2014年01月31日

新年快楽

 【糸満】1月31日は旧暦1月1日。
 トゥシヌユールー(大みそか)を迎えた30日、「海人(うみんちゅ)のまち」として知られる糸満市の市中央公設市場では、旧正月に向けて花や食材などを買い求める多くの人でにぎわった。
 市場には、年越しそばやしめ縄、鏡餅、豚肉のほか、仏壇に供えるお菓子などが並び、買い物客は店員と談笑しながら品定めをしていた。
 品物を受け取った後、店員からシーブン(おまけ)を渡される光景も見られ、市場は温かな雰囲気に包まれていた。
 玄関先に飾る松や笹などを購入した金城初子さん(71)=八重瀬町=は「旧正月は先祖から受け継いできた大切な行事。今は新正月を重視している人も多いけど、沖縄の人は旧正月も大事にしないとね」と笑顔を見せた。
 かまぼこを販売していた伊佐五由美さん(49)=糸満市=は「昔と比べて市場を訪れる人は減ったが、やはり旧正月前は普段より忙しい」と話した。

(2014年1月31日琉球新報「きょう旧正月 花や食材、糸満の市場盛況」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-218632-storytopic-1.html

 カナダのバンクーバーの様子をビデオでご覧ください:

Vancouver Chinese New Year 2014: Things To Do
(The Huffington Post B.C., Updated: 01/25/2014 4:01 pm EST)
http://www.huffingtonpost.ca/2014/01/08/vancouver-chinese-new-year-2014-things-to-do_n_4564485.html

 サンフランシスコからは、サンフランシスコ交響楽団 San Francisco Symphony の公式サイトでファンタスティ〜〜。。。〜〜ックなコメントをお聞きください:

Watch a Video
San Francisco Symphony's Chinese New Year Concert:
http://www.sfsymphony.org/cny

 マレーシアでは、総理大臣が祝いの言葉をこんなふうに述べております:

KUALA LUMPUR: Prime Minister Datuk Seri Najib Razak today expressed his warmest wishes and a Happy Chinese New Year to all those celebrating.

Najib, who was speaking to reporters after attending the MCA Chinese New Year open house at the party's headquarters, said that 2014 was a very auspicious year for the China-Malaysia relations as it marked the 40th anniversary of their formal ties.

"I'm very confident that our relations are getting stronger," he said, adding that he was looking forward to working closely with China's new leadership.

Najib also called upon all Malaysians to come together and uphold the spirit of unity, saying that this would be the pillar to the country's success.

"I hope that the people will remember how blessed they are to be living in a harmonious country like Malaysia, where everyone is able to celebrate their festivities openly and together," he said.

Najib said he was hopeful that all Malaysians would continue to maintain the country's peace and harmony so that future generations could experience it.

Read more: Najib: Come together and uphold the spirit of unity - Latest - New Straits Times
http://www.nst.com.my/latest/najib-come-together-and-uphold-the-spirit-of-unity-1.474476#ixzz2rxkaqCLk

 多民族共生社会のマレーシア、皆んなでが春節 'Spring Festival' を祝っていますが、その風景は:

http://www.nst.com.my/galleries/video/nst-wishes-you-a-prosperous-chinese-new-year-1.474282

 ヨーロッパに飛んでロンドンです:

Eight things you (probably) didn't know about the year of the horse

As the Chinese say goodbye to the year of the snake, we look at eight things you really should know about the year of the horse

By Frances Perraudin, theguardian.com, Friday 31 January 2014 01.55 GMT

 8番目! こんな予言はあの力強い後ろ足で、ぽ〜んと蹴飛ばしてくださいな:

8) Years of the wooden horse are associated with warfare. The battle of Dien Bien Phu, which ended with the defeat of France by the Vietnamese, happened in 1954 and 1894 saw the start of the first Sino-Japanese war. "With such serious conflicts on historical record in the previous two yang wood horse years, I cannot rule out the possibility of war and fierce battle in 2014," predicts Lo.
http://www.theguardian.com/lifeandstyle/2014/jan/31/eight-things-you-probably-didnt-know-about-year-of-horse

おっとぉ〜、肝心の中国トップの年頭のご挨拶を載せておかないと…

On the eve of the Lunar New Year, Chinese President Xi Jinping has visited the Xilin Gol Grassland in north China’s Inner Mongolia Autonomous Region.

He met with locals as they also celebrated the winter Naadam festival.
(01-30-2014 20:20 BJT, President Xi Jinping delivers New Year's wishes)
http://english.cntv.cn/special/2014springfestival/

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北斎漫画

 昨日、ヤッホー君が記した日記のように、ダントンは35歳で、青柳文蔵は78歳で亡くなっていますが、北斎は90歳の長命を全うします。
 同じく長命を全うした映画監督がいました。
 ヤッホー君のこのブログ、昨年末2013年12月17日付け日記をご参照ください。
 『ハチ公物語』(監督:神山征二郎)で紹介した新藤兼人(この映画の原作・脚本)監督です。
 劇場公開は、1987年(松竹富士)ですので、監督が75歳のときでした。
 この映画は、第42回毎日映画コンクール美術を賞受賞し、2007年にハリウッドでリメイクされ評判になりました。
 新藤兼人監督は、1912年4月22日生まれ(広島県石内村(現・広島市佐伯区)出身)。2012年5月29日老衰のため100歳で亡くなっています。
 この監督が69歳のときの作品に『北斎漫画』(1981年、松竹)があります。
 文化庁優秀映画奨励賞、ブルーリボン賞助演女優賞(田中裕子)、報知映画賞最優秀助演女優賞(田中裕子)、日本アカデミー賞助演女優賞(田中裕子)をとった作品ですが、北斎には緒方拳が扮しています:
http://www.youtube.com/watch?v=ZrXJ667gvHc

 「北斎漫画」(119分・35mm・カラー)
 矢代静一(1927-1998)が「浮世絵師3部作」の一つとして発表した戯曲(注)をもとに、絵師・葛飾北斎(緒形拳)と戯作者・滝沢馬琴(西田敏行)の終生の友情、そして魔性の女(樋口可南子)に魅入られ、春画の制作に没頭してゆく北斎の姿を描く。北斎の娘役の田中裕子は15歳から70歳までを演じた。

(東京国立近代美術館フィルムセンター)
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2006-04-05/kaisetsu_63.html

 へぇ〜、北斎が漫画ね! とヤッホー君はギャラリートークで中右瑛先生に教えられてびっくり!

 お父さんやお母さんから「マンガばかり読んでいないで、勉強しなさい!」って怒られませんか?
 でもマンガっていろいろなことを教えてくれるよね。
 マンガの絵は、その場の状況を文字で説明するより、迫力を持って教えてくれるよね。
 だから、絵の持つ力ってすごいんだということがわかりますね。
 そんな絵の力を思う存分に使った北斎先生の代表作を知っていますか?
 それが『北斎漫画』です。
 でも北斎先生の漫画は、みなさんの好きなマンガとちょっと違います。
 それでは、きょうは『北斎漫画』ってどんなものかを勉強してみましょう。

(信州小布施 北斎館、画狂人葛飾北斎の肉筆画美術館)
http://hokusai-kan.com/w/?page_id=552

 そうなんですよ。
 中右瑛先生は、国際浮世絵学会の常任理事でしたが、理事長の小林忠先生(1941年東京生まれ)の文章で、もう少し説明をふくらませて、お勉強してみましょうか;

 『北斎漫画』は、江戸の浮世絵師北斎と名古屋の出版人との共同作業から生まれ、その初編の成功により以後も長く版を継ぎ重ねていったのである…

 文化・文政年間(1804〜1830)、50歳代半ばから60歳代を通じての一時期、北斎は、読者に絵を描くための手本を提供する絵本、いわゆる絵手本類の版行に熱中している。
 上述した『北斎漫画』はその代表格として知られる…

 人や物をいくつも並列して描くことによる意味や情感の拡大と増幅、形状の誇張による生動の勢いの強調や滑稽の発生、そして、見慣れた日常の人びとの姿が、人としてこの世に在ることの根源的な悲しみやおかしさ、なつかしさを伝えるものであることを、改めて私たち読者につきつけ、教えてくれるのである。

 『北斎漫画』が、日本の、そしてやがては世界の人々に愛され続けることになるのも、画家北斎の、人や社会を見る目の確かさや優しさに、しみじみと共感させられるからなのだろう。
 そうした、画家としてあるべき姿を無言の内にさし示している点で、理想的な「絵手本」となっていることに気付かされるのである。

(小林忠「浮世絵の構造」)
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/kobayashi/structure_of_ukiyoe/36.html

 『富嶽三十六景』発表当時の北斎は70歳代、ですので『北斎漫画』でベストセラーになって、そして晩年期に入ったときの作品なんですって。
 「老後…」うんぬんかんぬん、なんて言っちゃいけないんだぁ〜。
 尽きせぬ創作意欲と、そして衰えぬ想像力の羽ばたきが、どうやら長命のカギを握っていますね。


(注)
 1973年7月、『北斎漫画』が、金井彰久制作により、紀伊国屋ホールで初演。
 演出、栗山昌良、出演、緒形拳、渡辺美佐子他。
(矢代静一公式サイト)
http://www.yashiro-seiichi.com/profile.html
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2014年01月30日

北斎誕生の頃

 昨日、「世界的な画家として評価の高い葛飾北斎は、1760(宝暦10)年に本所割下水付近(現在の墨田区亀沢付近)で生まれ」たと書きました。
 いったいどんな時代だったのでしょうか。
 ヤッホー君、ちょこっと振り返ってみました。

 その前年、1759年に誰が生まれているのかなぁ〜。

 Georges Jacques Danton ダントン 1759- 1794 です。

Le Proces de Danton
http://www.youtube.com/watch?v=rHbJI_fiLD8

 1794年4月5日、ダントン、デムーランたちがギロチンにかけられてから2ヶ月後、処刑直前にダントンが予言したとおり、ロベスピエール、サン・ジュストたちも処刑され、恐怖政治は終わりを告げる。
 こうして王権を打倒した革命の果実はブルジョワジーのものとなり、ブルジョワ革命として終わる。
 しかしこれによってパリ・プロレタリアートの革命が終わったのでないことは歴史の示すとおりである。
 1848年の2月革命、1871年のパリ・コミューヌは、フランス革命の伝統を革新しつつ、これを受けついだものといえよう。

(大島博光フランス革命と『ダントン』)
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1011.html

 大島博光は1910年、「信州松代生まれの詩人でフランス文学者。戦後、ナチスドイツに抵抗したフランスの詩人ルイ・アラゴンの作品を翻訳、紹介したことから、自らも平和や愛を願う詩を創作する詩人となりました。戦前は西條八十の下で詩誌“蝋人形”の編集にあたったり、詩集“ひとを愛するものは”で多喜二・百合子賞を受賞するなどの業績を残しています。2006年1月没
http://iko-yo.net/facilities/9742

 ダントンの評価をめぐる必読の研究書があります:

 前川貞次郎(1911-2004)「ダントン研究史の問題、フランス革命史学史の一章」、京都大學文學部研究紀要(1960)です:
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/72917/1/KJ00000077677.pdf

 1760年が葛飾北斎でしたね。
 では、1761年は?といいますと青柳文蔵なんです。
 そしてこの青柳文蔵は、1779(安永8)年ころ、父である医師、小野寺三達から勘当され、18歳で単身江戸へ入り、江東区亀戸に住んだのでした(注):

 1881(明治14)年に「宮城書籍館」として設置され、今年創立125周年を迎えた宮城県図書館。
 その歴史をさかのぼると、藩校養賢堂と青柳文庫にたどり着きます。
 前号の特集「藩校養賢堂とその蔵書」に続いて、公共図書館の祖ともいわれている「青柳文庫」をご紹介します。

青柳文庫とは

 「青柳文庫」は、仙台藩出身で江戸で成功した青柳文蔵(1761-1839)が、自分の蔵書2,885部9,937冊と文庫の運営基金1,000両を仙台藩に献上して、天保2年(1831)に創設された公開の文庫です。
 青柳文庫の管理のために仙台藩は事務方として目付2人を置き、蔵書は武士や町人の別なく閲覧・貸出されました。
 このような青柳文庫の運営方法は、現代の公共図書館に通じるものがあり、わが国における公共図書館のさきがけといわれています。

(宮城県図書館だより「ことばのうみ」第23号2006年12月発行)
http://www.library.pref.miyagi.jp/kotobanoumi/23.html#2

 そして、ジャンジャックルソー Jean-Jacques Rousseau 1712- 1778 は、1762年、50歳のときに『社会契約論』を出版します:

 ルソーの思想は、1789年の「人権宣言」に決定的な影響を及ぼし、1776年、トマス・ジェファーソンの起草による「アメリカ合衆国独立宣言」の上に燦然と輝いている。
 しかし他にも、その着想と根拠をルソーの著作の中に見出だしていた反植民地主義闘争は数多くある。
 シモン・ボリヴァル(1783−1830)は、南米のスペイン植民地の解放に決定的に貢献し−当地では『社会契約論』は禁止されていた−、立憲主義や政治に関するルソーの著作の教えに忠実に従った。
 旧フランス領インドシナのグエン・アン・ニンは、当局から危険な破壊活動家とみなされていたが、1926年に彼は『社会契約論』(この地でも禁止)の抜粋をベトナム語に翻訳し、それを「現地人は貪るように読み」、「社会の福音書」と考えた。
 当時の著名人ポール・カールトンがいささか危惧の念を抱きながら述べていることを引用すると、ルソーは「反抗の温床、暗殺の教唆者」となる。

 実を言うと、ルソーにつかまったのは極東の国々だった。
 それは日本から始まる。
 1874年にはすでに中江兆民が『社会契約論』の一部を漢文に翻訳し、これについて次のようにコメントした。
 アナーキストたちがルソーの思想に基づいて彼らなりの運動を展開しているばかりでなく、ヨーロッパをモデルとして日本をつくり上げたいと願う人々もルソーをモデルとしている、と。
 中国では革命の兆しの中、ルソーの思想を広めようとしたのは『民報』だった。
 孫文の政党のこの機関紙は共和国建設のために闘い、それは1912年についに現実のものとなった。
 共和国を主張した全ての人びとの名は数えきれないほどだが、要するに、人びとが近代世界、すなわち啓蒙と進歩の所産と呼ぶにふさわしい世界に入ろうとする時、ルソーは頻繁に彼らを助けたのだ…

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2012年10月号、エヴリーヌ・ピエイエ「ルソーの革命思想の複数性」訳:仙石愛子)
http://www.diplo.jp/articles12/1210rousseau.html


(注)
 今週の1月28日火曜日、江東区深川東京モダン館2階で開かれた”Salon de ふかがわ”「深川の仙台蔵屋敷〜仙台と江東区とのつながり〜」で龍澤潤先生から教わりました。

一旦勘当の身なれば父母の許諾を得さるは小野寺の姓を名乗らずと、自ら父の生家の姓を取り青柳と称し居宅を亀井戸に設け、茲住居し名声天下に噴々たり…
(早稲田大学所有「青柳文蔵伝記資料」二、青柳文蔵履歴)
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2014年01月29日

葛飾北斎

 世界的な画家として評価の高い葛飾北斎は、1760(宝暦10)年に本所割下水付近(現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残しました。
 墨田区では、この郷土の偉大な芸術家である北斎を区民の誇りとして永く顕彰するとともに、地域の産業や観光へも寄与する地域活性化の拠点として、「すみだ 北斎美術館」を開設する準備を進めています。

(すみだ北斎美術館、ダイジェスト映像)
http://hokusai-museum.jp/modules/movie/index.php?content_id=1

 そうなんです。
 「ほら、お年玉!」って山歩クラブのハルちゃんから券をいただいていたんです。
 さっそく今日1月29日が初日の「北斎展」(1月29日〜2月3日)に行ってきたと、こういうわけで。
 場所は、日本橋三越本店新館7階ギャラリーです。

 11時からは国際浮世絵学会常任理事の中右瑛ギャラリートークもあって、葛飾北斎(1760〜1849)がこれでヤッホー君の身近な存在になったそうでございます。

 本展は、葛飾北斎の貴重な肉筆画から、代表作「冨嶽三十六景」をはじめとする、「忠臣蔵」「東海道五十三次」といったシリーズもの、役者絵、妖怪絵のほか、西洋の技術である銅版画に感銘を受けたことにより生まれた洋風画などの作品を通して、北斎芸術の全貌を紹介いたします。
 また、北斎に影響を受けたといわれる弟子たちと、フランス人画家アンリ・リヴィエールの「エッフェル塔三十六景」も紹介し、なぜ北斎が高く評価されたのかを、さまざまな角度から検証し、葛飾北斎の人気の秘密に迫ります。

(北斎展、師と弟子たち)
http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/hokusai/

 中右瑛(なかうえい)さんは:
 
 1934 年生まれ、神戸市在住。国際浮世絵学会常任理事。
 主な著書に『北斎七つのナゾ』『波乱万丈おもしろ人生』『浮世絵忠臣蔵の世界』『魑魅魍魎の世界』『江戸の劇画・妖怪浮世絵』『安藤広重のナゾ』『東海道五十三次ミステリー』『写楽は十八歳だった』…ともに里文出版。他多数。

 神戸市在住の浮世絵収集家・画家である中右瑛さん…は、個性的な芸術主張とその発表の自由を尊重する「行動美術協会」に所属する一方、浮世絵の分野では世界的に知られたコレクター・研究家であり、兵庫県文化賞と神戸市文化賞を受賞しています。
 浮世絵師で尊敬するのは、葛飾北斎。「不世出の天才である北斎に対抗するには、写実ではなく抽象、それも独自の抽象しかない」との思いで描き続けてきました。
 そして今、「『広重の藍(あい)』か『中右のブルー』か、といわれるようになりたい」と思うほど、工夫を重ねた「青」がキャンバスを彩るようになりました。
 世界的な浮世絵の目利きによる、時空を超えた敬意とライバル心が込められた作品


が、中右さんの抽象画『シェリト・リンド』(メキシコを象徴する歌で、「美しい空」「母なる空へ」などと訳される」だ」そうです。
(神戸新聞社、中右コレクション 写楽/歌麿/北斎/広重 四大浮世絵師展)
http://mintclub.kobe-np.co.jp/present/print889.html

 展覧会に満足したヤッホー君、おなかも満腹にしないと気がすみません。
 この間の日本橋三越本店での「心の美、富士山」の展覧会のときのように、目をきょろきょろ…
 まるで欠食児童か餓鬼!
 向かった先は、1924(大正13)年創業といいますから90年の伝統を誇る、純関東風おでんのお店「日本橋お多幸本店」(中央区日本橋2-2-3お多幸ビル Tel 3243-8282)です!
http://www.youtube.com/watch?v=OegWBj0VaEk

 テレビ番組「名店のおでん屋さんに家庭で美味しいおでんを作るコツ」にも出演されておりました!
http://www.ntv.co.jp/omo-tv/tokushu/070201.html

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2014年01月28日

春雨庵

 土曜日の「品川歴史館」。
 「ねえ、ねえ、たくあん漬けは山形県の上山に流されていました、びっくり!」
とヤッホー君、興奮して館内を走り回っていました。
 「ねえ、ねえ、たくあん漬け食べに上山に行きましょうよ。井上ひさしの遅筆堂(注)見学とあわせて…」
とヤッホー君、無責任発言、行きたいよお〜、と駄々をこねていました。

 上山藩主「土岐頼行」は、幕府の囚人となった沢庵を上山で丁重に迎えた。

 敬愛する沢庵のため小さくも豪華な草庵を建立。
 沢庵は春雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し「春雨庵(はるさめあん)」と名づけた。

 頼行は歌人としての沢庵を慰めるために、領内はもちろん、山形領をはじめ松島まで歌枕をたずねる遊覧の旅を取り計らったりもした。
 悠々自適の生活をおくる。

 沢庵は「上中下三字の説」という政治の要諦を説いた一文を土岐頼行に贈った。
 これは上(=主君)、中(=家臣)、下(=領民)相通ずるの心をむねとして政治を行なうべきことを諭したもの。
 頼行は座右の銘として藩政に当る。
 上山城主歴代の藩政における黄金時代とも称されるほどの安定した政治を全うした。

(上山藩主「土岐頼行」の手厚いもてなし)
http://samidare.jp/kaminoyama/lavo?lid=21785&p=log

 上山城は、最上氏の最南端の城塞であり、米沢の伊達氏や上杉氏との攻防の舞台となりました。
 最上家改易の後は歴代藩主の居城となりましたが、城下町まで含めた諸施設が整ったのは土岐氏の治政下で、月岡・天神森にそびえる壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れわたりました。
 しかし、1692(元禄5)年、土岐氏の転封と共に、幕府により取り壊され、現在は堀跡や石垣が当時の名残をとどめています。

 現在の上山は、映像など多彩な展示方法を取り入れた郷土歴史資料館です。

(上山城〜風格と憧憬の天守閣 ここは悠久なる歴史の縮図〜)
http://kaminoyama-castle.info/nav.html

 なんで、山形県まで流されてしまうのでしょうか?
sぷ
 なんでも「紫衣事件」といわれるもので幕府にたてついたかどによるものだそうです。
 その幕府から2代将軍により許されて、ま、5年くらいで、3代目将軍のとき江戸の南、御殿山近くに将軍より東海寺を与えられる、という破格の昇進、出世ができたのですから、フ・シ・ギ。
 江戸の地勢を考えてみましょうか。
 北の飛鳥山の整備は8代将軍ですから、当時は北、と言ったら江戸城の鬼門にあたる上野のお山。
 ここを京洛に見立てた「名所」をつくったのが、天海僧正でした。
 そうしたら南の御殿山に、これも広大な東海寺を配置する、という江戸の地勢図を描いた、というのもやはり天海僧正なのかなぁ〜
 
 でも一度は歯向かった、その徳川幕府によって寺を任せられた沢庵和尚ってどういう考えの持ち主だったのでしょうか。
 人生、「夢」みたいなもんだったと思ったんか、そう思わなかったら生きてられなかったのか、ってことかな。
 どっちかな、どっちもそうかな…
 
 館内には、「沢庵和尚遺偈(ゆいげ)」がガラスケースに収まって読めます。
 ちょっと探りをいれえみましょうか…

百年三万六千日   百年三万六千日
弥勒観音幾是非   弥勒観音、幾ばくの是非
(是=道理にかなっていること。非=是の反語)
是亦夢非亦夢    是(ぜ)も亦た夢、非(ひ)もまた夢
弥勒観音亦夢    弥勒も夢、観音も亦夢
佛云応作如是観矣  佛云く、応(まさ)に是の如きの観を作(な)すべし、と

沢庵野老卒援筆   沢庵老、卒(にわ)かに筆を援(も)つ

 百年三万六千日 みろくかんのんいくぜひ ぜもまたゆめ、ひもまたゆめ ほとけいわくおうさにょぜかんか

 百年三万六千日、弥勒・観音是非をみる、是もまた夢、非もまた夢、弥勒もまた夢、観音もまた夢、仏云く、まさに是くの如き観をなすべし

 ですので、沢庵和尚のお墓には『夢』と彫られているのだそうです。
 もう一度「品川歴史館」におじゃましようかな。
 目的は「図書資料室」。
 『品川歴史館紀要』第二号、1987(昭和62)年版を借りて読むこと。
 「<座談会>沢庵宗彭とその時代 伊藤克己、田中博美、船岡誠、司会:児玉幸多」が良い参考文献になりそう。
 これを読んで勉強して、もう一度、日記につけてご報告することにします。
 いつにしようかな…、明日はまた三越本店だし…
 そう、そう、ヤッホー君の見る夢は悪夢ばかり、いつもうなされてばかりいるのでホントウは夢なんて見たくないんだってぇ…

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011034453SA000/?spg=P200800004000000
http://www.youtube.com/watch?v=YG6KUFPOkKY
http://www.youtube.com/watch?v=rQIdmpGwPdU


(注)
 「遅筆堂文庫」は1987(昭和62)年、川西町出身の作家・劇作家 井上ひさしさんから寄贈された蔵書7万冊をもとに開設された…
 一人の作家が作品を生み出すために集めた資料、蔵書を一堂に会する珍しい文庫として注目を集めている。
 『遅筆堂』とは「遅筆でも良い作品を書きたい」という井上ひさしさんの号で、それをそのまま、文庫の名称に冠している。
 2008年9月には、山形市の洋菓子販売 潟Vベール本社敷地内に、分館(シベールアリーナ&遅筆堂文庫山形館)を開設し、川西町の「遅筆堂文庫」から約3万冊の蔵書を移動させ展示閲覧している。
http://www.plaza-books.jp/chihitsudo.html
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2014年01月27日

秋田いぶりがっこ

 昨日の町田市鶴川は「武相荘」周辺のタウンウオーク、12人でお弁当を広げたのは、「広袴公園」(町田市広袴3丁目)。
 ドカ弁のヤッホー君、弁当に欠かせないのが梅干しと大根漬け。
 これは、塩分補給のためもあるのですが、大根漬けは、自分の歯の健康度合いを測るメルクマールでもあるのだそうです。
 いえ、その、あのポリポリという音なんだそうですぅ。
 
 大根漬けってふつう、「たくあん漬け」ともいいますよね、その「たくあん」は「沢庵和尚」なのか、土曜日の「品川歴史館」で大論争。

 「たくあん(沢庵)漬け」の名前の由来を教えてください。
 回答:
 「たくあん漬け」は、生干ししたダイコンを、米ぬか・塩を混ぜた漬け床に漬け込んで作る、代表的な漬け物で単に「たくあん」とよばれます。
 たくあん漬けの呼び名は関東から発生したもので、京都では「辛漬(からづけ)」、九州では「百本漬(ひゃっぽんづけ)」と称するようです。
 名前の由来は諸説あり、
 「貯え漬け」がなまったという説や、
 江戸時代初期の臨済宗の僧・沢庵(沢庵和尚、1573〜1645)が創作したとする説、
 沢庵和尚の墓石(東京都品川区東海禅寺)が、ダイコンを漬ける丸い漬物石に似ているからという説、
 禅家の作る「百一漬」(ダイコンとナスの交互に漬けた漬物)が転訛したとする説、
があります。

(農水省の公式サイト「消費者の部屋」)
http://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1205/01a.html

 ヤッホー君が大根漬けのなかでも特に好きなのは、秋田県の「いぶりがっこ」。

 「がっこ」とは、秋田の方言でお漬物のことをいい、 語源は雅に香るものとされています。
 「がっこ」は、保存食として雪国秋田の気象条件、風土が育んだ知恵の産物であり、古くから伝わる郷土料理といえましょう。
 秋田の代表的なお漬物といえば、「秋田いぶりがっこ」。
 大根または人参を囲炉裏の天井につるし、燻煙乾燥という独特の乾燥法で燻製にしてから糠漬けにします。
 風味に特徴があり、「いぶり漬け」、「いぶり沢庵」とも呼ばれています。

(秋田県漬物協同組合公式サイト)
http://www.chuokai-akita.or.jp/gakko/

 「いぶり沢庵」と言われるほど、なんですね。
 「品川歴史館」では、ボランティアのガイドさんが、「貯え漬け」がなまったという説を採用されておりました。

 でも、ここに、沢庵和尚さんと関連するという有力な証左を北と南から入手しましたのでご紹介:

 ある日、沢庵和尚は、徳川家光に
「和尚、余は近頃何を食べても、味がなくて困る。なにか口に合うものがあれば食べさせてくれ」
と求められました。
「それはおやすい御用でございます。明日午前10時ごろ、拙僧のところへおいでください。もっとも当日は、私が主人で殿は客、わがままを言われても困ります。それだけはご承知ください。また、どんな用があってもご中座されません様お願い申し上げます」
と答えました。
 家光は喜んで帰っていき、翌日家光は沢庵のところへやってきました。
 時は、12月下旬、夜明けごろ降り出した雪で一面の銀世界でありました。
 沢庵は家光を茶室に案内し、
「しばらくお待ちを」
と引き下がってしまいます。
 ところが待てど暮らせど一向に和尚は出てこない。
 朝の10時から待たせておいて、昼になっても現れない。3時になっても現れない。
 家光が腹が減って目が回りそうになった頃、和尚が出てきて、
「遅刻致し恐れ入ります。沢庵手製の料理、何卒ご賞味ください」
と、御膳を差し出しました。
 お膳を見ると、黄色いものが二切れ皿に乗り、椀が添えてあるばかり、他には何もない。
 椀の蓋をとってみたが、中には飯が入っており、湯がさしてありました。
 それでも家光は腹が減ってたまらない。
「和尚、馳走になるぞ」
と大急ぎで椀を抱え込み、カツカツと食べ出しました。
「おかわり」
 家光はようやく腹が一杯になったとみえて、やっと箸を置きました。そして、
「時に、和尚。この黄色いものは一体何であるか」と問うと、
「それは大根の糠づけでございます」と沢庵は答えました。
「ほほう」
と、家光がすっかり感心してしまった時、沢庵はおもむろに姿勢を正してこう言いました。
「上様は征夷大将軍という御位、人間の富貴この上なく、されば結構なるものを毎日お膳に供えて、それに口がなれて旨味がございませぬ。つまり口が贅沢になっているからでございます。故に今日、空腹待ち、かような粗食を差し上げたのでございます」
上様は怒りもなく、
「美味じゃ。」とのこと。
「以後、空腹になるのを待ってお食事されるとよろしゅうございます」
とそれとなく将軍を戒めました。
 後日、家光は沢庵を招き、貯え漬けならぬ「たくあん漬け」として一般にもこれを貯えさせました。

(円覚山宗鏡寺、通称沢庵寺の公式サイト)
http://sukyoji.com/takuan_tukemono/

 たくあん漬けを考案したといわれる沢庵(たくあん)禅師の遺徳をしのぶ山形県漬物協同組合(近清剛理事長)の「香の物祭」が11月24日、上山市の春雨庵(はるさめあん)で行なわれ、関係者が昔ながらの手法で漬け込み作業に取り組んだ。
 上山に配流され、1629(寛永6)年から約4年にわたって春雨庵に滞在した沢庵は、近くの農家からもらう野菜を食べきれず、干してぬかに漬ける「たくわえ漬け」にしたことが、たくあん漬けの由来とされる。
 伝承に基づき塩辛い味付けにするのが特徴で、干し大根100本に対し塩約5キロ、ぬか約7キロを準備。
 地元の子どもたちをはじめ、県漬物協同組合の関係者とかみのやま温泉の女将が参加してそれぞれ漬け込んだ。
 会場では昨年2012年の祭りで漬けたたくあんが用意され、訪れた市民が試食。
 来年2014年の山形デスティネーションキャンペーン向けに、同温泉旅館組合が開発を進めているたくあんの創作料理も振る舞われた。

(2013年11月25日10:26更新 山形新聞「沢庵和尚しのびたくあん漬け込む、上山で「香の物祭」)
http://yamagata-np.jp/news/201311/25/kj_2013112500596.php

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2014年01月26日

武相荘

 1月26日日曜日は山歩クラブのタウンウオーキングの日です。

 12人の仲間と向かった先は鶴川。
 まずは香山園(かごやまえん)。
http://www.h7.dion.ne.jp/~kagoyama/index.html 

 『香山園』のあるこの地は、1525(大永5)年に神蔵宗家24代盛清が戦功により北条氏綱公より30貫文の地を賜り、直ヶ谷と名付け1544(天文13)年に居館を建てたのが始まりで、江戸時代には代々この地の名主を務めてきました。

 『庭園』は池泉回遊式日本庭園で、ケヤキ・榎・カヤ・椎等の古木・巨木に囲まれた池を廻りながら四季折々の木々の美しさや巧みに配置された石組・滝組・石灯籠等を自由に御覧戴けます。

 またNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」のロケ地として使われ、「ちい散歩」(2011年4月26日放送)にも登場しました。

http://www.h7.dion.ne.jp/~kagoyama/index.html

 そうなんです。今日はここで北条氏綱と再会を果たしたのです。
 1995年度の西田敏行主演のNHK大河ラマ「八代将軍吉宗」は、こちら:
http://www.youtube.com/watch?v=Z4hTa4IICMA

 2013年4月26日放送「ちい散歩」では:
☆ すばらしい日本庭園を鑑賞
■ 香山園(かごやまえん)
町田市能ヶ谷2-17-1 Tel 042-735-5702
・入館料1000円

☆ 一軒家を改装したカフェ
■ カフェ chocomoco(チョコモコ)
町田市能ヶ谷6-2-12
・コーヒー 400円
営業時間:AM11:00〜PM4:30 定休日;水曜・日曜・祝日
詳しくはhttp://members3.jcom.home.ne.jp/cafechocomoco/

☆ くるみ割り人形に感動!
■ 小さなミュージアム
町田市広袴町522
042-734-9708
※見学には予約が必要です
・地井さんが絵に描いた作品
「Show the flag(Frog)」赤川政由作
・くるみ割り人形(フュヒトナー工房) 本体価格17,000円より
・くるみ割り人形(ユングヘネル工房)王様 赤 本体価格15,000円

http://www.tv-asahi.co.jp/sanpo/contents/chiiprint/0806/

 山歩クラブのお散歩会はこれより、「武相荘」へ。
http://www.buaiso.com/

 ここでヤッホー君、尊敬してやまない白洲二郎さん(1902-1985)の二状のお手紙に接し、感涙にむせんでおりました:

(1) 白洲正子さん(1910-1998)宛てラブレター:

You are the fountaine of my inspiration and the climax of ideals.

(2) 遺書と言いますか御書留:

 
葬式無用
 戒名無用


 歩きもおしまいのころ、観泉寺の境内にあった「掃除小僧」像前に全員集合!

観泉寺.jpg

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北条氏綱

 500年前の日本人に思いをはせてきます、と言って大森駅まででかけたヤッホー君です。
 大森駅に降り立つのは、生まれて初めて。
 「品川歴史館」に行きつく前に目がきょろきょろ、アタマがぐるぐる回って、へたりこんでしまいました。
 駅前の案内図には、ど〜んと馬込文士村が、池上通りには江戸時代の池上道のさらに古道跡が、そしてきわめつけはモース博士が、貝塚が… これって500年前どころじゃない、縄文時代のころでしょう、と。

 もうへとへとになって疲れ果てて「品川歴史館」!

 「品川歴史館」の敷地には、広い庭園を配した書院造りの建物がありました。
 昭和初期に安田財閥系の安田善助氏(安田銀行の創業者、安田善次郎の甥にあたる)の屋敷として作られたもの。
 その後は財団法人吉田秀雄記念館(株式会社電通所有)として、茶事などに利用されてきました。
 品川歴史館は1985(昭和60)年に開館した品川区立の歴史博物館です。

http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/annai/annai.html

 吉田英雄って誰? この方は:

 43歳という若さで電通の代表取締役社長に就任したのが、1947(昭和22)年6月のこと。
 折しも日本国憲法が施行された直後、まさに戦後日本が新しい時代を歩み始めた時でした。

http://www.yhmf.jp/index.html

 そうなんです、こんな広い敷地が公共の空間、ということは、きっとどなたかサムライ・ニッポン、武家のお屋敷跡ではないのかな、と館員にさっそく聞いてしまったのでした。
 入館してすぐ品川の歴史の年表がありました。
 500年前、500年前、と探していたヤッホー君の細く小さい目に飛び込んできたのが「1524年、北条氏綱、高輪原の合戦に勝ち、品川区域を支配下に置く」!

 そうか、500年前って言ったら、明治時代ではないし、はるか江戸時代の前だよねえ〜、後北条5代の時代なんだぁ〜

 北條早雲は、亡くなる一年前、すなわち1518(永正15)年、家督を子の氏綱に譲っている。
 氏綱は長享元年(1487)の生まれなので、このとき三十二歳である。

 後北條氏の五代をみたとき、初代早雲が突出し、また、三代の氏康もめざましい活躍をしているため、間にはさまれた形の二代氏綱は、どちらかといえば影の薄い存在である。
 ところが、実際は、この氏綱が後北條氏発展の土台作りを行っていた。

 まず、軍事面では武蔵への進出が特筆される。
 1524(大永4)年正月早々、扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興(ともおき)の重臣で、当時、江戸城の城主だった太田資高(すけたか)が氏綱に寝返ってきたのを好機とみて、武蔵の高輪原(たかなわはら)(東京都港区高輪)で扇谷上杉朝興と戦った。

 早雲死後、氏綱が初めて采配をふるった戦いだったが、結果は氏綱の勝利であった。
 後北條氏の力が武蔵にもおよびはじめた記念すべき戦いだった。

(小田原市公式サイト、新・北条五代記、二代氏綱の北條改姓)
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/005/

 つまり、1月23日東海道線早川駅で途中下車し、小田原漁港を散策していたあのあたりもからめた時代だったのかな、と。

 これじゃあ、歴史のお勉強に小田原から早川へと、そして品川宿、ともう一度、歩いてみよう、っと。
 次のサイトはその際、貴重な情報源です:

 北条五代シンポジウム〜北条氏百年の足跡〜2011/9/23
 小田原北条氏悲願の大河ドラマ化へ向けて

http://www.scn-net.ne.jp/~yanya/event_20110923.htm

 石垣山城はほぼ城域が開発されず残る貴重なお城です。
 小田原城を見下ろす眺望も素晴らしいです。
 ハイキングコースとしても楽しめます。
 晴れた日に是非出かけてみましょう。

(石垣山一夜城)
http://www.scn-net.ne.jp/~yanya/ishigakiyama.html

 そうなんです、この一夜城コースって面白いよって地元のハイカーから言われたことがありました。
 山歩クラブの企画にとりあげてもらうよう、提案しようっと…
 あっ、それと、北条氏綱の残した遺言、「五箇条御書留」って読みたい!探そうっと…

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2014年01月25日

栗林忠男

 1月25日土曜日。
 今週の水、木の1泊2日の合宿旅行の後、寄ったのが「小田原漁港」。
 まだヤッホー君、正月の真昼の陽をいっぱいに浴びてきらきら輝いて、風もなく凪いだあの相模湾の海から離れらず、海を想像しています。
 あの橋はなんだっけ?…?

 「西湘バイパス小田原ブルーウェイブリッジ」
 構造物の造形は優れているが、これが自然・地域景観との調和を壊している。
 海際に建設する道路については、海と陸との景観のつながりを分断しないよう留意しなければならない。
 この例では海際に高架道路を造るという計画そのものに問題がある。
 橋梁本体に限って見れば、エクストラドーズド橋という造形上難しい形式にもかかわらずディテールまで美しくデザインされている。

(2002(平成14)年8月 国土交通省、公共事業評価システム研究会「公共事業評価の基本的考え方」)
http://www.mlit.go.jp/tec/hyouka/public/1.pdf

 海と陸、海と森、水と土…
 そして人と自然の共生、もしくは人の自然への挑戦…

 海、海洋、大海原とそこに暮らす魚…
 いずれも境がありません。
 人は国をつくり、その海に、海からポッコリ浮かんだ島に、陸に、山に境を設けようと必死です。
 そして領海、領土、領空が人為的につくられます。

 ある国が、他の国に境い目を主張すれば国同士の問題になり、二国間だと外交になるか戦争になるかして解決する…
 それが多国間だと解決の場は、国連?国際法?
 先日から気になりはじめた海の境い目について、栗林忠男先生で勉強していました。

 海洋における領有権や資源をめぐる争いを解決する枠組みには、どのようなものがあるのか。
 今回の尖閣諸島問題を、国際法で「白黒つける」ことは果たして可能なのか。
 ── 栗林忠男・慶應大学名誉教授に聞く。

 東シナ海沿岸国の関心は、これまで専ら海洋資源に集中していた。
 しかし、資源以外にも海がもつさまざまな価値・可能性を、協同で模索していくことの意義は大きい。
 長きにわたって、広い意味での海洋の安全保障を構想してきた栗林氏による、平和の海を護り、実現するための提言。

 くりばやし・ただお 慶應義塾大学名誉教授。1937年生まれ。
 著書に『現代国際法』(慶応義塾大学出版会) 『日本における海洋法の主要課題』(共著、有信堂高文社) など多数。
 2008年に第1回海洋立国推進功労者として内閣総理大臣賞を受賞。

http://www.iwanami.co.jp/sekai/2010/12/directory.html

 いま国際社会は、約190の主権国家を中心に成り立っています。
 ガチガチに定められた国境で対峙しあう社会がひとつ目のフェーズ(位相)だとすれば、もうひとつのフェーズとして、国境を越えた社会(人類社会)が存在しています。
 政治的・軍事的に強く、いま決定権を握っているのが最初のフェーズですが、第二のフェーズの、人権の確保や経済の交流、活性化がどんどん盛んになっていくことで、前者が相対化されていくことは十分にありえます。

 日中が領土問題に固執するのはある面で仕方がないことかもしれませんが、もうひとつのフェーズをがんばって育てていく。
 こうした争いを繰り返していかないためにも、人間の安全保障のビジョンを持ちながら、長期的に未来のことを考えて協力する枠組みを築きあげていく。
 このことが重要だと思います。

(岩波書店『世界』2010年12月号、139頁)

 ヤッホー君が栗林先生になるほど、と思いましたのは、この複眼をもって考えるアタマですね、そして一方が他方を相対化させるその「想像力」ですね。
 昨夜から実はもう一冊読んでいたのが栗林忠男先生の前掲論文が著わされたのと同じ年、2010年に出版された塩野七生『日本人へ、リーダー論』、なぜ、日本にはカエサルのようなリーダーが現れないのか、という文春新書でした。

 想像力も筋肉の力に似て、訓練を重ねていないと劣化してしまう。
 だからであろうか、学校秀才には想像力に欠ける人が少なくない。
 「いかなる分野でも共通して必要とされる重要な能力が、ひとつある。それは想像力だ」
 とは私の言ではなく、500年昔にマキアヴェッリが遺した言葉である。
 「自分ならばどう考えるであろうか」を、あらゆることのスタート・ラインにしてみてはどうであろうか。

(「想像力について」同書97頁)

 《東大話法》で煙に巻かれ、窒息死しないよう、今日の午後、ヤッホー君、「品川歴史館」に行って500年前の日本人に思いをはせてきます。

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2014年01月24日

小田原漁港

 はてさて、こうして湯河原にお泊りで出かけたヤッホー君、帰りに立ち寄ったのが「小田原漁港」!
 湯河原から東海道線上り方面の電車に乗って、三つ目、早川駅で途中下車!
 山はもちろんですが、海も大好きなヤッホー君です、風もなく、空は真っ青、日差しがたっぷりあって、野良猫がのんびり日向ぼっこしている港を市場へと向かいました。
 
 神奈川県にある漁港のうち、「小田原漁港」は法律では「第三種漁港」と言いまして、漁船の利用が全国的なものとされております。神奈川県の漁港ではほかにありません。
 「第三種漁港」のうち水産業の振興上、特に重要な漁港で政令に定めるものが「三崎漁港」(三浦市)です。神奈川県の漁港ではほかにありません。
(神奈川の公式サイト、県内の漁港紹介)
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f790/p8884.html

 小田原の漁業は、現在の本町、浜町に「船方村」と呼ばれる漁村が起こったことがその発祥とされています。
 特筆すべきは、かつて小田原のブリ定置網漁は全国的に有名で、米神(こめかみ)漁場は日本一と称され、昭和20年代から30年代にかけて、ブリの漁獲は最盛を誇ったこともあったほど(注)。

 そして:

 18年の歳月と工事費約11億円をもって、1968(昭和43)年1月に「本港」が完成しました。
 同年3月、小田原漁港内に「小田原市公設水産地方卸売市場」が開設し、相模湾や伊豆近海をはじめとする全国各地からの陸揚げ拠点となりました。
 翌1969(昭和44)年2月、「第三種漁港」に変更指定され、同年11月に漁港の管理が小田原市から神奈川県に移管されました。
 沿岸漁業の陸揚げ拠点としての発展と、漁船の大型化により、本港西側に「新港」の整備に着手しました。
 12年の歳月と工事費約18億円をもって、1981(昭和56)年4月に「新港」が開港しました。

(神奈川県、西部漁港事務所、小田原漁港の歴史)
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f70122/p367044.html

 漁船の利用範囲によって漁港の種類を規定する法律は「漁港漁場整備法」ですが、1月24日金曜日、ヤッホー君は「海洋基本法」2007年4月成立、同年7月施行)の立法過程について勉強しました。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kaiyou/about2.html

 それは、慶応義塾大学名誉教授、栗林忠男先生が、2007(平成19)年7月24日(火)、海運ビル2階「海運クラブ ホール」でなさった講演録を通してです:

 「海洋基本法」が中国などの近隣諸国との海洋権益を巡る紛争などに戦略的に対応できる体制を整えることが主な目的であるかのような記事が目立った点であります。
 当時の政界の一部にそのような雰囲気があったことは事実だと思いますし、また中国との海洋権益の争いが熾烈になってきたということが、この法案を後押しするきっかけになったことも事実であろうかと思います。
 しかしながら、成立した「海洋基本法」が単に特定の海洋権益を確保することを主な目的とするものでないことは、法律の内容を見れば一目瞭然であります。
 「海洋基本法」は、海洋を巡る資源・環境・交通・安全・産業・科学技術・教育などの諸問題に関して、今後我が国が総合的な政策を推進して行くための包括的な基本法として成立したものであるからであります…

 海洋の法的諸問題は単一の国際条約にまとめるように、という国連総会の要請を受けて、1973年以来10年間にわたって多数の国が参加して、第三次国連海洋法会議が開催されました。
 そして、この会議は1982年に320カ条と9つの附属書から成る「海の憲法」とも言われる「国連海洋法条約」(UNCLOS)を採択したのであります。
 この条約は1994年に発効しましたが、2年後の1996年に少し遅れて参加した我が国を含めて、現在150以上の国がこの条約の参加国となっております。
 先進国の中で唯一の未批准国は米国でありますが、米国も近々この条約に参加するだろうという情報が伝えられております…

 今日の我が国を取り巻く海洋問題の状況は著しく多様かつ複雑であります。

 「海洋立国」への道程が決して平坦ではないことは容易に想像がつくことであります。
 例えば、世界第6位の広大な管轄海域である日本のEEZ(Exclusive Economic Zone 排他的経済水域)、あるいは広大な大陸棚に関する開発、利用、保全、管理を今後我が国はいかにして行なって行けばよいのか。
 どのような政策あるいは法制度、国家計画の下でそれを推進していけばよいのかという問題、
 あるいは我が国の沿岸域の資源、環境の管理・保全や海域利用の輻輳・競合の調整といったものをどのように行なえばよいのか。
 国や地方公共団体、事業体、住民、NPOなど多数の多様な関係者の参画や連携、共働というものをいかに図るか。
 それらの主体による総合的な沿岸域管理はいかに実現したらよいのか。
 広い海洋やあるいは沿岸に近い沿岸域の総合的管理には、それらの政策課題に的確に対応できる知識・能力を有する人材の育成が重要でありますが、そのための教育研究の推進をいかに図るべきなのか。
 大学等はそれに対してどういうカリキュラムを用意すべきなのか。

 ほんの僅かな課題を例として述べさせていただいたに過ぎませんが、これらを含めて、総合的解決を要する非常に多くの重要課題が山積しているのが我が国の現状であろうかと思います。

(“今後の我が国の新海運政策について”―「海洋基本法」施行の機会に―、「『海洋基本法』の成立について」)
http://www.jpmac.or.jp/investigation_results_research/policy01/performance.pdf

 ヤッホー君、皆さんと昼食をとりに入ったお店のなかで、多くの重要課題が山積している現状に、おさしみ三点盛りセットを口にほうばったまんまもぐもぐ、お茶漬けが出てきたときはついつい、まごまご、もじもじしてしまい、箸を床に落っことしそうになったそうです…
  
 「まご茶漬け どん」(小田原市早川1-6-1 小田原さかなセンター内 Tel 0465-24-8001):

 日本で唯一のお茶漬け専門店。
 忙しい漁の合間に、「まごまごしないで食べることができた」ことから、この名前が付いたといわれています。
 こんぶ・かつお・アジなど、5種類の海鮮ダシを使った絶品のメニュー。
 ランチなどにご利用下さい。
 熱いうちに召し上がれ。

http://www.sakana.co.jp/shop.htm#don

(注)
 ブリは成長に伴い呼び名がかわる代表的な出世魚で、西日本では「ブリ文化圏」を形成するほど重要な水産物です。

 2009(平成21)年漁業・養殖業生産統計年報によると、ブリ類の漁獲量(天然物)は78,334トンで、主な漁獲地は千葉県(10,998トン)、島根県(9,817トン)、長崎県(8,290トン)です。

 一方、ブリ類の全国の養殖による収穫量は154,943トンで、主な収穫地は鹿児島県(51,000トン)、愛媛県(28,682トン)、大分県(18,999トン)です。
(2011(平成23)年10月、農水省・消費者の部屋回答)
http://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1110/a01.html

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2014年01月23日

旅荘船越

http://www.youtube.com/watch?v=M7uNmhWAt6A

 また? どうしたんです? 天地真理(1951年生まれ)?
 いえ、いえね、あのね、1月22日水曜日10時10分東京駅待ち合わせにて、2013年度江東区共済会宿泊研修会が湯河原で開かれてヤッホー君、参加してきたのです。
 その帰りの本日木曜日、東京駅でヤッホー君、参加された藤原さんに、今朝チェックアウトするまでの間、ホテルの脇からミカン園まで坂道、階段、トンネルをくぐって登っていったんですよってお話していたら、じゃあ、次回、旅荘「船越」まで歩いていってみて、あそこは船越英二の…、でも今はあるのかしら…と言われたのでした。

 船越英二って言われると、ムカシのテレビ番組「時間ですよ」を思いだしていた、とこういうわけなんですね。

http://www.youtube.com/watch?v=fFwOoF8y8Tg

 2007年3月17日に父で俳優の船越英二さん(享年84)を脳梗塞(こうそく)で亡くした船越英一郎(46)が3月20日、都内のホテルで会見し、妻のタレント松居一代(49)が英二さんと最初で最後の“会話”をしたと明かした。 故人の強い遺志で、葬儀は密葬としてこの日営まれた…

 昨年2006年夏に仕事帰りに実家に寄り、声を掛けたのが最後だった。
 妹からの電話で3月16日に病院に駆け付けた時はすでに意識がなかった。
 「親孝行をできなかったおわびと、おやじの名前を汚さないように精進するから安心して旅立ってほしいと声を掛けました。父の息子に生まれたことを誇りに思っています」
と涙をぬぐった。

(2007年03月21日10時02分更新朝日新聞)
http://www.asahi.com/culture/news_entertainment/NIK200703210003.html

 この妹さん、2010年の冬に亡くなっていました。

 俳優船越英一郎(49)の妹で旅館「旅荘船越」(神奈川・湯河原町)の元おかみの平野洋子さん(47)が、同旅館の離れで首をつって自殺していたことが2月10日、分かった。
 小田原署によると、2月7日午前7時15分ごろ、発見した家族が通報したという。
 平野さんは以前よりうつ病を患い、通院していたという。
 1983年、家業を継がずに俳優の道に進んだ兄に代わり、同旅館に入店した。
 1990年には経営者兼おかみに就任。湯河原温泉おかみの会会長をはじめ、多くの要職を務めた。
 だが、おかみ就任直後にまじめで責任感が強い性格からうつ病を発症していた。
 その後、病を克服し、2006年には自身の闘病経験を基にした著書『梅一夜』で第5回湯河原文学賞最優秀賞を受賞した。
 おかみとして旅館を切り盛りし、メディアにも取り上げられるなど活躍したが、うつ病が再発したことにより、昨年2009年10月末をもって旅館を閉館していた。

(2010年2月11日6時37分更新日刊スポーツ「船越英一郎ショック、名物おかみの妹自殺」)
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20100211-594672.html

 その妹さん、2007年に次のようにインタビューに応じておられました:

 昨年、自らの闘病生活の体験をもとにした小説『梅一夜』で湯河原文学賞最優秀賞を受賞した平野洋子さん。
 俳優の船越英二さん、長谷川裕見子さんを両親に、ドラマや映画で活躍の英一郎さんを兄に持つ洋子さんが、湯河原温泉「旅荘 船越」の女将兼経営者となったのは17年前。
 長時間にわたる重労働の無理がたたり、パニック障害とうつ病を発症。
 仕事と闘病の日々を赤裸々に語った…

 両親と兄は誰もが知る俳優であり、往年の大スター長谷川一夫は大叔父にあたるという華麗なる芸能一家のDNAを思わせる、品格と存在感。
 カメラの前に立つと、オーラに包まれているのがよくわかる。
 だが実際に話をする目の前の女将は、とにかく気さくで、学生時代の友と話しているような楽しいひとときだった。
 笑顔の陰に、いつ訪れるとも知れぬ発作との闘いがあることをつい忘れてしまうほど、夢中で話した時間は数時間にも及ぶ。
 それは、多くの人に支えられて今があることへの感謝と私への誠意にほかならない。
 また、自らの発する情報が、同様の病いで苦しんでいる人びとや、自分を育ててくれた町・湯河原のためになることを知っているからだ。
 今も、機会があれば病身を省みず、精力的に講演活動を行っている。
 今回の『梅一夜』の文才は誰もが認めるところだが、美貌にとどまらず、天は二物も三物も与えるのかと嘆きたくなるほど多彩な才能の持ち主。
 師範と免許は8種というから驚きだ。
 しかも、東京地検特捜部主任捜査官という国の要職を務められるご主人もまた、素晴らしい人格者という。
 先日、兄・英一郎さんが「かながわ観光親善大使」に選ばれた。
 改めて、湯河原町へも出かけてみたい。

(トランタンネットワーク新聞社・藤本裕子)
http://www.30ans.com/specialtalk/backnumber/200708.html

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2014年01月22日

dolphin hunt

Fishermen in Japan began slaughtering hundreds of bottlenose dolphins early on Tuesday morning, campaigners said, despite mounting international calls for the animals to be spared.

Members of the marine conservation group Sea Shepherd who are monitoring the annual cull in Taiji, on Japan’s Pacific coast, said local fishermen had started killing an estimated 250 dolphins just before 7.30am.

The animals were last week corralled in a cove in the town, which drew international attention in 2009 with the release of the Oscar-winning documentary The Cove.

More than 50 of the mammals, including a rare albino calf, were selected and removed from the pod for sale to aquariums and water parks. Together they are expected to fetch millions of dollars.

The rest are being slaughtered for their meat, a delicacy that most Japanese shun but which still forms part of the diet in Taiji and other whaling towns.


By Justin McCurry in Tokyo, theguardian.com, Tuesday 21 January 2014 03.22 GMT

Japanese fishermen begin annual slaughter of hundreds of dolphins

Cull of 250 animals goes ahead in defiance of worldwide outrage, US ambassador and Yoko Ono
http://www.theguardian.com/world/2014/jan/21/japanese-fishermen-begin-annual-slaughter-of-hundreds-of-dolphins

 同紙はさらに続きます:


In a rare public intervention by a US official, Washington’s ambassador to Tokyo, Caroline Kennedy, expressed “deep concern” over the dolphin hunt.

Kennedy tweeted on Saturday: “Deeply concerned by inhumaneness of drive hunt dolphin killing." She said the US government opposed the practice.


 これは20:57 - 2014年1月17日につぶやかれていますね。

In an open letter to the people of Taiji released Monday, the Japanese artist and peace campaigner Yoko Ono called for an end to the cull. "I understand how you must feel about the one-sidedness of the west to be angry at your traditional capture and slaughter of dolphins," she wrote.

But, Ono added, the slaughter was harming Japan’s international reputation and gave countries such as China and Russia an excuse to “speak ill of Japan”. She wrote: "The future of Japan and its safety depends on many situations, but what you do with dolphins now can create a very bad relationship with the whole world."



 そのお手紙を読む前に、同紙に添付されているビデオもぜひご覧ください。
 さらに2009年に公開されたアメリカ合衆国のドキュメンタリー映画、アカデミー長編ドキュメンタリー受賞作品 The Cove の予告編を観てみましょう!
http://www.youtube.com/watch?v=OYKNCN1ESZM

 オノヨウコのお手紙、公開状は、こうしてはじまります。

Dear Japanese Fishermen of Taiji,

I understand how you must feel about the one-sided-ness of the West to be angry at your traditional capture and slaughter of Dolphins. But that tradition was made only when the world, and Japanese Fishermen did not know what it meant to do harm to the Dolphins. I’m sure you have heard so many speeches in which all of these things have been discussed. So I will not bore you with it.

But I think you should think of this situation from the point-of-view of the big picture. Japan has gone through such hard times lately. And we need the sympathy and help of the rest of the world. It will give an excuse for big countries and their children in China, India and Russia to speak ill of Japan when we should be communicating our strong love for peace, not violence.

I am sure that it is not easy, but please consider the safety of the future of Japan, surrounded by many powerful countries which are always looking for the chance to weaken the power of our country. The future of Japan and its safety depends on many situations, but what you do with Dolphins now can create a very bad relationship with the whole world.

The way you are insisting on a big celebration of killing so many Dolphins and kidnapping some of them to sell to the zoos and restaurants at this very politically sensitive time, will make the children of the world hate the Japanese.


TO THE JAPANESE FISHERMAN OF TAIJI
FROM YOKO ONO LENNON, 20 JANUARY 2014.
(Imagine Peace)
http://imaginepeace.com/archives/20166

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2014年01月21日

国家と音楽家

http://www.radiodays.jp/radio_program/show/194

 いきなりですか?
 ヤッホー君は今日、イーチャリで「日比谷図書文化館」へ。
 館内で、ヤッホー君、あるかどうかすら、わからないほどの細い目で新聞を読んでおりました。
 そこへふいっと飛び込んできた記事がありましたもんですから、びっくり。

 それは2014年1月17日付け『週刊読書人』です。
 山口昭男氏(岩波書店前社長)の中川右介『国家と音楽家』(七つ森書館、2013年10月)の書評でした。

 おりしも昨年12月7日、表現の自由や国民の知る権利を脅かすどころか、国のあり方をも変えかねない「特定秘密保護法」が国会で可決された。
 多くの文化人、市民が街頭に出て、この法案に抵抗し、反対したにもかかわらず、時の国家権力は暴走し続ける。
 しかし、私たちは、文化の力の弱さを知りつつも、抵抗する人たちの「生き方」に絶えず励まされているのである。
 「戦争ができない国からできる国へ」の転換によって、人間の愚かさを繰り返してはならない。


 どんな本だったのか、注文しようと思った内容は、と申しますと、毎日新聞の書評もついでに載せておきましょう:

 2つの世界大戦と東西分裂を経験した20世紀は、音楽家にとっても艱難(かんなん)の世紀であった。
 ヒトラーやスターリンら独裁者が先導する全体主義ほど、個人の尊厳や表現の自由といった芸術の根源と激しく相反するものはないだろう。
 刃向かえば命を落とすかもしれない極限状況で、音楽家はどう行動したのか、本書は描出する。

 フルトヴェングラーは、「ドイツ音楽にとっては優しく気前のいい庇護(ひご)者だった」ヒトラーのナチ式敬礼に応じず、握手のために右手を差し出し、ささやかな抵抗を試みた。
 スターリン政権下を生きたショスタコーヴィチは、オペラで「耽美(たんび)主義的形式主義者」と批判され強制収容所送りの瀬戸際まで追い詰められた。
 だが後に、前者はナチスドイツで指揮活動を続けたことで、後者はスターリン讃歌(さんか)ともいえる「森の歌」を作曲したことで批判されてしまう。
 そんな非情な世紀の末、バレンボイムはイスラエルとパレスチナの和解のために宗派や国籍を超えたユースオーケストラを結成した。
 21世紀に本格化するこの活動にこそ、音楽が開く希望の地平線が見えてくる。

(2013年12月29日付け毎日新聞東京朝刊(広)「今週の本棚・新刊『国家と音楽家』=中川右介・著」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20131229ddm015070045000c.html

 そして、出版元の「七ッ森書館」の公式サイトからも:

 中川右介『国家と音楽家』(定価2,800円+税/発行年月2013年10月)
 ヒトラーに翻弄されたフルトヴェングラーとカラヤン、ムッソリーニに抵抗したトスカニーニ、スターリンに死の寸前まで追い詰められたショスタコーヴィチ――
 権力者と直面した音楽家たちの人生を描く、もうひとつの20世紀史。
 その時、何が奏でられたのか。
 戦争と革命を生きた音楽家たちが織り成す歴史ドラマ。

 はじめに
 この本は、音楽史に刻まれている大音楽家たちが、20世紀という革命と戦争の時代に国家とどう対峙したかを描く、歴史読み物である。
 国家と音楽家―― 本来ならば対峙するものではない。
 だが、20世紀という「戦争と革命の世紀」は多くの音楽家を国家と対峙せざるを得ない局面に追い込んだ。

 ある者は妥協した。
 ある者は屈服した。
 ある者は対立を避けて国外へ出た。
 闘い抜いた人もいるし、死の一歩手前にあった人もいれば、故国喪失者となった者もいる。

 「音楽に国境はない」と言われるが、そんな能天気なことは平和な時代だから言える。
 少なくとも、音楽家には国境がある。

 中川右介(ナカガワ ユウスケ):
 1960年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。「クラシックジャーナル」編集長。
 膨大な資料から埋もれた史実を発掘し、新たな歴史を構築する執筆スタイルで人気を博す。

http://www.pen.co.jp/index.php

 ところで「週刊読書人」の山口昭男氏(岩波書店前社長)は、1949年東京生まれ。
 2013年に社長職を辞しております。

「四つの仕事」を進める
 敗戦直後、茂雄は、戦争を止められなかったのは、文化が大衆のものになっていなかったからだ、との反省に立って、1945年12月に『世界』を創刊します。
 茂雄の死後も岩波書店は、1950年に「少年文庫」、79年に「ジュニア新書」、82年に「ブックレット」、2000年に「現代文庫」と、学術・文化普及のための器を次々に創出し、また今や辞書の代名詞ともなった『広辞苑』を1955年に世に問うなど、今日までに累計でおよそ3万4000点にのぼる書籍を刊行してきました。
 「文化の種をまく」との創業者の姿勢は、今日でも、「四つの仕事」すなわち
 「古典を普及する」
 「学術・文化の成果を伝える」
 「アクチュアルな問題に迫る」
 「子どもの感受性を育む」
として受け継がれています.

「問う。はじまる」
 大正デモクラシーにはじまり、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、ついに昨年の東日本大震災にいたったこの100年を改めて振り返ってみると、私たちが現代において直面している課題は、100年前よりもはるかに複雑かつ深刻であることに思い至ります。

(2012年11月「岩波書店」代表取締役社長、山口昭男「創業100年を迎えて」)
http://www.iwanami.co.jp/100th/top2.html

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2014年01月20日

新春民俗芸能の集い

 ヤッホー君のこのブログ、昨日の日記「畦地梅太郎」(注1)を読んでくれた仲間から、お正月のタウンウオークにつき、こだまがかえってきています。そのなかから二通だけご紹介。

 鶴川… 良い企画ですね〜 私も行きたいで〜す!
 前から歩きたいと希望していた場所でしたので、報告を楽しみにしてます。
 お気を付けてお出かけ下さい!!
 最近の北海道駒ヶ岳と歩くスキ−です。私はオレンジ服。

(山歩クラブの北海道の仲間)

 タウンウオークの下見まで行くのですね、ご苦労さまです。
 今年から、タウンウオークは、月末の日曜日になったので、参加しやすくなりました。
 今日の日曜日は、久し振りに映画3本のハシゴをしました。

  『マイヤーリング』(ヘップバーン主演、1957年)
  『おかる寛平』(エノケン/越路吹雪/岡田茉莉子出演、1952年東宝)
  『大脱出』(スタローン&シュワちゃん主演、http://dassyutsu.gaga.ne.jp/)

 「神保町シアター」で観たオペレッタ映画『おかる寛平』は肩の凝らない喜劇仕立ての和製ミュージカルでした。おかると寛平の駆け落ち道行きが現代風にアレンジした歌と踊りで楽しめました。共演の越路吹雪との掛け合い歌合戦とバックステーシをとり入れた物語構成で、華やかなりし頃の舞台ステージを映像で楽しめたのが何よりでした。
 当時の景色(舞台は帝国劇場を使用)や背景(今は無くなってしまった建物や乗り物)を作品に見るのが楽しみになっています。
 そんなこともあってか、最近、古い作品で昔日を確認したくなってあしげく名画座に通っています。
 3本目の帰りは、映画同好会でいっしょで、今も交流がある知人と新宿の居酒屋へ。彼とは、もう30年以上の付き合いになります。
 それでは、おやすみなさい。

(山歩クラブの熱烈映画ファン)

 ヤッホー君の日曜日は、と申しますと、イーチャリで「江東区文化センター、ホール」へ:

 江東区に受け継がれてきた民俗芸能を公開します。
 江戸時代に庶民の仕事や生活、お祭りから生まれ、育まれてきたみごとな技・芸は、江戸の雰囲気を会場全体に醸し出します。
 新春を彩るこの芸能公開をご覧いただき“粋”で“いなせ”な世界をお楽しみください。

 「木場の角乗」(記録ビデオ)東京木場角乗保存会
 「木場の木遣」木場木遣保存会
 「砂村囃子」砂村囃子睦会
 「獅子舞」
 「富岡八幡の手古舞」富岡八幡の手古舞保存会
 「深川の力持」深川力持睦会


(江戸の“粋”新春民俗芸能の集い)
http://www.city.koto.lg.jp/event/1109/12403.html
http://koto-kanko.jp/guide/about_kiyari/

 だってぇ、東北ではこんなニュースもあったんですもん。
 敗戦から70年、すっかりアメリカの傘下にあって何でも言うこと聞いているお利口さんばかりの国になりさがってしまってますが、ヤッホー君はアメリカ文化にかぶれたくない「日本人」でいたいんだって(注2)。

 岩手県大船渡市三陸町吉浜地区に伝わる小正月行事「スネカ」が1月15日夜あり、鬼に似た木の面をかぶったスネカが「悪い子はいねぇが」と地区の約400世帯を回り、無病息災を願った。
 江戸時代から伝わる、秋田県のなまはげに似た行事。
 地元の中学生ら約30人が、みのの装束をまとってスネカに扮(ふん)し、家々を回った。
 8ヶ月から5歳の親戚の子ども4人が集まった無職寺沢睦郎さん(73)方には午後6時半ごろ、荒々しい声を上げてスネカが上がり込んだ。
 「いい子にするか」と大声で聞かれると、子どもたちは怖がって泣きじゃくった。
 寺沢蓮琉(はる)ちゃん(5)は「ママの言うことを聞きます」と約束した。
 スネカは2004年、国の重要無形民俗文化財に指定された。

(2014年01月16日木曜日付け河北新報、「悪い子いねぇが」スネカ登場 大船渡・吉浜)
http://www.kahoku.co.jp/news/2014/01/20140116t35009.htm


(注1)
 「畦地梅太郎」という版画家に思い至り、ブログの主題としたところ、またまた今日、1月20日付けにて下記のメールを「鈴木工務店」の畑(ハタ)さんメールよりいただいておりますのでご紹介。山と音と絵、「可喜庵」をお借りしてなんかパフォーマンスしてみたいですね:

 「あとりえ・う」のお名前から素晴らしい記事によって大人気ブログに再登場させていただきましたご高配に、感激いたしております。「頂上の小屋」のポストカードを求めに寄ってみよう!と嬉しく拝読いたしました。
 無粋なことですが、記事の最後に紹介されていた市民タイムスにお名前のある版画家「平塚運一」と所縁がおありになるのでは・・?などとない頭をめぐらしております。
 私も「山歩クラブ」ブログをお気に入りに登録させていただきました。ファンの一人として今後も拝読させてください。
…次回の鶴川へのタウンウオーク、歩いてみましょう、鶴川!

 追伸:山歩クラブって検索するとブログが読めますが、歌だったり、オーケストラだったり、映画だったり、音声入りリンク先が多いので、勤務先ではイヤホンが必要です、為念!

(注2) 稲嶺氏再選 誇り高い歴史的審判 日米は辺野古を断念せよ
 名護の平和と発展、子や孫の未来、持続可能な環境・経済の在り方を見据え、誇りを持って投票した市民に心から敬意を表したい。
 稲嶺氏は一貫して「自然と未来の子どもを守るためにも、辺野古に新しい基地は造らせない」と訴えてきた。市民はその決意を信じ、市の発展と、自らや子孫の将来を託したと言っていいだろう。
 選挙結果はまた、昨年末に普天間県外移設の公約を反故(ほご)にし、政府の辺野古埋め立て申請を承認した仲井真弘多知事に対する名護市民の痛烈な不信任と見るべきだ。
 知事は選挙結果を真摯(しんし)に受け止め、埋め立て承認を撤回すべきだ。沖縄を分断する安倍政権の植民地的政策に追従するのではなく、民意を背景に県内移設断念をこそ強く迫ってもらいたい。
 知事は、辺野古移設への執着は県民への裏切りであり、辞職を免れないと認めるべきだ。県外移設公約を撤回し、民意に背いた県関係の自民党国会議員、自民党県連、市町村長もしかりである。
(2014年1月20日付け琉球新報社説)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-218090-storytopic-11.html

(注2、もうひとつ) 南相馬市長選:「脱原発」再選に名古屋市長ら「ええこと」
 任期満了に伴う福島県南相馬市長選が19日投開票され、東京電力福島第1原発事故以来、現職首長として全国の脱原発運動を先導してきた桜井勝延氏(58)が、いずれも自民系で前職の渡辺一成氏(70)、前市議会議長の横山元栄氏(65)を破り再選を果たした。
 「脱原発をめざす首長会議」に所属している東海地方の市長は19日、福島県南相馬市長選での桜井勝延氏の勝利を「当然」と受け止め、祝意を寄せた。
(2014年1月20日付け毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20140120k0000m010157000c.html 
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2014年01月19日

畦地梅太郎

 ヤッホー君のブログ、1月10日付け日記「可喜庵」をご参照ください。
 昨日1月18日付けにてとってもていねいな、ご親切なメールをいただきましたので、ご紹介いたします。
 1月10日金曜日、小田急線鶴川駅を降りて真光寺川を渡ってほど遠からぬところにある「鈴木工務店」でピ〜ンポンと押しました。
 そうしたら走ってこられて、一見の客、どこの馬の骨だがわからない、ひげ面のヤッホー君を「可喜庵」まで案内していただき、中にいれてくださり、懇切丁寧にご説明いただいた「鈴木工務店」の広報・可喜庵企画運営担当・畑(ハタ)典子さんからのお便りです。
 お勤めになっている「鈴木工務店」の皆さま全員の《仕事》に対する姿勢、情熱、意気までもが感じられるお便りです。

 山歩クラブ幹事様、web管理者様、みなさま

 こんにちは。先日は事前下見にお出かけいただき、ありがとうございました。

 また、可喜庵ならびに鈴木工務店を詳しくご紹介くださいまして、大変ありがたく心よりお礼申し上げます。

 ブログへのコメントがうまく入力できませんでしたので、こちらへ送信させていただきました。

 鶴川には旧白洲次郎・正子邸「武相荘」
http://www.buaiso.com/
の他M邸、I邸と可喜庵を合わせて4つのかやぶきの家が今も愛着を持って保たれています。

 大河ドラマの撮影にも使われた鶴川駅前の「香山庭園美術館」(施工:弊社初代宮大工・鈴木喜三郎)
http://www.h7.dion.ne.jp/~kagoyama/index.html
 版画家・畦地梅太郎氏のアトリエを解放されている「あとりえ・う」
http://www.atelier-u.net/
もございます。

 白洲さんも召し上がったという「そば処 藤田」(鶴川団地商店街)
http://sobaweb.com/report/tokyo/post_221.html
では挽きたてのお蕎麦がいただけます。

 日本の基層文化を映像で記録し発表ている民族映像研究所
http://www31.ocn.ne.jp/~minneiken/index.html
も、所長の姫田忠義氏の自宅が鶴川にあった頃は弊社のすぐ近くでした。

 既にご存知のことばかりかもしれません。失礼をいたしました。

 みなさまが鶴川へいらっしゃる日が可喜庵の定休となりますことを改めましてお詫び申し上げますとともに、散策が楽しい日になりますように、心よりお祈り申し上げます。

 ヤッホー君にブラボ−、ハタさんメールに、スタンディングオベーション(Standing ovation)ですよね。

 う〜ん、なぜかって言いますと知る人ぞ知るヤッホー山荘!
 山荘の玄関に、山歩クラブ発足の頃でしょうか、東京都で一番高い山、雲取山を登ろうとなって二日目の朝、ヘッドランプをたよりに山小屋から、ご来光を拝もうと山頂を目指して登り、富士山をバックに撮った写真が額に入って飾ってあるのです。
 そしてその写真の裏には、実は版画家・畦地梅太郎氏(1902-1999)のコピーがひっそりと隠れて眠っているのです:

 台北ではお世話になりました。
 私には日程的にも内容的にもツアーがハードすぎてやっと2日前に、徹夜もできるもとのからだに戻りました。
 東アジアツアーでは大ぜいの人たちにあたたかく迎えていただき感謝しています。
 人びとの願いがたくさん詰まっている台北には、都市化という発展以上に、市民のエネルギーを感じ取ってきました。
 このエネルギーが良い結果になるといいですね。
 発展に伴う大量生産、大量廃棄は避けてほしいです。
 お約束の『山男』を送ります。
 大好きな畦地梅太郎さんです。
 6月6日〜12日小田急デパート新宿7F美術画廊なら今でも。


 この絵葉書の消印は2010年6月6日です。
 絵葉書の裏は、畦地梅太郎氏の『山はさけぶ』です。

 さらにこの絵葉書以外にも、額の背面には燕山荘のロゴもついている畦地梅太郎作の版画のコピーが2枚も…

 燕山荘と畦地梅太郎氏って、いったいどんなつながりがあったのでしょうか…

 畦地が山を題材にし始めたのは、1937(昭和12)年、仕事のため訪れた軽井沢で、噴煙を上げる浅間山を見て“山は生きている”と感動を覚えてからだ。
 還暦を過ぎても精力的に登山にでかけた畦地は、米や食料で膨らんだリュックを背負い、何日間も山を歩いた。
 時には道に迷う。
 距離を間違えて食料が足りなくなる。
 暖がとれず、ふるえて夜明けを待つ。
 山に入ると、人間とはなんとちっぽけな存在であるかを痛感させられることばかりだ。
 しかし、たとえ不安や恐怖に駆られても頼れるのは自分しかいない。
 このような究極の状況に置かれるとあらゆる感覚が研(と)ぎ澄まされてくる。
 その時出合った山の美しさ、厳しさは、創作の糧として蓄えられ、後に畦地の版画の中に甦(よみがえ)ってくる。

 畦地の山は、一見単純でおおらかな印象を与える。
 ともすると、簡略すぎて写実的でないと受け取られかねない。
 しかし、燕岳(つばくろだけ)の燕山荘(えんざんそう)を題材にした〈頂上の小屋〉をはじめて目にしたとき、かつて私が燕岳で燕山荘を見た折の高揚感と重なった。
 作りごとでない、心に共鳴するものが確かに感じられたのである。
 「山へ行っても写生はしない。眺め、見つめて、心にしみ込ませていくだけ」というのが畦地の信条だった。
 「燕岳に登ってきた時も一度もスケッチをしなかった」と、当時燕山荘を経営していた赤沼淳夫さんは語る。
 畦地はスケッチに頼らないことで、紙に描く何倍もの集中力で記憶に刻んだ。
 そして、長い時間の中で記憶を篩(ふるい)にかけることで畦地は山の本質を見いだした。
 〈頂上の小屋〉が制作されたのは、畦地の燕岳初登頂から実に9年を経ていた。

(松本・安曇野・塩尻・木曽をカバーする地域新聞<市民タイムス>朝日美術館学芸員・木下真由美)
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/binofuukei/bino3.html

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宮本文昭

 ところでヤッホー君が訪れた「ティアラこうとう」での東京シティフィルの公開リハーサル。
 このときの素晴らしき指揮者は、宮本文昭さん。
 1949年生まれ、2007年3月31日、58歳の時にオーボエ奏者を引退し、現在は東京音楽大学教授。
http://miyamotofumiaki.com/index.html
 
 宮本文昭さんは、引退する前の年、2006年5月13日公開の映画「明日の記憶」(配給:東映)のテーマ曲をオーボエで吹いておりました:
http://www.youtube.com/watch?v=wOICgTXopXQ

 若年性アルツハイマーにかかってしまう主人公(渡辺謙)と、その妻(樋口可南子)、そしてそれを支える周囲の人々の心のふれあいを描く、涙無くしては見られない感動作。
 音楽は今最も旬な作曲家である大島ミチル、そしてメインテーマを演奏するオーボエの宮本文昭。
 切なく悲しい物語を、オーボエと大編成オーケストラが哀愁たっぷりに彩ります。
 ふたりはNHK連続テレビ小説「あすか」のテーマ曲(風笛)で共演、宮本文昭の代表曲になる程の認知された名曲となり、まさしくゴールデンコンビ再び。
 宮本文昭が美しい旋律を奏でます。

(2006/05/03「明日の記憶」オリジナル・サウンドトラック)
http://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&cd=SICC000000407

 ここで「あすか」のテーマ曲、「風笛」も聴いてみましょうか。
http://www.youtube.com/watch?v=0QvjVWNvNXs

 風笛(かざぶえ)は1999年10月−2000年3月放送のNHK連続テレビ小説『あすか』のテーマ曲です。
 オーボエ奏者の宮本文昭氏が演奏し話題を集めました。
 びっくりしたでしょう、「宮本文昭ラストコンサート」には、娘さんでヴァイオリニストの宮本笑里(えみり)さんも出演されていました。
 宮本文昭ファイナルコンサートからおまけにもう一曲「蒼の香り」も:
http://www.youtube.com/watch?v=6lKWoA4dbjA

 インタヴュー記事で宮本さんの声に耳をかたむけることにしましょう:

 粘着質な好奇心が源
 名門オーケストラの首席奏者を務め、ジャズやポップス、邦楽奏者とのジャンルを超えたコラボレーションを実現するなど、幅広く活躍されているオーボエ奏者・宮本文昭さんが、2007年3月末で演奏家としての活動に終止符を打つ。
 節目が来るのを待つのではなく、自ら節目を作って、次のステップに進むためだと語る。
 40年余り続けてきたオーボエから自らを解き放つ。
 (文・井上理江/写真・田中史彦)
―― ツアーも終焉(しゅうえん)に近づいています
 気負いなく、楽しんでやっています。
 僕のコンサートはトークから始まるんです。
 スタッフからは「演奏がだれるし、信用度がなくなるからやめてください」と言われます。
 でも、僕にとって仕事とは、自分の持っているものをみなさんにお見せしてそれを楽しんでもらうことであり、そのためのトークだと思っているので、このスタイルを貫いています。
 実際、「宮本さんのコンサートはオーボエ漫談だね」「お笑いのようなしゃべりから、演奏に切り替わった途端に顔つきが変わる。その瞬間を観(み)るのが好き」と喜んでくれているお客さんも多いですしね。


―― 演奏活動停止宣言、クラシック界は震撼(しんかん)しました
 いよいよやめるときだと思ったのは3年前ですが、実は、オーボエを始めた10代のときから、一生やるとは思っていませんでした。

―― それはなぜですか?
 おそらく育った環境が大きいと思います。
 僕の祖父は工場や骨董(こっとう)屋などいろいろな商売を経験してきた人で、父も洋服屋、コーラスグループのマネジャーを経て、藤原歌劇団のテノール歌手となっている。
 さらに、50代半ばで歌をあっさり辞めて母親とカフェを始めたりね。
 そういう祖父、父を見て育ったせいか、一生一つの仕事をし続けるという感覚がそもそもないんです。
 むしろ、40年もの長い間、オーボエを続けてきたこと自体、僕にすればすごく意外で、ずいぶんまっとうな人生の歩み方をしてきてしまったなと思うほどです。

 奏者としての自分に未練ない
―― オーボエへの未練は?
 僕はクラシックがやりたくて、そのためのツールとしてオーボエを選んだだけなんです。
 だから、奏者としての自分への未練はない。
 ただ、オーボエという楽器が僕を音楽家として成長させてくれたのは事実。
 感謝しています。
 実にさまざまな人々に引き合わせてくれ、視野を広げてくれた。
 「オーボエやめます」と言えるくらい興味の幅を広げることができたのも、他ならぬオーボエのおかげです。


―― 奏者を辞めて、何にチャレンジしたいと考えていますか?
 いろいろです。
 決して引退ではないし、音楽を辞めるつもりもない。
 ただ、楽器を置いた向こうにある、次のステップを目指したい。
 蓄積してきた音楽の経験を、より幅広いフィールドで生かしていきたいと思っています。
 オーボエ奏者である限り、どうしても「オーボエを吹いてください」となってしまう。
 でも、「辞めました」と宣言したらどうなるか。
 「じゃあ、結構です」と切られるか、「では、今の宮本さんに何ができますか?」と相談してくれるか。
 どんな人がどんなふうに今の僕を評価し、活用してくれるか。
 それがどきどきするし、楽しみでしかたないですね。


―― 昨年、オーケストラの指揮を経験されました。プレーヤーと呼吸感を共有しながらの指揮で聴衆を魅了しました
 小澤征爾さんに手ほどきを受けて挑戦しました。
 技術は圧倒的に足りないと思うのですが、プレーヤーの立場を長く経験しているのでどういうアプローチをすれば、奏者が理解しやすいかはつかめました。
 とはいえ、指揮活動に専念するわけではなく、音楽会のプロデュースや作曲などにも今までとは違った立場でかかわっていければと思っています。


 音楽以外で、もうひと花
―― 56歳という年齢は意識されていますか?
 もちろん。
 気力も体力もまだまだ十分にある今こそ、自分を変える最後のチャンスの年齢だと思っています。
 同時に、デッドエンドも感じています。
 だから、急いで全速力でやりたいことをやらなければと。
 実は、音楽活動をしばらく続けたら、その後に僕はもうひと花咲かせてやろうと思っているんです。
 音楽以外のことでね。
 ただひたすら一つのことをやり抜く。そういう人生もすごいと思う。
 でも、僕はやはり何通りもの人生を経験したい。
 そして、人生の最後の最後になったときに、「ああ、面白かった」って反芻(はんすう)したい


―― まさに、大団円
 高校受験に失敗したことも、18歳で単身ドイツへ向かった日のことも、昨日のことのように思い出せる。
 余生があるとしたら、すべての過去をそうやって、昨日のことのように思い返し、良かったなあとしみじみするような、そんな日々をすごしたい。


―― 常にアグレッシブ。その原動力は
 好奇心と冒険心でしょうね。
 僕は案外ねちっこい性格で、興味あること、面白そうと思ったことは絶対に実現するまであきらめないところがある。
 それを実現した後「ああ、こんな素晴らしいことができた」と思い返すのも好き。
 気に入った曲は何度も演奏する。
 そういう粘着質な好奇心がパワーの源かもしれない


 今の不安なんて知れてる
―― 肝もすわっています
 拾ってくれる神は必ずいるんです。これは、今までの経験の中で学んだこと。
 絶対に実現したいと真剣に願っていることを、そう簡単に神様は見捨てたりしないんです。
 ドイツに渡ったときの所持金は18万円。留学先も実は決まっていなくて、最初は観光ビザしか持っていなかった。その後、何度も危機にさらされた。それでも何とか乗り越えてきた。
 あのころの不安に比べれば、今の怖さ、不安なんてたかが知れている。
 どうにかなるさってけつをまくれるのは、若いときに「拾う神がいる」ことを、身を持って実感できたおかげでしょうね、きっと。

(朝日新聞がビートルズ世代に贈る、こだわりエンターテインメントサイト)
http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/061115.html

 もうひとつはそんな宮本文昭先生が、本当に教授職についたことのきっかけ、感動的な先生の言葉です:

―― 現在、東京音楽大学で、教職にも携わられていらっしゃいますが、以前から教えることに関心をお持ちだったのですか?
 2000年から日本に戻り、東京音楽大学で教えています。
 僕自身が、ヴィンシャーマン先生にオーボエを教わりたくて、18才でドイツのデットモルトの音楽アカデミーに入学して、多くのことを学びました。
 4年間で学校を卒業してから、先生にはもう教えを受けていませんでした。
 しかし、ケルン放送交響楽団のドイツでの演奏会が終わった後、楽屋口から出てきた僕を、ひとりのご婦人が訪ねてきてくださいました。
 僕のソロ演奏がとても良かったと感想を述べてくださり、お礼を言って帰られる時に「もしかして、あなたはヴィンシャーマンさんのお弟子さんですか?」と尋ねられたのです。
 25年以上の時間がたっているのに...
 「あなたの演奏を聴いているとヴィンシャーマンさんの香りがところどころに少しずつ感じられて...」と言われ、はじめは驚きました。
 その後、師匠から受け継いでいる音楽の香りが自分の中にもあり、それを感じ取ってくださるお客様がいらっしゃる。そのご婦人は音楽の専門家でもないのに!
 そんな思いが誇りにも思えてきて、自分の音楽を、次の世代に受け継いでいくことも自分の使命と思うようになりました。
 それもドイツではなく、日本の若い人たちに伝えていきたい
 それが日本に戻ることを決めたきっかけの一つです。
 今、若い演奏家が僕のところから巣立って、だんだんと成長してくれる現場に立ち会い、とてもうれしい気持ちでいっぱいです。


――中野区の皆様に、メッセージを。
 指揮をするようになって、ひとりのオーケストラ・プレイヤーとして参加していたときとは全く別の音楽への関わりを始めています。
 単純に言うと、オーボエのパートには一曲の中にも吹いている時と休んでいる時が(もちろん吹いていないときも、曲には参加してますが)あります。
 一番の違いは、その曲とずっと関わって、最初から最後まで一緒にいること。
 みんなが指揮者に集中していて、真剣な眼差しを受けること。
 指揮者として当たり前のことが、音楽にずっと関わっていることの喜びを教えてくれます。
 そんな時間を共有しに演奏会にお越しいただき、一緒に楽しんでいただければ、こんなに嬉しいことはありません。

(なかのZERO 野方区民ホール なかの芸能小劇場)
http://nicesacademia.jp/pop/miyamoto_pop.html

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2014年01月18日

三ツ橋敬子

 本番を2日後に控えた公開リハーサル…ってどんなもん?
 指揮者も演奏者も皆さん、私服でした。
 ○○番のところからお願いしますって指揮者、宮本文昭さんが言って、せいの、だったりワンツウ、だったりして、「音の波」を起こしていきます。
 途中、片手でジェスチャー。
 山歩きの「さ、ここで一本つけよう」じゃないんです。
 遠慮しないで引っ張る感じでいいので皆んなで、とか、ここは自己主張するように強く前にでていいんだと思います、とか、指揮者が演奏者に話しかけ、ときには○○さん、あなたが主役、とか固有名詞で話しかけるんです。常日頃から気心が知れていないとできないですよね。
 こうして、「音の波」に色をつけていくんです。
 だから、このときオーケストラに「音色」が誕生するんですね。
 音合わせでなく「色付け」、とヤッホー君、思いました。
 皆さん、うなづいたり、教えあったり、感想を言い合ったり、指揮者も汗だく。
 こうして何十人もの何通りもの楽器があるのに演壇でこころが一つになって、ということは、「音が響きあう」瞬間をねらうんですね。
 
 江東区役所にいらした江東区出身で、世界的に活躍しているお若い女性指揮者、三ツ橋敬子さん(1980年4月生まれ)のことを紹介しましたが、彼女のリハーサル風景が映像で残っています。
 ここで音づくり、音の色付け、音を響き合わせようとする営為についてじっくりご覧ください:

 情熱大陸「指揮者・三ツ橋敬子」
http://www.youtube.com/watch?v=dLozI73fXro
http://www.youtube.com/watch?v=22vozAfr0vw

 鬼気迫る表情でタクトを振る指揮者の三ツ橋敬子=兵庫県西宮市の県立芸術文化センターで2012年9月28日、写真(山崎一輝撮影)
 ◇人とつながる音求め
 先月28日の兵庫芸術文化センター管弦楽団名曲コンサートに初登場した指揮者、三ツ橋敬子(32)。
 前日のリハーサル現場を訪ねると、楽団員と会話を重ねながら同じ目線で音楽を創りあげる姿があった。
 指揮台の上で舞うポニーテールと軽やかに動くパンプスのヒールが、華やかな残像として心に留まる。
 2008年のアントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで女性初の優勝、2010年のアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで準優勝して、一躍注目された。
 今、日本人指揮者では30代の勢いの良さが目立つが、そのトップランナーの一人。
 男性社会の指揮者界にあって大きなインパクトを放っている。

 東京都出身。
 幼い頃からピアノ、金管バンド、合唱指揮などを経験するが、人生の針路が定まったのは中学3年生の時。
 通っていた音楽教室のイスラエル公演のメンバーに選ばれ、ラビン首相夫妻(当時)の前でピアノの即興演奏を披露した。笑顔の首相に抱きしめられてキス。その高揚感を味わった数日後、首相が暗殺された。
 「言葉や宗教が違っても、音楽で人はつながれる喜びを感じたばかりなのに。平和とは、音楽とは、自分とは、と考えました。次第に、音楽家になりたい、人とコミュニケーションをとりながら音楽を創る指揮者になりたいと思うようになっていきました」

 東京芸大に進学。
 指揮科の生徒では歴代6人目の女性だそうだ。その初代、伝統あるブザンソン国際指揮者コンクール初の女性優勝者、松尾葉子に学ぶ。
 「先生の存在がなければ今の私はありません。先生も女は無理と言われたそうですが、その時代に比べたら随分変わりました。大家(たいか)の方はステージではキャリアの長さも性別も関係ないと言いますけど、女性の指揮者はスタンダードじゃないから、聴衆やオーケストラの楽団員の受け取り方にちょっと普通じゃない感覚があるのかなと思う」
 男性指揮者の燕尾(えんび)服のような定型がないため、服装も靴も髪形もまだ模索中なのだとか。

 ウィーンに留学後、現在はイタリア在住。
 ローマやミラノではなく、ベネチア郊外で暮らしているのは、
 「私のやっていることはアナログな世界。都会のスピード感とは全く違う時間の流れの中に身を置いて、静かに音楽に向き合いたくて」
 とはいえ、日本での仕事が増えて、先月だけでイタリアと日本を2往復した。
 息つく暇もないが、恩師の一人、小澤征爾の教え通り、生涯勉強を心に誓っている。

(2012年10月10日付け毎日新聞大阪夕刊「創造のるつぼ:男社会で疾走する指揮者、三ツ橋敬子)
http://mainichi.jp/feature/news/20121010ddf012040015000c.html

 三ツ橋敬子さんへのインタヴュー記事で彼女の言葉をかみしめてみたいですよね。
 それで1月18日土曜日のスタートとしましょうか…

Q. ベネチアに住もうと思われた理由は?
A. はじめにイタリアに行ったときはミラノに1年間住んでいました。
 その時に初めてベネチアへ行って、ゆっくりとした昔のままの時間の流れ方や、文化の根源である伝統的なものがそのまま残っているような雰囲気にすごく色々なインスピレーションを得ることが出来て、それがクラシック音楽のアナログなものとすごくマッチするような感覚があったので、魅力的な街だから是非住んでみたいなと思ったのがきっかけです。

Q.「指揮者」はまだまだ女性が少ない仕事ですが・・・
A. まだ私自身はこの仕事を始めさせてもらったばかりなので、どうやってこの道を一生歩んで行って、人生を終えるときに「指揮者」というものになれるのかというのを常に考えて、課題にしています。
http://www.ntv.co.jp/yomikyo/20130220.html

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2014年01月17日

ブラームスはお好き

 え〜と、今日はブラームスの交響曲第一番と思ったのですが、第4番にします:

 Johannes Brahms(1833-1897): Symphony no.4 in E minor(1884〜1885)
 Great Bavarian sound of orchestra
 Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
 Lorin Maazel(1930年生まれ)
 Live 1995
http://www.youtube.com/watch?v=LY2BJYBw7TM

 どうしてってね、昨日1月16日木曜日のヤッホー君、イーチャリでまたまた「江東区ティアラこうとう」へ。

 東京シティ・フィルの公開リハーサル 2014年1月16日(木)、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団音楽監督、宮本文昭指揮の演奏会の直前リハーサルです。
 クラシックの名曲が作られていく過程を、どうぞお楽しみください。

http://www.kcf.or.jp/tiara/event_list.html‎

 そのプログラムが「ブラームス/交響曲第4番」でした。
 直前公開リハーサルというくらいですので本番は明日の土曜日です。
 2014年1月18日(土)は、「東京オペラシティ コンサートホール」にぜひ足をお運びください。
 午後7時より開演します。
 第276回定期演奏会「宮本文昭のブラームス第3弾」
  指揮:宮本文昭
  ヴァイオリン:大谷康子
  ブラームス/『悲劇的』序曲 作品81
  ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調作品26
  ブラームス/交響曲第4番 ホ短調作品98

 どうして「東京シティ・フィル」が江東区で公開リハーサルですかって。
 それはイマから20年前までさかのぼります。

 江東区は1994年の「ティアラこうとう」開館と同時に「東京シティ・フィル」、「東京シティ・バレー団」と《芸術提携》を結びました。
 現在、「東京シティ・フィル」は、「ティアラこうとう」を拠点として活動を広げています。
 また、「ティアラこうとう」定期演奏会シリーズ、区内小学校へのアウトリーチコンサート、楽団員が指導するティアラこうとうジュニアオーケストラの指導、とますます江東区に密着した文化活動を展開しています。
 プロのオーケストラとバレー団の両方と《芸術提携》を結んでいるホールは、国内では唯一です。

…昨日いただいた「公開リハーサル」案内パンフレットからです。

 2010年4月のことでした。こんなニュースもあったんですねぇ〜

 5日、世界を舞台に活躍する区立第七砂町小学校出身の指揮者・三ツ橋敬子さん(29歳)と、同南陽小学校出身のヴァイオリニスト・小野明子さん(31歳)が江東区役所を訪れ、山ア孝明・区長を表敬訪問しました。
 今回、世界で活躍する2人が同じ江東区出身ということもあり、区と芸術提携を結んでいる東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が、「6月の定期演奏会でぜひ一緒に」と地元での公演を2人に持ちかけ、三ツ橋さんの指揮で小野さんがヴァイオリンを弾くという共演が実現することになりました。
 2人の共演は初めてのことです。
 2人の訪問を受けた山崎区長は、笑顔で6月の共演の話しに触れ「本物の音楽を多くの人たちに聴いてもらういい機会です。頑張ってください」と話しました。
《三ツ橋敬子さん》
 区立第七砂町小学校卒業。2008年にイタリアで開催された「第10回アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクール」で日本人初の優勝者。
《小野明子さん》
 区立南陽小学校卒業。12歳でイギリスのメニューイン音楽院に単身留学。現在は同音楽院の教授として、イギリスを中心に世界各国で活躍中。

(2010年04月06日13時41分更新江東区公式サイト、報道発表一覧、広報)
http://www.city.koto.lg.jp/news/3130/51322.html 

 まだまだ今日の日記は終わりません、といいますのも、ヤッホー君にとっての《ブラームス》は懐かしいフランスの香りがするからなのです。

Aimez-vous Brahms (in the Italian version) is a novel by Françoise Sagan (1935-2004), first published in 1959. It was published in the USA in 1960, and was made into a film under the title Goodbye Again in 1961 starring Ingrid Bergman and Anthony Perkins.(data from Wikpedia)
http://www.youtube.com/watch?v=iebrectLv9M

 フランソワーズ・サガン(1935-2004)の小説にはこんな風に現れます:

≪Un sale petit objet incommunicable, prétentieux, vulgaire et avec qui je fais bien l’amour.≫ Il se mit à rire tout haut. Elle ne lui demanda pas pourquoi mais tendit la main vers la radio. Roger suivit son geste des yeux . . . Qu’avait dit Paule, l’autre soir? Au sujet de la radio et de leurs soirées . . . ? Il ne se rapplait plus. On diffusait un concert qu’elle coupa, puis auquel elle revint faute de mieux. C’était du Brahms, disait le speaker, d’une voix chevrotante, et les applaudissements crépitaient.
≪Quand j’avais huit ans, je voulais être chef d’orchestre, dit-il. Et toi?
−Moi, je voulais faire du cinéma, dit-elle, et j’y arriverai.≫

 映画に出ているイヴ・モンタン(1921-1991)、彼の歌を聴きながら、オーケストラの指揮者になりたかった8歳のころに戻って、しばし瞑想:

Yves Montand - Quand tu Dors Pres de Moi
(du film ≪ Aimez vous Brahms ≫) (Musique de G. Auric d’après un thème de Brahms)
http://www.youtube.com/watch?v=KKl_FA3gCgo

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2014年01月16日

フラウト・トラヴェルソ

http://www.youtube.com/watch?v=GAcpXX8VO3c&list=PLF4C733B2E2E71DDB&index=7

http://www.youtube.com/watch?v=v9ICeLu6zQ4

http://www.youtube.com/watch?v=0bDzdQdJfZ0

 どうしたんですか、何が起こったんですかね、ヤッホー君に。
 じつはそのぉ〜、ワンコイン・コンサートのあと、ヤッホー君が買い求めた萩原貴子先生のサイン入りCD『トルコ行進曲〜モーツアルト四重奏曲集』、そのCDで先生の写真を見ていただきたいのです。
 先生が手にしているフルートは木管なんですね。
 先生自らそうおっしゃってくださったので、その音色にひたすら浸ろうと思いまして、それでCDを買った、とこういうわけなんです。

 会場でも先生からこんなことをお聞きして、目からうろこ。
 フルートって金管楽器、とばっかり思っていたのがヤッホー君。
 そうかぁ、ピアノなんてなかった、ちゃんばら、じゃ、ないない(失礼)、チェンバロだったバロック時代。
 そう金管なんてなくって、笛も縦よりは横向きがそういえば、カッコ良かったし、王様だって、横向きに吹いて、その絵を描かせたっていえば、そぅかぁ〜とひとりガッテン、膝をたたいていたってぇ〜

 もともと「フルート」という言葉は、横向きに構える笛と、縦向きに構える笛の両方に使われていました。
 つまり、縦笛のリコーダーも「フルート」と呼ばれていたのです。
 むしろ、18世紀半ば頃(バロック音楽の時代)まで、「フルート」という呼び名はリコーダーを指していました。
 そしてリコーダーと区別するために、横笛の「フルート」は、イタリア語で「フラウト・トラヴェルソ Flauto traverso」、ドイツ語で「クヴェアフレーテ Querflote」、フランス語で「フリュート・トラヴェルシエール  flûte traversière」(いずれも「横向きのフルート」の意)などと呼ばれていたのです。

(ヤマハ、フルート誕生ストーリー)
http://www.yamaha.co.jp/plus/flute/?ln=ja&cn=10602

 ふくよかな響きが深く心に届く。
 歴史を超えた、ヤマハモダン木製フルート。
 古楽器の複製ではなく、現代にあるべき木製のフルートを造るという新しいコンセプトから誕生しました。
 永年にわたる木管楽器製作のノウハウから、木の特性を知り尽くしたヤマハでなければ作り得なかったと自負する自信作です。
 金属製のフルートにひけをとらない力強い遠達性と、木製ならではの温もりのある音色とが見事に調和し、吹く喜びと感動を呼び起こすことでしょう。
 銀製、金製に次ぐ三つめの選択肢として、既にプロのフルーティストをはじめ多くの方々に愛用されています。

http://jp.yamaha.com/products/musical-instruments/winds/flutes/flutes/handmade_wooden/

 そうかぁ、山だってトラバースが好きなヤッホー君、あの北岳のトラバースの花園がお気に入りのヤッホー君、ますますフルート、フラウト・トラヴェルソが好きになったんですって。
 
 高校でフルートを指導している先生がこんなことを呟いております:

 私のお気に入りの第2弾はブラームスの交響曲第1番です。
 特に第4楽章のフルートソロが気に入ってます。
 当ブログで話題にしている第3オクターブのEの音から始まるこのフレーズはなかなかにスリリングです。
 3Eだけじゃなく3Fisもおまけに付いていますが(笑)。
 このフレーズを吹いて第3オクターブの音量や音色を確かめてマエスタを選びました。
 マエスタは音のコントロールができるフルートなんです。
 フルートソロは3:15からです。

http://hafutatu8713.blog101.fc2.com/blog-entry-561.html

 ブログでは、今まで木製のフルートについて、全くと言っていいほど取り上げて来ませんでした。
 別に私が木製のフルートが嫌いなわけではありません。
 いやむしろ好きなんです。
 パウエルのキーゴールドの木製フルートなどは見ているだけでも、ぞくぞくします。
 なぜ今まで取り上げなかったのかというと値段が高すぎるからです(どうせ買えないし…笑)

(2012.02.02 吹奏楽の風・岩槻高校吹奏楽部顧問の独り言)
http://hafutatu8713.blog101.fc2.com/blog-entry-640.html

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2014年01月15日

ワンコイン・コンサート

 昨日、恩賜公園のあと、ヤッホー君が向かった先は「江東区ティアラこうとう」です。
 だってワンコイン、500円でクラシックの生演奏があるっていうんですもん。

 今年度から始まったワンコイン・コンサートも最後となりました。
 今回はめったに聴くことのできない“フルートとチェンバロ”のコンサート。
 今年度最終回にふさわしい、贅沢なひとときをお過ごしください。
 演奏は東京芸術大学卒業、日本音楽コンクール優勝者である萩原貴子(フルート)とパリ国立高等音楽院卒業の中村恵美(チェンバロ)の共演。

(公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団)
http://www.kcf.or.jp/tiara/concert_detail_020200300568.html

 これが、ま、演奏者のバロック音楽やバッハ、楽器についての楽しいおしゃべりがあって、そして演奏終了後にはわれわれ観客は壇上に登れたんです。
 どういうふうに観客が見えるのかなって、高いところが大好きなヤッホー君、壇上から会場を見晴るかして喜んでおりました。
 ヤッホー!(シーッ、まったくもう、正月早々、相変わらずのとうへんぼくに、あんぽんたんで困ったもんです)
 気を取り直して…
 「東京古典楽器センター」の特別許可でチェンバロには触れない、という約束でのチェンバロの観察会。
http://www.guitarra.co.jp/index.html

 ここで一曲、フルート奏者の萩原貴子さまの音色を聴いてみませんか?
 では、どうぞ!「愛燦々」です:
http://www.youtube.com/watch?v=HGzAqBKMVD0

 えっ、あの美空ヒバリさまの?!…
 ヤッホー君は、コンサート終了後、ロビーで萩原貴子さまサイン入りCD『トルコ行進曲〜モーツァルト・フルート四重奏曲集』(日本コロンビア、2001年)をさっそくお買い求めになっておりました。

 さらに、チェンバロの名弾き手、中村恵美さまも:

 最近は、コンサートが控えていることもあり、ブログを書く暇があったら練習するという感じです。
 というのも、うちのかいじゅう君はママの練習が大嫌い(自分がかまってもらえないから)で、基本的に起きているときには練習させてくれないからなのです。
 ただうちはマンションなこともあって夜は練習できないので、私も少しでも練習しようと息子がテレビに集中しているすきに弾いたりしてみるのですが、すぐにやってきて「やめて!」と言います。
 実際には、まだほとんどしゃべれないので、あの手この手を使ってやめさせようとします。
 1、2ヶ月前までは、チェンバロの前まで来て大泣きでした。
 次に、私の手を振り払うという方法を使ってきました。
 そして最近は、「ねんね」とかわいい声で言いにくるのです。
 で、私の手をつないでお布団へ。
 でも、これは私の練習をやめさせるためのうそ。
 数分後には起きあがってとことこ歩きだすのです…。
 これがとってもかわいいうそなのですが、こちらは困ってしまいます。

(2010.06.18 Friday 3:56 チェンバロ奏者、中村恵美のブログ「息子 対 チェンバロ」)
http://blog.emi-cembalo.com/?eid=1381985

 おふたりはぴったり息があっており、とてもいい仲良しコンビでした。
 ぜひ、1月17日金曜日「白寿ホール」に聴きに行ってください。
 あっ、京大卒という落語家、桂福丸のお話しもセットです:
http://www.yosekura.com/schedule/detail.asp?id=11

 良い音楽を聴いたヤッホー君、このあいだの日本橋三越本店に鑑賞しに行った『心の美 富士山展』の後もそうでしたね。
 こころに良い芸術作品を味わったら、舌のほうも味わってみないとどうも中途半端な感じで、こころに落ちないんですって。
 『当日、近隣のお店にプログラムを持参すると、お得なサービスがあります』ってんで飛んでいったんです。
 
 住吉銀座商店街入り口近くのとんかつ屋、「金魚や」(江東区住吉2-10-12 Tel 3846-2903)さんです。
 お店の親爺さんを大久保先生(笠智衆)と思い、今度はだまってこころのなかで会話を交わしていたそうです。
 親爺さんが揚げてくれたメンチカツの美味しいランチはご飯粒を一粒も残さず、舐めるようにきれいに平らげていました。
 そして満足げに帰宅したそうですよ。


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2014年01月14日

夜学教師 and/or 区長

 1月14日火曜日は、午後、江東区猿江の恩賜公園へ、イーチャリで。

二瓶哲治胸像
 氏は1900(明治33)年4月3日、宮城県伊具郡丸森町に出生。
 若くして英才の誉れ高く1926(大正15)年、東京帝国大学法学部を卒業。
 1934(昭和9)年、東京市に勤務。
 1943(昭和18)年、城東区役所に転勤。
 1947(昭和22)年5月3日初代江東区長に就任。
 以来5期18年の長きにわたり区長を歴任し、江東区の復興と繁栄のために尽力せられた業績は多大であった。
 とくに治水事業として江東地区を水害から守る外郭堤防の完成、並びに改良下水道工業用水道の建設促進に努力せられた功績は高く評価せられ、また特別区長会会長をはじめ数多くの公的団体の要職を兼ね、特別区の自治権拡充等地上自治の発展に貢献せられた功労も顕著であった。
 氏は平素区政に対し深い熱意と不屈の信念をもち、かつ公私を混同しない清廉潔白な人物にして、またまれにみる雄弁家であったが、出張中病を得て1964(昭和39)年12月9日、64歳をもって惜しくも世を去られた。
 ここに施政のために身命を奉仕せられた氏の遺徳をしのびその業績を顕彰するものである。
 1966(昭和41)年12月9日


 ですので二瓶氏は、1934年東京市に勤務。
 その2年後、1936年の東京が舞台になっているのが、映画『一人息子』の世界 le petit monde:

 ねえ、おっかさん。
 おっかさん、やっぱりがっかりしてるんでしょ。
 ねえ。
 でも、ぼくはやれるだけのことはやったんですよ。
 おっかさんに苦労かけていることが、ずいぶんぼくの励みになったんです。
 でも、東京じゃあ、夜学の先生になるのでさえようやくのことだったんですよ。
 そりゃあ、ぼくだってこのまま夜学の先生で満足している訳じゃあないんですけど、これから先、でも何になれるか、てんで見当がつかないんですよ。


 市役所を辞めて夜学の教師をしている日守新一(1907-1959)演じる野々宮良助が、母つね、飯田蝶子(1897-1972)に胸の内を開ける場面です。
 良助の先生、大久保先生(笠智衆、1904−1993)も青雲の志を持って上京するも、とんかつ屋さんを営んでいます。
 台詞は、中澤千磨夫(1952年札幌市生まれ)『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書、2003年)74頁。
 良助だって、運が良けりゃきっとどっかの公園に胸像がたっていたかもしれません。

 そりや、おっかさんから見りゃ、ふがいない奴だとお思いでしょうけれど。
 大久保先生だってあの時分はずいぶん大きい望みを持ってましたよ。
 その先生が東京じやあ、とんかつを揚げているじゃありませんか。
 あの大きい青雲の志が五銭のとんかつを揚げているなんて。
 ねえ、おっかさん。
 人の多い東京じゃしようがありませんや。

…中澤千磨夫、同書、74-75頁

 でも最後、母つねは、子良助のお隣さんへの好意、思いやり、助け合いに理解を示す言葉をはきます:

 ふううん。
 おめえ、今日一日どんなにええとこに連れてってもらっても、あんなええ目にゃきっと会えなかっただ。
 なあ、貧乏してるとなあ、ああいうときのありがたみがふんとに嬉しくなるもんだ。
 おらも、うんと貧乏しただからなあ。
 なあ、事によると、おめえもお大尽(だいじん)なれなかったんがよかったかもしれねえだ。
 おめえ、ふんとにええ事してくれただし。
 これが何よりの在郷(ざいご)への土産だ。

…中澤千磨夫、同書、79頁

 ヤッホー君、映画『一人息子』の野々宮良助と思って二瓶哲治の胸像の前に、小半時ばかりじっと佇んで、静かに会話を交わしておりました。
 あの幕切れの母つねの決して明るくはない表情と、その糸紡ぎ工場の場面にも思いを馳せながら…

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2014年01月13日

小津安二郎

 山歩クラブご一行様が多比バス停から沼津アルプスの登山口をあがりはじめたとき、ミカン畑で作業していたおばさまと出会いました。
 「おはようございます。朝早くからたいへんですね」ってヤッホー君、ごあいさつをしました。
 「どこから来たね?」とおばさま。
 「スカイツリーのある東京の下町、墨田区、江東区です」
 「持っていかない?」とおばさんは、段ボールに入ったたくさんのみかんを差し示してくれました。
 バス停の近くの軒先ですでにひと袋100円でみかんを買ってリュックに詰め込んでいたヤッホー君、それでも小躍りして
 「ありがとうございます。じゃあ、一人一個づつでいただきましょうか」
 「遠慮はいらんよ、なんならひと箱持っていきな」
 「え〜っ、お名前をお聞かせくださいますか?」
 「わだあきこ」と教えてくださったのです。
 和田さんは、写真をと言ったら、ポーズまでしていただけました。
 ミラーレスの新兵器、画素数が多く、ブログにアップするのを断念せざるを得ません。
 和田さん、わだ峠、わだ…ワダ…
 
 12月15日日曜日、景信山で餅つき大会をして、陣馬山をめざして歩き納めの山行をして、陣馬山から下山してバスにのりこんだのが「和田峠」
 1月11日土曜日、江東区古石場文化センターで、小津安二郎最初のトーキー映画『一人息子』(1936年9月15日公開)を見ましたが、最初の場面は、信州の「和田峠」:

 僕は信州和田村(和田峠の下)には『浮草』と『一人息子』で2度行った。ここは僕の気に入った場所であった。
(ロケエションの弁)
…田中真澄『小津ありき-知られざる小津安二郎―』(2011年、清流出版)91頁

 遠い昔から、和田の里には人々が住みつき、さまざまな生活文化を現在の私たちに伝え残してくれました。
 15000年から20000年も前に、日本でも有数の質のよい黒耀石が大量に産出した和田峠や男女倉(おめぐら)へは、東北地方・関東地方・中部地方・北陸地方・近畿地方からたくさんの人々が、生活に欠かすことのできない黒耀石を求めて訪れました。
 その原石を加工して石器を作り、それぞれの国に持ち帰って使っていました。
 人びとが行き来したこの道は、「黒耀石の道」ともいえまます。
 男女倉遺跡からは数万点に及ぶ黒耀石器が発掘されています。
 奈良・平安時代には、仮宿から野々入をへて風越峠(かざこしとうげ)へ向かう「国府への道」も大切な文化遺産です。
 鎌倉・室町時代には、「諏訪大社信仰の道」として和田峠に通じる現街道が、にぎわいをみせていました。
 江戸時代に入ると、「中山道」の宿場町として整備され、国盗り合戦もなく平和な時代を迎えたため、今、私たちが文化財と呼んでいる貴重なものが数多く残されています。
 このように太古から時代が変わっても、人びとが途切れることなく往来した「歴史の道」は、今でも、長野県を横断する主要道路として歴史を刻んでいます。

(和田宿萬屋)
http://www.kokuyou.ne.jp/~yoro/meisyoindex.html

 なんか、あの映画の良さがじわっといつまでもあたまとこころにしみこんでいます。
 1936年の『一人息子』に小津安二郎は、映画音楽に"Old Black Joe"を採用しているのです:
 
1.
Gone are the days when my heart was young and gay,
Gone are my friends from the cotton fields away,
Gone from the earth to a better land I know,
I hear their gentle voices calling "Old Black Joe".

 若く陽気な日々は過ぎ去り、綿花畑での友人達も逝ってしまった。地上から離れ、より良い場所へ。彼らの優しい声が聞こえる、オールド・ブラック・ジョー

Chorus
I'm coming, I'm coming, for my head is bending low:
I hear those gentle voices calling, "Old Black Joe".

 <コーラス>僕も行くよ、すぐに行くよ、頭を垂れて。彼らの優しい声が聞こえる、オールド・ブラック・ジョー。

2.
Why do I weep when my heart should feel no pain
Why do I sigh that my friends come not again,
Grieving for forms now departed long ago.
I hear their gentle voices calling "Old Black Joe".

 心は痛みを感じないのに何故涙が出るのか、友は戻ってこないのに何故ため息をつくのか。遠い昔に旅立った人影に深く悲しみながら、彼らの優しい声が聞こえる、オールド・ブラック・ジョー

3.
Where are the hearts once so happy and so free?
The children so dear that I held upon my knee,
Gone to the shore where my soul has longed to go.
I hear their gentle voices calling "Old Black Joe".

 幸せと自由を感じた日々はいずこへ。膝に乗せて可愛がった子らは旅立った。私の魂が行かんとする岸辺へ。彼らの優しい声が聞こえる、オールド・ブラック・ジョー

http://www.worldfolksong.com/foster/song/old-black-joe.htm

 その映画製作から間もない1年後の翌年1937年9月9日のこと。
 小津安二郎のところに招集令状
が来て、近衛歩兵第二連隊に陸軍歩兵伍長として、宣戦布告なき戦争に中国大陸の戦線へ送り込まれてしまうのです。
 34歳でした。

 かうした支那兵を見てゐると、少しも人間と思へなくなつて来る。
 どこへ行つてもゐる虫のやうだ。
 人間に価値を認めなくなつて、ただ、小癪に反応する敵線ーいや物位に見え、いくら射撃しても、平気になる。

(小津安二郎戦場談)
…田中真澄『小津安二郎周遊』(2003年、文藝春秋社)247頁

 小津安二郎の戦争は過去の思い出話に閉ざされない。
 それは今、現在に問題を提起している。

…田中真澄、同書、248頁 

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正月の祝い酒

 乾杯!?
 そうなんです。
 今日は2014年はじめての月例山行でおめでたい、完歩できたしおめでたい、30人もお集まりいただきおめでたい、目出度い、芽出度いのめでたづくし、とお仲間からお酒のお振る舞い。
 ありがとうございます。

 一本目はお嬢さまがたにとあんず酒。
 もう一本は殿方にと日本酒「高砂」。
 しかしただの「高砂」ではござんせん、午年にふさわしく、おうまちゃんの干支ラベルが。
 どなたか、すかさず、「うめえ〜」といなないておりましたぞ。

 いずれも、「富士高砂酒造」(静岡県富士宮市宝町9-25 Tel 0544-27-2008)さんが蔵元。

 当蔵は、全国の総本山であります「富士宮浅間大社」のすぐ西側にあります。
 当蔵の発祥は、1820年(文政年間)あたりに滋賀県蒲生郡日野町の山中正吉が創業したと伝えられ、現在の地に「酒蔵」を構え酒造りを創めたのが、1831(天保2)年と聞いております。
 当時、駿河湾より駿東にかけて「ごうりき」という酒造に適した米がとれ、また富士山の伏流水が豊富に使えるというこの地に出会った縁により、「能登杜氏」とこの地で酒造を生業としたとのことです…
 能の中には、「松は緑」を謡うものが多くあり(松は常緑樹で、いつでも緑色であることから長寿・天下泰平・夫婦和合のたとえとされます)、特に謡曲「高砂」の相生の松・松は緑に感した初代正吉が「高砂」の銘を戴いたと云われています。
 謡曲「高砂」は結婚式でよく謡われる「高砂や、こ乃浦舟に帆をあげて月もろともに…」との歌詞の船出した夫婦がいつまでも仲睦ましく老いていく内容の謡です。
 創始の当時、天保年間は世相が暗く、飢饉が続いた頃で初代正吉は清めや和に使われる酒にこの意を込めたそうです。

(蔵元の紹介)
http://www.fuji-takasago.com/kuramoto/

 購入した場所は、「村の駅」(静岡県三島市安久322-1、Tel 0120‐54-0831)。
 「村の駅」村長、瀬上さまは、こんなことを述べておられます:

 伊豆・村の駅は、地元の採れたて新鮮なお野菜をはじめ地元の素材、昔ながらの独自の製法で作った地元特化型の食材、できたて・作り立ての商品を通じて、「伊豆のおいしさ」を追求した食のテーマパークを目指しております。
 生産者・作り手の顔が見え、地元のよさをお客様に伝える掛け橋として、「食」だけに限らず、体験・健康・学習できる施設としてさまざまなイベントを通じてお客様と一緒に楽しめる感動交流拠点としての役割を果たしていこうと考えております。
 伊豆・村の駅に来ていただいたお客様が、「ここに来たら何か元気になった」、そう思っていただける商品・サービスをどんどん企画し提供して参ります。

(伊豆・村の駅村長 瀬上)
http://www.muranoeki.com/index.html

 いずれのボトルもしかし、あっというまになくなってしまいました。
 一口、口に含んだでけで回してあげて、dégustateur の役に徹したヤッホー君。
 車中を歩き回った一升瓶も完歩!
 もうヤッホー君に戻ってくることはござんせん。
 しようがない、とヤッホー君、さらに「厚見酒店」(沼津市岡一色字姥ケ懐468-1 Tel 0559-24-7727)でもう一升、仕入れて、バスの一番後ろに陣取り、ちびり、ちびりと、さも美味しそうにいただいておりました。
 購入したのは、「富士錦酒造」(静岡県富士宮市上柚野532 Tel 0544-66-0005)さんの手造りの酒「沼津富士」。

 私達は、元禄年間に酒造りを始め、300年以上の歴史を持ちますが、初めから「富士錦」という名前があったわけではありません。
 この名を「憲政の神様」こと尾崎行雄氏にいただいてから、2014年でちょうど100年を迎えます。
 「錦に輝く富士山を称える」また「富士に錦を飾る」という意味が込められたこの名前。
 来年は命名100周年の記念の年となります。
 それにふさわしい地元の誇りになるようなお酒に、また富士山が世界文化遺産に登録された今は、世界に向けて日本の誇りになるようなお酒に成長していくこと。
 次の100年に向けて富士山文化の一端を担うような酒造りに邁進していくこと。
 それを目標に、社員・蔵人一同、決意を新たにしています。
 本年賜りましたご愛顧、誠にありがとうございました。
 心より感謝申し上げますと共に、輝かしい新年をお迎えいただくよう、祈念しております。

(蔵元便り・柚野の里から2014年1月号)
http://fujinishiki.com/page/kuramotodayori/2014/2014-1.html

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2014年01月12日

沼津アルプス

 山歩クラブの皆さま、今日1月12日日曜日は月例山行の日。
 大変おつかれさまでしたね。
 30人の大所帯をみっつのグループ、ウサギさんチーム(CLをカッシー)、リスさんチーム(CLを重田さん)、亀さんチーム(CLを西尾さん)に分け、多比バス停から太平山356m(亀さんチームはスキップ)、多比口峠、多比峠、鷲頭山392m、小鷲頭山、志下峠、馬込峠、志下山、志下坂峠、そして徳倉山256m下から香貫台入口バス停まで5時間、アップダウンを繰り返しながらの沼津アルプス一万尺でした。
 ほんとうにおつかれさまでした。

沼津アルプス.JPG

 沼津アルプス、昨年の残り後半を無事に歩くことができましたね。
 低山ながらアップダウンの激しさは、まるでわれわれの人生みたいだったでしょう。
 でも完歩できました。
 長時間のドライブ、バス会社に感謝。
 企画立案のカッシー、ありがとう。
 かめさんチームの先頭にたってくれた杉山さんのお孫さん、ゆうたくん、おつかれさま。
 会計などややこしい初仕事をしてさくさくとこなしてくださって、たっぷり戻し金をお返ししてくださった等々力さんご夫妻、それを助けてくれた千葉さん、たいへんでしたね、ありがとう。
 今回からシステムをかえてグループごと、リーダーになってくださった等々力さん、千葉さん、西尾さん、安田さん、重田さん、ありがとう!
 帰路の車中、マイクをお使いになってタウンウオークの説明をしてくださった江戸さん、たすかりました。

 そしてなによりも歩き通したくださった仲間30人の皆さまのご健闘を祝して乾杯!

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2014年01月11日

一人息子

 2014年1月11日土曜日、ヤッホー君は「江東区古石場文化センター」で静かに泣いておりました。

 息子は東京に行って勉強するんだ、と上京します。
 勉強して結局は勤めた市役所は辞め、定時制の夜学で数学の教師として身をたてています。
 母に内緒で嫁を籍に入れ、母には孫になる子もいます。
 その母が信州から永代橋を渡って江東区に住まう息子の家にやってきますが、息子は信州にいたかった、母といっしょに暮らしたかった、今の暮らしはしようがないんだと心の内を打ち明けます。
 母は、しようがないなんてあきらめるな、と諭します。
 その母を最後、東京見物させてやりなさい、と嫁は一張羅の着物を質にいれてお金をつくってくれます。
 では、皆で、と朝、家をでるとき、なんと近所の子供が馬に蹴られて入院するはめに。
 そのとき息子は、これで、と母を東京見物に連れて行くためのお金を「困っているときはお互いさまだから」とその子供の母親に渡すのです。

 なんとまぁ、母と子、家族、隣近所、職場などの小さな、小さな世界が、小津安二郎監督のローアングルからスクリーンに映し出されると、同じローアングルから撮られた大空に舞うヒバリのように、世界を俯瞰する鳥瞰図となって、見ている人びとのこころに届くのです。

http://www.youtube.com/watch?v=_gmdzh24c_E

 1936(昭和11)/松竹大船/白黒/スタンダード/1時間23分
 ■ 原作:ゼームス槇
 ■ 脚本:池田忠雄、荒田正男
 ■ 撮影:杉本正次郎
 ■ 音楽:伊藤%
 ■ 美術:浜田辰雄
 ■ 出演:飯田蝶子、日守新一、坪内美子、吉川満子、坂本武、高松栄子
 小津のトーキー第一作。
 進学を望む一人息子のために身を削って働いてきた母は、出世したはずの息子に会いに上京するが―。
 小津作品の常連・飯田蝶子が、複雑な想いを抱える母親役を静かに演じる、心に響く感涙作。

(神保町シアター、映画監督 小津安二郎、生誕110年・没後50年記念)
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/ozu2_list.html

 その映画会の後、演壇にたった方が熊谷健先生。

 思えば、1960(昭和35)年、弘前大学在学中に観た小津安二郎監督の「晩秋」と「東京物語」に魅了され、急遽上京し、小津先生とコンビの野田高梧先生のレッスンを受けるために、日本大学芸術学部に編入したのが、この業界とのなれそめだったのです。
 あれから、胸の熱くなるような師・小津先生との出会いがあり、その後、特撮の神様・円谷英二先生との出会いがあったのです。

(日本映画テレビプロデューサー協会会報2003年10月号理事・事務局長(当時)熊谷健「師・小津先生の生誕100年と〈協会〉の創立50周年を迎えて」)
http://www.producer.or.jp/kaiho/kaiho-2003/kaiho-0310/kaiho0310-05.htm

 先生は、イマ76歳!
 観客を見回すと、こんな言葉を残されて演壇をおりられました。

 残された人生は、のんびり過ごしなさい。
 好きなものを少しづつ食べなさい。
 好きなお酒をゆっくり飲みほしなさい。
 気の合う仲間、大事な人、友達をつくりなさい。
 どういう人だったら自分があうか、考えなさい。
 小津安二郎監督は、電車にのっているときでも、この人の家族は?どんなことを考えているのかな? といつも一人ひとり観察していました。
 それが監督業としての修業だと、創造的な映画を作るための活動だ、と言ってました。
 それに身内とは仲良くしなさい.

 そうなんです、今日は『江東シネマフェスティバル』!

 2013年12月6日
 株式会社フジクラ(取締役社長 長浜洋一)及び当社グループは、人にやさしい、地球環境にやさしい企業活動を通じて、持続可能な社会の実現と継続的な企業の発展の両立を目指しています。
 当社及び当社グループは、地域コミュニティの皆様とその生活、またその文化や慣習などを尊重し大切にすることは、企業の社会的責任(CSR)のひとつであると考えています。
 私たちは、昨年に引き続き、地域コミュニティの皆様と公益財団法人江東区文化コミュニティ財団、江東区古石場文化センターが主催する『第7回 江東シネマフェスティバル』の主旨に賛同し協賛します。

 『第7回 江東シネマフェスティバル』
 −映画のまち深川 小津安二郎の生まれたところ−
 日時:2014年1月11日(土)〜13日(月・祝日)
 会場:江東区古石場文化センター(東京都江東区古石場二丁目13-2)
 URL:http://www.kcf.or.jp/furuishiba

 私たちは、この『江東シネマフェスティバル』が、益々隆盛となって、財団の開催主旨にもございますように、この深川の地が、名匠・小津安二郎映画監督の生誕の地として小津安二郎に続くような映画が生まれる文化を育み、人びとの交流等を通じて『映画のまち深川』として、地域の文化がより豊かになり、より多くの人々が集う、そんな“まち”になることを心より願っています。

(株フジクラ(注)ニュースリリース
http://www.fujikura.co.jp/newsrelease/2038457_2220.html


(注)
「会々、明治16年晩秋、日本橋際郵便局ノ露台ニ於テ“アーク燈”ヲ点ジ、市民ニ電光ヲ紹介セシコトアリ。善八始メテ其ノ煌々タル光に浴シ、感嘆措ク所ヲ知ラズ、爾来電気事業ニ深ク興味ヲ有スルニ至リ、且ツ自ラ使用シ来レル糸組器機及絹、綿糸ガ当時ノ幼稚ナル電線トハ極メテ密接ナル関係ヲ有スル事ニヨリ、茲ニ不思議ナル縁由ヲ以テ、電線製造ニ手ヲ染ムルニ至レルモノナリ。時維レ実ニ明治18年2月トス。」
(創業者 藤倉善八 電線製造 アーク燈を見つめるひとみ)
http://www.fujikura.co.jp/history/1843.html
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はまらっせん農園プロジェクト

 今朝のNHKラジオですっかり目が覚めてしまったのですが、その前に昨年末、こんなニュースがありました:

 混合診療大幅拡大を 競争力会議の分科会
 記事:13/12/26付け共同通信社
 政府の産業競争力会議の医療・介護に関する分科会は12月25日、保険診療と保険外診療を併用する「混合診療」について「さまざまな患者ニーズを満たすよう大幅拡大を図る」などとする中間整理をまとめた。


 これに疑問を呈しているのが、新自由主義の跋扈と戦争前の社会への準備に余念のない今の状況から日本の『衰退への道』を早めなければいいのですが、と憂慮なさっている小児科の先生:

 政府が混合診療を拡大する、と諮問会議を通して表明している。
 患者ニーズを満たすためというのは、建前であって、
 ☆ 医療介護を成長産業にする、即ち企業の利潤追求の場にすること
 ☆ 保険財政を安定させる、即ち医療への国庫負担を減らし、その予算を別な事業に回すこと
の二つが、拡大の理由なのだろう。
 医療は、生命が関わるので経済原則は適用されない。
 国民は、命にかかわることとなれば、全財産を費やしてでも、新たな可能性のある治療方法にかけるだろう。
 その結果がどうであれ、結果は、富の国民から企業への移動だ。
 消費税増税も、国民の富を、企業に移転するような様相を呈している。
 医療が営利企業によって担われると、利潤追求がとことん行われることになる。
 命にかかわる病気の治療は、需要が極限まで大きくなる。
 すると、そのコストも極限まで拡大される、ということになる。
 需要と供給のバランス等成立しない。


 昨日のウオーキングでヤッホー君、1930(昭和5)年お生まれのおじいちゃんにお近づきになりました。

 毎日13000歩の歩きを自分に課していて、今日はそれがすんだ、こと;
 若い時は営業マンで毎晩飲むのが仕事だったこと;
 体中、生活習慣病であちこちガタがきているけど、検査してもらっているからどこが悪いか、自分で分かっていること;
 その対策で歩いているのだけど、杖をつかないで歩けるから当分大丈夫なこと;
 家では家内が健康管理をしてくれているので家内のいうことを聞いていること


 そんなことをおしゃべりしながら、コンビニの前の車寄せのところ、日差しがあたって風もない特等席にお座りになり、ずずっとインスタントラーメンをすすって、それからゆっくりワンカップを口に含ませるのです。
 これも日課なんだなぁ〜と高笑いなさりながら。

 太陽の恵みが欲しいヤッホー君もお隣に座っていました。
 歩いてきて火照ったからだを冷やそうとアイスクリームをなめていたヤッホー君、思わず、このおじいちゃんに負けた、と思い、アイスクリームをなめるのでなく、食べてしまいました。

 そんな昨日の出来事が思い出された今朝のラジオ:

 2014年1月11日(土)午前6:10〜午前6:25(15分)土曜朝いちばん『復興へのメッセージ』
 岩手県立高田病院医師…高橋祥先生のお話。

 はまらっせん農園プロジェクト
 “はまらっせん”とは気仙地域の方言で“いらっしゃい・お入りなさい・Let’s join us”などを表す言葉です。
 このプロジェクトは、仮設住宅入居者の生活不活発病や抑うつ状態の発症予防のため2012(平成24)年5月に企画されました。
 参加者は農作業による運動だけでなく、作物の世話や収穫による生きがい感を得られ、農園は仮設団地内外の住民同士の交流の場ともなっており、予防医学的活動として病院が積極的に支援しています。
 だれでも参加可能です。
 さあ皆さん“はまらっせん!”

 ☆ 高田病院と地域住民との関わりは?
 ☆ なぜ始めたの?なぜ農作業なの?
 ☆ なぜ病院がそこまでやるの?
 ☆ 仮設団地周囲の反応は?
 ☆ どのように始めるの?
 ☆ どのくらい広がっているの?病院はどのようにかかわるの?
 ☆ 農作業の効果は?
 ☆ 今後は?

(2012年10月26日付け高田病院 活動報告)
http://www.takata-hp.com/houkoku.php

 岩手県陸前高田市で拡大している、仮設入居者による農園活用プロジェクト「はまらっせん農場」。
 当プロジェクトを立ち上げたのは、県立高田病院の医師・高橋祥さん(40歳)。
 仮設住宅での生活が長期化する中で、農作業をやりたいと感じている患者が多いことに着目。
 ADL(食事や排泄、移動、入浴などの日常生活動作)の低下を留めるための施策として、昨年5月末に病院に企画書を提出、行政補助も受けず予算ほぼゼロでプロジェクトを開始した…
 今年2013年、プロジェクトはさらなる一歩を踏み出す。
 市の補助金を活用し、参加者にタブレット端末を配布するのだ。
 「きっかけは、参加者が他の農園の状況に強い興味を示していたこと。またFacebook上のいいね!やコメントなどの外部の反応も直接感じてもらいたい」と高橋さん。

(2013年7月30日付け東北復興新聞「岩手県陸前高田市 高齢者の生きがいづくりを考える」)
http://www.rise-tohoku.jp/?p=5252

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2014年01月10日

可喜庵

 小田急線鶴川駅。
 今日1月10日金曜日、今冬最強の寒波到来とかのニュースもなんのその、ヤッホー君が向かったのは小田急線鶴川駅。
 だってぇ〜、山歩クラブのお散歩会があるっていうんで、いったいどんなとこ?とでかけて行ったらしいのです。

 一日の乗降客数は、小田急線の各駅停車の駅では、最も多い駅と言われているのが鶴川駅です

 これは『可喜庵』で「鈴木工務店」の広報・可喜庵企画運営担当・畑(ハタ)典子さんからお聞きしました。

 この周りも田んぼばっかりだったんですよ。その田んぼをお借りして、可喜庵の屋根の葺き替えのときカヤを置いてそろえて、という大事な場所だったんです、でもいまは、宅地開発が進んでしまって

 そういえばここは、戸建ての新築家屋ばっかり、江東区はいたるところでマンションの建築ラッシュ。

 この「鈴木工務店」とは:

 創業1887(明治20)年

 桃李不言 下自成蹊

 史記の言葉で、桃の木の下には自然に人が集まり道ができることから、自然に人がしたい寄ってくることのたとえ。
 そんな家づくりをめざしています。

(代表取締役・鈴木亨(一級建築士)
http://www.suzuki-koumuten.co.jp/09-PROFILE/01profile.htm

 この「鈴木工務店」敷地内に『可喜庵』がありました。

P1000272.JPG

P1000273.JPG

 庭に、大きな柿木が五本ありました。
 それも今では二本残るのみです。
 隣町は、柿生(かきお)、特産の禅寺丸柿に由来しているといいます。
 先々代の名は「喜三郎」。
 それらをとって、「可喜庵」となりました。
 改装中に発見した札には先代、重吉の書で「可喜は柿に通ず。わかいほに柿木五本」とありました。
 鈴木工務店の半被の背にヤマ「喜」がマークとして使われています。

 可:それでよいとすること。よいとして認めること。
 喜:よろこび。慶事。

http://www.suzuki-koumuten.co.jp/13KAKI-AN/02kaki-aboutus.htm

 ハタさんはまた、「古民家、茅葺の家… しかし東京では、こういうムカシからの建物の建築を望んだとしても、ま、許可はおりません。大工さんも、屋根を葺く職人さんも、カヤの材料をそろえて運んでもってきてくれる業者もまぁ、見つけるのは至難の技でしょうね」って。
 これじゃあ、いくら日本を取り戻すといっても、本気なのかしらん…
 ユネスコ世界遺産への登録申請となるのかな、和食と同んなじように…

 僕は、海外で良い言葉を聞きました。
 「make a philosophy」「思想を造る、魂を造る」ということ、これが文化だと。
 形ではなく、フィロソフィーとして、人と人とが本当に仲良く、穏やかに、しかも「隣は何をする人ぞ」という隣の人までも許し合えるようななかで共に生きていく社会を作る、その思想を今、仮に民家の再生を見つめることで学んでみませんか、ということで伝えていく。
 3・11を経験して、日本人は当たり前の穏やかな暮らしがいかに大事であったかということに初めて気づき、思い知らされ、日本人としての日常に戻りたがっている。
 古い民家に託しているけれど、民家の話ではなく、民家の暮らしの話、文化の話であるということに、今みんなが耳を傾けたがっている。
 その思いを受けて、日本民家再生協会(JMRA)も民家に託された日本人再生のフィロソフィーを伝えられるチャンスではないかと思います。

(『民家』86号特別インタビュー「民家に託して伝えたいこと」より抜粋)
 会長 大林宣彦(映画作家)
 特定非営利活動法人 日本民家再生協会(JMRA 通称ジェムラ)
 千代田区六番町1-1 恩田ビル5階 Tel 5216-3541
http://www.minka.or.jp/index.html

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2014年01月09日

心の美『富士山』

 ヤッホー君の本日1月9日木曜日のイーチャリは、日本橋三越本店。
 仲間から招待券をいただいたのでした。
 1月5日日曜日、三浦アルプス縦走の折り、葉山町から仙元山に登り、そこから江の島の向こうに見えるはずの富士山がお隠れになっていたので、やはりどうしても富士山を見たい、と思ったこともありました:

 2013(平成25)年6月、富士山が「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」として国際連合教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録が決まりました。
 富士山は日本一高い山であると同時に我が国を象徴する山です。
 四季折々に美しく変化し、私たちの目を楽しませてくれるにとどまらず、誇りや希望、そして夢を抱かせてくれます。
 本展では富士山をこよなく愛し、1,000点を超える作品を描いた横山大観の「或る日の太平洋」をはじめ、明治時代以降の日本画、洋画、版画の秀作など、約60点を展示します。
 有史以来、日本人が愛してやまない富士山。
 名画を通して、霊峰富士に思いを馳せていただければ幸いです。
(心の美「富士山」を描く名画展、1月13日月曜日まで、於新館7階ギャラリー)
…http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/fujisan/

 こころが落ち着きました。
 まず入場してすぐのところにある横山大観の写真(上野池之端の自宅、現大観記念館でくつろぐ大観)と言葉(『大観画談』第10賞創造の世界)が目にはいってきます:

 作家はどこまでも創造していくことが貴いので、人の真似はいけません…
 ただ日本人であるという誇りをどこまでも堅持してもらいたい…


 富士の形だけなら子供でも懸ける。
 富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。
 心とはひっきょう人格にほかならぬ。
 それはまた気品であり、気迫である…


 画家には気韻生動ということがあります。
 気韻は人品の高い人でなければ発揮できません。
 人品とは高い天分と教養を身につけた人のことです。
 日本画の究極は、この気韻生動に帰着するといっても過言ではないと信じます


 一字一句、言葉をかみしめていきたいと思ったヤッホー君、さかんにメモります。

 さ、それから何度も行きつ戻りつ、今日のお気に入り3点を選んでいきます。
 どれもヤッホー君の大好きなお富士さまだけに、選ぶのは至難の技。
 ですのであくまでも今日の気分、今日の体調で、今日の審美眼で選びます。
 今日選んだ「作品と、明日のそれとは変わっていてよいのです。またその変化のない人は駄目です」から:

 ☆ 日本画: 川端龍子『怒る富士』1944(昭和19)年大田区立龍子記念館蔵
 ☆ 洋画: 五姓田義松『清水の富士』1905(明治38)年東京都現代美術館蔵
 ☆ 版画: 小林清親『駿河湾日没の富士』1880(明治13)河口湖美術館蔵


 でも今日、一番良かったのは、横山大観『日出処日本』1940(昭和15)年個人蔵かな、あの日本画の右上に煌々と赤い真ん丸の太陽が、高からず低からず、でも富士よりも高く、大きすぎず小さすぎず、かといって富士にも拮抗し、富士に登った太陽でもなく、富士と旭日が双耳峰のようにつり合いをたもちつつ自己主張しているのです
 役者のそろいぶみで、そして富士と朝日の後景に大海原、という構図が見事としか言いようがありません。

 ところでびっくり。
 それはギャラリー奥には富士山の写真が展示されています。
 また3点:

 ☆ 山岸明『晩秋の模様』(御殿場市双子山)
 ☆ 中沢初男『紅葉の薬師岳』(薬師岳)
 ☆ 八巻長子『残照』(観音岳)

 そして出口から入口にまた戻って、なにやらヤッホー君のメモ:

 全国の富士―「富士」と名のつく山は全国に350以上あります:
 ☆ 茨城県 赤沢富士 赤沢富士(まだ歩いていません)
 ☆ 栃木県 那須富士 御富士山(上に同じ)
 ☆ 埼玉県 弟富士山 弟富士山(上に同じ)
 ☆ 千葉県 上総富士 富士山(上に同じ)
 ☆ 東京都 八丈富士 西山(上に同じ)
 ☆ 神奈川県 三浦富士 富士山(三浦アルプスじゃないしね、まだ歩いていません)
 ☆ 山梨県 黒富士 黒富士(まだ歩いていません)
 ☆ 静岡県 伊豆富士 大室山(歩きました、頂上もまわりました!)
 ☆ 静岡県 下田富士 本郷富士(まだ歩いていません)…
 そして、
 ☆ 沖縄県 塩屋富士 塩屋富士(まだ歩いていません)

 山歩クラブ13年目といっても、あだ歩いていないところばっかり、よ〜し、挑戦だ〜い。
 そして山歩クラブの次月『第8回山の作品展』の参考にもなったそうです。

 そのせいか、急に空腹を覚え、ヤッホー君は同じフロアで開催されていた『第5回長崎展』で美味しい、美味しい<和食>をいただいてきました。
 いつもの犬ご飯と違って、今日は自分へのご褒美だ〜い。

 鯛をまぶしたご飯に、シマアジやヒラマサなど西海産の白身魚をたっぷり盛り付けて。
 セットの麦味噌仕立てのアラカブ(カサゴ)の味噌汁も長崎流。
 〈伊達本舗〉五島灘丼 味噌汁付
 1人前 1,781円
http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/nagasaki/

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2014年01月08日

裕次郎灯台

 どうしてもイメージの残影から離れられない三浦アルプス。

 海に浮かぶのは「赤い鳥居」とそれともうひとつ、「白い灯台」!

 京浜急行バス叶子営業所、所長の菅原さん(取材日:2012/07/05現在)がナビゲーターとなって、葉山の散策が紹介されているブログ発見。

 日本ヨット発祥の地として名高い葉山に佇む葉山マリーナで、クルージングを楽しんだあとに葉山の海岸線を相模湾の眺めを楽しみながら歩くコースです。
(京急バス所長さんのそぞろ歩き)
http://www.keikyu-bus.co.jp/kanko/kamakura/repo01.html

 そのなかに「手前が裕次郎灯台と奥が名島(菜島)」なる写真がアップされております。

 そうなんです、この石原裕次郎(1934-1987)について思いだしておりました。

 ヤッホー君が会社員になりたての頃、あの頃はカラオケブームだったんでしたかね。
 よく歌いにいったもんですね。

 失敗したヤッホー君の歌、いやイマでも音程がはずれ、調子っぱずれで肩の力を抜くといいよとか、感情を込めすぎている、思い入れが過ぎるって仲間からは揶揄され、お客さまからはご指導を受ける、でちっとも楽しくはないのです。
 うん、その失敗した歌がみっつほどあるのです:

(1) 石原裕次郎「錆びたナイフ」(1958)
http://www.youtube.com/watch?v=3fbzqrOSfgg

(2) 細川たかし「矢切の渡し」(1983)
http://www.youtube.com/watch?v=NxxDXfbXOEQ

(3) 五木ひろし「長良川艶歌」(1984)
http://www.youtube.com/watch?v=ttIMlLlcifA

 毎週日本各地を訪れ、その土地の歌自慢がプロの作曲家のレッスンを受けるというユニークな視聴者参加番組があった。
 カラオケブームのはしりの時期に、「少しでもうまく歌をうたいたい」というカラオケファンの要望に応えて生まれた『勝ち抜き歌謡天国』だ…

 1984年4月、新番組『勝ち抜き歌謡天国』の記念すべき第1回放送は「札幌名人決定!」だった…。

 レベルの高い出場者が集結して、毎回、激戦が繰り広げられた『勝ち抜き歌謡天国』。
 各地で名人に選ばれた出場者の中には、後にプロデビューを果たした歌手もいる。
 坂本冬美は和歌山で開かれた『勝ち抜き歌謡天国』の名人になったが、そこで出会った猪俣公章先生の内弟子となり歌手デビューとなった。
 ほかにも、藤あや子は秋田の名人。
 各地の名人が集結した『特集・勝ち抜き歌謡天国−全国名人大会−』(1984年)で優勝した武山あきよ(注)も演歌歌手としてデビューを果たしている。
 ちなみに、この大会で準優勝に輝いたのは森口博子だった…

 1986年3月放送の「和歌山市の巻」で幕を閉じた。

(2013/11/29アカイさんノート)
http://www.nhk.or.jp/archives-blog/genre/music/174094.html#main

 「錆びたナイフ」… どうしてこの歌が歌いたくなるのかなとヤッホー君、今日は朝から想いをめぐらし、考えていたそうです。

 小さい頃、ヤッホー君の記憶が辿れる一番初期の幼年期ですねぇ〜
 小学校に入る前ですねぇ〜
 母の実家の大清水に行きたかった理由のひとつは、まだ独身の若いおじ、ゆうすけちゃんやおば、すみこちゃんがいて、かっこよくって、大好きだったからです。
 そこまでさかのぼっていきます。

 このおじやおばがよく鼻歌に歌っていたのが「錆びたナイフ」だったようなそんな記憶が澱(おり)となってアタマの底にこびりついているんです。
 その記憶はまた土の匂いや手触りとも重なっているんです。

 裏の畑にクワを持っていって、おじが長芋を掘るのに、ヤッホー君も大人ようのぶかぶかの長靴を履いて、よくついていった記憶があります。
 傷つけないように深く、深く掘っていって、ほら、とほこらしげに掘ったばかりの長ぁ〜い土とひげのついた芋を見せてくれるときの、あの満面の笑みを見たくって。
 そして、ヤッホー君もゆうすけちゃんのまわりを小躍りしながら飛び跳ねていましたっけ…
 それがイマ、お山歩会のまえの「お天気祭り」の「ヤッホー踊り」につながっているんですって。

 だから、あの歌はね、「ゆうちゃんのカッコよさ」でなく、ヤッホー君には「ゆうすけちゃんのカッコよさ」なんですってぇ〜


(注)
 武山あきよは、ウイキによりますと、1968年北海道旭川市生まれ。
 1986年に市川昭介の内弟子となり、1987年7月に日本コロムビアより『白鳥の歌が聴こえますか/空知川』で演歌歌手としてデビュー。
 「白鳥の…」は北国の孤独な暮しを励ます曲だった。
http://www.youtube.com/watch?v=nKyFpycaKQM
…http://www.youtube.com/watch?v=Iv0erDJ1I8k
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2014年01月07日

仙元山から乳頭山へ

 三浦アルプス、面白かったですねぇ〜
 仙元山から乳頭山へ、と言い換えてもいいいですね。
 あるいは森戸の海から長浦湾へって言ってもいいですね。
 やっぱりもう一度おじゃまして今度は、ゆっくり散策したいところでしたね。
 
 まずは仙元山ですが、通常のコースは「風早橋」バス停から葉山教会をめざし、そこから仙元山をつめていくのですが、ショートケーキ、じゃない、ショートカット!
 バス停からいきなりの山路を辿って、仙元山の山頂にたちました。
 そこからの景色に仲間たち、皆さん、歓声をあげていました。

 仙元山(118m)

 森戸の海は、古くからの遊覧の地。
 将軍頼朝や実朝がこの砂浜で遊んだことが「吾妻鏡」に記されているとか。
 葉山には、海に迫る丘陵の緑に抱えられるように、ゆるやかに弧を描く砂浜が点在する。
 遠浅で波は穏やか。夏には色とりどりのビーチパラソルの花が咲く。
 冬の海岸は静かで人の姿も少ない。
 大学のヨット部の若者の姿がちらりほらり。

http://members.jcom.home.ne.jp/3372442101/zusi-hayama3.html

 そうなんです、仙元山からは眼下に江の島、大山、そしてお富士さまはその江の島の上に見えるのだそうですが、お隠れあそばされておりました
 そして、あの海のなかのあの赤い鳥居ってなに? すかさず仲間から声が…

 今から約850年前の1160(永暦元)年、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願しました。
 1180(治承4)年、そのご加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝公は、鎌倉に拠るとすぐさま信仰する三嶋明神の御分霊を、鎌倉に近いこの葉山の聖地に歓請し、長く謝恩の誠をささげたと伝えられています。
「吾妻鏡」によれば、歴代将軍自らこの地を訪れ、流鏑馬、笠懸、相撲などの武事を行なったといいます。
 災厄が生じると加持祈祷が行われ、七瀬祓(ななせはらい)の霊所としても重要な地であったと記され、源氏はもとより鎌倉要人からも篤い信仰があり、特に三浦党の祈願所でもありました。
 また、北条、足利諸氏の崇敬も篤く、1591(天正19)年には徳川家康公より社領七石が寄進されました。
 1674(延宝2)年に徳川光圀公、1892(明治25)年には英照皇太后陛下のご参拝を仰ぎました。
 現在も葉山の総鎮守として、町内はもとより近郷近在より多くの参拝者が訪れています。
 (神社庁指定神社)

 神社裏手の磯辺より沖合い700メートルに浮かぶ小さな島で、赤い鳥居が目印です。
 名島の左側には「葉山灯台(裕次郎灯台)」があり、夕陽に照らされて茜色に照らし出される姿は大変美しく、時間をも忘れるほどです。

http://www.moritojinja.jp/about/areamap.html

 その「森戸神社参拝クルージング」のツアーまでありました:
http://www.riviera-r.jp/hayama/pdf/2014_sanpai_cruise.pdf

 乳頭山(202m)

 乳頭山の山頂からは長浦湾、そして自衛隊の軍艦が停泊している長浦港が見下ろせました。

 横須賀港は、1865(慶応元)年に徳川幕府の勘定奉行の小栗(おぐり)上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ)とフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーが、横須賀村に製鉄所(後に造船所)を建設したことを起源としています。
 1884(明治17)年に横須賀鎮守府が設置されて以来、軍港として発展してきましたが、終戦後、旧軍港市転換法の施行により、横須賀市が「平和産業港湾都市」として新たな歩みを始めたのに合わせ、港は旧軍施設を転用し、緊急食糧の輸入・保管が行われるようになりました。
 1948(昭和23)年に貿易港としての指定を受けたのち、1951(昭和26)年には、港湾法により、重要港湾(国際海上輸送網または国内海上輸送網の拠点となる港湾、国の利害に重大な関係を有する港湾)及び、準特定重要港湾(国内産業開発上特に重要な港湾)に指定され、1953(昭和28)年には、横須賀市が港湾管理者となりました。
 その後、2010(平成22)年には、重点港湾(重点的に投資する「選択と集中」を港湾政策にも徹底するという目的で国土交通大臣が指定した港湾)に指定されました。

(横須賀港の紹介)
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/6620/minato/panhu/documents/pannhuretto24.pdf

 そして葉山にて、「森戸神社参拝クルージング」があったように、ここ横須賀港でもクルージングツアーがあいました。
 名付けて「YOKOSUKA軍港めぐり」です。

 横須賀港は今から約160年前に米国ペリー艦隊が上陸して以来、海軍港として発展してきました。
 アメリカ海軍施設(横須賀本港)と海上自衛隊の司令部(長浦港)が置かれた港として広く知られており、トライアングルでは、これらの港を船で巡る「YOKOSUKA 軍港めぐり」を毎日運航しています。
 「YOKOSUKA 軍港めぐり」は、アメリカ海軍の艦船や海上自衛隊の艦船を間近で観ることができる日本でも唯一のクルージングツアーです。

(株式会社トライアングル、横須賀市小川町28-1 横須賀ハイム201 Tel 046-825-7144)
http://www.tryangle-web.co.jp/naval-port/index.html

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2014年01月06日

葉山町から横須賀市へ

 三浦アルプスは葉山町から横須賀市まで、となります。

 1959(昭和34)年、皇太子(現天皇陛下)のご結婚を記念して、葉山町が夏みかんの苗木を配布し、育ったそれらの木が毎年多くの実が付けていました。
 これを活用して葉山の特産品ができないかと、葉山町・葉山町観光協会・葉山酒商組合・JA・商工会などが地域ぐるみで「葉山夏みかんワイン実行委員会」が発足し、2003(平成15)年に無農薬の夏みかんを原料とした「葉山ロイヤルワイン」が誕生しました。
 2013(平成25)年は11月4日に町内の農家やボランティアなどが無農薬夏みかんを収穫して、2300本ほどの「葉山ロイヤルワイン」新酒が完成しました。
  発売日:2013(平成25)年12月20日(金)
  葉山町内の酒商組合加盟店でご予約・お買い求めいただけます。
 夏みかんのほど良い酸味が効いて、すっきりとした味わいになっており、お酒がちょっぴり苦手な人から好きな人まで幅広く楽しめますので、是非ご賞味ください。
  価格:1100円(720ml)。
  問い合わせ:葉山町商工会
  Tel 046-875-2810

(葉山町公式サイト、葉山ロイヤルワイン)
http://www.town.hayama.lg.jp/cms_1211/sansin2.html

 しまった、と地団太踏んでいるヤッホー君、葉山町へのタウンウオークを提案しようって言っています。
 そのわけはもちろん、地酒を仕入れるためです!
 ほかには、葉山町の図書館見学も入れたいって。
 といいますのは、堀口大學(1892-1981)!

 「堀口大學文庫」
 葉山町名誉町民の詩人でフランス詩の翻訳で名高い堀口大學の著作や草稿など約400点を図書館2階で常設展示しています。

(葉山町公式サイト、図書館)
http://www.town.hayama.lg.jp/5/5_5.html

 堀口大學は葉山町歌も作詞しております:

 「山はみどりに海青く…」で始まる葉山町歌が制定されたのは、1980(昭和55)年3月3日です(作詞:堀口大學、作曲:團伊玖磨)。
(葉山町公式サイト、葉山町のプロフィール)
http://www.town.hayama.lg.jp/profile.html

 どれどれ、どんな歌?

 山はみどりに海青く
 遠見の富士はけざやかに
 近い名島の大鳥居
 竜宮城もあのあたり
 凪うつくしき葉山かな
 夢ゆたかなる葉山かな


 今回の山歩クラブの三浦アルプス縦走は、田浦梅林で終わるのですが、ここはもう横須賀市。
 横須賀市を歌った名曲は、と言えば、もちろんこの方のこの曲:

 山口百恵、横須賀ストーリー。
 葉山町歌のできる4年前のことで、葉山町歌ができた年、1980年の3月7日には三浦友和との婚約を発表し、同年秋には引退しています:
http://www.youtube.com/watch?v=pUShnm9SgY4

 山口百恵の13枚目のシングルにして最多の売り上げ66万枚を記録した「横須賀ストーリー」。
 1974年12月に「冬の色」でオリコンチャート初の1位を獲得して以来、2年半以上を経て7月5日付ランキングで2度目の1位に輝いた。
 神奈川県横須賀市出身の百恵の素顔を垣間見るような雰囲気をかもしだしていたことも手伝って話題となったが、アイドルだった百恵がこれを境に、弱冠17歳でありながら、“大人の女”を感じさせる路線へと大きく舵をきった歴史的な1曲となった。
 作詞は阿木燿子、作曲は宇崎竜童の夫妻で、初めて百恵のシングルを手掛けた。
 夫妻との付き合いは、アルバム「17才のテーマ」に「木漏れ日」ほか3曲を提供したことから始まる。
 百恵が宇崎が率いるダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドの「涙のシークレット・ラヴ」を気に入りアプローチ。
 「横須賀…」はアルバム収録曲としてレコーディングされたが、出来ばえの良さにシングルとして発売することが決定。
 阿木が百恵の生い立ちをベースに詞を書き、それに宇崎が曲を付けた。
 イタリアン・ツイスト調の曲はわずか15分で書き上げたという。

(2011年7月5日付けスポニチ【1976年7月横須賀ストーリー/“大人の女”になった百恵 宇崎・阿木夫妻と初タッグ】)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/07/kiji/K20110705001138540.html

 そうなんですか、ヤッホー君、「いい日旅立ち」なんかを鼻歌交じりに田浦梅林を抜けてくるとこんな看板に出くわしました。
 え〜、「葉山ロイヤルワイン」vs「横須賀梅ワイン」!

 おねがい
 この梅林の梅の実は、よこすかブランド「横須賀梅ワイン」等の原料にします。 取らないでください。
 (横須賀市)


 田浦梅林は1934(昭和9)年、皇太子殿下(現在の天皇陛下)のご生誕を記念して、山の所有者である石川金蔵さんを中心とした地元の人たちによって梅林組合がつくられ、700本の梅を植樹したことにはじまる。
 面積は約6000平方メートルあり、三浦半島でただひとつの梅林として知られている。
 現在では横須賀市の管理になっているが、1982(昭和57)年ごろからこの梅林に隣接して、田浦緑地(現在は田浦梅の里)に市が梅の植樹を行ない、いまでは、青軸・白加賀の白梅・養老の紅梅など約2700本の梅の花を楽しむことができる三浦半島随一の梅の名所となっている。
 美しい花と香りをいっせいにただよわせる2月中旬から3月中旬のころは大変みごとで、例年約3万人もの梅見の客で、終日にぎわう。
 また12月〜3月にはスイセンの花も楽しめる。
 梅林のある梅の里の付近では、毎年親子たこあげ大会や演芸大会などのイベントを中心に、盛大に田浦梅林まつりが開催される。
 この梅の実を原料とした「梅わいん」、「梅りきゅーる」は、横須賀の名産として好評で、市内の酒販店で販売されている。

(横須賀市公式サイト、田浦をあるく、田浦梅林)
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2482/walk_taura/b10092.html

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2014年01月05日

三浦アルプス

 皆さま、こんばんは。
 1月5日日曜日、山歩クラブの2014年初歩きでした。
 目指す山域は歌人・佐知子さま&森人 Tamu さまのこよなく愛される山域、三浦アルプス。
 ヤッホー君だってぇ、湘南国際交流村でおなじみの場所。
http://www.shonan-village.jp/

 この山並みは、一帯、里山。
 低山特有の道迷いしそうなコースでしたが、そこはしっかり9人の仲間の目で確かめながら歩きました。
 さらに、安田さんちの小学校2年生の男の子が御一行様のしっかりしたリーダー。
 おかげさまで無事、JR「逗子」駅から「田浦」駅まで、三浦半島の西から東まで5時間、歩きとおすことができました。
 お天気にも恵まれ最高の一日、でした。

 コースは、風早橋から仙元山〜観音塚〜大桜〜鉄塔下(お昼)〜乳頭山〜田浦梅林という南陵コースですね。

 もっともヤッホー君のおなかはお正月のあんころ餅となっとう餅、それに雑煮餅の食べ過ぎですっかりおなかがメタボ状態。
 歩くのもしんどかったんよ、下を見ようったっておなかがジャマするんだもんとか、ぶつぶつ。
 なんとかそれでも餅こたえましたが、田浦駅前には大好きな打ち上げ会場がありませんでした!

 しかたがない、乗り換えなしの横須賀線で錦糸町に帰るべきところ、東京駅で途中下車。
 山歩クラブが行ったおなじみの八重洲口、12月28日土曜日のタウンウオーキングの最後、打ち上げを兼ねた年末忘年会場で、こころゆくまで味わって戻ったそうです。

 もっともおあとでお聞きしますと、ヤッホー君、降りる駅を間違え、余分にもう一駅余計に乗ったそうですけど…本当にうまい酒盛りでしたね。

 では、次回の月例お山歩会までごきげんよう!

三浦アルプス.JPG

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2014年01月04日

日本のゴッホ

不忍池弁天堂

 そしてお参りに行ったヤッホー君の足がぴたっと止まりました。
 えっ、また寄り道?
 
 詩人・矢野文夫が書いたモデル小説「放水路落日〜長谷川利行晩年」に、彼の画商であった天城俊彦とのやりとりが描かれている。
          ☆
「慰留品は全然ないんだ。スケッチブックも日記も何一つない」
「あの小さな行李、最後まで手放さなかった行李もないのか」
「そうだ、養育院の規則で、入院者の遺品は一切焼却することになっているんだ」
「ひどいことをするな。死んでも放すまいとしていたあの行李には長谷川の傑作が入っていたのだ」と昌助(記者注:矢野自身のこと)は言った。
 長谷川が木賃宿の一隅にまで待ちこんで虎の子のように大切にしていた油絵小品や写生帖、日記、感想などの貴重な遺作は、養育院当局の手によって、一片も残さず焼却されてしまったらしい。

「あいつら俗吏に、芸術の尊厳を説いたってはじまらないよ。行路病死者の遺品は焼却すべしという規則があり、彼らは規則を遵奉しただけの話だ」
          ☆
 これを現代的に分かりやすく言えば、現在、彼の作品が一点1000万円以上するとして、利行が10点持っていたと仮定すると金額で1億円以上のものが焼却されたということになる。大儀をもつ社会制度の決まりには、芸術であってもそれはゴミである。
 長谷川利行は、リスクを背負って自由を尊び、下町をさすらい、行き倒れた。
 “日本のゴッホ”とされる天才画家の碑には、泥沼に咲く蓮の花がじつによく似合う。
 上野不忍池の“日本のゴッホ”長谷川利行の碑には、泥沼に美しく咲く蓮の花がふさわしい。

(文芸同志会、「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)
http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51405251.html

 そうなんです、長谷川利行(1891‐1940)の碑。
 ヤッホー君の撮った上の写真の右手にありました。
 碑文には、こんなことが…、つまり行き倒れた1940年のことです:

5月17日、三河島駅付近の路上で倒れ、行路病者として東京市立養育院板橋本院に収容される。
10月12日、胃癌で死去、満49歳。遺品類(絵も含む)すべて焼却される。

「養育院第五病室ニ胃ノ手術デ居リマス。
 午前中二一度ミニ来テ下サイ。
 詩集一冊下サイ。
 午後三時頃デモ何時デモヨロシイノデス。
 (至急来テクレナイト死亡スル、動ケナイノデス)。
 市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。
 何カ見学ニナルデシヤウ。
 氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テ下サイ。
 オ願ヒシマス。
 何カ甘イ菓子一折リ下サイ。
 死別トシテ。」
 矢野文夫 宛 長谷川利行 出

 
人知れず 朽ちも果つべき 身一つの
 いまがいとほし 涙拭わず
 己が身の影もとどめず 水すまし
 河の流れを 光りてすべる

    利行短歌


「わだばゴッホになる」 草野心平

 鍛冶屋の息子は
 相槌の火花を散らしながら
 わだばゴッホになる
 裁判所の給仕をやり
 貉(むじな)の仲間と徒党を組んで
 わだばゴッホになる
 とわめいた
 ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし
 ゴッホにはならずに
 世界の
 Munakataになった
 古稀の彼は
 つないだ和紙で鉢巻きをし
 板にすれすれ獨眼の
 そして近視の眼鏡をぎらつかせ
 彫る
 棟方志昴を彫りつける


 ヤッホー君、「日本のゴッホ」にはもうひとりいましたねぇ〜、と思い出しておりました。
 昨年の12月25日クリスマスの日、東大本郷キャンパス生協第二食堂3階で開かれていた「第4回東職シネマカフェ」。
 この集まりで見た棟方志功(1903-1975)、そして草野心平(1903‐1988)の詩。
 それは、「故井上ひさし小講演」DVD(30分)といっしょに上映されたドキュメンタリー16ミリフィルム(1976年ベルリン国際映画祭記録映画部門グランプリほか芸術祭大賞、キネマ旬報ベストテン第一位など映画賞を独占!):
「彫る 棟方志功の世界」(柳川武夫監督作雄)

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2014年01月03日

谷中七福神

清水寺.JPG

 写真の説明、長くなりますが…聞いていただけますか?
 今朝10時にJR両国駅に行きましたが、山手線も京浜東北線も動いておらず、JR「鶯谷」駅から「下谷七福神」を歩くぞ、と意気ごんでいたのですが、すっかりこれで意気を殺がれ、都営大江戸線で「両国」駅から「上野御徒町」駅を目指したのです。

 1月3日午前6時35分ごろ、東京都千代田区有楽町2のJR有楽町駅近くのパチンコ店で火災が起きた。
 この火事の影響で、東海道新幹線が上下線で運転を見合わせていたが、午前11時55分に運転を再開した。山手線、京浜東北根岸線、東海道本線も、午後1時までにすべて運転を再開した。

(2014年01月03日最終更新13時23分毎日新聞「火災:有楽町パチンコ店で火災 Uターンの足 乱れる」)
http://mainichi.jp/select/news/20140103k0000e040138000c.html

 なぜなら、そこは「谷中七福神」の弁財天「不忍池弁天堂」があったから。
 ところが寄り道の大好きなヤッホー君、清水寺に入ってしまった、とこういうわけでして…

 写真がイマ、入りましたねえ〜(ホッ)ひらめき

 舞台造りの清水観音堂からの眺めは、まさに江戸名所の一つであり、不忍池を見下ろす錦絵は広重ほか多くの絵師たちによって描かれたほど、風光明媚な場所とされた。
 清水観音堂は現存する寛永寺の建造物では1631(寛永8)年創建というから一番古く、安永年間(1772〜81)修理されただけで、現在、国の重要文化財に指定されている。
 清水観音の本尊千手観音像(国指定重要文化財)は恵心僧都(940〜1017)作と伝えられるものだが、江戸では観音信仰としての参詣者が多かった。
 観音堂内には本尊千手観音の縁起を現わした寿香亭守一の1800(寛政12)年奉納したという「盛久危難の図」が掲げられている。
 『江戸名所園会』に、平家滅亡後、主馬盛久は逃れて京都の清水寺に千日祈願をするが、源氏の追跡で捕えられ、由比ケ浜で打首となる寸前、首を斬ろうとする刀杖段々に折れて、清水観音の加護により命を助けられた話として伝えられている。
 それらから信仰に寄せて、庶民は、そのご利益、ご加護を授かろうとしたであろう。
 今なお清水観音堂には千羽鶴がところせましと奉納されて、祈願の跡は絶えないでいる。
 1689(元禄11)年の大火で、上野忍ケ岡にあった幕府学問所が焼失し、その跡地に摺体山から清水観音堂が移築された。
 将軍家光は儒者の林羅山に忍ケ岡の地を与え、学問所と書庫を建てさせたが、その後、尾張藩主徳川義直が先聖殿を寄進して、上野に幕府学問所が成立した。
 将軍綱吉は、上野の学問所にあった先聖殿をみて、1690(元禄3)年湯島に、より大きな先聖殿建設を思いたったといわれる。
 その敷地は現在の湯島聖堂(文京区湯島1‐4‐25)を含め、その西側の東京医科歯科大学及び周辺の敷地まで網羅したというから、綱吉の幕府学問所充実の意志は相当なものであったに違いない。

(上野商店連合会公式サイト)
http://ueno.jp/modules/pico2/index.php?content_id=12

 盛久処刑の舞台は鎌倉市長谷
 無人駅の江ノ電「由比ガ浜」で下車し、由比ガ浜通りに出る。
 右折して長谷東町バス停付近に来ると、大きな木が茂っており、その下に三つほど石碑が並んでいる。
 「主馬盛久乃頸座(くびざ)」と刻んである。
 鎌倉町青年団が1935(昭和10)年に建てた石碑が一番新しく、説明文がはっきりしていた。
 ここから由比ガ浜の海岸までは700メートル余りもあるが、当時はこの一帯が砂浜だったのだろう。

(週刊長野記事「静岡・神奈川13 盛久(もりひさ)〜平家物語に典拠」)
http://weekly-nagano.main.jp/2012/07/13-16.html

 こんなお話を、清水寺の受付の方は、初詣のお客さま対応で忙しいはずなのに、ヤッホー君にていねいに説明してくださいました。
 感動したヤッホー君は口を大きくポカ〜ンと開けたまんま、大丈夫ですかね〜、2014年…
 また歩きに行きたい候補地がでました、由比ヶ浜! 提案してみよおう〜っと。

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2014年01月02日

港七福神めぐり

 1月2日木曜日の言葉:

ヘビがカエルを食べる。
カエルがナメクジを食べる。
ナメクジがヘビを溶かす。
物事が動かなくなる三すくみ、転じて平和を願う。
争いのない平和の象徴です。
世の中は強いも弱いもなく平等なんですよ。
(毎日世界平和祈願執行)


 これは芝の増上寺の裏にある宝珠院(港区芝公園4-8-55)にあった言葉です。

 そうなんです、ヤッホー君、デジカメからパソコンに写真を取り込むことができたか、その実験の日とし、まだまわったことのない「港七福神めぐり」にチャンレンジ!
 宝珠院はその一番目だったのです。

 次は奥にあるのは…、もみじ滝?
 なになに、江戸時代、ここは紅葉山(もみじやま)と呼ばれ、紅葉の名所だった。
 二代将軍の秀忠が、この地に カエデを植えたのが始まりで、その後、「紅葉館」という高級料亭が出来、多くの有名人が利用した、か。
 作家・尾崎紅葉はこの地を愛し、ペンネームを「紅葉」とした

(2008.12.04日テレ放送「東京日和」)
http://www.ntv.co.jp/biyori/sansaku/2008/12/04/

 東京タワー真下、このもみじ谷の公衆トイレを使って、恵比寿様のある熊野神社(麻布台2‐2‐14)へ。

 神社でお屠蘇をいただき、宮司様に恵比寿様はどちらにあるのですかとお聞きしましたところ、仏教は仏像が安置されているけど、神道は偶像崇拝をしませんので、あの奥にお隠れになっておりますって、そうかぁ〜¨〜

 ところでここでミラーレスで撮ってきた写真を添付しよう、と思ったのですが、WINDOWS8.1 とかにまるで不慣れなヤッホー君、やはり使用後二日目、新年2014年に入り二日目なのですが、まだアップできないことが分かり、凹んでいます(スミマセン)。

 残念です。
 ま、いつか、できる日がくるでしょう。
 ぜひヤッホー君の読者の皆さま、「港七福神めぐり」に挑戦して歩いてみてください。

 このあとは、「外苑東通り」に入り、警察官、警察車両とかものものしい警戒態勢を敷いている「ロシア大使館」前を歩いて、布袋様の久国神社(六本木2‐1‐16)へ。

 それから、六本本駅に向かって六本木通りを歩き、天祖神社(六本木7‐7‐7)へ。
 ここは布袋様です。
 テレビ朝日が寄贈した見事な石塔が。

 ヤッホー君は「六本木西公園」で、お昼をとることにしました。
 ホームレスの方が3人も日の当たる暖ったかいベンチでお休みになっておられましたので、遠慮して中腰になって、大きな石によりかかるようにしてドカ弁を広げました。

 ホームレスっていうけど、ホームを建てられないんだよ。ハウスって設計してもらって行政に建築確認をしてもらって、大工さんにお願いしないと建てられないのが規則で、こういう金回りの流れ currency ができあがっていて、5000万円を30年のローンで組んで、働いている間は、払い続ける、それが経済の好循環につながる、という説で、他方では、駅前のレンガつくりのどっしりした頑丈なきれいな建物を解体している、なんか変だ、古都のお寺さんとかコンクリートの基礎で耐震、免震の手当てなんかしなくっとも先人の知恵で建てて何百年と持っている、「経済」は「経世済民」ではないか…
 …こんなおしゃべりを元日からなさっていた若い方のことをついつい思いだしておりました。

 新春対談「いとうせいこうが聞く、不安社会の道標(みちしるべ)」(1月1日水曜日)[NHKラジオ第1]後9:05〜11:00.
 押しよせるグローバル社会の波、復興への道のりが険しい東日本大震災…
 2013年、さまざまな事象は今、私たちに教えてくれる、
 国や役所は、私たちを守ってはくれない。
 ぶつぶつ文句を言ったって、何も解決はしないと……。
 ならば、自らの頭で考え、自らの肉体を使って行動し、自らの道をきり開こう。
 そのとき、どんな言葉を胸に抱いて進めばいいだろう?
 2014年、折れない勇気をくれる道標とは?
 マルチクリエイターいとうせいこうさんが、2人の若手論客に聞く対談番組。
 テーマは2つ:
  「本当の豊かさって、なんだろう?」 いとうせいこう×坂口恭平
  「2020年 日本はどうなっているのだろう?」 いとうせいこう×為末大

http://www.nhk.or.jp/navi/detail/09_0218.html

 この坂口恭平(1978年生まれ)は、先に紹介したミュージシャン、三宅洋平と同年の生まれ。
 この二人をヤッホー君、今年2014年、大いに注目していきたいって。

 福島第一原発の事故から間もない2011年5月10日、熊本県で放射能からの避難を呼びかける「新政府」が打ち立てられた。
 同政府が掲げた政策は、「生存権の死守」。
 「初代内閣総理大臣」を名乗る建築冒険家・作家の坂口恭平さんは、わずか1か月で100人もの避難者を受け入れた。
 新政府の活動は多くのメディアで注目を集め、坂口さんは3.11以降の社会を語るうえで欠かせないオピニオンリーダーとなっていく。
 その坂口さんが今年2013年4月、新政府の終了を突如宣言。
 設立3年目を目前に、なぜそのような決断を下したのか。
 そして現在、日本をどう見ているのか――。
 坂口さんの足跡を振り返りつつ、話を聞いた。

(2013年08月05日19時36分 JST更新、「坂口恭平さん(建築冒険家・作家)インタビュー《すでに革命は起きている》)
http://www.huffingtonpost.jp/2013/08/05/kyoheisakaguchi_n_3693879.html

 このあと…?とにかく新しい機械との相性とか使い勝手をおぼえないとになんともならないようで…

posted by fom_club at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月01日

A Happy New year 2014

 ヤッホー君、初詣はもちろんイーチャリでご近所の神社へ。
 まずは回向院です。赤穂47士ではなく、幕末、いや明治になったばっかりの函館戦争のころ、千葉県沖(夷隅郡川津村沿岸)で遭難し、死亡した260余人の中の47人の「歩卒」のための慰霊墓に深々とこうべを垂れてお参りしてきました。
 それから、江島杉山神社です。ここは徳川吉宗のころの杉山和一なる「盲人」を祀ったところ。江島とあるくらい、神奈川県藤沢市江ノ島にある江島神社の御分社なのです。
 そして、なんといっても、深川の氏神さん、徳川家康のころ葦の生い茂っていたこの地の「開拓民」、深川八郎右衛門が拝んでいた伊勢神宮のご分霊、「深川神明宮」へ。
 最後は、深川七福神の布袋尊を祀っている深川稲荷神社。
 写真を添えようとしたのですが、まだどういうわけかデジカメをパソコンに取り込めないでおります。

 今年も明るい、いい年になりますように。
 100年、山歩きができますように。
 山歩クラブの仲間たち、皆に幸多からんことを。
 この国が穏やかで、平和でありますように。
 ヤッホー君も三度三度のごはんが食べられ、健康で元気に過ごせますように。

 写真がないので、海外メディアから。
 まずは、例の靖国参拝について、マレーシアからの論評です。
 英国人のコメントにありましたよね、ドイツのメルケル首相が首相としてヒットラーの墓詣でをすか?って。
今年、上にたつ軍国主義の金儲け主義のエリートから、下々の庶民、貧民まで、国際的常識からそれたことを学校教育の徳目として入れて、子どもたちに点数を競わせて、大国への属国化教育を定着させることのないよう、アベノリスクに異議申し立てのできる市民がよりそだっていきますように。
 上も東アジアに平和が構築されるよう、信頼と協調の対話外交ができるよう、外務官僚もNGO(非政府市民団体)も協働できますように。

The conflicting claims in the South China Sea have all the hallmarks of big power intervention in the area, which are bound to affect regional peace and stability, not just for Asean, but also for China itself.

Hence, Ajit Singh said, it was in the common interest of both Asean and China that the South China Sea remain tension-free, while they continued their efforts at seeking a peaceful and just solution.

The South China Sea dispute, however, is being managed through diplomacy, said Dr Tang Siew Mun of the Institute of Strategic and International Studies Malaysia.
Asean and China are committed through a peaceful resolution of the disputes and is working toward a Code of Conduct (COC).

After the initial euphoria, the mood is less optimistic on the COC, with China appearing to be backtracking and stalling in negotiations.

It would be counterproductive for any of the claimants to use force to buttress their respective positions as doing so will set off an unintended chain of countervailing responses, said the foreign policy and security studies expert.

However, there is a danger in that the balance of power would tilt decisively in China's favour.

The Asean claimants do not have the capacity to balance China's military might and are left with the only viable option -- diplomacy and negotiation.
Restraint is key to keeping the South China Sea dispute contained, added Tang.

The East China Sea Air Defence Intelligence Zone is an example of what happens when diplomacy fails.

The failure of Beijing and Tokyo to manage the Senkaku/Diaoyu dispute had brought into play a round of brinkmanship that, if left to fester, may escalate into an armed conflict, he concluded.


31 December 2013| last updated at 11:18PM
By Kamarulzaman Salleh

Read more: Najib plays role of 'good Aseanist' - Columnist - New Straits Times
http://www.nst.com.my/opinion/columnist/najib-plays-role-of-good-aseanist-1.451277#ixzz2p6Bdr0Yn


 この国においても、食料品の値段がデフレからの脱却といいながらインフレにならないよう、これも政治家も官僚も市民も監視の目を強化していきましょうね:

PETALING JAYA: Thousands of protesters poured into Dataran Merdeka to cry foul over price hikes, but in the end they joined the thousands of revellers for the countdown to usher in 2014, minus the customary fireworks.
Published: Wednesday January 1, 2014 MYT 12:00:00 AM

http://www.thestar.com.my/News/Nation/2014/01/01/Protesters-join-in-New-Year-revelry/

 不穏な動きがあればこそ、敵視せず東アジア共同体を構築するイニシアティブを発揮すべし、というのがヤッホー君の持論です:

But on a day of global revelry, it was left to North Korea to strike an isolated sour note, with the reclusive nation’s leader Kim Jong-Un warning grimly of a “massive nuclear disaster” if war ever broke out on the divided Korean peninsula again. AFP

Read more: Global fireworks party welcomes in 2014 - Latest - New Straits Times

http://www.nst.com.my/latest/global-fireworks-party-welcomes-in-2014-1.452358#ixzz2p8NBSjyC

 東関東の小児科のお医者さんはおおつごもり(2013/12/31 12:46)、こんなブログをあらわされております:

自民党を中心とする保守政党は、公的、私的を問わず、政治家の参拝を繰り返して、靖国神社を事実上国家宗教にし、戦前の思想に基づく国家体制を復活させることを望んでいる。だが、それが良いこととはどうしても思えない。あの第二次世界大戦中国内外で払った犠牲をもとに、わが国は、新たな国家像を確立し、それに向かって歩むはずではなかったのか。

国民から宗教・思想・信条の自由を奪い、国体思想という全体主義で国民を統一しようとする動きには、否を言わなければならない。靖国神社は、一つの歴史的な宗教組織として残れば良い。ただし、合祀という、亡くなった方を管理し、統制する制度を放棄することだ。

posted by fom_club at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする