2015年01月31日

花井悠希

 ヤッホー君、市川市の「郭沫若記念館」でさだまさしが贈った映画『長江』製作記念「楽山大仏」の写真を観ましたよって、あれは昨年2014年6月25日付け日記「さだまさし」で書きました、そんまさし。

 【復興イベント】さだまさし「石巻市の日和山で歌う」:
https://www.youtube.com/watch?v=N0f-b13O9fg

 2013年7月17日、こんなことがあったそうです:

 シンガー・ソングライターのさだまさし(61)が、日本武道館でソロ公演通算4000回目を前に会見した。1976年のフォークデュオ「グレープ」解散からこれまでを“サダ節”全開で振り返ったが、自ら大借金を背負った過去に触れ始めると報道陣は押し黙った。

「中国で映画を撮る夢を実現したけど、28歳で28億、金利を入れて35億円。簡単にリタイアするわけにもいかず、左うちわにもなれず、返し続けるために生きてきました」

 借金のきっかけは映画製作。1981年公開の監督・主演映画『長江』に手持ち資金2億円を投じたが、製作費がかさみ……。それでもめげることなく年間平均約100本ペースでコンサートを開くなど馬車馬のように働き続け、すでに完済。4000回の大台突破は国内アーティストの中で前人未到の偉業だというが、返済スピードも“前人未到”である。

(2013年7月19日付け日刊ゲンダイ「さだまさし“借金35億円”に捧げた不屈の半生」)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/143493/1

 そのさだまさしの60歳誕生祝いの一夜限りのコンサートが「さいたまスーパーアリーナ」で、前年の2012年4月10日にあったとき、花井悠希(1988年、三重県生まれ)は「スキマスイッチ」(注1)といっしょに「60人のまさしくんWORLD」として出演、『奇跡〜大きな愛のように〜』を弾いたそうです。

 そのお話しを聞いたのが、昨日、1月30日「ティアラワンコインコンサート」(江東区住吉2-28-36 Tel 3635-5500)でのこと(注2)。

 そう、花井悠希は憲政の神様と同じ三重県のご出身。そして「1966カルテット」(注3)のメンバーでもあるのですが、もうひとりチェロの林はるかと今回、ピアノに林そよかをともなって、「さだまさしの名曲を、クラシック音楽と合わせて」をコンセプトに一時間、ヤッホー君すっかり堪能しました。

 秋桜(コスモス):
https://www.youtube.com/watch?v=-YqzDWKZTwU

 北の国から−遙かなる大地より−:
https://www.youtube.com/watch?v=2x2V--nJ3kM

 創業100周年を迎えるレコード会社(注4)から、アルバム2枚を同時リリースしてデビューする大型新人― こんな謳い文句に、皆さんはどのようなヴァイオリニストの姿を想像するだろうか?
 彼女の名前は花井悠希。ぬいぐるみの付いたヴァイオリン・ケースを背負い、こちらを振り返って微笑むジャケット写真の印象は、あたかも“隣の女の子”。そう、現役音大生である彼女は、クラシック音楽を学びながらも、ファッションや文学、料理、街角のカルチャーにも広く興味を持ち、なにげない毎日を素敵に過ごすことが得意な21歳。いたって普通の女子大生だ。
 ではなぜ、数多の中から花井悠希に白羽の矢が立てられたのだろう。

 瞬く間にデビューへの階段を駆け上った花井悠希は、4月21日に2枚のアルバムをリリースして華々しく楽壇に登場する。そのアルバムの内容も、非常にユニークだ。
 1枚は『主人公〜さだまさしクラシックス』。その名の通り、さだまさしの名曲をヴァイオリンで奏でたカヴァー集。ピアノとチェロも加わり、渡辺俊幸による巧みな編曲によって、“さだメロディ”の新鮮な魅力を味わうことができる。


さださんの音楽は、私の世代には親しみがないと思っていたのですが、聴いてみると不思議と耳に馴染んで、すーっと入ってきました。それもそのはず、親がさださんと同世代で、ファンだったそうなんです。私が小さい頃、家でずっとさださんの音楽が流れていたので、耳が憶えていたのですね。メロディをヴァイオリンで弾くので、歌詞がないわけですが、そこで“さだメロディ”の素晴らしさに気づいていただけたらと思います

 そしてもう1枚は『光の風〜ヴァイオリン・クラシックス』。バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」やブラームスの「ハンガリー舞曲」といった、民俗色の強いクラシック音楽を集めた曲集だ。

好きな曲を挙げていったら、いつの間にかこういったプログラムになりました。ほの暗くて、哀愁を帯びたメロディに魅力を感じます。

好きな曲は、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲と、ドヴォルザークのピアノ五重奏曲、ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲です。あと、シベリウスも好きだし、ショスタコーヴィチも。


 おぉ、なんと渋いこと! 若い女性というよりも、クラシック音盤歴何十年の玄人というイメージさえあるラインナップである。

明るく燦燦とした曲よりも、暗くて、内へ内へとこもるような音楽が好きなんです。今回、さださんの音楽に惹き付けられたのも、そういった部分があるからかもしれません。

 音大生というと、ひたすら練習に明け暮れ、クラシック以外の世界は何も見えないというイメージだった。たしかに、巧いだけのヴァイオリニストならほかにもたくさんいるだろう。だが、花井悠希は違う。ひたむきに音楽と向き合いながらも、あらゆる文化を吸収し、確固とした“自分だけの世界”を持っている。そしてファッションやライフスタイルさえも、しなやかに自己の表現手段に変えていく――そんなハイブリッドな感性が、これからのクラシック界に必要な“スター性”なのかもしれない。

(2010/04/21掲載CDジャーナル、取材・文/原典子)
http://www.cdjournal.com/main/cdjpush/hanai-yuki/2000000543

 花井悠希、花井悠希…
 オフィシャルサイトはこちらで:
http://columbia.jp/hanaiyuki/index.html



(注1)
 オフィシャルサイトはこちらで:
http://www.office-augusta.com/sukimaswitch/
 星のうつわ/スキマスイッチ
https://www.youtube.com/watch?v=DyBOvihVLpQ
(注2)
 今日はワンコインコンサートにご来場下さった皆さま、ありがとうございました。
 とても寒く、足元も悪いなか、たくさんのお客さまが来て下さって、本当にそれだけでもありがたいのに、皆さま早くから並んで下さっていたとお聞きしました。
 本当にありがとうございました。
(2015年1月30日22:52投稿花井悠希(はないゆき)のメッセージ)
https://twitter.com/hanaiyuki/status/561416622338883584/photo/1
(注3)
ヤッホー君のこのブログ、2014年12月12日付け日記「ワールドツアー」そして翌12月13日付け日記「アンコール!!」参照。
(注4)
「日本コロムビア株式会社」は、株式会社「日本蓄音器商会」として1910(明治43)年発足(F.W.ホーン社長)。


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2015年01月30日

筆洗

 1月30日金曜日。下町にも雪がひっきりなしに舞い降りていて、凍りつくような寒い朝です。
 ヤッホー君の昨日付け日記《日本国憲法と尾崎行雄》。
 そうなんです、どうしても記しておきたかった「湯河原会議」、その続き…
 「尾崎行雄」のお話しをしてくださった方のお隣に座っていたこれも年配の方が今度は、「ぼくも手帳にはこんなのを挟んで、いつも持ち歩いているのです」と見せてくれました。
 それは、「日本国憲法」第9条。
 そして、東京新聞「筆洗」の切り抜き。

 96。去年のこどもの日、安倍首相はそんな背番号のついたユニホーム姿で、プロ野球の始球式に登場した。ご本人の弁によれば「96代首相だから」らしいが、なかなか意味深な背番号ではないかと話題になった。

 2年前の総選挙で政権の座についた時、安倍さんが狙いを定めていたのが、憲法96条。改憲を国民投票にかけるには、まず衆参両院の「3分の2以上」の賛成が必要だとこの条文は定めているが、それを「過半数」に緩めようと意欲満々だったのだ。

 だがそもそもなぜ、改憲の条件は一般の法律の改正に比べ厳しくされているのか。その答えの一端が次の97条に書いてある。

 <この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである>

 基本的人権とは、先人が辛苦を重ね、ようやく手にした人類共通の遺産のようなもの。それをきちんと守り磨き、次世代に渡していかなくてはならない。そんな権利を謳(うた)う憲法は、厳しい手続きで守らねばならない−という歴史の知恵だ。

 安倍さんはきのう、第97代の首相に選ばれた。背番号「97」は97条に、どう向き合うか。自民党の「憲法改正草案」では、97条が削除されているのだが。

…2014年12月25日


 はぁ〜、ヤッホー君は深いため息をついただけで、二の句が継げませんでした。
 大きな疑問がこころにあってそれが言葉でなく嘆息となるのです。
 「日本国憲法」をどうして「守り磨いて、次世代に渡していこう」としないのでしょうか、
 どうしてこんなにまで「日本国憲法」をいたぶりつづけるのでしょうか、
 この殿さま、きっと愛すべき奥さんや子供っていないのかもしれないな、守るべき家庭がきっとないのかもしれないな、と深い悲しみで胸がいっぱいになり、しずくが顔に流れ落ちてきてしまったのです。
 
 だってヤッホー君、96歳になる父親に寄り添うお年寄りの息子さんと湯河原温泉でいっしょになり、お話しを聞いてきたばっかりなんですもん。
 父は湯船に沈むからだでなく、浮き上がってしまうようになったし、きっとこれが最後の温泉旅行になるかもしれないね、と弱気な発言をしてらっしゃるから、「お父さんにまた来ようね、って希望をわけてあげてくださいね」ってヤッホー君、やっぱり涙声で勇気づけていたんだもん。

 これも東京新聞「筆洗」です(2012年12月20日):

 明治憲法が制定される際、枢密院議長の伊藤博文と文相の森有礼の間で論争があった。草案にある臣民の「権利」を「分際(責任)」と改めるべきだとの修正案に伊藤は「そもそも憲法創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と反論した。

 臣民の権利を列挙するなら制定の必要はない。主権者である天皇の権力を制限し、国民の権利を守ることが憲法創設精神であると明言したのだ。

 憲法の役割は、国家権力に歯止めをかけることである、という立憲主義の精神を、明治憲法の起草者が正確に理解していたことは新鮮な驚きだった。

 衆院選で圧勝した自民党の安倍晋三総裁は、改憲の手続きを定めた憲法96条を日本維新の会などと連携して見直す考えだ。強い反対が予想される9条を後回しにして発議の条件である「三分の二条項」から手をつける戦術のようだ。

 自民党がかねて主張してきた96条改正案を、憲法学者の小林節慶応大教授は「何をするか分からないのに、危険なピストルを渡せるだろうか?」と自著『「憲法」改正と改悪』(注)で批判しているが同感だ。

 国防軍ばかりが注目された自民党の憲法改正草案は、基本的人権を守る姿勢が大きく後退し、憲法が国家権力を縛る道具であることをまるで理解していないと思わせる条文が並ぶ。明治時代に戻って勉強し直してほしい。


 なんかヤッホー君、うろたえる<狼狽>ばかりで、そんなんより<蝋梅>の香りにつつまれていた、あの陽だまりの平和な里の早春に想いをいたすのでした。
 だって昨日の東京新聞朝刊、2015年1月29日付け「筆洗」でも:

 【狼狽(ろうばい)】字引のその説明のようにうろたえている。あわてふためいてしまう。2015年1月という期間を切り取ると浮かんでくるのは干支(えと)にちなんだ、おとなしい羊ではなく、【狼狽】の狼(おおかみ)の貌(かお)かもしれぬ。

 不条理で心を凍(い)てつかせる事件が続いている。日本人がテロリストに拘束された。要求に応じなければ、殺すと脅されている。「人を殺してみたかった」若い女性は曲がった願いに取り憑(つ)かれ、おので77歳の女性の命を奪った。

 漫画の内容が気に入らぬとテロリストが新聞社を襲撃した。事件は人の心を次々と上書きしていくせいか、ずいぶん経過した感覚になるが、これとて、新年の「狼の月」に起きたことである。

 【狼狽】の語源は奇妙な二頭のオオカミである。「狼」の方は、後ろ脚だけが極端に短い。逆に「狽」の方は前脚だけがやはり短い。したがって、一頭だけでは歩けない。二頭は前後に連なるように体を合わせて、協力して歩く。だから、引き離されてしまうと二頭は「うろたえ、あわてふためいてしまう」

 平穏な日々を願う心と、それを裏切る理解を超える冷酷な現実。その足並みそろわぬ二頭が人の胸を掻(か)きむしり、【狼狽】させるのか。

 <狼は飢え牙をとぎて来れるなり。ああ われはおそれかなしむ すさまじき金属の疾行する狼の跫音(あのと)をおそる> 萩原朔太郎。狼狽なき日常の戻らんことを。




(注)
 小林節(1949年東京都生まれ)『「憲法」改正と改悪、憲法が機能していない日本は危ない』(時事通信出版局、2012年5月)
 
 先生は昨年、2014年5月19日付け日刊ゲンダイで「解釈改憲は憲法ハイジャックだ」とも:

 安保法制懇は学識なし
 平和憲法改正に執念を燃やす安倍政権が昨年、憲法改正手続きを定めた96条を先行改正しようとした時に「裏口入学はダメだ」と叩き潰したのが、この人だ。学会の重鎮の怒りに、さしもの安倍首相も方向転換せざるを得なくなったのだが、そこで持ち出してきたのが閣議決定による解釈改憲で、限定的に集団的自衛権を認めてしまおうという“禁じ手”だ。度重なる安倍のデタラメに重鎮の怒りが再び、爆発!

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2015年01月29日

湯河原会議

 1月28日水曜日〜29日木曜日は1泊2日の湯河原会議。
 ヤッホー君は『安全な食べ物を求めるアセアン諸国』を報告。
 その会議で、『1947年5月3日の尾崎行雄(尾崎咢堂)』についてこんな話をお聞きしました。
 その日、1947年5月3日の天候は雨だった、というのです。
 その雨のなかで祝辞を述べた尾崎行雄のことが新聞に載り、それを熊本県の中学生時分のときに読んだ記事が、いまだにアタマのかたすみに残っています、というのです。
 だって、われわれの「日本国憲法」はイマ、雨にさらされているではありませんか、というのです(注):

 「日本国憲法」施行記念式典は、皇居前広場で行なわれた。この日は、前夜からの雨が止まず寒い日であったにもかかわらず、約1万人の人々が集まった。夜には都内で花火が打ち上げられ、翌4日には都内で花電車が走った…
 法普及会会長の芦田均は、
「本日は新しい憲法が施行せられるもっとも記念すべき祝日であります。この新しい憲法によって、新しい日本が生まれ、新しい精神が甦ることを期待して、我々日本国民は今日の一日(ひとひ)を待望しておりました。そうして、ついにその日が来たのであります。誠に、我が国の歴史に特筆すべき一日であることを疑いません」
と開会の辞を、
「憲政の神様」といわれた尾崎行雄(咢堂=がくどう)は、祝辞で、

私は本日のきびしい天候を、この新憲法施行の日のために喜ぶ。なぜならば、この天候のごとく、国家の前途はたとえ新憲法ができても難しい…」と述べた(尾崎は、この5日前、祝辞役の依頼に訪れた芦田均に対してこう言ったといわれている。「この話は誰にもしない話だが、実は私は陛下が憲法実施を機会に御退位になるのが本筋だと考へる」(『芦田均日記』第1巻)。

http://tamutamu2011.kuronowish.com/kennpousekoukinensikiten.htm

 尾崎行雄、尾崎行雄…

 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記にもこれまで登場願っていただけに、このお話しを聞いたとき、昨日の湯河原に降った雪交じりのみぞれのなか、傘もささずに駅から歩いていたときの快い緊張感を覚えたそうですよ:

 ☆ 2010年5月6日付け「ハナミズキ」
 ☆ 2011年12月17日「大石武一」
 ☆ 2014年1月13日「正月の祝い酒」

 《日本国憲法と尾崎行雄》…どんな取り上げ方がされているのかもう少し読んでみませんか:

8 政治家として−その4−1946(昭和21)年の演説:

 敗戦の翌年、憲法改正案が上程された第90議会、尾崎は「新憲法案」に対する所信を演説します。

 まことに良い憲法の修正になりましたについては、私は満腔(まんこう/心から)の賛意を表するのでございます。
 …ただ、かくのごとき良い憲法を行うに当たっては、よほど良い心掛けがなくては実行出来ないと思いまするが、いかなる心掛けがあるかを、委員長はじめ、主として満場の諸君にうかがいたいというのが私の質問の主旨であります。
 これに比すれば、遥か劣っていたところのこれまでの憲法すら、我が国民は十分に実行し得ない結果が、千古未曾有(せんこみぞう/かつてない)の国辱(こくじょく/国の恥。敗戦をさす)となって今日現れております。
 あの憲法が正当に行なわれておるならば、決して、今日のごとき大屈辱には遭遇せぬはずです。
 しかして、今回制定せられんとするところの憲法は、彼に比すれば非常に優れたものである。
 優れれば優れるほど、知識道徳の低い我が国人民においては、実行は困難であるということを覚悟しておかなければなりませぬ。
 良い憲法さえ作れば国が良くなるなどという軽率な考えをもって、これに御賛成になりますると、非常な間違いである。
 憲法で国が救われるならば、世界に滅亡する国はありませぬ。
 良い憲法を作ることはまことに容易なことである。しかしこれを行なうことは非常にむずかしい。
 この点を諸君に尋ねると同時に、私は顧(かえり)みて己(おのれ)にも尋ねなければならぬ程に心配を致しております。
『尾崎咢堂全集第十巻』

(「三重県立図書館」三重県津市一身田上津部田1234三重県総合文化センター生涯学習棟1階 Tel 059-233-1180(代表)
http://www.library.pref.mie.lg.jp/mini/045/mn045.htm#enzetsu2

 尾崎行雄は日本国憲法が施行された1947年5月3日、東京・皇居前広場で開かれた「新憲法発布祝賀会」で列席した吉田茂首相らの前で祝辞をのべました。ほどなく著した『民主政治読本』で憲法に盛り込まれた理念と思想について次のように高く評価しています。

 おそらく、世界中にこんな高い代償をはらった憲法はあるまい。ただでもらったなどと思ったら、ばちがあたる…
 その代償はいかに高かろうとも、幸にこの憲法を活用して、日本を立派な平和国家としてたてなおすことができさえすれば、われわれの子孫は決して高すぎたとはいわないであろう。新憲法こそは、日本の前途をてらす光明である。新日本を祝福する天来の福音である…

 そのうえで尾崎は
「この憲法を正しく使いこなしてゆきさえすれば、日本が世界中から親愛される、立派な平和国家になれることは一点の疑いをいれない」と国際協調と平和主義という普遍の価値観に信頼を寄せていました。

(2006年5月21日(日)付けしんぶん赤旗「いま注目される尾崎行雄の憲法観、9条の戦争放棄が“花”」)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-21/2006052102_03_0.html

 動画でも。

 尾崎行雄と相馬雪香 信念と歩み:
https://www.youtube.com/watch?v=ZZRXZb7xU_4

 石田尊昭「相馬雪香さんの信念と心の力」:
https://www.youtube.com/watch?v=vhT5__4y29A



(注)
憲法第10章は「最高法規」という標題になっており、そこには、基本的人権の永久不可侵性(97条)、憲法に反する法律等は無効であること(98条)、そして公務員の憲法尊重擁護義務(99条)を定める3箇条の条文が置かれている。憲法は国の最高法規だということは、おそらく誰もが知っていることだろうが、多くの場合、それは、違憲の法律等は無効だという意味合いでのみ(つまり憲法98条の規定だけ)理解されているのではないかと思う。しかし、97条は、永久不可侵の人権を保障することがこの憲法の中心的な目的であるとして、憲法が最高法規であることの実質的根拠を示すものであり、また、99条は、憲法が権力担当者に向けられた規範であることを明記することによって、憲法の最も重要な基本的性格を明らかにしたものである。そういう意味で、最高法規ということの法的な意味を明らかにした98条以外に97条と99条という条文が「最高法規」の章に置かれていることには、重要な意味がある。

さて、そのうちの99条の規定についてである。99条の条文は、こうである。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。「その他の公務員」とあるから、当然、およそすべての公務員がここでいう「憲法尊重擁護義務」を負っているわけだが、とりわけそこに名指しされている「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官」という国の中心的な権力を委ねられた者については、「その他の公務員」に率先して、この義務に忠実であることが求められているとすべきであろう。

ところが、最近の国会議員や大臣のなかには、憲法上のこの義務をまったく無視している輩がいる。それも、決して少なくない数で。これは、国家として異常な姿である。
(2013年2月21日浦部法穂・法学館憲法研究所顧問)
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20130221.html



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2015年01月28日

人権啓発指導者養成セミナー

 1月27日火曜日はなんと8時半に家を出ました。
 両国駅から原宿駅へ。竹下通りから東郷神社へ。東郷神社から同潤会アパートを経て伊藤病院を曲がり、徳富蘆花住居跡。
 善光寺で高野長英碑を見て、「高野長英隠れ家及び自決の地碑」探したのですが見つかりませんでした。次回にとっときます。
 おなかがすいたので「廻船呑屋」でお昼にしました。
 そして今日のメーンテーマ「東京ウイメンズプラザ」へ。
 映画『くちづけ』鑑賞とトークショーだったのです。
 ああ、都心でしたが、大分歩きました。
 これが、いわゆるタウンウオークかな…山歩クラブの仲間にいつか提案しようっと…

 振り返りその1、善光寺と高野長英:

 信州善光寺別院。
 1601(慶長6)年、徳川家により谷中に信州善光寺の別院として設けられましたが、火事で焼失したため、現在の青山に移されました。
 境内には勝海舟の撰文による高野長英の碑、明治初期に人力車を発明した和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の功を伝える人力車発明記念碑があります。また、本堂には信州と同じく戒壇めぐりがあります。
 高野長英は幕府の対外政策を封刺した『夢物語』を書き投獄されましたが、伝馬町獄舎炎上を機に逃げ、各地を潜行しました。顔を焼いて人相を変え、沢三白という偽名を使っていましたが、青山の隠れ家で捕まりそうになり自害しました。隠れ家及び自決の地には現在青山スパイラルが建っています。
 山門である仁王門には「智」をあらわす仁尊像が安置されています。

(港区産業観光ネットワーク公式サイト)
https://www.minato-ala.net/details/guide2/j/0212.html

 振り返りその2、ウイメンズプラザと映画『くちづけ』:

 平成26年度人権啓発指導者養成セミナー映画「くちづけ」の上映および、青木英美(あおきえみ)プロデューサーによる講演。

 俳優で脚本家としても活躍する宅間孝行が書き下ろした戯曲を、堤幸彦監督が映像化したドラマ作品。舞台は知的障害者の自立支援ホーム「ひまわり荘」。
 そこに住み込みで働くためにやってきた元漫画家のいっぽん(竹中直人)と娘のマコ(貫地谷しほり)を中心に物語は進行する。
 うーやん(宅間孝行)をはじめとする入居者たちのほほえましいエピソードがテンポよく描かれていく一方で、その結末は、障害者とその家族を取り巻く現状について、私たちに大きな問題を提示している。
 映画化にあたって作品に込められた思いを、プロデューサーの青木英美さんに語っていただきます。

(公財)「東京都人権啓発センター」(台東区橋場1-1-6 Tel 3876-5371)
http://www.tokyo-jinken.or.jp/koushi/image/h26seminar1.pdf

 東京セレソンデラックス伝説の舞台、待望の映画化!
 伝説の始まりは、小さな新聞記事。実在の事件をもとに描かれる、父娘の深い愛。
 魂が震える、珠玉の物語が遂に誕生。

 7歳の心のまま大人になったマコ。最愛の父"いっぽん"とずっと一緒にいるはずだったマコ… なのに、彼女は何故死んでしまったのか?
 原作は、ヒットメーカー宅間孝行。自身の劇団(東京セレソンデラックス)(2012年に解散)のために書き下ろし、24,000人もの観客を号泣させた感動の戯曲を、時代を象徴する話題作や『明日の記憶』『MY HOUSE』等の社会派作品を手掛ける堤幸彦が映画化。
 物語の舞台は、知的障害者たちの自立支援のためのグループホーム<ひまわり荘>。いっぽんは娘マコを連れて<ひまわり荘>に身を寄せる。
 30歳のカラダに7歳の心をもった、天使のように無垢な娘マコを演じるのは、映画初主演となる貫地谷しほり。娘に尽くす父・愛情いっぽんに、竹中直人。ひまわり荘の住人で、いっぽん以外には開かなかったマコの心の扉を開ける王子様・うーやんに宅間孝行。その他実力派キャストが顔を揃えました。
 みんなで力を合わせて暮らす毎日は、幸せな日々。そんな中で、ひまわり荘の経営が難しくなったり、うーやんのことで妹が婚約を破棄されたりと厳しい運命が彼らを待ち受ける。そして、いっぽんにも病気が見つかってしまう…。こんなに冷たい社会の中でマコをひとりにできないと、苦しむ父が選んだ決断とは…
 主題歌は熊谷育美カヴァーによる名曲『グッド・バイ・マイ・ラブ』。名曲のメロディが心の奥に深く、深く、刻まれる。

(東京新聞)  
http://www.tokyo-np.co.jp/cinema/kuchizuke/

[映画化の道]
 2010年、宅間孝行率いる人気劇団〈東京セレソンデラックス〉で「くちづけ」上演。24,000人もの観客が号泣。その中に、堤幸彦監督、青木英美プロデューサーもいた。
 後に青木が「くちづけ」映画化を企画し、堤に監督を依頼した時、実際に作品を見ていた監督は快諾した。

 2012年7月、東映東京撮影所にてクランクイン。
 スタジオには、『くちづけ』の舞台となる二階建てのひまわり荘が、まるで本物の家のように作り込まれた。映画の中では、春夏秋冬……と季節が変わっていくが、照明によって四季折々の太陽光が繊細に再現されている。
 事前の準備として、キャスト、スタッフが、埼玉県児玉郡「ケアホーム上里」と本庄市の「はなわの杜」と東京「さやま園」3軒のグループホームへ取材に赴いている。
 映画初主演となる貫地谷しほりは当初マコの役作りを模索していたが、ホームの見学によって、部外者から見た一面的なイメージではなく、実に多様な人たちがいることを体感して、自由にやろうと決意を固める…

(映画『くちづけ』公式サイト)
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/about/production.html

 映画の予告編はこちら:
https://www.youtube.com/watch?v=CY7nURq7zF0

 アンルイスの名曲『グッド・バイ・マイ・ラブ』ってこれ:
https://www.youtube.com/watch?v=hWB6iyQX0-8

 映画のあと青木英美プロデューサーと観客とのやりとりのなかで、ある若い男性がこんなことを:

 わたしは今日でこの映画、二回目なのですが、最初のときの感動はなんだったんだろうと確認するのに、人権啓発指導者養成セミナーはいい機会だと思いまして、また映画を観にきてしまいました。
 これは質問でなく、感想なのですが。
 わたしは勤め人なのですが、最初、映画を見たときの感動がずっと続いていて、じゃあ、わたしなりにいったいどんなことができるのかなと考えて、考えて、いま司法書士の仕事を目指しています。
 「成年後見人」になって、いわゆる社会的弱者というのでしょうか、必要としている方々にプロとして手を差し伸べられるようになりたいと思いました。
 そういう輪ができていけば、どんな人でもまわりに困っている人がいれば、自然にそっと手を差し伸べられるんじゃないのかなと思ったのです。
 人が人にやさしい社会、人が人にやさしい国になればいいのかな、と毎日思っているところです。




 
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2015年01月27日

鉢形城

 1月25日の山歩クラブ「寄居ぶら〜りぶらぶら」のメーンテーマは、「鉢形城」でした。
 ヤッホー君が朝、東武東上線「玉淀」駅で10人の仲間に配って行程を説明する資料から転記します:

 鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、1932(昭和7)年に国指定史跡となりました。
 城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
 鉢形城は、1476(文明8)年、関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。
 後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。

 関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
 1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の実に5万の兵による北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。3500人の兵力で1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。

 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。
 なお、鉢形城は「日本100名城」に選ばれています。

(寄居町公式サイト「鉢形城公園案内」をもとにして)
https://www.town.yorii.saitama.jp/site/rekishikan/kouenannai.html

※ 寄居北条祭り
寄居町の1590年に起きた戦いを再現するまつり。玉淀河原での鎧武者に扮した総勢500人の出陣式に始まり、市街地パレードが行われる。荒川をはさんで繰り広げられる玉淀河原での攻防戦では、大砲の砲声が響き渡る。2014年は、5月11日(日)に開催。

(寄居町観光協会「寄居北条祭り」をもとにして)
https://www.town.yorii.saitama.jp/site/rekishikan/kouenannai.html

 ここで振り返り。
 ヤッホー君のこのブログ、2012年12月26日付け日記「八王子市滝山公園」、同27日付け日記「八王子城」ご参照ください、だって。
 まとめると:

○ 1538年 第一次国府台合戦で大石定重の子、定久は北条氏に降伏。

○ 1559年 北条氏康の3男、氏照が大石定久の養子となり、「滝山城」(現八王子市滝山小園)に入る。

○ 1569年 武田信玄、今川氏領内に侵攻。北条、武田は敵対関係となる。
 武田信玄、さらに小仏峠より八王子侵攻、「滝山城」と多摩川を挟んだ拝島の対岸に布陣。
 しかし、氏照の陣頭指揮により「滝山城」は落城できず、信玄は「小田原城」攻めに向かう。

 (山歩クラブ、昨年2014年歩き納めの生田緑地にあった「枡形城」はこのとき築城)

 氏照、信長の安土城を模倣した、より強固な「八王子城」を築城。

○ 1590年 秀吉の命を受けた前田利家1万8千兵、上杉景勝1万兵の連合軍により、「八王子城」はわずか一日で落城。氏照は小田原城に籠城中で、留守は家臣の狩野一庵以下婦女子含む1000人余で全員殺害される。
 しかるに鉢形城は…

 (ほかにも山歩クラブ、昨年2014年01月26日付け日記「北条氏綱」、同じく昨年2014年3月23日の箱根登山鉄道「入生田」駅からJR「早川」駅までのウオーキング記事、3月24日付け日記「入生田のしだれ桜」や4月1日付け日記「出世道」などご参照ください)


 後北条家について、また鉢形城についてはヤッホー君、「鉢形城歴史館」にて、2004年秋開催開館記念特別展の展示図録『鉢形城開城、北条氏邦とその時代』なる冊子を購入してきました。
 入館者を観察していますと、この冊子をお買い求め、そして「日本100名城記念スタンプ」をおしてお帰りになるお城マニアのかたも入館しており、この冊子は2013年10月で5刷を数えるロングセラーのようなのであります。

 では鉢形城本丸跡にてパチリ、集合写真です:

鉢形城本丸跡.jpg



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2015年01月26日

梅一輪一輪ほどの暖かさ

 鋸南町、鋸南町…(1月18日、山歩クラブお山歩会、初歩き)…
 早春の房総:

スイセンと菜の花.jpg

 スイレンも良かったけど、やはり気になる梅の花。佐久間ダムを見下ろすように蝋梅が咲き誇っています:

蝋梅と佐久間ダム.jpg

 寄居町、寄居町…(1月25日、山歩クラブお散歩会、初歩き)…
 蝋梅が家屋敷のなかから路地裏をのぞいています:

蝋梅.jpg

寄居の梅.jpg

 江東区だって負けません、ヤッホー君がいつも辿る「詩想の散策路」だってもう、かすんでいますがスカイツリーに梅の花。
 今日1月26日月曜日の昼下がりのこと:

梅とスカイツリー.jpg

 梅一輪一輪ほどの暖かさ…

 でも背筋が凍りつくようなこの国のバカ殿のはしゃぎっぷり、それをいさめようともしない茶坊主ども。

 実際には「積極的軍事力使用政策」であることを、厚顔無恥にも「積極的平和主義」という言葉でごまかすことは、安倍晋三が頻繁に使う欺瞞的レトリックの典型的な一例である。
 あらためて説明するまでもないことであろうが、「積極的平和主義」とは、ヨハン・ガルトゥングが定義したように、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない社会状況を作り出すことが平和構築につながることを意味する。
 首相のこうした欺瞞言動によって遅かれ早かれ起こるであろうと多くの日本市民が心配していたことが、現実となってしまった「イスラム国(正式にはイラク・レヴァント・イスラム国)ISIL(Islamic State in Iraq and the Levant)に捕われた二人の日本人のうち、すでに一人の生命が失われ、もう一人の命も奪われる危険が刻一刻と迫りつつある(2015年1月26日現在)。
 今回、安倍が中東訪問中に誇らしげに幾度も言及した「ISIL対策」のために拠出する2億ドル(約236億円)については、2人の人質問題が起きるや、この2億ドルは「人道支援」のものであると正当化する主張を安倍と日本政府は繰り返すと同時に、「卑劣なテロには決して屈しない」とも言い続けている。
 しかし、外務省のホームページに記されている情報によれば、「日本のISIL対策」には、エジプトに対する「国境管理能力強化のための50万ドル」も含んでいるとのこと。
 「国境管理能力強化」とは具体的にはいったいどのようなことを指すのか分からないが、「人道支援」でないことは明らかであろう…

(2015年1月26日、広島市立大学平和研究所教授、田中利幸「ハナ・アーレントの教訓−記憶を『忘却の穴』に陥れ、嘘の連呼によって事実自体を歪める安倍首相」)
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2015/01/blog-post_26.html

 中東訪問って、2人の日本人人質について何の情報もなく中東に入ったわけでなく(そうしたら大チョンボ?)、意図的に飛行機に乗ってるわけでしょ。
 日本の政府は人命救助に金は出さないし、ISIL粉砕の陣営に加わる意思が明確にあることの宣言のためにのこのこ出かけたわけでしょ。
 いわば、アメリカ、外務省のシナリオ通りに動いているわけでしょ。

 わけのわかんねぇちんぴら野郎の「人命尊重」なんて自己責任、自己責任って空気をながしておきゃいいんだよぉ、それよりよ、TPPで相手に儲けさせなきゃなんないし、沖縄に新基地つくってあげなきゃいかんしよぉ、アメリカに気を使ってよ、こっちゃ兵器増産すりゃ景気回復なんだし、そしてこのまんま対米従属路線でいきゃあ、自分の政権は安泰、がんに侵されるまでは延命してもらわないと、飛んで火に入る夏の虫、これを利用しつくさない手はない、国会なんてキョウサントウくらいかぁ、でもいよいよ自共対決ですなっておだててあるし、ちいっとも怖くない、てなもんでぇ〜、三度笠!
 うひっひ…
 ま、国民には「いのちと暮らしを守ります」、そして「ていねいに」説明しますって言っておかなきゃ。な。

 「切れ目のない安全保障法制を構築することで、国民の命と幸せを守り抜く」。首相は1月25日のNHK番組でこう強調し、通常国会での安保法制成立に意欲を見せた。
 首相は、「イスラム国」による人質事件を念頭に、「海外で邦人が危害にあった時、現在自衛隊が持てる能力を十分に生かせない」と指摘。新たな安保法制を作る中で、当事国の同意があれば、海外でテロに巻き込まれた日本人を自衛隊が救出したり、警護したりできるように武器使用の範囲を拡大する方針だ。

(1月26日(月)8時38分配信朝日新聞デジタル「安保協議、来月にも再開へ。自衛隊の後方支援拡大が焦点」)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150126-00000016-asahi-pol

 ね、狙いは真逆、自衛隊の武器使用!
 逆に言うと、この国が海外テロ組織からの標的となること!

 安倍晋三首相は2015年度予算案の提出後に施政方針演説を行うため、所信表明演説は見送られた。
 麻生太郎財務相が1月26日午後の衆参両院の本会議で財政演説を行い、補正予算案に関し「経済の好循環を拡大していくためには一刻も早い成立が必要だ」と訴える。

(01月26日15時12分最終更新毎日新聞「通常国会:『テロとの戦い』議論へ、政府補正予算案提出」)
http://mainichi.jp/select/news/20150126k0000e010168000c.html

 やっぱり、国民にゃ謙譲語や尊敬語をちりばめないといけないし、作文担当のあいつもイマちょっとくたばっているし、苦手な演説はド根性の座ってるアキバ君にまかせておきゃいいってなもんでぇ、下手くそな演説はなるたけしないで、裏にひっこんで手をあげて、もの言わぬ国民を指揮、命令し服従を誓わせるってやつだぁ〜
 ヤッホー君のこのブログ、2015年01月20日付け日記「通常国会では首相所信表明演説が省略!」お読みください。

 それにしてもですよ、皆の衆、じゃ、ない、ない、ここに独りはいるからいいんだけど、もう、
 売国でなく愛国、
 属国でなくこの国の独立、
 ちゃらちゃらへらへら薄笑いでなく腰の据わった未来を見通せる発言のできる日本人って、
もう消えて、消されて、いないんかな、手を組もうよ、ね。

 劣化、劣化っていわれて烈火の如く怒る日本人って、もういないんかな、

 日本人になりてえ〜って叫んだヤッホー君、
 梅の花みたいになりてえ〜って叫んだヤッホー君、
 冬の寒さをこらえて我慢して、ひとしずくの陽の光に温もりを感じて、香しき花を開く蝋梅みてェ〜な大人になりてえ〜って叫んだヤッホー君、
 間に合うんでしょうか…
 

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大福御前

 「苺大福」は誕生して以来、皆様に愛されて、もう20年以上たちます。
 きっかけはバブルといわれた1985(昭和60)年正月、「大角玉屋」3代目社長大角和平が新聞の電通の今年の流行みたいなコラムで「洋菓子・ケーキの時代がそろそろ終わり何かのきっかけがあれば和菓子の時代が来るだろう」という記事を読んだことでした。

 常にお客様を第一に考え、本物の和菓子・本物の美味しさを味わっていただきたい。そして心から喜んでいただきたい。大正元年の創業当時から大切に受け継いできた伝統を守り、より高めていく、それが「玉屋」の姿勢です。素材も徹底的に吟味し、全て国産の最高級品を使用しています。小豆は北海道十勝産、大粒小豆は京都丹波大納言、砂糖は白双糖、もち米は宮城県産宮こがね、水は新潟県越後湯沢の深層天然温泉水を使用しています。
 創業時より「美味しい和菓子」として知られていましたが、現社長である3代目大角和平が昭和60年2月に日本で初めて「元祖 いちご豆大福」を製造し、販売いたしました。今でこそポピュラーな和菓子となりましたが、当時は「大福の中にいちごが入っている!」と大評判!お餅と餡と甘酸っぱいいちごは絶妙にマッチして一大ブームを巻き起こしました。次から次と「いちご大福」を製造するところが増え、当時全国の和菓子店の売り上げが3割増えたということで、和菓子業界から表彰されました。現在も「元祖 いちご豆大福」の人気は衰えず、今年の3月には日本政府内閣府が発行する世界各国の大使館や国立図書館に寄贈される本でも、日本を代表する伝統食品として紹介されました。

(大角玉屋公式サイト)
http://www.oosumi-tamaya.co.jp/information.html

 30年も前のこと、でした。この「苺大福」を「寄居ぶら〜り、ぶらぶら」時、一番後ろからまるで亀さん、それでも懸命に、仲間から離れないようにのろのろついてくるのを見かねた平田さん、珍しいもの、美味しいものだし、きっとヤッホー君のからだにだって効くわよ、とヤッホー君にエサやり…

 ほお〜ら、大福もちを頬っばっているときじゃないでしょ、めっ!

 『鉢形城主正室 大福御前』(著:福田登女子、出版社:さきたま出版会、発売:2014年4月)

 いっぱいご報告しなくっちゃいけない山歩クラブ「寄居ぶら〜り、ぶらぶら」旅の巻、まずはこのお話しから。
 このアナウンスをヤッホー君、鉢形城公園にある「鉢形城歴史館」(埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496-2 Tel 048-586-0315)(注1)で見つけました:

 河越夜戦の後、小田原北条氏の勢力拡大に伴い、鉢形の豪族で山内上杉氏の家老だった藤田康邦は、北条氏康三男・氏邦を娘・大福(注2)に入婿させる。睦まじい二人だったが、実弟の毒殺、実子の夭折により、大福は次第に追い詰められていく。乱世は数々の疑惑と悲運をもたらし、二人はすれ違っていく。そして天正十八年、秀吉による小田原征伐がはじまり、滅亡へと向かう後北条氏。大福もまた、苛酷な運命の渦へと飲み込まれていく…。
 著者紹介:福田登女子(フクダトメコ)1936年、寄居町生まれ。

(紀伊國屋書店)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784878914089

 《大福》って読み方は、《だいふく》ではなく《おふく》ですからね!為念。
 そしてこの本を出版した「さきたま出版会」(さいたま市浦和区高砂2-4-6 Tel 048-822-1223)について:

 私たちは「地域」と共に歩みつつ「本」を創っております。
 「地域」には、そこで仕事を営み、人を愛し、生命あるものを慈しむ人々がいるからです。
 埼玉という地域をベースに、県域を超えたコミュニティの中で、出版を通じて新たな文化の創造を目指しています。
 1974(昭和49)年に創業して以来、私たちは約700タイトルの本を出版いたしました。書店に並べる本も、自費出版の本も、読む人にとって、「知的な感動」を覚えるような本づくりが、「生命」であることを私たちの信念として取り組んでおります。

(さきたま出版会)
http://www.shutokon.com/sakitama/

 地域出版社・株式会社さきたま出版会取締役会長の星野和央さん(1956年政治経済学部卒)です。
 学生時代、『駿台論潮』(当時、明治大学の学生サークルが発行していた総合雑誌)と出会い、出版の道へ進んだ星野さん。その後、「自分が生まれ育った地元についてもっと知りたい」とさきたま出版会を設立。以来40年間、“出版で地域を耕す”をテーマに活動を続けています。
 「地元を知ること、すなわち自分のルーツを知ることはグローバル社会に生きる若者にとっても大切な姿勢」と星野さん。出版を通して地元を振興する思いの詰まったインタビューです。
 この詳細は、広報誌『明治』第64号(2014年10月15日発行)に掲載しています。ぜひぜひ、ご購読ください。

(明治大学広報課ブログ OB・OG探訪記Vol.18)
http://www.meiji.ac.jp/koho/blog/007/6t5h7p00000hyvdd.html

 さ、これで後北条ものって「いろ」「つや」がないからNHK大河ドラマになじまないとテレビに登場しなかったんですが、「大福御前」も活字になったことだし、さて、どうしますかね、経営委員会の方々。
 でもぉ『光圀伝』もあるし、あっ、それよりも東を征伐する西の武将は絵になっても、敗ける側の歴史もの、滅亡する側は取り上げられずに見捨てられ、捨て置かれるんでしたかぁ〜
 送り込んでくれたお殿様の顔いろもうかがわなくっちゃいけないし、かぁ〜



(注1)
国指定史跡である鉢形城跡のガイダンス施設として、歴史館の内観また周辺地域の文化や歴史を学習、体感できる施設として平成16年10月17日に鉢形城公園の開園と同時に、鉢形城歴史館・寄居町埋蔵文化財センターとして開館しました。
(寄居町公式サイト)
http://www.town.yorii.saitama.jp/site/rekishikan/

(注2)
質問:大福御前(鉢形城主北条氏邦の室 1593年没)は、夫が加賀国の前田利家に預けられると仏門に入り、自害したそうだが、どのような死に方だったのか具体的に知りたい。
回答:具体的な記述は見つからなかった。調査の経過を連絡する。
『埼玉人物事典』『寄居町史』『鉢形城跡と郷土文化』『埼玉の女たち』『郷土のあゆみ』(寄居町教育委員会)『埼玉大百科事典』には、大福御前の死に方について〈自殺〉〈自害〉〈自刃〉という言葉で説明されているが、それ以上具体的な記述はなし。
『郷土のあゆみ』(寄居町教育委員会)に「北条氏邦に関する文献」という論文が掲載されており、「鉢形城の由来並に古城跡」(寄居町正龍寺蔵 「正龍寺古記」とも言われている)があげられていた。
以上の経過を連絡し、「鉢形城由来並に古城跡」を紹介した。

提供館:埼玉県立久喜図書館
事例更新日時:2009年10月20日 09時59分
(国立国会図書館、レファレンス協同データベース)
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000014630

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2015年01月25日

寄居

 1月25日日曜日は山歩クラブのお散歩会、初歩きの日。
 目指すは、8時50分池袋駅集合で、埼玉県寄居町!
 寄居でねぎを買って背中に背負(しょ)って帰宅したヤッホー君、すかさず、ねぎらいの一斉メールがおくられたようで…:

 こんばんは。
 今日は山歩クラブ10人でお山歩ならず、お散歩会。
 老梅の加齢臭に狼狽しながらも、あ、ごめん、ごめん、見事な黄色い蝋梅の香しい匂いがあちこちのお庭からただよってきてましたね。
 お日柄もよくヤッホー君が江戸さんに替わって考えた全行程をすべて歩きとおすことができました(仲間の皆さん偉い、偉い!)
 東武東上線「玉淀」駅から、
 水天宮(人形町と姉妹関係?そういえば途中小川町も通ったしさ)、
 宮沢賢治の歌碑(毛虫焼くってどんな匂い?)、
 雀宮公園(松本幸四郎と香川照之との関係は?)、
 鉢形城(桜ってこのエドヒガン?)、
 京亭(君恋しを歌いそこねちゃいました…良かった、ホ…誰?)、
 玉淀碑(それよりイチゴ入り大福もちに夢中)、
 宗像神社(どの木に小熊が登ったきりで下りられなかったのかな)、
 寄居駅(卵10個160円、ネギ6本60円仕入れたのは良かったのですが、泡の出る飲み物を買うの忘れて、ホームに入ってからあわてて「寄居町観光協会」に戻った仲間も…誰?)、

 あっ、出所したばっか、ばかヤッホー君に地酒『氏邦』を祝い酒として贈ってくださった高畠さん、優しい!

 そうなんです、先人たちの夢の香ただよう素敵なタウンウオーキングとなりました、ありがとう、江戸さん!

 次回タウンウオーキングは地元に戻って(初心に帰り)、「隅田川七福神巡り」ですって!
 隅田川河畔、うんちびる近く勝海舟像前9時半集合ですよ〜ヤッホー!
 それまでご・き・げ・ん・よ・う!
 そしておやすみなさい眠い(睡眠)

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先人の夢の香

 鋸南町、鋸南町…
 1月18日日曜日、まもなく旅も終わるころ、山歩クラブ専用バスはトイレ休憩のため「道の駅きょなん」(鋸南町吉浜517-1 Tel 0470-55-4518 鋸南町観光案内所)に停まっていました。
 ヤッホー君は隣のスーパー「ODOYA SC」(鋸南店鋸南町吉浜521-1 Tel 0470-50-1251)でビールを仕入れて、夕暮れ時の太陽の光いっぱいの日差しを浴びながら、駐車場の庭石に腰をおろし、仲間といっぱい飲(や)っておりました。
 ヤッホー君、おしっこしたくなったら、あのトイレがいいよ、きれいだし、それに面白いんだ、とわめいております。
 トイレにこんなのが貼ってあったのです:

 頼朝を村の人びとは大いに歓待した。
 喜んだ頼朝は「わしが天下を取った暁には安房一国を与えよう」といった。
 ところがこれを“粟一石”と勘違いした村人は「粟なら畑で取れます。そんなもんより姓をください」という。
 頼朝は「そうか。ばかだなあ」という。
 村の人びとはそれがくれた姓だと思ったので、この辺りには“左右加”、“馬賀”という姓が多い。


 鋸南町(きょなんまち)とは、千葉県の3名山の1つ、鋸山(のこぎりやま)の南に位置しているので名づけられました。かつての城下町・勝山と港町・保田を合わせて昭和34年に誕生しました。そのためJR内房線には鋸南駅は無く、今も保田と安房勝山の両駅が残り、中心を勝山に置いています。保田にも勝山にも漁港があり、ともに毎朝、新鮮な魚貝が水揚げされます…
 「見返り美人」で有名な浮世絵の創作者菱川師宣の誕生の地であり、源頼朝が上陸し、兵を立て直し天下を治めた伝説の地。小林一茶、夏目漱石、徳富蘆花、若山牧水、獅子文六らが愛した文化人の里、鋸南。ここには、しばしの散策にも先人の夢の香に酔えるひとときがある町です

(鋸南町公式サイトより、町の紹介)
http://www.town.kyonan.chiba.jp/kyonan/categories/kikaku-07/?taxno=item&taxno2=kyonaninfo

 ね、そうでしょ、石橋の合戦に敗れた源頼朝が、真鶴半島から船でここ鋸南町に渡って上陸した地。
 そして力を立て直し、劣勢を挽回し、鎌倉幕府を開いていくターニングポイントにもなった土地。
 たしかにスイセンの香りやビールだけでなく、先人の夢に酔える場所、でした。
 こりゃあ、年明け最初の山行にふさわしい土地柄じゃなぁ〜、皆の衆、賀は賀は、ガワワガワワとヤッホー君(笑)。

 そればかりではありません。

 三朶花(日本の杜甫)
 石井三朶花(いしい さんだか)は、光圀に見出され、江戸小石川の水戸藩邸にあった彰考館に出仕することになりました。
 詩文が得意だった三朶花は彰考館でおもに『大日本史』の草稿を書いていました。
 彰考館とは光圀が『大日本史』編纂のために設けた史局で、同じ年、佐々(さっさ)介三郎宗淳(むねきよ)も彰考館へ出仕しています。
 宗淳は史料収集に尽力した人で、ほとんど全国にわたって調査をして歩きました。
 これがのちのテレビでおなじみの水戸黄門のお供、佐々木助三郎(助さん)のモデルとなった人です。

 黄門様、大黒山に
 徳川光圀(水戸黄門)は、1674年、鎌倉英勝寺墓参の途中勝山にやってきました。
 当時編纂されていた『大日本史』の資料収集や史跡の見学を兼ね、浪人石井三朶花を招き『大日本史』編纂にあたらせるためでもあります。
 三朶花の家は大黒山のふもとにあり、仁浜に住んでいました。
 勝山藩主、酒井越前守忠栄は15隻の船を飾り立て海上で出迎えましたが、光圀はそれを避けて大黒山に上陸しました。光圀らしさを感じます。
「甲寅(こういん)紀行抄」
南房総観光圏整備事業

(現地案内板より)

 賀は賀は、とヤッホー君、いま下りてきたばかりの大黒山を探して、顔を上げて笑ったのですが、仲間にはそう見えず、どうしたの、湯上りでまた一山登って、汗をかいたからなぁ、風邪でもひいたかい、と。
 黄門さまのようにガハハガハハと笑ったはず、初笑いのはずが、ぎゃふん…

 水戸黄門がやって来た
 諸国漫遊でおなじみの水戸黄門、徳川光圀の話は、テレビ時代劇でつくられたお話。
 旅に出ることのなかった黄門様ですが、1674(延宝2)年、鎌倉墓参の途中に、勝山に来ています。
 歴史書の『大日本史』を編さんしていた光圀は、各地の歴史や風景に興味があったようです。
 勝山の大黒山で休憩し昼食をとった光圀は、浮島や鋸山の景色を堪能した後、鋸山の難所を越えて、鎌倉へ向かいました。

(鋸南町公式サイトより、きょなんのむかしばなし)
http://www.town.kyonan.chiba.jp/kyonan/categories/kikaku-12/?taxno=item&taxno2=kyonaninfo

 
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2015年01月24日

万華鏡

 寄り道に、回り道、道草ばかりして、糸の切れた凧みたい、どういうわけか1月18日日曜日山歩クラブの鋸南町でのお山歩会(津森山〜佐久間ダム〜大黒山)を終えたんだからいいかげん、下町に戻ってもいいのに、遠回りも、遠回り。
 健さんといっしょに九州は平戸市「薄香簡易郵便局」まで足を伸ばして、うろうろ。

 1月24日土曜日の早朝、8時には旅立ちを決心したんだそうです、ヤッホー君。
 朝の8時には「薄香簡易郵便局」前を出ないと今日じゅうに下町には、たどり着けそうにもありません。
 8時から歩いて30分、「平戸桟橋」バス停をまずは目指します。

 途中、まだ見ていないし、「松浦史料博物館」(注1)、「オランダ商館」(注2)とか見学したいんだけど、それじゃあ、間に合わなくなりますんで、次回おじゃまするときまでとっときます。

 8時29分通過の佐世保行きバスに乗って、「佐世保駅前」に10時1分着(1,350円)です。
 さらにそこで、10時20分発の長崎行きバスに乗り換え、「長崎空港」着が11時25分(1,400円)。
 そして、12時25分長崎空港発「ソラシドエア」38便に乗ると、羽田空港着が13時55分(37,790円)なんです。
 「ソラシドエア」って知ってました?(注3)
 だってぇ〜「全日本空輸」3738便にすると43,890円もするんですぅ。

 旅の道連れは、森沢明夫の次の3冊:

 ☆『青森ドロップキッカーズ』(小学館、2010年2月)(注4)
 ☆『あなたへ』(幻冬舎文庫、2012年2月)
 ☆『ヒカルの卵』(徳間書店、2013年10月)(注5)

 ぐいぐいと森沢ワールドに引き込まれていくヒ・ミ・ツ:

 ヤッホー君、思うにこれは、今までの小説って、作家は誰か主人公を設定し、作家はその主人公を中心に、主人公の行動や目線の範囲内で物語を紡いでいき、主人公の目線や気持ちをていねいに書きこんで、それに読者が入れこんでいく、という構図であったんだと思うんだって。
 あたかも読者が主人公になって、疑似体験を重ねていく、と。

 ところが森沢ワールドって軽いんだ、ふわふわ浮遊感を覚える心地よさ、これってなんなんだろうと思ったとき、言えるのは、偉そうにでなくヤッホー君の私見ですよ、もち、それは
「登場人物が主人公になって、ひとつの物語にはめ込まれて輝く」ことにあるんじゃないのかな、と。
 つまり、複数の主人公を縫い合わせるんで、そして複数の主人公に作家は均等な力をいれて、糸と針をあやつって継いでいく。
 …「パッチワーク」っていうの、「キルト」っていうの…

 登場人物それぞれ、でっかい顔してそれぞれの物語を編んでくるから、読者は「万華鏡」覗いているみたいに、読後の感動が膨れ上がっていくんだなぁ〜と。
 で覗くたびに形が変わるし、きらっきらっとひとつづつ輝き方も違ってくるんだな
 そんなわけで、また、覗きたくなるんだな
 で覗くたびにこころが、「ほくほくの焼き芋」みたいになるんだな

 冲方丁とはまたひと味もふた味も違う、森沢明夫の《筆力》



(注1)
「松浦史料博物館」長崎県平戸市鏡川町12番地 電話0950−22−2236
http://www.matsura.or.jp/access/

(注2)
「平戸オランダ商館」長崎県平戸市大久保町2477番地 電話0950−26−0636
http://hirado-shoukan.jp/

(注3)
「ソラシドエア」はヤッホー君のこのブログ、2013年2月9日付け日記「西米良カリコボーズ号」参照。

(注4)
「青森を舞台にしたカーリング小説『青森ドロップキッカーズ』のご当地ルポです」(青森県庁カーリング部)。
http://apocc.web.fc2.com/archive_drop.htm

(注5)
「この物語にはモデルとなった『行列のできる店』があります。兵庫県豊岡市にある『但熊』という卵かけご飯専門店です… そして、もうひとつ、養鶏場のモデルになってもらってところがあります。東京都青梅市にある『たまご倶楽部』です… さて、ふたつのモデルがあるとはいえ、この物語のほとんどはフィクションで、登場するキャラクターはすべて架空の人物です」(あとがき)395頁

 但熊ホームページ:http://www.eonet.ne.jp/~tankuma/
 たまご倶楽部ホームページ:http://www.tamago-club.co.jp/


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2015年01月23日

高倉健

 映画『あなたへ』、小説『あなたへ』は、「富山刑務所」で木工、お神輿づくりの作業技官として定年後も再任用の嘱託で働く倉島英二63歳が、長崎県平戸市鏡川町にある「薄香簡易郵便局」までの1200キロの車の旅に出るロードムービーでしたね。
 「ナビタイム」によりますと所要時間:12時間43分、総距離:1079.5km、料金:22,370円(普通車、ETC 21,930円)だって。
 妻の洋子は53歳で逝ってしまったけど、存命中に中古で買った日産のエルグランドをキャンピングカーに仕立てあげ、いざ目的地へ出発。
 しかしナビ装着なんてないんだな、きっと、いや、あっても回り道、寄り道、道草かぁ(とヤッホ―君、余計なおせっかいというか、山歩クラブと同んなじだぁなんて顔をしています)。
 だって、クルマは南へR41、飛騨街道を走るんだもん。
 でもそこで種田山頭火を愛する元高校の国語教師、杉野輝夫と出会います。さらにクルマは、R158に入り、長良川沿いを走って、郡上踊りで知られる郡上八幡、R21で西へ舵を切ります。琵琶湖の側のキャンプ場で車中泊。
 翌朝は、洋子との思い出の地、日本のマチュピチュ、兵庫県の竹田城へ向かいました。
 洋子はこの城跡南千畳で開かれた野外コンサートで童謡を唄っていた歌姫だったのです。
 姫路市街のファミリーレストラン駐車場で、イカめしの移動販売を生業にしている青年、田宮佑司が旅の道連れになり、さらにその部下、南原慎一と広島市で合流。
 こうして4人がそろうのは文庫版『あなたへ』への半分ほど。総頁数が334頁ですので、187頁、広島駅前の百貨店「福乃屋」8階催事場での場面でした(注1)。
 さて、この4人がどこへ、鴎のようにどう飛んで行くのか、それはぜひこの文庫版をお買い求めのうえ、お読みください。
 旅の目的地、長崎県平戸市薄香(うすか)地区が映画『あなたへ』ロケ地となるわけですが、それはこちら:
http://www.hirado-net.com/you.html

 高倉健(81)が6年ぶりに主演する映画『あなたへ』(監督降旗康男、2012年8月25日公開)の上映会が8月16日、舞台となった長崎県平戸市の文化センターで行われた。同市は映画館がなく、撮影に協力してくれた住民に映画をぜひ見てほしいという高倉の思いから実現。最後は撮影中に“茶飲み友達”となった88歳のおばあちゃんを中央に迎えて写真撮影するなど、健さんらしい温かい上映会となった
 高倉は舞台あいさつ後、映画撮影中に「茶飲み友達になった」という木山キミさん(88)を隣に呼び寄せた。そして肩を抱いて写真に納まった。映画に出ていない人が、綾瀬はるか(27)三浦貴大(26)ら出演陣の“センター”に立つのは異例だ。
 劇中の「濱崎食堂」に隣接する木山さん宅を毎日のように訪れ、世間話をした仲。2人合わせて169歳。小さな港町には休憩する場所もなく、高倉にとって撮影の合間の貴重な息抜きだったようだ。木山さんは「遠い雲の上のような人なのに…。こんなこといいのかしらと思っていました」とほほ笑んだ。
 富山刑務所の指導技官役の高倉が「故郷の海に散骨してほしい」という妻の思いを受け、平戸市鏡川町の薄香(うすか)港まで1200キロを車で旅する物語。薄香では昨年2011年10〜11月に、延べ8日間の撮影を行なった。散骨シーンは同港の漁師が船を提供。嵐のシーンは地元消防団がホースを使って演出した。エキストラでも多くの人が参加するなど、町ぐるみの協力を得た。
 旅先で一期一会の出会いを経て、人と人との絆の大切さに気付く物語。撮影中にできた絆は高倉にとって大切なものだった。同市に映画館が40数年間ないと聞き「じゃあ映画を見られないの?皆さんにも見てほしい」との思いを持ち続けてきた。今回の上映会は高倉の強い希望から実現した。
 高倉が大ぜいのファンの前に姿を現すのは7年ぶり。2005年の東京国際映画祭で行った中国映画『単騎、千里を走る』(2006年日本公開)以来の舞台あいさつだ。「久しぶりにこういう高いところに立ち、緊張しています。大変お世話になりました。ありがとうございました」と感謝すると、市民ら300人の大きな拍手が会場を包んだ。
 高倉は、撮影終了後も木山さんに自著『あなたに褒められたくて』(注2)を贈るなど、交流は続いている。木山さんは「健さんには、たくさんパワーと健康をいただきました」と目を潤ませた。

(2012年8月17日06:00付けスポニチ「高倉健7年ぶり舞台あいさつ、ロケ地・平戸市に恩返し」)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/08/17/kiji/K20120817003919310.html

 悪性リンパ腫のため昨年2014年11月10日に亡くなった俳優の高倉健(本名・小田剛一)さん。銀幕の大スターである健さんはその人柄から沢山の人びとを惹きつけた。
 地方のロケ先でも、健さんの気遣いは変わらない。映画『あなたへ』のロケにエキストラとして参加した、北九州市の映画館「小倉昭和館」館主の樋口智巳さんがこう話す:
「ちょうどロケの間、映画館で高倉健さん特集を組んでいました。するとスタッフからそのことを聞いた健さんが、現場にいた私に、こちらより先に『ありがとうございます。自分の映画を上映していただいて』と言ってくださった」

 人との出会いを大切にした健さんが、なかでも大事にした女性が2人いる。
 一人は母親だ。インタビューやエッセーでは、「母の躾(しつ)けが厳しかったおかげ」「母に怒られそうなので」と「母」について多くを語っている。1991年に出したエッセー集『あなたに褒められたくて』(注2)の最後に健さんは書く。
<お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで(略)30数年駆け続けてこれました>

 もう一人は離婚した江利チエミさんだった。1982年に45歳で亡くなった江利さんの墓参りは欠かさず、再婚はしなかった。
 あるライターが言う:
「数年前、健さんにもう時効だからと離婚の話を尋ねたんです。そうしたら『人間は難しいもので、愛し合っていても別れなければならないことがある』とおっしゃいました」

 インタビューでも、こんな言葉を残している。
籍が入ったとか入らないとか、子供を持ったとか持たないとか。そんなことよりも、悔いのない人に出会えたという記憶があるかないか。僕はそっちのほうがとっても大事だと思いますね>(『person』2001年7月号)

 心を大事にする健さんらしい生きざまだった。

(『週刊朝日』2014年12月5日号より抜粋)
http://dot.asahi.com/wa/2014112600031.html

 昨年2014年11月10日に亡くなった俳優の高倉健さんをしのぶお別れ会が11月28日、遺作となった映画『あなたへ』のロケ地、長崎県平戸市の薄香(うすか)地区であり、地元住民や全国から集ったファン約200人が名優の冥福を祈った。
 『あなたへ』は、高倉さんが演じる主人公が「故郷の海に散骨してほしい」という亡き妻の遺言で、富山から平戸の薄香へ旅する物語。薄香ロケは2011年11月に行なわれた。
 お別れ会は、市や観光協会などが主催し、参列者が献花台に花を供えた。ロケの際に自宅を休憩所として提供した地元の木山キミさん(91)は「健さん、あなたはたくさんの愛情と宝物を残してくれました。ゆっくりお休みください」とメッセージを読み上げた。
 映画の中で、高倉さんが亡き妻の遺骨を海にまくシーンでは地元の漁船「そよかぜ」が使われた。関係者がそよかぜに乗って花を海に手向けると雨脚が強くなり、ファンから「健さんの涙雨だ」との声が漏れた。
 薄香のフェリー待合所の記帳所には、この日までに約1300人が記帳。待合所にはこの日限定で、高倉さんが地元住民に贈ったマフラーや色紙などが展示された。

(2014/11/28付け西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/130039

 そして必見、とっておきの映像記録が「映画界の伝説、高倉健スペシャル」で:
http://v.youku.com/v_show/id_XNDUxODUxOTgw.html


(注1)
 イカメシの展示販売所は、大坂の阪急百貨店。
 映画では、京都に入って東寺の五重塔が映し出される。そして大坂の阪急百貨店で、健さんはイカ洗いを手伝う。
 小説では、広島の福乃屋百貨店となっている。
(NPO法人まつやま山頭火倶楽部公式WEBサイト)
http://santokaclub.blogspot.jp/2012/08/blog-post_30.html

(注2)
 イマ集英社文庫で読めます!「素敵な体験を綴る初エッセイ。第13回日本文芸大賞エッセイ賞受賞」
 単行本は1991年に出版され、文庫本になったのが1993年。20年以上たっても「20刷」のロングセラーでした。


 
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2015年01月22日

脚本家 青島武

 映画『ふしぎな岬の物語』の原作者は、1969年生まれの地球人、森沢明夫さん、ですかぁ〜
 彼は映画『あなたへ』を原案に小説『あなたへ』を創作しておりましたよ〜ん、とヤッホー君、サイキン涙腺が弱くなってきているせいか、おいおい泣きながらついに、読了!
 森沢明夫『あなたへ』(冬幻社文庫、2012年2月25日)。
 だって、映画『あなたへ』は観に行って、ヤッホー君のこのブログ、2012年10月24日付け日記「あなたへ」で報告しているんだもん…

 2012年8月25日に公開が決まった高倉健(81)の6年ぶり主演映画『あなたへ』(監督降旗康男、1934年生まれ)が小説になった。青島武氏(50)の脚本を原案に『虹の岬の喫茶店』などで注目を集める作家森沢明夫氏(42)が書き下ろした。公開半年前の2月24日に幻冬舎から発売され、相乗効果を狙う。
 人気小説を原作に映画化されるケースは多いが、今回は脚本をベースに一冊の本に仕上げようという試み
「この物語に出合い心が動きました。人が人を思いやること、生きることの切なさを思いました」
と語る高倉の意も受けて作業が進んだ。出版にこぎつけた幻冬舎は
「脚本も素晴らしいものですが、単なるノベライズではなく、オリジナル小説として読んでほしい」と話している。

 『あなたへ』は、高倉主演の『あ・うん』(1989年)などをプロデュースした故市古聖智氏(1940-2008)が残した構想を、『ツレがうつになりまして』などで知られる青島氏が脚本化。「遺骨を故郷の海にまいて」と遺言した妻の願いをかなえるため、富山刑務所で作業技官として働く主人公が、長崎まで1200キロの車の旅に出るロードムービーだ。ビートたけし(65)やSMAP草なぎ剛(37)らの出演も話題を呼んでいる。

 小説化を持ちかけたのは東宝サイド。幻冬舎は『虹の岬の喫茶店』や昨年映画化された小説『津軽百年食堂』などで注目される森沢氏に依頼。快諾した森沢氏は自らレンタカーを駆って昨年2011年9月の富山ロケから撮影現場を巡り、登場人物のディテールを肉付けしていった。
「映画の尺ではどうしても表現しきれない部分を、小説ではできるだけ丁寧にすくいとっていこうと思いました」と語り
「読了後に、自分の一番大切な人のことを思い浮かべてみてくれたらうれしい」と話している。

(2012年2月22日6:00付けスポニチ「高倉健主演『あなたへ』脚本ベースに小説化」)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/02/22/kiji/K20120222002680720.html

 森沢明夫さんによる「ノベライズ」ですかぁ〜、映画の脚本は、青島武さんでしたかぁ〜

 シノプシスでは目的地の島へ行ってからのドラマが核になっていたが、降旗監督は、
「妻の骨を散骨しにいくだけでいいんじゃないか」と発想し、映画はここからロードムービーへと大きく舵(かじ)を切ることになった。さらに降旗監督は、道中のアクションシーンも捨て去ることを提案。つまり最初のシノプシスから“動”的なドラマをそぎ落とし、主人公の妻への思いだけが全編を貫く、一風変わった高倉健映画に変化したのである。
 
 それによってどんな作品が誕生したかと言えば、映画が持つ味わいはやわらかく温かい。これまでの高倉は過去に縛られて、そのことが強固なライフスタイルに結びついているストイックなキャラクターを演じてきたが、ここでの彼は妻の真意を読み取れず、旅の間も迷い続ける今を生きる男だ。降旗監督は、
「旅をしていろんな人と出会うことで、彼は刑務所という法律や秩序の中で生きてきた自分から解放される。そんな映画になればと思った」と言ってくれたが、それは監督が、
「もう少し過去の高倉健のイメージにこだわらず、肩の力を抜いて今の自分で演じてもいいんじゃないですか」と高倉に語りかけているような気もする。そういう意味でこれは、降旗&高倉コンビが今を生きていく人間を描いた、新たな境地に入った作品だと私には感じられた。

(Myシアター、取材の現場より 独想最前線、映画ライター金澤誠(*)「高倉健主演の『あなたへ』原案は全く違うストーリーだった)
http://www.mytheater.jp/wordpress/?p=9581

 青島武さんは、2013年12月公開の映画『東京難民』の脚本も書いていました。

 本作は、学費未払いを理由に大学から除籍された青年・時枝修(中村蒼)が、ネットカフェ難民からホスト、さらにホームレスへと転落していく青春ドラマ。『ツレがうつになりまして』の監督・脚本コンビの佐々部清と青島武が、福澤徹三の小説を原作に、現代社会が抱える闇をリアルに描く。
 大学生からホスト、ホームレスに陥る主人公・修を演じた中村は、
「ネットカフェ難民など聞いたことはありましたが、どこか他人事でした。でも、この作品を通じて、自分にも有り得ることだと気付き、それからは当たり前のことにも感謝できるようになった」
と語り、映画への思いをかみしめた。

(2014年2月22日シネマトゥデイ「中村蒼ら『東京難民』チーム、全員で名曲『お世話になりました』を合唱!」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0060750

 名曲『お世話になりました』ってこれ、1971(昭和46)年のJポップなんですかねぇ〜:
https://www.youtube.com/watch?v=9oj9RH5bioQ

 映画『東京難民』の予告編はこちら:
https://www.youtube.com/watch?v=GGOVbFGr908

 公式サイトもあります:
http://tokyo-nanmin.com/


 公式サイトには、「東京難民にならないための5ヶ条」もあります、必読です:

 何も努力をしなければ少しずつ堕ちていく、ということはこの社会の真実であるように思います。
 それは変えることのできない必然なのだと思ってます。
 水の中でバタ足を止めたら沈んでしまうのと同じ。
 どんな人も、生きていくためには一定の努力は必要です。
 というと、とても生きづらい世の中のように思いますが、そうではありません。
 「堕ちないようにする努力」は、ちょっとしたことなのです。
 そのちょっとしたことを日々意識しているか、それが道を分けると思います。
 そして、すべてを失うまえに、自分の身は自分で守らねばならないという事実に気づくべきです。
 なによりも、それが最初の一歩かもしれません。


 詳しくはぜひ全文お読みになって、試行、実行、実践してみましょう、皆んないっしょになって!
 主題歌は、高橋優でした、「旅人」:
https://www.youtube.com/watch?v=Ttu1P72gzjY

 映画『あなたへ』の主題歌は、「星めぐりの歌」(作詞作曲:宮沢賢治、歌:田中裕子):
https://www.youtube.com/watch?v=MrxKW5fTBig



(*)
 金澤誠は1961年、青森県出身。著書に『徳間康快 夢を背負って、坂道をのぼり続けた男』(文化通信社、2010年)。木村大作との共著に『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像』(キネマ旬報社、2009年6月)。
 なお、木村大作監督作品には、『劔岳 点の記』(2008年)『春を背負って』(2014年)がある。いずれも山岳映画!
http://www.haruseotte.jp/director.html



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2015年01月21日

東大紛争

 鋸南町に映画『ふしぎな岬の物語』の舞台となった喫茶店があって、ロケ地を巡る日帰りバスツアーまであるって、ですかぁ〜
 原作者は1969年生まれの地球人、森沢明夫さん、ですかぁ〜
 1969年、ですかぁ〜
 というと1969年1月18日〜19日の安田講堂を思い出すヤッホー君:
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030091_00000

 削除される前に残しておこぉ〜っと:

 東大紛争の知られざる記録は、当時の教授の自宅に残されていました。
 10年前に亡くなった、植村泰忠さん。
 東京大学理学部の物理学の教授でした。
 その倉庫に、東大紛争の収拾に当たった教授たちの、原稿用紙600枚にわたる証言記録が、保管されていたのです。
 植村泰佳さん:
「みなさん生きている間は、公開できないものだからと言われていました。父たちにとっては、決して本意ではない結果になったことの反省も含めて、記録を残しておこうということだったので、いつか、歴史の検証をしてもらうために、座談会をやったんだと思う」…

 そして1969年1月。
 執行部の要請で出動した機動隊は、安田講堂を制圧し、学生を排除しました。
 しかし、これによって入試は実施できるという執行部の考えは、国に受け入れられていたわけではありませんでした。
 まさにこの日、執行部は文部省の幹部から、入試の中止を強く迫られたのです。
 大内力教授:
「会談したら、“政府与党の反対が非常に強くて、まず入試を復活させることは絶望だ”ということを(文部省が)言ったのです」
 結局、執行部は、文部省に押し切られる形で、入試の中止に追い込まれました。
 さらに紛争の解決を、機動隊に委ねたことで、それまで守ってきた大学の自治を、大きく変質させる結果となったのです。
 元文部大臣で、当時、佐藤総理の側近として、紛争の経過を間近で見ていた奥野誠亮さん100歳です。東大の入試の中止は、国の主導によるものだったと証言しました…

 座談会の中で、ただ一人、加藤総長代行に、なぜ入試の中止を受け入れたのか、その姿勢をただしていました。執行部の一人、法学部の坂本義和教授です。
 私たちは唯一存命の、坂本義和さんを取材することができました。病床に就いているため、カメラでのインタビューはできませんでしたが、思いを語ってくれました。
 坂本義和さん:
「大学入試は、大学が決めることで、文部省に指図されることではなかったはずです。紛争は解決しましたが、国家に対する“大学の自治”の意味は、大きく変わってしまいました」
 そして坂本さんは、当時学生たちとの対話によって、紛争を解決できなかったことへの後悔を語りました。
 坂本義和さん:
「あのときの学生たちの一部は“高度経済成長は何のためだ”“なぜ大学で学ぶのか”と問いかけていました。しかし私たちは、ろくな答えを持っていませんでした。彼らの問いかけは、時代が大きな転換点を迎えている現代でも、絶えず問われなくてはいけない問題なんです」

【ゲスト松本健一さん(麗澤大学教授)】
●東大紛争の学生たちと同世代 資料を読んでどんな印象?
 この資料の意味というのは、まず日本の戦争のときにも、権力者というものは記録を残さない、少し残っている資料も、戦争に負けたときに全部燃やしてしまうということがありました。
 そしてまた3.11の大震災のあとの、政府対応のあとでも、閣議決定とかですね、復興構想会議の資料というものは、基本的に残っていないということですね。
 どういう決断を、誰がして、それがどういう失敗であったかということを、日本の権力構造というのは、しないような形で、資料を残さないような形だったんですね。
 ところが、この大学紛争も、たぶんそうだろうと私は想像していましたら、45年たって、こういう新しい資料が出てきたと…

 学生がそういう行動を起こすのは、学生が自分たちの職業を選ぶために、医師になるために医学部に行くと、あるいは弁護士になるために法学部に行くと、そういう形だけでいいのだろうか。
 もっと言いますと、先ほど、高度成長ということばがありましたけれども、高度成長の時代に、一人ひとりがみんな産業戦士になって、これでまあ、日本を支えていったわけですけれども、果たして、それが学校で、大学でやる学問の根底なのかと。
 自分の職業を選ぶことの問題なのかと。
 そうじゃなくて、大学の自治とか、あるいはなんのために学問をするのかとか、そしてそれは、その当時の教えられ方とすると、自己実現のため、自分の職業のためといわれてましたけども、明治の時代とか、あるいは中国の伝統的な学校というのは、学問をするのは自己実現ではなくて、社会に奉仕するためであると、社会をこういう方向に導いていったらいいという、そういう歴史的な蓄積、現実の直視というものがあって、学問をするんだということですね。
 なんのために学問をするのかというふうなことが、ちょうど東京オリンピックをして、大阪万博がある、高度成長にいる、万々歳で世の中は進んでいくように見えた、職業もみんな誰も好きなところにいけたというふうに言っているけれども、実際にそれだけでいいのか。
 産学共同路線ということばがあったんですけどね、そういうふうに産業界の要請する人間をつくるのが、大学の役割なのかという疑問というか、自問みたいなものがそれはみんなにあったと思いますね。

(2014年1月30日(木)放送「クローズアップ現代」東大紛争秘録〜45年目の真実〜)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3461_all.html

 「削除される前に残しておこぉ〜」っとヤッホー君が思ったのも無理はないと思います。
 だってこの放送、昨年2014年1月30日(木)のわずか5日前に、あべさまのあのお方が送り込まれたのですから:

 2014年1月25日の就任から半年を迎えるNHKの籾井勝人会長(71)が2014年7月23日、毎日新聞のインタビューに応じた。籾井会長は放送法の改正により、3年以内にインターネットを通じて、パソコンやスマートフォンでも放送と同時に番組を見られるようにする「同時再送信」を実現し、ネット視聴者からも受信料を徴収する意向を明らかにした。
 籾井会長は就任時から「放送と通信の融合」については前向きな姿勢を示しているが、具体的な年限を示したのは初めて。「欧州各国ですでに導入されている以上、東京五輪に向けて実現を急ぐ必要がある」との認識を示し、テレビ視聴者との公平性の観点から、「受信料制度の見直しが必要」と述べた。
 就任時の会見で「政府が『右』と言うものを『左』と言うわけにはいかない」などの発言が視聴者の不信を招いた。この半年を振り返り「一度もやめようと思ったことはない。一回引き受けたら全うするのが男の本懐」と意欲を見せた。就任時に明らかにした自身の考えについては「変えていない」と述べたが、「放送に反映させることはない」と話した。

(2014年07月24日付け毎日新聞・望月麻紀記者「籾井NHK会長:ネット視聴で受信料 3年以内、徴収意向」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140724ddm002020101000c.html

 この不安倍増さま人事って、「九州人脈」って話もあるようでして、やっぱり明治以来かぁ〜

 葛西氏も古森氏も安倍氏のブレーンだ。
 葛西敬之(JR東海会長)氏は、JR東海の副会長だった部下・松本正之氏がNHK会長に就任するのに力を貸した財界人だが、NHK会長に就任した松本氏が要望を聞かなかったことで「松本おろし」を画策したと週刊誌などで報道されている。
 また古森重隆(富士フイルムホールディングス会長)氏は、安倍首相ともきわめて親しい前NHK経営委員長だ。つまり、安倍首相はNHKのトップ人事に深いかかわりがある2人との会合で「籾井勝人NHK会長」を了承、事実上、ここで人事が決まったものとみられている。
 NHKの会長人事を長年取材してきたベテラン新聞記者は「政権がNHK会長人事にこれほど直接的に露骨に介入したことはかつてない。日本のジャーナリズムの危機だ」と懸念を露わにする。
 籾井勝人「新会長」が、テレビというものの本質を理解せずに、「素人」の浅はかな『不偏不党』を部下に指示するようになったら、NHKの報道やドキュメンタリーは死んでしまう。

(2013年12月21日1時12分水島宏明・法政大学教授・元日本テレビNNNドキュメントディレクター「籾井勝人“新会長”で進む“安倍さまのNHK”。最初の記者会見では“不偏不党”を強調して釘を刺す」)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20131221-00030851/


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2015年01月20日

通常国会では首相所信表明演説が省略!

 この国の独裁者か元首についにおなりになったばか殿は好き勝手やりたい放題、こんなことも指示、指令できるんだそうでして。
 ほかはじっぱひとからげ、それに気づかず、誰もなんも文句も言わないし、言えない政治屋集団に茶坊主、マスゴミ、ついにここまで劣化してきているのですかぁ、とヤッホー君、へたり込んでいます:

 (来週の1月26日月曜日)召集の通常国会を巡って1月16日、与野党の駆け引きが始まった。2014年度補正予算案の早期成立を目指す与党側は、安倍晋三首相の所信表明演説を省略して予算審議に入りたい考えだが、選挙直後は首相が演説を行うのが恒例で、野党は反発している。
 与党は1月16日の衆院議院運営委員会の理事会で、召集日に麻生太郎財務相が財政演説を行うと提案し、野党もいったん同意した。与党はこれを盾に「首相演説は2015年度予算案の提出後だ」と説明するが、民主党などは「所信表明をしないとは決めていない」と反発。1月21日の理事会で改めて要求する方向だ。
 所信表明を省略すれば、補正予算案の成立は2日程度早まる可能性がある。与党国対幹部は「民主党は代表選で忙しくて『所信なし』に気付かなかった」と語り、強行突破も辞さない構えだ。
 衆院事務局によると、総選挙後の政府演説で首相が登壇しなかった例は過去にない

(2015年1月17日付け毎日新聞「通常国会:首相所信表明『なし』も。野党、うっかり?同意」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150117ddm005010040000c.html

 で、本人はかあちゃんや、政商、お伴を従えて、大好きな飛行機にただ乗り、また海の外へ。
 どこに行っているのかってヤッホー君知ってびっくり、びっくり!
 あのイスラエルでした(注1)!
 オバマから頼まれたのか、オバマとこの5月の連休、ゴルフをしたいがため、自らかってでたのか、「言論の自由」(と言いながら衆院選で報道各局に要請状をだし)(注2)、「テロリストとの戦い」(と言いながら歴史を歪曲しようとする)を口実にわれわれの税金をばらまいてくる(と言いながら国内では貧者から税を巻き上げる)、いやぁ〜、困ったもんです:

 「日イスラエル首脳、テロ対策連携 会談で確認、仏事件”断固非難”。仏テロ事件に安倍首相は”卑劣なテロはいかなる理由があっても許されず、断固として非難したい”」。
 イスラム社会が如何に傷つけられた気持ちを持っているか、この首相には全く理解がない。米国とイスラエルの機嫌取ればよい位か。

(1月18日孫崎享)

 テロ:「テロはいかなる理由があれ許されず断固非難」とのたまう安倍首相は「中東等のテロ行為前に、西側諸国が空爆や無人機殺害や軍事行動でどれだけ多くの一般市民を殺してきたか」を知っているだろうか。まあ知らないでしょうね。そして中東を訪問し得意げに話しする。そして金をばらまいてくる。
(1月19日孫崎享)

 国際刑事裁判所は今いま、昨年夏のイスラエルのガザ侵攻で見られた攻撃の応酬について、パレスチナ(ハマス)とイスラエルの双方の戦争犯罪を訴追しようとしている。
 パレスチナ(ハマス)はこれに応じ、刺し違えてでもイスラエルを訴追しようとしている。
 ところがネタニヤフ首相は、国際法を最高水準で従ってきたイスラエルを訴追しようなどとは、ばかげている、などと、ふざけたことを言って、一蹴している。
 中東和平実現に積極的外交をすると公言した安倍首相だ。
 ネタニヤフ首相との会談で、国際刑事裁判所に従え、「法と支配」を守れと、世界の前で言えるのか。
 これ以上の矛盾に満ちた厚顔な安倍首相の中東外遊はない

(1月19日天木直人)

 日中、戦後70年の年に入った日本外交の最優先課題だ。
 しかし、いよいよその年に入ったというのに、日中、日韓関係改善の糸口さえ見えず、首脳会談の目途が立たず、みずからその努力をしようともしない。
 その一方で、およそ安倍首相のこれまでの政治人生の中で無縁であった中東の地で、誰が見ても心に響かないようなとってつけた言動を繰り返す。
 日本外交を貶める自分だけがよければというパフォーマンスだ。
 そんな振付に忙しい外務官僚は先輩たちに対して恥ずかしいと思わないのか。
 なぜメディアは安倍外交の間違いに一言も触れないのか

(1月20日天木直人)

 あのシャルリー・エブド!

 世界のあらゆる権力や権威を風刺画を通し批判する立場を貫いているのか?
 彼らは【反ムハンマド】【反イスラム教】と同じ熱心さで、昨年7月のイスラエル軍による2000人のガザ住民を無差別に殺した大虐殺を非難する風刺画を掲載したのか?
 彼らは【反ムハンマド】や【反イスラム教】と同じ頻度で、【反キリスト】や【反キリスト教】、【反イスラエル】や【反ユダヤ教】の風刺画を掲載しているのか?
 ロスチャイルド国際金融資本マフィアとネオコン・シオニスト戦争派たちは、『諸悪の根源が自分たちの【金融支配】と【軍事暴力支配】であること』が世界規模で暴露され民衆の怒りが自分たちに向けられたきている危機的な状況を逆転させるために、【偽りの2極】(【イスラム教】vs【キリスト教】、【イスラム文明】vs【欧米文明】)をでっち上げて対立させる構図をさまざまな形で仕掛け実行してきた。
 【シャルリー・エブド】がムハンマドを侮辱し全世界のイスラム教徒を激怒させた結果、イスラム過激派が報復の襲撃をしたことは明かだろう。
 今回の襲撃事件でその対立が一気に衝突まで拡大したことは、彼らが意図してきたことが実現したということなのだ。

(2015-01-19 18:32:25 杉並からの情報発信「われわれは今回意図的に仕掛けられた『偽装2極対立=【イスラム教】vs【キリスト教】』に騙されてはいけない」
http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/1d1a1dd90ec8834ca821d732e5c7e3f9?fm=rss

 この国はそのいずれにもくみしないで、国際社会 international community を平和裡に円滑に解決させる役割があるはずなのに、得意げに片一方に重心を移してみせかけだけの円・縁パワーを見せつけ、<戦争と滅亡の道>に進みでようとするのかな。
 それが彼の2015年の年頭にあたっての所信表明であるとすれば、それは彼だけの「妄想」であって、すくなくともヤッホー君は、ちっとも賛同できないということでした、ぷん、ぷん。
 だってぇヤッホー君、美しい日本、その山と自然を愛し、人と生き物を愛し、酒といで湯を愛しているんだもんexclamation×2
 マスゴミもしかり、もう大本営発表の拡散、垂れ流し、しかできないじゃないかというご指摘、ごもっともで:

The culpability of the Western media in lies, death, and destruction is extreme. Consider the Malaysian airliner that went down in Ukraine. The US, UK, EU, and the puppet government in Kiev blamed Russia and forces of the breakaway eastern province for shooting down the civilian airliner. An investigation was convened. It has been six months since the investigation was convened, and the results have not been released.

Clearly, if the investigation supported the Western propaganda, the results would have been released. We can safely conclude that the investigation does not support the West’s propaganda. There has not been one word from the Western media demanding the results of the investigation. The world has forgotten it, but the world remembers the loudly shouted propaganda, and the conclusion, unsupported by any evidence, is that Russia is guilty.

The Western media works the same way when it reports Charlie Hebdo.

(January 17, 2015, Charlie Hebdo: Report from Europe, Paul Craig Roberts)
http://www.paulcraigroberts.org/2015/01/17/charlie-hebdo-report-europe/

 

(注1)
The Guardian, Tuesday 20 January 2015 08.16 GMT

Latest Islamic State video threatens lives of two Japanese hostages

Militants demand $200m ransom for release of hostages named as Kenji Goto Jogo and Huruna Yukawa
(Shiv Malik)
http://www.theguardian.com/world/2015/jan/20/islamic-state-video-japanese-hostages-jihadi-john

イブラヒーム・マハラブ首相閣下、
日エジプト経済合同委員会の皆様、
ご列席の皆様、
 アッサラーム・アレイクム・ジャミーアン(皆さん、こんにちは)…
4.日本の約束
 イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します
 シュクラン・ジャジーラン(有り難うございました)

(安倍総理大臣の中東政策スピーチ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me1/eg/page24_000392.html

(注2)
Japan’s foreign ministry requested that McGraw-Hill delete a passage containing a reference to comfort women from a text on world history used by high schools in California. The passage says that Japan’s imperial army “forcibly recruited, conscripted and dragooned as many as 200,000 women aged 14 to 20” to serve in military brothels.

But at a meeting with officials from the Japanese consulate in New York, McGraw-Hill refused to change the passage, saying it was “based on historical facts,” according to the Sankei Shimbun.
http://www.theguardian.com/world/2015/jan/15/japan-urges-us-publisher-delete-references-comfort-women




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音楽と珈琲の店 岬

 鋸南町、鋸南町…
 今日1月20日火曜日「大寒」でも暖ったか千葉県、鋸南町…
 ヤッホー君のこのブログ、昨年2014年11月1日付け日記「ふしぎな岬の物語」をお読みください。

 JR千葉支社は来年2015年2、3月、モントリオール世界映画祭で審査員特別賞を含む2冠に輝いた映画『ふしぎな岬の物語』のロケ地を巡る日帰りバスツアーを開催する。舞台となった鋸南町の喫茶店「音楽と珈琲の店 岬」など南房総地域を訪れ、映画の世界観を堪能してもらう。あす12月5日から申し込みを受け付ける。
 女優の吉永小百合さんが企画・主演した同作は、のどかな岬のカフェで繰り広げられる店主と客たちの交流を描く。南房総地域を中心に大多喜町、千葉市など県内6市町で撮影された。
 バスツアーの出発地は富浦駅。道の駅「和田浦WA・O!」で映画に登場する鯨みこしを見学。続いて「館山ファミリーパーク」で、結婚式のシーンを彩った10万株のポピー畑を散策する。ツアーの締めは喫茶店「岬」。吉永さんも味わったコーヒーを堪能できる。同支社担当者は「映画をきっかけに、多くの人に千葉の魅力を感じてもらえれば」と話している。

(2014年12月4日15:25更新、千葉日報ウエブ「ロケ地巡る日帰り旅:来春JRがバスツアー、喫茶「岬」やポピー畑『ふしぎな岬の物語』」)
http://www.chibanippo.co.jp/news/economics/228262

 ね、山歩クラブがこの間の日曜日に歩いた鋸南町、スイセンだけではないのです。
 あの吉永小百合、自ら豆をひいて煎れていたコーヒーのかぐわしい匂いのする、あの喫茶店、あったのですよ:

 2014年10月11日に公開される映画『ふしぎな岬の物語』は、吉永小百合さんにとって初めて企画からかかわった大切な作品です。その原作のモチーフとなった、房総半島にある喫茶店を訪ねました。
 人と人のつながりが希薄になりつつある時代、日本を代表する女優・吉永小百合さんが初のプロデューサーとして世に送り出すのは、映画『ふしぎな岬の物語』。人との出会いや温もりが、明日への希望につながるような味わい深い作品です。
 青い海に抱かれた岬の先端にある小さなカフェ。吉永さん演じる店主の悦子とカフェに集う人びとの何げない日常、そしてそれぞれの人生に起こるちょっとしたドラマを丁寧に描くこの映画は、実在の喫茶店から想を得た小説『虹の岬の喫茶店』が原作です。映画のロケは、実際にその喫茶店がある岬で行われたと聞き、さっそく現地に出かけました…
 想像していた以上に素朴でかわいらしい佇まいに感激していると、迎えてくれたのは、ここで36年前から店を営む玉木節子さん。年末年始も、台風の日も休むことなく、鋸山の湧き水で入れるおいしいコーヒーと店外にも設置してあるスピーカーから流れる音楽で、訪れる人々を癒やしてきました。
 節子さんのおいしいコーヒーを飲んで、「明日から、また頑張ります」というお客さんも!
「45、6年前、両親がここで食堂を始めたので、週末はいつも手伝いに来ていたのね」
 当時、東京・吉祥寺に住んでいた節子さんは、ヤマハで楽器を販売する仕事をしていました。
「そのうち食堂がものすごく忙しくなり、この美しい自然に囲まれて暮らすのもいいなと思って、仕事を辞め移ってきました。そしたら器用な父が、『隣で喫茶店でもやれば』って店を建ててくれたんですよ」
 若いころから、ジャズ、クラシック、シャンソン、ポップス……ジャンルを問わず音楽が大好きだった節子さんは、海を眺めながら音楽とコーヒーを楽しめる「岬」を開業。以来、年中無休で店を開けてきました。
「久しぶりに来た人でも、曲をリクエストして音楽の話をしたことがあれば、絶対覚えています。『ビートルズとコーヒーください』なんていうお客さんも来るのよ(笑)」…
「店が燃えたときも、この仕事を辞めようとは思わなかった。岬に車を停め、火事のことを知らないで訪ねてくる人に、ポットに入れた湧き水で一杯ずつドリップしたコーヒーをお出ししていたんですよ。遠方からわざわざ来る方が多いので」…
「そういう一つひとつの出会いに感動できるから、私もまた頑張れるの。今回の映画化は、その中でも最高の感動でした。まるで奇跡のよう」
 映画はあくまでもフィクションですが、「岬」があって節子さんがいるからこそ物語が生まれたのは、紛れもない事実。映画を見たら、きっと一度訪ねてみたくなりますよ。

(雑誌『毎日が発見』所収、身吉永小百合さんが作りたかった映画『ふしぎな岬の物語』のロケ地を訪ねて)
http://www.mainichigahakken.net/4333.html/2

 原作はイマ、「幻冬舎文庫」で読むことができます。
 ランチに出た後、ぜひお近くの本屋さんでどうぞ。森沢明夫『虹の岬の喫茶店』!

 動画で『ふしぎな岬の物語』(出演:吉永小百合・阿部寛・竹内結子・笑福亭鶴瓶ほか)をふりかえりましょうか: 
https://www.youtube.com/watch?v=NFpqrsJBqWw

 竹内結子×吉永小百合による『ふしぎな岬の物語』の撮影裏話を語る音声もあります:
https://www.youtube.com/watch?v=WCtHaA0PzAI

 ヤッホー君は<宇宙人>、しかし…「国益の前に星益だよねと思う地球人」がおられました。
 そうなんです、原作者の森沢明夫さん(1969年千葉県生まれ)。
 2015年1月14日18時37分、ご自身の公式ブログでこんな感想を(注):

 うは〜!
 嬉しい〜!!!\(^O^)/
 第38回 日本アカデミー賞におきまして、映画『ふしぎな岬の物語』がナント、最多の13部門で優秀賞に選ばれました〜!

(森沢明夫の公式ブログ「あおぞら落書帳」)
http://blogs.yahoo.co.jp/osakana920/70063099.html

 明鐘岬にある喫茶店「岬」には、元名の生き字引・山崎源治さんが写した虹の写真が飾られている。南側から見た鋸山の尾根に、縦に虹が架かる。その尾根が東京湾に落ちる場所に、この喫茶店はある。
 その「岬」を経営して35年となるのが、玉木節子さんだ。電話は富津市金谷の市外局番だが、所在地は鋸南町元名1番地。由緒正しい、大字元名の第一番なのである。…
 もっとも強力な「岬」ファンが小説家の森沢明夫さんだろう。7年前、別の取材でやって来たのが最初。その後、ひとりで訪れ「いつかこの岬と店を小説にしたい」と、玉木さんが鋸山の湧き水で淹(い)れたコーヒーをおいしそうに飲んで帰っていった。
 それから5年。森沢さんの小説『虹の岬の喫茶店』が世に出た。小説では名もない岬の喫茶店だが、一度でもこの店を訪れたことがある人なら、すぐに明鐘岬の玉木さんの店だと分かる。オートバイで訪れた大学生は森沢さん。読者の誰もがそんな想像を重ねる。音楽とコーヒーの店。トンネル北側にある入りにくい店。森沢さんは軽快な筆致で、岬を舞台に物語をつむいだ。
 反響は大きかった。小説を読んで訪れる客が相次ぐ。小説を読んで懐かしくなり、30年ぶりにやって来た客もいる。小説は韓国語にも翻訳され、先日は韓国からはるばる訪れた夫婦もいた。

(2013年4月27日付け房日新聞[ザ・鋸山]file47【人物編】喫茶店「岬」経営して35年)
http://www.bonichi.com/Guide/item.htm?cid=1&iid=1403&TXSID=1fb84717ec0ac45358aa0b09



(注)
2015年1月14日、第38回日本アカデミー賞の優秀賞発表記者会見が港区のグランドプリンスホテル新高輪で行われ、吉永小百合主演の映画『ふしぎな岬の物語』が最多13部門で優秀賞を受賞した。各部門の最優秀賞は、2月27日に行われる授賞式で発表される。
(2015年1月14日14時54分投稿、シネマトゥディ「日本アカデミー賞優秀賞発表!吉永小百合主演作が最多13部門」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0069732


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2015年01月19日

房州低名山

 鋸南町、鋸南町…
 ヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの日記をお読みください:
 ☆ 2011年12月14日「水仙の嵯峨山316m」
 ☆ 2012年2月19日「房州アルプス」
 ☆ 2014年3月11日「河津桜は頼朝桜」
 そうなんです、毎年お邪魔しています、暖ったか千葉県!
 そして昨日の津森山はムカシからの信仰のお山:

木花開耶姫命.jpg

 西尾根は「富士山展望台」と名付けられ、鋸南町周辺の山々が良く見える。そのまま尾根を行くと、木花開耶姫命、御嶽大神、金比羅宮の3つの石宮が並ぶピークになる。これが津森山の中心部である
 津森山は鋸南町・富津市・鴨川市の三境で、郡界尾根の八丁山とは、長狭街道を隔てて対峙する位置になる。

(2010年5月2日付け房日新聞[房総分水嶺]久留里から布良まで 房総分水嶺 半島の背骨を歩く[第28回]津森山へ)
http://www.bonichi.com/Guide/item.htm?cid=c&iid=683&TXSID=1jm8njqmji2quer0trupe7t3t3

 この「八丁山」308mって三角形のおむすびの格好をしたお山なのかな…
 昨日のお山歩の間、ずう〜っと気になっていたのでした。
 以下の記述は山歩クラブと上り、下りが逆になっていますがご参考まで:

 「津守山336メートル」の看板がかかる。ここを斜め上に上がれば、山頂である。
 きれいに草が刈られた道を進むと、またも視界が開ける。今度は御殿山から鷹取山、宝篋(ほうきょう)山、大日山の4峰の連なりが広がる。一番左のおっぱいのような豊胸が御殿山、その次の次のペチャパイが宝篋山だ。豊胸が御殿で、豊頬でない方が宝篋。禅問答のようである。三浦半島もよく見え、俯瞰で城ヶ島が見える。内房の海岸線沿いからだと、平坦な島にしか見えないが、俯瞰だとまた趣きが違う。
 頂上への最後のアタックは急登であるが、距離的には短い。山頂(336メートル)には3つの石碑があって、左から御獄大神、木花開金比羅神社。中央の木花開耶姫命は、身の潔白を証明するため、火の中で3人の子どもを生んだという。いずれも山岳信仰に関連する石碑である。この3石碑に頭を垂れる。
 頂上まで、車を降りてから1時間15分。山頂の北側からは鹿野山、富津火力の煙突、東京湾観音も見える。杉が植栽されていてパノラマとはいかないが、一部伐採されていて、北側への眺めはいい。鴨川の海まで見え、鴨川グランドタワーが屹立しているのが分かる。
 小休止して下山。階段状に整備された道を下る。
 登山口の酪農家を右にみて、そのまま左へコンクリ道を下る。この道が鋸南町と鴨川市の市町境になっていて、左に折れると法明の集落。鋸南町水道の受水槽があり、その先に切割があるので、ここを西に下る。切割は地元の人が手彫りで開いた道。その後、機械で広げられたが、山肌には力強さが感じられる。
 ここから先は人骨山へのアタックになる。
 ちなみに津森山は富津、鴨川、鋸南の3市町の境界に位置する。安房・上総の国境でもある。その昔、国境を決めるとき、見積もりをした。それで「つもり山」という。現地の標識は「津守山」だが、国土地理院は「津森山」を採用している。

(2005年2月5日登山2012年12月25日投稿「(南房総市が運営するサイト)南房総いいとこどり」房州低名山(ぼうしゅうひくめいざん)国境見積もる信仰の山)
http://www.mboso-etoko.jp/cgi-bin/co_kaniHP/news/open/disp_A.asp?id=2041&uid=3242

 東京湾に注ぐ佐久間川とその上流域に広がる大崩の山里は、飲み水や農耕の水涸れに悩まされつづけていた。それを解消するために、佐久間川を塞き止めて県営の佐久間ダムを造った。
 地元鋸南町の人々は、湖水周辺は地元民の力で整備しようと“佐久間ダム湖観光生産管理組合”を結成し、山の斜面や棚田の土手を利用して水仙の栽培をすすめ、およそ十年をかけて”水仙の郷”をつくった。
 人が呼べるようになったので、湖畔に早咲きの桜を植え、頼朝桜からしだれ桜、八重桜とつづけ、新芽の美しさと秋にそなえて山楓を何百株も植えつけた。
 湖面が一望できる高台に展望台も設けた。眺望百選にも入った。
 「新長尾橋」の手前に駐車場とトイレを造り、「農村交流センター」と案内所を開設し、橋の先、左側に水道施設と調理場に東屋も建て整備した。

(2007年4月15日投稿千葉県勤労者山岳連盟所属「ふわくハイキングサークル」大崩・佐久間湖めぐり)
http://www.cwaf.jp/cyama/6-2/

 山歩クラブ13人のご一行様、津森山から下りて八雲神社、大崩バス停から佐久間ダムへとブラ〜リ、ぶらぶら歩みを続け、お昼をとった後に向かった橋が「新長尾橋」だったのでした。
 このように地元の人がたくさん歩いていらっしゃる、なじみのある「房州低名山」だったのです。

房州低名山.jpg


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2015年01月18日

津森山336m

 皆さん、こんばんは。
 今日1月18日日曜日は山歩クラブ、房総への山行日。
 お天気に恵まれ、風も穏やか。
 「海ほたる」では、朝焼けに輝く富士山、スカイツリー、そして遠く筑波山までくっきりと拝むことができました。

朝焼け.jpg

海ほたる.jpg

 「平塚入口交差点」を南に入り、皆んなで「ぼけ除け地蔵様」にしっかり手を合わせてお参りし、津森山への道を分けていきます。
 頂上先、北西にある展望地からもまだ富士山がくっきりみえております!

津森から富士.jpg

津森山.jpg

 頂上で集合写真を撮りました。
 民家の牛舎で、牛飼いのお嬢さまに生まれたばかりの子牛のご説明をしていただきました。
 お話しを聴いたあと、大崩のスイセンロードから佐久間ダムへ下りて、湖畔では、すぐそばのコーヒー店の元気なお嬢さまといっしょに昼食会。
 まだまだ山旅は終わりません。
 道の両脇にスイセンの咲いている山路を歩く、日だまり山行となりました。

 「笑楽の湯」で一風呂あびたあともまだ山旅は続きます。
 水戸黄門さまも登ったという勝山海岸脇にそびえたつ大黒山です。
 <鯨見>の特別企画でした!
 絶景かな、絶景かなの新年初歩きでございました。

 では皆さん、次回までお互い元気で、ごきげんよう!
 夕焼けに輝く富士山も添付しおきます(飛行機も)。

夕焼け.jpg



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士族

 ヤッホー君は、今日もイマのはじまりを追い求める旅をつづける途上ですが、重要な道しるべが冲方丁より示唆されていましたよね。
 「戦闘を担う武家層による政治である。その伝統は現代にも連綿と続き、政治形態のみならずさまざまな面で」(ヤッホー君のこのブログ、2015年01月13日付け日記「日本の歴史と衆院選」参照)。

 江戸末期、周縁から渕薩長土肥によるクーデターによって「明治」の世になろうとしているとき、中央政府とは異なる動きをすでにおこしておりました:

 日本における工業化の最初のにない手が武士であった、という問題を指摘したい。
 「生ける機械」になりたいという一念で海を渡った長州藩イギリス留学生にしても、藩内に組織された蘭学寮や精錬方などの教育・研究機関に入った佐賀藩の技術者にしても、若手の武士であった。
 士農工商の身分が固定された封建の社会にあって、支配層である武士が、被支配層の職業とされた工業のにない手となるところに、日本の工業化の特色がある。

 明治維新後は、これらの「サムライ・エンジニア」はきそって工業官僚となり、さらに政治家へと変貌した。
 たとえば、長州藩の5名の留学生のうち、伊藤博文ら3名は工部卿の役職につき、残り2名も鉄道と造幣の高級官僚となった。
 やがて彼らは政界のリーダーとなるが、その出発点が「生ける機械」であったということは、イギリスの政治家がオックスブリッジ出身の教養人であったことと対照的である。

 工業官僚は、工業人材を養成するための官立学校を組織した。そこにもまたサムライが蝟集した。
 たとえば工部大学校では、1879(明治12)年に第一回卒業生23名を出し、そのうちの成績優秀者(第一等及第)11名をイギリスに官費留学させたが、志田林三郎を除く10名は士族であった。その志田は、佐賀支藩である小城藩多久のマンジュウ屋の息子であったが、幼少の時より神堂のほまれ高く、特例をもって郷校に入り、佐賀藩主のはからいで藩費をもって東京に遊学した、武士あつかいをされた人材である。

…三好信浩『明治のエンジニア教育』(中公新書、1983年)195-196頁

 へ〜、「生ける機械」ねぇ〜、どれ、どれ:

 映画『長州ファイブ』(2007年公開)予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=CgVxhaHUwGk

 『長州ファイブ』
https://www.youtube.com/watch?v=8gUzdradz44

 『長州ファイブ』が注目され、2006年5月に山口大学に記念碑が建てられた。
 長州ファイブとは、幕末の1863年に国禁を犯してイギリスに密航した長州藩士、井上馨、山尾庸三、井上勝、伊藤博文、遠藤謹助の5人だ。英国では、日本から留学したこの若き志士たちが、帰国後の明治維新政府の要職を担い、日本の発展の基礎作りに大活躍したことを称え、1993年に留学先のロンドン大学ユニバシティ・カレッジの中庭に記念碑を建設している。
 ノーベル賞を貰った後に文化勲章を授与される例の如く、海外での評価が先であるのは寂しいが、山尾庸三や工部大学校教頭のヘンリー・ダイアーなど、もっと正当に評価されることを望みたい。 

 井上馨は強く密航を望み、山尾庸三、井上勝の3人の密航計画を、幹部の周布政之助が支援して藩の黙認するところとなった。横浜から密航する直前に伊藤博文、遠藤謹助が加わり、英国商館の手引きにより上海経由でロンドンに向かった。渡航費用は横浜の貿易商より調達し、藩には「生ける器械」を買ったと思って勘弁してほしいと手紙を出した。維新政府での5人の活躍と英国からの技術導入を考えれば安い買い物であったと言えよう。
 5人の若者はロンドン大学の化学教授ウイリアムソンの家に寄宿してロンドン大学で学んだ。ウイリアムソン教授は後に英国王立協会会長になる優れた学者であるが、日本から留学した5人の若者たちを親身に世話をしてくれた。英国をつぶさに見た井上馨と伊藤博文は、攘夷の無謀さを説得するために半年足らずで帰国し、政治の舞台で活躍する。
 他方、遠藤謹助は3年間、山尾庸三、井上勝は5年間英国に留まり、共に技術を学び、帰国後は英国で学んだ技術を活かして夫々の分野で活躍した。彼らは総理大臣伊藤博文や外務大臣・大蔵大臣井上馨のような目立った存在ではないが、山尾庸三は「工学の父」、井上勝は「鉄道の父」、と呼ばれている。

(2010/02ライフヴィジョン「日本科学技術の旅」君川治「工学の父、山尾庸三」)
http://www.lifev.com/mag/index.php?MENU=%93%FA%96%7B%89%C8%8Aw%8BZ%8Fp%82%CC%97%B7&DATE=100201&BACK=&CHCK=#

 あわせて2011/03付け「技術者教育の父、ヘンリー・ダイアー」もお読みください。
http://www.lifev.com/mag/index.php?MENU=%93%FA%96%7B%89%C8%8Aw%8BZ%8Fp%82%CC%97%B7&DATE=110301&BACK=&CHCK=

 なお、ヘンリー・ダイアーについてはヤッホー君も、2014年12月25日付け日記「H.ダイアー」と題して言及しておりますので、あわせてお読みくださいね!

 以上が1863年の長州ファイブですが、遅れじとばかり、薩摩も。昨年2014年これを記念するミュージアムも造られておりました:

 1865年4月、東シナ海に面した薩摩半島羽島浦(現鹿児島県いちき串木野市羽島)に一隻の洋式機帆船が姿を現します。
 それは、英国留学、視察密航の旅に出発する若き薩摩藩士19名を乗せるための密かな寄港でした。
 選抜された留学生は羽島の地に約2ヶ月間滞在し、機帆船オースタライエン号に意を決して乗り込んだのです。
 それはまさに日本の近代化を進める大きな一歩となりました。

 いちき串木野市では薩摩藩英国留学生の留学の旅と帰国後の人生についてご紹介し、彼らの功績を後世に伝えるために、2014年7月、薩摩藩英国留学生記念館を開館いたしました。
 ともすれば外の世界を見ることなく、安穏な日常に満足してしまう昨今。日本の未来を切り開き、真の幸福を追求するためには外の世界を見ることが大切であると、若き世代に伝えることができたなら幸いです。
 みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
(薩摩藩英国留学生記念館)
http://www.ssmuseum.jp/index.html

 このなかに明治政府の教育行政に大きな影響を与えた森有礼(もり・ありのり)も含まれておりました:

 留学当時、薩摩藩開成所第二等諸生。英学専修。17歳。
 留学中の1866年夏、松村淳蔵とともにロシア旅行に出かけ、「航魯紀行」という旅行記を残しています。
 イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、鮫島尚信、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵、長沢鼎とともに、アメリカの宗教家ハリスのもとへ向かいました。
 畠山・吉田・松村らがハリスのもとを去った後も、鮫島・長沢とともにハリスのもとへ留まりますが、明治元年(1868)6月ハリスの薦めによって鮫島とともに帰国の途につきました。
 帰国後は明治政府に出仕し、後には初代文部大臣を勤め、日本の教育制度の充実に力を注ぎました。
 しかし、廃刀論や契約結婚・英語教育論などにも現れる革新的な森の考えは、当時の日本では反発を生み、明治22(1889)年2月11日「大日本国憲法」発布の日、国粋主義者によって暗殺されました。享年41歳。

(薩摩藩英国留学生記念館)
http://www.ssmuseum.jp/history.html

 いやぁ〜、そのお孫さんの森有正さん(1911-1976)に学んだこともあるヤッホー君、それよりもなによりも森有正のおじいちゃんについては、次の書をお読みください!

安田寛『唱歌と十字架〜明治音楽事始め〜』(音楽之友、1993)



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2015年01月17日

忘れない、寄り添い続ける

 1995年1月17日午前5時46分から20年ですって、そうですか〜
 ヤッホー君だって世田谷区桜のアパートで出勤前の朝、テレビのスイッチを入れたとき、いきなりあの燃え盛るコーベの町、龍のように黒煙が立ちのぼるオサダクの画像が現れたのに、背筋がぞうっと凍りついた記憶がいまだに蘇ってきます。
 あんときから今日で20年ですかぁ〜…〜
 昨年2014年のこと、全国中学生人権作文コンテストの広島大会で、最優秀賞(広島法務局長賞)に輝いた盈進学園ヒューマンライツ部中学2年生の国清彩(くにきよ さや)さんの見事なすばらしい文章をかみしめたいと思います:

 私たちのクラブには、みんなが「お母さん」とお呼びする方がいる。彼女は“加藤りつこ”さん。りつこ「お母さん」と私のクラブは2012年の春、同じように、東日本大震災の被災者支援活動をしていたご縁でつながった。
 「お母さん」の本当の子どもが加藤貴光さん(注1)。彼は、19年前の阪神淡路大震災で帰らぬ人となった。当時、神戸大学法学部の2年生だった貴光さんは、就寝中、自宅マンションが倒壊した圧迫の恐怖の中で息絶えた。国連職員になって世界平和に貢献するという夢は、震災で奪われた。1月17日の寒い日だった。
 りつこさんは、助けられなかった自分を責め、貴光さんのお骨を抱いて涙が枯れるほど泣いた。床にも就かず、ご飯も食べずに。貴光さんの思い出まで枯れてしまうのが嫌で、仏花が枯れないようにと部屋には暖房も入れず、一日中仏壇の前に座り、お骨を抱いていたりつこさん。そんな姉を見て、妹さんは心配した。「このままでは病気になってしまう」
 しかし、りつこさんはテコでも動かなかった。見かねた妹さんは、りつこさんの横にただただ座り続けた。あるとき、りつこさんがふと後ろを見て、居眠りをしていた妹さんの体に触れると、随分と冷たくなっていた。「このままでは、妹が病気になってしまう」と思い、りつこさんは慌てて「暖かい部屋へ行こう。お茶を飲もう」と声をかけた…


 国清彩さんの作文、題名は『寄り添いのありかた〜「お母さん」の教え〜』です。
 昨年2014年11月27日の中国新聞朝刊に全文掲載されています。
 どんな教えだったのか、全文のなかに埋め込められ漂っているのですが、あえて言葉面だけとってみると:

 ※ 「“寄り添い”とは、その人が自ら立ち上がるまで、共にそこに…」りつこさんが私たちに教えてくれた“寄り添い”のあり方。私は、自分の言動を見つめ直した。
 ※ 「人は誰かの支えによって立ち上がることができる」「お母さん」の言葉だ。私に大きな力はないけれど、そっと人を支えることのできる人になりたい。そのために私は、いつも傷ついた人々の存在を意識し、彼らから学び、彼らにずっと寄り添うことのできるこころを育てたい。

 そう、当たり前のことなんでしょうが、絆とか繋がりとか「ことば」だけでなくって、まずは繋ごうと思う「こころ」がない限り、そして繋ごうと言動を見直し「からだ」を運ばない限り、繋がらないものですよね。
 加藤貴光さんは国連に行ったのです。

 「貴光さんの写真をいただけませんか。国連へお連れしたいんです」
 りつこさんは昨年2014年4月、広島県福山市の盈進(えいしん)高校3年で、ヒューマンライツ部の小川千尋さん(18)と箱田麻実さん(18)から電話を受けた。国連本部での「核拡散防止条約(NPT)再検討会議・第3回準備委員会」で、2人は被爆地の高校生代表として核廃絶を訴えることになった。「息子が国連本部へ行ける」。涙があふれ出た。

(2015年01月11日付け毎日新聞東京朝刊【中尾卓英】ストーリー:阪神大震災、母の20年、愛息の震災死越え)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150111ddm001040120000c.html

 盈進学園ヒューマンライツ部、箱田麻実さんは看護師、小川千尋さんは養護教諭になる目標を見つけたそうですが、OGの山本真帆さんも国連職員への夢をいだいてイマ、慶応大学の学生!
 山本真帆さんもヒロシマから、フクシマとコーベ、そして国連(注2)への道を繋げていくのに精を出していました!

 「『核と人類は共存できない』と今は確信しています」。昨年2011年3月の福島第1原発事故で放射線被害への懸念が広がる被災地を訪ね、思いを強める。
 中学2年で東京から盈進中・高(福山市)に編入。「人と関わるボランティア活動が楽しい」とヒューマンライツ部に入部した。
 ちょうど同校が広島女学院中・高沖縄尚学中・高と共同で核兵器廃絶を求める署名活動を始める時だった。原爆ドーム(広島市中区)周辺などで署名を集めた。3校が中心となり4年間で計約18万人分を国連に届けた
 署名活動を始めたころ、冒頭の言葉に迷う自分がいた。核兵器廃絶なら言えるけど、原発となると―。原発事故に心が揺れた。報道を通じ、計画的避難区域の福島県飯舘村の特別養護老人ホームに残る被爆者を知った。
 原爆投下から2日後に衛生兵として広島市内で救護活動をした大内佐市さん(82)。事故から4ヶ月後の昨年2011年7月、避難区域外の同県川俣町で対面した。2度も放射能の恐怖にさらされる人がいる事実が許せなかった。平和利用も軍事利用もない。そう感じた。
 福島で体感したことを部員で話した。会う人会う人が「誰にも同じ思いをさせたくない」と口にした。ヒロシマとフクシマの願いは一緒に思えた。

(2012年8月7日付け中国新聞朝刊「『この人』核兵器廃絶の署名集めを続ける盈進高3年、山本真帆さん)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20120807101342240_ja

 その翌年、高校3年生で千駄ヶ谷のSYD(修養団)ビルにてボランティア奨励賞 優秀賞を受賞した折り、2013年2月11日、原稿なしでこんな見事なすばらしいあいさつを:

 今日は震災から1年と11ヶ月目です。そのような日に、名誉ある賞をいただき、心から感謝申し上げます…
 私の学校は創立1904年、108年続いてきた中高一貫校です。私は中学2年から5年間、ヒューマンライツ部で活動してきました…
 ヒューマンライツ部は「手と手から―中高生として地域や国際社会の平和と人権の環を広げるために貢献する―」をテーマに活動するボランティアと調査研究を行うクラブです。
 2009〜2010年は、ホロコーストに関する手作りの絵本の制作と読み聞かせ活動を軌道にのせた年でした。地元のホロコースト記念館の大塚館長の半生を記録し、『明日へつなぐ平和のバトン―失った生命を見つめて/ホロコーストから学ぶ』を2年がかりで制作しました。現在、地域で、多くの読み聞かせの機会をいただいています。
 2011年は「福山空襲を記録する」を活動の中心にすえました。震災で「ふるさと」の大切さを実感した私たちは、地元福山の惨禍について見直すべきだと考えました。卒業生の星野由幸さんから聞き取りを行い、記録冊子にまとめ、図書館などに寄贈しました。「焼夷弾に逃げまどう母が『もうダメだ。由幸、ここで一緒に死のう』と言ったんです」という証言は衝撃的でした。
 記録することは記憶すること。「過去に学ぶ」貴重な学習の場となりました
 2011年3月11日以降「私たちはこれからも被災者とともにあります」のテーマのもと、支援活動を開始しました。放射線被害に悲しむ福島県と、津波被害が甚大だった宮城県を訪れ、交流しました。
 福島では67年前に広島で被爆し、現在人生2度目の放射線被害に苦しむ男性とそのご家族との交流でした。放射線が人々の暮らしや命を脅かしているという状況を目の当たりにしました。
 宮城では、仮設住宅を回る中で出会った50代の女性が、夫を亡くされた経験を涙ながらに語ってくださいました。この女性とはずっと手紙での交流を続けています。直筆の手紙は、被災者の直接的で切実な声です。
 私たちは失った命を見つめるとともに、生き残ったことで後ろめたさを感じている人びとの心にも目を向けなければならないと、この女性との交流を通して感じています
 毎月11日を「被災者に思いを寄せる日」として、学校全体で支援に取り組むようにしました。
 「忘れない・寄り添い続ける」ことの大切さを再確認するためです
 また、市民のみなさまの前で支援活動の報告をさせていただく機会が増え、仲間と、被災者の痛んで癒えない心を発信しました。
 「寄り添うとは、その人が自ら立ち上がることができるよう、共にそこにいるということ
 これも支援活動を通して出会った阪神大震災の被災家族の方から学んだことです。
 私は被爆地ヒロシマに暮らす人間として、核廃絶を訴え続けることが私の義務だと考えています。
 「もう誰にも自分と同じ思いをさせてはならない
 この素朴で、しかし崇高な被爆者の願いは、私たちの平和活動の原点です。
 この言葉を胸に、私たちはこれまで5年間、広島市と協力して「核廃絶署名」を行い、5年間で通算約18万筆を国連に届けてきました。
 出会った方々は口々に「中高生が来てくれることが嬉しい」と言ってくださいます。私はとっても幸せになります。
 互いに思いを共有しあう時、両者に希望が芽生え、人として対等なつながりがつくられる、そう思うからです。私たちはこれからも「声なき声」に、真摯に耳を傾け、その声から学びます
そして、地域に根ざした活動を根本に、感謝の気持ちと笑顔を忘れず、これからもずっと、地道に謙虚に仲間とともに行動し続けます。
 本日は誠にありがとうございました。

(2013年2月16日(土)更新[中高/ヒューマンライツ部]「SYD奨励賞(全国)優秀賞」受賞)
http://eishin.lekumo.biz/club/2013/02/syd-b245.html



(注1)
 震災2年前の1993年春、りつこさんは神戸大に合格した貴光さんと「子離れの旅」に出た。夙川の桜並木をめで、六甲山から港町の眺望を楽しんだ。貴光さんは大学生活や将来の夢を語った。
 別れの新大阪駅のホーム。貴光さんは新幹線の窓越しにりつこさんのコートを指さした。ポケットの中に、折りたたまれたノートの紙片が入っていた。「親愛なる母上様」で始まる息子からの初めての手紙。広島への帰途、文字をたどりながら、りつこさんはあふれ出る涙を止められなかった。

『あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく、温かく、大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
 私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること……。この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
 そして今、私は、この翼で大空へ翔(と)び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で』

(後段略、手紙はこう締めくくられていた)

『住む所は、遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。決してあなたはひとりではないのですから……。それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて』
翼のはえた“うし”より

(前掲2015年1月11日付け毎日新聞東京朝刊【中尾卓英】ストーリー:阪神大震災より)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150111ddm001040120000c.html


 聴いてください、「親愛なる母上様」翼の生えたうしより:
https://www.youtube.com/watch?v=nRIE9gZIbIw

(注2)
 第2次世界大戦後に国連が創設されてから70年に当たることし、国連は持続可能な開発目標の設定や地球温暖化対策の新たな枠組み作りなど、多くの重要な課題に取り組むことになっています。
 国連は、ことし1年を通じて創設70周年を記念するさまざまな行事に加え、世界規模の課題を協議する会議を開催する予定です。
 3月には東日本大震災の被災地の仙台でパン・ギムン(潘基文)事務総長も参加して、第3回の国連防災世界会議を開き、気候変動などの影響で増え続ける自然災害への対応を協議します。
 4月にはNPT=核拡散防止条約の5年に1度の再検討会議が国連本部で開かれ、停滞している核軍縮の進め方について、各国が合意を目指します。
 9月の国連総会では各国首脳が参加するサミットが開かれ、国連が貧困撲滅などのために2000年から掲げてきたミレニアム開発目標に代わる新たな開発目標を採択する予定です。
 そして12月には地球温暖化対策ですべての国が参加する新たな枠組み作りの合意に向けたCOP21がパリで開かれます。
 パン・ギムン事務総長は「70年の節目の年に、われわれは世界の人々の期待に応え、繁栄を共有し持続的な成長を約束しなければならない」と述べ、課題の解決に向けて国際社会の結束を呼びかけました。
(2015年1月2日4時13分『国連創設70年 多くの重要課題に取り組みへ』)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150102/k10014390351000.html


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2015年01月16日

GPIF

 『彼ら(世襲の政治屋を生業、家業とする輩)が、われわれの年金の運用方法を決め、実際に運用している。彼らの利権を確保するためだとしたら、倫理的に許されない』よなぁ〜と今日、病院で終日ためいきをついていました。
 ヤッホー君のこのブログ、昨日1月15日付け日記「この道しかない?」
 今日1月16日の東京株式市場の日経平均株価は、前日の終値と比べ244円54銭安の1万6864円16銭で取引を終えた、と言われています。
 もしカブカが経済回復のメルケル首相じゃ、ない、ない、メルクマールだとすると…
 首を傾げている元お医者さまでしたが、ほかに経済評論家も:

 12月8日、日経平均株価が一時、7年4ヶ月ぶりに1万8000円台に乗せた。円安の進行や米国の雇用情勢の改善などを材料とされていたが、市場関係者からは「不自然な買い」を指摘する声もあった。
 8日は今年7〜9月期の国内総生産(GDP)の改定値が発表された。先月の速報段階で年率換算でマイナス1.6%だったが、発表ではマイナス1.9%と下方修正された。企業の設備投資がマイナス0.2%から0.4%に、公共投資がプラス2.2%からプラス1.4%にそれぞれ下方修正されたことが響いた。
 先月の速報値段階で安倍晋三首相が消費増税の先送りと解散総選挙を表明しており、改定値への関心が薄れていたとはいえ、景気の低調さを改めて示した。
 10月21日に1万4804円だった日経平均株価は、10月31日の日銀による追加緩和とGPIF(年金積立金等管理運用独立行政法人)のポートフォリオ見直しによって、一気に上昇に弾みが付いた。わずか1ヵ月半の間に3000円、20%以上も上昇したのである。
 この上昇を支えたのは海外投資家だった
 GPIFのポートフォリオ見直しを評価したのは間違いない。GPIFが運用する130兆円あまりの投資先を、日本国債を中心とする「国内債券」60%から35%に引き下げる一方で、国内株式の割合を12%から25%に、外国株式の割合を12%から25%に、外国債券を11%から15%にそれぞれ引き上げたのである。
 なにせ130兆円にのぼる運用資産の5%分が動くだけで、6.5兆円の資金が入ってくるのだから、投資家は無視できない。
 一方で、国債を60%から35%に引き下げれば、その分、GPIFが債券を処分することになるわけだが、これはポートフォリオ見直しと同時に行われた日本銀行の追加金融緩和が“引き受ける”格好になった。つまり、GPIFが処分しても、日銀が買い増すので、国債暴落は起きないという“流れ”ができたのである。
 巨額の資金が入ってくる日本株市場を無視できない、というのが海外投資家の動きにつながった。特に短期の利益を狙うヘッジファンドが、率先して買っていたことは間違いない。
 安倍官邸の周囲にも「株高」を演出したいというムードが強くある。アベノミクスで選挙を戦う以上、株価が下落傾向にあっては戦いにならない。GPIFのポートフォリオ見直しもそうした政府の思惑と機を同じくしている、と市場関係者は感じている
 国内投資家の間で、12月に入って、「不自然さ」を指摘する声が増えている。

(2014年12月10日(水)現代ビジネス、磯山友幸(1962年東京生まれ)「GDP下方修正の日に日経平均1万8千円台、「不自然な株高」を演出しているのは誰か」)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41386

 PKOというと「国連平和維持活動」United Nations Peacekeeping Operations のことだなってすぐ分かるように刷り込まれた略語でしたが、イマは price keeping operation 「株価維持操作」って意味があるようですよ:

 昨年の株価上昇を支えたのが国民の年金マネーだったことが明らかになった
 景気が焦点になると必ずと言ってよいほど、PKOが浮上してくる。日本の金融破たんが続いた1998年頃には、当時の小渕恵三首相が青果店の店頭で「株上がれ」と言って野菜のカブを両手で持ち上げるパフォーマンスまでやってのけた。一方で、巨額の経済対策として公共事業を大幅に積み増した。その結果は、株価は上がらずに、今につながる政府の膨大な借金を生むことになった。
 2008年のリーマンショックの後にもPKOという言葉が兜町で繰り返し聞かれた。麻生太郎首相時代のことだ。麻生氏も当時過去最大の景気対策を実施して、公共事業などを拡大。国の借金を大きく膨らませたが、株価はその後、低迷を続けた。
 安倍内閣は、歴代の中でも株価に敏感な内閣だ。アベノミクスによって株価が上昇し、高額品消費などに火が付いた「成功体験」を内閣発足直後に経験したことが大きいのだろう。量的緩和や公共事業の積み増しが限界に来るなかで、130兆円という巨額の資産を持つGPIFを「使いたい」衝動にかられるのは分からなくもない。
 だが、市場を舐めてはいけない。株価つり上げを意図した歪んだ投資決断を続けていれば、そのツケは必ず回ってくる。しかも、特定組織の意図で動くような不透明な市場には、海外投資家はやって来ない。PKOは短期的には株価上昇を実現するように見えるが、長期的には市場を歪め、信頼を失い、株価を低迷させるだけである。
 きちんと過去の教訓に学ぶことが、いまほど重要な時はない

(2015年01月14日(水)現代ビジネス、磯山友幸「昨年の日本株高を支えたのは<年金マネー>に過ぎなかった。政府主導のPKOは、結局株価を低迷させる」)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41738

 磯山友幸はご自身のブログでも:

 安倍首相が進めるアベノミクスを支えてきたブレーンたちは、こぞって消費税増税には反対だった。
 内閣官房参与に就任している浜田宏一・イエール大学名誉教授や
 本田悦朗・静岡県立大学教授、
 元財務官僚の高橋洋一・嘉悦大学教授
ら、いわゆる「リフレ派」の人たちである(ヤッホー君が注したいようですよ)
 アベノミクスの第一の矢で大胆な金融緩和に踏み切り、ようやくデフレから脱却する気配が出始めているところに、消費税増税を実施すれば、消費は一気に腰折れしてしまう、という主張だ。
 そもそも、彼らは、2014年4月に消費税率を5%から8%に引き上げることにも反対していた。この8%への税率引き上げの影響が長引き、夏以降も消費の停滞が続いたことが、安倍首相に再増税先送りを決意させたのだが、「消費税を引き上げても影響は軽微だと説明した財務省に安倍首相は怒っていた」(高橋氏)と言われる。その怒りが解散総選挙につながったというわけだ。

増税派とリフレ派の対立
 2014年3月末段階での「国の借金」は1024兆円と、年度末としては初めて1千兆円の大台に乗せた。国の借金とは国債の発行残高に政府保証債務などを加えたものである。1999年3月末には437兆円だったから15年間で2倍以上となった
 この「増税派」と「経済成長派」の対立は著しい。前者は財務省や経済界、主流派の学者が中心だ。一方で、後者はリフレ派、上げ潮派など、アベノミクスが始まるまで異端視されてきた学者や政治家が主だ。数では圧倒的に前者が多いのだが、安倍首相が個人的に親しい経済ブレーンには後者に属する人物が少なくない。

選挙の争点の本当の意味
 両者が一致していることは、財政を破綻させないためには、税収を増やす必要があるという点だ。一方は税率の引き上げこそ税収増に不可欠だと考え、他方は税率を引き上げても景気を冷やしてしまっては、かえって税収減になりかねないと主張する。安倍首相は今回の解散総選挙で、後者の主張に軸足を移す姿勢を示したのである。それが「アベノミクスを問う」という選挙の争点として安倍首相が掲げた文句の本当の意味だったのだ。
 今後、金融緩和の進展によって経済の好循環が始まり、企業業績が上向いて従業員の所得が増え、消費が再び好調さを取り戻すことになれば、税収は増えていくだろう。
 もっとも、ここで最大の問題がある。いくら税収が増えたからといっても、大盤振る舞いで無駄遣いをしたら、財政再建などできないということだ。政治家も官僚も、予算を増やすことに邁進する傾向が強い。世の中のためになると信じてさまざまな政策を実行に移せば、当然予算がいる。一方で、一度獲得した予算を見直したり削ったりすることには、政治家も官僚も関心を持たない。予算をカットして喜ばれることはないからだ。
 そうなると、予算規模はどんどん膨らんでいく。一般会計予算の規模はすでに百兆円規模になっている。税収を増やすだけでなく、歳出を見直し、減らしていくことが不可欠なのは火を見るより明らかだ。民間ならば、赤字に苦しむ企業が経費削減などリストラに取り組むのは当たり前のことだ。
 財政を再建するには、増税だけでも、経済成長だけでも難しいだろう。国民に安易に負担増を求めるだけでなく、赤字を垂れ流す体質を見直すリストラに取り組むことが不可欠である

 ※ 月刊エルネオスの1月号(注)で、定期コラムに書いた原稿です。編集部のご厚意で再掲します。是非ご一読ください。
(2015-01-15 17:20更新、磯山友幸のブログ「生きてる経済解読」、財政再建に向け「増税派 vs 経済成長派」が火花 論争の大前提は、何よりもまず歳出削減)
http://d.hatena.ne.jp/isoyant/

 磯山友幸さんは公式サイトもお持ちです:
http://www.isoyamatomoyuki.com/



(注)
http://www.elneos.co.jp/

(ヤッホー君注)
リフレ派とかりふれはとか、むずかしくってヤッホー君には蚊帳の外に出たがるほうですが、hamachan先生の2011年3月6日(日)付け《「知的」で「誠実」な「りふれは」》をお読みいただいてご理解いただくしか、う〜ん、今日は策がありません、おやすみなさい。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-a897.html






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マイ ヘルスチェック

 今日は午前中、健康診断があって、午後は眼科の定期検査の日なんですねぇ〜
 日記をつける時間がございません(たぶん帰宅後?かなぁ〜)。
 ですので、簡単にイマ、これまでの関連動画を4本だけ載せておくことにします:

(1) 冲方丁がみずから語る、『光圀伝』ができるまで:
https://www.youtube.com/watch?v=IVUn3v6wgRQ

(2) 書店員による応援メッセージまでございます:
https://www.youtube.com/watch?v=fSiTOMYBUkw

(3)『はなとゆめ』プロモーションビデオ:
https://www.youtube.com/watch?v=QHnRcgkse6k

(4)『天地明察』『光圀伝』に次ぐ、歴史小説第3弾!! 『はなとゆめ』冲方丁さんインタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=VkphWjcuMLs

 いろいろと刺激を受けた、いや、これからも刺激を受けるであろう作家のひとりでした。
 冲方丁さんの今年のますますのご活躍とご健勝を祈って、では、行ってきま〜す。


 


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2015年01月15日

この道しかない?

 「黙れ!この道しかない」と支配者に言われれば、「沈黙と忍従」で頭をさげて、ぞろぞろついていくしかない光景!
 そんなところだから、「日本の過疎化」もはじまっています。
 ヤッホー君、また、また、びっくり!

 出生ゼロ「消滅可能性都市」波紋 京都・笠置町
(2015年1月14日(水)9時31分配信京都新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150114-00000012-kyt-l26

 2004年10月23日午後5時56分頃に新潟県中越地方でマグニチュード6.8の地震が発生し、全村避難を強いられた旧山古志村。10年後、人口は震災前の半数の約1100人になり、2013年度の出生数はゼロに落ち込んだそうです。
(2014/10/23付け新潟日報【社説】中越地震10年、復興完成に向けて歩もう)
http://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20141023141473.html

 2014年に生まれた赤ちゃんは100万1千人とみられ、過去最少だったとする人口動態統計の年間推計を厚生労働省が2014年12月31日、公表した。亡くなった人は126万9千人、死亡数から出生数を引いた人口の自然減は26万8千人で、減少幅は過去最大
 出生数は100万人の大台割れ目前だが、千人程度の誤差も想定され、2015年6月公表予定の人口動態統計(概数)では出生数が大台割れとなる可能性もある。厚労省は「出産世代の女性人口が減っている」とし、今後も少子化が進むのは避けられないとみている。
 2014年に結婚したカップルは2013年から約1万2千組減の64万9千組で、戦後最少。(共同)

(2015年1月1日05時00分東京新聞「2014年の出生数100万1千人、大台割れ目前、自然減最大」)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014123101001276.html

 人口の右肩上がりがもう望めなくなってきているなかで、「景気回復」と声高に叫ぶ支配層はしかし大企業に優しく、「軍事費」を史上最大にし、一方「社会保障費」は切り捨てられる…
 でも誰〜れも、庶民の心配事を代弁する日本人はいないようで…黙従…

 年明けから低迷しっ放しの東京株式市場。巷に流れる「株価2万円台回復」どころか、1月14日の日経平均株価は前日比291円安の1万6795円と、1万7000円を割り込んだ。こうなると、不安になるのが、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が運用比率の見直しを決めた年金資産だ。
 約130兆円の年金資産を運用するGPIFは昨年2014年10月、「国内株式」の投資比率を12%から25%に引き上げることを決めた。そこで民主党の長妻昭衆院議員が、運用見直しで想定される今後の損失額を質問主意書で問いただし、1月9日付で政府答弁書が閣議決定したのだが、その中身にビックリ仰天だ。経済「中位」のケースで、「確率95%で予想される最大損失額」は約21.5兆円となり、見直し前の損失額(約10.4兆円)と比べて2倍に膨らんだからだ。
 答弁書によると、仮に「リーマン・ショック」が起きた2008年度に当てはめた場合、損失(想定)額は約26.2兆円で、当時の損失額(約9.3兆円)の3倍近くになる。

(2015年1月15日付け日刊ゲンダイ「損失額は21兆円に倍増、年金資産の運用見直しは大失敗)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156399

 この年金を心配しているのはイマ、医師を退職したあのお医者さんでした:

 問題は、このような巨大な損失が出た場合の対処方法を決めていないこと。
 結局、年金減額、年金料増額ということになるのは明らかである。
 問題の先送りだ。
 今後増税が続く可能性も高く、このような損失を生じた場合に、年金だけで生活することはまず無理(今でも無理)となる。

 これも何度も記したが、公務員の共済年金の株式投資比率は低いまま。また、長期間議員をしている政治家は、名目上廃止された議員年金を受給する資格があり、その年金額は破格に高い
 年金とはいえ、100%国家予算から出る「恩給」のようなものだ。
 彼らが、我々の年金の運用方法を決め、実際に運用している。
 彼らの利権を確保するためだとしたら、倫理的に許されない。

 世論にもこの問題を批判する声があまり上がってこないことが不思議でならない…


 老後の生活資金の柱である年金積立金の運用を行っている年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、従来の国内債券中心から株式などリスク資産への投資拡大を決めました。
 成長戦略の一環として、政府が株式投資を重視することを受けたものです。
 しかし、年金の積立金は国民の保険料です。
 果たして、国民が納得する運用になるのでしょうか?

● 株式への積極投資
 株式などへの積極投資や海外投資などで、経済を活性化するとの政府の意向を受け、国内債券の運用を35%に縮小しました。
 一方、国内株式、外国株式を25%にそれぞれ拡大、外国債券も15%にしました。
 さらに、不動産、インフラ投資などのリスク性資産への投資を拡大する方針です。

● 十分な説明が必要
 GPIFの組織のあり方も検討されています。
 経済協力開発機構(OECD)の年金基金のガイドラインなどによると、
 ▽ 政府からの介入を許さない
 ▽ 中立的な専門家の監査
 ▽ 情報開示の徹底−
などが求められています。
 積立金は国民(事業主負担も含む)の保険料です。
 積立金運用で利益が出ても、年金給付が将来増えるのか、損失が出た場合に責任は取れるのか、など疑問も多くあります
 国民が求める運用になるのか、十分な説明と検証が必要です。

(2014年11月12日付け東京新聞「年金積立金(No.520)公的年金のリスク運用、大丈夫?」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/seikatuzukan/2014/CK2014111202000188.html

 ヤッホー君も《世論にもこの問題を批判する声があまり上がってこないことが不思議でならない》と繰り返したかったのですが、《世論》ですら上からつくられるもんでしょ(注)って言われたらお手上げ、バンザイです。



(注)
安倍総理が解散直後の11月19日に各局テレビに出演した際、TBSの「ニュース23」の街角インタビューでアベノミクスを批判するような映像が流れ、安倍総理が番組中に「なんだ?この街頭インタビューは」と激怒する一幕がありました。

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ドラマチック平安時代

 日本は応仁の乱(注1)以降のほとんどの時代で、軍事政権しか経験していないということだ、かぁ〜
 つまりは戦闘を担う武家層による政治である、かぁ〜

 じゃあ、その前は、というと「戦闘を担う武家層」まで形成されてはいないのかも知れないけど、似たりよったり、なんて感想を持つと実もふたもないけど、姿を見せるか、姿を見せないかの違いはあっても「戦闘を命ずる支配層」っていたわけですよね、かぁ〜

 例えば、飛鳥時代の天智天皇、天武天皇は前に出てきますよね。
 その後、奈良時代でも聖武天皇なんて百官の前で演説したりするように、リーダーシップがあって、御殿なども、自分に崇敬を集めるために注目を浴びるような作り方をするんです。
 ところが平安時代に入って一条天皇の頃になると、逆に姿を見せないことによって権威を保つようになります。

…発言者は冲方丁の対談相手の山本淳子教授(京都学園大学)。冲方丁、前掲書『にすいです』231頁

 冲方丁がこの平安時代を描いた小説が、『はなとゆめ』でした。
 ヤッホー君のこのブログ、お正月11日付け日記「VSOP」をお読みください。

 この『はなとゆめ』を入所期間中に読んだのですが、無学文盲に甘んじて暮らしていたヤッホー君、知りませんでした。
 何をかってね、小説の出だしは『いかにしてわたしがあの御方のもとに招かれたかー』なんですよ、もう、「わたし」って誰のことよ、「御方」って誰〜れ?ってなもんです。

 小説は「わたし」が誰かを明らかにする前に「御方」が分かってきます。
 本で言いますと、総頁数356頁のうち、61頁まですすまないと分からないように<すだれ>が下りているのです。
 そして…「一条帝、道隆様、定子様、そして道長様−」…ひゃあ〜
 主人公の「わたし」はっていうと、74頁まですすんでやっと「肥後のおもと」「葛城の神」などの綽名から解放されて、あの「清少納言」に<なる>のです…ひゃあ〜
 「枕草子」はもっと後、156頁なんですねぇ〜…ひゃあ〜
 ここまで読んできて、ぎゃふんとなったヤッホー君、もう一度最初の頁から読み直すことにあいなったそうです。
 なんという冲方丁の筆力exclamation×2

−−冲方さんは『天地明察』で、江戸期の天文学者・渋川春海の知られざる生涯を濃厚に綴り、『光圀伝』では、誰もが知る「黄門様」の意外な実像を苛烈に描き切りました。待望の歴史小説第三弾『はなとゆめ』の主人公は、清少納言。およそ千年前の平安時代、随筆文学の元祖『枕草子』を書いたことで知られる人物です。彼女の人生を小説にしよう、と思いついたきっかけを教えて下さい。
冲方 きっかけは『光圀伝』なんです。水戸光圀は若い頃に中国の歴史書『史記』を読んで、自分は日本の歴史を綴ろうと志します。そのくだりを書く時に、『史記』にまつわる日本のエピソードをいろいろ調べてみたんですね。その過程で、「天皇様は『史記』=「敷物」を書き写している、だったら私たちは『枕』を書く」と言った、清少納言のエピソードに出会いました。
 光圀が『史記』を追い求める一方で、清少納言が求めた『枕』とは何なんだろう?『光圀伝』を書き終えた後でふと、そのことが気になり始めたんです。また、光圀は京都に対する憧れが非常に強い人物でした。彼に限らず、当時の江戸時代の武士たちが憧れた京都文化、その本源にあるのは平安時代に栄華を誇った朝廷文化です。『枕草子』は日本最古の女流文学であると同時に、平安貴族の日常をいきいきと綴った朝廷文学でもある。『枕草子』の成立過程を物語にすることで、当時のことを知ることができると思ったんです。
 ちょうどその頃、新聞連載の依頼があったので、「清少納言はどうでしょう」とこちらから提案させてもらいました。

(角川書店公式サイト、インタビュー:吉田大助)
http://www.kadokawa.co.jp/hanatoyume/contents/interview.php

 しかし、この小説『はなとゆめ』に<道長様>が登場していながらもうひとり、最後の最後まで、読了した本を枕元に置いても、もうひとつの<すだれ>のなかに上手に隠されている主人公がおります。
 それが紫式部(源氏物語)です。
 いやあ〜、2015年の元旦から、腰を抜かしてびっくり、びっくりって、ヤッホー君!

 平安中期。文化が文化として花開いてきたこの時代。日本文学史に燦然と輝く傑作が相次いで生まれた。
 ひとつは「枕草子」。宮中の暮らしを優美に描き出した随筆文学の元祖。そして「源氏物語」。光源氏の愛の遍歴を描いた世界最古の長編小説。
 なぜ、この時代にいまなお読み継がれるほどの名作が誕生したのか? そこには、宮中を揺るがした権力争いと女たちの愛憎があったのでした! 今回は、日本を代表する女流作家対決、清少納言VS紫式部に迫ります!!

(2013年4月17日放送、ライバルたちの光芒#28「女流作家対決」)
http://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/28.html

 女性研究者、お二方にもご登場していただき「学問研究」って何んなのかも含めて考えてみましょう。
 ひとりは鈴木織恵准教授(淑徳大学)。もうひとりは冲方丁の対談相手、山本淳子教授(京都学園大学)。
 3学期も始まり、4月からの新学期も近いことですし、静かにここらへんで耳を傾けて聴いてみるのもいいかも知れませんね、ヤッホー君のような無学文盲に陥らないようにするためにも:

二人はライバル?
 みなさんは、平安時代を代表する女性作家、清少納言と紫式部をご存じですか?
 清少納言は「春は曙(あけぼの)」からはじまる随筆『枕草子』の作者、紫式部は「いずれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」からはじまる物語『源氏物語』の作者として、一条天皇の時代に活躍しました。
 紫式部は日記に「清少納言は利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、よく見ればたいしたことはない」(注2)と記していますから、宮中では、二人はライバルとして火花を散らしていただろう、と思う方も多いかもしれません。しかし、現実に二人は宮中で顔を合わせてはいませんでした。二人の出仕の時期はよくわかっていませんが、一条天皇の皇后宮となった藤原定子に仕えていた清少納言が宮中から退出した後に、紫式部が、一条天皇の中宮であった藤原彰子のもとに出仕したと考えられているからです。

歴史を見る目
 華やかにみえる平安時代ですが、その時代に生きた人々が本当に華やかで雅やかな人生を送っていたのかは、現代の私たちからはわかりません。華やかにみえても、その背景を探ると、そこにはさまざまな人の複雑な人間関係がみえてきます。私の講義では、その時代に生きた人々の時代背景にも目をむけていきたいと思います。
 人生において、いつも答えが一つとは限りません。大学生活では、一つのことがらを、多角に見る姿勢を身につけることで、自分自身の考えを導き出す力を養ってほしいと思います。

(淑徳大学、鈴木織恵コラムVol.2)
http://www.shukutoku.ac.jp/jinbun/rekishi/column/column0130rekishi.html

 一つには「紫式部はつらかっただろうな」ということです。せっかく力があるのに女の子だからといって嘆かれて、さぞや傷ついたことでしょう。そしてもう一つには「あれ、清少納言も漢文読めたよね?」ということです。『枕草子』の中には、漢文の知識でもって男性たちと対等にやりあうシーンが沢山(たくさん)あります。が、そんな場面で、清少納言は決して「女のくせに変な奴」などと指差されず、むしろほめられていたはずです。なぜ紫式部は嘆かれて、清少納言はそうでなかったのでしょう。また、そもそもなぜ二人は漢文が読めたのでしょう。
 こうしたことに関心を抱き始めたのが、以後20年以上にわたる研究生活の始まりでした。
 当初は全く答えが見つかりませんでした。二人が漢文を読めた理由は、たまたま親が学者や歌人だったからで、二人への周囲の態度が違うのは環境や性格の違いだと、簡単に片づけられていたからです。
 でも私の知りたいのは、紫式部や清少納言の気持ちでした。一人の女性として、普通の女性たちとは違う特別な自分とどのようにつきあっていたのだろうか。すぐ隣にいる友達に聞くように、彼女たちの思いを親身になって聞いてあげたいと、私は思ったのです。
 一つの文学作品だけを読んでいたのでは、当時の社会全体の事情はつかめません…

(京都学園大学・山本淳子「文学資料と歴史史料から読み解く〈ドラマチック平安時代〉」)
http://www.kyotogakuen.ac.jp/~o_human/susume/Yamamoto_Junko/



(注1)
 1467年、京都で大きな争いが起こる。八代将軍・足利義政の後継ぎをめぐり有力大名が敵味方に分かれ争ったのが応仁の乱だ。争いは地方にも広がり、戦国時代へと向かう。
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310054_00000&p=box

(注2)
「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしらだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり」(紫式部日記)



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2015年01月14日

籠城 and/or 移住

 「黙従と一所懸命の態度である」かぁ〜
 権力の中心が設けられてのちは、上も下も、内も外も固定されちまう、かぁ〜
 対立や拮抗やせめぎあいではなく、不動の調和と安定、かぁ〜
 そのまんま移動もしないし流出入もしない、かぁ〜
 まぁ〜るく納まってしまい、、ひっくり返ることもない社会、かぁ〜

 2011年3月11日14時46分の大地震、その後の原発の爆発(1号機は翌3月12日15時36分頃、3号機は3月14日11時00分頃、4号機は3月15日6時10分頃)で、そうも言ってられない状況がでてきました。

 そんな経験をしたのが、作家の冲方丁でした。
 冲方丁のブログ「ぶらりずむ」で「物資を『運ぶ』のではなく、被災者を被災地の『外に出す』」(あるいは被災者が被災地の外に脱出、移動する)をここで吟味してみましょう。
 冲方丁は、大震災発生から4日後の15日深夜の12時、福島市の自宅をタクシーで脱出し、お母さんの居る北は北海道へ向かう旅がはじまりました。

 福島第1原発3号機の水素爆発に海外アナ絶句:
https://www.youtube.com/watch?v=EURQFV4-XCI

● 被災地に「物資を運ぶ」のではなく、「被災者を被災地の外へ出す」ことに時間と金銭を使うことを考えて下さい。
 今回の災害において最も重要なのは、迅速な被災地からの脱出であることを思い知りました。
 阪神大震災以降の災害対策の基本姿勢は、被災者が被災地付近にとどまり、ライフラインの復旧と支援物資の到着を待つ「待機」です。救助隊の原則も、人が避難所に「待機」していることを前提としております
 しかし今回のような「広域かつ深刻な、複数の異なる未経験の災害が、短時間で連続し、さらには繰り返し継続的に起こり続けた」場合、被害の全体的な実態すら曖昧なため、支援は予想以上に遅れ、現地の状況悪化は急速に進みます。
 だからこそ「待機」すべきだと考える方も多いでしょうが、いったん「待機」すれば「移動」は刻一刻と困難になるばかりか、現地で健康を保つ手段が驚くほど急速に失われてゆきます
 そのため、いかにしてライフラインが保たれている場所へ、一刻も早く「移動」するかが重要でした。
2011年3月17日木曜日10:33


 「移動」する人の心理状態の補足です。
 冲方は当初「移動」には大反対でした。状況を否認していたのだから当然です。しかもガソリンがないので、移動手段がないということが心に重くのしかかっていました。移動したいと主張する奥さんに対し、動くべきでない根拠を山ほど並べ立てたあげく、結局は、奥さんの意見で、動くべきであるという判断に傾きました。
 冲方に限らず、家を守るという気持ちが強い人は動かず「待機」するほうを選びがちのようです。
 一方で、子供や自分より弱い存在を守るという気持ちが強い人は、たとえば「子供だけでも確実に安全な場所へ移動させる」ことを選びがちです。
 今回の場合、奥さんの「子供が病気になってもここでは何も出来ない」といった意見がきっかけで「移動」を決めました。
 自力で動けない子供を「移動させる」のが夫婦共通の動機となり、家を出ることになりました
2011年3月17日木曜日14:26


【ご報告】
・北海道十勝の池田に到着しました。ネット環境等も確保し、ようやく体勢を整えることができています。
・どれだけの長期戦になるか分かりませんが、出来る限り平常に戻り、出来る限り被災地を支援し、出来る限り執筆に励みたいと思います。
・〆切は3月21日。間に合ってくれ…
・どうやら東京は、情報という、目に見えないツナミに襲われ続けたご様子。
 ですがこれは、スイッチ一つで遮断できるツナミです。なのに、なぜ、いつまでも情報の洪水につきあい続けるのか。
 理由は、何が「必要」なのか、自分は「どうすべき」なのか、わからなくなってしまい、何も決定できなくなっているせいで、いつまでも不必要な「情報の買い占め」をし続けている、というふうに、こちらからは思えます。
 そしてそのせいで、必要な情報を効果的に伝達する人がいる一方、「情報の正否」に馬鹿みたいにこだわり、かえって優先順位をちぐはぐにする人もいる。
「籠城」の用意よりも「移住」の用意を
 大ぜいがコンビニの乾燥食品を買い漁る一方、築地では生魚が売れず、放置したりゴミ箱に捨てたりしているとのこと。
 もし災害に備えたいのであれば、まず今ある食べ物の中で、最も新鮮で栄養価の高いものを摂取すべきでしょう。
 といいつつ、もし僕が東京にいたら、同じように行動していたかもしれませんが。
 今回の経験で「一週間分の水と食料」の備蓄など、もはや備蓄と呼ぶに値しないことを痛感しました。
・とりあえず。
 僕は、あと48時間、ほとんど持ってくることができなかった少ない史料を頼りに、最後まであきらめず、〆切と格闘します
 それが、僕が社会に参加する上で自分で決めた職務であり、人生だからです
 それに、イマがんばって稼がないと。人を支援するにも、福島に戻るにも、戻ってからも、お金かかりますし。
 東京にいる人たちも、心を病んだりしないよう、まず自分に優しく、そして人にも優しく、心身の健康を保って、何ができるかを今後長いこと考えていけるよう、がんばっておのおのの仕事に励んで下さい。
 一緒にがんばりましょう。

2011年3月19日土曜日17:23

http://towubukata.blogspot.jp/

 震災ののちも苦しさは変わらなかったが、しかしこのコラムの執筆が、明らかに自分を安心させ。激しい怒りを鎮めてくれるようになっていたのだった。
 イマでもその思いは変わらず、震災後に書かせていただいた全てのエピソードが、震災の衝撃に耐え、冷静さを保つ自分を、作りあげてくれたのだと信じている。

…冲方丁「2011年3月11日について」、『もらい泣き』(集英社、2012年)所収)148頁

 9月15日に『天地明察』(角川書店)の映画公開も控えた希代のストーリーテラー冲方丁が、“泣ける本”を上梓した。8月3日に発売された『もらい泣き』(集英社)は「小説すばる」の人気連載3年分をまとめたもので、冲方がいろんな人々から話を聞き、そのいくつもの実話をもとに書いたものだ…
 東日本大震災の1ヶ月後に冲方が福島空港を訪れた際、車に乗せてくれた若者と、その父親の思い出を綴った「インドの豆腐」。「あの人がいればなんとかなる」と言われていた父の下で育った息子は、震災で困っている人のためにできる範囲の手助けをしている。「あの人がいればなんとかなる」と言われる人は「なんとかしちゃう人」なのだ。そんな人が身近にいたら、自分にだって何かできる気がしてくる…
 他にも知らなかった家族や友人の一面、夢を追い求めるきっかけとなった人や出来事など、あわせて33もの泣ける話が詰まっている。どれも心あたたまるエピソードばかりで、読んだあとには思わず涙がこぼれてしまう。また、書籍化するにあたって読者からもブログで「泣ける話」を募集していた。その中から選ばれた5本の話も掲載されている。
 お疲れ気味の方はぜひ、たっぷり“もらい泣き”して、明日への活力をたくわえてほしい。

(2012.8.12付けダ・ヴィンチニュース)
http://ddnavi.com/news/77888/



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2015年01月13日

日本の歴史と衆院選

 佐賀県知事選挙… 一方で県知事選に立候補するため辞職した前市長の後継には、元同市秘書課長(38歳)が当選、樋渡市政の改革路線を継承するとのことです。
 「選挙」ってなんなんですかね、冲方丁を軸に据えて、もう少し考えてみませんか。

Q2 イマ気になる現実の出来事は?
冲方 選挙ですね。選挙権を持っている人間に対してだけ政治が動き始めている。つまり、「子どものいる親」を相手にしているふりをして「子ども」のことを全く考えていない社会になっていっているのが怖い。それとこれは富野由悠季(とみのよしゆき)監督がおっしゃってたんですけど、ビジュアル化社会の怖さがどんどん出てきたこと。ビジュアルという実生活に関係のないものを、あたかも実生活があるかのような、それがリアリティであるかのような風潮がどんどん広がっていって、政治や経済といったリアリズムの極地のはずのものがだんだんリアルもクソもなくなってきて。現実を無視した方向に加速していくということは、いつ全体主義になってもおかしくないんじゃないかというところが怖いですね。
 政治家を見ているとどんどん怖くなってきますね。「こいつらに何かされるんじゃないか」という気持ちが強くなってきています…

…冲方丁『にすいです』(角川書店、2013年)162頁

 異才・冲方丁、初の対談集! かわぐちかいじ、富野由悠季、井上雄彦、養老孟司、夢枕獏、伊坂幸太郎、天野喜孝、鈴木一義、中野美奈子、滝田洋二郎、山本淳子……各界のトップランナー11名との対談を収録!
(角川書店公式サイト)
http://www.kadokawa.co.jp/product/321210000028/

 この冲方丁の発言は、「伊坂幸太郎(1971年千葉県生まれ)の長編小説『マリアビートル』の刊行を記念しての対談が実現、『本の旅人』2010年10月号に掲載された」(前掲書)ときのものです。

 ここで「富野由悠季監督(1941年神奈川県生まれ)がおっしゃってた」というのは、同書に収録されているのでぜひご購入のうえ、全文お読み願いたいところですが、こんなふうに:

 日本の元首相が漫画やアニメが好きで、政治家仲間に「お前ら『犬夜叉』知ってるか」と言った瞬間に言えることなの。あの世代がそういうものに感情移入しているという現実が、はたして本当のリアリズムなのか。イマ、われわれはリアルと言うことばを曖昧にしか感じていなくて、きちんとした皮膚感のようなものを持っていないんじゃないのか

 アキバに集まってくる人間に媚を売ったわけですが、彼らがアキバにいる時間というのはリアルな生活に対峙していない時間なんですよ。彼らだってアキバから離れればリアルな生活があるわけだけど、そこからの逃避でアキバに来るんでしょう?その逃避行動の最中にいる人たちを票田にできると考えるのは、物事をリアルに考えているとは言えないでしょう

 そう、とりあえずイマ気持ちのいいものを見て、1、2時間の気を済ませる。でも現実に戻れば、オレはバイト以上のことはできないって落ち込むのを、皆んな承知でやっていくしかないというこの状態は、30年代中ごろのドイツやイタリアと同じかもしれない。

冲方 小泉元首相が痛みを我慢してくれと政策転換したけど、実際そういう自己責任型の社会になってみると本当に痛くて痛くて、その反動でイマ、皆んなが痛みのないほうへないほうへと行こうとしているんですね。

 そのときの対談の様子は自身のブログ「ぶらりずむ」でこんなふうに綴っています:

 野性時代誌にて『リーンの翼』刊行記念に富野由悠季監督と対談させていただきました。
 野性時代次号にて掲載されます。死ぬほど怖かったよ、母ちゃん。
 5年前だったら本当には相手の怖さが分からなかったであろうことが怖かったです。
 とにかく、単純計算で、これまでに、冲方の40倍の仕事量をしてのけてきた方です。普通はできません。ありえません。富野監督が20代のとき、上にいたのが手塚治虫です。基準と経験値の絶対量が違いすぎます。それ以外にも、アニメ業界で原作小説という概念をもたらすなど、仕事そのものを創造したりと、監督が果たしてきたことがらの規模をあらためて実感。ただ圧倒されました。
 文芸賞をいただいて浮かれていた気分を、かけらも残さず吹き飛ばして下さいました。
 この特大級の怖さ、なんとしても糧にしたいと思います。
 監督の「一言」はぜひ野性時代誌にてご覧下さい。 怖くて書けません。ガンバレ、ライターさん。

(2010年3月25日木曜日)

○『野性時代』5月号にて富野監督との対談が掲載されております。
「『野性時代』がアマゾンで12位という記録的な売り上げを見せており、ぜひとも「ぶらりずむ」でも「対談記事掲載」の告知を」(野性時代前担当)。
 これは「富野効果」でありましょうか。非力ながら人柱としての役目を果たせて本望でございます。

「監督がぜひもう一度とおっしゃっております」(ニュータイプNewtype富野監督担当者)。
 対談後にて。
 「 ゜(  Д、 ゜ )」(冲方丁)。
 対談後のニュータイプNewtype富野監督担当者のご連絡をいただいた際の顔である。

(2010年4月14日水曜日)
http://towubukata.blogspot.jp/

 リアルな生活の場にビジュアル化社会が、リアリティにファンタジーが、政治や経済といったリアリズムの極地にウソが忍び込んでオキュパイしている風景って、アキバで日の丸が揺れ動くのを気持ちよさそうに上から見下ろし、自分が元首となった気分の良さで、簡単で短い(虚飾に満ちた)「言葉」(虚言、妄言、暴言)をかける支配者の姿にたぶって見えます。
 ヤッホー君のこのブログ、2014年12月24日付け日記「クリスマス・イヴ」をお読みください、なんかどっかでサイキン見たような景色なんですね…

 そのときの師走選挙、冲方丁はこんなふうに『日本の歴史と衆院選』と題して書いております(2014年12月26日付け『朝日新聞』)。
 長いけど、さわりをひとふし:

 今回の衆議院選挙は大方の予想通りの結果となった。印象的だったのは、とことん日本的なあり方があらわになった、ということだ。
 特に、衆議院選挙の投開票日、安倍首相がニュース・キャスターの質問に対し、イヤホンを外して自説のみを述べるという一幕があった。その是非はさておいて、あの一幕はどうして起こり得たのだろうか? そしてそれは何を意味するのだろうか? 決して、安倍首相個人の性格に全て起因すると考えてよいものではないだろう。日本人全員のあり方の帰結であり、むしろ我々自身を見直すべきではないか。そう思わされた一幕であった。
 古来、政治の命題は数多く存在するが、中でも重要な問いが二つある。
 一つは「人は意思を統一できるのか?」というものだ。またもう一つは「人は富を分配できるのか?」というものだ…

 まず、「人は意思を統一できるのか?」という問いに対し、日本の支配者層も一般民衆も「できる」と答えてきた。少なくとも答えようとしてきた。さもなければ今でも自分たちの近くの地域にいる者達を意思統一が不可能な異民族ととらえ、抗争を繰り返しているはずである。
 だが日本人は「天下」という言葉に、万国・万人というニュアンスを感じるように、多少の文化的差異があれども、それらを超越する共通の何かが存在するとしてきた。それが日本人独特の融和や緩衝のあり方を形成してきたのである。
 では、その意思統一の具体的な方法は何であったか。多くの国々と同じように、もっぱら支配者層による「黙れ」という命令であった。そして日本の特徴は、民衆が率先して、その命令を自発的行為として受け入れてきたということだ。地域全体はもちろん、企業内でも家庭内でも、黙々たる忍従を、美徳としてきたのである。
 ではこの命令を誰が発してきたか? 日本の歴史を俯瞰(ふかん)したとき、はっきりわかるのは、日本は応仁の乱以降のほとんどの時代で、軍事政権しか経験していないということだ。
 軍事政権というと、ぴんと来ない方もおられるだろうか。つまりは戦闘を担う武家層による政治である。その伝統は現代にも連綿と続き、政治形態のみならず様々な面で軍事的な発想が見られる。たとえば子供に着せる学生服からしてもとは軍服である。号令による一斉行動を幼少から叩(たた)き込む。論を戦わせていては一斉行動に支障が出ると考える。
 日本人はそうした沈黙と忍従を、最も効率的な意思統一の方法であるとし、純朴に守ってきた。それが現代の妄信的ムード主義とでもいうべき生き方の根本であろう。「空気を読む」「以心伝心」「あうんの呼吸」など、無言のうちに意図を察し、異論を挟まないことは今でも良いこととされる。それはもはや思想として語られるものではない。無意識のうちに刷り込まれた、この国に住まう人びとに特有の生活態度である。
 為政者が民衆の声を無視して一方的に命令し、一斉行動を促す。たとえ民主主義に反していても、それを望む人びとがいるということを無視してはならない。なぜならそれが長らくこの国を繁栄させる上での最適解だった、という逆らいがたい事実があるからだ。
 では、なぜそうした意思統一の方法が成り立ったのか? 黙従の美徳の大前提は、人間が自由に住み処(か)を変えないということである。いわゆる「一所懸命」だ。一つの場所に命を懸けねばならず、流浪は哀れなことであり、生涯の居場所がないことを嘆かわしく思う。個人の都合で移住しようとする人びとは、下手をすれば懲罰の対象になるか、社会保障を受けられなくなるのが、この国の長年の常識だった。
 だが現代に至り、その長い歴史に反する事態が起こった。人びとの激しい流出入である。
 現代では条件が整いさえすれば住む場所や勤め先どころか、国籍さえ自由に変えられる。それが、この国の伝統的な意思統一のあり方を困難にしてしまった最大の要因だ。のみならず、第二の命題である「富の分配」を根本から成り立たなくさせているのである。

 日本は「富の分配」についても「できる」と答える国だ。社会維持のため、富の集中を緩和し、全体に行き届かせることが社会維持に有効だとしてきた。そのためには逆説的に、富を生み出すための中心地ないし中心人物が必要となる。富裕層がいてくれなければ、そもそも分配すべき富は生まれない。貧者救済のため、ときに富裕層を優遇し、地域に雇用を生み出すよう仕向ける。そうすることで社会維持をはかる。
 そうした富の分配を支えてきたのが、これまた黙従と一所懸命の態度である。富の中心を設けてのちは、それが政府と対立する勢力とはならず、移動もしないものとして考える。あるいは黙従して不動のものほど政治的に優遇する。
 だが国際化が進むことで、そうした大前提が崩れてしまった。今回の選挙でまったくといっていいほど話題にならなかったのが、富の移動だ。たとえば、富裕層が続々と日本から出て行き、資産を外国に預けてしまう傾向にどう歯止めをかけるのか? また、外国の労働者をいかにして受け入れていくか? これら二点がまったく議論されないのである。
 富が出ていき、労働力が確保できないというのは、地方が過疎化する大きな要因だ。それが今、国全体で起ころうとしているのである。だが取りざたされるのは、景気、課税、生活保障に関することばかりだ。「日本の過疎化」などあり得ないとしてしまっている。
 それはなぜか? 日本の意思統一と富の分配は、先に述べたように住民の大半が不動であることを前提にしている。そしてさらにその前提にあるのが「海外」という発想だ。海の外は自分たちと関係がない、現実感が持ちにくい、という長年の心のありようだ。
 そもそも外国を「海の外」と呼ぶのは、地政学的にごく限られた国だけである…

 さらにまた、この問題を議論しにくくしている要因がある。安倍政権および自民党が復権的であるということだ。いったん権力の座から追い落とされた人びとが、復権する過程で味方につけるのが、社会に不満を抱きながら、その社会と自分とを一体化せざるを得ない人びとである。そうした人びとの特徴は、経済力などさまざまな事情によって自由に移動できず、容易に職業を変えられないということにある。
 地域社会と自分を一体化させ、そのことで苦しみ、またそのことを誇りとする。団結を是とし、異論を嫌い、黙従を美徳として称(たた)える。言うまでもなくナショナリズムとの親和性も高い。だがあくまで一地域の盛衰や文化維持を問題とする人びとであって、政府が持つべき大局観と相反する場合が多い。一地域の問題が大前提なのだから、世界情勢など二の次となる。しかし復権者による政府はさまざまな局面で、こうした人びとを重要な支持層として政策を推進せざるを得ない。結果、政府が大局観と相反するものを抱え、むしろ政府が民衆から黙従を強いられるような、官・民の態度逆転、自縄自縛、あるいは衝突が起こる。
 とはいえ、これまた一概に悪いこととは言えない。今の中国のように、そうした経験から学んできた政府もある。だがかつてのソ連のように、崩壊した政府もある。

 日本が今後、国際的にどのような役割を負うかにもよるだろう。何が国の利となり害となるか、これほど先の見えない時代も珍しい。だが少なくとも、自分たちがかつてどうあったかを知り、これから先どうあるべきかを決めねば、内政でも外交でも立ち往生するばかりである。



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2015年01月12日

鍋島藩

 今回の佐賀県知事選挙は、古川康前知事(1958年生まれ、56歳)が突然、知事職(佐賀県知事任期2003年4月23日〜2014年11月25日、当選3回)をぶん投げ、総選挙(2014年12月14日投開票)に出馬して初当選したことから、急遽行われることになった。
 樋渡啓祐候補(1969年生まれ、45歳)は、古川康衆院議員の総務省の後輩であり、後継指名して禅譲された。古川康衆院議員は、知事を辞める直前、佐賀空港へのオスプレイ受け入れに前向きな発言をし、樋渡啓祐候補は「前知事の発言を重く受け止める」と明言していた。
 地元は当然反発した。
 自民・公明連立与党は、市立図書館の運営を民間会社に委託した樋渡啓祐候補の手腕を評価し、農協改革にも積極的なところに目をつけて推薦した。
 これに対して、安倍晋三首相の強い意向を反映した自民党本部主導・地域無視による「トップダウン型」の独裁的政治手法に一部の自民党県議らが大反発し、山口祥義候補(1965年生まれ、49歳)を擁立し、県農政協も支援に回った。すなわち、地元の多くの首長や県議、農協、有明海漁協などは山口祥義候補支援を表明し「中央対地方の戦いだ」と訴えていた。このため、自民党県議団を二分する保守分裂選挙となってしまい、自民党本部推薦候補と農協の政治団体「県農政協議会」が推す対抗馬がぶつかる構図の選挙戦となり、樋渡啓祐候補は、思わぬ苦戦を強いられた。
 それは、樋渡啓祐候補の身から出たサビでもあった。「敵と味方を峻別し、敵にはブログなどで徹底的に攻撃する」のが最大最悪な特徴で「佐賀の橋下徹」と呼ばれるほど、攻撃的で、敵が多すぎた。
 樋渡啓祐候補は、最年少市長に当選すると、市立の武雄図書館にTSUTAYAやスタバを入れて、来場者を100万人に増やしたことが大評判になったけれど、その陰で、子供用スペースが潰されたことを恨む市民を多数生んでしまっていた…

(2015年1月12日6時10分53秒更新、板垣英憲「マスコミに出ない政治経済の裏話」自民党は滋賀、沖縄に続き佐賀県知事選と3連敗「改革断行国会」と位置付ける通常国会の出鼻が挫かれた)
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/dafcdcbafc8b94c24148ca7a05b45ac5?fm=rss

 いやぁびっくり、この樋渡啓祐はヤッホー君のこのブログ、2013年10月31日付け日記「秋は、図書館」と2014年4月4日付け日記「瓦礫の山」に登場していたからでした:

佐賀県武雄(たけお)市の樋渡啓祐(ひわたしけいすけ)市長が、市立図書館改修の完成予想図を誇らしげに示した…
(2013年10月31日付け日記「秋は、図書館」)

 なんかこんなつぶやきも漏れ聞こえてきます:

 樋渡落選。
 彼が武雄市長時代に破壊した歴史資料館が所蔵していた武雄鍋島文庫の行方が気になっているのだが、元に戻そうにもTSUTAYA図書館に入れるわけにはいかないし、どうなってしまうのだろうか。


 樋渡さん。今後何をしようとあなたの自由ですが、大阪にだけは来ないでください。

 東京にも来ないでください。

佐賀県武雄(たけお)市の樋渡啓祐(ひわたしけいすけ)市長が、市立図書館改修の完成予想図を誇らしげに示した…
(2013年10月31日付け日記「秋は、図書館」)

 図書館の「子供用スペース」だけではなく、あの「歴史資料館」も「武雄鍋島文庫」も?

 先日、武雄市の図書館内にある歴史資料館を訪問して、多くの蘭書が保管してあるのに驚いた。全て佐賀藩武雄領で購入したものだ。江戸時代の蘭書は、云うまでもなく、長崎・出島に居住するオランダ人から購入した。あるいは“通詞”と呼ばれる出入りの通訳から買ったものもあるそうだ。ただ、鎖国中なので公式に購入すると規制が厳しいので、このような人達から非公式に購入した物が多い。これを『除き物』と呼んだが、その値段が目玉が飛び出るくらい高かったそうだ。当時の武雄領の鍋島家がその金をどうやって工面したのだろう。余談であるが、高価な書物を売りつけた連中はかなり裕福であったらしい。また単に通詞としてでなく、自分で蘭学を勉強して学者や医者になった人も多かった。志筑忠雄のように早い時期にニュートン力学を紹介した人物もいる。

 では何故、武雄では多くの蘭書を購入したのだろう。それは領主・鍋島茂義が、蘭学をはじめとする西洋の学問・技術を吸収する意欲に溢れていたからである。そして、得た知識を用いて多くの技術や産業を創始したのである。彼が砲術で有名な高島秋帆に弟子入りした話は有名である。蘭書をつうじて学んだ事は多かった訳だ。また多くの人が蘭書を読みに武雄を訪れた。そして書き写して帰った。当時の若者達はすさまじく勉強した。
 歴史文化研究センター・青木歳幸教授の調べでは、当時佐賀で蘭学を勉強した人数は186人に昇るそうだ。もちろんシーボルトや緒方洪庵等の教えを受けた者が多かったが、一人で蘭書を読んで独学をした者もいたようだ。

 長々と書いてきたが、状況が如何に現代と異なるか分ってもらえただろうか。貴重書を複写機でコピーもできず、手書きでひたすら写した若者達、筆を使ってアルファベットや西洋数字を墨書した姿が想像できるだろうか。難しい文章の和訳に何日も取り組んだことは、ターヘルアナトミアの訳本「解体新書」完成のエピソードからも窺えるだろう。若者達は一冊しかない蘭書を奪うように回して勉強したのだろう。そのような事情が、印刷技術を進歩させたようだ。そうやって佐賀藩は、我が国最大の科学技術を手に入れたのである。
 現在では本は簡単に入手できる。山林を破壊しながらであるが、紙も昔に比べれば数段立派になっている。パソコンの画面からは豊富な情報が得られる。しかし今も、印刷物も含めて書物は有難いものであり、書物を開いてページをめくる行為こそが、人を育て学問も科学技術も伸ばしてくれると私は信じている。同様に、手を動かして筆記する行為が素晴らしい文章を生むのだ。私は、自戒をこめてペンマンシップの普及を望んでいる。
 江戸末期から明治にかけての若者達は、書物を通読しかつ自分で書き写すことにより最後には内容を諳んじて言えたそうだ。書物は彼らの宝だったに違いない。

 だから学生諸君よ、佐賀藩の輝かしい歴史を担う学生達よ、時代は変わっても本を大事にして、いろんな事を学び取って欲しい。傷つけたり書き込んだりするなんて信じられない。図書館内で飲み食いをして、本を汚したりしてくれるな。図書館を清潔に保って欲しい。人間が心を打ち込み、涙を流し、夢を抱く事のできる古来からの魔物=書物を終生愛して欲しいものだ。

(March.2007 佐賀大学附属図書館長・高崎洋三(医学部教授)「書物の有難さを知って欲しい!」佐賀大学附属図書館報ひかり野No.31所収)
http://www.lib.saga-u.ac.jp/pdf/hikarino31.pdf

 さらに、さらに佐賀藩と水戸藩って「絆」ができていたのをご存知ですか?
 江戸初期の「島原の乱」にまでさかのぼるんです(注)。
 冲方丁『光圀伝』にその話しが登場します。光圀の父、頼房です。

 水戸徳川家の当主たる立場から、鍋島一族の武功を称えた。
「まことに城攻めに長けた働きぶり。抜け駆けをして城を落とせなかったのならまだしも、武功第一の藩を潰すとあれば、他藩にも徳川家に対する余計な心配を植え付けることとなりましょう」
 徳川幕府の安定のためにも、彼らを激しく罰さないよう家光に進言したのである。

(同書、天の章二、50頁)

 そして光圀38歳の折り、朱舜水が江戸小石川邸に招聘されるのです。ときに朱舜水66歳。

 それもこれも、島原の乱の一件以来、水戸家と鍋島家が親密であったからである。
 さらに言えば、鍋島家が光圀を高く評価してくれていたからだった。
 朱舜水も、それらの言を信じ、特に、
「兄の子を世子に立てるは、伯夷叔斉にも優る道義」
と感嘆したという。

(同書、人の章一、552頁)


(注)
1637年江戸幕府を揺るがす大事件がおきた。島原の乱。抵抗する農民、キリスト教信者、武士たちが加わり戦いとなった。日本が鎖国へと向かう大きなきっかけとなる。
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310088_00000&p=box


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2015年01月11日

グレース・オブ・モナコ

 なんか突然に映画ファンになってしまったヤッホー君、2015年の映画蔵開き、蔵出しに出かけました。
 出かけた映画館が「角川シネマ有楽町」(千代田区有楽町1-11-1読売会館8階 Tel 6268-0015)、観た映画が『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』!
 観終わった後は、感動して帰りました!
 公式サイトがあり、予告編もあります。
 「公妃の切り札」って何か…
 それは、爆弾が落ちても私はここにいるでしょう、ここが私の居場所であり、夫を愛し、子どもを愛し、世界の小国モナコを愛しているからです、I Belive In Loveexclamation×2 という心からの叫び、真情のこもった言葉なんです。
 でもそれが、メロドラマ、カマンベール・チーズみたいにくさいセリフって嫌われるのが、『現代(イマ)』なのでしょうか…
 そんなことも含めて、真っ暗闇の映画館で、モナコの風景、パリの風景を見ながら、じっくり自分と語らう時間をもつことができます、とヤッホー君は大のおすすめ、とのことです:
http://grace-of-monaco.gaga.ne.jp/

 帰宅後、どんなリアクションがあったのか、まずは英国紙でびっくり、びっくり…
 ”Cannes 2014: Grace of Monaco under fire”
といわれてるじゃあ、ありませんかあせあせ(飛び散る汗)
 「そう言え」って、見えない身分の高い人、もしくは上からの現物支給でもあったのかしら…
http://www.theguardian.com/film/video/2014/may/15/cannes-2014-grace-of-monaco-under-fire-video

 グレース・ケリーさんがハリウッド女優からモナコ公妃に華麗なる転身をしたのちの危機を描いた『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』が10月18日に公開された。
 グレースさんに扮(ふん)するのは、『めぐりあう時間たち』(2002年)などのニコール・キッドマンさん。
 『エディット・ピアフ〜愛の讃歌』(2007年)のオリビエ・ダアン監督の最新作だ。
 プリンセスストーリーの裏側の世界、女優の道を捨てて妻となった一人の女性の生きざまを見せていく。
 ダアン監督は「プリンセスということに惑わされないで。これは、妻となった女性の物語です」と話す…

「彼女はこれまでのキャリアを捨てて、アーティストになる道をあきらめなくてはならなかったのですから、僕には幸せに満ちていたとは思えませんでした。そのせいで、この映画がモナコ王室と軋轢(あつれき)を生んでしまいましたが… でも、おとぎ話には代償がついてくるのが現実。おとぎ話の裏側を描きたかったのです」

(2014年10月18日付け毎日新聞「グレース・オブ・モナコ:ダアン監督に聞く、キッドマンの「スピーチ場面の表情に注目してほしい」)
http://mainichi.jp/mantan/news/20141018dyo00m200034000c.html

The film's star, Nicole Kidman, told journalists that Kelly "fascinated" her, and that studying the princess's life "magnified how unusual it was, the rarefied air in which she existed." "She was really smart, and under the cool exterior she had an enormous passion for life, and curiosity towards it. She maintained a dignity in her life, which is really hard to do when you are so much in the public eye."

Kidman said the film has "no malice towards the family" and that she "understands their desire to protect the privacy of their mother and father". She also said: "It's awkward, but I want them to know the performance was done with love.

If they ever did see the film they would know it was done with an enormous amount of affection for both their parents, and their love story."


Cannes 2014: Nicole Kidman says Grace of Monaco 'was done with love'
The Grace Kelly biopic that opened Cannes has earned scores of brickbats already, but its star says film has 'enormous affection' for Kelly and Prince Rainier
14 May 2014 The Guardian
http://www.theguardian.com/film/2014/may/14/grace-of-monaco-film-nicole-kidman-cannes-2014

So the film is about a standard working mum trying to juggle career and family – not the story of a self-pitying, overprivileged type who just wants to defend Monaco's position as a tax haven and billionaire's playground? "It's true it's about a fairytale and a princess story and there is a danger with that. For most women, they are a trap. Grace is herself the best example: she goes from a Hollywood cage to a royalty cage. It is the story of a woman who tries to please everyone, and loses part of herself as an artist."

As Dahan explains his thinking, it makes his movie sound almost reasonable – interesting, even. Especially his decision to ask Nicole Kidman to play the lead. "She had her own experience in marriage. Not just an ordinary marriage, but when she was married to someone – you know who I mean." Polite to a fault, Dahan won't let the words "Tom Cruise" pass his lips. "It was like she was married to another, third person at the same time, someone with a certain kind of power underneath the person. It was actually so similar to Grace, and for me as a film-maker it was very interesting." He talks about cutting in the film between shots of Grace, of Kidman herself, and "a mix" of the two; something, I have to admit, that completely passed me by.

Maybe there are hidden depths here after all? Is this a subtle endorsement of Monaco's tax system? "I understand you thinking that, but I'm not pro-Monaco, pro-banker or whatever. I'm pro-woman. I'm not against Monaco – I'm just not interested in it. I'm interested in an actress who became a princess, and then was almost trapped in that, losing maybe the best part of herself. I'm on the artist's side, not on the political side or the principality or the royalty. I am only on the side I understand."


Olivier Dahan: 'I don't read the Grace of Monaco critics'
May 29, 2014 The Guardian
http://www.theguardian.com/film/2014/may/29/olivier-dahan-grace-of-monaco-nicole-kidman-cannes-film-festival



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VSOP

 1月11日、蔵開き。
 ヤッホー君も今朝早くから、自分の山荘の蔵を開けて探し物。
 VSOP (‘Very Superior Old Pale’)、zorozoro ぞろぞろ。
 Vanity (‘too much PRIDE in yourself,so that you are always thinking about yourself and your appearance’) のV、
 Stupidity (‘behaviour or actions that show a lack of good sense or good judgement’) のS、
 Omission (‘the act of not including or not doing something’) のO、
 Pretension (‘an attempt to seem richer, more important etc than you really are’) のP !
 ね、VSOP でしょ。
 ところがさすが、冲方丁!
 偽物、まがい物、似た者とは違う、本物の VSOP !

 ――貪欲な挑戦意欲というのは、どこから生まれるのでしょう。
 冲方 僕の中に、「VSOP」というテーゼがあるんですよ。
 Variety(バラエティ)、Specialty(スペシャリティ)、Originality(オリジナリティ)、Personality(パーソナリティ)をそれぞれ伸ばしていかないといけないという。
 「バラエティ」はいろんなジャンルに挑戦することで、『天地明察』を書きはじめたころはたぶんこの時期だったんでしょう。
 アニメの仕事ばかりやっていたころは「スペシャリティ」で、一つのジャンルをとにかく掘り下げていました。
 「シュピーゲル・シリーズ」でクランチ文体を使ったのは「オリジナリティ」を追求していたからで、どんなジャンルを書いても失われない僕らしさ、というものはやはり必要だと思ったんです。
 そんなふうに創作経験をしていくことによって、僕自身の日常生活も形づくられていきます。
 本屋大賞を受賞して取材ばかり受けていたころは、いきなりニュース番組のゲストに呼ばれてコメントを求められたりもして、ひたすら「パーソナリティ」を鍛えられていました。イベントに参加することで作家としての顔が形成されていくこともあります。
 この4つを一つずつ繰り返し伸ばしてくというのが目標ですね。


 ――お話を聞けば聞くほど、そのストイックさに感銘を受けるばかりなのですが。何が冲方さんをそこまで駆り立てるんですか。
 冲方 定期的に起きるんです、そういうムーブメントみたいなものが。
 衝動的に「このままじゃだめだ」と叫び始める“部署”のようなものが僕の中にあるんです。
 それはたぶん、世の中が動いているところに今触れておかないと自分自身を新しくする機会を失うんじゃないかという危機感のようなものだと思います。
 動け動け、今やれ今やれっていうその声が強くなると、他の仕事が手につかなくなっちゃうんですよ。
 しかも、外部の動きに触発されて起きるので、自分ではコントロールできなくて。わずらわしくなって、なくなっちゃえばいいのにと思うこともあるんですが、少なくともこれまでの自分の創作を支えてくれていた感性でもあるので無視できない。ありがたいようで大変迷惑な“部署”なんです(笑)。

(2014年10月6日、表参道にて/取材・文=立花もも、SUGOI JAPAN)
http://sugoi-japan.jp/sugoi08.html

 そうなんです、昨年2014年の暮れのこと:

 12月13日、今朝NHKラジオ第1放送で、作家の冲方丁(うぶかたとう・37歳)さんが、成長することの意味やその手立てについて話しておられた。
 冲方さんは早稲田大学第1文学部中退後(早稲田の中退者には、注目すべき作家が輩出している)、本屋大賞受賞作『天地明察』(2009年)や『光圀伝』(2012年)などの時代小説で著名な作家である。
 彼によると、成長することの意味はVSOPで表現できるとのこと。
 V=バリエーション、S=スペシャリティ、O=オリジナリティ、P=パーソナリティの謂(いい)である。

 V → いろいろなことにチャレンジし、自分のバリエーションを拡げてゆく。
 S → 他のものが入ってこないように、1つのもの(こと)に集中する。
 O → 無数の「ひらめき」を積み上げ検討していったときに生じる、他のものと異なるものがオリジナリティ。
 P → 上記の3つがあっても、人格・精神的なものがなければ十全ではない。数多くの人との出会いをし、人から育ててもらうことによって、人格は高まる。

 さすが、実力作家・冲方丁さんの成長論・VSOP。この「VSOP」には汎用性がありそうだ。

(12月13日付け土佐塾中学・高等学校、富岡校長ブログ「成長する=VSOP」)
http://www.tosajuku.ed.jp/blog.html?division=1&id=606&latest_articles_step=20

 2014年11月13日には「平成26年度中小小売商業活性化フォーラム」があり、そこで冲方丁さんは講演をしていますが、それに出て感想を次のように深く述べたファンの方もいらっしゃいます:

 最後に、冲方先生の考えるリーダーの資質ということで、「VSOP」のキーワードが示された…

 Vは、視野の広さと物事を結びつける力だという。
 渋川晴海の幅広い分野の知見(碁・算術・天文)に支えられた改暦事業の成就に冲方先生が思うところがあったのだろう、冲方先生自身もまた幅広い分野(小説・ゲーム・アニメ・漫画)を経験することを当初目標とされて、実際に多分野で活躍されている。この視点は…特に目新しいことはないが、語感もあるとはいえ、これが最初に来るのはいかにも冲方先生らしい。

 Sで重要なのは、「捨てる」ことだという。
 いかにも冲方先生らしい言い回しで、これにも深く共感する。人の身で全てを手に入れることはできないのだから、手に入れたいものだけを手に入れて、それ以外の可能性は捨てるしかない。それを徹底した人間がS=専門性を獲得する。
 そして、何を選ぶかは「理屈ではない」。自分でそれをやりたいと、そう思った「夢」あるいは内在する動機を信じるしかないのだと。重要なのは、何故それに決めたかという理屈ではなく、自分自身が何をやりたいかと向き合って決めること、そうして一度決めたからには最後まで「ぶれずに・あきらめずに」やり切るより他にないということだ。

 Oは独自の発想を持つとのことだが、その内容については敢えて一般的な理解とは逆を行くかのように、コツコツとした努力から得られる小さな気づきの積み重ねこそがオリジナリティなのだという。この辺りから時間が無くなって飛ばし気味だったので詳しい説明を聞くことはできなかったが、成功だけしているよりも、失敗の積み重ねがオリジナリティを形作る、という意味合いのことを語られていたように思う。

 Pについて。ここについては飛ばし気味だったことに加えて私の理解が及ばない部分もあったので私自身でもまだ整理できていない。将来理解できる日が来るかもしれないので、取り敢えずそのままメモとして残しておく。
 P=パーソナリティ、すなわち魅力的な人間性とは、個人の内側の精神性に加えて外部の状況認識、誰が何のために動いているか知っていることが重要なのだという。そうして外的状況を理解した上でビジョンを示すことで人が集まるのだと。
 もう一つ、「隣人を愛せ」ということも語られていた。他者と戦ってお互いに疲弊するのではなく、お互いが得をするように持っていくことが求められる、と。

(2014年11月13日20:38更新W175 N57、擬装鏡面という殻を被ったある男の心の叫び…なんて大げさなものではないただの不定期更新手記)
http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52178375.html

 ヤッホー君、入所中は昼夜を問わず見回りに来て監視されていますので、コニャックが飲めず禁酒!
 しかし代わりに酔いしれていたのが、冲方丁さんの次の2冊。
 今日の蔵開きにそれを思い出しつつ、蔵出しとします:

 ☆『光圀伝』(角川書店、2012年、初出は「小説野生時代」2011年2月号〜2012年8月号)
 ☆『はなとゆめ』(角川書店、2013年、初出は「学芸通信社の配信により岐阜新聞、愛媛新聞、福井新聞、デーリー東北、福島民報、秋田魁新報、新潟日報の7紙に2012年12月〜2013年10月の期間、順次掲載し、出版に際し加筆修正したもの)



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2015年01月10日

冲方丁

 1/16(金)17:10の回上映後イベント、ゲスト:舩橋淳(監督)最終日舞台挨拶(10分程度)
http://www.mmjp.or.jp/pole2/

 来週の金曜日が最終日って、どこで何の映画?
 いったい、ヤッホー君、イマまでずぅ〜っと、ブログという名の日記を怠けていて、再登場のご挨拶はすんだの? もう、プン、プン
 え〜とね、今日のお昼、おかげさまで無事に出所できまして、入所中のご支援ご協力のほどあつく御礼申し上げました。
 え〜とね、入所中、差し入れしていただいた本2冊を読了、この作者が冲方丁(うぶかた・てい、1977年生まれ)!
 この作者がですね、映画『フタバを遠く離れて』(2014年公開)の映画監督とトークイベントを「座・高円寺」(杉並区高円寺北2-1-2 Tel 3223-7500)で行なっておりました:

 冲方丁さんx舩橋監督(注1)対談@座・高円寺:
https://www.youtube.com/watch?v=w8wk1Sn9k3I

 映画の予告編は、次の公式サイトでご覧になれます:
http://www.nuclearnation.jp/jp/part2/

 ヤッホー君がいつも頼りにしている映画情報サイト「シネマトゥデイ」でも:
http://www.cinematoday.jp/movie/T0019534 

 この映画上映が「ポレポレ東中野」(中野区東中野4-4-1/ポレポレ坐ビル地下/Tel 3371-0088)では年を越してなお、来週金曜日まで延長されていたのです!

 ところで、入所中に2冊も読んでいたという冲方丁さん(注2)、フクシマ(注3)とどういう関係にあったんかという謎解きが今日のヤッホー君の主題!

 福島市の自宅寝室で、執筆の合間に仮眠していた時、大きな揺れに襲われました。無防備な状態だったので大変な恐怖を覚えましたが、自宅にいた妻も、幼稚園にいた4歳の長男も無事でした。
 地震発生から数日たち、福島市内では食料もガソリンも確保できず、これまで全く考えたこともない放射能汚染にも強い不安を感じています。
 福島市では、車が使えないと移動手段がかなり限られます。私の車のガソリンは既に底を尽き、近所の店には食料がほとんど入ってきません
 福島原発では爆発が起き、放射能汚染への不安も高まる一方です。自治体などから注意喚起はなく、テレビやラジオの情報だけに頼っています。原発から20キロ圏内だけでなく、少なくとも100キロ圏内の住民には確かな情報を提供してほしい。
 このままでは、仮に放射能汚染が広がっても、徒歩でしか他の地域へ避難することができません。政府には水や食料に加えて、ガソリンの補給も早急に始めてほしいと強く願っています。
 市内では断水が続いていますが、給水車から水の補給は受けられます。でも家族3人の食料は残り2日分しかなく、自治体などからの援助も受けられるか分かりません。
 今の状況は絶望的です。
 でも近くには家族と知人がいて、希望を持てるということが唯一、何よりの救いです。
【うぶかた・とう】1977年岐阜県各務原市出身。小説「天地明察」で本屋大賞。

(2011年3月15日付け岐阜新聞「ガソリン、食料なく不安。作家冲方丁さん、福島で被災)
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/2011/shinsai/shinsai20110315_7.shtml

 そう、そう、被災者のおひとりだったのです!
 それでどうしたか、と言いますと:

【池田】昨年の吉川英治文学新人賞や本屋大賞を受賞した作家の冲方丁さん(34)が、東日本大震災で被災した福島市の自宅から一時避難し、母親と妹夫婦が暮らす池田町に滞在している。震災4日後の15日にタクシーで出発し、山形県米沢市、新潟市を経由して十勝入りした冲方さんに、被災時の状況や原発事故に思うこと、復興への考え方などを聞いた。

− 避難を決めたのは。

 とにかく無事な場所にと考えた。従来の災害は復旧を目指し、被災地周辺にとどまって救助を待つ「待機」が大前提だった。今回は被災地に1人でも人が多いほど物資が足りない速度が速くなると感じた。タクシー会社があと2日は動くと情報を得て、15日深夜0時に出発した。米沢でも瞬く間にガソリン不足になり、被災地周辺から物資が減っていくのを実感した。原発、物資不足と目に見えないものに襲われている感じだった。確実に生活、健康が脅かされていった。

(2011年3月27日14時44分更新十勝毎日新聞社ニュース「作家冲方丁さんが一時避難」)
http://www.tokachi.co.jp/news/201103/20110327-0008498.php

 タクシーで福島から脱出、北海道池田町へ。
 3ヶ月後、こんな感想を漏らしています:

 避難することに対して、現場ではいろんな意見がありました。避難する人を逆に非難したり、避難する人も罪悪感を持っていたりという状況でした。
 なぜ、こんな意識が生まれるのか考えてみると、日本人独特のコミュニティー意識にたどり着きました自分がコミュニティーに帰属しているという気持ちが日本人の常識になっています。
 海外でも報道されましたが、コミュニティー意識がいい方向に働いた例として高潔な行動や、略奪が起こらなかったことがあります。
 物流の回復度も早く、強じんでした。郵便配達網は震災直後に機能していました。被災者が郵便物を届けていました。自宅が崩壊しているにもかかわらずです。各地でも同じ状況でした。組織に帰属していることで、帰属しているものを誰に命令されなくても自然に守る人が多いということです。コミュニティー意識は災害に強いと感じました。
 一方で悪い方向に働くことも。ある避難所に複数のコミュニティーから人が集まると、コミュニティー意識が分断され、協調性のない避難所が出来上がります。治安の悪い避難所になることもあります。コミュニティー意識を見失った結果、同じ日本語なのに意思疎通ができず、ストレスがたまり、復興への支障になっています。
 義援金をめぐっても被災者の怒りがむき出しになっています。受け入れる市町村は管理機能を失っていることが多く、そんなひどい市町村を早く支援すべきなのに、被害が軽微な市町村を優先する状況があります。募金が必要じゃない場所に募金がいってしまうという矛盾はとても納得できないことです。

(2011/06/11付け北海道新聞帯広支社、道新十勝政経懇話会「東日本大震災後に書くということ」=5月25日、ホテル日航ノースランド帯広)
http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/kotoba_file/20110611.html


 
(注1)
 福島第一原発事故の影響で、埼玉県に避難した福島県双葉町民の生活に密着したドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」の続編「フタバから遠く離れて 第二部」が、今年2015年2月開催の第65回ベルリン国際映画祭フォーラム部門招待作として上映されることがわかった。
 舩橋淳監督はこれまで「ビッグ・リバー」(2005)、「谷中暮色」(2009)、「フタバから遠く離れて」(2012)、「桜並木の満開の下に」(2013)がベルリンで上映されており、今回で5作連続上映という快挙を成し遂げた。
(2014年11月30日7時0分 映画.com)
http://news.livedoor.com/article/detail/9522770/

(注2)
ヤッホー君のこのブログ、2014年12月3日付け日記「小石川後楽園」を参照。

(注3)
ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記を参照
☆ 2012年2月27日「福島県双葉町」
☆ 2014年5月10日「堀切さとみ」
☆ 2014年10月23日「何とか実情を多くの人に伝えたい」
☆ 2014年11月17日「日本と原発」
☆ 2014年11月19日「チェルノブイリハート」


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2015年01月05日

映画『パーフェクト・センス』

 映画『おかえり、はやぶさ』は2012年3月10日に公開されています。
 2003年5月9日、内之浦から打ち上げられ、2005年11月に小惑星イトカワへのタッチダウンに成功。その後幾多の苦難を乗り越え、2010年6月13日、試料の入ったカプセルを予定通りオーストラリアの砂漠に戻し、「はやぶさ」は燃えつきてしまう、という感動的な映画でした(注1)。

 この映画の2ヶ月ほど前、3年前の2012年1月7日にロードショーされたイギリスはBBCフィルムの映画がありました
 それを2015年お正月、ホームシアターで鑑賞した、とこういうわけです。

 人間に備わる五感を奪う謎の感染症がまん延し、人類存亡の危機に陥った世界を舞台に、危機的な状況下で巡り合った男女の恋の行方を描く恋愛ドラマ。
 主演は『ムーラン・ルージュ』などイギリスきっての実力派俳優ユアン・マクレガー、彼と恋に落ちる科学者に『007/カジノ・ロワイヤル』のエヴァ・グリーンがふんする。
 監督は、『猟人日記』でもユアンを主演に迎えたデヴィッド・マッケンジー。
 世界を舞台にした壮大なストーリーと、愛の意味を問う人間ドラマを融合させた斬新な映像世界が異彩を放つ。
(シネマトゥデイ、映画『パーフェクト・センス』)
http://www.cinematoday.jp/movie/T0011362

 では予告編でどうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=W-xU0nBYgJk

 どう評価された映画だったかといいますと、ロンドン、そしてニューヨークから3本、以下にご紹介します:

This apocalyptic sci-fi thriller is set in Glasgow where, as in the rest of the world, a series of mysterious plagues is successively depriving people of their senses – first smell, then taste and so on. The events are experienced by a chef (Ewan McGregor) and an epidemiologist (Eva Green) who find love among the ruins.

Each loss is followed by despair and chaos, before society recovers its composure and goes on. Is it due to environment? Or terrorism? Who knows? One thinks inevitably of Camus's La peste. It's a haunting picture, atmospherically photographed by Giles Nuttgens.

Sunday 9 October 2011 The Guardian
Philip French
Perfect Sense – review

Susan is a scientist. Michael is a chef. He takes a break from the kitchen heat in the alleyway below her apartment; she smokes a cigarette at the window above. He calls up for a light - the first spark in their passionate affair.

But the world is about to change dramatically. As love turns Susan and Michael's lives upside down, people across the globe begin to experience strange symptoms, which first effect the emotions then the senses, one by one.

Everything changes. But people laugh, they cry, they eat and drink, they go about their daily business. They adapt, they change, they cope, they live and they love - because life must go on. And so it does.

Perfect Sense Synopsis
http://www.bbc.co.uk/bbcfilms/film/perfect_sense

There is also an epidemic sweeping Scotland that leaves its victims unable to smell−a mysterious virus spreading grief and fits of sobbing. Mr. McGregor is Michael, a scruffy Glasgow chef who falls for Susan (played by professional sexpot Eva Green), a neurotic epidemiologist whose apartment overlooks the alley behind his restaurant where he goes to chain smoke endless unfiltered cigarettes. The plague spreads throughout the world, but these two seem oblivious to the calamity going on around them. Instead, this loopy couple indulges in binges of sex, giving the two stars ample opportunity to cavort around in the buff, which both of them have had plenty of experience doing in other films. Cut from the same bolt of plague-genre sci-fi fabric as François Mireille’s Blindness and Steven Soderbergh’s Contagion, it’s another yawn in a line of cautionary tales designed to scare the living daylights out of us every time we sip a glass of tap water.

Nothing is ever explained about the cause or origin of the deadly disease, which is called S.O.S. (sensory olfactory syndrome) because it begins with the nose before it eventually destroys all five senses. The pestilence goes global, spreading chaos, rage, hate and violence; the streets become battlegrounds and turn into vacant lots of abandoned cars (all relayed on TV news footage). By the time it attacks the taste buds, people go crazy with hunger and start devouring everything from raw animals to tubes of lipstick. If the customers can no longer tell the difference between lamb chops and Ajax, you can imagine the toll this takes on the restaurant business. As food becomes a distant memory, life goes on, making way for new sensations. Michael’s job goes down the drain, but not to worry. The lovers just get naked again, retire to the bathtub and eat the soap.

Deafness is next and the screen goes silent (not nearly as much fun as The Artist). By the time blindness set in, I had beaten them to the punch and stopped watching already.

New York Observer
http://observer.com/2012/01/perfect-sense-ewan-mcgregor-rex-reed-eva-green-david-mackenzi/

 今日からヤッホー君、体内にできた砕石手術のため入院、しばしブログをお休みにするということです。
 どちらさまもお体お大事にお過ごしください。
 
 はやぶさ探査機も10年前の2005年12月、地上の管制センターとの交信が行えない状況に入っていました…(注2)
 復旧するときまでごきげんよう…



(注1)
 ヤッホー君のこのブログ、次の日づけの日記を参照:
2011年8月14日「はやぶさ」
2011年8月15日「清水機械」

 ヤッホー君はまた、2014年3月27日に日比谷図書文化館で行なわれた勉強会に出て、講師の山根一真先生のサイン入り本まで購入しています:
…山根一真『小惑星探査機はやぶさの大冒険』(マガジンハウス、2010年)
 ちなみにこの本は、映画『はやぶさ 遥かなる帰還』(東映60周年記念作品、2012年2月11日公開、監督:瀧本智行、主演:渡辺謙)の原作となっております。

(注2)
小惑星探査機はやぶさ2の探査の旅が始まりました。目的地は、地球と火星の間にある小惑星1999JU3。今は地球に近い太陽を回る軌道を飛行中。大きな感動を呼んだ「はやぶさ」の弟分「はや2(ツー)くん」の大航海。2020年の帰還まで、はや2くんの挑戦を紹介していきます。
(毎日新聞応援ページ)
http://mainichi.jp/select/science/hayabusa2/

JAXAでももちろん、特設サイトも設けております:
http://fanfun.jaxa.jp/countdown/hayabusa2/

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2015年01月04日

ペンシルロケット

 1月4日日曜日。
 2015年はふしめだ、節目だ、と言われるとヤッホー君、つい節々が痛くなっている体をかばうように、伏し目がちになって節穴から覗き込んだ毎日新聞の今朝の朝刊。
 やっぱり:

 関西電力、中国電力、九州電力、日本原子力発電は、2016年7月時点で40年の運転期限を超える原発5基の廃炉に向け、月内にも立地自治体の理解を得るための協議に入る。

 あっ、これは昨日付けでしたっけ。
 40年で老朽廃炉!その後、廃炉ったって灰色、建て替えにするんでしょ、金づるだもん、いのちより大事な拝金シュギシャどもがうようよだもん…

 京都市では1954年以来61年ぶりに積雪が20センチを超える22センチの大雪に。

 安倍晋三首相は終戦記念日の8月15日に戦後70年談話を出す考えを表明した。談話作成にあたっては有識者会議の議論を踏まえるという。
 首相に近い自民党の萩生田(はぎうだ)光一総裁特別補佐(注1)は「70年という大きな節目の年を日本の名誉回復元年にすべきだ」と主張している(『正論』2月号)。首相自身も「侵略の定義は定まっていない」と述べて物議を醸したことがある。
 安倍首相の周辺には、戦前への反省を「自虐史観」と排する人が少なくない。こうした考え方は、日本が少しずつ積み重ねてきた「和解」への努力を踏みにじるものだ。

(毎日新聞「社説」戦後70年・歴史と政治 自分史に閉じこもるな)(注2)

 この国の英知、叡智を集めるのでなく、相変わらず、閣議決定とか、有識者会議とか、右よ右よ身内だけの、自分だけの世界で「この道しかない」とクルクル同じうその道をはしゃぎ回り、有権者の24.7%の得票しか得ていないのに68%の議席を占有し、「圧倒的勝利」とマスゴミから真逆におほめの「言葉」をいただき、福島原発は「アンダーコントロール」」と真逆に「言葉」を操作し、道連れになるのはごめんだと叫んでいるにも関わらず、1985年、30年前の日航機の操縦不能、ダッチロール、アンコントールに陥る暴走を続けています。

 50年前のことが抜けていますね、1999年12月11日付け毎日新聞夕刊(扇沢秀明記者)から:

 1960年代後半から70年代前半にかけてベトナム反戦運動を展開し、市民運動に大きな影響を与えた「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)の各種資料がこのほど、元べ平連事務局長の市民運動家、吉川勇一さん(68)から埼玉大経済学部社会動態資料センター(浦和市)に寄贈された。
 吉川さんは「わら半紙のビラは劣化が進んでいる。資料の保全が必要だと思った」と話している。
 資料は段ボール箱27箱分、べ平連が発行した「週刊アンポ」や、全国各地のべ平連が作ったビラ、哲学者、鶴見俊輔さんのノート、アメリカの言語学者、ノーム・チョムスキーさんの手紙など。べ平連が65年11月に米紙「ニューヨーク・タイムズ」に反戦意見広告を出した際、資金集めをした作家の故・開高健さんに寄せられた手紙もあり、吉川さんは「開高の呼び掛けにどう反応したか、当時の日本人の心境も分かると思う」と振り返る。
 米国の反戦フォーク歌手、ジョーン・バエズが参加した集会の写真や録音テープ、脱走米兵援助グループ「ジャテック」の脱走米兵へのアン一ケート、在日米軍基地の地下反戦兵士組織の機関紙などもある。
 上井喜彦センター長は「べ平連は回顧ではなく、現代史、市民運動論の対象として研究されるべきだ。ビラやチラシなどは散逸しやすく、大変貴重だ」と話している。同センターは来春、シンポジウムを計画している。

…ベ平連の資料を寄贈、吉川元事務局長が埼玉大経済学部へ

 その1965年から10年たった、1975年、南ベトナムの大統領官邸は南ベトナム解放民族戦線によって占領されて、10年続いたベトナム戦争はやっと終わりを告げたのです。

 ヤッホー君、このお正月、ホームシアターで映画を2本観ていました。
 一本目は映画『おかえり、はやぶさ』(松竹、監督:本木克英、2012年3月公開)。
 監督は『釣りバカ日誌』シリーズなどで知られています。出演は藤原竜也、杏、三浦友和。
 予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=w320Ba3Ls_A(注3)
https://www.youtube.com/watch?v=leTIE4TgkLE

 そうです、”1955年体制”とか言われたあんころ、イトカワ博士が:

 糸川英夫(1912-1999)は、1954年、東京大学生産技術研究所内に航空工学、電子工学、空気力学、飛行力学などの分野の研究者を集め、本格的に日本のロケット研究をスタートさせました。
 1955年のペンシルロケットの水平試射に始まった日本の宇宙開発は、…

(日本の宇宙開発の父、糸川英夫、生誕100年記念サイト)
http://www.isas.jaxa.jp/j/special/2012/prof.itokawa/

 もう一本の映画は…後で。



(注1)
 萩生田光一総裁特別補佐は51歳。自民党東京24区支部長(八王子市)、自民党副幹事長、衆議院議員(4期目)。
http://www.ko-1.jp/

(注2)
平成27年
本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。
(天皇陛下のご感想、新年に当たり)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h27.html

2014年12月25日付け毎日新聞【扇沢秀明記者】
戦争体験のない人でも2人に1人が体験談を聞いていることが、毎日新聞社と埼玉大学社会調査研究センターが行なった時事問題世論調査「日本の世論2014」で分かった。20代は6割が体験談を聞いたことがなかった。日本の人口の8割は戦後生まれになり、来年は戦後70年。戦争体験の継承の仕方を考える時期にきている
http://sp.mainichi.jp/select/news/20141225k0000m040131000c.html

(注3)
 今年はじめ、1日放送の「朝まで生テレビ!元旦スペシャル」(テレビ朝日系)に、テレビで慶応大教授でパソナ会長の竹中平蔵氏、またまた日本の「ええ加減知」を代表する発言をし、今度は「正社員をなくしましょう」という言葉を発したそうです。

『株式会社パソナグループは人材派遣を事業とする株式会社パソナを中核とするグループ企業の持株会社です。派遣会社は、正社員が派遣社員に置き換わった方が派遣する労働者が増え、より多くの中間マージンを得ることができ、いっそう儲かるという構造があります。したがって、竹中氏の頭の中には、派遣会社であるパソナグループがもっと儲かるにはもっと派遣社員が増えた方がいい、という基本認識があります。
 元来、派遣という雇用形態は、賃金の中抜き(中間搾取)や雇い主の責任が曖昧となることなどから厳しく規制されていた働き方でした。それが1985年に派遣法が成立し、大幅な規制緩和をし続け、今に至っているわけです。この派遣法を改正してさらに規制緩和しようという議論に、派遣会社の取締役会長が加わっているのですから、利益相反は誰の目からも明らかです。政府も利益相反なのだから選ばなければいいのにと思いますが、何故か彼は選ばれ続けます。そして、彼自身も辞退をしません。
 この点で、彼を政商と指摘する声もあります』
(2015年1月4日0時5分、弁護士・佐々木亮、ブラック企業被害対策弁護団代表)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sasakiryo/20150104-00041997/

 この政商については5年前、2010年12月、佐高信『竹中平蔵こそ証人喚問を』(七ツ森書館)が出版されていました:

『小泉純一郎元首相の下、偽りの「構造改革」を掲げて、日本をメチャクチャにしたからである。しかも、それを恥じるどころか、『「改革」はどこへ行った?』(東洋経済新報社)などという本を出して、さらに「改悪」を続けようとしている。竹中を証人喚問すべきだと思う理由は主に三つある。
 一つは木村剛を金融庁の顧問にし、彼が会長となった日本振興銀行が破綻したのに、その責任を問われてコメントを回避していること。
 二つ目は、郵政「民営化」にからむ「かんぽの宿」のオリックスへの払い下げ問題。
 そして、三つ目が逃税疑惑%凾フ個人的な問題である』
http://pen.co.jp/index.php?id=586

 さらに以下2014年6月6日付け日刊ゲンダイの記事も参照:
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/150778/1


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2015年01月03日

日本民話の会

 昨日付けた日記「岡本太郎」の続き、です。
 「狐火」というラッパーをご存知ですか:

 僕、「狐火」っていう名前で、ミュージシャンと言っても、歌が下手なんで、詩の朗読を、簡単に言うと音楽に乗せて、リズミカルにやる感じのパフォーマンスだと思ってもらえたらと思います…
 1曲目が、僕今29歳なんですけど、27歳、2年前に正社員になろうと思って面接をたくさん受けまして。それまで僕はアルバイトだったり派遣社員だったりで、ずっと、22歳の時に大学を卒業して一回就職した以降はずっとアルバイトと派遣社員でいろんな仕事をしながら、音楽を続けてきたんですけど、27歳の時にそろそろ、実家の母親とかも心配するから、正社員になろうと思って、大学卒業から5年ぶりに就職活動を始めまして、5年ぶりに面接を受けたら、「今まで何をしてきたんですか」っていうのを一番よく聞かれるんですよ。
 今まで何をしてきたのかと言われると、僕は、履歴書上で今まで何をしてきたかを証明できるものは何もなくて、資格も何一つ持っていなくて、自動車の免許しか持っていなくて、でもそれも18歳の時に取った時の免許で。面接が全く受からなくて、落ちて落ちて、もう駄目だと思った時にすごく悔しくて作った曲で、この曲は、僕のことを不採用にした面接官のメールアドレスにmp3のデータで貼り付けて送り返してやったんですよ(笑)。そしたら、受けた会社の方が、「不採用者からウイルスが届いた」っていうことで、一悶着あって(笑)、でも、一悶着を乗り越えて僕は、結果この曲で3枚目のアルバムを出せたので、一悶着も良かったなと思えました(笑)。では、とりあえず一曲、聞いてみてください

 「27才のリアル」:
https://www.youtube.com/watch?v=tmJBGEFXOvU

 言葉についての話が出ていますが、一番やっぱり怖いのは、風化させるというか、なかったことにするという考えだと思っていて、逆に言葉を生み出す起爆剤というか、装置みたいなものもすごく大事だと思うのですよね。今の時期、特に。
 狐火さんも、そうやって言葉を生み出して残していかれたことによって色々な人のイメージを生み出されてきたと。

(福島大学の渡邊晃一先生、シンポジウム「アートにできること、できたこと」〈ボイスリライト〉)
http://www.aizu-artfest.gr.fks.ed.jp/eventreport/pdf2012/1117dekirukoto.pdf

 はい、今日も渡邊晃一先生に繰り返していただきたいのです。このシンポジウムで先生は:

 先にお伝えした「風と土の芸術祭」のなかでも、この言葉は使っておりますが、空や風というのは、流れ行くもの。鯉のぼりにも象徴されます。
 一方、土というテーマは、農業や土地、ひとつの歴史を作ってきた地域の文化と関わるのではないでしょうか。私たちは言葉として、文化と文明という言葉を、混在させて使っていますが、文化 culture は農業
agri-culture と結びつく一方で、文明は civilizaion、都市化 city を語根にしている。
 町を活性化させると言った時に、それは東京にあるものを福島に持ってくれば活性化するようなイメージとは違うはずです。文明開化が「西洋化」を意味したり、啓蒙が「光をともすこと」であるように、文明は単一の空間を作ること、同じ照度や温度の環境を作ることという、電気との関連で出てくる言葉ですね。
 私たちは美術を行なっていくなかで、文明としての美術ではなくて、文化としての美術を、福島に住んでいる人間としていかに繋げていけるかを考えながら、こういう現代美術のイベントをこれからも続けていかなければならないと考えています。


 風に吹かれ、土に触れ、人と繋がること、ですね。
 言葉を生み出すこと、言葉を繋いでいくこと、ですね(注1)。
 2015年正月早々、キーワードがお屠蘇のように五臓六腑に浸み渡っていきます。

 師走の最後の日曜日、山歩クラブは「岡本太郎美術館」から「日本民家園」に入りましたが、いまそれを想起しているのです。
 「日本民話の会」の皆さんが、古民家の囲炉裏を囲んで、ムカシ話しを語ってくださるのを聴いていたのです(注2):

日本民話の会.jpg

いろり火.jpg

 「日本民話の会」では今月、「エコギャラリー新宿」(新宿中央公園内 Tel 3348-6277)でもいろんなムカシ話しをしてくださいます:
http://homepage2.nifty.com/minwadata/top.html

 「貧乏神」については、パソコンで東京都西多摩郡檜原村にすむ藤原ツヂ子さんの語りが聞けます。

 ツヂ子さんは、1923(大正12)年、檜原村の茗荷平に生まれました。
 戦前まで炭焼きを生業とした山深い村で、夜はランプのもとで話を聞くのが何よりの楽しみだったそうです。
 猟師だったツヂ子さんの父は山で出合った不思議な話、怖い話を毎晩のように語って聞かせてくれました。
 そのほか、地続きの小河内出身の母や、同じ茗荷平出身の祖母や馬方をしていた祖父も不思議な体験談などをツヂ子さんに語ってくれたそうです。

 では「貧乏神」をどうぞ:
http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/MinwaDB/katari/Fujiwara/IndexFujiwara.html

 また、専修大学、この大学の生田キャンパスは日本民家園のすぐ近くにありますが、文学部教授・樋口淳先生は「日本民話の会」運営委員をつとめておられます:
http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/



(注1)
 「70年前の1945年は、海軍の千歳基地(北海道)で、特攻要員として訓練に明け暮れていた。元日だけは訓練が休みになったけど、正月の祝いとかはなかったな」
 … 終戦からほぼ1ヶ月後、着の身着のまま横浜の自宅に戻り、おそるおそる家の中をのぞいた。「生きている、生きている」。母が素足のまま飛び出して来た。終戦の混乱で連絡を取るすべはなく、特攻に出たものと思われていた。信太さんは19歳だった。
 … 日本航空を60歳で定年。当時、逗子市では米軍住宅の建設問題で、賛成か反対か、市を二分する争いになっていた。ある日、反対派が訪ねてきた。それをきっかけに、平和活動に身を投じた。2000年に「戦争屋にだまされない 厭戦(えんせん)庶民の会」(*)を組織し、年2回の会報を出している。
<略歴>しだ・まさみち 1926年生まれ。神奈川一中から海軍兵学校へ。戦後、京都大卒業。50年海上保安庁に入り韓国沿岸の掃海にも参加。海上警備隊を経て、航空自衛隊のパイロットに。58年日本航空に入社、63〜86年機長。「戦争屋にだまされない 厭戦庶民の会」(*)の代表。
(*)http://www.ensenshomin.org/index.html
(2015年1月3日付け東京新聞神奈川版【草間俊介記者】平和って、その2「体験 語るのが任務元特攻隊員 信太正道さん(88)」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150103/CK2015010302000111.html

(注2)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記を参照:
2013年6月2日「日本口承文芸学会」
2013年9月7日「市川市文学ミュージアム」
2013年9月16日「久慈市小袖海岸」

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2015年01月02日

下町気分でお正月

 清澄庭園「下町気分でお正月」!
 ときちゃあ、矢でも鉄砲でも持ってきやがれってんだ!べらぼうめ!!
 すいと勇んで立ちあがったヤッホー君、まずは庭園ガイドボランティアの案内で、園内散策!
 それがまた面白い話をしてくれやんしてね、ムカシ、清澄公園と清澄庭園(注1)がこう、つながっていたころの時分だ、清澄公園にゃ、岩崎彌之助深川別邸と言ってた「西洋館」があってな、そこで結婚式をあげたのが、岩崎彌太郎の嫡男 久彌の娘、岩崎美喜(1901-1980)って、ガイドさんは写真まで見せてくれた。
 相手はこの国の国連加盟に尽力した外交官の澤田廉三(1888-1970)だ、と。

 初代国連大使、澤田廉三と美喜の時代
 今日10月17日は、日本初の国連大使、澤田廉三(さわだれんぞう)が1888(明治21)年に鳥取県岩井郡浦富村(現岩美町浦富)で生まれた日です…
 澤田廉三は、鳥取中学(現鳥取西高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学フランス法律科に進学し、成績優秀で卒業後の1914(大正3)年、外交官試験に首席で合格します。
 外務省入省後、数々の国際会議に出席して活躍する中、三菱財閥3代目、岩崎久弥(いわさきひさや)の長女美喜(みき)と結婚。アルゼンチン、中国、イギリス、フランス、アメリカ等の諸外国に赴任しました。
 戦時中には初代ビルマ大使と外務次官を歴任。これは外交官の先輩で当時の外相、重光葵(しげみつまもる)の要請によるものとされています。
 戦後、一時期公職を追放されますが、吉田茂首相から国際連合加盟という重要な任務を命じられた廉三は、1953(昭和28)年に初代国連大使に任命され、渡米します。当時の日本は、ソ連の拒否権発動により国際連合への正式加盟が認められていませんでした。このため、廉三は諸外国とのロビー外交や水面下での接触を行ないます。
 趣味の俳句を日記に近い形で詠み、生涯に1万数千もの句を残した廉三ですが、この時期は一句も作られることがありませんでした。国連加盟のために全精力を注いでいたことが伝わってきます。廉三が大使を辞した直後の1956(昭和31)年、日本は国連加盟を果たします
 一方、妻の美喜は1948(昭和23)年に神奈川県で「エリザベスサンダースホーム」を創立します。ここで占領軍兵士と日本人女性との間に生まれた混血児の保護・養育に生涯を捧げました。戦中の混乱期を除いて廉三の赴任に常に同行していた美喜が、在英時代にボランティアとして関わった孤児院で感銘を受けたことが、ホーム創立のきっかけとなったと言われています。
 戦後間もない日本では孤児に対する偏見や差別が強く、ホームの経営に苦労したようですが、美喜は外交官夫人時代に築いた人脈や持ち前のねばり強さで困難を克服します。エリザベスサンダースホームからは約2千人もの孤児たちが巣立ちました

(鳥取県公式サイト、2008年10月14日付け「きょうの鳥取県」第687号)
http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/687_1.htm

 「エリザベス・サンダース・ホーム」(神奈川県中郡大磯町大磯1152 Tel 0463-61-0007):
http://www.elizabeth-sh.jp/

 『赤毛のアン』の原著本はカナダの女性作家ルーシー・モンゴメリーの Anne of Green Gables であり、この本のカナダでの初版は1908年です。『赤毛のアン』と題されたこの本は村岡花子が太平洋戦争中に翻訳完了し戦後、1952(昭和27)年に当時の三笠書房から出版され、戦後の児童、女性を中心にベストセラーとなりました。
村岡花子は1893(明治26)年に山梨県で生まれ、2歳で洗礼を受け、5歳で一家そろって上京。10歳の時にカナダメソジスト派が設立したミッションスクール東洋英和女学校に給費生として入学。成績優秀(特に英語は一番)で20歳で卒業。その後、山梨英和女学校に英語教師として赴任します。
 この時期、卒業の前後に東京でのボランティアー活動中に東京帝大生の澤田廉三と出会います。二人は親しい友人としてお付き合いがあったようですが、澤田は将来外交官になる志を持っていて、また、花子は卒業後、村岡家の長女として一家を支えていく状況にありました。花子にとって、澤田は“初恋”の相手ではありましたが、澤田の外交官試験合格、そして、フランス駐在赴任をもって二人は別々の人生を歩むことになります。
 『赤毛のアン』の原作本は花子の友人である英国聖公会の宣教師で英語の教師であったミス・ロレッタ・レナード・ショー女史が1939(昭和14)年、太平洋戦争直前にカナダに帰国する時に花子に餞別として贈ったものです。花子はこの原本を戦争中にミス・ショー女史の願に報いるため必死で翻訳し戦後にやっと出版出来たのでした。
 この本の主人公アンは孤児です。しかしアンは明るく、元気に優しい心を持った少女として生きていくのです。このことが敗戦国日本の子供たちに勇気と希望を与え、ベストセラーになったのでした…
 澤田廉三は初代国連大使として敗戦国日本の国連加盟に尽力します。夫人の澤田美喜は戦後の孤児のために献身的に尽力します。村岡花子は「赤毛のアン」で戦後の子供たちに勇気、希望を与えました。
 この3人が戦後に果たした功績は“神”の導きではないかと思います。

(小笠原康起「エリザベス・サンダース・ホームと『赤毛のアン』) 
http://www.elizabeth-sh.jp/hanako.html

 ほらよっと、あまざけにな、なまはげにな、じゃ、ない、ない、「おまけ」に毛が欲しい、おいらのことよ、『赤毛のアン』(注2)の村岡花子(1893-968)までご登壇っていうからこいつぁ〜、正月早々、驚きだねぇ〜おどろき、もものき、さんしょのき、だぁな。
 おいら、まじろぎ、いななき、ためいきついて、てなもんや三度笠!
 イマはない清澄公園の西洋館、そしてエリザベス・サンダース・ホーム、さらに清澄庭園の「涼亭」…

 美喜は戦後の財閥解体により岩崎家の手を離れていた大磯の別荘を金策に大変な苦労をしながら買い戻し、1948年エリザベス・サンダース・ホームと名づけた乳児院を作りました。その後子どもたちの成長に合わせて児童養護施設とし、2千人の子どもたちを育て上げて社会に送り出し、1980年旅先のスペイン・マジョルカ島で急逝するまでの30年間、母として教師として子どもたちの養育に人生の後半を捧げました。
(エリザベス・サンダース・ホームとは)
http://www.elizabeth-sh.jp/esh.html

 美喜の父、岩崎彌太郎の嫡男 久彌は彌之助を引き継ぎ庭園を運営する。
 1909(明治42)年日本陸軍の大演習視察及び伊藤博文国葬の為に来日した英国インド軍総司令官キッチナー元帥を接遇する目的で庭園内に「涼亭」を作った。設計は保岡勝也で大震災にも、戦災にも残り、優雅な姿を今も止めている
(清澄庭園案内/清澄ガイド倶楽部)

http://kiyosumig.exblog.jp/8888919/

涼亭.jpg

 西洋館 Western-style house
 英国人建築技師ジョサイア・コンドル(1852-1920)の設計監理によるもので、1886(明治19)年に着工して1889(明治22)年に竣工しました。
 鹿鳴館時代の建築技術が生かされた建坪782坪(約2581u)で、鋳鉄製テラス、イスラム風ドーム、オランダ風の装飾破風などのデザインを有していました。しかし、1923(大正12)年の関東大震災の際に焼失してしまいました。

…清澄庭園管理所

 清澄庭園にはコンドル condor でなく、庭園の主、アオサギ heron が羽を休めていました。

サギ.jpg

 そして庭園の自由広場では、獅子舞が。

神楽.jpg

 演じてくれたのは「六和囃子響美会(ろくわばやしおとみかい)」の皆さま:

 女の子だけで構成されているお囃子の会です。
 響美会の活動は、江戸三大祭りの一つで、深川・富岡八幡宮例祭の大神輿54基による連合渡御の際の演奏を中心に、年始や祝い事の際の演奏、獅子舞等、多岐に渡る活動をしています。
 その富岡八幡宮例祭に参加する神輿を持つ54の町内会は7つの部会に分かれており、そのなかでも清澄二、清澄三北、清澄三南、白河一、白河二、白河三、 平野一、平野二、平野三、三好一、三好二、三好三四の町内会による六部会の支援によりこの響美会の活動は支えられています。
 この六部から六和囃子との名称が付いています。

(響美会とは)
http://otomikai.x0.com/?page_id=2


(注1)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記を参照:
2010年11月13日「清澄庭園」
2014年2月9日「風がみていた」
2014年2月16日「名残の句」
2014年4月11日「武相荘再訪」

(注2)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記を参照:
2010年4月27日「Anne of Green Gables」
2010年5月3日「父と子」
2010年6月16日「山梨英和学院」



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岡本太郎

 明けて二日目、まだ終わらない、生田緑地のご報告。
 その前に、ふるい人間にはお正月と言えばこのメロディを聴かねばどうも居心地が悪いのです:

 『男はつらいよ』第一作「オープニング」:
https://www.youtube.com/watch?v=fToTDHqEco0

 ところであっちもこっちにも横穴を見つけては騒いでいた山歩クラブ、いったん外にでて東口から入り直し、そう仕切り直しにして、岡本太郎美術館を目指します。

樹霊.jpg

 岡本太郎は、1911(明治44)年2月26日、大貫家にて漫画家・岡本一平、歌人で小説家・岡本かの子の長男として、かの子の実家のある神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)に生まれ、1996(平成8)年1月7日、急性呼吸不全にて死去(享年84)。
http://www.taromuseum.jp/introduction/introduction.html

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 「母の塔」はイマ補強工事中、しかし「太陽の塔」は…:

福島の「風」と文化

問題はいま世界が一般化(ジェネライズ)されているということです。日本で見る光景も、ニューヨークやバンコクもそれほど変わりがない(中略)その虚しさをようやく感じつつあるのではないか」
(岡本太郎『日本再発見』)

日本の土とともに働く者のエネルギーは、黙々と、執拗に、民族のいのちのアカシを守りつづけて来た。形式ではなく、その無意識の抵抗に、私は日本文化の新しい可能性を掴みたい」
(岡本太郎『日本再発見』)

 『日本再発見―芸術風土記』『沖縄文化論―忘れられた日本』『神秘日本』という日本紀行3部作の後、『日本列島文化論』のなかで、岡本太郎は、既成の「日本的」という観念がしみこんだものよりも「日本の中に生きている人間の生活、その喜怒哀楽のすべて、生きる意味」に重点をおいた文化論を展開すべきであると語っていた。
 「文化(culture)」は、耕す、育てる(cultivate)、農業(Agriculture)という語に連なり、「自然に手を加える試み」を示している。その土地の自然、人びとの生活と密接に関わっている。
 一方、「文明(civilization)」は、ラテン語の都市(civis/city)を語根とする18世紀の造語であり、自然(風土や気候)を徹底的に管理、支配し、普遍化へと向かって都市化された状態」を示す。
 「文明」の典型は、クーラーや照明機器で、同じ温度と湿度、明るさを保った空間である。何処にいても同じような「場」を作り出す。季節感も太陽の位置も関係ない。近代以降、西洋ではすべての「未開(uncivilized)」は、文明開花されるべきという前提がある。文明開化はwesternizationであり、啓蒙は、en-light-en という意味をもつ。
 暗黒の世界に「光」が入り、対象が見られ、理解され、所有される。
 原子力発電所は「文明」の象徴であろう。

 「福島現代美術ビエンナーレ2012〜SORA〜」は、2011年3月11日に三陸沖で起きた国内観測史上最大の地震によって大きく予定変更を余儀なくされた。その主旨内容を再起していく上で、新たな基盤を支えたのが、岡本太郎の存在であった。
 実は東日本大震災の最中、東京国立近代美術館では『生誕100年岡本太郎展』が開催されていた。
 岡本太郎は、東北を「縄文の時代を非常に直感的に身にしみてかんじる」場所であり、「日本民族の始源を逞しく彩り、世界的に誇る文化」があると語っていた。
 縄文土器に魅せられ、日本文化の深層を探る旅を行ない、多くの写真資料を遺してきた岡本太郎は、他にも恐山のイタコ、花巻温泉の鹿踊り、出羽三山の修験者、家々に伝わる呪具であるオシラさま等、さまざまな東北の伝統的な習俗について言及している…
 東北には豊かな自然環境や史跡、伝統文化、すぐれた文化人の足跡が多く残されている。しかしながら今回の震災後の報道では、このような岡本太郎の足跡をたどる「文化」の情報はあまり伝わってこなかった
 幾度ともなく、陸前高田の松原の一本松が紹介されてきたが、八戸市の八戸港内、種差海岸からウミネコ繁殖地としても知られている蕪島(蕪嶋神社)、気仙沼の広田湾に面した大理石海岸、南三陸町の歌津総合支所にある魚竜館の話は伝わってこない。
 何度も「石ノ森章太郎記念館」を報道で見聞きした一方で、その向かいにある「旧石巻ハリストス正教会」
の話があげられることはなかった。ハリストス正教会は日本最古の現存する木造教会であり、山下りんの聖画が飾られている…

(福島大学芸術による地域創造研究所所長・渡邊晃一研究ノート「震災後の<文化>と藝術による地域創造」)
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/3761/1/18-185.pdf

「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」岡本太郎は何者?:
https://www.youtube.com/watch?v=VfQ5adBhhUI

「太陽の塔」はいま/大阪府吹田市:
https://www.youtube.com/watch?v=ga99f6UNsY8

 岡本太郎は「文明」に「文化」の側から大きな反旗を掲げたとも言える。
 岡本太郎の代表作に《太陽の塔》(1970)がある。
 日本万国博覧会で主催者側は《太陽の塔》の内側の展示空間に、「人類の進歩と調和」というテーマに基づいて、人類の発展に寄与した偉人の写真を並べる予定であった。しかし太郎は「世界を支えているのは、無名の人たち」といい、世界中の人びとの写真や民具を並べるように進言した。
 太郎が《太陽の塔》に込めたのは、文明の発達や進歩の中で、人びとの生活も豊かになるのに反比例し、心がどんどん不自由になり、貧しくなっていく現代社会への、彼なりのアンチテーゼであった。
 太郎がこの時集めた民族資料は、国立民族博物館の基盤となった。
 太郎は「人類の進歩と調和」というテーマについて述べている。

「一般に進歩というと、未来の方向にばかり目を向ける。科学工業力を誇る。たしかにその面での発達は近年ますますすばらしく、生きた人間が月の上を歩いて、また地球にもどって来られる時代である。厖大な生産力は人びとの生活水準を高めた。しかしそれが果たして真の生活を充実させ、人間的・精神的な前進を意味しているかどうかということになると、たいへん疑問である」

 また「調和」について岡本太郎は述べる。

「美しいことばだし、だれも反対する人はいないだろう。人間の運命は今日ますます開けてきて、世界の人類は一体であるという連帯感が現実のものとなってきている(中略)古い観念でいえば、調和は互譲の精神で、互いに我慢し、矯めあって表面的和を保つという気分が強い。しかし、そんなことをするから、まことに危険なひずみが出てくるのだ。私はそういう体裁は大嫌いだ。人間を堕落させるものだと思う。もしほんとうの意味での調和というなら、己の生命力をふんだんにのばし、だからこそ他のふくらみに対しても共感をもち、フェアに人間的に協力するというのでなければならない。つまり激しい対立のうえに火花を散らした、そのめくるめくエネルギーの交換によって成り立つ。それをほんとうの調和と考えたいのだ」
(岡本太郎『日本万国博 建築・造形』恒文社、1971)

…福島大学芸術による地域創造研究所所長・渡邊晃一、前掲研究ノート)

 「生命を支えるエネルギー、未来に向かって伸びてゆく生命の力強さを表現」した岡本太郎の《太陽の塔》の内部には「生命の樹」が飾られていた。
 塔の外観もまた土偶からインスピレーションを受けたと言われる。私はさらに巨樹や血液、神経のかたちと重ねてみた。
 《太陽の塔》は縄文土器を逆さまにした姿にも見て取れる。
 縄文土器は、底に穴を開けたものも多数発掘されている。その穴は、幼くして失われた生命を「地下の世界―神の国」につなぐ経路であり、生命を再生する「祈りのかたち」にも解されている。

…福島大学芸術による地域創造研究所所長・渡邊晃一、前掲研究ノート)


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2015年01月01日

枡形山

 枡形山にて:

 枡形山.jpg

 小田急線向ケ丘遊園駅の西南約800mの丘陵地に枡形(ますがた)山があります。山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような断崖で囲まれた要害の地をなしています。おそらく枡形山という地名は、こうした地形が枡の形に似ていることから名付けられたのでしょう。
 枡形山は枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここが城であったことが文献からもうかがえます。
 古くは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です。
 その後、室町時代の1504(永正元)年には、山内上杉氏の討伐を狙っていた北条早雲が軍勢を進めて枡形城に入りました。そして、扇谷上杉朝良を助けて、山内上杉顕定の軍と多摩川の河原で戦い、激戦の末、山内上杉軍を破ったと『家長手記』や『松蔭私語』では記しています。
 また、先の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の1569(永禄12)年、甲斐(かい)の武将・武田信玄が小田原へ出兵してきた時、この土地の豪族であった横山式部少輔弘成は、枡形山に土塁を築いて後北条氏のために守りを固めたと伝えています。
 こうしてみると、この枡形山は天然の要害をなした山城として、鎌倉時代から戦国時代の武将たちの目にとまるところとなり、たびたび利用されてきたものと考えられます。
 現在、枡形城跡は生田緑地の中に公園として保存されています。山頂の広場には碑が建てられ、郷土の生んだ文学者・伊藤葦天の句が刻まれてます。
馬場あとも やかたあとも 秋の風

(川崎市教育委員会)
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000109.html

 枡形山展望台があります。展望台の上へ登ると360度の素晴らしい眺めが広がります。
 2015年の干支、ひつじが欄干に、そしてその向こう側に写真には写っていませんが白装束のお富士さま。

15干支.jpg

 そして東側には東京タワーやスカイツリーが!
 写真は、2015年1月1日元旦の清洲橋から見たスカイツリーです:

15スカイツリー.jpg

 枡形山展望台を下りて向かったのが、飯室山を経て「長者穴横穴古墳群」。

 長者穴横穴墓群は、飯室山の北麓に築かれた横穴墓群です。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』でも紹介されているところをみると、その存在は古くから知られていたようです。
 1967(昭和42)年、この地に宅地が造成されることになったため、川崎市教育委員会では2度にわたる発掘調査を実施しました。その結果、3つの小さな開析谷に、合計32基にも及ぶ横穴墓が群集していることがわかりました。これらの横穴墓は、飯室層と呼ばれる泥岩(でいがん)の地層に掘り込まれています。
 それぞれの横穴墓は、遺骸を安置する玄室と玄室に通じる墓道である羨道(せんどう)からできています。なかには、羨道の前で墓前祭祀(さいし)を行なった前庭部が残っているものもありました。
 これらは奥行5m、幅3mほどの規模で、平面的には羽子板のような形をしたものが多くみられます。

(川崎市教育委員会)
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000103.html

横穴古墳群.jpg

 皆さま、今年2015年を健康で笑顔いっぱい過ごせますように、
 そして、世界じゅうが、明るい平和な年でありますように
ハートたち(複数ハート)

posted by fom_club at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする