2015年10月31日

映画「あん」

 10月も最後の日、ヤッホー君は映画「あん」を観て泣いていました。

 開催中のカンヌ国際映画祭で「ある視点」部門の開幕作として上映された河瀬直美(1969年生まれ)監督の「あん」。2015年5月30日に公開される映画は、ほぼ全編が東村山市で撮影され、市内のハンセン病療養所「多磨全生園」も舞台になった。市は、多磨全生園がある街として取り組んできた人権を守る活動を、映画から感じてほしいと期待している。
 物語の舞台は、架空の市の商店街にあるどら焼き屋「どら春」。永瀬正敏さん(1966年生まれ)が演じる雇われ店長の千太郎のもとに、「求人広告を見た」と樹木希林(1943年生まれ)さん演じる徳江がやって来るところから始まる。
 店は徳江の作る餡(あん)が評判を呼び、人気店になるが、彼女の過去が近所のうわさになり始める。徳江はいわれなき差別を受け、周りの人たちの運命を変えていく。
 市には昨年2014年1月、撮影協力の依頼があり、ロケ地の紹介や施設の提供をした。西武新宿線久米川駅南口にある桜並木の一角には「どら春」のセットが組まれ、多磨全生園や中央図書館、くめがわ電車図書館などで、ほぼ1年かけて季節ごとに撮影があった。
 映画では、多磨全生園の木々が美しく描かれているが、そのほとんどは戦後に入所者が植えたものだという。試写を見た渡部尚(1961年生まれ)市長は「スクリーンに映る生き生きとした木々が生命の息吹を感じさせ、とても感動的だった」と話す。
 病気についての誤解と差別が長く続いたハンセン病。物語の鍵にはなっているが、ハンセン病を知ってもらうための映画ではないといい、「生きる意味を問う映画。魂の再生が描かれている」(渡部市長)とロケの地元も注目している。


2015年5月18日付け朝日新聞、斉藤寛子
人権守る街、見つめる銀幕 カンヌ上映の「あん」 東京都東村山市の多磨全生園も舞台/strong>
http://apital.asahi.com/article/news/2015051800007.html

 どんな映画かって言いますと:

映画「あん」公式サイト:
http://an-movie.com/

主題歌は、秦基博/水彩の月:
https://www.youtube.com/watch?v=wmzI9Xhydro

 このなかで、永瀬正敏さんが演じる雇われ店長の千太郎が独り酒をやるシーンで使われるのも東村山市の地酒「東村山」:

 蔵のルーツは慶長年間(1596〜1615)にさかのぼります。
 徳川家康が江戸に入り、江戸の街がにぎやかになる頃、 江戸は神田の鎌倉河岸(首都高の神田橋インターチェンジ付近)で豊島屋十右衛門氏が始めた居酒屋からスタートします。
 江戸時代、日本酒は「酒樽」で流通されていましたが、お酒ではなく「酒樽」にも値打ちがあり、空いた酒樽を転売したらお金になったそうです。
 豊島屋は何処よりも安い価格で酒を提供、酒を薄利で販売しても、樽が空けば空くほど儲かるというビジネスモデルを発見します。
 飲みに行く人間から見れば、少しのお金で沢山飲めるわけですから、皆さん豊島屋さんに酒を飲みに行きます。
 とても良い好循環が生まれて商売は繁盛。
 当時の商売というのは、家を継ぐ長男意外は「暖簾分け」といって本家以外の商いで独立させることが多く、代を重ねるにつれ鎌倉河岸一帯は一族によるさまざまな店が並んでいたそうです。
 やがて自分でも酒を造ろうとなり江戸期に白酒の製造と販売を開始。

 明治時代に入り3社共同による酒蔵を灘で開始。
 大正天皇ご成婚に授かり現在の主力銘柄「金婚正宗」が誕生します。
 一時、蔵は府中に移転したそうですが、良い環境を求め東村山にあった酒蔵を買い取る形で現在の場所に移転します。
 1937(昭和12)年に酒蔵が分社化し、現在の豊島屋酒造株式会社が誕生します。。。

 お酒を造れる喜び。
 その先に小売店がいて、飲食店がいて、お客様がいて、初めて酒造りが出来る。
 東京は都会故に田んぼが少なく、酒造りに必要なだけの充分なお米がありません。
 先ずは農家の方にお米を造っていただけることから、感謝しなくてはいけません。
 次に大消費地に近い場所に酒蔵が有るため、小売店、飲食店、お客様との距離も近くなります。
 農家の方が手塩にかけて作られた米を頂いて、お酒という違うものに形を変え、販売店に手渡す。
 すべての方が飲んで良かった、扱って良かったと思っていただきたい。
 酒を飲んでいただいた際に、感謝の気持が伝わる酒を造りたい。
 そのためには、一歩でも半歩でも、前に出る勇気が必要。
 気持ちのレベルが潤う会社にしていきたい。
…そう語って頂きました。

 商品の購入・質問は屋守(おくのかみ)金婚醸造元「豊島屋酒造株式会社」(東村山市久米川町3丁目14−10、電話042-391-0601)へお問い合せ下さい。

 
2011年10月1日、佐野吾郎(1966年生まれ)ブログ
日本の酒蔵巡り
http://sanoya.jizake.com/e1638.html

 この映画のエピソードはこちら:

 樹木と河瀬監督の出会いは、2011年の「朱花(はねづ)の月」。撮影1日だけの出演だったが、その才能に一目を置いた。

「たたずまいがしなやかで威圧感がなくて、でも粘り強くて。これで監督をやるんだっていう感じでしたね。あの時は自分でカメラも回していたんですよ。だから、すごい重労働だと思うんですよね。それで子供を育てていて。いろんな意味でへえ〜っていう感じ。それが映画祭に出ると監督というより女優になるわけ。華やかさと主張みたいなものが。それで面白いなあと思いましたね」

 その「朱花の月」に出演したドリアン助川(1962年生まれ)が、ハンセン病をテーマにした小説「あん」(注)を執筆。樹木にも送られてきて、「(映画を)やるとしたら、主人公は樹木希林がいいんじゃないかと思って書いた」という手紙を添えられていた。監督を依頼された河瀬監督から誘われ、ハンセン病患者の収容施設・国立療養所多磨全生園(東京・東村山市)を訪れたのが、映画「あん」の始まりだった。

「広い園の中に同じ家屋がずーっと並んでいて、ほとんど人が住んでいない。たまに元患者の人が歩いていたり、三々五々集っていたりするくらいで、いやあ、もう寂しい。あの囲いの中に一生いなければいけなかった人たちの人生を思ったけれど、その苦しみまでは推し量ることはできないですね。でも、中の人たちにとっては日常だから頓着なく、屈託なく生活していらした。むしろ私の方が逆に、『あなた、病気なんでしょう。頑張んなさい』って励ましてもらったくらいです」

 かつてはらい病と呼ばれ「恐ろしい伝染病」などとしていわれなき差別を受け、社会から隔絶されたハンセン病。1996年(!)に「らい予防法」が廃止されたものの、いまだ偏見は根強く残っている。樹木が演じた徳江は、千太郎(永瀬正敏)が雇われ店長をしているどら焼き店のアルバイトに応募。丹精込めた手作りのあんが好評を呼び店は繁盛するが、ハンセン病患者だという風評が流れ始めてしまう。。。

 秋の撮影前の昨年2014年10月18日、徳江のモデルの1人とされる80歳過ぎの元患者の女性が暮らす国立療養所星塚敬愛園(鹿児島・鹿屋市)にも足を運んだ。ちなみに、日にちを覚えていたのはドラマ「ムー一族」(1978−79)などで共演し親交の深い郷ひろみの誕生日だからだそうだ。

「私より全然元気。話していてしばらくたってから、『あんた、テレビに出ている人に似ているね』って言われて。普通の人なのよ。人に物をあげたがるし、強引ですごいパワーなの。でも、病気はもう治っているけれど、家族は亡くなっている人が多いし、帰る場所もない。何かとても考えさせられたわね。私も、もっとなんでもなく普通の人でやれば良かったって」


2015年5月23日更新、映画.com
歩みを止めることを知らない自称・高齢女優、樹木希林
http://eiga.com/movie/81499/interview/

(注)ヤッホー君、原作の文庫版を買い求めていました:

偏見のなかに人生を閉じ込められた徳江、
生きる気力を失いかけていた千太郎、
ふたりはそれぞれに新しい人生に向かって歩き始める――。
生命の不思議な美しさに息をのむラストシーン、
いつまでも胸を去らない魂の物語。

★ 2013年度読書感想画中央コンクール指定図書<中学校・高等学校の部>
ポプラ社「あん」(初版は2013年2月、ポプラ文庫版は2015年4月)
http://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80008730



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足利行道山雲のかけ橋

 南木佳士を読んで、いてもたってもいられず、昨日のイマ頃はもう東武動物公園過ぎ。
 ヤッホー君は「山が呼んでる!」とか叫んで、勇んで家を飛び出したらしいのですが…
 足利市「歴史のまちを望むみち」コース!
 まずは、行道山で「国分寺、国分尼寺」と結びついてヤッホー君、びっくりして腰を抜かしてへたれこんでしまいました(注1):

 『関東の高野山』といわれ、山腹にある浄因寺は713(和銅6)年、行基上人(ぎょうきしょうにん、668−749、注2)の開創と伝えられます。
 参道から山頂にかけ3万3千体といわれる大小の石仏や、右手を枕に西向きに寝ている寝釈迦(ねじゃか)があります。


寝釈迦.JPG

 また、巨石の上には眺望絶景の建物『清心亭』(せいしんてい)があります。そこへ渡るために巨石から巨石に架けられた空中橋『天高橋』(てんこうきょう/あまのたかはし)は葛飾北斎が『足利行道山雲のかけ橋』として描きました。

橋から (1).jpg

橋から (2).jpg

 ここは、足利県立自然公園ハイキングコースのポイントでもあり、南画さながらの景勝地として、1975(昭和50)年、栃木県の名勝第1号に指定されました。

足利市公式サイト
行道山浄因寺
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/page/i-i-gyodo.html

 なお、写真は昨日ヤッホー君撮影したものをご提供しております(エヘン!ゴホゴホ…むせております…)。
 天保年間まで下って空中橋は、浮世絵の大家によって名橋のひとつになるのです:

諸国名橋奇覧 足利行道山 くものかけはし
大判錦絵 25.2×37.6 天保(1830年から44年)初年頃

天保元年(1830年)から天保4年(1833年)まで葛飾北斎71歳から74歳まで錦絵の時代
 この時期には「冨嶽三十六景」などの風景版画や花鳥画など、現在も有名な錦絵の名作が多数生み出されました。
 従来、浮世絵には現在風景画と称されているジャンルはなく、「冨嶽三十六景」の大流行により、浮世絵に風景画を確立したのは、北斎の偉大な業績の一つです。
 絵手本の時代には、洋風表現を大胆に使用した作例もありましたが、この時代にはより洗練した方法で洋風表現を使い、中国の南蘋[なんぴん]派の表現も取り入れています。


すみだ北斎美術館
http://hokusai-museum.jp/modules/hokusai/index.php?content_id=18

 ところでこの「すみだ北斎美術館」、平成の御代になって北斎まで後ろ指をさされることのないようヤッホー君、願っております(注3)、だって:

 指定管理者の公募や入札は結果的に結論ありきで決められ、結果的に指定者は「墨田区文化振興財団」となる。
 その根拠は、「すみだ北斎美術館」自体の本来の目的は、文化振興とか産業及び地域振興は建前に過ぎず、その本当の目的は官僚の天下り利権確保であり、区民の税金を美術館名目で墨田区文化振興財団に流すことにあるからです。
 さらに、公益法人「墨田区文化振興財団」は、トリフォニー・ホールの音楽施設の管理経験はあるが、美術館の管理経験は無いために、他の美術館とJV(joint venture共同企業体)を組むであろうことが予想されます。
 その共同企業体も何処か、既に筋書きは出来ており、東京都のお役人が運営する公益財団法人「東京都歴史文化財団」または民間も含む「東京都歴史文化財団」グループである可能性を私は予想致します。
 つまり「東京都江戸東京博物館」を運営する「東京都歴史文化財団グループ」、つまり公益財団法人「東京都歴史文化財団」になる可能性を過去の経緯から予想致します。
 つまり、区民の税金を東京都の官僚と墨田区の官僚が食い荒らす構図は、これまでに国際ファッションセンター株式会社と同じ構図です。
 こうなると「東京都江戸東京博物館」の建築費は583億円で、年間赤字88億円ですから、建設費の約15%の赤字が生まれることが予想され、「すみだ北斎美術館」の建設費は38億円ですから毎年5億7千万円の赤字になることが推計出来ます。
 墨田区は指定管理料を1億円に抑えようとしていますが、私が試算して見ると毎年5億円はかかると思われますので、事実上無理で、指定管理料の他に名目を設けて支出せざるを得ない結果になることが予想されます。
 つまり、指定管理料1億円としても、北斎資料収集基金1億円、北斎基金1億円で年間3億円、これに加え何らかの名目で2億円捻出しなければならなくなることを予想いたします。
 それ程、美術館は金食い虫なのです。


2015-6-27 04:40更新、墨田区議会議員大瀬康介の墨田オンブズマンブログ
区民文教委員会報告!問題山積のまま進められるすみだ北斎美術館の現実! [開館後毎年5億円の赤字!すみだ葛飾北斎美術館]
http://ose.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300653192-1

(注1)ヤッホー君のこのブログ、次の日付の日記をご参照ください:
★ 2015年04月15日「不動如山」
★ 2015年09月30日「国分寺建立の詔」
★ 2015年10月01日「七重の塔」
★ 2015年10月02日「歴史の鍵穴」

(注2)ビョウキを治すギョウキ上人、と朝から高笑いのヤッホー君(カンラカンラがゴホゴホに…むせております…):

 1200年以上も昔、まだ、奈良に都があったころのお話です。行基上人というえらいお坊さんが、日本全国を旅していました。行基上人は、行く先々でため池を造ったり、水路を開いたりして、人々を助けながら仏様の教えを広めていたのです。
 ある時、さみしい猪名野(いなの)を歩いていた上人は、道ばたにたおれていた老人に気がついて立ち止まりました。
「もし、どうなさいましたか」
 上人がたずねると、老人は苦しそうに答えました。
「病気を治すのに有馬へ行こおもて、ここまで来たんやけど、体がしんどうなった。もう三日も飯食うとらへん。何ぞ食うもん持ってしめへんか」
 老人をよく見てみると、体中に瘡ができて、そこから膿が出ているというひどいありさまでした。そこで上人は、旅のお弁当の干し飯を取り出してやりましたが、老人は、
「あかん、あかん。わしゃ生の魚でも食わんと、元気が出えへんわ」と言います。
 そこで上人は、わざわざ長洲(ながす)の浜まで行って、漁師に魚をわけてもらいました。そして、魚の片身を料理して食べさせてやりました。
 上人が残った片身を昆陽池(こやいけ)に投げこむと、不思議なことに魚はそのまま泳ぎ始めて、池の中へ消えてゆきました。昆陽池には、このときの魚の子孫の「片目の鮒(片目の金魚という伝説もあります)」が、今でも住んでいるということです。
 さて、上人は老人を背負って有馬温泉に向かいましたが、そのとちゅう、老人は苦しそうに言いました。
「体中のできものが膿んで、ウジがわいて、痛うて、かゆうてたまらんわ。お坊さん、膿をなめて、ウジを吸い取ってくれへんかいな。ほたら少しは治るとおもうんやけど」
 ふつうならとてもできることではありません。けれどもこれを聞いた行基上人は、老人をおろすと、ひどく膿みただれた老人のはだをなめ、ウジを吸い取り始めました。するとどうでしょう。上人がなめたところが、どんどんと黄金色にかがやき始めたではありませんか。気がついてみると、老人の姿は、いつの間にか光りかがやく仏様に変わっていたのです。
 上人は「あっ」とひれふして、おがみました。
「私は薬師如来です。上人をためすため病人に姿を変えていましたが、上人の慈悲の心はよくわかりました。これから有馬へ行って、病気の人たちを救ってやりなさい」
 こうして行基上人は有馬へ行き、さびれ果てていた温泉をたてなおして、多くの病気の人を助けることになったのです。
 行基上人は、このときの薬師如来の姿を像に刻み、お堂を建てて祭りましたが、それが現在の温泉寺のはじまりだということです。また別の伝説では、薬師如来を祭る寺を建てようと考えた行基上人が、東に向かって木の葉を投げ、それが落ちたところに建てたのが昆陽寺(こんようじ)だとも伝えています。

兵庫県立歴史博物館公式サイト
紀行文 民衆が敬愛した高僧
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend/html/007/007-1-tx.html

(注3)ヤッホー君のこのブログ、次の日付の日記をご参照ください:
2012年08月13日「ビアステーション両国」
2013年01月31日「官僚専用タワーマンション」
2014年01月29日「葛飾北斎」


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2015年10月30日

足利市ハイキング

 山歩クラブの皆さん、こんばんは。
 山歩クラブの会報『かわらばん11月号』は昨日10月29日、手配しておりますので、少々お待ちください。
 11月の山行は、栃木県足利市の行道山浄因寺から織姫神社、「歴史のまちを望む道」にしております。
 そこで今日10月30日、さっそく下見に行ってまいりました。
 下見はソロで、しかし本番にはぜひ大ぜいで行きましょう!
 紅葉はわれわれの本番の頃、見ごろになるのでは、と1000本ものもみじが植えられている「もみじ谷」(注)で出会ったご夫婦が。
 でも山路では、少しづつ色づきはじめた木々と出会えました。
 足利市は「あしかがフラワーパーク」や「足利学校」だけではありません。
 いまや超人気の「ココ・ファーム・ワイナリー」まであって江戸さん、いつか「歴史のまち」ん中、タウンウオークも企画をお願いします。
 下に目をやると「まちを望む」、しかしそれだけではありません。
 目を遠くにやると榛名、赤城、男体山まで見晴るかすことができます。

赤城.JPG

 これは石尊山(行道山見晴台)からの眺望です。
 次の一枚も。

行道山.jpg

 ここでクイズ。
 下の高速道路は、@ 東北道 A 関越 B 北関東のうちどれ?

 では、ごきげんげんよう、おやすみなさい💤

(注)
 「足利ロータリークラブ」が創立60周年を記念して、織姫公園もみじ谷にイロハモミジ、エドヒガンザクラを市に寄贈していただき、植樹いただきました。
 「足利ロータリークラブ」は、1972年の創立20周年事業でもみじの植樹を行って以来、これまでに数多くの植樹をいただいております。ありがとうございます。
 現在、もみじ谷には約1000本のモミジが植えられており、今秋の紅葉の時期に谷が赤く染まる様子は一見の価値ありです。楽しみにしてください。

 
歴史と文化と花のまち、足利市公式サイト
【記念植樹】織姫公園のもみじ谷に植樹いただきました。
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/kouen-syoukai-50on/orihime-syokuzyu.html



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南木佳士

 イマの「狂気」を何とか生き延びることができれば、生き延びたいヤッホー君、手にとった本が南木佳士の新作。

観察眼を磨いた歩み

 著者の文学世界は静謐(せいひつ)である。背後になにがあるのか。芥川賞受賞作「ダイヤモンドダスト」を読んで以来長い間気になっていたが、本書で謎が解けた。若月俊一著『村で病気とたたかう』など、8冊の本との関わりを述べながら、自らの歩みを回顧する魅惑的な著作である。エッセイでありながら、私小説のようだ。
 若月氏が一代で築いた長野県の総合病院の勤務医でもある著者の来歴は、けっして平坦(へいたん)ではなかった。幼いころ母を亡くし、再婚した父について群馬から東京に移住。秋田大学で医学を学び、地域医療をめざして病院勤務を始める。文学が好きで書いた小説が認められ、作家と医師の二足の草鞋(わらじ)を履くが、末期のがん患者たちを看取(みと)る生活のなかで鬱病(うつびょう)を発症。心を病んだ女性医師を描いた『阿弥陀堂だより』は、著者の姿にも重なった。ゆえに俗世間の澱(おり)を文学という濾紙(ろし)で掬(すく)いとった、その透明感と深い味わいが南木文学の本質なのだ。
 たとえば、本書にこのような記述がある。「細部に宿る神を大切にすると、本物の無神論者たちからは邪険にされる」。生命を預かる医師として観察眼を磨き、文学の言葉をもつ者の哲学である。
 文学もまた細部に宿る。静かさの根拠は薬石の効用だ。紹介された本の写真は著者が撮影。その仕掛けに趣があり、著者の毅然(きぜん)とした生き方と佇(たたず)まいが眩(まばゆ)い。

<なぎ・けいし> 1951年生まれ。作家・内科医。著書『陽子の一日』など。

もう1冊 

『熊出没注意−南木佳士自選短篇小説集』(幻戯書房)。作家生活三十周年を記念して、作者自身が選んだ十篇。


2015年10月25日付け東京新聞【書評】[評者]横尾和博=文芸評論家
南木佳士『薬石としての本たち』(文芸春秋、1620円)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2015102502000193.html

 この作家、南木佳士についてはヤッホー君のこのブログで幾度も取り上げてご紹介してきました。おもいつくままに:、

★ 2010年4月21日「阿弥陀堂だより」
★ 2010年4月22日付け「Roquentin」

…「今年2010年は山形県東根市・山形ロイヤル病院に末期がん、認知症、還暦からの緑内障で寝たきりの親父の橋寿64歳の寅年」… なんて日記に書いておきながら6月29日に父はなくなりました(ヤッホー君のこのブログ、その年の7月7日付け日記「父死す」ご参照ください)。

★ 2010年5月9日「母の日」
★ 2010年5月29日「江戸東京博物館」
★ 2010年7月12日「木の香に満ちる森」
★ 2010年12月17日「嬬恋村」

…「作家は先月、11月28日日曜日、朝のNHK番組『課外授業ようこそ先輩』に出て「からだで書こう!」と村立東小学校の子どもたちと浅間山に登っていました!」とヤッホー君、記していましたがそれが今日のテーマ。
http://www.nhk.or.jp/kagaijugyou/archives/archives357.html

★ 2010年12月18日「顔写真」
★ 2010年12月19日「ふじ」
★ 2012年3月22日「凍み死ぬ」
★ 2012年4月22日「山行記」

 ヤッホー君のこのブログ、2010年12月17日付け日記ででできたNHK番組への出演について、この近刊『薬石としての本たち』で、こんなことを:

 いまの日本では年間百万人以上の人間が死んでおり、その8割は病院で死ぬ。
 だから、病院に勤務する医者というのは死んでゆくひとたちを看取るのがおもな仕事で、テレビドラマに出てくるようなかっこいい職業ではない。
 こういう仕事を続けていたら、いずれじぶんも必ず死ぬのだな、と思うようになり、神経衰弱になってしまった。
 そういう体験を経て文章を書いている。
 「からだで書く」というのは、じつはそういうことなのです。

 こんな内容を話したのだが、放映された番組ではほとんどカットされていた。
 べつに腹も立たない。
 ただ生徒たちに、からだで書こうと思っても、からだの実感にそぐわないことばを用いたら元も子もないので、そういうことばを身につけておく意味でも、先人の書いた本を読んでおくのは大事なのだよ、と伝えるのを忘れてしまったのがいまでも口惜しい。。。


南木佳士「ようこそ先輩」前掲『薬石としての本たち』所収、141頁

 ぜひ本屋さんに行ってお買い求めくださいね。

 山登り、ことば、書くこと…についてはこんなことも:

Q 山登りの魅力は何でしょうか。
A 「ちゃんとまともな汗をかけることだと思います。もうひとつは、五感が鋭くなること。人間はいつも余計なことばかり考えています。山に入り、五感からいろんな入力があると、そういう余計なことが抑制されてゆきます。邪気が払われるという感じです。その気持ちよさがたまらなくて、また山に行きたくなるのです。
 わたしには、高い山に行こうとか、どこかをめざして、という信念はありま
せん。山に入ることそのものが目的なのです」

Q 山登りを始めたことで作品に影響はありましたか。
A 「それはありました。それまでは、自分が蓄えてきた経験のなかで小説を書いてきました。それを一回チャラにして、五感から入ってきた、直接感じたものを言葉に置き換えるようになったと思います。
 一回、からだを通過した言葉を使わないと、からだが納得しなくなりました」


取材日=2011年2月28日、南木佳士氏ご自宅にて
山と溪谷社
http://special.yamakei.co.jp/sankouki/PDF/interview.pdf

 『山行記』もヤッホー君の「もう一冊」!
 この本は、山と渓谷社より2011年3月18日に刊行されておりました!



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2015年10月29日

遠くて近きもの

 「非核という共通の目標を持つ日本の人びと」って外国で言われて、そうあってほしいヤッホー君なんだけど、
 いったい他の皆んなは、どうなんでしょうね、どうお考えなんでしょうかねぇ〜
 あぶない御仁達にどうしていつまでも政治を委ねているんでしょか、ですねぇ〜
 だって御仁達からは新しい共通の目標を持てって指示されてしまったもんねぇ〜
 今日「良く分からないのです」ってヤッホー君、アタマ抱えているみたいでぇ〜

 これってシールズ SEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)の言う通り!

「今これだけ異常な状態なんだからきちんと野党が協力しないと選挙に勝てないし、もし選挙に勝てないとどうなるのか。自民党の改憲草案も視野に入ってくる…」
 SEALDsメンバーの諏訪原健氏は危機感もあらわに語った。
 安保反対運動をリードしてきたSEALDsが、きょう、日本外国特派員協会で記者会見した。
 来夏の参院選に向けてSEALDsは戦略を提唱した。戦略は大きく2つだ。
 ・安保法案に賛成した議員を落選させる
 ・統一候補を応援する
 諏訪原氏によれば、二大戦略は「野党の選挙協力が実現した場合」が前提となる。
 だが肝心の野党共闘はお寒い限りだ。野党第1党の民主党は共産党への対応で迷走し、第2党の維新はお家騒動でガタガタなのである。
 選挙協力したところで共闘の中心となる民主党の評判が悪すぎる。
 民主党と維新を中心にした野党共闘で選挙を戦ったら、野党全員で沈むことになる。結果として、また、また、また自公が勝つのだ。
 新しい政治勢力が生まれるか、民主党が解党して野党再編となるか。小手先の選挙協力でどうかなるものではない。
 このままズルズルと行けば、日本国民が選挙で真性の独裁政権を誕生させるという悲劇が起きるだろう。


2015年10月28日18:23更新、田中龍作ジャーナル
「野党の選挙協力なければ自民改憲草案も」SEALDsが危機感
http://tanakaryusaku.jp/2015/10/00012289

 この間の宮城県議選(定数59)で「共産党躍進」って騒いでいるけど、「選挙」に勝っていないのんじゃないの?
 選挙前の勢力ではジユウ・ミンシュ党、乞う迷党の与党が31議席+4議席=35議席。
 選挙が終わってみれば、27議席+4議席=31議席で、4議席を減らしただけだもん。
 国会議員を選ぶ選挙だってイマのままだったら、きっと与党は勢力維持、野党のなかの分布図だけが変わるだけなんじゃないのかな、
 というのことは、この国の異常な状態はホント、ネオリベ、ネオナチ、ネオゴジラだらけ、
 そんな気持ち悪いもんがウヨウヨしている、ネオン輝く新日本・新米が誕生するのかな!
 党利党略、私利私欲で走っていいんですかねぇ〜

 「非核という共通の目標を持つ日本の人びと」って外国で言われて、そうあってほしいヤッホー君なんだけど、
 あいにくサイカ堂はするは、ドロナワ式で新米の軍事基地の工事は最下位だし、ほかの皆んなは同志なのかな、
 やっぱりイマだけ、ココだけ、自分だけ生きていけりゃ、他はどうでもいい無関心なのかな、まさか違うよね

 ノーベル賞作家がついこの間、4年前に書いた次の文章ってのも、無視なのかな。
 この国にはもう、宗教家もいなくなっちゃったし、ね。無関心、無気力、無責任…

偶然にも地震の前日、朝日新聞の朝刊に数日後に掲載される予定の原稿を書いていました。1954年のビキニ環礁の水爆実験で被爆した、私と同世代の船員についての記事です。彼の境遇を初めて耳にしたのは、19歳の時。その後も彼は「抑止力」神話と抑止論者の欺瞞をあばくこと denouncing the myth of nuclear deterrence and the arrogance of those who advocated it に人生を捧げています。思えば、大震災の前日にあの船員のことを思い出していたのは、ある種の悲しい予兆だったのでしょうか。彼はまた、原子力発電所とその危険性にも反対して闘っておられるのです。私は長いこと、日本の近代の歴史を、広島や長崎の原爆で亡くなった人、ビキニの水爆実験で被爆した人、そして原発事故の被害にあった人という三つのグループの視点から見る必要があると考えてきました。この人たちの境遇を通して日本の歴史を見つめると、悲劇は明確になります。そして今日、原子力発電所の危険は現実のものとなりました。刻一刻と状況が変わる中、事態の波及を抑えるために努力している作業員に対して敬意を表しますが、この事故がどのような形で収束を迎えようともその深刻さはあまりにも明白です。日本の歴史は新たな転換点を迎えています。いま一度、私たちは、原子力の被害にあい、苦難を生き抜く勇気を示してきた人たちの視点で、ものごとを見つめる必要があります。今回の震災から得られる教訓は、これを生き抜いた人たちが過ちを繰り返さないと決意するかどうかにかかっています。

この震災は、日本の地震に対する脆弱性と原子力の危険性という二つの事象を劇的な形で結びつけました。前者は、この国が太古から向き合ってきた自然災害の現実です。後者は、地震や津波がもたらす被害を超える可能性をはらんだ人災です。日本はいったい、広島の悲劇から何を学んだのでしょうか。2008年に亡くなった、現代の日本の偉大な思想家の一人である加藤周一氏は、核兵器と原子力発電所について話をした時、千年前に清少納言が書いた『枕草子』の一節を引用して、「遠くて近きもの」だとしました。原子力災害は遠く、非現実的な仮説に思えるかもしれませんが、その可能性は常にとても身近なところにあるのです。日本人は、原子力を工業生産性に換算して考えるべきではありません。広島の悲劇を経済成長の見地から考えるべきではないのです。地震や津波などの自然災害と同じように、広島の経験は記憶に深く刻まれているはずです。人間が生み出した悲劇だからこそ、自然災害よりも劇的な大惨事なのです。原子力発電所を建設し、人の命を軽視するという過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する、最悪の裏切り行為です

日本が敗戦を迎えた当時、私は10歳でした。翌年、新憲法が公布されました。その後何年にもわたって、軍事力の放棄を含む平和主義を明記した我が国の憲法や、その後の「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則 the Three Non-Nuclear Principles (don’t possess, manufacture, or introduce into Japanese territory nuclear weapons) が、戦後の日本の基本理念を正確に表現しているのか、自分に問い続けました。あいにく、日本は徐々に軍事力を再配備し、60年代の日米の密約によって米国が日本列島に核兵器を持ち込むことが可能となり、それによって非核三原則は無意味となってしまいました。

しかし、戦後の日本の人道的な理想は、完全に忘れ去られたわけではありません。死者が私たちを見守り、こうした理念を尊重させているのです。そして、その人たちの記憶があることによって、政治的現実主義の名のもとに核兵器の破壊力を軽んじることができません。私たちは矛盾を抱えています。日本が米国の核の傘に守られた平和主義国家であるというその矛盾こそが、現代の日本の曖昧な立場を生み出しています。福島の原発事故がきっかけとなり、いま再び日本人が広島や長崎の犠牲者とのつながりを復活させ、原子力の危険性を認識し、核保有国が提唱する抑止力の有効性という幻想を終わらせることを願います。

一般的に大人であると見なされる年齢の時、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という小説を書きました。そして人生の終盤に差しかかった今、『後期の仕事(レイター・ワーク)』を執筆しています。今の狂気を何とか生き延びることができれば、その小説の出だしはダンテの『神曲』地獄篇の最後の一行からはじまるでしょう。

--かくてこの處をいでぬ、再び諸々の星をみんとて。


Saturday, April 23, 2011 Peace Philosophy Centre
大江健三郎「歴史は繰り返す」(『ニューヨーカー』誌寄稿)
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2011/04/oe-kenzaburo-in-new-yorker-history.html

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2015年10月28日

核燃料バンク

【アスタナ〈カザフスタン首都〉=福岡幸太郎】安倍晋三首相は10月27日午前(日本時間27日午後)、カザフスタンのナザルバエフ大統領と会談する。日本はカザフスタンが建設を予定する原子力発電所の受注を目指しており、首脳会談でどこまで交渉を後押しできるかが焦点となる。
 首相は中央アジア5カ国を歴訪中で各国で日本企業の事業拡大に向けたトップセールスを展開している。カザフスタンは最後の訪問国。ウランの埋蔵量が世界第2位、生産量が世界第1位の資源国だ。日本とは原発の輸出に必要な原子力協定を結んでいる。
 カザフスタンは新たに原発の建設を検討しており、東芝傘下のウエスチングハウス(WH)などが受注を目指している。日本政府は海外へのインフラ輸出の拡大を成長戦略の一つとして掲げており、カザフでの原発受注にも力を入れている。首相が直接、大統領に日本企業の受注を売り込む。
 首脳会談では中小企業育成のための人材育成、医療面での支援についても協議する。


2015/10/27 13:58更新、日本経済新聞
日カザフスタン、首脳会談へ
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO93296950X21C15A0EAF000/

 国会も開かずに、モンゴル、中央アジアと政界の茶坊主、財界の付き人たちととコクミンの税金を使って秋日和、飛行機を乗り回しているファシスト。
 実はそんだけひ・み・つ・の、コクミンのいのちより大事な、あるミッションがあったのです。

【ウィーン=岐部秀光】国際原子力機関(IAEA)は2010年12月3日の定例理事会で、原子力発電の燃料に用いる低濃縮ウランを国際的に管理、供給するための「核燃料バンク」の設立で合意した。不測の事態で核燃料の確保が困難となった加盟国に対しIAEAが供給を保証し、低濃縮ウランを市場価格で販売する仕組み。核拡散を防ぐとともに原子力の平和利用を後押しする狙いもある。
 核燃料バンクは当初、各国が核開発技術を取得するのを制限する狙いもあったが途上国が反発。核拡散防止の意味合いは薄れた。各国の拠出金をもとにIAEA自身がバンクを所有する。ホスト国としてカザフスタンが名乗りを上げている。


2010/12/4 10:08更新、日本経済新聞
核燃料バンク設立で合意 IAEA
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0400L_U0A201C1NNE000/

 IAEAってフクシマ以来おなじみ、たしかえらいさんがアマンなんとか言うてましたなあ〜

 【ウィーン=玉川透】国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長(あまの ゆきや、1947年生まれ、灯台砲卒)が昨年の就任直前、「重要な決定で常に米国側に立つ」との考えを示し、米国が天野氏の姿勢を評価していたことが民間サイト「ウィキリークス」が公表した米外交公電で分かった。
 英紙ガーディアン(電子版)によると、米国の駐ウィーン国際機関代表部が昨年10月に本国に送った公電で、天野氏について「事務局長は全加盟国を代表するが、意見は我々と一致している」と紹介。天野氏が代表部大使に「幹部の人事案件からイランの核兵器開発疑惑への対応まですべての重要な戦略的決定で米側に立つ」と繰り返し示唆したと報告した。
 昨年12月の就任以降、イランの核開発疑惑を厳しく追及する天野氏に対し、イランは「米欧寄り」との批判を強めている。今回の天野氏の発言内容を巡り、イランがさらに反発を強める可能性がある。天野氏は2日の記者会見で、加盟国である米国の内部文書流出について発言する立場にないとした上で、「(暴露された)公電は私が書いたものではない。受け取り方は人それぞれで、私自身は間違ったことをしたとは思っていない」と語った。


2010年12月3日0時20分更新、朝日新聞
IAEA事務局長、就任直前「米国側に立つ」 公電暴露
http://www.asahi.com/special/wikileaks/TKY201012020516.html

 で、なんなんでしょうかね、このバンクっていうやつは:

IAEAと合意
 カザフスタンの首都アスタナで2015年8月27日、国際原子力機関(IAEA)とカザフスタンは、低濃縮ウランの備蓄、供給を行う「核燃料バンク」を設立する合意書に署名を行った。同国北東部のオスケメンに設立し、2年後の稼働を目指す。
 核燃料バンクには、大都市の電力供給を3年間担うことができる90トンの低濃縮ウランを備蓄し、カザフスタンが運営を行う。市場における低濃縮ウランの供給ルートが万一途絶えた場合に、IAEA加盟国が商業市場に影響しない形で供給を受けることができる。IAEAの管理の下で各国への供給を保証することにより、軍事転用を防いで核拡散を防ぐ効果が期待される。

安全保障と核不拡散を推進
 IAEAの天野事務局長は「世界最大のウラン産出国であり、核の平和的利用の専門家が備わったカザフスタンは、核燃料バンクを設立するのに適した場所だ」と述べ、カザフスタンのイドリソフ外相との署名式を行なったほか、エネルギー省のシュコルニク大臣と技術協定の合意書を取り交わした。
 今回の合意により法的および技術的な枠組みが整ったとみられる。資金面に関しては、民間団体「核脅威イニシアチブ」のほか、米国、EU、アラブ首長国連邦、クウェート、ノルウェー、カザフスタンからの任意の拠出金1億5000万ドルによって賄われ、天野事務局長によれば、設立後10年間の運営が保証されているという。
 核燃料バンクの設立は2010年にIAEA理事会により認可され、カザフスタンがホスト国に立候補した2011年以来、さまざまな交渉が行なわれてきた。


2015年9月2日06:00更新、東欧ニュース
カザフスタンに核燃料バンク設立へ
http://www.eastern-europe-news.com/news_qGIrBRWT5.html

 カザフスタン、ヤッホー君のような一般のコクミンって「核燃料バンク」をどんな気持ちで受け入れたのかな、だってぇ〜:

 【アスタナ共同】旧ソ連時代に約460回の核実験が実施され、150万人以上が健康被害を受けたとされるカザフスタンで2015年8月29日、「核実験に反対する国際デー」に合わせ、首都アスタナの広場で市民らが反核を訴えた。
 バツ印が書かれたTシャツ姿の参加者は、同国での核実験の回数に近い約500個の白い風船を空に放った。親が核実験の影響を受け、生まれつき両腕がない画家のカリプベク・クユコフさん(47)は「この国には核の被害に苦しむ人がいる。非核という共通の目標を持つ日本の人びとに深く共鳴する」と語った。


2015/08/29 18:20更新、福島民報
カザフスタンの市民ら反核訴え、国際デー「日本に共鳴」
https://www.minpo.jp/globalnews/detail/2015082901001507

 《非核》という共通の目標を持つ日本の人びと…、
 そう、そんなひとりだったヤッホー君でしたね…
 海外でも、日本と日本人とに誇りと信頼と絆を
 いっつも感じ取れたものですが、ね、
 いや、そうしていきましょうよ、ね、



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2015年10月27日

日本会議

Q また、安全保障法制を「合憲」としている3人の学者は皆「日本会議」に属している。その意味や、「日本会議」の影響力をどう見ているか。(エコノミスト)

A 小林節氏(慶應義塾大学名誉教授、弁護士):
 「日本会議」に沢山の知り合いがたくさんいるので私が答えますが、「日本会議」の人びとに共通する思いは、第二次大戦で敗けたことを受け入れ難い、だから、その前の日本に戻したいと。
 かれらの憲法改正案も明治憲法と同じですし、今回もそうですが、日本が明治憲法下で軍事五大国だったときのように、アメリカとともに世界に進軍したいという、そういう思いを共有する人々が集まっていて、かつそれは、自民党の中に広く根を張っていて、かつよく見ると、明治憲法下でエスタブリッシュメントだったひとたちの子孫が多い。
 そうするとメイクセンスでしょ(笑)。


2015年6月15日15:30更新、BLOGOS編集部
【詳報】「安全保障法制は違憲、安倍政権は撤回を」〜長谷部恭男氏・小林節氏が会見
http://blogos.com/article/116803/

 これはイマ、NHK(なんかヘンな空気)にみちみちているこの国の近未来にとって、おそらくとっても大事な会見記事です。
 大手のメディアはイマ、もうすぐにほとんどの記事が削除されていたりして読むことができません。
 有料化になって金銭の対価で読めるとかで、公共の器とか公共の財産とか社会の木鐸なんて言うとこの国では絶滅危惧品種。
 でも海外ではすぐ refer できるのにな。
 図書館のツタヤ委託もそう、
 「上野の森を文化の杜にしちゃえ」再開発もそう
 徳川家康が江戸城に入った時の「まちづくり」アドヴァイザー天海和尚さんと大違い、
 イマはすべてカネ、フリースペースを無くすことが「まちづくり」
 イマはそれゆけ、どんどん。なんでもかんでも商売、しょうばい、カネ、金、カネの世の中!

 つい最近まで「情報化社会」「情報洪水」「情報格差」なんてさかんに言われていましたがイマ、催涙弾か目つぶしを投げられて、われわれのような一般人はだんだんと「目隠し」にされてきています。

 ひ・み・つのあっこちゃん!
https://www.youtube.com/watch?v=-zGqqweO6MQ

 10月27日火曜日の朝、民主党議員の離党のニュース!
 この御仁は親米派、集団的自衛権の行使容認に賛成の議員でした。
 なんで民主党にいたんですかね。
 この御仁の親爺さんは自民党でムカシ防衛庁長官でした。
 つまり政治屋が家業だから、議員になることが至上命題。
 このお話しを聞いてヤッホー君、もしかして「日本会議」のメンバー?と思ったのでした。
 ミンシュ党にもメンバーが入っているんだそうで長島昭久、原口一博、前原誠司、松原仁、笠浩史、鷲尾英一郎、いまうわさのニシンは、松浪健太、松野頼久。
 で、中野良子(オイスカインターナショナル総裁)もメンバー、といいますか役員だったのです:

日本会議」公式サイト、平成27年6月15日現在・50音順役員名簿
http://www.nipponkaigi.org/about/yakuin

 公益財団法人オイスカ(以下、オイスカ)は、1969年にオイスカ・インターナショナル(1961年に設立されました。本部を日本に置き、現在34の国と地域に組織を持つ国際NGO)の基本理念を具体的な活動によって推進する機関として生まれ、主にアジア・太平洋地域で農村開発や環境保全活動を展開しています。

オイスカ」について
http://www.oisca.org/about/

 ウイキで調べてみよおっと:

 「三五教」を母体として「国際文化交友会」が設立され、三五教教祖の中野與之助が理事長に就任した。
 その「国際文化交友会」が主催となり「精神文化国際会議」が開催され、その会議の常設機関として「精神文化国際機構」が中野與之助を初代総裁として1961年に発足した。
 「オイスカ」の前身である「精神文化国際機構」は1965年に現在の名称に変更した。
 また、関連施設として、オイスカ高等学校、オイスカ開発教育専門学校、月光天文台などがある。
 2015年6月、会長の中野良子が退任し、三五教の3代目教主の中野悦子が会長に就任した

 
 「三五教」は、「あなないきょう」と呼びます
 『日本宗教総覧』(新人物往来社、1992年版)によりますと
 ”三”は道院、卍字時会、バハイ教の三者連合の意で、
 ”五”は、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教、道教の五教の統合を意味している、と。
 信者数125027名。

 そうでしたか…
 宗教と政治、ねぇ…

 今でも「オイスカというのは一体何だ?」ということで、地方に行きましても薬の名前、あるいはアフリカでそのような新しい独立国が生まれたのか、と言われます。。。

 それは1961(昭和36)年、私の父である中野與之助の呼びかけに応じて、アジアを中心に世界各国からの参加者による会議でした。
 日本もようやく敗戦の廃墟から立ち上がって、経済発展の道を歩み始めていましたが「経済の発展、つまりものの発展だけでは世の中は傾いてしまう。最後は破壊になってしまう。これに伴うべき人間の心の豊かさ、他への思いやりや相互理解、そのようなものを伴って初めて世界の平和に寄与することができるのだ」という意味で、「精神文化国際会議」という名前で世界へ呼びかけました。
 当時、在京の大使館もずいぶんご協力いただき、文化人、宗教家、産業人、ジャーナリストといろいろな多種多彩な人たちが集まりそのような会議をやったところ、「これは大事なことだ」ということで、これを常設機関にしようではないか、ということになりました。
 確かこの会議を数回重ねたと思いますが、その中で誰言うとなく「世界の空は一つ、世界は大家族、人類はみな兄弟。恐怖のない、不安のない平和な世界をつくるために協力し合おうではないか」という標語みたいなものが生まれ、各国に組織をつくってこの運動を広めようではないか、ということになりました。
 当時たいへん盛り上がり、その会議には時の総理大臣・池田勇人氏、あるいは次の佐藤栄作氏というような方たちからもメッセージをいただきましたし、文部大臣の灘尾弘吉さん、愛知揆一さん(愛知さんは後に外務大臣にもなられました)が、政府を代表して出席いただいてご挨拶いただいたことを記憶しています。。。


「環境を考える経済人の会」2003年度第6回朝食会
「国際協力とふるさと再生」中野良子氏(財団法人オイスカ会長)
http://www.zeroemission.co.jp/B-LIFE/MORNING/mng200306.pdf

 まあね、創価学会は公明党でしょうし、靖国神社さ、アベちゃ、だし、宗教団体と政治屋ってお互いにメリットがあるんでしょうか。
 まあね、選挙があると票数とか、戦争がはじまれば葬儀とか、いろいろあるんでしょうかね…
 でも、宗教家って、和尚さんと大違い、
 衆生の救済へと人びとに近づくんじゃなくって、権力に近づいていくんだから困ったもんです。
 和尚さんって、実業家とか政治家とか違って〜、とヤッホー君、ぶつぶつ、つぼやいています。
 いのちを救うのでなく、いのちを奪う方に暴走、迷走、遁走するなんて、とんでもないことだ!
 駆け込み寺なんてふるいムカシ話。イマは立派な神社仏閣も施錠、監視カメラ、オートロック!
 いのちを植えよう、いのちをつないでいこう、一人ひとりのちっちゃないのちを大事にしよう!

 福島県に住むA母さんとその長女A子さん(高校生)だ。
 A母さんの家庭は、彼女とA子さんからなる母子世帯。うつ病を患うA母さんは、数年前から生活保護を受けて暮らしている。そんなA母さんの長女・A子さんは、高校3年間にわたり、年17万円の給付型奨学金を受けられることになった。そうして昨年、奨学金の一部・14万円を受け取る。
 が、福祉事務所は全額を収入認定してしまうのだ。
 どういうことかというと、奨学金を世帯の「収入」とみなし、その分の保護費を減額したのである。これでは、奨学金をもらった意味がまったくない。というか、A子さんが努力して手にした奨学金を、福祉事務所が「生活保護世帯なんだからダメ」とブン取ったようなものである。
 A子さんは奨学金を、大学進学のための学習塾や参考書購入費、また修学旅行費に充てるつもりだった。


2015年10月21日up、雨宮処凛がゆく!
第353回「生活保護世帯の高校生に起きていること」の巻
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/23452/

 やっぱり「清洲会議」って自然消滅なんてことしちゃいけないねってヤッホー君。ん?



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2015年10月26日

学校林で学ぶ

 eっ、水越八重さんが「30ヘクタールの山林を寄付」、それがもとになってイマも上野原小学校の学校林、いいねe
 
 でも「森林」には手入れが欠かせませんが、そんな大変な作業に、大人と子どもがいっしょに汗を流すって、いいねe

 木や土の健康度を測り、森の様子を学ぶ。岐阜県恵那市立長島小学校では毎年秋、5年生が山に入り、「森の健康診断」をする。この環境教育の舞台は広大な学校林だ。
「倒すぞ。気をつけて」「よいしょ!」。17日午後、長島小の児童らが森林ボランティアの男性らと声を合わせて何度もロープを引くと、高さ20メートルを超すヒノキがゆっくりと倒れた。
 この日、5年3組の児童31人が学校からバスで十数分かけて、恵那市長島町鍋山の学校林へ。矢作川水系森林ボランティア協議会の6人も同行した。
 児童らはまず、ロープで1辺5メートルの正方形をつくり、その中の植生を調べた。円を描き、木の混み具合も調べた。うっそうとして日当たりが悪い森の中は草がはえておらず、土質がもろかった。
「不健康な森だね。どうしたらよいだろう」。森林ボランティアが尋ねた。「間伐して日を入れる」と児童。さっそく伐採作業に取りかかった。
 倒す方向を決め、根元付近に切れ目を入れ、児童が交代でのこぎりをひいた。木にロープを巻き付けて引っ張った。倒れた木の長さと年輪を測定すると、22メートルで「70歳」だった。
 間伐作業に参加した水野結月(ゆづき)さん(10)は「木が倒れた後、青空がパーッと開けて太陽の光が差し込んだことに感動した。間伐が必要なことがよく分かった」と語った。
 この学校林は県営東濃牧場に隣接し、広さは75ヘクタール。歴史は1905(明治38)年からと古い。国産材が売れていた70年には、木材の販売で得られた利益など4157万円を校舎新築にあてた。だが、輸入材に押され、国産材市況が冷え込むと、敷地のうち32ヘクタールを使う東濃牧場からの賃料が収入源となった。
 学校林はヒノキの人工林だ。地区と学校の代表者でつくる「学校林管理委員会」が地元の森林組合の手を借りて枝打ちなどをするが、とても手が回らない。
 和田克子教頭は「学校林の健康度が落ちているのは残念だが、森が身近にあるのは素晴らしいこと。先人に感謝したい」と話す。
 12月には間伐した木を材料に木工教室を開くという。


2013年10月26日付け朝日新聞・森川洋
環境保全、学校林で学ぶ 岐阜・長島小「森の健康診断」
http://digital.asahi.com/area/gifu/articles/NGY201310250023.html

 子どもが自然ん中でからだを動かしてお腹を空かせる
 お母さんかおばあちゃんが握ってくれたおにぎりをほおばる
 コンビニ弁当より
 チンしたファーストフードより
 数段も美味しいはず
 「行ってらっしゃい」の声が聞こえてくるから
 「気をつけてね」って背中を押してくれたから
 いいねe、いいねe
 
 そうです、上野原小学校では:

ノーテレビ、ノーゲーム、挑戦してみませんか
 この夏休みにお子さんは何冊本を読みましたか。
 また、「家読(うちどく)」に取り組んでいただけましたでしょうか。
 特に低学年では読み聞かせはとても大切です。
 時には、テレビを消して、ゲームをしない、そんな時間を作ってみませんか。
「無理」という声が聞こえてきそうですが、秋の夜長、家族みんなで読書に挑戦してみましょう。


2015年9月14日学校だより『上小っ子』

どんな秋にしますか
 10月に入り朝夕めっきり涼しくなりました。
 子どもたちの服装も半袖から長袖へと変わってきました。
「どんな秋がある」と聞いたら、スポーツの秋、食欲の秋という答えがありました。
 山梨の子どもの体力が全国平均を下回っていることを「学校だより」で紹介しました。
 野球やサッカーなどスポーツ少年団に参加している子はよく運動をしていますが、登下校でも歩かない子
が増え、遊びもゲームなど内遊びが多くなっているのではないでしょうか。
 最近は、帰り道でウォーキングをしている親子に会うことがよくあります。
 涼しくなったこの時期に家族でウォーキングをされてはいかがでしょうか。
 もう一つの秋、学校がおすすめする秋は、「読書の秋」です。
 毎年、PTAの役員の皆様に保護者代表として答えていただいている学校評価で、家庭読書の評価が他の評価よりも低い状況です。
 家庭学習の中に読書を取り入れてみませんか。
 秋の夜長、テレビを消して、親子読書に挑戦してみましょう。


http://www.city.uenohara.ed.jp/uenoharashou/wp-content/uploads/2014/05/H27年10月号-完成版.pdf

 そんな上野原小学校。学校林は:

 山梨県の東端に位置する上野原小学校には、1929(昭和4)年に上野原町の篤志家、水越八重さんより寄贈された約30ヘクタールの山林からなる学校林「八重山」があります。
 他の学校のものと比べても広大な学校林ですが、2002(平成14)年より(社)国土緑化推進機構、松下電器産業梶iオイスカ法人会員)から支援を受け、山梨県大月林務環境部、上野原町、北都留森林組合などの手によって、学校林の除伐や遊歩道作りなどを行ないました。
 2003(平成15)年11月には「学校林を活用したふるさとづくりフォーラム」を開催し、子供たちによる植林活動や、歌と楽器の生演奏が幻想的な森の中でのコンサートが行われました。また、パネルディスカッションでは、学校林活動の現状や展望と課題が議論されました。


オイスカ(注)、各地で進められている「学校林活動」
http://www.oisca.org/project/japan/school_woods_report.html

(注)
人間の生存に不可欠な三要素である「産業(Industry)」「精神(Spirit)」「文化(Culture)」のバランスを大事にした発展を、世界的規模で「促進していくこと(Advancement)」を目的とした「機構(Organization)」です。
…財団法人オイスカ『「子供の森」計画、親子で読む環境問題』(2008年)裏扉より




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2015年10月25日

八重山530.7m

 え〜と、大急ぎで一週間前に戻って、と。
 10月18日(日)に順延して催行された山歩クラブ「上野原ハイキング」は、能岳から八重山への縦走でして、酒まんじゅう、というのは、10名全員で完歩したそのお土産でした。
 ですので今日10月25日(日)のヤッホー君のこのブログは、八重山530.7m!

 八重山.jpg

 さらに展望台へ。
 その手前には「水越八重さんの心が息づく八重山」の石碑が:

水越八重.jpg

水越八重さんの心が息づく八重山
 1929(昭和4)年に地元の水越八重さんが、お世話になった故郷や子供達のために役立てて欲しいとの思いから30ヘクタールの山林を寄付されたことにちなんで「八重山」と名づけられました。
 今では八重山は、上野原小学校の学校林として、市民に愛される山として、八重さんの想いを後世に伝え続けています。

ふるさと櫻讃歌
みはるかす 甲相の峯に
巡りくる その春毎に
いただきの 桜開きて
さながらに 雲海ならん

繚乱の 櫻仰ぎて
偲ぶらん もろ人達は
先人の 熱き思いを
先人の 努力のあとを

くる春の その度毎に
八重山に 咲けよ匂へよ
ふるさとよ 美しくあれ
ふるさとよ とはに栄へよ


 ね、良い山塊でしょ。

 どこまでも高く、垂直方向に登りつめる登山も良し。
 そして遠く、長く、水平方向に縦走するもまた楽し。

 山ってホント良いですね。

八重山から富士.jpg

 さ、またお富士さんといっしょにお昼、お昼、弁当だ〜い
(いつものドカ弁、どうして今日はないの?ヤッホー君)


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2015年10月24日

公的年金

 「あるがままに生活」にも危機は忍び寄ってきています。
 それは「年金」、です。
 心配になったヤッホー君、ひさしぶりにhamachanこと、濱口桂一郎(1958年大阪府生まれ)先生のところへ:
 
 公的年金とは今現在の現役世代が稼いだ金を国家権力を通じて高齢世代に再分配しているのだということがちゃんと分かっていれば、年金をもらっている側がそういう発想になることはあり得ないはずだと、普通思うわけです。
 でも、年金世代はそう思っていないんです。この金は、俺たちが若い頃に預けた金じゃ、預けた金を返してもらっとるんじゃから、現役世代に感謝するいわれなんぞないわい、と、まあ、そういう風に思っているんです。
 自分が今受け取っている年金を社会保障だと思っていないんです。
 まるで民間銀行に預けた金を受け取っているかのように思っているんです。
 だから、年金生活しながら、平然と「小さな政府」万歳とか言っていられるんでしょう。
 自分の生計がもっぱら「大きな政府」のおかげで成り立っているなんて、これっぽっちも思っていないので、「近ごろの若い連中」にお金を渡すような「大きな政府」は無駄じゃ無駄じゃ、と思うわけですね。
 社会保障学者たちは、始末に負えないインチキ経済学者の相手をする以上に、こういう国民の迷信をなんとかする必要がありますよ。


2014年11月9日(日)「<ワシの年金>バカが福祉を殺す」
2010年7月27日(火)「年金世代の大いなる勘違い」
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html

 そう、そう、うん、うんと再確認いたしました。
 だけどヤッホー君、心配なのは「今現在の現役世代が稼いだ金」なんですぅ〜
 そして、「稼いだ金」をどう再配分しているのか、「国家権力」への監視役をコクミンがはたして果たしているのか、急に心配になってきて、そわそわしだしたんです。

 まずは「今現在の現役世代」ってどうなってるの?

 非正規の労働者を厚生年金に加えることには、経済界から強い抵抗がある。企業は労働者と保険料を半分ずつ負担しなければいけないからだ。
 しかし、人を雇って事業をする以上、たとえ正社員でなくとも、その将来に対して応分の負担をするのは、企業の社会的な責任である。そんな意識を定着させたい。欧州では常識的な考え方だ。
 人を雇ったら、どんな雇用形態であっても必ず厚生年金に加入させ、給料天引きの保険料と企業負担の保険料を一括して納める。そういう制度にすれば、企業にとって非正規雇用を増やす「うまみ」が減る。それにより、非正規の雇用を抑制する効果も期待できる。


2008年2月18日付朝日新聞
「希望社会への提言」
http://www.asahi.com/shimbun/teigen/teigen17.html

 しかしイマ「非正規の雇用」って、いまだに抑制されてなくって、かえって増長してるんじゃない?
 これは7年前のきじですがイマ、非正規の現役世代で厚生年金に加入できている人ってどんくらい?
 じゃあ、国民年金!でも国民年金だって保険代を払っていない(払えない位の低賃金)っていうし…

配偶者のない非正規雇用男性は、84%が10年たっても配偶者のない非正規雇用男性のまま」──
 その冷酷な現実を調査で明らかにしたのは、『格差固定 下流社会10年後調査から見える実態』(三浦展/光文社)だ。
 社会デザイン研究家である著者(みうら あつし、1958年生まれ)は、2005年に『下流社会 新たな階層集団の出現』(光文社新書)で、日本の社会がすでに一億総中流社会ではなくなり、「中流から上流に昇る人」と「下流に落ちる人」に分化することを問題提起したが、10年後の現在、同種の調査をすることで、10年間の変化を検証したものだ。。。
 この10年間の、2006年の第一次安倍政権の「再チャレンジ可能な社会」、2008年の麻生太郎政権(現・副総理)の「安心社会」、そしてアベノミクスが、若者の労働環境にとってまったく無策で、格差を固定するための政策だったことが明らかになった。
 内閣府「就業構造基本調査」を見ても、雇用者に占める非正規雇用者の割合は、2004年の31%から2014年は38%に増加している。
 著者は「このように非正規雇用から正社員への移動はかなり難しいし、無職から非正規雇用への移動すら簡単ではない。雇用形態、就業形態は固定化しがちであるといえる」と指摘するのだ。


2015年9月28日付け「リテラ」、小石川シンイチ
安倍首相「1億総活躍社会」はインチキだらけ! アベノミクスも正社員を減らし非正規社員を増やしただけだった(注)
http://lite-ra.com/2015/09/post-1536.html

 もっと恐ろしいことが…
 ハゲタカ?
 たった3日前のことですよ!
 ヤッホー君のこのブログ、今年2015年1月16日付け日記「GPIF」をご参照ください。
 ではいきます:
 
「もう老後はない。30年間掛けてきた年金は 米金融資本に捧げたんだろうか?」
 厚労省の答弁を聞くと、誰しもが思うだろう。
 きょう(2015年10月21日)、国会内で民主党が厚労省と日本年金機構から「消えた年金」についてヒアリングした。
 老後を支える公的年金を運用する「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF、注)」が、大きな運用損を出しているのではないか、と巷間言われてきた。
 きょうのヒアリングで厚労省年金局の担当者は、10兆円の運用損(7〜9月期)を出したことを認めた。。。
 海外の低格付け債権の運用を任せる受託機関の一覧表を見て納得がいった。ゴールドマン・サックスがあるのだ。
 ゴールドマン・サックスは、99%の人々の資産を搾り取る米強欲資本の総本山とも言える。
 2011年にはウォール街の公園を占拠(オキュパイ)していた人びとがゴールドマン・サックス本社にデモをかけた。玄関前に座り込んだデモ参加者は、ほぼ全員がNY市警に逮捕された。
 ゴールドマン・サックスに代表される米金融資本がTPPで本当に狙うのは、日本国民の個人資産(簡保と年金)だ。農産物ではない。
 簡保は医療の自由化によりいずれ彼らの手におちる。年金もセッティングされた。


2015年10月21日21:32更新「田中龍作ジャーナル」
「アメリカ強欲資本」に吸い取られる日本国民の老後
http://tanakaryusaku.jp/2015/10/00012241

(注)ヤッホー君、非正規から正規への転換の道は自衛隊の隊員になること、と思っていましたが、これじゃあ、軍のなかでもいじめ、びんた、半殺し、虐待、差別、無視かあ〜:

 今年入隊した非正規の自衛官は2千400人増えている。正規は1千人減らしている。これからどんどん海外に行く。あえて言えば死んでもいい人たちが。交代要員だから。
 盾になる非正規隊員は1年目、2年目の隊員でいい。10代、20代の。家族(妻子)のいる人が少ないので補償金が少なくて済む。

元自衛隊レンジャー隊員の井筒高雄氏(1969年生まれ)
http://tanakaryusaku.jp/2015/10/00012249



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2015年10月23日

健康寿命は、HALE

 ヤッホー君のeチャリ、そうですよね、自分の足を使って、自力で動く、空間を移動するのにも「あるがままに」で…
 この間の「みなと区民まつり」でお伺いしたオランダ大使館、本国の映像が、イギリスで放送されたようなのでここでご紹介:

BBC News, Last updated 11 October 2015 at 03:40 BST
Dutch cyclists have longer lives say researchers
http://www.bbc.com/news/world-europe-34498871

 でも、でも、もしもペダルを漕げなくなったらどうするんでしょ、と顔が真っ青 PALE!
 「健康寿命」ってWHOでは「HALE」と呼んでいるようで、Healthy life expectancy の略。

Healthy life expectancy (HALE) is a form of health expectancy that applies disability weights to health states to compute the equivalent number of years of life expected to be lived in full health.

Overall, global HALE at birth in 2013 for males and females combined was 62 years, 7 years lower than total life expectancy at birth. In other words, poor health resulted in a loss of nearly 7 years of healthy life, on average globally. Global HALE at birth for females was only 4 years greater than that for males. In comparison, female life expectancy at birth was almost 5 years higher than that for males.

HALE at birth ranged from a low of 49 years for African males to 70 years for females in the WHO Western Pacific Region.

Healthy life expectancy (HALE) at birth
http://www.who.int/gho/mortality_burden_disease/life_tables/hale_text/en/

 ま、おおよそ統計学的には地球上の人間は平均して自立できなくなって7年は、死ぬまで他人(よそさま)のお世話にならないといきていけないというわけでしょう、いくらおひとりさまでも。
 ま、今朝の日記の「平均寿命」と「健康寿命」との差ですわぁ。
 ま、「あるがままに」その差をできるだけ縮めるにはどうすればいいんだぁ〜
 今年2015年の初夏のロイター通信です:

Older people who walk briskly,
          are moderately active in their free time,
          drink moderately,
          don’t smoke and
          avoid obesity
may be half as likely to develop heart failure as people who don't engage in these healthy habits, a new study suggests...

According to the U.S. Centers for Disease Control and Prevention, more than five million people in the U.S. have heart failure, in which the heart fails to pump enough blood and oxygen to support the rest of the body. Heart failure can be treated with medication, a reduced-sodium diet and increased physical activity, but about half of those diagnosed with heart failure die within five years...

Walking “briskly,” or at least two miles per hour,
taking part in calorie-burning leisure activities,
modest alcohol intake of no more than one or two drinks per day,
avoiding smoking and
maintaining a healthy weight
were all tied to lower heart failure risk...

Many “healthy lifestyle messages” about lowering heart attack risk also apply to heart failure, said Dr. David J. Maron, director of Preventive Cardiology at Stanford University School of Medicine in California, who coauthored a commentary on the new findings.

“We spend a tremendous amount of money in this country on heart failure-related events,” Maron told Reuters Health by phone. “Living a good life can help prevent a very expensive illness.”

“The amazing thing from this study is if you do these four behaviors that you can reduce your risk of heart failure by 50 percent,” he said. “It’s just an association, and doesn’t prove cause and effect,” but is still a powerful finding, he said.


Reuters, Health, Updated: Mon Jul 6, 2015 2:35pm EDT
Lifestyle factors can halve heart failure risk after 65
BY KATHRYN DOYLE
http://www.reuters.com/article/2015/07/06/us-health-elderly-heart-failure-idUSKCN0PG24T20150706

 1ヶ月ほど前の英国紙ガーディアンです:

Life expectancy for the wealthiest in England has caught up with most comparable countries in the western world since 1990, but the health of people in the poorest regions is lagging behind, according to a major study.

In the first study of its kind, experts at Public Health England (PHE) found 40% of ill health is caused by our lifestyles and predominantly by our diets. Smoking, alcohol and high blood pressure, which itself is influenced by obesity, cigarettes and poor diets, were also major factors. Although we are living longer, we are living less healthy lives, with many people suffering years of disability before they die…

Prof Kevin Fenton from PHE said obesity and diet had to be tackled in a more proactive way, and action at national, local and individual level was required. A review looking at ways to improve the nation’s diet and increase the exercise we take is under way and should report before Christmas. He said: “We need a much more comprehensive approach to what we do on obesity. Two-thirds of the nation are overweight or obese.”

Prof John Ashton, the president of the Faculty of Public Health, said: “Healthy life expectancy powerfully reflects our social environment: having a living wage, living in decent housing and eating healthy food. The shocking regional variations in healthy life expectancy dramatically demonstrate how these powerful factors that affect our health are controlled by national and local governments, rather than being a simple matter of individual choice.

“We urgently need government to make peoples’ social environments healthier. Only government has the power to introduce measures like minimum unit pricing for alcohol, increase duties on tobacco, sugary drinks taxes and subsidies on fruit and veg. Such measures will empower councils and individuals to tackle the socio-economic reasons why there are ‘health haves’ and ‘have nots’.”…


The Guardian, Last modified on Tuesday 15 September 2015 08.43 BST
English life expectancy catches up with the west but poorest lag behind;
Public Health England finds people live longer but less healthy lives, and there is a major disparity between most and least well-off regions of country
By Sarah Boseley Health editor
http://www.theguardian.com/society/2015/sep/14/health-life-expectancy-england-regional-differences-poorest-richest

 つまり、ヤッホー君もたばこを辞めてから、もう、とっくに20年は経ったし、
 なんとイマじゃあ、アルコール類と縁きり宣言して20週目に入っております。
 どうなんでしょ、逆立ちじゃなかった酒断ち、それがイマじゃ「あるがままに」!
 フ・シ・ギ

 では、ここで吉幾三(1952年生まれ)の『酒よ』(1988年)を聴きながら…なあ、お前…
https://www.youtube.com/watch?v=Sf9GWKajjl4


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人生ラスト10年

 健康オタクじゃあ、ないですね、ちっとも、ヤッホー君!
 「あるがままに」をモットーにここまで生きて来ました。
 ですので、「あるがままに」を壊す考え、行ない、企てに「やめてくれえ」と叫ぶ…っていうんでしょうか。
 大自然のなか、片隅にひっそりと生かされているそんなちっぽけな生き物のひとつです、かね。
 でも、上野原市、今回もおじゃまして良かったです。
 長寿か長者か分からねど、山ん中歩きながら、考えるきっかけを与えてくれたもん。
 ま、考えたっていかんせん、どうにもならないのはわかっているのですが、今日も「へえ〜、そうなんだ

 平均寿命

 厚生労働省が2013年7月31日に2010(平成22)年市区町村別生命表を発表しました。発表によると、平均寿命(0歳の平均余命)が最も長い市区町村は、女性が沖縄県北中城村で89.0年、男性が長野県松川村で82.22年でした
 2〜5位は
 女性が
  島根県吉賀町(88.4年)、
  北海道壮瞥町(88.4年)、
  熊本県菊陽町(88.3年)、
  福岡県太宰府市(88.3年)、
 男性は
  川崎市宮前区(82.1年)、
  横浜市都筑区(82.1年)、
  長野県塩尻市(82.0年)、
  沖縄県南風原町(81.9年)でした(小数点第2位を四捨五入し、年齢が同じでも同列順位ではありません)。
 この「市区町村別生命表」は5年に1回公表され、女性の沖縄県北中城村は2回連続でトップ、長野県松川村は今回が3回目です。
 平均寿命の分布を市区町村別に見ると、男性は79.5年以上80.0年未満、女性では86.0年以上86.5年未満にもっとも多く分布しています。
 平均寿命がもっとも低かったのは男性で、大阪府大阪市西成区が72.4年、女性でもやはり大阪府大阪市西成区で83.8年でした。続いて短いのは、
 女性が
  和歌山県御坊市84.0歳、
  青森県階上町84.2歳、
  大阪市東淀川区84.3歳、
  青森県大間町84.4歳でした。そして、
 男性が
  高知県土佐清水市75.6歳、
  大阪市浪速区75.9歳、
  青森市76.5歳、
  青森県東通村76.5歳の順でした。
 平均寿命の順位がもっとも高い市区町村ともっとも低い市区町村との差は、男性9.8年、女性5.2年となっています。
 信濃毎日新聞の記事によると、長野県松川村が男性で長寿全国1位になったことについて、平林明人村長は、
「素直にうれしい。農業などの仕事を持って生活している高齢者が多いためではないでしょうか」とその理由を説明しています。
 一方で「高齢者福祉を支えるボランティアも高齢化が進んでいます」という問題もあり、「若い人材の確保も課題として取り組んでいきたい」と、将来の展望を語っています。


日本健康倶楽部
女性・沖縄県北中城村、男性・長野県松川村が平均寿命日本一
http://www.kenkou-club.or.jp/kenko_genki_sh37.jsp

 健康寿命

 2010(平成22)年の健康寿命(厚生労働省が初めて算出)において、静岡県の女性は全国1位(75.32歳)で、男性は全国2位(71.68歳)でした。
 そして、本県が独自に算出した男女計では、全国1位(73.53歳)となりました。

静岡県公式サイト
健康寿命日本一
https://www.pref.shizuoka.jp/kousei/ko-430/kenzou/kenkoujyumyou.html

● 増える要介護者
 2000年度にスタートした公的介護保険では、要介護認定者数が年々増えています。とくに75歳以上の要介護(要支援)者の伸びが大きく、この11年間で225万人増加し、約427万人に達しています。
 要介護(要支援)認定を受けた原因として最も多いのは、脳卒中などの脳血管疾患で、全体の2割を占めます。高い医療技術によって命を救われた後、障害などで介護生活を送るケースもあります。
 次に多い認知症は、加齢が最大のリスク要因といわれます。家族を見ても誰か分からない、場所や時間が認識できないといった見当識障害などが生じます。認知症は、画期的な治療方法が確立されていない、といわれています。
 具体的な介護期間を介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)で見ると、平均在所期間は約4年です。入所前の家庭や他の施設などで介護されていたことを合わせると、介護期間はさらに長いと想像されます。また、住み慣れた自宅へ戻れず、施設で最期を迎える人が6割超という実態もあります。
 1ヶ月に必要な介護費用の自己負担(1割)を3万円、介護期間が5年(60ヶ月)と仮定すると、介護保険の自己負担だけでも合計180万円ほどになります。

● 医療費もピーク
 人生ラスト十年は、医療とも無縁ではありません。
 生涯にかかる医療費は2300万円と推計され、その50%は70歳以降に費やします(2009年度)。
「健康寿命」を超えると、70歳代後半をピークに、医療費が多くかかっています。医療機関の窓口負担(自己負担)を1割として計算すると、70歳以降に合計116万円ほどの出費です。
 公的介護保険、医療保険それぞれに負担を抑える仕組みもあり、実際の自己負担はこれらよりも少額で済む可能性もあります。しかし、公的年金額が減少傾向にある中で負担が重荷になることも想像できます。

● 家族と共に模索
 健康を維持しながら長生きすることは、生活の質にもつながる重要な課題です。国も「健康日本21」で、「健康寿命」を延ばすための施策を掲げています。
 国にいわれるまでもなく、誰しも健康で長生きしたいものです。
 人生ラスト10年、いかに健康である期間を延ばすか?
 仮に、医療や介護が必要となっても、個人の尊厳を損ねず、本人はもちろん、本人を支える家族も含め、豊かな暮らしができるのか?
 まだ、明確な道は見えていません。


2012年9月2日付け東京新聞、編集・亀岡秀人
健康寿命と平均寿命、人生最後の10年 日常生活に支障も?
http://www.tokyo-np.co.jp/article/seikatuzukan/2012/CK2012090202000154.html



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2015年10月22日

きょうよう、きょういく

酒まんじゅうをこよなく愛した古守豊甫医師
 ところで、毎年、体験してきた梅鶯荘(ばいおうそう、注1)で食べる長寿食。
 一口ひとくち味をかみしめて食べる伝統食。
 長寿者たちが、笑顔の家族とともに食べる模様が目に浮かんでくる。
 今年も一緒に食べたヤング世代は満足してくれた。
 量もけっこうあったが完食。
 家族へのお土産は、酒まんじゅう。
 古守医師がこよなく愛した。
 古守医師は、ほんのり甘い酒まんじゅうが好物。
 取材でお会いするのは梅鶯荘。
 長寿食を食べながら話をお聞きしたが、食事の締めは大好きな酒まんじゅうだった。


『週刊がん』連載「長寿の郷(棡原地区)が語る」
編集長・山本武道、第6回目(2015年9月3日第450号)
長寿食を体験することができる民宿の梅鶯荘
http://www.gekkan-gan.co.jp/

 古守豊甫医師(1920年生まれ)って知ってました?

 1938(昭和13)年、甲府中学を卒業した私はその足で棡原小学校の代用教員として赴任、草深い山村で1年間つぶさに村人の風俗伝統、食習慣を観察した。
 のち医師となった私は1968(昭和43)年、東北大学近藤正二名誉教授とともに綱原を実地調査、その結果、日本有数の長寿村との折紙をつけられた。
 以来現在まで20余年間、各大学の協力のもと毎年夏、2泊3日の欄原地区住民の巡回健診を行って来た。
 1965(昭和40)年頃よりわれわれは村人のひとつの異常現象に気付いた。
 それは老人はみな元気なのに50歳前後の中年層の多くが健康を失っていることである。
 そこで岩手大学の鷹智テル教授と共に都留市の法務局を訪れ、その許可のもと昭和元年より60年間の棡原住民の死亡診断書3000枚をチェックした。
 その結果、毎20年、3本の年齢別死亡曲線を画いてみると、最近の20年間は50歳前後の中年層の死亡率の急上昇を確認した。
 1954(昭和29)年、陸の孤島棡原に村人待望のバスが開通するや村人は農を捨て、競って東京方面に出稼ぎに行き、日々得た現金収入で近代食品を求めて帰った。
 従って伝統食品はその影を没し、食卓は近代食品で完全に占領された。
 このため1945(昭和20)年からは脳卒中死が激増、1955(昭和30)年からは心臓死が、1965(昭和40)年からはガンの死亡が激増するに至った。
 鷹智らはここ十数年来、棡原住民の戦前と戦後の食生活の変化を比較した。
 その結果、戦後増加したのは動物性蛋白、脂肪とコレステロールの3つでビタミン、ミネラル、植物繊維とその他の栄養素は半減した。
 食の変化がいかに疾病構造に悪影響を与えるかが判明した。
 いま医学は「退歩翻身」の時に来ている。


1992(平成4年2月7日)東京医科大学臨床栄養研究会特別講演
長寿村の短命化の現況、棡原村50年間の観察
古守病院院長・古守豊甫先生
http://www.toidaishi050030524-01.pdf

 そしてヤッホー君のこのブログ、2012年3月27日付け日記「健康長寿」をご参照ください。

 山梨県上野原市にある棡原地区は、日本の長寿村として有名ですが、近頃あまり話題になりませんね。
 話題と云えば、「カスピ海ヨーグルト」も消えましたね。
 これは世界の長寿国として有名なカスピ海に面し、5000メートル級の山々に囲まれたコーカサス地方の人びとが、毎日飲んでいる長寿食と云うことでブームになったヨーグルトでした。
 コーカサス地方の人々の健康を支えてきた発酵食「ケフィア」は、カスピ海ヨーグルトとは若干違い、飲み物と云うより食べ物のようですが、「ケフィア」より「カスピ海ヨーグルト」の方がイメージ的に日本人受けしてのブームだったのでしょう。。。
 肉食など欧米化した食生活や自動車や農機具の普及、核家族化の進行などは長寿村・棡原にも及び、平均的な寿命になり近頃あまり話題にならなくなったのでしょう。
「健康年齢」とか「健康寿命」などという新たな概念も強調されるご時世、林先生ご指摘の「老人に使命感も抱かせる精神的要因」は、
 上野千鶴子センセイ云う所の「きょうよう(今日用がある)」「きょういく(今日行く所がある)」と重なります(注2)から、何時の時代も
「気持ちだよ 気持ちだよ」の吉田拓郎だ(注3)ということでしょう。


2015年9月2日水曜日、杉浦醫院四方山話
440話「長寿村・棡原(ゆずりはら)」
http://sugiura-iin.blogspot.jp/2015/09/440.html

 今日は春日一郎の命日。
 1924年10月9日-1991年10月22日。福島県河沼郡会津坂下町(あいづばんげまち)塔寺出身。
 「山の吊橋」を聴いてヤッホー君、行ってきま〜す。
 きょうよう、きょうよう、きょういく、きょういく…
 だってぇ〜、反<反知性主義>でホレ、ユーラユラ…

東北の被災地へ届け「がんばれ!メロディー」 春日八郎:山の吊橋
https://www.youtube.com/watch?v=edj_z4r4MHY

(注1)
梅鶯荘(上野原市棡原13228 Tel 0554-67-2010)
http://kobaz3.web.fc2.com/biohso/index.html
2014年11月18日放送の「上野原市の魅力再発見!」(YBS山梨放送)でも紹介されております!

(注2)
 東大名誉教授・上野千鶴子先生(1948年生まれ、67歳)と医師・村崎芙蓉子先生(1935年生まれ、80歳)の『婦人公論』2015年9月8日号での対談から。
 これからの、豊かな老後の暮らしのために大事なのは、
 “きょうよう” 今日、用がある
 “きょういく” 今日、行くところがある
http://www.fujinkoron.jp/number/003117.html

(注3)
「気持ちだよ」吉田拓郎、聴いてみましょう:
https://www.youtube.com/watch?v=FR96hMQUwzk



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2015年10月21日

酒まんじゅう

 山歩クラブ、10月18日日曜日の上野原ハイキング。
 下山して向かったのが名物「酒まんじゅう」の永井酒饅頭店!

酒まんじゅう.jpg

 この永井酒饅頭店では明治時代から変わらない味。
 そもそも「酒まんじゅう」は、清酒が入っているのではなく、炊いたお米と麹から作った酒種を小麦粉に混ぜ、発酵させた生地を使っているんです。
 そのため、蒸かすと甘酒のようなお酒の香りがしてきます。
 永井酒饅頭店では、明治時代から現在まで、酒まんじゅうの素になる酒種は毎日手を入れ、生かし続けてきたそうです。
 そんな酒種を使って、前日から種づくり。炊いたご飯と米麹を桶へ入れて発酵させます。
 そして、当日は朝6時半から作業開始。作り続けて午後1時頃に1日分のまんじゅうを作り終えます。

永井酒饅頭店
山梨県上野原市上野原1596
Tel 0554-63-0109


2015年1月19日15:45■やまなし音遺産
第42回 “酒まんじゅう”
http://www.ybs.jp/radio/kikkus/2015/01/19154525.html

 7年前に休業した、上野原市の名物「酒まんじゅう」の老舗「永井酒饅頭まんじゅう店」(永井利夫代表)が、営業を再開した。
 先代の後を引き継ぎ切り盛りしていた永井代表の妻美穂子さん(61)が2006年に足を痛めて以来、店を休んでいたが、永井代表が今年2013年3月に教員を定年退職したことを機に4代目に。
「100年以上の伝統の味を守りたい」と意欲を見せている。

 永井酒饅頭店は明治中期に創業し、130年ほどの歴史があるという。
 2000年に3代目の茂雄さんが亡くなり、美穂子さんが営業を続け、休日には永井代表もあんこ詰めなどの作業を手伝っていた。
 7年前に休業してからも、永井代表は相模原市で教員として働きながら、まんじゅうの生地に使う酒種を残すため、7年間、米と麹こうじを合わせる作業を続けてきたという。
 休業を知らない客が店を訪れたり、電話で問い合わせてきたりし「再開への思いが強まった」(永井代表)という。
 定年退職後、店の特徴だった生地の柔らかい食感を再現しようと試作を重ね、先代やかつての従業員などとともに2013年9月2日、再び店を開けた。あんまんやみそまんなど定番のほか、生地をしっかり味わってもらいたいとあんが入っていない新商品「あんなし」も新たに販売。7種類の酒まんじゅうを1日当たり計500個手作りしている。

 上野原市出身の祖母の墓に酒まんじゅうを供えたいと訪れた千葉県船橋市の中村信之さん(45)は「祖母は自宅療養中、酒まんじゅうが食べたいと話していた。営業を再開してくれて祖母も喜ぶ」と両手いっぱいに購入していた。
 永井代表は「先代の時代のことなどを来店客と話せることがうれしい。100年以上の伝統の味をこれからも守っていきたい」と話していた。


2013年11月13日付け山梨日日新聞
老舗の酒まんじゅう復活 上野原で130年「伝統の味守りたい」
http://www.47news.jp/smp/localnews/hotnews/2013/11/post_20131113095011.php

 かつて旧上野原町は、甲斐絹の里として江戸と甲州の商人の出入りでにぎわいました。甲州街道沿いに市がたち、近隣の農家の人たちが織り上げた甲斐絹が、消費都市として名を成し始めた江戸で盛んに取引されていました。
 「酒まんじゅう」は、この市に集まった商人に愛され、味の良さはこの人達によって広く宣伝されました。数件ある「酒まんじゅう」屋は、先を争って買う客で長い列が出来たといいます。
 明治、大正、昭和、平成と時が流れましたが、素朴な味はいつの時代にも好まれ、上野原名物として人気を博しています。
 麹から作る甘酒には、長寿の里「棡原(ゆずりはら)」を源流とする水を汲み、地元で収穫した小麦粉とあずきを原料にしていますが、なによりも上野原の清冽な気候風土が「酒まんじゅう」に適しているのだと思われます。
 最近では、長寿食としても見直され、現在市内には12軒のまんじゅう屋が営業しております。


上野原市公式サイト、「酒まんじゅう」
https://www.city.uenohara.yamanashi.jp/shokokanko/manju.html



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山形新幹線にはねられ死亡

 政権交代も出来ず、政権批判も許されず(宗主国で1%を牛耳ってる司令塔の指示があれば、そりゃあ、ばんばんできまっせ)、
 カミさん、山の神やお上の意を汲んで動く(*)この国は「一億総火の玉」が尊ばれる「一元主義」、
 だから「多様性」「多元主義」の土壌はないんじゃないかな、とヤッホー君、思うとるんですって。
 ヤッホー君もこのブログ、最近の日記でさかんに嘆いていました:

 ☆ 2015年10月8日付け日記「7 missing Orang Asli schoolchildren」
 ☆ 2015年10月5日「コカ・コーラ」
 ☆ 2014年10月17日「多様性に向かって」「多様性に背をむけて」

 「一元主義」ってこれっきゃない、とか、この道しかない、とか、信ずるものは救われる、とかチョウ過激派。
 だからこそ、なおさらのこと「それって違うんじゃない」と口にだして言っていかないといけないんだと思う。
 「金太郎飴」ってヘドが出そう、「多様性」「多元主義」「共生」「適当 moderation」で歩んでいかないと。

 トシに関係なく、ムラの序列やかたまりのなかにおさまって黙って従っていること、が肝要なようで、
 批判精神? 批判どころか、はみだそうとしなくってもいったん目をつけられるとたいへんなことが。
 でもぉ〜、こんなムラ社会は息苦しくないですかぁ〜、おぉ嫌だ、やだ、背筋が凍りつきますうぅ〜:

 昨年2014年1月、天童一中1年の女子生徒=当時(12)=がいじめを苦に自殺した問題は、第三者調査委員会がまとめた調査報告書で、いじめの詳細な実態が明らかになった。報告書はクラスと部活動で続いた悪口や嫌がらせ、仲間外れを「集団いじめ」と断定し、傍観した多くの生徒、教職員らの責任も問うた。集団いじめはなぜ起きたのか。女子生徒のSOSをなぜ見落としたのか。134ページに及ぶ報告書から検証する。

 いじめが自殺の主要な原因と認定した報告書は、女子生徒を取り巻く人間関係をつぶさに描き出した。
 クラスには遠慮なく大声でしゃべり、誰彼構わず悪口を言う女子グループがあり、いじめを主導した加害生徒らが中心にいた。所属したソフトボール部でも、加害生徒ら重複するメンバーがグループを形成。クラスと部活動で影響力を持った。

泣きながら訴え
 女子生徒はおとなしく、1人で小説を読むことも多かったが、話せば面白い印象を持たれていた。個性の強いグループには気後れし、嫌悪感もあった。グループはそんな態度が「異質」に思え「気に食わず」「いら立ち」を覚えたとみる。
 2013年5月下旬、女子生徒への悪口が始まった。「いじめは部活動とクラスで複数の生徒により行われ、身体的攻撃は認められない悪口や陰口、集団からの排斥といった集団いじめ」があったと判断した。
 女子生徒は表情を変えることなく、聞いていない、気にしていない雰囲気を漂わせた。だが、7月上旬、「私何か言われてる?」とクラスメートに尋ね、普段は感情をあらわにしないが、悪口への不満を漏らした。
 部活動では、ペアを組む多くの練習でいつも1人余る存在にされ、相手を探し回る姿を嘲笑された。捕球できないボールをわざと投げられる光景も見られた。
 2学期になり、女子生徒は誰も名乗りを上げないクラスの役職に立候補し、積極的な様子を見せていた。
 ところが、9月10日前後にあった部活動のミーティングをきっかけに、いじめはエスカレートしていく。
 顧問は「陰口でなく、みんなの前で」言うよう指導し、女子生徒は「仲間外れをしないでください」と泣きながら訴えた。だが、加害生徒の悪口や問題行動を非難する声が上がり、加害生徒は逆恨みの感情を持って行動を激しくした。

「校舎に来るな」
 11月になると、悪口は言葉や黒板への書き込みを含め「常態化」した。他の生徒には無視や、仲間外れにするよう働き掛け、話しているだけで干渉した。
 女子生徒は授業中までノートに絵や小説を書くことに没頭するようになり、教師に注意されている。友人としゃべらなくなり、「見て分かるくらいの孤立感」があった。悪口は、冬休み前最後の練習まで続いた。
 女子生徒は3学期が始まる14年1月7日、山形新幹線にはねられ自殺した。新築した校舎を初めて使う日だった。遺族側は、新校舎に来ないよう言われたことが引き金になったとみる。
 報告書は「一生懸命やってみたが状況の改善につながらず、自分を押し殺して心を閉ざしたが、孤立しただけでいじめは収まらず、追い詰められ、自殺を選んだ」と結論付けた。

天童いじめ自殺問題
 天童一中1年の女子生徒が3学期が始まる2014年1月7日午前8時ごろ、登校途中に山形新幹線にはねられ死亡した。自宅からは「陰湿な『イジメ』にあっていた」「ダレカ、タスけテよぅ」などと書かれたノートが見つかった。学校は1月15日、全校生徒約530人を対象にアンケートを実施した。13人が女子生徒へのいじめを直接見聞きし、100人以上がいじめに関して記述した。

報告書の提言
 心理的な嫌がらせなど暴力を伴わないいじめを過小評価してはならない。日常的な悪口や嫌がらせは被害生徒にとってダメージが大きく、深刻な事態を発生することを正しく認識した対応と措置を実践する必要がある。


2015年10月21日水曜日、河北新報山形総局・伊藤卓哉、長谷美龍蔵
<天童いじめ自殺>やまぬ悪口 孤立の果て
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201510/20151021_53003.html

(*)ほんの一例で、今朝の新聞からです。
 だからといってイマ、教授職を辞する先生は誰もいないようで…
 逆でしたかぁ〜、新時代にふさわしい新組織で、新しい役割にチャレンジするんだと意気ごんでらっしゃるようで…
 ガクモン?ケンキュウ?キョウイク?
 本来は、国家と学問のかかわりをめぐる大問題のはずが、バスから降りる乗客がいれば停まろうもののププ〜ッ、素通り。
 なにからなにまでイマ、素通りでっせ、そんだけ<反知性主義>に汚染されたようで、フクシマの汚染水のダダ洩れみたいで…

 文部科学省は6月、国立大に対し「教員養成系、人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に努める」と通知した。
 文科省は10月20日、全86の国立大が運営や改革方針をまとめた「中期目標・計画」の素案を公表した。文科省が廃止などを通知した人文社会科学系について、33大学・大学院が見直しを盛り込んだ。学部の新設や統合が目立ち、廃止はなかった。。。
■ 人文社会系学部の見直しを計画している大学
山形、茨城、宇都宮、群馬、千葉、東京外国語、横浜国立、新潟、富山、福井、三重、滋賀、神戸、和歌山、鳥取、島根、岡山、山口、徳島、愛媛、九州、熊本、大分、宮崎、鹿児島、琉球


2015年10月21日5時42分更新、朝日新聞デジタル、高浜行人
「文系」学部、26大学が見直しへ 国立大中期計画素案
http://digital.asahi.com/articles/ASHBN3T1MHBNUTIL01J.html?rm=446



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2015年10月20日

ソボちゃん

 ずうっとひきづってきた有吉佐和子の小説『紀ノ川』、読まれましたか?

 大学進学を控える文緒が新家を訪ね、母と不仲になった理由を尋ねたとき、浩策(真谷敬策の弟)は「生命力というもん知ってるか」と前置きし、次のように答えている。

お前(ま)はんのお母さんは、それやな。
云うてみれば紀ノ川や。
悠々と流れよって、見かけは静かで優しゅうて、色も青うて美しい。
やけど、水流に添う弱い川は全部自分に包含する気(きい)や。
そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れこむ気魄がある。
昔、紀ノ川は今の河口よりずっと北にある木ノ本あたりへ流れとったんやで。
それが南へ流れる勢いのいい川があって、紀ノ川はそこへ全力を注いだんで、流れそのものが方向(むき)を変えてしもうたんや。


 浩策は、花という「紀ノ川」が、敬策という「見込みのある強い川」に全力を注ぎ、自分とウメ(浩策の嫁)を「生命力のない弱い川」とみなして包含しようとしたことが理由だと言う。


仁愛大学(福井県越前市大手町3-1-1)研究紀要/人間学部篇 第13号(2014)
有吉佐和子「紀ノ川」における性的差異
仁愛大学人間学部コミュニケーション学科教授・大河晴美
http://crf.flib.u-fukui.ac.jp/dspace/bitstream/10461/15607/1/5

 ヤッホー君は、有吉佐和子のお嬢さん、有吉玉緒の本もむさぼり読んでいた秋日和です。
 ヤッホー君の印象と大分近い印象をお持ちなってるな、とブログに書き留められていた文章を発見しましたので、ここでご紹介:

 著者の有吉玉青は大流行作家だった有吉佐和子のお嬢さん。
 有吉佐和子が亡くなってもう30年がたつ。
 玉青さんは20歳、英国に短気語学留学中の突然の死であった。
 「ソボちゃん」とは佐和子を作家にした佐和子の母であり、玉青の祖母のこと。
 「ソボ」の「ソ」を粗品の粗だと思い違いで受け取り、自分の「ソボ」は粗末なひとではないと怒った幼い日から、「ソボちゃん」は彼女にとって「いちばん好きなひと」だった。

 和歌山の政治家の家に生まれた、大きな女性だった。
 その大きな女性がこれまた大きな男性と結婚をし、上海や東インド(インドネシア)に住み、佐和子を産み、佐和子の弟を産んだ。
 佐和子は当時飛ぶ鳥を落とす勢いの「呼び屋」と結婚し玉青をもうけるが、2年で離婚。
 ますます小説家として多忙になるなか、玉青は「ソボ」に育てられることになった。
 この本には、玉青と祖母、玉青と佐和子、佐和子と「ソボちゃん」の関係がよくわかるように描かれている。
 喜怒哀楽の激しかった佐和子だが、凛々しくて間違ったことを言わない、しない、「ソボ」を敬していたようだ。
 それは玉青も同じだった。

 これを読むとインドネシアに行きたくなる。
 ソボが住んだインドネシアを従姉と訪ねるのだが、彼女たちは必ずしも昔日の「ジャワ」を見たいわけではなくて、ただ「ソボちゃん」の住んだ街の風を感じたかったようだ。
 インドネシアは今、経済発展のさ中でいろんなものがどんどん新しくなりつつある。
 暑さと湿気が苦手な私には不向きなところだが、なにを食べても外れがなくて安いのっていいよね。
 かなり以前にインドネシア料理店「インドネシヤ・ラヤ」に何度か行ったことがあるだけで、ナシゴレンくらいしかインドネシア料理は知らないのだけど、あのスパイシーでほの甘い味は嫌いじゃなかった。
 でもジャカルタは「歩けない」ところらしい。街を散歩するひとはほとんどいなくて、移動にはタクシーかパジャイに乗る。
(歩いて道路を渡るのは大変コワイ。車やバイクやパジャイがビュンビュン走っていて、しかも歩道も信号もない)

 インドネシアはオランダの植民地だった。
 玉青が「ソボちゃん」のことを書こうと思ったのは、オランダに行ったときにインドネシア料理店で食事をし、店をでるときに「ダー」と挨拶されたことがきっかけだった。
 「ソボちゃん」も「ダー」と言っていたのを思い出したのだ。
 「ソボちゃん」の居た当時のインドネシアには日本人が7千人ほど住んでしたそうだ。
 しかし日中戦争が激しくなり、オランダと日本との関係も悪化、日本人の資産はオランダによって凍結され、日本領事観は在留日本人に帰国勧告を発令し、引揚げ船が出された。

 私の義母(夫の母)の父親はインドネシアでゴム園を経営していたそうだ。
 戦争が激しくなる頃帰国したと聞いたことがあるが、この勧告を受けてのことだろう。
 また私の友人のお父上はインドネシアの領事をしていて、やはり戦時中に日本に一時帰国しているときに病気になり亡くなったという。
 義祖父もその友人のお父上も同じような場所に住んでいたらしいので、もしかしたら知り合いだったかもしれない。

 玉青の最愛の「ソボちゃん」は佐和子の死の3年半後に、まるで死期を悟ったかのように、玉青の旅行を止めさせていた。
 玉青はそんなに強く旅行に反対するいつもと違う祖母を訝りながら、祖母の言うとおりにした。
 その日医師の往診を受けた直後からベッドから立ち上がることも起き上がることもできなくなったそうだ。
 身体もそうだが頭のほうも一気に壊れてしまった。
 それまでいつものように普通に生活していたというのに。
 数日後、祖母は亡くなった。
 佐和子の死後の残務整理をする玉青を見守り、自分の役目を終えたかのような別れだった。

 こんなことを言っては悪いのだけれど、これまで有吉玉青の書くものは、小説にせよエッセイにせよどれもなにか喰い足らなく、もどかしかったのだが、これは大好きなひとのことを伝えたい気持ちが強くあるためか、それとも彼女が50代になりこれまでとは違う感じになったのか、彼女のコアに届けた気がしました。


2014年9月26日、ハッチのライブラリーU
 読むスピードも読解読力も衰えがちなこのごろ、でも、読むことはいつも好き。
 本があって猫がいれば、それで幸せ。
 そんな八ヶ岳からの読書日記です。
http://kitanomori-hacci.seesaa.net/article/406043717.html

 ね、インドネシア!
 ヤッホー君、ムカシ、ムカシ、ジャカルタからバンドンまで列車の旅をしたことがありました。
 マレーシアに劣らず、とっても良い国です。
 ですので大統領、ここはなんとかひとつ Haze(*)をおさめてください!
 では、ここで言葉の勉強を!

インドネシア語講座 jalannavi.com cls-indonesia
https://www.youtube.com/watch?v=2UVm_312jTc

日本に訪れたインドネシアからの観光客 Indonesian tour group in Japan.
https://www.youtube.com/watch?v=hQmma8cEPzY

(*)子どもたちがかわいそう…

PUTRAJAYA: The Education Ministry has ordered 3,029 schools in several states to be close tomorrow due to the worsening haze today...

New Straits Times, Updated: 19 October 2015 at 4:47 PM
Schools to remain closed tomorrow in haze-hit areas
By Azura Abas
Read more: http://www.nst.com.my/news/2015/10/schools-remain-closed-tomorrow-haze-hit-areas


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ジャスティン・トルドー

 速報

 ないものねだりなの?

 どうして戦争とか武力とか一億総火の玉とか戦車や軍艦に乗るのが大好き、しかし誰がつくったかフリガナ付き答案用紙で答弁し、国連では2倍3倍にも拡大した英文原稿を棒読みするだけ、海外では質問にまともに答えられず、非常に評判が悪く、その憂さ晴らしか国会でヤジだけは一丁前にとばす、そんなうそつきトップをなぜ、いつまでもゆるしておくのでしょうか。
 交代しようって、なぜ誰も手をあげないのかな、
 アメ公のごきげんとりばっかりじゃ、もう嫌だ、70年も経ってんだからそろそろ独立しようよ、って
 なぜ誰も言い出せないの?とヤッホー君、朝からたいへん。
 
 どうしてこの国の人びとは、カネとか札束とかに踊らされるようになったの?
 どうしてこの国の人びとは、よその国の人を殺したり、自分が殺されたり、赤い血のしたたりを求めるようになったの?
 どうして、戦車や戦艦に乗って「日本の安全を守る先頭に立つ」なんて大見得切って、そういうのに限って、武器売って儲けたあがりで銭湯にいくだけ、戦闘に立つのは若い人、なんてムカシに戻らなきゃなんないの?
 ムカシ、ただで海外旅行できるよ、飯も腹いっぱい食べられるって、大本営からだまされ「英霊」になった若い人、いっぱいいたけど、
 そんなふうに悲正規よりましだからって若い人を軍隊に送り込むんだろうか、
 そんなふうに若い人は闘うんだから、年寄りは早く消えた方がいいとか、GDP1.5%の農業は競争力無いのだから退場!とか、この国も破れ、美しい田園風景も荒れ地に化けるんだろうか、
 いったいヤッホー君の許可もなく、いつからこうなったの?!

 きっとカナダの選挙があたまにあるのかな、自分の意見を堂々と主張できる若い人がいて、1%じゃないよね、TPPじゃないよね、この国の未来は自分も含めてあなたがた皆んなのものだよねって情熱的に口にだせるって、ジユウとミンシュシュギってやっぱり白人の考え?

 今日あたり、あたらしいカナダのトップ誕生とニュースが飛び込むはず。
 この国もチカラ合わせて変えましょうよ

 自由党と訳すと、かたくるしくなって、偉そうにまたウエから教えてやるとばかりに注釈がつきそうですが、その投手、ジャスティン・トルドー(Justin Trudeau、1971年12月25日生まれ)の演説に耳を傾けてみませんか。

We are dreamers, innovators, builders. We know that in Canada, better is always possible. And we deserve a government that knows that too.
JUSTIN TRUDEAU


https://www.liberal.ca/

 え〜、カナダの最近の動きについて、アメリカ・ニューヨークタイムズで予習しておきましょうか:

TORONTO − Stephen Harper did not get to be prime minister of Canada by persuading most of the country’s voters to put him in office, and that is not how he intends to keep the job in the general elections on Monday.

Thanks to a splintered opposition, Mr. Harper and his Conservative Party have prevailed in three straight elections and held power for nine years without ever winning more than 40 percent of the vote.

“A national election is not a popularity contest,” Mr. Harper said in August, when he moved to dissolve Parliament.


The New York Times, Published: OCT. 17, 2015
In Unpredictable Canadian Elections, Plurality Is More Important Than Popularity
By JIM DWYER
http://www.nytimes.com/2015/10/18/world/americas/in-unpredictable-canadian-elections-plurality-is-more-important-than-popularity.html

 そしていま英国紙ガーディアンは実況中継で記事を載せています。
 これもお見逃しなく:

The Guardian, Published: Tuesday 20 October 2015 00.02 BST
Canada election: Harper and Trudeau wait as final votes are cast – live
By Alan Yuhas and Lauren Gambino in New York with John Barber in Toronto, Jessica Murphy in Montreal and Nicky Woolf in Calgary
http://www.theguardian.com/world/live/2015/oct/19/canada-election-justin-trudeau-stephen-harper#block-5625442ae4b0c066531acd80




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2015年10月19日

原発は金になる

 山から下りて山の残寒を書き記したいところ、も少しお待ちください。
 「原発銀座」でもうひとつ付け加えておかねば、とヤッホー君、記憶にしまわれた記録をイマ、とり出そうとしています。だって記録装置は、メルトダウン寸前なんだもん。

 まずはやはり高女で国語の先生によってジユウとミンシュシュギへのを目が開いた『紀ノ川』の文緒の後日談から:

 政治家の家に生まれたことによるのでしょうか。
 祖母の父・木本主一郎(1875−1939、小説『紀ノ川』真谷敬策のモデル)は、衆議院に3回当選しています。
 ニュースで政治家の収賄事件が報道されると、祖母はムカシの政治家は、自分の持ち物を売って政治資金を作ったものやとあきれていました。。。
 国内外で大事件が起きた日は、祖母の講釈がとまりませんでした。
 そんな夜は、母は家にいても自分の部屋のこもり、夕食の時間になっても「イマ行くと、おばあちゃまがたいへんだから」と、なかなか出てこなかったものです。
 まだ小さいとき、毎日毎日、さまざまな事件が新聞やテレビを賑わす中、何も事件がなかったらどうなるのかと尋ねたことがあります。
 すると祖母は、晴れやかに言いました。
そのときは、アナウンサーが、今日は何もない、よい一日でした!と言うでしょう
 そんな日が、いつかほんとうに来ればよいのに。
 日々のニュースに心を痛めるたびに、祖母の言葉を思い出します。


有吉玉青「鬼を喰う」『ソボちゃん』(前掲書)所収、74-75頁

 あきれてしまうイマのコクミンの指導者!がテーマだとすれば、今朝の日記「原発銀座からの問い」の続きから。
 1983年に石川県羽咋郡志賀町で開かれた「原発講演会」で放言をした御仁のドラ息子が、何してもイマや大臣に上りつめたって話し。
 これってやっぱり<反知性主義>?

 父親の高木孝一元敦賀市長が「50年後、100年後に生まれた子どもが片輪になるかもしれない」が「原発は金になる」と言い放った約30年前、息子は女性宅に侵入して下着を盗んでいた!
■ 「パンツ泥棒」スキャンダルに狼狽する高木毅(1956年生まれ)新復興大臣に被災地復興の重責が担えるのか!?
 「高木といえばパンツ」――
 「下着ドロボーが復興大臣」――
 2015年10月15日は、朝からこんな言葉がツイッター上で賑わい始めた。
 『週刊新潮』や『週刊文春』が一斉に報じた高木毅・新復興大臣(59)の「下着ドロボー」事件だ。


2015/10/16 IWJ Independent Web Journal
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/270810

 ぜひお読みくださいね「原発銀座」の詳細記事です。

「原発事故はコントロールされた」と早々と世界に宣言した安部首相こそ偽装首相である(注)。
 そして安倍首相の偽装発言は原発事故に関するものだけではない。
 内政・外交のすべての発言がウソだらけだ。
 国会答弁までウソだ。
 偽装首相の下で多くの代表企業の偽装が次々と発覚する日本。。。

 ここまでなめられて、反発する気骨ある裁判官が出て来ないものだろうか。
 あの砂川裁判で「在日米軍は違憲である」と断じた東京地裁の裁判長のような「平成の伊達秋雄(1909-1994)」は出て来ないのか。
 そう思っていたら、きょう10月19日の朝日新聞が一面トップで大スクープを飛ばした。
 仲井真前知事が埋め立て工事を承認する際の条件となっていた環境監視委員会の委員らが、すべて工事請負業者から寄付・報酬を貰っていたというのだ。
 それが事実なら、仲井真弘多(なかいま ひろかず、1939年生まれ)知事の埋め立て承認は瑕疵があったことになる。
 今後の法廷闘争に影響を与えざるを得ない。
 この朝日新聞の大スクープは、翁長雄志(おなが たけし、1950年生まれ)知事に対するこれ以上ない強力な援護射撃だ。

2015年10月19日新党憲法9条「天木直人のブログ」
http://new-party-9.net/

 カネにまみれた連中が、伝統と気品のある美しい日本を叫ぶ、ちゃんちゃらおかしくはないのかな、いったいどうなってしまったんだろうと、ヤッホー君、心配なのです。

【落ちていく】
 森山裕(1945年生まれ)農水相は、自身が代表を務める自民党鹿児島県第5選挙区支部が、港湾工事をめぐる談合で県の指名停止処分を受けた複数企業から計698万円の献金を受けていた。
 通常、暴力団関連が指名停止処分を受けるが、厳格な調査が必要です。
 アベ周辺はひどいのばかり。
 極右に二世三世のボンボン。
 下から上がってくるのは滅茶苦茶。

 下着泥棒疑惑の高木毅復興相に続いて、森山裕農水相が暴力団企業からの献金疑惑が起きている。
 税金を食い物にするこんなブラックな人物に、農家を守るTPP対策をやられてはたまらない。
 前の内閣も、トンネル政治団体で献金集めの下村博文(1954年生まれ)文科相が監視カメラ付きSTAP細胞再実験で理研改革を葬り、新国立競技場で予算を膨らませ、SMバーの宮沢洋一(1950年生まれ)経産相が原発再稼働し、違法献金を亡妻に罪をきせる望月義夫(1947年生まれ)環境相が中間貯蔵施設、放射性汚染物質の最終処分場を強行。

 落ちていく…

 肝心の安倍肝三は、特定秘密保護法、安保法で戦争できる国作りに邁進。
 アベは、今日、軍国少年よろしく海上自衛隊のヘリで移動し、護衛艦という名の海自空母「いずも」と原子力空母のロナルドリーガンに乗船してはしゃぐらしい。

2015年10月19日慶應義塾大学経済学部教授・金子勝
https://twitter.com/masaru_kaneko

(注) 文章も写真も動画もすべて必読、必見です:

A stunning new photo project offers unprecedented insight into the wild and desolate exclusion zone surrounding the Fukushima nuclear power plant - where tonnes of contaminated soil lie untouched and overgrown forest is engulfing hundreds of abandoned vehicles and homes.

The 12.5-mile exclusion zone around the nuclear plant now resembles post-apocalyptic scenes from The Walking Dead after it was instantly abandoned following the 2011 nuclear disaster.

People deserted the area after warnings of dangerous levels of radioactivity, leaving cars, classrooms and libraries to be swallowed by the overgrown wilderness in stark scenes reminiscent of those seen in the show, in which entire towns have been left in stasis after zombies overran the earth.

MailOnline, Updated: 19:24 GMT, 7 October 2015
By Corey Charlton
Read more: http://www.dailymail.co.uk/news/article-3263714/Destroyed-man-reclaimed-nature-Amazing-images-reveal-exclusion-zone-Fukushima-abandoned-overgrown-wilderness.html



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原発銀座からの問い

 福井県における原子力発電所(以下、原発)建設の話は、1961(昭和36)年にさかのぼる。
 茨城県東海村に一号炉を完成させた日本原子力発電会社は、二号炉の建設を西日本地域に計画していた。
 福井市(旧坂井郡川西町)は三里浜に誘致の運動をするも、地盤調査の結果、硬い基盤が深すぎる
ことが判明し、見送られた。
 かわって、1962(昭和37)年、敦賀市に、県・市を介して建設の話が持ち込まれた。
 市や地元は、孤島同様の同地区の地域開発に大きな効果があるとして、原電側の買収に応じた。
 1966(昭和41)年、国の正式な許可がおり、建設が始まった。
 若狭湾一帯における原発集中化のスタートである。

 やや遅れて、関西電力(以下、関電)が同年暮れに三方郡美浜町に一号炉、続いて大飯郡高浜町に、そして同社は大飯町大島半島の先端に日本で最大の117 万キロワットのものを計画した。
 若狭湾一帯は、硬い地盤が広く広がり、大量の冷却水が海から取りやすく、需要地の関西に近い、そして放射性物質の危険性を考えた際に必要である膨大な空き地が確保しやすい…というのが主な理由であった。
 経済成長が進展し、国内で画一でない成長が見られ、都会と過疎地の格差が顕著になってきた時代のことである。
 過疎の町と企業の思いは一致した。
 以上が、福井県嶺南地方に原発が集中するようになった流れの概要である…


 早稲田大学社会人間系演習13 最終レポート
 第二文学部 社会人間系専修4年 森本いずみ
『原発銀座からの問い』
ー原発関連施設をめぐる地域変動と新たな課題に焦点をあててー
http://www.waseda.jp/sem-muranolt01/UE/RP-morimoto200401.pdf

 原発銀座と呼ばれる福井県のこの辺り、しかし今年の春、関西電力が年内の再稼働を計画している高浜原発(福井県高浜町)について、福井地裁は運転差し止めの仮処分を決定する司法判断をくだしました。

 しかし、この国は法治国家から放置国家へと移行しつつあります。
 ウエは憲法だって解釈でいいように介錯し直し、やりたい放題、飲み放題ですので、都合のいいときしか司法判断を餅だしませんし、金目だろ、の一言ですまし、下々はウエからカネが雨のようにふってくれば、は、何枚ダァ〜仏、イマが潤えば、ココが良くなれば、そして自分とこが贅沢できれば司法は四方丸く収まる、それでよしだもん:

 福井県高浜町の野瀬豊町長は8日、福井地裁で運転差し止め仮処分の異議審が11月まで継続となった関西電力高浜3、4号機の再稼働の同意判断について、「司法は別にして11、12月に判断する」と述べ、司法の結論にかかわらず年内に判断すると明言した。

2015年10月9日12:08更新、フクナワ
高浜町長、司法と別に年内判断明言 高浜原発11月再稼働困難受け
http://fukunawa.com/fukui/4606.html

 関西電力が年内の再稼働を計画している高浜原発(福井県高浜町)について、全国で唯一、府県を越えた原発5キロ圏がある京都府舞鶴市は15日、同原発の安全対策についての住民説明会を11月2日にも開くことを明らかにした。。。
 住民説明会をめぐっては、多々見良三市長が同原発の再稼働を容認する条件の一つとして、国による説明会の開催を挙げていた。同原発は福井地裁が運転差し止めの仮処分を決定、関電が申し出た異議審が続いており、再稼働は不透明になっている。


2015年10月16日8時40分更新、京都新聞
高浜再稼働、京都・舞鶴で住民説明へ 県境越えた5キロ圏
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20151016000024

 福井の県知事さんは、といいいますと、前掲フクナワによりますと:

 再稼働の同意手続きに関して福井県の西川一誠知事は、仮処分の異議審の行方とは「別の世界のこと」とし、規制委の審査の進み具合や高浜町長の意向、福井県議会の議論を踏まえ、判断する考えを示している。

 いえね、山からおりてきたヤッホー君、有吉佐和子のインドネシア体験にどうしてもこだわっていたんですが、福井県知事さまがこんなことをご指摘なさっておられます:

 作家の有吉佐和子(1931―1984)は、53歳の若さで急逝した。
 大佛次郎と大学で同窓であった彼女の父も53歳の時に亡くなったということである。
 父の銀行勤務の関係で10歳をやや超える年齢まで外国に暮らして、日本のことを知らず、インドネシアでの生活だけが子供としての記憶だったらしい。
 戦前の教育を蘭領インドネシアで受けたことから、帝国日本が、立派な強い国だと信じて誇りに思っていたが、いざ帰国してみると、住宅は大理石で作られておらず余りにみすぼらしく、水洗さえもない。まるでインドネシアの下層民なみの生活水準ではないかと、子供ながらにがっかりしたと語っている。
 インドネシアの日本人学校で学んでいたころ、道路を歩く子どもたちを描いた絵が上半身しかないのを、日本からの転校生にどうしてなのかと尋ねられたということだ。
 インドネシアの河は泥濁りであり、河遊びを道路を歩いている絵に誤解されたわけである。
 日本の美しい川を一度も見たことがなかったのである。
 祖国に戻って日本のよさを最も感じたのは、川のたとえようもない澄んだ美しさ、歌舞伎のすばらしさ、この二点であったそうだ。
 「紀の川」を書いた動機は、日本の川の美しさをぜひとも小説に描きたかったことにあったようだ。


2012年2月7日(火)イッセイ エッセイ674号
孟姜女考(有吉佐和子のこと)
http://www.nishikawa-issei.com/essay674
 
 ヤッホー君、他人事ながら「川のたとえようもない澄んだ美しさ」ってさ、上流にダムをつくり、下流までに高くコンクリート護岸化して、さらに河口堰や砂防ダムで川を横断する構造物を公共工事で発注して、人間以外の、魚が住めなくする光景って、これがイマ風の現代的美だ、なんてことのないよう、海に浮かぶ発電所の原子炉の光景が新時代の風景美だ、なんてことのないよう願っています。
 だって官僚ご出身なんでしょ…
 祈っています。



 
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2015年10月18日

上野原市ハイキング

 こんばんは。
 ヤッホー君、今日は山歩クラブの山行日でした。

 お疲れさまでした。写真拝見しました。皆さん、相変わらず素敵な笑顔。良かったですね。
 私は、今日は孫のバレーボールの試合。朝から出掛け、いま家に戻った所で〜す。疲れました。
 早く休みたいと思っています。お互いにお疲れ様でした。
 

 写真?これです:

能岳.jpg

 秋晴れのなかの山行き、皆さん、イキイキとしていたのでは。
 人数もたくさん集まり、良かったです。
 私は有意義に過ごさねば、と家事に身辺整理に、カットに行くなど、昼寝の時間もなく忙しく過ごしてました。
 ゆっくりお休み下さい。


 天気も良く、楽しんで歩けた山行でした。

 どこ、歩いてきた?
 ヤッホー君から、ただいまメッセージが流れたようです:

 第二日曜日の10月11日、雨のため今日に順延していた中央線上野原駅からの山歩きでしたね。
 10人で里山を歩いてきました。10時10分、大風呂から歩きはじめ、1時間で能岳542.7m、さらに八重山530.7mを目指して歩をすすめ、展望台でお富士を見ながらお弁当を広げてきました。
 さらに遊歩道を通って、秋葉山、根本山と歩いて町に下り、酒まんじゅうを買って、バスに乗ったのが2時半。
 ヤッホー君、5ケ月振りの山行となりましたが、皆さんになんとかついていくことができ大、大、ダ〜イ満足!
 伊藤さんのリードがとても良く、久しぶりのカッシーや杉さんに、高畠ご夫妻ともお会いし、皆んなでわいわいがやがやできました。
 目を山路に転じるとアキノキリンソウ、リンドウ、体を起こすとまだちょっと早いのですが紅葉、その先にお富士さま、と気持ちがゆったり、肩の力が抜けのんびり、思わずゆっくりしてきます。
 日本の山は本当に美しい、きれい、光り輝いていて、いいですね!



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有吉玉青

 祖母が届いたばかりの書籍小包を開けていた。
 中身をとり出して、ポンと私の前に置く。
「これ、よく書けているから読みなさい」
 見れば「紀ノ川」である。
 祖母が母の作品をほめたのは初めて聞いた。
 それは母28の時の作品であった。

 話は映画で観て知っていた。
 四代の女性の話なのでしょう。おばあちゃまは文緒のモデルなのでしょう。知っています。全部もう知っていますよ。いい作品なのも、知っていますよ。
 ただ、読みたくない。もうたくさんだった。

 母に対する祖母の神格化が進む中、また劣等感、というより今度はまさに敗北感が、私の心に巣喰っていった。


有吉玉青(1963年生まれ、現在大阪芸術大学教授)「祖母のこと」『身がわり、母・有吉佐和子との日々』(新潮社、1980年)所収、191-192頁

 真谷文緒が有吉玉青のおばあちゃまとなって、登場してきました。
 輪廻転生。
 読書の秋、日がな一日、秋の日を浴びて有吉佐和子の原作「紀ノ川」に読みふけっていたのですが、いつのまにか、有吉佐和子のお嬢さん、有吉玉青にまであたっていました。
 そのわけなんですが、本当はヤッホー君、確かめたかったんですって。
 映画「紀ノ川」の中で文緒は、花によって蔵の中に禁錮されるのですが、その蔵のなかで大正初年の古い雑誌「女学世界」(博文館、明治34年1月〜大正14年6月、出版社:)かな、「婦女界」(同文館、明治43年3月〜昭和27年11月)かな、花の懸賞作文一等賞の「家のいのち」を熟読するシーンが出てくるのですが、なにせ映画は言葉が流れていってしまい、溜める力がかなり衰えてきたヤッホー君はあとで原作にあたろうとしたのです。
 原作にはずばり出てきませんでした。28歳の有吉佐和子には「家霊を荷なって旧家へ嫁入った女が、より一層家霊の奴婢(ぬひ)になってその灯明とも溶けようとする心を謳った」「稲舟ばかりの美文」を書くことの意味を見いだせず止したか、
 止したとすれば映画の脚本家、久板栄二郎(ひさいた えいじろう、1898-1976)の入れ込みだったわけで、あの文章朗読にヤッホー君、感嘆していたわけです。

 もうひとつ、映画では文緒が上海帰りとなっていますが、結婚した晴海英二は原作では確かに、

 最初の海外赴任地は上海支店であった。
 国家的には大正天皇崩御があり、真谷家ではヤスが逝ったあと、昭和と改元された年の晩春、晴海夫婦は神戸の埠頭を離れて東支那海を渡った。


 正金銀行勤めの晴海英二は、その後、ニューヨーク支店に5年、そして当時、蘭領印度ジャバの首都バタビヤ市(現ジャカルタ)に転任していました。
 原作では文緒は子、小学校3年生になった華子(花にとっては孫、玉青にとっては母)を連れ、6年間も暮らしたバタビヤからの里帰りだったのでした。

 北西の彼方に青磁色の帯が流れている。
 その手前までが市街で、その向こうから急に緑がふえて拡がる。
「ようごらんな、華ちゃん。あれが紀ノ川やして」
「まあ、川が、あんな色をしてる。綺麗ねえ」
 バタビヤ市中を流れる川の色は煉瓦色(れんがいろ)をしていた。
 華子は川の色の青さに新鮮な感動を覚えているようだった。


 ではここで紀ノ川を思い描いてみましょうか:

坂本冬美 - 紀ノ川:
https://www.youtube.com/watch?v=f35gUtlVZjs

 1931(昭和6)年生まれの有吉は出身こそ和歌山県和歌山市だが、その幼少期を主に当時オランダ領であったインドネシアのバタヴィア(現ジャカルタ)で過ごした、いわゆる「外地育ち」である。彼女は1939(昭和14)年の一時帰国を経て、1941(昭和16)年に帰国しているが、そのときの印象を次のように述懐している。

 外国にいると子供でも日本に憧れるわけですが、東京に帰ってきたときはほんとうに幻滅でした。
 そのころはまだ水洗式の便所などないし、洋館などもインドネシアのオランダ風の洋館に比べると格段に落ちるわけでね。
 とても日本が粗末に見えたわ。[…]
 それはもうたいへんなショックでしたよ。
 私が強烈に歌舞伎と和歌山県にひきつけられたのは、私にとって描いていた日本というのは、そこにしかなかったということです。

 この有吉の言葉からは、彼女の相当な和歌山県への執着がよく伝わってくる。有吉にとって和歌山とは幻想の故郷であり、幻想の日本そのものでもあったのだ。したがって、有吉佐和子の文学を考える上で、和歌山、こと主要な舞台となる紀北に関する表現は、十分に検討されなければならない。


丸山倫世・大阪市立大学文学研究科後期博士課程
有吉佐和子『紀ノ川』を「地方」と「都市」から読む、『紀ノ川』における紀北地方の位置
2015年「都市文化研究」Studies in Urban Cultures、Vol.17,2641頁
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2015/03/vol17_03article03.pdf

 では有吉佐和子の母、原作の小説では文緒ですが、帰国の際どんな印象を述懐したのでしょうか:

 花と果物に囲まれ、テニスと煙草とホットケーキに彩られた祖母の外国生活は、叔父の出産のための一時帰国をはさみ、4年で終わりを告げることになりました。
 日中戦争は拡大し、オランダとの関係もいっそう悪化していきます。
 オランダ領東インドからの資源獲得を望むも、1941(昭和16)年、日蘭会商は決裂。
 この年、一家は日本に戻ります。
 会商決裂後、オランダが日本人の資産を凍結すると、経済活動は難しくなり、日本の外務省は在留邦人に帰国勧告を出します。
 引き揚げ船も出されました。
 一家はどうやって、どんな思いで引き揚げてきたのでしょう。
 その年の12月8日、太平洋戦争がはじまったときには、まだ引き揚げは完了していませんでした。
 ジャワ全土に7000人いた邦人のうち2000人もが残っていたといいます。


有吉玉青「バタビアの夢」『ソボちゃん』(2014年、平凡社)所収、45-46頁

「ソボちゃん」とは、祖母の有吉秋津のこと。ふざけて、祖母をそう呼んでいたことがあるのです。私は、仕事で忙しい母・佐和子にかわって、この祖母に育てられました。おばあちゃん子です。
ソボちゃん、大好き。祖母は昔も今も、わが最愛の人です。でもそれは、祖母が私の祖母だったからだけではありません。
 祖母は、なんと言ってもかっこいい人でした。明治に生まれ、大正デモクラシーの洗礼を受けた「進歩的女性」。戦前は銀行員の祖父が赴任したインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)で暮らしたこともあり、その思い出を終生大事にしていました。
 バタビアには、小学生だった母も一緒に行っています。一家が暮らしたところを見てみたいと、一昨年、ジャカルタに行きました。自分が生まれるずっと前に、祖父母一家が暮らした街を歩く―それは不思議な感慨です。何かを感じたくても感じられないようなもどかしさ、でも実は感じていて、自分が虚実のあわいにいるような感覚と言えばいいでしょうか。
 ジャカルタの街を歩きながら、ふだん忘れていた思い出も次から次へとよみがえりました。友達と喧嘩して泣きながら帰ってきたら、「こんないい子はなにぬねの」と言って抱きしめてくれたこと、外国じこみだというテニスを教えてくれたこと、そして祖母と母のこと……。
 こんな話を聞いたことがあります。母は25歳でデビューすると、小説やエッセイ、さらに舞踊劇を書き、対談にテレビのクイズ番組にレギュラー出演と忙しく飛びまわりますが、そんな娘にあるとき祖母がぴしゃりと言いました。
「あなたが何を書いたというのか」
 このひと言に、母は乾坤一擲、『紀ノ川』に挑みます。和歌山の祖母の実家を舞台にした自伝的小説で、これは母の出世作となりました。
 祖母のこの言葉がなかったら、母は母になっていなかったでしょう。
 祖母は母親として、母を叱咤し激励し、大いなる愛情で包んでいました。さらにお客様の応対から資料の整理、税金の計算に至るまでを一手に引き受け、まるで秘書のように母を支えました。
 そして、母を送りました。1984年の夏、母は急性心不全で、祖母より先に逝ったのです。53歳でした。けれども祖母は涙も見せず、晩年を凛々しく生き抜きました。
 母は今年で没後30年です。この間に、私の母に対する見方もかわりました。というより、母が亡くなった当時、20歳だった私は、まだ何もわかっていませんでした。
 母が家事をしないで仕事ばかりしていることに批判的でしたが、家事はしないのではなく、できなかったのでしょう。そして母は祖母がいたから書けたのだと、今でははっきりとそう思います。
 私は誰よりもソボちゃんが好きでしたが、祖母は母のために私の面倒を見ていたのかもしれない、私より母の方が大事だったのかもしれないと、この本を書きながら、ちょっとだけ母を妬きました。


2014年7月号月刊『新刊展望』(日販)
有吉玉青「いちばん好きな人のこと」
http://www.honyaclub.com/shop/contents2/tenbo35_maegaki.aspx


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2015年10月17日

紀ノ川

 ヤッホー君のこのブログ、10月5日付け日記「コカ・コーラ」をご参照ください。
 「自転車に乗る女」…でてまいりましたよ。
 中村登『紀ノ川』(1966年、松竹、原作は有吉佐和子)!
 出演:東山千栄子 1890-1980、司葉子、岩下志麻、有川由紀、田村高廣 1928-2006、丹波哲郎 1922-2006 ほか)
 ヤッホー君は13日火曜日「神保町シアター」で鑑賞のひととき。
 うたた寝する間もないほどに、スクリーンに引きづり込まれ、禁錮されておりました、2時間46分。

よみがえる青春スター女優編
https://www.youtube.com/watch?v=3WQJohN2BlM

 ではなかったですね、<百花繚乱 昭和の映画女優たち>シリーズの一篇でした:

紀ノ川予告編
https://www.youtube.com/watch?v=YryiQoZJVUw

 「紀ノ川」は、有吉佐和子(1931−1984)の同名小説の映画化で、明治・大正・昭和と時代が移り変わる中、紀ノ川(奈良県中央部、和歌山県の北部を西に流れ、紀伊水道に注ぐ全長136kmの大河。奈良県内の部分を吉野川といい上流地帯は吉野杉の林業地として知られる)の流れのごとく、悠然と美しく生きた女性を描いた、文字通りの大河ドラマです。
 中村登監督は1913年東京下谷の生まれ、1981逝去)。幼い頃から浅草六区の映画館に出入りするほどの映画好きで、23歳で東京大学英文学科を卒業すると、松竹の助監督試験を受けて合格、大船撮影所では斉藤寅次郎や島津保次郎監督のもとで修行します。先輩の吉村公三郎、渋谷実、大庭秀雄らが監督に昇進、師匠であった斉藤寅次郎、島津保次郎が東宝に移り、エース小津安二郎も戦地に赴いたため、28歳で監督に昇進、文化記録映画「生活とリズム」と劇映画「結婚の理想」(41)でデビューします。
 戦後は文芸映画・女性映画の名手と言われるようになり、山本有三原作の「波」(52)、大佛次郎原作、岸恵子、佐田啓二の黄金コンビによる「旅路」(53)、木下惠介監督の「カルメン故郷に帰る」(51)に続く松竹カラー映画第2作となる三島由紀夫原作の「夏子の冒険」、岡本綺堂原作の時代劇「修善寺物語」、船橋聖一原作の「白い魔魚」(56)、永井荷風原作の「つゆのあとさき」(56)、井伏鱒二原作の「集金旅行」(57)、丹羽文雄原作の「日々の背信」(58)など、多彩な作品で安定した力を発揮します。さらに、50代に入ると川端康成原作の「古都」(63)で、岩下志麻が二役を演じた双生児を登場させるとともに、京都の季節ごとの美しさを見事に描き出し、有吉佐和子の大河小説を映画化した「紀ノ川」(66)で、堂々たる風格のある映画を誕生させたのです。
 9月に放送したBSの特別番組「家族映画・後半のみどころ」に出演された山田洋次監督は、「紀ノ川」は戦後の松竹大船撮影所を代表する家族映画で、当時、テレビの進出によって斜陽化が始まった日本映画界が巻き返しをはかって挑んだ大作だったこともあり、撮影所中が注目した作品だった、と語っていました。同じくゲストの岩下志麻さんも、中村登監督のことを「優しくて楽しい方だった」と懐かしそうに語っていましたが、「紀ノ川」に出演した当時、岩下さんは26歳の若さ、岩下さんの母親を演じた司葉子さんは当時33歳、東宝から松竹に招かれての出演でした。司さんは22歳の花嫁姿から晩年の72歳まで、明治・大正・昭和、50年にわたる女の一生を一人で演じて絶賛され、この年の映画賞を独占しています。
By 渡辺俊雄

 1972年、アナウンサーとしてNHK入局。10年以上「衛星映画劇場支配人」として映画に関連する番組の制作や出演、ナレーションを担当。


2011年12月26日(月)渡辺支配人のおしゃべりシネマ館
「紀ノ川」と「暖流」By
http://www.nhk.or.jp/bs-blog/200/104865.html

 「自転車に乗る女」が登場する場面を原作でちょっと読んでみましょう。

 
ええ気持やで。
 風切って道走ると世の中がえらい変わって見えるわ。
 新時代やあ。
 お父さんに云うて青年団に買わせたらん。


 誰が乗っているかと申しますと、真谷文緒で和歌山高等女学校の生徒。
 卒業したら東京の上級学校に進学したいという意志をしっかりと持って、またそれを口にだせる女の子です。
 時代はいつの頃?

 十年前に青鞜社(せいとうしゃ、注*)ができて、世間の女は随分目覚めてきたのに、お母さんの旧態依然には私もう我慢ようしません。
 東京へ出たいという第一の願いは、長福院(ちょうくい)たらいう勿体だらけの家から飛び出すことですねン。
 女性の先覚者になろうと自惚(うぬぼ)れることはできませんけども、少なくともお母さんのよな昔風の婦女にはなりとうないのですわ。

 東京では、青鞜社が結成されるのは6月ですが、その年、夏目漱石は1月に『門』を刊行し、2月には博士号授与を辞退しています。
 一方、和歌山では38歳で県会議長になった父が、文緒が女学校卒業を間近く控えるころには県会議長10年という政暦をもっていました。
 そして高等女学校では、自転車に乗る弁舌爽やかな文緒は、ジユウ ミンシュシュギの田村先生から目を覚まされました:

 田村先生というのは、文緒が入学すると同時に和歌山高女に赴任してきた若い国語の教師だった。
 三高から東京帝大の文科卒業して間もない彼は、授業時間には教科書そっちのけで
 「自由について」とか
 「デモクラシーについて」語り続け、詩誌
 「赤い鳥」を開いては新体詩を朗読して聞かせたり、それでなくとも新時代ついていた文緒たちを鼓舞激励し過ぎてしまったのである。
 良妻賢母教育をモットーとしている和高女が、こんな先生に辟易(へきえき)しない筈がない。
 生徒の人気にも関わらず田村先生は校長から幾度も譴責(けんせき)を受け、先輩から迫害され、最後には到頭教職を追われることになった。。。
 挫折したにしても、女学生の中でストライキを策動した。。。
 真谷敬策は和高女の父兄会長をしていたし、校長は敬策の口ききで現職についた経緯もあり、何より真谷敬策の名に傷つくことを懼(おそ)れて、この事件は学校側が揉(も)み消(け)してしまい、真谷文緒は退学処分も受けずに済んだのである。


 しかし、文緒の母、花は自転車に乗った文緒を見つけると許してはくれませんでした:

 「お母さん、ご免…」
 花は、文緒に口をきかせず、意味不明な言葉を吐き散らしながら、文緒をひきずって内土蔵(うちぐら)の方へ向っていた。
 罰として、土蔵の中に文緒を禁錮(きんこ)するつもりなのであった。
 それに気が付くと、文緒は子供のように声をあげて泣きだした。
 「お母さん、ご免なして。堪忍して頂かして、私が悪う…」


 いやあ、有吉佐和子『紀ノ川』、映画も良かったし、原作も良いですねえ。
 読書の秋、本屋さんに行ってぜひ新潮文庫版をご購入のうえお読みなすって頂かして…

(注*)
 生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集和子、保持研子、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、1911(明治44)年、田村俊子、野上弥生子ら18人を社員として青鞜社が結成された。
 雑誌『青鞜』の発刊は同じ年で、当初は詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放運動に発展していった。
【所在地】文京区千駄木5-3-11

文京区公式サイト、青鞜社発祥の地
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/seitosha.html


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2015年10月16日

三島由紀夫

 「三島由紀夫の自決(1970、昭和45年)に遭遇」、ですか、ショワ、ショワ、昭和ですね。
 ヤッホー君は、文京区小石川にあるあめやさんの工場で、アメ舐め舐め、飴づくりのアルバイト!
 イマはもう、その工場は高いマンションに様変わり、ヤッホー君の頭も様変わり、時代ですかね…
 では、ここでとりあえず動画を…

Le sac de Nankin
https://www.youtube.com/watch?v=JBmiELxLwbE

 あっ、違ってた、これです ↓ :

Le Japon, l’empereur et l’armée
Kenichi WatanabeKenichi Watanabe, Arte Editions, 2009, 110 minutes
http://www.monde-diplomatique.fr/2009/10/A/18273

 そう、ヤッホー君の10月15日木曜日の《ある君だい!》は、映画『天皇と軍隊』を鑑賞しに「ポレポレ東中野」へ:

☆ 9条はなぜ必要だったのか? なぜ天皇制は存続したのか? 昭和天皇と自衛隊を正面から見据えたフランス制作ドキュメンタリー
http://www.kiroku-bito.com/article1&9/index.html

憲法1条と9条の関係が見える
 フランス映画「天皇と軍隊」(渡辺謙一監督)は、天皇制、侵略戦争と敗戦、マッカーサーの占領、自衛隊、再軍備、改憲論議という重いテーマを扱いながら、貴重な記録映像と幅広い関係者のインタビューによって、問題点がわかりやすく構成されている。
 映画のナレーションは「1条と9条はコインの裏表」と表現した。明治憲法で陸海軍の統帥権を持っていた国家元首たる天皇は、敗戦後、憲法第1条によって「象徴天皇」に変わり、第9条の戦力放棄によって統帥権そのものが消失した。マッカーサー連合国軍最高司令官が日本占領に当たって天皇制を存続させたことと、非武装化とは裏表の関係だった。「戦後レジーム」とは、象徴天皇(1条)と戦争放棄(9条)の一体構造にほかならない。
 もともとはフランスとドイツで2009年に放映されたテレビ・ドキュメンタリーだったと知って意外だった。当時、欧州ではフランスなどの極右政党台頭が目立っていた。日本も第1次安倍晋三政権下で「戦後レジームからの脱却」が論じられており、日本の右翼思想への関心が高まったのだろうか。日本公開は今年8月が初めてだが、映画のテーマは第2次安倍政権下で、より現実的になった。
 上映会場にみえた渡辺監督によれば、日本についての知識を持たない欧州の視聴者が対象だったので、戦前の天皇制から現在の天皇制、今後の改憲の動きを「通史」の形式で紹介した。日本を知る基本資料として仏、独、米の図書館がDVDを備えたというが、日本人が見ても、改憲論の根源にさかのぼって頭を整理することは有益だろう。渡辺監督は、9条改憲をすれば必然的に天皇の国家元首化が始まる、と憂慮していた。


2015年8月4日、毎日新聞出身・金子秀敏「日本記者クラブ会見リポート」
天皇と軍隊』9階会見場(18:00〜19:30)
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2015/08/r00031437/

 ヤッホー君が評価するに「三島由紀夫は自分の命を賭した高度成長期のカミカゼ」ですって。
 が、体当たりしたせいで、あれから低次元の誤解、曲解、無理解にもとづく泡が、無節操にもブクブク噴き出してきております。
 あべの派閥の領袖はもり、のことを言ってますな、見抜くのは日本人でなく外国人!
 しかもこの記事は、21世紀を目の前にしてイマを見据えるように書かれてますな。

Mishima was a hardcore nationalist, who wanted to restore the divinity of the emperor, strengthen Japan's army and discard the country's pacifist constitution.

He felt western values were invading and weakening Japan like a cancer.

In his final years, he formed a personal militia that won support from senior politicians in the conservative Liberal Democratic party and he was allowed to train with the army.

On the day of his suicide, Mishima made an impassioned speech to army troops, calling on them to rise up and "restore the emperor". As his suicide notes later revealed, he expected to fail, but hoped that his seppuku would transform Japan.

The mixture of shock and derision that this act provoked in 1970 has long since faded. Today, most young Japanese have little or no interest in Mishima or his novels, but politicians are recycling many of his ideas.

Earlier this year, the prime minister, Yoshiro Mori, caused an outcry when he described Japan as "a nation of gods centring on the emperor". Moves are under way to upgrade the defence establishment and parliament has begun debate on revising the constitution - a subject that was taboo until last year...

Others who knew Mishima said the political significance of his action was only now starting to be appreciated.


The Guardian, Last modified on Sunday 26 November 2000 00.42 GMT
Dead writer's knife is in Japan's heart
By Jonathan Watts in Tokyo
http://www.theguardian.com/world/2000/nov/25/books.booksnews

 だってさ、自衛隊に向かって「このまま行ったらアメリカの軍隊になるぞ」って三島は予言してたんですから。
 つまり、イマ牛耳っているキョクウ勢力って、太平洋の向こう方を神輿に担いで、いまだに首都の制空権すらうばって、君臨している方がたをわっしょい、わっしょいしてるんだから性質(たち)が悪い。
 戦後、戦犯だったんだけど、その方面に魂まで売り渡してる政治家の孫が「美しい日本」とかの飾り言葉をあやつって煙にまき、憲法を無視し、キョクウを装って旗を振ってんだから性質(たち)が悪い。

知の巨人たち 第7回 「三島由紀夫」
https://www.youtube.com/watch?v=ku7UlpRiquU

若松孝二最新作「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=xNIb4kvabIQ

 五輪の東京開催が決まり、作家の三島由紀夫を思い出した。
 1964年の東京五輪。三島は新聞社から寄稿を依頼され、五輪会場に取材で通っていた。ニューヨークの私に届いた航空便には「重量挙(じゅうりょうあげ)のスリルなどは、どんなスリラー劇もかなはない」と書かれ、興奮ぶりが伝わってきた。そして端的に勝敗が決まり、敗者が勝者をたたえる美しさにこうも書いていた。

「文学にもかういふ明快なものがほしい、と切に思ひました。たとえば、僕は自分では、Aなる作家は二位、Bなる作家は三位、僕は一位と思つてゐても、世間は必ずしもさう思つてくれない」

 既に国内外で作品は知られ、三島は海外で最も有名な日本人だった。だが、その証しが欲しかった。最高の栄誉、ノーベル文学賞が欲しいのだと私は直感した。
 三島は自分の作品が多く翻訳されれば賞に近づくと信じていたようで、私にしばしば自著の翻訳を依頼した。私が安部公房の作品を先に英訳したときなどは「僕の小説を先に翻訳する倫理的な義務がある」とまで不快感を伝えてきた。

 戦後の混乱から落ち着いた1960年代は、日本文学が世界的に注目された時代だった。『金閣寺』を読んだ当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドが三島を高く評価し、1961年にノーベル賞の選考委員会に推薦した。それは重く、三島は毎年、候補者として名が挙がった。
 当時、私はノーベル賞に次ぐ栄誉とされていたフォルメントール賞の審査員だった。毎年、三島を強く推したが、いつも次点止まりで私は落胆した。だが、1967年の審査会直後だった。スウェーデンの一流出版社ボニエール社の重役が私に「三島は間もなく、もっと重要な賞を受けるだろう」と言い残した。それは、ノーベル賞以外にありえなかった。ところが、翌1968年に日本人初の文学賞を受賞したのは川端康成だった。

 後日談がある。
 1970年、コペンハーゲンで地元大学の教授に招かれての夕食会だった。参加していたデンマーク人作家ケルビン・リンデマンが「私が川端に勝たせた」と言い出したのだ。リンデマンは1957年の国際ペンクラブ大会への出席で二、三週間、日本に滞在した。それだけで北欧では日本文学の権威とされ、選考委員会に意見を求められたそうだ。当時43歳の三島に「若い。だから左翼的」と理不尽で、しかも誤った論評で反対し、69歳の川端が年齢的にふさわしいと推薦した−というのだ。

 真偽は分からない。だが、川端の受賞で次の日本人受賞まで、20年も待たなければならない−と落胆した三島は『豊饒(ほうじょう)の海』を集大成として書き残し、1970年11月に自決した。三島の文壇デビューを支え「自分の名が残るとすれば三島を見いだした人物として」と話していた川端が葬儀委員長だった。

 川端は、疑いなくノーベル賞に値する大作家である。だが、受賞後は思ったような作品を書けず、1972年4月に自殺が報じられた。
 大岡昇平によれば、ノーベル賞が二人を殺したのだ。ノーベル賞の発表は今月。五輪招致と同様に銀と銅はなく、あるのは金メダルだけ。
 また新たな歴史が生まれる。


2013年10月6日付け東京新聞【ドナルド・キーンの東京下町日記】
ノーベル賞と三島、川端の死
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2014040902100024.html



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2015年10月15日

文化放送

 ヤッホー君《ある君だい》、「浜松町駅」へ、ほらやっぱりもうお疲れで帰るんでしょ、やれやれ…
 と思うもつかのま踵をかえして道路を横切っていくじゃあ、ござんせんか。
 「文化放送」でした!
 お姉さんにスタジオん中へ連れていかれたヤッホー君、どきどき。
 お姉さんからお聞きして、またまたびっくり、3っつだけご紹介:
 ☆ 12月からFM放送でも聴ける(注1)
 ☆ この写真のように、ここ浜松町に移る前は、教会の建物だったんですよ(注2)。
 ☆ 三島由紀夫が自衛隊に立てこもった事件のとき、彼の演説を全部きれいに録音できたのは文化放送だけ!

 へぇ〜、いったいどの記者が、と思ったところ現社長 三木明博(1947年生まれ)でした:

 ここで、簡単に三木氏のプロフィールを紹介いたします。
【町高時代!】
 演劇部に所属。1年生で「夕鶴」のおひょう役に抜擢。演技とすばらしい声が評判となりました☆しかし、2年次以降は受験勉強ひとすじ!(?)舞台への登場はなかったのでした。。。
【早稲田大学法学部時代】
 受験を見事成功させた彼は再び演劇の道へ。早稲田の劇団に在籍し、活躍しました。ファンとしてチケット販売に協力する高校生をも魅了(当時の高校生ファンの一人が現在の奥様とのこと(笑)。
【文化放送入社後】
 記者時代に三島由紀夫の自決(1970、昭和45年)に遭遇、木の上にカメラを設置する取材が、他社にテープを提供するほどのスクープを獲得しました。その伝説は今でも社員に語り継がれているそうです。
その後、製作・編成・営業と経験し、2007年6月に代表取締役社長に就任。

 記者が「一介のサラリーマンが社長の椅子を得ることは、偉業ですね」と言ったところ、謙遜の言葉が返ってきた。後輩へ伝えたい事は?に対しても遠慮がちに話す高校時代と変わらぬ、いや当時より柔和な表情で答える三木氏であった。
「いやー運ですよ」

 そんな謙虚な彼が、遠慮がちに後輩達に言葉を贈ってくれました。
後輩諸君へ 夢を持ち続けること! 何事もこつこつとやり通すこと!

 彼の高校時代と変わらぬ、いや当時より柔和な表情に久々のときめきを感じてしまった1時間でした☆


2007.11.13(火)3:15〜4:15東京都立町田高等学校の同窓会事務局取材
卒業生訪問第二弾 文化放送 社長室訪問!
http://machikodoso.jp/obog/26/

 2014年11月25日は、今から44年前に、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で、三島由紀夫が割腹自殺をした日である。そういったニュースをツイッターなどで見て、「そういえば…」と本棚から引っ張り出して来たのが、この一冊。

スクープ音声が伝えた戦後ニッポン
文化放送報道部監修、新潮社:2005.7.30

 つい、この間買ったつもりが、もう9年前でした…。
 薄い一冊ですが、最初の方だけ読んで、ほったらかしにしていました。
 それを引っ張り出した訳は、「CD付き」の冊子だったから。
 「文化放送」の音源を、付録(と言うか、それがメインなんでしょうけど)で付けた本なのです。
 それで、三島由紀夫の演説を聴こうと思ったんですね。
 ところが!CDだけ、紛失している…この本を買った時に、先に音声だけは聴いて、そのまま本の中に戻さなかったツケが、こんなところに。
 整理整頓は大事ですねえ。
 結局、肝心の音声は聴けませんでした。
 本は本棚に入っているけど、CDはCDラックのどこかに紛れ込んでいるのでしょう。
 出て来たら、聴いてみたいと思います。

 
(2014.11.25読了)
読売テレビアナウンサー道浦俊彦Time(注3)
新・読書日記 2014_171
http://www.ytv.co.jp/blog/announcers/michiura/2014/12/post-2469.html

(注1)
 TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送の在京AMラジオ3社は13日、FMでAMと同じ放送を流す「FM補完放送」を、今年の秋から冬にかけて始めることを明らかにした。東京スカイツリーの共同アンテナからFM波を流す。。。
 FM放送が始まると、鉄筋マンションなどAM波が届きにくい「難聴取地域」でも聞こえやすくなる。地震など大災害で放送設備が被害を受けた場合に備える「災害対策」の面もある。周波数はTBSが90・5、文化放送91・6、ニッポン放送93・0メガヘルツ。東京23区と埼玉県、千葉県、神奈川県の主要都市および周辺で聴くことができる。


2015年1月13日22時53分更新、朝日新聞
AMラジオ、FMでも 今秋から冬、在京3社が補完放送
http://www.asahi.com/articles/ASH1F6D3ZH1FUCVL034.html

(注2)
 2色のれんがタイルの壁に透かしブロックを使った正面玄関、そして白い塔。文化放送が2006年7月24日午後1時までの放送を最後に、個性的な姿で半世紀以上親しまれた東京都新宿区の四谷局舎を離れ、港区浜松町に移る。旧局舎は取り壊され、マンションになる予定だ。数々の事件や学園紛争、深夜放送全盛期と、ラジオが元気だった時代の証人が、姿を消す。
「古い建物だからすき間がたくさんあってね。密閉された空間じゃないから、疲れないんだね」
 がらんと広い第1スタジオで、司会者のみのもんたさんはこう語った。
 みのさんは1967年入社。深夜放送「セイ! ヤング」などを担当後、1979年に退社したが、今も週1回、生放送のためスタジオ入りしている。
 局舎は鉄筋コンクリート造りで6階建て。八つあるスタジオは形も大きさもまちまちだ。第5スタジオの床は上から見ると鍵穴形で、副調整室が中2階にある。
 実は、文化放送の母体はカトリック聖パウロ修道会だった。カトリック放送局を目指したが認可が難しく、1951年に現在の局舎を建て、翌年、宗教色のない「日本文化放送協会」(1956年、文化放送に改組)として放送を開始した。
 だから修道会の拠点でもあった。第5スタジオは聖堂を兼ね、副調整室の下は聖歌隊席だった。設計は梓建築事務所の清田文永氏が手がけた。
 建築家で東洋大教授の内田祥士(よしお)さんは「昭和初期の様式で、丁寧に作り込まれている。モダンに徹していないところが懐かしく、豊かに感じられます」と話す。
 この局舎からの放送は、時代を刻んできた。

 やはり1967年入社で、深夜放送で親しまれた作家の落合恵子さんはまず、1968年10月、新宿で学生と機動隊が衝突した「騒乱罪」事件を思い出す。屋上から新宿方面を見ると「明々とした光と熱気の塊が、迫ってくるようだった」と話す。大事件が起きた時には、局舎全体が明るく息づいているように見えたという。「マスコミの怖いさがでもありますが」
 1970年11月25日、局舎に近い市谷の陸上自衛隊駐屯地に何者かが乱入したとの一報で、報道部員が駆けつけた。演説が始まったのでマイクを向けると、なんと三島由紀夫。落ちていた木の枝にマイクを縛って掲げ、全演説の録音に成功した。
 現局舎は老朽化に加えデジタル化を迫られ、姿を消す。7月24日午後1時、「吉田照美のやる気MANMAN!」が新局舎からの最初の放送となる。


2006年7月18日付け朝日新聞
文化放送移転、歴史刻んだラジオ時代の「証人」姿消す
http://www.asahi.com/culture/entertainment/news/TKY200607180373.html

(注3)道浦俊彦さんは新・ことば事情「一億総活躍社会」でこんなブログも:

 安倍首相が、自民党総裁再選後に言い始めた「一億総活躍社会」というキャッチフレーズ。
 たしかに、国民みんなが活躍できる社会は素晴らしいかも知れません、国民みんなが活躍できない社会よりは。
 しかし、この「一億総○○」という言葉は、戦時中の「一億総火の玉」や、敗戦後は手のひらを返したように
「一億総懺悔(ざんげ)」であり、高度経済成長時代の社会情勢を指した「一億総中流」や、ジャーナリスト・大宅壮一がテレビの普及でテレビばかり見ている人が増えたことを揶揄(やゆ)した有名な言葉
「一億総白痴化」というイメージがあります。
 そして言葉通り正に「全員が一丸となって頑張る」イメージがあります。
 「戦時中」となんら、変わりがありません。
 つまりこれは「ファシズムを象徴する言葉」なのではないでしょうか?
 「ファッショ」は「束ねる」という意味ですしね。
 「一億総○○」を標榜する社会では、個人個人の自由や意思は、無視されることでしょう。
 もし、「一億総○○」の方向性とは違うことを「私は、こうやりたい」と言うと、「勝手なことを言うな!」
「みんながこうやろうとしているのに、なんで邪魔するんだ!」と言われることでしょう。
 そして、その後に続く言葉は「非国民」です。
 だって「一億(=国民)総○○」から外れるんだから。
 これって、「よいこと」なんでしょうか?大いに疑問です。

(2015.9.30)

2015年10月5日22:19更新
http://www.ytv.co.jp/blog/announcers/michiura/


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2015年10月14日

秀忠の遺体

 ヤッホー君《ある君だい》、「増上寺」はたくさんの人で大にぎわい。
 ピンク・ベイビーズに聞き惚れ、魅入ったあと足を向けたのが本殿の地下!
 「英国ロイヤルコレクション100年ぶりの里帰り、よみがえる徳川将軍霊廟、宝物展示室」と銘打たれた部屋:

 東京・芝の増上寺にありながら1945年に戦災で焼失した、徳川2代将軍・秀忠の墓所で、当時国宝だった建造物「台徳院殿霊廟(れいびょう)」の精巧な模型が約100年ぶりに英国から里帰りし、今年2015年4月1日、関係者に公開された。日光東照宮も参照したとされる荘厳な姿を再現した霊廟の模型(10分の1)は、同寺の宝物展示室で、4月2日から一般公開が始まる。
 展示室では、霊廟本殿の外観と、そこから抜き出した絢爛(けんらん)豪華な内部に分けて公開。模型は彫刻家の高村光雲らの監修で制作され、本殿と拝殿が相之間でつながる「権現造り」や薄い銅板で一枚ずつ作った屋根瓦など、明治期の工芸技術の高さが存分に味わえる構成となっている。
 霊廟は江戸時代初期、増上寺境内の南側に造営された建築群で、豪華な装飾で知られたが、戦時中に焼失。霊廟を精巧に再現した模型は、1910年の日英博覧会に出品するため当時の東京市が発注、高村ら東京美術学校(現東京芸術大)の監修で制作された。英国王に贈られたが、調査修復を経て増上寺に長期貸与されることになった。
 模型の存在を確認した東京大のウィリアム・コールドレイク特任教授(建築史)は、「高村光雲らが何回も調査し作られた模型は、小さな霊廟と呼ぶにふさわしい。日本の伝統的な建築様式や豪華な装飾性が引き継がれ、当時の霊廟の構造がよくわかる」と話す。
模型の公開に合わせ、同寺所蔵の狩野一信筆の名作「五百羅漢図」全100幅を入れ替え制で展示するという。


2015年4月2日5時20分更新、朝日新聞・安斎耕一 
秀忠霊廟の精巧な模型、2日から公開 東京・増上寺で
http://digital.asahi.com/articles/ASH41638VH41UCVL01W.html?rm=453

 展示室に配置するにあたって、100年分のちりあくた、塵芥を取り除き、修復する作業を記録した貴重な映像を見て、ここにも若い女性が活躍しているのを頼もしげに見て、うなづいておりました。
 じゃあ、本物はどこじゃい、と秀忠を探しに本殿の裏へ回ってみます。

徳川家霊廟.jpg

鋳抜門.jpg

【当時の記事】
薄茶色の衣類みえる
将軍秀忠の墓発掘進む


 東京芝公園の徳川2代将軍秀忠の墓を発掘している総合調査団(代表藤島東大教授)は、1958年8月12日から秀忠の遺体調査に着手した。寝棺のフタが腐って棺の中に崩れ落ちているため、期待していたより遺体の保存は悪く、薄茶色になった衣類の下に崩れた骨があるものと推定され、ハレ物にさわるように丁寧な発掘作業が続けられている。

 この朝、墓の前では徳川家の当主徳川家正氏出席のもとに秀忠将軍の法要が行われた後、遺体の調査に取掛った。いままで掘ったのは地上から約1メートル、大きな石材を取除いた下に、2メートル四方の石材が組立てられ、その中にヒノキ造りの1メートル四方の木棺が浮び上ったが、335年前に葬られたこの木棺の一辺はまったく痛んでいなかった。

 秀忠将軍の遺体は東向きに座っていたものらしいが、上のフタが崩れ落ちて形はなく、いまのところ薄茶色の衣類が見えているだけだ。衣類は綿入れで、絹のアヤ(綾)またはリンズ(綸子)らしく、この下の骨が現れるのは13日になる見込みだ。

 墓の構造はきわめて質素、やはり戦国時代の名残りが続き、墓を飾る風習はまだなかったのだろうと調査団はみている。

1958(昭和33)年8月12日付け朝日新聞、東京本社版、夕刊5面

【現代風の記事にすると…】

将軍秀忠の墓発掘進む
遺体の調査に着手


 東京・芝公園の徳川2代将軍秀忠の墓を発掘している総合調査団(代表・藤島亥治郎東大教授)は、1958年8月12日から秀忠の遺体調査に着手した。ひつぎのふたが腐って中に崩れ落ちているため、期待していたより遺体の保存状態は悪かった。薄茶色になった衣類の下に崩れた骨があるものと推定され、腫れ物にさわるように丁寧な発掘作業が続けられている。

 この朝、墓の前では徳川家の当主徳川家正氏出席のもとに秀忠の法要が行われた後、遺体の調査に取り掛かった。今までに掘ったのは地上から約1メートル。大きな石材を取り除くと、その下に2メートル四方の石材が組み立てられており、さらにその中にヒノキ造りの1メートル四方の木棺があった。320年以上前に葬られたこの木棺の一辺はまったく傷んでいなかった。

 秀忠の遺体は東向きに座った状態で安置されていたようだが、上のふたが崩れ落ちているため、今のところ薄茶色の衣類が見えているだけだ。衣類は綿入れで、絹の綾織(あやお)り、または光沢のある綸子(りんず)らしい。この下の遺骨が現れるのは8月13日になる見込みだ。

 墓の構造はきわめて質素だった。戦国時代からあまり経っておらず、墓を飾る風習はまだなかったのだろうと調査団はみている。


2013年5月21日付け朝日新聞、ことばマガジン、板垣茂
東京タワーは見た! よみがえる徳川の将軍たち
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2013051400007.html

 「みなと区民まつり」、増上寺の境内に「東京ガス」のブースが。
 アンケートに答えましたので資料の入った紙袋をひとつつみ、いただきました。
 電力販売の自由化を訴えていました。
 何ぁ〜んにも知らないアホノリスク、ヤッホー君、またびっくり、ひぇ〜っ、ガス会社が電気?:

 大手電力以外でこれまで、企業向けに電気の販売実績があるのは全国で約80社。来年2016年4月に大手が地域ごとに独占してきた家庭向けも自由化され、ビジネスの幅はぐっと広がる。
 経産省はこの先の登録が「どのくらい伸びるかわからない」というが、東京ガスや大阪ガスなど大手都市ガス会社や、石油元売りや通信、商社などが加わるとみられている。
 消費者が選ぶ基準となる料金プランやサービスは、電気とガス、ガソリンなどとのセット割引や、節電や省エネ支援などが登場しそうだ。「早く出すとライバルに手の内をあかすことになる」(ガス会社)と、水面下の綱引きはすでに始まっている。
 各社の具体的な内容が示されるのは、今秋以降になりそうだ。また、よりくわしい料金プランは、年明けに決まる見通しだ。大手電力以外の会社が電気を家庭に届けるには、大手電力が持つ送配電網を借りることになる。その使用料が国の委員会を経て年内に決まるためだ。
 迎え撃つ大手電力も、東京、中部、関西の各電力がソフトバンク、KDDIといった携帯電話大手と提携し、通信料金などとのセット割引をめざす。東電は電気料金に共通ポイント「Tポイント」「Ponta(ポンタ)」がつくサービスも採り入れる。
 電力販売の自由化は、2000年の大規模工場や大型ビルを皮切りに始まった。その後は段階的に範囲が広がってきたが、来春の家庭向けの自由化に合わせ、国は参入の条件を厳しくし、登録制にした。電気の供給が滞らないよう、発電設備を持っているかや他社から電気を仕入れるかなどの計画をチェックする。


2015年8月4日5時8分更新、朝日新聞・平林大輔
家庭向け電力自由化、初日24社名乗り 秋にも料金計画
http://digital.asahi.com/articles/ASH835FL8H83ULFA019.html?rm=272

 こうしてヤッホー君《ある君だい》、やっと「増上寺」を後にしましたが、まだ歩いているではありませんか。
 こんどはどこ? ちょっと後をつけてみましょう。


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2015年10月13日

ピンク・ベイビーズ

 ヤッホー君《ある君だい》、「東京タワー」で面白い芸を見ました。
 良く見ると「日光さる軍団」!
 ユウ君、2011年3月11日の後に生まれたのかな?
 さる芝居、おおはやり、猿まねばっかりする猿公どもの顔つきがうさんくさい今日この頃ですが、本物の芸は大したもんです。

東京タワー前.jpg

 がんばって!!

東京タワー猿の曲芸3歳ユウ君2015夏休み特別バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=PsBRpvskXZo

 「日光猿軍団」というのがありました。

 ニホンザルが集団で芸をするテーマパーク「日光猿軍団」(栃木県日光市)が、今年いっぱいで幕を閉じる。22年間に延べ約1000万人が訪れ人気を博したが、東京電力福島第一原発事故で外国人調教師が帰国するなど先行きの見通しが立たなくなった。軍団を興した間中(まなか)敏雄校長(65)は、
「『そんなことは猿でも分かる』と人間はよく言うが、自分たちはそんなに賢いのかねえ」と、事故後も原発を続けるような動きに憤る。 
 1990年代後半、間中さんのもとにはアジア各国から「どうやって大勢の猿を操るのか」との問い合わせが相次いだ。指導を求める依頼もあった。
 2006年以降、韓国の大慶(テギョン)大から調教師志望の留学生が多くやってきた。流ちょうな日本語であいさつでき、調教は深夜まで続けた。「お猿さんが眠そうだべ」と校長が止めるほどの熱意だった。
 中でも目を引いたのが、一期生として来日した女子学生キム・アランさん。日光署の交通安全運動に相方の猿と参加するなど活躍した。難しい輪くぐりも習得した。三年後に帰国した後も、母親と遊びに来るなど、家族ぐるみの付き合いが続いた。
 2011年3月、原発事故が発生すると、軍団にいた大慶大生8人が事務所にやってきた。「家族に帰ってこいと言われた。ごめんなさい」。間中さんは「自分が親でも同じことを言っただろう」と引き留めなかった。
 アランさんにも変化が現れた。今年2013年の正月を間中家で過ごし、3月から軍団で働く覚悟を決めていたが、応援していたはずの母親から待ったが掛かった。

「放射能の問題がある。あなたが子を産む時のことを考えると…。そう母から言われた」。

 国際電話で間中さんの妻清子さん(58)に事情を明かしたアランさん。その後、次第に電話に出なくなった。アランさんが軍団入りしたら、大慶大からの留学が再開するかもしれない。そんな願いも断たれた。
 原発事故で、猿たちの暮らしも激変した。猿が好んで口にする木の芽や葉は放射性物質の濃度が高く、野山の散歩ができない。調教師不足で新しい猿を教える余裕がなくなり、ショーはベテランの猿頼み。今夏、高齢の猿が疲労で好物の果物にすら手をつけなくなり、閉園を決めた間中さんは、いま思う。

「放射能がなければ軍団はつながった。おれは怒り続ける。汚染された地域で子育てしている人、避難している福島の家族…。いろんな立場の人に怒り続けてほしい。でないと、原発はなくならないべ」

 <日光猿軍団> ニホンザルが集団芸をするテーマパーク。さる年の1992年1月、日光市にオープンした。ひもをつけないニホンザルの集団芸を日本で初めて成功させた。大勢の猿が生徒を演じる「お猿の学校」などのコント芸で人気を博し、テレビでも紹介された。
 福島第一原発事故後、外国人調教師が全員帰国し、日本人調教師で営業を続けてきたが、今年2013年8月、年内の閉園を決めた。今月12月21日に卒業式が行われ、31日まで営業する。


2013年12月11日付け東京新聞・大野暢子(まさこ)
放射能なければ軍団つながった 年内閉園「日光猿軍団」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2013121102100006.html

 スカイツリーよりも東京タワーのほうが身近に感じるヤッホー君、なんでだろう?と考えながら、「増上寺」へ。

 増上寺大殿前にあしらえられたステージで子どもたちが上手に歌を、と思っていたらどっこい、「ピンク・ベイビーズ」!
 「ピンク・レディー」は知っていたけど、その後継グループでしょうか。

ピンクベービーズ.jpg

パリで「ペッパー警部」を踊ってみた ピンク・ベイビーズ
www.youtube.com/watch?v=G8iWvob0GjY

 ピンク・レディーの曲を歌い継ぐユニット、ピンク・ベイビーズが日本の食や農業の価値への理解を促進していく取組である『おいしい日本!食のジュニアPR大使』に任命された。
 ピンク・ベイビーズは、オーディションで選ばれたピンク・レディーの曲を歌い継ぐボーカルダンスユニット。2014年7月に「ウォンテッド(指名手配)」で配信デビューした後、8月にはマウントレーニアホールでワンマンライブを開催。その後も11月にはフランスで2000人を集客するライブを成功させ、2015年も海外のイベントへ多数招聘を受けている実力派グループだ。
 『おいしい日本!食のジュニアPR大使』は、“和食”がユネスコの無形文化遺産登録されたことに続き、食をテーマとするミラノ万博が開幕するなど関心が高まっている日本食や食文化にもっと関心を持ってもらおうという取り組みのうちのひとつ。明るく健康的なイメージのあるピンク・ベイビーズが、おいしい日本の食や農業の価値、魅力を次世代に継承していくというに相応しいということから任命に至った…
 ピンク・レディーの生みの親であり、ピンク・ベイビーズの監修も行っている都倉俊一氏(1948年生まれ)も見守る中、ライブで見せる元気いっぱいな姿とは違う、かなり緊張した様子で任命式に臨んでいた。
 林芳正農林水産大臣(1961年生まれ)からの「フランスでも話題になっていると聞いていますので、若い層や世界に発信していただくようお願いします」と任命のお言葉を頷きながら拝聴するピンク・ベイビーズ。
 代表してリーダーの菅沼茉祐さん(1996年生まれ)が任命状を頂戴し、慣れないながらも懸命な挨拶を行った。菅沼さんは、
「私たちはピンク・レディーさんの曲を歌い踊り継ぐダンスボーカルユニットとして活動しています。いろいろな世代や国の方と接する機会も多いので、活動を通して多くの方に日本の食の素晴らしさを知ってもらえるように頑張りたいと思います」と挨拶し、全力で挑んでいるライブと同様に食のPR大使としても全力で頑張ると宣言した。
 世代も国も超えて愛されるピンク・レディーを歌い継ぐ使命と、日本の食の魅力を世代や国を越えて伝えていく使命をどちらもがんばっていくピンク・ベイビーズ…

ピンク・ベイビーズオフィシャルサイト

http://pinkbabies.jp/

2015.4.17 00:30 ガジェット通信
ピンク・ベイビーズが『おいしい日本!食のジュニアPR大使』就任 大臣を前に緊張の任命式
By srbn
http://getnews.jp/archives/919607

 10月10日、11日は「みなと区民まつり」!http://www.city.minato.tokyo.jp/houdou/kuse/koho/dekigoto/koremade/201510/20151008houdou.html

「みなと区民まつり」では、区内の大学生が企画・運営する港区平和都市宣言30周年記念イベントも開催しました。
http://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/koho/minato2015/201510/20151001top/09.html

 東京都港区の芝公園などでこのほど行われた「みなと区民まつり」(同実行委主催)で、小豆島観光協会がオリーブオイルやそうめんなど島の名産を販売し、来場者らに小豆島への来島を呼びかけた。
 小豆島ブースの出店は4回目。まつりは2日間にわたって行われ、土庄町の岡田町長、小豆島町の塩田町長をはじめ、両町の議長や観光協会の関係者ら6人が駆け付け、東京在住の小豆島出身者とともに自慢の物産を売り込んだ。
 見物客の中には毎年のようにブースを訪れている人もおり、エキストラバージンオリーブオイルやオリーブの新漬けなどお目当ての品を熱心に吟味。オリーブ牛の試食も人気を集めた。
 ブースには港区の武井雅昭区長も訪れ、岡田、塩田両町長らと島の食などについて歓談する姿も見られた。


2012年10月11日9時35分更新、四国新聞社・東京支社
東京「みなと区民まつり」で小豆島PR
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20121010000318

 もちろん、今年も出展!
 
 ヤッホー君《ある君だい》、これで終わりではありません、まだ続きます!



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2015年10月12日

岸信介

 ヤッホー君、『群像』11月号を読んでいました。

 鼎談 島田雅彦×片山杜秀×中島岳志「安倍総理に捧げる小説」
 二重スパイとお飾り首相を主人公に据え、現代日本の危機的状況を鋭く描いた島田雅彦の超ド級の問題作『虚人の星』(講談社、2015年9月)。
 その刊行を記念し、片山杜秀、中島岳志という二人の政治学者との鼎談を行いました。
 日本がのび太ならアメリカはジャイアンでなくドラえもん?
 正統な保守とは果たしてどのような存在なのか?
「安倍総理に捧げる小説」、いま読んで欲しい必読の鼎談です。


http://gunzo.kodansha.co.jp/39015/42744.html
http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/kyojinnohoshi/

 中島岳志(1975年大阪府生まれ)さんはそこでこんなことを(146頁以下):

 9条という切り札がなくなり、日本は事実上アメリカの属国になってしまう。
 だから、もし9条を変えるときには、日米安保も見直して、日本の主権というものを根本から考え直さないといけない。
 そこまで考慮せずに、改憲を唱える人が、戦後レジームからの脱却を掲げているから、もうわけがわからないんですね。
 日米安保に依拠するミスター戦後レジームこそが安倍晋三なんですよ。
 その人が戦後レジームからの脱却と言っているおかしさ。
 現実がすべてギャグ化している。。。
 どうして自分はこんなに不幸なんだろうという鬱屈(うっくつ)が、一気に一君万民の国体論へとつながって、天皇と一体化した幸せな世界というビジョンを描く。
 それがリアリティを持ってしまう世界を、どう食い止めるかが問題です。


 また出てきてしまった不安倍増、この御仁、お墓参りにでかけたそうですよ。

 安倍晋三首相は9月22日、祖父の故岸信介元首相と父の故安倍晋太郎元外相の遺骨が分骨されている静岡県小山町の冨士霊園を母の洋子さんと訪れた。墓参後、記者団に安全保障関連法成立を踏まえ「国民の命と平和な暮らしを守るための法的基盤が整備されたことを墓前に報告した」と述べた。
 第2次政権発足から9月21日で1000日を迎えたことにも触れ「経験を生かして国政の運営に当たり、まずは強い経済をつくるために全力を挙げていく」と強調した。
 首相は墓石にひしゃくで水を掛け、数珠を手に合掌した。祖父らの墓参りをするのは今年1月以来。


2015年9月22日16時51分更新、西日本新聞
首相、祖父らの墓参り 安保法成立を報告
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/politics/article/196712

 おじいちゃんっ子だったのかな、不安倍増の執務室には、おじいちゃんの写真が飾られてあるそうです:

 ミズーリ号といえば、アジア・太平洋戦争の降伏調印式が行われた米戦艦だ。1945年9月2日の式典で、米国は2枚の星条旗を掲げた。真珠湾攻撃の際にホワイトハウスに掲げていた旗と、1853年に来航したペリー艦隊の旗だ
 ミズーリ号の停泊位置にもこだわり、ペリー艦隊と同じ横浜沖の地点にした。力で日本を開国させた原点を、92年たって再び誇示してきた。
 安倍晋三首相にもこだわる原点がある。祖父の岸信介元首相とアイゼンハワー元大統領のツーショット写真を執務室に飾っているという。国民の反対をねじ伏せて安保条約を改定させた祖父を孫は追う。
 今回の安保法案でも首相はこう言った。「祖父は50年たてば理解されると言っていたが、25年、30年で支持は多数になった」。国民よりも米国を優先する体質は受け継がれている。
 集団的自衛権の本質は、米国の戦争にしっぽを振ってついていくこと。2年前「主権回復の日」に固執した人物とは思えないほどの対米隷属ぶりで、属国ここに極まれり、だ。
 憲法を米国の押し付けだというのなら、不平等な地位協定や過重な在沖基地はどうなる。米国にしっかりと物を言えない為政者の追従姿勢こそ変えるべき筆頭だろう。開国から160年余たっても今なお、ペリーの星条旗はこの国の政治家、官僚の思考を呪縛し支配しているのではないか。


2015年7月17日6:00琉球新報<金口木舌>
ペリーの星条旗の呪縛
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-245875-storytopic-12.html

 ところでさきの「西日本新聞」ですがおじいちゃん、岸信介にまつわるこんな特ダネ記事を。
 これじゃ〜、おじいちゃんの死っぽふりを、孫が受け継いでるとしか言いようがありません:

 文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の1980年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇とアメリカ」=2010年刊から)
 1963年の同僚宛ての手紙にも「われわれは1954年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
 1955年の保守合同で自民党が誕生する直前の混乱期。保守派リーダーの一人だった岸氏は、米国とどうつながっていたのだろうか。
 保守合同前夜の1955年7月9日午後、東京の在日米大使館。当時の民主党幹事長だった岸信介元首相は、大使館のジョージ・モーガン参事官に招かれた。「キングサイズのスコッチ・アンド・ソーダ」を片手に約3時間半。モーガン氏の質問に冗舌に答える岸氏の姿があった。
■ 提供
 膨大な米公文書の調査などを基に戦後の日米関係を米国側の視点で描いた「『日米関係』とは何だったのか」の著者、米アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(68)が1990年代に見つけた大使館から本国への報告文書には、その時の様子が詳しく記録されている。
 民主、自由両党の合同はまだ時期が公になっていなかった。民主党を主導する岸氏は、合同が11月ごろになるとの見通し、新党首選びの状況、憲法改正や積極的な反共外交政策の採用、再軍備促進といった新党の政策などについて情報を「提供」(シャラー氏)。社会党の動向に関する推察も伝えた。いずれも米国側が欲していたとみられる。
■ 反共
 岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
 1950年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、1954年12月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎、石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
 シャラー氏によると、1950年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。
■ 計算
 シャラー氏は「岸氏は米国に取り込まれたというより、むしろ積極的に取り入ろうとしていたと私は考える」。日米安保条約の不平等性の解消を目指した岸氏だが、「米国の信頼を得なければ、それは成し遂げられないし、信頼されれば国内での自身の政治力も増すという計算もあっただろう」とみる。
 1955年、鳩山政権からの条約改定申し入れを一蹴した米国は、1957年の岸政権からの交渉提起には応じ、1960年に改定は実現した。
 一方でシャラー氏は、岸氏が首相就任後、米中央情報局(CIA)と秘密の資金提供の関係を結んだと著書で明記した。「権力の座に駆け上がる過程で米国と築いた濃密な関係が、資金提供の土壌になったのもまた事実だ」と指摘した。


2015年10月11日23時00分更新、西日本新聞
「岸信介を傘下に納めた」米の戦略 双方の思惑が築いた蜜月関係
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/200541

 あの御仁、及びその食う出たぁ一味(*)はさかんに「砂川事件」最高裁判決のことを言ってましたが、それだってなんのことはない、宗主国に死っぽふりをしてたに過ぎなかったって聞くと、この国には70年来主権がなく、主権を取り戻そうとする動きはほとんど潰されてきた70年だったということが分かります。
 「砂川事件」、これは一審で、米軍駐留を違憲としたのですが、アメリカの圧力で二審を飛ばし最高裁で合憲となったものです。
 参考図書に布川玲子・新原昭治編著『砂川事件と田中最高裁長官』(日本評論社、2013年11月)がありますので、ご参照ください。
 以上、いずれも記事が削除されないうちに載せておきます:

 米軍旧立川基地の拡張計画に絡む1957年の「砂川事件」で、米軍駐留を違憲とした東京地裁判決(伊達判決)を破棄した田中耕太郎最高裁長官(当時)が、マッカーサー駐日米大使(同)と会談し、「(伊達)判決は全くの誤りだ」との判決の見通しを示していたことが2013年1月17日、米公文書から分かった。
 元新聞記者で、日米関係に詳しいフリージャーナリストの末浪靖司氏が2011年9月、米公文書館で、機密指定を解除された公文書から会談内容が書かれているのを発見した。これまで田中長官とマッカーサー大使との会談があったこと裏付ける文書が公開されていたほか、大使が藤山愛一郎外相(当時)に高裁を飛び越して最高裁への「跳躍上告」を勧めたことなどを示す文書が見つかっていたが、判決破棄に至る内容に踏み込んだ文書が見つかったのは初めてという。
 文書発覚を受け、砂川事件の元被告、土屋源太郎さん(78)ら「伊達判決を生かす会」のメンバー7人は30日、当時の会談録や田中長官の業務日誌などの文書を開示するよう最高裁に請求する。
 17日、都内で記者会見した土屋さんは「米側の司法への介入が明らかで、ゆがめられた形で最高裁判決が出た。沖縄での米兵による暴行事件などで明らかになっているように、第一次裁判権の放棄の密約や日米地位協定など現在も司法への介入が続いている」と指摘した。
 公文書は最高裁判決の約1カ月前の59年11月5日付で、マッカーサー大使が米国務長官宛てに送った公電。裁判長だった田中長官の発言について「最近の非公式会談で、来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと言った」「伊達裁判長が憲法上の争点に判断を下したのは全くの誤りだと述べた」と報告した。


2013年1月18日7時40分更新、琉球新報
砂川事件 最高裁長官「一審は誤り」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201533-storytopic-1.html

(*)こんなことがジユウとミンシュシュギを標榜する政権の牛耳っている我が国の最高の立法・議決機関である国会で通るんですから、皆んなの怒りが分かります。
 今朝の東京新聞からですので、まだ削除されていないはず、拡散しましょう!
 もう皆んなで投票所に出向いて「なんか変な空気」、NHK的気分を換えるしかありません。
 空気の入れ換え、気分転換です。

 安全保障関連法を採決した9月17日の参院特別委員会の議事録が、10月11日に参院ホームページ(HP)で公開された。
 採決は委員長の宣告後に行われるのが規則。
 採決を宣告したと主張する委員長発言を「聴取不能」と認めておきながら、安保法を「可決すべきものと決定した」と付け加えた。
 採決に続き、議事録の内容まで与党側が決めたと、野党は反発している。。。


2015年10月12日 東京新聞朝刊、篠ケ瀬祐司
安保法「聴取不能」の議事録 与党判断で「可決」追記
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201510/CK2015101202000131.html

 おまけ:究極の反知性主義、「安倍語」なるものについてはこちら:
http://sun.ap.teacup.com/souun/14698.html#readmore




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あなたの夏はどんな色

 10月11日、昨日は山歩クラブの山行日でしたが、雨で順延しました!
 しかたがないっす、家のご用をすませたあとヤッホー君《ある君だい》!
 10月10日土曜日に訪れた芝・増上寺界隈を再訪することとしました!
 まずは、御成門小学校
 この学校も歴史を辿ると古いことがお分かりです(注1)。

 1870(明治3)年に東京府内に相次いで設置された6つの小学のひとつ、第一校にまでさかのぼることができます(江東区の深川小学校も歴史がありますね)。

 ☆ 芝増上寺中源流院 第一校
 ☆ 市ヶ谷洞雲寺 第二校
 ☆ 牛込万昌院 第三校
 ☆ 本郷本妙寺 第四校
 ☆ 浅草西福寺 第五校
 ☆ 深川長慶寺 第六校

 「御成門小学校だより」(2015年9月1日号)から:

あなたの夏はどんな色

 1年の中で一番楽しみにしていると言ってもよい「夏」。
 子供たちは「夏」にどんな思いを馳せているのでしょう。
 夏休み、お祭り、海や山、アイスにスイカ、花火大会に虫取り…。
 夏には、数え切れないほどの楽しいことが、子供たちを待ち受けています。
 さて、今年も「俳句大会」の季節がやって来て、それぞれの「夏」を17文字の俳句で表しました。
 どれも力作で、「ああ、夏が来たのだなあ」と感じました。。。
 一人一人の「夏色」に染まった言葉が夏の到来を告げ、例年より少し長い夏休みを過ごした子供たち。
 どんな夏休みだったのか、話を聞くのが楽しみです。(国語部:本間美里)

・ つめたくて ながしそうめん やめられない
・ 夕立ちに 漢字のテスト 流そうか
・ バターのよう 海にとけゆく 夕焼けが
・ 水ふうせん なげてあてたら ばいがえし
・ 夜の海 静かにかげが きらめいて
・ なつやすみ あそびがいっぱい つまってる
・ かき氷 ひんやりうまい 人気もの
・ 暑いなか あせ水たらして 草むしり
・ 夏の風 体をすきぬけ おどってる
・ 夏空に いろんな色の 光る花
・ パンパンと 夜空にさくはな きれいだな
・ 夏の庭 せみの鳴き声 響いてる


 いいね、いいね、うまいねぇ〜、ヤッホー君のこころまで秋色に染まって、ルンルン気分でさ、オランダ大使館へ。

オランダ大使館の前庭.jpg

 前庭に電気自動車が、さ・す・が!

オランダ大使館.jpg

 オランダ(英語表記は The Netherlands、オランダ人は Dutch、憲法上の首都は Amsterdam、行政上の首都は Hague、国際空港の公式名は Amsterdam Airport Schiphol、注2)の国をあげての取り組みをここでご紹介:

Solar FREAKIN' Roadways!
https://www.youtube.com/watch?v=qlTA3rnpgzU

The bike path that connects the Amsterdam suburbs of Krommenie and Wormerveer is popular with both school children and commuters: around 2,000 cyclists ride its two lanes on an average day.

But next week Krommenie’s cycle path promises to become even more useful: on 12 November a 70-metre stretch will become the world’s first public road with embedded solar panels.
。。。
Since the path cannot be adjusted to the position of the sun, the panels produce roughly 30% less energy than those fixed on to roofs. Nonetheless, when the path is extended to 100 metres in 2016, its creators hope that it will produce enough energy to power three households.

The Netherlands’ TNO research institute, which developed the concept behind the solar bicycle path, think the potential of their idea doesn’t stop there. Sten de Wit of the institute told the Guardian that up to 20% of the Netherlands’ 140,000km of road could potentially be adapted, helping to power anything from traffic lights to electric cars. Tests have seen the solar panel units successfully carry the weight of heavy vehicles such as tractors.

While Krommenie will become the first community in the world with a publicly accessible stretch of solar road, the idea of using existing road infrastructure to harvest solar energy is gaining momentum across the globe.


The Guardian, Last modified on Wednesday 5 November 2014 11.03 GMT
World's first solar cycle lane opening in the Netherlands
Solar panels embedded in the cycle path near Amsterdam could generate enough electricity to power three houses, with potential to extend scheme to roads
By Philip Oltermann in Berlin
http://www.theguardian.com/environment/2014/nov/05/worlds-first-solar-cycle-lane-opening-in-the-netherlands

 名残惜しいオランダ大使館を後にして、芝給水所へ。

芝給水場.jpg

芝給水所の歴史

 芝給水所は、芝増上寺の北西部の高台に位置し、信濃小諸藩主、牧野遠江守康済の屋敷跡地に、芝給水工場として1896(明治29)年8月に竣功、1898(明治31)年12月に淀橋浄水場から浄水を受け給水を開始しました。
 この給水所は、淀橋浄水場、本郷給水工場と共に、東京近代水道の始まりとなった施設で、その後約100年にわたり、関東大震災や戦災に見舞われながらも、東京都民の暮らしに欠かせない水を送り続けてきました。
 旧芝給水所は煉瓦造りであり、東京における近代水道創設当時の高い土木技術を物語る文化的・技術的遺産です。
 芝給水所を改築するに当たり、先人の偉業を称え、旧芝給水所の一部を保存し後世に伝えるものです。
平成14年2月 東京都水道局


 ヤッホー君《ある君だい》!はまだまだ続きます…

(注1)
葉養正明(はよう・まさあき、1949年千葉県生まれ)「小学校通学区域制度の地域構造、東京都心部の事例研究」(『東京学芸大学紀要』1986年3月所収)84、88頁

(注2)
KLMオランダ航空は2015年10月1日、福岡−アムステルダム(オランダ)線を2016年1月5日から運休すると発表した。円安の影響で採算が悪化していることから、市場環境の改善が見込めないと判断した。福岡空港からは唯一のヨーロッパ直行便だった。福岡−アムステルダム線は2013年4月に週3往復で就航した。初年度は約7万人が利用するなど好調な滑り出しだった。しかし、円安が進んだことで利用客が伸び悩み、今月10月26日から週2往復に減便予定で、苦戦が続いていた。同社は「条件が整えば、再開も検討したい」としている。
2015年10月1日18時26分更新、毎日新聞、神崎修一
オランダ航空:福岡−アムステルダム線、1月5日から運休
http://mainichi.jp/select/news/20151002k0000m020024000c.html


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2015年10月11日

阿波丸

 芝・増上寺に「阿波丸事件殉難者之碑」があるのをご存知でしょうか。
 ヤッホー君、曇天の10月10日土曜日に訪れて、またまたびっくり!

碑文

 阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い1945(昭和20)年4月1日夜半、台湾海峡で米國潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。
 同船は連合國側の要請に應じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に當っていた。
 國際法でその安全が保障されていたにもかゝわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有餘名、世界史上最大の海難事故となった。
 加害者に對する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが國は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の眞相を究明せず、米國に對する賠償請求権を國會の決議として放棄した(*)。
 いまや平和の時代となり、經濟は復興したが戰争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、歸らぬ人のことを思ひ續け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船體の引揚げ遺骨の拾集も實行に移されないまゝである。
 三十三回忌に當り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。

1977(昭和52)年4月1日
阿波丸事件犠牲者 遺族一同


 タイタニック号で1500人ちょっとですから、確かに史上最大の海難事故…
 でも日本的にも国際的にも、知れ渡っていませんよね、20有余名がボタンの押し間違いで亡くなったってことですら、日が過ぎれば忘れ去られてしまう今日この頃です。
 まして2000有余名って言ったって、70年前のことなんてどうでも良くなってきているのかな…
 「戦後70年談話」なんてのにだまされないようにしないと、こんなに物価が上がっているのに、もっともっとインフレだなんて、コクミンをいじめぬいておりますから…
 要注意です!
 
 あれは今月3日のこと、え〜と、たかだか2週間しかたっていません:

 アフガニスタンのクンドゥーズ州で国境なき医師団(MSF)が運営していた外傷センターがアメリカ軍に爆撃され、患者・スタッフ計22名が犠牲となった事件から1週間。
 MSFはこの爆撃を国際人道法に反する暴挙と断じ、独立した国際的な第三者機関による透明で完全な調査を求めています。
 その声は日本をはじめ世界中に広がり、ご賛同・ご協力をいただいております。
 本記事では、爆撃があった忌まわしい日から1週間の動きをまとめました。
 "独立した調査"を実現し、事態の徹底解明がなされるように、改めてご協力をよろしくお願い申し上げます。


2015年10月9日掲載「国境なき医師団」(MSF)
アフガニスタン:爆撃から1週間、世界中から調査を求める声
http://www.msf.or.jp/news/detail/headline_2519.html
http://www.msf.org/

 では70年前。
 この阿波丸に乗り合わせた殉難者のご子息がこんなことを:

 4月1日に母は父が帰ってくる足音を聞いて、玄関に出迎えに行ったが誰も居なかったと話していた。
 不思議なことがあるものである。
 父は家に帰ってきたかったに違いない。
 4発も魚雷を受けたなら民間船の阿波丸は沈むまで1分少々であったようで、ドラマの様に一挙に沈んだであろう。
 父は楽に死んだのではないかと自分自身を慰めている。

 4月1日から十数日後、阿波丸は沈没して父が死んだことを会社から知らせてきた。
 母は予期していたのであろう、割に落ちついていた。
 従姉の夫が王子製紙に勤めていて、同じように南方に派遣されていた。
 終戦後、暫くたって彼は帰国し、我が家を訪ねてきた。
 そして彼は阿波丸に乗船できず、羨ましく思いながら、シンガポールで阿波丸に乗る父を見送ったそうである。。。、、

 このように戦時中にアメリカは阿波丸撃沈の非を認めている。
 そして直ちに、「クィーンフィッシュ」の艦長が辞めさせられたことや賠償権の放棄が国会で決議されたことは、日本の新聞に載ったので、私は覚えている。
 戦後、私は新聞から、艦長の処罰は軽いし、アメリカの非を認めない態度になんとなく不満を感じていた。
 日本国は乗船者の損害に対する賠償義務の要求を放棄した代わりに、我が家は国から7万円の補助を受けた。
 これが父の命の引き換えである。

追記
 父が阿波丸で死んだので私は新聞の小さな記事でも覚えている。
 上巻を読むと、私の覚えている部分と上のようにかなり一致した部分がある。
 しかし、下巻を読むと違った部分がある。
 阿波丸にはもう一人生き残りが居て、それは軍艦に3度乗り、3度撃沈されたが助かって、弥勒丸に乗り込んだ正木海軍中尉である。
 小説の中では陸軍に抑えられて、あまり活躍しないが、戦後は台湾の実業家宋英明と名乗り、弥勒丸引き上げに力を尽くすという筋書きである。
 また、弥勒丸に乗せる民間人を先着順できめ、金塊を乗せたのは、事実と違っている。
 日本が本土決戦に備え必要欠くべからざる人間や資材で、人間は多くのなかから選ばれた官僚や技術者であり、資材としては錫・生ゴム・タングステン・水銀等である。
 シンガポールに小笠原特務機関というのがあるが、有名なのは上海にあった児玉特務機関であろう。
 機関長児玉誉士夫は、戦後自由が丘の広大な邸宅に住んでいた。小説でM基金というのは児玉基金ではないかと思う。
 海難事故世界最大として知られるのはタイタニック号の1500余名であるが、阿波丸は2044名で、これが世界最大の海難事故であろう。
 小説では希望者順に帰りの阿波丸に乗せているが、実際はNHKの「悲劇の航海」にあるように、本土決戦に必要な選ばれた人間と資材であった。
 資材はゴム・錫・石油等で、金塊ではない。
 映画タイタニック号では豪華客船で楽団員が居り、沈没の最後まで甲板で演奏し音楽が流れ続けるが、弥勒丸ではシェエラザードの曲が沈没の最後まで流れ続けている。


2004年9月11日  
シェエラザードで思い出すこと
http://home.n04.itscom.net/miyachi/essay/e16sierazaad.html

Rimsky-Korsakov: Scheherazade / Gergiev ・ Vienna Philharmonic ・ Salzburg Festival 2005
https://www.youtube.com/watch?v=SQNymNaTr-Y

 いや、リムスキー=コルサコフ作曲の交響組曲、じゃなくって、筆者は以下をモチーフにしています。

☆ 浅田次郎の長編小説『シェエラザード』(「東京中日スポーツ」などに1996年10月22日から1年間連載し、1999年に講談社から刊行)
☆ NHKドラマ『シェエラザード〜海底に眠る永遠の愛〜』(2004年7月31日に放送)

 しかしこのブログの筆者はお書きになってから1年ちょっとで、お亡くなりになっていました。
 合掌。 

 父のホームページをご愛読戴いた読者の皆様

 父は急性単芽球性(骨髄性)白血病と診断され、2005年3月31日(木)に入院しました。
 心臓の持病があった父に告げられた病名は、家族にとって晴天の霹靂でした。
 再入院後治療に専念しましたが、同年12月7日(水)0時1分敗血症で亡くなりました。
 生前、父は月に一度ホームページを更新する目標を立て、日々題材を集めておりました。
 2005年は日露戦争百周年に当たり、5月の終戦記念日に向けて、日露戦争に関するトピックを作成しようと、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み終えたところでした。


http://home.n04.itscom.net/miyachi/oshirase.htm

(*)
第5回(特別)国会
1949(昭和24)年4月6日 
参議院本会議
 
阿波丸事件に基く日本国の請求権の放棄に関する決議

 わが国は、連合国の同情ある理解により、今や戦争の荒廃から脱脚して平和と自由及び民主主義の高遠な原則の具現を目指す新しい生活に乗り出している。
 米国は、主たる占領国として占領政策の設定と実施に当つて主導的な役割を果して来ており、わが国民としては、米国政府及び米国民がわが国の恢復及び復興のために与えた多大な援助に対し深甚なる感謝の念を抱くものである。
 よつて本院は、政府に対し次のように措置するよう要請する。
1、わが国は、1945(昭和20)年4月1日発生した米国海軍艦艇による阿波丸撃沈事件に基くすべての請求権を、自発的に且つ無条件に放棄すること
2、政府は、速かに、連合国最高司令官のあつせんを得て、米国政府と商議を開始し、前記請求権の放棄を基礎として、本事件を円滑に解決すること
3、政府は国内措置として、本事件の犠牲者を慰藉するため適当な手段を講ずること
4、政府は、本決議に基いて執つた措置の結果を、速かに本院に報告すること
 右決議する。


参議院本会議決議本文
http://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/ketsugi/005-10.html




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ホシ・クニオさん(66歳)

 速報

 あれは10月4日日曜日でしたから、ちょうど1週間前のこと。
 こんなニュースが飛び込んできてヤッホー君、び・っ・く・り!

 バングラデシュで3日、日本人男性が銃で撃たれて死亡した事件で、過激派組織IS=イスラミックステートを名乗る組織が、この男性を殺害したと主張する声明を出しました。声明の信ぴょう性は確認されていませんが、地元の警察が背景などを調べています。
 バングラデシュ北部のロングプールで、3日、男性が3人組の男に胸などを銃で撃たれて死亡し、首都ダッカにある日本大使館は、この男性が60代の日本人であることを確認しました。
 日本大使館は、男性の名前など詳しいことは明らかにできないとしていますが、地元の警察によりますと、死亡したのは、ホシ・クニオさん(66歳)で、ことし8月下旬にバングラデシュに入国し、ロングプールで農業関係のプロジェクトに関わっていたということです。。。


10月4日5時15分 NHK
バングラデシュで邦人殺害 IS名乗る組織が犯行声明
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151004/k10010258021000.html

 しかし、なぜかそのフォローアップがありません。
 今朝、こんなニュースに接しました。
 追ってくれていたのは外国の通信社:

DHAKA (AFP): Bangladesh police said Friday officers picked up two more people for questioning over the murder of a Japanese farmer, an attack claimed by the Islamist State group, with two others in custody.

Hoshio Kunio was shot dead on Saturday in the northwestern city of Rangpur, the second foreigner to be killed in a week, with IS claiming both attacks, although experts are dubious.

Police did not disclose the identity of the pair, but local media said they work in a private bank in Rajshahi city, 150 kilometres (95 miles) south of Rangpur.

“Police picked up the two from Rajshahi for questioning over the killing of the Japanese national. They are not formally arrested yet,” national police spokesman Nazrul Islam told AFP...


New Straits Times,Updated: 9 October 2015 at 9:58 PM
Four held in Bangladesh over Japanese farmer murder
Read More : http://www.nst.com.my/news/2015/10/four-held-bangladesh-over-japanese-farmer-murder

 ISと言われたって「わが国にはISと関連する人物、組織、つながり、きずなはありません」と言うにきまってるでしょうに、公式発言は、ね。
 しかしま、バングラデシュにも、われら納税者の税金からばらまいていたんですね、中国にらんでだって…へぇ〜いい気になってるわ、金目でしょって:

 またも大盤振る舞いだ。安倍首相は先週5月23日、福島県いわき市で開催された「太平洋・島サミット」で、パラオなど南太平洋の島しょ国に今後3年間で550億円以上の財政支援を行うとブチ上げた。島サミットでこの支援額は過去最高だ。
 首相は、「力による威嚇や力の行使とは無縁の太平洋市民社会の秩序」の構築を呼びかけ、名指しは避けたが、中国を牽制した。要するに、島しょ国が“中国寄り”にならないように、カネを渡して日本シンパにしようということだ。
 しかし、いくらなんでも安倍首相の“札束外交”は常軌を逸している。ライバルの中国に負けたくないのだろうが、とにかくカネ、カネ、カネ。見境なく、外国にカネをばらまいている。
 なんと、この2年半で、アフリカ支援に3兆円、バングラデシュ支援に6000億円と、ODAや円借款を積み上げると26兆円にのぼる。支援がすべてムダとは言わないが、いったい、どれほどの成果があったのか。。。
 安倍首相のままでは、いくら外交にカネがかかるか分からない。


2015年5月25日付け日刊ゲンダイ
どれほどの成果が? 安倍首相がバラマキ外交で払った26兆円
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/160133/1

 ODAっていうから、シニア世代の農業支援で行ってたのか、民間の国際協力で働いていたのか…
 それとも相手国の人のこころを傷つけるような行為をして、憎しみをかったか、にらまれたもか…
 我が国のメディアには、「大本営発表」でなく、邦人殺害の真相を明らかにしてほしいもんです。




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2015年10月10日

松本方哉

 10月9日金曜日のヤッホー君《ある君だい》、出だしは「信濃町」駅。
 明治記念館中庭を見学して、神社庁を通り「安鎮坂」を下って、「みなみもと町公園」へ。

 付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。
 武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。

港区

 「みなみもと町公園」一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の大地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。
 江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。
 鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋(さめがはし)と呼ばれていました。
 鮫河橋は「江戸名所図絵」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でも「みなみもと町公園」前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。

新宿区

 トチノキ並木沿いに「鮫河橋坂」を上って学習院初等科、四谷中と学校際を通ると「四谷見附」。
 「四ツ谷」駅を越して、さらにソフィア通りを「上智大学」へ。

 実は昨日、松本方哉さん(*)の講演会があったのです:

 ソフィア会で開催する講演会のお知らせです。
 マスコミ・ソフィア会も共催しています。振るってご参加ください。
 講演者は、フジテレビの報道番組「ニュース JAPAN」で、滝川クリステルさん(1977年10月1日生まれ)と一緒に番組に出演していた松本方哉さんです。
 なぜメデイアを目指し、何を感じてきたか。ジャーナリストとして、テレビ業界で国際社会、医療や介護と出会い、たどり着いた境地を明かします。


2015年9月10日マスコミで働くソフィアンのサイトCumsophia Online
ソフィア会講演会「海外特派員から介護ジャーナリズムまで」のお知らせ
http://cumsophia.jp/2015/09/10/

 しかし始まるまでに時間があったのでヤッホー君、さらに歩を進め、「喰違見附」から「紀尾井坂」を下って、「清水谷公園」まで行っちゃいました。

 公園を入った正面に「贈右大臣大久保公哀悼碑」があります。
 1878(明治11)年に時の参議兼内務卿の大久保利通がこの付近で暗殺されました。
 同僚の政府官僚により暗殺地に近いこの地に大久保の業績を称える石碑が建立されました。
 1888(明治21)年に完成した石碑は、高さ約6mにおよび、表面の碑文は太政大臣三条実美の揮毫によります。
 この地は、1890(明治23)年から東京市の公園とされ、現在も都会の喧騒を忘れさせる落ち着いた佇まいをみせています。
 石碑は、千代田区の文化財に指定されていますが、この他にも園内には麹町大通り拡幅工事の際に出土した玉川上水の石枡が展示してあります。
 また、中央入口から見て大久保公追悼碑の左側に池があります。
 小さな滝もあり、池面に映る周囲の樹木やビルの姿とともに、見る人にやすらぎを感じさせます。

千代田区

 おっといけない、時間だよとばかりに息せき切って、上智大学のキャンパスに戻りました。
 受け付けをすませるとヤッホー君、お話しが始まるまでバ・ク・ス・イ!

息子と2人 24時間介護

 フジテレビ・キャスターの松本方哉さん(53)は、2007年11月に妻(49)がくも膜下出血で倒れて、突然、24時間介護の生活が始まることになった。
 仕事中心だった生活から一転、妻と子に寄り添う日々を過ごしながら、「今は妻の回復を信じて全力で尽くすだけ」と話す。

 妻が倒れた時の細かい状況は、今も思い出したくありません。
 その日、私は担当する夜のニュース番組のため、夕方まで自宅で原稿の準備をしていました。
 自分の体調がよくなくて、出社の時間を遅らせていました。
 すると、階下で私の食事を作ってくれていた妻が、2階に来て、私の後ろにくると「わらひあたまがいらいから……」と言ってベッドに倒れ込んだのです。
 これはおかしいと、すぐ救急車を呼びました。
 長い時間待ったと感じた救急車に乗ると、今度は発車しない。
 病院に次々電話しても、「余裕がない」「人手がない」と受け入れを断られました。
 その間も妻は苦しんでうめいているのです。
 ようやく病院が見つかり動き出したら、道路が渋滞――。
 私は何もしようがなく、「助けて下さい!」と祈るしかありませんでした。

 駐米特派員だった松本さんは、その経験を買われて2003年からフジテレビの夜の報道番組「ニュースJAPAN」のキャスターを務めていた。
 夕方に出社。放送後、時差のある米国の情報収集をし、朝3時ごろ帰宅。
 昼夜逆転の生活で、長男(12)とはすれ違いの日々だった。

 たいへんだけどやりがいがある仕事で、私は「いつか僕は倒れるから、その時はよろしく」と妻に言っていました。
 今思うと、私に合わせて起きたり食事を用意したりする生活は、妻によくなかったのかもしれない。
 あの年は、妻の父が亡くなり、夏にはかわいがっていた愛犬も死んでしまった。
 妻にさまざまなストレスがあったのだと思います。
。。。
 まつもと・まさや: フジテレビのキャスター、解説委員。1956年、東京都生まれ。1980年、同社に入社し、記者として首相官邸や防衛庁(当時)などを担当。1986年から1990年まで駐ワシントン特派員を務め、2003年から「ニュースJAPAN」の編集長を経て、キャスターに。

◎ 取材を終えて: 深夜の報道番組で聞き慣れた冷静な語り口のまま、介護の日々を語ってくれた松本さんだが、家族で乗り越えてきた状況の厳しさは胸に迫った。働き盛りの世代が介護を抱えた時、小さくもろくなった核家族の弱点や、介護保険制度の不備などが浮き彫りになるのだと感じた。「少子高齢化で1人の子が2人の老親を支える時代になるというが、うちの子はその先端を走っている」。その言葉が、未来予告のように響いた。


2010年6月13日付読売新聞、ケアノート
松本方哉さん、妻の闘病 書き留める
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=26583

(*)新潮文庫から2013年4月『突然、妻が倒れたら』が発売されています。



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2 Orang Asli children found alive

 速報!!

 ヤッホー君のこのブログ、一昨日の10月8日付け日記「7 missing Orang Asli schoolchildren」をご参照ください。

 言ったっけ、マレーシアから帰国するとき、一番気がかりだったこと。

 内緒で川に泳ぎに行った小学生低学年の子どもたち7人が、あとで先生に怒られると怖いって、学校からジャングルに逃げ出し、8月23日以来、行方不明になってた。
 マレー半島のジャングルに住む先住民の子どもたち。
 一昨日、木に攀じ登って、野獣などから身の安全を確保してたのか、木の枝に死んでいたのが見つかったとマレーシアの新聞、さっそくブログ「日記」にしました。

 ところで、いつものように今朝、新聞を読んでいたら、ふたり女の子が生きて見つかったって!

 良かったね… 新聞記事には、動画が付いています。
 がたがたに痩せ細って7週間、ジャングルで生きのびていた女の子の生命力にびっくり!
 チャーハンとフライドチキン食べたいって言ってたって…

Rescued girl: I want fried rice and fried chicken

The Star TV assistant news producer Charanjeet Kaur says despite her fragility, Ima, one of the Orang Asli children, which the team ferried, wants fried rice and fried chicken.

The two girls were huddling together when found.

Next to them was a body whose identity has yet to be confirmed.


The Star Online
https://www.youtube.com/watch?t=93&v=z552WWRWJno

GUA MUSANG: In a miraculous twist, search parties scouring the long and windy Sungai Perias have found two missing orang asli children alive near here on Friday.

Reporters on site at SK Tohoi reported that both survivors were malnourished and very weak.

Medical staff stationed at the school rendered immediate health assistance to the two before they were transported to the Gua Musang general hospital at 2pm Friday.


The Star, Updated: Friday October 9, 2015 MYT 5:23:42 PM
Two orang asli children found alive
BY SYED AZHAR
http://www.thestar.com.my/News/Nation/2015/10/09/Two-org-asli-kids-found-alive/



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2015年10月09日

タンゴ物語

 10月4日日曜日でしたか、ヤッホー君、リバーサイド「マラニック」と称して徘徊してしまったのは。
 そのとき石川島公園でこんな案内板を見つけたのです:

日本初の民営洋式造船所 発祥の地

 米国ペリー艦隊が来航した1853(嘉永6年)、幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。
 同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。
 明治維新後の1876(明治9年)、平野富二により、わが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後1899(明治22)年には、渋沢栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。
 この地での造船事業は1939(昭和14)年、造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。
 その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、1979(昭和54)年の工場大移転により、その長い歴史を終えた。
<写真> 初の蒸気軍艦「千代田形」


 へえ〜、そうでしたか、1979年という年に何があったのか…

 1853(嘉永6)年、この地に水戸藩徳川斉昭の手によって創設された石川島造船所は、現在のIHI(旧社名:石川島播磨重工業)の母体となりました。
 以来IHIは造船をはじめさまざまな産業分野で、常に時代の先駆けとなる製品を生み、日本の歴史とともに歩んできました。
 IHI創業の地である佃工場は1979(昭和54)年、その役割を終え、以降その地は東京都のウォーターフロント開発計画の先駆けとして、”リバーシティ21”と名付けられ、発展を続けています。
 私たちは、こうした史実を後世に伝えることで、社会のお役に立っていきたいと願っています。


IHI「石川島資料館とは」
http://www.ihi.co.jp/shiryoukan/about/

 よし、行ってみよう、資料館!その前に、と…
 昨日10月8日のヤッホー君のeチャリは「IHI本社、豊洲ビル」1階アトリウム。
 「豊洲の街にアルゼンチン・タンゴがやってくる」と第3回IHIアトリウムコンサートがありました。

 「アルゼンチン・ブエノスアイレスを熱狂させた若きバンドネオン bandoneon 奏者・平田耕治(1983年生まれ)率いるタンゴクアルチートによる情熱的な一夜」とあらば、行かないわけにはいきませぬ。

 ところでこのバンドネオン bandoneon とはな〜に?
 イマまで何〜んにも知らずに、何〜んにも教わろうとせず、何〜んにも覚えようとせずにただただ口から息を吸って鼻から息を出して年だけ重ねてきたヤッホー君のことです。
 昨夜も腰を抜かさんばっかりにびっくり:

Q バンドネオンは、タンゴが誕生した時からあるのですか?

A タンゴが誕生したのは、1880年。
 公式の記録=楽譜で「バルトーロ」が出版され、形式名「タンゴ」が初めて記された年です。
 「tango」という言葉自体はアフリカ起源ですが、生まれたてのタンゴを奏でていたのは、ヨーロッパ伝来の楽器ばかり。
 ギターを中心に、フルートとバイオリンを加えた編成。
 時にマンドリンやアコーディオン、ピアノで奏でられることもあったそうです。
 ドイツ生まれの蛇腹(じゃばら)楽器「バンドネオン」は、19世紀末に新大陸へもたらされ、1910年代頃からタンゴの主役楽器として定着しました。
 以来、もはやタンゴの鼓動とは切っても切れない関係にあります。


民音
http://www.min-on.or.jp/andmore/tango01.html

 タンゴ誕生の秘話がありますので、ここでご紹介:

 皆さん、タンゴの踊りは、どこの国から始まったか、御存知ですか。
 それはエスパーニア、それはアルゼンチナ、それはアフリカの土人の踊りから。

 皆さん、タンゴの踊りは、どこの国から始まったものでもありません。
 それは、日本の国の古い民族舞踊です。
 それは、日本の歌、日本の踊りです

。。。

 続きはぜひ、笠置シズ子『タンゴ物語』をぜひお読みください
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4470922

 では、さっそく平田耕治さんにご登壇願いまして、楽器の説明をお願いします:

アコーディオンによく似た貴重な楽器、バンドネオン!
https://www.youtube.com/watch?v=DZAUxeuDlFA

 せっかくですので、演奏もひとつお願いします。

"Tangata" タンガータ HIRATA Tango Quartet
https://www.youtube.com/watch?v=-F3vL9ByeRo

 芸術の秋ですね。
 秋には音楽がよく似合います。
 耳を傾けると虫の音
 足を伸ばすと演奏会
 耳を傾けると音の調べ、
 皆んなで良い秋を楽しみましょうね。

 秋の夜長、映画でも楽しんじゃいましょう:

MoMA Film Trailer: El último bandoneón (The Last Bandoneón) 2005
https://www.youtube.com/watch?v=G5a6SJOH2-A



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2015年10月08日

7 missing Orang Asli schoolchildren

 ヤッホー君、朝から涙。
 マレーシア滞在中、現地から報告していましたのでお分かりになる読者もおられると思います。
 とっても気になっていたオラン・アスリの子どもたち7人、8月23日から行方不明になっているのです。
 その一人じゃないのかな、と見つかったそうです。

GUA MUSANG: The decomposed body of a young girl has been found by residents in the waters of Sungai Perias near here, about 500m from the school where seven orang asli children went missing more than six weeks ago.

District police chief Supt Saiful Bahri Abdulah said residents handed over the remains of the girl to the search parties.

However, Supt Saiful Bahri could not confirm if the body found was one of the missing orang asli children until positively identified by family members.

“Police have yet to confirm anything on the recovery of the body. We will have to wait for confirmation of her identity,” he said.

He said that with the find, search efforts for the children will be concentrated around the area where the body was found.

The seven children, Mirsudiar Aluj, 11; Norieen Yaakob, 10; Ika Ayel, nine; Sasa Sobrie, eight; Haikal Yaakob, eight; Linda Rosli, eight, and Juvina David, seven, who lived in the school hostel, were said to have fled into the jungle to escape punishment after they were caught swimming in a nearby river without permission...


The Star, Published: Thursday October 8, 2015 MYT 12:00:00 AM
Girl’s body found 500m from school where orang asli kids went missing
http://www.thestar.com.my/News/Nation/2015/10/08/Girls-body-found-500m-from-school-where-orang-asli-kids-went-missing/

 グア・ムサン GUA MUSANG ってクランタン Kelantan 州の山ん中にある町、あたりはジャングル。
 オランアスリ Orang Asli は、マレー半島の先住民族。
 「教育」ってなに?
 住んでいる家から学校までって離れすぎ、歩いて通える距離ではありません。
 道路があるのかな、バスで通うなんてこともできません。
 じゃあ、どうするかっていうと学校付属施設の寄宿舎に入るのです。
 これって、教え、教えられる関係に閉じ込められてしまうわけです。
 教える側の先生は、国家認定の資格をもったコウムイン、あるいはそれに準じる給与生活者で、国家認定の教科書にそって知識をさずけ、その知識の程度を試験で判定し、その人を評価します。
 他方、教えられる側の児童生徒は、8時始業で一斉にはじまり、分かっても分からなくとも時間がたてば一時限が終わる時間管理、12時になれば一斉に給食とか、あれするな、これするな、やるときはこうだ、という規律、規則にしばられ、やぶったら懲罰という世界に入るわけです。
 ジャングルのなかの先住民族の宇宙とはおよそかけ離れたものでしょうね、きっと。

Contrast in the Pedagogy and Culture
The national system of education is one where the government, the teachers, and in the case of the Orang Asli, the JHEOA, determine the nature, content and administration of the school system. In some schools, the parents play a role as well.

And for the most part, the responsibility of educating the students are tasked to the teachers. This is in contrast to the traditional Orang Asli system where the learning process and method is multi-faceted and holistic. Through their indigeneous language, a child is taught to be polite, considerate and amicable.

Through their arts and crafts, the child learns that with creativity and effort, unlimited utility can be gained. Through songs and rituals, the child is reminded of the other world. And through its legends and folklore, pride and identity are instilled in being a member of the community. There is no fixed curriculum or syllabus, nor timetable for learning. Learning is treated merely as a process to be a good Orang Asli; not to compete in the award of a certificate.

The village is the schoolhouse, and the teachers are the child’s parents, siblings, uncles, aunties, grandparents, cousins, and neighbours. From the elders, the Orang Asli child learns about the riches of the environment, and how it will forever protect them as long they reciprocate the relationship. The usefulness of the products of the forest – for fuel, medicines, food, building materials, crafts, and for peace of mind – are continually shown to the child. The child itself is encouraged to use the forest as its playground. That the forest is a living entity, with a soul and spirituality of its own is also imparted to the child.

Remove this dominion and you remove the very basis of the fabric of Orang Asli society. The child believes in all this because the parents themselves believe in it.

The national school system reduces all this to a fixed curriculum, salaried practitioners, and a rigid modus operandi. For an Orang Asli child entering the school system for the first time, he is thrust into a new environment and has to deal with new people with differing cultures and values. This comes as a shock to them. Some may be able to adapt, others may simply choose to withdraw.


The State of ORANG ASLI EDUCATION and its Root Problems
Colin Nicholas
This article represents a part of a longer consultancy report entitled “Orang Asli: Rights, Problems, Solutions” prepared in July 2006 for the Human Rights Commission of Malaysia (SUHAKAM).
http://www.coac.org.my/codenavia/portals/coacv2/images/articles/OA%20Education.pdf

 寄宿舎住まいの子どもたち7人、あまりの暑さか、いたずら半分か、先生の許可も得ずに川に泳ぎに行ってしまいました。
 先生から叱られる…
 いままでどこに行ってたんだ、そんな自分勝手なことして社会で許されると思ってんのか、お父さんお母さんに言いつけるよ、罰、今晩の食事なし!
 何言われるか分かんない、隠れていよう、逃げよう、お家に帰りたいよう…
 ヤッホー君、どうしたんだろうね、お腹すいてるだろうね、蚊がきて寝られないんじゃないのかな、と失踪のニュースが飛び込んできて以来、夜もおちおち寝られなかった、と言います。
 ここでオランアスリって何?動画をご覧になってください:

Personal approach to teach Orang Asli:
SK Tasik Chini takes a personal approach to reach parents of its Orang Asli pupils to gain trust and ultimately become the top Orang Asli school in the country.
https://www.youtube.com/watch?v=gp8lVyz2aII

Education is The Key of Success ( Educating Orang Asli)
https://www.youtube.com/watch?v=CH4ZqqLvzmk

UNMC students at work in the Orang Asli community
https://www.youtube.com/watch?v=mLGbq33Ww_I

 ヤッホー君の国に「オラン・アスリ」っているか、いないか…
 外国人ですらつい最近まで「エイリアン」と呼びならわしていたんですぅ…
 「一元主義」のこの国に「多元主義」の土壌はないんじゃないかな、と。
 「同化政策」によって、「教育」によって、自分のコミュニティで話されている言葉すらしゃべったことがないので話せない、聞いても分からない、なんて沖縄出身の方からお聞きしたことのあるヤッホー君、また読まなきゃならない本がでてきたようでして:

 私たちが読む歴史の大半は、権力闘争の勝者たちが書いた、勝者に都合のよい記録だといわれる。敗者や虐げられた人々の記録は、時の権力者によって抹殺されたり、時の流れとともに忘却のかなたに追いやられたりしてきた。勝者の記録は次第に歴史の「真実」とされ、疑うことのない社会の「常識」に祭り上げられる。
 この本は、日本の近・現代史の、そんな「常識」を覆し、現在につながる矛盾を鋭くえぐる視座が据えられている。キーワードは「先住民族の視点」「植民地主義」。日本の国民国家形成あるいは日本帝国の領土拡張の過程を国際法と照らして検証し、虐げられた民族の視点で日本の植民地主義を暴いている。重要なのは、植民地主義が今も続いているという指摘だ。
 日本政府は北海道と沖縄を「植民地」と認めたことはない。著者は、両地域が「植民地」として日本に一方的に併合されたのは、アイヌ民族や琉球・沖縄民族の視点に立てば明らかだとし、こう続けている。
 「先住民族の権利の視点がなかったために、日本の歴史学をはじめとする社会科学が、この大日本帝国の詭弁(きべん)に150年にもわたって誤魔化されて、『北海道』と『沖縄』を植民地問題のスコープからはずしてきてしまった。その結果、依然として『植民地政策』や『同化政策』が続行中であるという事実に向き合うことも忘れ去られている」
 本書は両地域の歴史を、そのスコープ(視野)に入れ、国際法と丁寧に照らして国際基準から捉え直している。見えてくるのは、日本という国の素顔だ。
 「先住民族の『近代史』−植民地主義を超えるために」の復刻版だが、尖閣問題の論文を加えるなど沖縄関連の記述は一層厚く、今の沖縄に引きつけられていて新鮮だ。名護市辺野古の新基地建設問題を中心とする「構造的差別」や、問題の本質をより深く理解する上でも、大きな一助となろう。今、アイデンティティーを問い直しているウチナーンチュにとって、座右に置きたい一書だ。


2015年2月15日8:41更新、琉球新報
上村英明『新・先住民族の「近代史」』虐げられた民族から見た日本
琉球新報編集委員、新垣毅
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-238923-storytopic-6.html


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2015年10月07日

しのばず自然観察会

 ヤッホー君、今日のeチャリは、灯台!
 第17回東職ランチョンセミナー「上野の杜から〜自然と歴史環境、憩いのアメニティ空間の危機〜」が開かれていました。上野のお山と灯台学食が大好きなヤッホー君、さっそく「自転車に乗る女」と化したわけです:

☆ 講師:小川潔氏(学芸大学名誉教授・しのばず自然観察会)
☆ 会場:農学部2号館1F第3講義室
☆ 東職URL: http://tousyoku.org/ 

 上野のお山と不忍池一帯は、江戸時代から寛永寺の敷地となり、宗教の聖地として、また花見、月見、雪見と人々に親しまれてきました。
 明治維新(1868年・慶応4年)の上野戦争により、寛永寺の伽藍の多くが消失しましたが、翌明治2年には花見シーズンに先立ち東京市民に開放され、明治6年には日本の公園制度発祥の地の一つとして公園になりました。
 これには、病院建設地になっていた上野のお山の視察に招かれたオランダ人軍医ボードウィンによる、素晴らしい自然景観を残すため病院建設はやめて公園にしてはどうかという提言や、東京府知事になった大久保一翁の、江戸の名残を伝えたいという配慮が貢献しました。
 明治時代には、不忍池の周りが政府高官の競馬場になったことがありますが、上野公園を管理していた博物局はこれに反対し、人びとの「風月の権」を主張しました。
 お役所が率先して、日本で初めて環境権を唱えたのです。
 以来、関東大震災、第二次世界大戦の戦火に見舞われたにもかかわらず、上野のお山には清水堂、上野東照宮などに代表される歴史的建築が残り、また公園地は被災者を受け入れてきました。
 戦後も上野公園は東京都民の憩いの場所として引き続き維持され、都市公園法施行による神社仏閣や国立施設の公園からの分離や文化施設の拡充ののち、東京都は建築規制を厳守して上野公園の空間を保存してきました。
 第二次世界大戦直後、不忍池が野球場にされようとしたときは、地域の商店主や上野の文化施設関係者、文化人らが中心となってこれを止め、水辺空間を守りました。
 25年ほど前には、不忍池に地下駐車場建設の話が起こりましたが、地域住民、芸術家をはじめとする広範な都民・市民の保護運動により、池は守られました。


上野の杜から−しのばず自然観察会&彰義隊・上野公園
http://www.ac.auone-net.jp/~sinobazu/index.html

 ところがお役所・文化庁と国立大学・芸大が率先して、国家百年の計、「上野『文化の杜(もり)』構想」をぶちあげたとのことです。
 知ってました?
 またしても、一般人(コクミンの皆サマ、有権者、納税者、主権者)は蚊帳の外、論外、規格外、
 上で決めれば下はついてくる式の独断専行、「この道しかない」と強引に出たぁ、いま流行りの上意下達でなぜ悪い、とばかりに:

 2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせ、東京・上野を日本の文化発信基地にする「上野『文化の杜(もり)』構想」が進んでいる。
 上野公園にある国立や都立の博物館、美術館が共同利用できる施設を設け、ICカードで全館に入場できるシステムを構築。
 JR上野駅の出口も移設し、地下街を作って利用者の利便性を高める構想もある。
 関係者は「東京五輪とともに上野を世界の文化交流の拠点にしたい」と話している。。。

 これらの施設の連携を深め、さらなる機能強化を図る目的で、2013年12月に文化庁長官と宮田亮平(注1)・東京芸大学長が発起人になって「上野『文化の杜』新構想推進会議」を発足。
 海外からも含め、現状の約1.5倍の年間3000万人の来訪者数(周辺も含む)を目標に、関連する施設や文化庁、東京都、台東区のメンバーがワーキンググループを作り、検討を進めている。


2015年1月7日17時24分更新、毎日新聞・澤圭一郎
東京五輪:上野発「文化の杜」 JR駅出口移設、地下街も
http://mainichi.jp/sports/news/20150107k0000e040230000c.html

 ホント、上は反知性主義で占められ、下々には大本営発表。
 それ以外は、ヒ・ミ・ツで教えない、何も知らない、分からない。
 そうしたら一般人は、興味がなくなるし、すぐにどんなことでも忘れちまいます(それをねらってるんですね、きっと、おおぉ寒、寒)

◆ 来訪者の期待値を見誤るなかれ
 利害関係者がやりたいことがまずあり、理由付けのために来訪者の期待値・ニーズがあたかもそうであるかのようにこじつけている。
 年間3000万人の来訪者(注2)を目指すのであれば京都がなぜ年間5000万人以上の内外の観光客を継続的に惹きつけるのか考えましょう。
 催し物の数やコンサートホール・博物館の数、バリアフリーなどではないはずです。
 特に欧米の方は、自然環境や歴史文化の保全の意識や感度が高く、日本の情景や自然に惹かれる訳ですから、今回のお話ででている達成したい目標と検討されている施策の有効性には大きなギャップ(勘違い)があります。

 中間報告の内容に対する反証を上げればキリがないのでここら辺で。

 当然こういう話では、いろいろな利害関係が発生するので、それぞれ思惑が見え隠れするのは自然なことなので、それ自体どうこうというのはないですが、よろしくないのは本当に良くするためにやるべきことが何かに知恵を絞らず、「文化の杜」なるふんわりフレーズで包んで、上野愛がない人びとがあつまって、安易な全部載せ公共工事の計画を立てようとしていることです。
 上野一帯は、意味不明な造語である文化の杜などではなく、寛永寺のころは上野の杜であり、ずっと上野の森であるのです。

 かの司馬遼太郎さんは、自然こそ不変の価値として若い世代にメッセージを残されています。
 ニューヨークのセントラルパークやロンドンのハイドパーク、神宮の森然り、都会の真ん中の自然は、維持さえできれば、ますます不変の価値となり、人も自ずと集まる。
 まだかろうじて上野にはそういう環境が残っています。
 それらを維持できる民族であることこそ、文化や精神性の体現になると強く思います。


By amunok | 2015-03-11 00:56 | 日々時々旅

 第2回の審議がしれっとされているようですが、責任者が曖昧である点やオリンピック便乗である点など、新国立の騒動とほぼ同じ構図かと。
 JR上野駅と東京メトロの広小路間の歩道連絡通路の失敗例だってあるので、上野公園に穴ガンガン掘って地下街にしたり、これ以上公園一帯の緑を切るような行為は愚考であり愚行。
 地下街が観光客を惹き付けるなんてことは誓ってまずないと思いますよ。
(怒)


By amunok | 2015-08-12 15:10 | 日々時々旅
http://amunok.exblog.jp/

(注1)宮田亮平(1945年、新潟県佐渡生まれ):
 2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会は6日、新たな公式エンブレムの公募や選考を行うエンブレム委員会(委員長=宮田亮平東京芸大学長)を東京都内で開き、今月12〜16日の間に応募要項を公表し、12月7日に応募を締め切ることを決めた。応募要項の骨子も組織委のホームページ上で公表し、広く作品を募る。

2015年10月7日毎日新聞東京朝刊・新井隆一
20年東京五輪:新エンブレム 応募要項、中旬に公表
http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20151007ddm012050150000c.html

(注2)来訪者、来館者が「目標」となると地域の図書館もアウトソーシング!
 5日月曜日の話題ふたつ:

 レンタル大手「ツタヤ」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)などが指定管理者となり、10月1日にリニューアルオープンした神奈川県海老名市の市立中央図書館で、海外の風俗店案内が蔵書に含まれていたことがわかり、市教育委員会は5日、3冊の貸し出しを中止にする方針を固めた。6日にもCCCなどに指示する。
 市教委によると、新たに購入した約7千冊に含まれていたうちの3冊で、いずれもタイの旅行ガイド。「大人のバンコク極楽ガイド」「タイバンコク夜遊び地図」といったタイトルで繁華街を紹介している。
 外部からの指摘で市教委が精読した結果、性的なサービスをする店の紹介など、公立図書館にそぐわない内容が含まれていることがわかり、不適切と判断したという。


10月5日(月)19時16分配信、朝日新聞デジタル
「ツタヤ図書館」蔵書にタイ風俗店案内 神奈川・海老名
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151005-00000050-asahi-soci

 愛知県小牧市で10月4日、TSUTAYAを運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)と連携した市立図書館建設計画への賛否を問う住民投票が行われ、反対が多数をしめた。

 3年後の開館を目指し今年8月にCCCの助言を反映した基本設計案が公開されたが、市民グループから計画反対の約5700人分の署名とともに賛成か反対かを問う住民投票条例案を直接請求し、市議会が賛成多数で可決していた。
 市民グループはCCCとの提携の前例となる佐賀県武雄市図書館における蔵書の選定の不透明さや、「建設費の高さ」「市民への計画の説明が不十分」「基本計画に沿っていない建設案」「個人情報の取り扱い」などを理由に計画反対を訴えていた。
 10月1日には武雄市に続く2件目となる海老名市立図書館(神奈川県海老名市)がオープンしたが、配架がバラバラで不安視する声が挙がっていた。
 現図書館は、開館から約37年が経過し、雨漏りなどの老朽化が進行。収蔵スペースが狭く、本を置く場所に限界がきており、学習スペースや児童向けスペースが狭かったり、蔵書数が少ないなどの不満が出ていた。11万6624人の有権者数に対して有効投票数は5万7333人。賛成が2万4981に対して、反対は3万2352だった。今後、反対多数の結果を受け、小牧市は見直しを迫られる。


10月5日(月)8時52分配信、ねとらば
小牧市の“ツタヤ図書館”建設計画、住民投票で反対多数という結果に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151005-00000009-it_nlab-sci



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2015年10月06日

国家百年の計

 「もう帰るんですか?」って避難者から指摘された馬菅という御仁がいました。
https://www.youtube.com/watch?v=FuXW2pq014I
 この御仁、TPPは「第三の開国」と言って、さっそく旗を振るばかりか、しっぽまで降っていましたね。
 そこへ現れた後ろ原と言う御仁は「日本のGDPに占める農業の比率は1.5%。この1.5%を守るために98.5%を犠牲にするのか」と主張して、あほのヤッホー君でもびっくりしたことがありました。
 あれは、何年前?

 ところが今度は、TPPにはこんな公約を掲げ、国会を牛耳った不安倍増内閣!

1 政府が「聖域なき関税撤廃」を前提にする限り、交渉参加に反対する。
2 自由貿易の理念に反する自動車等の工業製品の数値目標は受け入れない


 話しが違うやんけぇ〜、公約違反じゃ、あ、こりゃあ、だまされたぁ!
 愛国じゃなくって売国だぁ!
 無血く〜出たぁ〜を起こしたあと、「国家百年の計」とか、ショウムない能天気みたいなことをおっしゃられて、またまたびっくり、そう言ってみたら、といったい誰が入れ知恵を働かせたのかなぁ?でんつう?
 今日の「反知性主義」です。

日本テレビ系(NNN)10月6日(火)11時35分配信
TPPは国家百年の計…大筋合意で安倍首相
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20151006-00000026-nnn-pol

 この御仁の記者会見をそっくり垂れ流す、大本営発表なのがこの国のメディア。
 どの新聞を手に取っても中身はいっしょ、だから、”Japan does not have any independent media.”なんて揶揄されるわけです。

 秘密会議のすえのTPP、
 どんな内容なのかまるで不明、
 国益、その前に国民が自分たちの利益にかなうものなのか、検討も不可能、
 アトランタでの論点はアットランダムでも不明、
 ましてやメリット・デメリット調査も不可能、
 これがなんで「国家百年の計」となるの?!?
 そして戦争法みたいにあんたが決めるもんやないやろ、国会での”熟議”、”ご議論”、”ていねいな説明”、そのうえでの”ご判断”は、どこに行きやんした?

 日本の新聞と、アメリカとイギリスではどんな報道の違いがあるのか、ここでちょっと拝見:

◇ 相記者会見骨子
・関税撤廃の例外を数多く確保し、自民党公約を守ることができた
・全ての大臣をメンバーとするTPP総合対策本部を設置
・必要な措置を講じることで市場に流通する米の総量を増やさないなど万全の対策を実施
・アジアの国々とともにもっと大きな経済圏を作り、ヨーロッパとの経済連携協定(EPA)交渉も年内の合意をめざし加速させる
・TPP協定の締結について国会の承認を求めるまでの間に、国内対策を取りまとめる
・1億総活躍担当相は広い視野と発想力、強い突破力が必要


2015年10月6日付け毎日新聞、東京夕刊
TPP:大筋合意 対策本部設置へ 首相表明「国内農業守る」
http://mainichi.jp/shimen/news/20151006dde001020068000c.html

For Mr. Obama to win Congress’s approval, he will have to assemble a bipartisan coalition of lawmakers, building out from the political center to marginalize resistance on the left and right. Earlier this year, the president relied heavily on Republicans to win approval of so-called fast-track trade authority, which will allow a vote on the Pacific accord without threat of amendments or filibuster.

This time, the president probably will need more Democrats’ votes. Final concessions his team made in Atlanta angered the tobacco and brand-name pharmaceutical industries, which in turn could cost the president support among Republicans who were allies on the fast-track issue. Also, many conservatives oppose giving Mr. Obama any big accomplishment. And anti-trade talk from presidential candidates − the Republican front-runner, Donald J. Trump, called it “a terrible deal” on Twitter on Monday − most likely will embolden the conservatives.

Among Democrats, too, opposition from the presidential arena is certain to bleed into debate over the Pacific pact.

Senator Bernie Sanders of Vermont, who is running for the Democrats’ 2016 nomination, began a fund-raising appeal within hours of the deal’s announcement. “Wall Street and big corporations just won a big victory to advance a disastrous trade deal,” he said in a statement. “Now it’s on us to stop it from becoming law.”

The pressure now builds on Hillary Rodham Clinton to take a stand. She promoted the trade talks as Mr. Obama’s secretary of state, but as a presidential candidate she has expressed enough wariness before liberal audiences that her support for an agreement is widely in doubt.


The New York Times, Published: OCT. 5, 2015
Trans-Pacific Partnership Trade Deal Is Reached
By JACKIE CALMES
http://www.nytimes.com/2015/10/06/business/trans-pacific-partnership-trade-deal-is-reached.html

The TPP deal has been controversial because of the secret negotiations that have shaped it over the past five years and the perceived threat to an array of interest groups from Mexican auto workers to Canadian dairy farmers.

Although the complex deal sets tariff reduction schedules on hundreds of imported items from pork and beef in Japan to pickup trucks in the United States, one issue had threatened to derail talks until the end: the length of the monopolies awarded to the developers of new biological drugs.

Negotiating teams had been deadlocked over the question of the minimum period of protection of the rights to data used to make biological drugs, by companies including Pfizer Inc, Roche Group’s Genentech and Japan’s Takeda Pharmaceutical Co.
...
The TPP deal announced on Monday also sets minimum standards on issues ranging from workers’ rights to environmental protection. It also sets up dispute settlement guidelines between governments and foreign investors separate from national courts.

Activist groups vowed to continue their protest against the deal. “The TPP is a wishlist for monopolistic corporations that inherently benefits giant multinational companies while undermining small businesses and startups,” said Evan Greer, campaign director of Fight For the Future. “US lawmakers are in the spotlight now, and they should know that the public is watching them closely and overwhelmingly expects them to vote down this terrible deal.”


The Guardian, Updated: Monday 5 October 2015 13.47 BST
TPP deal: US and 11 other countries reach landmark Pacific trade pact;
Trans-Pacific Partnership – the biggest trade deal in a generation – would affect 40% of world economy, but still requires ratification from US Congress and other world lawmakers
By Jessica Glenza and agencies
http://www.theguardian.com/business/2015/oct/05/trans-pacific-partnership-deal-reached-pacific-countries-international-trade



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2015年10月05日

コカ・コーラ

 小津安二郎の1949年の映画『晩春』はご覧になりましたか(ヤッホー君のこのブログ、2015年9月23日付け日記「秋分の日」ご参照)。
 今日10月5日は、ミュージカル映画『ハナ子さん』をご紹介。

 製作:東寶映畫株式會社
 公開:1943(昭和18)2月25日
 監督:マキノ正博(1908-1993)/出演:轟夕起子(1917-1967)、灰田勝彦(1911-1982)
https://www.youtube.com/watch?v=mwhM9cg75Zo

 そして挿入歌は轟夕起子の歌う『お使いは自転車に乗って』。
 今日は、倍賞千恵子(1941年生まれ)で。

 作詞:上山雅輔(1905-1989、姉は童謡詩人の金子みすゞ)/作曲:鈴木静一(1901-1980)
https://www.youtube.com/watch?v=NzEsqiTDtdE

 銃後の守りをうたいあげる『お使いは自転車に乗って』は大ヒットしたために、戦後も歌い継がれることになるが。。。『二十四の瞳』(1954年5月9日)においては進歩的かつ(島民にとって)高慢な女性が乗るものとして自転車が登場していたが。。。戦後になって大石先生とかつての教え子たちとの再会の場面において、偏見が完全に払拭された自転車は、むしろ甘美な記憶を呼び起こす道具として、そして平和の到来と希望の表象ともなっている。
 戦時下において「銃後の守り」の象徴となった「自転車に乗る女」の脱性化された健全なイメージは、敗戦後もそのまま踏襲されつつ、占領期の民主主義下によってもたらされた「女性解放」「男女平等」の表彰へと変容する。
 1949年に公開された映画『青い山脈』(東宝制作、今井正監督)で、封建的な大人たちに対して勝利をおさめた若い男女が並列して自転車を駆るシーンは、戦後民主主義における新しい男女関係を示唆している。
 同年公開の映画『晩春』(松竹制作、小津安二郎監督)でヒロインの紀子(原節子)が実は密かに恋慕していた父(笠智衆)の助手(宇佐美淳)と浜辺へ向かうサイクリング・シーンもまたこうした表象と無関係ではないだろう。
 デヴィット・ボードウエルが指摘するように、まさしくアメリカニズムの象徴であるコカ・コーラの広告が映し出されるこのシーンで、原節子は土手を宇佐美淳と肩を並べて自転車で走り、ときには宇佐美に先んじる勢いさえみせる。。。


2013年3月『演劇研究:演劇博物館紀要』
「自転車に乗る女」のメディア表彰:三浦環から原節子へ
紙屋牧子(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40363/1/EngekiKenkyu_36_Kamiya.pdf

 あのお〜、そうなんです、「自転車に乗る女」もそうなんですが、コカ・コーラ!

ハマッ子を魅了した米国文化
 横浜から全国へと広がった米国文化は数多い。今では日本人にとって当たり前の存在となった炭酸飲料「コーラ」も、終戦後間もなく国内で初めて横浜で製造された。米軍関係者向けに限られたものだっだが、「米国の味」を知った日本人を瞬く間に虜(とりこ)にした。

限られた人だけに
 横浜・新山下に暮らし、現在も寝具店を営む渡辺秀明さん(79)は、終戦後、米国文化にいち早く触れることができた。
 父親が洋服の仕立てを米軍施設内で行っていた関係で、当時小学生だった渡辺さんも米軍兵士らと交流。そのときにもらったのが、「コカ・コーラ」だった。
 「今のものより一層甘く、しかもピリッと辛い感じがした」と、味の記憶をたどる。
 日本コカ・コーラによると、戦後すぐの1945(昭和20)年10月には、米国の「ザ・コカ・コーラ・カンパニー」の子会社で海外部門を担う「ザ・コカ・コーラ・エキスポート・コーポレーション」日本支社が、横浜の大さん橋ふ頭の入り口付近に開設された。21年以降に現在の横浜市南区にボトリング工場が造られ、米軍関係者向けの製造が開始されたという。
 伊勢佐木町にあった米兵などを相手とした売店(PX)で、昭和20〜28年に働いていた早川朝義さん(85)=横浜市磯子区=は「輸入された大きめの缶に入ったコーラの原液を炭酸で割るボトリング工場が京急線井土ケ谷駅のそばにあり、小学校の講堂くらいの大きさだった」と振り返る。
 横浜市史資料室の羽田博昭調査研究員(56)は「生産されたコーラは、国道16号を通り、座間の米陸軍・第4兵員補充地などの米軍施設に供給されたと考えられる」と説明する。
 その後、ザ・コカ・コーラカンパニーとフランチャイズ契約した東京飲料(現コカ・コーライーストジャパン、東京都)が1956(昭和31)年に設立され、翌昭和32年に日本における本格的な製造、販売が始まるまで、日本人がコーラを直接購入する機会はほぼなかった。緑のボトルに入った褐色の液体は、限られた人だけに許されたものだったのだ。


2015年8月11日07:06更新、産経ニュース
ルート16をゆく 戦後日米の起点
(5)コーラと野球
http://www.sankei.com/region/news/150811/rgn1508110032-n1.html

 この小津安二郎作品『晩春』の製作時は、海岸という海岸は米軍の占有下にありました。
 これは糸川英夫博士のロケット打ち上げ場探しのお話しのとき、でてまいりましたよね。
 ヤッホー君のこのブログ、2015年9月29日付け日記「糸川英夫」ご参照ください。
 したがってこのコカ・コーラの広告は、未だ米国の占領下にあることを示唆しています。
 また、ゲーリークーパーや野球のグローブと併せ、アメリカナイズを表象もしています。

 ところでこのコカ・コーラが、お棺に納められ、火葬炉に入ったお方もおられたのです。
 ヤッホー君も何度も引用させてもらっていましたが、この7月20日に亡くなられた方。
 あのお〜、そうなんです、鶴見俊輔(1922-2015)。帰国後、知ってびっくり!

 今年7月20日夜11時前、鶴見俊輔さんは京都の病院で亡くなった。
 満93歳だった。。。

 棺には、紙コップに移したコカ・コーラも納めることができた。
 かつて十代で親元を離れ、マサチューセッツ州コンコードの町はずれにある寄宿制のミドルセックス校で、大学入学にむけた準備をした。
 毎週土曜日の午後、3キロ余り離れた町まで歩いていき、ドラッグストアで半カップ5セントのコカ・コーラを飲んで、また歩いて寄宿舎まで戻ってくるのが、息抜きになっていた。
 店の女主人は、ノルウエイ人で、そこに立ち寄ると彼女は必ずソニア・へニーという同国出身のスケートの女王の話をしたのだそうだ。
 老年に至ってからも、折あらば、家族の目をぬすみ、ひそかな「独立」の味、コカ・コーラを楽しんだ。
 いくばくか、「不良行為」の味がするらしく、この米国産の飲料をうれしそうに飲んでいた。


2015年10月号『新潮』218頁
追悼 鶴見俊輔「便器でカレーライスを食えるほどの自由」
黒川創(1961年生まれ、著書に『かもめの日』『国境[完全版]』など)

 合掌。

 黒川創さんの鶴見俊輔論をここで一本だけ:

 鶴見俊輔は、93年間にわたる生涯を通して、独創に富む多くの著作を残した。一方、彼が最大限の情熱を持続させた仕事は、敗戦の翌春(1946年5月)、満23歳のときにみずから創刊し、満73歳の1996年春まで、半世紀間に及んだ雑誌「思想の科学」の編集と発行である。同誌は、鶴見自身の「多元主義」を現実に移しつづける広場でもあった。
 本格的な最初の著作は『アメリカ哲学』(初版、1950年)。敗戦後まもない日本にあって、彼の抱いた初心が刻まれている。
 戦前、10代で米国ハーバード大学哲学科に留学し、プラグマティズムを身につけた。これは1870年代前半、若きチャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェイムズらが議論を深めて、創始する哲学の流儀である。「概念」というものを、彼らは、なんらかの実験(行動の計画)を通して検証されうるものと考えた。したがって、抽象的な概念といえども、検証しうる簡単な形になおされていくべきものであり、また、そうすることで意味をはっきりさせていく。これができないものなら、妥当な「概念」ではない、ということになる。

“お守り”の言葉
 こうした視野で見るなら、戦時下の日本社会で重宝された「国体」「日本的」「皇道」といった言葉は、誰にも意味がよくわからないまま、ただ“お守り”のように使われた。いや、戦後も、新しく「民主」「自由」「平和」といった言葉を、やはり“お守り”みたいに使っている。だが、これからは、自分で意味をはっきり説明できる言葉によって考え、また、議論することが望ましい。鶴見が戦後最初に書いた論文「言葉のお守り的使用法について」(「思想の科学」創刊号)は、そのことを強調するものだった。
 さかのぼれば、日米開戦は、米国留学のさなかに迎えた。これによって敵性国民の立場に置かれて、米移民局による聴取を受けた。
 「自分の信条は無政府主義で、この戦争については、どちらの国家も支持しない」と答えたことから、鶴見は東ボストン移民局の留置場に入れられた。獄中でジェイムズのプラグマティズムについての論文を書き上げると、大学は試験官を派遣してきて、その内容を評価し、彼に卒業の資格を認めた。同時代の日本では、考えられないことだった。

負ける側に立つ
 米国社会で生活してきた鶴見にとって、日本が戦争に敗れるのは、自明のことだった。また彼には、望めば、米国に残って学問を続ける自由もあった。だが、結局、戦時下の交換船に乗ろうと自分で決めて、か弱き軍国日本に戻ってくる(『日米交換船』加藤典洋、黒川創との共著)。
 なぜ、それを選んだか?
 戦争が終わるときに「負ける側にいたい」と、直感的に考えたからだった。日本に向かう交換船の上で、彼は満20歳の誕生日を迎える。もし、このとき、若い彼自身による、とっさの帰国の決断がなければ、今日の私たちが知る「鶴見俊輔」という、きわめて稀(まれ)な立ち位置の知識人の存在も、おそらく、ありえなかった。
 
深くねむるために 世界は あり

ねむりの深さが 世界の意味だ

(「かたつむり」『鶴見俊輔全詩集』)


 滞米中、鶴見はさまざまな英米詩に親しみ、日本に戻ると、それらは秘(ひそ)かに彼の心を支えた。戦後、おりおりに記す自作の詩に、彼の哲学の原型が宿る。


2015年9月6日05:00更新、朝日新聞(ニュースの本棚)
黒川創「鶴見俊輔をたどる 多元主義の哲学、その初心と原型」 http://digital.asahi.com/articles/DA3S11950704.html



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2015年10月04日

佐藤卓己

Japan does not have any independent media. I worked for their newspapers, and I know, precisely, that everything that is printed has to be approved. Quality of the Japanese media outlets is disgusting.

As one of the leading mainstream Western journalists based in Tokyo recently confirmed: “The NHK or any other Japanese channel would never dare to air any idea that was not previously broadcasted by the CNN, BBC or FOX TV.”

 そ、そうか、教育とメディアの役割を一番よく知っているのが権力を握ったら、両刀使い、そりゃあ強〜いでっせ。 
 そんなこと思わせる今日の日記でんな〜:

 2014年8月に朝日新聞社が慰安婦報道の誤りを認めて以来、「国益とジャーナリズム」をめぐる激しい論戦が続いている。戦時中の記憶が争点である以上、それは戦時メディアの責任問題とも連続している。
 メディア史において、1945年8月15日は、戦中から戦後への画期ではない(*)。
 戦時期のメディアは敗戦後も一日の中断もなくニュースを流し続けた。
 こうしたメディア史の連続性において、唯一の例外が同盟通信社である。

 敗戦時、中国に1000名、南方に700名の人員を擁し、空前絶後の影響力を誇った「国策通信社」は、GHQにより業務を停止され、共同通信社と時事通信社に分割された。
 戦後も存続した新聞社やNHKの社史が自らの戦争責任問題を無視できなかったのに対して、組織が解体されたため『通信社史』(通信社史刊行会、1958年)にそうした反省の視点は乏しかった。。。
 「同盟通信社」は日本の総力戦体制構築を体現した組織である。
 1931年の満州事変を契機に、「ナショナル・ニュース・エージェンシー」設立が政府内で計画され、1936年に政府の強引な介入で新聞聯合(れんごう)と電通通信部が合併されて成立する。
 巨額の政府助成金が投入され、その情報活動は外務省や軍部と一体化していた。
 1937年の日中戦争勃発とともに国際宣伝戦の最前線に立ち、情報工作のため日系アメリカ人や語学に堪能な左翼インテリを能力主義で続々と登用した。この国策機関の躍動感の秘密は、そこに由来している。
 他方で、欧米向け報道責任者の「デッチ上げ」体験談なども実名で紹介されている。戦局悪化とともに大本営発表が少なくなると、海外放送への対抗上やむなく、「こっちも勝ったというニュースをデッチ上げてそれを放送していた」。
 誰に強制されなくても、虚報が生まれるシステムは情報組織に内在している。それは戦時下に限ったことでもない。
 対外発信の強化は、今日ますます切実となっている。その対策を考える上で、同盟通信社の「敗戦」から掬(すく)い取るべき教訓はあまりに多い。


2014年9月28日付け日本経済新聞朝刊
京都大学教授・佐藤卓己(1960年生まれ)
国策通信社『同盟』の興亡 鳥居英晴著 戦時メディアの責任 正面から問う
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO77634360X20C14A9MZA001/

 この鳥居英晴の著書は反響を呼んでおります。
 大事なことがらですのでもう一本、紹介しておきます:

 第2次世界大戦後、世界で最も多く戦争をしてきた国は米国であり、「挙国一致」の立場から戦争する政府をほぼ一貫して支持してきたのは米国のメディアである。普段は冷静であっても戦争となるや国家主義に傾斜するのが大方のメディアの常だ。

 だが最初から戦争と一体化するメディアもある。本書が取り上げた同盟通信という戦時通信社がそうだ。日本軍は1931年、謀略「柳条湖事件」を契機に満州全域を占領し「満州国」をつくった。この「満州事変」を機に国際社会から孤立していく日本は国際連盟から1933年脱退するが、欧米から白眼視される不利な状況を打開するため、対外宣伝機関として1936年1月、国策通信社同盟を創設する。

 日中戦争の拡大と同盟の拡大は軌を一にし、最盛期には社員ら従業員が5500人に達し、うち中国に1000人、南方に700人が展開した。同盟は自らを「思想戦の中枢機関」と位置づけ、陰になり日向になって日本の戦争遂行を助けた。
 1937年12月の南京大虐殺が本書にも出てくるが、同盟がこの大規模な重大人道犯罪を真摯に取材した気配はない。それどころか、同盟の日本人連絡員が、中国人処刑の指揮を執っていた日本軍下士官から銃を渡され、一人を射殺する場面が登場する。この暗黒の情景は、同盟要員が人間として日本軍と同程度に荒廃し、堕落していた事実の断片を捉えている。同盟幹部は、当時、南京虐殺で「推計3万人が殺された」と証言している。この南京虐殺事件については掘り下げた記述が欲しい。

 日本は1945年9月、正式に敗戦するが、その翌月同盟は解散し、共同通信と時事通信に別れて衣替えをした。共同通信は同盟にいた若手と中堅を社員に組み入れながらも、発足に際し、戦争責任の追及や反省はなかった。
 私は同盟初代社長の長男で同盟中国特派員経験者の共同常務・故岩永信吉氏から1967年初め「他国の歴史を変えようと思ってはいけない」と言われたことがある。この言葉には、戦時中の中国取材の反省を込めた岩永氏の気持ちが込められていた。しかし共同が戦争責任を組織として問題視し取り上げたことはなかった。それを問題化するということは、記者とは何か、ジャーナリストはどうあるべきか、という使命の在り方に正面から取り組むことなのだが、それがなかったのだ。
 そのせいか、警察権力と一体化し自ら報道陣としての魂を売る恥知らずが少なからずいる。権力にとっては「常道」かもしれないが、応じた記者にとっては自殺行為なのだ。なぜ、このことがわからないのか。おそらく記者クラブ時代に持ちつ持たれつの腐れ縁となり、道義心が麻痺して離れられなくなっているのだろう。OBとなっても、その修正から逃れられない者もいる。

 本書を書いたのは元共同記者である。この著者のような正統派が共同記者の多数派であると、やはり共同に在籍した者として信じたい。だが、おぞましく蠢く実態が消え去ったとは思えない。同様のことはメディア他社にも言えることではないだろうか。

 ほんの2〜3年前、メディアは寄ってたかって民主党政権、実力者だった小沢一郎議員らを扱き下ろし、自民党政権復活に道を開いた。
 そこに現れたのが、とんでもない時代錯誤の極右政権だった。
 幾つかのメディアは後悔しているようだが、もはや憲法蹂躙、悪法施行、海外軍事進出、辺野古海域破壊、原発再開を制御するのは極めて困難だ。
 戦前・戦時中のファシズム、全体主義に似た政治的空気が漂いつつある今、メディアは戦争責任を遠くない将来繰り返さないよう、心して基本姿勢を攻めるべきだ。
 これが、理性的になり得る通信社と新聞に求められている。本書も行間でそう願っているように思う。


2014年9月19日号『週刊読書人』
〔評者〕伊高浩昭
誤ちを繰り返さないために 通信社と新聞社に今求められているもの
http://kadensha.net/review/r_2014kokusakutsushinshadoumei.html

 そして1年後の2015年10月4日…

 きょう10月4日の朝日新聞に、山中季広という名の特別編集委員の「日曜に想う」という論説がある。
 その記事で私は知った。
 去る8月24日に神奈川県相模原市の米軍補給廠が火事になり、相模原市の消防も駆けつけたことがあった。
 それを知った時、主権の及ばない米軍基地内に市の消防が入ったことに私は驚いたものだが、この山中氏の記事を読んで合点がいった。
 すべては米軍の命令だったのだ。
 装備も人員も米軍の消防より市の消防がまさる。だから米軍は市の消防に協力を求めた。
 ところが米軍との取り決めで市の消防は米軍の指揮下に入らざるを得ない。
 米軍の指示は「保管物が判明するまで放水は待て」だった。
 結果的には、午前零時45分ごろに火柱が上がったのに、放水が始まったのは午前6時56分だったという。
 「せっかく臨場した市消防が朝まで放水できない。おかしいと思いませんか」
 これが現実だったのだ。
 このエピソードを冒頭に紹介したうえで、山中氏は要旨次のように書いている。
 主権が及ばないのは沖縄だけではない。
 主権が及ばないのは占領期だけのことではない。
 今でも、日本そのものが、米軍の占領状態下にあるのだと。

 いまから3年前、オスプレイが配備された時、時の野田佳彦首相は「米政府の方針。日本がどうしろこうしろと言える話ではない」と国会で発言したことがあった。
 放水できない消防、捜査できない警察、オスプレイ配備に何も言えない首相。
 属国か属領のごとく扱われる点では本土と沖縄に違いはない。
 こう書いた上で山中氏は、先般翁長知事が国連人権理事会で演説をしたことに言及し、次のようにこの論説を締めくくっている。

 「…沖縄の人権がゆがめられてきたのはまぎれもない事実である。同時に日本の主権もゆがめられたまま70年が過ぎた。基地のもたらす同根の苦難を思えば、いっそ菅官房長官が(翁長)知事と肩を並べて国連に訴え出てもおかしくはなかった。
 菅義偉官房長官は翁長知事の国連スピーチを批判した。
 『国際社会で理解されない。強い違和感を覚える』
 その発言に私は強い違和感を覚える」と。

 これは、日米同盟最優先を続ける限り日本は永久に米国の属国状態から抜けだせない、と言っているに等しい。
 私は朝日新聞は日米同盟最優先を唱える新聞だとさんざん批判的に書いてきた。
 その朝日がついにこのような記事を書くようになったのだ。
 山中季広特別編集委員が、朝日新聞の中で主流なのか傍流なのか私は知らない。
 この考えが、朝日新聞の社是であるかどうか知らない。

 しかし、朝日新聞が、山中特別編集委員のこのような論説を日曜日の紙面で大きく掲載したのはまぎれもない事実である。
 それほど日本は世界にも稀な対米従属国であるということだ。
 日米同盟最優先の政策は、いずれ見直されることになるだろう。
 右も左も超えて、ひろく一般国民が国民がそれを政府に求める時がくるだろう。
 それほど米国の外交・安保政策は間違っているということだ。

 その米国との軍事同盟から自立できなければ、日本の将来は危ういということである。


新党憲法9条、天木直人のブログ
対米従属から自立せよと書いた朝日の衝撃
http://new-party-9.net/archives/2750

(*)
 むずかしい一行ですが、佐藤先生の持論。
 以前に出版した著書『8月15日の神話─終戦記念日のメディア学』(増補版がちくま学芸文庫で、2014年12月)の書評がありますので、参照:

 かくして、「玉音」はそれ自体が「国民的記憶の象徴」と理解されるようになってゆくだろう。
 そうした物語=歴史が形成をされていったがために、読み上げられた詔書の日付が前日の8月14日であるにもかかわらず、また、国際法上の終戦日である降伏文書調印が9月2日であるにもかかわらず、
 「国民総《動員=参加》の終戦は8月15日として受け入れられた。8月15日を終戦記念日とすることに論理的な合理性はないが、それを国民感情が抱きしめる必然性はあったのである」。
 たとえ、阿久悠などが実際書き記しているように、
 「昭和20年8月15日のことを[…]よく覚えているようで、よくよく考えてみると実に曖昧で不確かで、大抵のことは後からの知識や空想によって埋め合わせたような気がする」のだとしても。
 以後、8月15日の《参加の記憶》は、奇妙にも、保守派の「聖断により国体は護持された」とする「8.15玉音神話」と、丸山眞男が主張(創造)したところの「8月15日に論理と真理で断絶があった」とする
進歩派「8.15革命」論とが、「9.2降伏記念日の忘却」という陰に隠された共通項の下に、「背中合わ
せにもたれあう心地よい戦後史観を生み出」すことになるだろう。
 「丸山眞男が《八月ジャーナリズム》最大のイデオローグとして戦後の言論界に君臨できた理由もここにあろう」と著者は分析している。
 見落としてはならないのは、「8.15革命」論の受容には、「革命=断絶」を設定することで、戦前と戦後との連続性を見えなくする効果をもたらしていたのではないかということである。
 「そのことが、例えば戦時下から戦後にわたるメディアや情報等性の連続性を隠蔽していたように思える。1945年8月15日を境に変化したメディアは、新聞、放送、出版など、どの分野にも存在しない


2006年「京都大学宗教学研究室紀要」<書評>
佐藤卓己著『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』:ラジオと《参加》の記憶
川口茂雄
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57732/1/kawaguchi.pdf



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楊貴妃

 天平の人びと。
 そこまで行ったら、目を中国に向けざるを得ません。

 楊貴妃。
 そうなんです、8世紀初めの中国では楊貴妃が活躍しておりました。
 楊貴妃と玄宗が共に過ごした華清宮は中国陝西省西安市の郊外にあって今も温泉が湧いているそうですよ:

 市内から東へ30キロ行った郊外の驪山のふもとにある有名な温泉池である。周代から三千年以上の歴史を持つ。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスがこの地を最も有名にしている。
 三千年前に、この山が爆発して温泉が湧き出たため、歴代の皇帝も、ここを行楽の地として大掛かりな造営をした。玄宗皇帝も華清宮を作り、毎年冬から春にかけて、楊貴妃を伴い、酒楽の日を明け暮れ多くのロマンスを生んだ。

春寒くして浴を賜う華清の池

温泉の水滑らかに凝脂を洗う


 白楽天の「長恨歌」は二人の愛情を如実に歌うと同時に二人の贅沢きわまった生活振りも反映している。
 現在、かつての楊貴妃が「凝脂」を洗っていた浴槽が昔のまま保存されている。楊貴妃が入浴したとされる「海棠湯」は、海棠の花の形をしている。
 玄宗が入ったといわれている「蓮花湯」と「海棠湯」「星辰湯」は復元され華清宮御湯遺跡博物館として一般公開されている。
 湯泉は、現在でも入浴でき、リューマチや関節炎に効果があるという。
 華清池は、1936年に西安事件が起きた場所としても有名である。


西安観光ガイド「華清池」
http://www.arachina.com/xian/attraction/hqc.htm

 西安事件?知ってます??
 読書の秋、あと2冊追加:

☆ 鳥居英晴(1949年、東京・武蔵野市生まれ)『国策通信社同盟の興亡――通信記者と戦争』(花伝社)
http://kadensha.net/books/2014/201407doumeitsushin.html
☆ 渡辺考(1966年、東京都生まれ、NHK)『プロパガンダ・ラジオ――日米電波戦争 幻の録音テープ』(筑摩書房)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480818324/

 では、ここで書評をふたつほどご紹介。
 
〔評者]山本武利(やまもと・たけとし、1940年愛媛県生まれ 早稲田大学名誉教授)

 この夏は暑かったが、猛暑を吹き飛ばす二つの著作に出会えた。
 まず7月25日に刊行された鳥居英晴の著書『国策通信社同盟の興亡――通信記者と戦争』(花伝社)である。鳥居本はA5判、832頁という大著だ。同盟通信社、とくに社長として戦争を煽った古野伊之助と、編集局長・常務理事の松本重治の戦争責任を追及する。同盟発足時の西安事件のスクープで名を馳せた松本重治は、新聞連合上海支局長時代の華々しい活動を、戦後ずいぶん経ってから『上海時代』という著書にまとめ、自身のリベラリストとしてのイメージアップに努めた。しかし鳥居は「戦時中の松本の言動の記録はあまり残っていないが、松本もまた同盟幹部として戦争に協力した」として、古野同様に松本の戦時期の言動を掘り起こす。

 鳥居本の書評を『メディア展望』9月号用にまとめた8月25日に、渡辺考『プロパガンダ・ラジオ――日米電波戦争 幻の録音テープ』(筑摩書房)を手にした。渡辺本は5年前の2009年夏に放送された番組の書籍版である。鳥居氏と私は面識がないが、渡辺ディレクターとは長い付き合いである。
 それどころか私は渡辺氏の番組製作には当初からいろいろと相談に乗り、積極的な資料提供を行った。たとえば本書第5章で大きく引用されている、東京ローズなどの正体や背景について詳細に分析した、アメリカ側の「スペシャル・リポート」は、アメリカ国立公文書館で1996年に発掘した秘蔵の資料であり、私自身がまだ著述で使っていないものである。

 各方面の研究者、専門家が本書のあちこちに協力者として登場する。この番組はNHKが終戦記念日に合わせて製作する8月恒例の番組の一つであった。構想から放送までの期間は半年足らずという驚くほどの短期間であった。しかし本にまとめるには時間がかかったらしく、5年間を経て、ようやく刊行にこぎつけた。。。
 映像内容の書籍化にはそれなりの工夫をこらさねばならない。そこで書籍的語り口にも長じた著者が必要になる。渡辺本を手にして、著者は映像と活字の両面をつなげる才能の持ち主と改めて見直した。記述への、映像的な手法の適度の導入で、書籍が陥りやすい平板な展開を避け、読者の興味を引き付けている。

 渡辺氏はこの本の本文で、NHK国際局OBの故北山節郎氏への敬意を表している。北山氏は日本におけるプロパガンダ放送研究の先駆で、貴重な研究書を何冊も残されている。本書第7章は北山氏の遺作『ピース・トーク――日米電波戦争』(ゆまに書房、1996年)をベースに、渡辺氏発掘の「幻の録音テープ」を駆使した圧巻である。北山氏がNHK在局中に、また退社後も長く追求した放送第一次資料が渡辺氏の製作と執筆のベースになっている。

 私は鳥居氏とは面識がない。おそらく渡辺氏と鳥居氏の関係もそうだろう。ところが鳥居本を読んで、鳥居氏と北山氏は資料、情報の相互交換を行っていたことを知った。鳥居本のあとがきで「北山氏が収集された資料なしには、本書を完成することはできなかった」と記されている。ついでにいえば、私は鳥居氏と同じくらい長く北山氏とつきあっていた。彼の在局中から資料提供と学恩を受けていた。拙著『ブラック・プロパガンダ――謀略のラジオ』(岩波書店、2002年)の資料扱いでもアドバイスを得た。

 こうしてみると、この夏の収穫といえる二つのプロパガンダ研究書は、北山氏が生前から支援し、あの世から導いた成果であると言えなくもなかろう。


2014年10月号「ちくま」第523号、筑摩書房
https://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/1054/

〔評者〕横川和夫(1937年、小樽市生まれ、ジャーナリスト)

 日本が起こしたアジア太平洋戦争の隠された裏面の実態を、通信社という窓から描いた稀有(けう)な記録である。著者が5年かけて取り組んだ789ページを読み終わり、日本が再び悲惨な戦争に巻き込まれる危機感を感じ、戦慄(せんりつ)が走った。

 関東軍の謀略だった柳条湖事件から米軍の原爆投下まで、同盟通信はどのような姿勢で戦争を報道したのか。新資料を基に記者の言動に焦点を当てたため、南京虐殺、原爆投下など歴史の目撃者としての臨場感があふれ出ている。が、同時に見えてくるのは軍部に操られる閣僚たち、そしてその政府や軍部に迎合する記者たちの惨めな姿だ。

 同盟通信は、満州事変勃発を機に対外宣伝の必要性を痛感した外務省の尽力で、二大通信社だった電通と連合が合併して1936年に誕生した。初代社長、岩永祐吉は「新通信社は外務省、逓信省の御用機関たるかのごとき誤解を抱く者もあるが、日本の言論界を見くびった考え方だ」と社員に御用通信社にあらず、と虚勢を張った。表向きは新聞社からの分担経費でまかなう「組合主義」を標榜(ひょうぼう)しながら、実態は総経費の40%を占める助成金を政府から受けていた。これを同盟は終戦まで隠し通してきた。しかも2代目社長の古野伊之助は日米開戦とともに「思想戦の第一線の戦士であれ」と社員を鼓舞し、松岡洋右をはじめ近衛、松方一族などの名門、権力階級の子弟を入社させ、権力に接近する道具に使用した。

 国家権力に抵抗できない“迎合集団″化したメディア組織で、記者個人は何を考え、どう行動したのか。国家の利益よりも真実を求めた記者がいたのかどうか、が本書の核心だ。「西安事件」をスクープした松本重治は、同盟の上海支局長時代、近衛文麿と汪兆銘を巻き込んだ和平工作に手を貸したが失敗に終わる。こうした問題も含め著者は最後に「同盟の戦争責任は総括されておらず、日中関係の緊張、秘密保護法の制定など(今の日本は)1930〜40年代の雰囲気に似てきた」と、厳しく警告している。


2014年10月12日付け北海道新聞「本の森」、「戦時下 記者の言動に焦点」
http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/books/2-0016513.html

 西安事件については、ヤッホー君、上記2書を読んだ後にご報告することにします、だって。
 また楊貴妃に戻って…
 なんと山口県長門市の二尊院には安史の乱から逃れてきたと伝わる楊貴妃の墓が、そして、京都市の泉涌寺には南宋時代の作とされる楊貴妃観音(*)があるそうです、ほんと?

 日本で云えば奈良朝の昔、唐の国では天宝15年(756年)7月のことじゃったげな。向津具半島の岬の西側に唐渡口(とうどぐち)ちゅう所があってな、そこへ空艫舟(うつろぶね)が流れ着いたげな。 舟の中にはな、長い漂流でやつれておられたが、たいそう気品のおありなさる、それはそれは美しい女人が横たわっておられたそうな。
  お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の愛妃楊貴妃と申される。安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びないで近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました」と涙ながらに云うたそうな。


長門市公式サイト「油谷の向津具(むかつく)の二尊院に残る「楊貴妃伝説」
http://www.city.nagato.yamaguchi.jp/kanko/yokihi_densetsu/

歴史ミステリー 楊貴妃は日本で死んでいた?1
https://www.youtube.com/watch?v=ikEf4Q6FPbc

京都 泉涌寺 -めずらしい三世仏と、宋来の楊貴妃観音-
https://www.youtube.com/watch?v=Fig60u_CwqY

(*)
 「楊貴妃観音」の名で知られ、中国・南宋から泉涌寺(京都市東山区)に伝わった「観音菩薩坐像」(重要文化財、13世紀)の内部に、仏舎利を納めた小型の五輪塔が入っているのがエックス線撮影で確認され、奈良国立博物館(奈良市)と同寺が、2009年7月24日、発表した。
 五輪塔は世界が地、水、火、風、空で構成されるとする仏教思想を表し、平安中期以降、供養塔や墓石に用いられた。日本以外ではほとんど見られず、同博物館は「大変珍しい例。中国との文化的交流を考える上で貴重な史料」と話している。
 五輪塔は高さ3・6センチで、坐像(高さ114センチ)の胸の中央部分にあった。材質は不明。塔の底の部分に舎利が3粒入っていた。2000〜01年の保存修理の際に発見され、同博物館が今月、あらためて調査した。
 坐像は泉涌寺の開祖俊じょうの弟子湛海が1230年に南宋から持ち帰った。泉涌寺宝物館心照殿の西谷功学芸員は「航海の安全を守るとされた中国・普陀山の観音像と同じようなものを、湛海が中国の工人に作らせたのだろう。五輪塔も湛海の指示で納めた可能性がある」と話している。

2009年7月24日【共同通信】
「楊貴妃観音」に五輪塔 13世紀、南宋から伝わる
http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009072401000647.html



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天平びとの泣き笑い

 10月4日日曜日。
 今日はまず、これまでの続き、聖武天皇に関連する書物のご紹介から:

『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』
著・澤田瞳子(さわだ・とうこ 1977年生まれ。「若冲」で直木賞候補)光文社/1600円

[評者] 吉田伸子(よしだ・のぶこ/1961年生まれ。「本の雑誌」の編集者を経てフリーとなり、各紙誌に書評を執筆。著書に『恋愛のススメ』)

 時代は、奈良時代中期。聖武天皇の発願(ほつがん)で建立が始まった東大寺の作事は、端緒についたばかり。後世、いわゆる奈良の大仏として知られる東大寺毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、銅を流し込む雄型が完成し、鋳造作業が間近だった。
 近江国高島郡角野郷(つのごう)から、3年の夫役を務めるために仕丁(しちょう)としてやって来た真楯(またて)は、重労働の造仏所に配される。
 同時に徴発された仲間には、どこぞの王家に配属された者もいるというのに、と我が身の不運を嘆いた真楯だったが、仕丁頭の後についていった炊屋で出された汁を一口飲んで、仰天する。干した茸と青菜だけの塩汁が、「驚くほど滋味に満ちた汁」だったのだ。

 仕丁頭の猪養(いのかい)は、真楯たち新入り仕丁に言う。お前たちは運がいい、と。「造仏所の宮麻呂といやあ、作事場で知らん者はいない炊男だ。あの親父の飯を食ってれば、大抵の苦労は我慢できるってもんだ」
 朝夕二食が基本だった時代、真楯たちのように重労働の者たちには特別に昼の中食(ちゅうじき)も許されていたことからも分かるように、仕丁たちの労働を支えていたのは「食」だった。だからこそ、宮麻呂は限られた素材に工夫を凝らし、時には自ら材料を調達して仕丁たちに供していた。
 大仏建立に伴う役人たちと現場での対立があったり、宮麻呂の腕を妬む者が現れたりと、様々な“事件”を描きつつも、物語の真ん中にいるのは、宮麻呂という炊男の存在と、彼の人となりを尊敬するようになる仕丁の真楯だ。
 ひょんなことから、宮麻呂が生き仏と崇められている行基と何がしかの縁があることを知った真楯だったが、当の宮麻呂は、仏そのものに否定的な考えを持っていた。真楯もまた、仏のご加護やご利益など信じていなかったのだが……。

 物語の終盤、曰くありげな宮麻呂の過去が明らかになる件には、胸を衝かれる。事実を知った真楯は、けれど、宮麻呂をかばう。「俺たちにとっての仏は、あのでかい大仏じゃありません。炊屋で飯を食わせてくれる、宮麻呂なんです」と。宮麻呂だけではない、(大仏建立のために)ここで働く者たちはみな、世のための仏です、と。
 真楯のこの言葉こそ、仏の教えの真髄だ。
 そして、一介の仕丁にすぎない無学な真楯が、このような心持ちに至ったのは、宮麻呂の食があってのことなのだ。そこが素晴らしい。読後に私たちは気づく。本書そのものが、読む者にとっては「与楽の飯」であるのだ、と。。。


2015年10月4日(日)週刊現代「日本一の書評」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45394

 ここででてくる「仕丁」とは?…
 以下「書物&書評」をご紹介:

『平城京に暮らす―天平びとの泣き笑い(歴史文化ライブラリー)』
著・馬場基(ばば・はじめ、1972年生まれ、奈良文化財研究所主任研究員)吉川弘文館、2010年/1800円+税

[評者] 情報発信する社会統計学(人生という森の探索)

 木簡をとおして平城京の人びとの生活を推し量ることの魅力を存分に教えてくれる本。読み手の想像力が喚起される。
 平城宮・京出土の木簡の点数は約17万点あるそうだ。どれもこれも奈良時代作られ、使われ、捨てられたもの。使って捨てたのは「下級官人」と呼ばれる身分の低い人が多かったようである。
 この本を読んで教えられたのは、平安時代の歴史や生活史は、わりと制度論的な記述が多い。それというのも、記録に残っているものはどうしても今でいう役所の文書などが多数をしめるからである。この本も最初は当時の律令官制の話、平城京の地図(条坊制)、邸内のロケーションの話からスタートしている。そのうえで衛士、仕丁たちがどこで暮らしていたのかという話題に移っていく。
 今で言う大学、当時の大学寮のあった場所ははっきりわからないそうであるが、大学寮と官僚制度との関わりが細かく記述されていて興味深い。また宮仕えの機微、哀感、運脚の実態、写経書にたずさわった人びとの様子などについても、推測を織り込みながら論じられている。
 ラジオ深夜便という番組(*)で著者が木簡のこと、それから読むことのできる当時の人々の生活ぶりを語っていた。それを聴いていて、この本の紹介もあったので、読んでみた。この種の本を読むことがあろうとうは予想もしなかったが、いい出会いであった。

http://blog.goo.ne.jp/kisawai_2007/e/1dd4728aa5738d39cfcead9ed93dbe32

(*)2010年5月15日午前1時台放送[人ありて街は生き]見えてきた!天平びとの暮らし

 ではここで山歩クラブ9月27日、国分寺界隈タウンウオーキング、その後のヤッホー君の歴史散策の参考画像として、何点かまとめてご紹介:

(1)秋の奈良公園散策
https://www.youtube.com/watch?v=O2Ir-MEzhbQ

(2)わかる歴史【奈良時代】聖武天皇と奈良の政治
https://www.youtube.com/watch?v=qbTfcEP9h6E

(3)歴史にどきり2015年度第4回聖武天皇・行基〜大仏はなぜ作られたか〜
http://www.nhk.or.jp/syakai/dokiri/?das_id=D0005120257_00000

(4)奈良市ニュース 平城京天平祭開催!
https://www.youtube.com/watch?v=SRSvEH62SLg

 そして、今日の澤田瞳子の直木賞候補作『若冲』書評も読書の秋、以下に記しておきます。
 若冲は、江戸時代中期に京で活躍した絵師いとう じゃくちゅう(1716−1800)。
 いますぐ本屋さんに:

[評者] 末國善己(すえくに よしみ、1968年生まれ、文芸評論家)

 生誕300年を迎える若冲。その後半生を全八作の連作で描く本書は、各編が「鹿苑寺大書院壁画」や「動植綵絵(どうしょくさいえ)」などの制作秘話になっていて面白い。
 著者は、妻を不幸にした後悔と、若冲の贋作(がんさく)を得意とした実在の絵師・市川君圭との確執や相克が、若冲の偏執狂的なまでに緻密(ちみつ)な描写や奇矯な構図を生んだという大胆なフィクションを描いている。この説によって、夫婦和合の象徴で普通は寄り添っている鴛鴦図(えんおうず)を、若冲が離して描いた理由などが鮮やかに解明されるので、本書に書かれたことが史実だったのではと思えるリアリティーがある。
 さらに著者は、尊王派の公家が追放された宝暦事件、若冲の実家がある錦高倉市場と五条問屋町の訴訟、天明の大火といった史実を描くことで、若冲の葛藤に迫る芸術小説の中に、政治劇、経済小説、ミステリー、人情ものなど多彩なジャンルを織り込んでいるのだ。若冲が巻き込まれる事件を通して、弱者を平然と切り捨てる政治の非情、格差と差別の問題など、現代とも共通する社会問題を浮かび上がらせているのも秀逸である。
 心と社会の“闇”に翻弄(ほんろう)された若冲が、最期に到達した境地は、若冲の絵が世代を超えて愛されている理由とも繋(つな)がり、深い感動を与えてくれるはずだ。
    ◇
文芸春秋・1728円


2015年5月10日付け朝日新聞「絵師の制作秘話、大胆に描く」
http://book.asahi.com/reviews/column/2015051000018.html



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2015年10月03日

古代史の再生

 聖武天皇、その後。

制度変革試みた大胆な女性天皇
 東京・大手町にある和気清麻呂(わけのきよまろ)像は、紀元2600年に当たる1940年に建てられ、「万世一系」の天皇の血統を守った忠臣として、清麻呂を称(たた)えている。その背景には、僧侶でありながら天皇になろうとした道鏡を逆賊と見なす歴史観がある。
 道鏡を自らの後継者にしようとした女性こそ、称徳天皇にほかならない。この女性は、奈良時代に2度天皇になっている。1度目は孝謙天皇、2度目は称徳天皇として。しかし平安時代以降、孝謙・称徳天皇は道鏡との男女関係におぼれた淫乱な女性という言説が広がってゆく。
 本書によれば、こうした言説は女性天皇を否定するために作り出された臆説にすぎない。それは同時に、孝謙・称徳天皇が歴代のどの天皇もなし得なかった、天皇制の大胆な変革を試みたことを物語っている。
 孝謙・称徳天皇は、聖武天皇と光明子(こうみょうし)(光明皇后)という傑出した天皇と皇后の第1子として生まれ、仏教経典の『最勝王経(さいしょうおうきょう)』を写経するなど、両親からの影響を受けつつ21歳で史上唯一の女性皇太子となる。そして32歳で天皇となるや道鏡を重用して出家し、男装した「変成男子(へんじょうなんし)」となることで、女性としての限界を克服する。
 当然、孝謙と道鏡の体制に危機を感じて男性天皇の復帰をもくろむ勢力もあり、孝謙はいったん淳仁天皇に譲位する。だがまもなく淳仁を廃位させ、再び出家したまま称徳天皇となる。
 称徳天皇は、道鏡を法王にする一方、多くの女性を登用した。天平神護元(765)年には、位階が男性54人に対し女性44人に、勲等が男性28人に対し女性15人に授けられている。この数字を見ても、称徳がいかに画期的な天皇であったかがわかろう。
 それだけではない。仏教ばかりか神祇(じんぎ)や儒教にも精通したこの女性天皇は、歴代天皇のなかでも珍しい政治思想家であった。たとえ血統を受け継がなくても、「天」が授ける者であれば天皇になれるとする思想は、「万世一系」を否定する論理を兼ね備えていた。本書の白眉(はくび)は、その思想に到達するまでに孝謙・称徳天皇がいかに研鑽(けんさん)を重ね、自らを加護する神仏について考え抜いたかを生き生きと描き出したところにある。
 道鏡を天皇にしようとする称徳の野望は、宇佐八幡に送られた和気清麻呂が、それを否定する神託を受けたと報告することで、はかない夢と消えた。しかしもし宇佐八幡が、称徳が期待する通りの神託を下していたら、日本も中国や朝鮮のように王朝が交代する歴史を歩んでいたに違いない。本書からは、そうした歴史のイフを探る楽しみも湧いてくるのだ。
    ◇
 ミネルヴァ書房・3780円/かつうら・のりこ 1951年生まれ。東京女子大現代教養学部教授。専攻は日本古代史。博士(文学)東京大。高知女子大助教授などを経て現職。著書『女の信心』(女性史青山なを賞)、『日本古代の僧尼と社会』など。


2014年12月7日付け朝日新聞、書評
『孝謙・称徳天皇―出家しても政を行ふに豈障らず』[著]勝浦令子
[評者]原武史(明治学院大学教授・政治思想史)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2014120700003.html

 この時代の研究、成果発表がすすんでいるようで、実にけっこうなことでございます。
 「反知性主義」が跋扈し、無血クー出たぁ〜を起こしています。
 ムカシそうしたようによその土地にでかけ、上官に絶対服従の軍規のもと、拘束した捕虜の首を日本刀で切り落としたり、ドローンで上から無辜な庶民まで巻き込んで抹殺し、人をハエやゴキブリと思って叩き殺す時代に入っていますが、痴をなんとかしてヤッホー君、「反知性主義」に負けぬよう研鑽を積んで健さんについていくと10月2日金曜日、意を固くしたようです!

 このブログでは限りがございます、イントロだけでございます。
 このブログの読者の皆さん、読書の秋です!
 ぜひ本屋さん、図書館、研究室におみ足を運んでいただき、ご自分でもっと読み込んでいって歴史認識を深め、あるいは関東近辺でしたら国府、国分寺の置かれた現地に入って、さらには奈良の都に東大寺をまわって、ムカシに想像力を働かせ、子や孫のミライにも創造力を試されてみてはいかがでしょうか。

 もっと美しい、これからも平和な日本のために。
 よその国々ともっと仲良く交わっていけるよう。

 この間、参考にした先生をあとお二方紹介します:

 まず、佐藤信先生(1952年生まれ、東大大学院人文社会学系研究科教授)

 その歴史を理解することによって、これから新しい歴史を刻んでいこうとする気持ちになるような場所になってもらいたい。
 それが私の願いでもあり、史跡整備の課題であると考えます。


府中市教育委員会、国分寺市教育委員会編『古代武蔵の国府・国分寺を掘る』(学生社、2006年)214頁

 読者には、ぜひ本書で語られた史跡の現地に足を運んでいただき、自らの身体で歴史の証人である史跡の現場や、その歴史的景観を感じ、かつ読み解いていただきたい。
 感傷にひたるのではなく、「あるく・みる・きく」、そして自ら調べ、学び、考えることを通して、史跡から日本の歴史を読み解く作業に挑戦していただきたい。
 必ずや歴史を理解するうえで、何らかの発見があるはずであり、そこに日本の歴史や文化を学ぶ醍醐味を感じていただけるであろうことを疑わない。
 そして、それらの史跡の保存について若干の思いを寄せていただけることがあれば、幸いである。


佐藤信編著『史跡で読む日本の歴史』第4巻「奈良の都と地方社会」(吉川弘文館、2010年)

 次いで、栄原永遠男先生(さかえばら・とわお、1946年生まれ):

 みなが手を打って喜んだのは、1968年からはじまった『大日本古文書』『大日本史料』の復刻であった。学生であった私も、なけなしの下宿代をつぎこんでしまい、親もとに救援をもとめた思い出がある。これによって、正倉院文書や東大寺文書その他の資料を、各自の机辺におけるようになったことの意義は大きい。なにしろ、それ以前は、限られた研究機関にしかなかった書籍である。また正倉院文書のマイクロフィルムや写真も、その後だいぶ研究機関にいきわたった。。。
 このように、日本古代史の研究は、ここ20年ほどのあいだに、新しい資料の増加と、まえから知られていた文献資料に対する研究の深まりとによって、面目を一新してしまった。
 日本古代史の研究は、「記紀」『続日本紀』あるいは律令関係資料のような文献資料だけでは、もはや進められないところにきてしまった。
 私のように、文献史学の分野を歩いてきているものにも、考古学の進展が生み出してくるさまざまな学説やデータに対応することが要求されるようになっている。
 そして、同じような事態は、今後、文化人類学・法学・政治学・経済学・言語学その他の隣接諸科学とのあいだにも、どんどんおきていくであろう。。。
 それでは、古代人たちが息づいていた世界へ入っていくことにしよう。


 『集英社版日本の歴史第4巻』「天平の時代」(集英社、1991年)はじめに 古代史の再生



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2015年10月02日

Abe-chan, is this a return to 1937?

 あほのヤッホー君、いまの流行りは政権の「反知性主義」だって、いま知りました(注1)。
 あの首相は30日(日本時間1日)、訪問先のジャマイカで「次は『一億総活躍社会の実現』が大きなテーマ」と語ったろうですが、どっかで聞いたようなキャッチコピーでした、やっぱりね、ハイ。

「進め一億火の玉だ」
1.
行くぞ行かうぞ ぐゎんとやるぞ
大和魂だてぢゃない
見たか知ったか底力
こらへこらへた一億の
かんにん袋の緒が切れた
2.
靖国神社の御前に
拍手打って ぬかづけば
親子兄弟夫らが
今だ たのむと声がする
おいらの胸にゃ ぐっときた
3.
さうだ一億火の玉だ
一人一人が決死隊
がっちり組んだこの腕で
守る銃後は鉄壁だ
何がなんでもやり抜くぞ

進め一億火の玉だ
行くぞ一億どんと行くぞ

歌;林伊佐緒・真理ヨシ子
https://www.youtube.com/watch?v=WoMQktGc5OY

 戦争中の「一億総火の玉作戦」。
 その戦争には誰一人として責任をとらず「一億総ざんげ」。

 日韓関係がこじれる中、韓国が日本に対して謝罪を要求している、と報道されています。テレビで昔、高市早苗が、「第二次大戦のとき、私は生まれていないので、私には戦争責任はまったくない」という趣旨の発言をしていました。そう言い切るのはどうかとも思いますが、永遠に謝罪し続けなければいけない、と考えるのもつらいです。。。
 敗戦国の事情はどこも似ています。ドイツは、ナチスにすべての「穢れ」を押しつけてドイツを救おうとした。イタリアはファシストに、フランスはペタン元帥のヴィシー政府にそれぞれ「穢れ」を押しつけて、祖国を免罪しようとした。でも、それができるだけの「足場」が彼らにはありました。ドイツには反ナチ勢力がいてヒトラー暗殺を企てていた。イタリアではパルチザンが実際にムッソリーニを殺した。フランスでもドゴールの亡命政府があり、レジスタンスが最後は自力でドイツ軍を追い出した。でも、日本には戦争指導部と戦った国内勢力が何もなかった。「リスクヘッジ」を考えた人間が一人もいなかった。だから日本人は「一億総懺悔」するしかなかったんです。日本人全員が戦争に程度の差はあれ加担したのだから、みんなの責任であって、誰の責任でもないという話にした。
 戦争被害を受けた国に謝罪するときにぜんぜん本気じゃないのはそのせいなんです。「私が戦争責任者です」と手を上げる人がどこにもいないんですから、謝りようがない。
 戦争ってのは勝ったり負けたりするものですから、負けたときにちゃんと「すみません」と謝っておけば、そんなに尾をひきずるものじゃない。中韓の日本に対する謝罪要求が終わらないのは、謝っていないからです。高市早苗みたいに「私には責任がないけど、文句言われてうるさいから賠償金払う」みたいな高飛車な態度を誰も「謝る」とは呼びません。平和条約でもODAでもけりがつかなかったのは、韓国市民にしてみたら、日本人に謝ってもらった実感がないからです。。。


2014.11.11 22:00更新、産経ニュース
日本は謝り続けないといけないのでしょうか? 内田樹の「ぽかぽか相談室」
http://www.sankei.com/gqjapan/news/141111/gqj1411110001-n1.html

 きわめつけはこちら。国際社会でも「変なの、本気なの、気持ち悪い」NHK的気分を漂わせています(注2):

TOKYO (Reuters) - A new slogan adopted by Prime Minister Shinzo Abe and meant to show that all Japanese will benefit from economic growth is raising eyebrows among those who see it as an eerie echo of wartime propaganda.

Abe unveiled the goal of building a "Society in Which All 100 million People can be Active" after his re-election as ruling party chief late last month. He will create a new post to oversee the plan when he reshuffles his cabinet on Wednesday.

Political insiders say the phrase describes a society in which all can achieve their potential. The 100 million level is where the government wants to hold Japan's shrinking population over the next five decades, versus 126 million now.

However, some bloggers and historians say the slogan recalls wartime rhetoric, such as a call for all "100 million" civilians, spanning Japan's then-colonies of Korea and Taiwan, to be ready to die, rather than accept defeat, in World War Two.

"Abe-chan, is this a return to 1937 and a "Movement to Mobilise the National Spirit?" quipped one person on an internet chat board, addressing the premier by a familiar diminutive, and referring to another wartime propaganda campaign.

Asked about the perception that the phrase echoed wartime rhetoric, a government source familiar with Abe's thinking said, "The biggest meaning is 'inclusive growth'."

Abe, 61, has often spoken of "escaping the post-war regime", a legacy of the U.S. occupation that conservatives say eroded national pride and traditional mores.

"Whether he chose this slogan consciously or as a result of a mindset that doesn't think it is somehow problematic, I don't know," said Sven Saaler, a history professor at Sophia University in Tokyo. "But it comes from a basic sympathy he has for prewar and wartime Japan."

Political analysts say the new slogan and Abe's three new "arrows" of economic policy, ranging from a strong economy, and support for childrearing, to a stable social security system, are aimed at wooing voters ahead of an upper house poll next July.

Abe's support has sagged over a controversial change in defence policy that could allow troops to fight abroad for the first time since 1945.

"It's not only pre-war nostalgia. He needed to step up the rhetoric for the election," Saaler said. " But I don't think its coincidental that something related to wartime propaganda came up."

The Star, Published: Friday October 2, 2015 MYT 5:30:03 PM
Japan PM Abe's new slogan stirs memories of wartime rhetoric
By Linda Sieg
http://www.thestar.com.my/News/World/2015/10/02/Japan-PM-Abes-new-slogan-stirs-memories-of-wartime-rhetoric/

(注1)
 安全保障関連法案に反対する集会が2015年7月10日、国会前や京都市の中心繁華街・四条河原町で開かれた。
 京都の集会は、関西の大学生らで作る「自由と民主主義のための関西学生緊急行動」(シールズ関西)が企画。ツイッターなどを通じて約300人が集まった。参加者は音楽を流しながら、「憲法まもれ」「FIGHT FOR LIBERTY!」などと書かれたプラカードを掲げ、大学生や大学教授ら10人が次々にマイクを握った。
 神戸大大学院2年の塩田潤さん(24)は「この国は一部の政治家のものではなく、私たちのもの。ひとりひとりが主権者として声を上げよう」と主張した。
 山室信一・京都大教授は安倍政権を「反知性主義」と批判し、「私たちは論理で戦っていくしかない。皆さんはそれを実践しており、それがこの国の未来の明るさを証明している」と語った。

2015年7月11日付け毎日新聞大阪朝刊
安保法案:国の未来守ろう 学生らが反対集会
http://mainichi.jp/area/news/20150711ddn041010020000c.html

(注2)
 じゃ、ま、いかの前、大本営発表では国連総会であの首相が高尚なことを主唱したと声高に言い募っています。
 しかしどれだけの人が聞いていたのでしょうか?
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/1d5272f94cbd94e773670d1cd1387692



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歴史の鍵穴

 聖武天皇。
 聖武天皇は「国分寺、国分尼寺建立の詔」をだしました。いつ、どこで?
 741年(天平13)年2月のことでした。
 前年740(天平12)年8月末、大宰府で藤原広嗣が挙兵し、672年「壬申の乱」以来の軍事的反乱となります。
 しかし聖武天皇は乱のただなか、10月末、突如都の平城京を後にして、東国への巡幸に出ています。
 これが5年に及ぶ不可解な謎の「彷徨」と呼ばれるもののはじまりで、広嗣の逮捕と処刑は伊勢国(三重県)で聞いております。
 聖武天皇一行は美濃国(岐阜県)を経て12月のはじめ近江国(滋賀県)を巡り、恭仁京(くにのみや、京都府木津川市)に遷都することにしたのです。
 この恭仁京で2寺建立の詔がだされるのです。
 では総本山、大仏「廬舎那仏建立の詔」は、といえば、743(天平15)年10月、紫香楽宮(しがらきのみや、滋賀県甲賀市、宮町遺跡)で出され、恭仁京の造営は3年で停止。
 しかし、翌年の744年2月、難波宮(なにわのみや、大阪市)を都とする勅を出します(が、聖武天皇は
紫香楽宮に戻っています。また聖武天皇に唯一残された男児、安積親王が3月、急死します、17歳でした)。
 聖武天皇は、745(天平15)年5月に平城京に戻ります。

 後継ぎをつくる、繋いでいくことがどれほどたいへんなことか、安積親王の悲劇を知ったヤッホー君、低気圧が嵐となって過ぎさった秋の日の10月2日金曜日、いろいろと思いを巡らしております。
 謎の「彷徨」については想像力をかきたてられるところであります。
☆ 倭姫命(やまとひめのみこと、垂仁天皇の娘)と逆回りだけど同じコースを歩いて、天照大神を奉った、
☆ 大仏建立の適地探し、浄土を現世につくる夢の実現
☆ 壬申の乱の勝者「大海人皇子」(天智天皇の皇弟、のちに天武天皇、その孫が聖武天皇)と同じコースを歩いた、
☆ 藤原氏及びその藤原氏の権力拡大を狙う支配者層と距離を置く、
☆ 自身も含めての病気平癒を願っての旅だった。。。

 イマでも続く1300年前への旅。
 恭仁宮、紫香楽宮、難波宮の直近の話題を三題:

 奈良時代に都が置かれた恭仁(くに)京の宮跡(国史跡、京都府木津川市)で、国家的儀式が行われ、高級官僚が執務した「朝堂院(ちょうどういん)」の建物(朝堂)や門の遺構が見つかった。京都府教委が2014年12月3日発表した。他の都とは異なる特異な構造がうかがえ、貴重な発見という。
 恭仁京は740年に聖武(しょうむ)天皇が平城京から移した都。3年余りで難波宮へ遷都したため、「幻の都」とも呼ばれる。今回、2012年に見つかった朝堂院の建物跡南側で、南門の柱を据えた跡2カ所(ともに直径2メートル超)を確認。平城宮では瓦ぶきで2本の本柱の前後に控え柱がある四脚(しきゃく)門や八脚(はっきゃく)門が一般的だったが、恭仁宮は板ぶきの簡素な造りだったとみられる。
 昨年2013年11月の発表では、朝堂は他の都で一般的な長方形ではなく、ほぼ正方形だったとしていたが、今回、正方形の1棟分と考えられた柱穴は複数棟分にあたると判明。多くの柱穴が並ぶ様は、朝礼などにも使うため柱が少なかったはずの朝堂として異例で、高床式だった可能性もあるという。
 上原真人(まひと)・京都大大学院教授(考古学)は「大極殿(だいごくでん)など中枢の建物を優先し、門は後から整備するつもりだったのだろう。遷都を繰り返した聖武天皇の意向を反映したのかも」と話す。


2014年12月4日11時04分更新、朝日新聞・佐藤剛志「都なのに…簡素な役所の門 聖武天皇が移した「幻の都
http://digital.asahi.com/articles/ASGD33STHGD3PLZB007.html

 聖武天皇は740年から不可解な遷都を繰り返し、5年間のさすらいの末、紫香楽宮(しがらきのみや)を都とした。その跡である宮町遺跡(滋賀県甲賀市)で発掘された木簡の両面に、難波津(なにわづ)の歌と安積山(あさかやま)の歌が書かれていた。2首が詠まれた舞台の位置関係を調べると、地理的にも対極にあることがわかる。
 木簡は1997年の発掘調査で出土した。片面に難波津の歌が書かれていることはすぐにわかったが、もう一方の面に安積山の歌が書かれていることは10年後の2007年、栄原永遠男(さかえはらとわお)・大阪歴史博物館長が全国の歌を記した木簡を再調査してわかった。
 難波津の歌は『万葉集』に載っていない。平安時代の905年に成立した『古今和歌集』の2種類の序文のうち、紀貫之(きのつらゆき)が書いたとされる仮名序に載っている。

難波津に咲くや木(こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花
(難波津に咲くよ木の花が、冬が去り今は春だと咲くよ木の花が)

 仮名序によると、仁徳天皇に対して、それとなく意見を述べた歌だという。5世紀の仁徳天皇の時代までさかのぼるかどうかはわからないが、徳島市の観音寺遺跡などで出土した木簡にも書かれており、7世紀末には広く親しまれていた。

 安積山の歌は『万葉集』に載っている(巻16−3807)。

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
(安積山の影さえも映って見える山の湧き水のように浅い心で私は思っていないのに)

 編者の注によると、葛城王(かづらきのおおきみ)が陸奥国(みちのくのくに)に派遣されたとき、国司のもてなしがひどく、王は怒って宴席を楽しめなかった。そこに以前、采女(うねめ)だった風流な女性が現れ、左手に杯をささげ、右手に水を持ち、王の膝をたたいてこの歌を詠んだところ、たちまち王は機嫌を直し、終日、楽しく飲んだという。
 「葛城王」は左大臣として聖武天皇を支えた橘諸兄(たちばなのもろえ)が736年まで使っていた旧名。『万葉集』の編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)の上司で、監修者のような立場にあった。
 仮名序には、この2首が「歌の父母(ちちはは)」のようなもので、手習いをする人が初めに習ったと書いてある。安積山の歌を記した木簡は紫香楽宮が唯一だ。この木簡によって、仮名序が書かれる160年前の745年ごろ、既に2首が対となっていたことが実証された。
 難波津は今よりも海が入り込んでいた難波潟(大阪湾)にあった港で、遣隋使、遣唐使などが出発、帰着した。難波宮(なにわのみや)(大阪市中央区)の近辺とする説が有力だが、733年に遣唐使が出発した港が『続日本紀』では「難波津」、『万葉集』では「難波の住吉(すみのえ)の三津」となっており、帝塚山学院大名誉教授だった故・吉井巌さんは、両者を同じ港と考えた(『萬葉集への視角』)。『古事記』(712年成立)には、仁徳天皇が「墨江(すみのえ)の津」を設けたとあり、難波津の歌の舞台が住吉(すみよし)大社(大阪市住吉区)付近の住吉(すみのえ)の津と考えられていた可能性がある。
 一方の安積山は、福島県郡山市の額取山(ひたいとりやま)とも安積山公園とも言われ、特定できない。ただし、歌が詠まれた宴席の場は、陸奥国の安積郡衙(ぐんが)(郡役所)とする説が有力で、郡山市の清水台遺跡がその跡とされる。
 地図ソフト「カシミール3D」で、住吉大社と清水台遺跡を結んでみた。距離は538キロ。両者を結ぶ直線は紫香楽宮の中枢施設である朝堂前殿跡の北1・6キロを通る。難波津の位置の取り方によってずれが大きくなるが、大局的には、難波津の歌と安積山の歌の舞台は、紫香楽宮から見て正反対の方向にある。
 難波津は南西の地の果てであり、安積山は北東の地の果てに近い。平城京から見て伊勢と出雲がそうであるように、本州島の両極端にあるからこそ、難波津と安積山が対になったのかもしれない。


2014年10月15日毎日新聞東京夕刊、歴史の鍵穴・専門編集委員、佐々木泰造
難波津と安積山 紫香楽宮をはさんで両極端
http://mainichi.jp/shimen/news/20141015dde018040026000c.html

 2015年3月に東京・六本木ヒルズで初演されて話題を呼んだ人形浄瑠璃文楽の屋外公演「にっぽん文楽」の大阪公演が、大阪市中央区の難波宮跡公園で10月17〜20日に開かれることがわかった。文楽発祥の地に、奈良県産のヒノキなどでつくられた移動式舞台が初お目見えする。
 「にっぽん文楽」は、大阪市の補助金問題(*)などで危機に直面していた文楽を支援しようと日本財団が企画。大阪公演は当初、文楽ゆかりの道頓堀周辺で候補地を探したが交渉が難航し、難波宮跡公園に決まった。大阪歴史博物館の南側広場に舞台を仮設する。
 公演は昼夜2回の全8回。人形遣いの桐竹勘十郎さんらが出演し、「二人三番叟(ににんさんばそう)」「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」を上演する。東京公演では上演中も観客が自由に飲食できたが、公演前後や休憩中のみに見直し、代わりに屋台などを出店してにぎわいを演出する予定だ。
 宗教学者の山折哲雄さんらが顧問となり、学識者や経済人による実行委員会をつくり、文楽振興にも力を入れるという。


2015年6月10日17時44分更新、朝日新聞・向井大輔
文楽の屋外公演、10月に大阪で 発祥の地で移動式舞台
http://digital.asahi.com/articles/ASH697JJ4H69PTFC023.html

(*)
「文楽は敷居が高くて」
 助成金カット騒動のとき、橋下徹大阪市長がそう言うと、義太夫(文楽)の人間国宝、竹本住大夫は「敷居を低うしてお待ちしてます」と返した。
 しかし住大夫の引退のとき、橋下市長は「これからは後進の育成を頑張ってください」と言いながら、今年度からの助成金撤廃を決めている。
 「あの方は、口だけ達者でんな」
 住大夫はガッカリした顔でそうつぶやいた。
 「しかし、亡くなった歌舞伎の18代目中村勘三郎さんは、生前『河原乞食としての矜持を忘れてはならない』と話していましたが、いかがですか」
 私がそう訊くと、住大夫は「同感ですッ」と答えた。
 「万が一、助成金が無くなったら、三和会の頃みたいに、巡業したらええと思てます。落ちるんやったら、若いときです。若い時にとことんまで、落ちた方がええ。そしたらどうなるか、と思うことがある」
 しかし同時に、住大夫はこうつぶやいた。
 「せやけど助成金も、そら、もらえるもんは、もろうといた方がええと思います」
 住大夫のこの言葉に、大阪人としての強かさと、苦労が滲んでいる。若手に苦労はしてほしいが、かといって自分のような金銭的苦労はさせたくないという、複雑な思いがあるのだ。
(「SAPIO」2015年6月号)



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2015年10月01日

七重の塔

 JRや相鉄との乗換駅の海老名駅。1日平均乗降客数は小田急全体で7位の約13万6600人(2013年度)。大勢の利用客の憩いの場が、駅そばの海老名中央公園だ。
 公園にはきれいなブロックが敷き詰められ、周囲を小田急が開発した大型商業施設「ビナウォーク」のビルがとり囲む。ビルの外壁は、オレンジ、緑、青とカラフルな色使いで、さながらテーマパークのよう。
 この場所で異彩を放つのが「七重の塔」だ。奈良時代、聖武天皇の命を受け、現在の海老名地域にあった相模国分寺内に伽藍(がらん)(寺院の建物)の一つとして七重の塔が建立された。発掘調査した国の推測では高さ65メートルの威容を誇ったという。
 ただ、ここにあるのは、国分寺があった街のシンボルになるようにと、1992年に海老名市観光協会が約9千万円をかけて建てたレプリカ。「本家」に比べ22メートルと小ぶりだが存在感はたっぷり。近くに住む徳永広子さんは「ちょっとちっちゃいけど、海老名に国分寺があったことが大勢の人に知ってもらえていいんじゃない」。ポップな景観の中にそびえるいにしえの塔。微妙なアンバランスが独特の存在感を醸し出している。


2015年2月18日16時30分更新、朝日新聞・杉山高志「各駅停話:303小田急小田原線:16 海老名 七重の塔、威厳たっぷり
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11608742.html

 「相模国分寺」が海老名市に、「武蔵国分寺」が国分寺市に。
 ヤッホー君たち山歩クラブの面々、2015年9月27日、七重塔の跡もレプリカも見学してきました:

七重塔.jpg

 訪れる方々に永く親しまれていた国分寺市役所旧本庁舎前の「武蔵国分寺」七重塔推定復元模型が、旧庁舎解体に伴い、2012(平成24)年2月末におたかの道湧水園内へ移設されました。
 この模型は市内北町の田中為義棟梁が復元模型設計書を参考に10分の1スケールで製作したものです。
 1993(平成5)年に市が寄贈を受け、市役所旧本庁舎前に設置されていました。


2012年4月創刊10号記念特別号「武蔵国分寺跡資料館だより」
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/239/news10.pdf

 国分寺建立の詔から千年以上、1274年とか経ったイマでも、全国各地で話題になっています。
 最近の例からふたつほどご紹介:

 上総村上をはじめ、上総牛久など九つの駅名に「上総」がつく。小湊鉄道が縦断する千葉県市原市には、かつて上総国の国府が置かれた。平安時代に書かれた「更級日記」の作者・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は少女時代をこの地で過ごし、日記は上総から旅立つ場面で始まる。
 駅から徒歩15〜30分の住宅地に、国史跡の上総国分寺・国分尼寺跡が残る。741(天平13)年、聖武天皇の詔(みことのり)によって全国に建立された国立寺院の一つだ。
 発掘調査などから、国分寺は七重塔など七堂伽藍(がらん)を有する壮大な建物群だったと判明。国分尼寺は全国最大級で、復元された中門と回廊が往時をしのばせる。
 だが「ほかの国府に比べて知名度がいま一つ」と、観光ボランティアガイドをする前田房穂さん(71)。退職後に地域を学ぶうちに市原は歴史の宝庫だと気づいた。昨年の2013年、7人のシニア世代で「かずさのくに国府探検会」を結成し、市内の史跡や寺社などを月に数回案内している。
 国府の推定地には駅のある村上地区など4カ所が挙がるが、謎のまま。「国府はいまもどこかに眠っています」。訪れる人々に前田さんたちは天平ロマンを伝える。


2014年12月12日16時30分更新、朝日新聞・石平道典「(各駅停話:254)小湊鉄道:2 上総村上 国府が眠る天平ロマン
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11504255.html

 国史跡の上野国分寺跡(高崎、前橋両市)で、これまで金堂跡とされてきた遺構の約40メートル南側で新たな建物跡が見つかった。県教育委員会が2014年10月15日に現地で開いた寺跡整備検討委員会は、この建物跡を創建期の金堂跡と断定した。創建当時の建物配置の見直しを迫る発見で、これまで金堂跡とされてきた遺構が何かについても再調査が求められる。
 検討委では今年度下期(8〜10月)の発掘調査の成果が報告された。今年度上期(5〜8月)の調査では、敷地南側の正面入り口「中門」の西側の回廊跡で、北向きに約50メートルの地点から東側に直角に曲がる箇所が見つかっていた。
 従来、金堂とされてきた建物跡より手前で曲がっているため、さらに東側を調べると、建物の基礎とみられる掘り込みの一部が見つかった。一部は耕作などで掘り起こされて確認できなかったが、建物跡の規模は東西約28・5メートル、南北約19メートルと推定され、検討委はこれが創建期の金堂の跡と断定した。
 金堂の北側には講堂があったとされ、委員らは金堂跡とされてきた建物跡は講堂の跡か、後世に建て直された金堂の跡とみている。前沢和之委員長(館林市市史編さんセンター専門指導員)は「興味深い大きな発見。これまで金堂とされてきた跡は何なのか、二つの跡の関係など、さらに調査を進めたい」と話した。
 上野国分寺は奈良時代に聖武天皇が命じて全国68カ所に建立された寺の一つ。高さ約60・5メートルの七重塔があったとされる。県教委などは1980年度から9年間続けた後、中断していた調査を2012年度に再開。東西約220メートル、南北約235メートルとされる寺跡を発掘し、中門や七重塔、南大門、東大門などの遺構を確認している。
 過去3年間の発掘調査に関する講演会が19日午前9時半から国府公民館(高崎市引間町)である。また、26日に開かれる「上野国分寺まつり」では、午前10時と午後3時半から今回発掘された金堂跡などの現地説明会がある。


2014年10月16日3時更新、朝日新聞・群馬版、上田雅文「上野国分寺創建期の金堂跡発見
http://digital.asahi.com/articles/ASGBH4WG4GBHUHNB00L.html



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