2014年10月31日

ラー・エ・ミクニ

 ようやくのろのろと動きはじめたヤッホー君、「菱田春草展」(11月3日まで)を開いて入り口には行列までできている「東京国立近代美術館」千代田区北の丸公園3-1 Tel 5777-8600(ハローダイヤル)まで来たときにはもう、気分が「もうろう」としてしまいました。
 それは、「ラー・エ・ミクニ」!

 2014年10月26日付け日刊ゲンダイ『“SM”が霞む…安倍首相&麻生大臣「政治資金」放蕩三昧』に登場してくるレストランが、「四谷の予約困難店《オテル・ドゥ・ミクニ》」!
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/154429

 「ラー・エ・ミクニ」は、「オテル・ドゥ・ミクニ」の関係先:

 プレ30周年となった MIKUNI 。美術館60周年を記して本館2階に三國清三がプロデュースした「ラー・エ・ミクニ」をオープン。「芸術と料理」をテーマにフレンチとイタリアンの融合をアートします。四季の皇居を望むテラス席もお楽しみいただけます。
(東京国立近代美術館の公式サイト、レストランのご案内)
http://www.momat.go.jp/Honkan/mikuni.html

 来年2015年3月、オテル・ドゥ・ミクニは開店30周年を迎えます。30年支えていただいた皆さまへ感謝を込めて、プレ30周年メニューをご用意しました。このレシピは四ツ谷において30年前に考案した懐かしいメニューの数々です。往年のファンの皆さまも、初めていらっしゃる皆さまも、どうぞ“三國料理”をご堪能ください。
 スタッフ一同、心よりお待ちしております!オーナーシェフ 三國清三
 photo: 1985年 オテル・ドゥ・ミクニ開店、三國清三(当時30歳)

(2014/05/27付けレストラン情報「オテル・ドゥ・ミクニ」1日10組・平日限定“プレ30周年 感謝メニュー”登場!)
http://www.oui-mikuni.co.jp/cgi-local/top/news.cgi?idx=523

 「オテル・ドゥ・ミクニ」のオーナーシェフ、三國清三さんはイマ、日本各地で「スローフード」のお話しをしていらっしゃいますが、そのなかから、ひとくさり:

 僕がどうして「食育」かというと、6年前、「食育基本法」という法律(*)が出来たんですが、それより10年ぐらい前から、味覚、“甘い・酸っぱい・しょっぱい・苦い”の四味に“うま味”というのがあって五味になりました。そのうま味というのは1985年に世界用語として認知され、「うま味」というのは世界用語なんですね。イタリアやフランスって食文化でプライドが高いんです。ですからあまりヨーロッパでは“うま味”というものを認知はしているんですが積極的には言わず、“甘い・酸っぱい・しょっぱい・苦い”の四味を基本にしています。
 我々は日本人なので、そこに“うま味”を加えた五味で1999年に本格的に食育の活動を始めました。そしてイタリアのスローフードの会長から、一緒に日本でもその活動をしようよという誘いを受けまして、2000年から日本フランス料理技術組合というものをつくります。
 スローフードは1985年頃、ヨーロッパにファーストフードが押し寄せた際、イタリアでファーストフードやジャンクフードに対抗して、スローフードという運動を始めたのがきっかけです。その際にイタリアのスローフードの会長が子ども達の味覚を守ろうということで立ち上がるんです。
 そして、全く同じ時代にフランスではシェフたちが、フランス高級料理技術組合という組合を作って、子どもの味覚を守るんだということで、小学校に出向いて行くわけです。85年頃はまだ、そういう「食」というのは無かったので学校に行ってもボイコットされるんですね。でも子どもたちはチーズだとかクロワッサンなんか凄く大好きなんで、職人さんが朝3時とか4時から仕事を始めるところにわざわざ連れて行くんです。小麦粉とかバターとか作ってるのを見せて、畑にも連れて行くんですね。そこで子どもたちにそういう土地の土壌のことだとか、君達が大好きなそういうクロワッサンはこんなに大変な思いをしてコックや農家の人が一生懸命作っているんだということを教えています…

 僕は何で10年前に子どもたちにこう伝えたかというと、最初は10年前に大人に伝えたんです。でも家庭科室というのは10年前、ほとんどもう機能してなかったんです。その家庭科室が、パソコンルームになって、そんな家庭科なんてとんでもないと。前例もないということで、ボイコットされるわけですね。
 で、今は一生懸命こう10年続けていて、今ガラッと変わったんですよ。多くの小学校は学校の周りに畑を作っています。その畑でみんなでニンジンや玉ねぎや芋や野菜を沢山植えています。そこで上級生がお昼前になると自分達で取って、それを調理して、下級生に食べさせるんです。そうすると、今でも残食の問題があるんですが、子ども達は一切残さないといいます。やっぱり長く続けていくことが、日本にとっていいことなんだと思うんです。

(食育推進全国大会第6回「食育は子供の心を豊かにする」〜親子で話そう、作ろう、食べよう〜)
http://www8.cao.go.jp/syokuiku/more/promotion/convention/6th/report/pdf/p27-29.pdf

 これっていつころ、どこでのお話しなんだろうな、と思ったヤッホー君、調べまして、また気分が「もうろう」としました。
 だって、あのころもイマも、風評被害なんて変な流行り言葉以前の問題で、耕作する、飼育する、加工すること一切ままならず、家畜は野に放たれるか死に絶え、人は国内難民と化し、再定住の途すら定かでない暮らしをおくっていた、いるときのことなんですもん。

 第6回食育推進全国大会
 2011(平成23)年度は、6月18日(土)19日(日)の両日に、静岡県三島市において第6回食育推進全国大会が開催されます。
 東日本大震災により、あらためて食の大切さを実感した方も多いことと思います。食の安全をはじめとする食育の取組の重要性は増しており、本大会においても、「防災と食」や食品の安全性に関する情報提供を行なうなどさまざまな催しを用意しております。

(内閣府の取組、国民運動の推進)
http://www8.cao.go.jp/syokuiku/more/promotion/convention/6th/index.html

 山歩クラブの「スローフード」への取り組みも、もう2003年7月13日更新のムカシのホームページで宣言されてるようで、「食育基本法」なんて法律ができる前から、つまりもうその活動は、10年以上にもなります。
 いえ、あの、その、早食いの大喰らい、一粒も残しちゃ、せっかく作ってくれた人に悪い、と残飯整理で他人(よそ)さまの分まで狙うハゲタカ・ヤッホー君のことでありますから、イタリアのスローフードの会長から、一緒に日本でもその活動をしようよという誘いは受けなかったんですって。
 ヤッホー君のこのブログ、一部ではありますが次の日記をご参照あれ:
○ 2010年5月26日付け「スローフードと山の会」
○ 2012年03月27日付け「健康長寿」
○ 2013年05月15日付け「竜っちゃん乃湯」
○ 2013年08月25日付け「ナシルマッ」

 そしてびっくり、山歩クラブが山の大先達とお慕い申し上げている Tamuさんのホームページ「掲示板」に、なんと「ぼくも行きたい」と、2010年4月19日(月)21時45分28秒、投稿しておりました:

 「スローフードと山の会」で今年4月下旬に芝倉沢に入ろうと提案を受けたとき、なぜかヤッホー君はクラックもあるだろうし、ラクもあるし、雪崩も怖い、とか乗り気でなかったのですが、一の倉沢を見にスノウシュウをつけて歩いても本当は良かったのだよね、という強い、前向きの明るい気持ちにさせていただいたのが、タムさんのHPでした。ありがとうございました!
 われわれ山歩クラブが観た滅多に見られない光景って、山のダイ、大先達にご報告しても良いのかな、と、雪を被った桜、雪綿を被った樹林、よりも雪の急斜面を下りる勇姿に圧倒されて見入っておりました。
 今日の一言は、「人は皆、想い出を道連れに歩いていける、だから良い想い出がある人は幸せ」です。
 そうか、山歩クラブでいっぱい良い想い出を重ねていきましょうね、皆の衆!!
 白毛門に今年挑戦してみようよ!
http://6602.teacup.com/yamatabi/bbs/1642



(*)
 近年、偏った栄養摂取、朝食欠食など食生活の乱れや肥満・痩身傾向など、子どもたちの健康を取り巻く問題が深刻化しています。また、食を通じて地域等を理解することや、食文化の継承を図ること、自然の恵みや勤労の大切さなどを理解することも重要です。
 こうした現状を踏まえ、2005(平成17)年に食育基本法が、2006(平成18)年に食育推進基本計画が制定され、子どもたちが食に関する正しい知識と望ましい食習慣を身に付けることができるよう、学校においても積極的に食育に取り組んでいくことが重要となっています。
 文部科学省では、栄養教諭制度の円滑な実施をはじめとした食に関する指導の充実に取り組み、また、学校における食育の生きた教材となる学校給食の充実を図るため、より一層の地場産物の活用や米飯給食の充実を進めています。
(文部科学省公式サイト、学校における食育の推進・学校給食の充実)
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/syokuiku/
posted by fom_club at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月30日

知性と緑あふれる街

 10月29日水曜日、秋晴れのお出かけ日和。
 ヤッホー君は、半蔵門線「九段下」駅下車、4番出口から地上に出まして、九段会館、千代田区役所、竹橋、東京国立近代美術館を通って、「国立公文書館」へ。
 九段会館が元気だったころの夏、屋上のビアガーデンで生ビールを傾けたっけ、いま、どうなってんでしょ。

「九段会館天井崩落事故直後の映像」
http://www.youtube.com/watch?v=AO6Zsl78MZI

 3月11日に起きた大震災では、主に津波により2万人を越える死者・行方不明者が出た東北地方の被害に焦点が当てられている。しかし、「最初の犠牲者」は、実は東京都内で出ている。
 それは、千代田区にある宿泊・会議施設の九段会館(千代田区)で天井崩落事故の巻き添えになった女性2人だった。前連載「大震災で生と死をみつめて」では、遺族の悲痛な思いを紹介した。この事故は「人災」の可能性も見え隠れしていると、筆者は感じた。
 「人災の疑い」があるものを、「1000年に1度の自然災害だから仕方がない」「自然災害に罪人はいない」と真相を覆い隠していいのだろうか。それで、防災や危機管理に役立つだろうか。死者や遺族に配慮しているだろうか。遺族に十分配慮できない社会に、健全な人権意識があるのだろうか。
 私たちは、金子さんのような遺族の思いを感じ取り、自らの意識を高めていくことが大切である。防災に限らない。命の尊さについて考えることが、安全な社会を作る世論となる。世論が社会を変えていく。その世論は防災だけでなく、事故や事件などの抑止にもなる。これらは、二度とこのような悲劇を繰り返さないために、今を生きる私たちにとっての未来への責任ではないだろうか
 そのためにも、金子さんのような遺族の声こそ、小中学校の教材に盛り込んだり、県庁や市役所、町役場の広報誌などで紹介するべきである。国は今後の防災のためにも、記録として残すべきである。「人災の疑い」で死んだ人やその遺族に配慮がない国に、再生などあるわけがない。

(2012年2月21日吉田典史「妻は死にたくて死んだんじゃない、<九段会館天井崩落事故>の遺族が抱く心の葛藤〜九段会館天井崩落事故の遺族、金子家規氏のケース〜)
http://diamond.jp/articles/-/16226

 東日本大震災で九段会館(東京都千代田区)のつり天井が崩落し、2人が死亡し31人が重軽傷を負った事故で、警視庁は2013年11月8日、会館を管理していた日本遺族会の当時の会長の古賀誠元衆院議員(73)と支配人の男性(60)について業務上過失致死傷容疑での立件を見送る方針を固め、起訴を求めない意見書を付けて東京地検に書類を送付した。
 捜査一課は、事故当時、つり天井についての明確な法定の耐震基準がなく、遺族会は国が定めていた範囲の定期検査は行っていたとして、2人の予見可能性は問えないと判断した。

(2013年11月8日付け東京新聞「大震災、九段会館死傷事故 管理者の立件見送り」)

 東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館した東京都千代田区の九段会館が取り壊されることになった。1934年に軍人会館として建設され、1936年の「二・二六事件」では戒厳司令部が置かれた歴史を持つ会館だった。
 老朽化もあって震災後の営業再開はできず、「帝冠様式」と呼ばれる特徴ある建物が姿を消す。
 取り壊し後は、民間資本による新たなビル建築が予定されている。

(2014年5月24日08:41更新、東京新聞「九段会館取り壊しへ、歴史見つめた80年に幕」)

 ヤッホー君、なかなか足が前にすすみません。
 イマ読んでいるのが、知の巨人・加藤周一(1919〜2008)!
 まずは「「十五年戦争と早稲田」(ヤッホー君のこのブログ、10月25日付け日記を参照)の「十五年戦争」から。

 日本の戦争は、1941年12月8日のパール・ハーバーの奇襲で突然始まったのではなく、1931年の「満州事変」から始まっています。つまり、日本の戦争は「満州」すなわち東北中国の侵略から始まった。これが1931年から1945年までの戦争、「十五年戦争」と呼ばれる所以です。
 この「十五年戦争」というのは、鶴見俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年生まれ)さんが最初に言い出した考えかたで、だんだん歴史学者も使うようになったんですが、これは日本がやった戦争の性格、つまり、アジアにたいする侵略と国内の言論弾圧の歴史過程をあらわすのに非常に的確な概念だと思います。

(加藤周一&凡人会『ひとりでいいんです、加藤周一の遺した言葉』(講談社、2011)8頁)

 「二・二六事件」は、1936年2月26日未明、皇道派が1400人ほどの兵隊を動員して、永田町を中心に、首相官邸、大臣官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁など、日本の権力の中枢を襲撃して、高橋是清(たかはし これきよ)蔵相、斎藤実(さいとう まこと)内大臣、渡辺錠太郎教育総監などを殺害し、他の要人に重傷を負わせた…という、軍事クーデターです。
 当時、私は、高校受験を控えた中学生でした。そのころ渋谷の宮益坂(みやますざか)を上ったあたりに住んでいました。深夜に受験勉強をしていると、屋台に「支那ソバ屋」と書いたラーメン屋のおじさんの笛の音が聞こえてきたことを覚えています…
 どのようにして事件を知ったかというと、未明の事件ですから、当日の新聞の朝刊では印刷が間にあわない、またテレビがない時代でしたので、情報源はラジオでした…

(同書、10-11頁)

 加藤さんは2008年暮れに旅立たれました。加藤さんがご存命であれば、3.11東日本大震災、原発事故と放射能汚染、「中東の春」、TPP、尖閣諸島(魚釣島)問題…などなど、お聞きしたいことがたくさんあるが、もはやかなわない望みとなった。
(同書、凡人会代表・小川与次郎「少し長めのあとがき、加藤周一さんと凡人会について」、266頁)

 しかし、残された言葉は記録されて、ありました!

 しばらくは大丈夫なんですよ、しばらくは「安全」、正確には、おそらくたぶん「安全」(笑)。
 しかし、政府も電力会社も「たぶん」とはいわないですからね、「絶対」安全という。
 だけど、いつまでたっても大丈夫という保証は全くない。
 科学に「絶対」はない。「絶対」といったら、それは信仰の問題です。
 かくして「安全神話」ができあがる。
 第一、原発なんか始めたのは、人類史上からいえば、ごく最近のことですから。
 「安全」といいきれるような経験的知識・データはまだない。

(加藤周一&凡人会『いま考えなければならないこと、原発と震災後をみすえて』(岩波ブックレット、2012)

本書は,市民サークル凡人会メンバーと2000年12月に交わした雑談の記録である。いま、改めて加藤周一氏の遺された言葉を人びとに贈りたい。このブックレットはそういう思いで、凡人会・小川氏の手によって編まれた。
(岩波書店、編集担当・岡本厚)
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/2708550/top.html


posted by fom_club at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月29日

羽村市、花と水のまち

 かくして10月26日日曜日の山歩クラブ「駅からお散歩会」ご一同さま、多摩川の羽村取水堰を後にするのです。
 写真は、羽村堰第一水門。

羽村堰.jpg

 ご一同さま、大きなアユが2匹も泳いでいるのを発見!
 フシギそうに川面を見ていた仲間が「どうして魚は溺れないのでしょうね?」って質問。
 すかさず答えが返ってきました。「どうしてカラスは空から落ちないのでしょうね」

 早足組のお二人は、羽村堰第二水門へ。

玉川上水.jpg

 そして「根搦み前水田」へ。

根がらみ前水田.jpg 

 根搦み前水田を維持する47軒の農家で、羽(はね)用水組合が組織されている。
 宮川修(みやがわ おさむ)組合長(66)は、
 「田んぼだけやってるという人は、居なくなっちゃったかな。うちは水田2枚と畑3枚。最近は農家の数が減ってきてますから、需要は変わらないので、だいたいマッチングしてきたな。20年ほど前は、作っても売るのに苦労してた。どうして農業って成り立つのかなと悩むほどでした」と、勤めを辞めて農業を継いだ20年ほど前と比べて、地域の変化を振り返る。
 「生活面では都市化が進むことで良いのですけど、畑の隣が住宅というのは機械を使う時や防除の時は、迷惑を掛けないように気を使いますね。ここ数年で、農家の跡継ぎが都内へ出て行って、家屋敷を売ってしまうところが出ていますよ。農家の実質賃金は1時間500円くらいかな。敷地が広いというのは優雅なんですよ。その優雅さがあるから『まぁ、いいか』と思えるけど、情緒的なものだから人に押しつける訳にはいかない。できるだけ田んぼの景観を維持しましょうとお話しはしますよ」
 近所に遠慮しながら農業を続けるよりも、高い地価の農地を手放す農家が増えていることが、都市に近い農業地域の悩みである。
 住宅地の中に残る畑の一つ一つに「生産緑地地区」の看板が立ち、「街の緑を守る生産緑地の指定を受けている農地です」と但し書きがある。
 この指定を受けた農地は、一代は耕作を続けなければならないが、宅地だと固定資産税が5畝当たり2万円のところを9000円に減額されるメリットがある。
 都市化が進む地域の緑地を残しやすくするための制度なのだ。

(季刊新聞「リトルへブン」)
http://www.littleheaven.jp/20140527/index1.html

 山歩クラブのご一同さまは、畑のなかに「大賀ハス」の看板がたっているのを発見!
 江戸さんが看板を朗読中、ご一同さま、田んぼのはしからはしまでハス探し。
 どなたかは空の彼方までおタカラ探し。

大賀ハス.jpg

 大賀ハスは、1951(昭和26)年に故大賀一郎博士の指導のもとに、千葉県の検見川遺跡から発掘された2000年前の植物であります。発掘された3個のハスの実のうち、大賀博士の努力により、その中の1個が多く成長し、見事なピンクの花が咲きました。「千古を通じてあやまりなき世界最古の生命の発露である」として、一躍世界的に注目を浴び、今では国内はもとより、世界各国に分根されて、平和と友好の役割を果たしています。
 このたび、この大賀ハスを羽村市内でも花が見られるようにと、町田市の大賀藕絲(ぐうじ)館より 譲り受け、羽村市の農業後継者の方々が植え付けを行いました。この非常に貴重な大賀ハスを一人でも多くの方に見ていただき、平和を願う人々の心の中に、端麗な気品のある大賀ハスが開くことを願ってやみません
 開化時期:7月下旬〜8月上旬の早朝6時頃

…羽村市、羽村市観光協会

 そして、「踊子草公園」では、可憐な一輪の曼珠沙華(彼岸花)を発見!

彼岸花.jpg

 春は踊子草、そう、そう「チューリップ」も。

 関東最大級の規模を誇る羽村の根がらみ前水田のチューリップ畑。
(羽村市公式サイト、根がらみ前水田のチューリップオーナー制度)
http://www.city.hamura.tokyo.jp/0000006235.html

 それに秋は彼岸花。
 羽村市は、花と水と田んぼのあるまちでした!
 こんなふうに歩きながらも掛け合い漫才が続き、笑いが絶えないわいわいがやがやの山歩クラブ。
 ようやく「一峰院の鐘楼」にたどり着いたのです:

 当門の構造形式は、一間三戸、鐘楼門、入母屋造桟瓦葺(当初は茅葺)であり、正面は南に面しています。建築年代は「諸色写之帳」(小林清家文書)によると、1819(文政2)年頃で、大工は羽村などで活躍した木野下村(現青梅市)の堂宮大工小林藤馬です。この門の大きな特徴は、寺院の山門としての楼門(二階に腰縁をもつ形式)と鐘楼を兼ねていて、二階部分が梵鐘を釣るために一般的な楼門と比べて建ちが高く、壁が設けられていないことです。また、一間門であるにもかかわらず、3ヶ所に扉が付いていることや、すべての柱に角柱を用いていることも珍しい形式です。建築様式は和様を基本として禅宗様との折衷様です。
…羽村市教育委員会

 すかさずヤッホー君のお仲間が、二階建ての門って「羅生門」(大映。1950年に公開、原作は芥川龍之介『藪の中』と『羅生門』。監督は黒澤明、三船敏郎、志村喬、千秋実らが出演)だよねって!
http://www.youtube.com/watch?v=ilofeF658iA




posted by fom_club at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月28日

玉川水神社

 羽村市郷土博物館を後にした9人の山歩クラブの面々、また多摩川を渡って玉川上水羽村堰へ。

 まずは、やはり玉川兄弟(注1)にご挨拶。
http://www.youtube.com/watch?v=FXS5cGazVc8

 「玉川兄弟の像」
 徳川氏の江戸に幕府を開くや市街を整え道路を通じ衆庶の安住を計る。
 飲料水その主要なるを以て先に井頭溜池等の水を引いて之に充つ。
 三代家光の時に至って戸口増加し、更にその対策に苦慮す。
 老中松平信綱は町奉行神尾元勝等をして多摩川の引水を計画せしむ。
 1653(承応2)年、多摩郡羽村の生縁なる庄右衛門、清右衛門の兄弟あり。
 能く水利に通じ土地の高低を察し幾多苦辛の末羽村に堰を設け、水路を江戸四谷に通じて多摩川上水を引入れ、以て市民の飲用に供す。
 幕府表彰して玉川の姓を免じて士分に列し、明治政府また従五位を追贈す。
 爾来三百余年その規模は漸次拡大して、今日の東京都の水道となり、益々大東京の発展に寄与せり。
 茲に玉川氏往年創業の跡に兄弟の銅像を建設し、東京都民の感謝の意を永遠に傳えんと欲す。

…玉川兄弟銅像建設委員会建

 へ〜っ、奥多摩街道を渡ると、「玉川水神社」!

 玉川上水開通後、玉川庄右衛門・清右衛門の両人が水脈鎮護のために建立し、明治維新前までは徳川幕府の所轄であったが、1893(明治26)年、東京府はそれまで水神宮と云われていたのを玉川水神社と改称し、同時にこれを管理し、その後は東京市に属し、1895(明治28)年に社殿を改築した。
 社前の石灯篭は、1839(天保10)年、筏乗りが寄進したものである…

 1918(大正7)年5月21日には本社の分祀を多摩川水源の山梨県東山梨郡萩原山字水干に建立した。
 現在、玉川水神社の管理は東京都水道局から羽村市民等で作る「水源愛護会」に移っている。

(小平市玉川上水を守る会)
http://www.geocities.jp/annaka29jp/jyosuijiten/suijinjya/suijinjya.html

 玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が1654(承応3)年徳川幕府によって完成された際、水神宮としてこの地に建立されたものであります。
 以来300余年、江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられて来たもので、 1893(明治26)年に名を玉川水神社と改めました。
 水神社としては最も古いものの一つであります。
 祭神:彌都波能賣(みずはのめのかみ)水分大神(みくまりのおおかみ)
 社殿:本殿は名匠小林播磨守による天保時代の作、1895(明治28)年に改築
 祭典:例祭 毎年9月5日

…羽村水源愛護会

 だから脇に「東京市長正三位勲一等男爵後藤新平題頌」という石碑が立っているんですね。さらに目を転じると、わらぶきの門構えが。
 中を覗いたら何もなく、イマ何か建物の工事中でしたが、ムカシ「玉川上水羽村陣屋跡」(町指定旧跡)。

 江戸幕府は急増する江戸市民の飲料水を確保するため、1653(承応2)年、羽村−四ツ谷大木戸間に玉川上水を完成させた。
 この上水道の取締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理に関する仕事を処理するため、ここに陣屋と称する役所が置かれた。
 陣屋門は、堰のふちを通る旧道に面してあり、門を入るとやや広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があった。
 陣屋には常に幕府の役人が往来し、村民との交渉により、本村へ文化上、生活上少なからざる影響を与えた。

…羽村市教育委員会

 江戸幕府、幕閣… 三代家光、老中松平信綱以外にも、著名な人がそこにからんできて…

☆ 「国土交通省関東地方整備局」:
 このサイトは、きっと小学校4年生の社会科見学の際、先生や生徒の基本テキストとなっているのでしょうか:
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000099136.pdf

 さらには「玉川上水の開削は正之公の鶴の一声で決定された」!

 江戸幕府が 安定期に入ると江戸の人口は膨張の一途をたどっていたから、必然的に水不足は深刻さを増した。
 そこで玉川上水の開削が計画・検討されたが、幕閣たちは水道ぞいに進入する敵を危惧し猛反発をした。
 その時『一国一城の小城は堅固なるを以って主とす。天下府城は万民の便利安居を以って第一とす』 (『千載之松』)
 正之公のこの鶴の一声によって、玉川上水の開削は決定した。
 それから350余年後の東京都民にも、今尚素晴らしい恩恵を与え続けている。

(伊那市高遠町郷土博物館)
http://inashi-kankoukyoukai.jp/cms2/archives/1486

 う〜ん、あの羽村堰、そして玉川兄弟のお仕事、工事を発注した時の政府… アタマのなかにどんどん話しがひろがっていきます。
 10月28日火曜日、関西から木枯らし1号が、北海道から初雪の便りが寄せられる寒い朝です(注2)。
 青森県酸ヶ湯温泉の積雪5pと聞いてヤッホー君、からだをぶるっと一振りさせながら、「羽村見返りに、もう一度、勉強してこようかな。めくり、巡ってムカシを想う秋」なんていつものようおに訳の分からない独り言。

 「上水記展」
 《上水記》は、1791(寛政3)年につくられた江戸上水の幕府公式記録です。
 和綴じで10巻の構成となっており、1788(天明8)年から3年がかりで3部作成されました。
 そのうちの1部が水道局に引き継がれ、現在、「東京都水道歴史館」に保管されています。
 貴重な江戸の上水史料として、1977(昭和52)年4月5日、東京都指定有形文化財(古文書)の指定を受けました。

 《上水記展》では「上水方の仕事」をテーマに、江戸時代の上水道がどのように管理、運用されていたのか、その一面をご紹介いたします。
 実物を展示いたします。
 縦6折、横31折に折りたたまれている第2巻「玉川上水水元絵図」(縦135.5cm×横514cm)は、羽村取水堰のしくみが精緻に、また美しく描かれています。
 年に一度の公開ですので是非この機会にご覧ください。

(東京都水道歴史館)
http://www.suidorekishi.jp/



(注1)
 墓は、下町の「聖徳寺」にあるという。これもヤッホー君、「羽村見返り」の一環として"eチャリ”で近々、おじゃましたい、と言っております:
 台東区松ケ谷2-3-3(聖徳寺)

(注2)
 札幌管区気象台によると、2014年10月28日午前0時40分ごろからみぞれを観測。
 今シーズン全国で初めての「初雪」となりました。
 平年と同じ、昨年より11日早い観測です。
 10月27日は近畿地方で「木枯らし1号」が観測されましたが、近畿地方の木枯らし1号よりも遅い初雪は24年ぶりのことです。
 北海道と東北は日本海側を中心に雨や雪が降っており、28日の夜にかけても続きます。
 北海道では道北を中心に平地でも雪が積もる所があり、東北も山沿いは雪の所がある見込みです。
 なお、青森県の酸ヶ湯では、28日午前1時現在、5センチの積雪となっています。
(札幌から初雪の便りがありました)
http://www.tenki.jp/forecaster/diary/motoasa/2014/10/28/17421.html


posted by fom_club at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月27日

玉川神社

 見返りの羽村、昨日の歴史散歩をなぞってみます。
 羽村駅からまずは玉川神社。
http://homepage2.nifty.com/042/

 『西多摩小学校発足の地』で歴史勉強:

 羽村の学校教育は、1873(明治6)年、禅林寺・禅福寺・一峰院などを仮校舎として始まりました。
 2年後に麻布高須塾から佐々蔚(さっさしげる)先生(*)を迎えて校舎新築の機運が高まり、中島与一右衛門を中心に学区取締役指田茂十郎や戸長坂本海助らの尽力によって、この諏訪の森を校地に選定しました。
 1877(明治10)年、間口8間(約15m)、奥行4間の二階建校舎が完成し、羽村と五ノ神村(**)の生徒150人が学ぶようになりました。
 翌1878(明治11)年1月8日に西多摩学校開校式が盛大に行なわれ、近代教育の第一歩を踏み出しました。
 その後、生徒数は増え続けて1901(明治34)年には500人に達したので、ここから天王台(現第一中学校所在地)に移されました。

…1994(平成6)年3月羽村市教育委員会

(*) 中里介山は1890(明治23)年4月、5歳にして村立西多摩尋常高等小学校尋常科一年に入学。校長は黙柳佐々蔚。
http://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001546.html
(**) 1889(明治22)年、羽村・五ノ神村・川崎村の3ヶ村は、市町村制が施行されたのを機に合併し、羽村市の前身である西多摩村となり、1893(明治26)年、神奈川県から東京府に編入されました。
http://www.hamura-posting.com/n03.html

 この神社こ来るまでの間に見損なった史跡がありました。それは「中里介山の碑」!

 小説「大菩薩峠」の文豪中里介山の碑『百姓弥之助由縁の地』があります。本名弥之助は、1885(明治18)年4月、玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれました。羽村に生まれ育った偉大な文豪です。
 「碑」には、
 「ひとのこころのおぼつかなければ ここに石ぶみをたて もって百姓弥之介と和のかたみとなす」と書かれていました。

http://free16.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_fd7e.html

 そして玉川上水の取水堰は「帰路に」と申し合わせ、机龍之介が歩いた後の一陣の風の如く、音無の構えのまま摺り足で通過、多摩川を羽村堰下橋で渡り「羽村市郷土博物館」(羽村市羽741 Tel 042−558−2561)へと急いだのです。
 羽村市郷土博物館は、1985(昭和60)年4月に開館しております。
http://www.city.hamura.tokyo.jp/0000006939.html
http://tamahaku.jp/s709000/

 ご案内してくださった河村康博さん(*)によりますと、都内の小学校4年生が社会科で玉川上水を学習することになっており、郷土博物館にも150〜200校から毎年2万人もの児童が訪れるそうです。
 山歩クラブも小学生に還って、社会科のお勉強!

 この博物館の屋外、実は見損なった史跡がありました。それは「旧下田家住宅」!
 これは約160年前に建てられた羽村の古民家で、国指定重要有形民俗文化財なのです。
 そして、古民家の側にも、払いきれない机龍之介の長い影が、たなびいておりました。それは「赤門」!

 この門は、中里介山の大菩薩峠記念館(*)の正門でした。
 もとは三ヶ島(現在埼玉県所沢市)の徳川幕府に仕えていた眼科医鈴木家の門でした。
 1935(昭和10)年12月に介山がこれを譲り受け、記念館の前に移築しました。
 江戸時代中頃の創建といわれ、朱塗りの建築から赤門と称し、本郷にある東大の赤門に匹敵すると常に自慢していたといわれています。
 記念館閉館後の1977(昭和52)年、中里家より町に寄贈され、1984(昭和59)年12月に現在の郷土博物館の中庭に復原しました。

http://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001590.html

(*)
 都新聞社を退社後、中里は執筆活動に専念しながら、実に多面的な社会的事業を展開している。彼は、高尾山麓に六畳一間の畑付きの草庵を結んで「引っ越し魔」の生活に終止符を打ち、農本主義を基本にした定住生活に入る。そして、ここを拠点にさまざまな試みに着手するのである。彼は草庵の近くに、敬天、愛人、克己をスローガンとする「隣人学園」を開設して自身で子供たちに講話をしている。二年後には、草庵を青梅線沿線の多摩川をのぞむ地に移すが、これは高尾山のケーブルカー工事が始まり、騒音に耐えられなくなったからだった。新たに引っ越した草庵も、六畳二間に風呂場がついた簡素なものだった。
 中里は早くから塾教育や農園の経営、鍛錬道場、それに介山文庫などを設立する夢を抱いていた。彼は、その第一着手として草庵前の空地に武術道場を開いた。間口五間、奥行三間の建物で、この道場は、近くの若者たちによっておおいに利用されたが、1931(昭和6)年には自費出版のための印刷所に切り替えている。
 1930(昭和5)年5月から、念願の塾教育を行うために西隣村塾を開き、その翌年には大菩薩峠記念館をひらいた。西隣村塾は、学業と労働の一体化を目標にしていて、塾生には日に数時間の生産的勤労を課し、自給自足の生活を求めている。塾生は15、6歳から25、6歳まで幅広い年齢層を含んでいた。塾生たちの入塾の目的もまちまちで、上級学校への受験勉強をねらう者、失業中の者などもいて、塾は彼らの雑多な要求を充すことができず、無残な失敗に終っている。
 彼は、そのほかに「一人思うことが万人の思いにかよう」という華厳経的な発想から隣人之友社をおこして機関誌「隣人之友」を発行し、そして又「山上山下会」をおこして機関誌「峠」を創刊した。「山上山下」とは、「上求菩提 下化衆生」という仏語に基づく民衆救済のための組織だった。「隣人之友」には、中里の哲学に基づくスローガンが印刷されていた。

  隣人より村落へ─村落より都会へ─都会より国家へ─国家より人類へ─人類より万有へ─万有より本尊へ

(中里介山の「大菩薩峠」)
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/nakazato.html


(*)
ヤッホー君が当日、購入したのが、河村康博さんの研究論文、次の2点:
☆ 「玉川上水羽村堰における水制について」(羽村市郷土博物館紀要第13号、1998)
☆ 「『大菩薩峠絵本』考」(同第14号、1999)


posted by fom_club at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月26日

玉川上水

 皆さん、こんばんは。
 10月26日日曜日、山歩クラブの江戸さんと歩く歴史散歩の日でした。
 時間がたらず、結局は羽村市、羽村駅かいわいの9名でのそぞろ歩きとなってしまったのですが、しかしこれまた、のんびり、ゆったり、静かな秋の西多摩歩きとなりました。
 江戸さん、ありがとう!
 江戸さんは羽村市の郷土博物館の学芸員、河村康博さんに説明をお願いし、河村さんはご多忙のなか、山歩クラブのために時間を超える80分の説明をいただき、われわれ、とても勉強になりました。
 この場をお借りして感謝申し上げます。
 江戸さんもありがとう、おかげさまにてさかのぼること縄文時代から、江戸時代、そして中里介山まで、情熱的な説明をお聞きすることができました。
 おせおせになったもうひとつの理由は、「忘年会」(!)第一回目を上野で5時から、とそれにあわせるべく帰路をとったことによるものです。
 結果的に大幅な短縮となり、せっかく企画していただいた小作駅から福生駅までのもともとの江戸さんのタウンウオーキングを簡略化してしまい、ヤッホー君、平身低頭、すみませんでした、と謝ってばかり。
 今日の130,000歩じゃ、物足りないな、と。すみません、次回また、歩きに行きましょう!

 お 昼を食べた多摩川の河原にはカワラノギク(絶滅危惧種)が秋の陽を浴び、玉川上水の源頭には玉川兄弟が水番人役(写真)。

玉川兄弟.jpg

 鐘楼もある立派な門構えのある一峰院では、そのお寺さまを菩提寺としているおば様より門前にて、介護、看取り、送りの貴重なお話しをお聞きしました(写真)。

一峰院.jpg

 樹齢400年とも600年とも言われる大けやきの前では、われわれはもっと千年を生きようねと誓いあい、今日は最高のタウンウオーキングでした。

大ケヤキ.jpg

 あ、上野ももちろん、良かったですよ、ね。
 だって、井沢八郎「ああ上野駅」ですもん:
http://www.youtube.com/watch?v=ec6PTrJbtxY

 おやすみなさい眠い(睡眠)



posted by fom_club at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月25日

十五年戦争と早稲田

 今日10月25日土曜日は秋晴れ、お出かけ日和の日。
 仲間のおひとりは、お孫さんの七五三だって(ヤッホー君家の『東京都民互助会暦』には11月15日となっているし、ま、それまでの吉日でもお祝い、ってあるしぃ、いいのか、でもねヤッホー君家のカレンダーには<仏滅>とあるんだけど…ま、いいか、目出度い、目出度い…晴れ)
 昨日だっけ一昨日だっけ、引用させていただいた毎日新聞の栗原俊雄さん!ヤッホー君はその記事を頼りに早稲田大学へ。

 早稲田キャンパス・大隈記念タワーで開かれているのが「十五年戦争と早稲田」(11月8日まで)。
「戦争というと、大学や学生は被害者としてクローズアップされがち。一方でそうではない側面もある」
 同展を担当した檜皮(ひわ)瑞樹大学史資料センター助教は企画の狙いを話す。
 約100点にのぼる学内の文書や新聞記事などで、国家による大学統制が強まる中、大学側が学生の政治活動、日常生活まで監視、干渉していった歴史を振り返る。
 1943年10月の学徒出陣以降、多くの学生が戦地に動員され、残留学生も勤労動員に駆り出され、学ぶ機会を失った…
 
 檜皮助教は
「大学が戦争をどう清算したのかにも光を当てたかった」と言い、「戦争責任」を直視しようとしない大学と学生の不満など、戦後長く表だって語られなかった「負の歴史」をあえて取り上げている。

(2014年10月22日付け毎日新聞東京夕刊、Topics:大学と戦争展「負の歴史」にも光あて 早稲田・慶応がそれぞれ企画)
http://mainichi.jp/shimen/news/20141022dde018040016000c.html

大隈重信.jpg

大隈記念タワー.jpg

 ヤッホー君は、昨日の日記「野球の聖地、阪神甲子園球場」で、『神戸は六甲山からの山津波で、江東区の城東地域は、海からの高潮が』とつぶやきましたその1938(昭和13)年頃って、その早稲田大学大学史資料センターでの「2014年度秋季企画展」では、こんなふうに:

 1937(昭和12)年の盧溝橋事件によって中国大陸での戦争が本格化した。
 これによって、社会全体が戦時体制へと向かっていった。
 1938(昭和13)年の国家総動員の制定、平和産業の軍需産業への転換など、総力戦体制へと移行する情勢に対して、もちろん大学も無縁ではなかった。
 早稲田大学においても、国策に順応したカリキュラムの再編や研究所の創設が矢継ぎ早に行なわれた。

 一方で大学は、津田左右吉や京口元吉など、自由主義的・反天皇制的とのレッテルを貼られた教員に対して、辞職を要求するなど、”学の独立”からは大きく乖離する態度をとることとなった。

 1938年4月には「東亜の文化開発に雄飛すべき青年学徒を要請」するという理念を掲げた特設東亜専攻科が設置され、同年7月には東亜経済資料室が、1940(昭和15)年11月は興亜経済研究所が設置されるなど、国家が掲げる理念と学問との癒着が顕著となっていった。

…「十五年戦争と早稲田」カタログ、U 戦時体制と早稲田、9頁

 それから7年後、早稲田大学は米軍の容赦ない「無差別」空襲の波に襲われます。

 空襲による大学・学生の被害も甚大であった。
 1945年5月25日の大空襲によって大学キャンパスは三分の一を焼失した。
 恩賜記念館・第一高等学院校舎などが全焼、大隈会館(旧大隈邸)もこの空襲で焼失した。
 また、1945年3月10日のいわゆる東京大空襲では学徒消防隊の学生7名が犠牲に、8月7日には学徒勤労動員で豊川海軍工廠に動員されていた15名の学生が空襲の犠牲となった。

…同W 敗戦と混乱、17頁

 おなかすいたヤッホー君、学食に向かうと、その途中になんとま、きれいな花輪が:

平和記念碑.jpg

 平和記念碑は、第二次世界大戦で犠牲となった本学教職員・校友・学生約4300名の方々の御霊を慰め、平和を祈念するため1990年の創立記念日に建立されました。
 平和記念碑の裏面に刻まれた歌は、多くの学生が戦場に赴き、人影の疎らになった寂しい学園風景を、当時の女子学生・宇津宮満枝氏詠んだものです(注1)。
 毎年、ホームカミングデー(注2)当日の朝には、総長をはじめとする大学関係者により、英霊への鎮護んと平和を祈念し、献花が行われます。

(平和記念碑、1990年10月21日建立)

 「平和」を希求する碑や行事や祭典がたくさんあるにもかかわらず、なぜイマ、「死」への暗雲を立ち込めさせるのでしょうか。
 ヤッホー君、師ガタリ先生の教え、批判精神 esprit critique をもっと磨きたい、決意も新たに早稲田キャンパスを後にするのですが、早稲田大学の創立記念日は10月21日火曜日、イマ、キャンパスは10月28日火曜日までの会期で「早稲田文化芸術週間2014」でにぎわっていました。

 大隈庭園、大隈講堂前、とぐるっとひとまわり。

庭園の紅葉.jpg

大隈講堂.jpg

 キャンパスを出たヤッホー君、立ち寄り湯、じゃない、ない、立ち寄った先がまずは、古本屋さん紅書店。
 購入した本が次の2冊:
 ☆ 20円均一本コーナーから高史明(1932年、山口県生まれ)『生きることの意味、ある少年の生いたち』(筑摩書房、1974年)
 ☆ 50円均一本コーナーから生沼清治(元大磯小学校長、前足柄市教育長)『足柄ものがたり』(みなみ書店、1989年)

 次いで「楽楽弁当屋」(新宿区西早稲田3-13-3)。
 ありがたや、ありがたや、弁当代はひと箱290円+税!ふたつも購入してしまいました。いえ、ね、今晩と明日のお昼と思いまして…


(注1)
 征く人のゆき果てし校庭に音絶えて
 木の葉舞うなり黄にかがやきて


 詠み人は太平洋戦争中に文学部の女子学生だった堂園(のち宇津宮)満枝。この歌は、空襲警報が日々けたたましく鳴り響く、1944年秋に詠まれたものという。イチョウの葉が色鮮やかに舞う早稲田の杜からは、すでに学徒出陣により学生の姿が消え、その美しさを愉しむ者は誰もいない。この歌には、戦時下の早稲田の光景が32文字で見事に描かれている。

 祈念碑の台座の下には、戦没者の名簿が収められている。その名簿とほぼ同様のものを、『早稲田大学百年史』第4巻(1992年刊行)の「レクイエム」の章で見ることができる。。。

 名簿には戦没者の氏名だけが記され、戦死した場所も日時も、何も記載されていないケースが散見される。戦死したことだけははっきりしているが、いつ、どこで戦死したのかわからないのである。それどころか、この名簿に載せられていない戦没者も少なくなく、名簿未記載者の情報が今日でも寄せられている。現在、判明している戦没者数は4736名。敗戦から66年経った今日において、改めて戦没者の調査が必要となっており、誰がいつ、どこで戦死したのかを可能な限り明らかにしていくことが求められている。
 「戦後」を生きる私たちの課題は、未だ終わっていないのである。
(早稲田に歴史あり〜第7回〜)
http://www.waseda.jp/student/weekly/contents/2011a/1251/251i.html

(注2)
http://www.wasedaalumni.jp/hcd/


posted by fom_club at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月24日

野球の聖地、阪神甲子園球場

 明日の10月25日土曜日から、日本シリーズが「洲崎球場」じゃない、「阪神甲子園球場」で開幕します。
 阪神とソフトバンクが対戦します。

 そうなんです、今度は「阪神甲子園球場」(西宮市甲子園町1-82 Tel 0798-47-1041)!
 「洲崎球場」が完成するのは1936(昭和11)年11月27日ですから、それよりも一回り12年も前のこと:

 甲子園球場が完成したのは、1924(大正13)年8月1日です。
 この年は、奇しくも、十干、十二支のそれぞれ最初の「甲(きのえ)」と「子(ね)」が60年ぶりに出合う年でした。
 縁起のよいこの年にちなんで、この付近一帯を「甲子園」と、また野球場を「甲子園球場(当時は大運動場)」と名付けました。

(阪神甲子園球場公式サイト、甲子園球場史)
http://www.hanshin.co.jp/koshien/

 野球の聖地、阪神甲子園球場(西宮市)が2014年8月1日、誕生から90年を迎える。創設当時「東洋一」と称された大球場は数々の名勝負、名選手を生み、全国の野球ファンを魅了し続ける。第2次世界大戦、阪神・淡路大震災の苦難も乗り越え、長い歴史を積み重ねてきた…
 1995年には阪神・淡路大震災にも見舞われた。スタンドにひびが入るなどの被害はあったが、外壁や照明塔などは揺るがず、震災から2ヶ月後にセンバツ高校野球が開幕。兵庫県から神港学園、育英、報徳学園の3校が出場し、球児のはつらつとしたプレーが被災者を勇気づけた。

(2014/7/31 23:22更新、神戸新聞「甲子園球場90歳に <鉄腕強打>に興奮 大迫力の歓声」)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201407/0007196784.shtml

 この「甲子園球場」は、1938(昭和13)年の阪神大水害のときも、もちろん、大丈夫だったんですね:

 ◇河川決壊、市街地に濁流◇
 「大きな岩がゴロゴロ転がって、土砂と一緒に牛や馬が流れてきた」
 浜田美智子さん(90)=神戸市中央区楠町1=は1938(昭和13)年7月の阪神大水害の記憶をたどる。
 当時、暮らしていた芦屋市の自宅は無事だったが、通っていた神戸市東灘区の御影にあった女学校は土砂に埋まり、長い間休校に。「神戸と芦屋の境で被害が分かれた。神戸はまち全部が泥に埋まった」と振り返る。
 7月3日から降り続いた雨は、三日間で年間降水量のほぼ3分の1に当たる461ミリを記録。あちこちで土砂崩れが起き、住吉川や新生田川が決壊、濁流が市街地に押し寄せた…
 神戸市水害誌によると、死者は616人、流出・全半壊は1万6692戸。浜田さんは「神戸は何度も水害にやられている。六甲山は怖い(注1)。忘れたらあかん」と話す。

(2014/9/1 10:30更新、神戸新聞「土砂災害特集、阪神大水害 3日間の雨量461ミリ」
http://www.kobe-np.co.jp/news/bousai/201409/0007291084.shtml

 1938(昭和13)年ってこの国には、大水害があちこち、出たのですね。
 神戸は六甲山からの山津波で、江東区の城東地域は、海からの高潮が:

1938(昭和13)年
高潮で城東区域内の浸水家屋2万8885戸

(2013年3月第10刷、江東区広報広聴課『江東区のあゆみ』)70頁

 東京の低地は、その昔、利根川や荒川などの河口部及び浮洲でした。
 しかし、時代の経過とともに多くの治水、利水工事が実施され、特に、徳川幕府の初期に利根川や荒川のつけ替え、さらに水路の開削と湿地の埋め立てなどにより次第に拡張されました。
 その後、明治40、43年の大洪水により荒川放水路が開削され、昭和13年の洪水、高潮により中川放水路が開削されて、ほぼ現在の地形となっています

 昭和13年 7月雨により中川流域において、浸水戸数6万戸を超える被害が発生する。
 昭和14年 4月中川改修事業のため「東京府中川改修事務所」が設置される。

(東京都江東治水事務所、現在、江東区亀戸2-10-7に東京都第五建設事務所と合同庁舎を構えています。また、水門管理事業に係る21の現場施設を設置しています)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/chisui/sosiki/

 この城東区域内の水害は、単に高潮だから、埋め立て地だから、という以外にも、「地盤沈下」とも関連していました:

 江戸においての治水対策は、浅草川(現在の隅田川)左岸の墨田堤と、対岸の日本堤による漏斗状の堤防を築き、上流からの大水を制御する対策が講じられていた。しかし、護岸整備もままならない当時にあって、高潮に対しては無防備な状況であったといえる。
 1791(寛政3)年、深川洲崎一帯に高潮が襲来し、甚大な被害が生じた。幕府はこの災害を受け、洲崎弁天社(現在の洲崎神社)から西一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467余坪(約1万8千u)を買い上げ空地とし、これより海側に人が住むことを禁じた。
 この空地の東北端と西南端に波除碑が(注2)が建てられ、東北端の碑が洲崎神社に現存している…

 『さうすると其50箇の水準點に付ての垂直變動が分り、深川だけで平均水面から1米以下の場所が斯う云ふ風に非常に沢山あるのであります。1米以下と申しますと、此虜で御覧になりますやうに、大潮の時にもう水面以下になってしまふのでありますから、風もなく、唯大潮と云ふだけで水に浸る場所が出て来る筈でありまして、実際今写真を御覧に入れます如く、大潮の時に於て浸水して居るのであります。
(第十二図<本論文の図3-6>「深川区古石場町における満潮時の浸水、1934(昭和9)年11月9日午後4時30 分頃」出典:『都市問題(*)』125頁・第十二図)

 『高潮防禦施設計畫説明書』東京市役所、1934
 この報告書冒頭では江東方面の地盤沈下についての現況が以下のように記されている。
 「東京市江東方面ハ一帯ニ従来ヨリ地盤低下ノ傾向ヲ有シ陸地測量部ノ調査ノ結果ニ基キテ其ノ著シキモノ、一例ヲ擧アグレバ最近14年間ニ深川區東平井町ハ1米ニ、本所區江東橋三丁目ハ0米87ノ低下ヲ來セリ…」
 このほか、地盤沈下が生じている地域において、高潮による浸水被害の現況に触れている。

(*)『都市問題』の高潮防禦施設計畫に関連した特集「地盤沈下問題と其対策研究」は、東京市政調査会が1935(昭和10)年6月26日に地震研究所の石本巳四雄所長による「地震の良否と地震動」と同所宮部直巳技師による「本所深川の地盤の移動」の研究発表会を企画し、そのうちの宮部氏の発表概要をまとめたものである。

(2013年4月、難波匡甫、法政大学審査学位論文「東京下町低地の高潮対策に関する歴史的考察」)
http://repo.lib.hosei.ac.jp/

 昨日、ご紹介した毎日新聞・栗原俊雄さんの2013年03月20日付け記事に出て来た次の一節は、まったく合点のゆくものでした。
 大潮によるたまさかの浸水とかいうのでなく、林芙美子の観察は首肯しうるものでした:
 
 『1936年12月1日の『読売新聞』に、作家の林芙美子が観戦記を寄稿している。林は「職業野球」の魅力を伝えつつ、「埋め立て地のせいか、スパイクをはいている選手の靴が埋(うま)りかけるように見える。砂場で野球をしているようだった」とつづった』



(注1) 忘れてしもうたのかな…こんな小説の一節が:
 「六甲山は屏風になった」と神戸に生まれ育った人びとは嘆いた。
 海に向かっては深遠な山なみと見えてその実、北側は凡庸な新興の住宅街とグラウンドと道路を並べただけの後背地に一変していたのだ。
 いまや六甲山系は旧神戸とそれら新神戸とを分ける一枚の薄い屏風に過ぎなくなり、もはや岩陰に身を潜める神秘な水晶も、山桃やグミの紅い彩りも、何ひとつ残されていなかった。
 「山、海へ行く」とそう呼ばれて全国に知られた神戸のあの巨大開発。
…内橋克人『荒野渺茫、第T部、4 柊の棘』(岩波書店、2013年11月)75-76頁

(注2)
ヤッホー君のこのブログ、2012年01月28日付け日記「大東京球場」ご参照ください。


posted by fom_club at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月23日

大東京球場、プロ草創期の夢の跡

 10月23日木曜日、「霜降(そうこう)」。
 無学文盲、無知蒙昧のヤッホー君、ひたすら手のひらを明け方、目覚めるなりじっと見つめながら生き延びて来ただけのヤッホー君、これを今まで<しもふり>とばかり読んできましたが、いけません、だめです、遅くないから、これから覚えるんだよ。

 霜降り肉とは、赤い肉の間に「サシ」と呼ばれる白い脂肪が網目のように入ったもののこと。だから牛肉以外でもOK。赤地に白が細かく入った様子を、草木に降りた霜に例えたのでしょう。古くは明治36年、村井弦斎の小説「食道楽」にこの表現が出てきます。
 日本人が霜降り肉が好きなわけには、歴史的な背景があるようです。
 昔の日本は、獣の肉を食べる習慣がありませんでした。それには、仏教の殺生を禁じる教えなどが影響しています。家畜が死んだ時などは食べていたようですが、それでもこっそりと行われていました。肉食が普通になったのは明治に入ってから。富国強兵政策の1つとして、推奨されてからのことです。

(2013年10月23日日本科学未来館、熊谷香菜子「霜降といえば、あれでしょう」)
http://blog.miraikan.jst.go.jp/other/20131023post-420.html

 言葉では知っていても、獣の肉を食することなんて、山歩クラブの合宿でバイキングにありつけたときとか、年に何度あるか、細民ヤッホー君、それはそれとして、雨上がりの肌寒い「霜降」に”eチャリ”で向かった先が、「大東京球場」跡!
 ヤッホー君のこのブログ、2012年01月28日付け日記「大東京球場」の続編のはじまり、はじまり〜

景観.jpg

 この隣に江東区教育委員会の高札がありました:

教育委員会.jpg

 洲崎球場(別称・洲崎大東京球場)は、日本プロ野球草創期の野球場で、1936(昭和11)年2月に日本で6番目に結成されたプロ野球チーム「大東京軍」の本拠地でした。
 プロ球団結成への気運は、1934(昭和9)年開催の日米野球で高まりました。同年12月に大日本東京野球倶楽部(現在の読売巨人軍)が結成されると、東京、大阪、名古屋に相次いでプロ球団が誕生し、1936(昭和11)年には7球団によるプロ野球公式戦が開始されました。
 しかし、東京にはプロが使用できる野球場はなく、在京球団の本拠地建設が急がれました。そのため、洲崎球状はわずか3ヵ月ほどで完成し、秋のシーズンの最後を飾る「東京第二次リーグ戦」が開催されました。シーズン終了後には、巨人とタイガース(現在の阪神)による初のプロ野球日本一決定戦(3連戦)が開催され、沢村栄治投手擁する巨人が初代王座を獲得しました。この試合は、日本プロ野球史上屈指の好ゲームといわれ、洲崎球場が最も輝いた時でした。現在でも「伝統の一戦」といわれる両チームの熱戦は、ここから誕生しました。
 日本プロ野球の歴史を刻んだ洲崎球場は、1938(昭和13)年の3試合を最後に閉鎖されました。わずか3年間とはいえ、日本プロ野球界繁栄の礎を築いた貴重な野球場跡として記録に残すものです。

(2005年、平成17年2月 江東区教育委員会)

巨人軍.jpg

須崎球場.jpg

見取り図.jpg

 ヤッホー君の2012年01月28日付け日記「大東京球場」では、《毎日新聞の玉木研二さんの2010年4月29日付けのコラム「楽コレ!」で…》と引用しかけていますが、この記事はもう削除されてウエブ上にはもう、見当たりません。
 今日、霜降の日は、同じ毎日新聞でも記者、栗原俊雄さんの2013年03月20日付け記事「20世紀遺跡:近現代史をめぐる/32止 東京・洲崎球場跡◇プロ草創期の夢の跡」を引用することとします:

 プロ野球が2013年3月29日に開幕する。球春到来だ。今でこそ華やかな世界だが、戦前の草創期は学生野球に人気で劣り、競技環境も整っていなかった。そうした苦難の時期を支えながら、わずか3年でお払い箱になった球場が、東京の下町にあった。
 東京メトロ東陽町駅(東京都江東区東陽)から歩いて5分ほど。運転免許試験場の斜め向かいに、ボールとバットの描かれた史跡説明板がある。1936年に造られた「洲崎(すさき)球場」(大東京球場)跡だ。今はコンピューターメーカーの本社などがある。
 日本のプロ野球は同年、7球団によって始まった。そのうちの一つが大東京。スポンサーは国民新聞社だった。球団は11月27日、本拠地としてここに球場を完成させた。2万人を収容したというが、わずか3ヶ月の突貫工事で、満員になると木造のスタンドがギシギシと音を立てたという(『江東区史中巻』1997年)。現地は埋め立て地で東京ガスの所有だったが、球団に無償で貸与された。近くには洲崎遊郭があった。
 球場最大のドラマは、早くも同年12月に訪れた。9〜11日、巨人と阪神(当時は大阪)の間で優勝決定戦が行われた(洲崎3連戦)。巨人はエースの沢村栄治投手が3連投と活躍、2勝1敗で初代王座に輝いた…

 だが、この球場には大きな欠点があった。埋め立て地だけにグラウンドが軟弱だった。また海抜60センチで運河が近く、満潮になると冠水することがあった。「スタンドをカニがはいずっていた」「グラウンドの中から貝がらが出てきた」という証言もある。
 1936年12月1日の『読売新聞』に、作家の林芙美子が観戦記を寄稿している。林は「職業野球」の魅力を伝えつつ、「埋め立て地のせいか、スパイクをはいている選手の靴が埋(うま)りかけるように見える。砂場で野球をしているようだった」とつづった。1938年3月15日の巨人対金鯱(きんこ)のオープン戦は、満潮でグラウンドが水浸しになり、中止に追い込まれた。海風が強いのも難点だった…

 プロ野球の草創期を支えた球場だが、いつ解体されたのか、よく分からない。東京ガスや江東区、財団法人野球体育博物館も把握しておらず、遺構も確認されていない。2005年2月、江東区教育委員会によって立てられた史跡説明板が、辛うじて当時の名残を伝えている。

https://archive.today/20140115115216/webcache.googleusercontent.com/custom#selection-1157.0-1173.25

 霜降りの今日、最後に映像を3本、観ながらおやすみください。
 称して「草紅葉、つわものどもが夢の跡」:

☆ 「沢村栄治vs全米選抜軍」
https://blog.seesaa.jp/cms/article/regist/input

☆ 「平泉 世界遺産登録延期の現場をゆく (2)高館からの景観」
http://www.youtube.com/watch?v=jC2V5WbCj08

☆ 「祝 平泉世界遺産登録 朗読<中尊寺供養願文>」
http://www.youtube.com/watch?v=bwZHmQCSxN0



posted by fom_club at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

何とか実情を多くの人に伝えたい

 開催が11月8日土曜日の「ツール・ド・ラ・フランス」、山形県上山市にお出かけは遠いな、と思われる仲間に耳より情報。
 同じ日の11月8日土曜日、映画『日本と原発』が夜の7時から「シネマート六本木」3階シネマートホール(港区六本木3-8-15 Tel 5413-7711)にて自主上映されます。
 弁護士河合弘之先生(1944年生まれ)の初監督作品となります。
 古希祝の70歳で映画にチャレンジしております!:

 丸2年の歳月をかけて、弁護士河合弘之と盟友弁護士海渡雄一、訴訟を共に闘う木村結の3人は、いくつもの裁判を闘いながら、多くの被災者に向き合い、有識者と語り合い、故郷を手放すことになってしまう災害とは何かについて、真実の声を聴き続けてきました。
 私たちは原発で幸せですか?

(映画『日本と原発』公式サイト)
http://www.nihontogenpatsu.com/

 本当にこの国はそこに暮らし住んでいる人びとのことを思いやる国なのか、日本人に「なる」、日本に「する」には、一人ひとり自分からどうすれば良いのか、思い巡らすのもいいことです。
 秋、です。

 弁護士河合先生は、ホームページもあり更新されています;
http://lawyer-kawai.com/

 香山リカ(1960年生まれ)って方、精神科医で立教大学教授でもあります(明日10月24日金曜夜、午後9時30分〜9時55分、といいますか毎週金曜夜放送がありますが、NHKラジオで同世代の女性たちに贈るトークと音楽の25分番組があります):
http://www.nhk.or.jp/r1-night/kokoro/

 河合先生が、この香山先生のインタビューに応じた「大飯原発差し止め訴訟(注1)を語る」の動画もアップされています:
https://www.youtube.com/watch?v=HeQjamnRmjI

 河合先生は「自然エネルギー推進会議」賛同人でもあります:

 原発はリスクのあるコストの高いエネルギーだということで、ヨーロッパでは、自然エネルギーの割合が年とともに高まっていますが、かつて、排ガス規制が自動車産業の技術革新と雇用の創出をもたらしたように、原発ゼロになっているいまこそ、ピンチをチャンスに変えていく絶好の機会だと思いますし、そういう確信をもって、この自然エネルギー推進会議の活動を推し進めていきたいと思います。
 今後原発立地県などでのさまざまな活動を通じて、原発ゼロ・自然エネルギー転換へのしっかりとした確かな広がりをつくっていきたいと思います。
 その夢ある目標に向かって、ご一緒に力を合わせていこうではありませんか。

(「自然エネルギー推進会議」私たちのめざす社会)
https://blog.seesaa.jp/cms/article/regist/input

 弁護士河合弘之先生の初監督作品が『日本と原発』であれば、三上智恵さん(1964年生まれ)の初監督作品は、『標的の村〜国に訴えられた沖縄・高江の住民たち〜』(2013年)(注2)でした。
 この映画は:

 ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。これまで300回を超える自主上映活動が続いている。
 現在、次回作の準備を進めている。

(「マガジン9」、三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記、2014年10月22日up)
http://www.magazine9.jp/article/mikami/15312/

 監督の三上さんは昨日の10月22日水曜日、『撮影日記』を更新したばかりです。
 ぜひお読みになってくださいね。そして次回作へのサポーターになりませんか?
 三上さんは今春、勤務先を退職なさっておりました:

 「…デスクや、中間管理職など年齢相応の業務も避けきれなくなり、取材に行きにくい状況の中で、次回作を作るチャンスも絶望的でした。
 私としては、何も作らず、定年まであと10年過ごすのは耐え難いという気持ちになってきたのです」

 退社後の生活は大変だが、それよりも急を告げている辺野古の問題を含め、何とか沖縄の実情を多くの人に伝えたいという気持ちなのだという。
 映画については配給会社の東風(注3)がこれまで通り業務を続ける。
 ただ、配給収入は、琉球朝日放送には入るが三上さんのもとへは入らない。

(2014年7月4日21時45分更新Yahoo!ニュース、 月刊『創』編集長篠田博之「三上智恵監督はなぜ琉球朝日放送を辞めざるをえなかったのか」)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140704-00037092/



(注1)
 福井県にある大飯原発3、4号機の運転差し止めを住民が求めた訴訟で、福井地裁は、関西電力に対し再稼働を認めない判決を出した。
 判決の考え方に沿えば、国内の大半の原発再稼働は困難になる。
 判決は、再稼働に前のめりな安倍政権の方針への重い警告である。

 2011年3月の東京電力福島第1原発事故後、差し止め訴訟で初めての判決だ。
 住民の生命や生活を守る人格権が憲法上最高の価値を持つと述べ、「大災害や戦争以外で人格権を広範に奪う可能性は原発事故のほか想定しがたい。原発の存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然」と結論付けた。
(2014年5月22日02時31分毎日新聞社説「大飯原発差し止め なし崩し再稼働に警告」)
http://mainichi.jp/opinion/news/20140522k0000m070118000c.html

(注2)
 ヤッホー君のこのブログ、2013年10月9日付け日記「標的の村」「高江の虫」をご参照ください。

(注3)
 配給する合同会社の「東風」については、公式サイトをご参照ください:
http://www.tongpoo-films.jp/index.html

 そのなか、2014年1月14日1:49更新のニュースから:

《2013年第87回キネマ旬報ベスト・テン」が発表になりました。
 ☆ 日本映画1位に森ア東監督『ペコロスの母に会いに行く』
 ☆ 文化映画1位に三上智恵監督『標的の村』
と東風配給作品が2部門で1位を受賞しました》 

 また、WEBマガジン「マガジン9」に会社代表木下繫貴の言葉がインタビューに答えるかたちで記載されています(2013年10月16日UP)。
 「見る前と後とで、世界が違って見えた」そんな映画を世に送り出したい。ぜひお読みください!

《作品の根幹を揺るがすような変更を迫られた場合、表現の自由を奪うようなことが行われた場合は屈する必要はないと思っています。
 特に、私たちの会社はどこかから資本金を受けているわけではないし、何のしがらみもありません。
 守るべきものは作品と作り手しかないので、「闘いやすい」んです。
 社員もみんなまだ若いので、怖いもの知らずのところもあるんでしょうが(笑)》
http://www.magazine9.jp/article/boss/8882/



posted by fom_club at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月22日

ジョルジュ・ムスタキ

 10月22日、朝から雨。
 雨音で目が覚めたヤッホー君。NHKラジオのスイッチを入れると「ラジオあさいちばん」。
 今日の「列島あさいち情報」は、天童市・今田由美子さんの山形の情報!
 話題は上山市で行なわれる「ツール・ド・フランス」でなくって、「ツール・ド・・フランス」!

http://kaminoyama-spa.com/news/2014/08/000660.php
https://ja-jp.facebook.com/tour.de.la.france

 いえ、開催は11月8日土曜日なのですが、700人の参加者を募った9月1日には即日、締め切り:

2014.09.2 定員に達したため受付けを終了致します。多くの申し込みありがとうございました!
http://tour-de-la-france.jp/

 すご〜い!ヤッホー君のeチャリで来年、参加検討しようかな(ラフランス目当て?めっ!)。

 秋の雨、冷たい雨、こんなときはシャンソン!

 ヤッホー君の好きなシャンソニエはジョルジュ・ムスタキ。
 この方、ギリシャ出身とばかり思い込んでいましたら、エジプト生まれですか〜。
 そして、昨年亡くなっておりました。79歳でした。合掌。

Georges Moustaki, the Egyptian-born French singer-songwriter who provided the lyrics for Edith Piaf's international 1958 hit Milord, has died at his home on the French Riviera, aged 79. Famed for his repertoire of simple romantic ballads, Moustaki wrote in the region of 300 songs, many of them performed by a galaxy of much-loved Gallic stars, including Yves Montand, Juliette Greco, Pia Colombo, and Tino Rossi...

Moustaki, born Giuseppe Mustacchi in Egypt, was the son of immigrant Jewish parents who had moved from the Greek island of Corfu to Alexandria, where they ran a bookshop.

He would later write: "The Alexandria of my childhood was the world in miniature with all races and all religions. I was rarely a foreigner anywhere because I always found some reference to Alexandria in the languages I heard, the smells I breathed or the colours."

In December, Moustaki told French radio station RTL that he wanted to be buried in Alexandria, his birthplace. "There is a cemetery that is the cemetery of free thinkers and it is there that I want to rest for eternity," he said.

Moustaki and his wife, Yannick (Annick) Cosannec, had a daughter, Pia, also a singer.

• Georges Moustaki (Giuseppe Mustacchi), singer-songwriter, born 3 May 1934; died 23 May 2013

http://www.theguardian.com/music/2013/may/24/georges-moustaki-obituary

 ムスタキを偲んで、いくつかお聞きいただければ幸いです。
 まずは、1958年ヒット作『ミロール』から:
☆ Milord - Edith Piaf - Milord
http://www.youtube.com/watch?v=oromrP0iu3E

 それからヤッホー君の好きな曲を2曲ばかり:
☆ GEORGES MOUSTAKI : Le temps de vivre
http://www.youtube.com/watch?v=8Eutjnnz4hE
☆ Georges Moustaki - Ma solitude (sous-titres en français)
http://www.youtube.com/watch?v=RC39OeNYoBs

 お嬢さま、ピアとデュエットしたときの歌;
☆ Elle est Elle : Georges Moustaki en duo avec Pia
http://www.youtube.com/watch?v=VQhlxSEtxE0

 お嬢さま、今でも現役の歌手ですがご本人のサイトにこの歌は1979年ヒット、と:
La 1ère fois qu’elle chante sur un disque, c’est avec son père, en duo sur la chanson Elle est Elle en 1979.
http://piamoustaki.fr/index.php?page=biographie

 広島への原爆投下を歌った『ヒロシマ』も(1972年アルバム収録)。
 「平和」(La Paix、女性名詞です。ラ・ペ)を求める歌です(*):
☆ Hiroshima - Georges Moustaki
http://www.youtube.com/watch?v=x-O_OM9UsKs

 おまけに、と言いますか、雨あがりの縁側に腰をかけ、大きく背伸び、そして秋の日差しをいっぱいに浴びながら、ムカシを想う名曲もぜひ:
☆ 坂本冬美 秋桜(コスモス)
http://www.youtube.com/watch?v=5RBlIl755N0


(*)
 「ヒロシマ」の歌に戻るなら、この歌を、原爆の被害者への鎮魂の歌であると同時に、「希望を持つ意志」の表現であると私は聞きます。
 「たぶん明日には来るかもしれない」と受け身のような表現ですが、平和をもたらす力は小さな一歩一歩から始まるということを歌っているのだと思います。
 軍隊で敵を圧倒しようという戦争ごっこよりも、「希望を持つ意志」と毎日の一歩一歩の行ないの積み重ねこそが平和を作るのだと私は強く信じています。
 武力と力ずくの政治が自国民と他国民を威嚇する場所では、自国にも周囲の国にも決して平和はありません
 そのことをジョルジュ・ムスタキの「ポルトガル」、「フラメンコ」、「私たちは二人」のような歌とその時代が、40年以上の時を超えて想像させてくれるのです。
 ジョルジュ・ムスタキの死去を改めて悼み、その歌と声に詩的に表現された社会意識を自分なりに再生して、「希望を持つ意志」と「日々の行ない」の糧にしたいと改めて自分に誓います。
(2013年5月26日、村野瀬玲奈の秘書課広報室)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4372.html



posted by fom_club at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月21日

赤いベレー

 …阿寒町で「じゃがいも」苗植え体験をして…
 これはヤッホー君のこのブログ、2014年6月5日付け日記「阿寒湖アイヌシアターイコロ」の一節です。
 昨日10月20日月曜日、この「じゃがいも」が「ゆうパック」で届きました。
 
 送り主は、サークルハウス「赤いベレー」(阿寒町上阿寒23線36 Tel 0154-66-2330)!
 ここは、釧路市第三セクター(*)、阿寒町観光振興公社「赤いベレー」です。
http://www.akan.jp/


 来年2015年3月29日に決まった道東自動車道浦幌IC〜白糠IC間(26`)開通を内外にアピールしようと、白糠町が企画した開通前のハイウェイを歩く「ハイウェイしらぬか紅葉ウオーク」が2014年10月19日、快晴の秋空の下、道内から500人を超える参加を得て開かれた。
 白糠ICから約5`先の白音トンネルの手前で折返す約10`の行程を、家族や友人グループで連れだった老若男女が、最初で最後の自動車専用道を歩く体験を楽しんだ。

(2014年10月20日10時17分更新釧路新聞「高速道を紅葉ウオーク/白糠」)
http://www.news-kushiro.jp/index.php

 「白糠IC」のあと、この道東自動車道はさらに東に延び、「阿寒IC」の開通も、そこで、「赤いベレー」もさっそく動きはじめました:

 2015年度に予定されている道東自動車道の阿寒インターチェンジ(IC)開通に合わせ釧路市は、阿寒町の《道の駅》のエリアを、サークルハウス「赤いベレー」や「阿寒国際ツルセンター」、「釧路湿原美術館」といった周辺施設に広げる再配置計画を2014年10月までに策定し、国土交通省に変更を要請する方針を示した。
 現在の《道の駅》はインフォメーションセンターと駐車場のみのため、多くの人が利用する「赤いベレー」を拠点とするさまざまな施設の活用をアピールすることで、同町での滞在型観光の振興を図りたい考え。
  
(2014年06月17日釧路新聞「《道の駅》再配置計画/釧路市」)
http://www.news-kushiro.jp/news/20140617/201406171.html

 「道東道開通を道央圏と道東圏の経済の浮揚や地域の活性化にどう結びつければいいのでしょうか」

 道内6経済圏のうち、産業連関表の地域別生産額では札幌を含む道央圏が道内の6割を占めています。
 道北と道南で2割、道東の3圏域(十勝、釧根、オホーツク)で2割です。このうち十勝は7%です。
 6圏域をそれぞれ一つの国として貿易収支で考えた場合、十勝圏は約1900億円の赤字です。内訳は道内が1370億円で道外が540億円です。
 さすがに1次産業は1500億円の黒字ですが、このうち道内分は400億円にとどまっています。
 さらに注目すべきなのは3次産業の赤字です。
 この弱みをどう改善していくかが大事です。道東圏の中で帯広はまだ観光消費が少ない。開通を契機に観光客を誘致し、サービス産業部門を観光消費で補う戦略が可能です。道東道を活用することで道央圏に集まる観光消費を道東に呼び込むことが可能になります。
 1次産業についても十勝で生産された食材を道東道で道央圏まで運び、販売力を強化する余地があります。

 3月11日の東日本大震災の教訓を受け、高速道路の整備をあらためて考えていく必要があります。
 平時の論理と非常時の論理は違いますが、力強い国や地域づくりのためには両者のバランスが必要です。

 日本は効率や合理性を重視し、大都市中心の論理で動くようになっている。道東道開通を今後どう生かしていくのか、北海道全体、十勝全体のグランドデザインの中で位置付け、議論していくことが重要です。

(2011年10月16日開催、道新フォーラム「つながる十勝〜道東道開通の意義と課題」、小磯修二釧路公立大学長基調講演)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/doto_expwy1016/145603.html

 ムカシ「日本列島改造論」サイキンでは「ふるさと創生」そしてイマ「地方創生」…国主導のこんなやり方でこれまでうまくいったのかな…、

 安倍晋三首相は10月14日の衆院本会議で、地方自治体の判断で柔軟に使える交付金を来年度から創設する方針を表明した。
 政府内では総額を年2,000億円程度とする構想が浮上している。
 人口減少の克服や地域経済活性化を進める「地方創生」の一環で、「地方の主体的な取り組みを基本とする観点から支援を検討する」と強調した。
 年末の予算編成までに具体的な仕組みを決めるが、制度の変更には各省の反発も予想され、政府内の調整は難航しそうだ。
 地方創生の基本理念を示した「まち・ひと・しごと創生法案」など関連2法案は14日審議入りし、民主党の渡辺周氏に答弁した。

(10/14 21:35更新、道新「首相、地方創生へ新交付金を表明 年2千億円の構想も」)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/568553.html

 えっ、年2000億円? バラマキはしないとおっしゃったから? バラマキ批判をおそれてか、その程度の総額に収まるようですが、批判がないとみておられるのか、逆に「歓迎」されているとお思いなのか、行けないのか、行きたくないのか、東アジアは外して、よ〜く政府専用機で「地球儀外交」と称しては海外にお出かけなんですが、その海外では…
 海外にはなんと4ヶ月で、52兆5400億円もバラマいているってホント?
https://www.youtube.com/watch?v=t0IUOPqUL6A&app=desktop



(*)
 バブル期に設立が集中した背景としては、政府が1980年代の後半に、地域間の経済格差を是正するために、積極的な地域振興策の枠組みを打ち出したことが指摘できよう。
 例えば、1986(昭和61)年5月に「民活法」が施行され、大型リクリエーション施設等を整備する第三セクター方式の事業者に対して、各種の経済的優遇措置(建設費の5%補助、固定資産税の減免、日本開発
銀行の低利融資など)が講じられるようになった。
 また、翌1987(昭和62)年5月には、国民が利用しやすいリゾートの整備を通じて地域振興を図る「総合保養地域整備法」(いわゆる「リゾート法」、昭和62年法律第71号) が施行されたが、同法にもや
はり、税務、金融、許認可事務等に関する手厚い優遇措置が盛り込まれていた。
 これらの政策支援が追い風として働くなかで、折からのバブル景気の下で国内経済の先行きに強気の見通し
をもった全国の地方自治体が、地域振興を旗印に掲げつつ、民間との共同出資形式の第三セクターを相次いで設立したと考えられる。
 もっとも、図1(+)からも読み取れるように、第三セクターの設立件数は、バブル経済崩壊後の1990年代前半にも、バブル期の勢いをほぼそのままの形で保っている。
 このことから、全国の地方自治体がバブル期の楽観的な政策姿勢を修正して、新たな第三セクターの設立にブレーキをかけるまでには、相応の時間を要したことがうかがえる。
(+)
 図1 第三セクターの設立年次の分布状況
 (出典)地域企業経営研究会編『最新地方公社総覧2002』(ぎょうせい、2003)より作成。
 (注) 2002年1月1日時点で存在していた第三セクター(複数の地方公共団体による出資割合が25%
以上)の設立年次の分布を示したもの。

(深澤映司「第三セクターの経営悪化要因と地域経済」、国立国会図書館が発行している国政審議に関する情報誌『レファレンス』(2005.7)所収
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200507_654/065404.pdf



posted by fom_club at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月20日

16歳での出会い

 またまた舞戻ってきました、「書くこと」の世界へ。
 原民喜から大江健三郎に飛んでおりましたが、ここらへんでいったんまとめに入ってみましょうね。

 ▽ 16歳での出会い 原民喜の短編が出発点
 生きていくうえで立ち返る「根拠地」と表す被爆地広島を初めて訪れたのは、日米安保条約の改定で列島が揺れた1960年。8月6日の平和記念式典に参列し、地元の作家らと交流した。広島とのそもそもの出会いは原民喜が残した短編からだった:

 読書ノートをこの前整理して思い出しました。広島が大切な場所と意識したのは16歳の時です。村(生まれた愛媛県大瀬村、現内子町)で軍国主義を信じていた子どもが、戦後を迎え、やりたいことが自由にできる、民主主義はいいと思った。母や兄の理解で転校した松山東高で、伊丹君(映画監督・俳優の故伊丹十三さん。大江さんの妻ゆかりさんの兄)と友人となり、文学のことも随分教えてもらった。彼が、広島で原爆に遭った作家が自殺したと言った。
 僕は、原爆のことを少しは知っていたけれど、作家が自殺してしまうほどの苦しみが続いているのかと驚いた。作品を読みたいと思ったが、コッペパンが昼ご飯の僕には文芸誌は高く感じられた。伊丹君が「図書館にあるぜ」と教えてくれ、「群像」(1951年5月号)に掲載された『心願の国』を読んだ。
「破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかって…。/だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて」
 この言葉に感動しました。また、
「我々は、自らを高めようとする抑圧することのできない本能を持っている」と『パンセ』の言葉を引いていた。
 よし、この人の作品をもっと読もう、大学に進んでパスカルを勉強しよう、そのころ著作を読んだ渡辺一夫さん(フランス文学者。東京大教授)に習おうと思った。入学してサルトルなども読み、書いた『奇妙な仕事』が大学新聞に載って僕は作家となるのですが、子どものころの思い出を書いた習作がたくさんある。神社の境内でアリを殺して不思議な気持ちになる話です。原民喜に影響されて書いていたんだと読書ノートを繰って思い出した。
 自分が世界をどう考えているのか、その根本には原爆を受けた苦しみがありながら「静かな泉」がわくことを希求する。あ、これが文学だと思った16歳の少年から75歳の老人になった今も『心願の国』、原民喜さんは僕の文学の出発点だと思います。

(2010年10月16日「大江健三郎さん《ヒロシマ》を語る」)

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20101012105401465_ja&mode=print

 16歳のときのヤッホー君にはどんな出会いがあったのかな…
 あっと、話がまた飛んでいきますので、抑えて、押さえて…
 渡辺一夫、登場です。ここに原民喜や大江健三郎が絡み合うと:

 最後に話はそれるが、新潮文庫版(*)の編者である大江健三郎が「解説」のなかで引いた原民喜の文章のなかに更に引用されている仏文学者・渡辺一夫の次の言葉は、経済(=金)の論理、強者の論理ばかりが良いもの、正しいものとして語られがちな現代において、非常に示唆的なものであるように私には思われる。こうした「倫理」を失った人間は、果してこれからどこに進んでいくのだろうか。
 この「解説」中に引用されている、原民喜が渡辺一夫の「狂気について」について触れた文章を掲げるが、(  )内が渡辺一夫の言葉である。

『(「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられないと申す人も居られます。それはうそであります。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴います。ヒューマニストは「狂気」を避けねばなりません。冷静が、その行動の準則とならねばならぬわけです

と語る著者の言葉は、しっくり僕の頭脳に沁みてくる。
 …戦争と暴力の否定が現代ぐらい真剣に考えられねばならぬ時期はないだろう。血みどろな理想は決して理想ではないし、強い人々だけが生き残るための戦争ならなお更回避されねばならない。なぜなら、

(生存競争弱肉強食の法則を是正し、人類文化遺産の継承を行うのが、人間の根本倫理)

だからと語る、これらの言葉は、一切が無であろうかと時に目まいがするほど絶望しがちな僕たちに、静かに一つの方角を教えてくれるようだ』

 今の時代に生きる我々は、そうした「方角」すらもはや目に入っていないのではないだろうか。だとしたらこれからやって来る未来は(あるいは昨年の原発事故などに顕著なように既に我々のいる世界は)、「荒廃と犠牲」に満ちた「血みどろな」世界でしかないのではあるまいか。「原爆作家」などといったレッテルははがして、我々は今こそあらためて原民喜を、あるいは渡辺一夫の著作を真摯に読み直すべきなのではないだろうか。

(2012/8/6(月)午前8:53ソウル退屈日記「夏の花(原民喜)あるいは渡辺一夫」)
http://blogs.yahoo.co.jp/mitsounob/30088001.html

 〈あたま〉の中の思い込みに閉じこもるラピュタ人の狂気は、原民喜が渡辺一夫(1901-75)のエッセイを引用しながら語った文章「『狂気について』など」(1949)の一節を思わせる。

『僕たちはつい昨日まで戦争といふ『狂気』の壁に取まかれてゐたが、その壁ははたしてほんとに取除かれたのだらうか。(人間が自分の『思ひこみ』を反省できないばかりか、自分の主義主張の機械になり、いつの間にかがらがらまはり出す)危機が向側からやつて来ないと断言できるだらうか』

 原民喜はここで原文どおりの引用を行っているわけではないので、彼が渡辺一夫のどのエッセイに言及しているのかは明確でないが、『狂気についてなど』(新樹社、1949)に収められた作品で原民喜の論旨に最も近いのは、「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」(1948)ではないかと思われる。
 このエッセイで渡辺は、
「一切の人間は、自分の欲望と思いこみによってしか生きられず、また考えられないようだ」
と主張する。さらに、
「自己・欲望・思想の機械になった人間は、その機械的な行動の愚かしさを合理化しようとするために、『美しい』『もっともらしい』思想的偶像を捏造(ねつぞう)する」
とも言う。渡辺が示唆するところによれば、戦争を引き起こすのは、おのれが制度や思想の機械になっていることに気づかない人間の愚かさである。
「人間には、頑強に、未だに戦争を欲しているところがある。しかし、戦争を望む人間は、自分が制度の奴隷となり機械になっているということを悟らねばならず、それがどのくらい非人間的な愚昧(ぐまい)なことかも判らねばならぬ」
 人間が思想の機械に成り下がることを批判する渡辺一夫は、自らもまた特定の思想の機械になっていることを認めている。
「私のごときは、指を切って血を出しただけで気持が悪くなりかねない弱虫なのであろうし、第二次大戦で辛うじて生き残り、インフレのなかで辛うじて生き続けている没落プチ・ブルなのであろう。この弱虫のプチ・ブルの欲望とは、『戦争はいやだ』ということであり、この弱虫の思いこみは、『人間は自分の作ったものの機械になりやすい』ということである。もし仮に私自身が何かの機械になっているとしたら、敗戦後一頃にぎやかに猫もしゃくしもかつぎまわった例のヒューマニズムとかいう甘っちょろい思想の機械になっているのであろう」
 しかしその上で彼は、
「ヒューマニズムとは、人間の機械化から人間を擁護する人間の思想である」
と述べ、身近な人々が次第に思想の機械と化していくことがいかに辛いかを語っている。
「第二次大戦中、私は恥ずべき消極的傍観者だった。そして、先輩や友人によくこう言って叱られた。『もし君の側で君の親友が敵の弾で殺されても、君はぼそぼそ反戦論を唱えるかい!』『敵が君に銃をつきつけてもかい!』と。僕は、その場合殺されるつもりであったし、ひっぱたかれても竹槍で相手を突くつもりはなかったから、友人の思いこみを、解きほぐす力がなかった。戦時中、僕は爆撃にも耐えられた。しかし、親しい先輩や友人たちが刻々と野蛮に(機械的に)なってゆく姿を正視することはできなかった。二度とあんな苦しい目はいやである」

(内田勝「見下ろすことと見上げること――原民喜『ガリバー旅行記』について」、初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第22号(2008)pp37-58)
http://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/tamiki08.html


(*)
〇 新潮文庫版『夏の花・心願の国』は、1973/07/30に発売。
〇 講談社文芸文庫版『原民喜戦後全小説(上)』は、1995/07/04に、同(下)は、1995/08/04にそれぞれ発売。

 なお、上記新潮文庫版への大江健三郎「解説」は、『原民喜と若い人々との橋のために』として『大江健三郎同時代論集2』に収められています(181−186頁)。
 また同論集には、1965年4月5日号「週刊読書人」初出『原民喜を記念する(講演)』も収められています(175−181頁)。




posted by fom_club at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月19日

龍王峡通行止め

 山歩クラブ10月19日日曜日の行事は番外編。

 「駅からお山歩だ〜い」は鬼怒川公園駅からロープウエイを使わず温泉神社へ歩いて登って、さらに一本杉、そして恋路沢林道、境川林道から龍王峡駅へと辿る山行だったんです。

 お天気は秋晴れ、好天。

 足元も軽やかに、澄んだ川沿いの道では、川魚、ヤマメかカジカかイワナか、足の遅いわれわれをからかうように勢いよく川を走り、そして止まってわれわれを見つめる、というかわいい川魚とであい、わいわいしながら歩いて龍王峡へと辿っていたのです。

 ところが、ヤッホー君の確認不足。

 第二発電所、つまり浜子橋を渡って白岩半島を越えて龍王峡自然研究路を歩こうと思っても、土砂崩れで龍王峡への散策路が閉鎖され、通行止め!

 予定していた全行程走破ならず。

 急きょ、川治温泉駅からの帰京となりました。

 それを教えてくださいました奥野木さん、ありがとう!

 しかし、北千住駅前の「鹿児島魚鮮水産 北千住東口店」(足立区千住旭町40-27 ビックリヤ旭町ビル2〜5F Tel 5284-3767)で大、だ〜い、打ち上げ!

 ご紹介くださった高畠さん、あっ、そればかりではなくご夫婦共通のおトモダチ、はたなかさんをご紹介してくださった高畠ご夫妻に感謝申し上げます。

 さらに打ち上げの際、多大なるご寄附をたまわった川上さまに感謝申し上げたく。

 今日参加された仲間、皆んな、ありがとう、楽しかったですね!

 西尾さんの万歩計は23,000歩超、はたなかさんの歩行距離は10Kmを越えていたそうです、すご〜い!



トンネル.jpg

川治温泉駅.jpg


posted by fom_club at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月18日

大江健三郎賞

 閑話休題。話し言葉であれ、書き言葉であれ、言葉をおろそかにしない、大事にする、そしてそれぞれがそれぞれの思いを言葉に託して、ひとりごとでもいい、他者との共感を求める、これなんでしょうね。
 ノーベル賞作家大江健三郎(*)は、自身の作家生活50周年を節目に、講談社の創業100周年記念事業にあわせ、2006年に「大江健三郎賞」をつくりました。削除される前にこれを記し、皆んなでかみしめながら読んでみたいと思います、こんなことを:

 いま情報テクノロジーの支配する社会で、もっとも痩せているのが、「文学の言葉」です。「ケータイ」とインターネットの表現が、この国の人間の表現をおおいつくす時代が遠からず来る、それが老作家のペシミズムです。しかも、そこに大逆転の時がありうる−世界的にその徴候が見えている−という思いも棄てられません。
 そうなれば、若い層から実力ある働き手の層にまで、知的で柔軟な、言葉の革新をなしとげる新種族が登場するはず、と私は信じます。その革新の手がかりとなるのが、この国の近代化でつねにそうであったように「文学の言葉」だと続けると、我田引水にすぎるといわれるかも知れません。しかし、漱石のみならず、諭吉も、まず「文学の言葉」の人だったと考えて、かれらのもたらした流れを辿り直してはどうでしょうか?
 私は永く「文学の言葉」で生きてきました。そしていま、社会の表現と認識の言葉をリードしてゆく層の人たちが、「文学の言葉」と無縁になっているのを実感します。また外国の知識人が、日本の知識人の言葉をどこに見出せばいいか、戸惑っているのにも気付きます。
 私は自分の晩年の仕事をやりながら、T.S.エリオットの「老人の愚行(フオリー)」という言葉に挑発されていました。生きている内に自分の名の文学賞を作るなど、その一種ですが、死んでからではやることができないと思いきって引受けました。私は、いまも注意深く見れば創られている、力にみちた「文学の言葉」を、知的な共通の広場に推し立てたいのです。上質の翻訳にして世界に向けても押し出します。
 そして、この国でも海外でも、あの「文学の言葉」に共感した、ということが相互理解のきっかけだった、善き時代をよみがえらせたいとねがいます

(大江健三郎「『文学の言葉』を恢復させる」)
http://corp.kodansha.co.jp/kaigai/ooe/

 しかし、今年で、賞はおしまいですか…
 潔いといえば潔いのですが、ザンネンでしたね:

 作家の大江健三郎さん(79)が、第8回大江健三郎賞(講談社主催)受賞者の岩城けいさん(43)と対談した。また、今回で賞を終了するにあたり、時代への思いを語った。終了の理由は「来年は80歳。年齢の問題です」と説明した。
 岩城さんは初めて書いた小説『さようなら、オレンジ』(筑摩書房)で受賞。豪州を舞台に、主人公のアフリカ難民の女性が、高学歴の日本人女性と交流しながら自己の尊厳を打ち立てていく物語だ。主人公が必死に書いた作文を読み上げる場面について、大江さんが「素朴な文学の言葉は新人には難しい」と話すと、岩城さんは「ひたむきさぼくとつさを求め、何回も書き直した」と応じた。
 純文学の意味について岩城さんが
「▽ 人間を書く
 ▽ 実験がある
 ▽ 物語でなく文体を作る、と聞いたが……」と尋ねると、大江さんは、
「書き直すうちに新しい文体は生まれる。書き直しの実験を経て、自分の文体を発見した人が作家だ」と述べた。
 同賞は2006年創設、大江さんが可能性を最も認めた作品を一人で選んできた。賞は、海外で刊行されること。歴代受賞作のうち、中村文則さんの『掏摸<スリ>』は英語に翻訳され、米国で高い評価を得た。
 対談後、大江さんは報道陣に対し「安倍政権の独断を日本人が認め、憲法改正も通ってしまいそうな気分の中で、戦後の時代の終わりが迫っている」と危機感を表明。さらに夏目漱石が100年前に小説『こころ』を書いた際の心情を「自らを時代遅れと感じていた」と分析して共感しつつ「僕は不戦の思想と民主主義を言って死んでいこうと思っている」と話した。

(2014年06月02日毎日新聞東京夕刊鶴谷真「Topics:大江健三郎さん 素朴な文学の言葉、難しい。大江賞受賞、岩城けいさんと対談」
http://mainichi.jp/shimen/news/20140602dde018040022000c.html

 80歳、80歳、そうだよってヤッホー君、なんでも80歳までは山歩きも続け、ブログも書きつづけていきたいなって。
 「老害」でもいい、「老人の愚行(フオリー)」と言われりゃ、身にあまるお言葉でぇ〜とふざけて。
 ヤッホー君の小学校時代の恩師はこの12月で82歳!
 でも同窓会のひろこちゃん宛てにこちらから送った会報『んだがあ〜』への礼状を、パソコンでA4用紙一枚たっぷりに恩師の近況含め書き送ってきて、同窓会仲間でいま回覧中!
 恩師の「物語」はさらに「物語」を呼び、たいそう盛り上がっているそうです。

 先生はいま81歳か〜。
 先日話しを聞いてもらった五十嵐さん、あの人80歳って言っていましたが、今年81歳です。
 だとしたらまだまだ若いですよね、五十嵐さんは。
 五十嵐さんの奥さんは、やはり俺たちの先生と同じく、10年位前にガンで亡くしました。
 奥さんは若い時、高校の化学の先生をしていました。
 しかしその後、一人になって3年後、同じ団地の未亡人と仲良くなり、近隣の噂になりました。
 そこで立ち上がったのが俺!
 俺は二人が生涯、堂々と付き合えるように二人の「交際宣言の飲み会」を企画・プロデュースしたんです。
 「この街を堂々と歩けるのも、俺のおかげだよ」ってがあ〜。


 これは「物語」で、そう、この世にはいろんな「物語」であふれています。
 これを「文学の言葉」にしていくのは、そりゃあ、並大抵のことじゃできません。
 生まれつきの才能や、本人の努力、それを後押しする周りの人びと、そして運にも恵まれないと作家にはなれないでしょうよ、そりゃあ。
 でもわれわれ庶民、貧民、細民、いろいろな「物語」を物語っていっていい、いや物語ろうよ、
 つたなくっとも、飾り言葉がなくっても、自分の言葉で物語っていっていい、いや物語ろうよ、
 ヤッホー君、そんなこと思いながら今日10月18日土曜日、どこを徘徊しようか(**)、何の本を抱えていこうか、と思案中のようで。


(*)
 大江健三郎については、ヤッホー君のこのブログ、おととしの秋、2012年10月にたくさん書き綴っておりました。例えば:
10月30日「ノーベル賞作家、人生と日本を語る」
10月31日「根本的なモラル」
11月1日「機械にならず人間らしく生きる」
11月2日「東京大学付属図書館」

(**)
 昨日の10月17日金曜日、秋晴れでした。ヤッホー君、気はそぞろ、こころウキウキ、足はムズムズ、午前中には家をとびだしておりました。
 右のポッケも、左のポッケもいっぱいにして、気分は『東京キッド』!
http://www.youtube.com/watch?v=xwmvsiykS_M
 帰って仲間宛て:

 今日はいいお天気でしたね。午前中、窓の外に秋の高い青空が広がっていたんでは、居ても立ってもいられず、10時半には隅田川添いのリバーサイドウォーキング、ヤマタネを越して、相生橋。そこから曲がって割烹旅館、「海水館」跡(島崎藤村などの執筆場所でした)、朝潮大橋、春海橋、豊洲ららぽーと、日本ユニシス、IHI、芝浦工大、都立第三商高、門前仲町と二時間超のぶらぶらウォーキングしました!
 やはり歩くのが一番!!このコース、とってもいいので、歩いた後、山歩クラブ忘年会の第二弾か第三弾として設定、提案したいです。

posted by fom_club at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月17日

多様性に背をむけて

 閑話休題じゃなくって本筋を少し離れて、お話しは年初のこと。
 「電源の多様化」を図りつつ…、といいながら、支配者、支配層は口先だけ、建前だけ、言葉を濁すだけ。嘘言ったり、だましたり、こころにもないことを言って言葉を汚すのは、いけないことですよね、メッちっ(怒った顔)

 首相は1月6日の年頭記者会見で、原発について「エネルギー源の多様化を図りながら、可能な限り依存度を低減するのが基本方針だ」と強調した。
 首相らは、脱原発を求める世論を意識。「首相が決断して即ゼロに」と求めている小泉純一郎元首相の影響力も考慮し、原発政策を語る時は必ず「依存度減」を強調する。石破氏も「小泉氏と方向性は変わらない」と取りつくろう。
 だが、現実の対応は逆だ。エネルギー基本計画案では、民主党政権時代の「2030年代の原発ゼロ」を破棄。原発を「重要なベース電源」と位置付け「基盤となる」との表現まで追加した。「依存度を可能な限り低減」との表現も盛り込んだが、原発推進の姿勢を鮮明にした。

(2014年1月10日東京新聞「原発政策 政権《二枚舌》再稼働方針は不変」)

 支配層にとっては今夏、電力不足という不測の事態でも起こればなおさら世論を既定方針へと誘導できたのでしょうが、「まっすぐ」姿勢を鮮明にしてこの秋も突き進んでいます。

 東京電力や関西電力、九州電力に続いて、北海道、東北、四国、沖縄の4電力も太陽光発電など再生可能エネルギーの受け入れ手続きを中断する。
 2012年に施行された「再生可能エネルギー特措法」は、最大限の普及を目指して電力会社に全量の受け入れを義務付けているのに、なぜ中断するのか。背景を探った。

Q いろいろ手はあると。
A 買い取り制度を始めた民主党政権も、引き継いだ自民党政権も、計画はどんどん認定してきた一方で、再生エネの受け入れ態勢の整備は怠ってきた。特に安倍政権は原発推進を優先させる姿勢が目立つ。
Q どうすればいい。
A 再生可能エネルギーの発電は電力会社の言うように瞬間的に大きくなる時もあるが、太陽光なら夜は発電できないなどで年間発電量は小さい。震災前は電力全体の1%程度しかなく、震災後の2013年度も2.2%だけ。国際比較でも低い水準だ。

(2014年10月1日付け東京新聞吉田通夫「再生エネ買い取り なぜ中断 政府、計画性なく認定」)

 電力会社ってのもすごいね。9月24日付け各位宛て文書を御覧じろ。ヤッホー君には、こんな文章を書く社員の気がしれないって:
http://www.nikkei.com/markets/ir/irftp/data/tdnr/tdnetg3/20140924/8wc8p4/140120140924048264.pdf

 怒っていらっしゃるのがヤッホー君が尊敬している引退したばかりの小児科のお医者さま(注1):

 東電は、原子炉損害賠償・廃炉等支援機構から、資金援助を受けている。すでに総額4兆円を超えている。東電が自ら語るように、その資金援助がなければ、経営を続けることはできなかった。同機構の資金は、結局、国民が支払う税金と、電気料からなっている。
 東電を潰す必要がある。さもないと、深刻事故を起こしても、自ら廃業に追い込まれることはない、だったら、既存の原子炉を使い続けようという発想を、電力会社の経営陣に抱かせることになる。原子炉を稼働する経営上のリスクは以前から分かっていた。それを無視し、原発をどんどん増やし、それにより利益を受け続けてきたのが、電力会社とそれを取り巻く原子力村の組織・人間であった。リスクを冒した経営者には、それなりの責任を取ってもらわなければならない。それが、資本主義の原則ではないのだろうか。
 福島第一原発事故当時の東電経営陣は、皆天下りをしているという。


 この怪しげな大金持ちの「原子炉損害賠償・廃炉等支援機構」ってなんなの?

 原子力損害賠償支援機構(原賠機構)の業務に東京電力福島第1原発の廃炉や汚染水対策の支援を加えた新組織「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」(原賠・廃炉機構)が発足し、看板掛けが8月21日、東京都内のビルで行なわれた。その後、杉山武彦理事長らが茂木敏充経産相に組織発足を報告した。新組織は、原賠機構を改組して政府の関与を強化し、廃炉作業を加速するのが狙い。
(2014年08月21日付け47ニュース「原子力損害賠償・廃炉等支援機構が発足」)
http://www.47news.jp/movie/general_national/post_602/

 え〜と、いまは小渕優子経済産業相が「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」を担当する特命相を兼務していますね〜。え〜?!あの小渕優子経産相?!
 弁護士の澤藤統一郎先生もあきれかえっています:

 本日発売の週刊新潮の広告に、「小渕優子経産相のデタラメすぎる『政治資金』」という大きな活字が踊る。
 これに小さく、「松島みどり法相の団扇どころの話じゃない」と副題が添えられている…

 5人の女性閣僚と自民党の政調会長のうち、4人はどうしようもない極右。小渕優子と松島みどり(注2)は、普通の保守政治家。そう思っていたのだが、マシな方がぼろを出した。せっかくの登用だが、輝く女性閣僚たちとはならないようだ。

(2014年10月16日澤藤統一郎の憲法日記「輝かない女性閣僚たち」)
http://article9.jp/wordpress/?p=3703

 そもそもフクシマだって廃炉までにどれほどのおカネがかかり、それをいったい誰が負担するの?
 そんで九州ではなんだってぇ、国内避難民となりうる住民の声を無視、安全地帯に責任もとらず自主的にすたこら、さっさと逃げられる選良の議員さまの声を採用、再稼働というんですから、この国の支配者、支配層は大したことないっす。

 新規制基準による原子力規制委員会の審査に九州電力川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)が初めて合格するなど原発再稼働が現実味を増す中、立命館大国際関係学部の大島堅一教授(環境経済学)は10月11日、「原発はやっぱり割に合わない」と題して講演し、「原発には国や電力会社がPRするような経済的優位性はない。事故コストや使用済み核燃料処理費などもを含めれば、最も高コストの電源だ」と訴えた…
 NPO法人「使い捨て時代を考える会」などが主催するシンポジウム「何故いそぐ再稼働」の一環で、会場のキャンパスプラザ京都(京都市下京区)には、福島県や関東地方からの原発事故避難者らも集まった。
 大島教授は、福島第1原発事故の費用を独自に算出し「11兆819億円という膨大な額」と指摘。
 内訳は
 ▽ 損害賠償 約5兆円
 ▽ 原子炉を安定的に停止させて状態を維持する事故収束と廃炉に約2兆円
 ▽ 除染や中間貯蔵施設など「原状回復」に約3兆5000億円−−など。
 「これでも現時点での最低限の見積もりで、今後増えることは容易に想像できる」とした。
 その上で、「原発のコストを語るとき、燃料費や設備費などの発電コストにこれら社会的費用も加えなければならず、原発は火力や水力よりも高い」と解説。そして、原発のコストは、発電コストだけを考えれば良い電力会社にとっては安く、事故などの社会的費用のツケを回される国民にとっては高く、しかも複雑な制度を経ているため、「この電力会社にとって都合がいい仕組みが、国民には分かりにくくなっている」と指摘。
 「政府も電力会社も、このシステムを国民に十分に説明しないまま原発を生き残らせ、再稼働や延命策に走っている」と力説した。

(2014年10月12日付け毎日新聞地方版、藤田文亮「シンポジウム《原発は最も高コスト》立命館大・大島教授、再稼働の動き受け−下京/京都」)



(注1) 「エボラウイルス感染症(疑い)患者からの検体採取を強制
 政府は、感染症法を改定し、<エボラ出血熱など「1類感染症」と次に厳しい措置をとる「2類感染症」と新型インフルエンザについては、血液などの採取と提供を強制できる」ようにするらしい。
 強制する対象は、患者と医療機関である… 中央省庁が地方自治体、それに医療機関に対して、検体採取を強制することは間違いなさそうだ。
 アメリカでは、完全防護の体制でエボラ感染症の患者の治療に当たっていた看護師が、二次感染を起こしたと報じられている。さほどに、この感染症は感染力が強いのだ。
 米国では、エボラウイルス感染症の症例が出たら、CDCから専門化チームが時間の単位で駆けつける体制を整えたという。
 それと、この上から目線で中央から「強制する」やり方と、なんと違うことか。
 厚生労働省は、この感染は、流行の初期で食い止めることが絶対必要であることが分かっていない。
(2014/10/15 12:39 投稿)

(注2)
 《女のウチワ合戦》蓮舫議員 vs 松島法務大臣
http://www.youtube.com/watch?v=pAatE6sLzaQ
 ウチワとご自分のお言葉でお認めになっているじゃあ、ございませんか、その法務をつかさどる大臣さま、松島法務大臣の出没地はプロフィルによると、墨田区、荒川区なんだそうです、ホント恥ずかしい。
http://ameblo.jp/matsushima-midori/


posted by fom_club at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

多様性にむかって

 アムネスティは長年にわたり、日本政府が国際人権諸機関からの勧告を完全に実施し、難民保護のための制度を抜本的に見直すよう要請してきました。今回の提言書は、難民、庇護希望者、移住者の権利が制限され続けていることを改めて浮き彫りにしています。例えば、難民認定申請者は2013年度に3,260人となり、過去最高数となっているにもかかわらず、認定者はわずか6人でした。シリア難民をはじめ、いわゆる紛争難民を含めた、難民条約に基づく難民以外の庇護希望者は今後増加すると考えられます。また、報道機関によると現政権は移民の受け入れを拡大する方針を採っており、移住者の人権を保障する法整備が喫緊の課題となります。

 以上、来る7月の自由権規約委員会による日本政府報告審査を機に、日本政府が難民、庇護希望者および移住者の人権をより保障する政策を促進するよう要請いたします。

(2014年6月11日法務大臣宛て要請書「日本における難民、庇護希望者および移住者の権利を保障するため日本政府の取り組みを促進するよう求めます」)
http://www.amnesty.or.jp/news/2014/0627_4698.html

 ね、ほらね、この国に難民、移民、ましてや国内避難民(注1)だって受け入れる度量も器量もなく、どうぞムカシの場所にお戻りください、の姿勢が濃厚なのではないのかなってヤッホー君、秋晴れの空に向かいて独り言つ。
 次の45年前の文章を読んでみませんか?

 日本人とはなにか、という問いかけにおいて僕がくりかえし検討したいと考えているところの指標のひとつに、それもおそらくは中心的なものとして、日本人とは、多様性をいきいきと維持する点において有能でない属性をそなえている国民なのではないか、という疑いがあることもまたいわねばならない。
 多様性にたいする漠然たる嫌悪の感情が、あるいはそれを排除したいという、なかばは暗闇のうちなる衝動がわれわれのうちに生きのびているあいだ、現になお天皇制が実在しているところの、この国家で、民主主義的なるものの根本的な逆転が、思いがけない方向からやすやすと達成される可能性は大きいだろう。
 そのとき、《天皇は、日本国の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く》という憲法の言葉は、そのまま逆転のための根本的な役割を荷いうるだろう。

(大江健三郎「多様性にむかって」『大江健三郎同時代論集4、沖縄経験』(岩波書店、1981年)所収、121頁、初出1969年8月-9月)

 いつでも用意されている可能性に、貧民でも庶民でも細民でもその勢いを削ぎ、対抗、防御、抵抗しうる手立ては、もしかして発話し、書き続けることではないでしょうか。
 ヤッホー君、原民喜(1905-1951)の『夏の花』にはそんな気迫を感じ取っておりました。
 何ヶ所かご紹介(以下の引用は1995年第一刷講談社文庫版『原民喜戦後全小説』より):

 今、ふと己(おのれ)が生きていることと、その意味が、はっと私を弾(はじ)いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。
 けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆(ほとん)ど知ってはいなかったのである。

(「夏の花」15頁)

 灰燼に帰した広島の家のありさまは、私には殆ど思い出すことがなかった。
 が、夜明の夢ではよく崩壊直前の家屋が現れた。
 そこには散乱しながらも、いろんな貴重品があった。
 書物も紙も机も灰になってしまったのだが、私は内心の昂揚を感じた。
 何か書いて力一杯ぶつかってみたかった。

(「廃墟から」41頁)

 彼(義兄、順一)はもうこの戦争が惨敗に近づいていることを予想し、国民は軍部に欺かれていたのだ微かに悲憤の声を洩らすのであった。
 そんな言葉をこの人の口からきこうとは思いがけぬことであった。
 日華事変の始まった頃、この人は酔ぱらって、ひどく私に絡んで来たことがある。
 長い間陸軍技師をしていた彼には、私のようなものはいつも気に喰わぬ存在と思えたのであろう。
 私はこの人の半生を、さまざまなことを憶えている。
 この人のことについて書けば限りがないのであった。

(同50頁)

 彼(義兄、清二)は正三が手紙を書きかけている机の傍に座り込むと、側にあったヴィンケルマンの『希臘芸術模倣論』(注2)の挿絵をパラパラとめくった。
 正三はペンを擱くと、黙って兄の仕草を眺めていた。
 若いとき一時、美術史に熱中したことのあるこの兄は、今でもそういうものには惹きつけられるのであろうか…
 だが、清二はすぐにパチンとその本を閉じてしまった。
 それはさきほどの「何とかせよ」という語気のつづきのようにも正三にはおもえた。
 長兄のところへ舞戻って来てからもう一ヶ月以上にもなるのに、彼は何の職に就くでもなく、ただ朝寝と夜更かしをつづけていた。

(「壊滅の序曲」57頁)

 その他、69頁、94頁、96頁と頻出、『夏の花』三部作を時系列に組み直し、「書く:ことの位相の分析をしてみたい気もするのですが、ヤッホー君得意の「先送り」の術で…



(注1)
 「区域外避難者」とは、政府による避難等の指示または指定を受けなかった地域(以下、「区域外」といいます)から,原発事故によって放出された放射性物質による被ばくから逃れようと、避難した住民のことをいいます。
 行政やマスコミは、「自主避難者」または「自主的避難者」などと呼んでいます。しかし、放射線による被ばくの影響を避けるため、やむを得ず避難しているのですから、原発事故によって避難を余儀なくされたという意味では区域内避難者(避難等の指示等を受けた地域からの避難者)と異なるところはありません。当たり前のことですが、区域外にも放射能汚染は広がっていますし、ホットスポットも多数あります。決して、「自主」的に避難したのではありません…
 また、国連「国内強制移動に関する指導原則」(*)の序の2によると、「国内避難民」とは、「特に武力紛争、一般化した暴力の状況、人権侵害もしくは自然もしくは人為的災害の影響の結果として、またはこれらの影響を避けるため、自らの住居もしくは常居所地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた者またはこれらの者の集団であって、国際的に承認された国境を越えていないものをいう」とされています。
(福島原発被害首都圏弁護団)
http://genpatsu-shutoken.com/blog/
(*)GPID (Guiding Principles on Internal Displacement) 日本語版作成委員会(代表:成蹊大学、墓田桂)
http://www2.ohchr.org/english/issues/idp/docs/GuidingPrinciplesIDP_Japanese.pdf

 福島第1原発事故に伴い指定された南相馬市の特定避難勧奨地点152世帯について、指定解除に向けた国の住民説明会が10月11日、終了した。月内の解除方針に住民の反発が相次いだが、国の原子力災害現地対策本部の後藤収副本部長は「(時期は)総合判断するが、方針は変えていない」と月内解除に含みを残した。
 国は説明会での要望を受け、10月17日前後に現地で住民らのヒアリングを行う予定。解除時期は住民らの意見を踏まえ、小渕優子経済産業相らが協議し、決定する…
 勧奨地点は原発20キロ圏外の比較的放射線量の高い世帯を指定。大半が避難しており、月額10万円の精神的賠償の対象。伊達市と福島県川内村は既に解除され、指定は南相馬市だけとなっている。
(2014年10月12日日曜日付け河北新報「国、月内解除に含み 相馬の避難勧奨地点」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201410/20141012_61028.html

(注2)
Johann Joachim Winckelmann (1717−1768)は、18世紀ドイツの美術史家。『希臘芸術模倣論』は1943(昭和18)年、美術史家である沢柳大五郎(1911−1995)訳にて「座右宝刊行会」から出版されている。父は沢柳政太郎で明治・大正期の教育官僚、教育者。この父子については以下のエピソードが必読:
梅根悟(1903−1980)「1974(昭和49)年度新入生に対する学長講話《沢柳先生と和光のつながり》」
http://narapress.jp/ysk/wako/zikken/1974-04g.html


posted by fom_club at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月16日

シャングリラの難民

 14日火曜日の夜、イタリア文化会館。
 久保眞治さんのお話し。
 いまでこそ、GNH(Gross National Happiness、国民総幸福量)や、「最後の秘境、シャングリラ」で知られるヒマラヤ山脈の東端にある仏教王国、ブータン(人口約73万人、首都ティンプーThimphu、日本とは1986年に外交関係を樹立)。
 このブータンから20数年前、国を追われて難民化し、10万人以上もネパールの難民キャンプで暮らしていたなんて事実はヤッホー君、これまで何も知りませんでした… 公式情報にもありません…:

 ブータンの1人当たりの国民総所得は1,920米ドル(世界銀行、2010年)であるにもかかわらず、国勢調査(2005年)ではブータン国民の約97%が「幸せ」と回答しています。「国民総幸福量(GNH)は国民総生産( GNP)よりも重要である」と、1970年代にGNHの概念を提唱したのは、先代のジグミ・シンゲ国王でした。

 2011年3月の東日本大震災の際には、翌日に国王主催で被災者の安全を祈祷する式典が開催され、100万米ドルの義援金が送られました。そのほかにも、全国主要寺院での三日間にわたる一斉法要や、小学生らによるスポンサーウォークなど、ブータンからの支援は多方面にわたります。このような支援や、2011年9月のペンジョール上院議長一行や、ティンレイ首相の来日(同首相の福島県訪問)、11月の国王王妃両陛下の来日を通じて、今後も両国の絆がますます深まることが期待されます。
(外務省公式サイト、わかる!国際情勢Vol79 ブータン)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol79/

 昨年2013年には、ニューヨークタイムズ紙にこんなことが載っていました:

DAMAK, Nepal − BEFORE my family was expelled from Bhutan, in 1992, I lived with my parents and seven siblings in the south of the country. This region is the most fertile part of that tiny kingdom perched between Tibet and India, a tapestry of mountains, plains and alpine meadows. Our house sat in a small village, on terraced land flourishing with maize, millet and buckwheat, a cardamom garden, beehives and enough pasture for cows, oxen, sheep and buffaloes. That was the only home we had known.

After tightening its citizenship laws in the mid-1980s, Bhutan conducted a special census in the south and then proceeded to cast out nearly 100,000 people − about one-sixth of its population, nearly all of them of Nepalese origin, including my family. It declared us illegal immigrants, even though many of us went back several generations in Bhutan. It hasn’t let any of us move back.

The enormity of this exodus, one of the world’s largest by proportion, given the country’s small population, has been overlooked by an international community that is either indifferent or beguiled by the government-sponsored images of Bhutan as a serene Buddhist Shangri-La, an image advanced by the policy of “gross national happiness,” coined by King Jigme Singye Wangchuck in the 1970s.

Bhutan Is No Shangri-La
(Thw New York Times published: June 28, 2013)
The Opinion Pages posted by VIDHYAPATI MISHRA)

 ニューヨークタイムズはアメリカの新聞。
 実は10万人を超す難民は、2008年から始まった「再定住計画」resettlement program で93,000人が難民キャンプを離れ、そのうちの78,000人がアメリカに渡った、しかし今でも24,000人が残っているといいます。

ヤッホー君の質問概要:
 ご活動おつかれさまでございます。久保さまは、今はネパールでお仕事をなさっていますが、それまで世界各地で紛争や迫害、戦争で故郷を喪った5100万人もの難民と接してこられたと思います。そこで、日本を離れた遠いキャンプ地から日本をみて、日本国政府、日本のNGO、そしてわれわれ日本人にどんなことを望まれますか?

久保さんのご回答概要:
 難民化するのは、不信が不信を呼ぶ、憎悪が憎悪を呼ぶという負の連鎖が増幅してしまうからと言えなくもありません。支配者、支配層が国の存在を守るという正義を、被支配者のうち余計なもの、邪魔なもの、刃向かうものに押し付けて来る、という実に悩ましい構図があります。
 その点、日本人は「こころの垣根」を自然に取り払うことができ、不信を信頼関係の醸成に、憎悪を協調関係に巧みに転換することができる… それが得意なのが日本人なんではないでしょうか。
 ブータン難民に関していえば、今すぐに具体的な行動を、ではなく、こころのすみにアジアの人道危機が「人知れず」あった、あるのだということをぜひ「こころに留めておいていただきたい」と思います。
 UNHCRには主要8ヶ国会議(アメリカ、カナダ、オーストリア、ニュージーランド、それにヨーロッパ)があり、ブータン難民に対してはアメリカ、カナダ、オーストリアが全面的にサポートすることになって、それで難民は再定住計画に則ってキャンプを離れたのですが、その主要国会議メンバーのなかに日本は入っておりません。
 だからなおのこと「こころに留める」ことの大事さがお分かりになろうかと思います。


 そうか、そうだな、と。アイヌは「先住民族」ですね。さらに世界から「難民」が日本に来て、日本人と暮らすって、どういうことになるのだろうって。

 日本、日本人(ってどう定義するんだろうね)の外側に紛争地、難民があるときにそれを包摂することのできる論理、容量、支援の元手の準備って誰がしているのでしょうか。

 日本、日本人の内側に人種、言葉、文化、生活習慣の異なる異物が入り込んできたとして、それを包摂、許容、包含することのできる今はやりの多様性、共存、共生の絆、縁、舫いを「ムラ社会」である日本、日本人は紡ぐことができるのでしょうか。

 どうも見ていますと、その真逆方向にエンジンを噴射しているような、そんな気がして…(*)
 大江健三郎の『沖縄ノート』にはしばしばこんな独り言(つぶやき)がヤッホー君の「こころ」には、通奏低音(つうそうていおん)となって響き渡ってくるのでした:

 逃げ出してゆく自分の背を、自分の眼で眺めているように。
 あの穀つぶしは、と僕は冷静な観察をおこなう。
 憐れにも、みすぼらしい徒手空拳で、つみかさねた学殖もなく行動によって現実の壁をのりこえた経験もなく、ただ熱病によって衰弱しつつもなお駆りたてられるような状態で、日本人とはなにか、このような日本人ではないところへの日本人へと自分をかえることはできないか、と思いつめて走り廻っているのだ。

(「日本が沖縄に属する」『大江健三郎同時代論集4、沖縄経験』(岩波書店、1981年)所収、86-97頁)

 ヤッホー君はそれに加え、パリでお会いした師フェリックス・ガタリ(1930-1992)の言葉「日本人になる」の意味を問い続けているのです。
 ノマド(nomad、遊牧民)となって月夜の砂漠を走り廻っているような。


(*)
「愛国心あるからこその反戦さ」
 真の愛国心は好戦性とは無縁だ。積極的平和主義などという言葉が使われる昨今だ。使っているご本人はこの言い方を盾に集団的自衛権の行使容認をごり押ししようとする。だが、反戦をもたらす愛国心こそが、真の積極的平和主義だ。不戦を誓う日本国憲法の中にこそ、真の愛国があり、最も積極的な平和主義が貫かれている。

「『民』はどこへ」…
 広島と長崎の原爆の日に際して、安倍晋三首相が行ったあいさつについて、二つの問題を指摘していた。第一は、冒頭部分が昨年のものとほとんど同じだったこと。第二の問題は、広島でも長崎でも、昨年と大きく変わった箇所があったことだ。
 第1点も実にひどい。何たる被爆者軽視。何たる見識の欠如。何たる不心得。
 第2点はそれにも増して衝撃的だった。昨年は「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります」となっていたくだりが、今年は「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には」となっている。日本人という国民が姿を消して、国家が前面に出た。
 由々しき問題だと思う。国民国家において、国家は国民のために働く装置だ。主体はあくまでも国民だ。かりそめにも、国家のために国民がいるなどと考えてはならない…
 愛国とは、国民が国家に奉仕することを意味しない。愛国は反戦の誓いだ。その誓いの主体は、あくまでも国民だ。反戦平和の決意を新たにすべきこの季節に、本紙から貴重な二つのメッセージを得た。
(2014年8月16日付け毎日新聞東京朝刊、浜矩子「危機の真相:愛国と反戦、国民と国家 この二つの重要な関係)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140816ddm005070002000c.html


posted by fom_club at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月15日

5000人そして5100万人

 台風一過の10月14日火曜日、ヤッホー君はお昼から”eチャリ”。
 吹き返しの強い風が時折り、さぁ〜とチャリを襲います。
 負けるもんか、と隅田川河畔を漕いで、第一の目指す関門、「白髭神社」から「白髭橋」。
 そして隅田川を渡って本日第一の目的地「東京都人権プラザ」(台東区橋場1-1-6 Tel 3876-5372)。
 あ、その前に見所、名所、お休み処は、白髭橋台東区側たもと「対鴎荘跡」(台東区橋場2-1)、「石浜図書館」。
 いえ、その都の人権プラザ「展示室」ではいま、企画展「宇井眞紀子写真展 アイヌときどき日本人 TOKYO 1992−2014」(8月1日金曜日〜11月28日金曜日)を開催中!
http://www.tokyo-jinken.or.jp/plaza/tenjishitsu_201402.htm

 1960年千葉生まれの宇井真紀子さん、その前2010年にも「宇井眞紀子写真展 アイヌときどき日本人U TOKYO 2002−2009」を開催しておられました。そこでは:

 1992年からアイヌ民族の取材を続けている。
 今回の写真は、2002〜2009年に東京周辺で撮影したものだ。
 撮影を始めた頃、私は「アイヌ民族=北海道」だと思っていた。
 ところが、実際には、関東にも少なくとも5000人のアイヌ民族が暮らしていると言われている。
 それを知ってから自分が住んでいる東京周辺のアイヌ民族を伴走者のように傍らで記録してきた。
 厳しい同化政策のため、自らの文化を伝承することが難しい中、アイヌ文化は消滅することなく受け継がれて、さらに取り戻すための努力が続けられている。
 アイヌというアイデンティティを持ちながら、日本人であることを背負わされたアイヌの人々の状況をタイトルに込めた。
 自己と向き合い、「アイヌらしさ」に迷いながらも、堂々と生きるアイヌ民族の今を伝えたい。
 2008年6月6日に国会で採択された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が、アイヌが自然にアイヌでいられる社会への第一歩となるように願う。

(コニカミノルタプラザ公式サイト、宇井眞紀子写真展)
http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2010may/gallery_c_100511.html

 ヤッホー君のこのブログではこれまで何度も何度も「アイヌ」を取り上げ、資料を収集したり、講演会を聞きにうかがったり、実際に北海道まで渡って阿寒湖のコタンを訪れたり、しばしば言及、記述してまいりましたね、どうして…?

 現状での政府は 「アイヌ」 を先住民族として未だに認めていません。
 その理由として:
 * 先住民族の定義が国際的に明確になされていない
 * 関係省庁が多数にのぼり、それぞれの意見が出されている
 * 個人を権利の主体とする現行憲法との整合性
等を理由に、「アイヌ民族が先住民族であると結論を下せる状況にない」というのが今の公式見解です。
またアイヌの保護を目的として唯一施行されている国内法「アイヌ文化振興法」は成立10年を迎えましたが、この法律はアイヌ民族を先住民族と認めず、アイヌ文化の保護のみを目的としています。
 「民族」として認めず「文化」のみを認める矛盾がこの宣言の採択により、より明確にでてきたと言えると思います。
 なので今回の宣言(2007年に採択された「国連先住民族権利宣言」)に賛成したのは、あくまで「世界の先住民族」に向けてであり、今も日本国内には先住民族はいないという認識の元なのです
 それが本当に正しいのか、…

(2007.9.21 NPJ通信伊知地亮「9月14日の国連総会での世界先住民族の権利についての論考」)
http://www.news-pj.net/npj/tuushin/200709-ichiji.html

 伊知地亮さんは国際支援、復興支援のNPO「オンザロード」の事務局長もなさっております。こちらも:
https://otr.or.jp/

 マレーシアでは、今夏、「国際先住民年」にあわせ、メディアはどのメディアも、にぎにぎしく紙面を飾ったおりました。
 この国には、先住民族っていないのかぁ〜って、皆んな「天子の赤子」にならなきゃいけないのかぁ〜、One People, One Nation, One Leader ってどっかで聞いたような、ヒットラーかぁ〜とか、ぶつぶつ独り言つしながら、さらにペダルを踏み続けます。
 隅田川からちょき舟を漕いで吉原遊郭に通った、粋な水路「山谷堀」を横目に見ながら、いなせなヤッホー君、汗をかきかき、チャリを漕いで「今戸神社」から「待乳山聖天」(まっちやましょうでん)で一休み。
 リフトで「本竜院」へ登り、堅山南風(1887-1980)描くところの『外陣格天井天女』の絵葉書を購入、階段を下って、 「リー・デ・フォーレスト博士の碑」(トーキー渡来の碑)、「池波正太郎生誕の地」跡をめぐって、今度は「白髭橋」ならず「言問橋」で、スカイツリーを拝みながら、隅田川を急いで渡ったのです。
 なぜ、「トーキー渡来の碑」だったのか?って言いますと、その日の夜、またまた映画鑑賞に出かけたのです:

 紛争、迫害、人権侵害によって家を追われ保護を求める人の数は増え続け、2013年末時点で第二次世界大戦後、初めて5100万人に上りました。
 UNHCR 難民映画祭は世界中から集められた様々なドラマやドキュメンタリー作品を通じて、人びとの恐怖や絶望、喪失感、また一方では希望と勇気、活力と成功のストーリーを紹介することで難民、国内避難民、無国籍者の置かれた状況について理解を深めていただくことを目的としています。
 これからご覧いただく作品はただのフィクションではありません。
 どのストーリーも普段あまり語られることがありませんが、世界のどこかで、それも私たちが今いる場所からそう遠くないところで起きていることなのです。
 普段は自分の問題として考えることがないかもしれませんが、誰にでも起こり得ることかもしれません。
 ぜひ登場人物の視点で、その状況をより身近に感じ、理解を深め、共感していただけたらと願っています。
 作品に登場する人々は、まず皆様に知ってもらうこと、まさにそれを望んでいるのです。

(UNHCR駐日代表 マイケル・リンデンバウアー「第9回 UNHCR 難民映画祭開催に寄せて」)
http://unhcr.refugeefilm.org/2014/

 どこで、何を、観たの?
 「イタリア文化会館」!
 『シャングリラの難民〜幸福の国を追われて〜』(ドリア・ブラマンテ監督、アメリカ、2013年、57分)

 中国とインドに挟まれ、「最後の楽園」と称されるブータン。
 しかし、1991年以降、その国民のおよそ6人に1人が国を追われ難民となりました。
 彼らのほとんどはローツァンパという少数民族出身の人びと。南部に住むネパール系の人々です。
 1800年代にブータンの国境をイギリスの侵略から守るためにネパールから定住させられた民族です。
 しかし次第に人口が増えていくローツァンパはブータン政府にとって脅威とみなされ大規模な追放が起こったのです。
 そしてそれから20年以上たった今も、多くの難民がが UNHCR が設立したネパールの難民キャンプで暮らしています。
http://unhcr.refugeefilm.org/2014/news/2014/10/000819.php

 映画鑑賞後、久保眞治さんのトークショウもありました。久保眞治さんは:

 UNHCRネパール・ダマック事務所長。
 日系企業のニューヨーク駐在を経て、1993年より UNHCR職員。
 おもに中東・アジア地域の難民保護活動に従事し、インドネシア地域事務所首席保護官や駐日事務所副代表などを務める。
 2014年1月より現職。

http://unhcr.refugeefilm.org/2014/news/2014/10/000814.php

 そうなんです。大忙しのヤッホー君でしたが、会場では久保眞治さんに、挙手までして質問をしてしまいました。
 きっと、ヤッホー君自身の今日10月14日中の忙しさの理由、本音、根拠を探りたかったのだと思います。
 もう少し続けたいって… どうします? …



posted by fom_club at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月14日

キクとイサム

るんるん涙流れて どこどこ行くの
愛も流れて どこどこ行くのるんるん

 台風19号、寝ている間に走り抜けていきました。朝5時に那須塩原通過と言っていたかと思えば、朝6時には石巻から太平洋上に抜けたって、疾い、疾い。

 空気を入れ替えて、と。作詞・作曲:喜納昌吉、歌:石嶺聡子をどうぞ、沖縄の名曲「花」です。
http://www.youtube.com/watch?v=7m3eVIrRJ3Q

 その喜納昌吉は昨日10月13日体育の日、沖縄から平和を訴える動画『地球に愛を!』(喜納昌吉後援会「花の会」公式ブログ)を立ち上げました。
 例によって最近この国でよく目立つ個人攻撃がはじまっています。
 喜納昌吉にもさまざまな罵声、ヤジが浴びせかけられていますが、沖縄に暮らす主権者にまで拡散、汚染されちまったかなぁ〜るんるん花として 花として 咲かせてあげたいるんるん
http://kinaokinawa.ti-da.net/

 ヤッホー君の「体育の日」は?
 韋駄天台風と競争だい、お昼すぎにはもう、神保町シアターに韋駄天のようにすっとんで行きました、とさ。
 だってェ〜水木洋子シナリオが映画になったのをぜひ観たかったんですゥ〜。
 12日の山歩クラブ10月山行の折りにも宣言していたもん、雨にも負けず、風にも負けず、ゼッタイ観に行きたい!って(9月28日水木洋子邸への散策を企画してくれた江戸さん、西尾さん、プランにはなかった付録、「I−linkタウンいちかわ ザタワーズウエスト45階」展望室訪問を提案してくれた若松さんのおかげです、深謝!):

 『キクとイサム』1959(昭和34)年 白黒 監督:今井正 出演:高橋恵美子、奥の山ジョー、北林谷栄、清村耕次、朝比奈愛子
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/uno.html

 歌手、高橋エミさんは、アメリカ人の父の影響で外見はちょっとアメリカン。でも東京育ちで英語は苦手、と笑います。1959年、今井正監督の映画「キクとイサム」にキク役で出演していた女の子、と聞いてピンと来る人も少なくないはず。いまは下町のブルースシンガーとして多くの人の心を揺さぶっています。
投稿者: ourplanet 投稿日時: 09/25/2007-15:00
「下町で魂を歌う」
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/197

 これは2007年ですが、5年後の2012年、9月11日「北とぴあ」(北区、あッ、この最上階の展望室も若松さんが案内してくれました、あれは飛鳥山へのお花見の帰り)で行われたコンサートです:
http://www.youtube.com/watch?v=tHods3kwz1g

 では、と、イサムくんは、と言えば:

1959年に公開された映画「キクとイサム」は、戦後の日本が抱える問題を取り上げて絶賛を博しましたが、2010年9月11日に開催した「じんけんフェスタしが2010」でもこの映画を上映し、高い評価を得ました。

――お二人がこの映画に参加されたきっかけは

今回、この映画に製作スタッフとして参加された角沙門さんとイサム役で出演された奥の山ジョージさん(ともに草津市在住)にお話を伺いました。

角沙門さん

映画館を経営していた私の父である角正太郎が、映画を作りたいという思いから、出資を通じて映画製作に関わっていく中で、ちょうど学校を卒業したばかりの私も撮影助手として参加することになりました。

奥の山ジョージ

当時私は小学4年生で、母と二人で横須賀に暮らしていました。参加のきっかけは、はっきり覚えていませんが、オーディションだったと思います。私は右も左もわからない子どもでしたので、共演したキク役の高橋恵美子さんと一緒に、映画の撮影が始まる前に旅館にカンヅメにされて、演技や一般常識などいろいろな指導を受けました。

(2010年11月1日更新、滋賀県公式サイト「『キクとイサム』公開から50年」映画は人権を考える身近なツール)
http://www.pref.shiga.lg.jp/feature/10_11/feature02/index.html

 奥の山ジョージさんは、ピートマック・ジュニア Pete Mac, Jr.で音楽活動もしていました!歌っています:

ルパン三世のテーマです!!歌入りです。
歌:ピートマック・ジュニア

http://www.youtube.com/watch?v=dmWB0IoWXZY

 山もいい、読書もいい、映画もいい、歌もいい、皆んなで秋を満喫しましょうね!


posted by fom_club at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月13日

日和田山305m

 山歩クラブの皆々様、そして昨日参加された諸姉諸君、いつもながら、たいへんお疲れさまでした。
 仲間からお聞きした武蔵野大学の女子学生によるヒマラヤ山脈未踏峰の高山、初登頂成功にすっかり感動した吾輩ウルフ、昨夜は帰宅後、ふむふむとうなづきながら、おつむもこっくりこっくり、舟漕ぎ、そして船酔いをおこしてしまったようで、本日になってからの山行ご報告となります。
 写真整理していましたら、吾輩ウルフ、ムカシ現役の頃、山歩クラブ・電車ハイキングのときの日和田山が出てまいりましたので、高麗駅前の写真を併せて添付。天下大将軍、地下大将軍のトーテムポールをご覧じろ。
 昨日の日曜日は、快適な奥武蔵自然歩道(注1)、湯ったりのんびりできた「ふるさとの湯」(注2)、そして湯上りのビールと、山良し湯よし酒良し仲間良し、と日本人で良かったと吾輩ウルフ、心底実感できた山行でした。
 台風19号 (Typhoon Vongfong) 接近の折り、くれぐれもお気をつけてお過ごしください。ヤッホー!

14日和田山.jpg

高麗駅.jpg

 こだまが続々と返ってきます…

良かったです。岩登りがあったため、低山であっても山へ登ったという充実感がありました。私は転ばないで怪我をしないことが目標でした。無傷の上楽しい山登りができたのでうれしいです。アルコールが入ったヤッホーさんは見ているのも、とっても楽しいです。

12日は、土壇場でキャンセルし、すみませんでした。一日中、不自由さを感じ、何も出来ない自分なので、普段、ふつうの動きができることを感謝する、そんな気持ちをもってこれからすごしていかなくっちゃ、と痛感しました。夕食は、全部主人が作ってくれました。これまた、感謝で〜す。山行も、ゆっくり出来た様子、皆さんの写真を拝見しました。良かったですね。台風接近に、気をつけてください。

高麗駅、そして巾着田近場の低山ながら、岩場の難所もあり、天候も雨にも祟られず、楽しい1日でした。次回の「鬼怒川・龍王峡」山行に参加します。以前、電車で行った高麗駅前の集合写真に写っていて私が知っている人はだれだれかな、と見入っていました。今回は近場で山行も早く終わり、渋滞を避けてのバスによるワンデーハイクとなり、これもたいへん良かったです。

12日はお世話になりました。18号、19号の台風の狭間をぬっての山行、心配したお天気もなんとか持って何よりでした。少し余力を感じる程度の山歩き… 一番いいです。標高はなくても変化のある、楽しい山歩きでした。ありがとうございました。

12日は楽しい1日でした。写真ありがとうございます。カッシーさんが写っていて、今度は山以外でお会いしたいですね。「エーデルワイン」(注3)の情報をありがとうございます。岩手の友人に聞いてみますね。再就職の話題が出ておりましたが、ハローワークへ行かれるのも良いと思います。ヤッホーさんだったら経験を活かして、働く日数等の相談も出来ると思いますが…


(注1)
奥武蔵自然歩道は、飯能市天覧山をスタートに、日高市の高麗峠、巾着田、日和田山、高指山から毛呂山町の物見山(*)を越え、鎌北湖までの約11Kmのコースです。
(埼玉県の公式サイト、奥武蔵自然歩道)
http://www.pref.saitama.lg.jp/site/shisetsu/okumusasitop.html
(*)
 われわれが住む大地は起伏に富んでいる。この地形の位置関係を求めるための基準として設置されたのが三角点である。一般的に三角点は、花崗岩製の四角柱が地中にしっかりと埋設・固定されており、上面の十字の中心の緯度・経度および高さが正確に求められている。全国の三角点の緯度・経度を決める出発点となったのは、日本経緯度原点(東京都港区麻布台の旧東京天文台跡地)である。原点の位置は、明治初期に星を観測して求められた。
 三角点には、一等三角点以下、二等、三等、四等の区分があり、それぞれ配置間隔や標識の大きさなどが決められている。一等三角点には、いわゆる本点と補点があるが、通常は両者をあわせて一等三角点と呼んでいる。
(埼玉県高等学校理化研究会、地学研究委員会)
http://saitamachigaku.jp/htdocs/index.php?key=jomohsr71-116
 埼玉県内には11ヶ所に一等三角点が設置されており、物見山はそのなかのひとつ。

(注2)
「ふるさとの湯」坂戸市粟生田39 Tel 049-284-4126
利用した方のコメントその1:「平野部にある温泉にしては、意外と泉質が良いのでびっくりしました。埼玉県内の温泉では(泉質は)トップクラスだと思います」2011.09.02
その2:「土日祭日は多少混んでいますが、露天風呂が広めで、洗い場も多いので窮屈感はありません」2011.05.06

(注3)
ヤッホー君のこのブログ、2014年7月4日付け日記「エーデルワイン」ご参照ください!
posted by fom_club at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

井上由樹子

 行ってまいりました、山歩クラブ10月定例山行。
 目的地は当初、赤城山(黒檜山)としていましたが、連休で道路事情は渋滞が予想され、バスは登山口到着の時間が大幅に怒れ、赤城山を目指すこと自体、到底、無理だろうと、埼玉県・日高市のハイキングコース、日和田山、高指山、物見山、鎌北湖の奥武蔵自然歩道と変更いたしました。
 集まったメンバー13人、そのメンバーの方より「耳より情報」をいただきましたのでご紹介!

 江東区・井上由樹子さん!
 帰路の車中、おトモダチのお嬢さんにこういうことがありましてェ〜とご報告がありました。
 山歩クラブでお話しをお聞きしたいんだけどぉ〜、とヤッホー君。
 東京の下町に大学があって、海抜0mの大学に山岳部があって、しかも山ガールが団結して海外の未踏峰の高山に挑戦し、見事成功、なんて朗報も朗報、「快挙」ですので嬉しくなって、ご紹介!
※ 武蔵野大学には武蔵野キャンパスと有明キャンパスがあって、臨海部副都心、有明キャンパス(江東区有明3-3-3 Tel 5530-7403)は、2012年4月に開設されました。


 「山ガール」ブームが続く中、日本山岳会(森武昭会長)は、創立110年記念事業として女子大学生4人を集めた「ムスタン登山隊」を編成した。女子学生だけの登山隊編成は初めてで、今月下旬にネパール北西部の秘境、旧ムスタン王国にあるヒマラヤ山脈の未踏峰・マンセイル峰(6,242m)に挑む。

 4人は、▽隊長の武蔵野大4年、井上由樹子さん(24)
 ▽ 創価大4年、長谷川恵理さん(22)
 ▽ 筑波大4年、中村真理子さん(22)
 ▽ 弘前大3年、三島夏帆さん(21)

 いずれも国立登山研修所(富山県立山町)の講師で「今の日本で最高の女性登山家」(森会長)と呼ばれ、エベレストやマナスルの登頂経験もある谷口けいさん(42)の教え子だ。

 日本山岳会は学生部による未踏峰挑戦を推進している。今回も記念事業として呼び掛けたところ、講習会に積極的に参加していた井上さんが「女子隊を結成して登りたい」と申し出て仲間を集めた。

 4人は大学で山岳部や探検部などに在籍しているが、高所登山は初めて。「とにかく行きたい」という4人の熱意に感動した谷口さんが訓練を引き受け、現地に同行する。

(2014年09月01日14時28分更新毎日新聞「ヒマラヤ山脈:女子学生だけの登山隊 第一人者の訓練受け」)
http://mainichi.jp/select/news/20140901k0000e040151000c.html

 山岳部の井上です。
 9月29日13時にマンセイル峰(6,165m)に初登頂し、ムスタン地区の空の玄関口ジョムソンに戻ってまいりました。
 困難な道のりでしたが、ヒマラヤの一つの頂きに初めてたてたことを光栄に思います。

 ですが私たちだけでは登頂はおろか、山を目指すこともできませんでした。
 おおくの人の支えがあったからこそ私たちは登ることができました。

 とくに各大学が遠征への関与に難色を示すなか、武蔵野大学が応援してくださったことは、この遠征隊にとって本当に大きいものでした。

 登山は一人ではできません。
 まだ実績をもたない学生でも、熱意と可能性を信じて後押しをしてくれるこの大学を私は誇りに思います。
 快く送り出してくださったこと、多大なご支援と応援に、心から感謝いたします。

 もっときちんと報告と感謝をお伝えしたいのですが、こちらは電気と通信環境が不安定なので(なんせ一日に8回は停電します)、取り急ぎ登頂と帰路の写真を送らせていただきます。

(以上一部抜粋、原文ママ)
(日本時間10月6日(月)10:53武蔵野大学ニュースリリース「井上さんからメールが届きました!」)
http://www.musashino-u.ac.jp/guide/profile/news/2014/141002.html

 井上由樹子さんの日本山岳会「登山計画書」にはこうありました、すばらしい!:

 学生部ではこの10年間で4回、未踏峰に挑戦しそれぞれ6,000m峰に初登頂を果たして参りました。
 この伝統のもと私たちはネパール・ムスタンヒマールに目を向け、今年はじめて解放された未踏峰の登山許可を取得し、初登頂に挑戦するはこびとなりました。
 ムスタン地方は、その昔ムスタン王国として栄え、ネパール王国時代にネパール王国に併合された後もチベット仏教に基づいた独立した自治が認められてきた、文化的にも大変魅力的な地域です。
 地理的にはチベットとの国境に位置しているため、今回挑戦する Mansail 峰はこれまで入山を許されてこなかった未踏峰(標高は6,242m)で、この地域の盟主ともいうべき山です。
 この度、この Mansail 峰挑戦のチャンスを得て、初登頂を果たすことはもちろんのこと、地元の人たちとの交流を積極的に行なうことで私たち自身の知見、経験を豊かなものにするとともに文化交流に少しでも貢献したいと考えています。
 また、ここで身につける技術や経験は、今後の女子登山でリーダーとして後進にも伝えて参ります。

(日本山岳会学生部女子ムスタン登山隊2014隊長 井上由樹子)
http://jac.or.jp/images/JAC_Mustang_Expedition2014.pdf


posted by fom_club at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月12日

岩波・大江訴訟

 東日本大震災からの復興に向け、東北の被災地では防潮堤や高速道路の建設、宅地や災害公営住宅の整備が目に見える形で進む。有効求人倍率は1倍を超え、経済指標も消費税増税の影響を受けつつも底堅さを保つ。
 被災地以外の人々は、逆境から立ち上がり、生活再建の道を着実に歩む被災者の姿を思い浮かべているかもしれない。
 ただ、多くの被災者の暮らしと家計の実態は、そうした状況とは大きく異なっている
 一般社団法人パーソナルサポートセンターが震災から約1年後に仙台市内の仮設住宅の入居者1369世帯を対象にした調査によると、生活保護水準に近い年収150万円未満の世帯は、プレハブ仮設住宅居住者で全体の約4割、民間賃貸のみなし仮設住宅で約3割を占めた。
 高齢者や母子家庭の低所得者は震災前から生活に困窮していた。脆弱(ぜいじゃく)な基盤を破壊された被災地で潜在していた貧困問題が、時間の経過とともにあらわとなり、拡大している。
 気になるデータがある。阪神大震災の発生から10年後の2005年、兵庫県が行った生活復興感調査だ。自宅が全壊した被災者の暮らし向きを聞いたところ、年収1000万円を超す高所得者は約4割が震災前より収入が増えたと回答。300万円未満の人は7割以上が「減った」と答えた…

(2014年10月11日土曜日付け河北新報社説「被災地の貧困/認識を深め政治を動かそう」)
http://www.kahoku.co.jp/editorial/20141011_01.html

 中央、上流階級、富裕層からの「おこぼれ」「さずかり」「おさがり」に期待するのがこの国の大多数なのでしょうか、
 「政治を動かそう」って言われたって、そうした大多数のはずなのに大多数をまとめられると困るので、そうさせないような仕組みをますます強固につくろうとしているのでしょうね、たぶん。

 沖縄についてだって、大江健三郎や出版社も巻き込まれた、こんな「事件」がありました:

 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書『沖縄ノート』などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は2011年4月22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。
 これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。
 同小法廷は、原告の申し立てを「上告理由にあたらない」とした。
 棄却を受けて大江氏は、
「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた…

 裁判原告の「隊長の自決命令は聞いてない」などとする陳述書が契機となり、2006年度の教科書検定意見によって、高校日本史教科書の「集団自決」における軍強制の記述が削除された。記述削除に対し、「沖縄戦の実相をゆがめるもの」という反発が県内で起こり、2007年9月に県民大会が開かれるなど、沖縄戦体験の正しい継承を求める世論が高まった。

(2011年4月23日付け琉球新報「軍関与認めた判決確定 <集団自決>めぐる岩波・大江訴訟」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-176373-storytopic-101.html

―――2005年8月5日に、梅澤氏と故・赤松氏の弟・秀一氏が、前触れもなく突然、『沖縄ノート』を著した大江氏と発行元の岩波書店を提訴したということですが、そのときの感想、それからその後分かってきたことなどをお聞かせ下さい。


岡本さん:
 実は、必ずしも突然ということではなかったのです。
 2005年7月下旬に、産経新聞紙上に〈大江氏、岩波書店を提訴〉といった見出しの記事が出て、一体なんのことだろう、と思ったのが最初だったんですね。8月には提訴したと報じられたのですが、いつまで経っても肝心の訴状が届かない。そうこうしているうちに原告団を支援するという HP が立ち上がり、そこに訴状の内容も掲載されているという奇妙な裁判の始まり方でした。実際に訴状が届いたのは9月になってからのことでした。
 とにかく、とまどいを覚えたというのが当初の正直な感想です。
 というのも、このとき原告団が名誉を傷つけられたと名指しした岩波書店の書籍(当初3点)は、出版された時期が1960年代のものであり、大江さんの『沖縄ノート』が出版されたのも1970年のことです。
 それが2005年の今頃になってなぜ訴えられたのか、という疑問がまずありました。それから、一般に出版物に対する名誉毀損での訴えというものは、抗議があったり訂正の申し入れがあったりして、交渉がまとまらずに起こされるケースが多い。ところが今回は岩波にも大江さんにも、出版後35年間、何の抗議も訂正要請もありませんでした。これらの事実からしても、今回の裁判は何らかの政治的な意図の下に起こされたのではないか、という思いが最初から強くあったわけです。
 そして、これは後から分かってきたことですが、裁判に先立つ2005年5月に、藤岡信勝氏などの自由主義史観研究会のグループが、渡嘉敷島や座間味島などを3日間現地調査し、集団自決への「軍命」はなかったとの確証を得たという。なぜわずか3日ほどの調査でそのような確証が得られたのかは分かりませんが、いずれにせよ、彼らはそれを元に翌6月には東京で「沖縄プロジェクト」なるものを発足させ、あらゆる方面に働きかけて集団自決に「軍命」があったとしているすべての出版物から「軍命」の記述を削除させるという方針を打ち出したそうです。これは沖縄の新聞に報じられていたのを後で見て、なるほどこの動きが、裁判の準備段階だったんだな、ということが分かってきました。
 それからもうひとつ、原告団の弁護人の一人が『正論』という雑誌の2006年9月号で、高齢などを理由に裁判に消極的だった梅澤さんや故・赤松さんの弟さんを説得して訴訟に踏み切らせたという提訴までの経緯を書いています。それで、どうやらある特定の考え方をもつ周囲の人間が原告を動かして起こした裁判だったということも分かってきました。
 これらの事実によっても、この裁判が政治的な背景の下に起こされたものであることは、間違いないように思われます。

(法学館憲法研究所、Y.M.記「大江健三郎・岩波書店沖縄戦<集団自決>訴訟〜大江健三郎・岩波書店沖縄戦「集団自決」訴訟第1審判決を前に〜」)
http://www.jicl.jp/now/saiban/backnumber/ooe.html

 「政治」ってほんと、こんなことだから有権者が投票にいって主権者としての意思表示をする「投票」だって、いまどんどんと「投票率」が低くなってきています…。
 これがこの国のミンシュシュギなのかなあ〜ミンシュシュギの名のもとに変な方向に走らないよう祈りつつ、さ、今日はお山歩だい!



posted by fom_club at 05:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月11日

はっくい、べー

 台風19号、英語名は wasp ハチ、ですね。ちなみに大文字 WASP は White Anglo-Saxon Protestant, an American whose family was originally from northern Europe and who is therefore considered to be part of the most powerful group in society.

 10月11日土曜日早朝、沖縄本島は暴風域に入ったそうで「またぁ」とヤッホー君、明日日曜日は山歩クラブの10月山行日なんだそうです。
 まずは、ロイター通信から:

It was likely to be closest to Okinawa, an island chain 1,600km (1,000miles) southwest of Tokyo, and the home of the largest contingent of U.S. troops in Japan, late on Saturday or early on Sunday...

There are no nuclear plants on Okinawa, but there are two on Kyushu and one on Shikoku island, which borders Kyushu and may be hit. All are currently halted in line with national policy.

The Fukushima Daiichi nuclear plant, crippled by an earthquake and tsunami in 2011, is on the other side of the country, which is likely to see rain at the worst.

Vongfong, which means "wasp" in Cantonese, was following the path of Phanfone, a typhoon that slammed the mainland on Monday, disrupting transport and prompting evacuation advisories for hundreds of thousands of people. Seven people were killed, including three U.S. airmen swept out to sea and a man who died while surfing.

Refiner Nansei Sekiyu KK, which is wholly owned by Brazil's Petrobras, suspended marine berth operations at its 100,000 barrels-per-day Nishihara refinery in Okinawa on Thursday but crude refining operations were unaffected. More than 1,000 rescue workers stepped up a search for the last eight missing victims of the Mount Ontake volcanic eruption, hoping to make progress before the storm hits.


Japan braces as super typhoon Vongfong powers north
By Elaine Lies
TOKYO Fri Oct 10, 2014 3:58am EDT
http://www.reuters.com/article/2014/10/10/us-japan-typhoon-idUSKCN0HZ05A20141010

 なになに、外国からの投資だってェ〜、Refiner Nansei Sekiyu KK, which is wholly owned by Brazil's Petrobras って何?
 これは「南西石油」。
http://www.nanseisekiyu.co.jp/

 沖縄、西原町小那覇の南西石油・西原製油所(リンコン・シオジロ・イシカワ社長)については昨年7月19日の事故(ガソリン製造装置の加熱炉内でガス爆発事故が発生、衝撃で加熱炉の壁が約4m破壊)を受けて、琉球新報が昨年7月27日付け社説でこんなことを:

 民間信用調査会社によれば、南西石油の2012の売上高は2378億円で県内企業で3年連続首位を占めている。生産面だけでなく、施設の安全確保によっても、企業の社会的責任を果たすべきだ。
 過去の事故では情報公開の在り方でも問題があった。2010年の大型タンカーの桟橋衝突事故による重油流出では、廃油が漂着した南城市に事故を伝えたのは発生翌日だった。ほかの事故でも地元通報が何度も遅れた。
 現状のままではいつ大惨事につながる事故が起きても不思議ではない。南西石油は事故再発防止のための抜本的な対策を県民に示してほしい。

(南西石油事故最多 抜本的な再発防止策示せ)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-210142-storytopic-11.html

 沖縄に人的被害が起こらないよう念じております。
 その沖縄にこんな唄があります:

イエー、がらさー
大和人(やまとんちゅ)の、
鉄砲担(かた)めて、
汝射り(やーりー)が、
来(ち)うんどー。
阿旦(あだん)の中(み)んぢ、
蘇鉄(そてつ)の裡(み)んぢ、
はっくい、べー。
はっくい、べー、べー。


 島袋全発(しまぶくろ・ぜんぱつ)著『沖縄童謡集』の烏(がらさ)に呼びかけて、隠れろ、早く(はっくい、べー)とうながす歌は、沖縄の明治の子供たちが本土の日本人(やまとんちゅ)の脅威のまえで烏と自己を同一化している感情をあきらかにするが、この歌によって告発される状況はいまなお続き、いわば本質的にはなにひとつつぐなわれてはいないのである。
 鉄砲が、核弾頭ミサイルにかわりはしたが。

(大江健三郎「多様性にむかって」『沖縄ノート』、大江健三郎同時代論集4『沖縄経験』(岩波書店、1981年)所収)129頁

 そうなんですね、ヤッホー君がどうして沖縄にこだわっているのかにかかわってくるのかも知れませんし、いまだにヤッホー君の沖縄行、レンタカーを借りて本島だけですけど走り回ったときの何十年前かの体験がその後の生き方に影を落としているといえなくもありません。
 大江健三郎(1935年愛媛県生まれ)をまず読まなくっちゃ、と手にしたふたつのノート、読みながら考え、気付いたことをまたこのブログに日記として書いていこうかな、と:

★ 『ヒロシマ・ノート』(初出:雑誌『世界』1963年10月号、1964年10月号-1965年3月号)1965年6月、岩波新書。

★ 『沖縄ノート』(初出:雑誌『世界』1969年3月号、8月号、10月号、1970年1月号、3月号-6月号)1970年9月、岩波新書。


posted by fom_club at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月10日

アンダーコントロールの檻

 南国での2ヶ月以上の生活を終え帰国、もう2週間たちました。
 この国を愛することにおいては人後に落ちない、と思っているヤッホー君、
 平和で穏やかな国だからこそ、国民健康保険と年金制度でほそぼそとはいえ暮らしていけるこの国のすばらしさに感謝していたヤッホー君、
 平和で安全(注1)な国だからこそ山歩きもできると確信していたヤッホー君…

 水面下、目に見えないところで、あるいは隠されたまんま、この国の指導層はとんでもない方向に歩み出しているんだ、と知り、帰国してそうそう行く末、将来を案じているのだそうです。

 『世界』を手にとりました:

 いま、安倍政権の駆使する統治手法の全体が俯瞰できる段階を迎えた。
 安倍統治を要約すれば「3Mコントロール」と表現できるだろう。
「3つのM」とは第一にメディア(media)、第二にマネー(money)、そして第三にマインド(mind)である。
 以上3つのMを「アンダー・コントロール」、すなわち「制御下」におく。
 すでに制御下におかれた領域は多岐にわたる。
 民主政治を実あるものとして維持するのに欠かすことのできない「社会的資源」の多くが安倍政権の「アンダー・コントロールの檻」内に連れ込まれた…
 安倍政権への根本的批判の矢を放つ、渾身の論文。

 内橋克人(うちはし・かつと) 1932年生まれ。経済評論家。『内橋克人 同時代の発言』(全8巻)、『共生の大地』『規制緩和という悪夢』『もうひとつの日本は可能だ』『新版 悪夢のサイクル─ネオリベラリズム循環-』『荒野渺茫』(第T部、第U部) など著書多数。

(岩波書店2014年11月号『世界』目次「アベノミクス」化する社会─強者の欲望に寄り添う権力のもとで-)
https://www.iwanami.co.jp/sekai/2014/11/directory.html

 指導層のトップこあるお方がもし右翼、国粋主義者、愛国主義者だとすれば、どうして追従、従属とか属国化ではない、真の独立を目指さないのかな、どうしてこの国に住む大多数の国民の利益に結びつくような政策をしないのかな、どうして「平和」の名のもとに殺したり殺されたりする軍備増強を積極的にすすめるのかな、どうして東アジアで米国指導者層とそのトップの Asia Pivot Strategy ではなくって、皆、仲良くなるようなことを提案提言推奨実現しないのかな、どうして原発を止めないで売り歩くようなことをするのかな…
 どうしてこういう「ねじれ」をこの国で投票所に行ける人は見抜けないのかな…
 もう一度、トップに復帰したときのイギリスのメディアを読んでみましょうか:

East Asia is bracing for an era of tension and confrontation after Japan's general elections returned a hawkish conservative to power.
(Japanese hawk's election victory prompts fears of regional tension
Shinzo Abe has promised to take tough stance on row with China over Senkaku Islands)
By Justin McCurry in Tokyo
The Guardian, Sunday 16 December 2012 17.22 GMT
http://www.theguardian.com/world/2012/dec/16/japanese-hawk-victory-fears-tension

 「辺野古移転」で沖縄の人びとの負担を軽減すると、この国の指導層、そのトップはしゃべっていますが、ではどうして沖縄の人びとは嫌だ、と叫んでいるのかな…
 陸海空、三方見据えた新しい米軍基地の建設だって叫んでいる沖縄の声って、この国の指導層に届いているのかな?

 辺野古埋め立てに反対する人びとが工事車両が入れないようにキャンプシュワブのゲート前をふさいでいます…
 この警察官に二の腕をがっしり捕まれてしまいました。
 ワタシが「痛い!」と言ったら、隣の人が警察官の腕を引き離し助けてくれました。
 どっちが正義?

(2014年07月30日付けアキノ隊員の鱗翅体験日記「2014年7月29日の辺野古の様子」)
http://akinotaiinnorinshitaiken.ti-da.net/c278825.html

 アキノ隊員についてヤッホー君のこのブログで何度か指摘させていただいております。
 一年前のことですね:

 2013年10月08日付け日記「アキノ隊員」「高江の空」
 2013年10月09日付け日記「高江の虫」「標的の村」
 
 ぜひめくってお読みください!

 琉球新報(注2)によりますと昨日も:

 米軍普天間飛行場の移設に伴う、名護市辺野古の新基地建設に反対の意思を示そうと、県内の市民団体などは10月9日正午、人間の鎖で県庁周辺を囲む「止めよう新基地建設!10.9県庁包囲県民大行動」を行なった。
 正午現在、少なくとも参加者千人(主催者は9日午後0時53分ごろ、参加者数を3,800人と発表)が集まり、海をイメージした青色を基調とした「辺野古新基地 NO (ノー)」「屈しない!」と記された紙を掲げた。
 沖縄防衛局が提出した埋め立て工法の変更申請について、県が不承認にすることも求めた。
 シュワブ内で建物解体工事が始まった7月1日以降、実行委は8月23日と9月20日にも辺野古で県民集会を開催。
 今回はその第3弾という位置付け。
 知事の承認取り消し、新基地反対などを訴えた県庁包囲行動は今年2月にも実施された。

(2014年10月9日更新琉球新報【辺野古問題取材班】【速報】辺野古阻止「人間の鎖」県庁を包囲)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-232838-storytopic-271.html



(注1)ヤッホー君が帰国した日の翌日お昼どきでした。御嶽山の山頂でお弁当を広げていた登山者も、きっとおられたことでしょう、亡くなった山好きの方々はほんとうに、残念無念だったことでしょう。ただただ静かに手を合わせ、黙祷を捧げるしかないヤッホー君です:

 御嶽山(長野・岐阜県境、3067メートル)の噴火で犠牲になった55人のうち、20人が頭部や首に噴石が当たって死亡したことが9日、検視に関わった医療関係者への取材で分かった。
 いずれも即死だったという。
 この20人以外の死因は、34人が頭や胸など複数箇所に噴石が当たるなどした外傷性ショック死や多発外傷の疑いという。
 他の1人は気道熱傷だった…

 この医師が検視した犠牲者のほぼ半数が噴火の写真を撮影していた。
 携帯電話を手に持ったまま亡くなっていた人もいた。
 噴火4分後の27日午前11時56分に撮影した記録が残るカメラもあった。
 噴火直後は自分たちが巻き込まれるとは思っていなかった可能性がある。
 医師は「写真を撮らず早く逃げていてくれれば」と残念がる。

 数人を検視した開業医は、頭部に激しい傷を負ったケースが多く、大半が即死状態だったとみられるという。
 転倒が原因とみられる傷が残っている人も多く、足場の悪い山肌を必死で逃げようとしたと推測される。
(10月10日(金)7時31分配信、毎日新聞【春増翔太、松本光樹、深津誠、木村敦彦】<御嶽山噴火>頭部や首に噴石、即死20人…検視の医師)
http://mainichi.jp/select/news/20141010k0000m040138000c.html

 9月11日には火山性地震が多発していたが警戒レベルは引き上げられなかった。
 この点について、気象庁火山課の北川貞之課長は、「その後は減ったため、特段、危険性が高まっているとは考えていなかった」と説明している…
 9月11日に火山性地震が多発していたことから、気象庁は9月16日に「2007年に小規模な噴火が発生した火口やその付近に影響する程度の火山灰は噴出する可能性がある」との情報を発表して警戒を呼び掛けていた。
 事前の警戒情報の提供が適切であったのかどうかについては、今後検証が行われることになると思われる…

 御嶽山の噴火は、安倍政権の、極めて安易な原発再稼働推進の動きに対する、地底からの激しい警告であると受け止めるべきである。
 川内原発の再稼働を拙速に実現することは断じて許されない。
(2014年9月28日(日)植草一秀の『知られざる真実』「日本列島は火山帯=地震の巣の上に立地している」)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-bc5f.html

(注2)本日の社説2本はいずれも、沖縄の声を知るためには必読資料です:

 いったいどこまで米軍と一体化するというのか。
 日米両政府が日米防衛協力指針(ガイドライン)改定に向けた中間報告を発表した。
 歯止めをことごとく外し、米軍と自衛隊を無限定に一体化させる企図が目につく。

 仮に中間報告の意図を全て実現すれば、日米安保条約自体を改めるに等しい。
 安倍内閣は集団的自衛権で憲法改正を避けて解釈改憲をしたが、今度は防衛指針改定によって「解釈改安保」を図っている。
 本当にこの改定が必要と言うなら、改定の真の狙いを率直に国民に示し、国会でも堂々と議論すべきだ…

 政府は「切れ目のない安全保障」というが、「際限のない米軍追従」と言うべきだ。
 そんな危険な改定は許されない。
(2014年10月10日<社説>新防衛指針 際限なき米軍追従は危険だ)

 沖縄本島など南西諸島に甚大な被害をもたらした10・10空襲から70年になる。
 米軍は沖縄各地の飛行場や港湾などの軍事拠点の無力化を狙ったが、攻撃対象は軍事施設にとどまらなかった。
 民家のほか、病院や学校までもが無差別爆撃にさらされ、668人が死亡、768人が負傷した。
 那覇市では9割の家屋が焼失した。

 米政府は日本政府の抗議を受けて検討した結果、10・10空襲は無差別攻撃と認めた。
 しかし当時でも国際法違反になるため、日本には回答しなかったことが米公文書で明らかになっている。
 戦時下では、法は守られないのである…

 本紙社会面連載で10・10空襲体験者の牧野豊子さん(86)は「また世の中おかしくなってきた。政府が何を考えているか見抜く力を持たないと駄目」と指摘している。
 戦争に永遠に巻き込まれないために私たちは今、何をすべきかを真剣に考えたい。
(2014年10月10日<社説>10・10空襲から70年 軍備で平和は築けない)


 
posted by fom_club at 09:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月09日

赤い月

 昨日10月8日は寒露! ヤッホー君、大忙しダッシュ(走り出すさま)

 まずはエプソンのプリンター。
http://www.epson.jp/

 山歩クラブ「かわらばん7月号」の印刷中、ついに寿命がつきてプリンターに「故障」表示がでてしまいました。修理依頼も買い替えも余裕がなく、ヤッホー君はそのまんまにしてマレーシアへ。
 帰国後、印刷しようとしたとき、その6月末の印刷指示が消えずにそのまんま残っていて、新しいプリンターに替えてもそれが邪魔して、印刷ができないでいました。
 8日パソコンメーカーの東芝に相談したところ、親切なお兄ちゃんがさくさくとプログラムを修正してくださいまして、いま新しいプリンターでテスト印刷ができました。
 ヤッホー君はノータリン症、しかしさすがノーベル賞を3人も貰う国の技術水準は確かなものがありますね。

 そして、錦糸町にでまして新しいプリンターの購入先、ヨドバシカメラ(墨田区江東橋3-14-5テルミナ内 Tel 3632-1010)に行き、今度はその足で御茶ノ水へ。

 日大病院(注1)前の坂の下、明治大学紫紺館1階にある国際機関「太平洋諸島センター」(注1)に立ち寄り。

 そして、三省堂書店の先、「神保町シアター」(千代田区神田神保町1-23 Tel 5281-5132)へ。

 山歩クラブの仲間の影響や、台風よりも強し。
 水木洋子邸で見た手作りりの蓄音機は映画『ここに泉あり』のためってお聞きしたまさしくその映画を見に来ているんですから(注3)。
 映画館の席に深々と身を横たえるとすぐこっくりが始まるヤッホー君、今度だけはムカシの白黒映画に眼ん玉もシロクロさせて感動して映画館をでました。

 映画が終わったのが7時半ころ。
 神保町かいわい、皆さん足をとめて東の空を見上げていました。
 UFO ? 富士山噴火? なんでしょう… うわさの皆既月食(注4)でした。
 欠食児童のヤッホー君、ああ〜甘露、甘露と食べつくしてしまったお月さま。
 月食をケイタイで撮ったんですが、はたして写っているか…

神保町.jpg

月蝕の後.jpg


(注1)
 駿河台日本大学病院は、日本大学病院に生まれ変わりました。
http://www.nihon-u.ac.jp/hospital/

(注2)
 太平洋諸島センター(Pacific Islands Centre, PIC)(正式名称:南太平洋経済交流支援センター、South Pacific Economic Exchange Support Centre, SPEESC)は、1996年10月1日に日本国政府と太平洋地域の国際機関である南太平洋フォーラム(現 太平洋諸島フォーラム:PIF)とにより設立された国際機関で、日本とフォーラム加盟島嶼国(Forum Island Countries, FICs)との間の貿易・投資・観光の促進を通じて、同島嶼国の経済的発展を支援することを目的としています。
太平洋諸島フォーラム(1971年発足)には、太平洋島嶼国13カ国1地域及びオーストラリア、 ニュージーランドが加盟しています。
(太平洋諸島センターとは)
http://blog.pic.or.jp/modules/contents/about/introduction.htm

(注3)
 9月27日(土)〜10月24日(金)上映特集企画は、「生誕100年記念 宇野重吉と民藝の名優たち」です。映画『ここに泉あり』の上映期間は、今日、明日しかありません。ぜひシアターまで足をのばしてください(10月9日(木)12:00〜、10月10日(金)16:30〜)
 この映画は1955(昭和30)年公開/中央映画/白黒/スタンダード/2時間30分
 ■ 監督:今井正 ■ 脚本:水木洋子 ■ 撮影:中尾駿一郎 ■ 音楽:団伊玖磨 ■ 美術:川島泰造 ■ 出演:岸恵子、岡田英次、小林桂樹、加東大介、三井弘次、草笛光子、山田耕筰、大滝秀治
 群馬県高崎市を舞台に、戦後間もない地方都市で結成された市民交響楽団の苦難を、実話をもとに描いた社会派ドラマ。のちに劇団代表となる大滝秀治は、本作で本格的な映画デビューを飾った。
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/index.html

(注4)
 満月が地球の影にすっぽり隠れる皆既月食が10月8日夜、東北各地で観測された。澄み切った秋の夜空を舞台に、幻想的な天体ショーを繰り広げた。
 宮城県女川町にある東日本大震災の津波で倒壊した「江島共済会館」付近では、東の低い空にある月が午後6時14分に欠け始め、7時24分から1時間、完全に地球の影に入った。
 皆既月食は太陽と地球、月が一直線に並んで起きる現象。今回は、暗くて探しにくい天王星を皆既食となった月の近くで見る機会もあった…
 東北で観測された皆既月食は2011年12月以来。次に観察できるのは15年4月4日。
(2014年10月9日木曜日付け河北新報「宮城も夜空に赤い月 3年ぶり皆既月食」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201410/20141009_15017.html

posted by fom_club at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月08日

iPS細胞、STAP細胞

 ヤッホー君のこのブログ、昨日の日記で指摘していた代々木病院「友の会」機関紙『くらしと健康』10月1日号、お読みいただけたでしょうか。

 加齢黄斑変性という病名を聞いたことがありますか?
 最近この病気に対し、世界初の「iPS 細胞移植手術」が行われたと報道されました。
 しかし iPS 細胞による治療はまだまだ始まったばかりです。
(『くらしと健康』)

 点眼液をもらうため、薬局で待っている間、ヤッホー君はなにげなく毎日新聞を開いてびっくり。

◇「元年」に現場戸惑い
 「今年が再生医療元年となることを祈念します」
 東京都内で9月28日に開かれた再生医療の公開フォーラムで、安倍晋三首相のビデオメッセージが映し出された。世界初の iPS 細胞を使った臨床研究を実施した高橋政代・理化学研究所プロジェクトリーダーも登壇し、会場は再生医療実用化への高揚感に包まれた…
 安倍政権は再生医療を成長戦略の柱の一つに据え、市場拡大を目指す。安全性確保法によって、医療機関は企業などに細胞培養事業を委託できるようになる。難病患者の再生医療への期待も大きい。
 しかし、それを支える人材は十分とはいえない。経済産業省などの調査に基づくと、現在、臨床研究などを担う医療機関の CPC で働く人は全国で約600(2012)。20年には約9000人に増えると試算され、年約1000人の育成が必要になる。
 一方、大学病院などの CPC で現在働く人の多くは非常勤職員で、年収も300万円前後と待遇は恵まれていない。

(2014年10月07日毎日新聞東京朝刊「クローズアップ2014:再生医療、弱い基盤 3大学が人材育成支援」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20141007ddm003040144000c.html

 CPCって、細胞培養やら、細胞製剤・再生医療製品を製造する専用施設としての、細胞プロセッシングセンター、なんだって。大学とか病院とか研究所とかが設置して株式会社にして先生は取締役になって、と天下るのもいいよね、そこがりっぱなセンターを建てて、と。医療保険は効かない自由診療とか混合診療とかになるのかな。
 ま、1%のお金持ちとか、産油国とか欧米の外国人富裕層相手に、先端医療で治療するメディカルツーリズムでしょうから、関係ないや、とは思うもののヤッホー君、びっくり。
 再生医療がアベノリスクの三本矢だとして、庶民、貧民、大衆、民衆と縁遠い、株と同じ、ギャンブルとおなじカジノみたいのつくって、水が流れるように下々のものは上からのおこぼれにあづかれえ〜、これが景気回復なんじゃぁ〜なんて、どう思います、皆の衆? 
 
 そして、また理研?
 そして今度は STAP 細胞じゃなくって iPS 細胞(注1)?

 京都大学の山中伸弥教授が開発した iPS 細胞による患者治療が今年からいよいよ始まる。理化学研究所などが計画する加齢黄斑変性(眼の病気)の治療で、夏にも患者へ移植する。2014年は「iPS細胞元年」になりそうだ。その後も、心臓や神経、肝臓などで治療が期待されている。
 これまでの再生医療は皮膚などを移植する治療が主力だったが、iPS 細胞の登場で市場は大きく成長しそうだ。2050年の国内市場は2兆5000億円になるとの試算もあり、患者だけでなく産業界からも注目が集まる。

(2014/1/13 3:30 日本経済新聞「iPS 治療元年、眼で移植開始、臓器でも期待」)
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO65281020U4A110C1000000/

◇ 米国留学で神経幹細胞に出会う
――網膜の再生医療に取り組まれるようになったきっかけは。
 1995年に、夫(脳神経外科医で現・京都大学 iPS 細胞研究所教授の高橋淳氏)とともに、アメリカのソーク研究所に留学しました。神経幹細胞の培養に世界で2番目に成功していた研究室で、脳の神経幹細胞を研究しました。私は長らく、網膜疾患の診療をしていたので、神経幹細胞を網膜の治療に活かせないかと考えました。
 最初は5〜6年で網膜の神経細胞である視細胞の治療法を開発できるのではないかと思っていました。実際にはそう甘くはなく、1997年に帰国後2〜3年は、体性幹細胞を使って試行錯誤しました。体性幹細胞は治療に使うほどの量は得にくく、2000年初めから胚性幹細胞(ES 細胞)の利用を検討していました。
 その頃、京大医学部の同級生の笹井芳樹先生(現・理研器官発生研究グループグループディレクター、ヤッホー君注2)から、ES 細胞から脳の神経細胞を誘導中だと聞かされ、共同研究を持ちかけました。笹井先生が神経細胞を分化する過程で、色素上皮細胞も同時にできてきました。視細胞より臨床応用の条件が整っているため、色素上皮細胞の移植を先に手掛けることにしました。
 霊長類(サル)ES 細胞由来の細胞を使って世界で初めて疾患モデルラットに治療効果を示したのは、私たちです。ところが、ES 細胞は他家移植なので拒絶の問題があり、倫理面から日本では臨床研究に用いることもできません。4〜5年でヒトにと考えていたのが、足踏みすることになりました。ヒト iPS 細胞ができる直前の2007年、アメリカで ES 細胞を用いた治験が計画されていることを知り、先を越されたと思いました。

(2014年1月11日朝日新聞デジタル版「iPS 細胞の臨床応用元年、基礎研究を出口に持っていく」)
(高橋政代さん=理化学研究所プロジェクトリーダー/眼科医、インタビュー本多昭彦)
http://apital.asahi.com/feature/medical_asahi/2014011000008.html


(注1)
 人工多能性幹細胞(iPS細胞)による世界初の臨床応用という虚偽の発表をした東大病院特任研究員、森口尚史氏(48)について、東大は懲戒解雇処分にした。森口氏は移植手術について「1件はやった」との主張を崩していないが、東大は少なくとも5件は虚偽だったと判断、「大学の名誉、信用を著しく傷つけた」とした。虚偽発覚から1週間。森口氏の欺瞞は、恩師ら他の研究者にも影響を広げる。

「ノーベル賞候補」…近所で研究成果を誇示

 「日本では発表できない研究をニューヨークで発表する」
 2012年10月2日、千葉県市川市の自宅近くのクリーニング店で、森口氏はこの店の女性(68)にこう豪語していた。自らを「ノーベル賞候補」と称し、“研究成果”も誇示した。
 渡米前にもこの店に寄り、モスグリーンのジャケットを持ち込んだ。「ニューヨークの発表で着るから、必ず10日朝までに届けて」。こう依頼した。
 この女性によると、森口氏は来店のたびに1時間ほど立ち話をし、「ハーバード大で研究している」「研究仲間が気に入らない」などと話していたという。
 そんな森口氏が語った“研究成果”が、iPS細胞から作った心筋細胞を重症の心不全患者に移植する手術を米国で6人の患者に実施したというものだった。
(2012.10.20 12:00 MSN産経ニュース「iPS細胞」で虚偽発表の森口尚史氏、その素顔は… 恩師も処分の対象へ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121020/crm12102012010006-n1.htm

※ iPS細胞では、読売新聞が2012年10月11日に、ハーバード大学客員講師の森口尚史氏がiPS細胞を使った世界初の臨床応用として心筋移植手術を実施したことが分かったと朝刊一面で大きく報道した。ところが、2日後の10月13日、この件をスクープ報道した読売新聞は「森口氏の説明は虚偽で、それに基づいた一連の記事は誤報」である旨のおわび記事を掲載した。

(注2)
 理化学研究所CDBの笹井芳樹副センター長が、2014年8月5日朝9時前に、自らの研究室のある先端医療センター(神戸)で発見され、病院に搬送されたが、午前11時03分死亡が確認された。死因は自殺とみられている。
 兵庫県警神戸水上署が明らかにしたところによると、先端医療センターの4階と5階の間にある踊り場で、階段の手すりに引っ掛けたひもに首をつった状態で発見された。そばには遺書のようなものが3通あったという。
 笹井氏は7月に取り下げられた Nature 誌の STAP 論文共著者の一人で、論文執筆に当たって、主著者である小保方晴子氏を指導する立場だった。ES 細胞、神経細胞研究で世界的な名声のある研究者が、52歳という研究者として脂ののりきった時期に犠牲になってしまった。
(2014年8月5日東洋経済 編集局記者 小長洋子「理研の笹井芳樹氏は、なぜ自死を選んだか、理研、STAP論文共著者を追いこんだもの」)
……http://toyokeizai.net/articles/-/44690


posted by fom_club at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月07日

代々木病院

 昨日、韋駄天台風が駆け抜けていつた翌日、今日の10月7日火曜日は、秋の日差しがさんさんと降り注ぐ好日となりました。
 今日のヤッホー君は、視野検査と眼圧を下げる点眼薬をいただきに世界一の目医者、代々木病院(渋谷区千駄ヶ谷1-30-7 Tel 3404-7661)の眼科、山城博子先生(*)のところまで。
 点眼薬はもうマレーシアで使い切ってありません、おこられるるかな…
 目は大事です。

 代々木病院といえば、再び、高部鐵也『燃えつ まみれつ』…

 今井は『ひめゆりの塔』(1982年版=昭和57年版、芸苑社・東宝映画)が完成すると間もなく脳血栓で府中病院に入院する。
 2年後、白内障と緑内障で代々木病院に入院、両眼を手術する。
 更に翌年、心臓大動脈瘤で立川相互病院に入院する‐ 今井に対してツヤは、
 「運の強い人です。もう駄目かなと思うと、必ず良いお医者さまに出会います。しかし、助かると直ぐ、その病院を出たいと我儘を言い出し困っています」
と語っている…

(456-457頁)

 今井正『全仕事‐スクリーンのある人生』出版記念祝賀会が、1990(平成2)年10月24日、四谷主婦会館で開かれた。
 今井はこの時の様子を自ら日記に
 「自分が主役の様になってしまう。8時頃、皆に献酬こ廻っているうち気持ち悪くなり傍らの椅子によろめくように座る。顔が真っ青だったらしく救急車が呼ばれ、近くの代々木病院へ。2、3日安静。その間、精密検査を言い渡され入院する」
と記している。

(484-485頁)

 この今井の日記は翌年、1991(平成3)年11月20日で終わります。
 「6時半起床、晴」が絶筆、合掌。
 この年は、ヤッホー君の義父が亡くなった年でもありました。

 ところで、それから20年もさかのぼること、1971(昭和46)年のことです。
 同じく代々木病院ですが、ここで亡くなったのが平塚雷鳥。

 半世紀以上にわたって女性運動の戦陣をきったらいてう、1971(昭和46)年5月24日午後10時36分、東京・代々木病院で遂に終焉を迎えた。享年85歳。
http://tamutamu2011.kuronowish.com/hiratukaraityou.htm


(*)
 山城先生は代々木病院「友の会」機関紙『くらしと健康』10月1日号(発行は東京勤労者医療会、一部60円)にトップ記事として「物がゆがんで見える、加齢黄斑変性-病態と治療-」を執筆なさっております。
 このトップ記事は購読しないと読めませんので、代々木病院のお近くを通ったときには、ぜひ、お寄りいただいてお買い求めください。
 それ以外の「友の会」の動きについては、こちら:
http://www.tokyo-kinikai.com/02_jigyousyo/data/2014/564.pdf



posted by fom_club at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月06日

合併しない町

 歴史的瞬間に立ち会わせて頂きました。
 なんと!!
 アド街ック天国の宣伝本部長、愛川欽也さん(注1)が「情報テレビ番組の最高齢現役司会者」としてギネス世界記録に認定されたのです!!
 先日の収録では、サプライズで表彰式が行われました。
 表彰の瞬間まで、出演者全員このことを知りませんでした。

http://www.tv-tokyo.co.jp/contents/adomachi/suguro/

 これは2014年9月27日(土)午後6:41投稿の「アド街」ブログです。
 この番組でヤッホー君が昨日訪れた東武動物公園駅(埼玉県北葛飾郡杉戸町)が紹介されています。
 ヤッホー君は動物園の動物たちよりおなかのすいた動物でした。
 本能的に動物に返ったヤッホー君、Jack Wolfskin のマウンテンギアを身につけ、そうですよ、Wolf ですからね、本能的に駅を降りてでっかい鼻の穴をさらに膨らませて、本能的にひくひくさせ、芋煮会(注2)、飯の在り処を探し求めて、本能的にひたすら道を急いだのです。
 ですので、どこに行ったのか、どんな町だったのか、昨日はまったく知識(ホントは記憶、でしょ)がないまんま、でして…

 芋煮会会場にそのまんま向かったヤッホー君、「動物園」ってあったの、だってェ〜

 動物園・遊園地・プールからなるレジャーランド。
 オープンして、2013年で32年。動物園では2012年、14年振りにカバの赤ちゃん「ソラちゃん」が誕生。「カバと親しむ(平日13時、日祝11時半・13時半)」というイベントでは、お母さんが大きな口を開けてくれます。そして動物園には、隠れた楽しみ方がまだまだいっぱい。そこで「知ればさらに楽しい! 東武動物公園」をご紹介します。

(2013年8月31日(土)放送、東武動物公園)
http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/backnumber/20130831/93244.html

 夜が明けた今日10月6日月曜日は台風直撃。
 午前8時すぎに静岡県の浜松市付近に上陸、1時間に50キロの速さで北東へ進んでいるとみられる、と言いますから、いま当地や杉戸町を台風がお通りなのかな…、雨、風ともたいへん強いです。
 今日の「東武動物公園」は、と言いますと、「本日10月6日(月)の営業は、台風の影響により臨時休園とさせていただきます」です。
http://www.tobuzoo.com/

 じゃあ、どんな町を昨日、歩いたの? 杉戸町ってどんなとこ?

 明治維新により、それまで武蔵国に属していた地域も、1868(慶応4、慶応4年をもって明治元年とする)年に下総県となりました。
 1869(明治2)年には葛飾県が誕生し、県庁が流山市に置かれます。
 その後、明治政府は廃藩置県を行い、1871(明治4)年11月14日に庄内古川から西が埼玉県になりました。
 埼玉県では、この日を記念して県民の日を制定しています。
 1889(明治22)年には、大日本帝国憲法の公布に続き、市制、町村制が実施され、「杉戸町」が誕生しました。
 これまでの埼玉県内にあった北葛飾郡・中葛飾郡の200余りの宿村は31の町村になりました。

 東武鉄道が開通したのは、1899(明治32)年のことです。
 最初の開通区間として北千住から久喜までが開業し、「杉戸駅」(現在の「東武動物公園駅」)が開設されました。
 開業当時は、イギリス製の蒸気機関車が使われており、電車が走るようになったのは1926(大正15)年からです。
 鉄道の開通によって、物資の流通も河川交通から鉄道へと移っていきます。
 現在では地下鉄日比谷線・半蔵門線への直通電車も運転されており、鉄道による住民にとっての便益は、より大きなものとなりました。

(杉戸町の公式サイト、明治維新と杉戸町の誕生、近世村から近代の町村へ)
http://www.town.sugito.lg.jp/cms/page509.html

 3月27日厚生労働省社会保障人口問題研究所データでは、2040年には貴町人口は2010国勢調査人口で46,923人から想定したのが37,936人と、8,987人減少で減少率19.2%。65才以上が14,203人で高齢化率37.4%と予測されています。そこで、10年前に合併破綻した中核都市づくりの復活を希望します。
 今後とも高齢化、人口減少が進む中では、春日部市や宮代町等との合併を推進し、将来の中核都市を目指してはどうか。

 ご質問の合併につきましては、2009(平成21)年5月17日に行われた「杉戸町が春日部市及び宮代町と合併することの是非に関する住民投票」の結果では、合併に反対する方が賛成を上回りました
 そこで、私は、この住民投票の結果を尊重し、当面は杉戸町単独でのまちづくりを進めることを決意し、すべての住民の皆さんが、健康で仲良く心豊かに暮らせるまちを目指して、子育て支援や高齢者福祉に力点をおき、各種事業を推進しているところです。

(2013年04月17日更新、杉戸町公式サイト)
http://www.town.sugito.lg.jp/cms/page6587.html

 杉戸町に住んでおられる同窓生は、「合併しない町」と、誇りをもって懐かしい、美味しい、秋の味、芋煮鍋を食べていました!


(注1)
 番組は1995年4月15日スタート。街を徹底的に紹介する地域密着型都市型エンターテインメントで、あらゆる街に出没する情報バラエティー。来年4月には放送20周年を迎える。
 愛川は今年6月25日に80歳の誕生日を迎え、認定日9月3日の記録は80歳70日。認定式の様子は今月27日の同番組「〜奥秩父温泉郷〜」で放送される…
 番組については「僕も自分が出演した長寿番組をいくつも思い出しますが、来年で20周年を迎える番組は初めてです。めでたいですね」と破顔。「実際、番組で以前、取材した子どもが次に取材すると、すっかり大人になっている…そういうのって番組が長く続かないとできないことですし、素敵ですよね。こういった長寿番組にはそう出会えるものではないでしょう。相性がよかったんでしょうね」と愛着を示した。
(2014年9月26日10:00スポニチ「アド街」愛川欽也、情報番組の最高齢司会者ギネス認定「感無量」)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/09/26/kiji/K20140926008986200.html

(注2)
 直径6メートルの大鍋でつくった芋煮を振る舞う「日本一の芋煮会フェスティバル」(実行委主催)が9月14日、山形市の馬見ケ崎川河川敷で開かれた。時折心地よい風が吹く中、大勢の来場者が秋の山形名物を楽しんだ。
 大鍋に里芋3トン、牛肉1.2トン、こんにゃく3500枚、しょうゆ700リットルなどを投入。まきの火で煮込んだ山形風芋煮約3万食を提供した。
 県産豚「米の娘ぶた」を使った塩味の芋煮や、県内外のご当地グルメも登場し、各ブースには長蛇の列ができた。
(2014年9月15日付け河北新報「月曜日秋の恵みを大鍋に 山形で日本一芋煮会フェス」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201409/20140915_53007.html



posted by fom_club at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月05日

1951年9月10日付け毎日新聞

 ヤッホー君のこのブログ、10月2日付け日記「原民喜」でこんなことを言いました:

 桑原武夫(1904-1988)は1951年9月10日付け「毎日新聞」に『感想文』を掲載したとして引用しています:
 またもや今日このごろ、夜ふけに幼児の肌にふれるとき、その柔い表皮が原子力の作用によって、広島の記録の示すように、スルリとはげ落ちるさまが空想され、抱きしめたくなる、
 そうした不吉な妄想を抑えきれぬ夜がある…


 その新聞の一面には講和条約が結ばれた直後で、「日米安全保障条約調印の記事と写真が載っていたそうです。
 その桑原武夫の文章に触発されたのが佐々木基一(1914-1993)でした…


 63年も前のことなのに、その1951年9月10日付け「毎日新聞」が YouTube に投稿されて残ってありましたのでご紹介:
http://www.youtube.com/watch?v=OrhktN_zd_Y
(終戦後 昭和24年8月から昭和26年9月までの新聞 W 最終映像)

 まだお若い方のようですが、家のなかの大掃除のときに束になった新聞がでてきて、断捨離しようか思いましたが、映像記録に残して YouTube に投稿してくださったのです。
 貴重な映像を締めるにあたって「こんな惨めな戦争はしてはならない!」という言葉で締めくくっています。

 この国が正式に、戦争を終えた日は1945(昭和20)年9月2日ですが、1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコ講和条約に調印、発効が1952(昭和27)年4月28日(昭和天皇誕生日の一日前)ですので、この日が終戦の日なのでしょうか。
 なお、1951年4月11日まで GHQ を率いて、連合国軍最高司令官だったマッカーサーは、1951年4月19日、アメリカ連邦議会で離任の演説をします。これも必見です。

http://www.youtube.com/watch?v=lFh2aCVRHnE
(D・マッカーサー・老兵は死なず・さよなら・議会演説・1951年)

 1951年という節目なのか、潮目なのか、歴史の勉強をしましたが、ついでに今井正『キクとイサム』(キネマ旬報第一位、監督賞;ブルーリボン賞第一位;NHKベストテン第一位;毎日映画賞 日本映画賞とこの時代を代表する傑作映画となりました)が封切りになったころのこの国の映像は次で:

http://www.youtube.com/watch?v=jSNaAHcNKow
(1959年 ふるさとの映像 「東京・下町、山谷」 海水浴船)

http://www.youtube.com/watch?v=vJVprf1lP6o
(昭和56年・水曜スペシャル「日本100大犯罪」)

http://www.youtube.com/watch?v=4z6ni0cVPH4
(【孫崎享】安倍総理、集団的自衛権は1959年の砂川事件を根拠に!)

 今日、10月5日日曜日はヤッホー君、小学校、中学校の同窓生の集まりで芋煮会にお呼ばれです。
 さ、これから東武動物公園駅までいかなくっちゃ、と台風接近もなんのその、そそくさと準備をはじめたところです。


posted by fom_club at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月04日

彫ること、そして掘ること

 ヤッホー君のこのブルグ、10月1日付け日記「燃えつまみれつ」で、荻昌弘(1925-1988)が水木洋子を評した次の文を引用しました:

むしろ、ひとつの時代のなかで、戦争につきまとわれながらも懸命に黙々とその運命に責任をとって生きつづけようとした女、その姿を正確に文字へ彫りつづけることだけが、何よりも戦争への抗議であり、時代への自己主張となり、そして逝った者への鎮魂でもあることを、迷いなく信じた書き方を、この人は、する。

 どんなふうに水木洋子は「彫った」のか、ちょっと読んでみましょう。
 ひとつは映画シナリオから、もうひとつは彼女自身の文から。いずれも出処は『水木洋子シナリオ集』です:

★ 『キクとイサム』』(1959年3月公開、大東映画(大東興業)製作、松竹配給、今井正監督)シーン50台所。
http://www.youtube.com/watch?v=4vcJiZgVBxI
(Cover "Kiku and Isamu"「キクとイサム」のテーマ・カバー)


朝の光がさしこんでいる。赤の御飯をキクの弁当につめてやる婆さん。

婆さん「お前を何処にもやンねェ。婆ちゃんと一緒に居てェつゥなら、三反の借りてる畑サ一人で立派にやってのけるようになれ。一人前の百姓になれるなら、婆ちゃんも安心出来るからな、わかったな」
キク「…(強く頷く)」
婆さん「やるならしっかりやれ、ンだば、大手ふって歩けるでア、いいか?」


キク、頷いて弁当箱を腰にしばる。

婆さん「学校サ行げ」
キク「…(躊躇)」
婆さん「ンだば、今日は婆ちゃんのそばにいろ、上の小豆畑サ始末することを教えてやる」


と自分も弁当を腰にしばる。


★ 「『キクとイサム』へのノート」
 私は写真で落とされて、面通しをしていない残りの子供を訪ねてみた…(私はこの作品でクソリアリズムから脱却したかったのだ)。
 スタッフ猛反対の中で、私はエミ子にはめたキャラクターを書いてしまった。
 その強引さに監督は口をきかなくなり、散漫なエミ子に大てこずりしながら撮影をした。
 プロジューサーは優良児から佃煮の土産をもらってあるので困るとこぼした。
 こういうシナリオライターの八方破れは、昔も今も通用しないかもしれない。
 映画もテレビも、イエスマンが起用される世の中だから。


 実に爽やかな、実に物怖じしない、実におおらかな水木イズミであろうことか、ある表現者が「彫る」、彫ろうとすることがことがあること、彫りました、それが他の人と出会うことでまた、彫られていく…これが表現「力」の連鎖といえることなのでしょうね(注)。

 ところがもひとつ、「掘る」作業も忘れてはいけないのです。

 自分の内側に降りていって、心を見つめて初めて気付く。
 そのことを、私は「自分を掘る」と言っている。

 書くことは、自分を掘る作業である
 現象をそのまま認めるのでなく、なぜなぜと掘っていく。
 なぜ私がその花に惹かれるのか、それは何が原因か…。
 どんどん掘り進めることことによって、自分の思っていたこと、考えていたことが姿を現す。
 それを文字に移し変えていくのが書くことなのだ。

…下重暁子「はじめに」『最後はひとり』(PHP研究所、2014年9月)所収


(注)
 今回の『キクとイサム』においても、最終的にキクが婆ちゃんの後ろを誇らしげに追っていくシーンで終わり、観客側としてもなにか吹っ切れた彼女の姿に感動を覚えるものの、冷静に考えると結局のところ何の解決もしていないことに気づく。
 今までの水木・今井作品同様、見終わった後に残る作品の落としどころの不安定感、もやもやとした気分がある。
 ともすれば、結論をはっきり描かないことが作品の評価を下げる可能性も皆無ではないし、作品の分かりやすさを求める観客に理解されない可能性もあるが、彼女は当時も今も評価されている。

 水木は題材が悲劇であっても、それをただの悲劇としてだけ描くことはしない。
 救いがあるというわけではない。
 たとえそれが登場人物が全滅する『ひめゆりの塔』であっても、ただのお涙頂戴の作品には仕上げなかった。
 そして必ず作品を観た人の心に何かしらの爪痕を残す。
 だがそれは決して不快なものではない。
 それが彼女の力量であり、水木イズムの本髄なのである。
(阿久戸光歩「キクとイサム─脚本から見る水木イズム─、2014-03-12日本女子大学人間社会研究科紀要第20号所収)

 なお、キクを演じた高橋エミ子はラジオでこんなことをお話しなさっています:

2012年10月4日木曜日明日への言葉「高橋エミ(歌手)・映画「キクとイサム」と私の歩んだ道」
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/10/blog-post_4.html

posted by fom_club at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月03日

四十九日のレシピ

 マレーシア・ペナンでの映画のお話し。
 先月、向こうで大人気だった日本映画がありました。
 それは『49日のレシピ』(2013年11月公開、ギャガ配給、監督タナダユキ、原作伊吹有喜、黒沢久子脚本)。
http://49.gaga.ne.jp/

 Mak's houseから徒歩10分のところにある、ガーニープラザという海辺のショッピングモールのなかにある映画舘で観てきました。あさっての10月5日まで上映しているようです。英語の題は Mourning Recipe:

JAPAN is known for its beautiful movies that are suited even for international audiences. The films mainly deal with universal themes and are treated with amazing earnestness by the filmmakers and cast members.

Mourning Recipe is one such winner. Based on a novel by Yuki Ibuki, it deals with grief and the painful process of moving on following the death of a loved one.

Ryohei (Renji Ishibashi) finds his life turned upside down and he falls into an emotional black hole after his wife, Otomi, dies. Two weeks later, a young woman, Imoto (Fumi Nikaido) visits him and presents him with “a recipe book for happiness” − the Mourning Recipe − that Otomi left behind...

Despite the sombre and melancholic theme, there is plenty of subtle humour peppered in the plot. The cheerful Imoto plays an important role here, which actress Nikaido delivers with aplomb.

Mourning Recipe moves at a snail’s pace, but each scene leaves a long-lasting impression on viewers. A beautiful work of art...

Mourning Recipe and Saint Seiya are one of 13 films featured in this year’s Japanese Film Festival and screened at selected GSC cinemas in the Klang Valley, Penang, Kuching and Kota Kinabalu from now until Oct 5. Details at www.gsc.com.my.


New Straits Times published: 18 September 2014 8:01 AM
CINEMA: Of grief and moving on
By Bibi Nurshuhada Ramli

 そうなんです。「日本映画祭2014」なんです。在マレーシア日本国大使館のホームページにも案内が:

 平成26年9月5日
 国際交流基金の主催により、本年9月から10月の間、マレーシアでは11回目となる「日本映画祭2014」が開催されます。タナダユキ監督の「四十九日のレシピ」、宮崎駿監督の「風立ちぬ」をはじめ、近年制作された日本映画13本を、4都市6会場にて上映します。各都市における上映会場、期間、上映スケジュール等、本イベントの詳細につきましては、以下をご参照ください。
国際交流基金クアラルンプール事務所
http://www.jfkl.org.my/events/japanese-film-festival-2014/

http://www.my.emb-japan.go.jp/Japanese/JIS/2014/EVENT/eigasai2014.html

 この映画にはとても味のある魅力的な助演女優としてあの淡路恵子さんが登場して大団円を迎えるのですが、合掌。

 女優の淡路恵子(あわじ・けいこ、本名井田綾子=いだ・あやこ)さんが、2014年1月11日午後5時24分、食道がんのため東京都港区の病院で死去した。80歳。東京都出身。松竹歌劇団から銀幕に転身し、幅広いバイプレーヤーとして戦後の映画界を支えた。私生活では俳優の故萬屋錦之介さんらと2度の結婚、離婚を経験。4人の息子をもうけたが三男が交通事故死、四男が自殺するなど波乱続き。近年はバラエティー番組で再び脚光を浴びていた。

 淡路さんのマネジャーや長男で俳優の島英津夫(52)によると、淡路さんは体重が32キロまで減り、昨年2013年7月1日に入院し検査を受け、食道と直腸のがんと肺気腫が見つかった。直腸がんは範囲が広がりすぎていたため摘出せず、人工肛門と胃ろうの処置を受けた。。。

 1948年に松竹歌劇団に入団し、翌年黒澤明監督の『野良犬』で銀幕デビュー。豊田四郎、川島雄三ら名だたる監督の下、喜劇からシリアスな作品まで幅広く活躍した。

 昨年夏に病室から電話インタビューに応じ、11月に放送されたTBS「金曜日のスマたちへ」が最後のテレビ出演。12年11月に撮影し、公開中の映画『四十九日のレシピ』が遺作となった。

(2014年1月12日 05:30スポニチ「淡路恵子さん 波乱の人生に幕…80歳 食道がんで死去」)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/12/kiji/K20140112007367630.html
posted by fom_club at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月02日

原民喜

 嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。
 その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだ、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。
 その後私は妻と死に別れると、やがて広島の惨劇に遭つた。
 うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支えてゐてくれたのは、あの妻の記憶であつたかもしれない。
 そのことも私は「忘れがたみ」として一冊は書き残したい。


 これは、前回、映画『ひめゆりの塔』を分析していた仲程昌徳(注1)が、その著『原民喜ノート』(勁草書房、1983年)からの原民喜のエッセー「死と愛と孤独」(注2)からの孫引きになります。
 いえ、ヤッホー君が注目したのは、原子爆弾(「夏の花」の原題)について言おうとしているのでなく、仲程昌徳がその著「あとがき」で記した1951年という年についてだったのです。

 映画『ひめゆりの塔』…ヤッホー君のこのブログ、10月1日付け日記「燃えつまみれつ」で記したように、水木洋子が構想に着手したものの、<朝鮮の動乱勃発で「戦争ものは止めるように」との占領軍の勧告で中止になった>あたりの世情と二重写しになるからなのです。

 桑原武夫(1904-1988)は1951年9月10日付け「毎日新聞」に『感想文』を掲載したとして引用しています:

 またもや今日このごろ、夜ふけに幼児の肌にふれるとき、その柔い表皮が原子力の作用によって、広島の記録の示すように、スルリとはげ落ちるさまが空想され、抱きしめたくなる、
 そうした不吉な妄想を抑えきれぬ夜がある…


 その新聞の一面には講和条約が結ばれた直後で、「日米安全保障条約調印の記事と写真が載っていたそうです。
 その桑原武夫の文章に触発されたのが佐々木基一(1914-1993)でした。佐々木基一は『新日本文学』1951年10月号にこんなエッセー「原民喜詩集について」を発表しています:

 ぼくは3月に死んだ原民喜のことを思い彼の抱いていた不吉な予感と、彼が必死に訴えつづけていたかぼそい声のことを思い起こした。
 胸のしめつけられるような気持ちであった。
 原民喜の抱いた不吉な予感は、今日ますます多くの人の不安の種となりつつあるが、その訴えの声は果たしてどこまで届くのだろうか。


 いったい、何があったのか… 佐々木基一の「原爆と作家の自殺」によりますと、原民喜が:

 鉄路に身を横たえて生涯を終えた日のちょうど前日、東京の夕刊新聞の一面のトップに『原子爆弾の即時使用 対ソ戦勝利の要因 平和維持の自衛手段』とか『原爆使用決意 対ソ必勝を強調』とかいう大見出しで、アイゼンハワー元帥の上院外交・軍事合同委員会での証言が掲載された


 へ〜、そんなことが…(注3)


(注1)
 仲程昌徳は、1943年南洋テニアン島カロリナスに生まれ、1973年から2009年の定年退職まで琉球大学に勤める。

 また、次のサイトも参照:
 ※ 曽野綾子氏は1971年、ノンフィクション『ある神話の背景』を雑誌に発表し、渡嘉敷島住民の「集団自決」は「軍の強制」ではないという結論を打ち出しました。が、その根拠は疑問に満ちたものです。
…『ある神話の背景』を追求するブログ もhttp://keybowokinawan.blog54.fc2.com/
 ※ 仲程昌徳著『「ひめゆり」たちの声『手記』と「日記」を読み解く』は…その副題にあるとおり、仲宗根政善の著…で、琉球大学に在職中、ゼミで学生、時に教員を交えて何度も読み、その度に読み解く作業をやらなけれはと思いつづけてきたと記している。
http://mgu.purezen.biz/main/library/publication/kenkyuronbun/no116/p116_06imabayashi.pdf

(注2)
 原民喜は1905年広島市生まれ。妻の死後、身を寄せていた実家で被爆し「夏の花」を執筆。1951年3月13日の深夜に自殺した。詳細な広島大学公式サイト参照:
https://www.library.city.hiroshima.jp/haratamiki/
 このエッセーは仲程昌徳の注によると、1949年雑誌「群像」4月号に掲載。後『原民喜全集』(芳賀書店)2巻に収録。1951年「吉祥寺西荻窪間の鉄路に身を横たえ自殺を遂げる」2年前の作である。
 また「原民喜の自筆草稿見つかる 加筆の跡、苦悩あらわ」の新聞記事(2008年7月27日17:15更新共同通信)参照:
http://www.47news.jp/CN/200807/CN2008072701000381.html

(注3)
Following the start of the Korean War in June 1950, Occupation authorities attempted to suppress the peace movement as Communist-inspired, but unauthorised peace rallies bypeople of diverse political persuasions were held in Hiroshima and Nagasaki on 6 and 9 August of that year. On 30 November, following Chinese intervention in Korea, President Truman told a press conference that the United States was considering the option of atomic weapons. This stunning announcement galvanised the peace movement, intensifying anti-war activities across the nation. 'Illegal' remembrance events were staged again in early August 1951 in the two bombed cities, and in October, peace activists organised the Hiroshima Colloquium on Peace Problems, in which the mayor of Hiroshima participaed.

Wasington and Tokyo signed the Administrative Agreement on 28 February 1952, and the San Francisco Peace Treaty and the Japan-US Security Treaty went into effect two month later on 28 April 1952, one day before Emperor Hirohito's 51st birthday. On the same date, Japan and the Republic of China (Taiwan) initialled a bilateral treaty restoring diplomatic and trade relations. Dullas's dream of bringing Japan into the Free-World fold had been realised, but at a very high cost toJapan, for two of its closer neighbours and potential trade partners, the People's Republic of China and the Soviet Uion, now were political, economic and ideological foes.

Bloody May Day, 1 May 1952. Some 6000 demonstrators protest against the exclusion of the People's Republic of China and the Soviet Union from the Peace Treaty and the signing of a bilateral Japan-US defence pact. Police broke up the rally in front of the Imperial Palace with tear gas, batons and sidearms. 2 workers were shot to death. More than 2300 were injured, and some 1000 were arrested. The violence was symptomatic of the diverse legacy of the late Occupation era.

Takemae Eiji "Inside GHQ, The Allied Occupation of Japan and its Legacy" (prefaced by John Dower), Continuum, 2002, pp. 506-509

  
posted by fom_club at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月01日

燃えつまみれつ

 神無月1日、都民の日(注)。
 まずはご紹介したい本から。
 
 高部鐵也(たかべてつや、1932年生まれ)『映画監督 今井正物語 燃えつまみれつ』(文芸社、2002年、2013年に文庫化)

 『青い山脈』や『また逢う日まで』など数々の傑作・名作を遺した映画監督・今井正。1991(平成3)年11月、新作映画のキャンペーン中に逝去したこの巨匠の生涯を、助監督として師事した筆者が、綿密な取材と膨大な資料によって脚本化した力作。日本を代表する社会派映画監督の情熱と真意を、深く掘り下げた一冊。名作映画の舞台裏を知ることができる貴重な資料ともなっている。
(文芸社公式サイト)
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-13757-5.jsp

 『ひめゆりの塔』は2年前、「大映」で撮ることになり、脚本を水木洋子に依頼して3回ほど書き直したが、朝鮮の動乱勃発で「戦争ものは止めるように」との占領軍の勧告で中止させられたものである。昭和26年4月、「東横映画」「東京映画配給」「太泉映画」の3社が合併して誕生した「東映」の初代、企画制作本部長マキノ光雄の英断で『ひめゆりの塔』の映画化がようやくここに実現されることになる。
(317頁)

 『ひめゆりの塔』の準備のさ中、永遠にと20年連れ添った和江夫人と今井との仲にまさかと思う亀裂ができる。今井は「もう一度やり直そう」と新婚旅行で行った伊豆の温泉宿に一緒するなどの努力を払うが「落花、枝に返らず」、二人は離婚の路を選んだ。
(321頁)

 「作品を少しでも良いものにしたい」との思いから、撮影は延びに延び「もう、これ以上は延ばせない」というところまで来てしまった。そこで、連日連夜、2時、3時までの撮影を続け、正月2日の夜、やっと撮影を完了する。それから6日までの4日間、今井は編集、ダビングとほとんど眠らず、フラフラで作品を完成させる。不幸は重なるものなのか、この作品の撮影中に母カネがこの世を去っている。
(323頁)

 『ひめゆりの塔』はこうした難行苦行の末、正月16日に公開された。上映館は他社の作品を完全に圧倒して、どこでも超満員の日が続いた。総製作費3600万円、配給収入1億5千万円を上回る日本映画界始まって以来の記録的な成績を打ち立て、破産寸前であった「東映」の屋台骨を立て直すことができた。この大ホームランで今井のレッドパージはどこかへ消えてしまう。今井だけでなく、ほかの人のレッドパージまでも自然に消滅することとなった。「これもひとえにマキノさんのお蔭である」と今井はマキノ光雄を常に大恩人であると心中深く感謝していた。
(327-329頁)

 こうして封切りになった『ひめゆりの塔』…
 シーン1 暁の海上
 沖縄島を包囲する米艦船の群。
 島の上空を旋回する機影――魔鳥の如く島を爆撃。
 島より応戦する高射砲の炸裂。
 1機――火焔を噴いて波間に墜落。
 T 『昭和20年3月24日 沖縄島』
 高く上る太陽。
 米艦より開始される艦砲の火蓋――

 シーン125 海岸
 筏を押し出した仲栄間と生徒。
 波にもまれ、打ち出す機関銃に、絶滅――

 私たちはこの不愛想なくらい注釈や説明を排除しきった、簡潔な叙述と間投詞的なせりふから、痛恨と憤怒に体をふるわせつづけて原稿用紙の1ますずつを埋める水木洋子、そう、まさに、文字をもってひめゆりの乙女たちを悼み、祈り、埋葬していくほかなかった日本女性作家の姿を、浮かびあがらす…

 クライマックスの指定に使われた、これだけの文字。とくにーー2字分のます目に、ついにこうしか書きようがなかった作家のおもい、その慟哭のすべてが結晶される。
 戦争を呪うことじたいは、それを賛美すること以上に、たやすいのだ。水木洋子は、戦争が女性につきまといつづけてやまない悲劇を、徹底的にみつめ、書きつづけながら、決して、安易にそれを呪う側から発現しようとしない人だった。
 むしろ、ひとつの時代のなかで、戦争につきまとわれながらも懸命に黙々とその運命に責任をとって生きつづけようとした女、その姿を正確に文字へ彫りつづけることだけが、何よりも戦争への抗議であり、時代への自己主張となり、そして逝った者への鎮魂でもあることを、迷いなく信じた書き方を、この人は、する。
 『ひめゆりの塔』をつらぬくこの書き方は、また戦後十数年の時点で原爆症に悩まされる「純愛物語」のミツ子の生きようにも、同じくさしつらぬかれるのである。

荻昌弘(1925年-1988)「戦争と女の同心円」、『水木洋子シナリオ集、ひめゆりの塔・純愛物語・キクとイサム』(映人社、1978年)所収。316-317頁


(注)
 都立向島百花園(墨田区東向島三)で、名物の「萩のトンネル」が見ごろを迎えている。全長約30mのトンネルには、薄紫色や淡い白色の小さな花が咲き、訪れた人が写真撮影するなどして楽しんでいる。「都民の日」の1日は入園無料。
(東京新聞)

 色づき始めた街路樹の下、冬服に衣替えして登校する宮城学院中学・高校の生徒たち=1日午前8時ごろ、仙台市青葉区桜ケ丘
 宮城県内は1日、秋の訪れを実感させる朝を迎えた。日差しはあっても空気はひんやり。冬用の制服に衣替えした中高生や、クールビズスタイルをスーツとネクタイに改めた会社員が、学校や職場へと向かった。
(河北新報)

posted by fom_club at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする