2014年05月31日

たび北海道

 5月31日土曜日、ヤッホー君はこれから羽田空港に向かいます。
 朝7時40分発のJAL1151便にて「とかち帯広空港」へ飛びます。
 今日から2泊3日の「たび北海道」です。
 まずは「幸福駅」に行き、自分と世界の幸せについて考えてきます。
 阿寒湖が今晩の宿ですが、ホテルからヤッホー君、はたしてブログが更新できるか、できなかったら来週はじめまで恐れ入りますがお休みとなります。
 はっちゃんは、今日から同じく2泊3日で韓国への「出張」です。
 では、行ってきます。


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2014年05月30日

鎖国論

 5月30日金曜日、引き続きペンテル、ごめんなさい、ケンペルのことを想おうております。
 今日は「鎖国論」。
 五之治昌比呂(大阪大学日本語日本文化教育センター准教授)の<書誌学>っていうんですか、出所研究から、まずは(注):

 ケンペルが生前に出版することのできた著作は『廻国奇観』一冊だけである。
 『廻国奇観』というタイトルは日本での通称であり、原題は:
Amoenitatum exoticarum politico-physico-medicarum fasciculi V: quibus continentur variæ relationes, observationes & descriptiones rerum Persicarum & ulterioris Asiae, multa attentione, in eregrinationibus per universum Orientem, collectæ ab auctore Engelberto Kæmpfero, D.
(政治学的・自然学的・医学的主題に関する異国の魅力ある事柄五巻:著者エンゲルベルト・ケンペル博士が東方世界の旅行において注意深く収集したペルシアとアジア極地に関する様々な報告、観察、描写を含む)
という長いものである。
 タイトルのとおりペルシャやインドでの見聞に基づく論文も含まれているが、日本の製紙法や茶に関する論文など、日本に関するものが6編収められている。
 また、第5巻は丸々日本の植物の研究に当てられており、「日本植物誌」と呼ぶべきものになっている。

 いわゆる「鎖国論」はこの書の第2巻(Fasciculus II)第14章(Relatio XIV)をなす論文で、原題は:
Regnum Japoniae optima ratione, ab egressu civium, & xterarum gentium ingressu & communione, clausum
(最良の見識によって自国民の出国および外国人の入国、交易を禁じ、国を閉ざしている日本王国)
という。

 「鎖国論」という名称は、阿蘭陀通詞であった志筑忠雄が1801年にこの論文を翻訳した際に付したタイトルであるが、日本ではこの名称がかなり普及しているので、本稿でこの論文に言及するときは「鎖国論」で統一したいと思う。

(五之治昌比呂「ラテン語で読むケンペル『鎖国論』〜『廻国奇観』所収論文とその翻訳について〜」京都大学 西洋古典論集(2010)、22:260-278)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/108530/1/cs22_260.pdf

 そうですか、「鎖国」は志筑忠雄(しづきただお、1760-1806)訳だったのですか。
 江戸時代は「鎖国」していた、そのため近代になって世界からみると取り残され、遅れた後進国になったのだ、と学校で教わってきたようなヤッホー君、ところが五之治昌比呂先生のように「常識」をうたがってかかると、歴史が違ったようにみえてきますね、フ・シ・ギ・

 大島明秀(熊本県立大学准教授)の研究もまさしくそんなところをついていました:

 明治期に入ると、福沢諭吉ら啓蒙知識人の文献には、江戸時代(の封建制)を「遅れた」時代と捉え、「文明開化」や「発展」の対極に対置した形跡が見られるが、一般における普及具合は定かではない。
 言説として「鎖国」を捉えるという本稿の主題を考えると、教育という要素を抜きにしては語れないであろう…
 日露戦争が起こった年と同じ1904(明治37)年に刊行された第一期国定教科書『小学日本歴史』では…といったように、日本が「外国の事情にうとくなりて、世界の進歩におくれた」要因として「鎖国」政策を位置付けている。
 それ以降の国定教科書でも「鎖国」については同様にネガティブな評価が与えられていった。
 第二次世界大戦後の教科書の状況はここに始まったのである。

(大島明秀「志筑忠雄『鎖国論』の誕生とその受容」、志筑忠雄没後200年記念国際シンポジウム報告書所収)
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/6480/Shizuki_symposyum.pdf

 つまり、江戸時代をネガティブに評価するため、実情と切り離された歴史像で規定しようとする意思が働いている、いた、その例がヤッホー君だったような…、そうでしたか、ムカシの永井荷風、この間までの丸谷才一など、再読してみようかな、と。

 また、管見の限り、志筑忠雄訳『鎖国論』の受容は、その多くが政策に関わりのない人物の間で行なわれ、政策決定者に利用された跡がほとんど認められなかった(注67)。
 この理由は定かではないが、緊急に差し迫った外交時に医学、軍事科学、百科全書などの実効性および即効性の高い蘭書を重視した政策決定者にとっては、100年以上古い情報源である『鎖国論』を受容する意味が稀薄であった、などの理由が推測される。
 開港そしてハリス(Townsend Harris、1804-1878)来航以後、幕閣の中で「鎖国」という言葉が特化された形でだんだん用いられるようになるが(注68)、近世日本を「鎖国」体制とする概念が普及し定着する時点、いわば「鎖国」が言説として本格的に形成されるのは、近代以降に俟たなければならない。


(注67)
 本文で掲げた人物の中では松平定信のみが政策決定権を握る立場にあった。
 ただし『秘録大要』執筆時すでに老中を退き、幕政から離れた白河藩で政治に専念していた。
 定信は『鎖国論』に言及しているものの、『鎖国論』を政策や自身の主唱に用いた様子はない。
 また原典である蘭語版『日本誌』は幕府や薩摩が頻繁に購入しているが、政策決定権を握る階層にある人物が『鎖国論』を発言の典拠に利用した例は、筆者の調査の限りまだ見つかっていない。
 蘭書の輸入については、永積洋子『18世紀の蘭書注文とその流布』(坂戸、1998)参照。
(注68)
 前掲荒野泰典「海禁と鎖国」212-213頁、藤田覚『近世後期政治史と対外関係』(東京大学出版会、東京、2005年)参照。

(大島明秀「近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容」、九州大学『洋学』14抜刷2006年3月)
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/2882/20061121_Yogaku_Sakokuron.pdf


(注)
 先生の「『走れメロス』とディオニュシオス伝説」(京都大学西洋古典論集 (1999)、16: 39-59)がまた必読です:

 太宰治が1940年に発表した短編『走れメロス』は,日本人なら知らぬ者がないほど有名な作品であるが、二十年(ママ)先立つ1910年に鈴木三重吉が『赤い鳥』に寄せた童話『デイモンとビシアス』は、それほど知られているとは言えない。
 鈴木三重吉ではデイモンとどシアスとなっている主人公の名が、なぜ太宰ではメロスとセリヌンティウスになっているのか。
 太宰の作品があまりに名高いため日本人は「メロス」の名前しか知らないが、西欧では事情が全く異なる。
 少し大きな語学辞書や百科事典などを引いてみれば、Damon and Pythias という項目を見つけることができ、これが古代ギリシア・ローマの伝承に由来するものであり、固い友情で結ばれた親友を意味する慣用句として使われていることが分かる。
 逆に、辞典の中にメロスの名を見いだすことはできない。
 つまり、西欧においては三重吉の主人公の名前の方が正統なのであって、太宰の方はほとんど知られていない名前らしいのである…

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2014年05月29日

ケンペル論

 ケンペル。
 いま読んでいる本が次の2冊:

 20年前になるんですかね、B.M.ボダルト=ベイリー著『ケンペルと徳川綱吉〜ドイツ人医師と将軍との交流〜』(中直一訳、中公新書、1994)。
 もう一冊が、ヨーゼフ・クライナー『ケンペルのみた日本』(日本放送出版協会、1996)。

 B.M.ボダルト=ベイリーさんは現在、大妻女子大学比較文化学部の教授であらせられます。
 テレビにもご出演なされております:

 忠臣蔵の討ち入りが行われた頃、第5代将軍の徳川綱吉が時の将軍だった。
 綱吉が将軍になったのは討ち入りの20年前。
 兄よりも優れた権威ある将軍になろうと張り切り、武家諸法度を改め日本を文化的な国にすべく大改革に乗り出す。
 そんな綱吉が最も力を注いだのが生類憐みの令。
 生類憐みの令はこれまで天下の悪法だと思われてきたが、綱吉の政治を研究しているB.M.ボダルト・ベイリーさんは生類憐みの令を優れた政策だと評価している。
 綱吉は人間に対しても、捨て子を禁止したりホームレスに食事や宿泊所を与えるなど命を大事にする命令を次々と出していた。

 徳川綱吉が将軍となって21年目の春、天皇の使者を迎える儀式の日に浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる事件が発生する。
 この事件に激怒した綱吉は浅野内匠頭をその日のうちに切腹させ、刀を抜かなかった吉良上野介には優しい言葉をかける。
 しかし、その翌年に赤穂浪士たちが吉良上野介の命を奪う。
 この事態に困惑した綱吉は儒学者を呼び、赤穂の武士たちを厳しく処罰するようアドバイスされる。

 世間は赤穂浪士たちの討ち入りに拍手喝采で、身内である幕府の高官まで褒め称えよという意見が出ていた。
 儒学者のアドバイスと世間の声との間で揺れる綱吉は、僧侶の公弁法親王にアドバイスを求める。
 そこで公弁法親王から「彼らはもう思い残すことはないでしょう」と言われ、罪人として討ち首にするのではなく自ら命を絶つ切腹をさせることにしようと決意する。

 討ち入り事件をきっかけとするかのようにその後綱吉の政治は綻びを見せていく。
 討ち入りの翌年に関東地方で大地震が発生し、当時の人々は綱吉に下った天罰だと噂した。
 綱吉は災害に苦しむ庶民の負担を軽くしようと、生類憐みの令を緩め減税に努める。
 しかしその4年後に富士山が大噴火し、どうしていいかわからなくなった綱吉は生類憐みの令をより厳しいものにする。
 その結果、15代の徳川将軍の中で最も不人気だった将軍になってしまった。

(2011年12月21日(水) 16:05〜16:50放送NHK「歴史秘話ヒストリア-ああ、討ち入りさえなかったら…3つの“裏”忠臣蔵-」)
http://tvtopic.goo.ne.jp/program/info/533469/index.html

 中直一(1954年大阪生まれ)先生は現在、大阪大学言語文化研究科の教授です。
 ケンペルについての考察、著作を以下にご紹介:

5.一般著書、ボダルト=ベイリー/マサレラ編『遥かなる目的地ケンペルと徳川日本の出会い』(翻訳・共訳)、中直一、 小林早百合(共訳)、大阪大学出版会、1999年07月

1.翻訳作品、ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー著『ケンペル 礼節の国に来たりて』(翻訳)、中直一(訳)、ミネルヴァ書房、2009年09月

http://www.dma.jim.osaka-u.ac.jp/view?l=ja&u=5731&sm=&sl=&sp=&c=chosho&dm=0

4.ドームによるケンペル『日本誌』の編集について(1)―総説及び第1巻の分析(その1)―、中直一、大阪大学大学院言語文化研究科『言語文化共同研究プロジェクト2010ドイツ啓蒙主義研究11』、2011年05月、学術論文

1.ドームによるケンペル『日本誌』の編集について(2)―第1巻の分析(その2)―、中直一、大阪大学大学院言語文化研究科『言語文化共同研究プロジェクト2010ドイツ啓蒙主義研究12』、2012年05月、学術論文

http://www.dma.jim.osaka-u.ac.jp/view?l=ja&u=5731&c=ronbn&dm=0

 そして、ヨーゼフ・クライナー氏は今春、2014年3月、日本民族学の歴史に名を残す、鳥居龍蔵・澁澤敬三・梅棹忠夫・金関丈夫・佐々木高明の5名を軸に17本の論文を掲載した『日本とは何か〜日本民族学の20世紀〜』を東京堂書店から出版したところです。
 インタヴュー記事がありますのでご紹介:

 震災に直面した日本人は?
 日本人の冷静さ、団結して前に向かっていこうとする姿勢は、「武士道」「大和魂」といった精神論よりも、教育のなせるわざだと思います。
 自然の厳しさを経験から学び、物心 両面の準備をしていたからこそ、今回のような非常事態でも国民全体がパニックにならなかった。
 避難所で自主的に世話役を決めるなど、あの厳しい状況の中で秩序を保つ行為は素晴らしい。

 すべて自分たちだけで解決しようとするのも、とても日本人的です。
 今回のような非常事態では、最初から世界に向けて大変さを訴え、海外からの応援を積極的に受け入れるべきでした。
 日本人はアピールが下手なところがあり、それがマイナスに働いた面もあります。

 ヨーゼフ・クライナー氏Josef Kreinerは1940年、オーストリア・ウィーン生まれ。
 ウィーン大を卒業後、東京大東洋文化 研究所で学ぶ。1971年からウィーン大教授・ 日本学研究所長。1977年から独ボン大教授を長く務める。現在はボン大名誉教授、法政大学特別教授。専攻は民族学・ 文化人類学。日本の民族学の学説の歴史や、欧州の博物館が保管する日本の仏教美術 コレクションを研究している。

(May 29, 2014付け「朝日新聞グローブ」)
http://globe.asahi.com/feature/110501/03_4.html


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2014年05月28日

ケンペル

 「ケンペル・バーニーの碑」には次のように書かれていました。

 ドイツの植物学者エンゲルベルト・ケンペルはオランダ通商使節の一員として1691(元禄4)年と翌年に箱根を讃え、箱根の美しさを世界に紹介してくれました。
 C・M・バーニーは、この地に別荘をもっていた英国の貿易商です。1922(大正11)年にケンペルの著書『日本誌』の序文を引用、「自然を大切にするように」と碑をたてました。
 私達は二人の功績を讃えここに碑を立てました。
1986(昭和61)年11月
箱根町長 勝俣茂
ケンペル祭実行委員長 信濃一男


 さ〜て、コぺル君でなく、エンゲルベルト・ケンペル Engelbert Kaempfer (1651-1716)について調べてみなくっちゃ:

 ケンペルは1651(慶安3)年にドイツのレムゴーに生まれた。
 16歳で故郷を離れると、ドイツ、ポーランド、オランダ、ロシア、スウェーデンなど、諸国をめぐって勉学した。
 その間に、医学、歴史学、博物学を修め、医官として日本の地を踏んだのが、1690(元禄3)年9月である。
 長崎に上陸したケンペルは、1692(元禄5)年10月まで出島で暮した。
 医官としての仕事の傍ら、日本の植物、貝類、昆虫、動物を集めて標本を作り、また歴史、政治、生活習慣や宗教について丹念に調べた結果を膨大なメモに残した。
 さらには、日本のさまざまな美術工芸品を収集し、天然資源のサンプルを採取することまで行なった。
 ケンペルは集めた情報を裏付ける収集品を、すべてドイツ本国に送り、半生をかけて整理するつもりだったようだ。
 しかしケンペルの没後、それらは大英博物館、および大英博物館から分かれたロンドン自然史博物館に収蔵された。

 ケンペルの江戸参府
 1691(元禄4)年とその翌年、二度に渡りこの道を通り、鎖国下の日本の姿を目にした外国人がいた。
 公式に貿易を許されていたオランダ商館は、1633(寛永10)年以降、年に一度将軍に拝謁して献上品を贈ることを定例としていた。
 長崎から江戸に向かうオランダ商館一行は、大名行列のように街道を歩き、宿場、宿場で休んだ。
 オランダ商館に雇用されていたドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペルは、商館長とともに江戸城に参内し、五代将軍、徳川綱吉に拝謁して、その人柄に触れた数少ない外国人の一人である。
 医師であり博物学者であったケンペルは、江戸参府の往復にも鋭敏な観察眼を光らせ、箱根旧街道では、その自然と独特の風景を詳細に記録していた。

 ケンペルの研究成果
 ケンペルによる日本研究の成果は、帰国後の著書に発表された。1712年の『廻国奇観』Amoenitatum Exoticarum Politico-physico-medicarum …またケンペルの死後に出版された1727(享保12)年の『日本誌』The History of Japan には、富士山について、「広がった裾野からだんだん先が細っていく円錐形のその姿、それはまさに世界で最もすばらしい山である」と書き…『日本誌』は18世紀のヨーロッパでベストセラーとなり、モンテスキューやヴォルテール、カントなどがケンペルの記述を引用した。
 日本に開国を迫ったアメリカのペリー提督が、来日前に繰り返し読んでいたのも、ケンペルの著書であった。

(JapanTravel.comより。JapanTravelはジャパントラベル(株)と(株)オールアバウト社によって共同運営されています。ライターは、Tomoko Kamishima)
http://ja.japantravel.com/view/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E6%97%A7%E8%A1%97%E9%81%93

 へぇ〜、生地ドイツのレムゴーにお邪魔してみましょうか:

 レムゴ市は、ドイツの人びとの間では、エンゲルベルト・ケンプファー(Engelbert-Kämpfer)の生地として知られています。
 ケンプファーというよりケンペルといえば、ご存知の方も多いかもしれません。
 外科医・博物学者であったケンペルは、何よりも17世紀という時代に世界を歩き回った旅行家として有名です。
 1690年9月24日、長崎に到着したケンペルは、結局2年間、日本に滞在し、ヨーロッパ人として始めて当時の日本の社会をつぶさに観察したのです。
 バタビアやアムステルダムを経て1694年にレムゴに帰り着いたケンペルは、デトモルトで医者として活動し、1716年に亡くなりました。
 彼の死後11年もたった1727年、ロンドンで出版された著書『日本誌』The History of Japan は、17世紀の日本を記述した書物としてたいへん有名です。
 このようなこともあって、レムゴの町の人びとは、とりわけ日本に深い関心を抱いています。
 パートナー校であるエンゲルベルト・ケンプファー・ギムナジウムは、このケンペルの名を冠したギムナジウムで、この町の中心にあります。
 そこでは、外国語の科目として、日本語も教えられています。

(徳島大学総合科学部教授 桂修治(1949年生まれ)
http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/kokusai-b/Austausch_A.htm


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2014年05月27日

ケンペル・バーニーの碑

 『僕はすべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。
 人類は今まで進歩してきた来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。
 そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います


 そうノートに書き綴ったのが、中学二年生の15歳、本田潤一君で、あだ名は「コぺル君」です。
 「コぺル君」のお話しを書いたのが吉野源三郎(1899-1981)で、ヤッホー君が書庫に行って探しだして読んだ本は『君たちはどう生きるか』(ワイド版岩波文庫、2006年)。
 この(ワイド版岩波文庫、2006年)の底本は、(新潮社、1937年8月10日刊)です。

 1937年といえば、ちょうど『君たちはどう生きるか』が出版され、『日本少国民文庫』が完結した7月に盧溝橋事件がおこり、みるみるうちに中日事変となって、以後8年間にわたる日中の戦争がはじまった年でした。
…ヨーロッパではムッソリーニやヒトラーが政権をとって、ファシズムが諸国民の脅威となり、第二次世界大戦の危険は暗雲のように全世界を覆っていました。
 『日本少国民文庫』の刊行は、もちろん、このような時勢を考えて計画されたものでした。
 当時、軍国主義の勃興とともに、すでに言論や出版の自由はいちじるしく制限され、労働運動や社会主義の運動は、凶暴といっていいほどの激しい弾圧を受けていました。
 山本有三先生のような自由主義の立場におられた作家でも、1935年には、もう自由な執筆が困難となっておられました。

…吉野源三郎「作品について」(同文庫、301-302頁)

 どうして早朝から吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を探し出したかって言いますとね、箱根旧街道!
 おとといの日曜日、山歩クラブ・箱根旧街道ウオーキングの歩き出しが、芦ノ湖湖畔にある「ケンペル氏・バーニー氏」碑でした。

・静かな杉の林の中に、ケンペルとバーニーを讃えた碑があります。
・ひとつは「バーニーの碑」。バーニー本人が建てたものです。ケンペルの「日本誌」から引用された文が載っています。このケンペルの日本誌を引用して、箱根の自然を大切に後世に伝えよう!と訴えている碑。
・もうひとつは「ケンペル・バーニーの碑」。ふたりのレリーフがはめこまれているほうがそれです。ふたりの外国人を讃えて、「ケンペルとバーニーを讃える会」が建てたものです。

(箱根町観光情報公式サイト、ケンペル・バーニーの碑)
https://www.hakone.or.jp/513

 この「ケンペル」って「コぺル」のこと?なんか関係があるのかなって調べたかったんです。

 結果、「ケンペル」と「コぺル」の間には関係がございませんでした。

 もうひとつ、気になったことがございまして、それは、サイキンのヤッホー君のブログ、5月17日付け日記「富士山」にも登場していた夏目漱石『三四郎』の「髭の男」もしくは「広田先生」ってモデルは、吉野源三郎だっけ?吉野作造(1878-1933)だっけ?

 結果、どちらもブ〜、はずれ。

 小説『三四郎』は1908(明治41)年、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載され、翌1909(明治42)年5月に春陽堂から刊行されたものですし、吉野源三郎はその頃、9歳か10歳で「コぺル君」のあだ名もまだついていない少年でしたし、吉野作造は1910(明治43)年に3年間の欧米留学に出発しております。
 最初はドイツ・ハイデルベルク大学で翌1911(明治44)年オーストリア・ウィーンで労働党の示威運動を見聞し、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカを経て帰国したとなっています。
(吉野作造記念館(注)公式サイトより「吉野作造の生涯」)
http://www.yoshinosakuzou.jp/human/yoshino.html

 実は、『三四郎』にでてくる「広田先生」は、吉野作造の先生で、イマの東北大学教授でした!

 岩手県一関市出身で、夏目漱石の小説『三四郎』に登場する広田先生のモデルといわれる旧制二高(現東北大)教授粟野健次郎(1864-1936)の人物像を調査している顕彰会は2月2、16日に一関市内2カ所で、調査初年度の成果を披露する公開市民講座を開く。参加者を募集している。
 両日とも同じ内容で、顕彰会の小梨浩子会長が会の活動を報告した後、土井晩翠や吉野作造らを育てた優れた教育者の粟野の業績や評価、教え子の顔触れ、エピソードなどを紹介する。
 2月2日は粟野の孫も出席する。
 孫が所蔵していた家系図や地元小に図書を寄贈したことなど、調査で分かったことも発表する。

(2014年01月29日水曜日付け河北新報「『三四郎』モデル、粟野健次郎の公開市民講座、一関・来月」)
http://www.kahoku.co.jp/news/2014/01/20140129t35005.htm


(注)
 「吉野作造記念館」(宮城県大崎市古川福沼1-2-3 電話0229-23-7100)
 名誉館長は故井上ひさし(1934-2010)。

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2014年05月26日

旧街道休憩所

 5月26日月曜日、昨日の山歩クラブ・箱根旧街道ウオーキングの余韻を楽しんでおります。
 昨日の日記「箱根旧街道」に貼った最後の集合写真はどこですか?って。
 ここは甘酒茶屋で一服したあと、高札でその由来を記した案内文をリーダーが音読してくださって、皆んなで歴史を学習して、畑宿の一里塚目指してさらに歩をすすめた先、御不浄の手前にあったわらぶきのおうちのなかだったのです。
 ここは:

 旧街道にある無料休憩所です。
 旧街道資料館に展示してあった資料も一部あり、江戸時代の武士から庶民の旅の姿を偲ぶことが出来ます。

(箱根町観光情報サイト「箱根全山」)
http://www.hakone.or.jp/550

 赤穂浪士の一人大高源吾は、大石内蔵介の命を受け、仇討ち急進派を抑えるため江戸へ急いだ。
 ところがその途中、三島宿にさしかかった時、馬方の国蔵から馬の荷を崩されたと因縁をつけられた。
 大高源吾は仇討ちという大事を控え、争いごとを避けるため、屈辱に耐えて国蔵に酒代を払い、謝ったと云うことです。
 そして時は流れ、この話の主人公は大高源吾から同士の神崎与五郎に、舞台も三島宿から箱根の甘酒茶屋へと変化し、今に伝えられている

…箱根旧街道休憩所案内文

 この場面の前で撮った写真でした。
 ここでヤッホー君、ほっと一安堵。
 どうしてかっていいますと、箱根八里はどこからどこまででしょうか、と山歩クラブの仲間にクイズをだしておきながら、ですね、まずは小田原宿を出ますよね、はい、湯本、畑宿を経て箱根宿までの四里を歩いて大休憩、そして箱根宿から〇〇宿までの四里の道のりなんですよ、ムカシの人は良く歩きました、一日十里、ま、40Kmは歩かないと、東海道は10数日で行けません、これに天候も左右しますからね、と無駄口をたたいてしゃべって、ですね、〇〇が出てこないんです、大島じゃないし、越中島じゃないし、月島じゃないし、長島じゃないし、なんだっけ、と聞きまくっていたのです(やっぱり精神科じゃ、こりゃ…影の声)。

 大高源吾…といえば「両国橋の場」、ですね。

 「元禄忠臣蔵」を観た翌日、平成中村座で「松浦の太鼓」を観ることに。
 「義士外伝」の中でも「四谷怪談」と並んで上演回数の多い人気演目。
 本所の吉良上野介の隣屋敷に住む松浦の殿様が中々討入しない大石内蔵助にいらだっていたが、聞こえてきた太鼓の音に「山鹿流の陣太鼓じゃ!」と言って指を折って太鼓の数を数える場面や「助太刀だ」と興奮して家臣に止められる場面で知られている。
 浅草の中村座で上演されると本所が近いので「ご当地物」といった気分になれるのも嬉しい。

 この芝居の中で大きな役割を果たすのが「俳句」。
 発端の「両国橋の場」で雪の降る師走、俳諧師匠の宝井其角が笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾に偶然出会う。
 哀れな姿を気の毒に思った其角は松浦侯から拝領の羽織を与え、
年の瀬や 水の流れと 人の身は」という発句を向けると、源吾が、
明日待たるる その宝船」という付句を返して立ち去る。
 松浦侯は意味がすぐにわかり、その時陣太鼓の音が聞こえてくる…。

(中央区観光協会オフィシャルブログ、中央区観光協会特派員ブログ、2011年12月17日08:30投稿「生誕350年、宝井其角と忠臣蔵)
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2011/12/350.html

 神崎与五郎…といえば「与五郎祭り」、ですね。

 与五郎とは?
 赤穂浪士四十七士の一人・神崎与五郎(神崎則休)のことです。
 1701(元禄14)年、大石内蔵助の命を受け、敵の吉良上野介を探るために江戸へ急ぐ途中、立ち寄った甘酒茶屋にて、馬子の丑五郎に言いがかりをつけられたが、「討ち入り」という大事の前であるということで我慢を重ね、詫び証文を書いて去った後、与五郎が四十七士の一人であったことを知った丑五郎が深く後悔し、出家し弔ったと伝わる話があり、講談や戯曲で語り継がれています。
 ちなみに、その時の甘酒茶屋の主は三代目だったそうです(現在十三代目)

(甘酒茶屋公式行サイト)
http://www.amasake-chaya.jp/special.html

 では、ここでは浪曲で:
http://www.youtube.com/watch?v=TUlHbvceQKc

 うなるは吉田日の丸、「神崎東下り」!

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2014年05月25日

箱根旧街道

 皆さん、こんばんは。
 山歩クラブからの「ただいま帰りました」一斉メールです。
 今日5月25日は東京上野五條天神祭の日。
 山歩クラブは、タウンウオークの日です。
 りーダーさんのお許しを得て、江戸時代の「箱根八里」のほんのさわり、杉並木と石畳だけ、11人の仲間と歩いてきました。

箱根旧街道.jpg

 途中、歌いました:
http://www.youtube.com/watch?v=bOrxqM6n-cE

http://www.youtube.com/watch?v=PeuxeT_uW_Y

 えっそうかぁ、時代がもう違ってましたねえ、とヤッホー君、仲間の秀吉公と話しておりました!

 箱根の関所から、日本橋から23里の畑宿まで、途中、「甘酒茶屋」(神奈川県足柄下郡箱根町畑宿二子山395-1 Tel 0460-83-6418)に寄って、「天下の嶮」を汗をかきかき登って来る方々にず〜っと申し分けなく思いながら、ず〜っと下ってきたのです。

甘酒茶屋.jpg

無料休憩所.jpg

 箱根甘酒茶屋劇場『箱根八夜』
http://www.youtube.com/watch?v=zpwlSNfhCEc

 お昼は「湖畔でご飯」をモットーにまた「芦の湖」まで山歩クラブ専用バスで戻りました。
 富士山はかんぽの宿「箱根」(神奈川県足柄下郡箱根町元箱根159 Tel 0460-84-9126)の湯上りに見て、帰りは神奈川県箱根町立「箱根湿生花園」(神奈川県足柄下郡箱根町仙石原817 Tel 0460-84-7293)を一時間歩いて乙女峠の富士見茶屋でもう一度富士山を見て、下町に無事戻ったというわけでした。
 江戸の歴史散策と富士見山行、富士山が大好きな山歩クラブが相乗効果を発揮したいやあ〜、何ともいえぬタウンウオーキングの日となりました。
 いやぁ〜、ウグイスの声を間近に聞きながら、しかも森林浴もでき、いやぁ〜、山ってホント、良いですね。
 また歩きましょうね!


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2014年05月24日

佐々木利和

 5月24日土曜日、お昼時ヤッホー君、eチャリで上野恩賜公園へ。
 ひとつ、五條天神社で「大祭」を前にした「当日祭」があったからです:

 第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神(大己貴命(大国主命)おおなむじのみこと(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱)の大神に御加護を頂いたことを感謝なされて、この地に両神をおまつりなされました(約1890年前)。
http://www.gojotenjinja.jp/gojotenjin.html

 もうひとつ、トーハク。
 巨木ユリノキの花が満開、それを見たかったこともあります。

(ユリノキ(百合の木):東京国立博物館ボランティアの樹木ツアーでご説明をいただき-ました)
http://www.youtube.com/watch?v=vpTSi0_HiH4

 ですが、勉強の好きなヤッホー君、実は、平成館-大講堂で午後1時半〜佐々木利和(北海道大学アイヌ・先住民研究センター客員教授)による講演会「帝室博物館のアイヌ・琉球展示について」があったからなのです。

 「ひとつの列島、ふたつの国家、みっつの文化」という言葉をご存知ですか?
 帝室博物館の旧土俗陳列を通じて日本列島の中の異文化であったアイヌ文化と琉球文化についてお話します。

http://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=dtl&cid=1&id=7192

 ヤッホー君のこのブログ、次の三つほどご参照して読んでいただけると嬉しいなってヤッホー君:
 ☆ 2010年05月27日付け日記「縄文人」
 ☆ 2011年01月26日付け日記「INAXギャラリー1」
 ☆ 2012年05月22日付け日記「国際基督教大学」

 どうも沖縄とかアイヌとかのお話しになると、こころもからだもうずうずしてくる、血が騒ぐってこのことかな、なんて…いっつも考えすぎ、って言われちゃいますが…

 では「ひとつの列島」とはなにか。いうまでもなく「日本列島」がそれで、「日本列島弧」のことである。日本列島弧とは樺太、千島、北海道、本州、四国、九州、南西諸島を指すが現在「日本列島」とは北海道、本州、四国、九州と付属島嶼を指し、おおむね3,500 kmにおよぶ…。
 このひとつの列島にふたつの国家があったというとけげんな顔をするむきがある。では「ふたつの国家」とはなにか。1879(明治12)年以前に日本列島には、
 @ 天皇を核とする国家
 A 琉球国王を核とする国家
が存在したのである。@はいうまでもない「日本」で、Aは「琉球王国」である。琉球王国は南西諸島を中心としてうまれた。
 1872年、明治政府は琉球王国を廃し琉球藩をおいた。そして1879年に至り、琉球藩を廃止して、沖縄県をおいた。いわゆる琉球処分であり、ここにおいて、琉球王国は姿を消したのである。
 アイヌは国家を形成しなかった。
 そして日本列島には古くから「みっつの文化」があったのである。まず北から、
 @ アイヌ語を母語とするアイヌ文化
 A 日本語を母語とする日本文化
 B 琉球語を母語とする琉球文化
ということになる。

(佐々木利和「ひとつの列島、ふたつの国家、みっつの文化」、月刊『学術の動向』2011年9月号所収)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/16/9/16_9_9_70/_pdf

 とても勉強になりました。
 講演会が終わったアンケートには、佐々木利和先生(1948年北海道足寄郡淕別村生まれ)の著書『アイヌ史の時代へ(北大アイヌ・先住民研究センター叢書3)』を買って読んでみますって書き、提出しました。
 イマ、われわれ日本人が取り組まねばならない問題は次の国際公約。そしてそれを受けた施策の実現かな、とりあえず:
 ☆ UNITED NATIONS DECLARATION ON THE RIGHTS OF INDIGENOUS PEOPLES
  …Adopted by the General Assembly 13 September 2007
   先住民族の権利に関する国際連合宣言
 ☆ アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議
   2008年6月衆参両院の本会議において全会一致で採択
 ☆ 「民族共生の象徴となる空間(象徴空間)」を2020年の東京オリンピック開催前までに建設し、公開する

 初秋の真っ青な空を映し、ポロト湖はエメラルド色に輝いていた。森と湖に囲まれた静穏な地に「しらおいポロトコタン(大きい湖の村)」がある。“イランカラプテ(こんにちは)」で迎えられ、アイヌ民族の「祈り」「歌」「踊り」「食文化」そして歴史を体験する機会をもった。
 菅官房長官が先月この地を訪れ、「民族共生の象徴となる空間(象徴空間)」を2020年の東京オリンピック開催前までに建設し、公開する」と表明した。五輪前にオープンさせ、政府が先住民族対策をきちんとおこなっていることを国内外にアピールする思惑があるのだろう。
 ポロトコタン内にある「アイヌ民族博物館」では、「アイヌ民族の概要」なるパネルが掲げられており、ここには以下のように記載されている(抜粋)。

「アイヌ民族は東北地方の北部から北海道樺太(サハリン)南部、千島列島にかけて古くから暮らしていた先住民族です。アイヌモシリ(アイヌ民族の土地)の豊かな自然を基盤として、狩猟・漁労を中心とした生活を営む一方、本州や大陸の諸民族と活発な交易をしていました。しかし、明治時代に入ると、アイヌモシリは一方的に日本の領土に組み込まれました。和人が大挙して入植し、また樺太・千島からの強制移住によりアイヌ民族は土地や資源といった生活の基盤を失い、壊滅的な打撃をこうむりました。アイヌ語や伝統文化は否定され、その多くを失いました」

 いま、アイヌの人びとは、独自の言語、信仰や文化の独自性を持つ先住民族です。北海道にある市町村の名前は約8割がアイヌ語に由来しているといわれ、さらに、東北地方の北部にもアイヌ語に由来した名前の市町村があると言われています。
 近年では、我が国が持つ文化の多様性の一面としてアイヌ文化が注目されており、とりわけ、北海道の特に観光分野において、「雄大な大自然」「豊かな食」といった従来の魅力に加わる新たな要素として脚光を浴びてきており、また、北海道内の民間企業等においても、アイヌ文化に対する関心が高まりつつあります。
 そのような中、アイヌ文化等の普及啓発をより一層推進するため、平成25年度から平成27年度の3年間を重点期間とし、民間企業や行政機関、学術機関等の連携により、アイヌ語のあいさつ「イランカラプテ」(「こんにちは」の意)を、「北海道のおもてなし」のキーワードとして普及させるキャンペーンを展開することとしました。

(2013.10.15投稿「財界さっぽろ」ブログ)
http://www.zaikaisapporo.co.jp/blog/164.shtml

 「イランカラプテ」キャンペーンとは、これです。動画付きです:
http://www.irankarapte.com/movie/

 しかしまぁ〜、こんな「墓荒らし」もしていたのかな:

 北海道大など全国12大学が研究目的で収集したアイヌ遺骨の返還問題で政府は5月14日、アイヌ政策推進会議作業部会で、返還に向けたガイドラインを提示した。
 返還対象は保管されているアイヌ遺骨1636体のうち、個人が特定できた23体。

(2014年05月15日付け毎日新聞・東京朝刊「アイヌ遺骨:返還でガイドライン」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140515ddm012040122000c.html


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歌舞伎座

 う〜ん、と朝からうなっているヤッホー君、5月24日土曜日のことでした。
 5月22日木曜日はタウンウオーキングで朝9時、地下鉄「押上(スカイツリー前)」駅集合でした。
 「東京都シルバーパス」お持ちの方は、ヤッホー君のように「改札機の読取り部に、水平になるようにしてしっかりとタッチ」しているのですが、開きません。
 「カード挿入口に入れるか改札員にシルバーパスをはっきり見せて下さい」なんだって。
 でもお持ちの方は顔の表情が生き生きとして良い笑顔、そう、遠足気分!

 まずは都営浅草線「人形町」駅下車。「甘酒横丁」散策から歩き始めます:
 どんなところか、「日清紡」(中央区日本橋人形町2-31-11さんのサイトで振り返ってみましょう:

 人形町通りから明治座方面にほぼ東西に250m余り、これが名高い下町の散歩道「甘酒横丁」である。
 明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は『甘酒屋横丁』と呼ばれていた。

http://www.nisshinbo.co.jp/

尾張屋.jpg

 ヤッホー君が出会ったのはまず、あれ?弁慶?!どうして?

弁慶.jpg

 江戸幕府から興行特権が与えられ「櫓(やぐら)をあげる」ことが許された芝居小屋が、江戸三座(えどさんざ)と称される中村座・市村座・森田座の三大歌舞伎劇場。
 人形町界隈には、中村座と市村座の芝居小屋があり、江戸三座は、1932(昭和7)年に市村座が廃座(はいざ)になるまで、300年の伝統を誇りました。

(人形町観光ガイド)
http://ningyou.3zoku.com/223-kanjintyo.html

 そうか、と思いつつ、新開場から一周年を迎えたばかりの「歌舞伎座」GINZA KABUKIZA へ。

 歌舞伎座は、1889(明治22)年、木挽町の地に誕生して以来、歌舞伎の殿堂として明治、大正、昭和、平成にわたって、古典演劇としての洗練を極めると共にその時代の息吹を取り入れた舞台を上演し続けてまいりました。
 また、その間には幾度もの災禍を乗り越え、力強く復興を果たしてまいりました。
 歌舞伎座の125年の歩みは、まさに近代日本の演劇史そのものと申せましょう。
 2013(平成25)年4月、いよいよ第五期となる歌舞伎座が開場いたします。
 伝統の継承と新たな創造。
 どうか新しい歌舞伎座に皆様の変わらぬご支援、ご愛顧を賜りますよう、お願い申し上げます。

(松竹株式会社、新しい歌舞伎座)
http://www.shochiku.co.jp/play/kabukiza/new_kabukiza.php

 しかし「東京都シルバーパス」をお持ちの年金生活者にはとてもとても高額なチケットは買えません、手が出せません。
 東京駅前「屋上庭園・KITTEガーデン」と同じように高いところが大好きなヤッホー君、芝居見物の気分だけ味わってすぐ、「GINZA KABUKIZA・屋上庭園」へ。
 歌舞伎作者の河竹黙阿弥(1816-93、注1)の本所南二葉町の住まいにあった「黙阿弥の石燈籠と蹲踞(つくばい)」が。

黙阿弥.jpg

 ヤッホー君たちご一行さまは、雨上がりの晴海通りをさらに歩いて「さかな竹若・築地本店」(中央区築地4-7-5 築地KYビルB1 Tel 5565-0888)でお食事会。
 解散後、ヤッホー君はさっそく「松竹大谷図書館」(中央区築地1-13-1 ADK松竹スクエア3階 Tel 5550-1694)で黙阿弥研究!(注2)
 ここは:

 松竹株式会社の創立者の一人・故大谷竹次郎(1877〜1969)が1955(昭和30)年に文化勲章を受章したのを記念して、1956(昭和31)年に設立した、演劇と映画の専門図書館です。
 長年にわたり演劇・映画事業にたずさわってきた松竹株式会社が、収集・所蔵してきた資料を広く一般に公開し、研究者や愛好家の利用に供して、芸術文化の振興と、社会文化の向上発展に寄与することを目的として設立されました。

(公益財団法人松竹大谷図書館)
http://www.shochiku.co.jp/shochiku-otani-toshokan/


(注1)ヤッホー君のこのブログ、2014年の次の日付けの日記を参照:
☆ 2月25日「弁天小僧」
☆ 2月26日「河竹黙阿弥」
☆ 2月27日「もとのもくあみ」
☆ 2月28日「吉田弥生」
(注2)カウンターの図書館員さんが揃えてくれたのが次の3冊:
☆ 河竹登志夫『作者の顔〜黙阿弥以後の人びと〜』(講談社、1980)
☆ 同『黙阿弥』(文春文庫、1996)
☆ 今尾哲也『河竹黙阿弥〜元のもくあみとならん〜』(ミネルヴァ書房、2009)

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2014年05月23日

CSA

 5月23日ハナキン、ヤッホー君今朝から、まだ、あの日曜日の檜原村・浅間尾根を歩きながら思っていたことを日記に残さないと、あの山行は終わらないな…、と考えているようです。
 それは"CSV" とかヤッホー君、口走っていましたが、それは"CSA"について、だったのです。
 そして、自分を明かす(証明)のにどうして「消費者」だったり「生産者」だったり、二項対立のどちらかに組するように規定づけようとするんだろうと。

 CSAとは、Community Supported Agriculture の略で、一般には「地域で支える農業」という意味ですが、最近では広く、消費者や販売者などが、生産者と連携あるいは生産者を支援し、自分たちの食糧生産に自分たちも積極的にかかわる、という形の農業を意味するケースも多いようです。

 CSAはもともと、1960年代に生産者と消費者による「提携」という形の営農形態で日本でスタートしたものが、「teikei」という言葉とともにアメリカ合衆国(USA)にわたった後、USA で発展したとされており、現在では USA が CSA の先進地となっています。
 単純に言えば、「消費者はおいしくて出所のはっきりした安全な食糧供給を受ける代わりに、その農地・農家をしっかり支援する。農家もそれに応えるべく良い農産物を作ることに専念する。そして天候不順による不作などのリスクも共有する」というものです。

 いの町吾北地区では、4年前の旧・吾北村時代からこの CSA システムに着目し、山間地域農業の生き残り策のひとつとして、その考え方の導入について文献等を通じて検討してきました。
 そして2004(平成16)年に、いの町農業公社の担当者が実際に USA アイオワ州の CSA 農家数軒を実際に訪問し、そのノウハウと課題等を学び、USA の CSA の考え方を吾北地区版にアレンジし、現在いくつかのシステムモデルができています。

 訪問したCSA農家のなかには、
 ・ 消費者が、私の畑を自分の食糧生産のための畑だという認識を持ってくれていて、作業の手伝いや、有機質肥料の購入費なども一部負担してくれる。良い食べ物のためならむしろ積極的にお金を出す、と言ってくれる。
 ・ 月1回、自分の相対取引消費者たちが集まって、ソーシャルパーティーを倉庫で開く。普通の主婦から弁護士、医師、教師まで、いろんな人が集まって、ダンスをしたり料理を楽しんだりする。
という例や、
 ・ 相対取引や交流のためのコーディネート役がいない、情報が少ない
等の悩みも持っていました。このような悩みは、安全・安心で良いものを作っているにもかかわらず、大きな物流システムや販売量にのれないために、その価値がうまく発揮されていない日本の山間地域の農家にとっても共通のものです。

(財団法人「いの町農業公社」、高知県吾川郡いの町上八川甲1934 Tel 088-867-2313)
http://iarec.or.jp/csa/csa-towa.htm

 では本場ではどのように CSA が定着しているか、と言いますと:

According to Dr. John E. Ikerd, Extension Professor, University of Missouri, “Sustainable Agriculture” must be economically viable, socially responsible, and ecologically sound. The economic, social, and ecological are interrelated, and all are essential to sustainability. An agriculture that uses up or degrades its natural resource base, or pollutes the natural environment, eventually will lose its ability to produce. It’s not sustainable. An agriculture that isn’t profitable, at least over time, will not allow its farmers to stay in business. It’s not sustainable. An agriculture that fails to meet the needs of society, as producers and citizens as well as consumers, will not be sustained by society. It’s not sustainable. A sustainable agriculture must be all three−ecologically sound, economically viable, and socially responsible. And the three must be in harmony.
http://www2.monroecounty.gov/planning-alternative.php

"Since our existence is primarily dependent on farming, we cannot entrust this essential activity solely to the farming population--just 2% of Americans. As farming becomes more and more remote from the life of the average person, it becomes less and less able to provide us with clean, healthy, lifegiving food or a clean, healthy, lifegiving environment. A small minority of farmers, laden with debt and overburdened with responsibility, cannot possibly meet the needs of all the people. More and more people are coming to recognize this, and they are becoming ready to share agricultural responsibilities with the active farmers." (1)

Community supported agriculture (CSA) is a new idea in farming, one that has been gaining momentum since its introduction to the United States from Europe in the mid-1980s. The CSA concept originated in the 1960s in Switzerland and Japan, where consumers interested in safe food and farmers seeking stable markets for their crops joined together in economic partnerships. Today, CSA farms in the U.S., known as CSAs, currently number more than 400. Most are located near urban centers in New England, the Mid-Atlantic states, and the Great Lakes region, with growing numbers in other areas, including the West Coast.


(1) Trauger M. Groh and Steven S.H. McFadden, Farms of Tomorrow. Community Supported Farms, Farm Supported Communities. Kimberton, PA: Bio-Dynamic Farming and Gardening Association, 1990. p. 6
(Defining Community Supported Agriculture by Suzanne DeMuth, September 1993)
http://www.nal.usda.gov/afsic/pubs/csa/csadef.shtml

 ヤッホー君、CSA について教えてくれたスーザンと USA で CSV とか ICBM とかいろいろお話ししたことを思い出しておりました。
 向こうさんはもうとっくにお忘れになったことと思いますけど…
 「一期一会」って、ですのでいかに大切な仏さまの教えかって、今頃になって思い知らされています。
 すがすがしい朝に。


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2014年05月22日

古甲州道

 今日5月22日木曜日、お昼12時ころ、ヤッホー君は歌舞伎座屋上庭園でにわか雨、そしてイマ7時過ぎ、晩ご飯食べ終わったころ、また雷鳴とどろき再び驟雨。
 今日の一日を日記につける前にヤッホー君、どうしてもまだ、あの日曜日の檜原村・浅間尾根のことを終わさないと…、と考えているようです(注1)。

 五日市は、昔から交通の要衝の地であったのか、青梅道、鎌倉道、八王子道、五日市街道などいろいろな古道が残っている。
 「古甲州道」もそのひとつ。
 甲州街道は、江戸と天領であった甲府を結ぶ重要な交通路ですが、現在の道筋とは異なり、江戸以前は、秋川筋から多摩川筋に入り大菩薩を抜けて塩山まで行っていたのです。
 五日市から塩山までの道のりで見ると、戸倉の沢戸で秋川を渡り、戸倉に入り秋川沿いに檜原・本宿に、そこから時坂を登り浅間尾根から数馬に、そして鞘口峠を過ぎ、小河内の川野付近から多摩川の右岸を進み小菅、大菩薩を越えて裂石、塩山という具合だったらしい。

(万次郎の歩む飲む読む)
http://takabayashimanjiro.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_4865.html

 これを実感したのが時坂(とっさか)峠!

 奥多摩の主稜線から風張峠でわかれ、東西に緩やかに上下を繰り返すのが浅間尾根です。
 浅間という名称は富士山の見られる所につけられており、この尾根からも時々、富士山を遠望できます。
 この尾根につけられた道は、以前は南・北両秋川沿いに住む人々が本宿、五日市に通う大切な生活道路でした。
 また、甲州中道と呼ばれ江戸と甲州を結ぶ要路となっていたこともあります。
 昭和の初め頃までは檜原の主産物である木炭を積んだ牛馬が帰りには日用品を積んでこの道を通っていました。

…時坂峠にあった標識より
 
 ムカシ人馬、牛馬、…

 「麦と兵隊」
http://www.youtube.com/watch?v=vn2OgHd99GE

 大菩薩って言ったら、机龍之介も通った道、と言ってもいいかもしれません。

 「1960年映画『大菩薩峠』予告篇」
http://www.youtube.com/watch?v=k3Xz8wFUzZg

 市川雷蔵没後40年特別企画 大雷蔵祭
http://www.youtube.com/watch?v=_EdnahNVy8s

 檜原村の中央には浅間尾根が東西に横たわる。
 西は風張峠から東は檜原本宿に至る長大な山稜だ。
 浅間尾根を挟んで北側には北谷が、南側には南谷が走る。
 北谷には標高1147mの月夜見山を水源とする北秋川が流れ、南谷には標高1526mの三頭山を水源とする南秋川が流れている。
 この2筋の谷川は本宿の城山東麓で合流し秋川本流となり、秋留野台地を東流して、拝島近郊の睦橋下流約1Km付近で多摩川に注ぎ込んでいる。
 この檜原村の背骨とも言える浅間尾根は、江戸時代以前の古い時代からの武蔵と甲州を結ぶ道筋で、歴史家はこれを「古甲州道」と呼んでいる。
 「古甲州道」は府中を起点に日野辺りまでは概ね甲州道中や現在の甲州街道の道筋に近いが、そこから先が全く異なっていた。
 甲州道中が八王子、高尾から小仏峠を越えて相模湖方面へ抜けていたのに対し、古甲州道は加住丘陵西麓の滝山街道を北上し、戸吹から秋川の南岸に横たわる秋川丘陵に入り、丘陵の尾根道を辿って網代で秋川南岸の谷筋の道に出る。
 五日市戸倉からは今の檜原街道に入り、檜原の本宿に至るとそのまま浅間尾根の尾根道を辿った。
 浅間尾根を抜けた古甲州道は 小河内に入り、そのまま小菅、大菩薩峠を経て甲府へと向った。
 浅間尾根の「古甲州道」は、戦国時代、関東に覇を唱える後北条氏にとって甲州武田に対する防衛上極めて重要な道筋で、本宿には前線の砦として檜原城があった。
 ために浅間尾根には涙で曇る戦国悲話が残されている。
 落城した檜原城を脱出した八王子城代横地監物吉信と檜原城主平山氏重の嫡男氏久は、この尾根道を通って小河内へ落ちた。
 戦国時代、檜原城は平山伊賀守氏重を城主として小田原北条氏に属し、北条氏の支城八王子城の出城として甲州武田の関東侵攻を阻止すべく最前線の砦として役割を担った。
 1590(天正18)年、天下統一を目指す豊臣秀吉は最後の総仕上げとして関東の北条氏を攻撃した。
 秀吉本隊が小田原城を包囲する間、関東各地の支城は北陸支軍の前田利家、上杉景勝によって次々と攻略された。
 6月23日、八王子城はたった1日の猛攻で悲劇的な落城となる。
 炎上する城を脱出した城代家老の横地監物吉信は山伝いに檜原城に落ちてきた。
 横地を迎えた檜原城主平山氏重は息子の氏久とともに、7月12日優勢な豊臣軍と檜原城攻防戦を展開したが落城、氏重は城の北にあった千足の地で自刃して果て、 横地監物と氏久は浅間尾根を辿って奥多摩の小河内に落ちた。
 横地は小河内の蛇沢で、土民の襲撃か自決かのいずれかで落命したと伝えられる。

(浅間尾根の古甲州道を行く)
http://homepage3.nifty.com/k_harada/sengen/sengen.htm

 どんな尾根伝いの道なのか、まずはとっくりご覧くだされ:

 浅間嶺・入沢山・松生山への道程6/8@東京都檜原村
http://www.youtube.com/watch?v=y7dnCFNnX5M&feature=related


(注) 全体像を把握できる地図は「秋川渓谷観光総合MAP」が便利。問い合わせ先は:
 ・ あきる野市観光協会五日市支部
 ・ 日の出町観光協会
 ・ 檜原村観光協会

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2014年05月21日

檜原村

 るんるんニッポン全国皆々さまよ、檜原(ひのはら)良いとこ、一度はおいでるんるん
 そうですね、4月20日「笹尾根」そして5月18日「浅間尾根」と二度もお邪魔した檜原村が妙になつかしく感じてならない今日この頃です。
 5月21日水曜日、外は雨、いかがお過ごしですか。
 檜原村に魅せられた人、二人ほど「東京新聞」からご紹介しながら日記につけておきます。
 まずは先月4月の活動では、川上玲子さんから:

 檜原村で畑作業などの活動をしている団体「ひのはら里山ファーム」は4月27日、同村の旧藤倉小学校校舎を利用した施設「いこいの森ふじくら」で、チェロとピアノコンサート「ようこそ春の山へ」を開いた。
 山の中にある木造校舎の教室に約90人が集まり、チェロとピアノの音色に聴き入った。
 里山ファームの川上玲子代表は檜原村で20年ほど前から、中高生らのキャンプや国際交流に関わっていた。
 2002年に里山ファームを設立し、村内に借りた畑で農家の人の指導を受けながら、麦や大豆などを栽培している。
 土曜と日曜を中心に活動し、畑作業のほかハイキングやキャンプなどを実施。コンサートは一昨年に続く2回目で、今回はチェロの四家卯大(しかうだい)さんと、ピアノ・ボーカルの柴草玲さんが出演した。2人はオリジナル曲やドビュッシーのソナタなど12曲を演奏。
 日の光が差し込む教室で、電子ピアノを弾きながら歌声も披露した柴草さんは「すてきなシチュエーションでやらせていただき幸せ」と話した。
 新宿区から電車とバスを乗り継ぎ、夫婦で来場した池田寛治(ひろはる)さん(64)は「廃校を使った会場にもひかれて来た。天気のいい山で聴く音楽は素晴らしかった」と満足した様子だった。
 ひのはら里山ファームの活動の問い合わせは、事務局=090(2644)1996=へ。

(2014年4月28日付け東京新聞【村松権主麿】檜原・旧藤倉小でコンサート、チェロとピアノ木造校舎に響く)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20140428/CK2014042802000113.html

 「ひのはら里山ファーム」については以下も参照:
 畑の先生は村のおばあちゃん。檜原村を第二のふるさとに週末農業。
http://hinoharavillage.net/post/74703529977

 そして5月の活動は戸田雅子さん:

 檜原村の自然に魅せられ、移り住んだ元高校教諭の戸田雅子さん(65)が、自宅周辺で採れたお茶の葉から「ひのはら紅茶」づくりを本格化させている…
 50歳を過ぎたころ、「檜原村に住みたい」と再び思い、2003年に実現した。
 国語を教えていた港区の高校に通勤した後、隣のあきる野市の高校に移って定年を迎え、5年延長した勤務も今年2014年3月末で終えた。
 自宅周辺にはお茶の木が植えてあり、住み始めて3年後、近所の人に勧められて手入れを始めた。伸びすぎた木を切り、2008年に24キロの茶葉を初めて収穫。瑞穂町の製茶工場で日本茶に加工してもらったが、収穫した日に水分の多い茶葉を持ち込まなくてはならず、重労働だった。
 「もっと楽な方法はないか」と考え、葉の水分を飛ばしてから加工する紅茶に変更。静岡県の工場で加工してもらい、自分も作業を手伝った。
 2012年には、葉の乾燥や発酵に使う機械を購入し、自宅で作業を始めた。袋詰めした紅茶の葉は、村内の店や観光協会などで「ひのはら紅茶」の名で販売している。
 25グラム540円で、「砂糖を入れなくても甘く感じ、香りが強すぎないため和食に合う」のが特徴という。
 今年の茶葉の収穫量は、昨年から倍増の200キロを見込む。
 観光協会が先月から村内で売る紅茶味のアイスクリームは85グラム220円だ。
 手もみ紅茶教室は観光協会のある地域交流センターで7〜9月に計6回実施。今月末にも収穫を始める茶葉を使い、参加者は自分で加工した紅茶の葉を持ち帰れる。2人1組で5組を募集し、費用は1組2000円。商品と教室の問い合わせは村観光協会=電042‐598-0069=へ。

(2014年5月17日付け東京新聞【村松権主麿】ひのはら紅茶「和食に合う、味わって」檜原村の戸田雅子さん(65)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20140517/CK2014051702000139.html

 この村松権主麿記者は、今日5月21日付け東京新聞で、檜原村に行く際の最寄り駅、JR武蔵五日市駅を中心に活動している田中龍樹さんたちのアイディアも記事にしております。
 今度の日曜日、5月25日にイベントがあります!
 檜原村大好き人間はJR武蔵五日市駅下車徒歩15分、「五日市地域交流センター」に大集合!
 ヤッホー君も、コミュニティ・サポート・ビレッジ(CSV)を立ち上げるので賛同者を募ることにしますって(えっ)!

 プロジェクト名は「五日市ごえん分校」。
 1995年に旧秋川市と合併した旧五日市町エリアで、JR武蔵五日市駅を中心とする地域の活性化を目指す…。
 この地域では先月4月19日と20日、秋川渓谷で野外音楽祭「OTODAMA FOREST STUDIO」が開かれ、鈴木雅之さんら有名ミュージシャンが出演。飲食ブースも設け、2日間で約1万人が来場した。
 音楽祭は、神奈川県で毎年夏、海の家兼ライブハウスを開設している会社「音遊(おんゆう)」(逗子市)が主催。地域住民らでつくった実行委員会とボランティアも運営に参加した。準備を通じて交流を深めた住民と音遊のスタッフが「継続して五日市を活性化しよう」と一致し、「ごえん分校」に発展した。
 実行委員会の委員長を務めた田中龍樹(りゅうき)さん(47)は「商店街の空き店舗をカフェにして夜はコンサートを開いたり、川の清掃など、いろいろな取り組みをしたい」と話し、来月にも第一弾のイベントを実施する予定。
 今月5月25日の「開校準備会」では、音楽やアート、対話を融合したイベントを行なっている団体の代表と、各地の活性化策を掲載するウェブマガジンのメンバーが参考事例を紹介。参加者らがアイデアを出したイベントは、秋ごろの実施を目指す。
 音遊のスタッフ有永智洋さん(30)は「生活のメーンとなっている仕事や学校にプラスし、気軽に楽しめる『分校』活動にしたい。若い人や市外の人にも参加してほしい」と呼び掛ける。
 開校準備会は午後2時半から、五日市地域交流センターで開催。参加費500円で学生無料。

(2014年5月21日付け東京新聞【村松権主麿】「五日市を元気にしよう!住民らがイベントを企画」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20140521/CK2014052102000137.html

 では、ここで「檜原音頭」を歌って踊って、笑顔で元気になりましょう!
http://www.youtube.com/watch?v=PqLc_wufSeM
http://www.youtube.com/watch?v=pMIFP2ACjzM


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2014年05月20日

貴城けい

 5月20日火曜日、ヤッホー君は朝からちあきなおみ(1947年生まれ)!
 ちあきなおみの「四つのお願い」を聞いております!
 この曲で1970年「第1回日本歌謡大賞」放送音楽賞を受賞し、暮れの「第21回NHK紅白歌合戦」に初出場しております。
http://www.youtube.com/watch?v=CBgIJzk5YtY 

 いえネ、ヤッホー君の「四つのお願い」とは、これ:
『宝塚歌劇団に伝わる<ブスの25ヶ条>って知ってますか?
 心に刺さりすぎて涙が出ると話題に!』
http://buzznews.asia/?p=690

 これを、表情、言葉、心、態度の四つでヤッホー君、くくってみたんです;

【表情】
 1・笑顔がない
 4・目が輝いていない
 6・いつも口がへの字をしている


【言葉】
 2・お礼を言わない
 3・おいしいといわない
 10・声が小さく、いじけている
 12・愚痴をこぼす


【心】
 5・精気がない
 6・希望や信念がない
 9・自分がブスであることを知らない
 13・他人をうらむ
 15・いつも周囲が悪いと思っている
 16・他人に嫉妬する
 18・他人を信じない
 20・人のアドバイスや忠告を受け入れない
 21・何でもないことにキズつく
 22・悲観的にものごとを考える


【態度】
 7・自信がない
 11・自分が正しいと信じこんでいる
 14・責任転嫁がうまい
 17・他人につくさない
 19・謙虚さがなく傲慢である
 23・問題意識を持っていない
 24・存在自体が周囲を暗くする
 25・人生においても、仕事においても、意欲がない


 いえネ、ほら、昨日、「深川クリニック」に行ったと日記につけたヤッホー君。
 待合室で思わずテレビにくぎ付け:

 NHK5月19日放送「女の人生2度おいしく〜タカラジェンヌの第2幕〜」
 テーマは、ことしで100周年を迎える宝塚歌劇…を支えてきた「タカラジェンヌ」!
 多くは20代から30代で退団。
 社会人としてリ・スタートを切り、さまざまな世界で、自分を輝かせようと、模索しています。
 番組では、30人あまりの元・タカラジェンヌたちを取材。
 見えてきたのは、困難を乗り越えるときに支えになった、宝塚仕込みの「前向きな発想法」でした。
 今回は、そんなタカラジェンヌたちの第2の人生から、家事、育児、人間関係… 私たちが日々直面するモヤモヤを前向きに乗り越えるヒントをご紹介しました!

(NHKあさイチ、8時15分〜放送)
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2014/05/19/01.html

 この<四つのお願い>とした25ヶ条は本になっていますので、イマすぐ本屋さんで購入しましょう:

 元男役トップが明かす宝塚の「戒め」
 「清く、正しく、美しく」は宝塚歌劇団の創始者・小林一三氏の遺訓であり、歌劇団では今なお、この言葉がモットーとして生きている。
 そして、この遺訓を補完するように歌劇団のとある場所にいつの頃からか貼(は)り出されていたのが「ブスの25箇条」だ。
 大人の女性がすべきでないことで、誰しもついやってしまいそうな事柄についての戒めである。
 誰もが足を止め、しばし見入る、というこの貼り紙は今や宝塚歌劇団の伝説のひとつにもなっているという。
 「目が輝いていない」
 「他人にシットする」
 「なんでもないことにキズつく」
 「問題意識を持っていない」
などの「ブスの25箇条」をわかりやすく、時におもしろく「宝塚式・自分磨きの方法」として紹介するのは宙(そら)組男役トップスターとして活躍した元タカラジェンヌの著者、貴城(たかしろ)けい(1974年5月22日生まれ)。
 「目が輝いているのは人生が輝いていること」
 「どうせ比べるなら、他人ではなく今の自分と昔の自分を」
 「想(おも)いを言葉にすることは気持ちのクールダウンになる」
 「いつも変わらないサービスの裏には見えないところで進化を続ける努力がある」
など気の利いた警句が散りばめられているのもミソ。
 清掃したはずの橋のたもとに落ちていた犬の糞(ふん)を素手で拾い上げた予科生の話など元タカラジェンヌならではのエピソードも多い。
 ヅカファンだけでなく、多くの女性たちの参考となるはずだ。
『宝塚式「美人」養成講座―伝説の「ブスの25箇条」に学ぶ「きれい」へのレッスン』(著者:貴城けい、出版社:講談社、価格:¥1,365)

(2008年5月30日アサヒドットコム)
http://book.asahi.com/booktimes/TKY200805300253.html


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2014年05月19日

膝裏に違和感

 おはようございます。
 朝になっても膝の裏がしびれている不快感、違和違があって、ヤッホー君はeチャリ。
 やっぱりかかりつけのお医者さんに診てもらおうと、信頼している「深川クリニック」に行きました。
 結果、痛め止めの塗り薬と飲み薬で様子見ましょう、と(ホッ右斜め上)
 クリニックで最初、「外科」をお願いしますと言ったら、
「水曜日だけです。ちょっとお待ちください」って、じゃ、最初から整形外科へ行くべきだったかな…間違えたかなぁ〜と考えていましたら、
「院長先生が見てくれますが、ほかの専門医に紹介状を書く場合もありますが、どうでしょうか」って。もちろん「お願いします」となりました。
 で院長先生、両足の膝を触りながら、
「どこの山に行ったの?」って。「西多摩の檜原村の山です」って答えたら、
「昨日は天気に恵まれて、山も良かったですねえ」って。
「水もたまっていないし、はれていないし、半月板を痛めたわけでもない、だからレントゲンもとる必要ないね」って。
 とりあえず一安心!それどころか大安心。

 膝裏の痛みって、哀訴するアウトドアスポーツ愛好者に多いですね、まずはランを楽しんでいる人:

 膝裏(ふくらはぎの上部)が痛くて、走れません。
 筋力不足なのでしょうか。
 効果的なストレッチ、トレーニング、クーリングダウンを教えてください。

(日本最大級!走る仲間のランニングポータルRUNNET、2008/04/22 14:37投稿)
https://runnet.jp/community/chiebukuro/questionContentsAction.do?command=init&&questionId=2160

 次いで、登山愛好者にも:

 今年2013年の5月から山登りをはじめて、ほとんど日帰りで今まで22日間、大小合わせて山に入っているのですが、6、7月頃は高低差1500m〜1000mの山を登っても膝が痛くならなかったのですが、近頃高低差500m程の里山でも下山時膝が痛くなってしまいます。
 皆さんは膝痛はありませんか?あるとしたらどのような対策を採られているのでしょうか?
 私の身体データ、41才、身長167cm、体重75Kg弱(痩せる意思あり!)、ほぼ常時ダブルストック、膝には片方3000円ぐらいのサポーターを登下山時痛くなかろうが痛かろうがきつめに巻いております。
 25才〜35才ぐらいまでスノーボードでいくらか膝を痛めております。
 皆様アドバイス、体験談よろしくお願い申し上げます。

(ヤマレコ2013年11月12日 15:35(2013年12月04日 10:03更新)
http://www.yamareco.com/modules/plzXoo/index.php?action=detail&qid=1620

 解決策はいろいろ、とにかく皆さんの主治医と相談しながら、というのが一番いいですね。
 今日は二つほど日記につけておきます。
 ひとつは、整形外科のお医者さんからのアドバイスと、NHKためしてがってん、から。
 まずは、これ:

 ひざが痛いからと家にとじこもっているのは残念です。
 解決策はいろいろあります。
 筋トレを試して、それでもだめならご相談ください。

(監修:埼玉協同病院 整形外科部長 仁平高太郎)
http://www.mcp-saitama.or.jp/column/health_body/201205.php

 もうひとつ、これ「疲れ吹っ飛ぶ!ガッテン流山登り」:

 下りを制する意外な秘術
 下りで、なるべく筋肉を傷つけずに歩くには、「小またで歩く」のが一番です。

(2010年07月14日放送「驚き!超ラク山登り術 絶景を味わう科学ワザ」)
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20100714.html

 そうなんです、今回、ヤッホー君が失敗した事例の数々…

 ・前夜、熟睡したか?
 ・朝の大食い、ありゃなんだ?
 ・登山口へのアクセスチェックが万全だったか?
 ・山歩き前のモーニングストレッチはやったか?
 ・下着は山用の化繊でなく木綿だったんでは?
 ・衣装替えの時間をとったか?
 ・昼を取る場所の事前チェックが万全だったか?
 ・歩き、大股でなかったか?
 ・下りは皆に言い聞かせている「小さく、小さく、トントントン」を実行したか?

 えっ、ご指導ご指摘受ける事項はそんなにあったの?
 事業自得?因果応報?天罰?
 え〜ん、えんたらーっ(汗) 


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2014年05月18日

浅間嶺903m

 皆さん、こんばんは。
 今日5月18日日曜日は山歩クラブ7人の勇士によるチャレンジ山行。
 今日は新緑の西多摩再訪ということで実施しました。
 集合時間は6時半、集合場所は清澄白河駅、ということはバスか電車かだけの違いで月例山行と同じ。
 目指す山域は、西多摩檜原村。
 4月20日(日)に歩いた笹尾根と同じ方角!
 この間歩き残した槇寄山1188mもあるし、どうしようと高畠さんと相談、といいますか、目指す山域は高畠さんから即、「浅間嶺」!
 ところがヤッホー君が自信たっぷりに選んだ西東京バス。乗車してから運転手さんに登山口である「払沢の滝入り口」に向かいませんって、「本宿役場前」下車となって、歩き。
 しかし今日の行程を説明し、登山口をていねいに説明してくれたお豆腐やさんがあって、満足、満足:

 日本の滝百選払沢ノ滝の入口にある「ちとせ屋」(西多摩郡檜原村5557 Tel & Fax 042-598-0056)は、檜原の源流水・北海道の高級大豆・赤穂の天然にがりを原料に用い、手作りにこだわった昔ながらの頑固な豆腐屋です。ぜひ、ご賞味ください。
http://www.hinohara-tofu.com/

 われわれ皆んなで豆乳をいただき(あっ、ソフトクリームをなめてたご夫妻がいた〜)歩き出すも結局、払沢の滝に寄らず、観瀑も無しで(江戸さん、タウンで企画して行こうねって)、ひたすら歩いてあの蛇の湯温泉「たから荘」へ再訪。

時坂峠.jpg

浅間嶺.jpg

一本松.jpg

 しかし数馬分岐先でヤッホー君の左ひざ後ろに突然激痛が。そういえば、朝 のバスを待つ間の食欲が異常に旺盛、しかも浅間嶺先東屋での昼食時にはあのドカベンも食べられず、異常な汗!
 ヤッホー君は外科に行くのか整形外科に行くのかって皆んなに聞きまくっていましたが、あ、これは精神科だって〜…〜くしゅん、おやすみなさい。

 そうしたらね、そうしたらね、ヤッホー君、お見舞いのメールをもらったって小躍りしていましたよ:

 おつかれさまでした。今日は晴天で、さぞかし気持ち良く登山出来たことでしょう。ヤッホー君の体調は今日、絶不調?よほど体調が悪かったんですね。熱中症?お大事にしてください!


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2014年05月17日

富士山

山頂.jpg

富士.jpg

 ヤッホー君のノータリン、まだ脳裏から離れようとしない三ツ峠からの富士山。
 ヤッホー君は、ときどき「お富士さま」とか呼んで崇拝、崇敬し、あがめたてまつっているところがあるようで、富士山にすっかり人格を与えてしまっており、見えれば自分の行いが良かったからだ、と得意になり、見えなかったらすっかりしょげかえってしまうところがあります。
 太宰治の場合は、とてもヤッホー君が表現しえないような、こんな表現をするんですよ:

 東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。
 冬には、はつきり、よく見える。
 小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。
 なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。
 しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。
 3年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。
 その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。
 一睡もせず、酒のんだ。
 あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。
 小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。
 窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆(しつく)し、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟(つぶや)きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。

…太宰治『富嶽百景』筑摩書房版全集(1975年)第2巻所収、125頁。

 夏目漱石も、:

 「どうも西洋人は美しいですね」と言った。
 三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。
「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一(にほんいち)の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。
 三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。
 どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。
 すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。
 ―― 熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。
 悪くすると国賊取り扱いにされる。

…夏目漱石『三四郎』(筑摩書房版「明治の文学」(2000年)第21巻所収、22〜23頁。

 これに対して、世界の文学、漱石が留学して神経衰弱になったロンドンでのイギリス小説を俯瞰し、そして<日本の状態>小説について論評したのが丸谷才一先生((1925-2012)でした:

 鉄道事情や外国人に対する馴染みの薄さにもまして大切なのは、日本の運命を論じるとき、前置きとして出て来る富士であつた。
 あの山は、掛軸、置物、扇子のなかの絵、額のなかの写真、その他いろいろの形で津々浦々の家に飾られ、わが風景美の代表としてよりもむしろ一国の精神的伝統の象徴として、格式の高いものになってゐる。
 さういふ呪術的な、もし何なら神聖なと形容してもいいイメージを拉(らつ)し来(きた)つて、あれはしかし日本人のこしらへたものではないと評するとき、この一言は俗悪な愛国心への揶揄(やゆ)として、小手が利くといふよりもむしろ腹にこたへるものになつた。
 この寸評によつて常識は覆へされ、そこで別の見方による日本論が可能になる。
 漱石は山岳信仰といふ精神風俗をじつに巧みに利用したわけだ。

…丸谷才一『闊歩する漱石』(講談社、2000)、104頁。


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2014年05月16日

太宰治「富嶽百景」

 『富嶽36景』でも『富士36景』でもありません、ヤッホー君本日未明ようやく『富嶽100景』に到達せり、と。

 私が、その峠の茶屋へ来て二、三日経つて、井伏氏の仕事も一段落ついて、或る晴れた午後、私たちは三ツ峠へのぼつた。
 三ツ峠、海抜1700米。御坂峠より、少し高い。急坂を這(は)ふやうにしてよぢ登り、一時間ほどにして三ツ峠頂上に達する。蔦(つた)かづら掻きわけて、細い山路、這ふやうにしてよぢ登る私の姿は、決して見よいものではなかつた。
 井伏氏は、ちやんと登山服着て居られて、軽快の姿であつたが、私には登山服の持ち合せがなく、ドテラ姿であつた。茶屋のドテラは短く、私の毛臑(けづね)は、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶屋の壁にかかつてゐた古い麦藁帽(むぎわらばう)をかぶつてみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石(さすが)に少し、気の毒さうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないはうがいい、と小声で呟いて私をいたはつてくれたのを、私は忘れない。
 とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台といふ、断崖(だんがい)の縁(へり)に立つてみても、いつかうに眺望がきかない。何も見えない。
 井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた。

(太宰治『富嶽百景』、筑摩書房版全集(1975年)第2巻所収、127頁、注1)

 もし頂上で富士山の眺望がきいたら、この物語の主人公「私」はどんな新たな「物語」を紡いだのだろうか、お富士さまといつもお慕い申し上げ、富士見山行をかかしたことのないヤッホー君は深いため息をついております。
 もし頂上で富士山の眺望がきいたら、それでもこの物語で山行のパートナー「井伏氏」は放屁しただろうか、と。

 太宰治の短編小説「富獄百景」は、ここ河口湖が舞台になっています。
 当時太宰はここ河口湖は御坂峠の茶屋に滞在する井伏鱒二に会うために河口湖に訪れました。
 その頃の太宰の数年間は自殺未遂に不眠、鎮痛剤パビナール中毒による妄想、そして愛する妻の裏切りなど…ショッキングなトラブルばかりを起こしており、精神的にかなり不安定な時期を過ごしていました…

(カチカチ山ロープウェイ公式サイト、太宰治と三ツ峠山)
http://www.kachikachiyama-ropeway.com/contents/mitsutoge/course3.php

 その頃の作家、太宰治、その直後の作家、太宰治…
 「太宰治文学サロン」(三鷹市下連雀3-16-14 グランジャルダン三鷹1階 Tel 0422-26-9150)ではイマ、「三鷹時代の佳品『善蔵を思ふ』─太宰治と葛西善蔵─」展を開いています。6月1日日曜日まで。

 1939(昭和14)年9月に三鷹に移り住んだ太宰は、伴侶とともに新天地で作家として再出発します。
 この頃の太宰は明るく健康的な作風となり、「駈込み訴へ」「走れメロス」といった名作を多く発表しています。

(太宰治文学サロン、注2)
http://mitaka.jpn.org/ticket/140211d/

 おじゃましようかなって、ヤッホー君! だって「桜桃忌」もあるし…

 太宰治の命日である6月19日は「桜桃忌」と名づけられ、墓所のある禅林寺(三鷹市下連雀)にはいまも毎年多くの太宰ファンが参拝に訪れています。
 禅林寺の位置は「太宰ゆかりの場所」をご覧ください。

(三鷹市公式サイト、太宰治と三鷹)
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/dazai/dazaitomitaka/outouki.html

 そして、横浜にもでかけてみようかなって…

 作家太宰治(1909-1948、青森県五所川原市金木町出身)の生誕105年を記念した特別展「生誕105年 太宰治展−語りかける言葉−」が、県立神奈川近代文学館(横浜市)で開かれている。5月25日まで。
 同館の30周年の記念イベントで、代表作「人間失格」の手書き原稿や自画像、高校時代のノートなど各地の文学館や個人収蔵の資料約350点を展示。近年発見された全集未収録の資料も含まれている。横浜を舞台にした人気漫画「文豪ストレイドッグス」とのコラボレーション企画でもあり、複製原画やパネルなどの展示コーナーもある。

(2014年04月07日月曜日付け河北新報「横浜で太宰治生誕105年展 ストレイドッグスと異色競演」)
…http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201404/20140407_75024.html

 太宰治は、『晩年』の諸作で文壇に登場し、語りの名品「女生徒」「駈込み訴へ」を経て、戦後、「斜陽」「人間失格」を世に問いながら、39年の短い生涯を閉じた。
 太宰の作品は、今なお多くの人びとを惹きつけてやまない。
 なぜ、没後60年以上の歳月を経てもなお、この作家の言葉は、こんなにも親しく語りかけてくるのだろうか…。
 生誕105年に開催する本展は、こうした太宰作品の魅力を探りながら、読者に真っ直ぐに向き合い、心をつくし、珠玉の物語を紡いだ、希代の物語作者の生涯を紹介するものである。
 日本近代文学館に昨年新たに収蔵された旧制中学・高校時代のノートのほか、近年発見された全集未収の資料など各地の文学館、個人が所蔵する多彩な資料を展覧する。

(県立神奈川近代文学館公式サイト)
http://www.kanabun.or.jp/te0172.html


(注1)
「富嶽百景」は1939(昭和14)年2月1日発行の『文体』第2巻第2号の「創作特集」欄に「富嶽百景」として前半が発表され、後半は同年3月1日発行の『文体』第2巻第3号に「続富嶽百景」として発表された。「多甚古村」(井伏鱒二)、「紫大納言」(坂口安吾)、「田舎日記」(宇野千代)などの小説と共に掲載される。
(筑摩書房版全集「解題」414頁)

(注2)
 昭和15年4月に「文藝」に発表されたこの作品『善蔵を思ふ』は、太宰が敬愛する同郷の作家・葛西善蔵を念頭において書かれています。
 昭和14年9月に三鷹に移り住んだ太宰は、伴侶とともに新天地で作家として再出発します。この頃の太宰は明るく健康的な作風となり、「駈込み訴へ」「走れメロス」といった名作を多く発表しています。これらと同時期に発表された本作は一言も善蔵に触れず、それらしき人物も登場しません。この標題にはいかなる意味が込められているのでしょうか。
 度重なる心中未遂やパビナール中毒といった困難な時期から立ち上がり、善蔵に思いを馳せながら再出発する太宰の姿を初版本などの資料とともに辿ります。
(前掲「太宰治文学サロン」サイト参照)

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2014年05月15日

太宰治「新樹の言葉」

 甲府は盆地である。四辺、皆、山である。小学生のころ、地理ではじめて、盆地という言葉に接して、訓導からさまざまに説明していただいたが、どうしても、その実景を、想像してみることができなかった。甲府へ来て見て、はじめて、なるほどと合点できた。大きい大きい沼を掻乾(かいぼし)して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらいの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾(かいぼし)しなければならぬ。
 沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢(すりばち)の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さかさまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。
 早春のころに、私はここで、しばらく仕事をしていたことがある。

(太宰治『新樹の言葉』、筑摩書房版全集(1975年)第2巻所収、243頁、注1)

 三ツ峠山に向かう5月11日日曜日早朝の車中。
 ヤッホー君は、山歩クラブ御一行様23名の仲間にこれから向かう山域の説明をしていました。

 「河口湖大橋」を渡るとバスは「御坂みち」を「天下茶屋」に向かいます。
 「御坂みち」と言いますのは、ムカシ、樋口一葉の父さん母さん、樋口大吉と古屋あやめが、1857(安政4)年春、駆け落ちして江戸に向かった道なんですよ(注2)、ぜひ台東区立「樋口一葉記念館」(台東区竜泉3-18-4 Tel 3873-0004)に行ってみてくださいね。
 そして、「天下茶屋」というのは、ムカシ、太宰治が逗留して書いた作品のなかで有名な一節があって、「富士子は富士山に匹敵するくらい、よくできた子だ」ん、違うな、なんだっけ?


 固有名詞どころか、よく引用される文章も遠い記憶の涯に追いやられ、すっかり錆びついてしまっているヤッホー君、もうマイクを握る手は震え、喉は乾ききって、苦笑いをしながら仲間を見やります。
 三ツ峠山には小学校の遠足で登った、という富士急行大月線「寿」駅が最寄り駅(「三つ峠駅」が隣の駅!)という仲間に救いの手を差し伸べられ、助けられ:

 富士には、月見草がよく似合ふ。

 ですので、帰京後、沈みゆき、消えかかり、薄れゆく記憶をなんとか救い出そうと太宰治『富嶽百景』を再読、再再読しようと試みたのですが、かなわず、前述のとおり『新樹の言葉』で滞留、停滞、逗留となったのでございます。

 ね、さっきも言うように、君は私に逢って、さぞや、がっかりなさったことでしょうねえ。いや、わかっている。弁解は、聞きたくない。私が大学の先生くらいになっていたら、君は、もっと早く、私の東京の家を捜し出して、そうして、君は、君の妹さんと二人で、私を訪ねて来た筈だ。いや、弁解は聞きたくないね。ところが私は、いま、これときまった家さえ無い、どうも自分ながら意気地のない作家だ。ちっとも有名でない。私には、青木大蔵という名前のほかに、もうひとつ、小説を書くときにだけ使っている、へんな名前がある。あるけれども、それは言わない。言ったって、どうせ君たちは、知りやしない。いちどだって、聞いたこともないような、へんな名前である。言うだけ、損だ。けれども、君、軽蔑けいべつしちゃいかんよ。世の中には、私たちみたいな種類の人間も、たしかに、必要なんだ。なくては、かなわぬ、重要な歯車の、一つだ。私は、それを信じている。だから、苦しくても、こうして頑張って生きている。死ぬもんか。自愛。人間これを忘れてはいかん。
(太宰治、前掲書、260頁)

 ヤッホー君の目頭からは熱いものが…、桜桃忌も近いことだし、また三鷹に墓参りに行こうかなって思ったそうです…たらーっ(汗)
 えいやあ、そういえば、浮世絵2点:

 歌川広重に「甲斐御坂越」(冨士36景)がある。
 出版されたのは1858(安政5)年であり、田辺太一「三坂(御坂)に遊ぶ記」の2年後である。
 峠にたどりついた旅人の目に富士と河口湖が迫る。
 「三坂に遊ぶ記」によれば、峠からは富士と河口湖は見えない。
 現在も同様で、峠の頂上からは見えない。
 「三坂に遊ぶ記」にあるように峠のやや西の小高い場所、御坂天神の祠の辺りに立つ必要がある。
 もっとも御坂天神の祠の辺りも現在は樹木が繁茂し、見晴らしは悪い。
 木々の間に辛うじて富士の姿と河口湖の水面を認めることができる程度である。
 しかし、「甲斐御坂越」は、産屋ヶ崎、鵜の島の位置関係も正確であり、峠からの印象を写実的に描こうとする、広重の姿勢が感じられる。
 広重の写実性は、葛飾北斎の構成主義と対比的である。
 広重の「甲斐御坂越」は、北斎の「甲州三坂水面」(冨嶽36景)を強く意識している。
 冨嶽36景は、1831(天保2)年頃から出版が始まり、大流行した。
 田辺太一も当然目にしていたはずである。
 河口湖の水面に逆さ富士が映っている。ところが夏の富士に対して、湖面の逆さ富士は、しっかり雪をかぶり冬景色である。しかも実際の逆さ富士は線対称であるはずなのに、点対称で描かれている。
 北斎の「甲州三坂水面」は、さりげない自然な構成に見せながら、実はその構成によって不思議な力を働かせている。写実ではたどりつけない富士の象徴性と力、それが追及されているのであろう。さらには御坂峠から逆さ富士が見えるものなのか、どうかという問題がある…。
 御坂峠の近くで、富士と河口湖を最も見渡せる場所は、黒岳の展望台である。黒岳の展望台からの富士と河口湖の写真は数多あるが、逆さ富士にお目にかかったことはない。御坂峠もおそらく同様であろう。
 御坂峠からの逆さ富士は、常識的には、あり得ないのである

(成瀬哲生:田辺太一「三坂(御坂)に遊ぶ記」―徽典館の文学―(下)、2011年度山梨大学教育人間科学部『紀要』所収)
http://opac.lib.yamanashi.ac.jp/metadb/up/honkan/13_240-247.pdf


(注1)
「新樹の言葉」は1939(昭和14)年に書いた。からだも丈夫になつた。すべて新しく出発し直さうと思つて書いた。言ふは易く、実証はなかなか困難の様子である。これは、武村書房版「愛と美について」の中に編入されて在る。「愛と美について」には、五つの創作が収められてゐるが、五編とも、どの雑誌にも発表しないで、いきなり単行本として出版したのである。前例の少ない事と思ふ。私のわがままを許容して、そのやうな冒険を敢えてしてくれた武村書房主に、あらためて礼を言ひたい。
(筑摩書房版全集「解題」419頁)

(注2)
 田辺花圃(父は田辺太一)と樋口一葉、それぞれの父が期せずして同じ御坂路を辿っている。
 一葉の父樋口則義は、1857年4月29日(安政4年4月6日)に故郷の中萩原村(甲州市塩山中萩原)を駆け落ち同然に出奔、藤野木に宿泊し、御坂峠を越えて、江戸に向かった(『樋口一葉と甲州』山梨県立文学館)。
 田辺太一が歩いた翌年である。
 1886(明治19年)、一葉は、花圃が学んでいた中島歌子の萩の舎(東京小石川)に入門、花圃の後輩となる。
 そして、一葉は、花圃の「薮の鶯」(明治21年)の成功に刺激され、小説家としての道を歩むこととなる。
 近代女流作家の不思議な縁である。
(成瀬哲生、前掲論文)

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2014年05月14日

春爛漫の三ツ峠

 三ツ峠山へ「行ってきました」メールにこだまが帰ってきました:

 私は正月に2回、三つ峠は登山しました。
 今回は 残雪はなかったのでしょうか?
 お花は 咲いてましたでしょうか?


 ヤッホー君、こんなお答えを返していました:

 ね、良い山ですよね、ヤッホー!
 次のブログをご参照していただけると嬉しいな:
 ☆ 2013年05月09日付け日記「三ツ峠山1785m」
 ☆ 2013年05月10日付け日記「三ツ峠山自然保存地区」
 山行中、白い残雪の塊りを二か所で発見しました。
 そして、きぶしがイマを盛りにぶらさがっていて、コバイケイソウが林床に顔をのぞかせたばかりで、にょきにょき。
 写真を三枚ほど添付しますので、どうぞ春爛漫の「三ツ峠」を楽しんでください。

林床.jpg

新緑.jpg

さくら.jpg

 あっ、最後の一枚はね、芝桜見学が渋滞であきらめ、その帰り際に車窓から撮った遅咲きの桜、です。
 そんな春爛漫の山域だからでしょうか、旅行会社の大型バスが2台も、さらに愛媛ナンバーのバスまで「三ツ峠登山口バス停」に止まっておりました。
 「開運山」で募集をかけるようですね。


 さらにもう一度、飛び込んできました、「私のGW報告」:

 私は5月5日から鳳凰三山でテント「生活」を送ってまいりました。
 地蔵岳のオベリスク、観音岳や薬師岳から見える甲斐駒、北岳、間ノ岳は圧巻でした。
 でも、最後、夜叉神峠から桃の木温泉に下山したのですが あまりの急坂で滑落しそうで、直接下山はできず、東の弛い尾根から下りました。
 こんな所で遭難?と身の危険を感じたほど…
 桃の木温泉に下る道は、今年の大雪で道が崩れ、獣道になってしまってました。
 桃の木温泉「山和荘」は新しくて綺麗で、「日本秘湯を守る会」会員で、豊富な湯量の源泉掛け流しで良かったですよ。


 ヤッホー君もまた答えました:

 夜叉神峠から桃の木温泉への急坂を下ったことが、山歩クラブにもありました。
 急なこと、森のなかが暗く、下っても下っても温泉が現れなかった…、そんなことを思い出しました。
 2012年9月に山歩クラブは夜叉神峠から先、高谷山1842mまで行ったのですが、その先には足が震えて踏み出せず、また夜叉神峠登山口に引き返してきたことを思い出しました…


 あの「桃の木温泉」(山梨県南アルプス市芦安芦倉1672、電話でのご予約は Tel 055-288-2306)、ヤッホー君があのとき入ったのは本館だったのでした。
 2009年12月、本館は廃業。
 現在は、本館は取り壊されており、見ることは出来ません…そうでしたかあせあせ(飛び散る汗)
 いまは別館、新館「山和荘」となっているようですが、ぜひ泊まりにいきたいものです。
 だって、イマ「新緑に癒される」時ですから:

 ゴールデンウィークはバタバタと忙しく働かせていただき、お越しいただいたお客様には感謝しております。
 さて、最近のお宿は、お宿のまわりの山々が新緑の季節をむかえ、とーっても綺麗です。

(2014-05-12 13:48:58更新「若女将修業日記」)
http://ameblo.jp/momo2306/

 山桃の群生地だったことから桃の木平と呼ばれる御勅使川に沿った渓谷に1988(昭和63)年に建てられた山和荘が、新緑の中に埋もれるように建っていた。
 8`ほど足をのばすと富士山に次ぐ日本第二の高峰北岳を盟主に南アルプスを代表する白根三山の展望台として名高い夜叉神峠へとつづく。
 数々の登山家が訪れたであろう、ここは南アルプス登山の拠点なのである。
 源泉は宿の裏山からかすかに硫黄臭を漂わせる43度の湯がたっぷりと溢れている。
 適温のまま湧く温泉も珍しい。
 山の幸尽くしの部屋での夕食の後、ほろ酔い気分で野趣に富んだ石組みの露天風呂へ行った。
 先客が三人いたが、軽く会釈しただけで誰一人声を出さない。
 満天の星と遠くで鳴くカジカの声が言葉すら不要な雰囲気を作り上げている。
 まわりの自然に同化したかのようだ。

(日本秘湯を守る会公式サイト、山和荘)
http://www.hitou.or.jp/hymbrrsv/hymbr_pg01.html?yc=yb127


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2014年05月13日

三ツ峠ネットワーク

 大吉で始まり、開運で終わる年の暮れ哉

 冬至前の2003年12月21日の日曜日早朝。
 北風吹き抜く寒い朝でした。
 でも集合時間頃になってようやく白み始めた下町の空は妙に青々としていて、なんとなく予感はありましたね。
 なんかびっくりするような一日となるんじゃないかなって。

 「四季楽園」に前泊した5人組からの夕べの情報では、外は風強く、雪が舞っていること。
 山荘のコタツの上においたボトルの水が凍るほど寒いこと、頂上まで3時間はかかると思っていたほうがいいけど、アイゼンを装着するほどではないことなどの情報は入っていました。
 山は冬の佇(たたず)まいです。

 登りはCLに水越さんにお願いしました。
 最後尾は村岡さん。
 初めての経験だったと思いますが、良くやってくれました。
 下りの山路は、靴底に残り雪やらがくっついて盛り上がり滑りそうになって危ない、そこで峠さんがすかさずひづめの調整をかってでました。
 さすがぁ〜、山歩クラブはどんなときも手を差し伸べ、助け合い。

(イマはサービスが終了してしまった懐かしのムカシの山歩クラブのホームぺージから)

 あれから何年?
 10年、ひとムカシって言いますが、10年以上も前のことですか…
 写真を撮るのが大好きという仲間の呼びかけで、定例のお山歩会の前に山小屋に宿泊し、現地で合流する旨の申入れがありました。
 一方からは、団体行動を乱す故認められない、
 他方からは、写真は空気の澄んでいる朝が好適なので許可してあげてもいいんでは、…
 生まれたばかりの山歩クラブのなかは蜂の巣をつっついたように、上を下への大激論。
 結局は、「できるだけ会員のニーズにこたえてあげようよ組」が優勢で、はっちゃんまで加わった前泊組。
 そして、特例をつくるべきでないことを杓子定規に主張なさった事務局長さんも、前泊を申し入れたカメラ狂さんも翌年には会を離れましたね、ザンネンなことでした。
 あんなこと、こんなこと、いろんなことあっての10年…(フ〜あせあせ(飛び散る汗))

 あの年、前泊した「四季楽園」(山梨県南都留郡富士河口湖町河口1676-4中村皓 Tel 河口湖 0555-76-7566)は、こんなところ:

 三ツ峠山はどこから見てもそれと分かる山で、年間を通して登られている大変ポピュラーな山です。
 特に河口湖側からの登山道(裏登山道)は山頂までのアクセスが良く、老若男女を問わず手軽に山頂に往復でき人気の高いルートでもあります。
 また植物が豊富な山として知られ、毎年多くの花々が登山者を出迎えてくれます。
 クライマーなら、その名を知らない人はいません。
 岩登りの屏風岩はクライマーの格好の練習場所として全国に知られています。
 一方、写真を撮る人なら三ツ峠は聖地。
 通年を通して写真家たちを魅了し続ける三ツ峠からの富士山は左右に均整の取れた被写体として君臨しています。
 360度に広がる満天の星空を誰でも見に来てください。
 そこには今までに無い感動があなたを待っていることでしょう…。

(三ッ峠山、山頂頂上小屋、四季楽園)
http://www.mitsutoge.com/siki/index.html

 黒い甲斐犬二匹がお出迎えしてくれる富士の展望台「三ツ峠山荘」(Tel 0555-76-7473 自宅 0555-76-7609)も:

 戦後間もなく現在の主人の先代中村タマキ氏により営業を始めました。
 正面に富士を望む最高のロケーションであるため、富士の写真家の岡田紅陽氏に中村タマキ氏も師事し、戦後からの三つ峠のモノクロ写真集で、その当時よりの四季の移ろいや富士の様々な姿を今も山荘内の写真展示や写真集により見ることもできます。
 またロッククライミングのゲレンデ、天狗岩まではほんの数分で行ける距離にあります。
 四季折々の花々や自然の移ろいを求めて多くのハイカーや写真家、ロッククライマーの方々によく利用されます。
 現在の主人中村光吉(みつよし)は先代のタマキ氏によって始まった植物の保全活動を数十年に亘りボランティアの方々の協力を得ながら継続しております。
 県や環境省からの保活動の業務を委託されているため、必要な方々にそれらについてのレクチャーや自然界についての解説もしております。
 また富士の画家、写真家としても活躍しており、よくテレビなどにとりあげられています。

http://www016.upp.so-net.ne.jp/mitsutouge_/

 このサイトにはヤッホー君、「三ツ峠ネットワーク」から入りました。

 三ツ峠には、三ツ峠の展望や花などの自然を楽しむ人たち、写真や絵画、岩登りといった同好の人たちが多く訪れます。
 一方、三ツ峠には希少野生動植物種が数多く生息・生育しています。
 三ツ峠を愛する全ての人たちが、相互の交流を図り、共同体制を築き、三ツ峠の自然環境の保全及び適正利用に寄与することを目的に、三ツ峠山荘を拠点として活動する会「三ツ峠ネットワーク」を立ち上げることになりました。

(設立目的)
http://oohito.com/mitsutouge/aboutus


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2014年05月12日

三つ峠山1785.2m

 5月11日日曜日は山歩クラブのお山歩会。
 23人で向かった先は山梨県・三つ峠山1785.2m。

 お世話になりました。
 楽しい山行でした。
 富士山の雄姿を間近にハッキリと拝めて感動しました!
 三つ峠は初めてでしたが、期待以上!
 良い山に連れて行っていただきました!
 ありがとうございました。


 三つ峠山荘前.jpg

三つ峠山頂.jpg

お昼.jpg


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2014年05月10日

堀切さとみ

 5月10日土曜日、ヤッホー君はJR両国駅から総武線市川駅へ。
 駅の中ではいま「両国駅歴史展」を開催しています。
 通路の壁に両国駅及び地域の歴史について展示パネルを設置します。今日5月10日から6月29日(日)までの土休日に限って10時から19時までの間だけです。
 歴史の好きなヤッホー君、また鉛筆とメモ用紙をもって訪れるかもしれません:
(2014年3月27日「皆さまに支えられて110年」)
http://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre_1403event110.pdf

 はい、市川駅北口で降りたヤッホー君、「いちかわ観光・物産案内所」に行き、R14消防署をめざし、この上にある「市川市男女共同参画センター」へ。
 今日は『原発の町を追われて〜避難民・双葉町の記録〜』上映会、それに講演「再稼働問題をどう考えるか」(講師:反原発出前のお店・吉井友二さん)があるのです。
 主催団体は『脱原発・市川市民の会』(Tel 047―302―0014)。
 上映会って、どんな映画で、どなたがつくったのかな?

 さいたま市内の小学校の給食調理員。
 学生時代から、社会問題を広く訴えるドキュメンタリーに関心。
 原発に反対する祝島の映像を『神の舞う島』(20分)として発表。
 福島第一原発事故をうけ、この大問題を記録しようと決意。
 埼玉県に避難した双葉町民を軸としたドキュメンタリー『原発の町を追われて』を2012年7月に発表、2013年7月に続編を発表、原発避難民の置かれた現状を記録し続けている。
 やよりジャーナリスト賞特別枠「期待賞」受賞。
 市川市出身。

http://no-nukes-ichikawa.blogspot.jp/

 3年前のちょうど桜の頃に、双葉町から埼玉に避難した人たちと出会いました。
 首都圏の私も、避難しなくていいのかと真剣に考えていたあの頃。
 日本全体が、チェルノブイリになってしまったんだ…そう思うのも束の間、この国は事故の責任から逃れ、平穏無事を装っていて。
 フタバとの出会いは私にとって、この先を生きていく覚悟を決めさせてくれるものでした。
 目に見えない放射能ですから、何事もなかったようにふるまうのは簡単なことかもしれません。
 3年が過ぎて事故は風化し、政府の隠ぺいは進み、世間も忘れていく。
 「こんなんでいいのか」と思い続けることができるのは双葉町の存在があってのことだと思います。
 給食調理員として小学校に勤務する私は、学校が「もの言えぬ場所」になっていることを、肌で感じることがあります。
 「考える教師」にとっては本当に息苦しい、追い詰められる現場になっていると思います。
 現場の中の当事者がモノを言うのはとても勇気のいることですが、双葉町を追いかけたこの3年間、私自身はたくさんの希望を与えられてきたのです。
 事故から4年を迎えた今、本当にひどいことが起こるのはこれからで、その萌芽はすでにあらわれています。
 自分の感性に誠実であり続けること、これが、勇気ある「避難民」たちに応えることだと思っています…

(監督:堀切さとみさんの公式サイト)
http://genpatufutaba.com/

 2012年9月26日(水)19時より上映された『原発の町を追われて』の上映後トークの模様です。
 話し手:堀切さとみさん(同映画制作者)
 聞き手・土屋トカチさん(ビデオアクト上映プロジェクトスタッフ)
 ◆上映会詳細はこちらのブログをご覧ください。
http://videoact.seesaa.net/article/28...
 3.11原発事故以降、廃校になった埼玉県旧騎西高等学校へ避難してきた福島県双葉町の住民たちの声、それぞれの生活を取材した。
 福島第一原発のおひざもとにあり、3.11直後、全世帯が避難勧告を受けた双葉町。
 町は役場機能を埼玉県加須市に移し、今も数百人が廃校になった高校を拠点に避難生活を送っている。
 ふるさとを追われて一年。
 原発と共に暮らしてきた双葉町の人たちは、今なにを思うのか。

http://www.youtube.com/watch?v=sOjJLVHSQXw

 監督の公式サイトでまだ観ていない方はぜひ足を運んでみてください。
 ヤッホー君が一番、こころ打たれた場面は監督が双葉町に被災者と入っていくと、もう放し飼いにされてしまった牛の群れが、それでも被災者に近寄ってくるところ。
 サイロのエサだって、あげられるものがないのに、ね。
 今朝、牡鹿半島の鹿の親子の場面をヤッホー君のこのブログにアップしたからでしょうか、両目から熱い涙が流れでて止まりません。
 そして、体を張ってがんばりつづけた井戸川町長の辞任劇もヤッホー君、恥ずかしながらはじめて知りました。
 これからです、踏ん張って、がんばって、つらぬいてほしいです、応援しますって。

 2012/05/11 に公開
 原発がある全国の市町村長と担当大臣が顔を合わせる年に一度の総会で、枝野経産大臣や細野原発担当大臣は冒頭のあいさつだけで早々に退席してしまいました。
 これに反発した福島県双葉町の井戸川町長は、大臣席側に背を向けて窮状を訴えました。
 抗議のスピーチ、ノーカットです。

http://www.youtube.com/watch?v=twDn5cWWcDY
http://www.youtube.com/watch?v=kEADmMNARXM

 2013/01/24 に公開
 1月23日に、辞職を表明した福島県双葉町の井戸川克隆町長が翌24日、Our Planet TV のインタビューに応じた。
 福島第1原発のある双葉町は、原発事故で全住民が町外に避難しており、福島県内の自治体で唯一、福島を離れ、役場機能を埼玉県加須市に移している。
 政府は去年、双葉町と楢葉町と大熊町の3つの地域に対し、除染で生じた汚染土を保管する中間貯蔵施設の建設計画を提案。
 井戸川町長は、政策決定のプロセスに問題があるとして、度々、会議を欠席してきた。
 これに対し、町議会は、町長の言動は独善的だとして批判。
 これまで3回、不信任決議を提出し、12月の議会で、8人の全議員が賛成に周り、可決していた。
 しかし、井戸川町長は町長職を辞職せずに、議会を解散。
 1月24日が告示日だった。
 
 1月21日と22日の2日間、町政懇談会が予定されていた双葉町。
 福島県いわき市、福島市および埼玉県加須市の3カ所で、町民と区長が意見を交わす予定していたが、初日のいわき市内での懇談会は、町長が復興に消極的だとして、批判の声が相次ぎ会議は紛糾。
 翌日22日、町長が体調の不良を訴えて入院したため、加須市と福島市の懇談会は、町長不在の状態で、会議が開催されていた。
 24日の夜の会見では「町民に理解されていない」と語った井戸川町長。
 なぜ、今のタイミングで、突然、辞職を表明したのかー、胸のうちを語った。
 ◆井戸川町長が町民に宛てたメッセージ「双葉町は永遠に」
http://www.town.futaba.fukushima.jp/m...

http://www.youtube.com/watch?v=6UwCsjSty8w

 昨今、おぼかたさんもそう、投書、投稿、ネットでの名指しの非難が届いたのを根拠に、皆んなで寄ってたかって、ひとりの個人を、色付きメガネで観たり、追い出そうとしたり、キモイとか、ハエたたきでつぶすように執拗にいじめていませんかねってヤッホー君。
 大事な、大事な記事をふたつ、紹介して今日の日記を終わります:

 東京電力福島第1原発を訪れた主人公らが鼻血を出す漫画「美味しんぼ」の描写で小学館に抗議が寄せられている問題を巡り、作品に実名で登場した前福島県双葉町長の井戸川克隆さん(67)が5月9日、東京都内で記者会見し、
「実際、鼻血が出る人の話を多く聞いている。私自身、毎日鼻血が出て、特に朝がひどい。発言の撤回はありえない」と述べた。
 石原伸晃環境相が同日作品に不快感を示したことについて。
「なぜあの大臣が私の体についてうんぬんできるのか」と批判した。
 一方、作者の雁屋哲さんは同日、自身のブログで
「書いた内容についての責任は全て私にあります」とし、小学館の編集部に抗議しないよう求めた。

(2014年05月10日08時23分毎日新聞【野島康祐】「美味しんぼ」問題:前双葉町長が批判 石原環境相発言)
http://mainichi.jp/select/news/20140510k0000m040104000c.htm

 ちばさんの家族は第二次大戦中、旧満州(現中国東北部)で暮らしていたが、敗戦とともに国民党軍と共産党軍の内戦が始まった。
 銃火から逃げ惑う中、6、7歳のちば少年の目に焼き付けられたのはコーリャン畑や原っぱのあちこちに転がる遺体だった。
 ほとんどが日本人だった。
「一緒に遊んでいた友達が飢え死にしたこともありました。思い出すのはつらい。金のエピソードを描いているときもつらかったですよ。戦争という極限状況では人間はこんなことまでやるんだという事実は、つらいけれども子供たちに伝えたかった。戦争に限らない、現実の社会には目を背けたくなるようなことがある。でも、それを知って子供は大人になっていくんです。だからこそ、どんなに残酷な表現があっても『はだしのゲン』のように書架から外してはいけないんです」
「重要なことは、一度この法律ができてしまうと規制を受けるのはマンガだけじゃないってことなんだ。小説だって写真だって絵画だって音楽だって思想だって評論だって新聞だって雑誌だって。これはいずれ全ての表現にかかわってくることなんだ」
「今も同じ意見です」とちばさん。
 「規制」はじわじわと進んでいる。

(2013年09月05日毎日新聞・東京夕刊、特集ワイド:強まる表現規制 問題の核心は「知る権利」日本漫画家協会理事長・ちばてつやさんに聞く)
http://mainichi.jp/shimen/news/20130905dde012040012000c.html


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神鹿

 昨日付け日記「モアイ像」で「宮城県内で消滅可能性都市とされたのは、石巻、…」でヤッホー君はすっかり気が動転してしまったのだそうです。
 その宮城県石巻市こは、2009年2月27日(金)〜3月1日(日)に訪れていてヤッホー君のこのブログ、次の日記で言及しております:
 ☆ 2011年3月15日(火)付け「石巻市」
 ☆ 2011年4月11日(月)付け「われら青春!」

 あの2009年の旅で行きそびれていたのが牡鹿(おしか)半島、そしてその先の島「金華山」にわたって、「金華山黄金山神社」(宮城県石巻市鮎川浜金華山5 Tel 0225-45-2301)に詣で、「金華山」を登ることでした。
http://www.youtube.com/watch?v=fVsQCMCsy-M

 牡鹿地域に旧石巻市半島地域を合わせた牡鹿半島全域が被災し…、
 雄勝、北上地域と同じように漁業者が地元に住み続けることを希望する一方、若い世代の流出が進んでいる。
 牡鹿地域は震災前に比べて約1200人減り、特に人口の多かった鮎川浜地区は約150世帯、340人減少した。

(2014年05月04日日曜日付け河北新報「石巻・被災旧町の住宅再建 人口流出に悩み」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201405/20140504_11018.html

 大震災で地盤が沈下したっていいますもん:

 地面自体が地震により1メートル20〜50センチ下がっておりますので、桟橋が使えなくなり、かさ上げ工事が行なわれております。
 (標高も444.9メートルから変ったのでしょうか)

(金華山黄金山神社公式サイト、よくある質問)
http://kinkasan.jp/qa

 大震災発生に先立つこと、2011年3月8日に総合防火訓練を行なった翌日、3月9日午後11時45分、三陸沖を震源とするM7.3の地震がありました。
 石巻市で震度4、東北地方三陸沿岸に津波注意報も発令され、地震被害についてのお見舞いの電話もありました。
 今でも金華山社務所においてある新聞は、この地震が一面となった10日のもので止まっています。
 翌日10日にも午前6時24分同じく三陸沖震源のM6.6の地震があり石巻市で震度4、今から振り返ればこれらは前震とも言えるものでした…

 震災後1ヶ月を経たばかりの金華山では地盤沈下による桟橋の冠水という状況のため渡航は困難…

 季節は間もなく秋を迎え、10月には鹿の角切り行事も10月2日の一日に凝縮して行なわれる予定です。

(金華山黄金山神社公式サイト、東日本大震災ドキュメント)
http://kinkasan.jp/document02

 そうなんです、被災にあったのは人間ばかりでなく鹿も。
 神様のお使いとされる、神鹿(しんろく)もきっとびっくりしたでしょうね、津波に呑みこまれてしまった鹿もいたことでしょうね。

 東日本大震災の津波で半島沿岸部は多くの家屋が流されました。
 牡鹿半島に生息するニホンジカが行動範囲を広げていると言います。
 集落があった浜にまで、シカたちは姿を見せている。
 深夜に徘徊するシカたちに出会うと、愛くるしい眼差しがとても涙ぐましく…何を言おうとしていたのか、理解できませんでしたが…
 おそらく察するところ…
 「牡鹿半島にみんな戻って来てよ〜!」じゃないかな〜なんてね。

(2012/10/15に公開)
http://www.youtube.com/watch?v=ZXQtaOiIfK8

 しかし、鹿は奈良県かな…
 昨夜の11時台NHKラジオ関西発深夜便(アンカー:住田功一)〔日本列島くらしのたより〕奈良県奈良市・朝廣佳子さんのリポートをお聞きになりましたでしょうか。
 以下は、昨年のことなんですけど:

 今年生まれた子鹿の一般公開が、奈良市春日野町の鹿苑で行われている。雌鹿56頭と子鹿19頭が公開され、多くの家族連れらでにぎわっている。6月30日まで。
 午前11時の開場直後に1頭の雌鹿が出産。生まれたばかりの子鹿は親鹿に見守られ、何度も倒れながら懸命に立ち上がった。来場者からは子鹿が起き上がるごとに「頑張って」と応援する声も。
 奈良市の山川和子さん(67)は「自力で立とうと頑張っている姿に感動しました」。京都府木津川市の高野雅博さん(42)、晴巳さん(45)夫婦は「貴重な場面を見れました。あと一歩、頑張れという気持ちです」と話していた。

(2013年6月3日付け奈良新聞「見て!立ったよ!-奈良公園「鹿苑」子鹿を公開)
http://www.nara-np.co.jp/20130603100444.html


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2014年05月09日

モアイ像

 民間の有識者などでつくる「日本創成会議」は、2040年には、896の自治体で20代から30代の女性の数が半減し、こうした自治体は最終的には消滅する可能性があるとする独自の推計を公表しました。
(2014年5月8日 17時09分 NHKニュース「2040年に896自治体で若年女性が半減か」)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140508/k10014301791000.html

 宮城県内で消滅可能性都市とされたのは、石巻、塩釜、気仙沼、白石、角田、登米、栗原、蔵王、七ケ宿、村田、川崎、丸森、山元、松島、七ケ浜、大郷、大衡、色麻、加美、涌谷、美里、女川、南三陸の23市町村。
(2014年05月09日金曜日付け河北新報「福島除く東北5県 137市町村消滅可能性 2040年推計)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201405/20140509_73012.html

 いやぁ、ヤッホー君のこのブログ、5月6日付け日記「こどもの日」を再読しましょう。それにしても事態がここまで深刻だとはびっくり!
 いやぁ、ヤッホー君、昨日付け日記「モヤイ像」に引き続き、「モアイ像」について日記をつけようとしていたのでございます。
 「モアイ像」のあるお台場、じゃ、ない、ない、宮城県南三陸町も「消滅可能性都市」とされていました。がんばれぇ〜!

 「モアイミニ博覧会」が4月27日〜5月4日、宮城県南三陸町の南三陸ポータルセンターで開かれる。
 チリ政府が昨年、同町にモアイ像を贈った経緯をパネルで紹介し、モアイにまつわる民芸品などを展示する。
 民芸品はモアイの故郷イースター島で制作された胸当てや船のオールなど約20点。
 素朴で独特の造形がモアイとのつながりをしのばせる。
 モアイの顔抜きパネルで撮影した写真を缶バッジにしたり、モアイはんこで手ぬぐいを作ったりもできる。
 南三陸町は1960年のチリ地震津波で大きな被害を受けたのを契機にチリと友好関係を深めてきた。
 チリ政府は東日本大震災後、モアイ像贈呈や高校生の招待などの支援に取り組んでいる。
 博覧会を主催する町観光協会は「南三陸とチリ、モアイとの関わりを深く知ってほしい」と話す…

(2014年04月27日日曜日付け河北新報「モアイの里民芸品で紹介 宮城・南三陸町で27日から博覧会」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201404/20140427_13005.html

 なぜ南三陸町にモアイ像?
 1991年にチリ地震津波の復興と友好の証として、チリから南三陸町へモアイ像が贈呈されました。
 そして2011年3月11日、東日本大震災の大津波によりモアイ像が流出。
 しかし国境を越えた絆は絶えず、2013年5月25日、チリのイースター島から新しいモアイ像がやってきました。
 南三陸町には、イースター島から世界で初めて贈呈された本物のモアイ像を始め、全7か所にモアイスポットがあります。

(モアイスポット、南三陸町観光協会、宮城県本吉郡南三陸町志津川字御前下51-1 Tel 0226-47-2550)
http://www.m-kankou.jp/facility/moai-spot/

 3年前のあの日は町議会最終日。
 「もう少しで終わるよ」役場裏にあった自宅で昼食を取り、妻節子さん=当時(63)=と会話した。何を食べたか覚えていない。
 妻は元町職員。面倒見がよく、周囲に気を配る優しい性格だった。
 午後2時46分、震度6弱の揺れが町を襲った。防寒着とラジオを取りに自宅に戻り、
 「早く逃げろ」と2階にいた妻に声を掛けた。
 「途中で津波が来たら危ない。ここにいる」声だけが聞こえ、庁舎へ急いだ。
 午後3時半すぎ、川が異常な速さで逆流を始める。
 「津波が来たぞ」屋上に駆け上がった。黒い波が自宅をのみ込もうとしていた。
 「せっちゃん、何で逃げないの」友人だった同僚職員が泣き叫んだ。
 真っ二つになって流れていく自分の家をただただ見詰めた。
 振り返ると12メートルを超える津波が自分にも襲い掛かった。とっさに非常階段に両手両足を絡ませ、頭上を超える大波に何度も耐えた。
 波が引くと屋上に50人以上いた人が10人に減っていた。総務課職員15人中8人が犠牲に。
 吹きさらしの庁舎で一夜を明かした。ともに生き残った佐藤仁町長(62)が
 「徳さん、一緒に頑張ろう」とつぶやいた。
 「残って町を取り戻したい」と思い定めた。

(2014年04月01日火曜日付け河北新報「南三陸復興に魂を捧げ去る 町参事の佐藤さんが退職」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201404/20140401_13009.html


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2014年05月08日

モヤイ像

 こんなふうに歩いた5月6日火曜日の山歩クラブGW企画、お台場お散歩!
 「新島のモヤイ像」と遭遇!

 新島には古くから「もやい」という美しい習慣があった。
 太平洋の真っただ中でで、島民が互いに助け合って生きる。
 いわば互助の意識から生まれた素朴な人々のやさしい心根を表す「絆」だったのだ。
 台場に集う人びとよ、もの言わずモヤイ像はあなた方に何を語りかけるであろうか。
 願わくば「もやい」会う連帯の心、絆を大きく成長させる出会いの場にしてほしいものです。

(2012(平成24)年3月 東京都新島村)

 「もやい」って言うとヤッホー君が思い出すのは、2008年大晦日から2009年お正月にかけて日比谷公園にできた「年越し派遣村」取材!
 労働者っていっても結局は使い捨て、使い捨てられても、あんたが悪いんだから「自己責任」と言われ、物心ついて言われたのが「徒党を組むな、つるんじゃだめだ、群れるな」と、耳にたこができるほど聞かされ…
 ヤッホー君が訪れたのは、「自立生活サポートセンター・もやい」でした。
 ショックだったのは、派遣切れにあって経済的貧困もそうなんですが、自分が悪いんだってこころに痛手を負っているのをなんとか癒してあげることって聞いたとき。
 労働組合も、行政も、偉い評論家や学者、先生も見て見ぬふり、知らんぷり、だれも手を差し伸べようとしなかったこと。

 本書(岩波新書『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠著)の校了間際の土曜日、岩波書店の目の前の中学校で、「反貧困フェスタ2008」が開催されました。
 講演会や医療相談のほか、音楽ライブに屋台に映画上映にと、さながら文化祭のようでした。
 この社会には貧困問題が存在するのだということを訴えようと、さまざまな団体から成る「反貧困ネットワーク」が呼びかけて実施されたもので、1600人が参加したそうです。
 本書の著者の湯浅誠さんもまた、このフェスタの「裏方」の一人として走り回っていました。

 湯浅さんは、野宿者(ホームレス)の支援活動を行なうなかで、すさまじい勢いで生活困窮者が増えていることに危機感を覚え、日本の貧困問題の拡がりについて警鐘を鳴らしてきました。
 本書は、そうした活動経験を生かしながら、どうして貧困が拡がってきているのか、そのことでどんな問題が起きているのかを考えます。
 そのうえで、人びとが貧困問題にどのように立ち向かっているのか、「反貧困」の現場をレポートします。
 誰もが人間らしく生きることのできる社会へ向けて、その希望を語る熱い一冊です。

(2008年4月18日岩波書店編集部だより新書編集部・小田野耕明)
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0804/sin_k407.html

 どんな本?書評を読んでみましょう:

 そもそも、弱者を救えない社会は弱い
 本書には、貧困問題を研究している学者たちが試算した、日本の補足率がいくつか記されている。
 補足率とは、実際に生活保護基準(年齢や居住地域、世帯構成によって異なる)以下で暮らす人たちのうち、どれだけの人たちが生活保護を受けているのかを示す指標である。
 これらの調査を総合するに、現在の日本の補足率は概ね15〜20%だという(ちなみにイギリスは90%)。 
 2006年に生活保護を受けたのは、107万世帯151万人。
 補足率を仮に20%だとすると、実に約400万世帯600万人が生活保護の網から漏れている。
 だが、これはあくまで「学者」によるデータであり、「政府」による公的な数字ではない。
 他の先進国では政府自らがなんらかの実態調査に乗り出しているのに対し、日本政府は調査を行うことに消極的であるという。

 真面目に働いていれば、いいことがあるさ──そんなささやかな希望さえ、描くことが難しい社会。
 それがはたして生きやすいかといえば、誰もそうは思わないだろう。
 お互いの足を引っ張りあい、転落への不安に怯えながら生きていくことは、社会全体にとってなんのプラスにもならない。
 いったいこの社会で何が現在進行中なのか。まずは現状を把握してみないことには始まらない。それすら調査しないで、社会保障費削減云々などと議論すべきではないと思うのだが、どうだろうか。

(文/澁川祐子、企画・編集/須藤輝&連結社)
(2008年6月13日(金)日経ビジネス、「自分で何とかしなければ」そんな人ほど落ちていく〜『反貧困』湯浅誠著(評:澁川祐子)岩波新書、740円(税別)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080612/161848/?P=1

 その湯浅さんはこの2014年から法政大学教授(任期付)。
 「民主主義を再考し、誰もが尊重される世の中をつくりたい」湯浅さんには公式サイトがあります。

 リーマン・ショックの際、自動車工場などで働く日系ペルー人ブラジル人の人たちは、「30万円あげるから母国に帰りなさい。再入国は認めない」と言われて、国に帰ることを促された。
 いま、介護や建設分野で人が足りないから外国人労働者を、とまた言い出している。
 その人たちがこの話を聞いたら、どう思うか。周りの人たちにどう話すか。
 これまでの外国人労働者政策は、基本的に「労働力は欲しいが、労働者(生活者)はいらない」というものだったが、扱っているのは尊厳ある人間だ。
 こういうやり方を繰り返すことが、日本の国際的地位を高めると思えない。


 動画もあります。お話しをぜひ聞きましょう:
http://yuasamakoto.org/profile/


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2014年05月07日

夢の大橋

 5月6日は、GW最後の休日。

 [1] 1927(昭和2)年文部省製作「黒部峡谷探検」(モノクロサイレント24分)
 [2] 1930(昭和5)年文部省製作「鹿島槍ヶ岳と下廊下」(モノクロサイレント24分)
 展示場でも紹介している上記2本の映画(いずれも東京国立近代美術館フィルムセンター蔵)について、担当学芸員が映画の進行に合わせて生解説を試みた後、山岳映像に詳しい専門家と対談をします。

(北区公式サイト、春期企画展「岳人冠松次郎と学芸官中田俊造ー戦前期における文部省山岳映画ー」)
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/event/1018/101815.htm

 山歩クラブはこの日、もともとは4月27日訪れた「飛鳥山博物館」(北区王子1-1-3 Tel 3916-1133)再訪を予定しておりました。
 上述のように、「学芸員が語る山岳映画上映会」に出席する予定でしたが、抽選にもれてしまい、しかしせっかく6人集まっているのだから「歩こう会」に切り替えてタウンウオーキングを実施したのです。

 気持ちも切り替えて…歩いたのは、お台場。

 写真は「夢の大橋」から撮ったものです。

 青海(パレットタウン側)と有明(ビッグサイト側)を結ぶ「夢の大橋」は、最大幅約60メートルの歩行者専用橋です。
 広い所は幅が約60メートルもあり、橋上はイベントにも使用できます。
 「祭のにぎわい」をコンセプトに造られ、個性的な形の照明は江戸火消しのまといや、庭園を照らす灯ろうをイメージしデザインされたものです。
 また「あけみ橋」側から「水の広場公園」を眼下に眺めることができます。

(海上公園ガイド、シンボルプロムナード公園、見どころ)
http://www.tptc.co.jp/park/symbolpromenad/news/tabid/484/Default.aspx

 後ろに見えるのは、「ホテルトラスティ東京ベイサイド」(江東区有明3-1-15 Tel 6700-0001)。
http://www.trusty.jp/index.html

ホテル.jpg

 実は男性3人組は、お台場の「水の広場公園」をまわりこんで「あけみ橋」の下を通り、「夢の大橋」のたもとにでようとしたのですが、失敗。
 「橋」にあがる取り付け道路もなく、かといって道路を横断することもできず、腕をこまねいていたんです。
 そこへ、道路際に駐車して一服していたドライバーさんが、「あけみ橋」を渡って「ホテル」前を通って行きな、と教えてくれたのです。
 われわれはその通りにして、女性3人組とケイタイで連絡をとりあって、あ、いたいた、見えたよって。
 女性陣は「夢の大橋」、男性陣は「あけみ橋」。
 帽子を振りあって橋と橋とでご対面。
 まさに「黒の舟歌」!でした。
 大竹しのぶ&泉谷しげるでどうぞ!!
http://www.youtube.com/watch?v=U1oGZg9yL-g

 作者は野坂昭如(あきゆき、1930年生まれ)。
 永六輔(1933年生まれ)の次のようなお話しもかみしめて読んでみましょう:

 永さんは戦時中、空襲や学童疎開を経験した。
 だからこそ「新しい憲法はキラキラと輝いていた」し、国の夢と受け止めた。
 同じく戦争を知る作家の井上さん、小沢昭一さん、野坂昭如さんらとシンポジウムなどを開き、平和の大切さを訴えてきた。

 「戦争末期に妹が餓死するのを見届けた野坂さんは『二度と飢えた子供の顔を見たくない』と話していました。それこそ国の理想でしょう。この言葉でもいいですし、福島第1原発事故が起きた今『放射能の中で育つ子供を見たくない』としてもいい。心に訴える一文を憲法にしてもおかしくない」と語った。

 今、憲法の危機を実感するとともに、この事態を招いた責任は自分たち戦争世代にあると受け止める。
 「戦争を体験していない人に恐ろしさや愚かさをどう伝えればよかったのか。私たちは考え、行動してきたつもりですが、怠慢だったかもしれませんね…」。
 井上さん、小沢さんは世を去った。
 「みんなラジオ世代。小沢さんは『戦争を語れるのはラジオ世代』と言っていた。でもね、次から次へと亡くなった…」
 ステッキを握る両手が小刻みに震えていた。

 ではテレビ世代はどうか。
 「安倍晋三首相や橋下徹大阪市長ら今の政治家は冗舌な人ばかり。言葉が滑っていて責任を感じて話していない。世の中がどう受け止めているかも想像していない人ばかりだから、憲法を大切にしない」

(2013年05月23日毎日新聞東京夕刊「特集ワイド:憲法よ ラジオパーソナリティー・永六輔さん」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20130523dde012040063000c.html


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2014年05月06日

こどもの日

 昨日5月5日月曜日は「こどもの日」!
 朝から強い地震があり、びっくりしました。
 一夜明けて今日5月6日は、クイズでお楽しみあれ。

 第一問:子供か子どもか?
 第二問:出生数ってイマ、どのくらい?
 第三問:じゃあ、100歳以上のお年寄りってどのくらい?

 まず、第一問。ふたつの引用文をご紹介します。

Q 学校の保護者会で書記を引き受けました。記録や配布物では,「子ども」と書くように、という引継ぎがありました。どうして仮名を交ぜて書くのか、前任者や周囲の先生に伺ってみましたが、「いつもそうしている」という以外に,理由がわかりません。「子供」と「子ども」では書き分けがあるのでしょうか。

A 一般社会で目安となる漢字の用法の基準として「常用漢字表」があります。
 これは漢字が音読みの五十音順の表になっていて、字種、音訓、用例、特記すべき熟字訓や異字同訓の用法を示しています。
 そこでは、「供」の漢字に「とも」という訓があって、その用例として「子供」が挙がっています。
 ですから公用文などで用いる漢字の使用として、「子供」が間違っているわけではありません
 一方、教育界に広まっている考え方として、「『こども』は国連の児童憲章で明らかにしているように、社会から尊重され守られるべき立場なのだから、『供』という漢字はふさわしくない」という考え方があるようです。
 「供」という漢字がふさわしくないとするには、「お供(とも)」「供奉(グブ)」などというように、従属や隷属を意味するから、あるいは「○○ども」と複数の集団をさげすんで呼ぶいい方に使うから、という理由があるといいます。

(国立国語研究所、東京都立川市緑町10-2 Tel 042-540-4300(代)
http://www.ninjal.ac.jp/QandA/notation/kodomonohyoki/

 文部科学省はこのほど省内の公用文書の「こども」の表記を漢字書きの「子供」に統一することを決めた。
 「子供」の表記は1973年の内閣訓令で、漢字表記とされた。
 ただ「漢字より柔らかい印象がある」として、各省庁とも漢字と平仮名の交ぜ書きの「子ども」を使う例が増えていた。
 文科省は、子供と表記しても大人の「お供」のような否定的な意味はないと判断し、公用文書は漢字表記との原則を再確認。
 2013年7月刊行の文部科学白書では語句を「子供」に統一した
 文化庁国語課によると「こども」という言葉は「子」の複数形として古くから使われ、江戸時代に「供」が当て字として使われるようになったという。

(2013/9/19 19:37日本経済新聞「文科省、<こども>表記を漢字に統一 公用文書で」)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1902T_Z10C13A9CR8000/

 ヤッホー君はどうしようかな、とイマ思案中。

 つぎに第二問。

 出生数は103万1000人、出生率(人口千対)は8.2と推計される。
(2014(平成26)年1月1日付け大臣官房統計情報部人口動態・保健社会統計課による2013(平成25)年人口動態統計の年間推計)
http://www.lib.uoeh-u.ac.jp/%E5%8E%9A%E7%94%9F%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%9C%81%E3%81%AE%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E7%96%BE%E6%82%A3%E6%8E%A8%E8%A8%88.pdf

 これをピーク時に比べると約3分の1なのか、半分なのか…ヤッホー君、腰を抜かしてしまいました:

 出生数の年次推移をみると、第2次世界大戦前は概ね増加していた。
 戦後は、終戦直後の繰り延べられた結婚による昭和22〜24年の「第1次ベビーブーム」期(ピーク時の昭和24年には270万人)と、その時期に生まれた女性の出産による昭和46〜49年の「第2次ベビーブーム」期(ピーク時の昭和48年には209万人)の2つの山がみられた後は減少傾向にあり、近年は120万人前後で推移している。

(厚労省、「出生に関する統計」の概況、出生の年次推移)
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/syussyo-4/syussyo1-1.html

 これをじゃあ、ね。大学の数と大学に在籍している数と比較してみましょうか:

 2013(平成25)年の大学数は782校、在籍者数は2,868,872人
(文科省、大学数・在籍者数)

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001015843

 これを単純計算で4年制大学だから4で割ってみると一学年、717,218人!
 赤ちゃんは100万人だから、72%はだまっていても学士さまになれますね。
 こどもさんをつくると、親御さんの教育費負担が大変だ〜=悲鳴=!

 じゃあね、「農業労働力に関する統計」をみてみましょうか:

 農業就業人口及び基幹的農業従事者数
 「農業就業人口」とは、15歳以上の農家世帯員のうち、調査期日前1年間に農業のみに従事した者又は農業と兼業の双方に従事したが、農業の従事日数の方が多い者をいう。
 2013年(平成25)年 239万人、平均年齢 66.2歳

http://www.maff.go.jp/j/tokei/sihyo/data/08.html

 大学に在籍している20歳前後の若者のほうが、農業就業人口を上回っていました。
 かといって、若者が農業に就業しようなんて思わなくさせているのがイマのこの国、やはり軍隊しかないのかな…

 2010(平成22)年9月17日、民主党代表に再選された菅直人による菅内閣の内閣改造(菅第1次改造内閣)に伴い、民主党幹事長に就任した岡田克也の後任として、悲願の外務大臣に横滑りで就任。48歳4ヶ月での外相就任は、池田内閣における小坂善太郎外相を抜いて、戦後最年少(当時)であった。
 翌10月環太平洋TPP交渉を巡っては、「対GDP比で僅か1.5%に過ぎない第一次産業の保護のため他の分野が犠牲になるのはおかしい」と反保護主義的主張を記者会見の場で行ない話題となった。
 2011年1月の第2次改造内閣でも外相に留任した
(ウイキペディア)…
 なんて外務大臣もいましたもん…

 では、もう時間もないので、「こどもの日」にちなんだクイズもそろそろ、第三問:

 百歳以上の高齢者の数は、年々急速に増えています。
 老人福祉法が制定された1963(昭和38)年には全国で153人でしたが、1981(昭和56)年には1000人、1998(平成10)年には1万人を超え、2012(平成24)年には5万人を突破し、今年2013年は、54,397人(前年比+3,021人)となります。
 また、百歳以上の高齢者54,397人のうち、女性が47,606人で、全体の約87.5%を占めています。

※ 住民基本台帳による都道府県等からの報告数
※ 年齢は2013(平成25)年9月15日現在
(2013(平成25)年9月13日(金)【照会先】厚労省、老健局高齢者支援課)
http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-12304250-Roukenkyoku-Koureishashienka/0000022849.pdf


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2014年05月05日

MAKUHARI・ミルキートワラーズ

 「MAKUHARI・ミルキートワラーズ」ってご存知ですか?
 すばらしい演技をご披露してくださりました、5月3日「憲法記念日」の「都夢の島熱帯植物館」芝生広場!

 2011/09/03 にアップロード
 2011年7月にディズニーランドで演技したD-POP MAGIC のプログラムの中から抜粋して、キッズフェスタバージョンにアレンジして演技しました¬!

http://www.youtube.com/watch?v=mu8R-YbRdFg

 5月3日「夢の島植物園イベント」に出演します
 ゴールデンウイークは毎年「東京都夢の島熱帯植物館」のイベントに出演させて頂いています。
 今年も5月3日(土)12:30〜 出演させて頂きます。
 JR京葉線 有楽町線 りんかい線「新木場」から徒歩15分「夢の島公園」の中です。
 夢の島公園は植物館の他にも、BumB(ぶんぶ)東京スポーツ文化館、東京夢の島マリーナ、都立第五福竜丸展示館、バーベキュー広場もある楽しい公園です。
 ミルキーっ子の元気一杯な演技 見にきてくださいね。
 〈植物館のHPはこちらから〉

http://www.yumenoshima.jp/event.php?mode=detail&no=876
(2014-05-01 22:41:18)

 千葉のバトンチーム・ミルキートワラーズ 夢の島植物館 イベント出演
 ゴールデンウイーク後半の始まりの3日
 抜けるような青空の下
 夢の島植物館のイベントに出演させて頂きました。

 ディズニーメドレー全12曲

 レギュラークラスのちびっ子からアスリートクラスの大学生まで笑顔全開ハート(トランプ)
(2014-05-04 14:56:05)

http://ameblo.jp/milkytwirlers/

ミルキーっこ1.jpg

ミルキーっ子2.jpg

 でもさ、ヤッホー君たちの待ち合わせは12時、「夢の島公園」バス停だったから、芝生広場でバーベキュー、BBQの代わりに皆んなでお弁当をひろげていたんだけどさ、
 ヤッホー君、得意のたけのこ料理を皆んなにふるまおうとして持参したのはいいんだけどさ、

たけのこ.jpg

(たけのこを米ぬかを入れた鍋でゆでて一晩置いたヤッホー君の労作、お隣は4月30日山歩クラブ番外編「鶏足山」行きの帰りに立ち寄り、買い求めた笠間神社参道前の造り酒屋「松緑(注1)」)

 なによ、これ、食べれない皮まで茹でちゃったの?
 
 …くしゅんたらーっ(汗) だって、捨てんのもったいないから、噛めば噛むほど味がでるって言うじゃん…

 やっぱ、噛んでも味もなければ不味い!口のなかに繊維質がのこるだけでした。
 ですので、元気な千葉のミルキーっ子たちのスマイルと、「林檎と蜜柑」さんの美しい歌声と、本日のイベントをすべて終えたあと、口直しに新木場駅構内のうわさの「カレーうどん・千吉」へ。
http://www.hanamaruudon.com/senkichi/


(注1)
 笹目宗兵衛商店(茨城県笠間市笠間1339 電話0296−72−0021)。
 厳寒身を切る様な大気の中で相まって秀逸な銘酒が生まれる。
 笠間稲荷神社の御神酒として代々ご用命にあずかっている銘酒松緑。
 当蔵は笠間藩主牧野家の醸造元でしたが、明治6年藩主より
  ”二波山松の緑の色たけくよろずかけてなお榮ゆらん”
の歌を共に経営をゆづられ「二波山松緑」の銘柄を賜りました。
 二波山(茨城の名峰筑波山と加波山を意味します)松緑は、日本三大稲荷の一つ笠間稲荷神社の御神酒として代々ご用命にあづかっております。
http://www.matsumidori.com/

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2014年05月04日

憲法記念日

 昨日の5月3日、ヤッホー君が山歩クラブの仲間と遊んだ「東京都夢の島熱帯植物館ツアー(注1)ビジット」は、国民の祝日で「憲法記念日」でした。
 日本弁護士連合会では「67回目の憲法記念日に当たっての会長談話」がリリースされています:

 今、政府が進めようとしている集団的自衛権行使容認の動きは、日本が攻撃されていないにもかかわらず、他国のために戦争をすることを意味し、戦争をしない平和国家としての日本の国の在り方を根本から変えることになる。
 そのような憲法の基本原理に関わる重大な解釈の変更が、国民の中で十分に議論されることなく、政府の判断で行われることは、憲法により国家権力を制限することで人権保障を図るという立憲主義に反し、憲法の存在意義を失わせることであり、絶対に認めることはできない。

(2014年(平成26)年5月3日日本弁護士連合会会長村越進)
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2014/140503.html

 でもそんなこと言ってもイマや、戦争(人殺し)ができる国、合法的に人殺しをしよう(殺される)と最初から結論がでている仲間うちだけのていねいな熟議と合意 consensus (注2) 形成がはかられようとしています。
 NHK(なんかへんな空気)を醸し出すために派遣されたトップも居座ったまんまの大本営発表報道機関も得意げに、一夜明けた5月4日「みどりの日」早朝からあ:

 ポルトガルを訪れている安倍総理大臣は日本時間の5月4日未明、同行の記者団に対し、集団的自衛権の行使容認について、来週にも政府の有識者懇談会から報告書の提出を受け、政府内での検討や与党との協議を本格化させる考えを示しました。
(5月4日6時10分NHK、集団的自衛権「来週にも有識者懇の報告書」)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140504/t10014214991000.html

 与党総裁がヨーロッパなら、与党幹事長だって負けていません。
 お偉いさんがた、皆してGW期間中は、海外旅行:

 アメリカを訪問している自民党の石破幹事長はヘーゲル国防長官と会談し、集団的自衛権の行使容認はアジア太平洋地域の安定に寄与するとして理解を求め、ヘーゲル国防長官は同盟国として支持する考えを示しました。
(5月2日4時19分NHK「石破幹事長とヘーゲル国防長官が会談」)
http://k.nhk.jp/knews/20140502/k10014177271000.html

 山歩クラブのお仲間はヤッホー君にこんなことをおっしゃっていました:

 お酒の小売店を街から追い出してでっかいスーパーやコンビニをつくって、コメをつくる田んぼを草ぼうぼうにして輸入米をいれてパンを食べさせ、家畜を餓死させて酪農家をつぶし、船を鉄くずにして漁村をつぶし、消費税をあげて消費者になけなしの金を多く払わせる、その国に住む人びとをこれほど困らせる政府ってどこにもないよね?って。

 こんなことを呟くと色付きにされるから(注3)、誰もが押し黙って「迷える羊」…
 そして、いよいよ戦争への地ならし開始…
 大儲けする1%のための大芝居の幕が開いて、また人びとはのたうちまわる歴史が繰り返されるって、いいのかなって…

 国が曲がり角にあります。
 カーブの先は…。
 他国のために戦争をする国でしょう。
 憲法九条が破壊されるのに、国民が無関心であってはなりません。

 <そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました>

 不気味な書き出しです。
 江戸川乱歩の探偵小説が出版された1936年には、陸軍の青年将校らが反乱を起こした2.26事件がありました。
 翌年には泥沼の日中戦争が始まる時代でした…
 
 乱歩は別の作品で、怪人二十面相に戦争批判を語らせています。

 <まだ戦争をやろうとしているじゃないか(中略)そんなことを、考えているやつは、おれたちの万倍も、悪ものじゃないか>

 憲法解釈をおろそかにし、戦争に道を開けば、天下の大泥棒から悪者扱いされます。

(2014年5月3日東京新聞社説「憲法を考える 9条と怪人二十面相」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2014050302000117.html


(注1)
☆ tour = a journey for pleasure, during which you visit several towns, areas etc
☆ visit = an occasion when someone visits a place or person
(注2)
☆ consensus = an opinion that everyone in a group will agree with or accept
(ロングマン現代英英辞典)
(注3)
 「政治的色彩」という言葉は3年前に後援要件を定めた東京都墨田区も使っており、千葉県白井市は同区などの規定を参考にしたという。
 神戸市では護憲団体などによる「神戸憲法集会」が5月3日開かれたが、これまで受けてきた市と市教委の後援は今年断られた。理由は「昨今の社会情勢を鑑み、改憲、護憲の政治的主張があり、憲法集会そのものが政治的中立性を損なう可能性がある」。
 一方、奈良市の生涯学習センターで昨年2013年9月、護憲派の講演会が開かれた。当初予定していた演題は「自民党改正案を斬る」だったが、市から「公民館では特定の政党の利害にかかわる事業は行なえない」として変更を求められ、「憲法学習会」に名を改めた。
(2014年5月3日22時15分更新毎日新聞「憲法:自治体尻込み イベントの後援見直し相次ぐ」)
http://mainichi.jp/select/news/20140504k0000m040047000c.html

 (加藤紘一・元自民党幹事長)「(自民党副総裁の)高村正彦さんが言う最高裁の『砂川判決』はそもそもが自衛隊の存在の容認で、集団的自衛権を認めたものではない。米国は南のホンジュラスやニカラグアなど、政治的に不安定な地域に介入することがある。米国の要請を受け、自衛隊が地球の裏側まで出向く局面は十分に想定される
 −(河北新報)政権は支持率が安定している。今の社会や世論の変化をどう見るか。
 「戦争への反対勢力はぐんぐん減っている。第2次世界大戦後、地域社会の保守系無所属層は腹にずしんとくるほどの決心を持ち、自民党のリベラル保守を支えていた。どんどん存在が薄くなっている」
 −国民政党を掲げた自民党は変質したのか。
 「左右のバランスが悪くなり振り子を戻す力が失われた。(会長を務めた)ハト派派閥の宏池会など(の存在感)がなくなったとされるが、社会全体からハトが消えてしまった。党内はネット右翼の台頭を歓迎する政治家が元気になっている」
(2014年5月4日日曜日付け河北新報「憲法のゆくえ 震災・暮らし(下)9条で得た信頼守れ」)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201405/20140504_53006.html

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2014年05月03日

みそさざい

 まずはこれをもう一度聞かないと今晩、寝られそうにありません。
 みそさざい。

http://www.youtube.com/watch?v=9R6fjshhqdY
http://www.youtube.com/watch?v=Aj94Ryr2YOw

 スズメより小さい、日本でも最も小さな鳥のひとつですが、からだに似合わぬ大声で長くうたい続けることで有名です。
 鳥たちが集まって、いちばん高く飛べたものを自分たちの王として認めることになりました。
 ワシは太陽まで昇って行き、戻ってくると自分の勝ちを宣言しました。
 ところがミソサザイは、私はもっと高く昇ったと主張しました。
 ミソサザイはワシの首につかまって一緒に太陽まで昇り、ワシがいちばん高いところに達したとき、ミソサザイはそれより高くハネあがっていたというのです。
 鳥たちはミソサザイを鳥の王と認め、王冠をさずけました。
 西洋ではミソサザイを「王さま」とか「年寄り」と呼びます。
 その理由をギリシャの哲学者は「弱々しいけれどもチャッカリ屋で器用で、暮らしっぷりが楽々としているところから」と言い、ワシのライバルに見たてているのは、この話がヒントになっているのかもしれません。

(サントリー、日本の鳥百科、ミソサザイ)
http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/63.html

 相手を偉そうに酔ってねめ回すような人ではなく、古来、日本人はミソサザイのような小さい、弱い、吹けば飛んで行ってしまうような存在に共感 sympathy と結い(つながり) solidarity をよせていたはず(注1)。
 歌まであります。
 聴いてみましょう:

Amelita Galli-Curci(1882–1963、注2)-La Capinera(Benedict、1804-1885、注3)
http://www.youtube.com/watch?v=mFZLMbDG5Z8

 でもいい季節、「麗しき4月が」もいいのですが、「麗しき5月になって」も素晴らしい。
 ぜひ動画をチェックなさってください:

 重厚なシンフォニーやワーグナーを少し脇に置き、久々にリートでも手に取ってみたくなる季節。
 ドイツ・リートは普段はほとんど聴かないので詳しくはないですが、ハインリッヒ・ハイネの美しいリートの対訳本は昔から親しんできました。
 なかでもこの季節、「麗しき五月に」は、原詩のドイツ語でも、日本語訳でも、美しいですね。
 シューマンは「詩人の恋」として20の曲を作曲し、その一曲目にこの「麗しき五月に」が歌われます。

(grunerwaldのブログ、ドイツと音楽、歴史や旅行を楽しむ憩いの森へ)
http://blogs.yahoo.co.jp/ritsuo530/62453356.html

 どうしたのかって?
 ヤッホー君、今日はもともとBBQだったのですが、ご提案者は急きょ里帰り、ということで、でもせっかく仲間が集まるからと、場所を「夢の島熱帯植物園」に変更して、eチャリででかけたのです。
 5人で素晴らしいお声に感動して帰ってきました。
 毎日1500mは泳いでいるという仲間もあそこまで自然に上手に息継ぎできないよぉ〜っておっしゃっていました。
 あのカラオケ屋さんでボイストレーニング積んだら、できるようになるさってヤッホー君は励ましていたって(ん?)
 で、ね、そのイベントで聞かせていただいた曲が、伊藤邦恵(ソプラノ、注4)さんの「みそさざい」だったんです。

伊藤邦恵.jpg

 「歌の花束」シリーズで大活躍のボーカルデュオが、ユニット名「林檎と蜜柑」にて装い新たに歌います!
 ★ 開催期間 5月3日(土)15:00〜
 ★ 場所 イベントホール
 ★ 出演 伊藤邦恵(ソプラノ)、矢野裕紀子(メゾソプラノ)、小西陽子(ピアノ)

(都夢の島熱帯植物館公式サイト、5月3日のイベント)
http://www.yumenoshima.jp/event.php?mode=detail&year=2014&mon=05&day=03 


林檎と蜜柑.jpg

(注1)
☆ sympathy = the feeling of being sorry for someone who is in a bad situation and understanding how they feel
☆ solidarity = loyalty and general agreement between all the people in a group or between different groups
(ロングマン現代英英辞典)

(注2)
Italian-born American singer, one of the outstanding operatic sopranos of her time
(ブリタニカ百科)
http://global.britannica.com/EBchecked/topic/224341/Amelita-Galli-Curci

(注3)
Sir Julius Benedict (27 November 1804 – 5 June 1885) was a German-born composer and conductor, resident in England for most of his career.
http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Benedict

(注4)
伊藤邦恵(ソプラノ):
東京音楽大学声楽演奏家コース卒業、同大学院声楽科オペラ研究領域修了。米屋恵子、太刀川悦代、篠崎義昭、釜洞祐子の各氏に師事。
http://oikawa-classic.com/artist/profile/sop-ito_kunie.html
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2014年05月02日

鶏足山4305m

 ところで、鶏足山(けいそくさん)4305m。
 霊山なのか毎年お正月、徳蔵寺が協力して例大祭が:

 栃木県との県境にそびえる城里町の鶏足山で2014年1月14日、新年に登山客の安全を願う例大祭が開かれ、鶏足山ゆかりの弘法大師が建立したとされる同町徳蔵の徳蔵寺協力の下、約60人の参加者が山の頂上で祈りをささげた。

 標高430.5mの鶏足山は、地元住民でつくる「鶏足山環境保全グループ」が2006年から、登山道の整備と管理を行っている。
 平安時代に弘法大師が修行した山として知られ、例大祭は頂上に安全祈願のほこらが設置された2009年から実施されている。

 360度近く見渡せる美しい眺望の山頂に、同グループ会員と登山客が集まり、同寺の岸野教司住職(58)が儀式を催行。
 今年一年、安心して登山が楽しめるようそれぞれ願いを込めた。

 昨年は100回以上登頂したという笠間市福田の公務員、本宮茂さん(60)は「見晴らしも良く、最高の山。千回登頂を目指したい」と話し、同グループの飯村今朝男(けさお)会長(76)は「今年も登山客がけがなく、この山を楽しんでほしい」と願いを込めた。

(2014年1月15日(水)付け茨城新聞「登山客の安全願う 城里、鶏足山頂で例大祭」)
http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13896970725698

 これは動画です:
http://www.youtube.com/watch?v=IpQcLK2aGpk

 これは、3年前、ですのであの原発事故前、2011年1月21日付け「いばらきさとやま生活>さとブロ>鶏足山登山(さとやま生活」からです:
http://www.satoyama-life.pref.ibaraki.jp/?p=1062

 そう、あのころ…

 夜は居間で着の着のまま寝袋で寝ね、とっさの時にすぐ屋外に飛び出せるようにしていました。
 3日半経って電気が通ると、まず使わなくてもいい電気製品のコンセント(トイレの便座、エアコン、空気清浄機、スタンドなど)を抜き、炊飯器、コーヒーメーカー、フードプロセッサー、ホームベーカリー、掃除機、給湯器は使わないことにしてました…
 
 そんなこんなして見ると、この生活は懐かしい匂いがすることに気がつきました。
 おばあちゃんちの匂いです。
 主人は戦争が始まった翌日生まれ、私は戦中(但し、後半です)生まれです。
 今、この災害に際して、祖母や母が語った戦後を乗り切るための様々な苦労話と知恵が思い出されて来ます。
 真面目に聞いていなくても耳に入ったことは必要な時にはちゃんと活かされるのですね。
 戦争体験を語ることが出来る人が少なくなって来ていますが、子ども達に語り継ぐことの大切さをこの際、実感しました。
 今回の未曾有の震災とそれに伴う原発事故も伝え続けなくてはならないことだと思います。

 元気ですとだけ伝えるつもりの書き込みが取り留めなく長くなりました。今日はこれまで。

(2011年4月1日「カヤネズミ」投稿)
http://www.satoyama-life.pref.ibaraki.jp/?page_id=2&paged=17

 城里町の町長、阿久津藤男さんも:

 東日本大震災では本庁舎が被災。
 現在は同じ敷地内のコミュニティーセンターで業務に当たる。
 「庁舎は防災面でも拠点になる」と早急に整備を行う方針で、2013年度中の建設着工、2014年度中の完成を目指す。

 自然豊かな同町にとって、東京電力福島第1原発事故に伴う放射能・風評被害も深刻。
 狩猟しても売れないことで野生のイノシシが増え、イノシシとブタの雑種で繁殖力が高いイノブタも増加。
 補助金を出して駆除している状況という。

 そんな中、村上達也同県東海村長らが世話人を務める「脱原発をめざす首長会議」に参加。
 「日本は第2次大戦で原爆の被害を受けたのに、放射能に関してきちんとした対策がなかったのはおかしい」と憤り、事故当時の政府の対応を批判する。

〔横顔〕旧七会村長を経て2009年に初当選。妻と子ども2人の4人暮らしで、同じ敷地に長男家族4人も暮らす。刀剣や骨董(こっとう)品集めが趣味。好きな言葉は「協調」。
〔町の自慢〕年間約24万人が訪れる健康増進施設「ホロルの湯」や、「関東の嵐山」と呼ばれる御前山県立自然公園の存在。また、2011年のお米日本一コンテストで最優秀賞に選ばれた「ななかいの里コシヒカリ」など。

(2013年3月1日時事ドットコム「働く場確保へ企業誘致が使命」)
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20130301top_interview27_46

 東京新聞だって:

 東日本大震災で、城里町は町役場が被災して取り壊したほか、建物の全壊15棟、大規模半壊14棟、半壊249棟、一部損壊約2300棟。
 原発事故で放出された放射性セシウムのため名産の「古内茶」は昨年2011年、出荷できなかった。今年2012年も再検査に手間取り、出荷制限解除が遅れ、一番茶がほとんど出荷できなかった。
 高齢化率は28.3%(2012年1月1日現在)、県内44市町村中6番目に高い。
 人口は、2005年の合併(常北町、桂村、七会村)から今年2012年4月1日現在、1918人減っている。

(東京新聞茨城版「脱原発首長会議に参加 阿久津藤男・城里町長に聞く/ひとたび事故が起これば、普段は渋滞のない町内の道路も、近隣市町村から逃げてくる車で、身動きが取れなくなる。住民の高齢化率も高く、「町長として住民を安全に避難させることに責任が持てない」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20120618/CK2012061802000131.html

 茨城新聞だって:

 「原子力をやめると軽々しく言うことはできない」。
 安倍晋三首相は最近、独紙との書面インタビューでこう述べたという
 ▼ 東京電力福島第1原発事故を踏まえ、脱原発を選択することが「軽々しい」はずがない。だが、自らと異なる意見は「軽い」とばっさり。汚染水問題に関する「コントロールされている」「完全にブロック」との自身の発言は「軽くない」と見なすのだろう
 ▼ 過酷事故が1回発生したからといって、国策転換などできないということのようだ。炉心溶融し、大量の放射性物質が外部放出された事実だけで不十分ならば、事故が何回起きれば「重い」判断に至るのか
 ▼ 住民は住み慣れた場所を奪われ、飛び散った放射性物質は人間の手に負えない。この事実を前に、再稼働をもくろむことは「軽く」ないか。

(2014年5月1日(木)付け茨城新聞、デスク日誌(報道部・川崎勉)「再稼働は<軽く>ないか」)
http://ibarakinews.jp/news/column.php?elem=desk&f_jun=13988706805795
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2014年05月01日

花の寺、徳蔵寺

 昨日の茨城県への日帰りバス旅日記、まだまだ続きがあるようですよ。
 チームメートよりこだま:

 お疲れさまでしたね、ゆっくり疲れを取ってください。
 またまた、楽しい山行の1日でした、ありがとうございました。
 雨の中、と言ってもわれわれが、動いている時は、雨も止んで、われわれが移動する時に雨。
 空は、われわれを見ているようでした。


 田植えが今日明日にでもという田んぼがひろがって、カエルの大合唱が聞こえてくる城里町七会(ななかい)地区ってどんなところ?
 動画がありますので、雰囲気だけでもどうぞ味わってください。
 いいえ、日本人ですので、ごはん、和食を味わうことにしましょう!

 「磯山さやかの旬刊!いばらき」では、磯山さやかさんが城里町を訪ね、新米を紹介します。
 城里町の旧七会村地域は、江戸時代、水戸藩代々の献上米産地で、今でも良質なお米の産地として知られています
 磯山さやかさんが、昨年行なわれたお米日本一コンテストで最優秀賞に選ばれた「ななかいの里コシヒカリ」の生産者を訪ね、おいしいお米を作るためのこだわりを聞きます。
 また、釜で炊きたてのコシヒカリを堪能します。

(いばらき「うまいもんどころ」)
http://www.ibaraki-shokusai.net/present/p2012-10-12.cfm

 もうひとつ、城里町七会(ななかい)地区から発信されているサイトをご紹介します。
 昨日のわれわれのウオーキングの起点が紹介されています。
 そう、前日が「徳蔵寺」(茨城県城里町徳蔵874 Tel 0296−88−3037)の「ご縁日」(毎年4月29日)だったのですよ。

 お大師様  
 4月29日昭和の日、徳蔵寺の大師様のお祭りが盛大に開催されました。
(「ななかい里山通信」好きな写真とおいしいお米作りに日々励んでいます。ななかい村の四季折々の里山風景とおいしいお米づくりの様子をお届けします)
http://photo.ap.teacup.com/m-morita/

 古いお寺さま、さまざまな言い伝えがありますので二つだけご紹介しましょう:

 このような神秘性のためかヒメハルゼミに関わる伝説があります。
 茨城県中部笠間の北10km城里町に徳蔵寺という寺があります。
 昔、弘法大師空海が、この地を訪れしばらくこの寺に滞在していたときのこと、ここに住む徳蔵姫が空海に一目惚れをして、片時も離れようとしなくなってしまったのです。
 困り果てた空海は、大きなカヤの木で一夜のうちに自分の座像を作り、それを身代わりにして、翌朝こっそりとこの地を離れたのです。
 それを知った姫はたいそう驚き、すぐさま彼を追いかけ片庭という地まで来て、遠くを見渡せる高い木に登りました。
 しかし愛しい空海の姿はすでになく、木の上でいつまでも泣き続ける姫は、いつしかセミになっていました。
 これが片庭すなわち楞厳寺のヒメハルゼミ(姫春蝉)だといわれています。
 この地が北限だというのも切ない偶然です。

(2011年7月、独立行政法人 森林総合研究所「自然探訪」ヒメハルゼミ)
http://www.ffpri.affrc.go.jp/snap/2011/7-himeharuzemi.html

 ん?「楞厳寺」の読み方を含めて、読者の皆さん、ヤッホー君のこのブログ、2013年04月21日付け日記「楞厳寺」をぜひもう一度お読みくださいな。
 ヤッホー君がお願いしています。
 ところで、独立行政法人 森林総合研究所(茨城県つくば市松の里1 Tel 029-829-8130)ってまた雨天で山歩きが無理と判断したときの訪問先候補地に決定!
 だって、ほかにもあるんだもん:
 ★ 「国土交通省国土地理院」(茨城県つくば市北郷1 Tel 029-864-1111)
 ★ 「JAXA筑波宇宙センター」(茨城県つくば市千現2-1-1 Tel 029-868-5000(管理部代表)

 むかしむかし、佐城山に大きなお寺がありました。
 名を「三白山正福寺」といい、お堂や三重の塔などの建物がたくさん山の中に建てられていました。
 また、百の僧坊があってお坊さん達は熱心に修行していました。
 同じころ北の山には、三百の僧坊を待つ徳蔵寺があって大きな力を持っていました。
 この二つのお寺は同じなかまのお寺でしたが、勢力をのばすために何回も争いを起こしてしまいました。
 そしてついに、僧兵というお坊さん達が武器を持って戦いとなってしまいました。

 ある日、徳蔵寺の僧兵が大勢笠間へせめこんできました。
 不意をつかれた正福寺の僧兵たちは、むかえうちましたが力およばず、しだいに佐白山のいただき近くまで追いこまれてしまいました。
 「笠間勢はもうすぐ終わりだぞ、それあとひとおしだ」
 「それ、者どもいっきにせめこめ」
 勢いにのった徳蔵寺勢は、細い山道いっぱいにせめこんでいきました。
 その時、いただき近くにあった小山ほどの大きな石が、突然ゆっさゆっさと揺れ動き出し、みるみるはげしくなって、ついにごろんごろんと大きな音を立てながら転がりだしたのです。
 せめ登っていった徳蔵寺勢は、この石の下じきになったり、つぶされそうになったりしたので、ちりじりになってにげ出しました。
 僧兵たちは、この石のために戦いの気力をなくして北の山に引き上げてしまいました。
 負けてしまったかと思った正福寺勢は、あやういところでこの石のおかげで徳蔵寺勢をしりぞけことができました。
 大きな石は、佐白山の途中まで転がり、ぴたりと止まりました。
 実は、佐白山は、この戦いの前には山のいただき近くには二つの石があったのです。
 大黒様の形の石ときんちゃくぶくろの形をした石でしたが、転がった石はふくろの形をした石でした。
 そして不思議なことにいつのまにか大黒様の形の石は消えていたのです。
 その後、福をもたらしたふくろの形をしたこの石を、「大黒石」とよぶようになりました…

(※出典『笠間の民話(上)』笠間市教育委員会「大黒石のいわれ」)
http://www.city.kasama.lg.jp/page/page000171.html

 山歩クラブはいつのころか何年も前、この佐白山182mを歩き、大黒石に願いを込めてお参りしたことがありました。
 いま何年か経って、この佐白山と徳蔵寺が、「関東ふれあいの道」「伝説の山と僧兵ゆかりのみち」でつながるなんて…
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