2014年07月31日

Selamat Hari Raya

Now finally I am sitting down in Penang Library to update the Blog while Hachan is working now in her office after the Raya holidays.

Let me first say everyone Selamat Hari Raya. Here in Malaysia this Ramadan has been a particularly sad one for Malaysian people with the MH17 tragedy, especially when it came so soon after the disappearance of MH370.

In my case I could attend the Seminar on consumer protection on food safety and security in ASEAN community held in Bangkok, Thailand from 23 to 26 July and during Raya holidays I was so busy in the house for the family gathering.

I want to introduce you today the Aidilfitri message given by Malaysian Prime Minister, Najib who called on Muslims in Malaysia to heed the lessons of several tragedies that befell the country lately and also of the misfortune of the people of Palestine.

He said through television and radio these tests and hurdles which coincidently fell during the month of Ramadan provided useful lessons on the need for Muslims in the country to build strength and resilience in facing a myriad of challenges.

Najib said these tests and hurdles which coincidently fell during the month of Ramadan provided useful lessons on the need for Muslims in the country to build strength and resilience in facing a myriad of challenges.

In fact, it was also important in the effort to make Malaysia a progressive and viable model Islamic nation, he said in his Aidilfitri message broadcast over radio and television.

Najib reminded Muslims on the importance of unity and to always make it a point to strengthen solidarity in the true spirit of Muslim brotherhood.

"Only by doing this will Muslims be respected, and not seen to be weak or easily manipulated by others," he said.

"That is a good start for us as Muslims and Malaysians, as we demonstrated cohesiveness and strengthened solidarity as a nation, 1Malaysia," he said.

The prime minister also urged Muslims to take heed of the efforts made to uphold and enhance Islamic teachings in line with Islam as the religion of the federation.

He drew attention to the fact that in Malaysia, Islam was practised in the framework of Maqasid Syariah through the approach of 'wasatiyyah' (moderation) which totally rejected extremism and liberalism as they ran contrary to Islamic teachings.


(Najib: Heed lessons from tragedies)
The Star: Sunday July 27, 2014 MYT 9:24:56 PM
http://www.thestar.com.my/News/Nation/2014/07/27/hari-raya-najib-razak-heed-lessons-from-tragedies/


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2014年07月22日

MH17

# Friday, July 18, 08:20 PM GMT +0800 Media Statement 4 : MH17 Incident
1. Flight plan
MH17’s flight plan was approved by Eurocontrol, who are solely responsible for determining civil aircraft flight paths over European airspace. Eurocontrol is the air navigation service provider for Europe and is governed under ICAO rules.

The route over Ukrainian airspace where the incident occurred is commonly used for Europe to Asia flights. A flight from a different carrier was on the same route at the time of the MH17 incident, as were a number of other flights from other carriers in the days and weeks before. Eurocontrol maintains records of all flights across European airspace, including those across Ukraine.

In April, the International Civil Aviation Organization identified an area over the Crimean peninsula as risky. At no point did MH17 fly into, or request to fly into, this area. At all times, MH17 was in airspace approved by the ICAO.

2. Altitude
MH17 filed a flight plan requesting to fly at 35,000ft throughout Ukrainian airspace. This is close to the ‘optimum’ altitude.

However, an aircraft’s altitude in flight is determined by air traffic control on the ground. Upon entering Ukrainian airspace, MH17 was instructed by Ukrainian air traffic control to fly at 33,000ft.


# Saturday, July 19, 07:20 PM GMT +0800 MH17 Press Briefing By Liow Tiong Lai, Minister of Transport
ON THE FLIGHT PATH:
On the matter of MH17’s flight path, I would like to refer to recent reported comments by officials from Eurocontrol, the body which approves European flight paths under ICAO rules.

According to the Wall Street Journal, the officials stated that some 400 commercial flights, including 150 international flights crossed eastern Ukraine daily before the crash. Officials from Eurocontrol also stated that in the two days before the incident, 75 different airlines flew the same route as MH17.

MH17’s flight path was a busy major airway, like a highway in the sky. It followed a route which was set out by the international aviation authorities, approved by Eurocontrol, and used by hundreds of other aircraft. It flew at an altitude set, and deemed safe, by the local air traffic control. And it never strayed into restricted airspace.

The flight and its operators followed the rules. But on the ground, the rules of war were broken. In an unacceptable act of aggression, it appears that MH17 was shot down; its passengers and crew killed by a missile.

http://www.malaysiaairlines.com/my/en/site/mh17.html

 いったい、だれが、罪もない子どもや普通の民間人を殺すのでしょうか。そして、17日夜にガザへの地上戦を開始したイスラエル軍は進軍を続けており、何百人もの民間人を殺戮しています。そういう戦争にこの国も加担するんでしょうか…

 ヤッホー君、7月22日早朝、涙を流しながら家を出てマレーシア航空にてマレーシアに向かいます。ヤッホー君のこのブログ、次はいつ、どこから更新できるのでしょうか…。しばらく休筆になるかもしれません…


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2014年07月21日

信州山の日

 「県内で減る学校登山」という「信濃毎日新聞」1面の大きな見出しには驚いた(2014年5月4日付け)。
 「長野県山岳総合センター」の調査によると、中学196校で昨年度学校登山を実施したのは170校87%、2004年度に調査を始めてから最少の2006年度171校をも下回ったという(特別支援学校を除く数値)。山がとりえの長野県だからこれは残念だ。

 長野県の学校登山実施数が漸減しているのはそのとおりだが、山の難易度から見てもかなりの衰退傾向にある。
 アプローチの長短とか険しさで、比較的難度の高い北アルプスの燕岳(2763m)・爺ヶ岳(2670m)・常念岳(2857m)、御嶽山(3067m)、南アルプスの仙丈岳(3033m)などは196校中6〜10校で、北アルプスの穂高連峰(奥穂高岳3110m)、八ヶ岳主峰の赤岳(2899m)にいたっては毎年2〜3校にすぎない…

 学校登山であっても冒険的要素はある。
 危険に対して可能な限りの対処をした登山がよい登山である。教師の適切な指導があれば、中学生でも山行計画や装備などを自ら研究し、山についての知識を身につけ、迫りくる自然の脅威にたいして敏感になる。山のルールに適応する力が生れ、なによりも生徒同士助け合う気持が培われる。
 天候が悪かったりして、集団全体が途中で撤退するという不幸があったとしても、時間がたつにつれてよい思い出が残る。登山は体力によるものだけではない。知もまた力である。
 中学生という感受性の強い時期に、難しい登山で味わった達成感は一生の宝だ。安全や楽しさを強調するあまり、安易な学校行事に流れてはならないと思う。
 私は学校現場から離れて久しい。この議論には愚かで危険なところが多いかもしれない。ご批判を待つ。

(2014.05.19阿部治平(もと高校教師)「学校登山の衰弱をめぐって」―八ヶ岳山麓から(103)―」)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2785.html

 教員を対象にした意識調査も初めて実施。
 登山経験が少ない教員が引率に不安を感じ、生徒の体調不良などを心配していることも浮き彫りになった…教員の意識調査は、学校登山で感じる課題を自由記述してもらい、合わせて81件が寄せられた。
 高山病などで体調を崩す可能性や、天候悪化のリスクなどを踏まえ、「生徒の安全を考える教員の負担は相当大きい」とする声が目立った。
 また、「体力低下や集団行動が取れない生徒の増加」などを挙げ、「全員参加が難しい行事になっている」とする教員もいた。事故を不安に感じる保護者の理解を得るのが難しい、との声も複数あった。近年の学校登山では、安全をサポートするガイドなどに同伴を依頼するケースも増えているが、複数の教員が「費用面で確保が難しい」と回答した。

(2014年5月4日(日)付け信濃毎日新聞「減る学校登山、中学は昨年度87%、教員の負担重く」)

 国は、再来年の2016年から、8月11日を「山の日」とする改正祝日法を5月に制定しました。
 長野県では、「信州 山の日」を今年の2014年から、7月第4日曜日とし、7月15日から8月14日までの1ヶ月間を「信州 山の月間」に設定し、その旨、7月15日(火)の「信州 山の月間」開始日に、県報登載しました。

 長野県は、県土の約8割を森林が占める全国有数の森林県です。この森林を水源とする豊富な水は、本県はもとより下流域の都市部へもその恩恵をもたらしています。また、全国に23座ある3,000m峰のうち15座を有する日本一の山岳と固有の生き物たちの宝庫である高原には、県内外から毎年70万人を超える人たちが訪れるなど、山が与えてくれるさまざまな「恵み」は私たちの生活になくてはならない貴重な財産です。
 長野県民共通の財産であり、貴重な資源である「山」に感謝し、「山の恵み」を将来にわたり持続的に享受していくため、県では長野県独自の「山の日」を制定します。
 「信州 山の日」の制定を契機に、県では平成26年度を「信州の山 新世紀元年」と題し、「山」に関するさまざまな取組を集中的に実施し、「山」を盛り上げる1年にしていきます。その取組の一環として、県が行なう取組と併せ、市町村、関係団体、企業等の皆様が主催等をする「山」に関わる行事等の情報を県ホームページ等を通じて一元的に発信し、県民等の「山」への関心を高めていくことを目的に、「山」に関わる行事等の情報を収集します。

(長野県公式サイト)
http://www.pref.nagano.lg.jp/rinsei/yamanohi.html

 そして、はじまりました:

 信州山の日(7月第4日曜日、今年は27日)の制定に合わせて県が定めた「信州山の月間」初日の15日、松本市開成中学校の2年生約140人は、学校登山で北アルプス燕岳(2763m)の山頂を目指した。
 生徒たちは午前8時10分、中房温泉の登山口を出発。「ヤッホー」と声を上げたり、残雪を見つけて触ったりしながら登った。午後3時半、山頂に到着。本格的な登山は初という高木美沙さん(14)は「途中、きつくて大変だったが、山頂からの景色がきれいで驚いた」と満足顔だった。
 参加生徒全員が山頂近くの宿泊場所の燕山荘に到着し、五十嵐一雄校長(60)は「友人と励まし合いながら登ったことを普段の学校生活でも生かしてほしい」。燕山荘支配人の井村克彦さん(39)は「環境の素晴らしさを知り、自然を大切にするきっかけにしてもらいたい」と話した。
 県教委によると、本年度は県内公立小の約26%の96校、公立中の83%の156校が学校登山を実施する。公立中の学年別の目的地は、中1は乗鞍岳(10校)、中2は八ケ岳(38校)が多い。

(2014年7月16日(水)付け信濃毎日新聞「燕岳、励まし合い学校登山「信州山の月間」初日、松本・開成中」



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2014年07月20日

尾瀬の花

 7月20日日曜日は土用入り。

 尾瀬合宿山行、小至仏山山頂でであった団体さんは愛媛県から瀬戸内海を渡ってバスで半日、12時間かけて、至仏山に登るためにだけ本州に来たというご一行さまでした。
 それから保育園の子どもたちも。
 靴もズボンも泥だらけにして元気に、ヤッホー君とハイタッチして通りすぎていきます。

 『シクラメンのかほり』(布施明、小椋佳。1975年のヒット作、えっ、もう40年も前の歌なんでしょうか…)
http://www.youtube.com/watch?v=7ENChwV7Wic

 「疲れを知らない子どもたちだねぇ〜」と仲間の岩波さんが言ったら、四国のシニア組曰わく、
 「俺たち、疲れてるのも覚えてない、疲れを忘れた世代!」
 笑いが飛びかったホッとするような一時でした!

 でも小学校に上がる前の子どもたちが、元気いっぱいに歩くのはとってもいいこと!
 自然に触れることで子どもたちの感性が豊かになります。
 日常生活とはまるで違う岩ごつごつ、石ころだらけ、泥だらけの場所を集団で歩くんですから。
 冷蔵庫もない、ゲームもできない、親に甘えることもできない不自由さ。
 加えて限られた時間内に、限られた山路を通って、決まった順番で歩くんですから。
 でもきっと子どもたちは、自分のからだで、何かいっぱい学びとったところが多かったはず。
 靴がびしゃびしゃ、ズボンが汚れる、服が濡れる、こんなお天気のなかを歩かせるのは無理だ、無謀だ、事故があったら誰の責任だ、とか言い出したら、中止です!
 家のなかにいたほうがよほど安全ですもん。
 付き添いの先生や父兄の方々の気苦労、そして実施までまとめてこられたのは並大抵の苦労ではありません、きっと。
 でもこれから強い子、元気な子、自立する子になっていくことでしょうね。
 なによりも他の子をいじめたり、いじめられたりじゃなくって、逆に他の子を励ましたり、励まされたり、う〜ん、そ、連帯できる子に育っていくことでしょう。

 1年間の行事予定を見ると、自然に親しむ野外活動がふんだんにあります。
 尾瀬のハイキングでは小至仏山に登ります。
 遠足では足利の石尊山、赤城の鍋割山、桐生の鳴神山、草津の白根山など盛りだくさん。

(みどり市笠懸町西鹿田にある「たけのこ保育園」(國井富廣園長)
http://gkb-forum.sakura.ne.jp/news/12/snap12.pdf

 写真を四葉ほど。
 まずは、イワイチョウ!

いわいちょう.jpg 

 次いで、ヨツバシオガマ:

よつばしおがま.jpg

 そして、オヤマ沢田代の湿原!
 森を抜けると広がる、とても幻想的な山の上に開けた場所!

オヤマ沢田代.jpg

 なんといっても、晴れ間から眼下に覗いた尾瀬ヶ原の大湿原:

尾瀬.jpg




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2014年07月19日

至仏山2228m

 こんにちは、山歩クラブでは3人で尾瀬・至仏山(花の百名山、2228m)合宿山行を行ってきました。
 当日7月18日金曜日は雨となり、天候悪化で小至仏山2162mまでとなってしまいました。
 悪天候のなかがんばったふたりの仲間の喜びの写真です。

古至仏山.jpg

 午後は豪雨となり、山路は川のように水が流れ落ちるなかの下山となりました。
 しかし、山路には、出会いたかった絶滅危惧種のホソバヒナウスユキソウが:

 東北地方に生えるミヤマウスユキソウの変種で、至仏山と谷川岳だけに生える特産種。
 全体に母種より細くてきゃしゃな感じがする…
 …蛇紋岩地に生え…至仏山では、小至仏山から至仏山への稜線の、風当たりの強い風衝草原、岩場に点々と生えているのを見ることができる。

(木原浩(注1)「ホソバヒナウスユキソウ」、『花の百名山』No.3、2004年朝日新聞社刊)

うすゆきそう.jpg


 ハヤチネウスユキソウとはまた違った趣のある花でした。
 そしてオゼソウといった珍しい高山植物も。

 小さく地味な花ですが、岩などの上に葉よりも長い花茎をだして群生する姿は非常に趣があります。
 至仏山にはたくさん見られますが、谷川岳の一部と北海道の天塩(てしお)地方にしかみられない貴重な植物で、別名「てしおそう」とも呼ばれます。

(『ひと目でわかる尾瀬の花』ナグモ(注2)、ポケットガイドブック)

 それにヤッホー君の大、大、大好きなチングルマやシナノキンバイも。
 時折、雨があがり雲が消えると、眼下には尾瀬の湿原、燧ケ岳が見えて、とても感動した山旅となりました。
 山はやはり良いですね。雨もまた楽し雨


(注1)
木原浩さんは1947年東京生まれ、現在、「木村浩写真事務所」主宰。
http://www5.ocn.ne.jp/~kihara/index.html

(注2)
(株)ナグモは、沼田市久屋原町203番地 電話 0278-22-4652
http://www.nagu-miyage.com/miyage1.htm

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2014年07月17日

雲峰寺

 7月13日日曜日の山歩クラブ月例お山歩で登った黒川鷄冠山1710m。
 下山の時間がもう少し早かったならば、訪れてみたところがありました、雲峰寺
 山歩クラブ会報「かわらばん7月号」に添付してあった山行の行程表には明記されていました:

 開山より約1260年の歴史を持つ、由緒あるお寺で武田家代々の祈願寺。「孫子の旗」をはじめとする武田軍旗や、日本最古の「日の丸御旗」など保存展示されています。
 当寺はその歴史的価値もさることながら、大衆文化の舞台として皆様に親しまれております。
 かつては大河ドラマ『武田信玄』、黒沢明監督の映画『影武者』のロケ地として、多くの著名人にお越しいただきました。また作家の中里介山が小説『大菩薩峠』の執筆のため、当寺の一室に起居していたことは、有名なお話でございます。

http://unpoji.ko-shu.jp/

 えっ、大河ドラマ『武田信玄』?!
http://www.youtube.com/watch?v=FLlvcl4AJ34

 これは、1988年NHK大河ドラマ『武田信玄』(原作:新田次郎、音楽:山本直純)ですか…あの名セリフ「今宵はここまでに致しとうござりまする」で一世を風靡した?!

 音楽が山本直純(1932–2002)?!

 大阪城ホールの「サントリー1万人の第九」を、初めてナマで見た…今年2012年で30回というから、すっかり大阪の師走の風物詩である。
 始まりの物語は……。大阪城築城400年まつりが翌年に迫った1982年、1万4000人収容の大阪城ホールのこけら落としとして、MBS毎日放送の社内でラジオ局から「1万人の大合唱イベントを開いてはどうか」という提案があった。当時、事業本部長だった齋藤守慶氏(後の社長)がそれを生かし「ベートーベンの第九に1万人の合唱をつけよう」と、まつりの主催者・大阪21世紀協会に提案。音楽や美術に理解があるサントリー社長の佐治敬三氏が「やってみなはれ」と冠スポンサーを引き受けた。記念すべき第1回は83年12月4日。オーケストラは大フィル、京響、関西フィルの総勢200人。
 当初、指揮者には「朝比奈はん」として親しまれる大御所、朝比奈隆さんの話もあったそうだ。しかし、この催しは“一種のお祭り”やから、と朝比奈さんの推薦も得て、山本直純さんに白羽の矢が立った。山本さんはその年の春、10年半も続いたTV番組『オーケストラがやってきた』を降りたばかり。まさに文字通り「大きいことはいいことだ〜♪」(作曲した森永のチョコレートのCMソング)的な第九であり、朝比奈さんに言われたら『男はつらいよ』と引き受けた。はまり役だった。ちなみに山本さんの誕生日はベートーベンと同じ12月16日!
 山本さんが1998年の第16回、満65歳までタクトを振り、翌年から37歳だった佐渡裕さんにバトンタッチした(山本さんはその3年半後に、帰らぬ人となる)。小柄な体が指揮台で飛び跳ねる山本さんと、大柄だが指揮棒を折ったことがあるほど体当たりで表現する佐渡さんにはスタイルに通じるものがあるし、何よりどちらも「音楽は大衆のもの」との思いがある。山本さんと齋藤秀雄門下の同期が小澤征爾さんで、佐渡さんはその小澤さんに師事したという“縁戚関係”にもある。

(2012年12月07日付け毎日新聞「馬耳西風、氷置置恒夫:<その48>1万人の第九)
http://mainichi.jp/feature/news/20121207org00m070006000c.html

 原作があの新田次郎(1912-1980)?!

 父の親友に作家の新田次郎がいた。NHKの大河ドラマ『武田信玄』の原作、また『武田勝頼』の作家として、膨大な富士をテーマのした作品の著者として山梨には特に縁の深い人である。30年間、気象庁の役人を務め富士山気象レーダードームの建設課長を務めながら1965(昭和40)年より『武田信玄』の連載を開始し、1967(昭和42)年『富士山頂』、1970(昭和45)年『八甲田山死の彷徨』、1972(昭和47)年『怒る富士』、1973(昭和48)年『富士に死す』と列挙できないほど次々に大著が投稿された。
 私が作家、新田次郎にお会いしたのは1974(昭和49)年の夏である。医学部に入学して車の運転免許をとったので父を自宅のある吉祥寺まで送っていった時のことである。出版されたばかりの『アラスカ物語』を頂き「雄一君へ 新田次郎」とサインをしてくれた。私の食べず嫌いなメロンを御馳走してくれたが、やさしい言葉の中に眼光の鋭いオーラを感じたのを覚えている。当時そんな有名な人とは知らずその本は山岳部の同級生が回し読みしてぼろぼろになってしまった。 
 その後作品の取材のため富士山や私の診療所を訪れ、1976(昭和51)年には父が会長を務めていた文化協会十周年記念に講演をして頂いた。大月駅に迎えに行ったが五月晴れの日、沿道のレンゲと菜の花に感動し「甲州路レンゲ菜の花富士の残雪(ゆき)」と取材ノートに書きつけていた。また出版間もない『白い花が好きだの』の扉に「白い花かの人こひし甲州路」という句を作り書いてくれた。白い花とはこぶしの花のことであり父は感激し、すぐ庭にこぶしの木を植えていた。今は大木になって毎年白い花が大量に散って近所迷惑になっている。
 新田次郎は諏訪出身であるが武田信玄をこよなく愛し小説『武田信玄』は1965(昭和40)年5月から1973(昭和48)年8月まで歴史読本に風林火山の4巻に分けて8年間も連載された。山梨県人で武田信玄を悪くいう人はいないと思うが、武将の中で最も合理的な考えをする人で、その人柄に惚れ込んだそうだ。夫人の藤原ていさんがおっしゃっていたが、信玄堤にも数えきれない位訪れ、500年経ってもびくともしないと自分が造ったように自慢していたそうである。父は信玄公祭りに新田次郎に信玄公の武装をさせて出陣させることを本気で考えていたが、1980(昭和55)年2月、急性心筋梗塞でご逝去され、かなわぬ夢となってしまった。皮肉にも父も2月に急性心筋梗塞で亡くなったがよほど仲がよかったのだと思う。
 新田次郎は自然破壊を最もきらい、私の家には「富士山を守れ」と題した新田次郎の未発表論文原稿がある。5合目まで富士スバルラインを案内したことがあるが、荒廃していく富士の景色をみて涙をながしている姿は印象的であった。こんなに自然を愛し純粋な人がいるのかと本当に驚いた。地球温暖化など世界規模の環境破壊が進んでいるが、40年前から警鐘を鳴らしていた新田文学に触れ、自然を大切にする純粋な心を忘れないことが解決の一歩なのかもしれない。

(富士のふもと富士吉田市の内科クリニック内藤先生が山梨県医師会報(2008年夏号)にお書きになったコラム「父と新田次郎の想い出」)
http://www.myclinic.ne.jp/kissenkai/pc/free3.html


<付記>
本日より2泊3日で尾瀬への山旅がはじまります。日記の投稿はできないと思います。帰京までのあいだ休筆となります。


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2014年07月16日

『宮澤賢治の心といそしみ』

 7月16日水曜日、朝早く思わずラジオのスイッチを入れたら、目が覚めてしまいました。
 今朝の「明日への言葉」は、宮沢賢治研究家・吉見正信の「医療・介護・被災の現場に生きる賢治の言葉」!
 
 吉見正信さんについてはやっぱりISN、ヤッホー君のこのブログ、7月12日付け日記映画『早池峰の神楽』でお世話になったISN !

 プロフィール:吉見正信氏は1928年東京都杉並区生まれ。大東文化大学中国文学科を卒業後、東京での雑誌記者を経て、岩手県内で高校教師を勤めました。その間、岩手大学・富士大学の非常勤講師をしながら研究著作に専念。現在に至っています。
 宮沢賢治学会イーハトーブセンター発起人、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞選考委員長を歴任。主な著書としては、『宮沢賢治の道程』(八重岳書房)、『宮沢賢治の言葉』(剄文社)などがあります。


 吉見正信著作集をコールサック社から2013年9月より『宮澤賢治の心といそしみ』の配本をはじめたところですが、それはさておき ISN の佐藤安彦さんのご努力には敬意を表します。
 なぜって、文化サロンでお話しなさった貴重な内容を限られたスペースと更新までの限られた時間のなかで、できるだけ本人の語り口に沿って再現して載せてくれているからです。
 その地域の専門の方のことばがこうして全国に届けられ、ヒ・ミ・ツじゃなくなって、公共の知財となるんですから。

 雨天の中、参加していただいた方々に吉見さんに「中国の古典の英知」を熱く語っていただきました。
 その一部をできるだけご本人の言葉で紹介して報告とさせていただきます。


 ではさっそく:

 老子は人為的なものは全部否定している。「無為自然」だ。無為は何もしないということではない。人為を加えない。人の手を加えてねじ曲げない。うそをつかない。だまさない。大自然は形がないので、入れ物もない。それが無だ。地位や名誉も否定する。水、光は形があるのか。形がないから、どこにでも入っていける。人為を加えると、ろくなことはない。それは21世紀が実証している。今の世の中は人為、偽、偽装問題が大流行している。老子が言っている通りの世の中だ。老子は「其ノ紛ヲ解キ、其ノ鋭ヲ挫ク」と言う。なんか難しそうに言っていると、偉そうに聞こえる。物事をひねくり回し、もっともらしく、難しく言った方が、ありがたがるのが日本人の習慣で、困ったものだ。そうした紛らわしい、もったいぶった、ふんぞり返っている風を解き明かし、偉そうに思っている、その鼻っ柱をくじく。それではどうすればいいのか。「和光同塵」と言っている。
 今、「平和」などという言葉は、平成になって、福田首相をはじめ口にしない。だが、そうしたことは、とっくの昔に言われている。「戦イハ逆徳ナリ」を読んでみたい。

『出展は「史記」、その本文は「戦イハ逆徳ナリ、争イハ事ノ末ナリ」とある短文である。「末」とは人間世界にあってあってはならない結果というほどの意。
 中国の古典の「史書」として、第一等の権威である「史記」は、治乱興亡の中に、人間いかに生きるかを追求する書。したがって、古代から「戦イ」がいかに悲惨で愚であるかを、諸子百家(多くの思想家)を集約した立場で断言している(中略)21世紀は、世界を挙げて《逆徳》を廃棄させなければならない世紀なのである』

 老子は戦争を全否定して、たくさん書いている。第一は「佳兵ハ不祥ナリ」。立派な兵力、武器、軍隊は不吉なもの、めでたいことではない。よろしくない。戦をすると、農作物が荒らされて、民が塗炭の苦しみを味わう。自分もやられる。だから、いい兵器が出ると、どんどん悲惨さが増す。古代中国では「指南車」という新兵器があったが、それがどんどん悪らつになってきて、とどのつまりは核兵器になってきている。これは紀元前の老子が言っている原理の通りになっている。老子にも、たくさんの戦争論があるが、世間では「孫子の兵法」だけを言うが、孫子は戦争を否定しない。するなら、こういう技術があるという兵法だ。
 老荘思想は目だって、ひけらかしたあり方を批判し、避ける。そのため、三国、西晋時代には身なりをかまわないが、超俗精神を持つ隠士が輩出した。老子は「無、空、愚、拙、朴、遅」を主張し、弱者、落ちこぼれ、障害者などいう差別を否定している。グローバルな思想、宇宙感覚だ。自分のことを「木偶(でくのぼう)」と言っている。「賢を尚ばざれば、民をして争はざらしむ。…無為を為せば則ち治らざる無し」(老子)ともあるが、宮澤賢治作品の出どこが知られる。賢治も、老子の伝記を書こうとして、年表を作っていた。

(2008(平成20)年8月21日第44回文化サロン「中国古典の英知」)
http://iwate-isn.sakura.ne.jp/bunkasalon/44kai.htm

 あっ、これは吉見正信さんがお話しになった中国古典、老荘思想について、でありましたが、大ムカシから読んできた宮沢賢治、「木偶(でくのぼう)」については地元紙「盛岡タイムス」でこんなふうに;

 《デクノボー》の系譜
 「雨ニモマケズ」の《デクノボー》の人物像についての考察には諸説があって興味ぶかいものがあります。そのなかで、吉見正信氏の「デクノボーの背景」(『宮沢賢治の「デクノボー」観』)の所論は、童話で《デクノボー》とは言っていないが「デクノボー的な姿や人間像らしきものは、もうそれ以前から賢治が童話に書いております」と指摘。「どんぐりと山猫」「虔十公園林」「セロ弾きのゴーシュ」「気のいい火山弾」の4作品を取り上げ論考しているが、例証が丁寧で説明が易しく説得力があります。
 優劣を競い合うドングリたちに一郎が「いちばんばかで、めちやくめちやで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんゐらい」との示唆は、「ケンクワヤ/ソショウガ/アレバ」を「ツマラナイカラ/ヤメロトイイ」と重複し、虔十、ゴーシュ、ベゴ石が精神薄弱、不器用さ、外見の悪さからばかにされ蔑視されても、「あるがままで肯定される」ところに賢治の倫理観があるようです。それが《デクノボー》を展望するキーワードとなっているのでしょう。

(2013年2月2日(土)付け盛岡タイムスWeb News〈賢治の置土産〉300岡澤敏男「デクノボー」の系譜)
http://www.morioka-times.com/news/2013/1302/02/13020202.htm

 そして、著作集がでると:

 「俺は出たきり老人」そう言って、元気に出掛けては講義や講演をして歩いてる吉見正信さん(85)が、久しぶりに、ひょっこりと現れて「照井顕様」と書いた封書を僕に差し出した。
 中身は一冊の本『宮澤賢治の心といそしみ』という吉見さんの著作本だ。宮澤賢治の研究を60年以上の長きにわたって続けている彼の、賢治に関する7冊もの著作集が東京の出版社「コールサック社」から出るという。頂いたのは第1回配本の第2巻・評論集。帯には「東北の悲劇に立ち向かうため賢治のいそしみ≠フ精神を提言する」とある。
 それはそうと、先月2013年の11月28日、埼玉県久喜市に講演を頼まれて行ってきたのだという。宮澤賢治全集第5巻の文語詩「著者」に見た「造園学」の一語と、賢治の手帳にあった賢治筆跡のメモ「本多静六博士・造林学前論」からの抜き書き。その中の「石灰ハ濶葉樹ノ生育ニ特ニ必要ノモノ」とあり、賢治の中には本多静六がいて影響を与えていたという思いを彼は抱き直した。それが縁となって本多の故郷での講演と相成った様子。しかも彼・吉見さんのお母さんと同じ小学校に通った本多静六博士(1866-1952)のことは幼い頃からよく母から聞かされ知っていたのだという。

(2013年12月30日(月)付け盛岡タイムスWeb News〈幸遊記〉155照井顕「吉見正信の宮澤賢治研究」)
http://www.morioka-times.com/news/2013/1312/30/13123002.htm



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2014年07月15日

加羽沢美濃

 昨日の7月14日はパリ祭(Bastille Day 2014, Fête nationale)!
http://www.youtube.com/watch?v=RhOLjimdp0g
http://www.theguardian.com/world/video/2014/jul/15/eiffel-tower-fireworks-bastille-day-video

 ヤッホー君はeチャリで「ティアラこうとう」へ!
 加羽沢美濃(1972年神奈川県横須賀市生まれ)出演の「ティアラワンコインコンサート」があったのです!
 この方は、ピアノ演奏もうまい、トークもうまい、お顔もよろしいと三拍子そろった才媛でした!

 リスト(Liszt Ferenc, 1811-1886)『ラ・カンパネーラ』(出版1838年)を聴いてみましょうか:
http://www.youtube.com/watch?v=a2j9GOCH_lE
 これを加羽沢美濃はこんなふうに解説してみせます:
http://www.youtube.com/watch?v=bbWc46FMsfc

 作曲家の人間模様にググッと迫れると作品にも近づけると思うので、そのあたりに深く迫りたいですね。
 すごい曲を書いた作曲家であっても、孤高の天才というわけではなくてすこし前まで生きていたリアルな人として身近に感じてほしいし、愛すべきチャーミングな人なんだって皆さんに思ってもらいたいです。
 そうすると作品自体をより楽しむことができると思うので…

 悪魔の化身”と呼ばれた男史上最高の名手と言われたバイオリニスト、パガニーニが満を持して初出版した作品「24の奇想曲」。
 そこには、恋に落ちたことをきっかけに編み出した、ユニークな奏法が盛り込まれていた…
 NHK Eテレ 7月19日(土)よる 9:30〜放送予定

http://www.nhk.or.jp/lalala/index.html

 そうなんです、いまNHK Eテレの「ららら♪クラシック」司会なんですよ!
 そればかりではありません、映画音楽の作曲まで:

 また『チルソクの夏』『四日間の奇蹟』『ホテルビーナス』『出口のない海』『檸檬のころ』『獄に咲く花』『日輪の遺産』『指輪をはめたい』『ツレがうつになりまして』等の映画音楽や舞台音楽『黒部の太陽』
など話題作を数多く担当している。
 ピアニストとして、ソロ活動及び、高嶋ちさ子とのユニット『Chisa & Mino』を始め、全国で演奏活動を行っている。
 これまでに「題名のない音楽会」「名曲リサイタル」の司会をはじめ「紅白歌合戦」「トップランナー」
「スタジオパークからこんにちは」など多数のテレビ、ラジオ番組に出演。
 現在、3年目を迎えるNHK Eテレ「ららら♪クラシック」総合司会を開始当初から務めるなど活動は多岐にわたっている。
 加羽沢美濃 OFFICIAL WEBSITE http://www.minokabasawa.com

(高嶋音楽事務所)
http://www.t-artists.com/artists/profile.asp?uid=2

 ヤッホー君のこの日記、2014年1月15日付け日記「ワンコインコンサート」をお読みくださいな。
 なに、ヤッホー君が行きたかったのは、音楽演奏会ではなくって、「プログラム持参で、ちょっとうれしい特典サービス」が受けられるお店での食事会でしょって…
 ばれましたか…ヤッホー君が向かったのは1月と同じ住吉銀座商店街のとんかつ屋さん『金魚や』さんだったのですが、お店はもうなくってかわりに、まぐろ専科『もとみや』(江東区住吉2-10-12 Tel 3633-5775)さん!
 まぐろなんて高くって食べれないヤッホー君、しかしパリ祭の「づけ丼」は美味しかったぁ〜

 それにしても暑い、熱い一日でしたね:
 「厳しい暑さ "熱中症"搬送者増える」(TOKYO MX)
http://www.youtube.com/watch?v=YtfYzl7s1w0
 「渋谷駅前で熱中症予防イベント」(TOKYO MX)
http://www.youtube.com/watch?v=LwSob0ugjVg



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2014年07月14日

マンズワイン

 ヤッホー君のこのブログ、今月7月4日付け日記「エーデルワイン」をご参照ください。

 山の後のお楽しみは、早池峰山に続いてまたまたワイン。だって、「エーデルワイン」は「Japan Wine Competition(国産ワインコンクール)」で受賞しているんでしょ、そうしたら、日本のワイン王国の山を歩いて、ワイナリーをスキップするなんてこと、とてもヤッホー君にはできません!
 おじゃましたのは、「マンズワイン勝沼ワイナリー」(甲州市勝沼町山400 Tel 0553-44-2285)!
 山歩クラブ専用バスのドライバーさんと行きの車中、ナビとにらめっこしながら見つけたのです:

 「ワイン造りはまず葡萄から」、太陽の恵みをいただき、大地の恵みを葡萄に、それがワイン造りの始まりとマンズワインは考えます。
 山梨、長野、専用品種の契約栽培、マンズレインカット栽培法もそんな思いから生まれました。
 日本古来の「甲州」葡萄、欧州種の千曲川産「メルロー」、上田市東山産の「カベルネ・ソーヴィニヨン」、マンズオリジナルの「信濃リースリング」、それらはワイン造りの情熱が生み出した日本のワインとしてマンズ「ソラリスシリーズ」になります。

http://www.winery.or.jp/member/mans.html

 日本は雨が多いということや、土壌がヨーロッパと違うということを嘆いたことはありません。
 その日本でしかできない素晴らしいワインを造るという志を胸に、ひたすら情熱を賭けて仕事をします
 その努力に終わりはありません

(「ソラリス」シリーズ製造責任者 島崎大)
http://www.kikkoman.co.jp/manns/brand/solaris/index.html

 その努力がやっと国際的にも認められるようになってきたのです:

 山梨県は日本のワインの発祥の地であり、約80社のワイナリーが国内の約3割のワインを生産しています。なかでも、本県特産の甲州種ブドウで造られた白ワインは、和食に合う味わいが特徴で、和食ブームの海外でも注目を集めており、世界市場へのチャレンジも始まっています。また、国産ブドウ100%で造られたワインの品質を競う「Japan Wine Competition(国産ワインコンクール)」を、毎年山梨県で開催しています。

 2013(平成25)年7月には、ボルドー(フランス)などと同等に、原産地名を保護する「地理的表示」に「山梨」がワイン産地として初めて指定されました。これにより、今後「山梨」と表示されるワインは、数々の要件を満たしたものとして原産地や品質を保証された付加価値の高いものとなり、ワイン産地やまなしのブランド力が更に高まることが期待されています。

(山梨県公式サイト、ワイン王国)
http://www.pref.yamanashi.jp/miryoku/wine/

 えっ、でもマンズワインはキッコーマンのグループ企業でしたか…

 キッコーマンは1957年の米国進出を皮切りに、日本伝統の「しょうゆ」を世界に紹介してきた。欧州では、フランスを中心にひと味違った商品が人気を呼んでいる。甘辛い味が特徴の「スクレ(砂糖)ソース」だ。しょうゆに欧州産ワイン、砂糖を加えたソースで、みたらし団子のタレのような甘さがある。ご飯や焼き鳥にかけて食べるのが定番だという。
 キッコーマンは日本からの輸出ではなく、消費地に近い現地生産にこだわってきた。海外には、米国やシンガポールなどに7工場があり、しょうゆや調味料を100ヶ国以上で販売している。2014年3月期連結決算では、海外の売上高が初めて国内を上回った。米国で、しょうゆの味を知ってもらおうと開発した「テリヤキソース」は、現地の辞書にも掲載されているほど普及している。

(2014年05月18日付け毎日新聞東京朝刊「日本発・世界のヒット商品:欧州★甘いしょうゆ「スクレソース」−キッコーマン)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140518ddm008020087000c.html

 帰りの車中、皆んなでワインパーティをするため、「山歩クラブ」が「クラブさんぽ」に変貌を遂げるに必要なワイン、勝沼ワイナリーで購入したのは、『疾きこと風の如く、軍旗 風』!
 山梨県産甲州種を100%使用した、一升瓶ワインでした。
 さすが日本で3本指に入る大手ワイナリー「マンズワイン」、期待を裏切らない作品で、美酒に酔うのも疾きこと風の如く、車中はどなたさまも、すやすや…



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2014年07月13日

黒川鷄冠山1710m

 今日7月13日日曜日は、山歩クラブ月例お山歩の会でした。
 13人で勝沼IC〜柳沢峠、そしてブナ林の樹相、そしてモミの樹相を見ながらよく手入れされた山路(だってぇ〜、東京都水道局が水源林として管理してくれています)を通って、最後の急登をがんばって上り詰めると黒川鷄冠山(1710m、山梨百名山)。
 大菩薩嶺と正対してそびえているのです。
 午前中天気はもちましたが、頂上でお昼をとって下山中にぽつぽつと雨だれが。
 しかし暑からず風もあって眺望もきき、この時期にしてはサイコウのお山歩ができました。

黒川鷄冠山.jpg



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丈夫ナ カラダ

 6月28日の土曜日、山歩クラブ「早池峰紀行」の初日、ブラブラ歩きで目にはいった街角の言葉をご紹介しましょう:

tpp.jpg

 うまい!

【オタワ(カナダ)平地修】
 今年夏が目標とみられていた環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の大筋合意時期が先送りされることになった最大の要因は、交渉のリード役である米国が11月の本番に向けて事実上の中間選挙期間に入り、支持母体である農業団体などの圧力が強まっていることだ。
 交渉参加12ヶ国の首席交渉官会合が開催中のオタワには、複数の米農業団体の代表者らが乗り込み、交渉会場のホテルなどで各国の交渉担当者と接触を続けている。最大の関心事は日本の農産物市場の開放だ。
 「豚肉やコメ、小麦、酪農などのグループがオタワ入りしている。日本の代表者にも会う予定だ」米国のある農業団体の幹部は7月10日、交渉官会合の会場近くのホテルで毎日新聞の取材に答えた。
 米国では、日本が関税の維持を求めるコメ、麦、牛・豚肉など農産品5項目の生産者を中心に「日本が市場を開放しないのなら、日本抜きでTPPを妥結すべきだ」と米政府に迫る。各団体は米議会でも積極的なロビー活動を展開し、議会の主要メンバーからも「日本抜き」のTPP合意を訴える声が目立っている。
 米農業団体には伝統的に共和党支持団体が多い。この幹部は「この2ヶ月で情勢は急激に変化している。多くの議員がわれわれの主張を支持し始めた」と強調。「議会は日本が高いレベルの市場開放を行わない限り、TPP合意を受け入れることはない」と自信を見せる。
 一方、オバマ米大統領の支持母体である民主党からは、TPPへの反対論も目立ち始めている。自由貿易による雇用流出を懸念する労組などが声を上げ始めているためだ。7月9日には民主党の議員7人がワシントンで記者会見を開き、「TPPは米国の労働者を脅かす」「過去の貿易協定は米国の製造業や労働者の利益にはならなかった」などと口々に訴えた。

(2014年07月11日21時09分毎日新聞「TPP:強まる<日本抜き>論…夏合意先送り」)
http://mainichi.jp/select/news/20140712k0000m020089000c.html

 TPPってさ、貿易交渉?しかし貿易の問題だけではないはずですが、貿易外の問題についてメディアが触れることはありません。
 ここでおさらいを。まずは何が問題だったのか、いや交渉の内容すら分からないヒ・ミ・ツだったのですが、ちょっとづつちょっとづつ明らかになってきました。
 初期のころ、2年ばかりまえのころの「デモクラシー・ナウ」と1週間ばかり前、たなばた7月7日のマレーシアの論客、マーティンコウの論文とを読んでみましょう。
 まずはおひざ元、「デモクラシー・ナウ」から:

 日本では昨年から危険な秘密貿易協定として大騒ぎになっているTPP。
 環太平洋パートナーシップとか環太平洋戦略的経済連携協定とかいろいろに呼ばれていますが、中身が分からないのに一旦参加したら抜けられないと言われる馬鹿げた国際協定です。
 米国でも一般には知られておらず、通商代表部が企業側と連携しながら進めているので国会議員でさえ内容を知ることができないのです。
 交渉の草案がリークされて、ようやく議論に上るようになりました。2011年3月に「知財関連の条項」(2月時点での米国の要求の完全版)がリークされたのに加え、今回(2012年6月)には「投資条項」の草案がリークされました。
 リーク文書を掲載している市民団体パブリック・シチズンのロリ・ウォラック氏は、「これは貿易協定ではない、企業による世界支配の道具です」「1%の富裕層が私たちの生存権を破壊する道具です」と断罪します。

(「TPPは貿易協定の衣を着た企業による世界支配の道具」)
http://democracynow.jp/video/20120614-2

ONCE upon a time, trade agreements were just about trade. The negotiator’s principle was: I’ll allow some of your products to enter my market if you allow some of mine to sell in yours.

Both countries could estimate what the benefits would be for them, and if it was mutually satisfactory, a good deal was made.

Today, trade deals are not mainly about trade any more. The trend started when intellectual property, services and investment measures entered into the system of trade rules when the old GATT (General Agreement on Tariffs and Trade) was transformed into the WTO (World Trade Organisation).

If you do not respect my companies’ patent rights, I can impose an extra tariff on your product and block it from my market to punish you.

This has complicated the rules of trade since non-trade issues invaded the system. But this complication at the WTO is minor compared to the bilateral free trade agreements (FTAs) involving the United States and the European Union (EU).

Take the Trans Pacific Partnership Agreement negotiations, involving Malaysia and 11 other countries, as a prime example. Under the leadership of the United States, the TPPA includes chapters on many non-trade issues including intellectual property (with standards far higher than in the WTO), rules on investment liberalisation, a system where foreign investors can sue the host states in an international tribunal, and opening up of services sectors to foreign ownership.
Overloaded 'trade deals'

(by MARTIN KHOR)
http://www.thestar.com.my/Opinion/Columnists/Global-Trends/Profile/Articles/2014/07/07/Overloaded-trade-deals/



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2014年07月12日

映画『早池峰の神楽』

 7月12日土曜日、雨の早池峰山、山路に咲いていたハヤチネウスユキソウと出会ったのが6月28日の土曜日ですから、もう2週間。
 しかしヤッホー君にはまだ2週間のようで、次から次へとあの風景、街角のあの看板、花巻市民の方のあの一言片言とがが次々によみがえってきます。

 今日はを紹介!
 ISNって難しい情報技術のテクニカルタームでなく。「いわてシニアネット」(盛岡市北天昌寺町1-60 コープ介護・福祉センター あい 1階 Tel 019-681-6160)の略。
 このNPO、特定非営利活動法人の活動の一環として10年前から「文化サロン」を開いております。
 どんなご苦労があったのか、各サロンのテーマとともに「公開」されております。

 「文化サロン」は、2004(平成16)年1月に、熊谷印刷さんから無償で提供されていた「地域交流ひろば」を活用して、地域のさまざまな分野で活躍されている方をゲストスピーカーとしてご協力をいただき、地域との交流を通して地域文化を発信する目的で開始しました。
 この文化サロンは熊谷印刷さんといわてシニアネットの協働事業として、また、2006(平成18)年4月(第16回)からは(財)岩手県長寿社会振興財団の〔高齢者保健福祉基金〕助成事業に承認され、2010(平成22)年9月まで開催し、その回数は56回に及びました。
 その後は諸般の事情から休止をいたしておりましたが、今般、川口印刷工業株式会社の「地域支援プロジェクト」の力強いご支援をいただき、2013(平成25)年7月に再開することになりました。
 当面は年4回の開催を予定しております。

http://iwate-isn.sakura.ne.jp/bunkasalon.htm

 2014年5月22日で60回目のサロンを開きましたが、第50回目「サロン」がビデオ編集されて「公開」されています:
http://iwate-isn.sakura.ne.jp/video/bunkasaron50kaikaisaikinen.htm

 ヤッホー君がこの団体でびっくりしていますのは、「サロン」のご案内やご報告の数行の投稿だけでなく、毎回、「地域のさまざまな分野で活躍されているゲストスピーカー」の話された内容をできるだけつまびらかに「公開」していることなんです。
 中部大学・武田邦彦教授がおっしゃっているように、「知」にはある特定の学者先生、あるいはそのムラ社会にだけ、あたかも所有物として集積され独占され、売買の対象となり、名誉栄華を誇るというよりは、ムカシから無料の公園、名所(などころ)なんではないか、とのご指摘をされておりますが、ヤッホー君、その意味において、ISNの皆さまのご努力には敬服仕り候。武田先生は例えば、こんなふうに:

 科学がすべての結果を「人類共通の財産」としているのは、一つは争いをもたらさないためだが、もう一つは「科学的財産を公知にしておかないと人類の叡智を発揮することができない」からである…
 「他人のデータを使ってはいけない」「引用しなければならない」「文章をコピペしてはいけない」などは「人間の発展をどう考えるか」について良く考察していないからと思う。
 そして、自然科学者は「人間の所有権、個人の名誉」などは「自然を明らかにすること」に比べてとても小さいという感覚を持っている。
 自然が嫌いで、名誉やお金が欲しい人が自然科学をするから、ややこしい。

(2014(平成26)年4月25日)
http://takedanet.com/2014/04/post_d3fe.html

 で、このINS「第46回文化サロン」(2008(平成20)年10月16日)を通して「早池峰神楽」を岩手県内の神楽というもう少し大きな視点でみるとどんな位置づけ?も含め、復習、おさらいをしておきましょう。
 「神楽を見るために〜神楽鑑賞実践ガイド〜」(ゲストスピーカー 飯坂真紀氏、ふるさと岩手の芸能とくらし研究会発行「とりら」編集人)のお話しからです。
http://iwate-isn.sakura.ne.jp/bunkasalon/46kai.htm

 飯坂真紀氏が編集人となっている「とりら」の最新版第7号は東京都下でも購入できます:
 クラシックCD専門店のレコードショップ「アポロ」(国立市中1-10-20 Tel 042-572-3414 OPEN AM 10:00〜PM 8:00)です:
http://www.h3.dion.ne.jp/~iwagei/apollo/

 飯坂真紀氏は「第46回文化サロン」での講師紹介の際、《2001年には滝沢真紀子氏、北口まゆ子氏と「盛岡かぐら応援隊」を結成、「明快!かぐら講座」を開催しました》とありますが、その滝沢真紀子氏にこんなコメントがあります、「3本の映画〜『早池峰の賦』が生まれた背景〜」:

 羽田澄子さん(注)が早池峰神楽と出会ったのは1964(昭和39)年。偶然目にした新聞記事が縁で、大償神楽の東京公演を見たのが始まりである。早池峰神楽に心を奪われた羽田さんは、翌、1965(昭和40)年、初めて大迫町を訪れ、茅葺屋根の家が点在する農村風景の中、神楽本来の姿に触れ「いつか神楽の映画を作りたい」と決意する。この時、とりわけ羽田さんの心を魅了したのは、南部曲り屋の薄暗い土間で舞われる「権現舞」であったという。
 そして1979(昭和54)年、幾多の障害をクリアし、ようやく映画の製作が実現。羽田さんが早池峰神楽と出会ってから実に15年目のことであった。映画の撮影は、期せずして伊藤重太郎さんの曲り屋の解体シーンからスタートした。ここは羽田さんが権現舞のシーンを撮影をしたいと願っていた場所でもあったのは、偶然とはいえ、象徴的である。
 羽田さんは変貌を遂げる農村の姿から目をそむけることなく、高度経済成長の中で移ろいゆく農村の暮らしと、その中で伝承されていく神楽の姿を克明にフィルムに納めていく…
 こうして羽田さんが撮影したフィルムは、まず52分の『早池峰神楽の里』として完成を見た。
 その中に収めきれなかった数々のシーンをもとに作られたのが、今回上映する3時間15分の『早池峰の神楽』だ。
 そして、この『早池峰の神楽』を10分ほど短縮した映画が、1982(昭和57)年に公開され大反響を呼んだあの『早池峰の賦』なのである。
 そして今回、盛岡で初めてこの『早池峰の神楽』公開が実現できたのは、大迫町の皆さんをはじめ、多くの方々のご協力によるものである。心から感謝申し上げたい。

(11.march.2002付けめんこいテレビ芽と耳のライディング「第4回明解!かぐら講座入門編、映画『早池峰の神楽』上映会、3月2日(土)プラザおでってホール、入場無料」所収)
http://www.menkoi-tv.co.jp/entertainment/saito/backnumber/020311index.html


(注)
 1926年1月3日、旧満州大連市生まれの映画監督・羽田澄子の『遙かなるふるさと 旅順・大連』予告編を観ましょう:
http://www.youtube.com/watch?v=NYAvpVvV7v0


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2014年07月11日

遠野市

 早池峰神楽は大償(おおつぐない)と岳(たけ)の2つの神楽座の総称で、1976(昭和51)年5月4日、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 記録資料等は現存していませんが、岳の早池峰神社に1595(文禄4)年と記された獅子頭があることや、大償に早池峰山の修験先達をつとめた山陰家から伝えられたという1488(長享2)年の神楽伝授書があることから、その時代にはすでに神楽が存在していたことになり、その初源は南北朝時代にまで遡るものと考えられ、500年以上の伝統をもつ非常に古い神楽であるといわれています。
 また、岳妙泉寺(早池峰神社)の開設が1300(正安2)年と伝えられているほど早池峰山信仰の歴史が古く、修験山伏が行った祈祷の舞が神楽となったともいわれています。

(「早池峰神楽」花巻市大迫町大迫3-161、花巻市大迫交流活性化センター:早池峰ホール Tel 0198-48-2111、大迫神楽の日実行委員会:花巻市総合支所内)
http://www.kanko-hanamaki.ne.jp/sightseeing/kagura/

 「南北朝時代にまで遡る」神楽、ヤッホー君のこのブログ、2013年1月26日付け日記「米良山系・村所の夜神楽」、そして同年2月9日付け日記「西米良カリコボーズ」をご参照ください。
 そうなんです、神楽が縁で早池峰山へのもうひとつの登山基地、遠野市(注)が宮崎県西米良村と姉妹都市関係にあったのか、と思うとそうでもないのですが、おなじように南北朝時代に淵源を持つ北と南の類縁性、ヤッホー君、遠いムカシに想いを馳せております。
 交流はイマ、盛んですよ:

 遠野市観光協会主催の観光キャンペーン遠野ふゆ物語のひとつ、「遠野昔ばなし祭り」の第30回目が2013年1月26,27日、土渕町の伝承園で開催されました。
 初日は、雪模様のあいにくのお天気でしたが、土渕保育園児、綾織小学校生徒の子供語り部も昔話を披露しました。
 また、遠野市と友好都市の宮崎県西米良村からも昔話の語り部が参加しました。西米良の昔話は「むか〜しあったげな」ではじまるそうです。

(2013年1月28日、「エフエム岩手」)
http://furusato.fmii.co.jp/tono/2013/01/28/126-27%e2%98%86%e7%ac%ac30%e5%9b%9e%e9%81%a0%e9%87%8e%e6%98%94%e3%81%b0%e3%81%aa%e3%81%97%e7%a5%ad%e3%82%8a/

 そしておとといのこと:

 遠野市と友好都市である宮崎県西米良村の中学生たちが遠野を訪れ、きょう(9日水曜日)は、遠野西中学校の生徒たちと交流を深めました。
 遠野を訪れたのは、西米良中学校の1年生と2年生17人です。生徒たちは、きのう(8日火曜日)から遠野を訪れ、市立博物館の見学などを行ないました。そしてきょうは、西中学校で交流会が開かれました。
 交流会では初めに、西中学校の福田純也生徒会長が「あいさつ、応援、合唱に力を入れている学校です」と自分たちの学校を紹介し、「短い時間ですが交流を深めましょう」とあいさつしました。
 続いて、西米良中学校の生徒が画像を使って村の特産品である「ゆず」や「ほおずき」の紹介をし、友好都市のきっかけとなった互いの共通点である「語り部」を披露しました。西米良村の語り部の特徴は、遠野では「どんどはれ」とする所を「と申すカッチン」で物語を終了することで、西中学校の生徒たちは興味深そうに聞き入っていました。このあと、西中学校の生徒たちが、ゆずの「栄光の架け橋」を歌い、西米良中学校の生徒たちをもてなしました。
 西米良中の生徒たちは、このあと宮城県の松島や東京観光をして帰路につくということです。

(2014年7月9日放送、遠野テレビ)
http://www.tonotv.com/html/catv/daily/2014/07/09/1.html

 では、ここでわれわれも「ゆず」(ストリートミュージシャン出身)の『栄光の架橋』(2004年)を聴いて、覚えて、歌ってみましょう!

http://www.youtube.com/watch?v=-YDJe7IlZuU

http://www.youtube.com/watch?v=s9vZWdZDnVQ


(注) 遠野市の「自治体同士の連携」の一例です。あの日、あのとき:

 「小さなおにぎり一つを2人で分け合った。それでもおいしかったし、うれしかった」
 大槌町小鎚の寺野弓道場に身を寄せる中村盛観さん(70)は、被災当初を振り返り目を潤ませる。
 町役場が被災し、職員139人のうち加藤宏暉町長を含む33人が死亡または行方不明となった同町。行政機能は完全にまひし、外部への支援要請はおろか、町内の状況把握すら満足にできなかった。
 真っ暗な避難所でずぶぬれのままビニール袋をかぶり、肩を寄せ合って飢えと寒さをしのぐ被災者。最初に手を差し伸べたのは、自らも被災し市役所が全壊した遠野市だった
 同市は「命のリミット」といわれる72時間を重視し、支援を決断。震災当日から市民ボランティアがおにぎりをにぎり、励ましの言葉を添えて避難所に届けた。
 翌3月12日未明には同町に職員を派遣し状況を把握。おにぎり約15万個のほか、全国の友好都市など33市町村から届けられた燃料や物資を沿岸各地の被災者に送り続けた。
 同町の平野公三総務課長は「遠野市は一番大変な時に支えてくれた。町民の命の恩人だ」と感謝する。
(2011年5月3日付け岩手日報)
http://www.iwate-np.co.jp/311shinsai/saiko/saiko110503.html


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2014年07月10日

早池峰神楽

 6月28日土曜日の朝、岩手県花巻市大迫BT(おおはさまバスターミナル)で見つけた町のキャッチフレーズ「神楽とワインの里」!(ヤッホー君のこのブログ、2014年7月4日付け日記「エーデルワイン」参照)
 この<神楽>(注1)について高橋博之さんに本日登場していただきます。

 花巻インターから車で約45分。古くから人びとの信仰を集める早池峰山の麓に位置する大償地区に500年以上前から伝わる山伏神楽です。同じ起源持つ岳神楽と合わせ、「早池峰神楽」と称されています。1976(昭和51)年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009(平成21)年にはユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。
 ドキュメンタリー映画『早池峰の賦』の監督、羽田澄子さんは1964(昭和39)年に初めて大償神楽を鑑賞したときのことを次のように語っています。

「いかにも山伏が舞ったであろう、颯爽と躍進的でしかも祈りが込められた舞に、ものを知らない私は『日本にもこんな芸能があったのか』と驚くばかりだった」

 そんな大償神楽も時代の変化の波が押し寄せます。かつては厳格な世襲制でしたが、高齢化・過疎化に伴い後継者難となり、世襲をやめました(岳は辛うじて世襲を維持)。今では、地域外からも、毎週一回の練習に若者がやってきます。介護施設や市役所で働く若者たちが仕事帰りにやってきて、先輩たちから手取り足取り教わっています…

 神楽の最後を飾る権現舞。
 権現様は口にひしゃくをくわえ、会場の歩き、四方に水をふりかける「水伏せ」の祈祷をやります。舞初めで厄年の人は申し出ると、舞殿に上がり権現様に頭をかじられ、厄払いをしてもらえます。神楽が終わると、聴衆も一緒に手伝って会場をつくり、直会が始まります。着替え終わった神楽衆も中に交じり、聴衆と酒を酌み交わし、神楽談義に花を咲かせます。
 権現舞が十八番の神楽歴70年の佐々木隆さんは言います。

「現世の中で、清める、救う、祓う、守る。これは人間社会の中でなくしてはならないもの。だから、芸の力を通じて、これらを存続させる。舞うときは、ただ無我の境地の中にあればいい。いのしえの魂にそのまま素直に操られていればいい。それが、芸の極みだ」

 これが、世界もその価値を認めた早池峰神楽です。

(高橋博之「民俗芸能・大償神楽」)
http://www.hiro-t.com/bunkaraisan/geinou/ohtsugunai/index.html

 早池峰神楽について書きます。
 今日は、早池峰神楽ユネスコ無形文化遺産登録記念祝賀会がありました。帰り道、神楽歴70年という大償の舞人、佐々木隆さん(78)から、「早池峰神楽」の真髄について、興味深いお話を聞かせていただきました。これがほんとに深い。改めて「早池峰神楽」の凄さを教えてもらいました。面倒くさがり屋なので、普段、あまりメモするのが嫌いですが、これはなんとしても一字一句書き留めたいと思い、質問しながら一心不乱に手帳に殴り書きしました。私の稚拙な文章力で加工するのはもったないような話なので、そのメモにできるだけ従って、要旨をご紹介したいと思います。多くの人にこの話を聞いてもらいたいです:

 昔、親父に言われたことがある。
「神楽は、神が楽しむと書いて、かぐらという。しかし、神の存在は目に見えない。だから、見て楽しんでいる不特定多数の聴衆が神だと思えばいい。神は何処と思えば、聴衆一人ひとりの中に神様が宿っていると。これに対して、普通の解釈は、神に奉納するのが神楽で、それを見て楽しむのが一般聴衆。まったく逆になっているが、神楽はみな表裏一体。右左、上下、表裏、天地、宇宙全体の原理を表現し、演じている。岳神楽と大償神楽も表裏。岳が表で表現していることを大償は裏で表現している。片方がなければ成り立たない。両方を支えるために両方がある」。実際に観察してみると、確かにそうだった。自分の舞う表があいまいなときは、相手の裏を見ることで分かることがあった。

(2009.12.13.Sunday 高橋博之「無我の境地」)
http://hiroyuki-t.jugem.jp/?eid=215

 この高橋博之さんって、こんな方(注2):

 1974年、岩手県花巻市生まれ。2006年岩手県議会議員補欠選挙に無所属で立候補、初当選。翌年の選挙では2期連続のトップ当選。政党や企業、団体の支援を一切受けず、お金をかけない草の根ボランティア選挙で鉄板組織の壁に風穴を開けた。2011年に岩手県知事選に出馬、次点で落選。沿岸部の被災地270キロを徒歩で遊説する前代未聞の選挙戦を展開した。2013年、後援会を解散し事業家へ転身。NPO法人「東北開墾」を立ち上げる。
http://taberu.me/tohoku/about/

 いま、『東北食べる通信』編集長としてCSA運動を展開中(ヤッホー君のこのブログ、2014年5月23日付け日記「CSA」参照):

 東日本大震災は食の重要性、人のつながりの大切さを再確認させた。国内ではなじみの薄い地域支援型農業(CSA)方式の普及を目指して2013年7月に創刊された月刊情報誌『東北食べる通信』の高橋博之編集長は、CSAの意義を「震災に遭った東北から都市と農漁村の新しい関係を創り出す取り組み」と強調する。
 同誌は東北の農家や漁業者にスポットを当てたタブロイド判の冊子と、生産者が手塩に掛けた自慢の一品をセットにしている。読者は首都圏のほか仙台市など各地に広がり、発行部数は1000を超える。
 誌面には消費者と顔の見える関係づくりや、作物作りに意欲のある生産者が登場する。ササニシキの親品種ササシグレを無農薬で栽培する遠野市の農家や、磯の風味の強い1番摘みのノリを作る東松島市の生産者らを紹介してきた。
 創刊直後から購読する東京都中央区の会社員渡辺俊さん(27)は「食材と雑誌が一体になったスタイルは面白い。贈答品として親類に配ることもある」と言う。
 ただ、読者からCSA会員に発展したのは約1割にとどまる。高橋編集長は「食べる通信は生産者と消費者のお見合いの場。いかに双方の関係を発展させられるかが課題だ」と語る。
 購読料は月額1980円。CSA会員の年会費は生産者ごとに異なる。どちらも同通信ホームページから申し込める。

(2014年04月07日月曜日付け河北新報、焦点「地域支援型農業広がる兆し 農漁村と都市つなぐ」) 
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201404/20140407_72018.html


(注1)
動画がアップされていますので、ぜひご覧ください:
http://www.youtube.com/view_play_list?p=83E79C0B5F2D1386

(注2)
 震災後、支援に入った大槌町の被災者から言われたことがあります。

「今の政治家には心がない。頭の中で考えるからダメなんだ。心っていうのは、頭の中じゃなく、体の中にある。だから、とにかく現場に行け。そして、まずは心で感じろ。そうすれば、何が必要かわかるはずだ」

 私はこれまで政治家の演説を聞いて、感動したことがほとんどありません。政治家は、みんなの代表です。そして、政治家の最大の武器は、言葉です。言葉でみんなの心を揺さぶることで、当事者意識に火をつけ、やる気を引き出すことができなければ、失格だと思ってきました。少なくとも、自分はそういう政治家になりたいと思ってきました。
 昨年の知事選で、私は訴えました。

「これからは農山漁村にこそ希望の種をまいていかなければならない。岩手の資源である自然を最大限活用した一次産業を立派な産業にしていくために、もう一度みんなで一緒に開墾していきたい。その背中を子どもたちに見せたい。都市への依存から抜け出し、自立しなければ、誇りを持ってこの地で生きていくことはできない」

 結果、16万票いただきましたが、完敗でした。私の言葉に説得力がなかった、私の演説を聞いて心揺さぶられる人が少なかった、ということだったと思います。頭で考えてつくった言葉ではなく、心の中からわきあがってくる言葉。それは、やはり現場を見るだけでは足りず、実際に手と足を動かし、汗をかかなければ、手にすることはできないんだと気づきました。

(2012.12.24.Monday 高橋博之公式ブログ「決断」) 
http://blog.hiro-t.com/?eid=1540


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2014年07月09日

エーデルワイス

 ヤッホー君のこのブログ、2014年02月19日付け日記「蔵王の樹氷」をお読みください。
 アイス・モンスターからオーストリア・チロル州のキッツビューエル市まで飛びました。
 ところでこのキッツビューエル市は、山形市と姉妹提携の関係にありました。
 昨年の秋には、国際交流会があったって、いいこと、いいこと、なかよく、なかよく、でしたね:

 10月23日から26日まで、山形市の姉妹都市のオーストリア共和国チロル州キッツビューエル市から34人の訪問団が山形市を訪れました。
 キッツビューエル市は、アルプス山麓にあり、景色が大変よく、四季を通じた観光・スポーツに適したリゾート都市です。
 キッツビューエル市と山形市は、オリンピックの金メダリストであり、俳優のトニー・ザイラー氏が主演した映画の撮影が蔵王で行われたことなどで交流が深まり、1963(昭和38)年2月に姉妹都市の締結を行っています。今回の訪問は、姉妹都市締結50周年を記念したもので、訪問団は、トニー・ザイラー氏をたたえる顕彰碑がある蔵王を訪れたり、山寺散策や芋煮会等で山形市の景色・文化に触れていました。

(広報やまがた、2013年12月1日号)
http://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/sub2/kakuka/somu/koho/annai/files/koho-h25/2013.12.01-01.pdf

 今年、山歩クラブ「岩手・早池峰合宿山行」時、花巻市の花巻温泉でいただき、たまたま生産地の大迫(おおはさま)町を訪れたとき出会った「エーデルワイン」!
 その名の由来は早池峰山のエーデルワイスにあって、その縁で、花巻市はオーストリア州ニーダーエスターライヒ州ベルンドルフ市と姉妹都市の関係にあることを知りました。

 そしてヤッホー君、この間の日曜日は上野でもたれた「小・中学校同窓会」関東近辺者の集いに出かけたのです。20余名の出席者のなかには、山形からさくらんぼをぶらさげてはるばる新幹線で、そして最近、訪れたい観光都市第一位になったという京都(注)からも新幹線で、とか来られていましたが、その中には、「東京マコト産業」(厚木市上依知498-7 Tel 046-204-2755)の社長さんも:

 オーストリアのシュワッツ市に本社を置くチロリット社の研削砥石を取り扱っております。
 チロリット社は1919年の創立以来、研削砥石を製造しており、年間約15,000トンを生産する世界最大級の砥石メーカーです。
 又その生産品目も、用途にあわせた豊富な各種ボンドを駆使して、アルミナ系、シリコンカーバイド系、ダイヤモンド、及びCBN等の、研削製品全てにわたっています。

http://tokyo-makoto.jp/

 シュワッツ市って、オーストリア共和国チロル州シュヴァーツ郡シュヴァーツ市のことかな?今度、聞いてみましょう:

シュヴァーツ
 チロル州、イン渓谷にあるシュヴァーツは銀山で富をなしてきました。
 1500年にはすでに最も栄えた鉱山都市の中心であり、町に立つ銀山の記念碑がそおの当時の豊かさを今に伝えています。
 その当時、産出された85%銀がここから掘られたもので、シュヴァーツ銀山はハプスブルク家の大きな財源として「あらゆる鉱山の母」と呼ばれました。
 現在見学できる中世一の銀山、チロルで最も大きいゴシック様式で、屋根には14000枚以上の銅版が使われた教区教会、16世紀初頭に建てられ、昔の商業取引所であった市庁舎、1525年のフッガー家の屋敷、ザルツブルクの歴史的に有名な医者、パラセルススが宿泊したオルグラーハウス、皇帝マキシミリアン一世が建てたフランチスカーナー修道院などが見所です。

(オーストリア政府観光局、小都市の魅力を発見)
http://www.austria.info/jp/regions-and-federal-provinces/kleine_historische_Stadete-1699997.html

 では、ここで、とっておきの早池峰山のハヤチネウスユキソウと、エーデルワイスの歌資料を:

うすゆきそう.jpg

The Sound of Music, Julie Andrews:
http://www.youtube.com/watch?v=CtEFcqNAFlU

The Sound of Music Tour - movie locations:
http://www.youtube.com/watch?v=DyS_C4PeBrw

慶應義塾ワグネル・ソサィエティー女声合唱団:
http://www.youtube.com/watch?v=4U8zoSxphSs


(注)
世界で最も影響力のある米の旅行雑誌「トラベル+レジャー」が発表した読者投票による2014年の人気観光都市ランキングで、京都が初めて1位になったことが7月2日、分かった…
京都市によると、2013年に同市を訪れた観光客数は過去最高の5162万人を記録。外国人宿泊客数は113万人で、初めて100万人を突破した。
(2014/07/03 01:35【共同通信】)
http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014070201002234.html


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2014年07月08日

あたらしい憲法のはなし

 「旧・教育基本法」(1947年3月31日制定公布)…
 「公共」をもちだされて何も言えない、唯唯諾諾(いい だくだく)と従わざるを得なかった日本人が、「個人の尊厳」と「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」を前文のなかでようやく手に入れたのが1947(昭和22)年、しかし2006(平成18)年、「戦後レジームからの脱却」を目指され、その「全部を改正」され、手放してしまいました。  
 「個人の尊厳を重んじ」はかろうじて生き延びるも、前文から「個性」も「真理と平和を希求する人間」も消え、代わりに、「真理と正義を希求し、公共の精神を尊び…伝統を継承し」とやたら長い文句が「教育」に詰め込まされてしまい、学校教師も忙しくなったようで(注)。
 当時、1947(昭和22)年とはどんな時代だったのか、映像とともに皆んなの唇にのぼった流行り歌を2曲ばかり聴いてみましょう、いずれも珍しくこの国の反戦歌、厭戦歌だったと言われています:

 『星の流れに』
http://www.youtube.com/watch?v=2ChBdN6CwSM

 映画『肉体の門』(田村泰次郎1947年作)のスチールとともに、もう一度:
http://www.youtube.com/watch?v=RJJ0QsYNJfg

 さらにもう一曲『夜のプラットフォーム』を今日は森昌子で:
http://www.youtube.com/watch?v=TY-uw7sqf28

 このような時代に、1947(昭和22)年文部省は、自ら戦争の責任を問い、「憲法」を解説しますが、何年くらい解説したと思いますか、自らの手で封印してしまいます:

 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。
 こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。
 だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

(文部省『あたらしい憲法のはなし』)

 これはいま、「岩波現代文庫」で読めます:

 1946〜47年に政府が日本国憲法(1946.11.3公布、1947.5.3施行)を普及させるために作った小冊子3冊を再録し、併せて大日本帝国憲法の全文と英訳付き日本国憲法の全文とを収める。
 「新しい憲法 明るい生活」は1947年5月3日発行、憲法普及会編、同会は1946年12月1日「新憲法の精神を普及徹底し、これを国民生活の実際に浸透するよう啓発運動を行うこと」を目的に設立されたものであり、憲法公布後1年間にわたり、メディアを動員して活動した。
 この小冊子はじつに2000万部が全国の家庭に配布された.

 最も広く知られる「あたらしい憲法のはなし」は1947年8月2日発行。
 著作・発行者は文部省。中学1年生用の社会科の教材。350万部が配布され,すぐに200万部増刷されたという。第9条「戦争放棄」の有名な挿絵は、本書の表紙カバーにも使用した。

 上の2冊に比してあまり知られていない「新憲法の解説」は1946年11月3日発行、序を吉田茂(内閣総理大臣)、金森徳次郎(国務大臣)、林譲治(内閣書記官長)が執筆、法制局・閲、内閣・発行。この冊子を通じて当時の内閣の新憲法に対する初めての見解を知ることができる。

(岩波書店、岩波現代文庫『あたらしい憲法のはなし 他二篇』)
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6032640/top.html

 このあたりの経緯について述べた学者先生では、次の愛知東邦大学の荒川紘先生「教育基本法と儒教教育」(2010年6月、東邦学誌、第39巻第1号所収論文)がよろしいので、ぜひお読みください:
http://www.aichi-toho.ac.jp/pdf/201006003901_04.pdf

 先生は、同年2010年『教師・啄木と賢治』(新曜社)を出版されています。
 山歩クラブの「岩手・早池峰合宿山行」からなかなか離れられないヤッホー君、この著作を熟読したら読後感をまた日記につけたく思っております:

 私の職場の大学も変わった。人間教育を担う教養教育は1991(平成3)年に大学設置基準の大綱化の名のもとに縮小され、担当部局の教養部は解体された。
 10年前、2004(平成16)年には、すべての国立大学が独立行政法人(国立大学法人)となる。一般の会社とおなじく大学は理事会の指示で動く組織となり、それまで大学運営の中心にあった教授会は形だけのものとなった。
 政・官・財が一体となって産学協同の徹底化=「教育の市場化」を推進させようとする大学改革に私たちは抗し切れなかったのである。
 それに、大学の内部でも法人化を望む教員が少なくなかった。
 こうして、戦後「国民のため」の大学として出発した新制大学は死んだ…

 盛岡中学校の白亜の校舎は今はない。でもそこに学んだ啄木と賢治の精神は、石割り桜のように今も生きつづける。
 私はその精神をうけつぎ、若い人々に伝えてゆかねばならない。その気持を強くして、盛岡を後にした。

(2010年5月、荒川紘、同書「あとがき」) 
http://shin-yo-sha.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-34f6.html


(注)
 OECD加盟国のなかで日本の場合、教師の教える時間(Teaching)が少ない代わりに、事務仕事(Adminitrative work)、Planing、Team work、Student Counsellingに充てる時間が長い(2014年6月25日) 。
http://www.compareyourcountry.org/chart?cr=average&cr1=oecd&lg=en&project=teacher-survey&page=3

 OECDの調査結果の概要についてはこちらの映像付きプレスリポートで(同じ2014年6月25日):
Teachers love their job but feel undervalued, unsupported and unrecognised, says OECD
http://www.oecd.org/newsroom/teachers-love-their-job-but-feel-undervalued-unsupported-and-unrecognised.htm


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2014年07月07日

教育基本法

 「教育者としての新渡戸先生の精神」はたしかに次世代へとたすき掛けで渡されていきます。
 ヤッホー君、その想いを強くするのが、「あの時代」。
 とんでもない戦争に総動員でまきこまれ、原爆や無差別爆弾を落とされ、一面、焼け野原になってしまって、食べるものにも事欠いたあの敗戦後、「戦争なんか嫌だ」を決意した先人たちのあの形相です。
 「あの時代」、撒かれた「新渡戸先生の精神」の種子があっちこっちで芽をだし、育って、実を結んだ、というのですから、やはり「教育者」でした。
 ヤッホー君、今日は「教育者」新渡戸が「教育」そのものとどう結びあわされていたか、その「舫(もや)い」をちょっと考えておりました。

 「あの時代」、あのときのわれわれの決意を、「戦後レジームからの脱却」として否定し、なかったことにしようって、憲法まで自分の解釈で同盟国にこの国の若人の命を差し出させるようにしようって、その布石に狙われたのが「教育」でした:

 「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍晋三政権は、戦前の教育勅語教育体制を抜本的批判否定する教育原理と原則を込めた「旧・教育基本法」(1947年3月31日制定公布)を、政治的絶対多数を占める国会で改正(2006年12月15日)し、「新・教育基本法」を同年12月22日に公布・施行した。ついで2007年6月22日、教育関連3法案(学校教育法、教職員免許法、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の改正案)を可決した…。

 改悪させられてしまった「旧・教育基本法」にはふたつ、大切なことがあった、と言われています:

 第1に、教育基本法は日本国憲法の精神に則って制定されたということである。
 旧・教育基本法は、教育刷新委員会でその原案が審議され、帝国議会で1947年3月31日に制定され、当日、公布施行された。日本国憲法が1947年5月3日施行であるので、教育基本法は無効であるなどという見解を主張する人びともいるが、これはためにする見解である。なぜならば、日本国憲法がすでに前年の1946年11月3日に公布されているからである。また日本国憲法の審議の過程で、当時の田中耕太郎文相によって教育の基本を定める「教育根本法の制定を考慮している」と表明され、教育刷新委員会が設置され、教育基本法の原案の作成に着手されたという経緯がある。それゆえに日本国憲法の制定に続いて、教育基本法が制定されたのである。このことは、教育基本法の前文においても明言しているところである。

「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである(中略)ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」

 第2に、教育基本法は、戦前の教育勅語の教育的価値を根本的に批判し否定して制定されたものである。
 教育勅語の教育的価値は国民が天皇制国家に命を投げ出すことを至高とするものであり、その教育は超国家主義軍国主義的性格を有するものであった。
 これに対して教育基本法は、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」(前文)と「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」(前文)をめざす教育を普及徹底するとともに、教育の目的を「人格の完成」(第1条)であると宣言した。

 しかし、皮肉にも、教育基本法が教育的価値として「個人の尊厳」「人格の完成」「平和」を掲げたために、改正論議にさらされることになった。

(武庫川女子大学文学部教育学科・中谷彪「新・教育基本法の問題点と批判〜教育における『戦後レジームからの脱却』の本質〜」武庫川女子大紀要(人文・社会科学)、2007年)
http://libir.mukogawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10471/446/1/02%E4%B8%AD%E8%B0%B7.pdf

 「あの時代」、あのときのわれわれの決意が教育基本法にどう結実したのかについて「教育刷新委員会」での審議過程で読みとることは、長いこと、ヒ・ミ・ツ!逆に教育基本法が悪者にされてまな板の鯉となり、出来の悪い料理人によっていかようにも裁断されかねなくなっておりました:

 「教育刷新委員会」の会議録は、長らく非公開であったが、1995年から1998年にかけ、日本近代教育史料研究会(代表 佐藤秀夫・寺崎昌男・橋口菊)によって岩波書店から『教育刷新委員会教育刷新審議会会議録』(全13巻)として刊行され、議論のすべてが把握できるようになった。
(広島大学大学教育研究センター・羽田貴史「戦後日本の教育改革と森戸辰男」)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/hua/public/kiyou001/hata.html

 いまの「解釈改憲」と同んなじ手法を用いて、われわれ国民をかやの外において、おトモダチ、お仲間内ですすめられた「教育改悪」…岩波書店から『なぜ変える?教育基本法』が出版されたのは、2006年10月5日ですよ。
 2006年12月15日国会成立、その一週間後、同年12月22日に公布・施行ですから、わずか2ヶ月とちょっと前のこと、いやぁ〜、この国のミンシュシュギなんて信用できない、みじめな格好のそのひとつ、としか言いようがありませんね。この本は:

 「国家のために死ぬ」戦前の教育から「一人一人の生を大切にする」戦後の教育へ
 教育の根本法は、憲法とともに大きく転換しました。
 いま、その根本法が、再び「愛国心」などを目標とするものに戻されようとしています。
 本当に変える理由はあるのでしょうか?
 大江健三郎、暉峻淑子、姜尚中、尾木直樹、西原博史、苅谷剛彦氏らの論考、対談を収録。

https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/3/0241580.html

 ところで、この「戦前の教育」から、「戦後の教育」へと転換した時代にあたってキーパーソンとして、主役として活躍した人物たち、「札幌の子」たち:

 先に矢内原忠雄が内村、新渡戸の2人を師とし自らを「札幌の子」と言ったことを紹介しました。矢内原はこれを書いた時、東京帝大教授を追われて野にありましたが、敗戦により復帰して戦後2代目の東大総長となります。その前任者南原繁も同じようなことを述べています。また戦後最初の文部大臣前田多聞、その後継者阿部能成、さらに、天野貞祐、森戸辰雄と戦後歴代の文部大臣がすべて「札幌の子」だったのです。
 この人達は東京帝大経済学部または法学部出身ですから、新渡戸の直接の教え子なのですが、内村との接点はどこにあったのでしょうか。先に触れたように、新渡戸教授の家には多くの教え子が押しかけていたのですが、その中にはキリスト教に強い関心をもつ者も少なくありませんでした。新渡戸は彼らに「その勉強がしたいのなら私よりずっと偉いやつがいる」と内村を紹介していたのでした。こうして新渡戸→内村ルートを歩いた一群の人達が「柏会」「白雨会」などのグループをつくり、自分たちを「札幌の子」と自認していたのです。
 彼らは、新渡戸の直接の後継者として植民政策学講座の教授となった矢内原がそうであったように、二人の師の亡き後それぞれの立場で軍国主義への抵抗を続け、敗戦と共に戦後改革の先頭に立ち、戦後民主主義のオピニオンリーダーとなっていったのです。
 上に挙げた名前以外にも経済学者の大塚久雄、最高裁判所長官田中耕太郎などビッグネームにこと欠きません。彼らの活躍はまさに内村、新渡戸の思想、さらには札幌農学校の精神の力強い復活だったのです。
 「札幌の子」は東大ルート以外からもたくさん生まれました。一例として後に総理大臣となった石橋湛山を挙げておきましょう…

(北海道大学大学院農学研究科・太田原高昭「内村鑑三と新渡戸稲造」、高等教育ジャーナル─高等教育と生涯学習─10(2002)所収)
http://socyo.high.hokudai.ac.jp/Journal/J10PDF/No1013.pdf

 株式会社「日本」になろうとしているイマ、「教育」(注)をイマ一度、考えるって、ヤッホー君!


(注)
★ 塾指導ノウハウを取り入れた学校が大学受験で大躍進(2012.05.20 07;01)
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1312
★ 江東区では一部の小学校で塾講師が担任をサポートする授業を採用している…学校側からみれば、講師の外注に相当する…さらに今後、都市部の公立学校では、少子化に伴い統廃合が進むことも想定され、公立学校の経営を民間企業に委託する可能性もあると考えられる(学校教育と塾産業の連携についての一研究)
http://www.kyoiku-u.jp/assets/files/documents/Journal/02-01.pdf
★ 教育への公的支出日本は最下位 奨学金制度が鍵=OECD報告書「2010年の日本の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は前年と同じ3.6%で、加盟国で比較可能な30ヶ国中最下位だった。最下位は4年連続(2013年06月28日 21時36分)
http://www.huffingtonpost.jp/2013/06/25/oecd_education_at_a_glance_2013_n_3496085.html

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2014年07月06日

新渡戸稲造

 「願はくはわれ太平洋の橋とならん」の信念のもと、国際人として活躍した新渡戸稲造。
 彼の先祖は1598年(慶長3年)から約230年間、花巻の地に居住し、花巻城士の文武両道にわたる指導にあたるとともに、新田開発に情熱を傾けた一族でした。

(新渡戸稲造父祖ゆかりの地 花巻新渡戸記念館)
http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/505/507/p004141.html

 1862(文久2)年8月8日 盛岡鷹匠小路(現:下ノ橋町)に生まれる。
(盛岡市先人記念館、新渡戸稲造)
http://www.mfca.jp/senjin/nitobe/index

 盛岡に生まれて記念館がどうして花巻にあるの?ヤッホー君の素朴な疑問です。
 それはね、「新渡戸家は、もと水戸部といい、いまの千葉県に城をかまえていた、豪族のひとつでした。それがおよそ450年ばかりまえ、奥州の花巻にうつりすみ、名を新渡戸とあらため南部藩につかえました」(保永貞夫『新渡戸稲造』講談社火の鳥伝記文庫、1984)からなんですよ。

 新渡戸は1933(昭和8)年カナダのバンフで開かれた太平洋会議に出席しますが、病を得てカナダのヴィクトリア市ジュビリー病院に入院し、ついに10月15日(日本時間16日)、73歳で客死しますが、気分のよいときの逸話が残っています(同書):

「ぼくは食べたいものを10(とお)ばかり考えたよ」
というので、
「それは、なんとなんですか」
とたずねると、
「あぶらあげと、ねぎのみそしる、生ざけのてりやき、ぜんまいとあぶらあげの煮つけ、からすみ、きゅうりもみ…」
とじょうだんのように話しました。


 死の床にありながらも、新渡戸は鉛筆でヨレヨレになりながらも「編集余禄」をしたためて、「大阪毎日新聞社」に送っていました。
 死の20日前に掲載された分にはこうあります。

 軍隊をもたぬほど軍縮をしている国はひとつもない。理由はいろいろあるが、どの国も武装している。何らかの非常事態に備えている。
 この非常事態はふつう、ある悪い隣国からくると考えられている。
 しかし「準備」自体が敵を招き寄せることを知る人は少ししかいない。
(「武装の重み」)

(佐藤全弘『新渡戸稲造の精神』教文館、2008)

 亡くなったあと「大阪朝日新聞」1933年10月17日号には「最後の大演説 鶴見祐輔氏談、故新渡戸博士の愛弟子だった鶴見祐輔氏は語る」としてこんな記事も掲載されています:

 去る9月8日の夜バンクーヴァで開かれた西洋人の小パーテーで新渡戸先生は演説をせられたが、思えばそれが最後の大演説だった。私もその場に居合わせて聴きましたが、その会は30人位の小さな会で食餐のスピーチで20分も話されればいいところを実に、1時間半の大演説をせられ、どうしてあんな長い演説をせられるのか私は不思議に思ったのですが、今にして思えば虫の知らせで、生涯の納めの演説をせられたのかも知れない。
 その話は満洲問題を大所高所から見て、偉大なる氏族は西に向って拡がって行くという言葉で日本が満洲に向って行くのは氏族の運命で、水の流れのようなものだと論断され、更に72歳にもなり、なすべき仕事も終ったので、いつこの世を去ってもいいが、太平洋を中心に立派な文明を建設してもらいたいと結び、その未来の文明の予言のような大演説には、群衆は非当な感銘に打たれた。
 また先生は世界平和を唱えられる一面には、非常な愛国者で、外国で日本の悪口をいわれると顔色を変えて怒るくらいだった。
 先生の死は日本にとって取返すことのできぬ損失である。
 先生は人間として人の心を打つ。
 それは言葉の問題ではなく、先生の人柄に外人は打たれたのである。
 まことに人間として円熟した人であった

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10086908&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 「大阪毎日新聞」(本人執筆)と「大阪朝日新聞」(本人に寄せる寄稿文)と読み比べると…
 もちろん、当時(イマもそうでしょうが)言論の自由とか表現の自由とか、真理追及が外圧だったり、内部規制だったり、「ただちに害は及ぼさない」から、ま、いいかあみたいに自主規制したりして、その時々のまわり(社会、世界、他者)との関連で、「限界性」が見え隠れする、とくに売文業は。
 しかし、それが新渡戸の限界、矛盾で、どちらかに決めつけるのは、「とりあえずやめとこ」ってのも、ヤッホー君、あまり好きじゃないみたい。
 これでは今日の日記は終われない(ま、いつも未完で、未来に開かれてはいるって言うものの)…

 やっぱり矢内原忠雄は偉い!これを一字一句かみしめながら読んで、書き写して締めくくります:

 今一度、教育者としての新渡戸先生の精神を要約して見ませう。
 第一に、日本人の心を広くして島国的の独り善がりから解放しなくては、国際社会に於ける我が国の地位を向上し、尊敬を受けることは出来ない。
 第二に、心さへ「縦の関係」に於いて依り頼むところがあれば、世間の誤解や非難を怖れることはない。又一々之に弁明するに及ばない。正しいと思ふことを言ひ、又行ふべきである
 博士の死後、満州事変は支那事変にと拡大しました。事変処理とその後に来る困難に処して行くには、博士の残した精神こそ日本国民の最も必要とするところでありませう。

(矢内原忠雄、前掲書『余の尊敬する人物』221-222頁) 



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2014年07月05日

矢内原忠雄

 昨日、日記「エーデルワイン」を付けた後、eチャリで両国駅へ。
 向かった先は、6月22日の日曜日、人、人であふれかえっていた鎌倉!
 そのとき、「十六夜日記」の作者、阿仏尼の屋敷跡にあったという「月影地蔵」は訪れることができたものの、肝心の住居跡、そして阿仏尼の供養塔は見損なったので、それを探しに歩いてみようという魂胆です。さらに、上野清水寺で教えていただいた「久盛」、じゃないよねぇ〜、それじゃ、「ご飯大盛り」じゃない、「盛久」の史跡を求めて…
 とってもディープな鎌倉散策です。

 江ノ電「極楽寺」駅の方、親切にも<月影の谷>の場所を教えてくれました。

「あずまにてすむ所は、月かげのやつとぞいふなる。浦近き山もとにて、風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかにすごく浪の音松のかぜたえず」(十六夜日記)

阿仏尼.jpg

 その近くには鎌倉十橋のひとつ、『針磨橋』(はりすりばし)も。
 「鎌倉十橋の一にして 往昔此の附近に針磨(針摺)を業(なりわい)とせし者住みにけりとて 此の名ありといふ」(碑文)

針磨橋.jpg

 あぁ良かった、これで今日の散策の目的の半分は達成、やれやれと胸をなでおろして、さらに江ノ電で「長谷」駅へ。
 前回は待ち時間90分以上とか掲示がでていて山門で集合写真だけ撮って引き上げた「長谷寺」を目指します。
 ところが、その「長谷寺」にたどりつく前、ひょいとヤッホー君の細い目に飛び込んできたものがあります。
 「収玄寺」(鎌倉市長谷2-15-12)! ヤッホー君、吸い込まれてしまったのです、いやぁ~、びっくり!

金吾.jpg

 これは、東郷平八郎揮毫による「四条金吾邸址」の石碑です。東郷平八郎って日露戦争の時、連合艦隊を率いた海軍大将、陸の乃木に海の東郷と言われた軍人ですが、日蓮宗の信者でもありました。
 いえ、ね、ヤッホー君が吸い込まれたのは、将軍とか石碑ではなく、「金吾」という文字に吸い込まれてしまったのです。

 7月3日水曜日の午後、ヤッホー君は早池峰山合宿山行から戻ってどうしても新渡戸稲造を調べておきたかったので、深川図書館で「新渡戸稲造」研究に没頭していました!
 新渡戸稲造の弟子ともうたわれた矢内原忠雄(1893-1961、戦後の1951年から1957年まで東京大学総長)『余の尊敬する人物』(岩波新書、1940)のなかに、でてきます:

 9月21日付、四條金吾頼基への手紙も残つてゐます。金吾は鎌倉の武士ですが、武家信徒の中、日蓮の最も愛した者でありました。龍の口法難の夜、彼は鎌倉から日蓮に従つて来、切腹して殉死しようとしたのであります。その純情を愛でて、日蓮は次のやうに書き送りました。

「さてもさても去る12日の難のとき、貴邊、龍の口までつれさせた給ひ、しかのみならず、腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなりけれ。…日蓮霊山(りやうざん)にまいりて、まづ四條金吾こそ法華経の御故に、日蓮と同じく腹切らんと申し候なれと、申上ぐべきぞ。…強盛の信力こそありがたく候へ」

(矢内原忠雄、同署、73-74頁)

 これは矢内原があげた4人、エレミヤ、日蓮、リンコーン、新渡戸博士のうちの「日蓮」に出てきます。
 この「日蓮」人物観の末尾で矢内原はこう述べて締めくくります。
 イマのわれわれにも大事な指摘なんであります:

 日本人は長い間の封建制度の下に、「長いものには巻かれろ」といふ思想的奴隷の態度を養われて来ました。
 真理の故に真理を愛し畏しこむといふ思想は蔽われて来たのです。
 併し何時までもさうであつてはいけますまい、鎌倉時代の日蓮は、真理の為めに真理を愛し、真理によつて国を愛し、真理の敵に向つて強く「否(ノウ)」と言ふことの出来た人であります。
 さういふ人が昔の日本人の中に居たといふことは、私共の慰めであります。


 と、書いた矢内原の闘いの一例:

 1937年8月、矢内原忠雄は「国家の理想」と題する一文を『中央公論』9月号に寄稿したが、即座に発禁処分となった。それは、日本の中国侵略や国家精神総動員などを暗に指しながら、それらが「国家の理想・国際正義・根本精神に反する」と、哲学的・宗教的視点より批判する内容だった。同年10月、東京帝国大学経済学部長だった土方成美が経済学部教授会の席で「国家の理想」の主張を問題視して矢内原批判を展開し、その結果、矢内原は同年12月、東京帝国大学を辞職せざるを得ない状況に追い込まれた(1)。時はあたかも、日本軍が蒋介石政権の首都南京に進攻し、日中戦争が本格化し始めた時期だった。

(1) 矢内原の「国家の理想」執筆とその後の東京帝国大学辞職までの経緯は、大河原礼三編著『矢内原事件50年』(木鐸社、1987年)に詳しい。

(松谷曄介、矢内原忠雄と中国─「国家の理想」から王明道訪問へ─、2012年9月立命館大学『社会システム研究』第25号、査読論文として所収)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/ssrc/result/memoirs/kiyou25/25-05.pdf

 矢内原についてはその息子、矢内原伊作(1918-1989)による伝記『矢内原忠雄伝』(みすず書房、1998年)があります:

 矢内原伊作は父忠雄の伝記を没後12年を経て執筆しはじめた。その動機は〈欠点を含むその人間の全体を理解し、彼が真理のために戦った戦いを我々もまた戦うためである〉と記されている。まことに矢内原忠雄はひたすら一筋の道を風に抗して独り歩んだ。その歩みの内面的消息を、著者は主人公に対する深い共感をもって、我々の前に明らかにしてくれる。
 矢内原忠雄はすぐれた経済学者、大学人、無教会キリスト者であった。そして、内村鑑三、新渡戸稲造を継ぐ人であった。その学問、教育、伝道の多方面にわたる活動、戦時下の苦難、戦後復帰してからの活躍、これらの外的事実についてはよく知られるところである。しかしここで著者が描こうとするのは、何よりもその〈母胎になっている、彼の人間そのものの形成〉である。《朝日ジャーナル》に連載され未完に終わったこの伝記は、矢内原の69年の生涯のうち誕生から40歳までを描くが、著者の意図は見事に達成されているといえよう。

http://www.msz.co.jp/book/detail/03200.html#more-a1



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2014年07月04日

エーデルワイン

 なに、なに?「白金豚にワイン」だって?
 料理を運んでくれたホテルの食事処の方にヤッホー君、「あっ、結構なお味ですが、なんというワインですか?」ってお聞きしました。
 その方、なんとかとおっしゃって、サイキンとみに耳が遠くなったヤッホー君、「あっ、そうですかあ、テーブルワインですか…なるほど」と。
 その方、訳のわからないことを言う客だな、と苦笑して立ち去りました。
 いっしょにテーブルを囲んでいた仲間から「違うわよ、銘柄がちゃんとあるよ」って注意されました。

 これは、テーブルワインでなく「エーデルワイン」(エーデルワイン工場、ワインシャトー大迫:花巻市大迫町大迫10-18-3 Tel 0198-48-3037)!

 それが分かったのは6月28日土曜日の朝、大迫BT(おおはさまバスターミナル)で早池峰登山口へ向かうバスを待っているとき。
 見つけたのです。町のキャッチフレーズ「神楽とワインの里」!

 ではIBC岩手放送「じゃじゃじゃTV」の土村萌さんのレポートでちょっと déguster してみましょう。
 2010年06月26日付けブログ「こんにちワイン!おいしいわいん!!」
http://www.ibc.co.jp/announcer/tsuchimura/index.php?startpos=287

 2012(平成24)年8月7日(火)に、国産ワインコンクール実行委員会主催(今年で10回目)による国産ワインコンクール2012(Japan Wine Competition)結果が発表になりましたので、報告いたします。
 東北6県のワイナリーでは、初めての金賞受賞となります。
(エーデルワイン いわて早池峰山麓 国産ワインコンクール2012金賞受賞)

http://www.edelwein.co.jp/jwc2012gold

 2013年度も médaille d'argent シルバープライズでした。でも表記は vinでもなしい、wineでもないし、なんで weinなの? 実は、ね;

 大迫のワインづくりは、1947(昭和22)、1948(23)年カザリン・アイオン台風が、大迫町に深刻的な被害を与えたとき、当時の県知事国分謙吉が大迫に傾斜地がおおく、また年間降雨量が少ないこと、地質的に石灰質であることに着目し、復興策の一環として「大迫町は葡萄栽培の適地である。大迫を日本のボルドーに」、と葡萄栽培奨を奨励したことから始まりました。
 1950(昭和25)年に岩手県立農業試験場大迫葡萄試験地が創設され、県内で最初の本格的な葡萄栽培の奨励と振興が始まりました。
 そして、1962(昭和37)年には町役場と農協が中心となり「岩手県ぶどう酒醸造合資会社」(現株式会社エーデルワインの前身)が設立、ワインづくりがスタートしました。
 大迫町には高山植物で有名な「早池峰山」があり、この山に自生する「ハヤチネウスユキソウ」(早池峰山固有の高山植物)がヨーロッパ・アルプスの「エーデルワイス」と同一の種であることが植物学者によって発見され、この花のとりもつ縁で、大迫町はオーストリアのベルンドルフ市と1965(昭和40)年に姉妹都市となりました。
 そしてこのアルプスの名花”エーデルワイス”にちなんで、ワインの名前がつけられました(これにより ”EDEL WEIN” のワインはドイツ語表記となっております)

(エーデルワインのこだわり、おいしさの秘密)
http://www.edelwein.co.jp/archives/kodawari/oisisa

 姉妹都市、ですか… オーストリアの町と…
 ちょっと長くなりますが、美味しいワインについてちょっと苦労話しをお聞きしませんか:
 
 1962年7月、岩手県体育大会の山岳競技が早池峰山で開催された折、ホスト会場である大迫町の村田柴太町長は、岩手県山岳協会理事長の村井正衛氏や役員達と、町が買い上げたばかりの山伏の院坊であった妙泉寺の囲炉裏端で歓談した。その席上、村井氏が旧知の村田町長に、「早池峰山のシンボルであるハヤチネウスユキソウとアルプスに咲くエーデルワイスが植物学的に姉妹花であるところから、二つの花を交換してみてはどうだろうか」と提案した。これが縁結びのきっかけとなり、同年10月村田町長は、大追町に似た規模の山の町で、しかも文化の豊かな町と友好都市提携を結びたいので相手を探してほしい旨を、外務省やオーストリア大使館に申し入れた。
 ハルトルマイヤー大使はこの要請を快諾したが、3年位の時間が必要であると回答した。
 大使館からの依頼を受けて、オーストリア全国市町村会が斡旋の労をとることになったが、候補地選びに時間をかけ、慎重に選考した結果、市町村会はウィーンの森の一角に位置し、ラックス山、シュネーベルク山のふもとにある山間の町、オーストリア州ベルンドルフ市を推薦した。当事者となったベルンドルフ市は、1964年2月8日、議会で大迫町との友好都市締結を議決した。この結果は、外務省欧亜局長を通じて、1965年3月26日に大迫町に正式に通知された。早速村田町長はベルンドルフ市との友好都市提携を議会に諮ったが、ある議員から友好都市締結の意義を質問され、「行政の中に形のある仕事、精神的条件づくりと二つある。(友好都市交流は)<一服の清涼剤>となるだろう」と答弁した。
 道路や橋の建設など形のあるものと、心の涵養の両輪があってはじめて町の活性化が図られるということを、村田町長はこの時点ですでに認識していた。姉妹都市交流が現在ほど盛んでなかった37年前、町長はじめ議員たちはその意味、内容、効果などをめぐり熱心な議論を重ねたが、1965年4月16白町議会で、ベルンドルフ市との友好都市締結の議案を満場一致で可決した。大迫町は盛大な式典を催すべく準備に半年を費やし、1965年10月12日、フリードリッヒ・ハルトルマイヤー駐日オーストリア大使臨席のもと、大迫町とベルンドルフ市の友好都市締結記念式典を挙行した。当目は快晴に恵まれ、式典会場となった大迫町立大迫小学校の校庭は老若男女の町民で埋め尽くされ、町は祝賀に沸き、ベルンドルフ市一色となった。
 一方、ベルンドルフ市も同日ベルンドルフ市立劇場において、法眼晋作オ…ストリア国駐墺日本国大使列席のもとに、友好都市締結式典を挙行した。

 「良いワインは良い葡萄からしか生まれません。又、葡萄耕作のたゆまぬ向上と耕作者との信頼がなければよいワインは生まれません。エーデルワインはこのポリシーのもと、より良いワイン造りを通じて、地域と社会の繁栄と豊かな生活文化に貢献することを基本理念としております」という会社の「企業精神と基本理念」が示すとおり、産地主義を固守する会社は、1年間に使用するブドウ400トンの全てを、大迫町周辺から調達している。そのうち4分の1はワイン専用品種で、大迫町の30軒の農家が栽培している。ワインの良し悪しは、ブドウの出来不出来にかかっているので、栽培技術もないがしろにできない要素である。栽培者の顔が見えるワイン造りを、モットーとしている。常に技術革新に励み、世界最高の品質を目指す会社は、醸造技術習得のため、1981年と1998年に、職員をオーストリアの国立ワイン専門学校に2、3年間留学させている…23人の従業員が生産する商品は、今や50種を数え、年商約3億7400万円を誇っている。しかし、商品は岩手県内での人気は高いが、東北、さらに全国となると認知が乏しい。
 この現状を打破するために宣伝網を確立し、2010年には年商10億円を目標に、さらなる企業努力を続けなければならない。しかし、あくまで「土産土法」主義にこだわる会社の出発点は不変である。事業内容には自社でのワイン製造、販売の他に、ベルンドルフ市近郊のクレムスのワイン工場から輸入している3種類の白ワインの販売も含まれる。友好都市交流はこちらの経済的効果のみならず、相手先も巻き込んで大きく進展しようとしている。

(岩手県立大学総合政策学部・佐藤智子「大迫町とベルンドルフ市友好都市交流に関する調査研究」『総合政策 Journal of Policy Studies 第4巻 第1号(2002)pp75−92所収)
http://ci.nii.ac.jp/els/110001000439.pdf

 なお、大迫町でヤッホー君みかけたもうひとつの案内ポスター「坂倉登喜子のエーデルワイスの世界展」:

 開催日:7月1日〜8月6日
 開催時間:09:00-16:00
 開催場所: 大迫町大迫仲町 畠家
 住所: 花巻市大迫町大迫3-170
 内容: 坂倉登喜子さんは女性登山家の先がけとして活躍され、女性の登山普及や後進の指導に努められました。また、高い山に咲く清楚なエーデルワイスに魅せられ、世界各地のエーデルワイスの写真、アクセサリーなどのコレクターとしても有名です。

(花巻みんなの情報サイト、イベント情報)
http://hanamakinavi.jp/mobile/event_detail.php

 この坂倉登喜子さんは、1910(明治43)年、東京は日本橋に生まれ、10歳ごろから父の狩猟のお供で山を歩くようになり、1955(昭和30)に「エーデルワイスを愛する山へ登る女性のクラブとして」エーデルワイスクラブを創立してご活躍、その後、2008(平成20)年12月3日、老衰のため逝去(享年98歳)されたそうで、まだご存命とばかり思っていたヤッホー君、ご冥福を祈っております。
http://www1.ocn.ne.jp/~ewk-club/index.htm

 いまでもちょこちょこお会いする山歩クラブを卒業なされた仲間もこのエーデルワイスクラブに長いこと入会されて活動を続けていた経験をおもちでした。
 山歩クラブの合宿山行(秋田駒や栗駒)、月例山行(日光・高山、川治温泉から南平山など)の山域をご担当され、またミーティングでは、経験談を語っていただいたこともあったり、ヤッホー君の両目を開眼させてくれました(片方はもちろん岩崎元郎先生)。この次、お会いしたらご報告しようっと。



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2014年07月03日

フランドン農学校の豚

 郷土芸能「鹿(しし)踊り」!
 それは夜の8時からでしたので、ヤッホー君もちろん夕食はすませましたが、白金豚(はっきんとん)にワインは美味しかったぁ〜。
 賢治の花巻農学校「精神歌」にでてくる「白金」が名前の由来かな?
 だって、最終日の6月1日日曜日、ここホテル千秋閣12Fレストラン「「プロスパー」でランチしたときも「白金豚カレー」。だって<肉の旨みとコクを引き出しまろやかな口当たりに仕上げた自慢のカレーソースをお楽しみください>と言われちゃ、食べないわけにいかなかったのです。

 賢治に童話『フランドン農学校の豚』とあってこれが由来のようですね:

 ある夕方などは、殊ことに豚は自分の幸福を、感じて、天上に向いて感謝していた。というわけはその晩方、化学を習った一年生の、生徒が、自分の前に来ていかにも不思議そうにして、豚のからだを眺ながめて居た。豚の方でも時々は、あの小さなそら豆形まめがたの怒(おこ)ったような眼(め)をあげて、そちらをちらちら見ていたのだ。その生徒が云(い)った。
「ずいぶん豚というものは、奇体きたいなことになっている。水やスリッパや藁(わら)をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒(しょくばい)だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ。考えれば考える位、これは変になることだ」
 豚はもちろん自分の名が、白金と並べられたのを聞いた。それから豚は、白金が、一匁(いちもんめ)30円することを、よく知っていたものだから、自分のからだが二十貫で、いくらになるということも勘定(かんじょう)がすぐ出来たのだ。豚はぴたっと耳を伏(ふ)せ、眼を半分だけ閉じて、前肢(まえあし)をきくっと曲げながらその勘定をやったのだ。
 20×1000×30=600000 実に60万円だ。60万円といったならそのころのフランドンあたりでは、まあ第一流の紳士(しんし)なのだ。いまだってそうかも知れない。さあ第一流の紳士だもの、豚がすっかり幸福を感じ、あの頭のかげの方の鮫(さめ)によく似た大きな口を、にやにや曲げてよろこんだのも、けして無理とは云われない。
 ところが豚の幸福も、あまり永くは続かなかった…


 この白金豚(プラチナポーク)を出荷されている高源精麦さん(花巻市大通り1-21-1 Tel 0198-22-2811)のサイトにはもっと詳しく記載されていますのでどうぞ:
http://www.meat.co.jp/main.htm

 昨日紹介しましたブログ「宮沢賢治の詩の世界」もぜひお読みください:
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2007/09/post_494.htm

 この『フランドン農学校の豚』ってヤッホー君、手持ちの『注文の多い料理店』にはおさめられていません。その訳は:

 賢治の生前未発表作品が戦前に活字になったもののなかで「フランドン農学校の豚」と題された短編集(藤原嘉藤治編で1933(昭和18)年東京八雲書店刊)は異色の本である。
(米地文夫「宮沢賢治の『税務署長の冒険』における創作地名〜イメージのなかの景観と関わって〜」、岩手大学教育学部研究年俸第56巻第2号、1997年2月、32頁)
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1686/4/erar-v56n2p21-39.pdf

 ここででてくる「藤原(草郎)嘉藤治」って誰?

 新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の楽士だった大津三郎の自宅に練習のために通っています。賢治は「3日でチェロを演奏できるようになりたい」と頼み、大津は困惑しながらもレッスンを引き受けた。またこのレッスンは1928年の上京時にも行われたのではないかという説があります。
 花巻高等女学校音楽教師、藤原嘉藤冶と仲良くなり、レコードを聞いたりして、音楽に惹かれていった。大正10年頃からレコードが入荷しはじめ、新譜が入荷するたび注文していたようだったと記述されています。同じ曲を何度も聞き、蓄音器のラッパに頭を突っ込み恍惚となっていたという。
 賢治が買ったチェロは、これはガガ(妻)だと言って大切していました。当時、最高級品(鈴木製)で、胴の内側に「M.K1926」と記入があります。賢治はこのチェロを持って1926(大正15)年暮れに上京して特訓をうけています。このチェロは友人の藤原嘉藤冶のチェロと交換したことで、世界第2次大戦の花巻空襲で焼失を免れています。1995年に修復され、その後有名チェリストによる演奏も行われています。このチェロは宮沢賢治記念館に所蔵されています。

(Dr黒石の最近思うこと、2010年「私には宮沢賢治が理解できるだろうか?」)
http://www20.big.or.jp/~ent/omoukoto/2010_10_12/zakkan.htm

 突拍子のリズムで賢さんがやつてくる
 カーキ色の服をはづませてやつてくる
 午前の国道街は気を付けいだ
 あの曲がり角まで来た
 雲の眼と風の変り様で
 どっちへ曲がるかゴム靴に聞いて見ろ

 草藪の娘から借りて来た帽子だ
 野葡萄の香りがして来た
 一体あのユモレスクな足どりは
 おれの方を指してゐるではないか
 それ用意だ
 おれの受信局しつかりしろ

 象の目つきをして戸口に迫つて来た
 三日月の扉からまつげが二三本出てゐる
 地球の切線の方へと向いてる前歯
 唇でおひかくされるものか
 アザラシに聞いて見るがいゝ…
(『岩手日報』昭和8・10・6改作)

 草郎氏(『セロ弾きのゴーシュ』のモデル)、気の毒に賢治から自作の詩を酷評されて、以後詩を書かなくなったそうだが、上の詩など、率直で素晴らしい。「象の目つきをして」などやさしく秀逸な表現だ。
 賢治が亡くなったのが1933(昭和8)年9月21日だから、死の直後賢治を追悼して発表されたものということになる。あかるくかなしい。

(宮沢賢治Kenji-Review第481号2008.05.10)
http://why.kenji.ne.jp/review/review481.html

 そうだったんですか。おしまいにさだまさしの『セロ弾きのゴーシュ』の歌を聞きながら、今日の日記はおしまいになりますが、まだ、賢治ワールド(イーハトゥブ)はつづきますね…
http://www.youtube.com/watch?v=m0-xOppaMuI



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2014年07月02日

鹿踊りのはじまり

 ヤッホー君、こうして花巻温泉で6月28日日曜日、ホテル千秋閣から渡り廊下でホテル紅葉館に行き、1Fロビー「おまつり広場」で観たのが郷土芸能「鹿(しし)踊り」!
 宮沢賢治『注文の多い料理店』(ポプラ社、2005年、2013年5月第14刷、「序」の日付けは賢治27歳のとき、1923年12月20日)にも作品「鹿(しし)踊りのはじまり」として、そのなかに収められています。
 1923(大正12年)といえば、賢治の妹トシが前年なくなり、樺太に傷心旅行をし、「オホーツク挽歌」を書いた年です。また花巻温泉が開業、関東大震災のあった年でもあります。
 2012/08/06公開の映像があります:

東北は景色も伝統文化も素晴らしい。そこに伝わる鹿(しし)踊りは、千年前から鹿を供¬養する踊りとして伝えられてきた。太鼓をたたきながらリズミカルに踊るその躍動感が素晴らしい。
(花巻市花巻温泉「紅葉館」にて)
http://www.youtube.com/watch?v=817mWJeSIo0

 さらに昨年、2013/09/30公開の映像もぜひ。7分前後くらいから、ホテル紅葉館と同じ筋書きの演目がはじまります。
 今度は高校生によるものです:

岩手県立花巻農業高校鹿踊り部
初めて見ましたが、なかなか面白いですね。

http://www.youtube.com/watch?v=mHQlbqiuRZk

 花巻農業高校は、1923(大正12年)年、郡立稗貫(ひえぬき)農学校(賢治が25歳から教員)が県立花巻農学校に昇格改称し、移転新築するのですが、その後身にあたります。
 前年の1922(大正11年)2月には「精神歌」の作詞をします(「校歌」にするのを辞退しています)。
 一番の歌詞はこんなふうに「日」と「ツチ」、「白金」と「黒キ」の対句、対置法を用いた素晴らしい詩です。

   日ハ君臨シ カガヤキハ
   白金ノアメ ソソギタリ
   ワレラハ黒キ ツチニ俯シ
   マコトノクサノ タネマケリ


 「歌曲ファイル」でイマも聴くことができ、賢治祭ではイマも歌い継がれてきています: 

「花巻農学校精神歌」(seisin_v3.mp3) 3.20MB
(宮沢賢治の詩の世界)
http://www.ihatov.cc/song/seisin.html

 なお、この花巻農業高校の敷地内にはイマ、賢治が30歳のとき、1926(大正15)年8月に花巻農学校を依願退職して設立した「羅須地人協会」が設立、その農業指導の場であった家が復元、公開されており、玄関に掲げてある黒板「下ノ 畑ニ 居リマス 賢治」でムカシの様子を偲ぶことができるようになっています。
 翌1927(昭和2)年、花巻温泉に「羅須地人協会」活動の一環として、「南斜花壇」(イマの「バラ園」)をつくります。

 そうそう、「鹿(しし)踊り」。
 賢治の「鹿(しし)踊りのはじまり」の一部を紹介して今日の日記を終わりますが、ぜひ賢治の「注文の多い料理店」と併せ、ムカシ読んだ方でもイマの気分で読み直し、再読されることをお勧めします:

 おしまいの一疋がまたそろそろ出て行きました。みんながおもしろそうに、ことこと頭を振って見ていますと、進んで行った一疋は、しばらく首をさげて手拭を嗅いでいましたが、もう心配もなにもないという風で、いきなりそれをくわえて戻ってきました。そこで鹿はみなぴょんぴょん跳びあがりました。
「おう、うまい、うまい、そいづさい取ってしめば、あどは何(なん)っても怖(お)っかなぐない。」
「きっともて、こいづぁ大きな蝸牛(なめくづら)の旱(ひ)からびだのだな。」
「さあ、いいが、おれ歌(うだ)うだうはんてみんな廻(ま)れ。」
 その鹿はみんなのなかにはいってうたいだし、みんなはぐるぐるぐるぐる手拭をまわりはじめました。
「のはらのまん中の めっけもの
 すっこんすっこの 栃(とち)だんご
 栃のだんごは   結構(けっこう)だが
 となりにいからだ ふんながす
 青じろ番兵(ばんぺ)は 気にかがる。
 青じろ番兵(ばんぺ)は ふんにゃふにゃ
 吠(ほ)えるもさないば 泣ぐもさない
 瘠(や)せで長くて   ぶぢぶぢで
 どごが口(くぢ)だが  あだまだが
 ひでりあがりの  なめぐじら。」
 走りながら廻りながら踊(おど)りながら、鹿(しか)はたびたび風のように進んで、手拭を角でついたり足でふんだりしました。嘉十(かじゅう)の手拭はかあいそうに泥がついてところどころ穴さえあきました。


 この<嘉十(かじゅう)の手拭>が、ホテルでの「郷土芸能」お披露目となると、<案山子(かかし)>になるのかな…?…

 千葉大学教育学部教授井上孝夫「鹿踊りの起源をめぐる伝説について」(『千葉大学教育学部研究紀要』53巻、223-227頁、2005年)所収の論文もお読みくださいね:
http://ci.nii.ac.jp/els/110004628756.pdf



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2014年07月01日

ハゲタカファンド

 「さんりく工房」の「すき剣山わかめ」を買ったのは、岩手県花巻温泉「ホテル千秋閣」。
 つまりここをわれわれ「早池峰山でうすゆきそうと出会う会」のベースキャンプとしたのです。
 東京は下町に戻ってヤッホー君、その買い物袋を見て、はて…とびっくりしてしまいました。
 だって、そこには「国際興業グループ」(本社は中央区八重洲2-10-3)と書いてあるではありませんか。

 たしかに、会社の公式サイトには:

 花巻温泉(株)(岩手県花巻市)
 東北を代表する温泉地として知られる花巻温泉。それぞれ趣きのことなる4つのホテルを運営しています。

http://www.kokusaikogyo.co.jp/group/

 岩手県花巻市の温泉ホテル経営会社「花巻管理」が東京地裁に特別清算を申請し、開始決定を受けたことがわかった。負債総額は54億3000万円。
 旧商号は「花巻温泉」で、本社は岩手県花巻市。1923(大正12)年に開業し、「佳松園」「ホテル千秋閣」など4館を中心に、花巻温泉を経営してきた。

(2012.8.14 11:52「花巻市の温泉ホテルが経営破綻 負債54億円、施設は別会社が継承)
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120814/biz12081411540001-n1.htm

 だから、花巻温泉のホテル3館は連絡通路でつながっていて、それぞれのホテルの湯めぐりができたんだ。

 そればかりか国際興業は「箱根・宮ノ下の富士屋ホテルをはじめ、湯本富士屋ホテル・箱根ホテルなどのホテルを運営しています」、そうだったんですか。

 そればかりか、あの「帝国ホテル」の筆頭株主でもあったようですよ:

 株式会社帝国ホテル(以下「帝国ホテル」といいます)と三井不動産株式会社(以下「三井不動産」といいます)とは、本日開催した両社の取締役会において、三井不動産が国際興業株式会社(所在:東京都中央区、取締役社長 小佐野隆正)が保有する帝国ホテルの株式を取得して資本参加するにあたり、両社の協力・提携等に関する基本協定書を締結することを決議いたしましたので、下記のとおりお知らせいたします…
 三井不動産は、帝国ホテルの発行済株式数の33.16%を取得して、帝国ホテルの筆頭株主となります…
 今回の資本参加により、帝国ホテルは三井不動産の持分法適用関連会社となります。

(2007(平成19)年9月28日、資本参加および基本協定書締結に関するお知らせ)
http://www.imperialhotel.co.jp/j/company/pdf/20070928_2.pdf

 ほら、売ったり買ったり、バナナのたたき売りだ〜い! よっ、くっついたり、離れたり、入れ歯だね! さあぁ張った張った、カジノかバクトかトックだよ!
 次は人のいのちも売ったり、買ったりかな?今日、専制君主アホノリスクがこくみんでなく、カクギのメンバーに寄り添って、ていねいに説明し、その後のジュクギの結果、専決するようだしね。
 原稿はもうできているんだけど、大本営発表があるから待っててね。
 NなんかH変なK空気で、また美しい国土が汚染されてくるわけで、除染しなくっちゃ:

 国際興業は「昭和の政商」といわれた故・小佐野賢治(1917-1986)氏がつくり上げたバスやホテル、ゴルフ場などを手広く経営する運輸・観光レジャー会社。小佐野氏は田中角栄(1918-1993)元首相の刎頚の友として知られる。1972年、裸一貫から「庶民宰相」に上り詰めた田中氏が首相になれたのは、小佐野氏の全面協力があったからといわれている。
 経済界のもっぱら裏街道を歩いてきた小佐野氏は、日本航空と全日本空輸の大株主となり、航空業界に君臨するという野望を持っていた。しかし、田中元首相逮捕の原因となったロッキード事件に連座し、エアライン制覇の夢は消えた。だが、小佐野氏は帝国ホテルの株式を買い占め、悲願だった帝国ホテル会長の座を射止めた。会長就任の1年後の1986年10月、小佐野氏は69歳で波瀾万丈の人生の幕を下ろした。
 小佐野氏が一代で築いた国際興業は2004年10月、主力銀行のUFJ銀行(現三菱東京UFJ銀行)の不良債権処理に伴い、『サーベラス』に売却された。『サーベラス』はUFJ銀行とりそな銀行から、国際興業への貸し出し債権5000億円を半値に値切り、2500億円で一括購入した。当初、売却価格は1500億円だったが、国会議員などが「安すぎる」と批判し、サーベラスは1000億円上積みしたという経緯がある。株主責任を明確にするために100%減資したうえで、買い取った債権の一部を株式化して大株主となり、国際興業を傘下に収めた。
 サーベラスは、東北のバス会社など傘下の事業や優良資産を次々と売却して債権を回収していった。2007年10月には、国際興業が発行済み株式の39.5%を保有する帝国ホテルの株式を三井不動産に861億円で売却。2013年にはグループの八重洲富士屋ホテル(東京)を300億円で住友不動産へ、同年末には東京・浜松町に持つ土地を日本生命保険などへ800億円でそれぞれ売却した。これ以上、資産の切り売りが続けば事業の継続が困難になると判断して、国際興業は株式の買い戻しを申し入れた。サーベラスの投資総額は明らかになっていないが、資産を売って上げた利益を特別配当のかたちで受け取っており、十分にペイしているとみられている。渡りに船とばかりに国際興業側の要請を受け入れた。
 こうして国際興業は再び小佐野一族の会社に戻ったが、優良資産はあらかた失った上に、株式の買い戻し資金1400億円という巨額借金を背負うことになった(注)。

(“ハゲタカ”サーベラスが日本に残したものとは?日本撤退の裏側と西武HD上場の行方)
http://biz-journal.jp/2014/03/post_4324_2.html


(注)
 『ハゲタカファンド』の異名を持つ米投資会社・サーベラスが日本から撤退する。
 『サーベラス』は2014年2月7日、バスやホテル事業を傘下に持つ国際興業の株式を小佐野隆正社長ら創業家が運営する国際興業ホールディングス(HD)に売却した。『サーベラス』は国際興業の株式の55%を保有していた。売却価格は約1400億円で、その購入資金としてほぼ全額を三井住友銀行が国際興業に融資した。これにより、国際興業HDは国際興業の株式100%を保有することになる。
 『サーベラス」は1992年に設立された投資会社で、米国の年金基金や機関投資家から集めた資金を基に運営されている。米国の元副大統領のダン・クエール氏が顧問、ブッシュ政権下で財務長官だったジョン・スノー氏が会長を務めたことで知られる。
http://biz-journal.jp/2014/03/post_4324_2.html


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