2014年11月30日

指揮者・和田一樹

 拝啓 65の君へ 日曜の朝、いかがお目覚めですか、外は秋晴れ…
 昨日の夕方は雨模様でしたが、思い切って”eチャリ”。
 向かうは、「ティアラこうとう」。
 《江東シティオーケストラ第41回定期演奏会》があったのです。
 「江東シティオーケストラ」って何? 指揮者「和田一樹」って誰? …についてはヤッホー君のこのブログ、昨年2013年11月18日付け日記「音楽の秋」をぜひご参照ください。
 Satish Kumarさんの例の三角錐、soil、 soul、society に影響を受けたのか、映画『ここに泉あり』(ヤッホー君のこのブログ、2014年09月28日付け日記をぜひご参照ください)に感化されたのか、終わった感想文にこんなことを:

 オーケストラのどのパーツも意味があって、トライアングルの音色もしっかり聞き取ることができましたよ、導入した作曲家も、再現する指揮者をはじめとする楽団も、そして聴衆だっていっしょになって共振、共鳴、共感する音の饗宴にはいつも感服させられます。市民のオーケストラとしてこれからずぅ〜っと100年先まで市民に音楽の花束を届け続けていってください。

 食いしん坊のヤッホー君、「ごちそうさま」で結んでいたって。

 指揮者の和田一樹さんもブログ『四季指揮日記』を綴ってらっしゃいます。
 檀上からのご挨拶にもありましたが、来年の1月、2月には、<映画館>にいらしてください、って:

 皆様またまたご無沙汰しております、暑い夏も過ぎ少し涼しくなってきましたが雨の日が多いですね…。
 2015年1月31日公開映画『マエストロ!』に続き、
 2015年2月28日公開映画『くちびるに歌を』もいよいよ情報が解禁してきました!
 こちらも合唱指導をしておりました!素晴らしい歌声は必見、いや、必聴です!
 撮影が終了し、教えていた生徒たちとしばらく会うことがないと思うと少し寂しいですが、みんな本当に歌がうまくなって、私は感無量です♪
(2014年09月10日付け「和田一樹9月の演奏会情報」)
http://blog.livedoor.jp/bomber19jp/

 えっ、映画?映画『マエストロ!』?

http://maestro-movie.com/

 2003年に『漫画アクション』(双葉社)で連載が開始された漫画『マエストロ』。『のぼうの城』で一緒に共同プロデューサーを務めた井手陽子と田中美幸が、次回作の企画として挙げたのが、クラシックをテーマにしたこのコミックだった。

「オーケストラの音楽は誰かと一緒に共鳴する瞬間に生まれる。その瞬間には心に残る美しさがある。音楽の力を伝えることで、どの時代でも誰かと輝かしい瞬間を生きることの大切さを伝えたいと思った」(井手)

「原作に『今確かに美しいものがあったと思っても次の瞬間には消えてしまう』という台詞がある。人の命や出会い、そして生きることに繋がっている。一瞬一瞬は奇跡の積み重ねだということを感じた」(田中)

 監督は、『かぞくのひけつ』(2006)『毎日かあさん』(2011)で、ユーモアと人情味溢れるドラマを描きだした小林聖太郎、そして脚本は群像劇を構成する力のある脚本家として、『八日目の蟬』(2011)の奥寺佐渡子にそれぞれオファー。2011年7月に、監督、脚本家、プロデューサーが集まって初めての打ち合わせを行ない、映画化が実現するかどうかは手探りの中、チーム『マエストロ!』が始動する。

(企画の始まり、チーム『マエストロ』結成)
https://blog.seesaa.jp/cms/article/regist/input

 そして映画『くちびるに歌を』!

http://kuchibiru.jp/

 アンジェラ・アキの名曲「手紙〜拝啓 15の君へ〜」をモチーフにしたベストセラー小説『くちびるに歌を』(小学館刊)が新垣結衣主演で映画化されることが明らかになった。メガホンを取るのは、映画『ソラニン』『陽だまりの彼女』などで知られ、今年も『ホットロード』『アオハライド』と話題作が控える三木孝浩監督。
 ペンネーム・乙一としても活躍する中田永一による同作は、2008年にNHK全国学校音楽コンクール課題曲となった「手紙〜拝啓 15の君へ〜」の作者、アンジェラ・アキが全国の中学生に会いに行き、直接対話する姿を映したテレビドキュメンタリーを基に書き下ろされた作品。2011年に出版されるや、読者や書店員から熱烈な支持を受け、第61回小学館児童出版文化賞を受賞。現在、モリタイシによるコミカライズ版が少年誌『ゲッサン』で連載されている。
 新垣が演じるのは、中学の同級生だった音楽教師・ハルコの代わりとして故郷の長崎県・五島で臨時教師を務めることになる天才ピアニストの主人公・柏木先生。彼女が指導する合唱部員の生徒には、オーディションで選ばれた恒松祐里、下田翔大、葵わかなら若手キャストが集結。そのほか、柏木の親友で彼女を教師として呼び戻す産休間近の教師・ハルコに木村文乃、柏木に思いを寄せる同僚・塚本に桐谷健太、合唱部員サトルの兄にロックバンド・黒猫チェルシーのボーカル・渡辺大知がふんする。
 ピアノの猛練習に励み、撮影に臨むという新垣は、「今まではわたしが生徒として先生や先輩方に見守られる役だったのが、今回初めての先生側ということで、そんな年齢になったんだなぁということを改めて実感しています」としみじみ。「ただ実際は、自分がイメージしていたよりもずっと中身は子供で、どんなに年齢を重ねようがその時その時で困難にぶつかることはあって、そんな心境や状況は柏木ユリやアンジェラ・アキさんの『手紙〜拝啓 15の君へ〜』という曲の歌詞にとてもリンクするなと思います」と自身を重ね合わせているようだ。
 また、アメリカの音楽大学に留学するため、今秋をもって日本での音楽活動を無期限停止することを発表しているアンジェラ・アキは、映画化決定に「大変光栄な気持ちでいっぱいです。6年前、(五島列島の)若松島に降り立った日のことを鮮明に思い出しました。その長崎・五島列島の美しい風景や、そこに暮らす大らかであたたかい人たちの姿が、映画になって心からうれしく思います」と喜びのコメントを寄せている。
 映画『くちびるに歌を』は2015年2月全国公開。

(2014年7月8日6時00分シネマトゥデイ編集部・中山雄一朗)
http://www.cinematoday.jp/page/N0064435

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2014年11月29日

忘年会

 ヤッホー君の昨日の日記で書いた Satish Kumar の三角錐の総まとめのような、しかし一角をうちたてておかずにはすまないような society、お読みいただけましたか?
 この society を日本人はどう理解するのか、というあたり。

 阿部謹也の最大の功績は、まず、日本には「社会」と言う西欧から輸入された言葉はあるが、実体としては存在しない現実を明らかにしたことである。
 「社会」は日本の明治時代の近代化=西欧化の過程の中で1877(明治10)年ごろに、外国語の society を翻訳したものである。
 当時の人が、この society の訳語として「世間」をあてなかったのは、society という独特の西欧の人的関係が、当時の日本には存在しないことがわかったからであろう。
 「社会」という人的関係は、あくまでも人間の尊厳と一体の individuality からできあがっており、個人と言う概念もまた、当時存在しなかったために、1884(明治17)年ごろ訳語として個人をあてたのである。
 つまり日本では、明治時代の近代化の過程で、科学技術や政治制度や法制度の輸入には成功した。
 ところが「社会」という言葉は輸入したものの、その実体としての society の輸入には失敗した。
 言いかえれば、それまで連綿として存在してきた「世間」という人的関係を近代化することには失敗したといえる。

…九州工業大学名誉教授・佐藤直樹『なぜ日本人は世間と寝たがるのか、空気を読む家族』(春秋社、2013)14-15頁

 そうかぁ〜、佐藤直樹先生(注1)は『日本の「世間」の時間意識は、キリスト教にもとづく西欧社会のそれとはまったく異なってる』ことも、阿部謹也『近代化と世間』(注2)を引用しつつ指摘しています。
 日本は円環的時間であり、西欧は直線的時間なんだって、つまり、

 たしかに内田芳明(注3)のいうように(『ヴェーバー 歴史の意味をめぐる闘争』) 、年中行事としての大晦日と元日との間には決定的断絶がある。
 12月には忘年会を開いて、いいことも悪いことも、みんなまとめて集団で一年の歴史を忘却する
 そして12月31日には、除夜の鐘が鳴り、ぜんぶチャラにした上で、1月1日には「謹賀新年」といって新しい年を家族で祝う
 歴史は1年ごとに円環してくり返される。
 それは歴史が継続しないということでもある。
 これは私も、毎年の年中行事のなかで、何気なくくり返してきたことなのだが、いったん気になると、かなり薄気味の悪いことをやっていると思えてくる。

(同書194-195頁)


 ヤッホー君は、山歩クラブの仲間に呼びかけ、すでに10月26日夜は上野で第1回目の忘年会、11月23日夜は人形町で第2回目の忘年会、といずれもタウンウォーキングの帰りなんですが、集団で忘却の宴を開催してきました。
 除夜の鐘が鳴り響く前、あと2、3回は食べ呑み会を開かないと、なんて思っていましたが、なんと日本的な、そうかぁ〜、円環的行事だなぁ〜

 佐藤直樹先生は、だからこそ、とこんなふうにおっしゃるのです:

 2011年の東日本大震災のさいに、今回の地震が、896年に三陸沖でおきた貞観地震の再来であることが指摘された。
 内陸の深部にたっするような巨大な津波が押しよせた貞観地震の存在が震災前からわかっていたにもかかわらず、国も東京電力もこれを無視し、有効な対策もとらなかった。
 その理由を東電は、地震による津波が「想定外」だったからだと説明した。
 もちろん「想定」しなかったこと自体が怠慢にすぎないのだから、「想定外」は言い逃れにすぎない。
 しかしこれは、それだけでは済まない根の深い問題であって「世間」に住む大多数の日本人にとって、約1140年前の歴史的事実など、そもそも「想定外」の事柄ではなかったか。
 つまり「円環的時間」の流れのなかに生活するかぎり、一年をこえて歴史的想像力をはたらかせるのはきわめて難しい。
 その年の歴史は、除夜の鐘の音とともにただちに忘却されるからである。

(同書196-197頁)


 原発を稼働してゆく上で最大の難点である、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の確保の問題である。
 日本ではその候補地すら決まっていない。
 ところが、北欧のフィンランドでは現在、オンカロという最終処分場を岩盤をくり抜いてつくっている最中である。
 完成するのは22世紀で、500mの地下深くに100年分の廃棄物が保管され、以後出入り口が完全に封鎖されて10万年間埋没処理されるという。
 なんと10万年である。
 10万年後に人類が存在しているかどうかすらアヤシイ
のだが、おそらくこうした気の遠くなるような時間意識は「直線的時間」の発想がなければ生まれない。
 日本では、到底生まれない発想なのである。

(同書197頁)


 いや、ですんでね、ヤッホー君、ムカシがあってイマがあるんだよねって、喉元過ぎても熱さ忘れないように、明治元年、大正元年、昭和元年、平成元年は西暦でいうと何年かな、と歴史的年表を見ぃ観ぃ視ぃ、この日記をつけてるんだけどなって、ごにょごにゅごにゃ…



(注1)佐藤直樹先生は1951年宮城県生まれ。

佐藤直樹氏がラジオに生番組に出演して、世間学についてしゃべります。
2015年1月16日(金)午前11時ぐらい〜11時半
MBSラジオ(大阪)「ええなあ」 パーソナリティー:上泉雄一
(日本世間学会、関連ニュース、事務局から)
http://www.sekengaku.org/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=19

(注2)阿部謹也(1935-2006)『近代化と世間』(朝日新聞社、2006。なお、今月11月7日に朝日文庫版が発売):

 ではこの「世間」はどのような人間関係をもつていたのだろうか。
☆ こにはまず贈与・互酬の関係が貴かれていた…『「世間」の中には自分が行なった行為に対して相手から何らかの返礼があることが期待されており、その期待は事実上義務化している』(『近代化と世間』95-96頁)。『贈与・互酬とは…マルセル・モースが提唱した人間関係の概念であるが…その基礎には呪術があったとしている』(『近代化と世間』95-96頁)。
☆ 『次に問題になるのは長幼の序である…年長者に敬意を払うという意味であるが、ときには年長者を馬鹿にする場合もある』(『近代化と世間』97頁)。
☆ 『さらに時間意識の問題がある。「世間」の中には共通の時間意識が流れている。日本人の挨拶に「今後ともよろしくお願いします」という挨拶があるが、これは日本特有のものであって、欧米にはそれに当たる挨拶はない』(『近代化と世間』97-98頁)
 みられるように、世間の原理あるいは原則として、「贈与・互酬」、「呪術」、「長幼の序」、「共通の時間意識」の四点があげられている
 そして、これらの四点を具有する「世間」は、日本独特のものであり、西欧には存在しないという。
 よって、こうした問題を抜きにして、さまざまな問題を考えることは不可能だというわけである。
(宮城学院女子大学経済学・田中史郎『「世間」概念の二重性、―阿部謹也、「世間論」を検討する―』、『世間の学』vol.1日本世間学会2009年12月pdf版所収)
http://www.mgu.ac.jp/~stanaka/articles/sekengainen.pdf

(注3)内田芳明は1923年東京生まれ。『ヴェーバー:歴史の意味をめぐる闘争』(岩波書店、2000、イマ品切れ)


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2014年11月28日

Obituary, MD Nanjundaswamy

 等々力渓谷… ヤッホー君はインド人と歩いたことがあるのです。
 夏だったような、渓谷に入った途端に涼しく、電気を使って冷気を送り込んだわけでもなく、渓谷を覆う樹木と川床を流れる水で冷やされているわけで、このような場所を遠い、暑い国のインドからの客人を案内しながら、ヤッホー君は、われわれ日本人の生活の工夫、智恵、自然との共生を熱く語っていたのを思い出します。
 それは、Satish Kumar(1936年生まれ)さんだったのかな…、いや、そうすると彼はインド人なんだけど、イギリスからの訪問客となるしなあ〜
 彼の学校、スモールスクールにおじゃまし、勉強したことがあって、それで開眼し、イマもヤッホー君をはぐくんでいるたんですぅ。
 英国紙ガーディアンから、彼の三角錐を読んでみましょうか:

We are all part of this healthy web of life maintained by soil. The Latin word humus means soil. The words human, humility and humus all come from the same root. When humans lose contact with soil, they are no longer humans.

Trees, animals, plants, rocks, mountains, rivers, worms, butterflies, honeybees – all have intrinsic value. They have the right to be as they are. We talk about human rights, and that's fine. But nature also has rights. The trees have a right to exist. We have no right to cut them down without proper purpose. When we recognise the rights of nature, then we have understood the meaning of the word soil.

The second word in my new trinity is soul. … If you want power, possessions and clutter, it is because you have lost touch with your soul. Then your soul is hungry or empty. But that emptiness will not be filled by computers, cars or mobile phones. Slow down and take care of your soul. Without spiritual fulfilment there is no happiness. Spiritual poverty is the greatest poverty, greater than any physical poverty. And as we take care of the soil, we take care of the soul. When we take care of both we achieve true wellbeing.

Caring for the soul has nothing to do with individualism or ego. This is why I include the word society in this trinity. We are members of the Earth community and we are also members of the human community.

We need to embrace all of society. We need to solve social problems of poverty and wars with imagination, compassion, creativity and forgiveness. All problems can be solved by negotiation, friendship, giving in, letting go of ego and going into eco. Let us make a shift from from self-interest to mutual-interest of whole human society. If we can have a holistic view of soil, soul and society, if we can understand the interdependence of all living beings, and understand that all living creatures – from trees to worms to humans – depend on each other, then we can live in harmony with ourselves, with other people and with nature.

Satish Kumar is the editor-in-chief of Resurgence & Ecologist. His new book Soil, Soul, Society is published by Leaping Hare Press.

(Satish Kumar: the link between soil, soul and society)
http://www.theguardian.com/sustainable-business/satish-kumar-soil-soul-society

 やっぱりイギリスではなく、インドからのインド人のお客さま、でしたかね。
 ヤッホー君がばりばりの現役のころ、好きな国インドをも徘徊しておりましたし…
 きっと Nanjundaswamy 氏だと思ったのですが、同じく英国紙ガーディアンによりますともう10年前、2004年にお亡くなりになっておりました。
 68歳だったそうな、合掌!

The scholar activist Professor MD Nanjundaswamy, who has died aged 68 of cancer, was India's leading advocate of farmers' rights, and a vociferous critic of the World Trade Organisation (WTO) and multinational companies in developing countries. While he failed to throw even one western firm out of India, he became a key figure in the international debate, and gave peasant farmers around the world a voice on the global stage.

He seldom travelled out of India- in 1999, he was refused entry to Britain to accompany a caravan of 500 protesting Indian farmers - but his scathing criticism of global trade liberalisation policies endeared him to a generation of international activists.

A passionate Gandhian, Nanjundaswamy was among the founders, in 1980, of the Karnataka Rajya Ryota Sangha (KRRS), a farmers' group which opposed the corporatisation of agriculture and the entry of multinational corporations into India. At its height, in the mid-1990s, the KRRS had up to 10m members - one in four of the southern Indian state's farmers - and the professor was frequently able to attract a million people to his famous rallies.

The slight, bespectacled figure, usually seen wearing green to symbolise solidarity with farmers, advocated "direct democratic action" where passive forms of negotiative democracy had failed. Over 10 years - well before Genoa, Seattle and other western anti-globalisation protests - he and his supporters stormed and ransacked the offices of the giant seed company Cargill's, wrecked a KFC outlet, burned Monsanto genetically modified crops and took on Pepsi, McDonald's and Coca-Cola.

(Obituary, MD Nanjundaswamy)
Vociferous Indian campaigner against global trade liberalisation who highlighted the multinationals' threat to third-world farmers
by John Vidal
The Guardian, Friday 6 February 2004 02.35 GMT
http://www.theguardian.com/news/2004/feb/06/guardianobituaries.globalisation

 等々力渓谷までは案内できませんでしたが、イマや超有名人となられた Vandana Shiva さん(1952年生まれ)も国際会議でお会いした大事な、大事なインド人社会からの resource person!
 英国紙ガーディアンから:

Nature is impoverished, biodiversity is eroded and a free, open resource is transformed into a patented commodity. Buying seeds every year is a recipe for debt for India’s poor peasants. And ever since seed monopolies have been established, farmers debt has increased. More than 270,000 farmers caught in a debt trap in India have committed suicide since 1995.

Poverty is also further spread when public systems are privatised. The privatisation of water, electricity, health, and education does generate growth through profits . But it also generates poverty by forcing people to spend large amounts of money on what was available at affordable costs as a common good. When every aspect of life is commercialised and commoditised, living becomes more costly, and people become poorer.…

The dominant model of economic development has in fact become anti-life. When economies are measured only in terms of money flow, the rich get richer and the poor get poorer. And the rich might be rich in monetary terms – but they too are poor in the wider context of what being human means.

Meanwhile, the demands of the current model of the economy are leading to resource wars oil wars, water wars, food wars. There are three levels of violence involved in non-sustainable development. The first is the violence against the earth, which is expressed as the ecological crisis. The second is the violence against people, which is expressed as poverty, destitution and displacement. The third is the violence of war and conflict, as the powerful reach for the resources that lie in other communities and countries for their limitless appetites.


 以上 Satish Kumarさん(注1)、Nanjundaswamy 氏(注2)、Vandana Shiva 女史(注3)、このお三方、過日「国分寺崖線」、等々力渓谷まで足を運んでいたときに、一陣の秋風となってヤッホー君の胸をよぎったんだそうで、追補として載せておきます。 


(注1)
Soil, soul and society
https://www.youtube.com/watch?v=uSLUd0veioU

(注2)
BBC world Reports Anti KFC Movement led by Prof.Nanjundaswamy
https://www.youtube.com/watch?v=OoQbqwITctQ

(注3)
Festival of Dangerous Ideas 2013: Vandana Shiva - Growth = Poverty
https://www.youtube.com/watch?v=7M3WJQbnHKc


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世田谷のみどりの生命線

 ヤッホー君たち山歩クラブの面々、「玉川神社」から「国分寺崖線」へと11月23日、足を進めます: 

 立川崖線と国分寺崖線は、古代多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた、河岸段丘の連なりである。崖線には湧水が多く、市街地の中の親水空間として、また野鳥や小動物の生活空間として貴重な自然地となっている。
 立川崖線はJR青梅線青梅駅付近から調布市と狛江市の市境あたりまで続いている、延長約40qの段丘崖である。下流ではほとんど高さがないが、上流部の立川付近では15m程度の高さとなっている。
 国分寺崖線は立川市砂川9番から始まり、東南に向かって野川に沿って延び、東急線双子玉川駅付近で多摩川の岸辺に近づいて、以後多摩川に沿って大田区の田園調布付近まで続いている。延長は約30qで、上流の立川ではほとんど高さがないが、都立府中病院付近では15mほどに高さを増し、世田谷区の成城学園から下流では20mを超える高さとなる。
 宅地化や農地化が進み、現在では崖線の面積に対して立川崖線は約23%、国分寺崖線は約35%の樹林地が残っている
 指定地域は、多摩川左岸に長区間連続する崖線緑地の一部で、崖斜面とそれに連続した崖上、崖下の平坦地を断続的に指定し、公有化を進めている。

(東京都環境局公式サイト、保存地域の指定状況)
https://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/area/28_gaisen.html

 大田区の場合、こんなことが…、いまはどうなっているのでしょうか…、ヤッホー君は心配で心配で、夜も寝られなかったと言います。

 …しかし、これらに対して、開発業者は
 @ 計画地が国分寺崖線に位置していることから、崖線を守りたい→ 崖線は削る。
 A 崖線に植えられている緑を守りたい→ 樹木は一部を除き伐採する。
 B 地域は、古墳群に位置することから、地域遺産である古墳の調査を行ってほしい→ 古墳は出てくれば調査する。
 C 古墳を活用して作られた防空壕の入口が、計画値の崖線に有ったことを記憶している住民がいることから、防空壕の調査を行ってほしい→ 防空壕も見つかれば調査する。
 D 上記立地から、湧水対策、豪雨対策を十分に行ってほしい→ 地下貯留槽で対応する。
 E 開発に伴う環境の悪化を予め示したうえで、影響があるなら、出来る限り軽減してほしい→ 風害調査についての説明の場を設ける。
と言っています。
 住民の第一の要望は、国分寺崖線を残し、地域の自然環境、文化や歴史を守るところにあります(注1) 。
 しかし、開発業者は、崖線を残すことは考えていません。
 なぜなら、崖線を削ることで、建物の高さ等の設計が変わってくるからです。
 大田区は、こうした住民の要望に対し、土地を取得した開発業者が法令を守っているからなすすべが無いと言います
(2012年08月06日前大田区議会議員・奈須りえブログ【守りたい景観の事例:国分寺崖線と緑】鵜の木で起きている建築紛争と大田区の役割)
http://blog.goo.ne.jp/nasrie/e/a0e45a3189a3ce8e26139e6c5224419b

 世田谷区では…:

 立川市、国分寺市、小金井市等から連なる崖が「国分寺崖線」です。多摩川が10万年以上かけて(注2)、武蔵野台地を削り取ってできたものです。樹林や湧水等の豊かな自然環境が残り、「世田谷のみどりの生命線」とも言われる場所です。世田谷区では、保全整備の取り組みを進めています。
 ♢ 国分寺崖線を守る4つの条例
 ☆ 世田谷区国分寺崖線保全整備条例
 ☆ 斜面地における建築物の制限に関する条例
 ☆ 風景づくり条例
 ☆ みどりの基本条例
 ♢ 2007(平成19)年3月「国分寺崖線発見マップ」発行しました
 世田谷区内の国分寺崖線には、玉川地域の「おもいはせの路」と、砧地域の「きしべの路」の2つの散策ルートが設定されています。
 これらおすすめルートを中心に、世田谷の自慢である崖線の自然や文化遺産をみなさんに知っていただくため、「国分寺崖線発見マップ」を発行いたしました。
 ぜひこのマップを手に、国分寺崖線の魅力を見つけてみてください。
(世田谷区公式サイト、国分寺崖線保全の取り組み)
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/102/126/418/407/d00004905.html

 世田谷区推奨の「2つの散策ルート」、山歩クラブでも歩いて観てこようかな、提案しようっと心底思ったって。
 そして大田区にも足を伸ばして…



(注1)事例「建物名:(仮称)グランスイート鵜の木1丁目 新築工事 ザ・久が原レジデンス」
 地域に住んでいる住民たちでブログを立ち上げて活動していました:

 私たちは「鵜の木の樹木と崖線を守る会」です。「鵜の木の樹木と崖線を守る会」は、「 グランスイート鵜の木1丁目(仮)の建設計画変更を求める 」ことを目的に発足いたしました。「グランスイート鵜の木1丁目(仮)」とは事業主:丸紅、建設:青木あすなろ建設で、大田区の鵜の木1丁目にある国分寺崖線の場所に建設が計画されている、地上7階建て・高さ約18mのマンションです。
 私たちがなぜ、マンションに反対しているかというと、ただ、日照権などの問題ではなく、建てようとている場所が大田の文化遺産であるということが問題なのです。丸紅は、「国分寺崖線」つまり崖をけずって文化遺産を壊しマンションを建築しようとしています
(ザ・久が原レジデンス」周辺住民のブログ、2012/06/24(Sun)
http://unokimamorukai.blog.fc2.com/blog-date-201206.html

 2年間の交渉のあと、はたいて建設計画変更はできたのでしょうか… イマ売り出し中!
(丸紅・東急不動産の新築マンション「ザ・久が原レジデンス」公式ホームページ)
http://www.hillside88.com/

(注2)
10万年、10万年、とつぶやいているヤッホー君、ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの「日記」を再読してみてください:
 ☆ 2011年4月28日付け日記「オンカロ」
 ☆ 2011年8月23日付け日記「千畳敷カール」
 ☆ 2013年10月6日付け日記「北海道駒ヶ岳1131m」


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2014年11月27日

丹波川→多摩川→玉川→六郷川

 11月27日木曜日。ひさびさに日差しが戻ってきて部屋も温もり、嬉しい朝。
 まだ、「勤労感謝の日」の山歩クラブお散歩会のことを考えているヤッホー君。
 そう、そんなこんなで「玉川神社」(世田谷区等々力3-27-7 Tel 3701-1617)に着きました。
 ヤッホー君、えっどうなってるの?と急に座り込んでしまいました。
 先月の10月、山歩クラブお散歩会は玉川上水で、その日も「玉川神社」でお参りして(ヤッホー君のこのブログ10月27日付け日記参照)、今回も、ですか?
 そして今回の終点が東急「二子玉川駅」(俗にニコタマ)で、そばに流れている川は多摩川っていうでしょ、こりゃ、なんだろうね、とちょっと混乱気味なんですぅ〜

 羽村市の「諏訪神社は、1882(明治15)年3月、根岸地区の日枝(ひえ)神社を合祀して、 玉川神社と改称した」(公式サイト「由緒」)のに対し、こちら世田谷区の「玉川神社」は、「元熊野神社と申し上げて居りましたが、1907(明治40)年に村内に奉祀されておる、神明社、御嶽社、諏訪社の三社を合祀し、同時に地名を採り玉川神社と御改称致しました」(公式サイト「由緒」)。
 明治になってからの改称ですか、そうすると、どっちがどうのってことはない、のかなと。

 では、多摩川と玉川だねって。
 いや、そうじゃなくって、「多摩川」の発音と呼称が地理的(上流か下流か)にも歴史的(ムカシとイマ)で変貌するという特性を持っていたのじゃあ〜、へぇ〜

 ムカシ、山歩クラブでは2005年11月5日土曜日、おむすびのような笠取山(1953m)を歩いたことがあります。
 それより前2004年梅雨入り直前の6月初め、大弛峠〜(大弛小屋泊)〜国師ヶ岳〜両門ノ頭〜甲武信ヶ岳〜(甲武信小屋伯)〜木賊山〜西破風山〜東破風山〜雁坂嶺〜雁坂峠〜(雁坂小屋泊)〜西沢渓谷の3泊4日(6月4日〜6月7日)の縦走をしたことがありまして、その雁坂峠を一望できる、というわけで登ったわけですが、もちろん甲武信ヶ岳で信濃川・富士川・荒川の起点に触れたわけですので、笠取山、水神社・水干(1830m)で、多摩川源頭の一滴に触れる、というのも目的でした。

 それが多摩川の源流(注):

 この水源は明白になったのは、意外に新しく1880(明治13)年のことである。
 そして山梨県を越えて都内に入ると小河内村で、東京都民の上水道としての小河内貯水池に入る。
 小河内ダムから青梅付近までは「奥多摩」と俗称される峡谷をなし、両岸には数段細長い河岸段丘が見られ、狭長な耕地や青梅街道(俗に甲州裏街道)がそこにあって、小集落が線状に点在している。
 多摩川は谷口集落である青梅市のところから山地を離れ、武蔵野台地と多摩丘陵との間をほぼ東南東に流れ、調布市から下流は東京都と神奈川県の境界をなしつつ東京湾に注いでいる。
 河口の六郷川付近は、東京湾にかなり突出した「羽田洲」と呼ばれる三角州をなし、埋立工事と相俟って羽田国際空港や川崎工業地帯を形成している。

(慶應義塾大学名誉教授・西岡秀雄(1913-2011)「多摩川と旧東海道、特に名称と架橋に関して」三田史学会『史学』Vol.36, No.2/3(1963.9),p.77(189)-96(208)所収)

 先生は、ヤッホー君の疑問に答える形で次の二点を指摘してくださっておりました。

☆ 文字が多麻、多麿、多摩あるいは玉などなんであろうと「タマ」と発音したことは事実と思われるが、この「タマ」系の発音に対して他方に「タバ」と濁音の入る発音のあったことも既に判っており、しかも「タバ」川と言う方が「タマ」川より正しいとなす論者も江戸時代にいた。
(同論文81(193)頁)

☆ 『江戸名所図絵』では多摩川と玉川が両者が用いられている。
(同論文84(196)頁)

☆ 現在の多摩川において、地理的にその本流の名称を概観すると、
 丹波川→多摩川→玉川→六郷川となっている。

(同論文94(206)頁)


 そうですか…、その「玉川」は世田谷区の地名にどう残っているのでしょうか?

 「瀬田」は「瀬戸」がなまったもので、「瀬戸」とは狭小な海峡という字義であった。しかし、海のあるなしにかかわらず、狭い出入口をいうようになり、狭い谷地も「瀬戸」というようになった。「瀬田」「瀬戸」という地名は、狭い海峡のみでなく内陸部の山間や丘陵地等の谷地に多く見られる。多摩川沿岸から台地中の谷の多い相当広い区域を含めて古くは「セト」と呼んでいたものがいつしかなまって「セタ」となったようである。
 1889(明治22)年、それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、瀬田村は大字瀬田となった。
 1912(明治45)年、府県境界の変更があり、多摩川右岸にあった区域は神奈川県となった。
 1932(昭和7)年、世田谷区成立時に、玉川村大字瀬田の区域は、丸子川以北が玉川瀬田町となった。また、丸子川以南と大字諏訪河原字向河原をもって玉川町を新設した。
 その後、1968(昭和43)年〜1971(昭和46)年の住居表示の実施に伴う町区域の変更で、玉川瀬田町は瀬田1〜5丁目、玉川町は玉川1〜4丁目に区画された(約4割は玉川瀬田町から玉川台1・2丁目に)。

(世田谷区公式サイト、玉川総合支所、地名の由来(瀬田・玉川・用賀・上用賀・玉川台)より)
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/107/157/701/703/707/d00017067.html



(注)多摩川の河口近くの渡しを描いた浮世絵師に歌川広重(1797-1858)がおります。1603年に成立した徳川幕府は、自衛権行使の観点から架橋に積極的ではありませんでした。大川(隅田川)に最初に架けられた橋は両国橋で、1660(万治三)年のことですし、1600(慶長五)年、徳川家康が六郷大橋を架けたと言われておりますがが、1688(元禄元)年洪水で流されたあとは、船渡しとなっているのです(*):

《東海道五拾三次之内 3 川崎<六郷渡舟>》
天保4-5年(1833-1834)木版多色刷、22.6×34.4cm

東海道五十三次の最初の大きな川が、この図に描かれた玉川である。対岸に見えるのが川崎宿。玉川は多摩川や六郷川とも呼ばれていた。もともとは大きな橋が架けられていたが、たびたびの洪水で流されたため、この図のように舟で渡河するようになった。画中右端には雪化粧した富士の姿がひときわ美しい。この版図にも保永堂の単独出版の異版がある。人物の描写が少し変化している。
(文化遺産オンライン)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=241873

(*)
1868(明治元)年10月12日に明治天皇の御鳳賛が多摩川を渡られた場合、川中に36艘もの舟を横に並べ、船上に板を敷いて御東行されたほどである。
(前掲西岡論文95(207)頁)

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2014年11月26日

原子炉は、あなたのすぐ隣にある

 「浄真寺(九品仏)」を後にした山歩クラブのご一行様、寺沿いのクロマツの並木道(世田谷区地域風景資産)から、裏手にある「ねこじゃらし公園」で一休み、目黒通りに出て「玉川神社」目指し歩いていた時、「都市大等々力キャンパス東」というバス停を目にします。
 これは首都大学に名前が変わったムカシの都立大だよ、なんてわけのわからない言葉が口にでますが、この近くに「東京都市大学等々力キャンパス」があります。

 この東京都市大学には「工学部」があって、原子力安全工学科で学生たちが学んでいます!

 ♢ “持続可能な利用”見据え
 国の新しいエネルギー基本計画で、原子力発電は「安全性の確保を大前提に、エネルギー需給構造の安定性に寄与する重要なベースロード電源」と位置付けられた。将来にわたり、原子力技術を発展させるためには、研究開発が鍵を握る。東京都市大学工学部原子力安全工学科は「持続可能な原子力利用の次世代の英知を創造する」ことを理念に掲げている。この理念に基づき、次世代炉の研究や東京電力福島第一原子力発電所の溶融燃料(デブリ)取り出しに貢献する研究などに取り組む高木直行教授の研究室を訪ねた…
 現在考えられている高速炉サイクルは、再処理によって燃料と核分裂生成物(FP)を化学的に分離するという概念。これに対し、CANDLE炉では燃料領域が自律的に移動することで空間的・物理的に燃料とFPを引き離すというもの。高木教授は「濃縮・再処理といったサイクルの負担を軽減しながら、資源を最大限活用できる」とメリットを強調する。現在、日本では東京都市大がCANDLE炉研究をリードしている。あのビル・ゲイツ氏が注目し、私財を投じて研究をバックアップしているのも同型の原子炉だ。
 ○デブリ回収
 原子力技術の発展に結びつく革新的原子炉の設計を推進する一方、高木研究室では現在差し迫った問題として、炉心溶融事故を起こした福島第一原子力発電所を支援するための研究にも力を注いでいる。デブリ回収に関連した研究がその一つで、再臨界させずに安全に配慮した取り出し方法の実現に向けて、日立GEニュークリア・エナジー、日立化成と共同研究を実施している…

(2014/07/15付け電氣新聞「東京都市大学工学部原子力安全工学科」)
http://www.shimbun.denki.or.jp/news/special/manabiya_20140715.html

 東京都市大学はムカシの武蔵工大以来、この道では伝統があり、研究用の原子炉までつくってもっていました。この研究炉はイマ:

1. 武蔵工大炉の概要
 旧武蔵工業大学の原子力研究所は、多摩丘陵の一角の高台、東急田園都市線と小田急小田原線に挟まれた川崎市麻生区王禅寺地籍にある。建設当時、周辺は山林や田畑の過疎地であったが、徐々に都市化が進んで住宅が建設され、敷地の東、西、北の三方、約100mが、今なお山林に残されている…
2. 武蔵工大炉のあゆみ
2.1 武蔵工大炉の誕生
 当時の学校法人五島育英会理事長五島慶太の提唱により原子力研究所の設立が計画され、「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」(通称「原子炉等規制法」)に基づき、1959年6月、五島育英会理事長五島昇から岸信介内閣総理大臣あてに原子炉設置許可申請書が提出された。10月7日に設置の許可が下り、翌1960年4月、武蔵工業大学原子力研究所が正式に開所され、五島育英会総長八木秀次が初代所長に就任した。12月から原子炉施設の基礎工事、1961年3月から原子炉建屋の枠組工事が始まり、1962年4月にはRI実験室が完成して使用を開始した。1963年1月になって原子炉の据付が完了し、29日に科学技術庁(現文部科学省)の最終審査を受け、翌30日、原子炉は初臨界に成功し武蔵工大炉(MITRR)の誕生となった…
2.3 原子炉の停止
 1989年12月21日、原子炉停止後に照射室内の熱中性子取り出し口の台上に水溜まりが発見された。原子炉タンク水の漏洩が明確になり、1990年1月4日、この事態が国及び川崎市に報告され、テレビや新聞の報道を見た近隣住民が説明を求めて研究所に集まった。このとき以来、原子炉の再開か廃止かが議論されてきた…
2.4 原子炉の廃止
 2000年3月、原子力研究所運営委員会(委員長堀川清司学長)の下に小委員会を設置し、財政的インパクト、原子炉の利用の見通し、原子炉受容(PA対策)と社会情勢、使用済燃料の処分方法等について検討が進められた。2002年10月、検討結果が原子力研究所運営委員会に報告され、2003年5月20日、五島育英会理事会において原子炉の廃止が決定された…
3. 武蔵工大炉の廃止措置計画
3.3 進捗状況と今後の予定
(2) 燃料処分
 燃料輸送に用いる輸送容器の「核燃料輸送物設計承認書」の交付を受けて「容器承認」を申請し、容器製作の完成後に米国エネルギー省の「海外試験研究炉燃料の引き取り政策」に基づき、2006年度に使用済燃料を全て米国エネルギー省に引き渡した
(4) 放射性廃棄物の処分
 放射性廃棄物の処分については、将来、外部処分場への搬入が可能になった時点で、放射性廃棄物の事業所外への搬出を行う計画になっている。
 ※ 2009年4月に学部を再編して大学名称を東京都市大学に改称し、総合大学に移行した。

(2013年08月更新、一般財団法人「高度情報科学技術研究機構RIST」武蔵工大炉のあゆみと廃止措置計画)
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=05-02-04-14

 いやぁ〜、そんなことも知りませんでしたねぇ〜、イマまで何考えていたんだろう…

 じつは原子炉は、東京や大阪のド真ん中にもある。
 東大阪、羽田空港の向かいの埋め立て地、関空の内陸部、三浦半島相模湾側の武山駐屯地の隣、そして、新百合ヶ丘とたまプラーザの間。
 これらは「研究用原子炉」と呼ばれるもので、電力会社の原子力発電所のように、わざわざ大仰に安全性を世間に宣伝したりしないから目立たないが、なにかあれば、あまりに人口密集地に近く、まずいのはまずい。
 また、廃炉した、解体した、といっても、実際は、汚染した解体廃棄物が、そこにそのままごっそり置かれていたりする

 新百合ヶ丘とたまプラーザの間、美しが丘とすすき野に隣接する川崎市麻生区王禅寺971と1022の山の上に、武蔵工業大学(現東京都市大学)のMITRR、100kWと、日立のHTR、100kWが並んでいる。
 武蔵工大は、1989年年末に漏水事故を起こし、以後、運転できず、2003年にようやく廃炉決定。中身は空ながら、汚染した建物の解体はまだ先のこと。
 隣の日立も、2006年に廃炉を決め、主要施設は解体を終え、さらに将来的には更地に戻す、というものの、現状は解体廃棄物のドラム缶を抱え込んでいる。

(2011年4月3日 12:55 INSIGHT NOW、大阪芸術大学教授・純丘曜彰「原子炉は、あなたのすぐ隣にある!」)
http://www.insightnow.jp/article/6444/2

 純丘曜彰はご自身のサイトを立ち上げていらっしゃいますが、こんな《思想信条》を述べられています。
 今日も冷たい雨が降り止まず、寒い11月最終週ですが、これをかみしめながら11月26日水曜日の日記といたします:

□ 勝手・執着・偏屈
 責任をもってものごとに取り組むには、まずは自主性こそが第一。
 多きに流されるだけの人材なら、ほかにも適任者(?)はいくらでもいることでしょう。
 このひねくれた、生まれもっての希有な天賦の才(?)を生かして、自分のできること、すべきことを、せいいっぱいがんばっていきたいと思っています。

http://www.hi-ho.ne.jp/sumioka-info/index.html



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2014年11月25日

浄真寺九品仏

 11月25日火曜日、冷たい雨がしとしと降り続いています。
 なおさらのこと、あの小春日和の「勤労感謝の日」、山歩クラブのウオーキングが思い出されてきます。
 まずは浄真寺(九品仏)周辺ですが、動画で観るのはどうかな:

 世田谷区奥沢7丁目41番の浄真寺周辺は区指定史跡。
 「奥沢城跡」は、中世世田谷を治めていた吉良氏または同氏の家臣である大平氏の居館であったと伝えられています。1590(天正18)年、小田原北条氏が滅び、吉良氏は下総国に逃れ、大平氏もまた等々力に潜居しました。その後、奥沢城は廃城になったと考えられます。
 その後、1678(延宝6)年に浄真寺が建立され、周囲を四角く囲む土塁はよく原形をとどめています。
 また、周辺で行われた発掘調査で、空堀が見つかっています。

 浄真寺(九品仏)には、都の文化財に指定された9躰の阿弥陀如来像があり、そこから「九品仏」の名で親しまれ、3年に1度、8月に「来迎会(お面かぶり)」が行なわれます。仁王門を入った右手の鷺草園では、8月上旬に一面の白い可憐な花が咲きます。

(世田谷区公式サイト)
http://www.city.setagaya.lg.jp/index.html

 紅葉と黄葉の九品仏〜東京世田谷 浄真寺(九品仏)〜:
https://www.youtube.com/watch?v=YhS-n8jnv-k

 浄真寺(九品仏)お面かぶり2014:
https://www.youtube.com/watch?v=EYYg_95VW6s

 浄真寺(九品仏)の秋景色2014、Japanese typical autumn scenery:
https://www.youtube.com/watch?v=dfotsYK-9Ek

 浄真寺(九品仏)に東急の創業者、五島慶太氏(1882-1959)が眠っていました。
 五島慶太氏とは:

1. 青年期の五島慶太
(1)官僚からのスタート
 …家庭教師と奨学金によって賄われた慶太の大学生活は、決して経済的に余裕のあるものではなかったが、1911(明治44)年、東京帝国大学を卒業、高等文官試験に合格し、農商務省へ入省する。すでに、29歳となっていた。同期生には、重光葵(外相)、芦田均(首相)、石坂泰三(経団連会長)、正力松太郎(読売新聞社長)、河上弘一(日本興業銀行総裁)などがいた…
(2)鉄道事業との出会い
 …1913(大正2)年、入省からわずか1年余りで鉄道院(後・鉄道省)へと移籍することとなる。そして、鉄道院監督局総務課の副参事として高等官となる。その5年後には、総務課長へと昇進しているが、年齢から考えるとその昇進は決して早いものではなく、入省年次で昇進が決まる官僚組織においては慶太の入省年次の遅れ、すなわち大学卒業の遅れが大きなハンディとなっていた。
 慶太は鉄道院監督局総務課長として、1919(大正8)年の地方鉄道法の施行に携わる。地方鉄道法は、鉄道国有法(1906(明治39)年施行)によって国有鉄道の充実を図る一方で、残った民営事業会社については政府の権限を弱めてその自主性を尊重するよう定められたもので、そこでは大都市周辺の鉄道網を国策から除外するとしていた。このとき、自らの官僚としての限界を感じとる一方で、慶太の先見性は大都市圏を中心とした私鉄経営に高い収益性と明るい未来を見出していたのだった…
2.「鉄道王」への道のり
(1)武蔵電気鉄道と荏原電気鉄道
 武蔵電気鉄道の常務取締役に就任するにあたり、五島慶太は5万円を投じて同社株を購入している。ただ単に転職をするということではなく、経営を担うという決意の表明であった…

(太田雅彦「都市型サービス産業としての鉄道業―五島慶太と堤康次郎―」、法政大学イノベーション・マネージメント研究センター「日本の企業家活動シリーズ No.53、2012年8月6日」所収)
http://www.hosei.ac.jp/fujimi/riim/img/img_res/WPNo.131_Ota.pdf

 そうだったんですね、イマや鉄道だけではありません、なんでも、かんでも…

 学校法人五島育英会の初代理事長である五島慶太先生は、1882(明治15)年4月18日長野県小県郡に農家の二男として生まれました。東京帝国大学卒業後、官僚として鉄道業界の発展に力を注ぎます。その後、実業家としての道を進み、東急グループの創業者として、多摩田園都市エリアや渋谷の再開発などまちづくりに辣腕をふるいました。また、戦時統制下、民間出身ながら運輸通信大臣を務めるほどに政治的力量も高く評価されました(*)。
 一方で、国の繁栄と産業発展のためには、人材の育成が何より重要と、教育事業の推進に意欲を燃やします。東京都市大学の前身である武蔵高等工科学校を創立し、武蔵工業大学に発展させた西村有作氏の懇願により学校経営を引き受け、当時、五島先生が学校運営に携わっていた東横学園と統合することによって1955(昭和30)年に学校法人五島育英会が設立しました。
 その五島先生の悲願が、大学を頂点とする総合学園化でした。
 都市大グループが2009年に誕生してから4年目となる2012年は、五島先生の生誕130年にあたります。
 同年4月、グループを代表して理事長、総長をはじめ各学校長などの関係者は、五島先生が眠る九品仏浄真寺(東京都世田谷区)を墓参、さらなる発展を誓いました。
 五島先生の遺志を受け継いで、これからも都市大グループは、休むことなく、進化、成長し続けます

(創設者五島慶太先生〜生誕130年を迎えて〜)
http://www.goto-ikuei.ac.jp/10hojin/founder.html

 東京都市大学グループの祖である五島慶太翁生誕130年の記念誌『熱誠』をこのほど、学校法人五島育英会(安達功理事長)が刊行した。
 巻頭に「体力があって熱と誠があれば、必ず成功する」という慶太翁のメッセージを掲げている。第1部教育事業、第2部五島慶太伝、資料編の構成で、A4判435ページ。
 東急コンツェルン総帥として戦前、戦後と辣腕(らつわん)を発揮した慶太翁は、「事業は人なり」との哲学の下、東横商業女学校(東横学園の前身)と武蔵工業大学(東京都市大学の前身)を統合して学校法人五島育英会を設立。
 第1部では、大学から幼稚園まで8校約1万2千人の学生生徒らが学ぶ、東京都市大学グループの発展を詳述している。
 第2部では、東急コンツェルンを一代で築いた慶太翁の人となりをエピソードを交えて紹介している。

(2013.11.19 13:15:21 カナロコ神奈川新聞)
http://www.kanaloco.jp/article/64505/cms_id/64296


(*)五島慶太氏が東條内閣で運輸通信大臣を務めたのは、1944年2月19日-1944年7月22日まで。
 敗北への下り坂を転げるように多数のむごたらしい使者を伴いながら転げ落ちていく大日本帝国。
 ちょうど70年前の1944年11月25日は、重巡・熊野がフィリピンの近くで空爆、魚雷を浴び横倒しになって撃沈しますが、本土でも。それは、これ:

 第二次大戦中の武蔵野空襲を題材とした絶版絵本「麦畑になれなかった屋根たち」が、空襲から70年となる11月24日に復刊された。作者の児童文学作家藤田のぼるさん(64)は、東京都武蔵野市でこの日開かれた講演会で「時代に流されるな、本質を見つめようというメッセージを込めた」と話した。
 武蔵野空襲は1944年11月24日に始まり、翌年1945年8月までに計9回爆撃があった。標的となった戦闘機エンジン工場だけで200人以上が亡くなり、誤爆によって多くの周辺住民も犠牲になった。
 絵本は、エンジン工場で働く十代の少年工「耕一さん」の視点から描かれている。11月24日の恐ろしい空襲の後、工場に東京中のペンキ職人が集められ、白く反射する屋根を周りの麦畑と同じ緑と茶に塗り上げた。耕一さんはそれを見て安心するが、空襲は続き、工場は壊滅。耕一さんは、廃虚となった工場を見つめ、物思いにふける。
 ストーリーは実話に基づく。藤田さんは「悲劇のような喜劇のような、妙な話。1500人ものペンキ職人をすぐに動員できる体制の恐ろしさと、やったことのナンセンスさ。戦争を象徴する話だ」と直感。絵本の制作を思い立った。
 藤田さんが文、漫画家の故・永島慎二さんが絵を担当したこの絵本は、戦後50年の1995年に出版されたが、十数年前から絶版となっていた。教員などから復刊への根強い要望もあり、当初の出版社とは異なる児童文学専門の出版社「てらいんく」(川崎市)が発行することになった。
 11月24日は武蔵野市の「平和の日」となっており、藤田さんの講演会は平和の日イベントの一つとして企画された。
 藤田さんは「あらためて手に取って、この絵本は古くなっていないと感じた。3.11で起きたあれこれや集団的自衛権をめぐる動きを見ると、題材にした体制の力は今も形を変えて残っている」と話した。
 焼夷(しょうい)弾を初めて本格的に使ったのは旧日本軍で、対米戦争前に中国・重慶を3年にわたって爆撃したことなども盛り込んだ。「私たちは本土が爆撃を受ける前、海外が戦場だったときのことももっと知らなければいけない」との考えからだという。
 講演で、もう一つ温めている題材があることを明らかにした。終戦前日の秋田市の土崎(つちざき)空襲だ。ポツダム宣言受諾がすでに決まっていながら多数の死傷者が出た不条理を、描きたいと思っているという。「絵本や児童文学で、戦争の本質を伝えていきたい」
 「麦畑になれなかった屋根たち」は、40ページ1400円。書店に並ぶのは12月頭ごろという。問い合わせはてらいんく=電044(953)1828=へ。
(2014年11月25日 東京新聞夕刊・林朋実「戦争の狂気 直視して 武蔵野空襲70年で絵本復刊」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014112502000247.html




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2014年11月24日

国分寺崖線

 今日が連休最後の日と言う方もおられることと思いますが、昨日「勤労感謝の日」の山歩クラブお散歩会の報告です。
 小春日和のお天気に恵まれ、まずは「九品仏」へ。
 天高く黄色い色の映える大イチョウに感激(写真)、そして上品、中品、下品の意味と、数字の九の意味に一同納得しました。

九品仏.jpg

 足は「玉川神社」へ。
 七五三や初宮参りでばあちゃんは着飾り、じいちゃんはビデオ撮りに大忙し。
 山歩クラブは写真撮りに大忙し。

玉川神社.jpg

 それから「野毛大塚古墳」へ。

野毛大塚古墳.jpg

 お昼をとった「等々力渓谷」、それに園内を一周した「上野毛自然公園」や「五島美術館」(写真)庭園は、「国分寺崖線」の一部でハケ(にごりません!)である、と地理のお勉強。

五島美術館.jpg

 最近のタウンウオーキングでは、恒例になってきている「おまけ」付き。
 「世田谷区立二子玉川公園」まで足を伸ばしたのです。
 すすき野の土手、渡り鳥が羽を休める土手の松の木、それになによりも、ひろびろとした河川敷でのびのびと心をくつろがせてきました。

 まだ終わりません。
 人形町には久々のお仲間、カッシー、それに若松さんが待機してくれているのです。
 そこでは本場もんの中華料理に舌鼓をうち(ヤッホー君は砂糖入り紹興酒に酔いしれ)、「嫌な年だった人はこれを忘れ、良い年だった人は感謝する会」!
 いやぁ〜、まことに愉快な「江戸さんと歩いて観る会」でございました。



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長野北部地震

 『11月22日の日付けは、あと10日もすれば太陽暦に切り替わり、12月3日が明治6年1月1日になると新政府は発表している。そんな時点での文書で、ここはまだ旧暦で、11月はいちばんさむい時季である。
 明治5年は西暦で1872年。
 それから140年以上も経っていますが、貧民は…』

とヤッホー君がこのブログに書き綴ったのは、11月22日付け日記「私は、生きていたい!」でした。

 太陽暦の1873(明治6)年の11月の2回目の卯の日が11月23日、この日新政府は五穀豊穣を祝う「祝祭日(休日)」、「新嘗(にいなめ)祭」としてとして発表しています。そして…

 2014年11月21日、宮内庁は天皇陛下がその年の収穫を神々に感謝する毎年11月23日の宮中祭祀(さいし)「新嘗祭(にいなめさい)」で、気温が低下する深夜に始まる「暁(あかつき)の儀」への陛下のお出ましを今年から取りやめられると発表した。
 昨年で80歳になられた年齢に応じたご負担軽減の一環といい、宮内庁幹部は「大事な儀式だが、陛下のご健康には代えられない」としている。昭和天皇は69歳の年から暁の儀へのお出ましを取りやめていた。
 新嘗祭は11月23日夜から24日未明に皇居・神嘉殿(しんかでん)にその年に収穫された穀物を供える儀式で、宮中祭祀でも最重要とされる。午後6時からの「夕(よい)の儀」と同11時からの暁の儀が、同様の次第で2時間ずつ行なわれる。

(11月21日金曜日20時54分配信 産経新聞「陛下、新嘗祭ご負担軽減《暁の儀》お出ましせず」)

 昨日、小春日和のなかの11月23日「勤労感謝の日」は、ヤッホー君たち山歩クラブの都会の紅葉を愛でるお散歩会でした。
 この様子については後ほど、このブログにアップするとしまして、とりあえず追記しておきます:

 前日11月22日夜10時過ぎ、ヤッホー君の愛用ラジオが10時からのニュースを中断して緊急地震速報のあの音が、そしてその後、ガタガタちょっとだけ揺れました。

 長野県北部で最大震度6弱を記録した11月22日夜の地震による負傷者は、長野市や白馬村など県内で計41人に上り、うち7人が重傷だったことが11月23日、県警のまとめで分かった。住宅54棟が全半壊したほか土砂崩れもあり、県は白馬村のほか小谷村、小川村に災害救助法を適用。余震も続いており、気象庁は警戒を呼び掛けた。
(2014年11月23日22時05分東京新聞「長野北部地震、負傷者41人に、54棟が全半壊、余震続く」)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014112301001023.html

 「ドーン」。11月22日午後10時8分、地震発生時、堀之内地区の自宅で寝ていた無職、吉沢諄俊(あつとし)さん(80)は、下から突き上げるような揺れで目が覚めた。その直後に屋根が崩落。両足から腹部を挟まれ、身動きが取れなくなった。辺りは停電で真っ暗。「助けてくれ」と叫び続けるしかなかった。
 吉沢さんの妻は屋根を少し持ち上げて自力ではい出したが、耳と目が不自由な吉沢さんはまだ動けずにいた。吉沢さんの親類が心配そうに見守る中、住民男性3、4人で屋根を持ち上げようとしたがびくともせず、近くにある建設会社のフォークリフトを使って屋根を持ち上げ、なんとか救出できた…

(2014年11月23日23時37分最終更新、毎日新聞「長野北部地震:屋根持ち上げ80歳救出 白馬の住民団結」)
http://mainichi.jp/select/news/20141124k0000m040085000c.html

 久々に聞いた緊急地震速報の音、そして一夜明けた11月23日、ヤッホー君は日記「赤城山の見える場所に眠りたい」をつけてからお出かけしたわけですが、故高木仁三郎について追記しておきたいんだそうです。
 それは、以下のヤッホー君のブログをご参照ください、とのこと:

☆ 2010年12月10日付け日記「もうひとつのノーベル賞」
☆ 2011年3月13日付け日記「原子力資料情報室」
☆ 2011年4月20日付け日記「原子力ムラ」

 そして、上野千鶴子さんについて申し上げれば、ヤッホー君またまた鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの、鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004)を読んでいるのですが、必読の書です。
 そして鶴見俊輔氏について、以下のヤッホー君のブログをご参照ください:

☆ 2013年3月29日付け日記「プリンシプル」
☆ 2013年4月8日付け日記「1967年10月31日」
☆ 2013年9月27日付け日記「横浜市大エクステンション講座」
☆ 2014年10月30日「知性と緑あふれる街」


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2014年11月23日

赤城山の見える場所に眠りたい

 ヤッホー君の昨日の「小雪」の日記に、こんなことが:
《2011年7月の「東京大学退職記念特別講演 生き延びるための思想」で、「これまで男が死ぬための思想ばかりをつくってきたことが問題だった。生き延びるためにこそ言葉や思想が必要だ」という趣旨の発言をされています》

 加えて、わたしの人生にとってひとつの節目となった東京大学を退職するにあたっての最終講義に代わる公開講演録を収録した。折しも2011年3月15日に予定されていた大学主催の最終講義は、「3.11」の大震災で中止され、それに代わる講演会を学生・卒業生が7月に開催してくれたものである。
 3.11前にすでに予告されていた最終講義のテーマを、わたしは本書と同名の「生き延びるための思想」に変更した。その変更には、「3.11」の衝撃が影響している。その理由は本書のなかに述べられている。わたしは何のためにフェミニズムを、ジェンダー研究を続けてきたのか?…「3.11」はわたしにそれを問い直す大きなきっかけを与えた。
 3.11は圧倒的な災厄だった。そのなかでももともと弱者だった者たちが、さらに災害弱者となった。女、高齢者、障害者、子ども、外国人…である。無力な者に強者になれと要求することはできない。無力な者が無力なまま、それでも生き延びていけるためにはどうすればよいのか? それがわたしの問いのはずだった。男なみになりたいとも、男のような権力がほしいとも、男と同じように原子力ムラに参入したいとも…つまり「男に似たい」とはすこしも思わないのがフェミニズムのはずだった。なぜなら「男に似る」とは、支配者、差別者、抑圧者になることと同じだから。「男に似る」ところに、「女の解放」がないことは自明だから…

(2012年10月18日、ちづこのブログNo.35『生き延びるための思想』)
http://wan.or.jp/ueno/?p=2136

 この年、2012年のはじめ、1月14、15日、パシフィコ横浜で「脱原発世界会議 2012 YOKOHAMA」が開かれています。上野千鶴子はここでも次のようにスピーチし、参加者に大きな共感を与えました:

 この会議、脱原発世界会議って言うんですよね。「脱原発」って、気持ち悪い言葉です。日本には昔から「反原発」「非核」という言葉があったのに、何時から使わなくなっちゃったんでしょうね。
ー拍手ー

 あの、でもね、仕方ないんです。「脱」って言うのは、そこを経過した、通りすぎたっていう意味なんですね。で、私たちはまだ通り過ぎてさえいない。日本は汚れてしまいました。日本はこれまで、5回の被爆体験があります。広島、長崎、第五福竜丸、JCO事故、そして福島。で、そのうち3回までは被害者でした。最後の一回は汚染の加害者になってしまいました。もう、だれも責めることはできません。私たちが地球と命を汚しました。私たちは汚れました。もう、沢山だ。もうこんなことやめましょう。
 この会場でもう一つ違和感があった言葉があります。会議の中で、ニッポン、日本、この国、この国って言う言葉が連発された事です。この会議は「脱原発世界会議」であって、「脱原発日本会議」ではありません。
 その理由は二つあります。
 第一は日本1国で脱原発をしても、朝鮮半島や中国が沿岸部に原発造れば、そしてそれが万が一事故を起こせば、汚染は日本にも及びます。汚染は国境がありません。チェルノブイリの事故でヨーロッパが一つになったっていうのは、汚染に国境がなかったからです。
 第二に、原子力の平和利用と軍事利用は裏表であることを、私たちはとことん学びました。日本一国が非核三原則というのは、核兵器を作らない、持たない、持ちこませない、なんですが、それを日本だけが思っていても、他の国が核兵器を持っていたら元も子もありません。ましてや、他の国の核の傘のもとにあるなんて論外です。
ー拍手ー

 ありがとう。東西冷戦が終わって、アメリカのオバマ大統領はノーベル平和賞を貰ったんですから、核兵器が非人道兵器だっていう事を認めて下さい。広島に来て謝罪して下さい。
ー拍手ー

 やっぱ、ここで拍手欲しいよね。
ー客席から笑いー

 脱原発も、脱核兵器も一国だけではできません。だからこそ、国際連帯が必要なんです。だからこそ、私たちは国境を越えてここに集ったんです。で、この2日間、私はいくつかのセッションに出て、感じた成果をお伝え申し上げましょう。三つあります。
 その1 大丈夫。私たちは原発が無くてもやっていける
ー拍手ー

 その2 大丈夫。原発に代わる代替エネルギーや再生可能エネルギーは、確実に手に入る
ー拍手ー
 3つ目 大丈夫かどうかちょっと分からないのは、私たちがそれを決めるのかどうかです
 わたし、この会議を計画して、実現にこぎつけた実行委員会のみなさん方のことを考えました。その方たちに本当に心から感謝したいと思うんですが、この会議の計画を聞いた時に、無謀だって思いました。
 準備期間があまりに少ない。それからパシフィコ横浜っていう、こんなに使用料の高いこんな大会場を確保して、満杯に出来なかったら世界に恥かくじゃないですか。あまりに無謀だから協力しないわけにいきませんでした。
ー会場爆笑&拍手ー

 で、その結果が… これです。私ここに来るまでハラハラドキドキしていました。でも、満杯に埋まりました。
ー拍手ー
 埋めたのは私たちです。私たち自身に拍手をおくりましょう。
ー会場(。・∀・ ハ)'`゚チ'`゚チ゚拍手ー
 この会議をちゃんと報道しないメディアは許さないからね。
ー拍手喝采ー
 みなさんがたの、これが三つ目の成果に対する答えです。ここにいる私たちが私たちの未来を決めます。ご一緒に行動しましょう。ありがとう。
ー拍手ー

(2012.01.15更新「みんな楽しくHappy♡がいい♪」、2011年3月11日。その後私は変わりました。上野千鶴子 脱原発世界会議)
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-1408.html

 大きな衝撃を与えた3.11…、上野千鶴子さんは公開講演「生き延びるための思想」で、高木仁三郎さんについても言及されていました。

*2011.8.9 追記:
 高木仁三郎さんが62歳の若さで亡くなられた時、次のメッセージを残されました。

『残念ながら原子力の最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、もう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を覆う危険でしょう。原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです』

 高木さんは預言者の苦悩を味わっておられたと思います。見えている、知っているのに、手をつかねて見守るしかない。
 高木さんと違って私どもは、これだけ高くつく授業料を払っても、経験から学ぼうとしない。この現実の世界に対する無力さと非力さが、私の胸を噛みます

(2011.8.5「週刊読書人」より)

(原発危機の今こそ高木仁三郎さんを読む)
http://www.kousakusha.co.jp/ISSUE/takagi20110329.html
http://www.kousakusha.co.jp/index.html

 上野千鶴子さんを通して高木仁三郎をみてきました。
 高木仁三郎は故郷の名山、赤城山に眠っています。

 日本の脱原発運動の理論的主柱で、昨年2000年10月に62歳で死去した高木仁三郎さんの自然葬が2001年4月22日、高木さんの故郷・群馬県の赤城山の尾根で行われた。高木さんは、生前「赤城山が見える場所に散骨してほしい」と遺言していた
 妻久仁子さん(56)らによると、高木さんは高校時代まで前橋市で過ごし、特に市内を一望できる赤城山に愛着を持っていたという。
 この日朝から遺族や友人16人が赤城山に登り、尾根の一つの鍋割山(標高1332b)山頂付近の国有林で、遺灰の一部をまいて手を合わせ、故郷を愛した故人の冥福を静かに祈った。
 残りの遺灰は京都府の高木家の墓地に埋葬されたという。久仁子さんは「弁護士と相談し、あらかじめ法的な問題がないことを確認した。仁三郎が心のよりどころにしていた故郷に戻れてよかった」と話している。
 高木さんは市民団体「原子力資料情報室」の代表を長く務め、平和や環境問題などに尽力した人に贈られ「もう一つのノーベル賞」と言われる「ライト・ライブリフッド賞」を1997年に受賞した。
 著名人では作曲家のいずみたくさんが1992年6月に相模湾で、女優の沢村貞子さん、ロックミュージシャンのhideさんがそれぞれ海に散骨したほか、海外でも米国の物理学者のアインシュタイン、中国の周恩来首相が川で自然葬を行った。
 写真は 高木さんの遺灰をまく妻久仁子さん(左)ら遺族。

(2001年4月23日付け毎日新聞【松尾良、清水憲司】高木仁三郎さん散骨、赤城山の見える場所に眠りたい……遺言通り遺族が)

 まだまだある感じがして、また行ってみたくなった山歩クラブ11月定例山行「赤城の山」もこうしてようやく筆を擱くときを迎えました。
 さ、次の山行を楽しみに待つことにしましょう!

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2014年11月22日

私は、生きていたい!

 11月22日土曜日、なんか(N)へんな(H)空気(K)を醸し出すことにおいては類を見ない局が朝から、ラジオで盛んに、今日は「いいふうふの日」です!と叫んでいます。
 ヤッホー君の昨日の日記のように、イマ、この国はデマゴーグの指導層によってあぶない、くさい、におう空気で覆われつつあります。
 これを上野千鶴子さん(1948年生まれ)の言葉でとらえると次のようになります:

–2011年7月の「東京大学退職記念特別講演 生き延びるための思想」で、「これまで男が死ぬための思想ばかりをつくってきたことが問題だった。生き延びるためにこそ言葉や思想が必要だ」という趣旨の発言をされています。

上野: 生きること自体は自然な本能だと皆どこかで思い込んでいる。だから、死ぬことに価値や意味を見出すために、過去いろいろな人たちがいろいろなことを言ってきた。正義や真理、国家など、いのち以上の価値が世の中にあると言ってきたのがナショナリズムであり、軍国主義であり、全体主義であり、宗教もその片棒を担いできた。そのために営々と男たちが知恵を絞ってきたと思います。
 重度の障害を持つ人などに対して「こんなになってまで生きていなくてはならないのか」と、生きる価値のあるいのちと、生きる価値のないいのちを選別する思想もあります。ということは生命以上の価値があれば、そのために生命を犠牲にしていいということになる。そして生命に価値の序列ができ、選別が起きる。障害者たちはずっとそういう目にあってきた。
 超高齢社会になってしみじみ思うのは、長生きしたら加齢現象でみんな中途障害者になるということです。年をとるのがなぜ怖くてイヤかというと、ずっと障害者差別をしてきたからです。でも自分もそうなるかもしれない。そうなった時に人に支えてもらえる安心があればいいじゃないですか。
 超高齢社会では人生のピークに死ねない。みんな下り坂の中を生き、泣いても笑っても自分自身が弱者になっていく。でもその姿をみせたらいいんです。そして弱者になっても安心して生きていける社会をつくればよいのです。

(2014年5月14日付け『中外日報』「ほっとインタビュー 社会学者 上野千鶴子さん」)
http://wan.or.jp/ueno/?cat=1

 ヤッホー君、しみじみとうなづいています。
 生命に価値の序列ができ、選別が起きる…うんうん、こんな文書があったのでした:

 これまで乞食に米やゼニをあたえていたのは、その場のがれの行為でしかなく、結果、いっときの飢餓感をのぞくにすぎず、かえって相手を怠惰にしたので、もう、米やゼニをあたえてはならない。
 もっともこじきを17日までに処分した(「乞食廃止令」)ので、今後は徘徊することはないはずだが、よそから潜入してくる者がいるだろう。
 かれらを自家の<ひさし>の下に寝させてはならない。
 見つけしだいに警察に知らせてつかまえさせること。
 米やゼニをほどこした者には二銭の罰金をもうしつける。
 ただし寄る辺のない病者、障害者は会議所において救助する。
 もし愛憐の気持ちから寄付をしたい者がいるなら、多寡の区別なく同所へさしだすのは自由である
明治5年10月26日 東京府知事 大久保一翁


 そして明治5年11月22日の日付けになる文書はこんなことを:

 一升徳利に熱湯を入れてボロでくるんだ。湯たんぽの代わりにしようというのだ。
 一升徳利のお湯にかかる費用は、「下掃除(しもそうじ)」の代金をあてたいとあるが、これは入居者の糞尿を百姓に売った代金のことだろう。
 また、どぶの水さらいの仕事はとくにつめたいので、毎日ふろにいれてやりたい。
 薪代として一日二朱あて支給してほしい。


 「為政者の貧民に対する冷酷さ」… これはヤッホー君が昨晩読んだ塩見鮮一郎(1938年生まれ)『貧民の帝都』(文春新書、2008)です(それぞれ69頁、71頁に描かれています。

 塩見さんは、江戸から明治に移ったときをの混乱ぶりをこんなふうに書いています:

 江戸時代にあった仏教的な「ほどこしの文化」は完全に否定され、あまやかすとだめになるから、こまっていても助けるな、軒下で雨宿りさせてもならない。「働かざる者食うべからず」という今日につづくイデオロギーが、府知事の言葉として社会的に認知される…

 11月22日の日付けは、あと10日もすれば太陽暦に切り替わり、12月3日が明治6年1月1日になると新政府は発表している。そんな時点での文書で、ここはまだ旧暦で、11月はいちばんさむい時季である。

 明治5年は西暦で1872年。
 それから140年以上も経っていますが、貧民は…
 ヤッホー山荘の近くの公園にいつも、雨の日も風の日も、リアカーに家財道具を積み、そのそばの椅子にただじっと黙って何もせず腰かけている男性がいます。
 いつ公園から「処分」されるて追い出されるか、ヤッホー君はただ「がんばれよ、生きてろよ」ってこころのなかでしか激励してやれないのがつらいところです。
 「愛憐の気持ち」はあっても、ヤッホー君のポケットには一銭、一朱のゼニもなく、寄付もできないのですから。

 本の帯には、こんな言葉が躍っている。
《100社連続不採用、貯金ゼロ。ホームレスになるかもしれない…。でも私は、生きていたい!》 
 また、裏表紙の帯は以下。
《生きるための選択肢は、借金か風俗か自死か、行政に頼るか。働きたいのに、働けない。あなたはどの道を選びますか?》

(2014年10月1日更新、雨宮処凛がゆく!「第311回 「生きていていい」という刻印『失職女子。私がリストラされてから、生活保護を受給するまで』(*)を読んでの巻」)
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/14845/

 生きづらいご時勢ですね、若い人も、労働者にも、まして年金生活者やこの国に住む永住外国人にとっても:

 外国籍であることなどを理由に生活保護の申請を却下されたとして、永住資格を持つ中国人女性(82)が大分市の処分取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(千葉勝美裁判長)は7月18日、女性の訴えを認めた2審・福岡高裁判決(2011年11月)を破棄し、女性側敗訴の1審を支持した。
 女性側の逆転敗訴が確定した。
 小法廷は「生活保護法が適用対象とする『国民』は日本人を意味し、永住外国人にも準用される根拠は見当たらない」という初判断を示した…
 最高裁判決後、女性側の弁護団は東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し「生活保護は最低限のセーフティーネット。永住外国人にも認めるべきだ」と訴えた。

(2014年07月19日付け毎日新聞東京朝刊【川名壮志】大分・生活保護訴訟:永住外国人は適用外 生活保護法で最高裁初判断)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140719ddm012040067000c.html

 財務省は10月27日、2015年度予算編成で生活保護費を引き下げる案をまとめ、同日の財政制度等審議会で示した。雇用環境の改善にもかかわらず生活保護の受給者が増え続けている実態がある。政府は既に昨年から段階的に保護費を削っており、さらなる引き下げには受給者の反発が必至だ。
 生活保護の受給者は、今年2014年7月現在で216万人に上り、過去最低だった1995年の2.5倍に拡大。生活保護費は約3.8兆円(このうち国費は約2.9兆円)に膨らんでいる…
 生活保護を巡っては、長引くデフレに伴う物価下落が反映されていないなどとして、食費などをまかなう「生活扶助費」を2013年度から3年間で段階的に計6.5%(670億円)削減することが決まっている。財務省はさらなる削減を目指すが、厚生労働省は「既に保護費の大幅な削減を進めている」などとして慎重な立場。法律家や受給者の支援者らでつくる「生活保護問題対策全国会議」の小久保哲郎事務局長は「アベノミクスで物価は上昇しており、生活保護費を引き下げる根拠はない」と反論し、10月28日にも引き下げ反対の要望書を塩崎恭久厚労相に提出する方針だ。

(2014年10月27日23時09分更新、毎日新聞【三沢耕平】生活保護:減額案、財務省提示…家賃・医療費対象)
http://mainichi.jp/select/news/20141028k0000m010067000c.html



(*)
 この本の著者は大和彩さんで、2014年9月に「WAVE出版」から刊行。著者はヤッホー君と同じく、ブログで日記を綴っています:
「今は一時的に登録読者数とPVとコメントとブックマークが増えているけれど、これはただのバブルです。すぐはじけます。はじけても、きっと、誰にも読まれない日記を書き続けます。日記書くのが好きだから、ってだけで」
http://haguki-lovey.hatenablog.com/


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2014年11月21日

県警が辺野古取材妨害

 アベノリスクなんてとっくにカコのあだ名でイマは、アホノミクスだ、アホノミスだ、逃げノミクスだと批判されているあの嘘つき世襲の政治屋、そしてその茶坊主どもに御用学者。
 今度はまたぞろ何千億円だかのわれわれの税金を使って、延命工作、そしてその結果、「増税」(富裕層優遇)と「壊憲」(権力亡者や富裕層のために死ぬ、あるいは殺される)と「戦争」(軍備増強と徴兵制と滅私奉公の教育)と「再稼働」(原発推進)、棄民政策への道を舗装していくための「選挙」をするようす。
 この国の有権者は、このような路線にNO!と言えるのか、が問われています。
 山日記どころでない、とヤッホー君。今日、二度目の日記は、ずばり、これ:

【辺野古問題取材班】
 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前で11月20日木曜日、県警の機動隊員らが、抗議活動をする市民を取材していた本紙記者らを力ずくで現場から引き離したり、撮影を中止させたりするなどして取材活動を度々妨害した。
 午前11時20分ごろ、市民らが座り込むゲート前の国道で、機動隊員2人が突然、写真を撮る本紙記者の両肩をつかみ、撮影現場から遠ざけた。記者が振り払おうとしたところ、眼鏡が落ち破損した。
 午後1時40分すぎには、沖縄防衛局が設置した突起付きの鉄板に座り込んだ市民が強制的に排除される様子を撮影していた同じ記者に対し、機動隊員が数人で取り囲み、「邪魔だ」と怒鳴り声を上げた。隊員らは撮影を中断させ、鉄板の上から外に力ずくで押し出し、戻れないように立ちはだかった。隊員は「また眼鏡が壊れるぞ」などと威圧した。
 さらに同じ鉄板の上で取材していた本紙の別の記者に対しても、現場指揮役の警察官が、社名が見えるように首からつり下げていた腕章を無断で手に取り、「琉球新報か」と問いただした上、現場から出るよう繰り返した。
 その直後に「連れ出せ」と複数の機動隊員らに命令し、隊員らは記者の背後から腕や肩をつかみ強制的に外に押し出し、戻れないようにした。この記者は座り込んだ市民の腕を警察官がねじ上げる様子などを撮影している途中だった。
 同じように撮影していた映画監督の藤本幸久さんは機動隊員3人に両手足をつかまれ持ち上げられた。藤本さんは「撮影している人から真っ先に排除している」と指摘した。
 記者らが排除される様子をすぐ近くで見ていた沖縄合同法律事務所の赤嶺朝子弁護士は「記者たちは当然の取材活動をしていただけで、無理な取材をしているようには見えなかった」と指摘した。その上で「撮影しているだけの記者を強制的に排除するのは報道の自由の侵害だ。県民は報道によって何が現場で起きているのかを知るわけで、報道の阻害は許されるものではない」と強く批判した。
 記者の排除について、県警本部警備2課の担当者は「取材を規制するつもりではなくて、安全確保の観点から(記者を)外に出す措置を講じた」と話した。

◆ 報道の自由侵害=潮平芳和・琉球新報編集局長の話
 本紙記者は琉球新報の腕章を身に着け、住民の抗議行動を記録する正当な取材をしていた。
 警察官が記者を強制的に排除したことは明らかな取材妨害であり、報道の自由を侵害するもので強く抗議する。

【辺野古問題取材班】
◆ 抗議活動の女性、救急搬送される 県警の排除で
 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前では11月20日、基地建設に抗議する市民らを県警の機動隊が強制排除し、女性(84)=名護市辺野古=が救急搬送された。市民1人を3、4人で取り囲み足を抱えて運ぶ、両脇を抱え、無理に歩かせ転倒しそうになる場面もあった。山形にとがった鉄板の上を引きずられ背中を痛めた人もいる。市民の腕をひねり上げる警察官もいた。
 沖縄平和運動センターの山城博治議長は「人が足りない。全県から集まってほしい」と呼び掛けた。三宅俊司弁護士は「彼らは警察じゃない。国家権力を背景にした暴力団だ」と指摘した。
 後頭部を強打した女性は、名護市の県立北部病院に運ばれた。女性は基地建設に関わるとみられる工事車両を止めようと、車両の一部にしがみついていた。警察官4、5人が囲み、引き剥がしたところ転倒したとみられる。
 県警警備2課は、女性が転倒し救急車搬送された件について「警察官によって転倒したという事実はない」とした。

(2014年11月21日付け琉球新報「県警が辺野古取材妨害 記者、映画監督を排除」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-234816-storytopic-271.html

 また、映画? 今度は藤本幸久さん。
 こんな映画もおつくりになっていました:

編集部: 映画『アメリカばんざい CRAZY AS USUAL』が2008年の夏、公開中です。まず、この映画をつくった動機を教えてください。
藤本: 「マガジン9条」のインタビューなので、端的に言わせてもらうと、「日本の若者たちを、戦場に送りたくない。戦場に行き、殺したり殺されたり、無傷であったとしても、心を深く傷つけられるといった姿を見たくない、と思ったからです。
編集部: 日本の若者が戦場に行く可能性があると?
藤本: 早ければこの2年か3年後に、憲法9条改定が提案されることになるかもしれないでしょう? その時に、実際に一緒に戦争をしようと言っているアメリカ、そのアメリカの現実を知らずに、決めてはいけないと思うのです。世界で戦争をするというのはどういうことなのか、それを本当に知った上で、9条をどうするかということについて、国民は選択するべきでしょう? 本当のところはかなり隠されたまま、「普通の国」とか「国際貢献」とか、あたりのいい言葉できっと提案がされてくるんだろうというふうに、私は思っています。しかし、これは未来の日本を決める選択ですから、決して後悔することのないよう、事実を知った上で選択しましょう、ということでつくった映画です。
 という私も、この映画を作るまではアメリカに行ったことはなく、沖縄で若い兵士たちを見るにつけ、どうして彼らは海兵隊に入ったのだろうか? という疑問を持っていました。というのも、沖縄の基地の中でたまたま遭遇した若者たちは、英語じゃなくてスペイン語で家族と会話していました。米軍なのにスペイン語? そういうところも含めてこれはちゃんと取材しなくっちゃいけないな、と。

(コメント)
 これを読んでいるあなたは、そもそもこのサイトがあることすら知らない人(残念ながらこっちが圧倒的多数なんだけど)よりも、いろんなことを知っていると思う。アメリカの軍隊のこと、アフガニスタンやイラクや、もしかしたらベトナムの戦争のことも。
 でも、知らないことって、知っていることよりもいつもたくさんあるんだと、この映画を観て思った。そんなの当たり前? 確かにね。でも、言わせてほしい。この映画で「知らなかった」と思ったのは、知り得ないことに限りなく近いことだったんだ。

(2008年08月06日up「戦争する国、アメリカの真実を見よ」)
http://magazine9.jp/interv/fujimoto/index.php

 ではここで、映画『アメリカ-戦争する国の人びと』予告編:
http://www.youtube.com/watch?v=kOnkhPcUdss
http://www.youtube.com/watch?v=W8Ydnzlsv5c
http://america-banzai.blogspot.jp/

 日本禁煙学会が主催する2013年度の無煙映画大賞特別賞を受賞した『ラブ沖縄@辺野古@高江』(2012年公開)も。予告編:
http://www.youtube.com/watch?v=XhzE0UJx8wE

 「ラブ沖縄 トークイベント 山城博治×藤本幸久監督」:
http://www.youtube.com/watch?v=9ZGohwPVXWg

 12月14日投票の総選挙に対する沖縄からの声も:

 衆院がきょう解散される。12月2日公示、14日投開票に向けて、事実上の選挙戦に突入する。
 安倍晋三首相は、消費税再増税の先送りの是非について「国民に信を問う」としている。しかし、今回の首相の決断は国民に負担を求めるものではなく、解散しなければならない切迫性は乏しい。あえて解散に踏み切るのは、野党の選挙準備が整っていないこの時期が最善のタイミングだと判断したからだ。「自己都合解散」である。
 首相は再増税先送りの理由として「景気が腰折れすれば元も子もない」と、足元の経済の弱さを認めた。総選挙では、経済政策「アベノミクス」が、本当に経済の好循環をもたらす効果があったのかどうか問われるべきである。
 集団的自衛権行使を容認した安全保障政策や原発再稼働など、国論を二分する問題に対する安倍政権の政治手法そのものも、問われなければならない
 国の機密漏えいに厳罰を科す特定秘密保護法は、昨年2013年12月、数の力で強行採決を繰り返し成立した。国民の知る権利や報道の自由への懸念が払拭(ふっしょく)されないまま、12月10日の施行が迫っている。
 ことし2014年7月には、歴代の内閣が国会議論を積み重ねてきた憲法解釈を変更し、集団的自衛権行使容認を閣議決定した。安倍首相は2月、政府の憲法解釈について「最高責任者は私だ。その上で選挙で審判を受ける」と述べた。
 集団的自衛権の行使容認は経済政策と並ぶ最大の争点である。
    ■    ■
 県内では知事選が終わったばかり。わずか1ヶ月の間に2度の大型選挙が実施されることになる。
 最大の争点は、知事選同様、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題である。知事選では仲井真弘多氏の埋め立て承認の是非が問われた。衆院選でも県関係の自民党国会議員が、公約を転換して辺野古移設を容認したことの是非を争点化すべきである。
 菅義偉官房長官は11月19日の会見で、集団的自衛権行使容認の閣議決定や特定秘密保護法の是非は、衆院選の争点にはならないという認識を示した。菅氏は以前、辺野古移設について「過去の問題だ」と述べ、知事選の争点化を避けようとした。
 安倍政権は自らに不都合な現実を見ようとしない。知事選直後に、辺野古の新基地建設に向けた海上作業を再開するのもその延長線上にある。衆院選では、辺野古移設を日本全体の問題として争点化すべきだ
    ■    ■
 沖縄県内は、中小零細企業が圧倒的多数を占め、非正規労働者の比率が全国一高い。子どもの貧困も深刻である。
 アベノミクスは争点となる政策課題の一つであるが、一般論でその是非を問うのではなく、沖縄の視点に立って問題を問い直す必要がある。
 知事選の投票率は64.13%で前回を3.25ポイント上回った。衆院選は師走の慌ただしい時期とも重なる。投票率を下げないためにも、各政党には対立軸を鮮明にした政策を掲げて戦ってもらいたい。

(2014年11月21日05:30沖縄タイムス社説[衆院きょう解散]安倍政治を争点化せよ)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=91482

 マスゴミの論説も短期間で削除され、あっという間に読めなくなってしまう今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
 後日参照するためにあえてここに引用しておきました。



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マイクニコルズ監督逝去

 11月21日金曜日。
 今日は石田波郷の45回目の命日、と言いましたが、今朝飛び込んできたニュースはこれ:

Mike Nichols, the German-born renaissance man of American entertainment, has died at the age of 83. Nichols won the best director Oscar for his 1967 classic The Graduate…

Born Mikhail Igor Peschowski into an artistic family in Berlin, Nichols fled to the US in 1939. He first worked in an improv troupe and found early fame as as part of comedy duo with Elaine May, peppering the audience with such quick-fire repartee that the pair became known as “the world’s fastest humans”.

Nichols made his film directing debut with 1966’s scabrous Who’s Afraid of Virginia Woolf?, starring Richard Burton and Elizabeth Taylor as a warring married couple. He then went on to further acclaim with The Graduate, a film that perfectly caught the uneasy, questioning mood of late-60s America. The Graduate famously opened to the strains of Simon and Garfunkel’s The Sound of Silence and bowed out with Dustin Hoffman and Katharine Ross’s bus-ride into the unknown - a final shot which remains one of cinema’s greatest hanging endings.


 では映画『卒業』(日本では1968年公開)で Dustin Hoffman を全力疾走させた場面を観ながら、合掌。

GREAT SCENE- The Graduate (finale) with a young Dustin Hoffman
http://www.youtube.com/watch?v=ahFARm2j38c

 そして「サウンド オブ サイレンス」:
http://www.youtube.com/watch?v=cpOxTL1ueDM

His other notable films include Carnal Knowledge, Silkwood, The Birdcage, Heartburn and Working Girl. Nichols made his directing swansong with the 2007 political farce Charlie Wilson’s War, starring Tom Hanks as a rogue congressman embroiled in the 1980s Afghan war.

 では映画『シルクウッド』(日本では1985年公開) with Meryl Streep and inspired by the story of whistleblower Karen Silkwood, who died in mysterious circumstances after challenging the safety record of the nuclear power plant where she worked を(注1):
http://www.youtube.com/watch?v=iNyrSR5JGh8

 さらに映画『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』(日本では2008年公開) with top quality cast (Tom Hanks, Julia Roberts, Philip Seymour Hoffman) を(注2):
http://www.youtube.com/watch?v=e2cjVhUrmII

Mike Nichols, he is survived by three children and his fourth wife, ABC news anchor Diane Sawyer.

“A movie is like a person,” the director once remarked. “Either you trust it or you don’t.” Over a 50-year career, Nichols specialised in films that we could trust.

• Peter Bradshaw on Mike Nichols
http://www.theguardian.com/film/2014/nov/20/mike-nichols-dies-83-graduate

 ここで、もう一度監督の偉業をおさらいしておきましょう:

Mike Nichols: 10 of the best, from Virginia Woolf to Charlie Wilson
http://www.theguardian.com/film/filmblog/2014/nov/20/mike-nichols-10-best-virginia-woolf-charlie-wilson



(注1)カレン・シルクウッドについて:
http://www.youtube.com/watch?v=lPP6IIeoeKo

Joyce Hannam "The Death of Karen Silkwood"(The Oxford University Press, 2008年 ペーパーバック版、ほかにCD版 もあります)。書評から:

 福島原発の事故の直後にCDを聞き、あまりのリアルさに気持ちが悪くなってしまったけれど、もっとよく知りたくて本を購入し、一気に読みました。
 労働環境を改善したい、その一点から、危険をおかしてあるものを盗み出した主人公Karen。しかし、彼女には放射能汚染(被爆)と、彼女が知ったことを隠蔽または抹殺しようとする何者かの動きがせまっていた。そして、不可解な彼女の死。彼女が命がけで盗み出した”証拠”は消えてしまった…
 実話です。80年代、映画化もされたそうです(写真の女性はMeryl Streep)

(注2)長岡大学教授・広田秀樹「レーガン政権の対ソ連外交とアメリカ国際政治戦略のワンオプションの確立―1981年・1982年・1983年のアメリカの対ソ連外交を中心に―」(長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第14号、2011年3月)所収)

 1981年1月に大統領に就任したレーガンは、政権の第1期で「強いアメリカ」を掲げ、大規模軍事拡大を徹底して断行した。レーガンは、対ソ連外交の基本スタンスについて次のように述べている。

「私は、アメリカが過去にときとしてやらざるを得なかったようなこと、すなわちソ連側がより良いカードを持っている軍備管理交渉の席に臨み、彼らの善性に訴えて真剣に交渉してくれるよう頼まねばならぬといった事態を、再び繰り返すことは望んではいなかった。だからW力を通じた平和W は、わが政権のモットーの一つとなった…」
(わがアメリカンドリーム、710〜711p)

「核戦争で勝つことはできないし、絶対にそんな戦争に乗り出してはならない。しかし引き金から指を離すようソ連を説得する前に、われわれはまず、自由世界として他国による犯罪的行動を容認できなくする一線が存在することを、彼らに理解させなければならない。そうするためには、われわれがソ連に対し力の立場から交渉できることが必要である。《われわれの軍事力は、平和への前提条件なのだ》と私はイギリス議会メンバーに話した」
(わがアメリカンドリーム、717p)
と、レーガンは力を通じた平和の重要性を訴え、基本スタンスを明確にしている…

 レーガンには、その政権を強くサポートする人物・グループが数多く存在した(8)。チャーリー=ウィルソン下院議員もその一人だった。チャーリー=ウィルソンは、1980年代の下院の国防歳出委員会のメンバーであったが、アフガニスタン侵攻のソ連に対するCIAの極秘作戦遂行のための予算を大幅に増額するために尽力した(9)。数十億ドルという多額の資金を調達し、ソ連軍と交戦していたイスラム武装勢力に武器を供給する等の支援を実現した(10)。

(8)米ソ首脳間の調整、特に、1985年の第1回の米ソ首脳会談実現に尽力したアーマンド=ハマー氏(オキシデンタル石油会長)も、レーガンの個人的な友人でサポーターだった。
(9)外交戦成功の底流として、レーガン政権では、諜報機関の能力を強化し、諜報機関を最大限有効に活用した点が重要である。副大統領ジョージ・ブッシュ自身がCIA長官の経験を有していた。
(10)CIAはチャーリー=ウィルソンに功労賞を送っている。
http://www.nagaokauniv.ac.jp/local/crc/crc-nenpo/syogai_nenpo/syogai_nenpo14/
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2014年11月20日

砂町文化センター

 11月20日木曜日、下町の空は鉛色の厚い雲に覆われ、師走の寒さというくらいにぶるぶるっときます。
 元気をよそおっているのか、ヤッホー君は”eチャリ”で7週間前、10月1日にリニューアルオープンしたばかりの「砂町文化センター」(江東区北砂5-1-7 Tel 3640-1751)へ。
 「砂町銀座商店街」の路地を入っていった先にあるのですが、まず目に飛び込んできたのが入口にあった「小松崎軍次先生碑」。
 小松崎軍次氏は校長先生から江東区の区長を勤めた方で、ゴミ戦争のとき市民とともにたたかった区長として長く区民の記憶にとどめられている方でして、区役所にも「希いの像」碑が:

 江東区は、1945(昭和20)年3月9日夜半から10日にかけての東京大空襲により、街は壊滅状態となり、多くの尊い人命を失いました。
 この犠牲者の鎮魂と恒久の平和、安全を念願し、永く忘れないためにこの記念像を建立したのであります。
 この母子像は、母が子を慈しみ育て、幸せな日日が続き、そしてこの子が成長した時も平和な日日であることを願うものであり、人と人とが愛しあい、国と国とが平和で結ばれていますよう、祈るものであります。
 平和の希いは、現在に生きる私たちの心であります。

1982(昭和57)年3月10日建之、江東区長・小松崎軍次

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city005/index.html

 この「砂町文化センター」には、「石田波郷記念館」が併設されているのです(注1)。
http://www.kcf.or.jp/sunamachi/ishida.html

 関連リンクとして紹介されているのが、次:

 「風鶴山房(ふうかく・さんぼう)」は俳人石田波郷が戦後の12年間を過ごした東京の下町、江東区北砂町の陋屋の書斎の呼び名です。句集『鶴の眼』の代表句「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ」に由来し、表紙に掲げた「風鶴」の扁額は棟方志功が波郷に贈った書です。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/

 父は昭和俳壇の巨星。息子は駆け出しの新聞記者。父の死亡記事を息子が書くという不思議な運命を胸に、数々の名句が生まれた背景と秘密を、静かに、くっきりと浮かび上がらせる。

波郷はわずか17字に自らを託し3500余句、単純計算で6万字弱を書いて俳人としての人生を全うした。私は新聞記者として、その何十倍何百倍もの原稿を書いてきたが、さて何を残し得るのか。50歳代に入って、あと6年、5年とカウントダウンが始まるにつれ、漠然とした焦りにとらわれていたが、いよいよあと1年、55歳の誕生日を迎えた直後に腎臓癌が見つかり、左腎全摘手術を受けた。子どものころから親に似ているとはいわれたが、まさか享年まで一緒になるのでは。

(あとがきより)


♢ 静かで深いドキュメント

 1969(昭和44)年11月21日、「昭和の俳聖」といわれた波郷の死亡記事が新聞に掲載された。締めくくりは「水原秋桜子に師事、俳誌『鶴』主宰。1969(昭和44)年3月、芸術選奨文部大臣賞受賞」──。駆け出しの新聞記者だった著者が、病院から電話送稿したものだった。
 父の死亡記事を息子が書くという不思議な運命を背負いながら、本書はこの簡潔な略歴の奥に潜む人生の襞を、「今生は病む生なりき鳥頭」から「雪降れり時間の束の降るごとく」に至るまで、代表的な8句に託して丹念にたどった力作である。
 第二次世界大戦と不治の病という二つの苦難を背負いながら新しい俳句への情熱を抱き続けていた父の真の姿が、肉親ならではの観察眼と筆さばきで、くっきりと、鮮やかに浮かび上がってくる。

(白水社公式サイト)
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=72104

 石田波郷は本名を石田哲大(てつお)と言い、1913年愛媛県松山市に生まれ、1969年11月21日午前8時ころ死去、同夜自宅にて通夜、つまり明日が45回目の命日にあたります。
 その子、石田修大(のぶお)は1943年生まれ。日本経済新聞に入社し、1999年退社、現在は流通経済大学法学部教授です(注2)。

 ところがそのコーナーの隣で、『大西みつぐ写真展、まちの息づかい〜江東、砂町、ある日ある時〜』が開かれていました。
 これにもびっくりexclamation×2
 必見です(11月30日まで)。
 大西みつぐ氏は、1952年江東区深川生まれの写真家。
https://blog.seesaa.jp/cms/article/regist/input

 イマ、映画づくりにはげんでいますが、タイトルはずばり、『小名木川物語』(注3)!
http://newcoast12.sakura.ne.jp/#id22
http://onagigawa.com/



(注1)イマ読売新聞の東京23区版では、石田波郷『江東歳時記』(講談社から文芸文庫版として2000年、出版されています)を現代の記者が現代の視線で綴る[波郷再訪]を連載しています。2014年11月12日付けではこんな風に:

 東西線の南砂町駅を中心に高層マンションが並び立つ江東区南砂は、かつて「馬の街」として栄えていた。昭和初期に物流の一大拠点「小名木川駅」が隣町の北砂に完成し、荷馬車を必要とし、近くを流れる荒川岸には餌となるアシが豊富に生えていたからだ。
…運送業と馬 関わり今も

(注2)
 法学部の石田修大教授はこのたび、『我生きてこの句を成せり――石田波郷とその時代』(本阿弥書店)を出版した(2011年11月)。この書の主人公・石田波郷は石田教授の父で、第二次世界大戦前後の30年以上にわたり、大いに活躍した俳人である。
 波郷が旧制の松山中学(後の高校)を卒業した1930(昭和5年)は世界大恐慌と呼ばれた経済の大混乱期。日本は不景気の真っただ中にあり、現在をはるかに上回る就職難時代であった。仕事に就かなかった波郷は俳句を作り始め、19歳の時に上京して本格的な俳人になることを目指す。
 仕事もない、金もない若者が、なぜ「俳句をやろう」と決心したのだろうか。波郷ら若手俳人たちの行動や意気込みを、この書によって知ると、俳句と言う僅か十七文字の詩の持つ魔力が見えてくる。日中戦争から第二次世界大戦へ。波郷も兵となり、中国大陸へ赴くが、「自分の俳句を戦地で鍛える」と考えていたという。
 戦後の波郷は結核系の病に悩まされ続けながら、数多くの名句を生み出していく。幼なじみの大友柳太郎(往年の時代劇スター)(*)が病床に見舞いにきた時、波郷は「俺は死ぬまで俳句を作る」と言い続けていたそうである。
(流通経済大学公式サイト、石田修大教授が本を出版しました)
http://www.rku.ac.jp/home/topics/20120130_01.html

(*)ちょっと早いのですが、大友柳太郎(1912-1985)が堀部安兵衛役で出演した『忠臣蔵』の予告編を:
https://www.youtube.com/watch?v=DW1z8gceEhg

 1959(昭和34)年1月公開の東映作品です。

(注3)ヤッホー君のこのブログ、以下の日付の日記もあわせてお読みください:
 ☆ 2011年12月4日「行徳の海」
 ☆ 2013年4月4日「花のあと」
 ☆ 2013年5月26日「こうとう記録映画鑑賞会」
 ☆ 2014年2月2日「清洲会議」

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2014年11月19日

チェルノブイリ・ハート

噴水広場.jpg

 昨日の11月18日火曜日、ヤッホー君は”eチャリ”で日比谷図書文化館へ。
 「廃棄資料」のなかから『キネマ旬報』2011年10月上旬号をいただいてきました。
 《映画人が考える原発にまつわること》が特集として組まれていました。
 日刊ゲンダイによりますと弁護士河合弘之先生の映画『日本と原発』について「一般に、反原発ネタの映画は出演者やスタッフ、資金はもちろん、公開劇場を探すことすら困難とされる。事実、本作でも河合監督は数々の職業監督に断られ、出資予定者には途中で逃げられるなど辛酸をなめたという」とヤッホー君のこのブログでも引用しましたが、キネ旬では…

 まず、土井敏邦さん(1953年佐賀県生まれ)のコメント:

 東日本大震災のような大惨事が起こったら、ジャーナリストなら真っ先に現場へ向かうべきであろう。
 しかし私は「金縛り」にあったように動けなかった。
 そのことが「自分がジャーナリストである」ことの意味を根本から問い直すべき深刻な問題として今も私の中に重くのしかかっている。
 当時私は、今まで一度も取材したこともない「地震」「津波」「原発」という事件を自分が追うことの意味を自分の中に見いだせないでいた。
 すでにマスコミが連日、大々的に伝えていく中で、自分が現地へ行って、何をどう取材し伝えるべきかがまったく見えず、私はただただ、テレビで報じられる甚大な被害に圧倒され、その映像に見入っていたのだ。

(前掲雑誌56頁)

 しかし土井敏邦さんは2012年、映画『飯舘村、故郷を追われる村人たち』をものにします。
 「予告編」を鑑賞して再度振り返ってみませんか:
http://www.youtube.com/watch?v=FmrfiF4nQBE

 監督の公式サイトもあります:
http://www.doi-toshikuni.net/j/
 インタヴューも『通販生活』で読むことができます:
http://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/genpatsu/doi/

 それから、藤原敏史さん(1970年神奈川県生まれ)のコメントです:

 しかも驚いたことに、都会が「無知な田舎者」だと思っている彼らこそが、もっとも真剣にこの事故のことを考え、真の意味で知的な思索を巡らせている。
 せっかくだから、ちゃんと話を聞けばいいのに。
 いや驚くことでもない。
 ただ単に、現代文明に耽溺し依存しながらその脆弱さに気づきたくなかった(そして事故が起きた今でも気づきたくないらしい)我々が、盲目で傲慢だっただけのことだ。

(前掲雑誌58頁)

 しかし、藤原敏史さんはその年の2011年晩秋、映画『No Man's Zone 無人地帯』をものにします。
 「予告編」を鑑賞して再度振り返ってみませんか:
http://www.youtube.com/watch?v=mXNtBrc6jlY

  監督の公式サイトもあります:

 いやドキュメンタリーはやはり難しい。
 こういう追っかけドキュメンタリーは僕はほとんど経験がないので始末が悪いのだけど、それにしてもどんどん難しくなっている気もする。
 駅にせよ役所にせよ、警備員はただ仕事だからやっているだけだし、理由は「お客様のプライバシーの侵害」などそれなりにもっともにも聴こえる…のだけれど、結果として僕たちは真実や現実からどんどん遠ざけられている気がする

結局、
この国では公害だとか労災は、
被害者が頑張らなければ決して救済されないのだ。
 それも憐れみを乞い、
可哀想だと言うことを世間に思わせることでしか、
救済らしきものは始まらない。


 いや村松先生は、ここまでははっきりは言わなっかったと思う、上記はやりとりの中での僕の相づちも含めた言い換えだが、要するにそう言うことである…

 人が人としての尊厳を守り抜いて生きようとするという物語を、今のこの国は受け入れないのかもしれないとしたら、日本の映画って終わってるんじゃないか?

(2014年10月28日付け「別無工夫」日記)
http://toshifujiwara.blogspot.jp/

 『キネ旬』2011年10月上旬号は、斎藤環さん(1961年岩手県生まれ)による「読む、映画」のコーナーで2003年に制作された映画で2004年アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した『チェルノブイリ・ハート』を紹介してくださっています: 
http://www.youtube.com/watch?v=Vhb5pCXMkxU

 ヤッホー君、やるせない気持ちから涙いっぱいになりながら”eチャリ”を漕いで日比谷公園を後にしました。

 こんなに美しい国土を人の住めない土地にしてはなりません、そこに暮らす人びとを棄民にして追い出すようなことをしていけません、この国土は一握りの富裕者のものではありません、他の国の人びとにも、そしてわれわれの子の代、孫の代にも伝えていかなくっちゃ、ねexclamation×2

お堀端.jpg

皇居.jpg



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2014年11月18日

纐纈(はなぶさあや)あや

 《ここでも思うのは「つくるひと」を知ることの大きさです≫… 長井蔵の専務兼杜氏、鈴木大介さんの言葉でした。
 今日、11月18日火曜日、また映画『ある精肉店の話し』(2013年公開)に戻って、「つくるひと」に迫ってみたいのです。
 まず、監督の纐纈(はなぶさあや)あやさん。
 本作が映画監督として二本目ですが、最初の映画は2010年公開の作品『祝の島(ほうりのしま)』!
http://www.hourinoshima.com/

♢まさか、私が映画監督に!?
 「実は、自分が映画監督になるなんて、夢にも考えていなかったんですよ」
 纐纈さんは笑顔でそう語った。2001年、写真家・映画監督の本橋成一さんの事務所であるポレポレタイムス社に「事務方として」入社。はじめは事務だけのつもりだったが、そのうち本橋さんの作品づくりを手伝うようになったという。
 「お手伝いをしながらも、“映画や写真は、特別な才能がある人や専門的な勉強を積んだ人がやるもの”と思っていたので、自分はあくまでサポート側だという気持ちで、映画監督になるなんて一切考えたことがありませんでした」
 「でもある時、本橋さんから『技術は、学べば誰でも身につけることができる。ドキュメンタリー作品を作るには“人とどう関わるか”がもっとも重要。あなたが人と関わる様子を見ていて、映画監督にむいていると思った』と言っていただいたことがありました。それでも私は『何言ってるんですか』という感じだったんです(笑)」

(2014年07月16日11時31分JST更新 The Huffington Post Japan「映画『ある精肉店のはなし』の監督、纐纈あやさんに聞く屠場《いのちを食べて人は生きる》[Woman's Story〕」)
http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/04/hanabusa-aya-eomans-story_n_4388338.html

 ね、ですからポレポレタイムス社の本橋成一さんが『祝の島(ほうりのしま)』にも『ある精肉店のはなし』にも登場なさるのでした。
 
 1990 年、本橋成一の写真事務所として設立。1996 年、映画配給部門を担う「サスナフィルム」設立。 2003 年より映画館「ポレポレ東中野」運営を開始。
http://polepoletimes.jp/times/profile/

 2011年3月14日発売の本橋成一写真集『屠場(とば)』(平凡社刊)のCM映像があります:
http://www.youtube.com/watch?v=UzQ7z4ipw6w

 そしてこの映画でカメラを回しつづけた人も:

 そこにあるのは生きて暮らしている日常の景色〜「ある精肉店のはなし」
 大久保 千津奈さん(カメラマン)
 まもなく一本の映画が封切られる。江戸時代から数えて145年、7代に渡り屠畜を生業にしてきた一家を追ったドキュメンタリー『ある精肉店のはなし』だ。包丁一本で肉を解体していく姿は、牛にできるだけ苦痛を与えない技を磨いてきた歴史であり、差別を受けてきた時間の長さでもある。今回は本作を撮影したカメラマンの大久保千津奈さんに映画の魅力と撮影の秘話をうかがった。

http://www.mammo.tv/interview/archives/no330.html

 ぜひ、↑をクリックしてインタビュー記事をお読みください!

 こうして、このドキュメンタリー『ある精肉店のはなし』の三角錐のところはおさえることができました。
 つまり、監督とプロデューサーとカメラマンです。
 これで、次の新聞記事もすんなりとアタマに収まることができます。
 すみませんねぇ〜、理解度が遅く、知に病垂(だれ)がかぶさる無知蒙昧のヤッホー君で:

 2012年3月、小さな「と畜場」が102年の歴史を閉じ、北出さんらは最後のと畜を終えた。カメラは江戸時代から7代続く一家の歩みをたどりつつ、4世代が囲むにぎやかな食卓、祭りに燃える地域へと観客を誘う。
 上関原発建設に反対する山口県・祝島を舞台にしたドキュメンタリー『祝(ほうり)の島』で、高い評価を受けた纐纈(はなぶさ)あや監督の2作目。再びコンビを組んだ大久保千津奈カメラマンは、「この映画にかけたい」と福岡の映像制作会社を辞した

(2014年02月14日18時18分最終更新、西日本新聞「《命をいただく》一家の営み、纐纈あや監督・ドキュメンタリー『ある精肉店のはなし』)
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/cinema_news/article/69752

 なおヤッホー君の汚名回復のため申し上げておきますが、ドキュメンタリー『祝(ほうり)の島』についてはヤッホー君のこのブログ、次の日付の日記でご確認くださいとのことです:

 ☆ 2010年11月28日「もうひとつの断捨離」
 ☆ 2010年12月10日「もうひとつのノーベル賞」
 ☆ 2011年03月27日「原子力損害賠償法」
 ☆ 2011年04月03日「もう原発はいらない!」
 ☆ 2011年04月05日「勝俣恒久」



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2014年11月17日

鈴木酒造店長井蔵

 映画『日本と原発』は良かったですね〜。
 ここで映画のワンシーンに登場した「(株)鈴木酒造店長井蔵」(山形県長井市四ツ谷1-2-21)ご紹介。
 Out Take 01〜鈴木大介杜氏〜:
http://www.nihontogenpatsu.com/talk/out-take.html
http://www.iw-kotobuki.co.jp/

 山行の都度、その麓で造られた地酒を探すヤッホー君、これはね、ヤッホー君がフランスに語学留学したときの経験が影を落としているからなんですって。
 フランスの場合、チーズと言うのは工場生産ではありません、一軒一軒農家によって風味が違うのです。
 これはその蔵に住みついている「菌」がそれぞれ、思い思いの働きをするからなんだよって二十歳(はたち)そこそこのとき、フランスの農家の方から学んだときのお言葉が、イマでも五臓六腑に浸み渡って、住み込んでしまっているからなんですね。
 上の者以外皆一律、金太郎飴とか、上の者にへ、へえ〜とへりくだるおべっか使いの茶坊主やゴマすり野郎ども、あるいは世襲の子供が、トラの威を借りたり、親のご威光でさらに上のポジションを占めるみたいな、劣化した社会でなく、「多様性」ということ、「共生」ということ、「手塩にかける」ってこと、そんな《世界観》が植えつけられたってことですね。
 Bioshere!

 だから、福島県双葉郡浪江町大字請戸から拠点を山形県の長井蔵に移して、どんなお酒づくりをしていらっしゃいますかって言うと:

 「きき酒会」とかの季節になると、ああもう一年たってまた「酒造り」が始まるんだな…と思います。
 今年は福島県松川町の田んぼで『土耕ん醸』(注1)の五百万石を栽培したことが一番大きな出来事だと思います。
 それに、浪江町での実証栽培の田んぼでも稲刈りが行われました。
 かれこれ震災後から続く、酒米不足のためにその確保が大変な最近の事情を踏まえ、鈴木酒造店では契約栽培の農家さんを増やす取り組みをしています。
 そんな田んぼについて、米について考える一年だったのですが、松川町の丹野さんの話は特に身につまされる思いがしました。
 ここでも思うのは「つくるひと」を知ることの大きさです…

 まだまだもっとブレないものを作りたいです。
 とりあえず年内には形にできれば…。

(2014年10月19日(日)付け長井蔵便り「一年あっという間です」)
http://siosiowau.blog70.fc2.com/

 試飲会は、今年、雪解けにはまだ遠く、でも春の訪れをを待ちかねている頃、2014年2月に開かれていました:

 東京電力福島第1原発事故で、福島県浪江町から山形県長井市に拠点を移した鈴木酒造店が、避難者らが育てたコメで仕込んだ純米吟醸酒『甦(よみがえ)る』を完成させた。長井市で行われた試飲会には市民や避難者ら約80人が参加し、新酒を味わいながら交流を深めた。
 「甦る」は長井のNPO法人「レインボープラン市民農場」(注2)の避難者交流事業として、2012年に造り始めた。避難者と地元住民らが共同で原料の食用米「さわのはな」の田植えから稲刈り、酒の仕込みまでを行なう。
 2年目の今回は1320キロのコメを使い、一升瓶で昨年の約2倍に当たる1500本を醸造した。キレがあり、日がたつにつれ、豊かな味わいを楽しめるという。
 杜氏(とうじ)でもある鈴木酒造店の鈴木大介専務(40)は「『甦る』を通じて人の輪が広がり、前に進む力になることを願っている」と期待を込めた。
 原発事故で南相馬市から避難し、「レインボープラン市民農場」で働く遠藤浩司さん(46)は「全国に散った避難者や福島への帰還者を勇気づけ、絆を育むために造り続ける」と話した。
 『甦る』は一升瓶で1本2730円(税込み)。3月11日から長井市や福島県などで販売する。売り上げの一部は避難者支援に役立てるという。連絡先は鈴木酒造店0238(88)2224

(2014年02月09日日曜日付け河北新報「浪江から移転の酒蔵、今年も『甦る』 長井で試飲会)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201402/20140209_75002.html

 今年も先週末から仕込みが始まったようで…、そう山歩クラブ「駅からお山歩会」の日だったのです:

 東日本大震災の被災者らが育てた酒米で造る純米吟醸酒『甦る』の仕込み作業が11月15日、長井市の鈴木酒造店長井蔵(鈴木市夫社長)で行なわれ、復興への力を生む酒になるよう願いを込めた。
 震災を機に福島県浪江町から移転して市内の蔵を引き継ぎ「長井蔵」として酒造りを続けている。『甦る』は旧酒造会社の銘柄。2012年冬に復興の意味合いを重ね合わせ醸造を始め、今回が3度目の仕込みとなる。酒米は同市のNPO法人「レインボープラン市民農場」(竹田義一理事長)が運営する避難者用農場「福幸(ふっこう)ファーム」が「さわのはな」を栽培し9月に収穫した。
 避難者や同農場関係者ら約30人が参加。長井蔵専務で杜氏(とうじ)の鈴木大介さん(41)に手順を聞き、蒸し米を仕込み用タンクに投入、櫂(かい)入れに挑戦した。鈴木専務は「いろいろな人の手が掛かっている。みんなが楽しく飲める酒にしたい」。今回は優れた文化の伝承と創造の促進に向けた荘内銀行ふるさと創造基金の助成を受け、一升瓶約2400本を醸造する予定。来年3月に試飲会を開く計画だ。

(2014年11月16日16:14更新、山形新聞「復興への願い込め3度目の仕込み 鈴木酒造「長井蔵」で避難者ら櫂入れ」)
http://yamagata-np.jp/news/201411/16/kj_2014111600359.php

 では、われわれも「レインボープラン市民農場」から仕入れた旬の食材で食卓を飾り、食前酒には日本酒『土耕ん醸』か『甦る』をいただきながら、家族そろって美味しい食事の時間をもつことにしましょう。
 そして、Willie Nelson - Rainbow Connection を聴きながらおやすみにしましょう!  良い夢を!
https://www.youtube.com/watch?v=deebKNI-dTE



(注1)
『土耕ん醸』については:

 「おおっ!」。
 わたくしは、おもわず、声に出した。辛いのだ、それも、とびっきりの辛さだ。
 「わっ、すごい。辛みが、あちこちとんがっている。ハリセンボン的なとんがり方だあ」
 冷やのときは、こんなに辛さを感じなかったため、店主もわたくしもびっくり仰天だ。冷やのときより酸は感じる。厚みはさほどなく、すっきり軽快な飲み口が強調される。苦みも出てくる。飲み進めていくと、最初のアタックより辛さはおとなしくなるが、辛いことには変わりはない。余韻は、辛さと苦みだ。
(2010年8月19日23:31投稿47ニュース「日本酒津々浦々、土耕ん醸 山廃純米 弐拾壱號(どこんじょう・にじゅういちごう)【福島】福島県双葉郡浪江町 鈴木酒造店」)
http://www.47news.jp/feature/sake/2010/08/233.html

(注2)
「純米吟醸酒『甦(よみがえ)る』の仕込み作業の後、こんなことがあったと、「レインボープラン市民農場」の公式サイトは伝えています:

 昨年2013年、福幸ファームの農作業に参加し、福島に残る旦那さまと家族が毎日を共に暮らせるようにとこの春、長井から米沢に移られたHさんもこの日は子供達を連れて駆けつけてくれましたが、子供達同士も久しぶりの再会が嬉しかったようです。
 ただ別れ際には大泣きする子もいて、幼いにもかかわらず既に多くの友達と出会いや別れを繰り返してきた子供たちのことを考えると複雑な気持ちになりました
 原発事故に発生した避難者における数々の問題は多くが手つかずのままなのです。
(今日の2014年11月17日(月)更新、食の安全を消費者と農民がともにつくる農場「レインボープラン市民農場」)
http://rainbowsfarm.cocolog-nifty.com/


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日本と原発

 11月16日日曜日、東京都美術館の次に向かったのが、「シネマート六本木」(港区六本木3-8-15 Tel 5413-7711)。
 映画『日本と原発』上映会があったのです。
 もう会場は人いきれでむんむん、整理券をもらった番号がなんと126番。これをのがすと夕方16時30分からの回までないのです。

 河合弘之弁護士初監督作品・映画『日本と原発、私たちは原発で幸せですか?』の公式 サイト:
http://www.nihontogenpatsu.com/

 本作は、東日本大震災における福島原発事以前から、原発の危険性を訴え続けてきた河合・海渡両弁護士が、真実を広めるために初めて映画に挑戦したドキュメンタリー作品。原発関係者へのインタビューおよび河合監督とのディスカッションや、各地の原発の現地取材で構成されている。
 河合監督は、本作の制作意図について「原発本は500種類以上も出版されていますが、本を買って読むことには限界があります。映画を作り、より多くの人に観てもらうことが、国民の脱原発の思いを強めると思いました」と話す。
 そして、これまでの脱原発もののドキュメンタリー映画との違いについて、「(これまでの作品は)個別のテーマに焦点を絞っていました。また、情緒的なものも多かった。原発を全体的にとらえたものはまったくないんです。(本作を観ることで)これまで原発に無関心だったり、知らなかった人も被害が大きいこと、やめた方がいいと理解してもらえるものを作りたい」と強い思いを語った。
 さらに、海渡弁護士も「日本が原発を推進してきたことが間違っていたというコンポーネントを入れました。脱原発派の方が観たら物足りないと思うかもしれませんが、原発推進派、保守派の人たちにぜひ観てもらいたい」と話して、脱原発の広がりを願った。
 河合監督自身が「借り入れをして、今のところ個人負担」で、数千万円の製作費をかけて作られたという本作。

(2014年3月10日 15時13分シネマテウデイ「『日本と原発』、弁護士が初監督 原発の真実に迫る」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0061243

 本気で国民の皆さんが『日本から原発をなくそう』と思ってほしいんです」。
 11月8日夜、東京・六本木の映画館。スクリーンの前に立った小柄な白髪の男性がそう語りかけると、約160人が埋めた客席から拍手が広がった。
 「監督」として紹介されたのは、弁護士の河合弘之氏(70)だった。自らメガホンをとってドキュメンタリー映画「日本と原発」を完成させた…
 
 山美(うる)わしく 水清らかな その名も飯舘 わがふるさとよ〜

 東京都江東区の亀戸中央公園で9月23日に開かれた「さようなら原発全国大集会」。数百人の参加者を前に、弁護士の河合弘之氏(70)が歌い始めた。東京電力福島第1原発事故で苦しむ福島県飯舘村の村民歌だった。
 機会があるたびに被災地に足を運…

(2014年11月16日付け毎日新聞「ストーリー:脱原発、河合弁護士の原動力 正義との乖離を正す」)
http://mainichi.jp/shimen/news/m20141116ddm010040129000c.html

 そうなんです、この日11月16日日曜日の毎日新聞朝刊には1面と4面に河合先生のご活躍と映画が掲載されていたのです。
 前日の土曜日11月15日付け日刊ゲンダイでも:

 ナレーションの語り口などは朴訥としているが、御用学者や関係者を実名で名指しするなどその批判ぶりは容赦ない。まるでじゅうたん爆撃のように「不都合な真実」を次々と突きつける姿は、法廷で相手を完膚なきまで叩きのめすような迫力と説得力に満ちている。
 幾多の“脱原発映画”の中で、本作が異彩を放つのは何よりこのケンカ上手にある。一般に、反原発ネタの映画は出演者やスタッフ、資金はもちろん、公開劇場を探すことすら困難とされる。事実、本作でも河合監督は数々の職業監督に断られ、出資予定者には途中で逃げられるなど辛酸をなめたという。確かに今後もあらゆる企業と付き合っていかねばならぬ専業の映画監督では、とてもここまでの“ケンカ”はできまい。数々の原発訴訟でリアルに闘う当事者だからこそ、ここまでやれたわけだ。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/154956/2

 この日刊ゲンダイ、さらにさかのぼって9月8日付けをひもどいてみますと:

―その構造が3.11以後も全く変わっていないのが驚きです。

 裁判所の意識は変わってきたなと思いますが、この利権構造は岩盤です。依然として強大で今、再稼働、再稼働と巻き返しを図っている。その先頭に立っているのが安倍政権ですよ。私は安倍さんというのはウソつきだと思っている。汚染水の問題で、「アンダーコントロール」と言い切ったが、明らかなウソです。今だって毎日漏れて、凍土壁もできない。何がアンダーコントロールなんですか。そういうことをヌケヌケと言う。ウソツキ政治家です。世界最高の安全基準というのもウソ。わざと言っているのか、頭が悪くて知らないで言っているのか分かりませんけれど。

―そんな安倍政権が高い支持率を得て、イケイケです。

 私は仮に日本が滅びるとすれば、それは戦争と原発事故しかないと思う。自然災害や財政破綻は絶対立ち直ることができる。阪神淡路大地震でも、その後、被災地は前よりもきれいになった。東北も原発事故の影響を受けていないところは必ず立ち直ります。しかし、原発事故は違うのです。戦争と原発という一番危険な2つのことを推進しているのが安倍政権です。ヘタしたら国を滅ぼす。彼は亡国の政治家だと思います。歴史が判断しますよ。
▽かわい・ひろゆき:1944年生まれ、弁護士。東大法卒。さくら共同法律事務所所長。中国残留孤児の国籍取得を支援する会会長。NPO法人環境エネルギー政策研究所監事、浜岡原発差止訴訟弁護団長、大間原発差止訴訟弁護団共同代表。

(注目の人 直撃インタビュー、福島原発告訴団の河合弁護士「日本が滅ぶとしたら戦争と原発」)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/153151/6

 シネマート六本木の会場で映画が終わったあと、映画監督として先生がマイクをもっておっしゃっておりましたが、この映画、自主上映会も企画できますって、一人でも多くの人にびとに知ってもらいたからって。
 どうしてかといいますと、「脱原発」って目指すところは皆んなが、安全で健やかに穏やかに暮らせる「良い日本」のためなのです、と。本気で取り組みましょう、本気でやれば何でもできる、楽しくできる、そして誰かが助けてくれるって。
 
 ではここで、福島県飯舘村「村民歌」を聴いてみましょうか:
http://www.youtube.com/watch?v=RvSclRvJHqg

 そして劇中音楽については、先生、あの新垣隆ですともおっしゃっていましたので、ぜひ映画をご覧ください、すいせんしますって、ヤッホー君。
 こちらは新垣隆『交響曲HARIKOMI』の新垣隆氏の曲解説付き完全版です:
http://www.youtube.com/watch?v=X8oZdaNS1kw


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2014年11月16日

ある精肉店のはなし

 牛の飼育から解体、販売までを手がけてきた、貝塚市の精肉店の家族を描くドキュメンタリー映画「ある精肉店のはなし」が2014年2月8、9日の午後1時から、岸和田市港緑町のユナイテッド・シネマ岸和田で上映される。映画の舞台となった泉州での公開は初めてで、上映後、この精肉店の北出昭さんらと纐纈(はなぶさ)あや監督のトークショーが開催される。
 この作品は東京、大阪などの大都市を中心に昨年2013年11月末に上映が始まり、50日間で約1万人が入場。ドキュメンタリー映画としては異例の好調な出足となっている。

(2014年02月01日付け毎日新聞地方版、映画:精肉店描く、岸和田で初上映−8、9日/大阪)
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20140201ddlk27040367000c.html

 11月16日日曜日、ヤッホー君は朝あわただしく家をとびだして再度の都美術館へ。
 山歩クラブの仲間と10時正門前待ち合わせ、くだんの纐纈(はなぶさ)あや監督作品『ある精肉店のはなし』を視る約束をしていたもんで。
http://www.seinikuten-eiga.com/

 そうそう、岸和田には岸和田城があるって話しを昨日の「駅からお山歩会」の山路でお話ししていましたね。

 天守閣は1827(文政10)年に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。
 現天守閣は1954(昭和29)年建造された3層3階の模擬天守。本来は5層天守であったことが絵図などで確認されています。城跡は1943(昭和18)年府指定史跡。
 2007(平成19)年4月1日より岸和田城が観光施設として生まれ変りました。

(岸和田市公式サイト、岸和田城)
http://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/36/kishiwadajyo.html

 いえ、その、あの、山でなく、日本のお城の天守閣に登るのを若松さんが趣味となさっておるお話しの流れで、イマ、何城がムカシからの天守閣を保っているのでしょうか?という質問。
 ヤッホー君、すぐ「松本城」と答えることができました。
 しかし、そのあとが続かなかったのです、えっ〜と、あのね:
(全国の国宝に指定されている4城と重要文化財に指定されている8城)
http://matome.naver.jp/odai/2133890213526745801

 あっ、話しがあっちゃこっちゃ飛ぶのは、写真を撮るときにカメラの焦点を定めないのと同んなじなんですってぇ〜…
 戻しましょう、今日の満員の都美術館講堂!

「ある精肉店のはなし」上映とトーク
 この作品は、大阪貝塚市で7代にわたり家族で牛を育て、手作業で屠畜をおこない、その肉を販売、生計を立ててきた北出精肉店を描いたドキュメンタリーです。昨年11月29日(いい肉の日)に公開され、異例のロングランを記録しました。屠畜という仕事と、それに携わる家族の姿、さらに差別されてきた地域の問題を描き、文化庁文化記録映画大賞を受賞するなど、高い評価を得ています。
 トークゲストは監督の纐纈あやさん、プロデューサーで写真家の本橋成一さん、北出精肉店の北出新司さん。
 公開から一年を経て、この映画がもたらした反響などについて語っていただきます。 この機会にぜひご参加ください。
(都人権プラザ公式サイト、人権啓発映画会)
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jigyou/movieh263.htm

 本来ならばこの午後の部、映画上映とトークに参加申し込みをしたのですが、「すでに定員に達したため申込受付は締め切り」となり、救済措置として午前の部にまわされたのですが、それでも満員御礼、しかしうれしかったのは、特別に纐纈あや監督が舞台挨拶してくださったのです!

Q: 屠場をテーマにしたきっかけは?
纐纈あや監督: 私が屠場に出会ったのは、前作『祝の島(ほうりのしま)』を撮影していた2008年のことです。写真家で映画監督でもある本橋成一(もとはしせいいち)さんに連れられて、大阪府松原市の屠場を見学させてもらいました。
 足を踏み入れた瞬間に感じたのは、熱気です。そこで働く皆さんが、700〜800キロもある牛と真っ向から向き合い、全身から汗を流しながら肉にしていく。機械化された屠場ながら、あふれる活気に圧倒されて、言葉もなく食い入るように見つめました。自分の中で勝手につくり上げていた“冷たく、暗く、無機質”という屠場のイメージが、あっという間に変わりました。
 そして、見ているうちに自然と「ありがとうございます」という気持ちが湧いてきたのです。この仕事があるから、私の「食べる」という日常があるんだなって。屠場の仕事を知らないために、差別や偏見が生まれているのは、大きな間違いだと感じました。そして「この仕事を映画にしたい」という強い思いが湧いてきました。しかし、屠場の仕事が昔から被差別部落と深い関わりを持ってきた歴史や、それゆえの差別、また生きものの死を直接映像で扱うということのタブーなどがありましたから、映画にすることは簡単ではないと思っていました。

(インタビュー「食べる」ことは、人が「生きる」こと、映画『ある精肉店のはなし』、2014年2月28日発行『TOKYO人権』第61号所収)
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/61/jyoho61_interview.htm

 「じや失敬、さやうなら」と仲間に言い置いて、ヤッホー君、短足をすたこらさっさ、日比谷線「上野駅」へと向かって急いでいきました。まだ、なんかありそうな雰囲気で去っていきます。
 「アメ横でなんか昼飯食っていくから」と仲間は去っていくヤッホー君の後ろ姿に向かって声をかけます。
 「うん、それも悪くないな」とヤッホー君、ふりむくこともしないまま、片手をあげただけで…



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2014年11月15日

毘沙門山587m

 11月15日土曜日七五三、山歩クラブ「駅からお山歩会」の日。
 終わってヤッホー君からいつものように帰国報告!

 皆さん、こんばんは。
 今日は若松さんと二人で浅草から東武線に乗って「大谷向」駅へ。
 下車して9時半出発、まずは茶臼山517mへ。到着は10時半。
 さらに栃木百名山・毘沙門山587mまで縦走して山頂到着11時半、昼食。
 そしてまた出発地の「大谷向」駅まで戻ってきた、とこういう山行でした。
 狙いは? もちろん、紅葉狩り。

晩秋.jpg

 さっそく若松さんから。

 「本日はハッピー、ありがとうございました。今年最後の紅葉も楽しみ、適度な急峻もあり、低山にしては変化に富み大満足です。電車の中でもヤッホー君の巧みな話題提供で、大変盛り上がりでしたね。また、膝腰の様子を鑑みながら参加したいと思います。本日はお疲れさまでした

 たしかにお天気もまずまず、風もなくおだやかな山歩きが楽しめたと思います。
 次回は、月例のお山歩会にして大ぜいで来ようかな、と。

 登山口にはなんと「ヤオハン」(日光市瀬川218-1 Tel 0288-22-1011)というスーパーを発見、NHK朝ドラ「おしん」のモデルにもなったし、マレーシアのペナン島にもあった店、びっくり、びっくり、まだあるんだねぇ〜からはじまったのです。

 「モノ」から「ココロ」へ、「量」から「質」へと消費動向が変わりつつある現代社会。それが果てしなく広がる大海原であるならば、「株式会社八百半フードセンター」=ヤオハンはそこに浮かぶ船にたとえられるでしょう。時代の風を読み、トレンドの波を見きわめ、全てのスタッフが持てる能力を発揮して一つの力となる。そこではじめて船は大きく前進し、大海原を走り始めます。
 ”戦力・鮮力・選力・専力・先力”という5つの力=Senryoku(S・POWER)を集結し、船力としたヤオハン。栃木県内9店舗を擁するそのビッグなパワーは、さらなる夢と可能性を求めて、今新たな航海へと旅立ちます。

代表取締役社長 片柳伸一

http://www.yaohan.jp/company/index.html

 帰りの車内は、もちろん地酒!
 水は日光、コメも栃木産という地酒「うまかんべ」でしたが、まことにいいお酒:

【日光】
 市内産の酒米を100%使用し、市内で醸造された純米酒「日光産米うまかんべ」が10月20日から市内の酒店約30店で期間限定販売されるのを前に、上都賀小売酒販組合今市支部の女性有志4人が10月15日、醸造元の渡辺佐平商店で瓶詰め作業を行った。
 「うまかんべ」は、とことん日光にこだわった日本酒を造ろうと同組合が8年前から販売。ことしの酒米は高品質で出来もよく、熟成されたうま味がのったバランスのいい「秋上がり」の酒になったという。
 瓶詰めは午前10時半から始まり、同支部の女性が手際よく実施。作業に携わった高野和江さん(64)は「ぜひ、『うまかんべ』で乾杯してほしい」と笑顔をみせた。
 今月10月から来年1月にかけて3回に分けて出荷される。生産量を限定しており、販売数は1.8リットル瓶と720ミリリットル瓶ともに各750本程度という。

(10月16日付け下野新聞朝刊、純日光産純米酒「うまかんべ」瓶詰め 上都賀酒販組合、10月20日から限定販売)
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20141016/1748626

 『うまかんべ』をいただきながら、隣の席にお座りになった姉妹さまとすっかり終いまで、会話が弾んでしまい、まことにのどかな秋の一日でございました。

 えっ?山?
 山はホントにいいですねえ。

毘沙門山.jpg

 下山したあと、振り返ると縦走してきたばかりの山々が、稲刈りがすんだあとの田んぼの向こうに見えるのです。
 右、茶臼山、左、毘沙門山…



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2014年11月14日

映画「そこのみにて光輝く」

 赤城山から、ふたたび函館山へ。
 ヤッホー君のこのブログ、2013年10月17日付け日記「そこのみにて光輝く」をお読みください!
 同じく、2014年10月25日付け日記「十五年戦争と早稲田」も。
 その10月25日の帰りに大学から高田馬場駅までぷら〜りぶらり、徘徊していた時、ヤッホー君の細い目に入ってきたのが「早稲田松竹」(新宿区高田馬場1-5-16 Tel 3200-8968)、そして『そこのみにて光輝く』の文字。
 今春公開でしたから、もう無理だな、とあきらめていただけに、まさかここで会うたも何かの縁、観ていってくんなまし〜!と本日11月14日のハナキン、外出と相成ったわけでござんす。
 というわけでして今朝、志賀直哉と芥川龍之介の備忘録を日記にしてすぐ家を飛び出し、「早稲田松竹」へ。
 さすが都の西北を控えているだけあって、観客は8割がた埋まっておりました(さすが、すご〜い)。
 早稲田松竹が最終日だから、かなぁ〜(ちがう、ちがう、連日だって、すご〜い!)。

 映画『そこのみにて光輝く』が、第87回米国アカデミー賞 外国語映画賞部門 日本出品作品に決定。
 第38回モントリオール世界映画祭にて、最優秀監督賞を受賞した映画「そこのみにて光輝く」(呉美保監督)ですが、第87回米国アカデミー賞 外国語映画賞部門 日本出品作品に決定しました!
 現在も全国の劇場で公開中ですので、ぜひ映画館でご覧ください。
 また佐藤泰志氏による原作『そこのみにて光輝く』(河出文庫)も大好評発売中です。

(2014.09.04更新、河出書房新社トピックス)
http://www.kawade.co.jp/news/2014/09/

 まずは監督 Director: Mipo O へのインタヴューから2本:

♢ 「人間として千夏を肯定したい」(呉監督)
Q 原作以上に千夏の人物像が豊かに描かれ、物語を引っ張っていく大きな存在感を示しているが、脚本作業ではどのように原作を膨らませていったのか?
呉美保監督:24年前に発表された原作の千夏は、映画の千夏よりも饒舌で、ぐいぐいと積極的に達夫に語りかけていく印象を受けました。バブル絶頂期の、皆が前に向かって進んでいる時代の中、千夏はある種、格差社会の底辺に生きる人です。この物語を現代に置き換えて描くにあたっては、職にありつけなかったり、介護の問題を抱えていたりと、生きにくいと思っている人はたくさんいるであろう「今」の格差社会を描くべきだと思いつつも、24年前よりは世の中はクールダウンしている気がするので、そのテンションをちゃんと作りたいと考えました。
 特に千夏は自分の体を使って商売をし、パートタイマーもし、家族の面倒も見ています。父親の介護、酒浸りの母親、何をするかわからない弟を一手に引き受けて生きているのです。だからといって、あからさまに同情されるようなひとりよがりなヒロインにしたくはありませんでした。今回はラブストーリーということもあり、観客の男性には千夏という女に惚れてもらいたい、同時に一人の人間として、千夏を肯定したいと考えました。

(映画ファンのための感動サイト、シネルフレ)
http://cineref.com/report/2014/04/hikarikagayaku-interview.html#header

 今回、映画化に挑んだのは呉美保監督。プロデューサーから話しが来たときは驚いたという。
「原作を読んだら強烈な男と女の愛の物語。正直、思いました。“なんで私なんだろう”と。ただ、過去2作(『酒井家のしあわせ』『オカンの嫁入り』)は、自身のテーマである“家族”と向き合ったホームドラマで、次はまったく違うことにトライしたい気持ちがありました。この原作ならば作り手としての自分が試されるというか。自身の世界観や価値観を勇気をもってきちんと出さなくてはならない。そう考えた瞬間、自分としてはひとつの試練かつ大きなチャンスをいただいたなと思いました」

(ぴあ映画生活。「呉美保監督が『そこのみにて光輝く』で挑んだこと」)
http://cinema.pia.co.jp/news/163284/56902/

 作者のテーマとちょっと離れても、監督は監督で主張していいのですから、ね。
 作者への墓参りもされております:

 9月25日【モントリオール世界映画祭監督賞受賞のご報告A】
 昨日、モントリオール世界映画祭での監督賞受賞のご報告のため、呉美保監督、製作・永田守、製作・企画・菅原和博が原作者・佐藤泰志さんのお墓を訪れました。

(映画『そこのみにて光輝く』公式サイト)
http://hikarikagayaku.jp/

 モントリオールはカナダ、そればかりではありません、イギリスでも:

 現地時間10月4日、ロンドンで開催されていた第22回レインダンス映画祭で、呉美保監督の『そこのみにて光輝く The Light Shines Only There』がベストインターナショナル賞を受賞した。レインダンス映画祭は、ヨーロッパ最大級のインディペンデント映画祭。今年は50か国以上から約100本の長編、約200本の短編が出品された。
 本作は、北海道函館を舞台に、生きる場所のない男女を綾野剛と池脇千鶴が演じるラブストーリー。もう1人のメインキャラクターとなる菅田将暉を含め、俳優陣の演技が光る。レインダンスでも「それぞれのキャラクターが素晴らしい演技によって描かれた心揺さぶられる映画」と評された。獲得したベストインターナショナル賞は、海外長編作品中の最高賞となる。

(2014年10月6日15時27分更新、シネマトウデイ「『そこのみにて光輝く』が英国レインダンス映画祭ベストインターナショナル賞受賞!」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0066993

 どれどれ…:
http://calendar.raindancefestival.org/films/the-light-shines-only-there

 今日で「早稲田松竹」での公開は終わりましたが、まだまだ… 見逃している方はぜひ、小田急・京王「多摩センター駅」へ。
 前掲、映画『そこのみにて光輝く』公式サイトの10月9日付け「最新情報」によりますと…
 駅前からゆったりとのぼる赤煉瓦の遊歩道をまっすぐに、楠並木の途切れた突き当たり正面にそびえるのが「パルテノン多摩」ですが、ここで:

 11/22(土)より多摩市で開催されます第24回映画祭 TAMA CINEMA FORUM の TAMA映画賞におきまして
池脇千鶴さんが最優秀女優賞、菅田将暉さんが最優秀新進男優賞をそれぞれ受賞いたしました!
 11/22(土)パルテノン多摩 大ホールで行われる授賞式には、お二人もご登壇予定です。
 また、映画祭のプログラムのひとつに「作家・佐藤泰志の世界―函館を舞台にする不遇の小説家―」が組まれています。
 『そこのみにて光輝く』の上映とともに、呉美保監督のトークショーも決定しています。
 日時:11/29(土)パルテノン多摩 小ホール
 •13:30−15:30『そこのみにて光輝く』
 •15:30−16:00 トークショー、ゲスト:呉美保監督
 •16:15−18:47『海炭市叙景』([152分/監督:熊切和嘉 主演:谷村美月]
 チケット、その他詳細は、映画祭公式HPでご確認ください。

http://www.tamaeiga.org/2014/




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水と緑と詩のまち

 「じや失敬」
 「さやうなら」
 HやNさんに別れた後、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音の外に時々澄み渡つた蜩の聲も僕等の耳へ傳はつて来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いてゐる蜩だつた。
 「おい、M!」
 僕はいつかMよりも五六歩あとに歩いてゐた。
 「何だ」
 「僕等ももう東京へ引き上げようか?」
 「うん、引き上げるのも悪くないな」
 それからMは気輕さうにテイッペラリイの口笛を吹きはじめた。
(大正14.8.7)

…芥川龍之介、1892(明治25)年3月1日-1927(昭和2)年7月24日『海のほとり』

 書誌によりますと、この作品は、1925(大正14)年9月10日発行の雑誌『中央公論』第40巻第10号に掲載され、のち『湘南の扇』に収められたとのことです。
 ヤッホー君のお父上君が生まれた年のことですねぇ〜(*)

 ところで、「ワルツが早くも志賀高原のなかの湖面をゆっくりたゆたっております」とヤッホー君が志賀直哉の『焚火』(1920(大正9)年執筆)について書きましたが、その5年後の晩夏、どんな曲が房総の海の水面を流れたのでしょうか?

 Tipperary Song (Das Boot)
http://www.youtube.com/watch?v=pddW-HeHAwo
 It's A Long Way To Tipperary
https://www.youtube.com/watch?v=cPk21C0Wpkg

 もう流れるようなワルツではなくなって、勇ましい行進曲が世にはびこるようになっています。

 ところで、芥川龍之介は、志賀直哉の『焚火』の世界、それを「話らしい話のない小説」と驚嘆、すっかり感化されたそうですが、その志賀直哉と芥川龍之介はどんな関係?
 志賀直哉は、芥川龍之介が世を去った直後、こんなことを洩らしています:

 芥川君とは7年間に7度しか会った事がなく、手紙の往復も3、4度あったか、なかったか、未だ友とはいえない関係だったが、互いに好意は持ち合って居た…。
…志賀直哉「沓掛にて、芥川君のこと」(中央公論、昭和2年9月号)、『白い線』(大和書房、2012年新装改訂版)所収

 芥川龍之介が、「志賀直哉氏は僕らのうちで最も純粋な作家、でなければ最も純粋な作家たちの一人である」と書いたのは、谷崎潤一郎との間に「話らしい話のない小説」について論争を起こした「文芸的な、余りに文芸的な」の中で、1927(昭和2)年のことであった。これが芥川の最後の評論で、その年の7月24日未明、芥川が自殺して35歳の生涯を閉じたのは周知のことである。
 芥川は「夏目先生」という談話でも、

「或時、僕が志賀さんの文章みたいなのは、書きたくてもかけないと言った。そして、どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね、と先生に言ったら、先生は、文章を書こうと思わずに、思うままを書くからああいう風に書けるんだろうとおっしゃった。そうして、俺もああいうのは書けないと言われた」
と述べ、及び難い作家として直哉を見上げている。

 「沓掛にて」は、芥川の死をいたむ直哉の文章だが、普通の追悼文とも少し変わって、またむきのちがった構えで書かれている。この短編のなかに、直哉の我孫子の家に芥川がやってきたときのことが書かれている。1922(大正11)年夏のことで、芥川は「腹下しのあとで痛々しいほど、痩せ衰え、そして非常に神経質に見えた」という。そのとき芥川は、直哉の「全く小説を書かなかった時代のこと」をしきりに聞きたかったという。
 芥川自身がそういう時期にきているらしく、

「自分は小説など書ける人間ではないのだ」
というようなことも言ったという。それに対して直哉は、
「そういう時期は誰にでも来ることゆえ、一々真に受けなくてもいいだろう。冬眠しているような気持ちで1年でも2年でも書かずにいたらどうです」
とすすめ、
「私の経験からいえば、それで再び書くようになった」
と答えている。
 しかし、
「そういう結構なご身分ではないから」
と芥川は書きつづけ…

(作家と作品について「11、小説の神様といわれて「志賀直哉」)
http://www3.ocn.ne.jp/~yoursong/white2/index2.htm

 ぜひ、『白い線』を探して、所収の志賀直哉の追悼文をお読みくださいね。
 あっ、それと芥川龍之介『海のほとり』も! 文学を志す若き青年の悩み、揺れ動く気持ちもぜひ追体験してみてくださいね。 

 なんかちょっと似ているけど、おおきく違ってもみえるこの二人。
 志賀直哉と芥川龍之介!それに萩原朔太郎を噛ませてみると、赤城の山々、赤城神社、上州にはどんな風にからっ風が舞っているのでしょう…

 ああ、もう一度行きたし、水と緑と詩のまち…
 されど遠し、あの文人たちの森…

 中央大学「知の回廊 第60回『志賀直哉 対立から調和への道程』:
http://www.youtube.com/watch?v=gl7k1nyS_dg
 あの人に会いたい・志賀直哉:
http://www.youtube.com/watch?v=Knf7UIAnrHI
 創業130年、あかぎ温泉「湯之沢館」:
http://www.hananoyado.com/
 赤城山総合観光案内所(白樺の森文学コーナー):
http://www.city.maebashi.gunma.jp/kanko/405/407/p003754.html



(*)
ヤッホー君のこのブログ、2010年7月7日付け日記「父死す」参照


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2014年11月13日

志賀直哉

 小鳥島と岸の間は殊に静かだった。
 晴れた星の多い空を舟べりから其儘下に見る事が出来た。
 「こつちでも焚火をしませうかな」とKさんが云つた。
 Sさんは癖になつて居るドナウ・ウェレンの口笛を吹きながら漕いで居た。
 「オイKさん。どの邊へ着けるんだい?」とSさんが訊いた。Kさんは振りかえつて見て、
 「丁度此見當でよう御座んすよ」と答へた。
 それから、何といふ事なしに皆は暫く黙つて了つた。舟は静かに進んで行つた。
…志賀直哉『焚火』、志賀直哉全集第3巻(岩波書店、1973年)所収、106-107頁

 これは志賀直哉(1883年宮城県石巻市生まれ-1971年)の文章です。
 どうしてか、と言いますと、「赤城神社」(前橋市富士見町赤城山4-2 Tel 027-287-8202)の境内に志賀直哉の文学碑が建っているからなんです。
http://akagijinja.jp/

 碑文には、小説『焚火』の末尾が次のように刻まれているのです。

直哉
船に乗つた。蕨取りの焚火は
もう消えかかつて居た。船は小
鳥島を廻つて、神社の森の方へ
静かに滑つて行った。梟の聲が
段々遠くなつた。


 山歩クラブの月例お山歩会の当日、天気がけして良いとは言えなかったのですが、遠望が効き、駒ヶ岳〜黒檜山の縦走をし、下山途中、猫岩からは大沼に浮かぶ赤城神社、湖を囲むようにそびえる地蔵岳その他外輪山を見晴るかし、気分爽快になったのはいいのですが、雨中の行軍はしないよ、降雨の場合、覚満淵と赤城神社参拝だけにします、と言ってのですが、お天気がもってくれたのは、赤城神社のお加護によるものとひたすら平身低頭、いつの日か訪れてみたや、赤城神社に、志賀直哉の文学碑。

 ところでこの『焚火』にでてくる《Sさんの吹くドナウ・ウェレン》の調べってなに?

”a waltz composed by Iosif Ivanovici (1845--1902) in 1880, and is one of the most famous Romanian tunes in the world”
http://www.youtube.com/watch?v=Ht30HqwXoxA
http://www.youtube.com/watch?v=ermFrBxaMbo
http://www.youtube.com/watch?v=Ry5cMYut6l8
 
 ↑ これはですね、明治33年、と言いますとちょうど夏目漱石が文部省からイギリス留学を命じられ欧州行した年、1900年ですが、その年に生まれた美しい三拍子の純粋国産のワルツ『美しき天然』(武島羽衣作詞、田中穂積作曲)です(*)。
 ワルツが早くも志賀高原のなかの湖面をゆっくりたゆたっております。
 それから20年後のことです。

 全集版の書誌解説によりますと、この『焚火』の初出は、1920(大正9)年4月1日発行の『改造』第2巻第4号で、原題は『山の生活にて』。
 どうして志賀直哉が「山」に? そしてどんな生活だったのでしょうね… ヤッホー君は「白樺」探しへと駆け出していきますがほっときましょう。
 
 この『改造』は、「解散及総選挙批判」「婦人解放問題」を特集し、創作はこの『山の生活にて』を含む14編…
 1922(大正11)年4月、改造社より刊行された『壽々』に収録、その際、『焚火』と改題された。
 末尾に、1920(大正9)年3月と執筆年月も明示された。

 イマのご時世と似通っているような感じ…、どれどれ

 大正8年、原敬首相は選挙法を小選挙区制に改正した(1人区295、2人区68、3人区11、定数464.納税要件は10円から3円に引き下がる)。
 改正の本音は、政友会が絶対多数を確保する必要にあり、
(1) 山県系の官僚制勢力の打破
(2) 憲政会、国民党を抑える
(3) 社会主義勢力の打破
にあったとされた(特に(3)は重要)…
 第14回総選挙(大正9年5月10日)において、原敬内閣(立憲政友会)は、小選挙区制初の選挙で大勝利をおさめ、衆議院の構成は、政友会278名、憲政会110名、国民党29名、無所属47名となる。

…前田英昭「衆議院議員選挙とカネ」(駒澤大学法学部政治学論集32、1991年1月)所収、51頁

 当時、1920(大正9)年の日本の総人口5596万人、農林業従事者1500万人、非農林業従事者は1200万人(製造業500万人、商業・サービス業従事者700万人)。
 都市住民を中心とする労働者数は466万人、都市部における新中間層(医者、教員、技師、記者などサラリーマン及び自由業者)は79万7000人。
 6大都市人口は、東京335万人、大阪176万人、京都70万人、神戸64万人、名古屋61万人、横浜57万人、計763万人、だったそうです。
(小山昌宏「1920年、大正9年から1930年、昭和5年までの大衆社会状況〜昭和初期の都市大衆と農村民衆の生活水準について〜」、東京外国語大学留学生日本語教育センター論集34、2008年所収、106頁)



(*)
ダークダックス喜早哲『日本の抒情歌』(誠文堂新光社、1983年)53-58頁参照

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2014年11月12日

ウフィツイ美術館展

 11月12日火曜日、「氷島 Iceland」探しを一時中断、小雨に煙る上野公園は「東京都美術館」へ。
 イマ「ウフィツィ美術館展」が開催されています(〜12月14日日曜日)。
 成田空港なんてなかった大ムカシ、羽田空港から飛び立って向かったヤッホー君はじめての欧州行。
 一ドル360円(固定相場)の円安時代ですからイマの120円なんてその3分の1。
 それ以来好きになった都市がイタリアにたくさんあります。
 そのなかのひとつ、フィレンツエから「ウフィツィ美術館」が来日するなんてニュース、見逃すわけにはいかなかったのです。
 赤城山から、上野の山へ。
 待ち合わせの場所、時間を自分で10時半と言っておきながら、最近健忘症の進み具合が早くって、何を約束したのかが、春でもないのに、霞がかかって、おぼろげ。
 開門時間の9時半前には、行列のなかに入って、時計を見ながら待っていたり。
 さ、門が開き、並んでいた人びとが続々と入館していきます、さ、どうする?
「あのお、一回中に入ったら、外に出て、もう一度中に入るってことできないですよね」
「一般的にはできませんが、どうしたんですか」
「あのお、10時半に正門でと待ち合わせしたんですが、一時間も時間を間違って早く着いちゃって」
「そうしたら、入室して、中でお待ちになって、その旨お連れさまに申し上げてはいかがですか」
「そうですよね、考えるまでもなく、お願いするまでもなく、簡単なことですよね」
(世間に疎いヤッホー君、大汗たらーっ(汗)

 イタリア・ルネサンスの中心都市フィレンツェでは、15世紀後半から工房による組織的な制作活動が盛んになり、数多くの優れた芸術家が育成されました。彼らは互いに切磋琢磨し合うなかで、工房の画一的な様式を越えた表現を探究し、やがてヴァザーリが「マニエラ・モデルナ(新しい様式)」と呼ぶところの、16世紀の卓越した新時代様式が開花します。
 本展は、世界的に名高いウフィツィ美術館の収蔵品を通して、15世紀から16世紀にかけてのフィレンツェ美術の流れを展観します。メディチ家のコレクションを核に設立されたウフィツィ美術館はもっとも歴史が古く、ルネサンスを代表する画家ボッティチェリの多くの作品を所蔵する美術館としても知られています。《パラスとケンタウロス》をはじめとするボッティチェリ作品を多数紹介するほか、アンドレア・デル・サルトやポントルモ、ブロンヅィーノら、16世紀のフィレンツェ美術を牽引した主要な画家たちの約80点に及ぶ作品を通じて、豊かで多様なフィレンツェ・ルネサンスの真髄に迫ります。

(ウフィツィ美術館展〜黄金のルネサンス ボッティチェリからブロンヅィーノまで〜)
http://www.tbs.co.jp/event/uffizi2014/#info1

 はや、こころはフィレンツェ!
 [世界遺産]フィレンツェ,イタリア/Florence,Italy
http://www.youtube.com/watch?v=fvuvKepS-W4
http://www.pideo.net/video/youku/c9cc0f9b848cf79f/

 ◇ルネサンスの薫り
 イタリア北部の古都フィレンツェは14〜16世紀のルネサンス(古代ギリシャ・ローマの古典文化の復興運動)を代表する名門貴族・大富豪メディチ家の町だ。保護を受けた芸術作品は地元の宝。中心部を流れるアルノ川に架かる「ベッキオ橋」もメディチ家ゆかりの文化遺産として知られる。
 アルノ川沿いを歩くと、イタリア語で「古い橋」を意味する黄土色のベッキオ橋がひときわ目を引く。特徴的な「2階建て」の構造になっているためだ。古代ローマ時代から石と木で造られた橋が架かっていたが、1345年に現在の原形となる橋が建造された。
 2階部分はメディチ家の当主コジモ1世(1519〜74年)の命で、邸宅(ピッティ宮)と対岸の政庁舎(ベッキオ宮)をむすぶ空中回廊の一部として1565年に建設された。画家としても活躍した建築家、ジョルジョ・バザーリ(1511〜74年)が5ヶ月で完成させたという。「1階部分は精肉店が並ぶ肉屋通りだったが、臭いを嫌ったメディチ家が、金細工工房に総入れ替えした」。宝飾店主のウゴ・ゲラルディさん(63)が解説する。
 第二次大戦中、ムソリーニ政権崩壊後の北部イタリアを占領していたナチス・ドイツは連合軍に追い詰められ、退却中にフィレンツェの橋を爆破したが、ベッキオ橋だけが難を逃れた。ムソリーニの招待で橋を訪れたことのあるヒトラーが、回廊からの展望に感銘を受けたためと伝えられている…
 ゲラルディさんは「お得意様は米国人だったが、2001年の米同時多発テロ以降、右肩下がりだ」と指摘する。ユーロ危機で欧州各国の観光客の足も遠のいた。「財布のひもが緩いのはニューリッチで、ブランド好きの中国人観光客くらいだ。うちは中国人好みのサンゴ細工が主力商品なので、なんとかなっている」
 フィレンツェでは今、「イタリアのブレア(元英首相)」と呼ばれるマッテオ・レンツィ「市長」の一挙手一投足が注目されている。まだ39歳の若さで、なかなかのハンサム。昨年2013年12月に中道左派政党・民主党の書記長(党首)に選ばれ、主要政治家の中で次期「首相」に最も近い位置に付けている。幼少・青年期を過ごしたリニャーノ・スラルノ村は、フィレンツェ市郊外だ…
 かつて貿易と金融業で富を成したメディチ家のお膝元として栄華を誇ったフィレンツェ。住民たちはレンツィ氏の活躍に古き良き時代を重ね合わせているのかもしれない。欧州債務危機の閉塞(へいそく)感が尾を引く中、地元発の変革を望む空気が静かに流れている。

(2014年01月27日付け毎日新聞東京夕刊【福島良典】「世界道ものがたり:ベッキオ橋、イタリア・フィレンツェ)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140127dde012040008000c.html

 メディチ家の替わり、イマはフェラガモ?
 メディチ家のジョヴァンニ・ディ・ビッチの替わり、イマはマッテオ・レンツィ?(予見した通りにイマ、イタリアの「首相」です!)

The Uffizi Gallery in Florence is to renovate and reopen eight rooms showing Renaissance art after a €600,000 (£488,000) donation from the luxury goods company Salvatore Ferragamo.

About 50 paintings from artists including Luca Signorelli, Lorenzo di Credi, and Pietro Perugino, are to be exhibited within the course of a year, officials said.

Ferragamo is the latest in a long line of names from the Italian fashion world to come to the rescue of the country's struggling cultural heritage.

The luxury shoemakers Tod's – whose chairman and chief executive, Diego Della Valle, is Italian – has pledged €25m to restore the Colosseum in return for use of its image. Last year Fendi announced it was funding a €2.18m renovation of the Trevi fountain in Rome.

But Cristina Acidini, superintendent for Florence's historical heritage and fine arts board, said the Ferragamo donation differed from these sponsorships. "I thank Ferragamo for having accepted this system because it shows pure generosity without a quid pro quo," she told journalists, La Stampa reported.

Matteo Renzi, the centre-left former mayor of Florence who became Italy's youngest ever prime minister in February, has raised eyebrows with his advocacy of private sector involvement in the arts.

In March he challenged businesses to provide money to help Italy preserve the ancient ruins of Pompeii, saying the "ideological refusal to permit [it]…must end."

Italy has the greatest number of Unesco world heritage sites in the world, but is struggling to maintain them because of slashed budgets and mismanagement.

Ferruccio Ferragamo, president of the luxury goods company, was quoted in Italian media as saying the Uffizi donation was an act of "giving back" to Florence, the city where his father, Salvatore, set up a shoe shop in the late 1920s.


Uffizi Gallery to reopen Renaissance art rooms after €600,000 gift
〜Fifty more paintings to be exhibited as Florence museum accepts donation from luxury goods firm Salvatore Ferragamo〜
Lizzy Davies in Rome
theguardian.com, Tuesday 13 May 2014 18.31 BST
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萩原朔太郎

 萩原朔太郎は、1886(明治19)年11月1日群馬県に生まれ、1942(昭和17)年5月11日東京で亡くなっています(*)。
 萩原朔太郎にも名月赤城山を詠った詩があり、碑になっているのです。

 前橋市曲輪町(現千代田町)の開業医の長男として生まれた朔太郎は、前橋中学校在学中に詩歌の創作を志し『文庫』『明星』などにも多数投稿。その後白秋の詩風に魅せられ、心を寄せる。
 27歳で中央詩壇にデビューした朔太郎は、処女詩集『月に吠える』で一大旋風を巻き起こし、それまでになかった口語自由詩を確立しました。
 以来創作活動において、日本の近代詩に燦然と輝く詩歌を数多く残しました。

《前橋市内7か所の詩碑》
○ 才川町詩碑(才川公園)


(十二月下旬)
空に光つた山脈(やまなみ)
それに白く雪風
このごろは道も悪く
道も雪解けにぬかつてゐる。
わたしの暗い故郷の都会
ならべる町家の家並のうへに
かの火見櫓をのぞめるごとく
はや松飾りせる軒をこえて
才川町こえて赤城をみる。
この北に向へる場末の窓々
そは黒く煤にとざせよ
日はや霜にくれて
荷車巷路に多く通る。

*『純情小曲集』(1925年刊)「郷土望景詩」より
*1986年9月生誕100年を記念して設置
(前橋市公式サイト、詩人の紹介「朔太郎の作品」)
http://www.city.maebashi.gunma.jp/kurashi/230/263/264/p003271.html

 一夜、渋谷の天井桟敷へ、朔美さんと言う朔太郎の孫を見るために下北沢からでかけて行ったりした。
 わたしのなかの魔力のようなもの、それがたしかにあったのだ。
 わたしは「氷島」を追う。

…吉増剛造(1939年東京生まれ、2013年には旭日小綬章受章、文化功労者。福生市民栄誉賞受賞)「氷島・下北沢」(文芸読本『萩原朔太郎』新装版1984年、河出書房新社)

 ヤッホー君も「氷島 Iceland」探し:

「帰郷」昭和4年の冬、妻と離別し二児を抱えて故郷に帰る

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒(めざ)むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのお)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何所の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向へり。
砂礫(されき)のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗澹(あんたん)として長(とこし)なへに生きるに倦(う)みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野(こうや)を走り行き
自然の荒寥(こうりょう)たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり。


<小解>
昭和4年。
妻は二児を残して家を去り、杳として行方を知らず。
我れ独り後に残り、蹌踉として父の居る上州の故郷に帰る。
上野発7時10分、小山(おやま)行高崎廻り。
夜汽車の暗爾たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。
声最も悲しく、わが心すべて断腸せり。
既にして家に帰れば、父の病とみに重く、万景悉く蕭条たり。


 1929(昭和4)年、朔太郎43歳にして7月妻と離婚しています。この年10月、ニューヨーク株式大暴落、世界恐慌がはじまります。
 朔太郎が結婚したのは1919(大正8)年5月、相手は上田稲子でした。10年しかもたなかったんですねぇ〜。

 ”歴史をつくるのは勝者”の喩えと同じように、書いたもん勝ちの朔太郎ですが、詩人には落ち度がなかったのかな…、二児はその後どうなったのでしょうか…、
 ヤッホー君の「氷島 Iceland」探し、まだまだ続きます。


(*)
 妻との離別後は、いったん前橋に戻り、昭和4年11月に再び単身上京し、赤坂のアパート乃木坂倶楽部に、父密蔵が重態となるまでの1ヶ月あまりを仮寓している。昭和5年7月に父は死去し、家督を相続した朔太郎は、同年10月に末妹アイとともに上京して牛込区市ヶ谷台町に、翌6年7月(推定)には、世田谷町東北沢、9月に世田谷町下北沢に母ケイ、二児、妹アイと住む。そして、昭和7年11月に世田谷区代田(世田谷町は11月より世田谷区)の土地を借地して自ら設計の家を建築し、前出の4人とともに翌年1月(推定)入居した。朔太郎は、昭和17年に亡くなるまでここに住み、ここをついのすみかとする。
 『氷島』出版の時点もこの家に住んでおり、朔太郎はようやく自分の家をもったということになる。なお、前橋の「萩原医院」は、妹ユキ夫妻に譲られて「津久井医院」となっており、家長として家を継ぐことを放棄してしまった朔太郎は、父の死後、故郷に帰るべき家をなくしてしまう。
(高橋理、『氷島』論〜萩原朔太郎における風土〜、千葉大学文学部国語国文学会紀要第22号(1994.11)所収

 この昭和17年に亡くなった他の人には、谷豊(3月)、与謝野晶子(5月)、北原白秋(11月)、中島敦(12月)などがいる。
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2014年11月11日

活火山・赤城山

 11月10日月曜日は山歩クラブの月例お山歩会とはうってかわって、好天好日。
 ヤッホー君は”eチャリ”。千代田図書館で読書の秋をきめこんでいました。
 古い自転車も「佐賀サイクル」(江東区清澄1-6-9 Tel 3643-5723)で診てもらいました。
 だってそれまではペダルを踏むたびに、ギーコギコ、ガッチャガチャうなっていたんですぅ。
 そんな異常音も収まり、”eかんじ”

 その2014年11月10日付けの毎日新聞:

 戦後最大の犠牲者を出した9月27日の御嶽山(長野・岐阜県境、3067メートル)の噴火は、火山と向き合うことの厳しさと難しさを改めて浮き彫りにした。
 世界に約1400ある活火山のうち110が集中する火山国・日本。気象庁が24時間体制で監視を続ける活火山は47あるが、そのうち具体的な避難計画が策定されている火山は数山に過ぎないという…

 気象庁が監視する47の活火山のうち、その3分の1の14が関東1都6県に集まっている。
 その中で群馬県には草津白根山や日光白根山、赤城山、榛名山、浅間山の5火山があり、気象庁は常時観測している。

(毎日フォーラム・特集:火山と向き合う)
http://mainichi.jp/feature/news/20141106org00m010018000c.html

 えっ、昨日歩いてきた赤城山も「活火山」exclamation&question

 へえ〜っ、気象庁、気象庁…

 底面の径約25km、大型の成層火山。
 安山岩の成層火山を形成した後に、約7〜5万年前の間のいずれかにデイサイト火砕流の流出と湯ノ口軽石の噴出によって山頂カルデラ(南北4km、東西3km)を形成した。その後、中央火口丘形成期に入るが、約4〜4.5万年前の間のいずれかに鹿沼軽石が噴火。カルデラ内に小沼・地蔵岳・見晴山などのデイサイト溶岩ドーム、小沼タフリングが形成され、これらの活動は約2万4000年前には終了した。
 大沼はカルデラ内低地の湖。現在、噴気・硫気孔は現存しない
 1251年に噴火した記録が残るが、古記録と対応する噴出物は発見されていない。

(気象庁、42・赤城山)
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/42_Akagisan.pdf

 死火山とか休火山でなく、赤城は活火山なんだexclamation×2

 『吾妻鏡』の1251(建長3)年4月の26日条に「去19日(1251.5.11)、上野國赤木嶽焼,為先例兵革兆之由、令在廳等申之由云々」とある。去る19日に上野国の赤木嶽が焼けた、先例によると戦乱の兆候だというので、国府の庁にいる役人に報告させたそうである、という意味だ。
 この記述だけを理由に、赤城山は気象庁によって活火山に指定されている…

 赤城山は過去2000年噴火していないどころか、完新世(注1)にも噴火していない。
 しかし同じ群馬県内にある草津白根山は、35万年前ころを最後に噴火をいったん止めたあと、1万9000年前からふたたび噴火を繰り返している。
 榛名山は、4万2000年前から噴火を再開するまで、20万年近くまったく噴火なしですごした。その後はおよそ1万年間隔で4回のテフラ+溶岩ドーム噴火を繰り返している。
 2万4000年の時間が、赤城山の地下のマグマが死に絶えたことを示すに十分な長さかどうかはたいへん疑わしい

(早川由紀夫、1999年地球惑星科学関連学会合同大会予稿集原稿「赤城山は活火山か?」)
http://www.hayakawayukio.jp/paper/akagi/1251.html

 群馬大学の早川由紀夫先生(注2)、先述の「御嶽山の噴火」について、先生の「火山ブログ」でこんな感想を述べられておりまして、ヤッホー君もそうだよね、と深くうなずいた瞬間でした。
 あのう、あまりの好天好日で、ひなたっぼこして、ついつい、こっくりこっくりしはじめたのかな…

 機器観測を強化すれば、感度を上げることはできる。見逃しをなくすことはできる。ほんのわずかな異常でも噴火予報を出せばよいからだ。
 しかし、同時に的中率が劇的に下がる。カラ振りを連発することになる。もしそうなったら、気象庁が出す噴火予報を信頼するひとはいなくなるであろう。
 機器観測を強化すれば噴火予知できるようになる、の期待は甘い

 因果関係あるいはメカニズムに裏打ちされない情報では、信頼のおける予知はできない…
 気象衛星や気象レーダーで雲の動きがわかるように地下のマグマや割れ目の動きがわかるようになれば話は別だが、いまの機器観測をどんなに充実しても一般の利用に適合するような噴火予知ができるようにはならない

 私たちにできることは、いま私たちが力を入れるべきことは、起こった噴火の即時把握とすみやかな情報伝達ではなかろうか。
 今回の御嶽山のようなクライマックスが最初に来るタイプの噴火は残念ながらお手上げだが、噴火の中盤あるいは最後にクライマックスが来るタイプの噴火では、即時把握とすみやかな情報伝達が大ぜいの命を救う場面があるにちがいない。

(2014年11月8日公開、9日修正、早川由紀夫「インターネットを利用した御嶽山2014年9月27日噴火の即時把握と解釈」)
https://dl.dropboxusercontent.com/u/61990884/ontake2014.pdf



(注1)「完新世」って用語は英語に直すと、the Holocene, the geological time we live in now つまり、イマまでのこと。いつからかは、議論があるようですが、「最近の1万年」にしておきましょうか。ところで、「イマまでの Holocene」って、「これから Anthropocene」が先月の10月16日の英国紙ガーディアンによりますと、もう議論の俎上にのぼっているようで…

A disparate group of experts from around the world will meet for the first time on Thursday for talks on what must rank as one of the most momentous decisions in human history.

The question confronting the scientists and other specialists is straightforward enough, even if the solution is far from simple. Is it time to call an end to the epoch we live in and declare the dawn of a new time period: one defined by humanity’s imprint on the planet?

The 37-strong group, made up of geologists, climate scientists, ecologists – and a lawyer for good measure – will start their deliberations in a room at the Haus der Kulturen der Welt, or House of the Cultures of the World, a contemporary arts centre in Berlin…

The word came into common usage after Paul Crutzen, a Dutch chemist and Nobel prize winner, used the term in 2000. He argued in an academic newsletter that the current geological epoch should be awarded the new name to reflect the major and ongoing impact of human life on Earth.

The official arrival of the Anthropocene would mark the end of the Holocene, the geological time we live in now. Identified by a geochemical signal in Greenland ice cores that marks the onset of warmer and wetter conditions at the end of the last ice age, the Holocene defined a time when humans colonised new territories and the population swelled.
http://www.theguardian.com/science/2014/oct/16/-sp-scientists-gather-talks-rename-human-age-anthropocene-holocene

(注2)
早川由紀夫先生についてはヤッホー君のこのブログ、以下の日記もあわせてお読みください:
☆ 2014年6月21日付け日記「貞観噴火」
☆ 2011年9月13日付け日記「早川由紀夫」


 
 
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2014年11月10日

名月赤城山

 おはようございます。
 今日は旅4日目の函館でございます☆〜(ゝ。∂)
 昨日、函館にまいりまして、函館山に行ってきました!
 久々でした!でも!やっばりいい(^-^)
 綺麗だし、あの景色を見ると心がすっきりする!(^-^)
 夕暮れだったので、なんだか、寂しい気持ちも湧いてきましたが…;_;
 さあ!函館のコンサート頑張りまーす☆〜(ゝ。∂)
 ♪(v^_^)vはーるばるきたぜ函館へー♪(v^_^)v

(2014.11.08更新、島津亜矢公式ブログ「コンサートin函館」)
http://www.shimazu-aya-koenkai.com/blog/

 一昨日の島津亜矢でした。
 では、島津亜矢で「函館山から」(作曲は、小椋佳なんですって):
http://www.youtube.com/watch?v=2QKDUBU_y2A

 島津亜矢が歌いたかったオリジナルは、こちらから:
http://v.youku.com/v_show/id_XNTE3NDM2NTc2.html

 歌が、唄が歌い継がれていく…、そして皆んなが歌える唄になる…、いいことですよね。
 島津亜矢は1971年に熊本県生まれていますが、その翌年には、島津亜矢がカバーしたオリジナル曲を歌った直立不動の歌手、東海林太郎が亡くなっているのです。

 函館山から赤城山へ。

 ではそのオリジナル「名月赤城山」はこちらから。
 初めてレコーディングされたのは、なんと80年前も前のことですって。
 懐かしの東海林太郎(1898-1972):
http://www.youtube.com/watch?v=GL5PiG8VL4E

 東海林太郎って、どこでお生まれになったのか…
 イマ「国民文化祭」でわく、秋田県でした(注1)。

 秋田市出身で昭和を代表する歌手、東海林太郎の遺品や記念品を展示する同市大町2の「東海林太郎音楽館」に、東海林のプロ入りのきっかけになった1933年の「第2回時事新報社主催音楽コンクール」の入賞をたたえるはがきが贈られた。これまでは入賞を証拠づける文書はなく、同館の上野道子さん(66)は「館の貴重な財産が増えた」と喜ぶ。
 はがきは、コンクールの入賞者向けに東京都内で開かれた夕食会の出席を勧めるもの。東海林は35歳の入賞以降、レコード会社からの仕事が増えたという。翌年1934年には代表曲「赤城の子守歌」のレコーディングをしている。大阪市中央区に住む長男、和樹さんが経営していた音楽教室から見つかり、東海林の楽曲の楽譜約50冊とともに寄贈された。
 10月4日開幕の国民文化祭・あきた(国文祭)(注2)の「東海林太郎音楽祭」では、開幕日に「東海林太郎を偲(しの)ぶ歌」と題し、コンクールで東海林が歌ったシューマンの「我は恨まず」も歌われる。

(2014年09月27日付け毎日新聞地方版・中村俊甫「東海林太郎:プロ入りきっかけに、音コン入賞のはがき寄贈 秋田の音楽館に「貴重な財産増えた」/秋田)
http://mainichi.jp/feature/news/20140927ddlk05040318000c.html

 シューマンの「我は恨まず」は、Anna Moffo(1932-2006), one of the most glamorous sopranos of the 1950s and 60s でこちらから:
Ich grolle nicht (Schumann)
http://www.youtube.com/watch?v=L8GJWgmYXTY

 う〜ん、いい声ですね。
 今日みたいな秋の好日には、もっと聞きたくなりますが、東海林太郎もきっと声に魅せられたのでしょうか、秋田県立秋田高等女学校の庄司久子に恋をします。
 東海林太郎、早稲田の商学部の学生だったころのお話し:

 2人とも同じ「しょうじ」であるが、久子の庄司家は阿仁前田で庄屋を務めた大地主であった。
 秋田時代からの顔馴染ではあるが、上京後はよく音楽会などに連れ立って出かけていた。
 交際は当然の様に結婚へと進む。
 久子は大正10年3月卒業後、品川の日本女子音楽学校で声楽教師をしていた。
 結婚については、庄司家側の反対が強かった。
 まだ学生の身分で将来不安のため、嫁がせられない、生活不安定、これが第一の理由であった。
 太郎は友人達とも相談して、大学の研究科(現・大学院)に残って、将来は教授を目指すということで庄司家を説得した。  
 挙式は大正11年1月11日。
 一が五つも重なる佳き日あった。
 二人は上野谷中の植木屋の二階を借りて新生活を始めた。

(プロフィル第二章、秋田中学から早稲田大学へ・・そして結婚)
http://www.geocities.jp/taro_aria/purof2.html

 さて、その後の東海林太郎の人生は…



(注1)
 東海林太郎の人生紹介は、ぜひ秋田県立秋田高等学校同窓会の公式サイトでお読みください。
 「一唱民楽」国民的な流行歌手、東海林太郎:
http://akitahs-doso.jp/libra/contents.html?id=53

(注2)
平成26年10月4日(土))から開催しておりました「第29回国民文化祭・あきた2014」は、11月3日(月・祝)を持ちまして閉幕いたしました。9月6日(土)から先行開催した県民参加事業を含め、たくさんの方々にご来場いただき感謝申し上げます。
(2014年11月4日付け秋田県公式サイト「第29回国民文化祭・あきた2014の閉幕について」)
http://common.pref.akita.lg.jp/kokubunsai2014/

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2014年11月09日

赤城山1828m

 今日11月9日は山歩クラブ月例お山歩会。
 上州は、赤城山(駒ヶ岳1685m、黒檜山1828m)です。

 まずは島津亜矢で「名月赤城山」
http://www.youtube.com/watch?v=hX2fdshLwW4

 われわれは名月「赤城山」でなく、日本百名山「赤城山」なんですぅ。
 ムカシのお仲間をお誘いしましたが、断られてしまいました:

 ご無沙汰しております。
 夏山シーズンも終わり、山はそろそろ冬山に入りますね!
 実は私も九州の別府温泉、阿蘇、ほか温泉巡りをして昨日帰って来たので返事が遅れてすみませんでした。
 11月9日は予定が有り、参加出来ませんが、紅葉きれいでしょうね(^^♪)
 10月の頭に裏剣に行き、初日は台風の影響で氷雨も降りましたが、翌日は晴天の中、剱岳の初冠雪も見られ、紅葉と雪景色でとてもきれいな山並みに感激しました。
 赤城山は以前、山歩クラブでお世話になったのを思い出しました。
 お天気にな〜れ、晴れるといいですね!楽しんで来て下さい。


 断られても、こんなふうに山歩クラブを「卒業」されても、山談議ができるってことは良いことです、うれしくなっちゃったヤッホー君でした。
 でも心配なのはやはりお天気! 山行の前日にはこんな一斉メールが:

 雨の場合、赤城山登山を取り止め、県立赤城公園にあって大沼の南東、駒ヶ岳と小地蔵岳の間にある「小尾瀬」、覚満淵一周をメーンとします。向かいが赤城公園ビジターセンターです。よろしくお願いします。
(2014/11/8, Sat 11:07)

 さて当日となった今日、11月9日日曜日は「119番の日」!

 我が国の消防は、1948(昭和23)年に地域に密着した自治体消防として発足して以来、国民の生命、身体及び財産を守るため、火災、火災予防、救急、救助、防災などの広範囲な活動を展開しているところであります。
 また、本年1995年6月には、大規模又は特殊な災害時における緊急対応体制の充実・強化として、緊急消防援助隊について法定化したところであります。
 消防庁では、消防に対する正しい理解と認識をさらに深めるとともに、防火防災意識の高揚、地域ぐるみの防災体制の確立に資することを目的として、1987(昭和62)年より11月9日を「119番の日」としております。

(11月9日は「119番の日」)
http://www.fdma.go.jp/ugoki/h1510/19.pdf

 駒ヶ岳からさらに縦走を続け黒檜山に登ってお昼、雨がぽつぽつ、雷がごろごろ、下りにはみぞれ交じりのお天気ですから、けっしてお天気は良くありませんでした。
 もちろん覚満淵にまわる余裕はありませんでした。
 皆さん頑張って下山するのが精一杯。でもできたんですからエラ〜イexclamation×2
 帰宅後、こんな一斉メールが流れました:

 皆さん、こんにちは。古いアルバムをめくっていたらムカシの山歩クラブの赤城山の写真がでてきました。
 今日はお配りしたかわらばんと逆のコースを歩きました。ムカシの山歩クラブとは逆のコースを歩いたことになります。
 でも悪天候のなか、皆んなでがんばって歩き通しました。すご〜い!
 この古い写真は猫岩から、大沼と赤城神社を見下ろした景色がまずあります:


猫岩.jpg

 それと、今日は歩けなかった覚満淵の一コマです:

覚満淵.jpg

 今日の赤城山はすっかり晩秋の装いでしたね。
 登山口付近は木々の葉はすっかり落ちてしまい冬支度、しかし山からバスで前橋市に下る道を辿るとまだ木々は錦秋の装い。
 良い山でしたね。
 それに比べると添付した二枚の写真、ムカシの山歩クラブが歩いた季節は、つつじ満開のころです。
 また行きましょうよ。
 山って、自然って、なんとわれわれの日々、疲れた体も心も癒してくれるんでしょ。
 ビジターセンターから駒ヶ岳へ登りつめたときにひろがったあの景色、目の前に広がった雲海を観ただけでも、あ、今日山歩きして良かったなって皆んな心ひとつになりましたもん。

雲海.jpg

 これから年末にかけ、まだまだ用意されてる山歩クラブの企画、ぜひごいっしょしましょ!
 今日、参加された皆さま、お疲れさまでした、ゆっくりお休みください。
 次回までごきげんよう、風邪ひくなよお〜!



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2014年11月08日

川内原発

 民衆は怒っています。
 ヤッホー君は、なぜこうした民衆の怒りや思いを時の権力(上)はすくいあげようとしないんだろう、あるいはすくいあげてくれる代理店が名乗り上げないのかな、と今日も悲しい気持ちになりました。
 向原祥隆(1957年生まれ)は鹿児島県知事選でもたたかって、いまも「反原発・かごしまネット代表」で一生懸命たたかっています。
 まずはスピーチ。
 川内原発再稼働するな!フクシマを忘れない!9.23さようなら原発全国大集会(2014.9.23於「亀戸中央公園)で:
http://www.youtube.com/watch?v=VRACJTIcApQ
 今回もこの流れで次のようにインタヴューに答えています:

記者「今回座り込み抗議を呼びかけられたわけですが、簡単な経緯について、お聞きしたいと思います」
向原氏「9月10日に(川内原発再稼働の前提となる)審査書が確定し、鹿児島県が県内5ヶ所で住民説明会をしました。すべての会場で住民の発言のうち、9割以上が反対の立場からの発言でした。(当局は)それに恐れをなしたのでしょうね。
 火山や活断層など(の対策)がぼろぼろなんですよね。それならば、早く(再稼働を)決めなければならないということなんでしょう。向こうはとても焦っていると思います。『もう決まりましたよ』と既成事実化して、反対活動を無力化しようという狙いだと思います。
 12月末に再稼働するなという仮処分を申請しており、裁判所の判断があります。福井地裁のこの前の裁判で、具体的な危険性が、万が一にでもあれば、差止の根拠になるという判決文(「大飯判決」)がありました。川内原発を見ると、万が一、というものではなく、もう、ぼろぼろ。だから、負けるはずないと思っているんです。世論が後押しするのですから。
 もう一つは、来年4月の統一地方選。いちき串木野市などは(住民の)8割が反対です。薩摩川内市も、6割から7割が反対。今ではもっと多くなっているかもしれません。こうしたことを背景に、できるだけ再稼働を早く決めて(抗議行動を)静かにさせたい、というのが彼らの考えでしょう。
 そういうむちゃくちゃな状況の中で、すんなり(再稼働を)通すわけにはいきませんよね。だから、先週木曜(10月30日)夜、テントを張りました。(鹿児島県は、そのテントの周りに)フェンスを張ったり、こまごました妨害をしてきますが、こちらから、精一杯の抵抗は示していきたいと思います」

記者「さきほど、午前中の議会を傍聴して、知事報告がありました。国が安全を保障した、とか、住民の理解が進んだ、とか、自分たちの都合の良いことばかりを言って、他方、自分たちに不都合なことには何も言っていません。おととい、日本火山学会はついに、『九州電力の火山の認識はまったく違う』と言いました」
向原氏「議会の中ではもう、議員たちが(シナリオを)決めていますから。今日、本会議が始まりましたが、私は傍聴をボイコットしました」

記者「昨日までは、座り込みに関与した人は、(県庁舎のなかの)トイレも、喫茶店も使えず、県庁舎に立ち入ることさえも、完全にシャットアウトされました。県知事や経産相など、権力の思惑にとって都合の悪い意見を持っている人を、庁舎という、県民の土地から恣意的に排除する、という事態は呆れたものだと思います」
向原氏「3号機の増設時にもこうしてテントを張って抵抗しました。(その時は)柵を設けたり、ということはなかった。知事は了見が狭い。彼は何を恐れているのでしょう。正々堂々とやれ、と言いたいと思います」

(2014/11/05 県庁前での攻防、市民による抗議と当局による妨害行動)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/203924

 当局はこの茶番劇、田舎芝居、八百長芝居の幕をこんなふうにおろして、あとは国頼み。

 宮沢経産相が鹿児島県庁で「万一の事故の際は、国が関係法令に基づき責任をもって対処する」と語ったことも、知事や議会は大きく評価した(注1)。
 しかし、経産相の説明は、今年2014年4月「閣議決定」した国のエネルギー基本計画の文言をなぞっただけである。再知事が、再稼働に必要な同意を得る「地元」とする立地自治体の薩摩川内市と議会が賛成したのは先月10月下旬のことだ。それから10日後に知事と県議会が同意した。稼働を必要とする理由に挙げた中東の原油輸入の厳しさなどもそうだ。誠実さに欠ける説明で、重みも感じられない。
 経産相はまた、再稼働で同意が必要な範囲について「それぞれの地域で事情が異なる」と述べた。だがその後、菅義偉官房長官が「(2番手以降も)川内原発の対応が基本的なことになる」との見解を示した。
 時間がかかり、困難な同意を得る地元自治体はできるだけ少ない方がいい。これが国の本音なのだろう。伊藤知事がこだわった地元の範囲が、早くも利用された形だ…
 福島原発事故での地域への被害拡大を思えば、少なくとも同意の範囲は、避難計画の作成を義務付けられた半径30キロ圏の自治体まで広げるべきである…
 県が、原発の新規制基準の適合性審査の住民説明会に関して、「おおむね理解が進んだ」と評価したのも納得できない。参加者は対象住民のわずか1.5%の2990人。「理解が進んだとは、とても思えない」と県議会で批判されたのはもっともだ…
 脱原発は世論も望んでいる。本紙が5月に実施した電話世論調査で、「今後も原発を活用すべき」と答えた人は10.9%にすぎなかった…
 再稼働第1号になるのなら、原発に左右されない郷土づくりの先陣こそ目指すべきではないか。

(11/8付け南日本新聞社説「[川内再稼働同意]疑問を残したままの「見切り発車」だ)
http://373news.com/_column/syasetu.php

 北からの声は:

 「福島の原発事故の全容も解明されていないのに、なぜ動かすのか」
 福島県双葉町から鹿児島市に避難している自営業者は前のめりの対応が納得できない。多くはそれに似た思いではないか。
 地域経済の活性化は住民の安全確保が大前提だ。再稼働への同意を「やむを得ないと判断した」知事はもとより、強く働き掛け誘導した国も、決断の責任から逃れられない…
 手続きの終了はゴールではない。安全審査中の他の原発についても拙速は許されない。

(2014年11月08日土曜日付け河北新報社説「川内原発再稼働へ、地元同意も不安解消されず」)
http://www.kahoku.co.jp/editorial/20141108_01.html

 「裁判所の判断」についてはこちらで言及しています:

<年明けにも仮処分の地裁判断>
ただ、再稼働に向けてもう一つ関門が。原発の周辺住民ら23人が今年2014年5月末、九電を相手に川内原発の運転差し止めを求める仮処分を鹿児島地裁に申請していることだ。
住民らは、川内原発で想定する最大の揺れ(基準地震動)が過小評価されており、実効性ある避難計画が策定されていないなどと主張し、再稼働に反対している。
関係者によると年内か年明けには地裁の判断が出る見通し。裁判所の判断によっては、規制委の審査が終了した時点でも再稼働できない可能性が残っている。

(2014年11月7日15:39JST ロイター通信・浜田健太郎「鹿児島県が川内原発再稼働に同意、最後の関門は地裁判断に」)
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL4N0SX27Q20141107

 立法権、行政権、司法権が三権分立ですよ、とミンシュシュギの基本を学校で教わったヤッホー君、でも司法権は、国民の生命財産よりも高度な政治判断で決定されたものについては判断しない、とかなんだか(N)へんな(H)権力の横暴がはびこっているイマ、国は地裁に「圧力鍋」で蓋をし、司法権もきっと晴れがましい叙勲(注2)を夢見て、媚びを売ってなびくんでしょうか、あぁ〜…



(注1)川内を「かわうち」と呼ぶ64歳のSM大臣、テプコ株主大臣については、やはり「釣りバカ日誌9」でしょうか:
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/154754
http://www.reuters.com/article/2014/10/24/us-japan-dance-idUSKCN0ID1DS20141024
http://www.nytimes.com/2014/10/25/world/asia/new-japan-trade-minister-brings-fresh-crises-for-shinzo-abe.html?ref=world&_r=0

「だって ここは 川内よ!」釣りバカ日誌9(1997年9月6日公開) 
http://www.youtube.com/watch?v=VsMRM1LiaEI
http://www.tsuribaka-movie.jp/database/number_10-3.html
http://www.youtube.com/watch?v=Tg0K11vTdzs

(注2) 
 …今年の旭日大綬章の受賞者の中に竹内行夫元最高裁判事の名前があった…
 外務事務次官を経て最高裁判事に天下った竹内行夫氏は憲法9条違反を知っていながらイラク戦争を支持し、自衛隊派遣を認めた張本人だ。
 憲法9条違反を犯した者が最高裁判事に天下る、その上に最高位の勲章を叙勲する…
(2014年11月3日天木直人のブログ「今年の秋の叙勲には特別の意味が込められている」)
http://www.amakiblog.com/archives/2014/11/03/



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2014年11月07日

冬が来る前に

 《ほとんど知らされていない民の群れ、知らせようともしないメディア、権力(上)に従順すぎる羊の群れ》…
と昨日付けの日記に書き記した翌日の今日11月7日ハナキンは、暦の上では「立冬」!

 冬が来る前に「紙ふうせん」!
http://www.youtube.com/watch?v=TcpoY6ZY1UM

 おそれおおくもかしこくも、天皇さまにあられましては、こんなお言葉を下賜なされていたそうでありんすが、権力(上)に乗っ取られた感のあるあの<なんか(N)へんな(H)空気(K)>を醸し出すことに懸命なメディアは、知らせようとしなかったって:

 日本国憲法には昭和天皇の御名御璽があり、平和憲法の制定を国民とともに「深くよろこび」とした。その天皇の意をないがしろにしようとしているのが安倍や改憲論者だ、という。
 また、平成天皇が80歳の誕生日(平成25年12月18日)に、
「占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法をつくり、さまざまな改革を行なって、今日の日本を築きました」と発言したことをひき、護憲を訴える。
 たしかに右翼的な政治家は、
「あなたのいってることは天皇の意に反している」と言われるのがきらいだろうな。

(2014年08月12日呆け天残日録「なかにし礼『天皇と日本国憲法ー反戦と抵抗の文化論』(毎日新聞社、2014)」)
http://boketen.seesaa.net/archives/20140812-1.html

 さらに…
 A級戦犯が祀られている神社なんかにお参りに行くなんてことはしていません、このお二人!

 10月20日の誕生日を前にした文書コメントで、美智子皇后が「来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ下さい」という質問に、こう答えたのだ。

「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います」

 天皇が昨年の誕生日会見で、「平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り…」と憲法に言及した部分について、NHKは安倍政権に「配慮」して、完全に削除してしまった。また、今年の美智子皇后の「A級戦犯」発言についても、この部分を大きく取り上げた新聞、テレビは皆無に近かった。全国紙の政治部記者がその理由をこう解説する。

読売、産経、NHKは安倍政権の広報機関のようなものですから、改憲に水を差すような発言は報道しない。一方、朝日などの左派系メディアは今、弱っていますから、それを取り上げることで『天皇の政治利用だ!』 と言われるのを恐れて腰が引けている。結局、天皇陛下や皇后陛下がどんなに護憲発言をしても、国民には伝わらない、そういう状況になっています」

 実際、安倍政権と一部の保守勢力はすでに皇太子、雅子妃夫妻を今の天皇、皇后とは逆の方向に導くべく動き始めているという見方もある。

(2014.11.05.付けリテラ「天皇家と安倍政権が対立!? 護憲姿勢強める天皇・皇后を首相の側近が批判!」)
http://lite-ra.com/2014/11/post-605.html

 「怒涛」はイマ、再びの潮どきを待ちかまえているのか…あぁ、恐ろしや、恐ろしや…

 あの頃、人びとに届けられた新聞とは何であったのか、…
 時代と社会がひとたび「怒涛」をうてば、もはやジャーナリストもジャーナリズムも、逆巻く波頭の白い泡に呑み込まれて翻弄される、ただの藻くずの一塊と化してしまう。
 逆巻く「怒涛」をおこす側からすれば、一人のジャーナリストの思考、哲学、行動を、まるごとそっくりからめ取り、やがて彼をして「怒涛」にお似合いの行進曲を自らすすんで作曲し、指揮棒を振るい始めるように意識改造するなど、いとも手軽な作業であったに違いなかった。

…内橋克人『荒野渺茫』第U部(岩波書店、2013年)32頁

 どんな空襲にも不屈の反発を示せ、
 一億神々たれ、
 日本は神の国。その建国にあたって、われわれの祖先たる神々が、いかに決死の努力を払ったか。祖先の神々に続け!遅れをとるな!
 死を征服するものは死あるのみ、

 と社説では絶叫、絶唱しているのです。

 情報というものは、貪欲に集めようとすれば、かならずどこからか摑(つか)んでくることができるはずです。
 でも、お上の言うことを聞いていればいいという習慣が身についてしまっているから、それをしようとしない。ましてラジオで放送されたわけですから、まったく疑いをもたなかった。

(当時の唯一の公的な情報源で、日本人がもっとも信頼をおいていたメディアであるラジオが「治安は維持される、市民は軽挙妄動せず現地にとどまれ」と告げたので、一家はそのままピョンヤン市内の自宅にとどまっていた)

 あとから振り返って、そのころの日本の大衆の愚かさというか、ナイーブさというか、そういうものを嫌というほど痛感しました。
 父親も、そして僕も、その愚かな大衆の一人だったわけです。
 それ以来僕は、公の放送がとどまれと言ったら逃げる、逃げろと言ったらとどまる、というのを指針にしてきました(笑)。
 とりあえず体制の言うことと反対のことをしていたほうがいい、と…
 結局、日本人はイマも、そしてこれからも、同じなのかもしれないとも思います。
 お上の意に反して、自分の判断で行動するということがなかなかできない
 狭い島国に生きているということもあるのでしょう。
 反抗したとして結局は逃げるところがないわけですから。

…五木寛之「少なくとも兵士は銃を持って戦場に出た。でも一般の市民は、誰も守ってくれない無法状態の中に、丸腰のまま放り出されたのです」梯久美子『昭和20年夏、子供たちが見た日本』(角川書店、2011年)所収、284−285頁

 ひゃあ〜…あせあせ(飛び散る汗)
 どうすれば冬の時代を乗り越えることができるのか、ヤッホー君は加藤周一の警句を手帳に書きつけたところです!
 「群れるな!」ということでょうね。

 私は日本という国を愛するがゆえに戦争に反対する。
 たとえ止めることができなくても私は反対する。
 その理由は私は日本人だからです。

…加藤周一、凡人会『ひとりでいいんです。加藤周一の遺した言葉』(講談社、2011年)73頁




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2014年11月06日

矢部宏治

 ほとんど知らされていない民の群れ、知らせようともしないメディア、権力(上)に従順すぎる羊の群れにあって、どうすれば生き延びられるのか、「北の丸公園」を歩きながら考え続けていたんですって、ヤッホー君。
 そのぉ〜、「国立公文書館」を訪れたのは、見学!
 と言いますのも、学芸員の皆さんによる<ギャラリートーク>があったからなんです。
 今週土曜日の8日まで開かれている2014年度「企画展」の第3回目「ようこそ 歴史資料の宝庫へ」。

 中国で古くから大人気の歴史エンターテインメント、後醍醐天皇の綸旨、明治政府の公文書など、当館所蔵の重要文化財から選りすぐりの4点を特別展示します。
 この他にも、貴重な資料が盛りだくさん。幕府・内閣がつたえてきた歴史資料の宝庫へようこそ!
 本展示は「東京文化財ウィーク2014」への参加企画です。

http://www.archives.go.jp/exhibition/

 ですので「知らされていない」なんてひがんじゃだめで、民は知ろうとすれば「資料の宝庫」に分け入り、「知りたいこと」を訪ね、探し、見つけ「取得」し、民の手元に置き、他の民にも教えることができるわけです、一応は。
 「一応は」と留保したわけはですね、この「知りたいこと」が権力(上)が「隠したいこと」と重なっちゃあ、おしまい、下手すると「こそどろ」とみなされて、岡っ引きにしょっぴかれることになるわけです。
 この「隠したいこと」ってのは、権力(上)だったらまだしも、権力(上)も及ばない権力の上だったら、こりゃぁ、あかんは、となるわけでして。:

【事例その一】 
 在日米軍基地などの騒音被害で周辺住民への損害賠償が確定した13の判決をめぐり、米国側が「日米地位協定」で規定されている分担に応じず、日本側が全額肩代わりしたままとなっていることが11月5日、分かった。損害賠償金と遅延損害金の総額は約218億円に上り、日本側の肩代わり分は、少なくとも100億円を超えるとみられる。
 判決が確定した騒音訴訟で米国が支払いに応じていないのは、米軍嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)3件、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)1件、米軍横田基地(東京都福生市など)4件、厚木基地(神奈川県)3件、航空自衛隊小松基地(石川県)2件の計13件。

(2014/11/05 12:48共同通信「基地騒音賠償、100億肩代わり 確定13判決で米分担応じず」)

 これって今日が11月6日木曜日ですから、昨日のことですよ、こんな理不尽なことが紹介されたのは…
 「権力(上)に従順すぎる羊の群れ」と言いましたが、権力(上)も及ばない、法も及ばない権力の上に貢いでいるってことですかねえ。

【事例その二】
 なるほドリ: 原発事故で避難した人たちによる訴訟が増えているんだってね。
 記者: 今年2014年になっても提訴が相次ぎ、計17地裁・支部に広がりました。4月現在の原告総数は計6,808人です。うち、県外に避難した人が約2,700人います。公害・薬害訴訟を手がけてきた全国公害弁護団連絡会議(東京)によると、原告数は既に米軍基地の騒音被害を訴えた嘉手納基地訴訟の2万2,058人、厚木基地訴訟の7,054人に次ぐ規模に膨らんでいます。
 Q: 裁判ではイマ、どんなことが課題になっているの?
 A: 先行している福島地裁いわき支部では、避難者の弁護団が「避難区域の現場検証」を求めています。裁判官に被害の実相を肌身で感じてもらいたいとの思いがあるからですが、同支部は現時点で回答を留保しています。全国公害弁連によると、熊本水俣病などいわゆる「4大公害訴訟」に加え、各地の米軍基地騒音訴訟でも裁判所が早い段階で現場検証を行い、原告の勝訴や救済につながりました。弁護団の小野寺利孝弁護士は「他の地裁での裁判への影響を考慮しているのかもしれないが、原発事故は史上最大・最悪の公害。裁判所の早期検証に期待したい」と訴えています。
 Q: 原告の人数はまだ増えるのかなあ?
 A: 茨城、広島、福岡などでも提訴準備が進んでいます。現在避難中の福島県民は13万3,000人(うち県外へは4万8,000人)に上っていますので、さらに増える可能性があります。

(2014年05月19日付け毎日新聞・東京朝刊「質問なるほドリ、いわき支局:避難者裁判、何が焦点?=回答・栗田慎一◇避難区域の検証、弁護団要求 過去の公害裁判では実施)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140519ddm003070133000c.html

 事故なのに事故でない、サイレン鳴らして岡っ引きが入ることもせず、火消しが入ったって取り調べることもできなかった聖域にお白洲がどんな判断をするのかが問われているはず、少なくとも法治国家なら。
 放置して治外法権のままにしておくのかな、さまざまなこじつけをつけて。

【事例その三】
 果たして司法で解決できる問題なのか。
 米海軍と海上自衛隊が共同使用する厚木基地(神奈川県大和市、綾瀬市)の周辺住民が、米軍機と自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めと騒音被害への損害賠償を求めた「第4次厚木基地騒音訴訟」で、横浜地裁が2014年5月21日、国に自衛隊機の夜間飛行差し止めを命じた。
 判決は「周辺住民が受けている騒音被害は健康や生活環境に関わる重要な利益の侵害で受忍限度を超えている」としたが、より深刻な騒音被害をもたらす米軍機は差し止めの対象外となった。
 国は判決を不服として控訴したが、住民の苦しみが今後も続くという現実に、真摯(しんし)に向き合うべきだ…

 同種の訴訟で裁判所は「過去の騒音被害」による損害賠償だけを認め、差し止め請求を退ける司法判断を繰り返し示してきた。
 「今回も従来の判断を踏襲する」との大方の予想を覆し、初めて差し止めを認めた判決に、原告団は歓喜に沸いた。原告側弁護団の一人も「裁判長の言葉に一瞬、耳を疑った」と驚いた。
 それでも判決が米軍機の飛行差し止め請求を退けたのは「根拠となる関係条約や国内法令規定が存在しない」ためだ。
 自衛隊機の飛行を禁じる一方で、米軍機の運航には国の権限が及ばないという判断は、住民を「米軍機の爆音を止めるすべがない」と絶望させることにもなった

 「日米合同委員会」が1960年代に合意した規制措置により、米軍機は基地周辺で午後10時から翌日午前6時までの夜間・早朝には「原則として」運航をしないことになっている。
 だからといって、住民の生活に支障が出ていないわけではない。夜間・早朝に飛行する「例外」は珍しくないし、昼間はさらに規制が少ない。

(2014年07月03日付け毎日新聞東京朝刊「記者の目:厚木基地騒音訴訟、住民一部勝訴=高木香奈(横浜支局)◇抜本解決は国の責任で」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140703ddm005070007000c.html

 こんなことを考えていくにふさわしいのが次の対談:
 矢部宏治・孫崎享対談『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』
http://www.youtube.com/watch?v=cBFE2dWTVQg

 矢部宏治(1960年、兵庫県生まれ)が著したこの本は、「集英社インターナショナル」(発売:集英社)から、2014年10月24日発売されたばかりですが、「発売即重版!」だそうです:

 不思議なことばかり起こる現在の日本。しかし、あきらめてはいけません。
 過去の歴史、なかでも敗戦から独立までの6年半の占領期を見直せば、そうした矛盾を生みだす原因が、あっけないほど簡単に理解できるのです。
 秘密を解くカギは、「昭和天皇」「日本国憲法」「国連憲章」の3つ。
 さあ、あなたもこの本と一緒に「戦後70年の謎」を解くための旅に出て、日本人の手に輝ける未来をとりもどしましょう

http://www.shueisha-int.co.jp/archives/3236

 「日本を取り戻す」って、やっぱりどっか<権力(上)も及ばない権力の上>に従属することでなく、この国に住まう「民」の幸せを第一に考え(*)、この国が国として「独立」することじゃ、ないのかな、とこの三連休を振り返って考えているヤッホー君、でもまだまだ旅は続きそう、終わらないっ!



(*)
 日銀の追加金融緩和と呼応するように年金積立金の運用でも大胆な見直しが決まった。
 国債を中心とした運用から、株式の割合を倍以上に増やす積極姿勢に転換する。見返りが大きくなる分、損をする危険が高まる…
 見過ごせないのは、安倍政権の意向を受けた方針転換が明らかなことだ。将来にわたる積立金を、ときの政権が目先の市場対策に使うとなれば言語道断である…
 だからといって、ここで国内外の株式比率をそれぞれ12%から25%に増やすことが妥当なのか。ほころびが目立つアベノミクスをてこ入れするため株価を上げたいのが本音ではないか。運用失敗の責任を誰が取るのかも曖昧だ。
(11月5日(水)付け信濃毎日新聞社説「年金運用 政権浮揚に使うのか」)
http://www.shinmai.co.jp/news/20141105/KT141104ETI090007000.php



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2014年11月05日

国立公文書館

 特定秘密保護法ではこのほかにも、準備行為である「共謀(話し合うこと)」「教唆(そそのかすこと)」「煽動(他の人が行動を起こすようにあおること)」を処罰する定めがあります…
 例えば核廃棄物の運搬ルートを調べているNPOが、特定秘密である運搬ルートを知ろうとしたということで「取得」の「共謀」罪の疑いをかけられたらどうなるでしょうか。
 警察は、そのNPOの事務所をすみからすみまで捜索して、書類を全部警察に持って行きます。これだけでその団体の活動はしばらくストップします。
 メンバーの名簿も警察が押収するでしょう。そのNPOにかかわっている人は誰か、警察が把握できることになります。
 それだけで、怖いからその団体にはかかわらないようにしよう、となりますよね。
 もしかしたら、逮捕される人が出るかもしれません。
 起訴されなかったとしても、最大23日間警察に身柄を拘束されます。そんなに仕事を休めない、家をあけられない、自分の生活のほうが大事だから、そんな危ない活動はしないでおこう、となります。
 これらはすべて、起訴前に行われることです。
 有罪判決がなくても、市民の活動を委縮させるには十分なんです。
 秘密保護法は、警察がこういったことをする十分な口実になってしまうのです。

(2014年11月3日月曜日、明日の自由を守る若手弁護士の会「今さら人に聞ケナイ特定秘密保護法<ほんとにヤバイものしか有罪にはならないんだから大丈夫ってほんと?>)(*)

 ”eチャリ”も速い、速い、スピード違反!
 ちょっと立ち止まって、ヤッホー君のこのブログ、10月30日付け日記「知性と緑あふれる街」まで戻ってみましょう。
 だって、この雑文をいつも読んでくださっている読者から「国立公文書館」の話しも聞かせて、って言われちゃったんですぅ〜

 特定秘密保護法施行日の12月10日が近づいてきています。
 戦前、戦中のあの無残な大ぜいの人びとの犠牲が各地に「平和」への誓いの碑を建てたさせてきたにもかかわらず、「憲法」に従おうとしない一部の世襲政治家、right wing hawks to strengthen Japan's military によって「死」と「悪」と「戦」への道を辿る時の流れははたして止められないものでしょうか、ね。
 若人も、老人も、チカラ併せて:

 反権力のスピリットを叫ぶラップを高校時代から愛する牛田は首相官邸前の集会、こんな言葉のつぶてを放つ。
「おい安倍、聞いてんのか。毎日毎日遅くまで勉強してるから、おまえがどれだけバカかよく分かるよ。どんな時にうそをついて、どんな時にクソみたいな行動をしているかよく分かるよ。俺たちは立憲主義、民主主義、近代の政治がつくり上げてきた素晴らしい知恵を駆使して、おまえをぶっつぶそうとしっかり監視しているから、覚悟しとけよ」
 昨年2013年12月に強行採決で成立した特定秘密保護法がいかに民主主義のルールを逸脱したものか、ちょっと勉強しただけで分かった。そして、罵倒の数々が自分たちに返ってくることも分かっていた。
 果たして、俺たちにどこまでの覚悟があるだろうか−…

 2時間にわたり渋谷を練り歩き、ゴールを迎えた代々木公園、予定になかったスピーチをした。参加者を前に挑発するようにまくしたてた。
「俺たちの存在は永遠だ!SASPLが終わるわけねーだろ!おまえが続けろ!俺が続ける!何度も何度も繰り返して行くだけだ!」
 重ねた言葉が自分に言い聞かせるように響いた。

(2014.11.01 11:18:00更新、神奈川新聞「時代の正体(38)特定機密保護法考、デモと若者(下)一人一人が意思表示」)
http://www.kanaloco.jp/article/79829/cms_id/109517

 Again でなくって Against!
 SASPLって Students Against Secret Protection Law(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)です。
http://www.youtube.com/watch?v=aepPAWVhJuU&list=PL90_FDu3Dz6Py_20I5alNmKPr-n1ZFUuV

 この「秘密」ってフクイチのどろどろに溶けた燃料棒と違って、闇から闇に永遠に廃棄処分して葬ることもできるんですって。
 フクイチだってコントロールされているのだから、と無かったことにして、傾聴するのは選良民、その他大ぜいの人びとの圧倒的な声はネグレクトして、長州じゃ、ないない、薩摩でサイカドウさせようとしているんだから、まったく、もう、ぷんぷん。
 でも、この「秘密」があふれかえることもありうる、と一応想定し、ほら、貯蔵庫も必要だねってジェスチャーをしめしているよう:

 秘密指定の権限は19の省庁が持つ。指定期間は5年単位で、最長30年まで延長できる。「やむを得ない場合」は閣議決定で60年、一部はそれ以上の秘密指定も可能だ。30年を超えて指定された文書は、秘密解除後に国立公文書館などに保管されるが、それ以下の文書は首相の同意を得れば廃棄できる。秘密の範囲を法律や規則で線引きすることは難しく、官僚が恣意(しい)的に秘密を指定することで、国民に必要な情報が届かなくなる恐れがある。
(2014年10月30日付け毎日新聞東京朝刊・青島顕「ニュース解説:秘密隠し懸念置き去り◇情報公開や公文書管理制度が未成熟なまま特定秘密保護法12月10日施行」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20141030ddm004070008000c.html

 小泉チルドレンで当選したけど「お飾り人形」と揶揄されたこともある稲田朋美先生も、誰に言われたのか:

 記者団の質問に答えて稲田朋美行政改革担当相は、港区麻布台の外交史料館で2014年8月27日、収容可能蔵書量を近く超える見込みの国立公文書館(東京・北の丸)について
「もっと青少年や国民の皆さんが公文書に触れる機会を作りたい」と述べ、新館建設を目指す考えを示した。
 現在の国立公文書館は、1971年に建設され、収容能力は2016年度中にも限界に達する

(2014年08月28日付け毎日新聞東京朝刊・小田中大「国立公文書館:稲田行革担当相、新館建設に意欲」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140828ddm005010050000c.html



(*)「ネグレクト」なんてヤワでない、いまや戦前のような「ヤバイ」状況になってきているようです。昨日のことでした。「秘密」扱いで削除処分にあう前に、以下:

 京都大は11月4日、京都府警の警察官が無断で構内に立ち入ったとして「事前通告なしに警察官が立ち入ることは、誠に遺憾。詳細な事実関係の調査を行っている」とする杉万俊夫副学長名のコメントを発表した。
 府警などによると4日午後0時20分ごろ、京都市左京区の吉田キャンパスに府警警備2課の男性警察官がいることに学生が気づいた。杉万副学長によると、午後1時ごろに職員からの連絡で駆けつけたところ、警察官は20〜30人の学生とともに教室内にいた。学外に出たのは午後4時10分ごろという。
 現場にいた学生によると当時、学生らはビラ配りをしていた。府警によると同課は極左過激派などの取り締まりを担当している。
(2014年11月5日00時08分、朝日新聞デジタル「京大の構内に警察官、学生とトラブル 大学「誠に遺憾」)
http://www.asahi.com/articles/ASGC47347GC4PLZB02K.html?iref=comtop_6_06



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2014年11月04日

村松友視

 11月3日月曜日文化の日、ヤッホー君は"eチャリ"で日比谷公園へ。
 噴水広場では、「山梨ヌーボーまつり2014」が開かれておりました。

 山梨ではさまざまなぶどう品種が栽培されワイン醸造が行なわれていますが、それぞれ品種により収穫期が異なるため新酒の出来る時期も異なり、デラウエアーや巨峰などの新酒ワインは一足先に発売されていますが、日本が世界に誇る日本固有のぶどう品種である「甲州」と「マスカット・ベーリーA」で造られた新酒ワインを「山梨ヌーボー」と命名して解禁日を設けました。

 新酒ワインの解禁日というと、フランスブルゴーニュ地方のボージョレー・ヌーボーの11月第3木曜日をイメージされる方が多いと思われます。
 この解禁日は、1960年代半ばにイギリス人たちが遊び半分で、誰が早く運び込むかというゲームを始めたことをきっかけとして世界的に広まったと云われますが、本来「ボージョレー・ヌーボー」は、秋の収穫祭のあと豊作を喜び祝うワイン祭りで捧げられたものです。
 問い合わせ:山梨県ワイン酒造組合事務局 055-233-7306

(山梨ヌーボーとは)
http://wine.jp/nouveau/

 ヤッホー君は脇目もふらず、「日比谷図書文化館」へ:

「人間という存在を“不思議”のアングルで覗けば、奇妙奇天烈な生き物であることが炙り出されてくる。その“不思議”のホコ先を自分自身、周辺の人々、世の中に存在する人々、老人の神秘とユーモアの溶け合った境地へと向けて、面白みを探ってみたい」(村松友視)

 日比谷図書文化館は来る11月に開館3周年を迎えます。年々来館者も増え、従来の図書館とは一味違う魅力ある文化空間、学びの拠点として多くの方々にご利用をいただいています。このたび、開館3周年を記念し、作家の村松友視氏を講師にお招きして講演会を開催いたします。村松氏ならではの人間探求、その不可思議な世界をご堪能ください。

http://hibiyal.jp/var/rev0/0001/4044/2014106171846.pdf

 そうなんです、館長の山岸幸雄さんからは、
 「3年間で170万人の来館者、ここ一年を振り返ってみると60万人強です。ここにきて目標としている「都心のオアシス」が見えてきたかな、という印象を抱いております。これからも深く、清く、すがすがしい「泉」にしていきたいと思っております」旨のご挨拶がありました(拍手)。
 
 そこで企画した記念講演会が村松友視さん(1940年生まれ)の「人間の不思議」だった、とこういうわけで。
 村松友視さんといえば、ヤッホー君にはすぐ映画『時代屋の女房』(1983年公開、松竹。監督:森崎東、渡瀬恒彦、夏目雅子ほか)が記憶によみがえります。

 まずは予告編から:
http://www.youtube.com/watch?v=n5H0hSuOI5Q
http://www.youtube.com/watch?v=MV_NQR8odu0

 主題歌は、ちあきなおみでした。Again:
http://www.youtube.com/watch?v=8iFH057vr0M

 主演の渡瀬恒彦は1944年生まれですが、夏目雅子は1985(昭和60)年に亡くなっています(享年27)。

 今よみがえる夏目雅子の魅力:
http://www.youtube.com/watch?v=Y7nI1LXIJ4k

 ご遺族は、イマ、基金を立ち上げて活動されております:

 当基金が1993(平成5)年12月に活動を開始いたしましてから今日にいたるまで、多くの方々の多大なるご理解・ご支援・ご協力により、活動も順調に進んでおります…
 本当に多くの皆様に支え続けていただいた当基金は、21012(平成24)年1月11日より「一般財団 夏目雅子ひまわり基金」として正式に認可を頂くことができました。
 この社会状況厳しきなか財団法人の認可を頂けましたことは、これまで関わってくださった全ての皆様のご厚情の賜物と衷心より御礼申し上げます。
 カツラをご利用いただいている方からは感謝のお手紙を頂戴し、毎日たくさんの方々から励ましのお手紙やメールをいただいております。
 まだまだ小さなボランティア活動ですが、皆様の心を支えに活動していきたいと思っております。今後とも更なるご支援・ご鞭撻をお願いいたします。

(夏目雅子ひまわり基金理事長・小達一雄)
http://www.himawari-kikin.com/goaisatu.html

 原作者の村松友視氏は、「上海仕込みの東京生まれで清水の育ち」ですが、小さい時を振り返ってこんなふうにおっしゃっています:

 先生という存在に近づかないようにしているタイプだったこともありますが、小学校から大学までの間で、先生として尊敬の念を抱いているのは、静岡県の清水市立岡小学校(現静岡市立清水岡小学校)5年2組の担任だった依田煕(ひろし)先生一人です。
 痩身(そうしん)で、ざっくばらんな人柄。約50人のクラス全員に慕われていました。2013年11月で92歳になられます。
 戦後間もない頃で、貧困が社会に影を落としていました。親が裕福でちゃんと面倒をみてくれる家庭の子は成績が優秀でクラスの中心、貧しい家の子は成績もふるわず……。そんなクラスのありようを崩したかったのでしょう。先生は児童一人一人が主役になれるよう、さまざまな試みをされていました。
 例えば、クラスのみんなで校庭に小屋をつくりヤギを飼った。その世話で主役になったのは農家の子でした。各自が通帳を持ち、こづかいを預け、引き出す「学校預金」を設けた。商家の子が銀行員役としててきぱきと動いていました。
 そうやって、親の財力や学校の成績だけで人の価値は決まらないことを先生は教えてくれました。でも、勝手なことをしていると感じる学校関係者もいたのかもしれません。1年間で先生は担任からはずれました。
 先生に対するぼくらの思いは、むしろそれで強くなったのかもしれません。先生を囲んで毎年、清水で行なう同級会には、今でも全国から30人くらいが集まります。教わったのはたった1年間。卒業時の担任でもないのだから、これはかなり珍しいことだと思います。

(2013年11月04日08時00分更新、読売新聞・聞き手、関仁巳「誰もが主役になれた…小説家・村松友視さん」)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/teacher/20131024-OYT8T00813.html

 小学校時代の依田煕(ひろし)先生からの教えは、イマでも使える、有効な射程となっているようでした。
 「人間という存在を“不思議”のアングル」でみた例をいくつか、地下一階の「日比谷コンベンションホール(大ホール)」で、満席の聴講生を相手に:

 人間国宝とか古典芸能では国家から表彰されますが、いくら70年屋台を引いても、いくら70年縄のれんの居酒屋を営んでいても、人間国宝とは呼ばれません。オリンピックのレスリング選手じゃなくってプロレスのヒーローとかもそう、どさ周りの役者や演歌歌手もそうですよね。
 ぼくはクルマの運転免許を持ったことがありませんが、それは学生のころ、試験の二日前、駿府城の周りの路上を走る実地のときの体験からです。
 雨でした。外は雨、ですのでワイパーを動かしました。ぼくは前を向かないでワイパーばかり見ていました。
 ワイパーって飛行機もそうですよね、こんなに人命を救ってくれたものはないけど表彰もされません。
 感動していました。そのとき、運転に自分は向いていないな、と実感したのです。

 こんなことを流暢な言葉づかいで、聞いている人(あるいは読む人)を飽きさせずに、ぐいぐい引き寄せていく力は表彰もの、と感じいって聞いておりました。もうひとつ:
 
 3.11がありましたがそのはるか前には、気仙沼の唐桑湾にチリ地震の津波が押し寄せました。
 皆んなで高台に避難しました。
 そのときの風景を、おばあちゃんが記憶を頼りにお話しされているのを聞いたことがあります。
「波がひいて海が消えました。ぞっとしましたね。海だったところには見たこともないカニやら、大っきな杭がささっていたり、思ってもいない風景が広がったんです。魚がたくさん、ぴちぴちはねていました。それをみた子どもたちは、急いで高台から駆けおりていって、魚を捕まえてきたんですよ、いっぱい。あれには驚きましたぁ〜」
「よくまあ、無事で。第二波の津波が押し寄せなくって良かったですねぇ〜」とわたしが聞きかえしました。するとおばあさんは、
「え〜、ま、何しろ津波はチリから来てましたからね」

 これを村松友視さんは、《ユーモアでコーティングして記憶を伝える》物言い、風情、仕草、絵になる老人の風景だそうで、イマはすっかり消えてしまって、どこもかしこも高齢者ばっかり。
 あんな「老人」にぼくはなりたい、とも。


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2014年11月03日

坂真太郎

 11月2日日曜日、雨も予想された連休中日でしたが、ヤッホー君、えいやとばかり、「雨ニモマケズ」傘を持って山荘を飛び出しました。
 あのぉ、飛び出したといっても”living without money”をモットーとしているヤッホー君、もちろん古い自転車で”eチャリ”!
 目指すは、川向う、浅草北部!

 謡曲「隅田川」のモデルになった「梅若伝説」ゆかりの妙亀塚(みょうきづか、台東区橋場1)と、近くの松吟寺(同橋場2)境内にあるおばけ地蔵で来月11月2日、初の「妙亀塚まつり」とお地蔵さまの縁日が45年ぶりに復活する。かつて交通の便が悪く「陸の孤島」と呼ばれた浅草北部を活性化したいと、地元の浅草北部ことぶき商店会が周辺町会の協力を得て開く。
 妙亀塚は、平安時代、京都から人買いにさらわれた息子梅若を探したずね隅田川のほとりで命を落とした母を悼み建てられた墓跡で、現在、都指定旧跡になっている。地元では13年前、塚がある石浜2丁目町会長の西村晴(きよし)さん(86)が中心となって保存会を発足し、供養を続けている。
 一方、おばけ地蔵は江戸時代、疫病よけ祈願のために建てられたと伝わる。高さ3メートルの大きな母地蔵に守られるようにたたずむ子地蔵。当初は「子育て地蔵」と呼ばれていたが、その大きさと、かぶせてあった笠(かさ)が時折向きを変えることなどから、いつしかおばけ地蔵と呼ばれるようになった。
 「隅田川に面したこの辺り一帯は昔、浅草の奥座敷と呼ばれ、あこがれの別荘地でした」と話すのは、縁日を企画・主催する商店会長の加藤孝平さん(77)。1960年代後半まで、おばけ地蔵一帯では月3回、盛大な縁日が開かれ、周囲の商店街も夜通しにぎわったという。
 近くには平賀源内の墓もあり、近年、この周辺は史跡散策スポットとして再び注目を集めている。子どものころは遊び場として、戦時中は塚の下に防空壕(ごう)を掘るなどさまざまな思い出を持つ西村さんは
 「おばけ地蔵とともに妙亀塚には親子の情愛や絆の深さなどが伝わる。おまつりや縁日を通し、こうした伝説を後世に残し、街の発展につなげたい」と話す…
 午後3時から妙亀塚特設舞台で、同区在住の能楽師、坂真太郎さんらによる謡曲「隅田川」を奉納する…

(2014年10月29日東京新聞・丹治早智子「おばけ地蔵と縁日 浅草北部で2日45年ぶりに復活「妙亀塚伝説」後世に」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20141029/CK2014102902000125.html

 まずは「おばけ地蔵」、次いで「縁日」風景です:

おばけ地蔵.jpg

縁日.jpg

 ね、「雨ニモマケズ」だったでしょ。そして「隅田川」です:

隅田川1.jpg

 このお脳ぉ〜、じゃない、ない、お能はこんなお話しなんです。
 子捨ての憂き目を見たヤッホー君、椅子に背筋を伸ばしたまんま、そして目を見開いたまんま見入っておりました:

 春の夕暮れ時、武蔵の国隅田川の渡し場で、舟頭が最終の舟を出そうとしていると旅人が現れ、女物狂がやってくると告げました。
 女は都北白河に住んでいましたが、わが子が人買いにさらわれたために心が狂乱し、息子をさがしにはるばるこの地まで来たのでした…

 川を渡しながら、舟頭は一年前の今日、3月15日に対岸下総(しもうさ)の川岸で亡くなった子ども、梅若丸の話を物語り、皆も一周忌の供養に加わってくれと頼みます。
 舟が対岸に着き、みな下船しても、狂女は降りようとせず泣いています。
 船頭が訳を尋ねると、先ほどの話の子は、わが子だというのです。
 舟頭は狂女に同情し、手助けして梅若丸の塚に案内し、大念仏で一緒に弔うよう勧めます。

(国立能楽堂公式サイト、能・演目事典、隅田川(すみだがわ)
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_012.html

 この狂女を演じたのが台東区在住の能楽師、坂真太郎さんだったのです。
 観劇後、ヤッホー君は惜しみない拍手を送ったということです。
 坂真太郎さんは、確かな、素晴らしい公式ホームページをおつくりでございます。
http://shinnohsho.net/

 「能楽」は、重要無形文化財やユネスコ無形文化遺産にも指定されている、日本が誇る伝統芸能だ。
 この能楽の世界で活躍しているのが「能楽師」。
 そんな「能楽師」に弟子入りできる貴重な機会である。
 講師は、大河ドラマ「軍師官兵衛」にも出演している、。
 台東区根岸にあるお稽古場に訪問して、「能楽」のお稽古ができる。
 体験では、「謡」と「舞」のお稽古をしたり、面や装束などの能道具に触れたりすることもできる。

(Walkerplus東京、プライベートな能舞台で伝統芸能のお稽古!)
http://www.walkerplus.com/event/ar0313e75349/

 下町の空の下、平安のムカシからの「えにし」と「ゆかり」のある妙亀塚(*)の前で、大ぜいの下町っ子に大きな感動を与えてくださった坂真太郎さん、そして、能の世界を下町っ子にお披露目すべく妙亀塚の前に特設舞台をつくってくださった町内会、商店街の皆さんの「心意気」に大いに感じ入ったヤッホー君でした。
 「東京都人権プラザ」にも近いし、その折りにはまた商店街にお邪魔したいし、近いうち、坂さんのお能ももう一度、ぜひ観にいきたいと願っています、って…


(*)
 「妙亀塚」(東京都指定旧跡)
 この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。
 妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。
 「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。
 我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。
 謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
 塚の上には板碑が祀られている。
 この板碑には「弘安11年(1288)戌子5月22日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。
 しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。
 なお墨田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。
(台東区教育委員会)

http://www.youtube.com/watch?v=ABnWJnxoEaY


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2014年11月02日

ロジャー・パルバース

 11月最初の日、小雨が降ったり止んだり、ちょっと肌寒い一日でした。
 ヤッホー君にとってはお勉強の日、日比谷図書文化館へ。
 「早すぎた芸術家 宮沢賢治」のお話しがありました:

 作家であり、詩人であり、農学者であり、そして宗教的思想家でもあった宮沢賢治。
 「すべての人の福祉向上」という時代のはるか先をいくビジョンを持っていたために、生前は不遇のときを過ごしました。
 長年宮沢賢治の作品を愛読し、研究してきたロジャー・パルバース氏が、19世紀に生まれた21世紀の先見者である宮沢賢治について、新たな視点から語ります。

(日比谷図書文化館)
http://hibiyal.jp/data/card.html?s=1&cno=2253

 だって、今年、花巻温泉に泊まってハヤチネを目指したとき、<宮沢賢治巡り>も旅の目標に入れてあの辺、歩き回ったんですもん。
 お話しが終わって、ロジャー・パルバース(Roger Pulvers, 1944年ニューヨーク生まれ、ロサンジェルス育ち)先生は、たくさんの聴講生に囲まれていました。
 こんな質問、悪いかな、どうしようと、もじもじぐずぐずしていたのですが、輪が少し崩れ、先生が何?のような目をして、ヤッホー君のおおどおどした目とあってしまったのです。
「あ脳ぉ〜、聞きそびれてしまったのですが、『でくのぼう』って何てお薬師さま、じゃ、ない、ない、あ脳ぉ〜、お訳しになったのでしょうか…」
「これは、blockhead としました。あのぉ、辞書にも載っている単語です」と、黒板にチョークでスペルを書いていただきました。

 やったぁ〜、アンケート用紙にさっそくお礼を申し述べさせていただきました。
 ”blockhead”って英英辞典で調べたら、a very stupid person だってぇ〜、ヤッホー君なんかその手前の”fool”だからまだまだ修業が足らん!

 ぜひ、先生の講義を受けてみてください:

☆ SCOPE 「ロジャー・パルバース」本編動画
http://www.youtube.com/watch?v=Is5TpFn1UyU

☆ ロジャー・パルバース氏、自著を語る
http://www.youtube.com/watch?v=MU0za-tfWlo

 ほかには、2014年5月20日付け「松岡正剛の千夜一夜、1545夜」もぜひお読みくださいね。
http://1000ya.isis.ne.jp/1545.html

 また、こんな投稿を発見:

 『もし、日本という国がなかったら』(集英社インターナショナル、2011)

 「もし、私が九段下のラーメン屋で、味噌ラーメンを食べてなかったら」…この本は世に現れていなかったかもしれません(なわけありません−その一)。
 原稿をお願いしようと初めてパルバース先生に会いに、勤務先である大岡山の東京工業大学へ行ったのは、今年2011年の1月のことでした。どんな場合でもそうですが、初対面のときは、「出会い頭」が重要です。先生とお会いする直前に、私の貧弱な脳みそにあることがひらめきました。
 いざ初対面、先生から真っ先に「いや〜、どうも初めまして!」と流暢な日本語でいわれたとき、ハンサムで長身、そしてダンディな人物を前に、私は少々緊張しながらも思い切ってこうあいさつしてみたのでした。
 「ズドラーストヴィーチェ!」(ちなみに、これはロシア語で「こんにちは!」という意味です)…
【新刊情報】ロジャー・パルバース著『もし、日本という国がなかったら』12/15発売です!

(2011年12月8日付け集英社インターナショナル公式ブログ)
http://www.shueisha-int.co.jp/blog/?p=6165

 続きはぜひ、上↑をクリックなさってくださいね。

Q 花巻での宮沢賢治国際研究大会のパルバースさんの講演で、現代の人が賢治の時代の状況を正確に知ることは難しいが、21世紀に向かう時代を生きようとする人たちは、賢治の作品の中にあるメッセージを自分たちなりに受けとめればいいと話されているそうですが、賢治の21世紀へのメッセージとはどういうことですか。

A もっと多くのモノが欲しい、金が欲しいという欲望、セックスへの欲望、さまざまな欲望がありますが、そういう欲望をほどほどに抑えないと人間は滅びるということです。自分たちの欲望を抑える力が現代の日本人には弱くなってきています。最近の官僚の腐敗とか、困った例にはこと欠きません。
 宮沢賢治は、強い自己犠牲の精神、人のために尽くしたいという気持ちを持ち続けた人で、賢治の死も一種の餓死に近いのではないかと私は思っています。そういう人の真似をするのを勧めることはできませんが、ささやかでも人のためになることができれば、自分の身体を動かそうというボランティア活動、自然と人間の正しい結びつき方の回復といったことに目を向けはじめた人たちにとって、賢治の作品は深い意味をもつと思います。

(宮沢賢治の宇宙、私にとっての賢治、ロジャー・パルバース「21世紀への宮沢賢治のメッセージ」)
http://www.kenji-world.net/interv/interv10.html

 この日記を締めくくるにあたって、いやあ〜、ヤッホー君、また「宮沢賢治」に立ち戻るって言ってますが、とりあえず、二つほど。
 まずは、生前も死後も少しも世間から、あるいは文壇から「評価」されることがなかった宮沢賢治がここんところ少しづつ見直されて来て、作曲家、富田勲まで作曲することを動機づけさせてしまう宮沢賢治の魅力についてです。

 冨田勲が作家・宮沢賢治の宇宙的な世界観を音楽で表現する超大作「イーハトーヴ交響曲」の再演が、2013年8月29日に賢治の故郷である岩手・花巻で行われた。
 「イーハトーヴ交響曲」はボーカロイドの初音ミクをソリストとしてフィーチャーし、大オーケストラと合唱団を率いて宮沢賢治の世界を表現する大作。花巻公演は、昨年2012年11月に東京オペラシティで行われた世界初演に続く2回目の演奏会として開催された。今回は開催地が没後80年を迎えた賢治の故郷であり、また地元の市民合唱団が全面参加するということもあって、賢治への思いに満ちた感動的な公演となった。

(2013年9月3日 12:00 更新「音楽ナタリー」)
http://natalie.mu/music/news/98590

 そして「冨田勲×初音ミク「イーハトーヴ交響曲」再演@岩手県・花巻市文化会館」:
http://www.youtube.com/watch?v=wL8rLJirHVc

 もうひとつは、例の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の英訳です。
 出だしを否定形にしなかったロジャー・パルバース先生、肯定形にして詩にいのちとたましいを吹き込んだことです。そして「行ツテ」の畳み掛け、積極性、能動性、自発性、当事者性を強調なさったことでした。
 ですのでヤッホー君、先生ご自身の朗読に「あ脳ぉ〜味噌」が震えたと言ってましたもん:

Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow…
He goes there to nurse the child…
He goes to her and carries her sheaves…
He goes and says, ‘Don’t be afraid’…
He demands that the people put an end to their pettiness…




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2014年11月01日

ふしぎな岬の物語

 ハロウインに湧く10月最後の日の新宿、日がとっぷり暮れても明るく輝く新宿を徘徊していたのがヤッホー君、目をしろくろ、きょろきょろさせて、路上にうずくまってしまいました。
 だってハロウインメイクで着飾ったお嬢さんたちで路上はあふれかえっていたのですが、ヤッホー君は古代人。

 1867(慶応3)年、幕末も幕末、にっちもさっちもいかなくなっていた江戸幕府の混乱期に流行った「ええじゃないか」を思い出してしまったのです(注1)。
 1937(昭和12)年、日中戦争で多くの中国人を殺戮し(日本人には「聖戦」と刷り込まれていた)、当時の中国の首都、南京を占領したときの提灯行列を思い出してしまったのです。
 この十五年戦争の末期、米軍の焼夷弾の無差別集中投下、空襲により逃げ惑う都市の女、子ども、老人の姿を思い出してしまったのです。
 3.11の夜、R246を都心に向かって、人波をかきわけかきわけ、真逆に都心に向かって帰宅すべく歩いていたときのヤッホー君の姿を思い出してしまったのです。

 ハロウインが後日、「狂乱」なんて評価されないよう、あるいは一瞬のにわか「景気浮揚」に、なんて踊らされることのないことを祈っているだけなんですって。

 新宿に行ったのは、映画『ふしぎな岬の物語』(注2)を観るため。
 路上にうずくまってしまったのは、新装なった「新宿中村屋ビル」前:
 とうとう入り損ねました:

●中村屋ゆかりの日本近代美術の作品展示を中心とした美術館「中村屋サロン美術館」(3階)

■「中村屋」は、1901(明治34)年に東京・本郷の東京大学正門前にてパン屋として創業、1909(明治42)年には本店を現在地に移転しました。移転と同時に和菓子の製造・販売を開始し、大正時代には洋菓子の製造・販売も始めます。さらに、1927(昭和2)年には喫茶部(レストラン)を開設するなど、時代のニーズと新宿の街の発展とともに業容を広げてまいりました。今般の「新宿中村屋ビル」の開業をきっかけに、次の100年に向けて、新たな一歩を踏み出します

■ 三井不動産は事業主である中村屋から委託を受け、デベロップメントマネージャーとして、建物竣工までの開発計画の立案、設計・施工管理、テナント誘致等を行っています。また、竣工後は、「中村屋」以外の店舗へのマスターリースおよび施設の運営管理を行ってまいります。

(2014年06月30日付け毎日新聞「「新宿中村屋ビル」 「COACH」の日本初となる新コンセプト店舗など、全12 店舗が決定 2014 年10 月29 日(水)グランドオープン)
http://mainichi.jp/select/biz/pressrelease/archive/2014/06/30/8160.html

 すっかり映画がお気に入りになったヤッホー君、この映画も良かったです!
 まずは、村治佳織。ヤッホー君、この人のCDを二枚も持っていました:
☆ 2006年7月ロンドンで録音『ライア&ソネット』(この題はイギリスのことばでリュートと歌声という意味です)
☆ 2008年8月ライプツィヒで録音『プレイズ・バッハ』

 映画のストーリーもさることながら、音楽も良かったのです:

 吉永小百合さんが主演、プロデュースした映画「ふしぎな岬の物語」が、多くの観客の支持を受け、公開2週目も好調に推移しています。1週目の週末観客動員で1位(全国映画動員ランキング)、2週目も同2位に入り、10月21日現在全国の観客動員は50万人を突破しました。客層は40代以降の中高年世代が中心。当初は「サユリスト」を中心に男性客が7割近くを占めましたが、しだいに女性客が増加し、現在は男女半々ぐらい。夫婦連れの姿も目立っています。
□ 音楽も評判に
 村治佳織さん(注3)のギター演奏によるメインテーマ「望郷〜ふしぎな岬の物語」が収録された同名のオリジナルサウンドトラック(ユニバーサルミュージック)も好調。吉永さんによる劇中詩の朗読、ブックレットには吉永さんと村治さんの対談も掲載されています。シンプルで美しいギターの音色が心を震わせ、映画のぬくもり、感動を再び味わうことができると評判です。
 映画の中で、村の青年団が歌う「入っておいで この里に」が収録された同名CD(アップフロントワークス)も話題になっています。アメリカ民謡を編曲したこの曲を歌っているのは、杉田二郎さん、堀内孝雄さん、ばんばひろふみさん、高山厳さん、因幡晃さんの5人(ブラザーズ5)(注4)。日本フォークシーンをリードしてきた面々が新ユニットを組み、陽気ににぎやかに歌う挿入歌も、映画を盛り上げています。

(2014年10月24日毎日新聞・東京夕刊「社告:映画『ふしぎな岬の物語』好調 観客50万人突破」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20141024dde012040021000c.html

 
(注1)
 以上の資料収集は、また十分なものとは云えず、膨大な推別史料のごく一部を散見したに過ぎない。しかし以上の史料の中間的分析では、「ええじゃないか」は1867年(慶応3)年5月末の第2次長州征代中止決定の公示がきっかけとなった物価の下落と「にわか踊り」の自然発生のもとで、その情報伝播が広がり、7月中旬に三河地方で発生した。その狂乱が逆に京阪地方に達するのは、10月14日の大政奉還の直後であり、これを封幕派が十二分に利用した形跡がある。
(1989年度研究、静岡大学、田村貞雄「『「ええじゃないか』の伝播と政治過程」
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/01510196.ja.html

(注2)
 公式サイトがあります:
http://www.misaki-cafe.jp/index.html
 観た映画館は、「新宿バルト9」(2007年2月オープン、Tel 5369−4955)
ムカシ、ここは「新宿東映」じゃありませんでしたか?とチケット売り場の若いお嬢様にお尋ねしたヤッホー君、「新宿バルト9は、TOHOシネマズとティジョイの共同事業体なんですよ」って…失礼しました!
 ティジョイについてはこちら。《ティジョイ、闘いの歴史》が参考になります:
http://www.t-joy.net/#company

(注3)
 壇上での吉永と鶴瓶とのトークでは、
「大好きな吉永さんから今回のお話をもらえてうれしかった。また、素晴らしいメロディにも出会えたので演奏家冥利に尽きる。そして、またこうして元気にステージに戻ってくることが出来てうれしい」と語ると、実際に都内のスタジオまで赴き村治が演奏する映画の楽曲の収録に立ち会ったという吉永は、
「『禁じられた遊び』など、映画とギターは切っても切れない縁がある。村治さんのギターの音色で映画のラストを飾るのが私の夢だった」と、その喜びを語っていた。
 そして、映画のメイン・テーマ「望郷〜ふしぎな岬の物語」をギターで披露。静まりかえった会場内に村治のギターの優しい音色が響き渡り大きな感動を与えていた。

 映画『ふしぎな岬の物語』は、のどかな太陽と海に抱かれて、時代に流されることなくどこか懐かしさの漂う岬村で小さなカフェを営む悦子(吉永小百合)と、店に集う人びととの交流を通して、当たり前すぎて忘れてしまいがちな世の中の不思議や、人と人の絆が、なめらかに紡ぎだされてゆく、温かい感動を呼ぶ作品。映画女優として常に輝き続ける吉永小百合が『孤高のメス』や『八日目の蝉』など、数々の名作で観る者の心を震わせてきた成島出監督と共に、初めて企画も手掛けた主演作でもあり、先日のモントリオール世界映画祭では、審査員特別賞グランプリ受賞ほか、二冠を受賞した作品だ。
(2014.09.17<レポート>映画『ふしぎな岬の物語』ジャパンプレミア試写会に村治佳織が登場!)
http://www.universal-music.co.jp/kaori-muraji/news/2014/09/17_news

 では、村治佳織で、「アルハンブラの思い出」:
http://www.youtube.com/watch?v=7llUA1_QHL0

(注4)
 “ブラ5”とは「ANAK(アナック)」の杉田(1946年11月2日生まれ)▽「愛(いと)しき日々」の堀内孝雄(49年10月27日生まれ)▽「『いちご白書』をもう一度」のばんばひろふみ(50年2月20日生まれ)▽「心凍らせて」の高山厳(げん)(51年10月19日生まれ)▽「わかって下さい」の因幡晃(54年3月18日生まれ)というフォークの“伝説的スター”5人が集って生まれたスーパーユニットである。目的は「同世代を、いや日本を元気にするため」だ。
 6月の初シングルは「グリーンスリーブス」「漕(こ)げよマイケル」、10月の第2弾は「トム・ドゥーリー」「雨にぬれた朝」というフォークの代表曲に日本語詞を付け歌っている。いずれのシングルにも新井満が詞を書いた「この街で」を収録した。2005年松山市で開かれた「平和の日・松山の集い」に招かれた新井が、市役所に掲げてあった公募詩の「母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」というフレーズに感動し一晩で書き上げた曲。じわじわと浸透し、城之内早苗、仲本工事、トワ・エ・モワらがカバー、“ブラ5”も参加した。
 「日本のフォークって、世界の動きを知って『あ、素人も歌っていいんだ』って自然発生的に生まれ育った。互いに刺激し合って認め合ってね。“ブラ5”も一緒なんだ」と杉田。高山も「時代を歌って、今もときめきがある」と補足する。「チームの楽しさも」と言うのは“初のグループ活動”の因幡。「甘ったるい優しさじゃない。『この街で』を歌えば、平和になるなんてありえない。『今こそ、考えよう』ってきっかけを作るだけ。今も昔も同じだよ」と杉田がまとめた。
(2014年10月15日付け毎日新聞・東京夕刊、Interview:ブラザーズ5 歌から今、考えよう フォークの伝説的スター集団が始動)
http://mainichi.jp/shimen/news/20141015dde012200005000c.html

 では、ブラ5で、『この街で』:
http://www.youtube.com/watch?v=vtaepBYbOPQ



  
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