2014年12月31日

年越大祓

 本日おおつごもりの二本目の日記を投稿します。
 午後、いつものようにヤッホー君、リバーサイドウオーキング!
 佃島に渡って、「住吉神社」(中央区佃1-1-14)。
http://www.sumiyoshijinja.or.jp/index.html

 そこで、目に入ったのが『12月31日、年越太鼓』のおしらせ!
 これは行かねば、と帰宅後、ウオーキングで汗びっしょりになった衣服を変えて洗濯し、シャワーも浴びてeチャリで相生橋を渡って佃島へと向かったのです。

 今年もまもなくおしまいですね。
 一年の流れは早いものです。
 中央区は商業の町ですので、この季節は各商店やデパートなど、まさに書き入れ時。お正月の準備のために買い物客であふれています。
 住吉神社(下の写真はヤッホー君です、えへん、あのぉ、鳥居の上に今宵のお月様が写っていますかねぇ)。


住吉神社.jpg

 区内の多くの神社では大晦日に"大祓"という神事が行われます。
 一年の穢れを祓い、来る年の安寧を祈る重要な行事として古来から営まれてきました。
 特に信仰ということではなくても、一年の自身の失敗や不十分な出来事を反省し、嫌なことは忘れて新しい年に思いを馳せるという意味でも、ひとときの心の安らぎになるのではないでしょうか。
 それぞれ地元の神社にお参りされるのもよし、買い物の行き帰りに気になるお社を訪ねてみるのものいいでしょう。
 中央区には「日本橋七福神」や「銀座八社めぐり」などの文化・歴史とウォーキングを同時に楽しめるルートもありますから、年末年始の休日に散策を兼ねて参拝されるのもおすすめです。

(2014年12月22日13:00中央区観光協会特派員ブログ「一年の振り返りと来年の幸せを祈って…」)
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/cat16/cat7/

 「大晦日に行なわれる"大祓"という神事」の住吉神社の例:

年越大祓.jpg

 そうなんです。お神酒をいただいたあとは「どうぞお家にお気をつけてお帰りください」とだけ…
 えっ、だってこれから、過ぎゆく年を送り、新しき年を迎える豪勢な太鼓の轟きが響くでしょ、と思いましたが、物音ひとつもせず、咳払いもなく、もうし〜んと静まり返っています。
 ヤッホー君、もういてもたってもいられず、町内会の掲示板のところにきて、再読:
 ”年越大祓”

 帰宅したものの、「大祓」を「太鼓」と読み違えたヤッホー君、しばし呆然…
 でも、ま、宮司さんからお神酒を戴いたのは石川県・白山2702m登山の時以来!
 あんころ、朝日の昇る前、暗いうちからヘッドランプをつけて宮司さんと日本百名山87座に登頂し、宮司さんは山頂で祝詞。
 朝日にむかって、なんと、なんと世界の平和を祈り、家族の平安を請い願い、そして最後に山頂まで登った登山者ひとりひとりの健康と幸せを念じたあんころ。
 あの時以来の、敬虔な気持ちになったことはたしかです。
 だって、左に撚れたこころをまっすぐに、また右に撚れたこころをまっすぐにしていただきました。
 何を捨てるのか、宮司さんが衣を8度裂くたびにでる音と共に、邪悪なこころを流していきました!

 神社の年越しの、珍しい儀式にともに参列し、今年2014年の邪念を祓うことができ来ました。
 清い心で新しい年を迎えられそうです。
 ありがとうございました。

 住吉神社の写真、鳥居の上に、お月様もにっこにこ。
 鳥居の上にある住吉神社の扁額がまた見事:

 住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、1646(正保3)年に現在地に創建された佃島の鎮守です。
 当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。
 水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。1869(明治2)年に再建され、1911(明治44)年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治2年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「1841(天保12)年白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
 正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。1882(明治15)年6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
 水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。

…住吉神社の水盤舎(おみずや)と陶製扁額

 白地に藍色で、「明治十五壬午歳六月三十日 住吉神社 一品幟仁親王」とあり、有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう、1812-1886)が書かれたものです。
 「一品」とは、皇族の位を表すものです。
 この方は、書道の達人だったそうで、明治天皇に書道(有栖川流)と歌道を指南したほか、明治政府の基本方針を示した『五箇条の御誓文』の正本も、この幟仁親王が書かれたそうです。
 ちなみに、第一箇条は、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」です。

(2012年12月12日08:30中央区観光協会特派員ブログ「住吉神社の扁額」)
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2012/12/post-1483.html

 どうぞ皆さま、良いお正月をお迎えくださいexclamation

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戸隠不動尊跡

 山歩クラブ師走28日の歩き納めは10人で、枡形山へ。

 日本百名山に登ってみた、高妻山2353m編:
https://www.youtube.com/watch?v=Mw69vSUI2bA

 高妻山は戸隠連山の最高峰である。戸隠山は、手力雄命(てじからおのみこと)が天の岩戸を開いて、その戸を空に投げると、それが葦原(あしはら)の中つ国に落ちて山となったという、そんな古い伝説を持っている。戸隠奥社は手力雄命を祀り、中社は思兼命(おもいかねのみこと)を祀り、日の御子社は天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀る。いずれも岩戸開きに参列した神々である。
 戸隠は、平安朝の初めから神仏混淆となり、その最盛期は平安朝の末から鎌倉時代の中頃までだったと言われ、奥院、中院、宝光院と三つの群落に別れて、それぞれ数多くの寺社が建立され、その栄えは高野や比叡にも劣らなかったという。その後兵火にあって大部分が廃墟になったそうだが、しかし現在でも中社まで行って、厚い茅葺きの屋根が高々と並んでいるのを見ると、ムカシがしのばれるようである。

…深田久弥『日本百名山』35座高妻山(新潮文庫、2000年版)158頁

 枡形山を登ったんで、戸隠山じゃ、ないでしょ、めっ! 年の暮れだからってもう命まで枯れ始めたの?

 いえね、山歩クラブは韋駄天社から生田緑地に入ったのですが、その路は「戸隠不動尊」参道!
 びっくり、びっくり、こんな案内板が立っておりましたぁ〜:

 鎌倉時代、稲毛三郎重成の居城があったといわれる枡形山に、1927(昭和2)年秋、一堂が建てられました。
 本尊の不動明王(像高39.5cm)と二童子は、明治初年まで、信州戸隠神社の実道院の仏像で、その後、東京本所堅川の「法樹院」(墨田区立川1-2-4)に奉安されていましたが、1930(昭和5)年、現在地に本堂が建立され、安置されました。
 1965(昭和40)年、武相不動尊霊二十八札所の第26番札所となり、酉年には多くの参詣者が訪れましたが、1993(平成5)年の冬、焼失してしまい土台と石柱のみが残され、現在、跡地周辺が生田緑地として整備されています。


 昨日の三十日(みそか)、山歩クラブ会報「かわらばん」の発送のあとヤッホー君は”eチャリ”で「法樹院jへ。
 しかし「弥勒寺」には由緒、沿革、見所の掲示はあっても、「法樹院」には何ひとつ残っておらず、周りの住宅街から取り残されて、ひっそりと息をひそめてたたずんでいるだけでした。
 それにしてもこの「戸隠不動堂」、われわれ下町にも、そしてわれわれ山歩クラブがうわさの『戸隠そば』を食べに、一度は訪れてみたいあの『戸隠』(注)にも縁があった場所だったのです。

2013年01月06日記、戸隠不動尊の面影
 僕がまだ若かった頃、正月の休みに川崎北部の生田緑地を散策したことがあった。枡形山のふもとを歩いていくと、長い石段が目に留まった。由緒ある寺院らしく、延々と続く参道の左右には、石仏や石碑が随所に並べられている…
 正面に古びた小さなお堂があった。辺りに人影はなく、時折、鳥が鳴き交わす声しか聞こえなかった。お堂の屋根には背後の高木が、天蓋のように枝葉を伸ばし、木漏れ日が本堂の壁や参道で揺れている。祈禱をする旨が書かれた張り紙があったが、正月だというのに参拝客は僕しか見えない。しかし、格式のある参道と、森と一体になった本堂のたたずまいが、僕の心を癒してくれた。人には知られていない、隠れた名所を見つけたんだという思いで、静かな興奮を抑えられずにいた。
 そういえば、以前、この寺院に通じる空き地で、山伏を見たことがある気がした。木を組んで藁を山のように載せ、火を点じて柴灯護摩を修していたような。僕が見たのは幻だったかもしれないが、恐らく、この寺院と関わりがある行事なのだろう。
 寺の名は戸隠不動尊。戸隠といえば、信州の戸隠神社を思い起こすだろう…
 明治のはじめ、神仏分離令が発せられると、全国で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。戸隠では寺院を一切廃したため、不動明王像と二童子像は、東京本所の法樹院に移された…
 不動明王が酉年生まれの守護仏とされているからだろう。だとすると、僕が見た柴灯護摩は、その年に行われていたものということになる…

 冬の晴れた日の暮れ時、僕は生田緑地の反対側の急坂を、とぼとぼ自転車を引いて登っていた。何気なく振り返ると、向かいの丘から白い雲が沸き上がっている。夕焼けに映えているかに見えたが、方角から考えるとどうもおかしい。
 遠くからサイレンが鳴り響いてきた。丘にこだまして、何の音かははっきりしない。どうしたんだろう。白い雲はすっかり橙に染まり、稜線からは灰色の煙が盛り上がってきた。耳を澄ませるとパチパチ、何かが爆(は)ぜる音が聞こえる。火花が燃える雲を美しく彩り、下からは時折、真っ赤な舌が覗いていた。
 どこが燃えているのだろう。恐らく、丘の向こう側、少し下った辺りに違いない。とすると……。炎上していたのは実は、正月に詣でたばかりの戸隠不動尊だった。僕が見つけたばかりで、隠れた憩いの場として大切に思っていた場所だった。火炎を背負った不動明王を本尊とした寺は、今まさに焼け落ちようとしていた。ここからでは、暖かな囲炉裏の火ぐらいにしか見えないが。それにしても、あの悲しげな光は何だ!
 戸隠不動尊が焼失したのは、1993(平成5)年冬のことだった。それから何度目かの春が訪れた。僕は生田緑地の枡形山から、戸隠不動尊があった辺りを探した。以前は鬱蒼とした森に包まれ、本堂があること自体気づかなかったが、不自然に木々が切り払われ、石段が伸びているのが見えた。胸が締めつけられる思いがして、僕は枡形山を駆け下りていった。いったん、向ヶ丘遊園駅前に出て、専修大学の生田校舎に向かう道を急いだ。
 かつての石段の入口に立った。何かが変わっていた。参道の両側にあった石仏や石碑は、すべて取り払われていた。正面を見上げると、枝葉に包まれた本堂の辺りは、火事で周囲の木々もろとも焼け落ちたのだろう。ぽっかり空間があいて、太陽の光が燦々と敷き詰められた石を照らしていた。本堂の柱があった位置には、石柱が名残惜しむように立っている。何だかギリシャかどこかの遺跡を目にしているようで、祈りが捧げられていた痕跡はない。心を癒す霊気も失われて、すべてが乾ききっていた。
 喪失感はしばらく癒されなかった。緑に包まれたお堂の姿を、心にだけはとどめておきたかった。

 ふたたびこの地を訪れた時、本堂が焼けて20年の歳月が過ぎていた。正月3日の昼下がり、石段を登って参道を進むと、お堂の柱の位置を示す石柱が、以前と変わらぬ姿で立っていた。しかし、何かが違う。敷き詰められた石板の間、あちらこちらから、芝が生えていた。背後にはシラカシの枝が天高く伸びていて、かつての屋根以上の高さになっていた。人工的だった不動尊跡地も、二十年の歳月を経て、自然の一部に戻り始めていた。傾いた冬の日が柔らかく辺りを照らしていた。

(「青空文庫」の作家、高野敦志の世界)
http://takanoatsushi.seesaa.net/article/312046884.html


(注)夢紀行:
 東京は千駄ヶ谷「国立能楽堂」で能『紅葉狩』を鑑賞します。
『戸隠山で上臈達が紅葉狩をしているところへ鹿狩りをする平維茂(たいらの これもち)が通りかかり、酒宴に誘われる。
 維茂は勧められるままに酒を飲み、余興に上臈は舞を披露する。
 酔った維茂が眠ったところを見とどけて上臈達は山中へ消える。
 維茂は夢の中で武内の神から上臈達は実は鬼だとお告げを受け、神剣を授けられる。
 目を覚ますと鬼に変化した上臈達が襲いかかるが、神剣に力を受けた維茂は鬼を退治する』

 その鬼女紅葉伝説の里にも訪れたいのです:
https://www.youtube.com/watch?v=uV1pCnGMdJ8

 『鬼無里の道』(作詞:佐藤順英、作曲・歌:西島三重子)、1975(昭和50)年9月日発売LP『風車』より)を聴きながら:
https://www.youtube.com/watch?v=qgzwUOG4TDc



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2014年12月30日

韋駄天

 早いもので2014年も三十日(みそか)!
 山歩クラブ・歩き納めの報告もまだ完了していません。
 年が明けてもあのお散歩会の記事が日記になりそうで、韋駄天(いだてん)さまに「遅(おそっ)!」と怒られてしまいそう…
 そう、あの日曜日、韋駄天さまにお参りしてきたのです。

 今年2014年の箱根駅伝で完全優勝を達成した東洋大。その立役者は3区と5区で、ともに区間賞の快走をした双子の兄弟、設楽啓太と悠太(ともに22)だった。
 兄の啓太が主将、弟の悠太が副将を務め、陸上界のスターとなった兄弟のルーツは関東平野の北の端、都心から東武東上線で1時間半の埼玉県寄居町だった。
 この地で、兄弟の母に話を聞いた。
「子供の頃からゲームしかしない兄弟でしたから、小6のときに陸上のクラブに入れたんです。そしたらどんどん記録が出て、本人たちも面白くなったんでしょう。家の中では2つ上の姉と毎日毎日、ドタバタやってました(笑)」
 ツインズのおかげで、無名校だった地元の寄居町立男衾(おぶすま)中学は全国駅伝に出場。そのときの横断幕は、8年が経った現在でも誇らしげに母校に掲示されている
「2人が進学したのも、無名の武蔵越生(おごせ)高校。ところが2人の活躍で、全国的な駅伝強豪校である埼玉栄を差し置いて、全国大会に出場しています」(地元関係者)
 東洋大進学後の箱根での活躍は、ご存じのとおり。
「啓太は1年時から3年時までエース級が並ぶ花の2区を走り、悠太も3年連続で出場。2012年に東洋大学が優勝したときは"山の神"柏原竜二に注目が集まりましたが、設楽兄弟の貢献度も高かった」(専門誌記者)
 長距離選手としては華奢な2人。
「啓太の体重は女の子並みの46キロ」(大学関係者)で、今年の箱根も強風が収まったことから、監督が5区での起用を決めた。
 母が続ける。
「子育ての苦労はあまりないですよ(笑)。高校時代に貧血になって、レバーを食べるように言われたことぐらい。私は運動音痴だし、主人は野球をやっていましたが、本人たちは遊びでサッカーやったくらい。駅伝は誰のDNAだったんでしょうかねえ(笑)」
 卒業後は啓太がコニカミノルタ、悠太はホンダへ進むことが決まっている(注1)。
「2020年の東京五輪も視野に入れているようです」(前出・専門誌記者)
 埼玉の星が、日本の星になる日は目前だ。

(2014年01月27日号『週刊大衆』箱根駅伝、東洋大 設楽兄弟」実母が明かす「韋駄天の育て方」)
http://www.excite.co.jp/News/sports_clm/20140120/Taishu_sports695.html

 いったい、どこお参りに行ったのよ?韋駄天さまって何?

 「天神社」は、「江戸名所図会」には、韋駄天社と記されています。
 隣接する広福寺(真言宗豊山派)には、守護神として韋駄天像が祀られています。
 韋駄天は、仏教で伽藍を守る護法神とされ、足の速い神様としても有名ですが、釈尊入滅の直後、捷疾鬼という鬼が、お釈迦様の歯を奪って逃走したところ、足の速い韋駄天がすぐに追いかけて取り戻したという俗説からきています。
 以来、足の速い人の代名詞として韋駄天という言葉が使われるようになりました。
 スポーツ選手などからは、足の神様として尊ばれています。

(2010年03月24日(水)03時46分33秒 はじかみ神主のぶろぐ、生姜神社のしょうがない話です!「陸上選手の神・韋駄天)
http://ameblo.jp/hajikamijinja/entry-10489770460.html

 これじゃあ、あんまり早(はや!)って、怒られそうです、スピード違反だ!って。
 ヤッホー君お得意のプレイバック、プレイバック。
 韋駄天さまにお参りする前に山歩クラブが寄ったところ、と言えば、その「広福寺」。
 なんといっても今日は生田緑地、枡形城址ですので、御城主様にご挨拶し、《2014年の無事の御礼並びに2015年の世界平和、各自の健康の祈念》を申し述べねばならなかったのです。

広福寺.jpg

 広福寺は枡形城址の北側のふもとにある寺院で、その門には「稲毛領主菩提寺稲毛館跡」と書かれた扁額が懸けられています…
 広福寺の寺地は、源頼朝の有力御家人の一人であった稲毛三郎重成の館跡ともいわれており、本堂内には木造稲毛重成坐像(桃山時代作)が祀られているほか、観音堂の裏には重成の墓といわれている五輪塔が伝えられています。

(川崎市教育委員会、多摩区・広福寺)
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000093.html

 「準西国稲毛三十三ヵ所観音霊場」(注2)第一番にもなっております。

 当寺は平安時代837(承和4)年、開基は狛江(こまえ)郷の刑部真刀自(おさかべまとじ)が広主(広福長者)の為に発願供養、広福之寺(続後紀承和十一年紀)、鎌倉時代は稲毛庄の中心地として、寺は稲毛重成の館となる。重成の妻は北条時政の娘で、頼朝の妻・政子の実妹。1195(建久6)年7月4日、一室円如大禅定尼病死。重成は悲しみに堪えず入道し、邸内広福寺を氏寺とし、長弁阿闍梨を請し寺を中興す。
 尚、三回忌に相模川に架橋(馬入橋)し、亡妻の冥福を祈る。頼朝はこの時に落馬、翌年死亡。後、稲毛重成の一族は北条氏の陰謀により1205(元久2)年滅亡す。
 当寺、広福の寺より創まり稲毛館跡により稲毛山と称す。戦国時代、元亀・天正の頃、信州松本の落武者が入山し松本山とも呼ぶ。1504(永正元)年9月、北条早雲、今川氏親の軍、当寺に座陣す。1569(永禄12)年6月、武田信玄の軍、当寺を攻撃、檀徒・横山式部少輔弘成防戦す。

http://junsaigokuinage33kannon.jimdo.com/

 山歩クラブ2014年歩き納めを開始するにあたり、しっかりと墓前でまずは、810年、820年ほどもムカシの広福寺に想いを馳せ、韋駄天さまのように想いだけはムカシに時を駆け、頭を垂れてまいったのであります。

 さて、この「生姜神社のしょうがない話」と謙遜しておっしゃいながら、ブログを更新し続けておられる「はじかみ神主」の宮司様、の長所は、韋駄天でした。
 もう、今日の投稿は終えています、早(はや!)
 読んでみましょう:

 金沢市の北郊に鎮座する波自加彌(はじかみ)神社を始め42社の宮司を務めさせていただいております。長所は「仕事が早いこと」:

 2014年12月30日(火) 06時35分53秒NEW !

 神社の迎春準備も8割方終わり、少し安堵していますが、問題は大晦日から元日にかけての雪であります…
 さて今朝は、6時からの神社での日供祭(にっくさい)を終えた後、近くの専業農家の納屋にやって参りました。
 餅つきの写真を撮るためですが、かつては我が町内のほとんどの農家で晦日の30日や28日に餅つきをしたものですが、現在は数軒にとどまっております。
 金沢の風習では、12月29日に搗(つ)いた餅は「苦の餅」といって、「九」=「苦」となることから縁起が悪いとされ、28日や30日に搗く場合が多いのですが、反対に29日は、「29」=「福」につながるから縁起が良いと餅を搗く地方もあります。
 この家の83歳になる当主のとうちゃんも、朝から餅つき準備に追われていました。



(注1)
 社会人でも「双子旋風」を巻き起こす! コニカミノルタが3時間49分34秒で、通算8度目の優勝を3連覇で飾った。東洋大の「ダブルエース」として今年の箱根駅伝を制した、2区のルーキー設楽啓太(22)が好走。双子の弟でホンダの設楽悠太(同)らの追随を許さず区間賞を獲得し、チームはそのまま逃げ切った…
 陸上を始めて以来、常にチームメート。だが実業団入りは「行きたいところに行こう」と進路を分けた。ただし日本代表という最終目標は同じ。「弟は距離が長いほど適性がある。自分もマラソンに絞る」と6年後の東京五輪で兄弟出場に夢をはせる。
 学生界に君臨する謙太(駒大4年)と紘太(城西大4年)の双子の村山兄弟にも
「負けたくない。『双子といったら設楽兄弟』と言われたい」(啓太)
の対抗心がある。袂(たもと)を分けても志は1つ。パワーを増して設楽兄弟が夢に突き進む
(2014年11月4日8時13分、日刊スポーツ新聞紙面から)
http://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/p-sp-tp0-20141104-1391617.html

(注2)「西国三十三ヵ所観音巡礼」
 聖地や霊跡を巡礼するという風習は、東洋にも西洋にも古くからありましたが、わが国の観音巡礼は大和国(奈良県)の(新)長谷寺(現在は真言宗豊山派総本山)の開山・徳道上人(656〜?)がはじめられたといわれています。
 718(養老2)年2月15日、上人は急死して地獄の閻魔大王に会ったところ、大王から

日本には観音の霊場が三十三ヵ所ある。どんな悪人でもこれを巡拝すれば、その罪をつぐなって、極楽に行くことができる。もち間違って地獄に来たものに対しては、私が身代わりになってやろう。これが証拠だ。

と上人の手に宝印を授けてくれた。そこで生き返った上人は、自分の手の中にある宝印を見て非常に喜び、自ら先達となって観音巡礼を始められたということです。

 この観音霊場は、江戸時代の1754(宝暦4)年に、観音さまへの信仰が篤かった武州橘樹郡稲毛領平(現:川崎市宮前区平)の山田平七翁が西国三十三観音霊場を巡拝して帰り、西国三十三体の観音さまを近郷に導きたまえと発願し、西国観音霊場になぞらえ、近郷の寺院三十三箇所の観音さまに、天下泰平・国土安全・五穀成就・万民快楽等の人々の幸せを祈念する霊場として生まれたのが始まりです。
http://junsaigokuinage33kannon.jimdo.com/



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2014年12月29日

生田緑地

 12月28日日曜日は、山歩クラブの歩き納め。
 10人で歩いた山域は「開発を免れた枡形山に緑を訪ねて」:

 標高わずか84mにすぎないが、山容が升の形に見えるほど急な崖に囲まれ、源頼朝の重臣・稲毛(いなげ)三郎重成が枡形(ますがた)城を築いたとされる天然の要害である。
 川崎市の生田(いくた)緑地内にあり、雑木林や谷戸(やと)地形など里山の自然が守られている。
 緑の中のハイキングとともに緑地内の施設を訪ねれば、大人も子どもも一日たっぷり楽しめる。

…『山と渓谷』2014年11月号200頁

 われわれは、小田急線「向ヶ丘遊園」駅に着きました。
 ここって遊園地があるのかな?

 向ヶ丘遊園の開園は小田原急行鉄道小田原線の開通と同じ、1927(昭和2)年4月1日であったとされている。新宿−小田原間で開業された小田原線は、当時宅地化が進みつつあった東京市荏原郡、北多摩郡(今日の世田谷区)の運行区内では、通勤客をはじめとする乗客が見込まれていたが、多摩川以西への旅客誘致に不安を抱えていた。こうしたなかで小田急では、当時、阪急電鉄をはじめとする関西方面で活発化していた遊園地建設による乗客誘致に着目したものと考えられる。
 当初の開園予定地は、稲田登戸駅(1955(昭和30)年に向ヶ丘遊園駅に改称)に近い、枡形山に求められたが、用地交渉が難航した結果、駅から約1Kmはなれた長尾地区に開園されることとなった。当初の予定よりも駅から離れた位置に立地したため、急遽駅から遊園地までの小軌道が建設されることとなり、1927(昭和2)年下期の第9回営業報告書においては、6月14日付けで「豆汽車軌條敷設工事」の竣工届けが川崎市に提出され、稲田登戸駅から遊園地正門までの豆汽車が運行開始されたことが記載されている…
 しかし…戦時体制が深刻化してきた1942(昭和17)年、遊園は陸軍近衛騎兵連隊の訓練場として接収を受けることになる。その後小田急自体も東京横浜電鉄に合併され、その後敗戦までの間、向ヶ丘遊園は営業を停止され、省みられることのない時期が続くことになった。
 1945(昭和20)年、敗戦により軍からの返還を受けた向ヶ丘遊園であったが、用地は荒廃を極めており…しかし、こうしたなかで1948(昭和23)年6月に東京急行から分離独立した小田急は、向ヶ丘遊園の復興に取り組みはじめた
 そして1990年代に入り、いわゆるバブル崩壊が起こるとともに向ヶ丘遊園の成績は営業収入の面でも急速に悪化してゆき、1992(平成4)年の29億5千万円から2000(平成12)年には15億3千万円へと約半減することになったのである。こうしたなかで…2002(平成14)年にはついに向ヶ丘遊園も閉園に至ったのである。

(永江雅和「向ヶ丘遊園の経営史―電鉄会社付帯事業としての遊園地業―」2008年3月『専修大学社会科学年報第42号』所収)
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/nagae_42.pdf

 でも大丈夫、2002(平成14)年にはついに山歩クラブが誕生しているんですから!
 ところで、向ヶ丘遊園が最初、開園予定地とされていた枡形山、そしてその山を中心とする一帯を「生田緑地」とよびならわしているわけですが、本当に開発の魔の手からよ〜く生き延びえたものです。
http://www.ikutaryokuti.jp/

 ヤッホー君、もううれしくなって、2014年の最後の山歩きを楽しんでいました。
 こんな裁判闘争もあったほどに、近辺の皆さんの熱い思いが伝わってくる場所でもありました:

「生田緑地・里山・自然の権利訴訟」(1997年01月24日提訴、2001年06月27日敗訴)
…原告:ホンドギツネ、ホンドタヌキ、ギンヤンマ、カネコトテタグモ、ワレモコウ

 ベットタウン化の進む川崎市にあって、生田緑地は100ha以上の自然が残っている。
 川崎市と住民とが話し合って、百年は何もつくらないこと、コンクリートの建物はつくらないことを決めていた。
 しかし1993年、川崎市は生田緑地に「岡本太郎美術館」を造ることを発表した。
 この決定を受けて「生田緑地の自然を守る会」が結成され、川崎市に対して計画変更を働きかけた。
 しかし1996年11月に、美術館は着工に移された。
 これに対して、「生田緑地の自然を守る会」と市民331人は、美術館建設に対する公費の支払い差止を請求して提訴した(1997年01月24日)。
 原告には、ホンドギツネ、ホンドタヌキ、ギンヤンマ、カネコトテタグモ、ワレモコウの自然物が加わった。
 横浜地裁は自然物の請求は受理せず、住民の請求は棄却した(2001年06月27日)。
 「岡本太郎美術館」は1999年04月に完成した。
 生田緑地の自然を守る会は2002年05月に解散した。

http://logic.iic.hokudai.ac.jp/~roseau/1007/index.php

 生田緑地は、神奈川県北東部の川崎市多摩区にあり、多摩丘陵の北東端部に位置する都市公園である。
 公園計画区域面積は177.4haであり、本報告が主題とする市民参加による植生管理に関わる活動が行われている地区は、都市公園として供用されている中央部の約45ha(以降中央地区という)である。
 公園区域の南側約82haは生田緑地ゴルフ場を主とする地区であり、東側約52haは、2002(平成14)年3月まで「向ヶ丘遊園」として営業されていた地区で、現在この跡地の整備構想が市民参加のもと検討中である。
 生田緑地は、1941(昭和16)年に防空を主たる目的として都市計画決定がなされ、1964(昭和39)年から事業認可区域約45haにおいて都市公園としての本格的な整備が開始され現在にいたっている。
 丘陵地形に広く分布するクヌギ・コナラの樹林は、公園の大きな魅力であり、多くの市民を惹きつけ、樹林地内の草刈、更新作業等の保全活動や、自然観察会、子供のための自然体験イベントの開催等の市民参加型の活動が、複数の市民ボランティアグループによって実施・展開されている。
 一方で、これら複数の市民による活動の目的は、公園の樹林保全と活用という点で一致していたが、それぞれの活動が個別に行われていたため、グループ間の活動調整や晴報交換が図れず、市民活動の効果が十分に発揮されない等の課題を抱えていた。
 このような課題を踏まえて、川崎市は1998(平成10)年から生田緑地の植生管理計画策定のための調査を開始し、その後、複数の市民ボランティアグルーブへの働きかけによって、各グループ相互の連絡と調整を円滑にして、一体総合的な活動が実施できるしくみとして「生田緑地植生管理協議会」が組織された。

(株)グラック/北川明介、八色宏昌「川崎市生田緑地植生管理における市民参加体制・しくみとその効果・展開について」『造園技術報告集3、2005』所収)
http://ci.nii.ac.jp/els/110006642570.pdf

 いま、この「生田緑地植生管理協議会」は「生田緑地マネジメント会議」と改称され、その「市民部会」“里山倶楽部”は次のホームページを開設しております:
http://www.geocities.jp/npo_konrac/ikuta-committee-work.html

 川崎市でも今夏、以下のように基本姿勢を文書化し公開しております:

 生田緑地は、豊かな緑と個性や魅力のあるさまざまな施設が集まる、川崎市を代表する貴重な地域資源です。
 このたび生田緑地全体の価値と魅力を高め、その魅力を持続可能なものとする運営のしくみを作るために、「生田緑地運営の基本的な考え方」をまとめました。
 今後はこの「生田緑地運営の基本的考え方」を生田緑地運営の基本指針として施策・事業に取り組んでまいります。

(2014年8月25日「生田緑地運営の基本的考え方」)
http://www.city.kawasaki.jp/kurashi/category/26-8-14-0-0-0-0-0-0-0.html



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2014年12月28日

五日市憲法

 異質な東西文明が真正面からぶつかり合った明治の日本は、世界の文明史上どんな位置をもつのか、西欧近代によってもたらされた諸要素の命運を見きわめることを通して、明治文化の実像に迫る…
 明治文化が現代に問いかけるものは何か、明治とはいったいどんな時代だったのか、評価の衝突する明治文化の全体像を、底辺の民衆の思想に視座を据え、自ら発掘した原史料を駆使して歴史の躍動の中に描きだした。民衆思想史の方法で日本の近代像を一変させた著者の代表作。

 これは色川大吉(1925年生まれ)『明治の文化』(岩波書店、1997)についての岩波書店の案内文です。

 2014年11月5日、那覇市内のホテルで、「民衆史50年―色川大吉先生を囲む集い―」が山梨学院大学名誉教授の我部政男さんらの呼びかけで開かれた。出席者は約60人で、いずれも色川さんとゆかりのある方々だった…
 私には色川さんから受けた恩が二つある。
 ひとつは、奥多摩・秩父の民権運動を研究されるなかで発掘・発見された、明治期の私擬憲法のひとつ五日市憲法である。民衆が憲法を起草するという発想は、「平和憲法である日本国憲法のもとに復帰する」という発想の裏に胡散臭さを感じていた私にとって新鮮な驚きだった。新沖縄文学の編集部を離れ、沖縄大百科事典編集部に移籍してまもなく、新川さんが夜遅く編集部に見えられ、「新沖文向けの何かいい企画はないか」と訊かれたとき、ふと思い浮かんだのが五日市憲法だった。沖縄の民衆が自主憲法を起草する―このイメージは新川さんを中心とする委員会で具体化され、川満信一さんの「琉球共和社会憲法C私(試)案」と仲宗根勇さんの「琉球共和国憲法F私(試)案(部分)」などとして結実した(新沖縄文学』48号、特集「琉球共和国へのかけ橋」、1981年)。
 もうひとつは、YMCA文化教室で「自分史講座」の講師を受け持ち、そのテキストとして『おきなわ版 自分史のすすめ』(1987年)を刊行したことだった。刊行後も折に触れ、自著などでこの本に触れていただいた。
 そんなことをつらつら話して降壇し、前席に座っておられたご本人に握手を求めたら、ほほえんで応じてくれた。

(出版舎Mugen代表・上間常道、色川大吉さんと「自分史」、『現代の理論』コラム)
http://www.gendainoriron.jp/vol.03/column/col03.php

 木材を伐採するチェーンソーの低い音が山奥から響く。東京都あきる野市のJR武蔵五日市駅から約40分。息を切らして山道を歩き、同市深沢にあるかつての豪農の屋敷跡に着いた。

 敷地内にある朽ちかけた土蔵から、風呂敷に包まれた毛筆書きの和紙24枚が見つかったのは、1968(昭和43)年8月27日。204条からなる「日本帝国憲法」だった。

 起草したのは、公立小学校教員だった千葉卓三郎。1881(明治14)年ごろ、自由民権運動が全国に広まるうねりの中、豪農の屋敷などに集まった学習結社「五日市学芸講談会」の仲間たちと討論を重ね、起草したとみられる。

 「日本国民は各自の権利自由を達す可(べ)し、他より妨害す可(べか)らす、且(かつ)国法之を保護す可し」の条文をはじめ、人権に関する規定が多いのが特徴で、地方自治や教育権も明記されていた。発見した東京経済大教授の色川大吉らによって、発見場所の五日市町(当時)から「五日市憲法」と名付けられた。

 小鳥のさえずりを聞きながら今、五日市の蔵の前に立つ。民権家たちが国の将来をめぐって、白熱した議論を交わす光景が目に浮かんだ。

 「占領軍が憲法を押し付けたと言われますが、植木枝盛の憲法草案などを参考にしてつくられた憲法研究会の案が、連合国軍総司令部(GHQ)草案の土台になっています。“押しつけ論”はまったく当たりません」

 高知市の自由民権記念館で、同館友の会事務局長窪田充治(75)はきっぱりと語った。明治期の高揚した自由民権運動の精髄が、現憲法に脈々と流れているという見方だ。

 1880(明治13)年ごろ、高知の立志社をはじめとする全国の民権派結社は、国会開設と憲法制定を政府に強く求めた。自らの手で憲法を起草しようという動きは燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がった。全国で作られた憲法私案の存在は60以上確認されている。五日市憲法はその一つだ。

 触るとボロボロになりそうな竹製の文箱。その中の風呂敷に包まれていた五日市憲法を最初に見つけたのは、当時色川のゼミ生だった大学四年新井勝紘(62)。ちょうど「明治百年」の1968年だった。

 記念切手発行や祝賀行事など、「近代化にいち早く成功したアジアのモデル国家」として、政府は明治百年でバラ色のお祝いムードを演出していた。これに疑問を感じた色川はゼミ生と地域の近代史研究に取り組む。そして、注目していた「開かずの蔵」を、長年の交渉の末ついに開けた。

 「あの発見がなければ地元の金融機関に就職していたでしょう」と笑う新井は今、専修大学文学部教授として、自由民権運動など近代史を教えている。東京都町田市の自由民権資料館の開設にも尽力した。

 「今の憲法は形としてはGHQからの押しつけかもしれない。しかし、内容を見れば、天皇主権の明治憲法の方が国民に対する押しつけです」

 冷戦後、憲法改正案や新しい憲法構想が次々と発表されている。その多くは政党や国会議員、学者、経済団体によって書かれている。草の根レベルで書かれた憲法草案は、ほとんどない。

(2007年5月5日付け東京新聞、社会部・瀬口晴義【憲法を歩く 施行60年】第1部 焦土から生まれた希望 <下> 五日市憲法 民権の精神脈々と)
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2007/kenpou/news/070505.html

 そうなんです、「イマのはじまり」には巧妙に隠されているそんなことがあったのです。
 色川大吉氏は著書『明治の文化』のなかで、「五日市憲法」を起草すべく、起草し、人生の荒波をのりこえ(蘭学→国学→神道→仏教→ギリシア正教→アンチ・クリスト→カトリック→プロテスタンチズム)1879(明治12)年「千葉宅三郎」が、自由民権家「千葉卓三郎」が誕生した、その千葉の事例を述べながら、こんなつぶやきをしております:

 こうした明治の青年たちのバラエティに富んだ生き方を、私たちは何百例となく追跡してきたが、その結末の多くは、誠実な奮闘的生き方にもかかわらず、ほとんどが陽の目を見ない敗残者として、歴史の底にふかぶかと葬り去られているのである。
 私が、イマ、千葉宅三郎の事例によって語ろうとしているものも、そうした数百、数千、数万の青年たちに共通したスピリットであるにすぎない。

…色川大吉、前掲『明治の文化』101頁

 う〜ん、世の多くは「敗残者」、陽は当たらないでいのちをまっとうするのでしょうが、いつもにこにこ笑顔で、群れず媚びずなびかず、いつも自分が誠実に生きているかい、と問いかけ、問い直し、問い続ける「でくのぼう」でいいんですよね、と自分に言いきかせて、昇る朝陽にふかぶかと頭を下げているヤッホー君でした。


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2014年12月27日

旅する歌手

 12月27日土曜日、朝からヤッホー君、うれしくなったそうです。
 師走の14日、山歩クラブの月例お山歩会で金時山を登って以来、多様な異見との共生なんて、なんかこの国は金太郎飴ばかり、多様性なんて許さないお国柄、強固なムラ社会じゃないのって憂鬱な気分になっていたのが解きはなたれるような思いを強くしたからです。
 それは松田美緒さんの『この世界の素晴らしき多様性を歌う』とのめぐりあいがあったからです!

■ 恩師鈴木先生から学んだ「聞き書き」
 初めまして、旅する歌手の松田美緒です。私は、産業社会学部を卒業後リスボンに留学し、世界中のポルトガル語圏、スペイン語圏の国々の歌を中心に歌ってきました。学生時代から、日本を飛び出して、世界のいろいろな地域を巡り、現地の人びとに混じって、心ひかれる歌の心髄をつかみたいと思って旅してきましたが、それは、歌いたいという衝動だけではなく、やはり、歌を歌ってきた人間というものに興味を持ったからです。それを深めてくれたのは、社会学という学問で、在学中に学んだことは、歌手になってからも、ひとつの礎となっています。そのなかでも、かけがえのない宝物は、鈴木良先生に教わった「聞き書き」でした。
 鈴木先生の最初の授業で、この「聞き書き」の課題が出ました。京都の伝統産業である西陣織の根付く西陣へ行き、そこに住む人に話を聞きレポートしなさいというものでした。聞いたことをそのまま、自分の脚色を入れずに書いていく、そんな作業でした。私は西陣に古くからある喫茶店へ通い、そこのご夫婦に暮らしや地域の話を聞きました。聞いて、書く、それだけの作業のなかで、この社会・文化とは人間によってつくられてきたのだ、という当然のことに気付きました。その時から、「聞き書き」の虜となったのです。
■ この世界は素晴らしい多様性で出来ている
■ そして「日本のうた」プロジェクトへ
 リスボンへ留学してからは、ヨーロッパの国々を歌い歩いたり、旧ポルトガル植民地の国々の人々と音楽に魅せられて、大西洋を渡り、ブラジルでCDを録音しました。それ以来、素晴らしい音楽家の友人に恵まれ、毎年、南米の国々を旅し、公演をしてきました。南米は、人びとの生活に豊かな音楽が根付く、音楽先進国だと思います。ペルーに着いてから、私の気持ちは、太平洋を渡って、また日本へ還ってきました。ここ2年ほど、多様な日本をテーマに、「日本のうた」プロジェクトをやっています
 人間に興味を持つこと、徹底的にその人たちについて知ろうとすること、そんな人たちの暮らしが積み重なってこの社会、歴史が作られていること、そして歌が生まれてきたということ…。それを「聞き書き」で教わりました。これからも、たくさん聞いて、歌いながら伝えていきたいと思います。「聞き歌い」、ですね。
 今、取り組んでいる「日本のうた」プロジェクトでは、日本の多様性をテーマに、長崎のキリシタンの人びとやブラジル移民の歌、日本の山々、海のしごと歌をとりあげています。歌の生まれたその土地に行って、聞き書きをしています。歌詞やストーリーには、従来の日本のイメージを一新するような世界観が顔をだし、万葉の頃からつづく詩情も見えてきます。そんな歌の遺産を、次の世代に残していけるように、初めてのCDブック制作を予定しています。全国でコンサートもやっていきますので、ぜひ聴きにいらしてください。

(2013/10/24立命館大学卒業生紹介Vol.24「この素晴らしき多様性を歌う」)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/reunion/ob_page/s24.html

 そして今冬、「日本のうた」プロジェクトがかたちあるものになりました!

 ただいま、長崎です。
 …クリスマスイブの夜、伊王島の馬込教会のミサへ行ってみると、なんと情報が古くて、すでに終わってしまっているではないか!隣の神父館では宴が続いていて、なんとそこには、私の本にも登場する102歳の本村トラさんの息子さんがいらっしゃった。
 一通り説明した後、ミサの後の特別な雰囲気の教会で「アンゼラスの歌」を歌ったら、伊王島、キリシタンの歴史とこの歌に出会ってからCDブックで発表するまでのいろいろなすべてが胸にあふれて、感極まって泣いてしまって歌にならなかった。
 本村トラさんの息子さん(73)はこの歌をご存じなかった。そんな貴重な歌に出会えて、こうして世に出すことができたことが本当にうれしい。そして、これを聴いた人たちが口ずさんでくれて、再び歌が命を得るのだ。
 今日は、外海町まで連れて行ってもらい、遠藤周作記念館にご挨拶。晴天で五島まで見渡せた。

(2014-12-26 02:34松田美緒のオフィシャル・ブログ「長崎にてクリスマス!」)
http://miomatsuda.exblog.jp/21420649/

 「アンゼラスの歌」って、これです!

松田美緒 日本のうた「アンゼラスの歌」"Canção de Angelus"Mio Matsuda:
https://www.youtube.com/watch?v=hCJm6uEvCPI

 松田美緒さんの「本」って、これです:

 松田美緒ニュー・アルバム(CDブック)『クレオール・ニッポン──うたの記憶を旅する』
 定価:本体3500円(税別)、発売:2014年12月15日
 イラストレーション:渡辺亮、写真:Adeyto、畠山浩史、デザイン:有山達也・中島美佳(ariyama design store)
http://www.miomatsuda.com/blog/news.html

 松田美緒『クレオール・ニッポン』(LongVersion):
https://www.youtube.com/watch?v=Ykf_FsUps34

 ファースト作『アトランティカ』(2005年)以降だけでも、松田美緒の渡り歩いてきた航跡はおそろしく広汎だ。
 大洋を幾度となく渡り、辿り着いた最新プロジェクト『にほんのうた』。
 埋もれた歌を見つけ、フィールドを訪ねて土地人と語り、ライヴで練り上げた成果をCDブックという形で発表するとは、なんたる行動力!
 そも、歌探しの発端は何だったのだろう。

「2011年の末、25年ぶりに秋田県に帰ったんです。故郷の資料室には、40年前に日本中で集めた民謡の資料があって、なんの気なしに長崎のところを開けたら、伊王島の《アンゼラスの歌》《花摘み歌》があった。もうショックで……これが、私の日本の歌だ!と思った。世界的な文脈から生まれ、日本の中に閉じていない。隠れキリシタンの人がカトリックに復帰してからの歌でもある。聴いて、やっとね、今まで旅して歌ってきた世界と、日本が繋がった気がしたんですよ」

 そんな彼女のおおらかな視座と集中力が、閉鎖的な巨大ムラ社会と化しつつあるこの国へ、きっと一石を投じるに違いあるまい

(2014.12.15 INTERVIEW松田美緒「クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する」、開かれた先人たちへの、おおらかさと気骨あふれるオマージュ、interview & text:佐藤由美)
http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/4607

 ”Mikiki”って、今春タワーレコードが立ち上げたサイトでした。

 松田美緒さんを知ったんは、「アルテスパブリッシング」という音楽を愛する人のための出版社のサイトでした:
http://www.artespublishing.com/

 えっ、ヤッホー君も音楽を愛好する人だっけ… そりゃあ、この次カラオケでは『北の蛍』にチャレンジするんだと息巻いているヤッホー君ですから、えぇ〜…
 えっ、いおうじま?
 まさか兵士となった日本人が玉砕したあの硫黄島? ちゃうちゃう、伊王島って書くんだよ、あの馬込教会に園児として通ってたんだよって、山歩クラブのお仲間が…

 そうだったんだぁ〜、急に旅心をそそられたヤッホー君ですが、実は、実はこの「アルテスパブリッシング」の Web連載に、安田寛先生の『音痴と日本人』が掲載されているのです。
 またしてもヤッホー君、びっくり、びっくり。
 「イマのはじまり」への旅は、終わりません。
 ぜひ初回2011年12月「おべんとうの不思議」から最終回2013年8月「民族的劣等感「音痴」の克服、国民皆音階訓練から国民皆音感訓練へ」まで通して、お読みになることをお薦めします、だって。
 とくに第五回(2012年3月)「日本人を音痴にした男、メーソン」は、ヤッホー君のこれまでの《イマのはじまり》を探る旅には欠かすことが出来ません。
 「国民」必読の先生の見解が載っています、だって。
https://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/special/music/artes/?page=2



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2014年12月26日

千鳥の奥も、沖縄も、

https://www.youtube.com/watch?v=VZ5IloX7OtE

 えっ、どうしたんですか、いきなりですか、「御用納め」だから? もう上野、浅草から除夜の鐘の音が聞こえてくるんですか? えぇ〜、まだぁ〜紅白歌合戦は終わっていないんだけど〜…
 えっ、どうしたんですか…、もう閉店の時間ですか? まだ飲み干していないんだけどなぁ〜、もう出なきゃいけないのかなぁ、おあいそして…
https://www.youtube.com/watch?v=zzcWPu7dxSw

 ヤッホー君のこのブログ、2014年6月6日付け日記「蛍の光」をご参照ください、と冒頭からヤッホー君、意気ごんでいます。
 というのも、ついに、ついに、現れました、第3番、第4番!

 あれから実に、半年以上にも及ぶ探索時間が経過していました。

るんるん筑紫のきはみ、陸(みち)の奥。
うみやま遠くへだつとも、
その真心はへだてなく、
ひとつにつくせ、国のため。

千鳥の奥も、沖縄も、
八洲(やしお)のうちのまもりなり。
いたらん国にいさをしく、
つとめよ、わがせ、恙なく
るんるん


 1、2番とは内容が一変する3、4番はあきらかに、別れた後は愛国者として「日本の領土を守れ!」と檄を飛ばしている愛国歌である…

と述べるのは、安田寛『「唱歌」という奇跡、12の物語、讃美歌と近代化の間で』(文春新書、2003)29-30頁

 これは”スコットランド民謡”であった、と。
 もう少し言うなら、詩はスコットランドの愛国詩人、ロバート・バーンズ(Robert Burns、1759-1796)の「遠きムカシ」で、スコットランドの言葉で「オールド・ラング・ザイン Auld Lang Syne」だ、と。

 バーンズの歌詞では、『旧友と幼い頃の思い出を語り合いながら酒を酌み交わす』内容を持つこのスコットランド民謡は、もとは作曲者もわからない古い曲で、歌詞もかろうじて数フレーズ残っているだけだった。
 現在知られているのは、古い歌詞にバーンズが新たに詩を加えたもの。
 また、日本においては随分異なる歌詞が付けられている。『蛍の光』は1881(明治14) 年、文部省が小学唱歌集を編纂する際に、国学者の稲垣千穎(いながき・ちかい、1845-1913、『ちょうちょ』の歌詞でも知られる)の歌詞を採用した。
 当時文部省は出典を記さず、すべて『文部省唱歌』としたため、この曲がスコットランド民謡であることを知らない人も多い。

(2012年11月29日、Great Britons、取材・執筆/佐々木敦子、本誌編集部、「スコットランド最愛の息子、詩人 ロバート・バーンズ」)
http://www.japanjournals.com/2011-01-14-15-46-57/great-britons/3228-robert-burns.html

 明治12、13年ごろ、東京・本郷にあった文部省音楽取調掛では、伊沢修二掛長の指揮のもと、稲垣千穎は唱歌の作詞に没頭していた。
 東京師範学校教員であった彼は、「うつくしき」「思ひいづれば」そして「蛍の光」と、つぎつぎにスコットランドの古い曲に新たに作詞していった。
 この後、「蛍の光」は「蛍」という題で『小学唱歌集初編』の第20番の唱歌として収録された。

…安田寛、前述書、30頁

 明治12、13、14年、西暦で言いますと、1879、1880、1881年でしたね。
 できればもう一度、ヤッホー君の「イマのはじまり」を見つめる作業にお付き合いくださって読み直してくださって、ご自分で歴史年表にしていただければ幸いです。

 新渡戸稲造の札幌農学校時代で、明治13年、19歳のとき母、セキを亡くしていました。
 夏目漱石は明治14年、14歳でしたが、実母の千枝を亡くしていました。

 そんなころの「蛍の光」、教育行政でも明治12年「学制」が廃止され、「教育令」が公布される一方で、教育思想も「聖旨教学」ができて、明治13年、「教育令」が改正される、とまあ、外国かぶれか、儒教精神の昂揚か、右に左に、揺れに揺れた大シケのときだったのでしょうね。
 「蛍の光」だって、だから揺れるわけです。
 もっと、揺れが激しくなっていくんですよ:

 東京音楽研究会というところが1927(昭和2)年に出版した『新撰模範教育唱歌集成』では4番の出だしが、
千島の奥も台湾も、八島のうちのまもりなり
と変えられ、さらに翌年1928(昭和3)年、日本児童音楽協会が出した『新撰小学唱歌曲集』では、
台湾のはても樺太も、やしまのうちのまもりなり
と変えられた

…安田寛、前述書、34頁 

 そして、この「蛍の光」は、なんとなんと台湾にも、韓国にも、中国にも明かりがさしていきます:

【黄文雄】3時間理論武装講座 A 封印された蛍の光の三番・四番 台湾研究フォーラム
https://www.youtube.com/watch?v=HnJ0pVTvUhM

卒業式で歌われる「蛍の光」は何と韓国の国歌だった?
https://www.youtube.com/watch?v=O7fPZkWwOZI

ViVA Girls - Auld Lang Syne 蛍の光
https://www.youtube.com/watch?v=_ESldtw_Ch4

Auld Lang Syne 友谊地久天长
https://www.youtube.com/watch?v=MjYA28GcZiU

 では、「北の蛍」を八代亜紀(1950年生まれ)で:
https://www.youtube.com/watch?v=2swiAYuSWms


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2014年12月25日

H.ダイアー

 12月25日木曜日、クリスマス。
 イマの始まりを見つめる作業、まだ続いています、とヤッホー君。
 クラーク博士と彼が影響を及ぼした明治初期の青年群像を見てきました。
 もうひとり、実はそのとき来日した「お雇い外国人」さんがいました。
 その名はダイアー!

書評:三好信浩『明治のエンジニア教育』(中公新書、1983)
 書名だけ見ると、明治時代に技術者の卵はどのような教育を受けたか、という本のように思える。
 しかし実際には、そうした教育内容の詳しい記述はこの本にほとんど出てこない。
 むしろ著者の関心は、日本の工業化の始まりを支えた教育思想にあったように感じられる。

 著者が述べている本書の目的は、「日本の工業化過程における教育の変容を明らかにするため、イギリスとの比較考察を進める」ことであり、「筆者の意図は、日本とイギリスとの間の緊密な教育交渉にもかかわらず、両国の教育に大きな差異が生じたことの原因を明らかにすることにある」と説明されている(12頁)。
 そこから逆に書名を付けるなら、『日英工業化教育思想の比較研究』といったところだろうか。

 実質的な序論と言える第1章でお雇い外国人ダイアーと工部大学校について検討したあと、第2章からは章ごとに特定のテーマを設定し、それを代表するような人物を日英双方から取り上げて比較考察するという方針が採られている。

(2014/3/10 科学史家・有賀暢迪(ありが・のぶみち、1982年生まれ)のウエブサイト)
http://www.ariga-kagakushi.info/review/Miyoshi1983.html

 この三好信浩(1932年生まれ、広島大学名誉教授)先生のお仕事、興味深いものがあります。
 この冬休みに読んでみようって、ヤッホー君、イマは亡き父はムラの教師、しかし夢は、高等師範に入るために進学、と聞いたことがあるんです。
 この父の気持ちに寄り添ってみたいんですって(もう遅すぎやしないって声が聞こえてきますけど…ムニャムニャ…)
 三好信浩先生は「2014年度日本産業教育学会細谷賞」を受賞しています。

 対象となった研究業績は小社刊行の『産業教育史学研究』(全13冊)です。
(風間書房、新着情報)
http://www.kazamashobo.co.jp/blog/2014/10/-twitter-twitter-httpstwitterc.php

 ヤッホー君、何を言いたかったのか、と申しますと:

 1873(明治6)年にダイアー(Henry Dyer、当時25歳、1848-1918)を長とする9名のイギリス人教師が来日し、工学寮を発足。
 …西欧の特定モデルの移植をはからなかった…
 この点が札幌農学校におけるクラーク(W.S.Clark)の教育経営との違いになる。
 宗教教育などにおいて若干の変容はあったにせよ、クラークはマサチューセッツ農科大学の教育モデルを日本に移植することに努め、帰国後の年報には
「わが校の編成や学科過程は、ひとり合衆国においてのみならず、類似のカレッジが作られ、今日成功裡に経営されている日本においても、実際に満足すべきものであることが判明している」と記した。
(16th Annual Report of Massachusetts Agricultural College, 1879, p.10)
 ダイアーの場合は、母国イギリスにモデルとなる工業教育機関が存在しなかったこともあって、彼自身が独自なモデルを考案せざるをえなかった。

…三好信浩「工部大学校をめぐる内外教育交渉の成立」講座日本教育史第二巻「近世T/近世U・近代T(第一法規、1984)所収、第6章、342頁

 工部大学校 Imperial College of Engineering の卒業生たちは、ダイアーの期待したように、実践能力のある専門職としてのエンジニアに成長し、日本の工業化の推進力となったという意味で、その実験は成功した。
 工部大学校は、1886(明治19)年に帝国大学に併入されて、工科大学校となったが、それまでに211人の卒業生を出した。
 彼らの活躍状況を追跡調査してみると、研究や教育や実業の諸活動において顕著な業績をあげていることがわかる。
○ タカジアスターゼを創製した高峰譲吉(注1)、
○ 東京駅を設計した辰野金吾(注2)、
○ 琵琶湖疏水事業を進めた田辺朔郎、
○ 電気学の草分けになった志田林三郎、
など、数をあげればきりがない。

…三好信浩、同書345頁



(注1)高峰譲吉は1854-1922。NPO法人高峰譲吉博士研究会(港区赤坂3-12-5 共友ビル5F 電話 6277-7111参照。
http://www.npo-takamine.org/

(注2)辰野金吾は1854-1919。1914年に開業した東京駅の設計者については今春2月16日、BS朝日が番組を放送していました:
http://www.bs-asahi.co.jp/tokyo_station/

 そして最近のことでした、こんなん:

 東京駅開業100周年を記念したIC乗車券「Suica(スイカ)」の販売が、予想以上の人出のため中止された問題で、JR東日本は12月22日月曜日、当初予定していた限定販売を取りやめ、希望者全員に販売すると発表した。販売時期は決まっていない。
 記念スイカは12月20日土曜日午前7時過ぎ、限定1万5000枚の予定で販売を開始。その時点で約9000人が集まっており、JR東は安全確保のために約8000枚を売ったところで販売を中止した。
 オークションサイトでは、既に販売されたスイカ(1枚2000円)が数万円単位で落札されているが、JRは「今のところ対策は考えていない」としている。
 記念スイカは東京駅の赤レンガの駅舎をモチーフにしたデザイン。1人3枚までとしていた購入枚数をどうするかは未定。インターネットやはがきで希望を受け付けることを検討しているという。【
(12月22日13時32分更新、毎日新聞・岡礼子「東京駅記念スイカ:一転、希望者全員に…販売時期は未定)
http://mainichi.jp/select/news/20141222k0000e040144000c.html

(注3)田辺朔郎は1861-1944。田辺は、「琵琶湖疏水工事終了後、京都府知事北垣国道の長女と結婚。このときの媒酌人は榎本武揚であった」:
http://www.civic.ninohe.iwate.jp/100W/07/076/page2.htm
 琵琶湖疏水については京都市の以下公式サイトを参照:
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/ansyu-s/biwakososui/biwakososui.htm

(注4)志田林三郎は1856-1892。「27歳で工部大学校電気工学科の初代日本人教授に就任」(佐賀県多久市公式サイト):
https://www.city.taku.lg.jp/main/3232.html
 志田林三郎博士顕彰会については:
http://www.ko-sinosato.com/shida/index.html

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2014年12月24日

クリスマス・イヴ

 師走総選挙の前の佐藤嘉幸(1971年生まれ)先生のつぶやきから:

 2011年3月11日に起こった東日本大震災と福島原発事故以後、私たちはまさしく、ベンヤミン(1892-1940)の言う「例外状態」の中にいる。

 東日本大震災と福島原発事故は戦後日本の統治システムの問題点(電源三法に基づいた膨大な補助金と引き換えに原発を地方に押し付ける「犠牲のシステム」、そして地震が頻発する日本列島に54基もの原発を展開した核エネルギー政策の脆弱さ)を露呈させたが、その弱とは、
○ 震災後に喧伝された「絆」という名のナショナリズムと、
○ 中国、韓国、ロシアとの「領土問題」という名の国境紛争、
○ 北朝鮮核武装が惹起した排外主義的ナショナリズム
によって覆い隠され、外敵との戦争の「実在的可能性」へと変換された。

 そのような変換を背景として、2014年7月、第二次安倍政権は、憲法解釈の変更によって、集団的自衛権、さらには集団安全保障の行使をも可能にする「解釈改憲」を実現した。

 この「解釈改憲」によって、平和憲法を基礎とする立憲デモクラシーのシステムは破壊され、対外戦争を可能にする「第二の構造物」を憲法の傍らに置くという「例外状態」が生起したのである。

…佐藤嘉幸「立憲デモクラシーの危機と例外状態、デリダ・アガンベン・ベンヤミン・シュミットと<亡霊の回帰>」、雑誌『思想』岩波書店、2014年12月号所収)88頁

 先生は本文でなく、注釈でさらに分析して言及していきます:

 経済的・軍事的「危機」の政治的「例外状態」への変換を背景として、第二次安倍政権は、経済界からの要望に応えて、武器輸出の原則禁止を定めた「武器輸出三原則」を廃止して、「防衛装備移転三原則」(*)を閣議決定し、武器輸出を解禁した。

 それは軍事的「危機」を、軍需産業(**)の輸出拡大による資本主義の「危機」の乗り越えへと転換する試みである。

 「解釈改憲」もある意味では、そのような試みに資する一手段に過ぎない。

 資本主義の「危機」を乗り越えるために軍需産業が動員され、そのための手段として集団的自衛権、集団的安全保障が解禁される、という軍事・資本主義的論理には特段の留意が必要である。

 なお、この点については廣瀬純氏のtwitterによる発言(***)から示唆を受けた。

(*)「防衛装備」という聞き慣れない言葉は「武器」を言い換えたもの。
(**)それは原発の輸出拡大と密接に結びついている。なぜなら、同じ財閥系企業がその主体であるからだ。
(***)https://twitter.com/flux.de.merde/status/496847829445259264


 あの「師走総選挙」って総理とあの副総理(注1)が機中会談して決めたんだっけ…

 首相は、20ケ国・地域(G20)首脳会議が開かれたオーストラリア・ブリスベンから、G20財務相会議に出席していた麻生太郎副総理兼財務相とともに政府専用機で帰国する。機中では、衆院選後の安倍政権継続を前提に、経済対策取りまとめや来年度予算編成のスケジュールについて意見を交わすとみられる。
(2014/11/17-13:02時事「午後に与党党首会談=衆院解散へ最終調整」)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201411/2014111700017

 そして一ヶ月後、首相の選挙演説の締めは、あの副総理のアキバで…

「今回もこのアキハバラで締めくくりたいと思います。中小企業、小規模事業者にも景気回復の暖かい風をお届けしていく。来年の4月、経済界は賃金を上げると約束しています。賃金は上がって行きます。そして再来年の春、翌年の春もしっかりと賃金を上げていけば、消費税に対応できる強い経済力を手に入れることができる」
 打ち振られる日の丸の小旗を前に、安倍首相は聴衆をくすぐることを忘れなかった―
「これまで円高のため、いくら(日本が)良い製品を作っても中国や韓国に負けていたんです」
 聴衆からは「そうだっ!」の掛け声があがった。安倍首相は彼らの「嫌中・嫌韓」感情を刺激したのである。会場には殺気さえ漂った。
 「安倍さんガンバレー」とかん高い声を飛ばしていた女性(30歳・主婦)は、「熱烈安倍ファン」という。
 「『(日本を)こういう風にしたいから、こうしたんです』−夢と現実と希望を語ってくれるのは安倍さんだけ」。彼女は安倍首相の魅力をこう分析した。
 現実を粉飾して単純なロジックで夢を振り撒く。不況の時代、国民を熱狂させる独裁者はいとも簡単に登場する。

(2014年12月14日00:23田中龍作【衆院選】安倍ファイナルはやっぱりアキバ)
http://blogos.com/article/101188/

 「師走総選挙」を終えて一週間後、佐藤嘉幸はこんなつぶやきを:

 先日の衆議院選挙ですが、投票率が52%で、そのうちの33%しか得票していないのが自民党の支持者総数だとすれば、有権者全体の17%の支持しか得ていない。
 それが全体の61%の議席を得て「我党の政策が信任された」とか言っているわけでしょ。
 端的に言ってありえない。

…12月22日 twitter by Yoshiyuki SATO

 そうしたらなんとヤッホー君が誰に向かって言ってるの、有権者に向かって説明して、とあれほど口すっぱく言い続け鳩ぽっぽのメッセージをリツイートしてくれておりました。
 あ〜あ、やっぱり:

 矢部宏冶さんが書かれた『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』を読んで(注2)、目からうろこが何枚落ちたか分からない。
 その一つが日米合同委員会の組織体制である。
 この60年以上続く米軍と日本の高級官僚から成る同委員会が決めた内容は非公開である。
 誠に恥ずかしい限りではあるが、総理時代に米国と官僚の厚い壁に歯が立たなかった所以がここにある。
 日本がアメリカに従属している構図は極めて強固であり、霞が関には従属の完成系が存在している。
 こんな情けない日本を自立させ、対米従属からの脱却の旅に出る政治家は現れてないのであろうか。

…12月22日 Yoshiyuki SATOさんがリツイート

 今日、クリスマスイヴに第三次安倍内閣が発足します。
 財閥系企業を救うだけの「例外状態」が恒常化、常態化し、あの副総理がつぶやいたように、実はイヴはワイマール憲法のように、平和憲法のもとで軍隊が人殺しに行って、あげくのはては70年前と違って本当にこの国が滅亡しちゃった、その前夜祭だったなんて、後で言われることがないようにしっかりと、イエス様の誕生祝いをすることにします。


(注1)
ヤッホー君のこのブログ、師走総選挙の前の2014年12月10日付け日記「自由の鐘」のなか、「あんころこんなことが…」以下の文章を再読してみましょう。あのお方が、この国のナンバーツーなんですぅ〜たらーっ(汗)

(注2)
ヤッホー君のこのブログ、師走総選挙の前の2014年11月6日付け日記「矢部宏冶」を再読してみましょう。


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2014年12月23日

内村鑑三

 札幌農学校の教職員が署名した「イエスを信ずる者の契約」:

 我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。
1877年3月5日札幌にてウィリアム・スミス・クラーク

http://www12.plala.or.jp/dokuritsu-kyokai/rekishi.html#2

 この署名者のなかに16歳で第二期生として入学した「にとべ」こと太田稲造(1862-1933)がおりますが、同じく署名した第二期生に内村鑑三(1861-1930)がおります。
 1891(明治24)年といいますと、あんころです。
 ドイツに留学していた太田稲造は、2年前にハレ大学に転学し「新渡戸(にとべ)」姓に復帰し新渡戸稲造となり、1891(明治24)年に30歳でメリー・エルキントン嬢と晴れて結婚します。
 一方の内村鑑三… 

 1891(明治24)年、折からの国粋的反動主義の世情の中で、教育勅語の拝礼を拒否して教職を追われた内村鑑三(1861-1930)は、困窮の中から処女作である本書を世におくった。逆境にあるキリスト者の見出すべき慰めは何かを問うた魂の自叙伝ともいうべきこの書『基督信徒のなぐさめ』によって、著者は無教会の立場を貫いた生涯の立場を決定した。
(岩波書店)
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/4/3311910.html

 えっ、30歳? そんな年でもう逆境に追い込まれていた内村鑑三…「内村鑑三不敬事件」をおこしてしまいました。
 多様性を拒否し、異端者を血祭りにしてムラ社会から放り出す、この国の裏面を覗かせてくれる出来事です。
 イマもムカシも変わりませぬ。

 1890(明治23)年10月に教育勅語が発布され、翌1891(明治24)年1月、その奉読式が東京本郷の第一高等中学校で挙行された。式場には正面中央に天皇皇后両陛下の写真、御真影が掲げられ、その前の卓上には明治天皇が署名押印した教育勅語が置かれたという。
 式辞、勅語奉読などの後、教員、生徒が順番に進み出て、衰書を奉拝、礼拝することになった。
 この時、嘱託教員の内村鑑三は自己の福音主義的信仰から、この奉拝を「宗教的意味」に理解し、信仰の良心に基づいて震書には礼拝せず、「チョット頭をさげた」だけにしたという。
 しかし、その内村の行為は、当時の国家至上主義的な天皇神格化を否定したものと理解され、一部の教師、生徒などから非難され、更には日本全国から攻撃されるようになる。
 このため、内村は「依願解職」となって、ついに「枕する所なき」苦難の生活を強いられていく。
 これが世に言う「内村鑑三不敬事件」の概要である…
 そして、この一地方的な一つの小さな出来事がやがて日本のキリスト教世界全体を論争に巻き込み、更には、いわゆる「教育と宗教の衝突」事件にまで発展していくことになる。

(秋田大学・持田行雄「右の頼を打つ者は誰か、日本正教会の場合」
…tsukuba.repo.nii.ac.jp/index.php?...

 新渡戸稲造が新婚生活を送っていたころ、内村鑑三は伴侶を亡くしています。
 昨年2013年8月18日、NHK教育テレビ「こころの時代」で放映された番組の文字起こしでどうぞ:

 ナレーター:
 不敬事件で、世間の非難を浴びた内村の自宅には、暴漢たちが押し寄せました。その時、病に伏していた内村を守ったのが、夫人かずでした。しかし、内村の快復後、床に就いて妻は、数え年23歳の若さで亡くなります。失意の中で内村が書いた『基督信徒の慰』の「愛する者の失せし時」という章で、内村は、「愛するものを失うことは、まるで無間地獄に堕ちるような悲しみである」と綴っています。かずが亡くなって間もなく、内村はアメリカの親友ベルへ、その死を報告する手紙を送っています。
 
本4月19日の夜、私の妻が地上における最後の息とともに世を去りましたことを、ここに御報せ申し上げます。彼女は最後の際(きわ)まで意識を保ち、静かにして落ち着いたキリスト信徒らしい死を迎えました。彼女の短い人生は、その兄弟、母親、祖母、最後にはその夫に対し、無私にして絶えざる献身の日々でした。最後の病床における祈りにおいても、自分自身に関しては何ら口にしませんでした。こうして新たに出会った救い主のもとへ逝った彼女は、そこで愛する人が仕事を終えるまでを待つことになります。彼女への多大な御厚情を感謝申し上げます。
原英文。1891年4月23日付、デヴィッド・C・ベルあて書簡

(道をひらく 内村鑑三のことばD死者との対話)
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-611.htm

 その後の内村鑑三の「枕する所なき」苦難の生活! 本人が『基督信徒のなぐさめ』でこう述懐しています:

 余は余の国人を後楯となし、力めて友を外国人の中に求めざりき。余は日本狂と称せられて却て大に悦びたり。然るに今や此頼みし頼みし国人に捨てられて、余は帰るに故山なく、需(もと)むるに朋友なきに至れり。斯くあると知りしならば、友を外国に需め置きしものを。斯くあると知りしならば、余は余の国を高 めんが為めに強く外国を譏(そし)らざりしものを。
 余の位置は、可憐の婦女子がその頼みに頼みし良人に貞操(みさを)を立てんが為め頻りに良人を頌揚したる後、或る些少の誤解より此最愛の良人に離縁されし時の如く、天(あめ)の下には身を隠すに家なく、他人に顔を会はせ得ず、孤独寂寥(せきれう)言はん方なきに至れり。
 此時に当つて、嗚呼神よ、爾は余の隠家(かくれが)となれり。余に枕する場所なきに至つて、余は爾の懐に入れり。地に足の立つべき処なきに至つて、我全心は天を逍遙するに至れり。周囲の暗黒は天体を窺(うかが)ふに方(あたつ)て必要なるが如く、「第三の天」に登り、永遠の慈悲に接せんと欲せば、先づ下界の交際より遮断せらるるに若(し)かず。国人は余を捨てて余は霊界に受けられたり…。

 殊にキリスト彼自身の言行録に至りては、国人に捨てられざるものの争(いか)で其広さ其深さを採り得べけんや。然り余は余の国人に捨てられしより世界人(Weltmann)と成りたり。曾て余はホリョーク山頂に於て、宇宙学者フンボルトが自筆を以て名を記せるを見たり、曰く、
Alexander von Humboldt,
In Deutschlad geboren,
Ein Bürger der Welt
独逸国に生れたる世界の市民
アレキサンデル・フォン・フンボルト

 嗚呼余も亦今は世界の市民なり。生を此土に受けしにより、此土の外に国なしと思ひし狭隘なる思想は、今は全く消失せて、小なきながらも世界の市民、宇宙の人と成るを得しは、余が余の国人に捨てられし目出度(めでたき)結果なり。
 然らば宇宙人となりしに由り余は余の国を忘れしか。嗚呼神よ、若し我れ日本国を忘れなば、我が右の手にその巧(たく)みを忘れしめよ。若し子たるものが その母を忘れ得るならば、余は余の国を我れ得るなり。無理に離縁状を渡されし婦(をんな)は其夫を慕ふこと益々切なるが如く、余も亦捨てられし後は余の国を慕ふこと益々切なり。

(内村鑑三『基督信徒のなぐさめ』)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/kirisutosinnjanonagusame.html

 最後に内村鑑三と新渡戸稲造との友情の一端を(注):

 1887(明治20)年、米国フィラデルフィアのフレンド派(友会徒、クエーカーともいう)婦人伝道会の人々によって、当時米国に留学していた内村鑑三と新渡戸稲造の提言により、女子教育を目的として創立されました。以後120余年にわたり、普連土学園は、誠実であること、勤勉であること、簡素であること等を重んじたフレンド派(FRIENDS)の教えをもとに、相互の信頼関係を大切にした心の通い合う温かい学びの場となっています。
 校名の「普連土」は、津田塾大学の創立者 津田梅子の父 仙氏により、FRIENDの語の音をとって、命名されました。そして、この校名には、学園が「この地上の普遍、有用の事物を授ける」真理探究の場となるようにとの願いが込められています。

http://www.friends.ac.jp/school/histry.html


(注)
ほかにも北海道大学大学院農学研究科・太田原高昭「内村鑑三と新渡戸稲造」(2002年『高等教育ジャーナル─高等教育と生涯学習─10』所収」参照: 
http://socyo.high.hokudai.ac.jp/Journal/J10PDF/No1013.pdf


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ソーシャル新人類

 師走総選挙の前の高橋誠一郎先生のつぶやきから:

 400万部も売れたと言われる小説『永遠の0(ゼロ)』では、他国の人々と否応なく関わらざるを得ない陸上での戦闘とはことなり、「神風特攻隊員」の空中での「戦闘」や「家族の物語」に焦点が絞られているために、「外国」との関わりや当時の厳しい言論統制の問題は巧妙に避けています。
 しかし、「特定秘密保護法」に続いて「集団的自衛権」が施行されたあとの日本は、これまでの日本とは全く異なり、戦前のような雰囲気に支配される危険性がきわめて高いと思われます。常に上司や政治家の眼を気にするようになったと思われるNHKのアナウンサーがそのことを示唆しているでしょう。
 第二次世界大戦では若者だけでなく中年の人々も招集されました。
 今のかりそめの繁栄に惑わされることなく、1年後の日本を思い浮かべて、安倍政権に「NOといえる」毅然とした投票を!

(2014年12月9日更新、元東海大学教授・高橋誠一郎(1949年生まれ)ブログ「若者よ スマホ(*)を置いて 選挙に行こう」)
http://www.stakaha.com/?p=3754

 総選挙も終わりました。
 昨日のことです、世界一の歯医者「こいぶち歯科」からの帰りの総武線の「優先席」で見聞きしたヤッホー君、びっくり、びっくり。
 今日12月23日は、新渡戸稲造のつづきで札幌農学校の内村鑑三のお話しを日記につけようと息巻いていたのですが、その前に…

 三人掛けの優先席の端と端に、若者とヤッホー君が座っており、真ん中の席が空いておりました。
 爆睡中だったヤッホー君、目が覚めてしまいました。
 お婆ちゃんの二人連れが乗り込んできて、連れの一人が空いている席に座り、もう一人が、「この人、ペースメーカー入っているので…」と、わざとらしく大きな声で言いました。
 若い男はイヤホンをあててなにやら聴いているのか、スマホをいじくっていて、まったく反応がなくふんぞり返って座っています。

 座わったお婆さん「ちょっとあんた、上に書いてある文字が読めないの」
 若い男「…」
 お婆さん「ここではケイタイとかスマホとかできないのよ! どこでもやっていいってもんじゃないのよ」
 若い男「…」
 お婆さん「止めて頂戴!」
 若い男「…」
 (いやいや、しぶしぶという感じを仕草で示しながら、耳からイヤホンをはずします)
 お婆さん「そういうときはすみませんとか、ごめんなさいとか、年上の人には謝るのが礼儀ってもんよ、まったく人の話しを聴かないんだから」
 若い男「うっせーな、止めたろ?しつこいんだよ」
 お婆さん「なによ、その言い方、年上の人にすみませんとか、ごめんなさいとか、あなた、ちゃんと言えないの?」
 若い男「しつこいんだよお〜、いちいち、年上、年上ってぇ〜 年上と目上じゃちがうんだよ、もう消したからよ、それでいいじゃんかよお〜」
 お婆さん「…」


 目上の人には黙って素直に従うけど、年なんてだれでもとるんだから「年上の人が言ったからって関係ないや」ってわけでしょうか、ヤッホー君、「年上」と「目上」っていう並べ方を瞬時に言い放った若者の言いっぷりに驚きましたぁ〜。
 双方とも興奮して大きな声でやりとりしていましたので、周りの乗客は関わり合いになるのを避けるかのように、目をそらしていました。
 ヤッホー君は次が下りる駅だったので、立っているお婆さんに席を譲り、その場を去りましたとさ。

【やたら長い自動放送】E217系 横須賀・総武快速線 千葉〜稲毛 前面展望 逗子行き:
https://www.youtube.com/watch?v=5UXs8e2oNfE

 こんな風景も:

 電車のボックスシート(2人掛けの席が向かい合っている)で隣に座ったオヤジが、ふんぞり返って股を広げきっていたので、私が『狭いんですけど』と言ったら:

 オヤジ「しょうがないだろう!これ以上どうやってよけるんだ?」
 わたし「どうやっても何も、他の人はきちんと座れてるじゃないですか」
 オヤジ「女のくせにうるさい!」
 わたし「女のくせにって、あなただって女から産まれてきたんじゃないんですか!」
 オヤジ「屁理屈を言うな!大体、それが目上の者に対する態度か!」
 わたし「目上と年上は違うと思うんですけど。バカでも死にさえしなけりゃ年はとれますから」
 オヤジ「目上も年上も同じだ!年上の言うことは黙って聞け!」
 と口論していたその時、向かい側に座ってた初老の男性が、
 別の初老の男性「じゃあ俺の言うことなら黙って聞くんだな?」と一言。
 オヤジは返す言葉がなかったらしく席を立って次の駅で降りてしまいました。

https://www.youtube.com/watch?v=nRXZA0FyHEA



(*)
2014/11/25 7:00 日本経済新聞電子版「パソコン使えぬ若者世代、卒論もスマホで」ソーシャル新人類の不夜城(21):
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO79039210Z21C14A0000000/


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2014年12月22日

W.S.クラーク

 「にとべ」は、海を渡って北海道へ。そして昨日の日記でつづったように16歳の7月、大学予備門を退校し9月には「開拓使札幌農学校」に第二期生として入学しました。同年10月、クラーク氏(William Smith Clark、1826-1886)の遺した「イエスを信ずる者の契約」に署名。
 ヤッホー君、これまで何も知らずよくもまあ馬齢を重ねてきたようで、この年になってようやく顔をあげ、息がつけるようになったもんで、もう少し調べていきましょう、と。

 まず、1876(明治9)7月に札幌農学校教頭に赴任してきたクラーク氏について。
 ヤッホー君が若い時、北海道大学に遊びに行って、クラーク像をみたような、夢だったのかな、清里で出会った像(注1)は誰のだったのかなあ、ごっちゃにしているのかなあ…

 札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭であったクラーク博士は、「羊ヶ丘展望台」(札幌市豊平区羊ヶ丘1 Tel 羊ヶ丘展望台事務所(011)851-3080)に全身像が建立される以前は、大学構内にある胸像が有名で、多くの観光客が訪れておりました。
 しだいに観光客が観光バスで訪れることが多くなり、大学の研究活動に支障が出るとして観光バスの入場を禁止いたしました。
 札幌観光協会では、北海道の開拓のシンボル的存在であるクラーク博士像を広く全国の人に見ていただくことで開拓者精神を後世にも伝えていきたいという思いから、クラーク博士の来道100年、アメリカ合衆国建国200年にあわせて羊ヶ丘展望台に建立しました
(注2)。
(さっぽろ羊ヶ丘展望台、クラーク博士像)
http://www.hitsujigaoka.jp/amusements/clark.html

 次に「にとべ」も署名した「イエスを信ずる者の契約」って、じゃあ、クラーク氏はキリスト教の伝道師だったのかな、キリスト教の何派になるのかなあ…

 「札幌独立キリスト教会」(札幌市中央区大通西22丁目1-6 Tel (011)641-3522)の起源は、札幌農学校(現北海道大学の前身)初代「教頭」President として赴任したW.S.クラークにあります。
 クラークについては Be gentleman や Boys,be ambitious!の言葉で知られていますが、そのわずか8ヶ月半の滞在期間(1876(明治9)年7月31日〜1877(明治10)年4月16日)に、彼は、聖書によらずに道徳を教えることは不可能であるとの信念から、開拓使長官黒田清隆の暗黙の了解のもと、授業開始前に聖書を講じました。
 それが若き学徒たちに決定的感化を及ぼし、ついに彼らはクラークの起草した「イエスを信ずる者の契約」に署名するに至りました。
 これら入信の決意を表明した者(一期生16名、二期生15名)の中に、大島正健、内村鑑三、宮部金吾、太田(新渡戸)稲造らがいます。

(札幌独立キリスト教会公式サイト、歴史)
http://www12.plala.or.jp/dokuritsu-kyokai/rekishi.html

 クラーク氏の教派的な背景は

 同窓会の際に、卒業後、北海道大学の大学院で勉強している方から写真のようなおみやげをいただきました。「札幌農学校」というミルククッキーです。
 箱の中には札幌農学校についての説明書きがありました。1876年に開校し、「フロンティア精神」「国際性の涵養」「全人教育」「実学の重視」という教育理念をもち、クラーク博士らにより有為な人材が輩出されてきました。
 開校年が同志社とほぼ同じであるだけでなく、教育理念も重なる部分が多いです。
 ちなみに、クラーク博士の教派的な背景は会衆派。新島襄と同じです。
 札幌農学校と同志社は、直接に関係することはありませんでしたが、精神的なルーツにおいては、意外と近いところにありそうです。

(同志社大学・小原克博先生のブログ「大阪で小原ゼミ(2013年卒業生)同窓会)
http://www.kohara.ac/blog/2013/12/2013-1.html

 クラーク氏が来日するきっかけをつくったのは、新島襄、だったのです!

 正規に米国の大学を卒業した日本人は、同志社大学の創立者新島襄(1843-1890)です。
 江戸の武士の長男として生まれた彼は、鎖国中の日本から飛び出し、海外を知り、新しい時代を拓こうと、1864年、函館から密航を企て、上海を経由して、米国商船「ワイルド・ローバー号」でインド洋からアフリカ南端を通って、1865年7月、ボストンに到着しました。
 航海中、彼は船員として働き、「ジョー」と呼ばれていました。
 ボストン到着後は、ワイルド・ローバー号のホレイス・テイラー船長の紹介で船主であるアルフェース・ハーディが、スポンサーとなってくれることになりました。
 ハーディー夫妻の支援により、フィリップス・アカデミーに入学して英語を勉強し、在学中に洗礼を受けました。名前は Joseph Hardy Neesima となりました。
 1867年9月、アマースト大学に入学し、1870年、同大学を卒業しました。
 彼は、西洋の大学から学士の学位(理学士)を取得した最初の日本人となったのです。
 このアマースト大学で彼は、有名な人物の化学の授業を受けていました。後に札幌農学校へ赴任し、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士です。クラーク博士から、最初に教わった日本人は彼でした
 その後、正式な留学生として認可され、1872年、その語学力を買われて岩倉具視を長とする使節団の通訳として、米国及び欧州を巡訪しました。
 1875年、日本に帰国した新島襄は、京都に同志社英学校を設立しました。

(在ボストン日本国総領事館公式サイト「日本とニューイングランド地方の歴史的つながり」)
http://www.boston.us.emb-japan.go.jp/ja/JAPAN_NEW%20ENGLAND/Outline/Histrical%20Relations/histrical%20relations.html


(注1)ポール・ラッシュ博士、です!

 昭和十三年四月十七日。途中の甲府駅で、色白の、もの静かな青年に迎えられました。山梨県耕地課のお役人で八ヶ岳開墾事務所長の安池興男氏でした…
 …所長がいなくなってかなりたってから、私たちは初めてある事実を知りました。
 入植して一年あまり、肥料や種苗類はすべて県からの支給と思っていたのが、実は所長の自弁だったというのです。所長は給料の一年分のほとんどを、私たちにつぎ込んでくれたのでした。
 最小限の営農資金も認めようとしなかった県が私たちにくれたのは、結局鍬一丁だけだったのです。
 終戦後、国は食糧難打開のため開拓政策に力を入れ、清里にも続々と新しい入植者が送りこまれてきました。その第一陣が、現在旭ヶ丘地区にいる人たちです。八年先輩に当たる私たちの暮らしの貧しさに、この人たちは目を見はりました。
 しかし国で力をといっても、さまざまな名目の資金は、結局入植者の肩に借金となってのしかかってくるものばかりです。旭ヶ丘に続いて、東念場、下念場と入植者はふえ続けましたが、やはり苦労は絶えなかったようです。
 立教大学のポール・ラッシュ博士が、戦前からの大学の施設を充実させて清里農村センターを開設されたのも、この頃のことです。立派な教会や実験農場、病院、図書館などが作られ、近在の農家との交流もさかんに行われました。
 ことに、毎年八月に開かれた、カンティフェアは、私たち農家にとって最大のおまつりでした。牛や牧草地の共進会で、私たちは成績を競いあいました。農業技術や酪農の研究会もありました。小学校の子どもたちにミルクを支給してくれた時期もあり、そのお礼に農場のまわりの草刈りに行ったりもしました。
 やがて、都会の若者がぼつぼつと清里を訪れるようになり、センターの宿泊施設、清泉寮は人気の的になりました。
(清里観光振興会公式サイト、清里の歴史)
http://www.kiyosato.gr.jp/rekishi/rekishi/yasuike.html

(注2)
 1976年、“Boys,Be Ambitious”「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名な北海道開拓の父「ウィリアム・スミス・クラーク博士」をモデルに彫刻家・坂坦道(さか たんどう、1920 - 1998)氏により制作。
(さっぽろ羊ヶ丘展望台、丘の上のクラーク)
http://www.hitsujigaoka.jp/amusements/clark.html

 「さっぽろ羊ヶ丘展望台」では来年お正月9日(金)より「羊ヶ丘スノーパーク2015」開催!
 また今年の秋、たいそうにぎわった恒例の第5回、北海道の鍋を堪能するイベント「羊ケ丘鍋まつり」(10月11日〜13日)の様子は北海道新聞動画ニュースで:
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/video/?c=fuubutu&v=846924232002


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2014年12月21日

新渡戸稲造

 師走総選挙の前の岩手日報記事から:

 男女格差に関する国際比較のデータを示されると、日本では男女平等といっても建前にとどまっていると思わざるを得ない。
 「世界経済フォーラム」が先日発表した「男女格差報告」ランキングによれば、日本は142ヶ国中104位。議員や管理職の少なさが響いているようだ。これでは経済力や教育水準を誇っても、先進国として胸を張れない。
 盛岡市出身の新渡戸稲造は、生涯にわたり女性の地位向上に力を注いだ。多くの学校設立に関わり、社会に羽ばたこうとする女性を支援。東京女子大の初代学長などを務めた。
 その方針は、明治から戦前まで女子教育で主流だった良妻賢母主義と一線を画した。良妻賢母の前に一人の良き人間を目指し学ぶべきだと訴えた。旧制一高の校長時代、運動会に初めて若い女性や母親たちを呼ぶことにした。硬派学生たちの反発を招いたが、話し合いの末に実現させた。
 「すべての女性が輝く社会をつくる」という安倍内閣は、改造で増やした女性閣僚の政治資金問題で荒波にもまれている。一気に女性閣僚の割合を高めようとしても、身の丈に合わないことがあらわになった。
 男女格差解消に「お手軽な」対策はない。新渡戸の時代と同様に男女隔てず地道な人づくり、そして着実に政策を積み重ねていくしかない。

(2014年11月3日「文化の日」付け岩手日報、風土計)
http://www.iwate-np.co.jp/fudokei/y2014/m11/fudo141103.htm

 年の暮れ、2014年で一番歩きにでかけて良かった場所は?と聞きましたらヤッホー君、すかさず岩手県!と。
 生憎の雨の早池峰山でしたが麓の土地で、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)、宮沢賢治、高村光太郎と出会い、エーデルワインに酔いしれたこと、いわて銀河鉄道に乗れたこと等々、良い思い出となりましたぁ〜
 今日のテーマはやはり「教育」。
 このところ気になってヤッホー君のこのブログで追い続けている「教育」と絡めた納豆餅、で、ない、ない、明治になったころに育ち、わが国から国際連盟の事務次長を務めた(1920年59歳〜1926年64歳)新渡戸稲造です(注1)!

新渡戸記念館.jpg

展覧会.jpg

 よろしいでしょうか、では、まいります。まずは新渡戸稲造の母が送った手紙をこんなふうに回想している文章から。
 いきなり手紙文で恐縮です、ってヤッホー君、もう涙が流れ落ちて顔がくしゃくしゃ…

 『お前は8歳のとき、私のもとを離れました。
 そして今では身も心も成長したことでしょう。
 …お前の送って下されし俳句が気に入りました
 
北国も とわずひらく 稲の花

 私の頭も近頃めっきり白くなりました。
 けれどもお前が勉強に良い成績をあげて、偉い人になって下されば、白髪がいかに増えようといといません。
 10年など何ものでもありません。
 家を慕うような弱い心ではなりませぬ。
 お前は大事な仕事があるのを、ゆめ忘れてはなりませぬ。
 そのために強い心でいなくてはなりませぬ。
 年老いたこんな弱い母でも、別れに耐えらますから、もちろんお前も耐えられます。
 明るい心で耐えねばなりませぬ』

 私たちの乗った小さな船舶が沿岸にそって進んで行くと、生まれ故郷の山々が見えた―
 そこは幼少時代を過ごしたわが家があり、母も姉たちもいた―
 私はデッキに立ちつくし、じっと目をこらして、母の言葉をくり返した。
 
お前は明るい心で耐えねばなりませぬ


 これは、新渡戸稲造『幼き日の思い出/人生読本』(日本図書センター「人間の記録」第23巻、1997年)の74-75頁にでてまいりますが、東京から船に乗って札幌にわたる頃、1877(明治10)年(注2)。
 新渡戸稲造16歳のとき、7月、大学予備門退校。9月開拓使札幌農学校に第二期生として入学(卒業は、1881年20歳のとき)。10月、クラーク氏の遺した「イエスを信ずる者の契約」に署名。
 1880(明治13)年、新渡戸稲造19歳。7月17日、母堂セキの死(9歳で上京して一度も会うことはできなかった、という)。
 日本が国際連盟を脱退した年、1933(昭和8)年に71歳でカナダのビクトリア市にて客死。

 このてがみ、明治のはじめに書かれた文章なはずだけど、新渡戸稲造のお母さんはもうこんな現代日本語で話し書きできたんだろうか、と思っていたヤッホー君、またまたびっくり、びっくり:

 財団法人新渡戸基金の活動に皆さまのご支援をいただき誠にありがとうございます。
 さて、新渡戸稲造著『武士道』が多くの人たちによって見直され、各社各様の『武士道』が師走の書店に飾られております。他方、第二の『武士道』と言われる新渡戸稲造の英文の著書に『幼き日の思い出』があります。
 『幼き日の思い出』は稲造がビクトリアで没した翌年、メリー夫人が英文を校閲し、さらに自らはしがきとエピローグ等を加え、昭和9年に丸善から出版されました。この本が英文であったため、昭和45年に『新渡戸稲造全集』が教文館から出版されるに当たり、令孫加藤武子さんが訳を担当し、初めて一般にも日本語で読まれるようになりました。
 今回、財団法人新渡戸基金では英文原本と邦訳を合本して出版します。
平成19年1月吉日財団法人新渡戸基金、理事長 小野繁


 盛岡市出身の国際人、新渡戸稲造を支えたメリー夫人(日本名・新渡戸萬里子)の著述"REMINISCENCES OF CHILDHOOD(幼き日の思い出)"のカバー付きの初版本(1934年発行)が盛岡市で見つかった。
 カバーを含めて残っている初版本は国内外でも数少ない。
 カバー絵は、9歳の稲造が兄道郎と、かごで上京する場面が描かれ、背景には石割桜、擬宝珠、岩手山をイメージさせる盛岡の風景が描かれている。
 新渡戸基金常務理事で事務局長の藤井茂さんは
「上京という、新渡戸のその後の人生のきっかけとなる場面が描かれ、本書の内容を象徴している。カバーを含めたほぼ完全な形の初版本は珍しい」と話す。
 初版本が保管されていたのは、盛岡市中央通1丁目の内丸教会(中原眞澄牧師)の牧師館。
 大量の明治・大正期の聖書とともに見つかった。
 "REMINISCENCES OF CHILDHOOD"は、1934年12月に丸善(当時の東京市)から発行。
 新渡戸が国際連盟事務次長時代に執筆した原稿が基になっており、盛岡、東京時代を経て札幌農学校に向かうまでの思い出がつづられている。
 新渡戸がカナダで没した翌年、メリー夫人が英文で一冊にまとめて発行した。
 2007年には、新渡戸の孫の加藤武子さんの翻訳をつけて「幼き日の思い出」として新渡戸基金(内川頴一郎理事長、盛岡市)からも出版されている。
 カバー絵は盛岡の風景を象徴するようなデザインだが、藤井さんは
「メリー夫人が盛岡に来たのは1回程度で、それほど盛岡に詳しくなかったと思われる。このようなデザインになったのは新渡戸の親類のアドバイスもあったのでは」と推測する。
 新渡戸がかごに乗っている絵は、着物の絵柄は違うが本文の挿絵にもあり、画家は同じ Shoshun Otake と思われる。
 カバーの小口(見返しにかかる部分)では、この画家について「日本人が失いつつある鋭いビジョンを持ち併せた画家」と紹介されている。
 本書のカバー付きの初版本は、新渡戸の養子の孝夫が学んでいたアメリカ・ペンシルベニア州のハバフォード大学に所蔵されていることが分かっている。
 初版本の本体(カバーなし)は、「盛岡市先人記念館」(千田順一館長)の新渡戸稲造記念室でも見ることができる。
 内丸教会は1880年創設。中原牧師は新渡戸基金会員でもある。メリー夫人について
「聡明なだけではなく、最後まで新渡戸に寄り添った強い人だったと思う」と話した。
 今回見つかった初版本の本文最後のページには、余白に 15 aug 1936 sunday morning のサインがある。
 この本を読んだ宣教師か牧師が読み終わった日付を記したものと思われ、発行当時から関心が寄せられていたことがうかがえる。

(2014年9月3日(水)盛岡タイムスWeb News「新渡戸稲造 異国に開いた石割桜 盛岡市内丸教会 カバー絵に故郷の山河 メリー夫人著『幼き日の思い出』初版」)

※ 写真キャプション:”REMINISCENCES OF CHILDHOOD"のカバーを広げると盛岡の風景をイメージさせる一枚の絵になる

http://www.morioka-times.com/news/2014/1409/03/14090301.htm


(注1)
ヤッホー君のこのブログ、以下の日記をお読みくださいね:
☆ 2013年05月24日付け「国木田独歩のおのぶさん」
☆ 2014年06月29日付け「早池峰山1917m」
☆ 2014年07月05日付け「矢内原忠雄」
☆ 2014年07月07日付け「教育基本法」

さらに動画で、以下のお話しに耳を傾けて聴いてくださいね:
☆ 新渡戸稲造 生誕150年記念 第3弾「すべてに根ざす『愛』〜新渡戸稲造の苦悩〜」
https://www.youtube.com/watch?v=_xgGp83z8kQ
☆ 第1弾「世界を結ぶ『志』〜新渡戸稲造の生涯〜」
http://youtu.be/vofCprxlD3g
☆ 第2弾「未来につながる『道』〜新渡戸稲造の武士道〜」
http://youtu.be/kJBb9Z4TC5g

(注2)
昨日のガイドにまた道案内人をお願いして:
 1871(明治4)年7月廃藩置県。同年12月学制取調掛(学制起草のための委員)任命。翌1872(明治5)年「学制」発布。

…すなわち華士族農工商の差別なく、また男女の別なく教育を受けるという近代教育の基本理念がここではじめて明らかにされたのである。
 これを江戸時代において武士と庶民の教育が区別され、また庶民は一部の上層のものだけが教育を受け、女子の教育もとくに低くみられていた状態と比べてみるならば、わが国の近代教育史のうえにおける「学制」の意義の重大さが明らかとなるであろう…
 学校数は明治6年には1万3千校に達しないが明治10年には2万5千校を越え、
 就学歩合は明治6年の28%が明治10年にはほぼ40%、女子の就学率も15%が22%を越えている。

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2014年12月20日

唱歌

 ヤッホー君のこのブログ、2014年12月17日付け日記「金太郎」で、「1900(明治33)年6月『幼年唱歌(初ノ上)』に掲載された…」、「1900(明治33)年に小学唱歌「キンタロー」が姿を見せるが、それが掲載されている教科書『幼年唱歌』の歌詞のページ…」とありました。
 ヤッホー君のこのブログ、翌2014年12月18日付け日記「鳩、鳩ぽっぽ」では、「同じく今なお幼児も歌う『鳩』は1911(明治44)年の国定教科書『尋常小学唱歌(1)』が初出…」とありました。

 何か深い森のなかに迷い込んで、佇んでいるような気がしますので、この辺でそばにある大木によじ登って、暗い森を俯瞰してみようかな、とよいしょ。
 ガイドは、海後宗臣(1901-1987)・仲新(1912-1985)・寺崎昌男(1932-)『教科書でみる近現代日本の教育』(東京書籍、1999)です。

T:
 1879(明治12)年9月「学制」が廃止され、「教育令」(別称「自由教育令」とも)が公布された。
 この頃、「学制」期の主流であった文明開化、欧米心酔の思想は批判され、儒教主義を中心とする皇国思想が政府の文教政策の中核をなすようになり、1879(明治12)年夏頃元田永孚(もとだ ながざね、1818-1891)が仁義忠孝を根本とし、道徳は孔子の教えを中心とすべきとし『教学聖旨』を纏める。
 翌1880(明治13)年、「改正教育令」が公布。

U:
 アメリカ留学から帰国した伊沢修二(1851-1917)の努力で、1879(明治12)年、文部省に音楽取調掛がおかれ、翌1880(明治13)年、音楽教育の専門家メイソン(L.W.Mason、1792- 1872)が招かれ、わが国の音楽教授がはじめられた。
 唱歌の教科書として『小学唱歌集』(全3巻、初編1881年、第二編1883年、第三編1884年)が編纂された。

V:
 1881(明治14)年、「小学校教則綱領」が定められた。
 そのなかで初等科、中等科、高等科に(カッコ)で示した「唱歌」は「教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ」としているもので、このころから次第に小学校の教科としてとりいれられた。

W:
 小学校については1900(明治33)年に小学校令が改正され、尋常小学校を4年に統一し、高等小学校を2年、3年もしくは4年とした。
 この改正はわが国の学校制度上きわめて大きな意味をもつもので、これによって4年の義務制がはじめて実現した。
 すなわち、全国民に共通な4年の基礎教育の過程が成立したわけである。
 さらに2年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に併置することを奨励し、近い将来に義務教育6年制を実現するための準備がなされた(注1)。
 またこの改正で、尋常小学校では授業料を徴収しないことを原則とした。
 この財政的裏付け、国庫補助は日清戦争の結果、1895(明治28)年締結の下関条約で清国からの償金の一部をあてた教育基金に拠った。

X:
 文学界で明治十年代から言文一致運動が起っていたが、音楽の教育現場でもそれまでの文語体の歌詞から口語体の「唱歌」の必要が考えられ、田村虎蔵(1873-1943)を中心に、1900(明治33)年『幼年唱歌』『少年唱歌』が発行された。
 その中には「うさぎとかめ」「モモタロウ」など、おとぎ話を題材としたものが作られた。
 1907(明治40)年小学校令改正(注1)によって尋常科の「唱歌」が必須教科となる。
 日本人の作詞・作曲による曲で唱歌教育を行うべきだと、文部省みずから「唱歌」の編集にのり出した。
 1910(明治43)年に出されたのが『尋常小学読本唱歌』で「紅葉」「ふじの山」「春が来た」「われは海の子」など日本人の手による新作であった。
 1911(明治44)年から1914(大正3)年までの4年間に『尋常小学唱歌』全6冊が刊行された。
 この教科書も他の教科書と同じように国定に準ずるものとして作られた。
 ここに発表された唱歌が「文部省唱歌」であり、昭和に入るまで20年間使われた。
 編集委員には、高野辰之(1876-1947、注2)、吉九一昌(1873-1916、注3)、小山作之助(1864-1927、注4)、岡野貞一(1878−1941、注5)、佐々木信綱(1872-1963、注6)などがあった。
 すべて日本人による新作であったが、当時の方針で「文部省唱歌」という表記だけで作詞者、作曲者を公表しなかった。

…兎束淑美「童謡・唱歌の歴史とうた」上田女子短期大学『創る』1996年所収(注7)


(注1)
1907(明治40)年3月小学校令が改正され、義務教育の年限が6年に延長された。

(注2)
高野辰之記念館(長野県中野市):
http://www.city.nakano.nagano.jp/tatsuyuki/index.htm

(注3)
大分県臼杵市観光情報協会、先哲:
http://www.usuki-kanko.com/?page_id=28

(注4)
新潟県公式サイト、所蔵資料の中から「小山作之助」に関する図書資料及び同氏の著作を紹介します〜新潟県の人材の紹介シリーズ(第39弾):
http://www.pref.niigata.lg.jp/tosho/1356779586124.html

(注5)
鳥取県わらべ館、鳥取の音楽家(田村虎蔵も):
http://www.warabe.or.jp/research/1douyou_1.html

(注6)
鈴鹿市公式サイト、佐佐木信綱の紹介:
http://www.city.suzuka.lg.jp/life/shisetsu/9207_04.html
熱海市公式サイト、佐佐木信綱旧居「凌寒荘」(りょうかんそう):
http://www.city.atami.shizuoka.jp/page.php?p_id=613

(注7)
同論文で、「唱歌」について兎束先生は次のように述べておられます:

 「唱歌」という言葉は、明治政府が近代的な学校制度を作った時に、音楽教科につけた名称で英語の<singing>の訳語として、日本に古来からあった雅楽用語「唱歌」から取ったものだと言われる。
 1872(明治5)年に出された「学制」の中で「楽器に合わせて歌曲を正しく歌い、徳性の滴養・情操の陶冶を目的」とする小学校の教科書として唱歌は登場した。
 しかしそれまでの日本では国民的レベルで音楽教育がなかったので、「学制」の中で音楽については「当分之ヲ欠ク」という但し書きがつけられていた。
 一般社会ではキリスト教関係の学校や教会で教える賛美歌だけが唯一の洋楽との出合いであった。



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2014年12月19日

大江山

 ところで12月17日付け日記「金太郎」で、るんるん足柄山の山おくで けだもの集めて 相撲のけいこるんるんと歌ったあの「足柄山」は、長じて坂田公時となり、丹波・大江山の酒呑童子を退治したとあるその「大江山」と同じく実在の山ではない、とまぁ、こんな具合で、足柄山が変じて金時山になったわけでもなく、とまぁ、あの辺にそびえている山ということでいいのでしょうね。

 金太郎伝説の資料・文献等を収集、調査していると、日本各地に金太郎伝説があることがわかってきましたが、この童謡の作者は、幸いにも私たちのふるさとにそびえる足柄の山々を「足柄山」として歌詞に取り入れてくれました…
 同じように酒呑童子退治で有名な「大江山」という山も正確にはないということを京都府大江町(注1)へ調査に行った折りに聞きました。

…前掲書『金太郎伝説』25-26頁

 酒呑童子伝説は、源頼光の鬼退治の話として広く知られる。現在残っている書物や絵画は室町時代以降のものであるが、それ以前から物語は存在したと考えられる。その原形は、源頼光や「四天王」と呼ばれる家臣らが山賊を退治したという物語に、大江山にいた山賊の話が結び付いたものとされている。
 酒呑童子伝説が一般に広まった江戸時代においては、渡辺綱による羅生門の鬼退治や坂田公時の金太郎伝説と共に、さまざまな形で文芸作品や錦絵の題材として取り上げられた。初期の伝説は、酒呑童子の住処によって伊吹山系と大江山系の二系統に分けられるが、次第に大江山へ統一されていった。
 「大江山」には二説あり、山城国と丹波国の境にある大枝山(現在の亀岡市老の坂)、または丹波国と丹後国の境にある大江山とされる。現在も両地には旧跡が多数点在している。

(酒呑童子)
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/maiduru/dgsyuten.htm

 「大江山」に大変な難儀をしながら進んでいき、大江山にすむ鬼の退治には、さらに長い岩穴を通り抜けなければなりません。
 そして川の流れにでます。そこでは:

第十五図
 源頼光一行が川で洗濯をしている若い美しい女性に出会う場面で「酒呑童子」の中では有名な場面の一つである。
 女性が洗濯しているのは「酒呑童子」に切り裂かれて餌食となった姫君が着ていた着物である。赤く染まった色が血を表わしている。本来凄惨な場面の一枚であるのだが、ここではあまりそうした印象は受けない。女性と直接話しているのは源頼光のようだが、本文によって渡辺綱に作るものもある。頼光達は、この女性から「酒呑童子」の住む「鬼が城」についての有力な情報を入手することになる。
 「酒呑童子」の伝本の中で最も古い逸翁美術館蔵「大江山酒天童子」(注2)では、老女が洗濯をしているので、本書の図は逸翁美術館蔵「大江山酒天童子」の絵とは明らかに異なり、後世の変化した本文に対応している。

(勝俣隆「オックスフォード大学ボドリアン図書館附属日本研究図書館所蔵『酒呑童子』について、その絵から判読出来ること」2001-03-25長崎大学教育学部紀要、人文科学vol.62所収)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/5794/2/KJ00000045502.pdf

 そう、そう、この女子についてご指摘なさった先生がおられました:

 頼光らはなぜ穴をくぐるのか、また穴のゆくえとはどういう場所として、把握されるべきだろうか。
 老婆は「此所は遙に、人間(じんかん)の里を、はなれたり」という。人間とは、人の住む世界であり、現世・娑婆を意味するから、はるかに離れたとは異界(冥界)をさすだろう。そのことを身をもって示しているのが、彼女自身である。逸本の絵では、老婆は川のそばで洗濯物を木の枝に干している。
 地獄に通じる川としての三途(さんず)の川が、日本に知られるようになったのは、平安中期だとされているが、それを述べる『地獄菩薩発心因縁十王経』に、三途の川には奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という男女の老鬼がいて、奪衣婆は亡者の衣をはぎ、懸衣翁は衣を木の枝にかけるとある。

…高橋昌明(注3)『酒呑童子の誕生、もうひとつの日本文化』(中公新書、1992)111-112頁

 へえ、またしても頭をかかえて驚くヤッホー君でした。
 実はヤッホー君、今年の晩秋11月、二度も「奪衣婆(だつえば)」と娑婆で出くわしていたからです。
 もちろん、目と目をしっかり合わせお参りして、お願いしてきたと言います。

 一度目は、吉永小百合の映画『ふしぎな岬の物語』を観に行く前、新宿の「太宗寺」(新宿区新宿2-9-2 Tel 3356-7731)で。ヤッホー君のこのブログ、2014年11月01日付け日記「ふしぎな岬の物語」参照。
 そしてもう一度、「九品仏」(世田谷区奥沢7-41-3 Tel 3731-2889)で。ヤッホー君のこのブログ、2014年11月25日付け日記「浄真寺九品仏」参照。


(注1)
 大江町(おおえちょう)は、かつて京都府加佐郡に存在していた町。2006(平成18年)1月1日に天田郡三和町、夜久野町とともに福知山市に編入されて消滅した。
 大江山、由良川などの豊かな自然に恵まれ、また大江山の酒呑童子伝説を生かして「鬼の里」をアピールするユニークな町づくりを行なっていた。
…ウイキペディア

(注2)
 作品群は酒呑童子の住処を基準に、「大江山系」と「伊吹山系」とに分類されている。
 それらのなかで、「大江山系」に属する逸翁美術館所蔵「大江山絵詞」(南北朝期前後の制作とされる)は、現存最古の作品…
 酒呑童子の住処とされる「大江山」は、古代においては山城国と丹波国の国境の大枝山(老ノ坂)が連想され、後には、丹後国と丹波国との間にそびえる大江山(千丈ヶ嶽)をあてる事が通説となる…
(学習院大学・岡本麻美「酒呑童子説話と土地の記憶−逸翁美術館所蔵「大江山絵詞」をめぐって−)
http://www.let.osaka-u.ac.jp/arthistory/jahs/pdf/jahs58y/jahs58_16.pdf

 小林一三・逸翁の絵巻コレクションの中で、双璧をなす絵巻は、「大江山絵詞」と「芦引絵」(共に重要文化財)です。
 「大江山絵詞」は源頼光をはじめとする四天王が、酒呑童子を退治する様を描いた絵巻です。この酒呑童子を描いた絵巻は、その住居を大江山にするか伊吹山にするかによって大きく2系統に分けられますが、大江山を住居とする系統の最古の作と言われているのが当館「逸翁美術館(池田市栄本町12-27 TEL:072-751-3865)所蔵の「大江山絵詞」、伊吹山を住居とする系統ではサントリー美術館蔵の「酒伝童子絵巻」が代表作です。
http://www.hankyu-bunka.or.jp/sys/info/article/67

(注3)
 12月6日(土)「文化史学会」大会。同志社大学文学部文化史学科が母体となって結成している学会である。小さいけれども、雑誌『文化史学』の刊行を着実に続けているし、同志社大学の文化史の卒業生の懇親を深める場としても機能している…
 例年ならばこの大会では研究発表も聞くのだが、所用のためそちらは欠席。公開講演だけにかけつける。どうしても聞き逃せないのは、神戸大学名誉教授・高橋昌明先生が御登壇で、「平家都落ちの諸相」を話されることになったのである。
 高橋先生、滋賀大学から神戸大学という国立大学の教授を永く勤められていた(今春、無事退官されて名誉教授となられた)のであるが、御出身は同志社大学の文化史であり、滋賀大学に迎えられる前には同志社高校でも教鞭をとっておられた。私にとっては、母校での大々々先輩ということになる。先生、普段は口に出されないのであるが、お酒が進んだ時などには同志社に対する熱い想いを語ってくださることがある。
(2008.12.10投稿、平安京閑話、山田邦和のひとりごと、京都生まれ、京都育ちの考古学研究者です)
http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2008/12/post-aaf4.html
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2014年12月18日

鳩、鳩ぽっぽ

 童謡と言えばもうひとつヤッホー君の身辺に忘れられないことが起こっていたのです。
 それは12月10日(水)のこと、浅草公会堂でアンコール上映があった映画『アンコール !!』を観に行きましたと書きました(2014年12月13日付け日記「アンコール !!」)。
 その帰りに浅草寺に立ち寄り、お参りしてぶらぶら歩いていた時、またしても飛び込んできた石碑があったのでもうびっくり、びっくり:

鳩ポッポの歌碑
 1900(明治33)年、東くめ(1877-1969)作詞、滝廉太郎(1879-1903)作曲の童謡「鳩ポッポ」の歌碑である。1962(昭和37)年に建立された。

(浅草寺公式サイト、諸碑)
http://www.senso-ji.jp/guide/syohi.html

 なんで浅草寺なんでしょう、とへたりこんでしまいました。

 この詩は日本中乃多くの人々に親しまれている日本の代表的な童謡の一つです
 東くめ女史が明治三十四年に観音さまの境内に於て鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまゝ歌によまれたものであります
 歌碑を建つるにあたりまして朝倉文夫先生から鳩並に題字を寄せられました事は作曲者瀧廉太郎先生と同郷旧知の深いゆかりに依る洵にうるわしい御協賛でありまた鳩は平和の象徴です
 そのためにもこの碑は永久に保存いたしたいもので阿ります
昭和三十七年十一月三日


 今なお幼児も歌う『鳩』は1911(明治44)年の国定教科書『尋常小学唱歌(1)』が初出だから100年間も愛唱され続けた歌である。
 文部省唱歌は作詞、作曲者を明らかにしていないため、これを作者未詳のままなのだが、実はこの歌が発表される10年前に、東くめが作詞し、滝廉太郎が曲をつけた『鳩ぽっぽ』という歌があった。
 鳩が今もたくさん遊ぶ東京浅草の浅草寺には、こちらの碑がたっているが、どうもその『鳩ぽっぽ』をまねて作ったのが、こちらの『鳩』のようなのである。
 東の『鳩ぽっぽ』は”お寺の屋根から 下りて来い””豆をやるから みなたべよ”などと書かれているから、イエバトを歌っていることになる。
 しかしイエバトは”クウクウ”と鳴く。
 それを東は、誤って”ポッポッポ”と鳴かせてしまった。
 この間違いをそのまま文部省唱歌は拝借してしまったのである。
 だが現在では東の『鳩ぽっぽ』を聴く機会はめったになく、鳩の歌と言えば”豆がほしいか そらやるぞ…”の鳩になっている。

…合田道人(文、1950年愛媛県生まれ)、村上保(絵、1961年釧路市生まれ)『童謡の風景』(中日新聞社、2008)42-43頁

 へぇ〜。

 野鳥:キジバト/電線で鳴く:
https://www.youtube.com/watch?v=medFwXiMGUg

 童謡『鳩』:
https://www.youtube.com/watch?v=dyGnblvvphc

 日本童謡の国『鳩ぽっぽ』
https://www.youtube.com/watch?v=0On4XNsToUA

 最後に森昌子で『浅草の白い鳩』:
https://www.youtube.com/watch?v=CGGh5z-xQ2Y

 これは『下町の青い空』のB面の曲で作詞者は、横井弘、作曲・編曲者:遠藤実(編曲:斉藤恒夫)によりミノルフォンから1974(昭和49)年出された曲でした。
(2013/12/11 市井考房、トレンド記事から資料価値のあるデータまで徹底的に取り組んでます!「花の中三トリオ」)
http://shiseiweb.com/

 こうして、こうして、ヤッホー君のこのブログ、2014年12月15日付け日記「思い出のアルバム」で記した内容と円環をむすぶことができるのです。
 2014年12月13日付け日記「アンコール !!」で記したように10日水曜日に浅草公会堂から浅草寺へまわり、14日日日曜日に足柄山で金太郎と遊んできて、その翌日の15日月曜日に歯医者からまわった銀杏岡八幡神社。
 《「こいぶち歯科」鯉渕隆文先生のところへ、歯の治療の日でした。そしてその帰りにひょいと回ったのが、浅草橋駅近くの「銀杏岡八幡神社」。そこで出会ったNPO法人日本子守唄協会「江戸子守唄の碑」》
 そうでしたね、鳩ぽっぽとマサカリ担いだ金太郎と、ようやく日本子守唄協会とが円環でつながったというわけでして…


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2014年12月17日

金太郎

 山歩クラブ12月14日「年わすれ山行」は、金時山1212mでした。
 山頂では江戸さんによる歴史のお勉強会がさっそく開かれました:

るんるんマサカリカツイデ、キンタロウ、
クマニマタガリ、オウマノケイコ
ハイシードードーハイドードー
ハイシードードーハイドードー

足柄山の山おくで
けだもの集めて 相撲のけいこ
ハッケヨイヨイ、ノコッタ
ハッケヨイヨイ、ノコッタるんるん


 童謡金太郎で知られる金時山は、その名のとおり金太郎が遊んだ山として有名である。
 長じて源氏の大将源頼光に仕え、名を坂田金時と改めた。
 金太郎は幼い頃「菱の腹掛」ひとつで熊や猪の待つこの山へ毎日のように勇んで登ってきた。
 ある日、金太郎は大石を落としてしまった。
 この音にあわておどろき、岩にあたって死んでしまった大猪の鼻を金太郎は、ねんごろにとむらったのである。
 金時山を別名猪鼻山ともいう。

(静岡念小山町)


 ところで、この童謡って?

 きんたろう(作詞石原和三郎、作曲田村虎蔵)
 1900(明治33)年6月『幼年唱歌(初ノ上)』に掲載された。
 金太郎は平安後期の実在の人物、坂田公時の幼名。
 丹波・大江山の酒呑童子を退治した一人として有名である。
 おとぎ話『金太郎』を題材にした歌は数多く作られたが、今も歌い継がれているのはこの「きんたろう」だ。

…童謡・唱歌・わらべうた(新星出版社、2013年)122頁

 1900(明治33)年に小学唱歌「キンタロー」が姿を見せるが、それが掲載されている教科書『幼年唱歌』の歌詞のページは、上半分に絵が描かれていて、歌詞に忠実に、「一番」の上には、マサカリを担いだ愛らしい金太郎が熊にまたがっている。「二番」の歌詞の上にはタヌキとウサギが相撲をとってイヌが行司をしている。金太郎は熊の肩に手をついてそれを見守っている。
 幼稚ともいえる描きぶりであるが、この唱歌を歌う子どもたちには親しみやすい図柄と言うべきであろうか。
 ともあれ、この『幼年唱歌』によって現在のマサカリ担いだ金太郎像は確定したのである。

…鳥居フミコ(1927年愛知県生まれ、元実践女子大学教授)『金太郎の謎』(星雲社、2012年)174頁

  各地へ旅行に行ったり調査に出かけた時に、私たちの南足柄市を紹介するのに一番手っ取り早いのが、「足柄山の金太郎で有名な足柄山のふもとの市です」と言えば通じてしまうことです。
 「足柄山=南足柄市」という観念を強烈に定着させてくれたのは、まぎれもなく童謡『金太郎』といえます。
 「足柄山の金太郎」を全国津々裏々に知らしめた功労者は、この童謡の作詞者である石原和三郎です…

 彼は1865(慶応元)年10月12日、群馬県生まれ、1887(明治20)年群馬県尋常小学校へ入学、1899(明治32)年高等師範教諭になり、この時に『金太郎』の作曲者、田村虎蔵と出会い、1900(明治33)年、田村虎蔵、石原和三郎のコンビにより童謡『金太郎』が誕生したのです。
 この他にも『浦島太郎』『兎と亀』『花咲爺』なども彼らによって誕生しました。
 彼らの歌は「こどもの歌は、こどもの言葉で」という信念により発表されたもので、わが国の小学唱歌に一大革命を起こしたのです。
 まさに『金太郎』などは彼らの信念通りに実に簡単明瞭な歌詞ではないでしょうか。

…金太郎・山姥伝説地調査グループ『金太郎伝説、謎ときと全国の伝承地ガイド』(夢工房、2000年)

 どれどれ、南足柄市にもおじゃましてみましょうか。

 南足柄市のキャラクター、よいしょ君こと"よいしょの金太郎"がお出迎え:
https://www.youtube.com/watch?v=192WXiLcWBM#t=127

 ふむふむ、童話の『金太郎』もこの際、英語バージョンで:

e絵本(eehon)日本昔話【きんたろう】英語版:
https://www.youtube.com/watch?v=VgDtcKIPF7k

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2014年12月16日

une profonde crise de la démocratie

 12月16日火曜日。ヤッホー君、朝から一昨日の総選挙をどこが、どう分析しているのか目をきょろきょろ。
 「期日前投票」まですませて山歩クラブ2014年を締めくくる今年最後の月例お山歩会に臨んだヤッホー君、一応今朝の時点での論点をまとめてみることにしましょうって:

 変化が生じたのは、「次世代」(19→2)が議席を激減させて、「共産」(8→21)と「民主」(62→73)の議席が増えたことくらいだ。
 最大の特徴は、投票率が52%と、戦後最低を記録したことだ。
 つまり、この時期に、700億円もの費用を投下して、実施する必要のあった選挙だったのかとの疑問が、改めて鮮明になる選挙であった。
 自公は325の議席を確保したが、最大のポイントは、小選挙区で圧勝したことだ。
 比例代表の定数180に対して、自公が確保した議席は自民68、公明26だった。
 つまり、自公合わせて94議席である。
 比例代表ではぎりぎり過半数越えというのが選挙結果だった。
 これが本当の民意である。
 小選挙区では1位の候補者だけが当選する。
 与党が盤石の選挙協力を実施した一方、野党勢力は候補者が乱立したため、小選挙区で自公勢力が圧勝したのである。

(2014年12月15日(月)植草一秀の『知られざる真実』「不毛だった総選挙と安倍政権打倒の二つの道筋」)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-fee3.html

 U教授は冷静に、投票率、選挙制度、民意の在り処から整理して述べてくれています。
 これが日本のマスゴミが販売促進しようと、1面を派手に彩って躍らせた大文字のゴシック体の活字と違うところで、外国メディアもこの論調になって、日本のミンシュシュギ及び日本人の意識について指摘しています。
 ロンドン、ニューヨーク、パリからの記事をよく読んで、日本及び日本人は国際社会でどう見られているのか、ちょっとだけ襟を正すのも師走向きかな、と:

The results of the Japanese general election are, in one word, strange. The coalition led by the incumbent prime minister, Shinzo Abe, won a commanding two-thirds of the seats, and secured its hold on government for the next four years.

But it did so on a dismally low turnout, the worst since the end of the second world war, and in spite of a widespread loss of confidence in Mr Abe’s flagship economic programme and doubts about his defence and security policies. Anecdotal evidence suggests that many Japanese either abstained or voted for a government they did not particularly want, and which they think may be headed for both economic and political trouble, because they could see no clear alternative.

There are immediate reasons for their state of mind. So-called Abenomics, which has involved massive quantitative easing and fiscal spending, has had only a short-lived effect on the economy so far, and has made ordinary people poorer. The structural reforms in agriculture, healthcare, and trade, to which the prime minister will now turn his full attention, are opposed by many in his own party and they too are, at least in the short run, likely to make life more difficult for most Japanese, even as they bring benefits for business, particularly exporters.


The Guardian view on Shinzo Abe’s re-election: it paid off, but it was no ringing endorsement
Japanese voters gave the Liberal Democrats a big majority but with little enthusiasm
(15 December 2014 19:44GMT The Guardian, Editorial)
http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/dec/15/japan-uncertain-voters-lacking-entusiasm

“Abenomics is not a key issue for me, but there are no other parties who deserve my vote,” said Masashi Shibata, 38, a public employee who said he had voted for the Liberal Democrats. “The Liberal Democratic Party is still better than the Democratic Party.”

In fact, many Japanese appeared to decide not to vote at all. Just some 52 percent of eligible Japanese cast votes on Sunday, the lowest turnout in postwar Japanese history.

Experts said the low turnout benefited the well-organized Liberal Democrats and their still formidable rural vote-gathering machines. The largest opposition group, the Democratic Party, trailed far behind in the final tally, with 73 seats, though it surpassed its pre-election total of 62 seats.

One of the few winners in the opposition was the tiny Communist Party of Japan, which nearly tripled its number of seats to 21, enough to allow the party to submit bills for a vote by the lower house. The Communists seemed to draw many of the protest votes of disgruntled voters, analysts said.


In Japan, a Landslide Victory for Shinzo Abe’s Party, Despite Scant Enthusiasm
(DEC. 14, 2014 By MARTIN FACKLER, New York Times)
http://www.nytimes.com/2014/12/15/world/asia/abe-appears-to-win-landslide-victory-in-parliamentary-elections.html?ref=asia&_r=0

INTERVIEW
Pour le politologue Koichi Nakano, l'écrasante victoire du PLD, obtenue avec un taux d'abstention de 48%, va encourager le Premier ministre Shinzo Abe dans son programme nationaliste.

Précisément, quelle est la grande faiblesse de la démocratie nippone?

La crise de notre démocratie est profonde. Le très déprimant taux de participation (52%) indique que, en dépit de la victoire toute superficielle du PLD, les Japonais sont loin d’être convaincus que ce parti mérite de gouverner le Japon. Néanmoins, le PLD sous la gouvernance d’Abe semble croire qu’il a un mandat pour faire ce qu’il veut. Sur les questions spécifiques allant de la réforme de la Constitution aux questions de sécurité, en passant par la relance des réacteurs nucléaires, l’augmentation de taxe à la consommation, et les politiques économiques, les sondages montrent que les gens ne soutiennent pas les choix gouvernementaux. Malgré cela, le gouvernement affiche une tendance autocratique croissante en l’absence de tout contre-pouvoir réel.

Réformes d’ampleur, affirmation nationaliste, surenchère sécuritaire, peut-on comparer le programme d’Abe aujourd’hui avec la ≪révolution Reagan ≫ aux Etats-Unis dans les années 1980 ?

Je serais plus tenté de faire une comparaison avec George W. Bush. Le rappel à Reagan fonctionnait dans le cas de Junichiro Koizumi [très libéral Premier ministre japonais entre 2001 et 2006 et mentor d’Abe, ndlr] qui avait quelque chose de Reagan. Les slogans d’Abe comme ≪Le Japan est retour≫ ou ≪Mettre fin au régime de l’après-guerre≫ expriment un très fort désir de mettre un terme à la démocratie japonaise et au pacifisme d’après-guerre d’une manière idéologique comparable à l’idéologie des ≪néo-conservateurs≫ de George W. Bush. /span>

Le Japon traverse une profonde crise de la démocratie
Arnaud VAULERIN (à Tokyo) 15 décembre 2014 à 12:28
http://www.liberation.fr/monde/2014/12/15/le-japon-traverse-une-profonde-crise-de-la-democratie_1163915

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2014年12月15日

思い出のアルバム

 12月15日月曜日は「年賀郵便特別扱い」開始の日。
 年の暮れ、ですか… 今年もあんなこと、こんなことあったでしょ…

思い出のアルバム:
https://www.youtube.com/watch?v=PBPiIZPztQI

 1982(昭和57)年、NHK「みんなのうた」で芹洋子が歌って以来、全国的に広まった歌なのですが、幼稚園・保育園関係者の間ではそれ以前から知られていた名曲です。
 幼児版「蛍の光」とも言われ、幼稚園や保育園などの卒園式などでよく歌われています。
 この『思い出のアルバム』の歌詞は、墨田区・江東橋保育園・園長でクリスチャンの増子とし(1908-1997)さんが作詩し、曲は調布市・つつじヶ丘・常楽院の先代住職であり、神代幼稚園の初代園長であった本多鉄麿(1905-1966)氏が作曲しました。
 境内にある歌碑は1996(平成8)年、鉄麿の死後30年を機に、教え子達が建立したものです。
 鉄麿は地域の「名物和尚」で住職を務めるかたわら、作曲家としても活躍し童謡など2000曲以上の曲を残しました。1951(昭和26)年には寺の隣の「神代幼稚園」園長として、幼児教育にも情熱を燃やしました。また、戦後の物資窮乏の時代には、寺の蔵書を広く一般に開放して読書会を始めたり、地域の文化振興にも尽力しました。
(2007年5月1日更新、Tako-sanのホームページ)
http://www.geocities.jp/tako70503/70501index/70501sub4.html

 昨日の山歩クラブ富士見山行で撮った写真を年賀はがきにプリントして、と思っていましたがザンネン、ヤッホー君のホームページでご覧いただいたあの写真が一枚あるだけで、昨日はあの後ゼンゼンお姿をお見せになりませんでした。たらーっ(汗)
http://www.ac.auone-net.jp/~fom-club/

 一夜明けて、今日は世界一の名医、こいぶち歯科(鯉渕隆文先生、注1)へ、歯の治療の日でした。
 そしてその帰りにひょいと回ったのが、浅草橋駅近くの「銀杏岡八幡神社」(台東区浅草橋1-29-11 Tel 3851-1691)。

子守唄と銀杏岡八幡神社
 江戸時代に伝わった我が国の子守唄やわらべ歌を集成し、高く評価されている「童謡集」は釈行智(しゃくぎょうち)の著によるものです。
 行智(1778〜1841)は、銀杏岡八幡神社の氏子一同により1803(享和3)年別当寺として勧請された覚吽院(かくうんいん)にて阿光坊と称して修験僧となり、後に住職となるなど台東区にゆかりがあります。
 行智は、採録した子守唄を「寝かせ唄」「見覚め唄」「遊ばせ唄」など細かく分類し、子供の暮らしの背景がよく解るように書き残すなどして、その伝承に努めました。

(2011年11月2日付けNPO法人日本子守唄協会「江戸子守唄の碑、除幕式」)
http://www.komoriuta.jp/ar/A11110401.html

 この高札を発見したヤッホー君、へえ〜、こんな市民団体があるんだ、とどんな人が中心になってるんだろうと思いましたら、またまたびっくり:

◆子どものころの思い出
司会 西舘さんの子どものころの思い出は、いかがですか。
西舘 当時の情景は、今ではほとんど記憶に残っていないと思います。毎日、遊びと人との付き合いが中心だったので、くたくたになるほど忙しかったですね。それと、必ず銭湯に行って、家に帰っては本を読んだり、ラジオを聴いたりして過ごしていました。あのころ、浪曲とか、講談とかありましたよね。
区長 そうでしたよね、当時はラジオしかなかったですから、好きな番組があると夢中でしたね。
西舘 また、今よりずっと内容の濃いものが多かった。私、小学生のころ、時々学校を素通りしてお芝居に出掛けていました。
区長 そうなのですか。
西舘 父が「明日はお芝居を見に行くよ」と言うと、その日は学校には行かないものだと思っていました。不登校なのに、あまり罪悪感もなかったですね(笑)。
区長 いや、今ではちょっと考えられないですけど、昔はおおらかでしたよね。
西舘 ええ、次の朝、先生も叱ることなく何を見てきたのかと聞いてきました(笑)。「お芝居の筋を話して」とみんなの前で。それで得意になってこういう演目でと話すと、「それは良かったわね」ということで終わってしまいました(笑)。また、友達も一緒になって声色(こわいろ)なんて使ったりして協力してくれました。
区長 学校も当時粋なもので、学校の周辺で行事があると、学校を休ませたりしていましたね。子どもにとっては、それがすごく嬉(うれ)しかったです。
西舘 そうですね。行事があると学校を自主的に休ませてくれました。お祭の日はまず、学校に行かなくてもよかったじゃないですか。「ピーヒャラ、ピーヒャラ」とおはやしが聞こえてくると、もう授業どころではなかったですよ(笑)。

◆子育て、子守唄
司会 西舘さんは子守唄の普及に取り組んでいらっしゃるということですが。
西舘 私が理事長を務めている「日本子守唄協会」の場所が浅草橋なのですけど、この浅草橋にある銀杏岡八幡(いちょうがおかはちまん)神社は、子守唄の発祥の地なのですよ。
区長 子守唄やわらべ唄もそうですが、子どものころに友達と遊びながら歌うのが当たり前でしたね。
西舘 そうでした。でも、今は、その歌がどこに行ったのだろうと思います。私は、歌が人を育てるときの原点になると思っています。子守唄を歌うとすごく優しくなれるのですよ。
区長 赤ちゃんだけでなく、歌っているお母さんたちも和んでいるのですね。
西舘 そうです。子守唄は、歌っている人の気持ちのやさしさを引き出します。子どもは親からしてもらったことを体で覚えています。ですから虐待も同じです。最近の虐待について、最も大事なのはここだと思います。虐待に対して、その人を罰したり、あるいは、罪を重くしたりなどしても、効果はありません。無意識の中で、体が覚えていること、体が受けたことは、その人の原点になっているのではないかと思います。だからこそ、子守唄を広めようと、さまざまな活動をしています。

(2013(平成25)年1月1日No1076広報たいとう2、3面「新春対談」)
http://www.city.taito.lg.jp/kouho/kouhoutaitou/1076/2_3men.html

 ふ〜ん、あの方、作家井上ひさし(1934-2010)の先妻さんだったのです。

 (菅原)文太さんは、私の元夫・井上ひさしさんの、仙台一高時代の一級先輩。市川の家にご夫婦で遊びに来てくださるなど、とても可愛がってもらっていました。
 そんな時、文太さんが面白おかしく話すのは、高校時代のエピソード。旧制の流れを汲む高校ならではのバンカラ武勇伝あり、近くの女子高のマドンナに憧れての珍騒動あり。それを聞いていた井上さんが後に小説にしたのが『青葉繁れる』(注2)です。自叙伝のように言われていますが、出てくる話の元は、みんな文太さんやその仲間のエピソード。井上さんにとって文太さんは、小説の「ネタ元」でもあった。ちなみに、そのマドンナとは、後に女優になった若尾文子さんでした。
 そういう席で、私達が夫婦喧嘩をするでしょう。すると、文太さんが「お前もだ!」と井上さんの肩を持って奥さんを叱る。奥さんも応戦して、2組の喧嘩が始まって……。ついに文太さんが「帰れ!」。奥さんが「何で私が帰るんですか!」と激突すると、今度は私達が「まあまあ」と間に入って……。最後は大笑いになったりしたものです。
 文太さんは、まだ小さかった息子さんの自慢話もよく嬉しそうにしていました。そのご長男が後に電車に撥ねられて亡くなってしまう。人づてに「何でオレは生きているんだろう」と言っていたと聞いて、昔のあの笑顔を思い出しました。
 また、井上さんの小説『吉里吉里人』(注3)はオレが映画化する! とずっとおっしゃっていましたけど、それは叶わないままでしたね。
 今の日本には、男っぽく一人で戦う人が本当に少なくなりました。その中で任侠に生きた(高倉)健さんと文太さんが相次いで亡くなったのは、時代を象徴しているような気がする。寂しい気持ちでいっぱいです

(2014年12月11日号『週刊新潮』、西館好子(日本子守唄協会理事長)「特集 盟友・戦友・旧友が語った素顔の《菅原文太》」より)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141212-00010006-shincho-ent

 [桜H23/11/3]【桜ものがたり】#11「西舘好子、井上ひさしとの25年」も:
https://www.youtube.com/watch?v=7WRJNIjl7pY



(注1)
 こいぶち歯科については、ヤッホー君のこのブログ、2013年10月23日付け日記「東海道品川宿」をお読みください。

(注2)
 1973(昭和48)年に文藝春秋にて単行本化、1974(昭和49)年にて文庫本化、2008(平成20)年にて文庫本の新装版となった。
 1974年4月5日から5月31日までTBSにテレビドラマ化され、同年9月21日に岡本喜八監督によって映画化された。映画の製作は東宝映画、配給は東宝、カラーで上映時間は87分。

(注3)
 作者井上は1964年10月、この作品の原型となる放送劇『吉里吉里独立す』をNHKラジオ小劇場のために書いた。『吉里吉里独立す』は主題も物語の展開も小説『吉里吉里人』と同一だったが、このときは東京オリンピック開催による愛国的機運の中で不評を蒙り、担当のディレクターが左遷される結果となった。ちなみに「吉里吉里独立す」は、小説の作中に登場するNHKの報道特別番組の当初のタイトルでもある。
 1973年から1974年、『終末から』(筑摩書房)創刊号から第8号に一部が連載された。1978年5月から1980年9月まで『小説新潮』に連載され、1981年に新潮社から単行本として刊行された。新潮文庫版は上・中・下巻に分かれる。



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2014年12月14日

金時山1212m

 12月14日日曜日「東京高輪泉岳寺義士祭」、山歩クラブの仲間にとりましては月例お山歩会。
 終わってヤッホー君からいつものように「おつかれさまぁ〜」メールが発信されました。
 「山の響きが聞こえるように」と心澄ませて声を発したそうですが、さていかに…:

 皆さま、こんばんは。
 早いもので今日の金時山で、山歩クラブ2014年最後の定例お山歩会(バス)となってしまいました。
 乙女峠1005m〜長尾山1144m〜金時山1212m〜金時神社710mの周回コースを辿りました。
 写真もその順番です:

乙女峠.jpg

長尾山.jpg

金時山.jpg

金時神社.jpg

 お天気に恵まれたのですが、金時山でお富士さまはお姿をお隠しになられザンネン、しかしマサカリ担いだ金太郎の民話に誘われて、良い景色をみせてくれた箱根の山々に感嘆の声をあげながら、途中、霜柱が溶けてチョコレートになった山路を降りたり、楽しんで歩いてきました。
 千葉さんからのビール、平田さんからのイカと出羽桜、谷さんからの乾きものの差し入れ(ん?お歳暮!)がありまして、食べながら飲みながらのバス旅も結構、日光、コケコッコウ。
 今日で今年の山歩きはおしまいの方、どうぞ良いお年をお迎えください。
 風邪ひかないでねぇ〜、おやすみなさ〜い、おつかれさまぁ〜

 さっそく、こだまが…

 今日の金時山は最高、景色もくっきり、富士山もくっきり。
 おだやかな冬ざれのなか、一歩一歩山路を踏みしめながら、火照った顔をあげると最高の景色を目の当たりにして、行った値打ちがありました。
 それに、山路の両脇から生えてくる霜柱、平坦な広場の土砂を持ち上げる霜柱、ああいう霜柱を見たのは初めてです。
 ありがとうございました。


 今日はお疲れさま&ありがとうございました。
 大寒波が来ていて、山歩きはどうなることやらと、案じていましたが、晴天に恵まれて、無事に登山が出来て嬉しいです。
 帰宅後東京にもあられが降り(注)、今日はお天気が味方してくれましたね。
 ありがとうございました。


 こんばんは。
 いつも山行のご報告、楽しく拝読させていただいています。
 私も登った気分で…
 今日は、残念ながら富士山は恥ずかしがって顔を出さなかったのですね。
 でも、今年最後の山行が天気で良かったです。
 来年も山歩クラブの皆さまが健やかで楽しく山行ができますように
るんるん



(注)
 森田正光です。
 今日18時前、知人から突然電話が入り、表参道付近で雪か雪アラレが降っているとの連絡を受けました。
 うっすらと白くなっているとのことで、すぐにレーダー画像で確認すると、確かに線上にエコーがかかっていたのです。
 ほどなくして、気象庁から大手町でも平年より20日、昨年より6日早い初雪との発表がありました(17時45分頃、雪あられ)。
(2014/12/14(日)午後6:46 チーム森田の”天気で斬る!”)
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map


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2014年12月13日

小泉八雲没後110年

 今日12月13日土曜日、ヤッホー君は山歩クラブの仲間にメール便をだして、期日前投票をして、いそいそと「新宿歴史博物館」(新宿区三栄町22 Tel 学芸課3359-2131)へと向かいました。

 小泉八雲没後110年記念講演会「小泉八雲と新宿」
 新宿ゆかりの作家・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1904(明治37)年9月26日、西大久保(現新宿区大久保1丁目)の自宅で家族に見守られながら54歳でこの世を去りました。晩年の新宿時代における八雲の生活ぶりと創作活動に焦点を当てて、講演と朗読を行います。
【日時】12月13日(土)14:00〜16:00
【会場】新宿歴史博物館2階講堂
【講師】池田雅之(早稲田大学教授・同国際言語文化研究所所長)
【朗読】大小田さくら子(朗読家)
【定員】100名(多数抽選)
【講師紹介】
☆ 池田雅之
 早稲田大学教授、同国際言語文化研究所所長、NPO法人鎌倉てらこや顧問。三重県生まれ、東京育ち。早稲田大学文学部卒。比較文学専攻。著書に『ラフカディオ・ハーンの日本』(角川選書)他。編著に『古事記と小泉八雲』、『お伊勢参りと熊野詣』、『てらこや教育が日本を変える』他。翻訳に『新編 日本の面影』、『新編 日本の怪談』、『キャッツ』、『文化の定義のための覚書』他。
☆ 大小田 さくら子
 朗読家(やまとかたり)。北海道生まれ。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修了。古事記朗誦やまとかたりの会、神話よみ語りの会を主宰し、朗読、発声法などの講師として「こころとからだの音の葉塾」(女性の健康学校)、「絵本と出合う時間」(よみうりカルチャー横浜)など各地で行う。著書『やまとかたり あめつちのはじめ』(冬花社)CD付き。

(笠間書院公式サイト)
http://kasamashoin.jp/2014/10/110201412132.html

 小泉八雲没後110年を記念する講演会だったのです(注)。
 休憩の間、会議室に、雄松堂書店さん(新宿区坂町27 Tel 管理本部3357-1413)がなんと92点も小泉八雲に関する稀覯本を新宿区に寄贈され、「新宿歴史博物館」が保管することとなったそうで、その展示会も開かれていました。

 皆さんのお手元に配布しました神保町の古書店マップがありますが、この中の地図を見ていただきますと、駿河台下の小川町の方から、崇文荘書店というのがあります。この佐藤さんも一誠堂の出身です。
 私ども八木書店も一誠堂の出身です。
 その前の三茶書房さんも一誠堂の出です。慶文堂さんは小宮山さんの卒業生なので、小宮山書店は一誠堂の出ですからこの系統です。
 東陽堂も一誠堂の出です。そのあと一新堂さんも悠久堂さんもその流れ、高山さんはもともとあるけれど、高山さんのご主人は私どもから出られていますので敢て言えば一誠堂の系統です。

 神保町には一誠堂の系統と巌松堂の系統が多いのです
 神田にあります巌南堂は巌松堂の巌の字をもらって名前をつけています。
 神保町にもともと店があって今四谷に行っています雄松堂書店はここも巌松堂の出身で巌松堂の松をとって雄松堂書店としています。
 本郷の資料物を扱っている古書店はだいたい巌松堂の出身者が多いんです。商売のやり方も違っていまして 、一誠堂出身者はどちらかというと店売りを主体にやってきております。
 巌松堂の人達はある意味で荒っぽくて外へどんどん出て行くタイプが多いです。今は時代がどんどん変わってきていますがそんな傾向があると私は思っています。
 こういう話は脇村義太郎さんの岩波新書『東西書肆街考』を見てください。古書街のことが良く分る本です。
 その中で反町さんは一誠堂で頭角を現します…

(千代田図書館トークイベント、古書販売目録と反町茂雄氏、八木書店・八木壯一)
http://www.kanda-zatsugaku.com/081114/1114.html

 大小田さくら子さんはこんな声をなさっています:

真砂秀朗&KNOB&大小田さくら子 2011.10.2縄文まつり:
https://www.youtube.com/watch?v=xJMQIinE114

 へぇ〜、今日の講演会の最後のほうで、池田さんが、大小田さんの朗読「やまとかたり朗誦」を紹介なさいまして、お二人とも立ち上がり、同時に会場のライトがちょっとだけ、少し照明度を落とされました。
 いやぁ〜…、びっくり、びっくり。
 朗々とした声が会場いっぱいに響き渡り、「書き言葉」のなかった時代にはこんなかたちで「ことば」が伝わっていったのだろうなぁ〜と想像できるように、からだから発せられた音が場にみなぎって、ぶつかりあい、波紋となって押し寄せてくるのです;

 やまとかたり あめつちのはじめ
 やまとかたりは、いにしえの時よりつながる知恵ある言葉の世界です。
 「あめつちのはじめ」は古事記(ふることふみ)上巻、神代編の冒頭の部分です。
 日本が古来より大切にしてきたやまと言葉には、ひとつひとつに思いがこめられています。
 また、自然、風土がその言葉に力を与え、わたしたちの祖先は、自然界のあらゆるものと心を通わせ、風や空、海や山に祈り、そして、草木に宿る目に見えない気配までを感じ取り、五感を生活の中に生かしながら、伝統やしきたり、暮らしの知恵を育んできました。
 遠い太古の昔から、自然のつながりの中にある命の響きが聞こえるように、心澄ませて「やまとかたり」を詠み唱えたいと思っています。

(大小田さくら子さん公式サイト)
http://www.k-hosaka.com/yamato/index.html

 この公式サイトの最後にある次を一行をクリックすると、ラジオのようにパソコンから肉声が聴こえてきます。ぜひお聴きください:
…鎌倉FMラジオ やまとかたり〜インドへ/前編

 大小田さんは、鎌倉の海に向かって毎日、声を出して古事記を朗読したとおっしゃいます。
 ヤッホー君のはや猫背になった背筋が、しゃきっとしました。

 なお、早稲田大学エクステンションセンター中野校(中野区中野4-22-3 早稲田大学中野国際コミュニティプラザ1F Tel 5942-7210、JR・東京メトロ「中野駅」下車、北口より徒歩10分)では、来月からおふたり、池田雅之教授お大小田さくら子さんにて「声に出して読む『古事記』、熊野詣と伊勢信仰、宮崎・日向神話の旅」がはじまります:

 前半は熊野詣と伊勢信仰をテーマに古事記を読みます。
 古事記の素読、朗誦やまとかたりを行ない、そのための発声法を学びます。
 スサノオとアマテラスの神話を選び、熊野と伊勢という2つの聖地にまつわる信仰と自然観について探ります。
 後半は宮崎・日向神話をテーマに古事記を読みます。
 日向神話から天岩戸と天孫降臨を選び、天皇家にまつわる故郷について学び、その信仰と風土を旅します。

(早稲田大学エクステンションセンター公式サイト、文学の心、講座紹介)
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/32755/



(注)
以下も参考になります:

2014/6/13(金)午前 1:39投稿、ブログ「れんげ草の咲くさんぽ径〜舟木一夫の世界」より、「小泉八雲を描いた舞台劇『日本の面影』を観て…西條八十〜松江〜絶唱のことなど」
http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/69466000.html

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アンコール !!

 昨日の日記で綴った「1966カルテット」のお話しの続き。
 彼女たちのアルバムには、『スリラー 〜マイケル・ジャクソン・クラシックス』(2012年11月21日リリース)があるというお話しをしました。
http://ameblo.jp/1966quartet/archive1-201211.html

Michael Jackson - Thriller (Short Version):
https://www.youtube.com/watch?v=4V90AmXnguw

 マイケルジャクソン、と言えば”ロボットダンス”を思い出してしまうヤッホー君、さらに最近12月10日水曜日「浅草公会堂」でアンコール上映があった映画『アンコール !!』(日本語吹き替え版)を思い出してしまっています:

 映画『アンコール !!』(2012年イギリス映画、翌2013年日本公開)公式サイト:
http://encore.asmik-ace.co.jp/

 この予告編にもありますように合唱団『年金z(OAPz)』(注1)のおじいちゃんがロボットダンスに挑戦中、勢い余って首筋を痛めかたまってしまったのです!
 でもこの映画(原語で Song for Marion)、笑いと涙と観終わっての拍手と、こころ温まる名画でございました。
 まずは本場の英国紙「ガーディアン」での映画評を:

In an excerpt from this week's Guardian Film Show, Xan Brooks, Catherine Shoard and Henry Barnes get down with a choir of groovy pensioners singing to help their friend Marion cope with cancer.

Song for Marion stars Vanessa Redgrave as Marion and Terence Stamp as her grumpy husband, Arthur. Paul Andrew Williams, the man behind the gangster thriller London to Brighton, is the director.

http://www.theguardian.com/film/video/2013/feb/22/song-for-marion-video-review

Paul Andrew Williams made an impressive debut in 2006 with London to Brighton, a brutally realistic crime movie that he followed with a couple of less good but still enjoyable thrillers.

With Song for Marion he changes direction, pulling together into a crowd-pleasing, tear-jerking package some elements of Brassed Off, Calendar Girls, The Best Exotic Marigold Hotel, Quartet and TV's The Choir. Shot around Tyneside and Durham, but with no particular regional feeling, it focuses on the long-married lower-middle-class couple, Marion and Arthur, both well played by Vanessa Redgrave and Terence Stamp.

She's ebullient, outgoing and terminally ill. He's gruff, laconic, alienated from their son and incapable of showing his feelings. Moreover, he refuses to join the choir of chirpy, eccentric old folk called the "OAPz", being organised by a patronising young music teacher (Gemma Arterton). Marion represents the life force (working-class division), Arthur the embodiment of British emotional repression. Everything that follows is as predictable, dreary and proverbial as the weather in Manchester.

http://www.theguardian.com/film/2013/feb/24/song-for-marion-review

 そうなんです。お年寄り、ムカシいつかどこかで聞いたことのある歌声、父と子、親と孫、若い音楽教師(注2)、ガン、楽しく明るく前向きにみたいな永遠のテーマがぎゅうっと凝縮されて絡まって映像空間が、スクリーンと観客とでつくりあげられていく…って、たしかにこころ温まる映画”Song for Marion”でした!

Celine Dion - Unfinished Songs:
https://www.youtube.com/watch?v=msiZYWwbBDw

 この映画の主題歌”Unfinished Songs”は、あの『タイタニック Titanic』(1997年、アメリカ映画)のセリーヌ・ディオン(1968年カナダ・モントリオール郊外に生まれる)でした。
http://www.foxmovies.jp/titanic/index.html?top

Celine Dion - My Heart WIll Go On - Official Music Video:
https://www.youtube.com/watch?v=nXOE6EQtKcU

 ところで最近、「アーティスト側の事情」ってなにがあったのでしょうか…
http://www.sonymusic.co.jp/artist/CelineDion/

Celine Dion performs at a Chinese new year gala in Beijing as millions across the world welcome in the year of the snake on Sunday. The Canadian singer performs the Chinese folk song Jasmine Flower in Mandarin on Chinese state TV, with Chinese soprano Song Zuying. The performance followed a massive fireworks display that lit up the Beijing skyline…
http://www.theguardian.com/lifeandstyle/video/2013/feb/10/celine-dion-chinese-new-year-video

Céline Dion has cancelled all concert dates, including a major upcoming tour, in order to care for “her husband, their family, and associated health issues”. The singer will “postpone all show business activities” for the indefinite future, explaining that the “day-to-day challenges” were just too much.

Dion’s main concern is her husband, 72-year-old René Angélil, who had a cancerous tumour removed last December. “I want to devote every ounce of my strength and energy to my husband’s healing,” she said in a statement, “and to do so, it’s important for me to dedicate this time to him and to our children.”

But Dion is herself fighting an undisclosed illness. It has caused “inflammation in her throat muscles”, according to a press release, and prevented her from performing any of her Las Vegas concerts since 29 July. “It’s been a very difficult and stressful time for the couple as they deal with ... fighting [René’s] disease while trying to juggle a very active show business schedule, and raise their three young children,” her spokesperson wrote. Dion said she wanted to apologise “for inconveniencing” her fans, thanking them for their “love and support”.
http://www.theguardian.com/music/2014/aug/14/celine-dion-hiatus-music-career-indefinitely



(注1)高齢年金者(old age pensioner)を OAP と略する。

State pension age
The state pension age has been updated to reflect changes in longevity and lifestyles. While women used to reach state pension age at 60 and men at 65, that is being phased out so that by 2018 both will qualify for a state pension at age 65. If you are a woman born between April 1950 and 6 December 1953 and unsure what your state retirement age will be, use the government's calculator to find out.
State pension age will rise to 66 from 2020 and to 67 from 2026, and further rises are in the pipeline.
State pensions
Monday 4 February 2013 16.23 GMT
http://www.theguardian.com/money/2013/feb/04/state-pension-everything-you-need-to-know

(注2)
俳優は、ジェマ・クリスティーナ・アータートン(Gemma Christina Arterton, 1986年1月12日生まれ)。彼女の出る新作が公開されたらどうしても観に行きたいってヤッホー君、注記に名前を書きこんどいてくれとのたってのお願いでした。



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2014年12月12日

ワールドツアー

 「上意下達」のシステムが隅々まで徹底していたあんころ、ひとりのフランス人作家(注1)とアメリカ人の映画監督があんころの国を訪問、びっくりびっくり。
 1936(昭和11)年でした(注2):

 旅行記の中で日本のために充てられた頁を読む者が繰り返して目にするのは、日本とは厳然たる儀式と階級とによって支配された国であり、その秩序に反する者は自らの死さえも受け入れなければならない、というコクトーの見解である。
 おそらくこうした認識は2.26事件からわずかに3ヶ月後であった日本の社会に対する観察から導き出されたものであるのだろう。
 しかしそれと同時に詩人は、例えば茶の湯を楽しむにも、芸者と宴席を共にするにも必ず定められた手順を踏んで進まなければならないという、日々重ねられるさまざまな経験を通してもそうした感覚を身につけていったに違いない。

 香港から上海を経て日本へと向かう船の中で、映画についてコクトーと一晩語り明かしたチャップリンは、日本からアメリカを目指す旅でも詩人と同じ船に乗り合わせることになった。

(西川正也「コクトー 日本を去る、ジャン・コクトーの日本訪問(6)」共愛学園前橋国際大学論集 Mar.2004 所収)(注3)
http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-04/nishikawa.pdf

 そうなんです、フランス人作家とはジャン・コクトー(Jean Cocteau、1889-1963)!
 それから30年後、って言いますと1966(昭和41)年のこと。
 イギリスのグループ「ザ・ビートルズ」が来日します。
 【1966年6月29日】ザ・ビートルズ来日 厳戒態勢の3日間(懐かしの毎日ニュース);
https://www.youtube.com/watch?v=JgehLBGkbJE

 いえ、ね。ヤッホー君、昨日の12月11日木曜日は、ティアラこうとう大ホールで開かれた「1966(いち きゅう ろく ろく)カルテット ザ・ビートルズ クラシック」を聴きに”eチャリ”!
 再来年、「ビートルズ来日」から半世紀(!)後、私たちも武道館でコンサートを開くんだ、というでっかい夢を持って、2010年活動を始めた若い女子だけのカルテットなんですぅ〜:
http://columbia.jp/artist-info/1966quartet/
https://www.youtube.com/watch?v=ZbV2n9AhO9E

1966 Quartet

Formed in 2010, 1966 Quartet is a Japanese piano quartet (two violins, cello, and piano) produced by Hiroyuki Takashima, the first producer of The Beatles in Japan and made a number of hits in Japanese music history. The group's name "1966" derived from the year of 1966 when The Beatles came the first time to Japan. Since major debuted with their first album "Norwegian Wood~The Beatles Classics~" from Nippon Columbia, they have released three albums including "We Will Rock You~Queen Classics~" and "Thriller~Michael Jackson Classis~," and also performed throughout Japan. They cover songs but have established their style as one of a kind that distinguishes themselves from the other classical ensembles. The new album, art-directed by NIGO who is a world widely known designer, will be released in June, 2013.

https://www.youtube.com/watch?v=ibvTS2WLAqA

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 この1966年に着目していた先生が渡辺一民さんでした。
 先生は、辻邦生(1925-1999、1957〜1961フランス・パリに留学)(注4)が1966年に発表した『夏の砦』(河出書房書き下ろし長編小説叢書5)に注意を喚起してこう述べます:

 辻の小説では、これまでの日本の小説に存在した日本の文化と異文化とのあいだの垣がすっかりとり払われ、北欧で1年ちかく留学生としてすごした女主人公の現在と、戦時中の日本での空襲による家の焼失にいたる過去とが、彼女が招かれて遭遇した貴族の古い館の舞踏会の夜の炎上を媒介として、みごとにひとつに融合し、西欧と日本とがおなじひとつの平面に位置しているのである。
…渡辺一民「西洋崇拝とアジア主義」前掲書『日本の思想』所収、173-174頁

 ヤッホー君にとっても、思い出いっぱい詰まった1966年です。

☆ 映画では、『ドクトルジバゴ』日本公開:
https://www.youtube.com/watch?v=qFHtWU-4Gfw
☆ もう一本、『男と女』:
https://www.youtube.com/watch?v=2bYBn5VJ-ko

☆ 本では、『現代フランス文学13人集』(新潮社、全4巻、1965-1966)。



(注1)
 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記も参照:
☆ 2014年02月10日「美女と野獣」
☆ 2014年02月11日「2014年版『美女と野獣』」
 『美女と野獣』、先月11月より日本でも大公開中:
http://beauty-beast.gaga.ne.jp/

(注2)
 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記も参照:
☆ 2014年11月28日「Obituary, MD Nanjundaswamy)
…Satish Kumar(1936年生まれ)さん
☆ 2014年10月30日「知性と緑あふれる街」
…九段会館は1936年の「二・二六事件」では戒厳司令部が置かれた歴史を持つ会館だった。
☆ 2014年10月24日「野球の聖地、阪神甲子園球場」
…「洲崎球場」が完成するのは1936(昭和11)年11月27日です。
 『1936年12月1日の『読売新聞』に、作家の林芙美子が観戦記を寄稿している。林は「職業野球」の魅力を伝えつつ、「埋め立て地のせいか、スパイクをはいている選手の靴が埋(うま)りかけるように見える。砂場で野球をしているようだった」とつづった』
☆ 2014年01月14日「夜学教師 and/or 区長」
…1936年の東京が舞台になっているのが、映画『一人息子』の世界

(注3)
詳しくは西川正也『コクトー、1936年の日本を歩く』(中央公論新社、2004)参照。

(注4)
ヤッホー君のこのブログ、2012年04月17日付け日記「北八つ・辻邦生」も参照。


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2014年12月11日

戦争の時代ですよ!

 二度寝って言葉あるけど、今朝のヤッホー君もそうだったのかな、そう、そう、一度目、目が覚めたのは朝の4時、枕元のラジオのスイッチを入れて、聞き終えたらすぐスイッチを切って寝たんだな、そうしたら二度目、目が覚めたのは7時だったって〜
 いつものヤッホ君だったら、二度目はしないでもう起き上がるって、こんなこと、めったにないと言ってますが… 昨日の12月10日水曜日、忙しかったのでしょうね、でもまずはその前に、聞き入ったラジオとは、これ:
 『明日へのことば』「アジアの笑顔と出会う紙芝居」紙芝居師・大阪国際大学講師…鈴木常勝

 紙芝居が戦争の宣伝に使われた時代があったことをご存知ですか?
 日中戦争・アジア太平洋戦争当時、政府によって、国民、とりわけ子どもたちにこの戦争の「正しさ」を訴え、国民の意識を「戦争推進」へと向かわせるために印刷紙芝居が作られ、街頭で、学校で演じられました。
 これが『国策紙芝居』です。
 戦後、この紙芝居は多くが焼却され、わずかな作品が幼稚園や公民館の片隅に残されたまま、その存在も語られることはありませんでした。
 紙芝居師・現代史研究家の鈴木常勝氏はこの紙芝居の存在を知り、20数年をかけて収集し、大学講師として講義の中で実演し、現代の大学生や、留学生の感想を集めて『戦争の時代ですよ!』(大修館書店、2009年)(注1)を出版されました。
 今回枚方市では、鈴木常勝氏の協力を得て、国策紙芝居を中心にマンガ紙芝居や、民話紙芝居、鈴木氏オリジナルの紙芝居などを展示し、併せて鈴木氏とその仲間による紙芝居の実演、及び紙芝居を演じたい人を対象にした講座を催します。
 あなたは『国策紙芝居』をみてどんな感想を抱かれるでしょうか?
 鈴木氏は現在も公園などで紙芝居の実演をして、子どもたちと掛け合いで楽しい空間を作り上げておられます。この雰囲気こそが紙芝居のだいご味で、テレビ時代の子どもにも「皆でわいわいと突っ込む楽しさ」を知ってほしいとおっしゃいます。

(枚方市公式サイト、2011年2月、Crossing/森のアトリエ)
http://www.city.hirakata.osaka.jp/uploaded/attachment/14328.pdf

 子どもたちと掛け合い、子どもといっしょに楽しい空間を作り上げていくのが紙芝居の面白さ、楽しさ、不思議さなんですが、15年戦争がはじまってからの「国策紙芝居」は違っていました。
 裏に印刷してあるセリフ以外のことはしゃべっていけない、話していけない、そのまんま言え、との「上意下達」のコンテンツだった、と鈴木常勝さん(1947年生まれ)は言います。

 「上意下達」… ヤッホー君が思い出すのは”3.11”のときでしたね、どのメディアもどのマスゴミもまったく同じ映像の垂れ流し、政府発表の拡散だけ… イマでも…

 多様性を認める価値観で論じることができるかどうか、ということだ。
 人はみなそれぞれ違っている。親も、兄弟姉妹も、生まれ育った環境も、通った学校も、社会での交友関係も、みな異なっている。
 そうした環境の差異こそが、多様な思考(アイデア)を生み出しているのだろう。
 だからこそ、そうした多様性が、風通しのよい健全な民主主義社会を生成する不可欠な要件になって、違いをぶつけあう、知的な刺激を得ることになるのだ。
 私(上杉)が疲れていたのは、日本の記者クラブ制度は、まさしくそうした多様性を否定し、価値観を一元化するようなシステムであるし、とりわけ3.11以降、そうした多様な価値観を否定するような言動に走る感情的なジャーナリストや評論家に関わってしまったということに理由があった。

…森達也x上杉隆『誰がこの国を壊すのか、人類はメディアによって滅ぶかもしれない』(ビジネス社、2012年)206-207頁

 イマや、イマの社会に「多様性」は息づいていないんじゃないか、と。
 「多様性」は、「空気が読めない」と村八分にされいじめられ、ヘイトスピーチをあびるだけ、それより流れに掉ささず、まかせっきり、ひっそりと息をおさえて、音をたてぬよう片隅で当座、生きながらえているだけなんだろうか、と。

 不思議なのは、3.11からあとって、国難的時局に遭遇したのに、誰からも「挙国一致、国民統合」の大きな物語が語られなかったこと。
 逆に「誰が悪いんだ?」っていう国民分断の話ばかりでしたでしょ?
 その「敵は誰だ?」の極限形が橋下徹で。
 「今のこのシステムが全部悪いんだ。全部ぶっ壊そうぜ!こんなクソみたいな国、一度クラッシュしちゃえばいいんだ!」っていうのはまさに国民統合の正反対の方向に向かっている。

(内田樹x高橋源一郎『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』(ロッキング・オン、2012年)301頁

 あんころ、80年前のパリ、のちに人民戦線運動に発展することとなる哲学者アランの主唱した「反ファシスト知識人監視委員会」が結成されたころ、日本では…:

 こうしたフランス知識人の運動は知識人の行動主義として、フランス帰りの文学者、小松清(注2)によって詳細に報告され、人びとの注目を集めた。
 船橋聖一、阿部知二、小松らが雑誌『行動』の誌面でマルクシストからの攻撃にもかかわらず、反ファシズムという旗幟のもとでの知識人の統一運動を議論したのは、このときのことである。
 そうしたなかで三木清は、1935年3月の「行動的人間について」(『改造』)で、行動主義は知識人の主体性回復の問題として考えられるべきであって、いまこそ「宿命的歴史観」にしがみつくマルクシストと対決すべきであると説いた。
 さらに1935年6月、パリで開催された文化擁護国際作家会議ン議事録が小松の手で翻訳刊行されるや、同年10月の『中央公論』に三木は「人間再生と文化の問題」を発表し、ファシズムの危機にたいして文化の擁護を説くアンドレ・ジードへの共感を示しつつ、人間性回復を目指す現代のヒューマニズムこそ、新しい反ファシズム運動の中核とならねばならぬと論じた。

…渡辺一民「西洋崇拝とアジア主義」『日本の思想』第3巻「内と外」(岩波書店、2014年)所収、154-155頁

 しかし、日本では「上意下達」のシステムが全開し、下からの人民戦線運動のような機運が生じるすべもなく、「知識人」ですら大勢に順応し国策に協力する道を歩むことになったのです。
 小松清を挙げる渡辺一民さんにそのわけをお聞きしたいのですが(注3)、昨年の12月21日にお亡くなりになっており、聞く術もなく今朝も涙するヤッホー君でした。



(注1)
 私は2002年から08年にかけて大学講師として講義の中で国策紙芝居を実演し、大学生の感想を求めました。この本では、現存する国策紙芝居の中から代表的な作品を選んで掲載し、その作品に対する現代の大学生と留学生の論議を紹介します。大学生のほとんどは20歳前後で、留学生の多くはそれより3、4歳年上でした。いずれも1980年代生まれの若者です。
 若者が現代の視点から戦争プロパガンダである国策紙芝居を見て、何を感じたのか、国策紙芝居は若者の戦争認識に何を付け加えたのか。読者のみなさんも若者の論議に参加して、共に考えてみませんか。
(『はじめに』より抜粋)

『フクチャントチョキン』――さあ、戦争をはじめよう!
『拳骨軍曹』――勇敢な日本兵、卑劣な支那兵を打ちのめす!
『チョコレートと兵隊』――優しいお父さんが戦死なさっても……
『ガンバレコスズメ』――かわいい小雀も戦争のお手伝い
『桜咲かせん』――ガダルカナル島の英雄に続け!
『櫛』――日本の兵隊が強いのは、母の愛があるからです

 日本の敗戦直後、戦犯になることを恐れた紙芝居編集者は、自分たちの手で「戦争プロパガンダのメディア」である国策紙芝居を焼却しました。また、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は「軍国主義を宣伝する紙芝居」を実演する者は処罰すると警告しました。
 こうして国策紙芝居の実物の多くが消滅し、わずかな作品が幼稚園や公民館などの片隅に放置されたまま残りました。
(『あとがき』より)
http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/30561

(注2)
 小松清(1900−1962)。
 小松清『沈黙の戦士』(改造社、1940)
 1921(大正10)年に初めてフランスに渡った小松清は、1931(昭和6)年に帰国後、滞仏中に知遇を得たアンドレ・マルロー(1901-1976)らのフランス文学の動向を日本に紹介した。同12(1937)年、報知新聞社欧州特派員の肩書で妻とともに再渡仏した小松は、特派員を退職後、パリに残って雑誌への寄稿や日仏文化交流誌『フランス・ジャポン』の編集に携わった。本書は、第二次世界大戦開戦直前の1939年8月末から開戦、ドイツの進軍を経て、1940年6月に陥落直前のパリから脱出し、引き上げ船、榛名丸の待つリスボンに向かうまでの記録である。開戦前後の人びとの不安、戦地の遠さによる緊張の緩み、ドイツ進軍による緊迫と高まる人びとの恐怖の様子を、フランスへの愛惜を交えて叙述した、記録文学としても価値の高い作品である。
(国立国会図書館公式サイト、近代日本とフランス、文学者の見たフランス)
http://www.ndl.go.jp/france/jp/part2/s1_1.html

(注3)
渡辺洋「フランスと日本における行動主義文学」岩手大学『歴史と文化、1981年』所収191-204頁
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/3728/1/hc-p191-204.pdf

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2014年12月10日

自由の鐘

 衆院選の投票日が近づいてきています。
 自らの経済政策「アベノミクス」の是非を問うという自信たっぷりの衆議院解散理由でしたが、やっぱりもうそのほころびは見えてきて「アホノリスク」になっています:

 米格付け会社が12月1日、日本の長期国債を3年4ヶ月ぶりに1段階格下げした。「A1」は中国、韓国より1ランク下。財政赤字削減と成長戦略への不安が要因で、日本経済に対する不信の表明とも取れる。発動から約2年、出口が見えないままリスクが膨れるアベノミクス…
(毎日新聞2014年12月04日東京夕刊)。

 内閣府が12月8日発表した7〜9月期の実質国内総生産(GDP)の改定値は前期比0.5%減、年率で1.9%減となり、11月発表の速報値(年率1.6%減)から下方修正された。改善を見込んだ民間機関の予測は外れ、4月の消費増税後、個人消費や企業の設備投資の低迷が続いて、景気のけん引役が不在となっている実態が浮き彫りとなった…
(毎日新聞2014年12月09日大阪朝刊)

 でも、ね、ほらとうその拡散:
 「だからこそ地方のすみずみにまで行きわたらせ結果をだします」…子供の貧困率(平均年収の半分を下回る世帯で暮らす17歳以下の子の割合)は増え続け、2012年時点で16.3%、6人に1人の割合。
 「雇用は100万人増えました」…パートや派遣など非正規社員が123万人増え、正規社員が22万人減っての100万人
 
 そんななかでの例のヒ・ミ・ツ:

 国家機密の漏えいに厳罰を科す特定秘密保護法が12月10日、施行される。安全保障に著しい支障を与える恐れのある情報を政府が特定秘密に指定して秘匿する。昨年2013年12月に国会で採決を強行し批判を浴びたことから、安倍政権は施行に先立ち運用基準を策定、「適正な運用」を強調する。しかし根本的な改善には至らず、政府に不都合な情報の半永久的な隠蔽(いんぺい)や、国民の「知る権利」侵害への懸念が根強いままの実施となる…
(毎日新聞2014年12月10日01時40分更新)

 2014年12月、有権者の投票行動のいかんでは、後世、あのときが日本のターニングポイントだった、と指摘されちゃうのかな…
 わたしたちは、破滅に向かって暴走する列車から降りられないのか(毎日新聞2014年12月09日東京夕刊)…

 あんころこんなことが…

 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく…


 あんころこんなことが…

 こうした隣国ドイツの急激な全体主義化がフランスに影響を与えないはずはない…
 急進社会党左派のダラデフィエ内閣を支持して2月6日のデモに参加しなかった社会党は、いちはやく極右勢力を中心とするファシズム台頭の危機を見てとり、共産党に対して共和制擁護のための統一行動を訴える。
 最初社会党の申入れを拒否した共産党も、2月11日となると、労働総同盟(セージェーテー)と社会党とによるファシズム打倒のためのゼネストと大示威行進の提案を受諾し、2月12日早朝からパリ全市のすべての機能が停止され、ヴァンセンヌで開かれた反ファシズムの大集会では、社共両党の指導者が壇上にならび、15万人以上の労働者がファシズム反対の決意を表明したのである…
 一般に2月6日事件と呼ばれているのはこれら一連の出来事を指すのだが…
 事件後、人類博物館のポール・リヴェ教授、コレージュ・ド・フランスのポール・ランジュヴァン教授、哲学者のアランの呼びかけで、ファシズムの危機をまえに知識人の連帯を示す『反ファシズム知識人監視委員会』の結成されたのが3月5日、そうした運動が母体となってファシズムに反対するための統一行動協定が社会党、共産党のあいだで結ばれたのが7月27日…
 1935年7月14日には「民主主義の擁護、極右団体の武装解除と解散、ファシズムの攻撃に対する自由の防衛」をスローガンに、ブルム、トレーズ、ダラディエ3党首を先頭に、バスティーユ広場からポルト・ド・ヴァンセンヌまで50万の民衆が大示威行進をおこなうこととなる。

…渡辺一民、前掲書『フランスの誘惑』148-150頁

 そういえば日比谷公園に『自由の鐘』がありました…
 12月8日月曜日正午、日比谷公園・三笠山を登り下りした後、『自由の鐘』前のベンチに座りヤッホー君、感慨深げに「自由の鐘」の音色に聞き惚れていましたって…
 「鳴り響け、自由の鐘」と言っても、これも他人(ひと)任せ?…
 あんころこんなことが…

 終戦直後に米国から日本に贈られ、日比谷公園(東京都千代田区)に設置された「自由の鐘」に、長く失われたままだった中心部の振り子が今月、2011年3月中旬に取り付けられ、24日に59年ぶりに音を奏でることになった(注)。市民有志が募金により、再生にこぎ着けた。関係者は「記念すべき音色がよみがえることは大変意義がある」と話す。
 発案したのは、東京都板橋区で浮世絵の美術館長を務める高田明さん(69)。2年ほど前に同公園内を散歩していたところ「自由の鐘」の内部に、音を奏でる振り子がないことに気付いた。鐘をつるす高さ約7.6メートルの塔全体も老朽化がひどくなっていた。
 史料などによると、鐘は1776年の米国独立宣言の際に鳴らされた米フィラデルフィアの「自由の鐘」のレプリカで、青銅製とみられ、高さ約1メートル、直径約1.2メートル、重さ約1トン。終戦直後、連合国軍総司令官だったマッカーサーの提案を受けた米国の市民有志が「自由の象徴」として日本新聞協会に寄付。協会は同公園内に塔を造り、鐘とともに都に寄付した。
 同公園サービスセンターによると、1952年10月24日の除幕式では、当時の安井誠一郎都知事が鐘を3回鳴らした。しかし、その後鐘が鳴った記録や言い伝えは残っておらず、除幕後の早い時期に、振り子がなくなった可能性が高いという…
 高田さんは「鐘の音が復活することは、都民にとって大変うれしいこと。今後は、音楽活動などを通して『自由の鐘』が持つ平和の精神を、世の中に広く伝えていきたい」と話している。

(2011年3月5日東京新聞Web 13時53分更新)


(注)
実際にはあんころのあれで、音が奏でられたのは10月らしいですね:

広島市西区出身の歯科医でシンガー・ソングライターの高野友成さん(34)=東京都調布市=がテーマソング「Pray For Peace(平和への祈り)」を作った。10月1日に同公園である鐘の打ち初めイベントで披露する。
…2011年9月28日付け中國新聞朝刊


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2014年12月09日

フランスの誘惑

 12月5日付け日記「礫川公園」で思わず知らず、「学生時代のヤッホー君」に言及しておりましたが、亡き父の遺言「初心不可忘」を守って、毎夜の散歩は村山学寮を抜け出し、その起点を大曲の能楽堂としていたのであります。
 イマ明かされるその心とはいかに…:

<フジタ点描> 軍医の父 息子の決意に援助

 フジタは1986(明治19年)11月27日、東京府牛込区(現東京都新宿区)新小川町で、藤田嗣章(つぐあきら)、政(まさ)夫妻の次男として生まれ、嗣治(つぐはる)と命名された。
 父は軍医で、後に陸軍軍医総監を務めた名士。兄の嗣雄(つぐお)は東京帝大を卒業して著名な法制史学者になり、2人の姉も軍医に嫁いだ。
 明治のエリート家庭に育った「お坊ちゃん」だったが、「牛込の江戸川の大曲で生(うま)れた故かその大曲というのは旋毛(つむじ)曲がりという因縁で、殊更(ことさら)人に負けず嫌いで…」(腕一本)と自認する独立心の強さは、生まれつきだった。
 父の転勤で幼少期から小学校までを熊本で過ごし、東京に戻って中学に入学した。小さなころから絵が大好きで、「画家になりたいと、一人で心の内にきめていた」(地を泳ぐ)。
 13歳のとき、ついに決心して、父にあてて自分の望みを書いた手紙を出した。一読した父はフジタを呼ぶ。怒られるかと思っていると、父は画材の購入費として50円をくれたのだった。
 後に世界的な画家を誕生させるきっかけになった、父への手紙。息子の願いをかなえ、その後も常に援助を惜しまなかった父を、フジタは終生尊敬していた…

 翌1930年1月、故国での滞在を終えたフジタは、再びフランスへと旅立った。しかし、米国経由で戻ったパリの街から、以前の活気は消えていた。日本滞在中の1929年10月、ニューヨーク・ウォール街の株価大暴落をきっかけに起きた世界恐慌が、暗い影を投げかけていたのだ。
 世界恐慌は「狂騒の時代」に終わりを告げた。パリの美術市場は冷え込み、モンパルナスの画家たちのお祭り騒ぎにも終止符が打たれた。フジタも、税金こそ支払ったものの、スクエア・モンスーリの邸宅や大型自動車を手放し、小さなアパートに移らざるを得なくなった。
 妻との関係も、破局を迎える。ユキは、シュールレアリストの詩人ロベール・デスノスと親密な間柄になり、フジタも若い愛人を見つけていた。「わたしたちの家庭はもはや取り返しのつかないものになっていた」(ユキの回想)。
 1931年10月、フジタはユキを残し、「南米の大空を心行くまで吸って晴々してみたい」(地を泳ぐ)と、パリで踊り子をしていた赤毛の女、マドレーヌ・ルクーとともに、重苦しい空気に包まれたヨーロッパを後にして、シェルブールから旅立った。
 11月、ブラジルのリオデジャネイロ着。1932年にはブラジルからアルゼンチンに入り、ボリビア、ペルー、キューバを経てメキシコへ。1933年にはメキシコから米国に入る。
 南米から北米へ。2年間にわたる旅を経て、フジタは1933年11月、日本に帰国する。新世界の旅は、フジタの画風にも大きな変化をもたらしていた…

(2008/05/25付け及び2008/06/15付け、北海道新聞「フジタへの旅」)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/leonardfoujita_tabi/33703.html

 そうなんです、このころ、あ、「このころ」とはあんころんもちでなくって、もちさえめったに口に入らぬ日本国民は兵隊にとられ、あるいは満蒙開拓団に行かされたかしたほどの経済危機のグローバリスムに見舞われていたのです。
 そしてあんころ、世界恐慌。そして金本位制。

 金の輸出禁止と円価の対外下落とは不可離の関係にあり、現に英国の金本位停止後ポンド価は漸落を続け英米クロスは一ドル半下落、日英為替は約一シリング方も騰貴している。
 今度の日本の金輸出禁止でわが対外為替が幾何下落するかは殆ど予断を許さないが、三割以上の下落は確実と見られている。
 しかしてこの円価の対外下落はわが貿易に如何に響くか…

(1931.12.13(昭和6)付け大阪毎日新聞)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10049061&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 経済恐慌はついにフランスにも襲来し、商店の破産、工場の閉鎖が相次ぎ、1931年はじめ6万だった失業者は1年間で5倍の30万に達する…
 そうした変化はすでにパリの日本人のあいだに先んじてあらわれていた。
 それはフランスの経済恐慌というよりも、いち早く恐慌に捲きこまれた日本が1931年12月金輸出を再禁止したことによってもたらされ、1929年当時100フラン=8円だった円相場は、1932年後半には24、25円となり、円価はじつに3分の1に下落したのだった。
 1931年秋、藤田嗣治がパリを発って南米へむかったことは知られているが… 1931年から1934のあいだに帰国する画家が続出し、パリの日本人画家が半減したといわれるのも、まさに恐慌のためにほかならない。

(渡辺一民『フランスの誘惑、近代日本精神史詩論』岩波書店、1995)144頁

 渡辺一民先生はあんころ、1932年に東京で生まれたフランス文学者で、昨年2013年の12月に亡くなっておられました。
 先生の遺稿と言われているのが今秋出版された『福永武彦とその時代』(みすず書房、2014)です。同じ出版社から以前出されていた次の2冊も必読の書:

☆ 2005年03月23日発行『中島敦論』
《谷崎潤一郎に現代小説の展望を見いだし、「本格的な構想的ロマン」にこだわりつづけた中島敦が、1930年初秋の北京を舞台にした長篇「北方行」の完成を断念したのはなぜか?》

☆ 2010年02月24日発行『武田泰淳と竹内好』
《1930年代から70年代末までの半世紀くらいのあいだ、中国と日本の問題を一貫して考えつづけてきたのは、結局このふたり以外にはなかったということを、わたしは痛感させられた》
http://www.msz.co.jp/index.html

 「みすず書房」からの三部作ですね、ちょっと読んでまた折りに触れ感想を綴っていくことにします。
 今日の日記を終えるにあたって、あんころのマレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich、1901-1992)「リリー・マルレーン Lili Marleen」で、「低い引きずるような声」を:
https://www.youtube.com/watch?v=mVtj5WQVdNU



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2014年12月08日

語らねば、伝えねば、満蒙開拓団

 佐々紅華は、荒川を望む景勝の地に1931(昭和6)年から約5年の歳月をかけて数奇屋造りのお家を建てていきます。
 この頃、この景勝の地に名前が付けられます。この碑が景勝地を見下ろせる玉淀園西、東屋付近に建っております。イマから80有余年も前、昭和のはじめに書かれた文章ですがなかなかのものですので、掲載しておきます:

花もよし 月影もよし 夏もよし 雪景色よき里は玉淀

ここは名を負ふ埼玉の たまの寄り来る玉淀は かしこかれとも 日の御子の
みまこの御子のひとたびは み船を浮べ愛でましし 
いともたふときそのかみの 大きゆかりを仰がなむ

かしこさに浪もさわがず 瀬もたたず いまもよどめり 玉淀の水

かくもめでたき玉淀の 花をや狩らむ月や見む ああたまよどの淀のうるわしさ
  
…啓山(宝登山神社宮司 塩谷啓山翁 1933(昭和8)年)

 ところで昨日の2014年12月7日日曜日、ヤッホー君はやっぱり気になるあの映画、『望郷の鐘』を観に出かけ、いっぱい、いっぱい涙をながしてきました。
 だって、イマから80有余年も前、昭和のはじめに片方では数寄屋造りの家をお建てになり、名文をさらさらとお書きになるお方がいる一方で、「王道楽土」のイメージ戦略にだまされ、あるいは送り込まれた30万人近いこの国の人びとがいたのです。
 映画のなかで耳に入った「長野県下伊那郡」の名前。
 びっくりしたヤッホー君、「えっ、まさか大鹿村も?」と気になり(注)、調べたらやっぱり:

 このようの満蒙開拓団は大変な悲劇のうちに幕を下ろしていったのですが、実はこの開拓団に最も多くの人びとを送りだしたのが当時、営農が疲弊しきっていた長野県であり、なかんずく伊那谷の人々だったのでした。
 開拓団は満州国が成立した1932年より本格化され、27万人が送りこまれたのですが、長野県は県としては最大の3万3千人を送り出しました。しかもその4分の1、8,400人を占めたのが飯田・下伊那の人びとでした。
 これらの地域を飯伊地区と呼びますが、この地域の指導者層の中に満蒙開拓推進論者が多くいたこともあって、飯伊地区は全国の中でも最もたくさんの開拓団を派遣した地域となったのでした。
 戦後、命からがら帰国した人びとは、再度、飯田・下伊那を開墾していったのですが、この地域には同時に全国でもまれと言えるほどの高い向学心が育っていき、とくに歴史研究が進められ、郷土史などで深い発展が遂げられてきました。
 「満蒙開拓平和記念館」を案内してくれた友人によれば、この深い学びを下支えしたものこそ、「二度と国に騙されない」という強い心情であったということです。
 その反映として、この伊那谷は「平成の大合併」を全国の中で最も受け入れない地域であったということです。
 大鹿村も人口1,100人の小さな村ですが、合併に反対して村として生き残ってきた。
 僕はそこに満蒙開拓以来、この土地の上に重ねられてきた人びとの思いを垣間見るような気がします。
 その下伊那の地に、戦後68年も経ってから記念館が建設された。しかも驚くべきことに、あれほどの悲劇でありながら、この問題で全国で初めての本格的な記念館・資料館の建設でした。
 なぜ68年も記念館ができなかったのか…

(2014年09月18日 23時30分00秒更新、明日に向けて(934)満蒙開拓平和記念館(伊那谷)のこと(1)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/192899289b22e0a5bbde533c23d62b89

 伊那谷以外にも、この帝都東京からも送り出されていました。
 戦争の終る月のなんと10日前、
「8月4日にも200人が東京から旅だったんですよ。きっと輸送船は魚雷とか空爆で沈没したんでしょうね、着いたって話はありませんから」って舞台あいさつに立った、『望郷の鐘』の映画監督、山田火砂子さん(82)はおっしゃってくださいました!
 『東京満蒙開拓団』(ゆまに書房、2012年09月)が出版されています:

 満蒙開拓団のさきがけは、1932年の東京のルンペン開拓団であり、最後の開拓団も1945年東京の疎開開拓団であった…
 社会福祉団体が牽引した「天照園移民」、エリート養成を目指した「満洲鏡泊学園」、宗教団体が関わった「多摩川農民訓練所」、大量移民期に対応する「東京府拓務訓練所」、新島の「分村」、女性の立場から見た「大陸の花嫁」、戦時体制の被害者である「転業開拓団」、戦争末期に現れた「青少年義勇軍」、「報国農場」、空襲被災者の「疎開開拓団」、幻の「小河内村開拓団伝説」など、多くの事実を発掘。
 [著者]東京の満蒙開拓団を知る会(代表・今井英男)
 [解説]国文学研究資料館助教・加藤聖文
 〔ゆまに学芸選書 ULULA 5〕

http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843339404

 英国紙ガーディアンのように、市民の共通資本財として永くウェブ上に残していただきたいのですが、削除されるのが早いこと、早いこと、その前に今夏2014年8月25日付けの東京新聞社説「語らねば、伝えねば 満蒙開拓団の記録から」を引用しておきましょう:

 国家は時に、自国民を平気で犠牲にします。昭和の戦争がそうでした。その渦中で進められた国策「満蒙開拓」も…。これは遠い昔の物語でしょうか。
 一冊の本が手元にあります。『証言 それぞれの記憶』という百ページにも満たない冊子ですが、そこには、数え切れない命の記憶が詰まっています。
 戦前から戦中にかけ満州(現中国東北部)へ移民し、敗戦時に、地獄の思いを味わった13人が、しぼり出すように語った体験を書き起こした証言集です。
 昨年、長野県阿智村にできた民間施設「満蒙開拓平和記念館」のスタッフが聞き取り、来館者の要望にこたえて発行しました。
◆ 意図せずとも加害者に
 戦後、固く口を閉ざしていた、あの戦争をじかに知る人々が、ようやく語り始めました。それほどむごい体験だったのです。満蒙開拓も例外ではありません。
「開拓じゃないに。中国人を追っ払って、既に開墾してあったところに入ったんだから。後ろ盾には日本軍がいて…」先の証言集からの引用です。
 入植直後から、意図せずとも自分が「侵略」に加担させられている、と気づいた移民は少なからずいたのでしょう。証言は、その無念の思いの吐露なのです。
 1932年、現中国東北部に日本のかいらい国家、満州国が建国された後、貧困にあえぐ農村救済のためなどと、移民は国策で満州に送り込まれた。
 「20町歩の大地主になれる」と入植を勧められた農家も多く、その総数は、開拓農民を中心に約27万人に達しました。しかし終戦直前に突然、ソ連軍が侵攻、関東軍には置き去りにされた。逃避行の途中で、その半数以上が集団自決や病死、行方不明という惨禍に。
 離散した家族の子どもらは中国人に託され、残留孤児、婦人になったのです。
◆ 国策に流されるままに
 戦争とは、人と人とが殺し合うことです。領土や宗教、民族、資源などその理由はさまざまでも、「国を守る」ため、国家や権力者が敵をつくる。だが、実際に戦場に行かされ、血を流すのは普通の人びと、弱い立場の人びとです。
 あの昭和の時代、国家統制が強まる中でも、戦争や戦場は遠いよそ事のような日常が続いた。
 「お国が言うなら」と流されがちな当時の世相や国民性が、満蒙開拓という国策を推し進めた背景と無縁ではありません。開拓民も、戦場に巻き込まれるとは思いも寄らなかったでしょう。
 命の教訓を次代に継ぐ方法は、語りや文章に限りません。
 映画監督の山田火砂子さん(82)は、年内の公開に向けて作品『望郷の鐘、満蒙開拓団の落日』を製作しています。東京大空襲で命拾いした経験を持つ山田さんは「戦争のひどさを伝えていくのが私たち世代の務め」と言います。戦後「残留孤児の父」と慕われた阿智村の住職、故山本慈昭さんが主人公です。地元開拓団の教員に請われて心ならずも渡ったが、自身はシベリアに抑留され、妻子とは生き別れてしまいます。
 1972年の日中国交正常化の翌年に、慈昭さんは独力で「日中友好手をつなぐ会」を設立。その活動は全国に広がりました。仲間らと中国に残された孤児の帰国支援や肉親捜しに奔走。1人で4万通を超える文通や交流も重ねました。死んだとされていた長女との対面も果たし、1990年に88歳で亡くなるまで、心は日中を行き来していた。
 これら民間の活動がなければ、長く帰国者の問題に目を背けてきた国の償いも支援も、さらに遅れていたでしょう。
 中部の「手をつなぐ会」代表理事の林隆春さん(64)=愛知県一宮市=は、
「それでも二世、三世の仕事は今も派遣や非正規が多い」とみています。慈昭さんら先人の遺志を継ぐという林さんの決意を聞いて、あらためて思うのです。国家や権力者の都合で、最後に犠牲になるのは誰なのか、と。
 安倍政権の集団的自衛権の閣議決定は、憲法の論議も、国民も置き去りでした。

◆「傍観者」のままでは
 沖縄戦の、ひめゆり学徒隊の惨劇の証言を今も続けているのは、86〜89歳の9人だけです。多い時は30人近くいた。「ひめゆり平和祈念資料館」では10年余りかけて後継者を育てています。
 広島の被爆体験の証言者は、恐らく100人前後しかいないと指摘する人もいます。そして
「ほとんどの人が話したがらなかったが、まだ今なら間に合う」とも。
 危うい空気を感じるから、語りたがらなかった人びとが、あえて凄惨(せいさん)な過去を振り返り始めた。
 それに学び、行動しないことには、無関心や傍観者だった、あの時代と重なってしまうのです。



(注)ヤッホー君のこのブログ、次の日付の日記をご参照ください:
☆ 2011年2月7日付け日記「大鹿村」
☆ 2011年7月18日付け日記「大鹿村騒動記」
☆ 2011年7月27日付け日記「旧友からの暑中見舞い」
☆ 2012年3月13日付け日記「コニカ」



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2014年12月07日

寄居小唄

 佐藤千夜子(1897-1968)って知ってますか? と12月7日日曜日「大雪」、いきなりヤッホー君の問いかけが…
 ヤッホー君の脳裏にイマもうかぶ故郷、イマはもう帰れぬ故郷となった山形県東村山郡山口村。
 その同じ東村山郡、天童村(現:天童市)出身の歌手が佐藤千夜子でした。
 NHK朝ドラ「いちばん星」(1977年、昭和52年4月4日から10月1日まで。番組途中でヒロインの高瀬春奈が病気で降板し、五大路子が代役になった)のモデルでした。
 佐藤千夜子の歌に『君恋し』があります。どうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=3wWAJmdAg90

 戦争を知らない世代、戦後生まれのヤッホー君には、フランク永井(1932-2008)の歌(1961年に『君恋し』で日本レコード大賞受賞)とばっかり思っていたのでしたが、違いましたねぇ〜:
https://www.youtube.com/watch?v=cqmvHOWMYVc

 1927(昭和2)年の9月に、アメリカ・ビクターの200万円の全額出資によって、「日本ビクター蓄音器株式会社」が設立された。…
 1928(昭和3)年4月には邦楽=流行歌の第1回の新譜を数点発売した。そのなかの1枚が作詞:野口雨情、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子による『波浮の港』であり、数ヶ月で10万枚あまりも売れたという。
 また同社は同年の1928年12月には、作詞:時雨音羽,作曲:佐々紅華、唄:二村定一による『君恋し』を発売し、これも当時としては大ヒットとなる…
 大正時代には日本のレコード産業の主役だった日本のレコード会社や輸入代理店が、この時期までにすでに世界規模の企業に成長していた欧米のレコード会社に、その主役を奪われることになったともいえる。それは外国資本のレコード会社の日本市場への参入という、1970年代の資本の自由化を契機に、日本のレコード
産業に起こった現象によく似た出来事だった。

(広島経済大学経済学部教授・生明俊雄「昭和初期における欧米メジャーの本格的攻勢と日本のレコード産業の発展」、2008年9月広島経済大学経済研究論集第31巻第2号所収)

 普段は細くってほとんど何も目に留まらぬヤッホー君にいきなり、この《佐々紅華》の文字が飛び込んできたんでもう〜びっくり!
 またしても、へたりこんでしまいました。
 昨日12月6日土曜日の昼下がり、少林寺から東武東上線「玉淀」駅に向かって歩いていたとき、旅館「京亭」前でのことでした。
 『君恋し』を作曲した佐々紅華氏(1886-1961)が『寄居小唄』も作曲してたって…
 この『寄居小唄』って、じゃあ…、詞を書いた人は?

 寄居駅に務めていた19歳の金子貳次(かねこたかつぐ/金子虹かねこにじ)という石川啄木を心から愛する文学青年と佐々紅華との出会いがある。
 『寄居小唄』という舞踊小唄の作詞が金子虹によるもの。
 まさに昭和の寄居風景だ…
 19歳の青年にしては「よく出来過ぎている」ということで「盗作」ではないかといわれたという。
 彼は武町(うちの町内/寄居・埼玉)の鳥羽家に婿に入ったが、1964(昭和39)年に54歳で亡くなった。
 彼の夫人とよさんは2006(平成18)年に94歳で亡くなったが、お元気な時に古い冊子をワープロで打ちなおすよう頼まれた。
 手書きの文で、継ぎはぎをして書き直された個所もある。
 『寄居小唄』であった。
 1845(昭和20)年頃、東京より疎開していた画家 安井曾太郎に、鳥羽家自慢の手打ちうどんをご馳走するといったら、紋付はかま姿で現れたとか。
 巨匠らしい振る舞いに思わず笑いがこみ上げてきた。
 ちなみに金子虹の実家は俳人 金子兜太の本家と聞いた。

『寄居小唄』
(金子虹作詞 佐々紅華作曲)

色はうす紅 玉淀さくら
霞む日ごとの 水かがみ
まわる日傘に ほろほろと
さても愛しい 花が散る

(2012-05-05 16:23:15「パンカップアラ環店主の昭和的こころの復活記」再発見 佐々紅華の会)
http://blog.goo.ne.jp/pancup/e/7efb70a2308f2ed14df3d2ca058509ac

 1930(昭和5)年、当時のお金で3万円ともいわれる契約料でビクターからコロンビアに移籍した佐々紅華は、学生時代から付き合いのあった七代目松本幸四郎(雀亭・雀宮公園内)と寄居出身の二人目の妻いゑとの縁で荒川を望む断崖の上に3000平米の土地を購入、1931(昭和6)年から約5年の歳月をかけて数奇屋造りの枕流荘「虚羽亭」(現京亭)を建てた。
 佐々紅華は、玉淀の京亭で1000曲以上の作曲をし、昭和36(1961)年1月18日この世を去る。
 佐々紅華は「君恋し」第3回レコード大賞受賞の栄を知ることなく玉淀・寄居の地を愛しながら亡くなった。

(企画制作・寄居町、協力・「再発見 佐々紅華の会」)
https://ja-jp.facebook.com/sassakouka

 『京亭』は? 動画でご紹介:
https://www.youtube.com/watch?v=8PjIFETsBIg

 『京亭』で開かれた「佐々紅華展」も動画2本で。
 2013年5月12日に開かれた動画「峰岸トリオ With MASUMI」にはなんと、ウグイスが合いの手を入れてくれております。ぜひお聴き逃しのないように:
https://www.youtube.com/watch?v=o3SuuQ644sg

 今年2014年の5月11日にも:
https://www.youtube.com/watch?v=z6MS5JcYMYw

 『玉淀』ってどんなところ?

 埼玉県指定名勝「玉淀」の下流で発見された水神様を水天宮として改め、水難よけや安産、子育てなどを祈願して1931(昭和6)年に始められました。
 寄居「玉淀」水天宮祭の付け祭りとして行われる花火大会と舟山車の競演は“関東一の水祭り”と呼ばれています。

(寄居町公式サイト、寄居玉淀水天宮祭)
https://www.town.yorii.saitama.jp/soshiki/13/suitenguu.html

 ヤッホー君の写真でも。
 最初が下町に流れ込む荒川の上流、寄居あたり。そして次が、噂の「玉淀」:

荒川.jpg

玉淀.jpg



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2014年12月06日

少林寺羅漢山247m

 12月6日土曜日、ヤッホー君は「少林寺」(埼玉県大里郡寄居町末野2072-1 Tel 048-581-3141)にお参りに行っておりました:

 曹洞宗の寺である少林寺は、1511(永正8)年、長泉寺開山大洞存「(そんちょう)大和尚が乞われて開山となりました。
 開基は、北条氏康の家臣となった藤田右衛門太夫国村となっているが、康邦だろうともいわれており確かではありません。
 本尊は釈迦牟尼仏です。
 慶安年中(1648-1652)寺領15石を与えられています。
 24世大純万明大和尚の時、1826(文政9)年春より四方浄財を募り、寺後山中に釈尊、十六羅漢、五百羅漢の石像並びに千体荒神石碑を1832(天保3)年に安置し、信仰の道場として今日に続いています。
 山頂に立てば、寄居市街地が一望できるとともに秩父連峰が目前に迫り、眼下に円良田湖が望めます。

(寄居町・埼玉県掲示より)


 山男、いやサイキン、年齢と共に里山にシフトしてきつつあるヤッホー君、喜びいさんで山頂(羅漢山)目指したのですが、そんな景色の良い山頂には立つことができなかったなぁ〜… フ・シ・ギ・と嘆いております。
 でも頂上にはしっかり高さ2mの釈尊の石像が真ん中に、そしてその両脇を脇侍文殊、普賢の二菩薩が控え、さらに十六羅漢がまつられていたのですから、間違いではありません。
 でも標高何メートルかも分かりませんし…(注1)

 でも、びっくりしたのは山頂にあった「五百羅漢と千体荒神」の案内文:

 碑文によると文亀年間(1500年ごろ)に、突然天地が振動、暗黒化し、人びとの動きがとれないでいるとき、山中より仏舎利が出現し、一大光明を放ち暗闇を破り、人々の苦難を救ったといいます。
 これにより、ここに大凋存「大和尚が開山し、この奇跡に深く感銘し釈尊並びにその弟子たちの石像建立の悲願を建てられたものですが、機熟さず、24代・大純万明大和尚地元をはじめとして、中山道は深谷宿より江戸に至るまで6年間、浄財勧請にあたり、1832(天保3)年、この偉業を成し遂げました。
 山頂に釈尊をまつり、脇侍文殊、普賢の二菩薩並びに十六羅漢を配し、山麓から山頂まで510余体の羅漢石仏(山に向かって左側)と千体荒神の石碑(右側、現存960余)は、その数と保存において関東一と称されています。
 なお、乃木源希次(乃木大将の父)寄進による「三宝大荒神」の碑も現存しています。
 この千体荒神は、戦時中、戦場の守護神として、現在は選挙のとき、参拝すると当選間違いなしといわれ、信仰を集めています
 五百羅漢は、孝子孝孫が亡くなった人を追慕し、一心に尊顔を仰ぎ見るとき、必ずその尊顔の中に亡くなった人の面影を見ることができるといわれています。
 羅漢とは、仏教の信者の施しを受ける価値のある人という意味であり、悟りを開いた仏弟子に対する尊称でもあります。
(寄居町 埼玉県)


 山路にひっそりと黙して、立ち尽くしている「千体荒神」碑とはこれです↓:

千体荒神1.jpg

千体荒神2.jpg

 実はヤッホー君、今日は、開運と招福と諸願成就のウオーキングだったんです。
 少林寺は十二支の「兎」!

兎.jpg

 アホノリスクが地方にまで浸透して、年金がカブにつぎ込まれて失敗して大損こいても知らんぷり(公務員の年金はそんなことしないでしっかり年金用なんだって)、カブは上がっても、円が安くなって物価があがり、中小企業はにっちもさっちもいかなくなる、なんてことのないよう、
 アホノリスクで多様な働き方なんてわけのわからない言葉に踊らされて、いつクビになるか分からない、結婚も子供もできないような食い扶持しかないようなことにならないよう、
 あぶれた若者が戦場にかりだされ殺し殺されることがないよう、
 アホノリスクで森林・大気・電気・水道・学校・教育・報道・公園・病院・医療など企業やアメリカに売り渡してしまうことがないよう(注2)、

 来年2015年の干支は羊なんですけど、兎さんに、羊さんに届けてって願かけてきたんですって。
 「平和で明るい、笑顔あふれる年になりますように」って。
 そのためにも、12月師走の14日日曜日、「東京高輪泉岳寺義士祭」の日には(予定がある人は期日前投票、不在者投票!)、老いも若きも皆んなで投票所にピクニック!
 正しく民意が反映されるように。
 そして新年からは、イマとは異なる<美しい優しい豊かな日本>にギアをチェンジ!



(注1)

富田弘平『どこかへワンデーハイク』(新ハイキング社、2006)によると247m

(注2)退職したての小児科のお医者さん、ヤッホー君がお慕い申し上げているお医者さんはこんなことを:

【その1】

日本に正規軍を持たせて、米国の世界戦略の一端を担わせようという動きが盛んにある。そのための集団的自衛権行使であり、憲法第九条改定ということだ。それで良いのだろうか、一旦米軍の世界戦略に組み込まれると、何千人という単位での死者を出すこと、本国もテロの脅威にさらされるようになること、そして最も大切なことは、戦後営々として築いてきた平和国家という名誉をかなぐり捨てることになる。我々に、そうするかどうかの選択が問われている。
(2014/12/04 21:37更新)

【その2】

政党交付金がありながら、企業献金を受け続け、自公政権は、大企業に有利な税制改正をめざし、輸出企業を潤す政策をとり続けている。そうした政策で潤っている企業から、より多くの献金を受ける。これはあからさまな収賄の構図ではなかろうか。個別の収賄関係が特定できなくても、企業群と政権与党の癒着である…

年金資金運用の出鱈目にも、もう一度注意を喚起しておきたい。我々の年金資金が、数十兆円規模(年金資金全体の最大67%)で株式投資に回されている。現在、株式市場は活況を呈しているが、やがて、それは落ち込む。経済循環もあるだろうし、公的資金をつぎ込む官製相場は続きようがないのだ。財務官僚は、彼ら自身の共済年金資金は株に投資していない(依然と同程度の少額の投資に抑えている)。やがて株式相場で年金資金が大損を喰らうときになって我々が気付くのでは遅いのだ。年金受給者たる国民を愚弄する政策である。
(2014/12/03 08:44更新)

【その3】

現政権の言う成長戦略とは、TPPで構築されるグローバル化の先取りである。「特区」には、外国企業の進出が優先されている。社会で共有し利潤追求の道具とすべきでない社会的資本、社会的共通資本、をグローバル企業に開放することが、TPPで決められるはずだ。農業、社会福祉、医療、教育等が、グローバル企業に門戸開放される。それは、国民生活の窮乏化を招く。成長戦略でもなんでもない。国民の財の、グローバル企業への売渡に過ぎない。

選挙結果予測では、自民党が圧勝するということも言われている。アベノミクスの恩恵は受けていないが、株価も上がっているし、何となくバブリーな経済状態になりつつあるようなので、自民党に任せてみようかというところなのだろうか。ほかに任せられる政党がないし、という言葉も続くのだろう。

だが、それで良いのか…
果たしてこれでよいのだろうか。

これからの日本を背負う世代の方々、次の世代を育てている方々には、この選挙の意味を良く考えて、是非投票に行ってもらいたいものだ。貴方がた、そしてお子さん方の将来がかかっている。
(2014/11/30 11:09更新)

【その4】

低出生率の大きな要因は、若年層の非正規雇用、低賃金にある。非正規雇用は、労働者全体の37%に達している。特に、若年層で増えている。彼らの社会保障は不完全であり、また正規雇用と比べて低賃金である。非正規雇用の状態では、家庭を持ち、子供を産み育てることができない。

それを改革するための「アベノミクス」だ、と政府は言うかもしれない。が、アベノミクスのもたらしているのは、都市部大企業の一部の利益増大だけだ。インフレが進行し、実質賃金は、減り続けている。雇用が増えたと言うが、その大半は、短期雇用、非正規雇用であるという。アベノミクスは、要するに未曾有の金融緩和と、規制緩和の推進策だ。
(2014/11/29 10:16更新)

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2014年12月05日

礫川公園

 学生時代、ハルちゃんとヤッホー君は同郷で、小石川の学生寮で4年間同じ釜の飯を食べた仲。
 それからの友情はいまだに続いていて、お互い山のカミさんより古い年月を重ねてきているって。
 だからヤッホー君、小石川後楽園でのおひとりさま紅葉狩りをすませた後、礫川公園にまわったのも宜(むべ)なるかな。

 東京メトロ後楽園駅北口を出ると、すぐ目の前に現れる広々としたスペース。これが礫川公園の入口です。駅前にあり、また文京シビックセンター(文京区役所)の真向かいという、まさに都会のど真ん中に位置する礫川公園の入口には、休憩中のビジネスマンたちが一息ついている姿がたくさん見られます。
 少し階段をのぼった噴水広場の周りは美しく整備された花壇や彫刻などがあり、ヨーロッパの瀟洒な庭園のような雰囲気に。公園のシンボルである高さ10mの段状の小滝(カスケード)には、イタリア・ルネッサンス様式が取り入れられ、獅子や羊のブロンズ彫刻が飾られています。
 カスケードの脇の階段をのぼると、運動遊具が設置されている広場に出ます。高層ビルや東京ドームシティの大きなジェットコースターが見える都会の公園で、鉄棒や吊り輪で汗を流すのも一興です。

(Enjoy ニコン、公園散歩、礫川公園)
http://www.nikon-image.com/enjoy/life/park/park58.htm

 ところが12月2日火曜日のヤッホー君、「友引」だったんですかねぇ〜、無数の亡霊たちに袖を掴まれ、曳かれるように「運動遊具が設置されている広場」の先からさらに足を踏み込んで、迷い込んでしまったのです。
 そしてへなへなと路上にへたりこんでしまったのです。
 そのひとつめ、「東京都戦没者霊苑」!

 碑の前方に置かれた黒御影石には、山本健吉氏撰書による平和への願いを記した文章が刻まれています。

 あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声も聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
 だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
 そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。
 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
 この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、慈にこれが辞を作る。
山本健吉


山本健吉.jpg

 … 参列広場の正面に向かって左側中央の奥の石に、東京都戦没者霊苑の建立及び改修に至った由来が、角田房子氏撰書により刻まれています。

 東京都戦没者霊苑は1931(昭和6)年の満州事変からに日中戦争を経て、1945(昭和20)年8月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約16万人の霊をまつる
 敷地は、1940(昭和15)年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
1960(昭和35)年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。
 また年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
 そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い、1988(昭和63)年3月に完成した…
角田房子

(東京都福祉保健局公式サイト)
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/seikatsu/senso/reien.html

 山本健吉(1907-1988)に角田房子(1914-2010)ですかぁ〜…、へぇ〜…、無数の亡霊たちに口をぽかんと開けたまんま、何も言えず、へたりこんでしまってるヤッホー君。

 だってぇ、学生時代のヤッホー君、歯をくいしばって日々の生活に追われ、いかに生活していくか以上の事柄については興味もなく、無感心、せいぜいお散歩だけ。しかも夜の散歩。
 大曲の能楽堂(首都高速と千代田線の建設により、現在、松濤に移転しましたってホント?注1)から安藤坂を上って「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」指圧学校(注2)も傍にあった伝通院へ、
 そしてその前の春日通り(都電が走っていてヤッホー君は通学に利用していました)は富坂を、富阪警察署、中央大学理工学部前の坂を下ると礫川公園、
 最後に「柳町すずらん通り」を通って寮に戻って、ハルちゃんの部屋でワンカップを飲みながら(アルバイトでおカネがあったとき限定)、明星ラーメンをすする、という毎日でした。
 だからいつも通った礫川公園ですが、こんな場所があったとは…
 当時は素通り、目にも入りませんでしたぁ〜…

 へたりこんだふたつめ、「諸工伝習所」跡記念碑。

 1872(明治5)年、政府はフランスの砲兵大尉ジョルジュ・ルボンを招聘し、ここに諸工伝習所を創設した(注3)。その後、名称はいろいろ変わったが敗戦までの73年間、陸軍技術の教育が続けられた。ここが近代陸軍技術教育の発祥の地である。
 1872(明治5)年「諸工伝習所」開校
 1890(明治23)年「陸軍砲兵工科学舎」と改称
 1896(明治29)年「陸軍砲兵工科学校」と改称
 1920(大正9)年「陸軍工科学校」と改称
 1940(昭和15)年「陸軍兵器学校」と改称
 1945(昭和20)年8月閉校


諸工伝習所.jpg

 へたりこんだみっつめ、「小石川トンネル射撃場跡」。

 小石川トンネル射撃場は、丸ノ内線後楽園駅の横(礫川公園地下)に存在した。
 かつて後楽園の一帯は、水戸藩邸(江戸上屋敷)の敷地であった。
 それが明治維新後に藩邸跡に東京砲兵工廠(陸軍造兵廠東京工廠)が建設され、トンネル射撃場は1883(明治16)年から1885(明治18)年ごろに完成されたと推定されている。
 大正天皇が皇太子であった1886(明治19)年頃の「村田銃射的場御巡覧」の記述が文献に存在する。
 そのため、このトンネルは初の国産軍用小銃である村田銃の増産体制のために建設されたと考えられ、主に軍用小銃や機関銃の試射用(訓練・弾道実験等)の場所として使用されていた。

(文京区ライフル射撃協会 紹介サイト)
http://tokyobunkyoshooting.jimdo.com/

トンネル.jpg



(注1)
1901年、大曲(現新宿区新小川町)に誕生した観世能楽堂。長年、能楽観世流の殿堂として親しまれ、1972年に現在の地に移転しました。観世流とは、能楽を大成させた観阿弥・世阿弥親子の流れを汲む、能楽界を代表する流派。二十六世宗家・観世清和の舞台を筆頭に、数々の名演が繰り広げられ、賑わいをみせています。
(東京の観光公式サイト)
https://www.gotokyo.org/jp/kanko/shibuya/spot/s_512.html

(注2)
 1940年、「日本指圧学院」が小石川の地に創設されてから70年余が経過しました。歴史の香りがする「伝通院」の門前であるこの地にその足跡の第一歩を記してから、幾多の困難を乗り越え、指圧を法律的認知まで高めて確立しました。創立後、周辺環境も充実し、地域とともに発展してまいりました。
 これからも、人々の健康への願いに応えようとした浪越徳治郎をはじめとする大勢の人々の思いを大切にし、「世のため」「人のため」更なる歴史を刻んでまいります。
(日本指圧専門学校公式サイト)
http://www.shiatsu.ac.jp/intro/index.html

(注3)「東京大学史料編纂所図書室」ルボン家資料(フェリクス・フレデリック・ジョルジュ・ルボン)
 明治政府がフランスから招いた砲兵技術者フェリクス・フレデリック・ジョルジュ・ルボン(1845–1923)大尉が残した資料134点が収蔵されている。ルボンに関する資料のほか、生産技術関連資料、建物関連資料、カタログなどから構成されている。工廠建設の設計図類が多く含まれる。
 ルボンはパリで生まれ、20歳でフランス工科大学(エコール・ポリテクニック)を卒業後、砲兵工科専門学校(ミリタリー・アカデミー)に進み、卒業後、将校となった。1872(明治5)年5月にフランス第二次軍事顧問団の一員として来日し、1876(明治9)年7月まで約4年間日本に滞在した。1872年に東京・小石川に開学された諸工伝習所で、日本人に造兵技術を教授し、銃や弾薬の製造に関わった
 本資料は、陸軍工科学校(諸工伝習所の後身)の生徒であった永尾幹三郎(ながお みきさぶろう)が、ルボン家との交流を通して同家から寄贈され、さらに1995年に永尾から東京大学史料編纂所に寄贈されたものである。『東京大学史料編纂所研究紀要』(第9号、1999年3月、43–52頁)所収の「『ルボン家資料』の調査・研究」(堤一郎著)に本資料が紹介されている。
http://tksosa.dijtokyo.org/?page=collection_detail.php&p_id=441&lang=ja


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2014年12月04日

望郷の鐘

 1931年9月に満洲事変が始まると、日本軍は月を重ねるごとに、満洲の軍事占領地域を拡大し始めた。
 北に日本軍が進軍して行く中で、早期の占領が不可能な地域では、張学良からの独立宣言を行わせて、地域の将領を強圧的に日本側に取り込んだ。
 そして、1933年の5月の中華民国との塘沽停戦協定によって、中華民国は黒龍江省、吉林省、遼寧省、熱河省の4省が中華民国から分離することを承認した。
 この協定により、日本は、分離された領域を排他的な覇権下に置くことに成功したのである。

 満洲国は、日本との外交関係を正式に取り決めた日満議定書の中で、日本が鉄道や港湾などの交通網に関わる殆どの権利を日本政府が有していること、日本が軍事顧問を派遣することを定めている。
 統治機構の制度的な特徴においても、日本人が長を務める総務庁と関東軍が権力を握っていた。
 総務庁は国務総理大臣よりも中枢機能を有していたし、関東軍も満洲国に日系官吏の任用権を認めさせ、人事権を掌握していた。

 日本人、朝鮮人、満洲人、モンゴル人、漢人による「五族協和」は、あくまで表面的なものであり、実態は明らかに日本の傀儡政権であった。
 このように傀儡政権を作る手法は、皮肉なことに、アメリカの帝国主義的手法と同じであったが、その中身は、明らかにアメリカの意図に反していた。

 日本は、「民族自決」の様相を整えるため、清朝最後の皇帝、溥儀を押し立てた。

 関東軍は、奉天近くの柳条湖から北上し、2月には、北のハルビンも含めた主要都市を占領、1932年3月に、溥儀は満洲国の建国宣言を行なった

(一橋大学、2009年度水岡ゼミナール夏季巡検「満洲の歴史−地理学の視点から」)
http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/excursion/09manchuria/column/history/#ch5

★ 1931年ですか…、昭和6年ですか…、満州事変ですかぁ〜

 満蒙開拓団の悲劇を知っていますか〜。
 満蒙開拓団とは、1931年の満州事変以後、日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州、内蒙古に入植させられた日本移民のこと。
 1945年の太平洋戦争敗戦までに送り込まれた開拓団員は約27万人と言われている。
 しかし、その内の約8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦によって、帰国できずに亡くなっている。
 多くの人々に取材をもとに、日本の近現代史を振り返るドキュメンタリー。
 2008年度キネマ旬報ベストテン「文化映画部門」第1位を受賞。


 そう、羽田澄子監督の映画『嗚呼 満蒙開拓団』(2008/日本)がありました。
http://0311db.net/manmou.html 

 イマも、映画づくりが行われております。
 劇場での一般公開まえに先行上映がありました。
 ヤッホー君の”eチャリ”、昨日の12月3日水曜日は逆方向に走ってしまい、「江東区総合区民センターレクホール」での映画会を見逃してしまいました。
 それは山田火砂子監督の映画『望郷の鐘』(2014/日本)!
http://www.gendaipro.com/bokyo_new/index_top.html

 『望郷の鐘』予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=AfJymVXNMdc

 長野県阿智村の住職で「中国残留孤児の父」と呼ばれた故・山本慈昭さんの生涯を描いた映画「望郷の鐘−満蒙(まんもう)開拓団の落日」の完成披露試写会が11月14日、中野区であった。
 映画は終戦間際の1945年5月、開拓団の国民学校教員として、妻と娘二人とともに旧・満州(中国東北部)に渡った山本さんの人生を描く。終戦後にシベリアの収容所に送られた山本さんは帰国後、満州に残された孤児らと文通を重ね、肉親捜しに尽力した。
 舞台あいさつで、山田火砂子監督は「日本が無駄な戦争をしたことを知ってもらえたら」と力を込めた

(2014年11月16日付け東京新聞・石川由佳理「《残留孤児の父》足跡追う映画完成、中野で『望郷の鐘』試写会)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20141116/CK2014111602000100.html

★ 1932年ですか…、昭和7年ですか…、この年の10月に…

 三多摩地方を除く5郡を東京市に編入し、旧15区(明治11年、つまり1878年の時点で、東京府の深川地区は深川区に、城東地区は南葛飾郡に編入。東京市が誕生したのはイマから125年前の明治22年、1889年)に加えて新たに20区が誕生し、35区となった。
 この際、亀戸町、大島町、砂町が合併して城東区となり、東京市に編入された。

…『江東区の歩み』48頁

★ この頃からですか、小石川の「砲兵工廠」が移転して東京市民の目から消えていくのは…
 小石川の「砲兵工廠」は関東大震災で甚大な被害を蒙り、小石川での本格的復旧は困難と判断され、1931(昭和6)年から逐次、九州は小倉へと移転が実施されていった、と言います。
 この「砲兵工廠」を四半世紀前に見晴るかした作家が、石川啄木でした。
 1908(明治41)年のことでした(注1)。
 この年の4月に函館から船で上京してきて、金田一京助の厚意で本郷区森川町の蓋平館別荘(?!)の三階三畳半の部屋(「穴」?!)に下宿して、石川啄木はあの現役の「龍」の吐き出す「黒煙」を見たのでした(注2)。
 
 ところがおとといの2014年12月2日火曜日、ヤッホー君はその小石川の妖怪が紅く浮き上がる「砲兵工廠跡」を示す記念碑やら絵図やら見てしまったのでした!
 なんと、黄門さまのあの「小石川後楽園」で…、

祈念碑.jpg

祈念碑全体像.jpg

跡図.jpg


(注1)
 函館からでなく、大学入学のために九州から上京したのは「三四郎」でした。
 石川啄木は無職で定収入がなく、盛岡時代からの友人である金田一は自分の収入のかなりの部分を割いてまで啄木を援助し、啄木は小説など創作活動に没頭するも出版のあてがなく失敗、困窮をきわめるのと対照的にに、「三四郎」は成長していきます:

 「三四郎」は同郷の先輩、野々宮や広田先生、そして美禰子とも出会い、東京の新しい空気のなかで、世界と人生についてひとつひとつ経験を重ねながら成長していく。
 「三四郎」と美禰子の二人が出会った東京大学構内の心字池は「三四郎池」と呼ばれるようになる。
 夏目漱石の小説『三四郎』は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」に1908(明治41)年9月1日から12月29日まで連載(夏目漱石の美術世界展カタログ107頁)

(注2)石川啄木明治41年9月8日日誌(筑摩書房版啄木全集第5巻、324頁)
 早起。
 今朝は寒暖計66度に降ってゐた。
 大きな蚤を捉へて三階の窓から投げる。
 秋風に弄ばれて、見えなくなつた。
 肌寒を感ずる。
 9番の部屋に移る。
 珍な間取の三畳半、称して三階の穴といふ。
 眼下一望の甍の谷を隔てて、杳かに小石川の高台に相対してゐる。
 左手に砲兵工廠の大煙突が三本、断間なく吐く黒煙が怎やら勇ましい。
 晴れた日には富士が真向かいに見えると女中が語つた。
 西に向いてゐるのだ。
 天に近いから、一碧廓寥として目に広い
 虫の音が遙か下から聞こえて来て、遮るものがないから、秋風がみだりに室に充ちてゐる。


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2014年12月03日

小石川後楽園

 今年のお山での紅葉狩りは、赤城山で、と張り切って向かった山歩クラブの月例お山歩会、でももう遅かったり、雨模様だったりでザンネン。
 文京シビックセンター展望ラウンジで目に入った「小石川後楽園」、それでは都心で紅葉狩りだい、と満を持してのおひとりさまお散歩会。

 表門.jpg

 感動してきました。
 まずは合点のゆく三枚をお目にかけましょう。
 一枚目は「円月橋」二枚目は「水面に写る紅葉」三枚目は「塀沿い」

円月橋.jpg

水面に写る紅葉.jpg

裏門.jpg

 感動でせっかくのお顔もくしゃくしゃ。
 感動のお休み処を三点ご紹介。
 ひとつ目は「八卦堂跡」ふたつ目は「得仁堂」そしてみっつ目は「藤田東湖の記念碑」

 あっ、その前に「円月殺法」
https://www.youtube.com/watch?v=rYchuVLdZ_Q

 じゃ、ない、ない「円月橋」でしょ:

 朱舜水(しゅしゅんすい、1600-1682)の設計と指導により名工「齣橋嘉兵衛」が造った。
 橋が水面に映る形が満月になることからこの名がつけられた。
 後に八代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。


 そもそも、小石川後楽園と言う名前も朱舜水の命名による、と言われています(出典は『岳陽楼記』の句「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」(天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)によります):

 江戸時代初期、1629(寛永6)年に水戸徳川家の祖である頼房が、その中屋敷(のちに上屋敷となる)として作ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。
 庭園の様式は池を中心に回遊式築山泉水庭になっています。
 光圀は、造成に当たり明の遺臣、朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、園名も舜水の命名によるなど中国趣味豊かな庭園です。

(東京の観光公式サイト、小石川後楽園)
http://www.gotokyo.org/jp/kanko/bunkyo/spot/40263.html

 さて、当たるも八卦、当たらぬも八卦…
 じゃ、ない、ない「八卦堂跡」。

 二代光圀7歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。
 後に光圀は文学を好むようになり、文昌星(注1)を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。
 なおこの堂は大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。


 そして、「得仁堂」。

 小石川後楽園の造営を完成させた水戸二代藩主徳川光圀(1628-1700)は、「得仁堂」を創設し、泰伯・伯夷・叔齊像を安置しました。
 光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。
 三像のうち伯夷・叔齊像は、現存しています。

 「伯夷・叔齊」とは、中国古代・殷代の小国の王子兄弟の名前です。
 二人は、跡継ぎになることを互いに譲り合い、国を去ったといわれています。
 これに対し国民は、「聖の清なるもの」と誉め称えました。
 兄弟は善政を行っていると評判の文王を慕い周の国へ行きましたが、時の王は亡くなり、子の武王が継いでいました。
 武王が父の葬儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諌めたが、聞き入れられませんでした。
 そこで二人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、ワラビで命をつないでいましたが、ついに餓死したといわれています。
 光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔齊」の物語を読み非常に感銘を受けました。
 光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建立し、伯夷・叔齊の木像を納め参詣したと言われています。

 二代光圀が建てた園内で最古の建物で、光圀が感銘を受けた「伯夷叔齊」の木像を安置した。
 堂の名は論語の「仁を求めて仁を得たり」による。


 水戸光圀… この人の人生を知らないと損をする!
 兄頼重は、水戸家を去り、高松藩松平家初代藩主となります。
 徳川光圀は兄頼重を差し置いて自分が藩主になったことを遺憾とし、兄の子に水戸家を継がせ、自分の子は高松藩主、松平頼常とします。
 そして代々養子縁組をするなど、水戸藩徳川家と深い関係でしたが、幕末に彦根藩井伊家と縁組をし、尊王派の水戸藩と敵対関係のまま、明治維新を迎えることになります。

- そして虎=光圀を囲む登場人物たちが、本当にキャラ立ちまくりで魅力的ですね。

冲方丁(うぶかた とう、1977年岐阜県生まれ) 光圀は非常に優秀な人間を周りに集めたんです。優秀でいて、かつちょっとはぐれた人たちを。光圀は一度魅力を感じた人に対してはとことん惚れていく人なんです。

- その一人が渋川春海です。『天地明察』(注2)で光圀が「そなた、余に似ておるわ」と春海に告げるシーンがありますが、『光圀伝』(注3)でも同じシーンが登場して、その言葉の真意が光圀視点から明かされます。

冲方丁 光圀は非常に才能がある人ですが、藩主になってしまうと、自分自身では活躍できなくなってしまうんです。自分は春海のように、己の大願に単独で邁進できる喜びを味わうことができない。そういう悔しさや羨ましさがあるからこそ、自由な春海と対面すると思わず殺気が噴き出してしまう(笑)。

- 人間味がありますよね(笑)。兄についてはどうでしょうか?

冲方 『天地明察』が春海と関孝和、本因坊道策といったライバルとの物語であるとするなら、『光圀伝』は兄弟の「義」の物語といえます。頼重ってどの資料を読んでも、本当に良くできた好人物なんです。長兄である自分ではなく、弟の光圀が水戸家の世継ぎに決まっても、何一つ文句を言わず家を出ていく。かつ生涯に亘って光圀を導き、慰めてくれますから、書いていて僕自身も救われる感覚があったんですよね。おかげで、連載中もこのお兄ちゃんが大人気で。連載担当なんか、「あれ、今月はお兄ちゃん、出ないんですか」とか言ってましたから(笑)。

(角川書店『光圀伝』公式サイト、ロングインタヴュー)
http://www.kadokawa.co.jp/mitsukuniden/interview/

 最後に、「藤田東湖 護母致命の処」(ふじたとうこ ごぼちめいのところ)。

 幕末の水戸藩士で勤王家(注4)として知られた藤田東湖(1806-1855)は、水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震(1855年)に遭った。
 その際母を助けて外に出たが、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため、救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきた。
 東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。
 圧死した場所は、白山通りの拡幅により道路となったため、記念碑は小石川後楽園(文京区後楽1-6)の中に移された。

(文京区公式サイト、史跡・旧跡など)
http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_fujita.html



(注1)
 「文星」とは、中国天文学でいう「文昌星」という星座(6星)のことである。
 このことは、司馬遷編の「史記」(紀元前91年頃に完成した130巻の書物)の中に次のように書いてある。
 北斗七星の中の主星である「斗魁」という星を頂く6星を「文昌星」と言い、古来より学問、文学の神として崇拝してきたと。
 北極星のまわりにある大熊座という星座は、北斗と文昌と三台という3つの星座の合計でできており、北斗の柄杓の水を汲む部分の四角形の4星の右側にある6辺形を為す6星が文星である。
 文星を捜す目印である、北斗七星を文星6星へ導き手として校章とし、ここに学ぶ若者が学問、文学への情熱を高めるためのマークとしたものである。
(宇都宮文星短期大学、学名の由来・本学のあゆみ)
http://www.bunsei.ac.jp/UBJC/guide/history/

(注2)ヤッホー君のこのブログ、2012年9月23日付け日記「天地明察」を参照。

(注3)冲方丁『光圀伝』公式PV…https://www.youtube.com/watch?v=jt9rbohvVXY

(注4)「尊皇攘夷と水戸学」

 水戸学の思想は尊皇攘夷という言葉で表される。
 水戸学と水戸藩はこの思想の魁(さきがけ)となったため、明治維新の震源地といわれることもある。
 「尊皇攘夷」はやがて西国雄藩の志士たちにより「尊皇倒幕」へと変わるが、そもそもの水戸学の尊皇攘夷思想は「尊皇敬幕」であった。
 水戸藩はあくまでも徳川御三家の一つとして天皇を頂点とした幕府・藩の体制を国の基礎として、その体制を維持しようと考えていたのである。
 また、攘夷がいつの間にか影を潜め開国へと移るなかで、水戸藩は攘夷にこだわりつづけてもいた。
 最も時代の先端にあった水戸藩の尊皇攘夷思想は、他藩の思惑に対応しきれず、加えて藩内での抗争で人材を失ったことがひびき、明治維新において大きな力をふるうことができなくなっていった。
(茨城県公式サイト、ゆかりの人びと)
http://www.pref.ibaraki.jp/discover/people/f01/05.html

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2014年12月02日

砲兵工廠

 12月2日、朝風呂じゃ、ない、ない、朝ブロ(グ)の後、ヤッホー君はいそいそとお出かけ、ひとりタウンウオーキング!
 今日は久々の晴れ、秋を満喫しようと「文京シビックセンター」(文京区春日1−16−21 Tel文京区役所代表 3812-7111)へ。

筑波山.jpg

 展望ラウンジ(25階)からは「文京区内にある東京大学、小石川植物園はもとより、東京スカイツリーや新宿副都心の高層ビル群、富士山、筑波山まで見渡せます」…その通りなんですぅ〜
 上は筑波山ですぅ。今朝は富士山も!
 下は文京区・礫川公園と都立庭園・小石川後楽園(特別史跡と特別名勝の重複指定)です!

礫川公園.jpg

小石川後楽園.jpg

 ヤッホー君はJR「浅草橋」駅から電車に乗ってJR「水道橋」駅でおりました(電車賃は133円なんですぅ〜)。
 まずは、「市兵衛河岸」。
 
 河岸とは、物資輸送のためにみずぎわにつくられた物揚場などの施設のことである。この河岸の名は、江戸時代の中頃まで、現在の後楽2-1-18 あたりに、「岩瀬市兵衛」の屋敷があったことによる。
 市兵衛河岸は、飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの名が見える。
 この河岸は、1875(明治8)年から1933(昭和8)年まで、現在の後楽園遊園地一帯にあった「砲兵工廠」の荷揚場としてにぎわった。明治時代、この河岸から平船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての「市平衛河岸」は、1964(昭和39)年の住居表示の施行より後楽1丁目となり、この名は消滅した。

…郷土愛をはぐくみ文化財、東京都文京区教育委員会、1989(平成元)年3月

 この辺は陸軍の一大兵器生産工場があったのです!

 君も知つてる如く、下宿の僕の窓から砲兵工廠の三本の大煙突が見える。
 四五日前の或朝、僕は何時になく早く起きて窓に倚つて居た。
 と、彼の大煙突が一本の薄い煙を吐き出した。
 僕は其時初めて今迄煙の出てゐなかつた事に気が付いた。
 薄い煙は見る見る濃くなつた。
 大きい真黒な煙の塊が、先を争ふ様に相重つて、煙突の口の張裂けむ許りに凄じく出る。
 折柄風の無い曇つた朝で、毒竜の様な一条の黒煙が、低く張詰めた雨雲の天井を貫かむ許りの勢ひで、真直に天に昇つた。
 僕は我を忘れて一心に其壮景に眺め入つた。
 其何分かの間、僕は呼吸してゐる事を忘れてゐた。
 軈(やが)て僕は、更にそれよりも壮大な光景を欲するの情を起した。
 そして恁麼(こんな)事を考へた。

 ― 何(いづ)れの都会も、有りと有る工場を其中央に集める。
 幾千百本の煙突を合して唯一本の巨大な煙突を立てる。
 其煙突は現在見てゐる砲兵工廠の煙突より何百倍何千倍太く且つ高く、それから吐出す煙も現在見てゐる煙より何百倍何千倍太く且つ凄じい。
 そして都会と都会とは各々其煙突をより太くより高くせむことを競争する。

 あゝ、その時になつて其煙突を見上げる人々の心地は甚麼(どんな)であらう!
 そして其都会の中(うち)、其煙の風下に当る区域は、劇しい煙毒の為に害(そこな)はれ、如何なる健康者でも其区域に住んで半年経てば、顔に自(おのづ)と血の気が失せて妙に青黒くなり、眼が凹んでドンヨリする。
 男も女も三十以上の齢は保てなくなる。
 随つて家賃は安い。
 幾十万の貧乏人はそれを知り乍ら其区域に住み、秋の木の葉の落つる様に片ツ端から死んで行く。
 人類の未だ曾(かつ)て想像した事のない大悪魔の様な黒煙が、半天を黒うして其都会の上に狂つてゐる。

 …此処まで考へて来て、僕は名状し難い快感に襲はれて思はず身慄ひした。
 そして再び砲兵工廠を望んだ。
 彼の煙突と彼の煙とは、其時、児戯にも等しい位小さく見えた。


 この日記はヤッホー君じゃないし一体、誰の手になるものでしょうか。
 石川啄木(注1)が上京したころ、朝日新聞に勤めていたころ、『一握の砂』に納まることになる作詩をしていたころ…

 龍(りよう)のごとく むなしき空に躍(をど)り出(い)でて
 消えゆく煙
 見れば飽(あ)かなく

 作歌は1909(明治42)4月22日か23日、「スバル」5月号に「莫復問七十首」のうちの1首として載ります。
 下宿・蓋平館3階に住む啄木の眼下のかなたに陸軍の兵器工場(東京砲兵工廠)がありました(今は東京ドーム球場になっています)。
 その工場には3本の大煙突があり、そこからから吐き出される「煙」です。
 人間関係での気苦労の歌、上司への気遣いの歌につづく掲出歌は、これも「転」の歌になっています。
 (おそらく真っ黒な)煙が大煙突の口から勢いよく力強く間断なく生み出され、登れるところまで登りつつ、そのまま無限の空間に消えてゆく… 小説も書けなければ、金もなく、家族のことも含め八方ふさがりの作者は、あこがれにも似た気持ちで、煙を眺めていたのでしょう。
 つまり鬱屈の裏返しの歌になっています。
 産業革命完了直後の日本では大煙突とその煙は産業発展のシンボルのようでもありました。
 啄木は同じ砲兵工廠の大煙突の煙から、のちの大気汚染を恐ろしいばかりに予言してもいます。

(近藤典彦、石川啄木著『一握の砂』を読む)(注2)
http://homepage2.nifty.com/takubokuken/newpage8.html

 さらに、この兵器製造工場で働く労働者群像は、労働組合運動、生活協同組合運動にも関わっていきます:

 片山潜(1859-1933)は、高野房太郎(1869-1904)とほぼ同じ頃、アメリカで11年間も苦学して帰国したばかりで、当時は神田三崎町で「キリスト教社会事業の本営」キングスレー館を経営していました。
 キングスレー館から歩いて10分ほどの場所に、小銃などをつくっていた東京砲兵工廠があり、そこの労働者が鉄工組合における最大勢力でした。
 日本最初の労働者生活協同組合を組織したのも、砲兵工廠の労働者で、1898(明治31)年のことです。
 ですから、来年は日本において生活協同組合運動が本格的に始まって100周年になります。
 ちなみに、現在、東京砲兵工廠の跡は、東京ドームや後楽園遊園地になっています。

 ※ キングスレー館:
 高野房太郎とともに労働組合期成会幹事などとして運動の中心となった片山潜の居宅でもある。
 1898年10月からは『労働世界』の発行所・労働新聞社もここに置かれた。神田区三崎町3丁目1番地12所在。
 日本大学の前身である日本法律学校の北隣にあった。現在は日本大学法学部本館の一部にとりこまれている。

(法政大学大原社会問題研究所、大原デジタルミュージアム)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/takano/takano07.html

 

(注1)石川啄木についてはヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記もお読みください:
 ☆ 2010年4月25日付け日記「ちばりょ〜沖縄」
 ☆ 2010年5月12日付け日記「本郷弓町」
 ☆ 2010年6月14日付け日記「婦人矯風会」 
 ☆ 2011年12月6日付け日記「戸田郁子」
 ☆ 2013年11月15日付け日記「石川啄木」

(注2)近藤典彦(こんどう のりひこ、1938年北海道旭川市生まれ)は、日本近代文学研究者、元群馬大学教授。こんなことをおっしゃっています:
 啄木をもっともっと多くの人に読んでもらいたい、と最近しきりに思います。
 特に10代後半から40代までの人たち、とりわけ1,700万人を超えるという非正規労働者の方々に、啄木の歌集『一握の砂』を読んでもらいたいと思います。
 小林多喜二の『蟹工船』が働く人を使い捨てにする社会を告発し、その社会にあって闘うことを訴えた小説であるとすれば、『一握の砂』はそういう社会に生き、闘う人の心(胸のうち)を表現した歌集であるからです。
 わたくし自身は『一握の砂』を中学校3年生の時初めて読みました。
 それ以来50数年の間に数100回は読みました。
 汲めども尽きぬ魅力があるからです。
 一番読みたくなるのは落ち込んだときです。
 読むと力強くではなく、なんとなく慰められます。
 それから何だかジワーと生きる力が湧いてきます。
 そういう歌集です。
 わずか26歳で亡くなったのに、どうしてそんな歌集を作れたのか…


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マック赤坂

 衆院選は今日、12月2日火曜日に公示され、14日が投票日だといいます。
 "No! アホノリスク”と言えるか、われわれ有権者の投票行動が問われています。
 ヤッホー君、それにつけ思い出されるのが、映画『立候補』です。
 ターミナル駅の雑踏のなかで選挙演説しようとしても、対立候補の「日の丸」をかかげた応援団から《へたれ》と罵倒されてしまいます。
 しかし群れることなく、媚びることなく、孤軍奮闘していた、あのマック赤坂氏を追いかけたドキュメンタリー映画でした。
 あの映画が鮮明にいまの「社会状況」を物語っている、と言いきります(注1)。
 映画監督の藤原利克氏(注2)は、インタビューにこう答えていました。
 ヤッホー君の昨日付けの日記「シネマ尾道」でご紹介した映画館支配人の河本清順さんと同じく、1976年生まれでした。

 泡沫(ほうまつ)候補の姿を自分に重ねる。約10年前、大学生の時からの夢だった映画監督になろうと、当時勤めていた東京のCM制作会社を辞めた。だが、カメラマンと2人で作った1作目の恋愛映画は当たらなかった。実家の山口で新聞販売店を営む父が交通事故に遭ったこともあり、店を継ぐために故郷に戻った。
 配達、営業、集金に駆け回る日々。2年たったころ、右膝を痛めて1ヶ月入院した。
 「夢をあきらめていいのか」
 「今から映画をやってもバカにされるだけか」…
 ベッドの上で自問自答し続け、ふと思った。
 「周囲にどう思われようと、もっといちずに夢を追いかけている人がいるんじゃないか」
 そんな思いが今回の受賞作に結実した。
 2011年の大阪府知事選を中心に泡沫候補の姿を追った。政治への不満。家族のため。世直し。出馬理由はさまざまだった。昨年2013年6月、作品が東京都内の小劇場で公開されると、各地で自主上映の動きが広がり、自主映画では異例の1万5000人を動員した。
 「僕が映画監督に立候補したように、この映画を見た人が、何かに一歩踏み込むきっかけになってくれればうれしい」

(2014年02月14日毎日新聞・東京朝刊、ひと:藤岡利充さん=毎日映画コンクール、ドキュメンタリー映画賞監督、文と写真・三木陽介)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140214ddm008070108000c.html

 ところで、主人公のマック赤坂氏(注3)、10日前のこと、今度の総選挙への立候補は見送ったような弱気発言があったようです。
 供託金の問題かなぁ〜…とヤッホー君。
 つまり「個人」が、「市民」が、「社会」に参加できるのがミンシュシュギの回路、海路のサイテイ条件なのに、高い頑丈な壁をつくっている現行の選挙制度にモンダイあるんじゃない?と、
(いや日本には「世間」はあってもそもそも、「社会」なんてのがなかったんだっけ…):

 マックが東大の学園祭に乱入!? スマイル党のマック赤坂氏(66)が11月22日、東京・目黒区の東大駒場キャンパスの学園祭「駒場祭」に来場し、次期衆院選(12月2日公示、14日投開票)について「金がないから無理」と出馬しないことを明らかにした。
 衆議院解散翌日、マック氏は東大にいた。スーパーマンに扮(ふん)したマック氏は、明11月23日に同所で開催される講演会のビラ配りに追われ、既に“ドブ板選挙”が始まっていた。正門前で現役東大生美女を集めた「東大美女図鑑」に囲まれ、笑顔で記念撮影に応じていた。
 記者がマック氏に衆院選出馬について尋ねると「お金がないから無理。ないね」と完全否定。安倍晋三首相が命名したこの時期での「アベノミクス解散」に関しては「何が、アベノミクス解散なのか意味が分からない。ただの『わがまま解散』で、お坊ちゃまにはお金の大切さが分からないんだよ」と安倍首相を皮肉った。
 名古屋市出身。東大受験に失敗し、京大農学部に入学した。伊藤忠商事退社後、レアアースの輸入商社を設立。政治活動は2007年4月の港区議選を皮切りに、衆院選や都知事選などに出馬するもいずれも落選した。今年2014年3月には、大阪市長選で橋下徹市長の個人演説会に参加し、質問をしようとしたところ、会場にいた男性に羽交い締めにされる騒動もあった。
 11月23日の講演会(11号館)では、これまでの経験を生かし、「東大に入学しなくても失敗しない人生」について語る予定という。

(2014年11月22日19時13分ニッカンスポーツ「マック赤坂氏、衆院選への出馬は<無理>」)
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20141122-1399673.html

 そうなんです、あの「わがまま解散」の親分、大阪市長選のとき、得票率は何%?

 「大阪都構想」をめぐって橋下徹氏が市長を辞任したことに伴う出直し大阪市長選が2014年3月23日に投開票され、橋下氏が再選した。大阪市選管の発表によると、各候補の得票数は以下の通り。

 橋下徹氏(大阪維新の会・前)37万7472票
 藤島利久氏(無所属・新)   2万4004票
 マック赤坂氏(スマイル党・新)1万8618票
 二野宮茂雄氏(無所属・新)  1万1273票

 橋下氏は新人3人を破ったが、主要政党が対立候補を立てない異例の展開で選挙戦は盛り上がらなかった。投票率は前回の60.92%を大幅に下回る23.59%で過去最低となった。
 …「意味のない選挙」「橋下氏の一人芝居」各党は冷めた反応…

(2014年03月24日07時55分JST更新The Huffington Post「橋下徹氏が出直し大阪市長選で再選、投票率は過去最低の23.59%」)
http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/23/hashimoto-denaoshi_n_5016394.html

 新人3人の立候補者の獲得投票数は、有効投票総数の10%を下回ったため、供託金は全額没収されていました。

 看板政策「大阪都構想」の議論停滞脱却を訴え、出直し選に打って出た橋下氏に対し、自民など他会派が公認候補擁立を見送った今回の市長選。争点も見えにくくなり、6億3000万円の費用が投入されるとされる選挙戦には各方面から疑問符がついていたが、そのラストは、選挙戦らしからぬゴタゴタ劇で幕を閉じた。
(2014年3月22日橋下氏イラッ!大阪市長選はドタバタに)
http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/03/22/1p_0006800194.shtml

 えっ、何があったのかと言いますと、新人3人の立候補者の声をお聴きくださいな:

 橋下徹の対抗馬達がブチギレ! 『我々を引っ張り出したのは橋下徹だ!』:
https://www.youtube.com/watch?v=bX-tJxQ-Wcc

 ところで、 「日仏共同テレビ局フランス10」(注4)ってご存知でしょうか。
 この局で、マック赤坂氏についてきわめて重要な学者先生とのインタヴューを動画で掲載しておりますので、ぜひご拝聴くださいね:
 
 東京大学・教授が解説「橋下徹はなぜマック赤坂を恐れるのか?−ガンジー主義とスマイル哲学」−安冨歩さん(注5)インタビュー
(2014 03 11 日仏共同テレビ局):

https://www.youtube.com/watch?v=1htCTNnq-V8



(注1)
 ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記をぜひお読みください:
 ☆ 2013年10月30日付け日記「秋は、映画館」
 ☆ 2013年11月5日付け日記「立候補」
 ☆ 2013年11月6日付け日記「先祖になる」
 ☆ 2013年11月16日付け日記「JPタワー」

(注2)
 <ポプラ新書>からこの夏2014年8月、『泡沫候補、彼らはなぜ立候補するのか』が出版されています。

(注3)
 マック赤坂氏には公式サイトもあります:
http://macakasaka.com/profile/

 マック赤坂氏は5月、東京・目黒区の東大駒場キャンパスの学園祭「五月祭」にも来場しています。その様子は動画でぜひ。
 マック赤坂が大喜利でギャグ9連発@東大(日仏共同テレビ局フランス):
https://www.youtube.com/watch?v=SalBeniNpXg

(注4)「日仏共同テレビ局フランス10」:

 「日本の情報をフランスに」
 「フランスの情報を日本に」
 France10は、1992年5月30日設立の独仏共同テレビ局「ARTE」(アルテ)をビジネス・モデルとして、日本とフランスの架け橋となるために、仏日友好協会(Association amicale franco-nippone)が主体となって2013年1月1日に設立されました。
 現在はインターネット=テレビとしてWeb上で日仏の情報を発信すると同時に、フランスや日本の既存メディアから求めがあるたびに、記事・写真・動画を提供・配信しております。
 2020年代にフランスにおいてチャンネルの1つの取得を目指し、日夜奮闘中です。
http://www.france10.tv/

(注5)
 ヤッホー君のこのブログ、2013年06月04日付け日記「大隈庭園」をお読みください。
 安冨歩先生は、1963年大阪府生まれの経済学者で東京大学東洋文化研究所教授。ヤッホー君が持っている著書に『原発危機と「東大話法」、傍観者の論理・欺瞞の言語』(明石書店、2012年)があります。ぜひ書店でお求めください!


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2014年12月01日

シネマ尾道

 今朝、早朝、まくらもとのラジオのスイッチを入れたら、〔明日へのことば〕で『シネマの灯を守れ』と題して、映画館「シネマ尾道」支配人の河本清順さんがお話しになっておられました。

https://www.youtube.com/watch?v=9SJMayCdxPc

 今日12月1日は「映画の日」なんですって。
 山歩クラブが尾道、瀬戸内を訪れたのは2008年5月23(金)〜25(日)、もう片手でも足りない、5年以上も前のことになりますかぁ〜…
 ヤッホー君、イマでも鮮明に思い出されるのは、JR尾道駅前にあった「林芙美子(1903-1951)」像なんですぅ〜…

 「海が見える 海が見えた 五年振りに見る尾道の海は懐かしい」の一節で有名な「放浪記」。
 幼少時代、尾道で過ごした林芙美子は、生涯、この町を愛しました。
 現在でも芙美子の命日にはこの像の前であじさいの献花や詩の朗読が行われます。
 尾道の待ち合わせスポットとしても人気。

(尾道観光協会)
http://www.ononavi.jp/sightseeing/literature/detail.html?detail_id=333

 山歩クラブご一行様は商店街を抜けておすすめ「尾道ラーメン」を食べに歩いていきましたが、『シネマ尾道』ってこの「林芙美子」像のすぐ近くにあったんですねぇ〜…
 「シネマ尾道」(尾道市東御所町6-2、JR尾道駅前・駅から徒歩1分、Tel 0848-24-8222)〜…
 いやぁ〜、2008年5月ころって、まだ無かったようですよぉ〜…
 だってぇ、2008年5月ころって、支配人の河本清順(1976年尾道市生まれ)さんは、弱冠32歳ながら、”尾道に映画館を”と走りまわっていたころ…
 だってぇ、われわれが尾道をおじゃました1週間後に「防火管理資格取得」の講習会に出てたんですねぇ〜…

 設計士さんと打ち合わせ。
 新聞社さんからの取材。

 防火管理資格取得講習の申込に尾道消防局へ。
 29、30日と両日受講するのですが、「2日目は必ず軽装で」とのこと。
 どんな講習なのか、今からどきどきします。

(代表の活動日記、「尾道に映画館をつくる会」の代表による日記「設計」)

 防火管理資格取得のため、消防局へ。
 尾道の消防局は、最近新設されたというのもあり、アントニオ・カルロス・ジョビンでも聴こえてきそうなカフェのようなオシャレな建物。
 違和感あるなぁ、とも思いつつ、一日中じっくりと受講。
 明日もまた来ます。

(同日記「防火管理資格取得講習会1日目」)

 2004年9月に「尾道に映画館をつくる会」を発足。
 活動の一環として 2ヶ月に1度の自主上映会を開催。
 現在(これって2008年のときのよう)まで15回の上映会で述べ8500人動員。

 2006年10月、NPO法人シネマ尾道設立。
 中国地方初の NPO法人が運営する映画館『シネマ尾道』を市民募金により2008年10月に開館。
 映画と尾道をこよなく愛する32歳。女性。

(同日記、プロフィル)
http://blog.livedoor.jp/seijun_kawamoto/archives/cat_10034015.html

 何が聴こえてくるって?土瓶?アントニオ・カルロス・ジョビン?

https://www.youtube.com/watch?v=ym51sy9uX5I

 ジョビン(1927-1994)が作曲したもっとも有名な曲は「イパネマの娘」(1962年作)。
 映画『アントニオ・カルロス・ジョビン』(2012年)もあったようですよぉ〜ん…

 A Música Segundo Tom Jobim、Trailer Oficial
https://www.youtube.com/watch?v=QNvrQ4yJQZY

https://www.youtube.com/watch?v=YzmGU_xY1dc

 日本では昨春公開されていたようです:

http://saponoblog.seesaa.net/article/347522006.html

 このボサノヴァの名曲の作詞家は、と言いいますと昨年が生誕100年のヴィニシウス・ヂ・モライス(1913-1980)。
 彼の生涯に迫るドキュメンタリー映画『ヴィニシウス〜愛とボサノヴァの日々〜』もあったよう(2005年、日本では2009年公開):

 ストーリー:20世紀はじめ、ブラジル・リオデジャネイロの中流階級の家庭に生まれたヴィニシウス・ヂ・モライスは、外交官の職を得ながらブラジルを代表する詩人として活躍していた。
 ボサノバの生みの親としての顔を持つ彼は、自宅を若いアーティストに開放。
 同時代を生きたアーティストたちが、その当時の様子を語る。

(シネマトゥデイ)
http://www.cinematoday.jp/movie/T0007338

 これも、Vinícius de Moraes - Documentário Resumido:
https://www.youtube.com/watch?v=V0BI1_J4GDg


posted by fom_club at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする