2015年04月30日

山と緑と鳥と空が

 4月30日、今日でもう卯月もお仕舞い!
 木曜日なので今朝は、ゴミ出しの日。
 住民のゴミの日は、カラスには、ゴミ食い散らかす日、ヤッホー君はゴミ拾いの日。
 そうしたらね、家ではゴミ当番になっているのか、中年の働き盛りの旦那さん、起きたばっかりのようなパジャマ姿で良く朝、会うんだけど、この方、今朝はヤッホー君を手伝ってくれようとしたんだって。
 ヤッホー君、嬉しかったって。
 褒められることを目標とする、目立つことを行なって人の気をひく、他者からの高得点、受けをねらうなんてことじゃなくってさ、誰の目にも触れることがないような小さな、小さな善行、ただ汚れているからきれいにしてあげたいという善意、フットワークを軽くして行動に移す、たったそれだけのことなんだ。
 だけど、男同士、気持ちが通じ合ったのか、今朝は黙々と拾い続けるヤッホー君に手を差し伸べようとしてくれたのです。
 BBQ用のほら、炭ばさみ、charcoal tongs がないとね、手が汚れるだけじゃない、だからいいですよって言って断わったけど、嬉しかったって。
 ひょっとしたら、ゴールデンウィークで今日もお休み、そんなんでこの方、ちょっとだけこころに余裕があったのかも知れませんね。

 ところで昨日の番外編、コールデンウィーク山歩クラブ特別企画も良かったですね。
 結局は田島さんとの二人旅、あの方、身体が軽いとか言って、先頭を行きました。
 ヤッホー君をぐんぐん、ぐいぐい引っ張ってくれて、そのおかげで「皆野アルプス」の端から端まですたすた、歩きとおすことができたのです。
 小峰山 629.2m から前原山 347.0m まで、途中、破風山 626.5m でお弁当をひろげるルートでした。
 時間にしたら、5時間を超える山歩きを楽しんできたのです。
 朝の4時起床。
 「清澄白河」駅始発5時6分、朝一番の「東武動物公園」駅行き電車で「羽生」駅に向かい、そこで秩父鉄道に乗ってさらに「皆野」駅へ。
 駅発8時40分の始発のバスで30分ほど乗って「上沢辺」下車。
 9時ちょっと過ぎから歩き出しました。
 下山口から30分ほど歩いて皆野駅。
 歩行中、持って行った水筒は空っぽ、駅近くで泡立つ飲み物2本も仕入れて、午後3時2分皆野駅発電車に乗って帰ってきた、とま、こういうわけでして。
 今朝は、ですから足がちょっと張ってる感じ、です。

 山はイマ、新緑がとてもきれいで、緑といっても緑色の諧調、グラデーション gradation に目がぐらっときて、思わず知らず立ち止まって、景色に見惚れているヤッホー君。

新緑.jpg

藤.jpg

 新緑と新芽、木々の生まれたばかりの赤ちゃん。
 藤の紫と赤いやまつつじ。
 歩く山路にはすみれに白い花。
 鳥の声に惹かれ見上げた顔に青い空が映えます。

 そこにまた吹き渡ってくる緑の風。
 その微風の気持ちがよいことったらありゃしない。
 火照った首筋をそおっと優しく撫でていってくれます。
 うぐいすなど小鳥の囀りが耳に心地よい残響を残していってくれます。
 山はベストシーズンですね、イマが。

 そう、そう、イマ秩父鉄道に汽車が走っています!

汽車.jpg

 毎日新聞のこの記事の下に、ビデオ動画がアップされています。
 ぜひその迫力を汽車、汽車シュシュポッポ鳩ぽっぽ、汽笛の音と併せて楽しんでください。
 そう、そう、バシャッ馬車バシャッのシャッターを切る音を、桜と併せて堪能してください。
 電車、列車、汽車好きの方にはよだれがでそうな風景ですね:

http://mainichi.jp/select/news/20150405k0000m040075000c.html


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2015年04月29日

花と風と光と雲が

 西行は、1118(元永元)年京都に生まれ、1140(保延6)年10月15日、23歳で出家し、1190(建久元)年、73歳で入寂。

 西行の『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮』は、いつ、どこで詠まれたのか、ですよね。

 西行は、生涯に二度、陸奥へ旅に出ている。初度のは、二十代後半で、仏道修行と歌枕探訪の数寄とを兼ねた旅であった。東海道を辿り白河関を越えて、信夫、武隈、名取川を通り、平泉に達した、という経路は『山家集』などからわかる。しかし、相模国を通過したはずなのだが、どの道を辿ったのかはわからない
 二度目の旅は、1186(文治2)年、69歳の老躯を駆って、東大寺再建のための砂金勧進を目的に奥州平泉の藤原秀衡のもとへ出かけたものである。途中、同年8月15、16日に、鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮社頭において源頼朝に対面する。『吾妻鏡』には、偶然の出会いのように記しているが、西行としては、勧進が障害なく進むように要請したものであろうし、頼朝も、重代の武家出身の西行に先祖伝来の武芸について聞いてみたかったのであろう。両者は、和歌や武芸について親しく歓談したが、退出時に頼朝から賜った銀製の猫を、西行は門前の子どもに惜しげもなくやってしまったという。

…文教大学女子短期大学部・紙宏行「神奈川の伝承と文学、湘南の西行と西行伝説」Feb 22, 2013『文藝論叢』Vol.32所収25頁

 芭蕉は深川の庵を焼け出されて甲州に避難してからというもの、なにかに取りつかれたかのように旅の姿に身をやつします。
 奥の細道に出かけたのは、1689(元禄2)年、芭蕉46歳のとき(イマから326年前)。西行の初度が1144(天養護元)年、27歳のとき(イマから871年前)と、1186(文治2)年、69歳のとき(イマから829年前)です。
 西行がいつ、どこで歌を詠んだのか、事実はどうあれ、その地にそういう話がムカシから伝わっていることのほうが重みがありますよね。
 イマを生きるわれわれは逆に、事実を追って古文書を漁り新発見につなげる研究の楽しみもあるでしょうし、想像をたくましくして推論していく面白さもあるでしょう。

 ところで小林秀雄は「西行」論のなかで…次のように述べています:

「西行は何故出家したか、幸ひその原因については大いに研究の余地があるらしく、西行研究家達は多忙なのであるが僕には、興味のない事だ。
 凡そ詩人を理解するには、その努めて現そうとしたしたところを極めるのがよろしく、努めてな忘れようとし隠そうとしたところを詮索したとて何が得られるものではない。
 保延6年に、原因不明の出家をし、行方不明の歌をひねった幾十幾百人の人々の数のなかに西行も埋めて置かう。
 彼が忘れようとしたところを彼とともに素直に忘れよう。
 僕らは厭でも、月並みな原因から非凡な結果を生み得た詩人の生得の力の想いを致すであらう」


 饗庭孝雄(1930年滋賀県生まれ)はその著『西行』(小沢書店、1993)にて小林秀雄をこう引用しました(24頁)。

 辻邦生の場合は:

 歴史小説では、今のHistoireの物語の側面をさらに内面化していく。
 内面化していって、それをある意味の一番深いところ、それはあるいは美的なものに達することもあり得るような、そういうものに内面化し、深めていく。
 そういうところに成り立っているものとお考えいただいてもいいのではないかと考えております。
 例えば、私の『西行花伝』は確かに中世末期、鎌倉初期の時代を扱いましたし、それからそこに登場する実際の戦乱とか、あるいはさまざまな政治家たち、貴族、女性たちが現れてまいります。
 そして、それらについて、それぞれ資料のある限りは調べるということをいたしました。
 しかしながら、今申しました定義に従いますと、やはりそれはあくまでも主観的なもの、それが持っている意味を内面化し、それが含んでいる美的な要素というものまでたどり着くということが目指されているわけです。
 ですから、例えば私の『西行花伝』をひとつの歴史の記録として見てしまう、そういうものを切り取ったものと考えると、非常に大きな戸惑いをお感じになるのではないかと思います。

(辻邦生、学習院資料館講座講演録、歴史小説と歴史資料、『西行花伝』を中心として)
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/2234/1/shiryokan_14_255_287.pdf

 辻邦生の小説『西行花伝』を読んでみましょうか。
 出だしからビックリしてしまいます。

 あの人のことを本当に書けるだろうか。
 あの人‐私が長いこと師と呼んできたあの円位上人、西行のことを。

…『西行花伝』(新潮社、1995年)序の帖、7頁

 「私」って誰?「私」が「西行」と出会って彼の外面を観察しての印象記がこんなふうに述べられていきます。

 質素な僧衣を着た、背の高い、がっしりした体格の僧であった。
 私は浅黒いその顔を眺めた。
 その人は年の頃、47、8、高い鼻のわきから口の両端に意志の強さを示すように深い皺が刻まれていた。
 頬骨が出て、頬の窪みにかすかに陰が澱んでいる。
 そこには乏しい生活を平然と耐えている逞しさと忍苦とが同時に見てとれた。
 しかし私の心を捉えたのは、その柔和な声と、それに静かな、微笑を浮かべた黒い瞳であった。
 その眼は陽気な感じもしたし、暗い物思いを秘めているようにも見えたし、何か火花のようなものが激しく動いているような気もした。
 青く丸めた頭はがっしりした重々しい形をしていた。
…同書27頁

 はじめての出会いの時に、西行は私の内面をすでに見透かして実はこんなことを話してきかせるのです。

 この人の言葉は、この世の苦しさを逃れるためのうわべだけの言葉の綾ではなかった。
 私はその言葉を聞いていると、心の底に暗くわだかまっていたものが薄れ、軽くなってゆくような気がした。

「…いや、そんなものは棄てたほうがいいのです。
 正しいことなんかできないと思ったほうがいいかもしれません。
 そう思い覚ってこの世を見てごらんなさい。
 花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。
 正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる。
 それをまずお棄てなさい」
…同書28頁

 続きはぜひお買い求めのうえ、お読みください。
 この歴史小説を書くことにこだわったわけも辻邦生はこう明かしております。

 同時にまた、西行自身がこの作品『山家集』の中では言葉を失ってしまう。
 つまり、仁和寺の門を出てすぐ西行は言葉を失ってしまうという状況について描かれております。
 これはいわば、私自身が戦争に負けた後、焼け野原の東京を見て、その大きな衝撃から小説が書けなくなった。
 書けなくなったばかりではなく、文学とか芸術とか美とか、そういうものの意味がどうしてもわからなくなってしまった。
 それを乗り越えなければ本当の文学ができないといって、それから後、美そのもの芸術そのものではなく、芸術作品の根底にあるもの、芸術そのものではなく、芸術作品のさらに先にあるものを求めていった。
 そういったことと結びついて、やっとこの作品までたどり着いた、ということがあります。
 ちょうど西行が崇徳院をお慰め申すその根拠−
「いかにこのようにいろんな問題があっても、我々の心に歌さえあれば、そんなものは乗り越えていくことができるし、必ずそこによって世の中のものはよくなる」という気持ちをお伝えする根拠であります。

…辻邦生、同講演録


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2015年04月28日

鴫立庵

 大磯町のタウンウオーキングは続きます。ビーチの後は…、

“湘南”のルーツ、それは大磯!ずばり江戸時代から 湘南ははじまった!
 祟雪(注1)「著盡 湘南 清絶地」と刻まれています。
「ああ、しょうなんせいぜつち」と読みます。“清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所”という意。
 祟雪はなぜ「著盡湘南清絶地」と刻んだのでしょう。
 祟雪にとって、大磯の「鴫立沢」付近のこの景色は、中国 湘江の南方 一帯の”湘南”の美しい景色に似てなんとも美しい場所であったことから、「著盡湘南清絶地」と刻んだといわれています。

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/miryoku/hassyou/syounan.html

 その高札の隣に「鴫立庵」:

鴫立庵の門.jpg

 この庵の名前、カモタツアン、カモタツアンって「西行まんじゅう」(注2)のあんこじゃあるまいし、鳥の前は甲乙丙の甲でなく、たんぼの田でしょ?って言われたヤッホー君、あっそうか、ごめん サギ? そうか カモメだよって答えたアホなヤッホー君!

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮


 平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれている歌です。
 江戸時代初期の1664年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に鴫立沢の標石を建てました。
 そして石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏)をこの地に運び草庵を結んだのが始まりです。
 その後、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が鴫立庵主第一世として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場(注3)として、現在第二十二世、鍵和田庵主(注4)へと続いています。

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/meisyo/shigitatsuan.html

 1664年といいますと350年以上も前の寛文5年、芭蕉22歳、まだ江戸には下っていないころのお話し。
 さて、350年後の「鴫立庵」は、申しますと: 

鴫立庵.jpg

 第9句集『濤無限』の震災詠は、少女時代を過ごした町を全滅させた平塚空襲(1945年7月)の記憶につながる。
「照明弾で昼より明るくなったかと思うと、次々に焼夷(しょうい)弾が落とされて…」
 翌朝、相模灘に向かって火薬廠(しょう)や航空機工場が立ち並ぶ町は一面の焦土と化していた。


地震(なゐ)過ぎし 一湾の輝(て)り 蝶 生(うま)る


 長い歳月を超えて東日本大震災の被災地の光景が重なった。
「まず心が動いてできた句ですから、私の生きている証になるのではないかと思います」
 隣町、大磯にある西行ゆかりの「鴫立庵(しぎたつあん)」庵主に推され、芭蕉が崇拝してやまない漂泊の歌人を深く探究する機会を得た。
 西行から芭蕉へ、そして近代俳句へと受け継がれてきた文芸の本質「風雅の誠」が自らの中で一つの流れになった。
「振り返ってみると不思議に一本、線が通っている気がするんです。ぐるっと遠回りするのも大事なことですね」と笑った。
 句会を控えた鴫立庵は、冷たい雨にけぶっていた。
「毎年3月最後の日曜にはここで『西行祭』が催され、俳句と短歌の大会も開かれます。ちょうど桜も咲きましてね」

(2015年1月7日付け毎日新聞東京夕刊・井上卓弥「毎日芸術賞の人々:鍵和田秞子さん、文学2部門(俳句)句集『濤無限』」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150107dde018040017000c.html

 大磯で西行… 

 ヤッホー君のこのブログ、2015年04月19日付け日記で記しましたように、桃源郷から戻って日課となってる朝キン(morning walking)で、また桃源郷に引き戻されるように出会った大川端は芭蕉記念館分館・史跡展望庭園直下にあった「柴の戸に」の句碑、大火で丸焼けになった深川の庵、そして大川の対岸にあった秋元藩家老と夏馬の遅行ぼくぼく、都留市に避難しますが、芭蕉の頭をよぎっている西行…
 今日のヤッホー君のブログへの味付けは作家・辻邦生(1925-1999)『西行花伝』(新潮社、1995年)です。えっ、もう20年前exclamation&question

【谷崎潤一郎賞受賞作】不世出の天才歌人、西行の生涯を多彩な音色で歌いあげた交響絵巻。全身を震わせ全霊を賭けた恋だったのに。
 花も鳥も風も月も――森羅万象が、お慕いしてやまぬ女院のお姿。
 なればこそ北面の勤めも捨て、浮島の俗世を出離した。
 笑む花を、歌う鳥を、物ぐるおしさもろともに、ひしと心に抱かんがために…。
 高貴なる世界に吹きかよう乱気流のさなか、権能・武力の現実とせめぎ合う“美”に身を置き通した行動の歌人。
 流麗雄偉なその生涯を、多彩な音色で唱いあげる交響絵巻。

http://www.shinchosha.co.jp/book/106810/
 
 あのぉ〜、芭蕉をめぐるヤッホー君の二つ折りのベクトル。
 あのぉ〜、芭蕉も「俗世を出離」するんですが、寿貞(注5)のほかに「お慕いしてやまぬ」方のお姿がヤッホー君の想像力をかきたてているんですって…


(注1)崇雪は有隣堂で:

 崇雪は、『寛文六年大磯村検地帳』に、屋敷地と畑地の一反六歩を名請すると記載されていることから、この時期、大磯宿に住み、実在の人物であったことがわかる。また、崇雪には小田原町宿老として伝家の丸薬である透頂香(とうちんこう)を売る小田原外郎(ういろう)こと宇野家の出であるとの伝聞がある。
 宇野氏は『陳外郎家譜』によれば、室町時代初期に日本に亡命した台州の人、医師陳順祖の四代子孫が、小田原北条氏に招かれ宇野氏の養子となり、以後、陳姓を改め、宇野を称した小田原外郎といわれた家である。 この『家譜』に崇雪の名は認められないが、崇雪を八代宇野藤右衛門光治の次男とする伝聞もある。
 光治の長子九代宇野藤右衛門英治は、『家譜』によれば、1670(寛文10)年81歳で没していた。このことから、崇雪と英治は、ほぼ同時代に生きた人物であり、崇雪が英治の弟であるという伝聞は事実なのかも知れない。伝聞どおりとすると、崇雪が祖先の地、中国湖南省湘南の風景に似た大磯を湘南になぞらえ、鴫立庵に湘南の碑文を刻んだ、と理解される。
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/389_4.html

(注2)「杵新」(大磯町大磯1107 電話0463-61-0461):
 島崎藤村や吉田茂に愛された店です。彼らに愛された「西行饅頭」や「虎子饅頭」をどうぞご賞味下さい。
http://www.oiso-kankou.or.jp/entry.html?id=24107

(注3)日本三大俳諧道場は他に、京都・落柿舎、滋賀・無名庵。

(注4)受賞者の鍵和田秞子さんは、「1932年神奈川県生まれ。芭蕉研究者の井本農一に師事。2006年に第7句集『胡蝶』で俳人協会賞。俳人協会副会長。2002年から俳諧道場「鴫立庵」第22世庵主」と。なお「なゐふる(ナイフル)」は「地震」の古語です。「なゐ」は「大地」、「ふる」は「震動する」の意味です。
http://www.zisin.jp/pdf/nf-vol101.pdf

(注5)
 楠元六男『江戸の俳諧革命、芭蕉から蕪村登場』(角川学芸出版、2010年)
 山梨県立大学・伊藤洋先生も:

Q. 子供はいないとインターネットで見たのですが、図書館で借りた本には息子1人、娘2人の名が載っていました。どちらが本当ですか?

A. これは大変微妙な問題です。と言いますのは寿貞尼という女性との関係がよく分からないからです。私は、芭蕉には子供はいなかったと思っています。その図書館の本にあったという男の子(二郎兵衛)と二人の女の子(まさ・おふう)というのは、寿貞尼の子供のことを書いたものではないでしょうか。彼らは芭蕉の子供ではないと思います(http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/letter/ihe2.htm参照)。芭蕉は結局生涯結婚をしていません。桃印という甥を事実上の嫡子として育てていましたが、それも死んでしまいました。
 このことについては、http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/letter/kyoroku6.htmを参照してみてください。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/topics/q&a.htm


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2015年04月27日

大磯タウンウオーキング

 昨日4月26日日曜日は、山歩クラブお散歩会の日。
 神奈川県大磯町で、良いお天気、汗ばむほどの青空のもとで予定通り、つつがなく終了。
 ヤッホー君のこのブログ、2015年04月11日付け日記「エリザベス・サンダースホーム」をご覧ください。

 まず向かった先は、地福寺といって、島崎藤村夫妻の眠る寺。

 文豪島崎藤村夫妻の墓碑が、樹齢100年〜200年の梅の古木約20本に囲まれて建てられています。毎年2月上旬頃より生前に藤村も愛でた梅の花が境内一面咲き誇ります。
 また毎年、藤村の命日の8月22日には(社)大磯町観光協会主催による「旧島崎藤村忌」が開催され、藤村ゆかりや藤村ファンの方など多数の方が墓参・献花に訪れます。
「藤村の読経・埋葬式は1943(昭和18)年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等多数の参列者に見送られました。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げました。
 棺には愛用していた筆や紙、タバコやパイプを、埋葬時には執筆中の『東方の門』を掲載した刷り上りの雑誌が投げ入れられました…(昭和18年8月26日神奈川新聞より抜粋)

(大磯町公式サイト、地福寺)
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/jisya/jifukuji.html

 日本の近代文学を代表する島崎藤村(1872-1943)の70回忌が2012年8月22日、墓のある大磯町大磯の地福寺(櫻井智定住職)で行われた。今年は生誕140年にもあたり、地元大磯のほか、首都圏から藤村ファンら約60人が参列し、藤村文学の意義を再確認した。
 詩集『若菜集』、小説『破戒』『家』『夜明け前』などの名作を残した藤村は、晩年を大磯で過ごし同町の名誉町民にもなっている。大磯駅近くの「旧島崎藤村邸」は入場無料で見学することができる。藤村忌は、没後しばらくたってから作家小奈春夫らによって始められ、1989年からは大磯町観光協会の主催で行なわれている。
 地福寺本堂では、櫻井住職による読経に続き、観光協会の井上浩吉(79)があいさつ。「炎天下の葬儀だった。お弟子さん6人が棺(ひつぎ)を担ぎ、小学生の行列が続きました」などと葬儀を見守った思い出を語った。また「夜明け前など藤村の作品は現代にも通じる。詩集でも小説でもぜひ読んでほしい」と藤村文学の意義を話した。中崎久雄町長も「藤村を大磯町の子どもたちに伝えていきたい」と述べた…

(2012/08/22 22:22 神奈川新聞)
http://www.kanaloco.jp/sp/article/48992

 木曽谷の馬籠(まごめ)(現岐阜県中津川市)に生まれた文豪・島崎藤村の家族を紹介する企画展「島崎藤村とその家族」が、小諸市の懐古園内にある市立藤村記念館で開かれている。藤村の家族は作品の登場人物のモデルにもなり、藤村と家族の波乱に富んだ生涯がうかがえる。2013年11月24日まで。
 父・正樹を家長とする家族と、藤村(本名・春樹)を家長とする家族について家族図を展示。それぞれの生い立ちや生涯について、写真や文章を添えて紹介している。
 正樹は馬籠宿で本陣や庄屋を務めた島崎家の17代当主。藤村は正樹と母ぬいの間に生まれた1女4男の末っ子で、9歳の時に兄と故郷を離れ、上京した。正樹は名家の没落を描いた小説『家』の小泉忠寛『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に多大な影響を与えた。
 藤村は小諸義塾の教師となった1899(明治32)年、北海道函館の網問屋の次女・冬子と結婚し、4女3男をもうけた。東京で生まれ、馬籠に帰った長男・楠雄は馬籠に藤村記念館を設立。『新生』の泉太『嵐』の太郎のモデルになった。弟たちも小説のモデルとして登場する。
 冬子は4女・柳子(『嵐』などのモデル)を産んだ日に32歳で死去。三女、次女、長女もその数年前に相次ぎ病没した。藤村が再婚した静子は『三人』のモデルにもなり、藤村が71歳で没するまで献身的に支えた。
 川原田雅夫館長(63)は「藤村には《家》の在り方を巡るテーマの作品が多い。実際の家族一人一人がどうだったのかを知ってほしい」と話す…

(2013年11月19日毎日新聞地方版、武田博仁「島崎藤村:家族紹介、作品の登場人物のモデルにも、小諸で企画展/長野)
http://mainichi.jp/feature/news/20131119ddlk20040076000c.html

 はい、はい、写真を、『花園の三人』

地福寺.jpg

 こうして歩きだして、舌見のとき見つけられなかった松本順記念碑も発見!

 銘文「松本先生謝恩碑」は時の総理大臣犬養毅の筆による。
 松本順が早稲田の自宅を犬養毅に譲ったという縁があります。

 大磯海水浴場の開祖、元陸軍軍医総監松本順氏の功績を世に永く伝えるために、1929(昭和4)年8月に「松本先生謝恩碑」を建立しました。 建立当時は照ケ崎海水浴場の中心にあり、常に海水浴客とともにありました。

 昭和4年8月21日の新聞には「松本翁謝恩碑」の見出しで、

明治の中頃名もない一漁村でだった大磯町に別荘を持った故松本順軍医総監が、学術的に如何に同海岸が人間健康に理想的であるかを研究して、以来これを都人士に宣伝して海水浴場という言葉が生れ、遂に現在の天下別荘地「大磯」が成った。同氏のこの恩を永久に記念すべく挙町計画中であったが、謝恩碑は工事費約二千円を以て完成、昨日盛大なる除幕式が挙行された。

と報じられています…鈴木昇『大磯の今昔(9)』より抜粋。

((大磯町公式サイト、松本順謝恩碑)
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/rekishi/syaonhi.html

松本順謝恩碑.jpg

大磯ビーチ.jpg

 明治時代の「ものの初め」を網羅した事典『明治事物起源』は海水浴場の発祥地として1885年に初代陸軍軍医総監の松本順が開設したとする照ヶ崎海水浴場を挙げている。この記述を後発の文書や事典が踏襲したことから「大磯発祥」が定説になったようだ。芝浦説は、この7年前に当たる…
 昨年2012年夏に、鎌倉市建築住宅課職員の鈴木伸治が芝浦説を発表すると、港区議会でも取り上げられ、区は表示板や広報誌でPRを始めた。「今後も情報発信に努めたい」と歓迎する。一方、大磯町の担当者は「海水浴場の存在と(潮湯治)の効能を世間に広めた認知度では国内初」とするものの「どちらが初めというより、これを機に大磯が注目されればうれしい」と話す。
 郷土史を研究する鈴木さんは、1878年5月24日付けの読売新聞に、浜松町に海水浴場が開設される記事を発見。港区の歴史を調べたところ、東京都公文書館に保存された記録、旧東京市による史料集『東京市史稿』にたどり着いた。
 鈴木さんは「歴史に埋もれた事実と人物(鐘ヶ江晴朝医師)を発掘できた意義は大きいのではないか」と話す。

(2013/08/22 22:19 神奈川新聞)
http://www.kanaloco.jp/sp/article/58641

 う〜ん、すごい!


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2015年04月26日

街の声

 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也…
 今日やはり日記に綴っておかねばならないとヤッホー君が思ったことは、「あっ、この国には怒る人も消えたんだっけ」。いるんですぅ、権力者が政権批判すると見下して、怒るのが!
 コクミンのほうはあきれかえって投票所に足すら運ばなくなってきているとか、アブナイ、アブナイ、だから権力者が好き勝手なことがますますできる、という悪循環。
 まずは拭く掃除″のあの会見から:

「日本の言論事情は北朝鮮以下」(注1)と揶揄されることもある。「中国と違って何でも言えるいい国」と胸を張って言える言論事情でないことは、自民党のテレ朝聴取ですでに明らかではないか(注2)。
 李さんは「日本での記者生活は8年にもなるが、国籍をめぐって笑われたのは初めて」と憤った。政治家から嘲弄されるのも、記者団から笑われるのも初めてという…
 麻生大臣も記者クラブも物笑いの種だ。
「ジャーナリストは政治家と対峙すべきなのに、一緒になっている。日本は特殊だ」
「記者クラブの閉鎖性は海外でも悪評を買っている」
李さんは日本のマスコミ事情に呆れる。
「海外広報戦略というのなら、外国人記者が取材しやすいような環境を整えるべき」と日本政府にも注文を付けた。
 権力のお先棒を担いで、お身内以外は見下す。世界標準を知らない日本の記者たちは、海外から見下されていることに気づいていない。

(2015年4月25日 13:44田中龍作ジャーナル「麻生大臣にお追従 外国人記者を嘲笑する日本マスコミの愚」)
http://tanakaryusaku.jp/2015/04/00011056

 政権与党のマスコミ監視、「テレ朝聴取」…これも大っきな事件なんでしょうが、やけにあたりは静か…ヤッホー君、いくつか反応を探って見ましたよ:

 自民党の情報通信戦略調査会(注1)がきょう4月17日、NHKとテレビ朝日の幹部を呼び、事情を聴く。
 NHKは「クローズアップ現代」のやらせ疑惑、テレビ朝日は「報道ステーション」で元官僚の古賀茂明氏が自身の番組降板をめぐって官邸から圧力があったと発言したことを受けたものだという。
 自民党側は「報道機関に圧力をかけるつもりはない」と言っているが、政権党が報道内容について直接、説明を求めるのは異例だ。
 放送事業の許認可権を持つ政権を構成する与党が乗り出せば、呼びつけられた側が萎縮するのは火を見るよりも明らかだ。こうした姿勢は報道をゆがめかねない。聴取は筋違いだ。
 NHKはやらせ疑惑の調査中である。テレビ朝日は会長会見で、古賀氏の発言内容を否定している。自民党はいったい、何を聴こうというのか。
 番組に問題があれば、編集責任のある放送局が自ら究明するのが本来の姿である。その自浄作用を信用せずに、政党がしゃしゃり出ては、報道への介入ととられても仕方あるまい。
 自民党が報道ステーションに公平中立な番組づくりを求める文書を出した際、日本民間放送労働組合連合会が「言論・表現の自由、番組編集の自由への重大な侵害だ」と抗議したのも当然である。
 それでなくても、自民党は昨年の衆院選で在京各局に「公平中立、公正の確保」を求める文書を送りつけている。
 安倍晋三首相は民放番組に出演した際、政府批判が含まれた「街の声」の選び方に注文をつけた。
 そして今度は、聴取という形での圧力だ。
 報道機関の役割は権力の監視であり、誤りがあれば国民に知らせて、ただすことにある。その機能を脅かす特定秘密保護法が施行され、権力側の「不都合な真実」に迫りづらい状況が生まれている。
 民主主義の土台である国民の「知る権利」を狭める―。一連の動きにそんな意図が透けて見える。
 自民党は新聞・放送局への監視を強めて、個々に要望を突きつけているという。それが実現しない時は取材や出演依頼を拒否するケースもあるそうだ。
 自分たちに都合のいい番組は利用し、そうでないものは拒む。それで国民の声を吸い上げることができるのだろうか。
 主張が正しいと信じるなら、批判や反発を覚悟で説得する。それが政治のあるべき振るまいだ。

(2015/04/17 08:50 北海道新聞「社説」NHKとテレ朝 自民の聴取は筋違いだ)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/opinion/editorial/2-0025587.html

 そしてハフィントン・ポスト紙…:

 池上氏はコラムの冒頭、「これが欧米の民主主義国で起きたら、どんな騒動になることやら」と書き出し、「言論の自由・表現の自由に対する権力のあからさまな介入であるとして、政権基盤を揺るがしかねない事件になるはずです」と厳しく指摘した。
 放送法の目的は第1条に書かれ、第2項は次のようになっています。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」
 つまり、「表現の自由」を確保するためのもの。放送局が自らを律することで、権力の介入を防ぐ仕組みなのです。
 この点に関しては、さらに第3条に明確化されています。
「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」(中略)
 自民党には、「法律に定める権限」がありませんから、放送局に対して干渉することはできないのです。その意味では、自民党の事情聴取こそが放送法違反になりかねない行為だったのです。
…2015/04/24 05:00 朝日新聞デジタル池上彰の新聞ななめ読み「テレ朝・NHK聴取 自民こそ放送法違反では」

(2015年04月24日14時42分JST更新The Huffington Post「池上彰氏、テレ朝とNHKを聴取する自民こそ法律違反、コラムで疑問視」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/23/akira-ikegami_n_7132704.html

 そして大手の毎日新聞も:

 かつて僕がソ連末期のモスクワで勤務していた時代の話を書こう。今から四半世紀近くも前のことである。…
 かつての強大な政権与党=ソビエト共産党は、気に入らない放送を流すような事態が起これば、容赦なくその関係者らを呼びつけ処分した。
 さて、僕らの国にも放送法があって、報道の自由、言論の自由が守られている(はずだ)(注3)。それらの法律は、戦前・戦中の暗黒時代の反省の上に、究極的には国民の知る権利を守るために作られた法律だ。
 その放送法を盾に、政権党が個別番組の内容に絡んでテレビ局幹部を呼びつけ「事情聴取」した。僕は、ああ僕らの国はあのソ連時代に向かっているのかと思った。
 来日中のポール・マッカートニーなら「バック・イン・ザ・USSR!」と皮肉まじりにシャウトするだろう。
 でも、笑えないな。ソ連は滅びた。

(2015年4月24日付け毎日新聞東京夕刊「週刊テレビ評:テレビに政権があられもなく介入した国の末路「バック・イン・ザ・USSR!」=金平茂紀、テレビ報道記者」
http://mainichi.jp/shimen/news/20150424dde018070046000c.html



(注1)NHK国際放送に替わる広報機関ってどっか独裁国家みたいな新聞・放送局をつくろうとしている政権与党:

 私はNHKの国際放送が国益にかなった任務を十分に果たしているとは思えません。放送法の中では、NHKは政治や外交と全く独立した中立不偏の立場で番組を編成することになっており、「国益の立場に沿う放送をせよ」とは一切言えません。放送法によって報道の自由が守られているからです。政治家が報道の自由に介入することは、あってはならない。ただ、日本の正しい情報を国外に発信することは喫緊の課題です。誤った情報があれば、迅速に対応していかなければいけません。だからこそ私たちは、「NHKに代わる新型国際放送を創立できないだろうか」と議論をしているのです…
 慰安婦問題などは典型的で、今や朝日新聞の誤報などで国際的には誤った認識が定着しています。どれほど国民の名誉と国益が害されているか。たとえば中国のCCTVは完全に政府の広報メディアです。わが国は民主主義国家ならではの情報戦略を構築していく必要があります。放送法により、新型国際放送の創立が難しければ、インターネットや他の既存のメディアを活用してもいい。問題は手段ではありません。情報戦に負けることで、国民の誇りや国益が損なわれてはならないのです。
(2015年4月17日号「週刊朝日」) 
http://dot.asahi.com/wa/2015040800093.html?page=2

(注2)報道機関の役割は権力の監視から、権力から監視されるようになりさがっているメディアに警鐘をならしている参考図書:

☆ 魚住昭『国家とメディア、事件の真相に迫る』(ちくま文庫、2006年12月)
☆ 西野瑠美子・東海林路得子責任編集『暴かれた真実、NHK番組改ざん事件、女性国際戦犯法廷と政治介入』(現代書館、2010年11月)
☆ 佐高信『ブラック国家ニッポンを撃つ』(2014年5月)

(注3)−Have you experienced any difficulties in gathering information in Japan?

Mr. Carsten Germis : After Fukushima, the standard of freedom of the press in Japan hugely dropped to 53rd in the ranking of freedom of press in the world by the Reporters without borders. It is easy to find a way of reporting in the field of economy and business, but not in the political field. The access to information for journalists who do not belong to the Kisha Club is limited. The situation changed for the better under the DPJ administration. I am concerned that the Abe administration may be going back to the old time, when foreigners were not welcome to share information. Compared with the international standards the situation in Japan still is, let us say it like this, a bit special.
<post date:2013.09.20  The Foreign Press Center/Japan (FPCJ)>
http://fpcj.jp/en/interviewing-en/p=15537/



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2015年04月25日

白痴政治家

 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也…(注1)
 桜かなと思ったら桃、桃が終わったと思ったらハナミズキ、どんどん季節はすすんでいきますね、いかがお過ごしですか。
 今日びっくりしたのは、漢字の読めない、マンガの大好きなあのふくそうり。
 ヤッホー君が言及したのは、2013年1月23日付け日記「Hurry up and die」(注2)。
 この年2013年8月にも:
 
The Japanese deputy prime minister, Taro Aso, has refused to resign despite having to retract comments suggesting Japan should follow the Nazi example in how to change the country's constitution.

"I have no intention of resigning," Aso told reporters after a cabinet meeting on Friday, following protests by neighbouring countries and human rights activists.

Aso drew outrage for saying Japan should learn from how the Nazi party stealthily changed Germany's constitution before the second world war before anyone realised it, and for suggesting that Japanese politicians should avoid controversy by making quiet visits to Tokyo's Yasukuni war shrine.

(Japan should follow Nazi route on revising constitution, minister says.
Deputy prime minister Taro Aso, previously criticised over comments on elderly people, retracts statement, saying he was misunderstood.)
…Friday 2 August 2013 05.35 BST Associated Press in Tokyo

 ヤッホー君のこのブログ、2013年08月02日付け日記「Peace keeping」もぜひお読みください。
 今度は今年2015年4月、中国で中国人、中国を嘲笑したとか…

こんな马鹿が政治家で耻ずかしい…
译文:为这样的白痴政治家感到耻辱……

因みにフェニックステレビは、NHKなど比较にならない、全世界に三亿人以上の视聴者がいるアジア系最大规模のテレビ局である/麻生太郎氏が海外メディアを嘲り爆笑记者「笑われる理由が分からない」
译文:凤凰卫视全球3亿观众,是全亚洲最大的电视台,连NHK都望尘莫及啊

http://news.ifeng.com/a/20150421/43601235_0.shtml

【北京時事】麻生太郎副総理兼財務相が今月4月3日の記者会見で、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加を見送った日本政府の対応を「野党が批判している」とただした中国人女性記者に対し、笑った上で「うちは共産主義じゃないから中国と違って(野党が)何でも言える。パクられることもない」と答えたことが波紋を呼んでいる。記者自身が「からかわれた」と感じた麻生氏の発言に中国メディアやインターネットで批判が相次いでいる。
(2015年4月23日(木)19:54時事通信「中国人記者への対応に波紋=麻生氏に批判相次ぐ」)
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-150423X954.html

 お話しになるといっつもこう、でもよっぽど人材不足なのか、アホノ政権の大のオトモダチなのか、舌禍でお咎めなんてことも、そして辞任なんてこともなく(あっこの国には怒る人も消えたんだっけ)、ず〜っとおえらいさんに抜擢されつづけ。
 当日はきっと北京ダックの食べ過ぎか、老酒の飲みすぎか、同盟国に褒められたか、愉快なことがおありになっていたようですね。
 これが、この国にいるときは曲がった口がさらに曲がっているようですよ。

The rollback came soon after the December 2012 elections.

Despite the prime minister’s embrace of new media like Facebook, for example, there is no evidence of an appreciation for openness anywhere in his administration.

Finance Minister Taro Aso has never tried to talk to foreign journalists or to provide a response to questions about the massive government debt.

In fact, there is a long list of issues that foreign correspondents want to hear officialdom address:
 energy policy,
 the risks of Abenomics,
 constitutional revision,
 opportunities for the younger generation,
 the depopulation of rural regions.

But the willingness of government representatives to talk with the foreign press has been almost zero.

Yet, at the same time, anyone who criticizes the brave new world being called for by the prime minister is called a Japan basher.

(Thursday, April 02, 2015 Number 1 Shinbun
Confessions of a foreign correspondent, after a half-decade of reporting from Tokyo to his German readers
by Carsten Germis)
http://www.fccj.or.jp/number-1-shimbun/item/576-on-my-watch.html

 もはや、常軌を逸している。安倍政権による“圧力”が海外メディアにまで及んでいることがわかった。外国人ジャーナリストは安倍政権のやり方にカンカンになっている。
 つい最近までドイツの高級紙「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」で東京特派員を務めていたカールステン・ガーミス氏が、圧力の実態を明らかにしている。

(2015年4月14日日刊ゲンダイ「安倍政権《海外メディア》にも圧力 ドイツ紙記者が怒りの暴露」)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/158938/1

 いやぁ、この国の「劣化」deterioration が叫ばれて久しいのですが、その象徴のような…Change! Change! Change!


(注1)2015年4月17日付け東京新聞夕刊「愛川欽也さん死去 80歳 東京と平和愛し続け」:

「戦争をしない、平和憲法を守るってテレビがどこもないから、おれがやってるんだ」
 テレビでおなじみの笑顔の「キンキン」でなく、怒鳴るような口調でぎょっとした。2014年9月に、愛川欽也さんにインタビューした時のこと。70代後半で始めたインターネットテレビの目的をこう語った。
 東京・巣鴨に生まれ、下町を愛した。心に秘めた強烈なまでの平和への執念。その原点は、故郷を空襲で焼かれ、親類を頼って秋田や茨城などの疎開先を転々とした子ども時代にある。
 戦後5年たってようやく東京に戻れた。中学の恩師が新憲法を教えてくれたという。
「日本はこれだけの犠牲を払って近隣諸国に迷惑をかけて、平和国家として道を決めたな、と思った」
 だから改憲の動きには怒りを隠さない。
「戦争があれば街は壊れる。東京が世界に冠たる平和な都市、戦争をしない都市になるには、憲法を変えないこと。そのために、町じゅうの道を『平和憲法通り』って名前にしたらいいんだ」
「憲法を守って戦争しない街と、そんな人間が残ったら。おれはそれにロマンを感じる」
 憲法と平和の話になると止まらない。
 インタビューの時間がなくなると冷や汗をかいたが、本紙を評してキンキンに言われた言葉は忘れない。「東京新聞の読者の数が平和の数だって言っていいよ」
 2006年12月に本誌朝刊連載の「わが街わが友」の最終回では
「また、強い国の夢をみる人が増えてきたような気がする。マスコミがもう一度軍靴の行進に旗を振ったり、提灯(ちょうちん)を灯(とも)したりしたら、この半世紀は一体何だったのだろうと思う」と結んでいる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015041702000252.html

(注2)2015/4/23 13:29「土居慶応大学教授、その背後にいる財務省の医療費抑制策」:

 総合研究機構の土居丈郎慶応大学教授が、国家財政の健全化について提言をまとめる会議の取りまとめ役をしている。
 土居教授によれば、医療費で3兆円弱の削減を行うべきだ、とのこと。
 で、こんなことも言っている。
『もし国民の大半の人が「医療は削るな」と言い、消費税率を14〜15%に上げることに賛成するなら話は別です』
 またここでも消費税と、社会保障抑制削減が、カップリングされて議論している…
 歴史的に見ると、社会保障は、国民の健康を維持することにより、生産人口、さらに兵力となる国民の数を維持するために発達してきた制度だ。
 言葉は悪いが…生産人口・兵力以外の国民は、長生きしてもらっては困る、医療を受けずに、早く天国に行け、というのが、土居教授、その背後にいる財務省官僚の本音だろう。
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/#entry3565

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2015年04月24日

夏馬の遅行

 都留文科大学・前学長の加藤祐三先生はご自身でもブログをつけておられますので、ちょっとだけ拝見。

 4年前の2011年3月11日午後2時46分、私は都留文科大学の学長室にいた。
「…揺れが次第に大きくなり、立っていられないほどになった。…災対本部と臨時避難所を図書館に置き、…最大時には約150人が集まった。…翌朝早く電気が復旧し、テレビをつける。巨大津波による廃墟の映像にただ息を飲む。日本列島地図の東海岸が割れるような映像にくぎ付けとなった。原子力発電所は大丈夫かとの思いが脳裏をかすめる。まさに古今未曾有の大災害である」
 これが翌3月12日の12:30に掲載した「学長ブログ」第1号である。
 以降、春休みに帰省している学生たちとその家族の安否や同窓生へ呼びかけた記事がつづく…

 昨年の学長ブログ120「大震災3年後の原発政策」(2014年3月11日掲載)では、
「福島原発事故から1年半後に新規建設を国(民主党政権)が容認し、電源開発(株)が2012年10月1日に建設を再開、対岸の北海道側に再開通告と地域防災計画策定を求めた。大間は青森県北端にあり、函館市は津軽海峡を隔て隣接、直線でわずか23qにある。
 工藤壽樹函館市長は、2014年3月26日の市議会に提訴にかかわる議案(訴訟費用400万円)が議決されれば、『大間原発建設の無期限凍結を求める訴訟』を起こす予定…」と述べた」…

(2015-03-11 17:35月一古典「東日本大震災から4年」)
http://katoyuzo.blog.fc2.com/

 いま、函館市はどうなっているのでしょうか。
 次の日曜日、4月26日は投票日です:

【函館】再選を目指す現職の工藤寿樹氏(65)のほかに立候補の動きがなく無風だった函館市長選(19日告示、26日投開票)は、元衆院議員秘書の広田知朗氏(54)が出馬表明し、選挙戦に入ることが確実となった。
 広田氏は、市が起こした電源開発大間原発(青森県大間町)建設差し止め訴訟の取り下げを主張している。
 工藤市政の求心力の源泉だった大間訴訟は、一転して市長選の争点となった。
「(広田氏には)きちんと勉強していただくしかない。国にまったく相手にしてもらえないので訴訟に至った」
工藤氏は14日の報道各社との共同インタビューでこう語気を強めた。
 大間訴訟をめぐっては、広田氏が8日の出馬表明の記者会見で
「現職市長は解決を裁判官にゆだねただけ」と工藤氏を痛烈に批判。
 大間原発建設自体には反対としながらも、「国と地方の争いは行政、政治の場で解決するべきだ」と対立軸を鮮明に打ち出した。
 これに工藤氏は
「訴訟のほかにどういう手段があるのか。逆にお聞きしたい」と対抗意識をあらわにして反論。
 訴訟の是非をめぐり両氏の主張の対立は鋭さを増しつつある。
 2011年3月の東京電力福島第1原発事故後、国は原発事故の際の防災重点区域を原発からの半径8〜10キロ圏から30キロ圏に拡大し、大間原発から最短23キロの函館市は避難計画策定の義務を負った。
 だが、原発建設への同意権は与えられず、
「理不尽だ」として工藤氏は昨年2014年4月、提訴に踏み切った。

(2015/04/17 07:50北海道新聞「大間訴訟、一転争点に。函館市長選、選挙戦確実」)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/2015local/1-0124320.html

 原発建設に原発再稼働…のど元過ぎれば熱さも忘れ…「憲法」はほれ、壊憲するからこの際ネグレクト、この道しかないと洗脳し、猪突猛進。一強多弱だそうで誰もその勢いとスピードをとめることができないでいる、とか。
 サイキンのヤッホー君の大、大っ嫌いな言葉づかい…
「関係各位とご議論を重ね、熟議した結果、住民の皆さまにはていねいにご説明し、粛々と進めさせていただきたいなぁ〜〜〜とかように指示しておるところでございます…」

 九州電力川内(せんだい)原発1、2号機と関西電力高浜原発3、4号機の再稼働差し止め訴訟で、九州の住民らが求めた仮処分の申し立てに対し、鹿児島地裁は申し立てを却下する決定を4月22日に出したのに対して、福井地裁は、2014年5月21日、大飯原発3、4号機の運転差止を命じ、さらにこの4月14日、高浜原発3、4号機の再稼働差し止めを命じる仮処分決定を出したのですが、ここで、福井地裁の2014年5月21日の判断の一部をここで読んでみませんか:

 生命を守り生活を維持する利益は人格権の中でも根幹部分をなす根源的な権利ということができる。
 本件ではこの根源的な権利と原子力発電所の運転の利益の調整が問題となっている。
 原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。
 しかるところ、大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは、原子力発電所の事故のほかは想定し難い。
 かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。

(2015年4月22日弁護士・金原徹雄のブログ「仁坂吉伸和歌山県知事の福井地裁判決(大飯)及び決定(高浜)への批判に対し県内団体が抗議を申し入れました」)
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/43733440.html

 金原先生のブログは、「憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します」ですって、ヤッホー君のブログも「夏馬ぼくぼく、遅行」ですがついていきた〜いって。

 もうひとつは、あの村上春樹:

 メールの主は38歳の男性。「原発NO!に疑問を持っています」と題して、村上にこのような質問をぶつけた。
「私自身は原発についてどう自分の中で消化してよいか未だにわかりません。親友を亡くしたり自分自身もけがをしたり他人にさせたりした車社会のほうが、身に迫る危険性でいえばよっぽどあります(年間コンスタントに事故で5000人近くが亡くなっているわけですし)」

「この先スーパーエネルギーが発見されて、原発よりも超効率がいいけど超危険、なんてエネルギーが出たら、それは止めてせめて原発にしようよなんて議論になりそうな、相対的な問題にしかどうしても思えないのですがどうでしょうか……」


 いやもう聞き飽きた、このセリフ。この質問者の疑問は、福島原発事故以降、百田尚樹、ホリエモン、ビートたけし、池田信夫、町村信孝前衆院議長、ミキハウス社長……原発推進派の人間たちがしょっちゅう持ち出してくる論理、いや、へ理屈の典型だ。
「原発事故で死者は出ていない」
「交通事故の死者のほうが多いから、原発のリスクは自動車のリスクより小さい」
「毎年数千人の死者を出している自動車を廃止せよとは誰も言わないじゃないか」…

 しかし、この一見もっともらしい“へ理屈”に対して、村上は丁寧に反論している。
 まず交通事故死についても対策が必要と前置きしたうえで

「しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人びとの数はおおよそ15万人です。桁が違います」と、原発事故の被害の大きさをあらためて指摘。
 つづけて「死者が出ていないからたいしたことない」という論理に疑問を投げかける。


「もしあなたのご家族が突然の政府の通達で《明日から家を捨ててよそに移ってください》と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです」

「《年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか》というのは政府や電力会社の息のかかった《御用学者》あるいは《御用文化人》の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです」

(2015.04.23リテラ「ついに村上春樹が原発反対を表明!」)
http://lite-ra.com/2015/04/post-1047.html

 ゴールデンウイークももう間もなく、お出かけの季節ですが安全運転で。
 そして戦争のない平和な地球、人格権や基本的人権を守ってくれている日本国憲法、穏やかな暮らしと美しい日本の山河、どこの属国にもならないし、どこにも売国なんてしない大事な祖国、その日本の独立を求め、さあ、出発、進行!
 馬ぼくぼく…


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2015年04月23日

富士急行・谷村町駅

 今回の日記でたいへんお世話になった楠元六男先生。
 先生とお会いした都留文科大学の加藤祐三(2014年3月まで学長職、1936年東京生まれ)先生、こんなふうにそのときの出会いを記されております:

 宗匠(プロの俳人)の地位を確立するや、一転して深川に隠棲する。
 2年後の1682(天和2)年末、江戸大火により深川の芭蕉庵は焼失、翌夏、谷村(いまの都留市)に避難、これを転機に旅の俳諧集を続々と生み、蕉門俳諧を樹立する。
「野ざらし紀行」(1684年)「更科紀行」(1688年)「おくのほそ道」(1689年)等々、いずれも40代の旅と作品である。
 なぜ谷村が避難先だったのか、また江戸大火後の谷村避難が、なぜ後に芭蕉を旅する俳諧師へと変身させたのかが気になった。
 講演の日の2013年1月12日土曜日、比較的暖かな陽ざしの中、富士急行の谷村町(やむらまち)駅で降りる。
 ここは富士道(江戸を出て甲州街道から分岐し富士山へ向かう古道、別名は谷村路。国道139号)に平行して走る電車の駅である。
 駅近辺は秋元家の旧谷村藩(やむらはん)の中心地だったが、いまは都留市役所があるものの、大月駅から河口湖へ向かう特急は、2つ先の都留文科大学前駅まで止まらない。
 少し時間があるので途中、公園のベンチでお借りした本のつづきを読もうとして、ふと目を上げると楠元教授の姿が。
 文学史研究と歴史研究は共通する面が多く、しばし資料収集や執筆の苦労話をした。

(2013年1月14日 14:36 都留文科大学学長ブログ加藤祐三)
http://www.tsuru.ac.jp/gakucyobg/2013/01/post-73.html

 これは2013年1月12日に都留市で行われたシンポジウムのときでした(第28回国民文化祭・やまなし2013年」)。
 それほど都留市は芭蕉と縁があった町だったのですが、この谷村と言いますのは秋元藩の領地で:

 都留が織物の産地となった経緯
 谷村を中心にして、郡内地方で織物が自家用から産業として織られるようになったのは、西暦1600年、郡内地方は徳川家康の領地となり、西の守りの要として作られた谷村城の城主に、1633年、3代将軍家光の重臣である秋元但馬守が就任し、3代にわたって織物の振興をはかったことによる。
 秋元但馬守は、里人の副業として細々と織られていた織物に目を付け、自分の出身地である上州総社(現在の群馬県前橋市)から絹師といわれる織物の技術者を招き、絹糸を作ってくれる蚕の餌となる桑の木を取り寄せ、里人や貧しい下級武士の奥さんに機を織らせた。
 そして、織りあがった反物を藩主自ら江戸や京、大阪に土産として持っていき、宣伝したおかげで日本全国に「郡内縞」(江戸時代、郡内地方から生産された絹織物は郡内縞と呼ばれた)の名が知られ、大勢の商人が谷村の市に集まり、大繁盛し、織物の生産地としての基礎を築いたのだった。 

 郡内縞から甲斐絹へ
 ポルトガルやオランダなどの外国船が商いに出入りしていた頃である1653年、舶来の織物「海気」を谷村の機屋が参考にしてできたものが一大ヒット商品となり、しだいにこの地で生産された織物は「甲斐絹」と呼ばれるようになっていった…
 秋元氏が城主となって以来、この地が織物の地としてどれほど栄えたかは、1921年に建てられた絹問屋の仁科家(現在の商家資料館)に残っている500ページにも及ぶ得意先控え、上海や大連からの注文書が物語っている。

 つるの寺院と芭蕉
 つるにある寺院はほとんどが谷村藩主・秋元氏にゆかりがある…
 昨年の一般教養「世界と自己」の授業で、松尾芭蕉がつるを訪れたことを知ってとても驚いたのだが、今回つるを歩き回って、芭蕉の句碑が思ったより多いことに再び驚いた。
 私が今回確認しただけでも、円通院、東漸寺、田原の滝、城南公園、楽山公園と5ヶ所ある。

(都留文科大学社会学科地域経済論研究室、都留まち探検レポート「織物のふるさと-都留」) 
http://www.tsuru.ac.jp/~tchiba/tsuruREPO2.htm

 都留市には松尾芭蕉の句碑が点在していることを知った。
 松尾芭蕉は江戸の火災の難を逃れるために谷村(都留市)で5ヶ月間過ごしたとされていて、その時に詠まれた俳句が句碑として都留市のあちこちに点在している。
 そこで句碑巡りを行ない、松尾芭蕉の句にどのようなことが書かれているのかを探り、それによって芭蕉の視点から見た都留を知ると共に、その句碑が建立されている場所を鑑賞することによって都留の良さを探ろうという試みである。

 楽山公園

 
馬ぽくぽく 吾を絵に見る 夏野かな

 → 芭蕉自身が夏に都留の野原を馬で走る様子を詠んだ句

 この句碑は芭蕉来狭300年記念碑として1983年に建立されたものであり、今回見て回った句碑の中で個人的に一番立派だと思った。
 また自分自身、今回、楽山公園に初めて行って、行くまでの道は不気味だったが、大学の近くで都留市を一望できるような自然豊かな公園があったとは新たな発見であった。

 今回、「都留まち探検」ということで松尾芭蕉の句碑めぐりをして、自分としては句碑が建立されている場所に一番興味を持てた。
 普段何気なく通っている場所や身近な場所に句碑などの都留の歴史が転がっていることに気がついた。
 やはり都留というまちは自然と歴史が共存するまちということに芭蕉の句を通して、また今回いろいろな場所を巡り歩いて私自身は感じ取れた。

(同研究室レポート「旬で知る都留」)
http://www.tsuru.ac.jp/~tchiba/tsuruREPO2.htm



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2015年04月22日

馬ぼくぼく

 1682年、天和2年の暮れの江戸の大火は、芭蕉、深川に越してきて38歳のとき。
 
 天和2年12月28日、駒込大円寺から出火した炎は、折からの寒風にあおられて、半日にして多くの民家を焼きつくしてしまいます。
『徳川実記』は「本郷までやけひろがり、筋違・浅草の両門(中略)南は日本橋にとゞまる。又一筋は下谷より本所に及び、夜に入つてやみぬ」と報告しています…
「焼死怪我人等夥しく」また「道路に悲泣」(斉藤月吟著『武江年表』の「只補」の条)する人も多かったといいます。

…楠元六男、前掲書、18頁

 被災者・芭蕉をゲンダイの学者は、はたしてどうみているか、これまであげてきた先生たちのお言葉をならべてみましょう:

 芭蕉が欲望に支配されやすいような人間であったのなら、おそらくは江戸の大火は致命的なダメージになっていったでしょう。
 しかし、実際はそうではなかった。なぜそんなに強い精神性を入手できたのでしょう。
 貧しさ、苛酷さを平然と甘受し、俳諧に遊んでいく高邁さ。そこには中国の思想書『荘子』の学習や、禅の学習が大きく影響していたのだと思われます。

…楠元六男、前掲書、43頁

 芭蕉の生涯の歩みの中で最も危機的状況であったのが、大火で芭蕉庵を焼失した時だった。
 其角は「芭蕉庵急火にかこまれ、潮にひたり、笘をかづきて、煙のうちに生のびけん(中略)爰に猶如火宅の変を悟り、無所在の心を発し」(『芭蕉翁終焉記』)と其角は書いている。

…魚住考至、前掲書、288頁

 彼(芭蕉)にとってはしょせん庵は永住のすみかではない。
 世俗的な断念のうえに、世外の民としての風雅の理想を貫徹するとすれば、旅に出るよりほかはない。
 彼にとって定住は停滞であり、野ざらしの旅に出立する直前には、それはどうしようもない焦燥と化していたと思われるのである。

…山本健吉(1907-1988)『芭蕉、その鑑賞と批評』(筑摩書房、新装版、2006年3月)

 う〜ん、まさしく弟子、其角がお見通しの”火宅の変””無所在の心”の「発見」ですね。
 ただ、あまりにも芭蕉を「世外の民」と理想化してみるのもどうかな、と芭蕉以下の貧民、ヤッホー君は考え込んでしまう、のです。そこらへんが例のふたつのベクトルの同時存在でしょうね、と。
 芭蕉は大火にあって心的外傷後ストレ障害(PTSD)におちいらずにすんだのは、周りには他者とのネットワークがあって、外へのベクトルをもっていたから。
 つまり、これで稼ぎがなくなって電車賃もない、家の外に出られない、友人が一人もいない、やどかり、やどりぎ、寄生虫みたいにじっと息をこらしていくしかないという世捨て人、隠棲へのベクトルもあるのでしょうが、もうひとつ、浮遊的、流浪的な徘徊ベクトルがあった、と。
 それがあったればこそ、無一文、居食住のすべてを奪われた難民なのですが、大火にまかれて命を落とすことも悲泣することもなく「一所不在」を「学習」「発見」「獲得」した、とヤッホー君は考えちょります。
 さ〜て、焼け出され、裸一貫になった芭蕉は、と言いますと、山梨県立大学・伊藤洋先生にお願いいたします:

夏野の画讃、1683年(天和3年、江戸の大火の翌年、芭蕉39歳)年夏

 笠着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出でて、何をむさぼり歩くにや。このぬしの言へる、これは予が旅の姿を写せりとかや。さればこそ、三界流浪の桃尻*、落ちてあやまちすることなかれ。


馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな
(うまぼくぼく われをえにみる なつのかな)


*桃尻:不安定な乗馬の姿勢。乗馬の下手。馬から落ちるだけではなく、三界から踏み外したら何処へ行けばよいのか分からなくなってしまう。なお,「三界<さんがい>」とは、一切衆生(しゆじよう)の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界、すなわち欲界・色界(しきかい)・無色界。衆生が活動する全世界を指す(『広辞苑』)

 画讃として書いた一文。甲州の郡内地方(都留市辺りか?)。冬の寒さとはうってかわって夏の暑さは相当なもの。その暑さの中をぐったりしたように馬が歩く。それに乗っている半僧半俗の坊主姿の馬上の男。いかにも危なっかしい姿で馬上にいる。その馬上の男こそ、作者自身だ。
 なお、この句は相当の「苦吟」の末のものらしく、以下のように推敲に推敲を重ねている。

 馬ぼくぼく我を絵に見ん夏野哉
(真蹟短冊)


 夏馬ぼくぼく我を絵に見る茂り哉
(蕉翁句集草稿)

 甲斐の郡内といふ処に至る途中の苦吟

 夏馬ぼくぼく我を絵に見る心哉
(俳諧一葉集)


 夏馬の遅行我を絵に見る心かな
(俳諧一葉集)

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/tanpen/natsuno.htm

 そうなんです、芭蕉は江戸の大火の後、俳号麋塒(びじ)こと、秋元藩国家老・高山伝右衛門のお招きで、甲州は谷村(都留市)に避難できたのでした。
 そして江戸から甲州までの甲斐路、これも徒歩での孤独な一人旅ではありません、もちろん同行者があったのです。
 それは、麋塒であり、画家・芳賀一晶であったと楠元六男先生。
 ですので「我を絵に見る」という表現の必然性があるのだ、と(楠元六男先生、前掲書、65頁)。

 こうして江戸市中から深川に引っ越して芭蕉は「芭蕉」となり、「無所在」を体得し、「漂泊の旅人」たるアイデンティティ(自己同一性)(注)を獲得するのです。
 深川も甲斐も 歴史的・文化的「磁場」だったのですねぇ〜


(注)identity=the qualities and attitudes you have that make you feel you have your own character and are different from other people. Ex. He has no sense of his own identity.


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2015年04月21日

八百屋お七

 「念願の俳諧師匠として立机(りつき)」ってなに?

 当時、文芸は「雅」と「俗」にはっきり分けられていた。
 和歌は勅撰和歌集を中心とした朝廷・貴族の「雅」の文学である…
 俳諧は元々「滑稽・諧謔」の意味で、「俳諧の連歌」として、和歌や連歌をパロディとして笑い飛ばすことから発生したのであり、あくまで言い捨ての座興であり、第二級の「俗」の文芸であった。
 俳諧師は、門人の指導や会席の捌(さば)き、批点などを生業とする者である…
 捌きをする宗匠には出座料が支払われた。さらには、座で次々に付けていく句の中で、優れたものに批点を付けて、その点数の高い者に商品を出して競い合うということも広まっていたので、その点料も大きな収入であった。
 宗匠になるためには、それ相応の実績を挙げ、仲間の協力も得て万句を披露して「立机」(俳諧師として文台を持つこと)する慣わしとなっていた。
 少し後の資料になるが、『花見車』(元禄15年、1702年、芭蕉没後8年目)には、故人も含めて、俳諧師として京都に39人、大阪27人、江戸29人、諸国31人の名前が挙げられている。

…魚住考至(1953年兵庫県生まれ)『芭蕉 最後の一句、生命の流れに還る』(筑摩選書、2011年9月)26、31頁

 え〜と、元禄15年、元禄15年…
 え〜と、芭蕉が奥の細道の旅に出るのが元禄2年、1689年、フランス革命の100年前のこと。
 え〜と、江戸城内で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのが元禄14年、1701年3月でしたよね。
 え〜と、その翌年、1702(元禄15)年、大石内蔵助ら旧赤穂藩士は、主君のカタキを取り、深川は萬年橋も通って、吉良上野介義央上野介の御しるしを掲げ、泉岳寺まで徒歩で行ったのでした(注1)。
 え〜と、元禄時代、元禄時代…

 ドラマなどでは討ち入りの真意を隠すために内蔵助が京の遊郭で派手な遊びにふけるシーンが挿入される。これも「史実とは断定しきれない」と山本博文・東大教授(1957年岡山県生まれ、著書に『「忠臣蔵」の決算書』新潮新書、2012年11月)。当時の史料「江赤見聞記」では「遊山見物」と書かれている。内蔵助が妻・りくに宛てた手紙では子息・主税とともに八坂神社の祇園踊りを見物に行ったことが記されている。誇張されて伝わったのかもしれない…
 赤穂事件が起きた「元禄時代」のイメージ見直しを説くのが野口武彦・神戸大名誉教授だ。「昭和元禄」という流行語があったように、商品経済が活発化した華やかな時代という印象の一方、寒冷・多雨・火事・地震などが相次いだ時代でもあった。元禄14年と15年は全国的な不作・飢饉(ききん)だったという。47士が切腹した16年には江戸などを中心に大規模な「元禄地震」が、さらに4年後には富士山が大噴火した「宝永地震」が起きた。野口名誉教授(1937年生まれ)は『忠臣蔵まで、「喧嘩」から見た日本人』(講談社、2013年12月)の中で「たんなる異常気象や頻発地震ならばいつの時代にもある。しかしそれらの自然現象が特別な啓示性を帯びて人間の心へ食い込んでくる時期はそう多くない」と述べている。地震・噴火の前夜にあたる赤穂事件と「世の中がなんとなくピリピリしていた抑鬱状態」との関連の可能性を指摘している…
 「忠義」の武士と称賛された赤穂浪士だが、吉良邸討ち入りの方針が決まると当初の同志から脱落者が相次いだという。谷口真子・早大准教授(1960年生まれ)は「再仕官の望みが消えてから残っていた家臣の中で100〜300石の比較的高禄の者が脱落していった」。最後に残った47士は下級武士が多い構成になった。内蔵助も後に「ほとんどが小身者であり大身のものは少ししかおらず恥ずかしい」とこぼしている。

(2014/12/14 6:30日本経済新聞電子版「選挙だけじゃない12.14 忠臣蔵の予算8300万円、歴史豆知識」)
http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXLASFK11H5G_R11C14A2000000&uah=DF260420132775

 そう、「芭蕉」イメージの見直しも必要でしょうね。
 え〜と、こうして江戸市中から深川の生け簀の番小屋に居を移し、芭蕉の株を植えてもらって芭蕉庵と称し、自らも「芭蕉」となった36歳からの芭蕉!
 1682年、天和2年、芭蕉38歳の暮れ、大火事に巻き込まれ、住まいはまる焼け、自分も水に飛び込んで一命をとりとめるという被災者に身を崩します。
 この大火事、芭蕉についての研究書はほとんど「八百屋お七の火事」の大火(注2)としておりますが、果たして:

 「お七火事」といわれるものには、1682(天和2)年1月27日の火事と同年12月28日および1683(天和3)年3月2日の火事(『天和笑委集』)説があり、現在のところはっきりしていませんが、藤口透吾氏(1909-1970)は、天和2年1月の火事がお七火事であり、12月の火事のときにはお七は、伝馬町の牢につながれていたとしています(『江戸火消年代記』)ので、以下は藤口説によって話を進めることにします。

 1681(天和元)年2月の大火で焼け出された八百屋太郎兵衛一家は、駒込の円乗寺前に仮小屋を建て、しばらく住んでいました。
 そのうちに、娘お七は、寺小姓の左兵衛と人目を忍ぶ仲になっていましたが、皮肉にも太郎兵衛の新居が元の場所にできたので、門前の仮住いを引き払わなければならなくなりました。
 その後のお七の胸の内は、いまさらいうまでもありません、そこに現れたのが、ならず者の吉三郎で、彼はお七の耳にささやきました。
「それほどお小姓が恋しいのなら、もう一度、家が火事になれば円乗寺に行ってられるぜ」
 恋は盲目のたとえどおり、お七は前後の見境もつかなくなり、明けて間もない1月のある日、自分の家に火をつけ、円乗寺へと駆け出したのです。
 この放火が、江戸の中心部を総なめにする大火の元となったという説もありますが、実際は近所の人がすぐに消し止め、ボヤで済んだというのが真実のようです
 しかし、当時は「失火者斬罪令」(1678年、延宝6年、芭蕉34歳)があった時代です。
 ましてや放火犯人は引回しの上、死罪とされていましたので、お七は1683(天和3年、芭蕉39歳)年3月29日、鈴ヶ森で火焙りの刑に処せられたのです。
 この時、お七は17歳でした。
 ならず者の吉三郎は、お七をそそのかし、火事場泥棒を決め込んでいたところを捕えられ、教唆犯としてお七と同じ刑に処せられたのです。
 一方、お七の恋の相手の左兵衛は、このことを知って自害をしようとしましたが果たせず、以後は剃髪して高野山や比叡山を巡り修行につとめ、やがて目黒に戻って西運堂を建立し、名も西運と改めて一代の名僧とまでなりました。
 入寂したときは、70歳を越えていたと言われています。

(東京消防庁、消防雑学辞典「ぼやで身を焼く八百屋お七」)
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_31.htm

 え〜と、江戸の大火事が本所、深川にも類焼し、被災者となった38歳の身寄りのない芭蕉、いったいどこに避難したのでしょうか。
 さぁ、この続きはまた後ほどに。
 お別れには「八百屋お七」ではなく、坂本冬美(1967年生まれ)「夜桜お七」1994年(えっもう20年以上も前exclamation&question):
https://www.youtube.com/watch?v=1gSH1BK7lKw


(注1)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をご参照ください:
☆ 2012年12月15日「逆忠臣蔵」
☆ 2012年12月16日「泉岳寺」
☆ 2014年5月26日「旧街道休憩所」

(注2)ヤッホー君のこのブログ、2013年1月18日付け日記「森鴎外記念館」をご参照ください。


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2015年04月20日

深川三股あたり

 臨川寺、なにがヤッホー君の目に飛び込んだかといいますと「仏頂禅師」でございました。
 伊藤洋先生はこんな風にご紹介なさっておられます:

 茨城県鹿島の根本寺第21世住職。芭蕉参禅の師と伝えられている。芭蕉より3歳ほど年長。
 佛頂は、鹿島神宮との間で領地争いがあって、その訴訟のため江戸に滞在することが多かった。
 そのときは、根本寺の末寺であった江戸深川の臨川寺(その頃は臨川庵と呼んでいた…
 臨川寺は、芭蕉庵に近く、芭蕉は佛頂をしばしば訪ねて禅を教えてもらったという。
 芭蕉は、乞食僧へ独特の憧憬を持っていたが、そのことが佛頂の人生態度と一致していたため、強い尊敬の念を感じていたようである。
 芭蕉は、素堂などとちがって生家が貧しく、青春時代に正統的教育の機会に恵まれなかったため「一般教養」に欠けるところがあった。
 深川に転居して、幸運にも佛頂とめぐり合い、禅はともかく漢学一般、中でも特に老荘思想について佛頂から体系的に教授されたことで、芭蕉の人生が急展開したのではないか。
 特に『荘子(そうじ)』については、芭蕉の自然観全体に影響を与えた。
 それが、俳諧改革を促し、大詩人芭蕉の誕生につながったのではないだろうか。
 芭蕉にとって、佛頂の存在は「偉大」だったのである。
 『奥の細道』では、那須の黒羽の雲厳寺にあった佛頂の修業跡を訪ねて

啄木鳥も 庵は破らず 夏木立

と詠み、また『鹿島詣』ではわざわざ佛頂に会いに行っている。
 なお、佛頂は当時としては長命で、芭蕉没後21年経た1715(正徳5)年12月28日、那須黒羽の雲厳寺で死去した。

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/bucho.htm

 いや、はや、「神田上水の総払い作業」も辞め(注1)、「江戸市中での念願の俳諧師匠」もかなぐり捨て、とにかく深川に転居してきた芭蕉は、この地で「仏頂禅師」との「幸運なめぐり合い」を果たし、それからの詩想形成に拍車をかけていきます。
 待ったぁ〜!
 芭蕉は、深川でもうひとつの「運命的な出会い」を果たすのです。
 それは、ここ大川端にあった「柴の戸」、芭蕉庵です!

芭蕉句碑.jpg

 老杜、茅舎破風の歌あり*。坡翁*ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句*作る。その世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸。

 芭蕉野分して 盥に雨を 聞く夜かな
(ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな)


 この夏には、門人李下(注2)が芭蕉の苗木を植えてくれた。わび住まいの柴の戸=茅舎に秋の雨が降ってここかしこから雨漏り。
 外の芭蕉葉にうちつける雨音と、盥に落ちる雨水の音が一層侘び住まいを引き立てる。
 せめての慰みは、この境涯が尊敬してやまない杜甫の境涯と似ていることだ。
 芭蕉初期の秀句の一つ。
 
• 老杜:杜甫、茅舎破風の歌あり:<ろうと、ぼうしゃはふうのうたあり>と読む。杜牧と区別して呼ぶ時には老杜となる。杜甫の作品「茅屋秋風に破らるるの歌」の「牀牀屋漏りて乾けるところなし(どの寝床も雨漏りで寝るところもないの意)」をふまえている。
• 坡翁:蘇東坡を指す。「牀牀、漏れを避く幽人の屋」なる句をもって杜甫の詩を引用したことをいう。
• 屋漏の句:<おくろうのく>と読む。蘇東坡の詩に「牀牀、漏を避く幽人の屋」(『蘇東坡詩集』)とあるより引用。

(山梨県立大学・伊藤洋「茅舎の感」(1681年、延宝9年、秋、芭蕉38歳)
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/tanpen/bousya.htm

 1681年は9月29日に「天和」と改元される年、その夏「柴の戸」に芭蕉が植えられ「芭蕉庵」となります。
 ヤッホー君、その句碑があった場所でミラーレスのデジカメの焦点をひいて撮っていますのでご覧ください:

三又.jpg

 なに? どうしたって?
 そうなんです、ヤッホー君がびっくりしたのは、都留文科大学教授・楠元六男(くすもと むつお、1947年鹿児島県生まれ)先生がその著『我を絵に看る』(新典社新書、2009年)で、1690(元禄3)年の地図「江戸大御絵図」をお示しになりながら、こう教えてくれたからです:

 さて1683(天和3)年の『武鑑』をひもときますと、秋元摂津守は1万8千石で屋敷は「大手下馬後」とあります。要するに、江戸城大手門のすぐそばに上屋敷はありました。対して1670年(寛文10年、芭蕉27歳いまだ江戸に下らず)の『新版江戸大絵図」を検証してみますと、深川の「水戸宰相殿」と「井上サガミ」の間に「秋元ツノカミ」を確認できます。
「秋元摂津守」こと、後の「秋元但馬守」の一屋敷は深川三股あたりにあり、芭蕉庵と近かったのです。
 1690年(元禄3年、芭蕉47歳、この年「幻住庵」に住まう)の「江戸御大絵図」(林氏吉永飯)にも、深川三股あたりに「秋元摂津守」とあります。
 1680年(延宝8年、芭蕉36歳、この年「芭蕉庵」に住まう)冬以降、当然のごとく芭蕉と秋元藩の藩士たちは交流していきます。
 芭蕉はかくして新しい門弟の一部を、深川で確保していきました。

…楠元六男、同書、32頁

 ということは、ヤッホー君の撮った写真は、芭蕉庵からみた「深川三股あたり」、そして対岸には秋元藩の屋敷があったということになるのです。
 都留文科大学の楠元六男先生のお導きでヤッホー君、えっあせあせ(飛び散る汗)と、桃源郷から深川に戻ってきましてすぐ、再度、甲斐路へと脳内の新しい旅路がはじまったのです。
 先生、それに伊藤洋先生も含めまして厚く御礼申し上げますexclamation×2

 杉山杉風、李下、仏頂禅師、秋元藩士と、深川への転居は芭蕉の決して長命とは言えない人生50年のなかでのターニングポイントだったのですね。
 そしてヤッホー君、イマ芭蕉の二重性に気づいております。
 芭蕉には、世俗からの逃避、隠棲、隠居、諦念へのベクトル(乞食、死)と、真逆に新しい人びととの、風景とのふれあい旅(出会い、生)へのベクトルの同時存在。
 時間軸においても、過去=禅や老荘思想に遡ることが未来に広がるような、目前の風景=歌枕をみて新しい詩想を得るような、現在に過去、未来が同時に襲来してくる存在なのです。
 これを可能にしたのはきっと、一般教養や文学的素養を身につける暇も環境にも育っていなかった、という生い立ちからくる”自在性”だったのではないか、と。
 ま、あせって結論づけないで、おいおい、みていきましょうね。
 しかし、新しい人びととの出会い、ふれあい旅…、山梨県立大学・伊藤洋先生をもう一度読んでみましょう:

─ ところで話は変りますが、先生からみた芭蕉とは?
伊藤 芭蕉の生れはというと、農民に近い下級武士で、文学的素養を身に付けられるような環境ではありませんでした。しかし、江戸に出て、あっという間に人的なネットワークを築き、神田上水の維持管理をやったり、知遇を得てさまざまなところに出入りしています。

─ いわば一介の農民がどんどん知遇を得て、出世していく…?
伊藤 そうなんです。俳人・山口素堂や仏頂禅師、徳川家康に縁が深い武家である秋元家の家老・高山伝右衛門等々、芭蕉がお世話になった人びとは枚挙にいとまがありません。
(2006年8月号掲載、こだわりアカデミー「芭蕉の出世の秘密は人とのネットワーク」、インタビュアー松村文衛(アットホーム社長)
http://www.athome-academy.jp/archive/literature_language/0000000199_all.html

 秋元家って、なによexclamation&question
 う〜ん、その前に、中村雅俊(1951年宮城県女川町出身)「ふれあい」1974年。
 人は皆、ひとりでは生きてゆけないものだから。
https://www.youtube.com/watch?v=dXg97jpV0ns


(注1)ヤッホー君のこのブログ、2015年03月24日付け日記「和敬塾」に付けられた写真を参照。山梨県立大学・伊藤洋先生は:

芭蕉は、1677(延宝5)年から約4年間、神田上水の水道管理(実態はメンテナンス業務またはそれに係る管理代行業務か?)の担当者として延宝8年までこれに従事した。その折に住んだのが龍隠庵(りゅうげあん)。現在の東京都文京区関口2丁目(関口芭蕉庵)であったといわれているが、ここに住んだという証拠は無い。この時代、ここより上流は早稲田田んぼの美しい農業景観が広がっていたのである。そして、ここに小型のダムが建設され、そこから神田上水が配水された。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/kandagawa.htm

(注2)李下については同じく伊藤洋先生は:

1681(延宝9)年春、李下は深川の草庵に芭蕉の株一株を植えた。これを記念して芭蕉は、この翌年天和元年3月『武蔵曲(むさしぶり)』以降「芭蕉」を名乗るようになった。『あら野』・『虚栗』・『其袋』などに入句。李下の妻ゆきも門人だったが、1688(貞亨5年、芭蕉44歳)秋没。芭蕉は、彼女に追善句を贈っている。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rika.htm


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2015年04月19日

柴の戸に

 まだまだ甲斐路。
 だってヤッホー君においで、おいでと手招きしているんだもん。
 4月12日日曜日はワンデーハイクですので、たった一日で深川に戻ってきたはず、あれからもう一週間も経つというのに、脳内はいまだに甲斐路。
 といいますのも、芭蕉翁!
 いつものように大川端に朝キン、リバーサイドウオーキングにでかけたヤッホー君、
「そうか、桜桃(おうとう)祭が終わると花水木(ハナミズキ)だね」とかぶつぶつ独言(ひとりごち)しながら萬年橋の階段を下りていったのでございます。
 写真は、ハナミズキ越しに「ケルンの眺め」:

万年橋.jpg

 そうしたら、芭蕉翁がヤッホー君を見下ろして、同じようにぶつぶつ、独言(ひとりごち)しているではありませんか。

芭蕉展望台.jpg

「なに、なに」とヤッホー君、
「サイキン耳が遠くなりましてな、耳垢がまた詰まってしまったのか、また<しらかわ耳鼻咽喉科クリニック>(江東区白河3-4-3イーストコモンズ清澄白河フロントタワー2F Tel 5245-3387)に行ってみるつもりではおるんですが、なかなか忙しくって」ってヤッホー君もお答えしておりました。
「あっ、そうか、お参りするのをどうして省いたのかって、そうでしたね、こりゃあ、大変シツレイしました!」とヤッホー君、すかさず踵(きびす)を返して、「芭蕉稲荷神社」(江東区常盤1-3)へ。

 この神社にある芭蕉遺蹟保存会による説明文は、ヤッホー君のこのブログ、2012年1月29日付け日記「おできの神様」をお読みください(注1)。
 ところで、この中にでてくる杉山杉風について:
 
 芭蕉の経済的庇護者として知られる杉山杉風(さんぷう)は、1647(正保4、芭蕉3歳、ということは芭蕉よりみっつ年下)年、江戸日本橋小田原町(注2)に生まれ「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。
 本邸は小田原町にあったが深川に多くの土地を所有していた…

 芭蕉が36歳の1680(延宝8)年、江戸市中から移り住んだ第一次芭蕉庵は杉風所有の生簀(いけす)の番小屋が提供されたものであり「おくのほそ道」の旅を終えてからの第三次芭蕉庵も、杉風が同門の枳風(きふう)とともに出費して築いたものだった…

 杉風は、次第に疎遠または離反の門弟が増えていく中にあり、最後まで蕉風を貫いた数少ない門弟の一人で、(口述)遺書の中で50歳の芭蕉は
「杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御楽しみになさるべく候」と、慈愛に満ちた言葉を遺している。

(杉山杉風について)
http://www.bashouan.com/pfSanpuu.htm

 320年以上も前の口述遺書ですか…
 山梨県立大学・伊藤洋先生の公式サイトで確認できます;

 支考(注3)代筆の口述遺書、1694(元禄7)年10月10日:
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/letter/isyo2.htm

 ふむ、ふむと独りガッテンしたヤッホー君、もう一度大川端へと下りて芭蕉の句を読み返します。
 すると、芭蕉が36歳の1680(延宝8)年のときの句じゃあ、ありませんか。
 杉風と芭蕉、ふたりしてヤッホー君に早朝から声掛けしていたんだ、とびっくり、腰を抜かしてしまいましたぁ!

 柴の戸に 茶を木の葉掻く 嵐かな

 芭蕉は青雲の志を持って江戸に下り、ついに3年前、念願の俳諧師匠として立机したものの、この文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界そのもの
 絶望した芭蕉は、9年の江戸市中の生活を捨ててここ深川の草庵(後に芭蕉を植えて芭蕉庵となる)に隠棲してしまう。
 その折の、世間に対する決別の辞がこの一文。
 この作品は芭蕉庵で書いたことが判明している。

 俳諧の世界も俗世間同様拝金主義が横行する名利の世界
 俗塵を廃してここ草庵に隠棲してみれば、茶を入れてくれようとてか、一塵の嵐が焚き付けにと木の葉を運んできてくれることよ。

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/tanpen/sibanoto.htm

 この草庵に隠棲した芭蕉が参禅した寺があって、仏頂禅師との交流が深まります。
 「臨川寺」(江東区清澄3-4-6 Tel 3641-1968):

 臨済宗妙心寺派の瑞甕山臨川寺は、1653(承応2)年、鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、1713(正徳3)年、瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可されました。
 1680(延宝8)年、深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。
 以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。

…江東区教育委員会

 いつもヤッホー君、通勤の行き帰りに通っていったこの寺、前は参禅の寺かぁほどの関心しかなかったのですが、今日ばかりはこれまでと打って変わって写真まで撮ってきております:

臨川寺外観.jpg

臨川寺表札.jpg

臨川寺碑.jpg

 こうしてまたあわててリバーサイドウオーキングに戻るのですが、いったいヤッホー君、どこに行きつこうとしているのか、脳内の旅はいっこうに終わる気配がないのです。
 続きは、また、後で。


(注1)もうひとつ「1917(大正6)年の津波」については:
 大正6年10月、最低気圧952.7hPa、最大風速39.6m/s(東京)を記録した台風により、明治以来最大となる高潮が発生し、東京都内の広い地域が浸水した。
 南砂や月島、築地の一帯でほとんどの家屋が浸水し、大小の船舶が打ち上げられるなど、死者・行方不明者1,324人を出す大災害となった。
(2012(平成24)年12月東京都港湾局、東京港海岸保全施設整備計画)
http://www.kouwan.metro.tokyo.jp/jigyo/kaigan-keikaku/keikaku.pdf
 その他、以下参照:
☆ 2011年8月16日専門員・大矢悠三子「報道にみる大正6年高潮の災害」(いちかわ市史編さんだより第5号所収、発行:市川市文化国際部映像文化センター):
http://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000116465.pdf
☆ 2007年8月23日更新「シリーズ・災害と闘う4 大正6年の大津波(高潮)」(新ならしの散策No.91平成18年8月1日号所収) 
http://www.city.narashino.lg.jp/konnamachi/walk/sansaku/h18/sansaku091.html

(注2)日本橋に小田原町?
 やがて「小田原町」に魚市場(日本橋魚河岸)が開かれ、石揚げ場は築地に移転して「南小田原町」と称したため、日本橋北詰の「小田原町」は「本小田原町」と改称しました。
(小田原市郷土文化館、新規収蔵資料「小田原橋」親柱)
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/Press/20130299-1.pdf

(注3)各務(かがみ)支考(しこう)
 美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田からはじめて美濃に蕉門俳諧を広めて蕉門美濃派を創始するなど政治的手腕も並々ならぬものがあったようである。
 芭蕉との出会いは1690(元禄3)年、芭蕉が幻住庵に入った頃と、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった。
 蕉門随一の理論家といわれる反面、1711(正徳1)年8月15日には、自分の葬儀を主催するなど風狂の風があり、毀誉褒貶もまた激しい。芭蕉も、其角や去来のような信頼を支考に寄せることはなかったが、気の置けない弟子として許していたようであることは、書簡などに見える。
 死の床における支考の活躍は獅子奮迅のそれであって、芭蕉の遺書を代筆するなど、その師弟関係は見事に有終の美を飾ったのである。 生涯坊主姿でとおした。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/sikou.htm


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2015年04月18日

いちのみや桃の里

 こんなふうにいろんなことを学ばせていただいた山梨県一宮町でしたが、昨日4月17日(金)から本日の18日(土)まで、なんと「第1回全国桃サミット in 笛吹」が開かれていました(す)。

 桃を生産する地方自治体やJAの関係者が集まる「第1回全国桃サミット」が4月17日、山梨県笛吹市で開かれた。産地の声を取りまとめる場として「全国桃産地協議会」を設立し、国産桃を海外に売り込むため、輸送や保存技術の向上など輸出支援策を国に求めていく方針を決めた。
 福島や長野など8県の32団体が参加した。呼び掛け人は、全国一を誇る山梨県の桃生産のうち、4割以上を占める笛吹市。市によると、品質が高い国産桃を富裕層が増加する東アジアに輸出する機運が高まっているが、検疫対策や鮮度保持の面で課題が多いという。
 基調講演では、日本貿易振興機構(ジェトロ)の江口慎一氏が「日本の桃は“食べるダイヤモンド”として人気がある」と評価し、海外市場の動向やジェトロによる輸出支援の例を紹介した。
 協議会会長に就任した倉嶋清次笛吹市長は「産地が一丸となり、世界に日本の桃を届けよう」と連帯を呼び掛けた。

(2015.4.17 18:05「桃サミット」初開催 国に輸出支援求める 山梨など8県)
http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/150417/plt15041718050017-n1.html

 笛吹市の公式サイトにももちろん:
http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/kanko/news.php?id=7286

 そしてまた「笛吹市桃源郷春まつり」(3月21日〜4月27日)の一環として、4月5日(日)には「第11回笛吹市桃の里マラソン大会」も開かれておりました。
http://www.fuefuki-kanko.jp/content/spring-fes/
http://www.fuefuki-kanko.jp/content/spring-fes/

 昨年2014年4月6日の大会の様子はこちらで:
https://www.youtube.com/watch?v=Sithwkr5CYU

 「桃源郷」ですね、ところで「桃源郷」ってここで再確認しておきましょう:

 皆さんは「桃源郷」ということばをご存知かと思います。
 語源は中国の古典に由来します。3世紀後半から4世紀前半にかけての中国六朝時代の詩人に陶淵明(365-427)という有名な詩人がいました。
 彼の作品に『桃花源記』という詩があり、その序文に次のような話が書かれています。

 晋の時代、武陵というところに漁師がいた。彼は、ある時、船をこいで谷川をさかのぼり山奥に入っていった。どこまで来たかわからないくらい奥に来たとき、突然、桃の花が一面に咲き乱れるところに到着した。彼は、桃の林の中をさらに奥に進み、ついに行きどまりになっているところに到達した。そこは山で、山腹に人が一人通り抜けるだけの穴があった。彼がその穴を抜けると、むこう側は広い平野になっており、そこには人びとが豊かに幸福に暮らしていた。漁師はここで数日間を過ごす。その後、同じ道をたどって自分の家に戻る。帰ってから、彼は村の役人にこのことを報告する。役人は調査隊を出して、漁師のつけた目印をたどったが、ついにその場所を発見できなかった。

 こういう話です。この話から「桃源郷」ということばは、俗世間を離れた別天地、人間の心の中にある理想郷で現実には到達できないところ、というような意味で使われるようになりました。
 西欧語の「ユートピア」に似ているところがありますね…

(2012年4月3日記、放送大学宇都宮学習センター所長・鯨井佑士「キャンパスの四季」)
http://tochigi.sc.ouj.ac.jp/kyanpasu-no-shiki/240407

 と書き綴ってきまして、これで俗世間に戻るぞと覚悟を決めたヤッホー君でした。
 が、「日本のワイン・ぶどうの父」に、今日は「地下鉄の父」!
 4月14日付け日記「笛吹市・山宮川」以来、とても参考にしてきて引用もしてきた「ふえふき旬感ネット」さんですが、こんな記事を見つけ、びっくり!
 やっぱりもう一度、山梨県一宮町の「お散歩会」を会に提案したくなりました、とさ:

 大文字焼きでおなじみの大久保山や蜂城山のふもとにある浅間園の駐車場からスタートとなりました。
 『一宮町を考える会』の雨宮会長は、
「根津嘉一郎、小林一三、雨宮敬次郎、小林中、徳田昴平、赤尾好夫… 山梨県は偉大な実業家・創業者をたくさん輩出しています。そしてここ一宮町には「地下鉄の父」と称された早川徳次がいます。偉大な先人たちの功績や地元に伝わる歴史を後世に受け継ぎ伝えていかなければなりません。このイベントを通じてそれらに触れたくさんの方に興味を持っていただけたら良いと思います」と述べられました。
 早川徳次(はやかわのりつぐ、1881(明治14)年10月15日〜1942(昭和17)年11月29日)。
 東八代郡御代咲村(現・笛吹市一宮町)東新居出身。
 早稲田大学卒。

(2014年3月17日up『地下鉄の父』をたずねて)
http://www.fuefuki-syunkan.net/2014/syunkantopics_0314.html

 ではここでお別れに高橋真梨子(1949年生まれ)『桃色吐息』1984年(えっもう30年以上も前exclamation&question):
https://www.youtube.com/watch?v=8UG8n3q5jaQ



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2015年04月17日

マスカット・ベイリーA

 はてさて、4月12日桃源郷ウオーキングの帰途のバスん中で、どうしてヤッホー君が仲間へのお振る舞い酒に「マスカット・ベイリーA種」を選んだのか、と申しますってえ〜と、話は長いんだそうで。
 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をお読みくださいな:
☆ 2013年11月16日「JPタワー」
☆ 2013年11月20日「マルスワイン」

 奥野木さんも交えて「アルプスワイン」にてワインのうんちくを傾けていたとき、ヤッホー君、東大ワインって売られているのをご存知ですか、なんて突拍子もないお伺いをたてたもんで、お店の方が新潟の篤農家、川上善兵衛(1868-1944)のお話しをしてくださったのです。
 なんかこれで氷解!と思ってしまってうれしくなって、またしてもルンルン気分でワイン日本もぶらさげてバスに戻ったと、こういうわけでして…
 お話しって、川上善兵衛、鳥井信治郎、坂口謹一郎の三人模様で繰り広げられる物語、舞台は新潟県上越市でございました。
 まずは1890年の篤農家の話し:

 妙高連山のすそ野がなだらかに日本海に接する「越後・頸城(くびき)平野」。
 その頸城平野にあり、かつて城下町として栄えた越後・高田(現上越市)に岩の原葡萄園はあります。
 この葡萄園の歴史は、1890(明治23)年、創業者川上善兵衛が自宅の庭園に鍬を入れ、葡萄園を作ったところから始まりました。
 以来3世紀に亘り、善兵衛がぶどうとワインにかけた情熱を引き継ぎ、高品質の国産ワインを造りだすための努力を惜しむことなく続けています。

 高田の大地主の家に生まれた善兵衛は、農民救済のための新しい産業としてワイン醸造に着目しました。
 これは時代背景と豪雪地という風土を考慮した結果でした。
 私財を投げだして葡萄園を拓いた善兵衛は本格的なワイン造りを追求し、当地の気候風土に適したぶどうを求めて品種改良に没頭し、約1万種の品種交雑の中から「マスカット・ベーリーA」をはじめ22品種の優良品種を世に送り出しました。
 また貯蔵した雪を利用した低温醗酵や密閉醸造など、ワインの醸造方法にも工夫をこらし、今日の国産ワイン醸造の礎を築きました。
 こうして川上善兵衛は、「日本のワインぶどうの父」と称されるに至ったのです。

(岩の原葡萄園「歴史と歩み」)
http://www.iwanohara.sgn.ne.jp/history/index.html

 そして、1934年の寿屋・鳥井信治郎(1879-1962):
http://www.nikka.com/80th/

 あっ、ごめん、間違えちゃった、でも同じ1934年だったんですねぇ、片方はウヰスキー、そしてこちらはワイン;

― 善兵衛のワインはどうして売れなかったのでしょうか。
坂田 当時の一般の日本人には渋味や酸味のある本格ワインには馴染がないのです。日露戦争のときに軍関係の特需で一時的には好転しますが、昭和初期の経済不況や同じワインでも甘味果実酒に押されて経営は苦しくなります。1934年には寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎と共同経営で株式会社岩の原葡萄園を設立することになって、今日に至ります。昭和50年頃まで日本のワインは甘味果実酒が主流だったのですから、時代が早すぎたとも言えます。
(岩の原葡萄園坂田敏「酒文化研究所、酒文化論考集」所収)
http://www.sakebunka.co.jp/archive/Interviwe/talk04/page02.html

 ところが、この裏に、意外と善兵衛と酒博士故坂口謹一郎氏との出会いを知る人は意外に少ない。
 実は坂口先生と川上善兵衛は明らかに姻戚関係にあり、1925(大正14)-1926(大正15)年頃、ちょうど善兵衛が『葡萄全書』の著作に取り掛かっていたが、その参考文献の翻訳には多大に先生のお世話になったと聞く…

 更にこんな折、「国産の生葡萄酒を自分の手で作りたい」と鳥井信次郎(現サントリー創始者)が坂口先生の研究室を訪問「ぜひご指導を!」と相成った。これが鳥井信次郎との出会い。
 これに対し「ワイン造りは葡萄造り、よい葡萄が出来なければどんな醸造技術が進んでも何の役にも立たぬ、それについて日本で頼るべきは川上翁の他にはない」
 これが実は、坂口先生-川上善兵衛-鳥井信次郎の歴史的出会いとなったのである

(岩の原葡萄園堀内久義「川上善兵衛の偉業を継承して現代へ」J.ASEV Jpn.Vol.10,No 3[GRAPEVINE]所収)
http://www.asevjpn.wine.yamanashi.ac.jp/JAJ/Vol/Vol-10-1999/3/170.pdf

 は〜い、ここでやっと東大の坂口謹一郎先生(1897-1994)が登場しました!

 じゃあ、ここいらでいっぺん、動画で整理してみましょうか。
 武将隊が紹介!上越の観光スポットめぐりvol.04:
https://www.youtube.com/watch?v=-qkkybIYPR4

 イマ、坂口記念館は雪椿が見ごろ:

 上越市頸城区鵜ノ木の坂口記念館で、約190本の雪椿が見頃を迎えている。赤や白、ピンクの花が咲き競い、訪れる人を楽しませている。
 同館は応用微生物学の世界的権威で「酒の博士」として知られる故坂口謹一郎博士を顕彰する施設。敷地内の「雪椿園」には坂口博士が愛好した雪椿が約100種植えられている。
 同館によると、ことしは春先の好天で開花が早く、3月末ごろに咲き始めた。見頃は4月20日ごろまで続くという。品種や日当たりによって咲く時期が異なるため、これから開花する木もある。
 4月9日は、ゆっくり散策しながら花を眺める市民の姿が見られた。同市吉川区原之町、無職石野武安さん(78)は「椿はかれんで終わり際も美しい。自宅の庭にも植えてあるが、違う種類も育ててみたい」と見入っていた。
 同館は4月19日まで「酒とつばきの祭典」として、抹茶のサービスや甘酒を販売している。
 問い合わせは坂口記念館 Tel 025(530)3100

(2015年4月13日付け新潟日報「匂い立つ 雪椿100種盛り迎え 頸城区・坂口記念館)
http://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000001830

 ではお別れに小林幸子(1953年新潟市出身)『雪椿』1987年:
https://www.youtube.com/watch?v=A_7hpv6_g6U

 さすが、でございます。アンコールにお応えしてもう一曲、『越後情話』1996年:
https://www.youtube.com/watch?v=1HuY813SJC0


(注)以下の「上越市公式サイト」も参照:
https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/bunka/kubiki-sw.html
https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/bunka/kubiki-sw2.html
https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/kubiki-ku/sakaguti-tubaki.html

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2015年04月16日

一宮で神さま巡り

 早くも蜂城山から下りて来るハイカーがおられ、蜂城天神社に向かう山歩クラブの御一行さまに「金峰山、甲武信岳が見えるよ」と教えてくださいました。
 喜んだヤッホー君、すかさず、
 「るんるん白樺 青空 南風 こぶし咲く あの丘 北国の ああ 北国の春るんるん
と大声で歌いだして登りつめていきます(注)。
 (アホだねぇ〜、だからヤッホーってよばれてるんだぁ〜)

 さらに蜂城天神社を抜けて歩いていったのが次なる山、神領山。
 展望の効く山でもなく、山頂には山名と標高を示す手書きの板が松の木にぶらさがっているだけ。

神領山.jpg

 でも辺り一帯、静かぁ〜
 その板の下に手書きで「(山名は『甲斐國志』より比定)2008.7.19 A.T.C」と。
 否定じゃなく比定、「比較して(成立年代などを)推定すること」(岩波国語辞典)だそうです、へぇ〜
 19世紀初頭からの地誌『甲斐國志』編纂については、ウィキペディアでぜひお読みください、へぇ〜

 ヤッホー君が比定するに、この山域、山塊は”神山”、つまり”一之宮”の神領で、その山ひとつひとつにことさら名前を付けるまでもムカシ、なかったんじゃないか、と。
 人間だって、イマのはじまり「戸籍」、イマや「総背番号」なんでしょうが、ムカシは太郎次郎三郎でしょうし、はなうめとめで済んだんでしょうから、ね。

 おおらかなムカシの日本人と出会えたようで、ヤッホー君、るんるん気分、ありがとうATCさん。

 こうして、るんるん気分で歩きを続けていって、出会った神社が、大久保山直下の「那賀都神社」!
 また「一宮で神様巡りトレッキング」を引用します:

 特にきつい傾斜もなく大久保山山頂に到着。
 ここも「大久保山664.4メートル」と書かれた札が松の幹に縛られているばかり。
 しかし、手元の地図には那賀都神社の文字があります。
 どうやら木立の向こうに道が続いているようす、廻り込んでみるとそこにはお社と、天に両の手を広げたような古巨木があったのです。

 那賀都神社は後日調べたところ、比較的新しい時代(江戸末期から明治)の創建でした。
 巨大な御神木のアカマツは山梨県指定の天然記念物だったのですが、今では残念ながら枯死しています。
 それでも街を見下ろしているその姿は充分に神木らしい風格を保っていました。


 枯れた御神木のアカマツの写真は見事!
 しかしイマ、枯死どころか、どれがどれか分からない、伐られた切り株だけ。
 特定するのをヤッホー君、あきらめました。
 こうして「神様巡りのトレッキング」を終えた山歩クラブの面々、向かった先が待ちに待ったワイナリー、「アルプスワイン直営店」(笛吹市一宮町狐新居324-1 Tel 0553-47-5881)!

 アルプスワイン株式会社は、山梨県笛吹市(旧一宮町内)にある家族経営のワイナリーです。
 創業は1962(昭和37)年。
 創業者の前島福平は、この地で米や肥料を扱う問屋を営んでおりました。
 毎日一升瓶を空けるほどの酒好きであった福平はワイン造りにも関心を持ち、当時地元狐新居(きつねあらい)区の公民館脇に醸造所を置いて地域の農家さん達で運営されていた「御代咲醸造」を全面的に引き取り、株式会社化したのが弊社の始まりです。
 社名の「アルプスワイン株式会社」の由来は、本社工場から甲府盆地の向こう正面に南アルプスの山並みが綺麗に見える事から、福平本人が名づけました。
 現在は創業者の息子である前島了が代表取締役、その子供である(創業者の孫にあたる)3兄弟がそれぞれ営業、醸造、販売担当として役割分担し、中心を担っています。

(アルプスワイン株式会社について)
http://wine.jp/alps/about

 ”スモール・イズ・ビューティフル”をモットーにしてきた(いる)ヤッホー君、すかさず家族経営のワイナリーで求めたワインが日本。
 一本目は「マスカット・ベイリーA種」
 …これは車内で今日のお疲れさま、仲間で乾杯するためのお振る舞い酒。
 二本目は「ルナールキュイジーヌ赤」
 …これはフランス語で“狐”を意味する「ルナール」(renard)から付けられたラベル。

 「ルナール」は、「狐新居(きつねあらい)」という地名に由来して名付けられました、と「アルプスワイン」からいただいたパンフレットに確かにありました。
 これをつくったのがイラストレーター、福永由美子さん。
 ブログもあります:

 家族経営のワイナリー。
 ワイナリーの担当の方からのリクエストは、一宮はワイナリーの集中している地域からは少し離れているため、ワイナリー周辺の地域を紹介する絵地図をメインにしたいということで、A3全面のカラーのマップを中心に構成。
 その他、季節ごとの料理に合わせたワインの紹介、ワイナリーのプロフィールや受賞ワインを掲載などの要素が効果的に展開するように、オリジナルの折り方を考案。
 料理の制作は担当の方が調理〜撮影までされたもの。
 画像が送られて来た時には、あまりに美しく、美味しそうで唸りました。
 担当の方の若い感覚で、楽しく盛り沢山なリーフレットに仕上がりました。

(2013/07/13 Y. FUKUNAGA Blog「アルプスワインのリーフレット」)
http://yfuku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_13.html


(注)ヤッホー君のこのブログ、2014年03月20日付け日記「北国の春」参照。

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2015年04月15日

不動如山

 「山宮神社」の本社「浅間神社」(笛吹市一宮町一ノ宮1684お問い合わせTel 0553-47-0900)は:

 第11代 垂仁天皇8年(約2千年前)正月、始めて神山の麓にお祀りされた。
 今ここを山宮神社と称して摂社となっている。
 第56代 清和天皇(注1)の864(貞観6)年の富士山大噴火の翌年、865(貞観7)年12月9日、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地にお遷ししてお祀りされている。
 甲斐国一宮であって延喜の制に於ける明神大社である。
 1871(明治4)年5月14日、国幣中社に列格。

(甲斐国一宮 浅間神社 御祭神・御由緒)
http://asamajinja.jp/history.html

 山歩クラブが日曜日歩いた山域は神山。
 笛吹市一宮町一ノ宮と言われるほどの古い町。
 国分寺、国分尼寺跡もあるほどなんです(注2)。

 国分寺の建立は聖武天皇と光明皇后とによって進められ、女性の極楽往生を祈る国分尼寺も造られました。甲斐国分尼寺跡は国分寺跡の北側500mの位置にあり、金堂跡・講堂跡の礎石が残されています。
(甲斐国分尼寺跡、国指定重要文化財、笛吹市一宮町東原646-1ほか)
http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/kanko/shisetsu.php?id=40

 本市の歴史は古く、旧石器時代から人々が生活し、古代では甲斐国の政治・文化の中心地、中世は武田家ゆかりの地、江戸時代は石和の宿場町、甲州街道、若彦路、鎌倉街道、秩父路の往来の要衝として栄えてきた特色ある歴史があります。
 市内には縄文時代の釈迦堂遺跡や一の沢遺跡など全国的に名の通った遺跡のほか、岡銚子塚古墳や竜塚古墳、姥塚古墳といった古墳時代の遺跡など、多様で貴重な歴史的・文化的資源が数多く分布しています。
 特に、山梨県最古の寺である寺本廃寺跡や国衙、甲斐国府、国分寺、国分尼寺跡、甲斐国唯一の御厨である石禾御厨(いさわのみくりや)が存在したと伝えられるなど、本市は古代の甲斐の国成立期から1519年の武田館の甲府移転までの約千年の間、甲斐国の政治・文化の中心として大きな役割を担ってきました。
 このため、本市は2009(平成21)年10月に「甲斐国千年の都・笛吹市」を宣言しています。

(笛吹市公式サイト、古代ロマンあふれる郷「甲斐国千年の都」)
http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/shisei/profile.php

 ね、山歩クラブのお散歩会・企画に提案したいわけがわかるでしょう。
 もっとゆっくり見て回りたかった歴史のロマンあふれる町、笛吹市。
 そうなんです、蜂城山登山道ってのもイマ「蜂城天神社」参道になっております。

 笛吹市公式サイトにもこんふうに:

 2013年8月24日、一宮町文化協会書道部・「蜂城天神社」主催による「第43回蜂城天神社書道展」入賞者の表彰式が、蜂城山頂神社で行われました。
 今年2013年応募された作品は758点(園児・学生・一般)でした。上位入賞者は、次のとおりです。
○天神社大賞に前田彩乃さん(一宮西小6年)
○浅間神社賞に、○山梨日日新聞社賞に、○山梨放送賞に…

(広報ふえふき2013年10月号)
http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/file/7/5241225865d3f.pdf

 第70回、第1000回と書道展の永続を期待しております。
 「蜂城天神社」参道という名の山路の途中にあった大木が「ヤマボウシ」!
 昨日の日記でも引用させていただいた「一宮で神様巡りトレッキング」から:

 中腹やや過ぎ標高670メートル付近、参道から左に分岐があり、その先に有名なヤマボウシの木があります。
 市の天然記念物でヤマボウシとしては珍しい大きさ。
 根回りは約1.5メートル。
 花の時期には白く咲き誇る姿が麓からも確認できるそうです。
 今回は里を見下ろすその姿を眺め春を想像するしかありませんが、是非その頃に再び訪れたいものです。

http://www.fuefuki-syunkan.net/2010/hike_itimiya.html

 この花が見えるようになると、梅雨が近いというしるしです…
 望遠にしてみました。コンパクトカメラなのでこれが限界です。
 白く見えるのは、ヤマボウシの総苞です。
 一般に葉の上に付くので、上からはよく見えますが、蜂城山のヤマボウシのような大木になると、近くでその全容を見ることは、なかなかできません。
 ですから、遠くから眺めることになります。遠くでも、これほどに見えるのですから、そのスケールの大きさのほどがわかるでしょう。
 ずい分と昔からその場所に立っているようです。
 蜂城山の主のような木です。
 近いうちに山に登って、会いに行きたいと思います。
 対面して、昔のことなど語り合ってこようと思います。
(2008/5/25(日)午後11:51更新「蜂城山のヤマボウシ」、桃のさと「す・き・で・す」〜山梨いちのみやから徒然に〜)
http://blogs.yahoo.co.jp/yottoo57/9045113.html


(注1)
 桓武天皇の孫の孫、清和天皇の流れをくむのが武田信玄。
 ではここで、三橋美智也(1930年北海道現・北斗市生まれ-1996)「武田節」(1961)
https://www.youtube.com/watch?v=-lO47uHIpdw

(注2)
 都はるみ(1948年京都生まれ、2010年紫綬褒章を受章)「千年の古都」(1990)
https://www.youtube.com/watch?v=pS1zacAawsg


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2015年04月14日

笛吹市・山宮川

 ヤッホー君に「はちじょうやま」って教えてくれたおばあちゃまは「山宮川」の側にお住まいでした。
 「山宮川」って笛吹川に流れ、笛吹川は日本三大急流の一つ、富士川と合流、太平洋に注ぐようですね。
 この「山宮川」の源流って「山宮神社」あたりにあるのかな。

 「山宮神社」は「浅間神社」の摂社で、垂仁天皇8年の創建と伝えられています。
 本殿は1558(永禄元)年に武田信玄によって再建された檜皮葺の建物で、武士の心意気を示すように兜の紋様を刻んだ蟇股で飾られています。

(笛吹市公式サイト、浅間神社摂社山宮神社本殿【国指定】)
http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/kanko/shisetsu.php?id=34

 つまり「山宮神社」は、イマは本社となっている「浅間神社」の別宮、すなわち「摂社」というんだって。こんなふうに専門の言葉で説明されています:

 摂社「山宮神社」鎮座地 一宮町字山宮一七〇五 祭神 大山祗命 瓊々杵命
 本社を距ること東南二十丁余(二粁余)、清流「山宮川」の水源、神山の麓にあり、千古の老杉二本、神木として連立す。
 本殿は春日造、桧皮葺にしてその結講頗る壮麗なり。
 毎月十五日を恒例神祭日となす。三月十五日山宮神幸祭あり。
 当社は垂仁天皇の御字鎮祭されし本宮なりしも、貞観七年十二月三柱の内木花開耶姫命現地に遷座ありしにより二柱を祭神とす。

(山梨県神社庁)
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/3062

 も少しくだいた表現をすると、こんな感じかなあ:

 「山宮神社」は、甲斐の一の宮「浅間神社」が創建された場所。
 一宮「浅間神社」史によれば約2000年前に神山の麓に勧請されたとあります。
 やっぱり今日歩いて来た山々は神域だったのだと納得がいきました。
 のちに木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト・富士山のご祭神)を、イマの浅間神社に移され、現在の形態になったということです。
 本殿は武田信玄の再建と伝えられる国重要文化財です。

 そしてここにも巨木の御神木、夫婦杉がありました。
 この夫婦杉は文字通り二本の杉が一緒になったもので、目の高さで測った1本の幹周は5.3メートルと5メートル、高さ37メートル、樹齢は推定300年とのことです。
 余談ですが、木花咲耶姫命が現在の浅間社へ移られた後、残されたのは父君大山祇神(オオヤマヅミノカミ)と旦那さん瓊々杵尊(ニニギノミコト)、なのに御神木が夫婦杉っていうのも不思議ですね。

(一宮で神様巡りトレッキング-ふえふき旬感ネット) 
http://www.fuefuki-syunkan.net/2010/hike_itimiya.html
 
 われわれは大久保山664.4メートルから桃の里にくだったのですが、もうひとつ、この「山宮神社」にくだるルートもあったんですね。
 「神山」って、固有名詞でなく、われわれが辿った周回コースの山々の総称なのかもしれませんね。
 いきなり出発地の「山宮川」からはじまったと思いましたら、もう速いこと、速すぎ、寄りもしない、見もしなかった「山宮神社」に着いてしまいました。
 いつか摂社「山宮神社」に登って本殿を拝み、夫婦杉に触れて、「山宮川」沿いに里に出て、本社「浅間神社」に詣でてみたい気がしたヤッホー君でした。
 山歩クラブお散歩会企画として提案しようかなぁっ〜っと。
 はい、どうもサイキン、神社仏閣をめぐるのが好きになって。
 きっとトルコに渡って、墓地ばかり見学してきたそのせいなのかな…今日も良き一日を雨



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2015年04月13日

再びの桃源郷

桃畑.jpg

 昨日4月12日日曜日は、山歩クラブ2015年度第1回目の4月定例山行の日。
 春の日差しが戻ってきた甲斐路・桃源郷へ(注1)。
 計算方法が変わって新料金が適用された専用バス(注2)での13人のハイキング。

15桃源郷.jpg

 桃源郷を満喫してきました。
 が、そればかりではありません。
 杉山さん、三田村さんが「皆んなでゆっくり歩けば行けるわよ」と蜂城山(738m)からなんと、神領山(866m)そして大久保山(664m)と、周回コースを歩いてしまったのです。
 蜂城山を「はちしろさん」と地元の農家に聞きまくっていたヤッホー君におばあちゃまがご親切にも、「はちじょうやま」と教えてくれました。
 下の写真は、その蜂城山(はちじょうやま)山頂に建つ蜂城天神社前。

蜂城山.jpg

 次の写真は、大久保山山頂にて。
 後ろにはまだ雪の冠を抱いたアルプスの峰々が見えているのですが、写真には写っていませんね。

大久保山.jpg

 さすが山歩クラブです!
 仲間の顔も桃色に染まって最高!
 素晴らしい春の一日でした。
 改めてバスハイクっていいな、と感じたひとときでした。


(注1)
昨年に続けて二年連続となります。ヤッホー君のこのブログ、昨年の4月の日記をご参照ください:
2014年4月13日付け日記「桃源郷」

(注2)
 国が料金改定に乗り出したきっかけは、2012年4月に群馬県の関越自動車道で起きた高速ツアーバスの死亡事故だ。原因は運転士の居眠りとされ、上限を超えた長距離運転など、労働環境が問題となった。
 貸し切りバス事業者は、旅行会社や企業などから委託を受け、観光バスや社員旅行のバスを運行する。業界は、2000年の規制緩和により、新規参入が増加。事業者数は1999年の2336社から、2012年度には4536社と倍増。価格競争が激化し、今や全国の事業者の約4割が赤字経営とされる。
 23年間、貸し切りバスの運賃基準は変わらなかったが、国交省は「価格競争が安全軽視や供給過多を招き、人件費など安全対策のための経費が削られていた。届け出運賃とは異なる運賃での取引も常態化していた」とみる。全国で関係者向けの説明会を開き、「適正料金への是正と受け止めてほしい」と理解を求めた。
 新制度では、従来同様、国への届け出が必要で、国が決めた1キロ当たり、1時間当たりの運賃の上限と下限の範囲内で値段を決める。違反した場合、バス事業者に加え、指示した旅行会社も罰則の対象となる。
 関係者が最も懸念するのが、値上げによる利用者離れだ。ツアー料金は少なくとも1割、高ければ2倍以上になる商品もあるという。神姫バスツアーズ(姫路市)の山口隆博社長は「東京ディズニーリゾートなどは、新幹線や飛行機に比べ、安価で時間を有効利用できるというメリットが薄れる。企画内容や安全性で他社との差別化を図りたい」と話す。
 バスガイドの雇用問題も課題だ。新制度ではガイド料金が別になる。ガイドが同行するツアーはすでに4割にとどまり、ガイド不在のツアーがさらに増えると予想されている。
 108社が加盟する兵庫県バス協会会長の上杉雅彦・神姫バス会長は「業界の構造が大きく変わり、安全を最優先させるバス業者が増えるいい機会。利用者にも価格だけでなく、安全性や品質に目を向けるよう理解してほしい」と話している。
(2014/7/18 07:15更新、神戸新聞・末永陽子)


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2015年04月12日

児童養護施設

 昨日、引用した2012年10月25日付け毎日新聞、社説「児童養護施設、この子らも忘れるな」をもう少しだけ、読んでみましょう:

 国は児童福祉法を改正して「施設内虐待」を明文化し、専門職の配置に加算を付けるなどの対策をしてきたが、改善はまだ道半ばだ。
 児童養護施設は現在579ヶ所あり計約3万人の子どもたちが暮らしている。半数以上が被虐待児だ。また、20人以上の集団で暮らす施設が大多数で、雑居部屋が多く、子ども同士のいじめも深刻だ。配置基準は原則子ども6人に対して職員1人で、諸外国の水準に比べて著しく低い。虐待やいじめが後を絶たないのは、個々の職員の資質だけでなく劣悪な居住環境や人手不足も遠因となっている。
 厚労省は大規模施設での集団処遇から、小規模で家庭的な養護を進める方針を示し、来年度2013年度の概算要求にグループホームや施設の小規模化のための整備費を盛り込んだ。ただ、小規模なユニット制にすると職員数はさらに増やさなければならない。施設を出た子のケアの必要性も指摘されている。建物を小さくするだけでなく、職員配置基準の抜本的な見直しがいる。虐待の後遺症がある子や発達障害の子のケアには専門性の高い職員も必要だ。子ども・子育て新システムでは消費増税にあわせて7000億円の財源を投じて保育サービスを拡充するが、施設で暮らす子のことも忘れないでもらいたい…


 毎日新聞はこの問題を追っかけてくれています。
 次に3年後の先月のこと、2015年3月28日03時37分更新の毎日新聞・金秀蓮「施設の子供:職員らの虐待、届け出288件中87件認定」です:
  
 厚生労働省は3月27日、児童養護施設などで暮らす子供への、職員らによる虐待が疑われる届け出件数が2013年度は全国で288件に上り、そのうち87件が虐待と認められたと明らかにした。いずれも厚労省が集計を取り始めた2009年度以降最多だった。前年度は届け出が214件で、虐待件数は71件だった。
 厚労省によると、全国の施設などで暮らす子供は約4万8000人で、このうち児童養護施設は約3万人、里親家庭は約4500人。集計の対象は全国47都道府県と、児童相談所がある22市の計69都道府県市で、18歳未満の子供を養育している児童養護施設、里親家庭などで起きた事例をまとめ、同日あった同省の専門委員会で報告された。
 虐待が最も多かったのは児童養護施設の49件(56.3%)で、里親家庭が13件(14.9%)。虐待の種類は身体的虐待が55件と6割以上を占めた。心理的虐待は17件、性的虐待が13件、ネグレクト(養育放棄)が2件あった。
 被害を受けた子供は155人(前年度は173人)に上り、小学生が57人と最多。中学生が54人、高校生が23人、就学前児童が18人だった。一方、虐待をした職員や里親は105人で、実務経験年数は5年未満が50人と最も多かった。
 2009年度施行の改正児童福祉法は、職員らによる子供への虐待防止と対応を明記。虐待を見つけた場合は、関係者が自治体や児童相談所へ届け出ることが義務づけられ、都道府県が毎年公表している。
 担当者は虐待件数が最も多かったことについて「届け出制度の周知が図られたことが一因と考えられる。虐待防止の対応策を普及していきたい」とした。


 はぁ〜、そうでしたか、困ったもんです。
 「児童養護施設」について『四十一番の少年』だった井上ひさしは:

 作家井上ひさしさんが75歳で亡くなったのは2010年4月9日。小説家として、劇作家として、またオピニオンリーダーとして、平和や国語の問題などについても積極的に発言し続けた井上さんのファンは多い。『吉利吉利人』『東京セブンローズ』『四千万歩の男』など、作品はどれも読みごたえあるものばかりだった。戯曲にも『父と暮らせば』『薮原検校』など優れた作品がたくさんあるが、遺作となったのは小林多喜二を取り上げた『組曲虐殺』だった。
 井上さんの人生が「東北のとある地方のキリスト教の孤児院から始まった」というのは、小説好きなら知っている。井上さんは幼くして父を失い、義父に育てられるが母子はこの人にひどい仕打ちを受け、井上さんは仙台の修道会ラ・サール会の孤児院「光が丘天使園」で育ち、ここから仙台の高等学校に通った。同世代の私は、疎開、空襲、空腹などの戦時体験があるが、井上さんに比べればわが人生の幸せを思わないわけにはいかない。
 その井上ひさしさんの小説に『四十一番の少年』(1973年刊)という作品がある。

https://www.h-lasalle.ed.jp/sendai/sendai01.htm

 そして、最後に2014年08月06日付け毎日新聞大阪夕刊・吉村周平「広島原爆の日:生き抜いた孤児『戦災児育成所』巣立ち」から:

「広島戦災児育成所」は終戦直後の1945年12月、浄土真宗の布教使だった山下義信氏(1989年に95歳で死去)が多数の孤児を引き取り、広島県五日市町(現広島市佐伯区)に開設した。私財をなげうって運営したが、1953年に市に移管。1960年、「広島市童心園」と改称した。家庭事情で入所した子供も暮らし、1967年の閉所までに原爆孤児171人を含む312人が巣立った
 育成所の名簿によると、80人ほどの孤児が共同生活していた。男女別に5、6人が1組となり、それぞれに職員1人が付き、敷地内の戸建てで家族のように暮らした。職員らの合言葉は「父となれ、母となれ」だった。山下氏は育成所の隣に「童心寺」を建立。子供たちは毎朝、お経を上げて肉親を供養した。
 現在は育成所も童心寺もなくなってしまったが、山下氏の長男、晃さん(83)=広島市中区=の自宅前には今も「童心寺」の看板が掛かっている。
「童心寺は育成所の子供たちの心のよりどころだったんです」
 育成所の様子をよく知る晃さんはこう振り返り、
「父は孤児たちのことを思い、私に『お父さん』とは呼ばせなかった」と明かした。元職員の三田村英雄さん(83)は
「子供たちは行儀がよく、山下さんのしつけが行き届いていた」と話した。
 山下氏は1947年、戦後初の参院選で当選。2期務め、福祉行政の充実や原爆医療法(被爆者援護法の前身)の成立に尽力した。当選後も板張りのバラック小屋に住むなど簡素な生活を送った。

http://mainichi.jp/area/news/20140806ddf010040024000c5.html


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2015年04月11日

エリザベス・サンダースホーム

 すいと勇んで立ちあがったヤッホー君、昨日4月10日金曜日のこと、この日記をつけてから出かけましたのが、山歩クラブお散歩会の下見で神奈川県大磯町!
 今年のお正月のことです。ヤッホー君のこのブログ、2015年1月2日付け日記「下町気分でお正月」をお読みになってください。
 なんと大磯町で、清澄庭園での澤田(旧姓、岩崎)美喜と再会してしまったのです。
 なんでしょうね、最近多いこうした出会い!フ・シ・ギ…
 それは、 徳川慶喜に仕えた江戸城奥医師で、初代陸軍軍医総監、松本順。その「謝恩碑」を見つけあぐねて、もういいかぁ、と駅に戻ろうとあちこちうろうろ、また町のなかを迷って徘徊していたときのことでした。
 裏門に札「エリザベス・サンダースホーム」がぶら下がっていて、それがひょいと、ヤッホー君の細い目に飛び込んできたってわけで。

松本氏(1907(明治40)年大磯の邸宅にて満74歳で死去)は貧しい人たちの衛生法と,日本人の健康を高めて薬の使用を抑える方法を考えていました。異母姉の夫林洞海が翻訳した蘭書に「海水浴」のことがあったのを長崎で勉強した際、師のポンペから「欧州で海水浴ということは言われているが好適な海岸がない為あまり普及していないが,日本は四面海であるから適当な地方もあろう」と言われ、その時から海水浴のことが頭の中に宿ったのだそうだ。また,兄の惣三郎が虚弱体質であったのを、父の泰然が体質改善のため品川や大森の海岸で魚や貝取りの遊びをさせてついに健康体にしたという事実もあり、海水浴への興味は深まっていきました。
(大磯町公式サイト、海水浴場発祥の地)
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/miryoku/hassyou/kaisuiyoku.html

 裏口は、裏口入学ができないよう、固く門が閉ざされていたので、表門に回り込もうとしたのですが、それがまたひと苦労。
 表通りに出てしまって、この石垣はと思いましたが、「聖ステパノ学園」。
 なんだぁ、だめでしたかぁ、と気落ちして駅に向かって歩こうとしたとき、隣に「社会福祉法人・児童養護施設エリザベス・サンダースホーム」の表札が!
 するってっとぉ〜

沢田美喜.jpg

 この「児童養護施設」ってなに?

「児童養護施設」は戦災孤児保護のため戦後間もなく「孤児院」から名称変更された。
 浮浪化した孤児たちが警察官らから家畜のようにトラックに詰め込まれ留置施設に運ばれる様子を米国の歴史家ジョン・ダワー氏が著書『敗北を抱きしめて』で記している。
 子どもらは「一匹、二匹」と数えられ、体罰を受け、逃亡を防ぐため裸のままにされた男児もいたという。
 さらに作家の大佛次郎の著述を引用し
実は、日本人は他人への愛情に欠ける国民であるというのが、彼、大佛次郎の結論であった」と述べる。
 そんなことはないと否定できるだろうか。
 親のない子、虐待されて傷ついた子らが雑居部屋で暮らし、さらに職員に虐待されるケースがイマもある現実から、目をそむけるべきではない。

(2012年10月25日付け毎日新聞、社説「児童養護施設、この子らも忘れるな」)
http://sp.mainichi.jp/opinion/news/20121025k0000m070071000c.html

 構内には「澤田美喜記念館」もあります。本番の時、立ち寄りたく:

当館は、2014年3月23日にリニューアルオープン致しました。
http://www.sawadamiki-kinenkan.com/index.htm

 そして「聖ステパノ学園」の歴史は:

1948年 エリザベス・サンダースホームを創立
 創立者、澤田美喜は、多くの私財を投じることにより進駐軍将兵と日本人女性との間に生まれた子供たちのなかで、さまざまな理由から養育を受けられなかった孤児を保護しました。
 また、家庭にかわって保護・養育し、自立を助けようとする使命感を覚え、社会福祉法人エリザベス・サンダースホームを創立しました。ここに聖ステパノ学園の礎があります。

1953年 学校法人聖ステパノ学園小学校創設
 エリザベス・サンダースホームに生活する幼児たちが成長し、学齢に達し就学することになりましたが、当時の社会情勢を考慮しますと、地域社会の所謂一般の学校に入学させることには、種々事情もあり、必ずしも順調な受け入れ態勢ではありませんでした。
 そこで、保護されている子供たちと、特に希望する子供のために独立した小学校を設立しました。同じ年、小学校に併設して幼稚園も創設しました。

1959年 聖ステパノ学園中学校併設
 義務教育の完成である中学校を併設し、小学校から中学校まで9年間の一貫教育の組織を完成し、その生活の中で、健全に成長し幸せに処世していく力を身につけていくことを願い、見守ってまいりました。

1993年 外部より児童生徒を募集

2002年 今上天皇・皇后両陛下ご来校

三つの願い
 信仰 健康で素直な気持ちで神様に感謝する心。
 希望 どんな環境にも挫けずに希望をもって前進する勇気。
  愛  謙遜な気持ちで、さまざまな環境にある人たちにたいして思いやることのできる優しい心。

(学校法人聖ステパノ学園小学校・中学校、神奈川県中郡大磯町大磯868 Tel 0463-61-1298)
http://www.stephen-oiso.ed.jp/index.html

 教科書「私たちの道徳」にも:

「後ろからかみの毛をひっぱられて、日本人じゃないからアメリカへ帰れって、男の人に言われた」 
 イマまで、一度も聞いたことのない話だった。
「そのとき、ママちゃま(澤田美喜)がね、顔を真っ赤にして『この子たちに、どんな罪があるんです。日本人でもアメリカ人でも、どこの国の人でも、同じ人間じゃありませんか』と、言ってくださったんだ」
 父の長いまつ毛に、光るものがあった。
「お父さんはね。社会に出てからも、苦しいときにはいつもママちゃま(澤田美喜)の言葉を思い出して、頑張ったんだ」
 思わず、父の手をにぎった。ずっとずっと父が好きになった。
 大磯駅で、父が突然、私をふり返った。
「なあ、愛、愛はリャンちゃんにやさしくしてるんだろう?」
 私は、ただだまっていた。心がうずいた。

(愛の日記)
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2014/12/01/1344900_7.pdf 



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With sunshine in your heart

 ツェーザル・フライシュレンの詩(山本有三訳)って「春が来た喜びの歌」ですね。
 まずは北の大地の小学校から〜

 「…中学校の時の担任の先生が、私に教えてくれた言葉で、今でも心に強く残っている次の言葉を卒業生の皆さんに送ります。《くちびるに歌を、心に太陽を》という言葉です。つらいこともあるとは思いますが《くちびるに歌を、心に太陽を》で明るく元気にがんばってほしいと思います…」(3月18日第113回卒業証書授与式にて)
 これは、本校大島校長が、先日行われた卒業式において、病気療養中ながら車椅子で参加し、一人ひとりに卒業証書を渡した後、式辞の中で話した一部です。
 この言葉が使われた原文は、ドイツの詩人ツェーザル・フライシュレン氏(1864-1920)の『心に太陽を持て』で、訳は、『路傍の石』『真実一路』で有名な山本有三氏(1887-1974)です。

(札幌市立手稲北小学校 Tel (011)681-4182「手稲北小だより」No.18、2011(平成23)年3月25日(金)発行)
http://www.teinekita-e.sapporo-c.ed.jp/otayori/22/schoolnewz110325.pdf

 兵庫県の歴史ある小学校では先月も〜

 2015年3月20日(金)2014(平成26)年度卒業証書授与式を挙行しました。
 「感謝する気持ち」「やさしい言葉」「我慢する心」を忘れずに、中学校でも、大人になっても、
 「かしこくなる」、「優しくなる」、「強くなる」ための勉強をがんばってください!!
 学校長式辞の最後に、卒業生へ以下のような詩を贈りました…
 「…勇気を失うな。  くちびるに歌を持て。  心に太陽を持て。」
 弘道校はいつでも、いつまでも、みんなの心のふるさとです。

(豊岡市立弘道小学校、兵庫県北部の豊岡市出石町にある小学校です。今年で創立142年、江戸時代の藩校「弘道館」開設から240年の伝統を掲げています。
 校訓「強く 明るく うるわしく」
 教育目標「気づき 考え 高め合う 心豊かな弘道っ子」)
(学校ブログ「6年生が巣立っていきました!!」)
http://koudoues.blog.fc2.com/blog-entry-169.html

 そして九州は五島列島の島の小学校では〜

 今週の音読集会の当番は3年生と6年生でした。
 子どもたちの姿から、あらためて「美しい言葉を唇から出し、耳にいれたい」と感じました。子どもたちの音読を紹介します!
 まずは3年生!「どっちの学校 いい学校」
 そして6年生!「心に太陽を持て」
(東浦(ひがしうら)小学校、長崎県南松浦郡新上五島町阿瀬津郷422-1 Tel(0959)42-0201(代)
(2014/01/22学校ブログ東浦小学校「美しい言葉を口に出す!美しい言葉を耳にする!」)
http://school.shinkamigoto.net/higashiurasho.php?blogid=18&archive=2014-01&catid=82

 高校でも:

 ツェーザル・フライシュレンというドイツの詩人がいる。1864年生まれ。同然ドイツ語で詩を書く。日本でもなぜこの詩人の名が知られているかというと、名訳もあったのだろうと思う。
 この詩人を一躍有名にしたのは、山本有三。帝国大学独文科卒。新思潮派の作家です。フライシュレンの『Hab' Sonne im Herzen』という詩を『心に太陽を持て』と訳しました…
 生徒会が発行した生徒歌集の1960(昭和35)年刊『白帝』、校歌の次のページはこんな具合なのです…
 少ないページ(たぶんもっと載せたい歌もあったことでしょう)の1ページを使って、この詩ですよ。なかなかいいと思いませんか。

(愛知県立犬山高校のあゆみ、心に太陽を くちびるに歌を)
http://www.inuyama-h.aichi-c.ed.jp/ayumi/index0k.htm

 英訳も…伴奏つきで…

 Hab Sonne im Herzen - With sunshine in your heart
https://www.youtube.com/watch?v=2eNhB3ws4ao 

With sunshine in your heart

With sunshine in your heart,
Whether it storm or snow,
Whether clouds fill the heavens,
The world fill with quarrels ...
With sunshine in your heart,
Then come what may:
Light will shine forth
From the darkest of days!

With a song on your lips
And a cheerful tone
If the workaday rush
Should worry you ...
With a song on your lips,
Then come what may:
Help will find its way to you
On the loneliest of days!

With a word for others
In anguish and sorrow,
Say to him what left you
In such good cheer:
With a song on your lips,
Never lose courage,
With sunshine in your heart,
All will be fine!
…Written by Caesar Flaischlen (1864-1920) in 1900


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2015年04月10日

さくらまつり

 さくら散る、も早いもので、今日は4月10日金曜日。
 ヤッホー君の昨日のお散歩から「さくら三大噺」:

☆ 大横川の桜並木
 お江戸深川さくらまつり、2014版公式紹介ビデオby深川観光協会:
https://www.youtube.com/watch?v=AokeV36HjHI

 いえ、そうではなくって、深川界隈いつものように俳諧の神さま、でなく徘徊の師匠ヤッホー君の細い目に昨日の午後、飛び込んできたのが、前川喜作「和敬」
 それは前川製作所本社ビルの前にぽつんと石碑が建っておりました。
 いやぁ〜、ビックリ仰天のヤッホー君、まるで前川さんからおいで、おいでと手招き、手繰り寄せられたかっこうでした。
 あの山歩クラブのお散歩会、ヤッホー君のこのブログ、2015年03月24日付け日記「和敬塾」をご参照ください。
 ところでこの前川製作所:

 創業の地であり、江戸文化の一大拠点であった深川に位置する本社ビルは、創業80周年記念事業として環境配慮と200年建築をテーマに建設されました。川べりにある立地条件を活かし、川沿いにある散歩道から敷地内を自由に通り抜けられるようにし、地域に溶け込んだ建築となっています。
(前川製作所(MAYEKAWA MFG. CO., LTD)江東区牡丹3-14-15 Tel 3642-8181 (代)
http://www.mayekawa.co.jp/ja/info/hq/

 大横川の桜並木沿いに昨年2008年建ったばかりの真新しい白いビル。前を通ったことがある方もいらっしゃるでしょう。株式会社前川製作所の本社ビルです。今回は広報担当の大道さんにお話しをお伺いしました。
 前川製作所は、かつて巴橋のたもとにあった前川商店という氷屋さんで、当時よく家庭にあった氷式の冷蔵庫で使う大きい氷を造る冷凍機を製造していました。
 いまではマグロ漁船に乗せるマイナス60度を保つ冷却装置や5階建てマンションを丸ごと冷凍庫にしたような倉庫の冷却装置などを手がけ、世界トップクラスの実力を誇る大企業となりました。また鶏もも肉脱骨ロボットは全国シェア8割を誇っています。私たちが手にする食品で冷やさなくてすむ食品はないといわれています。
 実際に目にするチャンスはあまりありませんが、私たちの食卓と密接に関わっている会社でした。

(2009年7月10日発行「江東区古石場(ふるいしば)文化センター」の情報紙季刊夏号)
http://www.kcf.or.jp/freepaper/pdf/01030070000701.pdf

☆ そして「普賢象」桜
 数え59歳の時の松平定信最後の作庭による深川海荘(牡丹3、古石場2・3付近)は、嫡男(跡継ぎの男子)の定永が購入した松平家の抱屋敷に作られました。入手した抱屋敷は当初1,000 坪余、後に隣接する入船町の土地を買い足し、1,800 坪余になりました。
 「松月斎」は、庭園の中にあった建物の名で、この屋敷全体を「海荘」とよびました。海荘は他の4園(注1)に較べ広くはありませんが、4園の趣向を取り入れ、定信の作庭の集大成らしい庭園であったといわれます。
 定信は、ここに遅咲きの普賢象(ふげんぞう)という桜を植え、築地、大塚の桜が終わった後、深川でシーズン最後の観桜をしました。
 海を借景にして広大な池に見立て、富士山や房総の鋸山(のこぎりやま)を蒼海のかなたに望むこの庭園に、定信は築地浴恩園から隅田川を上り大島川(現・大横川)を通って船で来ました。
 下屋敷に作った林泉に園遊に出かける大名の多くが「おしのび」であったのに対し、定信は川船役所の極印を受け、松平家であることを示した船に乗って深川に来る点が他の大名とは違っていたと記録に残されています。
 深川海荘は、父を敬愛する定永によって作庭のために購入された抱屋敷ともいわれますが、今後は海防が重要な施策となるであろうと考えた定信が、海に面した屋敷を定永のために持とうとしたとみることもできるでしょう。

(江戸資料館ノート 第102 号平成26 年3 月16 日発行)
http://www.kcf.or.jp/fukagawa/pdf/03010090003101.pdf

☆ そして三つ目、歌仙桜
 当宮の西、江東区役所富岡出張所裏の深川公園内に二つの『歌仙桜の碑』が建っています。
 歌仙桜とは、松尾芭蕉の門人であった度会園女が1712(正徳2)年、富岡八幡宮境内に三十六歌仙にちなみ36本の桜を植えたことから名付けられたものです。
 以来ここは江戸の桜の名所となり、『江戸名所図会』によると桜の開花のころは、山開きと称し庭園を開放し多くの人々を集めたそうです。
 園女は、1664(寛文4)年、伊勢山田の神官秦師貞の娘に生まれ、同地の医師斯波一有の妻となりました。そして1692(元禄5)年、夫と共に大阪に移り医業を営んでいました。
 夫の没後1705(宝永2)年には江戸俳壇の宝井其角をたよって江戸に出、富岡八幡宮の門前に住み、眼科医を営みながら、俳壇で活躍、1718(享保3)年、剃髪し智鏡尼と号し、1726(享保11)年、62歳の生涯を終え雄松院(白河一丁目)に葬られました。
 現存する墓石には
    秋の月春の曙見し空は
    夢かうつつか 南無阿弥陀仏
との辞世の歌が刻まれています。

(社報-富岡八幡宮)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2002/htmls/p05.html
 
 咲きました。こんにちは。待ちに待った春、桜の季節です。
 富岡八幡宮は古くから桜の名所として知られていて、江戸時代には度会園女(わたらいそのじょ)によって植えられた36本の桜「歌仙櫻(かせんざくら)」が江戸名所の一つに数えられていました。
 この「歌仙桜」は戦災等でたびたび衰退した時期もありましたが、昨年2014年、有志の皆様によりご奉納を戴き、36本の歌仙櫻が見事に再興されました。
 そして迎えた再興2年目、歌仙櫻は今年も無事に,見事に花を咲かせてくれました。
 花の数も年々増していくとのことで、今後の成長が本当に楽しみです。

(2015-04-03付け富岡八幡宮社務日記、江戸時代より深川の地に鎮座している富岡八幡宮、そこで日々奉務に励む神職や巫女のつぶやきです)
http://tomiokahachimangu.blog59.fc2.com/blog-entry-109.html

 それと八幡様でもうひとつ、びっくりしたのが「アラビア太郎」!

 富岡八幡宮お手水所
  谷川の清き流れをいまここに見るここちして
  口すすぐなり
 この水盤の石は四国の霊峯石鎚山に源を発する加茂川より採取せるもので世に伊予の青石いわれる名石であります。又、水除け石は伊豆長岡の六万石、犬走りは常陸の丹波石が用いられています。すべて山下太郎氏の奉納によるものであります。


 な、なんで、山下太郎(1889-1967)?(注1)

 1916(大正5)年、小島文子と結婚。東京深川に『山下商店』設立。穀物、鉄鋼の海外貿易に目を向け日夜奮闘。若干28歳につぃて数百万円の財を成す。
(山下太郎顕彰育英会、山下太郎氏年譜)
http://yamaiku.jp/nenpu


(注1)
-築地の下屋敷の「浴恩園」
-白河の「三郭四園」
-白河の「南湖」…5つの庭園のなかで唯一、現存
-江戸の郊外・大塚の「六園」

(注2)
 山下太郎顕彰育英会が設立して20年ということである。私が第一回の海外派遣研究助成を頂いてカナダ・アルバータ大学に滞在してから20年近く経過したことになる。当時、私は35歳で、秋田大学での文部省在外研究の若手派遣枠から外れて失望していた折に、秋田魁新聞で山下太郎顕彰育英会の設立を知って申請したところ、幸いにも最初の助成者に選んでいただいた。アルバータ州はオイルサンドと呼ばれる膨大な重質油、天然ガスや石炭などエネルギー資源の宝庫で、アルバータ大学と九州大学とは地球資源・環境系での相互交流協定を昨年締結し、一層の相互協力を進める関係を築いている。
 同大学で得た交流から、中東オマーン国・サルタンカボース大学やオーストラリア・アデレード大学とも重質原油の採油増進技術に関する研究交流が拡大している。偶然とはいえ、アラビア石油の創立者、山下太郎氏が抱いた「大志」の導きのようなものを感じる次第である…
 海外派遣研究助成は私にとって大変貴重な海外経験をさせていただくきっかけとなったもので、山下太郎顕彰育英会の関係各位に心から謝意を表するとともに、財団による助成事業が今後もすばらしい成果を生み続けることを期待するものである。
(九州大学・佐々木九郎、山下太郎顕彰育英会設立20周年記念(2009年6月)
http://reps.mine.kyushu-u.ac.jp/sasaki/coment1.html

 日本とサウジアラビア間の経済技術協力は、アラビア石油株式会社がサウジアラビアとクウェイト間の中立地帯沖合いの石油開発利権を獲得した1957年12月以来、開始されたと言えよう。
 1957年2月、アラビア石油の創設者である山下太郎氏は当時の石橋湛山首相、岸信介外相らの紹介状を持参して、石油利権獲得を目的に サウジアラビアを訪問した。サウジ政府は山下氏の一行を歓待し、親切にもてなした。このような友好な雰囲気の中で交渉が行われた結果、両者は「正式な利権交渉を6ヶ月以内に開始する」との合意に達し、日本側の一行は帰国した。
 帰国後、山下氏は政財界の全面的な支援を得て、アラビア石油株式会社の発起人総会を7月9日に開催し、同社設立の段取りを整えた後、同月26日、再びサウジアラビアに向け日本を出立した。サウジ政府の交渉相手は地質学者でもあったアブドッラー・タリーキ財政経済省石油鉱物資源局長(後の石油大臣)で、彼はサウジアラビア・クウェイト間の中立地帯沖合いが最も有望な地域であると示唆していた。
 この当時、サウジアラビアの石油利権を求めていたのは日本だけではなく、欧米の大手石油会社も利権獲得に乗り出していたため、交渉は難航した。しかし、2ヶ月におよぶ長い交渉の結果、サウジ政府は山下太郎氏との契約の大綱を10月に承認し、12月10日に双方は石油利権協定に正式に調印した。
 1958年2月、アラビア石油株式会社が設立され、石坂泰三氏が会長に、山下太郎氏が社長にそれぞれ就任した。同社は引き続きクウェイト政府との利権交渉に着手し、紆余曲折の末、同年7月にクウェイト政府と利権協定を締結した。
 こうして日本で初の海外における石油開発事業が始まったのである。
 1959年7月、中立地帯沖合いの海上で、試掘井第1号の掘削が開始され、翌1960年1月に同井は油脈に到達、出油に成功した。
(未来をひらく協力関係、サウジアラビア王国と日本、国交樹立から50年、経済技術協力)
http://www.saudiembassy.or.jp/50years/4.htm


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2015年04月09日

映画「くちびるに歌を」(補足)

 この映画『くちびるに歌を』鑑賞に至る道程には、以下のような静かで見えない、ひいてはかえす波が、ヤッホー君のこころに動いておりました。
 ぜひヤッホー君のこのブログ、以下の日記をお読みくださいますように。
 古い順に並べてみました:

 ☆ 2011年09月18日「宇宙の渚」
 ☆ 2012年06月23日「心に太陽を持て」
 ☆ 2013年04月07日「花まつり」
 ☆ 2014年11月30日「指揮者・和田一樹」…そうなんです、和田一樹氏(注)が映画のなかの映画にひょこっと顔をだされるんですよ。これがまた、「入れ子状」の映画のつくり方で、また含蓄を含む構成になっております。
 ☆ 2015年02月04日「マエストロ」

 ヤッホー君のこのブログの読者でまだ見ていない方、新宿三丁目までぜひ足を運んで見に行ってくださいね。


(注)
 2015年1月31日公開映画『マエストロ!』(出演:西田敏行、松坂桃李、miwaほか)において、西田敏行、木下半太に指揮指導を行なう。
 2015年2月28日公開映画『くちびるに歌を』(出演:新垣結衣、桐谷健太ほか)では合唱指導を行なった。
http://ecolive.co.jp/wada.html

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映画「くちびるに歌を」

 「松山先生に電話ばつなげたままステージに出るぞ。俺たちの歌声をば、島に届けるけんね」

 「【くちびるに歌を持て、ほがらかな調子で】ってね。それをわすれないで」
 松山先生の言葉をおもいだす。
 きっと、その通りだ。
 どんなに苦しいときでも、つらいときでも、不幸なときでも、迷ったときでも、かなしいときでも、くちびるに歌をわすれなければ、だいじょうぶ。
 私たちは涙をぬぐって、いつだって笑顔になれる。

 辻エリの腕がうごいた。
 (柏木先生の)ピアノの澄んだ音の粒が、きらきらとホール内に反射する。

 課題曲『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』

…中田永一(注)『くちびるに歌を』(小学館、2011年12月)244頁、247頁

 ここで、アンジェラ・アキ『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜2014』:
https://www.youtube.com/watch?v=AeKRFZX5d8Y

 生涯歌い続けられる歌声の基礎を育てる合唱指導 〜国分寺第三中学校・齋藤智子先生の声楽メソッド〜
〇 指導・解説:齋藤智子(東京都国分寺市立第三中学校 合唱部顧問)
〇 実技:東京都国分寺市立第三中学校合唱部
https://www.youtube.com/watch?v=iGnD4PdBqkA

 どうして、国分寺市立第三中学校合唱部?
 中田栄一『くちびるに歌を』の奥付にはだってぇ、「協力:齋藤智子(東京都国分寺市立第三中学校教諭)」とお名前が載っているんだもん。
 それにさ、

 国分寺第三中学校は2014年「NHK全国学校音楽コンクール」東京大会で銀賞に輝いた合唱の名門校。
 最初に、本校の合唱部員24名と合唱部のキャストたちが混声チームを組み、アンジェラ・アキの名曲「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」を合唱、会場に美しい歌声を披露した。
 合唱の迫力を目の当たりにした新垣結衣は
「表情が豊かで一つの話を読んだような充実感があった。すてきでした」と見事な熱唱ぶりに感動しきり。
 心からの拍手を送った。

 また、この日は事前に生徒たちから「いま悩んでいること」についてアンケートを集めており、「将来なりたいもの、やりたいことが決まっていない」という相談を受けた新垣は
「わたしもまだ決まっていません」と答え、笑いで生徒たちの緊張をほぐしてから、
「今すぐ決めなくてもいい。本当に好きなことを見つけてから目指せばいい。でもそれを探すために行動を起こすことは大事!」と真摯(しんし)に回答。
 三木孝浩監督も
「やりたいことは何でもやったほうがいい。後できっとプラスになるから」と生徒たちにアドバイスしていた。

(2015年2月19日 19時04分シネマトゥデイ「新垣結衣、合唱名門校にサプライズ登場!中学生に真摯なアドバイス」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0070776

 実はヤッホー君、昨日の4月8日花まつりの日、「新宿ピカデリー」(新宿区新宿3-15-15 Tel 5367-1144)で映画『くちびるに歌を』の鑑賞をしてきたのです。
(公式サイト)
http://kuchibiru.jp/

 さくら満開、散りかけだというのに、外は冷たい雨、凍えそうなほどのお天気だったのですが、映画館のなかですっかり暖まり、こころはぽっかぽか… 
 上映までまだ時間があったのでうわさの「大勝軒」に行ったというヤッホー君。
 「大勝軒 まるいち 新宿・東南口店」(新宿区新宿3-34-3 Tel 6380-6138)!
 餓鬼で欠食児童のうわさがたかいヤッホー君のこと、つけ麺たのんで、あっさりスープを御代わりまでしてきたと言います。
 だからか、からだが暖(あ)ったまった、というのは…

 4月1日に心不全のため80歳で亡くなったラーメン店「大勝軒」の創業者、山岸一雄(やまぎし・かずお)さんの通夜が4月7日、東京・護国寺でしめやかに営まれた。弟子や常連客ら約600人が参列した。
 境内には全国のラーメン店や系列店などから届いた50本以上ののぼりが立てられた。山岸さんの故郷長野のラーメン店や大勝軒関係者らが考案し、全国のラーメン店に賛同を募った。「ラーメンの神様」として愛された山岸さんらしい“ラーメン葬”となった。

 14年前から家族ぐるみで付き合いのあったタレントの勝俣州和(50)は参列後、「人に笑顔になってもらうためにラーメンを作る人だった」としのんだ。
 関係者によると、「東池袋大勝軒」など直営5店舗はこの日と4月8日の葬儀・告別式を臨時休店にした。

(2015年4月8日05:30付けスポニチ「大勝軒・山岸さん通夜に600人、50本以上のぼりで“ラーメン葬”」)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/04/08/kiji/K20150408010129740.html

 あのぉ〜、大勝軒のつけ麺をいただきましてからだをぬくめたもんで、映画館のふかぶかとした椅子に腰をおろしたら、あの心地よいサウンドと程よい暗さと適当な空調にきっと眠り込んで、いびきでもかきはじめたらどうしよう、と心配したのでしたが、それも杞憂。
 すっかり映画のストーリーに魅せられたヤッホー君。
 いったい、いつになったら、柏木先生はこころ開いて笑ってくれるんだろうと冷や冷や、だったそうで。
 しかし、観終わったあと、頬につたわる涙の滴は、こころにぽっかりと、明かりがともったなによりの証拠。
 さ、逃げないで、再生、出発、前進。
 そう、自分に言い聞かせて映画館を後にしたヤッホー君だったということです。


(注)
 著者の中田永一は、1978年福岡県生まれ。2008年、『百瀬、こっちを向いて』で単行本デビュー。
 この書下ろし小説、全国コンクールをめざす五島列島の合唱部とその家族が織りなす群像を描いた青春小説『くちびるに歌を』で第61回小学館児童出版文化賞受賞!2012年本屋大賞4位!
 単行本刊行時に10万部突破のベストセラーとなった。
 いま、文庫化も。

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2015年04月08日

世界保健デー

 医療支援のNPO法人キューオーエル(仙台市)や東北公済病院(同)などが参加する「医食同源プロジェクト宮城カルテ食堂」は4月15日、新しい食品表示の基準をテーマにしたセミナーを、仙台市青葉区のエル・パーク仙台で開く。宮城大の池戸重信名誉教授が表示制度の概要や課題を話す。
 加工食品について、国は栄養成分の記載を原則義務付ける新しい食品表示の策定を進めている。池戸氏は内閣府消費者委員会食品表示部会の委員を務める。
 会場には、食品のカロリーや塩分などの成分を約5分で測定できる最新の測定機を設置する。キューオーエルの横山英子理事長は「より詳しくなる食品の栄養表示の知識を深めてもらい、低カロリー、低塩分の食生活への改善に役立ててほしい」と呼び掛ける。


 これは4月7日付け河北新報のニュースでした。
 実は昨日4月7日はWHO(世界保健機関)「世界保健デー」ですが、昨日付けの宮城県の新聞報道は、これとの直接的な関係はなさそう。
 でもはっちゃんはマレーシア・ペナンでここんとこ大忙しだったんです。
 そして、記者会見までやりとげました!

GEORGE TOWN: The Consumers Association of Penang (CAP) has warned the Health Ministry, citing increasing evidence of food poisoning cases in the country, that it should strictly enforce the Food Hygiene Regulations 2009. “Studies showed food poisoning can cause over 200 diseases.”

“Food poisoning from harmful bacteria, viruses, parasites or chemical substances caused the deaths of some two million people, mostly children, yearly worldwide,” said CAP president S. M. Mohamed Idris in conjunction with World Health Day. “In the US alone, 48 million food poisoning cases occurred annually, causing an average 3,000 deaths per year.”

“Malaysia has not been spared from fatalities caused by unsafe food. An average 8,000 food poisoning cases are reported yearly in the country. It was only the tip of the iceberg as many cases go unreported.”

He urged the Ministry to conduct regular checks nationwide on food outlets and eateries, including school canteens, canteens in factories, eateries, food caterers and food stalls to ensure that the food was safe to be consumed. He said unhygienic handling, changes in food production, distribution, consumption, environmental changes, new and emerging pathogens, and antimicrobial resistance all posed challenges to food safety systems.

He reiterated that relevant authorities should perform their tasks efficiently and effectively to ensure food hygiene and safety by strictly enforcing the Food Act 1983 and Food Hygiene Regulations 2009.

April 7, 2015
CAP calls for govt action on food poisoning
“Food safety is a major issue that must be taken seriously by the government and definitely, no compromise should be allowed.”
http://www.freemalaysiatoday.com/category/nation/2015/04/07/cap-calls-for-govt-action-on-food-poisoning/

 そうなんです。今年のテーマは「食の安全」!

2 April 2015 -- New data on the harm caused by foodborne illnesses underscore the global threats posed by unsafe foods, and the need for coordinated, cross-border action across the entire food supply chain. World Health Day will be celebrated on 7 April, with WHO highlighting the challenges and opportunities associated with food safety under the slogan "From farm to plate, make food safe."
(World Health Day 2015: From farm to plate, make food safe)
http://www.who.int/mediacentre/news/releases/2015/food-safety/en/

 動画で感じとってみませんか…

WHO: World Health Day 2015, Food Safety - the Global View:
https://www.youtube.com/watch?v=8saaEsV0Th4

 昨日のブログでご紹介した久保亨先生のおっしゃる通り「下からの民主化の経験がない日本」では、こんな大事なわれわれ庶民の「食の安全」までも、上さまに任せっきり。
 あるいは内閣府だったり厚労省だったり、結局は、女将、シツレイ、お上からの数行のお知らせになっているようで。
 日本には上さまや女将とのえさ・首輪・ひも付きでない、消費者 consumer が自発的、能動的に集まってできた非政府の市民組織(NGO)ってないんでしたね、あ〜あ:

 この機会に、厚生労働省が進めている食品安全対策や、食中毒の防止方法などについて確認しましょう
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000078470.html


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2015年04月07日

公文書は文字通りパブリック

 え〜と、もう1週間はゆうに過ぎてしまったのですね、お話しは3月30日のお散歩に戻ることにしまして、ヤッホー君、「工芸館」をあとにして差し掛かったのが「国立公文書館」!

桜.jpg

 ヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの日記をご参照ください:。
☆ 2013年10月29日付け「秘密保護法案」、
☆ 2014年11月05日付け「国立公文書館」
☆ 2015年3月31日付け「JFK」

 1961年1月、43歳で第35代アメリカ合衆国大統領に就任し、颯爽とした雄姿と卓越したスピーチで人々を魅了したジョン・F・ケネディ(1917-1963)は、没後50年を経てなお人々に愛され続け、長女のキャロライン・ケネディ氏の駐日米国大使就任を契機に、改めて日本でもその生涯に関心が高まっています。
 本展では、ケネディ大統領の人生を「若き日の JFK」、「大統領への道」、「ケネディ政権の1,037日」、「1963年11月22日」、「JFKと日本」の5つのテーマで紹介します。出身地アメリカ・ボストンにあるジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館に残された膨大な文書、写真、遺品などを中心に、日本の国立公文書館及び国内関係機関が所蔵する公文書その他の記録を含む貴重な資料と映像により、対立するソ連へ、核戦争のない世界へ、人類未到の宇宙へ、差別に苦しむ人々へ、新しいパートナーとしての日本国民へと、橋を架け続けたケネディの生涯と遺産をたどります。

(国立公文書館、展示会情報)
http://www.archives.go.jp/exhibition/ 

 この国立公文書館、手狭になってきているうえにあの悪名高き「特定秘密保護法」、これからのこの公文書館の行く末に不安感をいだいたというヤッホー君、アタマの整理をかねて三っつの文書をここでファイル化、列挙しておきます。
 まずはこの「展示会」へのスピーチで、不安倍増氏はこんなご挨拶をしていますが、これはすでに敷かれたレールをなぞっているだけ、ですね(2014年11月05日付け「国立公文書館」)(注)。
 コクミンの民意を問うことをしないで、お仲間だけ、身内の閣僚の言葉をなぞっているだけ、ですよね。

 安倍晋三首相は3月5日、東京都内の国立公文書館で開かれたケネディ元米大統領の遺品展の開会式に出席し、「日本の公文書館は(米国の)何十分の1しかない。努力してもう少し立派なものにしていきたい」と述べ、新館建設を含む拡張に意欲を示した。
(2015年03月06日付け毎日新聞東京朝刊「安倍首相:国立公文書館の拡張に意欲」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150306ddm005010119000c.html

 日本は公文書の保存、管理、公開では後進国だ。国立公文書館の保存資料やスタッフ数は欧米、中国と比べて桁違いに少なく、各国の公文書館を利用する歴史学者は皆、日本の立ち遅れを痛感してきた。世界的な情報開示の流れを受けて2001年に情報公開法、2011年に公文書管理法が施行され、法的枠組みがようやく整ったのに、特定秘密保護法は逆行している。外交でも、情報公開した上で自国の立場を説明するのが本来の道筋だ。
 もちろん守られるべき秘密はあるが、現行法制で対応できる。二つの法律の補正、強化が大切なのに、なぜ脅しのような新法が必要なのか。政府は十分に説明していない。行政の長が秘密を指定し、解除の基準もはっきりしないことに、文書管理に携わる現場の懸念も大きい。法案の土台をまとめた有識者会議に、公文書管理の関係者を入れなかったことも非常識だ。
 欧米やアジアでは市民革命や独立運動の後、公文書館がつくられた。自分たちの歴史が文書で記録され、公開される大切さを知ったからだ。しかし下からの民主化の経験がない日本では、パブリック(公)の概念が確立しないまま近代国家のふりをし、公文書への認識も抜け落ちてきた
 国民が情報を獲得してチェックし、行政はチェックされていることを念頭に動く仕組みがなければ、真の民主主義国家とはいえない。秘密保護法の廃止を目指すのはもちろん、同時に、民主社会を支える情報公開で日本がいかに遅れているか、それが国際的な立場をどれほど危うくするものか、国民全体が自覚しなければいけない。

…2013年12月21日付け東京新聞【秘密保護法 言わねばならないこと】(4)歴史学者、信州大教授・久保亨(1953年生まれ)「公文書公開に逆行」

 私は情報公開訴訟の原告として最高裁まで争って敗訴した当事者。情報公開は民主主義の基本の「き」だと思う。
 本来、特定秘密保護法より前に、公文書管理と情報公開のルールづくりが先。行政には記録・保管・公開の三つの原則が必要で、原発事故のときの官邸の議事録が残っていないことにあぜんとした。まず記録することが重要だ。
 保管については国立公文書館があるが、予算もスペースも足りない。地方の公文書の保管は自治体の裁量に任されていて、ばらつきが大きい。一定期間が過ぎると廃棄処分しているところもある。これでは地方史などの研究はできない。
 情報公開では米国の方が先進的。すべての公文書を公開する原則がある。六十年公開で延長も可、廃棄処分も可という秘密保護法は論外だ。公文書は文字通りパブリックのもの。すべての行政情報は聖域なしに歴史の検証にさらされるべきだ。
 施行までに第三者機関を設置するというが、所詮(しょせん)ほころびを取り繕うだけ。政権交代しても自民党時代の内閣官房機密費の使途を民主党政権は追及しなかった。自民党政権に代わったときにも、民主党政権時代の使途を追及しない。「武士の情け」だろうか。これでは特定秘密の検証でもなれ合いになってしまうのではないか。
 秘密保護法廃止への運動を続けるしかない。少なくとも秘密の延長と廃棄の規定は削除すべきだ。そして、秘密保護法の上位法として公文書管理法や情報公開法をしっかり改正すれば、悪法を縛ることができる。

…2014年2月4日付け東京新聞【秘密保護法 言わねばならないこと】(13)NPO法人「WAN」理事長、社会学者、立命館大教授・上野千鶴子(1948年生まれ)「悪法縛る手だてを」


(注)またしても国会議員スキャンダル
…私は、かねてから、報道の自由、表現の自由は、国民の知る権利に資するがゆえに、憲法上、優越的な地位をあたえられ、最大限尊重すべきだと主張してきました。しかし、今回の週刊新潮の記事は、私が取材に応じて明確に説明し、それを踏まえて確認の取材をすれば虚偽であることが一目瞭然であったはずであり、それにもかかわらずあえて報じたということは、私の名誉を毀損するために意図的に為されたとしか解しようがなく、これは、もはや表現の自由と呼ぶに値するものではありません。繰り返しになりますが、裁判上の措置をとることとしたいと考えております…
(平成27年3月26日(木)14:30〜於:党本部記者会見場、稲田朋美政務調査会長記者会見)
https://www.jimin.jp/news/press/chairman_prc/127410.html

 《週刊新潮最新号2015年4月9日号(2015/04/02発売)目次》:
 「政調会長」記者会見ではウソをつき通して恥じず!
 弁護士バカの夫は記事を見ないで「裁判! 裁判!」
「ともみの酒」は無免許の販売業者から購入!
「選挙民に日本酒贈呈」をない事にした「稲田朋美」政調会長
http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/newest/
https://www.youtube.com/watch?v=88bKT_9plM0


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2015年04月06日

エリーゼ・ヴィーゲルト

 4月5日日曜日「清明」されど春雨が細いながらも朝から降りやまず。
 本来なら山歩クラブ番外編、電車で行く山行日なんですが、雨天中止の連絡をメンバー6人にさせていただきました。
 雨もまたよし、雨が降ったら濡れればいいか、と思う反面、展望が得られないだろうな、雨で途中気持ちが萎えてしまい頓挫ってことだってあるしな、なかには雨は嫌だと公言して憚らないメンバーもいるし、と苦渋の選択。
 え〜い、こうなったら山の頂で食べるはずの弁当を一気に平らげ、図書館へ。読書、読書、晴耕雨読だ〜い!
 ヤッホー君のこのブログ、3月27日付けブログ「それからのエリス」続編の巻〜!
 だって、桜「舞姫」があり、『能久親王事蹟』があって、散策路には涙ならぬ花びらがはらはらと落ち、川面には花筏なんだもん、結局エリスはどうなったの?
 『舞姫』が民友社社長の徳富蘇峰の依頼を受け執筆し『国民之友』に発表したのは、1890(明治23)年。
 『能久親王事蹟』が春陽堂から刊行されたのは、1908(明治41)年6月29日。
 この間の雨模様ならぬ男、鴎外の心模様いかに…
 頼るは、「エリス探し」に疾走する女性研究者、六草いちか。
 まるで映画をみているよう…

 このお話しは新聞にも取り上げられたほど:、

 森鴎外(1862-1922)の代表作「舞姫」のヒロイン、エリスのモデルとみられる女性の写真が見つかった。
 ベルリン在住の作家、六草(ろくそう)いちかさん(50)が、写真を保管していた親族を捜し出し、入手した。
 鴎外は1884〜1888年にドイツに留学
 体験を基に1890年、「舞姫」を発表した。
 エリスのモデルをめぐっては、鴎外を追って来日(注1)した際の乗船名簿から、実在の女性「エリーゼ・ヴィーゲルト」(注2)とされてきた。
 六草さんは、ドイツの教会での洗礼の記録などから、エリーゼが1866年9月、現ポーランドに生まれた女性であることを突き止め、2011年に発表した。
 その後六草さんは、古い電話帳などからドイツ国内の親族の住所を割り出し、写真にたどり着いた。
 写真は絵はがき大で、裏面への書き込みから1908〜1918年ごろに撮影され、エリーゼが41〜52歳のころとみられる。
 夫のマックス・ベルンハルドと写っていた。
 六草さんは今回の調査の詳細を、2013年9月3日刊行の『それからのエリス』(講談社)(注3)にまとめている。

(2013年08月30日付け毎日新聞大阪朝刊、棚部秀行「森鴎外:舞姫「エリス」の面影 ベルリン在住作家、親族から写真入手」)
http://mainichi.jp/feature/news/20130830ddn041040007000c.html

 その年、読書の秋もふかまって、書評も:

…ここで前著以来たびたび救いの手をさしのべてきた「墓地の彼女」が六草氏を叱咤し、偶然につぐ偶然というか、怒濤の展開がはじまる。そして人知を越えた流れに押し流されたというか、何かに引き寄せられたというか、ついにエリーゼの親族にたどり着き、「行商人」の妻とはかけ離れた生活をしていたと知ることになるのである。

 決定的なのはエリーゼが日本に行ったことがあると一族の間で語り継がれていたことだ。これまでテレビの取材でエリスの親族とされる人が二度出てきたことがあるが、日本に行った話を聞いたことがあるかという問いにどちらも知らないと答えていた。120年も前にドイツから娘一人で日本に旅行するのは大事件であって、語り継がれないはずはないのだ。

 読者の中には最後の100ページの幸運の連続は信じられないという人がいるかもしれない。しかし取材していると、人知を越えためぐりあわせのようなことがままあるのである。わたし自身、どうしても入手できなかった資料が向こうの方から飛びこんできたという経験が一再ならずある。

 エリスをさがす六草氏の探索は大団円をむかえた。海外送金など不明な点はいくつか残るが、120年前のことだからしかたないだろう。よくぞここまで真相に迫ったと拍手を贈りたい。

(2013年11月30日KINOKUNIYA書評空間BOOKLOG、文芸評論家・加藤弘一(1954年埼玉県生まれ)六草いちか『それからのエリス』講談社)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2013/11/post_374.html

 そしてその草木もなびかせた六草いちか氏八犬伝を読み、感動したお医者さまは講演依頼を:

 六草いちか氏が明らかにした鵬外とエリスの真実は、私に大きな衝撃と興奮をもたらした。私はすぐに六草氏に手紙を書いた。六草氏のべルリンの住所は不明なので、出版社である講談社気付で手紙を出した。長崎での講演の依頼である。返事はすぐにメールで来た:

 講談社編集部気付でお送りくださいましたお手紙、拝受いたしました。
 六草いちかと申します。ご丁寧にありがとうこざいます。大変嬉しく拝読いたしました。講演のご依頼をありがとうございます。謹んでお受けしたく思っております。講演内容は、いくつかのパターンがございますが、次の二つのうちのいずれかが良いかと考えております。

パターン1:写真や地図などをふんだんに用い(使用画像100点以上)、鴎外の留学時代のべルリンを『舞姫』の記述に沿って再現するという内容。

パターン2:3分の2の時間帯で上記同様の内容を行い、残りの3分の1で続編の内容や執筆や出版に関する裏話などを紹介していくというもの。

これまでは主に「パターン 1」を行っておりましたが、昨年9月の東京椿山荘および12月のベルリンのマリオツトホテルで開催された出版記念講演は「パターン2」で行ないました。東京椿山荘では一般の方をはじめ、森家や鵬外研究者、出版関係者の方々も多くご参加くださり、大変評判がよかったと伺っております。マリオツトホテルでは日本大使ご夫妻がお越しくださり、また、大使館から公使や書記官のご参加も多く、そのほか日本商工会や日独センターや日本人学校など日系関連諸機関の代表者も多数ご来場くださり、大変好評のようでした。
 所要時間(正味の講演時間)は通常は90分ですが、ご要望によって短くすることも可能です。
 ご検討いただけましたらと存じます。よろしくお願い申し上げます。
六草いちか拝

(2004(平成26)年6月、長崎県医師会穀第821号、長崎大学医学部産婦人科教授・増崎英明「鴎外の恋人」)
http://www.nagasaki.med.or.jp/kaiho/kaiho-No.821/kaiho821-66-69.pdf


(注1)1888年9月12日〜10月17日
(注2)Elise Wiegert(1866-1953、86歳で没)
(注3)六草いちか氏は掲記著書にて、鴎外が千葉の別荘「日在」で1911(明治44)年に書いたといわれている小説『妄想』を引用している(293頁):

 かくして最早幾何もなくなつてゐる生涯の残余を、見果てぬ夢の心持で、死を怖れず、死にあこがれずに、主人の翁は送つてゐる。
 その翁の過去の記憶が、稀に長い鎖のやうに、刹那の間に何十年かの跡を見渡させることがある。
 さう云ふ時は翁の炯炯たる目が大きく睜られて、遠い遠い海と空とに注がれてゐる。
(鴎外全集第8巻、岩波書店、1972年)217頁


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2015年04月05日

工芸館

 「憲政記念館」の後、春の陽気に誘われ、さらに足取りも軽く「東京国立近代美術館工芸館」へ。
 先月3月30日月曜日の「お花見散歩」からまだ離れられませんねぇ〜!

工芸館遠景.jpg

工芸館内部.jpg

 工芸館は、近代美術の中でも工芸およびデザイン作品を展示紹介する、東京国立近代美術館の分館として、1977(昭和52)年11月15日に開館しました。
 建物は、1910(明治43)年3月に陸軍技師・田村鎮(やすし)の設計により、旧近衛師団司令部庁舎として建築されました。
 明治洋風レンガ造り建築の一典型として重要文化財に指定されています。

(工芸館の紹介)
http://www.momat.go.jp/CG/introduction.html

 工芸館はもともと「近衛師団司令部庁舎」だったんですねぇ〜。

工芸館玄関.jpg

 1910(明治43)年に建設された庁舎なので、1915(大正4)年2月〜1916(大正5)年2月に近衛師団長を務めていた秋山好古の勤務場所でもあります。

 1945(昭和20)年8月15日、終戦に反対する将校が近衛師団長を殺害し、玉音放送の録音盤を奪おうとしたクーデター「宮城事件」(注1)の舞台にもなった場所です。

 師団司令部前にあるこの躍動感ある騎馬像は北白川宮能久親王の銅像です。
 上野寛永寺貫主であった頃に起きた上野戦争で彰義隊に擁立され、その後さらに奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された人物です。
 維新後は陸軍軍人となり、1995(明治28)年に台湾征討近衛師団長として台湾に出征した際に、マラリアに罹り台南で亡くなっています。

(旧近衛師団司令部庁舎)
http://www.sakanouenokumo.com/konoesidan_sireibu.htm

 工芸館を出ると、なにやら銅像が…
 そうですか、「北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)銅像」だったんですねぇ〜。
https://www.youtube.com/watch?v=N0MYtlOCejQ
 え〜と、上野公園に建てられている銅像は「小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひと しんのう)銅像」でしたぁ〜。
 ここで整理しましょうねぇ〜。

 明治維新の功労者であり、会津征討の総督(東征大将軍)に任じられ、日本赤十字社にも貢献された、伏見宮邦家親王の第8王子「小松宮彰仁親王」(仁和寺宮純仁法親王)の騎馬像です。
 輪王寺第13世門跡で寛永寺第15代山主の公現法親王(還俗後、北白川宮能久親王)は、小松宮様の弟宮にあたられます。

(上野恩師公園)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/toubuk/ueno/midokoro.html

 はっ、そうでしたか…と するってっとぉ〜…
 弟宮(1847-1895)は、「彰義隊に擁立され、その後さらに奥羽越列藩同盟の盟主」に、
 兄宮(1846-1903)は、それを討つ「会津征討の総督(東征大将軍)」に。
 そうなんです、そしてあの森鴎外が北白川宮能久親王の伝記まで書いておりました:

 ところで森鴎外は1908(明治41)年6月29日、春陽堂から『能久親王事蹟』という伝記を編集者として刊行している…
 この本は、北白川宮能久親王が近衛師団長として台湾に渡航した際、部下であった陸軍大将川村景明(1850-1926、旧薩摩藩)子、同中将阪井重季(1847-1922、旧土佐藩)以下の有志が東京偕行社(注2)内に棠陰会を組織し、宮内省及び宮家から親王の記録その他資料を借り受け、鴎外に編纂を委託して作成されている。
 数年後の脱稿ののち、仮印刷に附して宮家以下多くの人びとの校閲を経て、更に訂正を加えて刊行された。

…目野由季「頼まれ仕事・史伝―明治31年から始まる鴎外史伝―」(文学研究論集第15号、1998/03)


(注1)
 天皇と天皇の住まいである皇居(宮城)を守護する部隊、近衛師団。
 その起源は、明治初めにまでさかのぼる。
 明治維新直後の1871年(明治4年)、薩摩・長州・土佐の三藩から兵士を集め「御親兵」が組織され、その武力を背景に明治政府は廃藩置県を断行した。翌年、「御親兵」は「近衛兵」に改称。1874年には、二つの近衛連隊が誕生し、1891年に近衛師団となる。
 通常の連隊や師団は郷土部隊として一定の地域から兵を募るのだが、近衛師団は全国から兵士を選抜する、いわばエリート集団であった。兵士にとっても、その故郷の町や村、家族にとっても、近衛兵に選ばれるということは大変な名誉であった。
 しかし、この近衛師団は、2度にわたってクーデター事件に関わってしまう。
「二・二六事件〜高橋是清蔵相襲撃〜」
(略)
「宮城事件〜終戦当日の皇居占拠〜」
 昭和20年8月14日。
 御前会議でポツダム宣言の受諾が決まると、一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が、終戦に反対し、徹底抗戦を叫びクーデターを起こそうとした。
 彼らは、近衛師団を動かそうとするが、森赳(たけし)近衛師団長は、蜂起に加わるよう説得に来た将校たちに対してこれを強く拒否。
 彼らは森師団長を殺害した上で、偽造の命令によって近衛師団の部隊を動かし皇居を占拠、外部と遮断した。
 さらに、天皇が終戦の詔勅を読み上げた「玉音放送」の録音盤を奪おうとする。
 しかし、録音盤を見つけられないまま、このクーデターは東部軍管区によって鎮圧された。
 翌日の正午、玉音放送が行われ、終戦の事実は広く伝えられた。
 ニセの命令とは分からないまま、反乱に参加させられた元兵士たちの証言である。
(NHK「二度のクーデター事件に関わったエリート兵団」)
http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/special/vol1.html

(注2)
 偕行社(かいこうしゃ)は、明治10年(西暦1877年)2月15日、陸軍将校の集会所として設立され、大東亜戦争の終戦まで、陸軍将校の修養研鑽と親睦団結の場として全将校の醵出により運営されていた。
 なお、偕行社は敗戦によって解散させられたが、昭和27年(西暦1952年)に再び、元将校や遺族間の親睦会的な組織として再発足している。
 戦後は軍籍を離れた陸軍将校の英霊奉賛と戦争犠牲者救済、親睦のために財団法人となり最近陸、空の元幹部自衛官有志も会員に併せて次の時代への継続を意図してる。
 九段の偕行社跡は、現在、東京理科大学校になっている。靖國神社の鳥居の正面にある。
 偕行社の由来は「偕行」の意味は「共に行く」ということで「なんじと偕に行かん」(君と一緒に行こう)。
 また、中国の詩経には、興子偕行(二人でいこうぜその時は)などがある。
http://edo.pro.tok2.com/edo/kaikosya.html

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2015年04月04日

憲政記念館

 「三宅坂小公園」の次に向かったヤッホー君の足、それは「憲政記念館」!

憲政記念館.jpg

 行って見たかった「憲政記念館」!

 憲政記念館のメイン、2階展示室。憲政史に名を刻む先達の肖像画を指して、地声の大きな村上さん(注1)が声を高めた。大正時代、立憲主義に基づく護憲運動を展開した尾崎行雄、尾崎とともに運動を主導し、後に5.15事件(1932年)で殺害された犬養毅、2.26事件(1936年)の翌年1937年、軍部の台頭と言論の自由への圧迫を批判した浜田国松……2.26の4年後の1940年、泥沼化する日中戦争を巡り「反軍演説」をして衆院議員を除名された斎藤隆夫も並ぶ。

「特に斎藤、浜田両先生はあの暗い時代に堂々と正論を述べた。それが今はどうだ。憲法9条や歴代の政府見解をどうひっくり返したって日本は集団的自衛権を行使できないのは明白だ。それを『カラスは白い』と強弁するのと同じ、無理やり解釈を変えた。憲法の破壊と言わずして何と言うのか。これに異を唱えないのでは政治家として両先生に顔向けできない」

 1986年の初当選後、所属したのはその斎藤隆夫と同郷、兵庫県の河本敏夫・元通産相の派閥だ。河本氏は1930年、旧制姫路高校時代、教練中の陸軍兵士に向かって反戦平和を訴える演説をし、学校追放、実家も勘当された。

「少数でも正しいと思ったことは言う。それが河本派の伝統だよ。それなのに……」

 民主党に惨敗した後の2010年「もう派閥に所属する意味はない」と(高村派を)退会した。当時の派閥トップは今回の解釈改憲で中心的に動いた高村正彦副総裁。

「高村さんも昔は郵政民営化に反対して骨があったが、変わったなあ。今では弁護士出身とは思えない憲法解釈に走ってしまった」 淡々と語る。

(2014年07月25日付け毎日新聞東京夕刊、吉井理記「特集ワイド:続報真相 無理な解釈改憲、来るぞ《倍返し》自民党でただ一人、首相批判展開 村上誠一郎氏と歩く憲政記念館」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140725dde012010008000c.html

 1940年、兵庫県選出の代議士(立憲民政党)で衆院を除名された斉藤隆夫(1870-1949)…どれどれ…
 「粛軍演説」:
https://www.youtube.com/watch?v=oD1470HX95E

 1940年、除名に反対にまわったのが奈良県選出の北浦圭太郎(1887-1954)(かつて斉藤と同じ立憲民政党に所属していたことがあった。そのときは民政党を離党、院内会派の第一議員倶楽部に所属)。
 その北浦圭太郎を次のように評価しているもうひとりの政治家、滝まこと(1938年生まれ)(2012年政界を引退)もご紹介:
 
 滝まことは衆議院本会議で憲法改正手続きを定める国民投票法案について質問した(注2)。その際に日本国憲法が憲法改正に国会で3分の2以上の議決に加え国民投票を要件としている背景には、1938(昭和13)年「国家総動員法」の成立を契機に、翼賛議会が続いた歴史への反省があると指摘した。
 これは奈良県選出衆議院議員の北浦圭太郎先生を念頭においたものだ。北浦先生は、日本国憲法案を審議する1946(昭和21)年6月26日の衆議院本会議ですばらしい発言をされた。議事録から以下に引用する。


『戦時中に於て国家総動員法と言う実に奇怪千万な法律がありました、是は今も其の一部分は施行されて居りますが、この関係法規を集めて見ましただけでも、恐らくは十万以上の箇条に達すると私は思って居ります、この数の多い法規に依りまして、盛んに戦時中国民を捕縛して監獄に抛り込んで、所謂陥穿を設けてそれにどしどし国民を陥れ、さうして軍閥官僚共は戦に勝つことを信じて居ったのであります ……
 法律、規則を蜘蛛の巣の如くに張り巡らしておいて、国民に生活の糧を与へず、さうして歴代の司法大臣は声高く社会の害悪は厳重に処罰するぞと仰しゃる、是では新日本の再建も前途遠しと言わなければならぬ ……
 新憲法を実際に運用するのには可なりな困難が伴ひます、例へば内閣が議会に責任を帯びるのだと書いてございまするが、責任を帯びる其の内閣は其の時の議会の大多数であるに相違ありませぬ、色々な不都合が起るに相違ありませぬから、政府はこの際 …… 民より成る実地運用研究調査の為に若干の調査委員を英米に派遣するの意思はないか …… 国家の将来の為に切望する次第でありまする ……』


 議院内閣制の下にあっては内閣の暴走を議会が止めることができない恐れがあると指摘しているのは、流石である。英米では内閣や大統領と議会の間に権力を相互にけん制するシステムがあるはずだからそれを調査し日本も採り入れるべきだという。
 その恐れが現実になったのが昨年の郵政民営化法案を巡る問題だ。
 先生が日本国憲法案の審議で内閣と議会の間の相互けん制システムの必要を強調されたのは、1938(昭和13)年に軍閥の要求による国家総動員法が成立し、議会も完全に軍閥を翼賛する機関になったときを経験したからであろう。
 それは1940(昭和15)年2月の衆議院で斉藤隆夫議員が近衛内閣の中国国民政府を相手にせずとの声明の変更を求める演説に軍部が反発し、議会が斉藤議員を除名した3月7日である。このとき大半の議員が除名に賛成したなかで、反対したのは7名に過ぎず、北浦先生はそのなかの1人であった。
 先生の生年は奈良県、大阪府の小学校訓導の後、検事に転身、さらに衆議院議員に。戦後は第1次吉田内閣の司法政務次官を勤め、吉田茂首相の日本自由党の重鎮であった。

(2006年6月6日滝まこと公式サイト「北浦圭太郎先生を顕彰する」)
http://www.taki-makoto.jp/merumaga_img/merumaga_18.html

 ふ〜「憲政記念館のメイン2階展示室」でヤッホー君、イマの政権をけん制するためにも、もっと《憲政》を知っておかなくっちゃ、とビデオコーナーで映像を見て、展示物をしげしげと拝見(注3)。
 それから1階におり、もういちど池のなかの「咢堂 尾崎行雄」像を見やりました。

尾形行雄.jpg

 すると像の前の石碑。
人生の本舞台は常に将来に在り』とあ〜るじゃぁ〜あ〜りませんか。

 これは、憲政の神と呼ばれた政治家・尾崎行雄の言葉です。
 尾崎は75歳(満年齢)のとき、三重を遊説中に風邪をこじらせ中耳炎を併発。心身共に疲弊する中、まるで天からの啓示のごとく、突然この言葉が浮かび上がったといいます。
「昨日までは人生の序幕に過ぎず、今日以後がその本舞台。過去はすべて人生の予備門で、現在以後がその本領だと信じて生きる」―という人生観です。
 知識や経験は、年を重ねるたびに増えていくもの。そして昨日までに得た知識・経験を、今日以後に生かす。昨日は今日のための、今日は明日のための準備・トレーニング期間だということです。
 増え続ける知識・経験を、未来に生かし続ける― この発想は、年齢に関係なく、私たちの思考を常に前向きなものにしてくれます。
 知識や経験に無駄なものなどありません。たとえどんなに大きな悲しみ、後悔、迷い、悩みであっても、考え方・生かし方ひとつで、次の一歩を踏み出すための大きな「糧」になります。一つの目標を達成したとき、それに満足して立ち止まるのではなく、その達成を、次の目標に向けた準備と捉える―やりがい、情熱が絶え間なく生み出され、気力がみなぎってきます。

(尾崎行雄記念財団理事・事務局長、石田尊昭公式サイト「座右の銘」)
http://ishidat.jimdo.com/座右の銘/

 イマ、ヤッホー君、田村重信編著『尾崎行雄・咢堂塾政治特別講座講義録』(内外出版、2013年)に読みふけっています。


(注1)
2014年6月に村上誠一氏(1952年生まれ、先の12月の総選挙で10選。愛媛2区)は、集団的自衛権の行使容認に向け公明党との協議を続ける自民党内にあって、一人、異議を唱え続けているほか、特定秘密保護法にも反対していたことで知られる。
(2014年06月30日 11:54BLOGOS編集部)
http://blogos.com/article/89500/
(注2)
衆院本会議(2006(平成18)年6月1日)。当時滝まことは、国民新党・日本・無所属の会。
http://www.taki-makoto.jp/ayumi.html#kenpo
(注3)
 イマの国会議員、カネ(政治資金不正)、イロコイ沙汰(路上キス)、遅刻、欠勤とその劣化には、すさまじいものがあります。しかし猛獣に対し盲従、飼いなされたペット、紐ぶらさげた番犬、羊の群れ化しているわれわれ、怒る人を見かけなくなったちょっとアブナイ事態。昨日も、今日も:
「維新の党の上西小百合衆院議員(31)=比例代表近畿ブロック=が衆院本会議を欠席した問題で、地域政党・大阪維新の会は4月4日、上西氏を除名処分にすると発表した」
(毎日新聞「衆院本会議欠席問題 維新の党も処分を検討へ」)
http://mainichi.jp/select/news/m20150404k0000e010195000c.html

「今回の問題で、上西氏が地元大阪で、記者からの直撃取材を受ける様子の一部始終がこの日、フジテレビ系情報番組で報じられた。上西氏の関係者とみられる男性が、上西氏をがっちりガードした。車に乗り込む際には、「人の車当てたらどうするのや、オラ」「おまえワシの車に当たっとんじゃコラ」など、激しい口調で記者に抗議する男性の声も放送された。上西氏も「取材拒否ですから。映さないで」などと答え、車に乗る際は助手席のドアを激しく閉めるなどしていた」
(日刊スポーツ「上西氏関係者の男性が声荒げ「オラ」「コラ」」)
http://www.nikkansports.com/general/news/1456076.html

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2015年04月03日

江戸城内濠

 3月30日月曜日のお花見。
 ヤッホー君はミラーレスのデジカメを抱え、国立劇場を出ると三宅坂交差点の方へと足をのばします。
 すると「三宅坂小公園」でいきなり目に飛び込んできたものがあります。
 イマから220年以上も前の「渡辺崋山誕生地」:

渡辺崋山.jpg

 ここに三河田原藩の上屋敷が、かつてありました。
 渡辺崋山は、名を定静、通称を登といいます。
 三河田原藩三宅家の藩士の息子として、1793(寛政5)年に上屋敷内の長屋で生まれました。
 文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。
 1842(天保3)年に年寄役末席となり海防掛を兼務して以来、小関三英や麹町に塾を開いていた高野長英らと蘭学研究を始め、尚歯会を結成しました。
 1839(天保10)年、いわゆる「蛮社の獄」により捕縛・投獄され、同年12月に在所蟄居を命ぜられ、田原に向かうまで、40年余りをこの地で過ごしました。


「蛮社の獄」
 幕府は、鳥居の密偵によって崋山らの無人島渡航計画の噂を知り、1839(天保10)年5月、崋山、高野長英ら10数名を捕らえました。
 渡航の罪は晴れたものの、崋山は机底から見つけられた「慎機論」、長英は「戊戌夢物語」が幕政批判という重罪となり、崋山は、在所田原へ蟄居、長英は永牢となりました。
… 
 蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。
 崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。
 しかし、その活動により、1841(天保12)年夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は、死を決意しました。
不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の多彩な生涯を終えました。

(「田原市博物館」愛知県田原市田原町巴江11-1 Tel 0531-22-1720)
http://www.taharamuseum.gr.jp/information/access_map.html

 へぇ〜、と振りかえれば、女性の裸体像が…、そしてその向こうにさきほど通ってきたばかりの「最高裁判所」が…

広告記念像.jpg

 イマから65年前に建てられた「広告記念像」でした:

 広告がわが国の平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。
 わが社は1950(昭和25)年7月1日、その創立50年を自祝し、過去半世紀を回顧して、これを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。
西暦1950年 株式会社 日本電報通信社


 これは「日本電報通信社」創立50周年記念像。
 「日本電報通信社」ってどんな会社? 1950年からさらにさかのぼること50年、いったい何があって、どうなったでしょうか:

 有楽町の駅から晴海通りを和光のほうへ向かうと、左側に「銀座松崎」という老舗の煎餅屋がある。この一帯がまだ東京市京橋区弥左衛門町と呼ばれていた時代、この店の数軒北側に、間口二間、奥行き三間の小さな二階家があった。20世紀開幕の年である1901(明治34)年7月1日、この二階家の1階で、社員7〜8名の小さな会社が産声を上げた。6畳と2畳のわずかふた間からスタートしたこの会社が、21世紀の開幕を待たずに世界一の広告会社になろうとは、まだ誰も知る由もなかった。
 電通の創業者・光永星郎は、明治の中頃に民権運動の渦中に身を投じた政治青年で、20代の時新聞記者となり、日清戦争では特派員として従軍した。そうした体験から、やがて光永は正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を思い立った。しかし、通信業単独では採算がとれそうもない。光永はまず通信業のための経営基盤を確立しようと、1901(明治34)年7月1日、新聞社に広告を取り次ぐ日本広告株式会社を創立。冒頭に記したように、2階建ての小さな借家からのスタートだった。

 日本広告創立から4カ月後の1901年11月、光永は個人経営の形で電報通信社を設立し、念願であった通信業をスタートさせた。当時の通信社は、ほとんどが政党や政治家の機関的通信社であったが、光永が目指したのは、不偏不党で正確迅速なサービスを行う通信社であった。こうした特色は信頼を高め、電報通信社の業績は急成長を遂げる。電報通信社を創業して5年目、光永は事業の将来に確かな自信を感じ、通信業と広告代理業の一体経営化を決意。1906年12月27日、株式会社日本電報通信社(以下、電通と略記)を設立し、電報通信社をこれに吸収、次いで日本広告株式会社を合併して、本格的な電通の併営体制がスタートした。

(man@bow(まなぼう)先駆者たちの大地)
http://manabow.com/pioneer/dentsu/1.html

 ヤッホー君、さらに足をのばした「千鳥ヶ淵公園」には「自由の群像」。

自由の群像.jpg

 これも同じく「電通」関連でした: 

 新聞紙は現代人の生活必須の要器である。我国の新聞事業が日本の進歩福祉に貢献したるもの極めて多大である。仍て我国の新聞事業先覚者二十名を検証し、茲に自由の群像を建立す。其の銓衡は現在事業の代表的人士の衆議に諮り公正審重である。
 是れ株式会社電通が創立五十周年に際会し、斯界に盡さんとする微意か。
西暦千九百五十五年 昭和三十年十一月三日

蘇峰 徳冨猪一郎 撰 緒方竹虎 書



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2015年04月02日

「十六年はひと昔」

  第五福竜丸被災事件の2日後の1954年3月3日、中曽根康弘改進党代議士のイニシアティブで2億3500万円の原子炉築造予算が政府予算案の修正の形で唐突に国会を通過した。
 2億3500万円は「ウラン235」からとられたものと言われる。
 中曽根氏は、前年1953年、キッシンジャーが取り仕切るハーバード大学での「夏季国際問題セミナー」に参加し、アメリカの国際原子力戦略への理解を深め、原子力研究に慎重な日本の学界を政治の力で変えて日本への原発導入を進めることを決意していた。
 産業界では、正力松太郎読売新聞社主がアメリカ国務省と連携し、1955年11月には東京・日比谷で「原子力平和利用博覧会」を開催して35万人を動員、翌1956年にはこれを全国展開、ビキニ水爆被災事件を契機に反核世論が燃え盛る中で、原子力平和利用キャンペーンを繰り広げた。
 当時、人形峠(岡山と鳥取の県境)でウラン鉱床が発見されたことも、原子力推進派の後押しをした。


 その後、…

 1956年6月に、日本原子力研究所(原研)が正式発足した。
 こうして原子力予算の登場以来、2年余りで日本の原子力研究体制の基本が整うことになる。
 原研は曲折の末、茨城県東海村に研究所をおくことになった。
 そして、とりあえず原子炉をということで、アメリカからウラン溶液を燃料とする水均質型研究炉を購入することになり、1956年8月から工事がはじまった。
 工事は急ピッチで進められ、1年後の1957年8月27日、日本で最初の原子炉に火がともったのである。

(京都大学原子炉実験所、原子力安全研究グループ(注1)「原子力の歴史を振り返って、幻の原子力平和利用」)
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/100/PDF/history.pdf

 ところで、1954年3月3日の原子力予算の国会通過に言及した安斎育郎先生は江東区内の小学校を卒業!

 筆者は、太平洋戦争直後の1947年、疎開先である福島県二本松の小学校(二本松小学校)に入学し、やがて東京都江東区深川の小学校(江東区立平久小学校)に転じた。
 小学校教育を通じて、広島・長崎の原爆被害について学んだ記憶もなく、戦争から生還した4人の兄たちや父母も含めて、原爆について語ったことを聞いた記憶もない。
 中学校時代の1954年にはビキニ水爆被災事件の時期を生きたはずだが、「放射能雨」についての断片的記憶はあっても、放射能の恐怖などについてとくに濃密に学んだという記憶もない。
 筆者が1962年に東京大学工学部原子力工学科第1期生となることを選んだ背景には、1959年5月、東京・晴海で開催された「第3回国際見本市」で展示されたアメリカの原子炉を見たことが関係している。
 いわば、中曽根─正力ラインによって作り出された原子力平和利用の世論形成の影響を受けた一人といえなくもない。

(安斎育郎・立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長 安斎平和科学・平和事務所(注2)所長)
 2011年10月14日に立命館大学で開催されたアジア・太平洋平和研究学会 Asia Pacific Peace
Research Association, APPRA における筆者の基調報告“Agenda for Peace Research after 3.11”(3.11後の平和研究の課題)をもとにしたファイル
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/publication/journal/documents/13_p11.pdf

 その後、1999年9月29日、東海村JCO臨界事故が起こります。
 放射能の恐怖:
https://www.youtube.com/watch?v=0iHLJQTygkI

 その1999年から16年後の2015年3月30日、ヤッホー君は国立劇場にお花見。
 そこで、こんな立札を:

 市川團十郎丈を偲んで
 十二代目市川團十郎が平成25年2月3日に逝去されたことに哀悼の意を表します。
 国立劇場では1968(昭和43)年7月の初出演以来、59回の公演に出演いただき、記憶に残る名舞台を見せていただきました。
 1912(平成24)年3月記念公演『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の幕切れで、
今ははや、なに思うことなかりけり。弥陀の御国へ行く身なりせば、十六年はひと昔。夢だ、ああ夢だ
と涙を流すと、
「ほろりとこぼす涙の露、柊(ひいらぎ)に置く初雪の日影に融ける風情なり」
と竹本の大夫が情景を語ります。
 幕が引かれ、三味線の音につれて、熊谷は花道を退場します。
 これが團十郎丈の国立劇場歌舞伎公演最後の舞台姿となってしまいました。
 ここに生前のご貢献に対して深甚なる感謝の意を捧げ、心よりご冥福をお祈りいたします。
2013(平成25)年3月5日


 そう、「熊谷桜」の前ですが、まだ若木ゆえ本日はこれを:

国立劇場.jpg


(注1)
大阪府泉南郡熊取町、京都大学原子炉実験所、原子力安全研究グループ
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/
(注2)
安斎科学・平和事務所、京都市下京区東塩小路町547-4ステーションコートヤード802
http://asap-anzai.com/


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2015年04月01日

核のない世界は日米共通目標か

 JFKの演説をお聞きいただけましたでしょうか。
 このように明快に”A Strategy of Peace”を語ることができるのかオバマ氏、
 キャロライン氏が「父のような大統領になれる人」だったはずのオバマ氏、
 ムカシ、ノーベル平和賞までもらっていたオバマ氏、
 なんか、こころなのかギアなのか「チェンジ」してしまっていたようですね。
 昨年2014年9月21日付けニューヨークタイムズ紙には、こんなことを書かれてしまいました。

KANSAS CITY, Mo. − A sprawling new plant here in a former soybean field makes the mechanical guts of America’s atomic warheads. Bigger than the Pentagon, full of futuristic gear and thousands of workers, the plant, dedicated last month, modernizes the aging weapons that the United States can fire from missiles, bombers and submarines.

It is part of a nationwide wave of atomic revitalization that includes plans for a new generation of weapon carriers. A recent federal study put the collective price tag, over the next three decades, at up to a trillion dollars.

This expansion comes under a president who campaigned for “a nuclear-free world” and made disarmament a main goal of American defense policy. The original idea was that modest rebuilding of the nation’s crumbling nuclear complex would speed arms refurbishment, raising confidence in the arsenal’s reliability and paving the way for new treaties that would significantly cut the number of warheads.

…William J. Broad reported from Kansas City, Mo., and David E. Sanger from Washington. "U.S. Ramping Up Major Renewal in Nuclear Arms", NYT, SEPT. 21, 2014

 ビックリなさった方は次のようなコメントを表します:

As president and about nuclear weapons, John Kennedy stated: “The world was not meant to be a prison in which man awaits his execution.”

President Obama should reverse course on nuclear weapons, support the UN General Assembly resolutions on nuclear disarmament that will be issued next month at the United Nations, and announce the start of serious, good-faith negotiations on global nuclear disarmament in compliance with his legal obligations as stated in the Nuclear Non-Proliferation Treaty(NPT).

…Howard Friel, ”Obama’s Commitment to Nuclear Weapons Violates the Nuclear Non-Proliferation Treaty", Global Research, November 20, 2014
 
 この戦略変更には、あのブッシュ氏以来の「使える核兵器」狙いもあるのかな、プルトニウムも売れるほど余ってるでしょうし:

 ブッシュ政権のNPR は、冷戦期との相違を強調している。「ならず者国家」には抑止が効かない恐れがあるとし、冷戦中のように核抑止に大きく依存できないという判断がある。しかし、核抑止への依存度を軽減することと、核兵器の軍事的役割が小さくなることとは必ずしも同一ではない。
 「9.11 テロ」の後、米国はテロ集団やテロ支援国が地下施設に配備する大量破壊兵器などを破壊するため、小型核爆弾の開発を検討しているといわれている。また、新聞報道によれば、有事の際の核使用計画(極秘文書)において、核攻撃の対象として中国、ロシア、イラク、北朝鮮、イラン、リビア、シリアの名前が挙がっていると伝えられた(注5)。
 核抑止の役割が縮小される反面、核兵器の使用可能性が重視されるようになった点で、核兵器の役割はある意味で大きくなったともいえる。
(注5) William Arkin, “Secret Plan Outlines the Unthinkable”, Los Angeles Times, March 10, 2002.

(日本国際問題研究所軍縮不拡散促進センター2005(平成18)年度の外務省軍備管理軍縮課の委託により行なった「国際安全保障秩序再構築と『核』:核政策および核軍縮・不拡散政策の『変革』」研究会の成果をとりまとめた報告書、第2章 現・防衛大学校教授、岩田修一郎「米国の新国防政策と欧州」)
https://www2.jiia.or.jp/pdf/global_issues/h14_eu-us/02_iwata.pdf

 2014年秋から冬、こんな動きを伝える報道記事がありますが、返書をもらったから無視されていない、良かったね、でなくもう少し「核心」にまで踏み込んだ記事が欲しいところですよね:

 広島市はこのほど、今年2014年9月と10月に新型核実験を行った米国のオバマ大統領らに宛てて送った抗議文に対する返書が、12月22日にキャロライン・ケネディ駐日米大使から届いたと発表した。
「核兵器のない世界は、日本と米国の共通の目標だ」
として日米協力の必要性を説いているが、新型核実験への直接の言及はなかった。
 松井一実市長は、2回の新型核実験の実施判明後の11月、オバマ大統領やケネディ大使らに
「核軍縮の模範となるよう先導すべきなのにもかかわらず、核実験を繰り返していることに憤りの念を禁じえない」
などとして厳重に抗議する文書を送った。
 これに対し、ケネディ大使から届いた返書は英文で12月16日付。オバマ政権が、核実験全面禁止条約(CTBT)の自国の批准を目指し、発効に向けて他国へ働きかけるなど
「全力で取り組んでいる」
と強調した。新型核実験は、CTBTの対象にはならない。

(2014年12月27日付け毎日新聞地方版、加藤小夜「米国:新型核実験《核のない世界、日米共通目標》抗議の広島市に米大使返書/広島」)
http://mainichi.jp/area/hiroshima/news/20141227ddlk34040388000c.html

 ヤッホー君も心配して言及したCTBTでなくって、NPT、Nuclear Non-Proliferation Treaty 条約再検討会議も2015年4月、いよいよ開かれますが、政府より非政府陣営の方が活発に動いています。
 行かれる市民代表の方々、ニューヨークでは、日本人同士だけが集まってごちゃごちゃ話し合っているだけでなく、ロビーをとびまわって世界の活動家たちと有意義な意見交換、交流、運動の共有化を図ってきてください。
 2010年、前回のNPT再検討会議は、と言いますと:

 190学級もある超マンモス学校が全クラス代表集会で、5年に1度の全校遠足の行き先と弁当の内容を決める。各クラスは等しく1票を持つものの、多数決ではなく全会一致で決めなければならない。
 前々回(2000年)は一部のクラス代表が積極果敢な取りまとめ役を果たし、おむすび弁当を持って近くの自然公園に行くことができた。ところが前回(2005年)は意見がまとまらず、結局、どこにも遠足には行けなかった。
 いささか強引な例え話だが、NPT再検討会議はそんな全会一致がルールだ一国でも反対すれば何も決まらない。しかし、だからといって結論がすべて「妥協の産物」になるかというと、そうでもない。
 前々回は、核兵器廃絶を明確に約束する画期的な最終文書を採択した。エジプトやメキシコなど「新アジェンダ連合」諸国が調整役を果たし、採択に及び腰な核兵器保有国を粘り強く説得した功績だった。
 現地でその過程を間近に取材した高揚感を今も思い出す。記事には大げさに「人類は核兵器を開発した20世紀に決別を告げた」と書いた。廃絶への歩みが後戻りしないよう、保有国の背中を押す自負もあった。
 それから10年。廃絶への国際機運は今、かつてないほどに高まっている。同時に核テロの懸念も含め、核拡散が連鎖する恐れも従来になく強い。10年前の「明確な約束」を再確認し、さらに前進させるのが今回の再検討会議の意義となるはずだが、必ずしも楽観できる情勢ではない。
 なのに日本の学級委員、鳩山由紀夫首相は出席しない。米軍基地問題で揺れる沖縄訪問を優先させる理由は理解できるが、被爆国として本当に、それでいいのか

(2010年5月3日付け中国新聞、ヒロシマ平和メディアセンター編集部長・江種則貴)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100507135217872_ja


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