2014年06月30日

killed by the government

 明日の火曜日、7月1日は…社会を明るくする運動、全国安全週間、国民安全の日、富士山開き、…違います、違います、例のアホノリスク…

Japan's government could make the change to its pacifist constitution as early as next Tuesday.

Mr Abe has said Japan must change to adapt to a new security environment.


(Japanese man sets self on fire over military rule change, 29 June 2014 Last updated at 11:44)

http://www.bbc.com/news/world-asia-28077429

Abe's cabinet is expected to adopt as early as tomorrow a resolution revising a long-standing interpretation of the US-drafted constitution to lift the ban after his ruling party finalises an agreement with its junior partner.

It was not clear whether the man survived, although a police spokeswoman confirmed the incident, which took place near bustling Shinjuku station.


(Pacifist sets himself on fire in Tokyo protest against Japan defence policy changes, UPDATED : Monday, 30 June, 2014, 2:20pm)

http://www.scmp.com/news/asia/article/1543273/man-sets-himself-fire-protest-against-japan-defence-policy-changes

A man in Tokyo set himself alight at a busy intersection on Sunday in an apparent protest against changes made by the Japanese prime minister. Shinzo Abe is shifting the country's defence policy by ending the pacifist constitution.

Witnesses say the man was protesting against this before he self-immolated. He is currently in hospital.


(Japanese man sets himself on fire in apparent anti-government protest - video report, Source: Reuters, Length: 1min 04sec, theguardian.com, Sunday 29 June 2014)

http://www.theguardian.com/world/video/2014/jun/29/japanese-man-sets-himself-on-fire-anti-government-protest-shinzo-abe-video



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さんりく工房

 今日が水無月の最後の日、2014年ももう半分が過ぎちゃいました!
 ヤッホー君、早朝からなにやら台所仕事。
 そうなんです、昨日岩手県から買って帰ったお土産の「すき剣山わかめ(注)」でお味噌汁をつくっておりました。
 生産者は「さんりく工房」(盛岡市北飯岡1-8-21 Tel 019-681-9365)!

 事業所は岩手県大槌町須賀町にございましたが、3.11の津波ですべてを失いました
 現在は盛岡市の援助を受け沿岸と盛岡で営業しております。
 「女性の力で地域の水産業を元気に」をコンセプトとして、女性を中心に水産農産物加工食品の販売を行っております。

(FOODEX JAPAN 2013、商談会シート)
http://www3.jma.or.jp/fx/2013/navi/product_sheet_disp.php?id=525600&pno=1

 小さな会社なのですけれども、生産者に近い位置で一人でぶんぶん走り回っているような形でなかなか沿岸に土地もなかったので、実は漁協の建物を100坪ほど借りていました。それが流されて御存じのとおり大槌漁協もバンザイしましたので、なかなか戻れない状態なのですけれども、ユニセフの救援物資が入っていた白いテントのほうを役場から払い下げいたしました。盛岡市内のNPO法人、復興の狼煙の方とかいろいろ声かけて融資をいただこうと思ったのですけれども、それも間に合わなかったので、もう自腹で移設して釜石の振興局から大槌役場のほうまで何とかかけ合って、今、大槌湾、赤浜の漁港前にユニセフの100坪の大きな一次処理として漁師さんたちが使っています。結局外に出しっ放しだとコンテナとか、ボイルの機械とか、塩とか勝手に盗まれてしまう。盗むというか、運ばれてしまうところもあるので、今ここではかぎを閉めてやっていただいている状態です。
(岩手県公式サイト、「がんばろう!岩手」意見交換会(2012(平成24)年5月25日、盛岡市)」)
http://www.pref.iwate.jp/kouchoukouhou/kondan/kondan/005333.html

 大槌町ってヤッホー君には井上ひさし(1934-2010)『吉里吉里人』(新潮社、1981年)や『ひょっこりひょうたん島』(NHK放送番組、1964-1969年)で馴染みのあるところ。

 1964(昭和39)年に放送された『ひょっこりひょうたん島』、そのモデルと言われているのは全国各地にありますが、大槌町の蓬莱島でした。2003(平成15)年からは、町の正午のチャイムが「ひょっこりひょうたん島」となりました。
 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災により、大槌町は大きな被害を受けました。その時、チャイムの音源も流されました。
 蓬莱島も多少の被害はあったものの、以前と変わらぬ姿を見せるようになりました。また、その年の2011年8月には、井上ひさし氏と親交の深かった小曽根真氏により新しい音源が流れるようになりました。
 『ひょっこりひょうたん島』の歌詞とこの変わらぬ姿が、復興に向けて進む大槌町にとってのシンボルとなっています。

(さる2013年8月8日、町内大槌湾に浮かぶ「蓬莱島(ほうらいじま)」が、町の文化財の一つ「名勝」に指定されました)
http://www.town.otsuchi.iwate.jp/docs/2013081300028/

 では今日は、モーニング娘(1998年メジャーデビュー)で『ひょっこりひょうたん島』を聴いてみましょうか:
http://www.youtube.com/watch?v=de8w0uFpTtA

 そして小曾根真(1961年神戸生まれ)についても:
http://www.youtube.com/watch?v=G6n7B15nZ20

 井上ひさしはまた岩手県大槌町と山形県川西町との縁結びの神さま!

 劇作家の故井上ひさしさんの出身地山形県川西町の有志が2013年12月23日、東日本大震災で被災した岩手県大槌町を訪れ、町民に餅を振る舞った。大槌町には、井上さんが手掛けた人形劇『ひょっこりひょうたん島』のモデルとされる蓬莱島があり、井上さんゆかりの両町民が交流を深めた。
 餅を振る舞ったのは川西町の農業那須新一さん(63)ら35人。川西産のもち米約210キロを持参して朝からつき、雑煮やあんこなど4種類、約700食分を町内4ヶ所の仮設団地で配った。
 大槌町赤浜の白沢シズさん(80)は「餅つき器も自宅と一緒に津波で流され、仮設住宅ではもう作れないのでうれしい。心も温まる」と、一足早い正月気分を楽しんだ。
 同行した川西町の原田俊二町長は「今後は小学生が互いの町を訪問するなど、井上さんが縁で生まれた交流をさらに深めたい」と話した。
 両町は井上さんが死去した2010年に交流を始めた。震災では、川西町が職員3人をいち早く大槌町に派遣したほか、被災者を町に招待して温泉を楽しんでもらうなど支援してきた。

(2013年12月24日火曜日付け河北新報「山形・川西の餅、大槌の仮設に ひょうたん島が結んだ縁」)
www.kahoku.co.jp/tohokunews/201312/20131224_75002.html


(注)
 茎わかめとは、わかめの茎の部分で、わかめの葉の部分よりも少しコリコリした食感がございます。
 サラダ用茎わかめは、生け花に用いる道具の剣山に似たもので細かく割いてあることから、「けんざん」とも呼ばれています。
 細かく割いてあることによって、塩抜きの時間が短縮でき、お手軽にお料理いただけます。
((株)五葉わかめ本舗)
http://www.goyouwakame.com/products/saradayoukukiwakame.html

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2014年06月29日

早池峰山1917m

 皆さん、こんばんは。
 われわれ6人での早池峰を目指す山旅は、6月27日からの2泊3日でした。
 ところが土曜日、満を持して5人で小田越登山口に着いた頃はもう雨、雨具装着を余儀なくされました。
 でもさすがに緯度の高い山域、3、40分ほど登るともう樹林帯を越して大岩ごろごろのゴーロにとび出します。
 ヤッホー君、最初はピークを目指す組と亀さん組とに二手に別れようかとも思いましたが、雨脚はだんだん強くなり、山頂はあきらめ、皆んなでまとまって行動しようと判断。
 そして名誉ある撤退を決めました。
 しかし、山路脇には会いたかったうすゆきそう、ハヤチネウスユキソウが雨を嬉しそうに迎えて口をぱくぱくしてわれわれを出迎えてくれている姿に見とれてしまい、皆んなで花を愛でる会にしたのです。

早池峰.jpg

 ほかにもヨツバシオガマ、ミヤマヤマブキショウマ、チングルマ、と高山植物の饗宴に満足、満足。
 雨が途切れた頃合いをみつけ、美味しい昼食の時間もとることができました。
 雨もまた良し、山はやっぱりどんな時でも良いですねぇ〜。

 山旅のほかにも初日6月27日金曜日には、5000円札の新渡戸稲造、雨にも負けずの宮沢賢治と出会えたし、最終日の今日6月29日日曜日は、高村光太郎の疎開先、高村山荘にも訪れることができたし、伝統芸能では津軽三味線に鹿踊りと郷土自慢の出し物にも満喫できました。
 こうして「がんばれ東北!」の素晴らしい旅となりました。



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2014年06月26日

死刑執行

 明日から日曜日まで岩手県・早池峰山1914mへの山歩クラブ合宿山行に出かけます。
 ブログの更新ができるか分かりませんので、お休みをいただくことになります。
 そこで…ヤッホー君、書庫に飛んで行って The Girl in the Picure、The remarkable story of Vietnam's most famous casuality by Denise Chong, Scribner, 2001 を手にとって戻ってきました。
 ヤッホー君のこのブログ、2010年11月22日付け日記「Changi Again」をお読みください。

Trang Bang, 5 June 1972
Communist troops have broken through Route 1, the highway running northwest from Saigon and over the border of South Vietnam with Cambodia to Phnom Penh, and are occupying the market place in Trang Bang. Soldiers from the US-backed South Vietnamese army have been called in and a bloody bombardment has begun. The villagers have abandoned their homes and moved into the nearby Codai temple. They think the holy place will be safe from 'the fire which falls from heaven'.

Then Kim Phuc came running, naked, screaming out of the flames, her arms held limply outwards. Her cry pierced the silence. ' Nong qua, nong qua! ' ['It's too hot, too hot!']

(What happened next...The Observer, Sunday 3 September 2000)
http://www.theguardian.com/theobserver/2000/sep/03/featuresreview.review

 ゼッタイ戦争を起こしてはいけないし、起こされてはいけないし、巻き込まれてはいけません、仲良く、仲良く、ですよ!

 今日、衝撃だったのはラオスでした。本屋さん行って、またチャンギ空港かな、Eternal Harvest: The Legacy of American Bombs in Laos by Karen J. Coates, Jerry Redfern, Thingsasian Pr, 2013 買って読まなくっちゃ:

Fifty years ago this month, the United States began raining down bombs on Laos, in what would become the largest bombing campaign in history. From June 1964 to March 1973, the United States dropped at least two million tons of bombs on the small, landlocked Southeast Asian country. That is the equivalent of one planeload every eight minutes, 24 hours a day, for nine years − more than was dropped on Germany and Japan during World War II. The deadly legacy of the Vietnam War lives on today in the form of unexploded cluster bombs, which had about a 30 percent failure rate when they fell from American planes over large swaths of Laos.

Experts estimate that Laos is littered with as many as 80 million "bombies," or bomblets − baseball-sized bombs found inside cluster bombs. Since the bombing stopped four decades ago, tens of thousands of people have been injured or killed as a result. We are joined by Karen Coates and Jerry Redfern, co-authors of "Eternal Harvest: The Legacy of American Bombs in Laos." 

(50 Years After U.S. Launched Secret War on Laos, Unexploded Bombs Still Killing Civilians, Wednesday, June 25, 2014)
http://www.democracynow.org/2014/6/25/50_years_after_us_launched_secret

 こんな残虐非道なことをしてはいけない、とゼッタイ平和シュギシャのヤッホー君。
 しかし、ですねぇ〜、仏紙ルモンドにはこんな記事まで出てしまって、ですよ、恥ずかしい!

Masanori Kawasaki, un condamné à mort, a été pendu jeudi matin au Japon, le premier cette année et le neuvième depuis le retour des conservateurs au pouvoir en décembre 2012, a annoncé le ministère de la justice. Les plus récentes exécutions remontaient à décembre et septembre 2013. C'est la cinquième fois que le gouvernement Abe procède à des pendaisons en un an et demi.

Un autre condamné pour le meurtre de deux personnes entre 1986 et 1989 devait être également exécuté mais, selon les médias, Shigeo Okazaki, 60 ans, est mort d'un arrêt respiratoire juste quelques heures avant l'échafaud.

Il reste 128 condamnés dans le couloir de la mort au Japon, selon les médias. Malgré un large soutien de la population à la peine capitale, le pays n'avait exécuté personne en 2011, une première pour une année pleine en près de vingt ans, du fait de la non-signature des ordres nécessaires par les différents ministres de la justice de centre gauche qui s'étaient succédé cette année-là. Mais en mars 2012, les exécutions avaient repris avec la pendaison de trois meurtriers récidivistes.

Le Japon et les Etats-Unis sont les seules démocraties industrialisées à appliquer la peine capitale, une pratique en permanence dénoncée par les associations internationales de défense des droits de l'homme.

(Un condamné à mort exécuté au Japon, Le Monde.fr avec AFP, 26.06.2014 à 08h06)
http://www.lemonde.fr/japon/article/2014/06/26/un-condamne-a-mort-execute-au-japon_4445477_1492975.html

アムネスティ・インターナショナル日本は、本日、大阪拘置所の川崎政則さんに死刑が執行されたことに対して強く抗議する。安倍政権は昨年、4回の死刑執行で8人を処刑し、これまでに9人の命を奪ったことになる。谷垣法相の就任から1年半が経過し、死刑をめぐる情報の公開や全社会的な議論にまったく改善がみられないまま、執行が続けられてきた。現政権のもとで恒常的に行われる死刑執行は、再三にわたり死刑廃止への真摯な努力を求める国際社会の要請に、真っ向から反するものである。
(2014年6月26日、死刑執行に対する抗議声明)
http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/execution.html



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ドーナツ外交

 今年の7月7日月曜日は七夕… ですので、滅多に集まれないヤッホー君はじめ小学校と中学校の同窓生たち、集いの会を上野で開こう、と!
 ところで、昨日ご紹介申し上げた「楽山大仏」の写真の由来と言いますか、さだまさしと映画『長江』との物語を含め『日中友好新聞』2007年5月25日号で語っていただきましたが、この新聞の今月6月15日号では、こんなことを:

 今年の7月7日はかつて日本軍国主義が中国侵略戦争を全土に拡大した盧溝橋事件から77周年に当たります。
 その後、この戦争はアジア太平洋に拡大し死者は中国人1000万人、日本人310万人、アジア全体で2000万人以上にのぼるといわれています。
 戦後約70年を経て、いま安倍首相によって戦前回帰≠フ動きが急速に強まっています。
 「77周年」に当たり、かつての「中国侵略戦争」との類似性を検証してみました。

http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/2014/140615.html

 日中、仲良く、仲良く!
 「ぜひお読みなってくださいね」とお願いすると、「あんたには色がついている」と回りから言われたりしてしまう今日この頃、悲しい現実があるようです。
 そんなとき、ゼッタイ平和シュギシャのヤッホー君、「何色?アカ?」と回りに聞こえるような大きな声で聞きかえすことにしています。サングラスをかけて人を見る御仁に最近出会いました。そのお方は、引きこもり、いじめ、不登校、自殺、離婚といったイマ流行りのテーマを本にして、柳の下の泥鰌ねらいをしているのですからもう、何をかいわんや、地に落ちたものです。
 日本のどこに行っても平和を誓う石碑が建っているのに、なぜまた戦争への道を歩もうとしているのか、歩もうとする指導者をなぜ認め、許し、もの言わない、自分で考えようとしない、飼いならされたペットになりさがってしまったのでしょうか…
 答えは簡単なのかな、ひとつは、戦争すれば儲かる、儲けようとする株式会社日本の経営者層が1%いて、その運上金を差し上げては、そのおこぼれを頂戴してありがたや、ありがたやと念仏を唱える茶坊主しかいないから、でしょうね。もうひとつは戦争すれば相手を殺す、あるいは殺される兵士が必要ですがイマ、人集めに困らないからでしょうね。また、選挙に行かない、政治は関係ない、話す仲間もいないって三内面倒遺跡の竪穴住居に閉じこもったまんまってのも大きいですね。

 自分で作ったものは自分で食べられず、他人のおこぼれにありつけると、みずから無上の恩恵と感ずる。
 これはまったく痛ましい悲劇ではないだろうか。

(郭沫若『私の幼少年時代』小野忍・丸山昇訳、平凡社、東洋文庫101、1967年)15頁

 国民のいのちと暮らしを、なんて嘘っぱち法螺吹きオトコ、いや嘘をつかないと指導者層になれないのがこの国の痛ましい悲劇、とは子どもの教育にも悪いのですが、件の指導者は、守銭奴、茶坊主、御用記者、提灯持ちどもを引き連れて、われわれの税金で飛行機にタダ乗りするのが大好きなようです。
 ムカシ「けんか腰外交」(注1)、イマ「地球儀外交」ってはしゃいでいるようでけど:

 首相はこれまで2012年12月の第2次内閣発足後、既に37ヶ国を訪問した。今後も、今月5月下旬のシンガポール、6月上旬のベルギー、イタリアなど出張日程が目白押しだ。
 11月には北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議に出席予定のため、「空白」の一角は埋まる見通しだが、その際に日中首脳会談が実現するかどうかは未定。
 中韓のメディアからは「中韓を避けて、周辺国をぐるぐる回る『ドーナツ外交』だ」という批判も出ている。

(2014年05月13日毎日新聞東京朝刊「安倍首相:地球儀外交まい進、7月中南米など訪問、近くて遠い中韓」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140513ddm005010039000c.html

 でもさ、この時代錯誤の勘違い、はしゃぎまくりは国を危うくさせます。アベノリスクに医師の中村哲さん(注2)は怒っています:

 ペシャワール会は1984年からアフガンやパキスタンで医療活動を開始。米軍のアフガン攻撃開始後も活動を継続し、同地の干ばつ対策として農業用の用水路建設にも取り組んでいる。
 中村氏によると、欧米諸国がアフガンに軍隊を出したことから現地住民の憎しみや怒りが増幅。欧米のNGO関係者は現在、テロの標的となる危険が高まったことから活動拠点のジャララバードから撤退した。それでも同地に残るペシャワール会について、中村氏は「憲法9条を持つ日本は『戦闘に参加しない国』という信頼感があり、それが私たちの活動を守っている」と強調。「欧米のように軍事力を使い、日本人というだけでターゲットになれば当然私は逃げる」と述べた。
 首相が5月15日の記者会見で「限定的な集団的自衛権の行使」と説明したことについては「戦場に行ったことのない人間の発言。武器を持って衝突すれば互いに恐怖心や防衛心が強くなり歯止めはなくなる」として、ひとたび行使を認めれば際限がなくなると警告した。
 一方、首相は海外で活動するNGOを救出するためとして、自衛隊の駆け付け警護を認めることの正当性を唱えた。だが、これは集団的自衛権と関係ない武器使用の問題で、中村氏は「自らの主張を通すためにNGOを道具としている。集団的自衛権行使に賛成させるためにこじつけている印象は拭えない」と不快感を示し、「国民の危機感をあおるのでなく、外交努力で不必要な敵はつくらないことこそ内閣の責任だ」と訴えた。

(2014年05月26日付け毎日新聞西部朝刊「集団的自衛権:ペシャワール会・中村哲代表、行使容認を批判『安倍首相、NGOを道具にしている』」)
http://mainichi.jp/area/news/20140526ddp041010009000c.html

 ドーナツをアンパンにして、まずはお隣さんと仲良くしないと、ね。「鎌倉でアジサイ観る会」だって山歩クラブができる日韓親善友好企画だったはず(ザンネン、当日欠席になりましたが)。身のまわりから、できるところから、ちょっとづつ、ちょっとづつ、一歩、一歩、ですよねexclamation×2


(注1)
戦後の日本外交の中で、小泉政権ほど首相の個性が目に見える形で対外政策に色濃く反映した例はない。息詰まる北朝鮮との水面下交渉、米大統領に「横綱相撲をとれ」と迫る意外な剛胆ぶり、「それでも靖国に行く」姿勢を崩さぬ中国との喧嘩腰外交。今初めて明かされる熱く冷たい『小泉劇場』外交編の登場です。
(読売新聞政治部『外交を喧嘩にした男 小泉外交2000日の真実』新潮社、2005年1月)

(注2) ヤッホー君のこのブログ、以下の「日記」をお読みください。 
☆ 2010年12月30日「飯盛山」
☆ 2010年12月31日「年納め」

 また、ヤッホー君が尊敬申し上げている、退職したばかりのお医者さんはこんなつぶやきを:

 集団的自衛権が適用されるケースを具体的に政府は例示して、国民に理解を求めている。が…集団的自衛権は、米国の世界戦略に自衛隊を積極的に関わらせることを、本当の目的としているから、現実の戦争状態は、具体的な適用ケースにいかようにも無理やり当てはめられることだろう。
 集団的自衛権による海外での軍事行動は、むしろ、この記事で中村氏が述べている諸外国での非軍事国際協力を危険にさらすことになる。また、当然、わが国がテロの対象になる。人口過密都市をかかえ、さらに全国に原発がある日本は、テロ攻撃の格好の標的になる。
 集団的自衛権の適用範囲を具体的に規定し、限られた状況にだけ適用するというのは、土台無理なことだ。政府は、その現実を、しっかり国民に問いかけるべきだ。


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2014年06月25日

さだまさし

 ギターデュオ「いちむじん」(高知の古い言葉で“一生懸命”の意)の「紫陽花」を聴きながら:

http://www.youtube.com/watch?v=_F6m7CXqxFk

 昨日の東京は大荒れの天気、雷雨に驟雨、ひょうまでもが降ってきたそうな。
 ヤッホー君は、といえばJR市川駅から文学散歩、と洒落て、朝キン(morning walkingの略、久々の登場ですね)。
 すでに雷鳴は轟きつつも、真間山弘法寺(ぐほうじ、市川市真間4-9-1 Tel 047-371-2242)に入り階段を登りつめ、仁王門をくぐったときにぽつり、ぽつり。
 梅雨時はいつなんどき雨が降るかは自然のなせる業、逆らわない、逆らわないとばかりに、境内の真間道場へ。
 まだ早いと思いつつも、待望のブランチの時間としたそうです。
 昨日は月影地蔵堂、今日は行基菩薩の霊験あらたかなご加護を、とばかりにまた軒下三寸借り受けまして、例のドカ弁をお広げになったとか。

 いえ、ね、雷様もなんのその「手児奈霊神堂」で出会ったアジサイの花と、その後ろを振り向いたら、あっ、こんなところに、さだまさしさん植樹の縁結び「桂(かつら)の木」が、と感動してたってわけで…

アジサイ.jpg

手児奈.jpg

 手児奈霊堂(てこなれいどう)に立ち寄りました。
 左手に見えるかつらの木。
 実はさださんが30年ほど前に植えたものなんです。

(2010年4月千葉、各地の気になる場所や人をさださんが訪ねる「まっさんぽ」、千葉県市川市を中心にまわってきました)
http://www.nhk.or.jp/masashi/sanpo/1004.html

 さて、お昼が終わったころ、スコールもあがりました。
 やおら立ち上がったヤッホー君、今日の朝キンのメーンテーマは「郭沫若記念館」(市川市真間5-3-19郭沫若記念公園内 Tel 047-372-5400)。
 この場所にだけはなんとしてもたどり着けたいものよ、とまたすらこささっさ、歩きつづけます:

 中国・四川省楽山市出身の文学者・歴史学者・政治家である郭沫若(かくまつじゃく、1892-1978)氏は、1928(昭和3)年から約10年間にわたり、市川市の須和田で家族とともに暮らしました。
 その後、日本と中国の架け橋となる活躍をし、市川市と楽山市の友好都市締結のきっかけとなりました。
 この「市川市郭沫若記念館」は、郭沫若氏の旧宅を真間5丁目公園に移築・復元し、整備したものです。

(市川市公式サイト)
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1541000031.html

 ここでおさらいをしておきましょう:

 1972(昭和47)年、日本と中国との間で、国交樹立への動きが強まりました。田中角栄首相が中国を訪問し、「日中共同声明」が調印されたのです。その内容は、中華人民共和国政府が中国を代表する政府であると認めること、戦争で中国に与えた損害に対する謝罪、そして、平和友好条約の締結を目指すことなどでした。
 「日中平和友好条約」の締結は、1978(昭和53)年。共同声明から、6年の年月を要しました。領土問題やソ連との関係など、解決するのが難しい問題があったのです。
 日中共同声明および日中平和友好条約の締結によって、中華人民共和国との国交が正式に樹立したのです。

(NHK for school、クリップ)
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403100_00000&p=box

 市川市と楽山市の友好都市締結の議定書調印は1981年(昭和56年)10月21日でした。

郭沫若.jpg

 そうしたら、雷様のおかげです。またさだまさしさんと出会ってしまったんです:

 映画『長江』製作記念、「楽山大仏」の写真
 贈 さだまさし氏(1981(昭和56)年7月21日)

 『日中友好新聞』2007年5月25日号の1面記事に、こんなことが:

 25年ぶりの北京で、さださんはかつてコンサートを行なった北京展覧館を訪れた。コンサートの模様は、当時中国全土で放送されたという。展覧館の邢(シン)主任は「私もあのコンサートのスタッフでした」と語り、さださんと握手を交わした。言葉や文化が異なる人びとが働く現場の苦労は想像に難くないが、さださんは中国の人びとと共に夢を語り、そして苦楽を分かち合ったのだろう。
 さださんは「50年、100年経たないと、このフィルムを撮った意味は評価されないと思った」とコメントしているが、『長江』から『話説長江』が生まれ、20余年を経て『再説長江』へと繋(つな)がった。遥か「最初の一滴」への思いは、中国の人びとに引き継がれたのだ。
 人と人との出逢い、心のふれあいは、時間や国境を越える。「良き連鎖は決して滅びない」と語るさださん。今後の中国とのふれあいがいっそう期待される。
 ☆ 映画『長江』…監督・主演=さだまさし。1981年公開、本編138分。DVD販売元=コロムビアミュージックエンタテインメント、5040円(税込)

(及川淳子、引き継がれた長江への思い、さだまさしさんと中国)
http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/070525.html



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2014年06月24日

長崎でアジサイ観る会

 ヤッホー君のこのブログ、昨日の日記「乾山系譜」でアジサイにまつわる歌謡曲に石原裕次郎「あじさいの歌」(1960年)、城之内早苗「あじさい橋」(1986年)をご紹介しました。
 しかしそればかりではありません。
 今宵は、もうひとつの名曲、さだまさし(1952年長崎市生まれ)「紫陽花の詩」(1973年)をご紹介:
http://www.youtube.com/watch?v=6HorBl7Cn4o

  るんるん他人(ひと)の心を胡麻化すように
  七つおたくさ あじさい花は
  おらんださんの置き忘れるんるん

 つまり、ヤッホー君のこのブログ、昨日の日記「乾山系譜」で「アジサイって日本が原産地」と書きましたが、なにも鎌倉「明月院」だけが有名なのではない、ということですよね。
 「長崎でアジサイ観る会」をぜひ企画しましょう、来年向けに提案文書つくっておこう〜っと。

 でも、ヤッホー君、この歌声を聴いて、歌詞を読んでも分からなかった言葉「おたくさ」って何? 誤記? 辞書にもないよう〜!
 それはね、シーボルトが愛した妻「お滝さん」にちなんでアジサイを「オタクサ」と名づけたんだって。
 そう聞いたヤッホー君、ビックリ!ビックリ!!:

 シーボルトが愛した妻「お滝さん」にちなみ「オタクサ」と名づけ、ヨーロッパに伝えた花・あじさい。
 期間中は、様々な種類のあじさいが眼鏡橋・グラバー園といった各所に設置され、色とりどりの花を観賞することができます。

(長崎市公式サイト、ながさき紫陽花(おたくさ)まつり)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/810000/818000/p023750.html

 シーボルトは…

 シーボルト(Philipp Franz B.von Siebold、1796-1866)は、日本の薬草をヨーロッパに紹介した。
 日本の植物はバタビヤ(ジャワ島、インドネシアの首都ジャカルタはオランダ植民地時代の名称でそう呼ばれていた)のバイテンゾルフ植物園に送られ、次いでオランダの植物園で馴化され、ヨ−ロッパの園芸用の植物として定着していった。
 シ−ボルトは帰国後日本から持ち帰った膨大な植物標本と川原慶賀に描かせた植物絵を用いて植物学者のJ. G. Zuccariniとの共著でFlora Japonica 『日本植物誌』(1835年から1870年にかけて30分冊として刊行)を完成させた。

(シーボルトの植物学-長崎大学附属図書館)
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/igakushi/Siebold2/siebold2.html

 ヤッホー君、箱根旧街道を歩いた5月25日、ケンペルに出会いました。
 ヤッホー君のこのブログ、5月27日付け日記「ケンペル・バーニーの碑」、5月28日付け日記「ケンペル」、5月29日付け日記「ケンペル論」、5月30日付け日記「鎖国論」をお読みください。
 そして今宵は、シーボルト…

 今も出島の片隅に残る「ケンペル・ツュンベリー記念碑」は、シーボルトが尊敬する彼ら大先輩を讃え建立したものです。
 ラテン語で刻まれた碑文には、以下のようにあります。

  ケンペル、ツュンベリーよ
  見られよ!君たちの植物がここに、くる年ごとに
  緑きそい、咲き出でて
  そが植えたる主をしのびては、
  めでたき花のかずらをなしつつあるを
      ドクトル・フォン・シーボルト(呉秀三訳)

(長崎市公式サイト、出島370年物語、シーボルトの植物園)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/dejima/1109_dejima5/index.html

 今年2014年、件の「ながさき紫陽花(おたくさ)まつり」は、山歩クラブが箱根・湯坂路(鎌倉古道)を歩いた6月15日で終わってしまいましたが…

 長崎市内で6月15日まで開かれている「ながさき紫陽花(おたくさ)まつり」に合わせ、市中心部のアルコア中通り周辺に、自然の石や流木を使ってアジサイを彩った"ミニ花壇"がお目見えし、観光客らの目を楽しませている。
 市中心部のにぎわいを再生する市の「まちぶらプロジェクト」の一環。中島川・寺町エリアのまちづくり方針「和のたたずまいと賑(にぎ)わいの粋なまち」にちなみ、「季節の花でまちに和みを」と市と地元の中通り商店街振興組合が初めて取り組んだ。
 5月23日から老舗和菓子店「岩永梅寿軒」横や晧台寺などエリア内の計5カ所に設置。諏訪町の婦人服店、山茶(さざん)花(か)前には細長い花弁が特徴的な品種など計3種類20株が植えられている。
 まつり最終日には地元でアジサイの育て方教室を開き、取り組みを広げたい考え。取り組みを提案した山茶花の一ノ瀬久美子代表(70)は「自分たちで育てた四季折々の花々がまちを彩り、訪れた人たちに心地よくまち歩きを楽しんでもらえたら」と話した。

(2014年5月29日更新、長崎新聞「アジサイで彩りと和みを!」)
http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennaitopix/2014/05/29091620013489.shtml



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月影地蔵

 こうしてヤッホー君たち、山歩クラブご一行様はお散歩会をつづけます。
 鶴岡八幡宮では神前結婚式が…、こいつは縁起がいいや、きっと何かいいことがあるっておっしゃってた方もおられましたな。

鶴岡八幡宮.jpg

 これは「つるがおかはちまんぐう」と呼ぶのか、「つるおかはちまんぐう」と呼ぶのか、質問が出ました。なぜって、下町の富岡八幡宮は「とみおかはちまんぐう」、市川の葛飾八幡宮は「かつしかはちまんぐう」でしょ?だから、「が」が入るの、入らないのって…相変わらずにぎやかお散歩会!

 鎌倉駅に出て江ノ電へ。
 ここも人だかり、行列に並ぶんですが人さまにおそれをなして、電車を一台待つことにしました。
 写真は鎌倉行になっていますが、これは「極楽寺駅」で降りて「極楽寺」へ行くには線路をまたぐ必要がありまして、そこから撮った写真なんですよ。

江の電.jpg

 向かう先は極楽寺駅!
 喜んだヤッホー君、行きたいところあるんだけどおつきあいできますか?って了解をとりつけて、「月影地蔵堂」へ行ってまいりました。

月影地蔵.jpg

 ここで待望のお昼です。
 雨が雨
 軒先三寸借り受けまして、お弁当をいただき、ご飯を口に入れながら「月影地蔵」について、鎌倉の特徴的な地理、「谷(やつ)」について、ヤッホー君の講釈がはじまります。
 それが終わったと思いましたら、雨も上がり、やれやれ。

 でもヤッホー君、これで十分ではなかった、と言うのです。
 まず、極楽寺駅で降りたら、極楽寺方向とは逆の道を辿って「阿仏邸旧跡」へも行かねばならなかったのに、これじゃ、100点満点だったら半分の50点!
 よ〜し、また、行こ、行こ…。今度は平日に。


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2014年06月23日

乾山系譜

 城之内早苗(1968年生まれ)のデビュー曲「あじさい橋」(1986年)を聴きながら、昨日の鎌倉行の整理をしています。
http://www.youtube.com/watch?v=shpgujBHPSY

 秋田みちのく盆踊りを題材にした民謡入り唄も:
http://www.youtube.com/watch?v=R6CjHdrRmNk

 忘れてならないのは石原裕次郎(1934-1987)の「あじさいの歌」(1960年)!
http://www.youtube.com/watch?v=Lzqt_jrnmqY 

 あの明月院は「姫アジサイ」、どうしても「山アジサイ」を見たくなった山男のヤッホー君、また引き返しても良い?と了解をいただきまして「古民家ミュージアム」に戻ってきました。
 それは事前資料として6月13日付け「神奈川新聞」記事が手元にあったから:

 JR北鎌倉駅そばの「北鎌倉古民家ミュージアム」(鎌倉市山ノ内)で、裏庭のヤマアジサイが見ごろを迎え、来館者の目を楽しませている。アジサイにちなんだ日本画などを紹介する「あじさい展」も開かれ、さまざまに表現されたアジサイを堪能することができる。30日まで。
 ミュージアムを囲む「あじさいの小径(こみち)」には、同館長が長年にわたって移植してきた日本古来のヤマアジサイ約100種が花を咲かせている。観賞用のセイヨウアジサイのような華やかさはないが、淡い紫色などのかれんな花が落ち着いた雰囲気を醸し出している。展示室では、平安から室町時代に焼かれた貴重なかめやつぼを使い、盆栽や生け花のように栽培したアジサイも並ぶ。そのほか水彩画やちぎり絵、写真などアジサイを題材にした多彩な作品が展示されている。

http://www.kanaloco.jp/article/72919/cms_id/85951

あじさい1.jpg

あじさい2.jpg

あじさい3.jpg

 アジサイって日本が原産地。
 ミュージアムの裏手にまわって、カメラのシャッターを押しまくって撮ってきたアジサイの写真。
 三葉だけ上にご紹介しました。
 そのたくさんの品種のアジサイの花をミュージアム内の展示コーナーで堪能しつつ、階段の踊り場にきてヤッホー君、な、なんだ、なんなんだ、と圧倒されたのが、一幅の絵、『楽人の妻』(A musician's wife 昭和4(1929)年帝展入選作)!

 尾形奈美― 明治32(1899)年六世尾形乾山を父として生まれる。画業を志し、昭和4(1929)年、本作品が帝展に入選。
 戦後、バーナード・リーチ(1887-1979)の勧めにより陶芸にも才能を発揮、乾女と号し、人気をはくす。
 昭和50年代に当館敷地の離れに居住。
 1997(平成9)年に98歳で没。
 これにて乾山系譜は終了となる。


 な、なんとまあ、悲しい尾形光琳、尾形乾山物語!
 な、なにがあったのでしょう…、ヤッホー君、アジサイを観るよりも長くこの絵の前にたたずんでいたそうです。
 いや昨日は、アジサイの花よりもむしろ、その一幅の絵がヤッホー君を呼んでいた、といっても過言ではありませんでした。

 (注13)
 三浦乾也の弟子の浦野繁吉は、師匠の乾也さえ称えなかった六代乾山を弟子の自分が名乗るのはおこがましいと再三辞退しました。
 しかし、尾形家(尾形圭助)の養子となっていたので、乾山流陶法の保存の意味で六代乾山を継いだそうです。
 圭助は乾山の後裔で、東京都町田市の円福寺の過去帳には乾山以来数代の記載があるそうですが、歴史上は乾山は生涯独身だったと考えられています。なお、繁吉は元今戸焼の陶工でした。

 (注14)
 イギリス人の陶芸家バーナード・リーチは浦野繁吉に師事しましたが、繁吉亡き後(1923(大正12)年没)、1969(昭和44)年に娘の尾形奈美(乾女:画家で陶芸家)や乾山顕彰会と計らって、乾山の号は第六代を以て完結することとしたため、リーチは正式には七代目乾山とは名乗っていません。

(2012年12月8日更新、近世日本陶磁器の歴史、京焼色絵再考−乾山)
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html


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2014年06月22日

鎌倉でアジサイ観る会

 今日6月22日日曜日、最終的に集まったメンバーは6人でした。
 おひとりは足が痛い、もうひとりは孫守り、残りの方は欠席理由、不明。
 そう、当初は9名の予定だったんですよ。

 今日は山歩クラブのお散歩会の日。天候、時折、雨雨
 降り立った駅舎が北鎌倉駅、びっくりしましたね、どちらかというと都会の喧騒を離れるためにお山歩会をしているのですが、開門を待つ朝の通勤ラッシュ!皆さん、就業規則遵守、規則撤廃の声もあがらず…
 8時20分というのに、警察官の護衛付き長〜い行列なんですもん。
 そこは明月院。

明月院.jpg

 その先は、まあ、この写真を撮るにも長〜い行列!その先は、まあ、現在立ち入り禁止区域!こんな映像で我慢しましょう:
http://www.youtube.com/watch?v=1wJUB9kIwn0

 あじさいの盛りの日でどっと人びとが押し寄せてしまったのですね、ここがそうだったらもう、どこもかしこも皆同じ。
 人、ひと、人…
 一応今日のコースを紹介しておきましょう。
 まあ、明月院でしょ、建長寺、鶴岡八幡宮、段葛、極楽寺、月影地蔵堂(お昼)、成就院、長谷寺。
 で、ね、長谷寺で、入るのに「90分以上待ち」の渋滞表示を見た途端に、われわれはあきらめて撤退を決意。
 記念撮影だけでも、と写真を一枚パチリ!添付しました。

長谷寺.jpg

 江の電長谷駅〜鎌倉駅〜東京駅八重洲口と戻ってまいりまして、そしてぇ〜、ついつい おつかれさん会をビールで乾杯!
 次回は、山歩クラブ有志6人による岩手県へのお山歩会。
 なんでも賢治ワールドに、早池峯山1914mを2泊3日で!



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鎌倉へ

 6月22日日曜日、今日は山歩クラブの歴史散策、お山歩会でなく、お散歩の日です。
 鎌倉に行きたい、ということで成田からくるJRの電車、逗子行にそれぞれ錦糸町駅から、新日本橋駅から乗ろうか、と。

 鎌倉と言えば、「鎌倉古道」!
 『十六夜日記』の作者、阿仏尼が京の都から幕府の裁定を求め鎌倉へ、湯坂路を辿って鎌倉へ、いざ鎌倉へ。
 そして阿仏尼が住んだと言われる谷(やつ)、そして亡くなって葬られたお寺さまがあります。

 ヤッホー君のこのブログ、つい先だっての6月19日付け日記『十六夜日記』でご紹介申し上げました京都大学大学院教授の鈴木晶子先生によりますと:

 息子・為相を残し、60歳という当時にしては高齢になっていたにもかかわらず、阿仏尼は一人で京都から鎌倉へと向かう旅に出ることを決心します。
 母は強しといいますが、阿仏尼の決意はかたかったようです…

 鎌倉・鶴岡八幡宮の隣にあった中学校に通っていた私にとっては、極楽寺、源氏山は友人とよく散策していたあたりです。
 今では極楽寺は湘南のビーチを望む海岸が広がり、源氏山はハイキングコースになっていて、若者や家族連れなど行楽客も多いスポットになっています。
 しかし、当時の鎌倉は、京の都に比べれば、さぞかしまだ寂しい所だったのでしょう。
 一途な母の思いを貫いた、気丈な阿仏尼が慣れない土地で過ごした晩年の日々が偲ばれます。
 一説によると、阿仏尼は晩年、鎌倉の地で日蓮上人と交流があったといわれています。
 彼女が法華経に帰依していた史料も残っており、幕府の裁定を今か今かと待つ最期の日々を支えていたのは、法華経であったのかもしれません。

(2013年8月23日投稿「十六夜日記」)
http://baby.educ.kyoto-u.ac.jp/shoko/blog/?p=1558

 それに、これも行きたかった鎌倉の名所(などころ)がヤッホー君にはございます。
 ヤッホー君のこのブログ、2014年1月3日付け日記「谷中七福神」で登場してくる<盛久>が待っている、というのです。

 それにしても見たかったですねえ〜、2013年11月20日(水)国立能楽堂公演、能・盛久(もりひさ)、野村四郎(観世流)!
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2013/2002.html?no=jac131020

 どんな鎌倉お散歩会になるのか、行ってきまぁ〜す…


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2014年06月21日

貞観噴火

 東日本大震災は千年に一度の震災と言われます。前回の地震は、平安の初期、西暦869年に発生した貞観地震と考えられています。『六国史』の最後の正史『日本三代実録』には、仙台市郊外の多賀城で津波により1000人が犠牲になったと記されています。多賀城は、陸奥国に設置された国府で、大宰府と並ぶ我が国の最重要拠点だったようです。
 貞観時代は、自然災害が多発した時代でした。貞観地震に先立つ863年には、越中・越後で大地震が発生、翌864年に富士と阿蘇が噴火、868年には播磨・山城で大地震が発生しています。この時代、隕石の落下や、海賊の来襲、疫病、干ばつや水害など、災いが続きました。そこで、貞観地震のあとに、災いを治めるために祇園で御霊会が行われました。これが、祇園祭の始まりと言われています。
 貞観地震の後も、肥後、出雲、千葉などで地震が続きました。878年には関東で、さらに887年には東海・東南海・南海地震が発生しています。
 兵庫県南部地震や新潟県中越地震・中越沖地震、東北地方太平洋沖地震を経験し、首都直下地震や、南海トラフ巨大地震の発生が懸念されている現代と酷似しています。

(2011年8月分読売新聞 防災・減災、名古屋大学 福和伸夫「歴史に学ぶ今後の地震対策」)
http://www.sharaku.nuac.nagoya-u.ac.jp/~fukuwa/paper-pdf/110812yomiuri.pdf

 そうなんです、6月21日夏至の土曜日、ヤッホー君、在原業平『伊勢物語』で表記されていない事柄、当時の史実が作品に反映されていない事柄について、ぼう〜っと考えておりました。
 抜け落ちていること、捨てていること、欠けていること、視野を離れていること…

 そのひとつが貞観地震でありました。在原業平の生存期間は825-880年、貞観年間は859-877年ですのでだぶらせるわけです。
 そうすると福地先生の上述読売新聞への寄稿文のように、864年富士の噴火、そして869年貞観地震が特記せられ、『日本三大実録』に地震での被害状況が記録されます。

 文徳天皇に続く清和・陽成・光孝3代の歴史を編年体で記した勅撰国史。全50巻。略して『三代実録』とも。858(天安2)年8月から887(仁和3)年8月までのことが記されています。光孝天皇を継いだ宇多天皇の命で編纂が始まり、醍醐天皇の901(延喜元)年8月に完成しました。撰者は源能有(みなもとのよしあり)・藤原時平(ふじわらのときひら)ほか。菅原道真(すがわらのみちざね)も編纂に加わりましたが、本書が完成した年の正月に、藤原時平らの謀略で太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されました。
 29年余の歴史を50巻にまとめた本書の記事は、『六国史』の中でも最も詳しく、また干支だけでなく日子(ひにち)も併記するなど、史書としてより整った体裁を備えています。祥瑞(喜ばしい前兆)・災異(地震・火災等)をもらさず記載し、詔勅や上奏の文書を詳しく掲載しているのも、本書の特色とされています。

(国立古文書館、『日本三大実録』)
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/07.html

 富士山の噴火については、静岡大学の小山真人先生が史料や文献にもとづいた緻密な研究をなされておられ、それによって、在原業平が生まれる前、それに存命中の爆発、噴火を以下に記しておきます:

 ● 信頼性の高い噴火記事
 延暦19〜21年(800〜802)
 貞観6〜7年(864〜866初頭)
 ● 信頼性の低い噴火記事
 天長3年(826または827初頭)
 ● 信頼性の低い火山関連現象(噴火以外)の記事
 貞観17年(875)
 ● 誤記・誤解等によって生じた誤りと考えられるもの
 承和年間(834〜848)
 仁寿3年(853)
 天安2年(858)
 貞観元年(859)

 このうち、延暦19〜21年(800〜802)の記事から先生が得た知見とは:

 『日本紀略』『富士山記』などの史料価値の広く認められた史料、および「宮下文書」に延暦19年(800)から21年(802)にかけての一連の富士山噴火(以下、延暦噴火)記事がある…
 延暦噴火前の東海道が富士山の北麓を通っていたとする「宮下文書」の記事は、噴火堆積物の分布や古地理から判断すれば、むしろ自然である。しかし、歴史地理学的側面から考えると、北麓通過説には不利な点が多い。おそらく古代東海道は延暦噴火前も富士山南麓にあって、延暦噴火時に降灰やラハールの被害が出た御殿場付近の街道の使用を、被害の拡大を恐れて一時的に停止したというのが真相であろう。


 そうか、延暦19〜21年(800〜802)噴火堆積物によって「五月(中略)甲戊、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也」(『日本記略』)、足柄路を捨てて、箱根路(筥荷途)を開いたことが記されている。なお、この箱根路は約1年後に廃され、足柄路が復旧された。『日本紀略』に「廿二年(中略)五月(中略)丁巳(803年5月31)、廃相模国筥荷路、復足柄舊路」とある。

 『伊勢物語』の「男」は静岡県からどこを通って墨田区にたどり着いたのか、その行程はつまびらかではないし、湯坂路を通った確証は得られませんし、海路をとるにせよ危険の伴うものでした:

 『続日本後紀』には、838(承和5)年に伊豆七島の神津島火山が大規模な珪長質火砕噴火を起こしたことが記述されている。この神津島テフラ(注1) の分布軸は北西に向いており、駿河国や甲斐国にも降下したことがわかっている。

 この時「男」が目にした富士山もイマのような白装束に身を包んだお富士さま、というより、荒ぶる富士子だったのかも知れません。
 だって、貞観6〜7年(864〜866初頭)の噴火は凄まじいもの:

 貞観6〜7年の噴火(貞観噴火)は、青木ヶ原溶岩が流出して富士五湖のうちの3湖(本栖湖・精進湖・西湖)がほぼ現在の形となった有名な噴火であり、歴史時代の富士火山の噴火中で、前述の延暦噴火、後述の宝永噴火と並んで、もっとも豊富な文字記録が残されている噴火でもある。
(小山真人「富士山の歴史噴火総覧」、荒牧重雄・藤井敏嗣・中田節也・宮地直道編集『富士火山』(山梨県環境科学研究所、2007年)所収)
http://www.yies.pref.yamanashi.jp/fujikazan/original/P119-136.pdf

 このように文字で記録が残って保存されて読めるからわかるムカシのこと、「男」が東下りして塩釜まで行ったとしてそのころの「日高見国」には文字によってムカシを記録するのでなく、年寄りが炉ばたで口伝えで子どもたちに教えて育てる伝承文化でしたね。

 802(延暦21)年に造胆沢城使(ぞういさわじょうし)として胆沢(現在の岩手県奥州市)に赴いた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ、注2)は、さっそく胆沢城の造営にとりかかります。それと同時に周辺地域の支配体制づくりを開始し、804(延暦23)年には磐井(いわい)・江刺(えさし)・胆沢の「胆沢三郡」が成立したものと考えられます。808(大同3)年には陸奥国鎮守府が国府多賀城から移され、「鎮守府胆沢城」が成立します。
 胆沢城は方(四角形の一辺の長さ)675mの築地(土塀の上に屋根を葺いたもの。古くは、土を盛り上げて固めただけのものであった)で画される外郭線と、その内側に方90mの大垣で区画された政庁域からなります。外郭外周には幅5mの大溝が、内周には幅3mの内溝があり、築地の各面に門ややぐらがありました。

(いわての文化情報大事典)
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/nara_3.html


(注1)
 群馬大学の早川由紀夫先生の「火山ブログ」によりますと、テフラとは《過去の火山噴火が地層の中に残した軽石や火山灰》のことを言います。
 なお、ヤッホー君のこのブログ、2011年9月13日付け日記「早川由紀夫」もぜひ読んでください。

(注2)
 関西アテルイ・モレの会
http://www.iwate-kansai.com/aterui/

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2014年06月20日

在原業平

 業平
 現在の吾妻橋3丁目に大正時代まであった、南蔵院(なんぞういん)の「業平塚」が由来となっているともいわれています。
 「伊勢物語」の主人公とされる在原業平が隅田川を訪れ、歌を詠んだといわれることから、業平を偲んで建てられたという説など、この塚には諸説あります。

(2010年4月1日号すみだ区報「ご存じですか?『押上』と『業平』の地名の由来」)
http://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/100401/kuhou02.html

 う〜ん、墨田区の業平(※)は、

  名にしおはば いざ言問はむ みやこどり わが思ふ人は ありやなしやと

 学校でも教わるほどのこの歌とともに名を馳せておりまする。
 その業平(825-880)が山歩クラブで6月15日に歩いた湯坂路を歩いたという伝説も広く流布しております。
 6月20日金曜日、この1200〜1300年も前の湯坂路行程表を明らかにすべく、朝からヤッホー君の書庫をくまなく探しておるのですが見つかりません。

  駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にもあはぬなりけり

 富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。

  時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪のふるらむ

 その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。
 なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国のなかにいと大きなる河ありけり。
 それをすみだ河といふ。

(伊勢物語、第9段、東下り)

 あのですね、「駿河なるうつの山辺」とはイマの静岡市宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部とにまたがる山のあたりとして、その後は富士山をみて、いきなりもう墨田区!
 この間、静岡県から、陸路か海路か、どこから富士をみて、どうやって墨田区にたどり着いたのか、まるで不明。

 近藤さやかさんの論文、<『伊勢物語』東下りと東国章段〜「むさしあぶみ」について〜>を読んでみました:

 そもそも「男」が東国まで行ったのはなぜか。

 いきなり自問自答なさっております:

 入内前の二条の后、つまり藤原高子との逃避行に失敗し、居辛くなった京を離れ、東に旅立ったという流れに読める…
 注意したいのは、実際に在原業平が二条后と恋愛関係にあり、引き裂かれて東国へ下ったということではなく…


 「男」と在原業平との関係を重ねて読み取るのか、在原業平の「影のひとつ」にするか、読む者にあづけているんだよ、だから注意して読んでみて、というのかな、とすれば、「東下り」だって、「東京都墨田区」なのか、「千葉県」なのか「宮城県」なのか、謎解きのように、作品中の言葉を現実の地図との照合関係を探すのでなく、「影のひとつ」か、「記号」でいいのか、となりません?
 そこでこんな引用、そして考察をなさっているのです:

 隅田川に場面を移すことについて、本田恵美氏に「<住むベき国>を求あて<すみだ河>の辺りを彷裡う東下り」との指摘がある。
 また、「6段との関連で7〜9段を読むならば、東下りの旅とは、所謂芥川の段で鬼に一口に食われ露のようにはかなく消えてしまった女を求めての旅、という解釈も可能ではないか。それは、すなわち、東=吾妻を求めての旅であった」とも述べている(注4)。
 「東」は『古事記』に東征の帰途、日本武尊が弟橘媛を思い「吾妻はや」と嘆いたことから「あづま」と呼ぶようになったという話が知られる(注5)。
 日本武尊とは貴種流離讃としての共通点もあるが、「男」は「吾妻」を求めて東へ旅立つ
 それは<音>に注目した歌が詠まれる東下りの旅として見逃せない指摘である。

(注4) 「<いとどしく過ぎゆくかた>の系譜〜『伊勢物語』7段から『源氏物語』へ」(『古代中世文学論考』13、新典社、2005年2月)

(注5) 小林正明氏が「東国の旅程で『なれにし妻』『夢にも人』『わが思ふ人』『をちこち人』など詠出する昔男には『あづまはや』と絶唱したヤマトタケルの神話的原型が残響しているかもしれない」としている。(『伊勢物語を読む』鈴木日出男編『別冊國文學竹取物語伊勢物語必携』學燈社、1988年)


(学習院大学大学院日本語日本文学(6)所収、2010.3.31)
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1028/1/daigakuinnihongo_6_1_13.pdf

なお、本田恵美氏は、中部大学准教授です:
http://www.chubu.ac.jp/about/faculty/profile/34d6356e4ce30e28b02248fb068a9578725347e5.pdf

 また小林正明氏は、青山学院女子短期大学教授です。
 研究業績についてはこちら:
http://raweb.jm.aoyama.ac.jp/agwhp/KgApp?kyoinId=ymkggoyoggy


(※)
 平安時代に藤原氏の摂関政治の下で、歌人・在原業平は官位を取り上げられ無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われるのが旧駅名の「業平橋」です。
 2012年3月17日に「とうきょうスカイツリー駅」に駅名改称いたしました。
http://railway.tobu.co.jp/guide/station/info/1103.html


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2014年06月19日

十六夜日記

 ムカシ、といっちゃ申し訳ない、イマも現役で活躍している夫婦デュオ「紙ふうせん」というグループがあります。今年、なんとデヴュー40周年!
 『冬が来る前に〜なつかしい未来〜』を2014年6月11日、Sony Music Direct(Japan)Inc.からリリースしたばかりだし、2014年10月24日(金)には、結成40年記念リサイタルを兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで開くそうです!
http://orange.zero.jp/kamifusen/top.html

 『十六夜日記』も名曲です:
http://www.nicovideo.jp/watch/nm7482744

  るんるん三年前の今日の日を
  十六夜日記につけてます
  まちのはずれの停車場で
  思い出残して去ったあなた…るんるん

 十六夜(いざよい)の月…

 昨日が満月だったので、今日見る月は十六夜の月。
 満月よりも少し遅れて上ることから、まるで何かをためらっているかのような風情の月ということで、ためらったり、躊躇したりするという意味の「いざよう(猶予う)」という語から、「いざよい(猶予い)」の月と呼ばれるようになったそうです。
 十六夜の月を眺めながら、恋心を抱いたまま、もの思いにふけったり、悩んだり、そして思い煩い、躊躇する人間の煩悩を象徴しているようで、十六夜の月は多くの詩歌作品に詠み込まれてきました。

(2014年2月16日投稿 京都大学大学院教授鈴木晶子ブログ「十六夜の月」)
http://baby.educ.kyoto-u.ac.jp/shoko/blog/?p=2884

 十六夜の月は詩歌作品に詠み込まれてきただけではありません、実はあのぉそのぉ、ヤッホー君のこのブログにも:
 ☆ 2012年10月1日付け日記「鴎外サミット」
 ☆ 2012年10月2日付け日記「鴎外が縁結び」
 ぜひお読みくださいって、ヤッホー君。

 いったい急にどうしたんですかね、実はあのぉそのぉ、箱根・湯坂路(鎌倉古道)を歩いたのは、鎌倉時代『十六夜日記』の作者で女流歌人の阿仏尼(あぶつに、1222年頃―1283年)さん!

 あしがら山は道遠しとて、箱根路にかゝるなりけり。

 ゆかしさよ そなたの雲を そばたてゝ よそになしぬる あしがらの山

 いとさかしき山をくだる。人の足もとゞまりがたし。湯坂とぞいふなるからうじてこえはてたれば、又ふもとにはやかはといふ河あり、まことにはやし。木のおほく流るゝを、「いかに」ととへば、「あまのもしほ木を、浦へ出さむとて流すなり」といふ。

 あづまぢの 湯坂を越えて 見わたせば しほ木ながるゝ 早川のみづ

 湯坂より浦にいでゝ、日暮れかゝるにとまるべきところ遠し。伊豆の大島まで見渡さるゝうみづらを、「いづことかいふ」ととへど、知りたる人もなし。

(大阪大学大学院教授岡島昭浩)
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/izayofi.htm 

早川.jpg

 この写真は、750年も時代を下った後の「早川」です。
 塩木(注)流るるまことに早し「早川」に架かる「あじさい橋」のたもとから撮っています。
 いまどきの若い人たちが寛いでいる姿です。

 湯坂路は、802(延暦21)年富士山の噴火によって閉ざされた足柄道に代わって開かれたのではないかといわれております。
 鎌倉時代には、この道が大いに利用されていたことが箱根越えの記録としても有名な『十六夜日記』等から推測できますし、また源頼朝を始とする鎌倉武士たちが箱根権現に詣でた参拝道でもありました。
 別名「鎌倉古道」とも呼ばれています。

(箱根町観光情報公式サイト、箱根図鑑、湯坂路)
http://www.hakone.or.jp/1013


(注)「塩木」
 工業的な需要としては、瀬戸内海地方で「製塩」燃料として森の木が大量に使われていた。天日で濃縮した海水を煮詰めて塩をとるために必要な蒔。その生産を目的とする山林は「塩山」「塩木山」と呼ばれ、奈良時代に東大寺が560町歩(約555ha)もの広大な塩山を所有していたという記録がある。同様に、中国山地では「製鉄」のための燃料としても大々的な伐採が行われていたようだ。
(秋川木材協同組合、木材の歴史)
http://www.akigawamokuzai.or.jp/rekishi/index.html

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2014年06月18日

湯坂路

 かくして6月15日日曜日、箱根登山鉄道「小涌谷」駅から歩き始め、「千条の滝」を通り浅間山802mへの山路に分け入っていきます(鷹巣山834mに登り詰めるはずの道はイマ、路が極端に荒れ通行止めになっているのか、ロープが張り渡され、また標識も見当たりません)。
 ここにだけあるハコネダケが両脇に繁茂している尾根道を行くと浅間山に着きます。
 ここで、われわれは鳩首会談。
 「鷹巣山にピストンで往復し、戻ってきたところで待ちに待った Le Déjeuner sur l'herbe 」と決しました。

 そうなんです、われわれは箱根湯坂路(鎌倉古道)の核心部分に立っていたのです。

 浅間山(804m)
 古くは前鷹ノ巣山とも呼ばれ、鷹ノ巣城があったのは、この山ともいわれています。
 江戸時代、富士山への振興から浅間志向が盛んとなり、富士山の見えるこの山の中腹に浅間神社を祭るようになってから、浅間山と呼ばれるようになりました。

(箱根町)

 鷹ノ巣城跡
 鷹ノ巣城は、秀吉の小田原攻めに備えて、後北条氏が築城した箱根山の諸城のひとつである。
 1590(天正18)年、秀吉の小田原攻めが始まり、同年3月下旬には、秀吉軍は箱根山に入ったが、この時、秀吉に従って参陣した家康が、しばらくこの城に滞在したという記録もある。
 しかし、その城跡については位置、規模など不明の点が多い。

(箱根町)

 鷹巣山から西に下りれば、前回の山歩クラブ、箱根旧街道ウオークのゴール畑宿に「飛竜の滝」経由で向かうことができます。
 次回、精進湖、お玉が池とも組み合わせ、再度箱根ハイキングを提案してみようかな、とヤッホー君が心底思ったほどに、箱根は奥が深い!
 とりあえず、今日は映像で観瀑会:
http://www.youtube.com/watch?v=4jaN1feNBzs

 鷹巣山から戻って草原状の浅間山山頂で弁当を広げ、食事がすんだあと、「武蔵村山やまびこ会」御一行様は鷹巣山へ向かいましたが、きっと畑宿への湯坂路を辿るのでしょう。
 われわれ山歩クラブは、湯坂路を箱根湯本への道を辿ります。
 お山歩会も終盤のころ、また案内標識板が:

 湯坂城跡
 湯坂城は、室町時代、御厨(御殿場地方)から西相模一円に勢力をはった、大森氏が築城した城である。
 この大森氏は、1495(明応4)年相模支配を狙う伊勢宗瑞(北条早雲)に滅され、代って箱根山は、後北条氏の支配下になった。
 天正後年、豊臣秀吉と、後北条氏の確執が激しくなると、後北条氏は、秀吉との対決を予測し、小田原防衛のため箱根山に多くの山城を築くが、湯坂城もその時整備されたものと思われる。
 その規模については不明の点も多いが、残された土塁から当時の山城の姿がしのばれる。

(箱根町)

 湯坂路には後北条氏がつくった城跡がなんと二つもありました!

 秀吉政権における関東攻防の様子については、ヤッホー君のこのブログ、次の駄文をご参照ください:
 ☆ 2012年12月26日付け日記「八王子滝山公園」
 ☆ 2012年12月27日付け日記「八王子城」
 ☆ 2014年3月23日付け日記「入生田駅〜早川駅」

 こうして、箱根湯本の湯坂路入口に舞い降りました。
 そこにも石の道標が:

湯坂路.jpg

 湯坂山登山道入口
 浅間山、鷹ノ巣山ヲ経テ蘆之湯ニ至ル二里
 湯坂山(通称城山)登山道ハ鎌倉時代ニ唯一ノ箱根道ニシテ □□□□ 往来スルヲ以テ山海ノ景色双 □ ノ裡ニアリ

(箱根振興会)

 畑宿にあった案内標識板も添えてみます:

 箱根旧街道
 江戸幕府は1618(元和4)年、十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山−浅間山−鷹ノ巣山−芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂路(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。
 この街道は、1635(寛永12)年、参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。
 1680(延宝8)年、幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、この石敷の道は現在も所々に在し、国の史跡に指定されている。
 現在、残っている石畳は、1863(文久3)年2月、孝明天皇の妹、和宮内親王が14代将軍、徳川家茂のもとに 降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じ、1862(文久2)年に改修工事を完成させたものだといわれている。

(箱根町教育委員会)



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2014年06月17日

千条の滝

 箱根登山電車は小涌谷駅に着きました。
 ヤッホー君のこのブログ、4月9日付け日記「深川の雪」をお読みください。
 この浮世絵が展示してある「岡田美術館」はここが最寄り駅なんですよ。
 さらに100年以上の伝統をもつ格式ある純和風旅館「三河屋旅館」(足柄下郡箱根小涌谷503 Tel 0460-82-2231)も。
http://www.romancecar.jp/location/rc/kowakudani.php

 三河屋旅館(小涌谷)の建物が2011(平成23)年10月28日、国登録有形文化財になりました。
 三河屋旅館は明治16年創業の、箱根を代表する老舗旅館のひとつです。
 今回登録されたのは、大正13年頃に建てられた建物で、唐破風(からはふ※)玄関を構える社寺建築風の主屋や、洋風の内装を持つラウンジなどが特徴的です。
 国道1号に面してそびえる姿が、歴史的な景観を現在まで伝えていると認められ、登録されたものです。
 これにより、町内の登録文化財は17か所34件となりました。
  ※ 唐破風とは、中央部を凸型に、両端部を凹型の曲線状にした日本特有の建築様式を言います。

(箱根町公式サイト「三河屋旅館」(小涌谷)が国登録有形文化財に!)
http://www.town.hakone.kanagawa.jp/hakone_j/ka/shougai/page000037.html

 この三河屋旅館の創業者は、榎本恭三氏。

 1883(明治16)年創業の三河屋旅館の初代当主・榎本恭三が、大正初期に東京の大久保からツツジを移植したのがはじまりの6万6000平方メートルの庭園です。毎年4月下旬〜5月中旬、サツキ・ミヤマキリシマ・ヤマツツジなど約40種類約3万株の花が開花。秋の紅葉も美しく例年の紅葉の見頃は11月中頃。
 春にはつつじ、夏には森林浴と小さな小川の水の音、秋には紅葉を楽しみながらお散歩はいかがでしょうか。
  ※「蓬莱園」は都市公園として無料で公開しておりますので、ご自由にご見学いただけます。

(神奈川県公式観光サイト、水のさとかながわ、蓬莱園)
http://www.mizutabi.pref.kanagawa-kanko.jp/spot/5857.html

 この榎本恭三氏、箱根に電車をと動きました:

 株式会社三河屋ホテル社長の榎本恭三は「先覚の方々は箱根遊覧電車の計画を立てられたことは数回に及んだ」がいずれも頓挫したと語り(注)、同種の起業(城山インクラインと温泉試掘、遊園設置)を試みた奥沢福太郎なる無名の人物も明治37年に過去の箱根の鉄道計画の挫折の歴史を

「此地を指して交通機関を設けんとせし者曽て二種あり。一は早川に沿ふて宮の下に出で仙石、宮城野を経て湖の北岸に達し、一は石垣山、城山間の山腹渓流を縫て箱根宿に通ぜんとするの二線なりしも、該山の如く傾斜屈曲甚しき地に、普通鉄道若くは電気鉄道の方法を以て、到底能く其目的を達すること能はざる明かなれば、今や何人も是を児戯に付して顧る者なき」

と普通鉄道方式での建設は不可能と総括した。

(跡見学園女子大学教授、滋賀大学名誉教授 小川功「箱根の遊園地・観光鉄道創設を誘発した観光特化型
“不動産ファンド” 〜福原有信・帝国生命による小田原電気鉄道支援策を中心に〜」『彦根論叢』2011 spring/No.387 所収)
http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/Ronso/387/ogawa.pdf

 この榎本恭三氏、動いたのは「蓬莱園」ばかりではありませんでした。
 山歩クラブが6月15日観瀑会をした「千条の滝」:

 蛇骨川上流に位置し、高さ約3mの岩盤を幅25mに渡って、幾筋にも分かれて水がすだれ状に流れ落ちることからこの名前で呼ばれるようになりました。付近にはモミジやカエデが多く、秋の紅葉も見事です。7月ごろはゲンジボタルが飛び交い、滝の流れ落ちる音の中で幻想的な光景が見られます。
 この滝は、長い年月の間ほとんど人に知られることはありませんでしたが、大正時代「三河屋旅館」の創業者・榎本恭三氏が、この美しい滝の存在を広く知らせたいと思い、周辺や滝までの道を整備したとのことです。
(看板より)
(箱根町観光情報サイト)
http://www.hakone.or.jp/528



(注)
 鉄道への新技術の積極的導入もみられ、1919(大正8)年には箱根鉄道が開通している。
 これは、観光先進国スイスにならい、外国人観光客誘致のために到達性の向上を図るために行われたとされる。
 『箱根登山鉄道のあゆみ』には次のようにある。「

 「戦勝直後(日露戦争)の明治40年、海外漫遊の途次、スイスにおける登山鉄道の実況を視察して帰朝した某名士から、井上(馨)侯爵を始め、益田(孝)等、当時の政界財界の有力者に対し、我国戦後の発展策の一案として、海外観光誘致のため風光明媚な箱根の山にスイスを規範として登山鉄道を敷設すべきことを熱心に献策されたのである」

 箱根山の80パーミルを超す鉄道は前例がなかった。
 軽井沢の碓氷峠でも60数パーミルのアプト式だった…
 箱根登山鉄道は日本で初めての登山電車であり、なおかつ、いまだに日本では唯一のものである。
(十代田そしろだ朗(現東工大准教授)学位論文「関東圏における近代別荘地形成に関する史的研究」1994年1月)
http://tdl.libra.titech.ac.jp/hkshi/xc/contents/pdf/116275864/18


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2014年06月16日

箱根登山鉄道「あじさい号」

 昨日の6月15日日曜日は「父の日」。
 ヤッホー君の「帰ってきました」一斉報告メールにかえってきたこだまで知りました。

 今晩は。好天に恵まれ 爽やかな緑の中のウォーク、羨ましいです。
 山歩クラブのお山歩会は、いっつも良い天気に恵まれ、皆さまが清らかな心の持ち主ばかりなので、天からのお返しなのでしょうね。
 今日は「父の日」なので、家におりました…

(22時21分受信)

 栃木県内の生乳の生産量は30万9380トン(2012年)で、北海道に次いで全国2位を誇る。
 県内の酪農家でつくる「県酪農青年女性会議」小森崇宏委員長は、日照りの強い日が続いていることに触れ「牛乳は熱中症対策にも有効といわれている」と、さらなる消費拡大をPRした。
 「父の日に牛乳を贈ろう」と題したキャンペーンは、熊本県の酪農家の発案で1997年にスタート。栃木県内では6月15日、県庁で開かれる県民の日のイベントで、牛乳の試飲会などが開催される。

(2014年6月5日付け東京新聞神田要一記者「父の日に牛乳(ちち)を贈ろう 県内酪農家ら知事訪問」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20140605/CK2014060502000155.html

 そうでしたか…「北海道」にこだわりつづけているヤッホー君、今日6月16日月曜日の朝食は、北海道乳業(函館市昭和3-6-6 Tel 0138-42-2241)「北海道のめぐみ」をごくり!

 さらにもう一通、昨夜かえってきたこだまをご紹介。
 昨日、いっしょに歩いた仲間です…

 帰宅した直後に、TVでサッカーW杯の日本VSコートジボワール戦の結果分析を観ました。
 日本のサッカーが全く出来なかったと口をそろえて言っていましたが、どんなサッカーをすれば勝ったのかと感じましたね。
 負けたら結局そう言う言葉が出るだろうと思い、他国もそれは同じだと思います。
 勝負の世界は、実力のあるものが勝ち残るものだと思いました。

(22時46分受信)

 日本がコートジボワールに敗れた6月15日、東京・渋谷のスクランブル交差点は、スポーツバーなどで試合を観戦して高揚したサポーターらでごった返した。大ぜいの警察官が対応に追われ、回り道する買い物客も多かった。
 交差点周辺は、試合が終わる前から警察官が交通整理するものものしい雰囲気に。代表ユニホーム姿の若者らが正午すぎから、ハイタッチや「ニッポン」コールを繰り返し、交差点の真ん中はもみくちゃになった。

(2014年6月15日 18時51分配信中日新聞「渋谷、負けても若者でごった返す交差点で警察官誘導」)
http://www.chunichi.co.jp/ee/feature/wcup2014/news/2014061501001586.html

 テレビもなく、新聞も購読していないヤッホー君、すっかり世事に疎く、そんなこと露知らず、梅雨の合い間の箱根・湯坂路をのほほんと歩いていたのですが、すっかりお気に入りとなったあの「箱根登山鉄道」…

 数十年かけて職員たちによって一株一株植栽され続けているアジサイ
 昼間は、木漏れ日を受けてアジサイが耀き、夜間はライトアップされ、闇夜に浮かぶアジサイの姿は、日中とは違い幻想的となり多くのファンがいる。
 今年は、新たに「車川」のライトアップポイントが新設。全長約55メートルにわたってLED照明を設置した。同ポイントは、アジサイが高い位置に植栽されているため、車内からあじさいの姿をダイナミックに楽しむことができる。このライトアップ照明に使用する電力は「グリーン電力」でまかなったとみなす方法で取り組む。
 アジサイの見ごろに合わせて、全座席指定の「夜のあじさい号(特別列車)」が臨時運行される。同列車は、強羅行は「宮ノ下駅」、箱根湯本行は「塔ノ沢駅」で約10分停車し、記念撮影の時間を設ける。7カ所のライトアップポイントでは、電車内の照明を落とし、徐行や停止を繰り返しながら、車掌のアナウンスとともにゆっくり運行される。
 沿線の見ごろは7月下旬まで。特別列車「夜のあじさい号」の臨時運行は、6月21日〜7月6日。

(6月12日(木)23時34分配信みんなの経済新聞ネットワーク「箱根登山鉄道で『あじさい号』運行−新設されたライトアップポイントも/神奈川」)
http://odawara-hakone.keizai.biz/headline/1596/


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2014年06月15日

浅間山804m

 6月15日日曜日、今日の山歩クラブ番外編お山歩会は、先の箱根旧街道を歩いた5月25日のつづきでした。
 じゃあ、江戸時代の前の時代の鎌倉古道(湯坂路)を歩いてみようじゃない会だったのです。
 箱根登山鉄道はちょうど見ごろの「あじさい」を見ながら、スイッチバックで切り返して小涌谷へと登っていきます。
 10時10分か15分前ころだったのでしょうか、駅に着きましたね。
 そこから4人、歩いて「千条の滝」へ。

千条の滝.jpg

 小ぶりの滝、良かったですねえ。
 さて、ここからがいよいよ箱根湯本までのお山歩会の開始。
 今日は、快晴、そして大陸の高気圧に覆われていたのか、爽やかな緑のトンネルのなかの散策です。ヤッホー君のお友だちの鳥くんも現れてまるで掛け合い漫才。
 浅間山804mに到着するも、鷹巣山834mをピストンでこなしてから、浅間山山頂の草原でお昼をとりました。
 ゆっくり、美空の下、緑の草原、吹き渡る心地よい風をごちそうにいただくお弁当はとても、美味しい。
 そして箱根湯本に降り立って、最後の階段あがりで「かっぱ天国」へ。
 時計の針は2時半。
 汗を流してきました。
 ゆっくりお風呂と箱根湯本駅前のお土産ものさん、「あじさい橋」を堪能し、4時半には湯本の駅をでておりました。
 あ〜あ、山ってほんとにいいですね。


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2014年06月14日

周防亮介

 昨日のヤッホー君のブログのつづき、Aです。
 さっそくサラチャン(1980年生まれ、韓国系アメリカ人のヴァイオリニスト)の演奏を聴いてみましょう!
 Sarah Chang - Carmen Fantasy(Sarasate)
http://www.youtube.com/watch?v=L44QmaY4_VA

 実は、その文京シビックホールの小ホールを満席にして開かれた周防亮介(1995年京都生まれ、現在東京音楽大学1年生)のコンサート、最後の演目がサラサーテ/カルメン幻想曲だったのです。
 その若さ、長い髪、赤い唇、声変わりしていない言葉、もう、ヤッホー君、口をあけたまんまで拍手しておりました。

 2010年、-いずみホール(大阪)にて行なわれた「日韓若い絆のコンサート」のときの演奏です:
http://www.youtube.com/watch?v=V91uBKlOhtw

 2012年には「佐渡裕 311 ユネスコ・コンサート」にも出演しております。

 震災から一年、パリ・ユネスコ本部に国際的に活躍する指揮者・佐渡裕氏を迎えて贈るメモリアル・コンサート
 復活の音を奏でる日−2012年3月11日(日本時間23時〜)
 指揮者に佐渡裕、ソリストにピアノ辻井伸行、ヴァイオリン周防亮介の各氏を迎えての特別なひととき。
 フランスを拠点とする名門オーケストラの団員を中心に精鋭たちによって編成された、この日だけのスペシャルなオーケストラ「ジャポネード・オーケストラ」、そして日本からは佐渡裕氏自らが率いる「スーパーキッズ・オーケストラ」の出演です。
 祈りと鎮魂、そして復興と再生への願いへ。
 東日本大震災から一年のこの日、再びパリから思いをひとつに。

http://www.ustream.tv/recorded/21041901?utm_campaign=JPER&utm_medium=FlashPlayer&utm_source=embed

 2014年2月23日(日) ACT New Artist Series 周防亮介 ヴァイオリン・リサイタルに出演する周防さんのリサイタルに向けてのメッセージをいただきました。
(公益財団法人浜松市文化振興財団)
http://www.hcf.or.jp/information/2013/12/youtube_6.php

 これからの予定では:
 ☆ 今日です、今日!
 東京音楽大学「在学生によるウェルカムコンサート」(2014年6月14日(土)15時30分〜16時30分)
 ☆ そして次月7月5日(土)「響きの森コンサート」(開場時間14時30分 開演15時00分 於 文京シビックホール大ホール)!

 ヴァイオリン、ヴァイオリン…
 書庫に向かったヤッホー君、ムカシ、気分転換に立ち寄って買ったヴァイオリニスト・コレクション、ヤッホー君の Best 3 はこれ:

 ☆ 今井信子(1943年東京生まれ)
 ☆ 千住真理子(1962年東京生まれ)
 ☆ 五嶋みどり(1971年東京生まれ、2007年9月からは、日本出身者で唯一「国連ピース・メッセンジャー」として国際的に活躍中)

 今井信子はヴァイオリンでなく、ヴィオラでしたかぁ〜(注)
 「憧れ」胸にイマを生きる70歳記念ヴィオラ協奏曲コンサート、すばらしい映像がありますので楽しみましょう:
http://tvuch.com/social/56/

 音楽というものはいつも、「瞬間」に生まれる。
 いつも、そんな感じで弾かなきゃいけないと思ってるんです。
 解釈や弾き方をあらかじめ決めて、毎回繰り返すのは絶対にダメ。
 そんなタイプの演奏家も案外多いですよね。でもそれだと、音楽はどんどん死んでいく。
 私は、一度、ある弾き方で演奏したら、それでいったん音楽は終わりだと考えています。
 次に弾く時はまた、演奏家がクリエート(創造)しないとならない。
 このことは生徒にもよく話します。

(2013年6月10日今井信子さんインタビュー、熟してなお世界を駆け続ける「草分け」のフロンティア・スピリットを伝えよう)
http://phoenixhall.jp/newslist/3/ 

 バイオリニストの千住真理子さん(51)は、2011年2月に腎臓がんとわかった母文子さん(87)と、手紙のやりとりをするようになりました。
 思いを整理し、しっかり伝えることができたといいます。また母の生き方や考え方を、手紙を通じて知るようになったそうです。
◎取材を終えて 手紙は出版社からの助言で始めたという。そうでなければ家族で手紙なんてと思うかもしれない。でも、今はペンを持つこともできなくなった文子さんからの手紙は「宝」だと真理子さんは話す。記者は4年前に父をがんで亡くしたが、抗がん剤治療や緩和ケアについて父がどう思っていたのか、わからないまま見送った。文通でも交換日記でもすればよかったと、今さらながらに思う。

(2013年6月16日 読売新聞)
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=79663

 千住真理子・著 千住文子・著『命の往復書簡2011〜2013』(文藝春秋社、2013年4月)はぜひ読んでみませんか?

 そして五嶋みどりさん。

 日本の皆様へ…
 さて、先月、国連から気候変動に関する最新の報告書が公表されました。
 珍しくもない「地球温暖化」の警鐘が統計的に示され、異常気象による突発的な災害、また気温の上昇が主要穀物の生産量減少と、海洋資源や食料生産地の分布に大きく影響し国家間の緊張も高まる、と相も変わらず。
 それは深刻な報告には違いありませんでした。

 私が国連ピース・メッセンジャーとして、「ミレニアム開発目標」を推進する役割の一端を担っている過程でも、最重要課題は依然としてベクトルが上に向かず、個人レベルでも真剣に考え実行しましょう、と立て板に流れるメッセージに風化してきた注意を今ここでも述べずには居れません。
 たまには五嶋みどりが念仏のように唱えるこのメッセージを思い出してください。

(2014年4月30日、みどりの eye)
http://www.gotomidori.com/japan/

―みどりさんご自身にとって、「ピース・メッセンジャー」の“ピース(平和)”とは何であるとお考えですか?

 “ピース(平和)”は“acceptance(受け止めること)”だと思います。
 “受け止める”とは、自分自身に素直になり、自分を“accept”する(受け止める)ことであり、そうすることによって心が豊かになり、初めてもっと大きな意味での平和ということが考えられるのではないかと思います。

(国際連合広報センター)
http://www.unic.or.jp/activities/un_japan/un_interview/midori_goto/

 最後におまけ。
 オランダの音楽家・指揮者・ ヴァイオリニスト、アンドレリュウ(1949年生まれ)のCDがありました:
http://www.andrerieu.com/
 André Rieu in Maastricht 14.7.2013:
http://www.youtube.com/watch?v=RCvUr6Huy0U



(注)
ヴィオラが誕生した場所と時期は正確にはわかっていません。しかし、同属楽器のヴァイオリンと同じ頃、すなわち16世紀前半に北イタリアで使用されていたことは間違いないでしょう。「ヴィオラviola」という呼び方は現在、イタリア語と英語で使用されていますが、この用語が完全に定着したのは18世紀になってからです。それまで、ヴィオラ・ダ・ガンバ(「脚で支えるヴィオラ」の意)という楽器のことを思い起こしてみればわかりますが、「ヴィオラ」は、いろいろな種類の弓奏弦楽器(弓で弦を弾いて発音する楽器)を指す用語でした。現在のフランス語でヴィオラを「アルトalto」と呼んでいるのはバロック時代の呼称の名残りなのですが、その呼称はこの楽器がヴァイオリン属のなかで中音域を担当するためです。
http://www.yamaha.co.jp/plus/violin/?ln=ja&cn=10102&pg=4

 
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2014年06月13日

堀越千秋

 6月13日金曜日朝、江東区のうえは、気持ちの良い青空がひさびさにひろがりました。
 昨日の夕方、日比谷図書文化館でのこと。
 ヤッホー君は閉架書庫にあった書物を借りに行ったとき、受付の職員さんが「あがりましたね」とぼそっと耳元でささやくように言ってくださり、「当分、雨はやみそうになかったですからね」と答えていました(注1)。
 書物とは、貝澤正(かいざわ ただし、1912(大正元)年北海道平取町生まれ-1992(平成4)年苫小牧王子病院にて逝去)著『アイヌ わが人生』(岩波書店、1993)。
 この書物でヤッホー君、イザベラ・バードが47歳の1878(明治11)年にこの地、沙流川地域に入ったことを知りました。

 現在の富川地区:日高町立門別図書館郷土資料館あたりにあったとされる「仙台通り」の旧戸長役場を出発し、獣道のような道を辿ってシリ川河口から、渡船で対岸に渡りアイヌ人たちが暮らす平取部落へと向かったとされています。
 2009(平成21)年11月に開通した「紫雲古津川向大橋」の道路(川向側)の路肩に、「イザベラ・バードが歩いた道」解説板が設置されました。

http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/bunkatekikeikan/web/pdf_m_i/i_h_dat.pdf

 イザベラ・バードについては、ヤッホー君のこのブログ、2012年1月7日付け日記「七草」、そして2013年11月8日付け日記「希望のない暗さ」を参照、お読みください。

 昨日6月12日木曜日のヤッホー君、大忙し。
 @ 朝の寝床でNHKラジオ深夜便「明日へのことば」に起こされ、もう朝の10時半には傘を持ってお出かけ。
 A 文京シビックセンター小ホールでランチタイムコンサートがありました。
 B 山歩クラブの月例お山歩会でお世話になった専用バスのドライバーさんからすすめられた文京シビックセンターのなかの食堂で、やっと、やっとランチをとることができました。
 C それから、有楽町駅前のビックカメラでヤッホー君のプリンター(エプソン)の印刷用インクを買いました。山歩クラブの月刊会報誌発行6月号が画素数を高くして写真をカラー印刷した関係もあり、想定以上にインクが消耗しました。
 D そして日比谷図書文化館で、特別研究室森田健太郎さん(当初予定の臼井良雄さんの代役)案内で、夜7時〜9時「内田嘉吉(1866(慶応2年)江戸・神田生まる-1933(昭和8)年大森の私邸で病(スペイン風邪?)のため逝去)文庫に見る100年前の外遊」を興味深く聴くことができました…
 いやあ〜、5つもスケジュールが重なり、帰宅は夜の10時をまわっていました!

 どこまで日記に記すことができるのでしょうか、ヤッホー君、自信がなさそうなのですが、ひとつづつ聞いていきましょうか…
 @「『スペイン』を描き日本を焼く」は、堀越千秋さん(1948年東京・本郷生まれ)。
 おっと、これは12日木曜日の早朝でなく、11日水曜日の早朝でした?!?…

 堀越千秋さんは、東京藝術大学卒業後スペインにわたり、画家としてマドリードを拠点に世界各地で個展を開いてきました。スペインへの愛は深く、ヒターノ(注2)と呼ばれる人々との交流を何冊ものエッセーにまとめたり、フラメンコの歌を玄人はだしで歌ったりもするといいます。その一方で、埼玉県の山奥の村に窯を作り、陶磁器を製作して個展を開くなど、陶芸にも力を入れています。
 今では日本とスペインの暮らしが半々という堀越さんに、画家から見たスペインの魅力、ヒターノとの交流から感じたこと、作陶を通してみた日本とスペインの文化の比較など、幅広い観点から日本とスペインについてお話しいただきます。

http://www.nhk.or.jp/r1-blog/

 フラメンコの歌、って.これ『悲しみの家では「わが腸のソレア」より』:
http://www.youtube.com/watch?v=WS2Cs4yb780

 ご本人のブログですと、《12日のあさ4時!朝ですよ》とあって…、むにゃむにゃ

 いきなり雨ですね。 わしはNHKのラジオ深夜便にしゃしゃり出ます。6月11にち、と12日のあさ4じ!朝ですよ。よろしく!
 あと6月15日日曜日の朝日新聞グローブにも記事書きました。よろしく!
 あと、わしのお友達のあいだで有名なわしの母はいま92、3さいですが、不安のあまりあれこれたくさんのチマイ保険に入っていて、つまりアリコの保険とか都の共済とかなんとか、みんなわしの口座からひかれていくんだが、わしは冗談じゃないからもうやめたいんだが、判子も証書もどこにあるのかわからない! 皆さん、振り込めサギなんてかわいいもんだよ。やばいのはこれらの紛失保険、消滅保険だよ。何とかしてくれ!婆さんは完全に忘れて、このプリン旨いね、なんて言うてる。
皆さん!国民保険はないとさすがにヤバイけどさ、それいがいは全部いらない!冗談じゃないよ。みんな庶民は不安だからね。だますんだよ保険会社は。 わしはただひたすらボケた婆さんの不安のウンコの後始末だ。誰か助けて!こういうことがおとくいのギャルいませんか?助けて!ギャルって、全女性のことよ。車は全部ベンツ。 助けて〜!
(2014.06.05記) 
 つまりあれかい、集団的自衛権の行使てえのは、アメリカがアルカイダからツインタワーを攻撃されて、イラクやアフガニスタンに攻めこんだ時には一緒にいくということやな。
 戦争はしませんという 安倍を信じらんないのは、安倍がなおも原発を推進する人間だから。国民のいのちと平和をまもるためてえのなら、まず国民の8わりが反対する原発をやめるべきだろうよ。
 平和平和といいながら、天皇の行かない靖国参拝をすること、つまり中国韓国に挑発していること、は、何故?
(2014.05.15記)

http://blog.chiakihorikoshi.com/

 昨年2013年5月25日夜7:00〜8:54にはBS朝日放送で「情熱の画家、スペインに生きる〜ピカソの魂を訪ねて〜」が放送されて紹介されています:

 表現者としての発想を求める彼をとりこにしたもののひとつが、ヒターノ(ロマ民族)が歌うフラメンコのカンテ(歌)。堀越の芸術表現には、ヒターノの土着的な生き方が大きな影響を与えている。
 文字を持たないロマ民族は、苦しみや悲しみ、喜びや希望を絞り出すようにして歌に託してきた
 堀越は、今日を精一杯生きる彼らの暮らし方に感銘を受けたのだという。
 堀越は年に一度、日本に帰ってくる。
 「貧乏なる友よ、みんないらっしゃい!」と呼びかけ、埼玉の山奥・神泉村で窯だきを主催している。
 貧乏を美徳とし、裸同然で暮らす。
 古い農家を借りて仕事場とし、裏山には手作りの穴窯「千秋窯」、露天風呂と粗末な便所だけがある。

http://www.bs-asahi.co.jp/horikoshichiaki/content.html


(注1)
雨が長く続いているなぁ…と感じている方も多いはず。東京は6月12日で8日連続で雨が降り、13日も傘が必要になる見込みです。もし13日雨が降ると、東京で1ミリ以上の雨が9日間も連続して降るのは、1991年以来23年ぶりのこと。梅雨時に限っていえば、1985年以来、29年ぶり。長雨の季節とはいえ、これだけ雨が連続して降るのは、珍しいことです。
http://www.tenki.jp/forecaster/diary/zaime/2014/06/12/12291.html

(注2)
 弾けるような青い空に、ひと筋の飛行機雲が伸びる。
 メリメ(1803年パリ生まれ-1870(明治3)年滞在先の南仏カンヌで逝去)がカルメンと出会ったと書いたスペイン・コルドバの街並みは、強い日差しに白く光っていた。
 女性の水浴びを見物したグアダルキビール川にかかるローマ橋、カルメンに連れられて訪れたヒターノ(女性形はヒターナ。いわゆるジプシー)の住宅街。ドン・ホセと出会ったというカルチェナ平野も遠くに見える。
 『カルメン』(1847年、岩波文庫でも読める)の風景描写の、なんと忠実なことか。肌をジリジリと焼かれながら思った。
(愛の旅人、メリメ『カルメン』、カルメンとドン・ホセ〜スペイン・セビリア〜)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200608190165.html

 ☆ 2010年6月に英ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで上演されたジョルジュ・ビゼーによる名作オペラ『カルメン』(1875(明治8)年初演)を、米リアルD社の最新3Dカメラで撮影し映像化。映画『カルメン 3Dオペラ』予告編:
http://www.youtube.com/watch?v=9T1_goILkC0

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2014年06月12日

生芋こんにゃくの宮川

食卓.jpg

 6月11日水曜日が暦の上では「入梅」のはず、しかし今朝も降りやむことなく雨がつづいています。
 そんなときは、晴天つづきだった「たび北海道」のお土産を食べ、思い出にふけるのが一番です:

 ☆ あしょろ庵(足寄郡足寄町西町1-1 Tel 0156-25-3999)のお土産は「手造りチーズニューカマン」に、「木もれ実(塩キャラメルナッツチョコ)」。
 ☆ 網走海鮮市場(網走市モコト海岸通り3-4 Tel 0152-44-1144)で買った「北海道富良野地方の自然に育てられたスイートコーン」。
 ☆ (株)まるは製麺所(恵庭市黄金町1-313-7 Tel 0123-32-3794)「さっぽろ生ラーメン熊吉」
 ☆ 道南食品(株)函館市千代台町14-32 Tel 0138-51-7187「北海道ビールキャラメル」
 ☆ 宮川正夫(笛吹市芦川町鶯宿418 Tel 055-298-2095)「みやがわの手作り、生いもコンニャク」

 ん?コンニャク?
 そう、山歩クラブで宮川さん宅をお邪魔した6月8日の日曜日、最初に目に飛び込んできた「コンニャクの花」には、びっくりしました、こんなの、見たことな〜い!

こんにゃくいもの花.jpg

 収穫までに何年もかかるコンニャクイモ

 芦川のこんにゃくが一番栄えたのは昭和40年代後半〜50年代前半の頃。多くの農家でこんにゃくを栽培していた。こんにゃく芋は栽培しても出荷できるまでに3年はかかる。収穫した芋は大きさ別に、出荷できるものと来年のタネにするものとに分けられる。タネ芋は凍みないように土に埋めたり、芋藏に保存されてきた。今では冷蔵庫に保管することが当たり前の時代。当時は凍みないように春まで保存するのは容易ではなかったコトと察する。

 “ホンモノのこんにゃく”を食べて欲しいという宮川さんの想いが伝わってくる

 現在、芦川でこんにゃくを栽培している農家は僅かになってしまいました。後継者がいないコトもひとつの理由ですが、こんにゃく芋は一つの玉が大きくて重いンです(>_<)。40年前に栽培していた人たちが高齢になり、体力的に無理ができなくなっているのが一番の理由です。それでも宮川さんは芦川で穫れる在来種にこだわり続ける◎ 在来種は病気になりやすいうえ、収穫までに何年もかかります。品種改良された芋は大きくなるのも早いけどウマクない。
 宮川さんは芦川のこんにゃく芋がなくなるコトに危機感を感じ、ご自分でこんにゃく芋を栽培することを考えていらっしゃいます。「粉を使えばいいのに…」芋から造るコトの苦労を知り、つい口からこぼれたひと言m(_ _)m
 もっと楽な方法もあるのにあえて困難な道を選ぶ (>_<)
 苦労して[道]を求める価値観に宮川さんの職人魂は支えられているんだろう(◎_◎;)
 今のところ収穫の時期(10月)に1年分のこんにゃく芋を買いつけ計画的に使っています。基本的に宮川さんのこんにゃくは直売のみ。お客さまの顔を見ながら直接手渡しできるから、あえて賞味期限は入れない。口コミで広まってくだけ。宣伝もしない、売りにも行かない。奥さまと二人で行う手作業だから…一回に作れるのはこぶし程のこんにゃくが1000コ☆

(ふえふき旬感ネット「芦川こんにゃく物語」)
http://www.fuefuki-syunkan.net/2009/konnyaku.html

 コンニャクったら群馬県が日本の主産県ですが、どっこい、海外からも輸入品が増えています:

 ミャンマー、ラオス、インドネシア。
 2011年度の輸入量が538トン、2012年度は739トンですので、4割増。財務省『貿易統計』「こんにゃくいもの輸入量の推移」から右肩上がりで増えているのが、一目で分かります。
(平成26年2月18日更新、農水省「平成25年産こんにゃくいもの栽培・収穫面積及び収穫量(主産県)」)
http://www.maff.go.jp/j/tokei/sokuhou/syukaku_konnyaku_13/

 ☆ 日本の関税率の高い品目の例
・米(精米):778%、バター:482%、脱脂粉乳:218%、砂糖:325%、大麦:256%、小麦:252%、こんにゃく芋:1705%、雑豆(エンドウ豆):1083%、落花生:593%、でん粉(芋でん粉):234%、生糸:245%等

(山梨県、TPP協定に関する資料・情報の整理)
http://www.pref.yamanashi.jp/seisaku/documents/tppeikyouyosoku3.pdf

 刺身にして食べてもこんな美味しい、「生いもコンニャク」。
 これからも食べられるという保証はありませんし、製造販売がつづけられる時間ももう、そう長く残されていません!
 日本人のくらしといのちを守るため、TPPを進める?ウソだぁ〜!

 県内のコメ農家に大打撃、果物輸出もメリットなし
 日本がTPPに参加した場合、山梨県内の農業はどうなるのでしょうか。
 山梨でたくさん生産しているブドウや桃は、もともと外国から輸入した果物にかけられている関税が低いため、関税がなくなっても影響は小さいようです。一方、高い関税で守られているコメは、安い外国産が出回ると国産米は売れなくなり、「コメ農家には大打撃になる」と専門家はみています。
 県などは県産の果物をたくさん輸出しようとしていますが、TPPによってメリットはあるのでしょうか。
 品質のいい県産の果物は外国産よりも値段が高いため、ある程度、経済力のある国がターゲットとなります。しかし、主な輸出先の中国や台湾はTPPの話し合いに参加していません。参加している11ヶ国のうち、ターゲットとなりそうなアメリカやカナダは遠く、輸送にお金がたくさんかかるため、輸出はあまり進みそうにありません。

(2013/3/26付け山梨日日新聞・子どもウイークリー「日本がTPPに加わると暮らしはどう変わる?」)
http://www.sannichi.co.jp/GIMON/2013/0326.php


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2014年06月11日

日本すずらん

 喜早哲(きそう・てつ)。
 ヤッホー君のこのブログ、2014年3月26日付け日記「早春賦」、4月2日付け「花」でもすでにご登壇を願ってきておりましたが、また、ぜひもう一度。
 山歩クラブが若彦路を通り、「雨上がりのすずらん」と出会ったのは日曜日の6月8日でした。

すずらん群生地.jpg

 では、喜早哲が「すずらん」と出会ったのは、いつ?どこで?だったのでしょうか。
 それは、1960(昭和35)年のこと、第一回ソヴィエト演奏旅行の際、当時NHKモスクワ駐在員だった吉川光(さかえ)の部屋だったそうです。
 喜早哲について復習:

 ダークダックスのバリトン、愛称はゲタさん。1930(昭和5)年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中に男声四重唱団ダークダックスを結成、1955(昭和30)年にプロデビューする。1960(昭和35)年には旧ソ連に招かれて大好評を博し、1991(平成3)年にはニューヨークのカーネギーホールで結成40周年のリサイタルを開いた。2007(平成19)年秋にはサントリーホールで、2008(平成20)年には東京文化会館でリサイタルが予定されている。著書に『日本の抒情歌』『うたのふるさと紀行』などがある。
(新潮社、著者一覧)
http://www.shinchosha.co.jp/writer/3498/

 この続きのお話しは、これまでご紹介してきました『日本の抒情歌』に詳しく述べられていますので、ぜひ図書館でこの本を探してお読みください。
 では、歌ってみましょうか:
  ある夏の夜 静かな森を
  一人歩くとき
  いずこともなく 漂うその香(か)
  すずらんの花よ
   ランディシュー ランディシュー
   やさしい乙女よ
   ランディシュー ランディシュー
   きみこそ


 Ландыши (Lilies of the valley):
http://www.youtube.com/watch?v=BcDJVuzReBU

 鮫島有美子で聴いてみましょうか:
http://www.youtube.com/watch?v=BeDEZl07-tQ

 橋幸夫、倍賞千恵子で:
http://www.youtube.com/watch?v=ZDQOEs7bTgY
 あっ、ごめんなさい、これは大映映画『あした逢う人』の主題歌「すずらん娘」(1962年8月発売)でしたか!

 ところで、山歩クラブお気に入りの「すずらん群生地」は、もうひとつありました。
 実はここ谷間に咲くすずらんは、「ドイツスズラン」だってこと、知っていました?

 関東甲信で平年より3日早く梅雨入りした6月5日。富士見町の入笠すずらん山野草公園(標高約1780m)で、見頃を迎えた20万本のドイツスズランが霧雨の中、しっとりとかれんな白い花を咲かせていた。
 公園を管理する富士見パノラマリゾートによると、咲き始めたのは例年並みの5月28日。ここ数日の暑さで一気に開花が進んだ。見頃は今月6月20日ころまで。中旬から下旬にかけてはニホンスズランの開花が進み、楽しめる予定だ。

(2014/06/06 12:12更新信濃毎日新聞「入笠山彩る《白き鈴》富士見でドイツスズラン見頃」)
http://www.47news.jp/localnews/odekake/2014/06/post-20140606121330.html

 では、この見分け方っていうと、北海道の「中性変態伊賀忍者野鳥大好き」さんにご登壇願いまして、ぜひ拝聴してみましょう:

 良く北海道の代表お花みたいに思われている、あの白い鈴のようなスズラン。
 あのスズランには、園芸種のドイツスズラン(園芸種)と、スズラン(野生)がある。

 そうなの、ドイツスズランと、スズラン(ニホンスズラン)は、お花をひっくりかえして、中を見ると一目瞭然ばっちり、判別可能。
 だからスズランを見たら、ひたすら引っくり返している、アホでしょ?
 がね、本州だと、殆どが「ドイツスズラン」みたい。
 スズランは、日本の中部以北の山地や北海道に分布=涼しいところでないと、大変みたいね。

 でさー、北海道でも滅多に野生の「スズラン」には出会えないよ、ともうひとつ、スズランには毒があるから気をつけてね、…を付けたしとくゼ。

(2007年06月20日札幌宮丘公園野鳥日記「ドイツスズランと(ニホン)スズランの見分け方、違い」)
http://plaza.rakuten.co.jp/miyanooka/diary/200706200000/


日本すずらん.jpg


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2014年06月10日

若彦路

 おとといの月例お山歩会、雨が止んだその隙間をねらったかのように、バスは中央道の大月JCTから河口湖ICへと進路をきります。甲府南ICで下りるより近いとのドライバー飯村さんの判断でした。ありがとう!
 車窓からは、富士が光り輝いておりました!

光る富士.jpg

 河口湖大橋を渡るとなれば、国道137号線、新御坂トンネルのはずですが、そうではありませんでした!
 新御坂トンネルは、2012年の笹子トンネル天井板落下事故で崩落した天井板と同じ構造なんだそうで、ただいま全線通行止めにして天井板を撤去する工事中(6月30日月曜日深夜24時まで)!
 くぐったトンネルは「若彦トンネル」!

 国道137号御坂トンネル(笛吹市−富士河口湖町)の天井板撤去工事に伴う全面通行止めで、迂回路となった県道富士河口湖芦川線(若彦路)の5月26日(月)の交通量は、通常の3倍に当たる5642台に上ったことが27日、県の集計で分かった。精進湖経由の国道358号、中央自動車道と合わせ、迂回路の3ルートはいずれも交通量が増加した。
(2014年05月28日(水)付け山梨日日新聞「御坂トンネル工事で若彦路の交通量3倍に」)
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2014/05/28/5.html

 ヤッホー君の昭文社「関東道路地図」は古くって2002年版ですが、若彦トンネル(若彦路)なんて記載はありません。
 しかし、もっと古い時代の地図には載っていたことでしょう!

 1949(昭和24)年に初めて上芦川にはいった服部治則は、上芦川の起こりについては不明としながらも、中芦川や鶯宿カ柳田国男のいう草分け百姓あるいは陰遁百姓村のように思えるという点から、「上芦川も中世にできた村とみてよいかもしれない」〔注4〕と指摘している。
 さらに服部は、奈良原から上芦川にはいり、南側の大石峠を越えて南都留郡河口湖村に抜ける道は若彦路とよばれる往還であり、日本武尊が東夷征伐の帰路、現在の神奈川県足柄から甲斐にはいり、その子稚武彦王が竹居(東八代郡八代町)に封ぜられる際に使用した道であるという伝説を紹介することによって、伝説の真偽はともかく、集落としての上芦川の起こりは中世よりもさらに歴史をさかのぽる可能性を示唆している〔注5〕。
 江戸時代の藩政村の区分でいえば、上芦川・中芦川・鶯宿は各々独立した村であり、上芦川村と中芦川村は市川代官の下に属したあと石和代官の支配下に置かれていた。他方鶯宿村は田中代官の支配下に置かれていた(図表2参照のこと)。また、3ヶ村から甲府盆地へ出るルートも異なっていたために、各々の村は比較的高い独立性を保持しつつ、隣村としての関係を形成していたと考えられる。

〔注4、注5〕服部治則「山梨県一山村における社会生活」、『甲斐史学』第18,19合併号、甲斐史学会、1963年。


(松川昭子「山村高齢者の自立的生活〜山梨県東八代郡芦川村上芦川地区の事例〜」、早稲田大学『人間科学研究』第9巻第1号所収、1996年3月25日発行)
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/3914/1/100125_09.pdf

 こんなにも古い若彦路、ですのでさ山歩クラブの面々、まるで日本武尊のよう、かるがると御坂山塊を一跨ぎして、いまは笛吹市となっている旧芦川村に入ることができたのです。

 せっかくですので、若彦路ゆかりのお店をふたつばかりご紹介。山歩クラブ次回の雨バージョンのとき訪れようかな、と:

若彦路田舎味わい宿泊プラン 民宿相澤

 八代の地名は八代で生まれた初代県主「波多八代」の名から名付けられたものですが、この八代には2万4千年も前から人が住み続き、甲斐九筋の一つ大和政権と甲斐を結ぶ古代の主要官道若彦路を中心に栄えてきました。
 今に残る大小60基の古墳群や大樹がその歴史を物語り、特に銚子ヶ原公園の中にある全長92メートルの岡銚子塚古墳は笛吹市一番の大きさで感動ものです。この銚子塚古墳の前方後円墳という形は女王卑弥呼の墓と同じであり、大和政権に従うことを条件に許可された形で全国に6基しかなく、いかに当時の甲斐が時の中央政権の影響下であったかをうかがい知ることができます。春四月、公園内の樹齢700年の蚕影桜を始め300本の桜、盃塚古墳、その背景には白く輝く南アルプス、その眼下に野山を埋めつくす桃の花の海、息をのむその光景は百聞は一見にしかずです。古墳の上に立ち広い空を、空気を、思い切り満喫し、あたり前の自然の中に身をおき、その風のさわやかさにふれる幸せをあらためてかみしめてください。
 我が家はその歴史ある若彦路の里、八代の中でたった一軒の民宿で古墳の麓にあります。自家産のブドウ、野菜を使った手作り田舎料理でふるさとに戻った様な安らぎを、満足感を、明日への英気をきっと養っていただけることでしょう。是非、お楽しみください。

(ふえふき観光ナビ)
http://www.fuefuki-kanko.jp/detail/index_195.html

山里の味わい『若彦路お花見むすび』

 江戸屋商店さんは、旧街道「若彦路」の里、奈良原にある創業179年の老舗です。オリジナルの「ごまどうふ」が有名なお店です。この「ごまどうふ」を求めて、遠方から足を運ばれる方も少なくありません。
(ふえふき旬感ネット)
http://www.fuefuki-syunkan.net/2011/hanamusubi.html
 江戸屋商店生い立ちの記は、こちら:
http://www.e-edoya.com/page/1



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空が泣いた

 6月10日火曜日「時の記念日」。

 まだ空模様がはっきりしていません、というか、今朝までも関東地方西部には引き続き大雨があったようです。

 それにしても、まとまった量になりました。
 梅雨入りした5日木曜日からの総雨量は、関東2か所で400mmを超えました。

(2014年06月08日 23:46 投稿、気象予報士・荒木真理子の「空が泣いた、笑った」、今週は雨続き!?記録的大雨の影響長引く…)
http://www.tv-asahi.co.jp/reading/weather_araki/

 400mmを越えた関東の埼玉県ときがわ町:

 6月8日の「花菖蒲まつり」は予定どおり開催されます。
 住民花づくりグループ「花菖蒲を育てる会」が町おこし・地域活性化のためにと、遊休農地10,000uに8,000株以上の花菖蒲を植え付けました。
 6月の中旬には、大切に育てた花菖蒲が色鮮やかに咲きそろいます。
 園内には輪留めなど車いすの通行にも配慮した木製遊歩道が設置されておりますので、ゆっくりと散策ができます。
 ご家族そろってご観賞ください。

(埼玉県ときがわ町公式サイト)
https://www.town.tokigawa.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=11587

 雨のなか、実際に訪れた方の報告投稿を次にご紹介:

 yamasa空夢日記、2014年06月09日 23時56分34秒 投稿、ときがわ花菖蒲祭り2014
http://blog.goo.ne.jp/system0123/e/f998def7686da8dc1ae152e3559d0843

 ときがわ町、ときがわ町、山歩クラブもどっかで出会った町、と思っていましたら、あれは3月15日土曜日山歩クラブ番外編山行で歩いた「笠山〜堂平山」、その「堂平天文台」の住所が、埼玉県ときがわ町大字大野1853 だったのでした。
 ヤッホー君のこのブログ、3月19日付け日記「堂平天文台」をご参照ください。
 大雪に大雨、あんなにも降った雨、雨、雨…

 気象台によると、5日の降り始めからの雨量(7日午後10時現在)は、山中湖が平年の6月1ヶ月分の89%に当たる208.0ミリを記録。上野原は116%の175.5ミリとなった。このほか河口湖が130.0ミリ、大月が129.5ミリ、南部で118.5ミリを観測。甲府は51.0ミリ。
 富士北麓地域の観光地では、中央道の通行止めによって一部の宿泊施設で宿泊予約がキャンセルされるなどの影響が出た。富士河口湖町船津の「山岸旅館」では、同日夕方までに少なくとも3組10人のキャンセルがあったという。国道137号の御坂トンネルは天井板撤去工事で通行止めが続いており、河口湖温泉旅館協同組合の担当者は「国道と中央道がともに通行止めになると影響は出る」と話した。

(2014年06月08日(日)付け山梨日日新聞「県内大雨 中央道一時通行止め 上野原、平年1ヶ月分超す」)
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2014/06/08/8.html

 なんかまた大っきな自然現象の前触れでないよう、「時の記念日」に朝から、「くらし」と「いのち」の平穏無事を祈ってるヤッホー君でした。 

 日本人のくらしといのちを守るため、集団的自衛権が許される?ウソだぁ〜
 「憲法上の歯止めを次々に外していけば、憲法9条は現実には何の役にも立たない空っぽの文章となり、主権者である国民は『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする』という憲法前文を実現する手だてを失ってしまうだろう」(2014年6月7日付け「沖縄タイムス」社説)
 次はいまの憲法の息の根を止めることだもん。

 日本人のくらしといのちを守るため、混合診療の拡大を始める?ウソだぁ〜。
 「これで医療の選択の幅が広がると思ったら、大間違いだし、こんなこと決めた「規制改革会議」の人選だって業界人と、新自由主義経済の信奉者たる経済学者しかいなくって医療、医療経済の専門家が見当たりません」(2014/06/08 06:29 投稿、ヤッホー君が尊敬している退職したばかりのお医者さん)。

 南の島では、死んだ日本人兵士の墓が海に流され、もう一度溺死させられているんだって…

Rising sea levels have washed the remains of at least 26 Japanese second world war soldiers from their graves on a low-lying Pacific archipelago, the foreign minister of the Marshall Islands has said.

"There are coffins and dead people being washed away from graves. It's that serious," Tony de Brum told reporters on the sidelines of United Nations climate change talks in Germany.

Putting the blame on climate change, which threatens the existence of the islands, which are only 2 metres (6ft) above sea level at their highest, De Brum said: "Even the dead are affected".


(Reuters, theguardian.com, Friday 6 June 2014 20.12 BST)
http://www.theguardian.com/world/2014/jun/06/rising-seas-wash-japanese-war-dead-marshall-islands-graves



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2014年06月09日

雨上がりのすずらん

 昨日の6月8日日曜日は山歩クラブの月例お山歩会でした。
 出席して下さった仲間の皆んな、おつかれさまでした。
 12人で雨上がりの山梨県旧・芦川村をおじゃましてきました。

 土曜日は中央道が大雨で通行止めになってヤッホー君、月例会が果たして成立するのか、はらはらどきどきしておりました。

 このところ梅雨入りしたとたんに降り続いた雨。
 きっと山路もぬかるんでいたり、滑りやすくなっていたり、急登が怖くなったヤッホー君です。
 釈迦が岳1641mには入らない、と決断しました。
 あるいはけっしてお空が安定しているとは言えません、またいつ何時、雨が降ってくるかも分かりません。

 お山歩会の替わりのお散歩会です。
 すずらん群生地、本物の刺身こんにゃくの製造販売をなさっている宮川さん宅、稲山ケヤキの森、みさかの湯、御坂農園グレープハウスとまわってきました。

 写真…散歩ですので、何枚も撮れるはずの写真も、帰ってきてみたら、集合写真は宮川さんと撮ったこの一枚だけ。

みやがわのこんにゃく.jpg

 え〜い、おまけに可愛いすずらんの写真をおまけじゃ〜い。

すずらん.jpg

 雨もまた良しの、止まぬ雨はない、明けない夜はない、を頑固につづけてる山歩クラブでした。



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2014年06月07日

霧の摩周湖

 これでヤッホー君、やっと阿寒湖を離れることになります。

阿寒湖.jpg

 遠くに見える遊覧船は朝の6時に出るマリモを見学しに行く船でした。
(そうなんです、東京より東に位置する道東、朝の3時にはもう部屋の外は明るくなり、カーテンをしていない東側の部屋には朝陽が燦々と飛び込んできます)
 別れの歌はもちろん、1953(昭和28)年ヒットの安藤まり子「毬藻の唄」。
http://www.youtube.com/watch?v=AxT_qwo3PbU
 
 途中、車窓からはパンケトウ、そしてパンケトウ、ペンケトウを創った火山、雄阿寒岳1371mが臨めます:

パンケトウ.jpg

雄阿寒岳.jpg

 摩周湖。
 遠くに頂は雲のなかでも雪をかぶった斜里岳1547m、それに摩周岳857mが、振り返れば遠くに雌阿寒岳1499m、阿寒富士1476m、雄阿寒岳を一望に見晴るかす広大な北海道でヤッホー君、はじめて摩周湖と出会います。

摩周湖.jpg

 ここはヤッホー君、先々月4月26日、古石場文化センターで観た『君の名は、第二部』の舞台となったところ…、もう感動に震え、ヤッホー君の顔はぐちゃぐちゃです。
 『黒百合の歌』(織井茂子)を聴きましょう、歌いましょう、映像を見ましょう!
 イマは亡き父、なぜ故に機嫌のいい時に「黒百合の歌」を歌ってヤッホー君に聞かせてくれていたのか、ヤッホー君がこの花に最初に出会ったのが仙丈ヶ岳3033m、そして詳しく知ったのが白山2702m、しかし、北海道を舞台にした『君の名は』第二部の主題歌だったのです(また、涙)。
http://www.youtube.com/watch?v=rL3Ppmm7wb8

 別れの歌はもちろん、1966(昭和41)年ヒットの布施明「霧の摩周湖」。
http://www.youtube.com/watch?v=ZDMBXRIdoFc
 水森かおりと:
http://www.youtube.com/watch?v=kQ7ni2Q6NLo
 島津亜矢バージョン霧の摩周湖:
http://www.youtube.com/watch?v=EWqLJ7yepLo

 今となっては懐かしい思い出となってしまいましたが、残念ながらこのご当地ソング「霧の摩周湖」は今の小中学生は勿論のこと、高校生や青年達にとっては全く知らない曲となってしまっています。
 是非、町民誰しもが口ずさむことの出来る曲として、大切にしていきたいものです。

(弟子屈(てしかが)町役場公式サイト、2013(平成25)年8月9日教育長日記「ご当地ソング「霧の摩周湖」)
http://www.town.teshikaga.hokkaido.jp/02sougou/02kyouikutyou/01diary/2013-0816-1642-131.html

 バスに戻ったヤッホー君、川湯温泉へと足が運びますが、ここも地元、江東区と縁のあったところ。
 ヤッホー君のこのブログ、2013年1月25日付け日記「大鵬」を読んでください。
 同じ弟子屈町教育町の今年2014(平成26)年1月24日付け日記「大鵬さんの冊子と切手」をお読みください:


 昨年2013年11月末、教育委員会では、同2013年1月にご逝去された第48代横綱大鵬納谷幸喜さんの偉業を地元の子ども達にしっかりと伝えるため「郷土学習副読本 第48代横綱大鵬物語」を作成し、これを町内小中学校8校と弟子屈高等学校の児童生徒等に配布しました。この副読本作成に当たっては、(有)大鵬企画(注1)代表取締役の納谷芳子さまをはじめ、ベースボール・マガジン社等多くの関係者のご理解とご協力を頂戴し完成させることが出来ました。心から感謝申し上げたいと思います。
 この冊子は大変読みやすく仕上げています。読まれる方はご面倒でも町図書館・町公民館・川湯大鵬記念館・道の駅「摩周温泉」に備えてありますのでご利用下さい。尚、版型はB5版全16ページとなっています。
 時期を同じくして、12月18日に日本郵政から「国民栄誉賞受賞 昭和の大横綱大鵬」フレーム切手(50円切手×10枚)が発売されました。また、1月23日にはその第二弾として「第四十八代横綱大鵬」フレーム切手(80円切手×10枚+手ぬぐい)が発売されました。何れにも弟子屈町出身の木下大門さん(注2)の見事な「錦絵」が描かれています。同じ弟子屈町出身者が切手に登場していることに感動を覚えます。


(注1)「有限会社 大鵬企画」(東京都江東区清澄2-8-5)、http://www.taiho-yokozuna.com/corp/index.html(注2)…http://www15.ocn.ne.jp/~daimon-e/
(注2) http://www15.ocn.ne.jp/~daimon-e/

http://www.town.teshikaga.hokkaido.jp/02sougou/02kyouikutyou/01diary/2014-0124-1805-131.html

 バスはどんどん走って行きます。
 川湯温泉を通って、次は屈斜路湖でした。

屈斜路湖.jpg

 そうなんです、「大鵬相撲記念館」があるところ…

 弟子屈町川湯温泉は不滅の名横綱とたたえられる第48代横綱大鵬が、少年時代を過ごし、大きな夢を育てた郷です。
http://www.masyuko.or.jp/sumo/

 戦後復興の昭和20年代は、弟子屈と川湯で温泉ホテル・旅館の建設が相次いだ。
 それに合わせるように、1853(8昭和28)年には人気テレビ番組「君の名は」のロケ地として、1966(昭和41)年には歌謡曲「霧の摩周湖」の大ヒットによって、名勝の地・弟子屈が全国に知られることとなる。たくさんの観光客を迎えたのは、「摩周湖に一番近い、弟子屈温泉」と「優れた硫黄泉が湧く、川湯温泉」。
 特色を異にした弟子屈の両雄は、120年以上を経た今も、同じ温もりで待っている。

(弟子屈今昔物語)
http://www.masyuko.or.jp/info/07panf/P9.10.pdf

 はたしてヤッホー君を乗せた「ふらのバス」、次はどこに向かうのでしょうか。
 ヤッホー君、こんな旅日誌を続けてもいいのかなあ、キリがないなあ、と自信なげに聞いてきております…


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カムイの光

 ここ数日は気まぐれな天候が続く。
 列島各地で気温が35度前後と真夏並みになった後、西日本は一転して大雨に。
 高知県四万十町では、きのう未明までの24時間に、平年の6月1ヶ月分を上回る雨が降った。
 今夏、地球規模で異常気象をもたらすエルニーニョ現象が起きる可能性が高いという…
 発生すれば2009年以来である。
 その2009年は、梅雨前線が居座った末に、中国地方などは異例の“梅雨明けなし”となった。
 35人の犠牲を出した中国・九州北部豪雨など災害が相次いだ…
 災害時に個人や地域でできることを確かめておきたい。避難経路や誘導の役割、高齢や障害などで助けが要る人の把握…。
 「神の子」の意味を持つエルニーニョに、人は小さな積み重ねで備えたい。


 これは昨日2014年6月6日金曜日7時34分更新の山陽新聞のコラム「滴一滴」、きょうは二十四節気の一つ「芒(ぼう)種(しゅ)」からです。
http://www.sanyonews.jp/article/24724/1/?rct=tekiitteki

 大雨は関東地方にも及んできて、今朝6月7日土曜日6時42分のNHKでは、中央自動車道の
 ▽ 大月インターチェンジと八王子インターチェンジの間の上り線と、
 ▽ 八王子インターチェンジと神奈川県の相模湖インターチェンジの間の下り線は、
引き続き通行止めになっています、だって。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140607/t10015044991000.html

 あ〜あ、変しい変しい北海道…
 帰京が6月2日月曜日新千歳空港発20時ちょうど、羽田着が21時35分の JAL526 便でしたので、あれからもうだいぶ経つのに、まだ初日のことしか書けていません。
 今朝もまずは阿寒湖アイヌシアター「イコロ」の懐かしいアイヌの「祈る」「奏でる」「踊る」の写真をご紹介:

イコロ.jpg

祈る.jpg

奏でる.jpg

舞う.jpg


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2014年06月06日

蛍の光

 尽きせぬ北海道への思い…

 それは今回の「たび北海道」で実際に蝦夷地を歩いたばかりでなく、ヤッホー君がこれまでアタマのなかでずぅ〜っと思ってきた蝦夷地への思いがこんこんと涌き出で、いつもそうなんですが、混沌とアタマを駆け巡っているからなんですって…
 では、ここいらで整理に入ってみましょうか。
 それにはヤッホー君のこのブログで書き綴ってきた日記群からふりかえってみるのが一番いいのでしょうか…

(まずは「松浦武四郎」)
 ☆ 2011年1月26日付け日記「INAXギャラリー1」
 ☆ 2011年2月12日付け日記「馬角斎」
 ☆ 2012年5月22日付け日記「国際基督教大学」

(ついで「コロボックル」)
 ☆ 2011年7月30日付け日記「コロボックルヒュッテ」
 ☆ 2011年7月31日付け日記「雲と草原」

(そして「国立公園」)
 ☆ 2011年11月10日付け日記「チシマザサ」
 ☆ 2011年11月12日付け日記「歩く旅」
 ☆ 2013年4月23日付け日記「加藤則芳」

(さらに「アイヌ文化」)
 ☆ 2014年5月24日付け日記「佐々木利和」
 ☆ 2014年6月5日付け日記「榎森進」

 この最後に参照くださいとあげた6月5日付け日記「榎森進」で、会津藩の「場所請負人の運上金: 2,500両」と榎森進先生が引用したありましたが、その言葉「場所請負人」って何でしょうか? 佐々木利和先生は、こんなことを…「みんぱく」で:

 徳川幕府が蝦夷地をどのように支配したかといいますと、松前藩では米が採れませんので石高制は通用しません。その石高に替わるものとして蝦夷地の海岸をいくつかに分割して高級藩士を派遣し、その場所でのアイヌとの交易権を知行として与えます。初めのうちは知行主である藩士が直々に出向いていたのですが、やがてそこに商人が入り込みます。その商人が知行主に代わってアイヌとの交易を請け負うようになります。これを場所請負制といいまして、北海道史あるいはアイヌ史において極めて重要な制度となります。
 例えば、私が京都一円、山城の国一国の知行主になったとして、山城の国でとれる米は何万石にもなると思いますけれども、その石高に対して五百両で経営を請け負います。すると当然のことながら五百五十両、六百両、あるいは倍の千両の収益を得ようとするはずです。そのためにアイヌの人たちを酷使して、労働力を収奪して収益を上げるという生産方式をとらざるを得ないわけです。このように場所請負制はアイヌ文化に対し大きな被害、打撃を与えた制度でもあります。

(2009(平成21)年11月23日佐々木利和(当時、国立民族学博物館教授)「描かれた蝦夷、そしてアイヌ」講演録、於 京都文化博物館別館ホール)
http://www.frpac.or.jp/about/files/kai2006.pdf

 その佐々木利和先生、「ほたるの光」の3番、4番の歌詞って知っていますか? と「トーハク」で。
 ヤッホー君の顔色は蒼白!

 紅白歌合戦は1951年にラジオ放送で始まり、第3回目までは正月の特別番組となっていました。第4回目以降からは12月31日に放送されるようになり、またこの回からラジオに加えてテレビ放送もされるようになりました。このフィナーレでは一部の回を除き「蛍の光」を出演者全員で大合唱するのが恒例となっています…
 「蛍の光」の初出は1881(明治14)年発行の『小学唱歌集初編』でした… 
 『小学唱歌集』は文部省音楽取調掛(掛長、伊沢修二)が編纂した音楽の教科書です…
 「蛍の光」の元歌「遥かな遠い昔」は英米では卒業式の歌ではありませんし、商店の閉店のテーマ音楽でもありません。1964年の東京オリンピックの閉会式で演奏されたとき、英米人の中には違和感を持った人もいたといわれています。伊沢修二の誤解が現在に至るまで延々と尾を引いているのです。
 2020年の東京オリンピックでも「蛍の光」は演奏されるのでしょうか?

(2014-01-24関東学園大学准教授・照山顕人「『蛍の光』あれこれ」)
http://blog.kanto-gakuen.ac.jp/news/2014/01/post-9c44.html

 でも、3番、4番バッターが出てこないんですけど…
 ですので、上述のサイトをクリックしてよくお読みになって考えてみることでしょうね。
 そう言ったらヤッホー君、夜寝られなくなるので勘弁して、だってぇ〜


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松山千春

 そうなんです、阿寒湖に向かうバスは、「ふらのバス」(富良野市と旭川電気軌道との共同出資による第三セクター)で、ドライバーさんは、しかないともひろさん、ガイドさんはあきたたかよさん。
 途中の足寄(あしょろ)町、かつての駅舎跡、いまの道の駅「あしょろ銀河ホール21」」を通るとき、あきたさんが松山千春(1955年足寄町生まれ)の「大空と大地の中で」(1977(昭和52)年ヒット)の誕生秘話とともに歌を歌ってくださったのですが、皆んなもいっしょになって青春時代を思い出しながら、歌いました。
http://www.youtube.com/watch?v=Wv8hGtNvO2w
 デヴュウ35周年も終え、いまだ意気盛んな松山千春にはホームページもあります:
http://columbia.jp/chiharu/

 山歩クラブの月例お山歩会のガイド役のときも、マイクを持って名所案内にご当地ソングを歌ってみようかなって、ヤッホー君!あきたさんの名ガイド振り、たいへん勉強になりましたって。
 ところで足寄(あしょろ)町ってどんなところ?

 最後の先住民族とみられるアイヌが文字を持っていなかったため、伝承説話に類するものの断片は残っていても、信ずるに足る記録はきわめて乏しい。和人側の資料にしても、こと十勝に関しては、300年もさかのぼると、もう知るすべがない。だが、現在もなお、町内のあちこちから矢の根石(石鏃)・石斧・石槍・石小刀・石刃や土器の破片などが出土していることから、2000年ないしそれ以前から先住民が生活していたものと推定されている。
 アイヌ民族は、いずれは、よその土地から移動してきたものであろうが、その年代はさして古くはなさそうである。十勝アイヌには、十勝岳大爆発を語る説話がなく、また明治末期現在で6代以前の先祖にまで内容の及ぶ伝承がないことは、おおよその渡来時期を暗示しているようである。したがって、アイヌの前に別な民族が住んでいたことになるが、それがいかなる種属の人々であったかは明確でない。石器を用いた民族はアイヌを主体としていたもののようであるが、異民族がいたという説もある。

 アイヌの伝説に出てくる異民族に、コロポックル(コロ・ポ・ウン・クル=蕗の下に住む人々)がある。一葉の蕗の下に多勢(9人とも30人ともいう)で暮らしていたと伝えられている小人(こびと)である。色の白い、心のやさしい種族であったが、あとから移住してきたアイヌたちに追い払われ、その多くは十勝川で溺死させられた。アイヌが困れば必ず助けてやったのにかかわらず、はづかしめられ、虐殺された。そこでコロポックルたちは「お前たちアイヌは、魚の皮が焼け焦げるような、ひどい目にあうだろう」と呪って死んでいった。トカップまたはトカプチとは魚の皮の焦げることを意味しており、転訛して川の名「トカチ」となったという地名伝説がある。アイヌの文身(いれずみ)もまた、コロポックルの習俗を真似たものだという。伝説は別としても、穴居民族がいたことは想像され、その人たちが蕗の葉で屋根をふいていたことも一応は考えられることであろう。

http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/asyoro_gaiyou.html

 先住民族と原始の森とクマ、シカ、キツネ、サケとが「共生」していた蝦夷地に本州から入植し、北海道となると今度は:

 入植年次が早い人も遅い人も、家は一様に掘立小屋であった。ドスナラなどの丸木を組んでヨシでかこい、屋根を葺いた。釘は利別市街で買ったが、一貫目五銭した。のちには、畑からとれた燕麦稈も使った。冬になると、ヨシのあいだから雪が吹き込み、寝ている布団の上に積った。そこで、夜は布団に茣蓙か莚をかけ、朝起ぎがけに二人で持上げるのだが、重いくらいに雪が積っていることがあった。小屋の中には莚を敷き、茣蓙は客が来たときに使った。
 中央部の囲炉裡にはヤチダモ・アカダモなどの丸太を焚き込み、目を赤くして媛をとった。冬は「すがもり」が凍りつき、団子のような氷塊がぶらさがり、火を焚くとそれが溶けて雫が落ちた。ろくな煙出しの設備もなしに囲炉裡で生木をいぶすのは、いかにも非衛生のようであるが、近藤悦朗によれば計算ずくでやっていたのだという。3年ほどもいぶして草屋根の中の虫を殺すか追い立てるかして、漆をかけたように固めてしまわないと、虫に木質部を食われて家がもたないからだという。

http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/asyoro_bunka_seikatu.html

 そう、そうなんです、ふき、蕗、…

 足寄町の東に位置する螺湾地区には、「日本一大きなフキ」として全国的にも有名な「螺湾ブキ」が自生しています。世界には約20種ほどフキの仲間がありますが、日本で育っているのは、フキとアキタブキ(オオブキ)のみ。普通、食用として利用されるワセブキやミズブキは前者のフキ、足寄町螺湾地区で育つ大きな螺湾ブキは、後者のアキタブキと同じものとみられていますが、この螺湾地区の沢沿いに群生するフキは、草丈2〜3m、茎の直径が10cmにもなり(かつては草丈4m、葉の最大径が2mにも達していました)、アキタブキよりもずっと大型のものばかりなので、もしかしたら別のものなのかもしれません。砂質の土壌と豊富な螺湾川の水資源、周辺の樹林によって、これほど大きく育つと考えられています。
(足寄町(あしょろちょう)公式サイト)
http://town.ashoro.hokkaido.jp/kanko/post-7.html

 バスの車窓からは雌阿寒岳の登山口も見えていました:

 標高1,499mで阿寒山群の主峰をなし、阿寒湖の南西に位置しています。約2万年前に火山活動を開始。何度も噴火を繰り返して複雑な山体をつくりました。主峰のポンマチネシリは約1万5千年前にでき、南側の寄生火山阿寒冨士1476mは約2千年前に誕生しました。昭和30〜34年に史上初の水蒸気爆発をおこし、現在も活発な噴火活動を続けています。山麓部はエゾマツ、トドマツの森林におおわれ、5合目付近からハイマツ帯となり、1100m以上では岩石と砂れき帯となってコマクサ、メアカンキンバイなどの高山植物が豊富にみられます。
(あしょろ観光協会、雌阿寒岳登山ガイド)
http://www.ashoro-kanko.jp/meakan-tozan/index.html

 あしょろ観光協会のホームページをお邪魔していたヤッホー君、あら、あの阿寒湖アイヌシアター「イコロ」には北海道大学の佐々木利和先生も:
http://www.ashoro-kanko.jp/pdf/akan80.pdf

 そうでしたか、その「阿寒国立公園指定80周年記念シンポジウム」には、松山千春が命名した新党大地の鈴木たかこ衆院議員も出席していたようで:

 国立公園と聞くと「自然の保護」というイメージが強いと思いますが、実は…

 (目的)
 第一条  
 この法律は、優れた自然の風景地を保護するとともに、その利用の増進を図ることにより、国民の保健、休養及び教化に資するとともに、生物の多様性の確保に寄与することを目的とする。

と、書かれています。

 文明や経済活動が多様になるなかで“そのまま放置しておくこと”は“保護”にはつながらない、ということなのでしょうか。
 今日のシンポジウムでは阿寒国立公園の適切な利用や地域振興の今後を環境省から、地元から、アイヌ文化の専門家の方、それぞれの見地から講演頂きました。
 新党大地の結党理念にも「大地に学び 大地に還る」というフレーズがあります。
 これからの時代を、未来を考えるときに自然、民族、国、経済などなど…“共生”は大きなテーマになるのではないでしょうか。

 さて、ここでオススメのお土産をご紹介!
 その名も「まりも茶ん」です。

(2014-05-26 23:07:21 投稿お便りたかこ、鈴木たかこオフィシャルブログ)
http://ameblo.jp/takakosuzuki/entry-11862312586.html

 そうなんです、ヤッホー君、そのお茶「まりも茶ん」を買ってくるべきでした。
 海外旅行もそうなんですけど、観光のときなど、「今度来た時」って禁句なんですよねぇ〜


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2014年06月05日

阿寒湖アイヌシアターイコロ

 アイヌ…、でてきましたね、今回のヤッホー君の「たび北海道」の目的のひとつがやっと、でてきましたね…

 初日5月31日、「とかち帯広空港」に9時15分に着き、幸福駅、十勝平野/清水ドライブインで「牛トロ丼」のお昼をいただき、あしょろ庵/足寄で北海道の乳製品をお土産に買い、阿寒町で「じゃがいも」苗植え体験をして阿寒湖温泉に入ったのですが、そこで寝る前、アイヌコタンの「シアターイコロ」(阿寒湖アイヌシアターイコロ、釧路市阿寒町阿寒湖温泉4丁目7-19 Tel 0154-67-2727)に観劇に行ってみたのです:

 北海道の道東部にある阿寒湖。
 釧路市内から約80Km内陸に入ったところにあり、日本最大の湿原、釧路湿原の北西部に位置する淡水湖だ。
 周囲は約26Kmだが、古くは、東側にあるペンケトー(アイヌ語で上の沼)、パンケトー(下の沼)とつながる大きな湖だったという。
 湖のすぐそばの山は「ピンネシリ(男の山)」、湖の西側にある山は「マチネシリ(女の山)」と呼ばれ、そこから「雄阿寒岳」「雌阿寒岳」の名前がついたようだ。
 アイヌの伝承では、「ピンネシリ」を「アカンウンピンネヌプリ(不動の男山)」とも呼び、それが「アカン」の名前の由来では、といわれている…

 この一帯が阿寒国立公園に指定されたのは、1934(明治9)年のことだった。
 阿寒湖周辺の未開発の広大な土地は、1903(明治36)年に元政府官僚で、釧路で前田製紙工場を興すなど地場産業に力を注いだ前田正名氏に払い下げられていた。
 若い頃フランスへ留学した体験を持つ正名氏は、阿寒の美しさに魅せられ「ここは切る山ではない、見る山だ」と語ったという。
 その意志は二代目の正次氏にも受け継がれた。
 当時北海道の土地は、明治政府によって持ち主のない土地とされ、御料地(皇室の所有地)になり、一部は資本家や華族に払い下げられる政策がとられていた。
 前田氏の「財産はすべて公共事業の財産とす」という家訓は、三代目の光子さんの代に「前田一歩園財団」(1983年設立)として実現された。
 これは稀有な事例である…

 「ムカシ阿寒湖一帯には、5、6軒のアイヌの家がありました。その後、前田一歩園の光子さんの代に『土地を無償で提供するので、そこで木彫りやみやげ物を売って生活の基盤を作りなさい』と言われ、そのときに旭川、釧路、帯広などからもアイヌが集まって、このアイヌコタンができたんです。1954(昭和29)年のことでした」と西田さん(阿寒アイヌ工芸協同組合)が説明してくれた。
 約30軒とはいえ、現在ここが北海道で最も大きいといわれるアイヌコタンなのである。

…さとうち藍著、関戸勇撮影『アイヌ式エコロジー生活〜治造エカシに学ぶ、自然の知恵〜』(小学館、2008年)202〜210頁

 阿寒湖アイヌシアター「イコロ」の運営協議会が、小中高校の学習に同シアターを活用してもらおうとPRに力を入れている。
昨年2013年9月に元釧路市職員の尾田浩さん(58)が事務局長に就任。釧根管内の学校を回り、人形劇の鑑賞やムックリ(口琴)作りなどの体験を通してアイヌ文化を学ぶ大切さを訴えている…
 開業初年の2012年度は61校6800人、2013年度も63校5600人(9月時点の申し込み)が入るなど利用は好調で、教員や生徒から「楽しみながらアイヌ文化を体感できる」「アイヌ民族の人々から直接、体験談を聞ける」と評判も上々だ。
 小中高校にイコロを活用した体験学習をするよう勧めている尾田浩事務局長に聞いた。
 ――イコロの魅力は。
「舞台上に炎を起こすガス台や水路があり、多彩な演出ができます。年末年始を除いてほぼ毎日、人形劇や公式舞踊などの公演をしており、このような劇場は他にはあまりありません。人形劇で登場するクマ送りの儀式などアイヌ民族の独特の世界観を学べ、子どもたちは自分なりにさまざまなことを感じられるでしょう」
 ――運営協議会の事務局長に就くため、定年を前に釧路市役所を退職しましたね。
「地域の人びとに素晴らしいイコロを使ってもらう後押しをしたいという思いがありました。私は18歳からアマチュア劇団『釧路演劇集団』に所属し、役者や舞台の裏方などとして約60の芝居の経験があり、劇場はもともと好きなのです」
 ――なぜアイヌ文化に興味を持ったのですか。
「アイヌ民族は千年以上も自然と共存してきました。古式舞踊は明治期に政府がアイヌ民族を抑圧した時代を経ても受け継がれてきた。その生き方に感動し、勉強したいと思うようになりました」
(2014/02/18付け北海道新聞「阿寒湖アイヌシアター≪イコロ≫小中高生、学習の場に」)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/piyar/225484.html

 阿寒湖アイヌシアター「イコロ」につきましては、次の「阿寒アイヌ工芸協同組合」ホームぺージをクリックしてください:
http://www.akanainu.jp/

 来年2015年春から上演される阿寒湖アイヌシアター「イコロ」の人形劇第2作「ちっちゃいカムイとゆっくりカムイ〜森のなかまの荒グマ退治」は、故山本多助エカシ(長老)がユーカラを基に書いた物語が原作だ。
 舞台にはさまざまな生き物の神が登場し、多様な神様が共生するアイヌ民族の世界観を表現。
 子どもからお年寄りまで楽しめる舞台を目指し、出演者たちは練習を続けている。
 2014年の先月4月11日に行われた公開リハーサルの模様から、人形劇の魅力を一足先に紹介する。

【脚本】遠州まさきさん 荒グマが自然災害象徴

 原作では残酷なシーンもある物語ですが、人形劇ではコミカルにして、子どもからお年寄りまで誰にでも楽しく、喜んでもらえるものになったと思います。
 脚本を書く上で意識をしたのは、色んな神様が力を合わせなければ、悪い荒グマを倒せないということです。「せっかちな神」のミソサザイには勇気と正義感があり、「のんきな神」のサマイクルには深い知恵と思いやりがあった。いろいろな個性を持った神様が一緒に戦った結果、「この世には無駄な神様はいない」という共生の考えにたどり着くお話しです。
 ですが、それではみんなに倒される荒グマの存在は何なのか…。
 私は、荒グマを「自然災害」や「自分の中にある欲のようなもの」と解釈してみました。
 特に、脚本を書いたのが東日本大震災の後でしたので、震災や原発事故と荒グマが重なりました。
 昔から語り継がれてきた物語ですが、現代にこそ訴えるものがあるのではないでしょうか。

 物語は、アイヌ語で伝承されたものを山本多助さんが文章にし、社会に共有される道ができました。そして、芝居をつくる過程で、脚本、演出、美術、出演者など一人一人が自分の中に取り入れて解釈がより深まり、再生産されています。
 荒グマの解釈のように、いろいろと考えれば考えるほど、楽しめる豊かな物語です。
 観客の皆さんもぜひアイヌ民話の独特な世界に触れて、アイヌ文化を理解する入り口にしてもらえればと思います。

(2014/05/13付け北海道新聞「人形劇で世界観表現 阿寒湖アイヌシアター、来春から新作上演」)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/piyar/232883.html

 はい、ではここでお待ちかね、アイヌの文化にちょっとでもふれてもらいたいのです:

 ☆ アイヌの唄
http://www.youtube.com/watch?v=6qYjNC2yqm0
 ☆ アイヌ民族博物館伝承記録「唄う・踊る・語る・奏る」
http://www.youtube.com/watch?v=M4UdGIfA6Mc
 ☆ アイヌ口承文芸(北海道遺産)
http://www.youtube.com/watch?v=XBaJGJOgs0c
 ☆ アイヌ語地名(北海道遺産)
http://www.youtube.com/watch?v=0Kl5NwiDNT0
 ☆ アイヌプリ〜アイヌの心をつなぐ〜
http://www.youtube.com/watch?v=74Q09m5G67E


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榎森進

 そうでしたか、福島県人の北海道入植…

 明治初期にわずか10数万人だった人口が、100年足らずで500万人超となった北海道
 全国から集った移住者の中で、主役は東北人たちだった。
 県ごとに独自の風習や文化を持つ東北地方。
 人びとは同じ故郷を持つ者同士、県人会を結成し、集い、語らうことで北の大地で生きる糧とした。
 世代を重ねるうち県人意識は薄れつつあるが、今も県人会の活動は脈々と続く。
 それぞれの取り組みや故郷への思いをまとめた。

 福島県: モモ売って故郷にエール

 福島県人と北海道との縁は、江戸時代に北方警備のために会津藩の藩兵1600人が派遣されたのが皮切り。
 明治維新後も、戊辰戦争で敗れた同藩関係者の入植が相次いだ。
 現在、道内の福島県人会は各地に10団体。そのうち苫小牧福島県人会は毎年8月、苫小牧市の「とまこまい港まつり」の会場で、福島名産のモモの販売を続けている。
 「年に1度、故郷の恵みを感じる場所です」。苫小牧の県人会長で、上部団体の福島県人会北海道連合会副会長も務める神野修さん(83)は笑顔で話す。
 当初は福島がモモの産地と知らない客も多かったが、今では近隣の市町村からも予約が入り、3日間で1400箱前後が売れる盛況ぶり。県人会の関係者は「旬の時期に重なり、新鮮な果物を好む道民にも受け入れられたのでは」と話す。
 今年は東京電力福島第1原発事故の影響で予約数は半減したが、来場者からは「負けないで」などと励ましが次々寄せられたという。神野さんは「これからもモモを通じて、故郷にエールを送り続けたい」と意気込む…

(2011/11/28付け北海道新聞 東北臨時支局【渡辺玲男】3.11を越えて「東北魂伝える県人会・北海道開拓の主役、脈々と」)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/311_koete/148497.html

 江戸時代の会津藩と北海道の縁についてみていきましょう:

 18世紀後半以降、北門の守りを重視し始めた幕府はアイヌの蜂起と共に赤蝦夷すなわちロシア人の国交・交易を名目とする南下政策に神経を尖らせ、1806(文化3)年のロシアによるカラフト・エトロフなどへの侵掠事件を契機に、1807〜8年会津藩も幕府から奥羽諸藩と共に蝦夷地への臨時出兵を要請された(1)。

(1)菊地勇夫「海防と北方問題」岩波講座『日本通史』第14巻近世4 p.245(岩波書店、1995)


(同志社大学名誉教授・井上勝也(1936年生まれ)「山本覚馬と新島襄1」)
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=TB12588823&elmid=Body&lfname=009001010002.pdf

 その半世紀あとになってから:

 1859(安政6)年9月27日、幕府はそれまでの蝦夷地政策を改め、奥羽の仙台藩主・秋田藩主・庄内藩主・盛岡藩主・弘前藩主・会津藩主に対して「蝦夷地開発守衛之儀、當節之時勢専要之事ニ付、別段の譯を以、蝦夷地之内割合、領分被成下候」、「尤、箱館表松前地御警衛向之儀も是まで之通り可被心得候。且又南部美濃守、津軽土佐守持場之儀は、只今迄之通相心得、陣屋有之場所にて相應之地所被下候」と申し渡し(14)、次いで同年11月26日、各藩主に対して「領分」として与える地域と警備地域を示すと同時に、各藩主に対してあらたに与える「領分」から得られる場所請負人の運上金等をしめした(15)…

 会津藩:
 東蝦夷地子モロ領ニシベツより西蝦夷地アバシリ境迄及びアバシリ境より西蝦夷地モンヘツ領迄を「領地」とす。
 西蝦夷地アバシリ場所を警備。
 (上記「領地」の場所を請け負う場所請負人が収める運上金・他)。
  場所請負人の運上金: 2,500 両、
  別段上納金: 370 両、
  合計: 2,870 両。
 但し、上記の内、アッケシ境より子モロ領ニシベツ境迄と西蝦夷地のアバシリ場所の運上金を減ず。またモンベツ領運上金を相増す。

(14)『大日本古文書:幕末外国関係文書』第27巻─138号
(15)『大日本古文書:幕末外国関係文書』第30巻─119号


(榎森進先生最終講義、「日露和親条約」調印後の幕府の北方地域政策について、東北学院大学論集『歴史と文化』第52号、2014年所収)
…http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2014/pdf/no04_01.pdf

 榎森進先生はヤッホー君の同郷の大先輩でした。

 榎森進先生は、1940(昭和15)年、山形県東村山郡天童町(現天童市)にお生まれになり、山形県立山形東高等学校をご卒業後、1959(昭和34)年、東北大学文学部に入学され、1963(昭和38)年3月、同大学史学科国史専攻を卒業されました。
 1991(平成3)年東北学院大学文学部教授として着任され、今春2014年3月をもって、本学を年齢規定により退職されることとなりました。

(同論集「献呈の辞」より)

 そして先生の主著『アイヌ民族の歴史』(草風館、2007年3月、総頁675頁)は、佐々木利和先生の『アイヌ史の時代へ』と双璧をなすヤッホー君の必読書!

 『アイヌ民族の歴史』は、北東北から北海道に展開したアイヌ民族の歴史の全体像を、ひろく大陸の周辺民族・国家との関係に着目しながら、科学的な研究成果を踏まえて描いた初めての通史であり、「北海道旧土人法」および「アイヌ新法」の成立過程を詳細に検証されたことを含めて、画期的な内容をもつものです。
 独学でロシア語を修得され、文献収集に奔走された努力の末に、600頁を超える大著として完成された本書は、榎森先生でなければ成し遂げられない成果と申しあげてよいかと思われます。

(同論集、同辞より)


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2014年06月04日

東藻琴芝桜公園

 開拓移民、集団入植、団体移住、…
 ヤッホー君があっとびっくりしたのが「たび北海道」二日目、6月1日日曜日の大空町・東藻琴芝桜公園です。

東藻琴.jpg

芝桜公園.jpg

 山津見神社に登ったときのこと。

大津見神社.jpg

 山津見神社は、1913(大正2)年、福島県相馬郡の周辺からこの地に入植した和泉一郎・大本久次郎・室原重成・山田徳四郎の各氏により御神体を拝受し、この地点を守護の場所と定めて鎮座されました山の神様であります。
http://www.shibazakura.net/yamatsumi.html

 それしても山肌一面の芝桜は見事なものです:

 「この10ヘクタールに及ぶ山の七割は、私一人で植え付けしてきた。やっぱり愛着がわくよ。たくさんの人に喜んでもらえるのがうれしい。これほどの観光地になろうとは……自分の仕事がいつまでも残り、お役にも立てたと思うと、離農のかいがあったというものさ」。
 芝桜公園の「ピンクのじゅうたん」を22年間管理してきた中鉢末吉さんは語り始めた。

(芝桜公園を育てて22年、中鉢末吉さん)
http://www.shibazakura.net/history.html

 ちなみに中鉢末吉さんは、1918(大正7)年、大空町(旧東藻琴村)の農家の生まれ。上藻琴尋常小学校卒業。兵役、復員の後、農業を継ぐ。日本善行会表彰2回のほか、観光地美化実践者として1992年に道知事表彰。2009(平成21)年にお亡くなりになっておられました。
 大空町東藻琴総合支所(北海道網走郡大空町東藻琴360-1 Tel 0152-66-2131)および(株)東藻琴芝桜公園管理公社(北海道網走郡大空町東藻琴末広393 Tel 0152-66-3111)によります前掲サイト「芝桜公園の歴史」によります。
 ぜひ、先達者のていねいな仕事ぶりを読んでください、とヤッホー君。

 ところでこうした100年以上も前の先人たちに想いを馳せ、そしてこうやって「たび北海道」している者にとっては、この蝦夷地は、土地の精霊たちの眠るところとも思えてならないのです。

 ヤッホー君のこのブログ、2010年5月21日付け日記「親父jをご参照いただければうれしいです。

 「200の松根で1機の航空機が1時間飛べる」との標語のもと計画がたてられ、先の戦争末期、老若男女、学生、児童まで動員され、松の根堀り、松脂とり、蒸溜釜までの運搬等にあたった、と言われておりますが、その当事者がイマは亡き父でした。
 ヤッホー君は、その親父がじゃがいもを食べたところを見たことがありません。ライスカレーも母は父のためにじゃがいもを取り除いて供していました、はい。
 その父が教職を定年退職したあとに、母と北海道に渡ったことを楽しそうに話しているのを聞いたことがあります。
 しかし、どこを、どんなふうに回ったのか、写真はどこにあるのか、まめに記録していた父ですからきっとあるはず、その感想文はどこ…、イマとなっては、聞く術がありません。
 「たび北海道」の間じゅう、ヤッホー君はイマは亡き父の後ろ姿を探していました…

 そして広い北海道の大地のあちこちに朽ちた廃墟も散在して見ることができます。
 6月1日はまれにみる素晴らしいお天気、しかしそればかりではありません。
 おおむね雨と霧に閉ざされ、真冬は厳寒に、地あらしの吹雪、とそれはそれは遠慮のない自然を相手に、原生林の生い茂る土地のまっただなかで、それぞれに、いろんな物語があったのでは、とヤッホー君、自然に頬に熱いものが流れてきます:

 1899(明治32)年に「旧土人保護法」ができました
 1戸に5町歩(5ヘクタール)以内の土地をあたえて、土地や生活の保護を考えたもので、おもな点はアイヌの農民化と、教育の問題でした。
 教育では読書、習字などは和人とかわらないが、算数だけは同じにあつかえない。
 そこで、和人とは別に土人学校を設ける必要があるということでした。
 アイヌ人口の58%が日高、胆振、十勝9%、釧路8.5%でした。

 士族でならなければならなかった「屯田兵」の資格は、1891(明治24)年から自由になり、むしろ平民が中心になりました。
 そのころ、内地で土地を失ったり、生活にゆきづまった農村から、北海道に新天地をもとめて移住してくるものがふえてきました。
 1890(明治23)年までを士族屯田、以後を平民屯田とよびます。
 1875(明治8)年から1899(明治32)年まで、士族屯田兵村13、戸数2,905、平民屯田兵村24、戸数4,431、屯田兵総計で7,337戸、3万9,991人が入植しました。

(北海道教育大学名誉教授・榎本守恵『北海道の歴史、ジュニア版』北海道新聞社、1983年)
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00323/classes/history/topics/ainu/ainu_jr/jr_ainu14.html


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2014年06月03日

幸福駅

 かくして「とかち帯広空港」からさっそく向かった先が「幸福駅」です。

鐘.jpg

電車.jpg

 1973年3月、NHKのテレビ番組『新日本紀行』で『幸福への旅〜帯広〜』として紹介されたのをきっかけに、愛国駅から幸福駅行きの切符が「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズとともに一大ブームになりました。
 これをもとにした歌『愛の国から幸福へ』もヒット。
 愛国⇔幸福間の切符が、4年間で1,000万枚も売れました。
 1987年2月2日旧国鉄広尾線は廃止されましたが、今も観光客が絶えません。
 「愛国から幸福ゆき」切符は、幸福・愛国駅前の売店で販売しています。
 2005年には、NHK『新日本紀行ふたたび』の第1回『幸福への旅〜帯広〜』が放送されました。
 そして、2008年には、幸福駅のライトアップをはじめ、7月に愛国駅と幸福駅が「恋人の聖地」に選定されました。
 「恋人の聖地」は、NPO法人地域活性化支援センターの「恋人の聖地プロジェクト」において、各地域を代表する観光施設・地域を中心に選定する、プロジェクトのシンボルです。
 純愛の聖地として、さらに魅力がアップします!
 恋人・友人・夫婦・ご家族など、大切な人と一緒に、お越しください!
 皆さんのお越しをお待ちしています!

(帯広市公式サイト)
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/shoukoukankoubu/kankouka/c020201aikokukoufuku.html

 では、さっそく、「愛の国から幸福へ cover 歌うケアマネみこ」:
http://www.youtube.com/watch?v=Lci7U3xfc6E

 いま、釧路管内外国人観光客No.1の台湾との「姉妹提携」の話しが急浮上:

【帯広】
 市の観光名所の幸福駅(幸福町東1線)と台湾北西部の合興(ごうこう)駅(新竹県)との姉妹駅構想が関係者の間で浮上している。
 十勝と台湾の親善交流を図る民間団体の十勝日台親善協会(曽我彰夫会長)も関係機関と連携し、同構想実現の可能性調査を検討する考え。

 合興駅は、台湾内湾線の無人駅。
 恋人を乗せた列車を青年が同駅から走って追いかけた故事にちなみ、「愛情火車站(駅)」の別名でも知られる。
 関係者によると、内湾線は年間約150万人程度が乗車する観光路線で、同駅にも多くの人が訪れる。

 一方の幸福駅は恋人の聖地にも指定され、ハッピーセレモニーなどでも人気。
 恋愛につながりのある駅同士の縁で、台湾サイドから姉妹駅構想が持ち上がった。
 実現すれば、相乗効果で観光客の相互送り出しといった取り組みにもつながるとの期待の声もある。

 両駅とも行政が管理。
 日本と台湾には国交がなく、提携にはハードルもある。
 ただ、2013年に愛媛県松山市の松山駅と台湾台北市の松山駅が姉妹提携した先例も。
 関係者は「民間が懸け橋となることができれば」としている。

(2014年5月28日 13時46分 十勝毎日新聞社ニュース「恋愛つながり 幸福駅と台湾「合興駅」が姉妹駅構想」)
http://www.tokachi.co.jp/news/201405/20140528-0018493.php

 「旧・幸福駅」(帯広市幸福町東1線、問い合わせは、帯広市商工観光課 Tel 0155-24-4111)

 ヤッホー君も買ったあの日付け入り「愛国→幸福」切符の販売は、杵渕商店 Tel 0155-64-4407(不定休、9:00〜15:30 記念切符220円)。

 1897(明治30)年に福井県からの集団入植が行われる前の幸福町周辺は、アイヌ民族により「サツナイ」と呼ばれる地域でした。
 尚、サツナイとは「乾いた川」を意味し、近隣を流れる札内川を指します。

 入植者は、この「サツナイ」に「幸震」という漢字を充てたようです。
 「ナイ」が「震」になった理由は、古語で地震のことが「なゐ」と言われていたことに由来します。

 その後、福井県からの入植者が多いことから、この地域の集落名を「福井」の一字を充当して「幸福」と名付け、現在の「幸福町」に至ります

 鉄道駅としての歴史は浅く、1956(昭和31)年8月、現在の幸福駅に仮乗降場が設置され、3ヶ月後の11月1日に駅として運営を開始しました。
 しかし、広尾線自体が赤字路線であり、度重なる廃線論議の末、とうとう1987(昭和62)年2月2日をもって広尾線が廃線。
 幸福駅の鉄道駅としての活動は、約21年足らずで終止符を打ちました。

 鉄道駅としての寿命は短かいものでしたが、存続を求める声が多かったため、観光ポイントとして新たに再整備され、人びとへ幸福をおすそ分けする『観光駅』として再出発しました。

(北海道帯広市・幸福駅公式サイト)
http://www.koufuku-eki.com/

 これは、「図説福井県史」からも読み取れます:

 福井県から北海道への移住が本格的に始められるのは、明治10年代後半からといってよいでしょう。
 県内での屯田兵の募集もこのころから開始されますが、1886(明治19)年に設置された北海道庁が積極的な移民招致策を進めた時期ともかさなり、明治20年代を通して移住者数が急増していきました

 このなかには、同郷人がまとまって移住する団体移住がふくまれていました。
 三石郡歌笛村へは大野郡を中心に入植し、明治30年末には100戸におよぶ「越前村落」をつくっていました。
 道庁の制度では、30戸以上の同郷人の団体が、3か年以内に移住する場合に1戸あたり1万5000坪を予定存置できることになっていたため、これには坂井郡磯部村、南条郡神山村などから出願し、空知郡栗沢村、天塩郡遠別原野などへ団体移住しています。

 これらの団体移住は、経営の困難さから最終的に土地取得ができず解散したものも少なくなかったのですが、先発の同郷人からの情報と人脈をたよりに、後続の移住が行なわれていました。
 また、福井県関係者が経営・管理する農場へ小作農家として移住する場合もみられました。
 こうしたことから、北海道移住者を職業別にみると、農業者が5割から多い時には8割も占めていました。

 北陸地方からの移住は、1897(明治30)年・98年、1907・08年の2つのピークがみられ、福井県でも大規模な水害の後の1897・98年には、大野郡や坂井郡を中心に6000人をこえる人が北海道に渡っていました
 こうした大規模な災害が新天地を求めざるをえない要因となっていたことがわかります。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/D13/D131.htm


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釧路新聞

 6月3日火曜日朝、起床するも北海道とは大違い。
 まず朝、宿泊先の窓辺からさんさんと降り注ぐ朝日がございません。そして窓をあけるとさわやかな外気が入ってきて、ヤッホー君のからだに浸みていくのですが、それが感じられません。
 これから「たび北海道」をふりかえってみますのでお付き合いください。
 まずは5月31日土曜日の夜、ホテルのロビーでくつろいで何気なく手にした地元紙「釧路新聞」の記事に、ヤッホー君の細い目がとまりました:

 釧路管内の2013年度の観光客入り込み数が618万6000人を記録し、2007年度以来7年ぶりに600万人台に回復した。
 5月30日、釧路総合振興局が公表し、前年度比3.9%(23万3000人)増の好結果となったことを明らかにした。
 今後の見通しについて土栄正人局長は、
「道東は一度回ってもらえればリピーターとして再び訪れてくれる地域資源を持っている。観光客増はとても良い傾向なので、今後もキャンペーンや地域情報を発信していきたい」と観光の振興策に力を入れていく考えを示した。 

(2014年05月31日付け釧路新聞「2013年度釧路管内観光客、3.9%増」)
http://www.news-kushiro.jp/news/20140531/201405312.html

 どれどれ、と「釧路総合振興局」の公式サイトを開いて読んでみます:

 A 動向分析
 ・ エア・ドゥの釧路−羽田線就航による、利便性の向上。
 ・ 道東自動車道の定着によるマイカー利用客の増加や大型クルーズ船の寄港回数の増。
 ・ 首都圏をはじめとする猛暑の影響で、涼しい釧路の知名度が浸透し、長期滞在者が増。
 ・ 全道、全国規模のスポーツ大会などの開催。
 ・ 各地域で行ったプロモーションが功を奏した。

 B 国別順位
 国別の宿泊客延数では、釧路−台北の国際定期便が就航している台湾が52,339人(前年度比27.9%増)と54.2%を占め最も多い
 2位香港、3位中国と昨年度と順位が変わり、シンガポールが4位、韓国が5位となった。

(平成26年5月釧路総合振興局産業振興部商工労働観光課発表) 
http://www.kushiro.pref.hokkaido.lg.jp/ss/srk/25ku-kir.pdf

 釧路管内…、そうでしたか、ヤッホー君の止まったホテルは「阿寒湖温泉・ホテル御前水」(北海道釧路市阿寒町阿寒湖温泉4-5-1 Tel 0154-67-2031)。
http://www.akanko.co.jp/gozensui-top.html

 たしかにここは釧路管内:

 北海道では、1872(明治5)年に支庁体制が設けられ、1910(明治43)年に14の支庁体制が形づくられました。
 2010(平成22)年4月1日から全道14の支庁は、総合振興局または振興局に名前を変え、北海道のこれからの地域づくりを担う総合出先機関として、新たな第一歩を踏み出しました。
 総合振興局並びに振興局は、道の総合出先機関として、本庁各部の事務・事業を実施するとともに、市町村や道民の皆さんの道政の窓口としての機能を果たしています。
 釧路管内には、8市町村(釧路市・釧路町・厚岸町・浜中町・標茶町・弟子屈町・鶴居村・白糠町)があります。
 釧路管内の面積は、5,997.38km2

 (江東区の面積は39.9km2、23区の中で6番目に大きい、と言っても百分の一にも満たない0・66%。ところが…)
 釧路管内の人口は、248,282人(H24.3.現)
 (江東区の人口は、平成26年5月1日現在490,970人、釧路管内の人口の約2倍の人たちであふれかえっています)
http://www.kushiro.pref.hokkaido.lg.jp/gaiyo/index.htm

 そうか、そうですかぁ〜
 でもぉ、ヤッホー君がエア・ドゥでなく JAL で降り立った空港は「とかち帯広空港」:

 とかち帯広空港は、十勝平野の中心都市帯広の中心から南に約25km、畑作地帯に位置する十勝地方の玄関口です。
 ターミナルビルは世界的建築設計家・黒川紀章氏の設計で、十勝平野の田園風景にマッチした色調に飛行機の翼をイメージした外観。
 北海道の道東における拠点空港として整備され、道内では新千歳空港に次ぐ広大な敷地(282ha)を有し、設備拡張に備えた構造となっています。

http://www.tokachiobihiro-airport.jp/guidance/

 ここは釧路管内でなく、十勝館内、じゃあない、十勝管内!

 「十勝」という地名は、管内を流れる十勝川をさすアイヌ語「トカプチ」からといわれています。
 それは「乳」を意味し、川口が二つ乳房のように並んでいることに由来しています。

 十勝川が日高山脈を背景として悠々と流れる姿は十勝の象徴でもあり、延長156km、 北海道第3位の長さを誇り、十勝川水系には平野を潤す大小200あまりの河川が流れ込む、まさに十勝の母なる川です。

 北海道の開拓が、食料確保と北の守りという目的のもと官主導で進められる中で、十勝の開拓は、1883(明治16)年に静岡県から入植した晩成社をはじめとして、 富山、岐阜など本州からの民間の開拓移民により進められました。

 先人たちは、山深い自然や大雨で氾濫する十勝川と立ち向かい、不屈のチャレンジ精神で幾多の困難を乗り越え、少しずつ畑を開いていったのです。

 以来130年余り、十勝は寒冷な気象条件にありながらも、恵まれた土地資源を活かし、近代技術の導入や土地基盤整備を進めながら、農業を主要産業として栄えてきました。

 十勝管内は、1市16町2村で構成され、 日本最大の食料基地としての役割が期待されています。

(十勝総合振興局公式サイト、ようこそ十勝へ)
http://www.tokachi.pref.hokkaido.lg.jp/gaiyo/index.htm


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posted by fom_club at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする