2015年03月31日

JFK

 "Day of Two Suns" at 6.45 on the morning of 1 March 1954 から10年もたたない1963年の夏、「部分的核実験禁止条約」が成立。

Treaty Banning Nuclear Weapon Tests in the Atmosphere, in Outer Space and Under Water, Signed by the Original Parties, the Union of Soviet Socialist Republics, the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and the United States of America at Moscow: 5 August 1963

 アメリカはあの、あのケネディ大統領が英断、やはり20世紀の偉人でしたか。
 日本では異人(エーリアン)と揶揄されてニッチもサッチもいかないところでしょうが、バッシングをはねのけ命を賭して「千里の道も一歩から」(とケネディ氏自ら中国の故事です、と演説で引用します)、平和への道標を築き上げるのです。
 1963年の核実験禁止条約から半世紀、50年後の2013年、ドキュメンタリーフィルムがアメリカでつくられています:

 暗殺により2年10ヶ月に終わったケネディ大統領の在任期間。この間に、ケネディは軍や情報機関とどう対峙し、ソビエト政府にどう向き合ったのか。側近や通訳、研究者など、多彩な証言をもとに検証する(全2回)。
 後編では、対ソ強硬派に包囲される中、独自のチャンネルで平和路線を打ち出そうと動くケネディ・サイドの姿を描く。
 大統領就任から1年後の1962年には、軍や情報機関によるケネディ批判はさらに過熱。その急先鋒は、第二次大戦中に東京大空襲などを指揮したルメイ空軍参謀総長だった。ルメイがケネディの“無能ぶり”に怒り、キューバ侵攻の機運を高めていったのに呼応し、フルシチョフはキューバへの中距離核ミサイル配備へと傾いていく。対立が強まる中、ケネディは、アメリカがベトナムから撤退する見返りにソ連との間に外交的解決を目指そうと考えるガルブレイズを駐インド大使に送りこんだ。しかし、その試みは国務省の組織的な背信により、もみ消されていった。
 そして起きたのが、米ソが核戦争寸前の事態に陥ったキューバ・ミサイル危機だった。核戦争になればもはや首脳でもコントロールできないことを悟った米ソ首脳は、やがて対話へと転じる。ケネディは独自に、平和的共存の考えを持つノーマン・カズンズをフルシチョフの元に送りこみ、関係を構築。そして、部分的核実験禁止条約が調印されていく。

※ 原題:JFK; A PRESIDENT BETRAYED
※ 制作:Agora Productions(アメリカ、2013年)
(2013年11月13日(水)放送NHK世界のドキュメンタリー「ケネディ大統領への背信(後編)、キューバ危機そして反転攻勢へ」)
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/131113.html

 昨日の月曜日も聴いてきたのですが、ケネディ氏のこころからの声を聴いてみましょう!
 そして引き継いでいきましょう、戦争でなく平和への戦略を!

"What kind of peace do I mean and what kind of a peace do we seek? Not a Pax Americana enforced on the world by American weapons of war. Not the peace of the grave or the security of the slave. I am talking about genuine peace, the kind of peace that makes life on earth worth living, and the kind that enables men and nations to grow, and to hope, and build a better life for their children−not merely peace for Americans but peace for all men and women, not merely peace in our time but peace in all time."

"The United States, as the world knows, will never start a war. We do not want a war. We do not now expect a war. This generation of Americans has already had enough−more than enough−of war and hate and oppression."

"We shall also do our part to build a world of peace where the weak are safe and the strong are just. We are not helpless before that task or hopeless of its success. Confident and unafraid, we must labor on−not towards a strategy of annihilation but towards a strategy of peace."

(President John F. Kennedy-American University Speech*10-6-1963*MONDAY*A Strategy of Peace)
https://www.youtube.com/watch?v=XxVpJUEy04A 

 翁長知事と安倍・菅政権の戦いは、どうやら最終局面に入って来たようだ。
 翁長知事は沖縄住民のために、そして日本国民のために、この戦いに勝たなければいけない。
 そして勝てる。
 正義は沖縄にあるからだ。
 どうすればいいのか。
 何度も書いて来た通り、翁長知事の最後の切り札は米国カードである。
 そしてそれを切る時は今だ。
 辺野古工事阻止の為に岩礁破壊許可の取り消しを行った事は正しかった。
 しかし、もはやこれ以上、国民には訳のわからない訴訟合戦に関わってはいけない。
 何を言っても聞く耳を持たない安倍・菅政権を相手にしては時間の無駄だ。
 国民にわかりやすい次の手を打つのだ。
 それは私が繰り返し言って来たとおり、米国に直訴して話をつけるのだ。
 米国とはすなわちキャロライン駐日大使だ。
 キャロライン駐日大使との面会を一日も早く実現し、米国は沖縄の民意を踏みにじっていいのか、サンゴ礁を破壊する工事を強行するのか、と世界の前で迫るのだ。
 パフォーマンスに明け暮れる暇があるキャロライン大使だ。
 翁長知事の面談を断れるはずがない。
 自然保護を重視する米国やキャロライン大使だ。
 ここまで明らかになった米軍新基地建設工事の自然破壊を、認められるはずがない。
 そして米国カードは安倍首相の訪米前に切らなければいけない。
 米国の世論如何では、安倍首相の訪米は延期されることになるかもしれない。
 それこそが安倍首相がもっとも恐れていることだ。
 訪米が延期されれば内閣総辞職だ。
 これは冗談で書いているのではない。
 そこまで大きな辺野古新米軍基地建設問題なのである。

(2015年03月31日天木直人のブログ「翁長知事の最後の切り札は米国カードだ。それを切る時は今だ」)
http://www.amakiblog.com/archives/2015/03/31/#003207

 今朝のメッセージですが、キャロライン大使はケネディ家!
 このメッセージの重みを平和構築への意思を持つ日米のサイドはどう受け止めるのか、ヤッホー君はイマから心配、組織的バッシング、産軍のゼニカネ亡者ムラにつぶされないで!
 声なき大ぜいのコクミン、シティズンがピース・サポーターです!こっちのほうを向いて!!

 来日中のクリントン米元大統領は3月18日、早稲田大学で講演し、平和の探求などケネディ(JFK)が残した理念の継承を訴えた。2008年大統領選の民主党候補者選びを巡って亀裂が入ったクリントン家とケネディ家の「和解」を印象づける機会となった。
 シンポは早稲田大とジョン・F・ケネディ図書館財団の主催で「ケネディ大統領のトーチ、引き継がれるその遺産」がテーマ。JFKの長女キャロライン・ケネディ駐日米大使や、孫で将来の政界入りが期待されるジャック・シュロスバーグ氏も参加し、2016年大統領選で民主党最有力候補と目されるヒラリー・クリントン前国務長官はケネディ家を味方に付けた形となった。
 クリントン氏はJFKの遺産として、アポロ有人計画や米国の若者が開発途上国でボランティアを行う平和部隊の創設を挙げ、「次世代の情熱に火をつけた」とたたえた。また、キューバ危機(1962年)の後で部分的核実験禁止条約を締結したJFKの平和追求の精神を継承しようと訴えた。
 ヒラリー氏とオバマ大統領が激しく競り合った2008年大統領選の民主党候補指名争いで、キャロライン氏が「父のような大統領になれる人」とオバマ氏支持を表明。オバマ氏指名獲得の流れを作り、両家の関係は悪化していた。

(2015年03月18日23時23分更新毎日新聞・國枝すみれ、ワシントン西田進一郎「JFKシンポ:クリントン氏、「平和追求」理念継承を訴え」)
http://mainichi.jp/select/news/20150319k0000m040079000c.html



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2015年03月30日

映画「ビキニの海は忘れない」

 イマから61年前からのこと…もう少しみてみましょう:

 アメリカが太平洋ビキニ環礁で水爆実験を始めたのが1954年。今年で60年。当時ビキニ周辺でマグロ漁をしていた船の乗組員にたいする放射能汚染検査資料を2014年9月19日、厚生労働省がはじめて公開した。高知新聞で報道されている。
 ビキニ水爆実験では静岡県焼津市の第五福竜丸の船員23人が被爆したことが大きな社会問題(ビキニ事件)になったが、実際にはほかにもたくさんの漁船が被爆をした。しかし、当時の日本政府やアメリカは第五福竜丸だけの「事件」に矮小化、その他の漁船についての被爆記録はないとして、関係資料の存在を否定してきた(注1)。
 しかし、高知県宿毛市の元高校教師山下正寿さん(現・太平洋核被災センター事務局長)らが情報公開法に基づき粘り強く開示請求をし続けた結果、約1900ページ(304点)の資料を公開したもの。内容は、1954年3〜6月、延べ556隻(実数473隻)の被爆検査結果や、政府の会議記録など。
 山下正寿さんは教員現職時代の1983年、幡多地域の高校生たちの自主的なサークル「高校生幡多ゼミナール」をつくり、指導。高校生たちと一緒に、地域に埋もれた歴史の発掘に取り組む中で、ビキニ被爆漁船調査を始め、いまもずっと追跡している。高校生たちの活動記録は1990年映画『ビキニの海は忘れない』(ナレーター・吉永小百合)にもなった。
 福島第一原発事故以降、山下さんらは何度も福島の調査にも出向き、福島の高校生たちとの交流も始まっている。ビキニ、フクシマに共通しているのは、政府が正確な情報やデータを隠し、ウソを言うこと。福島の海も実際は相当に汚染が進んでいるとみている

(2014-09-21 幡多・中村から「ビキニの海は忘れない」)
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

 この映画、イマも元気に日本各地を練り歩いているようす:

 米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験で多くの漁船が被ばくした「ビキニ事件」から60年を迎えた節目に合わせた集いが2014年7月21日、横須賀市本町の産業交流プラザで行われた。「海の日」にもちなんだ催しで、第五福竜丸展示館(東京都江東区)初代館長の長女が記念講演を行った。
 講演したのは、初代館長を務めた故広田重道さんの長女で元国会議員の岩佐恵美さん(注2)。広田さんは戦後横須賀に移り住み、平和や子どもたちの安全を守るための運動に尽力。市立汐入小学校のPTA会長も務めた。
 岩佐さんは父が取り組んだ第五福竜丸の保存運動について、「多くの人の琴線に訴えるにはどう工夫すればいいのかということでは、父はなかなか優れたアイデアマンだったと思う」と紹介。
 さらに、「父は、とにかく人間の命を粗末にするものは絶対に許さないという信念を持っていた。思想、信条を超え、命、人権を守ることでみんなが力を合わせていけるはずだと、一貫して言い続けていた」などと振り返った。
 市民の有志で構成する「観音崎非核平和有志の会」の主催。高知県の高校生がビキニ事件の実相を発掘した記録映画『ビキニの海は忘れない』も放映された。

(2014.07.22神奈川新聞「第五福竜丸展示館・初代館長、広田さんの運動語る、横須賀で《ビキニ事件》60年節目に集い」)
http://www.kanaloco.jp/article/74992/cms_id/92555

 映画『ビキニの海は忘れない』のナレーター役をかってでた吉永小百合さん、反核へのメッセージは続いています;

 広島への原爆投下から2014年8月6日で69年。原爆詩の朗読を続ける俳優の吉永小百合さん(69)が、朝日新聞のインタビューに応じた。終戦の年と同じ1945年に生まれた吉永さんの人生は、広島、長崎への原爆投下で幕を開けた「核の時代」と日本の戦後の歩みに重なる。吉永さんは「日本人だけはずっと、未来永劫(えいごう)、核に対してアレルギーを持ってほしい」と求めた。
 唯一の戦争被爆国・日本はいま、核兵器廃絶を唱える一方で米国の「核の傘」に頼るジレンマを抱える。吉永さんは「どういう形にせよ、核の傘に入っているにせよ、あれだけひどい広島、長崎の原爆被害があったんだから、それをみんなしっかり勉強して、どんな状況でも核兵器はノーと言ってほしい」と述べた。
 2011年3月の東京電力福島第一原発事故で、日本は「核と人類は共存できるか」という課題とも向き合う。吉永さんは「本当の核の威力というものが私にはまだ分かっていない」としつつ、こう語った。「でも、原子力の発電というのは、特に日本ではやめなくてはいけない。これだけ地震の多い国で、まったく安全ではない造り方、管理の仕方をしているわけですから。どうやって廃炉にしていくかを考えないと
 原発の再稼働や輸出の動きがあることには「『さよなら原発』と私は声を出していきたい。みんなの命を守るために、今、せっかく原発が止まっているのだから、今やめましょうと」。そして「まだ毎日、汚染水など現場で苦しい思いの中で作業していらっしゃる方がたくさんいる。そういう中で、外国に原発を売るというのは、とても考えられないことです」と述べた。
 被爆・戦後69年となる今年、日本では戦争放棄をうたう憲法9条の解釈が変えられ、自衛隊が他国を守るために海外で戦う集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。吉永さんは「今の流れはとても怖い。大変なことになりそうな気がしているんです」と懸念を示しながら続けた。「政治が悪いから、と言っている段階ではない気がします。一人一人の権利を大事にし、しっかり考え、自分はどう思うかを語らなければいけない」
 核のない世界をめざし、吉永さんは原爆詩の朗読CD「第二楽章」の広島版と長崎版を作ってきた。「私は俳優だから、詩を読むことが一番伝わる」と述べ、「次は福島の第二楽章を作りたい」と語った。

(2014年8月6日05時18分朝日新聞/岡本玄、核と人類取材センター・副島英樹「吉永小百合さん《どんな状況でも、核兵器はノー》」)
http://www.asahi.com/articles/ASG847F05G84PTIL037.html



(注1)
「ビキニ事件は、戦後の日本で一番大きな秘密情報でしょう。放射線量が高い魚を廃棄した漁船は、全国で延べ約千隻。1万人近い関係者がいるにもかかわらず、1954年に最初の被ばくが分かったマグロ漁船『第五福竜丸』1隻の問題に矮小化されました。当時、核実験は大きな国際問題だったのに、日米の政治的決着で強引な幕引きが図られました。日本は米国との関係を強化したかったし、米国は核技術を向上させるために実験を続けたかった。外交上の利益が一致し、双方が秘密にしたい場合、国民が知るべき情報は隠す。そういうことが実際に起こったのです。乗組員の健康は二の次でした」
 太平洋核被災支援センター事務局長の山下正寿氏(68)=高知県宿毛市=は仲間と共に調査を続け、多くの高知県籍漁船が米国の核実験で被ばくしていたことを突き止めた。調査は今も続き、何度も「国の秘密」にぶつかっている。一方、米国側の公文書は次々と公にされてきた。ビキニ事件後、米国が日本国内の反核運動を抑えるため、「原子力の平和利用」に日本を参画させる方針を打ち出していたことも米国側資料で明らかになった。
「米国からは資料が出てくるのに、日本では政府に何度問い合わせても『解決済み』と言われ、文書が出てこない。しかも、出てくる書類はほとんどが黒塗りです。乗組員の健康被害は60年がたった今も知ることができない。秘密は国民の命を犠牲にします」
 東京電力福島第1原発事故の後、山下氏は福島の被害も調査するようになった。
「この特定秘密保護法が成立したら、福島の情報も隠されるでしょう。事故原因も『テロ対策』という名目で表に出なくなる。大切な情報が勝手に特定秘密に指定され、『分かりません』で済まされてしまう。国の秘密主義はさらに強化されます。目に見えない放射線は簡単にごまかせます。しかも、実際の被害が出るのは何十年も後のことです。その時には責任の所在が分からないんです。一番の被害者は、子どもたちです」
「政権が自らに都合の悪い情報を隠せば、自らが非難される状況を事前に防ぐことができる。政権を安定させるためには、どの政治家もやりたがることです。しかし、それがまかり通っていいのでしょうか。法が成立すれば、調査を続ける私も逮捕されるかもしれません」
(2013年11月22日付け高知新聞朝刊「国民の命、安全は二の次」)
http://www.kochinews.co.jp/13himitsu/13himitsuinta06.html

(注2)
1939年生まれ、日本共産党公認の元国会議員。1979年の衆院選で東京11区から出馬し当選。以後衆議院議員を通算4期務め、1998年には参議院議員へ鞍替え、同年の参院選にて比例区から立候補。名簿順位3位で当選し1期務めた。
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広島、ビキニ、福島

 ヤッホー君、どうして Jane Dibblin の古いペーパーバック版を探し出して読んでいるのかと言いますと3月27日金曜日、仲間と「夢の島公園 第五福竜丸展示館」を再訪したからでした。
 1954年3月1日「死の灰」を浴びた後、日米の政府からどのように船員たちに補償がなされたのだろうか…
 あの海で「死の灰」を浴びたのは第五福竜丸だけなのだろうか…
 それ以外に操業していた漁船がいたんではないか…
 国境を超える「死の灰」、では当時どのような国際的な市民運動が起きたのだろうか…
 さらに第五福竜丸だけでなく、「死の灰」をあびた南洋諸島の島民たちは、どのように報道されたのだろうか…
 島に住んでいた島民たちの避難、アメリカからの補償はどのように行われたのだろうか…
 そもそも当時、このビキニ事件に迫ったジャーナリストっていたのだろうか…
 解きあかされない、封印されている出来事への疑問が多々あったからです。
 この国では:

 3月14日に焼津港へ帰港し、乗組員は全員、即入院しました(注1)。
 帰ると新聞などで事件が毎日のように報道され、はじめて核実験だったと知り、国民は水爆の知識をはじめて知ったのです。
 乗組員は1年5ヶ月後に退院しました。

 アメリカ政府は、「核実験は自由諸国を守るため」とし、正当性を訴え、謝罪しませんでした。
 日本政府へは、補償金ではなく「見舞金」として200万ドル(当時7億2000万円)を支払い、根本的な問題を解決しないまま「政治決着」しました。

 私は、一部の人から八つ当たりやいやがらせを受けました。
 退院から2年後に東京へ出て、クリーニング屋をはじめ、約15年間は被爆者であることを隠しながら生きていました。

 アメリカは200万ドルの見舞金だけで謝罪をせず、日本から責任追及をされなかったこと。事件の翌年に平行線をたどっていた原子力協定が急に日米間で結ばれ(注2)、東海村に日本初の原子力発電所が建ったこと。これらを見ると、日本政府が第五福竜丸事件を原子力技術と原子炉を早急に導入するための恰好の取引材料としたと考えられます。ですから、日本の原子力発電は、第五福竜丸事件の被災者が人柱になっているのです。

(2002年6月15日不登校新聞掲載)
http://www.futoko.org/special/special-17/page0810-515.html

 (第五福竜丸が被災して14年後の)1968年、私はそれまで2年間続いた東海地方での駐在記者の任務を終え、東京の「赤旗」本局に帰任したばかりだった。
 ちょうど静岡県下でおきた地震・津波の被害を取材して帰ったところ、東京は夢の島のゴミ公害、ハエ騒動に沸き立っていた。

 第五福竜丸が夢の島のゴミ捨て場、ゴミの海に廃船として打ち捨てられていたのを全国的日刊新聞として最初に大々的に報道し、その第一報から、全国的な保存運動をよびかけたのはわが「赤旗」です。

…白井雅子編『第五福竜丸を最も愛したジャーナリスト、白井千尋の遺した仕事』(光陽出版社、2004) 7、103頁

 そして2011年3月11日

 広島・長崎、ビキニ。
 作家、大江健三郎は、核と日本人の問題を考え続けてきた。
 そして福島原発事故が起こったいま、大江は、核兵器の抑止力という幻想と原発の安全性という神話が重なり合って見えると語る。
 その大江の希望で、去る2011年5月11日、東京夢の島に展示された第五福竜丸の船上で、一つの対談が行われた。
 相手は、大石又七。1954年3月1日、ビキニ沖をマグロ漁船、第五福竜丸で航行中にアメリカの水爆実験に遭遇、“死の灰”を浴びて被ばくした。
 当時、大石は二十歳の誕生日を迎えたばかりだった。
 周囲の偏見、無理解に耐え切れず、東京に出た大石は、クリーニング店を営み、ひっそりと暮らしてきた。
 第一子の死産、被ばくした仲間たちの相次ぐ癌死。
 大石は、核に対する恐怖を胸中に抱え込んだまま沈黙を続けた。
 その背景には、冷戦下の核配備競争と、それと1セットの形で進められた核の平和利用の推進という時代の潮流があった。
 大石が、核について発言を始めたは、80年代になってからである。
 夢の島に捨てられていた第五福竜丸が「発見」され、そこを訪ねた時、何かが大石を動かした。
 以来、大石は、中高生たちに被爆体験を今日に至るまで語り続けてきた。
 大江は、大石が、日本人と核という問題に最も真摯(しんし)に向き合い続けてきた一人と考えている。

 広島・長崎から66年、ビキニ事件から57年。
 その間、日本人は核被害をよく思想化し得なかったのではないか
 そのことと福島原発事故はつながっているのではないか
 番組では、初めて会う二人が、歩んできた時代、核と人間について語り合う。

(2011年7月3日(日)夜10時ETV番組≪ギャラクシー賞7月度 月間賞受賞≫「大江健三郎 大石又七、核をめぐる対話」)
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0703.html



(注1)
東京大学附属病院、東京第一病院(現・国立国際医療研究センター)
(NHKわたしたちは忘れない ビキニ被ばく60年)
http://www.nhk.or.jp/shizuoka/bikini60/about/
http://www.nhk.or.jp/shizuoka/bikini60/movie/index.html
 この動画は必見!

(注2)
聞き手:今日は、ズバリ、「日米原子力協定」についてお伺いします。1955年に結ばれて、68年に旧協定が結ばれて、88年に今の協定が中曽根内閣の時に結ばれました。この協定が今も有効なわけですね?
小出さん:そうですね。確か、30年だったですかね?
聞き手:そうです。だから、2018年まで日米原子力協定が今もあるわけですね?
小出さん:もちろんです。
(2013年08月10日、日米原子力協定の真相とは?「日本はなんとしても自力で核兵器をつくる力を身につけておきたいと思ったわけです」〜第31回小出裕章(※)ジャーナル)
http://www.rafjp.org/koidejournal/no31/

(※)
 京都大原子炉実験所(大阪府)の小出裕章助教(65)は2015年3月の定年退職を前にした2月27日、公開勉強会で最後の講演をした。
「原子力は徹底的に危険で差別的。事故が起きればふるさとを追われる」と話し、あらためて原発の危険性を訴えた。
 小出さんは原子力利用に積極的な考えで1974年に実験所に入所したが、地方だけに原発が造られることに疑問を持ち、批判に転じた。
 福島第1原発の事故について「起きる前に何とか止めたかった。無力さを感じる」と話した。
 事故により原発に絶対的な安全はあり得ないと明らかになったのに、国は安全性を確認したとして再稼働を進めようとしていると批判した。
(2月27日付け東京新聞)

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2015年03月29日

Day of Two Suns

 Jane Dibblin ”Day of Two Suns, US Nuclear Testing and the Pacific Islanders” (VIRAGO PRESS, 1988)をもう少し読んでみましょうよ。

John Anjain, a magistrate on Rongelap at the time, tells what happened over next two days - and why his people sometimes refer to the event as the “day of two suns”:

On the morning of the ‘bomb’ I was awake and drinking coffee. I thought I saw what appeared to be the sunrise, but it was in the west. It was truly beautiful with many colours - red, green and yellow - and I was surprised. A little while later, the sun rose in the east. Then some time later something like smoke filled the entire sky and shortly after that a strong and warm wind - as in a typhoon - swept across Rongelap. Then all of the people heard the great sound of the explosion. Some people began to cry with fright. Several hours later the powder began to fall on Rongelap. We saw four planes fly overhead, and we thought perhaps the planes had dropped this powder, which covered our island and stuck to our bodies. The visibility was less than one half mile at that time, due to the haze in the sky.

The next day… the people began to get sick with vomiting, aches all over the body, eye irritations and general weakness and fatigue. After the second day most of the people were unable to move around as usual due to their fatigue. Just a few strong young men were up and about at that time and I asked them to fetch some coconuts for the rest of us to drink. On the evening of the second day a seaplane arrived from Enewetak with two men who brought some strange machines. They stayed only about 20 minutes and they took some readings of water catchment and soil, then took off again. They really did not tell us very much.
(pp 25-26)

 そうなんです。イマから61年前の1954年3月1日月曜日、朝の6時45分からの2、3日の出来事を述べています。

Castle Bravo Nuclear Test
https://www.youtube.com/watch?v=fd1IFjBNNVo

 被爆した島民はその後どうなったのでしょうか、フクシマも思いやれます。
 為す術のない島民たち、島民たちの訴えに耳を貸そうとしないアメリカ政府。
 30年も経って、そこにさっそうと現れたのは、あのNGO(市民団体)「グリーンピース」だったのです(注):
 
In 1985, Greenpeace made a major departure from our typical protests. With no banners and no inflatables we completed "Operation Exodus." The residents of Rongelap in the Marshall Islands asked us to help them relocate to a new home. Their island had been contaminated by radioactive fallout from atmospheric nuclear weapons testing in the Pacific.

In 1979, an aerial radiation study of the northern Marshalls conducted by the United States revealed high levels of residual radiation on Rongelap Atoll - in some places even higher than at Bikini itself.

But the U.S. government representative to the Marshall Islands had ruled that Rongelap was still perfectly safe, as long as the people stay away from the northern islands and eat imported tinned food.

The Islanders pleas to the U.S. government to be evacuated had always fallen on deaf ears. So at the request of Rongelap's representative to the Marshall Islands parliament, Greenpeace agreed to take on the task of evacuating the entire population to the safer island of Mejato 110 miles away.

"Operation Exodus" was a major departure for Greenpeace, this was not a traditional Greenpeace protest, there were no inflatables or banners to hang, there was just the logistic challenge of moving an entire population 110 miles in the Pacific.

When the Rainbow Warrior arrived at the seemingly idyllic tropical island on May 17, local women sailed out to greet the crew singing Marshallese songs. Other Rongelapese waiting on the beach held up banners that read, "We love the future of our kids."

(Greenpeace USA Rongelap Evacuation)

 それからしばらく経って、Jane Dibblinの本が出ました、核実験から34年後。
 その時のニューヨークタイムス紙はこんなことを:

Dibblin writes that a review of Department of Energy data revealed that people still living on Rongelap had depressed white-blood-cell counts and high levels of plutonium in their urine. The Energy Department field report said it was safe for adults but not children to return to the southern islands of the atoll; the northern islands were too ''hot'' and food could not be harvested there. ''Amazed at the idea that they should return without their children,'' the author notes, ''the people of Rongelap stayed on Mejato.''

In the most original sections of ''Day of Two Suns,'' Ms. Dibblin interviews 10 women who tell about the dramatic changes, not all for the worse, that have resulted from the military presence in Micronesia. The feminist movement has reached the islands. The author quotes one woman as saying: ''The Americans have encouraged young people to be open-minded and free to do what they want. They can stand up and say what they believe now, so for that I admire the Americans: young people and women didn't used to be able to express their ideas.''

In response to a leading question by the author about the compact between the United States and the Marshall Islands Government - ''What do you think about the fact that America still controls the military and foreign affairs?'' - another woman replies: ''We've been sold the American way of life, but it hasn't brought any real development. On the outer islands, there are no schools or health programs. You expect people to read and write, but no. There aren't enough people writing our own books - like geography books, for schools. The U. S. just cares about its military schedule.''

As a writer and interviewer, Ms. Dibblin's lapses into self-righteousness do not always help her cause. Nevertheless, when ''Day of Two Suns'' allows the people of Micronesia to speak for themselves, the reader feels in the presence of thoughtful individuals. Having seen the false sun of atomic light, they bear witness to the folly of nuclear weaponry and warfare.

(January 20, 1990 Rights and Wrongs In the Marshall Islands By HERBERT MITGANG)

 そしていま、現地はどうなっているのでしょうか、ユネスコの世界遺産にもなったといわれているその実情は。60年後のイマです:

The Marshall Islands are marking 60 years since the devastating US hydrogen bomb test at Bikini Atoll, with exiled islanders saying they are too fearful to ever go back because of nuclear contamination.

Part of the intense cold war nuclear arms race, the 15-megatonne Bravo test on 1 March 1954 was a thousand times more powerful than the atomic bomb dropped on Hiroshima. It exposed thousands in the surrounding area to radioactive fallout.

Bikini islanders and their descendants have lived in exile since they were moved for the first weapons tests in 1946. When US government scientists declared Bikini safe for resettlement some residents were allowed to return in the early 1970s. But they were removed again in 1978 after ingesting high levels of radiation from eating foods grown on the former nuclear test site.

The Marshall Islands Nuclear Claims Tribunal awarded more than $2bn in personal injury and land damage claims arising form the nuclear tests but stopped paying after a compensation fund was exhausted.

As those who remembered the day gathered in the Marshall Islands’ capital of Majuro, along with younger generations, to commemorate the anniversary, many exiles refused to go back to the zones that were contaminated despite US safety assurances.

“I won’t move there,” said Evelyn Ralpho-Jeadrik of her home atoll, Rongelap, which was engulfed in fallout from Bravo and evacuated two days after the test. “I do not believe it’s safe and I don’t want to put my children at risk.”

People returned to live on Rongelap in 1957 but fled again in 1985 amid fears, later proved correct, about residual radiation. One of the more than 60 islands in Rongelap has been cleaned up as part of a US-funded $45m programme.

US nuclear experiments in the Marshall Islands ended in 1958 after 67 tests. But a United Nations report in 2012 said the effects were long-lasting. Special rapporteur Calin Georgescu, in a report to the UN human rights council, said “near-irreversible environmental contamination” had led to the loss of livelihoods and many people continued to experience “indefinite displacement”.

The report called for the US to provide extra compensation to settle claims by nuclear-affected Marshall islanders and end a “legacy of distrust”.
It is not just their homes that have been lost, said Lani Kramer, 42, a councilwoman in Bikini’s local government, but an entire swathe of the islands’ culture. “As a result of being displaced we’ve lost our cultural heritage – our traditional customs and skills, which for thousands of years were passed down from generation to generation,” she said.
“After they were exposed like that I can never trust what the US tells us [about Bikini],” said Kramer, adding that she wants justice for the generations forced to leave.

Also attending the week-long commemorations was 80-year-old Matashichi Oishi – one of 23 fishermen aboard the Japanese boat Daigo Fukuryu Maru (Lucky Dragon), which was 60 miles from the bomb when it exploded. “I remember the brilliant flash in the west, the frightening sound that followed, and the extraordinary sky which turned red as far as I could see,” he said.

The plight of the crew is well known in Japan and on Saturday nearly 2,000 people marched to the grave of Aikichi Kuboyama – the chief radio operator of the boat – in the port city of Yaizu to mark the anniversary. Kuboyama died of acute organ malfunction nearly seven months after the test, while 15 other crew members later died of cancer and other causes.

The Marshall Islands’ president, Christopher Loeak, called on the US to resolve the “unfinished business” of its nuclear testing legacy, saying compensation provided by Washington “does not provide a fair and just settlement” for the damage caused.

The US ambassador Thomas Armbruster said “words are insufficient to express the sadness” of the 60th anniversary of the nuclear test, adding that the US was continuing to work with the Marshall Islands to provide healthcare and environmental monitoring of several affected islands.

The US embassy in Majuro said on its website: “While international scientists did study the effects of that accident on the human population unintentionally affected, the United States never intended for Marshallese to be hurt by the tests.”

(Sunday 2 March 2014 03.49 GMT Agence France-Press in Majuro ”Bikini Atoll nuclear test: 60 years later and islands still unliveable”
Marshall Islanders unable or unwilling to return to traditional home, scene of huge US hydrogen bomb test in 1954
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2015年03月28日

like an octopus

 明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。
「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。」
 明治の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません。
 今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。
 皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。


(2015(平成27)年2月12日自由民主党 内閣総理大臣 安倍晋三「第189回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説」)
https://www.jimin.jp/news/parliament/127056.html

 《国民みんなが心を一つにしてこの道を、前に向かって、再び歩み出す》と、いったいどんなことになるんかいな、たいしたことできへんなぁ、無理にカッコつけんともよろしいやないかぁ

 来月4月、ニューヨークで開幕する核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け、オーストリアが核兵器禁止を呼び掛け国連全加盟国に配布した文書について、日本政府が賛同を見送る方針を固めたことが3月12日、分かった。
 米国が「核の傘」への影響を理由に日本を含む同盟国などに不賛同を働き掛けていた。
 複数の日本政府当局者や外交筋が明らかにした。

 オーストリアは昨年末の「核兵器の非人道性に関する国際会議」の議長国。
 同会議で文書を発表、再検討会議にも文書を提出し、核禁止の論議を本格化させる狙いがある。

 政府は「核の傘」に頼る安全保障政策との整合性から、オーストリアの文書が「核兵器を禁止、廃絶する」条約の必要性を訴えている点を問題視、不賛同が適切と判断した。

 日本は毎年、国連総会で核兵器廃絶決議案の採択を主導。しかし禁止条約については「交渉の機は熟していない」と否定的な立場だ。

 米国務省当局者も文書に不支持を表明し「有望なのはNPT加盟国の総意を反映した、より現実的なアプローチだ」と語った。

 日本は、文書を通じ核兵器禁止条約への態度表明を迫られた格好だったが、日米同盟を重視し「ノー」で応じる展開となった。

 再検討会議の場では広島や長崎の被爆者らが禁止条約制定を訴える予定で、反発と落胆が広がりそうだ。


 オーストリアは一月中旬、文書への賛同を各国に要請した。
 日本は外務省が精査し「レッドライン(譲れない線)を越えている」と判断。
 賛同しない一方、再検討会議成功と核軍縮促進へ向け、協力していく考えを伝えることを検討している。

 米政府高官が2月に訪日し不賛同を促していた
 米国は核の非人道性をめぐる問題に熱心なノルウェーなど一部の北大西洋条約機構(NATO)加盟国にも同様の働き掛けをしている。

 文書にはこれまで約50ヶ国が賛同を表明。
 オーストリア外務省は「核保有国や、核の傘の下にある国からの賛同はない」としている。


(2015年3月13日 東京新聞夕刊「核禁止文書 賛同せず 政府、米の意向を重視」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2015031302000241.html

 「この道」は沖縄県民はもとよりコクミンのほうに向いていない、方向は「米の意向」に向いている例ですし、メディアもすでに「官邸の意向」に向いているというか、アベノリスクに乗っ取られているしねぇ。
 肝心のコクミンは何も知らされていないから怒らない、怒れない、国会で怒る野党もいないし、もうサイテイ。

 2015年3月28日7時23分紙面から:
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1453017.html

 2015.03.27.NHK 9時の大越キャスター更迭は官邸の意向! 安倍お気に入り美人記者も協力?
http://lite-ra.com/2015/03/post-979.html

 昨夜の「"報ステ事故 古舘伊知郎VS古賀茂明 フル 2015年3..." この動画は、TV-Asahi Corp. から著作権侵害の申し立てがあったため削除されました」と楽屋、舞台裏にひっこめられてしまいました。
https://www.youtube.com/watch?v=2YEpcT8O2l4

 足にたこができたのか、歩くのにちょっともたもたしたヤッホー君が悪かったのですが、速かったですね、速攻!消えました…
 ま、都合の悪いものはすべてヒ・ミ・ツ。

 第一次世界大戦後の日本は、南洋諸島にまで《この道》を暴走して突っ込んでいったって知ってましたか、あわれ、最後は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」、洗脳された兵隊たちはト・ツ・ゲ・キしてお亡くなりになりましたが、島民だって:

Chailang Palacios a Chamorro woman from Saipan, in the Marianas Islands, describes what her people remembered of Japanese rule:

And then there is this nation just like an octopus.
The octopus that goes slowly, very slowly and suddenly it gets you.
That is like the Japanese.
They wanted us to join their religion, Buddhism.
They liked our islands so much they stayed.
They took our lands for sugar plantations, for pineapple plantations.
They again made my ancestors their slaves, together with the Korean and Okinawa people, paying them five cents for the whole day…

After stripping them of their culture, their language, their land, the Japanese forced my ancesters up into the montains.
They made us dig a hole just in case the Americans and the Japanes fought.
We would be safe in that hole.
It was a Sunday morning when the war came.
Everyone was far away from their holes, visiting grandparents, relatives, friends.
All of a sudden – bombs from the sky and the ocean.
The people were crushed 50 to 100 in one hole because there was no way they could back to their own place to hide.
There was no water for those people.
It was so hot, so dark, bombs all over.
A lot of people died.
Children died because their mothers’ brests dried up - no food.


…Jane Dibblin ”Day of Two Suns, US Nuclear Testing and the Pacific Islanders”(VIRAGO PRESS, 1988)、p.16

 たこつぼのたこ、オクトパスが知らない間に、静かに、静かに、ゆっくりと、とんでもない勝手なことをし始める、気付いた時にはもう遅い、と過去、そんな目で見られていたことも歴史の教訓にしなくっちゃ!

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2015年03月27日

それからのエリス

 3月27日金曜日、桜の花びらも少しづつ開き、華やいだ花の季節到来となりました。
 今日は穏やかな好天好日でした。
 ヤッホー君のこのブログを読んでくださっている読者よりお手紙。
 桜の「舞姫」(注)でなく、森鴎外の『舞姫』

 「嗚呼、棄てがたきはわがエリスが愛」と言うフレーズが忘れられなくて、もう一度読んでみました。
 源氏物語を読んでいるようで初めチンプンカンプンでしたが読み返しているうちにすこ〜し解ってきました。高校の時に教科書に載っていたのはもう少し普通?だったかもしれない。
 こんなに涙、流しただろうか。
 今、本から離れて思い出しても涙が出てくるのです。
 高校生時分、もう覚えていない部分がたくさんあって、でも今は、可愛そうで仕方かありませんでした。
 その後どんな暮らしをしたのだろうか、と考えてしまいます。
 桜咲き、春に涙す、舞姫哉


 大洋に舵を失ひしふな人が、遙なる山を望む如きは、相澤が余に示したる前途の方針なり。
 されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に滿足を與へんも定かならず。
 貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。

…新潮文庫(2006年版) 6頁

 大海原で舵を失った船員が、遙か遠くに山を望むようなものが相澤が私に示したこれからの方針だった。
 しかしこの山は、いまだ深い霧の中にあって、いつ行き着くとも、いや、果たして行き着いたとしても、私の心に満足を与えるかどうかさえ定かではない。
 貧しさの中でも楽しいのが今の生活で、棄て難いのはエリスの愛だ。
…高木敏光(1965年、北海道生まれ)『現代語で読む舞姫』(理論社、2012年5月)

20120517 乃木坂浪漫・中田花奈、 森鴎外「舞姫」:
https://www.youtube.com/watch?v=lmsy0mTa9Io

 ヤッホー君、さっそく書庫から探し出して取り出したる書物は、六草いちか(1962年、大阪府吹田市生まれ)『それからのエリス、いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(講談社、2013年9月)。
 その前に…、六草(ろくそう)さんのブログを読んでみましょう!

 NHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」の最後のスタジオ収録分が終わったのだそうだ。
 さてこの「マッサン」…
 エリーとエリーゼ、名前がとても似ていて、表紙に微笑むエリーは、『舞姫』エリスのように金髪で肌が透けるように白い。
 そう思うと、この主演俳優さんの顔が若かりし頃の鴎外の顔のように思えてきて、寄り添う女性がエリスのように見えてくる。
 もし鴎外がエリーゼと結婚できていたら、日本人小説家とドイツ人妻の物語も、こんなふうにドラマ化されたかもしれないのに…。
 ヒロインがエリーという名であるから特にそんな気にさせる。
 二村氏の記事を見ると、そこには二人で微笑む写真を残すことのできなかった鴎外のことが書かれている。
 それを拝読し、ふと鴎外本の執筆に没頭していた頃の、二人の悲恋を目の当たりにして涙が止まらなかった日のことを思い出し、また改めて表紙に微笑む二人を見つめて、何とも言えない気持ちになったのだった。

(2015年2月20日六草いちかオフィシャルブログ)
http://www.ichika.de/arekore/?p=182

 そして本書…

 鴎外が登志子と離婚した後、何年も独身でいたことは知られている。今回、エリ−ゼのその後を調べはじめ、彼女もまたそうだったと知って、ふたりは置かれた場所はちがっても、心はけっして離れることがなかったのだと、驚きと共に感動した。
(267頁)

 エリーゼは帰ってきているのかダルドルフの癲狂院に入っているのか、鴎外の子は生まれたのか…ことの真相を知ろうと情報交換も盛んになったことだろう。ものごと正しく理解しようとせず、スキャンダラスなゴシップとして愉しくウワサする輩はいつの時代にもいただろうし、逆に、直接的な関係がなくとも、鴎外の心情を察したり、エリーゼのその後を気にかける者もあっただろう。
(345頁)

 鴎外もまた、愛と忍耐の人だった。上司と意見が合わなかったことが原因か、パワーハラスメントを受けることも多く、何度も辞職を考えながら踏みとどまり、なにが起きようと、はたからどう思われようと、家族を深い愛情をもって守り抜いた。

 鴎外は臨終の床に親友賀古をよび、生涯をかけて築き上げた社会的地位や肩書きのすべてを拒否し、津和野に生まれた、ただひとりの男児として死ぬことを望んだ。墓石にも名前以外は何も彫らないよう遺言した。
奇しくもこのふたりの最後はててもよく似ている。

 かつて、追い返されて帰って行ったときのエリーゼの笑顔、絶望のふちで『舞姫』をしたためた鴎外の背中。これは、ふたりの生涯の姿でもあった。

(352-354頁)

 ついに読んでいてはらはらと涙の滴を散らせてしまったヤッホー君でしたたらーっ(汗)

(注)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をご参照ください:
★ 2012年10月04日付け日記、新種の桜「舞姫」
★ 2012年10月07日付け日記、新種の桜「コマツオトメ」



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JR新大久保駅

 「田舎からポッと出のヤッホー君、恥ずかしながらJR新大久保駅で降りるのも初めて」と昨日の日記に書いてしまったヤッホー君、駅からショートカットしようと「明治通り」に向かわず左に折れたのですが、すぐ長〜い塀の周りを歩くようになってなんだか、とっても不安になってきたのです。
 後で地図を見たら、ロッテ「新宿工場」でした。

 韓国系企業でありながらも、最初に事業を日本で始めたこと、それにプロ野球のロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)を1971年から保有していることなどから、日本での知名度が先に高まった。
 1965年に日韓の国交が正常化されたのを機に韓国へ進出し、2年後には韓国ロッテを設立する。その後はロッテホテルやロッテ百貨店をはじめ、商社や石油化学にまで事業を多角化。韓国の10大財閥の1つとなるまでに成長した。
 特にホテルや百貨店では、日本式のサービスを取り入れたことで、韓国の小売り、サービス業に革命を起こしたとも評される。

 そんなロッテに年明け早々、激震が走った。ロッテグループの持株会社であるロッテHDは1月9日、副会長の重光宏之取締役を8日付で解任したと発表したのだ。同氏はグループの経営陣から事実上追放されたことになる。
 重光武雄氏は、長男である宏之氏に日本、二男の昭夫氏に韓国と、それぞれ経営を任せていた…

(2015年02月10日週刊東洋経済 副編集長 福田恵介「ロッテも逃れられない《韓流お家騒動》の宿命、韓国で難題山積の中、副会長が突然の解任」)
http://toyokeizai.net/articles/-/60265?page=3

 そんなこともあってか、高い塀のなかからは平日でも物音ひとつしませんでした(注)。
 でも日韓の国交が正常化されて50年、半世紀ですか〜

 ヤッホー君、すたこらさっさ歩いて塀の最後に来た時、その塀を回り込むように歩いてしまいました。戸山公園が見えてくるだろうと思ったのでした。しかし、戸山小学校、そして「大久保通り」と出だしに舞い戻ってしまったのです。
 実は、高い塀の先には「海城学園」(新宿区大久保3-6-1 Tel 3209-5880)!
 この卒業生が徳光和夫。海城学園の兄弟校、那須海城学園で、2010年12月3日、次のような「新しい紳士像」を説いています:

 徳光さんが、那須海城の生徒に伝えたかったことをまとめてみます。
@ 何事も2度チェックする
 物事を行なうときに2度確認をすることが大切だ。人間にもそれはあてはまり、自分が苦手だなと思った相手でも2度見ることで、その人のいい面に気付くことができる。
A 選択の場面では、自分にとっては不得手なこと、苦手なことを選び、自分から逃げない、相手から目をそらさないことが大切だ。
B 人の話をきちんと聞く。そうでなければ自分の話も聞いてもらえない。
 相手を許すこと、相手を受け入れることが大切である。 
C 新聞を読む→どんな無駄だと思うような記事にも「栄養分」がある。 
D 温故「起」新
 21世紀は、高度経済成長期のような急激な時代の変化や技術革新はないであろう。だからこそ、柔らかい頭を持った君たちが、古い時代から学んだり、感じたりすることが多いはずだ。そこから、新しいことを起こすことができるはずだ。
E 本も読もう! 徳光さんお薦めの本は次の6冊です。
 ☆中島敦『李陵』
 ☆新渡戸稲造『武士道』
 ☆司馬遼太郎『街道を行く』
 ☆渡辺保『江戸演劇史』
 ☆柴田翔『されどわれらが日々』
 ☆雑誌『選択』(選択出版)

(ナスカイレポート)
http://www.nasukaijo.ed.jp/school_life/report.php?page=61

 戸山小学校から「大久保通り」に引き返すように戻り、そして「大久保通り」が「明治通り」と交差したところで「明治通り」を左に折れた、とこういうわけで。
 でも、大収穫。
 戸山小学校ときたら、戸山中学校でしょうが、戸山中学校は閉校となり、イマ「新宿区立中央図書館」!
「新宿コズミックセンター」1階奥の通用口からでて、早稲田大学理工学部を右に見ながら自転車置き場の先を行くと、ありました!

 新宿区立中央図書館は、2013(平成25)年7月20日に早稲田大学理工学部キャンパスの南に移転オープンした図書館です。旧・戸山中学校の校舎を改修した建物で、中学校の名残りが感じられるユニークな施設です。

「旧戸山中学校メモリアル」コーナーも設置されています。1階に旧・戸山中学校の年譜や図書館へ改修される経緯などをまとめたコーナーを設置しているほか、4階の談話室にも校歌の楽譜や部活の賞状などが展示されています。これらのコーナーを通じて、図書館としてはつい最近オープンしたばかりのこの建物が、長い歴史を経ていることを感じ取ることができます。

(東京図書館制覇!>図書館訪問記>新宿区>新宿区立中央図書館)
http://tokyo-toshokan.net/00000906.htm



(注)
たしかに浦和、狭山、滋賀、九州に工場はありますが、新大久保のところの大きな工場は載っていません。創業者は:

 早稲田高等工学校で油脂や化学を学んだ重光武雄は、専門知識を生かそうと1948年、チューインガムを製造・販売する社員10人の小さな会社を創設。社名は、誰からも愛される会社にしたいと、ゲーテの名作『若きウエルテルの悩み』のヒロイン・シャルロッテの愛称「ロッテ」とした。
 大正時代に米国のメーカーがガムを売り出したが、人前で口を動かすのは礼儀作法に反するとほとんど売れなかった。しかし、戦後に米国文化が急速に受け入れられていくのをみて、米国菓子の象徴ともいえるガムは今後伸びるに違いないと考えた。
 箱入り風船ガムや天然チクル入り板ガムと、次々と斬新な商品を開発して事業を拡大。中でも1957年に売り出した葉緑素配合で脱臭・殺菌効果のある「グリーンガム」は大ヒットとなり、総合菓子大手へ躍進する基礎を固めた。 
(佐賀県教育センター、アントレプレナー)
http://www.saga-ed.jp/kenkyu/kenkyu_chousa/h15/16chuusougou/16tyusougou/mokujipage/shameisiryo.pdf
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2015年03月26日

ポーコ・ア・ポーコ

 「春は別れと新しい出会いの季節です」か… 3月23日月曜日、松本蘭さんは「ティアラこうとう」でそうおっしゃってくれました。
 大学だって、そうですよね、入学、進学、卒業が控えています。
 翌3月24日火曜日はヤッホー君、それだけに感慨深いものがありましたって、「新宿コズミックセンター」(新宿区大久保2-1-2 Tel 3232-7701)ロビーコンサートを聴きにおじゃましたとき。
 だって日大芸術学部音楽学科学生のグループ「ポーコ・ア・ポーコ」による「オペラアリアと日本歌曲」の発表だったんです。
 最後のアンケートに思わず書いていました。
「卒業しても音楽の道を歩んで行ってください、音楽教師になったら子どもたちといっしょに歌ってください、勤め人になったら地域のお年寄りにその透き通った声を届けてやってください、プロになろうと決心したら、海外にはばたいて活躍してください、グループ「ポーコ・ア・ポーコ」も先輩、後輩に呼びかけて全国デヴューしてください」って。
 では、まず出だしの曲はグループ6人全員で。
 ヴェルディ(1813-1901)のオペラ、椿姫 La traviata より劇中歌「乾杯の歌」Libiamo Ne' Lieti Calici (1853年初演):
https://www.youtube.com/watch?v=JNTMaWPvWO4

 イタリア北部のパルマ地方に生まれたヴェルディは、26歳でオペラの作曲家としてデビューします。
 しかし、2作目「一日だけの王様」(注1)初演が大失敗。客のブーイングを一身に浴び、その経験から聴衆を喜ばせることの大切さを知ります。
 当時のオペラは、歌が第一で話は二の次、聴衆は物足りなく感じていました。
 ヴェルディは、人間の心理を描いたオペラを書こうと、研究を重ねて、人々を熱狂させるオペラを生み出すプロフェッショナルとなったのです。
「アイーダ」(注2)は彼の集大成と言われる歌劇。多くの聴衆に支持されるエンターテインメント作品となった理由、わかりますよね?

(NHKららら♪クラシック「ザッツ エンターテインメント」)
http://www.nhk.or.jp/lalala/archive130907.html

 最後の曲は、4年生の愛宕結衣さんが、シュトラウス II(1825-1899)作曲「春の声」"Voices of Spring" Fruhlingsstimmen(1882)!
https://www.youtube.com/watch?v=xt_sKT-nlE0

 締めは満席の会場と一体になって「花」(武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲)!
 ヤッホー君のこのブログ、2014年04月02日付け日記「花」「春のうらら」、2014年11月13日付け日記「志賀直哉」をご参照ください。

 音楽は良いですね、おなかの底からでてくるきれいな透き通る声って、早口で同じ調子、同じ口調、同じセリフを過呼吸症候群のように唱えにらみつけて終わる声と違って、ヤッホー君のあたまから毒気が消えて、気分爽快るんるん

 田舎からポッと出のヤッホー君、恥ずかしながらJR新大久保駅で降りるのも初めて、まして「新宿コズミックセンター」の名前すら聞いたことがございませんでした。

 新宿コズミックスポーツセンター一帯は、1874(明治7)年陸軍用地となり、射撃の練習に用いられた。流れ弾により負傷者が出たため、1928(昭和3)年に長さ300mの鉄筊コンクリートのトンネル式の射撃場が7棟造られた。戦後は占領軍が接収・使用し、1958(昭和33)年に返還された。その後順次解体され、早稲田大学理工学部の建設工事に伴い、1965(昭和40)年に最後のトンネル式射撃場が解体された。
(新宿区「地域文化財認定物件一覧」)
http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000171124.pdf

 新宿区では2013年5月2日、と言いますからおととしですね、「地域の歴史や文化を未来につなぐ」として「区指定文化財に4件を指定、地域文化財に8件を認定」していますが、「戸山射撃場跡」すなわち「新宿コズミックセンター 一帯」もそのとき認定されています。
http://www.city.shinjuku.lg.jp/whatsnew/pub/2013/0502-01.html

 その前、つまり江戸時代はと申しますと、「新宿コズミックセンター」一帯を含んで、尾張徳川家の下屋敷であった、と。
 それがイマの代々木公園や新宿御苑に匹敵する大規模な都市計画公園として1950(昭和25)年、計画されたこともあったのですが、真ん中を「明治通り」が走って、あの箱根山のある地域と大久保地域とが分断されてしまっているのです。
(2003年9月「日本建築学会大会学術講演梗概集所収「戸山公園再生に基づく広域避難場所の整備に関する研究」)
http://www.takahashi-sekizai.co.jp/nobuyuki/public_html/2003nobuyuki.pdf



(注1)1840年9月5日スカラ座初演。その一部を:
Anna Caterina Antonacci(born 5 April 1961)-Grave a core innamorato...-"Un giorno di Regno"(Parma,2010)
https://www.youtube.com/watch?v=9eVhihQxeXY

(注2)”Aida” was first performed at the Khedivial Opera House in Cairo on 24 December 1871, conducted by Giovanni Bottesini.
Verdi: Aida - triumphal march "Gloria all´Egitto"
https://www.youtube.com/watch?v=5j1dYi2Q_C0


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2015年03月25日

松本蘭

 今夜は泣かないで眠らなきゃ。腫れた目を冷やしながら明日のコンサートに備えます。頑張らなくちゃ。
 長々と、書いてしまってごめんなさい。


 3月22日(日)付け、松本蘭(1983年生まれ、埼玉県出身)の公式ブログです。
 何があったのかな… 明日のコンサートってさ、3月23日月曜日のことだよね。そうなんです。
 月曜日23日のヤッホー君、大忙し。朝いちばんでかかりつけのお医者さん「深川クリニック」へ行き、風邪薬を処方してもらいました。先生が「どこか、出かけた?」と質問。はいってヤッホー君、山歩クラブのお散歩会のことを言いましたら「花粉もいっぱい吸い込んでそれが悪さしたんだね」と喉をあ〜んと開けさせ覗き込んだ時。
 熱は6度2分でないのですが、喉をやられ昨日の夕べからごほごほ、月曜朝になって鼻水まで、風邪になって寝込んだらたいへん、と思ってすぐ先生に助けを!
 家に戻って薬を飲んですぐ「ティアラこうとう」へ。
 お昼時ワンコインで聴ける「松本蘭・近藤亜紀ヴァイオリン・ピアノコンサート」があったのです(注1)。
 その折り、松本蘭さん、「春は別れと新しい出会いの季節ですが、実はつい最近、昨日のこと」ってお話ししてくださったのでした:

 あまりにも早い別れに悲しくて悲しくて…とても平静でいられません。
 今日、お葬式をして最後のお別れをしました。
 泣いて 泣いて 泣いて 泣いて… 涙が枯れる程泣いて、顔が倍くらいに腫れ上がり、涙で頰に湿疹が出来るくらい泣いても、気付くと涙が流れて…

(2015-03-22 20:53:18「ライくん」)
http://ameblo.jp/ran-matsumoto/

 こんなに優しい松本蘭さん、彼女は2009年"ミス日本 ミス着物"でした:
 松本蘭「着物×ヴァイオリン」:
https://www.youtube.com/watch?v=ODDGPzi4lg4

 そのときのインタビュー記事を読んでみましょうか:

−"ミス日本"にも応募されたということですが、その経緯を教えて下さい。
松本:これは、母が私に内緒で勝手に応募して。それで、「一次が通ったみたいだから、次、面接に行ってくれる?」って言われたんです。実は19歳のときにも同じようなことがあったんですが、そのときは興味がまったく無かったので棄権したんですけど…。今回の「ミス日本」に関しては、母に「親孝行だと思って、ここはまあひとつ受けてよ」っていう風に説得されて。悩んだんですが、私は"12人のヴァイオリニスト"っていうグループにもいましたし、コンサートのMCのときのちょっとしたネタになるかなって…(笑)。軽い気持ちで受けたんですよ。そしたらもう、思いのほか最後まで行ってしまって、結果的に賞を頂くことになったんですけど。

−"ミス日本 ミス着物"に選ばれた訳ですが、その経験の中で学ばれたことはありましたか?
松本:「ミス日本」は本大会の前に、半年間くらい勉強期間があるんです。そこで同年代のミス日本に参加している女の子達に会うことが、私にとってはすごく刺激的でした。というのも、私は小学校の頃から音大の付属校に通っていたので、音楽の世界しか知らなくて。でも、そのミス日本に参加してる子っていうのは、弁護士や医者を目指していたり、将来自分のお店を持ちたいとか、本当に色んな夢を持っている子が集まっていて、「ミス日本」っていう1つの目標にも頑張ってたんですよね。そういう音楽に関わること以外の夢や目標をもった子に出逢うことが私のこれまでの人生でなかったので、すごく刺激をもらいましたね。私もヴァイオリンをもっと頑張らなきゃと思いましたし、そこで学んだことっていうのはとても多かったですね。…あとは、ミスコンの舞台に立つということと、ヴァイオリンを持ってステージに立つことというのは、自分を表現するっていう意味では直結してるなと思ったので、そういう意味でもとても勉強になりました。

− 松本さんとヴァイオリンとの出逢いからお伺いします。
松本:私が3歳くらいの頃に流行っていた「三井のリハウス」のCMに、女優の宮沢りえさんが楽器を持って出ていたみたいなんですね。それを見た母が「可愛いから、うちの娘にも持たせたい」って言い出したのがきっかけなんです。当初は遊びの感じで弾いていたんですけど、小学校に入るか入らないかくらいの時に、母に連れられて行った前橋汀子さんのコンサートを観て、凄く衝撃を受けたんです。とても美しいし、幼いながらに心惹かれる何かがあって、「こういう風になりたい!」って思って。それからはヴァイオリニストになることを目標に、より頑張れるようになって…どんどんのめり込んでいって、今に至ってます。
(初出『Groovin'』(注2)2009年8月25日号SPECIAL INTERVIEW松本蘭)
http://shyglance.web.fc2.com/interview/pg385.html

 前橋汀子さん…前橋さんがご自分のコンサートでは必ず弾かれるという2曲、マスネ「タイスの瞑想曲」(1894年初演)とサラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」(1878年に完成)なんですが、月曜日のコンサートでも最後に松本さん、ご披露してくださいました。
 2011年6月、紫綬褒章を受章した前橋汀子さん(1943年生まれ)、翌2012には演奏活動50周年の記念コンサートをなさっておられますが、その時のインタビューです:

―ヴァイオリニストを目指すきっかけとなったのがシゲティ、オイストラフの演奏会だそうですね。その思い出について聞かせてください。
前橋:ヨゼフ・シゲティ先生との最初の出会いは、1953年に行われた日本公演最後の日比谷公会堂でのコンサートの折でした。当日は皇室からのご来場があり、先生が休憩時間にご挨拶のため客席に来られた際、通り道の途中に座っていた少女の私に目をとめられ、頭をなでて下さいました。当時、母は、私に海外からの一流演奏家のコンサートを出来る限り聴かせたいと、高価なチケットを1枚だけ買って、自分はホールの外で待ってまで、通わせてくれました。その日の演奏会後「ヴァイオリンのおじさんが私の頭をなでてくれたの」と言ったそうです。その後、3年間におよぶロシアへの留学から帰国し、それからニューヨークのジュリアード音楽院に留学中の1968年、現役を引退されスイスのモントルーに住んでおられた先生を訪ね、最晩年の5年間その教えを受けることが出来ました。

ダビット・オイストラフとの出会いは、私が小学校1年の時に聴いた彼の演奏会でした。幼稚園の音楽教育で、ピアノかヴァイオリンをということでたまたまヴァイオリンを始めることになったのですが、そのまま私の日常生活の一部となって続けていました。そんな折、まるで楽器が体の一部となって自由自在に響き渡わたるオイストラフの演奏を聴いて衝撃を受け「ソ連(現ロシア)に行けば私もあんな風に弾けるようになるんじゃないか」と思い、それからは絶対にソ連にヴァイオリンの勉強に行くというのが私の夢になりました。


―そして見事夢が叶い、日本人として初めて、旧ソ連の国立レニングラード音楽院へ留学されました。
前橋:ソ連にヴァイオリンの勉強に行きたいという夢が実現し、旧レニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク)に留学のため横浜港から出発しました。ナホトカまで3昼夜かけて船で行き、気車に乗り継ぎウラジオストックへ、シベリア大陸を飛行機で横断し、現在では想像も出来ないほどの長旅の末、レニングラードにたどり着きました。そこは、ネヴァ河沿いに広がる帝政ロシアの都で、エルミタージュ美…
(前橋汀子 2012年演奏活動50周年コンサート)
https://www.concertsquare.jp/blog/2015/201501174.html

 ではここで、Jules Massenet-Thaïs Méditation、Violin: Katica Illenyi (Illényi Katica):
https://www.youtube.com/watch?v=RZHIAbI9opg

 なにを瞑想していたのでしょうか:

 「タイスの瞑想曲」は、「タイス」というオペラに登場する大事な間奏曲。「タイス」がどんなストーリーかというと、4世紀の北アフリカ・ナイル河畔の町を舞台に、娼婦の「タイス」と修道士「アタナエル」が繰り広げる破天荒な恋物語です。この<瞑想曲>は、タイスがアタナエルの説得により娼婦稼業をやめ、改心して信仰の道に入ることを受け入れる重要な局面で流れる間奏曲なのです。この間奏曲は、これまで生きてきた「俗」世界から「信仰」の世界へと大きく転換する決定的瞬間を迎えたタイスの心情を表しています。そしてオペラ「タイス」には、間奏曲の後もこの<瞑想曲>のメロディーがたびたび登場し、オペラのテーマでもある「聖」と「俗」の葛藤を描く際の象徴的な音楽になっています。

 「タイス」を作曲したジュール・マスネ(1842-1912)はオペラで知られた作曲家です。19世紀末のフランスで大作曲家として認められ、人の心をつかむ魅力的なメロディーを生み出す天才でした。

(NHKららら♪クラシック)
http://www.nhk.or.jp/lalala/archive140308.html

 絶妙なバイオリン演奏に、薬のせいか「タイス」が多椅子と化し、椅子から転げ落ちそうになるのを懸命にこらえているヤッホー君、ここで「ツィゴイネルワイゼン」も。
 これも「ツィゴイネルワイゼン」か、「チゴイナーワイゼン」か、サラサーテがあさってになりそうなのです:

 サラサーテは10歳の時、マドリードの宮廷で演奏し、時の女王イサベル2世からバイオリンの名器ストラディバリウスを与えられ、彼女の資金援助により、パリ音楽院に留学。美しい音色と完璧な音程、超人的な演奏技術を持ち、世界を巡る演奏旅行で大成功をおさめ、巨万の富と名声を得ました。そんなセレブなサラサーテも、毎年故郷で行われる牛追い祭りのころには帰省し、地元の人たちと親しく交歓し、惜しみなく演奏を披露したといいます。民族音楽に関心を持っていたサラサーテは、ロマ音楽(ジプシー音楽)にも注目し、その特徴を取り入れてチゴイナーワイゼンを作曲しました。演奏者と聴衆との距離が近いロマ音楽に、サラサーテが親近感を持ったためではないかと考えられています。
(NHKららら♪クラシック「バイオリンの名手サラサーテは、“ジプシー音楽”を取り入れてチゴイナーワイゼンを作曲しました」)
http://www.nhk.or.jp/lalala/archive130914.html

 演奏は、歓声から99年たって1977年に生まれ、ブルガリア出身のバイオリニスト Bojidara Kouzmanova で:
Zigeunerweisen, Pablo Sarasate:
https://www.youtube.com/watch?v=e8MmjLskmoY


(注1)
実は同じコンビで、2014年7月にスペインで開かれた「日本スペイン交流400周年記念音楽祭」でも演奏しておりました。
http://www.esja400.com/jpn/concierto-de-japonesque/

(注2)
『Groovin'』は1999年10月から2010年3月までCDショップすみやで配布しておりました弊社shyglance(有限会社シャイグランスは、音楽や映画、書籍、番組などを通して広い意味での文化を創造・紹介し、ユーザーにその楽しさをお届けする、エンターテインメント企業です)製作の音楽フリー・ペーパーです。音楽シーンを彩った様々なアーティストたちや数々の映像作品を紹介してまいりました。
http://shyglance.web.fc2.com/about.html






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2015年03月24日

和敬塾

 村上春樹も住んでいた、という「和敬塾」…
 ヤッホー君は、郷土の各自治体がお金を出し合って作った東京の大学に通う男子学生のための「村山学寮」に住んでおりましたぁ…

 私が心から尊敬する人について書きたい。
 身内のことで恐縮だが、それは家内の祖父・前川喜作(まえかわ・きさく)という人物だ。私と家内が結婚した29年前(1979、昭和54年)は84才でまだお元気だったが、1986(昭和61)年に亡くなってもう22年が経つ。喜作氏は、奈良県に吉野杉の山を持ち林業を営む素封家の家に生まれた。三男であったので家業を継ぐ必要がなく、将来の進路は自由が許された。上京し早稲田大学理工科に学び、そこで研究した技術を生かして産業用冷凍機製造の会社「前川製作所」を創業した。喜作氏が初代社長、二代目を家内の父が継ぎ、今は創業84年を迎え、国内64箇所、海外78箇所の事業所を置き、従業員約3,200名、年商1,500億円で、世界でも有数の技術を持ち業界シェアトップの経営をしている。
 “モノづくり”の技術で戦後の発展を支え、日本の底力を示した経営者としての喜作氏には勿論敬意を表するが、私が感銘を受けるのは、事業で成功して得た利益、つまり儲けたお金をどう使ったかなのである。
 会社経営が軌道に乗った喜作氏は、1956(昭和31)年に私財を投じて「財団法人和敬塾」という、地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮を作った。戦後、荒廃した日本を目の当たりにし、この国の将来を担う若者には「教育」が何より大事で、食住の心配なく思う存分勉強させてやりたい、そして単に「下宿屋」を提供するのではなく、人間として成長出来る「教育の場」を作りたいという壮大な理想を掲げて取り組んだのだ。

(参議院議員中曽根弘文(自民党)「私の尊敬する人」〜前川喜作氏について〜2008(平成20)年11月)
http://www.hiro-nakasone.com/comment/20081101.html

 「和敬塾」の中庭にはそういえば、前川喜作氏の銅像が建っておりました〜「前川製作所」でしたかぁ〜

 父が倒れたのは45歳のときで、日本の敗戦の3か月前である。クモ膜下出血と診断されて敗戦を迎えたあと、役人だった父はマッカーサーの公職追放令によって職を追われ、病と失職の二重苦にあえいだ。小康を得て故郷に戻ってからは商売をはじめている。肉体的な後遺症はなく幸いだったが、私は父に性格的な後遺症が残ったのではないかと疑ったりした。官舎の座敷に達筆をふるって「努力即権威」と記した色紙を飾っていた父が、故郷の店先の色紙に「春夏秋冬二升五合」と書くようになったからだ。
「何? 意味がわからんのか。これは“年じゅう商売繁盛”と読むのだ。アッハハハ」

 以来、晩酌と爆笑を欠かさず、発病から40年目の85歳で父は世を去っている。それにしても、あの変化は何だったのだろう。脳血管系の病気の後遺症かもしれないと私は思ったりしたが、最近になってふと気がついたことがある。

 私は病と失職というアクシデントに負けなかった父を新たな目で見直し、人間の二面性に注目するようになったのである。
「ならば面白い人がいる。彼は官僚としての大役を終えて、いま別な舞台に立ったばかりだ。この先の人生をもう一幕たのしむだろう」と紹介されたのが金沢学院大学学長の石田寛人氏であった。氏は東大工学部原子力工学科の一期生として東京オリンピックの年に卒業したというから、逆算すると日本がアメリカと戦争をはじめたころ生まれたことになる。卒業後に科学技術庁に入って専門分野をつき進みながら事務次官まで上り詰め、勤続36年で退官したあとチェコ特命全権大使を務めた。チェコはかつて科学技術の先進国といわれたから、ここまでは有能な技術系官僚コースとして特に驚くことはない。
 だが、科学技術庁原子力局長時代に、義太夫の脚本のコンクールに応募して入選したと聞いて私はたちまち関心を持った。

 原子力工学と義太夫を体内に同居させている人と面談すべく、緊張して約束の場に出向くと、経歴から想像したイメージが拍子抜けするほど快活な人である。
「あの義太夫は秋津見恋之手鏡という加賀藩士大月伝蔵の恋物語で、もちろん文語体で書きました。文字はすべて旧仮名づかいにしたかったのですが、これがなかなか…」と話題はのっけから義太夫である。順序として原子力から聞き出しにかかると、
「大学入学は1960年です。1954年には新進気鋭の中曾根康弘議員が、ウラン235を活用した原子力にちなんで2億3500万円の原子力予算を獲得して世の注目を集めたし、アメリカでアイゼンハワー大統領がアトムズ・フォア・ピースととなえたこととも相まって、当時の日本は政府も国民も原子力に好意的でした。私は実父が英文学者でシェークスピアの専門家だったので、文系にも心動かされましたが、東大初の原子力工学を選んで役人になりました。石川県出身の法文系の行政官はそれほどおおくないこともありまして(笑)。でも、いまだにシェークスピアの専門家小田島雄志さんには憧れを感じますねぇ」とのことだから、スタートラインから文系と理系に等分の興味があったらしい。

「たしかに、原子力と違和感なく義太夫を口ずさめる人間は異例かもしれません。それにしても今日まで私が両刀をたずさえてきたのは、和敬塾に入塾して2年目に原子力工学の進路を決めたとき、技術者だった前川喜作塾長から『科学一辺倒の人間にはなるな』といわれた一言が、よほど心に響いたんだと思います。あのときの言葉を、いまでも覚えているくらいですから」
 突然、飛び出した「和敬塾」に私はもちろん耳をそばだてた。聞いたこともない3文字だが、字画からすると進学塾か、武芸場か、はたまた右翼団体かと思わせる。
「いえ、男子専用、女人禁制の学生寮です」と石田氏は楽しげにいったあと、こうつづけた。

「前川塾長は、私のことを先生と呼ぶな、オヤジと呼べといってましたし、寮長たちからも管理、監督された記憶は全くありません。門限は12時くらいだったと思いますが、門限すぎて帰ってきた者は一階に住んでいる仲間が窓から引き上げてくれますしね。掟としてきびしく徹底していたのは部屋に女の子を入れるな、ということだけでした」…
「前川喜作さんはデモに参加したい者は行け。信念をもって参加するなら、たとえ警察につかまっても私がもらいさげに行ってやるから心配するな、とまでいってました。ただし、皆が行くからふらっと行ってみようという気持ちで参加すれば必ず後悔するからやめろ、と塾生を集めてキッパリいいました」…
「今になって考えると、和敬塾の良さの一つは同世代の多彩な友人がつくれることだと思います。水戸のおかめ納豆本舗の高野君も同期だし、チェコ大使をしていたときにプラハにまで来てくれた日本化薬社長の島田君も和敬塾に入ったからこその友人だなぁ」…
「アメリカのスタンフォード大学からきていた彼は共同風呂が苦手だったみたいです(笑)。塾祭では私もお手伝いして出し物の“白波五人男”の忠信利平役を彼にふり当て、『餓鬼の時から手くせが悪く……』なんて台詞をいわせたんですよ。喜作オヤジさんは笑いをかみ殺して目を細めていました」
 石田氏の尽きない思い出を聞きながら、人間の二面性を探るつもりの私の関心は、いつしか青年の多面性と可能性の育成を手がけた和敬塾に傾き、早くもおかめ納豆と日本化薬の連絡先を調べにかかったのである。

(上坂冬子「人間ドラマ和敬塾」)
http://seidoku.shueisha.co.jp/kamisaka.html

 青春時代に同じ年の若者が同じ釜の飯を食いあうというのは、たしかにアパートでひとりカップヌードルをすするのとは訳が違って、その後の人間形成には大いに資するものがあるはず。
 しかしヤッホー君の男子学生寮は、大学自体都心部から都市の郊外部に拠点を移し、都心に住む学生がガタ減りとかでその後、閉鎖され、ムカシの寮はイマ、マンションにとって替わられた、という悲しい話。

和敬塾創立の経緯
 和敬塾の創立の経緯ですが、第二次世界大戦の終わったころに遡りまして…、当時日本の国民全体が精神的に混乱しており、その上、物不足というか、食糧不足というか、そういうものに苦しめられて、みんなが毎日の食糧を得るために汲々としていたという時代です。それで日本の伝統的な道義というか、そういう気持ちが全く退廃していた時期があったわけです。当時私は中学3、4年生でした。
 そういう時に、和敬塾を創立しました故前川喜作という方が、
たとえ戦争に敗れても、一切のものを失っても、人間というのは魂を失っちゃあいけないんじゃないか。日本には元々天然資源はなかったんだ。あるのは人的な資源だけじゃないか。日本の将来はこの人的な資源の成長を待つほかないじゃないか」ということを思い、そのためには、教育というのはただ学問とか知識というのを授けるだけでなくて、広い情操的な教養と豊かな人間性を磨くことが大事であると考えたわけです。
 当時の学校教育の実態は、知識優先でして、戦後の混乱の時期ということもあって、徳育という面にあまり関心がありませんでした。また、徳育ということを何か避けている風潮があったと思います。
 「大学は出たけれど」では困るんだ、「大学を出ただけあって」というような人間になってほしいという切なる願いを持って、それには学校とはまた別に、もう一つの理念を持つ人間教育の場を作らなければならないだろう、という信念から現在のところに共同生活を基盤にして常住実践の人間教育の場として「財団法人和敬塾」を設立したわけです。
 要するに人材の育成ではなくて、人間的に成長するということを意図した塾です…
(ホットライン教育ひろしま、教育講演会2002年11月20日「共同生活と人間形成」講師:加茂田信則氏(前川総合研究所 執行役員)
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kyouiku/06senior-plan-kouen-20021120-2002112001doc.html

 「徳育」って学校教育のなかの科目に入って甲乙丙とか点数がついちゃうものではないんじゃない? 暗記して覚え、問題を解くとき正解がある、となったら、そりゃあ「洗脳」でしょ、と考えているヤッホー君です。
 トルコ・サカリアで長髪の若い校長先生がおっしゃっていたように、すべて学校という器に「教育」を期待するものでない、というお話しがまだあたまにあって、《学校とはまた別に、もう一つの理念を持つ人間教育の場を作らなければならないだろう、という信念から現在のところに共同生活を基盤にして常住実践の人間教育の場として「塾」を設立》という経緯になるほど、とうなづいたわけです。
 写真は、「塾」の奥にあった本館です:

塾本館.jpg

 では「塾」周辺の写真をおまけに。
 近くの芭蕉庵:
芭蕉庵.jpg

 永青文庫にも寄りました:
永青文庫.jpg

 野間記念館にも寄りました:
野間記念館.jpg



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2015年03月23日

村上春樹

 昨日日曜日の「お散歩会」…
 オリジナル企画には「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」enpaku 見学も含まれていましたが、リーダー江戸さんより休館日で入構できません、とのお達しがありました。
 ヤッホー君は地下鉄「早稲田」着が8時半だったもので時間がまだたっぷり、そこでえぇい、ままよとばかりに早稲田大学へ。
 いまどきの学生さんは、いまどきをどうとらえ、どんなふうに表現しているのか興味津々、しかしキャンパス内は公園と化し、都の西北にはムカシのような「立て看」はひとつとてありませんでした。
 代わりにヤッホー君の目に飛び込んできたのが大学の「立て看」:

ASEAN地域の名門大学への派遣学生募集について
 マラヤ大学(マレーシア)
 チュラ―ロンコーン大学(タイ)
 デ・ラ・サール大学(フィリピン)
 ブルネイ・ダルサラーム大学 (ブルネイ)
 ※ インドネシア大学とタマサート大学の募集は終了しました。

 AIMS7(ASEAN International Mobility for Students Programme)は、充実した奨学金が魅力な東南アジア地域の大学への留学プログラムです。
 タマサート、チュラーロンコーン、デ・ラ・サール、マラヤ、ブルネイ ダルサラーム大学など、ASEAN地域の名門大学で学ぶ機会が提供されると同時に、渡航費・寮費が補助金から支援され、かつ日本学生支援機構の奨学金(月額6〜7万円 ただし、GPAや国籍等一定の条件を満たした場合のみ)も支給されることによって留学費用の大半がカバーされるという魅力的なプログラムです。
 一期生としてデ・ラ・サール大学へ派遣された社会科学部の学生も、現地で貴重な留学経験をして帰国しました。
http://www.waseda.jp/fsss/sss/news/2015/01/09/3677/
http://www.waseda.jp/sils/jp/aims/howto.html

 へぇ〜、若いこれからの人が、若いこれからのアセアンで学べばきっと良い刺激と人脈とが得られるにちがいありませんね、と思いつつ大隈庭園、学食とまわったのですが、ここもお休みでザンネン。

 ところで、ふむ、と言いますのも、あの村上春樹はたしか早稲田大学第一文学部演劇科のはず。
 それに、それに、ヤッホー君たちが立ち寄った「和敬塾」にもなんと、村上春樹は住んで暮らしておりました、ふむ、ふむ:

 一浪した後、村上春樹は、早稲田大学の映画演劇科に進学する。もともと映画も好きで、小学生の頃は、日曜日よく両親に神戸や西宮の映画館へ連れて行ってもらっていた(『映画をめぐる冒険』)(注1)。
 早稲田大学の演劇博物館では、シナリオをかたはしから読んでいたそうだ(ビリー・ワイルダー「サンセット大通り」、『村上朝日堂』)(注2)。
 だが、すぐ同級生の陽子夫人と知り合い学生結婚し、1920年代の曲がメインという「ピーター・キャット」という名前のジャズバーを経営する(注3)。
 早稲田大学周辺については、来年映画が公開される「ノルウェイの森」に書かれている(注4)。
 村上春樹が上京した直後に入った現存する和敬塾がモデルといわれる男子寮(「突撃隊」というニックネームの、主人公と同室の学生はファンに人気がある)、高校時代の同級生のヒロイン「直子」と歩く四ツ谷の外濠土手道(故郷夙川沿いを彷彿とさせる道)など、東京の風景描写が印象的な作品でもある。
 この小説のもうひとりのヒロイン「緑」のモデルは、東京生まれ東京育ちの夫人だというのが定説(作者は否定している)。
 なお、関西至上主義だったらしい両親にとって、一人息子が東京の女性と結婚という事実はなかなかけ入れられなかったようだ。この頃から特に父親と上手くいかなくなったと思われる。

(平成21(2009)年度第6回兵庫県立図書館利活用講座、村上春樹、講師:兵庫県立図書館・溝口めぐみ、開催日:12月19日午後後2〜4時、会場:兵庫県立図書館1 階第2 研修室)
https://www.library.pref.hyogo.lg.jp/event/event2009/2009rikatuyo06_siryo.pdf


(注1)
『映画をめぐる冒険』(著者:村上春樹、川本三郎、講談社、1985年12月)

(注2)
『村上朝日堂』(著者:村上春樹、安西水丸、新潮文庫、1987年1月)

(注3)
 私が最初に村上夫妻を見たのは、1974年の春のことだった。
 夫妻は国分寺駅の南口で、開店したばかりの「ピータ・キャット」のマッチを配っていた。
 マッチの表には、ルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫と eter-cat ロゴが白字に墨で配置。
 書体は写研のタイプライター・フェイスで、裏にはゴシック体で JAZZ’50’S の文字。
 背には、KOKUBUNNJI の文字と電話番号があった。
 ♢
 店は、そこから横断歩道を渡り、国分寺書店の前を通り過ぎて、殿ヶ谷戸庭園沿いの坂道を下りきった角にあるトミービルの地下にあった。
 私の部屋は、そこから更に数軒先のモルタルアパートの二階で、四畳半の和室に狭い台所と水洗トイレ。
 割と新しい建物だった。
 毎日、通学で前を通っていたから、なにか工事をしていたのは知っていた。
 なにができるんだろうと思っていたが、それが「ピータ・キャット」だったわけだ。
(2013/02/05 国分寺・国立70Sグラフィティ「1974年のピータ・キャット。村上春樹さんとの出合い」)
http://morimorikids.sitemix.jp/?p=24

(注4)
 DVD「ノルウェイの森」予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=-T7fo0afTzE

 砥峰高原のすばらしい景観(新緑の草原、白銀の高原)の中で、ワタナベとナオコのシーンが数多く撮影されました。
 ヘリをチャーターしての撮影や120mのレールを並べての撮影など大掛かりな撮影も行われました。
(兵庫県神河町公式観光サイト かみかわ観光ナビ、映画『ノルウェイの森』メインロケ地 峰山高原・砥峰高原)
http://www.kamikawa-kankonavi.jp/loca_norway/

 出版から20年以上映画化されることのなかった原作の映画化を手掛けるのは、村上も大ファンだという映画『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』のトラン・アン・ユン監督。
 これまで独特の映像で叙情味あふれる物語を撮ってきた監督だからこそ、原作に流れる喪失の雰囲気を映像に立ち上げてくれるはずだ。2010年12月11日より全国公開。
(2010年7月22日付けシネマトゥデイ、映画『ノルウェイの森』ザ・ビートルズの名曲をBGMに特報映像がついに公開):
http://www.cinematoday.jp/page/N0025755



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春は神田川

 春の陽気に誘われて…

 きのうは春分、きょうからは日に日に昼の時間の方が長くなっていきます。
 冬の間、気分が優れなくなる冬季うつという精神疾患があるそうですが、日の光を浴びることで症状が緩和・改善するそうです。
 東〜西日本は向こう1ヶ月の日照時間が平年より多い予想ですので、「最近テンションが上がらない」なんて方は柔らかな春の光を浴びに散歩に行くのもいいかもしれません。

(2015/3/22(日)午前7:51チーム森田が”天気で斬る!”小杉浩史「春の光」)
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map

 2015年3月22日日曜日は、山歩クラブのお散歩会。

 キャンデーズのヒット作「春一番」はイマからもう39年前、1976(昭和51)年で、この唄でNHKの紅白歌合戦に出ています:
https://www.youtube.com/watch?v=KJYPpSLIdoA
♪ 泣いてばかりいたって 幸せはこないから ♪
♪ 重いコートぬいで でかけませんか ♪

(ヤッホー君のこのブログ、2011年04月26日付け日記「春一番」、ぜひお読みくださいって、ヤッホー君)
http://fom-club.seesaa.net/article/390227806.html

 9時早稲田「穴八幡神社」集合。
 江戸さん企画・リーダーで5人集合。
 足取りも軽く(最後は重く)、出発進行。

 穴八幡のあと「高田馬場跡」、「水稲荷神社」、「甘草園公園」、都電「面影橋」駅へ(写真)。

面影橋.jpg

 「山吹之里碑」から「氷川神社」へ。すると鳥居近くに江戸時代造の狛犬(写真)。

狛犬.jpg

 「氷川神社」で千葉さんは御朱印を3枚ほどいただいてきましたって!
 さらに名作怪談「乳房榎」ゆかりの地「南蔵院」、江戸五色不動で目白の地名の由来「金乗院」へと足をのばし「面影橋」にもどって神田川。
 今日のメーンテーマと思っていた「椿山荘」、そして「野間記念館」、お別れ駅は有楽町線「江戸川橋」駅まで。
 まったり、ゆっくり、ゆるゆる、都心の春を楽しんできました。
 収穫も盛りだくさん:

☆ 穴八幡が江戸城北の総鎮護であること(そうしたら奥野木さんがすかさず神田明神は江戸城の東北の鎮護だねと)
☆ 由井正雪の乱の首謀者のひとり丸橋忠弥の墓を見つけたこと
☆ 神田川に橋を架けるためイマ、リバーサイドウオークを止め迂回させて工事中
☆ 神田川の護岸工事に無名の芭蕉が関わっていて深川の芭蕉庵よりも古かったこと
☆ 椿山荘

 写真は椿山荘のなかにある滝の前で:

椿山荘の滝.jpg

☆ 田中角栄邸宅の一部が「目白台運動公園」になっていたこと
☆ その近くに外国人留学生150名を含む男子学生寮「和敬塾」があって、その本館が細川侯爵邸だったこと
 エトセトラ、エトセトラ… その都度、うっそぉ、へぇ、そうなんだぁ、うぅと大声をあげ。

 お散歩会といえど、アップダウンも激しく、しかし、歩き疲れたことを忘れるほど愉快な、あっはっは、おっほっほの<歴史散歩>になりました、ねぇ〜。


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2015年03月22日

トルコ情勢

 内藤正典先生(注1)。
 たしかに目からうろこが落ちるようにお話しなさってくれます。
 というより、研究室に籠って積み上げた研究書、研究論文を渉猟し、注だらけの学識を披露するのも学者ですが、先生はそれ以上に現地にはいって生身の人間にインタヴューして聞く、あるいは現地の研究者、オピニオンリーダーと意見交換するという、自分の学問のテーマ性に基づく文字情報、プラス生きた情報が加わるので、先生の口頭発表にも説得力があって、聴く者になるほど、とうなづかせるのでしょう。
 ご自分との、学問のテーマとの対話性、会場で聴いている聴衆とのコミュニケーション、といってもいいかもしれません。
 「なんでトルコだったんや」「なんでヤッホー君はそんなに印象付けられたんや」への一端が先生の話しを通して、つかみとることができるかもしれません。
 トルコへの今回の旅の締めくくりにあたって、先生のお話しをここで順序立てて聴いてみませんか。

 まずは6年前になりますかね、「ヨーロッパのイスラム」(2009年5月31日)
 場所は、「東京ジャーミー・トルコ文化センター(注2)」(渋谷区大山町1-19 Tel 5790-0760)。
http://www.tokyocamii.org/ja/library-ja/video-ja/islam-in-europe-2

 そして2年前、2013年6月21日付け「日本記者クラブ」での講演「トルコ情勢」から。
 ちょっと長いのですが、「文化的多元性」に感心のある方でしたら、またすぐに2項対立の図式に簡略化し、「わしこっちや、あんたはどっちや」と迫るバカな連中の物言いに飽きた方にも、最後の最後まで深いお話しの内容になっております:
https://www.youtube.com/watch?v=VAKswNLFaj4

 コメントもついております:

 今週初めまでトルコに滞在していた、同志社大学大学院の内藤正典教授が、3週間前に起こった"ふつうの市民の怒り"から発したトルコ騒乱のこれまでの経過を振り返った。
 世俗主義対イスラム主義政府の構図としてとらえるのは情勢を見誤ることになる、という。
 エルドアン政権を支持してきたイスラム保守層が、首相の独善的で、権威主義的な政権運営に不満を募らせている。この層を失うことで危機が深刻化する可能性がある。
 首相は、「ビッグゲームをつぶす」とのスローガンで反撃し始めた。
 ビッグゲームが何をさすかははっきりしないが、騒乱の背後にいると思われる一部財閥をターゲットにしているとも考えられる、と。

(司会:日本記者クラブ委員、日本経済新聞・脇祐三)

 2013年7月号「日本記者クラブ会報」には、元朝日新聞編集委員・竹内幸史「記者による会見リポート」が掲載されています。

「トルコの春」報道 欧米メディアの虚構

 中東の中では比較的、政情が安定した「親日国」として知られてきたトルコ。
 エルドアン¬政権に対する抗議デモは、日本でも大きく報じられている。
 ところが、多くの報道は現象¬論にとどまり、この国の本当の悩みまで十分に伝わってはこない。
 一般的な関心は、東京¬とイスタンブールが立候補している2020年の五輪開催地選びにどう影響するか、とい¬う点にある。

 そんな状況のなか、トルコ理解に多彩な視点を提供していただいた。
 2023年に建国1¬00年を迎える「国のかたち」も含め、幅広い解説だった。

 一連の出来事を読み解くキーワードは、「ビッグゲーム」である。
 エルドアン首相の飲酒¬規制などイスラム化政策に反対する世俗主義者がデモ行動の中心だとされるが、左翼陣営¬、クルド分離主義者も複雑に絡む。
 所得格差の拡大を不満とする勢力は意外に少なく、経¬済の急成長で既得権を失った一部の財閥がデモの仕掛け人としてうごめいている。

 こうした政治構図とは対照的に、欧米メディアには「トルコの春」「内戦状態のトルコ」¬といった報道が目立つ。
 無抵抗で善良な市民が暴力的な警察と政府に抵抗している、とい¬う図式だ。
 CNNの記者は催涙弾など飛んでいない現場で防毒マスクをつけて中継をして¬いた。
 欧州連合(EU)にトルコを入れたくない国々の思いも反映しているようだ。

「人権侵害がひどかった昔のトルコのイメージで『虚構』を作り上げているのです」
 外国メディアが他国の出来事を自分たちの鋳型にはめ、単純化している限り、本質を伝える¬ことはできない。
 肝に銘ずべきだろう。

 五輪については、欧州議会の中にエルドアン政権の非難決議をする動きが出ており、国際-オリンピック委員会(IOC)の欧州委員らの考えに影響を及ぼす可能性があるという。

 日本、トルコともにオウンゴール≠した後のゲームの行方はまだ見えない。


 そして最後に今月はじめのこと、2015年3月9日付け日刊ゲンダイの記事「注目の人 直撃インタビュー:イスラム専門家・内藤正典教授が明かす《トルコ政府が用意した人質交換シナリオ》」も見逃せません:

―やはり、安倍首相のカイロ演説が残念な結末に影響したとお考えですか。

 影響したかどうか断定できませんが、腑に落ちない点があります。カイロ演説に関しては“あの一文(ISILと闘う周辺各国を支援)は官邸主導で入れた”という趣旨の報道をしたテレビ朝日が外務省から抗議されましたが、安倍さんは「闘う」という言葉を入れたかったんじゃないか。その揚げ句、ISに揚げ足を取られた。むろん、揚げ足を取ったISが非道な集団であることに疑問の余地はない。しかし、あの場面では人道支援するとだけ言っておけばよかった。

―政府の対応や認識に問題が多いということですね。

 1月25日、安倍首相がNHK「日曜討論」に出演した時もひどかった。
 トルコからの難民はISのせいだと言ったのですが、トルコから難民など出ていない。トルコは難民を受け入れている国です
 それだけなら、言い間違いかと思ったのですが、ISがトルコやイラクに侵入したとも発言しています。そもそもISはイラクで生まれた組織ですし、ISはトルコに侵入などしていません
 仮にISがトルコに侵入したら、強固なトルコ軍に撃退されてしまうでしょう。
 果たして、いま中東で起きていることを理解しているのでしょうか

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/157798/1



(注1)
 ないとう・まさのり 1956年生まれ、東大卒。同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科長・教授。専門は中東の国際関係で、9・11以後はイスラムと西欧世界の関係について積極的な発信を続けている。『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』(集英社新書)など著書多数。

(注2)
 日本の東京ジャーミイは、日本の方々の良好的なもてなしを頼りにしてカザン州から日本に避難してきたトルコ人によって1938年に建設され、その後、老朽化に伴い2000年に立て直され、私たちにとって伝統と未来を結び付ける架け橋としての役割りを果たしています。この東京ジャーミイはオスマントルコ様式で建設されたことによって伝統を継承しながら、一方で現代建築の特徴も合わせ持ち、その一階の多目的ホールでは結婚式、演劇 展示会 公演等さまざまな活動が行われ、独特の魅力を備え、未来に光を与えています。
 東京ジャーミイは、いくつかあるイスラームについて正しい知識を得る施設の中の一つの場であると私達が信じております。東京ジャーミイには、毎日大勢の日本人がお訪れ、それによって伝統ある日本とトルコとの関係によい結果がもたらされるものと確信しております。
http://www.tokyocamii.org/ja/about-ja

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2015年03月21日

トルコの夕べ

 東南アジアはマレーシア・ペナン島から、思い立ったが吉日、とばかりに急きょ飛ぶことになったトルコ。
 ヨーロッパはイスタンブール、そしてアジア側はアナトリア、と両域にまたがるトルコ。
 その旅もそろそろお終いかなぁ、と。
 でももう一度、おさらいのために、さらには出会った人びととの再会を求めて、あの川、山、湖、海峡との再見をはたすため、たくさん見たトルコの偉人たちのお墓の再確認のために、こちらから訪問したいときが近いうちにめぐってくるな、とそんな予感もしているってヤッホー君。
 それよりもあのヨーグルト、あの蜂蜜、あのゆで卵、あのチャイ、あのコーヒーとトルコ料理が恋しくって涎をながしているんじゃないの…

 ここで想起すべきは、いわゆる大戦の前後に、普遍的原理と伝統ある王朝を二つの柱とする4つの古風な帝国が姿を消したことであり、オスマン帝国もその一つであったことである。
 大戦前には、1911年に始まった辛亥革命で、清朝がまず姿を消した。
 大戦中には、生き残っていれば戦勝国となったはずのロシア帝国が1917年の十月革命で倒れたのであった。
 大戦後には、共に敗戦国となった2つの帝国、すなわちハプスブルク帝国と、そして本章(9 オスマン帝国と第一次世界大戦)の主役であるオスマン帝国が終焉を迎えた。

 大戦の前後に4つの古風な帝国が崩壊した。
 敗戦国として崩壊したのは、かつての宿敵でありながら、最後の戦いを戦友として戦ったオスマン帝国とハプスブルクの帝国であった。
 両帝国は、イスラムとカトリックという普遍的宗教と、オスマンとハプスブルクという伝統ある王朝を核とした文化的多元国家という点で、双子の兄弟のように相似した帝国であった。
 そしてコア部分を残して完全に解体した点でも相似をなしている。
 ただ解体された諸部分の運命は対照的であった。

 ハプスブルク帝国の場合、その領土はヨーロッパに限られ、その住民の圧倒的多数は、キリスト教徒であった。
 ここでは、戦後処理の指導原理のひとつとなったウイルソンの「民族自決」がほぼ適用され、多くの独立した「民族国家」としての「国民国家」群が形成された

 これに対して、もはやヨーロッパ部のバルカンのほとんどを失い、モスリムが圧倒的に多いアジア・アフリカ部の版図を保つにすぎなくなっていたオスマン帝国の場合、残存する領土の多くは、英仏伊の植民地、半植民地の支配下におかれ、その「民族自決」は第二次世界大戦後の課題として残されることになった。
 しかも旧オスマン帝国領の解体にあたり、列強の恣意的な線引きが行なわれたことは、現代にまで尾を引く深刻な問題の淵源となった。
 ただ、自力で完全な独立を国となった稀有な例が今日のサウディ・アラビア王国と今日のトルコ共和国であり、一方は徹底したイスラム原理主義の国、他方は中東、否、イスラム圏において最も徹底した世俗的国民国家となった。

…鈴木菫(1947-)『現代の起点 第一次世界大戦』第一巻『世界戦争』(岩波書店、2014年4月)所収、233頁、254-255頁

 イマのはじまりを見つめ直すんだとばかりに、とくに江戸〜明治期あたりを徘徊していたヤッホー君、トルコに渡って、もう一つ大きな視座を獲得したことを大いなる喜びとするものであります。
 ここで、トルコが大好きな人を紹介。
 それは澁澤龍彦(1928-1987)の妹さん、澁澤幸子さん。

 シルクロードの終点だったイスタンブール。オリエント急行の終着駅でもあったイスタンブール。ビザンティン帝国千年の繁栄と滅亡。オスマン・トルコ帝国の栄光と衰退。征服者メフメット2世と立法者シュレイマン大帝。トプカプ宮殿。モスクとバザール。祈りのときを告げるエザーン。茶店で水煙管を吸う男たち。羊肉を焼く匂いが漂う街。
 イスタンブールのさらに先には、アナトリアの大地がひろがっている。ダレイオス1世が”王の道”を築き、アレクサンドロス大王が駆け抜けた小アジア。アントニウスが初めてクレオパトラに会ったのも、カエサルが「来た、見た、勝った」ということばを残したのも、この小アジアである。シルクロードの繁栄をしのばせる隊商宿(キャラバンサライ)。古くはヒッタイトからギリシャ・ローマに至る無数の遺跡。ノアの方舟が漂着したと言われるアララット山。クルド人とアルメニア人。僻地にはいまも天幕で暮らす遊牧民もいるという。
 私は枕にしていたリュックから、この旅行中に読もうと兄から借りてきたイブン・バットゥータ『三大陸周遊記』の文庫本を引っ張り出した。

…澁澤幸子『イスタンブール、時はゆるやかに』(新潮社、1994年)11-12頁

 澁澤幸子さんは公式サイトもお持ちです:

 SACHIKOのサイトへようこそ! この頁から「トルコのトピックス」と「ときどきダイアリー」の2本のブログに入れます。どうぞお立ち寄りくださいませ。
http://www.k2.dion.ne.jp/~lale/
 
 2015年3月6日 日本トルコ協会の第64回「トルコの夕べ」、今日の講師は同志社大学大学院教授・内藤正典先生で、テーマは「中東情勢とトルコ」。聴講申込者が多く、早く来ないと、よい席とれないというので早いめに行きました。やっぱりみんな、ISILには関心あるんですね。
 日本トルコ協会の事務局は伊藤忠商事のビル内にあるので、「トルコの夕べ」の会場も伊藤忠ビル内です。
 今日のオーディエンスは圧倒的にオジサンです。NHKや共同通信や、報道関係もお勉強に来ていましたよ。なにしろ内藤先生の講義は歯切れよく、わかりやすく明快と定評がありますから…
 内藤先生の最新刊『イスラム戦争ー中東崩壊と欧米の敗北』(集英社新書)を買って、読みながら帰りました。

(サチコのときどきダイアリー)
http://blog.goo.ne.jp/lale-sachiko


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2015年03月20日

ガリポリの戦い

 3月18日付けトルコの英字新聞の記事 "Turkish officials mark WWI Gallipoli victory" の続き。
 「ガリポリの戦い」から100年を言っていますが、さてもうひとつ、腑に落ちなかったのは最後に急にオーストラリア、ニュージーランドが出てくることです。
 何も知らずに、知ろうともせず、何事もお任せで馬齢を重ねて、息してきたヤッホー君、師ってびっくり、今日はその辺をまとめてみました。

 まずは、これも貴重な映像、と思うのですが、これを見てみましょう:

The Gallipoli Campaign, also known as the Dardanelles Campaign or the Battle of Gallipoli or the Battle of Çanakkale (Turkish: Çanakkale Savaşı), took place on the Gallipoli peninsula (Gelibolu in modern Turkey) in the Ottoman Empire between 25 April 1915 and 9 January 1916, during World War I. Aiming to secure a sea route to Russia, the British and French launched a naval campaign to force a passage through the Dardanelles. After the naval operation, an amphibious landing was undertaken on the Gallipoli peninsula, to capture the Ottoman capital of Constantinople (Istanbul). After eight months the land campaign also failed with many casualties on both sides, and the invasion force was withdrawn to Egypt.

The campaign was one of the greatest Ottoman victories during the war and is considered a major failure of the Allies. In Turkey, it is perceived as a defining moment in the nation's history−a final surge in the defence of the motherland as the Ottoman Empire crumbled. The struggle formed the basis for the Turkish War of Independence and the founding of the Republic of Turkey eight years later under Mustafa Kemal Atatürk, a commander at Gallipoli. The campaign is often considered to mark the birth of national consciousness in Australia and New Zealand and the date of the landing 25 April, is known as "Anzac Day". It remains the most significant commemoration of military casualties and veterans there, surpassing Remembrance Day (Armistice Day).

The Gallipoli Catastrophe Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=8dj8mQ6cgR8

 "Anzac Day"…
 "ANZAC" とは Australian and New Zealand Army Corps の頭字語 acronym なんですが、アンザック・デイ…
 このちょうど100年前の「ガリポリの戦い」の意義は、トルコ共和国成立の引き金となったのと、オーストラリア、ニュージーランドに国民国家意識を目覚めさせたことと言っても言い過ぎではないでしょう:

 アンザック・デイは、第1次世界大戦でオーストラリア・ニュージーランド軍団(アンザック)が、トルコのガリポリ半島に上陸したことを記念して設けられた日である。1915年4月25日、ダーダネルス海峡北岸のガリポリ半島に展開するトルコ軍戦線を突破するため、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド軍を中心とする遠征隊が半島南端に上陸した。3万3000人以上の戦死者(うち約4分の1がオーストラリア軍兵士)を出して、作戦は失敗したが、この悲劇はオーストラリア国民国家の神話の中核として語り伝えられ、儀式化されるようになった。
 初めてアンザック・デイが祝われたのは1916年4月25日で、ガリポリ半島において軍による戦死者追悼として挙行された。1920年代中頃に、オーストラリアの祝日として各州に広まり、多数の関連するモニュメントが建築され、オーストラリアのアイデンティティを象徴する祝日になった。アンザック・デイには、オーストラリアの各地で行進、花輪の贈呈、演説などが行われ、長くオーストラリアで最も重要な祝日であった。
 このように、もとは第1次世界大戦の犠牲者を悼み、その功績を顕彰する祝日であったが、のちに第2次世界大戦からイラク戦争にいたる他の戦争による戦没者慰霊・顕彰の役割も兼ねるようになった。さらに最近では、ニューヨークやバリ島のテロの犠牲者も慰霊の対象に加えられるようになっている。その結果、アンザック・デイは、再び息を吹き返しつつあるように見える。

(大阪大学・藤川隆男「歴史家ケン・イングリスとオーストラリアの第1次世界大戦の記憶」、Public History, Vol.1, 2004所収、51頁-56頁)
http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/vol_1/pdf/vol_1_feature01.pdf

 オーストラリアでは、いろんな企画行事があるようです。
 まずは Canberra Centenary Trail では:

The ultra running community will show their respect and honour the lives of our defence service men and women by making the 450km journey on the southern loop of the Canberra Centenary Trail from 6 to 12 April 2015. This will be the one and only time this event will take place.

The legend of ANZAC was born on 25 April 1915, and was reaffirmed in eight months’ fighting on Gallipoli. The Australians displayed great courage, endurance, initiative, discipline, and mateship. Such qualities came to be seen as the ANZAC spirit. The newly federated nation had looked to its rural environment for its national character. The “bushmen”, and their women, were seen to possess hardiness, democratic spirit, mateship, and resourcefulness.

ANZAC Ultra 2015: The Bushman
http://www.anzacultra2015.com/

 何日間かかるトレッキングでしょうか。さらにシドニー近郊ではマラソンも:

Sydney’s first 100km ultra marathon will be held on the northern beaches this Anzac Day and while runners will travel from St Ives to Manly, they’ll also be going on a journey through history.

Event organiser Greg Donovan said the course was designed with the Anzac spirit in mind.

“Participants will be running one kilometre for every year of Anzac history,” Mr Donovan said.

“An ultra marathon is not easy − it’s a struggle, and I think that as people are working hard through a bit of pain and suffering, it brings out the best in them.

“There’s a sense of camaraderie and mateship and endurance and compassion which, being on Anzac Day itself, will be a way of relating to their struggle.”

The course can be tackled as an individual or as part of a relay team, and Mr Donovan said it was designed in three legs that loop back through St Ives Showground.

(March 16, 2015 10:04AM Cayla Dengate, Manly Daily)
Run with the Anzac spirit in northern beaches marathon
http://www.dailytelegraph.com.au/newslocal/northern-beaches/run-with-the-anzac-spirit-in-northern-beaches-marathon/story-fngr8hax-1227264924185

 どっかの国も《70キロピースラン》とか《トレラン70キロ》とか企画すればいいのにね。
 一部のオタク連中だけの、仲間内の文案づくりとかでなく、皆んなが参加できる、もっと世界平和を祈念するような、もっと積極的で建設的な、もっと未来志向のアイデアをだせばいいのにね。

 あっ、オーストラリアでは歌も発表。
 最後に拝聴してみましょう、「アンザック・スピリッツ」です:

Lee Kernaghan-Spirit of the Anzacs(Official Audio)
https://www.youtube.com/watch?v=QlHl9vJygCQ


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2015年03月19日

アタトゥルク国際空港

 イスタンブールの街角を案内してくれた英語教師 Yusuf Bilginがぼそっと洩らした(ヤッホー君のこのブログ、3月13日付け日記「飛んでイスタンブール」ご参照ください)トルコ事情、もうひとつは英字新聞。
 英字新聞は結局、市内どこの新聞スタンドでもヤッホー君、入手できないで、それがやっと読めたのはトルコを出るときイスタンブールの空港で。
 この国際空港は「アタトゥルク国際空港」といい、日本とは、トルコ航空と全日空の共同運航便が成田と関空に飛んでいます。
 この「アタトゥルク」って何?が今日のテーマなんですけど、昨日3月18日付けの英字新聞より:

Turkish officials have marked the 100th anniversary of the Gallipoli Victory, the battle that marked a turnaround against the Allied Forces in favor of the Turks during World War I.

“As we celebrate the 100th anniversary of the Gallipoli Naval Victory, we remember with gratitude the veteran Mustafa Kemal [Atatürk] and our martyrs representing self-sacrifice and altruism on this day of pride,” President Recep Tayyip Erdoğan said in a written statement released on March 17.

“We will exert all efforts to raise our nation beyond the level of contemporary civilizations,” Erdoğan also said, referring to the famous maxim of Atatürk, who later went on to found the Republic of Turkey.

“It is only by embracing our country, flag, unity and solidarity that we can pay our debt of gratitude to the hundreds of thousands of martyrs lying in Gallipoli,” he added.

The 1915 battle took place in the Dardanelles Strait in the Çanakkale province’s district of Gallipoli, as the Ottoman forces repelled the invading Allied forces who were seeking to force their way through to Istanbul.

Defense Minister İsmet Yılmaz also issued a statement, in which he referred to the Arab soldiers who died fighting for the Ottomans.

“Those who see and live the Çanakkale spirit and visit the Çanakkale martyrs know why we have to take care of the victims of the Syrian civil war … We have a duty of loyalty to those who lost their grandparents in Çanakkale,” Yılmaz said.

Culture and Tourism Minister Ömer Çelik released a commemoration message for the anniversary.

“We will make ourselves heard with an extensive ceremony to emphasize that the Çanakkale Martyrs Memorial does not symbolize war, but symbolizes peace,” Çelik said.

The conflict is also accepted as one of the greatest Ottoman victories during World War I and a major failure for the Allied forces, but there were many casualties on both sides after eight months of fighting.

Around 13,000 New Zealanders and 50,000 Australians fought in the battle, and at least 2,700 New Zealanders and 8,700 Australians were killed.

The Ottomans lost almost 60,000 soldiers. Around 1,700 Indian soldiers, fighting for the British crown, also lost their lives.

ANKARA – Anadolu Agency March/18/2015
Turkish officials mark WWI Gallipoli victory

 そうなんです、「アタトゥルク」って、ムスタファ・ケマル(1881-1938)、敗戦とオスマン帝国滅亡のなかからトルコを「近代化=世俗化」し(*)、イマの「トルコ共和国」にした建国の勇士だったのです。

(*ヤッホー君注)
 世俗の(セキュラー)、世俗主義(セキュラリズム)、世俗化( セキュラリゼイション)など secularism (=a system of social organization that keeps out all forms of religion) が今回の旅、色んな意味あいであちこちで聞いたキーワードでした。

 ちょうどイマから100年前のこと:

 第一次世界大戦に際してスルタン=カリフの名で発せられた「ジハード」の宣言は、アラブの反乱とインド・モスリムのイギリス軍への参加という厳しい反応に直面し、オスマンは1918年10月に降伏を余儀なくされた。
 圧倒的な劣勢の中で健闘したとはいえ、4年にわたる戦争中、オスマン軍に見るべき勝利はないに等しかった。
 その中でが例外的な戦闘が、1915年、ダーダネルス海峡突破を図る連合軍をガリポリ半島で迎え撃ち、10ヶ月にわたる激戦ののちに退けた戦いだった。
 そしてこの戦いで、ドイツ人司令官リーマン・フォン・ザンデルスのもと、彼と衝突しながらも作戦を指揮して軍事的才能を内外に示し、オスマン国内に英雄としてその名を広めたのが、ムスタファ・ケマル(当時は大佐)だった。

 大戦後のヨーロッパは動揺を続け、スペインにフランコ、イタリアにムッソリーニ、そしてドイツにヒトラーが登場して、この時代にはそれぞれの国を再生させることに成功しているようにも見えていた。
 強力なリーダーシップが必要であると、十分に信じられた時代だった。
 1934年に「父なるトルコ人」を意味する「アタトゥルク」の名を議会から(すなわち国民から)贈らせ、救国者としてのイメージを強化、固定したケマルは、4年後の1938年、世界がふたたび大戦に突入する前に57歳で世を去る(*)。

…新井政美(1953-)『イスラムと近代化、共和国トルコの苦闘』(講談社選書メチエ、2013)85-86頁、98頁

(*ヤッホー君注、「世界史の窓」より)
 ムスタファ=ケマルは本名で、通称をケマル=パシャ(パシャとは、文武の高官に与えられる称号)とも言われ、後にアタチュルク(「トルコ人の父」の意味)の姓を贈られた。

 ではここで Mustafa Kemal [Atatürk] の一生を、貴重な映像で観てみましょう:

Mustafa Kemal Atatürk was an Ottoman and Turkish army officer, revolutionary statesman, writer, and the first President of Turkey. He is credited with being the founder of the Republic of Turkey. His surname, Atatürk (meaning "Father of the Turks"), was granted to him in 1934 and forbidden to any other person by the Turkish parliament.

Atatürk was a military officer during World War I. Following the defeat of the Ottoman Empire in World War I, he led the Turkish national movement in the Turkish War of Independence. Having established a provisional government in Ankara, he defeated the forces sent by the Allies. His military campaigns led to victory in the Turkish War of Independence. Atatürk then embarked upon a program of political, economic, and cultural reforms, seeking to transform the former Ottoman Empire into a modern, secular, and democratic nation-state. Under his leadership, thousands of new schools were built, primary education was made free and compulsory, while the burden of taxation on peasants was reduced. The principles of Atatürk's reforms, upon which modern Turkey was established, are referred to as Kemalism.

Biography of Ataturk (english)
https://www.youtube.com/watch?v=9YVXs1LAenA


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2015年03月18日

ハラム食品

 3月18日、今日から「彼岸入り」。
 ヤッホー君、気分はまだトルコ。

 小沢昭一(1929-2012)「土耳古行進曲」(1974年、作詞作曲は加藤登紀子さんです):
https://www.youtube.com/watch?v=rP2YupMFP7Q

 Stanislav Bunin (1966-) Playing Mozart's Alla Turca:
https://www.youtube.com/watch?v=hS3oEkeR3sE
 
 そして、ハーレム…

 ハレムは、アラビア語のハラム(「神聖な、禁じられた」の意味で、メッカ、メディナを指すこともある)を起源とする言葉で、「外来者の出入り禁止の場」としてやがて「スルタンの寵妃・宮女の住む一般から離れた女専用の部屋」の意味に転じた。ハレミ・ヒュマーユーンが正式名。
 オスマン帝国の東南欧征服が進むにつれ、通婚の相手がなくなり、スルタンは正式に王妃を迎えなくなったため、王統を絶やさないためにもハレムの必要性がで、1453年以降生まれたとされる。
 建物の中には迷路や、スルタンだけが往来できる抜穴の道もあった。
 さまざまな民族出身の女達はジェッリエと呼ばれ、宮廷生活での礼儀作法や言葉使いの特別な訓練を受け、黒人宦官が彼女達の住む区画の厳重な警戒にあたった。


(東京外国語大学、前嶋芽久美「オスマン朝スルタンの生活とその周囲」)
http://www.tufs.ac.jp:8080/st/club/turkiye1/maejima.htm

 そしてハーレム、アラビア語のハラム(「神聖な、禁じられた」は、《食の禁忌》にも:

 イスラム教の教えに則った食品は「ハラル(許された)食品」、非ハラル食品のことは「ハラム食品」と呼びます。豚・肉食動物・爬虫類・昆虫類およびこれらからの副産物はハラムであり、食べることは禁止されています。また水中でも陸上でも生きられるカエルやカメ、カニなどの生物も禁止です。アルコール飲料は禁止。アルコールが添加されている醤油や味噌もだめです。牛・羊・鶏等はハラルの食材ですが、イスラム教の作法に沿って屠殺されなければなりません。イスラム教の戒律に違反していないと認定された食品には、ハラル認定マークが付いています。

 世界最大のイスラム教国は、人口約2億の約9割がイスラム教徒であるインドネシアです。インドネシアの場合、ハラル認定は食品会社が申請し、インドネシア宗教学者協会と食品専門家で構成されるハラル委員会で適否が決められ、国の食品医薬局で審議後、ハラルとして認証されます。更新は2年に1回です。現在インドネシアでは、すべての輸入食品について、ハラルの認証が必要となっています。
 スーパー内では、売り場だけでなくレジもハラル食品とハラム食品で分けられています。レジで働くイスラム教徒がハラム食品に手を触れることができないためです。


(ニッスイ、食の禁忌)
http://www.nissui.co.jp/academy/eating/02/02.html

 そしてマレーシアは:

KUALA LUMPUR: Although Brahim's Holdings Bhd is a major supplier of meals for Malaysia Airlines (MAS), credit must be given to the in-flight caterer for the painstaking efforts to diversify its earnings base over the long term.

Besides supplying meals to 30 other airlines and its RM95 million acquisition of the Burger King business in Malaysia and Singapore, the company is now in the process of supplying halal food for the 2020 Tokyo Olympic Games.

It started the ball rolling by penetrating Japan via the export of food products and forging alliances with local departmental stores to showcase its wide range of halal products.

As far as Japan is concerned, it wants to be a Muslim-friendly country by making available halal food extensively at the Tokyo Olympics, for which Brahim's is well positioned to be an excellent partner.

At the Games, some 35 percent of the athletes are expected to be Muslims.


(Bernama Updated: February 21, 2015)
http://english.astroawani.com/business-news/brahims-plots-new-diversification-course-and-away-mas-54282



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2015年03月17日

日本とトルコをつなぐ曲

 庄野真代「飛んでイスタンブール」…、ヤッホー君のこのブログ、3月13日付け日記をご覧ください。
 庄野真代さん、「国境なき楽団」(Musicians Without Boaders)の代表理事でがんばっておられました。
 ヤッホー君、応援してますって。
 
 音楽には心を癒す不思議な力があります。
 音楽は人と人の違いを越えて浸透していきます。
 音楽を通じて人の心と心を結びつける役目を担うのが、特定非営利活動法人「国境なき楽団」です。
 人類の共通語である音楽から多くの出会い触れ合いが生まれることを願い、仲間を募っています。
 誰にでも参加できる活動は、実は、あなたにしかできない活動。
 そんなたくさんの「あなた」を待っています。
 音楽が好きで、自由とか平等とか平和とか愛とか、そんな言葉に反応してしまう「あなた」と一緒に”何か”したいのです。
(代表理事 庄野真代)

http://gakudan.or.jp/index.html

 2006年、大学院(*)の修了を待たずに、NPO法人国境なき楽団を設立。2001年から活動を始めた訪問コンサートの団体「TSUBASA」が母体となり、「セプテンバーコンサート」、そして世界の子どもたちに楽器をおくるプロジェクト「海を渡る風」もできた。
 社会貢献という言葉が広がりはじめ、いろんなプログラムを実施するにあたり、これまでの音楽仲間たちも理事として慣れない組織運営に携わる。
 大変だけど楽しい!そんな日々のスタートです。
(*)早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係研究科
(庄野真代公式サイト)

http://shonomayo.com/profile/biograf030.html

 歌がはぐくんだ、大きく広いつばさ。
 境界を飛び越えて、自由に自分を表現していきます。

 日本とトルコをつなぐ新曲リリース

 2013年6月23日、日本とトルコに関係した新曲(「生まれる前から恋してた」)が発表されました。
 この曲は、日本で発表された日本とトルコに関係する曲としては「ウスクダラ(江利チエミ)」、「飛んでイスタンブール(庄野真代)」、「誓い(庄野真代)」、「Seni Seviyorum(おおばせいこ/ブラック・アジズ)」に続いて4曲目です。
 日本とトルコで活躍される作詞家、及川眠子さんによる繊細な感情を表す歌詞と石野真子さんの透明感のある歌唱が相まって、イスタンブール街中の風景を髣髴とさせる独特の旋律が印象的な雰囲気を醸し出しています。

(在イスタンブール日本国総領事館)
http://www.istanbul.tr.emb-japan.go.jp/consulate_j/gyoji/pdf/ishinomako20130719.pdf

 どれどれ…
☆ 1954年8月発売江利チエミ「ウスクダラ」
https://www.youtube.com/watch?v=Lc5ZRBCuayI
☆ トルコ民謡/ウスクダラ
https://www.youtube.com/watch?v=ECB5li4ZSSA

☆ 石野真子「生まれる前から恋してた」60秒バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=-229TH0gzOk

 庄野真代さんの「誓い」は「エルトゥールル号遭難120周年」の日本トルコ友好ソングでした。
 この作詞をした及川眠子(Oikawa Neko)さんも素敵な人:

 高校生の頃、加川良や大塚まさじなどの関西フォークに影響を受けシンガー・ソング・ライターを目指してみるが、ギターのFのコードでつまずいてしまったため、作曲は無理だと判断。さらには、音痴だということも発覚し、歌うことも断念。あっさりと作詞家に進路を変更する。
 その後、上京。原宿を歩いていたところ「作詞家になりませんか?」とスカウトされたのがきっかけで……というのは嘘で…
 今まで職を転々と変え、転職歴は12回。とりあえず今のところは作詞家に収まってはいるが、この先不明。 趣味は浪費。特技は安物買い。また、音楽業界きっての「ジャーナリストおたく」でもある。
「自分で自分を決めない」というのがモットー。つまり、いい加減に生きてるってこと。

(及川眠子公式サイト)
http://www.oikawaneko.com/profile.html

 熊野の魅力を音楽にして世界に発信したい―。和歌山市出身の作詞家及川眠子さんらが2007年8月28日、熊野の森や海、日本とトルコの友好をテーマにした3曲を制作すると発表した。
 県の補助金を受けての「ご当地ソング」作りで、9月に楽曲を発表、来年2008年5月にはトルコ・イスタンブールでコンサートを開く計画も立てている…
 及川さんは1989年に日本レコード大賞を受賞した「淋しい熱帯魚」などの代表曲がある。昨年12月から数度、田辺市内の熊野古道を散策し、熊野地域に魅力を感じていたことから、作詞とプロデューサーを引き受けた。
 楽曲の構成は、熊野古道の「森のテーマ」「海のテーマ」、串本町大島沖で1890年に遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号にちなんだ日本・トルコ友好のテーマの3曲(いずれも仮称)。
 作曲は、田辺市在住の蛯乃木ユウイチさんが担当。歌手は「飛んでイスタンブール」などの代表曲で知られる庄野真代さん。
 9月中旬に東京都内でレコーディングし、同27日に楽曲発表、12月1日にCD発売する予定。同2日には上富田町文化会館で開かれる「おやじバンドコンテスト」で発表、3日には白浜町内のホテルで庄野真代ディナーショー、来年5月にはトルコ・イスタンブールでコンサートを開催する予定。
 熊野のご当地ソング作りを呼び掛けた多田さんは「昨年は田辺市を舞台にした映画で盛り上がった(注)。今回は歌作りを核にして熊野の情報を発信していきたい」と話す。及川さんも「熊野を訪れて感じる『再生』の魅力を歌にして伝えていきたい」と意気込みを語った。
 この事業は県の「地域・人・まちづくり補助金」の助成金100万円を受けている。

(2007年08月29日更新AGARA紀伊民報)
http://www.agara.co.jp/modules/tokushu/article.php?storyid=130719


(注)太田隆文さん
 1961年和歌山県田辺市生まれ。南カルフォルニア大学・映画科に学ぶ。
 2004年大林宣彦監督の映画『理由』のメイキングを担当。
 2006年、故郷・和歌山県田辺市を舞台に青春ファンタジー映画『ストロベリーフィールズ』を監督。カンヌ映画祭でも上映。和歌山県から「きのくに芸術新人賞」を受賞。
 2010年、浜松市を舞台にした『青い青い空』を監督。地元では2万人を動員し、その年1番の大ヒット。ロサンゼルスの映画祭でも上映。
 いずれも原作のないオリジナル脚本を自ら執筆。地方の美しい自然が描かれた作品で、「親子に伝える大切なこと」がテーマ。「毎回、涙が止まらない爽やかな感動作を作る」と多くの映画ファンから注目されている。
http://kiqmaga.com/interview142.html
http://asahinoataruie.jp/index.html

 
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2015年03月16日

開校、そして閉校

「キャナリーゼ」を知っていますか。

 高層マンションが林立する豊洲に居を構える高級志向の主婦たちの異名で、子どもを有名幼稚園や小学校に通わせたり、ペットを連れて東京湾岸沿いを散歩したりするのが典型的なライフスタイルだ。豊洲を取り囲む運河(=英語でキャナル)にちなむ命名で、港区の白金エリアで暮らす女性を「シロガネーゼ」と呼ぶのに似た憧憬がにじむ。

 2020年東京五輪の会場予定地が集中する一帯にあって、かつて造船の街として栄えた豊洲は様変わり、未来都市の様相を呈している。威容を競うかのように立ち並ぶ高層マンションには子育て世帯が多く入居、そこかしこで目に入るのは子どもを連れたキャナリーゼたちだ。銀座や丸の内も目と鼻の先の距離にある。

「住人はトレンドに敏感な30代のファミリー層が多い。世帯年収が1000万円を超える家庭や経営者層も増えてきている」(三井不動産レジデンシャルの加藤仁朗営業室長)。都心の近くでありながら開放感にあふれる海辺。そこにさらに五輪がやってくる。「将来性を実感できることが豊洲の魅力」(加藤さん)だ。

 2006年には大型商業施設アーバンドックららぽーと豊洲が開業。高層マンションも次々と登場している…
 江東区の人口統計によると、2005年からの9年間で豊洲地区の人口は約3倍に増加し、3万人弱となった。特に30〜44歳、0〜9歳の割合が多い。

 子どもの増加に伴い地区の小学校は増築を実施。全国的な少子化の流れに逆行するかのように、2015年4月には新たに「豊洲西小学校」が開校する


(2014/6/9 6:30 日本経済新聞「子ども急増、豊洲「キャナリーゼ」、ご存じですか?首都圏イーストサイド繁盛記」)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB31007_U4A600C1000000/

 昨日の山歩クラブお山歩会でのこと、ねえねえ、2月21日の江東区報の一面トップ見た?「豊洲西小学校」ができるんですって、と話題をふられたヤッホー君。
 ヤッホー君はといえば、それで歯の治療を思い浮かべていました。
 金曜日のこと、歯の治療が終わり、<仮詰め>しておきました、というその意味が分からなかったので、帰宅して食べた夕食のあと、なんとなく舌ざわりが変で、こりゃあ、欠食児童の餓鬼ヤッホー君のこと、<仮詰め>した歯まで食べてしまった、歯が消えてしまったと、パニック症候群!
 翌朝、朝一番で電話。看護師さんが「すぐ来てください」って。
 行ったら先生みずからドアを開けて「すぐみてみましょうね」って。
「はい鏡を持って、昨晩言っておけば良かったのですがしっかり付いています」って。
「せっかく見えたのですから、もう一本治療しておきますがよろしいですか」って。
 終わって「今日は<仮歯>を入れてありますので、餅などは食べないでくださいね」って。
 それがおとといの3月14日土曜日、ヤッホー君が通っている世界一の名医「こいぶち歯科」(世田谷区豪徳寺1-22-3 ユアーズビル2F Yel 3427-4007)でのこと。

 その治療の帰り徘徊してしまい、たまたま「渋谷区立山谷小学校」の「閉校式」に遭遇。

 教育委員会では、これまで校舎耐震化に取り組み、2012(平成24)年度までに「山谷小学校」を除く全区立小・中学校及び幼稚園の耐震補強工事が終了しました。しかし、「山谷小学校」は調査の結果、補強工事では十分な強度が確保できないため、全面的に建替える決定をしました。
 仮校舎についてはさまざまな検討を行いましたが、建設場所を確保できなかったため、2013(平成25)年4月に「山谷小学校」は休校とし、児童は「代々木小学校」に転校しました。新しい校舎が完成後、2015(平成27)年4月に「山谷小学校」と「代々木小学校」を母体とする新しい学校を設立することとして、現在さまざまな準備を進めています…
 いただいたご意見をもとに協議を行い、名称は、「代々木山谷小学校」に決定しました。


(渋谷区教育委員会「代々木山谷小学校」設立)
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/edu/torikumi/shinko.html

 学校、子ども、教育…

 トルコでは、3月4日にはサカリヤ Sakaryaで、3月6日にはブルサ Burusaで、トルコの教職員の集まりの場で、はっちゃんは食育「halalとharam」について、ヤッホー君は「終わりのない旅路 the endless journey、生涯学習」について、お話しできる機会を与えられたのでした。
 ヤッホー君はサカリヤで訪れた学校で、大学ではトルコ文学を学んで教師になったという若い校長先生が、私が思う教育の意味には三つあります、って語ってくださったのが妙にイマでもあたまに残っていて、トルコの哲学に触れたような気がイマでもしております:

ひとつめは教育に境界線はないってこと。したがって教育の現場は学校だけにとどまりません。スーパー、レストラン、街頭、どんな街角でも町じゅうが教育になります。
 もうひとつは、教育の主体は先生や生徒だけでないってこと。モスクで祈るとき、親や子ども、地域のお年寄りや若い世代が教育にたずさわります。
 そして最後に、教育に初めと終わりはないってこと。学校に入るから教育がはじまったり、学校を卒業したらそれで教育が終わることではないのです



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2015年03月15日

伊豆の国・城山

 3月15日日曜日、山歩クラブ定例のお山歩会。
 14人で伊豆は葛城山452mから城山342mまでの縦走コースを歩いてきました。
 いかがだったでしょうか。

富士山 - コピー.jpg

 行きの葛城山への登りには、ヤッホー君の「軟弱路線」でロープウエイを使いました。
 前回は、ロープウエイを使わないで登って結局、城山への縦走の際、城山頂上の往復一時間は疲れてできなくなって、パスしたその苦い反省を踏まえての今日の歩きにしたのです。
 しかしその経験を思い出したのは、すみません、帰りの専用バス車中でのこと。
 思い出すのも遅くなって、ヤッホー君のあたまもけっこう錆びついてきていますね。
 活性化にむけてこれからもいろいろとヤッホー君への刺激をお願いいたします。

 頂上では「空中公園」を徘徊し、葛城山山頂標識を発見。

葛城山頂上 - コピー.jpg

 さらに公園を徘徊し、恋人の鐘を発見。
 ヤッホー君は何度もトライしましたが、一回も鐘が鳴りませんでした。

「さえずりの丘展望台」
 空中公園の西端にある展望台。修善寺方面などが見渡せます。展望台の隣には、幸福を呼ぶ「幸せの鐘」もあります。
「幸せの鐘」
 第18回「恋人の聖地」選定委員会において山頂「空中公園」が選定され、さえずりの丘展望台に設置されました。

(伊豆の国パノラマパーク)
http://www.panoramapark.co.jp/ropeway/map.html

 あのあたりの岩、フィリピンからどんぶらこっこどんぶらこっこ渡って来て本州にぶつかってできた「火山の根」の痕跡だったってこと。
 ヤッホー君の説明もまんざら嘘っぱちでなかったことお分かりいただけたことと思います。
 ついこのあいだ見てきたようなことを口にして語るので「エイリアン」「宇宙人」の異名を採るヤッホー君のことですので、ま、そっとしておきましょう。
 かくして年度末最後の山行でしたが、新年度からも末永く一層よろしくお願い申し上げます。

 火山の地下には地下深くからマグマが通ってくるマグマの通り道があります。このマグマの通り道が地殻変動などで隆起して地表に姿を現したものを「火山の根」と呼んでいます。
 葛城山も「火山の根」のひとつで、長年の浸食に耐えたこの急峻な山の山頂からは、伊豆が海底火山だった頃から現在に至るまでのさまざまな時代における大地の活動のなごりを一望することができます。また、眼下の田形平野を流れる狩野川や、街の分布やそのひろがりもみどころです。

 特異な岩山の風景が訪れる者の目を引く城山は、伊豆を代表する巨大な「火山の根」のひとつです。

(火山の根の上で伊豆半島の歴史を眺める)
http://izugeopark.org/maps/area-nakaizu-kita/shiroyama_katuragiyama/katsuragiyama/

 城山で昼食を。
 葛城山では雲に覆われていた富士山も、山歩クラブの面々の顔をのぞきにきてくれました。

城山頂上 - コピー.jpg

 リーダー役、会計役、それぞれお役目お疲れさまでした。
 今後とも先頭にたってよろしくお願いします。
 「城山登山口」に下山したのですが、その写真を添付します。

城山登山口 - コピー.jpg

 ヤッホー君、トルコでもしゃべってきました。
 「もう泣いたり叫んだりするのはおよし、これからはさあ、大っきな笑顔だよ」


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2015年03月14日

患者申出療養

 この「患者申出療養(仮称)」の創設は、財界やアメリカの強い要求にもとづく医療・介護の市場化・営利化のねらいと一体のものである。
 まさに安倍内閣の自立・自助を強制する新自由主義的な社会保障制度改革推進法の具体化であり、「国民に医療を保障する責任を、公的な医療保険で国と保険者が負う」という、憲法25条の理念に関わる根幹の問題である。

 現在、非正規雇用が雇用者の4割を占め、年間200万円以下の給与収入の労働者が4人に一人という状況のもとで、消費税増税や医療の窓口負担増、保険料の引き上げなどによって、いっそう受診が困難になっている

 いまこそ、「現物給付」と「混合診療禁止」の国民皆保険制度の原則に立ち返り、保険証があればいつでもどこでもお金の心配なく安心して受診できる医療の実現が求められる。
 以前より全日本民医連は「患者申出療養(仮称)」の創設に反対し、健康保険法改正案を提出しないこと、保険給付対象の拡大や安全性・有効性が確認された新規治療や新薬の保険収載を速やかに行なうよう要望しており、ひきつづき多くの医療関係者、国民と共同して奮闘する決意である。

(2014年11月7日全日本民主医療機関連合会会長 藤末衛「患者申出療養(仮称)に対する全日本民医連の見解」)
http://www.min-iren.gr.jp/?p=20665

 しかし、… 先の総選挙で民意を問うこともなく、アベノリスクは同日3月3日の閣議で決定してしまったようで、国会論戦っていったって野党 Opposition Partyのいないところではどんどん危ない道を暴走していきそうです。

 儲かるのは企業、保険会社、それに痛くもかゆくもないのが国、コウムイン、大企業の社員ですべて「悪いのはお前、自己責任だ」でかたづけたい連中。
 しかしその犠牲になるのはいつも、弱い人びと。
 ここでも格差拡大!「お金のあるなしで受けられる医療」ってだめです。
 WHOだって“Health for All”って言ってませんでした?

 "The love of money is a root of all kinds of evils"って格言がありましたでしょうに。
 厚顔無恥の諸氏たち、こんなことして恥ずかしくないのでしょうかね、とヤッホー君。
 戦後70年目の「ひな祭り」のこと、現内閣の酷い仕打ちをゼッタイ、忘れないようにしましょう!

 政府が進める医療保険制度改革には、高齢化や医療費の増加に対応するため多くの見直しが盛り込まれた。政府は3月3日、関連法案を閣議決定し、2015年度から順次着手する。暮らしや家計にもさまざまな影響がありそうだ…
(15/03/04共同通信社「医療改革、暮らしに影響 高齢化、医療費増に対応」)
http://www.47news.jp/47topics/e/262670.php

 さすがに、イマは退職なさった小児科の先生も首をかしげています:

 「患者申し出療養」とは、良いネーミングだとほくそえんでいる当局者の笑い顔が目に見えるようだ。
 医師が患者にいくら説明を行い、同意を求めても、情報が医療側に多く偏っている状況は変わらない。
 「患者申し出」というと、患者に選択の自由を与えるかのようだが、実質は、自費診療の範囲を増やすことでしかない。
 米国では、ご存じの通り、自費診療の幅が大きいが、個人の破産の二番目の理由が、医療費支払いに関わるものである。それが、日本の医療にも持ち込まれる、ということだ。
 われわれは、公的保険以外に、高額な民間保険に入ることが実質強制されるようになる。民間保険は、当然のことながら営利企業であり、被保険者への給付を減らすことを至上命題にする。
 医療に資本主義の論理を持ち込むと、医療費総額は高額になり、国民負担が著しく増えることは、米国の現状が証明しているはずなのだが…。
 「患者申し出療養」というネーミングには、「我々の所為ではない、国民の選択の所為だ」と、官僚と政治家が言い逃れようとする意図が隠されている。


 閣議決定の日、ヤッホー君はトルコの有力紙 Milli Gazette のムスタファの運転するクルマで雨の中、高速道路をとばして4時間弱、イスタンブールからリゾート地、ボル Boluに入りました。
 翌日の3月4日の朝は、雪。
 ヤッホー君、窓越しに雪雹の舞うのがみられたホテルの一室でテレビ番組「NHKワールド」(注)を見つけ、現地コーディネ―トをかってくれた大学講師のイブラヒムと食い入るように見ていました。
 あのJA長野厚生連・佐久総合病院(長野県佐久市臼田197番地Tel 0267-82-3131)からはじまる制作現場の熱のこもった良い番組でした。
 ヤッホー君のこのブログの読者もぜひクリックして見てくださいね。
 でも、いきなり英語がとびだしてくるかもしれませんので、周囲には要注意です:

"Universal Health Coverage (UHC) refers to "the availability of health services related to health promotion, disease prevention, treatment and rehabilitation to all citizens when needed at a cost they can afford."

The World Health Organization (WHO) raised the issue in 2005, which led to the United Nations General Assembly passing a resolution to promote universal health coverage in December 2012. This program will look at how Japan achieved universal health coverage back in 1961, and at the issues it faced then and now, and what is being done to improve the quality of universal health coverage. It will also feature examples of JICA assistance in the health and medical sector.

The program will focus on the experiences of a number of people in Saku, Nagano prefecture to describe how universal health coverage works in Japan. It will also focus on initiatives by the local Saku General Hospital, which helped make the region a pioneer in preventative medicine.

(Protecting People's Health: Universal Health Coverage in Japan)
http://www.jibtv.com/programs/uhc2015/


(注)
ほかにトルコで観た放送は次も:
☆ Journey in Japan: Blues City Osaka:
Blues music is known and loved around the world, including Japan. But there is one place above all that has earned the title "the City of the Blues": Osaka. Since the 1970's, the blues has been part of the soundtrack for this gritty, eclectic metropolis, and there are still many clubs and bars that specialize in this music. Actor Charles Glover loves good music, especially the blues. That is why he visits Osaka. After sampling the atmosphere and street foods of Shinsekai, a long-established entertainment district, he goes in search of live music at the city's blues clubs. Some 90 years ago, Osaka was booming, and people came from all over Japan, and from other countries, looking for work.
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/tv/journeys/archives20150225.html

☆ At Home with Venetia in Kyoto: The Warmth of Snow Country - Aizu Region, Fukushima prefecture:
Venetia travels to the Aizu district of Fukushima Prefecture, where the snow lies thick on the ground. Ouchi, thrived as a post-station on the highway that linked Aizu and Nikko in the Edo Period and its former aspect remains even now in the old thatched buildings which line the road. At the inn, she is greeted by a broadly smiling owner who has herself become something of a legend. Warmly entertained around an open hearth, Venetia learns the ways of life in the snow country and they prepare local dishes together. Next, she heads for Mishima, a hamlet of some 80 inhabitants, where there's someone she particularly wants to meet. He's Toichi Kanke, a traditional basket weaver. She is struck by his amazing craft technique with mountain vines and sedge.
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/tv/venetia/archive201502180800.html



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2015年03月13日

飛んでイスタンブール

 まずは「飛んでイスタンブール」(庄野真代/1978年)
https://www.youtube.com/watch?v=LLBwwcZmgT4

 そしてまだイスタンブール。
 イスタンブールの街角を案内してくれた英語教師 Yusuf Bilginがぼそっと洩らした宿題。
 フランス人作家ピエール・ロチ(1850〜1923)は、こよなく終生、この街を愛していた、というのです(注)。
 そして目を瞠ったのが日の暮れたイスタンブールのとある街角。
 その日、黒海なのかカスピ海なのかマルマラ海なのか海を渡って吹きつけてくる風は強く冷たいのです。
 その寒さで身が凍るような街角の石段に体を震わせて座り込んでいる少年少女がヤッホー君に手を差し伸べてくるのです。
 戦争をすれば儲かる国や投資家、企業はいます、でもしてはいけません。
 その犠牲になるのは決まって弱い人びと。
 平和こそ、知恵をしぼって推し進めていきたいものです。
 だって弱い人びとはねずみでもごきぶりでもありでもなく、一人ひとり名前、家族をもっているんですから。

 トルコの隣国は、シリア。

 2011年3月に発生したシリア内戦から3年が経ちます。これまでに東京23区の人口とほぼ同じ、880万人が自身や家族の命を守るため故郷を逃れています(2014年2月現在、国連人道問題調整事務所調べ)。そのうち約58万人が避難生活を送るトルコで、AAR Japan[難民を助ける会]は2012年より食料や生活必需品の配付、障がい者支援、子どもたちの学習環境整備などを行っています。スタッフの蜩c純子が、現状と今後の支援についてお伝えします。
(2014年03月07日AAR Japan 特定非営利活動法人「難民を助ける会」ー1979年に日本で生まれた政治・宗教・思想に偏らない国際NGOー)
http://www.aarjapan.gr.jp/activity/report/2014/0307_1461.html

 シリア内戦で80万人以上とみられる難民が押し寄せるトルコ。そのシリア難民がトルコの雇用に影響を与えている。レストランや商店などは最近、比較的給料の安いシリア難民を雇う例が多く、トルコ人は職を奪われている。
 シリア北部アレッポ近郊からトルコの最大都市イスタンブールに逃げてきたジャーナリストのザクワンさん(30)は言う。
「仕事のない若いトルコ人がシリア難民を敵視する傾向が表れ始めている」
 シリア難民側にも不満が高まっている。ある会社がトルコ人に2000トルコリラ(10万円)で仕事を依頼したとする。そのトルコ人が半額の1000トルコリラでシリア難民に仕事を丸投げするような例が増えているのだという。シリア人たちは足元を見られていると感じているようだ。
 それでも、ザクワンさんらシリア難民たちは、
「われわれを受け入れてくれたトルコには本当に感謝している」と話す。
 トルコを含め、シリアから周辺国への難民はすでに300万人以上とされている。そんな状況だが、シリア内戦が終息する気配は全く感じられない。

(2014年12月24日付け東京新聞・中村禎一郎「イスタンブール、シリア難民続く苦難」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/worldtown/CK2014122402000240.html

 紛争でシリアを逃れた人は、これまでに320万人にのぼる。その半数を受け入れているのがトルコだ。しかし、最低限のニーズを満たすだけの体力がトルコにはもはやなく、難民は厳しい生活を余儀なくされている。 これまでに、難民受け入れにトルコ政府が費やした費用は40億米ドル(約4600億円・政府発表)。国連はトルコにいるシリア難民救済のため、2014年の財政拠出目標を4.97億ドルと定めたが、これまでのところ、わずか28%しか集まっていない。豊かな国々が追加支援を出し渋り、難民受け入れにも難色を示しているのは、実に嘆かわしいことだ。
 国際社会が手をこまねいている間にも、多数の難民がトルコとの国境で追い返され、入国できても数十万人が極貧状況に置かれているのだ。。。
 トルコは、シリア難民に対して国境の検問所を開放してきた。しかし実際に開かれているのは、900キロある国境沿いで、2カ所に過ぎない。この2カ所の検問所でさえも、パスポートを所持していなければ、緊急の治療や人道上の必要性がない限り、入国を認めない。
 さらに、ほとんどの難民にとって、通行可能な検問所はあまりに遠い。そのため、多くが越境請負業者を使って、困難で危険な紛争地の不法ルートを選ばざるを得ない。そのルートでは武装勢力に出くわすことも少なくない。。。

(The Huffington Post Japan、2015年01月19日19時12分更新「トルコへ逃れたシリア難民が直面する過酷な現実」)
http://www.huffingtonpost.jp/amnesty-international-japan/syrian-refugees_b_6190054.html



(注)
 H老夫人は、菊の花を見る度に思ひ出す話があると云つて、詳しく彼に鹿鳴館の舞踏会の思ひ出を話して聞かせた。青年はこの人自身の口からかう云ふ思出を聞く事に、多大の興味を感ぜずにはゐられなかつた。
 その話が終つた時、青年はH老夫人に何気なくかう云ふ質問をした。
「奥様はその仏蘭西の海軍将校の名を御存知ではございませんか」
 するとH老夫人は思ひがけない返事をした。
「存じて居りますとも。Julien Viaud と仰有おつしやる方でございました」
「では Loti だつたのでございますね。あの『お菊夫人』を書いたピエル・ロテイだつたのでございますね」
 青年は愉快な興奮を感じた。が、H老夫人は不思議さうに青年の顔を見ながら何度もかう呟つぶやくばかりであつた。
「いえ、ロテイと仰有る方ではございませんよ。ジュリアン・ヴイオと仰有る方でございますよ」
(1920(大正9)年『新潮』新年号に掲載された芥川龍之介『舞踏会』)
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2015年03月12日

パノラマ1453

 3月8日日曜日、ヤッホー君はトルコの首都イスタンブールで、イスタンブール大学の学生といっしょに、「パノラマ1453」という歴史博物館におりました。
 その日、黒海を渡って吹いてくる風は強く、冷たく、まだまだ冬の名残を残しておりました。
 かつてはバスターミナルだったという高台を歴史公園に改造、いまやユネスコ世界遺産に登録された古都イスタンブールを代表する観光目玉のひとつとなっています。
 下のサイトにある「ビデオ」をクリックしてご覧ください。
 現場にいるのと同じ感覚を味わうことができます:
http://erisilebiliristanbul.ibb.gov.tr/en/index.php/museums/panorama-1453-history-museum/

 旧市街・テオドシウス城壁のトプカプ門そばにある、2009年オープンの博物館。1453年の「コンスタンティノープル陥落」を、ドーム型シアターの360度パノラマビューで表現している。効果音が流れ、城壁が突破された瞬間のシーンがぐるりと一面に描かれたシアターの真ん中に立ってみると、まるで自分が当時の激戦に居合わせたような臨場感が味わえる。
(るるぶ.com)
http://www.rurubu.com/overseas/news/1305turkey/

 そうなんです、マレーシアを3月1日日曜日に発ってトルコへ。
 ボル Bolu、サカリヤ Sakarya、ブルサ Bursaとまわってこの日が最終日。
 ヤッホー君、歩き回ったトルコっていったいどんな国? と。
 あまりにも食事が美味しく、出会った人びとのこころが温かく優しく、海外からの労働者の姿がほとんどみられないトルコにびっくり、
 食材のほとんどが国産、英語表記もほとんどみられず、誰もが自国に誇りをもっているすがたにチョウびっくり…
 トルコっていったいどんな国? とちょっぴり不安になって、どうしても歴史を知りたくて訪れた博物館だったのです。

◆ 125年の友情、次世代へ
 この絆、さらに強く−−。トルコ共和国のアフメト・ビュレント・メリチ駐日大使(58)が、シンクロナイズドスイミングの元日本代表で2015年度ミス日本グランプリの芳賀千里さん(22)を聞き手に、東京都内の同国大使館で日本とトルコとの間で培われた信頼関係への思いを熱く語った。今年は両国の「友情の礎」の原点と位置づけられる1890年のエルトゥールル号遭難事故から125年。メリチ大使は若い世代に対し、友好の継承を強調した。

◇ 遭難・地震、ともに乗り越え スポーツ通じた交流も盛ん
芳賀 私が初めてトルコを身近に感じたのは、小学校の授業でエルトゥールル号について学んだときでした

メリチ あの遭難事故は両国の友情の礎のきっかけになっています。乗員たちを救助し、殉難将兵を手厚く葬ってくれた日本人の寛大さにトルコ人は心を打たれ、悲劇を友情に転化することができました。この出来事を歴史の教科書などに記述し、後世に伝えていくことは非常に重要です。1世紀後の1985年、イラン・イラク戦争の際に今度はトルコ航空(現ターキッシュエアラインズ)が航空機を飛ばし、イランから日本人を救出しました。二つの出来事とも計画されたものではありませんでしたが、両国の人々が自発的に行い、友好関係が強固になりました。こうした友情の礎を大事にし、次世代につないでいかなければ、と思います。

芳賀 今年2015年12月には映画「海難1890」が公開予定です。

メリチ 両国首脳もこのプロジェクトに注目しています。映画を通じ、子どもたちや孫たちに多くのことを伝えられるでしょう。非常にインパクトのある作品になると期待しています。

芳賀 2011年3月の東日本大震災では、トルコの救援隊が各国の救援隊の中で最も長く被災地で活動してくれたと聞いています。

メリチ 助け合うことが重要です。同じ年2011年10月にはトルコ東部地震も発生しました。そのときは日本が長らく支援してくれたことが印象に残っています。お互いの心がつながり、親愛の情で結ばれているのだと思います。

芳賀 私はまだトルコを訪れたことがありませんが、調べるとヨーグルト、バラ、サンタクロースなどはトルコ発祥ですね。

メリチ そうです。他にもトルコのシンボルといえるものがあります。例えばチューリップ。トルコが原産地で、オスマン帝国時代は多くの人々がチューリップを育てていました。他には世界三大料理の一つであるトルコ料理。トルコ人は遊牧民族でしたので、中央アジア、中東、ロシア、カフカス地域、バルカン半島など多様な地域の料理のおいしい部分を融合しています。

芳賀 長い歴史のトルコですが、今日の共和国にとってムスタファ・ケマル・アタチュルクの功績は多大なものがあったそうですね。

メリチ 彼は共和国を建国した偉大なリーダーであり、近代化という大きな功績を残してくれました。各地域が多くの国に占領された状態から独立を果たし、大変な困難を乗り越えました。また、イスラム教に関しても近代的な解釈を導入し、政教分離を徹底するとともに、1934年には女性に参政権を認めました。リーダーシップを発揮してさまざまな施策に取り組んだ彼がどれほど偉大であったかは、現代の情勢と比べればさらに鮮明になるのではないでしょうか。現在、テロリスト集団のISが非人道的な行為を続けています。あの集団はイスラム教を代表してなどいません。2人の日本人の方の命を奪ったことは許されず、強く非難します。ただ、一連の事件において、日本の皆さんに、トルコも他の周辺諸国と同じように思われてしまったことは非常に残念です。「トルコに行ってもテロに見舞われ、危険なのではないか」と。でも、トルコ国内は周辺諸国とはまったく異なる状況です。今でも安全、安心に訪問できる国だと知っていただきたいのです。

芳賀 今月、サッカーJリーグの湘南ベルマーレがトルコのアンタルヤでキャンプしました。ある選手が私の友人で、メールで送ってもらった現地の写真の風景は平和そのものでした。

メリチ アンタルヤは地中海に面した風光明媚(めいび)なリゾート地です。この時期には毎年、世界中から延べ約600ものサッカーチームが集まりキャンプを行っています。ゴルフをするにも最高です。来年は世界中の花をめでる国際園芸博覧会も開催されるので、日本庭園などもトルコの人々に紹介する機会になればと思います。。。

芳賀 私もスポーツに取り組んだ経験を生かし、また、「日本の若者代表」の意気込みで両国の関係強化に協力したいと思います。最後に、両国の若い人々の交流についてご提言やご意見をお聞かせください。

メリチ 未来は若者たちのものです。グローバル化で世界の国々の距離は確実に縮まっています。9000キロ離れたトルコと日本の関係もそうです。両国の若い人々には今まで先人が築いてきた友情を見つめ、大切にしてほしい。お互いが親愛の情を抱き、思いやりの心を持ち続けていることを大切にしてほしい。その上でお互いのことをよく知りあうために、日本の若者にはトルコに今まで以上に行ってほしいし、トルコの若者には日本に来てほしいですね。

◇ トルコ共和国 Republic of Turkey
 ボスポラス海峡をはさんでアジアと欧州にまたがる共和国。首都はアンカラ。面積78万平方キロ、人口7560万人、公用語はトルコ語。国民の大多数がイスラム教徒で、政治体制は政教分離がされている。13世紀末に興った前身のオスマン帝国を経て、1923年にムスタファ・ケマル・アタチュルクのリーダーシップで共和制を確立した。

(2015年02月26日付け毎日新聞東京朝刊、もっと知る・トルコの魅力:対談 アフメト・ビュレント・メリチ駐日大使、2015年度ミス日本グランプリ・芳賀千里さん)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150226ddm010040011000c.html


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2015年03月11日

Fukushima Water

Mr Yahho is now coming back.

He told that he wanted to summarize about his experience during 10 days some other day.

In the meantime today is a somber anniversary for the people of Japan: four years since the triple reactor core meltdowns at TEPCO's Fukushima Daiichi nuclear power plant.

For many years, Yumiko Sato would delight in the boxes of local fruits and vegetables sent from her grandparents, who owned a small farm and market in their home town in northern Japan. Peaches, cherries, grapes, pumpkins, cucumbers and spinach were often in those boxes.

The “fresh, tasty and nutritious produce” was synonymous with her grandparents’ home town, Fukushima, which was known for its peaches. That was until March 11, 2011. Then a tsunami tore through the area, following a huge earthquake, leaving almost 20,000 people dead or missing.

The tsunami swamped the generators of the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant, unleashing a new tragedy – there was an explosion, a fire and the leak of contaminated water, and then the meltdown of three nuclear reactors.

“The news reports were saying everything was under control,” Sato wrote in an e-mail. “But I felt that something was very wrong.” Eventually some 160,000 people had to be evacuated; most never returned home.

For Sato’s grandfather, the disaster was “the most shocking thing he had ever experienced, more shocking than World War II,” wrote Sato, who still has family in Fukushima.

Today, food from Fukushima raises concerns about radiation, said Sato. Some 500,000 tonnes of contaminated water still sits on the plant and contamination from leaks is a concern...

The Star Published: Wednesday March 11, 2015
Can Malaysia still afford to ignore nuclear energy?
On the anniversary of the Fukushima nuclear plant accident four years ago today, we weigh in on plans for a nuclear energy programme here in Malaysia
By Mangai Balasegaram

Even Japan's Prime Minister Abe – an unabashed nuclear supporter who has been pushing for the restart of Japan's nuclear fleet – has taken a step back from his position of 2013 that the radioactive water crisis was "under control."

In January 2015, he admitted that, "There [are] a mountain of issues, including contaminated water, decommissioning, compensation and contamination... When I think of the victims still living in difficult evacuation conditions, I don't think we can use the word 'settled', to describe the Fukushima plant".

One of the plagues of the Fukushima site has been – and continues to be – a crisis of that most fundamental of elements, the very foundation for life on this planet: water.

Water, contaminated with some of the most dangerous and long-lived man-made toxins ever created: radioactive elements like cesium, bone and brain-seeking, carcinogenic strontium-90, and 61 other radionuclides.

As recently as 25 February, TEPCO admitted that highly radioactive water – 50 to 70 times more radioactive than the already high radioactivity levels previously seen onsite – had been leaking into the ocean for nearly a year. TEPCO chose not to disclose the leak until now. The fishermen's union declared this latest news a complete breach of trust between the utility and the local fisherman.

And this, at a time when TEPCO has been seeking approval from the local fishermen's union to start dumping some 297,000 tons of "treated," radioactive tritium-contaminated water into the ocean...

Approximately 120,000 nuclear refugees are still living in temporary housing, their lives left in limbo: not enough compensation to establish a life somewhere else, and either not able to, or choosing not to return to their former homes.

Greenpeace International- 10 March, 2015
TEPCO's Fukushima Daiichi Disaster: four years of an ongoing nuclear crisis
Blogpost by Kendra Ulrich
...http://www.greenpeace.org/international/en/news/Blogs/nuclear-reaction/ZeroNuclear-Fukushima/blog/52281/

A high energy drink sourced straight from the Fukushima site. It sounds absurd and it is. But for the three Berlin art directors behind a new digital campaign this fictitious drink also raises an important issue: Four years on from the Fukushima nuclear disaster, contaminated water - being used to cool the plant - is still leaking into the Pacific Ocean.

“We were blown away by how weird it was that contaminated water is still being poured into the Pacific Ocean and that people have no idea,” says Kenzi Benabdallah, one of the trio of friends behind the campaign.

“The water needs to be stored because it’s highly contaminated,” says fellow collaborator Stefan Wittemann, “but [the tanks used to store the water] are leaking and water is running into the ocean. The exact numbers are very hard to get because the Tokyo Electric Power Company (Tepco) will not tell you anything and Greenpeace will tell you a super-high number. ”

The Guardian Published: Tuesday 10 March 2015 21.26 GMT
Fukushima Water: the fictitious energy drink goes on sale
A group of Berlin art directors promotes fake energy drink sourced from the Japanese nuclear site to highlight ongoing water contamination problem
By Marcus Thompson


posted by fom_club at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月01日

a dreamer

Today The Star carried on the wonderful essay written by Laila Petra, 16-year-old Malaysian student who believes that religious awareness needs to be taught to the younger generations:

CALL me an ‘idealist’ or a ‘dreamer’ and I wouldn’t disagree because maybe that’s what I am.

World conflict is not a crisis I wish to solve as some young Miss Universe aspirant would state with a million dollar smile. It is the steps we take to achieve world peace which I fully stand by.

In recent times, religion and race seem to be the fundamental issue to global unrest. Well, at least this was what I thought until a history lesson early this year. During the class, we learnt of the divide between the Protestants and Catholics during Henry VIII’s reign. Then there was the rise of Lutheranism in the Peasant’s War in Germany.

A few weeks later, I read an article on the Lebanese Civil War between the Sunnis and Shiites in 1975 and the Sudanese Civil War starting in 1955 between Muslims and Christians.

Mentioned in another class were the crusades between the Muslims and Christians from 1095 to 1303. I have heard numerous times that “history repeats itself” but I never really thought about it.

But in light of the Charlie Hebdo tragedy and terrorist attacks, I see clearly that history does indeed “repeat itself”.

It is an endless pattern of wars and deaths, debates and threats, victories and defeats, not only between different religions but within the same religion too. This brought me to the question, “If religion had never existed, would none of this have happened?”

A difficult question indeed. Religion does perhaps contribute to the world’s long history of battles and bloodshed. But we are human and it is in our nature to fight anyone who seems a threat.

Religion is a justification used for human conflicts. It will conti-nue for thousands of years more. And thousands after that. But there is always an end. And the most important thing is the passing on of learning to fight for this end to the hands of the younger generations.

You may describe my generation as just a bunch of “techno geeks”, and to an extent I guess we are. Sure, we love our time on Facebook and Instagram, but there is something the younger generation has which the older generation sometimes lacks – the ability to respect and recognise the multireligious world we live in.
...
I’m a 16-year-old Muslim girl who is growing up in two contrasting cultures. On one hand I live in Malaysia, in an Islamic environment. I have my Quran lessons with my ustazah. I observe Ramadan and I pray in the mosque.

On the other hand, I’m also a boarding school student in Scotland. I attend the school’s chapel service every morning. I’m surrounded by my friends, most of whom are Christians. My school is made up of people of all races and all religions. And it’s something I’m unbelievably grateful for.

Attending chapel services does not make me Christian. I observe, I listen and I learn. Is that a crime? I don’t think it makes me any less Muslim. I learn of the things Christians believe in in order to understand. Opening my eyes to other people’s beliefs helps me open my eyes to society.

Religion is a common topic of conversation among my friends and myself. We have a natural curiosity to listen to what others think, and it helps us become more open and respectful.
...
I am lucky enough to have been thrown into such a multi--cultural and liberal society where I am able to learn about developing equality in society first hand. I hope others in my generation are allowed to do so too. It is the fundamental issue of our global conflicts which need to be addressed. By passing on the logic and social intelligence to the younger generations, the growing disputes may one day come to an end.

So yes, a “dreamer” and -“idealist” I may be, but I’m willing to stride towards creating a future where disputes between religions will, to some extent, be eradicated.


(When religion is not an issue)
The Star, published: Sunday March 1, 2015
...http://www.thestar.com.my/News/Nation/2015/03/01/When-religion-is-not-an-issue-Listen-to-what-others-think-as-it-helps-us-become-more-open-and-respec/


posted by fom_club at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする