2015年05月31日

ムードアクション

 今日の「リリー物語」は、今月5月18日付け毎日新聞夕刊からです:

 昭和の日本人は「寅さん」が好きだった。僕は映画「男はつらいよ」シリーズをすべて見た。23歳下の長男も全部、見ている。
 渥美清さん演ずる「テキ屋の車寅次郎」はすぐ怒り出す“単細胞”。でも、義理人情にめっぽう厚い。全48作で44人のマドンナに出会い、その度に恋をする。ほとんどが片思い。時に、心が通じ合うこともあるが…、妹のさくらに「○○さん、お兄ちゃんが好きなんじゃないの?」と言われても「冗談を言うんじゃねえよ」と粋がってみせたりする。
 全48作で失恋した相手が44人…、計算が合わないのは、吉永小百合さんの「小説家の娘・歌子」が2回登場。それに浅丘ルリ子さんの「旅回りのキャバレー歌手・松岡リリー」が4回も登場しているからだ。
 寅さんは北海道・網走で、男勝りのリリーに出会い(第11作「寅次郎忘れな草」1973年8月)、雨の帝釈天参道を一つの傘を差して歩くまでになった(第15作「寅次郎相合い傘」1975年8月)。そして、第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月)で、リリーが入院した沖縄の病院に駆けつける。「俺とこの女は生まれる前から運命の不思議な赤い糸に結ばれているんだよ」。赤い糸?
 中国の北宋時代の「太平広記」にこんな話が残っている。“モテない男”が不思議な老人から「私が男女の足首に決して切れない縄を結ぶと、二人は結ばれる」と教えられた。「俺の相手は?」と聞くと「野菜売りの老婆が育てる3歳の女の子だ」。怒った男は召使に幼女の眉間(みけん)を刀で一突きにさせる。
 ところが、14年が過ぎ、男が結婚すると、相手の美しい娘の眉間には「あの傷」が残っていた。
 恐ろしい話でもあるが、日本では「小指をつなぐ見えない運命の赤い糸」として広がった。
 第48作「寅次郎紅の花」(1995年 12月)で、寅さんは奄美群島加計呂麻島(かけろまじま)で偶然リリーと出会う。いつかは、二人は…、だが、渥美さんの急死で、これが最終作になってしまった。最後まで、寅さんは…、片思いだった。

(客員編集委員・牧太郎(1944年生まれ)の大きな声では言えないが…:寅さん「片思いの美学」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150518dde012070004000c.html

 お待たせしました、ではここで「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」を見てみましょう:
https://www.youtube.com/watch?v=xbP0B_EzVPU

 そして寅さん最後の作となった「男はつらいよ 寅次郎紅の花」:
https://www.youtube.com/watch?v=2LrvL_qI0Ik
https://www.youtube.com/watch?v=2fVU1deu4vk
https://www.youtube.com/watch?v=X8RfHNss09I

「寅さん」はもちろん「昭和の名画」ですが、ここで、ヤッホー君、どうしてもリリー出演の名画「夜霧よ今夜もありがとう」(1967年3月、監督・江崎実生)を挙げたいのだそうです。
 昨日も登場願いました佐藤利明さんに連続で語っていただきます:

 この曲と映画については、そのDVD-BOXのブックレットのための解説から一部、引用させていただきます。
 石原裕次郎と浅丘ルリ子のコンビによる“ムード・アクション”は、昭和30年代末から40年代にかけての日活アクション成熟期に、多くの佳作を残している。裕次郎映画のメイン監督である舛田利雄監督の『赤いハンカチ』(1964年)、松尾昭典監督の『夕陽の丘』(1964年)や『二人の世界』(1966年)など、裕次郎の甘い歌声をフィーチャーした大人のラブ・ストーリーに、アクションを巧みに配したムード・アクションは、裕次郎映画の新たな境地となった。
 ムード・アクションという言葉は、日活宣伝部が『夕陽の丘』の宣伝コピーとして作ったものだが、映画評論家の渡辺武信氏は『憎いあンちくしょう』(1962年)から『波止場の鷹』(1967年)までの間に作られたものが、ムード・アクションと定義している。いずれも、自己のアイデンティティとロマンに生きる「男」と、現実的な幸福を求める「女」の葛藤をさまざまなドラマの中で描いた作品である。
 そういう意味では『夜霧よ今夜も有難う』は”ムード・アクション”の条件を満たした佳作となった。浜口庫之助作詞・作曲による主題歌は、歌謡史に燦然と輝く名曲で、裕次郎の甘い歌声とともにファンに今なお愛され続けている。(中略)
 外国航路の貨物船の船長・相良徹(石原裕次郎)が、バレエダンサーの北沢秋子(浅丘ルリ子)と婚約するが、秋子が結婚式の当日に失踪。失意のうち船を降りた相良は、それから数年後、横浜で外国人相手のクラブ“スカーレット”を経営しながら、密出国を斡旋していた。ある日、秋子が夫である東南アジア某国の革命派幹部グエン・ホアダイ(二谷英明)と共に密出国させて欲しいと現れる。
 再会した二人の間には「1500回の昼と1500回の夜」が過ぎていた。失われた過去の為に、目の前に現れた秋子の現実を、受け入れる事の出来ない相良。過去と決別するための克服のドラマは切なく、まさにムードアクションの面目躍如。(中略)
 本作のムード作りに貢献しているのが、魅力的なダイヤローグの数々。野上竜雄、石森史郎そして江崎監督によるシナリオには名台詞がちりばめられている。相良と秋子が交す失われた4年間についての「1500回の朝と昼、そして夜」の会話。ピアノを弾く裕次郎の前に現われた秋子が「貴方の好きなもの。雨上がりの舗道…ひとりぼっちのゴリラ…」と相良が好きだったものを挙げ、続いて「私の好きなもの」を挙げてゆく…

(2009/11/03 11:42 佐藤利明のTICKLE ME 娯楽映画と音楽と)
http://toshiakis.at.webry.info/200911/article_3.html

 2012年3月2日には浅丘ルリ子自身が選んだ『夜霧よ今夜も有難う』を上映しています(於有楽町マリオン):

浅丘さん: 私にとって“映画”とは、学校であり、青春であり、夢であり、歩むべき人生の道標(みちしるべ)です。私にとって、歩んできた道そのものが、“映画”なのです。

浅丘さん: 私は映画を観ることが大好きで、今までに2000本近くの作品を観てきました。だから最初は、自分が映画に出ていることが、何と不思議な事か!と思いました。今日まで歩んでこられたのも、沢山の人たちに護られているお陰です。もし、生まれ変わっても、また“映画女優”になります」

浅丘さん: 石原裕次郎さんとは37本、小林旭さんとは42本ご一緒しました。365日、家族よりも長い時間一緒にいて、嫌な所も良い所も全部見ました。蔵原監督は、私の中に無いモノ、有るモノを、これでもか、これでもかと引き出してくれました。皆さん、本当に素敵で、その当時は本当に恋をしていましたよ。

(映画産業団体連合会[映団連]セミナー「私が愛した映画」)
http://www.eidanren.com/seminar_04.html

 この映画のなかにさりげなく入り込むそのときどきの「時代性」、それがまた暗い映画館で時を過ごす多くの人びとに共感と感動の輪を広げていくのだろう、と。
 これもシナリオライターや映画監督の大事な技、「時代性」を見抜く眼力のなせる才能なんだろう、と。
 
 ではこの“ムード・アクション”がどう時代と赤い糸で結ばれていたのか、と言いますと:

全国で革新自治体広がる
 1967年4月の都道府県知事選挙で、東京都では社会・共産両党が推した経済学者の美濃部亮吉氏が当選し、革新知事が誕生しました。それ以前にも京都府では蜷川虎三知事、横浜市では飛鳥田一雄市長など革新首長が選出されていましたが、1967年はこの傾向が強まりました。1971年には、大阪府の黒田了一氏(憲法学者)を含む160の革新首長が活動しています。これらの背景には、高度経済成長の結果、全国で公害問題や都市問題が深刻化して住民運動が活発になったことなどがあります。革新自治体は、政策面では環境保護のための公害規制や福祉の充実など政府の行政よりも人権保障を重視した政策を実行して、政治をリードしました。そのため、国の法律よりも人権保障に厚い自治体の条例は法律に違反するのではないか、憲法上問題になりました。「地方自治の本旨」(憲法92条)に基づき地方の政治を優先させるのか、中央政府による集権的な政治を優先させるのかに関わる根の深い問題です。

ベトナム戦争と日本
 ベトナム戦争は大変長く、かつ極めて残虐な戦争でした。エポックメーキングなことはたくさんありますが、良心的兵役拒否ともいうべき行為をした4人の米兵を日本の市民が支援した1967年を採り上げます。
 第一次インドシナ戦争で北ベトナム(ベトナム民主共和国)に敗北したフランスは1954年、ベトナム統一総選挙実施を決めた休戦協定(ジュネーブ協定)を結びました。2年後のこの選挙の実施に危機感を持ったアメリカは、南ベトナム(ベトナム共和国)の軍事支援に乗り出しました。これに対して南ベトナムの反政府勢力は1960年、南ベトナム解放民族戦線を結成、これを支援する北ベトナムと南ベトナム・アメリカとの第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)は深刻な戦争に発展しました。アメリカはピーク時には軍艦を含めると68万人を超える軍隊を派兵して北ベトナムをも爆撃、第二次世界大戦に使用した3倍の砲爆弾、枯葉作戦、ナパーム弾など大量破壊兵器を動員しました。100万人を超える死者と数千万人の負傷者を出して戦争が終結したのはやっと1975年でした。世界最強を誇るあるアメリカが、東南アジアの小国ベトナムに完全に敗北を喫したことに、世界は驚愕し、刮目しました。
 冷静にみると、アメリカが敗北せざるを得ない理由がありました。一つは南ベトナムでの戦争が地主階層から土地を解放する戦争として農民らの強い支持を得ていたことです。もう一つは、ベトナム民族の強固な自決権を軽視していたことです。他人(地主)や他国(フランス、日本、アメリカ)に支配されず自由で人間らしい生活をしたいという欲求は人間にとって基本的なものです。アメリカは、これを資本主義と共産主義の代理戦争と位置づけましたが、それではベトナム人の強力な抵抗を説明することはできません。アメリカは本質を見誤った愚を犯したと言えるでしょう。しかし、今アメリカは「歴史に学ぶ」ことをしないで、イラクやアフガンでの戦争をイスラム原理主義との戦いとみなし、同じような間違いを犯しているかに見えます。
 日本政府は一貫してアメリカの政策を支持し続け、沖縄はベトナムへの出撃拠点となりました。横須賀などの本土の基地も提供しました。報道されていないようですが、深夜の東京近郊の米軍基地には戦車のチェーンについた肉片を洗い落とす、一桁違う高級の学生バイトの姿がありました。日本の支援なくしてはアメリカのベトナム戦争は不可能だったという点で、日本は戦後も、朝鮮戦争に続いてアジアに対する加害国になりました。「戦後の日本は平和だった。日本人は平和ボケだ」としばしば語られます。しかし、日本は国際法上はこの時点で戦争当事国だったと言えます。ベトナム戦争は戦争犯罪であり東京法廷も開催されましたが、安保条約にも違反していました。第6条に在日米軍の守備範囲として規定されている「極東」の範囲を超えており、日本を基地として米軍が出撃する場合には日本と事前に協議するという条項も完全に破っていました。

(法学館憲法研究所「1967年」)
http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1967.html


posted by fom_club at 06:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月30日

木村礎

 今日の「リリー物語」はちょうど一年前になりますかね、昨年2014年の東京新聞からです:

 日本を代表する映画女優、浅丘ルリ子さんが演じた、放浪の歌姫・リリー松岡は、寅さんにとっても「男はつらいよ」シリーズのファンにとっても特別な存在です。第11作『寅次郎忘れな草』で北海道の網走で出会い、柴又で楽しい日々を過ごしたリリーは、ラストで寿司職人(毒蝮三太夫)と所帯を持ちます。
 それから2年、第15作『寅次郎相合い傘』は、夫と別れ再びドサ回りの歌手となったリリーが柴又を訪ねますが、寅さんは不在。別れ際に「そのうちまた来るね」というリリーに、さくらは「お兄ちゃんと一緒にね」と言います。冗談めかしているのですが、これがさくらの本音であり、ぼくたちの思いでもあります。
 中盤、寅さんがリリーをキャバレーに送って、とらやに戻って来たときに、しみじみ言うのが、今日のことばです。「お金があったらどうするの?」とさくら。寅さんは「リリーの夢を叶(かな)えてやるのよ」と答えます。 
 場末のキャバレーで酔客相手に聞いても貰えない歌を唄うリリーが可哀想で、自分にお金があったら、歌舞伎座や国際劇場のような大きな劇場を借り切って「リリー松岡ショウ」を開いてやりたいと語ります。
「寅さんのアリア」と呼ばれる独り語りで、夢の大舞台への思いを馳せる寅さん。「皆さま、大変長らく、お待たせをばいたしました」と司会者の口調でリリーを紹介します。この「アリア」の「リリーの夢」は「寅さんの夢」でもあるのです。
 浅丘ルリ子さんが、この場面が大好きだと話してくれたことがあります。その理由は「寅さんのリリーへの愛が溢れているから」。
 この後、雨の柴又駅まで、番傘を持った寅さんが、リリーを迎えに行く場面があります。寅さんは「散歩よ」とうそぶきますが、リリーは寅さんの優しさに感激します。「寅さんが風邪を引いて寝込んだら、私つまんないもん」
 寅さんはリリーを想い、リリーは寅さんを愛しているのに、この二人はなかなかうまくいきません。でも、人が人を思うことの素晴らしさがこの作品に溢れているのです。

(2014年5月21日付け東京新聞、娯楽映画研究家・佐藤利明「溢れるリリーへの愛」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/torasan/list/CK2014052102000130.html

 毒蝮三太夫さんは1936年生まれ、これに対しこの佐藤利明さんは1963年生まれ。
 東京新聞に連載されたこの「寅さんのことば・第一部」は、”オリジナル・サウンドトラック大全”CD『寅次郎音楽旅〜寅さんのことば』としてまとめられています(ユニバーサル ミュージック、2014年4月発売)。
http://toshiakis.at.webry.info/

 今日も「リリー物語」はここまで。

 と言いますのも昨日5月29日金曜日の午後、傘をさしたヤッホー君は明治大学(注1)を徘徊中、大発見!
 地下にある「博物館」。
「絵図にあらわれる村の景観と生活」展でイマは帰れぬヤッホー君の故郷の古図、「出羽國村山郡山口村山論絵図」と遭遇してしまったのです。
https://www.meiji.ac.jp/museum/exhibition/6t5h7p00000i7w3k-att/ex2015B.pdf

 図録については今回、制作していないそうでザンネン、しかし2007年の特別展のときの『明治大学所蔵 村絵図の世界−故郷の原風景を歩く−』が参考になります。
http://www.meiji.ac.jp/museum/shop/zuroku-syousai.html

 企画した木村研究室は、学長でもあった故木村礎(きむら もとい、1924-2004)先生がはじめたところ。
 お弟子さんのおひとり、専修大学教授だった青木美智男(1936-2013)先生(注2)はこんなことを:

 …研究姿勢を大学の定年まで41年にわたって貫かれた。調査を一年の休みもなく実施された。それはどんなテーマでも変わることのない手法だった。広範囲に現地を歩く。そして村の古文書を探し、整理し目録を作成して筆写する。こんなことの繰り返しが毎夏続いた。木村研究室の書棚には筆写された古文書の製本が何段にもわたって並んだ。
 私は木村さんの没後、御夫人に、先生は合宿調査の費用はどうされたのですか、と質問をしたことがある。夫人は公的機関から依頼された調査以外は全部木村の負担ですと答えられた。その時、愕然とすると同時に、木村さんの村落史研究への情熱と、古文書調査に賭ける執念のすごさに感動を覚えた。そういえば合宿の宿舎が廃寺の本堂であったり、町や村の公民館など、風呂のないような粗末な施設ばかりだったことを思い出す。経済的に大変だったのだなあとしみじみ思う…
 今年もまた暑い夏がやってきた。生前の木村さんなら、合宿調査の準備も終わり一安心しているころだろう。事前に今夏の調査目的を確認し研究史を読み込んで現地へ向かう。だから空振りがほとんどない。そして必ず共同研究の成果が公刊される。一見大胆そうに見えるが、きわめて細心で用意周到な研究者だったのである。

(青木美智男「木村礎さんの近世村落史研究へのこだわり」日本経済評論社PR誌『評論』184号所収)
http://www.nikkeihyo.co.jp/critiques/view/97

 先生の村落史研究はこのように、初めから結論ありきのようなイデオロギー先行でなく「頭」でなく「足」exclamation×2
 それこそ農民のようにその土地に這いつくばって、遺跡の発掘調査のように、古文書の発掘調査を基礎して積み上げていく研究手法ですが、この研究態度や意識はどこからくるのでしょうか。
 面白いエピソードが残っております:

 俗っぽい事例ではあるが、ある会話を紹介する。1971(昭和46)年5月、千葉県の旧家に合宿調査の事前打ち合せのため木村に同行したことがある。
  大檀那「ところで、木村先生はどちらのお生まれですか」
  木村「江戸川区の小松川ですが、今は葛飾に住んでます。東京の下町です」
  大檀那「へえ〜、あそこに学者が育つ風土があるんですか」
 その日の帰りの国鉄総武本線列車内におけることば。
  木村「君、あの通りかもしれないな。今、下町に4年制の大学は無いんだよ。まあ、商船大はあるけど、あれはまた特別だ」

 当時、学者に多かった富豪・エリート階級といった類の家に生まれたのではなく、父は茨城出身でガス会社の集金係、母は女工として勤めたことがある主婦業であった。その後、この近隣に多くあった長屋を何箇所か転居した。上の兄二人に比べ「悪童」ぶりがはじまったのは小学校3年時からであった。成績も良くはなかったが、それでも少しずつ上昇した…
 安田商業学校に入学した。在学中、最も熱中したのは勉強ではなく読書であったが、教練では態度が良くないとして体罰を受けたり、2600年記念式典の作文のことでは内容が悪いというだけではなく、普段の行状についても叱責された(ただし左翼系の少年というわけではない)。こうした類のことは…いってみれば木村の少年時代は本人が筆者に語った通り、「下町のあんちゃん」だったのである。

(鈴木秀幸(注3)「木村史学における文化史論」『明治大学史紀要第16号、2012年、所収)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/14058/1/daigakushikiyo_16_94.pdf


(注1)ヤッホー君のこのブログ、2013年9月26日付け日記「生き続ける天心の理想」参照。

(注2)2013年9月20日発売『小林一茶』(岩波新書)
『歴史評論』(2013年8月)に、この本の著者青木先生のインタビュー記事が掲載されています。先生は次のように語っています。

 一茶の句に「世直し」という言葉が晩年の句にもしばしば登場するのは驚きの連続でした。一茶といえば小動物や子どもに優しい眼差しを向けた俳諧師という印象が強かったので、発句集に収められている句を全部読んで仰天です。こんなに社会や政治性豊かな句を読む俳諧師だったのかと見直し、日記・書簡・読書記録などすべてに目を通し、一茶の句を史料として使って化政期という社会を論じてみることにしたのです。

 長年の研究成果を踏まえた本書では、次のような句が紹介されています。新鮮ではありませんか?

 福島出身の歴史研究者として、災害史研究を一過性のものとしないように注力したいと話しておられた青木先生ですが、本年2013年7月、突然逝去されました。まだまだ、取り組んでいただきたい課題は多くありました。心よりお悔やみ申し上げます。
(岩波新書 編集部だより)
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1309/sin_k729.html

(注3)
 夏目漱石の母校・錦華小(現・お茶の水小)から名をとった錦華坂。「漱石ゆかり」の印象を持つ人もいるが、1924(大正13)年の計画で生まれた“新坂”だ。1923年9月の関東大震災。直後の大火。見上げる崖が逃げ道をふさぎ、数知れぬ悲鳴が炎にのまれた。復興とともにできた坂は崖上の駿河台へ延び、学生らの笑い声が響く。大震災を語るものは、そこにない。

 〈本学西方の崖下には錦華小学校の大建築あり(中略)火は瞬く間に同校を焼尽し火先は直ちに崖上なる本校新館の一角に移り火勢縦横に奔馳して…〉

「大震災に就て」と題した明治大大学報第84号(1923年)は「凶火」の猛威をまざまざと伝える。「関東大震災と学園復興」を大学紀要「紫紺の歴程」に書いた鈴木秀幸さん(63)=同大大学史資料センター、文学部講師=は「明大だけでなく辺りも3日間、燃え続けたようです」と語る。
(平成19年9月号『定年時代』坂のある街「大震災が生んだ道、錦華坂/千代田区」)
http://www.teinenjidai.com/syumi/saka/h19/09/index.html


posted by fom_club at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月29日

野口悠紀雄

 奄美群島・加計呂麻(かけろま)島、いいでしょ!
 イマから7年も前の2008年秋の朝日新聞記事ですが、イマ読んでもふむふむ、とうなづける内容です。
 ですので、年齢などプラス7が必要ですね:

 寅さん、わたし、帰ってきたわよ。
 浅丘ルリ子(1940年生まれ、68)は今夏、奄美の加計呂麻島を訪れた。サンゴ礁に囲まれたこの島で1995年秋、「男はつらいよ」シリーズ最終作『寅次郎紅の花』のロケをした。渥美清(1928-1996)らとすごした日々が走馬灯のように浮かぶ。
 浅丘が『寅次郎忘れな草』でさすらいの歌手リリーを初めて演じたのは1973年、33歳のときだ。それまでマドンナといえば良家のお嬢さんだったり、貞淑な婦人だったり。
 監督の山田洋次(1931年生まれ、77歳)から最初に示されたのも、北海道の牧場で働く女性という役だった。浅丘は自分の細い手をみせる。「わたし、こんな手をしているんですよ」
 宝石の似合うその手を山田はじっと見た。しばらくして浅丘に台本が届く。「場末のキャバレーを渡り歩く歌手」に変わっていた。夜汽車の中でひとり、窓の外を見て泣く女。勝ち気なようで、家族に送られて出港する漁船を見ながら、寅さんにささやく女。
 〈ね、私たちみたいな生活ってさ、普通の人とは違うのよね。あってもなくてもどうでもいいみたいな、つまりさ……あぶくみたいなもんだね〉
 浅丘は旧満州で生まれた。父は官僚だった。瞳の大きな少女は15歳でデビューする。日活映画の黄金時代、相手役の石原裕次郎(1934-1987)や小林旭(1938年生まれ、69)に恋心を寄せた。
「私ね、いろいろな人に恋をしたの。何遍も恋をして、何遍もふられてみたかったの。燃えるような恋をしたかったの」
 30歳で石坂浩二(1941年生まれ、67)と結婚、のちに離婚。リリー役を4回演じた。寅さんは風来坊だけど、東京の葛飾柴又に、おいちゃん、おばちゃん、妹のさくらたちがいつも待っている。うらやましかった。

 ドラマの中のリリーは奄美に住んでいる。1995年のロケの日、島の人々がホテルで歓迎会をしてくれた。ひとりの少女が島唄を披露する。その美しい歌声に浅丘はおどろいた。
 翌日、撮影現場でその少女をみかけ、「あんたのテープ、買いに行ったよ」。大女優に声をかけられて仰天したのは当時高校2年だった歌手の元(はじめ)ちとせ(29)。彼女の島唄は『寅次郎紅の花』にも使われた。
 町営体育館での上映会。オープニングで自分の名前をみつけた元は「出た、出た!」。同級生と手をとりあって喜んだ。
 そのロケの最中、浅丘は渥美の異変に気づいた。
「とてもおつらそうなの。『寅さーん!』と抱きついても、以前ならボーンと受け止めてくれたのに、細いんです、すごく。組むのも悪いような気がしました」
 渥美はがんにおかされていた。いつもはよく響くあの声もかすれがち。スタッフは誰も知らされていなかったが、「私は思いました。絶対これが最後だわって」。9ヶ月後の1996年8月4日、渥美は逝く。68歳。

 浅丘の胸のなかで、渥美は寅さんと分かちがたく生きている。いまも渥美を語るとき、つい「寅さん」といってしまう。
 男くさくて粋で不良っぽくて、照れ屋で優しくて可愛くて、そしていつも笑わせてくれた。「私は愛していました。ほかのどのマドンナよりも、愛していました」
 リリーがいた青い屋根の民家を、南の島の人々は「リリーの家」と呼ぶ。いま住む人はないが、近所の人が雑草をむしり、掃除する。いつしか、こんな伝説も生まれた。
 テキヤ稼業を引退した寅さんは、この島でいまもリリーと暮らしている。海辺で釣りをする島の子たちに旅の昔話を聞かせている、と。
 風の吹くまま気の向くまま。寅さんに思いを寄せる人々をたずねて旅に出よう。

(2008年10月15日14時43分付け朝日新聞「私は愛していました」)
http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200810150212.html

 ところで2008年秋、といえばヤッホー君、思い出すのが日経平均株価の大暴落。
 2008年9月12日(金)の終値は12214円でしたが、10月28日には一時、6994.90円まで下落した、と。
 ところが、2015年春の日経平均株価は、といえば…
 
 2015年5月28日(木)の東京株式市場は、円安で業績改善の期待が高まる輸出関連株を中心に買いが優勢となり、日経平均株価の終値は前日比78円88銭高の20551.46円と10日連続で上昇し、今年の最高値を更新した。10日連続の上昇は、バブル経済期の1988年2月に13日連続で上昇して以来、約27年3ヶ月ぶりだ。
(2015年05月29日毎日新聞東京朝刊)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150529ddm008020203000c.html

 2008年秋のカブカは7年後、300%、3倍の伸び、もうまたしても完全に”バブル”再燃、ですよね。

 「リリー物語」に入る前に、ここで野口英世でなくって、野口悠紀雄(1940年生まれ、早稲田大ファイナンス総合研究所顧問)先生に登場してもらいます。
 なお先生には公式サイト「野口悠紀雄Online、ネットワークは力である」がありますので、ぜひご参照ください:
http://www.noguchi.co.jp/

 二つの論文をご紹介ましょう。
 まずは一つ目、2015年03月26日付け毎日新聞「アベノミクス:バブル崩壊25年」『結局、日本人はバブルから何も学んでいない』から:

 バブルの時には「こんなことがあるはずはない」と、非常に強い違和感を抱いた。特に不動産と株の価格の値上がりは、異常な状況でした。

 「東京都を売ればアメリカ全部が買える」などと言われるようになった。カリフォルニアにペブルビーチという美しい高級ゴルフコースがありますが、そこが日本の不動産会社に買収された。私はありえないと思った。ニューヨークのロックフェラーセンターを三菱地所が買い、そういうことが次々起こっていく。日本のNTTの時価総額がアメリカのAT&TとIBMを合わせたよりも大きくなったとか。それを誰も不思議に思わない。その異常さですね。1987年に私が東洋経済に書いたのは地価と賃貸料、フローとストックの価格の比較でしたが、その前提として「直感的に見て、これはおかしい」と。

 当時金利の自由化が行われようとしていて、転換社債やワラント債などいろいろな資金調達の手段が出てきて、それらを利用して安い金利で資金を調達できた。他方で大口預金の金利が自由化されてかなり高くなったので、お金を右から左に回すだけで稼げてしまう。それを当時「財テク」と称していたわけですが、そんなものはテクノロジーでも何でもない。虚業で多額のお金を稼げる一方で、真面目に働いても自分の住む家も買えない。本当におかしいことなのに、みんなそれに熱狂している。おかしいことだらけだった…

 今の経済の状況もそうです。日本の企業の利益はリーマン・ショック前の水準には届いていない。それにもかかわらず株価はどんどん上がっている。ある週刊誌には「株価は6万円を超える」と書いてありました。私のほうが聞きたい。「なんであなた方は懲りないんですか」と。バブルは結局、崩壊した。それによって多くの人が運命を狂わされ、国民は非常に大きなツケを払わされた。「それにもかかわらず、またやるんですか」と聞きたいのです。
http://mainichi.jp/feature/news/20150326mog00m020002000c.html

 次いで二つ目。
 それは、今日2015年5月29日の『東洋経済』から「1940年体制」です。
《安倍政権の本質は、戦時経済への回帰である - 野口教授、「ますますアナクロ化していく」》:

 2015年、日本は戦後70年目を迎える。その間、日本と世界はどのように変化したのか、あるいはしなかったのか。経済学者の野口悠紀雄氏は戦時期に作られた国家総動員体制を「1940年体制」と名付けたが、最新の著書『戦後経済史』(東洋経済新報社、2015年5月)の中で、「日本の経済システムは1940年体制をいまだに引きずっており、それが過去20年の停滞の原因にもなっている」と指摘する。70年を経てなお、日本を支配しているその体制とは―。

「経済活動に対する政府の関与を強める」という考えは、戦時中に岸信介など「革新官僚」と呼ばれた人びとが確立した、戦時経済体制の基本思想と同じものです。

 安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を唱えていますが、その経済政策の基本的性格は、「戦時経済体制への回帰」なのです…

 1990年代以降の日本経済の長期的停滞も、基本的には、日本人が40年体制的な考え方(大組織依存、政府依存)から抜け出せないためにもたらされているものです。

「政府が経済成長を主導する」という考えは、現代の世界ではアナクロニズムになっているのです。安倍内閣の経済政策に欠けている最大のものは、この歴史認識です。

 正しい歴史認識を持ち、40年体制的な考えから脱却することができるかどうか、それが日本の未来を決めるでしょう。
http://toyokeizai.net/articles/-/71180


posted by fom_club at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月28日

元ちとせ

「美しい日本」へ、「懐かしい昭和」へ、ついつい舞い戻ってきてしまいます。
 今日は奄美群島と寅さん。
 まず、元ちとせ(1979年1月5日鹿児島県奄美大島出身)。

「星めぐりの歌」(作詞作曲:宮沢賢治)がありました:
https://www.youtube.com/watch?v=Pmbnl5RI7gk

 この歌ってヤッホー君のこのブログ、2015年01月22日付け日記「脚本家・青島武」で紹介してますよね(歌:田中裕子)。でも、元ちとせの歌声もなかなかのもの。

 もう一曲、『語り継ぐこと』(2005年11月発売)
https://www.youtube.com/watch?v=USf16TiLj4k
 
 そして、『死んだ女の子』(2006年5月発売アルバム『ハナダイロ』ボーナストラック)
https://www.youtube.com/watch?v=sXCQitcgvNc

 今年も69回目の広島のあの夏を忘れてはいけない日が来ました。
 色んなコトを教えてもらった出来事に、触れて下さい。
 どうか、少しでもきっかけになれますように。
  『死んだ女の子』平和への祈りをこめて。
 この歌をとどけたいと思います。

(2014年8月6日(水)元ちとせのブログ、ハナダイロの日々「忘れないで下さい」)
http://hajimechitose.weblogs.jp/

 元ちとせの歌、なんと寅さんの最後の映画で流れているそうです:

 今回、私がおすすめする場所は「カケロマ島」!!
 自慢の島です。古い生活がいまだに残っていて、この場所に渡ると遠い遠い記憶にふれているような気持ちになります。
 島唄を始めた時、カケロマ島でのいろんなお祭りに呼んでもらい"奄美の事、島唄の意味"など教えていただきました。
 諸鈍長浜のとても美しい夕景。デイゴ並木で有名な諸鈍は、映画『寅さん』の最後の作品「男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995年12月)の舞台にもなりました。
 当時、高校生だった私も島唄で参加しています。山田洋次監督から急遽お誘いいただいて収録したことなど懐かしく思い出されます。
 海や海岸はどこも素晴らしいのですが、徳浜の星の砂…小さい頃、瓶に集めて願い事をしたものです。
 カケロマ島は本当にパワースポットです。

(JAL旅プラスなび、奄美大島観光のススメ、元ちとせさんのおススメ!加計呂麻島」)
http://www.jal.co.jp/tabi/special/pickup/amami_kanko/hajime4.html

 映画では:

 古仁屋港(奄美大島)からリリーと満男が「でいご丸」で加計呂麻に渡るとき、流れる島歌が元ちとせの唄う「朝花節」《涙》。
 加計呂麻の家並み、でいごの花咲く島の並木路、小ぶりの実がたわわに実る島バナナ、ガジュマルの心地よい木陰、風に揺れる真紅のハイビスカス、アダンの尖った葉と赤い実、ハートの形状をした島の入江、白い砂浜に白い貝殻、コバルトブルーの碧い海、色とりどりの熱帯魚、真っ赤に染まる加計呂麻の夕日。
 その全ての映像が奄美の美しい自然を余すことなく表現する。
 憂いのあるジャミセンの音色と島唄にしみじみ聞き入る島人達《涙》。
 黒糖焼酎の甘い香りが我々にも香って来そうな情景。
 それに加わるリリーと満男。
 島のゆっくりとした時間の中で宵闇が静かに深まっていく…

 山田洋次監督は満州で育ったため、今では奄美を故郷のように感じている。
 寅さんの供養も兼ね毎年欠かさず加計呂麻に訪れている。
 最後は寅さんとリリーが南の島で静かに暮らすことを考えて、奄美の加計呂麻島を思い立ち、実際現地を見て確信した。
 加計呂麻の名前の響き、島のたたずまい、デイゴの並木路。
 その全てがイメージに合致した。

 ロケの歓迎会で高校2年生の元ちとせさんの歌声に感激し、映画に使用した。
 世界自然遺産の登録(注)で奄美の自然が保たれることが何より嬉しい。
 日々の暮らしの中で、地域の人と人とのつながりや情愛、そうした島の文化も形こそ見えないが、世界遺産と言ってもいい。
 この貴重な自然や文化を如何に残していくかが今後の課題だ。

(2014-01-03「そよ風と花のメロディー、好きな花(特に熱帯花木)の話題と、音楽と旅の話を気ままにお伝えし、またいろいろな方に感想とアドバイスを戴けたらうれしいなと思います」奄美復帰60年E)
http://windandmelody.blog37.fc2.com/blog-category-6.html


(注)日本の敗戦とサンフランシスコ平和条約で、奄美群島はアメリカの信託統治下にあったことをご存知ですか?日本に施政権が返還されたのは、1953(昭和28)年12月25日、アメリカからのクリスマスプレゼントだったって。

 今年2013年で日本復帰から60周年の節目を迎える奄美群島。
 60年が経過した今,奄美群島広域事務組合では、かつて、郡島民が一丸となった日本復-帰運動の「DNA」(情熱と強い団結力)を再び一つにし、未来に向かって更なる成長を-促進するため「奄美群島成長戦略ビジョン」を策定しました。
 番組では「奄美の過去」として日本復帰までの振り返りを、そして「奄美の未来」と-して、奄美群島の更なる成長のために描いた「奄美群島成長戦略ビジョン」の説明と、自-立的発展に向けて活躍する企業・団体の紹介と世界自然遺産登録を見据えた取り組みなど-について紹介します。

(2013年12月21日放送「奄美群島日本復帰60周年〜復帰の歴史と更なる成長のために〜」)
https://www.youtube.com/watch?v=v-iDajl4-48

 そしてユネスコ世界自然遺産ですが…

 政府は早ければ2017年夏に開かれる国連教育科学文化機関(ユネスコ)の国際会議で、奄美・琉球の世界自然遺産登録を目指している。そのため、今年2015年9月までに推薦書の暫定版をまとめ、ユネスコに提出したい考えだ。世界自然遺産リストの仲間入りを果たせば、国内では、白神山地▽屋久島▽知床▽小笠原諸島−−に続き5カ所目となり、その貴重な生態系に国内外の注目が高まることは確実。ただし、道のりは平たんとは言いがたい。
 奄美・琉球の世界遺産登録に向けた政府の検討が始まったのは2003年のことだ。環境省と林野庁が設置した有識者会議「世界自然遺産候補地に関する検討会」が、知床や小笠原諸島と並ぶ三つの候補地の一つに選定した。「独特の地史を有し、多様で固有性の高い亜熱帯生態系や珊瑚(さんご)礁生態系がある」「優れた景観や絶滅危惧種の生息地となっている」点が評価された。
 ところが、その後、登録の前提となるユネスコの暫定リストへ奄美・琉球を掲載することを政府が決めるまでに約10年もかかった。重要地域の保全に向けた法整備や地元合意のめどが立たなかったことが大きな理由だ。
 政府は2013年1月にようやく暫定リスト掲載の申請文書をユネスコに提出した。だが、地権者らの同意が得られず、島名を明記しないまま、「南北約850キロに点在する島や周辺海域」との範囲で申請した。
 これに対し、ユネスコ側は「広すぎる」と注文を付けた。政府は奄美大島、徳之島、西表島、沖縄本島北部の4島に絞り込んで、ユネスコ側に再回答したが、現時点で暫定リストには掲載されていない。
 今後、登録までの手続きとして、奄美・琉球の固有の価値を証明する推薦書をユネスコに提出し、ユネスコの諮問機関である国際自然保護連合(IUCN)の現地調査を受ける必要がある。
 政府は並行して、登録要件である国立公園10+件指定を急ぐ方針だ…
(2015年5月4日付け毎日新聞「みどりの日:2017年世界遺産登録目指す奄美・琉球、道のり険しく」)
http://mainichi.jp/feature/news/20150501mog00m040036000c.html

 沖縄が返還されるのは、奄美から遅れるこ約20年後の1972(昭和47年)5月15日のことです。参考までに次の動画もご覧ください:
 沖縄道ものがたり 復帰40周年ビデオ:
https://www.youtube.com/watch?v=vaccVLPBxmY



posted by fom_club at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月27日

世界の街歩き八景

 「ケルン・オルガンで巡る世界の街歩き」…
 実はヤッホー君、これで「世界街歩き八景」が成立!と内心うれしくってしようがないんだって、お世話になりました、小島弥寧子さんexclamation×2
 昨日のストラスブールを第一景とするでしょう、そうしますと:

(第二景)ランス、N.de.グリニ(1672-1703)
 フランスにはランスが Reims と Lens の2つあって、小島弥寧子さんはフランス語の”R”の発音がとっても日本人は難しくって、大聖堂で有名なReims に行こうと切符を買う時、窓口で通じず筆談だったって(それにサイキン、ルーブル美術館の別館が Lens に出来たのです)。

La cathédrale Notre Dame de Reims - Reims – France
https://www.youtube.com/watch?v=UwfDOWckjTE

 ニコラ・ド・グリニ『オルガン曲集第1巻、讃歌集』:
 グリニは、父も祖父もオルガニストという家系で、北フランスの町ランスに生まれた…
 やがてパリに上りオルガニストとなったが、その時代にドイツのフローベルガーやゲオルク・ムッファトの作品を知った。グリニの作品には彼らの影響が見られるという。
 パリには数年滞在しただけでやがてランスに戻ってそこの大聖堂つきオルガニストとなったが、31歳の若さで世を去ったため、残されたのはこの 「オルガン曲集」 だけである。しかしその充実した作品群は高く評価されており、バッハもリューネブルク時代にこの曲集を筆写しているという…

http://miura.k-server.org/newpage1122.htm

(第三景)アンダルシア、F.コレア・デ・アラウホ Francisco Correa de Arrauxo (1576-1654)
 ポルトガル生まれとの説もあるコレア・デ・アラウホだが、彼は1599年から37年間、セビリャの教会で活躍した。彼はオルガンの腕だけで聖職者の地位を手に入れ高給を受け取っていた。「オルガンの技法」は彼の作品の集大成であり、スペイン・バロック・オルガン音楽の様式の確立を示す重要な資料でもある。
http://www.sarabande.net/almaviva/catalogue.html

「セビリア大聖堂(カテドラル)」は、スペイン最大の大聖堂で、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂、ロンドンのセントポール大聖堂に次いで、世界第3位のの大聖堂とも言われています:
http://www.catedraldesevilla.es/

F.コレア・デ・アラウホ「バスの音域による第一旋法のティエント」:
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7480396

(第四景)マドリッド、Jヒメナス(1852-1923)
La Boda de Luis Alonso - Gerónimo Giménez
https://www.youtube.com/watch?v=UMCB4x6PLPU

(第五景)フランス・アルザス地方カイゼスベルク村の聖十字架教会、F.リッシュ
 日本でオルガンを弾いてみたいという夢も実現せずに、3年ほど前のいま頃の季節にもう亡くなったというムッシュゥ・ジャン・フランソワのお父さまの作品だそうです:

 お店の人に、得意げに
「この子は世界中で活躍しているオルガニストなんだ」と紹介してくれる。あのぅ、それはいくらなんでも言い過ぎじゃ。
 彼は英語を話さないし、学生の頃たしか1年間ほどお茶の水のアテネフランセに通ったはずの私はクラスで落ちこぼれ、しかられてばかりだったゆえに、いまや完全にフランス語を忘れて、2人の共通言語は…、ない。
 それでも彼の片言の英語、私のむちゃくちゃなフランス語と、しまいには紙と鉛筆、身体全体も駆使して、2時間くらい楽しくおしゃべり。
 この辺りの歴史的なオルガンのこと、私が10年前に南ドイツコンスタンツという湖のほとりの美しい街の教会のコンサートで弾かせてもらったことを覚えていてくれて、彼が若い頃同じ場所に兵役に行ったことを話してくれたり、ママンは元気か?と当時一緒に来た母を気遣ってくれたり。
 お話の中で、今日まで50年間毎日曜日、一度も休まずにあのオルガンをミサで弾き続けている、
「セ・ラヴィ(それが人生さ!)」と、とても誇らしげに教えてくれたことが強く強く印象に残っている。
 なんだかわからないけど、うっかり涙ぐんでしまいそうだった。

(2009年9月29日00:57築地のお寺でパイプオルガン「ムッシュゥ・ジャン・フランソワ」)
http://blog.engi-project.net/pipe/archives/2009/09/post-61.html

(第六景)パリ、C.フランク(1822-1890)
Xaver Varnus plays Cesar Franck's Prelude, fugue et variation in concert on the great Cavaille-Coll Organ in Saint Sulpice in Paris. Taped on the 23rd of October, 2006.
https://www.youtube.com/watch?v=1v7duyDoz4U#t=22

<”大恩人”フランツ・リストの死>
 1886年7月31日、大作曲家フランツ・リストは亡くなった。
 彼は青年時代の無名のフランクの才能を、天才ならではの慧眼で見抜き、その作品をドイツの同僚たちに紹介してくれ、フランクのオルガン演奏に関しても「私は今バッハを聴いた」と誉めたたえていた大恩人である。
<そしてセザール・フランクは…>
 恩人の墓前に、自分は何が手向けられるだろう――。
 父と別れ、24年間を市井の人として暮らしたのち、志を同じくする芸術家たちと出会い、思いがけずも我が子のような齢の若者たちにも勇気づけられて、自らの芸術の円熟を自覚し、ようやく創作者としての自信を抱くにいたった64歳のフランクの背中を、運命と音楽の女神までもがさらに強く押した。
 フランクの事実上(註)生涯唯一の交響曲が完成したのは、この2年後、1888年のことであった。
(註)彼には1曲しかないと言われる交響曲だが、習作ながらパリ音楽院在学中の1840年(18歳の時)に作曲された「交響曲ト長調 作品13」が存在する…

(2005.3.6作成、大阪市にあるアマチュアオーケストラ、関西シティフィルハーモニー交響楽団、文:上柿 泰平(パーカッション)、構成・一部補筆:岩田倫和(チェロ)
http://kcpo.jp/info/39th/Franck2.html#head

(第七景)東京・築地本願寺
 昨年春の親鸞聖人750大遠忌記念コンサートのために柿沼唯(1961年神奈川県生まれ)氏に作っていただいた「華」が、昨年2014年4月20日に「蓮花」「四月織」とともに出版されました。
 すばらしい名作を世に広く知っていただけることを、とても誇らしく思っています。

(2014年5月9日17:52築地のお寺でパイプオルガン)
http://blog.engi-project.net/pipe/archives/2014/05/post-152.html

柿沼唯:
http://kakinumayui.seesaa.net/
Yui Kakinuma、Lotus-蓮花-:
https://www.youtube.com/watch?v=PZerd4Fl5G8

(第八景)アンコールに答えましてドイツから「小さなコラール」
 北ドイツのオルガニスト達その1:
http://blog.goo.ne.jp/ogawa_j/e/d2a6717806670e3c372a00bd18907f92

 こうして長い拍手のあと三々五々帰路についた「ケルン・オルガンで巡った世界の街歩き」八景、なかなかの感動ものでした。
 

posted by fom_club at 07:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月26日

ケルン・オルガン

 昨日、ヤッホー君は「新宿区立新宿文化センター」に。
 この文化センターに大層大きなりっぱなパイプオルガンがあるのを知ってましたか?

 新宿文化センター大ホールにはフランスのアルフレッド・ケルン社制作による優雅で多彩な響きが日本でも屈指のものと高く評価されているパイプオルガンが設置されています。
(新宿文化センター、パイプオルガンの練習利用割引制度)
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/bunka-center/facilities/main-hall/organ-lesson/

 ん? ケルンはケルンでも隅田川にかかる清洲橋は地名から、新宿文化センターのパイプオルガンは人名かぁ? とヤッホー君、この独りガッテンは分かりますか?

 下流の永代橋と対をなす橋として「震災復興の華」と呼ばれた優美な吊り橋です。世界で最も美しいとされたドイツ・ライン川のケルンにある吊り橋をモデルにしています。
(東京都公園協会、橋をめぐる隅田川〜水上散策)
https://www.tokyo-park.or.jp/special/mizube/

 私達の工房は1953年、ストラスブールのオルガン製作家、アルフレット・ケルン(Alfred Kern、1910-1989)によって創設されました。シュヴァイツァー博士(Albert Schweitzer 1875-1965)に強く励まされてのスタートでした。
(ケルン社について)
http://www.kernpipeorgan.com/japanese/nousjp.htm

 シュヴァイツァー博士ってストラスブール出身って知ってましたか?

 シュバイツァーは、野口英世が生まれる1年前、アルザス地方に牧師の長男として生まれた。アルザスはフランス・ドイツ国境でどちらにも支配されたことがあり、シュバイツァーはドイツ語とフランス語を話せた。7歳のころから鍵盤(けんばん)楽器を習い、14歳のころにはパイプオルガンをはじめた…
 野口英世はそれも一度だけじゃない。1914年、1915年、1920年の3度も〈ノーベル医学賞〉の候補になったが、受賞するにはいたらなかった…  
 いっぽうシュバイツァーは、第二次世界大戦後は広島と長崎に核爆弾を落とされたのを知って、核問題を中心に戦争反対運動を展開する。それで1952年に〈ノーベル平和賞〉を受賞する。シュバイツァーが〈ノーベル賞〉を受賞したと聞くと〈医学賞〉を受賞したと思ってしまうが、じつは〈平和賞〉だったんじゃな。シュバイツァーは〈ノーベル平和賞〉を受賞しても、その賞金を自分のものにしたりしなかった。ランバレネの病院のために賞金を使うんじゃ。〈ノーベル医学賞〉がほしくてほしくてたまらなかったのに受賞できなかった野口英世、結果的に〈ノーベル平和賞〉を受賞したシュバイツァー…
 シュバイツァーは、晩年もランバレネにおいて医療活動をつづけ、バッハの曲の流れるなか、90歳で死去した。死因は老衰による脳血行不全だった。英世が他界したのは満51歳。いまからすれば早すぎる死だったな。

(学研教育出版、キッズネット「野口英世 VS シュバイツァー」)
http://kids.gakken.co.jp/rekishi/rekisibattle/22/index.html

 では、小島弥寧子さんって知ってましたか?

 ごぶさたしています。
 2007年の秋に、お坊さんたちから、ブログを書いてみませんか?とお話をいただいて、
「そんなこと私にできるのだろうか?」と思いながら、おそるおそるデジカメを買うところから始めたこのブログ。
 さまざまな人びとの力をお借りして、7年半も続けることができました。

 うんうん唸りながらも、写真や文章で人に伝えるという楽しみを、新しく知りました。
 このブログを終えるにあたって、ここまで続けることができたので、もう少しやってみよう!という気持ちがふつふつとわいてきました。

「築地のお寺でパイプオルガン」というこの上なくナイスなネーミングの名付け親は、お坊さんの平井さんです。
 この名前を一部拝借して、いささか壮大ではありますが、(名前くらいは)でっかくいこう!ということで、
「世界のどこかでパイプオルガン」という私個人のブログとHPを開設しました。
 引き続き読んでいただければ、とても嬉しいです。

 自分が大きなお寺のオルガニストになって、毎月のコンサートにたくさんの方が来てくださるようになって、数えきれない貴重な経験や出会いがあって、ブログを書いて、お坊さんの知り合いや友達がたくさん増えて… なんていうことは、どれをとっても学生の頃には考えてもみなかったことです。
 仏様のいらっしゃる特別な空間で演奏させていただいたことは、オルガニストとしても、またひとりの人間としても、豊かで、かけがえのない尊い経験になりました。
 このことが、これからの人生のさまざまな場面で、助けになってくれると思います。
 長い間読んでくださって、本当にありがとうございました。
 これからも、お寺のパイプオルガンをよろしくお願いします!

(2015年5月23日 10:00築地のお寺でパイプオルガン、ブログ終了のお知らせ)
http://bouz-collection.sakura.ne.jp/MT/

 そうなんです、この春3月まで、キリスト教の教会ではなく、親鸞の築地本願寺でパイプオルガンを弾いてらっしゃったんですねぇ〜

 このお寺さまに大層大きなりっぱなパイプオルガンがあるのを知ってましたか?

 築地本願寺の本堂にお入りいただいたら、振り返ってみてください。頭上、左右に大きな銀色のパイプが並んでいます。お寺には珍しい、パイプオルガンです。
 このパイプオルガンは、1970年に公益財団法人の「仏教伝道協会」から寄進いただいたものです。

 ドイツ製で、実は、築地本願寺オリジナルの設計とデザインです。
 たとえば、左右に配置されたパイプは6つの山を描いていて「南・無・阿・弥・陀・仏」の6つの文字を表しています。また、表面に並んだパイプの数は左右48本ずつ。浄土真宗の聖典にもある「四十八願(しじゅうはちがん)」を表しています。

(築地本願寺、お寺で♪パイプオルガンのランチタイムコンサートはいかが)
https://tsukijihongwanji.jp/gokan/sound/l_concert

 ね、びっくりでしょ。
 築地本願寺には山歩クラブでもお散歩会で何度かおじゃましましたが、振り返って見上げたことはありませんでしたね。びっくり、びっくり!

─ その流れで、築地本願寺の副オルガニストになったのですか?
小島: それが私自身も「どうして?」という感じなんですが(笑)、大学時代にお世話になった先生が、築地本願寺のオルガニストの方なんです。そして、私がいくつか授業を受け持っている大学がたまたま本願寺系の学校だったこともあって、6年ほど前に「築地本願寺でランチタイム・コンサートを始めたいので弾いてもらえないだろうか」と、その先生に声をかけていただいたことがきっかけです。実は先生のお父様が、今から40年も前に、お寺にオルガンを導入するという、とんでもないことをされた方なんですよ(笑)。

─ 普通、お寺にオルガンはないですよね?
小島: あり得ないですね(笑)。
(mnavi Works Vol.51「オルガニスト小島弥寧子がクラシック・オルガンC-200の響きと鍵盤タッチを体感」)
http://mnavi.roland.jp/works/201108_03.html

 そう、そう、昨日の5月25日月曜日、オルガンの演奏会があったのです:

 ランチタイムコンサート ケルン・オルガンで巡る世界の街歩き
【プログラム】
 ☆ N. de グリニ:讃歌「来たれ、創り主なる聖霊よ」よりテノール声部の定旋律による5声のプラン・ジュ/5声のフーガ/グラン・ジュの対話
 ☆ F.コレア・デ・アラウホ:第7旋法による2声のソプラノのティエント
 ☆ J.ヒメネス:第6旋法によるバッターリャ
 ☆ F.リッシュ : アンダンテ・カンタービレ
 ☆ C.フランク:コラール第3番
 ☆ 柿沼唯(1961-):華(築地本願寺親鸞聖人750回大遠忌記念委嘱作品)

(開設したばかりの小島弥寧子さんHP)
http://minekokojima.com/concert/


posted by fom_club at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月25日

新金沢八景

 まずは、「金沢八景」から(注):

 金沢八景は、金沢の八つの景勝をあてはめたものです。
 金沢の景勝は、中世において既に知られていましたが、金沢八景の名称が成立したのは、近世になってからです。
 金沢八景の命名者は、中国明代の僧、心(しん)越(えつ)禅師(ぜんじ)です。
 心越は元禄時代、徳川光圀に招かれて、水戸祇園寺の開山となった人です。
 心越が金沢に来たのは、1694(元禄7)年といわれています。
 心越は再び見ることのない故郷の杭州西湖を偲びつつ、金沢の能見堂からの眺望を瀟湘八景になぞらえて八編の漢詩を詠みました。
 これ以降、多くの文人が金沢八景の地を訪れるようになり、19世紀には庶民が遊山に来るようになりました。
 また、歌川(安藤)広重によって描かれた「武州金沢八景」八連作が、より金沢八景を世に広めました。
「金沢八景」、上の二字は金沢の土地から、下の二字は瀟湘八景から取られています。

(横浜金沢観光協会「金沢八景」)
http://www.yokohama-kanazawakanko.com/course/hakkei/hakkei001.html

 ヤッホー君は昨日5月24日日曜日、八連作を、国指定の史跡「称名寺」と「金沢文庫」を繋ぐ中世につくられていた文化財「隧道」脇のトンネル内に発見しました。
 この「隧道」は旧御坂トンネルと違い、時代をさかのぼること中世の遺跡ですので、とっくに隠居しています、もちろん立ち入り禁止、通行止め!:

洲崎晴嵐(すざきのせいらん)

晴嵐.jpg

瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)

秋月.jpg

小泉夜雨(こずみのやう)

夜雨.jpg

乙舳帰帆(おつとものきはん)

帰帆.jpg

称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)

晩鐘.jpg

平潟落雁(ひらがたのらくがん)

落雁.jpg

野島夕照(のじまのせきしょう)

夕照.jpg

内川暮雪(うちかわのぼせつ)

暮雪.jpg

 おまけ、その文化財の隧道ってこれです:

隧道.jpg


(注)「新金沢八景」

 江戸時代より人気のあった「金沢八景」は、当時の面影がほとんど消え、場所の特定も難しい状況にあります。
 そこで、金沢区制60周年を記念して、平成の「新金沢八景」を横濱金澤シティガイド協会主催により、多くの区民参加で選定されました。
 2008(平成20)年1月に、金沢区役所を始め、各地区センター、コミュニティハウス、区内の小・中学校、高校、大学などで投票が行われ、約12,000人の投票参加の結果、下記のように選定されました。

 ☆ 春色(しゅんしょく):西柴の桜トンネル※現在植替えて若木です
 ☆ 潮干(ちょうかん):海の公園の白砂青松
 ☆ 展望(てんぼう):海と緑を辿るシーサイドライン
 ☆ 一望(いちぼう):金沢自然公園からの眺望
 ☆ 彩色(さいしょく):八景島の紫陽花
 ☆ 白帆(しらほ):横浜ベイサイドマリーナの夕景
 ☆ 古道(こどう):朝比奈切通し
 ☆ 梅花(ばいか):能見堂跡


(横浜金沢観光協会「新金沢八景」)
http://www.yokohama-kanazawakanko.com/course/hakkei/hakkei002.html



posted by fom_club at 06:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月24日

金沢八景

 今日は番外編も番外編、歴史・文学散歩を京急金沢文庫駅から金沢八景駅までウオーキング、とお誘いしましたが、山歩クラブの面々、どなたも出席されず、結局ヤッホー君の単独山行でなく、徘徊ひとりぼっち、となりましたが、歩いてきました、金沢!

 はい、昭和名画シリーズから『太平洋ひとりぼっち』(監督:市川昆、主役:石原裕次郎、1963年公開)予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=LIGZUTNeolA

 前回5月6日(水)、前方は中西悟堂の野鳥の会にぐいぐい引っ張られ、後方は金沢文庫に袖引かれ、ヤッホー君たち山歩クラブ8名、にっちもさっちもいかず、とうとう横浜市最高峰・大丸山へのアタックがかなわず途中で「撤退」しました。
 そのわけが今日、5月24日(日)分かりました。
 すごい磁場が渦巻き、土地の精霊がわいわいがやがやさんざめくところでございました。

「神奈川県立金沢文庫」(横浜市金沢区金沢町142 Tel 045-701-9069)で資料を読みあさりました。
https://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

☆「鎌倉への海の道」(1992年10月16日発行「神奈川芸術祭・特別展図録」)
☆「中世六浦の世界、武家の都鎌倉を支えた港湾都市」(2009年6月11日発行「横浜開港150周年記念企画展」)

 金沢文庫、称名寺、称名寺市民の森、海の公園、野島公園、野島山(標高57m)、旧伊藤博文金沢別邸…

伊藤博文外.jpg

伊藤博文中.jpg

 その伊藤博文、1887(明治20)年この地で明治憲法の草案作りをし(発布:1889年、施行:1890年)、それから11年目の1898(明治31)年に、海浜別荘をつくります(上掲写真)。
 伊藤博文は、憲法草案の審議がおこなわれた赤坂仮皇居御会食所をこの別荘の隣に移築しようと計画までするのですが、これは実現に至らず、別荘を建てて11年後の1909(明治42)年、ハルピンで暗殺されてしまうという、ま、日本史の渦巻くところを徘徊してきました。

 また機会を改めて報告できるでしょう、今日は速報、ということで。
 あっ、今日のテーマは、金沢八景でしたよね。
 金沢八景駅近くの不動産屋さんの看板にでておりましたよお〜:

金沢八景.jpg

 あっ、それと昨夜の2015年5月23日(土)、テレビ東京夜9時放送「アド街ック天国」で「清澄白河」をみてくださった方より連絡がありましたので、2通ほどご紹介:

 1位 清澄庭園 岩崎弥太郎が造成を計画した、明治を代表する回遊式庭園。池の中央に…
 2位 東京都現代美術館 今年で20周年を迎える現代アートの美術館。およそ4800点の作品…
 3位 寺 今回出没した地区には、32ものお寺がある。【出世不動尊】深川っ子…
 4位 深川資料館通り
 5位 相撲部屋
 6位 深川めし
 7位 清洲橋
 8位 深川江戸資料館
 9位 ロースタリーカフェ
 10位 辰巳湯
 11位 ガラス工場
 12位 ヨーガンレール本社
 13位 長寿庵 蕎匠
 14位 ARiSE COFFEE ROASTERS.
 15位 藤堂プランニング
 16位 清澄長屋
 17位 だるま
 18位 MEDIUM
 19位 コシラエル
 20位 fukadaso

http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/backnumber/20150523/

 こんにちは。しっかり見ました。ご連絡ありがとうございました。
 実は虫の知らせか、5分前に何となく番組表を見たら「清澄白河」の文字が目に飛び込んできて、思わずテレビをつけました。
 最近カフェが気になり何度か行きましたが、長い行列にめげて、まだ入っていません。
「清澄白河」に住んで10年になりますが、改めていい街だと思いました。
 最近山の方は「低山徘徊」のようです。


 夕べのアドマチ私も見ました。素敵な街になって、いなかの友達に自慢できます。ブルーボトルコーヒー(注)は一度は味わうべきですが、また昨夜の放送で、長ーい行列になりますね。私は一度飲みましたがコクがあって美味しかったのですが、なにせ量が多くて飲みきれませんでした。


(注)ブルーボトルコーヒー:
https://bluebottlecoffee.jp/cafes/kiyosumi

 いよいよ3月7日にオープンする「ブルーボトルコーヒー青山カフェ」はブルーボトルコーヒーの日本進出2号店となります。表参道駅からすぐ、期間限定の商業施設・COMMUNE246も隣接しています。最高の立地にフードもより充実させ、席数は約70席。ブルーボトルコーヒー史上、最大規模のカフェとなり、オープン初日から大変な賑わいとなることでしょう。そして3号店は4月、代官山の新商業施設「ログロード代官山」に出店することが決定しています。
 さて、このブルーボトルコーヒーが1号店の出店立地として選んだ江東区・清澄白河は、今や“サードウェーブ”と呼ばれるコーヒー専門店の聖地とも呼ばれています。なぜ清澄白河なのか。サードウェーブコーヒーとは何か。清澄白河の街歩きから見えてきた新たな経営の潮流を探ります。
「ブルーボトルコーヒー清澄白河ロースタリー&カフェ」は、2月6日にオープン。
 筆者は2週間後の平日午前中に訪れました。住宅街と倉庫、町工場などが立ち並ぶ一角にぽつんとありますが、その地味な佇まいとは裏腹に、店頭には長い行列ができていました。11時過ぎに並び、入店は12時過ぎ。警備の方に「1時間〜1時間半待ちです」と言われた通りの待ち時間となりました(ちなみに豆だけの購入であればすぐに入店できます)。
(ダイヤモンド・オンライン 、岩崎剛幸「新店、ウォッチ!!」2015年3月6日「ブルーボトルコーヒー1号店が、青山ではなく清澄白河だった理由」)
http://diamond.jp/articles/-/67877



posted by fom_club at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京八景

「東京八景」はフ・シ・ギexclamation&question
 
 太宰治という小説家を知っているでしょう。「走れメロス」(1940年「新潮」に発表)「富嶽百景」(1939年2、3月「文体」に発表)その他、中・高校の教科書にもいくつかの作品が採択されており、若い人たちのあいだでは今でもずいぶん人気があります。その太宰治に「新ハムレット」(太宰治最初の書下ろし長編小説、1941年7月文芸春秋社から刊行)という作品がある。登場人物もだいたいの環境もシェイクスピアの「ハムレット」と同じですが、それを大胆に太宰流に作り直してしまった作品で、一応は戯曲の形式をとっている…
 作者の太宰治はこんなことを言っています:

「此の作品の形式は、やや戯曲にも似ているが、作者は、決して戯曲のつもりで書いたのではないという事を、お断りしておきたい。作者は、もとより小説家である。戯曲作法に就いては、ほとんど知るところが無い。これはいわばLESEDRAMAふうの、小説だと思っていただきたい」

 LESEDRAMA(レーゼドラマ)というのは、上演されることを目的としないで、読むだけのために書かれた脚本のこと。この「新ハムレット」は、太宰治が死んでから30年もたった後に芥川比呂志氏(1920- 1981)の演出で上演されました(※)…。

 太宰治という小説家は小説の新しい形を考え出そうとしていろいろ苦労した人ですが、その太宰に「虚構の春」(1936年7月「文学界」に発表)という小説があります。これがまた風変りな小説で、自分のところにきた手紙をよせ集めただけの作品です。もっともそのうちの四分の三ほどは太宰自身が創作した虚構、つまり作り話ですが、あとの四分の一は、佐藤春夫(1892-1964)、井伏鱒二(1898-1993)、壇一雄(1912-1976)、山岸外史(1904-1977)ら先輩や友人からの手紙を、ほとんどそのまま使っています。手紙を並べただけのものですから、もちろんストーリーもない。そんなものを小説と呼んでいいのかな、といぶかしがる人も多いかと思いますが、太宰自身はこれを小説と考え、小説として発表したのです。
 これは一つの例ですが、小説というのは、どんなことをどんなふうに書いてもいい、きわめて自由な表現形式であるということを知っておいてください。

…野原一夫『小説家になるには』(ぺりかん社、1993年7月)51-53頁

(※)1975年になって芥川は、当時主宰していた劇団雲により『新ハムレット』を上演した。

 野原一夫先生のぶんぶく、じゃない、文学講座でした。
 それにしても今回、大分野原一夫先生にはお世話になりました。
 
 あっ、そう、そう、太宰治をフ・シ・ギ…がらずにいいのです、逆に、脱帽、敬礼!
 ところで“東京八景”って何々あるの?
 ここでヤッホー君、へたりこんでしまいます。
「辰巳八景」については以前、ヤッホー君のこのブログ、2013年09月21日付け日記「salon de モダン」で記したことがありました:

  ● 富ケ岡の暮雪
  ● 相生橋の秋月
  ● 小名木川の晴嵐
  ● 霊岸の晩鐘
  ● 州崎の落雁
  ● 安宅の夕照
  ● 木場の夜雨
  ● 佐賀町の帰帆

 太宰治は…

 東京八景。私は、その短編を、いつかゆつくり、骨折つて書いてみたいと思つてゐた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思つてゐた。私は、ことし32歳である…
 東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかつた。

…太宰治全集、前掲書、73頁

 書きたかった「東京八景」、しかし予告編だけで本編はなかなかはじまらないのです:

 私は、今は一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだはらず、文筆業と書いてゐる。苦しさは在つても、めつたに言はない。以前にまさる苦しさは在つても私は微笑を装つてゐる。ばか共は、私を俗化したと言つてゐる。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちてゐる。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言つた。

「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守つて行くつもりだ」

 その時に、ふと東京八景を思ひついたのである。過去が走馬燈のやうに胸の中で廻つた。
 ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられてゐるのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたつて、差支え無い。あと七景を決定しようと、私は自分の胸の中のアルバムを繰つてみた。
 併しこの場合、芸術になるのは、東京の風景でなかつた。
 風景の中の私であつた。
 芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺いたのか。
 結論。
 芸術は、私である

  ● 戸塚の梅雨。
  ● 本郷の黄昏。
  ● 神田の祭礼。
  ● 柏木の初雪。
  ● 八丁堀の花火。
  ● 芝の満月。 
  ● 天沼の蜩。
  ● 銀座の稲妻。
  ● 板橋脳病院のコスモス。
  ● 荻窪の朝霧。
  ● 武蔵野の夕陽。

 思ひ出の暗い花が、ぱらぱら踊つて、整理は至難であつた。また、無理にこさへて八景にまとめるのも、げびた事だと思つた。
 そのうちに私は、この春と夏、更に二景を見つけてしまつたのである…

…前掲書、94-95頁

「芸術は、私である」…すごい”アフォリズム”ですよね、恐れ入谷の鬼子母神。
「芸術は爆発だ!」ってヤッホー君のこのブログ、2015年01月02日付け日記「岡本太郎」を記しながら考えたことがありますが、それよりもすごい謹厳実直、ん? 金言です(注)。
 あの頃もそう、イマもそう、なんでしょうね、日本人って。
 物言えば唇寒し秋の風、みたいに下々では「見ざる聞かざる言わざる」が珍重され、上はイマ、何でも初めに結論有りき、あとは嘘でもでたらめでもいい、ていねいにご説明すれば、粛々と物事がすすんでいくんだ、物事がしくじっても、誰も責任をとる必要もないんだから安心立命、だって下々から追及されたことって日本の歴史にゃないでしょと、すべて上から目線で突っ走るこの国の姿。
 こんなご時勢だからこそ「私」がいなければ何も見えないし、聞こえないよ、だからたった一人ぼっちになったって、「私」は言うことは言うよってのは、とっても大切なことです。
 「私」はわたしでも俺でも、おれでも僕でも、ぼくでもおいらでも、それがしでも拙者でも、余でも吾輩でも、第一人称!
 そう、皆んなが「私」!

 きみにいつか話をしたかもしれないが、俺は太宰治の口述筆記を聞いたことがある。「フォスフォレッスセンス」(1947年「日本小説」7月号に発表)という小説だったが、雑誌の締切日がきても、太宰さんは一行も書いてなかったんだな。雑誌の編集者は、原稿をもらえなくちゃ帰れないって言うんだ。仕方がなくて口述でやることになったんだが、そう、ものの20分ほども考えていたかな。ゆっくりとしゃべりだした。俺はたまたまそこに居合わせてそれを聞いていたんだが、すこしの淀みもなく、一定のリズムをもって言葉が口から流れ出てくるんだな。俺は目をつぶってその言葉を追っていたんだけど、次第にからだが震えてきたね。しゃべっている言葉が、そのまま、見事な文章になっていくんだな。天才、を感じたね。
…野原一夫、同書、140-141頁
…野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)162-165頁


(注)野原一夫はもうひとつのアフォリズムを紹介しています:

 ビールがお酒にかわり、やがてそのうち、
小説を書くというのは、日本橋のまんなかで、素っ裸で仰向けに寝るようなものなんだ
 だしぬけに、ごくさりげない口調で太宰さんはそう言った。私は緊張した。太宰さんはすこし笑って、
「自分をいい子に見せようなんて気持は、捨てなくちゃ」
 ああ、と私は、胸のなかでうなずいた。この一言は、こたえた。
 太宰さんは、しばらく黙っていたが、
文章を書くというのは、固い岩に鑿をふるようなものでね、力仕事なんだ。岩は固いほどいい。脆い岩だと、ぼろぼろに崩れてしまう。固い岩に向って」
 左手を前に突き出し、その手のひらに鑿をふるうような仕草をして、
「鑿をふるう。彫りきざむ。すこしづつ、すこしづつ、形が見えてくる。格闘だ。きみの岩は、すこし脆すぎたようだ」
 その、鑿をふるう仕草をしている太宰さんの目は、いきいきとしていた。

…野原一夫『回想 太宰治』23-24頁


posted by fom_club at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月23日

太宰治と世の中

 今日5月23日こそ昭和歌謡の名曲を、とヤッホー君が息巻いております。
 笠置シヅ子(1914-1985)に『セコハン娘』(作詞:結城雄二、作曲:服部良一、1947)というのがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=v1gMuEn09hA

 「…だから私は セコハン娘」と自分を自分で規定し、でも最後は「だけど私は ただひとつ」と逆転へのチャンスをうかがうなかなかの名セリフ。
 いやぁ〜 恐れ入ってござる。
 この歌を真似て1948(昭和23)年、歌手デビューしたのが美空ひばり(1937-1989)!

「美空和枝」が横浜国際劇場開館1周年記念興行で笠置シヅ子さんの『セコハン娘』などを歌い本格デビューした。この後、日劇出演を機に芸名を「ひばり」に改めた。天性の歌唱力を持つ、ひばりさんは天才少女歌手と絶賛され、終戦直後のすさんだ世相の中で娯楽に飢えていた庶民から圧倒的な人気を得た。
(1948年05月01日付け昭和毎日「昭和のニュース」)
http://showa.mainichi.jp/news/1948/05/post-e980.html

 敗戦後の世相をうたったものでしょうが、そのころの太宰は、とヤッホー君、調べてみましたよ:

 太宰治にとっての1947年(38歳)は2月、太田静子の日記を借りるために神奈川県下曽我の山荘に赴く。3月、山崎富栄と知り合う。(5月、新憲法施行)11月、太田静子との間に治子が生まれる。

 太宰治にとっての1948年は6月13日深夜、山崎富栄とともに玉川上水に入水。19日早朝、死体発見(太宰満39歳)。(11月極東国際軍事裁判の判決くだる)


 「…だから私は セコハン娘」と自分を自分で規定しているすごい歌。
 これに対して、太宰治の場合はどうだったのでしょう。
 大陸ではもう中国との戦争に突入し、その年の暮れには太平洋戦争もはじまるという1941(昭和16)年の作品に『東京八景』というのがあります(1月1日発行の「文学界」第8巻第1号の「創作欄」に発表、太宰31歳)。
 このなかで、自分で自分を規定するのでなく、他者から、周りから、世間から、自分がどう見られているのか、気にしている韋駄天じゃない、野暮天がいます。
 こんな自虐的なセリフをつぶやいています:

 私が世の中から、どんなに見られてゐるのか、少しづつ私にもわかつて来た。
 私は無智驕慢の無頼漢、または白痴、または下等狡猾の好色漢、にせ天才の詐欺師、ぜいたく三昧の暮しをして、金につまると狂言自殺をして田舎の親たちを、おどかす。
 貞淑の妻を、犬か猫のように虐待して、たうたう之を追い出した。
 その他、様々の伝説が嘲笑、嫌悪憤怒を以て世人に語られ、私は全く葬り去られ、廃人の待遇を受けてゐたのである。
 私は、それに気が付き、下宿から一歩も外に出たくなくなった。
 酒の無い夜は、鹽せんべいを齧りながら探偵小説を読むのが幽かに楽しかつた…
 私は、もう30歳になつてゐた。

…太宰治全集第4巻(筑摩書房、1976年)92頁

『セコハン娘』は最後に「だけど私は ただひとつ」と「逆転」へのチャンスをうかがうセリフがありました。
 太宰治の場合には、このような「逆転」への巻き返しってどうなっているのでしょうか。
 「逆転」と言っても、太宰治のことだから「どんでんがえし」に失敗するんじゃないかな、心配だな、不安だ、憂鬱にさせる気?とヤッホー君、ちょっとおどおど:

 何の転機でさうなつたらう。
 私は、生きなければならぬと思つた。
 故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与へたのか。

…同書、92頁

 私は、その30歳の初夏、はじめて本気に、文筆生活を志願した。
 思へば、晩い志願であつた。
 私は下宿の、何一つ道具らしい物の無い四畳半の部屋で、懸命に書いた。
 下宿の夕飯がお櫃に残れば、それでこつそり握りめしを作つて置いて深夜の仕事の空腹に備へた。
 こんどは、遺書として書くのではなかつた。
 生きて行く為に、書いたのだ。

…同書、93頁

 この『東京八景』は円環構造をつくっています。
 最後「私」は:

 それから数日後、東京市の大地図と、ペン、インク、原稿用紙を持って、いさんで伊豆に旅だつた
…同書、99-100頁

 伊豆の南、温泉が湧き出てゐるといふだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。
 戸数30といふ感じである。
 こんなところは、宿泊料も安いであらうといふ、理由だけで、私はその索漠たる山村を選んだ。
 昭和15年、7月3日の事である。

…同書、72頁

 ね、小説の冒頭に戻ったでしょ。
 でもね、最後の最後、こんなコメントがつくのです。
 大団円にならない、いや大団円にしないんです。
 これを書いたのが作者?では「私」とは誰?
 他者の目、周りからの視線、世間の見方がまた出てくるような… 

 伊豆の温泉宿に到着してからは、どんな事になつたか。
 旅だつてから、もう十日も経つけれど、まだ、あの温泉宿に居るやうである。
 何をしてゐる事やら。

…同書、100頁

 フ・シ・ギ…exclamation&question


posted by fom_club at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月22日

太宰治とイタコ

 今日5月22日も昭和歌謡で。
 まずは1960年のヒット作『潮来花嫁さん』を花村菊江(1938-2011)で、どうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=l4ZAYXRcEB4

 違います、違います、今日も太宰治。
「太宰治とイタコ」を指摘したのは、井上ひさし(1934-2010)(注):

井上 太宰は落語をじつによく読んでいた。若い頃、太宰と親しかった檀一雄(1912-1976)がそう証言しています。とくに『円朝全集』(春陽堂、全12巻、1926〜1928)はボロボロになるまで読んでいた。そのせいか、太宰は、それまでにないようなオチのついた小説を数多く書いています。一方ではポー(1809-1849)も愛読している。そこで生前から太宰のことを「オチつき作家」と呼ぶ人が多かった。坂口安吾(1906-1955)などは「太宰の作品は、落語として後世にのこるだろう」といっているくらいです。昔噺や伝説や義太夫のほかに、太宰は落語まで取り込んでいたんですね。そういう「庶民の語り口」で「私」を語ったところが太宰の発見だった。太宰の語りには、津軽のイタコの影響もあるのではないでしょうか。下北半島の恐山のイタコが有名ですが、太宰が生まれた当時は金木の賽の河原がその中心だったわけですね。

長部日出雄(1934年青森県弘前市生まれ) そうです。金木の賽の河原には、イタコがたくさん集まってきていました。太宰は、高等小学校の作文に「賽の河原のイタコは金木の誇りである」と書いています。実際、子供のころに見聞きしていたはずです。ですから、そのイタコの語る口寄せの「旋律」と「韻律」を帯びた言葉も太宰の中に入っていたはずです…

…第14章太宰治「メタフィクション」の劇場人、井上ひさし・小森陽一編著『座談会昭和文学史3』(集英社、2003年11月)所収、373頁

野原一夫 あ、30ですか。30の中年男が19歳の女の子に見事になりかわってああいう文章を書く。一体これはどういうことだろう。
長部 たぶん、その女生徒になっちゃうんだと思うんですよ。
井上 ならないと書けませんね。つまり、イタコになってしまう。
野原 なるほど。そこが、すごく快感なんだな。

…同書、394-395頁。当時19歳であった愛読者有明淑子は1938年4月30日から8月8日までの日記を太宰に郵送したが、太宰は朝、目を覚ましてから夜、眠りに落ちるまでのたった一日の独白体の小説に作り直した「女生徒」(1939年4月『文学界』掲載)について。

 イタコって凧でも蛸でもござんせん。

 イタコは生まれながらか幼くして盲目・半盲目になってしまった女の子が、生活の糧のために師匠のイタコへ弟子入りし、苦しい修行を経て、能力を身につけて独立する。
 現在、むつ下北地方にはイタコは見当たらない。恐山にいるイタコは他の地域(津軽、八戸地方など)からやってくる。
 イタコは「口寄せ」により、死者の世界にいる先祖や肉親・友人・知人と、現世に生きる人との仲立ちをし、今は亡き人の意志を伝達する「仏降ろし」が全てと思われがちである。しかし、これは恐山の祭典へ参加して死者の霊を呼んでいる姿が印象的であったためと考えられる。実は「口寄せ」には外に「神降ろし」と言われる神の言葉や意志を語るもの、いわゆる占い、予言的なものがある。物事の吉兆、善し悪し、安全祈願、病気回復といった悩みを解決してもくれる。恐山以外にも、地元においてこれらのさまざまな手助けや相談に応じ「神様」と言われていることも少なくない。

(青森県むつ市、イタコ情報)
http://www.mutsucci.or.jp/kanko/itako-04.htm

 恐山の祭典で太宰治の「仏降ろし」をしてもらおうと出かけた作家、海猫沢めろん(1975年大阪府生まれ)のルポルタージュがあります:
 2012年7月14日「イタコに太宰治を降ろしてもらってみた」
http://uminekozawa.com/2012/07/dazai/

 また、現役のイタコ、松田広子(1972年生まれ)は『最後のイタコ』(扶桑社、2013年7月)を書かれています。
 2013.07.31女子SPA!「死後の世界はある?最後のイタコ(41歳)に聞く」:
http://joshi-spa.jp/26070

 2013.8.19ダ・ヴィンチニュース「最年少のイタコが告白する知られざるイタコの世界」:
http://ddnavi.com/news/158146/

 潮来のイタコでなく、金木のイタコは、中央大学渡部芳紀(1940年東京生まれ)研究室・太宰治資料館を訪れてみましょう:

 芦野公園を見たら、時間あれば、芦野湖の裏(東)の川倉賽の河原も訪れたい。芦野公園駅の南から国道を東に入り、金木の記念館前から来た道の交差点を左(北)に曲がって1キロも行くと、川倉地蔵がある。祭礼の日は、イタコの口寄せもある霊地である。子供の来世での幸せを祈って奉納された人形たちがお堂を埋め尽くしている。鉄輪を付けた御所車も見事に並んでいる。
(2001.10.24〜「金木を歩く」)
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~houki/dazai/dazaikanagi.htm

 最後に、1960年のデヴュー作ですが昭和の名曲となった『潮来笠』を橋幸夫(1943年荒川区生まれ)で、どうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=Im9BVo-riCo

 違います、違います!
「川倉賽の河原地蔵」は青森県五所川原市にあります:
http://www.city.goshogawara.lg.jp/21_kyoiku/syakyo/bunkazai/kanagi/sainogawara.html


(注)井上ひさしには、本『太宰治に聞く』(ネスコ、1998年、2002年には文春文庫)、芝居に『人間合格』(初演は1989年12月、こまつ座)。いずれも再版、再演が望まれます。井上ひさしは、引用した『座談会昭和文学史』で次のような発言をしています:

いま、民主主義だ、民主主義だと浮かれている連中は、民主主義にすり寄っているだけじゃないか。「甘ったれるんじゃねえ」というわけです。「民主主義」を本気で信じていた人は、牢獄や留置場、あるいは戦場で死んでいる。「いま生き残って、民主主義万歳を堂々と言える奴が何人いるんだ」と怒っている。志賀直哉(1883-1971)にも「あまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない」と怒っている。太宰は倫理家でもある。というより完全にキリストですね。神殿で店をひろげていた商人を叱りつけるときのキリストによく似ています。とにかく清潔な倫理を持っている。
(同書、416-417頁)

posted by fom_club at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月21日

太宰治、酔ってひと節

 太宰治と煌めく星座。
 そうなんです、昨日のヤッホー君の日記で登場した野原一夫。
 こんなことがあったようで:

 橋を渡りバラックのマーケットの奥へと、二人(太宰治と太田静子 1913-1982 の弟、通)は入っていった。小料理屋のカウンターの高い椅子に並んで腰かけてからも、太宰は相変わらず通にばかり話しかけていた。そこへ、ベレー帽の細身の青年が入ってきた。編集者の野原一夫氏だった。

 1947(昭和22)年の5月、です。太田静子、妊娠4ヶ月に入っていたころ。
 まず太田静子は通と東京駅に近いレストランでランチと取ります。そのとき通は:

 新憲法になって、私生児(注)がなくなるということを教えた。
「子供は、私の籍に入れたいの。父親の欄が空白でもいい。私一人の子でいいの」
「それなら、太宰さんのお墨付きをもらっておけばいいと思う」


 そして4時過ぎに三鷹の鰻屋に入り、ビール一本を飲むと店を出て、太宰の馴染みの店、小料理屋「すみれ」に入り、野原氏と合流した、とこういうわけでして。
 ほかにも編集者が一人、二人と入ってきたのですがつれだって「すみれ」を出て、もうひとつの馴染みの店「千草」の奥座敷にあがりこみます。
 盛り上がってきたころ野原氏は太宰からその晩、最後まで付き合ってくれと頼まれ引き留められ、太宰と太田静子と3人で画家の桜井浜枝さんのアトリエで夜を明かします。

 その前に、「千草」の奥座敷では:

 母が奥座敷に入ると、酒宴はいよいよ盛り上がっていた。太宰が、灰田勝彦(1911-1982)の『煌めく星座』(1940、敗戦後の1945年リバイバルヒット)を低い声で歌い出した。

  男純情の愛の星の色
  冴えて夜空にただ一つ あふれる思い
  …
  思い込んだら命がけ 男のこころ
  …

 母は、今にも泣きそうな気持で聞いていた。

 いつのまにか眼鏡をかけた若い女の人が野原さんの横に座っていた。彼女は高価なウイスキーを持ってやってきたらしかった。グラスにウイスキーを注いでまわったり、食卓の上をさっさと拭いたりして、それはてきぱきと綺麗好きらしい人に思われた。よもやその人が、太宰の愛人になったばかりの山崎富栄さん
(1919-1948)だとは想像だにしなかった。

 その年の11月12日、女の赤ちゃんが生まれた。通が三鷹の仕事部屋へでかけて、太宰のお墨付きを貰ってきた。「治子」と太宰が自分の一字を取って名前を考えてくれたことが、母は何より嬉しかった。「日本一、よい男」という一行が、日記に踊っていた。気恥ずかしくなるような言葉である。
「お金のことで困るようなことがあったら、いつでもいって下さい」
 お墨付きを通に渡す時に太宰がそういったことを、たまたまそこに居合わせた野原さんが覚えていた。通はその言葉も、母に伝えたのに違いなかった。
…太田治子『明るい方へ、父・太宰治と母・太田静子』(朝日新聞出版、2009年9月)220-233頁

 では、ここで一曲:

戦後70年記念/リンゴの唄/青い山脈:
https://www.youtube.com/watch?v=l9JjmrU5yTU

 失礼、この歌はヤッホー君が5月15〜16日、湯河原に湯浴みに行ったときに歌ったもので、これが『煌めく星座』!

青春グラウンド/燦めく星座(灰田勝彦):
https://www.youtube.com/watch?v=Qk994gdBDRw


(注)日弁連会長による声明文:

これまで、国連の自由権規約委員会、女性差別撤廃委員会、子どもの権利委員会及び社会権規約委員会は、日本政府に対して、本件規定についての懸念を表明し、本件規定を廃止することを繰り返し求めてきた。婚外子と婚内子の平等化を図り差別を撤廃することは国際的潮流であり、相続分につき制限を設けていたドイツ、フランスにおいても既に相続における平等が実現しており、東アジア諸国においても婚外子の相続分についての差別はない。

自由権規約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約及び社会権規約を批准している日本政府は、これらの条約に沿うよう国内法を整備する義務がある。国は、速やかに、本件規定を改正(削除)し、婚外子と婚内子の相続分についての平等化を実現すべきである。なお、「嫡出でない子」ないし「非嫡出子」という用語は差別的であるとして、子どもの権利委員会から用語の廃止についても勧告されている(第2回日本政府の報告に対する2004年2月26日付け子どもの権利委員会の最終見解)。改正に当たっては、差別的な用語をも改めるべきである。

ところで、日本政府は、自由権規約委員会及び女性差別撤廃委員会から、上記婚外子差別のほか、選択的夫婦別姓を認めていないこと、女性のみに6か月の再婚禁止期間を定めていること、婚姻適齢について男女の差を設けていることについて、繰り返し懸念を表明され、民法改正のために早急な対策を講じるよう要請されてきている。しかし、これらに関する民法規定もいまだ改正されていない。

当連合会は、国に対し、婚外子の差別的な法定相続分を定める本件規定の改正と併せて、夫婦同姓しか認めない民法第750条、再婚禁止期間を定める民法第733条、婚姻年齢に男女の差を設ける民法第731条など家族法における差別的規定を、速やかに改正することを強く求める。
…2013年(平成25年)9月4日、日本弁護士連合会、会長 山岸憲司


posted by fom_club at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月20日

太宰治と聖書

 太宰治と薬物乱用。
 三重大学名誉教授(医学部小児科)の櫻井實先生が野原一夫(1922-1999)氏の著書2冊の書評をこんなふうに記しています:

『太宰治と聖書』(新潮社、1998年5月)
 芥川龍之介と太宰治は、ある意味ではキリスト教信者からすれば評判は良くないが、わが国の小説家の中では、最も真剣に聖書を読み、その一語一句を噛みしめて理解しようと努力した人ではないかと思う。
 本書は、太宰がなぜに聖書に感銘を受け、悩まされて小説を書いてきたかを年代別に、かつ聖書の章句と比較しながら、解説を加えている。著者の野原一夫氏は、旧制浦和高校文芸クラブ時代に太宰に面接している。本格的に面識を得たのは第2次大戦が終わり、1946(昭和21)年11月に、太宰が疎開先の津軽から東京三鷹に帰り、流行作家として活発な文筆活動を始めた時より、1948(昭和23)年6月に玉川上水への入水心中自殺までの約一年半あまりの生涯を終える期間である。新潮社を皮切りに、出版や編集の仕事の面のみならず、大学の後輩としても、特に太宰にかわいがられて、私的にも親密な交流があった。野原氏自身も太宰の作品を通して才能の素晴らしさや、実直な人柄に心から尊敬の念を抱いていたものと思われる。

『回想 太宰治』(新潮社、1980年5月) 
 周知のごとく、太宰治(本名 津島修治)の生涯は、惨々たるもので、自他共に認める人間失格者そのものであった。
 1930(昭和5)年、津島家の大いなる期待を担って、東京帝国大学文学部に入学したが、殆ど登校せず、弘前高校時代より馴染みとなった芸者、初代と同棲、またマルキシストとして、非合法運動に加わり、特高警察に追われるなど、終に直接の影響が郷里に及び、実家の津島家から除籍、勘当を受けた。その後、非合法運動からは離脱できたが、大学は卒業できず、家族やマルキシストの友人を裏切った自責の念も強く抱いたまま、1933(昭和8)年、25才のとき太宰治を筆名として、自ら志した作家生活を始めることになる。同人雑誌への太宰の作品は、識者への共感を呼んだが、「人間失格」の意識が強く、鎌倉での心中未遂事件、1935(昭和10)年、急性盲腸炎に併発した腹膜炎の鎮痛、鎮静のためにバビナールが注射され、退院後も中毒症状が絶えず、家族や社会から狂人の扱いを受けるに至った。妻の初代が家族や、井伏鱒二と相談して、精神病院に入院、太宰は施錠され「人間倉庫」に移された。禁断症状がとれ、精神科医師の状況判断で、太宰が希望したうち、聖書だけが読むことを許された。太宰は聖書を読み、時に救われたが、さらに聖書の内容を追求して、自分の作品を書こうと決心したのはその時であったと 著者は述べている。その後の太宰の作品の多くが、聖書を意識してのものが多いが、野原氏は太宰研究者の多いなかで、彼の作品を聖書との関連で捉えている者は少ないという。聖書研究家である赤司道雄氏は自著『太宰治−その心の遍歴と聖書』(八木書店、1985年)の中で、特に太宰の作品は聖書研究の対象として、また日本精神史を理解するうえでも意義が深いこと、また太宰が聖書を最も良く読み、その理解者であったことを認めている。野原一夫氏にも、この点では同意しているものと思う。精神病院より退院後、太宰はイエス・キリスト伝を書こうと決心したが、イエスがあまり偉大で、畏敬の念がとれず、かえって反発してイエスを裏切ったユダに共感を得て、太宰流の解釈で3年後に「駆け込み訴へ」を完成させている。「己を愛するごとく、汝の隣人を愛せよ」…これが最初のモットーであり、最後のモットーです、と太宰は書いている。

(櫻井實「無題」三重大学図書館報『学燈』No.102(1999.3.30)所収)
http://www.lib.mie-u.ac.jp/about_library/gakuto/Gakuto102/Gakuto102.html

 井伏鱒二の証言:

 そのころ私の書きとめた「太宰治に関する日記」といふ記録に、
「北氏、船橋の薬屋の請求書を密かに小生に見せる。バビナールの代金四百円也。但し一箇月分。暗然たるもの胸に迫る。アンプールの空殻は、大家さん世間をはばかり穴を掘つていつも埋めゐたる由」と書いてゐる。
 当時、バビナールは一本三十銭から五十銭ぐらゐのものらしかつた。一度に三本も四本も注射して、日に何回となく注射してゐたもである。からだはもう衰弱しきつてゐた。顔も陰鬱な感じであつた。私は太宰に、
「僕の一生のお願ゐだから、どうか入院してくれ。命がなくなると、小説が書けなくなるぞ。怖いことだぞ」と強く云つた…

…井伏鱒二「太宰治の死」前掲書所収、13-14頁

 イマでも…

(共同)昨年2014年9〜10月に全国の医療機関で治療を受けた薬物乱用患者の34%が過去1年間に主に危険ドラッグを使用し、覚せい剤など他の薬物を上回って最多を占めたとの調査結果を厚生労働省研究班が7日までにまとめた。厚労省は、店舗やインターネットを対象に危険ドラッグ販売の取り締まりを強化しているが、専門家は治療体制の整備も必要と指摘している。
 研究班は全国の精神科病床がある医療機関1598施設に昨年2014年8月、協力を要請、同9〜10月の2ヶ月間に薬物依存症などで治療を受けた患者の有無や使用薬物の種類などを調べた。200以上の施設から1579人分の患者データが集まった。

(2015年5月7日18時07分付け東京新聞「危険ドラッグ使用最多34%、薬物乱用患者 過去1年に」)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015050701001443.html

(共同)警視庁上野署は4月23日、麻薬成分を含む危険ドラッグを所持していたとして、麻薬取締法違反(所持)の疑いで、人気映画『下妻物語』の原作者で作家の嶽本野ばら(本名嶽本稔明)容疑者(47)=東京都渋谷区=を逮捕した。
 逮捕容疑は3月上旬、台東区の路上で麻薬成分を含んだ危険ドラッグの植物片約2グラムを所持していた疑い。上野署員が職務質問して発覚した。
 嶽本容疑者は10代の少女を中心に人気があり「乙女のカリスマ」と呼ばれた。

(2015年4月23日17時24分付け東京新聞「下妻物語の原作者逮捕、危険ドラッグ所持容疑」)

 今朝も河北新報朝刊は次のように伝えています:

 同級生2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませたとして、名古屋大の女子学生(19)=宮城県出身=が殺人未遂容疑で再逮捕された事件を受け、国が若年者への毒劇物販売の規制強化に向けた検討に入ったことが5月19日、分かった…
 宮城県は厚労省からの連絡を受け、同日中に県薬剤師会、県毒劇物協会などに通知を出し、身元確認の徹底、使用目的や使用量の適正化、一般消費者への販売自粛などを求めた。
 今回の通知のベースとなったのは、2005年10月、静岡県の女子高生=当時(16)=が地元薬局で購入したタリウムを母親に飲ませ、殺人未遂容疑で逮捕された事件。この女子高生は当時、年齢を16歳と正しく書類に記入したが、薬局側が見落とした。
 厚労省は、18歳未満への販売が禁じられたタリウムを、ともに購入年齢に満たない女子高生が薬局で入手した事実を重く受け止め、新たな通知を視野に「再発防止策をさらに検討したい」(化学物質安全対策室)としている。

(2015年05月20日水曜日付け河北新報「<タリウム事件>毒劇物販売、国が規制強化へ」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201505/20150520_73012.html

 海の向こう、地球の反対側、聖書を大切にしているはずのイギリスでも:

I have specialised in addiction psychiatry for the past 12 years and in that time I've seen very significant changes in the field. Ten years ago, I was almost exclusively treating problems related to five substances: heroin, crack cocaine, powder cocaine, benzodiazepine and, of course, alcohol. Over the last five or six years I've seen a new group of problem drugs being used by a new group of users. These new drugs include ketamine, mephedrone, methamphetamine, GBL (gamma-butyrolactone) and a specific group termed "novel psychoactive substances" – sometimes misleadingly known as "legal highs"…

When a patient comes to see me, I try to understand the problems the drug is causing, but just as importantly, why they are using the drug in the first place. People typically start using psychoactive drugs either to experience new feelings, such as more confidence and increased energy, or to take away a feeling that they don't want, such as anxiety and distress. Understanding the initial purpose of the drug use is critical in helping a person make sustained changes in drug-using behaviours…

The good news is that addiction is a medical condition and with the right treatment people can and do achieve sustained recovery. But treatment is complex and needs to combine physical, psychological and social approaches. Treatment also depends on what a person wants. In my experience, it is crucial that a person with drug-related problems identifies their own goals rather than have them imposed by others. Telling people what to do just doesn't seem to work.
(Owen Bowden-Jones, a consultant psychiatrist and founder of CNWL Club Drug Clinic, talks about the problems associated with new drugs such as ketamine
Sunday 5 October 2014 10.00 BST)
http://www.theguardian.com/society/2014/oct/05/drug-addiction-psychiatrist-ketamine-gbl-mephedrone


posted by fom_club at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月19日

三ツ峠放屁

 天下茶屋に旧御坂トンネルが、あっ、山に上級中級初級なんて等級をつけないのと同じく、新、旧なんて対比もさせないところが山歩クラブ!
 ですので「御坂隧道」exclamation×2
 ここは1997(平成9)年に「国登録有形文化財」となっております:

 武士、商人、職人、あらゆる人と物資が行き交い賑わいを見せた鎌倉街道は、明治以降鉄道の発達により一時その役割を失いましたが、1931(昭和6)年の旧国道8号線御坂隧道開通に伴い、再び郡内と甲府盆地を結ぶ大動脈となりえました。
 御坂隧道は山梨県の物流に大きな影響を与えたとして、国の登録文化財に指定されました。

(笛吹市公式サイト)
http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/kanko/shisetsu.php?id=78

 山梨県公式サイトから「やまなし歴史探訪 時を今につなぐあの日」:
http://www.pref.yamanashi.jp/koucho/fureai/documents/vol22-22-23.pdf

 さ、御坂山に向け出発進行!
 そこで現れでてきますのが「太宰治文学碑」:

太宰治.jpg

 何が彫られているのか、判読できないほどにかすれておりましたが、ここにあの作品『富嶽百景』の一節「富士には、月見草がよく似合ふ」とあるのだそうです。
 東京紅團「太宰治を巡って」:
http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai-kofu.htm
 
 ところで、ヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの日記をご参照ください:
 ☆ 2011年4月26日「春一番」
 ☆ 2013年3月22日「洲崎橋」
 ☆ 2014年5月16日「太宰治『富嶽百景』」

 そうなんです、井伏鱒二はこんなことを:

 甲州の御坂峠に太宰君の碑が出来た。一昨日、その除幕式があつたので私も参列した…

 この碑は、甲府市の新聞社長、野口二郎さんといふ人が、山梨県の人たちに呼びかけて出来たものである…

 碑石は安山岩の自然石、横幅6尺3寸、高さ5尺8寸。この石は昇仙峡入口の荒川左岸にある片山とふ石切場から出た。台石も同じ場所から出た。
 刻字の労を引き受けたのは、甲府市三日町の望月徳太郎翁である。珍しい気質の人で、石工の名前を入れようと野口さんの方で云ふと、名前を入れと碑が荒れると答へたそうである。短期の間に見事に彫りあげた。文字は原稿のペン字を写真で拡大した。却つて柔かみが出たと思ふ…

 再び峠の茶屋に寄つた。おかみさんが「昨日は、大変な人だつたね。うちでも昨晩は、ぐっすり寝た」と云つた。「参列者は何人ぐらゐだつたらう」と聞くと「400人ぐらいだつたらう。お蕎麦を250人ぶん徹夜で支度したのに、半分の人にも行き渡らなかつた」と云つた。お蕎麦は山麓の河口村の人が参列者に接待したものである。

…井伏鱒二「御坂峠の碑」(初出『文学界』1953年12月、原題「御坂の碑」)『太宰治』(筑摩書房、1989年11月)所収、154-156頁

 『富嶽百景』については1箇所だけ私の訂正を求めたい描写がある。
 それは私が三ツ峠の頂上の霧のなかで、浮かぬ顔をして放屁したという描写である。
 私は太宰君と一緒に三ツ峠に登つたが放屁した覚えはない。
 それで太宰君が私の家に来たとき抗議を申し仕込むと、
「いや放屁なさいました」と噴き出して、
「あのとき、二つ放屁なさいました」と、故意に敬語をつかふことによつて真実味を持たさうとした…

「しかし、もう書いたものなら仕様がない」と私が諦めると、
「いや、あのとき三つ放屁なさいました。山小屋の爺さんが、くすっと笑ひました」と、また描写力の一端を見せた…

…井伏鱒二「御坂峠にゐた頃のこと」(初出『太宰治全集3』月報1955年12月、同書129頁

『富嶽百景』といえば葛飾北斎『冨嶽三十六景』。
 カッシーがこんなメッセージを寄せてくれました:

 日曜の久しぶりの山歩きは、ヒザ痛も忘れるくらい楽しいものでした。でもヒザをかばい過ぎてアチコチ筋肉痛です。
 北斎の冨嶽三十六景に「甲州三坂水面(こうしゅうみさかすいめん)」があり、御坂峠から観た富士山だということです。
 河口湖があんなに大きく見えるはずがないけど、まあ富士山がきれいに見えるのは確か。
 逆さ富士をみると富士山が雪をかぶっているし、不思議な絵ですね。


 そうなんです、ヤッホー君も笑い疲れか話し疲れか、はたまた呑み疲れか歩き疲れか、月曜日は終日ボウットしていたほど、楽しい山行だったのです。
 山行は先頭がはるちゃん、ヤッホー君は最後尾を守ったのですが、最後尾を担ってくれる互譲の気持ちをお持ちの仲間がおられました。
 それはその都度、放屁なさりたかったそうなのです。
「御坂みち」には放屁が良く似合ふ、ぶっ、ぷぶっなのか、深呼吸するたびにむせかえる感慨深いものがございました。
 どれどれ、今日5月19日火曜日、終日ブウット不思議な絵を眺めていることとします:

葛飾北斎.jpg

 甲府盆地から河口湖へ抜ける御坂峠から望む逆さ富士。穏やかな湖面と落ち着いたたたずまいの村落によって、静謐な景観となっている。実体の富士は夏であるのに、湖面に映る姿は雪をいただき、左にずれて描かれている。本来、逆さ富士は河口湖畔まで来ないと確認できない。本図は御坂峠から富士山麓を見渡した光景と、峠を下ってきて逆さ富士を目にしたときの、両方の感動が込められているのであろうか。北斎の奇抜な発想と構成力がよく現れている一枚。
※ 御坂峠(山梨県富士河口湖町・笛吹市)
 御坂峠は、甲府盆地と富士山麓との間にある鎌倉往還の峠。本図は峠を下り、河口湖畔から富士を望む。中央左よりの湖上の島が鵜の島。その左側の建物は妙法寺と考えられる。中央の集落は勝山村であり、その右手前には河口湖南岸にある大原七郷の鎮守で中世には富士信仰の拠点の一つとなった冨士御室浅間神社の杜が見える。右端の足和田山の麓の集落は長浜村。

(山梨県立博物館かいじあむ)
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_29.htm


posted by fom_club at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

河口の森

 おはようございます。
 富士山にはやっぱり山歩クラブが一番良く似合う!
 そうなんです、昨日5月17日日曜日、山歩クラブは14名で天下茶屋から御坂山1596mを経て御坂峠越えをする山歩きをしてきました。

天下茶屋.jpg

茶屋の前.jpg

 尾根伝いにひろがる見事なブナの林…
 思わず見え上げますと、エゾハルゼミの合唱がもう耳に飛び込んできます。
 山路の先に目をやりますと、紫色のトウゴクミツバツツジが目に飛び込んできます。

トウゴクミツバツツジ.jpg

 そしてなによりも尾根の樹間から時折り見える富士山には雲ひとつなく、終日われわれを最後まで見守ってくれていました。

絶景.jpg

富士の山.jpg

 新緑の爽やかな皐月の山行、初夏の陽光をあびてきらきら光る河口湖の湖面。
 どっぷり山のなかに浸り、たっぷり堪能してきました。
 おしゃべりも冗談も中断することなく切れ間なくつづき、良き仲間に恵まれたお山歩会。
 御坂山。

御坂山.jpg

 天空でのランチタイムはその先、御坂峠で。
 例のドカ弁を平らげてもまだ足らず、御供え物までもしっかりいただいた育ちざかりのヤッホー君、お腹がまた、ひとまわりもふたまわりも、膨れてしまったようです。

 高畠さんの山友お二方、来月も出席して下さるということでありがとう!
 帰りにはその高畠さん、川上さんから差し入れがありまして、舌鼓をうってきました。
 皆さん、大変お疲れさまでした。


posted by fom_club at 08:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月17日

湯河原で歴史散歩

 ヤッホー君の湯河原への一泊二日の湯の旅。
 二日目のタウンウオーキングは、歴史散歩。
 土肥一族の菩提寺・城願寺、小田原でお墓(北条氏政、氏照)参りに、小田原城。
 あっ、その前に五月みどり(1939年生まれ、75歳)のお店でお買い物。

五月みどり.jpg

 若々しさ、女らしさ、かわいらしさ、前向きな生き方で絶大な人気を誇る五月みどりさん。その輝きの元はどこに?3度の結婚と離婚を繰り返し…、それでも「人を恨まない、悔やまない、受け止める」が五月さんのポリシー。常に前向きな姿勢が、五月さんの笑顔を輝かせる。その他、健やかな体をキープするための食事のこだわり、「笑顔が最高の化粧品」という美容意識、自分に一番似合う装いのための創意工夫、オペラや腹話術などへのチャレンジ、オリジナルクラフト作品の制作、一人でも多くの女性に美しくなって喜んでもらいたいとの思いで始めたファッション&雑貨ショップなど、一刻も休むことを知らない五月さんの活動ぶりを軸に、いくつになってもイキイキと自分らしく輝いて生きるヒント満載の一冊。
(五月みどり『きれいのヒ・ミ・ツ』(主婦の友社、2014年5月)
http://shufunotomo.hondana.jp/book/b177418.html

 ではさっそく駅前から:

土肥實平公その夫人像の由来
 土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。
 1180(治承4)年、源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。
 公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。


土肥夫妻.jpg

 源頼朝股肱の臣 土肥実平は、10世紀頃から関東に勢力を伸ばした平氏の一族の出で、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字としました。源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となりました。富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られています。平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられています。土肥氏と西国との関わりはここに始まります。
 平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けました。
 小早川家の祖
 湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残されており、駅前広場に館跡碑と、実平夫妻の銅像が建てられています。
 土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いています。のち、遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏としました。土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となりました。
 土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600(慶長5)年の関が原合戦後のことで、宇喜多秀家に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられました。しかし秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶することになります。

(岡山市公式サイト、江戸東京 岡山を歩く、先人の息吹)
http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/dohi/dohi.htm

城願寺.jpg

土肥一族の墓.jpg

 そして土肥一族の眠る菩提寺、城願寺へ「鎌倉幕府開運街道」を。
 上掲のように写真2枚を添付しおきます。
 雨模様だった湯河原を後にしたヤッホー君、小田原駅で途中下車。

 1590(天正18)年7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めにより、小田原北条氏(後北条氏)五代当主北条氏直は降伏し小田原城は落城。
 秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得によるものだったという。
 秀吉は、小田原攻めを招いた責任者として四代当主北条氏政と氏照に切腹を命じ、二人は7月11日、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃し、当時この地にあったた北条氏の氏寺伝心庵に埋葬された。
 現在の墓所は、永く放置されてあったものを小田原城に入った稲葉氏が北条氏追福のため建て直したもので、関東大震災で埋没してしまうが、地元の有志によって復興されている。
 墓所には、氏政・氏照・氏政夫人のものという「大中小の五輪塔が三基」、氏政と氏照が自害する際に腰を掛けたと伝えられる「生害石」、「笠塔婆型墓碑」・「石燈篭」などが置かれている。


北条・墓.jpg

 いよいよ本日の主会場、小田原城へ攻め上がります:

 小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
 15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総そうがまえ構の出現に至ってその規模は最大に達しました。
 しかし、1590(天正18)年、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。
 1686(貞享3)年に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

(小田原市公式サイト、小田原城の歴史)
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/history/

小田原城.jpg

 写真も撮ったしでは、ここで「美しき日本、小田原」こころの絆が育んだ城下町、小田原をご覧ください:
https://www.youtube.com/watch?v=kzox1ahJcgY

 「小田原城」の映像も:
https://www.youtube.com/watch?v=9tyBrNcHE-I

posted by fom_club at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月16日

湯河原で文学散歩

 ヤッホー君、15日(金)、16日(土)と湯河原への一泊二日の湯の旅。
 あのぉ、「旅装船越」の跡地探検ではございません。

船越.jpg

 初日は、不動滝、大滝ホテル、だるま滝、町立湯河原美術館、光風荘、こごめの湯、万葉公園、独歩の湯、観光会館、と湯河原温泉を徘徊。

不動滝.jpg

 上の写真は「不動滝」。
 下の写真は「町営美術界」に展示されておりましたが、湯河原を表す万葉の歌です(万葉集巻き14・相聞歌3368・詠み人知らず):

足柄の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろがいわなくに


万葉の歌.jpg

 いろんな発見がありまして、びっくり、びっくり、ますます湯河原が気に入りました。
 気に入るどころか移住された方も:

 私は温泉が好きとか、それが魅力で湯河原に移ったのではありません。
 なにより新幹線が止まらないその駅は、大型の商業施設がなくて、休日以外は乗降客も少なく、ホームからは四季折々の自然の移ろいが見え、感じられ、そのたたずまいは、懐かしさが漂よう旅先の駅であり、山と川と海のある「四季彩のまち」は、静かで、おだやかな自然が香り、文学が薫る、その空気感が気に入ったからでした。
 それは、前に住んでいた都内の文京区とつながり合う不思議な懐かしさを感じたことでもありました。
 この湯河原に住み、滞在して物語を生んだ多くの文人や画家は、
 ☆ 夏目漱石、
 ☆ 国木田独歩、
 ☆ 芥川龍之介、
 ☆ 山本有三、
 ☆ 与謝野晶子、
 ☆ 島崎藤村、
 ☆ 谷崎潤一郎、
 ☆ 丹羽文雄、
 ☆ 小林秀雄、
 ☆ 水上勉。
 画家では竹内栖鳳、安井曽太郎などなどですが、文豪・夏目漱石は湯河原を舞台にした晩年の小説『明暗』を、芥川龍之介は『トロッコ』。
 国木田独歩は『湯河原ゆき』。
 島崎藤村は名作『夜明け前』を温泉で静養しながら5年ほどかけて執筆したそうです。
 文京区ゆかりの文人には、樋口一葉、石川啄木、夏目漱石、森鴎外、宮沢賢治、泉鏡花、佐藤春夫、宇野浩二、久保田万太郎、幸田露伴、永井荷風などですが、文京区と湯河原を想い、遥かな時の流れを感じながら、それらの面影を追い、忍ぶ文学散歩は、なにげない風景や光景が、特別なものに思えて、見えてきて、愛おしく、慈しむ気持ちがおのずと湧てきます。
 若いときは、便利でにぎやかな都会の方が良く、ついこの間までは湯河原に住むなどとは、まったく思いもしませんでした。
 年を重ねるということは、こうした?ことでもあるのでしょうか。
 湯河原は町ですから役所ではなく町役場です。
 この役場というひびきも気に入りました。
 私は今村ですから、村には役場が似合います。

(2013.6.15、東京デザイン専門学校・今村昭秀学校長のコラム)
http://www.tda.ac.jp/column/2013/

国木田独歩
 独歩は晩年に3回、旧「中西」に保養に訪れ、短編小説を書きました。
 好意を持った旧「中西」の女中が嫁いだのを聞き、悲恋の情を綴ったのが『湯河原より』。
 また、3回目の保養で書いた『湯河原ゆき』の中の

「湯ケ原の渓谷に向かった時は、さながら雲深く分け入る思いがあった」という一節は、万葉公園内の独歩文学碑に刻まれています。

島崎藤村
 代表作『夜明け前』は、資料集めから執筆まで大変な苦労を要しました。
 夫の健康を気づかう静子夫人の勧めにより、藤村は年4回の原稿提出後の数日間は、伊藤屋旅館でゆっくりくつろぐようになりました。
 伊藤屋旅館には藤村詩碑が今も残されています。

夏目漱石
 漱石の最後の小説『明暗』は、朝日新聞に188回まで連載、その死によって未完となった作品です。
 170回からは舞台が湯河原に転じ、自らも逗留した温泉旅館「天野屋」や「不動滝」が作品中に登場しました。


町営美術館.jpg
 
 写真はその「天野屋」の看板。
 イマは「町営美術館」になったその一階に掲げられていました。

与謝野晶子
 日本女流文学界を代表する与謝野晶子は、昭和初期頃、度々吉浜の旧「真珠荘」を訪れました。
 同荘の庭の大島桜をこよなく愛し、


吉浜の 真珠の荘の山ざくら 島にかさなり 海に乗るかな


をはじめ、湯河原にちなんだ多くの歌を詠みました。
(湯河原町公式サイト、名所旧跡)
http://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kankou/leisure/historic-place.html



posted by fom_club at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

能見堂コース

 山歩クラブが5月6日に予定していたお昼は、「横浜自然観察の森」にある「自然観察センター」でしたがとうとう、たどりつけませんでした。
 なんでかっ、振り返りが今日も続いています。
 朝の8時には清澄白河駅におりましたので出足は快調、9時ころには金沢文庫駅を元気に出発したはずです。
 最初の目印は「六国峠入口」。
 しかし…、ここでパタッとヤッホー君の足が止まってしまいました。
 ここに石標が立っていて「保土ヶ谷道」とあったのです、ん?

 過去から未来へ、きらきら輝く金沢区:
http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/rekishi/otona/future/movie.html

 いえ、その金沢区の公式サイトに「歴史息づく横浜金沢、景観から紐解く金沢、金沢の古道と朝夷那切通」という頁がございまして、この中に説明がありました:

 東海道保土ヶ谷宿から能見堂を経て金沢へ至る道を金沢道(保土ヶ谷道)と呼びます。
 江戸市民にとっての身近な行楽地、金沢八景へのコースとして、1659(万治2)年刊行の『鎌倉物語』は次のように述べています。
「江戸より見物せんと思う人は、先かたひらより金沢を経て、鎌倉へ行けば見物の次第よきなり」
 つまり、金沢八景を鎌倉・江の島とセットにして位置づけています。
 景勝の地としてのピークは、文化・文政年間からであり、能見堂をはじめ、各寺院や旅亭が競って刊行した『八景案内図』『一望之図』など沢山の刊行物がその留時を今に伝えています。

http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/rekishi/otona/landscape/oldroad.html

 そうなんです、だからわれわれ山歩クラブは、金沢の景勝の地を踏んだ後の帰路にあたる道をわけていく、とこんなわけなんですかねぇ。
 金沢文庫も金沢八景もみたことのない者ばかり、どうやら、そっちが先なんじゃない?とまくりあげた裾を「土地の精霊」にひっぱられているような、そんな感じ。
 だってぇ、

 富岡八幡宮は1627(寛永4)年、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
 江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。
 また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。

(富岡八幡宮も公式サイト、沿革)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/htmls/goyuisho.html

 この深川の八幡様、ヤッホー君が門仲に行く度毎に手を合わせる「富岡八幡宮」も、横浜市金沢区にある「富岡八幡宮」の分社だったってえ〜

 富岡には、昔から社寺も多く、津波の波除け祈願の「波除八幡」や、源頼朝が民屋鎮護のため、また鎌倉幕府鎮護や、鬼門封じのために「富岡八幡宮」を創立した。
 徳川家康が江戸城に入って江戸の街づくりを天海とともに開始すると、江戸城のたつ本丸台地の周りには七つの台地(上野、本郷、小石川、麹町、麻布、白金)があり、周辺には入り海が多く、何度となく高波に浚われ、埋め立て工事が難行したが、このときに富岡の波除八幡の分霊を江戸の埋め立て地に祀ると埋め立て工事が成功し、これが現在の「深川八幡宮」のはじまりとなった。

(2015/3/2〜絵描きさんのひとりごと〜「県立金沢文庫建設の経緯や、金沢の一帯、金沢八景の今後」)
http://white.ap.teacup.com/flowerlove/2059.html

 そしてわれわれが、そのハイキングコースとなっている切通しのようになった道を登った先にあったのが「能見堂緑地」。
 これって何?

「能見堂」は寛文年間(1661〜1673)に、地頭の久世大和守広之が再興した擲筆山地蔵院のことです。
「能見堂」の歴史は古く、1486(文明18)年には廃絶してなかったと記録にあります。
 その後久世大和守広之により再興されて次第に発展したのですが、最も栄えたのは9代目住職道曹の天明年間(1781〜1788)頃からのようで「能見堂八景の画図」や「金沢八景詩歌」、「金沢八景案内子」などが「能見堂」から盛んに出帆されています。
「能見堂」のいわれについてはいろいろの説があり、決め手となる資料がありません。
 今のところでは「江戸名所図会」の「地蔵尊を本尊とする故、六道能化の意によりて、能化堂には作られたりし歟」とある能化堂から能見堂に変わったと見るのが一番妥当かと思います。
 金沢八景と能見堂との関係は、心越禅師による八景の漢詩と、京極無生居士の和歌によって広く知られるようになったとも云えましょう。
 江戸の時代が終わるのと同じように、能見堂も1869(明治2)年正月18日の火災により焼失して、その幕を閉じました…

…横浜市教育委員会

 1694(元禄7)年、心越禅師が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヵ所の勝景を漢詩に詠んだのが”金沢八景”のはじめで、安藤(歌川)広重らがこれを題材に浮世絵を描いたことによって、能見堂は広く知られるようになりました。
 1803(享和3)年に建てられた”金沢八景根元地”の石碑があります。
 平安時代、宮廷絵師巨勢金岡が金沢の入り江の勝景を描こうとしましたが、あまりの絶景に絵を描くのを断念し、絵筆を松の木の根元に投げ捨てた(筆捨松)との伝説もあります。
 この”筆捨松”は、1920(大正9)年の大風で折れてしまい、さらに太平洋戦争末期の松根油を取るために根元から掘り出されてしまいました。

…横浜金沢観光協会

「あまりの絶景」…、そう、ヤッホー君たち山歩クラブは歩くのも捨てやり、そこにどれほどの時間、立ちすくんでいたことでしょう。
 ああ、去りがたし景勝の地よ、横浜金沢よ…

posted by fom_club at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月14日

針が岳のぬし

「中西悟堂」(1895、明治28年-1984、昭和59年)の名を耳にしたことのある人は、それほど多くはないでしょう。知っていたとしても「野鳥の会」の創設者として、その名を記憶にとどめているくらいだと思います。
 悟堂は単なる野鳥研究家ではありませんでした。今から半世紀以上も前に、機械文明、消費文明の行き過ぎに警鐘を鳴らしていた思想家でした。悟堂は、かつてNHKテレビのインタビューにこんなふうに答えています。


「今の産業文明、機械文明は限りない欲望の世界なんですよ。欲っていうのは必ず後ろに欲求不満がある。だんだんエスカレートしていく」

 悟堂が西洋文明に対して懐疑を抱くようになるまでには、さまざまな「知の門」を通り抜けます。義父が僧侶だったため、悟堂は15歳で仏門に入ります。他方、若い頃から文学に目覚め、歌や詩を創作し、絵筆も取るようになります。若山牧水、高村光太郎、木村荘八など多くの文学者や画家たちと交流するようになり、同時にマルクシズム、アナーキズムの世界観を知るようになります。
 30歳の時から3年間、突然、木食菜食生活に入ります。その頃について、自伝ではこう書いています。


「イデオロギーの中を右往左往しましたが、いっこうに落ち着きませんでした。今の生活に入って、初めて無欲の生活のよさを知りました。このあとは無私の生活でしょう。世間の賛否はわかりません。が、物質の中に幸福を追い求めることは、結局欲望の奴隷、欲求不満の傀儡となることです」

 悟堂は林の中に机を置き、本を読み、雑草やメダカを食します。そして、物質主義の脅威への警告者だったタゴール、ガンジーに深く傾倒していきます。東洋の叡知こそが人類を幸福に導くと確信するようになります。

「私には自然への帰依と信奉が強く、いかなる思想も自然を欠いては浮き上がってしまうという信念さえ持つようなってもいた。そしてその自然の中の第一の対象が鳥であった」(『愛鳥自伝』)

 やがて1934(昭和9)年38歳の時「日本野鳥の会」を創設し『野鳥』を創刊します。「野鳥」という言葉も、バードウォッチングなどもちろんない頃のこと。盧溝橋事件の3年前のことでした。

(新潮社「考える人」2005年春号・小林照幸新連載『中西悟堂の空』第1回「野の鳥は野に」について)
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/high/high36.html

 今日は中西悟堂についてまとめてみましょう。
 以下の福生市公民館(注)の元館長・伊東静一さんの論文は、的確に簡潔にまとめておられます。

 1934年3月、鳥学者や文化人12名による「日本野鳥の会」創設を呼び掛けた会合で、中西悟堂や内田清之助は、会の趣旨を日本全国に鳥を愛する思想を普及することと述べている。
 同年6月に静岡県の富士山麓の須走にて、日本で最初の探鳥会が開催された。この会の参加メンバーは、柳田国男、北原白秋、金田一京助、荒木十畝、奥村博史など、当時の文壇画壇の著名人たちであった。
 第二次大戦後、「日本野鳥の会」は中西を先頭にして、野鳥捕獲用カスミ網の使用禁止を実現し、野鳥の生息環境を保全するためのサンクチュアリづくりを1976年頃から着手し、1981年に苫小牧ウトナイ湖にそれを誕生させた。
 こうした中西と「日本野鳥の会」との経緯から考察すると、「日本野鳥の会」は大正、昭和前期の時代を背景に、牧歌的で高尚な趣味を共有できる人たちから出発した歩みではあったが、第二次大戦後は大衆的団体として国民的影響力を持つに至った。
 その中心に常にいた中西は、1984年12月に89歳の生涯を閉じるまで、鳥学者でもない一民間人でありながら、野鳥の保護や生息地の保全などの仕組み作りをしてきた。同時にそのことは、研究者でない自然愛好者が自然保護にかかわる場をつくったことを意味している。
 中西は木食生活中にソローの「森の生活」などを読み、「木食生活は自然との一体感を養い、鳥、昆虫、魚、蛇などをじっくり観察する時間でもあった」と述べ(小林照幸『野の鳥は野に』新潮選書、2007)、遺稿集「野鳥開眼」の中で、少年時代に秩父山中で行った荒行体験がこの生活を維持させたことにふれ、さらに「私自身のこのような生活こそ至福の一つの見本かと思い、また仏教で言う『無一物中無尽蔵』とはこのことかと思ったこともあった」と書いている(中西悟堂『野鳥開眼』永田書房、1993)。
 また「飼う」「捕まえる」「食する」というそれまでの野鳥を取り巻く環境のもとで「野の鳥は野に」という主張を掲げ、野鳥は一個人の所有物ではなく国民の感情生活に潤いを与えるものだとした
 このように仏教的世界観を背景としてバードウォッチングという西欧風の自然接触法を日本文化として根付かせた中西と「日本野鳥の会」の活動は、伝統的自然趣味である野草の採集と栽培および野鳥の飼育に代えて、のちの自然保護教育を考える上で重要な、野外の自然を現場で非採集の方法で理解し楽しむという特徴を備えていった。
 さらに、中西の文芸作品も、自然保護・野鳥保護へ指向する人を輩出するのに役立った(金田平「わが国における鳥類保護教育のあゆみ」『生物教育』18(1)所収、1977)。
 これらの視点をもとに考えると、中西は自然保護教育を支える文化的基盤と方法づくりに大きな貢献をした実践者と位置づけることができる。

(2010-03-15伊東静一「日本における自然保護教育の成立と展開に関する研究」東京農工大学学術機関リポジトリ)
http://repo.biblio.tuat.ac.jp/bitstream/10636/110/1/201003ItoSeiichi_F.pdf

 ヤッホー君が中西悟堂でびっくりしたのは、次の物語の一節です:

「ミキは、どうしてもこのひなを持ってかえるつもり?」
「うむ。持ってかえって、かわいがって育ててやる」
「いやだ」とぼくは強くいいかえした…
「どうしてもいやだ」とぼくは強情をはった…
「ミキ!なぜといって、この巣の中のさかなをごらんなさい。これはまちがいなくボラです。太平洋からとってくるボラです。こうして親ワシは、かわいい子どもにたべさせるために、毎日のように百里の空を往復して、海のさかなをとってくるんですよ。ミキにはこの親ワシの愛情がわからないのかしら?いくら、つばさの強いワシだって、この信州の山の中から、海までかようのは、なみたいていのことじゃありませんよ。親ならばこそ、こんなにまでして子どもを育てようとしている。その親のなさけがミキにわからないのなら、ミキは人間じゃない。畜生にも鳥にもおとる」…
…中西悟堂前掲書『中西悟堂名作集』「針が岳のぬし」75-76頁


(注)福生市郷土資料室企画展示「中西悟堂と西多摩」を動画で。なお展示は昨年、2014年4月19日(土)〜2014年6月22日(日)までで、もう終了しました:
https://www.youtube.com/watch?v=yoJjsB86v7s

posted by fom_club at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月13日

映画「じんじん」

 昨夜、といいますか夕暮れどき、台風6号による影響で雨、風が強くなったら自転車に乗れないと思い、手にしっかり傘を握って歩いて「江東区古石場文化センター」(江東区古石場2-13-2 Tel 5620-0224)へ。
 山歩クラブの仲間の紹介で、5時半の開場で、映画『じんじん』の試写会があったのです。

『ミンボーの女』『恋するトマト』などの名バイプレイヤー、大地康雄が企画と主演を務-めた心温まるヒューマンドラマ。
 絵本の里として知られる北海道上川郡剣淵町をメインの-舞台に、最近希薄になりつつある人との出会いの素晴らしさや家族の絆を映し出す。
 佐藤-B作や中井貴恵、板尾創路や手塚理美らベテラン俳優たちが豪華共演。
 多くの時間を割き-丁寧に映画を作り上げるスローシネマという方式を取った、人の優しさや善良さに触れる-物語に心癒やされる。

http://www.cinematoday.jp/movie/T0017613
http://www.jinjin-movie.com
https://www.youtube.com/watch?v=vVtODsJNnaY

 胸に響くとっても良い映画でした。
 台風は四国沖で温帯低気圧になって北上していったとかで、試写会を終わってさすが雨脚が強いわとは思いましたがま、一瞬のスキを縫って傘をさして、無事に帰宅できました。
 山歩きを通して学んだことは、自然に抗ったり、自然を制したり御したりせず、自然とともにあることを学ぶ謙虚な生き方でしょうね。
 「自然とともに」と言えばイマ、あちらこちらで火山が噴火するのかしないのか、予測可能性が話題になっています:

 体に感じない地震も含め、気象庁が観測した火山性地震は5月10日には266回に達し、火山活動が活発化した4月26日以降で最多だったが、5月11日は午後4時現在で40回。地下のマグマなどの活動を示す低周波地震や火山性微動は観測されていない。
 また、国土地理院は11日、地球観測衛星のデータを解析した結果、大涌谷周辺で最大約8センチの隆起があったと発表した。

(2015年05月11日19時29分毎日新聞・久野華代「箱根山:震度1の地震観測、大涌谷周辺最大8センチの隆起」)
http://mainichi.jp/select/news/20150512k0000m040035000c.html

 宮城、山形県境の蔵王山(蔵王連峰、1841メートル)は、火口周辺警報(火口周辺危険)の発令から5月13日で1ヶ月となる。火山活動は今後、活発化するのか、それとも収束に向かうのか。ただでさえ予測困難な火山活動だが、蔵王山の場合、観測データの蓄積が極端に少なく、見極めは難しい。
 火山性の地震や微動を検出する地震計、爆発の有無を察知する空振計、地下のマグマや山体の変形を測る傾斜計と衛星測位システム、噴煙を確認する遠望カメラなどさまざまな機器で監視を続けている。
 ただ、仙台管区気象台がこれらの観測態勢を整えたのは2010年9月。まだ5年にも満たない…
 東北大地震・噴火予知研究観測センターの三浦哲教授(地球物理学)は
「蔵王山は1940年の前回噴火でも直前の地震活動データがない。どういう現象があれば噴火するかという予知は難しい」と指摘する。

(2015年5月13日水曜日河北新報「<蔵王山>観測データ蓄積少なく予測困難」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201505/20150513_13025.html

 5月13日水曜日、今朝の新聞で「蔵王山」の記事を読んでふっと思ったヤッホー君、あれっ?!…
 ヤッホー君が昨日、記した「ビートルズトレイル」、その「日本野鳥の会」初代会長の中西悟堂(1895-1984)は…

 家族が、あすこ、ここと知り合いさきを物色するのを制して、疎開はぜんぜん未知のところがよいと、まるで当てずっぽうに東北本線に乗り、こころがよろしかろうと、いいかげんに村の農業会をたずね、会長さんに会って談じたうえで、一家おちついたのが山形県南村山郡本沢村(注1)。
 1945(昭和20)年6月であった。


 中西悟堂、49歳のとき。
 敗戦2ヶ月前のこと。
 蔵王山噴火から5年後のこと!中西悟堂は「蔵王登山」に出かけています。

  
熊野岳 かける大ワシ たちまちに
刈田の岳を さして消えゆく

…『中西悟堂名作集』(少年少女現代日本文学全集40、偕成社、1965年1月)238頁

 地蔵岳2首のなかのひとつ。
 
「その右のゆるい山の頭に、それ、建物がちっぴり見えますべ。あれが地蔵岳の測候所だす。その右の肩につづいて、すこしはしのみえるのが頂上の熊野岳す。三宝荒神の笹原をぬけて、まっすぐ山にとりつきなさりゃ、いやでもおうでも地蔵仏へ出いす。あとは測候所できいて熊野岳さいげばよがべし」と「山の家」のあるじが教えてくれた…
 測候所に立ちよると、意外にも独鈷沼の「山の家」からあらかじめ電話があったとて所員が出むかえてくれたのは親切な話。
 東北大の気象観測小屋の前を、石のゴロタがみちびくままに赤崩え(注2)の熊野岳に出る…

…同書240頁


(注1)『山びこ学校』の無着成恭さんは、1927年に山形県南村山郡本沢村(現山形市本沢)沢泉寺に誕生しています。ここで生の声を聴いてみましょう:

無着成恭さんの語り(1974年8月) 
https://www.youtube.com/watch?v=WOx4nrhqFoc

全国こども電話相談室・リアル! ゲスト無着成恭(2014年10月26日):
https://www.youtube.com/watch?v=wqTEUydLFMI

(注2)赤崩え(あかくえ):火山の噴出物が赤くくずれている状態。



posted by fom_club at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月12日

ビートルズトレイル

 「横浜自然観察の森」の運営担当は「(公財)日本野鳥の会」でした。
 この会は”Bird Fan"というサイトをもって野鳥についての普及活動をしております。
http://www.birdfan.net/
 
 最新のニュースってなにかな、と思ってみていましたら、朝日新聞の次のサイトにリンクしておりました。

 九州地方で越冬したヒヨドリが、今年も関門海峡を渡っている。北九州市門司区の部埼(へさき)灯台周辺では、朝焼けの中、一斉に飛び立つヒヨドリの大群が見られた。
「日本野鳥の会北九州」によると、ヒヨドリは天敵のハヤブサなどから身を守るため、100羽前後から大きいもので千羽以上の群れを作り、海面近くを飛んで本州を目指す。5月中旬まで続く、という。

(2015年5月8日05時56分朝日新聞デジタル「朝焼けの中、本州へ 関門海峡にヒヨドリの大群」)
http://www.asahi.com/articles/ASH4K5VJQH4KTQIP00C.html

 台風6号に巻き込まれないように早く渡りを終えるんだよ、と祈ってる5月12日火曜日の朝のこと。
 この会の歴代会長はこんなふうに1934(昭和9)年からはじまるほどに80年以上の長い歴史を重ねてきております。
中西悟堂 (1934年〜)
山下静一 (1981年〜)
黒田長久 (1990年〜)
小杉 隆 (2001年〜)
柳生 博 (2004年〜)

「横浜自然観察の森」は1986年開園でしたよね、ということは会長が山下静一(1909年生まれ)氏のとき。

 都市及びその周辺において、身近な自然が次々と失われていくなかで、人びとの生活圏における小動物の住める環境を保全し、回復することは、緊急な今日的課題出となっている。
 今回、横浜市が全国に先駆けて計画された「自然観察の森」は、環境庁の計画による「身近な自然活用地域」に該当するものであり、自然の喪失が著しい都市領域において、小動物とふれあい、自然を観察することを通じて、自然の仕組みを理解し、生命の大切さを学ぶ場であり、自然保護教育活動の拠点ともなるものである。
 これは、自然とのふれあいを求める都市民の要求に応える最良の施策であり、本計画が、今後全国の都市とその周辺に造られるであろう「自然観察の森」の契機ともなれば幸いである。

…1984(昭和59)年3月(在)日本野鳥の会会長・山下静一

 それから30年後、「横浜自然観察の森」目指して歩いてきました。
 そのルートとは「ビートルズトレイル」!

3.「ビートルズトレイル」計画
3.1 計画の趣旨
「ビートルズトレイル」は「自然観察の森」の区域外にある鎮守の森や河川・湖沼などの多様な観察対象が存在する場所を結び、区域内における観察を補完する自然観察のための歩道である…

3.2 ルートの設定
「ビートルズトレイル」のルートは、基本的に既往の道を利用することになる。
 とくに、自然資源にすぐれた遊歩道やハイキングコースなどは「ビートルズトレイル」に適したルートであり、優先的に選択される。

1) 能見堂コース
「能見堂コース」は、京浜急行金沢文庫駅から釜利谷町北部の丘陵の尾根を通って、横浜横須賀道路を横断し、戸塚、磯子、金沢の3区境付近の清戸分岐点で「円海山コース」に合流するコースである。
 合流点から「金沢市民の森」を南下して「自然観察の森」に至るおよそ5.4Kmの歩道である。

2) 円海山コース
「円海山コース」は、根岸線湖南台駅より港南台団地を抜けた位置(市環境事業局工場裏)が起点となる。
 そこへは「港南環境センター前」というバス停が近く、バス利用が便利である。
 コースは円海山近郊緑地特別保全地区の北端を経て、戸塚、磯子両区の区境尾根沿いに南下し、清戸分岐点で「能見台コース」に合流するおよそ2.1Kmの歩道である。

3) 天園コース
「天園コース」は北鎌倉から建長寺、天園を経て、「横浜自然観察の森」計画地の南端に達するコースで、途中太平山では天台山からのコースと合流する。
 このうち「ビートルズトレイル」として整備の対象となる部分は、天園から計画地までの約2.1Kmで、鎌倉市と横浜市の境界の尾根を辿るコースである。

…1984(昭和59)年3月横浜市緑政局緑政課発行(企画編集:(財)日本野鳥の会)『「横浜自然観察の森」基本計画報告書』105頁

 こうしてみると、われわれ山歩クラブは「能見台コース」から「円海山コース」を合わせて「横浜自然観察の森」への歩道に分け入って間もないところで時間切れによる撤退となったことが分かります。
「ビートルズトレイル」なる案内板も「横浜市のみどりの七大拠点」(注)と合わせて読んで学習しましたから…
 じゃあ、いったいどこで時間をロスしたんだろう、振り返りはまだ続くようです。


(注)横浜市のみどりの七大拠点: 
拠点(場所)主な施設等、の順
こどもの国周辺(青葉区,町田市)こどもの国,寺家ふるさと村
三保,新治(緑区,旭区)三保市民の森,新治市民の森,よこはま動物園,四季の森公園
川井,矢指(旭区,瀬谷区)矢指市民の森,追分市民の森,瀬谷市民の森,程ヶ谷カントリー倶楽部
大池,今井,名瀬(旭区,保土ヶ谷区,戸塚区)こども自然公園,南本宿市民の森,横浜カンリークラブ,戸塚カントリー倶楽部
舞岡,野庭(戸塚区,港南区,栄区)下永谷市民の森,舞岡ふるさと村,舞岡公園
円海山周辺(栄区,金沢区,磯子区,鎌倉市)
瀬上市民の森,氷取沢市民の森,金沢市民の森,釜利谷市民の森,峯市民の森,横浜自然観察の森,金沢自然公園,鎌倉アルプス,鎌倉カントリークラブ,鎌倉パブリックゴルフ場
小柴,富岡(金沢区)富岡総合公園,米軍小柴石油ターミナル,称名寺市民の森,海の公園

posted by fom_club at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

いきもののにぎわいのある森

 昨日のヤッホー君の日記に写真が貼り付けられていました。
 イマだから明かされるヤッホー君の涙、じつは5月6日(水)山歩クラブGW特別企画「金沢文庫駅から洋光台駅まで」お散歩会で愛用のミラーレス・デジカメで撮ってきた写真を帰宅後、いつものように、さ、パソコンにコピーと操作したところ、「送信できる画像がありません」との表示、なんで?なんで?なんで?
https://www.youtube.com/watch?v=bDCNlR_ckMA

 しかし、昨日無事にパソコンへのコピー終了、ということはあれかな、バッテリー残量が不足していたのかなと、そう前夜5月5日の夜、バッテリー充電するのをすっかり忘れていたのです…
 ショック、それにあの日、時間配分に失敗したのか、予定していたコースの半分しか歩けず、「関谷奥見晴台」から下りて「釜利谷西小学校」近くのバス停「西小学校前」からバスに乗って金沢文庫駅に舞い戻ってしまったのでした。
 ショック、それにあの後、ヤッホー君が楽しみにしていた「打ち上げ会」もなかったし…
 ショック、写真もなく仲間宛て一斉メールもできないでいたら、みんなどうしたかなあと心配しているので「ただいまメール」を送ってあげたほうがいいよって言われたこと(でもこれは嬉しいショックだったのかも)

 しかし、昨日無事にパソコンへのコピー終了、ということは気をとりなおして、あの日5月6日の報告日記を記さねばと、そう埼玉県皆野町にイマまでず〜っと没頭していたんですもの。
 今日は横浜市!

2014(平成26)年度緑被率の調査結果について
 横浜市では、まとまりのある緑の総量の推移を中長期的に把握することを目的として、概ね5年ごとに、緑被率※を調査しています。この度、2014(平成26)年度の緑被率の調査結果がまとまりましたので報告します。
※ 緑被率:航空写真から300u以上のまとまりのある緑を目視判読し、市域面積に占める割合を算定するもの。
1 調査結果
 2014(平成26)年度の緑被率は、28.8%となりました。前回調査結果との比較は以下のとおりです…

(2015年4月23日横浜市環境創造局政策課記者発表資料)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/data/ryokuhi/images/kisya.pdf

 横浜市が、市内の緑の割合を示す「緑被率」を調査したところ、2014年度は、みどり税を導入した直後の2009年度より1ポイント減の28.8%となっていたことが分かった。みどり税導入後、樹林地や農地の保全に積極的に取り組んできただけに、市担当者は
「緑地の保全指定や買い取りは進んでいる。なぜなのか…」と戸惑い顔。どの地域でどのような経緯で緑が減ったのか現況を詳細に検討していく。
 市はおおむね5年ごとに緑被率を調査。40年前の1975年度は45.4%だったが、宅地開発などで年々減少を続け、2004年度は31%になった。2006年度に策定した「市 水と緑の基本計画」(2006〜2025年)でこの31%を基に長期的に向上させる目標を掲げた。

(1015年5月4日付け神奈川新聞「横浜《みどり税》効果は?緑被率、5年で微減」)
http://www.kanaloco.jp/article/93998/1/

 こうしたなかでの山歩クラブのGW企画だったのでございます。
 当初、予定していたお昼の場所は「自然観察センター」。
 行きそびれたのですが、ここいら一帯は「横浜自然観察の森」です。

「横浜自然観察の森」は、横浜市の南端、鎌倉市との境にあります。
 周囲の市民の森と一体となって市内最大の緑地を形作り、港南台、金沢文庫、鎌倉にかけてのハイキングコースがあります。
 起伏のある丘陵地で、雑木林、草地・広場、池、湿地、源流があり、散策しながら自然観察を楽しむことができます。
 近くには横浜市最高峰・大丸山(おおまるやま、156.8m)もあります。
 拠点の「自然観察センター」では、生きものを紹介する展示や、自然を楽しむイベントを実施しています。
「いきもののにぎわいのある森(生物多様性の保全された森)の保全」を横浜市、ボランティア「横浜自然観察の森友の会」、運営担当の(公財)日本野鳥の会が協働で進めています。

(横浜自然観察の森へようこそ!)
http://park15.wakwak.com/~yokohama/index.html

「ガイドマップ」には…

 円海山(えんかいざん、153.3m)周辺の森は多摩から三浦半島に続く「多摩・三浦丘陵群」(注1)の一部であり、横浜市最大の緑地です。
 面積は約700haあります。
 この広大な緑地にはさまざまな生き物が暮らしており、都市の緑地が消失・分断されるなかで、わたしたちにとって貴重な財産となっています。

「自然観察の森」は、市民が都市近郊で自然とふれあい、自然を大切にする気持ちを育むため、全国に10ヶ所設置されています(注2)。
「横浜自然観察の森」は、円海山周辺の森の最南端に位置し、日本で初めての「自然観察の森」として1986年に開園しました。

http://park15.wakwak.com/~yokohama/shisetsu/guidemap.pdf


(注1)多摩・三浦丘陵群:
 このあたりの広がりが武蔵野台地です。これが相模川です。この平らなところが相模台地です。このあたり新宿の周辺はずっと武蔵野台地ですね。
 で、多摩川を渡ります。登戸あたりにくると急に凸凹し始めます。突っ切って町田市、町田駅に来るとまた平らになっています。
 実は私たちの住んでいる首都圏中央部というのは、武蔵野という高度はあっても大きな平らなところと、相模台地の平らの部分の間に、高尾山から城ヶ島まで続く70Kmぐらいの丘陵地があります。その構成は複雑で、北のほうが多摩丘陵、南のほうが三浦丘陵です。
 細かく見るとさまざまな構成要素があるのですが、一括して呼ぶ名前がありませんでした。1980年代の後半に私と私の周辺が「多摩・三浦丘陵群」と呼び始めました。
 多摩丘陵と三浦半島が繋がって70Kmという緑の回廊があるという認識ができたのは、私の間違いがなければ1980年代末のことであると思います。
 鶴見川の流域はこの「多摩・三浦丘陵群」の北の部分の真ん中に広がっています。
 多摩三浦丘陵全体で700Km2ぐらいありますが、そのほぼ3分の1が鶴見川流域です。
(慶応義塾大学経済学部・教授、NPO法人鶴見川流域ネットワーキング・代表理事、岸由二「鶴見川流域はバクの形:都市流域再生の歩み」)
http://www.fsifee.u-gakugei.ac.jp/gp/pdf/H17/report/honbun/kouenkai1_kishiyuuzi.pdf

(注2)他の9ヶ所:
 ☆ 仙台市太白山自然観察の森
 ☆ 桐生自然観察の森
 ☆ 牛久自然観察の森
 ☆ 豊田市自然観察の森
 ☆ 栗東自然観察の森
 ☆ 和歌山自然観察の森
 ☆ 姫路市自然観察の森
 ☆ おおの自然観察の森
 ☆ 福岡市油山自然観察の森
(環境省、自然観察の森へ行こう!)
http://www.env.go.jp/nature/nats/kansatsu/


posted by fom_club at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月10日

ふかがわの米講座

尋常飯.jpg

尋常飯その2.jpg

 いただきま〜す!
 えっ、5月10日日曜日「母の日」の朝食?豪勢だねぇ
 え〜と、昨日の「深川東京モダン館」(注1)での昼食で、これがうわさの「尋常飯」だったのです。
 むむっ、これは「ただごと」ではない!

 ふかがわの米講座、江戸※深川(エドコメフカガワ)
 江戸時代の米料理レシピ本『名飯部類』を読んで味わってみよう!

(深川東京モダン館)
http://fukagawatokyo.com/exhibits_events-edokomefukagawa.html

 『名飯部類』のレクチャーは、副館長の龍澤潤先生。先生はいっつも原典を抜粋したものをテキストにお使いになって読み下してくださいます。
 古文の読み方が分からないヤッホー君には、いっつもとても良い勉強になっています、ありがとう、先生!

『名飯部類』は、上下2巻にわたってさまざまな米飯料理の作り方を解説した、いわば“江戸時代ご飯ものレシピ本”です。
 1802(享和2)年に刊行されましたが、残念ながら現在ではこのとき印刷出版された版本は1冊も残っていません。
 この岩瀬文庫本のように版本を手書きで書き写した転写本が、岩瀬文庫のほか国立国会図書館と東京都立中央図書館と、わずかに3点伝わっているのみです。

 著者の杉野権兵衛は江戸時代後期の京都の医者ですが、この『名飯部類』の他にも『新撰(しんせん)包丁(ほうちょう)梯(かけはし)』『鮓(すし)飯(めし)秘抄(ひしょう)』などを著しており、料理への造詣も深かったと見えます。
 本書巻頭の例言の中にもそのさまはうかがわれ、調理法や合わせる具材によって適したお米の種類やその産地まで記すなど、なみなみならぬこだわりが感じられます。

 本文は2巻にわかれています。上巻は
 ・尋常飯(ただごとめし)の部
 ・諸菽飯(まめめし)の部
 ・菜蔬飯(なめし)の部
 ・染汁飯(そめめし)の部
 ・調魚飯(うおめし)の部
 ・烹鳥飯(とりめし)の部
 ・名品飯(めいはん)の部
と、ご飯を炊くときに加える具材によって分けた87品のメニューが紹介されています。下巻は
 ・雑炊(ぞうすい)の部
 ・糜粥(かゆ)の部
 ・鮓(すし)の部
 ・完魚鮓(まるずし)の部
と、調理法別に分けた62品の作り方が掲載されています。

 せっかくですから、何かひとつレシピをご紹介しましょう…

http://iwasebunko.com/contents/library020.html

 動画がこの「岩瀬文庫」(注2)公式サイトに載っておりますので、ぜひご覧ください。
 だれかこのレシピでお料理つくってぇ〜って朝から餓鬼、欠食児童のヤッホー君、いななき、わめいております。

 昨日はこのなかの「尋常飯」でございました。
 おつくりになってくださった方は、「ごはん同盟」の「しらい・のりこ」さん(おこめ料理研究家/炊飯師)!
http://gohandoumei.com/

 この『名飯部類』ってイマ、入手可能なのかな、とアマゾンで検索すると:

 名飯部類(教育社新書―原本現代訳)新書–1989/4
 杉野 権兵衛(著)、福田浩(翻訳、注3)、島崎とみ子(翻訳、注4)
 今、世界中の人々から注目されている日本型食生活。
 その基本の米食文化は、江戸時代に華麗に花開いた。
 日本初のご飯百科。


 でも教育社は「キョウイクソフト」と社名も変更しちゃったみたいだし、印刷物出版から”eラーニング”に移っているみたいだし…
http://www.kyoikusha.co.jp/

 さ、「深川東京モダン館」での次回お勉強会は、7月11日土曜日だそうです(要予約)。
 どんな美味しいごはんが食べられるのでしょうか、もう「尋常飯」いただいたばっかりなのに、わくわくしているヤッホー君でした。
 おかわり!
 ない、ない、ごちそうさま、しなさい!


(注1)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をご参照ください:
 ☆ 2013年9月21日「salon de モダン」
 ☆ 2014年4月18日「キエフの大門」

(注2)「西尾市岩瀬文庫」
 1908(明治41)年に西尾市須田町の実業家である岩瀬弥助が、本を通した社会貢献を志して創設した私立図書館として誕生しました。戦後に西尾市の施設となり、2003(平成15)年4月に日本初の「古書の博物館」としてリニューアル、2007(平成19)年12月7日に登録博物館となり、2008(平成20)年5月6日には創立100周年を迎えました。
 重要文化財をふくむ古典籍から近代の実用書まで、幅広い分野と時代の蔵書8万冊余りを保存・公開し、日本の本の長い歴史やゆたかな文化について体験しながら学べるユニークな展示を行なっています。
 岩瀬文庫:愛知県西尾市亀沢町480 電話 0563−56−2459
http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/iwasebunko/museum.html

(注3)福田浩
料理家。大塚「なべ家」主人。1935年東京都生れ。早稲田大学文学部卒業。家業のかたわら古い料理書の研究や江戸時代料理の再現に力を注ぐ。著書に『完本 大江戸料理帖』(新潮社とんぼの本)、共著に『江戸料理百選』(2001年社)、『料理いろは庖丁』(柴田書店)、『豆腐百珍』(新潮社とんぼの本)など。
http://www.shinchosha.co.jp/writer/2659/

(注4)島崎とみ子
2013年2月7日(木)に女子栄養大学で最終講義「近世日本の料理と暮らし」をなさっております。講義は録画で:
http://ocw.eiyo.ac.jp/special/mc/shimazaki_last.html


posted by fom_club at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月09日

反戦平和に生きる

 今日5月9日土曜日「神田祭」!遷座400年という記念の年になります。

 5月9日(土)の神幸祭、10日(日)の神輿宮入を中心に約一週間、東京都都心が江戸祭礼の雰囲気に包まれることでしょう。
 附け祭には、静岡県・三熊野神社の祢里が約10年ぶりに登場します。
 また前回に引き続き福島南相馬市・相馬野馬追騎馬武者の行列、東京大学・文化資源学会による行列、東京藝術大学学生による曳き物など、より賑やかな行列が神田祭に加わります。
 
(江戸総鎮守・神田明神)
http://www.kandamyoujin.or.jp/event/detail.html?id=59&m=00

 ヤッホー君は午前中「深川モダン館」に、午後「こいぶち歯科医院」、その前に皆野町!
 だってぇ〜「金子兜太」がまだ終わっていません:

 秩父音頭の作詞をした金子伊昔紅(かねこいせきこう)の長男、金子兜太は、現代俳句協会名誉会長を務める俳人です。
 皆野町内各所には金子兜太先生の句碑が点在しています。句碑めぐりの旅へぜひお出かけ下さい。

(皆野町観光協会、俳句の町)
http://www.minano.gr.jp/haiku/

 1944(昭和19)年3月、南方のミクロネシア・トラック島に主計中尉として配属されました。前年夏に東大を繰り上げ卒業して、日銀に3日間だけ勤め、海軍経理学校で訓練を受けた速成士官です。部隊は海軍施設部という土建部隊で、そのほとんどが軍属の工員、しかも大方が訳ありの荒くればかりで、ほかに囚人だけの部隊も含まれていました。
 トラック島には当時4万人の日本人がいましたが、最終的に生き残ったのはその3分の2くらいのはずです。しかも私が着任した年の7月にサイパンが陥落して日本との補給路が断たれたため、物資が来なくなった。食料がなくて、餓死や病死する者がたくさんいました。
 軍隊というのは階級社会です。その中でも軍属は最下級で、すべての点で最低の扱いでした。自給自足の食料も、兵隊が優先されます。ですから腹をすかした工員の中には、少々危険な食べ物でも口にしてしまうのがいる。南洋ホウレン草と呼んでいた雑草があって、少量だけを煮炊きしていました。しかし大量に食べると猛烈な下痢を引き起こします。それを知っていながら我慢できずに食って脱水症状で死んでいく。そんな無残な死を日常的に見ました。まさに「非業の死者」です。

● 人が本当に自由に生きられる社会を実現したい

 そうやって死んでいくのは私の部下です。私は責任を感じていました。一方で、主計将校ですから食料があとどれくらいあるのかも知っている。このくらい死ねば、ほかの者に食料を回せるとか、そんな計算もしている。自分が薄汚い存在のように思えてなりませんでした。若かっただけに余計にこたえました。
 この体験が戦後の私の行動を決めることになります。敗戦後も捕虜として島に1年3ヶ月間抑留され、船で引き揚げるとき、私の心は決まっていました。これまで私は人のために何もしてこなかった、せめて非業の死者たちに報いようと。日銀に復職して組合活動にかかわったのも、その決心の表れです。反戦平和に生きるということは、この時代では組合活動とほぼ同じ意味でした。
 反戦平和の基礎には、人が本当に自由に生きられる社会を実現したいという理想がありました。組合活動は3年で離れましたが、その理想は心の中でずっと持ち続けています。
「自由を求めたい」
 その理想があったからこそ、組織で浮いた存在になっても気にならなかったし、この年齢になっても気力がなえることなく創作を続けられるのではないかと考えています。

(2008年12月05日週刊東洋経済編集部、反戦平和に生きると決める俳人・金子兜太氏)
http://toyokeizai.net/articles/-/2476

◆ 自由を毛嫌い
金子 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これを出す出さないでもめているんですね。これについて、あんたに聞いてみたいんだけど。(注1)

いとう こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。

金子 やっぱり、そう言ってくれますか。(満州事変から始まる)十五年戦争の体験者なんだけどね。旧制高校に入ったころに中国との戦争が始まって。そのころの空気の中で、官僚とかお役人とか、いわゆる治安当局が、こういう扱い方をした。あのころは治安維持法が基準ですが。みんな自分たちでつくっちゃうんですよ。

いとう 國分功一郎さん(注2)という若い哲学者が著書の中で、こういった下からの抑圧の問題を言っているんですね。自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう。だから自由っていうものを背負うことをもっと楽しめる社会にしなければならないというふうに彼は言っていて。

◆ 過半は餓死者
いとう 金子さんは現実、戦時中に南洋へ行かれていた。大岡昇平の『野火』を読んでも分かるように、戦死者は決して勇ましいものではなくて、過半は餓死者であるということを、なぜこんなに隠して勇ましいことのように美化するのか。意味が分からないくらい情報が隠されている。本当に先進国なのかと思うくらいひどい。

金子 おっしゃるとおり。私がいたトラック島は死の現場として、いまいっぺん伝えたい。安倍さんをはじめ、今の政治家は、集団的自衛権を実現させようと、憲法の事実上の改悪を考えたりして戦争へ一歩近づいているが、なんであんな平気な顔で、得意顔でできるのかと考える。そうしたら分かりましたよ。死の現場をほとんど踏んでない人たちなんだ。トラック島は日本軍の連合艦隊の基地だったんだけど、アメリカの機動部隊にばんばんやられた。連合艦隊は逃げて、第四艦隊が残ったがぜんぜん弱い。そこで武器がなくなった。手りゅう弾をたくさん作り、実験をやったんです。「俺がやる」と志望したのは、兵隊さん以下として扱われている民間の工員さん。やったとたんにボーンって右手がすっ飛んじゃって。背中が破片でえぐられて、運河のようになっている。それで即死したわけです。餓死ってのは、いたましいわけでね。しかも工員さんは、国に殉ずるなんて考え方で来ていない。本当に無知な人たちが力ずくで生きてきて、結局食い物がなくなって死んでいく。仏様のような顔で。逆に悲惨なんですよ。戦場という死の現場を分かっていない政治家は、自衛隊の連中をすぐそのまま戦場へ持って行くことを平気で思っているけどね。自衛隊の人が足りなくなって徴兵制度が敷かれるようになることが心配なんですよ。

◆ 戦争への自虐
金子さんは、トラック島で終戦を迎え、島を去るとき<水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る>と詠んだ。

金子 今の人に想像できないような無残な死に方をしていった人のことを思った時に、報いなきゃならないと。こっちも若いですから、余計身に染みた。私が学生のころ、俳句を始めたのは、出沢三太という無頼で非常に面白い人間がやっていたから。その人が俺を連れてった句会の中心に高等学校の英語の先生がいた。水戸っていうところは、聯隊(れんたい)もあって軍国臭ぷんぷんなんですけどね、お二人とも全く無視して、軍人が来ても頭下げない。俳句はそういう自由人が作るもんだと思い込んだんです。兵隊行くまで、自由人でありたい、ありたいと。ところが、戦争に行って、目の前で手がふっ飛んだり背中に穴が開いて死んでいく連中を見たり、いかついやつがだんだん痩せ細って仏様みたいに死んでいくのを見て、いかなる時代でもリベラルな人間でありたいと考えていた自分がいかに甘いかということを痛感した。自己反省、自己痛打が私にそういう句を作らせたと同時に、その後の生き方を支配した。年取ってもその句が抜けません。自分を緩めることができない。それぐらいの痛烈な体験でした。今の政治家諸公は、少なくとも俺のような戦争への自虐を感じないのだろうか。

(2014年8月15日付け東京新聞<戦前の空気に抗って>【終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう】
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2014/taidan140815/

 牛蛙(うしがえる)ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ
 
 その句を作った俳人の声は、これまた大牛蛙もはねて逃げ出しそうなほどの迫力だった。
 埼玉県熊谷市の居宅「熊猫荘」(ゆうびゅうそう)。
 作務衣姿の金子兜太さんは、卒寿を過ぎたとは思えない張りのある声で言い切った。
「中学一年の時に起きた1933(昭和8)年の三陸沖地震津波はよく覚えている。それでも東北に原発を造ったのに、津波に準備ができてなかった。技術に自信を持ってまあ大丈夫だくらいに思っていたんじゃないですか。甘い。国民をなめて原発をやってきたんじゃないか」

 改めて思うのは、登場者が語った言葉の一つ一つが、研ぎ澄まされた知恵の結晶になっていることです。
 作家の梁石日さんの「人間のやることだから『絶対』なんてない」もそうですし、
 ノンフィクション作家の柳田邦男さんの「そもそも歴史とは『措定外』の繰り返しなのです」といった認識もある種の真理を言い当てているようです。
 俳人の金子兜太さんが震災の悲しみを夫人の死と重ねて「忘れようなんて思わない。無理に思い出す必要もない」と語られた言葉は「人間通」のそれではないでしょうか。

「地震の災害も一年たたない内に大抵の人間はもう忘れてしまって此の高価なレッスンも何にもならない事になる事は殆んど見えすいて居ると僕は考へて居ます」
 寺田寅彦は関東大震災(1923(大正12)年9月1日)から2ヶ月後、私信にそうしたためました。
 歴史を見れば、その予言通りになりました。
 再び同じことが繰り返されようとしています。
 あれほどの災厄を目の当たりにし、原発の安全神話が崩壊したにもかかわらず、私たちの国は再び原発の再稼働に踏み切りました。
 広島、長崎を経験し「過ちは繰り返しませぬから」と、原子力の怖さを胸に刻みつけながら、いつの間にか原発大国になってしまった歩みと重なります。
 まことに奇妙な時代です。
(毎日新聞前夕刊編集部部長・隈元浩彦)

…毎日新聞夕刊編集部編『<3.11後>忘却に抗して、識者53人の言葉』(現代書館、2012年12月)31、227頁


(注1)
 さいたま市大宮区の三橋公民館が、サークル会員が詠んだ俳句「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」を月報に掲載しなかった問題で、市は2014年7月8日、次号以降もこの句を掲載しない方針を明らかにした。理由について「世論が大きく分かれているものについて、公共施設として掲載はできない」としている。
 公民館の俳句サークルに所属する同区の70代女性が詠んだこの句は、集団的自衛権の行使容認に反対するデモを題材にしたとみられるが、1日発行の「公民館だより7月号」は俳句コーナー自体を削除し、掲載を見送っていた。
 この日、掲載要望のために訪れた共産党市議団に対し、公民館を所管する市生涯学習総合センターの小川栄一副館長は、掲載可否の判断基準自体がないとした上で、「(8月号以降も)掲載は今のところ考えていない。作者を含む俳句サークルには今月中に改めて説明する」と話した。
 同センターは来週、市内の拠点公民館長を集めて開く定例会議で「集団的自衛権行使についての賛否を含め、世論を二分する政治的なものは(月報などに)掲載できない」との方針を伝えることにしている。
(2014年7月9日付け毎日新聞地方版・西田真季子「公民館月報:《9条守れ》俳句、次号以降も不掲載 さいたま市が方針/埼玉)
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20140709ddlk11040265000c.html

(注2)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記ご参照:
 ☆ 2013年5月26日「部分的な政治哲学」
 ☆ 2013年5月27日「どんぐり民主主義」

posted by fom_club at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月08日

秩父音頭

 まずはこれ!「秩父音頭」:
https://www.youtube.com/watch?v=4LUsTYicygc

 そうだったのです、皆野町は秩父音頭のふるさと!!

 山峡のまち皆野は秩父音頭発祥の町として知られ、毎年8月14日に行われる「秩父音頭まつり」は秩父連山に太鼓の音がこだまします。
 秩父の盆は8月である。
 人びとは、仏壇や座敷に盆棚を飾り、門口に火をたいて祖先の霊を迎える。

『盆が来たのになすの皮のおじや せめてめずらのよごしでも』
『いくら秩父に田がないとても 盆と正月米の飯』

 その昔、秩父で唄われていた、盆踊り唄の一節である。
 単調で貧しい日々を送る山村では、盆と正月がなによりの楽しみだったに違いない。
 唄の節や踊りは、人によって少しずつ違っていたが、歌詞は、総じて卑猥なものが多かった。
 そのため、次第に警察の目が厳しくなり、大正末期には、消滅の危機にさらされる。
 1929(昭和4)年、皆野町の医師、金子伊昔紅(かねこいせきこう、1977(昭和52)年88歳で死去)は、こうした状態を憂い、周囲に呼びかけて、盆踊りの復興に乗り出した。
 まず、歌詞を改めるため、一般からの募集を行ない、自らも作詞を行なう。

『鳥も渡るかあの山越えて 雲のさわ立つ奥秩父』(小林倉八 作)
『花の長瀞あの岩畳 誰を待つやらおぼろ月』(伊昔紅 作)
『秋蚕しもうて麦まき終えて 秩父夜祭待つばかり』(伊昔紅 作)

 以上3首は入選作の一部。秩父の情緒と風土の香りが漂う名歌であると思う。
 素朴だった踊りと節まわしにも手が加えられ、吉岡儀作氏の節をもって山国の荒々しさと哀感とが調和した、現在の姿を生み出す。
 そして1930(昭和5)年11月、明治神宮遷座10周年祭に「秩父豊年踊り」として奉納。人びとの絶賛を浴びる。
 その後『秩父音頭』と名を変え、以来ここ埼玉の代表的民謡として、広く親しまれるようになった

(皆野町観光協会、秩父音頭のふるさと)
http://www.minano.gr.jp/chichibu_ondo/

 ここで、ヤッホー君、最初の YouTube の垂れ幕に注目しました。
 「金子兜太」文化講演会とあるじゃあ、ありませんか。
 そうしたら、なんとなんと、皆野町の医師、金子伊昔紅(注1)と秩父ふるさとの俳人、金子兜太(1919年生まれ、注2)って親子だったのですぅ〜、もうびっくり!
 まだまだ、秩父音頭「家元」とあった金子千侍って実弟!
 9年も前のことですが、こんなことが…

 反骨、豪放らい落な金子を愛するファンは多い。俳優の小沢昭一(おざわ・しょういち、1929-2012、当時77歳)もそのひとり。

『梅咲いて庭中に青鮫(あおざめ)が来ている』

という句が、気に入っている。
「なかなか『青鮫』なんて発想は出てきません。私なんか先生と違って、出たとこ勝負。日めくりカレンダーみたいな生き捨て人生ですから」。
 全国の放浪芸を集めて回った小沢と金子は30年以上の付き合いだ。

 金子には道楽者の血が流れる。実家は埼玉県秩父市で300年は続いた家柄だが、祖父は田舎歌舞伎の女形を演じ、開業医だった父は秩父音頭を復興させた。

 医院を継いだのは、弟の金子千侍(かねこ・せんじ、78歳)だ。
 旧制新潟医専で脳外科を学び、秩父音頭の家元も継がされた。
「兄をうらやましいと思ったことは一度もない」と涼やかな表情だ。
 43年前に貧しかった秩父に腰を据え、毎日7、8軒の往診をいまも続ける。

 金子にこんな句がある。

『夏の山国母いてわれを与太と言う』

 2年前に103歳で亡くなった母はるは、長男のくせに医業を継がず、俳句にうつつを抜かす金子が実家に顔を出すと、兜太とは呼ばず、
「与太が来た、バンザイ」と言った。
 金子の漂泊の思いを深いところで理解していたのは、はるだったのかもしれない。

(2006年09月13日付け朝日ドットコム「出世を拒絶 さすらう心」)
http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200609130264.html

 そんな家族でしたが、金子兜太が日銀を辞めて戦地、トラック島に出征するときのお話しを、金子の俳句の師、加藤楸邨(1905-1993)が「金子兜太という男」でこんなことを:

 兜太が招集を受けて出征することになったとき、私共は秩父の強石(こわいし)というところの一軒の古ぼけた旅館に集って彼を送った…
 そのうちに一人黙り、二人黙って、一同しいんとひとつの踊りに見とれてしまった。
 伊昔紅、兜太父子が踊り出したからである。
 しかもその踊りはすっかり着物をぬいで生まれたままの姿なのである。
 父も子も声を合わせ、足どり手ぶりを合わせて、日本の白熱した線のように踊りつづけるのだった。

 私はずい分多くの若者を戦場に送ったが、こんなふうにふくらみのある明るい、それでいてかなしさの浸透した壮行は前にも後にもまったく経験したことがない。

…黒田杏子(ももこ、1938年生まれ)『金子兜太養生訓』(白水社、2005年10月)240-241頁


(注1)金子伊昔紅の母校、旧姓京都府立医科大学予科の校歌も作詞:

 遅日(ちじつ)の夢のほの白き
 花橘(はなたちばな)の香(か)に匂ふ
 御溝(おこう)の水のぬるみては
 加茂の河原の月見草
 楊花(ようか)は落ちてほととぎす
 平安城(へいあんじょう)をすぢかひに
https://www.youtube.com/watch?v=lps_A-j5RDE

(注2)金子兜太についてはヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの日記をご参照あれ:
 ☆ 2010年11月3日「曼珠沙華」
 ☆ 2012年2月18日「梯久美子」
 ☆ 2014年12月7日「寄居小唄」

posted by fom_club at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月07日

ヌプンケシ

 秩父事件「困民党」には5ヶ条もの「軍律」があったそうです。

 秩父事件、最後まで戦った菊池貫平(ハイビジョンドキュメンタリー):
https://www.youtube.com/watch?v=RRx8EBp6eMk

 ○ 第1条 私に金円を掠奪する者は斬
 ○ 第2条 女色を侵す者は斬
 ○ 第3条 酒宴をなしたる者は斬
 ○ 第4条 私の遺恨を以て放火その他乱暴をなしたる者は斬
 ○ 第5条 指揮官の命令に違反し、私に事をなしたる者は斬

(秩父事件研究顕彰協議会、困民党の目標と軍律)
http://www.chichibujiken.org/folder/post-30.html

 単独で判断し行為に及んではいけない、組織的に物事をすすめるのだということを徹底させているのでしょうか。
 これは、前掲書、山田哲哉『奥秩父、山、谷、峠そして人』266頁には「椋神社境内にある秩父事件資料掲示板から」のキャプション付きで写真が載っています。
 ヤッホ―君、秩父事件の「地場」、じゃないって「磁場」!には、もうひとつ北海道があって、それは北見市!
 ヤッホー君のこのブログ、いくら探しても、と言っても2010年以前にはさかのぼれないのですが、2008年11月15日からの西伊豆は雲見温泉での秋合宿か、その一年後2009年12月6日の城峰山定例山行の紀行文に記したはずなのですが、エヴィデンスが見つかりませんでした。
 確証が得られなかったので再掲(?ヘンなの?)しておきます。
 それは、北見市市史編さんニュース『ヌプンケシ』なんですぅ:

 ♢ 何故、北見では伝蔵のことが忘れ去られたか。
 …また、戦前の野付牛町の指導者層にとって、国家に反逆した逃亡犯・伝蔵が町に居住していた事実は、これから発展しようとする町にとって好ましくないことと思われたので、意識的に触れないようにし、『野付牛町誌』にも記録しなかったのではないでしょうか。
 しかも、1932(昭和7)年には役場の火事で伝蔵一家の唯一の公的記録であった除籍も焼失してしまったのです。
 こうして月日がたつうちに、住所どころか「かつて北見に井上伝蔵が住んでいた」こと自体が、多くの市民の記憶の中から消去されていったのでしょう。

(2003(平成15)年7月15日発行ヌプンケシNo.52)
http://www.city.kitami.lg.jp/docs/2518/

 でも、でも:

 ♢ 伝蔵であることを明らかにした場所は。
 伊藤房次郎が、井上伝蔵であることを告白した場所はどこか混乱があるようなので、これも佐藤せつさんの証言で整理しておきたいと思います。

「野付牛では、父の膀胱に石がたまりまして、町のお医者さんへ行きまして、石をとってもらうと楽に小水が出るようになりますが、それがだんだんひどくなって札幌の専門医へ入院するようになりました(後略)
 ふるえがきて、もう危篤の状態になりましてね、母にしてはもう本当に困ったらしいんですの。
 “早く人をよばなくちゃならない”ということが頭にございましたので、まず(伝蔵の)籍を聞きませんと葬うことも出来ません。
 (伝蔵が)落ち着きました時に、母が無理に看病に来て下さいますみなさんを“どうぞお引きとり下さい”と言って、そして“あなた早く、本当のことを言って下さい。本籍はどこですか”
 すると父は“洋(兄)が来たら言う”といいます。それで、危篤の電報を打ちまして、北見から札幌まで一昼夜、来るのに時間がかかるんですね。朝6時に、兄が着きました。
 (母が)“実は、お父さんが本当のことを言うから聞きなさい”と言うんで、それから札幌で3日間、もう本当にもう、3人で真剣に話しあったんでしょう。
 そしてだいたい聞きましてから、“まずこの秩父事件というものを鑑定してもらわなくちゃならない。30年も経って罪は時効になっているとは思うが、絶対に口外してはならない、単に埼玉県だけの問題じゃない、大きな国家的問題であるから、これは絶対に軽率な行動をしちゃならん”ということを厳重に父は申し渡したそうです」
(2003(平成15)年6月15日発行ヌプンケシNo.50)
http://www.city.kitami.lg.jp/docs/2516/

 もうひとり、落合寅市と意外な結びつき、尾崎行雄そして羊山公園!

 いよいよ秩父事件の足跡を巡ります。
 最初は羊山公園の高台にある秩父事件追念碑(尾崎咢堂翁額字)で眼下には秩父市街地が一望です。
 落合寅市の四男・九二緒氏が発起人となり、秩父地域で活躍する人びとに働きかけ、1965(昭和40)年に記念碑が建立された。
 父の遺志での顕彰碑であり、本来であれば吉田の椋神社境内に建てたい希望であったが、事件から80年経過しても氏子の反対にあって、この地に建てられたという伝説がある。

(2014.12.18(木)ところざわ倶楽部実施、「秩父事件の足跡」を巡る)
http://tokorozawaclub.yu-nagi.com/norok58.html

 その後は、かつて井上伝蔵の屋敷があった場所と近くにある伝蔵の墓、昼食後は映画『草の乱』の撮影のために再現された井上伝蔵邸を見学しました。
 下吉田村戸長役場の筆生(いまでいう助役)も勤めていた井上伝蔵の一族は、江戸時代から続く「丸井商店」を営んでいました。
 その屋敷が蜂起にむけての会合の場になりました。
 事件では会計長を勤めた伝蔵は、事件後2年間下吉田の斎藤家にかくまわれて北海道に逃亡します。
 しかし、逃亡といっても俳句の会に参加するなどかなりの行動をしています。
 結婚もして子どもももうけますが、死の直前に家族に自分の正体を告白します。
 連絡を受けて埼玉からやってきた落合寅市らは、井上の遺体との対面を果たし、遺骨は北海道と秩父に分骨されました。
 その落合寅市の墓は、細い道を入った山の近くにあります。
 かなり立派な墓で碑文は親交のあった貴族院議員が書いています。
 寅市は事件後高知まで逃亡し、板垣退助にも面会してます。
 その後の大阪事件に関係して逮捕され、重懲役の刑を受けます(注)。
 多くの獄死者を出した過酷な懲役を生き抜いた寅市は、事件関係者の家族を訪ねてまわり、「暴徒」とされた人びとの真の姿を伝える活動を続けました。

(2010年10月23日埼玉県歴史教育者協議会実施フィールドワーク「秩父事件をどうとらえるか、どのように教えるか」)
http://saitamarekkyo.web.fc2.com/rekkyo/20101023.html

 フィールドワークはさらに続くようです:

 さらに入った道沿いにあるのが、副総理になった加藤織平の墓です。
 墓の周りがかけているのは子どもが「暴徒の墓」に石を投げたためです。
 墓には「志士」と刻まれており、警察などから「削れ」という圧力があったそうですが、削られることなく現在も残っています。
 織平は富農で金貸しも営んでおりましたが、取りたてなどはせず多くの人々の人望を集めていました。
 織平を総理にという意見もありましたが、彼は「もっとよい人物がいる」として大宮郡の田代栄助を総理に推すのです。

 このお二人、刑場の露と消えていきます:

判決日:明治18年2月19日 裁判所:浦和重罪裁判所
執行日:明治18年5月17日 刑場:熊谷監獄(埼玉)
秩父事件
「田代栄助、加藤織平の両人が去る19日死刑の宣告を受けしが此宣告に服せず上告を成すとに決し」(東京横浜毎日/M18/02/22)
「田代栄助、加藤織平の二人は本月17日大審院に於て上告を棄却せられしに付き田代の代言人大岡育造氏、加藤の代言人高梨哲四郎氏より両人の為に哀訴状を差出したり」(東京横浜毎日/M18/04/24)
「秩父暴徒の巨魁田代栄助、加藤織平、新井周三郎の3名は一昨日死刑執行の筈ありしが都合に依り延期になりしと云ふ」(東京横浜毎日/M18/05/15)

(日本の死刑―明治時代)
http://meiji.shikei.info/chronology/detail/id/1298/


(注)落合寅市(1851ー1936)困民党軍乙大隊副隊長
 高岸らとともに高利貸・役所に対する請願運動を進め、次第に困民党組織づくりに奔走。
 武装蜂起に至っては、11月4日粥新田峠の戦闘で鎮台兵に向けて木砲を発射して逃亡。各地を転々とし四国高知に逃亡した。
 翌1885(明治18)年には大阪において大井憲太郎とともに「大阪事件」に参加。
 下関で逮捕されたものの罪は問われず、秩父事件で服役。
 1889(明治22)年2月、憲法発布の大赦で出獄した後帰郷、救世軍に加わるとともに「秩父暴動」とされたこの戦いを顕彰する活動を真っ先に始めた。
 加藤織平墓をカンパで建立したことでも知られ、その台座に彫った「志士」の文字を削れと官憲から命じられても突っぱねたというエピソードが残っている。
 また「秩父事件記念碑」の建立を寅市は願っていたが、それは叶わないまま他界した。
 彼の死後、四男の九二緒氏がそれを引き継ぎ、1965(昭和40)年になって秩父市の羊山公園に「秩父事件追念碑」として建立が実現した。
(秩父事件ホームページ、秩父困民党の幹部たち)
http://www.chichibujiken.org/folder/post-5.html


posted by fom_club at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月06日

山、谷、峠そして人

 自由党が結成されたのは、1881(明治14)年であった。
 秩父に自由党の組織が誕生したのは、1882(明治15)年。
 最初の入党者は、禊教の教師でもあった下日野沢村の中庭蘭渓と、金沢村の若林真十郎だった。
 彼らを自由党に勧誘したのは、若林真十郎の実兄だった群馬県坂原村法久の新井愧三郎。
 秩父地方は、群馬県緑野・多胡・甘楽郡や長野県南・北佐久郡と、峠を介して経済的にも文化的にも、日常的に不可分の関係にあった。

(秩父事件研究顕彰協議会公式サイト)
http://www.chichibujiken.org/folder/post-9.html

 ほら、ね、でたでしょ「日野沢」!
 明治の14年、15年っていったら、夏目漱石14、15歳のころですよ!
 (実母千枝は、夏目漱石14歳になる年の1月に亡くなっています、前年には実家が火災に遭い、土蔵を残して焼失しています)
 あの日、といっても時代は下って2015年4月29日(水)、山歩クラブGW特別企画「皆野アルプス」山行で、ヤッホー君らが皆野駅から乗ったバスは、「日野沢」行き!
 帰ってからどうもそわそわ落ち着きがなかったのは、これも「土地の精霊」がヤッホー君を揺り動かすからでした。
 なぜでしょ、なぜでしょ、とヤッホー君のこのブログ、過去日記に遡って探しても見つからなかったのです、足跡。
 それもそのはず、2009年12月6日(日)月例山行でした。
 その日、といっても5年以上も前のこと、山歩クラブ専用バスでおじゃました山が城峯山1038m。
 帰りに「満願の湯」(秩父郡皆野町大字下日野沢4000 Tel 0494-62-3026)に立ち寄っていました。
 その秩父温泉前を、今回皆野駅からでた町営バスは走ったので、車窓を見ながら、あれっとは思ったのです。
 城峯山への山行時、われわれは登りに表参道コースを辿りました。
 2009年の専用バスは、道の駅「龍勢会館」(秩父市吉田久長32 Tel 0494-77-0333)にもトイレ休憩で朝、立ち寄っています。
 すっげえ〜名前だよね、なんだろ、へぇ〜と思った覚えがあるのです。
 資料館「井上伝蔵邸」も見学、映画『草の乱』で復元された施設、と聞いてへぇ〜と思った覚えがあるのです。
 そうするってぇ〜と、『草の乱』は、2004年公開(監督/神山征二郎)、秩父事件120周年を記念する作品というわけですから、今年は秩父事件からもうゆうに130年は経過、映画公開からだってもう10年は経ってしまったわけですね。
 はやっダッシュ(走り出すさま)

 1884(明治17)年に起きた困民党を名乗る人々の明治政府に対する戦いを描いた歴史ドラマ。
『大河の一滴』や『郡上一揆』と数々の大作や話題作を手掛けてきた神山征二郎監督が長年あたためた企画で、4億5千万の製作費はほとんどが秩父を中心とする市民出資でまかなわれたことも話題になった。
『郡上一揆』に続く神山監督作となる緒形直人を主演に、秩父困民党総理・田代栄助を林隆三が演じる。

(シネマトゥデイ)
http://www.cinematoday.jp/movie/T0002259

 埼玉映画文化協会:
http://www.geocities.jp/eibunkyou/

 ね、なんか足がむずむずしてきたヤッホー君、土地の精霊に揺り動かされるばかりでなく、土地の精霊に惹きつけられていくのを感じています。
 こりゃあ、もう一度行かないと気がすまないねって、地場野菜を求めて?
 いやぁ〜「秩父事件」という磁場!

 日本初の近代兵器、村田銃が最初に使われたのは、外国軍隊ではなく、本来国家が守るべき自国の庶民に対してであった。
 起訴され拷問的取り調べの末、死刑12名、処罰された者3812名。
 これほどの犠牲を出しながら困窮、圧政と闘った秩父事件を、板垣退助の自由党史は、単なる「暴徒」による「騒動」と片づけている…
 奥秩父の峠、なかでもぼくの大好きな十文字峠を歩くとき、敗走しながらも、いや、彼ら自身は最後まで「転戦」を思っていたかもしれないが、「必ず、この峠を逆に登りかえしてみせる」と誓った農民戦士たちの姿が思い浮かぶ。
 奥秩父の山麓に起きたこの類まれな農民蜂起を思いながら、十文字峠を歩くならば、この困民党の戦士たちの希望や不安、絶望や誇り、怒りなどたくさんの気配があちこちの景色のなかに感じられるはずだ。

…山田哲哉(1954年武蔵野市生まれ)『奥秩父、山、谷、峠そして人』(東京新聞、2011年12月)、265-267頁

 今日5月6日水曜日、立夏。
 ヤッホー君、日記の主題をまた急にGW特別企画第一弾に戻したのですが、どうしてかと言いますと今日、その第二弾があるんですって。
 またご報告しますねぇ、行ってきま〜すって、リュック背負いながら慌てて出て行っちゃいましたけど…


posted by fom_club at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

ポールラッシュのもうひとつの顔

 5月5日火曜日「こどもの日」。
 幼少のみぎり、母の実家が贈ってくれた大きな鯉のぼりをたてるべくからだを動かしている祖父や父のまわりをまとわりついていたヤッホー君の姿が目に浮かんできます。
 鯉のぼりと言えば、山歩クラブで訪れた「竜神峡」が思い出されます。
 ヤッホー君のこのブログ、2年前、2013年5月13日付け日記「竜神峡鯉のぼりまつり」をご覧ください。

 でもどうしても、4月26日(日)山歩クラブ「大磯タウンウオーキング」に引きづり込まれてしまいます。
 すごい「磁場」を持った土地の精霊でした。
 あの澤田美喜記念館で懇切ていねいに案内と説明をしてくださったのが西田恵子さん、「エリザベス・サンダース・ホームへの道」…

 この仕事をはじめて5ヶ月目、イギリスの大使館から呼び出しがありました。
 40年の日本生活をつづけたエリザベス・サンダース嬢が80歳の高齢で、その生涯を聖母院でとじたのが、終戦の年の終わりでした。
 彼女はその40年の貯金のすべてを遺産として、英国教会の日本の事業に贈ると遺言していたのですが、それがこのホームに贈られたのです。
 彼女は40年働いて、170ドルがすべてでした。
 これはこのホームに贈られた最初の寄付でした。
 私も同じ聖公会の会員ですので、その名を、そのままホームにつけることにしました。
 すなわち「エリザベス・サンダース・ホーム」と。

…澤田美喜、前掲書、146-147頁

 ところがヤッホー君、びっくりしたのは、西田さんのお話。
 実は、エリザベス・サンダースさんとホームを引き合わせてくれたのが、清里のポール・ラッシュさん(1897-1979)ですよって。美喜さんは直接、エリザベス・サンダースさんとお会いしたことはなかったそうですけど、と。

 エリザベス・サンダースさんという英国人の名前をいただいています。
 この人は三井財閥一家の三井高精がロンドン駐在中に子息高國の養育係として採用され、一家が任期を終えて日本に帰るとき、請われて来日し、以後戦時中の困難な時期も含め33年間にわたり三井家に仕え、昭和21年に東京で亡くなりました。
 遺産として遺された170ドルの使途を託された友人のブッシュ氏は、澤田美喜と親交のあったポール・ラッシュ氏(山梨県清里に高冷地農業・畜産業を導入し、清泉寮を開設した人)に相談し、折から混血孤児のための乳児院設立に奔走していた澤田美喜に開設資金として寄付されたのです。
 澤田美喜はサンダースさんとは直接会ったことはありませんが、最初の寄付者のお名前をいただいて施設の名前としました。
 ホームの子どもたちは毎年5月に横浜山手の外人墓地にあるサンダースさんのお墓参りをしています。

(エリザベス・サンダース・ホームの名前の由来)
http://www.elizabeth-sh.jp/esh.html

 だって、山歩クラブ、毎年のように清里高原におでかけしていました。
 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をお読みください:

☆ 2011年1月5日「高根町清里」
☆ 2012年10月18日「八ヶ岳興民館」
☆ 2014年12月22日「W.S.クラーク」

 澤田美喜さんが大きく前へ一歩踏み出したのが、1946年6月末の日米混血児第一号誕生のニュースでしたよね(ヤッホー君のこのブログ、2015年05月02日付け日記「Abe, liar!」参照)。
 このころってね:

 1945(昭和20)年8月21日、近衛文麿国務大臣の発案により閣議決定された「国家売春」という信じられないようなものからスタートしています(注1)。
 こうして占領軍上陸直前の8月26日に「特殊慰安施設協会」(Recretion and Amusement Associstion, RAA)が設立されました…
 銀座にこんな看板が立ちます。

 新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。
 女事務員募集、年齢18歳以上25歳まで。
 宿舎、被服、食糧全部当方支給。

 RAAから30年後、ジャーナリスト大島幸夫が近衛の指示を受け、RAAを実行した元警視総監・坂信弥にインタビューしています(『原色の戦後史』講談社文庫、1986年):

「いまさら、そんなことなんで聞くんかねえ。
 次元が低い問題だよ(中略)
 近衛は支那事変で日本兵が支那の女たちにやったことに覚えがあるから、ヤマトナデシコを救おうという気持ちで、坂ならやってくれると、総理官邸に私を呼んで頼んだんだ(中略)
 あれ(RAA)は国の運命を左右する問題でなしに、アワツブみたいな問題に過ぎん。
 応募した女性をイケニエのように言う人がいるが、そんなのは火事場の野次馬議論であって、観念論だよ。
 他にどんな方法があったか、というんだ。
 あれはあれで、日本女性の貞操の危機を救ったんだよ」

 大島はこう書いています(注2)。

国策を語って、その国策に引きずり回された人間たちのことに語り及ばない・
 国策の効果を一人よがりにたたえて、人間の痛みに思い至らない
」と。

…百瀬孝監修、昭和研究グループ著『戦後の日本を知っていますか、占領軍の日本支配と教化』(はまの出版、2007年7月)4.占領下の国民生活・国家売春だった「性の防波堤」、178-183頁


(注1)ほかに小林大治郎・村瀬明 『新版 みんなは知らない国家売春命令』(雄山閣、2008年復刊)

終戦から13日後、政府の指導で誕生した占領軍のための性の防波堤R・A・A、その設立から1956年の売春防止法成立まで、知られざる戦後風俗史をレポートした名著を読みやすい新版として復刊。
(雄山閣公式サイト)
http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=7287

(注2)法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室

英国留学中にブライトンの日本食料品店(古本とかも売っている)で偶然見つけた一冊。たいして期待せずに読み始めたのですが、これが面白かった。終戦直後の混乱のなかで人々がどのように生きたのかを、さまざまな角度から、さまざまなエピソードを通して描き出しています。皇居に突入して、天皇家の台所事情をチェックしようとした世田谷区民、住宅難から小学校の校舎を占拠した引揚者、政府の言葉に踊らされて北海道に移住した農民…、など人びとが必死に生きるさまが浮き彫りにされていきます。今日の満ち足りた日本社会にあっては、ついつい忘れがちになるのですが、食べ物をめぐって人びとが死に物狂いだった時代が日本にもつい50年ほど前にあったのだ、ということを改めて痛感させる一冊です。今でも手に入るのかどうかはわかりませんが、機会があれば是非一読を薦めたい本です。(2000年11月記)
http://www.asahi-net.or.jp/~xy8s-td/japan-history.htm#oshima



posted by fom_club at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月04日

365日のシンプルライフ

 2015年5月4日(月)「みどりの日」。
 ヤッホー君、びっくりしたのは堤清二ってもう亡くなっていたってこと(1927-2013)。
 こんな記事を見つけました:

 エコノミストは、消費社会を揺るがす新しい底流を見落としている。
 消費税が上がったので消費が減り、国内総生産(GDP)が落ちた。
 消費減退が一時的なものか、長引くか、議論が続くが、「人間、カネがあればモノを買う」という前提を疑う者は少ない。
 だが、それは、発展途上の時代の固定観念にすぎない。
 成熟経済の下では、人々はカネがあるからモノを買うとは限らない。
 モノの過剰は幸福どころか、苦痛をもたらす−−という理解が広がっている…
 経済の好循環を実現するカギは「賃金アップと消費の力強さ」だと安倍晋三首相が言っている(『文芸春秋』2014円9月号「アベノミクス第二章起動宣言」)。
 当節、これは特異な見方でないどころか、内外の専門家の主流の意見だ。
 しかし首相の確信と映画の評判のギャップをどう見るか。
 昨年2013年、86歳で他界した堤清二(元セゾングループ代表、作家・辻井喬)は、かねて消費社会の根源的な質の変化を予言した。
 新しい波はまず芸術家が感じ取り、経済人に理解されるまでには時間がかかる−−と見た(『消費社会批判』岩波書店、1996年)。
 映像作家が時代の先端を読み、実務家の対応が遅れているのである。
 ルーッカイネンはこうも言っている。
「モノはエネルギーを消耗する」
「原発か再生可能エネルギーかと論争する前に、いまのエネルギーの使い方や目的に焦点を合わせるべきでは」(本紙東京版2014年8月1日付け朝刊)。
 消費は美徳、エネルギー需要は右肩上がりという思い込みから、改めなければならない

(2014年08月18日付け毎日新聞東京朝刊「風知草:これ以上、何を買う?=山田孝男」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140818ddm002070072000c.html

 映像作家ルーッカイネンの映画ってこれ。

 究極の断捨離!『365日のシンプルライフ』予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=NSJP9PfiuSE
http://mystuffmovie.com/

 経済人として世の潮流に対していろいろ発言してきた堤清二:

 政官財界の内側にいて批判精神を失わないユニークな経営者として知られていた堤清二氏が亡くなった。
 若手経営者の頃から望ましい国家の姿として「市民の国家」論を唱え、それに耳を貸さない現状のままでは「産業界は没落の一途」を辿るほかないとも指摘した。
 政官財界は果たして「没落」を回避できるのかという問題意識は、今後も常に新鮮な問いかけとなるだろう。
 日本の著しい右傾化に熱心な安倍自民党政権に向かって、堤氏としては根底から批判するほかなかったに違いない。
 しかし寿命という自己管理しにくい制約のため、それを果たす機会を与えられなかった。
 堤氏にとっては無念であったと言うべきだろう。

(2014年1月17日ちきゅう座、ジャーナリスト、元毎日新聞記者・安原和雄「堤清二の《市民の国家》論とは、政官財界は「没落」を回避できるのか」)
http://chikyuza.net/archives/41967

 そう、昨日のヤッホー君の日記は「吉田茂」についてでありましたが、イマからもう10年も前に、堤清二はこんなことまで(2005年8月12日号『週刊金曜日』)!:

佐高信 戦後すぐの政治家というのは吉田茂。この人は経済ということをある程度考えていた人ですね。

辻井喬 彼の言っていたことを白洲次郎が書いているんだけど、吉田茂という人は「世界史の中で戦争で負けて外交で勝った国がいくつもある。だから日本は戦争で負けたけれども外交で取り戻さなきゃいけない。その一番大事なことは軍隊を持たないことだ」と言っていたと記録している。軍隊を持ったら、勝った国にアゴで使われる。いくらやったって、勝った国はそれで満足だということはないんだから、日本はみじめになる。なんとかして軍隊を持たないことにしたい。経済も弱いしと。そうしたらGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から憲法の素案が提示された。吉田さんは「これだ」と思った。向こうが言ってきたんだから文句あるわけないということで乗った。それをいまの政治家はまったく忘れてしまった。吉田さんは民主主義者じゃなかった点で大きな欠陥はあったが、その外交性などについてはいまの人たちより、よっぽど先を見通していた、いまになって憲法改正をして軍隊を持てなどと言うけれど、何のプラスになるんだと思います。

佐高 吉田という人は、野党がうるさいから出来ませんと野党の存在を利用して「ただ乗り」と言われてもやっていった。すさまじいことですよ。

辻井 いま改憲論者は「押し付け憲法だ」って言うでしょう。でもいま変えるというのも、また押し付けなんですよね。押し付け憲法をやめるのに、言われて変えるっていうのはどういうことなんですかね。

斉藤貴男 今は積極的に服従する憲法をつくろうと言ってる。変えろと言われても変えないのが独立国でしょうに。

辻井 軍隊を持ったらば、アメリカは、日本は軍隊があるんだからイラクへ行けとなる。国家的に組織された傭兵になっちゃう。絶対それは認められないですよね

…佐高信『ブラック国家ニッポンを撃つ、佐高信の緊急対論50線・天の巻』(七ツ森書館、2014年5月)140-141頁

 そうなんです、昨日の2015年5月3日「憲法記念日」にふさわしく、イマのきな臭い動きに警鐘を鳴らしておきたいヤッホー君、吉田茂も究極の断捨離を目指していたんだったな、と:

 海外で外国と共同で武力行使をするという意味での「集団的自衛権」が認められないという政府の憲法解釈の背景には、警察予備隊⇒保安隊・警備隊⇒自衛隊と拡大してきた事実上の軍隊が憲法9条違反の存在でないと国内むけに正当化するためであると同時に、実はアメリカ向けの側面も有していた。
 上述の指摘のように、アメリカの戦争に巻き込まれることを危惧した、1950年代の日本の権力者は、海外派兵という意味での集団的自衛権に道を開くことには抵抗してきた。
 アメリカの戦争に巻き込まれないために海外派兵に抵抗する姿勢は吉田茂などにも見られる(注24)…

注24) たとえば朝鮮戦争当時、ダレスは吉田茂に対して32万5千人の日本再軍備案を提示した。それに対して吉田茂は「新憲法9条の制約」「経済復興の優先」「日本国民の反戦感情」「日本の侵略を被ったアジア諸国の警戒」を挙げて拒否した(西原正・土山實男共編 前掲注3)。
 その理由については、日本再軍備をすすめた、アメリカの軍事顧問団幕僚長であったコワルスキー氏が日本のトップクラスの人物から聞いた発言を紹介しよう(フランク・コワルスキー著,勝山金次郎訳『日本再軍備 米軍事顧問団幕僚長の記録』(中公文庫、1999 年)283頁):

「ダレスさんの言う通りに、30万の兵力に増強したら、アメリカ政府は、その一部を朝鮮に派兵するように言ってくるでしょう。だから吉田さんは11万以上の兵力に拡張することには応じなかったのです」
「吉田さんは、日本軍が中国で泥沼にはまって進退きわまったあの頃のことを思い出すと、身ぶるいがすると言っています。日本国民も同じです。もし日本が地上軍を30 万人に増やすと、国民は、外国から日本を守るだけでそんな大軍は要らぬと非難するでしょうし、国連はアメリカにつつかれて、10万くらいを朝鮮に派兵して、国連に協力するように日本に要請してくるでしょう」

前掲注3) 安保条約5条の「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」という文言だが、アメリカ側からすれば、日本が攻撃された際、アメリカが日本との共同武力行使に踏み切らなくても良いという解釈を導く可能性に道を開いたものであることに留意する必要がある。
 そのことはNATO条約との対比で明確になる。
 NATO条約5条では「締約国は,ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがつて、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によつて認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する」とされ、締約国に対する武力攻撃が生じた際、各締約国には条約上、「自動参戦義務」が課されている。
 それに対し、米比相互防衛条約米韓相互防衛協力などでは「憲法上の手続に従つて」とされている。
 日本が攻撃されてアメリカの大統領が軍事活動をしようとしても、アメリカ憲法上、議会が承認しなければ軍事活動を起こすことができない。
 このように、NATO条約にはない「憲法上の手続に従つて」という文言を入れることで「米国が自動的にアジアの戦争に巻き込まれないようにするための措置を取っている」(西原正・土山實男共編『日米同盟Q&A』(亜紀書房、1998年)13頁)。

「講和後における米軍の日本駐留を切望しながらも、アメリカ側が日本防衛義務を負うことに否定的だった」のは、「直截にいえば、ヨーロッパを主戦場とする第3次世界大戦が勃発した場合、日本防衛義務は米軍にとって足枷となる」(吉次公介『日米同盟はいかに作られたか、「安保体制」の転換点1951―1964』(講談選書、2011年)20頁)ことをアメリカが嫌ったためである。

(名古屋学院大学経済学部・飯島滋明「日米ガイドライン再改定と日本国憲法」2015年3月31日発行、名古屋学院大学論集社会科学篇第51巻第4号所収)pp. 119―142

論文要旨:
 現行日米安保条約(1960年)では、海外で共同でアメリカと戦うという意味での「集団的自衛権」は認められていない。
 一方、現在改定作業が進められている「日米ガイドライン」では、海外での日米の共同武力行使が目指されている。
「ガイドライン」再改定により日米安保条約の内容を実質的に変更する行為は、条約改正に際して国会承認を要件とする憲法73条3号、議会制民主主義からは問題がある。
「ガイドライン」再改定などの手段で集団的自衛権を認めようとする安倍政権の政治は、憲法の平和主義との関係でも問題があるし、近隣諸国との関係でも問題がある。

http://www2.ngu.ac.jp/uri/syakai/pdf/syakai_vol5104_07.pdf


posted by fom_club at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月03日

おおいそ野外アート展

 山歩クラブ「皆野アルプス」報告をそこそこに、またまた「大磯タウンウオ―キング」に舞い戻ってしまったヤッホー君、だって今日5月3日(日)は「憲法記念日」って言うじゃん…
 昨日、ヤッホー君がつけた日記で、「サンフランシスコを向いて立つ吉田茂像」ってこれ!

吉田茂像.jpg

 いえ、ね、2年前に「主権回復の日」ってのを沖縄の声を無視してセットして「天皇陛下バンザイ」を唱えたときがあって、今年も開いたのかな、ってヤッホー君、アタマをよぎったんだそうで:

 きょう4月28日は敗戦後の日本が占領状態から解放され、独立した日だが、一方で、沖縄や奄美、小笠原諸島が日本から切り離され、米軍の統治下に置くと定めたサンフランシスコ講和条約発効の日であり、さらに沖縄に基地を押し付ける日米安保条約発効の日だ。
 沖縄はこの日を「屈辱の日」と呼んでいるが、確かに去る大戦では本土防衛の捨て石にされて20万人余が犠牲になり、戦後は銃剣とブルドーザーで強制接収された広大な米軍基地から派生する爆音や米兵の犯罪に苦しめられ、それは本土復帰から43年経た今も変わらず続く「屈辱の日々」だ。
 そういう日に、よりによって安倍政権はおととし、日本の独立を祝う「主権回復の日」式典を開催。
 折しも米軍普天間飛行場の辺野古移設に加えて、オスプレイの強行配備が問題になっていたさなかだけに、沖縄の主権は無視したままの式典開催は、県民感情を逆なでし、大きな怒りを買ったのは記憶に新しい。
 さすがに昨年は開催されなかったが、しかし今年はいみじくもこの日、日米が首脳会談を開き、またも沖縄の民意と主権を無視して「辺野古移設」を再確認の予定だ

(2015年04月28日付け八重山毎日新聞社説「きょう日米首脳会談糾弾4.28県民大行動」)
http://www.y-mainichi.co.jp/news/27332/

 しかし今年はいみじくもこの日、

 自民党の稲田朋美政調会長が4月28日、東京・九段北の靖国神社に参拝した。
 サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国の占領から脱した「主権回復の日」に合わせたという。
 安倍政権では今月、高市早苗総務相と山谷えり子拉致問題担当相、有村治子女性活躍相が春の例大祭に合わせて参拝している…
 参拝後、稲田氏は
国のために命を捧げた方々に感謝と敬意、追悼の気持ちを持って参拝することは、主権国家の責務、権利だ」と語った。
 稲田氏は行政改革担当相だった昨年、一昨年も「主権回復の日」に靖国神社へ参拝している。

(2015年4月28日10時32分朝日新聞「自民・稲田政調会長らが靖国参拝、主権回復の日にあわせ」)
http://www.asahi.com/articles/ASH4X320LH4XUTFK002.html

 お〜やだ、やだ、なんだかなぁ〜「国によって命を奪われた方々への鎮魂」はどうなるんでしょうね。
 ま、こうしてサンフランシスコ講和条約が発効のし、さらに沖縄に基地を押し付ける日米安保条約が発効するわけですが、吉田茂邸の内門(兜門)は「講和条約門」とも呼ばれておりましたぁ〜

講和門.jpg

 ところでさらに、あの日の4月26日、「大磯ウオーキング」で吉田茂邸で発見したのが『憲法』exclamation×2
 これは、「おおいそ野外アート展」に出品された作家さん、戸田眞由美さんの「作品」です!

憲法.jpg 

 県立大磯城山公園内の旧吉田茂地区庭園を会場にした「おおいそ野外アート展 in 旧吉田茂邸」が4月24日(金)から5月6日(水)まで開催される。時間は午前9時から午後5時まで。
 旧吉田茂邸は、戦後6年2ヶ月にわたって内閣総理大臣を務めた吉田茂が1944(昭和19)年頃から亡くなる1967(昭和42)年までを過ごした邸宅。
 生前によく散歩したと言われている邸内の日本庭園は世界的な作庭家の中島健氏が設計したもので、日本庭園には珍しいカナリーヤシが植えられるなど、海外生活が長かった吉田茂の好みが随所に反映されているという…
 主催の2015野外アート展実行委員会事務局で大磯町在住の高橋忠則さんは
「アートの力は子どもたちにとっても大きい。以降も回を重ねて、若手作家の登竜門のようなイベントになれば」と、期待を寄せる。
 また、実行委員長で華道家の杉崎宗雲さんは
「人も場所も活かすことで化学反応が起きるはず。ぜひ、子どもたちに見に来てほしい」と、多くの来場を呼びかけている。

(2015年4月17日号『タウンニュース』掲載「載政治の舞台、アート一色に」)
http://www.townnews.co.jp/0606/2015/04/17/279879.html

 そう、あの日、大磯町の軒先で買い求めた、たまねぎ、タケノコ、うめぼしが添えられ、ヤッホー君ん家のちっちゃな、ちっちゃな「ちゃぶ台」兼食卓はたいそう、春の旬の野菜でにぎわったとのことです。
 おまけに:

たけのこ上.jpg



posted by fom_club at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月02日

Abe, liar!

書評 孫崎 享著『戦後史の正体1945-2012』(創元社)
 著者孫崎享(まごさき・うける、1943〜)は東大法学部中退で外務省入省、国際情報局長、註イラン大使を経て2009年まで防衛大学校教授。元エリート外交官は現在は執筆、講演、ツィッター発信者として活躍している。
 対米従属路線の基礎は吉田茂が築いた。吉田は策を弄して鳩山一郎、石橋湛山らのライバル政治家を倒してマッカーサーのGHQ政治を支えた。東西冷戦の開始で、米国の最重要課題は、「米国が日本に対して望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」(ダレス)ことになった。これが日米安保の核心であり、対日講和は日米安保の従属物であった。これが日本の従属性を決定した法的基盤であり、現在も不動である。
 一方で、私はこの作品が結果として、「一国民の運命が一握りの政治指導者、外交指導者によって決定される」という前提で論じられていることに不満を感じる。指導者を選び、指導者を支える社会的な基盤、社会の諸階層の顔が見えない(注)。
 1945年8月を境に、日本の主人は天皇から米国へと変わった。奴隷の立場は変わったのか。変わらなかったのか。この難問は残されたままである。

(2012.08.16半澤健市、元金融機関勤務「テクノクラートによる《対米従属》史」)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2080.html

 コールデンウイークをオサマ氏と過ごし、おじいちゃんの岸信介はできた大統領とのゴルフはできなかったようですが、あることないこと、日本国国家、日本国国民を軽視して約束してきたアホ氏、どっち向いてるの?と聞いてみたい。
 と言いますのも大磯町タウンウオ―キングで伺った吉田茂邸でヤッホー君、また変なこと聞いておりました。
「なんで富士山の方を向いて立ってないのかな…どっち向いてんだろ?」
 いっしょにいた仲間があとでパンフレットを見ながら、こう言い聞かせておりました。
「ここに『サンフランシスコを向いて立つ吉田茂像』って書いてあるわよ」
 アホなヤッホー君、絶句…

 5月2日土曜日は「八十八夜」ですが、河北新報の「社説」を読みませんか:

「日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えている」。
 安倍晋三首相は米連邦議会で、そう語りかけ、環太平洋連携協定(TPP)交渉の早期妥結に向けて協力を要請した。
 交渉全体の合意に欠かせない、通商交渉権限をオバマ大統領に一任する法案の速やかな成立を求めたのだ。
 だが、待ってほしい。
「出口はすぐそこ」、つまり合意は間近と言われても、われわれ国民は、交渉の中身をほとんど知らされてはいない
 日米協議は、コメを含む重要5農産物貿易の現状維持を求めた国会決議を逸脱する形で進んでいるとされる。懸念された首脳会談での譲歩はなかったとはいえ、農業者らは不安を募らせている
 大統領と早期妥結を確認し米議会に協力を呼び掛ける。そのこと以上に首相がなすべきは国会と、国民と正面から向き合うことではないのか
 国会決議は、5農産物を「守り抜くべき国益」とし、その「聖域」が確保できない時は交渉からの脱退を求めた。そうした事態に陥ってはいないのか。判断材料すら提供されていないことは、国会軽視以外の何物でもない
 2年前の交渉参加表明に際し、首相は「交渉の進展に応じ、国民に丁寧に情報提供する」と明言した。空手形で終わるなら、国民無視も甚だしいと言わざるを得ない。
 国民代表の意思をないがしろにし、国民との約束をほごにする政権は「信」を得られないことを肝に銘ずべきだ。

(2015年05月02日土曜日付け河北新報「TPPと首相/国内軽視を改めるべきだ」)
http://www.kahoku.co.jp/editorial/20150502_01.html

 例えば安保法制に関する発言がそうだ。安倍首相は、集団的自衛権行使を可能とするような安全保障関連法案に関して「戦後初めての大改革です。この夏までに成就させます」と約束した。
 安保法制は次期国会で対立法案となるはずであり、慎重な審議が求められる。ところが安倍首相は法案提出前であるにもかかわらず、夏までの法案成立を米議会で言明した。これでは国会が「消化試合」になる。甚だしい国会無視であり、到底容認できるものではない。
 集団的自衛権行使をめぐって、国民世論は大きく割れている。憲法解釈変更の閣議決定に対しても反発の声が上がった。「積極的平和主義」の掛け声の下、日本が再び「戦争のできる国」となることを国民は危惧している。安倍首相は国民の不安に目を向けるべきではないか。
 過去の戦争に対する姿勢にも批判が出ている… 中国や韓国のメディアから「謝罪どころか自賛だけ」という批判が上がった。安倍首相はこのような批判を直視すべきだ。
 演説の中で安倍首相は「民主主義」という言葉を多用した。しかし、沖縄での選挙結果に背き、辺野古での新基地建設を強行する安倍政権の姿勢は民主主義とは正反対ではないか。
 米国への追従姿勢に終始し、国民、県民、日本の侵略行為によって傷ついたアジアの人びとを置き去りにするような演説であった。歴史に耐え得るとは言い難い。

(2015年5月1日付け琉球新報<社説>首相米議会演説、米追従姿勢は本末転倒だ」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-242452-storytopic-11.html

 それどころか、安保法制の自公協議が整っていない段階で、つまり政府案ができていないのに、日米外務・防衛官僚の間で憲法9条違反の日米同盟強化という暴挙がまかり通っていたのだ。
 それなのに誰も反発しなかった。
 すべてが終ってから文句を言ってどうする。
 それでも野党が結束して本気で戦うなら応援したい。
 しかし、一強多弱の今の野党がどんなに反対しても安倍首相は聞く耳を持たないだろう。
 米国との合意を変えることは安倍首相には出来ないし、その気もない。
 だから安保法制法案は最後は強行採決される。
 その時、野党は安倍首相を内閣総辞職に追い込めるか。
 解散・総選挙に追い込めるのか。
 そこまでの覚悟が野党にあるのか。
 下手をすれば、解散・総選挙を恐れる野党を見透かして、安倍首相のほうから解散・総選挙に打って出るかもしれない。
 安倍首相のおごりもここに極まれりだ。
 その時こそ、新党「憲法9条」の出番だ。
 「憲法9条」が、増長する安倍首相を退治する時である。

(2015年5月1日天木直人のブログ「新党憲法9条の出番は意外に早くやってくる予感」)
http://new-party-9.net/

 そうなんです、ヤッホー君のこのブログでも時折りそうですねって採り上げてきた元外交官、天木直人氏は4月26日(日)、「既存のすべての政党、政治家が国民の利益を実現できない今の閉塞した政治状況を打ち破るべく、読者とともにまったくあたらしい政党をつくって新風を起こすことを決意しました」と新党をたちあげたばっかり、がんばってください。
 同じ4月26日(日)、ヤッホー君たちが大磯におじゃましたとき、最後に立ち寄ったのが「澤田美喜記念館」(大磯町大磯1152 Tel 0463-61-4888)、こんなことを:

 終戦が8月15日。
 それから1ヶ月後の9月15日、あの焦土と化した横浜に第一歩を印した進駐軍。
 そして、その日から、9ヶ月すぎた終戦翌年の1946(昭和21)年6月の末、私は朝のラジオ・ニュースをききました。
 そのニュースは、その暁に生まれた日米混血児第一号誕生の知らせでした。
 アナウンサーはことばをきわめて、美しく報道しました。
 これが戦後のアメリカと日本の最初の握手だとか、太平洋の両岸を結ぶ愛のしるしだとか…。
 しかし、進駐軍はその後、ふれられたくない微妙な点にふれたということで、このアナウンサーのクビをきったということです。
 占領下ではこの問題について、声を高くして語ることを許されず、ただヒソヒソとささやき合うだけでした。
 このニュースは、私の心のなかに長い年月ひそんでいたあるものをよびおこしました。

…『人間の記録、澤田美喜、黒い肌と白い心、サンダース・ホームへの道』(日本図書センター、2001年1月)135頁

 澤田美喜は資金集めに東奔西走します。天木直人だって、これからです:

 しかし候補者を立てるには一人600万円のいわゆる供託金と、新党憲法9条のような新たに作られる政党の場合は、最低10名の候補者を立てなくてはならない規則があります。ですから最低限でも候補者一人600万円の供託金x10候補者、つまり6000万円の資金が必要となります。
http://new-party-9.net/archives/517

 ミンシゅシゅギ、民主主義っていうけど、どうして選挙にこんなにお金をかけるんだろうね、きっと当選したら税金から、ヤッホー君には見たこともないようなおカネが払われるんだろうね、
 なぁ〜んだ、だっから、ナリキン芸者か、カネに飢えた亡者か、家族ビジネス、
 なぁ〜んだ、だっから、選挙で言う「お約束」なんて嘘っばかり、当選したいがための口八丁、手八丁、
 なぁ〜んだ…


(注)2014年12月の総選挙で、自民党に投票した主権者は、主権者全体の17.4%しかいない。公明党含めた与党全体で、主権者全体の24.7%しかいない。にもかかわらず4分の1弱の民意で一国の運命が決定されようとしている事態をここいらで、自分で考え、自分で行動にうつして、ストップさせないといけませんね!

posted by fom_club at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月01日

皆野アルプス

 ”ご当地アルプス”ってのがございます。
 北アルプス、中央アルプス、南アルプスへは小屋泊の山旅で、もちろんあの雄大で骨太な日本の背骨は経験済みですが、それ以外の房州アルプス、三浦アルプス、長瀞アルプス、宇都宮アルプス、鎌倉アルプス、沼津アルプス、清水アルプスなんてのも山歩クラブの月例山行で歩いておりますな!
 でも先月4月29日の「皆野アルプス」は初めて、でした:

 2月号の第1特集は「今知りたい 山の疑問に答えます」
 最近話題になっている「登山届けの義務化」や昔から語られている「山での人間関係」についても。普段疑問に思っているけれど、なかなか自分では調べられないことをまとめて解決してくれます。山での法律問題なんていう項目も。読めば「なるほど」となりますよ!
 第2特集は「全国ご当地アルプス大集合」
 登山者の憧れである日本アルプス。その名前にあやかって「○○アルプス」と名付けられた山々が、全国にたくさんあります。ルポは甲州アルプスと呼ばれる大菩薩峠。

(2015年01月26日(月)山と渓谷編集部ブログ)
http://www.yamakei.co.jp/yamakei-editors/2015/post_41.html

 ヤッホー君たち山歩クラブも例外ではなく、「駒ちゃん」シリーズと並ぶ二大プロジェクトが「ご当地アルプス」シリーズなのでございます。
 今回、破風山だけにしようかと考えての企画提案でしたが、弥次喜多道中、かつ足がそろっているとなればさっそく「皆野アルプス」へのチャレンジ山行と相成ったのでございまする。
 このご当地アルプスの命名はサイキン、新しく登場したものですね、だってぇ〜:

 続きまして、55ページ、款7商工費、節13委託料の上から4番目、看板作成委託料についてご説明を申し上げます。
 この内訳でございますが、一つはハイキングコースの観光案内板を整備したいというふうに考えております。25基、大渕の信号の先ですけれども、ここから前原尾根コースというのがございます。
 破風山に登るコースがございますが、これを今年度「皆野アルプス」という名前を、さらに愛称というのでしょうか、つけ加えまして、大勢のお客さんに来てもらいたいということで考えております。このために案内看板、これはA3の紙というのですか、その大きさのものを設置するというものでございます。25基ございますが、25基のうちおおむね20基が、この破風山に関するもので、そのほか美の山とか、登谷山とか、そちらのほうに5基程度設置をする予定でございます。
 もう一つが、道の駅の案内看板の作成委託料でございます。これが皆野長瀞インターがございますが、そこからおりてきた最初の交差点にJAちちぶの農産物直売所の案内看板がございます。かなり大きいものでございますが、これを農産物直売所は今もあるわけでございますが、道の駅の中の直売所ということでございますので、これを全面的に描きかえて道の駅の看板ということにしたいというふうに考えてございます。

(2014(平成26)年3月13日(木)2014(平成26年)第1回皆野町議会定例会第3日、8番、大野喜明議員質問に対する産業観光課長・大塚宏回答)
http://www.town.minano.saitama.jp/section/gikai/img/26.3.11.pdf

 われわれは大渕登山口に下山し、道端を歩いていたおばちゃんに皆野駅に行く道順を聞いたときに、ほら、あの道を左に折れて橋を渡って、左の方にもうひとつ橋があるから、それを渡るといんだよ、破風山登ってきたのかい、大変だったねえ、となぐさめられつつ、ていねいに教えてくださいました、ありがとう、おばちゃん!
 で、その通り曲がって歩いていったら、崖に「破風山」への案内看板がでていたんですよ。
 地元の人だって、破風山にかける愛情はハイカー以上のものがあるようですよ。

 皆野町の登山愛好家ら9人が、破風(はっぷ)山(626m)など町内の山を案内するボランティアグループ「破風山クラブ」を結成した。活動の第一弾として、同町皆野のまちかど観光情報館で登山マップを配布するなどしてPR活動を行なった。
 9人は、町と町観光協会が昨年行った「破風山マスター養成講座」を受講。破風山を5回にわたって歩き、花の咲く場所など、登山道の見どころを確かめた。この講座の修了者のうち有志が集まり、案内グループを立ち上げた。
 PR活動は、山道に咲くミツバツツジの見頃に合わせて今月4月11、12両日に実施。ハイキング客に地図を渡し、道順や迷いやすい場所などをアドバイスした。館内では草花の写真を展示し、登山道の魅力も伝えた。PR活動は4月18、19両日にも行ない、その後は秋の紅葉シーズンの11月に計画している。
 破風山は8つの登山コースがあり、年間約1万人が訪れる。低山ながら急な尾根道もあり、初心者から中級者まで幅広く楽しめるのが特徴で、町は主要ルートを「皆野アルプス」と名付けアピールしている。しかし、アルプスの一部には約十年前に整備された新道もあり、既存の地図に掲載されていない例もあった。町は、観光客増加のため正確な情報発信が必要と考え、養成講座を始めた。
 破風山クラブ代表の大塚宏さん(60)は「破風山は登山コースも多く、季節ごとの風景も異なる。この山だけでも多彩な楽しみ方ができることを発信したい」と意気込む。
 7〜8年前に都内から長瀞町へ移住したメンバーの坂野晴彦さん(75)は「友人が来たときに破風山を案内しているが、講座を通して新たな発見もあった。多くの人に良い思い出を持ち帰ってもらいたい」と話した。メンバーらは今年も破風山の登山研修を続け、案内活動の充実を図る計画だ。

(2015年4月15日付け東京新聞・羽物一隆「破風(はっぷ)山の多彩な魅力発信、皆野の愛好家らグループ結成、活動第1弾で登山マップ配布」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150415/CK2015041502000159.html

 な〜に、ハイカーの足、秩父鉄道だって負けちゃいません。
 「破風山・皆野アルプスコース(約10キロ)=スタート、ゴールとも皆野駅」:

 秩父鉄道(本社熊谷市・大谷隆男社長)は、秩父の名峰登山を楽しむ「秩父鉄道フリーハイキング」の6コースで、それぞれの完歩者に「鉄道むすめ」のオリジナル記念キーホルダーをプレゼントしている。
「鉄道むすめ」は、全国の鉄道事業者で働く女性をモチーフにしたキャラクターで、模型製作会社「トミーテック」が展開している。キーホルダーには、秩父鉄道の鉄道むすめ「桜沢みなの」(注)のイラストが入っている。その裏には、それぞれのコースの山名と標高が記載されている。
 希望者は、スタート駅の窓口で申し込み書に必要事項を記入し、ハイキングマップをもらってスタート。ゴール駅で申し込み書を提出すれば、キーホルダーがもらえる。

(2015年4月21日(火)付け埼玉新聞「ハイキング完歩者に鉄道むすめキーホルダー、6コースの山名など記載」)
http://www.saitama-np.co.jp/news/2015/04/21/08.html


(注)「桜沢みなの」は、秩父鉄道桜沢駅と皆野駅を由来として誕生。
「秩父鉄道の駅務係として出改札業務を担当。首から提げたかばんには乗車券や釣り銭が入っている。暗算が得意で、多人数の発券業務などでも即座に対応できる。自分の髪の色にも近いロウバイの花がお気に入りという設定だ」
(2014年7月4日(金)付け埼玉新聞「秩父鉄道《桜沢みなの》誕生で記念乗車券を発売」)
http://www.saitama-np.co.jp/news/2014/07/04/10.html

posted by fom_club at 09:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする