2015年11月30日

深谷富美子

 今日11月30日は今月最後の日、明日からは師走です!
 今朝も、寒い朝となりました。
 昨日の29日、日曜日もヤッホー君、忙しい一日でした!
 昼前には家を飛び出し、東京駅までeチャリ、
 そして中央特快で立川駅へ。
 信州は諏訪大社の分祀、諏訪神社、
 それに「諏訪の森」公園を小一時間散策してきました。

諏訪神社 (1).jpg

諏訪神社 (2).jpg

 それから、立川市柴崎学習館へ。
 『立川市平和学習事業 戦後70周年記念講演会』
 午後から日本帝国最後の帰還兵の息子と孫(大学院生のお嬢さま)、それに『日本国最後の帰還兵』の出版社の副編集長のお話しがあったのです。

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 ヤッホー君のこのブログ、2015年11月13日付け日記「日本国最後の帰還兵」をご参照ください。
 ヤッホー君も並んで、本に署名してもらっていました。
 
 お嬢様はこんなことをおっしゃっていました:

 おじいちゃんの無念さを本にしたばっかりなのに、なんで私の世代になっても、国会に行って、ほかの学生たちといっしょに

「戦争嫌だ」
「平和がいい」

と声をださなくっちゃならないの、と涙がとまりませんでした。
 デモから帰って、私ができることをすぐやろうと決意しました。
 それはふたつありまして、ひとつはデパートとかで行列ができるときがありますよね、そんなとき声をかけて、近くの人がお話しすることに耳を傾けることです。 
 もうひとつは歌を歌うことです。
 ギターを持ってきましたので、今日は二曲「埴生の宿」と「ふるさと」を歌います!
 きっとこの歌を歌いながら、祖国日本を最後まで夢見ながら、異国の地に倒れた多くの日本人がいたはずです、それを思って歌います。
 皆さん、よろしかったらいっしょに歌いましょう!


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 会場に集まった二百人近い参加者もいっしょに歌いました。
 ヤッホー君、帰りたいけど帰れそうにない、帰れそうにないけど帰りたい、
 あのふるさとの方をひと目見やって死んでいった兵隊や開拓農民、海外に渡ってた庶民の無念を思うと、歌えません、ぽろぽろ涙がこぼれました。
 もう二度と戦争はしませんって決意したはずのわれわれの先輩たち、
 裏切ってもいいのかなぁ〜

 初めまして、娘の深谷富美子と申します。
 私が小学六年生の頃のこと、「文章を書いたんだけど、フミちゃん直して」とA4一枚の文書を渡されました。
 それは父が思いを曖昧な日本語に乗せただけの、全く脈絡のないものでした。
 直す以前に、言いたいことを確認することから作業は始まりました。
 一行の相談に二時間かけたりもしました。
 しかし、私が大学に入る頃には、父の文章はわずかな言葉の間違いや文法上の誤りしか見つからないまでに上達しました。
 たゆみない努力だったと思います。

 一方、祖父は常に穏やかな表情を浮かべながらも、どこか近寄りがたい厳格な雰囲気を持つ人でした。
 あの表情を思い返すたび、本に綴られた人生が一緒に思い起こされて胸をつかれる思いがします。
 昨日、私は国会前のデモに初めて一人で足を運びました。

 「戦争反対、平和を守れ

 どぎまぎしながら、見よう見まねで声にしました。
 その瞬間にわっと涙があふれました。
 国は今、祖父が亡くなったのを見計らったかのように、また戦争へ歩みを進めようとしています。
 祖父母から平和な暮らしを与えてもらったはずの私が、なぜ今、戦争反対を訴えなければいけないのか。
 悔しい気持ちです。
 私はこれまで祖父の無念を晴らそうとする父の姿を見守ってきました。
 これからは平和のためにできることを考え、行動し、発信しながら生活してまいりたいと思っております。


講演会 「戦争を語り継ぐ責任」(抄録)
『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』 深谷敏雄  
『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』 澤地久枝

http://shinsho.shueisha.co.jp/event/index1509-2.html

 その後、ぼくは急いで中央特快に乗り込み帰路へ。
 家に戻り、三階六階の方とお茶会、終わって時計を見ますともう夜も更け、9時でしたぁ〜



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2015年11月29日

彷徨えるアイヌの遺骨

 この国には多様性、多面性、多元性が「謳い文句」でなく、本当に生きているのか、ないのか、両目をこらして探し求めるヤッホー君の旅路。
 終わりのない旅にでてしまったようです。
 今日、気が付いたことは、と言いますと、こんなこと:

 北海道大学に収集・保管されていた1000体強のアイヌ人骨の取り扱いが社会問題として表面化してきた1983年、北海道新聞の深尾勝子(*)は「アイヌ人骨資料問題/ 北大は収集の内情調査せよ」と題する署名記事を書いた(『北海道新聞』1983.12.19)。
 経緯を簡単に説明すると、北大医学部教授として「アイヌ研究」に携わってきた児玉作左衛門らが地域住民の反対を押し切って人骨を発掘したり、あるいは「研究が終わったら返還する」との約束で人骨を持ち帰ったりしたのに、人骨は児玉の死後(1970年)そのまま放置されていた。
 それを知ったアイヌの海馬沢博が、1980年に北大学長宛に問い合わせの手紙を送ったがらちがあかず、交渉の窓口は「北海道ウタリ協会」へと引き継がれた。
 この記事が出る前にようやく、北大とウタリ協会の間で合意が成立、「返還要求のある地域には返し、残りは北大が納骨堂を建立・収納、イチャルパ(供養祭)を行う」という内容だったという。
 この記事の中で深尾は、人骨収集の主たる責任者、児玉作左衛門を北海道新聞が1961年10月に記事にした写真を再掲載し(図1参照)、
「名誉教授となった児玉教授が机の上いっぱいにアイヌの頭がい骨を並べ、背後の棚にもぎっしりと頭がい骨を並べ、頭がい骨に取り囲まれたように座っている。長くは見つめていられないような写真である」
と紹介している。
 また、深尾は
「この“アイヌ人骨資料問題”が、一人の学者や北大医学部、文部省の責任を追及し、反省を迫るだけにとどまらず、こうした学問のあり方を容認、推進してきた人びと、社会の責任を問うことになる」
よう調査委員会を設置することを提案している。


名古屋大学大学院国際開発研究科准教授・東村岳史
アイヌの頭蓋骨写真報道が意味するもの
〜過去の「露頭」の発見と発掘〜

『国際開発研究フォーラム』43(2013.3)所収
http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/bpub/research/public/forum/43/01.pdf

 空、出た〜、変な学者!
 過去の文献をひっぱりだしてきて、ヤッホー君があやまちを指摘した光田健輔(1876-1964)。
 あの病理学という観点からだけでハンセン病の強制隔離施設をつくりあげたイデオロギー!
 あのときと似た学問研究という名の閉鎖空間、そして人権侵害!
 文化勲章を受章した光田健輔に対し、名誉教授となった児玉作左衛門(1895-1970)。

 あお頃のガラパゴス化したwが国、
 硬い nutshell のなかに閉じこもり外界との交流をシャットアウトしたあの頃のwが国、
 背を丸め、その下で薄ら笑いを浮かべ、縮こまってお殿さまの茶坊主にとどまってます。
 かろうじて戦勝国にだけ穴をあけ、属国と化しすべて従属するのがイマに至っても国是と化したいる悲劇的状況…
 ”ピンザの島”を出て大海原に出て、一国だけにかたよらない地球儀外交を展開していけるか、
 荒波にもたじろがない、若いこれからの世代の健闘を大いに期待しているって、ヤッホー君!

 全国の大学が研究用として収集・保管してきたアイヌ民族の遺骨を集めて慰霊施設を作るとする政府の方針について、アイヌ民族と支援者が2015年1月30日、「遺骨は先祖の集落(コタン)に返すべきで、集約はアイヌ民族の人権を侵害している」として、日本弁護士連合会に人権救済を申し立てた。
 申し立てをしたのは、浦幌アイヌ協会会長の差間(さしま)正樹さん(64)らアイヌ民族13人と支援者の計21人。記者会見した差間さんは「大学にあった(先祖の)骨を見た時、すぐに返してあげたい、何とか地元で安らかに眠って欲しいと思った」と先祖への思いを語った。
 遺骨は戦前から戦後にかけて人類学者が研究用に収集したもので、今も北大や東大など12大学に約1600体が保管されている。政府の計画では、アイヌ民族博物館などの施設がある北海道白老(しらおい)町にアイヌ文化の復興拠点として「民族共生の象徴となる空間(象徴空間)」を作り、その一角に各大学の遺骨を集めて尊厳のある慰霊をするという。
 これに対し、アイヌ民族にはコタンで先祖を慰霊する風習があるといい、差間さんらは「多くの遺骨は収集された地域が分かっており、各コタンに返すべきだ」と訴えている。政府は遺骨の継承者であるかを証明できれば返還に応じる方針だが、そもそも身元が判明しているのは23体しかない。
 差間さんは「先祖の遺骨を勝手に持って行ったうえ、返すという時に『本当に先祖か証明しろ』というのは大きな民族差別ととらえている」とも話した。
 一方、慰霊施設への集約を歓迎するアイヌ民族もいる。阿部一司・北海道アイヌ協会副理事長は「大学がどんな状況で保管しているか分からない。北大だって1984年に納骨堂ができる以前は実験室の片隅に置いていた。大学にあるよりは、慰霊施設にある方がいい。コタンが残っている所は少なく、コタンに返すのは難しい」と話す。
 内閣官房アイヌ総合政策室は「コメントは差し控えたいが、地域返還については検討中であり、関係者の意見をよく聞きたい」としている。


2015年1月31日10時56分更新、朝日新聞デジタル
アイヌ民族「遺骨、集落に返して」 人権救済申し立て
http://digital.asahi.com/articles/ASH1Z4R1VH1ZIIPE00Z.html

 これを受けて日弁連はどう動いているのか、どう動こうとしているのでしょうかねぇ。
 これまで日弁連はこんな質問集をまとめているようなので、ご紹介しますが、ヤッホー君、もう2015年も暮れようとして、2016年にはサミットも開かれようとしているんでしょ。
 いったい、どんなふうに道筋をつけていこうとしているのか、ヤッホー君の眼には何も映らないのですが:

(1) 有識者懇談会等へのアイヌ民族の代表の参加状況をどのように認識しているか。今後,どのように改善する予定か。
(2) アイヌ民族の意思を無視した乱開発(典型例・二風谷ダム)を防ぐため,とりわけ北海道における開発においてアイヌ民族の意見を反映させる予定はあるか。どのように行うか。
(3) 北海道におけるアイヌ民族の社会的地位の改善をどのように行うか。
(4) アイヌが自らの言語による教育を受ける権利を,どのように保障していくか。
(5) 独立国における原住民及び種族民に関する ILO169 号条約を批准する予定はあるか。
(6) 2007 年採択の「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の履行とりわけ第4条で保障された自治の権利について,どのような方法で実現していくのか。


2012年2月17日
経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約第16条及び第17条に基づく第3回日本政府報告書審査に関する日弁連報告書(1)
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/kokusai/humanrights_library/treaty/data/Submission_to_the_PSWG_of_CESCR_ja.pdf

(*)
ク スクップ オルシペ 私の一代の話』(砂沢クラ著)もまとめ、北海道新聞社より出版しましたが絶版。長いこと重刷の要望が絶えず、再版ができました。
 大急ぎで注文しましょう:

2012年11月発行予定、発行予定部数 500冊、発行元 アイヌ民族文化伝承会 らぷらん。
自費出版のため、発行部数が限られています。11月に出版しましたら予約順でお渡しする予定です。
予約・お問い合わせ らぷらん事務局(札幌)津久井成美
http://ameblo.jp/ainu-bunka/entry-11304706491.html



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2015年11月28日

2015錦秋

2015年11月27日金曜日、晴れ

 今日はちょっと風が冷たかったのですが、お天気に恵まれ、屋内での「ころばん体操」の成果を試すためにお外に出ました。そして皆さん、自分の足で歩ききりましたよ。
 「いちょう祭り」で神宮外苑は全国各地のB級グルメに特産品が露店を並べ、たくさんの人出でにぎわっていました。
 われわれも試食コーナーに寄ったり、あゆの塩焼きにかぶりついたり、とても楽しいひと時を過ごすことができました。
 ヤッホー君はご飯をもる有田焼の食器を三っつ千円で買いました。
 ごちそうさま!皆さまの暖かい気配り、心遣いをありがとう!


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2015年11月28日土曜日、晴れ

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 錦秋のハイキングってこれ!
 山歩クラブは11月最後の週末、6人でお出かけ!
 そして皆さん、自分の足で歩ききりましたよ。
 逗子市…、鎌倉の衣張山の帰り、JR逗子駅まで歩いて中華屋さんで打ち上げたことがあったとか、
 三浦アルプスにはここ駅前からのバスで出たとか、
 けっこう縁があったのですね、教えてくれたカッシーありがとう。
 そうでしたか…
 はい、江戸ちゃんの駅頭ご挨拶のあとヤッホー君、今日三つポイントがありますって。
 ひとつ目: 披露山92mでトイレの神様、尾崎行雄(*)とお富士さんに面会すること。
 ふたつ目: 逗子海岸を散歩して、石原慎太郎の出迎えを受けること。
 みっつ目: 海に浮かぶホトトギスの作家、蘆花ちゃんを偲ぶこと。
 今日はそのすべてがかなえられました。
 山も良いけど、きらきら光る 海もいいね!
 自然大好き人間、次はどこ行くのかな。


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石原慎太郎.jpg


(*)
ヤッホー君のこのブログ、2015年4月4日付け日記「憲政記念館」参照


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2015年11月27日

篠田謙一

 多様性、多面性、多元性を求めるヤッホー君の果てしなく続く旅路。
 アイヌはわれわれの先住民族。
 
 日本人はどこから来たのか。そもそも「日本人」とは何か―。
 人類学の分野では、人類の起源を解き明かそうとする試みが長年行われてきた。数十年前の通説では、「人類は100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がり、長い年月をかけて黒人や白人へと進化した」とされてきた。しかし近年の研究で、この通説は覆された。
 2013年8月15日、国立科学博物館で岩上安身のインタビューに応えた篠田謙一氏(人類史研究グループ長)は、「世界中に広がる人類の歴史はそれほど長くない。人類は皆6万年前にアフリカから出発し、その時には今の私たちと同じ体格・能力を持っていた」と語る。ミトコンドリアDNAを分析することで、人類の起源を解き明かしてきた篠田氏は、さらに日本人の成り立ちにも言及した。
 近年まで、「日本人は万世一系の単一種族」という考え方が主流だった。かつては、縄文人と弥生人の骨の形質が違うのは、農耕が流入して文化が変化したからだ、とする説が正当とされてきた。
 しかし1980年代になり、文化の違いだけでは説明できない形質の違いが明らかになってきた。人類学者の埴原(はにはら)和郎氏は、弥生人は朝鮮半島から農耕と金属器を携えてやってきた渡来系であり、先住民である縄文人と混血し、いまの日本人が形作られたとする「二重構造モデル」を提唱した。
 篠田氏はこの「二重構造モデル」を、DNA分析による科学的な見地からの検証を試みた。日本にしか存在しない「M9b」「M7a」と言われるミトコンドリアは、縄文人に多く含まれるDNAであり、北海道のアイヌや沖縄の人々に色濃く残っているという。そして、日本人に一番多い「D4」と言われるDNAは、弥生人に多く含まれるDNAであり、日本人の他に中国東北部や韓国人に多いという。
 この「D4」の起源を探っていくと、日本人のルーツは、5500年前に中国南東部の揚子江流域で稲作農耕を始めた人々に行き着くという。篠田氏は「我々は、『日本列島』というくくりで考えがちだが、南では南方系、北では北方系、本土では朝鮮半島や中国地域との関係があり、民族的な多様性が生まれている」と語る。
 また篠田氏は、ここ数年ネットを中心に湧き上がっている「男系天皇維持論」の根拠となる、「Y染色体の継承」について「疑似科学だ」と喝破する。篠田氏によれば、男親から男の子へしか継承されない「Y染色体」と言われるDNAは、突然変異しやすく、次の世代のY染色体は全く別物になる可能性があるという。また、どんなに天皇家が貴重なY染色体を持っていたとしても、統計上、同じY染色体を持つ人は日本に10万人はいるという。岩上安身は、「(Y染色体の話は)結局は『血統の優位性』を言いたいのだろう。ナチスにも通じるこうした優生思想は、時に科学を蔑ろにする」と批判した。

2013/08/15〜岩上安身による篠田謙一氏インタビュー
「6万年前に同じ能力を持った人々がアフリカを出て、世界に広がった」
日本人はどこから来たか。DNAが語る系譜

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/96484

「日本人とは何か」を人類学の視点から問い直し、大きな反響があった、2013年8月の分子人類学者・篠田謙一氏へのインタビュー。その第2弾を、2015年5月18日、岩上安身が行なった。
 分子人類学とは、分子生命学を応用した遺伝子レベルでの人類研究の学問で、篠田氏はミイラや古代の人骨のミトコンドリアDNAなどを解析し、人類の起源やその広がりを調査研究している。
 篠田氏は、自身が人類研究部研究グループ長を務める、茨城県つくば市にある国立科学博物館で取材に応じ、「6万年ほど前に、アフリカから出た一部の集団が存在し、それぞれが突然変異を起こしながら、人類として特有のタイプを形成していった」と述べて、人類の普遍性は6万年前の時点から今に続いている、と強調した。
 今回のインタビューで岩上安身は、日本を取り巻く世界環境の変化に日本人が対応していく上で、「人類の普遍性」を立証する人類学的な視座が有用になるのではないかと、篠田氏に水を向けた。
 米国を頂点とする、日本を含む先進7ヵ国(G7)の長引く低迷と、それとは対照的な中国の台頭を背景に、世界経済のヘゲモニー(覇権)が変わりつつある今、これから先の日本人には、「米国さえ見ていれば何とかなる」という時代は用意されないのではないか。日本人が心のどこかで、「自分たちは、アジアの他民族より優れている」と思い上がっているならば、日本の未来は決して明るくならないのではないか。
 さらに、そのような思い上がりは、在日特権を許さない市民の会(在特会)の存在が象徴する、在日コリアンなどマイノリティへのヘイトスピーチ(差別的発言)の根っこの部分にも宿っているのではないか。
 岩上安身の問いに篠田氏は、「戦後の日本人には、特定の民族さえ見ていれば、それで十分だった時代が長く続いたと思う。しかし、その時代は過去の遺物になりつつあり、すでに日本人は、さまざまな民族に目を向けなければならない時代を迎えている。それなのに、日本人全般が、どうすればいいのかわからずにいる、というのが今の状況だと思います」と語った。
 そして、横行するヘイトデモに関して「人類学も昔は、(民衆への扇動で)かなり酷いことをやっています。具体的には、ナチスドイツが人類学を使ってユダヤ人迫害の口実を作りました」と警鐘を鳴らした。
「そもそも、人類学者は『人種』という言葉を使いません。人種にはさほど差異はありませんから」−−。
 人種差別が科学的にも「間違っている」ことを指摘する篠田氏は、「われわれ人間には、人類普遍の価値観と、その民族が歴史的経緯で獲得した価値観、さらには個々人のレベルでも、それぞれの人生による価値がある」と断言。「大切なのは、『人間の本質は、そういうものだ』という立場に立って他者を見る、他の民族を見る、他国を見る、という習慣を会得することだ」と語った。


2015/05/18〜岩上安身による篠田謙一氏インタビュー第2弾!
「人類学者は『人種』という言葉を使わない」科学的無知に基づく人種差別の愚かしさ
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/245971

 篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。
 沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人、富山市の小竹貝塚の縄文人、東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち……。

「私たちはよく『骨を読む』と言います。骨からは、実にたくさんのことがわかる。形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」

 篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学界に大きな一石を投じることもある。

 たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつて「南方からやってきたほぼ均質な集団」というのが定説だった。全国で出土した骨をもとに縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。

 ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。
 2006年、篠田や山梨大教授の安達登らは、北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人データと比べてみた。

 北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。このグループは、サハリンなど現在の極東ロシアの先住民に目立つ。2番目と3番目に多いグループも、カムチャツカ半島などの先住民に多い。東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。

 対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々や中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

 縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた──。
 浮かび上がるのは、そんなストーリーだ。
 縄文時代、さまざまな人々が、いろいろなルートで日本列島に入ってきていたらしい

 アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡がしだいに明らかになりつつある。

 篠田は言う。「私たちは、どこからきた何者なのか。それを知ることで、自分たちがどこへ向かおうとしているかを確かめたい


朝日新聞 GLOBE 後藤絵里
「骨を読む」 手がかりはDNA
http://globe.asahi.com/feature/110501/index.html

 ほら、ね。イチオクなんたらかんたらで十把一絡げでくるまれたくないわけさ、と今朝もヤッホー君。
 教養、教育の失せ果てたヤッホー君、”今日も用”をつくって、”今日も行く”ぅ〜
 外は晴れ、でも北風が吹いて寒いって言ってるよ、気をつけて逝ってらっしゃい!


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2015年11月26日

Paris climate conference

 菅義偉官房長官は11月18日の記者会見で、安倍晋三首相が29日からフランス・パリを訪問し、地球温暖化対策を話し合う国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP21)に出席すると発表した。
 パリでの同時多発テロを受け、COP21に合わせ、各国首脳らとテロ対策も協議する可能性がある。
 菅氏は「テロ事件があったパリだから、必然的にそうした(テロの)話題になってくると思う」との見通しを示した。


2015年11月19日05時00分朝日新聞デジタル
首相、仏でのCOP21出席へ
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12074797.html

 またわれわれの税金をばらまいて格好良くふるまいたいのか、そんなニュースしかないのかな?
 この惑星に住む大ぜいの人びとは多様な、多面的、多元的な動きをしているんだけど、報道は?
 政治屋の動静よりももっと大事な、地球を守る運動のひろがりや将来を伝えてくれないのかな?

 まずはこんな動きから。
 一週間に一日だけ でも肉の消費量を削減するキャンペーンを立ち上げているポール・ マッカートニー、オノ・ヨーコたちは日曜日にデモ(英語でPeoples' March!):

In what is intended to be the biggest UK climate march ever, it’s our chance to urge global leaders to take action for the future of our planet, including through meat reduction.

The Paris climate conference begins the day after the march and leaders will to try and reach a climate deal that keeps global warming below 2 degrees.

We want to show them how colourful and exciting meat free food is and get them to encourage their citizens to eat more of it, for our health and the health of the planet. Please come along, either as you are or with painted cut-outs of meat free food, or even dressed in imaginative costumes!

Date: Sunday 29 November
Time: 12 pm
Location: Park Lane, central London
Meeting point: Section B, between Curzon Street and Tilney Street. MFM will be in the Food and Agriculture bloc, between the ‘Friends of the Earth’ and ‘For the Love Of’ blocs.


Join Meat Free Monday at the People’s March for Climate ;
On Sunday 29 November, Meat Free Monday will be attending the People’s March for Climate, Justice and Jobs, ahead of the crucial climate conference in Paris – why not join us?
One day a week can make a world of difference

http://www.meatfreemondays.com/join-meat-free-monday-at-the-peoples-march-for-climate/

 肉食は止めようね、と運動を立ち上げたインド人たち:

In 1986, it was proposed that November 25, Sadhu Vaswani's Birthday be celebrated as an International Meatless Day. The campaign has met with considerable success in that, millions of individuals send their pledges to the Sadhu Vaswani Mission to go meatless on this day. Four state governments in India - Maharashtra, Gujarat, Karnataka and Andhra Pradesh - have issued instructions for the closure of slaughter-houses as well as butchers' shops on 25th November every year, in their respective states.

In order to create an awareness in the minds of citizens about the Meatless Day campaign, Peace Marches are held in Pune and other cities in November, every year. Thousands of students from city schools and colleges march through the streets propagating the idea of Meatless Day and reverence for all life, as the first step to World Peace. Meatless day Newsletters are also issued between August and November every year to propagate vegetarianism and the Meatless Day.


What is Meatless Day all about ???
http://www.sadhuvaswani.org/meatlessday.html

 運動の輪は広がっています。
 11月25日水曜日は「肉を絶つ日」でした。
 そして、はっちゃんのマレーシア・ペナンでも。
 こうした運動に共感して記者会見を開きました:

PETALING JAYA: Malaysians should avoid eating meat for the benefit of their health and the environment.

The Consumers Association of Penang (CAP) president S.M. Mohamed Idris said the latest study by the International Agency for Research on Cancer found “sufficient evidence” that the consumption of meat, especially processed meat, causes colorectal cancer.

CAP said meat consumption throughout the world had increased and Malaysia was no exception.

Our per capita consumption of meat has increased from 13.2kg in 1961 to 52.35kg in 2009.(*)

“With rising income, it is projected that Malaysian consumers will eat even more meat in the future. Eating more meat enhances our chances of getting sick or dying early.

“Health statistics consistently show that nations which consume the most meat have the highest incidence of heart disease and cancer,” said Mohamed Idris in a statement issued in conjunction with International Meatless Day yesterday.

He said studies have also indicated that those who consume animal products are 40% more susceptible to cancer and other illnesses such as stroke, obesity appendicitis, osteoporosis, arthritis, diabetes and food poisoning.

Besides the heath effects of eating meat, many consumers do not see the magnitude of the environmental impact caused by their meat consumption.

“There may be no other single human activity that has a bigger impact than livestock farming,” he added.

Mohamed Idris said livestock are usually given the same antibiotics as humans, which may cause bacteria to develop resistance.

He said Malaysian meats were tainted with antibiotic-resistant bacteria.

“Some studies have indicated that more than 50% of domestic chicken have the bacteria.

“Imported chicken had the worst results, as over 87% of them had ampicillin-resistant bacteria.

“Shockingly, while other countries have banned the use of antibiotics in animal feeds, Malaysia is thinking of changing our Food Act to allow 147 residues in our meats, most of which are antibiotics,” he said.

Mohamed Idris added that CAP opposed this change to the Act and had also sent a memorandum to the Government to ban antibiotics in animal feeds.


The Star, Updated: Thursday November 26, 2015 MYT 7:01:48 AM
Go meatless, M’sians urged
http://www.thestar.com.my/News/Nation/2015/11/26/Go-meatless-Msians-urged-CAP-Eating-meat-greatly-raises-health-risks/

(*)
 日本人の食生活はこの50年余りで大きく変化しています。
 1960年には1人1年当たりの食肉(牛肉・豚肉・鶏肉)供給量はわずかに3.5kgでしたが、2013年はその10倍の30kgとなりました。
 一方、日本人の主食である米は115kgから57kgに、魚介類は28kg(2001年には40kgまで増加)から27kgにとそれぞれ減少しています。
 日本人は従来魚を好んで食べていましたが、食の欧米化が進んでいることから、食肉をより多く消費するようになりました。
 魚介類の消費が減っている理由には価格もあります。
 これまでは魚介類は食肉に比べ、安く手に入った食材でしたが、世界的な需要の増加もあり、価格が上昇しているためです。

独立行政法人農畜産業振興機構「消費者コーナー」
食肉の消費動向について
https://www.alic.go.jp/koho/kikaku03_000814.html


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ル・クレジオ、アイヌ

■ アイヌ民族冷遇へ憤怒の退職
 開拓使大判官だった松本十郎(1840−1916)が突然、北海道を去ったのは、樺太アイヌ民族の北海道移住に絡む開拓長官黒田清隆(1840−1900)への激しい怒りからだった。
 1875(明治8)年5月、樺太・千島交換条約が締結され、日本国籍を選んだ樺太のアイヌ民族は日本へ移住することになった。現地責任者の松本は、移住者の意向を聞いて9月から10月にかけ、約850人を樺太の島影が望める宗谷へ移住させた。
 松本はさらに風土のよく似た北見沿岸への移住を計画していた。ところが東京の黒田は、アイヌの人々を内陸の対雁(ついしかり)(江別市)に移し開墾などに従事させようと考えた。年が明けて松本は、反対する移住者代表の嘆願書も添え、3回にわたり建白書を提出したが、黒田はすべて拒絶した。
 庄内藩出身の松本は戊辰戦争で朝敵とされたが、黒田の異例の推挙により開拓判官に抜擢(ばってき)された。赴任した根室では、和人もアイヌ民族も分け隔てなく接して信頼を深め、転任した札幌で直面したこの移住問題にも誠実に対応してきた。それだけにいかに恩ある黒田の方針といえ呑(の)むわけにはいなかった。一方、黒田の命を受けた官吏の鈴木大亮は、船で巡査20人と宗谷に赴き、拳銃で半ば脅しながら樺太アイヌを対雁に連行した。憤慨した長老の1人は、血を吐いて死んだ。
 この事実を知った松本は、黒田に宛て「上書」を書いた。「不肖十郎、再拝して書を呈す」の書き出しで始まる文面は、黒田への厚恩に謝しつつも、「樺太アイヌは蛮族」として、受刑者と同じような扱いをしようとする黒田の非道を指摘し、彼らに「何の罪ありや」と厳しく指弾している。この文書の写本は道立図書館に現存する。
 天皇の北海道行幸に併せて函館を訪れた黒田は、後日札幌で松本と会い、慰留しようと考えていた。だが松本は8月15日、「職務御免奉願候書(退職願)」を開拓使史官宛てに提出した。文面は「上書」とはがらりと変わって「老母病に罹(かか)り危篤の急報により帰郷看護中、十郎もまた宿病の脚気が再発し勤務に耐えず」とある。原文は道立文書館が所蔵している。
 突然、黒田への批判をやめたのはなぜか。松本は普段から、アイヌ民族が着るアツシをまとって勤務し、人々から「アツシ判官」と親しまれていた。生真面目で筋を通す彼らしい、これが精いっぱいの抵抗だったとも思える。
 松本が「依願免」になったのは9月5日。まだ38歳の若さだった。故郷・山形に戻って農民となり、再び政界に戻ることはなかった。
 対雁に移ったアイヌの人々は、風土の違いになじめず、伝染病で命を落とす者が続出した。松本の構想通り、北見地方に移住していれば、と思わずにはいられない。


2015年11月14日付け朝日新聞【北の歴史 動いた瞬間 合田一道(1934年北海道生まれ)】 
松本十郎の「職務御免奉願候書」
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20151116011190002.html

 へえ〜、山形県は庄内藩にかくも秀でたサムライがいたとは、山形県の誇りですよね。
 それにしても「和人もアイヌ民族も分け隔てなく接し」た松本十郎の態度、立派です。
 多様性、多面性、多元性を追い求める旅、平成の鶴見俊輔に続く明治の松本十郎です。
 この記事は11月20日「アイヌ文化交流センター」にお邪魔した時に、知りました。
 また登別市の小坂博宣さんが知里幸恵、銀のしずく記念館を紹介して下さったのです。
 お話しのあと、すかさずヤッホー君、19歳で亡くなった幸恵さんの死因は、と質問。
 心臓病だったそうですね、ウィキペディアで松本十郎、知里幸恵をぜひお読み下さい。 
 ノンフィクション作家で一道塾の合田一道さんは、こんなブッカクもしておられます。
 物確(不動産用語の物件確認)?それとも、神社仏閣のブッカク?
 
 その人物の墓前に立つたびに、時代を生き抜いた人物の面影が甦(よみがえ)ってくる。

☆「北海道」の名付け親で知られる松浦武四郎の墓は、東京の染井霊園にあるが、墓石の正面に刻まれた「遍照北海居士」の戒名は、名付け親にふさわしいと感じた。
☆ 箱館戦争に巻き込まれ、弘前で絶命した松前藩主徳広の墓は、松前町の松前家墓所にあるが、藩を守るため、病死なのに「自決」とされた。
☆ 箱館戦争で戦死した土方歳三の墓は、函館市と東京・日野市にあるが、遺体はいまも見つかっておらず、どちらも遺骨のない墓である。
☆ 函館市の立待岬の墓地にある石川啄木の墓は「死んだら函館に眠りたい」との啄木の言葉に従い、妻が葬ったもので、観光客が絶えない。
『アイヌ神謡集』を編んだ知里幸恵の墓は、初め東京・雑司ケ谷霊園の金田一家の墓所にあったが、妹のミサオさんが「姉の遺骨を肉親の眠る地に戻したい」と願い、やっとかなって1975年、墓石とともに登別市の富浦墓地に改葬された。隣の十字架墓は伯母金成マツの墓である。
☆「屯田兵の父」といわれた永山武四郎は「死んだら軍服を着せ北向きに葬れ」と言い残した。遺体は東京から運ばれ、札幌・豊平墓地に埋葬、後に里塚霊園に改葬された。
☆ 特高警察に虐殺された小林多喜二の墓は、小樽市の奥沢墓地にある。1930年、東京に出た多喜二は、母の望みどおり原稿料の中から500円を送り、小林家の墓を建立した。墓の側面に「小林多喜二建立」の文字が見え、いまはここに眠る。
☆ NHKの朝ドラ「マッサン」の主人公、竹鶴政孝とリタの墓は余市町の美園墓地にある。妻が亡くなった時、自分の名を並べて刻み建立したもので、亡妻への思いがのぞく。

 数多くの墓をお参りして、墓にはそれぞれの人物の思想と足跡が凝縮しているように思えてならない。

合田一道:1934年、北海道上砂川町生まれ。札幌大学講師。著書に『裂けた岬』『日本史の現場検証』『日本人の遺書』など。


2014年10月11日付け朝日新聞デジタル【北の文化】
「北の墓」を訪ねて(合田一道)
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20141014011190001.html

 ところで知里幸恵『アイヌ神謡集』(ワイド版岩波文庫)、これは海外でもひろく読まれています!
 
 2008年ノーベル文学賞受賞者はル・クレジオであったが村上春樹も候補者となり一時ゴシップを賑した。
 2009年12月2日、ル・クレジオが札幌で講演、他に池澤夏樹、そして太宰治を父に持つ津島佑子らも同席、手の届きそうな所に座った超豪華な顔ぶれに愚生も興奮する(*)。
 昔読んだ、ル・クレジオ著、集英社出版、「パワナ」が池澤夏樹さんによって取り上げられ、少数民族の悲哀を直視し、その自然観が今こそ必要な事と力説され、また知里幸恵のアイヌ神謡集をフランス語に翻訳出版した作家の津島佑子さんが口承文学、女性文学の視点より、金田一京助の影響を受けた知里幸恵の高い文学性に付いて論じられた。
 余談だが写真で知る太宰治と津島佑子の表情が余りにも似ているのには正直、驚いた。
 そしてル・クレジオの静かなフランス語の語り口から中南米でスペイン侵略によるインディオ社会崩壊の事がインディオの視点で語られ、アイヌとの共通点を説いていた。
 また、ル・クレジオも知里幸恵の文学を高く評価し、登別に行ってお墓に参いり、「銀のしずく」知里幸恵記念館設立へ向け尽力しているらしく、その賛同、応援者の中にはオノ・ヨーコも名を連ねる国際的な顔ぶれらしい。。。


2009年12月3日(木)「与作と釣りin 北海道」ブログ
札幌でル・クレジオの講演
http://yosaku-turinosekai.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-a3cd.html

(*)
語り「ホロケウカムイ(狼)の語り」結城幸司(アイヌアートプロジェクト代表)
報告:「知里幸恵『カムイユカラ』のフランス語訳とル・クレジオさん」津島佑子(作家)
報告:「私の文学と先住民族文化」ル・クレジオ(2008年ノーベル文学賞作家)
対談:「ル・クレジオさんとの対話」(ル・クレジオ、池澤夏樹(作家)
司会:小野有五(北海道大学大学院地球環境科学研究院、アイヌ・先住民研究センター)
北海道大学「アイヌ・先住民研究センター」
http://www.cais.hokudai.ac.jp/aboutcenter/

(**)ルクレジオ(1940年生まれ)は来月、来日します!
 作品社の最新刊『嵐』の著者で、ノーベル文学賞作家のJ. M. G. ル・クレジオ氏が来日します。
 12月18日(金)に日仏会館で、12月20日(日)には東京大学で、『嵐』の訳者である中地義和氏を聞き手とする講演を行ないます。
 詳しくは、それぞれのサイトをご覧ください。
☆ 日仏会館「芸術の非直線的展開について」
12月18日(金)18時半〜20時半
http://www.mfj.gr.jp/agenda/2015/12/18/1218_le_clezio/index_ja.php
☆ 東京大学「青春を書く、老年を書く」
12月20日(日)15時〜17時
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/event/3945.html

2015年11月16日新着情報 by 作品社
http://sakuhinsha.com/blog/?p=239


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秋から冬へ

 おはようございます。
 冷たい小雨の舞い降りる寒い朝となりました。
 昨夜は、浅草橋へ。
 清洲城のお隣が北の湖部屋ですが、出がけに大ぜいの人だかりが。
 昨夜、お通夜だったのでしたね、62歳の若さで逝ってしまった親方のご冥福を祈ります。
 さて昨夜は、今年最後の秋祭りでした。
 愉快なお話しに盛り上がり、あごがはずれるくらい笑い、お勤め帰りに隣に陣取った宴会組に負けじとばかりに大きな声をだし、実に美味しい中華料理に舌鼓をうち、とても楽しい一夜となりました。
 が、帰ったら女優・原節子さんがもう9月に亡くなっていたニュースがとびこんできて、びっくりしました、はい。95歳だったそうです、合掌。
 さて、マスコミでも取り上げられるイマ注目の浅草橋ですが、同じお店でもう一度、今年最初の忘年会を開くことになりました。
 季節はわれわれをもう、冬の入り口へといざなっております。
 体調管理にはくれ ぐれもお気をつけてお過ごしくださいね。


2015秋祭り

 11月20日に62歳で急死した日本相撲協会の北の湖理事長(元横綱)の通夜が11月25日、東京都江東区の北の湖部屋でしめやかに営まれ、理事長の職務を代行する八角親方(元横綱北勝海)、九重親方(元横綱千代の富士)、貴乃花親方(元横綱)ら協会関係者の他、俳優の杉良太郎さんら約200人が参列した。
 九重親方は目に涙を浮かべながら
「信じられないというか、これが現実なのかという感じ。何の言葉も出てこない」と語った。


2015年11月25日20時56分更新、朝日新聞デジタル
北の湖理事長の通夜、しめやかに 200人が参列
http://www.asahi.com/articles/ASHCT6QVNHCTKJPA004.html

 昭和の戦前と戦後、2人の大横綱を結びつける日付に「1月15日」がある。1939(昭和14)年のその日、空前の69連勝を続けていた双葉山が、ついに敗れた。殊勲の星をあげた新鋭の安芸(あき)ノ海が、郷里にあてて「オカアサン、カチマシタ」と電報を打った話はよく知られる。
 それから46年後の奇(く)しくも同ログイン前の続きじ日に、北の湖関は引退した。翌日の小欄は「巨木が倒れたあとの寂しさがある」と一つの時代の終わりを惜しんでいる。横綱での670勝は今も歴代1位を誇
る。
 憎らしいほど強い、と言われた横綱だった。金星をあげ、故郷の父母に誇らしく「勝ちました」と伝えた若手もいたに違いない。心持ち反った背筋に、大きな腹。ふてぶてしい印象もあったが気遣いはこまやかだった。
 横綱になってから、相撲を楽だと思ったことはなかったという。優勝して当たり前の存在だからと、最高位の重圧を語っていた。その綱を、歴代最多の63場所にわたって張った人の、思わぬ訃報(ふほう)に驚いた人は多かっただろう。
 まだ62歳、日本相撲協会の理事長だった。7年前、角界が大麻事件で揺れたときは理事長を引責辞任し、3年前に復帰した。組織を率いる苦労と心労は寿命を縮めるほどだったのか。想像するほかはない。
 土俵一筋に支えてきた人を悼んで、九州場所会場の福岡国際センターには半旗が掲げられた。きょう、1年を締めくくる千秋楽は横綱日馬富士や白鵬らの優勝争いに興趣がつのる。大きな歓声は天上まで届くことだろう。


2015年11月22日05時00分更新、朝日新聞、天声人語
北の湖理事長の急死
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12080880.html

 そして、

 戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍し、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。
 95歳だった。
 葬儀は近親者で営んだ。
 同じ敷地に暮らしていた親族によると、原さんは8月中旬、神奈川県内の病院に入院。亡くなった日は、5人ほどの親族に見守られながら息を引き取った。それまでは「大きな病気もなく過ごしていた」といい、亡くなった時点での公表を控えたのは「あまり騒がないでほしい」との遺志を尊重したためという。
 横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社。「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。
 山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、1936年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。
 東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の1946年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、1947年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。
 以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。1949年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期が遅れた娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。
「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに出演した。  1954年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。
 その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、1962年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。
 その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。


2015年11月26日02時25分更新、朝日新聞デジタル
原節子さん死去95歳 伝説の女優「東京物語」「晩春」
http://www.asahi.com/articles/ASHCT7KPNHCTUCLV01B.html

 原節子さんの突然の悲報に映画界などから悼む声が上がった。

山田洋次監督の話
 永遠に生き続けてほしい、と誰もが願っていた女優さんだったのではないでしょうか。あの人は絶対に死んだりしないと僕は思っていた。だから一番聞きたくない知らせです。永遠に聖なる女優。神の領域に達していたとでも言ったらいいでしょうか。僕も一度も会ったことはありません。ですが、美しい人に憧れるという観客の願いに殉じて、あの人は私たちの前から姿を消してしまったのではないでしょうか。

映画評論家の佐藤忠男さんの話
 小津安二郎や黒澤明ら、巨匠の作品に出演した女優で、当時のトップ中のトップスターだった。戦中は軍国のお姉さんを演じ、戦後は民主主義を教えてくれる教師役も演じた。戦前から戦後にかけて「真面目な日本人の理想」として仰ぎ見られる存在であり続けた。


2015年11月26日07時22分更新、朝日新聞デジタル
山田洋次監督「永遠に聖なる女優」 原節子さんを悼む
http://www.asahi.com/articles/ASHCT7T1GHCTULZU012.html



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2015年11月25日

アイヌ文学

 「11月20日金曜日のこと、千駄ヶ谷の病院で看護師さんの指導のもと『ころばん体操』をやって、足が軽くなって信濃町まで歩いて、有楽町で降りて日比谷公園を徘徊、そのときの写真です(ヤッホー君のこのブログ、11月23日付け日記「2015秋景色」)と書きました。
 実はそれで終わりでなく「アイヌ文化交流センター」(中央区八重洲2-4-13ユニゾ八重洲2丁目ビル(旧アーバンスクエア八重洲)(3階)電話3245-9831)へ。
 wが国の多様性、多元性、多面性を追い求めるウオーキング!!

 まず、アイヌ語とはどんな言葉かということからお話しします。
 アイヌ語が日本語の方言だと思っている人がけっこういるんですが、アイヌ語は日本語とは何の関係もない言葉です。
 何の関係もないというのは「親戚」ではない、つまり「言葉のルーツをたどったら日本語とアイヌ語が一つの言語だった」というようなことは考えられないということです。
 さらに言えば、アイヌ語は日本語だけではなく、世界中のどの言語とも親戚関係がみとめられない「孤立語」と呼ばれる言語です。
 というとたいへん変わった珍しい言語だと思われるかもしれませんが、実のところ我々が使っている日本語もまた孤立語です。
 つまり、アイヌ語と日本語は立場としては同じような言葉で、違う点はただ話している人数が少ないか多いかだけということになります。
 それだけではなく、朝鮮語も孤立語ですし、サハリンの北のほうにニヴフと呼ばれる人たちが現在でも住んでいますが、ここで話されているニヴフ語も孤立語です。
 それから千島列島の北の先にあるカムチャッカ半島で話されているイテリメン語も孤立語です。
 ということで、日本語を含めた一群の孤立語が日本列島を取り巻いているのであり、そういう意味ではアイヌ語はなんら特別な言語ではありません。

 アイヌ語はサハリンや千島列島でも話されていたわけですが、現在これらの地域にはアイヌ人の子孫はほとんどいなくなってしまいました。
 また、かつては東北地方の北半分でもアイヌ語が話されていたと考えられます。これは地名にアイヌ語が残っていることから推測されるわけですが、具体的には日本海側では秋田県から北の地域、太平洋側では宮城県仙台の北にある多賀城周辺から北の地域だと考えられています。
 このように非常に細かい範囲で推定できるのは、その辺りを境にして北と南でアイヌ語地名と考えられる地名の密度が大きく変わるからです。

 この辺りには8世紀頃に大和朝廷軍の前線基地があって、そこから北はエミシと呼ばれる人たちの世界だったわけです。
 そこにアイヌ語が色濃く残っているということは、エミシと呼ばれる人たちはアイヌ語を喋っていたということです。
 それだけではなくて、青森県に18世紀中頃までアイヌ語を話す人たちがいたことは間違いないと考えられています。なぜなら、その頃に津軽藩でアイヌ語を使ってはいけないという禁止令が出ていることがわかっているからです。そしてその当時の戸籍を見ると、あきらかにアイヌと思われる人たちの名前が書かれています。

 現在の東北地方ではアイヌ語は話されていないわけですが、そうなったのは比較的最近、せいぜい200年ほど前のことだと考えることができます。

 さて、アイヌ語にはもともと文字はありませんでした。
 けれどもアイヌ人が文字を使って自分たちのことを書くようになるのは比較的古い話で、1923年に知里幸恵という人が『アイヌ神謡集』という本を著し、アイヌ語をヘボン式のローマ字で表記し右側に日本語訳をつけました。
 これが、アイヌ人がアイヌ語を文字で書いた初の刊行物です。
 アイヌ語と日本語には発音の異なるところがたくさんありますので、『神謡集』以降、アイヌ語を記すためのカナ表記が工夫され、ヘボン式よりもっと正確なローマ字表記がなされるようになって、現在ではアイヌ語を文字化した物がたくさん出版されています。

 しかし、かつてアイヌ語を母語として生活していた人たちの大部分にとっては、アイヌ語は読んだり書いたりする言葉ではなくて、話したり聞いたりする、つまり口と耳によって伝えられる言葉であったことも確かです。
 かつてのアイヌ民族にとって言葉というのは非常に重要なものでした。
 もっとも、言葉が重要ではない民族はないといってよいのですが、現在の日本社会を考えてみると、例えば、政治家などがつい本音を言ってしまって、あとで「誤解を招く言い方をした」という言い訳をすることがよくあります。聞いた方は誰も誤解などしていなくて、それが本音だとわかっているのですが、言った方は「私の真意が伝わっていない」と言って逃げるわけです。
 このように日本社会は言葉に重みのない世界になってしまっています。
 むしろ「沈黙は金」「不言実行」などのように、男というのは無口なほうが良くて、立派な男はあまり喋らないものだというイメージすらあったわけです。
 ところがかつてのアイヌ社会においては、喋ること、弁舌爽やかであることは、男として不可欠な資質であると考えられていました。
 アイヌ語で「パウェトク」雄弁であるということはリーダーになるための必須条件でした。。。


2010(平成22)年12月4日(土) パレット市民劇場(那覇市久茂地1-1-1パレットくもじ9F)
中川裕氏(千葉大学大学院教授)
語り合うことばの力〜カムイたちと生きる世界〜
http://www.frpac.or.jp/about/files/kai2009.pdf

 この中川教授(1955年生まれ)が絶賛した本が次です:

 登別が生んだアイヌ言語学者の知里真志保(1909〜61年)の生誕100年を記念し、「知里真志保を語る会」の小坂博宣事務局長(登別市在住)が、真志保の著書「アイヌ文学」に新漢字やふり仮名を付けるなどした現代版を刊行した。
 同著はアイヌの歴史を学ぶ上で重要な本として知られており、同会では1年掛かりで形になった同書を「知識の無い人にぜひ読んでもらいたい」と期待を寄せている。
「アイヌ文学」は神謡などアイヌ民族に伝わる口承文芸を細かく解説している。1995年に東京の出版社から発刊された。真志保の姉・知里幸恵(1903〜22年)の著書「アイヌ神謡集」の冒頭の有名な一節、
「銀のしずく 降る降る まわりに」

も紹介している。

 今回の現代版は表紙に真志保の母・ナミが作り現在北海道アイヌ協会登別支部に大切に保管されているルウンペ(着物)を使用。文字を少し大きく変更、旧漢字を新漢字にし送り仮名やルビを付け、拗(よう)音や促音を小文字化、誤植訂正表や年譜を加えた。

 真志保が冒頭「一般の読書人に対してアイヌ文学がどんなものであるかをやさしく解説した」とつづった遺志を継承し、読みやすさに重きを置いたのが特徴だ。

 また、アイヌ学の権威・中川裕千葉大教授が解説を寄せ、大野徹人氏(様似町在住)がアイヌ語表記についての補足を付け加えるなど「学術的に貴重な付録」(同語る会)となった。

 小坂事務局長は「アイヌ文学と聞くと難しくとらえる人もいるが、現代版は読み物としても面白く文学がどのように形成されてきたかを分かりやすく学ぶことができる」と出来栄えに満足の様子。

 10日の「アイヌ文化講演会」(北海道アイヌ協会登別支部、知里真志保を語る会主催)で初披露される。1冊1200円(税抜き)。市内の各書店で購入が可能、道アイヌ協会登別支部でも扱っている。


2012年11月10日付け室蘭民報朝刊・粟田純樹
登別・小坂事務局長が現代版「アイヌ文学」発刊
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2012/11/10/20121110m_05.html

 登別市で活動している「知里真志保を語る会」は知里真志保生誕100年、没後50年事業のしめくくりとして昨年知里真志保の「アイヌ文学」(1955年・元元社刊)の完全復刻版を発刊した。
 その際、色々な編集方針があったが、偉大な知里真志保の著作の再現を最大の方針にし、旧漢字やかなづかいなども当時のままとした。
 しかし、会員各位や事務局長の小坂博宣氏は、”この魅力的な本をみんなに読んでほしい””若いひとたちにもアイヌ文学を楽しんでほしい”と思い、現代語版をつくる企画をした。

 千葉大学の中川裕教授からは知里真志保研究にも匹敵するような「『アイヌ文学』の表記法」という解説をいただき、
 また様似町でアイヌ生活相談員をしながらアイヌ文化研究をしている大野徹人氏からは「アイヌ語表記についての注意と補足」の解説をいただきました。

 また、この会の事務局長の小坂氏は「知里真志保と『アイヌ文学』」で知里真志保を知らないひとたちにもわかるような知里真志保像を執筆してくださいました。。。


2012-11-15 16:01:28 イランカラプテのブログ
ついに「知里真志保のアイヌ文学」-現代語版-が発行される
http://ameblo.jp/ainu-bunka/archive-201211.html





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2015年11月24日

大阪W選 直前直後

 大阪での府知事、市長選のこと、これからのwが国の近い将来を占ううえでのターニングポイントにイマ、われわれは置かれているようでどうしても日記につける、とヤッホー君!
 まずは直前の対談から:

藤井:何が悔しいって、東京モンに会うと「どうして大阪の人たちって、何度もオレオレ詐欺に引っ掛かるの? よく分かんない。おもしろいですよね、大阪って」と、小馬鹿にした東京弁で、よう言うて来よるんです。言い返したいんやけど、大阪が橋下維新のプロパガンダに嵌まって、「都構想で、ぎょーさんある二重行政なくさなアカン!」って信じ込んでる者が多いのも事実。でもそれって、適菜さんが言うようにモロに嘘。ホンマ、もう騙されるのも大概にせんと、東京モンに「バカじゃね?」って、ずっとクスクス鼻で笑われてしまいます。

藤井:それ、プロレスで言うところの、「負けたら即引退マッチ」詐欺そのものです。負けたら引退! って煽って客集めしといて、負けて引退してもすぐ復活するっていう詐欺営業を繰り返す――って、あんた大仁田厚なんかい! という話。そやのにまた懲りもせんと、大阪人は騙されそうになっとる……。これ、めっちゃ恥ずいです。

■「学習性無力感」
適菜:ダブル選の前にメディアの問題も指摘しておかなければなりません。「産経新聞」系の『iRONNA』というサイトに〈大阪都構想、やってみなはれ〉というタイトルの特集が掲載されたのですが、編集長なる人物が、橋下の「甘言」は嘘だと思うが〈彼の攻めの姿勢には賭けてみたい〉と書いていた。これは知性の放棄に他なりません。

藤井:同時に、メディアには、橋下維新が嘘を垂れ流しても「いつものことでしょ?」と、無気力にスルーする空気がある。これを、心理学では「学習性無力感」と呼びます。酷い仕打ちを受け続けていると、どれだけ抵抗しても無駄だからと諦めてしまう心理です。これではまさに橋下維新のたと思う壷。喩えるなら、いじめと同じ。いじめっ子は、いじめられっ子を徹底的にいたぶり、もうここからは逃げ出せないんだとの無力感を植えつけ、抵抗力を奪う。そうして、さらにいたぶり続ける。

適菜:藤井さんとの対談集『デモクラシーの毒』(新潮社刊)でも明らかにしましたが、嘘、デマ、プロパガンダを流し、批判者を攻撃して口を封じる言論テロルを繰り返す橋下維新は全体主義の典型です。全体主義は無力感の上に広がっていく。ナチスドイツでも、スターリン下のソ連でも、そうでした。要するにわが国の将来が今回のダブル選における大阪府民・大阪市民の良識にかかっている。

藤井:こう論じてくると、今回の「あるべき投票基準」が改めて明らかになってきたように思います。つまり、橋下市長が実際に仰るように、どちらが「マシ」かを考えて票を投じればいいわけです! ただし今、大阪の有権者の前に並べられているのは、いわば「イマイチ美味しくない」タコ焼きと、「腐ってる」タコ焼き。どっちも不味いからって「腐ってる」タコ焼きを食うアホはおらんでしょ。要するに、今回の話はそういうコトです。

藤井聡(ふじい・さとし):
1968年奈良県生まれ。京都大学大学院教授。専門は公共政策論、都市社会工学。著書に『〈凡庸〉という悪魔―21世紀の全体主義』(晶文社、2015年4月)等。今月、編書『ブラックデモクラシー―民主主義の罠』(ほかに著:適菜収、中野剛志、薬師院仁志、湯浅誠、晶文社)を出版。

適菜収(てきな・おさむ)
1975年山梨県生まれ。早稲田大学でニーチェを専攻。近代大衆社会の問題点を指摘し続けている。『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)『なぜ世界は不幸になったのか』(角川、2014年)等の著書がある。

※「週刊新潮」2015年11月26雪待月増大日

デイリー新潮11月23日(月)7時1分配信
【大阪ダブル選挙直前対談】平然と嘘を吐く「大阪維新」に何回騙されるのか?――藤井聡(京都大学大学院教授)× 適菜収(哲学者)〈週刊新潮〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151123-00010000-shincho-pol&p=4

 そして日曜日が投票日。
 ヤッホー君が一番気になったのが投票率!

 ダブル選はそれぞれ任期満了に伴い実施された。
 市長選の投票率は前回ダブル選を10・41ポイント下回る50・51%。
 知事選は前回を7・41ポイント下回る45・47%だった。

 松井氏の得票は200万の大台に乗り、吉村氏も次点に18万票以上の差をつけた。


2015年11月23日 東京新聞・朝刊
大阪維新2氏、ダブル選圧勝 府知事・市長
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201511/CK2015112302000136.html

 なお、当日の有権者数は大阪府:6,926,408名、大阪市:2,044,605名。
 府知事選で200万の大台の得票を得たといっても、大阪府の有権者の3割にも満たないわけです。
 民意の反映されない選挙って、ミンシュシュギなんですかねえ〜(あ〜あ)。

 いずれにせよぜこれを受けて、まず新聞社説から:

 橋下氏や、府知事に再選された松井一郎氏が安倍首相ら官邸サイドと気脈を通じていることはよく知られている。
 教育再生や改憲の方向性も似通っている。
 
 最大の焦点は来年夏の参院選だ。
 橋下氏らが新党をてこに、国政での再起を狙っているのは間違いない。
 改憲などで政権の補完勢力となり、協力してもらうことを官邸は期待している。

 新党がどこまで勢力を広げることができるかは未知数だ。
 情勢次第では首相は同党との連携を念頭に、衆参ダブル選に踏み切るかもしれない。
 橋下氏の立候補も取りざたされている。

 他の野党は対応を厳しく問われる。
 特に野党第1党の民主党は内部で対立している場合ではない。
 今のようにバラバラな状況が続けば、与党を利するだけだ。

 まず、各党は安倍政権との対抗軸を明確にしてもらいたい。
 参院選に向けては、野党共闘のあり方も探るべきだ。


11月24日(火)信濃毎日新聞、社説
大阪ダブル選 政権との関係に注視を
http://www.shinmai.co.jp/news/20151124/KT151123ETI090005000.php

 政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏(1958年生まれ)はこう言う。

「大阪維新は憲法改正を含め安倍首相に協力するのですから、実質は与党です。しかし、来夏の参院選までは、野党の票を食うために、『是々非々』で野党色を打ち出していくのでしょう。参院選後に安倍首相寄りのスタンスを強める戦略なのだと思います」

 大阪維新は間違いなく自民党の補完勢力だ。狡猾なまやかしに有権者はだまされてはいけない。


2015年11月24日付け日刊ゲンダイ
大阪W選勝利で加速…橋下市長&安倍首相“野党潰し”の密約
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/170294/3

 だまされたあげく、

「憲法はある日、気づいたらワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。
 誰も気づかないで変わった
あの手口に学んだらどうかね」

(副総理)



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2015年11月23日

2015秋景色

 そう、そう、晩秋の三連休、いかがお過ごしですか?
 今日11月23日「勤労感謝の日」はその連休の最後の日です。
 季節の過ぎ行くことの早いこと、早いこと、今日は「小雪」です。
 この間も教育、教養のないヤッホー君、用を作っては行く、行くって。
 しかし、いっつも肝心のデジカメを忘れ、都心だって紅葉がきれいなのに少しもこの日記にアップできていません。
 ケイタイのデータをなんとか駆使してお見せしようか、と。
 まずは、11月20日金曜日のこと、千駄ヶ谷の病院で看護師さんの指導のもと「ころばん体操」をやって、足が軽くなって信濃町まで歩いて、有楽町で降りて日比谷公園を徘徊、そのときの写真です:

22.jpg

21.jpg 

 この噴水は、1905(明治38)年頃、東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。
 ちなみに1番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪箕面公園。
 当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。
鶴の噴水(日比谷公園)


 へぇ〜、趣がありますね。
 1905年ってね、日露戦争でwが国は勝利したものの、民衆は怒って9月5日「日比谷焼打事件」が起こった年!

 「日比谷焼打事件」の原因については、日露戦時下の増税等による生活苦や戦争で多大な犠牲が生じたこと、戦勝報道で煽られた過大な講和条件への期待が裏切られたことなどが指摘されています。
 また、戦時中、各戦勝を祝う提灯行列や旗行列、祝捷会といった機会を通じて、人びとが日比谷公園に度々集合していたことも、事件の複線として注目されています。

 「日比谷焼打事件」は、社会・文化運動の活性化や政党政治の実現などに特徴づけられる、大正デモクラシーの起点として評価されています。
 この場合、排外主義や膨張主義をはらみながらも、藩閥政府にたいする抵抗運動でもあった点が重視されてきました。
 また、この事件から1918(大正7)年の米騒動に至る時期は、電車賃上げ運動(1906年)や大正政変(1913年)など、都市騒擾が頻発したことから、「都市民衆騒擾期」と呼ばれています。
 当時の日本では、財産選挙制などによって政治参加が著しく限定されていました。このような状況のもとで、人びとは都市騒擾というかたちで政治的な意志を表明していたといえます。


国立公文書館、アジア歴史資料センター、公式サイト
日露戦争特別展
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji11_detail.html

 そしてヤッホー君が11月22日に歩いたティアラこうとうの裏庭から:

P1020955.jpg

P1020961.jpg

 で、三連休最終日は、どんな用をつくって、どこに行くの?
 ヤッホー君、家でごろごろ、のんびりとかできないのかな?


  
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2015年11月22日

いい夫婦の日

 ヤッホー君のこのブログ、今朝11月22日日曜日「いい夫婦の日」の日記「教育の再定義」に補足がありますって:

■ ヘレン・ケラーが鶴見俊輔さんに伝えた言葉

 前平泰志京大教授(現・幾央大学教育学部学部長)は、哲学者の鶴見俊輔さんの著書『教育再定義の試み』にある言葉を紹介した。英語の「learn」と「unlearn」。「unlearn」は「学ばない」ではなく、「学んだことを捨てること」。
 「鶴見さんは『学びほぐす』という言い方をしています。いったん自分が学んだ知識を捨てたつもりになり、何度でも学び直すという意味です。これは、生涯学習に通じる言葉です」
 鶴見さんは米国のハーバード大学に留学していた若き日、ヘレン・ケラーと会った。ヘレン・ケラーは「自分はハーバード大学の近くの女子大でたくさんのことを学んだ。けれど、たくさんのこともunlearnした」といった趣旨の話をしたという。
 「鶴見さんはこの言葉を、『型通りにセーターを編み、ほどいて自分の体に合わせてもう一度編み直す』というイメージで捉えています。私たちは、このunlearnを実践することで、人生を何倍もおいしく生きることができます」


2013年3月12日11時17分更新、朝日新聞デジタル
生涯学習、学ぶことを学ぼう 京大・前平教授が講演
http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201303120098.html

 これも言い得て妙ですね。
 いつになったらヤッホー君、unlearn の境地に至るのか、うん、分かりません、だって。
 だってぇ、まだまだ学ぶべきことが多すぎて困っちゃう、毎日ビックリ、腰抜かしてるんだもん。

 今日はまたまたティアラこうとう、へ、ウオーキングでなく eチャリで。
 江東シティオーケストラ 第43回定期演奏会が開かれておりました。
 指揮:和田一樹
 プログラム:
 ボロディン、歌劇「イーゴリ公」序曲
 チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」(ヴァイオリン独奏 上里はな子)
 チャイコフスキー「交響曲第4番 ヘ短調」
 
 満席1200名で会場は埋まり、入り切れない人がでるほど。
 和田ワールド(*)はもとより、楽器の弾ける(しかも玄人肌で)大ぜいの区民が集まって交響楽団をつくりあげ、クラシック音楽を愛好する大ぜいの区民がいて、それを行政が支援してくれている、これを芸術の好
循環と言わずしてなんというか、
 ですので、自然とすばらしい音楽空間がたちのぼるんです。
 そんな地域に住んでいてヤッホー君、良かったな、誇りに思えてきます、って涙ぽろぽろ。

 ルーマニアで開催されたブカレスト国際指揮者コンクールで準優勝しました。
 これも全て皆様のおかげです、ありがとうございました!
 審査員並びにルーマニア国立ジョルジュ・エネスコ・フィルの皆さんには大変感謝です。そして、天国から見守っていてくれた母、そばで見ていた父、東京から励ましてくれた妻、美菜子に感謝します。
 コンクール前の勉強会では曽我大介先生(1965年生まれ)に心より感謝です。そして曽我道場の仲間たちも本当に助けていただきました。また直前のピアノ協奏曲では石井楓子さん(1991年生まれ)にも参加してもらってシューマンのレッスンが受けることができたのですが、まさかのセミファイナルはくじ引きでシューマンが当たるという!
 大先輩指揮者、海老原光さん(1974年生まれ)に心より感謝です。出発前、決勝前、珠玉のアドヴァイスと戦ってきた男の背中を見せてもらえました。コンクールとは何か、音楽とは何か、その全てを教えてくれました。
 そして、曽我先生は決勝前に電話をくださり、落ち着いてファイナルを迎えることができました。ファイナルのリハーサルで先生がおっしゃったことをそのまま言ったら、オケがすごく頷き、とても良い音に変わりました。本当に感謝です。
 また、ワールドカップでもないのに深夜で生中継をずっと見て応援してくださった皆様に本当に感謝です。
 なぜか発表順が3位→1位→2位だったので、わたし最後に呼ばれてまさかの1位かと思ったら、2位というギャグキャラにルーマニアでもあつかわれてしまいましたが、なんかオーケストラが盛り上がっていたので、嬉しかったです!
 最後の写真は準優勝トロフィを持つ親父と身長の違いすぎるコンクール参加者たちの写真です(笑)


2015年09月28日
和田一樹の四季指揮日記
http://blog.livedoor.jp/bomber19jp/

 おめでとうございます、和田さま。
 今日の指揮だって、弾く団員のリードはもとより、観客もいっしょになって、気持ちよく音楽の世界に誘ってくれてました。
 ヤッホー君、気持ちをしずめるかのように、ティアラこうとうの廻りを一周してから帰宅しました。

 そして、北の湖部屋の前に来たとき、深々とごあいさつをしてきました。
 親方、小畑敏満さん(1953年北海道生まれ)とは、しょっちゅうお目にかかることがありました。
 相撲協会の理事長も務められ、たいへんおつかれさまでした。
 62歳でした。ご冥福を心よりお祈りしております。
 こんなこともあったのでした: 

 日本相撲協会は2013年4月3日に東京・両国国技館で臨時理事会を開き、中国出身の元前頭蒼国来(1984年生まれ)の現役復帰を決めた。
 北の湖理事長(元横綱)が理事会後に面談して謝罪し、7月の名古屋場所から西前頭15枚目で土俵に上がることになった。
 蒼国来は2011年2月に発覚した八百長問題で、相撲協会の特別調査委員会から八百長に関与したと認定され、同年4月に解雇された。
 潔白を主張して東京地裁に提訴し、2013年3月25日に解雇無効判決を勝ち取っていた。
 協会はこれを受けて控訴しないことを決め、解雇処分も取り消した。


2013年4月3日16時34分更新、日刊スポーツ新聞
蒼国来現役復帰、北の湖理事長が謝罪
http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20130403-1107027.html

(*)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記にぜひお立ち寄りください:
☆ 2013年11月18日「音楽の秋」
☆ 2014年11月30日「指揮者・和田一樹」
☆ 2015年2月4日「マエストロ!」
☆ 2015年4月9日「くちびるに歌を(補足)」


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教育の再定義

 実はヤッホー君、11月13日金曜日夜、東京都内で開かれた「九条の会」に出席しておりました。
 (ヤッホー君のこのブログ、11月18日付け日記「九条の会」に戻ってみましょう)

 なぜかっていうと、大江健三郎が鶴見俊輔の志をどう受け継ごうとしているのか、どのように鶴見俊輔を語るのか、とても興味があったのです。
 文学者というより読書人の大江健三郎、一冊の本を手に取ってためつすがめつ、時間いっぱい、何回繰り返したことか、とくに女性、若い人には読んでいただきたいと訥々とお話しなさるのでした。
 政局の話しではないので、先に紹介した東京新聞のように、その日の大江健三郎について、そして鶴見俊輔のその一冊の本を取りあげたメディアはなかったのです。
 それは、鶴見俊輔『教育再定義への試み』(岩波現代文庫、2010年3月)
(文庫に入る前は、シリーズ「教育の挑戦」の一冊『教育再定義への試み』として1999年10月に岩波書店より刊行されている)

 この本は次のような書き出しで始まります。。

 1997年に神戸で14歳の中学生が9歳の小学生を殺し、その頭を胴からきりはなして自分の学校の門の前におくという出来事があった。……
 このしらせをきいたとき、私は、自分が子どものころだったら、自分がこの少年のようなことをするかもしれないという不安をもっただろうと思った。……
 同時代をゆるがしたこの事件〔いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件〕について、私は内部からそれを論じることができない。……
 事件の内部に入って、子どもの心をとおして、教育を考えることはできないとしても、この事件を、もっと長い年月の中において見ることを、たとえ外部から見ることに終わるとしても、私はここにこころみたい。


 教育論はとかく綺麗事や理想論におわりがちですが、鶴見さんはこの本で自らの人生をさらけ出しながら、自らの痛みに立った教育の再定義をこころみます。
 随所にいろいろなヒントがつまっています。
 思考に刺激をうけます。
 そして大きな勇気をあたえられます。


岩波書店、編集部からのメッセージ
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6031990/top.html

 ヤッホー君の思考に刺激をうけた箇所を以下、記しますが、ぜひこのブログをお読みの読者諸氏も、鶴見俊輔の本をご購入のうえお読みいただけることを希望するばかりです。
 こうおっしゃっています:

 占領の終了後も、アメリカの国家による統制はのこっており、アメリカの国家に寄り添うかたちで、日本国家の国家主義が再現した。
 いま現れたのは、君が代と日の丸を強制して、アメリカ服従をしいるという新しいかたちである。
 まず「国家主権の眼制限な行使がもたらした不幸」をまっすぐに見ることが教育として必要である。
 同時に国家の介入を制限する手段がまだ十分でないという事実を認めることも必要であろう。
 不服従はどのようになしうるか。。。

 この戦争は良くないとひとりが判断すれば、ひとりは離脱する。
 そのことがまず生徒個人のこころにあらわれるようでありたい。

 国家を批判する力をもった人間が育つ場として教育があるほうがいい。

 世界はひとつで、私の言ったこれだけしかない、という見方を私はとらない。
 むしろ、さまざまな考え方を成長するにまかせて枝分かれ proliferation してゆくのを見守ってゆくほうをとりたい。。。


 ね、ヤッホー君の思いと想いといっしょ。
 最後のひとりになっても、ヤッホー君、いやなことはいや、とダメなものはダメ、と叫び続けていきたいって。
 戦争なんて、人殺しなんて、殺すのも殺されるのも、収容所送りになるのも、密告して送るのもイヤ、ダメです。
 山があって、温泉が湧いていて、四季があって、田んぼが広がる美しいwが国が、戦場、収容所や療養所、監獄に化けるのはイヤ、ダメ。
 一部テロリストの「食う、出たあ」で勝手に変更するのにも抵抗していきますって、ヤッホー君。
 鶴見俊輔は、たしかに遺言のように、そして11月13日金曜日、ノーベル賞作家の大江健三郎が最後に読みあげて終わる、《みっとの道しるべ》を、ぜひ、本でお読みください!

 記録に残るわずかな数の個人を越える、偉大な個人が人間の総体にいる。
 人間の総体は、どんな偉大な個人よりも偉大である。


 有名人って、ごくごく一部で、そんなところに目を向けるより、もっと遠くを、もっと広く、もっと多面的に、いろんな道をみつけてみようよ、この先。
 だから自分が死ぬことを考えるなら、「人間の絶滅」まで見据えなくっちゃだめだよ。
 ガッコウの「教育」だって、いつなんどき、理論と正義と多数のちからで、見えない戦場、収容所や療養所、監獄に化けるやも知れない、
 だからガッコウの外にはみだしたって、良いじゃん、
 「ひとり」になって考えてみることからはじめよう
ってことだよね。

 「フランスと共にある」が、「沖縄とは共にない」のが今の日本政府、安倍晋三首相である。
 安倍首相は11月19日、オバマ米大統領と会談し、米軍普天間飛行場の辺野古移設について
「唯一の解決策だ。確固たる決意で進める」と述べた。
 そのわずか2日前、政府は辺野古新基地をめぐり翁長雄志知事を提訴し、県民から猛反発を受けたばかりだ。
 沖縄の反発など物の数ではないと言わんばかりの、民意を真っ向から踏みにじる発言である。。。

 首相の外交は勘所を外しているように見える。
 米との会談では南シナ海への自衛隊派遣の検討まで持ち出したが、肝心の東南アジア諸国を交えたアジア太平洋経済協力会議(APEC)で南シナ海への言及はなかった。
 対中国包囲網を形成したいという首相の思惑は不発に終わっている。

 国民の同意も全く欠いたまま、日本に何の関係もない地域への軍の派遣まで持ち出すとは何事か。
 安倍氏の独り善がりの外交は日本にとって危険なだけだ。


2015年11月21日 06:02 琉球新報社説
日米首脳会談「沖縄とは共にない」首相
http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-175563.html

日本ではいま、子どもの6人に1人が貧困のもとで暮らしています
2015年11月2日5時6分更新、朝日新聞デジタル、聞き手・河合真美江
子どもの貧困、どうとらえるべき? 専門家にヒント聞く
http://www.asahi.com/articles/ASHBY6JJHHBYPTFC010.html

県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦
2015年11月21日 05:30 沖縄タイムス、社説
[慰霊の日に公示?]戦後史の認識が足りぬ
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=142489

 沖縄の新基地反対の民意は小さな問題なの?
 保育園まで儲けシュギの会社が経営するの?
 自己収入増やせと大学は学費値上げするの?
 どうやらwが国のえらいさんたち、「コクミンと共にある」姿勢を放棄して、戦争する国、独裁国家への道をひた走っているようで…


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2015年11月21日

大村収容所

ハンセン病療養所
その実態は収容所であった。


 ドキッとビックリしてひっくりかえりそうになったヤッホー君、あっつなっがってる、と一言だけ漏らしたそうな。
 そうなんです、「収容所」と鶴見俊輔が結びついてしまっていました。
 それは「大村収容所」!ヤッホー君のこのブログ、2015年11月18日付け日記「九条の会」に戻って読んでみましょう。
 どういう背景があったのか、ここで少しレクチャーを受けたいと思います:

終刊号
 2007年6月2日の午後は、鶴見俊輔さんから話を聞いた。白内障の手術後で体調が心配されたが、鶴見さんは思ったより元気な様子で、「私が考える戦後の岐路」という与えられた題目にとらわれることなく、現代史の問題をたてるときには自分を含んでいることが大切であると言って、個人史を中心に語られ、最後は、用意してきたという雑誌『朝鮮人』の話で締めくくった。
 在日朝鮮人の強制送還の装置だった大村収容所が役割を終えたのは、残念ながら、市民運動の成果というより、必要がなくなったからで、韓国が豊かになり、収容される韓国・朝鮮人がいなくなったからだという。
 雑誌『朝鮮人』は、1969年7月「任錫均氏を支援する会」の機関紙として創刊された。創刊直後、内紛により会は解散し、第2号から故飯沼二郎さん(1918-2005)が主催する個人誌となった。任氏は韓国で政治運動を行い、死刑の宣告を受けて日本に逃げてきた人で、会は日本政府が密入国者として彼を本国に強制送還するのを阻止するために結成された。当時、朝鮮人をめぐる日本人の市民運動はまだ皆無の時代で、この運動を通して、飯沼さんは「見えなかった人々が見えてきた」と述懐している。当時飯沼さんは今の私と同じ51歳、鶴見さんは47歳だった。ちなみに、西洋農業経済史に関する飯沼さんの講義を、私は大学生のときに受けた記憶がある。この雑誌に「大村収容所を廃止するために」という副題をつけることを提案したのは鶴見さんである。
 21年間続いた『朝鮮人』の終刊号で、「終刊の辞」を故飯沼二郎さんは次のように結んでいる。

 はじめから私は、20号まで出すといいふらしていた。私には、もともと意志薄弱なところがあり、個人雑誌を出しても、おそらく2、3号で止めてしまうにちがいないと思われたので、そのような自分を縛る意味で20号まで出すといいふらしたのである。そして20号に達したとき、私はその「公約」に従って20号で廃刊にしようとした。しかし、実は、そのことが、大村収容所を廃止するという本当の「公約」からの違反であることに気づかなかった。
 その提案者である鶴見さんは、大村収容所が廃止されるまで出しつづけるということで、21号以後の発行を引き受けられた。その生存中に廃止にならなければ、息子さんが発行をつづけるということであった。そして遂に今日、その廃止をみとどけて『朝鮮人』を廃刊ということになったのである。これこそ真に「公約」の履行であり、鶴見さんに較べて、自分の不誠実さを、いやというほど思い知らされている。

2007.6.27 片倉和人(1955年長野県生まれ,農と人とくらし研究センター代表) 

出会い
 鶴見俊輔さんとは、今回はじめて出会うことができた。
 鶴見さんは「上野千鶴子が私の戦争責任を厳しく問い詰めたように、何を聞いてくれてもかまわない」と言って話を終えた。聴衆は20人強で、私が質問の口火を切った。
 京都に住んでいたときに何度か講演を聞いたこと、著作を読んでその思想に個人的にとても共鳴したこと、とくに、言うこと(思想)と実際にやること(行為)がかけ離れていない点が大切であることを学んだことを、まずお伝えした。そして、影響の一例として、戦争責任の取り方について、鶴見さんたちの「坊主の会」を真似して、15年間、8月になると丸坊主にしていた自分の体験を披露した。父が日本軍の兵士だったので、私にも何がしかの戦争責任があると感じていたからである。
 長い前置きをした後、「鶴見先生が他の戦後の日本の知識人と違って私に魅力的に見えたのは、今日のお話のなかで先生は自分の偏見としてUSAを信用していないと繰り返していたが、そのアメリカのプラグマティズムに由来しているのではないか。先生はご自身ではどう思っていますか」と問うた。
 鶴見さんは、しばし沈黙した後、「ありがとう」と一言いって、私の質問には直接答えず別のエピソードをいくつか披露された。以後、誰の質問に対しても、直答することなく、関連のありそうな話題や体験談を提供することを繰り返した。講演と質問は三時間に及んだ。
 会が終わって参加者の一人が私に、「鶴見さんはとても嬉しそうな顔をしていたから、あなたの発言は核心を突いていたのだと思う」と教えてくれた。残念ながら、私は鶴見さんの表情の変化に気づく余裕はなかった。
 鶴見さんは、戦後まもなくの著書『アメリカ哲学』の中で、プラグマティズムをあえて訳せば「行為主義」がいいと書いている。私は、鶴見さんが米国から学んだプラグマティズムの思想が戦後の「生活改善運動」のなかにも潜んでいたと思っている。それは米国が育んだ思想の中で最も良質なものである。もしその思想を、生活改善の脈絡の側に手繰り寄せることができるのなら、両者の関係を明らかにして後世に伝えたいと思う。

2007.6.27 片倉和人

http://www.rircl.jp/column-201.htm

ベトナム反戦と大村収容所
 また、「思想の科学」で思いっきり長い韓国ルポを書きなさいとも言ってくれた。しかし貧乏学生では原稿料を前借りしてもちょっと経費が足りない。それではと鶴見さんは「アサヒグラフ」の編集者に引き合わせてくれ、その両誌にルポを書くことで旅は実現することになった。
 その頃、密入国後に長崎県大村収容所に収監、病気仮出所中という任錫均さんが、京都に私を訪ねてきた。「収容所の仲間が京大新聞を読んでいたので、あなたの韓国ルポを毎回楽しみにしていた」と言った。鶴見さんと、彼の親友飯沼二郎人文研助教授に相談すると、早速、二人は彼を守る運動を立ち上げようと応えてくれた。お二人は、「そもそも大村収容所の存在も許せない」という点でも一致した。

2015.7.26.長沼節夫(1942年生まれ)記

雑誌「朝鮮人」を創刊
 雑誌創刊を鶴見さんと飯沼さんのどちらが言い出したのかは知らない。「朝鮮人を苦しめるこの収容所が廃止されるまで出し続けよう」と言い、表紙に「朝鮮人・大村収容所を廃止するために」と大きく刷り込んで毎号、須田剋太さん(1906-1990)が表紙絵を無料で寄せてくれた。司馬遼太郎の「街道を行く」に挿絵を描いていた画家だ。
 当初、塩澤由典(1943年生まれ)・石山幸基(共同通信社記者。カンボジアで取材中、病死)と私が、また我々が去った後は小野誠之弁護士(1942年生まれ)が加わったが、中心はずっと2人で、1993年、本当に収容所を廃止に追い込んでしまった。「私が目的を達成した雑誌は生涯でこれ1つ」というのが、鶴見さんの自慢だった。


2015.7.28.長沼節夫記
チョーさん通信「追悼・鶴見俊輔さん
http://chohsan.blog.so-net.ne.jp/archive/c285115-1

 2004年に発表され、今ではDVDも発売されている『海女のリャンさん』(2004)、『HARUKO』(2004)という在日朝鮮人女性の個人史を追ったドキュメンタリーがある。彼女たちは済州島に生まれ、植民地期に日本での生活、労働を経験し、解放後は南北分断の過程(済州島4.3事件)で日本に密航、家族離散するという共通の経験を持つ。同時に、家族や自身が大村収容所に収容されるという経験でも共通する。
 大村収容所は、米軍占領期の1950年12月、強制送還が決定された不法入国者等を収容・送還する施設として、長崎県大村市に設置されたが、そこに収容される「外国人」は「日本の植民地支配の余波にさらされた朝鮮人不法入国者や刑余者」であった。
 上述した二つの例を見ても「解放」後に再入国した在日朝鮮人は「密航者」の経験と、大村収容所への収容の経験と隣り合わせていたことがわかる。
 彼らの経験は、ベトナム戦争で九州各地に漂流した「インドシナ難民」が、大村収容所に隣接された「大村難民一時レセプションセンター」に収容され、定住支援を受けたのに対し大きく異なる。
 「解放」を迎えたにもかかわらず、なぜ在日朝鮮人は「密航者」として管理されたのだろうか。朝鮮戦争時に「密航者」として大村収容所に収容され強制送還された朝鮮人の経験と、上述した「インドシナ難民」との経験の差異からこのような問いが出され、挽地康彦さんの「大村収容所の社会史」(2010年5月15日)は始まった。講座では、大村収容所、九州北西部沿岸という地政学的な空間に焦点を当てることを通して、連合軍や日本社会の絡み合った関係性、朝鮮人越境者が「密航者」として管理の対象になった経緯の考察がおこなわれた。
 まず在日朝鮮人が「密航者」という管理の対象になったことをめぐり、連合軍と日本政府の連係が指摘された。植民地期に「日本国民」であった旧植民地出身者は、サンフランシスコ講和条約発効まで「日本国籍」を有する内なる外部として、複雑かつ不安定な法的地位を担わされる。外国人の人権保障の立場をとったGHQは日本の旧憲法体制とは対称的だが、「占領当局の利害や態度と日本のコロニアルな姿勢との調和」(テッサ・モーリス=スズキ)がおこなわれた。具体的には帰国事業の”逆流”阻止と防疫対策(コレラ流入阻止)が日本政府の新たな国境に依拠した管理取締と連係することになる(ジョン・ダワー「SCAPaneseモデル」)。さらに朝鮮半島南北分裂、中華人民共和国成立といった東アジア情勢、アメリカ占領政策の変化(反共の防波堤)を通して、コレラ流入阻止は「共産主義への脅威」へ転位し、「密航者」管理は継続する。このようにして、在日朝鮮人のこれまでの生活圏・交易圏が分断され、人びとの移動の目的が変わらない中、密航・密貿易社会が誕生したのである。
 さらに、在日朝鮮人をめぐる「密航者」としての管理は、戦後日本のナショナリズムに結びつくことで、米軍占領期以後も継続することになる。1952年5月、講和条約発効後の第1回目の強制送還を韓国政府が受け入れ拒否した「逆送還事件」が起き、その結果強制送還反対と逆送還者の即時解放を求める闘争へとつながっていった。挽地さんは、同時期に起きた「日本人漁夫抑留事件」によって日本で大村収容所が初めて関心を集めたことに焦点を当てる。「日本人漁夫抑留事件」とは、李承晩大統領による海洋主権「李承晩ライン」内で操業した漁夫がつかまり、釜山に抑留されたというものである。そして、これらの事件は1957年12月31日「日韓抑留者相互釈放覚書」という外交処理により決着するが、それは大村収容所の旧植民地出身収容者の不安定な法的地位に目を向けられた結果の釈放ではなく、日本人漁夫釈放の掛金としての釈放であったという。よって大村収容所をめぐるこれらの事件が日本の領域意識(戦後ナショナリズム)を高めることにより、「密航者」としての管理が継続されることになる。
 質疑応答では、朝鮮戦争期の朝鮮人をめぐる人権問題が指摘された。当時彼らは「密航者」とされることで、戦場から逃れてきた/逃れているにもかかわらず、戦場に戻される危険に晒されていたのである。
 解放されたにもかかわらず、「密航者」として管理されたという、挽地さんが大村収容所を通して提示した構造や視点は、「併合」100年/「在日」100年の植民地遺制の暴力の継続を示してくれた。


YMCAの連続講座、Cut'n'Mix(カットアンドミックス)
挽地康彦(和光大学・社会学、移民研究)「大村収容所の社会史」
https://blog.seesaa.jp/cms/article/regist/input



 
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2015年11月20日

ハンセン病強制隔離政策

 14歳でハンセン病にかかってハンセン病国立療養所・多摩全生園入所し、いまもそこで暮らしている方に平沢保治さん(1927年、茨城県生まれ)がおられます。
 何歳になられるんでしょか、いまもそこの「国立ハンセン病資料館」で語り部としてご活躍されています。
 今年中に一度、資料館を見学して見てみたい気が日増しに強くなっているヤッホー君、まずは、と手にした本が『母ちゃん、ありがとう〜ハンセン病の夫と息子を支えた94年の生涯〜』(かもがわ出版、2009年)。
 母、秋(1901〜1993)を歌ったご本、こんなふうな出だしです。

 生まれた野木村は近くに思(おもい)川が流れ、渡良瀬川との合流点でもあり毎年のように水害に見舞われ、米作も3年に一度ぐらい、全収穫されれば良い方でありました。。。
 思川はかつては暴れ川と言われ、そのために足尾を起点とする渡良瀬川の合流地点にあった谷中(やなか)村は、遊水池をつくるために全村民が県によって強制的に立ち退かされ、栃木県の那須高原等に移住しなければならない事件が起こりました。
 それを阻止するために立ち上がったのが田中正造翁(1841-1913)です
。。。
前掲書15頁

 ドキッとビックリしてひっくりかえりそうになったヤッホー君、あっつなっがってる、と一言だけ漏らしたそうな。
 そうなんです、今年の秋、「秋」さんと田中正造が結びついてしまっていました。
 なんでってぇ〜、平沢さんの本に目を落とすと:

 こうした土地に生まれた母の両親は頑固でありましたが、田中正造翁の「義と愛」に満ちた考え方に共感し、日々の暮らしや子どもたちの教育に生かそうとしていたことを、私は母から常に聞かされていました。
同書、16頁

 平沢さんは1939(昭和14)年小学校を卒業、茨城県の古河から東京に出ますが、ハンセン病を発病していたのでしょう、1941(昭和16)年12月24日、療養所に入ります。その数日後には同じく発症していたお父さんも警察の手によって入所してきます。

「ハンセン病療養所、その実態は収容所であった」
(ヤッホー君のこのブログ、昨日付けの日記「映画『もういいかい』」)


 この映画にちょこっと実名が登場するのが光田健輔(1876年山口県生まれ、1964年)。
 戦後、1951年「文化勲章」を受章しています。
 しかしwが国の採った強制隔離政策は病理学者のイデオロギー(「この道しかない」)、光田イズムが国際情勢と乖離したまんま、えんえんと1世紀にも及んで蔓延してしまっていたのです:

 第3回国際らい会議が1923年にフランス北東部のストラスブールで開かれ、日本からの出席者は光田健輔その人であった。。。
 当時発表した光田健輔の「癩問題の危機」と題する論文を見ると、以下のような見解を吐露し、日本のハンセン病医学及び政策と国際的動向との乖離のまさに出発点になっていく点にここでは止目してみたい。
 つまり、彼はそこでは「思うに此説の発生に癩症状に対する学者の無知と癩政策を加味したる治療至上主義の胚胎せざるものにして、吾人今日に於て警告を加うるにあらざれば百年の悔を残すべし」と強調したり、また、同学会中の「ウナン氏の如くNichtIsolierung,sondernBehandlungistnotwendig 隔離不必要にして治療は必要なりと絶叫するが如きは実に癩問題の危機に瀕せしむるものと言わざるべからず」と主張しているからである。。。

 その背景にナショナリズムと優生主義に基づく「民族浄化」思想が介在していた点も見逃してはならない。
 つまり、この「民族浄化」思想は一つの集落からハンセン病患者を摘発することにより、まずその集落を「浄化」し、次いで集落の「浄化」により市町村を「浄化」し、続いて市町村の「浄化」により都道府県を「浄化」別言すれば「無癩県運動」を展開し、最後には国家・民族を「浄化」するという所謂四段階を想定した。
 そして、この論理に立脚するならば患者にとって隔離に応ずることはまさに国家のため民族のためとされ
た。そこで、光田健輔は「癩予防法」で被隔離者の家族の生活も保障されていることを挙げて、

「軍人は国のために屍を満州の野に曝すを潔とし、進んで国難に赴いた。銃後の人は之れを支持するに勉めた。それと同じく我等も村の浄化のためにも自分の疾病を治すためにも進んで療養所に行くべきである。況や皇太后陛下が日夜我等病者のために御しんねん軫念遊ばさるると聞くに及んでは一日も早く不安の旧里を捨てて療養所に行くべきである」

と患者を出征兵になぞらえ、隔離に応じることをその使命であるかのように位置付け、隔離により

「其村は浄化せられ、将来不幸者の続出の悲惨事を断つに至った事は国家社会の慶事である。吾人は今日迄全国各所に於て浄化せられた村数ヶ所を知る。尚此れに習う部落若しくは村が続出せん事を希望してやまない」
と語っている。。。

 ハンセン病予防を目的としたらい予防法は、かつて伝染病予防法、結核予防法、性病予防法、精神衛生法と並んで、国民の健康を守る重要な法律の一つと考えられてきた。
 ところが1996(平成8)年3月27日89年間も続けられてきたらい予防法は廃止され、また、その
二年後に熊本地方裁判所に提起されたハンセン病国家賠償訴訟では、らい予防法による国家の隔離政策について、遅くとも政府は1960(昭和35)年までに、そして国会は1965(昭和40)年までに廃止すべきであったとして、2001(平成13)年5月11日、国に対して原告患者側に賠償を支払うことを命じた画期的な判決が示された。
 つまりは国家が施行してきたハンセン病対策が間違いとされ、患者に対する人権侵害が行われてきたことを司法によって断罪されたわけだ。
 その意味でこの判決は日本の人権問題にとってまさに歴史的大事件であり、医学にとっても伝染病に対する法による隔離が人権侵害としてはじめて問われた大事件でもあった。


山川基、小笠原真(愛知学院大学文学部客員教授)、牟田泰斗(愛知学院大学大学院文学研究科博士前期課程)「日本のハンセン病強制隔離政策と光田健輔」
2010-02-27発行「就実論叢」所収
http://repository.shujitsu.ac.jp/metadata/4

 いや〜、指導者の狂気としか言いようがありません!!
 wが国の人がwが国の他の人に対して、断種に胎児標本に死後の解剖…

「『かわいい女の子だよ。髪の毛もふさふさしてあんたに似てるよ』看護婦はこういうと声が出ないように赤ん坊の顔を押さえた。顔にガーゼがかぶせられ足をばたばたさせるのを見た。それが我が子を見た最後だった」

 全国の国立ハンセン病療養所などには、こうした人工流産か人工早産などによる胎児または新生児のホルマリンにつけられた標本がたくさん保存されている、とする「胎児等標本についての検証」の結果を報告書として検証会議は1月27日、厚生労働省に提出するとともに記者会見を行い、その内容が明らかにされました。。。

 先生(光田)は言われた。
「ここには研究材料が無限にころがっているのですからね。ただそれを使う人がいないばかりにむざむざ放って置くだけなのだ」(神谷美恵子「新版・人間を見つめて」朝日選書)(注)など枚挙にいとまがない。
 入所者には「解剖承諾書」への署名が強要され、半数以上の療養所で1980年頃まで、ほぼ全死亡例への病理解剖が継続されている。これらの文章から読み取れるのは精力的に病理解剖がなされたが亡くなった患者はあくまでも研究対象物として扱っている。病理解剖の目的の一つは、その成果を発表して医学、医療の発展に寄与することであるが、果たして膨大な数に上る解剖結果が、医師たちによってどれくらい発表され、世に問われたかを考えると大きな疑問が生じて来る。
 また、病理解剖であれば、死亡の原因となった疾患を研究するため、主たる病変の認められる臓器およびその影響が及んだと考えられる臓器が切り出され、保存されるのが医学的常道であるが、ハンセン病療養所に保存されているのは体のほぼすべての臓器であり、保存の目的が全く理解不能で、この点でも医学的常識を極めて逸脱している。このあたりの倫理感の欠除も充分指摘されねばならない、ということです。


全療協ニユース895号「家族の肖像」サイト
胎児標本等調査報告書、医療倫理の欠除指摘
http://www.geocities.jp/bontaroo109/895taizi.htm

ほかにもお役立ちサイトに「胎児標本問題の推移」:
http://www.geocities.jp/libell8/16-4taijihyouhonmondai.htm

(注)神谷美恵子(1914-1979)
 神谷は一方で『精神医学研究T』(『神谷美恵子著作集』7)では日英独仏の文献を網羅して、高度な「癩に関する精神医学的研究」や「限界状況における人間の存在―癩療養所における一妄想症例の人間学的分析― 」などの長文の論文を書いているにも拘らず、他方で光田健輔が押し進めた例えば断種にも決して異を唱えたわけでもなく、また、ハンセン病は極めて伝染力の弱いところから、京都大学医学部皮膚科特別研究室の小笠原登博士のように、隔離政策の不要性を指摘したわけでもない。
 さらに、神谷はフランスの哲学者ミッシェル・フーコー(MichelFoucault,1926〜1984)の翻訳を手掛けた経驗から、近代社会の排除のメカニズムにも通じており、当然近代化する日本がハンセン病者達を排除することで、国家共同体を強化しようとしていたこと位は当然理解していた筈だが、それについては完全に沈黙を押し通してしまっている。
前掲、小川基ほか論文、163頁



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2015年11月19日

映画『もういいかい』

「10月も最後の日、ヤッホー君は映画「あん」を観て泣いていました」
 (ヤッホー君のこのブログ、2015年10月31日付け日記「映画『あん』)
 そうなんです、あれは何なんだったんだろうね、とヤッホー君が育った村のことを想いながら観ておりました。
 そうなんです、”ひびょういん!”とおそろしげに、小さい声でぼそぼそって村の大人たちが会話するあの響き。
 少年少女たちも目をあわせぼそってつぶやいていたあの残響がイマも残る”ひびょういん”に重ねあわせながら、
 ヤッホー君は映画『あん』を観ていたのです。
 ですので、昨日、”Duo Recital in ティアラこうとう 小町碧(ヴァイオリン)、サイモン・キャラハン(ピアノ)”で夢見心地になったあと、急ぎ足で向かっていました。
「人権ライブラリー」(港区芝大門2-10-12 KDX芝大門ビル4F)。
 えっ、また浜松町?

そこがどんなところか、誰も知らなかった。
そこは忘れられた国であった。

ハンセン病療養所
その実態は収容所であった。

国はハンセン病患者を療養所に強制隔離し、たとえ治癒しても
社会に帰ることを許さない、という政策をとった。

ハンセン病患者を療養所にとじこめて絶滅させる、という
この政策こそが今日のハンセン病問題すべての根源である。

この枠組みを作ったのが次の三つの法律である。
@ 「癩予防ニ関スル件」(1907年、明治40年)
A 旧「癩予防法」(1931年、昭和6年)
B 新「らい予防法」(1953年、昭和28年)
上記の三つの法律により、ハンセン病は恐ろしく危険な病である
という誤解が定着してしまいました。

ハンセン病は、らい菌によって起る慢性感染症です。
1873年、ノルウェーの医師ハンセンがらい菌を発見したことから
この呼び名があります。
病原性は弱く、治療薬によって治ります 。現在はインドやブラジルなど
比較的貧しい国に患者が多くいます。
ハンセン病が昔から差別を受けやすかったのは、
顔や手足など、目につきやすいところに変形や機能障害が残ったからです。


映画『もういいかい』(2012年)
監督:高橋一郎
(1953年神戸市生まれ、現・宝塚大学准教授) 
http://slowcom.fc2web.com/hansen1.html

 ドキュメンタリー映画にひょいと現れた島比呂志さん(1918-2003)の小説『奇妙な国』(新教出版社、2008)!
 
 今日3月22日は島比呂志さんの命日です。
 島さんは、1998年7月に熊本地方裁判所に提起したらい予防法違憲国賠西日本訴訟の最初の原告13人のひとりです。
 当時は鹿児島県鹿屋市にある星塚敬愛園の夫婦寮に配偶者とふたりでお住まいでした。
 そもそも私たち弁護士がこの問題に関わるようになったきっかけは、島さんが、当事務所の設立者である池永満弁護士にらい予防法による人権侵害について訴える手紙を書き、池永弁護士から勧められ、彼が当時事務局長を務めていた市民団体「患者の権利法をつくる会」の機関誌「けんりほうnews」48号(1995年7月)に「法曹の責任」という原稿を寄せたことにありました。
 前年の10月、ハンセン病療養所所長連盟と日本らい学会が「らい予防法」の廃止と新法制定を求める見解を発表し、厚生省が法廃止の作業に入っている中、
☆ 「らい予防法」を黙認している法曹界は、悪法の存続を黙認していると受け取られても仕方がないのではないか。
☆ せめて「患者の権利法をつくる会」に所属する弁護士には法曹界のトップを切って、らい予防法廃止を指示する見解あるいは生命を発表してもらいたい、
☆ また無実の死刑囚にも匹敵する被害を被っている入所者の保障(ママ)について法律の専門家として、具体的に考えてほしい、
と訴えるものでした。


2012年03月22日13:41 九州合同法律事務所
島比呂志さんをしのぶ
http://blog.livedoor.jp/kyushugodolo/archives/4535596.html

 この「らい予防法」が廃止されるのは平成の世になってから1996(平成8)年4月のことですから、20世紀の間じゅう、90年間も続いていたんですね、「らい予防法」。
 「らい病」の菌は結核菌の兄弟分とか、だから不治の病気ではなく、薬で治る病気、事実WHO(世界保健機関)は、1960(昭和35)年、外来治療管理の方向を勧告していたにもかかわらずwが国は1996年まで強制隔離政策をとっていたんです。
 島比呂志さんの声:

 私は新憲法が公布された翌年(1947年、昭和22年)6月、国立癩療養所大島青松園(香川)に入園、1年後の1948年6月、国立癩療養所星塚敬愛園(鹿児島)へ転園、以来50年、強制隔離の中で一貫して執筆活動に明け暮れてきた。
 そしてそのテーマは、入園当初に経験した二、三の出来事に由来している。
 一つは、半強制的に優生手術(断種)を受けさせられたこと、
 二つ目は自作の短編小説が園長検閲によって発表禁止処分を受けたこと、
 三つ目は忘れもしない1950(昭和25)年5月3日の憲法記念日に、園長が一人の病友を退園処分にした事件で、2年間抗議行動を続けた結果、5日間の監禁と1年間の公職停止処分を受けたことなどである。
 以上のような事件に出合って、私は国家権力の非人道性、非人権性を痛感した。
 ここは新憲法の及ばない異国なのか、癩患者は人間ではないのか、日本人ではないのか、と苦悩した。
 したがって私の文学は、人間回復を模索した道標のようなものであり、その旅は今も続いている。


1998年5月1日「けんりほうNEWS」0822号
星塚敬愛園・島比呂志「やっと燃えた怒りの火―ハンセン病訴訟・告訴宣言―」
http://kenriho.org/news/kenrihonews/1998/05/post-153.html

 絆、結い、トモダチなんてあの3.11のころ声高に誰もが叫んでいましたけどイマ、福島はどうなっているんでしょうか、
 沖縄の人びとの声を「銃剣とブルドーザー」で静め、ゲンパツを国は平気で再稼働していますし(*)、
 それは、wが国には、絆、結い、トモダチなんてなかった、ない、ことの証明みたいなもんですよね、あ〜あ…

(*)
【辺野古問題取材班】名護市辺野古への新基地建設に反対する市民らが米軍キャンプ・シュワブのゲート前に座り込みを開始して500日を迎えた11月18日午前、ゲート前では県議団や市町村議団、市民団体などから約1000人が駆け付け、大規模な抗議行動が始まっている。20日まで3日間行われる。
 参加者はシュワブの3カ所のゲート前と国道沿いで新基地建設に反対し、拳を上げている。同日午前9時45分現在、県警と警視庁の機動隊はゲート前に姿を見せず、工事関係車両は基地内へ入っていない。。。
 市民らは基地内で機動隊などの動きがあるとして、引き続きゲート前を中心に座り込み、工事車両の進入に対し警戒を続けている。
 大浦湾に設置されたスパット台船3基にそれぞれ作業員数人の姿があり、水中に掘削棒が下りていた。大型クレーン船で作業は確認されなかった。
 基地建設に反対する市民は辺野古沖に抗議船3隻とカヌー13艇を出して、抗議した。

2015年11月18日 11:32 琉球新報
千人が集結「機動隊も来ないぞ」  辺野古 座り込み500日 
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-173763.html

 九州電力川内原発1号機が今年2015年8月11日、4年3か月ぶりに運転を始めた。
 原子炉が出した熱の実に3分の2は電気にならず、温排水として海に捨てられる。「海暖め装置」でもあるのが原発だ。一方、2年近く続いた原発ゼロ期間中、各地で原発周辺の海洋環境が劇的に改善したとの報道が相次いだ。
「それまで浜辺に魚などの死体が打ち寄せられていたのが、川内原発が運転を止めてからピタリと止まりました。劇的な変化でした」と話すのは、市民団体「反原発・かごしまネット」の向原(むこはら)祥隆さんだ。。。
 九電は温排水の影響を否定するが、向原さんらは温排水によって川内原発周辺海域で環境破壊が生じているとして、2010年10月に九電を相手取り「温廃水」訴訟を起こした。訴状で、温排水の影響として「海洋生物の死亡漂着」「原発南側での海藻の全滅」「原発南側に隣接する漁協での漁獲の激減」などを挙げている。
 鹿児島地裁は2012年10月、訴えを退けた。

2015年9月6日HARBOR BUSINESS Online
川内原発再稼動で再び懸念される「海の環境破壊」
http://hbol.jp/58720



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2015年11月18日

小町碧

 今日は午後から雨が降るという天気予報で、歩いて「ティアラこうとう」へ。
 途中でひょいと「長谷川平蔵、遠山金四郎屋敷跡」のモニュメント、標柱が目にとまりました。
 今日の「ティアラこうとう」は大ホールで音楽会があるのです。
 ”Duo Recital in Tokyo 小町碧(ヴァイオリン)、サイモン・キャラハン(ピアノ)”だったのです。

――自己紹介をお願いします。日本の出身地はどちらですか?

 ロンドンを拠点に活動するヴァイオリニストの小町碧です。主にソロや室内楽のコンサート活動の他、ワークショップ等の指導もしています。今年2014年4月にファースト・アルバムをリリースしました。
 一応、川崎出身なのですが、実は人生の大半を海外で過ごしてきました。3歳の時に家族で香港へ引っ越し、その後、スイス、イギリスへ移りました。15歳の時に両親は日本へ帰国したのですが、私はロンドンで勉強したいという願いがあったので、イギリスに残りました。それ以来ずっとロンドンに住んでいます。2012年に英国王立音楽院を卒業しました。

――サイモン・カラハンと共演しているデビュー・アルバム「Colours of the Heart」について教えて頂けますか?

「Colours of the Heart」は2014年4月にリリースされました。「ディーリアスとゴーギャン」というテーマを基に、ディーリアス、ドビュッシ―、ラヴェル、グリーグの作品を収録しました。スタインウェイ・ピアニストのサイモン・カラハンとは2012年よりさまざまなコンサートで共演しています。サイモンや、プロデューサーのジェレミー・ヘイズ、素晴らしいチームと共にこのアルバムを録音できて光栄でした。

――小町さんのヴァイオリンについて少しお話し頂けますか?とても美しい楽器ですね。

 私のヴァイオリンは1920年、モダン・イタリアンの楽器です。100歳に近い楽器ですが、16世紀まで遡るヴァイオリン製作における歴史の中では、まだ「モダン」と呼ばれています。良い楽器は年を重ねると共に音が成熟し、弾きこまれていくと更に深い音が鳴るようになります。ヴァイオリンはまるで人間の声のようで、それぞれ「性格」があるので相性の合った楽器と出会うことは、ヴァイオリニストにとってとても大切なことなのです。

――日本にはどれぐらい一時帰国されていますか?又、日本の一番好きなところは?

 日本には年に2回ぐらい帰ります。日本で一番好きなところは温泉です。去年は、河口湖の温泉にて、富士山の美しい絶景を堪能しました。また温泉に行くと旅館の美味しい食べ物があるので、それも楽しみの一つです。温泉と食べ物で思う存分リラックスできるのは、きっと他の国に行ってもできないことだと思います!


November 5, 2014
小町碧インタビュー 英国で活躍するヴァイオリニスト
Written by Michael Sullivan
http://japanstore.jp/blog/midori_komachi_/

小町碧、公式サイト:
http://www.midorikomachi.com/

「ティアラこうとう」で小町碧、英語でサイモン・カラハンに日本の印象を聞いてみましょう、とマイクを差し出しました。
「日本の食べ物が大好きです。でも東京とロンドンの大きな違いは、地下鉄です」と日本語で返事が返ってきました。
 ラッシュアワーにあってしまったのだそうです。
 でも会場はこれでなんとも言えない暖かい雰囲気に包まれていきました。
 ユーモア、ですよね。

サイモン・カラハンSimon Callaghan、公式サイト:
http://simoncallaghan.com/

 ロンドン・スタジオへようこそ!
 英国を拠点に活動している、ヴァイオリニストの小町碧です。
 ロンドンに住み始めてから、かれこれ12年。深い歴史のある文化から新しい流行まで、音楽家の私にインスピレーションを与えてくれるこの街。そんなロンドンでのさまざまな発見をお伝えしていきます。
 さて、英国の作曲家、と言えば皆さんはどの作曲家を思い浮かべますか?
「威風堂々」を書いたエルガーや「ジュピター」を書いたホルストは、世界的に有名ですが、素晴らしい作品を書いた作曲家達がたくさんいます。
 私は最近、2015年1月31日にロンドンで行なう子どものためのワークショップ「The Music Box」のプログラムを構成した際、子供達にクラシックに親しみを持ってもらえるには何を弾いたら良いのか?と考えて選んだのが、エルガーの音楽でした。
 エルガーの「威風堂々・第1番」は、「イギリスの第2国歌」とも呼ばれています
 今では、毎年夏に行われるロンドンの音楽祭、BBC Promsにて、およそ5000人の聴衆の合唱と合わせて演奏されるのが定番です。
 元々、この行進曲には歌詞がありませんでした。
 1901年に初演を聴いたエドワード7世が、是非このメロディーに歌詞をつけてほしい、と依頼したことから、エルガーはベンソンによる歌詞をつけました。
 以来、英国では、「威風堂々第1番」の中間部に出てくるメロディーを、’The Land of Hope and Glory’「希望と栄光の国」と呼びます。
 さらに、この曲は1931年にロンドンのアビーロード・スタジオの開館式にて演奏されました。その際、エルガー自身が指揮をしました。
 ビートルズをはじめ、さまざまな著名アーティストや、映画音楽が録音されてきたアビーロードで最初に録音されたのも、エルガーの管弦楽曲、「ファルスタッフ」です。
 演奏前に、エルガーはこんなことを言っています:

’Morning, gentlemen. Glad to see you all. Very light programme this morning. Please play this tune as though you’ve never heard it before.’
「皆さん、おはようございます。お会いできて嬉しいです。今朝は少し短めのプログラム。このメロディーを今まで一度も聴いたことがないかの様に、演奏してください」

 エルガーの演奏家達へのメッセージが、彼の音楽と共に、心に響きます。


2015.01.15 12:00:00 小町碧のロンドン・スタジオ
エルガーとアビーロード・スタジオ
http://www.st18.jp/studio/detail.asp?uid=2&id=65

 またこの曲の第1番の中間部のメロディは、イギリスの第二の国歌として愛唱されています。
 1901年に行われたこの曲のロンドンでの初演は大成功で、当時のイギリス国王エドワード7世の耳にもとまりました。国王はこの曲のメロディを「いずれ世界中に広まるだろう」と絶賛し、エルガーに歌詞を付けることを勧めました。そこでエルガーは、このメロディにイギリスの高名な作家A.C.ベンソンの祖国を讃える内容の詩を付け、「希望と栄光の国」というアルト独唱、合唱団とオーケストラのための曲を作りました。さらにこの曲は歌曲にも編曲され、国歌につぐ国民的な愛唱歌となっていったのです。


おんがく日めくり
イギリスの作曲家、エルガー誕生(1857〜1934)
妻と祖国を愛し続けた作曲家
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990602

 では本日のプログラムを:

★ エルガー:朝の歌 Elgar: Chanson de matin Op.15/1
★ フォーレ:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番 Fauré: Sonata in A Op.13
★ フィンジ:エレジー Finzi: Elegy
★ ラヴェル:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ Ravel: Sonata in G

 エルガーの「朝の歌」をニュージーランド交響楽団の演奏でどうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=sU1TEw8CI-M

[おまけ]夏だから、フィンジが聴きたくて…癒しの涼風フィンジ・メドレー:
https://www.youtube.com/watch?v=UzXTxYUEytU



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九条の会

「10月も最後の日、ヤッホー君は映画「あん」を観て泣いていました」
 (ヤッホー君のこのブログ、2015年10月31日付け日記「映画『あん』)
 映画が終わって、原作者ドリアン助川と徳江を演じた樹木希林が壇上にあがってきました。
 ヤッホー君は初めてお会いしましたぁ〜。
 生出演なさった皆さん、映画ができるまで、そして映画ができた後の上映会のエピソードを笑いを誘いながら、こころに浸みいるようにお話ししてくださいました。
 そして、11月18日水曜日の朝、ヤッホー君、樹木希林と、も一度再会し、もうビックリ:

――今日は山口県まで来てくださってありがとうございます。

 いえいえ、私は立派な人間じゃないのでどうかとは思ったんですが、奥地さんやみなさんが長いあいだ不登校に向き合ってこられたと聞きましたので、それならばと思い来させていただきました。ただ「予算はない」と聞いておりますので、片道の交通費だけいただいています(笑)。
 まあ、それよりも、お話をいただいたのが半年以上前だったので、からだのほうが心配でしたが。

――「全身ガン」だとうかがっていますが。治療はどうされてますか?

 まず、抗がん剤は飲んでません。放射線治療や摘出手術など一般的なガン治療もほとんどしていません。
 ガンというのは無理に「治そう」と思うと、切ったり、焼いたり、体に無理をさせることになってしまいます。だから私はガンを引き受けることにしたんです。
 生活習慣を見直して、よぶんなものは削いで養生していく。ただただ自分を削いでいけばいいんですよ。そうやってったらね、ずいぶんと楽になりました。
 「あきらめる」というと語弊があるかもしれないけど、自分の分を知るというかね。
 もちろんこれは私のやり方だからみなさんもそうしなさいって話じゃないんですけど。

――今のお話、不登校はもちろんすべてに通じる話ですが、なかなかそうは思えないですよね。もっと楽になりたい、幸せになりたい、と願うものですが。

 でも、幸せって余計なものかもしれませんよ。長い人生、ずーっと幸せなんてことはない。いろんな局面があって、ふとした拍子に「ああ、今日はいいお昼だったなあ」と思えるときもある。
 「禍福は糾える縄の如し」とも言いますが、不幸だと思ったことが幸せに感じたり、幸せを感じていたら急に落っことされて(笑)。
 人間なんて、そんなもんだと思えば、逆に幸せは余計に感じるんじゃないか、と。

――自分の「あるべき姿」を求めるから、落ち込んでしまうというか。

 そうなんです。これが自分なんだとわかっていたら、あんまり、その手のまちがいは起きないと思うんです。
 私はさいわい役者の仕事をしてるので自分を俯瞰して見ることが多いんです。私だって役者は美人がやるものだって思ってたんですが、どうやら私の役回りはちがう。それがわかってくると、卑屈になるというよりは、なんとなく自分の使われどころってのが見えてくるもんなのね。むしろ気は楽になるぐらい。
 だから一事が万事、世間一般がどうかで考えるより、私の場合はどうかで考えるといいのかなと思ってます。

2015年11月17日 11:19 WEB版「不登校新聞」 by kito-shin
足るを知れば楽なのよ 樹木希林
http://futoko.publishers.fm/article/10029/

 この「不登校新聞」、今夏、亡くなったばかりの鶴見俊輔さんとのインタヴューも記事として掲載しております:

――先ほどの編著では、子どもたちの学校でのふるまいを、ある種の「学生運動」として とらえるという視点を出しておられますね。

 幼稚だと、最初からバカにするんじゃなくてね。そういうことでいえば、大学生の学生運動のほうが、よほど幼稚だよ。小学校で不登校をする子どもとくらべて、大学生の運動が幼稚でないといえますか?
 私は、1960年に国立大の教員を辞めて、そのあと同志社大に10年いて、機動隊の導入を機会にそこも辞めたんだけど、そのころ学生たちが「大学を解放して真の学問を我らの手に!」なんていう看板を立ててた。
 大衆団交の席で、学生たちが私を指名したら、言ってやろうと思ってたんだ。「真の学問を!なんて、あなたがた、そんなことを言ってたらエンマ様に舌を抜かれるよ」って。ところが、学生たちも平生の私の考え方を知っているものだから、私に発言の機会を与えないんだよね。(笑)
 学問ということでいえば、むかし、アベグレン(日本の企業経営の特質について最初に言及したアメリカの経営学者)が、私にこんなふうに言ったんだ。

「アメリカの核の傘も問題だけれど、自分たちが関係する学会の状況からすれば、むしろアメリカの大学院の傘のほうが問題だ。今の日本の学者・教授たちは、アメリカの大学院で教えられて自分の仕事ができるようになっている。この自覚がないんじゃないか」と言うんだ。

 今でも日本の学会はアメリカの学会の掌中にあると言ってもいい。これは、アメリカの学会や教授たちにとってきわめて具合がいいんだ。自分たちの学説をすぐ理解して、もちあげてくれるから。私の知る範囲でいえば、逆にアメリカの人文学に揺さぶりをかけることができた日本の学者は、戦後50年に1人もいないのじゃないか。
 アメリカの学会を攪拌したのは、たとえば、『オリエンタリズム』を書いたE・W・サイードです。彼はパレスチナ人ですね。日本からは、彼のような仕事をする人が出ていないですね。

――ご自身のこれまでをふりかえられて何か・・・

 何度も自殺未遂を図ったり、戦中のアメリカで投獄されたり、負ける側につこうと日本に帰ってきたり、それはいろいろあったけど、わたしの人生でやってよかったと思うことがふたつある。
 どちらも、あの「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」の運動から出てきたものでね。
 ひとつは、いまお話しているこの部屋で編集してたんだが、雑誌『朝鮮人』の発行。朝鮮半島からさまざまなかたちで日本に密航してくる人たちを捕まえて北九州の大村収容所に入れてた。飯沼二郎の首唱で、この収容所の廃止を目的に雑誌を出し始めて、目的を達して27号でやめた。この間に在日朝鮮人をはじめ、いろいろな人に出会って、ずいぶんと多くのことを学んだ。

 いまひとつは、ベトナムの戦線から脱走してきた米兵への支援運動。
 小田実って、おもしろい。佐世保に米艦が来るといえば、飛んでいって、最初はヘリコプターを借りて艦上から反戦のビラを撒こうとした。ところが、ヘリコプター会社が承知しない。それで諦めるのが進歩的知識人なんだが、小田は「腐ってもタイ」だね、こんどは漁船をチャーターして、航空母艦の周囲をまわって、メガホンで「ベトナム戦争やめろ!脱走しろ!」ってやったんだ。
 そしたら、ほんとうに脱走兵が出た。で、出てきたら匿って、身の安全を守らなきゃならない。そのとき、アメリカ人の反戦牧師というか、地下牧師がいて、私たちに知恵をつけてくれた。「良心的兵役拒否者」として脱走兵を軍法会議から守るわけだよ。そのためには、ある種の宗教会議を開いて、いろいろと証言を得なければいけない。そのときのやりとりからも、私たちは多くのことを教わった。
 脱走兵というのは、だいたいね、不登校の子どもと同じなんです。全学連の指導者みたいに理路整然と反戦の根拠を述べ立てる人間はあまりいないんです。
 一人いた。けれども、彼はスパイだったんです。そのために本物の脱走兵が捕まるということもあった。理路整然というか、理論というものは、かくも危ういものですよ。

 かつての日本でも、東大を首席で出るような理路整然とした者が、軍国主義の時代になると別の立場の指導者になっちゃうでしょ。その程度のものですよ。
 本物の脱走兵というのはそうじゃない。言葉足らずで、なかなか要領をえない
。それで困ったこともずいぶんあるけれど、しかし、その経験は大きかった。

 このふたつは、自分の一生のなかで重大な運動で、そのために生きてきたと言ってもいいんです。


2009-10-05 WEB版「不登校新聞
鶴見俊輔さんインタヴュー
http://www.futoko.org/special/special-19/page1005-535.html

 ヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの日記でも「不登校新聞」をとりあげていますのでぜひお立ち寄りください:
★ 2014年2月5日付け日記「エゴイスト入門」
★ 2014年3月8日「ビキニ」
★ 2015年3月30日「広島、ビキニ、福島」
 
 それにしても鶴見俊輔さん、歯に衣を着せぬ言い方は、樹木希林とも相通じるところあって、田中正造のこころがはちきれんばかりの演説もそう、それは自分を俯瞰してみることができているからでしょうね、きっと。
 口角泡を飛ばしての議論もそう、
 演壇からの講義じゃなくって、車座になるのもそう、
 相手をねめつけたり、ねめ回したりするのと訳がちがう、
 へらへら媚びるような笑いをうかべるのとちがう、
 受け狙いの冗句、嘘八百、とも違うし、
 もちろん知ってて、黙って公約違反なんてしない、
 マニフェストに違反しそうになったら、どうしてかはっきりさせ、
 相談し、協議し、解決策をはかり、その間の事情を公開する、
 密室のなかでこそこそ、中身は仲間内だけでなんてヒ・ミ・ツ・にしない
 
 いやあ、鶴見俊輔…惜しい方でしたが、類は類を呼ぶと申しますか、「九条の会」の呼びかけ人たちってそんな前向きな積極的、集団関係性を構築していたんですね。
 実はヤッホー君、11月13日金曜日夜、東京都内で開かれた「九条の会」に出席しておりました。

 護憲派の市民団体「九条の会」は11月13日、東京都内で集会を開いた。
 同会の呼び掛け人で作家の沢地久枝さん(1930年生まれ)は、9月に成立した安全保障関連法に触れ「なし崩し的に戦争のできる国に変えられた。皆と一緒に、9条の原点に戻す努力を続けていかなければならない」と訴えた。
 集会は、今年7月に亡くなった、同会の呼び掛け人の思想家鶴見俊輔さんをしのんで開催され、主催者発表で約750人が参加した。
 ノーベル賞受賞者で京大名誉教授の益川敏英さん(1940年生まれ)は「鶴見先生は心の恩師」とたたえた上で「国が(国民に戦争に行くよう)命じる権利はない。私は戦争が嫌いです」と語った。

2015年11月13日 21時58分更新、東京新聞
沢地さん「憲法の原点に戻そう」 九条の会講演会で
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015111301002270.html#print

KC4A0153.jpg
(写真撮影はヤッホー君、ケイタイで撮ったそうです)



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2015年11月17日

護憲

 ヤッホー君も2015年11月16日(月)東京都内で開かれたシンポジウムに出席しておりました。
 伊藤千尋さん(1949年生まれ)のお話しがありました:

 広島市の郊外、山間の住宅地のひっそりとした墓地に、堂々とした黒御影石の石碑が建つ。

 表には20センチ四方の大きな文字で黒く「護憲」と書かれ、しかも何があっても文字が消えることのないようにという意志を示すかのように、4センチも深く石に彫り込んである。
 後ろ側は日本国憲法9条の全文だ。
 自治体や団体による記念碑ではなく、個人が建てた「9条の碑」である。
 碑のそばには「栗原家」の墓石がそびえる。
 ここに眠る栗原貞子さん(1913-2005)、名高い「原爆詩人」だ。
 夫の唯一さんは社会党の県会議員だった。
 碑を建てたのは二人の長女の眞理子さんだ。今は眞理子さんも亡くなり、墓に入っている。
 貞子さんの代表作「生ましめんかな」は、原爆が落とされた日の壕の光景をうたった。
 負傷した被爆者たちがひしめく壕で、赤ん坊が生まれそうになった。
 「私が産ませましょう」と声をあげたのは、重傷を負った…


2015年5月11日付け朝日新聞WEBRONZA、伊藤千尋
広島の墓地に建つ「護憲」
http://webronza.asahi.com/politics/articles/2015050800001.html

 いったい、どんな詩?

生ましめんかな
 
こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
 
マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも

『中国文化』1946年3月



 シンポジウムでこれを朗読なさった方がおられました。
 それは劇団俳優座の中村たつ(1928年生まれ)さん。
 そして合唱も:

憲法九条、五月晴れ
作詞、作曲:廣岡明郎

働きぬいて 夜露をしのぎ
美味しく食べて 静かに眠る
そんな普通の 毎日を
いつものように 送りたい
 アア 生きる私の 大空は
 憲法九条 五月晴れ

家族の笑顔 溢れる笑顔
輝くいのち 大地のぬくもり
そんな時代を いつの日か
世界の人と 迎えたい
 アア 生きる私の 大空は
 憲法九条 五月晴れ

孫のために 子どものために
あんたのために あまえのために
この世に生きる すべてのひとと
私のために まもりたい
 アア 生きる私の 大空は
 憲法九条 五月晴れ


 ヤッホー君、チャランケ祭(*)のときに歩いた中野区のことを思いだしていました:

 区は、1982(昭和57)年8月に「憲法擁護・非核都市」の宣言を行ないました。
 この宣言は、区民の平和を希求する声を背景に、約12,000人の請願を区議会が採択したことによって生まれたもので、私たちのいのちと暮らしを守るために、核を持つすべての国に対して、核兵器をすてよと訴える区民の率直な願いと崇高な思いが込められています。
 
まちには こどもの笑顔がある
ひろばには 若者の歌がある
ここには 私たちのくらしがある
海を越えたかなたにも 同じ人間のくらしがある
いま地球をおおう核兵器は あらゆるいのちの営みを
このしあわせを 奪い去る
私たちの憲法は くらしを守り
自由を守り 恒久の平和を誓う
私たちは この憲法を大切にし
世界中の人びとと 手をつなぎ
核をもつすべての国に 核兵器をすてよと訴える
この区民の声を 憲法擁護・非核都市 中野区 の宣言とする


 この宣言文の英訳文は次のとおりです:

Smiles of children fill
every corner of our town,
Songs of youth enliven every square.
Here develop the lives of our own.
Beyond the oceans and seas
We perceive the lives
of the same humankind.
The nuclear weapons
all around the globe, today,
Threaten to take from us
the act of living
and this happiness away.
Our Constitution is there
to secure our daily lives,
to protect liberty,
Pledging lasting peace.
Valuing this Constitution,
We join hands with people
all around the world,
And appeal to all nations
possessing nuclear threats
To dismantle their arms.
We announce this voice
of our citizens,
As The Proclamation of Nakano
in Support of
the Constitution of Japan
and Our Nuclear-free City.

August 15, l982


中野区公式サイト、憲法擁護・非核都市の宣言
http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d005561.html

(*)ヤッホー君のこのブログ、2015年11月12日付け日記「加藤登紀子×鑁阿寺」をご参照ください。


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11歳ナビラさん

 人殺しの刀、鉄砲を持って人ん家に土足で踏み込むこと
 そんなこと嫌だ、するのもされるのも、命令することも
 自分の血をながしたくない、相手のも血も見たくないよ
 恐怖におびえて、びくびくしながら生きているのは嫌だ
 
 平和、がいい
 
 裏山、里山、高い山いつでも歩いてこれますように
 風にふるえながらも野に咲く小さな花をみていたい
 囀る鳥に耳を傾けていたい
 
 やっぱり、日本国憲法がいい 
 日本国憲法を使わなくっちゃ

 ヤッホー君、今朝もお祈りしています。
 だってぇ〜:

東京都内でシンポジウムに出席
 2012年に米軍の無人機による「誤爆」で家族を失い、自らも右手を負傷したパキスタン人のナビラ・レフマンさん(11)らが2015年11月16日(月)、東京都内でシンポジウムに出席した。
 ナビラさんは「(なぜ米国は)戦争のことばかり考え(地域の)教育について考えてくれないのか」と住民を顧みない米国の姿勢を批判した。
 ナビラさん一家は2012年10月、米軍無人機の誤爆で祖母(67)を失い、ナビラさんも右手を負傷した。
 シンポジウムに同席した父ラフィーク・ウル・レフマンさん(41)は「私は教師だが、なぜ我々が無人機の攻撃を受けたのか子供たちに教えることができない。どう説明すればいいのか」と、聴衆に問いかけた。
 またナビラさんは米軍が無人機のミサイルに多額の資金を投じていることに対し「なぜ教育に資金を使ってくれないのか」と訴えた。
 無人機の被害を告発する活動をしているパキスタンのシャーザード・アクバル弁護士は「米国は武装勢力の居住地について情報を持っていないのに空爆を繰り返し、被害の詳細を公表していない。この問題は国連で議論されるべきだ」と主張した。


2015年11月16日(月)22時49分配信、毎日新聞・三木幸治
<11歳ナビラさん>「戦争のことばかり考え」米国批判
〔写真〕シンポジウムで無人機被害について語るナビラ・レフマンさん(左)と父のラフィーク・ウル・レフマンさん=東京都千代田区で2015年11月16日午後8時30分
http://mainichi.jp/select/news/20151117k0000m040121000c.html

 2012年に米軍の無人機による「誤爆」で家族を失い、自らも右手を負傷したパキスタン人のナビラ・レフマンさん(11)が2015年11月15日(日)来日し、毎日新聞の取材に応じた。ナビラさんは無人機で空爆を続ける米国に対し、「戦争を早くやめ、地域に平和をもたらしてほしい。無実の子供や老人を攻撃するのが本当に『いいこと』なのですか」と切々と訴えた。
 ナビラさん一家は2012年10月、パキスタン北西部・北ワジリスタン管区の実家近くで空爆を受けた。菜園にいた祖母(67)は死亡し、牧草の刈り入れをしていたナビラさんら9人が爆発の破片を受けて負傷した。地元紙は「武装勢力の3人が死亡した」と報じたが、明らかに「誤爆」だった。
 ナビラさんは事件を振り返り、「頭から離れない。昨日のことのように空爆の煙とにおいを覚えている」。今でも偵察をしている無人機を見ると「怖くてしかたがない」という。
 米国はアフガニスタンからパキスタンに逃げ込んだ武装勢力掃討のため、2004年ごろから同管区などで無人機での空爆を開始。ロンドンの非営利団体「調査報道局(BIJ)」によると、同国ではこれまでに421回の無人機攻撃があり、約4000人が殺害された。そのうち約4分の1が民間人だったという。
 ナビラさんは2013年に米議会公聴会で被害を訴えた。だが議員は5人しか参加せず、状況は変わっていない。
 ナビラさんの夢は故郷が平和になることだ。「唯一の解決策は人々が教育を受け、平和について話し合うことだ。教育を受ければ人は医者にだってエンジニアにだってなれるのだから。日本人の皆さんにもそのことを分かってほしい」と話した。

http://健康法.jp/archives/8841

 なんか、どこか狂いはじめている、としか言いようのない、殺し合いの負の連鎖がつづいています。
 これに「ちょいお待ち」と本来ストップをかけられるのは、日本国憲法を持っているwが国ですが。
 困ってしまったヤッホー君、尊敬するあの方たちのお考えは、とちょい聞いてみることにしました。
 まずはイマ、もう退職なさった小児科のお医者さま、から:

テロリズムに対処するために
 パリで起きた忌むべきテロリズムによって、何の落ち度もなく殺された方々の冥福を祈りたい。

 この事件については、多くのことがマスメディアやネット上で報じられ、語られている。専門家でもない私が、付け加えるべきことは少ないが、テロリストを殲滅せよと声高に叫ぶ連中には組することがどうしてもできない。テロを起こした人間は、裁かれるべきだが、ISISを殲滅せよと興奮して叫ぶ連中の心情は、テロリストの狂気と同じだ。

 中東の混迷の大きな源流は、第一次世界大戦後、西欧諸国がオスマントルコ支配地だった中東を勝手に線引きし、彼らの植民地にしたこと、そしてイスラエル建国を強行させたことにある。それによって、大きなストレスが、同地に内在することになった。イラク戦争が、そのパンドラの箱を開けることになったのだ。

 特に、米国は、アフガン戦争当時、アルカイダにてこ入れし、さらにイラク戦争で、イラクの政治体制を破壊したことによりフセイン政権の残党がISISとなる原因を作った。シリアでは、反体制派を支援する米国が、間接的にISISIにてこ入れしている、といううわさも耳にする。ロシアは、シリアアサド政権を支援している。シリアは大国の代理戦争の場になっている。大国の空爆が、市民を殺害し、そこで憎しみの連鎖を生み、イスラム過激派を拡大再生産している。

 行なうべきことは、イスラム過激派を拡大再生産することを止めることだ。そして、過激派への資金、軍備の流入経路を絶つことだ。空爆を続行するフランス政府を支持する、というばかげた声明を出したりしないことだ。

 今回の事件の犯人たちが、シリアのパスポートを事件現場に残していた、という。これは、彼らが、シリア、中東からの難民に対する、西欧からの反発、敵意を醸成するために行なったことなのではないか。過激派たちは、中東の人びとと、それ以外の世界の人びとを離間させることを目的としている。それにまんまとのってはいけない。悪魔的なものは、人々を離間させようとする。それに乗せられる人びとも、悪魔的な思想に毒されているのだ。

2015/11/17 00:19

 そしていつも的確にご指摘してくれてる、あまちゃん:

 G20は対IS対策で結束する声明を発表して終わったらしい。
 しかし、声明こそ出したものの、その内容には新味がなく、議論は深まらなかった(11月17日毎日)という。
 なぜか。
 それはG20諸国の中には、ISの脅威とは直接関係のない国も含まれているからだ。
 ましてや、世界200カ国近く存在する、いわゆる「主要国」でないその他大勢の国々にとって、ISの脅威は無関係である。
 そうなのだ。
 いま我々が目にしているISの戦いの相手は、中東を軍事的に分割・支配して来た新旧の欧米帝国主義国家と、それに追従するイスラム・アラブおよび周辺の、独裁政権なのである。
 なによりも、ISの直接の標的になっているのは、ISを空爆し、軍事力でISを壊滅しようとしている国々なのである。
 その事は、ISみずからが、繰り返し、繰り返し、宣言して来たことだ。
 主要国の中で、唯一、ISと敵対する理由も必要もない国が日本だった。
 しかも日本は、欧米の帝国主義の仲間入りをして戦争に突き進んだ過去の反省の下に、憲法9条を掲げて国際社会の仲間入りをして再出発した国だった。
 ISとの話し合いができる唯一の主要国であったはずだ。
 こともあろうに、その日本の首相が、歴史から何も学ばず、反省もせず、憲法9条を捨てて、率先して有志連合の軍事行動への参加を表明する。
 これほど愚かな事はない。

 日本の指導者の中から、誰一人として、その誤りを公言するものが出て来ないところに、この国の救い難さがある。


天木直人のブログ Posted on 2015年11月17日
「国際社会は結束してテロと戦え」のウソ
http://new-party-9.net/archives/2923

 ヤッホー君、このところいつも手放さない本があって、それは:
★ 井出孫六(1931年生まれ)『石橋湛山と小国主義』(岩波ブックレット、2000)
★ 『石橋湛山評論集』(岩波文庫)
★ 『湛山回想』(岩波文庫)

 石橋湛山についてはヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をご参照ください:
★ 2010年10月12日「小国主義」
★ 2012年1月17日「慰霊の旅」
★ 2015年4月10日「さくらまつり」
★ 2015年5月2日「Abe, liar!」
★ 2015年10月12日「岸信介」




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2015年11月16日

今日はごちそうさま

 東日本大震災で被災した宮城県女川町の児童を支援しようと、山形市の有志が組織を立ち上げ活動している。
 小学校の元図書整理員で絵本作家の福山とも子さん(55)=同市小白川町5丁目=が中心メンバー。
「芋煮会で女川の子どもたちを元気にしよう会」の名の通り、2年続けて出張芋煮会を開いた。
 本県の郷土食を味わってもらうだけでなく、役割分担しながらの調理作業を通じて、協力すること、コミュニケーションを取ることの大切さを伝えている。
 福山さんは震災以降、知人を通じて女川町の小学校をボランティアで訪問、読み聞かせをして交流を深めてきた。
 芋煮会を題材にした紙芝居を披露したのを機に昨年、女川小で芋煮会を開催。山形市の地域おこし団体「山形芋煮カレーうどん寄合」=高橋徹会長(48)、以前勤務していた山形八小関係者らと「元気にしよう会」を結成、直径1.3メートルの大鍋で芋煮と芋煮カレーうどんを振る舞った。
 今年は11月1日に実施した。今回は児童が実際に作って食べるイベントとし、保護者を合わせて70人ほどが参加。
 子どもたちは火おこし、食材の下ごしらえを初体験し目を輝かせた。
 女川ではサンマのつみれ汁が郷土食で、「来年は芋煮とつみれ汁のコラボレーションを楽しみたい」との声も上がった。
「今年も実施したいという学校からの依頼がうれしかった」と福山さん。
「復興支援は積み重ねが大事。相手が望む限り交流を続けたい」と語る。
 高橋会長も「芋煮会にはコミュニケーションのツールとなる要素がある。山形の食文化を通じ、震災で心の傷が残っている子どもを癒やすきっかけにしたい」と手応えを感じている。


2015年11月15日12:23更新、山形新聞
宮城・女川小で出張芋煮会 山形の有志が復興支援
〔写真〕芋煮カレーうどんを作って地元の子どもたちと触れ合う福山とも子さん(左奥)、高橋徹さん(左手前)=宮城県女川町・女川小
http://yamagata-np.jp/news/201511/15/kj_2015111500309.php

 ヤッホー君の居城である清洲城で今年は、昨日11月15日日曜日に実施しました。
 材料差配師としおくん、シェフしょうぞうくんほか8人が集まりました。

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 今日はお世話さまでした。
 芋煮おいしかった。
 準備ありがとう。清洲城を開城、提供してくれありがとう。
 「見直した」と言うべきところ「見損なった」と言ったもんだから訳が分からず、
 お話は、私にはちょっと理解に時間かかったこともあったけど、面白くてたくさん、わらった。
 みんないいもの持ってるね。
 そのままで行こう。
 今日はごちそうさま。


 メールをありがとうございます。
 本日(11/15)は雨模様でしたので、芋煮会は屋内で実施したのですね。
 皆さん いい笑顔ですね、
 先日 私の近隣の自治会でも芋煮会があり 私も呼ばれて参加しました。
 ちょっとふるさとの味とは異なるところがありました。
 とうふが入っていたり まいたけや油あげが入っていませんでした。
 それは それなりにおいしかったです。
 今回の芋煮会は本場の味だったのでしょうね。
 次に会う機会を楽しみにしています。


 宴のあと、人気もなくなった清洲城にとりのこされたようなヤッホー君、
 まつりの色や匂い、残り香が消えず、もの悲しく、寂しい感じがしてた
 ヤッホー君も、翌朝の光輝くばかりに差し込んできた朝日に、我に帰り
 思わず手を合わせさ、今日も良き日にしようと気をとり直したそうです。


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2015年11月15日

佐倉藩の佐藤尚中先生

 雨があがって午後にはようやく日も差してきた11月15日の日曜日、七五三。
 井出孫六(1931)を読んでいるヤッホー君、『いばら路を知りてささげし、石井筆子の二つの人生』(岩波書店、2013年)冒頭から目がてんになっています。
 これは、べルツ講師(エルウィン・ベルツ Erwin von Bälz 1849年1月13日-1913)と相良青年(相良元貞、1841~1875)との対話:

「ぼくの郷里は肥前、いまでは佐賀県と名を変えましたが、誰も佐賀県などとは呼びません。肥前の殿様は鍋島と申してヒゲ文字が大好きな方でした」
「ヒゲ文字?」
「そう、漢字ではなくABCのことです。早くから肥前には蘭方医の学校があって、兄はそこで学んだあと、佐倉藩の佐藤尚中先生の勧めで長崎にポンペ博士を訪ねたのですが、ポンペ先生は帰国したあとで、ボードインという方に教わり、ドイツ医学の信奉者になったんです。兄知安(ともやす)は東京医学校長と文部省の医務局長を兼ねております。ぼくは、政府の最初のドイツ留学生として5年前にこちらに来たのですが、ぼくの送った情報で、陸軍軍医正のミュレルさんと海軍のホフマンさんが日本に行き、任期が終わるや外科のシュルツエ先生と解剖学のデーニッツ先生が東京医学校で教えているはずです」


前掲書、第一章「べルツの見た鹿鳴館の華」4頁

 ヤッホー君、鍋島藩と聞いておどろきました。
 だって、チャランケ祭を見る前にヤッホー君、
 中野駅南口からタウンウオーキングをはじめ、
 鍋島家墓所がある成願寺でお参りしたでしょ。

 佐倉藩佐藤尚中先生と読んでまたぎくっ。
 だって、佐倉には昨日行ってきたばかり。
 そう言えば、佐倉に順天堂院があったな、
 あれは昨年2014年4月15日のこと、
 「桜・佐倉」ウオーキングのときでした、
 出会いましたねぇ〜、これと一体、どう
 関係するんだろうとわくわく、どきどき。

佐藤尚中(さとう たかなか)
1828(文政11)年4月、下総国小見川(現・千葉県香取市)に生まれる。幼名は竜太郎、号を舜海。父は小見川藩の医師山口甫僊。
1842(天保13)年、江戸四谷の医者、安藤文沢に蘭方医学を学ぶ。文沢の勧めで和田泰然(後の佐藤泰然)の「和田塾」に入門。
1853(嘉永6)年、佐藤泰然の養子になる。
1860(万延元)年、長崎に留学。オランダ軍医のポンぺ・ファン・メーデルフォールトに医学を学ぶ。
1867(慶應3)年、佐倉藩に「佐倉養生所」開設。
1868(慶應4)年、戊辰戦争のため閉鎖。その後明治政府の要請により大学東校(現、東京大学医学部)に勤め、大博士となる。
1873(明治6)年、私立の「順天堂医院」開設。
1877(明治10)年11月、師松本良順と共に資生堂に売薬方「神薬」と「清邪散」の二処方を伝授する。
1882(明治15)年7月23日逝去。享年54。


公益社団法人 東京薬事協会http://www.yakujikyo.or.jp/association/report/pdf/25118matsumoto.pdf

佐藤尚中(さとうたかなか)
 明治初期の外科医師。名、舜海。字、泰卿。通称、尚中。幼名、竜太郎。号、笠翁。
 父、小見川藩医山口甫僊(二男)。下総国小見川(千葉県香取郡小見川町)出身。順天堂病院を創立。寺門静軒に儒学を、江戸で安藤文沢に西洋医学を学ぶ。
 1842(天保13)年、文沢の推挙で西洋医外科佐藤泰然の「和田塾」に入門。1853(嘉永6)年、泰然の養子となる。泰然が佐倉藩主の招きで移り住み、佐倉本町に塾「順天堂」を作り診療すると、尚中も移る。1860(万延元)年、泰然を説き伏せ長崎でポンペから西洋医学を学ぶ。1862(文久2)年、帰国して「済衆精舎(さいしゅうしょうじゃ)」と入院施設を開設。佐倉藩の医制改革をし、漢方を廃止した。1858(安政5)年、卵巣皮様のう腫手術を日本で初めて行う。その後、1867(慶応3)年、佐倉藩に「佐倉養生所」をつくるが、戊辰戦争のため1868(慶応4)年閉鎖。
 明治政府の要請により「大学東校(東京大学医学部)」に勤め大博士となる。1870(明治3)年、明治天皇侍医、文部大丞・文部大教授大典医。
 1873(明治6)年、下谷万年町に私立「順天堂医院」を開設
。1875(明治8)年湯島(現在の所)に移転。従五位。
 夫人は、佐藤泰然の娘楽子。長男は、佐藤百太郎。著書:「外科医方」、「ストロマイエル砲痍論」、「済衆録」、「セクリュス外科書」。

※ 佐藤百太郎(さとうももたろう:米国ペリー艦隊が来航した1853(嘉永6)年生まれ〜漱石が小説『門』を朝日新聞に連載した1910(明治43)年死去)。
 佐藤尚中の長男。1867(慶応3)年、私費でサンフランシスコに赴く。帰国後大蔵省出仕。1871(明治4)年、公費留学。1875(明治8)年、狭山茶を輸出、翌年には佐倉茶を輸出、1876(明治9)年、ニューヨークに「日の出商会」を設立するなど日米貿易の先駆者。アメリカで日本領事も務める。墓は、京都桃山の善光寺。

 佐藤尚中の墓は、谷中霊園 甲9号1側。駐在所前交差点を西に約20m。ぎんなん通りに面する。正面「従五位佐藤尚中之墓」。「杏雲院殿道環尚中居士」。碑は、甲4号7側の駐在所横ぎんなん通りを挟んで並び、さくら通り沿い。碑2基目にある。養子の佐藤佐(さとうたすく:1857-1919)墓は、乙8号4側。


http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/satoTakanaka.htm

◇ 最近トイレが近い人のためのアンチエイジング3カ条
 以下は、トイレが近くなるさまざまな要因から考えたアンチエイジング3カ条です。

<1>食欲の秋、ですが腹7分目に。野菜と果物をたくさん取って、揚げ物のような茶色い食べ物、パンやごはんのような白い食べ物は控えめに。

<2>運動の秋、週1回の運動だけでなく、毎日15分の早歩き。ストレッチ。汗をかくこと

<3>芸術の秋、心を豊かにしてストレスを減らす。そしてスマホ、パソコンは就寝前には見ないで、ゆっくり入浴。


2015年11月2日付け毎日新聞、病気を知る、DR.堀江重郎の健康羅針盤
堀江重郎/順天堂大学教授(1960年生まれ)
<医療>「おしっこの回数」と寿命の関係
http://mainichi.jp/premier/health/entry/index.html


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2015年11月14日

大久保利通とその時代

 ヤッホー君のこのブログ、2015年10月10日付け日記「松本方哉」をご参照ください。
 千葉県佐倉市の国立民俗歴史博物館(注1)でイマ「大久保利通とその時代」が12月6日まで開催されています。
 今朝、もう京成電車に飛び乗っていました。
 歴博講演会があったのです。
 講師は歴博歴史研究系教授・樋口雄彦先生(1961年生まれ)。

 今年新たに当館に収蔵された大久保利通関係資料の中から、企画展示「大久保利通とその時代」では展示しない資料について、あえて取り上げたいと思います。
 具体的には、幕末には大久保とは政治的立場を異にした、いわば「敵役」だった徳川方の幕臣たちについて、彼が残した資料の中から垣間見られる姿を紹介します。
 たとえば、勝海舟と薩摩藩との関係、徳川慶喜との対決、戊辰戦争時の徳川家処分をめぐる問題、明治初年の静岡藩と鹿児島藩の交流、内務省への旧幕臣の登用といったことがらです。
 その多くが、大久保の生涯と事蹟を伝える上では「脇道」のような内容であり、今回の展示には出せませんでした。
 ただ、大久保利通その人について関心がある方には期待外れかもしれませんが、視点をずらすことによって見えてくるものもあるはずです。


http://www.rekihaku.ac.jp/events/lecture/

http://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p151006/index.html

 先生は、大久保利通の容姿までわかっておられます。

 大久保利通の写真というと、岩倉使節団に参加した際に欧米の写真館で撮影された洋服姿や、その後の大礼服姿がよく知られています。
 また、1868(明治元)年ごろに写された和服姿も存在します。
 しかし、今回新たに発見された名刺判の写真は、1871(明治4)年5月6日に撮影されたと思われる、洋服に帯刀という和洋折衷スタイルの大久保です。
 カンカン帽のような帽子姿がとても印象的です。
 この時、参議だった大久保は5月3日に東京をたち、5日に大阪着、8日には同地を発し山口藩へ向かい、木戸孝允らと会見、26日には横浜に帰着しました。
 大久保来訪の結果、山口藩は東京への出兵を決め、鹿児島・山口・高知の三藩兵で構成される親兵が増強され、7月の廃藩置県に向けて中央政府による集権化の動きが加速することとなりました。
 この写真は、その出張の途次、大阪の写真館で撮られたと考えられます。
 被写体が誰であるのかは何も記されていないのですが、その顔つきや足が長く身長が高そうな点から、右側の人物が大久保であると判断できます。
 大久保の身長は180センチ近くありました。
 左側の人物は、他の写真と比べてみると、薩摩藩士出身で当時は堺県知事だった税所篤であるとわかります。
 また、大久保の日記(明治4年5月6日条)に「今日税所子同行写真所等江参」とあるほか、写真の台紙裏面に「浪花□□通吉村霞月軒謹写」という写真館のスタンプが押されていることもその裏付けとなります。
 この写真は大久保の子孫宅に伝来し、今年、国立歴史民俗博物館に寄贈されたものです。


2015(平成27)年10月上旬号『定年時代』ものしりミニ講座 
樋口雄彦、洋服、帽子に帯刀の姿 久保利通の新発見写真
http://www.teinenjidai.com/manabu/monoshiri/h27/new/index.html

 でてまいりました、木戸孝允!
 「維新の三傑」って大久保、木戸、あともう一人… だれ?
 ところで大久保、江東区とも縁があります!

船員教育発祥の地
 内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。
 当初の、教育はその頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢(こうし)となった。
 爾来(じらい)百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承されている。
1976(昭和51)年11月東京都中央区教育委員会
(題字 東京商船大学長 小山正一書)


 「東京商船大学」は「東京水産大学」と統合し「東京海洋大学」と名を改め、2004年4月から学部生の受け入れを開始しています。
 とまぁ〜、ここまでは順調だったのでですが、帰りはなんと傘さしながらの道迷い!
 ヤッホー君、重願寺(浄土真宗)にこっち来てって呼ばれていました…

重願寺(正).jpg

 元は佐倉城内の天神曲輪にあったが、その後、現在の市役所西南の山裾に移された。 
 墓所には佐倉藩第一の書家 宮崎重賢の墓や、絵師 黒沼槐山の墓がある。
 槐山は印旛沼の鯉を描くことで名声をはせたといわれる。
 又、画家浅井忠の師でもあった。
 ◇ 浅井忠(浅井家)の墓所
 浅井家からは明治時代の洋画家の先覚者としても知られる浅井忠(1856-1907)が出た(注2)。
 重願寺は浅井忠の分骨とされているが、墓所に供養塔が建てられている(本墓は京都南禅寺の金地院)。


(注1)ヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの日記をご参照ください:
★ 2014年4月16日「佐倉城址公園」
★ 2014年4月17日「佐倉連隊」
★ 2014年4月18日「総武鉄道」

(注2)帰宅したヤッホー君を待ち受けていたビッグニュースは ”Attaques à Paris"!
 平和を70年間保ってきたwが国が ”C’étaient des scènes de guerre” なんてことならないよう、不安倍増内閣を一日も早く退陣させ、憲法を取り戻さなくっちゃ!!

 洋画家・浅井忠は、工部美術学校画学科でイタリア人教師アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)から本格的な絵画指導を受けた。
 1900(明治33)年から2年間、フランスに留学し、うち半年間は、黒田清輝(1866-1924)、和田英作(1874-1959)ら日本人画家や英・米・北欧の芸術家が数多く滞在した、パリ南東に位置するグレー・シュル・ロワン村で過ごし、代表作となる風景画を描いた。
 帰国後は、京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)教授、関西美術院初代院長として後進の指導にあたり、門下から石井柏亭(1882-1958)、梅原龍三郎(1888-1986)ら多くの有名画家が輩出した。

国立国会図書館公式サイト
フランスに学んだ芸術家たち
http://www.ndl.go.jp/france/jp/part2/s2_1.html



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ドリアン助川

 もうあれから2週間も経つんですかぁ。
 ヤッホー君のこのブログ、10月31日付け日記で、映画「あん」をご紹介し、原作「あん」を買い求めたことを記しましたが、その文庫版にはじゃじゃじゃじゃあ〜ん、作者、ドリアン助川(1962年生まれ)のサインがあるじゃあ、ありませんかってんだい。
 ヤッホー君、サイン会のとき作者に「二作目」を期待しています、なんてこと、どぎまぎしながら言っちゃったけど、ありました、『ピンザの島』(『あん』と同じくポプラ社、2014年)!
 読了しました!
 昨年は森沢明夫、今年はドリアン助川。
 というわけでヤッホー君の読書三昧日記のはじまり、はじまりい〜
 まずは、『あん』の執筆動機から:

──何が転機になったんですか?
 バンド解散後、ニューヨークに渡って別のバンドをやってたけど、2002年9月に日本に帰って来た。仕事はない。本を年4冊出しても、初版で終わっちゃうと年収200万円にもならないんだよね。子供の学費を払えるかどうか、ぎりぎりの生活でした。
 多摩川の土手にあるアパートで家族3人暮らしていて、あるとき気づいた。回りは高級住宅街だけど、俺には何もない。
 でも、もう「所有する人生」なんて今後ないだろうという自由さ。
「あっ、この多摩川は俺のものだ」
 なんだ、世界ってもともと与えられてるじゃん
。。。

 生まれてから死ぬまで椅子に座り続けて、花や光や鳥を、地球や宇宙や人生を真剣に受け止め続けた人生があったら、それは無意味ですか?
 いや、宇宙的にはあっぱれな人生じゃないか。
 療養所に閉じ込められてしまった人生でも、垣根を越える心を持って、月や木と話をする人がいたら、すばらしい人生じゃないか。『あん』のラストで、療養所内の木々が「よく頑張ったな」と徳江さんに語りかける、そのシーンから空想が始まったんです。


──2015年にこの作品が広く受け入れられる意味って何でしょう。
 NYのマンハッタンに住んでいて、2001年9月11日の同時多発テロを目の前で見たんですよ。
 アメリカがどう戦争に向かっていくか、つぶさに見た。アフガンやイラクに行く連中を、ブッシュ(大統領)は「選良」と呼んだ。良き市民が正義、自由のために勇敢に戦うと。日本でも「社会のために」がいつ「国家のために」「役に立つ、これが正義」となるかわからない。もう寸前まで来ていますよ。
 たかだか100年の人生で、誰のものでもない小さな島のために命を捨ててどうしますか。
 そんなところが伝わっているのかもしれませんね。


20155年7月15日01時29分JST更新ハフィントンポスト紙
映画「あん」で問いかけた「生きる意味」とは 原作・ドリアン助川さんに聞く
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/13/an-sukegawa-interview_n_7790076.html

小説『ピンザの島』刊行記念! ドリアン助川さんトークショー
https://www.youtube.com/watch?v=TTVWvq9I-vM

 さ、映画『あん』を観た君だって、文庫で『あん』を読んだあなただって、
 さ、ホントもう一度『あん』を読み直して、『ピンザの島』を読んでみて。

 ところでこの『ピンザの島』のピンザって方言でヤギのこと。
 ヤッホー君のこのブログ、2010年4月24日付け日記「山羊と鶏と鯉と」を参照してください!
 ヤッホー君だって、ヤギと縁があったんですよ〜

 先日、久しぶりにヤギ汁を食べた。高血圧の薬を飲み始めて以来食べていないので、おそらく6、7年ぶりかもしれない。先月琉大の砂川勝徳教授らの研究チームが「ヤギ肉は血圧を上げない」とお墨付きを与えたので安心して久方ぶりに食した次第。
 沖縄の伝統食のヤギ料理は滋養強壮・疲労回復に良いと重宝される一方で、「血圧を上げる」と風評があり、敬遠する人も少なくなかった。
 それを砂川教授らが「血圧上昇の原因はヤギ肉でなく、料理に使う塩」と長年の風評を覆したのだからそれは朗報だ。
 どんな料理も安心して食べられるし市内に5カ所ほどある専門店は自信をもって提供できる。生産者は需要が増えて飼育頭数を増やせる。ヤギで島おこしを目指している多良間村には大きな励みだろう。
 においや味にクセがあり観光客の評価も分かれるヤギ料理。しかしトライアスロン大会でたびたび石垣を訪れた今は亡き皇室の宮様は、なぜか大好きで物々しい警備の中、夫妻でよく市内料理店に通っていたという。
 八重山のヤギ飼育は現在約900頭と伸び悩んでいる。「ベースマ(わが島)のヤギがミネラルも豊富で一番うまい」と“ヤギの島”を自認する波照間も、かつて300頭余が200頭弱に減った。研究成果は“ヤギ文化”に追い風となりそうだ。


2014年2月8日付け八重山毎日新聞・上地義男
http://www.y-mainichi.co.jp/news/24307/

 離れ島のヤギ、と島民たち。
 イマ、都会にもヤギが進出:

 ヤギに雑草を食べてもらい、農薬や機械を使わずに除草する――。
 横浜市保土ケ谷区の分譲マンションで、長野県の業者から借り受けたモモとルルが活躍中だ。エコな「除草ヤギ」は全国で人気だが、マンションで住民が共同飼育するのは珍しい。2頭を囲んで住民の会話も弾み、災害時の助け合いにつなげる狙いがある。
 横浜駅から5駅9分の相鉄線和田町駅。周辺にはマンションが立ち並ぶベッドタウンで、駅から歩いて10分足らずのところに、7階建て分譲マンション「アーバンコンフォート横浜和田町」がある。40世帯ほどの約140人が暮らす。
 2頭のヤギがやって来たのは7月半ば。フェンスに囲まれた中庭の雑草をはみ、「いっぱい食べる!」「かわいいなあ」と子どもたちに大人気だ。小学3年生の大木汐莉(しおり)さんは「ヤギが来てから仲良くなった子もいてうれしい」。夫婦で暮らす男性(78)も「知り合いになれば、あいさつしやすい」と話し、住民の輪が広がるのに一役買っている。
 仕掛けたのは管理組合の副理事長、佐藤真一さん(52)。東日本大震災の際、お年寄りを子どもたちが手助けする被災地の様子をテレビニュースで目にして、「うちのマンションもこれから高齢者が増えていく。若い世代とつながりが必要なのでは」と感じていた。そこで「除草ヤギ」の存在を知り、「これだ」とひらめいたという。
 ヤギを飼うと強い薬品をマンションの敷地内に散布しないで済むうえ、レンタル料も半年まで1頭3千円と格安だった。ヤギを運ぶ費用や小屋代などを合わせても9万円程度で、昨年は年間23万円だった除草費用より安かった。
 住民からは鳴き声やふんを心配する声も上がったが、貸し出した「産直市場グリーンファーム」(長野県伊那市)によると、ふんは土にかえってにおいは少なく、仲間がいればほとんど鳴かないという。佐藤さんは一軒ずつ足を運んで理解を求め、「お試し」で借りてみることにした。
 ヤギのレンタルを手がける業者は、大阪、福岡、富山など、全国各地で増えており、グリーンファームでは100頭を貸し出し中。
 飼育部長の岩本寿枝さん(36)は「エコ意識が高まり、低コストでもあることが知られるようになり、去年より3割以上増えた」。自治体や農家が除草目的で借りるほか、一般家庭がペットとして借りている。毒草や首輪のひもの取り扱いなど、注意点はあるものの、飼育は難しくないという。
 横浜のマンションでの飼育は、ヤギがほぼ草を食べ終えることなどから今月末まで。住民からは「ずっと飼いたい」という声も上がっている。佐藤さんは「ヤギがいなくなっても、住民のつながりは残る」と話す。


2015年10月20日11時20分更新、朝日新聞葦デジタル・室田賢
除草ヤギ、深める住民の絆 横浜のマンションで共同飼育
http://digital.asahi.com/articles/ASHB575Q9HB5ULOB01N.html?rm=572



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2015年11月13日

日本国最後の帰還兵

 ヤッホー君、明け方トイレに起き、なにげなくラジオをつけたら、【明日へのことば】アンコール「私の父・私の祖父は日本国最後の帰還兵」(故・深谷義治さんの次男・敏雄、孫・富美子)!
 もう朝から枕を濡らしておりました。

 「苦しみの塊」。
 敏雄さんがそう表現する父義治さんの人生は、島根県大田市に始まる。22歳で浜田歩兵第21連隊に入り、中国へ。陸軍の憲兵志願試験に合格後の1940年、極秘任務を受けて軍服を脱ぎ、現地の商人になりすました。指示通り中国人女性と結婚。情報収集のほか、通貨を偽造して現地の貨幣相場を混乱させる役割を担っていたという。
 戦局が悪化する中、敗戦となっても潜伏生活を続けられるよう、1943年には電気関係の技能を習得した。終戦直後、捕虜となった上官の拘束場所に忍び込み、「上海で任務続行せよ」との命令を受ける。
 1949年、中華人民共和国が成立。反政府勢力への弾圧が厳しさを増す。1958年、ついに義治さんは中国当局に逮捕された。 容疑を認めれば寛大な扱いを受けられる、とも言われた。それでも完全黙秘を貫いた。「死んでも国に汚名を着せてはならない、との信念があったのではないか」。敏雄さんは当時の父の心境を推し量る。。。
 1978年、義治さんは日中平和友好条約締結に伴う特赦を受け、大田市に帰郷。だが、戦後に何者かが軍人恩給を虚偽申請して横領していた。そのため本来の支給額を大きく下回り、一家はすぐに困窮した。度重なる国への見直し要求は、いまだに認められていない。

 「国に尽くした人間に対するこんな粗末な扱いがあるのか。国の豹変(ひょうへん)に失望した

 父の無念を思い、敏雄さんは目を潤ませる。

 「広島の原爆も、父や私たちのつらい体験も、根源は一つ。戦争だ。この本から平和の尊さを少しでも感じてほしい


2014年12月16日付け中国新聞朝刊・ヒロシマ平和メディアセンター『書評』
『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』スパイだった父 苦難の人生記す
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39091

 その本は、2014年12月集英社から刊行されています。
 
 中国公安によって義治さんが逮捕されたのは1958年6月6日。このとき、長男12歳、次男(敏雄さん)10歳、三男6歳、長女は生後50日。

 「父が日本人だと母は知っていたが、私たち兄弟は全く知らず、大変ショックだった。それまで『日本人は鬼』だったのに、その『鬼の子ども』となり、いじめられ差別されることになった」

 義治さんは、戦中のスパイ活動は認めたが、戦後については一切認めなかった。「獄中記録」には、日本に「戦後にスパイを中国大陸に置いたという汚名を死んでも着せてはならぬという確固たる信念があった」とある。

 「父はサムライだった。認めれば釈放されただろうが、国に忠義を示し、それを使命とする揺るぎない信念を持っていた」

 義治さんは獄中で「拷問」を受け、家族は文化大革命の中、糾弾され極貧の生活が続く。長男も「反革命分子」として捕まり、母は自殺未遂までした。
 逮捕から16年後の1974年に無期懲役の判決が下る。このときまで父との面会は許されなかった。

 「本当に父なのか、別人ではないかと思った。父は、赤ちゃんの時の妹の写真を生きる希望にしていたが、その妹は『お父さん』と呼べなかった」

 義治さんと長男の釈放は日中平和友好条約締結後の1978年まで待たねばならなかった。義治さんは「残された最後の陸軍軍人である私は、戦後33年目にしてやっと、大陸の『戦場』でついにその遅すぎた『終戦』を迎えた」と書き記している。
 父義治さんは今99歳。2005年に重い障害を負い、敏雄さんは「父が書き残したかったものを私が書くと決意した」。ままならぬ日本語をボランティアに助けられながら習得しての執筆だった。

 「父は戦争の犠牲者。これは、インクではなく涙で書かれた父とのコラボレーションです


2015年2月10日16時30分更新、朝日新聞デジタル、都築和人
戦後も「任務続行」、父の足跡『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11595293.html?rm=150

 家族の歴史に刻まれた戦争の記憶に背中を押され、安保関連法案に向き合う若者がいる。

 「おかしいと声を上げ続けたい

 広島県出身で、東京の大学院に通う深谷富美子さん(24)は、7月10日に初めて国会前デモに参加した。拡声機に合わせて「戦争反対」と口にしてみた。涙があふれ、言葉を継げなかった。

 「おじいちゃんやパパの苦しみがあって、多くの人のむごい死があってやっと平和が訪れた。何でこの時代に、国会前で戦争反対と叫ばんといけんのじゃろ

 家族一緒に日本に帰った後、父敏雄さんが祖父の獄中日記をもとに10年近くかけて書いた原稿は、昨年末に出版された。祖父は4カ月後に99歳で亡くなった。
 出版と祖父の死をきっかけに、家族を翻弄(ほんろう)した戦争について考え始めた。集団的自衛権を認めた政府の手法はせこいと思ったが、善悪の結論はすぐに出ないとも感じた。安保法案の中身もよく分からなかった。
 6月末、テレビで学生団体のデモを見て踏ん切りがついた。

 「おじいちゃんたちを苦しめた戦争はもういやだ。おかしいと感じたら、動いてみよう

 国会前からLINEで友人たちに「デモ来ちゃった」と送ってみた。1人が「渋谷に来なよ」。他の9人は「既読」マークだけついた。

 「それでも、一歩踏み出したい。私は国を信じたいからこそ、きちんと疑問をぶつけたい


2015年7月15日付け朝日新聞、後藤遼太
おじいちゃん苦しめた戦争、いや。「最後の帰還兵」の孫、デモへ
(写真:「祖父や父の悲惨な経験が最初はショックだった」と深谷富美子さん=7月14日、関田航撮影)

 いや〜、知りませんでした。
 メディアって記事にしたの?
 酷い、冷たい、知らんぷり、
 サイキン、多いようですが…
 ふたりほど名を馳せた軍人、
 そして「ご苦労さまでした、
 お疲れさま」と国から一声
 待ち焦がれつつ死んだ軍人。
 武器を片手に他国に殺しに
 入るの、嫌、やっぱり平和

★ 横井庄一(1915-1997)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍軍曹。1972(昭和47)2月、57歳でアメリカ領グアム島から帰還。栄典は勲七等青色桐葉章。

★ 小野田寛郎(1922-2014)は、日本の陸軍軍人、最終階級は予備陸軍少尉。情報将校として大東亜戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目、1974(昭和49)年、フィリピン・ルバング島から帰還。2005年、藍綬褒章。

★ 深谷義治(1915-2015)は、日本の陸軍軍人。1978年、日中平和友好条約締結に伴う特赦を受け、家族と共に帰国。国からは元軍人ではなく亡命者として扱われた。度重なる見直し要求は認められず、死去。。。



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2015年11月12日

加藤登紀子×鑁阿寺

 「美人力」を身につけるぞ、おのこどもも決意を新たにした山歩クラブの面々、意気揚々と鑁阿寺へ。
 ヤッホー君のこのブログ、2015年11月2日付け日記「加藤登紀子×木村草太」をお読みください。
 足利市でも加藤登紀子さんが:

「百万本のバラ」などのヒット曲で知られる歌手、加藤登紀子さんのコンサートが今年2015年9月13日、足利市の古刹(こさつ)「鑁阿(ばんな)寺」境内で開かれることが決まった。加藤さんはかつて、親交があった同市出身の書家、相田みつをさん(1924-1991)から市内の寺を会場にした公演を依頼されたことがあり「縁の深さなのでしょうか。相田さんも聞いてくれるような気がします」と感激。相田さんの長男で相田みつを美術館(東京都千代田区)館長の一人さん(59)も「父も心残りだったはず。代わりに楽しみたい」と心待ちにしている。
 加藤さんによると、事務所を通じ、お寺でのコンサートの依頼があったのは1989〜1990年ごろ。しかし、すでに決まっていた桐生市公演と時期が重なるため実現しなかったという。相田さんがこの桐生市のコンサートの楽屋を訪ねて来たのが初対面。その後、お互いの展覧会やコンサートを鑑賞するなど交流を深めたという。加藤さんは当時を振り返って、

「ちょうど私も自分で筆をとり、書を面白いと感じ始めたころでした。相田さんの作品からは相田さんの思いが伝わってきました。声を筆、歌詞を文字に置き換えれば、歌も書も共通する。『人に思いを伝える』という原点を改めて学んだ気がしました」と。

 しかし、1991年12月に相田さんが急逝。加藤さんは翌1992年、足利市に相田さんの墓を訪ね、同市内でのコンサートで追悼した。一人さんは「聴きに行った母によると、加藤さんは父のためにと3曲も歌ってくれたそうです」と懐かしむ。
 相田さんの死で立ち消えとなった「お寺コンサート」を再燃させたのは同市出身のケーナ奏者、Renさん(34)。昨年2014年7月、加藤さんに請われてコンサートに初参加すると、年末に東京、横浜、名古屋などで開いたコンサートにも帯同。主にフォルクローレ楽曲の伴奏をした。加藤さんとの話の中で、相田さんとの交流を知り、生前の相田さんと親交のあった地元の人たちと鑁阿寺コンサートの可能性を探った。同寺で今年2015年9月12日、昨年復活した「足利薪能」が開かれることから、その翌日、同じ舞台を使えるよう関係者と調整。大筋で了承を得たという。4月7日には同コンサート市民実行委員会(委員長・菊地義治前足利商工会議所会頭)を設立し、準備を進めている。Renさんは「お二人の約束を果たすお手伝いができて光栄」と喜んでいる。


2015年5月8日付け毎日新聞、地方版、太田穣
加藤登紀子さん:足利・鑁阿寺でコンサート「みつをさんに歌届けたい」/栃木
http://mainichi.jp/area/tochigi/news/20150508ddlk09200071000c.html

 「足利薪能」ってどんなの?

【足利】家富町の鑁阿寺(ばんなじ)で2015年9月12日、「第31回足利薪能(たきぎのう)」(足利能「薪能」実行委員会主催)が行われ、約700人が秋の虫のささやきをバックに幽玄の世界を堪能した。
 同寺の薪能は足利義満(あしかがよしみつ)が保護した能を足利氏の氏寺で楽しんでもらおうと、1985年に始まった。ことしは昨年に続き、文化庁の補助を受け開催された。
 能の一部を楽器と地謡(じうたい)を伴奏に舞う舞囃子(ばやし)「高砂」で幕開け。冠者が「金の値」と「鐘の音」を勘違いして寺を巡り歩くという狂言「鐘の音」が演じられると、客席から笑い声が漏れた。
 薪に火が入ると、クライマックスの能「通小町」がスタート。観客はかがり火に浮かび上がる舞に魅了されていた。


2015年9月13日付け下野新聞朝刊
700人が堪能 幽玄の世界 足利 鑁阿寺で薪能
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20150913/2080431

 で、加藤登紀子さんのコンサートも盛大に済んだのかな?

「琵琶湖周航の歌」で客席に降りると、桐生から来て下さったテキスタイルアーティスト、新井淳一さんもその中で聞いて下さっていましたし、相田みつをさんの息子さん、相田一人さんもおられ、足利の市長さんも、栃木県知事さんも、という顔ぶれで、とっても嬉しいことでした。
 この日の特別メニュー、Renさん(*)の曲に私の詞を付けた「いちごの唄」と相田みつをさんの言葉を作曲した「人間だもの」の二曲。
 暮れてきた空の下、ウルウルと熱くなる胸を押さえて、歌い切りました。
 25年の月日を経て、相田さんが声をかけてくださった鑁阿寺で、歌えたことに感慨無量。
 この曲は、今年の11月後半、50周年記念の最後のアルバム「百歌百会」に収録、配信では9月30日から発売します。
 さあ、今週末も、コンサートです。。。5連休を歌える!嬉しいスケジュールです。
 が、違憲立法、安保法案も今週が山場のようです。
 反対を叫ぶデモに集まる人も多くなるでしょう。
 皆さんは、どんな予定を立てていますか?やっと秋らしくなった日々、良い休日を、お過ごしください!
登紀子

<TOKIKO NOW>
鑁阿寺のコンサート、奇跡の晴れ空!(2015.9.15up)
https://www.facebook.com/TokikoKato/posts/837078349724040

 9月15日の夜、ヤッホー君は6月から住んでいたマレーシアから帰国したのでした。
 さて、山歩クラブの雨の鑁阿寺はコンサートならぬ「美人弁天」さま達による踊りが:

鑁阿寺.jpg

鑁阿寺(2).jpg

 はい、はい、ヤッホー君が大きな拍手をするのは、次のみっつの項目で高得点をあげたときです。
 その1:手は指先まで、足はつま先までぴ〜んと開いて伸ばし切る
 その2:やっぱり、素敵な笑顔ですね!
 その3:う〜ん、顔をあげる、顔をおこす、俯いたりしないと背筋も伸びます!
 
 雨のなか、皆んなきれいにこころからの大っきな笑顔で踊っていましたよ、ス・テ・キ・
 はい、はい、前日の11月7日土曜日は「チャランケ祭り」を見に行ってたんですって、
 その前の日の秋祭り、午後早くにはぽつぽつと雨が降ってきて、明日もあるしと早々に
 会場を後にし、かんじんのアイヌの儀式「カムイノミ」には立ち会えなくってザンネン

チャランケ祭り.jpg

 アイヌ民族や沖縄などの歌や踊りが披露される「第22回チャランケ祭」が2015年7、8日、東京都中野区の「中野四季の森公園」である。
 札幌を拠点に活動する「アイヌアートプロジェクト」などがバンド演奏や歌や踊りを披露。
 伝統儀式のカムイノミ(神への祈り)も行われる。
 沖縄のエイサーや三線(さんしん)演奏も。
 民俗料理の屋台も並ぶ。入場無料。問い合わせは実行委員会(070・5557・5582)。


2015年11月6日12時48分更新、朝日新聞デジタル
アイヌ・沖縄の踊り披露 東京・中野で「チャランケ祭」
http://www.asahi.com/articles/ASHC434TCHC4UTIL008.html

http://charanke.jimdo.com/

(*)Renの日記
加藤登紀子50周年記念 in 鑁阿寺
http://www.ren-quena.com/blog.html


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2015年11月11日

郭広昌 Guo Guangchang

速報!

 【上海時事】上海市の総合商業グループ、上海豫園旅游商城は11月11日、北海道のスキーリゾート、星野リゾートトマム(占冠村)を買収すると発表した。トマムの株式100%を星野リゾート(長野県軽井沢町)などから183億円で取得する。日本観光ブームを背景に中国勢の進出が活発化している。
 トマムはパウダースノーで有名なスキー場のほか、ホテルやゴルフ場を持つ、日本を代表する総合リゾート。星野はこれまで海外の投資ファンドとともに株式を所有していた。星野では、同社のトマム成長戦略に「(豫園旅游を傘下に持つ)復星集団が賛同している」として、株式売却後もトマムの運営を行う。
 豫園旅游は上海の有名庭園、「豫園」周辺の大型商業施設を管理するほか、飲食や医薬、不動産など各業種も営む。民営の複合企業である復星集団(上海市)に属し、今回のトマム買収も復星の意向が働いた。復星は今年、フランスのリゾート施設運営会社、クラブメッド Club Med を買収するなどリゾート業を強化している。


2015/11/11-18:13 時事通信
北海道のスキーリゾート買収=中国企業、183億円で
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2015111100568

 えっ、あの復星集団(上海市)が…、
 あのぉ〜山歩クラブじゃなくって、
 クラブ メッドを買収した郭広昌 Guo Guangchang が北海道にも…

Guo Guangchang and Henri Giscard d’Estaing will finally be able to enjoy the champagne that has been on ice since the first offer was announced more than 18 months ago. It is now certain that the €939m ($1.1bn) bid by the 47-year-old Chinese billionaire to take control of Club Med has succeeded, with the backing of the firm’s CEO. Their rival in this struggle, Andrea Bonomi, threw in the towel on 2 January. So the longest takeover bid ever seen in Paris has ended with one of France’s most emblematic brands in Chinese hands…

They plan to continue pushing the brand upmarket and streamline deployment in countries such as China. Rich Chinese are discovering the joys of vacations, venturing abroad in increasingly large numbers. Since 2012 they have ranked as the international travel trade’s top customers, ahead of Americans and Germans.

Some staff at the Club Med itself are afraid that booming Chinese demand may not suffice and the new owners will make drastic cuts. Guo says he is in no hurry, no doubt mindful of the Chinese proverb: “With time and patience, the mulberry leaf becomes a silk gown.”


The Guardian, Last modified on Tuesday 27 January 2015 17.48 GMT
Club Med to focus on wealthy Chinese travellers after €939m takeover;
New Franco-Chinese owners set to give facelift to one of France’s best-known holiday resort chains
By Denis Cosnard
http://www.theguardian.com/world/2015/jan/13/club-med-holiday-sale-france-china

 アベノリスク、円安でいよいよもって、日本がどんどん買いたたかれていってます。
 この「速報」は氷山の一角、壊憲、TPP、戦争法で国あげて競売はじめています。
 何が日本を取り戻すって、ウソだね、日本を売り飛ばしてるよ、たたき売りだ〜い:

 紅白の衣装を着た「くいだおれ太郎」が客を出迎える大阪・道頓堀の商業ビル「中座くいだおれビル」。なにわの象徴ともいえる建物を2015年2月、投資ファンド「ダイナスティ・ホールディング・インターナショナル」が買収した。
 お金を出すのは台湾の投資家だ。小野耕司取締役は「製造業などで成功した台湾の経営者らから、物件を買いたいという声が数多くある」。台湾や中国本土でブランド力がある大阪や福岡、札幌を中心にさらに数件を買う計画という。
 東京駅前の超一等地に立つ高層オフィスビル「パシフィックセンチュリープレイス丸の内」は昨年2014年10月、シンガポール政府系のファンドが1700億円で買収した。今年1月には、結婚式場で知られる東京の「目黒雅叙園」を、中国政府系のファンドが1400億円で買収。半年前に森トラストが買った価格より、100億円高かった。
 不動産サービスのJLLによると、東京都内で昨年売買された不動産の約2割は海外投資家が買った。国内投資ファンドの幹部は「円安の追い風で、従来の取引価格の1・5〜2倍の値を付ける外資系ファンドもいる」と話す。
 勢いがあるのが台湾からの投資だ。台湾当局が国内の土地取引への課税を強めているため、日本の不動産への関心が高まっているという。日本の銀行が昨年2014年4月、台北市で開いた富裕層向けの投資セミナーには製造業の経営者ら約60人が参加。「高級住宅街はどこ」「人口増のエリアは」などと質問が飛んだ。説明した銀行幹部は「円安の影響もあり、台北やシンガポールより東京の地価が割安になっている」と話す。。。


2015年3月19日07時36分更新、朝日新聞デジタル、田幸香純
海外マネー、都市部を買い占め 道頓堀も東京駅前も
http://digital.asahi.com/articles/ASH3K349SH3KULFA007.html?rm=823

 この復星集団(上海市)のオーナーさんって、中国の億万長者のなかで、三本指に入る方。
 では第一位は、というと、じゃじゃじゃじゃ〜ん、このうら若き女性です(2007年)。

A 26-year-old property developer has been named as China's richest person after it was revealed that she was worth £8.8bn…

Ms Huiyan, a graduate of Ohio State University who was reported to have married a top Chinese official this year, is one of the few people on the list to have inherited her wealth but she is one of more than a dozen property developers to make this year's list of the 40 richest, reflecting roaring demand for homes and real estate investments in China and a booming economy…

In second place was another property developer, Hui Wing Mau, with a net worth of £3.6bn and third was Guo Guangchang, chairman of a manufacturing, retailing and real estate conglomerate, with a fortune of £2.4bn.


The Guardian, Tuesday 9 October 2007 07.30 BST
26-year-old is China's richest person with £8.8bn fortune
・ Tycoon's daughter inherited fortune in April
・ Property boom sees dollar billionaires double in year
By Thair Shaikh
http://www.theguardian.com/business/2007/oct/09/china

[北京/香港 12日 ロイター]- 中国の巨大コングロマリット、復星国際の創業者で富豪として知られる郭広昌氏(47歳)は、中国のミドルクラスの台頭をビジネスチャンスととらえ、仏リゾート施設運営会社クラブメッド買収に名乗りを上げている。

中国ミドルクラスの「手に届く贅沢」
 郭氏が目指すのは、中国のミドルクラスに「手に届く」贅沢を提供することだ。郭氏は今年、ロイターとのインタビューのなかで「中間層は新しい生活様式を望み、外国ブランドを非常に好む」と述べている。
 クラブメッドについては、理想的な投資だと強調。中国のミドルクラスがリラックスするのに、バケーションリゾートは完璧と述べた。
 郭氏は「やっと旅行する時間が出来たのに、子供の面倒を見なければならない。クラブメッドであれば、家族全員が楽しめる」と語った。

ビジネスモデル転換のきっかけにも
 郭氏が目指す巨額借金からの決別やビジネスモデルの転換という点でも、買収の成否は大きな関心を集めている。
 復星国際はこの2年ほどの間、銀行融資やレバレッジをフル活用して、40億ドル近くの買収を実施してきた。その結果、グループ全体の債務は6月末時点で875億元と、昨年末から26%以上も増加。今後1年以内に返済期限を迎える債務は、全体の半分近くに上る。
 ムーディーズによる信用格付けが投資適格級より3段階下に落ち込むなか、復星国際には実際、戦略見直し以外の選択肢はないと言えよう。
 復星国際のクラブメッド買収は、5月に買収したポルトガルの保険会社フィデリダーデと共同で行う重要な投資案件となる。郭氏はこれを機に、製造業や不動産に特化したビジネスモデルと決別、保険業を中心とした多国籍の投資会社への変身を目論んでいるとみられている。
 復星国際の梁信軍・最高経営責任者(CEO)は、今後の投資にはポルトガル保険会社の資産を活用すると断言している。復星国際のグループ全体の資産は、フィデリダーデの買収によって大幅に拡大し、6月末時点で3133億元(約506億3000万ドル)に達している。
 復星国際はすでにフィデリダーデの資産を活用し始めており、ポルトガル電力会社RENに3.97%出資したほか、カジュアル衣料のトム・テイラー・ホールディングの株式も取得。10月には、ポルトガルの医療機関経営企業エスピリト・サント・サウジを4億5983万ユーロ(約5億7240万米ドル)で買収している。
 ムーディーズのシニアクレジットオフィサー、カイ・フー氏は「復星国際が保険会社の資金を積極的に活用していることは、格付けにはポジティブだ」と指摘。「復星国際は急速に変化している」と評価した。


2014年12月12日17時03分更新、朝日新聞デジタル
復星国際、クラブメッド買収で中国中間層に「プチ贅沢」を
http://www.asahi.com/business/reuters/CRBKCN0JQ0I5.html



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美人弁天

 さ、11月8日雨の日曜日、山歩クラブの足利タウンウオーキングは続きます。
 明石弁天(弁財天)まで来たところで春ちゃんがここは面白いここは寄ろうと。

 はじめまして、美人弁天事務局です。
「美人弁天?」「何者??」と首をかしげる方が多いと思いますが、足利市本城2丁目 厳島神社内にある、それは美しい弁天さまです。
 厳島神社は「弁天さま」と呼ばれてはいましたが、長い間、弁天像がなかったため、2006(平成18)年12月、ある篤志家により「美人弁天」「なで弁天」「水かけ弁天」が寄進されました。
 感謝!!感謝!!感謝!!
 ありがとうございます!!
 以来、「美人弁天 町おこしの会」が発足しました。
 毎月2の日には、参拝者のおもてなしをしています。
 お子様連れの若いお母さんから人生の大先輩であるご年配の方々まで、お参りがてら楽しいひとときを過ごされています。
 これから、このような情報のご案内やご紹介を兼ねて、つれづれなるままに心に浮かぶよしなしごとを書き綴っていきたいと思っています。
 まずは、「はじめの一歩から」…ようやく一歩を踏み出せました!うれしい限りです!!


2008-04-08 13:03:03更新
はじめの一歩 by 八重
http://ameblo.jp/bijinbenten/archive1-200804.html

美人弁天.jpg

 なに、なに、証明書まで発行してくれるの?
 そうなんです、第一日曜日、第三日曜日!!

美人証明.jpg

 さ、映画談議のはじまり、はじまり〜
 日本の女優で誰が一番美人だったか?
 そりゃあ、原節子と山本富士子だんべ
 原節子は1920年横浜市生まれで、1943年に日活から映画デビューしました。
 しかし、1963年に惜しまれながら女優業を引退。
 身長165pと長身です。

 山本富士子は1931年大阪府生まれで、1950年に第1回ミス日本(700人中1位)。
 1953年に大映から映画デビューしました。
 「大映の山本富士子」と呼ばれた山本富士子は…(*)

「大映の山本富士子」が大映から独立した直後、東宝の演劇公演への出演が頓挫を来した際、東宝専務の菊田一夫(1908-1973)が中止の理由を「5社協定(1953年9月調印)に似たふんいき」のためと説明し、大映(1971年倒産)社長の永田雅一(1906-1985)による出演妨害を匂わせたのも、同じく1963年の出来事である(65)。
(65)「山本富士子 舞台出演またお流れ」『朝日新聞』1963年12月16日夕刊、5頁。


羽鳥隆英「映画=テレビ移行期の映画スターに見る脱スタジオ・システム的共闘、池部良と佐田啓二を事例に」2014年3月24日早稲田大学紀要『演劇研究第37号』所収
https://www.waseda.jp/enpaku/publication/333/

 そうでしたか、1962年に作曲家の山本丈晴氏(旧姓・古屋、1925年生まれ)と結婚し、1963年には大映から離れ、それ以来1本も映画に出演していません、ハイ。
 そうでしたか、お富士さまは第1回ミス日本!

 1950年4月22日、日米友好を図る女性親善大使を選ぶ「ミス日本コンテスト」…

 ミス日本の誕生は、太平洋戦争終結直後に遡ります。そのころの日本は、衣・食・住の全てが不足しており、子供たちの多くが栄養失調でした。それを救ったのはアメリカの「Licensed Agencies for Relief in Asia : アジア救援公認団体」から送られてきた脱脂粉乳などの食料や衣類でした。それらは団体の頭文字をつないで「LARA(ララ)物資」と呼ばれ、日本復興への大きな救いとなりました。これに対して、1947年7月の衆議院本会議で緊急の感謝決議が採択されています。

 それから3年後の1950年に、あらためて米国民に感謝を伝えるための女性親善使節を送ることになり、選抜のために開催されたのが『ミス日本コンテスト』でした。。。


ミス日本コンテスト事務局スーパーバイザー、名古屋学芸大学教授・加藤和郎
和田研究所、ミス日本誕生のきっかけと特質
http://wadaken.net/labo/miss/lala.html

 山歩クラブのおのこ仲間たち、奥さまのお顔を思い浮かべたか、
 思わずにっこりにこにこ、ほっこり、ほほえみ浮かべてました。
 あの、ね、「美人力」についてヤッホー君、おすすめの最新刊:

 ボンマルシェに2010年から連載の「美しい歳の重ね方」に大幅加筆した『“一生美人”力』(朝日新聞出版)が刊行される。
 美しく歳を重ねるためには、いわゆる情報ではなく、一人一人の気づきが大切と、108の気づきを提案する。

「美容=化粧品だけではないという思いが常にありました。情報と化粧品とテクニックだけを鵜呑み(うのみ)にすると、考えなくなり、工夫をしなくなり、人生をつまらなくしてしまう。もっと総合的な、お金をかけないできれいになる方法を訴えたいなと。“気づき”とは“お金”をかけない方法に他ならないんですね」

 108の気づきのタイトルは、例えば「人の悪口を言うと、老ける」「老けない人が、太らない」「街で知り合いと遭遇、とっさに気づかないふりをするのは、衰えの始まり」。

「気づきは生活の中にあるとても手軽なこと。そんなアンチエイジングの気づきをたくさん載せました。そのうえで大切なことは、“方法はいくらでもあるのだから、美容医療などひとつの方法に執着せずに、バランスよく歳を重ねること”、そして“若さも老けも気持ちしだいだということ”、さらに“自信は必要だけど持ちすぎは変な迫力がつくので気をつけること”でしょうか」

 ちなみに齋藤さんが考える「美しく歳を重ねる」ための究極の三大要素とは「知性と洗練と清潔感」。。。

 完璧でスキのない人との印象だったが、密かにほっとした発言もあった。

「人の目から自分を遠ざけることが女性をやつれさせます。家にいる時にも、誰と会っても恥ずかしくない自分でいること。その覚悟が歳をとらせない。でも、これ、自分は全然できていないんです(笑)、あくまでも提案です」

 この人も自戒しつつ、「気づき」を見つけているのだ。


2015.11.04付け朝日新聞、撮影:浅井佳代子/文:追分日出子
相手のない美容はないと言い切りたいですね
齋藤薫さん(美容ジャーナリスト)
http://www.asahi.com/ad/clients/bonmarche/talk/

(*)ヤッホー君、おすすめの映画の本:

● 素敵な人が大勢いた、素敵な時代。

 サブタイトルにあるように、本書はかつて存在した映画会社・大映の九州支社宣伝課に永年勤務した、中島賢さんが宣伝マン時代のエピソードを綴った書籍である。
 最近でも若尾文子の旧作特集上映が多くのファンを集める等、この時代の映画、きちんと作られた日本映画が、今、新しい世代にも受け入れられている。
 そのまっただ中にいた中島賢さんは、若尾文子を始め山本富士子、京マチ子、中村玉緒、藤村志保、高田美和、江波杏子、渥美マリ、関根恵子、松坂慶子といった美人女優たち、
 市川雷蔵、勝新太郎、本郷功次郎、田宮二郎といった、まさに日本映画史を飾った大スターたちと、
同じ時間を過ごした方だ。

2015.09.22 09:34 小学館 NEWS ポストセブン
中島賢『スタアのいた季節/わが青春の大映回顧録』( 講談社、2015年6月)
〜もと大映宣伝マンが、本当に書きたかったこと。
http://www.news-postseven.com/archives/20150922_352444.html


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2015年11月10日

足利市緑町配水場

 先の日曜日、朝の9時ころだったでしょうか、足利公園駐車場に大型バスがとまりました。
 へぇ〜、雨だというのに観光、と乗客の皆さまの根性に敬服しながら、バスの前に立っていた地元の案内人かなと思われる人に「草雲美術館はどこでしょうか」と道を聞いていたのです。
 山歩クラブ「お散歩会」は草雲美術館を出て、足利公園のなか、雨に濡れた紅葉の輝きのなか、例のビシャモンテン、ビシャモンテンを尋ね求めて常念寺。
 なんとそのとき、この方と再会してしまったんです。
 足利市の水道局の職員さんでした。
「すみません、この先は一般の方には遠慮してもらっています。許可とった方だけが入れます。今日は、土木遺産ツアーのお客さんたちが来られているんです。草雲美術館は分かりましたか?」

 ここは「緑町配水場」!
 
 緑町配水場の一角にある「水道山記念館」は、創設当時の配水場管理棟です。建築面積200平方メートルの木造平屋建て、洋瓦ぶきで衛生的な水道施設にふさわしい景観です。内部には、創設から第5次拡張事業までの写真を展示しています。
 1985(昭和60)年5月、日本水道新聞社(主催)から『近代水道百選』に環境・景観的施設として選定され、水道施設の象徴として市民からより一層親しまれるようになりました。
 当記念館は2006(平成18)年3月2日付で今福浄水場ポンプ室、緑町配水場配水池・接合井・計量室とともに「国登録有形文化財」として登録されました。


足利市公式サイト、水道施設の概要
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/jougesuidou/jousuishisetsu.html

 そりゃそうだ、職場だしぃ、
 テロリストが水道水に炭そ菌を混入させたらタイヘン、
 そりゃホラー映画の見すぎ、
 そりゃそうだ、
 民営化されたらカネ、カネ、カネ。
 高い入場料払ったら入らせてもらえ、
 高い水を買わされるよ、そりゃそうだ、
の八木節ならぬ釘節が絶好調…

 足利市の水道は、1930(昭和5)年12月に完成し、1931(昭和6)年4月から給水を開始しました。
 水源は今福地内の渡良瀬川左岸堤防法先に集水管を埋設し、集水井を経て、今福浄水場で滅菌処理された浄水をポンプにより、「緑町配水場」へ送水され、ここから市内に配水しています。
 庁舎内に展示されているポンプとモーターは、創設当時の今福浄水場に設置された3台の中の1台で、今は足利市水道事業のモニュメントになっています。
 「緑町配水場」の一角にある「水道山記念館」は、創設当時の管理棟で、洋瓦ぶき木造平屋建(200u)の建物です。この一室には、1934(昭和9)年11月に昭和天皇が足利市に行幸なされ、配水場から市内を一望された折りの御座所が当時のまま保存されています
 1985(昭和60)年には、1887(明治20)年日本で初めての近代水道が横浜に設けられてから100年になることを記念して、豊かな緑に包まれ、四季折々の変化に富んだ環境のよさ、景観の素晴らしさを備えた価値ある施設として、「近代水道百選」に選ばれました。
 さらに、国の文化審議会は、2005(平成17)年11月18日、「緑町配水場」水道記念館を国登録有形文化財に指定するよう答申しました。


栃木県の土木遺産
足利市緑町配水場
http://www.doboku.shimotsuke.net/asikagasimidorityouhaisuijyou.html

 足利市の水道は、すべての水源を地下水でまかなっており、浄水場内の取水井や集水埋きょから地下水をくみ上げています。

足利市公式サイト、上下水道部、水道のしくみ
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/jougesuidou/jousuishikumi.html

 そういえば、ここまで”美味しい足利の水”って水飲み場がありましたね。
 あれは湧き水か水道水か、シュミーズか清水か、水談義の釘節が絶好調…
 山歩クラブの「お山歩会」はペットボトルだったら、スポーツドリンク350ml 2本は必携。
 今日のお散歩会にだってヤッホー君、サーモス500ml 1本をリュックに入れてきましたよ。

 ちょっと?水道事業も公営化?

 パリ市(*)を二つに分かち、ゆったりと流れるセーヌ川。その右岸と左岸では、街の雰囲気が変わるばかりか、市民に給水する水道会社まで違っている。
 右岸がヴェオリア、左岸がスエズ。
 世界の2大「水メジャー」企業の本拠地がパリなのだ。ともに100年以上の歴史をもつ。両社をあわせると、世界で2億5000万人以上が上水や下水のサービスを受けている。
 2社が担ってきた給水や料金徴収を含め、パリ市内の水道サービスが来年、150年ぶりに「公営化」される。
 市長(社会党)が再選に向けてぶち上げた公約の一つが「水道事業の再公営化」だった。市長は昨年3月に再選され、水メジャーのおひざ元での「メジャー離れ」が確定した。

水は「共有財産」
 4月27日、記者(浜田陽太郎)は、「水道改革」を担当する副市長アンヌ・ル・ストラットを訪ねた。
水は、自然から与えられた人類の共有財産。短期的な利益のために動く企業に任せられないでしょう
 「緑の党」に所属していたこともあるストラットは、そう語る。
 パリでは、25年前に比べ、水道料金が3倍以上値上がりし、市民の不満が高まっていた。
複雑に入り組む供給体制を一本化すれば、水道料金を安くできる。企業なら株主に回るお金を、公営なら設備更新に使えます
 水道が政治課題に浮上したきっかけは、消費者連合によるキャンペーンだった。
 商品テストを目玉として発行している雑誌で、主要都市ごとの「適正料金」を、外部の専門家と連携して試算。パリで38%、マルセイユでは56%も割高といった特集を組んだ。
 発行部数50万の影響は大きかった。担当スタッフのフランソワ・カルリエは「民間企業との契約について自治体や住民の意識が高まったし、料金を引き下げた都市もあった」と満足げだ。。。

日本では民間委託、促す政府
 政府は地方自治体に対し、民間企業への業務委託を進めたり、周辺自治体との広域的な業務連携を図ったりして、安定的に水道事業を続けることを促している。
 厚生労働省によると、民間企業に委託した事業数は、2002年の2件から2008年には101件まで増えた。
 全国で水事業の運営管理を請け負ってきたジャパンウォーター前社長の水谷重夫(三菱商事の水・環境ソリューションユニットマネージャー)は「広域的に事業を任せてもらえれば、さらに民間企業の利点が生かせる」と話す。複数の自治体の事業を一括して管理することで、より効率的に事業ができるとの考えだ。
 都市部の自治体では、独自に創意工夫を始めたところもある。周辺の小規模自治体の運営管理を受託したり、海外での事業拡大を狙ったり、といった手法だ。
 大阪市は中国などへの浄水技術の提供を準備している。横浜市は東南アジアなどに人材を送り込み、技術協力をしているほか、民間企業と組んでの運営委託もにらむ。


The Asahi Shimbun Globe
Water crisis
http://globe.asahi.com/feature/090525/04_1.html

 日本では、社会党ってサイキンちっとも耳にしません。
「古いものは破壊、散逸、流出の憂き目にあったとき」なんてはるかに遠いムカシごと、イマはもう、消滅、抹消、削除されたんでしたっけ…
 私財をなげうってでも救い出そうと闘った人はなく、上場企業の正社員でつくったクミアイって、公共性より私物化を選んだんでしたっけ…
 支持母体のロウソがカネ、カネ、カネ、ゲンパツ賛成、TPP賛成、武器輸出賛成のジユウとミンシュシュギに越水しちまったんでしたっけ…

(*)
 快晴となった9月27日。この日は、以前から街中にもポスターなどで告知されていた「Paris Journee sans Voiture(パリの『車なしの日』)」でした。私はこのポスターを見た時「パリ市から車がなくなるの?」と驚きました。もちろん、それは不可能なことで、エッフェル塔やシャンゼリゼ大通り、ルーブル美術館、オペラ座などパリの中心地の一部は完全に車の乗り入れが禁止。セーヌ河岸や一部の通りは、歩行者のみです。それ以外の場所は、車の走行は可能ですが制限速度は時速20km以下なので、運転しないことをおすすめしますとも書かれていました。欧米では既に「車なしの日」を定期的に実施している都市もあるようですが、パリでは初めてのことです。
 パリの街並みは、住んでいる私でも毎日「美しいなあ」と感じ、建物の高さの規制もあることから(高層ビルが並ぶ区もありますが)、空が大きく広く感じ、思い切り深呼吸をしたくなります。ところが、実際には大気汚染に悩まされているので、私も外出をすると咳(せき)が止まらなくなり、外出を最小限に控えた時もありました。パリの前市長ベルトラン・ドラノエ氏(社会党)は、自転車専用レーンやヴェリブ(レンタサイクル)、オートリブ(レンタカー)などをつくり、パリ市内へのクルマの乗り入れを減らそうとしました。
 今年からパリ市の路上パーキングの料金が値上がりました。そして、現パリ市長のアンヌ・イダルゴ氏(初の女性パリ市長、社会党)は12月に開催される国連気候変動パリ会議(COP21)を視野に入れ、改めて皆でパリの大気汚染について考える日ということで「車なしの日」を実施したといわれています。11時から18時まで、車道をゆっくり散歩したり、小さなお子さんが三輪車に乗っていたり、車のない街中を楽しんでいました。

2015年9月29日付け朝日新聞デジタル
パリでは初めての「車なしの日」を実施
文&写真 中村江里子
http://www.asahi.com/and_M/living/SDI2015092831151.html



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2015年11月09日

田崎草雲

1. 江戸の幕末 足利藩の 神田屋敷に 生まれて育ち
  やがて日本の 絵画の巨匠 足利名代(なだい)の その人物は
  田崎草雲 その物語 幼な頃より 絵画に秀(ひい)で
  藩を飛び出し 絵画の修行

2. 若き頃より 各地の旅へ 出ては画法を 習得いたし
  号(ごう)を梅渓(ばいけい)と 定めてからも なおも修行の 旅へと出かけ
  腕を磨くが その一方で ケンカ早くて 大酒飲みは
  あばれ梅渓(ばいけい)の 異名をもらう

3. 嫁を娶(めと)りて 新居を構え 号も改め 草雲として
  絵画極める 技法を学び 努力重ねて 35歳
  成果現(あら)わし 地理歴史書の 挿絵(さしえ)書きたる 『下野国誌(しもつけこくし)』
  栃木県での 優(すぐ)れた書物(しょもつ)

4. 妻を亡くして 3年後(のち)に 江戸を離れて 足利移住
  やがて世間は 明治の維新 変化激しき 時代の中で
  草雲みずから 尽力(じんりょく)いたし 町の安全 守らんとする
  『誠心隊(せいしんたい)』をば 結成いたす

5. 国も落ち着き 明治の時代 住まい移りて 『白石山房(はくせきさんぼう)』
  ここで絵画に 専念いたし 名画数々 世に送り出す
  富士のお山を 描(えが)かせたなら 日本一だよ 草雲さんは
  大家(たいか)うならす その筆さばき

6. 老いて草雲 さらなる名誉 国内画展で 得賞いたし
  日本国内 だけにはあらず パリやシカゴの 博覧会に
  展示いたして 高評(こうひょう)博(はく)し 名誉牌(めいよはい)をば 受けられました
  田崎草雲 郷土の誇りだ オーイサネー


足利市公式サイト、草雲美術館
八木節「田崎草雲」(作:笠原芳久)
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/soun/soun-yagibushi.html

 昨日の雨の足利市。
 山歩クラブが向かった先は「草雲美術館」!

草雲美術館.jpg

山房.門.jpg

白石山房.jpg

【足利】市ゆかりの日本画家田崎草雲(たざきそううん)(1815〜98年)が10月15日に生誕200年を迎えるのに合わせ、市内の美術館や史跡足利学校などで一斉に企画展が行なわれる。街が一丸となり、17年前の没後100年を上回る規模で草雲の活躍を振り返る。
 市立美術館と草雲美術館は10月10日から、前後期に分けて田崎草雲展「たけた絵師、たかき人」を開催。約60点の初公開作を含む、約200点の作品や資料で草雲の画業を振り返る。
 市教委によると、1882(明治15)年に開催された政府による日本初の絵画展覧会「第1回内国絵画共進会」で最高賞に輝いた「春山暁靄図(しゅんざんぎょうあいず)」と「秋山晩暉図(しゅうざんばんきず)」などが注目作品になるという。同作品は出品以来、宮内庁三の丸尚蔵館が保管しており、11月27日からの後期に133年ぶりに披露される。
 史跡足利学校も10月10日から企画展「田崎草雲と足利学校」をスタート。晩年の草雲の写真や草雲が寄贈したとされる蔵書などの資料約30点を公開し、草雲の偉業を紹介する。


2015年10月7日付け下野新聞朝刊
田崎草雲生誕200年 足利市内、官民の文化施設で企画展
http://www.shimotsuke.co.jp/category/life/entertainment/art/news/20151007/2105660

 早雲美術館にあった”白石山房と紅葉三宝”の写真はとても気にいっています。
 そうか、そうか、幕末の絵師ねぇ〜と思って先に歩を進めたのですが、もおぉ、帰るんですかぁ〜、ヤッホー君、また声をかけられてしまったのですぅ…

 草雲美術館(そううんびじゅつかん)は、幕末から明治時代にかけて足利で活躍した文人画家・田崎草雲(たざきそううん)の描いた絵画や、草雲の愛用した遺品を収集、保存し、一般に公開しています。
 設立にあたっては、足利市在住の故・鈴木栄太郎氏(1894−1977)が、1968(昭和43)年2月に私費を投じて草雲ゆかりの地、白石山房に建設し、同年4月に足利市に寄附されました
 館内には展示室のほか、遺品室・応接室などがあります。
 また、庭園には、草雲が生前暮らしていた白石山房と呼ばれる2階建ての萱葺き住宅が残され、その隣には茶室と画室もあります。園内は小鳥がさえずり、まちの喧騒を忘れさせてくれます。


足利市公式サイト、早雲美術館
どんな美術館?
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/soun/soun-gaiyou.html

 鈴木栄太郎ってどんな人?

 足利が市になったのと同じ1921(大正10)年1月、現在の足利市栄町2丁目に病院を開ひらきました。。。
 栄太郎は、1969(昭和44)年5月、足利の生んだ有名な画家、田崎草雲の絵を展示する美術館「草雲美術館」を、約2千万円で、白石山房の庭に建たてました。さらに1973(昭和48)年4月には、720万円でこの美術館館内に草雲の使ったものをおさめる部屋もつくり、どちらも市にきふしました。。。
大切な文化財は、市民のものであって、私物化(個人のものとする)すべきものでない」というのは、いかにも栄太郎らしい言葉ことばではないでしょうか。
 足利市は栄太郎の行ないをたたえ顕彰状という賞状をおくったほか、碑をつくりました。


足利市立教育研究所
鈴木栄太郎
http://kyouiku.ashi-s.ed.jp/senjin/e_suzuki.html

 歴史あるまちには傑出した人物を輩出しているようで。
 この田崎草雲とヤッホー君は足利学校で再会するのですが、そこでなんと木村半兵衛とも再会するのです。
 木村半兵衛は、ヤッホー君のこのブログ、昨日付けの日記「第一回衆院選」で登場した足利市の豪商です。
 足利学校内旧遺跡図書館(市重要文化財)で開かれていた企画展「田崎草雲と足利学校」でのことでした。

 足利郡小俣(おまた)で織物買継商を営んだ木村家は「半兵衛」の名が4代襲名されています。
 三代目半兵衛は、教育や社会福祉にも力を入れ、学制が発布されると私財を投じて小俣小学校を設立し、旧足利藩の家老であり漢学者である『足利学校事碩考』の著者、川上廣樹(かわかみ ひろき)を招いて校長とするなどしています。
 三代目半兵衛の遺した「日誌」によると、1879(明治12)年8月19日、草雲・川上廣樹の両氏が夜8時に訪問し「足利学校保存之義」について談じ、木村宅に泊まっています。


 そうでしたか、こうした高い志をもった草雲などの東奔西走のおかげで、足利学校はいのちをながらえ、<知性主義>の炎を灯し続けています。
 文明開化の名のもと、古いものは破壊、散逸、流出の憂き目にあったとき、肝っ玉の据わった一部の者は、私財をなげうってでも戦っています。
 そうでしたか〜、ヤッホー君、範とすべき人材との出会いにすっかり感動してしまい、雨にうたれたのか眼まで濡らして立ち尽くしていました:

 明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、1871(明治4)年、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、1872(明治5)に至って廃校とされた。
 廃校後、方丈などがあった敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去された。また、栃木県は足利学校の蔵書の一部を県に払い下げようとしたので、足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により、蔵書は地元に返還され、孔子廟を含む旧足利学校の西半分とともに県から地元に返還された
 地元足利町は1903(明治36)、足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立し、足利学校の旧蔵書を保存するとともに一般の図書を収集して公開した。また1921(大正10)年、足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は国の史跡に指定され、保存がはかられることになった。

(Wikipedia)



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2015年11月08日

足利タウンウオーキング

 こんばんは。
 今日は一日中、雨降りやまず!
 しかし、雨ニモマケズ、雨ニモメゲズ、8時半から2時半まで山歩クラブは外を出歩いてきました。
 当初の計画は、「歴史のまちを望むみちコース」を歩く予定でしたが、結局、昨夜、雨のため「お山歩会」を「お散歩会」に切り替えました。
 下町を出る電車の時間は予定通り!
 結局お集まりいただいたのは、5人だけでしたが、渡良瀬川を渡って、足利公園、織姫神社、美人弁天さま、と回って、老人ホーム、失礼、ぼけ除けの延命地蔵尊が祀られている寿老人(心通院)でランチ。
 まだまだ歩いて鑁阿寺、足利学校と歩き通しました。
 紅葉も見ごろ、雨に濡れてしっとりした赤いハナミズキ、モミジ、黄色いイチョウと堪能してまいりました。
 鑁阿寺じけんち市にからめたイベントなのか、雨ん中、大人も子どもも祭りの笛や太鼓に合わせ、手をいっぱい伸ばし広げ、リズムよく踊っている姿には感動しました。
 足利学校では正門から堂々と入学できました。
 松前さんが勉強しようって『論語抄」をお買い求めたのに続いて、ほかの人も我先にと買い求めました。
 それはとってもいいのですが、ひとり心配なのがヤッホー君。
 枕元に積んどく枕頭の書にならぬよう、さ、今晩から「子いわく」…
 いやぁ〜、やっぱり明日からにしようかな…おやすみなさい、と言っております。

足利公園.jpg

 ウオーキングは晴れも良し、雨もまた良し。

平地(ひらち)の女王さまからこだま:
 今日はありがとうございました。お疲れさまでした。良かったです。紅葉も見事でしたね。観光客がいなかったので一人占めした感じでこれも良かったです。足利市の街の様子や観光の主だったものに触れ、有意義な一日でした。パンフレットを読み、復習します。ゆっくり身体を休めて下さい。

映画オジサンからこだま:
 今日は、雨の中での足利市ハイク お疲れさまでした。
 一日中雨の足利市散策となりましたが、訪れたことがなかった土地はとても新鮮でした。
 春ちゃんとの久しぶりの再会で、会話も弾んだことと思います。
 さて散策中に話題に上がったマレーシアのヤスミン監督の作品が新宿のK'sシネマで11月7日から20日までの期間内に先行上映されます。上映作品は、2009年作の『タレンタイム』です(*)。
 ご参考までに。


(*)昨日だけだったようです。でもありがとう、映画オジサン
【2016年公開作 特別先行上映】原題:TALENTIME
監督:ヤスミン・アフマド
出演:マヘシュ・ジュガル・キショー、パメラ・チョン
ヤスミン・アフマド伝説の遺作/マレーシア映画祭主要4賞

 高校生の音楽コンクール「タレンタイム」をめぐる瑞々しい青春映画であり、涙なくして見られない号泣映画であり、その奥には、多民族国家マレーシアのみならず世界が直面する不寛容を超えようとする強いビジョンが息づく。
 ヤスミンの映画はアジアの至宝、今の世界に輝きを放つ宝物。
 この映画を配給できることに感謝します。

〈上映日〉11/7(土)16:30

K'sシネマ
はしっこでも世界。ムヴィオラ15周年特集上映
http://www.ks-cinema.com/movie/moviola/


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第一回衆院選

 田中正造は佐野市出身で栃木県の県議となり、県会議長、衆院議員になっていきます。
 では、足利市との縁についてちょっと目を向けてみたいと思います。

 明治憲法で見たように、国会は二院制でしたが、衆議院だけが国民の選挙で選ばれる議員で構成されるものでした。
 その第一回総選挙が翌1890(明治23)年7月に行なわれました。立憲改進党に入っていた田中正造は、地元の栃木県第3区(阿蘇、足利、梁田の3郡)から立候補しました。定数は1議席でしたが、足利町からは木村半兵衛(*)が立候補したので、二人で争いました。
 このころの選挙戦は、両派の運動員が刀や仕込杖(しこみづえ)を待ったり、なかにはふところにピストルや短刀をしのばせている者もいたりして、まだ江戸時代が残っているような物騒なものでした。そして記名投票でしたから、だれがだれに投票したかがわかるのです。その選挙結果は、正造797票、半兵衛672票で、正造が当選しました。
 ずいぶん少ない票数だな、と思われるでしょう。そうです。このころの衆議院選挙は、前に述べた地租を1年に15円以上納めている25歳以上の男性にだけ、選挙権があったのです。15円以上の地租というと、およそ上等の田を1.3ヘクタール以上持っている人ということになりますから、一つの村で2、30人くらいだったでしょう。
 当時は地主制で、地主の土地を借りて耕作していた貧しい農民(小作人)が多かったのです。余談になりますが、すべての農民が自分の田畑を持てるようになったのは、アジア太平洋戦争直後の「農地改革」からでした。正造の時代は、地主と自分の田畑を持っている自作農、そして小作人でした。。。


佐江衆一(1934年浅草生まれ)『田中正造』(岩波ジュニア新書)48-49頁

(*) 
 そして、最後に「明治時代の産業人の心意気」という話で、わがまち足利の「木村半兵衛」を紹介されました。。。
 われわれ足利の人間は、「木村半兵衛」について多少は知識がありますが、他の栃木県民の方達には、どうしてもこの時代の栃木県の偉人といえば「田中正造」でしょう!!となります。
 しかし、この「田中正造」に衆議院選で負け続け、全国区!?にはなれませんでしたが、私財を投じ、学校を設立したり、両毛鉄道の開通に尽力したりと、産業のそしてまちの地域経済の発展のために寄与した、その「心意気」を、自分が儲けることしか考えない現代のヒルズ族などは、見習うべきだと仰ってました。
(講師:栃木県立文書館 副主幹 松本一夫先生)


2008.08.19 Tuesday
歴史を大切にしない地域は、記憶のない人間のようなものである!
2008年〜2009年の社団法人足利青年会議所理事長・直前理事長を務めた者の雑記
http://seizetheday.0809ashikagajc.lolipop.jp/?eid=96

 この選挙戦、田中正造自ら述べた感想が、田中タケ宛1890(明治23)年5月29日付け書簡として誰でも読むことができます。
 このタケさんは田中正造の妹リンの長女。一時正造の養女となったこともあります。当時は明治女学校に在学中でした。
 以上由井正臣・小松裕編『田中正造文集(1)』(岩波文庫)ご参照ください。
 田中正造が亡くなると:

[田中正造顕徳会の由来]
 足利市野田町の、渡良瀬川堤防を背にする寿徳寺に、田中正造が分骨されている事実が世に出たのは、1989(平成元)年のこと。前寿徳寺住職大蔵寛邦和尚が、当時の寿徳寺総代委員長室田仁氏に「本堂竣工後、墓畔に田中正造翁の顕徳碑を建てるつもりだ」と語ったことに始まる。
 寛邦和尚は先代の元直和尚が言い残したこととして、次のように話した。

「1913(大正2)年10月12日、惣宗寺の本葬に参加した後、室田忠七、稲村与市、稲村忠蔵、設楽常八らと熟議して、翁の分骨を寿徳寺開山禅師の墓に納めることとした。久保田町の本源寺和尚、県町の淨徳寺和尚も参列して、証拠を残さぬよう紙位牌でこっそり埋骨式を済ませた。分骨は油紙にくるんで納めてある。以来、9月4日には、必ず墓前で供養してきた。以後も続けるようにいわれ、だから寺だけで行ってきた」と。

 分骨地は五ヶ所と信じていた者たちにとって、青天の霹靂であった。だが、調査の過程で、分骨責任者の原田定助、政七の周辺では、七ヶ所に分骨したといわれている事実も知った。明治の男たちは黙したままで逝ってしまった。謎は一つ解け、ひとつ生まれた。
 久野地区の人びとは、室田仁氏、山田秀穂氏を中心に顕徳会をつくり、毎年3月第一日曜日に会合し、法要を行なうこととした。1993(平成5)年には寿徳寺境内に正造翁の顕徳碑が建った。

 初代顕徳会会長の室田仁氏は、正造の分骨を思いどうりに自分たちの寺に納める「離れ業」をやってのけた鉱毒被害地久野村リーダー室田忠七の孫である。
 久野地区は、渡良瀬川の氾濫によって、度々足尾銅山の鉱毒被害にあった土地です。広島や長崎の原爆の被災とは比較できないかもしれないが、その他の公害被災地と同じように、我々も環境問題を発信し続けなければならない。悲惨な負の経験を貴重な体験とし、貴重な財産として、子々孫々に語り継ぐべきである。そうしなければ、当時必死で頑張りぬいてきたご先祖に申し訳ない。金銀財のように形あるものを残すことは易いかもしれないが、形のないものを残すことはなかなか難しい。久野地区だけでなく、鉱毒事件にかかわる悲惨な歴史や苦労、努力というご先祖の目に見えない財産を残してあげなければならない。
 今年は、このようなお話をしました。


2011-3-8 福田山 壽徳寺
田中正造顕徳会(足利市野田町1463電話0284-71-9130)
http://www.jyutokuji.or.jp/

 「悲惨な歴史や苦労、努力というご先祖の目に見えない財産を残してあげなければならない」… 胸にしみわたってきます。
 さらに室田忠七の孫からひまごの代になったイマでも:
 
□ 激甚地の一つ足利
 「これぐらいしか私にはできませんが」。足利市野田町、岩木照代さん(61)はそう話しながら、田中正造が書き残した掛け軸や先祖の日記を、一つ一つ丁寧に虫干しする。

 劣化が進み、触れると崩れそうになる史料も。それらを目にするたび不安が募る。「地域を守った正造と、共に戦った先祖の行動までも、足利では風化してしまうのでは…」

 岩木さんは、足利の鉱毒事件反対運動のリーダーだった室田忠七のひ孫に当たる。室田は鉱毒の被害が特に大きかった久野村野田の農家で、28歳の時から正造と行動を共にした。1900年には、農民らが警官隊に弾圧された「川俣事件」で逮捕され、当時の状況を記録した日誌は重要資料とされている。

 室田を中心に、足利では正造と共に鉱毒事件と向き合った農民や、熱心な支援者も多かった。だが、近隣市に比べ、そうした人たちを顕彰しようという盛り上がりが欠けているのが実情だ。

 ■ ■ 
 後世に残していくために−。岩木さんの父、室田仁さん(故人)は、1989年に「田中正造顕徳会」を立ち上げた。

 「第6の分骨地」とされる野田町の寿徳寺で毎年3月、法要を行う。2004年、仁さんは病を患いながらも「これが私の役目」と法要に出席。その1週間後、亡くなった。

 設立時、約60人だった会員は40人ほどに減った。現会長の同町、桜井章一さん(77)は「足利で火を消すわけにはいかない。顕徳会を活発化させないと」と奮起する。

 同会会員で岩木さんの長男、一憲さん(25)も「正造や先祖の思いを継いでいかなければ」と、養子縁組によって「室田姓」を残し、活動していくことを決めた。

 ■ ■  
 足利で顕彰の機運が高まらない背景には、正造の政敵だった織物買継商・木村半兵衛の存在や、一部地域が古河との永久示談に応じていたことなど複雑な事情がある。

 「正造の偉大さは感じつつも、市全体で顕彰活動を進める雰囲気にはならない」(日下部高明・前市文化財専門委員会委員長)。

 一方で、正造らの功績を胸に刻み、風化させまいと願う人もいる。

 正造の支援者の墓が残る山川町、長林寺の矢島道彦住職(61)は、正造を「守るべきを守る、範とすべき人」と評し、法事や子どもたちが集まる場などで語り継ぐ。

 環境問題の市民活動にも加わった経験を持つ矢島住職は、正造の「予ガ座禅ハ奔走ニアリ」という言葉に深く共鳴する。「足利ならではの事情があるのだろうが、この地が鉱毒の被災地であったことは確か。私たちにできるのはそれらをきちんと学ぶことと、正造のように信念に基づき一市民と行動することだと思う

【メモ】
 足利市は足尾鉱毒激甚地の一つ。渡良瀬川中流の湾曲部にある南部沿岸地域は特に被害が大きく、鉱毒を含んだ水が流れ込み、堆積した土砂を集めた「毒塚」がいくつもあった。被害地域の19町村でつくった「鉱毒議会」では、議員約千人のうち、半数が足利郡の農民らだった。


2013年6月4日05:00下野新聞
第1部<6>先祖の思い、風化させない 盛り上がり欠け不安も
http://www.shimotsuke.co.jp/special/ima-ikiru-shozo/20130604/1058859



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2015年11月07日

海陸軍全廃

 田中正造は佐野市出身で栃木県の県議となり、県会議長、衆院議員になっていきます。
 では、足利市との縁についてちょっと目を向けてみたいと思います。

 あっ、その前に、やはり昨日の日記「谷中村廃村100年」との絡みで:

 足尾銅山の鉱毒事件で廃村になった旧谷中村の関係者を映像に残した映画「鉱毒悲歌」が今年2015年2月28日、宇都宮市江野町の宇都宮市・ヒカリ座(江野町7-13プラザヒカリ電話028-633-4445)で公開された。3月13日まで。約40年前に撮影を開始し、今は他界した関係者の証言も伝える貴重なフィルム。主催者は「旧谷中村の人々の思いを知ってもらいたい」と話している。
 「鉱毒悲歌」は、1時間42分のモノクロ映画。1974年、宇都宮市内の学生や映画好きの若者らが、足尾鉱毒事件についての遺産を映像に残そうと足尾などで撮影を始めた。北海道に移住した村民の証言や、事件の解決に取り組んだ田中正造の弟子の故・島田宗三の肉声も伝えている。
 資金面で苦しみ、フィルムを紛失するなどして編集が滞ったが、昨年2014年7月、一部の制作メンバーが編集を終えて完成。これまでに公民館や文化会館など、県内外約10カ所で上映会を開いてきた。それを見たヒカリ座の支配人が事務局の出版社「歩行社」(宇都宮市)に打診し、映画館での初の上映が決まった。
 初日の28日は、「田中正造大学」の坂原辰男事務局長と、足尾にルーツがある作家立松和平さん’1947-2010)の長男の横松心平さんがトークショーを実施。坂原さんは「暗い足尾ではなく、環境を学べる足尾を」と足尾地域の未来を語り、横松さんは「父は田中正造について2回目の小説を書きかけていた。同じテーマを二度書いたことはなかったので、深いルーツを感じていたのだと思う」と話した。


2015年3月1日03時00分更新、朝日新聞デジタル、友田雄大
栃木)鉱毒事件、旧谷中村の証言 伝える映画が公開
http://digital.asahi.com/articles/ASH2X5R7VH2XUUHB008.html?rm=418

 「田中正造大学」って大学まであるぅ〜(事務局長/坂原辰男、佐野市小中町932電話0283-23-2896)!
http://syozo-uni.net/info/
 板原辰夫さんは東京新聞のインタヴューにこんなことをおっしゃっていました:
 
 正造が生まれ育った佐野市小中町(旧小中村)。かつて正造も出入りした古い農家が坂原さんの自宅で、正造大学の事務局にもなっている。その土間で、坂原さんは正造の写真と言葉が印刷されたポスターを見ていた。
「このフレーズが今の選挙にも通じるところがあると思って」そう言って、二つ並ぶ言葉の一方を指した。

天の監督を仰がざれば凡人堕落 国民監督を怠れば治者盗(ちしゃとう)を為(な)す


 正造が1902年に残した言葉。天に監督を仰がなければ凡人は堕落し、国民が監督を怠れば政治家は盗みを働く、と読める。
 坂原さんは2年前の衆院選の時も、この言葉を挙げた。正造研究で知られる小松裕熊本大教授(1954年 山形県生まれ、2015年3月肺がんで熊本大学文学部長在職のまま逝去)の著書『真の文明は人を殺さず』(小学館、2011年9月)を開き、この言葉に関係する箇所を読み上げた。

「いくら政治家や政党が信頼できないからといって、政治そのもの、代議制そのものまで否定してしまっては、元も子もない」とし、「それは、たらいの水と一緒に赤ちゃんまで流してしまうようなものだ」。「昔から、ファシストやポピュリストは、国民のそういった気分に乗じて権力を掌握するものである」と続けた。

 小松教授はこの言葉について「代議制が形骸化しないための鍵を国民の監督責任に求める正造の発想は一貫していた」とも紹介している。
 安倍晋三首相の消費税増税の先送り判断から、突如動きだした衆院選。有権者の関心は高まらず、投票率低下の懸念もある。それでも、坂原さんは「政府や政党がやっていることを国民が絶えず監視して、投票することで政治に参加する」と、政治に鋭い視線を注ぐ必要性を訴える。


東京新聞、2014衆院選、栃木ニュース一覧
政治あきらめないで投票を 田中正造大学 坂原事務局長語る
http://www.tokyo-np.co.jp/article/senkyo/shuin2014/tochigi/CK2014121202100010.html

 そして、wが国にミンシュシュギはあるのか…

『原典でよむ 日本デモクラシー論集』(岩波書店、2013年7月)にも出てくるのですが、田中正造の「素裸になれ」をご紹介: 

海陸軍全廃 田中正造翁談
1908(明冶41)年4月5日発行『新生活』第5号所載

 日露戦争の始まったころ、静岡県のある所で演説しろというから、こう言うてやりました。

 丁度国会で5億の軍費を議決したというので大威張りでいたころでした。
 5億や6億の公債で戦争のできるものでない。昔から「下手な普請(ふしん)は3倍」と言うから15億〜20億はかかる。が、20億使ってしまった後をどうする。その後が大切だ。その後は国民の正直ということだ。
 イマのように政府は議会を欺き(あざむき)、議員は国民を欺き、てんでに欺きあっているんじゃ仕方がない。

 というようなことを演説しましたが、その時はまだ政治家の頭で、最早(もはや)戦争が始まった上は仕様がない、黙って戟争の終わるのを待っ他はないという考えでがした。
 戦争がいよいよ済んだ。講和談判もまずかったが、戦争はとにかく立派に勝った。急に日本が世界の一等国になった。それも全く戦争に勝ったため…すると海牙(バーグ)の万国平和会議のことを聞いたので、足の抜き難いところでしたが、谷中(やなか)を出て東京へ来ました。

 この大勝利という好機会に乗じて、日本が世界の前に素裸(すっぱだか)になる。海陸軍の全廃だ。
 これが、弱小国の口から出るのでは、折角(せっかく)の軍備全廃論も力がないが、大戦勝の日本は軍備全廃を主唱する責任がある。いや、権利がある。
 この機会を逸してはならないのだが、誰がよかろうと考えて、まず三好退蔵さんを思い浮かべた。さよう、三好さんは久しい死刑全廃論者で長い間の愚弄(ぐろう)を忍んで主張している。まずこの人だという考えで尋ねました。「申してみましょう」という返事でしたから、何しろ、谷中の方が忙(せわ)しいので、すぐ帰ってしまいました。
 去年、救世軍のプース大将が来ました時、私にも来いということでしたから、軍備全廃間題のことを話したいと思いまして、大要を書き認(したため)て、東京座へ行きましたが、そんな談話の時もなかったので、ただ説教を聞いて帰りました。さよう、さよう、私が救世軍へ入隊したというような新聞が出ましたよ。なに、私が行ったのは、そういうわけでした。

 もし万国平和会議で、日本の主張を拒絶して、軍備全廃を否決したならば日本は自分だけで、海陸軍を撤去しなけりゃならないというのでがす。
「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」ということを、世間で一概(いちがい)に軍備を拡張することだと思うのは大変な誤解で、軍備全廃というのが、本当の「勝って兜の緒を締める」のだということには何人も気が付かない。
 今日も久しぶりで政治家諸君の演説を聞いてみましたが、いかにも調子が低い。
「敵」「敵」としきりに言う。そんな了見(りょうけん)では駄目だ。 四海同胞、世界を飲んで行くのだ。軍艦なぞ、支那へくれてしまえ。ロシアへくれてしまえ。残りがあったら、みんな焼いてしまえ。丸裸になって、さあ来いと言うんだ。

 この正直な力、どこから攻めることができるものですか、……神の道だね。 (以下略)

*お断り:明治時代の原文を忠実に再録しましたが、一部現代語表記に直した箇所があります。
編者:嶋田早苗

*上記は、谷中村子孫で佐野市郷土博物館初代館長、嶋田先生が資料提供してくださった、田中正造翁の話を速記で残されていた言葉、大変貴重な談話の記録です。

http://www.geocities.jp/kubota2511/tanakasyouzou.html



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2015年11月06日

谷中村廃村100年

Japanese police officers in riot gear are dragging away grandparents; protesters are linking arms and lying down in front of military trucks. A local mayor is accusing the central government of lawlessness, and a governor is denouncing “iron-fisted rule” from Tokyo...

ではじまり、

Japan and the United States see themselves as nations committed to peace, human rights and democracy. Those claims have been tested by the failure to resolve the Henoko standoff.

で終わる英文の文書ってなに? どうかしましたか、ヤッホー君?

 朝からへたりこんでいます。
 これは、アメリカの新聞、ニューヨークタイムズ紙の11月4日付け「社説」editorialです。
 標題は”Denying the Will of Okinawans
 写真も:Elderly Okinawans trying to block the planned expansion of a U.S. military base last month

http://www.nytimes.com/2015/11/05/opinion/denying-the-will-of-okinawans.html

 しかし、wが国の国家権力は聴く耳をもたず、語ることばももたず、ですからべんけいしゅくしゅくと刑の、いや工事を執行するんでしょうか…
 wが国の国家権力ってぇ〜、ムカシからコクミンのコクミンによるコクミンのためのミンシュシュギってのと、無縁、無知、無印!
 あなおそろしや、おそろしや、あの光景が目に浮かんできますって、ヤッホー君!
 イマもムカシも変わらず、歴史は繰り返しているようで…

「遊水地は有害無益。現実がそれを見せてくれた。今度はわしらがその理屈を触れ廻(まわ)るのだ。有害無用、有害無用」

 むせびながら呪文のように唱える。宗三郎は背筋でそれを聞いて、歩いて行く。
 鉱毒を含んだ渡良瀬(わたらせ)川は、藤岡町との境を西から南に湾曲(わんきょく)して流れて、村の真南を一里下ったところで利根の本流に注ぎこんでいる。
 一方、村の地形は、北に赤麻沼の仮堤、他の三方を高台や堤防に巻かれて、小さな盆地を成していた。
 県はそこに眼をつけた。
 二つの川の氾濫する水を、谷中地内に貯めて水害を防ごうというのである。
 それは鉱毒事件の痕跡(こんせき)を消し、さらに鉱毒沈澱(ちんでん)の役目を果すふくみがあった
 正造らはそのふくみを見抜き、水害防止のためにはむしろ利根本流をせばめている千葉県関宿(せきやど)の石堤を取りのぞくべきだと主張した。
 八月の洪水は、正造らの意見の正しかったことを示した。。。

 すべてが国家の名で、国家の手で行われた

 強制破壊にあった谷中堤内16戸の残留民が国家に対して何の害をなしたというのだろう。
 かつて一反あたり8俵もとれた富裕な村をここまで追いこんだのは、足尾銅山とその銅山資本家の言うがままになっていた国家の方ではないか。
 鉱毒被害反対の急先鋒に立ったこの谷中村を買収し、遊水池として沈めてしまおうという策謀。

 中央政府の示唆によるその計画は、深夜、警官に守られた秘密会で県会を通過し、日露戦争で壮丁たちが大半は召集されて行った留守をねらって実行に移された

 水害でこわされた赤麻沼(あかまぬま)に面した堤防はわざと復旧せず、たまりかねて村民自身の手で村債を起し仮堤を築くと、県が人夫を傭(やと)って壊し、その破堤代も請求してくるという始末。
 示された水没補償金は、田一反35円という安値、墓地は一坪3銭3厘とハガキ2枚の代金である。
 低湿地帯で無収穫であるからというのが、その理由であった。
 堤防を壊して水の流れこむままにしておきながら、無収穫を口実にする。
 県はさらに追いうちをかけてきた。。。


 ヤッホー君が読んだのは、城山三郎(1927–2007)『辛酸、田中正造と足尾鉱毒事件』!
 底本:角川文庫、大活字本シリーズ版(限定部数500部、社会福祉法人「埼玉福祉会」、1996年)のそれぞれ16-18頁、33−34頁)

 日本初の公害、足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家、田中正造は、1841(天保12)年11月3日に下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)に生まれました。1913(大正2)年9月4日に73歳の生涯を閉じてから今年で100年になります。
 田中正造は、栃木県会議員を経て、1890(明治23)年第1回総選挙で衆議院議員に当選しました。翌年の帝国議会で鉱毒問題について質問書を提出します。たび重なる議会での質問も政府に受け入れられず、1901(明治35)年議員を辞職し、同年12月帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に鉱毒問題を直訴しました。
 栃木県下都賀郡谷中村に鉱毒処理のための貯水池をつくる計画が浮上してからは、谷中村(現栃木県藤岡市)に住まいを移し、強制廃村となるまで住民とともに抵抗しました。
 私財を投じ足尾鉱毒問題に取り組んだ田中正造に関連する資料を、都立中央図書館で所蔵する図書の中から紹介いたします。


2013(平成25)年11月11日都立中央図書館作成
一身以て公共に尽くす−田中正造−
http://www.library.metro.tokyo.jp/reference/news_reference/tabid/3819/Default.aspx

「雷鳴抄」【下野新聞】
 佐野市出身の社会運動家田中正造の伝記が、まんがになった。来年の没後100年を控えて、市が制作を企画、市内では小学生にも配られている。

 その「渡良瀬に生きる」の発刊を記念したシンポジウムが先週、佐野市内であった。原作者の水樹涼子さん(1961年栃木県鹿沼市(旧粟野町)生まれ)は、「難しいことばかりだったが、それを渡良瀬遊水地に生える1本のアシの視点で易しく書くことを心がけた」と話した。
 
 正造は明治時代、本紙の前身である杤木新聞編集長から県議、衆院議員となり、公害の原点となった足尾鉱毒問題に立ち向かった。膨大な文献も残されている。

 研究者でつくる正造大学が、日記などから選んで毎年作成しているカレンダーの「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」、「デンキ開ケテ世間ヤミヨトナレリ」は胸に響く言葉だ。来年の「少しだも人の命に害ありて少しぐらいハよいと云うなよ」も原発事故を起こした人類への警句と言える。

 まんがの制作は文星芸術大が担当。硬骨漢の正造をやさしく、明るく描いた。学生を指導した同大講師の千葉修平さんは「まっすぐなところがとても魅力的。波瀾万丈の人生のすべてはとても描ききれないが、第一歩になれば」
 
 まずはまんがで...
 水樹涼子・文星芸術大学『まんが田中正造: 渡良瀬に生きる』(下野新聞社、2012年9月)




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2015年11月05日

田中正造

 えっ、もう帰るんですかぁ
 東武足利市駅へかかる橋の真ん中あたりで、なんか肩をぽんぽんと叩かれたように感じたヤッホー君、振り返ってみました。
 渡良瀬川でしたかぁ…
 もしやこのあたりで…

 天皇、皇后両陛下は2014年5月21日、足尾鉱毒事件の対策として設けられた渡良瀬(わたらせ)遊水地(栃木市など)を訪れた。
 同事件を巡っては、1901(明治34)年に当時の衆院議員の田中正造が明治天皇に鉱毒被害を訴えようと、直訴状を手渡そうとした歴史がある。
 天皇陛下は正造の資料が残る佐野市郷土博物館(同県)も訪れ、訂正印の入った直訴状を見ながら
「この赤いのが訂正ね」などと話したり、麦畑が鉱毒で汚染されている写真などに見入ったりした。
 遊水地はJR山手線の内側半分にあたる約33平方キロ。渡良瀬川上流にあった足尾銅山の鉱毒を沈殿させて下流域に流れるのを防ぐために設けられ、正造が住んでいた計画中心地の谷中村(やなかむら)は1906年に強制的に廃村となった。
 現在はヨシの群生地で、2012年にはラムサール条約に登録されている。
「ここに沈んだ谷中村の悲劇を忘れないでほしい」
 そう話すのは、地元の郷土史家の古沢満明さん(80)だ。
 古沢さんは鉱毒事件当時の谷中村村長のひ孫にあたる。
 廃村後、村人は栃木、茨城、新潟などに移住。
 一部は北海道にも移ったという。
 両陛下はこの日、強い風雨の中、ヨシの生育状況を見て回るなどした。
 古沢さんは
「両陛下が来られたことで渡良瀬遊水地が注目されることは大変うれしい。多くの人に歴史を知ってもらいたい」と力を込めた。


2014年5月21日19時21分更新、毎日新聞、真鍋光之
天皇、皇后両陛下:田中正造の直訴状鑑賞
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20140522k0000m040034000c.html

2014年5月23日10時20分JST更新、ハフィントンポスト紙
天皇、皇后両陛下が栃木県を私的旅行 陛下が「大丈夫?」と皇后さま気遣う
http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/21/emperor_n_5363620.html

 田中正造、たなか しょうぞう(1841-1913)…

 渡良瀬川沿岸の民を殺すことは、国家を殺すこと。
 法をないがしろにすることは、国家をないがしろにすることである。
 これは人が自らの国を滅ぼすことに他ならない。
 税金を無駄に使い、民を殺し、法を破って、それで亡びない国などというものは
 いまだかつて聞いたことがない
・・・田中正造の「亡国演説」


2006年8月21日、法学館憲法研究所
今週の一言、ドキュメンタリー映画「赤貧あらうがごとき、田中正造と野に叫ぶ人々」
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20060821.html

 この映画(監督:池田博穂、2006年)はイマ、DVDで観ることができます。

 正義感は強いが少々向こう気が強かった青年時代の正造、それゆえ、支配者に睨まれて投獄されたこともあったが、その獄中でも読書にいそしみ自らを成長させていった。
 何よりも「予は下野の百姓なり」とする正造の、土に密着したその生活姿勢と視点は、命や暮らしの大切さ、不正を許さない気迫を持って生涯を貫く。
 カツ夫人との同志愛的結びつき、
 帝国議会を揺るがした「亡国演説」、
 命を張って世論を喚起するために起こした天皇への直訴、
 数度にわたる「大押し出し」(請願権)の決行、
 兵役・納税の義務を拒否し、遊水池化を阻止した利島・川辺の村民たち、
 谷中村を追われた人たちの過酷な試練、
 最後まで谷中村にとどまった村民とともに、「辛酸亦入佳境」*(しんさん また かきょうに いる)と、今を見すえる。
 最後まで鉱毒被害や治水調査をして倒れた正造の葬儀には数万人もの人が集った。
 イマ、田中正造が私たちに何を伝えるのか・・・・・

*「辛酸亦入佳境」= 何事もすべてを打ち込んで事にあたれば、苦労もかえってよろこびになる


http://www.sekihin.net/index.html

https://www.youtube.com/watch?v=GdWC9dsEopU

 そうなんです、谷中村が廃村になって、100年になる節目の映画です。
 そして、田中正造が亡くなって、まさに100年になんなんとするとき、
 あの原発事故が起こります:

 世界で活躍する音楽家であり、平和問題や環境活動に取り組む坂本龍一さん(61)は、東京電力福島第1原発事故後、田中正造の言葉、
真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」を国内外に発信し、正造やこの言葉が再び広く知られるきっかけをつくった1人だ。
 この夏一時帰国した坂本さんに、没後100年を迎えた正造や「真の文明」に対する思いを聞いた。
 坂本さんは、地球規模で進む環境破壊への危機感を背景に、一人ひとりが正造の言葉を受け止め、持続可能な社会をつくるため不断の努力をする必要性を強調した。
 健全な森を増やす活動も展開する坂本さんは十数年前、環境問題に関心を強める中で正造を知り、正造の言葉を「強烈な」印象で受け止めたという。
 事故から3カ月後の2011年6月、自然エネルギーに関する「総理・有識者オープン懇談会」に寄せたビデオメッセージで言葉を引用、ネットなどで大きな反響を呼んだ。
 坂本さんは「人類史上、真の文明はまだない」と断言。
 すべての文明は環境を破壊して終わったと振り返った。その上で
「地球規模に広がった現在の文明では急速に森が消滅している」と指摘。
「『文明の絶滅が近づいている。ぐずぐずしてはいられない』という思いの象徴」として、言葉を引用したと説明した。
 では、どうやって「真の文明」を実現するのか。
 坂本さんは「答えがないから難しい」としながらも
「早くたくさんの人が目覚めて行動を起こしていかないと。正造の言葉を思い出すたびに、ぼくたちは不断の努力をしないといけないと思う」と話した。
 正造の言葉は、東日本大震災や過酷な原発事故を体験し、普段は考えることのない文明や生活の在り方を「これでいいのか」と問い直していた多くの人たちの心に響いた。
 坂本さんは
「正造が被害民を何とかして助けたいと一生懸命動いた中で到達したエコロジカルな認識。机上の空論で得たものではないから、100年後も通じる強い認識になったのでは」と指摘した。


2013年8月13日05:00更新、下野新聞
<インタビュー 音楽家 坂本龍一さん>
「真の文明」へ不断の努力を 正造の言葉発信 環境破壊に警鐘

http://www.shimotsuke.co.jp/special/ima-ikiru-shozo/20130813/1335014

真の文明は.jpg

  真の文明は     True civilization is
  山を荒らさず    not to dispoil mountains,
  川を荒らさず    not to ruin rivers
  村を破らず     not to destroy villages, and
  人を殺さざるべし  not to kill people.

NPO法人「足尾鉱毒事件田中正造記念館」(館林市大手町6−50 電話0276-75-8000)
http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/index.html

−小出さんは「正造は心の支え」とおっしゃってますね。

小出「正造さんは名主のの息子で、国家にくっついていけば『末は博士か大臣か』の人。でも彼はしなかった。国は間違っていると声を上げた。国全体が戦争という一つの方向に流れているときに、命を懸けて闘う人がいたことが衝撃的でした」
「原子力も国家全体で進めてきたが、私は正しいと思わない。なので闘いたいと思ったし、100年も前に正造さんのような人がいたことが心の支えになっているのです」

−正造の闘いにもかかわらず、谷中村は水没しました。

小出「国家という巨大な組織に個人で闘ったところで勝てないのは当たり前だし、勝てなくてもやらなければならないことはあると私は思う。正造さんの闘いは具体的な成果は残さなかったが、慕う人はたくさん残った。こうやって私も正造さんを慕っている。正造さんの生きた事実が消えたわけではありません」

−ことしは正造の没後100年。くしくも2年前に東京電力福島第1原発事故が起きました。

小出「原子力の世界で起きていることは戦争とそっくり。大本営発表があって、すべての人がその情報しか接することができない。でも、事実をちゃんと見てほしい。長いものに巻かれるのではなく、考えてほしい。正造さんもそう思ったと思います。没後100年を機に再度正造さんが生きてきた道を振り返り、苦しいかもしれない、負けるって分かってる、それでもやらなければならないことはあると思ってほしい」

−事故以降、「真の文明は…」という正造の言葉が注目を集めています。「真の文明」とはなんでしょう。

小出「西洋文明に私たちの世界がどっぷりと漬かってしまったんです。(明治以降日本は)植民地にならないためひたすら西洋から技術を入れて、自然も何もかも壊して、大変な無理をしながら今日まできた。足尾鉱毒も、原子力もその通りです。日本は原子力技術が進んでいると思っているかもしれませんが、冗談を言わないでくれと思ってしまう。今日に至るまで米国からすべて教えてもらって作っているのです。日本は東洋の小さな島国であって、そういう国がどうすればちゃんと生きられるのかを本当は考えないといけない」
「ですから『真の文明は山を荒らさず川を荒らさず…』なわけで、西洋型の文明を入れて何でもかんでもやってしまうことが間違いであると、まずは気付かなければいけない。日本固有の文化や自然があるのだから、脱亜入欧、欧米に追い付け追い越せ、科学技術立国だと、そのこと自身を考え直さなければいけない、ということだと思います」

−正造が生まれた地でも、事故の風化は進んでいます。

小出「原発事故で国家は、要するに忘れさせようという作戦に出た。どういう汚染が生じているかもできるだけ知らせない。人々だって忘れたいんですよ。ずうっと怖いと思いながら生活なんてできない。でも、私はすべての人にお願いしたい。忘れないでくださいと。汚染はあるのです。事故は進行しているということをきちっと知ってほしい。本当であれば国と闘ってほしい」

−ほとんどの人は正造のようには闘えないと言います。

小出「正造さんは破格です。でも、一歩でも近づきたい。世界の70億人は一人ひとりがかけがえのない人間です。一人ひとりがその人しかできないことをやる。私は原子力の世界に足を踏み入れてしまいましたので、その愚かさも含めたかけがえのない私として、(原子力の世界で)他の誰にもできないことをやりたいと思います」


2013年6月18日付け下野新聞<インタビュー>
反原発 苦しくても闘う 京都大原子炉実験所助教小出裕章
http://www.shimotsuke.co.jp/special/ima-ikiru-shozo/20130618/1068393

 佐野市は2015年11月2日、足尾鉱毒事件の被害民の救済に奔走した市の偉人である田中正造の功績をたたえるため10月12日を「田中正造の日」として市の記念日にすると、発表した。市は来年の同日に告示し、制定する。
 2日の定例記者会見で岡部正英(おかべまさひで)市長が「記念日を制定し、市民に公害のない自然環境の大切さを実感してもらうとともに、環境行政をさらに推進していきたい」と述べた。
 10月12日は、1913年に正造の本葬が同市金井上町の惣宗寺(そうしゅうじ)(佐野厄よけ大師)で執り行われ、約3万人が詰め掛け、周囲を練り歩いた日とされている。また2013年には正造の没後100年顕彰事業のメーンイベントを行った日でもあり、記念事業では市民らが演じる正造の生涯を描いたオリジナル劇の披露や環境活動に取り組む団体を顕彰する「田中正造記念賞」の表彰式などが行なわれた。
 記念日は、2013年の没後100年顕彰事業で正造の活躍が周知されたことを踏まえ、正造の偉業を風化させないことと、緑の多い自然の重要性を理解してもらう目的で制定する。


2015年11月3日下野新聞朝刊
10月12日は「田中正造の日」 佐野市、偉業たたえ2016年制定
http://www.shimotsuke.co.jp/category/life/tourism/festival/news/20151103/2131825

 これは今週火曜日、11月3日付けの下野新聞朝刊からです。
 下野新聞の前身である「栃木新聞」は1879(明治12)年再刊され、田中正造は編集長になっています。
 栃木県議会議員に選出される前年のことです。



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渡良瀬川

 10月30日の「県立自然公園ハイキングコース」歩きも「織姫神社」にたどりつけば、もうお終いも同じ。

織姫神社.jpg

 高台にある境内からは足利市街と渡良瀬川、渡良瀬橋が望めます。

 栃木県足利市の中心部を流れる渡良瀬川には、市内だけで12本の橋が架かっている。渡良瀬橋はその一つ。1934年に現在の橋に架け替えられた。かつて地域の主要産業だった繊維の流通を支え、市の南北を結ぶ生活に密着した鋼鉄製の橋は、1993年、森高千里さんによる同名曲のヒットで、一躍その名を全国にとどろかせることになる。
 森高さんは1989年秋、同市の足利工業大応援団が主催したイベントにゲストとして招かれ、その帰りに渡良瀬橋を渡った。その後にあらためて現地を訪れ、橋や河原から見た風景や感じたことを詞に込めた。
 当時応援団員だった西牧宏之さん(42)は、同大付属高校で現在教壇に立つ。「生徒に話しても、森高さんを知らない世代なので反応が薄いんです」と嘆きながらも、自分たちの企画がきっかけでヒット曲が生まれたことを思うたび、うれしさがこみ上げてくる。
 「角に公衆電話がポツンとある」と描かれた床屋。歌の発売直後から「バーバー尾澤」だとされ、全国から見物客がやってきた。店主の尾澤秀俊さん(60)は「外で洗濯物が干せなくなった。自分の店が観光スポットになるなんて不思議でしたね」と振り返る。
 歌詞にはないが、橋の近くに足利富士浅間(せんげん)神社の登り口がある。赤ちゃんの無事な成長を願い、額に朱印を押す伝統行事「ペタンコ祭り」が行われる。「足利の人は赤ん坊のころから渡良瀬橋になじみがあります」と尾澤さん。取り立てて特徴がある橋ではないが、尾澤さんは橋の周辺の情景を細やかに歌ってくれた森高さんに感謝している。
 「夕日がきれいな街」と歌われ、多くの人に歌い継がれている渡良瀬橋。橋のたもとには歌碑が建ち、森高さんの歌声が流れる。空気が澄むこの季節、歌碑から橋を望むと、沈む夕日が川面に輝いていた。

《メモ》 渡良瀬橋は長さ243メートル、幅5.5メートルのトラス橋。上を県道5号が通る。東武鉄道・足利市駅から西へ600メートル。2007年、足利市は橋近くの堤防道路わきに、赤御影石製の同名曲の歌碑を建立。ボタンを押すと流れる森高さんの歌声は[前]8時〜[後]8時。


2010年2月5日10時21分更新、朝日新聞デジタル、文・浅利貴子、撮影・真田弘宣
ヒット曲生んだきれいな夕日 渡良瀬橋(栃木県)
http://www.asahi.com/travel/bridge/TKY201002040241.html

 どれどれ押してみましょうか。

 栃木県の南西に位置する足利市。その中央を渡良瀬川が流れるこの場所は、森高千里(45)が1993年に発表した名曲『渡良瀬橋』の歌詞に登場することでファンの間で広く知られていた。

「森高さんが『渡良瀬橋』の作詞にあたっていた当時、きれいな響きの川や橋の名前を探していて、偶然目にとまったのが『渡良瀬川』だったそうです。これも偶然なのですが、森高さんは以前にもライブで足利の地を訪れていたことがあったんです。彼女はその不思議な縁を感じたこともあって、曲の舞台に選んだのだそうですよ」(音楽関係者)

 作詞に際し、実際に足利の地を見て回った森高。『渡良瀬橋』は、渡良瀬橋で夕日を見ながら別れた人を思い出すバラードだが、歌詞に出てくる固有名詞は現実に存在するものばかり。
 50万枚に迫る大ヒットとなったこの曲はPRのために作られたものではなかったものの、リリースした翌月に足利市から森高へ感謝状が贈られるほど、地元の人から愛された。
 同年に行われた足利市の足利市民会館でのライブでは、アンコールで『渡良瀬橋』を歌うと、場内から自然と大合唱が起こり、感極まった森高が号泣するという場面もあった。
 1999年6月に、森高は江口洋介(47)と結婚し、2000年2月に長女を、2002年5月には長男を出産。結婚後は子育てに専念し、休業することになった。
 しかし、ファンも地元住民も『渡良瀬橋』を愛し続けていた。2007年3月には渡良瀬橋と夕日が一緒に見える場所に歌碑が建立されたのだ。
 また2008年には歌詞に登場する「公衆電話」を巡ってこんなエピソードも。同じく歌詞に登場する「床屋」のモデルである「尾沢理容店」の尾沢秀俊さん(64)が教えてくれた。

「この公衆電話は利用者が少なく、歩道の拡張工事をすることもあって撤去するという話があったんです。でも、森高さんのファンだっていう30代、40代のカップルが写真を撮ったり、わざわざ中に入って電話をかけたり、本当によく来る場所。だから、私が“撤去はやめたほうがいい”と訴えて、中止にしてもらったんです」


2015年4月9・16日号『女性セブン』
http://www.news-postseven.com/archives/20150331_312217.html

 ご当地ソングの女王と言えば水森かおり(42)ですが、どうしてどうして『渡良瀬橋』は皆んなから歌われる良い歌です:

 歌詞の中に登場する「八雲神社」が全焼してしまう事件が2012年に起きました。
 昔から地元の皆に愛されていた神社の喪失に、多くの足利市民が落ち込み、もう再建は不可能だと誰もが思ったと言います。そんなとき、神社に寄せられたのは森高さんのファンからの激励のメッセージでした。励ましの電話や手紙、中には見舞金が同封された手紙もあったそうです。

「神社は869年に56代目清和天皇によって創建された足利でも最も古い総鎮守。緑豊かで昔から子供たちの遊び場としても愛されていた場所だったので、ここらの人の落胆はなんと表現したらいいのか。寂しかったね」(地元住民)

 八雲神社の復興を願ったのはファンだけではありませんでした。
 森高さんはちょうど15年ぶりのライブツアーで、全国の会場で復興募金箱を置いただけでなく、八雲神社の絵馬も販売、その他のライブグッズの売上金の一部も寄付したそうです。その額はなんと200万円にものぼりました。
 一時は再建不能だと言われ失われかけた八雲神社でした。しかし森高さん そして森高さんの歌を愛すファン達の厚い支援によって、今年ついに八雲神社再建の目処がたったのです。

「森高さんはちゃんとお参りをしてくれて、“早く八雲神社が復興出来ますように…”ってメッセージも書いてくれてね。ずっと笑顔で“頑張ってください。私も募金活動もやりますので”と励ましてもらいました。全国のライブ会場で募金箱を置いてくれただけでなく、うちの絵馬も販売してくれて、他のライブグッズの売上金の一部も寄付してくださいました」
出典 http://www.news-postseven.com

 
森高千里とヒット曲”渡良瀬橋”足利市民との絆が22年たった今も続いていた
森高千里さんの名曲「渡良瀬橋」は、誰もが一度は耳にしたことがあるはず。足利市の日常風景を美しく描いたその歌詞が、森高さんと足利市の人々の間に絆を築きました。22年経った今なお続く、足利市民達と森高さんの絆を物語るストーリーをご紹介します。
http://by-s.me/article/141831368253354628

 織姫神社からの石段を下りて東武足利市駅へと向かう時、”渡良瀬橋”を渡りながら、そう言えば八木節も境内にあったな、と思い出して振り返っていたヤッホー君。
 足利市との実に名残り惜しいお別れでした:

■ 八木宿(栃木県足利市)

 下野の御家人のなかで、独特で大きな成長をとげたのは、源姓足利氏です。源義家の三男義国は、足利郡内の私領を譲られ、梁田御厨を成立させました。
 藤姓足利氏滅亡後、名実ともに源姓足利氏が足利壮を領有化。後に義兼の居館跡に建てた堀内御堂が足利氏の氏寺として興隆することとなります。
 例幣師街道の宿場町であった八木宿(現足利市福居町)は、隣接する梁田宿(現足利市梁田町)とあわせて繁栄をみせ、多くの旅籠が軒を連ねていました。
 八木宿の旅籠で働く飯盛女たちが歌った「新保広大寺くずし」が八木節の原型ともいわれ、明治時代になって、山辺村(現堀込町)の渡辺源太郎(初代堀込源太)がアップテンポに編曲し、現代の八木節となったといいます。
 足利織姫神社の石段を登る途中で、堀込源太の声を聴くことができます。


日光例幣使街道〜街道宿ヒストリーウォーク
www.docom-i.net/reiheishi/yagisyuku/index.html

 ではここで二曲:

★ 森高千里『渡良瀬橋』
https://www.youtube.com/watch?v=KMPT7fauso4
★ 堀込源太『八木節』
https://www.youtube.com/watch?v=QT4sRmRmwZ8




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2015年11月04日

糸と縄の取引

 ようやっと「織姫神社」(*)にたどりついたヤッホー君、あっ、これは先月10月30日金曜日、足利市での出来事です。
 ここでまたヤッホー君、びっくりしてへたりこんでしまいました:

 足利市は、1947(昭和22)年から1960(昭和40)年代後半に至る間、トリコット(経編メリヤス生地および当初「足利ジャージー」後半スリップ・ネグリジェなどの製品)の生産額で日本最大であった歴史を持つ。
 戦後、国策を積極的に取り入れ、戦前の絹織物に代わりトリコット産業を完成させた。
 その象徴が1966(昭和41)年完成の「足利トリコット工業団地」で、集団化による中小企業近代化のモデルであった。
 同産業の発展に寄与された代表的人物が胸像の初代〜三代トリコット工業協同組合理事長 吉田孫三郎・殿岡利助・三田禧三郎氏である。
 1969(昭和44)年以降、日米間に「繊維摩擦」「ドルショック」「円高」などが発生し、トリコットの輸出は絶たれた。
 またこの頃から国内需要の主力であったスリップ・ネグリジェの需要が消えた。
 国や業界の諸改革にも拘わらず、トリコット産業は縮小を続けたが、現在ファッション産業の新たなる展開に向け鋭意努力する状況にある。
2012(平成24)年11月 日下部高明 撰文

足利トリコット.jpg

 おはようございます。足利は曇が多いですが晴れ間も見えます。雨が降ることはなさそうです。
 10月になりました。昨日は暑い一日でしたが、今日からは気温の上でも本格的な秋になるようです。秋の足利は散策にうってつけです。様々な催し物も行われます。どうぞ、足利の秋を堪能してください。
 さて、今朝は鑁阿寺の北にある「足利トリコット会館」前で写真を撮ってきました。ロダンの「考える人」のような像がありました。
「足利は三度び日本に君臨した」と述べた人がいました。室町幕府を開いた足利尊氏を始めとする足利将軍、日本最古の学校である足利学校、そして足利織物であると言います。
 足利の織物は古くから有名で徒然草226段に足利義氏が執権北条時頼に「足利の染物」を贈ったとあります。昭和の初めには足利は「両毛のマンチェスター」と称され足利本銘仙は生産高日本一になったのでした。戦後はトリコット産業が盛んになり日本一になりました。渡良瀬川の南側には「トリコット団地」と呼ばれる工業団地がありました。昭和40年代前半の足利は元気でした。足利トリコット会館はその繁栄の象徴なのですね。
 現在ではトリコット団地があった辺りはショッピングセンター「コムファースト(アピタ)」などの商業施設になるなど大きく変貌してしまいました。足利トリコット会館も古びた建物になってしまいました。トリコットという言葉を知る足利人も少なくなってきてしまったようです。


2011/10/01みんカラ
足利について考えてみました… .
http://minkara.carview.co.jp/en/userid/516066/blog/24009084/

 イマは、その「足利トリコット会館」も消えてしまいました:

 財団法人足利トリコット会館より、市政振興のため土地の寄付を受け、観光客の利便性を高めるため観光駐車場として整備しました。
【名称】 観光駐車場(トリコット会館跡地)
【場所】 足利市家富町2225-1外


足利市公式サイト
観光駐車場(トリコット会館跡地)を開設しました
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/page/parking-tori.html

 トリコット工業協同組合もいまは:

 当組合は、平成元年4月1日、5つの組合が合同設立し発足いたしました。
 「両毛ファッション協同組合」これからの組合バザールのご案内:
 歳末・両毛ファッション大バザール:12月15日(火)
 春の両毛ファッション大バザール:2016(平成28)年3月15日(火)
 ※ 時間:9時から14時
 ※ 場所:足利市民会館ピロティです。
 ※ 販売品:婦人服・セーター・ジャケット・コート・カーディガン・ボトム・パジャマ・下着など/span>

http://www.ryomo-fashion.com/?p=44

 いったい、何があったんかな?
 ひとつ目、東京一極集中とのからみで見てみましょう:

 第1は経済の中枢管理機能とは、金融や貿易成約、大企業の本社機能である。これは東京一極に集める。このために官僚たちは業界別に全国団体を作らせ、各団体の本部事務局を東京都に置かせた。私が通産省に入った1960年代はこの運動の最後の仕上げの段階、大阪にある繊維関係の業界団体を東京に移転させようと大騒ぎしていた。
 通産官僚にとって幸せなことに、1970年ごろから「日米繊維摩擦」が発生、アメリカとの外交交渉のためにも繊維関係業界団体の本部を東京に移すことが条件とされた。当時の繊維局長三宅幸夫氏は「敵は米国に非ず、大阪なり」と明言して憚らなかったほどである。
 同じことは名古屋にあった陶磁器輸出組合や京都にあった伝統工芸振興協会についても生じた。いずれも大騒ぎの末に東京に移転させられる。
 また、銀行協会の会長には、東京に本店のある市中銀行の頭取や会長が就任、大阪本店の住友銀行(現三井住友銀行)や三和銀行(現三菱東京UFJ)は就任できなかった。

 第2は情報発信機能。新聞社や出版社は東京に集める。1950年ごろに書籍取次会社を東京に集中させたのはその一つである。また、民間テレビは、東京の局にしか全国ネットのキー局資格を与えなかった。この政策は21世紀に入って一段と強化されている。

 第3は文化創造活動。これを東京に集めるために特定目的の文化施設―例えば歌舞伎のできる劇場や土俵リングを中央に置いた体育施設―は東京以外に造らせないようにした。
 地方には多目的ホールや長方形の平場のある体育館ばかりを造らせた。「何でもできる多目的ホール」は「何をやるにも最適ではない」のだ。ここでは東京から来た劇団や楽団が文化の滴を見せればよい。地方で文化を育てる必要はない、という発想である。。。

「東京一極集中」は、官僚たちが予算と権限とで築き上げた「戦後体制」の一つなのである。これには歴代総
理大臣を含む政治家は歯が立たなかった。地方振興を本気で考えた竹下登内閣が「リクルート事件」という正体不明の噂(うわさ)で潰されたのも、その一つかも知れない。
 今度の安倍内閣はどうだろうか。。。


週刊朝日2014年11月7日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年
第15回 2冊目の著書「日本の地域構造」――東京一極集中に反対
http://dot.asahi.com/column/sengo70/2014102800036.html

 ふたつ目は「密約」!

■ 尖閣と沖縄返還 米外交文書から
 沖縄返還協定の調印式は、1971年6月中旬に決まった。ところが、尖閣諸島を巡る問題はかえって複雑さを増していった。
 その一つの要因が、繊維問題だった。
 米国内の繊維産業は当時、日本などアジア諸国からの輸出製品に押され、苦境に立たされていた。
 初当選した1968年の大統領選挙でこの問題に取り組むと公約したニクソンは、1972年の再選に向け、成果を出す必要に迫られていた。
 ニクソンは1971年、財務長官を退任したデビッド・ケネディを無任所の大使として閣内に残し、繊維問題を担当させた。
 日本との交渉が難航していたため、ケネディはまず台湾との合意をまとめ、これを基準にして、香港や韓国、日本との交渉を妥結させようとした。
 1971年6月、特使として台北に渡ったケネディは、現地から「輸出規制について、重要な部分で暫定合意に達した」とホワイトハウスに報告した。一方でケネディは、最終的に妥結させるためには、米国側も譲歩が必要だと訴えた。
 報告を受けた国際経済担当の大統領補佐官ピーター・ピーターソンは、ニクソンにこう報告した。
尖閣諸島の日本への返還を保留することが、この問題を解決する『唯一の』手段だとケネディは確信している」(1)
 ケネディはピーターソンに、こうも伝えていた。
「この行動は、日本にショック効果を与えることにもなる。日本が求める事に米国が黙って従うことが、もはや当たり前ではないのだと示すことになる」(2)
 ケネディの激しい言葉は、繊維交渉を巡るニクソン政権の日本へのいらだちを反映していた。
 沖縄返還は「糸(繊維)と縄(沖縄)の取引」と言われる沖縄返還を決めた1969年の日米首脳会談では、佐藤栄作が、繊維製品の輸出規制に取り組むと伝えた。しかし、その後の政府間交渉は難航し、米側は不信を募らせていた。。。
(1)(2)「アメリカ合衆国の対外関係 1969〜1976 Volume17」(米国務省)


2015年10月28日02時36分朝日新聞デジタル、大島隆
絡み合う「糸と縄の取引」 繊維交渉で米にいらだち
http://digital.asahi.com/articles/ASHBT4JPZHBTUHBI00F.html?rm=142

 ふたつ目への補足記事:

 1970年6月23日、夜のとばりが下りたワシントン。通商産業相(現経済産業相)の宮沢喜一が、米国務次官のアレクシス・ジョンソンにこう漏らした。日米繊維交渉を長年研究する日大の信夫隆司教授が米国立公文書館で入手した米公電に、宮沢の発言が記されている。
 1969年11月の日米首脳会談で、首相の佐藤栄作は米大統領ニクソンと二つの密約を結んだ。
 ひとつは、佐藤が切望した「核抜き本土並み」を担保するため、有事における核兵器の再搬入を認めた沖縄核密約。
 もうひとつは、海外からの廉価な繊維製品流入で米繊維業界の壊滅を恐れたニクソンが、日本に包括的な輸出規制を求めた繊維密約。
 1972年の大統領選を早くも意識していたニクソンは繊維関連の票田を引き留めようと、急成長を遂げる日本を標的にした。


原子力時代の死角、核と日本人、沖縄の核
http://www.47news.jp/hondana/nuclear/article/article011.html

 みっつ目は、足利の織物って歴史が古く、さかのぼれば713(和銅6)年にまでさかのぼると言われています:
 
 足利は、織物のまち・染物のまちとして古くから有名で、鎌倉時代末期の『徒然草(つれづれぐさ)』の中でも取り上げられています。
 足利繊維協同組合は、この染織の歴史を後世に伝えるため、1986(昭和61)年に織物会館内に『足利織物伝承館』を開館しました。
 染色の実技公開のため、機織機を使った織物や草木染などの講習会を開催しています。
 また、足利の織物の歴史を紹介するパネルなどの展示も行っていますので、お出かけの際は、事前にご連絡ください。


足利市公式サイト、足利織物伝承館(今月11月21日土曜日午前10時リニューアルオープン!)
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikaga-kankou/i-orimono.html

(*)足利織姫神社
産業振興と縁結びの神がまつられている。229段の石段を上ると境内があり、足利市街と渡良瀬川、渡良瀬橋が望める。一の鳥居は県立自然公園ハイキングコースの発着点になっている。電話足利織姫神社奉賛会0284・22・0313


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ヘイトスピーチ

 え〜と、10月31日の東京国際フォーラム「人権に出会う一日」にまた戻って、と、今日も行ったり来たり、うろうろしているヤッホー君。
 え〜と、大澤真幸×木村草太『憲法の条件、戦後70年から考える』(NHK出版新書、2015年1月)は読まれたでしょか。
 ぜひお買い求めの上、お読みくださいますように。

 まずおさえなければいけないのが、2014年7月8日の大阪高裁判決というのがあります。
 これはヘイトスピーチを考えていく上での大事な判例となります:

2009年12月に起きた「在日特権を許さない市民の会 」(以下、在特会)メンバーらによる京都朝鮮第一初級学校襲撃事件の控訴審判決で、大阪高等裁判所は7月8日、在特会に対し1226万円の損害賠償と朝鮮学校周辺での街宣活動の禁止を命じた京都地方裁判所の一審判決を支持し、在特会側の控訴を棄却した。

2014/07/08 IWJ Independent Web Journal
【大阪】朝鮮学校襲撃事件裁判 大阪高等裁判所判決後の記者会見
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/151692

 で、この『憲法の条件』のなかで、とても気になったのが次の一節:

大澤真幸: ぼくは、こう思います。彼らとしては愛国的に振る舞っているつもりです。普通「愛国」というのは、国を愛することですけれども、彼らは国を愛するということよりも、国に愛されたいんです。これが一番重要なポイントだと思います。。。

 どうして在特会が「在日特権」を問題にするのか。普通に考えれば、どう見たって、在日特権なんていうものは存在しません。在日コリアンに対しては、歴史的経緯もあって、できるだけ日本人と同じ扱いにしましょうというのが国の基本的な考えです。つまり、彼らにとっての「在日特権」というのは、国が自分たちと在日コリアンを同等に扱おうとしているというしるしなんです。。。

 「在日特権」がそんなに気になるなら、在日米軍を問題にすればよい。ところがそうはしない。
 どうしてだろうか。国に対して、「あなたは、あの人(米軍)をとるの、私をとるの」と突きつけたら。「あの人」をとってしまうかもしれないからでしょう。
 ぼくらだって、二股かけている恋人に、「あの人をとるの、私をとるの」と迫るときは、わりと自信があるときが多いでしょう。
 自信がないから、攻撃の矛先が在日コリアンに向かうのです。。。

 たとえば在特会の人たちが国に愛されたくてヘイトスピーチをやっているとすれば、日本が集団的自衛権を認めようとするのは…

木村草太: アメリカに愛されたいからですね。まぎれもなくアメリカに愛されたいと発信しているように見えます。


同書、107頁〜125頁。

 「ぼくは、こう思います」で始まるのにまず惹かれました。
 主語を「ぼくは」ときちんと言える、主体性があること。
 そして「思います」と自分の考えを述べ伝えられること。
 群れていない、かつ世間に自分を押し出していけること。

 権力者も含めて、嫌韓反中の人たちって、ウヨクなのかな?
 ヤッホー君は、ビヨクなんですけど、垂直かな、水平かな…
 どうしてかな、その方々のパワーやスピーチや街宣カーを、
 沖縄でも、横田でも嫌米反米に向かわないのかなぁ、
 独立国家日本をどうして目指そうとしないのかなぁ、
 って不思議でしようがなかったんですが、なんかわかった11月3日「文化の日」!

 いまもまだ敗戦の痛手から立ち直れず、
 しかし戦前のイデオロギーに恋焦がれ、
 強者(勝者)にすりよって、弱者に襲い掛かる、
 そうでしたかぁ、なるほど、踏む踏むハイハイ

 ま、ジユウとミンシュシュギのほうがいいな、と
 強者(勝者)を監視し、弱者にすり寄ること、と
 独裁政治はぞっとするし、嘘つき政治家は嫌いと
 日ごろ考えているヤッホ―君とは真逆の考えでした

【橋下徹 引退】森永卓郎「大嘘つき、権力大好き独裁者」
https://www.youtube.com/watch?v=_srxFtFR6Q8

 2015年12月での政界引退を表明している橋下徹大阪市長が9月8日、自身のツイッターに「私人のときの出馬するかしないかや、政治家が引退した後の人生について、こんなこといちいち国民に約束する話ではないし公約でもない」と書き込んだ。
 維新の党を離党した橋下氏の新党結成宣言を受け、政界では「将来は国政に進出するのでは」との見方が出ており、波紋を広げそうだ。
 橋下氏は9月3日の記者会見で将来の政界復帰を「ないです」と繰り返し否定したが、ツイッターに「嫌なら選挙で落とせばいいだけ」とも書き込んだ。
 さらに自身の発言で「明確な噓(うそ)は私人のときの知事不出馬発言だけ」と分析。
 政界進出を果たした2008年の大阪府知事選で「2万%ない」と宣言しながら、直後に立候補表明したことを指しているとみられる。


2015年9月9日00時02分更新朝日新聞デジタル
橋下氏「私人の出馬、公約ではない」 ツイートに臆測も
http://www.asahi.com/articles/ASH9866W4H98PTIL02Q.html

 バカにされバカにし、出馬しても落馬してもあぁ反知性主義が跋扈するwが祖国 日本。
 馬糞をまいて駄馬のごとく疾駆していく、これが神国かwが祖国か、日本の現状を憂う。



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2015年11月03日

足利城跡

 10月30日のソロ山行「栃木市ハイキング」に戻ります。

両崖山.jpg

『栃木県の山』改訂版初版第5刷(2014年2月発行)の113ページ「48行道山」で以下の誤りがありました:
《両崖山山頂に祀られている神社名を「月谷神社」としていますが、数社が祀られていて、最大のものが「御嶽神社」であることから、「御嶽神社」と訂正させていただきます》

山と渓谷社公式サイト
改訂版 栃木県の山
http://www.yamakei.co.jp/products/2809023580.html

 踏む踏む、とヤッホー君、おもむろに書庫に入り、書棚から取り出してチェック&チェック:

 山頂には平安時代後期、足利成行が築城した足利城跡があり、石垣、堀跡などが残っている。
 月谷(つきや)神社の境内には、足利市指定天然記念物の6本のタブノキ自生林(*)がある。

「47行道山」101ページ
山と渓谷社『栃木県の山』(初版第1刷(2000年2月発行)


 へぇ〜、こりゃ古いわぁ、こりゃ駄目だわぁ。
 そうなんです、両崖山は足利城跡でした!
 案内板にはこんなふうに:

 藤原秀郷の7世孫、成行が足利太夫と称し、天喜2年(1054年)にこの両崖山に築城し、以後5代120余年間使用されたが、藤姓足利氏は平氏とともに滅びたため、いったん廃城となった。
 鎌倉時代、源姓足利氏はこの城に入らず、室町時代中期にいたって、足利長尾氏の3代景長が岩井山城からここに移り、旧城を修復したが、天正18年(1590年)小田原北条氏に味方した6代顕長の没落により再び荒廃に帰した。
 今は山頂に本丸跡の石垣を残すのみです。
環境庁・栃木県


 これもヤッホー君、へえ、そうなんだと踏むわ踏むわ…

○ 藤姓足利氏と源姓足利氏
 後三年の役を契機として源義家は足利を領有した。義家の子・義国は義家の遺領である足利の地を安楽寿院に、梁田郡の私領を伊勢神宮に寄進し、それぞれ足利の庄、梁田御厨を立券した。義国の子・義康の代には足利に住するようになり、足利の姓を名乗るようになった。
 一方、足利に基盤を築きつつあった藤原氏も成行の代、1054年には足利城を構え、足利姓を名乗るようになった。当初は源姓足利氏の下司識として足利の庄を支配していた形跡がうかがえるが、源姓足利氏が足利に土着するようになると両者が対立するようになる。
 このように平安時代末期の足利には藤原氏の流れをくむ藤姓足利氏と、源氏の流れをくむ源姓足利氏が、足利における武士団として台頭し、争うようになった。

○ 足利氏の統治と文化
1180年、源頼朝が、平治の乱で衰退した源氏の再興を期して、平氏を相手どり挙兵した(源平合戦)。この時、藤姓足利氏は平氏に、源姓足利氏は源氏に加勢をした。そして、頼朝の挙兵から6年後、壇ノ浦の合戦で敗れた平氏が滅亡するのに伴い、足利忠綱も足利で自害し、藤姓足利氏も事実上亡びた。
 源平合戦において功績を挙げた源姓足利氏の棟梁である足利義兼は、その後の奥州征伐にも頼朝に従って出陣する等、鎌倉幕府の重鎮としての地位とともに、新たな足利庄の領为としての地位を確立した。。。
 足利尊氏は室町幕府を開くと鎌倉には鎌倉府を置き、鎌倉公方に関東の支配にあたらせた。この二元体制はその後軋轢を生む。足利は足利氏の本貫地であることから将軍家と鎌倉公方家による支配権が争われるようになる。鎌倉府には補佐役として関東管領が置かれ、当初は斯波氏、畠山氏が就いていたが、次第に上杉氏が独占するようになる。上杉氏が関東管領として鎌倉公方より大きな力を得るようになると、公方と上杉氏と対立するようになり、ついには永享の乱、享徳の乱となり鎌倉府は滅亡する。
 実質的に足利は関東管領上杉氏の統治となった。永享年間、関東管領・上杉憲実は足利学校を再興し、円覚寺の僧・快元を庠为として招き、書物を寄進するなどの功績を残している。

○ 長尾氏の統治と文化
 関東管領上杉房顕の推挙により足利の庄の代官に任命された長尾景人(上杉家の重臣であった)は寛正6年(1466)勧農城に入った。長尾氏はその後足利の庄の支配者として戦国時代を生き抜く大名となっていった。勧農城に入った長尾氏は頻発する渡良瀬川の洪水を避けるため足利学校を現在の場所に移した。永正年間には足利成行により築かれた足利城に入城し、大改修したとされる。これにより足利城の周辺は城下となり、城下町が整備されることとなった。あわせて足利の荘内に山城、物見を配し、足利城を本城とする本城支城体制を整え、戦いに備えた。戦国期にはこうした城を拠点にして戦いが繰り広げられた。戦乱が続く中、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めでは小田原城に籠って戦い、北条氏と命運を共にした。。。


2010(平成22)年10月足利市『足利市歴史文化基本構想(案)』
第2章 足利の歴史文化の特性と関連文化財群
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/uploaded/attachment/7765.pdf

 そうでしたか、そんなことが、ね、鑁阿寺(ばんなじ)、足利学校と組み合わせて「山歩クラブ足利市お散歩会」で、もう一度訪れたい足利市!

 中世・室町幕府を開くなどした足利氏ゆかりの「鑁阿寺(ばんなじ)本堂」(足利市家富町)が、国宝に指定されることになった。県内からの国宝指定は、建造物では「輪王寺大猷院霊廟(りんのうじたいゆういんれいびょう)」(日光市、1952年11月)以来。美術品も含めると、県内所在の国宝は17件目となる。地元は、足利氏の関連遺産を再認識する機会になると期待。誘客につなげようと意気込む一方で、保全や管理への一層の取り組みや配慮が必要になるとの声もある。
 国の文化審議会が17日、文部科学相に国宝指定を答申した。
 鑁阿寺の第45代住職を務める山越忍隆(にんりゅう)さん(51)は「中世の名門が建てた寺。国宝にふさわしい建造物だと思っていた。光栄で、ありがたい」と話す。寺は幾度かの解体修理も経て、いまに引き継がれてきた。足利氏一族の繁栄と、関わってきた多くの人たちの労苦を思い、「継ぐ者として、責任の重さを感じている」とも。
 「鑁阿」は本尊の大日如来を意味しているという。地元の人たちは「大日さま」と呼んで親しんでいる。朝夕の境内への散歩や、毎日の祈願を欠かさない人も多い。
■ 「観光に弾み」不安も
 市民に身近な寺が、国宝としての価値を認められたことについて、市や観光協会も歓迎。和泉聡市長は同日夕、「足利にさらなる輝きをもたらし、観光振興で大きな弾みになる」とのコメントを出した。
 鑁阿寺のすぐ隣には、足利義兼が開いたとの説もある足利学校があり、ここにも国宝が収蔵されている。市は、足利学校の参観者倍増計画を打ち出し、観光誘客戦略会議は、鑁阿寺と足利学校を中心市街地の核と位置づけた。「国宝の2点セットで付加価値が高まる」(観光交流課)との期待だ。
 ただ、山越さんには不安もある。来訪者の増加で、管理や保全をどうしていったらいいのか――。
 境内は都市公園になっていて、24時間出入りは自由。不審者対策で、警備会社に夜間の見回りを依頼している。拝観料は取っていない。お守りやお札、祈願料などで、その経費を賄っているという。
 「ひっそりあった方が、守りやすいのだが……」。警備の回数を増やすため、団体客に限って拝観料を徴収する案も検討している。
 ◇
〈鑁阿寺本堂〉鎌倉時代の1196(建久7)年、源姓足利氏2代目の義兼(よしかね)が、邸宅の敷地内に建立したのが始まり。最初は小さなお堂だったが、3代義氏(よしうじ)が現在のような本堂にしたとされる。落雷で焼け、7代貞氏(さだうじ)=室町幕府初代将軍・尊氏(たかうじ)の父=によって1299(正安元)年に再建された。本尊は大日如来。
 旧国宝保存法に基づく国宝だったが、戦後の文化財保護法の制定で重要文化財となった。境内(約4万平方メートル)は国指定史跡の「足利氏宅跡」。
 2009〜10年、昭和初期の解体修理から75年ぶりに屋根瓦のふき替え修理が実施された。


2013年5月18日付け朝日新聞、佐藤孝則
栃木・足利の「鑁阿寺本堂」国宝に 価値再認識に期待
http://digital.asahi.com/area/tochigi/articles/TKY201305170436.html

(*)タブノキ自生林6本、足利市指定文化財(天然記念物)
 タブノキはクスノキ科の常緑広葉樹で暖帯林のものである。以前はこの辺一帯に自生し、たくさん残っていたものと思われる。暖帯林の北限は年平均気温13度といわれている(本市の平均気温はおよそ14度)。
 たびたびの伐採のため今ではほとんどなくなって、わずかにここに6本残っているだけである。
 大きいものは目通り周囲167cmから小さいものは65cm、高さは10〜15mで、樹齢は約200〜250年と推定される。
 暖帯林の北限に自生の姿をとどめているものとして貴重である。
1966(昭和41)年3月25日指定 足利市教育委員会





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渡辺真由子

 東京国際フォーラムでのシンポジウムを後にしたヤッホー君、帰ろうとしません。
 「あくたいまつり」「あくたいまつり」となにやら呟きながら別のホールに向かっています。
 「きもい」「うざい」「めんどくさ」か…
 公衆トイレの落書きからイマ、もう消えてしまった悪口、悪態はいったい、どこに行っちゃったのかな。
 きれいになったイマどきのトイレ、でももっと陰湿になって個人をターゲットにしてるんじゃないかい。
 おぉ「あくたいまつり」「あくたいまつり」とか呟きながら歩いていますよ…
 ちょっとだけ跡をつけてみましょうか…

 私の最新刊『リベンジポルノ〜性を拡散される若者たち』(弘文堂)が、今月11月20日に発売されることになった。
 相手の性的な画像や動画を、同意なしに公開・拡散する行為は「リベンジポルノ」と呼ばれる。
 我が国では、2013年に東京都三鷹市で発生した女子高生殺害事件を機に、社会問題化した。
 誹謗中傷や個人情報がネット等で拡散されるトラブルは、いまや珍しくない。
 だが「性」を拡散されるリベンジポルノの場合、被害者が受けるダメージは甚大であるにもかかわらず、責められるのも加害者より被害者、というのが大きな特徴だ。
 なぜ大人たちは、被害者を悪者にしたがるのだろうか。
 現代の若者たちを取り囲む、ネットやスマートフォンが普及したデジタル社会は、大人が青春を過ごした社会とはさまざまな点で異なる。
 そのような社会に生きる若者の実情や心理を、よく理解していないのが一因ではないか。
 私自身も「大人」の世代なので、そうした戸惑いには強く共感する。。。


See more at: http://mayumedia.blogspot.jp/2015_11_01_archive.html#sthash.VRiJ1pHt.dpuf

 そう、向かった先では、『人権問題都民講座』「講座3 インターネット」(講師:渡辺真由子)が開かれておりました。
 とりあえず、イマ東奔西走で大活躍中、渡辺真由子さんのホームページでさらに踏み込んだお勉強をなされるといいと思います。
 きっと木村草太先生のように「踏む踏む」と分かって積極的に周りの人に情報拡散できると思います。

 いじめのない地域づくりを考える「深めよう絆県民の集い」が2015年9月27日、妙高市と村上市で開かれた。スマートフォンなどインターネットを介したいじめをテーマに取り上げ、子どもたちの悩みや相談をどう受け止めるべきか学んだ。
    ◇    ◇
<大人の役割、専門家が解説>

 県教育委員会やPTA連合会などによる「深めよう絆にいがた県民会議」が主催。妙高市の市文化ホールでは、メディアジャーナリストの渡辺真由子さん(40)=東京都=が「深刻化するネットいじめ〜その現状と大人の役割」と題して講演し、約700人が聞き入った。
 渡辺さんは「ネットでは相手の反応が分からないため、表現がエスカレートしてしまいがちになる」と指摘。大人の役割として「子どもが自発的に相談してくれる環境を整えることが第一」とした。そのためには、いじめに関する正しい情報の把握と、子どもたちが使用しているSNS(会員制交流サイト)に関心を持つ大切さなどを挙げた。
 妙高市の高校教諭(59)は「大人がメディアを見極めていく重要さをあらためて思った」と話した。

 講演に先立って新井高校の社会科クラブの生徒11人が、障害者施設などでボランティア活動をしていることを報告した。
 村上市の市民ふれあいセンターでは、村上桜ケ丘高校の生徒らが取り組みを紹介。NPO法人ジェントルハートプロジェクトの小森美登里さんが講演した。


2015/09/28 09:34更新、新潟日報
ネットいじめ防止、大人が目配りを!妙高・村上で「県民の集い」
http://www.niigata-nippo.co.jp/sp/news/national/20150928207903.html

 岩手県矢巾(やはば)町の中学2年、村松亮さん(13)がいじめを苦に自殺したとみられる問題に絡み、ウェブ上で女性担任教諭や加害生徒のものとして真偽不明な情報の書き込みが相次いだ。
 いじめと直接関係ない生徒を加害者かのように中傷するケースもあり、ネットの普及で誰もが発信者になれる時代に、過剰な制裁意識が生む2次被害が深刻になっている。

 村松さんが通っていた中学校のある女子生徒は7月、ネット上の書き込みを見て驚いた。
 村松さんが自殺した当日に現場となった町内の駅で「女が笑って見ていた」という内容で、容姿など「女」の特徴が明らかに自分を指していると思ったからだ。
 女子生徒は村松さんが亡くなった時、町外にいた。
「おもしろおかしく載せたのだろうが、悪意を感じる」と憤る。

 村松さんの自殺が報じられた直後から、ウェブ上ではいじめに加担した生徒やその保護者、担任らの実名を執拗(しつよう)に探る「犯人捜し」や関係者に対する中傷が過熱した。
 ツイッターや匿名掲示板には「担任」や「いじめ加害者」などとして多数の名前や顔写真、住所など個人情報が掲載され、「死ね」「クズ」「生きていけないようにしてやれ」などの過激な言葉が飛び交った。
 村松さんの父を「金目当て」と書いたり、不確かな情報で生徒や保護者を中傷したりするケースもあった。

 村松さんの父親は「亮の死でショックを受けている時に、ありもしないことを書かれて傷ついた」と追い打ちをかけられたという。
 個人情報をさらされたという学校関係者も「家族まで不安がっている」と話す。

 生徒や教職員らの個人情報について、学校や町教育委員会は一貫して公表しておらず、報道機関も村松さんの人となり以外は報じていない。

◇「憤って裏取らず転載」

 ツイッターに学校関係者の実名を書き込んだ北関東在住の50代男性は、毎日新聞の取材に対し「他の書き込みを見て『こいつか』と思った。憤りを覚え、(名前を転載することで)追及しなくてはと思った」と説明。
 書き込んだ内容の裏付けは取っておらず、誤った情報だった可能性については「そこまで考えていない」と語った。

 学校関係者の1人は「この問題には真摯(しんし)に向き合わなければと思っている。だが、いわれのない個人攻撃のような中傷には憤りを感じる」と話している。


2015年8月14日付け毎日新聞東京朝刊、春増翔太・二村祐士朗 
岩手・いじめ自殺:ネット界「制裁」暴走 担任・父・無関係の生徒も標的 「犯人捜し」や個人情報掲載
http://mainichi.jp/shimen/news/20150814ddm041040036000c.html

 安倍内閣の支持率が、一部の世論調査で下落傾向を見せ始めている。増税が実施された今後も、さらなる変動が予測されよう。
 だが、この種の調査に答える国民のうち、総理や閣僚と直接話をしたり、彼らの言動を間近に見たりした人がどれだけいるか。ほとんどの人は、「新聞記事にこう書かれていたから」「テレビであんなインタビューが流れていたから」と、メディアが報じた内容に基づいて判断を下しているはずだ。すなわち、メディアが世論を作り上げているといっても過言ではない。
 政治に限った話ではない。一個人が直接見聞きする情報などタカが知れている。海外で起きている事象、ある物事についての「世間一般の」考え方、「正しい」子育て、「素敵な」恋愛、はては「理想の」人生まで、ありとあらゆる情報を我々はメディアを通して吸収し、それらに多少なりとも依拠しつつ毎日を過ごしている。

 ここで問題となるのは、メディアが発信する情報を果たして鵜呑みにして良いか、という点だ。
 情報は天から降ってくるわけではない。
 我々のもとに届けられる過程で、メディア内部の作り手の視点、登場する当事者の考え、関連する権力機関の意図など、さまざまな思惑が絡み合った「加工品」である。
 メディア情報に接するにあたっては、このような背景を認識した上で、自分の頭で判断することが必要だ。
 そのために求められるのが「メディア・リテラシー」である。

 メディア・リテラシーとは、「メディアの特質、手法、影響を批判的に読み解く」能力と、「メディアを使って表現する」能力の複合を指す。
 欧米諸国を中心に学校教育に取り入れられている。一方、日本では一部の教科で情報の読み解きを教える動きがあるものの、文部科学省は、学習指導要領にメディア・リテラシーに関する規定をいまだ明記していない。
 我々が暮らす民主主義社会は、分別ある平等な社会を築くために最もふさわしいとされる形態だ。
 この社会でメディアに求められる役割は次の5点である。

「地域の共同体が物事を決める過程に人々の参加を促す」
「社会的弱者やマイノリティなど、多様な人々の声を代表する」
「公共政策によって暮らしが良くなるという大衆の信条を支える」
「政治・文化資源の不平等を埋め合わせる」
「政治や市民生活における幅広い選択肢を示す」


 いまのメディアは、これらの責務を全うしているか。
 我々がリテラシーを持って見つめていかねばならない。


2014/4/2 NEXT MEDIA “Japan In-depth”
[渡辺真由子]<メディア・リテラシーの重要性>メディアが発信する情報が「加工品」だという認識を
http://japan-indepth.jp/?p=4749



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2015年11月02日

加藤登紀子×木村草太

 東京国際フォーラムのシンポジウムにはほかに、憲法学者の木村草太先生(1980年生まれ)、社会学者の大澤真幸先生(1958年生まれ)も参加。
 いやあ、勉強になりまして、「あくたいまつり」に出かけなくっともよさそう。

10月31日「人権と出会う日」
 大澤先生が井出隊員の集団的自衛権について語るのをみて、なるほどと思い、
 根本先生の個人通報制度の重要性について、改めて踏む踏むと思う。


2015-11-01 23:07:48更新、木村草太の力戦憲法
どうもありがとうございました。
http://blog.goo.ne.jp/kimkimlr

 さすが学者先生のブログはヤッホー君とは大違い、たった2行ですが、ヤッホー君これで「あん」、「マララ」と続いて3日目の日記です、あらま、あらら…  
 先生の2行のなか、ひとつめ「井出隊員」とはウルトラマンに出てきます。

 イデはさまざまな武器や装備を発明する天才肌の発明家で、宇宙語にも詳しい設定。明るくて、ちょっとおっちょこちょいなムードメーカーというキャラクターだった。ウルトラマンがハヤタではないかと疑ったり、ウルトラマンがいれば、科学特捜隊はいらないのではと悩んだりする。視聴者の思いを代弁するような重要な役どころも担っていた。
 二瓶正也(74)は、イデ隊員役に愛着があったと振り返る。「ちょっといい子になっちゃうっていう自分の中にある部分を広げた感じがあって、演じやすかった」
 だから、「子ども番組に出演しているっていう意識はなかった。ウルトラマンを超えるものはないという誇りを持って演じていた」という。しかし番組終了後、「子ども番組に出ていたから」と言う理由を付けて、仕事を断られることが何度かあった。そんな評価を残念にも感じた。
 けれど、最近、後輩の俳優に「二瓶さんはいいな。代表作があって」と言われた。いくつも主演作品を持つ50代の有名俳優の言葉。「何言ってるんだよ」といいながら心にしみた。そして、現場でのプライドが、よみがえってきた。


2015年8月8日16時30分更新、朝日新聞デジタル
(光の国から)イデ隊員 誇り持って演じた
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11906656.html?rm=150

 これがどうして憲法と絡むのでしょうか。
 大澤真幸先生は例のいかがわしい、違憲なのに立法府を通させた例の戦争法、「集団的自衛権」とからめたお話しのなかにウルトラマンが出てくるのです。
 しかし幼少のみぎり、あんまり「ウルトラマン」とはご縁がなかったヤッホー君、ちんぷんかんぷんで、下手にまとめないほうが良いようで。
 そのうち大澤真幸先生がお書きになって公表されるでしょうから、それを待つことにしましょう。
 ま、人権、ヒューマンライツってなんだろうと思った読者諸氏よ、「東中野図書館」(中野区東中野1−35−5電話3366−9581)に行きましょう!

東中野図書館 個性づくりテーマ展示《第27回》 国際人権法

 毎年12月10日は「世界人権デー」です。
 1948年に「世界人権宣言」が採択されたことを世界人権宣言」が採択されたことを記念して、1950年の国連総会で定められました。
 国連の加盟・機関が人権に関する行事などをおこないます。
 日本では、12月4日〜10日を「人権週間」とし、毎年さまざまな啓発活動がおこなわれています。
 今回は 、世界人権デー・人権週間にちなみ、国際法の一分野である国際人権法について、中心となる条約や宣言をまとめていきたいと思います。
☆ 展示期間: 2015(平成27)年10月31日(土)〜2015(平成27年12月24日(木)
☆ 展示場所:東中野図書館3F

https://www3.city.tokyo-nakano.lg.jp/tosho/pathfinder/higasipass201527.pdf

 で、木村草太先生のブログにあった「個人通報制度」ってどうなっているのか、ですよね。
 経済面では「グローバル化」とか叫ばれ、「TPP大筋合意」とかマスゴミが叫んでいる割りには、こっちの面ではお寒い限りなようで:

日本の現在の状況

 選択議定書で個人通報制度を定めている条約としては「自由権規約」「社会権規約」「女性差別撤廃条約」などがありますが、日本政府はすべてにおいて批准していません。
 また、「人種差別撤廃条約」「拷問等禁止条約」は条約本文にある規定の受諾宣言を行なっていません。
 そのため、日本には、「個人通報制度」は現在まで適用されていません。
 この他、「移住労働者権利条約」「障害者権利条約」は、条約そのものを批准していません。


http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/ihrl/report_system.html

 「ていません」の連発、じゃぁありませんか。
 ヤッホー君、やっぱり「ばかやろう!」って「あくたいまつり」にでかけ、叫び出したいような気分になりました。
 シンポジクムの会場を後にしたヤッホー君、さっそく書籍販売コーナーまで走っていき、本を購入しておりました:

 大澤真幸×木村草太『憲法の条件、戦後70年から考える』(NHK出版新書、2015年1月)

 これも目からうろこです。
 その前に、「あくたいまつり」でなくって、木村草太先生のような態度をとり、剣道でなく憲法を読めば、放置されてたヤッホー君も、法治シュギシャになれたのにね:

加藤登紀子: 木村さんは、中学生の時に憲法の条文を読んで、解放感を得られたとか。
木村草太: そうなんです。「マラソン大会に出たくない」とか、「合唱を歌いたくない」とか、標準から外れると、学校から排除されるんですね。「自由参加にすべきだ」という私の主張に対して、学校側が学習指導要領を示して、「こう決まっているから、やらないといけない」と説明してくれれば、納得できたんでしょうけど。私は法治主義者ですから。

加藤 中学生で法治主義者ね(笑い)。
木村 しかし、学校側は「みんなでやるのが大切だ」と精神的なものを要求するので、息苦しかった。この国の根本的なルールである憲法を読んでみたら、「思想良心の自由」と書いてある。そこで感じた解放感が、僕の憲法学者への道の始まりですね。


2015年9月7日付け毎日新聞東京朝刊
加藤登紀子×木村草太 憲法のルーツは権力暴走の反省



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あくたいまつり

 さて、と。足利市に戻って、ではここで写真を!

善国寺.jpg

 これは神楽坂・善国寺で毘沙門天をまつってあります。
 毘沙門天と言いますのは

 サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」である。
 言葉としては「全てを聞く」という意味を表す。
 古来よりインドで信仰されてきた財宝の神である。
 仏教では四天王の一人に数えられ、須弥山(しゅみせん)の中腹に住み、夜叉、羅刹を率いて北方守護を司る。
 法華経には「仏法と帰依する衆生を守護する」とある。
 左手に宝塔を捧げ、右手に矛を持ち、甲冑で身を固め憤怒の表情で知られ、七福神の一人に数えられている。


宗教法人善國寺(神楽坂 毘沙門天)、新宿区神楽坂5-36、TEL 3269-0641
http://www.kagurazaka-bishamonten.com/

 ちょっとおぉ〜、バカにしないでよおぉ〜、これは「幸国寺から善国寺ウオーキング」でしょ!
 めっ!ヤッホー君の日記に載せるのははまだでしょ、速すぎでしょ、スピード違反でしょって。
 その前に「大岩毘沙門天」(最勝寺、足利市大岩町264番地)が終わってないでしょ、もう!

毘沙門天 (1).JPG

 「大岩毘沙門天」と呼ばれ、奈良の信貴山、京都の鞍馬山とともに日本三毘沙門天の一つとして知られています。
 天平17年(745年)、行基上人が純金像を祀るのにふさわしい場所を探していたときに夢枕に神人が立ち、大岩山を教えてくれたということに起源を発します。
 本堂は1762(宝暦12)年に再建されたもので、1993(平成5)年度から1994(平成6)年度にかけて大改修されています。
 本尊は1寸8分(4.5センチメートル)の純金像で、聖徳太子の作といわれています。
 ここには、多くの絵馬が奉納されていて、その当時の様子がうかがえます。
 足利七福神めぐりの一つで、栃木県立自然公園ハイキングコース内にあります。
悪口まつり(あくたいまつり)
 大岩毘沙門天では、12月31日の大晦日の晩から元日の未明にかけて、『悪口(あくたい)まつり』が行なわれます。
 これは、参道で行きかう人に『ばかやろー』と大声で悪口をかけあう奇祭です。
 ただし、悪口の中で『ぼう』のつく言葉(例えば、貧乏、どろぼうなど)は禁句になっています。
滝流しの式
 悪口まつりに引き続き行われるのが『滝流しの式』です。
 元日の早朝に毘沙門天の前で正座をし、頭上から御神酒(おみき)を注ぎ、鼻筋を通って盃に落ちた御神酒を『滝のように尽きることのないご利益を』と願いながら飲む珍しい行事です。
 ストップの合図は左手を上げることです。

http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikaga-kankou/i-ooiwa.html

 ね、面白いでしょ、あくたい祭り!
 どんなのかっていいますと:

「ばかやろーっ」。2011年の大みそかの夜、暗く沈んだ参道に突如、無数の怒声が飛び交った。
 栃木・足利の大岩山毘沙門天最勝寺。
 江戸期から伝わる「悪口(あくたい)まつり」の始まりだ。
 100人ほどの参加者が悪口を叫びながら、行列になって山道を登っていく。
 30分ほど叫び、歩き続けて本堂へ。
 たどり着くと、除夜の鐘が鳴っていた。
 みな一様に、すっきりとした表情をしている。
 また、新しい年が始まった。

■ 大切なのは? 自ら選ぶ
 拡声機や太鼓を手に、若者が渋谷の大通りを歩いている。昨年末、「Act3.11JAPAN」が呼びかけた、脱原発と増税反対を訴えるデモ。参加者は30人と少ない。いつまでそんなこと言ってるの。街頭の冷たい視線を事務局長の福島豊さんは感じる。
 震災から10カ月を迎える。怒りは、長続きしない。
 日本人は怒りや憎しみを、見えないところへと流して、やり過ごしてきた。新年の神事は、旧年の悪を払うため。ひな祭りも、その元となった流しびなは、厄や穢(けが)れを人形に移し、水に流す行事だ。

 いや。福島は違う。140年前の記憶を忘れない人がいる。
「ふるさとを守りたいと思った彼らの気持ちを、忘れないでください」
 鉢巻き姿のガイドが、白虎隊の悲話をとうとうと語る。墓前で静かに手を合わせる観光客がいる。少年たちの眠る会津・飯盛山を訪れる人は絶えない。
「会津は今でも長州にわだかまりがある」
 福島県在住の作家、星亮一さんは山口県萩市を何度か訪ね、和解運動に関わってきた。だが地元の反対の声が根強く、運動はやむなく立ち止まったままだ。星さんには原発事故の被災者と、戊辰戦争で負けた会津藩が重なって見える。故郷を追われ、散り散りになった。「理不尽は許さないという怒りは人々をつなぎ、会津の存在意義になっている」

 韓国・ソウルの日本大使館前に昨年末、従軍慰安婦を題材にした銅像が現れた。少女の真っすぐな視線は「忘れない」という決意に満ちている。韓国は「恨(ハン)」という言葉で表される屈辱や無念を、
忘れてはいけない大切な記憶として、国家レベルで保存し、プラスの駆動力としてきた」と京都大の小倉紀蔵准教授は言う。

 21世紀は憎しみの時代だ。「9・11」以降、アメリカとイスラム社会の憎悪は募るばかり。
「苦しい記憶にどう対峙(たいじ)するか。世界はずっと探り続けてきた」と高橋哲哉東大教授は言う。
 南アフリカは、アパルトヘイト(人種隔離)が生み出した憎悪を、真実を明らかにする「真実和解委員会」で乗り越えようとしてきた。ドイツは、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を謝罪し、歴史を記憶すると誓った。苦しい歴史と向き合う動きが、各地で広がっている。「憎しみという強い感情を持ち続けるのは苦しい」と高橋教授は言う。だが、苦しいからといって、忘れてしまうのもどうだろうか。

 作家ボルヘスは、暴力と混乱を繰り返したアルゼンチンに生まれながら、忘れることは「過去を無効にする」と考えていた。
忘れるということは復讐(ふくしゅう)の唯一の形式であり、また同時に、相手を許す唯一の形式だ」、1979年の来日時にこう話している。そして、記憶は「選択的」だともいった。

 忘れるか、向き合うか。確かに記憶は選択的だ。
 福島県出身の作家、古川日出男さんは、震災後に出した小説『馬たちよ、それでも光は無垢(むく)で』で、〈私たちは憎まず、ひたすら歩くしかない〉と書いた。人の消えた町を歩き、飢えた馬と出あった。感情の揺れを生々しく記録した小説は、怒りにあふれている。それでも。。。


2012年1月12日10時19分更新、朝日新聞デジタル、中村真理子
〈想・記・伝〉憎まない だが忘れない
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201201110278.html

 ね、面白いでしょ、あくたい祭り!
 茨城県は笠間神社でもあるようですよ:

 参拝客が互いに罵声を浴びせあう奇祭「悪態まつり」が2014年12月21日、笠間市の愛宕神社で開かれる。
 年々観光客が増える一方で、近年は悪態をつける若者が減り、激しい「罵声の応酬」がなくなりつつある。
 かつてを知る人からは「物足りない」という声もあがる。
 江戸時代に始まったとされる悪態まつりは、古くから地元で愛されてきた。
「昔はそりゃあ、盛り上がった。みんな言いたい放題で、迫力が違ったよ」
 まつりを取り仕切る愛宕神社総代会の三村正光会長(80)は、約60年前の様子を笑いながら振り返る。
 当時は午前0時開始。月明かりだけで相手の顔はほとんど見えない。体の特徴、女性関係、家族のうわさ……。
「今ではとても言えないような、聞くに堪えない悪口ばかり。顔が見えないからなんでも言えた」と三村さんは振り返る。
 けんかや、とっくみあいも絶えず、けが人も相次いだ。
 治安の悪化を懸念する声もあり、約40年の間、まつりは中止になった。
 再開されたのは平成に入ってから。総代会の中から「残すべきだ」という声が上がったためだ。再開当初は規模を縮小し、時間も昼に変えた。人は徐々に集まるようになったが、時代の流れなのか、悪態をつく人は減った。
 副会長の小松崎久さん(78)は「明るくて顔が見えるので恥ずかしがる人が多い。まつりとしては物足りないよ」とこぼす。
 本来、悪態は参拝客同士で言い合うもの。だが今は、神とも伝わるてんぐに向かって悪口を言う客がほとんどだ。「矛先がなくて、悪口が全部てんぐに向かってしまっている」と小松崎さんは気の毒に思う。
 近年はスピーカーを持った「悪吹き役」を導入。参拝客は先導の「ばかやろう」の声につられて「ばかやろう」と応酬する。
 三村さんは「前はわき出るように悪口が出てきたが、今は『ばかやろう』と叫ぶだけ。悪が続かない」。小松崎さんは「昔はちんぴらや怖いあんちゃんが悪を吹いていた。今、悪を吹くのはまじめな人だ」と苦笑いをする。
 総代会長を務めたこともある柳原正義さん(82)も「今の時代の若い子たちは『悪態』に慣れていない」と感じている。「表向きの表現は気にするが、ネット上では信じられないような言葉も飛び交っている。なんだか寂しいね」と語る。
 かつての盛り上がりを取り戻そうと、総代会は悪口を言う勉強会や台本をつくることも検討した。
 三村さんは「最近は若い女性で大声を出す人もいる。昔のようににぎわってほしい」と話している。
     ◇
悪態まつり
 笠間市の愛宕山山頂にある愛宕神社と飯綱神社に伝わる奇祭。白装束やえぼしをつけた13人のてんぐ役がふもとから無言で約4キロの参道を登り、供物を奉納する。参拝客は「ばかやろう」などと罵声を浴びせ合い、来年の利益や無病息災を祈る。
 領主が年に一日だけ領民の不平や不満をぶつけることを許し、耳を傾けたのが始まりと伝わるなど、起源には諸説ある。
市や観光協会、PR活動に力
 悪態まつりを観光の目玉にしようと、市や観光協会はPR活動に本腰を入れ始めている。
 市によると、2年前から積極的に広報を開始。2011年に約200人だった参加者は、昨年約千人にまで増えた。これまでは地元の住民が中心だったが、県外からの客も増えている。
 観光協会は今年初めてパンフレットを作成。笠間稲荷神社などをめぐるバスツアーも初めて開く。
 市の担当者は「ほかにはないイベント。多くの方に来てもらえたら」と話す。市は安全面を考慮し、石段に入れる人数を規制することなども考えている。
 21日は午後1時半から午後4時ごろまで、愛宕神社の境内などで開かれる。


2014年12月20日3時00分更新、朝日新聞デジタル、照屋健
茨城)悪態まつり 「罵声の応酬」なくなり物足りなさも
http://digital.asahi.com/articles/ASGDK51JGGDKUJHB00R.html?rm=190



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2015年11月01日

マララ

 映画「あん」のあとのプログラムは、シンポジウム「人権都市の条件とは 東京/日本/世界」!
 ヤッホー君は10月31日土曜日、東京国際フォーラムで開かれていた公益財団法人 東京都人権啓発センター 5周年記念「人権に出会う一日」に参加、出席してたのです。

 すべての人に、すべての街に「人権」を。
 改めてこの言葉の意義を捉え直すため、憲法に立ち返り、日本社会を点検し、世界の現場から学ぶ講演とパネルディスカッション。

http://www.tokyo-jinken.or.jp/jigyou/5th_2015_symposium.htm

 今日はそのなかで、根本かおる(1963年生まれ。国連広報センター所長)さんのお話しで指摘なさってくださったことを紹介。
 根本さんは、テレビ朝日を経て、コロンビア大学大学院で国際関係論修士号取得。国連難民高等弁務官事務所にて難民支援に従事。国連世界食糧計画広報官など歴任。2013年より現職。

 子ども時代の4年間をドイツで過ごし、大学では国際法を学び、世界のことには興味がありましたが、取り立てて国連で働くことに関心を持っていた訳ではありませんでした。私と国連との出会いは、1990年代半ば、報道記者として勤務していた日本のテレビ局を休職し、ニューヨークのコロンビア大学国際関係論大学院に留学していた頃のことになります。
 クラスメートに国連PKOミッションで働いたことがある学生がいたり、国連職員が実務家の講師として招かれるセミナーや国連幹部が登壇するシンポジウムが頻繁に催されたり、それまでテレビのニュースで見るばかりだった国連との距離が、その舞台裏で懸命に働く人々の姿を知ったことで、ぐっと縮まった感がありました。その後、国連機関でのインターンシップを通じて国連を中から覗けたことから、国連の仕事が「実現可能な夢」のように感じた私は、若手の登竜門の Junior Professional Officer(JPO:外務省が、将来的に国際機関で正規職員として勤務することを志望する若手邦人を対象に、一定期間各国際機関で職員として勤務する機会を提供する制度)の試験を受け、1996年にマスコミから国連機関の世界に転身したのです。当時のJPOの年齢制限ギリギリの、33歳での転職でした。(現在の年齢制限は35歳)
 JPOとして国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)トルコ事務所で難民認定審査の仕事に携わった後、正規職員として2011年末までUNHCRに勤め、ブルンジ、コソボ、ネパールの難民支援活動の最前線で働いた他、ジュネーブ本部で政策立案や民間部門からの資金調達も手がけました。。。


2014年3月12日(水)国際女性の日特集シリーズ、女性職員から見た、職場としての国連
第8回 国連広報センター(UNIC)根本かおる(ねもと かおる)所長
http://www.unic.or.jp/activities/humanrights/discrimination/women/womens_day_2014/nemoto/

★ 根本さんご指摘第一弾:

中央アフリカ共和国(注1):暴力を乗り越えて – 国連人権理事会 独立専門家の取り組み
2015/10/01 に公開。中央アフリカ共和国 – 小さな国の忘れられた紛争、暴力、憎悪、不安定に疲弊する国。しかし、ひとりの人権活-動家が、この恐怖の力学に変化をもたらします。
https://www.youtube.com/watch?v=SvtYgqw81-c&index=1&list=PLNe0pDYSfDiuSZA4woHk21HxJ3LCXh-Zx

★ 根本さんご指摘第二弾:

マララと193人の若者たちが、世界のリーダーに安全で質の高い教育を訴える(注2)
2015年9月25日、「持続可能な開発サミット」のオープニングで、マララと193-人の若者たちが、世界のリーダーにすべての子どもへの安全で質の高い教育を訴えました-。
https://www.youtube.com/watch?v=PiDNjF2AEbs

(注1)
 2013年から2年5ヵ月にもおよぶ武装勢力間の衝突による混乱の中で、中央アフリカ共和国の5歳から16歳の子どものほぼ4分の3が、家族・親戚や隣人に対する暴行や殺害のほか、砲撃、そして、なたによる襲撃を目撃したとされています。
 調査の中で、「セーブ・ザ・チルドレン」がインタビューした子どもの43%が、身体的虐待や銃撃の被害に遭ったり、あるいは生命の危険に直面したりした経験がありました。
 彼らの65%は学校に行くのが恐くなるときがあると感じ、25%が恐怖のために実際に学校に通えないと答えました。
 また、インタビューを受けた子どもたちの91%が、過去に殺される、あるいはひどく傷つけられるのではないかという恐怖を経験しており、保護者の半数以上が、自分たちが暮らす地域は子どもたちにとって危険が大きすぎると思っていることもわかりました。
 さらには、調査の対象となった子どもたちの3分の2が、情緒、行動、学習、人間関係などの面で困難に直面していることが、子どもたち自身または保護者や教師の証言からわかりました。
 このような状況は、子どもたちの今後の成長に重大な影響を与える可能性があります。。。


2015年6月1日更新、朝日新聞デジタル
中央アフリカ共和国:長引く紛争で6割以上もの子供たちがPTSDに
http://www.asahi.com/and_M/information/pressrelease/CPRT201518299.html

(注2)
【ニューヨーク共同】ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさん(18)は2015年9月25日、各国首脳らが参加した国連サミットで演説し「世界の指導者の皆さん、子どもたちに平和と繁栄を約束してください」と述べ、世界平和を強く求めた。
 マララさんは「世界には変革が必要だ」と強調し、「教育は特権ではなく、権利であり平和だ」と主張した。
 トルコの浜辺で遺体で見つかったシリア難民アイラン・クルディちゃん(3)の悲劇(*)などに触れ、依然として子どもたちが戦争の犠牲になっていると訴えた。


2015/9/26 00:53更新、共同通信
マララさん「平和を約束して」 国連サミットで世界の指導者に
http://www.47news.jp/CN/201509/CN2015092501002093.html

(*)
 ヤッホー君のこのブログ、2015年9月6日付け日記「Age of Innocence」ご参照ください。
 そのなかで ”THREE-YEAR-OLD Aylan Kurdi” の可哀そすぎる光景とその背景について述べた記事を2本紹介しております:

★ Read more: New Straits Times, Published: 6 September 2015 at 10:00 AM
Let Aylan not die in vain
By A. Jalil Hamid
Read More : http://www.nst.com.my/news/2015/09/let-aylan-not-die-vain

★ Read more: Los Angeles Times, Published: September 3, 2015 12:27 PM
Why we ran the photo of the Syrian toddler (Editor's Note)
http://www.latimes.com/world/la-fg-syria-toddler-editors-note-20150903-story.html




posted by fom_club at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

梵天祭り

 今朝は、「あん」から「ぼんてん」へ。
 でも「かんてん」は分かるけど、「ぼんてん」って何?
 凡人ヤッホー君にはさっぱり見当もつかないって、さ。

 ヤッホー君のこのブログ、おととい10月30日付け日記「足利市ハイキング」ご参照。
 「目を遠くにやると榛名、赤城、男体山まで見晴るかすことができます。これは石尊山(行道山見晴台)からの眺望です」と書きました。 
 そうは書いたものの、どうも気になっていたことが実はあったのです。
 それは標高を表す二つの数字!
 方位盤には486mと書いてあって、
 標柱には441.7mとあるじゃあ、ありませんか!

方位盤 (1).jpg

方位盤 (2).jpg

 ハイキングコースを辿ってる間、家へ無事ご帰還なさった間、そう電車ん中でバクスイしてる間を除き、ず〜っと悩んでいたのです、何だろう、ナンだろう、ナンのお代わりばっかり。
 やっと分かりました!
 「これは前方の石尊山486mを望む行道山見晴らし台からの眺望ですと」と正確にはキャプションを付けなければならなかったんですねぇ。お詫びして訂正します。

足利市重要文化財(民俗文化財)小俣石尊山の梵天祭り

 この行事は、標高486メートルの石尊山に地元叶花の住民が、毎年8月14日の早暁、梵箭と約15メートルの杉丸太を下の沢から一気に直線的に担ぎ上げ、それぞれを結び付け組み立てて、日の出とともに山頂にうち立てる
 山頂では予め炊いて担ぎ上げておいた赤飯と御酒が配られる。近在から老若男女が登拝してくる。やがてこの杉丸太の頂上に付けた梵箭を若者が登り競って名板、帝釈天、幣串を抜き取り、それぞれ家内案全、商売繁昌、五穀豊穣を願って家に持ち帰り飾るという祭りである。
昭和57年4月21日 指定 足利市教育委員会


【石尊山梵天揚げ】(栃木県指定文化財)
 
 原始的な太陽信仰を伝える「石尊山の梵天祭り」は月遅れ盆の8月14日早朝に行われる行事です。
 神仏習合時代の石尊山信仰を色濃く残し、奉納される梵天が異色の形態をとることから民俗文化財として貴重なものであり、栃木県無形民俗文化財に指定されています。
 当日は、ふもとの不動堂で鶏足寺住職による護摩供養と安全祈願ののち、心身を清めた白装束の若者達の手によって午前4時、山伏のホラ貝を合図に15mもある御柱(杉丸太)と7月末に作られた250体余りの梵天(幣束)を石尊山にかつぎ揚げ、日の出とともに山頂に打ち立て、石尊神社奥宮に奉納します。
 山頂でお柱が立てられ、その杉丸太を登り、先端の名板・帝釈天・幣串を取り、家内安全・商売繁盛を願って家に持ち帰り飾る、というお祭りです。
 頂上では赤飯、御酒の配布も行います。
平成26年7月28日(月)足利市 7月定例記者会見


http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/uploaded/attachment/26229.pdf

 今年も行われました。下野新聞はこんふうに報道しています:

【足利】長さ約15メートルの杉丸太を担いで頂上に登り、日の出とともに打ち立てる伝統行事「梵天(ぼんてん)祭り」が8月14日、小俣町の石尊山(せきそんさん)(486メートル)で行われ、五穀豊穣(ほうじょう)が祈願された。
 江戸時代中頃からの歴史を持つ県指定無形民俗文化財の祭り。毎年8月14日に行われ、盆休みに帰省する地域住民らが伝統を支えている。
 市内外から集まった担ぎ手約60人は午前4時に麓を出発。暗闇の中ヘッドランプなどの明かりを頼りに、直線的な急坂「梵天道」を登った。難所に差し掛かると「わっしょい、わっしょい」と声を合わせ、約1時間半で梵天竿(ぼんてんざお)を担ぎ上げた。
 先端に幣束(へいそく)を付けた竿が立ち上がると、「魔よけ」になると言われる幣束の抜き取りに若者らが挑戦。参加者が抜き取りに成功すると、歓声が上がった。


2015年8月15日付け下野新聞朝刊
頂上目指し「わっしょい」 足利で梵天祭り 15メートルの杉担ぎ上げ
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20150815/2051880

 さ、先を急ぎましょう。
 三等三角点のある石尊山見晴台441.7mを後に、更に南へ向かい、ほんんりと色づいた雑木林の稜線を25分歩くと、剣ガ峰(大岩山)に着きます。
 これがその日の日記でだしたクイズの地点から見下ろした「まち」の眺望だったのです。
 え、まだ歩くの?
 え、次回は石尊山486mにチャレンジします、だってぇ〜
 どうぞ!



posted by fom_club at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする