2014年04月30日

茨城県城里町

 今日は4月最後の日。
 ということは2014年、もう3分の1は終わったんですって、早いですねぇ〜
 われわれ山歩クラブは8人で、バスハイク。
 実際は9人だったのですが、お一方は雨の天気予報に恐れをなし、キャンセル料をお支払いしますので欠席とします、と。
 「雨もまた良し」というのがわれわれのお師匠さまの言い分で、したがって山歩クラブの辞書には「雨天中止」という言葉がありませんので、<再考を!>と懇願したのですが、詮方なし。
 向かった山域は、茨城県城里町、城里町最高の山、鶏足山4305m。
 しかし春の嵐でこの山へは、登山道入り口駐車場まで行って中止にしました。
 そこで、花の寺「徳蔵寺」にもどって、城里町役場の七会支所から塩子支所までの8KMの関東ふれあいの道「伝説の山と僧兵ゆかりの道」を歩いてきた、とこういうわけです。

 新緑が目に染み入る谷あいの歩道ですが途中、うぐいすの初音を聞きました。
 伝説や歴史を想い、めぐってきた春の風情を味わい、田植え間近な苗代づくりに励む農家の姿、そしてなによりもカエルの大合唱を聴きながらのウオーキングは最高でした。

関東ふれあいの道.jpg

 山そして自然はわれわれにはもう欠かせないこころの糧ですね。
 山歩クラブのわれわれといっしょに歩きたい仲間大募集中、コメントに連絡先をご記入のうえお申込みください。
 では、どちらさまも次回までおやすみなさい、そして、ごきげんよう。
 あっ、帰りは、おまけに「笠間稲荷神社」にお参りして、今年度の山歩クラブの無事と、ご家族のご健康と、戦争をしかけない穏やかな、思い遣りのある日本人、そして美しい日本と、戦争のない世界の平和をご祈念申しあげてきました。

笠間稲荷.jpg
posted by fom_club at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月29日

旧川越織物市場

 27日日曜日の山歩クラブ「小江戸ウオーク」の会。
 歩きながら話題になったのが、「富岡製糸場」。
 山歩クラブの月例お山歩会が「雨のため入山しない」決定をした際にぜひお邪魔したく考えていたのですが、そんな機会も訪れることもなく(山から平地に切り替えたのは、諏訪湖一周、中禅寺湖半周くらいかな、いままで)とうとうユネスコの世界文化遺産への登録間近か?

 正式に登録されれば、日本の世界文化遺産は昨年の「富士山」に次いで14件目。
 世界自然遺産も含めた世界遺産では国内18件目となる。
 近代産業遺産では国内初。

 イコモスはユネスコの諮問機関で、各国から世界遺産に推薦された案件の価値を評価する専門家組織。
 富岡製糸場は昨年9月に現地調査を実施した。
 勧告内容によると「19世紀末期に養蚕と日本の生糸産業の革新に決定的な役割を果たし、日本が近代工業化世界に仲間入りするかぎとなった」などと高く評価された。

 構成資産は、富岡製糸場のほか
 ▽ 近代養蚕農家の原形となった「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)
 ▽ 国内標準になった養蚕法「清温育」を確立した「高山社(たかやましゃ)跡」(藤岡市)
 ▽ 岩の隙間(すきま)から吹き出す冷風を利用した蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴(あらふねふうけつ)」(下仁田町)
の3施設。

(2014年04月26日付け毎日新聞東京夕刊「世界文化遺産:富岡製糸場登録へ ユネスコに勧告「絹産業に革新」−6月正式決定)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140426dde001040045000c.html

 でも富岡ばかりではありません、近代産業遺産は!
 ガイド役をかってくれた山歩クラブ山の友、冨美ちゃんがわれわれを案内したかったところがここ、「旧川越織物市場」!
 しかも27日日曜日はイベントが!

 川越及びその周辺の、有機野菜や天然酵母のパン屋さん、焼き菓子、お茶、コーヒー・紅茶、ピザ、タコス、ベーグル、ハンバーガーなどの、手づくりの食品業者約20業者が集まり、楽しい、市場空間を創造します!旧川越織物市場の空間を使った楽しい活用実験をぜひ体験してみて下さい!
【会期】2014(平成26)年4月27日(日)午前10時〜午後5時
【会場】旧川越織物市場(川越市松江町2-11-10)
【主催】川越織物市場の会
【後援】川越市、川越商工会議所、小江戸川越観光協会
【協力】立門前商栄会、NPO法人川越蔵の会、ソコノワ、アルテクルブ
【お問い合わせ】川越織物市場の会 事務局 小島延夫 070-5551-5042

(小江戸川越観光協会公式サイト)
http://www.koedo.or.jp/member-info/2014/04/26/5098/

 どんなところが、どうなったのかって言いますと、取り壊してマンションになろうとしていたところを、市民、学者、業者、行政の皆んなの力を集めて、何年もかけて話し合いを重ね、保存することになった「遺産」なんです。
 山の友、冨美ちゃん曰く、
「ぶっ壊すのは簡単、半日もかからない、だけど同じものはつくれない」
「いまのようなすぐぶっ壊れるのとは違って、ムカシの職人さんは、良いものを長くってものづくりをしていたんだ」
…ヤッホー君、そうだねって、鳩ぽっぽのようにアタマを上下に振って、ただうなづくばかり…

 木綿の一大産地、川越に富と繁栄をもたらした織物産業の証です。
 広場を挟んで建つ長大な2階建ての長屋状建築は、全国的にも貴重な産業遺産です。

(川越市公式サイト)
http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1364888598536/files/9orimono.pdf

 川越は幕末から明治時代初めごろまで国内屈指の織物の集散地として流行ファッションをリードしていました。
 しかし明治時代末ごろには、競合の激化や地域経済の弱体化により衰退し始めました。
 そこで明治43年に、起死回生をかけて建てられたのが旧川越織物市場です。
 しかし、時代の流れには勝てず市場は開場からわずか7〜8年でその役割を終えました。
 立門前通りの北側にひっそりとたたずむ同市場。
 通りから見える姿はごく一部ですが、奥には木造2階建ての長屋が向かい合っています。
 奥行きのある土(ど)庇(びさし)や、格子戸と板戸を組み合わせた二重の揚(あげ)戸(ど)、建物の間の広場など、当時の市場の特徴がよく表れています。
 同市場は、閉場後、2001(平成13)年まで長屋住居として使われていました。
 そのため当時の姿がそのまま残り、産業遺構としての希少性が高いことから、同じ敷地内の旧栄養食配給所とともに、市の文化財に指定されています。
 地元の方の協力で不定期で開放され、築後100年以上経った今でも大切にされています

(川越市公式サイト、都市景観課、川越時間旅行「懐かしい空間にタイムスリップ、旧川越織物市場」)
https://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1386117991138/files/1308P08.pdf

 保存運動に奔走した市民団体には、ホームぺージもあります:

 解体の危機に直面していた近代化遺産:旧川越織物市場の保全再生に取り組んでいる「川越織物市場の会」(従来の「旧川越織物市場保存再生を考える会」を2003年1月19日に発展的に組織改編)のホームページです。
 旧川越織物市場は全国的にも唯一の残存例といわれる貴重な木造織物市場建築です。

 開発業者から、川越市が旧川越織物市場の建物の寄贈を受け、川越市土地開発公社がその敷地を買取り、2002年12月10日に、登記手続・売買代金決済も終了し、旧川越織物市場の現在地での保存が確定しました。
 これまでのご支援・ご協力ありがとうございました。

http://www.ne.jp/asahi/kawagoe/orimonoichiba/contents/contents.html

 そうそう、どんなところかって?
https://www.youtube.com/watch?v=vB9V_srdFBE
posted by fom_club at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月28日

初雁公園野球場

 それぞれのGW二日目日曜日4月27日、こんなふうに過ごしました便りが届きましたのでご紹介:

 私の方は、東京メトロのジャイアンツ・スタンプラリー(注1)に朝からメトロ巡りとなり、そのため山岳映画『聖職の碑』(注2)を見損なって、スカンプラリーは、ドームスタンプのみを残し9箇所で捺印してきました。

 (注1)
 東京メトロ(本社:東京都台東区、社長:奥義光)と読売巨人軍(本社:東京都千代田区、社長:桃井恒和)では、「東京メトロ×GIANTS PRIDE 2014 特別企画 Baseball スタンプラリー」を2014(平成26)年4月26日(土)から2014(平成26)年5月29日(木)まで開催いたします。
 このスタンプラリーは、東京メトロで東京ドームにお越しになるジャイアンツファン、野球ファンやご家族の皆さまに、より東京を楽しんでいただくスタンプラリーです。
 東京メトロ各駅に設置されているラックよりスタンプラリー専用リーフレットを入手していただき、特製スタンプを集めて応募すると抽選で素敵な賞品をプレゼントいたします。
 スタンプラリーは東京メトロラウンドと東京ドームラウンドの2部構成となっています。

 (注2)
 ヤッホー君のこのブログ、2011年08月27日付けの二本の日記『聖職の碑』、『上伊那郡教育会』をぜひご参照、お読みください、とのことです。
 『1978年作、実話に基づく新田次郎の同名小説を「八甲田山」に続き森谷司郎監督が映画化。大正2年、中央アルプス木曽駒ヶ岳で、小学校の修学登山中に暴風雨が襲い、教師と生徒計11人が犠牲となった遭難事故の…顛末を描く』(都写真美術館パンフ)


 すぐに東京都写真美術館(注3)に引き返し、最後の回の『氷壁』(注4)を観ることが出来ました。
 これだけは、観ずして帰れないので、頑張って観ました。
 前穂高で菅原謙二と川崎敬三が冬山登山であと頂上まで30mと言う地点で、ナイロンザイルが切れて川崎敬三は、事切れてしまうという惨事を冷徹に描写した人間ドラマの佳作でした。
 90分間、満足しました。
 ザイル切断が故意(殺人)か事故か、で社会問題(当時)になった訳ですが、結末は、解らないままに終わったのが、何かつっかえるものがあるのですが、世の中には真相が謎のまま、ということはよくあることです。  ですので、これはこれで良かったと自分で納得しています。
 井上靖の原作は、サスペンスではないので、人間の心理を掘り下げる点に重点を置いた問題作ではないでしょうか?


 (注3)
 人は何故、山に登るのか? 永遠の問いに挑む二週間!
 今春3/4〜5/6に開催される写真展「黒部と槍 冠松次郎と穂苅三寿雄」に関連した企画として、二十世紀初頭の黎明期から現在に至る《山岳映画》の系譜を俯瞰し、回顧する特集上映を行います。
 時代を超えてバトンが受け継がれ脈々と作られてきた《山岳映画》の数々を、空前の 規模のラインナップで、一挙にお楽しみいただきます。
(東京都写真美術館公式サイト)
http://syabi.com/contents/exhibition/movie-2271.html

 (注4)
 『1958年作。北アルプス穂高連峰で実際に起きたナイロンザイル切断事件に題材を取った井上靖のベストセラー小説を、増村保造(監督)、新藤兼人(脚本)のコンビで映画化。山岳遭難事件に社会的な視点とラブロマンスが交錯する』(同館パンフ)


 話しは変わりますが、現地で偶然にもSさんにお会いしました。
 写真展と映画『黒い画集、ある遭難』(注5)を観たと言っていました。
 せっかくお会いしたので、食事をして映画の話等して別れました。
 それと山歩クラブでソフトボールチームを作ると言う話はどんないきさつでそうなったのですか?
 私は、過去にソフトボールチームに入って夢中にやっていた時期がありますが、今やるとしたら無理かもしれません。
 でもやりたいですね!


 (注5)
 『1961年作。松本清張の短編集「黒い画集」から、山岳遭難とミステリーが緻密にミックスされた「遭難」を映画化。東宝娯楽映画を牽引した杉江敏男監督は、本作を自身のベストムービーのひとつに挙げていた』(同館パンフ)


 ヤッホー君、4月28日月曜日朝、次のようにお返ししたそうです:

 おはようございます。
 ソフトボールの話、昨日のわれわれタウンウオーキングチームのとったお昼の場所は、中院、仙波東照宮、喜多院、川越城本丸御殿、川越市立博物館・美術館と歩いて来た後の「初雁公園野球場」(注6)。
 ここで開かれていた「第27回県民総合体育大会(軟式野球競技)」(注7)、坂戸・鷲球クラブと入間東・ザダイナマイツとの試合観戦しながら、というわけだったんです。
 試合の方は、坂戸・鷲球クラブが4対3で勝ちました。
 野球場は両翼91mと神宮球場と同じ広さだとか、スコアボードも点滅、アナウンスもあり、審判も確か、なかなか立派な球場でした。
 ここで地域の野球チームの対戦試合を見ながらお弁当をひろげていたら、われわれタウンウオーキングチームのチームメートのおひとりは、ムカシ、江東区内の野球場を使って、社会人野球をやっていた、というムカシ話に花が咲き、そこから自然に我がクラブも、2チームつくって、クラブ内でソフトの試合をやりましょうよ、と自然にもりあがったわけです。
 今年度の一大プロジェクト、ぜひ実現すべく、皆んなで考えてみましょう!


 (注6)
 旧川越城本丸跡で、本丸御殿などの史跡も数多くあり、隣接する博物館、美術館とともに観光コースともなっています。
 また、ナイター設備のある野球場、夏季に開園するプールなどスポーツ施設があります。
 野球場は、高校野球の予選会場としても利用されており、開催期間中は選手や関係者など多くの人で賑わいます。
(川越市公式サイト、初雁公園(はつかりこうえん)
http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1314750950753/

 (注7)
 「埼玉県野球連盟公式サイト」
http://saitama.jsbb.or.jp/tournaments/596
posted by fom_club at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月27日

川越まちあるき

 今日4月27日はGW連休の二日目、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。
 山歩クラブは6人でのタウンウオークの日。
 場所は、川越を選びました。
 いやぁ〜折しも春の好天気、観光客でどの街角も人であふれかえっていました。
 われわれは8時に清澄白河駅ホームに集合し、どういうわけか最安値の生き方では、渋谷まで半蔵門線で行き、そこから急行川越市行き電車に乗り、9時半、駅で山の友、井上冨美氏と待ち合わせ、としたわけです。
 打ち上げは午後3時半から川越駅前の「さくら水産」、という行程で、大層疲れましたが、いやはや道中、あごがはずれんばかりのあっはは、おっほほの連続でいまも思い出し笑いをしている有様です。
 あんまり良かったので、次回はちっと足を延ばして小川町のタウンウオーク、それに山歩クラブ内にソフトボールチームをふたつつくって、今年対戦をしようと決まりました。
 カイチョウさん曰く、山歩クラ ブは、<総合スポーツクラブ>を目指しているのだから、大いにけっこうということでした!

喜多院.jpg

 これは、喜多院。

川越.jpg

 これは、川越七福神のひとつ、見立寺(けんりゅうじ、川越市元町2−9−11 Tel 049-222-3321、布袋尊尊前。

時の鐘.jpg

 これはうわさの「時の鐘」!
posted by fom_club at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月26日

檜原村字人里

 4月20日の日曜日、山歩クラブ・番外編山行は「笹尾根」でしたが、あれから明日で一週間、早いものですね。
 その間、ヤッホー君はマレーシアにまで飛んでいきましたが、帰還促進の波に乗って、もう一度振り返ってみましょうよ。

 あの日、数馬峠から蛇の湯温泉に下山して、峠の先にある槇寄山は次回に積み残しとしたのですが、正しい判断だったようですね:

 槇寄山(1188m)は雪が降ってます。
(「数馬の湯」ブログ、2014-04-20 11:13:00投稿)
http://ameblo.jp/hinoharakazumanoyu/entry-11827958740.html

 でも、印象に残る良い歩きができました。
http://www.suntory.co.jp/eco/forest/shortmovie/forest/movie05.html

 そして不思議に思ったのが、標識に見た地名の読み方!

 【サントリー「天然水の森 奥多摩(企業の森)」】
 5月初旬から植林作業を始めたこのエリアの所在地は、<東京都西多摩郡檜原村字人里>です。
 とうきょうと・にしたまぐん、までは普通に読めますね。
 続く<檜原村>は、“ひのはらむら”と読みます。
 ちょっと迷うかもしれませんが、まあ、なるほどね、ですよね。
 <字>は“あざ”ですが、問題は<人里>。
 な、なんと、「へんぼり」と読むのです。
 普通、読めません。人里=へんぼり、なんて。
 奈良の時代、この辺りには、大陸から渡ってきた人たちが集落を作っていたそうです。
 そして、「へん」は古代モンゴル語で“人”を、「ぼり」は古代朝鮮語で“里”を意味する。それで、<人里>と書いて「へんぼり」と読む、というのが有力な説なのだとか。
 写真は、企業の森の尾根筋から見たへんぼりの集落。
 いやー、それにしても驚きです。
 人里=へんぼりという読み方。

(2010.05.20ある日の「天然水の森」、「人里。驚き!の読み方」)
http://www.suntory.co.jp/eco/forest/diary/2010/20100520_01.html

 GW間近、ようやく遅い春がめぐってきたようで、村(4月1日現在1195世帯、2441人)は、これからがお出かけのシーズンです!

 【観光】
 観光面では、村の80%が秩父多摩甲斐国立公園となっており、豊かな自然の佇まいそのもの全てが観光資源であります。
 村を訪れる観光客は、四季、さまざまな彩りに魅せられ年間37万人にも及んでおります。
 また神戸岩や払沢の滝、歴史・文化遺産を展示した郷土資料館や滝巡りなどの観光ルートや、山岳自然公園の都民の森が人気の的となっており、加えて、民宿の多い数馬地区に「数馬の湯」として温泉センターもあり、日帰り観光を含め多くの方々に親しまれています。

(檜原村公式サイト、行政情報、村の概要)
http://www.vill.hinohara.tokyo.jp/gyousei/01_gaiyou/index.html

 神戸岩、払沢の滝ってなんと発音するのかな?
 回答を求めてまた行きたくなってうずうずしているヤッホー君です。

 【第19回「人里の市」開催のお知らせ】
 下記日程で第19回の「人里の市」を開催します。
 手作りにこだわった地元産の商品をお買い求め下さい。
 うどん・おやき・野菜・木工品・陶器等販売します。
  日時:2004(平成26)年5月3日(土)〜4日(日)9時〜15時
  場所:人里休暇村(東京都西多摩郡檜原村人里1527)
  交通:(車)檜原街道を数馬・奥多摩方面に向かい売店「山小屋」を過ぎて2分
  お問合せ:Tel 042-598-6777(檜原窯・森井)まで。

http://henbori.kakurezato.com/poster201405.pdf
posted by fom_club at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月25日

ガラスのうさぎ

 ヤッホー君のこのブログ、4月23日付け日記「大江賢次」をご参照ください。
 そのなかで「ガラスのうさぎ」が出てきました。
 年度も替わったことですし、イマ、ヤッホー君のブログの過去録をあげておきたいのです:

 ★ 2011年2月21日付け日記「二宮駅南口」
 ★ 2011年2月22日付け日記「本所区緑町」
 ★ 2011年2月23日付け日記「ガラスのうさぎ主題歌」
 ★ 2011年2月26日付け日記「Ma, naam bakan ako」
 ★ 2011年4月27日付け日記「おおブレネリ」


 ぜひお読みくださいな。
 まずは、もう一度聴いてくださいね。
https://www.youtube.com/watch?v=JNg-TYfdS8c

 そして次は今年2014年の3月「清澤眼科医院通信」です。
 このなかに先生は、敗戦から60年後のニュース報道番組を投稿なさってくださっておりますので再度、あるいは何度でも繰り返し、ご家族で観て見ましょう。
 映画「ガラスのうさぎ」と作者、高木敏子さんのお話しがでてきます。

 東西線南砂町駅前の(医療法人社団 深志清流会)清澤(清沢、きよさわ)眼科医院 Kiyosawa eye clinic です。
 眼科トピックス、お知らせ、近隣の見所等を発信。
 東京都江東区新砂3−3−53 Tel 5677-3930
 明日はこの辺りで昭和20年に東京空襲があった3月10日です。

(2014年03月09日)
http://blog.livedoor.jp/kiyosawaganka/archives/54106003.html

 昨年2013年の夏も:

 平和を願いJR二宮駅南口に建立された「ガラスのうさぎ像」に、今夏も約8万羽の千羽鶴が飾り付けられた。
 二宮町民有志でつくる「ガラスのうさぎ像を千羽鶴で飾りましょう実行委員会」(吉成泰子代表)の取り組みで、8月16日朝まで飾られる。

 千羽鶴は、会のメンバーら約25人が町内の施設に集まり、折り鶴に針で糸を通し千羽の束にする作業などを数日かけて行った。
 2010年から始められ、町内のほか、小田原や横浜など各地から千羽鶴が寄せられるようになった。

 2011年から協力している二宮南口駅前商店会(神保宣昭会長)は今回初めて、絵馬200枚を商店などに配布しメッセージを書いてもらった。
 「愛」「世界平和」「絆」「戦争のない地球」などと書かれた絵馬が、千羽鶴とともに飾られている。

 8月6日午後1時から、町生涯学習センターラディアン(二宮)で、「『ガラスのうさぎ像』平和と友情のつどい」(町主催)も開かれる。
 町内の小中学生の合唱。碑文の朗読、コンサートなどを行う。
 入場無料。問い合わせは町総務課電話0463(71)3311。

(2013.08.04 00:03:31更新、神奈川新聞「駅前<ガラスのうさぎ像>に千羽鶴/二宮)
http://www.kanaloco.jp/article/60966/cms_id/60757

 でも先月には悲しいニュースも:

 JR二宮駅南口のシンボル、クスノキが枯死していることが分かり、3月に伐採され、植え替えられることが決まった。
 明治、大正、昭和、平成と1世紀以上にわたり、町の変遷を見守ってきたクスノキとの別れを惜しむ声が出ている。

 クスノキは高さ約14メートル、幹の直径約1.2メートルの大木で、南口の階段を下りてすぐのロータリーの一角にある。
 一昨年2012年、町が樹木医に委託した調査で、幹の8割ほどが空洞化し、台風などで倒壊の恐れもあることが判明。
 安全面を配慮し、伐採することが決まった。

 町の歴史に詳しい元漁師の西山敏夫さん(80)によると、町史などから、クスノキは1895(明治28)年、日清戦争の講和条約を記念し、県知事から各小学校などに配られた台湾産の種子が芽生えた一つではないかと推測されるという。
 1902(明治35)年の二宮駅開業に伴い、駅前に植え替えられたとみられる。

(2014年2月26日03時00分朝日新聞デジタル、足立朋子記者「(神奈川)二宮駅南口のシンボル・クスノキ枯死」)
http://www.asahi.com/articles/ASG2S55NQG2SULOB01B.html
posted by fom_club at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

飛んでイスタンブール

 長崎の鐘から韓国映画『8月のクリスマス』そしてマレーシアまで、飛んで飛んでイスタンブール。
 今日は今日の顔でめぐりあうのがルール、なんというシュール!
https://www.youtube.com/watch?v=yzzF8QjMgq8
https://www.youtube.com/watch?v=bMFcsYodg1c

 はっちゃんの記者会見が昨日24日木曜日の地元紙 The Star に載りました:

George Town: Consumers Association of Penang (CAP) has urged the authorities to enact a law on compulsory hala certification for all medecines and food supplements.

 ことほどさように国が違えば、日常生活で普通の人びとの気がかりなことも違ってくるのです。
 なにも「グローバリスム」という名のもとに、ほんの一握りのおカネ持ちの貪欲さに、圧倒的な人びとの命までも差出す必要はない、のです。
 昨晩、ヤッホー君は、文京シビック小ホールで超満員の350余名を超す日本人(それほどいらっしゃったのですねぇ…)を前にお話しなさった講演会「チェルノブイリと福島」で、びっくりしながら実感してきました。
 お話ししてくださったのは、あのウクライナはキエフからいらっしゃったシネオカヤ・インナさん(1981年生まれで5歳のお子さまのお母さん)と、広河隆一氏(1943年生まれ)のお話し。
 そのお話はおいおいしていくことにしまして、日本から韓国、マレーシアに飛んだのは何もヤッホー君だけでなく、あの方もそうみたいですよ、あっ、今日、飛ぶのですか?  
 ヤッホー君の昨日のブログでご紹介申し上げましたマレーシアの元首相、マハティールさまはこんなことを…:

PUTRAJAYA: Tun Dr Mahathir Mohamad said it was up to United States president Barack Obama if he wants to meet Opposition leader Datuk Seri Anwar Ibrahim.

"It is his(Obama) right, up to him who he wants to see, he does not even want to see me, a former prime minister," Dr Mahathir told reporters.

He was commenting on PKR's regret that Obama, on a three-day official visit to Malaysia from Saturday, would not be meeting Anwar.

Dr Mahathir said the government did not have the power to prevent Obama from meeting anyone, including Anwar.

"If they are dissatisfied, they can go and ask Obama himself, whether we(the government) are barring Anwar from meeting him," he said.

The visit of the US president will be Obama's first official visit to Malaysia after President Lyndon Johnson's visit in 1966.

Other than Malaysia, Obama will also visit Japan and South Korea before ending his visit to Asia, in the Philippines.

(Dr Mahathir: Obama does not even want to meet me, not only Anwar, Updated: Thursday April 24, 2014 MYT 9:47:19 PM)
http://www.thestar.com.my/News/Nation/2014/04/24/mahathir-mohamad-barack-obama-anwar-ibrahim/

 マレーシアでの TPPA 交渉にはこんなことも、あっ、その前に、国家の「線引き」(注)に関することも:

KUALA LUMPUR: US President Barack Obama's visit to Malaysia this weekend will provide assurance to Malaysia in terms of national security in regard to the territorial dispute over the Nine-Dash Line in the South China Sea, said the Jeffrey Cheah Institute on Southeast Asia.

"It think it will bring us assurance on the Nine-Dash Line in the South China Sea. Malaysia will not be pushed around by its big neighbours (on that issue)," its President, Professor Datuk Dr Woo Wing Thye, told reporters after a talk on "The US Pivot to Asia and Its Implications for the Region" yesterday.

The talk was jointly organised by the Asian Strategy and Leadership Institute and the Jeffrey Cheah Institute on Southeast Asia.

The Nine-Dash Line refers to the demarcation line used by the Chinese and Taiwanese governments for their claims of part of the South China Sea.

The contested area includes the Paracel Islands, occupied by China but claimed by Vietnam, and the Spratly Islands, disputed by the Philippines, China, Brunei, Malaysia, Taiwan and Vietnam.

Woo said Obama's visit would also keep the talks on the Trans-Pacific Partnership abuzz, adding the conclusion of the trade pact during the visit is very unlikely as Obama does not have fast-track authority from his congress.

"We are not going to see the completion of the TPP anytime soon," he said.

…Read more: Don: Obama's visit will give Malaysia assurance over South China Sea dispute - Latest - New Straits Times http://www.nst.com.my/latest/don-obama-s-visit-will-give-malaysia-assurance-over-south-china-sea-dispute-1.578382#ixzz2zqJS1B3H

 で、日米の TPPA 交渉をかたずをのんで見ていたのが、地球の反対側のチリの Andres Rebolledo, who has overall responsibility for Chile's trade relations さん:

SANTIAGO (Reuters) - A stalemate between the United States and Japan on farm and auto markets in Pacific trade talks is locking all the participants in a "waiting game," Chile's head of international economic relations said on Thursday.…

The TPP seeks not only to abolish remaining tariffs on goods trade, but also set uniform standards on a range of issues including labour laws, environmental standards, and intellectual property protection, where the interests of developing countries sometimes do not coincide with advanced economies.

From Chile's point of view, the main sticking points were provisions relating to investment, the environment, copyright and the balance between protecting the intellectual property in pharmaceuticals and providing access to medicines, said Rebolledo.

The other countries involved in the TPP are Peru, Mexico, Canada, Australia, New Zealand, Brunei, Singapore, Malaysia, and Vietnam.
(Updated: Friday April 25, 2014 MYT 5:46:12 AM
U.S., Japan trade pact stalemate keeps partners waiting - Chile
BY ROSALBA O'BRIEN)
http://www.thestar.com.my/News/World/2014/04/25/US-Japan-trade-pact-stalemate-keeps-partners-waiting--Chile/


(注)諸島や、島の岩礁がどっちの「国」の領土か、なんてグローバリスムの本家は一言も言っていませんけど、一方的に記述した教科書ではどう書かれて、子どもたちにどう教えるんでしたっけ?

“Our commitment to Japan’s security is absolute and article five [of the security treaty] covers all territories under Japan’s administration, including the Senkaku islands,” Obama said during a joint press conference with Abe.

We don’t take a position on final sovereignty on the Senkakus but historically they’ve been administered by Japan and should not be subject to change unilaterally.

“My hope is that Chinese will continue to engage with the US and other countries. We don’t take a position on this piece of land or this piece of rock but we do take a position on the peaceful resolution of these disputes.”

Obama says US will defend Japan in island dispute with China

President on state visit to Japan warns against challenge to Tokyo's administration of Senkaku islands
(Justin McCurry in Tokyo and Tania Branigan in Beijing
theguardian.com, Thursday 24 April 2014 07.38 BST)
http://www.theguardian.com/world/2014/apr/24/obama-in-japan-backs-status-quo-in-island-dispute-with-china
posted by fom_club at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月24日

8月のクリスマス

 映画『絶唱』から原作者に飛び、昨日は文庫本まで探しに本屋さんへ。
「絶版です」と調べていただいて肩を落として本屋さんを去ろうとしていたヤッホー君、もう一度レジに向かい、お姉さまに、
「絶版って、注文して頼んでも手に入らないということですよね」って念押しをしていたそうです。
 では、と踵を返して図書館に。
 原作者の奥さまの本を探しに:
 おおえ ひで『8月がくるたびに』(理論社、2001年)
 おおえ ひでさんは上掲書作者紹介によりますと:

 1912年、長崎県生まれ。高浜高等小学校卒業。
 19歳で上京。独学で専検に合格し、保母となる。
 原爆で姉とその子どもたちを亡くした事実を書き残そうと、40歳ころから児童文学の創作を始める。
 『8月がくるたびに』で小学館児童出版文化賞を受賞。
 1996年没。


 長崎市平和基金に1300万円寄付 作家・おおえひでさんの二男
 本県出身の児童文学作家で10年前に84歳で亡くなったおおえひでさんの二男、大江千尋さん(62)=東京都杉並区=が、ひでさんの土地の売却金の一部1300万円を長崎市の平和基金に寄付した。
 ひでさんは『八月がくるたびに』といった原爆をテーマにした著書があり、大江さんは
「長崎原爆資料館の書籍購入に使ってほしい。母も喜ぶと思う」としている。
 ひでさんは旧西彼野母崎町(現長崎市)出身。
 長崎市に原爆が投下された時は夫の実家がある鳥取県に疎開していたが、親族が被爆し亡くなった。大江さんは、
「そのことが戦後を生きる中で母の原点になっていたようだ」と話す。
 ひでさんは戦後東京に住み、10年前に病院に薬を取りに行く途中に倒れて死亡したという。
 土地は昨年2005年12月に売却した。大江さんは、
「母の思いと資料館の設立趣旨は大きく重なると思い寄付を思い立った」としている。

(2006年12月19日長崎新聞掲載)
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2006/kijif12.html

 ところでヤッホー君、またまた飛んで行ってしまいました。
 8月って聞いたら前に観たなぁ〜と、ヤッホー君、またムカシに思いが飛んで行くのです。
 それは1998年(日本では翌1999年)公開の韓国映画『8月のクリスマス』:

https://www.youtube.com/watch?v=Vbdn12X9btc

 これは日本でもリメーク版(2005年、配給:東芝エンタテインメント)があります:

 ぺ・ヨンジュン主演『四月の雪』のホ・ジノ監督のデビュー作にして韓国恋愛映画の名作といわれる同名映画をリメイク。
 主演とともにサウンドトラックも担当するミュージシャン、山崎まさよしが『月とキャベツ』以来8年ぶりにスクリーンに復活する。

http://www.cinematoday.jp/movie/T0003405

https://www.youtube.com/watch?v=2xdNzmSN8Kk

 この1998年、1999年ころの韓国って実は、「アジア通貨危機」という国難にあったときでした。
 『8月のクリスマス』のスクリーンの向こうに、ヤッホー君はアジアが透けて見えてくるのでした。
 ん?韓国から、今度はマレーシアに飛んで行くの?
 そう、とヤッホー君:

 タイ、韓国、インドネシアは、IMF支援を受け入れると共に、IMFが見返りとして要求する緊縮財政・高金利政策、対外開放政策促進なども受入れた。
 一方、マレーシアはIMFの支援を仰がず、資本規制強化による投機資金の排除、固定相場導入と金融緩和促進など、独自の経済回復政策をとってきた。
 規制強化がなされた当初は「時代錯誤の政策」「効果は限定的」と不評だったマハティール首相の政策は、時を経るにつれ「うまく行っているのではないか?」との肯定的な評価に変化していった。

(2000年度優秀修士論文、近藤信一「アジア通貨危機とマレーシアにおける独自の金融政策〜マハティール首相による「資本取引規制・固定相場制」政策の考察と課題〜」)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/g-vol1/kondo.pdf
posted by fom_club at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月23日

大江賢次

 映画『絶唱』の原作は大江賢次(おおえ けんじ、1905-1987)。
 昨日の朝、日比谷公園で写真「ハナミズキ林」を撮りましたが、図書館で彼の原作を読みたかったから。
 もう一葉ありました、都心でも花の季節を迎えました!

日比谷公園.jpg

 しかし図書館には文庫版でも、肝心の本が置いてありませんでした。
 たしかに戦時中の悲恋ものだったのかもしれません。

 鳥取県溝口町(現伯耆町)出身。賢次は旧溝口町宮原に生まれる。
 尋常高等小学校時代に後の東大教授、池田亀鑑に学び、上京後は武者小路実篤の書生となる。
 戦争中は郷里に疎開し、「麓人会」結成に参加した。
 代表作に純愛を描いた『絶唱』、大陸放浪の経験を基に書いた『シベリヤ』など…
 『葬婚歌』と題した原稿は『絶唱』の第三稿にあたる作品。
 原稿を入れていた封筒には、
「捨てようと思ったが、当時のけんめい(懸命)なほどが愛惜され、思い出のため残した」と記し、雑誌に発表して反響が大きかった短編『葬婚歌』を基に長編を書き下ろした経緯や、題名を再考し『絶唱』としたが、
「あまりに口幅ったい題で気がひけた」ことなども書き残している。

「年来の宿題を終えて大変うれしく、ほっとしている。大江賢次に興味を持った方が、情報にアクセスできるようになれば」と希望さん。
 同図書館の上田京子統括司書は、
「資料としては一級品で、大江賢次のすべてと言っていいのでは。きちんと整理して研究に役立てたい」と話している。

(2006年3月10日の紙面から日本海新聞ローカルニュース「作家・大江賢次の家族が米子市立図書館に遺品寄贈」)
http://archive.today/R0cFr#selection-475.0-475.19

 彼が生まれた伯耆町って、深田百名山の大山(だいせん、1713m)がそびえているところ:

 大山西側にある当町から望む均整の取れた山容は、まるで富士山のように見えることから古来より「伯耆富士」「伯耆大山」と呼び、親しまれて来ました。
 当町から望む「伯耆富士」「伯耆大山」の眺望は、まさに当町の誇りであり「伯耆町」と命名いたしました。
(元々の伯耆国の「ほうき」の語源については「山脚が断崖となって水に落ちるところ」など諸説あるようです)

http://www.houki-town.jp/p/new1/1/1/

 上京して作家になった大江賢次、ひょいとこんなところに顔をだしておられましたよ:

 小説家、評論家であり、また、英文学者でもあった阿部知二(1903-1973)は、1941(昭和16)年の秋、一枚の「徴用令書」を受け取った。
 周知のように、1939(昭和14)年7月に施行された「国民徴用令」には、「帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシム」(第4条)との記述があり、太平洋開戦を間近にひかえて、文学者や評論家、音楽家、画家、学者たち、また、新聞や放送などの報道関係者たちのもとへ、いっせいに徴用の声がかけられたのである。
 が、もとより「徴用令書」を手にしたいわゆる文化人たちの多くは、ほどなく開始される大戦のことも、自分たちが何の目的で徴用を受けたのかについては知らなかったであろう…。

 …その時に私の中には、何か軍関係の翻訳仕事でもさせるのか、という甘い想像と、ルーデンドルフ総力戦的思想の連想から、もしかすると北海道の炭鉱にでも、われわれインテリを送りこむのかも知れぬ、という暗い疑念とが、こもごもに入り乱れた(阿部知二、小説「十年」)。

 やがて、陸軍報道班員(宣伝班員)として南方へ送られるということ、軍属という身分ではあるが兵士と行動を共にし、戦場に身を挺することなどが知らされる。
 「体格検査」を受け、一週間ほどの準備期間を経た後、阿部は麻布の第三連隊に入れられ、約1ヶ月の間、同じくインドネシアへ派遣される武田麟太郎(1904-1946)、北原武夫(1907-1973)、大江賢次といった作家仲間と共に、「一兵卒として鍛え」られるという体験をもつ。

…木村一信(1946年生まれ、現プール学院大学学長)「阿部知二とインドネシア体験」、1991年度昭和文学会秋季大会(1991.10.12於昭和女子大学)研究発表

 ますます、読みたくなってきた彼の『絶唱』、今日も本を求め徘徊することになるのでしょう。
 あっ、彼の奥さま、おおえひで(1912−1996)の本も読みたいな。
 これは、奥さまの『八月がくるたびに』(新・名作の愛蔵版、理論社、2001年)を読後した感想文です:

 小学生高学年の娘が戦争(第二次大戦)について知りたいと言い出したので、これを親子共読みました。
 他にも「ガラスのうさぎ」「ひめゆりの少女たち」等を読みましたが、どれも、戦争のむごたらしさ、家族を失う悲痛な苦しみが描かれています。
 この本では、最後の章で、戦後平和の日本で、長崎の平和記念碑に訪れて、ふざけてポーズをとって笑っている学生たちを目にして、原爆被害者の主人公が心を痛める場面が書かれています。
 確かに、修学旅行で長崎や広島の原爆ドームへ行ったりするでしょう。
 でも、学校の先生は、そういうところへ生徒を引率する前に、こういう本を生徒に読ませておくべきでしょう。
 この本を読んでから連れて行ったら、そのような賑やかな気持ちで平和記念碑の前に立つことはできないはずです。
 なぜ、教科書に、このような話を載せないのかな。
 なぜ、夏休みの必読書としないのかな。
 目を背けたくなることですが、目を背けているうちに、同じ過ちを繰り返す向きに進んでいってたらどうするの?

(2008/1/31カスタマーレビュー)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4652005121/
posted by fom_club at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月22日

絶唱

 4月22日火曜日。
 もう街なかのハナミズキが咲き誇っています。
 下の写真は今朝9時半、日比谷公園の「ハナミズキ Dogwood 林」:

ハナミズキ.jpg

 ヤッホー君、『絶唱』(舟木一夫・和泉雅子主演)って言われて気になって気になって…

 鳥取県智頭町出身の映画監督・西河克己氏から映画監督資料を寄贈いただいたのを機に、映画記念館として整備し2001(平成13)年度に開館しました。
 西河監督の数多くの作品のうち、「絶唱」(昭和41年日活)は40年当時、智頭町でロケが行われ話題となりました。

(智頭の見どころ、西河克己映画記念館)
http://cms.sanin.jp/p/chizu/kankou/pickup/eigakinenkan/

 監督の西河克己氏は、1918(大正7)年、鳥取県八頭郡土師村に生まれていました(一昨年、2010(平成22)年、肺炎で亡くなっていました。享年91歳。
 映画『絶唱』はこれまで3本も製作されています。
 そして、その2本が西河克己氏の監督になるのですよ:

 ★ 1958(昭和33)年版、小林旭・浅丘ルリ子(滝沢英輔監督)配給:日活
 ★ 1966(昭和41)年版、舟木一夫・和泉雅子(西河克己監督)配給:日活
 ★ 1975(昭和50)年版、三浦友和・山口百恵(西河克己監督)配給:東宝

 こんなエピソードがありました:

 映画の企画は、舟木一夫さんが年初に日活へ持ち込んだものの、亡くなった女性と結婚する話であることや1958(昭和33)年に小林旭さんと浅丘ルリ子さんが出演した作品が苦戦したことなどから、経営陣としても製作に踏み切ることを躊躇したのです。
 出征場面での丸刈りにも意欲を示した舟木さんは、
「もし入りが悪かったら、次の作品は、無条件・ノーギャラで出演します」と経営陣にかけあい、ようやく日活側からGOサインが出たと言います(『舟木一夫の青春賛歌』)。
 映画に自信を持っていた舟木一夫さんは、
「主題歌は要りません」と主張したそうですが、日活側は「絶対に必要」と譲歩せず、レコード会社側もイメージが沸かずに困っていた時に、作曲家の市川昭介さんが
「演歌を書いている新人作詞家の詞につけた曲を聴いて欲しい」とディレクターに持ってきた曲が、後の「絶唱」のメロディーでした。
 大御所・西條八十さんの作詞による楽曲は1966年(昭和41年)8月に発売され、並行して撮影が進行した映画は翌9月に公開されています。
 共演した和泉雅子さんが
「2人の相性の良さが一番いい形で残った作品」と語る映画は、舟木一夫さんの思惑通りに大ヒットして、前述の通り、この年に公開された日活映画の配収第1位となりました。

(2013年9月6日(金)更新、俳優としての舟木一夫、日活青春路線に”歌謡映画”の王道確立。
著者・鈴木清美「昭和の青春ポップス〜iuta.jp〜」)
http://iutajp.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-ad42.html

 当時の映画界って苦戦していました:

 1965(昭和40)年、年間映画観客動員は4億を割り、3億7千万にまで落ち込んでいた。
 実に最盛期の3分の1である。
 この時期にもくろんでいた経営改革をやり遂げたところが生き残り、失敗したところが脱落した。
 前者が東宝、東映、そしてかろうじて松竹であり、
 後者が大映と日活である。

…板持隆(1930(昭和5)年鹿児島県生まれ)『日活映画、興亡の80年』(日本映画テレビプロデューサー協会)、78頁

 減産に転じた映画各社がいずれも生き残りをかけ、必死に経営改善に取り組んでいる最中、ひとり日活のみは、社長と専務の不和、絶え間のない組合攻勢によって、何ひとつ立ち直りのきっかけを掴めないまま、転落を続けていた。
 営業成績はずるずる後退する一方、組合闘争による後遺症、臨時人件費など無駄な出費を発生させていた。
 1967(昭和42)年の日活は既に末期がん患者の症状に移行しつつあった。
 銀行融資もままならず、経営陣は給料遅配、賞与支払い不能状態にありながら、ゼロ回答による組合の抗議を恐れ、高利借入れ、不動産売却などで、その場限りのしのぎを繰り返していた。

…同書、85頁

 では、お待たせしました。
 まずは、2014/04/17公開の舟木一夫『絶唱〜吉野木挽唄入り〜』:
https://www.youtube.com/watch?v=4pwdzulWk4E

 次いで、2012/05/10公開の YouTube から。なぜ吉野木挽唄なのかがイマ明かされようとしています:

 山口百恵さんの「山鳩」を唄ってみました。男声Verです。東宝映画「絶唱」の主題歌です。映画紹介ナレを読んでみました
https://www.youtube.com/watch?v=TF8pw2jiPOA
posted by fom_club at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月21日

4月の雪

 山の力、仲間との語り合い、つつじの花や芽吹いたばかりの新緑にすっかり「おなかにきた風邪」も完治したのですが、都心は今朝も雲がたちこめ、ひんやりとしています。
 
 そういえば、昨日の日曜日ってどんなお天気だったのかと見ますと、東京の温度は北海道の札幌より低かった?え〜?!

 今日4月20日日曜日の東京は気温が上がらず、3月下旬並みの肌寒さとなりました。
 ここ最近、初夏の陽気を体験しただけに、体に堪える寒さとなりました。
 20日正午の気温を比較すると東京は12度5分、一方、札幌は12度6分と逆転!!
 どうしてこんな事になるのでしょうか・・・。

 天気図を見ると本州付近は広く高気圧に覆われています。
 でも、高気圧の中心が日本のどのあたりを通過するかによって、晴れる地域が変わります。
 高気圧の中心より北〜東側にあたる地域は晴れますが、高気圧の中心の南〜西側は雲が広がりやすいエリアになります。

 20日の札幌は、日中は北風が吹き、乾いた空気に包まれました(湿度は21%まで下がりました)。
 晴れて日差しがたっぷり降り注ぎ、正午の気温は12度6分、この時期らしい陽気になりました。
 一方、東京は冷たく湿った北東の風が流れ込みました。
 日差しはなく正午の気温は12度5分と、3月下旬並みの肌寒い一日となりました。

(2014年4月20日 23時23分 気象予報士/健康気象アドバイザー・安西浩子)
http://www.tenki.jp/forecaster/diary/anzaihiroko/2014/04/20/10341.html

 肌寒いどころか4月に入ってからも断続的に雪があっていた東京都の西部の山中。
 20日に「武蔵五日市」駅8時22分発の急行バスは、臨時の増発便も含め3台の西東京バスでしたが、終点は「都民の森」。
 ここもしたがって春がやっと来たばかり…

 【フクジュソウ】
 2月の大雪の雪が残る中、フクジュソウが芽吹きました(4月3日)。都民の森にもようやく春が来そうです
 【4月の雪】
 5日夜〜6日の朝にかけて冷え込みが厳しく、都民の森では雪が積もりました。
 道路には積もっていませんが、山は真っ白です。

(檜原都民の森 Facebook)
https://www.facebook.com/pages/%E6%AA%9C%E5%8E%9F%E9%83%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%A3%AE/121408104669815 

 ですので、あの2月の大雪のときは、ほんとうに大変だったようです:
 まずは映像でニュースを:

 大雪の爪痕いまだに 奥多摩町、檜原村で孤立状態続く
https://www.youtube.com/watch?v=KjVS_sDL6j0

 2月20日もバスは部分運休したが、村所有のマイクロバスなど5台で児童を送迎。
 この日、檜原村立檜原小では全校児童67人中66人、檜原中は全生徒40人が登校した。
 午前8時半から同小体育館で開かれた朝会では、吉野一巳校長が「無事、みんなと会えて良かった」と話し、「雪かきを手伝った人は?」と尋ねると、全員が「はーい」と手を挙げたという。
 孤立した数馬地区に住む小学1年、中村真琳さん(7)は「雪かきしないと、家から出られなかった。食べ物ではひき肉が足りなくなった」と話し、神戸(かのと)地区の飯岡優翔君(7)は「停電の間は懐中電灯で過ごした。雪かきも頑張った」と胸を張った。

(2014年02月21日付け毎日新聞地方版【柴田朗】「大雪:小中学校が授業再開 6日ぶり 村のバスで送迎 − 檜原/東京)
http://mainichi.jp/life/edu/news/20140221ddlk13040124000c.html
posted by fom_club at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月20日

笹尾根

 こんばんは。
 今日の穀雨、4月20日日曜日は山歩クラブ、チャレンジ山行の日です。
 向かった山域は「笹尾根」。
 ここは、東京は東京でも武蔵五日市駅からさらにバスに揺られて40分の檜原村。
 ここは、もともと山歩クラブ3月15日の企画として計画したところ。
 でもそのときは、2月の大雪で孤立したところですので3月にも無理だろうと判断して、われわれは笹尾根から外秩父に山域を変更してお山歩きを行なったところなのです。
 しかし、なんとまぁ〜、昨日の土曜日、4月になってからでも三頭山の避難小屋あたりには5pの雪が積もったそうです、そう浅間峠で一服していたおじさんが教えてくれました。
 笹がタワ峰あたりも、登山道はともかくとしてうっすらと雪で覆われていたので、注意してください、と通りすがりのおばさんハイカーからお声が。
 お天気は曇りなのですが、雨合羽が必要。
 といいますのも、森の木々の梢からは、雪解けの水滴が始終、われわれに降ってきてびしょびしょ。
 それにかいた汗で身体中ぐしょぐしょ。
 お昼を食べた丸山1098.3mも視界ゼロ。


丸山.jpg

 ついに数馬峠で鳩首そろえて快議…

数馬峠.jpg

 傑論は、尾根を下り、「蛇の湯温泉たから荘」で身体を温めようということに。
 反対者が約一名(ヤッホー君)、しかし数の力にはかないませんし、反対意見がなにがなんでも、という気迫にもかけており、支持者はあつまりませんでした。
 あっという間に昨夜の就寝時と、朝の出がけで決意した本日の誓い三点セットは瓦解、崩壊、氷解したのでした:
 ひとつ、今日は酒飲まない。
 ふたつ、そのために今日は湯につからない。
 みっつ、だから、きょうはとにかく歩く!

 コース変更したため、徘徊予定時間分をそのまんま湯宿のお風呂時間にあてることができました。
 身体をぬくめることができました。
 帰路は、予定通りの数馬始発のバスで、武蔵五日市駅へ。
 しかし中央線は人身事故で「ホリデー快速」は各駅となり、しかも立川駅どまり、と。
 しかし、山歩クラブはこの帰宅困難症候群の危機、リスクもかいくぐり、無事に8時にはご帰館できましたのでご報告します。
 では皆の衆、次回までごきげんよう。


 おっとっとぉ、終わりじゃなかったぁ〜
 ここで仲間から届いたこだまをひとつ、聴いてみましょう:

 お疲れさまでした。
 初めて参加したチャレンジ山行は、自分の体力が試される絶好の企画の山歩きでした。
 以下が感想です。
 曇天の中、東京駅ホームに朝6時過ぎに6名の人が参加していよいよ目指すは、奥多摩・笹尾根コース。
 中央線の車中はほとんど登山者で埋め尽くされ、まさに登山列車の異名をとるほどに山登りの人で溢れかえっていました。
 「武蔵五日市」駅降車。
 「西東京バス」に揺られること30分強、上川乗で降車して歩き出したのが午前9時。
 自分に試される山歩きがいよいよスタートしました。
 浅間峠から土俵岳。
 鬱蒼と茂った樹林帯をひたすら歩くこと3時間。
 丸山(標高1083m)の頂上で待ちに待った昼飯にしました。
 今日ほど昼飯が待ち遠しく感じたことがなく、とても美味しくおにぎりを食べられました。
 頂上といっても天候はいまひとつ、ガスが出て見通しがききません。
 おまけに低温、昨日降った雪がまだ残雪として林床にあるのです。
 このあたりの山は、まだ春は遠いと感じました。
 下山は、数馬方面へ。
 今日の山、歩いてきた尾根ずたいには、花びらをつけた花が少なく、総天然色とはいえないモノトーンの世界。
 ところが黄色い山吹、それにアカヤシオのつつじ、芽吹いたばかりきれいな緑の新しい葉をつけた木々が彩りも鮮やかに、疲れ切ったわれわれを迎え出てくれました。
 
 予定では、槇寄山まで行く予定でしたが、無理をせず、予定になかったのですが、茅葺き屋根の蛇の湯温泉へ。


蛇の湯.jpg

 この蛇の湯温泉に泊まって、この界隈が、1966年公開の日活作品『絶唱』(主演舟木一夫、和泉雅子)のロケ地として使われたことが、飾られていた色紙で分かりました。
 今は亡きバイプレイヤーとして数多く映画に出演した花沢徳衛のサインがしたためられていたのが、旅の土産になりました。
 ここで疲れを癒やしたことは、からだに良く、と申しますのも、終盤、左足をつってしまったのでした。
 それがこの湯で効果を出し、帰りはすいすい。
 歩行中、万歩計を使っていたので、今日の結果を見たら歩数は23000台になり、時間は、約5時間ぐらいでした。
 さすがに月例の山歩きと違い、ハイペースでの歩行だったので、疲れましたが、精神的には、とてもすがすがしい気分でいっぱいです。
 会長さんの経験の凄さが改めて分かり、ますます山歩きが好きになりました!
 ありがとうございました、山よ、友よ、花よ!
posted by fom_club at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月19日

松籮玉液

 ムソルグスキー『展覧会の絵』は1874年の作でしたか…
 そうするとヤッホー君は、えんえんと「おなかにきた風邪」を治すため薬をのみのみ、それから20年後のこの国のある廃人、あっ、俳人、正岡子規を追いかけていた、ということになりますね。
 ヤッホー君のこのブログ、4月16日付け日記「佐倉城跡公園」で、正岡子規からこんな引用をしていましたね:

 1895(明治28)年という歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身に取つては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。

 1895(明治28)年… これから半世紀後、たった50年も経っていないのに、この国は2ヶ所に原爆を落とされ、都心は無差別空襲に遭い、敗戦を迎えます。
 ヤッホー君のこのブログ、2011年01月25日付け日記「横川国民学校」を再読してくださるとうれしいな、ですって、ヤッホー君!

 井上有一(1916-85)の書「噫横川国民学校」。この書に書かれている文章を、緒方拳(1937-2008)が朗読しています。
 彼の声で、よく耳を傾けて聴いて下さいますようお願いいたします…


 ヤッホー君、この年1895(明治28)年のころから、この国に住むだれもかれも皆んなで、「命」を賛えることから、「命」を捧げるほうに踵をかえしたのではないのかな、と思っています。
 そして正岡子規の闘病生活のあいだ、手のひらほどの小さな庭で、地にうごめく虫の這う姿に感動して、ほ
んのわずかな一瞬の幸福感を覚えるのですが、この後のこの国は、戦場に赴くこともしない指導層により、人間の「命」を虫けら程度にしか思いつきません。
 戦いに敗れても、責任をとることもなく、泣いてすがって、わが身とわが家族の保身を戦勝国に訴えることしか考えつきません。 

 随筆集『松籮玉液(しょうらぎょくえき)』は1896(明治29)年に書かれた…
 4月21日の項に、子規は書いている。

  病稍(やや)間あり
  杖にすがりて手のひら程の小庭を徘徊す
  日うららかに照して鳥空を飛ぶ
  心よきこといはん方無し
  2、3本の小松は緑のびて凌雲の勢をあらはし一尺許りの薔薇は莟(つぼみ)ふくれて一点の朱脣(しゅしん)を見る
  秋草はわづかに芽を出していまだ萩とも桔梗とも知らぬに一もとの紫羅傘(いちはつ)は已に一輪の白花を開く。
  雨後土未だ乾かぬ処にさゝやかなる虫のうごめくはこれは命あればなるべし

…ドナルド・キーン、前掲書、203-204頁

 この半世紀、50年間の間にこの国は日露戦争、その後のバブル景気もくぐりぬけます。
 1907(明治40)年1月、東京株式市場は大暴落します。
 日露戦争後の戦勝景気は終わり、翌年にかけて企業の倒産や銀行の休業など経済恐慌が全国を襲ったのです。
 この頃の夏目漱石をみてみましょう:

 当時の日本人(とくに若もの)の精神状況を、漱石は冒険的に小説のなかで、人物造型し、これにきびしい批評を加えるのである…
 (1) 「成功」という流行語で示される立身出世主義
 (2) 金があれば万事可能という金権主義、拝金主義、成金主義
 (3) 世は楽しければいいとする享楽主義
 (4) 生きることの意義を失い懐疑、煩悶に陥るものの増加
 とくに金儲け主義による会社乱立のあげく、1907(明治40)年1月の株式の大暴落が決定的となる。
 戦争景気の波にのって続出した中小企業がバタバタと倒れた。
 この恐慌によって財閥は支配権を強め、国家資本と結びつき産業独占の形をととのえた。
 そしていっぽうに不況と失業にあえぐ民衆の群れ、もういっぽうにますます肥え太っていく資本家、という階級的構図を生んだ。
 これが多くの若ものを煩悶させ、虚無に追い込み、堕落させ、あるいは無気力にならざるをえなくした…
 『三四郎』(注)では、冒頭の東海道線車中の紳士と三四郎との会話がある。

 「しかしこれからは日本も段々発展するでしょう」
と三四郎が弁護すると、紳士はすました顔でいうのである。
「亡びるね」

…半藤一利『漱石・明治・日本の青春』(新潮社、2010年)128-129頁

 1945年から半世紀後、「1995年頃より『市場から退場すべき企業は退場させる』という方針に転じ、不良債権の査定を厳しくして経営状態の悪い金融機関も破綻・再生する処理にかかった。この流れで1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ』(WikiPedia)。

 1945年生まれってイマ69歳?70歳?まさか、庭じゃなく<無何有郷>?<桃源郷>?を徘徊しているなんてことのないよう祈るばかりです:

 2年前に大阪市の路上で警察に保護されたが、名前や住所など身元が全く不明のまま、仮の名前が付けられ介護施設で暮らす重い認知症の男性がいることが分かった。
 男性は自分の名前が分からず、該当する行方不明者届もない。
 専門家は「高齢化が進み、今後このような人が増えていくのでは」と危惧している。

 大阪市は男性に対し、保護された場所にちなんだ名字に「太郎」という仮の氏名を付けた。
 福祉の保護を受ける手続きなどで必要なためだ。
 容姿などから70歳と推定して仮の生年月日も決めた。
 現在推定72歳になったが、入所する同市内の介護施設の職員には「実際はもう少し若いかもしれない」との見方もある。

(2014年04月19日毎日新聞東京朝刊「認知症男性:仮名2年、身元不明のまま 阪の路上で保護、届けなく」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140419ddm001040177000c.html


(注)
 1908(明治41)年、「朝日新聞」 に9月1日から12月29日にかけて連載。
 イマわれわれは「青空文庫」で読めます:
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html
posted by fom_club at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月18日

キエフの大門

 4月18日ハナキンですね。
 ヤッホー君、深川クリニックで点滴を受けて二日目、そろそろと向かった先は、江東区深川モダン館(江東区門前仲町1-19-15 Tel 5639-1776、注1)。
 今日は”Salon de モダン”「世界史を学び直そう〜ウクライナの歴史」があったのです(講師は深川東京モダン館の渡辺賢一郎先生)。
 ヤッホー君の今日の学習成果は、イマわれわれのマインドを洗脳し、君臨し、支配している「あれか、これかの」二項対立、図式化、簡便化に負けるなよってことでしたね。

 今日の毎日新聞夕刊です:

 …農産品5項目については、日本が米国産コメや麦の無関税輸入枠の新設などで輸入量を拡大する…
(2014年04月18日毎日新聞東京夕刊)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140418dde001020089000c.html

 あのぉ~、TPPってアジア太平洋各国の集団貿易交渉だとばっかり思っていたのですが、これはやはりアメリカの「カウボ-イ型ネオリベ」、新自由シュギ、市場経済至上シュギなどのシュギ者たちによって、アジア太平洋地域を麾下に、掌中に収めようとする輩に、この国を売り渡すという交渉なんだと暴露しているようなもんですね。
 後できっとアジア各国、そこに住む人びとから哄笑と侮蔑を買い、納得(やっぱりアメリカの属国だったんだなぁ~)のまなざしを向けられるだけのお話?
 この国に住む人びとの無言、沈黙、盲従は、3.11のときの印象とは違いまっせ、皆の衆!

 それに、そんなもんの一員になったら、クジラやクルマと同んなじ、フクシマで公海に垂れ流してる汚染水による被害を国家に賠償請求されることになるでしょうね(いや、それを回避するため、狂牛病のウシの肉も、遺伝子組み換え食料品も、コメも、検査なし、関税なし、表示なしで引き受けるのかも知れませんが…)、ヒ・ミ・ツ交渉ですから、当事者以外誰あ~れも知りません、知ろうとしたら裁かれますもん、おう、こわ、こわ…
 
 この国の人びと、大企業に勤めてるサラリーマンはベアで給料あがってハナキン、その労組もアベノリスクをメーデーに呼んでいっしょにメ〜、メ〜デタイと羊みたいに鳴き叫び、使い捨ての非正規労働者、土地なし農民、家畜なし酪農家は地球の裏側にはい、どうぞで、ネクタイ占めたサラリーマンやコウムインはハナキンで消費税10%対策に、子どもの国立大学医学部入学祝い、医療保険なんて安い治療でなく高額治療で延命、あ、そうそう老後に備えて投資も、なんて居酒屋談義で話題爆笑、いや景気の好循環で最高の4月ですか、ね…

 まずは、「キエフの大門」でも聴きましょうか。
 あのぉ~、江東区の洲崎(現在の江東区東陽)にあった遊郭「洲崎遊郭」の洲崎大門と吉原大門とをつなぐ「大門通り(おおもんどおり)」という道もあるんですが、関係、ナイ:

Mussorgski(1839-1881)/Ravel編曲(1875-1937) "Pictures at an exhibition" (1874)
Promenade ONE in Ljubljana (RTV SLO Orchestra and Orchestre de Picardie-France)
Conducting:Maestro En Shao
July 2009
Pictures at an Exhibition-Great Gate of Kiev
https://www.youtube.com/watch?v=SCn0yFu0wy8

 さらに、Promenade ONE 〜グノームGnomus〜プロムナード Two〜古城Vecchio castello
 演奏:Hal Kahn
 (Orchestral samples included in this recording from Vienna Symphonic Library)
 「展覧会の絵〜ビクトル・ハルトマンの想い出」(1874)は、ロシア民族主義的な芸-術音楽の創造を志向した作曲家集団、「ロシア五人組」の一人であるモデスト・ムソルグ-スキーが、友人ビクトル・ハルトマン(ロシア語読みではガルト-マン、1834-1873)の遺作展に触発されて作曲したピアノ組曲です。
 しかし、その作品はムソルグスキーの生前評価されることは無く、死後40年以上たった-1922年に、セルゲイ・クーセビツキー(1874-1951)の委嘱に基づき、モー-リス・ラベルの編曲により世に知られ、再評価されるようになりました。
 ムソルグスキーは、ロシア西部、エストニア国境に近い、プスコフ州出身の作曲家。
 実家-は東欧を支配した最初の首長リューリクの血を引く名家でしたが、1861年の農地解放-のあおりを受け、零落してしまいます。
 その後、音楽の手ほどきをしてくれた母を失い、自身も士官の道を捨てて作曲家を目指す-も恵まれない日々を送っていました。
 そこに追い打ちを掛けるように友ハルトマンが逝き-、打ち拉がれた状態だったようです。
 1874年に入ってオペラの成功もあって、多少気分が-上向いて居たようです。
 遺作展に大いに刺激を受け、「展覧会の絵」の作曲に取り組んだ-ようです。
 解説中に登場するボルガトゥーリは、キエフ大公国(リューリク朝)の伝説の英雄、すな-わち、ムソルグスキーにとっては、先祖の栄光の象徴です。
 グノームは地の精で、地中に住み植物の根を鉱物に導くとされます。
 尚、解説はあくまで私見で、ハルトマンの作品に触発されたムソルグスキーの私小説的作-品展として書いています。
 参考:WikiPedia/ "展覧会の絵"研究会 http://viole.lib.net/kartinki_s_vystavki/
 ※ Sounds of these movie is made by Hal Kahn using DTM system: Cubase 6 and Vienna Symphonic Libraries.(この動画の音声は Hal KahnがDTMを使って作成したものです):

https://www.youtube.com/watch?v=4XCQ3lFJm4w

 で、本題に戻って、どっちもどっち、の精神とは…
 フェリックス・ガタリの「ノマド」の精神なんだな、と言いたいのですが、とにかく今日はイントロだけ:

The narrative being framed is that a corrupt pro-Russian regime has been ousted by a democratic revolution.
This has no bearing to what has happened. The same media sources that have portrayed Yanukovych as a greedy figure and corrupt autocrat fail to mention that the opposition figures that they present so favourable are also wealthy and have mansions, priceless art, pools, car collections, and vast wealth.
They also fail to mention that the main opposition leaders were already in power before and lost popularity, because of their mismanagement and corruption.
Nor is the fact that the opposition leaders took power through a coup mentioned.
As for the allegations of Yanukovych being pro-Russian, any source that mentions this is either lying or utterly ignorant about Ukrainian politics; Yanukovych’s Party of the Regions caters mostly (but not only) to Russian-speakers and ethnic Russians in Ukraine (which do prefer Russia to the US and the EU), but his party is not pro-Russian at all and has even advanced cooperation with NATO and even disappointed its constituents by trying to bring Ukraine closer to the European Union, instead of Russia, after the most recent elections in Ukraine.
The vilifying language being used against Russia and Vladimir Putin in these reports is very telling too.
This language illustrates or presents the attitudes or beliefs that these media outlets want to project about the Russian Federation and Putin.
President Putin is being framed as an autocrat and militaristic brute.
Putin’s ex-KGB background is frequently referred to as a means of demonizing him whereas the CIA background of George H. W. Bush Sr. was almost never referred to by the same outlets when the latter was president of the US; when the CIA background of George H. W. Bush Sr. was mentioned, it was done either in a passive or positive voice.
The negative language that has been reserved for Putin about a Russian invasion of Crimea has never been used by networks like CNN or the BBC to describe any US president or British prime minister involved in the invasions and wars against Afghanistan, Iraq, or Libya either.

(By Mahdi Darius Nazemroaya: Controlling the Lens:
The Media War Being Fought Over Ukraine Between the Western Bloc and Russia
〜The BBC and CNN versus RT〜)
Global Research, March 27, 2014
http://www.globalresearch.ca/controlling-the-lens-the-media-war-being-fought-over-ukraine-between-the-western-bloc-and-russia/5373364


(注1)
http://www.fukagawatokyo.com/newsletter-021-201404.pdf
posted by fom_club at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

総武鉄道

 ヤッホー君は、4月15日に佐倉城址公園(国立歴史民俗博物館)へ。
 正岡子規は日清戦争がはじまり、ちょうど総武鉄道が本所〜佐倉で運転始まった年(注1)の暮れ、佐倉城址公園(佐倉連隊)へ。
 陸羯南の忠告を振り切って大学を辞め、『日本』新聞記者になったことでもあるし、前からあった「視る目」をもったジャーナリズム精神(自分の目で見て、自分のことばで表現すること)の灯りに火をともした年。

 1892(明治25)年、下谷区上根岸88番地金井ツル方に転居した子規(25歳)は、12月1日から『日本』新聞に出社し、郷里の母・八重妹・律を呼び寄せて正月を迎える。
 『日本』の陸羯南(くがかつなん)の住居の西隣だったことが、子規を『日本』に近づける要因となった。
 陸と親しく交流。
 『日本』に俳句欄が新設されている。

 同年3月、帝国大学中退。翌1893(明治27)年に、今度は陸羯南宅東隣に位置する上根岸町82番地に母、妹と転居した。
 子規26歳のこと。
 ここが≪子規庵≫で、この住居で子規は生涯を閉じることとなる。

 この年に千住や王子、川崎大師を巡り句作、12月に道連れ一人と開通したばかりの総武鉄道に乗って、終点佐倉まで足を運んでいる。
 「鉄道は風雅の敵ながら新らしき鉄道に依りて発句枕を探るこそ興あらめ」で始まる俳文で、≪子規子≫の名を用い、「総武鉄道」の題で明治27年12月30日付『日本』新聞に掲載された。

 まず本所の割り下水(注2)で句を詠み、本所駅へ。
 この年は日清戦争が勃発した年で、旅客の老女が旅順について話すのを観察。
 発車時刻が来たが騒ぐ気配もなく、ようやく発車ベルが響き汽車に乗った。
 車内で切符を切ることに興味を抱き、鉄道馬車のようだと思い、「鴻の臺を左に眺めて車は転じ江戸川の鉄橋を渡り」市川に着いた。...

(2009年04月02日 09:37付け千葉日報ウエブ 中谷順子「総武鉄道に乗車 正岡子規」
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/101

 「佐倉連隊」のあった佐倉城址には、正岡子規が、開通してまもない総武鉄道(現在の総武本線)の本所停車場(今の両国駅)から佐倉停車場まで乗車し、佐倉停車場から佐倉連隊のある佐倉城址まで行ってその日のうちに戻ったことがあり、それが1894(明治27)年の暮れであるということを知っていました。
 1894(明治27)年というと、その年の8月に「日清戦争」が始まっています。
 その正岡子規の旅についても併せて調べてみたく思い、帰宅してしばらく経ってから、千葉県立中央図書館(千葉市)を訪ねて、「佐倉連隊」と正岡子規の「総武鉄道」の旅について調べてみました。

(2012-01-24 06:15:29 鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」)
http://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/c937e2ef9c117b489112a0986562aeec

 近代俳句の創始者といわれる正岡子規(1867-1902)と佐倉とのつながりを紹介するパネル展「子規の道をゆく」が佐倉市新町の歴史生活資料館で開かれている。
 子規は1894年12月に開通したばかりの総武鉄道で佐倉を訪れ、その印象を6つの俳句で表現しており、展示は句と写真で足跡をたどっている。
 子規はその時の様子を紀行文「総武鉄道」にまとめた。
 東京の本所駅から乗り、市川、船橋、千葉、四街道を経て、佐倉に到着。
 佐倉では佐倉駅から麻賀多神社、海隣寺などを回った。
 その間に俳句を詠んだ。
 印旛沼と周囲の水田が寒さで凍結している様子を詠んだ「古沼の境もなしに氷かな」や、花嫁が馬に乗って嫁ぐ光景に遭遇して作った「馬に乗る嫁入見たり年の暮」などがある。

(2014年1月3日02時26分朝日新聞デジタル千葉「俳句と写真で正岡子規の足跡たどる」)
http://www.asahi.com/articles/ASFDL3QM3FDLUDCB00C.html


(注1)
 1894(明治27)年7月20日、市川〜佐倉間39.9Kmが千葉県初の鉄道として開業しました。
 途中駅は千葉と船橋だけでした。
 当時は1日5往復が運行され、全区間単線で、船橋駅で上下線の擦れ違いをしていました。
 1894(明治27)年12月9日、本所〜市川間10.5kmが開業し、船橋と東京が初めてレールで結ばれました。
(2012(平成24)年3月31日(土)最終更新日、船橋市公式サイト、JR東日本 総武線)
http://www.city.funabashi.chiba.jp/kurashi/koutsu/0004/p000361.html

(注2)
 『鶯が呑むぞ浴びるぞ割下水』。小林一茶の俳句です。
 この句の「割下水」は「本所割下水」です。本所には「南割下水」と「北割下水」がありました。
 一茶も浮世絵師の葛飾北斎も「割下水」の住人でした。
 「南割下水」があった現在の《北斎通り》の名は、北斎の生誕地が「割下水」だったことによります。
 「割下水」は昭和の初め頃まで「南割下水」があった辺りの俗称地名として通用していたそうです。「割下水の生まれ」とか、「住まいは割下水」というように使われていたようです。
 「割下水」というのは、道路の真ん中を掘り割ってつくられた「下水路」です
 江戸川柳に『黙礼のなかを流るゝ割下水』という句があります。
 「割下水」の両側の武家屋敷に住んでいた侍同士が「割下水」を挟んで挨拶を交わしている情景です。
 チョット強引な言い方かも知れませんが、「割下水」が俳句や川柳に詠まれたり、俗称地名として通用していたということは、「下水」が人びとの身近にあったもののような気がします。
(2009.6ニュース東京の下水道No.215「江戸の下水は雨水排除から」)
http://www.gesui.metro.tokyo.jp/kanko/newst/215/n215_4.htm
posted by fom_club at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月17日

佐倉連隊

 昨日、正岡子規が日清戦争の従軍記者として中国に渡りましたが、その1ヶ月には戦争が終わったことを記しました。
 今日4月17日は、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章(りこうしょう)との間で日清講和条約(下関条約)が調印された日なんだそうです。
 これにより、清国は朝鮮の独立を認め、日本に遼東半島、台湾・澎湖諸島を割譲し、賠償金2億両を支払うことになりました。
 新東宝が1958(昭和32)年3月14日に封切り公開した日本の戦争映画『天皇・皇后と日清戦争』があります。
 ヤッホー君、亡き祖父に連れられて映画館に行き、アラカンの明治天皇と下関での条約締結をめぐるやりといが妙に記憶に残っているような…
http://www.youtube.com/watch?v=l0pDIPsD_ZY

 この日清戦争で戦った日本人…これから憲法を変悪し、アメリカ軍の要請があれば地球の裏側まで人殺しの武器を携えて(自分が死んだら遺族に高額の恩給が入り靖国神社に祀られるのでしょう)派遣されることになります。

 外国からも「東京(=日本政府)の無条件追随主義 le suivisme inconditionnel de Tokyo」と称されるほどアメリカの言いなりの日本政府が,アメリカから「一緒に戦場に出て戦え」と言われて拒否できるだろうか。
 自民党「改憲草案」を承認することは,こうした米軍の行為に日本が一緒に参加する可能性を認めることになる。
 主権者としてどう考えるか。

(名古屋学院大学論集、社会科学篇、第49巻第4号41―66頁、飯島滋明・自民党「日本国憲法改正草案」について)
http://www2.ngu.ac.jp/uri/syakai/pdf/syakai_vol4904_04.pdf

 戦う主体形成として徴兵制も「ていねい」におトモダチの間で熟議がなされていくことになるのでしょう。
 この国も江戸幕府が倒れた後の1873(明治6)年には徴兵制度がしかれ、そのときに陸軍第一師団第2連隊が佐倉に置かれたのです(同時期に東京赤坂に第1連隊が、麻布に第3連隊が置かれています)。
 兵舎の置かれる場所はどこかな…フクシマダイイチゲンパツ跡地?おりんぴっく競技場か選手村跡地?お~やだやだ、「主権者としてどう考えるか」問われています!

 そして、戦いには出向かないし、省庁の天下りの組織がまた出来て、定年後もちっとも困らないムラ社会…レキハクにはこんな書き込みが…

 歩兵第二旅団本部の建築図面
 この資料は、先祖が大工を営んでいた千葉県内の個人から寄贈された。
 現在、第6室では、佐倉連隊、ひいては日本の軍隊の成り立ちや仕組みを説明するため、1874(明治7)年に佐倉城址に置かれた歩兵第二連隊の兵営模型や石版鳥瞰図、発掘された兵舎の屋根瓦などを展示している。
 しかし、この資料については連隊そのものではなく、連隊の上部組織である旅団のものであるため、少し説明しにくいということで、展示室で披露できずにいる。
 そもそも旅団とは、師団と連隊との中間に位置する陸軍の編制単位である
 歩兵旅団、騎兵旅団、砲兵旅団と称したように、単一兵種では最大の単位だった。
 佐倉にあったのは、歩兵第二連隊(佐倉)と歩兵第三連隊(東京)を麾下(きか)に置いた歩兵第二旅団の本部である。
 1885(明治18)年に新築されることになったその建物の図面が本資料である。
 場所は、歩兵第二連隊の兵営とは少し離れた、練兵場の一隅であり、1889(明治22)年発行の石版鳥瞰図「佐倉兵営及ビ旅団本部之図」では別枠に描かれている。
 この平面図からは、一階に玄関、将校食堂、宿直所、会計部、文庫、倉庫、二階に旅団長や参謀官の部屋、後備軍司令部、会議室などがあったことがわかる。
 事務をとるだけの機能から、それほど多くの人数が勤務したわけではないのだろう。
 なお、旅団本部が佐倉にあった期間は短く、日清戦争の頃にはすでに東京へ移転していた。
 その後、この建物は佐倉連隊区司令部(連隊とは全く別の徴兵を担当する機関)として使用されたが、1930(昭和5)年3月25日の火災で焼失した。

(2010年9月20日歴史系総合誌「歴博」第162号、樋口雄彦(本館研究部・日本近代史)連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」)
http://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/162/witness.html

 そしてここには、歩兵第二連隊の兵営兵舎だけではなく、「佐倉俘虜収容所」にもなっていたらしいのです。

 もともと城下町であった佐倉は、明治の初めに佐倉連隊の兵営地となり、1945年まで軍都としての役割を担っていた。
 日清戦争時に俘虜の収容施設が置かれ、日露戦争時には1905年4月1日から同年5月16日まで俘虜収容所が開設されている。
 わずか1ヶ月半の収容所で収容者数も300名ほど、俘虜たちはすぐに習志野収容所と高崎収容所へと転送された。
 短時日の滞在であったが小さな城下町での捕虜たちと住民のふれあいは和気あいあいとしたエピソードを残している。
 それは決して劇的でもロマンチックでもないが、異文化に触れた住民のさまざまな素朴な反応が記録されている。
 今では収容所があったことさえほとんど忘れ去られている佐倉収容所を、松山や習志野の収容所と比較しながら紹介する…

(東京ロシア語学院講師・藻利佳彦2005年10月29日(土)松山市総合コミュニティセンター報告「さらば日本よ、ロシア兵捕虜帰国100年―松山と他の収容所を比べる―、7万人を超えたロシア軍捕虜(俘虜)、29ヶ所もの捕虜収容所、最初の収容所となった松山との違いは?)
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~miyawaki/index/index-j.html/pow/saraba.htm
posted by fom_club at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月16日

佐倉城跡公園

 結局、午後は病気にかこつけて、寝っ転がって読書三昧。
 だって、昨日、佐倉城跡公園で正岡子規(1867-1902)の歌碑を見つけたんですもん:

 子規は総武線の佐倉駅で下車し、
  「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」
と野道を歩いて、武家屋敷(注)を右に折れ町通りに出た。
 東京を出立し、一時間余しか経過していない子規の目に「何もかも淋しき心地す」と「総武鉄道」(『日本』新聞・1894(明治27)・12・30)で書いている。
 海隣寺が「清国捕虜廠舎(しょうしゃ)」に使用されているのを眺めるが、この年は日清戦争勃発の年で、佐倉にも押し寄せた時代の反映を見て、遠国から連れてこられた捕虜を哀れんでいる。
 佐倉は森鴎外も軍医として度々訪れ、町中に泊まったこともある土地。
 坂の上から印旛沼を眺望。
 堀の内が昔は城だったが今は営所に用いられていると聞き詠んだ句。
  「常盤木や冬されまさる城の跡」
  (現在、句碑が佐倉城跡公園の中に建っている)、
  「古沼の境もなしに氷かな」。
 もとの道を引き返して佐倉駅に戻ったところ、花嫁が馬に乗って親父と思える人の後にしたがっていくのに出会った。
  「馬に乗る嫁入見たり年の暮」
の句を詠んでいる。東京に住んでいる子規には下総の風俗が珍しかったのだろう。
 佐倉からは汽車で黄昏に本所駅に戻った。
 佐倉で、日清戦争の影響を眺めた子規は、新聞社にいながらも文学欄を担当し、従軍できない情けなさを思い、日清戦争の従軍記者を自ら希望する。
 翌1895(明治28)年3月、故郷・松山の墓参を終え、河東碧梧桐と高浜虚子に後事を託し、4月に近衛連隊付記者として金州に渡っている。
 大連湾から旅順に行くとき「房州通ひ位の蒸汽」に乗ったと、1900(明治33)年に執筆した「我が病」に出ている。
 房総旅行で保田から乗船した舟が印象に残っていたのだろう。
 金州では森鴎外を毎日のように訪問している。
 意気に燃えた子規だったが、1ヶ月後日清講和が成立し帰国する船中で、激しく喀血。
 容態が悪化し担架で神戸病院に運ばれる。
 この病魔が子規を苦しめることとなる。
 六分通り回復した子規は、8月下旬に松山に帰省。
 松山には1895(同明治28)年4月から松山中学に赴任した夏目漱石が、上野義方の離れ家を借りて住んでいた。漱石は、東京高等師範学校教授の座を投げ打って都落ちし、中学教師に甘んじていた…

(2009年04月09日 09:34千葉日報ウエブ中谷順子(なかたに・じゅんこ)「佐倉城址へ 正岡子規」)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/100

 夏目漱石(1867-1916)ってね、畦地梅次郎と白洲次郎がそうだったように、生まれた年が同じなんだよ。
 1894(明治27)年といえば、ですので漱石も子規も27歳。
 その年はどんな年?:

 勝利に狂喜した新聞『日本』の読者は、毎日待ちきれない思いで新聞を読み、『日本』は飛ぶように売れた。
 しかし数々の勝利を伝える記事(また何であれ戦争に関連する記事)が『日本』の紙面の大半を占めるに至って、戦争と関係ない文化記事を載せる余地はほとんど無くなった。
 すでに戦争勃発前、自分が大切に育ててきた詩や文学の記事を載せる文化欄が新聞『日本』から消える兆しがあることを惜しんだ陸羯南(くが つなん、1857-1907)は1894(明治27)年2月、もっぱら文化記事を主体とする新聞『小日本』を創刊した。
 羯南は、子規を『小日本』の編集責任者に抜擢した。
 子規はまだ27歳だった。

…ドナルドキーン『正岡子規』(角地幸男訳、新潮社、2012年)101頁

 じゃ、1895(明治28)年は、というと、子規はふたたび喀血し、漱石は松山へ都落ちをした年:

 …自分が俄かに従軍することになつて取るものも取り敢へず東京を出発したのは忘れもしない明治28年3月3日のことであつた。
 嬉しさはいふ迄もなく4月10日といふにようよう宇品を出版して金州湾を1ヶ月ほどぶらついて居る内に戦はすんで仕舞ふ。
 日本へ帰りがけの船の中で持病が起つて其から後は全くの病人になつて仕舞ふた。
 明治28年という歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身に取つては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。

…『獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思いつきたる所を云ふ』(桶谷秀昭『正岡子規』(小澤書店、1983年)所収、223頁)


(注)
「サムライの古径 ひよどり坂」としてレキハク、国立歴史民俗博物館から武家屋敷へと向かう途中、江戸時代とほとんど変わらない竹林に囲まれた古径として残っていました!

武家屋敷.jpg
posted by fom_club at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

深川クリニック

 今日4月16日水曜日、ヤッホー君はどこに赴いたかと申しますと、お医者さん。
 微熱(36度7分)、頭痛、あくび、鼻水、下痢があったのでした。
 実は昨日、「国立歴史民俗博物館」では、佐倉城址公園の本丸跡のところで弁当食べた後、草むらにあおむけに寝っ転がって桜を眺めながら、ちょこっとお昼寝。
 あんまりぽかぽか陽気で気持ち良くって、と思っていたのですが、そうじゃなかったんですね…きっと。
 からだに変調をきたしていたのでしょうか。
 帰宅後、晩ごはんも食べずに寝込んで、一晩寝たら治るだろう、とたかをくくっていたのですが、今朝になっても絶不調、何年かぶりでかかりつけのお医者さんにかかった、とこういうことでして。
 そこは、「深川クリニック」(江東区三好2-15-10 Tel 3630-0003)。

 同友会深川クリニックは1956(昭和31)年の開設以来、地域医療と人間ドックによる予防医学の2つを診療方針に掲げ、がんや心臓病などの予知、発見からアフターまでトータルケアを充実させております。
(院長からのメッセージ)
http://www.do-yukai.com/fukagawa/message.html

 社是である「解憂(かいゆう)の精神が息づいております。
 解憂とは、“世の中のあらゆる憂いを解放する”という孟子の書の言葉でございます。
 病むことや老いることへの憂い、人が生きていくうえでのありとあらゆる憂いを、医療や福祉を通して解き放ちたいという意味が、そこにはあります。

(同友会グループ理念)
http://www.do-yukai.com/group/

 心配してくださったお医者さん、一時間ほど点滴してもらって帰りなさい、というご指示でいま帰ったところ、お土産に4種類もの薬携えて。
 お腹にくる風邪が流行っているそうな、気をつけましょう。

 例年、11月から2月に流行する腹痛、下痢、おう吐をおもな症状とする「感染性胃腸炎」が増加しています…
 2014年は、ほぼ平年並みの患者報告数で推移していますが、依然として一定の報告があり、引き続き注意が必要です。

(2014年4月11日付け東京都健康安全研究センター「感染性ひとくち情報〜ノロウイルス等の感染性胃腸炎〜)
http://idsc.tokyo-eiken.go.jp/assets/diseases/gastro/hitokuchi-joho.pdf

 そういえば受付の窓口でも、問診票に書くときも、看護師さんも、そして先生までもが「おう吐はありますか」ってヤッホー君に聞いていました。
 「いやぁ〜、それはないですねぇ〜」って、だから、あの、その、ノロウイルスでなく、単なる「おなかにくる風邪」?
posted by fom_club at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月15日

さくらそう

 ヤッホー君は4月15日火曜日、サクラを求めてふらり旅。
 京成佐倉駅に下りたち、レキハク(国立歴史民俗博物館)へ、受付のお姉さまからここではありませんので、「くらしの植物苑」へお回りください、と。

 11:00から展示解説会
 くらしの植物苑で栽培、育種された桜草が展示されます。
 桜草は、江戸時代中期に自生のものから花の変わったものを選んで栽培が始められ、品種改良を繰り返し、より美しい花が生み出されてきました。
 今回の展示では、珍しい品種をはじめ、色とりどりに咲く桜草を、江戸時代に好まれた鑑賞方法の「桜草雛壇」などで楽しむことができます。
  2014年4月15日〜5月6日
  千葉県佐倉市 国立歴史民俗博物館 くらしの植物苑
  主催:国立歴史民俗博物館

http://tabidoki.jrnets.co.jp/e07/event/147143.html

久留島浩.jpg

 第181回観察会「趣味で桜草」
 茂田井宏(野田さくらそう会世話人代表)
 館長の久留島浩さんのご挨拶は上の写真で、茂田井宏さんの説明が下の写真になります。
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/plant/project/index.html

茂田井宏.jpg

 伝統の桜草
 4月15日〜5月6日、9時半〜16時半、国立歴史民俗博物館・くらしの植物苑(千葉県佐倉市・京成佐倉駅からバス)。
 江戸時代中ごろ以降、園芸家によって変わった花が探し出され、多くの品種がつくり出されてきた桜草。
 花の色も紅色から白色、花の形も平らな「平弁」から、手で物をつかむような形の「つかみ弁」などさまざまだ。
 白い花で花びらの先端に緑色の斑(まだら)が入る「松の雪」など、約500鉢を展示する。

(2014年04月08日付け毎日新聞地方版遊ナビ:植物/東京)
http://mainichi.jp/feature/news/20140408ddlk13040006000c.html

 「松の雪」ってこれ:

松の雪.jpg

 ここでも高校生の活躍ぶりを紹介しておきたいと思います:

 朝日のびのび教育賞・第15回受賞の6団体紹介
 人工栽培で誕生したサクラソウが、温室で静かに春の訪れを待っていた。
 青森県南部町にある県立名久井農業高校の実習施設。
 園芸科学科の研究グループ「Team Flora Photonics(チーム・フローラ・フォトニクス)」のメンバーが栽培を始めて4度目の春を迎える。

 きっかけは2011年3月の東日本大震災。
 八戸市の種差海岸が津波に遭い、サクラソウの自生地が波をかぶった。
 サクラソウは青森県が絶滅危惧T類に指定する花。
 塩害で絶滅することが心配された。
 「自分たちでできることはないか」と保護活動に乗り出した。

 同年2011年5月、県の許可を得て、生き残った花で人工授粉し、種を採取した。
 学校に持ち帰って発芽させ、鉢に移植して冬越し。
 再びめぐってきた春、全ての種から花が咲いた。

 今年2013度、グループ代表を務めた渡部叶子さん(3年)は「先輩たちが丹精込めて育てた花。その気持ちを大切に手入れをしてきました」。
 サクラソウの栽培は、さらに後輩へと受け継がれている。
 「できることはないか」との思いは、別の成果も生んだ。
 津波で塩害を被った土壌の改良や花を使った空気の浄化を実現しようと、授業や実習で学んだ知識をヒントに、独自の技術を開発。
 それらは今、南部町と交流のある岩手県山田町で花壇の再生や仮設住宅の環境改善に生かされている。

 「緑育心」。
 同校が掲げる教育のモットーだ。
 「研究活動を通じて生徒たちが自信を持ち、たくましく成長していると感じる。花や植物を通して彼らの心が育まれている」と顧問の木村亨教諭は言った。

(2014年2月3日付け朝日新聞朝刊志田修二記者「朝日のびのび教育賞、青森県立名久井農業高校「Team Flora Photonics」(青森)/絶滅防げ サクラソウ栽培)
http://www.asahi.com/shimbun/award/edu/rec2013.html
http://www.tsukuba.ac.jp/community/kagakunome/pdf/11jushou/high/5007.pdf

 東日本大震災により県民が愛してやまない種差海岸のサクラソウが海の底に沈んだ。
 私たちは今救わなければならないという思いに突き動かされて、4月から夢中で今まで活動してきた。
 活動を通してさまざまな人のサクラソウへの想いを知ることができ大変有意義であった。
 現在、地域の子ども達にサクラソウを題材に環境教室を開催するなど、環境保護意識の向上に努めている。
 さらにサクラソウの里親制度など市民参加型保護活動も関係機関に提案している。

(大震災を乗り越えて〜海岸のシンボル「サクラソウ」の保護と塩害花壇の再生活動〜、第14回日本水大賞)
http://www.japanriver.or.jp/sjwp/sjwpj_history/jyusyou/jyusyou_pdf/no14_nakuinougyou.pdf
posted by fom_club at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月14日

もももすももももものうち

 昨日の桃源郷歩きがまだ、離れていきません。

http://www.youtube.com/watch?v=V7keb98F--A

 リンク先は、「北海道池田高校」(北海道中川郡池田町字清見ヶ丘13 Tel 015-572-2662(事務室)の皆さま!
 実は昨日、帰路の車中で「《早口言葉》ってあったね」と盛り上がっていたのです。

 ぜひおしまいの方の演奏曲目をお聞きくださいますように。
 でもそれまでだって、この高校生の部活動の演奏の妙味に感心してしまいますよね。

 吹奏楽部が十勝管内教育活動賞を受賞しました。
 本校吹奏楽部が、2013(平成25)年度十勝管内教育実践・活動表彰に推薦され、このほど「教育活動賞」を受賞しました。
 この賞は、学校教育・社会教育活動において、継続的、主体的な活動を行う団体に対し、その実績と成果を表彰するもので、本校の吹奏楽部は、ダンプレによる管内外での積極的な活動に加え、東日本大震災への復興支援に関する取組が高く評価され、受賞となりました。
 2月26日(水)、幕別町百年記念ホールで行われた表彰式には、部長の原田恵実さんが出席し、他の2団体と共に、十勝教育山端一史局長より表彰状とトロフィーが授与されました。
 原田部長からは
「今回このような賞をいただけたことに感謝しています。被災地支援の取組みは、池田町をはじめ地域の皆様の支援があって出来た取組みだと思っています。これからも、自分たちの演奏をしっかり行うと同時に、皆さんに喜んでもらえるような活動を続けていきます」
と感謝と決意の言葉を述べていました。

(北海道池田高校公式サイト)
http://www.ikeda.hokkaido-c.ed.jp/kyouikujissen.pdf

 ダンプレって何?
 まずは、地元の新聞から、そして朝日新聞から、と読んでみましょうか:

 池田高校吹奏楽部(上村主将、部員12人)の「ダンプレ(ダンス&プレー)」の映像が、世界的な動画配信サイト「YouTube (ユーチューブ)」で、断トツの人気を見せている。
 2013年3月18日の配信以降、45万8041回(3月25日正午)再生され、利用者から「格好いい」「鳥肌もの」「道民としてうれしい」とのコメントが多数寄せられている。
 全国からの熱い視線に、部員たちは驚きながらも「励みになる」と喜び、3月24日は帯広競馬場での「ばんえい記念」でも演奏を披露し、会場を盛り上げた。

 ダンプレは、歩きながら演奏する「マーチング」とも異なり、吹奏楽では「タブー」とされる上半身も使いながら演奏する池高独自のスタイル。
 部員たちは小出学監督の下、長時間の練習を積み上げ、躍動感あふれるダンプレの技術を磨いてきた。
 昨年2012年は東北の被災地を訪問するなど積極的に公演活動を行なっている。

 注目の動画は、3月19日に池田町田園ホールで行われた今年度町文化・スポーツ賞の表彰式前日に、同部がリハーサル演奏する様子の4分22秒。
 ユーチューブに投稿した小出監督は、これまでも部員が登下校時の列車の中でスマートフォンから演奏を確認できるよう練習風景をアップしてきた…

(2013年03月25日 14時12分 十勝毎日新聞社ニュース「池田高吹奏楽部のダンプレ動画人気」)
http://procurement4.rssing.com/browser.php?indx=3805378&item=1073

 朝日新聞の地域版、島田賢一郎記者リポートでも:

 ■ 独自の演奏スタイル大人気
 お祭り、コンサート、開店イベント、テレビ出演……。
 道立池田高校(池田町)の吹奏楽部が、さまざまな催しに引っ張りだこだ。
 昨年の公演は70回。
 今年も20回を超え、すでに11月まで予定が入る。
 ネット上でも「カッコいい!」「ワクワクが止まらない」と話題を集めるバンドの魅力は、躍動感あふれる踊りを繰り広げながら演奏する独自のダンス&プレー「ダンプレ」だ。
 ■ ノリノリで
 「ドリフの早口言葉」がスタートした。
 帯広市の中心部で先月2013年5月25日にあったイベント。
 今年2013年1月に発足した第44代バンドのダンプレの始まりだ。
 かつての洋楽のヒット曲や日本の人気アイドルグループ「ももいろクローバーZ」(ももクロ)の「サラバ、愛しき悲しみたちよ」などが繰り出される。
 主将の上村奈都美さん(3年)が
 「この曲はダンスにご注目ください」と、それぞれの見どころ、聞きどころを紹介しながら進む。
 《池田高校吹奏楽部》
 1951(昭和26)年に発足、1967年に本格的編成の吹奏楽部が再組織された。
 北海道吹奏楽コンクールで金賞17回。
 昨年2012年は同コンクール高校C編成で金賞を受賞し、道代表として東日本学校吹奏楽大会に出場、銀賞を受賞した…

(2013年06月03日付け朝日新聞地域版北海道「池田高吹奏楽部 独自の演奏スタイル大人気」)
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20130603010500001.html

 どんなのが「ドリフの早口言葉」だったっけ、思い出してみましょう:

http://www.youtube.com/watch?v=xDcVC-ewP-U&list=RDxDcVC-ewP-U
(2009/10/11アップロード日「2009年におよそ28年ほど前の全員集合の中の『早口言葉』が再放送されました。私(BongoPlayer)も何度も映っているのでビデオをカメラで写したものです¬」)
posted by fom_club at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月13日

桃源郷

 4月13日日曜日、山歩クラブの月例山行の日でした。
 向かった山域は山梨県の桃源郷。
 20人の仲間が勢ぞろい!
 ヤッホー君は、と言いますとこのところの過密スケジュールでお疲れだったのでしょうか。
 朝、いつものようにおはようございますといつもの専用バスのいつものドライバー、石井さまに高速道路のETCカードをお渡ししようと、大事な頭陀袋からとりだしたカードはなんと、パスモ!
 地下鉄は乗れるけど(もっともチャージがしてあればの話ですが)、高速道路は乗れませんよねぇ〜
 そしてお風呂上りに、さあビールだい、と代金をお支払したのはいいのですが、その財布を入れた頭陀袋がみあたりません。
 お風呂屋さんの渡辺さん、ありがとうございました。
 いっしょに探してくれた渡辺さん、畳の上にころがっている頭陀袋を見つけてくださいました。
 「お騒がせして申し訳ございませんでした&ありがとうございました!」って結局もう一杯、ビールを飲むことに…
 おかげさまで、帰路の車中、アタマから湯気がたっていました、拭き掃除をしてくれた阿部さん、ありがとう!!

 歩いてみたかった桃源郷、いかがだったでしょうか。
 ヤッホー君には、いろんなことがあった一日でしたが、とっても楽しい、良い一日だったって…
  ピンクの桃の花も、

桃畑.jpg

  山(茶臼山948.3m)も、

桃源郷.jpg

  酒(蒼龍葡萄酒一升瓶、黒駒の勝蔵にごり酒一升瓶)も、
  立ち寄り湯(ももの里温泉)も
  今回集まった20人の仲間も、
言うことなしの一日でした。
 ありがとう、仲間の皆んな、
 ありがとう、花盛りの桃の木、exclamation×2

 ヤッホー君、帰ってすぐ、桃の花を愛する今は亡き父のために活けました:

亡き父に.jpg
posted by fom_club at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月12日

家で死ぬということ

 4月12日土曜日の午後、ヤッホー君はeチャリで「日本橋図書館」へ。
 6階図書館ホールでNHKドラマ「家で死ぬということ」(2012年、DVD完全版)の映画鑑賞会があったのです。
 なんと会場には山歩クラブの仲間が3人も、やっぱり下町だ〜い!
 名作は皆んなで観るのがなによりもいいよねえ〜
 この作品は、大島里美作、佐藤譲演出、高橋克典、渡辺美佐子ほか出演の「忘れかけていた日本人の心に触れるヒューマンドラマ」でした。

 そして、思い出されるおふくろの味。赤蕪の切り漬け。
 そう言えば、教えてもらいながら、樽に漬けたままだった。
 漬物石をどけて、落し蓋をはずせば、そこに姿を見せたのは、まるでほのかに赤い母の手のひらのように、きれいに染まった漬物。
 「来たね…みんな、来た…」
 ひさ子(渡辺美佐子)が最後に残した言葉だった。
 ちゃんと最後に家族に見取ってもらうことができた。
 満足げなその顔、その瞳に浮かぶ涙が思い出される。
 彼女がその家の味として娘に伝えたかった宝物。
 心にいつまでも響き続けるお漬物の味でした。

http://japan-film-award.livedoor.biz/archives/1711559.html

 演出、作者のことばがあります:

 演出のことば(佐藤譲)
 東日本大震災以来、私たちは「自分はどのように死ぬのだろう?」ということを私たちは今までの数倍考えるようになったのではないでしょうか?
 でも、その疑問は広すぎてハッキリした答えがあるわけはないので、「どこで」ということが殊更にクローズアップされている気がします。
 けれど皮肉なことに「家で死ぬということ」というドラマについて考えていけば考えていくほど、「死ぬ場所」が重要なのではなくて、どういう思いで死んでいくかということが問題なのだという風に思ってくるようになりました。
 たとえ、住み慣れた自宅で死ねたとしてもそれが「孤独」なものだったらあまり意味はないのです。
 そうならないためにはどうしたらよいか?そのささやかだけど温かいヒントを見て頂くみなさんにお届けできればと思います。
 看取ることを「しまってあげる」という白川郷の穏やかさとともに…

 脚本家のことば(大島里美)
 最初にプロデューサーからお話をいただいたとき、祖母のことを思い出しました。
 病院で毎日「帰る」と言ってきかなかったこと、ある日お見舞いにいくと、すっかり帰り支度を整えていたこと、最後の一時帰宅、高速道路での不安げな顔、車椅子の車輪が玄関の敷石に引っかかったこと、ようやく家に帰れて、いつもの部屋でお茶を飲んだ時の、何とも言えないホッとしたため息… 人は、どうして家に帰りたいと願うのでしょうか?
 亡くなって行く方に、残された家族は何ができるのでしょうか?
 きっと、誰にでも起こる、あたりまえのことが、たくさん詰まったドラマになっていると思います。
 脚本作りにあたって、白川村の方々が、さまざまあな「家族」のお話を聞かせてくださいました。この場を借りて、感謝いたします。

http://osamu.blog.eonet.jp/weblog/2012/02/tv-b5a7.html
 
 いまの死にかたは、といいますとこんふうにいえるようです:

 日本の医療機関における死亡割合は増加し、1976年に在宅での死亡割合と病院での死亡割合が逆転した。
 ここ数年で在宅死が増加してはいるものの、2004年の人口動態調査によると、約8割が病院死であり、欧米諸国と比較して高い値を示している。

http://www.oita-nhs.ac.jp/journal/PDF/11_2/11_2_5.pdf


 それならどこで死ぬか?
 近刊の沖藤典子さんの『それでもわが家から逝きたい』(岩波書店、2012年)は、利用者側からの希望を述べたもの。
 政府の審議会委員の経験を持つ沖藤さんは豊富なデータをもとに、在宅死という選択肢を示す。
 これまでは在宅死は世話をしてくれる同居家族あってのもの。おひとりさまにはハードルが高かった。
 沖藤さんの本にはひとりぐらし高齢者の在宅死の事例が出てくるが、それを前面にうちだしたものではない。

 そこに登場したのが中澤まゆみさんの『おひとりさまでも最期まで在宅』(築地書館、2013年)。
 いろいろなケースに応じて、医療・看護・介護資源がこんせつていねいに紹介してある。

 同じ頃に同じように同じことを思いつく人たちがいるものだ、とこのところ時ならぬ「在宅死」ブームを歓迎しているが、そのブームをつくりだしたい、と思ったのはほかならぬわたし自身。
 日本在宅ホスピス協会会長の小笠原文雄(ぶんゆう)医師と共著で『上野千鶴子が聞く〜小笠原先生、ひとりで家で死ねますか?〜』(朝日新聞出版、2013年)というタイトルの新刊を出した。
 内容は題名のとおり。末期がんの痛みのコントロールから認知症の場合、おカネはいくらかかるかまで、ねほりはほり尋ねた。
 ひとりで在宅死ができたら、家族がいてもいなくても誰にでも在宅死は選択肢になる。
 「在宅死」を選べない、と思う理由の多くは「家族に迷惑をかけたくない」。
 それならいっそ同居家族がいないほうが、在宅死は選択しやすいかもしれない。
 名づけて「在宅ひとり死」。
 「孤独死」とは呼ばれたくない。
 厚生労働省はそちらの方が社会保障費が抑制できると在宅死にシフトしたが、在宅死は何より本人の幸せのためなのである。
(2013年04月30日毎日新聞、東京夕刊「読書日記:今週の筆者は社会学者・上野千鶴子さん、「おひとりさま」の在宅死)
http://mainichi.jp/shimen/news/20130430dde012070037000c.html
posted by fom_club at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

前島康彦

 ヤッホー君のこのブログ、昨日、家を出る前につけた日記「飛鳥山」にはこうありました:

 飛鳥山は、1873(明治6)年、『太政官布達』によって、上野・芝・浅草・深川とともに日本最初の公園に指定され…

 また、今春4月の5日、7日と二度もお花見に通った上野恩賜公園でしたが、「上野観光連盟」の歴史記述もわくわくします:

 1873(明治6)年1月15日、政府は公園設定について、各府県に対して、通達を出した。
 すなわち「古来から名所旧跡といわれるところは公園として申し出よ」とのこと。
 いわゆるこれがかの有名な『太政官布達第16号』である。
 わが国で1956(昭和31)年に「都市公園法」が制定されるまで、後にも先にもこと公園に関しての法律的効果をもつものは、この『太政官布達』だけである…
 東京府は『太政官布達』の翌日、1873(明治6)年1月16日、公園候補地として金竜山浅草寺、三縁山増上寺、東叡山寛永寺、富岡八幡社等の境内地および飛鳥山の五ヶ所を選んで大蔵省へ申し出た…
 公園経営のため、射的、玉突、楊弓、茶庵、見世物等に賃貸してしまったのである。
 「もしそれ、上野公園にした所でその管理が宮内省−1886(明治19)年より―に移らずに、東京府に委ねられていたら浅草、深川、芝の三公園と同様、俗悪化の道を辿ったにちがいない」(「世相史から見た公園の歩み」前島康彦著)。
 後にも述べるが、上野公園の場合は、管理者が国の機関だったので、そうそう自由な経営が許されず、そのお蔭で、公園の手本とされるような発展経過をもち、1000万を超える大東京の中にあって広さにおいても、施設、景観、緑地など都市公園として、内外ともに誇りうる上野公園となったのである。

(上野観光連盟公式サイト、上野の歴史を知る文明開化の発祥の地となる上野公園、上野公園誕生の背景〜太政官布達とボードワン博士〜、公園誕生)
http://www.ueno.or.jp/history/

 『太政官』って何?
 ヤッホー君、再び前島康彦氏(1910−1988)を援用しながら調査開始…

 これは1885(明治18)年の内閣官制実施以前における国政処理の最高府である。
 太政官は太政大臣、左右大臣および参議よりなり、正院及び左右両院の3院制をとっていた。
 左院が立法府、右院が各省の長次官が合同して政務を議するところであるのに対して正院は、天皇が親臨して万機を総覧するところである。
 すなわち正院は太政官の事務局のようなものであった…
 当時の太政官における太政大臣は三条実美、左大臣は欠員、右大臣は岩倉具視、参議には西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文など各省の大臣である13名が選ばれ…公園に関する管轄大臣は大蔵大臣であって、時の大蔵卿は参議大久保利通であった。

(前島康彦、前掲書『東京公園史話』33頁)

 この『太政官布達第16号』に対し、上の「上野観光連盟」の記述では、東京府が大蔵省に公園候補地を申し出たのは、同年1月16日としてありますが、これは前島康彦氏の研究によれば、もう少し緻密に活写されております。
 同じころすでに東京府は公園経営の手段方法を「会議所」に諮問しており、「会議所」が選定した5ヶ所を府は正式に公園地とし選定し政府に提出した、と。
 では、府における「会議所」って何?
 会議所は純然たる民間の自治機関であり、その後身がのちの商工会議所であるとしております。前島康彦氏は経緯をこう説明してくれています:

 1792(寛政4)年に時の老中松平定信が窮乏沈滞した江戸の市制の改革向上をめざして発案実施したかの七分金制度をつかさどった「町会所」とよぶ江戸市民の自治機関が前身。
 「町会所」は江戸市民が毎年節約して貯蓄した膨大な金殻を預かっていた。
 明治維新後も存続していたが、同5年に至りこれをそのまま東京府民に引き継いで「営繕会議所」と改称し、府の監督のもとに依然として府民有力者数人により運営される自治機関となった。
 明治5年現在において「会議所」が保有していた共有財産は金だけで70万両といわれ、その金は悉く府下の
  道路、橋梁、墓地等の公共施設や
  養育院、商法講習所(後の商科大学)、市街瓦斯灯、銀座煉瓦街などのごとき厚生・教育施設及び新都市施設に使用された。

(前島康彦、前掲書、42頁)

 はあ、そうだったんですねぇ〜
 もうすこし、この前島康彦氏、読みこんでいきたいものです。
 「社会的共通資本」とも呼ばれる空間にイマ、ひたひたと都市の雑踏とコンクリートの密林とむだもうけシュギが押し寄せて来ています。
 でもヤッホー君、なおさら自然の音、目に優しい緑、空気・水の流れにひたっていたいのだそうです。
posted by fom_club at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月11日

武相荘再訪

 「はなきん」でした、いかがおすごしでしたでしょうか。
 北海道から山歩クラブ山の友が上京しました。
 われわれで歓迎ウオークを行ないましたのでご報告します。

 昨日4月10日木曜日は、午後3時半に待ち合わせ、「清澄庭園」中の島で、白鷺といっしょにオオシマザクラの花吹雪を愛でました(写真):

清澄庭園.jpg

 ベンチで長話をしてから清澄公園〜セメント工業発祥の地(旧浅野セメント、現太平洋セメント)、平賀源内エレキ実験の地〜隅田川テラス〜萬年橋〜芭蕉庵跡〜八名川小隣復興小公園〜やきとり屋「稲垣」で宴会、というコースでした。

 今日4月11日金曜日は、鶴川再訪で9時「可喜庵」〜「香山園」〜山の版画家畦地梅太郎(1902‐1999)アトリエ〜白洲次郎(1902‐1985)、正子さんが通っていた鶴川団地内蕎麦屋「藤田」〜「武相荘」

白洲次郎.jpg

 新宿に戻って「さくら水産」で打ち上げというコースでした。

 では次回までごきげんよう。
posted by fom_club at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

飛鳥山

 深川の土地のそもそもの初めは、1627(寛永4)年に永代寺とよぶ古い寺の開祖となった長感法印という人が、霊夢のお告げによって八幡宮の建立を思い立ったことからである。
 この法印は、時の徳川将軍家光から、永代寺のあった永代島周辺の芦原を拝領し、埋め立ての権利を得た。
 以来多年の努力が功を奏して6万5千余坪の土地を造成し、念願かなって八幡宮の境内地とすることができた。
 こうした歴史をもつ八幡宮はやがて富岡八幡宮とよばれ、年々繁昌してやがては江戸屈指の大社となった。
 富岡とよぶのは、今日の横浜在の富岡村の人々が埋め立てに骨を折ったからだという…

 深川は、江戸城の巽の方にあたる。
 だから江戸っ子は深川とはいわず、辰巳とよんだ。
 そして辰巳には、吉原や柳橋とは別な、デンボ肌の小粋な花柳界が、繁華街の当然の要求としてうまれた。
 いわゆる岡場所であり、辰巳芸者と高級私娼とは、船で通ってくる江戸の粋人通客の血をわき立たせた。


 これは農業博士(東京農業大学)・前島康彦氏が「1988(昭和63)年12月10日に永眠されてから早1年を迎える」にあたって(財)東京都公園協会が1989(平成元)年11月30日に刊行した『東京公園史話』その17からひいたものです。

 深川は、上野、浅草とならぶ江戸名所のひとつだったのです。
 さて、ここでもうひとつ登場するのが時の徳川将軍吉宗が江戸市民の遊園地として提供した「飛鳥山」だったのです。
 前島康彦氏の言では:

 桜ずきの市民には海に近い品川の御殿山の桜もあれば、隅田川の流れにそう向島堤の桜もあったが、ここ飛鳥山は眺望の良い丘陵の上で地域は広く、麓には清い流れもあり、市心を去る2里余、閑静な環境で、一日の清遊に適する最も遊楽向きの場所であった。

 ここでわれわれは、11代目の徳川将軍家斉のころの喜多川歌麿『深川の雪』から、江戸幕府中興の祖、8代将軍吉宗(1684-1751、在位は1716-1745)の治世にさかのぼることができました。
 そして同時にヤッホー君のこのブログでは、先の日曜日4月6日、山歩クラブの歩いたウオーキングのゴール、「飛鳥山公園」にたどりついたことになるわけです。

 飛鳥山公園といえば「さくら」が有名です。
 この地を桜の名所に仕立て上げたのは、八代将軍徳川吉宗でした。
 約280年前、吉宗が享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたのです。
 こうして江戸の新しいお花見の名所として誕生した飛鳥山は、当時、桜の名所地では禁止されていた「酒宴」や「仮装」が容認されていたため、江戸っ子たちは様々な趣向を凝らして楽しみました。
 飛鳥山は、明治6年、太政官布達によって、上野・芝・浅草・深川とともに日本最初の公園に指定され、平成の現在も「憩いと出会い」の場として親しまれています。

(北区公式サイト、飛鳥山公園)
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/facility/055/005518.htm

 なぜ、ゴールを飛鳥山にしたのでしょうか。
 ヤッホー君やわれわれは、お花見ウオークに絡めてさらに重きをおいたもうひとつのゴールがあったのです。
 それは4月6日、飛鳥山公園内北区飛鳥山博物館であった企画展担当学芸員による展示解説会に出席することでした。
 何の企画展であったかと申しますと、冠松次郎:

 かつて滝野川町中里に居住していた質商冠松次郎(1883―1970)は、北アルプスを中心に渓谷からの登山という独特の形式を確立し、1925(大正14)年8月に国内有数の峻嶮なV字谷である黒部川下廊下を初めて溯行した登山家で知られています。

 溯行後は山岳景勝地を広く国民に知らしめるべく健筆をふるうかたわら、文部省による黒部峡谷探検(昭和2年)・劔岳(昭和3年)・赤石岳(昭和4年)・鹿島槍ヶ岳と下廊下(昭和5年)・尾瀬(昭和6年)の記録映画製作に案内者あるいは監修者として加わりました。
 その仕掛人は文部省の学芸官・社会教育官であった中田俊造(1881―1971)です。

 富山県出身で冠松次郎とはほぼ同世代の同氏は、大正末から昭和初期にかけて、社会教育の分野で映画の重要性に着目し、映画を教育手段として普及させた先覚者です。

 本年度は冠松次郎生誕130年に当たります。
 そこで、冠松次郎の業績に対する評価に新たな視点を加えるべく、かつて2000年秋に当館で没後30年を記念して催した冠松次郎の特別展で部分的にふれるにとどまった文部省映画を改めてとりあげ、冠松次郎が映像等で国民に紹介したかったことは何だったのか、冠・中田両氏の事跡と現在国に残されている映像資料を中心に館藏資料等を加えて展示を構成し考究してみたいと思います。

 桜咲く春たけなわの飛鳥山にどうぞお越しいただき、ごゆっくりとご観覧ください。

(北区公式サイト、春期企画展「岳人冠松次郎と学芸官中田俊造〜戦前期における文部省山岳映画〜」)
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/event/1018/101815.htm
posted by fom_club at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月10日

大御所時代

 喜多川歌麿の最高傑作『深川の雪』が制作されたのは、歌麿最晩年の1802年頃から1806年と推定されています。
 とすれば、それは化政文化、文化・文政期(1804年〜1829年)と重なっております。
 第11代将軍(在任:1787-1837)、徳川家斉(1773-1841)の治世の時期、50年にも及ぶ⦅大御所時代》(注)です。

 江戸時代後期に入って、文化文政時代を迎え、「化政文化」という文化の花が咲く。
 その担い手は江戸の町人であった。時の将軍徳川家斉は放漫政治に明け暮れ、人心が乱れた。
 世の中が頽廃的になっても武士の縛りは緩く、この期の文化は通俗的・享楽的な特徴を持つようになっていく。
 文学と絵画にその特徴がよく表われている。

 文学では洒落本(山東京伝)、黄表紙(恋川春町)、滑稽本(十返舎一九)、合巻(柳亭種彦)、読本(曲亭馬琴・上田秋成)、俳諧(小林一茶)など多彩である。

 また絵画では浮世絵(鈴木春信・喜多川歌麿、東洲斎写楽、安藤広重、葛飾北斎など)、文人画(渡辺崋山)、写生画(丸山応挙)、洋風画(司馬江漢)などこれまた多彩である。

 浮世絵は幕末に海外で大変な人気になったが、もとはと言えば陶器を輸出する際に、割れを防止するため陶器に包んだ包装紙(クッション紙)に浮世絵の試し刷りが使われており、それが輸入元のフランスなどで評判になったためである。
 幕末には、本体の陶器より包装紙のほうが値打ちが出たほどであった。
 ゴッホをはじめ、多くの浮世絵信奉者を生み、後に来るジャポニスム・ブームのベースになった。

(文化学院理事長・戸田一雄「文化力が日本を救う」)
http://bunka.gakuin.ac.jp/cmc/critic/toda/005.html

 ところで歌麿は『太閤五妻洛東遊観之図』で事件をおこしてしまいます:

 太閤が稚児髷の美童姿の石田三成の手を取り、甲冑姿の加藤清正の側に朝鮮美妓が三弦を弾くの図でこれが恐らく、徳川に弓を引いた豊臣方を謳歌したとでも気を廻したのであろう。
 時の幕閣のにらみを受け、勝川春英と共に1804(文化元)年5月16日吟味中の三週間入牢、出牢の上、手鎖50日の刑に処せられた。
 版元もまた錦絵没収の上、何らかの罪を受けたこと勿論である。同時に錦絵類の出版にはすべて検閲を経べき旨の厳重な布告が発せられた。
 歌麿は、本件のため、いたく心身を労し翌年、もしくは翌々年、54歳で病没したと伝えられる(*)。
 (*) 中井宗太郎(1879-1966)『浮世絵』(岩波新書、1953)87頁


…元東京高検検事・馬屋原成男(1908-1984)「わが国における風俗犯罪取締りの史的考察(1)」11頁(駒澤大学法学部政治学論集1982年9月所収)
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/22622/KJ00000114001.pdf

 しかし、この筆禍事件で歌麿は黙ったりしません、皆さんに迷惑かけてしまったなんて凹んだりしませんでした。
 表現したい、表現せねば、表現すべきものがまだ湧いてでてくる、と栃木に引っこんでも、自由に表現しつづけ大画をものにすることになるのです。

 従来絵画は、宮中絵師の狩野派のように貴族の独占するところであって、平民いな庶民はそれを見せて貰うだけのものであった。
 ところが浮世絵が出るに及んでそれは、まったく民衆の特に町人の芸術となった。
 江戸幕府の封建制によって、人間性を抑圧され自由を失った町人たちが、この桎梏のもとに苦しみながら、抑圧に抗して人間性の恢復と自由を求めたやみがたい心情の表現であったのである。
 今でいえば暴政に対する一種の抵抗権の発現である(*)。

(*) 中井氏紙前掲『浮世絵』157-158頁

(*) 為政者の暴政に対する一種の抵抗権の理論はローマ時代からあり、1793年のフランスの人権宣言(35条)にもかかげられている。この抵抗権を憲法上の一種の自由権として国民の権利に数えるのが戦後の学説である。宮沢俊義(1899-1976)『憲法U』(有斐閣、初版1959年)133頁以下


…馬屋原成男、同論文、13頁

 江戸時代の平民いな庶民の、揶揄や風刺にしてまでも暴政を「表現」しようとする心情には学ぶところが多いにあるし、また、
 人権宣言、抵抗権、自由権、国民の権利…、そうですよね、憲法改悪の動きに抗して「人間性の恢復と自由」を求めていかなくっちゃ、よし、そのためにも宮沢俊義先生の憲法論を読み直す必要がありますね。

 国民の目の届かないところで改憲への地ならしだけが独走する。そんな事態に危惧の念を覚える。
 与野党7党は憲法改正の手続きを定める国民投票法の改正案をまとめ、衆院に提出した。7党の合意により今国会での成立は確実とされる。だが調整は国会の外でなされたものだ。国民の眼前での論議もない段階で、はや成立確実と聞くと、違和感を禁じ得ない。慎重な審議と国民的論議の喚起を求めたい。
 国民投票法は2007年、第1次安倍内閣のときに成立した。その際、投票年齢など3点について3年後の法施行までに「必要な法制上の措置を講じる」と付則で定めていたが、実現しておらず、「三つの宿題」と呼ばれていた。
 このうち二つの「宿題」で与野党が合意に達した。それが今回の改正案だ。まず投票年齢を改正法施行後4年間は20歳以上とし、それ以降は自動的に18歳以上とする。二点目に、改憲の賛否を働き掛ける「勧誘運動」を、公務員にも解禁した。いずれも民主党の求めに与党側が譲歩した格好だ…

(2014年4月10日付け琉球新報社説「国民投票法改正 平和憲法の効用学びたい」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-223225-storytopic-11.html


(注)
 大御所時代とは、11代将軍、徳川家斉の治世の事である。
 家斉は、将軍を次男の家慶に譲った後にも権力を持ち続け、生涯を大御所として専制政治を行った。
 その象徴として挙げられるのが、大奥での活躍である。
 家斉は、17人の妻妾を持ち、その女性に53人の子女を産ませている。
 その結果、子供たちの養育費が幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて財政は破綻へ向かうこととなってしまった。
(日本史を学ぼう)
http://ohmoriws1.ms.kagu.tus.ac.jp/public_page/kidland/JapaneseHistory/Edo-Ohgosyojidai.html
posted by fom_club at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月09日

深川の雪

 小林忠さんは、日比谷図書文化館での講演会の最後をこう結びました。
 今度の日曜日4月13日、朝9時から9時45分まで放送のNHK Eテレ番組「日曜美術館」(再放送:4月20日よる)に出演します、と。

 3月2日、日曜美術館の「アートシーン」で第一報を伝えた世紀の大発見。
 海外にも衝撃を与えた喜多川歌麿の幻の傑作「深川の雪」。
 縦およそ2メートル、横およそ3.5メートルという巨大な掛け軸で、鮮やかな色彩をとどめた姿で見つかった。
 歌麿は、江戸後期、美人画で一世を風靡した浮世絵の巨匠。
 「深川の雪」は、アメリカの美術館に所蔵されている「品川の月」、「吉原の花」とともに、「雪月花」3部作として、肉筆の最高傑作と言われてきた。
 しかし、1879(明治12)年に栃木の寺で展覧会に出され、1948(昭和23)年に開かれた銀座での展覧会を最後に所在不明に。以来モノクロ写真でしかその存在は知られていなかった。
 番組では、修復の過程などの映像記録を交えながら、「深川の雪」にまつわる物語をひも解き、歌麿の実像に迫る。

(世紀の大発見! 歌麿 幻の大作)
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2014/0413/index.html

 なんでも収録のときには、司会の井浦新さん(1974年東京都出身)は「言葉がない」って、またアナウンサーの伊東敏恵さん(山口県周南市出身で1996年入局)は泣き出してしまった、という浮世絵師による肉筆画の最高傑作です。
 小林忠さんがいま館長をつとめていらっしゃいます「岡田美術館」(神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷493-1 Tel 0460-87-3931)では、2014年4月4日(金)〜6月30日(月)の会期で、展覧会と言いますか特別展示《再発見歌麿「深川の雪」》を行なっております:
http://www.okada-museum.com/exhibition/

 この美術館は、2013年秋にオープンした大きな美術館です:

 「岡田美術館と聞いた時、てっきりあの岡田さんだと思いました」
 ある美術関係者は、箱根美術館やMOA美術館(静岡県熱海市)を手がけた故岡田茂吉氏(世界救世教教祖)を思い浮かべたという。
 だが、それは「岡田」違いだった。
 新美術館のオーナーは岡田和生氏。パチンコ・スロット機器製造を手がけるユニバーサルエンターテインメント(旧アルゼ)の会長として産業界にその名が轟いている。
 米「フォーブス」誌が発表した2011年の個人資産ランキングでは、21億ドル(約1743億円)と推計され、日本人14位となった。1999年の高額納税者番付では全国総合1位に上り詰めた大富豪である。だが、株取引の申告漏れを東京国税局に指摘されるなど、「闇」の部分を指摘されることも少なくない。近年は海外で高級カジノを展開しており、「カジノ王」として知られる。

(2012年04月06日版日経ビジネスDigital速報「<パチンコ王・岡田>の美術館を覗きにいった」)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20120405/230645/?ST=pc

 2014.03.02 12:00投稿(NHKラジオニュース)「喜多川歌麿の浮世絵の作品 深川の雪 が発見」:
http://www.youtube.com/watch?v=zfNE5BMh4gI

 2014年03月02日 17時25分更新 The Huffington Post「深川の雪」喜多川歌麿の幻の浮世絵が66年ぶりに一般公開:
http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/02/fukagawa-snow_n_4883517.html

 「深川の雪」は親交のあった市内の豪商の依頼を受けて、歌麿が栃木市で描いた可能性がある作品で、同じ経緯で制作されたとされる「品川の月」「吉原の花」と合わせ3部作「雪月花」と呼ばれている。
 市や市民らは作品の収集や観光パンフレットの製作など、郷土に関係が深い歌麿を活用したまちづくりに取り組む中で、戦後間もなく、こつぜんと消えた「深川の雪」を探すことに力を尽くしてきたが、行方はつかめないままだった。

(3月3日付け下野新聞朝刊「深川の雪」発見 市民ら驚きに包まれる)
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20140303/1521569

 京都で定年後生活さん2014-03-08 06:34:10投稿「喜多川歌麿 深川の雪 世紀の大発見」:
http://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/971bf7c71b1933a54ebf641bf388eab7
posted by fom_club at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天童広重

 ヤッホー君のこのブログ、昨年おおみそか、12月31日付け日記「北斎漫画」をご参照ください。
 そこに小林忠先生の「浮世絵の構造」からの一節をご紹介しましたが、今日もさらに:

 織田兵部少輔様よりの御拝領。
 1842(天保13)年から1851(嘉永4)年まで10年年賦で御用金を30両差し上げた。
 (ところが)嘉永五年から(向こう)10年の年賦でさらにまた御用金を差し上げることとなった。
 都合60両である。
 嘉永4年12月26日 蔵増門伝村 名主 源次郎

 …天童藩主の織田侯は、あの織田信長の次男、織田信雄(のぶかつ、のぶお)に血筋をつなぐ、由緒ある武門の名族である。
 それが、百姓や町人に金を借り、その申し訳けの返礼として、庶民の美術品である浮世絵を贈ったというのだから、歴史の皮肉もここに極まったというところがある。
 もっとも絵の作者の広重は、将軍直参の御家人安藤家の当主から浮世絵師となった、異色の存在ではあったのだが。

 天童広重≠ニ通称される肉筆画は、ほとんどが江戸や国内諸地方の名所風景画で、版画制作に追われて比較的肉筆画の作例が少ない広重にあっては、貴重な存在として以前から注目されてきた。

(小林忠「浮世絵の構造」)
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/kobayashi/structure_of_ukiyoe/36.html

 そしてヤッホー君のこのブログ、2010年04月24日付け日記「山羊と鶏と鯉と」をご参照ください。
 そこにでてきますヤッホー君のお祖父ちゃんから、小さいときのヤッホー君、天童広重∞天童広重≠チて何度も聞いて育ちました。
 4月7日月曜日に半世紀ぶりに出会ったのが天童の同窓生仲間、急になぜ天童広重≠セったのだろうと思い出してしまい、eチャリを飛ばして日比谷図書館へ。
 そして帰宅後、じっくりお話を整理して、先生の上述の文章を発見したわけです。
 小林忠先生(1941年東京生まれ、現国際浮世絵学会理事長。岡田美術館館長)、本当にお話を聞きに行って良かった、と思います:

 浮世絵研究の大家、小林忠氏を講師に迎え…講演会を開催します。
 幕末の浮世絵界は、歌川派全盛期で幕末の浮世絵界は、「歌川派にあらざれば浮世絵師ず」と言わたほどでした。
 歌川派の開祖豊春は、18世紀後半の画壇で浮絵の技法を用いてその名を高めました。
 豊春は1814(文化11)年に没しており、本年が後200年に当たります。
 記念の年に、豊春の門人であり歌川派を一大勢力に育て上げた歌川豊国や、豊春の孫弟子にあたり、世界的にも著名な画家へと成長する広重など、豊春とその門人たちの画業を振り返ります。

http://hibiyal.jp/var/rev0/0000/9975/201437181837.pdf

 これで、半世紀以上のヤッホー君の疑問が氷解しましたが、もう帰れない故郷…。
 なぜあのとき、お祖父ちゃんにその絵を見せて、どこにあるのって聞かなかったのだろうと。
 これはヤッホー君の悪い癖なのか性分なのか、最後までやり遂げないんだな、また別の機会があるさ、そんなに慌てることもないさ、また時がめぐってきたときのほうが真剣に解が、道が、縁ができるっていうものさ…
 でも故郷に帰って蔵に押し入って家探しし、眠っている絵画を見つけ出したい、ついでにヤッホー君の蔵書整理もしたいという想いがつのるばかり…
 帰りたいけど帰れない、春の涙がもうひとつ、流れてくるのでした。

 広重は1797(寛政9)年生まれで、北斎より37歳下です。
 当時の37歳の差というと孫でもおかしくないのです。二十歳前後で親になるような時代ですから、ほぼ二世代違うわけです。
 たとえば北斎が『冨嶽三十六景』を描いたのは70歳代の初めで、30歳を越えたばかりの広重にとってみれば、仰ぎ見る存在です。
 当時の70歳というと、今でいうと90歳、100歳の感覚でしょう。
 北斎はそんな齢で、腕力十分で、ベロ藍(あい)、ベルリンブルーを使って、実験的な試みの『冨嶽三十六景』を描き、大流行するわけです。
 これをみた広重の驚きや感銘は深かったと思います。

 広重は出が幕臣、火消し同心です。今で言えば消防庁の課長か係長かというところです。
 生活が苦しい中で、サラリーマンの副職として、絵で家計を支えるというところがあったと思います。
 広重より4歳年上の渡辺崋山(1793〜1841)もそうでした。
 ただし、火消し同心というのは、身分的には低くても将軍の直参で、大名と同じ一親等の家来です。
 ですから、気位は高かっただろうし、それなりの武家の教養、伝統的な文化を守る、そういう保守的な感情、心情はあったと思います。
 若い広重の方が日本の伝統的な心情、感情につながっていって、もう祖父世代の北斎の方が革新的で新しいものに次々と挑戦していく、そういう対照的な二人を一種のライバル関係のようにジャーナリズムがお膳立てしていくわけです…。

 北斎は1849(嘉永2)年、90歳の長寿を全うして亡くなります。
 このとき、広重は、53歳、浮世絵師として成熟した存在です。
 時代は、幕末、日本は激動の時代に移っていきます。
 ペリーが1853(嘉永6)年に来航し、翌年、日米和親条約で伊豆、下田、函館を開港します。広重はペリー来航をもちろん知っていたわけです。
 1858(安政5)年の日米修好通商条約で下田、函館の他、横浜、長崎、新潟、兵庫も開港します。この外国に開かれた港から、どんどん浮世絵が海外へ流れていくわけです。
 この安政5年、6月19日に横浜が開港して、コレラが入ってきて猛威をふるい、広重は、このコレラで9月6日に亡くなります。

(小林忠「北斎と広重」季刊誌『ゑれきてる』所収)
http://elekitel.jp/elekitel/special/2007/14/sp_01_e.htm
posted by fom_club at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

花見の宴

 昨日4月7日、月曜日の涙。
 上野公園での昼、半世紀ぶりに集った12人の「花見の宴」にて。 
 宴も盛り上がってきたころ、同窓生が、妻を亡くして3回忌だって。
 それで七輪買って、炭をおこして、遺品の整理をはじめたとか。
 亡き妻の写真を一枚だけ残してほか焼いたそうな。
 でもどうしても燃やせなかったのが結婚前、19歳だった妻からもらったラブレター。
 今日こうして集まってくれたあの頃の皆んなに読んでもらってから火にくべよう、と。
 朗読することになったヤッホー君、しかし声がつまって涙声。
 結局回し読み。
 ヤッホー君は泣きながら、断捨離なんて流行語に負けちゃダメ、捨てられないものに囲まれて結局、七転八倒して、あの時あの頃あの人びとを思い遣り、涙にくれるのも人生だよって懇願していたそうな。
 ほかの皆もこんな切ないラブレターはわれわれ世代の共通の財産だよ、世界遺産だよ、宝物だよみたいな話になって桜吹雪の下、酔いの宴もまたいちだんと高揚したのでした。
 日が暮れるまで続いた宴が終わるとのど自慢大会!
 就職列車に揺られて上野に着いてから、それぞれが歩んだ半世紀の人生に感無量の時を過ごしてきました。

 宴に並べられた食材みっつ:

 ★ 青菜漬け
 ★ おみ漬け
 「天童市農業交流プラザ」山形県天童市老野森1-1-1天童市経済部農林課 Tel 023-654-1111、JAてんどう女性部山口支部漬け物グループ:
http://www.tendo-nogyo.jp/sanbutu/kakou/kakougr01.html
 ★ つや姫でつくったたけのこごはんに、そして焼酎

 「つや姫」。
 日本一を誇るブナの原生林が育む滋養に満ちた水系、先人の知恵と四季鮮やかな山形の風土が生んだ、わが国の美味しいお米のルーツとなる「亀ノ尾」。
 その正統の系譜から、ついに新ブランド米が誕生しました。
 際立つ「粒の大きさ」、「白い輝き」「旨さ」、「香り」、「粘り」は、ごはんそのものがご馳走。
 味わうほどに至福の喜びに満たされます。
 山形の農の匠が丹誠込めて育てる、安全で、おいしさを極めた特別なお米。
 日本中の、何よりも「白いごはん」が大好きな人にお届けします。

(お米はここまで美味しくなれる。「つや姫」山形から、日本の新品種)
http://www.tuyahime.jp/brand/index.html

 その「つや姫」を原料に焼酎が誕生:
http://www.yamagata-bussan.co.jp/SHOP/x055.html

 私の実家は天童、街の中を流れる倉津川の近くにあります。
 11月1日、橋の上で数人集まって川を眺めています。
 「鮭だよ鮭!」と近所のおじさん。
 コンクリートの川床、コンクリートの護岸で、水かさが3cm程なので体の2/3が水から出ているではありませんか。
 川床に滑らかでも30p程の段差があって、「ほら、がんばれ!」と見物している人から声援が飛びますが、水量が少なくどうしても登ることができません…

(2013-11-07 12:22 店長日記)
(株)山形県観光物産会館(山形市表蔵王68 Tel 023-688−5500)
http://www.yamagata-bussan.co.jp/

 皆の心に響いた歌三曲を次回、また会う時までの思い出に:

 ☆ 『達者でナ』1970(昭和35)年、三橋美智也(1930-1996)歌:
http://www.youtube.com/watch?v=3Bvtj9Y1s_w 
 ☆ 『ああ上野駅』1974(昭和39)年、井沢八郎(1937-2007)歌:
http://www.youtube.com/watch?v=VbLTsN-9Y6I
 ☆ 『紅の舟歌』1992(平成4)年、北見恭子(1952年、山形県村山市出身)歌:
http://www.youtube.com/watch?v=1_ep2d-9nLQ

 北見恭子は郷里・山形県のブランド米「つや姫」の普及・告知と山形県の観光客誘致のために「特命観光大使・つや姫大使」としても活動しています。
(北見恭子公式サイト)
http://kyoko-fc.com/
posted by fom_club at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月07日

お花見ウオーク

 取り急ぎ4月6日の山歩クラブ特別企画「お花見ウオーク」について記します。
 参加者8名、石神井川をくだって飛鳥山へ、という行程です。お天気、晴れ。

 集合は8時40分、埼京線「板橋」駅前、「近藤勇墓碑」前:

近藤勇.jpg

 「北谷端公園」から「みよの台仲通」という細い古道を抜けて、石神井川は観音橋にでます。
 途中、「紅葉寺」で一休み:

もみじ寺.jpg

 飛鳥山公園で昼食:

飛鳥山.jpg

 最後に、JR「王子」駅前、「北とぴあ」:

北とぴあ.jpg

 何があったのか、なんでまた飛鳥山公園だったのかは、のちほどに。
 今日は上野公園で、小中校時代の仲間でお花見会です、行ってきます!
posted by fom_club at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月05日

東京国立博物館

 今朝は、朝の早よからいろんなことが多すぎました。
 まずほヤッホー君のこのコンピューター、入力もできず、エクセルも開けません。
 なんでも「ウインドウズサービスに接続できませんでした」「IMEが無効です」「マイクロソフトエクセルは応答していません」なんやらの気持ち悪いメッセージで、もう、お手あげ。
 「パソコン依存症」かいな、と思うほどにヤッホー君の気持ちは落ち込んでしまいました凹。
 しようがない、といただいた「渋谷ロゴスキー」のお土産、ボルシチをチンして朝ごはんをいただくことにしました。
 (販売者は「エムシーシー食品販売」神戸市長田区苅藻通5-4-18 Tel 0570-014925)
 おいしかったこと、おいしかったこと。  
 そうなんです、緊急事態であればあるほど、まずは腹ごしらえ。
 ヤッホー君のこのブログ、3月22日付け日記「ボルシチ」をご参照ください

 ボルシチ.jpg

 朝食を済ませた後、深川図書館へ行って、岩波書店の雑誌『思想』2014年1月号No.1077のコピーをしてきました。
 山本理顕『個人と国家の<間>を設計せよ』第1章「<閾>という空間概念」149頁〜170頁

 建築がこうした考え方(<役に立つ>建築、機能的につくられる建築)によってつくられるようになったのはつい最近である。
 19世紀後半あるいは20世紀に入ってからである。
 それまでの建築はそれ自体が目的であった(手段ではない)。
 その外見(appearance)をいかに美しくするかということが目的だったのである。
 その外見の美の作法を様式と呼んだ

(同書、149頁)

 ヤッホー山荘にもどって、どきどきするような文章を読み始めた途端、あれっ、消費税8%はどうしたんだろう、一枚10円の料金にふくまれていたのかな、切り捨てなのかな、と「消費税のバロック様式」について考えている間に、傾げていた首がこっくり、こっくりと舟漕ぎをはじめました。
 そう、そう、とこれじゃニンゲン駄目になる、とやおら起き上がり、自分を自分で鼓舞し、eチャリ。
 上野公園をめざしたのです:

 トーハクで世界一贅沢なお花見を:

 「博物館でお花見を」は、春の庭園開放(2014年3月8日(土)〜4月13日(日))の時期に合わせた恒例企画です。
 幾種類もの桜が次々に咲き誇る庭園と、桜に彩られた絵画、陶磁、漆工芸などの名品の数々。
 日本美術の殿堂で、世界一贅沢なお花見をお楽しみください。
 庭園の桜は種類が豊富!
 可憐なカワヅザクラ、枝垂れが見事なエドヒガン、フリルのような花びらがかわいいヤエベニヒガン、白い花をつけるオオシマザクラなど、10 種類以上の桜が次々に花を咲かせるさまはまさに圧巻です。
 最近では、外国人観光客向けのツアーの経路に、トーハクの庭園が組み込まれることが多くなってきました。

http://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=dtl&cid=5&id=7144

14上野公園.jpg

 そうなんです、ガイドツアー!
 世界一贅沢なお花見を楽しみました(けどヤッホー君のあの世界一のパソコンはどうなるんだろう…)。

 帰りは夜桜見物と言いますか、すでにそのためにブルーシートを敷いて酒盛りをはじめていらっしゃる大ぜいの花見客でにぎわう人ごみをかきわけ、かきわけ(藪漕ぎだい、と思って)、五條天神社から不忍池へ。
 そこは、また大道芸人でにぎわうまた違った空間が:

 まずは、「東京大衆歌謡楽団」:

 今、日本人として唄わなければならない歌がある。
 昭和歌謡はメロディにやすらぎがあった。
 歌詞に心があった。
 昭和の時代には夢があった。
 希望があった。
 それを今に伝えたい。
 良き昭和の時代を今に唄い継ぐ、昭和生まれの平成育ち
 東京大衆歌謡楽団

http://tpmb.jp/
http://www.youtube.com/watch?v=YghOggKE2pU

 次いで、立松正宏:

 なぜ皆、消費税の事、怒らないのだろう?
 お人よしな方が多いのですね。
 たとえば交通運賃。
 カードだと3円アップ。
 現金だと10円アップ。
 7円はどこへ?
 7円って、利用者の数を考えると膨大な金額なのでは…
 大きな会社は内部留保膨れ上がり。
 個人の小さい会社、小さな小売業者はどんどんなくなっていくことでしょう。
 失業者が増えますね。
 でも大丈夫、兵隊さんになれは、ご飯の心配がないですよ。 
 徴兵制度がなくても人員確保できて政府の思う壺。
 戦争に行きたくない方はブラック企業も増えるからお勧めです。
 低賃金で長時間労働。
 お金が無くても、遊んでる暇がないので大丈夫。
 精神病んで自殺者がもっと増えるけど、でも、上の方でお金を回している人達には痛くも痒くも有りません。
 犯罪も増える事でしょう。
 でも、大邸宅を狙うような大物では有りません。
 一般市民を相手にする小物です
 皆さんはこのくらい平気ですか?
(2014/4/3(木)午後4:09更新「全ての人が本当の経済の仕組みを知っておくべきです」…50キログラムの楽器類を全て自転車に載せ国立市⇔上野公園間片道35kmを通勤している音楽系大道芸人「体感アーティスト立松正宏」の日常と写真をアップしています)
http://blogs.yahoo.co.jp/tatexylophone/MYBLOG/yblog.html
http://www.youtube.com/watch?v=V0xEBbqcyxk

 帰ったら、パソコンは直っておりました、「春の珍事」
posted by fom_club at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月04日

コーポラティズムに対抗する

 『世界』2013年11月号
 堤未果「株式会社化する国家〜奪われる私たちの選択肢〜」(pp90-98)

 この新しい経済モデルは、人間を顔のない
 「消費者」や
 「数」や
 「モノ」に変えることで、効率よく利益をあげていく
(赤字になれば倒産しないように経営者じゃなく従業員の人件費をカットし、受益者から応分の負担をすべく値上げするだけのお話)
 だが、私たちには、
 名前も顔も、
 生きてきた歴史、
 愛する家族や友達や、
 将来の夢もある。
 国家の株式会社化は、1%の側から仕掛けられた、多様性に対するる攻撃だ。
 それは日常のあらゆる場所で問いかけてくる。
 私たちが人間らしく生きるためには、決して失ってはならない選択肢のことを。

(98頁)

 えっ、アベノリスクもこんなやりたい放題のカウボーイ資本主義、ネオリベのお仲間ですか、タケノコ平蔵がおトモダチでしたもんねぇ〜
 もう、公立図書館や田舎の農地だけのお話ではないようで:

 公教育の中身を民間委託できるようにする学校経営への株式会社参入や、
 混合診療全面解禁、
 雇用条件の規制緩和など
(エトセトラァ〜あ、エトセトラ)、
この10年のアメリカをなぞるような政策が(日本の国旗を掲げてアベノリスクを取り囲むサポーターって、右翼なの?対米従属なの?)、今まさに、オリンピックのニュースの陰で、ひっそりと進められている。
(同、98頁)

 一人ひとりのいのちまでもが市場経済、つまりカネに換算され、ま、おカネのある人は長生きしてもいいけど、貧民は早く野垂れ死んだほうが身のため、丗のため、人のため、とか以前、副葬理がご発言なさっていましたが、人間の生き死にはカネ次第の大日本帝国なんだそうで、だから早く徴兵制にして、貧民は地球の裏っ側に行って死ねば、家族には温灸まではいる、とこういう世の中にしたほうが、ケイザイの活性化窄取だ、と。

 医療が営利企業によって担われると、利潤追求がとことん行われることになる。
 命にかかわる病気の治療は、需要が極限まで大きくなる。
 すると、そのコストも極限まで拡大される、ということになる。
 需要と供給のバランス等成立しない。

 過日、米国人の友人から驚くべきことを聞いた。
 奥様が悪性腫瘍となり、最終的な手段として、強力な化学療法を行って、その後に幹細胞移植をするてはずになった。
 残念なことに幹細胞移植まで至らずに、奥様は亡くなられた。
 医療コストは、100万ドル、およそ一億円、に達したという。
 保険が大部分をカバーしてくれたので、実質的な支払いは1万ドル、およそ100万円、で済んだ、ということだった。

 かようにして営利企業の関与する医療は、国民の富を吸い尽くすことになる。

(ヤッホー君のお慕いしている小児科のお医者さまです、URLはト・ク・テ・イ・ヒ・ミ・ツ・!)
 
 地獄の沙汰もカネ次第、ってこの国の国民の文化、作法、哲学でしたかぁ〜 Money is the key that opens all doors!

 「ニュース」はどっかの国のように(たどたどしいニホン語でたびたび間違えますが、この辺はちがうので、辞職願をあずかっているトップのなんとかさんは、間違った職員の首を切るかも…)、論評なしの大本営発表の垂れ流し…
 そうですか、ところで、堤未果さん、2014年1月に来日したエイミー・グッドマン Amy Goodman さんにインタビューし、その聞き取りは同じく岩波書店の『世界』2014年4月号に載せておられます。
 このエイミー・グッドマンさんは、2008年、「もうひとつのノーベル賞」と言われる「ライトライブリーフッド賞」をジャーナリストとしては初めて受賞された方です。

 戦争と平和、
 格差の拡大、
 温暖化と気候変動、
 地球の運命をを心配する人びとは、決して片隅の少数派ではなく、実は多数派なのです。
 それは「もの言わぬ多数派」ではなく、
 企業メディアによって声を奪われた「もの言えぬ多数派」です。
 だからこそ、私たちはメディアを自分たちの手に取り戻す必要があるのです。

(同書、180-181頁)

 そうです!
 それぞれがそれぞれの場から、それぞれの声で、それぞれのやり方で、歌でも意見でもだしあって、人殺しとか格差とかない、平和な明るい未来をつくっていきましょう!
 そんな寄り合える場所があるとは…
 「デモクラシー・ナウ!」だそうです。
 日本語サイトもあるそうです:

http://democracynow.jp/
http://www.democracynow.org/
posted by fom_club at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

瓦礫の山

 おはようございます。 
 いま、ヤッホー君のこのブログをチェックしていたところです。
 そうしたら、昨年2013年の3月24日付け日記「瓦礫の海」を読んでくれた人がいました。
 あの頃、よく京橋の学習会に行っていたと思います。
 アジア・アフリカの住まいの様子を藤井明先生が、スライドで説明してくださった後、山本理顕先生の考え方に共鳴したことがありました。

 藤井明先生(1948年、岡山市生まれ)には『集落が育てる設計図(LIXIL BOOKLET)』(LIXIL出版、2012年)があります。
 ほかには、John May著『ビジュアル版 世界の居住文化百科―さまざまな民族の伝統的住まい―』(柊風舎、2013年、訳監修)があります。 

 山本理顕先生はいま、岩波書店刊『思想』にて持論を連載中です。
 今年2014年の第3号No1079では、『個人と国家の〈間〉を設計せよ――第3章「世界」という空間vs「社会」という空間――』
 さっそく書評がありますが、ここでは第二章「労働者住宅」への言及にとどめておきましょう。
 だって、さっそく『思想』のこれまでのテキストをヤッホー君、読まなくっちゃって言ってます:

 19世紀の労働者住宅を扱ったこの章では、アーレント『人間の条件』を典拠にし、「私的(プライベート)」と「奪われた」は同じ語源を共有するということで、親密なものを囲い込むという意味での私的生活は、公共性という本質的なものが「奪われ」ているとする。
 山本さんは、奪われているのは閾である、労働者住宅とは労働者という規定そのものにかんする「知」と「物化」の一体化したものである、と結論づける。
 労働者住宅においては「間」が奪われている、それを取り戻すのが山本さんの狙いである。
 30頁の論考を乱暴にまとめるとそうなる。

(2014.02.08投稿、九州大学教授・土居義岳(1956年生まれ)のリハビリ建築ブログ「大学に、岩波書店『思想』2月号のコピーが届いていた」)
http://patamax.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-8f14.html

 ちゃぶ台を囲んで家族皆んなご飯、ちゃぶ台をひっくりかえす<寺内貫太郎>なんていまどきいません、<家>にいたって個室ですもん、ね。
http://www.youtube.com/watch?v=b-2cETNo6c4

 やはり、理研、じゃなかった、理顕さんは面白いと思って、やっぱり3.11後も、理顕さんたち「帰心の会」は、仮設でなく「みんなの家」を建てて評判をよんだ…とま、これがヤッホー君の「瓦礫の海」、その続きでしたが、「続き」は続きます:

 2011年10 月末、仙台市宮城野区内に、最初の「みんなの家」が完成し、さらに宮城県や岩手県などに、これまで6棟が建てられてきました。
 岩沼「みんなの家」は7棟目です。4月に着工し、7月10日、竣工しました。

(2014年3月20日木曜日付け宮城県復興応援ブログ、ココロプレス『地域の笑顔が集う「みんなの家」(岩沼市)』)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/03/blog-post_802.html

 伊東豊雄氏は現在、10万人以上の人々が家を失い、無味乾燥な仮設住宅での厳しい暮らしが続く中、より人間的で居心地の良い場所を提供したいとの想いで立ち上げられた「みんなの家」プロジェクトに取り組まれています。
 CCCと伊東豊雄氏は、両者が行っている東日本大震災被災地支援へのコンセプトが同じであることを受け、東日本大震災により失われてしまった、子どもたちが笑顔で遊べる「場」、希薄になってしまった地域の方々のコミュニティの「場」となる施設を建設する『子どもたちの遊び場をつくろう』を共に取り組みます。
 建設地は宮城県東松島市に決定し、施設の設計・建築は伊東豊雄氏が手掛けます。
 建設費用は「Tポイント募金」によりT会員のお客さまからご支援いただき、7月18日にTサイト上にて『子どもたちの遊び場をつくろう』の募金受付を開始いたします。
 CCCは、これからも「人のため・人と人や社会をつなぐみんなのポイント」となることを目指して、Tポイントアライアンス企業88社のネットワークと、日々Tカードをご利用いただいている4,093万人のお客様とのネットワークとをつなぐ継続した支援に取り組んでまいります。

(「Tカード提示で被災地の子どもたちに笑顔を。」プロジェクト『子どもたちの遊び場をつくろう』を7月18日より開始いたします)
http://www.ccc.co.jp/news/2012/20120718_003392.html

 クラブはクラブでも、山歩クラブとは大違い、CCCは株式会社、private enterprise、private sectorです。
 このCCCはイマ、public sectorにも進出しています、それが公立図書館!

 カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(以下、CCC)と武雄市が「新・図書館構想」のもと企画し、CCCが武雄市より指定管理者として図書館の運営委託等を受ける武雄市図書館・歴史資料館(佐賀県武雄市武雄町大字武雄5304-1)の2013年4月1日のリニューアルオープンから2014年3月31日までの来館者数、貸出冊数等の状況について、以下の通りお知らせします。
(武雄市図書館・歴史資料館 開館1周年〜年間来館者数92.3万人(前々年比3.6倍)、貸出利用者数16.8万人(同2倍)
http://www.ccc.co.jp/news/2014/20140401_004462.html

 private sector は、数字、収益、株主が第一義的に大事です。集客効果をあげるための経済的価値のほうが文化的価値よりも大事です。
 そして指定管理者として図書館の運営委託等をする際に、住民や議員と「ていねい」に「熟議」が交わされ、「ていねい」に結果を説明したのでしょうね。
 いまや公立図書館までもが無料の市民の生涯学習や習得の場でなく、喫茶店、軽食屋、本屋という有料の場になりましたトホホ。
 公立図書館で発行される private card、T カードを発行してもらうと、使えば使うほど被災者への寄付、復興支援にもなるという、税金のほかに、さらに人の財布も当てにされる、すべて "privatization" の世の中になったもんだと気落ちして、朝からため息をついていたところでした。
 このままでは公園も公道も公衆トイレも、なんとか我田、私道、有料トイレになってしまいかねません。
 あっ、消費税が別にかかります、お釣りがありませんと言われますので、散歩にも小銭を用意していかないと、あっ、イイトモとかなんとかカードを発行してもらうのかな?
 空気は?
 今日も良き一日を!

追伸:
privatize = sell an organization, industry or service that was previously controlled and owned by a government

 これはヤッホー君の手元にあるロングマン『現代英英辞典』から。
 そうなんです、岩波書店の『思想』のほかに、『世界』2013年11月号も読まなくっちゃ、と4月4日金曜日朝、手帳に書き込むことを忘れませんでした:

 私たちの社会はますます「市場化」され、生活のすべてが株式会社の儲けのアリーナとして組み換えられつつある。
 格差と貧困が増大する「先進」国・アメリカの状況を概観しながら、市場化を飛躍させるTPPの交渉妥結の前に、奪われてはらない私たちの選択肢について提起する。

(ジャーナリスト堤未果【コーポラティズムとの対峙】「株式会社化する国家──奪われる私たちの選択肢──」)
http://www.iwanami.co.jp/sekai/
posted by fom_club at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月03日

片づけ嫌い

 「断捨離」かぁ〜と思い、ムカシの書斎の整理を始めたら、動けなくなったヤッホー君。
 ここをきれいにして、ムカシのように本を読んだり、書き物をしたり、「知」のユートピアにする、なんて意気込んだものの、ぜんぜん手が動かず、停まったまんま。
 無理に「断捨離」なんてしなくっともいいんでは、逆だよ、ムカシをひきづって、ひきづったまんま身もだえして、ムカシに泣き、ムカシを振り返ってはじめて未来ができる、そして死に絶えていくんだ、それもひとつの生き様だよねぇ〜なんて、床に積み上げられていた資料の山のなかからでてきた雑誌を眺めながら、ぼ〜っと夢の世界に入っていたヤッホー君。
 …『クロワッサン』2009年3月10日号「片づけ嫌い」を直す方法(マガジンハウス)…
 だから、さ、何かあのとき「意味」があったからゴミにださなかったんだよねぇ〜と、きっと今日のため。

 『週刊朝日』2010年12月3日号(「検証」民主党はどこで間違えたのか)…

 約束したことが100%実行できなくても、その方向への努力が見られるならある程度は理解できると思います。
 しかし、いまの民主党政権は、約束した方向と真逆に向かっているようにしか見えません。
 たとえば、武器輸出三原則の緩和など、いったいどういう脈絡から出てきたのか説明すらありません

 昨年2009年8月の総選挙で有権者が期待したのは、民主党が政権を担うことだけでなく、民主党が掲げる理念や政策が実行されることだったはず。
 民主党所属の議員の人たちはそれを忘れないでほしいと思います。

(編集後記、本誌・山口一臣…注)

 憲法9条の平和主義に基づいて歴代政権が時間をかけて確立した安全保障政策の基本ルールが、音を立てて崩れ始めている。
 政府は2014年4月1日、武器や関連技術の輸出を原則禁止してきた「武器輸出三原則」を全面的に見直し、新たな輸出ルールとして「防衛装備移転三原則」を閣議決定した…
 これほど矢継ぎ早に、急テンポで政策転換を進めた政権が、かつてあっただろうか。
 対中包囲網の形成、防衛力の増強、日米同盟の深化によって中国の海洋進出に対抗するという安倍政権の安全保障政策には「対話」という要素が見られない。
 日中関係を改善するためには、対話の糸口をつかむことが大切である。
 相手に対する批判を自制し、対立感情を抑えることなしに、対話の糸口をつかむことはできない。

(2014年4月3日05:30沖縄タイムス社説「[武器輸出新原則]平和主義を手放すのか」)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=66094

 国会でのていねいな論議も、国民へのていねいな説明もなく、閣議決定。
 堂々と暴走するアベノリスクは、前政権の置き土産だったのですか…どうして?

 民主党が「武器輸出三原則」の見直しを検討することを決めたという。
 党の外交・安全保障調査会で検討し2010年11月中にも政府に提言するということのようである。
 北沢防衛大臣は、今年2010年1月に、日本防衛装備工業会の会合で「そろそろ基本的な考え方を見直すこともあってしかるべきだ」などと述べたが、このときは当時の鳩山首相が直ちに「三原則は堅持する」と述べて「見直し」を否定した。
 しかし、10月11日にベトナム・ハノイで行われたゲーツ米国防長官との会談のなかで、北沢防衛大臣は、さらに踏み込んで、本年末の「新防衛計画大綱」策定に合わせて見直しを検討する考えを表明した。
 そして、10月22日、菅内閣は、自民党議員からの質問趣意書に対し「三原則を取り巻く状況の変化を考慮しつつ、その扱いについて議論していく」との答弁書を閣議決定した。
 ここに来て、政府・民主党は「武器輸出三原則」見直しの方向へ急速に舵を切ったといえる。

(2010年11月4日浦部法穂・法学館憲法研究所顧問「武器輸出三原則」)
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20101104.html

 武器輸出三原則見直し求める米公電暴露 ウィキリークス
 【ワシントン=伊藤宏】
 日米両国が2014年をめどに共同開発を進める海上配備型迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」について、米政府が欧州への輸出を可能とするために、日本政府に武器輸出三原則の見直しを求めた内容の外交公電が明らかになった。
 民間告発サイト「ウィキリークス」が公表した。
 この外交公電は昨年2009年9月17日付で、米国務省からミサイル防衛関係各国の米大使館にあてられている。
 それによると、米国のミサイル防衛戦略として、SM3ブロック2Aを「将来的には北大西洋条約機構(NATO)や欧州の同盟国に売却する可能性を探りたい」と指摘。
 将来的にミサイル防衛の地球規模のネットワークを構築するために「日本政府が戦略的な決断ができるよう協力していきたい」としている。
 ゲーツ米国防長官が昨年2009年10月、北沢俊美防衛相と会談した際、「SM3ブロック2A」の第三国供与に言及、三原則を見直し、新型ミサイルを欧州などに輸出できるようにするよう非公式に求めたとされる。
 公電の日付は、こうした時期とも符合しており、菅政権が進める三原則の見直し議論にもつながっている可能性がある。

(asahi.com 2010年12月1日19時19分)

 なるほど、鳩ポッポが内閣人事でどうして対米従属の政治家を起用したんだろうね、だからオキナワも迷走しちゃったんだね…
 ヤッホー君も有権者に背をむくなって、有権者がついているって何度も鳩ポッポにわめき続けてきたのに…ね。
 議員の人たちは、立憲主義、ミンシュシュギ、三権分立の三つを忘れないでほしいと思います。

 三つ目は、法的枠組みの視点である。
 現在の日本の武器輸出政策は、政府の政令運用基準に大きく依拠している。
 この形式を維持するのか、あるいは、法律によって規定すべきなのか。
 政策の中身だけではなく、その根拠をどこに置くかということも、重要と思われる。

(2011.11.1国立国会図書館『調査と情報』No.726外交防衛課冨田圭一郎「武器輸出三原則」)
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/pdf/0726.pdf


(注)
 消費税を増税して何をやりたいのかもよくわからない。
 国民に対しては「税と社会保障の一体改革」などと、さも社会保障の充実に使われるようなことを言っておきながら、実体は「税と公共事業の一体改革」になりつつあることがわかってきた。
 自民党は、農家や子育て世帯に手当を配ることを「バラマキ」と批判してきたが、ゼネコンにカネを配ることはいいらしい。
 民自公の3党が目指しているのは、古い自民党時代の政治に他ならない。
 それもこの一連の出来事でハッキリした。
 2009年の政権交代で国民が期待したのは、旧来の自民党政治との決別であり、有権者が自分の意思で選ぶ政治、公正で開かれた政治……などだった。
 「近いうちに」行われる次の選挙で、今度はどういう選択をするべきか。
 ボールは国民の側に投げられている
2012年8月10日、山口一臣「消費税増税法成立でボールは国民の側に投げられた」)
http://no-border.asia/archives/2959/2
posted by fom_club at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東北を聴く

 昨夜、寝ようとして布団に入って読んだ本がございます。
 佐々木幹朗の新書と言いますか新著、『東北を聴く〜民謡の原点を訪ねて〜』(岩波新書、2014年2月)
 ヤッホー君のこのブログでもこの詩人(1947年生まれ)については、2010年12月17日付け日記「嬬恋村」、そして2012年1月14日付け日記「川田順造」で取り上げています。

 2014年3月25日付け日記「いんげんまめ」の隠元、今日4月3日木曜日は「隠元禅師忌」にあたります。
http://www.obakusan.or.jp/
 入生田駅からのウオーキングで知った隠元禅師、その「開山祥忌」にちなんで東北の民に思いを馳せ、詩人・佐々木幹朗をふたたび、取り上げるのも何かの「縁」か、と:

 「八戸小唄」は全国的に有名になった民謡のひとつで、東京まで流れてくると、お囃子の最後はこんなふうになった。

  唄に夜明けた かもめの港
  船はでてゆく 南へ北へ
(ハァ ヨーイヤサ)
  鮫のみさきは 潮けむり
(ツルさんカメさん ツルさんカメさん
 ツルさんカメさん ツルさんカメさん ツルさんカメさん)

 一挙に愉快な唄になる。正式な囃子詞「チョイサー チョイサー」は、三味線の間奏曲チリチンチリチンのリズムにのって囃される。
 その囃子詞が三味線の奏でる音とともに、宴会にふさわしい、めでたい「ツル」と「カメ」に変容するわけだ。

(同書、瓦礫の下の「八戸小唄」26-27頁)

 ほら、ヤッホー君のこのブログ、3月29日付け日記「うさぎとかめ」の「つるとかめ」のお話の続きになっているわけでして。
 ではここで、「つるとかめ」の小唄を聴いて、歌ってみましょうか:
http://www.youtube.com/watch?v=ULQ7ZjBjWmA

 あっ、入力の間違いか転送の混線か『湯の花KOUTA』になってしまいました。
 ではもう一度るんるん
 湊橋八戸小唄まつり:
http://www.youtube.com/watch?v=-VpnZoxTUeo

 2007年10月23日(火)「サエラ」結成15年メモリアル(於青森県五所川原市オルテンシア大ホール)から「八戸小唄」:
http://www.youtube.com/watch?v=Gk5269TV0xg

 いいでしょ「サエラ」、「サエラ」って知ってました?
 「サエラ」ってね、フランス語で「あちらこちら」の意味で、ボーカルの菊地由利子は1959年01月12日生まれ、ピアノの高橋朋子は1955年02月01日の生まれ。
 青森県は五所川原市出身で、2人は30代の頃、子どもが保育園に入学したのをきっかけに始めた地元の「お母さんコーラス」で出会って、歌手にデビューしたのはず〜っと後のこと、大人のエンターテイナーですぅ。
 聴いたことないな、って方に、とっておき、耳よりの、トクトク情報がこれ:

 ちょっと地味な写真ですが、大切にしていました。
 2011(平成23)年3月6日に大阪貝塚市民文化会館より放送になった「BS日本のうた」に出演した時の楽屋の入口に貼ってあったものです。
 実はデビューして5カ月で出演が決まり、しかも初なのに2曲も歌えるというので、とってもうれしかったのを覚えています。
 甲子園の土を持ち帰る高校球児ではないけれど、また出演できることを願ってこの紙を大事に持ち帰り、しまっておいたら、つい先日突然出てきたのです!
 へぇ〜、こんなとこにしまってたのか、と思っていたら、番組再放送の連絡が!
 まさかの展開でした。
 私たちの歌った「北国の春」にリクエストが多数寄せられたとか…
 もう一曲はデビュー曲の「白もくれん」を歌っています。
 放送はもうまもなく、4月5日(土)お昼12時からです。
 ぜひご覧ください。
 また出たいなぁ……。
 がんばらなくちゃ!

(2014年4月2日付けサエラの気まぐれ日記「<BS日本のうた>再放送」)
http://www.photobb.net/bbs.cgi?id=150269

 が・ん・ば・れ・ぇ・〜モータースポーツ
 ヤッホー君も今日から応援はじめますって!
 サエラ!「BS日本のうた」に今度出たら、「八戸小唄」を歌って。
 で、この唄の誕生にも秘話があったようです。

 今年2011年は「八戸小唄」が誕生してから80周年の記念すべき時です。
「八戸小唄」は、1929(昭和4)年の八戸市制を祝すとともに、全国に「八戸」を売り込むため、当時の神田市長はじめ市内各界の方々との座談を機に誕生しました
 歌詞には八戸の特徴ある名所や風俗を織り込み、民謡調のメロディを基として、今から80年前の1931(昭和6年)に作られました。
 その翌年1932(昭和7)年にはNHK仙台放送局からラジオ放送、1933(昭和8)年にはレコード化され、またたく間に全国的に知られるようになりました。
 甚大な被害をもたらした3月11日の東日本大震災からの復興を進めるため、八戸市誕生の頃にも思いをいたしながら、新たなスタートにつなげていきたいと思います。

(2011年7月23日「八戸小唄誕生80周年」)
http://compro88.net/kouta/

 八戸市出身で幻の詩人≠ニ呼ばれた村次郎(1916-1997、本名・石田實)が当主を務めた同市鮫町の元旅館「石田家」が、2011年、今夏をめどに取り壊される見通しであることが6月18日、分かった。
 老朽化に加え、東日本大震災の津波で大きな被害を受け、建物の存続が困難となった。
 旅館業のみならず、地域社会のサロン的存在としても大きな役割を果たした歴史的建造物が、姿を消すことになる。
 石田家は明治時代から十数年前まで続いていた老舗旅館。
 戦時の空襲で大破したが、戦後に村によって建て直されている。
 玄関や1階の一部は開業当時の造りを残すなど、由緒ある建物だった。
 明治から戦前にかけての石田家は旅館の枠を超え、地元住民はもちろん、政財界の要人や文化人らの社交場として広く利用されていた。
 ことし2011年、誕生から80年目の節目を迎えた「八戸小唄」も、ここでの座談会がきっかけで生まれている
 戦後も、詩人の草野心平、作家の司馬遼太郎、三浦哲郎、版画家の棟方志功ら多くの著名人が訪ねるなど、八戸の文化を語る上で欠かすことのできない場所だった。
 今回の津波で、村の原稿や関連資料の流失は免れたものの、建物は1階がほぼ水没した。
 旅館廃業後、村の家族が住んでいたが、住居としての使用は厳しい状況となっている。
 関係者によると、7月にも取り壊しの作業に入る見込みだという。

(2011/06/19 11:03更新、デーリー東北、幻の詩人の「石田家」 取り壊しへ)
http://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/web_kikaku/m9_shinsai/news/2011/06/news_list/ms110619_list.htm
posted by fom_club at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月02日

 ヤッホー君のこのブログ、本日付け日記「春のうらら」については、そうですね、注釈がいろいろと必要なので、ひとつづつ、ていねいに記していきます:

(1) 「花」
 滝廉太郎21歳(1900年、明治33年)の時の作品。
 ということは、ドイツへの留学を目前にしていたころのことでしょうか。

 滝廉太郎は1898(明治31)年、東京音楽学校専修科を卒業、さらに研究科へ入る。
 1901(明治34)年、文部省留学生としてドイツのライプツィヒに学んだ。
 しかし間もなく病気になり、帰国。わずか23歳11ヶ月でその天才は亡くなったのである。

 1900(明治33)年に作られた歌が、今私たちのコンサートでも歌われ、また会場の人たちと一緒に歌う時、だれもが暗譜で、時には二重唱で大きな声で歌ってくれるということは、本物の歌の持つ魅力というか、怖ろしさというか、そしてきっと小学校、女学校などで習ってであろうから、音楽教育の底力というものをつくづくと感じるのである。
 なおこの作品は、日本の歌曲の第一号という点においても重要な意味を持つと思われる。
 
 また美しい隅田川の抒情詩を書いた武島羽衣(1872年明治5年〜1967年、昭和42年)は、このころ東京音楽学校の国語教授。=「花」を作詞したとき28歳!
 御歌所寄人(おうたどころ・よりうど)もしている。
 1906(明治29)年に東京帝国大学を卒業。東京女高師、日本女子大、聖心女子大などに奉職したことからみても、女子教育に熱心であったことがよくわかる。
 それが「女声唱歌」を編纂した理由でもあろう。

…ダークダックス喜早哲『日本の抒情歌』(誠光堂新光社、1983年)44〜45頁

 喜早哲については、ヤッホー君のこのブログ、3月26日付け日記「早春賦」をご参照ください。
 また歌碑は、隅田川へりの浅草側の隅田公園内に、1956(昭和31)年に建てられています。

(2) ベッツィ&クリス
 ウイキによりますと、ハワイ州出身のベッツィとアイダホ州出身のクリスによるフォークソングデュオ。
 日本語で歌っていた。
 1969年にサウンズ・オブ・ヤング・ハワイのメンバーとして来日した際にスカウトされデビューしたそうです。
 もう一曲聴いてみましょう:

"Betsy and Chris" produced their first golden hit "Shiroi Iro Wa Koi Bito No Iro (White color is lover's)", written by Kazuhiko Kato, in 1970, and they spent the next five years recording, touring, and promoting in Japan as major recording stars. During that time they appeared and performed on TV, radio and stage.
http://www.youtube.com/watch?v=BMkJjevfaiY

 加藤和彦は1947年生まれで、2009年に軽井沢で自殺しております。
 ベッツィはハワイでがんばっております!

As teenagers, Betsy and her friend Chris Rolseth (Betsy&Chris) opened up shows for many well-known musical groups including The Carpenters, The Everly Brothers, Don Ho, and the Fifth Dimension in Waikiki and in Japan. Their first golden hit in Japan was "Shiroi Iro Wa Koibito No Iro" written by Kazuhiko Kato.

During the five years they spent touring Japan, they produced a dozen albums of folk and pop music in Japanese, English and Hawaiian. They appeared regularly on TV and radio stations and in concert halls throughout Japan, including NHK's annual "Uta Gassen."

Betsy took time off from her career to raise her children and now she is back. She hopes her fans will enjoy her new show as much as she will enjoy performing for them!

http://www.thebetsyshow.com/Betsy-Curtis-About-the-Musician-Kamuela-HI.html

(3) 浅草

 台東区浅草の浅草寺西側に位置する浅草西参道商店街で、「お祭り」をテーマにした第一期修景事業が終わり、完成式が3月29日行なわれた。
 浅草寺側の入り口は歌舞伎座風にリニューアルされ、白壁やどっしりした唐風屋根が、江戸情緒と祭りのにぎやかさを醸し出している。 
 商店街は約百メートルのアーケードに、飲食店、土産物店、踊り衣装店など約40店が軒を連ねる。
 修景事業は、両隣の奥山おまいりまち商店街、浅草花屋敷通り商店街とともに、街並みを江戸町風に整備するねらいで4年前から進められていた。
 都と区の助成を受け総事業費は約2億4千万円。

(2014年3月30日東京新聞・丹治早智子「浅草<江戸風>商店街 西参道 外観は歌舞伎座を模す」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20140330/CK2014033002000106.html

(4) 平塚晶人
 地図読みの本よりもヤッホー君、『二人のアキラ、美枝子の山』(文藝春秋、2004年)に感動したことがありました。
 最近、3月、ヤマケイより文庫版でどなたでも手にとって読めます、ぜひ書店でお買い求めください!

 身近な存在であったからこそ知り得た松涛明、奥山章のふたりのアキラの知られざる登山史の断片を、ノンフィクション・ライター平塚晶人が往復書簡で描いた話題作の文庫化。
 ヤマケイ文庫の『新編 風雪のビヴァーク』(松濤明)、『ザイルを結ぶとき』(奥山章)、そして井上靖の小説『氷壁』を深く読み解くための副読本としても楽しめる興味深い内容です。

http://www.yamakei.co.jp/products/2813047750.html

(5) 玉木恭介
 氏はいま江東区「猿江恩賜公園センター長、樹木医」をお勤めになっておりますが、この日曜日、4月6日には、「オモシロ自然観察会」が開かれます。
 公園内サービスセンター前に11時集合!とのことですのでお忘れなきように、さあ、皆んなで…お勉強しに行ってみましょう!
http://tokyo-eastpark.com/modules/Calendar1/index.php?action=View&event_id=55
posted by fom_club at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

春のうららの隅田川

 押上にて用事を済ませ、浅草まで足を延ばしました。
 隅田川の桜満開
 春のうららの隅田川、そのものです。


春のうらら.jpg

 昨日の出来事です。
 ではここで例によって選りすぐりの歌声で、ベッツィ&クリス『唱歌 花(春のうららの隅田川)』:
http://www.youtube.com/watch?v=w9wKTznT2co

 またとある友人からは、やはりおすすめの観桜会も:

 隅田川へりの桜は今週いっぱい、嵐がなければ咲いていると思います。
 また現在、「浅草」は東京都の観光特区として街つくりに力を入れているため、「伝法院通り」や「花やしき周辺」は、かつての寂れた面影は微塵もなく、いい意味で愕然とすることを保証します。
 生まれかわった隅田川で桜を堪能したあと、「浅草」に驚き、「神谷バー」か「アサヒビアホール」でほろ酔いを楽しみ、スカイツリーと桜のコラボレーションを堪能していただければ幸いです。
 自分は忙しくゆっくり花見をする余裕がないのですが…。


 えっ、なんだぁ〜、でも下町だねぇ〜とヤッホー君、負けじと箱崎河岸の桜を投稿しましょう!

隅田川テラス.jpg

 ところで、平塚晶人『サクラを救え-「ソメイヨシノ寿命60年説」に挑む男たち-』(文藝春秋、2001年)は読まれたほうがいいですよ、おすすめ。
 あのぉ〜メディアは、桜開花のニュースばっかり追いかけますが、桜を花開けせるための手入れや、弱っている桜がないか、桜並木が伐採されたりのニュースがないかについても追っかけてもらいたいものです:

 富士河口湖町河口の河口湖北岸にある桜並木で、30本以上の桜や松の木の枝が、無断で伐採されていたことが3月31日、分かった。
 富士山の眺めを良くするために切られた可能性があり、桜並木を管理している住民団体のメンバーに「丹精込めて管理してきたのに…」とショックが広がった。

(2014年04月01日(火)山梨日日新聞、笠井憂弥「眺望のため? 河口湖北岸の並木無残 桜、松30数本無断伐採」)
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2014/04/01/3.html  

 う〜ん、とにかく地球に暮らしているのは人間ばかりではありません。共存共栄?共生の道を探さないと、生き物がかわいそう…
 そう、そう、平塚晶人の本にプレイバック、プレイバック:

 日本の春を埋め尽くすソメイヨシノが、サクラの歴史から見れば新参者であることはよく知られている。
 万葉の昔から歌に詠み継がれてきた「さくら」は、樹種からいえばヤマザクラだった。
 ソメイヨシノが各地でさかんに植えられるようになるのは、明治30年代に入ってからで、それからわずか30年余り後の昭和のはじめころには、路地から公園、土手、山里にいたるまで、この樹を見ないところはないという、現在と似た状況が作られている。

 それでは、われわれはいま目にするソメイヨシノがその当時に植えられたものか、といえば、多くの場合、そうではない。
 東京の名所を例にあげると、上野公園のものは昭和23年に、飛鳥山公園と隅田川公園のものは、昭和40年代に植えられている。
 この3ヶ所は、幕府時代から江戸の三大桜名所として親しまれてきた享楽地だが、明治の初期に、それまであったヤマザクラなどに加えて、あるいはそれが取り払われて、そこに数百本から千本単位のソメイヨシノが植えられた。
 それがいまではすっかり代替わりしたことになる。
 全国的に見ても、いまあるソメイヨシノは、戦後に植えられた、樹齢でいえば40年前後の若い樹が圧倒的に多い。
 明治から大正にかけて日本中を覆ったソメイヨシノは、そのほとんどが昭和の初期に死に絶え、千本に数本というような割合でしか現存していないのである。

 ソメイヨシノは生来、病気がちで、早死の傾向があるサクラなのだ。
 この樹を管理する人たちの間では、古くから、それが植えられてから60年ほどで次々と死んでいくために、「ソメイヨシノ寿命60年説」が伝えられてきたのである。

(プロローグ7-8頁)
 
 そしてサブタイトル―「ソメイヨシノ寿命60年説」に挑む男たち―の一人としてご紹介する方は、現在、江東区の「夢の島熱帯植物館」館長・玉木恭介(1950年愛知県生まれ。東京農業大学卒業);

 …桜は新しい土壌でないと育たないので、今植わっている桜が枯れたら同じ場所に桜は生えません。
 鳥に実を食べてもらって遠くの方で糞にまざった種子が落ちて発芽するような広がり方をします。
 だから桜は自然の長い営みの中では、どんどんシイやカシなどの常緑高木に場所を譲って移動していってしまうものなんです。

 また、今日本の桜の実情90%以上が江戸時代に交配種としてできたソメイヨシノですが、この桜は生長が早い分だけ寿命も短く、60年とも50年とも言われていますから、戦前に植えられたものはもうとっくに寿命の時期なのです。
 加えてソメイヨシノは種をつけないか、つけても発芽しない品種なので、自力で繁殖する力もありません。

 地域の努力などで環境が維持できると、山桜などは樹齢何百年という銘木まで永らえるんですが、桜の健康を維持するために、桜守は根を継いだり、周囲の地面の土を大量に入れ替えたり、土壌成分を改良したりあらゆる努力をします。
 自然の中では移ろう性質を持っている桜を、そうした処置で人為的に活性化させて、その「うつろい」をストップさせているのが「桜守」でもあり、そういう点では自然の営みに反することをしているととも言えますね。
 盆栽技術にも通じる、自然の営みに人間の営みをシンクロさせようという自然との対話技術です。

(日比谷花壇、桜だより、桜のいのちを守る)
https://sakura.hibiyakadan.com/page.jsp?id=14549707 
posted by fom_club at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月01日

出世道

 いよいよ今日から桜咲き乱れ、散る、4月!
 新学期、新年度、消費税増税がスタート!
 この間3月23日の箱根登山鉄道「入生田」駅からJR「早川」駅までの山歩クラブのウオーキング。
 ヤッホー君のこのブログ、日記には、石垣山(一夜城)の報告が投稿されていないようなので読みたいって、いつも読んでくださっている読者からお声がかかりましたので(おひねりはまだです)、ありがたいことです、と深謝しつつ、以下に記すことにします:

 帰宅した主人(千秋与四夫)から
「岡田君と吉永小百合さんの結婚式をうちでやることになったよ」
と告げられたのは、1973(昭和48)年8月3日の挙式のわずか3日前でした。
 小百合さんは人気絶頂の銀幕の大スターです。
 ただただ、驚くばかりでした。
 千秋と小百合さんのご主人の岡田太郎さんは、1959(昭和34)年、フジテレビの同期入社なんです。
 岡田さんは当時、テレビ演出家でフジプロダクションの専務でした。

 突然、話を持ちかけられた主人は、
「相手は人気女優。どこか大きな神社で挙式したら」
といったんは断ったそうですが、「どうしても」と頼まれて引き受けたというのです。

 小百合さんは28歳。岡田さんは離婚暦がある上、15歳も年上の43歳でした。
 何でも、小百合さんのご両親、特にお父様が結婚に猛反対していらしたそうで、それらの事情もあって、挙式は簡素にしたいと望まれたようです。

 お二人の希望が「平服で」ということで、私も特別な支度はしませんでした。
 「岡田太郎さん 吉永小百合さん ご結婚おめでとう」と筆で書いて、式を行う3階の客間の前に張ったぐらいですね。


 いきなりなんですか?って、畠山みどりブログ「キラキラ道場」からでした。

(DATE: 2008/08/28(木)"出世街道"演歌旅「吉永小百合さんとのエピソード」)
http://hatakeyamamidori.blog116.fc2.com/blog-entry-51.html

 畠山みどりは、本名・千秋みどり。1939年、稚内市生まれ、だそうです。

 畠山みどりホームページ「甦」、以下ページにて再開させていただきます
http://hatakeyamamidori.web.fc2.com/

 が・ん・ば・っ・て モータースポーツ

 では、ここで畠山みどりの『出世街道』(星野哲郎作詞、市川昭介作曲、1962(昭和37)年発売)を傾聴しましょう!
http://www.youtube.com/watch?v=_OlPKyNRGGQ

 いえ、ね、ヤッホー君、3月23日日曜日、一夜城から海のほうへ、早川駅めがけ、小田原城を横目に見ながら一目散に駆けおりてきました。
 道路脇のシャクナゲなんて、目にも入りませんでした。

太閤農道.jpg

 そのとき、ひょいと目にとまった高札。
 他の仲間からはどうしたのかな、一休みかな、くらいにしか見下されたのかもしれませんが、実はびっくりして、腰をぬかしていたのでございます;
 何を見たか?って、「出世道」!

 出世道
   緑と花の夢の道
   風と雲の通い道
   出会いがつくる心道
   農を育てる命道
   歴史が誘う学び道

 経済の国際化が進み、作目の転換と土地利用携帯の改革が必要になり、大型農道なくして実現は不可能になりました。
 幅員2.5メートルを5.5メートルの農道に改良するよう、関係地権者が合意し、国県市の理解ある援助により団体営農道整備事業が採択されました。
 新しい道により、早川を訪れる方々に美しい四季の変化と、眺望を見ていただくとともに、生産者の心のこもった農産物を手渡し、農業の必要性と緑の大切さを理解していただきたいと思います。
 この道が早川の農地に希望の光を運び、県西地域の文化的経済的活性化の出世頭になるよう祈願し、完成記念として石垣山農道組合にて建立いたしました。


 んん、もう下りてきちゃったの?
 プレイバック、プレイバック…

 「国指定史跡」石垣山一夜城
 史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。
 また小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。
 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、1590(天正18)年豊臣秀吉が 小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として 総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。
 この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか 太閤一夜城などとも言われています。
 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せました。
 また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。
 この城は単に小田原城攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。
 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。
 石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積(のづらづみ)といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。
 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により、1987(昭和62年)に公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。

…1990(平成2)年3月 小田原市

 以上、高札の朗読者はわれらがりーダー。ありがとございました。
 次の高札をお読みいただくようお願いし快諾されたのが、今日から大学の2年生に進級されます山歩クラブのニューフェース、お嬢さま!

 石垣山一夜城の構造
 …この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています。
 しかし、実際には約4万人が動員され、天正18年の4月初めから6月下旬までの80日間が費やされました…

…1990(平成2)年3月 小田原市
posted by fom_club at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする