2014年02月28日

吉田弥生

 2月28日、如月さいごの日。
 まだまだ河竹黙阿弥から離れることができません。
 
 1988(平成元)年から2002(平成14)年までの14年間、関東・関西の4劇場の上演を対象に、現代の黙阿弥作品の上演状況をつぶさに調査した結果など、黙阿弥の作品研究が書籍になっております。

 4劇場とは:
  ☆ 歌舞伎座(東京)
  ☆ 国立劇場(東京)
  ☆ 南座(京都)
  ☆ 大阪松竹座(大阪、1997(平成9)年に映画封切館から劇場へ新築開場)

 そうしますと対象とした公演のほとんどに1作品は黙阿弥作品が上演されていることが分かるのです。
 しかもおよそ全体の3分の1の確率に、現代の歌舞伎が黙阿弥作品に支えられていることが確認される、と言います。
 その上位作品は:
  ☆ 第一位『連獅子』(1861(文久元)年、花柳芳次郎名披露目で初演、歌舞伎では1872(明治5)年の村山座で初めて上演された長唄の舞踊)、
  ☆ 第二位は『青砥稿花紅彩画(「白浪五人男」、「弁天娘女男白浪」を含む)』。
  江戸歌舞伎の象徴なのか、大阪松竹座開場直後も上演。
  ☆ 同じく第二位は『新皿屋敷舗月雨暈』(初演は1882(明治16)年の「魚屋宗五郎」)
  ☆ 第三位は『雪暮夜入谷畦道』

 これは、吉田弥生『江戸歌舞伎の残照』(文芸社、2004年)322頁、によります。
 たとえば、「歌舞伎座」:

 歌舞伎座2014年2月公演。夜が「青砥稿花紅彩画(白浪五人男)」(河竹黙阿弥作)。
 菊之助が「浜松屋」で弁天小僧のセリフをメリハリをつけて小気味よく聞かせ、松緑の南郷との掛け合いも息が合う。染五郎が日本駄右衛門に貫禄を出し、七之助の色気のある赤星、亀三郎のセリフの利く忠信と5人がよくそろった。梅枝の千寿姫がおっとりとし、橘太郎の番頭が達者で、団蔵、尾上右近が好演。
 歌舞伎座で25日まで。

 終わっちゃいましたね、ザンネン!
(2月10日付け毎日新聞「2月花形歌舞伎:原作刈り込みテンポ出す=評・小玉祥子」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140210dde012200088000c.html

 そして、来月、3月の「国立劇場」:

 河竹黙阿弥=作、国立劇場文芸研究会=補綴
 『處女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』二幕六場「切られお富」

 中村時蔵が3月の東京・国立大劇場歌舞伎公演で、祖父(三代目時蔵)が得意とした「切られお富」に初役で挑む。
 「切られ与三(よさ)」の通称で知られる三世瀬川如皐(じょこう)作の人気狂言「与話情(よわなさけ)浮名横櫛」から、河竹黙阿弥がお富をヒロインに書き換えた「悪婆(あくば、毒婦)物」の代表作。
 時蔵は「公演を成功させ、今回だけでなく、これからも度々上演していきたい」と意欲を燃やしている。  「切られお富」は黙阿弥が人気絶頂の三代目澤村田之助に書いた世話物。
 幕末の退廃的世相を背景に、美しいヒロインが赤間源左衛門になぶり殺しのように全身を切り刻まれる残酷美、純情だったお富がゆすり騙(かた)り、殺し、大立ち回りまで見せる変容ぶりが話題を集め、初演は大当たり。
 全身に75ヶ所の傷(「切られ与三」は34ヶ所)を付けられるお富。
 顔やほおの傷の形や位置を工夫したいと時蔵。
 与三郎役は実弟の中村錦之助。
 「家にとって由緒ある『切られお富』の与三郎役ができるのは父や祖父にいい供養になります」
 国立劇場制作部は「通常は上演されないお富与三郎の出会いから、赤間宅でお富が切り刻まれる場を出し、『切られお富』の完全版にしたい」と説明。

(2014年2月17日東京新聞、森洋三<歌舞伎>時蔵 切られお富 75ヶ所 祖父の当たり役、初挑戦)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/tradition/CK2014021702000165.html

 さらに、京都・南座:
 
 2014年の新春、前進座公演「松竹賣湯島掛額」は、福森久助・河竹黙阿弥/作、鈴木龍男/演出。二幕もの。 前場は「吉祥院お土砂の場」で、後場は「本郷火の見櫓の場−櫓のお七」

 京都・南座って、古い:

 1996(平成8)年には京都の景観に溶け込んだ歴史的建造物としてわが国の「登録有形文化財」に登録されました。
 歌舞伎の祖 出雲阿国が1603(慶長8)年春に京・四條河原でかぶき踊りを創始してから、実に410年−。
 日本最古の歴史と伝統を持つ歌舞伎劇場「南座」−。

(京都の観光スポット、南座)
http://kyoto-design.jp/

 大坂松竹座は、「スーパー歌舞伎」!

 先日、夕方のニュースで「スーパー歌舞伎」という言葉が耳に飛び込み、慌ててテレビの前に走った。
 一昨年四代目を襲名した市川猿之助が、三代目(現猿翁)の創始したスーパー歌舞伎を受け継ぎ、「スーパー歌舞伎U(セカンド)」として新作に取り組むという。

 1999年秋、三代目市川猿之助一門御坊公演に向けて女方俳優の市川笑也さんに取材したのが歌舞伎にハマる始まりだった。
 7作目のスーパー歌舞伎「新・三国志」を上演中の大阪松竹座で、笑也さんは合間の1時間を本紙等の取材に充ててくれた。
 三代目について「大きな人。いわば歌舞伎界の外資系社長」と語り、「猿之助歌舞伎の行く末を見届けたい」と遠くを見はるかすように目を輝かせた、その姿から笑也さんのファンに、「新・三国志」と御坊公演で三代目のファンになった。
 2003年に三代目が倒れてから、一昨年の四代目襲名と実子香川照之の歌舞伎界入りまでずっと淋しい思いをしていた。
 スーパー歌舞伎が見事再生すれば、これで三代目の大きな仕事は次世代に立派に引き継がれたことになる。

 三代目が実質的に舞台を離れて10年。
 また一昨年は十八世中村勘三郎、昨年は十二世市川団十郎と巨星が相次いで世を去った歌舞伎界。
 新しい世代の新しい仕事がファンを勇気づけてくれることを念じつつ、上演を心待ちにしている。

(2014年1月21日付け和歌山県御坊市にある地方新聞「日高新報」より、日高春秋(里)「歌舞伎新世代の仕事に期待」)
http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2014/01/post-1340.html


 これは、再来月の4月、大阪・松竹座で上演されるスーパー歌舞伎U『空ヲ刻む者−若き仏師の物語−』のことです。

 しかしまあ、吉田弥生(文教学院短期大学准教授)の研究書、良かったです。

 この方、あとがきでこんなことを:

 私が歌舞伎を初めて観たのは4歳のときであった。
 新橋の小児歯科の帰りに母に連れられて東銀座の歌舞伎座へ行った。
 まだ菊之助時代の当代の菊五郎が藤娘を踊ったことしか覚えていない。
 暗闇から一転、煌々たるライトがつき美しい女性(と思っていた)が踊りだす。
 その展開と美しさに呆然とした。
 「きれいでしょ。踊っているのは男の人よ」
と教えられたが、3歳から宝塚歌劇に連れて行かれていた(ちなみにいまも観続けている)私は、即座に女形の存在を納得して受け入れた。
 家に帰って母に、芸事好きだった亡き祖父が手古舞(男装の女性)の芸者に扮した写真を見せられ、さらに異性を演じることへの理解を深めさせられた。

…吉田弥生、同書、330頁

 うん、ヤッホー君の3歳、4歳のころって、せいぜい村の祭りで遠くからやってくる紙芝居や、お神楽を水あめをねだって舐めながら観ていたのが演芸への覚醒で、あとはイマは亡き祖父がニワトリ、羊、ヤギ、それに鯉の世話をする、その後をよちよち歩き…
 イマのヤッホー君もあっちの郷、山にふらり、こっちの里、川にふらりと、よちよち歩き…
 年に数回は千鳥足…

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2014年02月27日

もとのもくあみ

 2月27日木曜日、ヤッホー君のカブカ(注)、おっとぅ、歌舞伎考察はとまらないようでして…
 それは河竹黙阿弥と下町との関わり合い。
 百花園(向島百花園、墨田区東向島三丁目)にも碑がありました!
http://teien.tokyo-park.or.jp/event/131203mukoujimaUme.html

 明治以前から考えていたらしい初代河竹新七の記念碑「荵塚」(しのぶづか)が1980(明治13)年の末に完成。
 場所は、隅田河畔の梅屋敷、(百花園)。
…河竹繁俊、前掲書、211頁

 まだ黙阿弥は、二代目河竹新七だったのです。

 黙阿弥という名は、藤沢の籐沢山遊行寺(とうたくさんゆぎょうじ)から1981(明治14)年11月25日に贈られた阿弥号である。
 隠居してもとのもくあみになり、黙するという意味が含まれていた。

…河竹繁俊、前掲書、216頁

 では、「荵塚」(しのぶづか)を読んでみましょう!

 隅田川よ二面(ふたおもて)よと、歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるゝ荵(しのぶ)売りは、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。
 そが正本を、或人(あるひと)より贈られて久しく秘蔵せしは、名を嗣者(つぐもの)の幸ひと悦(よろこ)びしが、此度(このたび)こゝに埋みて、昔しのぶの塚と名づけ其の故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて二面のふたつなき功績を後の世に遺(のこ)さむとてのわざになむ有りける。
  明治13年3月 二世河竹新七記


 こうして1981(明治14)年に入り、66歳。
 11月には二代目河竹新七としての一世一代書き納めの狂言を発表して、めでたく引退を披露し、名も黙阿弥と改めるのです。
…河竹繁俊、前掲書、211頁

 このとき「引汐」(ひきしお)と題した次のような文面の摺物(すりもの)が親しかった人びとの間に配られたといいます。
…河竹繁俊、前掲書、215頁

 あわせてこれも読んでみましょう!

 幼き頃竹芝の浦辺に育ちし由縁(ゆかり)にや、浜の真砂(まさご)の尽(つき)せざる彼(かの)盗人の狂言を、員(かず)多く脚色(しぐみ)しゆゑ、白浪作者と言われしも、素(もと)より智恵の浅瀬にして深き趣向のあらざれば、沖を越したる功(いさお)しなく、唯長しほの長々しくも、硯(すずり)の海に年を取りしを算(かぞ)ふれば、早50年、額によする漣(さざなみ)に磯馴(そなれ)の松の腰も曲(まが)り言の葉の老いさびぬれば、玆(ここ)らが汐の引時とて、引いはひしてまた元の、浪の素人(いろうと)に帰るになん。
    河竹其水
 腸(はらわた)のなき愚かさに
  直(すぐ)な道知らで幾年(いくとせ)横に這(は)ふ蟹(かに)


 ※其水は黙阿弥の俳名 
…河竹繁俊、前掲書、216頁

 そして迎えた1892(明治25)年2月3日の誕生日。
 77歳の喜寿です。
 ほんとうの隠退をするにあたって、これも親しかった人びとの間に配られたといいます。
 さ、読んでみましょう、音読がいいですね。

 去年箱根の七湯へ、初めて行きし野暮者(やぼもの)も、今年喜の字の七々に、姿も老いて化物仲間、一つ目三つ目の友にさそはれ雪女郎(ゆきじょろう)の消えし頃、山向うへ遊びに行かんと、57年作者を勤め、よごせし硯(すずり)の海坊主、種も趣向も切れ筆をさらりと西の海へすて、此の節分の誕生日に、目出度しりぞく事となりて、
 気のきいた化物はとく引きこむに
  ろくろ首程長くのびたり
    黙阿弥(七十七翁)

…河竹繁俊、前掲書、238頁

 なお、墓は代々の菩提所である浅草北清島町の源通寺にたてられたが、源通寺は1908(明治41)年、東中野昭和通に移転した、と。
 しかし没後、長女の糸は生前の約を果たし、亡父に対する追善・手向(たむけ)にと、「きょうげん塚」を向島の百花園に、「荵塚」(しのぶづか)と並べてたて、今も現存しているという…
 そうですかぁ〜
 そしてこの長女の糸は生涯独身でしたが、1911(明治44)年末、坪内逍遥の勧奨で、これまで引用してきた河竹繁俊は、長女の糸の嗣子となったそうな…
…河竹繁俊、前掲書、251頁

 そうでしたかぁ〜


(注)
 2月27日の東京株式市場の日経平均株価は、前日の終値と比べ31円10銭安の1万4939円87銭で取引を始めた。
(2014年2月27日9時23分毎日新聞「株式:東証=始値1万4939円87銭」)
http://mainichi.jp/select/news/20140227k0000e020169000c.html

 それよりも山向こうに遊びに行かんとするは、遺憾、如何!
 山師ばかりの売った買った張ったまったでなァ〜
 ましてやゴックス山とはなァ〜

Bitcoin was introduced in 2008 by a programmer or group of programmers under the name Satoshi Nakamoto and has since gained traction with merchants around the world. The digital money, based on a peer-to-peer software protocol, has no central issuing authority, and uses a public ledger to verify transactions while preserving users' anonymity.

The Bitcoin Foundation said that, despite the troubles at Mt. Gox, the Bitcoin protocol was functioning normally. In recent days, Mt. Gox had stopped withdrawals, citing an alleged flaw in the protocol.

Since at least 2011, enthusiasts have been trading Bitcoins for dollars and other traditional currencies, and in early 2013 Mt. Gox was one of the biggest exchanges. Mt. Gox said this month that it identified a bug that enables people to withdraw the same Bitcoins more than once, leaving it vulnerable to hackers.

Prices quoted on the exchange plunged on speculation that account holders wouldn't be able to get their coins back.

The troubles at Mt. Gox are the latest setback for Bitcoin after authorities in Russia, China and Israel sought to restrict the digital money, while the U.S. seeks ways to prevent money-laundering and illicit sales without killing the new technology.

February 25, 2014 11:53 AM Bloomberg
Mt. Gox Bitcoin Exchange Down Amid $365 Million Theft Claim

By Carter Dougherty and Pavel Alpeyev
…http://finance.yahoo.com/news/mt-gox-bitcoin-exchange-down-165339651.html;_ylt=A0SO8xbuvA5TjEQAK4tXNyoA;_ylu=X3oDMTByNDV0ZTJpBHNlYwNzYwRjb2xvA2dxMQR2dGlkA1VJQzFfMQ--

 英国紙からも:

Bitcoin will survive despite MtGox debacle

Despite the Japanese exchange going offline and rumours of millions in theft, the digital currency will continue to evolve

By Phillip Inman, economics correspondent
The Guardian, Tuesday 25 February 2014 17.18 GMT
http://www.theguardian.com/technology/economics-blog/2014/feb/25/bitcoin-will-survive-despite-mtgox-offline
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2014年02月26日

河竹黙阿弥

 カブカ(注1)でなく歌舞伎、そういえば、と思い出しておりました、2月26日水曜日の昼下がり。
 海外勤務、海外調査だけでなく、海外からお客さんや友人たちが来日することもあります。
 アテンドだ、なんて言ってましたが、その都度、欠かさずご案内したのが歌舞伎座最上階の立見席。
 日本の伝統文化にすこしでも触れてもらうのが目的ですから、そろそろ飽きてきたな、退屈顔になったな、と感じた時が潮時で、すぐまた街ん中にとびだして、意見交換の続きをしたものです。
 江の島で出会った、弁天小僧、その昨者、河竹黙阿弥ってどんな人?

 幕末から明治時代にかけて活躍した歌舞伎の作者です。
 50年間で、世話物(せわもの)130、時代物(じだいもの)90、舞踊(ぶよう)140もの作品を書きました。
 松羽目物(まつばめもの)や海外小説などの翻案物(ほんあんもの)なども書きましたが、黙阿弥といえば世話物が有名です。
 幕末には名優4代目市川小團次(いちかわこだんじ)と組んで、当時の庶民の生活をリアルに描きました。
 また明治に入ってからは文明開化によって始まった西洋化の様子や徐々に消えていった江戸時代の生活などを描き続けました。
 これらの世話物は、耳に心地よい七五調のセリフで書かれ、清元が多く使われました…
 黙阿弥の没後、歌舞伎専門の作者には優れた人物が現れませんでした。

(歌舞伎事典、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ、1816〜1893)
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc_dic/dictionary/dic_ka/dic_ka_20.html

 幕末から明治…、そうだったんだぁ…

 当時の西洋熱には極端なものがあり、その先頭をゆくものは、いわゆる「洋行帰り」の顕官、学者であった。
 彼らは、条件も環境もまったくちがった社会を最上のものと思いこみ、伝統を破壊し、すべてを改革しようとはりきっていたのである。
 その最大の被害者は、とくに江戸時代の爛熟した社会ではぐくまれてきた文化であった…
 その極端な例として、1878(明治11)年6月の新富座開場式があげられよう。
 1876(明治9)年11月に焼けた新富座は、仮普請のまま興行していたのが、ようやく新築完成したのであるが、このとき俳優一同・座方一同、それに作者にまで燕尾服を着せて舞台にならべ、海陸の軍楽隊に演奏させ、2日にわたって朝野の名士を招待し、すべて西洋式に式辞を朗読させた。
 したがって洋服ぎらいの黙阿弥にまで洋服を着せ、靴を履かせて生涯にただ一度きりの洋服姿を写真にのこさせた。

…河竹繁俊『河竹黙阿弥』(吉川弘文館・人物叢書、1987年)202〜204頁

 「演劇改良会」が当時の狂言作者を攻撃した勢いは相当のものであった(注2)。
 狂言作者は、無学・無識・無教養で、1人として学問的でなく、また文章家でもなく、ただ思いつくままに書きなぐり、その作品は猥雑・野卑で見るに耐えないと、相当に手きびしかった。
 その改良論が急進的すぎるといって非難した人たちでさえも、狂言作者だけはたしかにいけないと批難した人たちでさえも、狂言作者だけはたしかにいいけないと批判していた。

…同書234-235頁

 ところで、河竹黙阿弥もまた下町と縁がありました。
 フ・シ・ギ…

 1887(明治20)年の3月、70歳になったとき…、黙阿弥は本所の南双葉町(今の墨田区亀沢町2丁目)に転居した。
 南割下水(わりげすい)の近くに土地をもとめ、溝を掘り、土蔵と家とを建てた。
 家は自分の死後も困らないように、きわめて狭い平屋の家造りにしたが、4畳半の書斎を別に作り、庭を広く豊にめぐらし、汐入(しおい)りの池もあった。
 晩年の生涯を送るのにふさわしい住居であった。

…同書241頁

 明治になって、東京府は、奥山にあった見世物小屋や店舗を強制的に移転させ、仲見世は、木造平屋の店舗を煉瓦造二階建ての店舗に造り替えさせることにしました。
 河竹黙阿弥、東京府からのこの予告を聞いて、1884(明治17)年に
「いよいよ奥山7月30日までに埋立地へ立退きを、区役所より言いつかり、一同大よわり、猶々人気(ひとけ)落ち、淋しくなり候、仲見世20軒の辺は残り候えども、2年の内に塗屋を煉瓦に建てなおせという言いつけ、我らのところは先ず無事なれど、いずれへか転住いたしたき積り」
と弟子宛に書いているそうです。
 こうした事情から、浅草が急速に江戸の面影をなくしていったため、黙阿弥は本所双葉町に転居したものと考えられています。
 そして、本所双葉町で6年ほど住んだ後の1893(明治26)年1月22日、76歳でなくなりました。
 本所双葉町の旧居跡(現在墨田区亀沢2丁目11−11)には、「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建てられています。

(2012年12月29日河竹黙阿弥の終焉の地と墓所(河竹黙阿弥ゆかりの地)
http://wheatbaku.exblog.jp/19063740/


(注1)
 2月26日の東京株式市場の日経平均株価は、前日の終値と比べ155円11銭安の1万4896円49銭で取引を始めた。
(2014年2月26日9時28分毎日新聞「株式:東証=始値1万4896円49銭」)
http://mainichi.jp/select/news/20140226k0000e020154000c.html

(注2)
 明治初期には「開化」という言葉が流行った。
 明治17、18年頃から、代わって「改良」の語が流行した。
 いずれも「欧化」の意に近いものだった。
(演劇学者・成城大学名誉教授、毛利三彌『イプセン以前〜明治期の演劇近代化をめぐる問題〜』)
http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/art/pdf/
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2014年02月25日

弁天小僧

 江の島で忘れてならないのは、歌舞伎!
 かぶ、と聞けばカフカ(Franz Kafka、1883-1924)がなまって<カブカ>。
 アベノリスクで庶民には恩恵が回らない、株価上昇ばかり(注)が先に出て、株価下落は想定外とするカジノシホンシュギだ、バブルエコノミーだ、アニマルエコノミーだ、レッセフェール・エコノミーだ、と言い出したくなるヤッホー君、かぶにだけは手を出さず遠慮申しあげ、せいぜいかぶのお味噌汁を作るくらいに心得ておりましたが、江の島とはきってもきれないのが、<カブキ>。
 歌舞伎ゆかりの場所でもありました!

 弁天小僧が武家娘に変装して強請(ゆすり)をする「浜松屋見世先の場(はままつやみせさきのば)」、5人が勢揃いする「稲瀬川勢揃いの場(いなせがわせいぞろいのば)」の2つの場面を中心に上演されます。
 なおこの2場のみを上演する多くの場合では、『弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)』というタイトルが使われます。
 弁天小僧役は、1862(文久2)年の初演時に、当時19歳だった5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)が大当たりを取って以来、代々の菊五郎が当り役としています。

  知らざぁ言って聞かせやしょう
  浜の真砂(まさご)と五右衛門(ごえもん)が歌に残せし盗人(ぬすっと)の種は尽きねえ七里ヶ浜(しちりがはま)、
  その白浪の夜働き、以前を言やぁ江の島で年季勤めの稚児ヶ渕(ちごがふち)、
  百味講(ひゃくみ)で散らす蒔銭(まきせん)を当(あて)に小皿の一文子(いちもんこ)、
  百が二百と賽銭(さいせん)のくすね銭せえだんだんに悪事はのぼる上の宮(かみのみや)、
  岩本院(いわもといん)で講中(こうじゅう)の枕捜し(まくらさがし)も度重なり(たびかさなり)、
  お手長講(おてながこう)と札附(ふだつき)にとうとう島を追い出され、
  それから若衆(わかしゅ)の美人局(つつもたせ)、
  ここやかしこの寺島(てらじま)で小耳(こみみに)に聞いた父(とっ)つぁんの似ぬ声色(こわいろ)で小強請(こゆすり)騙り(かたり)、
  名さえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助たぁおれがことだ

 この場面の弁天小僧には、せりふ回しから手拭(てぬぐい)や煙管(きせる)などの小道具の扱い方まで細かい型があり、美しく洗練された演技を見せます。

(河竹黙阿弥の活躍〜幕末から明治へ〜)
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_01.html

 では、テンポの良い名セリフ、ちょっとだけ聞いてみませんか。
 29分ちょっと前から、ですかね、はじまりますよ、
 耳の穴ァかっぽじって、よく聞きゃアがれ。かたじけなくも尊くも、弁天小僧の台詞回しだ〜い:
http://www.youtube.com/watch?v=t5jdMpqqmq8

 島の玄関に立つ青銅の鳥居をくぐる。ずらりと並ぶ土産物屋の間を進むと右手に旅館「岩本楼」が現れた。
 「ほら、弁天小僧が育ったところだよ」
 年配の男性が連れの女性に説明している。
 美しい武家の娘に化け、仲間と呉服屋をゆする弁天小僧菊之助。
 男と見破られ、もろ肌脱いで言う「知らざあ言って聞かせやしょう」で始まるせりふは、岩本楼の前身の寺院、岩本院で年季勤めをする稚児だった生い立ちを語る。

 石段を登り上(かみ)の宮と呼ばれた中津宮(なかつのみや)へ。
 1964年の東京五輪の際に造られた競技用ヨットハーバーが眼下に。
 乱れた息を整えながら「悪事はのぼる上の宮」とうそぶいて煙管(きせる)を持つ腕をぐっと中空に伸ばす弁天小僧のしぐさを思う。

 江戸を代表する芝居小屋だった中村座と市村座が寄進した石灯籠(どうろう)が境内に立つ。
 芸能の神、弁財天を祭る神社には江戸時代、芝居小屋の座元が歌舞伎役者を連れてよくお参りしたそうだ。
 1999年、江の島大歌舞伎が開かれた。
 「せりふに出てくる旧岩本院や稚児ケ淵などをまわりました。現場を肌で感じると、せりふの実感がまったく変わってきます」と弁天小僧を演じた尾上菊之助(36)。
 開演に先立つ「お練り」の記念に菊之助が植えたしだれ梅は例年、2月から3月にかけて花をつける。

(2014年1月31日朝日新聞マリオン欄掲載記事から。文・中村さやか「河竹黙阿弥『白波五人男』@江ノ島〜弁天小僧のせりふを実感する島〜」)
http://www.asahi-mullion.com/column/article/playback/441

 良いね、良かったね、江の島!
 江の島にまつわる名せりふは、次の新潮新書(2003年7月発売)で確認しておきましょう!

 『知らざあ言って聞かせやしょう
   ― 心に響く歌舞伎の名せりふ ―』


 歌舞伎の神髄は「名せりふ」にあり――。
 かつて歌舞伎は娯楽の中心であり、今に残る「名せりふ」は、歌舞伎を支え続けた庶民が培ってきた、日本の文化の結晶に他ならない。
 近松門左衛門から、鶴屋南北、河竹黙阿弥まで。
 忘れられかけた日本人の心が詰まった極め付き、四十一の名せりふ。
 「せりふ」が分かると、歌舞伎がより楽しくなる。
 巻末に「歌舞伎の台本とせりふ」の概説を付け、せりふから入る歌舞伎の入門書としても役立つ一冊。
 著者:赤坂治績、1944(昭和19)年山梨県生まれ。

(新潮社公式サイト)
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610024.html


(注)
 2月25日の東京株式市場の日経平均株価は、前日の終値と比べ164円83銭高の1万5002円51銭で取引を始めた。
(2014年2月25日09時09分毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20140225k0000e020146000c.html 
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2014年02月24日

江の島岩屋コース

 観光客でにぎわう江の島、でも良かった、です。
 いつでも行けると思うのか、あるいは何十年前にもう行ったし、歩くところなんてないさ、と企画自体は正直、不評だったのですが、8人で歩いた結果、大好評でした。
 ここでコース紹介:

 小田急片瀬江ノ島駅
 青銅鳥居
 杉山検校墓
 福石
 辺津宮


江の島辺津宮.jpg

 中津宮
 江の島サムエル・コッキング苑辺り亀ヶ岡広場
 江の島大師
 福嶋漁村句碑
 一遍上人成就水道
 山ふたつ
 木食上人古蹟碑
 亀石
 石鳥居
 奥津宮・八方睨みの亀の絵
 龍恋の鐘


龍恋の鐘.jpg

 山歩クラブの面々の後ろには、桜の若木が植えられていました。
 もう開花!

 稚児が淵
 岩屋
 下道
 ヨットハーバーをぶら〜り
 小田急片瀬江ノ島駅


 1182(寿永元)年、源頼朝の祈願を受けて京都高雄の文覚上人が江の島に「弁才天」を勧請しました。
 これは奥州平泉の藤原秀衡を倒すためだったと伝えられています。
 以後、軍神として鎌倉幕府の将軍や古河公方足利氏・小田原北条氏などの武将たちの参詣があり、龍神信仰と結びついて雨乞いが行われるなど、広く信仰を集めていきます。
 江戸時代になると、財福神としての性格を加えて「弁財天」と表記されるようになり、巳年と亥年の6年に1度の開帳が行われると、江戸から観光旅行をかねた大勢の参詣者が押し寄せ、江の島は大いに賑わいました。
 とりわけ江戸後期には、江の島を題材として、十返舎一九の案内書や歌川広重の浮世絵が出版されたように、庶民の江の島信仰が隆盛を迎えます。

(藤沢市・湘南江の島、江の島岩屋コ−ス)
http://www.fujisawa-kanko.jp/spot/hiking/hiking02.html

 お昼は、リーダーご推奨のお店「江の島まんぷく屋十大」(藤沢市江の島1-4-10 Tel 0466-28-9559)で:

 まんぷく屋十大(じゅうだい)は、江の島島内にあるしらす丼食べ放題のお店です。
 しらす丼の他、十割そばも食べ放題です。
 まんぷく屋で使用している、出汁は毎日厳選素材より取っております。
 是非、江の島へお越しの際はお立ち寄りください。

http://www.chigasakiya.co.jp/newfolder1/manpukuya.htm

 リーダー、下見にも行って現地調査を済まされていたとか。
 良い場所を紹介してくれてありがとうわーい(嬉しい顔)

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2014年02月23日

江の島

 2月23日日曜日は、山歩クラブのタウンウオーキングの日。

 小田急片瀬江の島駅からの往復です。歩くだけの所要時間を約3時間半をみています。
 このコースは、岩屋洞窟をはじめ、浮世絵に描かれた景勝と当時の史跡を辿って島内をひとめぐりしていくものです。
 参加希望者は事前学習として『江島杉山神社』(墨田区千歳1-8-2)に詣でることをお勧めします。
 神社は、両国駅より南へ「一の橋通り」を進み、一之橋(旧一ツ目之橋)を渡ったところで杉山和一の屋敷跡といわれています。
 五代将軍・徳川綱吉の持病を治療したことから信任を得、幕府に召し抱えられて屋敷を拝領し、さらに盲人の全国組織である当道座の総検校に任じられます。
 なぜ江の島?江の島と下町、本所両国はいったいどんなつながりがあったのでしょうか、江の島で「しらす丼」を食べながら振り返ってみましょう!お楽しみに。
 

 これは山歩クラブの月報「かわらばん2月号」からです。

 そうしたら、『江島杉山神社』だけでなく、50年前の黒澤明監督作品『天国と地獄』(1963昭和38)年公開)ともつながりがあるんだよって、山歩クラブの仲間からご指摘:
http://www.youtube.com/watch?v=IG2IEOMS_J4

 いざ『天国と地獄』の世界へ!
 この映画は、黒澤明監督の傑作サスペンスの名作で、誘拐事件の舞台は、湘南で江ノ島、酒匂川、横浜で山下公園等です。


 行きの小田急線の電車のなかでは、この仲間を中心に<天国と地獄>談義で大層、盛り上がりました。

「…この江の島ロケで、黒澤が妥協したものが一つあった。それは背景に写る富士山である。設定は真夏だが、ロケは十二月に入り、初旬から中旬にかけて行われた。そのため冠雪していた。夏の富士は雪は冠らない。…」
 黒澤監督も妥協することがあるのですね!!
(「天国と地獄」の酒匂川鉄橋、鎌倉 腰越を歩く)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kurosawa-tengoku2.htm

 そればかりではありませんでした。
 30年前の『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』(1982(昭和57)年公開)では、寅さん(渥美清(1928-1996)がいしだあゆみ(1948年生まれ)と江の島から夕日を眺める場面が:
http://www.youtube.com/watch?v=19HVg_XbRNU
http://www.tora-san.jp/
http://www.tora-san.jp/toranomaki/movie29/story.html

 そればかりではありませんでした。
 直近だと、『陽だまりの彼女』も
http://www.youtube.com/watch?v=W--DavRun-s
http://www.youtube.com/watch?v=MY2VS9Njhhc

 江ノ電、国道134号沿いの海岸、島内などが撮影場所になっている『陽だまりの彼女』は、ちょっと不思議なラブストーリー。
 “女子が男子に読んでほしい恋愛小説No. 1”をキャッチコピーにしたベストセラーの同名小説(越谷オサム著)が原作だ。
 10年ぶりに再会した幼なじみが、見違えるほど美しい女性に変身。
 やがて結婚を決意するが、そこには誰にも知られてはいけない秘密があった−というあらすじだ。

 「ラブとファンタジーが作品のテーマ。恋人たちがデートで歩いて絵になる。そういう場所がまず必要だった」と、プロデューサーの小川真司さん(50)。
 撮影場所を探すロケハンで、江の島に注目した小川さんは「神社もあって神秘的な空気がある。森や海があって自然も感じられる。観光地としての情緒もあって、独特の世界になっている」とたたえる。
 物語の“オチ”でもある「秘密」にも、江の島はつながっているという。

 「江の島は外観がいい。まさにロマンチックな湘南なんだよね」と言うのは、映画プロデューサーの三木和史さん(57)。
 自身も3年ほど前から近くの片瀬海岸に住む。
 映画『江の島プリズム』では、葉山や鎌倉高校前の海岸線から見渡す海と江の島が美しく映し出される。
 「今回の作品は青春とファンタジー。海があり、空が広く、開放的な江の島は、まさに青春のイメージにぴったり。リゾート的な雰囲気もあって街も人もどこか明るい。太陽のみずみずしさを表現できるはず」と選んだ。

 藤沢市内で次回作を構想している映画プロデューサーの大勝ミサさん(70)も「モダンさと古さが入り交じった街で、夢やファンタジーにも合う。勢いがあって発展していくイメージもある。こういうところは、他にはない」と話している。

(2013年7月10日付け神奈川新聞社「江の島舞台の2作品ロードショーへ、「独特の空気感」に注目集まる/藤沢」)
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1307100010/

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2014年02月22日

失言 and/or 本音

 2月22日土曜日、ヤッホー君は「ねえぇ、見て、見て」と教えられてびっくり、朝から腰をぬかしておりました。
 なんかあ、マンガチック、「日本人の劣化」の象徴なんでしょうか、テレビだけでなくイマや、ラジオからも出演者のうるさいほどの、声高のけたたましい笑い声、哄笑、バカ笑いが聞こえてきますもんね。
 ではここいらでお笑い三人組の登場といきますか、週末の土曜日だし…
http://www.youtube.com/watch?v=X5-m57r8YKk

 まず、「衆院予算委に出席したNHKの籾井勝人会長。答弁要求を待つ間に後方からメモを渡された=1月31日、国会で」は見ものです。画像が削除される前にぜひとっくりとご覧ください、徳利は日が暮れてから:

 初めて国会で答弁した籾井勝人NHK会長は、問題となった発言を「私的なコメント」として取り消すことで答弁を乗り切り、事態を収めようとした。
 だが、NHKの国際放送で、政府が拉致問題などを報道するよう求めることができる「要請放送」について、法の規定である「努力義務」を超えて「義務」と言い切るなど、政権との近さを示す一幕もあった。
 「NHKの国際放送で日本の威信を世界に広めたいのが菅義偉(すがよしひで)官房長官の強い意向」(NHK関係者)とされる。
 会長の任免権などをもつNHK経営委員会という“緩衝材”が政権とNHKの間にあるが、「政権が右と言うのを左と言うわけにはいかない」という就任会見の発言を、「赤と白と言うべきだった」との答弁で、視聴者が納得できると考えているのだろうか。

(2014年2月1日東京新聞朝刊「慰安婦発言 NHK会長陳謝」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014020102000117.html

 ついで、アベノリスクのもうひとりのお友だちもついつい本音を口にだしていますね;

 米紙ウォール・ストリート・ジャーナルのインタビュー記事で、安倍政権の経済政策「アベノミクス」は軍事力強化が目的であるかのように語ったと報じられた本田悦朗(えつろう)内閣官房参与は2月21日、記者団を前に最後まで煮え切らなかった。
 というのも、同紙の記者が本田氏の抗議に「修正する用意がある」と応じたのと同じ2月20日、発行元のダウ・ジョーンズ社は「記事の内容は正確だと確信している」と正反対のコメントを発表したためだ。
 本田氏によると、インタビューは英語で行われ、政府関係者は同席していなかった。

(2014年02月22日毎日新聞東京朝刊「動2014:首相周辺の失言 石破氏「自戒込めれば、撤回する発言ない方がいい」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140222ddm005010112000c.html

 きわめつけはこんな裏話まで自慢げに…

 また、団体戦種目のアイスダンスについては「日本にできる人はいない」と指摘。
 出場したアメリカ在住のキャシー・リード、クリス・リード両選手については「まだオリンピックに出るだけの力量ではなかったんだということですが、日本にはいないもんですから、あの方を日本に帰化させて日本の選手団で出して、点数が全然とれなかった」と語っていたという。

(2014/2/21 18:25 森元首相「真央は必ず転ぶ」発言波紋止まらず 全容記事で新たな「失言」も浮上)
http://www.j-cast.com/2014/02/21197406.html?p=3

 こうした一連の「本音」については、英国紙ガーディアンがまとめて取り上げて、あっちかそっちの国にお住いの方々の失笑をかっておりました:

With friends likes these … Shinzo Abe's tactless colleagues cause consternation

Prime minister must wonder whether it's 2007 all over again after slew of remarks angers Washington and sports fans in Japan

(theguardian.com, Friday 21 February 2014 14.26 GMT)
http://www.theguardian.com/world/2014/feb/21/shinzo-abe-tactless-colleagues-japan-prime-minister

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2014年02月21日

樹氷国体

 ヤッホー君のこのブログをいつも読んでくださっている方よりこんなコメントが届きましたので写真とあわせてご紹介:

 2月17日にみやぎ蔵王「すみかわスノーパーク」から雪上車「ワイルドモンスター号」で樹氷見学にいきました。
 新幹線とバスで行きました。
 雪は多かったけど平常でしたよ。

樹氷見物ツアー.jpg

 前日、雨が降ったらしくてこんなでした。
 地元の人はこんなに雪が多いのは初めてだとの話。
 雪が多くてスキー場のリフトが埋まってました。


 ヤッホー君が「やまがた蔵王」をあ〜だ、こ〜だ言ってましたが、蔵王はもちろん奥羽山脈ですから、宮城県側にもひろがっているわけでして。
 この「すみかわスノーパーク」(宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉字倉石岳国有林内ゲレンデハウス Tel 0224-87-2610)ってこんなとこ:

 キャビン搭載の暖房付乗用雪上車「ワイルドモンスター号」で、世界的にも希少な自然現象の芸術品「樹氷」を専属ガイドの軽快なトークと共にご覧頂くツアーです。
 「樹氷」とは不思議なもので国内では蔵王のほか、青森の八甲田、秋田の八幡平など限られた地域でしか見ることが出来ません。
 この「樹氷」の育成には樹木の存在、冬型の気象条件、降雪量、多量の過冷却水滴の有無といった条件が必須であり、宮城蔵王はこの厳しい条件に適合しているばかりでなく樹木が群生しており、広大な樹氷原で大パノラマにて樹氷をご覧いただけます。
 悪天候時には、標高1600b地点、樹氷の育成に必須な氷点下10℃のすさまじい猛吹雪をご体験ください。
 世界的に希少な樹氷が群生する樹氷原の見事な自然美を、小さなお子様からご年配の方まで気軽にお楽しみいただけます。

(すみかわスノーパーク公式サイト)
http://www.zao-sumikawa.jp/juhyo.html

 さて、こっちのメディアは、そっちの中継で忙しいようで、そっちにカメラを持って行けるお金、あるいはそっちの映像を中継する権利を買うお金はあっても、こっち、大雪で閉じ込められた部落に取材に行って寒い思いをしてらっしゃる住民の映像や、フクシマでまた漏水(注)してしまった現場を中継するお金も暇もないようでして、なおさら、樹氷国体を現場から中継しようなんて、お金も暇もなく、人もいないのかなぁ〜

 山形、上山両市で開かれる第69回国民体育大会冬季大会スキー競技会「やまがた樹氷国体」は今日21日、山形市蔵王体育館で開始式を行ない、開幕する。
 本県での国体開催は2004年の「山形もがみ国体」以来、10年ぶり6度目。
 競技は22〜24日に行われる。

 大会には47都道府県から選手、役員など約1800人が参加。
 会場はアルペンが山形市の蔵王温泉スキー場、ジャンプと複合前半ジャンプが同市蔵王ジャンプ台、距離と複合後半距離が上山市の坊平高原クロスカントリー競技場となる。

 開始式は21日午後0時50分から「式典プロローグ」として、本県の歌や踊りなどを披露。
 続いて各都道府県の旗手が入場行進する…

 ソチ冬季五輪ジャンプ女子で4位となった高梨沙羅選手(クラレ)が、「やまがた樹氷国体」のジャンプ競技でテストジャンパーを務めることが20日、関係者の話で分かった…

(2014年02月21日 07:12山形新聞「樹氷国体がきょう開幕 本県会場10年ぶり」)
http://yamagata-np.jp/news/201402/21/kj_2014022100443.php

 高梨沙羅選手は、1996年10月8日北海道生まれで17歳!
 なお、開会式ではスポーツ県民歌が演奏されるそうです。
 イマは亡き父がよく歌ってくれて、ヤッホー君の子守歌です、いつか山歩クラブの宴会でひんしゅくをかってでも歌ってみようかしら…
 山形県スポーツ県民歌は「月山の雪」(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)。
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700021/kikaku-toppage/kenminka.html
http://www.youtube.com/watch?v=BASrZSxqk-0


(注)
Nouvelle fuite d'eau contaminée à Fukushima
(Le Monde.fr avec AFP | 20.02.2014 à 07h05 • Mis à jour le 20.02.2014 à 09h47)
http://www.lemonde.fr/planete/article/2014/02/20/nouvelle-fuite-d-eau-contaminee-a-fukushima_4369725_3244.html
(Une des Réeactions)
Il s'agirait plutot de 230 000 000 Bq/L soit quand meme : 23 000 000 000 000 Bq dans les 100 m3.... Source : http://www.tepco.co.jp/en/press/corp-com/release/2014/1234394_5892.html
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2014年02月20日

かさまつ大学

 イマは亡き父、イマも元気にしていますか?
 あの分校はイマ、廃校ですって…
 でも建物は残っているようで…
 こんな風に開放的になって…

 【DS&みつけたむぎの】クリスマス会
 DS・みつけたむぎの合同のクリスマス会です。
 合同芋煮会から一ヶ月しか経っていませんが、このクリスマス会なしでは、年も越せないほど定着しました。

(2013-12-23)
http://blog.tuad.ac.jp/doing/?cat=11

 昨年のクリスマスのころ、東北芸術工科大学・片桐教授と本館5階521研究室に集う学生たち活動紹介ブログからです。
 DSというのは【Doing Soiology】の略ですね。
 この月曜日、2月17日に更新された記事「卒業生を囲んで」ではこんな北の大雪の状況が綴ってありました、たいへんでしたね。

 今年度卒業した卒業生たちが集まってくる予定になっていました。
 例えば、漫画家をめざして頑張っているHUMIKAさん。今度、学芸員に就職する文化財保存修復学科を卒業したMIKUさん。行政で防災を担当しているMIKAさん。
 仙台からなんとか山形までたどりついたMIKAさんを除いた残りの2人は東京から山形に向かってきて、福島県で足止めをくいました。
 HUMIKAさんは、翌日、山形に再度向かってきましたが、風のために新幹線が動かなくなり、山形に着いたのは19時過ぎでした。
 それでもMIKAさんを中心に、14人ほどの飲み会を大山で開くことができました。
 庄内で子どもアトリエを立ち上げたYUUKOさん、NANASEさんも駆けつけ、また4年生も二人参加してくれました。
 二次会がITOさんのお宅で2時過ぎまで続くほど盛り上がりました。

http://blog.tuad.ac.jp/doing/?p=2793

 若い人たちも卒業後、いろんな道を歩みだそうとしているようで、けっこう、けっこう、ねこ杯だらけ…
 あっ、そう、そう、分校でしたよね。
 分校にもイマ、ダイガクができています。
 「かさまつ大学」です:

 昨年度は、かさまつ大学や地域づくり委員会活動などの公民館事業、交流施設「ぽんぽこ」の各種事業、そして東北芸術工科大学「みつけたむぎの」の創作活動等に対しまして何かとご支援、ご協力を賜り、心より感謝申し上げます。
 旧田麦野小学校の校舎を活用しながら、公民館を兼ねた高原の里交流施設としてオープン以来、今年度で8年目となりましたが、田麦野に限らず、市や国全体が少子高齢社会になっている状況にあります。
 このような中でも、子どもや若者が多ければ、将来に希望が持てるし、祭りやイベントも一所懸命バカになって実行してくれる人がいれば活気がでてくるものです。
 幸いなことに田麦野には、「ぽんぽこ塾」の塾生や東北芸術工科大学の学生など、市内外から訪れて地域住民との交流や自然体験等の活動が実践されています。
 「地域振興は、“よそ者、若者、バカ者”から」という言葉がありますが、田麦野にはその他に一番身近な「よそ者」として、この地域に嫁ぎ、あるいは移り住んで長年あるがままの地域を経験されている多くの住民もおります。
 これらの皆さんからも地域の振興について忌憚のないご意見をお寄せいただきたいと思います。
 職員一同、今後とも変わらぬご支援、ご協力をお願い申し上げ、年度初めのあいさつとさせていただきます。

 今年から参加してみたいという学生を大募集します。
 募集要項をお持ちしますので、参加希望の方は、用紙にご記入のうえ、「ぽんぽこ」までお願い致します。
 新しい仲間を待っています。一緒に楽しみましょう。

 ◆◇◆ 平成25年度かさまつ大学の主な行事予定 ◆◇◆
 5月 かさまつ大学開校式
 6月 美しいものづくり講座
 7月 健康づくり講話
 9月 地区レクリェーション大会参加
 11月 秋の宿泊研修会(1泊2日予定)
 3月 絵の楽しみ方教室・地区レクリェーション大会参加

(館報たむぎの、2013(平成25)年4月1日号)
http://www.city.tendo.yamagata.jp/livinfo/shisetsu/2013-0329-1559.pdf

 へえぇ〜大学も塾も、いつからこんな教育熱心な地区になったんでしょう…

 明けましておめでとうございます。
 健やかに新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 旧年中は、地域づくり事業やかさまつ大学などの公民館活動とともに交流施設「ぽんぽこ」の独自事業である里山コンサートやぽんぽこ塾などへのご協力、そして東北芸工大「みつけたむぎの」の地域取材を通しての交流活動等に対し暖かいご支援とご協力を賜り誠にありがとうございました。
 昨年2013年7月には大雨による影響により西川浄水場からの給水が制限・停止され、市内全域にわたり断水となりましたが、ここ田麦野地区は既存水源の活用と相互扶助の実践により、特段の混乱も無く終わることができました。
 高齢化・人口減少が続く中で、地域の力を発揮できたことは大変有意義なものと感じているところであります。
 師走に入り例年になく早い積雪となり、天童高原スキー場も12月21日にオープンいたしました。
 天童高原は、新年度から「NPO天童高原」の管理・運営により、新たに出発することになりました。
 施設の整備により魅力ある市民の憩いの場になるとともに田麦野地域全体の振興・活性化を期待したいと思
います。
 また、今年は午(うま)年であります。
 「天馬空を往く」のたとえのごとく、少子高齢社会の閉塞感を吹き飛ばすように、例年以上に公民館・交流施設を利用いただき、ますます活力ある地域づくりの推進にご協力いただきますようお願い申し上げます。
 今後とも変わらぬご厚誼をお願い申し上げるとともに、皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げ、年頭のあいさつといたします。

(館報たむぎの、2014(平成26)年元旦号)
http://www.city.tendo.yamagata.jp/livinfo/shisetsu/2014-0106-1315.pdf

 2012年8月4日、特定非営利活動法人NPO天童高原(工藤一夫理事長)の設立総会が天童高原ロッジで開催されました。
NPO天童高原は、天童高原を民間の知恵を駆使して、資源の再発見・再認識するとともに、再開発プランを策定し、それに基づいた事業を展開しながら、雇用創出や農林産業・観光産業の発展に寄与したいと組織したもので、市内の経済界などを中心に60人の正会員と20人の賛助会員から成っています。
 本年5月10日にNPO法人として認可され、この日第1回目の総会を開催したものです。
 総会では、本年度の事業計画案や収支予算案が協議され、原案のとおり承認されました。
 ウオーキングやトレッキングによる健康講座の開発、自然と親しむ企画の開発など、健康増進や体験学習の分野での事業展開や農林産物生産に向けた調査研究などが盛り込まれています。

(天童市公式サイト、市報てんどう、2012(平成24)年8月のトピックス)
http://www.city.tendo.yamagata.jp/cityreport/shiho/H24-8topics.html

 あ〜あ、しかしここでもNPOかあ〜

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2014年02月19日

蔵王の樹氷

 
Skiers are dwarfed by the snow-coated trees known as juhyo (ice-monsters) as they slalom down Mount Zao in the Yamagata prefecture of northern Japan
(The Guardian, Thursday 3 February 2011)
http://www.theguardian.com/world/picture/2011/feb/03/1

 宮城、山形両県にまたがる蔵王連峰の冬の風物詩、アイスモンスターを「樹氷」と命名したのは東北大の前身、東北帝国大の学生らだったことが2月18日、山形大の研究で分かった。
 当時、アイスモンスターは「雪の坊」などと言われていたが、学生が樹氷と呼び、そのまま定着したとみられる。
 山形大によると、樹氷に関する文献や資料を調べた結果、1922(大正11)〜1923(同12)年ごろ、蔵王連峰の宮城県側のスキー場で合宿中だった旧制二高、東北帝大の学生が「樹氷」と呼んでいたことが判明した…
 蔵王連峰のアイスモンスターは、100年前の2014(大正3)年2月15日に発見された
 「エビのしっぽ」の樹氷は世界各地に存在するが、樹木が雪で覆われ巨大となるアイスモンスターは蔵王山や八甲田山など国内の一部でしか見られない…

(2014年02月19日水曜日河北新報、蔵王の「樹氷」命名は東北帝大生 山形大の研究で判明)
http://www.kahoku.co.jp/news/2014/02/20140219t73001.htm

 ヤッホー君、2月19日水曜日、雪氷が溶ける「雨水」でもまだ先の大雪が日陰の道路には張り付いている下町の街並みを歩きながら、今は亡き父のことを思いやっていました。

 今は亡き父、冬になるとヤッホー君を連れて、分校の宿直室に泊まって翌朝早く、村の子どもたちといっしょにスキーをかついで、長靴を履いて、牛を放牧する高原まで歩いて向かうのです。
 その高原を皆でスキーを履いて高みまで踏み固めながら登っていきます。
 滑り降りたらまたスキーで踏み固めながら登っていってスキー場にしてしまいました。
 直滑降だとあまりにも早く下ってしまうので、あっちにまがったりこっちにまがったり見よう見まねでヤッホー君、覚えさせられました。
 昼、用務員さんのつくってくれた大っきなおにぎりを、牛のいない牛舎に入って皆んなで頬ばりました。
 
 今は亡き父、大阪から義弟が家族でやってくるたびに蔵王温泉スキー場にも連れて行ってくれました。もちろんスキーです。
 リフトってあったのかしら、ロープに必死につかまって、高みまで引っ張りあげられたんじゃないのかな…
 「うまくなったら樹氷のなかを滑ろう」と言われていましたが、ついにその機会は訪れることはありませんでした、ヤッホー!

 今は亡き父、そのころ流行った映画も連れていってくれましたね。

 トニー・ザイラー
 1935年11月17日、オーストリア・チロル州のキッツビュール出身。
 1956年のコルチナ・ダンペツォ五輪で、史上初となる3冠(滑降、回転、大回転)での金メダルを獲得した。
 この時、回転で銀メダルとなったのが、日本人として唯一のスキー・アルペン競技の五輪メダリスト、猪谷千春氏。

 しかし、映画に出演したことなどからアマチュア資格を問われ、22歳で引退する。
 その後は俳優として活躍。
 1959年の「白銀は招くよ」は大ヒット、主題歌には日本語の歌詞が付けられてよく歌われた。
 1960年の日本映画「銀嶺の王者」では鰐淵晴子さんと共演している。

(時事ドットコム、世界スキーヤー名鑑)
http://www.jiji.com/jc/v2?id=skier_01
http://www.youtube.com/watch?v=-6oBWHssGPA
http://www.youtube.com/watch?v=z3AhVnwSfB4

 今は亡き父、ヤッホー君をスキーヤーにさせたかったのかな?
 トニー・ザイラー(1935-2009)、いがや ちはる(1931年、北海道・国後島で生まれる)、わにぶち はるこ(日本人とドイツ人の間に1945年生まれ、バイリンガル)の名前はさんざん聞かされて、イマでも頭にこびりついています。
 もちろん、メロディも、歌詞も、映像も…どっかに残っていますって。

 山歩クラブで以前、皆んなで蔵王にウインター合宿、「樹氷を見ながらアイスクリームを食べよう会」提案をさせていただきましたが、一顧だにされず、却下されてしまいました。
 懲りないヤッホー君、また提案してみようかなって…

 オーストリア出身「トニー・ザイラー」の顕彰碑が、蔵王温泉スキー場・パラダイスゲレンデ内に建立されました。
 トニー・ザイラーは、1960(昭和35)年に松竹映画『銀嶺の王者』ロケーションのため蔵王温泉を訪れ、約1ヶ月間滞在し、蔵王の魅力を国内外に広めました。
 その後何度も蔵王温泉スキー場を訪れております。
 惜しくも2009年8月24日、オーストリア・インスブルック市で73才の生涯を閉じました。
 今回、山形市及び蔵王温泉が中心となって、トニー・ザイラーの功績を称え、トニー・ザイラー顕彰碑を建立する事となりました。

(蔵王温泉観光協会)
http://www.zao-spa.or.jp/node/700

 そしてイマ、蔵王では、第69回国民体育大会冬季大会スキー競技会「やまがた 樹氷 国体」が明後日からはじまろうとしています。
http://www.youtube.com/watch?v=7H7gCa6xuJA
http://www.youtube.com/watch?v=e4GX0M7EF_0
 
 大雪に係る通行止めの解除について(ホッ)
 2月15日からの大雪による道路の除雪のため、山形市蔵王温泉〜上山市猿倉間が通行止めとなっておりましたが、本日2月19日午前10時から通行止めが解除となります。
 なお、解除後も幅員が狭くなっておりますので、大型バスの運行はご遠慮ください。
 ご理解、ご協力の程、よろしくお願いいたします。

(2014/02/19 09:50 New!)
http://yamagatajuhyo-kokutai.org/

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2014年02月18日

ぼくは戦争は大きらい

 1940(昭和15)年春、ぼくに招集令状が届きました。
 兵隊になりなさいという命令書です…
 表には「何月何日にどこどこへ出頭せよ」という文面。
 裏には「応召者の心得」という文章がぎっしりと書かれていました。
 メガネをかけても読めないような小さな文字で、難しい文語体で書かれているものだから、何を書いているのかなんて、はっきりわかりゃしません。
 「逃げてはいけない」というようなことだったのでしょう…

…やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい』(小学館、2013年)第一章「軍隊に入ってみたら、こんなところだった」

 招集令状の裏面
 …特に招集を受けた人にとって重要だったのは、交通費の説明です
 …ただ、ほとんどの人は令状が届いただけで気が動転して、そこまでしっくり読むことはなかったようです。
 文字が読めない人もたくさんいました。
 軍隊も役所ですから、書面で申請しないと精算もありません。
 やなせ先生のように気づかずそのままだった人もたくさんいたと思われます。

…同書「ことばの手引き」48-49頁(取材・構成者、中野晴行)

 94歳で死去した漫画家やなせたかしさんが軍隊の体験を初めて本格的に語り下ろした本『ぼくは戦争は大きらい−やなせたかしの平和への思い』が2013年12月21日、刊行される。
 日本で近年広まりつつある好戦的風潮に危機感を抱き、平和への思いを最後に残したロングインタビューになっている。
 「(戦争を)思い出すのも、話すのも嫌」としていたやなせさんは積極的に軍隊経験を語らなかったが、本書では「日本が戦争をしたという記憶が、忘れ去られようとしています」と“解禁”した理由を明かし、戦争のむごさ、愚かさを説き起こしている。(共同)

(2013年12月08日付け毎日新聞「やなせたかしさん:最後の語り「ぼくは戦争は大きらい」)
http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20131208k0000m040085000c

 マンガ編集者、中野晴行
 取材の最後に先生のおっしゃった言葉が胸に残ります。

 「アンパンマンはバイキンマンをアンパンチでやっつけるじゃないか、あれはどうなんだと反論する人がいます。
 バイキンマンは人じゃなくバイキンです。
 やられたら「ばいばいきーん」と言い残して去っていきます。
 でもすぐに戻ってきて悪さをする」

 つまり、アンパンマンたちとバイキンマンたちはともに暮らしているわけです。
 食物とバイキンなんだけど、最後のところではみんな、仲良く生きているわけです。
 それがアンパンマンの世界だと思います。
 先生の理想としているのは、みんなが仲良く暮らして、戦争だけでなく、すべての争いがない世の中だったと思います…

 やなせ先生が戦争が大きらいなもの、分け与えることよりも、奪うことが戦争の本質だったからではないでしょうか? 
 先生が理想とした、みんなで仲良くの世界がはやく実現すればいいなあ、と思います。
 やなせ先生ありがとうございました。

(2014年01月16日((木) NHK 解説委員室 視点・論点 マンガ編集者中野晴行「やなせさんが語る"戦争"」)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/177967.html

 中野晴行、京都精華大学マンガ学部客員教員(1954年生まれ)
 マンガは映像化され、キャラクターグッズとして商品化され、日本だけでなく海外にも輸出され、さらに映像化、商品化され、形を変えながら市場を膨らませています。
 マンガ出版の市場はせいぜい4000億円程度ですが、映像化や商品化、海外での版権などを含めると、市場規模は3兆円とも言われています。
 日本のマンガがいつ頃から、どのようにしてこれほど大きな市場を形成するようになったのか。
 これからその市場はどう変化し、マンガはそれにどう対応していくのか、を分析するのがマンガ産業論です。
 日本国内だけ、出版だけを見れば日本のマンガ産業はいま厳しい状態にあります。
 しかし、デジタル・メディアや海外に目を向ければ、未開拓の市場が広がっています。
 新しい時代のマンガ産業をつくるのは若いみなさんの力だと思います。

(京都精華大学公式サイト、教員紹介)
http://www.kyoto-seika.ac.jp/edu/faculty/nakano-haruyuki/

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2014年02月17日

アンパンマン

 俳句を出展してくださった仲間に、森下文化センターで山歩クラブ第8回山の作品展を観終わった後は、奥の「のらくろ」コーナーに行ってぜひ見学するのをお忘れなきように、とお知らせしました。
 山歩クラブしか目に入らなかったところ、教えてもらって良かったですよ、と。
 1931(昭和6)年ごろ撮影されたとある「北アルプス登頂」の写真も見てきたって。

 ヤッホー君、ホントウはもうひとつ、入口か出口かに置いてある本、やなせたかし(1919年(大正8)年2月6日-2013(平成25)年10月13日)『ぼくは戦争は大きらい』(小学館、2013年12月)も手にとって、そしてぜひお買い求めて、読んでと伝えたかったらしいのですが、何事につけ「おしとやか」なヤッホー君のこと、言い出しにくかったそうな。

http://www.youtube.com/watch?v=3EYbrTEZfnI
 「しっぽはぐぐんと」(作詞:やなせたかし 作曲:山下毅雄 歌:大山のぶ代)
 放映期間:1970(昭和45)年10月5日〜1971(昭和46)年3月29日(フジテレビ)

 田河水泡『のらくろ総攻撃、1937(昭和12)年』から帝国の表象システムを学びます。
 のらくろとは、野良犬の黒吉を短く詰めて表現したものです。
 のらくろは、戦前、とくに15年戦争期の日本の少年(少女にどれくらいのインパクトがあったのかは不詳)の心を魅了した作品です。
 とくに、戦前の一連ののらくろ物語は、社会的に係留点をもたない――文字どおり出自不詳の放浪犬――彼が新しく得た軍隊という共同体の中で、単行本の刊行ごとに、彼の機知に満ちた活躍によって武功を立ててゆく立身出世の夢物語を形成します。
 のらくろは、ユーモアもあり正義漢に燃えた善良な市民を表象しますが、局所的な善行――周囲の人=犬への思いやりや誠実さ――を積み重ねてゆくことで、帝国軍隊のメカニズムに完全に組み込まれ、帝国主義そのものを体現するマシーンの一部になります。
 それがのらくろの運命であり、悲劇でもあります。
 異文化の人びと=豚、羊、熊への抑圧や攻撃、あるいは異文化の人びとからの反撃の可能性について思いやることがないために、自らが歴史の犠牲者になる可能性のことを忘却していました。
 これらの一連の悲劇は、のらくろに重ねられる日本人の悲劇でもあります。
 のらくろの作品の新しい読み方を通して、歴史の教訓を得ることが可能になります。
 以下に、田河水泡『のらくろ総攻撃』(1937)の読み方――ひとつの解釈――について解説します。

(講師:池田光穂「のらくろ帝国主義入門」)
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/020616norakuro.html

 やなせたかしが、田河水泡「のらくろ」のアニメ昭和版のテーマソングを作った10年前には、「手のひらを太陽に」を作詞しています:
http://www.youtube.com/watch?v=cnJn9L8Q2go

 先日、文化祭に向けてやなせたかしさんについて調べていたところ、こんなエピソードが目に留まりました。
 「手のひらを太陽に」という歌を作詞されたやなせさんに、ある人が質問します。
 「どうして1番の歌詞が『生きているから悲しいんだ』で、2番が『生きているからうれしいんだ』なんですか?逆じゃないんですか?」と。
 それに対して、やなせさんはこう答えます。
 「死んでしまったら、悲しいもうれしいもないです。生きているから、つらいとか痛いとかいろんなことがあるわけ。それは生きている証なんです。そして、喜びよりも悲しみの方が強いから、悲しみを先にもってきたわけです。ただ、悲しみはずっと続くわけではありません。その後には喜びがあります。絶望の隣には必ず希望があるのです」
 この言葉は、やなせさんが戦争で正義のために戦ったのに、日本の敗戦と同時にその正義が崩れてしまったこと、弟さんを戦争で亡くしたこと、60歳を過ぎてアンパンマンがヒットするまで、全くヒットに恵まれなかったことなど、さまざまな深い絶望を味わってこられたことと重ねるとき、とても説得力を持ちます。

(2013/12/02日「手のひらを太陽に」日向学院(宮崎市大和町110)朝の心)
http://www.hyugagakuin.ac.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=267

 そうなんです、やなせたかし『アンパンマン』は1988(昭和63)年10月からテレビアニメ放送がはじまります:
http://anpanman.jp/index.html
http://www.youtube.com/watch?v=vYJDjC7ptNY

 「アンパンマン」の生みの親・やなせたかしさんが2013年10月13日、心不全のために死去した。享年94。
 その創作活動については説明不要だろうが、我々中年世代にとって「アンパンマン」は、子供時代ではなく、親になってから子供に引きずられつつ視聴し、その意外な深さにハマってしまった作品なのだ。
 2年前の東日本大震災の際、ラジオから流れた「アンパンマンのマーチ」の歌詞に、老若男女を問わず多くの人が元気づけられるという現象が起きた。
 1988(昭和63)年のアニメ放送開始から毎週、テレビの画面から流れている
「♪そうだ 恐れないで みんなのために 愛と勇気だけが友達だ」
だけを聞けば、まあよくある感じの幼児向けアニメの主題歌なのだが、子供にねだられアンパンマンのCDを買い、それを聴きつつ衝撃を受ける。
 いつも聴いている歌詞は2番の冒頭。
 本来の1番の冒頭は
「♪そうだ うれしいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも」
と、いきなり重たい。
 さらにテレビでは流されない箇所には
「♪時は早く過ぎる 光る星は消える だから君は行くんだ 微笑んで」
と、完全に詩人・やなせたかしの真骨頂たる身震いするような歌詞が続く。

(2014年01月19日高木マニア堂440:アニメ版「のらくろ」主題歌に感じるやなせたかしさんの反骨心)
http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-takagi/1025/

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2014年02月16日

名残の句

 2月16日日曜日。

 関東甲信と東北に記録的な大雪をもたらした低気圧は16日、三陸沖を北東に進み、北海道と東北北部は荒れた天気となった。
 大雪の影響とみられる死者は、14日の降り始めから群馬、埼玉など7県で計15人に上った。
 雪の重みで車庫などの屋根が崩落し、下敷きになったケースが目立った。

(2014年2月16日 22時45分 東京新聞「大雪被害、死者15人に 群馬・南牧村など孤立」)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014021601001663.html

 この低気圧は、清澄公園も直撃!
 ヤッホー君の散歩道には、公園の樹々の太い枝がぽっきり折れたのや、細い枝が園内に散乱!
 大風が吹いたのか、水分を含んだ雪の重さに耐えかねて折れたのか、かわいそうでしたよ!

清澄公園.jpg

 そんな中、山歩クラブの仲間5人で午後4時から、『第8回山の作品展』の後片付け。
 後片付けにいらっしゃる予定にしていた仲間は、東京に戻る便が欠航したと!

 今、宮崎ですが、東京の雪の影響で飛行機が欠航となり、明日に変更手続します。
 明日の撤収のお手伝いができなくなりました。
 大変申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。

…2014年2月15日 土曜日 午後3:09

作品展.jpg

 俳句を出品してくださった仲間も用事ができて後片付けに来られなくなったのですが、最終日に森下文化センターに足を運んでくださり、会場に用意してあったノートにメッセージを残してくださりました。ありがとうハートたち(複数ハート)

 もう一度、名残を惜しみに来ました。
 やはり素晴らしいです。
 後片づけできず、すみません。
 よろしくお願いします。


 次の俳句を出展されておられました:

虚子庵に 名残の雪や 小諸宿


朝もやに 沼静かなり 尾瀬の夏


見下ろせば 池塘木道 初紅葉


ゆったりと 牛の草食む 牧の秋

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2014年02月15日

売り言葉

 亡くなる年の1956(昭和31)年の「読売新聞」元旦号で原子力をほめちぎった高村光太郎(1883-1956、注1)。
 そしてその伴侶の智恵子(1886-1938)。
 二人についてヤッホー君のこのブログでは、少なくとも以下のように、いっぱい記していました:

 ☆ 2011年7月1日付け日記「長沼智恵子」、
 ☆ 同2日「レモン哀歌」、
 ☆ 同3日「智恵子抄」、
 ☆ 同4日「高村智恵子」、
 ☆ 同5日「智恵子飛ぶ」
と、5日連続で書き綴っていました。さらに:

 ☆ 2013年05月21日「暗愚小伝」
 ☆ 2013年12月02日「レモン哀歌」

 光太郎と智恵子が結婚披露宴を上野の精養軒であげるのは、イマからちょうど1世紀、100年も前のこと、1914(大正3)年12月22日。
 しかし光太郎が、智恵子を籍に入れるのはそれから20年もたった1933(昭和8)年8月23日、本郷区役所に婚姻届をだしたときのことです。
 なぜ、なぜ…

 光太郎は初めて智恵子の年を知った。
 48歳という年齢よりもかなり若く思っていたので意外な気がした。
 一緒にいる時、妹か時には娘にすら思われることがあったくらいである。
 しかし智恵子の年齢については初めから全く無頓着であった。
…「智恵子飛ぶ」『津村節子自選作品集』岩波書店2005年、318頁

 この二人、相思相愛の仲だったのか、疑問に感じておりました、ヤッホー君。
 どっちも「愛」を演じたりしていたら…
 あるいは、智恵子は光太郎のアタマにある「智恵子像」を演じなければならなかった、としたら…

 だって、ヤッホー君のアタマのなかでは、あの映画しかホントの愛はないと思い込んでいるのです;

 1964(昭和39)年公開の『愛と死をみつめて』(監督:齋藤武市(1925-2011)、高野誠:浜田光夫(1943年生まれ)、小島道子:吉永小百合(1945年生まれ)
http://www.youtube.com/watch?v=Y1fjFPr4SYo

 ところで、森下文化センターに話を戻しましょう。
 田河水泡が妻潤子や義兄の小林秀雄らと北アルプス登山を楽しんでいたころって、大仏次郎が「ドレフェス事件」を雑誌『改造』に発表したころでしたよね。
 ヤッホー君のこのブログ、2014年02月09日付け日記、「風が見ていた」をご参照ください:

 大仏次郎がこの「ドレフュス事件」を発表したのは、1930(昭和5)年の『改造』誌上でした。
 『改造』は、多くの自由主義的・社会主義的な評論を掲載していた大正デモクラシーの精神を継承したリベラルな総合雑誌でした。
 さて、1930年の日本では、何が起こっていたのか。

  2月26日 共産党員全国一斉検挙
  4月22日 ロンドン海軍軍縮会議で、米・英・日3ヶ国軍備制限条約締結
  4月25日 統帥権干犯問題発生
  5月20日 共産党シンパ事件で三木清検挙される
  5月30日 中国東北部(満州)の間島で、朝鮮人抗日武装事件
  10月26日 台湾高山族抗日武装事件(霧社事件)
  11月14日 浜口首相狙撃され重症、翌年死亡

 国内では共産党弾圧が本格化し、植民地では抗日武装闘争が頻発します。
 そして、政治と外交は、軍縮会議−統帥権干犯問題−首相テロと連なり、これらの事件以降、政党政治は弱体化し、軍部は政府方針や決定を無視して暴走し始めました。

 1931年3月には軍部によるクーデター未遂事件(三月事件)が発覚、そして関東軍は9月18日、中国東北部(満州)柳条湖の鉄道を爆破し、これを切っ掛けに戦線を拡大しました(満州事変)。
 まさに日本の「軍国的な時代」に、大仏次郎は『ドレフュス事件』を書き、軍国主義を批判したのです。

(里山のフクロウ 大仏次郎の『ドレフュス事件』と軍国主義批判)
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/175341/155294/75668900?page=1

 光太郎は、と申しますと、そんなときでした。
 1931(昭和6)年8月9日、時事新報社の委嘱で、1ヶ月余りも智恵子を一人ぼっち家に残し、家を空け、三陸方面の旅に出ています:

え? どこへ行くの? こうたろう。三陸へ? 北上川から海の沖へ出て、三角波に揺れるの? 海のブランコを感じたい? え? ひと月も、家をあけるの? ひとりで行くの? そう、わかってる、また急に思い立ったのね…違う、一年も前から、あんたは、ひとりになりたがっていたんだがない… え? あたしは、大丈夫よ… 大丈夫なんかじゃないがない… いいえ、一ヶ月でしょ。あっと言う間だわ。え? その間に? 気晴らしに? そうね… 絵を久しぶりに描いてみようかしら。光太郎の言うとおりだわ。薬なんかよりも気が鎮まるかもしれない。描いてみるわ…

…野田秀樹「売り言葉」(『21世紀最初の戯曲集』新潮社、2003年)所収、207頁

 その翌年、1932(昭和7)年7月12日付け手紙でセン宛に「部屋をかたつけみなさんでよいやうにきもの其他をしまつして下さい」と書き送って、智恵子は7月15日、お盆を迎える日の午前零時過ぎ睡眠薬を服んでしまいます。
 自殺未遂をしてしまうのです。

東京市民よ、集まれ! 私の前に集まれ! にやにやして私を見るとはふとどきであ〜る。天皇危うし! 万世一系の国民よ、今ここに集結せよ! 今まさに戦争が始まらんとしている。にやにやするとはふとどきである。ざまあみろ! ざまあみろ! ざまあみろ! 光太郎! 光太郎! 光太郎、光太郎、光太郎、光太郎…

…野田秀樹、同書209頁

 智恵子が人格を失って「東京市民よ、集れ」と演説をはじめるように、この国の住民は、すっかりマインドコントロールされ、神国の臣民として国家滅亡への道を転げ落ちようとしていました。
 この暴走を誰にも止められず…
 そしてイマも、この国は滑りはじめ、暴走しはじめていますが…


(注1)

 東京電力は2月14日、福島第1原発の護岸近くにある観測用井戸の地下水から、法定基準の1033倍に当たる過去最高濃度の放射性セシウムが検出されたと発表した…
 東電は昨年7月、ベータ線を出す放射性物質の一部にすぎない放射性ストロンチウム90の検出濃度が全体濃度を上回る矛盾を把握し、同年10月に測定ミスに気付いて是正したが、ことし2月まで公表しなかった。

(2014年2月15日土曜日付け河北新報「過去最高のセシウム、観測用井戸から検出 福島第1」)
http://www.kahoku.co.jp/news/2014/02/20140215t63006.htm
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2014年02月14日

のらくろ

 2月14日金曜日、旧小正月、聖バレンタインデー。
 仲間からお叱りの声が:

 来てますが、誰もいませんね…

 おはようございます。何かとお忙しい毎日をお過ごしのことと思います。風邪には気をつけて下さい。
 早速です、昨日の午前10時過ぎに「森下文化センター」に寄りました。
 感想としては全体的に整合性がとれ、見やすかった。
 ただし、ぶれたような写真が多く、はっきりくっきり見られなかったことが残念でした。
 それでも楽しく見ることができました。
 会場づくりも含め、本当にありがとうございました。


 すみません、ヤッホー君の能力、知力、金力、体力のすべてにおいて、重い、重い欠乏症にかかっており、来年はぜひ仲間のすばらしい作品をたっくさん、にぎにぎしく出展して華やかにしていきましょうね、今回は再開後のはじめての展覧会、ということでご了承くださいな、とヤッホー君、平謝り。
 でも外人さんのコメントはいただいたし、クラブへの問い合わせ者もあったんですよ。

 ヤッホー君、今日も雪んなか、長靴履いて歩いて会場に出向き、写真を2葉、パネルに貼ってきましたって:

  「王城山で春を知らせるカタクリとの出会い(2013年4月28日撮影)」;
  「陣馬山から午後の富士山(2013年12月15日撮影」。

 そして、「森下文化センター」内「田河水泡(1899-1989)・のらくろ館」のコーナーでしきりにメモっていました:

 1928(昭和3)年
 結婚。新郎の服は借り物なので窮屈そう。
 漫画を描くようになり、深川から東中野(谷戸の文化村)に移り住んだ。
 その時、借りていた家の向かいに、当時無名だった小林英雄(1902-1983、注1)がいた。
 その妹の小林富士子(高見澤潤子)と結婚。
 仲人は家主であり、ともに文筆家の松本泰(1887-1939)、恵子(1891-1976)夫妻。
 水泡29歳、富士子25歳。
 式はお茶とケーキの簡単なもの。

 1931(昭和6)年
 32歳。
 「のらくろ二等卒」『少年倶楽部』新年号より連載開始。
 当初2年間の予定が爆発的な人気を博し、太平洋戦争が始まる直前に連載中止(注3)するまで、延々11年間にわたり連載、単行本化された。
 この頃から1940(昭和15)年まで「蛸の八ちゃん」、「凸凹黒兵衛」など多くの連載漫画を描き、当代随一の人気作家となる。
 「のらくろ」は1932(昭和7)年〜1939(昭和14)年の間に日本初のオールカラー布貼り表紙の箱入り上製本全10巻として大日本雄弁会講談社から発行される。

 1931(昭和6)年ごろ
 北アルプスにて、左から二人目が水泡。その右隣が小林秀雄、その右端が富士子。


 その1931(昭和6)年ごろって、ヤッホー君のこのブログで何度も記してきた高村光太郎はどうしていたんでしょうか?
 長沼智恵子はどうしていたんでしょうか…
 その続きは、また明日。

(注1)
 小林秀雄の長女の明子は、白洲次郎・正子夫妻の次男・兼正の妻。

(注2)
 松本恵子は、函館市に生まれる。父は札幌農学校(現・北海道大学)の1期生で北海道水産界の先覚者・伊藤一隆。恵子はその次女に当たる。
 大正5年、青山女学院英文専門科卒業後、ロンドンヘ遊学し、そこで三田文学に小説を発表していた慶応大学出身の松本泰と出会い結婚する。
 恵子はロンドン滞在中も、日本の雑誌にイギリス体験記を発表するなど、すでに文才を発揮していた。
 1919(大正8)年に帰国後、2人で東京・東中野の谷戸に10数戸の文化住宅を建設し、貸家業を始める。
 この文化村を拠点として夫の泰が「秘密探偵雑誌」を刊行したことで、恵子の才能は一気に開花する。創刊号から中島三郎・中野圭介などの男性名義で小説や犯罪実話の翻訳を寄せる…
 その後の恵子は、探偵小説というよりは、むしろ翻訳家としての仕事に重点を置くようになっていく。
 アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」、メアリー・ロバーツ・ラインハート「ジェニイ・ブライス事件」、エリナー・グリン「イット」等を翻訳している。
 1936(昭和11)年から1937(昭和12)年にかけて、泰との共訳で「ディケンズ物語全集」全10巻を中央公論社から刊行。これは、チャールズ・ディケンズの長編小説を、人命・地名すべて日本名にし、恵子が原書を見ながら口述して、泰が原稿用紙に書いていくという作業分担でおこなわれたようだ…
(函館市公式サイト、はこだて人物誌)
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/matsumoto_kei.htm

(注3)
 1941(昭和16)年。
 水泡42歳。
 内閣情報局より「のらくろ」他の漫画の執筆禁止令を受ける
 理由は、印刷紙の節約。
 以後、戦争のために仕事も収入もない耐乏生活をおくる。。

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2014年02月13日

第8回山の作品展

 寒い日が続いています(注1)、お元気ですか。
 さて第8回山歩クラブ『山の作品展』は今度の日曜日まで。ご家族、お友だち、お誘いあわせの上、江東区森下文化センターにいらしてください(注2)。
 昨日、追加写真をもって会場に行きましたところ、ばったりムカシの仲間と出会いました。
その写真は次の二葉です:

  「沼津アルプスから見た富士(下の写真、2013年1月20日撮影)」;
  「群れ咲き誇る水仙たち(2013年2月10日撮影)」。

富士.jpg

沼津アルプス.jpg

 そして今日も。
 次の2葉をまた追加で飾ろうと持っていったところ、ブログで知ってかけつけてくださったムカシの仲間とたまたまお会いできました。

  「浅間隠山から見る上州の山並み(上の写真、2013年10月13日撮影)」;
  「中村学園図書室から清澄庭園(2013年12月1日撮影)」。

 うれしかったヤッホー君、何年かぶりの「作品展」ですよねって言われ、そうそう、2011.3.11で「自粛」しちゃいましたって。
 そのお仲間、昨年は白馬をお子さまからアイゼンを借りて、雪渓をのぼりつめて歩いてきましたっていうから、すご〜い。もちろん、前泊、後泊ありのお楽しみ登山、お天気もよくって眺望がとっても良くって、これだから山は止められませんよねって。
 山はホント、良いですよねって山談義で盛り上がりました。

 机の上に「どうぞお持ち帰りください」と仲間が置いた雨具、山靴、ベスト、アイゼン、写真機用三脚など,
もうありませんでした。
 文化センターでいつもお世話になっている方から「あれは持って行っていいんですね、あっと言う間に無くなりましたね」って。
 日曜日、撤収作業がありますので、お手すきの方はお手伝いをまたよろしくお願いします。終わってから清洲城へ登城し、清須会議です!
 では、会場で!

(注1)
 発達しながら進む南岸低気圧の影響で、先週末に続き、関東地方も大雪の恐れがあります。
 上の図は明日の午前6時、下の図は午後6時の雪の予想です。
 (図では千葉県や茨城の沿岸部では雨の予想となっている所もありますが、雪が降る可能性もあります。)

 関東地方は明日の朝から弱い雪が降りだし、夜は降り方が強まる見込みです。
 まとまった雪となる可能性もあります。
 東京23区など平地でも雪が積もって、大雪となる恐れがあります。

 明日の午後6時までの24時間に降る雪の量(積もる量ではありません)は多い所で箱根から多摩地方や秩父地方にかけて20センチ、関東地方北部の山沿いや関東地方北部、南部の平野部で10センチの見込みです。
 そのあとも雪は降り続き、雪の量はさらに多くなるでしょう。

 また、明日の午後は沿岸部を中心に風が強まり、遅い時間になればなるほど強まる見込みです。
 傘がさしづらかったり、歩きづらいくらいの風となるでしょう。
 横なぐりの雪や雨になることもありそうです。

 明日の外出は夜に雪の積もることを想定して、歩きやすい靴で。
 遅い時間になればなるほど雪が降り積もり、風も強まる恐れがあります。
 交通機関に影響のでる可能性もありますので、帰宅はできるだけ早めにしましょう。
(2014年2月13日 16時41分「雪のピークは明日の帰宅時間帯 早めの帰宅を」)
http://www.tenki.jp/forecaster/diary/t_yoshida/2014/02/13/7721.html

(注2) ヤッホーとすぐにこだまがかえってきました:
 おつかれさまでした。
 ご連絡をありがとうございました。
 時間をとって行きたい、と思っていました。


 こんにちは。
 いつもお世話になっております。
 『山の作品展』には土曜日の午前にお友達と伺う予定にしております。
 楽しみにしております。

 明日はまた、雪とか。
 あまり降らないと良いのですが…

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2014年02月12日

2014年版『山の作品展』

 昨日2月11日は「建国記念の日」。
 雪がちらつくなか、「江東区森下文化センター」まで山歩クラブ第8回『山の作品展』の搬入、展示びょう止め等の準備にご足労いただき、まことにありがとうございました。
 2月16日日曜日までの開催となっております。
 ご家族、お友達、お知り合いにもお伝えください。
 そしてゆっくりと見にいらしてください。
 なお、日曜日4時に撤去作業があります。
 またお手伝いをよろしくお願いします。

山の作品展.jpg

 この『山の作品展』は、仲間の皆さん、ひとりひとりが自分で考え、自分でつくった手づくりのものばかり。
 お金はほとんどかかっていませんが、皆んなで自然のなか、はるかな山並みを見晴るかしながら、歩いていて良かったね、の思い出がいっぱいつまったものばかり。
 鳥のさえずり、川のせせらぎ、風のそよぎが、ほら、耳をすませていると聞こえてきますよ。

 この『山の作品展』に出品するにあたって、お勤めが終わってからも作品の完成に取り組んでくれた仲間を、時系列的にご紹介しましょう:

 2月4日(火)
 山の作品展の件でメールしようと思っていたら、メールが届き、以心伝心のようなことになりましたよ!
 先日話していた件とは別に、ちょっと個人的な趣味がすぎるような気がしますけど、「映画と山」にちなんだ作品の見通しがついたので、今日から制作に取り掛かりました。
 新聞紙大のパネル2、3枚になりそうですが、大丈夫でしょうか?
 出来上がりは、搬入日の11日に持参します。
 本当に趣味的ですが、笑わないで期待して待っていて下さい?!


 2月7日(金)
 『山の作品展』に出展するため、遅くまで頑張っています。
 8割がたできました。
 あとは細かいところを書き込む作業に入ります。


 2月11日(火)
 今日は、山の作品展に何とか出展出来たので、ホッとしています。
 結構、多くの仲間が展示の準備にかけつけてくれていました。
 これもひとえに会長さんの日頃の気配りの賜物だと思いました。
 話しは、変わりますが、『山の作品展』開催初日の今日、さっそくわざわざ足を運んでくれた友人がいました。
 山歩クラブに興味をもち、案内パンフレットを見てみたいと連絡をもらいましたので、取り敢えずお手数を掛けますが、送って頂けないでしょうか?


 ヤッホー君も時間が許す限り、森下文化センターにつめようかと思っているって。

 「森下文化センター」(江東区森下3-12-17 Tel 5600-8666)へのアクセスは:

 ◆ 電車利用の場合:
 ○ 都営新宿線・大江戸線「森下駅」下車 A6出口より徒歩8分
 ○ 半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」下車 徒歩8分
 ◆バス利用の場合:
 ○ 門33系統 豊海水産埠頭〜亀戸駅「高橋」下車 徒歩3分
 ○ 業10系統 新橋〜とうきょうスカイツリー駅「森下5丁目」下車 徒歩3分
http://www.kcf.or.jp/morishita/index.html

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2014年02月11日

2014年版『美女と野獣』

EVENEMENT – Quand Christophe Gans ("Le Pacte des Loups") revisite un conte de légende, ça donne "La Belle et la Bête", avec le couple Léa Seydoux-Vincent Cassel, en salles le 12 février prochain.

Créé : 16-01-2014 12:40
VIDEO – "La Belle et la Bête" : une première bande-annonce majestueuse

http://www.metronews.fr/culture/video-la-belle-et-la-bete-une-premiere-bande-annonce-majestueuse/mmld!OKUEemv5arcQI/

 そうなんですぅ、明日から2月12日からパリでは、2014年版『美女と野獣』が上映されるのです!
 上のサイトに映像が貼り付けられています。
 ぜひ予告編だけでも、ちょっとだけ見ていただけたらうれしいなってヤッホー君!

 新しいヨーロッパ・バージョンの「美女と野獣」製作のニュースが入ってきた。
 美女には映画『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』のレア・セドゥー、野獣には映画『ブラック・スワン』のヴァンサン・カッセルという配役である。
 
 監督には映画『サイレントヒル』のクリストフ・ガンズがあたる。
 ガンズはこのリメイクについて「もちろん時代を経ても色あせないおとぎ話のストーリーに手を加えるつもりはないが、これまでにない全く新しいビジュアルの世界を作り出して、観客を驚かせたいと思っている」と語っている。
 映画史上最も評価されている『美女と野獣』は1946年のジャン・コクトー監督・脚本のバージョンと言われているが、同じフランス映画として見比べるのも一興かもしれない。
 ヴァンサン・カッセルとクリストフ・ガンズの顔合わせは、2001年の映画『ジェヴォーダンの獣』以来となる。


(2012年2月18日シネマトゥデイ映画ニュース(後藤ゆかり「『美女と野獣』のフランス版製作へ」)

http://www.cinematoday.jp/page/N0039341

 「美女」役のレア・セドゥ(Léa Seydoux)は、1985年生まれの28歳!

 2012年製作の『マリーアントワネットに別れを告げて』をご覧になった方はおられるのかなってヤッホー君が聞いていました。

http://myqueen.gaga.ne.jp/

 そんなレアが『マリー〜』で演じたのは、王妃マリーに恋い焦がれる朗読係の少女シドニー。
 一方の王妃は自由奔放なポリニャック夫人に夢中で、シドニーに夫人の身代わりになることを迫る。
 レアは「この三人はそれぞれがかなわない恋心を抱いているの。相手が自分を思うよりも強く相手を思って苦しくなるようなことってよくあるでしょ?」と作品を解説。
 実生活では思われる方が多いのではと聞くと「そういう場合もあるわね」といたずらっぽくほほ笑む。

 今後の女優としてのキャリアについて「未来のことはあんまり考えないようにしているの。起きた出来事を受け入れていこうと思っているから!」と語るなど全く気負ったところを見せないレア。

 完成した作品を観て「役柄を演じているというより、わたしのドキュメンタリーを観ているみたいだった(笑)」と明かしたレアの自然体の魅力が詰まった本作をぜひ劇場で堪能してほしい。
  
 映画『マリー・アントワネットに別れをつげて』は2012年12月15日よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamura ル・シネマほかにて全国順次公開。


(2012年12月12日シネマトゥデイ映画ニュース(市川遥「『MI4』美人暗殺者の素顔は超自然体のパリジェンヌ!最新作やトム・クルーズについて語る!」)

http://www.cinematoday.jp/page/N0048534


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2014年02月10日

美女と野獣

 「拡散していく物語」?
 といいますか、ヤッホー君の印象ですと、拡散でなくって、物語の零地点に絶えず手繰り寄せられ、引き戻されていく引力、そしてその零地点から大きく弾き飛ばされていく反発力を感じ取ってしまう岸恵子『風が見ていた』(新潮社、2013年)

 物語はいま、速水辰吉の孫娘、刈田衣子(きぬこ)が主人公です。

 衣子の登場は、辰吉が還暦を迎えてまもなく死ぬ年、あの真珠湾攻撃のあとに登場してきます。

 仰ぎみた顔に大人にははかり知れない夢が宿っている。
 少女というには幼すぎる刈田家のひとり娘、やっと三歳になったばかりの衣子は父親を見上げて無言の訴えをする。
(61頁)

 1941年か1942年ごろ。

 羽田を発ってからどのくらい経つのだろう。
 雲の群れを通して散る光が、飛行機のずっと下の空で賑わい、はるかの彼方に海なのか雲なのかはっきりと分らないバラ色の細い層がゆっくりと形を変えながら横たわっている。
 −あれがあたしの明日の色−
 19歳の乙女は胸をはずませ、切なさを押しのけるように大きく息を吸って、刻々に変る空の景色をとり込んだ。
(255頁)

 ですので1956年か1957年、いや、祖父の辰吉と同じように「海の向こう」に旅立つのが「1957年春」(252頁)とありますので、衣子が19歳、つまり生まれた年は、1938年。

 雪の日比谷公会堂で作家の岸恵子は、お友達の女学生と銀座で映画『美女と野獣 la Belle et la Bête』(注)を観たことをお話になられましたが、この作品でも主人公の ”le point de non retour”(225頁)として出てきます。
http://www.youtube.com/watch?v=ee2NukKPqxE

 そういえば、同じくお話になった木から落ちた話は、『風が見ていた』では衣子の母、桃子のエピソードとして出てきておりました:

 ある日、もう食べごろに実の熟した庭の柿の木によじ登った桃子を、2年あとに生まれた弟の烈(れつ)が追いかけて来て、ただでさえ重い枝が二人を乗せてぽきりと折れた。
 桃子は高いところから、大きな金魚―ほんとうは鯉だったのだが―の泳いでいる池に墜落し、その上に弟が折り重なるように落ちてきた。
 激痛が走る膝を抱えている桃子と、その姉をかばうように怯えている烈の肩を辰吉は左右の腕で抱きすくい、座敷に正座をさせて雷が落ちるような声で説教をした。
(27頁)

 そうかぁ〜とヤッホー君、自分が19歳のとき何を考え、何をしていたんだろうか…、ヤッホー君が羽田から飛行機に乗ってアエロフロート(ソ連国営航空)でフランスに向かったのはいつだったのだろう、と考え込んでいます。
 外はまだ凍り付いた雪、まだ消えそうにありません。


(注)

 『美女と野獣』のテロップには印象的な趣向が凝らされている。
 映画の冒頭でチョークを手にしたコクトーが登場し、黒板にクレマンをはじめとするスタッフの名前をひとりずつ書いては消してゆく。
 手作りの味わいが微笑ましいこのオープニング・テロップからは、スタッフの面々に寄せるコクトーの友情と感謝の念がひしひしと伝わってくる。
 そしてそれは「撮影日記」の端々からも読み取れ、「占領下日記」とは異なるこの日記特有の清々しい雰囲気を醸し出している。
 最後に、撮影チームに捧げられたオマージュともとれる日記の一節を引用して本論(松田和之「ルネ・クレマンとジャン・コクトー〜映画『美女と野獣』小考から)を締めくくりたい。

 [......]私の撮影チームには心から感謝と称賛の意を捧げなければならない。
 真剣で、よく働き、融通が利く、友好的な人たちばかり。
 駆け出しの映写技師までもが親身になってくれる。
 外部からの気まぐれとも思える指示に従ってコードや撮影機や可動装置の数々をあちこち移動させる作業には、耐え難いものがあるはずだ。
 だが、不満顔を見せる者はひとりもいない。
 私が出会うのは微笑みだけだった(BB:1945/9/28/p.91)

**BB=Jean Cocteau, La Belle et la Bête, Journal d’un film, J.B.Janin, 1946.

http://www.flib.u-fukui.ac.jp/kiyo/2006/kiyo-1-2.files/matsuda.pdf

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2014年02月09日

風が見ていた

 今頃は、予約しておいた寿司屋さんでお寿司をつまんでいたのに、とかぶつぶつ言いながらもヤッホー君、清澄公園を抜けて江東区深川図書館へ。
 「もっと雪!これじゃ、かまくらはつくれないでしょ!」
 小さいお嬢さんに命じられながら、お父さんが一所懸命、雪を集めてかたまりを作っています。
 もう公園の広場にはあちらこちら、大きいのから小さいのまで、10体は雪だるまができています。
 そのうえ、かまくらまでつくろうとしています。
 子どもたちは大はしゃぎ。
 雪玉合戦をしている子たちも。親御さんも大っきな笑顔。

清澄公園.jpg

 図書館では、岸恵子『風がみていた』(新潮社、2003年)を読んでいました。
 そしてヤッホー君はすっかり、速水辰吉(はやみ・たつきち)のファンになってしまったのです。
 しかし、この名前が明らかになるのは上巻270頁の16頁でしかないんですよ。
 ヤッホー君が読んだのは、第一章「水辺の女」、第二章「綿菓子」だけ(上巻270頁のうち83頁まで)!
 だってぇ〜、内容がいっぱい詰まっていたんです。上下巻というより5巻もの、10巻もののような物語の「うねり」がいろんなことを運んでくるのです。

 まず、辰吉の生まれた年は?
 「ドレフェス事件」に言及しているんです:

 『ドレフェス事件』として世界に名をとどろかしてしまったこの不祥事は、12年という膨大な時間を経て、今から8年前、ドレフェス無罪が公認され、御本人は立派に軍籍に復帰されました。(36頁)

 これはウイキペディアによると冤罪と認め無罪が確定されるのが1906年、ですのでこの場面は1914年であることが分かります。
 辰吉の家にドレフェスが叔父という日本語が達者なラウルが、フィリップ・ラヴィリエに連れられて遊びにきていたのです。

 この冤罪事件である「ドレフェス事件」は辰吉の娘婿、刈田亮は大仏次郎のノンフィクションを雑誌連載で読んでいます(68頁)が、大仏次郎がこの『ドレフュス事件』を発表したのは、1930(昭和5)年の「改造」誌上でした。

 このフィリップの世話で辰吉は妻の滝に5人の子どもを残して「海の向こう」、フランスに旅立ちます。

 故郷をでてから15年、過ぎ越した月日を胸にたたんで、辰吉は、視線を桟橋から、はるかの水平線に移した。(42頁)

 何歳の時なのかな?
 辰吉が死ぬときは?

 明治10年代なかばに生れ、還暦を迎えたその日、日本が真珠湾を攻撃するラジオのニュースを聴いた。(16頁)

 これは1941年12月8日のこと?
 辰吉がなくなるのは、秋のはじめだから、翌年の1942年ですね。

 嵐が凪いだように、辰吉の躰が、はたと静かになった。
 つい今しがたまで、歯を軋ませて苦痛に耐え、それでも洩れていた壮絶な呻き声が嘘のように焉(つい)えて、日焼けした顔に、あの、人を惹き込むような笑みだけが残った。
 その笑みの上に、深夜であるのになぜか白光が走り、虹のような淡い彩りのあかりがさした。
 外は激しい嵐である。
 雷光が走り、白い菊の大輪が夜空にこうべをかざしたまま、真二つに裂けた。
(83頁)

 そうすると、亡くなる年が1942年で、生まれた年は1881年かな。

 辰吉が滝と結婚するのは、「ロシアに宣戦布告する前年」(17頁)だから、1903年。
 こんなふうに、もちろん関東大震災のエピソードも交え、物語が大河小説の様相を示します。
 物語を操る作者、岸恵子には、お話しもそうでしたが常に『拡散』していくベクトルが働いています。
 ちまちまとした小世界、あるいは額縁のなかにきれいに収まる小作品よりも、渦巻いてどこかに飛んでいきそうな不安定感、ドキドキ感があって、好きだな、とヤッホー君。 

 物語が拡散していると編集者に指摘されて100ページほど削った。
 「つらかったけれど、読者を退屈させてはいけませんから。エッセーの場合は、退屈だと思うなら思え、と開き直れるんですが」

(2013年04月07日ブックアサヒコム「わりなき恋 岸恵子さん」)
http://book.asahi.com/reviews/column/2013041000006.html

 あ、そう、そう、山歩クラブの雪見山行ってずっと以前にありましたね、高ボッチ山!

HP2.jpg

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月例お山歩会中止

 2月9日日曜日、起床7時。本来ならば山歩クラブの月例お山歩会で房総へ向かう日。
 「本来ならば」の意は、昨夜8時ころ、バス会社より連絡ありまして、大雪で道路事情が少しも好転せず悪化の一途をたどっているので中止にしたほうがいいと思います、と。
 毎月、少なくとも一回、バスで登山口へ、を2002年のクラブ発足以来のモットーとして活動してきた山歩クラブ、われわれの辞書には「中止」という単語は載っていなかったはず。

 事実、2011年3月11日だけを例外としていたのです。
 雨の日は雨合羽をつけて歩く、雪の日は雪見山行、あるいは雨バージョン(version)。
 雨雪風が降りやまぬようであれば、目的地を変える…諏訪湖一周とか、西の湖湖畔を千手が浜へ、とか、山懐の郷歩きして美術館・博物館・郷土館をめぐって、郷土料理をいただいて温泉三昧(これをヤッホー君のぞんでいるのですが、まだ実現したことはありませんね…
 なぜならば、山域、自然をまるごと楽しむ全天候型の山歩クラブだから、と。
 しかし、神通力が失せたかヤッホー君、泣く子と地蔵以外にも、大雪と地震にゃ勝てなくなりましたね。

 急きょ、あっちこっち電話して、「中止」の連絡をしたのでございます。

 「中止」になって良かったです。
 一向に止む気配のない雪、どんどん積もって…これでも行くの? って「中止」を検討した方がよいのではと メールしようと思いました。
 でも会長にも考えがあろうし…躊躇していました。
 結果「中止」にはなりましたが、私の意見としては バス会社からの連絡に拘わらず「中止」を検討すべきではなかったかと。
 参加予定の方もきっと気を揉んでいたと思います。
 積雪の具合から「中止」の知らせを、ほっとして受け取った方も多かったのでは、と思います。
 大雪予報から判断すれば、こんな間際にでなく昨日のうちに決断出来たのでは、とも思います。
 でもバスのキャンセル、ランチ予約のキャンセル…等いろいろありますから、難しいとは思います。
 今回での教訓、いえ課題として「中止」の件、皆さんで話し合うのも良いかと思います。

(2014年2月8日 土曜日 午後10:56受信)

 ヤッホー君、会長に伝えっか、とかぶつぶつ。

 …京葉道路が京葉口から蘇我インターチェンジの間の全線、
 館山自動車道が千葉県の市原インターチェンジから、富津館山道路の富浦インターチェンジまでの全線、
 千葉東金道路が東金ジャンクションと千葉東ジャンクションの間の全線、
 東京湾アクアラインの川崎浮島ジャンクションとアクアライン連絡道の木更津ジャンクションの間の全線、

(2月9日5時52分NHK、首都圏の高速 通行止め続く)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140209/k10015130521000.html

 今回当初29名の参加予定があったのですが、東京都知事選挙、ご家族やご本人の風邪でキャンセルが続出、最終的には18名にまで減っておりました。
 それに追い打ちをかけたのが、昨日の大雪!

 2001年1月以来の大雪警報が出された東京都心は午後10時に積雪が26センチに達し、1994年2月以来20年ぶりに200センチを超えた…
 都心の積雪26センチは、1951年2月の33センチ、1954年1月と1969年3月の30センチに次ぐ戦後3番目の記録。

(2014年02月09日付け毎日新聞朝刊「大雪:首都圏で記録的 都心26センチ、戦後3番目」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140209ddm001040165000c.html

 風邪も…

 都内のインフルエンザが流行警報基準を超えました。
 都内419インフルエンザ定点医療機関(小児科定点264医療機関、内科定点155医療機関)からの2014年第4週(1月20日〜1月26日)患者報告数が、1定点医療機関あたり29.68人となり、定点あたりの患者報告数が30.0人/週を超えた保健所は、都内31か所中11か所で、管内人口の合計は、東京都全体の43.6%となったことから東京都は注意喚起のため「流行警報」を報道発表しました。
 第5週(1月27日〜2月2日)患者報告数は、1定点医療機関あたり41.18人と増加しております。

 江東区(小児科定点9医療機関、内科定点5医療機関)の患者報告数も、第3週に「流行注意報基準」を超え、第5週には38.07人となり、江東区内も「流行警報基準」を超えております。

 流行しているウイルスは、AH1pdm09**の検出割合が最も多く、次いでB型、AH3亜型(A香港型)の順となっています。

**AH1pdm09:2009(平成21)年に「新型インフルエンザ」と呼ばれて流行したウイルス。2011(平成23)年4月1日から「季節性インフルエンザ」(注)として位置づけられています。
 
 年齢別では9歳以下の子ども及び60歳以上の方の割合が高くなっています。

(2014年02月07日 10時43分更新、江東区公式、サイトインフルエンザの区内発生動向について)
http://www.city.koto.lg.jp/seikatsu/hoken/44533/56002.html

 東京都知事選挙、はたして結果はいかに。
 2月7日金曜日、英国紙は次のように報じてはいますが、有権者や立候補者まで海を越えて伝わることがはたしてありますか…

The founders, who remain anonymous, say in their profile: "We have stood up to prevent Mr Masuzoe, who makes such insulting remarks against women [from being elected] … We won't have sex with men who will vote for Mr Masuzoe."

The 65-year-old former political scientist became a celebrity through TV chatshows before getting involved in politics in 2001. In 1989, he told a men's magazine that it would not be proper to have women at the highest level of government because their menstrual cycle makes them irrational.

"Women are not normal when they are having a period … You can't possibly let them make critical decisions about the country [during their period] such as whether or n
ot to go to war," he said.

Masuzoe has the backing of the conservative ruling party of the prime minister, Shinzo Abe, and is seen as likely to beat his nearest rival, Moriyoshi Hosokawa, a former prime minister who is standing on an anti-nuclear platform, in the elections to become Tokyo governor.


Tokyo women call for 'sex strike' over sexist gubernatorial candidate

Front-runner Yoichi Masuzoe's statements include 1989 claim that menstruation makes women unfit for government
(Agence France-Presse in Tokyo, theguardian.com, Friday 7 February 2014 13.29 GMT)
http://www.theguardian.com/world/2014/feb/07/tokyo-women-sex-strike-yoichi-masuzoe


(注) 
Q 「パンデミックインフルエンザ」と通常の「季節性インフルエンザ」の流行ではどのように違いますか?

A 通常の季節性インフルエンザは、その名の通り北半球では、毎年冬季に流行しますが、パンデミックインフルエンザは、数十年(30〜40年)に一度くらい(20世紀には3回起こっています)の頻度で、季節は冬とは限りません。
 毎年ヒトの間で流行しているA/H1N1ウイルス、A/H3N2ウイルス、B型ウイルスは、ヒトに完全に適応して、共存に近い関係を保っており、基礎疾患の存在や高齢であることなどの要因無しには、感染した人(宿主)の多くを死に至らしめるほどの高い病原性は通常ありません…。
 季節性インフルエンザウイルスに対しては、産まれてから一度もインフルエンザにかかったことの無い子どもを除いて、ほとんどの人がこれまでに曝露を受けており、基礎免疫をもっています。
 故に、シーズンにより増減はあるものの、毎年おおむね人口の10〜20%程度の罹患者の発生があり、また、感染し症状が出たとしても、発熱は数日続くものの、多くの場合には何事も無く回復します。
 しかし、新型インフルエンザウイルスが出現し、流行した場合、そのウイルスには世界中の誰もがこれまで遭遇したことがなく、したがって基礎免疫を持っている人はいません。
 そのために、世界中で莫大な数の罹患者の発生と、それに伴って重症者や死亡者の増加もみられることが予想されます
(1997年4月国立予防衛生研究所は「国立感染症研究所」と名称変更になりそれに伴って発足した「感染症情報センター」より)
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA03.html

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2014年02月08日

岸恵子

 2月8日土曜日、まず午前中、ヤッホー君は長靴を履いて傘さして、江東区森下文化センターで「不在者投票」メッ、適当に言わないこと!「期日前投票」です、これをすませました。

 ◆ 投票日に投票所へ行けない方は…
 投票日当日に投票所へ行けない見込みの方は、期日前投票や不在者投票をご利用になれます。
(1) 期日前投票
 場所・期間は、下表をご覧ください。
(2) 不在者投票
 あらかじめ投票用紙等を請求することで、旅行先や出張先、転出先などの区市町村の選挙管理委員会で不在者投票ができます。
 郵便でのやりとりになりますので、手続きはお早めにお願いします。
 ※ 投票用紙等の請求書は、下記の「関連ドキュメント」をご利用ください。
 ※ 詳細は、下記の「関連ページ」をご覧ください。

(江東区公式サイト、わたしたちにできることがある、東京都知事選挙のお知らせ)
http://www.city.koto.lg.jp/topics/2124/45369.html

 外は白い雪…
 東京の雪っていうと、古くは忠臣蔵:
http://www.youtube.com/watch?v=rDMir_vrjoA
 そして2.26事件:
http://www.youtube.com/watch?v=MahzyRPqQmw

 家に戻ってヤッホー君、今度はワラビーの靴に履き替え、俵星玄蕃に身をやつし、雪を蹴立てて向かった先は日比谷公会堂!
 サクサックサクサク… 
http://www.youtube.com/watch?v=SyXg8qwoG7w

 実は「第26回 文化フォーラム(人生後半の生き方を考える)」があったのです。
 
 講演1.鷲田清一氏(哲学者・大谷大学教授)演題「死なれるということ」
 講演2.岸惠子氏(女優・作家)演題「私の人生ア・ラ・カルト」

 岸恵子は、1932年生まれの82歳!
 ヤッホー君のこの日記、2011年7月14日付け日記「パリ祭」、2013年12月22日付け日記「あぁ、勘違い」などご参照ください:

 私は私の道を歩く
 もーのっすごっく、すっきりした!
 輝いている岸恵子さんだから納得する。
 でも岸恵子さんだからできた、そういうことじゃない。
 皆、その気になれば誰でも輝き続けられるってこと。
 どの年代の人も、そうよ。
 もうトシだから、って言った時点で人生終わっちゃうよ。
 この先何もチャレンジしないで、
 クサっている人生で終わっちゃっていいんですか。
 今この瞬間から、できること、いっぱいありますよ!
 あたし40代後半だけど、
 20代のコだってやらないこと、ガッシガッシやってるよ(笑)
 ぜーったい、年齢じゃないから。

(2013年04月30日(火)【愛され強運】の育て方☆晴れの国 ハレアカラ照美◎恋に倫も不倫もない…岸恵子さん)
http://ameblo.jp/alohas777/entry-11521151666.html

 私は浜っ子、生まれたのは横浜市山手町、だけど外人さんが住まう洋館が立ち並ぶ街の先の平楽というところでした。
 今は白楽に住んでいます。
 どっちも楽がついているけど、人生は艱難辛苦の連続。
 私は明るくおめでたいほうですが、苦労をどう感じとるか、ということでしょう。

 もう、82歳という年令を感じさせないおしゃべりがこうして、これから続いていくのです。
 最後は新刊『わりなき恋』(幻冬舎、2013年)の宣伝も熱烈に!

 69歳のドキュメンタリー作家・笙子(しょうこ)と、58歳の大企業の役員・兼太がパリ行きの航空機で出会う。
 世界を舞台にしゃれた会話が飛び交う一方で、二人が初めて共に過ごした夜のリアルな描写や、東日本大震災を契機に家族のあり方を問うシーンも。
 枯れた老いらくの恋ではなく、みずみずしく激しい大人の恋を描いた80歳の著者に脱帽。

(2013年05月15日付け毎日新聞、東京朝刊)
http://mainichi.jp/shimen/news/20130515ddm015070034000c.html

 世界を舞台に…、たしかにお話しは、
 プラハの春からパリ5月革命、そしてアラブの春まで、
 前作の小説『風が見ていた』(新潮社 2003年、のち新潮文庫)からユダヤ人のおばあさんでパリに住むスージー・モルゲンステルヌ、セルジュ・ブロックの書いた童話の翻訳『パリのおばあさんの物語』(千倉書房、2008年)まで、
 少女時代の映画監督・吉村公三郎(1911-2000)との出会いから、在仏日本大使館での川端康成(1899-1972)との出会いまで、
 生(ナマ)でお話を拝聴することができました!

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2014年02月07日

ワセダする

 U教授は、冤罪で早稲田の学者村を追い出されてしまったか、自主的に離職する羽目に陥りました。
 都の西北…「ワセダ村」…

 そんなこの授業では、「ワセダする」という造語が使われる。
 これは、ワセダというフィールドで、20歳前後に物事に貪欲にチャレンジするということを表す。
 自分の知性、教養を磨いていくと、見えないものが見えてくる。
 最大限のことをすればするほど、見えなかったものが見えてくるようになる。
 そのような主体的に行動する人に、最も向く大学が、自学自修の大学、ワセダであると。
 だから、ジャーナリズムや文芸に向くのだと。

 もし自分が1年生でこの授業を受けていたら、ちゃんと出席しなかったかもしれない。
 当時、出席が必須の語学以外は、ほとんど授業には出席していなかったからだ。
 その分、さまざまなアルバイトに行き、そのお金で旅や演劇、お笑いのライブなどに足繁く通ったものだった。
 あの頃のぼくには、先生の言っていることも、すーっと通り抜けていくだけだっただろう。
 しかし、そういった経験があったからこそ、今のぼくがいるのだ。
 
 気が付いたら、大学も5年目。
 就職もまだ決まらない。
 先生は、こうも言っていた。
 「近道は全然ダメ、近道は全然ダメです。近道することは、人生の修羅場も苦悩も何も経験していないということですから」
 その言葉が、ぼくの心の琴線に触れた気がした。

(2003'10'05 「ワセダの授業のこと」)
http://www.geocities.jp/dole2563/topics/kinari-031005.html

 この「ワセダ村」は、東京帝国大学を追われたある学者を迎え入れています。
 それが久米邦武(1839-1931)。

 その久米邦武について著わした方が、「ワセダの授業」を受け持って、学生にひとつのものの見方を教えてくれた佐藤能丸(1943年生まれ)先生、名前が能丸なのにアブノーマル先生と異名をとった方だったのです。
 先生には、『異彩の学者山脈〜大学文化史学詩論〜』(芙蓉書房出版、1997年)があります。
 その著書のなかで、久米邦武をこんなふうに紹介しております:

 「神道は祭天の古俗」事件により帝国大学文科大学国史学科教授を1892(明治25)年3月4日に非職となり、次いで同月30日に依願免官となった久米邦武は、この時、満53歳であった
 日本史学研究の殿堂として自ら重野安繹らと共に、その基礎作りに尽力しつつあった国史学科が創設されて未だ3年にも満たない頃である。
 ここに、久米は、1879年嘱任の太政官修史館以来、内閣臨時修史局を経て、帝大教授に至った13年間の役人的学究生活に終止符を打つことになった。
 帝大に於いて、本格的な日本史学の研究が機構的にも緒につき、自己の研究の深化と共に後進学究の育成に意を注ぐことのできる体制が整った段階であったにもかかわらず、久米は直系の門下生を一人も育成することなく、帝大を去ることを余儀なくせしめられたのである。

…同署99頁、久米邦武〜「古文書学」の創始者〜「はじめに」)

 人生いろいろ、ですね。
http://www.youtube.com/watch?v=l92V-yWZ6rs
http://www.youtube.com/watch?v=8WJ1O9w5WDY

 久米邦武が、東京専門学校(1902年9月早稲田大学と改称)に赴任したのは60歳を迎えた1899年3月のことだったそうです。
 久米邦武についてはヤッホー君のこのブログで、これまでさまざまに取り上げて紹介してきました。
 ざぁっと、おさらいしてみたいと思いますが、読者ももう一度、ヤッホー君「日記」のページをめくっていただければ幸いです:

☆ 202年6月7日 西武国分寺線「鷹の台」
☆ 2012年6月8日 久米邦武
☆ 2012年6月9日 地球ノ上ニ、種々ノ国」
☆ 2012年6月16日 Walking in the rain
☆ 2012年6月17日 Walking in the rain(suite)、
  情報統制下の日本、
  新国会丼
☆ 2012年6月18日 久米邦武と能楽展

 ところでヤッホー君、なんでまた同んなじ主題を蒸し返してきているか、と言いますと、実は昨日の2月6日木曜日夜、次のお勉強会(ナビゲーター森田健太郎)に出席していたからなんです:

 『米欧回覧実記』を著した久米邦武と『大日本地名辞書』を著した吉田東伍は、父と子ほどの歳の差がありながらも、互いに歴史研究に切磋琢磨し、日本の伝統芸能である能楽の再興にも尽力しました。
 このセミナーでは、「和魂洋才」的教養を代表する二人の書物と交流についてお話しします。

(日比谷カレッジ「古書で紐解く近現代史セミナー第6回 久米邦武と吉田東伍 ―明治の歴史家が編んだ近代日本の教養―」)
http://hibiyal.jp/data/card.html?s=1&cno=2016

 いやぁ、お勉強っていいもんですね。
 「見えないものが見えてくる」ってホントですね。

 ところで「久米事件」ってな〜に、「吉田東伍」ってだ〜れ?
 学問の自由、言論の自由、信教の自由、出版の自由とも関連する事柄ですので、ちょっと長いのですが、次の解説にも耳を傾むけ、明治20年代を振り返ってみたいものです:

 新政府の強権による神社統制と保護は、廃仏毀釈の風潮を呼び、また神道信仰団体を活性化したことはいうまでもなく、そこに醸成されてきた国家神道の思想的高揚のなかで、記紀神代巻について、学問的にせよ論ずるということには、かなりの注意と勇気を要したであるう。
 それは明治20年代に大日本帝国憲法(明22年)、教育勅語(明23年)で国体の大枠が定まっていく過程でますます顕著なものになっていった。
 それは先にあげた福沢、加藤が祭政一致の弊を批判した時期の比ではないといってよく、その象徴的ひとつの事例が、明治25年に起きている。
 東京帝国大学国史科に臨時編年史編纂掛が明治21年設置され、科学的実証主義の歴史観をかかげて旧来の通念を覆すような国史の修正をすすめていた。
 明治24年、その修史局の教授久米邦武は『神道は祭天の古俗』と題した論文を『史学会雑誌』に発表した。
 久米の論によれば、敬神は日本固有の風俗であったが、神道は宗教的要素を保持しておらず、したがってその誘善利生の旨を仏教儒学にもとめて習合してきた。
 さらに朝廷の大典である新嘗祭と古代中国、朝鮮で行われていたところの祓除、祭天とを比較し、前者をその遺俗であるとした。
 三種の神器を奉ずることも、『魏志』の記述にみられる「馬韓で天君にく金鼓>を懸けて祭る」習俗に似ていると両者の関連性を指摘していた。
 今日的にみれば明治期の民俗学の端緒ともみられる比較研究と考えられるが、「古事記及び神代巻には陰陽説及び周期(周の時代)の風俗に附会したる痕跡をまゝ発見す」とか、「神道の日本を育成したるは慈母の恩あり。されども成人の後まで、永く母の左右にのみ居るべからず」といった刺激的言辞は、当然神道団体をはじめとする激しい批判と糾弾の世論を喚起した。
 久米の主張をよく読んでみると、彼の主意は「神道の大本に就いて、其国体と共に永遠に保持すべき綱領と、国民に浸潤したる美風とを論述する」ことで、旧弊な夾雑物を除去し、いわば新陳代謝をしてこそ国体も皇室も栄えるのだ、というものであったが、主旨や意図は無視されるのがつねである。
 明治政府にとっては、天皇中心の徳教を強化していこうとする時期に、その象徴たる記紀に疑義をはさむことからしてすでに看過しえぬものであった
 しかもそれが官学の修史局から出たのでは尚更であったろう。
 結果として、この論文を『史学会雑誌』から転載した『史海』第8号(明25年)は発売禁止、久米邦武は教授の職を追われ、修史局も廃止させられ、ひいては時の大学総長も更送されるにいたった。

 この言論弾圧事件と対照的なもうひとりの事例が、吉田東伍の『日韓古史断』(明26年)の場合である。
 吉田も前述の弾圧事件に憤激して反論の論陣を張ったひとりであったが、彼が研究していた朝鮮古代史は、日韓両民族の近似性を明らかにするものであって、その意味で久米邦武の方法と同一といえた。
 ところが、本書は翌27年に始まる日清戦争をはじめとする列強に伍しての大陸進出の気運のなかで、世論の支持をうけて読まれ、発禁どころか同44年には再版されるほどであった。
 この再版の時期も含めて、記紀を中心とする古代史、神話研究の受ける扱いが時流とともにおおきく変わっていくといっていいだろう。
 そのいきつく先は、「皇国神話」、「紀元二千六百年」といった政治的スローガンであったことはさらに言及する必要はないと思われる。

(天沼春樹「神話概念の変遷U〜翻訳語としての「神話」をめぐって(上)」、『城西人文研究』第13号、開学20周年記念論文集、城西大学経済学会、1986年)
http://ci.nii.ac.jp/els/cinii_20140207210204.pdf?id=ART0000550722&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1391774524&cp=

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2014年02月06日

U教授

 哲学者ってやはり考えて、考えたことを発話していきますね。
 そこらへんが風呂屋の洗い場だったり、お銚子を酌み交わす場末の居酒屋とは大違い、ですね。
 思い付きや思い込み、その場かぎりのひらめきで、気まぐれにものをいう会話とは大違い。
 無学文盲、無知蒙昧、ばかは死ななきゃなおらないヤッホー君とは大違い。
 哲学者、中島義道さんのエゴイスム入門、じゃないでしょ、こういうの「うろ覚え」っていうんでしょ、メッ、『エゴイスト入門』の冒頭からびっくりしたんです。
 ご説明しますと、10年前の2004年にまでさかのぼります:

 女子高生のスカートを手鏡でのぞいたという事件は、植草氏が控訴を断念して罰金刑が確定したが、この事件はどうもすっきりしない。
 ウェブでも、彼を支援するサイトができているが、公判での双方の主張が大きく食い違っているのだ。
 警官が手鏡でのぞいているところを「現認」したとしているのに、実際には警官が職務質問したときは手鏡はポケットの中にあった。
 警官は最初、携帯電話のカメラで撮影していると思ったようだが、携帯電話はアタッシェケースの中。
 はっきりしているのは、植草氏が「否認したら長期捜査になるが、罪を認めればすぐ帰す」という誘導に負けて、警察に迎合した供述書をとられてしまったことだ。
 結局これが決定的な証拠になった。
 日本の司法の「自白中心主義」の恐さである。

(2005年04月15日16:55 池田信夫ブログ「植草一秀事件」)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292239.html

 これだけではないのです:

 国民の先頭に立って小泉竹中売国奴政権と闘っていた、植草一秀早大大学院教授は二度の冤罪で刑務所行きとなっている。
 彼は国民の財産郵貯350兆円がロックフェラー財閥の手に渡るのを阻止しようと、TVの討論番組でも竹中平蔵氏と小泉政治を糾弾していた。
 また彼はりそな銀行のインサイダー取引問題について真相を暴露する本を出版しようとした。
 そんな中で起きたのが手鏡事件。
 2004(平成16)年4月8日午後3時頃、早稲田大学大学院教授の職にあった彼は、品川駅のエスカレーターで女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとして、鉄道警察隊員に東京都迷惑防止条例違反(粗暴行為の禁止)の容疑で現行犯逮捕。
 氏は犯行を否定。

http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/3473413.html

 彼自身の「激白」があります:
http://www.youtube.com/watch?v=SDn4X7RRaX4

 彼自身の「記述」があります:

 今日は私が巻き込まれた冤罪事件について記述する。
 悲劇の発端は1998年1月30日に起きた。
 私はこの日の夕刻、東海道線上り電車内の4人掛けボックス席の通路側の座席に腰をかけた。
 向かいには女性が二人腰をかけていた。
 向かいの女性は眠っている様子だった。
 当時私は足の付け根に湿疹があり、暖房の温かさによってかゆみを感じ、ズボンの上から患部を掻いた。
 このことが誤解されたらしく、車掌が通り過ぎる時に、向かいに座っていた女性が車掌に声をかけた。
 当然、犯罪でも何でもない。
 ところが、警察に連行され、大声で恫喝され、認めなければ逮捕だと騒がれた。
 このときの私の対応が誤りであったことは、のちに判明するが、警察の恫喝と利益誘導に応じて、上申書を書いた。
 本来、直ちに弁護士を呼び、適正な対応を取るべきであったが、こうした問題への無知が災いした。
 
 当時は橋本政権の時代であった。
 私は消費税増税反対の先鋒として活動し、当時の新進党に重用された。
 1997年2月に衆議院予算委員会では新進党推薦で公聴会での参考人意見陳述をした。
 何らの問題もないことが刑事事件とされた背景に、当時の橋本政権との激しい確執があったのだと推察される。
 
 2001年に小泉政権が発足し、私は小泉政権批判の先頭に立った。
 小泉政権が私を敵対視したのは当然のことであった。
 このなかで彼らは1998年事件の存在を掴み、これを表面化させようと画策したものと思われる。
 テレビ番組への出演のなかで、何度もその感触を経験した。
 
 2004年品川事件はこのなかで発生した。
 横浜から神奈川県警の警察官が品川まで私を尾行し、品川駅改札で私を見失った後も執拗に私を探し出そうとしたことは異常としか考えられない。
 私が完全無罪である動かぬ証拠は、品川駅高輪口エスカレーター上下4台の防犯カメラが完全に捉えていたはずである。
 私は一貫してこの防犯カメラ映像の解析を求め続けたが、警察は10日以上も要請を拒絶し、あげくの果てに「映像が消えてなくなった」とした。
 警察による証拠隠滅であった。
 
 2006年9月事件では、私の無罪を完全に立証する目撃証人が名乗り出てくれて、法廷で私の無罪を完全に立証した。
 検察側も目撃証人を出廷させたが、この証人の証言は重大な矛盾に満ちたものであった。
 
 あげくの果てに、この証人が警察への出頭日について、完全な偽証を行ったことも明らかになった。
 この証人の証言はねつ造されたものであると思われる。
  
 私の無実は法廷で完全に証明されたが、不当に歪められた国策裁判が展開された。

(2011年2月14日(月)植草一秀ブログ「私の冤罪立証活動を妨害する腹黒い輩(やから)」)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/cat30578824/

 この植草一秀の「品川事件」と関連するのかは分かりませんが、某マスゴミから原稿依頼があったにもかかわらず、中島義道さんの次の原稿は、掲載前日2004年7月16日深夜、電話で「重役審査で最終的にボツ」になったことを知らされます:

 U教授が、女子高校生のスカートの中を覗こうとして、現行犯で捕まった。
 彼の場合、有名人であり、しかもいかにも清潔そうな紳士であったから、「見せしめ」としての効果は十分あったであろう。
 いまや、痴漢冤罪が多発する(らしい)満員電車の中は、ますます男たちを震えあがらせている。

 一人の男の「些細な」行為に、数十年にわたる膨大な数の女たちの苦しみがのしかかる。
 いままで唇を噛んで我慢してきたが、もう泣き寝入りはしない、泣き寝入りはさせない、と。
 
 こういうとき、取り調べははじめから容疑者を「魔女」と決めてかかる現代の魔女裁判になりかねないのである。

 それはそれとして、わからないこともない。
 すべからく「革命」はやりすぎなければならないのだから。
 
 だが、どうしても変だと思うのは、こうした性的な事件が起こると、スカートの中を覗くことが、あたかも恐るべき「異常な」行為であるかのように言い立てることである。
 
 でも、そうかなあ?

 風呂場を覗き込む行為も、酔って女性の胸や尻に触る行為も、生物体としてのヒト(オス)にとって、とくに不自然な行為とは思えない。

 ただ、こうした「自然な」行為が現代社会では(なぜか)激しく非難されるのである。
 単なる「制度」が自然とみなされる瞬間に、その制度からの逸脱者は(単に不正をはたらいた者ではなく)異常者とみなされてしまう。
 これは人類の歴史始まって以来、面々と続く暴力である。
 
 だから、すべてが変だとわかっていても、異常者扱いされるのが厭なら、みんなと口裏を合わせて、性犯罪者を「ヘンタイ!」と叫んで社会から葬り去りましょう。そうしないと、あなたに危険が及びます。

 ちょうど魔女裁判で「魔女」と叫んで唾を吐き掛けない者は、気がつくと魔女にされてしまったように。

(掲載誌:新潮45 2004年10月号)
http://www.ningengaku.net/instructors/nakajima-yoshimichi

 最近も「なんかへんなふんいき」を醸し出すことにおいてはNo.1のメディアに抗して降板した学者先生がいらっしゃいましたが、このメディアの経営委員は逆に二人も、不特定の大ぜいの他者をねめまわすように、なめているとしか言いようがないように、好き勝手な思い込みによる「いでおろぎっしゅ」な「個人的な発話」をなされていますが、おとがめなし。
 あ〜あ、メルトダウンしたあの塊りはいまいずこ、かもいまだに特定できないでおります!しかし特定ヒミツの保護に関する法律ができ、わかっても秘密のままでしょうね、探ろうとしたり、聞き出そうとすれば、尾行されて特高に保護されてしまうでしょうし…、
お〜お、ミンシュシュギ、リッケンシュギはいまいずこ
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2014年02月05日

エゴイスト入門

 中島義道さんのことばにもう少し耳を傾けてみませんか。

 小さいころから「優等生」に縛られて生きてきて、がまんしていることにも気づかないほど、がまんさせられていたという哲学者の中島義道さんは、自らの体験も踏まえ、もっと自分を大事に、自分の感受性に合った言葉を開発することが大切だと語ってくれた。

◎子どものころのこと
 私は、何についても、簡単に決めつけてしまうことが苦痛なんですね。
 それは子どものころから、そうでした。
 よく「子どもは元気にしなさい」とか言われますよね。
 それがとてもイヤで、だけど自分でも何がイヤなのか、言葉ではうまく説明できない。
 そうすると、顔がこわばったり、何かすごく怖くなったり、言葉にならないかたちで出てくる。
 自分でも、自分がおかしいように思えたし、とても苦しかったですね…

◎もっと対立していい
 日本人は、人に迷惑をかけないことを大事にしているし、自分を出さないようにしている。
 それはしかし、自分たちと異なるものを排除する社会でもあります。
 自分と他者のちがいを、対立する前に抑えてしまう。
 もっと、対立していいんじゃないでしょうか。
 自分を大事にすることが大切だし、エゴイズムであっていいのだと思います。
 他者とぶつかって、そこで考えればいい。
 開発しなくちゃならないのは、自分の感受性に合った言葉です。
 エゴを抑えてしまうと、喜びも怒りも希薄になって自己発話ができなくなってしまう

(1999年5月1日 不登校新聞掲載)
http://www.futoko.org/special/special-19/page1012-537.html

 不登校新聞という新聞があるのですね。
 発行しているのはNPO法人「全国不登校新聞社」で紙版の新聞『Fonte』(ドイツ語で「源流から」)、WEB版の新聞『不登校新聞』だそうです。
 新聞『Fonte』をつくっているのは代表理事・奥地圭子さん(1941年東京生まれ、東京シューレ代表、登校拒否を考える会代表)。
 奥地子さんはご自分の経験をこんなふうにおっしゃっています。
 難しい難問へのひとつの回答として、これもぜひ読んで考えてみませんか:

 「2002年度 不登校問題の講演と交流の集い」でのお話で、演題は「学びの多様性を求めて」。
http://home.catv.ne.jp/dd/tkanazak/kyouikkouen02.html

 「ひとつの回答」と申しますのは、やはりそれぞれおかれている環境、立場、状況が違うからでして、一般解はない、いや、常識とか一般解を求めること自体、なんの解決にもならないのかもしれません。
 もういちど、中島義道さんの重要な指摘に立ち返ってみましょうか。
 「他者とのぶつかりあい」「自分の感受性に合った言葉」「自己発話」です。

 わが祖国は数々の美点を備えていると私は思う。
 しかし、どうしても嫌いなところがある。
 それは、「言葉を尊重しない」文化とでも言えようか。
 学生たちは私語をまき散らし、それでいて何を聞かれても押し黙っている。
 上に立つ者は、因習的・定型的・非個性的な言葉しか発しない。
 みんな言葉の「裏」を読むことに汲々とし、言葉で真剣勝負せず、腹を探り合い、自分の言葉に責任をとらない……

 集団で平然とルールを破り、しかもいかなる不正を目撃しても注意することをしない。
 <対話>はどこにも見あたらず、朝から晩まで「<みんな>に呼びかける優しいアナウンス」〔ここ、言葉変えました。中島さんごめんなさい。by 檜垣〕が林立している。
 こうした祖国の一面が私はひどく不快である。
 
 これは、ただ私の個人的ないらだちや不快感にとどまるものではない。
 私は大学でドイツ語や西洋哲学を教えてメシを食っている。
 国立大学だから、こうした仕事に「血税」を使っているワケだ。
 私は ―― 人も知るいいかげんな男であるが ―― せめて自分の職業になるべく誠実でありたいと願っている。
 ドイツ語を教えてカントを研究して「血税」を食いつぶしているのである。
 あらゆるヨーロッパ文化研究者は、ヨーロッパ文化(およびヨーロッパ人)と日本文化(および日本人)とのはなはだしい隔たりを無視してはならないと思う。
 自分の専門が自分の日常生活と隔絶していることに真剣に悩むべきだと思う。

 だが、同僚の中にはこうした態度の者は稀である。
 ドイツ語を教えながら、ドイツ文学や哲学を研究しながら、日本の現状になんの疑問も覚えない者、彼の地に滞在してもヨーロッパ人の身体にしみ込んだヨーロッパ中心主義に抗議しない者がほとんどである。
 会議の席では日本的自己保存をきめこみ、けっして「無謀な」発言をしない者。
 こんな御仁が、ドイツ文学や哲学の「専門家」なのだからあきれはてる。
 
 私はそうなりたくないと願った。
 ヨーロッパと日本との絶望的なほどの差異をいつも問題にしてゆこうと思った。
 この問題で、徹底的に苦しみ抜こうと念願した。
 それが、ドイツ語や西洋哲学等、社会的有用性のない安易な職業についてメシを食っている者のせめてもの「罪滅ぼし」である、と信じているからである。

(中島義道『<対話>のない社会』「あとがき」より)
http://www.logos.tsukuba.ac.jp/~higaki/taiwa.html

 これは、筑波大学の檜垣良成先生の「勉強会」からの孫引きですが、以下もぜひ解答をみつけるにあたっての参考になるはずです。
http://www.logos.tsukuba.ac.jp/~higaki/kosei.pdf

 自己発話がないと対話は生まれませんし、対話を求めようとしてはじめて自己を見つめはじめるのかな…、自己を見つめ、自己発話を開発する途上で、問題群や対象との距離感、位相の差異もつかめるのかな…、なんてヤッホー君は思い知らされました。

 ヤッホー君、立春の日に、中島義道さんの本を2冊も買い求めたのは、ヤッホー君の大好きな日本酒を中島義道さんもそのようだった、という不純な動機(?)。
 「選択可能性」が数あるお酒のなかで、ましてドイツに留学しておられたのならば本場もんの麦酒が大好きであってもよいはずなのに、日本酒を「選択」するなんて!
 デカンショなんて、甘藷(かんしょ)程度にも味わえないヤッホー君ですが、その点だけでも納得できた読書明け、立春明けの2月5日水曜日朝のこと。

 「人間」なのだから、「相性」というものがあって、私は相性の悪い他人とは絶対にうまくやれない。
 私に近づきすぎず、私を敬遠しすぎず、私との「正しい」距離感を保つことを心がける学生のみを採る。


 この学生とのお付き合いも、好物の日本酒も「相似形」:

 けっして日本酒以外のものを呑んではならない。
 酒を「愛でる」のだから、がつがつ食べ続けてはならない。
 日本酒に合わないもの(例えば、「スパゲティー」)を注文してはならない。
 あまりぐでんぐでんに酔っぱらってしまうと、味がわからなくなり…これもご法度。
 外で呑むと金がかかるので、その後は中島研究室に場所を移し、会員はわがお薦めの酒と肴を持ち込むこと。
 何も持ってこない者は千円払うこと。
 日本酒を「愛でていない」会員…次回「出場停止」にすること!

…中島義道「日本酒を愛でる会」『エゴイスト入門』所収

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2014年02月04日

中島義道

 2月4日火曜日、立春、初午。
 まずは上野公園、清水観音堂。

 二月 初午の日(節分後)午前十時。
 初午大祈祷会・大般若経転読(秘仏本尊御開扉)

http://www.geocities.jp/kiyomizudo/

 ヤッホー君のこのブログ、先月2014年1月3日付け日記「谷中七福神」をご参照ください。
 祈祷会、ご開帳のあとは赤飯のお接待がありました。
 食事が終わったころ、東叡山寛永寺・真如院ご住職・清水堂輪番の大多喜義慶さまのありがたい説教を聴いてまいりました。

清水寺.jpg

清水寺追加.jpg

 住職はユーモアも交え、「足るを知る」ことの大事さ、お経のこと、寛永寺のこと、そして「落ちない大仏」で受験生が合格祈願に訪れる「上野大仏」についてお話をしていただきました:

 90年前の1923(大正12)年9月1日。
 関東大震災の激震により、上野大仏の頭部は地面に崩れ落ちた。
 今は顔面がまつられるのみである。
 「台座を入れずに約7メートルの高さがあったそうですから、山の上から顔をのぞかせていたんじゃないでしょうか。今とは景色も違ってみえたでしょうね」と大多喜輪番

 大仏を 埋めて白し 花の雲

 近所の根岸に住んでいた正岡子規(1867-1902)の俳句に、満開の桜とありし日の大仏の鮮やかなコントラストがしのばれる。

 大仏は崩壊後も寛永寺に保管され修復再建を待っていたが、1940(昭和15)年、今度は戦時下の供出令により頭や胴体が軍需金属資源として接収された。
 1972(昭和47)年、かろうじて残った顔を元の場所に安置…

(2013.8.30 20:57産経ニュース「震災で頭が落ちて90年 これ以上「落ちない」と受験生に人気 上野大仏」)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130830/tky13083021140008-n1.htm

 そしてヤッホー君の眼科の主治医、世界一の名医、代々木病院の山城先生による眼の定期検査へ。
 予約した時間が午後3時でしたので、時間がたっぷりありました。
 病院近くの本屋さんに寄りまして2冊買い求めてきました:

 2009年5月文庫版『後悔と自責の哲学』(河出書房新社)
 2010年6月文庫版『エゴイスト入門』(新潮社)

 いずれも中島義道(1946年福岡生まれ)著者のよるものです。ヤッホー君の書庫の本棚には以前から同じ著者の本が3冊も並んでいたのですよ:

 2001年6月『働くことがイヤな人のための本〜仕事とは何だろうか〜』(日本経済新聞社)
 2002年11月新書版『不幸論』(PHP研究所)
 2003年3月文庫版『私の嫌いな10の言葉』(新潮社)

 あなたは叫びたいほど苦しい。
 しかし、特にこの国では、「みんな」が苦しいことはすぐにでも対処すべきなのに、みんなが「なんともないこと」に対して、ひとりだけ苦情を言う人は、激しく憎まれます(こういう人を、私は「善人」と呼びたい)。
 彼らは、あなたがそんなに苦しんでいるのに、「わがまま」だと言って裁くのです。
 彼らは子どもが遊んで大声を出すのは当たり前だと思い、公の通りなんだから大声で立ち話をしてなぜ悪いと思っていますので、絶対に話が通じない。
 いつの間にかあなたは被害者ではなく、「共同体を乱す」加害者に仕立て上げられてしまうのです…

 こうなってはなりません。
 こうなる前に手を打たねばなりません。
 そうならないための最後のアドバイスは、必要以上に「まじめに」取り組まないこと。
 しょせん、バカな住民とバカな私とのバカな戦いなのだ、という「遊び心」を忘れずにいてもらいたい。
 難しいとは思いますが、戦いを「楽しんで」もらいたい。
 何しろ、これを通じてすばらしく面白い人間模様を見ることができるのですから。

(東洋経済オンライン 1月29日(水)8時0分配信「バカな人びとと戦って「人間とは何か」を学べ!」)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140129-00028795-toyo-bus_all&p=3

 そう、教授職をおやめになったあと、氏は哲学塾を開いたり、人生相談を担当なさっているようです。

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2014年02月03日

バナメイエビ

 バナメイエビとはどんなエビか。
 ネットで検索したら、マルハニチロホールディングスの「おさかなギャラリー」というHPで簡単にみつかった。
 その説明によると、クルマエビ科リトペナウス属のエビであり(ちなみにシバエビはヨシエビ属)、体長は14センチから最大23センチ。
 病気などへの耐性が高く成長も早いため、世界各地に養殖が広がったとある。
 2000年以降、中国南部から東南アジアにかけて爆発的に生産量が増大し、養殖の主役であったブラックタイガーを量的に追い抜いたという。
 ブラックタイガーならぼくも知っていたが、なんと、バナメイエビはそれをしのぐ存在になっていたのだ。

(2013年10月30日(水)大越健介の現代を見る)
http://www9.nhk.or.jp/nw9-okoshi-blog/100/171538.html

 グローバリぜーションの恩恵なのか弊害なのか、料理をしなくとも出来合いのお惣菜を買ってくれば食事がすませられるえようになった簡単、便利な世情の恩恵なのか弊害なのか、食卓をいろどる食材でも色んなことが起こって、その都度、翻弄されるヤッホー君。
 このなんか変な感じ、NHKの大越記者の文章でも、あ、あの「マルハニチロホールディングス」が出てきています。その3ヶ月後:

 総会には株主約540人が出席。
 本来は2014年4月に予定する持ち株会社と傘下の事業会社5社との統合などグループ再編が主題だったが、農薬混入事件を受け、株主からは再発防止策などを問う声が相次いだ。
 マルハHDの久代社長と、アクリフーズの田辺裕社長は3月末での引責辞任を表明。
 総会では会社提案のグループ再編案が承認されたが、出席した株主からは「食品の安全管理徹底には従業員の待遇改善も必要ではないか」(愛知県西尾市の68歳男性)との声もあった。

(2014年1月30日20時01分毎日新聞「マルハニチロHD:株主総会で「安全管理徹底」誓う)
http://mainichi.jp/select/news/20140131k0000m020061000c.html

 お詫びとお知らせ
 アクリフーズ群馬工場商品回収ご協力のお願い
 2014年1月9日
 株式会社マルハニチロホールディングス
 株式会社アクリフーズ

http://www.maruha-nichiro.co.jp/

 エビもそう、ムカシは『エビと日本人』村井吉敬(岩波新書)!
 しかしその村井吉敬も昨年の春、2013年3月23日、お亡くなりになっていました。
 69歳。合掌。

 本書が出版された1988年に、『あるくみるきく』が廃刊になった。
 民俗学者、宮本常一が所長を務めていた日本観光文化研究所から1967年に創刊された雑誌である。
 研究所も翌1989年に解散した。
 「あるく」「みる」「きく」は、宮本の研究に対する姿勢と調査方法を端的に表したことばであった。
 本書の「プロローグ」の最後の見出しは、「歩く・見る・議論する」である。

 四半世紀前に出版され、2007年には『エビと日本人U−暮らしのなかのグローバル化』が、同じく岩波新書の1冊して出版されている状況で、本書を読む価値があるのか?
 残念ながら、本書で取り上げられた問題の多くは、いまだ改善されていないどころか、悪化しているものもある。
 したがって、本書は今日の問題の原点としても読む価値があると言える。
 また、本書と姉妹関係にある1982年に同じく岩波新書の1冊として出版された鶴見良行『バナナと日本人−フィリピン農園と食卓のあいだ』とともに、その後、東南アジアの地域研究のためのフィールドワークのモデルのひとつとなったという意味で、読む価値があるだろう…

 本書でも、多くの人びとの調査結果や体験が引用されている。
 このように議論しながら「歩く・見る・聞く」の調査方法も、フィールドワークのひとつのモデルを提供した。
 本書が、42刷(2011年6月6日)を重ねているのは、内容の古い新しいが問題ではなく、「歩く・見る・聞く」の基本が、「現場」の人びとや仲間との対話とともに語られているからだろう。

(評者・早瀬晋三、1955年岡山県津山市生まれ。早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2013/09/post_309.html

 爆発的な勢いで生産量を増加させてきた養殖バナメイだが、今年は大幅な減少が見込まれている。
 主要な生産国である中国やベトナム、マレーシア、タイ国に、「EMS」と呼ばれるエビの病気が、バナメイを中心にブラックタイガーにも広がっていることが理由だ。
 諸説あるが原因が解明されておらず、産地では養殖密度を下げるなどの対策がとられている。
 日本への最大の供給国であるタイ国では15〜25%程度の減産が見込まれており、中国では半減するとの試算もある。
 右肩上がりできていたバナメイの生産は2012年をピークに下降線をたどることになるのか−。
 このEMS(Early Mortality Syndrome)は、稚エビを池入れしてから10〜30日の内に斃死してしまう症状から名付けられ、2009年に中国で報告されており、2010年にはベトナム、2011年にはマレーシア、2012年にはタイ国へと広がってきた。
 日本の輸入業者にとっても深刻な事態として伝わったのは、日本への昨年の冷凍エビの輸入量が最多だったタイ国での供給量の減産が伝えられてからだ

(2013年3月14日付け日刊水産経済新聞「養殖エビが生産減へ、エビ市況の高値推移は必至」)
http://www.suikei.co.jp/

 こんな背景もあってたのことだったのか、変な感じの記者は、さらにリポートを続けます:

大越
「私は、このバナメイエビの名前は、今回のメニュー表示の問題で初めて知ったんですけれども、そうか、庶民の食卓を支えてくれていたんだと感謝したい気持ちになったその矢先に、実は病気の流行にさらされていることが分かったというのは皮肉な話です。
 飽食の国ニッポンへの、ある種の警告のようにも思えます」
(2013年11月5日(火)エビ価格高騰で気になる影響)
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2013/11/1105.html

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2014年02月02日

清洲会議

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 2月2日日曜日のヤッホー君は大忙し!
 9時には江東区芭蕉記念館に入っておりました。今日は山歩クラブ「全員集会」。
 17名のお仲間が集合!
 12時過ぎには会場を明け渡さねばなりませんので、小名木川を萬年橋で渡って清洲城に登城し、引き続き「清洲会議」!

http://www.kiyosukaigi.com/trailer.html

 清須会議?清洲会議?
 三谷幸喜先生(1961年世田谷区生まれ)による歴史の予習ゼミナールのコーナーは必見です!
 あっ、もちろん映画も。

 キャストたちからのメッセージを読んだ三谷監督は、
「今回、役者の皆さんが『清須会議』の現場を楽しんでくれていたことがわかり、とても幸せな気持ちです。
 僕は、自分の映画に出演した俳優さんが評価されるのが一番うれしいので、撮影中は、彼らがいかに魅力的に見えるか、いつも心掛けて演出しているんです」
とコメント。

(シネマトゥデイ、2013年11月12日「豪華キャストからの愛情あふれるメッセージに感激! 三谷幸喜が役者に愛される理由とは?」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0057987

 このコメントにはヤッホー君もうん、うんとうなづいていました。
 山歩クラブも仲間のひとりひとりが主役なんですもんぴかぴか(新しい)
 議場では、熟議よりも「山の歌」が飛び交いました。
 議場には早くも、春の香り、「なばな」がならびました。

 「なばな」は、菜の花を品種改良して、葉や茎を食べられるようにしたものだそう。
(こんにちは いっと6けん)
https://www.nhk.or.jp/shutoken/6ken/corner/fresh/2013-03/0315.html

 そして、その隣には「牛すじ」が!

 妻の手作りカレーがやっぱり一番! 愛情たっぷりの牛すじカレー。
 牛すじで作るめ以子のカレーは、悠太郎の大好物。
 下ごしらえが大変なすじ肉をたっぷり使ってじっくり煮込む、牛すじカレーの作り方を紹介します。

(連続テレビ小説「ごちそうさん」)
http://www1.nhk.or.jp/gochisosan/special/recipe/recipe15.html

 最後の締めはやっぱりヤッホー君。
 得意の手料理、「ヤッホー鍋」に「エビごはん」!

 豆ご飯や栗ご飯のように、えびを炊きこんだ「えびご飯」のレシピです。
 殻付きバナメイえびの、殻のうま味も逃さすことなく生かし切りました。
 ふんわりと香ばしく、上品な味わいです。

(エビの炊き込みご飯)
http://allabout.co.jp/gm/gc/323867/

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2014年02月01日

富嶽三十六景

 時の流れが速く感じられる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
 今朝、カレンダーを見て、そうか、今日は2月1日土曜日だから、1月の暦は外さないといけないねって気づきました。
 ヤッホー君のカレンダーは『富士十二景』、2月に現れた富士は「河口湖より富士山、山梨県」!
 ちなみに1月は、「北杜市より富士山、山梨県」。
 2月の富士の写真は、真っ白に冠雪したお富士さまが河口湖の湖面に「逆さ富士」で映っていて、湖面の左右両脇には茶色く枯れた葦が、真冬の冷気をものともせずツンと立ち上がっている、そんな景色です…

 ヤッホー君、中右瑛先生のギャラリートークを思いだしております。
 三越日本橋本店での『北斎展』。
 先生の後をぞろぞろついていったわれわれの足は、『富嶽三十六景』の「甲州三坂水面」の前で止まりました:

 三坂峠からみた実景で、眼下には富士五湖のひとつ、河口湖があり、湖の正面には裏富士がそびえている。
 湖面に映る富士は世にいう逆(さかさ)富士である。
 この逆富士は実に不思議な姿をしている。
 実景は夏枯れの素朴な姿。
 が湖中の富士は白雪をたたえた美しい姿と変貌している。
 二つは左右にずれて形態も違う。
 実景としては誠に不合理である…

(展覧会カタログ、中右瑛監修『世界を魅了させたー北斎と弟子たち』95頁)

 「現実の富士」と「創造の富士」との戯れ。
 ヤッホー君は逆に湖面に映っているのが実景で、湖面でないほうが作者、北斎の想像した貌かもしれないな、う? 待て、待て、これを見て富士を思いやっているのは誰?
 「鑑賞者のこころの中の想像の富士」の貌、う? お富士さんが三人も… 三っつもからみあって三つ巴の富士山、三すくみ。
 これが、作者、北斎の狙いだったかもしれないぞ、とからだじゅうが身震い!
 氷のようにからだが固まってしまい、一瞬、身動きがとれませんでした。
 急いで列を離れ、ソファにひっくりかえってしまいました(注)。

 北斎の代表作「富嶽三十六景」シリーズ(版元永寿堂西村屋与八)を描き始めたのは文政末ごろ、北斎は既に70近くの老境に達していた。
 ときの旅行ブームにあやかって北斎は、日本人のアイドル富士山と庶民生活、風俗を結びつけ、四季、変わりゆくさまざまな富士像を描いた。
 西村永寿堂から出版され、人気があったとみえて裏富士十図を追加して、合計46図。
 1834(天保5)ごろにシリーズは完成した。

(中右瑛監修、前掲展覧会カタログ、9頁)

 天保5年といいますと、北斎75歳ですよ!
 北斎55歳で出版した『北斎漫画』はまだ完結せず、2編から10編まで江戸の角丸屋甚助が出版、また名古屋の永楽屋東四郎で出版するのですが、天保5年にはその12編が出版され、完結するのは北斎の死亡後、1878(明治11)年と言いますから、おそれい入ります。
 さらに『富嶽三十六景』に飽き足らず、75歳の北斎は「前北斎為一改、画狂老人」として天保5年、絵本『富嶽百景』を出版しています。

 いやぁ〜、この衰えることのない「意欲」にはびっくりしてしまいます。
 そればかりではありません。
 北斎75歳のときの『富嶽百景』に自ら次のように書いております:

 おのれ6才より、物の形状を写すの癖ありて、半百のころよりしばしば画図をあらわすといえども、70年前、画くところは実に取るに足るものなし。
 73才にして梢禽獣虫魚の骨格、草木の生死を悟し得たり。
 故に80才にしてはますます進み、90才にしてなおその奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならんか。
 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん。
 願わくは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまうべし
   画狂老人卍述

(『富嶽百景』初編の末尾に記された跋文』)

 これは、ヤッホー君が読みやすい文章にしたもので、オリジナルの文章の転記及びその文章のある頁の写真は、中右瑛監修前掲展覧会カタログ、138頁に載っております。
 展覧会のカタログをぜひお買い求めください。
 そのためにもこの週末、展覧会会場の日本橋三越本店に足をお運びください!
 そしてぜひ、感想をお寄せください。われわれ鑑賞者同士で共有しませんか!


(注)
 ヤッホー君が凝り固まってしまったのは、展覧会会場で北斎の肉筆画「三竦の図」とも出会ってしまったからでした。「画狂老人卍筆、齢89歳」と署名があります。会場の売店でヤッホー君、思わずこの絵のある絵葉書を買っておりました。
 
 ヤッホー君のこのブログ、先月2014年1月2日付け日記「港七福神めぐり」をご参照ください。以下に再掲します:

 1月2日木曜日の言葉:
  ヘビがカエルを食べる。
  カエルがナメクジを食べる。
  ナメクジがヘビを溶かす。
  物事が動かなくなる三すくみ、転じて平和を願う。
  争いのない平和の象徴です。
  世の中は強いも弱いもなく平等なんですよ。
 (毎日世界平和祈願執行)

 これは芝の増上寺の裏にある宝珠院(港区芝公園4-8-55)にあった言葉です。
posted by fom_club at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする