの越冬野菜を作付けしている場合は、排水対策はとても大切な作業になります。

 その他、栽培後の茎や葉っぱの処分や土作りなども、晩秋の天気の良い日を選んで行なってください。
 今年使い残した種子を来年使用する場合には、ポリ袋で密封し、そのまま冷蔵庫で保管して来年の作付けに利用してください。
 ただし、マメ科の野菜などのように古種は発芽が極端に不良になる種類もあるので注意してください。
 購入した種袋には採取月日と発芽率保障期間が明示されていますので参考にしましょう。

 サトイモを来年の種芋として利用する場合は、天日で外側を十分に乾燥させてから、新聞紙や乾燥したもみ殻などでパッキングし凍結しない程度の低温で保存します。
 厳寒期の冬は屋内の暖房しない場所で保管して凍結を防止してください。

 家庭菜園は野菜の出来、不出来よりも、工夫して作った野菜を自分で食べることに楽しさがあります。
 いろいろチャレンジを繰り返しながら野菜を育てることこそが、家庭菜園の醍醐味(だいごみ)に違いありません。
 来年も無理せず、自分なりの家庭菜園を思う存分に進化させてください。


2015年10月15日付け山形新聞
山形県農林水産部農業技術環境課「今年のうちに来年の準備」


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2016年02月06日

ダンバー数

 1月30日、日比谷公会堂での山極寿一先生があげた外国人の名前おふたり。
 フォッシーさんについては日記に書きました。
 もうお一方は、ダンバー Robin Dunbar さん(1947年生まれ)。

山極: みんなSNSなどでいろんな人と情報交換をし、対話をしているような気になっているけれど、他人の意見は誰も聞いていないんですよ。それは政治家を見ればよくわかります。国民に意見を聞いて、80%の人が反対だと言っても、取り上げませんからね。民主主義的な議論の場はもはや消えてしまったとしか言いようがない。それは、こういう文字化したネット上の無味乾燥な会話に慣れてしまった結果なんじゃないかと、僕は非常に危惧しています。
小崎: SNSでつながる相手の数が肥大していくことも問題でしょうね。ダンバー数(※)について著書に書いていらっしゃいますが、人間の集団の規模としては150人くらいが適正だというデータが出ているわけですね。
山極: 人間の脳に対する新皮質の割合は1,400ccから1,600ccで、この容量は150人くらいの仲間と付き合う規模だと言われています。実際人間は、言葉を作り上げる前に、150人くらいの集団を作り出しているんですね。言葉が発明されたのは数万年から数十万年前だと言われていますが、人間の脳が現代人の脳の大きさに達するのは40万年から60万年前ですから、脳の増大は言葉によってなされたわけではない。じゃあ言葉が何を付与したかといえば、情報操作能力を拡大しただけで、信頼できる人の数は増やしていないんですよ。今は付き合う人の数は増えたかもしれない。でもそれは、信頼して顔を覚えられるような間柄にはなっていないということなんです。
小崎: 150人という数字は非常に納得がいくなと思いました。一方で、バーチャルの世界に時間を取られると、現実社会ではその150すら覚束ないのではないかなという気もします。今の若い人たちは旅行とか全然しませんからね。東大では学部生14,000人の内、2014年5月現在、海外に留学している学生は84人だそうです。わずか0.6%。
山極: 新しい体験を積む必要がないと思っているんですね。“新しいこと”も昔と今とではまったく違う。昔は若者にとって新しいことというのは、上の世代が既に経験したことだったわけです。でも今は誰にとっても新しいことじゃなければ、それは新しいことではない。その新しいことにいちばんアクセスしやすいのはインターネットですからね。
小崎: でも、それは幻想ですよね。
山極: そう。つまり個人がないんですよ。自分にとって新しいことを求めるのではなくて、誰にとっても新しいことを経験するのがうれしいわけですから。自分だけの新しいことを体験しながら自分を作っていくという願望が、もうなくなってしまった。それは強く感じます。
小崎: 未来を悲観視する風潮が高まったのは、オウム真理教の事件などもあって1990年代からだと言われますが、僕は、第2次世界大戦が終わった1945年以降の東西冷戦時から続いているんだと思います。『続・百年の愚行』の中に核兵器と原発の話を書いたんですが、この2つは裏腹な関係にあるわけですよね。これが作られたことによって、全人類は大きな心理的プレッシャーを受け続けてきて、その結果、いろいろな弊害を生み出した。世界の終わりを主題にした文学や映画や漫画がたくさん生み出されたし、厭世観も広がりました。今の若者がネットにこもる主因もそこにあるのではないかという気がします。
山極: 僕は、第2次世界大戦後に起こった大きな誤解がもうひとつあると思っているんです。それは戦争自体に対する誤解です。第2次世界大戦後、レイモンド・ダートという化石人類学者が、人類はアウストラロピテクス・アフリカヌスの時代から骨を武器に互いを殺し合う行為をしていたと発表し、それをロバート・アードレイというアメリカの劇作家が『アフリカ創世記』に記したことにより、戦争は人間の本性なのだという思想が一気に流布しました。それは日本のような敗戦国では生まれない思想で、核を使って多くの人を殺戮してしまった罪悪感を軽減するために、戦勝国にはこういう思想が必要だったわけです。後にそれは綿密な調査によって先史人類学からも霊長類学からも否定されましたが、人間は狩猟によって攻撃性を高め、その武器を人間に向けることによって戦争を始めたというこの説には、2つの誤解があった。まず、狩猟によって攻撃性が高まることはないんです。そしてもうひとつは、狩猟と人間同士の戦いはまったく別物だということ。それは現代の狩猟採集民が証明しています。彼らは獲物を分け合うし、狩猟に使う武器を人に向けたりはしない。むしろ平和を好む、争いを嫌う人たちです。狩猟のために群れを作る霊長類はいないんですよ。だから、人間が狩猟によって社会を発達させたわけはないんです。
小崎: むしろ身を守るために群れる。
山極: だから人間の社会性は、狩る側ではなく、狩られる側にいることによって発達してきたんです。狩猟をするようになり、そして農耕をするようになってから、おそらく集団間の戦争がはじまり、武器が改良されるようになった。それはつい最近の出来事であって、戦争が人間の本性だとか、戦争が人間の社会秩序を作ってきたとか、そんなことはとても言えません。でも、それを政治家がいまだに利用している。バラク・オバマはノーベル平和賞の授賞式で「戦争は昔から人間とともにあった。戦争もときには正当化される」と言っています。あれほど核兵器の根絶に力を尽くすと言っていた人が、ですよ。

※ ダンバー数
ヒトを含む霊長類が、互いを認知し合い、安定した集団を形成できる個体数の上限。イギリスの人類学者ロビン・ダンバーが提唱した、群れの構成数と霊長類の脳を占める新皮質には密接な相関関係があるという仮説に基づく。


Winter-Spring 2014-2015 Think the Earth Paper vol.15
『続・百年の愚行』発行記念対談 
山極寿一(京都大学総長/人類学・霊長類学者)×小崎哲哉(『続・百年の愚行』編著者)
21世紀に入ってからも収まる気配がない戦争、差別、暴力、格差、核、環境破壊……。
『続・百年の愚行』への寄稿家でもある人類学・霊長類学者と同書の編著者が、愚行とその背景にあるものについて語り合った。愚行を止める術は、はたしてあるのだろうか?
http://www.thinktheearth.net/jp/ttepaper/data/TTEP_vol15.pdf

 霊長類の脳は、他の哺乳類と比べ、新皮質の部分が大きい。ほとんどの哺乳類30〜40%、霊長類50%以上。人間では80%。
 イギリスの霊長類学者ロビン・ダンバー。新皮質の比率が、霊長類の群れの平均的な大きさに正の相関関係を持つ。
 人類の平均集団サイズを割り出すと、150人。チンパンジー、50頭が上限。
 150人……現代の狩猟採集民の氏族集団の平均的な大きさ。園芸生活者の村の平均的な規模。近代的な軍隊の基本的な戦闘単位。
 社会集団の規模が150〜200人を超えると、だんだん身分構造がはっきりしてくる。
 深く感情移入できる関係を同時にもつことのできる「共鳴集団」の規模は、10〜15人。ゴリラの群れのサイズと同等。


2012/9/8 ゆうどうの読書記録
山極寿一『家族進化論』(東京大学出版会、2012年6月)●150人(p277)
http://gotobooks.blog.so-net.ne.jp/2012-09-08

On average, we have 5 (five) intimate friends, 15 good friends (including the five intimate ones), 50 friends and 150 acquaintances. While it is not altogether clear why our relationships are constrained in this way, one possibility is time. A relationship's quality seems to depend on how much time we devote to it, and since time is limited, we necessarily have to distribute what time we do have for social engagement unevenly. We focus most of it on our inner core of 5 (five) intimates. Alternatively, it might just be a memory problem: we have a job keeping track of who's doing what, and can only really keep serious tabs on the inner core of five.

The Guardian, Monday 25 April 2011 08.00 BST
Robin Dunbar: Friends to count on ;
The perfect number for a human social group is 150. The challenge is maintaining a real sense of community
https://www.theguardian.com/science/2011/apr/25/few-people-dunbars-number

 このダンバー数は日本語の訳で読めます。
 もう一度、書評。その本について:

 ロビン・ダンバー『友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学』(藤井留美訳、合同出版、2011年)

 「友達は無限には増えないもの?」
 本書は、進化心理学者として著名なオックスフォード大学教授、ロビン・ダンバーが専門的な見地を織り交ぜつつ記したエッセイ集である。
 論じている対象は、友人関係や言語に始まって、文化や倫理・宗教世界、そして科学や芸術に至るまで実に幅広い。ダンバーの基本的な視点は、こうした諸現象を、人間という動物の進化、あるいは環境への適応行動という観点から理解するというものである。
 原文もウィットにとんだ軽妙な文体で書かれているのだろうし、あるいはそのテイストを損なわない上手な翻訳によって、楽しく読める1冊となっている。科学に関心のある高校生、あるいは中学生あたりでも、十分に楽しめそうな内容である。
 さて、ダンバーが著名となったのは、本書のタイトルにもあるように、「ダンバー数」と呼ばれる、気のおけないつながりの人数について、定式化したことによる。
 その根拠となっているのは、とりわけ霊長類における集団の大きさが、その脳の新皮質の大きさと強い相関関係にあるということであり、別な言い方をすれば、その複雑な集団社会の形成が、他の生物に比して、霊長類における大きな脳の発達を促してきたのだという(社会的知性説)。。。


2011年08月31日 15:33更新、KINOKUNIYA書評空間BOOKLOG
評者:中央大学文学部教授(メディア論、文化社会学)、辻泉
http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2011/08/post_26.html


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燃える熱帯林

 昨日のハナキン、ヤッホー君は「転ばん体操」のあと「春まつり」に精出していましたが、これには深いわけがありました。
 ヤッホー君の愛用の東芝製パソコンに変なソフトが入り込んで不調を訴え、駆除のため、ついに初期化!
 ウイルス退治のソフトを入れ直し、プリンターも使え、デジカメで撮った写真を取り込めるまでに復旧しました。
 しかし取り込んだ写真のサイズが大きすぎ、それを落として、毎日つけているこの「日記」にも貼り付けたい。
 前のように山歩クラブの仲間にメールで写真も送信できたらいいな。
 とま、そういうわけで「春まつり」を自作自演したのでした。
 ヤッホー君、「初期化」なんて罠に嵌められなけれ参加したかったのに、とぶつぶつ。
 だって、ジャングルが燃え、逃げ惑う森の人、オランウータンのことが気にかかって、せっかく「春まつり」に料理した菜花だって、赤米だって、のどを通りませぬ。。。

セミナー
燃える熱帯林と気候変動、生物多様性、人権:企業の役割・責任とは?
〜インドネシアでの森林火災と煙害の背景〜

【日時】2016年2月5日(金)午後2時開演〜午後5時まで
【プログラム】
 昨年もメディアなどで大きく取り上げられたインドネシアでの森林火災による煙害問題について、森林火災が引き起こされる原因・背景となってい るパーム油と紙パルプの事例について環境面、社会面からお伝えします。
 この火災によるCO₂の排出量は一日当たり1500万トン以上で、これは米国全体の一日当たりの排出量を超えています。
 世界銀行によればインドネシアの経済的損失は2兆円を超え、スマトラ沖地震による被害を受け たアチェ州再建費用の2倍以上に上ります。
 また現地インドネシアでオランウータンの保護活動を行っている NGOからパウリヌス氏が来日し、世界中で広く使われている植物油「パーム油」のプランテーションがもたらす影響についてお話があります。
 もう一つの火元である紙パルプ業については、日本でも多くコピー用紙やティッシュを販売しているエーピーピー(APP) 社の事例についてお話します。
【問い合わせ先】 熱帯林行動ネットワーク(JATAN)TEL:03-5269-5097

 サンフランシスコに本部を持つ米国の環境NGO、レインフォレスト・アクション・ネットーク RAINFOREST ACTION NETWORK (1985年設立)の日本代表部が「地球環境基金」の支援を得て開催します。
http://japan.ran.org/

 今日のお勉強、まずは

 「地球環境基金」がつくられた背景は?.

 地球環境問題は、国境を越え世代を越えて、世界人類の生存基盤にかかわる重要な課題となっており、我が国としても、その能力を発揮し、国際社会の中で積極的に取り組みを進めていかなければなりません。
 地球環境保全のためには、環境ODA等の公的部門による対策に加えて、民間の自主的な取り組み、とりわけ草の根の環境国際協力や国民一人ひとりの足元からの自主的・積極的な行動が不可欠になっています。
 1992(平成4)年6月、ブラジルでの地球サミットで、我が国政府が環境ODAの拡充等と並んで、民間主導の環境保全活動を支援するための制度づくりを公約したのも、このような理由からです。
 この国際公約を実現するため、政府においては環境庁(当時)が中心となり、地球環境基金の制度化に向けた立案検討、我が国の環境保全活動団体(環境NGO)の状況調査等が積極的に進められました。
 そして、1993(平成5)年の第123通常国会で、政府提案による「環境事業団法の一部を改正する法律」が制定され、同年5月28日に「地球環境基金」が開設される運びとなりました。
 その後、2004(平成16)年4月1日より「地球環境基金」は、独立行政法人「環境再生保全機構」へ移管されました。
https://www.erca.go.jp/jfge/about/qa/qa01_1.html

 ヤッホー君も日本の事例報告で参加したリオサミットがきっかけでしたかぁ〜
 次いで「熱帯林行動ネットワーク(JATAN)」とは?

 熱帯林行動ネットワーク(Japan Tropical Forest Action Network:JATAN)は、生物多様性保全や地域住民の生活の安定などに焦点を当て、世界各地の森林を環境面、社会面において健全な状態にすることを目標として、1987年から活動しています。
 「日本の木材貿易と木材の大量消費が熱帯林をはじめとする世界の森林を脅かす一因である
との問題認識から、近年では主にインドネシア共和国と日本国内において、森林と木材貿易に関する調査を行ない、調査結果や森林の減少・劣化を止めるために必要な政府、企業、市民の役割について報告書としてまとめ、公表しています。


環境省、NGO/NPOによる森林保全活動の事例
http://www.env.go.jp/nature/shinrin/fpp/database/ngonpo_case/jatan.html

 そして、インドネシアの森林火災は、大気汚染で学校が休校になるなどシンガポールやマレーシアにも影響を及ぼし、インドネシアの大統領も視察に赴き、アセアン全体で解決への道筋をつけていこうとしているのですが、どうも経済発展が優先されるようで、自国民の健康、地球環境は後回しにされるのか、解決にはいまだ道遠し。。。

Who is responsible?

It’s a blame game, with everyone pointing the finger at someone else.

Environmental group WWF Indonesia, which has been highlighting the problem of Indonesia’s recurrent fires for years, says that the fires are caused by the “collective negligence” of companies, smallholders and government (which isn’t investing sufficiently in preventative measures).

Many blame big business.

According to a recent analysis of World Resources Institute data in September, more than one third (37%) of the fires in Sumatra are occurring on pulpwood concessions. A good proportion of the rest are on or near land used by palm oil producers. “Many of these fires are a direct result of the industrial manipulation of the landscape for plantation development,” says Lindsey Allen, executive director of the conservation organisation Rainforest Action Network.

In September, the Indonesian police arrested 7 (seven) executives in connection with the fires, including a senior executive from Bumi Mekar Hijau (BMH), which supplied Jakarta-based paper giant Asia Pulp and Paper (APP).

Others look away from the big corporations for blame. According to Henry Purnomo, professor at Indonesia’s Bogor Agricultural University and a scientist at research group CIFOR, there are two culprits: poor small-scale farmers looking to expand their farmland, and rogue operators intent on illegally clearing forests for land acquisition.

Global corporations operating in the area also blame smallholders and under-the-radar companies. The Roundtable on Sustainable Palm Oil, which counts many big palm oil businesses as members, has consistently said that the instances of fire on certified palm plantations in the affected region (which number 137) measure in single digits. Brendan May, chairman of sustainability advisory firm Robertsbridge (which has APP as a client), argues that it’s “not in companies’ best interest” to set fire to their own assets – an argument some campaign groups dispute.


The Guardian, Last modified on Wednesday 11 November 2015 15.43 GMT
Indonesia's forest fires: everything you need to know ;
The fires devastating Indonesia have been called a ‘crime against humanity’. How did they start, what damage are they causing and who’s to blame?

By Oliver Balch
http://www.theguardian.com/sustainable-business/2015/nov/11/indonesia-forest-fires-explained-haze-palm-oil-timber-burning


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2016年02月05日

ナバナ(菜花)

 環太平洋連携協定(TPP)交渉参加12カ国がニュージーランド(NZ)で協定文に署名したことを受けて2016年2月4日木曜日、市民団体らが東京都内で抗議の声を上げた。

 「日本の農業、国民の健康を守っていきたい
 「まだまだ闘いはこれからだ
と訴え、会社員らにTPPへの関心を呼び掛けた。

 「TPP協定調印に大抗議!」と題し、全国食健連の呼び掛けで各団体などが集まり、TPPの問題点や批准阻止に向けた意気込みを市民らにアピールした。
 署名が行なわれたNZからは、先住民族マオリの芸術家、モアナ・マニアポトさんが参加。
 「わが国でも多くの人が医療や環境などTPPにさまざまな心配をしている。国境を越えて連帯し、活動していこう
と訴えた。
 
 東京都在住の乾美紀子さん(56)は「TPPで食の安心・安全が保たれるのか不安だ」と自転車を止めて熱心に聞き入った。石井昭子さん(72)も「分からないことばかり。(大筋合意の内容は)農業者に不利になってしまうのではないか」と話した。


2016/2/5付け日本農業新聞
TPP 署名も闘いこれから 市民団体街頭で抗議
http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=36196

One of the world’s biggest multinational trade deals, the Trans-Pacific Partnership, has been signed by 12 member nations in New Zealand and will now undergo a 2(two)-year ratification period in which at least 6 (six) countries must approve the final text for the deal to be implemented.

Lori Wallach of Public Citizen, argues, "We have to make sure every member of Congress says there’s no way, we’re not meant to do this." The deal has also become a campaign issue, and Wallach notes, "There’s no presidential candidate in any state polling over 5 percent who supports the TPP."


Lori Wallach: Signing of TPP Marks Only Beginning of the Fight, Trade Deal Could Still Be Stopped
http://www.democracynow.org/2016/2/4/lori_wallach_signing_of_tpp_marks

 きょう2月2日火曜日の東京新聞が一面トップで大スクープを書いた。
 すなわち、国を相手に「TPP交渉差し止め・違憲訴訟」を行っている民間団体がTPP協定を読み解いて、TPPが発効すればすべての農水産品の関税が撤廃されることになる、と警告を発したのだ。
 その他にもTPP協定には、到底承認しがたい条項が多くある。
 しかし、この、「すべての農水産品の関税が撤廃される」、という事実を暴露することだけでも十分だ。
 もし農水産業者がこの事を知れば、政府に騙された、絶対に認めるわけにはいかない、ということになる。
 実際のところ一般国民は日本政府やメディアに騙されていたのだ。
 TPP協定をよく読めば、農水産品に関税がかけられる事を許されているのは一定期間(7年間)の猶予付きで、最後はすべての品目が例外なく関税ゼロにさせられる。
 これはTPP交渉に関わっているものなら誰もが知っていた事だが、そのことを隠して、農水産品への関税を死守したことばかりが強調されて来た。
 TPP協定を読まない大多数の一般国民は騙されていたのだ。
 この東京新聞のスクープによって国会審議が混乱しなければウソだ。
 とりわけ、打撃を受ける農水関係者が、だまされたと騒ぎださなければウソだ。
 野党が追及すれば国会審議が紛糾することは間違いない。
 TPP批准に向けた混乱は必至である。
 東京新聞のスクープ記事がTPP批准を阻止することになると私が書いた理由がそこにある。


2月2日、天木直人のブログ
東京新聞のスクープ記事がTPP批准を阻止することになる
http://new-party-9.net/archives/3314

 ヤッホー君の今日のニュースは、「転ばん体操」から帰って「千葉県民体操 なのはな体操」を踊ってみたこと。
 だって「転ばん体操」のおかげで、体が浮いてるな、と感じるほど軽くなるんです、フ・シ・ギ・

By 鈴川絢子/Suzukawa Ayako
https://www.youtube.com/watch?v=_73EIo5pK3Q

 じゃなくって、平田さんからのいただきもの、「菜花」を使って男の料理教室を開いて、春よ来い!早く来い!と踊ったことでした。
 が、先生も生徒もヤッホー君の県務?!:

春まつり.JPG

 男の料理・初春 今が旬の菜の花 ビタミンミネラル豊富な美容食
By ナッシー料理ch
https://www.youtube.com/watch?v=8r9Suz1eE3M

 美味しかった、です。

 ナバナ(菜花)
 トップクラスの栄養価を誇る春ならではの野菜

 春の訪れを告げる野菜。菜の花などのつぼみと花茎、若葉をナバナといいます。独特のほろ苦さをいかして、生やおひたしでも美味しくいただけますが、豚肉やベーコン、ごまなど、油脂分があって香りの強いものとの相性も抜群です。

 ビタミンCの含有量は野菜の中でトップクラスです。白血球の働きを強めることで、風邪などの病気に対する免疫力を高め、貧血予防や、コラーゲンの育成を促進するなどの美肌効果もあります。


(JAグループ)
http://www.ja-kizuna.jp/food/shun/detail?id=49


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霧のなかのゴリラ

 今日もゴリラから離れられないでいるヤッホー君!
 上廣倫理財団、第28回文化フォーラム「人生後半の生き方を考える」(1月30日 日比谷公会堂)で京大総長・山極寿一先生は、「ゴリラのように泰然自若」という演題で講演なされました。
 そこで先生は、おふたりの外国人のお名前を出されました。
 ゴリラ研究の歴史について言及なされたなかで登場したダイアン・フォッシーさんを、今日はご紹介:

 ゴリラの野外研究は日本と欧米でほぼ同時期にはじまったが、その推進力となったのは日本では霊長類社会学、欧米では先史人類学という異なる分野だった。
 日本モンキーセンターによる類人猿学術調査隊は、1958年から1960年にかけて3回の調査を行ない、その最初のターゲットがゴリラだった。
 今西錦司、伊谷純一郎、河合雅雄、水原洋城が主としてウガンダのヴィルンガ火山群、カヨンザの森でマウンテンゴリラの調査を実施したが、1960年に勃発したコンゴ動乱で調査を断念しなければならなくなった。
 同時期にヴィルンガで調査を行ったジョージ・シャラーはゴリラについての最初のモノグラフを書き上げたが、やはり撤退を余儀なくされた。

 その後、長期にわたるゴリラの調査に成功したのは1967年にヴィルンガで調査を始めたダイアン・フォッシーである。
 野生のゴリラの個体についての長期にわたる資料が残っているのは未だにヴィルンガだけであり、フォッシーの功績は大きい。
 私は1980-1982年に彼女を指導教官として、ここでゴリラの調査を行なった。
 しかし、ヴィルンガでは国立公園化にともなって土地を追われた住民との間でトラブルが絶えず、ゴリラの密猟が勃発して深刻な保護上の問題を抱えていた。
 1985年にフォッシーが何者かに殺害されたのも、この問題と無縁ではないだろう。

 フォッシーの死後、私はこの地で研究を続けることを断念し、私が最初にゴリラの調査を始めたコンゴ民主共和国のカフジ・ビエガ国立公園でヒガシローランドゴリラの調査を再開した。
 ここは、標高600mの低地から3000mの高地までゴリラの生息域が連続していること、全生息域にわたってゴリラが近縁なチンパンジーと同所的に共存しているという利点がある。
 しかも、ここでは観光目的とはいえ、ヴィルンガと同じ頃からゴリラの人付けが進み、ゴリラを間近で観察できる条件が揃っていた。

 私はヴィルンガでの経験を踏まえ、
1)研究だけの目的でゴリラとチンパンジーを人付けし、
2)コンゴ人の研究者と共同で研究を実施し、
3)地元に自然保護のためのNGOをつくる、
という目標を立てた。
 1991年に起こった首都の動乱、1994年の隣国ルワンダからの難民流入、1996年、1998年の内戦勃発によって多くの苦難を強いられたが、徐々にこの目標はかなえられつつある。
 研究と保護を両立させることは至難の業であるが、それを推進することが研究者の良心であろうと思う。
 保護は地元の人々の協力なしには成立しない。
 ゴリラの保護が地元の人々の喜びにつながるように努力していこうと思っている。


2004年7月3日土曜日於国際交流会館フロイデ(犬山市)
山極寿一「ゴリラの長期野外研究 -研究と保護の間で-」
https://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/reports/16-033-j.html

 英語で:

Dian’s Advice: Work with the Local People
Juichi Yamagiwa, Kyoto University, Japan

Dr. Yamagiwa has studied wild eastern gorillas since 1978, primarily at the Kahuzi-Biega National Park (Democratic Republic of Congo), as well as chimpanzees and macaques

I spent the happiest time of my life with mountain gorillas in 1981 and 1982 under the guidance of Dian. From morning to evening, I followed the gorillas on the mountain while moving, resting, and acting as a gorilla. I sometimes forgot that I was a human being. I certainly communicated with them in their manner.

Now I remember those days and they occasionally appear in my dreams.
I last saw Dian at Karisoke in 1984, when I visited her with my wife Nojiko, a Japanese artist. Dian cooked Japanese dishes, and we talked a lot about gorillas and drawing. I have learned many things from Dian and used her suggestions when I extended my fieldwork to gorillas in other habitats, such as eastern lowland gorillas in Kahuzi-Biega National Park, Democratic Republic of Congo, and western lowland gorillas in Moukalaba-Doudou National Park, Gabon.

I think the most important requirement for research on gorillas and thus their conservation is to work with local people, since the major obstacle to achieving conservation is conflict: conflict between gorillas and humans and conflict between groups of people in struggles for life.

Therefore, I have concentrated my efforts on establishing a local NGO, the Pole Pole Foundation, to assist local people in creating community-based conservation education at the foot of Mt. Kahuzi (*). Recently, they have offered several classes on conservation to local school children in collaboration with scientists. The children are learning how to understand gorillas from the pioneering works of Dian, and thus they will become good neighbors and friends of the gorillas.


December 2005
Dian Fossey (1932-1985)
Twenty years after her tragic murder, how do her friends remember her life and work?

http://www.ippl.org/newsletter/2000s/097_v32_n3_2005-12.pdf

(*)
April 1, 2011
Juichi Yamagiwa and Ian Redmond visited Kahuzi-Biega
By John Kahekwa
http://www.blog.polepolefoundation.org/2011/04/01/juichi-yamagiwa-and-ian-redmond-visited-kahuzi-biega/

 ダイアン・フォッシーさん…

Some fascinating facts about Dian Fossey, in honor of her birthday
Friday, January 15, 2016

Our founder, the legendary scientist Dr. Dian Fossey, would have turned 84 on Jan. 16 of this year.

Although she was killed while trying to find ways to protect her beloved mountain gorillas, her work lives on in so many ways, especially through the daily monitoring and protection that the Dian Fossey Gorilla Fund now provides daily. The mountain gorilla population has nearly doubled since her time, as a direct result of the work she started, and this is certainly her biggest legacy.

Fossey was a fascinating individual in many ways, as well as a courageous and brilliant scientist. We collected a few interesting facts about her life and legacy and present those here, in honor of what would have been her 84th birthday.

* Some 275 scientific studies based on work at Fossey's Karisoke Research Center have now been published in academic journals. Indeed, most of what is scientifically known about gorillas comes from work conducted at Karisoke or using the enormous Karisoke gorilla database.

* We still monitor two gorillas who were first seen, and named, by Dian Fossey. They are the dominant silverback Cantsbee (37 years old) and high-ranking female Poppy (38 years old). They are also the oldest gorillas we currently monitor.

* Dian Fossey is buried in Rwanda, in a gravesite next to her favorite gorilla Digit (who was killed by poachers) and other gorillas.

* While making the movie "Gorillas in the Mist," based on Fossey's book, actress Sigourney Weaver also fell in love with the gorillas. She has been honorary chair of the Dian Fossey Gorilla Fund ever since.


The Dian Fossey Gorilla Fund International
http://gorillafund.org/gorilla_blog

 そうなんです、映画"Gorillas in the Mist" にもなっております。

Gorillas In The Mist (1988)
https://www.youtube.com/watch?v=GdpcWkv8ohk

 原作は邦訳もあります:
 ダイアン・フォッシー著『霧のなかのゴリラ』(羽田節子、山下恵子訳、平凡社ライブラリー、2002)
 山極先生の解説(pp. 447-453)もあります。
 
 以下の動画もどうぞ:

Dian Fossey's death
https://www.youtube.com/watch?v=ay2pIFMG5Ws

The Lost Film of Dian Fossey DOCUMENTARY (2002)
https://www.youtube.com/watch?v=EFndwaCDvF4


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2016年02月04日

若き日の母親像

 昨日の「日記」でヤッホー君、「平和祈念像の原型は井の頭公園にあった! そうなんです、長崎の平和記念像!作者は彫刻家・北村西望!」と綴りました。
 「記念像」が正しいのに「記念象」と書いてませんでしたか。
 
 ヤッホー君のこのブログ、2010年06月13日付け日記「井の頭自然文化園」をお読みください!
 「アジアゾウ“はな子”」と会いに出かけていました。
 曽野綾子、84歳に、ヤッホー君、めずらしく怒っていたんですゥ〜!
「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』がある」
「『いくらでも生きたい』は傲慢」
「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』ことは肯定されない」
 とか、売文業か文筆業か、ことばを大事にする書き手が言ってはいけないことだって、
 場末の飲み屋で愚痴ったら、銭湯の洗い場でしゃべってたら、と説教したくなるって…
 でも飲み屋にいける友達も、裸の付き合いができる友達も、この人にはいないなって、
 弱いものを上からねめまわして威嚇するサル山のボスぶってるのかもしれないなって…

 象が聞いたら泣くゾウ、怒るゾウ、涙目を見せるゾウって、あぁ、かわいそうにって…

 井の頭自然文化園でくらしているアジアゾウの「はな子」は、2016年の元旦に69歳を迎えました。
 国内のアジアゾウ最長寿記録を更新中です。
 ※ はな子は何月何日に生まれたかはっきりとしないため、1月1日を誕生日としており、年が明けると一つ歳を重ねることにしています。

 このたび、はな子の69歳を祝して、2016年3月21日(月・祝)に「お祝い会」を開催します。みなさんと一緒に、はな子の長寿をお祝いしたいと思います。ぜひご参加ください。


3/21「はな子69歳のお祝い会」を開催します
https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/#

 「平和祈念像」の北村西望だって、ガッカリするゾウ… 

 8月は6日に広島、9日に長崎が原爆忌を迎える。世界で二つの被爆都市である。長崎原爆忌の式典は毎年、爆心地にある平和公園の平和祈念像の前で行われる。原爆への怒りと平和への祈りを、体全体にみなぎらせた巨大な男性像。像の作者は長崎県出身の彫刻家、北村西望である。東京に縁の深い、この彫刻家を最初に取り上げる。
 武蔵野市御殿山の東京都井の頭自然文化園の一角に彫刻園がある。北村西望の使った住居兼アトリエをはじめ、作品所蔵の彫刻館、さらに屋外に多くの作品が展示されている。
 動物園と彫刻家アトリエというのは奇妙な組み合わせだが、西望がここにアトリエを構えたのは、平和祈念像制作のためだった。
 西望は長崎県南有馬村(現南島原市)出身で、戦前からの彫刻の大家。1946年に長崎市からの記念碑制作を受けた。
 記念碑ではなく、平和を祈り、平和を呼びかける祈念像にと“修正”したのは西望自身だったという。さらにできる限り大きな像を、と提案した。当時の北区西ケ原のアトリエで試作に入ったが、最終的な像の原型制作のためには、大きなアトリエが必要だった。
 西望が別に確保した用地が事情により手放さざるを得なかったため、自然文化園の一角の土地借用を都に求めた。都の条件は、建設したアトリエと平和祈念像の原型などを後で寄付することだった。
 52年に高さ約12メートルの三角形のアトリエが完成。54年に高さ9・7メートルの石こう原型が出来上がった。天を指す右手は原爆を、水平に伸ばす左手は平和を象徴しているという。翌55年に長崎市平和公園に青銅製の平和祈念像が完成した。57年にアトリエと、像原型を含む350点余の作品が都に寄贈された。
 現在、祈念像の原型は、アトリエ隣の彫刻館A館の正面にある。その大きさと力感に圧倒される。像の後ろに回ると、「あの悪夢のような戦争 身の毛もよだつ凄絶(せいぜつ)悲惨…」で始まる西望自身の言葉が彫りこまれている。結びの言葉は「希望の象徴」である。
 長年、彫刻園で説明をしてきた武蔵野市の杉谷昭夫さん(81)は「制作途中には裸体がいけないなどの中傷や脅迫もあった。それに屈せず、作り上げたのは、西望先生が自らの集大成の作品だとの強い思いがあったからです」と話す。
     ◇
 井の頭に移る前、アトリエを置いた北区西ケ原には「彫刻アトリエ館(仮称)」がある。
 西望は1916年からここに住み、多くの作品を作った。西望の長男で同じく日本芸術院会員の彫刻家だった治禧(はるよし)が2001年に死去後、遺族からアトリエと西望、治禧2代の作品が寄贈された。「笑う少女」などの西望作品の石こう原型などもある。
 現在、北区文化振興財団が管理して彫刻教室や随時、見学会が開かれている。同文化振興係長の荻田浩成さん(51)は「将来的には多くの人が見ることのできる施設に整備していきたい」と話す。
 また、JR王子駅に近い北区複合文化施設「北とぴあ」の玄関前には、高さ2・41メートルの青銅製の「平和祈念像」が立っている。同区飛鳥山公園には西望作の平和の女神像もある。同区は86年に「平和都市宣言」をしており、毎年8月には平和祈念週間を設け、今年も2〜4日に関連イベントが行われた。
 同区は「祈念像の設置は西望さんの生前からの希望だった。また区としての平和への思いを表現している」(総務課)と話す。
     ◇
北村西望(きたむら・せいぼう) 1884〜1987。東京美術学校(現東京芸大)卒業。文化勲章受章。東京都名誉都民、長崎県名誉県民、武蔵野市名誉市民、北区名誉区民など。出身地の長崎県南島原市には生家を保存(一部復元)した記念館と西望公園、市内の原城跡には天草四郎像、島原市の島原城には西望記念館がある。


2011年8月5日付け東京新聞【TOKYOのわがふるさと】
(編集委員 朽木直文)長崎(1) 平和の願い巨大像に託す 北村西望
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/info/furusato/news/201108/CK2011080502000092.html

 また、北村西望『百歳のかたつむり』(1983年、日本経済新聞社)「新しいアトリエ」(156−60頁「記念館」(181−185頁)もお読みください!

 またまた、ヤッホー君のこのブログ、昨日付け日記「ゴリラ楽」をお読みください。
 1月31日日曜日に荒川区民交響楽団第22回定期演奏会を聴きに向かったと綴りましたが、場所は、と言いますと「新宿文化センター」!
 ここにも北村西望作の彫像があってヤッホー君、びっくりしていました:

 『若き日の母親像』(北村西望作)
 新宿文化センター大ホール1階広場に立つ母子像の若さに魅せられました。


2015-11-07 11:38:33オトボケ蛙「夢うつつのたわごと」
合唱団 白樺 第60回定期演奏会 2015・11・3
http://ameblo.jp/kankian/entry-12092834785.html



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2016年02月03日

高齢者の登場

 2月3日水曜日は節分。ではここで豆まきのかわりにヤッホー君の今は亡き父が晩酌後、よく歌ってきかせた「長崎の鐘」を聴いて、節分そして明日の立春のお祝いといたしましょう!

https://www.youtube.com/watch?v=RAYCgC3Ypxw

 いや、間違い?失礼、これです:
 藤山一郎/長崎の鐘
https://www.youtube.com/watch?v=L04KqrSCPzk
 長崎の旅・平和公園、浦上、大浦天主堂
https://www.youtube.com/watch?v=glVRYs_UAs8

 大学時代、長崎詣でをしたことがあったなってヤッホー君。

 平和祈念像の原型は井の頭公園にあった!
https://www.youtube.com/watch?v=lK82mvkrf2s

 そうなんです、長崎の平和記念象!作者は彫刻家・北村西望!

 長崎の平和記念像を制作した北村西望(1884―1987)は、生涯たゆまぬ努力を貰き、文化勲章を受賞した彫刻界の第一人者である。
 1987(昭和62)年3月、102歳で亡くなったが、平櫛田中に次ぐ日本でも最長寿の彫刻家である。もともと彫刻家には長寿が多いのは、肉体労働であるからだろう。大作の彫刻に挑むと相当の肉体労働がともなう。それが体に良い、創造力の燃焼によって脳は活性化する。一挙両得である。
 「わたしは天才ではないから、人より5倍も10倍もかかるのです。いい仕事をするには長生きをしなければならない」が口癖で、平和記念像をつくるのにも1951(昭和26)年から4年間をかけて完成させた。
 晩年、北村はきごうを頼まれると、よく「決心之大成」「洗心長寿」と書いた。
 こんなエピソードが伝わっている。
 ある朝、北村が自分の制作した平和記念像を見にいくと、足元に一匹のカタツムリがいた。夕方もう一度像の前に行ったとき、なんと、そのカタツムリは9メートルもある像のてっぺんに登っていたではないか。
 いま都会の子供たちはカタツムリなど見たことないかもしれぬ。昔は梅雨のシーズンなど、どこの木造家屋や庭や道端の雑草にもカタツムリがたくさんいたものだ。可愛い角をだして、歩いているようで一向に進むのはのろい、動きはあるようなないようなー、それがいつのまにかてっぺんまで登っているではないか。
 北村は感動した。カタツムリに持続のエネルギーの驚異をみた。カタツムリを生涯の師としたのである。
 百歳記念のとき、島原市、玉宝寺の聖観音像の台座に、「たゆまざる 歩み恐ろし カタツムリ」という座右銘を書き、その後も研鑚を続けた。
 とにかく日々継続、毎日毎日積み重ね,創造し続けていくと、カタツムリの目に見えないゆっくりした動きでも、1年、2年、10年、50年で膨大なものができていくのだ。私もカタツムリを師として尊敬している。


2012-06-02 08:11:15 ジャーナリスト 前坂俊之のブログ
『百歳長寿名言』『たゆまざる 歩み恐ろし カタツムリ』(彫刻家・北村西望102歳)
http://ameblo.jp/toshiyukimaesaka/entry-11266776976.html

 ところが節分の夜、こんな話を聞いてびっくり、またまた腰をぬかしてしまいました!

 作家の曽野綾子さん(84)が「週刊ポスト」のインタビュー記事で語った「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』がある」との主張がネット上で大反発を受けている。
 高齢者は権利や機会を若者に譲り、死と向き合うべきだ――そんな「生き方」の主張だったが、「あなたからどうぞ」など厳しい意見が相次いでいるのだ。
■ 「ドクターヘリは利用者の年齢制限を」
 インタビュー記事は、2016年2月1日発売の「週刊ポスト」(2月8日号)に掲載された。「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」との問いかけで始まり、曽野さんは
「『いくらでも生きたい』は傲慢
権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』ことは肯定されない」との持論を展開する。
 この記事の前提には、1月24日付け産経新聞朝刊1面に掲載された曽野さんのコラム「小さな親切、大きなお世話」があった。90代の病人がドクターヘリによる救助を要請した話を持ち出し、「利己的とも思える行為」と批判。負傷の程度でけが人の治療に優先順位をつける行為「トリアージ」を例にしながら、
生きる機会や権利は若者に譲って当然だ
ある年になったら人間は死ぬのだ、という教育を、日本では改めてすべき」と主張した。また、ドクターヘリなど高度な医療サービスについても「法的に利用者の年齢制限を設けたらいい」と踏み込んでいる。
 「ポスト」掲載のインタビュー記事もコラムの内容が基本的に踏襲され、「死についての教育拡充論」により多くの紙幅が割かれている。
 確実に来る死を覚悟し、さまざまな機会や権利を若者へ譲る。医療サービスを誰しもが平等に受けるのは難しい時代、高齢者は死と真正面から向き合わなければならない。曽野さんが訴えたかったのは、そんな独自の「生き方」だったと言えるが、曽野さん自身が高齢だったことからか、ネット上で即座に反発の声が巻き起こった。
■ 過去にもたびたび「奔放発言」
  「長生きは『利己的』らしい」
  「あなたからどうぞ、としか」
  「『適当な時』は誰がどういう基準で決めるんでしょう」
 ツイッターには、こうした厳しい指摘が相次いでいる。中には「『高齢者は命令されたら死ね』と発言したに等しい」との意見もあり、批判の声は収まる気配がない。
 曽野さんの発言はその大胆さ、奔放さから、今まで数多くの批判を浴びてきた。
 2015年2月、産経新聞上のコラムに記した「もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」との一文が、「アパルトヘイト」(人種隔離政策)容認と捉えられ、海外メディアに報じられたり、駐日南アフリカ共和国大使が産経新聞に抗議したりする事態に発展。
 また、2015年7月、岩手県矢巾(やはば)町の中学2年の男子生徒(当時13)がいじめを苦に自殺した問題では、「自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側にも立ってしまった」と同年9月11日発売の「ポスト」(9月18日号)に語り、問題視された。今回のインタビュー記事をきっかけに、こうした発言も改めてネットで掘り返されているようだ。


J-CASTニュース 2月2日(火)18時59分配信
「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」84歳曽野綾子発言がブーメランに ネットで「あなたからどうぞ」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160202-00000004-jct-soci&p=1

 よくもまあ、こんなひとがモノを書いては、テキトウなこと言ってはたんまりおカネをもらって上から目線でしゃしゃりでてきますね… 不思議でしようがない日本社会の劣化!
 もういちどゴリラ学に聴いてみましょうか:

◎ 目標なく生きる重要性
 還暦を過ぎて感じることがある。老いの時間は子どもの時間と違うということだ。子どもたちと同じように、老年期の人間は何か差し迫った必要性を感じて時間を組み立てはしない。時の流れとともに出合う出来事をそのまま受け止めている。成長にかかる時間は子どもたちにほぼ一様に訪れる。小学生のまま成長が止まることはないし、すぐに大学生になれるわけではない。子どもたちは、同年齢の友だちが同じように成長していく姿を自分と比較しながら、自分の将来の姿を夢見ることができるのだ。
 一方、老いは一様にやってくるわけではない。足腰の衰えが先にくる人もいれば、急にボケが始まる人もいる。急速に老けこんでいく人もいれば、年齢の割には若く見える人もいる。病で早く亡くなる人もいれば、長寿を全うする人もいる。自分があとどのくらい生きられるのかはっきりしたことはわからない。子どもたちが将来の目標をもって生きるのに対し、老人たちの視線は不確かな霧の中へ注がれているのだ。
 しかも、老いの受け止め方も千差万別だ。物忘れや記憶違いが多くなってあわてる人もいれば、それをいいことにしてひょうひょうと生きる人もいる。周囲から相手にされなくなって孤独に悩む人もいるし、これまでの人間関係を断ち切って新しい仲間を求める人もいる。これまでの仕事にさらに磨きをかける人、全く違うことを始める人というように、老年期の過ごし方は人それぞれに異なっている。それは老いの内容がそれまでの人生の過ごし方によって大きく異なるからだ。老人は個性的な存在である。子どもたちと同じように、老人たちを集団で扱うことはできない。
 人類の進化史の中で、老年期の延長は比較的新しい特質だと思う。ゴリラやチンパンジーなど人類に近い類人猿に比べると、人類は多産、長い成長期、長い老年期という特徴をもっている
 「多産」はおそらく古い時代に獲得した形質だ。人類の祖先が安全で食物の豊富な熱帯雨林から出て、肉食動物の多い草原へと足を踏み出した頃、幼児死亡率の増加に対処するために発達させたと考えられる。
 「成長期の延長」は脳の増大と関連がある。ゴリラの3倍の脳を完成させるため、人間の子どもたちはまず脳の成長にエネルギーを注ぎ、体の成長を後回しにするよう進化したのである。脳が現代人並みに大きくなるのは約60万年前だから、その頃すでに多産と長い成長期は定着していたに違いない。
 しかし、遺跡に明確な高齢者の化石が登場するのは数万年前で、ずっと最近のことだ。これは、体が不自由になっても生きられる環境が整わなかったからだと思う。定住し余剰の食料をもち、何より老人をいたわる社会的感性が発達しなければ、老人が生き残ることはできなかったであろう。家畜や農産物の生産がその環境整備に重要な役割を果たしたことは疑いない。

 ではなぜ、人類は老年期を延長させたのか。
 高齢者の登場は人類の生産力が高まり、人口が急速に増えていく時代だ。
 人類はそれまで経験しなかった新しい環境に進出し、人口の増加に伴った新しい組織や社会関係を作り始めた。
 さまざまな軋轢(あつれき)や葛藤が生じ、思いもかけなかった事態が数多く出現しただろう。
 それを乗り切るために、老人たちの存在が必要になった。
 人類が言葉を獲得したのもこの時代だ。
 言葉によって過去の経験が生かされるようになったことが、老人の存在価値を高めたのだろう。
 しかし、老人たちは知識や経験を伝えるためだけにいるのではない。
 青年や壮年とは違う時間を生きる姿が、社会に大きなインパクトを与えることにこそ大きな価値がある。
 人類の右肩上がりの経済成長は食料生産によって始まったが、その明確な目的意識はときとして人類を追い詰める。
 目標を立て、それを達成するために時間に沿って計画を組み、個人の時間を犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が伴えば命を落とす者も出てくる。目的が過剰になれば、命も時間も価値が下がる。
 その行き過ぎをとがめるために、別の時間を生きる老年期の存在が必要だったに違いない。
 老人たちはただ存在することで、人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。
 その意味が現代にこそ重要になっていると思う。


2013年06月09日
老年期の意味
山極壽一(京都大学教授)
http://www.wildlife-science.org/ja/DrYamagiwa/2013-06.html


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ゴリラ楽

 まだまだつづくゴリラ談義…
 ヤッホー君が山極寿一先生からお話を聞いたのは、先月1月30日午後、日比谷公会堂で1600人の聴衆を集めて開かれた上廣倫理財団の講演会だったのです。
 どんな話し方をするのかな?って…
 先生は90分、下を向いて原稿をよみあげることをしませんでした。
 会場にあつまった人たちに目をまっすぐ向け、
 時に仕草を交え、
 時に笑いを誘い、
 そして聞いている相手に何を言いたいのか、考えさせる…、
 いやあ、ゴリラ風コミュニケーションでした。
 もうしばらくおつきあいくださいね。
 まずは、動画から、例えば:

爆笑問題のニッポンの教養 私の愛したゴリラ 山極寿一
https://www.youtube.com/watch?v=sOtc0wYYpVw

 ヤッホー君、翌31日、もうさっそく新宿は紀伊国屋書店に駆けつけ『考える人』2015年冬号(新潮社)を購入していました(ヤッホー君のこのブログ、1月31日付け日記「ゴリラ語」参照)。
 この季刊誌『考える人』編集長の河野通和さんがその冬号の特集「山極寿一さんと考える≪家族ってなんだ?≫」を組むにあたって、こんな感想を述べられています:

河野: 先生のゴリラ学に触発されて創られた、ゴリラの子育てをテーマにした「ゴリラ楽(がく)」という狂言を一緒に見たり、ある賞の選考会や授賞式などです。山極先生の顔を見ているうちに、「ゴリラはなぜ歌うのか」とか、「実は子守歌が言語のもとになった」とか、「言葉がわからなくても感動を共有できるのが、音楽などの非言語的コミュニケーションだ」といった、これまでお聞きしたいくつかのフレーズが頭の中を飛び交いました。
 山極さんがおっしゃるように、言葉というのは非常に便利な道具で、これによって人間の共通認識の領域は広がり、情報伝達のスピードは加速しました。そしてわれわれはいまインターネット時代の渦中にいるわけです。しかし、人類はそもそも言葉が誕生する以前から、食べ物を分け合って一緒に食べたり、子守歌などの音楽で気持ちをひとつにするといったコミュニケーションを大切にしてきました。それによって他者を思いやる心の働きを発達させてきたわけです。

三島: なるほど。オーケストラの特集で共感力について考えられた後で、「共感」の原点とも言うべき家族というテーマに自然と目が向いてきたということですね。

河野: そうなんです。家族というと、やれ崩壊だとか危機だとか、ネガティブなことばかりが言われますよね。1952年生まれの山極先生は、高校時代がちょうど学生運動のいちばん盛んな時期にぶつかります。当時は親の世代と学生たちとの「断絶」ということがしきりに言われ、親というものは旧世代のシンボルであり、家族といったしがらみは否定しなければいけないものだ、という考え方が一種の流行病みたいになっていました。私は少し年少ですが、それでもそういう空気を吸いながら、非常に悩ましい時期を過ごしていたわけです。
 山極さんはそんな青春時代を送った後、東京を離れて京都大学に進み、やがて人類進化論に関心を寄せていきます。そしてアフリカへ行ってゴリラの生態研究に明け暮れます。「ゴリラの群れの一員になって一緒に暮らし、人間とは何かをじっくりそこで考えよう」と思ったそうです。そして、ゴリラの生態を見るうちに、家族っていいものだ、というコペルニクス的転回が彼の中で起こった(笑)。私には、山極さんのようにゴリラとの出会いがなかったので...

三島: いや、普通はないですよ!(笑)

河野: あはは(笑)。とにかく、そんな山極さんに、人間本来のありよう、心の原点のようなものを一度しっかり聞いてみたいと思ったわけです。きっとそこから始まる家族の物語というのは、われわれがステレオタイプで考えている家族像や、近代の家族制度といったものとは違って、現在や将来の人間を考える上で貴重なヒントを示してくれそうだと思ったんです。


2015.02.16更新 みんなのミシマガジン
『考える人』編集長・河野通和さんインタビュー 「考える人」はこう考えるhttp://www.mishimaga.com/special01/065.html

 そうなんです、いまやなんとまあ、「ゴリラ楽」まで…

 さて、年末のメールマガジン(No.616)で山極さんの紹介を兼ねて書こうと決めながら、そこに至る前に枚数が尽きてしまったテーマを、今回改めて取り上げます。山極さんのゴリラ学に触発されたユニークな試み――。こちらも「ゴリラ楽(がく)」といいますが、大蔵流狂言師の茂山千三郎さんが、山極さんの指導を仰ぎながら始めた創作狂言! なんと、主人公がゴリラなのです。
 この話を初めて山極さんから聞いたのは、2010年5月にその狂言「ゴリラの子守歌」がお披露目された直後でした。狂言ではサル、キツネ、タヌキ、ウシ、ウマなどさまざまな動物が演じられますが(「蚊相撲」では人の血を吸う蚊にもなりますが)、それにしても日本にはいないゴリラが主役で、しかも狂言のルーツである「猿楽(申楽):さるがく」にあやかり「ゴリラ楽」とは!
 …
 ともあれ、一人狂言の「ござる調」でゴリラの気持ちを代弁するという、本邦初の試みでした。準備のために、ゴリラの生態や習性についてノート数冊分の講義を受けました。重心の低い摺り足の歩行術、ゴリラの呼吸法、振り返る時などの体の使い方、子どもへの接し方、異性へのアプローチ、泰然自若とした父親ゴリラのオーラなど、独特の動きやしぐさについても、山極さんから直接指導を受けました。
 「先人と同様、ひとつの芸のスタイルを作り上げるのは狂言師として勉強になる。是非『ゴリラ楽』というジャンルを作りたい」と千三郎さんは語り、一方の山極さんは「自分が30年かかったゴリラの身体表現を、こんなに早く体得するとは」と驚きました。
 その「ゴリラ楽」に再度挑戦したのが、2012年10月です。2作目はゴリラの子育てがテーマです。京都市動物園のゲンキという、この時26歳(1986年生まれ)のメスゴリラの実話をもとにしています。
 …
 実は3作目をやらないか、という構想も、すでに二人の間では温められているそうです。私が拝見した昨年の公演では、赤ん坊のゲンタロウ役として千三郎さんのお子さんが舞台に登場、バックで子守歌を歌ったのが奥さまでした。いずれ初めて立つ舞台は「靱猿」でなく、狂言の修養は「ゴリラに始まり、狐に終わる」という日が来るかもしれません。

『考える人』編集長 河野通和(こうのみちかず)
「ゴリラ楽」への誘い
*「考える人」2015年冬号、山極寿一ロングインタビューp31〜p32参照
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mailmag_html/620.html

 第1回京大おもろトーク 2015年4月24日 03 鼎談(山極壽一総長・茂山千三郎氏・土佐尚子教授)
https://www.youtube.com/watch?v=SjB9rJca91k

 あのぉ〜、ヤッホー君は、といえばですね、この間の日曜日1月31日、買ったばかりの『考える人』を小脇にかかえ、「重心の低い摺り足」で≪ゴリラ楽≫、あのぉ〜、荒川区民交響楽団第22回定期演奏会、サンサーンス「交響詩・死の舞踏」「交響曲第三番」を聴きに向かいましたとさ。

死の舞踏 - yuna kim 金姸兒(キム・ヨナ)
https://www.youtube.com/watch?v=asD9A3A-Pa0



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2016年02月02日

サル化する人間社会

 イケメン、イクメン、シャバー二さん。
 ゴリラ語も操ることができる京大総長・山極寿一教授のお話しに、も少し耳を傾けたいんだ。
 だって、NHK(なんか変な空気)があたりを包みこみはじめてきていて、気持ち悪いんだもん。

● オスが父親になって家族ができた
 山極寿一教授は野生のゴリラを観察するために、アフリカの熱帯雨林を繰り返し訪ねている。26歳から28歳にかけては、ルワンダで、朝から晩まで、たったひとり、同じゴリラの群れと過ごした。人間といるよりも密接な時間を持ったという。
 今回の講演のテーマは、ゴリラ社会から人間の家族を探ること。山極教授は「哺乳類の子どもは父親がいなくても育つ。子育てをするサルはいるが、父親であり続けるオスはいません。人間の家族はオスが父親になることでできた。家族は人間にしかない」という。
 たとえばサルのタマリン。母親が大きな子どもをたくさん産むので、出産後に子育てができない。そこでオスが子育てに参加して、子どもを早く成長させるように進化した。「でも、子どもが成長したら、オスは別の群れへ行ってしまうのです」
 ゴリラのオスの場合は「遊び」だ。「遊び」を通して子どもと仲良くなり子どもを社会化する。
 山極教授は会場にマウンテンゴリラの映像を流した。子どもが父親の背中で元気に遊び、父親はじっとしている。動かないことが遊ばせる秘訣で、ゴリラはその技能に長けているという。

● ゴリラの子育てはバトンタッチ
では、ゴリラの子育てはどのように進むのだろう。
ゴリラの赤ちゃんは2キロ足らずの体重で生まれ、3年間はお乳で育つ。「母親は、お乳以外のものを食べるようになった子どもを抱えて父親の前に行き、座らせます。そしてそうっと離れるのです」
 子どもは最初、母親の姿が見えなくて不安になる。だが、父親のそばできょうだいゴリラたちが遊んでいるので、やがて遊びの輪に入り、母親不在でも平気になる。子ども同士がケンカをすれば、父親が仲裁に入る。大きな子どもをいさめ、小さい子をかばう。
 子どもたちはやがて父親を信頼し、後を付いて歩く。それでやっと、オスは父親らしくなるという。
「ゴリラは、父親と母親が一緒に子育てをするのではなく、バトンタッチします。乳児期まではお母さん、乳離れした後はお父さん。子どもは5歳ぐらいになると母親が誰かわからなくなるくらい疎遠になる。だから母親は子離れができます」
 ゴリラのオスは、メスに子どもを託す相手に選ばれ、子どもに保護者として選ばれて、初めて父親になれるのだ。
 では人間はどうか。
「妻や子どもからだけでなく、周囲の人から『あなた、この子の父親でしょ』と言われる。それによって父と子の関係が保たれる。逆に言えば、血縁関係でなくても、誰でも父親になれます。父親という役割は人間の最初の文化なんです」と山極教授は指摘した。
 ゴリラは人間以外では珍しく、よく「対面」する。あいさつや仲直りなどのためだが、共感能力を高めるという
(山極寿一教授提供:ゴリラのドラミング(威嚇ではなく、自己顕示や遊びの誘いなどのコミュニケーションだという)

● 共同保育と共感
 一生の生活史で比べると、人間にはゴリラなど類人猿にない特徴がいくつかある。ゴリラは乳児期こそ3、4年と長いが、その後すぐに少年期に入り、13歳ぐらいで成年になる。これに対して人間は、約1年の乳児期を過ぎると子ども期が数年あり、続く少年期の後に青年期が来てから成年になる。さらに、繁殖能力を失った後も長生きする。
 山極教授は、この生活史の違いに注目する。
人間は、離乳は早く成長は遅い。類人猿のように『遅い離乳と早い成長』がなくなった時点で、共同保育の必要が生じたとみています

 かつて、森から肉食獣がたくさんいるサバンナへ進出した人間の幼児の死亡率は高かった。だから、離乳を早くして母親はすぐに次の子どもを産めるように進化した。その代わり、父親らが共同で子育てをする。その際、子どもと同じ世界に入るために「共感」する力を身につけたという。山極教授は、音楽的な能力もそのひとつとみる。

共同で長い時間をかけて子どもを育てるから、家族ができました。そして共感が育った。その共感を利用して複数の家族が集まって共同体ができた。それが人間の社会の根本にあると思います。家族は文化的なものであるばかりでなく、生物学的な理由を伴って進化したものなのです


京大連続講座「ゴリラの社会に探る人間家族の起源」
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/tokyo-office/event/documents/052.pdf

─ なるほど。先生はゴリラに惚れ込んでしまったというわけですね。先生にとってのゴリラの魅力とは?

山極: お互いの顔を見つめて、コミュニケーションを図るところです。これは他のサルにはない行動です。一般的にサルの社会では、相手の顔を見つめる行為は威嚇であり、強いサルの特権だといわれています。
 そんなふうに思っていたので、ゴリラの観察を始めた当初も、なるべく目を合わさないように、下を向いていました。しかし、逆にゴリラの方から、私の顔を何度も覗き込みに来るんです。一体これはなぜだろう?と、初めはとても不思議に思いましたよ(笑)。

─ ゴリラにとって、相手の顔を見つめる行為は敵対ではないのですね。人間と同じように、相手の機嫌をうかがう、社会行動を行なっているのでしょうか。

山極: そうなんです。これにはとても驚きました。
 相手の顔を見る行為は、ゴリラにとって強烈な意思表示になります。視線にはいろいろな意味が込められていて、言葉はなくても、対面姿勢をとることで、コミュニケーションをとっているのです。

─ 人間も言語を使う前は、そうした行動をとっていたのかもしれませんね。こうしてお話を伺っていくと、ゴリラの社会には、人間社会と共通する要素がたくさんありそうです。それにしても、相手の顔を見る行為が、コミュニケーションのベースになっているとは驚きです。力の強さで物事が決まるというイメージがあったものですから。

山極: 通常はそう思います。
 しかし、ゴリラの社会では、力ではなく、むしろ弱い立場の者がイニシアティブを握っています。先程話したような顔の見つめ合いによって、弱い者は意思を主張し、強い者はそれを読み取ろうとします。

─ 弱い者の気持ちを汲み取るとは、かなり高度な社会行動ですね。

山極: そうなんです。さらに私が驚いたことの1つに、喧嘩の仲裁が挙げられます。
 立場の強い者同士が喧嘩していると、弱い立場の者が仲裁に入り両者の顔を見つめます。すると、争いが止むのです。仲直りさせるのは、弱い者の役割なのです。

─ 不思議ですね。なぜ立場の弱いゴリラが、仲裁という難しい行動をとるのですか?

山極: それは、両者のメンツが守られる仲直りの仕方を、ゴリラが心得ているからです。
 強い者が仲裁すると、強制的な終結となり、両者の心には不満が残ります。しかし、弱い者が間に入ると「仕方がない」と、自発的な和解ができるのです。これも他のサルにはない行動です。
 ゴリラの社会には 人間の社会構造の根底を探るヒントがあります。


京都大学大学院理学研究科教授山極寿一氏「ゴリラに見る人間社会の起源」
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000225_all.html

 そんな氏が危惧するのが人間社会の「サル化」だ。
 個人主義に突き進み、格差を生み出す昨今の人間社会は、利益を重視し、ヒエラルキーを構築するサルの社会そのもの。本来の人間社会により近い、勝ち負けのないゴリラ社会からは遠ざかっているという。
 今後もグローバル化が広がる世界で、人間社会はどうあるべきか?
 『「サル化」する人間社会』を上梓した山極氏に尋ねた。

― 野生のゴリラの群れに加わり、共に生活するというフィールドワークが非常に興味深いです。

山極: 今年も5月に行ってきたところなのですが、群れの中で何日かキャンプを張り、ゴリラのそばでその行動を記録するんです。そうやってゴリラに受け入れてもらうためには、5、6年かけて“顔なじみ”になり、彼らの社会に入れてもらう必要があります。
 今調査しているのは2008年頃に仲良くなった群れで、私が現れても警戒することなく、まるで空気のように扱ってくるようになれば最適です。ゴリラにとって最も親切な対応は「無視」。受け入れてくれている証(あかし)なんです。

― ゴリラの社会とは、どのような社会なのでしょうか?

山極ゴリラは群れの中に序列をつくらず、たとえケンカが起きても決着をつけることはしません。もめても最後は必ず、見つめ合って和解するんです。彼らは非常に平和的で、勝ち負けの概念を持っていないんですね。しかし、サルは対照的に、強い者を頂点に据えて、明確なヒエラルキーを構築します。

― 人間はゴリラとサル、どちらに近い存在なのでしょう?

山極私たちは、生物学的にはヒト科の仲間であるゴリラに近い生き物です。しかし、このような群れの性質を踏まえると、人間はどちらも併せ持っているというべきでしょう。私たちは優劣をつけるべきではないという感性を備えている一方で、序列に基づく組織や社会システムを構築してもいます。

― このような、ゴリラやサルの社会から、人間社会の変化を読み解こうという着想はどこから得られたのでしょうか?

山極: 生物の世界には本来、「近縁な2種は同じニッチ(特定の環境)に共存できない」という原則があるんです。ところが、私が何度も調査に訪れているアフリカのヴィルンガ火山群という地域では、ゴリラとチンパンジーが実際に共存しています。
 人間はもともとアフリカで誕生し、そこからアジアやヨーロッパへ広がった種ですが、その過程ではほかの霊長類と共存していた時代もあるはずなのに、今ではその感覚をすっかり失っていますよね。だから、ヴィルンガのゴリラたちの社会を知れば、われわれが忘れてしまった「共存する」ということの本質を知るヒントがつかめるのではないかと考えたんです。

― その結果、本書では人間社会がサルの社会に近づきつつあると指摘されています。これは具体的にはどういうことでしょうか?

山極人間は大まかに、「家族」と「共同体」、ふたつの集団に属して生活しています。家族では血縁や愛情を重視し、見返りを求めることなく奉仕できる関係を保っている一方、共同体には基本的にギブアンドテイクの関係が求められます。
 翻(ひるがえ)って、サルはメスの血縁関係を中心に自分の利益を最大化するために群れをつくる動物です。
つまり、利益が侵されるなら集団には残りませんし、利益を侵す者を集団に組み入れることもしません。


― 人間社会もそうなりつつある、と?

山極: そう。利益を重視することで社会は効率化されますが、そのせいで信頼よりも対価を求める関係性が出来上がります。これはアメリカ型社会のドライな関係といってもいい。でも、それが私たちにとって本当に生きやすい世の中かというと疑問です。
 個人主義の時代ゆえ、個人の資質が発揮しやすい社会が尊ばれてきましたが、個人の利益さえ守られればいいなら、人は他人と何かを分かち合う必要がなくなり、他人を思いやることもなくなってしまうでしょう。それでは社会がますます閉塞(へいそく)してしまうのではないかと私は懸念している
んです。

― 最近は家族をつくらず個人で生きていくスタイルも増えています。

山極; それは危険だと思います。家族という集団に縛られないことで自由になれるかというと、実はそうではありません。個人のままでいると、序列のある社会の中に組み込まれやすくなってしまうのが現実なわけです。それはまさにサルと同じ社会構造ですよね。
■『「サル化」する人間社会』(知のトレッキング叢書)
著者:山極寿一/出版社:集英社インターナショナル/価格:¥1,188/発売時期:2014年07月


2014/9/16(火)6:00 ニコニコニュース
ゴリラ研究者が危惧する、人間社会の「サル化」とは?
「勝ち負け」の存在しないゴリラ社会。一方、「優劣重視」のサル社会。人間社会はどちらへ向かっているのか?
「なぜ家族は必要なのか」という至上命題とともに、霊長類研究の第一人者が、サル化する人間社会に警鐘を鳴らすとともに、人類の未来を説き明かす

http://news.nicovideo.jp/watch/nw1235119

 ゴリラやチンパンジーなどの類人猿やほかのサルたちと人間は同じ霊長類だが、社会のありようはそれぞれ異なっている。
 ところがいま、人間社会はサルの社会そっくりに変わりつつあるという。
 人間の社会とは、人間らしさとは何なのか。霊長類研究の第一人者がゴリラの社会を通して、人類の秘密を探る。

 荒くれ者、と思われがちなゴリラだが、実は人間よりずっと平和主義者だ。
 メンバーは平等で勝ち負けの概念がない。
 目をじっと見ることで争いを避け、相手の気持ちを読むことにも長けている。
 これに対し、サルの社会は力の優劣で上下が決まるピラミッド型で、互いに気持ちを通じ合わせることはない。

 特筆すべきはゴリラが食べ物を分け合い、皆一緒に食べること。
 社会基盤が家族なのだ。
 サルは分け合わず1匹で食べる。
 家族に縛られず、自分の欲求が最優先。
 現代社会がまさしくサル型であることにギョッとする。

 自然界ではどっちが悪いわけでもないが、「ゴリラっていいやつだなあ」と共感する私たちは本質的にゴリラ型だろう。彼らに学ぶことはたぶんたくさんあるのだ。


[評者・文]谷本束 [掲載]2014年10月10日話題の新刊(週刊朝日)



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2016年02月01日

イケメン、イクメン シャバーニShabani

 今年はCNY、旧暦で申年!
 ゴリラってアフリカというイメージが強すぎるけど、人間がアフリカのジャングルを出たようにゴリラもマレーシアの熱帯雨林までたどりついた、とか、来れなかったとか、マレーシアにもともとゴリラは住んでいなかったのか?日本には?とか今朝もごちゃごちゃ言ってます。
 1月睦月は杉の戸を、今日から2月如月!カッシーじゃないけど、これってスピード違反?ぶつぶつ…
 だからぁ〜、サルは類人猿で、旧暦では来週2月8日が元旦でしょ、ぶつぶつ…
 For 2016, the Year of the Monkey begins on Feb 8 !

PETALING JAYA: They are in our cities and in our jungles, on the trees, and, telephone and power lines.

Environmentalists say, however, there is not much else most can relate about Malaysia’s primates, as the Year of the Monkey swings in this Chinese New Year.

“You have the crab-eating macaque (kera). They are everywhere.

“And then you have the extremely charismatic and endangered great ape, the orang utan,” WWF-Malaysia executive director Datuk Dr Dionysius Sharma told The Star.

He said Malaysia had many primates from the lar gibbon to the once-thought extinct stump-tailed macaque, found in parts of Asia but here only in northern Malaysia.

“Yet mostly foreigners and some locals, are interested in them,” added Dr Dionysius.

“They are all charismatic in their own way ... (but) you don’t find groups of people looking for primates,” he said.

The IUCN Red List, an international inventory of animal types, showed 21 primates listed in Malaysia.

Slow lorises and tarsiers made this list too, though monkeys, apes and others made up 17 of those present.

Seven of the 17, including the siamang, are endangered today.

Wildlife Conservation Society (WCS) Malaysia director Dr Melvin Gumal said many primates here were at risk from hunting and land clearing.

Some gibbons, he said, were “territorial” and that it was not so simple for them to move when their trees were chopped down.

“So when the land they’re on is converted, they lose out,” he said.

He said while it was good for primates to have large protected areas to live in, enforcement was most important of all.

“It’s one thing to say please do not hunt. It’s a different thing to be on the ground,” said Gumal.

With this in mind, he said some, like orang utans, bred slowly, with each female giving birth to only three or four young in their lives.

The Natural Resources and Environment Ministry previously said it would commit to retaining 50% of forest cover and ensure jungles were not fragmented.

Dr Dionysius said it was good to have government policy on keeping forests here intact, but efforts must be taken to ensure there were animals, especially primates there.

“How do primates fare in remaining forests? Research institutions and universities must take this up.

“Otherwise we have forests, but we don’t know about the primates (in them),” he said.


The Star, Published: Wednesday, 6 January 2016
‘Our monkeys are at risk’
IUCN Red List of Threatened Species (www.iucnredlist.org)
By Patrick Lee
http://www.thestar.com.my/news/nation/2016/01/06/our-monkeys-are-at-risk-seven-of-the-17-primates-in-malaysia-are-endangered/

 ゴリラは日本にもいたぁ〜、でも動物園…
 檻の中、動物園の中って、動物たちにとっては生ける標本、生ける屍、無期懲役で死を待っているとしか言いようがないんじゃないのって、時折りアタマをかかえることがあるんですがぁ、ってヤッホー君…

 「イケメン過ぎる」と評判になった東山動植物園(名古屋市千種区)の雄のニシローランドゴリラ「シャバーニ」が、2018年度にも「森」へ帰る見通しとなった。園が新たに整備する森林エリアだ。
 市によると、入園者が回遊できる約1ヘクタールの「アフリカの森」を整備。その5分の1のスペースを、ゴリラとチンパンジーが生息するゾーンとする計画だ。
 ゴリラが上り下りできる高さ約8メートルのタワーも設置する。「自然に近い環境で伸び伸びとダイナミックに動く姿が見られる」と市担当者。年賀状や来年度カレンダーのモデルになったイケメンゴリラの人気は衰えそうにない。

毎日新聞、12月16日20時23分更新
東山動植物園、「イケメン過ぎるゴリラ」引っ越しへ【三上剛輝】
http://mainichi.jp/articles/20151217/k00/00m/040/070000c

 マレーシアでも話題になりました:

TOKYO(--AFP): A giant gorilla with brooding good looks and rippling muscles is causing a stir at a Japanese zoo, with women flocking to check out the hunky pin-up.

Shabani, an 18-year-old silverback who tips the scales at around 180 kilograms (400 pounds), has become the star attraction at Higashiyama Zoo and Botanical Gardens in Nagoya, striking smouldering poses the movie model in “Zoolander” would be proud of.

“He often rests his chin on his hands and looks intently at you,” zoo spokesman Takayuki Ishikawa told AFP on Friday.

“He is more buff than most gorillas and he’s at his peak physically. We’ve seen a rise in the number of female visitors – women say he’s very good-looking.”

Shabani, who has been at the zoo since 2007, shot to fame after being made the campaign model for the zoo’s spring festival earlier this year, Ishikawa said, adding that the ape’s paternal skills are also a big hit with women.

“He’s a father and he always protects and looks over his children,” he said. “Zoo-goers think his kindness is attractive too.”

Women have taken to social media to swoon about Shabani’s rugged looks, describing him as “ikemen” – or a hunk – and likening him to a male model.

A recent flurry of tweets has made Shabani a national celebrity, with Japan’s broadcasters NHK and NTV featuring the gorilla on popular shows.

“He will look you in the eye and sometimes if you’re taking photos it will look like he’s posing for you like a model,” said Ishikawa. “But he’s the head of a group of five gorillas so it’s likely he’s just watching out for them and keeping an eye on you.”


New Straits Times, Updated: 26 June 2015 at 12:53 PM
Women flock to Japan zoo to see ‘hunky’ gorilla
http://www.nst.com.my/news/2015/09/women-flock-japan-zoo-see-%E2%80%98hunky%E2%80%99-gorilla

Adolescent mountain gorilla (Gorilla gorilla beringei).

The scientists also came close to downlisting the mountain gorilla to endangered following population increases in their forest habitat that spans the borders of Rwanda, Uganda and Democratic Republic of Congo.

However, political turmoil in the region and an incident in which eight animals were killed in 2007 led to the decision to delay the planned reclassification


The Guadian, Updated: Thursday 18 February 2010 12.00 GMT

Meet the world's endangered primates

Nearly half of all primates are in danger of becoming extinct, according to a study by the International Union for the Conservation of Nature (IUCN).

Habitat destruction and hunting for food and the illegal wildlife trade are the main threats to the world's 634 primate species – 303 of which are now classed as vulnerable, endangered and critically endangered.

http://www.theguardian.com/environment/gallery/2008/aug/05/endangeredspecies.wildlife


posted by fom_club at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする