2013年12月31日

Dynabook T554

 12月31日、おおつごもり。
 今日はついにパソコン交代の日。
 午前中、はっちゃんと機種選定していた新しいパソコンを買い求められ、大事にかかえられて無事、ヤッホー山荘に到着。
 新しくヤッホー山荘の一員となりました。
 今後ともよろしくお願いします。

 お昼もとらずにセットアップに挑戦していただけましたが、ただまだご主人様が不慣れなようで、まだ使いこなせておりません。
 でもまあ、明日はちょうど2014年1月1日、元旦です。
 いろんなことがあった2013年もこれで幕引き、ご主人様は気持ちを切り替えて心機一転とか申しておりますので、きっと良い2014年になると思います。
 どなたさまも A Happy New Year 2014!

posted by fom_club at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月30日

かわらばん新年号

 12月30日月曜日、つごもり。
 この日は山歩クラブのニュースレター「かわらばん」お正月号の発行日でした。
 前夜遅く、文書作成が終えました。
 そしていよいよ、作業の日、仲間もお手伝いにかけつけてくれるし、と朝起きてパソコンに電源をいれようとしたら、プシューという変な音がして、そのままうんともすんともいいません。ただ電源ランプがオレンジ色に点滅、異常を知らせ続けるだけ。
 以前にもそんなことがあり、そのときは秋葉原の修理工房までイーチャリを飛ばして診てもらっていたことがあったのです。
 それ以来、はっちゃんからは、XPのサービスも終わるし、買い替えの時期なんだよとふたりで機種選定まで終えていたのです。
 それを一日延ばしにのばしてきておりました。10年来のヤッホー君の片腕、もうとってもスローなコンピューターになってしまったのですが、愛着があったのです。
 それがよりによって、今日、逝ってしまうとは‥

 ヤッホー君、その修理工房に電話するも、電話口の向こうからは、いま休業中、との録音テープの声が流れるだけ。
 パニクったヤッホー君、仲間のひとりにわらをもつかむ思いで、電話。
 そうしたら、ご主人様が持ってきてくれるんだったら診てあげてもいいって言ってくださっている、と。
 とるものもとりあえずイーチャリでおうかがいしました。
 錦糸町に行ってこのパーツを買ってきてもらいますか、と。
 もちろん、もう一度すっ飛んでいきました。

 はたしてお昼過ぎ、「かわらばん」の原稿の救出作戦に成功、一部プリントしましたので、取りにきていただけますか、と。
 ヤッホー君、冷蔵庫見まわし、石和温泉で仕入れたマルスワインの甲州ワインをご主人様に、マレーシア土産のチョコレート、クッキーをお子様に、とまたしてもイーチャリ。
 その間、仲間は用意してあった封筒に宛名書き。
 なんと仲間は、ヤッホー君のために封筒の裏に書く住所名前入りスタンプを作成し持ってきてくださいました、ありがたや、ありがたや。

 引き返してすぐ原版を持ってコピーしに走り、ふたりで組み込み、袋詰め、綴じ。
 そのとき、お孫さんに会いにいく途中で、何もできませんがおふたりで今晩、めしあがって、と差し入れが到着。
 40部、発送をお願いしに夕方、またでかけました。
 かくしてすべてが終わったのは、4時半。万年橋がみえたとき、江東区の一斉チャイムが鳴っておりました。

 ふたりでその後、逝ってしまったパソコンにこれまでのお付き合いに熱く御礼を申しあげ、ねんごろにお見送りの儀式をすませ、差し入れのポテトサラダやら酢の物で、お神酒をあげました。


posted by fom_club at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月29日

ミチテラス

 昨日の山歩クラブ歩き納めの会。
 なんだかいつかどっかで、見たことのある神社仏閣ばかりだったし、同んなじことをしたことのある出来事やったなあ〜とデジャヴュー感に浸っていた、忘朝会を快調に走っておられるヤッホー君、そうだ、あれだ、と思い出したそうで。
 2013年12月29日日曜日の朝のこと。

 ヤッホー君のこのブログ、2013年10月23日付け日記「東海道品川宿」をご参照ください。

 たった2ヶ月前のこと。

 あのときとどう違うのだろうか…と。

 「八ッ山通り」から、「Avenue de la Paix」まで、

 利田神社から、海雲寺まで、

 家尾福青果店からOK ストア青物横丁店まで、

 「北の天王さん」から、「南の天王さん」まで、

…う〜ん、同んなじだぁ〜

 あれが違うのか、な?

 「板垣退助」から「原敬」まで:

 「板垣死すとも自由は死せず」、この言葉は自由民権運動を推し進め、後に大隈重信とともに日本最初の政党内閣を組織した板垣退助の名言として知られています。
 1882(明治15)年4月に板垣退助は、岐阜県で刺客によって襲撃され、この言葉を発したと言われています。
 この言葉は、自由民権運動を象徴するものとして瞬く間に有名となり、現在にいたるまで広く我々が知るところとなっております。
 この言葉があまりにも有名になりすぎたため、板垣はこの時に暗殺されたと誤解している人も多いのではないでしょうか。
 しかし、実際には彼は一命を取りとめ、この後も政治家として精力的に活動を行ないました。

(アジア歴史資料センター、板垣退助暗殺未遂事件、吾死スルトモ自由ハ死セン)
http://www.jacar.go.jp/modernjapan/p04.html

 1921(大正10)年11月4日夜、東京駅で時の内閣総理大臣・原敬が暗殺された。
 改革を志し、「平民宰相」として国民の人気を集めていた原敬は、なぜ暗殺されたのか。
 ちょうどいまごろの季節やね…
 東京駅丸の内南口で暗殺されたんよ…
 その場所には、今でも原敬を偲んだ鋲があるんだ。
 ちなみに原敬はぼくと同郷の岩手県人^^
 寺田屋もそうだけど改革には血が流れるね〜
 盛岡にはね、暗殺されたときの血染めの服がそのまま残ってるんだよね…
 40くらいで頭まっしろなんだよねー、原総理

(2005/12/1付け研究ノート「大正10年11月4日夜、東京駅で」)
https://a.yamagata-u.ac.jp/amenity/Laboratory/LaboNoteWeb.aspx?nLaboNoteID=305

 昭和5年11月14日朝、浜口首相は陸軍大演習陪観のため岡山に向うべく東京駅にて乗車せんとする際、突然兇漢に襲われて重傷を負うた。
 犯人は現場において逮捕されたるも、未だ如何なる素性のものなるや詳細判明せず、首相の負傷は重体なりといえども、今後余病の併発なきかぎり一命に別条なく、数週間にして治癒し得べしと伝う。
 吾人は、一たび兇変を聞いて打驚き、やがて負傷が幸に急所を外ずれて治療可能なりとの報をききて、いささか愁眉をひらくを得た。
 このうえは主治医の言のごとく経過良好に、速かに恢復せんことを国家のために祈るものである。

 思い起す去る大正10年11月4日、時の首相原敬氏を同じく東京駅頭において刺した兇漢があった。
 そのときも吾人はその心得違いの下手人中岡某を出したことを全国民の面に泥を塗るもの、一等国民の恥曝しをせるものとして、不所存ものをだしたことを間接には国民全体の責と感じ相警むべき旨を説いた。
 しかして今約10年を経て、その間には普選も実行され、政党政治もようやく軌道にのり、政権の移動もすらすらと総選挙の結果通りに行われるようになり、まずもって憲政の名実ともに整いかけたる今日、国民のうちよりかくのごとき狂暴な直接行動に出ずるものを生じたるは如何にも残念至極とせねばならぬ。

(1930.11.15(昭和5)大阪朝日新聞、データ作成:2009.11 神戸大学附属図書館)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10064940&TYPE=HTML_FILE&POS=1

 そうなんです。タウンウオーキングの幕は東京駅丸の内口で下りたのです。
 そうしたら、イリュミネーションでぴっかぴか、びっくり仰天、山形生まれのヤッホー君、よだれをたらしながら、若い人たちの後をついていきました。カップルだらけ!

丸の内.jpg
 
東京ミチテラス2013
『お越しいただきありがとうございました!』
 本日12月28日(土)の東京ミチテラス2013は終了いたしました。
 たくさんの方に足をお運びいただき、誠にありがとうございました。
 東京ミチテラス2013は、明日12月29日(日)が最終日となります。
 皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げます。


東京ミチテラス2013
『「光の車輪」たち-その2』
 丸の内仲通りを挟んで皇居側の光のレールウェイにあるのは、日本の旅と運輸を支えた電気機関車「EF60形」と、「はやぶさ」でおなじみの高性能新幹線「新幹線E5形」をモチーフにした「光の車輪」です。
 車輪のサイズはすべて実物大!
 実際にご覧になった方は、車輪の大きさの違いに気がつきましたか?…
 ちなみに直径を比べると、一番大きい「D51形」は1460mm、一番小さい「新幹線E5形」は920mmと、なんと540mmもの差があるんです。
 鉄道の豆知識、一緒に観覧する人にもぜひ教えてあげてくださいね。

(東京ミチテラス2013)
http://www.tokyo-michiterasu.jp/

ミチテラス.jpg

posted by fom_club at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月28日

2013年歩き納め

 こんばんは。
 2013年もカウントダウンに入りました。
 忙しいところ申し分けございません。
 今朝、品川に6人集まり、9時45分歩き出し、台場跡、鯨塚、八百屋さんで買出し、品川神社(葵のご紋)、冨士塚山頂でお昼、荏原神社(菊のご紋)、品川寺、海雲寺、OKストア青物横丁店で買出し第二弾、東京駅KITTE(旧東京中央郵便局)、4時15分から「うおや一丁八重洲口店」で打ち上げ兼ね忘年会…
 ところが、思わぬハプニング。
 自転車で両国までイーチャリ、今朝は「両国」駅から電車に乗ったことをすっかり忘れておりました。
 東京駅で仲間の皆んなと別れ、地下鉄半蔵門線「大手町」駅から「水天宮前」駅に着いて、びっくり。
 自転車がありません。
 そうかぁ〜、「水天宮前」駅から地下鉄に乗ったものと何時の間にか思い込んでいたのです。
 あっいけない、間違えた!って、禿げ頭を隠していたのに帽子をとって、アタマをかいていました。
 きっと湯気がたっていたでしょうね。
 朝のことを忘れているのですから、一年なんてすべて、忘却の彼方へ。
 忘年会の必要ないヤッホー君、自嘲気味に、食べるものに事欠いているイマ、「すいません、順調に年食ってます」って照れ隠し。
 まあ、参加してくださった仲間の皆さま、長時間お疲れさまでした。
 とっても楽しい一日となりました。
 皆さん、年の暮れ、風邪などひかずに良いお年をお迎え下さいね、ごきげんよう!


品川神社.jpg

 こんばんは、メールありがとうございます。
 さ、これでお互い、メールが開通すれば良いのですが…
 添付したのは品川・八ツ山橋から歩き出しの最初の山場、鯨塚の写真です。
 北品川橋〜屋形船のたまり場〜品川区立台場小学校〜台場跡〜利田(かがた)神社〜鯨塚と、その鯨塚です。
 北品川橋っていえば、西田敏行、三國連太郎の映画『釣りバカ日誌』のロケ地にもなっていたんだよって、仲間が教えてくれました。
 そういえば、三國連太郎は今年の4月14日、お亡くなりになっておられました。90歳でした…合掌。

 
http://www.youtube.com/watch?v=83X6CPrf8Ko
http://www.youtube.com/watch?v=X1zmSGV4kcg
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000003899.html
 
 200年以上も前に鯨が迷い込んで品川沖にあがったそうでそりゃあ大騒ぎだったのです。
 将軍は芝離宮公園まで運ばれてきた鯨を見てびっくり、歌まで詠んでおりました。
 

鯨塚.jpg

posted by fom_club at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月27日

琉球処分

https://www.youtube.com/watch?v=nAjTpp2w0iE

 どうしたのですか…誤用納めの日なのに…

 いえ、ほら、あの、この国のトップって本当に愛国主義者で、「日本を取り戻す」方なのかなって。
 カレーにとっての「日本」って、この国に住んでいる人のことを本当に指しているのかな、って。
 じゃぁ〜、どうして沖縄の人がいやがっていることをやり(注)、福島の人や庶民をいじめるんだろう?
 おじいちゃんのことを真似てんのかもしれんな…結い言でもあったんかな…

 2006年12月に、安倍首相は「全電源喪失は起こらない」と国会答弁しました。
 ある意味で、福島第一原発事故の原因を作った責任者の一人です。
 ですが、安倍首相から自らの責任に関して反省の弁を聞いたことがありません。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b165256.htm

 それどころか、五輪招致のために、「汚染水は完全にコントロールされている」という発言を繰り返し、その発言を改めないまま「国が前面に出る」として、ずるずると東京電力の救済措置をとっています。
 当の東京電力も、福島第一原発事故について、経営者も株主も貸し手も責任を問われていません。
 にもかかわらず、1兆円の公的資金を返済しないでよいとし、2兆円以上とされる原発の事故処理・汚染水対策を含む廃炉費用を、経産省令ひとつで電気料金に乗せられることにしてしまいました。

(2013年12月26日 17:59 慶應義塾大学経済学部教授・金子勝のオフィシャルブログ「事故責任と≪自己責任≫―福島復興<加速>という名の福島<切り捨て>」)
http://blog.livedoor.jp/kaneko_masaru/archives/1767026.html

 そして、外国人から笑われ、蔑まれ、見下されるような靖国神社参拝をしています。
 恥ずかしい、これじゃぁ〜国際的に孤立するわ、と思って首をかしげているのですが、またどうしてこういう人を支持するのか、それも2013年の七フシギのひとつでした:

Shinzo Abe told reporters: "There is criticism based on the misconception that this is an act to worship war criminals, but I visited Yasukuni shrine to report to the souls of the war dead on the progress made this year and to convey my resolve that people never again suffer the horrors of war,"
1. the criticism is fact-based, you went there for no reason other than worshiping war criminals
2. what did you report to those war criminals? You are going to nullify your post WWII constitution and re-initiate their militarism? You did a great job in increasing military budget and preparing to conquer again?

The Japanese continue to glorify their Evil Dead.

Shame on them.
The millions of innocent men, women and children enshrined with the war criminals are not evil, and the shrine isn't about glorification.
Shame on the politicians on all sides using this issue for political gain. Not "the Japanese".

There's a quite simple solution. Remove the racist war criminals from the shrine, then the Japanese can honor their dead as much as they like without causing offense to anyone.

You have to ask exactly why is it they won't do this? Do Germans remember Nazis when they honor their dead? Of course not. Germany causes not a jot of ill feeling anywhere in the world today, and their press frequently criticizes Japan's leaders for failing to have drawn the same line on history.

Where is U.S. government? control your dog!! We people don't want war

Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.

Did you go into the war museum at Yasukuni? That place, for me, displays more clearly than anything else the country's failure to truly understand its own wartime behaviour.

War Criminals...!? The bombing of Hiroshima and Nagasaki killed well over 200,000 civilians...Old men and women, young women and their children...Acts of terrorism by any other name. Recently, we have G.W. Bush starting a war in Iraq which has killed too many innocent civilians to count (over a million!). And now there is The Peace President sending in drones (a cowardly act if ever there was one) which may get the guilty, but not after having killed more of the innocent.

I say leave the Japanese alone and let them visit their war dead!

You don't seem to understand the scale of Japan's war crimes. Did you know for instance even the Nazis were shocked by the massacre and rape of Nanking? They even offered to diplomatically intercede. That kind of sums up all you need to know.

The Japanese militarists engineered a universal racism in their soldiers who were encouraged to have absolute contempt for the life of the Asian conquered.

I agree war criminality is a continuum, but the Japanese were at the far extreme.

There is a difference between having war criminals and having war criminals and worshipping them.

Abe said: "It is my wish to respect each other's character, protect freedom and democracy and build friendship, oath of antiwar"
However, it is quite opposite that Abe is doing in Japan.
He is a hawkish rightist, and is a history revisionism, and a discrimination ideologist.

It shows exactly what a dangerous idiot Abe is that his slap-in-the-face to China is also one that will remind his regional allies and potential friends just what Japan did to them, too, during its occupation of their own countries.

Did Abe Pray for the POW(戦争捕虜)s, especially pilots, that were experimented on and underwent grissly vivisection to determine how long they could live with removal of particular organs in the labs they thought they were going to receive treatment? or doesn't Shinto allow for that?.The South Koreans and rest of Asia should worry...Now we have 2 kooks in Kim and Abe.,..One erasing his relatives and history and running slave labor camps..and the other censoring free speech and journalists from speaking on the Huge fizzling nuclear accident poisoning them....and us..while doing a Kabuki dance just for our consumption..Its Surreal watching him yearn for the Empire of the Sun.to return...

A conservative who has spoken of the need for Japan to end its “masochistic” feelings of guilt over its wartime conduct in Asia, Abe had voiced regret that he did not make the pilgrimage during his first, year-long term as prime minister from September 2006.

Japan's Shinzo Abe angers neighbours and US by visiting war dead shrine

China and South Korea protest after Abe visits controversial Yasukuni shrine in reversal of his policy during first term of office

Justin McCurry, in Tokyo
The Guardian, Thursday 26 December 2013 06.22 GMT
http://www.theguardian.com/world/2013/dec/26/japan-shinzo-abe-tension-neighbours-shrine


(注)
 仲井真知事の背後には、猪瀬直樹前東京都知事に5000万円を渡していたことが問題となった徳洲会の存在が指摘されている。
 2006年12月の知事選で仲井真氏が立候補した際、徳田毅氏が同じく立候補していた糸数慶子氏の陣営を離れ、仲井真氏の支持に回った。
 2010年11月の知事選でも、徳洲会は仲井真氏を全面的に支援した。
 昨年2012年12月の衆院選を巡る徳洲会の公職選挙法違反、そして猪瀬直樹前東京都知事への5000万円受領問題がここへ来て大々的に表面化したのは、徳洲会から支援を受けてきた仲井真知事に対し、日本政府とその意を汲んだ検察が、揺さぶりをかける狙いもあったと考えることができるのである。
(安倍総理が靖国神社に参拝 軍事国家化に歯止めがきかなくなった日本)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/118097

 そういえば、鳩山とか小澤とかあれほど検察もメディアもやっきになっていたのに、徳洲会の件では、猪瀬直樹東京都知事辞任後、ぱったり「情報」が途絶えているのもフ・シ・ギ・特定ヒ・ミ・ツ・かぁ〜ここって法治国家でなく放置自店者でしたかあ〜あぶない、あぶない、なんまいだぶつ:

 猪瀬直樹東京都知事(本日辞任)の5000万円受領問題については、このブログで、5000万円が”裏献金”であるとして法律上の的問題点を指摘しました。
 今月(2013年12月)8日(日)に私を含む31名が公職選挙法違反と政治資金規正違反で告発状を東京地検(特捜部)に郵送した…
 東京地検(特捜部)は、私たちの告発状を受付してから2週間が経過しているにもかかわらず、私たちの告発状をいまだに受理してはおらず、私たちの告発状に基づく捜査を開始してはいないのです。
 これは異常です!
(2013年12月24日21:59 猪瀬都知事5000万円「裏金」受領問題(その12):なぜ東京地検特捜部は私たちの告発の受理を渋っているのか?)
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51754784.html
posted by fom_club at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月26日

井上ひさし小講演

 井上ひさしが東大・安田講堂で語った記録であるDVDを補足します。
 関東大震災後のキャンパスの写真は≪建物ミュージアム≫「アーキテクトニカ」に展示されています(ヤッホー君のこのブログ、12月14日付け「ウロボロス」参照)。
 それに伴い、移転問題が持ち上がって、教授、助教授全体の投票で決したことを裏付ける資料、これが一つ目。
 もう一つは、先の戦争末期、首都決戦の指揮をとるべく「首都防衛本部」を本郷キャンパスにおきたい旨の陸軍申し出を拒絶した(先に陸軍に拒絶されたので、拒絶しかえした、とも)ことを示す資料。
 そして、<大学の自治>、<学問究の自由>の砦で学んだ学生への期待を日本ペンクラブ(注1)の創立に絡めてお話しなさって、国際的な協調、情報交流、コミュニケーションの大事さを指摘なさった点、です。
 これを補強しておかないと、井上ワールドの全貌はつかめないでしょうね(注2)。

 結果的には、大学全体の問題であるから教授、助教授全体の投票で決めようということになった。
 当時の古在由直総長は農学部出身であったため、かえって両者のあいだに立って苦慮されたようである。
 そうした事情に配慮してか、同じ農学部の別の教授から第三案として代々木の陸軍練兵場への移転が提案され、投票の結果は第一位となった。
 しかし、もとより陸軍への根回しがなされていたわけではないから、これは陸軍から一蹴され、再投票の結果本郷への居残りが決まり今日に至っている。

(東京大学史史料室ニュース1995.3.31第14号田中学「キャンパス事情今むかし」)
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/news/vol14.pdf

 以下、立花隆編『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』から、立花さんの解説文を引用する。

 陸軍がやってきたのは、1945年6月で、沖縄もすでに陥ち、あとは本土決戦をやるしかないという状況にたちいっていた時期である。
 陸軍の説明によると、本郷キャンパスに、首都防衛本部を作り、ここから最後の首都決戦の指揮をとりたいということだった。
 米軍が最初どこから上陸してくるにせよ、最後は、首都の攻防戦になる。
 そうなったときの防衛基本計画がすでにできていた。
 米軍が首都に迫ってきたら、隅田川と荒川をせき止めて、その上流で堤防を切る。
 そうすると、東京の下町一帯は洪水になり、海岸線まで水びたしになる。
 どこまで水がくるかというと、上野の西郷像のある台地と本郷の東大がある台地を結ぶ戦まで水がきてそこが波打ち際になる。

 つまり本郷キャンパスは、そこでの攻防戦を上から見下ろす戦略的要地になるというのである。
 軍部からそのような要求を受けて、どう押し返したかというと、次のような説得をした。

 この東大においても、日夜本土決戦にそなえて休みなく大切な軍事研究を行いつつある。
 また本土決戦になったら大量に必要になる軍医を急いで育てるべく、教授も学生も昼夜兼行で実習に励んでいる。
 そういう意味で、個々は既に最前線なのだ。指令本部用地にするわけにいかない。
 こういって押し返してしまうのである。
 
 またGHQは、戦争が終わる前から、東大を接収してここに占領軍総司令部を置くつもりでいた。
 (中略)
 これもまた、内田祥三総長、南原法学部長と石井事務局長が押し返してしまうのである。
 そのとき用いた理屈は、こうだった。

 日本は戦争に敗れた結果、文化国家として生きていくしか道がない。
 文化国家として生きるために必要なのは、なんといっても、教育と学術だ。
 教育も学術も、この東京大学が日本の中心になっている。
 それを接収するということは、日本の国に、もう滅びろというのと同じだ。
 そのような暴挙は日本陸軍すらあえてしなかった。
 それをお前たちはやるのか??。
 
 ギリギリのところで、この論理が通り、占領軍は、東大の接収をあきらめ、日比谷の第一生命ビルに本拠をかまえることになったのである。
…立花隆編『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』所載「『東大とともに五十年』解説」より

(きまぐれな日々)
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-391.html

 風邪をひいていた井上ひさし、うまく結論が言えないんですが、と。
 しかしヤッホー君が理解したところでは、窮屈なギツギツした世情のなかで、ジユウとミンシュシュギを守って実際に実践した人びとがいるのに、いまの私たちはジユウとミンシュシュギを謳歌しているにもかかわらず、窮屈なギツギツした世界を構築しようとしているこの<ねじれ現象>ということでした。
 井上ひさしの指摘は、イマこそ、強まっています。<戦前への回帰>です。

 もうひとつ最後に、って井上ひさしが付け加えたことがありまして、国際連盟から脱退して国際的に孤立し、孤児となったときに、東大出身の外務官僚が、国際ペンクラブに加盟させた、というのですね。
 こうした伝統のある大学で学んでいるので、そんな広角的な視野を持つ反ファッショな東大出身の官僚が何人かはいてもいいですね、と期待感を述べておりました:

 1931年9月18日の「満洲事変」、翌年の満洲国成立に続き、日本はこの愧偶国家の国際認知を望んだが、それは拒絶され、1933年には国際連盟を脱退していた。
 当時、日本は「孤立を脱する」どころか、むしろ孤立への道を辿りはじめていた。
 そして日本ベン倶楽部の創立も、この外交的孤立を挽回するために、外務省主導でなされた文化政策の一環をなしていた。
 藤村も談話で述べるとおり、倶楽部創設にあたっては、外務省文化事業部および国際文化振興会が、最初の斡旋をとったものだった。
 国際文化振興会は、英訳では Society for lnttmatlollal Ctlltural Relations とされているが、この訳語からも明らかなように、日本の文化事業の国際発展に寄与する機関、という含みを補わないかぎり、英語名称としては、とても自律できない性格を宿している。
 現在の国際交流基金の前身に当たるこの機関そのものも、外務省の外郭団体であり、それが正式に成立したのは、日本の国際連盟脱退の直後、1934年になってのことだった。

 日本代表団は、1940年に国際ベン・クラブ大会の東京での開催に同意を取り付けることを要請されていた。
 同年には、皇紀二千六百年祝賀のため、オリンピックと万国博覧会の東京招致も計画されていた。

(国際日本文化研究センター研究員、総合研究大学院大学教授・稲賀繁美「国際協調主義と国粋主義とのあいだ:島崎藤村の南米(上)、なぜ日本ベンクラブ初代会長は1936年プエノス・アイレス講演で雪舟を論じたのか」)
http://www.nichibun.ac.jp/~aurora/aida/aida140.pdf

 そう、島崎藤村は日本ペンクラブの初代会長だったんですね。
 そして1936年2月には「二・二六事件」が起こりますが、同年9月、南米プエノス・アイレスで開かれた第14回国際ペン大会に出席するのです。
 この島崎藤村は、明治学院第1期卒業生だったのだそうです。
 今年、創立150周年を迎えたその明治学院大学との共催で、日本ペンクラブは、先月11月15日、<国際獄中作家の日−世界の獄中作家にこころを寄せて>「島崎藤村と日本ペンクラブの昨日・今日・未来」というシンポジウムを開催しておりました。
http://www.japanpen.or.jp/news/guide/11_1.html


(注1)現在の会長は浅田次郎。こんなことを語っていらっしゃいます:

 政府の原発再稼働や推進の政策についてみんなで声をあげていかなきゃ駄目だと思います。
 毎週金曜日の官邸前のデモは続けるべきです。
 日本はデモが極端に少ないと思います。
 ヨーロッパ諸都市は年がら年中デモとか個人の真剣なアピールをしている。
 批判精神がありますね。
 日本でもぼくが若い頃は、春闘や秋闘なんかすごかった。
 国鉄が1日、2日ストライキするのはしょっちゅうだし、原稿もって出版社にいっても編集者が鉢巻しめて出てきましたからね。
 デモや労働争議は自由主義国家、民主主義国家のバロメーターですよ。
 ストライキをやめようっていう風潮は民主主義の放棄。
 デモを監視したり、弾圧したりするのは北朝鮮と一緒だし、ましてやデモを悪くいうのはナチス・ドイツのゲシュタポ(秘密警察)ですよ。
 気に入らないことがあったらデモをするのはあたり前。
 政府が消費税値上げするのになぜデモがないんだろうって思いますね。
(2013年2月21日 19:00京都民報Web、スペシャルインタビュー日本ペンクラブ会長・作家・浅田次郎さん「全原発廃炉が最優先」)
http://www.kyoto-minpo.net/archives/2013/02/21/post_9341-2.php

(注2)井上ひさしは、旧仙台1高出身の吉野作造とその弟のお芝居から講演に入っていくのです。このお芝居を観た方の感想から:
 
 政治学者、吉野作造(1878−1933)をこんなわかりやすくみせる芝居はなんとも素晴らしい。
 井上ひさしは演出・鵜山仁、こまつ座公演「兄おとうと」(5月22日・紀伊国屋ホール)の中で吉野作造の「民本主義」を「三度のご飯をきちんと食べて、火の用心をして、元気で生きられること」と説明した。
 舞台では吉野作造(辻満長)は演説の稽古をする。
「りっぱなお屋敷を立てている大工さんが今にも倒れそうなあばら家に住み、豪華な着せ替え人形をこしらえる女工さんがあなだらけのショールで寒さを防いでいる。なぜ、なぜ、なぜ・・・」
 資本主義の矛盾をわかりやすくいう。
 庶民は何故、なぜを忘れてはいけないと教える…

 吉野作造が「民本主義」を唱えたのは東大教授時代の38歳のときであった(大正5年)。
 その二大綱領は
「政治は一般民衆のために行われなければならぬ」
「政治は一般民衆の意向によって行われねばならぬ」
である(吉野作造評論集・岡義武編・岩波書店)。
 それから87年。
 残念ながら日本の民主主義はいままだ地に付いていない。
 井上ひさしさんの意図はよくわかった。
(2003年(平成15年)6月1日号、銀座一丁目新聞「花ある風景」)
http://ginnews.whoselab.com/030601/hana.htm
posted by fom_club at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

井上ひさし

 沖縄の知事が師走の、お正月を前にしたせわしない、あわただしいなか、今日明日にでも、国から振興予算を要求以上に貰ったもんで、立候補したときの選挙公約を破って(投票した有権者を裏切って)、基地の県内移転受け入れを公式表明しそう(注1)。
 そんな中、昨夜、井上ひさし(1934-2010)を通じて、国や軍やアメリカの要求をきっぱり断った東大総長がいたことを知って、びっくりした次第。
 食事しながらラジオ。
 そうです、あれほど NO と言っていた南の一番偉い人なのに、お金には負けたのでしょうか、ホント、サイキン、金まみれで、人格も品格も風格も誠意も誠実も赤誠も、ありゃしませんね。
 最後はお金、これがものを言う時代だなあ、この国もついに地に堕ちたかという感じですね。
 それに比べれば、東大の教授はたいしたものでした。

 どうしたんですか、ヤッホー君、いったい朝から何が…

東大.jpg

 そうなんです、夕べはこんな集会があることを知りまして、豪徳寺の歯医者さまの帰りに、東大本郷キャンパスへ寄ったんですぅ。

 「谷根千ねっと」のサイトで、「第4回東職シネマカフェ」があることを知りました:
http://www.yanesen.net/
http://tousyoku.org/

 そのなかで「故井上ひさし氏(作家)小講演−国立大学法人化を考える夕べ(2003年6月6日)よりー(30分DVD)があったのです。その趣旨を「谷根千ねっと」はこう述べておりました:

 国立大学法人法が施行(2003年10月)されて10年になります。
 10年前の6月6日、安田講堂において「国立大学の法人化を考える夕べ」(主催:東京大学教員有志)が行なわれました。
 3時間を超える記録映像の中から故井上ひさし氏の小講演を上映します。


 どんなことを井上ひさしは述べていたのか…、ホントにヤッホー君、イマとの違いにびっくりして、椅子から転げ落ちたのです:

井上ひさし(作家)
 戦前、戦中の、あのガチガチの国家主義の時代にも「大学の自治」がありました。
 それは東京帝国大学の例を見ても一目で判ります。
 1923(大正12)年9月の関東大震災で全建物面積の三分の一を失ったとき、全教授と全助教授が投票で移転先を決めて、その結果を大蔵大臣に提出しました。
 ちなみに一位が近郊(陸軍代々木練兵場)で151票、二位が本郷居据りで131票、三位が郊外(三鷹)で103票でした。
 つまり教授会にそれだけの力があったのです。
 もっとも近郊移転は陸軍省の猛反対で実現はしませんでしたが。

 1919(大正8)年には、それまで20年間つづいていた優等生への恩賜の銀時計の下賜が、教師と学生たちの声で廃止されました。
 理由は、天皇が行幸になると、大学構内に警備のための警察官が大ぜいやってくる。
 そのこと自体が大学の自治を乱すからというものでした。

 このような例はまだまだありますが、紙幅がないのでもう一つだけ書きます。
 1945(昭和20)年6月、帝都防衛司令部が本郷キャンパスの使用を申し入れてきた。
 幕僚以下3000人の兵士で、ここを使うというのです。
 当時の内田祥三総長は、
 「ここでは一日も欠かすことのできない教育研究を行っているのであり、自分たち学問の道を歩む者たちの死場所でもある。動くわけには行きません」と断わった。

 ―― ところがいま、一片の法律で、総長・学長を大臣が任命し、また解任できるという途方もないことが行なわれようとしています。
 そんなことになれば、「大学の自治」も「学問の自由」もただの画餅、戦前戦中よりもさらにひどいガチガチ国家主義の時代になってしまうのでしょうか。

(意見広告の会、読売新聞2003.6.10「国立大学法人法案の廃案を求める第三次意見広告」)
http://ac-net.org/dgh/03/610-ikenkoukoku.html#inoue

 あのころ、確かにこんなことがありました:

 小泉内閣は、「聖域なき構造改革」の名のもとに、国立大学の「構造改革」をも進めようとしています。
 もし、この方針を進めれば、国立大学は「大学法人」という半民営化の状態にされ、国民への負担が増すことはさけられません。
 また、日本の学問・文化の発展にとっても大きなマイナスになることも否めません。
 私たちは多くの国民の皆さんに、この「大学改革」なるものの内容を知っていただき、私たちと共に考えていただき たいと思います。

(こんにちは、吉埜和雄です。私は高校で物理を教えています)
http://homepage2.nifty.com/kazuoyoshino/kakyo1.htm

 自民党をぶっ壊す、という威勢の良い短いキャッチコピーで政治の頂点にたって逆のことをした人。
 非正規の労働者を作り出し(注2)、格差を生じさせたトリックスター。
 選挙公約のまるで逆、正反対のことをして、この国までぶっ壊してしまった張本人。
 堂々、自民党に息子を送り込んで、黄門さまぶっております。
 手を組んだ平蔵は平気の平左衛門、アベノリスクの黄門格におさまっています(注3)。 

 約束って破られるためにある、公約なんて膏薬みたいに直ぐ剥がれるもんさ、という政治不信がイマあります。
 TPPも消費税増税も NO と叫んで投票させておいて、あとでそんなこと言っちゃいないって嘘をごまかすのが、あの人たちの常套手段になってしまい…
 
 
もう一回民主主義の原点を捉え直さないと
 今すごく民主主義の 形骸化した民主主義の中で
 ものすごい勝手な振る舞いが横行してる
 それが民衆にとって 民衆の意思に
 寄り添ってない政治のあり方になってる

…三宅洋平(1978年ベルギー生まれ)『僕らの心に響いた三宅洋平の言葉』(ブルーロータスパブリッシング、2013年12月)43頁
…公式サイトも:
http://ameblo.jp/miyake-yohei/


(注1)
 仲井真弘多知事が「驚くべき立派な内容を提示していただいた」と述べた。
 この知事の発言自体が、「驚くべき」発言だ。
 いったいどこが「立派な内容」なのか。
 首相官邸で会談した知事に対し、安倍晋三首相は基地の「負担軽減策」を説明した。
 だがどれも、新味のない従来の方策か、実現の担保のない口約束にすぎない。
 知事がなぜ高く持ち上げるのか理解できない。
 知事は27日にも辺野古埋め立て承認の可否を表明する。
 これらの「負担軽減策」は何ら軽減になっていない点を見極めてほしい。
 今回承認すると、沖縄は「自発的隷従」となってしまう。
 子や孫の命と尊厳を売り渡すような愚かな判断をしないよう求めたい。
(2013年12月26日付け琉球新報、知事・首相会談 粉飾に等しい「負担軽減」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-217159-storytopic-53.html

(注2)
 パートやアルバイトなど非正規社員として働く人が増えている。
 総務省が2013年7月12日発表した就業構造基本調査では、役員を除く雇用者のうち非正規社員は全体で約2043万人となり、初めて2000万人を突破した。
 比率も38.2%と過去最大を更新した。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1203R_S3A710C1EA1000/

(注3)
 竹中平蔵が画策 「解雇特区」構想でサラリーマンは奴隷化必至
(2013年9月30日掲載日刊ゲンダイ)
http://gendai.net/articles/view/news/144870/2
posted by fom_club at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月25日

メリークリスマス

 昨夜は、鳥のモモ肉照り焼きにかぶりついて、ニカワクリスチャンと化したヤッホー君。
 「教育改革」の次は、「農地改革」について思いをめぐらしております。

 問題の本質は"TPPと農協"
 自民党や国会の委員会は、コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、砂糖などを関税撤廃の例外とし、これが確保できない場合は、TPP交渉から脱退も辞さないと決議した。
 農業票が気になる国会議員にとっては、関税維持が国益のようだ。
 しかし、関税で守っているのは、国内の高い農産物=食料品価格だ。
 農家保護のために、国際価格よりも高い農家保証価格を維持するためには、関税が必要となる。
 コメを例に取ろう。
 関税で国内市場を国際市場から完全に隔離しているので、国内の需要と供給で決まる市場価格は国際価格よりも高くなる(…)。
 さらに、減反で供給を減少させるので、国内価格はさらに高くなる。
 消費者は、関税と減反で二重の負担をしている。

(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹・山下一仁「農業にこそTPPは必要、このままではコメは安楽死」、2013年12月11日付けダイヤモンドオンラインに掲載)
http://www.canon-igs.org/column/macroeconomics/20131219_2245.html

 この御仁は、1955年岡山県生まれで、1977年に東京大学法学部卒業後、農林水産省入省。
 ヤッホー君のこのブログ、2013年12月21日付け日記「犬飯」に登場なさいました。
 そのぉ、ヤッホー君の好きなご飯、おコメについて、TPPに便乗し、国際市場にうってでないことには、日本の農業は行き詰まるよ、という持論をお餅なんです。

 例の官僚お得意の数字をもう少し、見てみましょう:

 1995年の食管制度廃止後も、米価を維持しようと生産調整が続いている。
 これは供給制限カルテルで、高い価格というコスト負担を強いられているのは消費者である。
 ところが生産調整面積が110万ヘクタールと水田全体の4割超に達しているのに、米価の下落傾向は止まらない。
 生産調整には麦や大豆などに転作させ自給率を向上させる目的で補助金が支払われているが、実際に作物が植えられているのは43万ヘクタールにすぎない。
 米価を維持しようとすれば生産調整をさらに拡大する必要があるが、農家の側にはもはや減反は限界との意見が強い。
 十分な農地がなければ食糧安全保障は達成できない。
 ところが自給率低下にもかかわらずコメの減反で、「農地も余っている」との認識が定着し、公共事業などで110万ヘクタールの農地を造成したのに、逆に260万ヘクタールの農地が宅地などへの転用と耕作放棄で消滅した。
 今では摂取カロリーを最大化できるイモとコメだけ植えてかろうじて日本人が生命を維持できる460万ヘクタールが残るのみである。
 減反主体の生産調整拡大で農地は一層減少し、日本の食糧安全保障は危うくなる。
 生産調整と価格維持を軸とした従来のコメ政策の誤りはもはや明らかである。
 農産物をめぐる現下の国際情勢を考えれば、政策の抜本転換は待ったなしといえよう。
 農業には農産物供給以外にも、水資源涵養や洪水防止といった多面的機能があるといわれる。
 しかし米作の生産装置である水田を水田として利用してはじめて多面的機能が発揮できることを認識すべきだろう。

(2008年6月10日付け日本経済新聞「経済教室」に掲載「食料高騰下の農業政策、減反政策やめ増産目指せ」)
http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/yamashita/43.html

 「水田を水田として利用して」って、農民にコメ増産をおっしゃっているのかな。
 
(北の例)
 八郎潟は琵琶湖に次日本で二番目に広い湖でした。
 そこでは「八郎太郎」という龍になった主が住んでいるという伝説があるなど神秘的な歴史があります。
 ところが1957(昭和32)年に農業地の拡大のためその湖を干拓し農地にするという国家プロジェクトが始まり、20年、900億円をかけて現在のような土地が出来上がりました。
 今ではお米の生産地だけではなく、メロンやりんごの産地としても有名になりました。
(秋田県観光ガイド、八郎潟、大潟村・山本の観光スポット)
http://www.akita-train.jp/chuo/

(南の例)
 国営諫早湾干拓事業の開門調査は12月20日、着手できないまま、2010年福岡高裁の確定判決が国に命じた履行期限を迎えた。
 「憲政史上初」となる事態に、開門派の漁業者らは憤った。
 一方、干拓地の営農者らは開門方針の白紙撤回を改めて求めた。
 1997年に閉め切られた潮受け堤防で揺れる「混迷の海」。
 反対派、開門派とも国への不信が根強く、出口が見えない状態が続く。

(12月22日(日)17時56分毎日新聞 配信【武内靖広、澤本麻里子、春田周平】<諫早湾干拓事業>反対派と開門派、双方とも国に根強い不信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131222-00000022-mai-soci 

 この御仁のもうひとつ時をさかのぼってのロンを読んでみませんか:

 農業を保護するかどうかが問題なのではない
 あるべき農政のためにどのような政策を採るかが問題なのである
 先日、和田(博雄、1903-1967)の蔵書の中に、1910年に刊行された柳田國男の著書にはさまれた"農業経済の基本問題"という和田のメモ書きを見つけた。
 その中で和田は貧農救済のために米価を吊り上げるのではなく、国債または税金により奨励金(今日でいうなら直接支払い)を交付すべきであると書いている。
 70年以上の時空を超えて、若き日の和田があるべき農政を語りかけてきたように感じた。
 直接支払いによる農政改革は実現できるのだろうか。
 それとも冬の醍醐寺に咲いた"幻の花"に終わるのだろうか
(注1)。
(2004年7月20日付け経済産業研究所コラム「農地改革の真相−忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄」)
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html

 山下一仁氏は、農水省でガット室長、あるいは在ベルギーEU日本政府代表部参事官など国際派としてあちこちとびまわっていた上級官僚でした。
 であれば、日本のおコメが「国際競争力」があるかどうか、ってお分かりになるはずなんですけど、といらぬ心配をするヤッホー君です。
 いわばご飯を食べる人びとのなかでは、日本人が食べているようなおコメってB級グルメとか地方特産品で、一般的じゃぁ、ないよねぇ〜
 農政や国際競争力でなく、やはり日本の日本人の食と農の地位向上が先決のような気がするんですけど…
 ヤッホー君だって長期出張の欧米から、飛行機で東南アジアに戻ってくると、窓から見えるあの沸き立つような雲の列、雲のなかに光る稲光、そして地上に降り立ったときの心地良い湿気、そして雑炊にしても、いためご飯にしても、皿に盛った炊き立てのご飯に、肉や魚や野菜を載せて食べるときの旨さ、あ〜あ、アジア人だなって思いましたもん。
 でもそのときのご飯は、ジャポニカ米ではないのです。
 市場開放すれば、あっと言う間に雪崩をうってアメリカ、ベトナムあたりから安いジャポニカ米が入ってくるでしょうね。
 あるいは貧乏人はそういう「ガイマイ」を食べろ、と。
 金のある人は、ジャポニカ米だよってかぁ〜。
 そうしたら、日本の農地はどうなるんでしょうか。
 ジャポニカ米でない、アジア各国で食べられているインディカ米とかジャバニカ米とか作ればいいんじゃん、となるのかな?
 でも、作れるのかな?売れるのかな?買ってくれるのかな?(注2)
 

(注1)山下一仁は、和田博雄に対し、次のように理解を示している:  

 労働組合に基盤を持たない和田は、社会党のプリンスであり、大きな政策集団のリーダーでありながら、社会党内の派閥抗争により消耗しつづけ、ついに委員長になれずに政界を引退する。
 引退を決意した際、醍醐寺で詠んだ句が
 幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

である。
 安本(経済安定本部)長官後は農政に対する発言もほとんどない。
 農林官僚としての自分はやることはやった、あとは後輩に委ねようとしたのだろう。
 和田の零細農業構造を改善するというその仕事を受け継いだのが和田の盟友東畑精一博士、和田の部下小倉武一博士による1961年農業基本法だった。
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html

(注2)マレーシア紙から、ふたつの論調を録しておきます:
(注2−1)
KUALA LUMPUR: The Government will double the country's rice yield by 2020 in preparation for a possible global food crisis.

Agriculture and Agro-based Industry Minister Datuk Seri Noh Omar said the domestic rice yield had to be increased to eight metric tonnes per hectare from the present four metric tonnes per hectare for the country to be self-sufficient.

“We are currently producing enough rice to sustain 70% of the country's consumption, while 30% is imported.

“By 2020, we hope to produce enough to sustain 80%, with only 20% imported. This is to ensure the country's food security,” Noh told reporters...
(Updated Thursday May 30, 2013 MYT 12:51:56 AM, Doubling country’s rice yield, by Yvonne Lim)
http://www.thestar.com.my/News/Nation/2012/07/13/Doubling-countrys-rice-yield.aspx

(注2−2)
KUALA LUMPUR: Malaysia is 72 per cent self sufficient in rice production, Science adviser Professor Emeritus Datuk Dr Zakri Abdul Hamid said yesterday.

"Malaysia is progressing steadily. Ten years ago, we were 60 per cent self sufficient and in the next 10 years, we are aiming for 90 per cent," he said at the launch of a strategy meeting workshop on rice security.

"The global population is expected to swell to 9.3 billion by 2050, hence food security is critical.

19 December 2012| last updated at 12:59AM
Read more: Experts: Rice production vital - General - New Straits Times http://www.nst.com.my/nation/general/experts-rice-production-vital-1.188410#ixzz2oRcu7TZE
posted by fom_club at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月24日

教育委員会制度改革

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2088374.html
 本日の聖夜、2本目の日記はまず、今夕24日17:01放映のTBSニュースからです。

 また腹痛を理由に突然、辞ぁ〜めた、と言い出しかねないあのアベノリスクが、その前にと国会での議論も報告もないまんま、拙速にとんでもないことをすすめております。
 
 人殺しの武器です。そしてそれに似たのが子どもたちへの教育の分野でもおこっているのです。
 「教育委員会制度改革」です。
 今朝の毎日新聞社説、これも削除を命ぜられるか、自主的に読めなくする前に、再録しておきたいのです。
 
 戦後の地方教育行政の“あるじ”が教育委員会から首長に代わる。
 中央教育審議会が答申した教委制度改革が実施されれば、大きな転換になるといえるだろう…。
 教委が教育行政を担ってきたのは、党派の利害や首長の交代で方針が急変するような影響を避ける「中立性」「継続・安定性」のためだ。
 このことは学校教育環境の基本的な条件である。
 今回の教委改革答申でも、この点を看過はしていない。
 首長は教育長に細々と口は出さず、指示するのは、例えば、教育長の事務執行があまりに適正を欠いたり、児童生徒の生命、身体保護のため緊急を要したりする「特別の場合」に限るとした。
 だが「特別」の線引きは難しい。
 首長の考えや、解釈次第となりかねない。
 指示・命令を出すことに抑制的な姿勢が不可欠だ。
 答申によれば、教委は、首長が出す指示に意見を付け、また大綱的な教育行政の方針を審議するなど、ご意見番的な位置といえる。
 しかし、本来の役割ともいえる、首長の独善的な傾向や政策執行に対し適切なブレーキとなるには、立場は弱いといわざるをえない。

(2013年12月24日02時32分毎日新聞、社説「教育委員会改革 中立をどう担保するか」)
http://mainichi.jp/opinion/news/20131224k0000m070112000c.html

 文科省ですら、首長からの「中立性」をうたう教委を次のように明確にうたっています:

 学校等教育機関の設置管理など教育事務については、教育委員会に単独で事務を執行する権限を付与。
 ⇒ 首長から独立した権限を持つことにより、教育行政の中立性等を確保。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo1/003/gijiroku/04061001/004.pdf

 しかし、サイキン、どうも中立性がおびやかされている気配がするのを、ヤッホー君も「はだしのゲン」以来、指摘してきております。

 「国家の利益」と表現の自由との衝突がみられたのは、教育分野であった。
 従来は教科書の検定が行政による事前検閲ではないかと大きな問題になっていたが、沖縄戦や慰安婦等の記述をめぐって、いまなお政府の厳しい内容統制が進む中で、さらなる徹底の手段として、「採択」の段階においても政府の意向を強く押し付ける事態が進んだ。
 もちろんこれは、まさに中教審で進む、中央集権的な指向のもとでの教育委員会改革とも軌を一にするものだ。
 地元の住民の代表である教育委員が、その地域の特性等を加味して自由に教科書を選択する、というこれまでの制度趣旨が否定され、教科書を通じての思想の統一が図られつつあるといえるだろう。
 それは今後、道徳の教科化によって、現在は副教材にすぎない「心のノート」で目指された内容がいずれ教科書として実現し、そしてまた政府の意向にそった採択がなされていく構図が想像される。
 教育委員会絡みで今年の大きなニュースは、「はだしのゲン」をめぐる閲覧制限だ。
 松江市教育委員会が、小学校校長あてに閉架措置を要請し、のちに手続きに瑕疵(かし)があったとしてこの指示を撤回した事件である。
 行政機関である教育委員会(もしくは教育庁)が、生徒が読んでよい本を選定することが問題であることは多くの論者によって指摘されてきた。
 今回の一件で見えてきたのは、教育の場で、政府方針(あるいは一部政治家の歴史観)が忖度(そんたく)される傾向にあるということだろう。
 それはまさに前記の教科書の採択問題に通じるところである。

(2013年12月14日付け琉球新報<メディア時評・秘密保護法と情報公開>禁止規定を法制化 強まる政府の押し付け)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-216666-storytopic-9.html

 戦争に行った兵士も、行かなかった庶民も戦争で殺され、他国に攻め入って、敵の兵士のみならず庶民まで殺害して、敗戦後ようやく勝ち得たさまざまな民主化。
 犬飯もなく餓死したご先祖さまを、むざむざ犬死させたくはないな、とヤッホー君。
 NHKも政府の押し付け、締め付け、内容統制がすすむでしょうから、削除されてしまいかねない貴重な映像をここで振り返ってみましょう:
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/bangumi.cgi?das_id=D0005120319_00000&year=2013

 NHKはどこぞの国のように決定事項ばかりを誇らかにアナウンスする報道機関になるでしょうから、次も削除されか、カゲキ派、テロリスト的な発言はしないよう、今後、事前に出演者に断ることでしょう:

 …例えば教科書選択、あるいは日の丸掲揚君が代斉唱の問題、あるいは外国人の教育の問題、あるいは大阪で起きましたように、体罰事件を契機に入試が中止されるような時に首長の意見が非常に強く反映されるというような問題、こうしたことが今よりもより容易に教育現場に起きるということになるのです。
 首長が変わる度に教育現場のその意向が首長の意向に左右されるということは、政治的中立性あるいは教育の安定性ということを侵害する危険が大変大きくなってきます。
 忘れられてはいけないのは、教育というのは子供達の権利だということです。
 この権利保障をすることは、保護者そして教員の第一義的な責務です。
 国や地方公共団体は、この子供の権利、これを保証するためのバックアップに徹するべきであります。
 政治のニーズによって教育現場が振り回されてはならないと思っています。

(2013年05月09日(木)NHK視点・論点、弁護士・坪井節子「教育委員会制度改革を考える」)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/155705.html

 拙速にアベノリスクに突き進む彼は、ヒミツ法だけではございません。
 国民主権のはずなのに、なにごとも『政府方針(あるいは一部政治家の歴史観)が忖度(そんたく)される』なんとか会議で、はじめに結論ありきの作文を認めて答申して、それに基づきすべて決して制度化するというのでは、国会議員の皆さん、何をおやりになっているんでしょうか。
 どこぞの国のようにロビイストに成り下がっているのでしょうか。
 カレは、腹痛になる前、こんな教育の分野でも狼藉をはたらいていたんでござんす。
 7年前のこと、だめだぁ〜こりゃ〜:

 本日、教育基本法案が与党の単独採決により可決され参議院に送付された。
 しかし、なぜいま教育基本法を改正しなければならないのか、その改正によって教育がどのようによくなるのか、改正の必要性を根拠づける理由は、同特別委員会での審議では、未だ明らかになっていない。
 当連合会は、政府案は、現行法10条の国家等による教育に対する不当な支配を禁ずる内容を実質的に改変するものであり、教育行政による教育振興基本計画の策定等を梃子(てこ)とした教育内容への不当な介入を強めることになるとの懸念を表明しているが、その懸念も未だ払拭されていない。

(2006(平成18)年11月16日、日本弁護士連合会会長・平山正剛)
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2006/061116.html

posted by fom_club at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松田甚次郎

 12月24日火曜日クリスマス・イヴ。
 おコメだけでなく、コメができる田んぼ、コメをつくるひと、そんな人びとが暮らす集落、と想いがひろがっていくヤッホー君のところに河北新報が届きました。
 また、ヤッホー君の生れた山形のお話しです:

 昭和初期の農村指導者として、郷土の新庄で農民の地位向上に尽力した松田甚次郎(1909-1943)の没後70年記念展が、山形県新庄市の「雪の里情報館」で開かれている。2014年1月12日まで。
 松田は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)に進み、宮沢賢治(1896-1933)に


  「小作人たれ」
  「農村劇をやれ」


と諭され、帰郷後、農村振興に励んだ。
 1938(昭和13)年、その実践録『土に叫ぶ』がベストセラーになり、翌1939(昭和14)年には師事した賢治の作品集も出版した。
 連絡先は「雪の里情報館」Tel 0233-22-7891(月曜休館)。

(2013年12月24日火曜日付け河北新報「自家製の紡毛機で作ったオーバーなどの遺品が展示されている松田甚次郎展」)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/20131224t55005.htm

 新庄市の公式サイトでも:
http://www.city.shinjo.yamagata.jp/11233.html

 昭和初期の世情を振り返ってみてきたヤッホー君、北の国ではあんなこと、こんなこともあったのでした。
 
 賢治の思想に感動し愚直に実践した甚治郎は、1938(昭和13)年、亡き賢治への報告書として、これまでの体験をまとめた『土に叫ぶ』を執筆すると、本はたちまちベストセラーとなり、新国劇でも上演されるなど全国的な反響を呼びました。
 続いて出版した『宮沢賢治名作選』も多くの人に読まれ、賢治を全国に知らしめることになり、甚次郎は一躍時の人となり、多忙な日々を送ります…
 1943(昭和18)年の夏は、最上地方は日照りが続いたため、村人と雨乞い祈願に八森山1098m へ登った甚次郎は、連日の疲労で病に倒れ、早すぎる死を迎えてしまいました。
 享年34歳。


 冬寒く 雪降る奥羽の 山里に 道を求めて ここに十八年


が辞世の歌となりました。
(新庄話題鍋、とっておきのお話)
 ようこそ、新庄話題鍋にお越し下さいました。
 私は、「渡辺」と申します。
 生まれは、196X年、男です。
 山形県新庄市生まれ 現在も新庄市に住んでいます。
 この、「新庄話題鍋」というタイトルも「新庄の渡辺」をもじってつけました。
 ニックネームの「ニャージュ」も、新庄弁の「にゃあ」と「じゅう」をもじっています。
http://www3.ic-net.or.jp/~nya-ju/wadai/matuda/matuda.htm

 松田は、当時飢饉に苦しんでいた赤石村の子供たちを慰めようと、1927(昭和2)年3月、友人と2人で南部煎餅を買い込んで同村を訪れ、その足で2人は花巻下根子桜にある賢治の独居、自炊の羅須地人協会に立ち寄りました。
 松田らはレコードを聞かせてもらいながら、握り飯やスープをご馳走になります。
 その席で賢治は、「君たちはどんな心構えで百姓をやるのか」と尋ねました。
 松田が「学校で学んだ術を充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になりたい」と答えると、賢治は次のようなことを言いました。


 「そんなことでは私の同志ではない。
 これからの世の中は、君たちを学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで優待してはくれなくなるし、また優待されるのは大馬鹿者だ。
 煎じ詰めて君たちに贈る言葉はこの2つだ…
 農民として真に生きるには、まず真の小作人になることだ。
 農村劇をやれ、ということは、単に農村に娯楽を与えるという小さなことではない。
 農業者は天然の現象に絶大なる芸術を感得し、さらに自ら農耕に、生活行事に、芸術を実現しつつあるのだ。
 農民のもつ得意芸を総合して1つの芝居をやればよい。
 生命をもってくるのだ。
 その生命力が大事なのだ」


 松田はこの言葉にすっかり感動し、郷里の山形県の鳥越(最上郡稲舟村大字鳥越、現・新庄市)に帰って農村芝居をやろうと決意します。
 8月、自作の脚本を持って賢治を尋ねたところ、賢治はそれに「水涸れ」という題をつけてくれました。

(笹山登生のウォッチ&アナライズ)
http://www.sasayama.or.jp/column/link_1.htm

 この松田は、当時ベストセラー作家となり、当時無名だった宮沢賢治を世に知らしめることになったのでした。へ〜ぇ:

 こうして清六とコトが選び出した”いい”作品群から作られたのが、1939(昭和14)年3月7日発行の「『松田甚次郎編集『宮澤賢治名作選』」である。

 それにしてもどうして『宮澤賢治名作選』の前に”松田甚次郎編集”が付いているのだろうか。
 吉田コト氏の証言を基にすれば、


 さて、原稿は選んだものの「誰の名前で本を出すか」ってことになった。
 賢治はまだ無名だったわけよ。
 政次郎さんと清六さんは「賢治の名前で出しても一冊も売れないんでねか」なんて心配してた。
 そこで、甚次郎さんの名前で出すことになった。
 甚次郎さんは今でいえばベストセラー作家でしょう。
 だから、賢治の名前で売るのではなくて、ベストセラー作家の甚次郎さんが尊敬する人の本だってことで売ろうとしたのね。
 羽田書店から本が出たのは1939(昭和14)年3月だった。
 この『宮澤賢治名作選』も売れに売れた。


   <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)より>
ということなのだそうだ。
 賢治の作品を選ぶためにわざわざ花巻に訪れていた吉田コトと宮澤清六が選んだ賢治の作品集を、『土に叫ぶ』の出版社である羽田書店から出すことになったこと、及び清六、政次郎そしてコトの3人が思いついた松田甚次郎の名前を使おうというアイディアは自然の成り行きだったのだろう。
 そこでコトが新庄、鳥越にいる甚次郎に、名前を使いたいと花巻から電話でお願いしたならば、甚次郎は「あー、いいよ」と快諾したということも『月夜の蓄音機』の中でコトは言っている。

(下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う「宮澤賢治の里より」)
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/0a685e892399f0783fdaf039dd6b0777

 この方は、リタイアした団塊世代のはしりの一人で岩手県に住む男性です。
 年の暮れですが、地方に住まってなんか知ろうと、知ったことをヒミツにしないで皆んなに伝えようと時空を越えて彷徨うたくさんの方とこうして知り合いになって、久しぶりの今朝の美空のようにこころも晴れ晴れ。
 今日も良き一日でありますように、パン、パン!
(とヤッホー君、かしわでをうっていますよ、さ、パンでも食べましょう)

 あっ、以下のURLもクリックして読んでみてください:
http://www.jmcy.co.jp/~goto/Majime/higasiyumei/jinjirou/matudajinjiro.htm

posted by fom_club at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月23日

生産調整(減反)の5年後廃止

 ヤッホー君の大好きなご飯、お米、コメ、…
 暖たたかいお正月を迎えるためにも、おコメを買ってこなくっちゃ、と思うのですが、安くなればいいのにな、といつも思います。
 生産から、つまり農家から、消費、つまり庶民までの間に、米がご飯になるまでの途中で、どこかが価格をあげて利益をあげているんじゃないか、と。
 こうした流れを調整をするのが、官僚、政治、行政なんでしょうが、機能していないんでしょうね?…
 農<業>団体でなく現場の農家の意見や、生産者のためでなく都市に住む末端消費者のために、声をひろいあげて代弁する団体や組織ってあるんでしたっけ?…
 ブランド米もけっこうですが、庶民には高ければ買えない、買わない、横目で眺めて素通り、じゃないんでしょうか?…
 ですので、特に若い世代からはそっぽをむかれ、その子どもたちなんてなるとなおさらのこと、ヤッホー君のこのブログ、12月18日付け日記「和食」に記したように、ご飯よりは eating Krispy Kreme doughnuts and McDonald's, not rice なんて事態にいたっているんだろうな、と。

 12月23日(祝・月)、今朝の河北新報です:

 山形県は、政府が決めた生産調整(減反)の5年後廃止を含むコメ政策の見直しなどに伴い、2014年産の主食用米産出額が2013年産と比べ、31億2000万円減少するとの試算をまとめた。
 全国的なコメ余りの影響で、2014年産の生産数量目標が1万5630トン(4.2%)減らされ、作付面積が6万370ヘクタールに縮小するため。収量や単価が変わらなければ、746億6000万円だった産出額は、715億4000万円に減少する。
 一方、作付面積の落ち込み分(2630ヘクタール)を全て飼料用、加工用、大豆などの生産に転換した場合、転作作物の産出額は12億2000万円増加するとの見通しも示した。
 転作作物の産出額は、加工用米が面積を720ヘクタール拡大することで7億1000万円、飼料用米が1300ヘクタール拡大で3億9000万円、米粉用米が53ヘクタール拡大で4000万円それぞれ増加するとした。
 県は12月25日、2014年産米の市町村別生産目標数量を公表する。
 県産ブランド米「つや姫」をけん引役に主食用米の生産、販売を強化する一方、飼料用米など非主食用の販路確保を急ぎ、生産量と産出額の拡大に取り組む。

(2013年12月23日月曜日付け河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/20131223t51006.htm

 12月1日付けの山陰中央新報です:

 自民党の石破茂幹事長が農水相時代にコメ減反政策を見直し、選択制にしようとしたことがある。
 全員参加型の減反から、つくりたい農家は自由につくって経営規模を拡大する。農水省の改革派官僚に後押しされながら、農政を転換しようとする意気込みが込められていた。
 ▼ ちょうど自民党が下野する直前であり、民主党政権に代わって石破改革構想は立ち消えとなる。
 代わって登場したのが戸別所得補償。
 減反への参加を条件にコメ販売農家すべてを対象とし、減反制度を支えている。
 ▼ 農村に補助金をばらまくことで農村票を自民党から根こそぎ奪う。小沢一郎元民主党代表が描いた選挙戦略であり、それは見事に的中して政権交代の原動力となった。
 ▼ その減反政策が5年後に廃止されることになった。
 1970年以来40年以上続けられている農政の大転換。
 コメ余りによる価格下落を防ぐため、コメ生産を調整する国家主導カルテルがいよいよ賞味期限切れを迎える。
 ▼ 減反をやめると、つくりたいだけつくって米価が下落すれば農家が収入減という責任を取る。
 収入が減ってコメ作りを続けることができなくなった零細農家はやめてもらい、後は大規模農家にまかせなさい
 そんな政策メッセージも伝わってくる…

(13/12/01 山陰中央新報「明窓:減反廃止」)
http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=542782034

 自己責任かぁ?…う〜ん。
 天皇誕生日の今朝からヤッホー君、天を仰いでおうかがいをたてております。
 農文協の次の指摘ってどう話されてきたのかな(いるのかな)?…
 これは2009年のときの提議ですので、もう論議が尽されたのかな(無視されたのかな)?…
 その結果の<コメ政策見直し>でしたかぁ〜?…
 イマは、「コンクリートから人へ」じゃなくって、「人からコンクリートと株へ」でしたかぁ〜…?
 でも、さ、いまだに、価格にしても数量にしても「数」だけの論議、<視野狭窄の生産調整廃止論議>で、電卓たたいてどうのこうの、パソコンのキーボードたたいてどうのこうのじゃないっすよね?…
 あ、そんなこと、イマさらぁ…、これはもう既にどっかヒミツのとこで決まったことでしたかぁ〜?…

減反廃止論議が無視する3つのこと
 米に関する議論には一面的な、あるいは意図的に無視していることが3つある。
 一つは、「食料」のみを問題にし、農業農村、それを担っている農家はどうでもよいという発想であり、
 2つめは、規模の大小にかかわらずこの間農家がさまざまに進めている工夫や取り組みを無視していること、
 そして3つめに、「イネ+兼業」という形で多くの農家が米つくりと田んぼを守ってきたことの軽視である…。
 大きい農家も小さい農家も含む、あるいは連携したこれら総体の農村の営みがあってこそ、安心安全な食料の確保につながり、(ヤッホー君補足:水田の)多面的機能の発揮にもつながる。
 国籍を問わない、モノとしての食料が確保できればいいというものではないのである。

(農文協の主張、2009年8月号)
http://www.ruralnet.or.jp/syutyo/2009/200908.htm

 どうなるんでしょ、いったいこの国の成り行き、行き末は?…
 なんか性急に強引に決めちゃって、ものごとを違う方向にすすめていません?

posted by fom_club at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月22日

あぁ、勘違い

http://www.youtube.com/watch?v=slHIcd0DBQc

「君の名、も上映会があったんですか」
「真知子巻き、ね」
「そう、そう、キシ・ヨウコ」
「えっ?」

 これは12月21日土曜日の午後、江東区古石場文化センター・大研修室であった「江東シネマプラザ『山の音』」の開場を待つあいだ、観に来た見知らぬあるご近所の方と、ヤッホー君との会話。

 岸恵子は1932年、横浜市生まれ。幻冬舎より、2013年3月『わりなき恋』を出版して話題になりました。

 女優歴60年以上、作家としても多くの著書があり、1957年にフランス映画監督のイブ・シャンピ氏と結婚し、1女をもうけて1975年に離婚。
 以降もパリに住み、作品の主人公と同様に日本とパリを行き来する岸が、赤裸々ともとれる同世代の恋愛小説に取り組むきっかけになったのは、幻冬舎の見城徹社長(61)との出会いだった。
 5年前、岸の半生を紹介するドキュメンタリーに、見城氏がコメンテーターとして出演して交流が生まれた。
 「決定的な小説を書きませんか」と依頼すると4年を費やし、322ページの長編小説を仕上げた。
 見城氏は「恋愛という男女の普遍の営みを、格調高くうたい上げた新しい時代の新しい文学。こんなに興奮して作業したのは久しぶりです」と話している。

(2013年3月24日7時3分日刊スポーツ紙面から)
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20130324-1102062.html

 岸洋子は1935年、山形県酒田市生まれ。1992年、急逝。
http://www.youtube.com/watch?v=UcXrlCPqbO4

 幼い頃から歌が好きな上に、身長が高かったため、「宝塚に進んだら」と勧められたほどだった。
 当時、酒田市には元宝塚歌劇団で声楽教授として活躍していた東京芸大出身の加藤千恵が「酒田ボーカルスクール」を開設していた。
 「遠い記憶をたどると、私が初めて音楽にかかわったのが小学校5年の時。姉に連れられて行った浄福寺のボーカルスタジオで、加藤千恵先生の手ほどきを受けた」
 中学校、高校での岸は、ソプラノ、アルトのどちらでもこなせた上に、伴奏まで出来たため、クラブ活動で幅広く活躍した。
 そして、当然の成り行きのように、加藤から東京芸大受験を勧められ、4次まである試験をストレートで突破し、現役で声楽科に合格する。
 芸大入学後、ドイツ歌曲、フランス歌曲、フォーレ作品などを勉強し、オペラへの出演も頻繁になっていった。
 大学4年の時、とうとう大学院への最終選考に合格し、さらに声楽への道を極めることになった。
 この頃までの岸の人生は順風満帆であったと言えよう。
 ドイツ留学や二期会への入会という話も見え隠れしていた。

(希望の名言集、第3回、東京大学大学院学際情報学府・佐藤由紀)
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/meigen/meigen_3.html

 この日は、映画『山の音』上映終了後、作家藤田小八(注)を講師にトーク、第7回シネマフェスティバルプレイベント『泣いて笑ってシネマでたどる昭和時代』があったのです。
 藤田小八とは本名、藤田武史(1942年松江市生まれ)ですが、この数年は、柳橋、深川、本所とお住まいを変えて小説執筆の傍ら、下町文化の吸収に余念がないそうです。
 そのトークのなかで、小林多喜二の築地警察署での殺害の話し、それにイマのアベノリスクによる強権的な政治手法によるきわめて危ない秘密法のお話しをしていただいて、『これからも彼、彼らの成り行き、行き末をみつめていきたい』お話しが講師からありまして、会場からは、拍手。
 その折り講師から、赤紙一枚で国家のために一命を差し出すべく狩りだされた出征兵士たちが、肌身離さず大事にもっていたブロマイドは、いったい誰のだったのでしょう?とのクイズがありました。

 答えは、高峰三枝子(1918-1990)。
http://www.youtube.com/watch?v=CpWKeB2Ezcs
 
 山歩クラブが榛名湖畔のこの歌碑の前で全員、直立不動で歌ったのはもう何年前になるでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=9-ZOrTRKokc

 64歳時の豊胸に『シリコンなんか入れたのをみたくない』とタレント議員の山東昭子(1942年世田谷区生まれ)が言った、と講師が言いますもんですから、何にも知らないヤッホー君、そんなこともあったのかぁ〜、と口をあけたまんま。

 石原知事と地権者の男性との橋渡しをした私の事務所も、朝から電話が鳴りっぱなし。
 本当に数多くの賛同の声をいただいております。
 私と地権者の男性とは、青年会議所の活動を通じて30年来の親交があり、彼の母親が90歳を過ぎた時、私が理事を務める「元気な120歳を創る会」で表彰するなど、家族ぐるみの付き合いを続けてきました。
 その男性から尖閣諸島について、「長い間、国を守るために所有し続けてきたが、個人でまもっていくのは限界がある」「政府に買い上げてもらいたいが、いまの民主党政権は国を守る意識も外交センスもなく、信用できない」などとお聞きしたのです。
 2011年はじめのことでした。

(山東昭子・前参議院副議長、月刊『WILL』2012年6月号より抜粋「<尖閣購入>仕掛人は私です」)
http://www.akiko310.com/article/003.html

 そして、「たかみね・みえこ」と聞いて、ヤッホー君は「たかみね・ひでこ」、高峰秀子(1924年、函館市生まれ−2010年12月28日)とまたまた勘違い!
 えっ?
http://www.youtube.com/watch?v=EaANocwgFW4&list=RDEaANocwgFW4&index=1

 大晦日の夜、ほろ酔い気分のところに、突如、高峰秀子さんの訃報が飛び込んできたので、しばし茫然となる。
 肺がんを患っていたようで、享年86。
 ああ、ついに来たか、という暗然たる思いと同時に、すっかり酔いも醒めてしまい、手許にあった『浮雲』のビデオを見直し、元旦は、彼女の傑作メモワール『わたしの渡世日記』を読み返して過ごした…
 『わたしの渡世日記』を再読して、もっとも印象に残ったのは、「イジワルジイサン」と題された成瀬巳喜男を追想した章である。
 ガンで再入院が決まった成瀬を自宅に訪ねた高峰さんは、別れ際に、成瀬から「ほら、約束のあれ(傍点)も、やらなきゃね」という謎めいた言葉をかけられる。
 あれ(傍点)とは、成瀬がひそかに念願していたという<高峰秀子が主演で、装置も色もない、一枚の白バックの前で芝居だけを見せる映画>のことである。
 松竹蒲田時代に「小津はふたりいらない」と撮影所長に言われ、追われるように東宝に移籍して、数多くの小市民映画の名作を放った成瀬が、最後に夢想していた高峰秀子主演の、この究極の<女性映画>を、ぜひ、見てみたかったと思う。

(高崎俊夫の映画アットランダム「一枚の白バックの高峰秀子」)
http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2011/01/post-14.html

 そうだったのです。映画『山の音』の監督は、成瀬巳喜男だったのです。


(注)
ヤッホー君が昨日のこの企画が終了して受付けで買い求めた本が、昭和倶楽部編著『泣いて笑って夢に生きた昭和時代』(成美堂出版、2013)。この本の主幹が、藤田武司でした!

posted by fom_club at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

犬飯

 15日日曜日の日記につけておきましたようにヤッホー山荘での清洲会議、宴々と快議が長引き夜も更けたんで、ヤッホー君、仲間の懐具合、腹具合を心配して夜食を供してあげたのです。
 礼状がきました、いいっすね、仲間というもんは…

 「犬飯(いぬめし)」の晩ご飯(嫌みでは決してありませんから!)までご馳走になりまんぷく、諸先輩たちのお話もおおいに参考になり、実に実り多い清洲会議でした!

 いやあ、高笑いしたヤッホー君。
 だって快議が引けて正気に戻って「犬飯」を振り返って見ますれば、あの18日水曜日の日記につけたポチの朝ごはんのようなものだったからです。:
 冷たいご飯山盛りに、冬至かぼちゃと、秋田名物きりたんぽを野菜たっぷりの具にして大なべにしたお汁の残りをどさっとぶっかけ、そのどんぶりをチンしただけの食事…、たしかに間違っていないんです。
 あの新藤兼人の『ハチ公物語』で、書生がハチの朝ごはんに、先生がとっててくれた夕べの肉、魚をご飯にかけて雑炊にして七輪でぱたぱた煮たきしたものと…、今日も犬飯で元気に動きまわることにします、だって、ヤッホー君。

 もちにご飯、いぬめしに、とお米大好き人間のヤッホー君、12月21日土曜日朝、山形県議会閉会のニュースに接しました:

 山形県議会は12月20日、生産調整(減反)の5年後の廃止方針を含む政府のコメ政策転換で、減反参加農家に支給される補助金(直接支払い交付金)を今後10年程度、存続させることなどを求める意見書案を全会一致で可決した。
 意見書は政府の新たなコメ政策に関し、「大規模農家ほど所得の減少につながる恐れがある」と指摘。「小規模農家が存立できない事態となり、農村の崩壊につながることが懸念される」と危機感を強く打ち出した。
 その上で、減反補助金は「農業所得の下支えとして重要」と強調。2014年度から半額にし、5年後には全廃する政府方針の見直しを訴えた。
 県議会は同日、12月定例会の本会議を開き、37億2400万円を減額する一般会計補正予算案、県総合運動公園(山形県天童市)の指定管理者(注1)に、サッカーJ2山形を来季運営するモンテディオ山形を指定する議案など24件を可決し、閉会した。

(2013年12月21日土曜日付け河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/20131221t51019.htm

 この政府の新たなコメ政策に関し、農村の崩壊など眼中にない都会での論議では:

 米価が下がれば補てんする。その対象農家もこれまでは4ヘクタール以上の大規模農家などに限ってきたが、規模要件を撤廃して、小規模農家の集合体である集落営農でも規模に関係なく、受けられるようにするという。
 集落営農に参加する兼業農家にも価格保証をするので、農地は主業農家には集積しない。
 つまり、価格を高くして兼業農家を温存し、コメの構造改革を阻害するという従来の政策は、維持・強化される。

(山下一仁キヤノングローバル戦略研究所研究主幹「戦後農政の大転換『減反廃止』は大手マスコミの大誤報)
http://diamond.jp/articles/-/44362

 つまり新ジユウシュギシャは、コメの構造改革を図って、兼業農家や小規模農家はじゃまだから、主業農『家』、もしくは倒産したら売却も転売も、廃業も転業もできる農『業』に農地を集積すべし、と言っているのではないか、とヤッホ−君、不安にかられるわけです。
 プランテーション型農法、領主的土地所有者、地主に<経営>させ、そこに小作農民、土地なし農民、賃金労働者化する農民を配するのが<コメの構造改革>なのかなぁ〜、と。
 都会にうようよ目立つサイキンの新ジユウシュギシャたちは、それよりおコメを食べましょう、と率先垂範して炊飯器にスイッチをいれるほうが、誤報も東大話法もせずにすむんじゃないのかなぁ〜、と。

 米は日本の主食であり、日本人の炭水化物の43%、エネルギー摂取量の29%を米が占めています。
 欧米からは炭水化物摂取量が多いほど、循環器疾患発症リスクが高いという研究報告がありますが、日本人を対象とした研究では、明確な関連はみられていません。
 そこで私たちは、文部科学省が助成する大規模コホート研究JACC Study (注2)に参加し、食事についてのアンケートの有効回答が得られた40〜79歳の日本人男女83,752人を対象として、米摂取量と循環器疾患死亡リスクとの関係を分析したその結果を専門誌に発表しました。

男性では、米摂取量が高いと循環器疾患死亡リスクが低い
 男性では、米の摂取量が高いと虚血性心疾患、心不全並びに全循環器疾患死亡リスクが低いことが示されました…
 対象者のBMIによって分けて解析を行った結果、BMIが21.4kg/m2以下の男性(やせ型)よりも、23.5Kg /m2より多い男性(やや太目)で、米摂取量が多いと全循環器疾患死亡リスクが低くなる関係がみられました。

まとめ
 日本人男性において、米摂取量が高いと虚血性心疾患、心不全と全循環器疾患による死亡リスクが低いことが示されました。
 しかしながら、女性ではその傾向は見られませんでした。
 米は日本人にとって、ビタミンB6や食物繊維の主要な供給源です。
 これらの栄養素は心疾患の発症に予防的に働くことが示唆されており、今回の結果もこれらの栄養素の働きで一部説明できると考えられます。

 男女で結果が一致しなかった理由として、男性と女性とでは、低脂肪・高炭水化物食を摂取したときの血中脂質の変化に違いがあることがあげられます。
 米のような低脂肪・高炭水化物食を食べると、女性のほうが男性よりも、血中の中性脂肪やVLDL(超低比重)コレステロールがより上昇し、HDLコレステロールがより低下することが報告されています。
 このような変化は心疾患死亡リスクを上げることから、女性では米に含まれるビタミンB6や食物繊維による予防効果が相殺されてしまった可能性が考えられます。

(Ehab S Eshak「 摂取量と循環器疾患死亡リスクとの関係について」)
http://publichealth.med.hokudai.ac.jp/jacc/reports/eshak1/index.html


(注1) 同じ河北新報今月16日月曜日付けで、県ではなく市でのお話しですが:

 東北6県の県庁所在市のうち、山形市以外は議会の審議前にHPなどで選定内容の詳細を公表し、議会の資料として市民が閲覧できる。各市の担当者は「候補者を選定した審査委の透明性、公平性を担保するため」と声をそろえる。
 これに対し、山形市で指定管理者制度を担当する市行革推進課は「審査結果の詳細は議会の議決後、候補者が正式に決まってから公表している」との一点張り。全面公表をしない明確な理由は返ってこなかった。
 市民オンブズマン山形県会議の田中暁代表は「行政の情報は公開が原則だ。本来、行政が管理運営するべき施設を民間に任せるのだから、候補者の選定過程も含めオープンにすべきだ。山形市の情報公開に対する姿勢はまだ不十分と言わざるを得ない」と指摘する。
 市の決定を「丸のみ」してきた議会の甘さも浮き彫りになった。山形市は指定管理者制度を2006年に導入、現在67施設に適用している。市議会は、審査委で選ばれた管理候補者を名前や応募団体数のみの情報だけを基に議決を重ねてきた。市政へのチェック機能を果たしてきたかどうか疑問が残る。
 財団法人地方自治総合研究所(東京)の密田義人事務局長は「指定管理者制度のポイントは、議会が議決して決定されることにある。候補者の審査方法や選定過程を議会がチェックすることが最も重要だ」と話す。

[指定管理者制度] 住民サービスの向上や経費削減を目的に、2003年の地方自治法改正で公共施設の管理運営を民間事業者や団体が担えるようになった。山形市は2006年に導入した。
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2013/12/20131216t51020.htm

(注2) JACCって何?と申しますと:

 JACC Studyは日本人の生活習慣ががんとどのように関連しているかを明らかにすることを目的としています
 JACC Studyと呼ばれるこの研究は文部科学省(当時文部省)の科学研究費の助成を受け、青木國雄名古屋大学教授(当時)を中心に多施設が協力して開始されました。
 このコホート研究は約12万人の一般の方々の協力を得て、最近の日本人の生活習慣ががんとどのように関連しているかを明らかにすることを目的としています
 事務局:北海道大学大学院医学研究科予防医学講座公衆衛生学分野
http://publichealth.med.hokudai.ac.jp/jacc/reports/eshak1/index.html
posted by fom_club at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月20日

一九二八年三月十五日

 景信山で聞いた「1928(昭和3)年」の年のお話し、続編。

 『雨の降る品川駅』って詩をやはりここで記しておくことが必要だと思いました。
 ぜひ岩波文庫『中野重治詩集』でお読み下さい:

  XXX記念に 李北満 金浩永におくる

  
辛(しん)よ さやうなら
  金(きん)よ さやうなら
  君らは雨の降る品川駅から乗車する…


 『改造』1929年2月号

 『改造』の当時の編集者上林暁(1902-1980)は、当時の状況を次のように回想している:

 それより問題になったのは、詩「雨の降る品川駅」であった。
 一字一句おろそかに出来ない絶唱であった。
 そレて検閲に引っかかる心配があった。
 この詩全体が引っかかるといってもいい。
 ぼくらは鳩首協議したが、満身伏字だらけであった。
  上林暁「見残した無尽蔵」『新日本文学』(新日本文学会、1979年12月)

 く検閲に引っかかる心配〉から、満身伏字だらけにならざるを得なかった「雨の降る品川駅」


 これは、新潟国際情報大学情報文化学部紀要、申銀珠「朴景利(パクキョンニ)『土地』に描かれた日本・日本人像」からの引用です。
http://www.nuis.ac.jp/ic/library/kiyou/9_shin.pdf

 伏字 xxx には何が入るのでしょうか…
 氷雨の振りしきる師走の冬12月20日金曜日、あばら屋でも雨風をしのげる居場所があるだけでもまだ高齢者の貧困に立ち至っていないと神さま、仏さま、ご先祖さまに感謝しつつ、雨の降る品川駅の当時に思いをはせてみませんか。
 岩波書店『新・日本文壇史』第8巻「『雨の降る品川駅』と中野重治の下獄」も併せてお読みになるのもいいですね。

 中野重治(1902-1979)は転向します。
 この背景については、石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』(明治学院大学『言語文化』第16号、1996)をぜひお読みください:
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/isido2.htm

 一方、小林多喜二(1903-1933)。

 多喜二は1927年に磯野小作公争議にかかわり、1928年になると北海道で衆議院議員選挙に労働農民党から立候補した山本懸蔵の選挙運動を支援した。
 このことは、多喜二にとっても大きな転機だった。
 男子普通選挙が始まったこの年3月(公表は4月)に、当時の田中義一首相(シベリア出兵期に参謀次長・陸軍大臣を歴任)率いる内閣は、無産政党の大弾圧(労働農民党などの禁止)に乗り出した。
 田中内閣は治安維持法罰則強化を議会に諮ったが果たせず、緊急勅令で強行した。
 多喜二は『一九二八年三月十五日』を書いた。
 警察による拷問のシーンをも含む、共産主義者への弾圧を赤裸々に描く小説である。

(2009-01-30東京学芸大学紀要、李修京・井竿富雄「小林多喜二の時代認識と同時代のプロレタリア作家についての考察」)
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/96203/1/18804314_60_09.pdf

 ヒトラーがドイツで首相になった翌月の1933年2月20日、多喜二は逮捕され、その日のうちに拷問で殺害された。
 指の骨はバラバラに砕かれ、下半身は全面内出血していた。
 死因を調査するための解剖は病院への圧力で不可能だった。
 遺体のそばにいた女優・藤川夏子(1911-2004)は、殺害から一日置いた時点でも、なお多喜二の下半身は、内出血でほてったままであったと記している(34)。

(34)
 藤川夏子『私の歩いた道』劇団はぐるま座、2003年、70頁。
 死因を調査した安田徳太郎博士が周囲の人々に触れさせたのだという。
 著者、藤川夏子については、田中益三「夢見る頃を過ぎても」『長く黄色い道』せらび書房、2006年所収。
 荻野富士夫『北の特高警察』(新日本出版社,1991年)によれば、多喜二が拷問死したことが初めて知られたのは第二次世界大戦後のことである(同時代的には心臓麻痺で突然死したことになっていた)

(2009-01-30前掲東京学芸大学紀要より)

 無産者候補は厳しい取り締まりの中での初めての普通選挙であったが、全国で労農党2名の他に全部で8名が当選(全議席466名)した。
 無産政党の勢力は議会の中では極めて少数であったが、これ以上の進出を恐れた政府によって、1928(昭和3)年3月15日未明、左翼勢力の一斉弾圧である「三・一五事件」が引き起こされた
 この事件は1道3府27県にわたる未曾有の規模の弾圧事件であったが、北海道は検挙者数、起訴者数においてそれぞれ3番目、4番目を占め、当局にとって検挙対象者の重要地域として位置付けられていた。
 特に、札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路・美唄の各署では特別の体制が敷かれた(荻野富士夫『北の特高警察』)。
 「三・一五事件」の検挙者・起訴者数は、全国でそれぞれ4000名・484名、北海道内で213名・61名、函館で51名・17名に達した(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部『不屈二十年の歩み』)。
 この数は小樽の検挙者数88名、起訴者数19名に次いで多い数字である。
 本事件は1925(大正14)年に普通選挙とともに施行された治安維持法にもとづく大弾圧事件という性格を有していた(奥平康弘『治安維持法小史』)。
 主な関係者の氏名と検挙時の年齢・経歴は次の通りである…。

(函館市公式サイト、函館市史「『三・一五事件』と函館)
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-02/shishi_05-02-09-05-02.htm 

posted by fom_club at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月19日

御大典記念

 景信山で聞いた「1928(昭和3)年」の年のお話し。
 ヤッホー君がいま読んでいる本のなかから、その年あたりのことをもう少し詳しく見たくなって、2013年12月19日木曜日の日記につけておくことにしました。

(1) 岡本巳之助(1909-1985)
(2) 江木理一(1890-1970)
(3) 花森安治(1911-1978)

 (1)と(2)は、山崎光夫(1947年福井市生まれ)『健康の天才たち』(新潮新書、2007)に拠ります。
 (3)は、津野海太郎(1938年福岡生まれ)『花森安治伝-日本の暮らしをかえた男』(新潮社、2013年)に拠ります。

 まずはダンロップから見て見ましょう。
 百周年記念ムービーという音声付き動画がありますのでちょっと覗いてみることにしましょう。
http://tyre.dunlop.co.jp/history/index.html?p=1
 
 『ラテックスをゴム製品の原料として一般化したのは、ダンロップ社で、1925(大正14)年だった。遠心分離法という方法で、濃縮ラテックスの製造を開始し、1929(昭和4)年にゴム糸、1931(昭和6)年フォームラバーを作っている。このラテックスを原料にすれば腐らないスキンができる』と直感した東洋の一青年が岡本巳之助だったのです。
 1934(昭和9)年2月4日といいますから80年前に向島区(現・墨田区)吾嬬町東5丁目にあった中島ゴム工業所の一角に『巳之助を始めとする岡本4姉弟は工場の門に「岡本ゴム工業所」の看板を掲げ』、これが現在のオカモト(株)に成長していくのでした。
http://www.okamoto-inc.jp/company/history.html#ayumi

 巳之助はコンドーム製造に対して違和感がなかった。
 生まれた場所は南葛飾郡大島町大字中之郷出村(現・江東区大島2丁目)で、ここは南に洲崎、北に亀戸という花街があり、吉原も小岩もそう遠くない。
 また、すぐそばの本所深川は江戸時代、無許可の岡場所として知られている。
 いわば花街に囲まれた下町に育った彼は、知らず知らずのうちに花柳界の空気に浸っていた


 そう、そう、ヤッホー君のご近所にイマ、高層マンションが建築中なのですが、ここは工事が始まるまでは『ダンロップファルケン東京』の本社があったところ。
 でも2010年、親会社の住友ゴム工業本社(江東区豊洲)に吸収合併され、会社は解散したようですね。

 次はラジオ体操!
http://www.youtube.com/watch?v=yA_icw0NJ_s

 1928(昭和3)年9月のある日−、江木理一は陸軍戸山学校の校長控室で、不安な気持ちにかられて背中を丸めながら、校長の香椎浩平を待っていた。
 香椎は陸士12期、陸大卒のエリートで、この年に校長に就任している。
 後年の1936(昭和11)年、2.26事件では東京警備司令官として戒厳司令官を兼職した。
 事件後、中将で予備役となった人物である…
 御大典記念(ヤッホー君注)にNHKが新事業を始める。ついては協力してもらいたいという。
 校長なら命令で済むものを協力を頼まれるのは意外だった。
 体操、国民保健体操をすると香椎は言った…
 時間は1ヶ月と少ししかない…

 国民を健康にした。
 成功だった。
 しかし、健康以外の目的を強要されたときもあった。
 軍国精神の高揚を図れ、国民に気合をいれろ、と将校が何度談判に来たことか。
 貴様、そんなこともできないのか、とサーベルに手をかけられた。
 だが、ラジオ体操の本分は保健のみである。
 そのつもりで軍楽隊から転身したのだった。
 命をかけてラジオ体操を守るだけである。
 それには自分がアナウンサーをやめるしかなかった。


 そして、1929(昭和4)年、18歳の花森安治。

 母の死の前年、1929(昭和4)年、高校入試に失敗した花森は、それからの一年間、大倉山の市立図書館(現・神戸市立中央図書館)にかよって、受験勉強のかたわら、図書館の蔵書を手当たり次第に読みあさった…。
 この新しい閲覧室でたまたま読んだのが平塚らいてうの論集『円窓より』(1913年刊の発禁本)である。
 その本でかれは「元始、女性は実に太陽であった」とはじまる、らいてう主宰の女性文芸誌『青鞜』の「創刊の辞」に出会った…。

 1971(昭和46)年、『1戔五厘の旗』を刊行…。
 なかでも、この本のカナメともいうべき「見よぼくら1戔五厘の旗」というエッセイは、花森にしてもかなり思い切ったもので、とくにつぎのような箇所が多くの読者をおどろかせた。

民主主義の<民>は、庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にする ということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒すということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒すということだ


 花森安治、60歳のときでした。


(ヤッホー君注)
 「昭和の御大典」は、1928(昭和3)年11月10日、京都御所における即位式を皮切りに、同月14日から15日にかけて大嘗祭が行われ、16日からは御大典を祝う一般市民による提灯行列や旗行列が市内に繰り出しました。
 しかし、雨が多かったことと、天皇在京中の規制が強かったことから、思う存分踊れなかったというので、天皇が東京に戻る26日から奉祝踊を再度行なうことを警察に申請し、26日から5日間が認められ、この間は大幅に規制を緩めることとなりました。
 昭和の御大典後の奉祝踊も盛大に行われました。
(映像に見る近代京都の生活文化)
http://www.kyobunka.or.jp/phot/taiten.html

posted by fom_club at 13:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月18日

和食

 ところで、ハチ公の朝ごはんは、というと:

 ハチ公が来てから、尾形君はいそがしくなった。
 朝、まず牛乳を一本飲ませる。
 それから朝食の支度だ。
 先生はハチ公のために、夕食の食卓から、肉とか魚とかを残しておく。
 それに残りのご飯をまぜて、雑炊をつくる。
 これがハチ公の朝食だ。
 大男が、たいてい不器用の例にもれず、尾形君は、輪をかけて不器用。
 ハチ専用のなべを七輪にかけて、うちわでぱたぱたあおぐ。

…新藤兼人、前掲書、51-52頁

 うれしい、うれしい、食事どきですよね、ハチには。
 こんな幸せな時間を過ごせたのは、とても短かった、短かすぎたけど、三つ子の魂、と言うじゃぁ、ありませんか。
 幸福な幼年時代を送ったハチ。
 よく食べて、よく育ったのは、スーパーで買ってきたインスタントのドッグフードではありません。
 しかも、チンやガスコンロで煮炊きをするのでもありませんでした。
 一方、先生の朝ごはんは、というと:

 先生の朝食はいつも日本食だ。
 先生、ただひとり。
 千鶴子はパン食なので、先生がすんだあと。
 奥さんも、そのときいっしょに食べる。
 とにかく、すべて先生を送り出したあとのことだ。
 先生の朝食はかんたんで、みそ汁、生卵、あじの干物。
 毎朝同じだが、先生は苦情は言わない。
 同じ物を食べれば、胃は、あらかじめわかっているものをあたえられるわけで、消化はいいはずだ、というのが先生の持論である。

…同書、42頁

 ハチは秋田犬(あきたいぬ)。
 秋田犬は国指定天然記念物、絶滅の危機にある日本犬でしたが、こういう食卓の風景もいまどき、危いのかな、絶滅の危機に瀕していて保護の対象になっているのかもしれませんね。

 和食が世界遺産?
 これもいまどきは、絶滅の危機に瀕していて保護の対象になっているのかもしれませんね。

 平成25年12月2日(月曜日)から12月7日(土曜日)までの間、バクー(アゼルバイジャン共和国)で開催されている、ユネスコ無形文化遺産保護条約の第8回政府間委員会において、「代表一覧表」に記載する案件についての審議が行われ、12月4日(水曜日)(18時56分[日本時間同日23時56分])、我が国から提案した「和食;日本人の伝統的な食文化」について、「記載(登録)」の決議がなされました。
(農林水産省公式サイト、平成25年12月5日、報道発表資料)
http://www.maff.go.jp/j/press/kanbo/kihyo02/131205.html

TOKYO(AP) − Washoku, the traditional cuisine of Japan, is being considered for designation as part of the world's priceless cultural heritage by the U.N. this week. But even as sushi and sake booms worldwide, purists say its finer points are candidates for the endangered list at home. The younger generation is increasingly eating Krispy Kreme doughnuts and McDonald's, not rice.

Among cuisines, only French cooking has been distinguished as a national culinary tradition. Other picks by UNESCO for its World Heritage list, such as food from Mexico and Turkey, are more specific dishes. Washoku embraces seasonal ingredients, a unique taste, time consuming preparation and a style of eating steeped in centuries of tradition. At its heart is savory "umami," recognized as a fundamental taste along with sweet, sour, salty and bitter.…

In proper Japanese dining, the phrase "itadakimasu," or "I am going to receive this," is uttered, preferably in unison, at the beginning of a meal; "gochisousama," or "thank you for the meal," ends it.

Different from saying grace, the custom expresses gratitude not only to the chef but for the blessing of having food on the table − the grace of nature.…


Japanese Youth Choose Fast Food Over Traditional Cuisine (PHOTOS)
By YURI KAGEYAMA 12/03/13 04:09 AM ET EST
http://www.huffingtonpost.com/2013/12/03/japan-fast-food_n_4377113.html

 ヤッホー君、12月18日、昼ころから都心にも雪が、なんて天気予報に脅えながら、これから朝ごはんのようです。
 見ると、ごはんにみそ汁。
 おかずは、といいますと、生卵も牛乳もアベノリスク以来高くなって買えないのでパス、夕食に肉も魚もないのでパス、ですのであじの干物ももちろんパス、その代わり豆腐!
 ナットウを今日買ってこなくっちゃ、もぐもぐ…消費税をナットウにかけないでくださいませ、ナットウにかけるのはねぎとかつお節としょうゆだけにしてくださいませ
 いただきまぁ〜す!

posted by fom_club at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月17日

ハチ公

 12月17日火曜日、ヤッホー君は読書して泣いていました。
 本を読んで泣くなんて経験、今まであったのかなぁ〜、しかも子ども向けの本!
 新藤兼人(1912年広島生まれ-2012年)作、岩淵慶造(1942年青森生まれ)絵『新装版ハチ公物語』(小学館、2009年7月)。
 お孫さんへのクリスマスプレゼントに悩むようでしたら、ぜひこの本をあげて、「未来の宝物」にはぜひゲームよりは、漫画よりは、本に親しむ大人になってほしいって、ヤッホー君、メールをうったほどだもん。 
 それに映画『ハチ公物語』は、新藤兼人監督自らメガホンをとったものと思っていたら、原作・脚本だったのですね:

 ハチ公物語(107分・35mm・カラー)
 亡くなった飼い主を駅頭で待ち続けた犬「ハチ」の有名な逸話を、飾ることなく映画化した一篇。
 近代映画協会で新藤・吉村の両監督の助手を務めていた神山征二郎のヒット作で、のちに新藤自らがノンフィクション小説にも書き下ろしている。
 1987(東急グループ=三井物産=松竹グループ)(監)神山征二郎(原)(脚)新藤兼人(撮)姫田真佐久(美)西岡善信(音)林哲司(出)仲代達矢、八千草薫、石野真子、柳葉敏郎、尾美としのり、殿山泰司、田村高廣、長門裕之、加藤嘉、三木のり平
 2006年4/30(日)2:00pm、5/16(火) 4:00pm

(東京国立近代美術館フィルムセンター、シナリオ作家 新藤兼人)
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2006-04-05/kaisetsu_66.html

 映画と史実のハチ公には違いがいくつかある(ヤッホー君注)。
 まず、ハチ公の晩年は野良犬ではなかった。
 菊さん夫妻はずっと生きていて、ハチの世話をしていた。
 忠犬ハチ公像を作るときは、モデルのハチを彫刻家のアトリエまで連れて通ったという。
 ハチは自分の像の除幕式にも参列している。
 1匹で渋谷駅前に現れた頃は駅員や露天商にいじめられていたけれど、新聞に載って広く知られるようになってからはかわいがってもらったらしい。
 犬を飼う知識に乏しい時代だったから、善意で与えられた食べ物に、犬にとっては毒なネギなども入っていただろう。
 予防薬も与えられず、ハチはフィラリアにかかり、最期は渋谷駅前ではなく、目立たない場所でひっそりと死んでいたとのこと。
 病気はかわいそうだったけれど、それなりに世話をしてもらい、幸せな「犬生」だったと思いたい。
 ところで、渋谷駅はいま、大変革の真っ最中だ。
 東京メトロ副都心線の開通、渋谷ヒカリエの開業に続き、東横線の地下化、地下鉄銀座線と埼京線のホームの移設、駅ビルの建て替えなどが行われる。
 渋谷区の「渋谷駅街区土地区画整理事業」によると、事業の完成は14年後の2026年。
 ハチ公前広場はどうなるかというと、道玄坂と国道246号線を結ぶ道路を閉鎖し、大きなバス・タクシー乗り場が整備される。
 ハチ公前広場は現在の約1.5倍の広さになるようだ。
 新しくなる渋谷の街で、ハチ公のエピソードは今後も語り継がれるだろう。

(2012/08/26マイナビニュース、読む鉄道、観る鉄道【杉山淳一】『ハチ公物語』-変わりゆく渋谷で語り継がれる珠玉のエピソード)
http://news.mynavi.jp/series/railmovie/016/

 渋谷・忠犬ハチ公−日本中の誰もが、一度はその名を耳にしたことのある有名な犬です。
 しかし、ハチについて、どれだけのことが知られているでしょうか。
 ハチは、いつ頃死んだのか?
 ハチ公像はいつ建てられたのか?
 ハチ公像の耳は、なぜ垂れているのか?
 ハチはどういったきっかけで有名になったのか?
 当時、ハチがどのようにして世間に登場したのか?
 …その様子を新聞資料等で紹介すると共に、ハチに関わった人々の記述から、一匹の犬・ハチの姿を探ります。

 《昭和初期―ハチ公像建つ》
 ハチが渋谷の駅の前に佇んでいた頃、当時の新聞にたびたびハチについての記事が登場し、ハチは、あっという間に有名になりました。
 渋谷駅周辺では、ハチ公まんじゅうやハチ公せんべいが売られ、レコードや映画にも取り上げられました。
 ハチの像を作ろうとする人が名乗りをあげた挙げ句、生前に銅像が作られることになり、その耳を立てるか否かで議論が戦わされました。
 また、訪れる人も多数に上りました。
 その間、ハチはただ、語る言葉を持たず、薄汚れた大きな野良犬として、黙々と渋谷に通いつめただけでした。
 ハチの本当の気持ちは、誰にも分かりませんでした。

 《戦後:ハチの真実の気持ちを探る人びと》
 戦後、戦時中に溶かされたハチ公像が再建され、しばらく世間に取り上げられることのなかった「忠犬ハチ公」が、「その真実の姿を探る」という目的で再び雑誌等に登場し始めました。
 また、ハチを主人公とした映画も作られました。
 ハチが生まれてから、今日まで、およそ65年もの月日が流れていますが、ハチの名は衰えません。
 生後わずか2ヶ月足らずで上京し、わずか1年半で主人と死別したこの犬の気持ちが、なぜここまで、人びとを引き付けたのでしょうか。
 いったい、人びとは、何も語ることのできないこの犬の姿に何を求め、何を見出そうとしているのでしょうか。

(平成10年5月26日〜6月26日 国立国会図書館 第90回常設展示 「子犬は汽車に乗って―ハチという名の犬―」)
http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/tmp/90.pdf


(ヤッホー君注)
 「忠犬ハチ公」からただの「ハチ公」へ。
 新装版『ハチ公物語』(小学館、2009年)のあとがきで、新藤兼人はこう述べています:

 これは『忠犬ハチ公』の実録ではない。
 ハチ公という実話から、わたしの考えでおこしたフィクションである。
 「忠犬」というのに抵抗を感じたので、そんなことをした。
 忠犬というのは忠義な犬ということで、戦時中はもっともふさわしい道徳教育の素材だった。
 飼い主の主人に恩を感じ、主人の死後も日ごろの習慣どおり、渋谷駅の改札口へ迎えに通ったという話は、一般道徳にも、学校教材としても悪かろうはずはなかった。


 ヤッホー君が涙を流したのも、「忠犬ハチ公」でなく、新藤兼人の想像の世界にあるハチ公とそれを取り巻く人間、そして犬たちの生き物たちが≪平等に≫繰り広げるドラマにあったのです、と。
 上からの目線も、下から上を見上げる目線もなく、先生も書生も、飼い犬も野良犬も、まったく同じ空間で交差、共鳴、共感しあっているのです。
 物言わぬ動物を人間が見たいように勝手に、人間の眼差しから創造、もしかして偽装、捏造するということもこの本では、意図的にしていないのです。
 そして、アメリカ軍兵士の認識票(ドッグタグ)のように、首から登録票(ドッグタグ)をぶらさげて、成果をだし飼い主からごほうびをもらおうとして心身不調におちいるような「忠犬」の惨めさ、哀れさ、切なさを描いているわけではないのです。

 ハチは、誇りを持っていたから、いくらひもじくても、ごみ箱をあさったりはしなかった。
(同書、144頁)

 ぜひご一読をおすすめします!
posted by fom_club at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秋田犬

 納めの餅付きも無事に終えた12月15日日曜日、あの姫谷温泉で仲間の小川さんがご持参してくれた銘酒、大吟醸『北秋田』で乾杯。
 その残りを呑み干さず(呑み干せず)、お猪口一杯だけの残りでしたが大切にいただきものにして持ち帰り、昨日の月曜日、寝酒にしたのです。
 いやぁ〜、飲み慣れている普通酒とは大違い、辛口でしかも冷えていて、実に美味しかったのでした。
 もう一杯、と思わせる余韻が残るほうがいいんですよね、日本酒って。
 秋田県大館市の蔵元さんを再度チェックしました。
 このホームページにはいきなり、秋田犬(あきたいぬ)が…
http://www.hokushika.jp/

 〜渋谷駅前の銅像〜
 1932(昭和7)年10月4日、東京朝日新聞に『いとしや老犬物語』というタイトルで載ったのをはじめ、新聞、ラジオなどで報道された老犬ハチの元に、人びとから見舞金等が送られてきました。
 同年11月、日本犬展に招待犬として招かれるなどハチの名は全国的に知られるようになり、このころから「ハチ公」と尊称で呼ばれるようになりました。
 1933(昭和8)年にはポチクラブ(全世界の愛犬家組織)の名誉会員に推薦され、1936(昭和11)年には「恩ヲ忘レルナ」と題して、尋常小学校の修身二巻にも載せられました。
 ハチ公が有名になるに従い、付近の住民からはハチ公の銅像を建設しようという声が出始めました。 1934(昭和9)年正月には、有志によって「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作成され、建設資金の募金運動を開始、全国各地から好意の寄付が集まりました。
 この寄付により、台座の高さ180p、ハチ公像の高さ162pの立派な銅像が渋谷駅の改札口前に建設され、同年4月21日、除幕式が行われました。これには博士の未亡人、各界の名士など約300人が参加し、ハチ公はこの一部始終を吉川駅長に連れられて見守っていたといいます。
 5月10日には、銅像作者である帝展審査委員安藤照氏の手による鋳造「忠犬ハチ公臥像」が天皇、皇后両陛下にも献上されています。
 生前に銅像が造られ、しかも塑像が宮中に供されるというのは、人を含めても前代未聞のことだったでしょう。

(大館市公式サイト「忠犬ハチ公の銅像ハチ公の生まれは、ここ大館市なんです!」)
http://www.city.odate.akita.jp/dcity/sitemanager.nsf/doc/1596170476AC0007492577760029A50B.html

 へぇ〜、ヤッホー君は、大吟醸『北秋田』におおいに納得しました。
 日本酒もあと100年呑み続けられますように、パン、パン!
 おっとっとぉ〜、ハチ公。
http://www.youtube.com/watch?v=v8gVAp5tsWo

 映画『ハチ公物語』(1987年8月1日公開):
http://www.youtube.com/watch?v=g3zbMlmxt6o

 映画『HACHI 約束の犬』(2009年8月8日公開):
http://www.youtube.com/watch?v=pg26JhOFvDs

 ヤッホー君の日課は渋谷駅お出迎えでなく、リバーサイドウオーク!
 そこでは良く小ちゃなワンちゃんが、おべべを着せられて、お化粧もさせられて、小走りに飼い主の後をついていくのに出会います。
 これは洋犬でしょうに、なんで皆んな日本種のワンちゃんを飼わないのかなぁ〜(なんで皆んなお米でつくった日本酒を飲まないのかなぁ〜)と、これも毎度フシギに思うヤッホー君。
 「秋田犬(あきたいぬ)」ってなんと、なんと「国指定天然記念物」(指定日:1931(昭和6)年7月31日、所在地:秋田県、県北地方、管理者:秋田県)!

 秋田犬は、北方系日本犬の最大種で、肩高約70cm、体重約50kgにも達する大型犬である。
 耳はやや小さく直立、太い首筋に大きな頭、前胸が発達して腹は適度にしまり、四肢は太く力強く、尾は太く巻く等の特徴をもつ。毛色は白・黒・ごま・虎・斑がある。
 体格たくましく堂々たる風格があり、また、温和で持久力に富み、馴致性に優れていて、古来より猟犬・番犬として飼育され、多くの名犬が出現した。
 中でも鹿角市下草木の左多六伝説のシロ(老犬さま)や忠犬ハチ公の話は有名で、飼い主に従順で忠実な秋田犬の姿は、多くの人々に深い感銘を与えた。なお、ハチ公の母犬は下草木の産であるという。
 鹿角市、大館市が飼育の中心であるが、近年は全国的に愛好者が増えてきている。

(鹿角市公式サイト、天然記念物、秋田犬)
http://www.city.kazuno.akita.jp/tennen/809.html

 国犬として天然記念物7犬種の一つに選ばれた秋田犬が、いつの頃より当大館地方に棲息、飼育されたかはあまり詳かではないが、上代の狩猟(マタギ)には絶対に欠くことの出来ない伴侶であった。
 当秋田地方に出羽国が設置される頃から地域の開拓と鉱山の開発がすすみ、群雄割拠で戦乱がおこり、また他国人の流入は世情を不安にして、狩猟犬は番犬としても飼育されたのである。
 徳川時代になってからは大きく強くなった番犬で闘犬が行われるようになり、明治後半期からは常設闘犬場が設けられ、大正期になってからは闘犬が興行化されて、種族的な犬質は愈々雑種化されていた。
 このような時代、失われてゆく日本の伝統的名勝史跡及び動植物の天然記念物指定保存の世論がおこり、1919(大正8)年にその法律が制定し、秋田犬は再度の調査があって1931(昭和6)年7月、日本犬では最初に天然記念物に指定されたのである。
 天然記念物の指定と相俟って、秋田犬を著名にしたのは、1932(昭和7)年10月、朝日新聞紙上に忠犬として報道された『ハチ公』である。
 その記事は愛犬家は当然一般日本人の胸に深く感動を与え、秋田犬も広く脚光を浴びることになった。
 そうして大戦中の空白はあったが、戦後は順次に発展、犬質も向上して、現在は立派な秋田犬が全国各地で飼育されている。

(大館市産業部観光課観光振興係公式サイト)
http://www.city.odate.akita.jp/dcity/sitemanager.nsf/doc/c-04.html

 秋田犬は、国の天然記念物に指定されている日本犬種です。
 忠犬『ハチ公』の話は海外に知れ渡るほど有名で、ハチ公が主人に飼育されていた期間は1年半弱であるにもかかわらず、主人の亡き後の9年間に渡って渋谷駅に通い詰めたことがこの話を特別なものにしました。
 秋田犬は素朴さと渋さを秘めた感受性の強い日本犬です。
 ハチは2007(平成19)年7月25日生まれのメスです。人間の年齢に当てはめると40才をすぎているようですが、私たちにとっては、何歳になっても可愛いハチ姫でございます。
 ゴン(オスです)も同い年ですが、ゴンは10月10日生まれなので、3匹(ちなみに、ナナは現在2才です)のなかでは、ハチは一番年上の姉御です。

(天然記念物「秋田犬」(日本で唯一の大型犬)、「比内鶏」を常設展示(見学無料)している≪田沢湖共栄パレス≫秋田県仙北市田沢湖田沢字春山148 Tel 0187-43-0701)
http://www.kyoeipalace.com/index.html

posted by fom_club at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

お餅つき

 昨日の12月15日日曜日は、幼稚園児のかずやくんが二回目の参加、そして小学生のゆうたくんと、おふたりも「未来の宝物」が特別参加して餅をついてくれました。
 ヤッホー君は、祖父母、父母が家族総出でついたあの幸福な幼年時代の記憶がよみがえってきて、涙で目頭が、うるうる。高い鷲のような鼻もずるずる。
 君たち「未来の宝物」がついたお餅は、とっても美味しすぎて喉を通らず、ワンカップで流し込まないと、とても食べ切れませんでしたよ。

(山歩クラブがお酒解禁にするのはお山歩会、立ち寄り湯を終えてから、になっています。この禁酒、断酒会が、一年に一回だけ許される日が山歩クラブ伝統行事のもち付きお山歩会なのです!)

 ありがとう&いただきます!
 つき立ての餅を小屋の特製なめこ汁に入れて雑煮餅、ねぎもかつ節もゆずも大根おろしも入った納豆餅、あんこもち、きなこ餅、ゴマ餅、アメ餅、くるみ(胡桃)餅、ずんだ餅など、からみの具は岩波さん、杉山さんが用意してくださり、われわれは小屋にあげる臼や杵の洗いもの用の水だけ持参、とばっかり思っていたところ、どっこい、お歳暮の整理に、と海苔、数の子、ごぼうなどなど、そして逆に小屋からはゆずのお歳暮までいただき、冨士見ブランチの食卓はとても賑やか。
 最後の鄙びた温泉宿にはなんと、なんと秋田の大吟醸「北秋田」(北鹿製、大館市有浦2-2-3 Tel)まで…
 そして、また「今日は所用で欠席となりますが」と、専用バスの停まるところにお見送りがてらお届け物までいただいちゃって…
 ありがとう&ごちそうさま!

P1017944.jpg

P1017949.jpg

P1017950.jpg

…小屋のご主人はお父様が小屋を開いた年、昭和3年にお生まれになった86歳ですがとってもお元気!
 ヤッホー君はご主人のあの本物の「おもてなし」の笑顔を見ないと、どうも年を越せそうにありません。
 また「来年もよろしく!」ってごあいさつをしてまいりました。

P1017957.jpg

P1017960.jpg

…「未来の宝物」たちの笑顔は何にも替えがたいサイコウのおかずです!

P1017977.jpg

 こだまのひとつをご紹介:

 昨日はお疲れさまでした。
 全員参加の餅つきは、最高でしたね晴れ
 美味しかったですかわいい
 大家族が一緒に、食卓を囲む風景が、目に浮かび懐かしい気持ちになりました。
 食材を準備して下さった方々に感謝です。
 ありがとうございましたムード


 あっ、そうそう、昨日の餅は一臼、2升でしたが、2升って何Kgと聞かれていました。

 お米の場合は1合は150gで1升にすれば1.5Kgです。でも、もち米は、1合140gで1升1.4Kgになります。
 ですから、昨日は12人の参加者と専用バスのドライバー石井さんにもおすそ分けしましたので、2800g割る13は、一人215gのもち米を餅にして食べたことになりますね。
 食べ放題の富士見ビュッフェでした!
posted by fom_club at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月15日

景信山727.1m

 恒例の景信山での今年2013年山歩クラブお山歩会を丸く納める会が12名のご参加で済みました。
 10時に景信山に到着、12時まで冨士山、それにスカイツリーと筑波山を見渡しながらのお餅付き大会、餅の食べ放題でした。
 お冨士さまは前回の竜ヶ岳と一転変わって、終日にっこにこ。
 最初のお冨士さまは景信山727mから、二枚目は陣馬山857mから拝んだ写真です。

冨士山.jpg

13餅つき.jpg

 ルートは、小仏峠バス停から小仏峠経由で山頂に向かいましたので、昨年のように尻餅もつかずに済みました!
 帰りは陣馬山に回り、和田峠から姫谷温泉で湯ったりくつろいで帰京。

P1017980.jpg

P1017981.jpg

 姫谷温泉は、相模原市緑区澤井1846 Tel 042-687-2736。

 いやあ〜、いろんなことがあった2013年も暮れなずんでいくんですね、皆さん。
 良いお正月をお迎え下さい。
 いやいや、山歩クラブのこれからの年の暮れは、ヤッホー山荘での清洲会議、お散歩会で旧東海道品川編、とまだまだたくさんあるようですよ。
 皆さまのご参加をお待ち申し上げております。

posted by fom_club at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月14日

ウロボロス

 では、ここで写真を入れながらちょっと振り返ってみましょう。
 まずは「エビスビール記念館」:

 ヱビスビール生誕120年の記念日に当たる2010年2月25日に、「ヱビスビール記念館」として、新たに生まれ変わりました。
 ここはヱビスビールの発祥の地であり、1889(明治22)年に醸造場が完成、1890年に「恵比寿ビール」が発売されました。
 「恵比寿」という地名も、駅の名前も、実は、ヱビスビールからきているのです。
 「ヱビスビール記念館」を通じて、これからもお客様に愛され続けるヱビスでありたいと願っています。

http://www.sapporobeer.jp/yebisu/museum/

 ヤッホー君が、あと100年飲んでいられますようにと祈った玄関脇の恵比寿様:

P1000154.jpg

 サッポロビールの上述リンク先には紹介ムービーもありますので、クリックしてご覧ください。

 そのムービーに載ってないのが、1900(明治33)年パリ万博で金賞を受賞したことを示した写真と、戦時中には配給制によりブランド名が消えたことを伝える写真です。
 この二葉を添えます:

P1000151.jpg

P1000152.jpg

 そして本日12月14日土曜日、リニューアルオープンした「旧東京医学校本館」です。
 全面的な展示改装工事が終了し、ムカシあった学術標本や教育器材は、今春、東京・丸の内にできたJPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」の開館にあわせて移転されました。
 したがって東大総合研究博物館・小石川分館である「旧東京医学校本館」は、本日から≪建物ミュージアム≫「アーキテクトニカ」として再出発することになったのだそうです。

P1000161.jpg

P1000160.jpg

 詳しくは、博物館ニュース『ウロボロス Ouroboros』2013年12月13日号をご参照ください(注)。
 近く、本館ホームページでも読めるはずです:
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros.html


(注)
 【Ouroboros ウロボロス】とは、自分の尾を噛んで環を作る蛇または竜で表現されるシンボルをいいます。
 始めと終わりがないことから、自己の消尽と更新を繰り返す永劫回帰や無限、真理と知識の合体、創造など幅広い意味を持っています。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/museum/ouroboros/05_01/what.html
posted by fom_club at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヱビスビール

 12月10日火曜日のはっちゃんとヤッホー君のふたりタウンウオークはまだまだ、続きます。
 「北里柴三郎記念室」ではっちゃんからいろいろ教えられたヤッホー君、今度はヤッホー君の大好きなものを教えたがっていました。
 まずは、日仏会館図書室。
 次いで、ヱビスビール記念館。
 そして、東京都写真美術館。

 ご報告したいのは、エビスビール記念館にあったこんな記述。

From 1937 the Japanese economy quickly turned into wartime finance. Due to priority to military use of materials and resources, shortages became serious. Authorized price was established for beer and in 1940, distribution controle started. In May 1943 all brand labels oif beer including Yebisu Beer were abolished.
 
 1937(昭和12)年を境にわが国経済は、急速に戦時色を濃くしていく。
 物資の軍需優先使用などによって物資不足は深刻化し、ビールも公定価格が定められ、1940年には配給も実施された。
 1943年5月、ついにはエビスビールをはじめ、全ビール会社のブランドラベルが廃止されるに至った。


 1937(昭和12)年から77年たって気がついてみたら、どこぞの国のような事態になっていた、あぁ〜ツーレイト!なんてならないよう、オールニッポン人の奮起を期待したいものです。
 これから100年、ヤッホー君、ビールが飲めますようにってエビス様に拍手を打ってお参りしていたそうですよ。

 1937(昭和12)年の半世紀、50年前ころからビールがわが国でも本格的に飲用されるのでしょうか。

 1887年前後の企業勃興期に籏立したこれらのビ一ル醸造業は、清酒醸造とは異なってその創業時から政府から手厚い保護を受け、政商資本を中心とした会社組織を採る新興の装置産業として外人教師による技術指導をうけて展開していくのである。
 いま、上記のピール醸造業の資本家についてみるに、丸三麦酒(1887年創業、愛知県半田町)は醤油醸造家盛田善平の場合なのでこれを除くと、
○ 日本醸造会社は、1870年横浜に創業したアメリカ人コープランド W.Copeland の経営する Spring Valley Brewery を1885年に渋沢栄一・岩崎弥之助らが買収して創業した(キリン・ビールの前身)。
○ 日本麦酒醸造会社は、東京府荏原郡目黒村に1887年政界の実力者桂太郎の弟桂二郎が創立した(エビス・ビール)
○ 大阪麦酒株式会社は、大阪府三島郡吹田村に関西財界の松本重太郎、堺の酒造家鳥井駒書、外山修造らによって設立されている(1887年資本金15万円で設立認可、アサヒビール)
○ 1876年に創業した北海道開拓使麦酒醸造所は86年大倉組に払下げられ,88年には渋沢栄一・大倉喜八郎・浅野紘一郎らの共同出資による札幌麦酒株式会社(資本金7万円)として発展

 ちなみに、国産ビールの造石高ほ1886年、6千石でビール輸入高を凌駕し、1896年には3万3千石に激増してビールの輸出高が輸入高を凌駕した。

(岩手大学、藤原隆男「1890年代における酒造改良運動の展開とその特質」)
 藤原隆男は1938年、岩手県生まれ。グラスゴー大学でイギリス酒造業を調査研究。岩手大学教育学部で経済史、産業振興論を講じた。著書に『近代日本酒造業史』(ミネルヴァ書房、1999年)などがある。
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1164/1/erar-v34n1%E3%83%BB2p51-77.pdf

 このうち、丸三麦酒は、アニメ映画『風立ちぬ』で画面にでてきた「カブトビール」!
 ヤッホー君のこのブログ、2013年9月4日付け日記「カブトビール」をご参照ください!

 ミツカンは過去、ビール事業にも取り組んでいたのをご存知でしょうか?
 四代又左衛門は、時代を読む目と進取の気質に恵まれた人でした。それを象徴するのが、ビール醸造事業への着手です。
 1884〜1885(明治17〜18)年頃、知多半島でもビール造りに取り組む酒造家が現れ始めていました。
 それを知るや、又左衛門の興味は一気にこの新しい酒「麦酒」へと注がれます。
 1887(明治20)年、彼は甥の盛田善平に命じ、ビール醸造という新規事業へと着手。善平は東京に向かい、この地でビール工場をつぶさに調査して醸造法を身につけ、さらに神戸にまわってイギリスのビール醸造免許をもつ中国人を雇い入れて戻ります。
 そして1889(明治22)年5月、ついに念願の自社醸造ビール「丸三麦酒」が発売の日を迎えるのです。

(ミツカンのはなし、ミツカンを変えた出来事、ミツカンがビール造り?)
http://www.mizkan.co.jp/story/change/04.html

 ところでこのエビス・ビールをスエズ運河から先、東洋一のビールに仕立て上げた経営者が、馬越恭平でした。

 後に大日本麦酒の社長に就任し、「日本のビール王」と呼ばれるなど、まさに日本実業界の重鎮となった馬越恭平は、代々医者の家系に生まれました。
 13歳で丁稚として大阪に出るまでを過ごした生家が、現在も木之子町に残っています。

(岡山県井原市観光協会 馬越恭平生家)
http://ibarakankou.jp/data/DB030/DB030.html

 「東洋のビール王」と呼ばれた井原市出身の実業家馬越恭平(1844-1933)の没後80周年記念講演会が16日、同市芳井町吉井の芳井生涯学習センターであり、市民ら約80人が郷土の偉人の立志伝に思いをはせた。
 同市の市民グループ「先人顕彰会・井原」(坂川俊夫会長)が企画。サッポロビール社員で恵比寿麦酒(ビール)記念館(東京)の元館長端田晶氏が講師を務めた。
 端田氏は、奉公人から、同社とアサヒビールの前身・大日本麦酒の初代社長に上り詰めた馬越の生涯を紹介。一度は名家の養子となり巨万の富を手にしながら、全てなげうって商社に入った逸話などを交え、「世界を股に掛ける大商人になる、との夢を貫き通した」と話した。
 馬越は同市木之子町出身。大日本麦酒社長として当時のビール業界再編を主導したほか、衆院議員、井笠鉄道社長なども歴任。河川改修や教育に多大な寄付を行うなど郷土の発展にも尽力した。

(2013/6/16 21:45更新山陽新聞「ビール王・馬越の生涯たどる 井原で没後80年記念講演会)
http://town.sanyo.oni.co.jp/news_s/d/2013061620491765

posted by fom_club at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月13日

コッホ

 北里柴三郎記念室にあった「ドイツにおける日本人留学生」(1888年、明治21年)の写真。
 今朝の日記のなかで「注1」として付記しましたが、どうも気になるヤッホー君、またもや謎解きがはじまりました。

 どうして北里柴三郎と森林太郎(鴎外)がいっしょに写っているんだろう?

 まずは写真:

 1888(明治21)年6月3日、ドイツ・ベルリンのフリードリッヒ写真館に、計19名の日本人医学者が集合した。
 その後、この陣容でのシャッターチャンスはなかった。
 日本を遠く離れたドイツ・ベルリンでその場面は切り取られた。
 奇蹟ともいえる瞬間だった。


…山崎光夫(1947年福井市生まれ)『明治21年6月3日−鴎外「ベルリン写真」の謎を解く−』(講談社、2012年)10頁

 林太郎は1884(明治17)年6月6日、22歳のとき、陸軍2等軍医の地位で、「陸軍衛生制度調書及び軍陣衛生学研究」のためドイツ留学を命じられ、念願の洋行が実現します。
 ベルリン、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで研究を続けます。
 この写真でなぜ軍服姿だったのかというと、プロシア軍の隊付医官の業務に就いていたからだと言います。
 そして写真撮影のほぼ1ヶ月後の1888(明治21)年7月5日、石黒忠悳とともにベルリンを発ち、帰国の途につきます。
 26歳でした(注)。

 柴三郎は1883(明治16)年30歳で東大医学部を卒業し、林太郎の2年後輩にあたり、林太郎より1年2ヶ月ほど遅れてのドイツ留学となります。
 内務省から「細菌学及び衛生学の研修」を命じられての留学で、1886(明治19)年1月よりベルリン大学、ローベルト・コッホ(1843-1910)のもとで細菌学の研究をはじめます。
 以後コッホに6年半師事し、1892(明治25)年3月、ベルリンを発って帰国の途につきます。
 39歳になっていました。

 留学時代
 ローベルト・コッホの研究方針

学問は高尚なる事を研究するのみにて、独り自らを楽しむは本意にあらず。
これを実地に応用し、人類に福祉を与えることに学者の本分を尽くすものにして、真にこれ学者の任務なり。


 帰国後、福沢諭吉から独立自尊(独立不羇)の教えを学ぶ。

☆ 北里「実学」の真髄である「学問研究の成果は国民の福利増進のためにある」を成就するためのこころの羅針盤、それが「北里精神」である:
  1. 学術を研究、実地に応用、国民の衛生状態を向上させる
  2. 研究は道楽するのではない
  3. 学理学説を立てて喜んでいるのは、世の中の暇人の仕事である

☆ 北里柴三郎訓言『終始一貫』
  Remain in True to Your Idelas
  Never Change Your Mind from First to End


…北里柴三郎記念室

 福沢諭吉(1835-1901)

 北里を物心両面で支えた最大の後援者。
 私有地を提供し、私立伝染病研究所を建て、その運営費捻出のために結核専門病院である土筆ヶ岡養生園(芝区広尾)を建て、その運営に協力を惜しまなかった。


…北里柴三郎記念室

 そうしてもう一枚の写真が…
 コッホ博士と並び立っている柴三郎。

 1908(明治41)年6月12日、コッホ夫妻は日本を訪れ8月24日まで70日余り滞在した。
 北里先生は慈父を迎えた孝子のように終始、付き添った。


…北里柴三郎記念室

 15年ぶりの再会だったそうです。
 林太郎も会って、留学時代の礼を言っています。

 6月16日の夜、コッホ夫妻は歌舞伎座で狂言を感激した。
 出し物は、「吉野山道行」「曽我の討入」「二人道成寺」だった。
 招待客に配布されたプログラムには、林太郎が夫妻のためにドイツ語で書いた筋書き説明文が付されていた。
 その熟練した文章をコッホ夫人が絶賛した。
 この日のことを林太郎は日記に記している:

16日(水)午後2時Koch師夫妻を上野音楽学校に迎接し、師の講演を聴く。夕に又二人を歌舞伎座に延(みちび)いて劇を観す。


…山崎光男、前掲書、57頁


(注)
「ベルリン森鴎外記念館」では、2013年8月31日から『美術解剖学の教師としての森鴎外』展が開かれています(来年2014年3月14日まで)。企画はBeate Wonde(副館長のベアーテ・ヴォンデ)さん、布施英利(東京芸大)。
posted by fom_club at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京医学校

 昨夜、ロンドンから飛び込んできた「死刑執行」のニュースには、びっくりして日記につけてしまいました。
 北里柴三郎のお話しに戻ります。
 18歳で北里柴三郎は「熊本医学校」に入り、ここで柴三郎の人生の方向 direction を示唆してくれたオランダ人お医者さん、マンスフェルトにめぐりあいました。
 柴三郎は、ドイツ留学の折りには恩師に会いにオランダまでたずねる、と言いますので、義理人情に厚く、恩を感じたら、恩に感じたこと、その思い、気持ちを『報恩の精神』で実際の行動に移す、というやはりわれわれの目指す「偉人」の姿がそこにはありますよね。
 そして柴三郎はさらに医学の勉強を続けるために上京し、1874(明治7)年、「東京医学校」に入学します。

 このころ、森鴎外(1862-1922)(注1)も。

 藩校での成績は抜群で、藩主は上京修学をすすめ、たまたま1874(明治5)年、父が藩主に従い侍医として東京に移ったのを機に、林太郎も上京し、ひとり神田の西周邸に寄寓して、本郷進文学舎に学び、1874(明治7)年、東京医学校予科、1877(明治10)年、本科(東京大学医学部と改称)に進んだ。
(文化遺産オンライン、森鴎外旧宅)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=206203

 明治7年、「東京医学校」はどこにあったのでしょうか?
 またヤッホー君の謎解きがはじまります。

  1858(安政5)年5月創設の「神田お玉が池種痘所」(注2)は、同年12月の下谷和泉橋通への移転、1860(万延元)年の官営化、1861(文久元)年の西洋医学所、1863(同3)年の医学所への改称を経て、1868(慶応4)年に解散を迎える。
 新政府は1868(明治元)年6月に医学所を復興、同年7月に下谷和泉橋旧津藩藤堂邸に仮病院を置き、横浜病院の移転を決定、これを大病院とし、1869(明治2)年2月に医学所を合併して医学校兼病院とする。
 同年6月に医学校、12月に大学東校と改称、1871(明治4)年に東校、1872(明治5)年に第一大学区医学校と改称、1874(明治7)年5月に「東京医学校」となる。
 同年11月に本郷旧加賀藩邸への移転を決定、1875(明治8)年に着工、翌1876(明治9)年に一応の完成を見る
  1877(明治10)年(1877)4月に東京開成学校と東京医学校が合併され、東京大学が創設される。

(旧東京医学校本館)(注3)
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/index.html

 これがもう少し詳しくなると:

 1868(明治元)年7月20日に新政府は横浜の軍陣病院(野毛山軍陣病院)を下谷藤堂邸に移し、医学所をこれに含めて「大病院」と称した。
 1869(明治2)年2月、大病院は、「医学校兼病院」、「大学東校」へ改称された。
 この間、鎮将府、東京府、軍務局を経て1869(明治2)年1月に東京府の所管となった。
 1871(明治4)年7月18日、大学が廃止され「文部省」が新設された。
 大学東校は「東校」に改称され、所管は文部省となった。
 翌1872(明治5)年8月3日文部省は学制を定め、学区制を採用し、東校は「第一大学区医学校」と改称され、1874(明治7)年5月7日には、学制改革により「東京医学校」と改称された。
 この後、1877(明治10)年4月12日に東京帝国大学が創立され、「東京医学校」は東京帝国大学医学部となった。
 1878(明治11)年11月、神田和泉町(もと下谷和泉橋通)の大病院跡に東京帝国大学医学部附属医院を開き、通学生の臨床教育の場とした。
 1882(明治15)年7月1日、本郷の医学部附属医院を「第一医院」、神田和泉町にあるものを「第二医院」として、両院に院長格を置いた。

(三井記念病院百年のあゆみ序章創立前史)
http://www.mitsuihosp.or.jp/about/pdf/02.pdf

 柴三郎も森林太郎(鴎外)も入学した「東京医学校」は、1874(明治7)年当時は、下谷和泉橋旧津藩藤堂邸にあり、その後、本郷旧加賀藩邸に移転した、とこういうお話です。
 現在、本郷旧加賀藩邸は東京大学本郷キャンパスになっており、下谷和泉橋旧津藩藤堂邸は現在、神田和泉町となって、「三井記念病院」が建っております。

 そして、1876(明治9)年本郷への移転工事が終るほんの少し前、本郷6丁目に引っ越してきたのが、元の名を大吉、そう、あの樋口一葉の父、樋口則義でした。

 本郷通りは、昔から開かれた中仙道であったから、明治の初めでも交通の要路であったが、「本郷もかねやすまでは江戸の内」という江戸の古川柳にあるように、地下鉄本郷三丁目の駅を出たところにある小間物屋「かねやす」(古くは通りの東側)が、都心と郊外の域にされていた。
 現在では繁華な学生街となって活気にみちている本郷通りも、その頃は、東大前から駒込よりのあたりはひっそりとした町筋であった…
 則義の家は、この赤門から通りをへだてたほとんど真向かいの場所にあった。

(瀬戸内寂聴、前掲書、34頁、35頁)

 その家のことを1896(明治29)年の初夏、「死の近づいた一葉が瞼によびかえした本郷の家の庭」を次のように書き表わしております:

 かりに桜木(さくらぎ)のやどといはゞばや、忘れがたき昔の家には、いと大いなるその木ありき。
 狭うもあらぬ庭のおもを、春はさながら打(うち)おほふ計(ばかり)咲きみだれて、落花の頃はたゝきの池にうく緋(ひ)ごひの、雪をかづけるけしきもをかしく、松楓のよきもありしかど、これをば庭の光りぞしける。

(雑記十一)


(注1)
北里柴三郎記念室「ドイツにおける日本人留学生」(1888年、明治21年):
『ベルリンの写真館で撮影されたこの写真は、当時、陸軍省医務局長であった石黒中悳がウイーンで行なわれた第三回万国衛生会議に出席のため訪れた時のもので、ドイツに滞在中の日本人留学生と会談した。中列右より2番目が北里、中列左端が陸軍局医務局から派遣されていた森鴎外である。鴎外は北里の恩師であるコッホの研究室でも学び、その著書『独逸日記』によれば、ベルリン滞在中は北里ら留学生仲間とよく食事を共にし、議論をたたかわせていたようである』

(注2)
桜ヶ池とも呼ばれ、不忍池よりも大きな池であったと伝えられる「お玉ヶ池」の名の由来は、かつて2人の男性からの求愛に悩んだ神田松枝町のお玉が身投げしたという伝説による。現在、都営地下鉄岩本町駅から小伝馬町駅に向かう東京都千代田区岩本町2丁目5番9号の鰻屋「ふな亀」入口の前の歩道に「お玉ヶ池種痘所東京大学医学部」の標柱と医学部発祥の由来を刻んだ黒御影のレリーフがある。これは1961(昭和36)年11月3日に東京大学医学部が建立したものであり、記念碑の除幕式では地元の木遣り歌の歓迎があったといわれている。
(三井記念病院百年のあゆみ序章創立前史)
http://www.mitsuihosp.or.jp/about/pdf/02.pdf

(注3)
建物は現在、東京大学総合博物館小石川分館。現在、休館中
(2013年12月14日、明日の土曜日です、リニューアル・オープン予定)
posted by fom_club at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月12日

'secret' executions

Japan has carried out another round of "secret executions," bringing to eight the number of inmates sent to the gallows under the year-old administration of Shinzo Abe.

Media reports said two men had been hanged in the fourth round of executions since Abe took office last December. Previous hangings took place in February, April and September, suggesting that the government plans to carry them out every few months.

On Thursday, Mitsuo Fujishima, 55, was hanged for two murders in 1986, while Ryoji Kagayama, 63, had been convicted of killing two people in 2000 and 2008, media reports said.

Ryoji-Kagayama.jpg
<Ryoji Kagayama (seen here in 2008) has been executed by hanging. Photograph: Jiji Press/AFP/Getty Images>

Japan has brushed aside calls by Amnesty and the European Union to abolish the death penalty, citing strong public support for the punishment.

Opinion polls regularly put support for capital punishment at over 80%.

Thursday's hangings came just after the parliamentary recess began, and as Abe's approval ratings began to tumble following the passage last week of a controversial secrecy law.

The justice minister, Sadakazu Tanigaki, who signed the execution orders, said the two executed men had been guilty of "brutal" crimes.

"The executions were carried out after careful consideration of their cases," Tanigaki told reporters, adding that he saw no need to respond to calls to review the opaque way Japan administers capital punishment.

Prisoners, who spend years, even decades, on death row, typically are not told of their execution until hours before they are led to the gallows. Their lawyers and relatives are informed only after the execution has been carried out.

In a report published in 2008, Amnesty said inmates in Japan were being driven insane and exposed to "cruel, inhuman and degrading" punishment.

The executions in February this year were the first since September 2012.

The previous government, led by the centre-left Democratic party of Japan, executed nine people during its three years and three months in office. That included an 18-month period in which no one was hanged. The resumption of executions in March 2012 angered campaigners, who believed Japan was moving toward abolition.

On Thursday, Amnesty said Japan was increasingly out of step with the international community.

"The fast pace at which the Abe administration is conducting executions goes directly against the international community's repeated calls to abolish capital punishment," the group's Japan branch said in a statement.

Japan now has 129 inmates on death row, including Shoko Asahara, leader of the doomsday cult behind the 1995 sarin gas attacks on the Tokyo subway in which 13 people died and thousands were injured.

Japan and the US are the only G7 countries to retain capital punishment, along with more than 50 other countries, including China and Iran. More than two-thirds of countries, including all European Union member states, have ended executions in law or practice.

(theguardian.com, Thursday 12 December 2013 08.31 GMT)
http://www.theguardian.com/world/2013/dec/12/japan-condemned-secret-executions

 バーン。大音響とともに床が開いた。足元を失った死刑囚は、首に巻かれたロープでつるされた。そのまま5分以上が過ぎただろうか。医務官が脈拍や心拍を確認して大声をあげた。「絶息」
 元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授は1970年ごろ、検察官として絞首刑の執行に立ち会った。
 「死刑囚は、人形のように前後左右に揺れ続けた。正視に堪えなかった」
 日本では明治時代から、死刑の執行方法として絞首刑が採用されているが、詳しい情報は明らかにされていない。関西大法学部の永田憲史(けんじ)准教授が最近、国立国会図書館で見つけた終戦直後の公文書記録で、死刑囚45人の刑執行に平均約14分かかっていたことがわかった。
 人をつるし、時間をかけて命を絶つとされる絞首刑。死刑制度自体には賛成の土本氏は、憲法36条が禁じた「残虐な刑罰」に当たる疑いを指摘する。
 「米国のように薬物注射などを検討すべきだ
 何が「残虐」か。答えは難しい。しかし、裁判員裁判で国民が死刑判決に関わる時代。死刑制度を巡る議論は、もっと活発であっていい。

(2013年05月02日毎日新聞 大阪 夕刊【前田幹夫】憂楽帳:絞首刑)
http://mainichi.jp/opinion/news/20130502ddf041070018000c.html

 死刑に関しては、さまざまな意見があります。その中でもとくに多いのが、「被害者の人権はどうなる」「死刑が廃止されては、『被害者や遺族の感情が納得いかない』」という意見です。そして、この問題が、死刑をめぐる一番難しい問題なのだと思います。
 この意見に込められた気持ちは、かけがえのない家族を失った、たとえようのない悲しみであり、また犯罪者への怒りであり、ほとんどの人が感じる、人間として当然の感情だと思います。もちろん私たちも、愛する家族や友人を奪われたとしたら…。悲しみ、喪失感、犯人への怒り、自責の念、想像するだけでも辛い気持ちになります。「犯人には死をもって償って欲しい」とすら、思うかもしれません。
 しかし、その感情を認めたうえで、「死刑」というもう一つの「殺人」を私たちは選択するのか、ということを、もう一度、一緒に考えていただきたいのです。
 アムネスティ日本は、すべての人びとの人権が守られる世界をめざし、活動しています。

(死刑に賛成するあなたへ。人の命は、決して奪ってはならない)
http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/reason.html

posted by fom_club at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蕃書調所

 北里柴三郎は嘉永5年12月(西暦では1853年1月)に生まれましたかぁ〜
 この頃って、幕末の江戸や京都が慌しかったころ、ですよね。

 幕末、しばしば日本近海に出没した黒船(異国船)は、ついに、1853(嘉永6)年、江戸湾に侵入、アメリカ使節ペリーが久里浜に上陸、翌1854(安政元)年、再渡来。
 約3ヶ月にわたり、江戸湾、神奈川沖(小柴沖)に碇泊。
 日米間に「和親条約」を結び、数世紀にわたる国是鎖国が終末をとげ、近代日本の夜明けが始まる。
 鎖国から開国への第一歩を印した。

(横浜市の公式サイト、鎖国から開国への日々 嘉永7年 横浜村のできごと)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/perry/sawagi.html

 その後、今度はハリス。
 2年後の1856年。

 アメリカから総領事ハリスがやってきて、貿易を求めました。
 このころ中国は、イギリスとフランスとの戦争に敗れ、不平等な条約をおしつけられていました。
 ハリスは、日本もアメリカと手を組まないと、イギリスにせめられるかもしれないと幕府に貿易を求めました。
 1858年。幕府は14ヶ条からなる「日米修好通商条約」を結びます。
 日本の5ヶ所の港にアメリカの船が出入りし、貿易をすることを認めました。
 条約には、日本に不利な内容がありました。
 ○ 「治外法権」
  外国人が罪を犯しても日本の法律で裁くことができません。
 ○ 「関税自主権がないこと」
 幕府はアメリカに次いで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じような内容の条約を結びました。
 「日米修好通商条約」が平等な条約に改正されたのは、1911年、明治44年のことでした。

http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clipbox.cgi?das_id=D0005310110_00000&keepThis=true&TB_iframe=true&width=920&height=480
 
 幕府は、1855(安政2)年の江戸の大地震の復興が進んでいないことを理由にあげ、一日のばしにハリスの上京をさけていた。
 いよいよそうした言訳も効を奏さなくなり、ハリスたち一行を江戸に迎えなければならない日が近づいてきた。
 ハリスを迎える時の会議場として、蕃書調所(注1)があてられることに決った。
 大吉(注2)が蕃書調所の小使に採用された時がたまたま、ハリスの一行を迎えるため、蕃書調所の模様替えをしたり、かつてアメリカから将軍に献上されていた品物を飾るため、倉庫から取り出し、点検したりする時期に当っていた。

…瀬戸内寂聴『炎凍る、樋口一葉の恋』(岩波現代新書、21013年)23頁

 いや、あのね、どうしてヤッホー君、『炎凍る』を持ち出してきたかと言いますと、こんなことを瀬戸内寂聴が書いていたからですって:

 人間の生涯で、いつの時代に幸福な想い出を持つことが幸せかと考える時、幼年期と晩年がおだやかなほど幸せはないと思われる。
 中年や壮年の苦労は、それに立ち向かえ、闘える体力も気力もあるが、幼年と晩年は境遇の不幸に抵抗する力がない。
 その時、順境にあることが最大の幸福ではないだろうか。
 少なくとも一葉は幸福な幼年時代を恵まれていた

…前掲書、34頁

 はっちゃんがなぜ北里柴三郎に敬愛を注いでいるか、なぜイの一番に北里柴三郎の幼年時代に目がいったのか、なぜ長じても在野精神を貫くことができたのか…
 それは、北里柴三郎を身近に知るには、幼年時代のことを知るのが一番なのだそうです。
 それは、はっちゃんにも言えることなんだそうです。
 なぜ、イマだにもって消費者のために食品の安全性の調査研究を担当する専門職 researcher を継続して勤めていられるか、の動機にも繋がるのだそうです。
 それはインドからペナンに渡来し、印刷業で名を成した父親に連れられ、しばしば父親の大の親友である日本人医師を尋ねて、タイ南部のハッチャイ HAT YAI (注3)に遊びにいっていた頃にまで遡るんですって。
 はっちゃんはその父親の敬愛してやまない日本人医師に少しでも近づこうと、マレーシアの国立大学で食品衛生学を学びました。
 はっちゃんが学校に上がる前の、ほんとうに小さいときの頃のことで、その日本人医師の名も記憶の圏外に…


(注1)
 幕府によって設立された洋学研究機関です。
 1853(嘉永6)年のペリー来航以後、洋式軍事技術導入や外交上の要請から時の老中阿部正弘のもとで開設が計画されました。
 1856(安政3)年、九段下の竹本主水正屋敷にて業務を開始、その後小川町、一橋門外へ移り、明治維新後は大学南校となり、東京大学へと発展しました。
 当初、聴講生は幕臣旗本の子弟でしたが、諸藩士、一般有志の聴講も許されました。
 創設にあたっては、官学最高の地位にあった儒学者の林大学頭から横やりが入り、「野蕃」の字が付けられたといわれています。 
 所在地:千代田区九段南1-6、九段下駅4番出口より徒歩1分)
(千代田区観光協会 蕃書調所跡)
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/370/Default.aspx

(注2)
 大吉の父、樋口八左衛門は、甲斐国山梨郡中萩原村(現在の塩山市中萩原)の中農。しかし一向に百姓を好まず、雅号を南喬(なんきょう)、子潜(しせん)などとつけ、自分の家は源嶺館書屋(げんれいかんしょおく)などと呼び、漢詩や俳諧や狂歌を作って、子どもの手習いをみたり、近所の百姓の手紙の代筆をしたりして暮らしていた。
 樋口八左衛門は、自分の友だちの益田藤助が早くから志を立てて江戸へ出て、旗本の下僕から代官手代となり、やがて幕臣の真下家の株を買いとって、真下専之丞(せんのじょう)と名乗り、幕府直参の蕃書調所調役勤番筆頭にまで出世していたのがうらやましくてならなかった。
 樋口なつ、後年の樋口一葉が誕生したのは1872(明治5)年3月25日(太陽暦で5月2日)午前8時。
 父、大吉(その時の名は為之助)41歳、母、あやめ(名を改め多喜)37歳。すでに二人の間には長女ふじ14歳、長男泉太郎7歳、次男虎之助5歳が育っていた。
(瀬戸内寂聴、前掲書による)

(注3)
Penang to Hat Yai is approximately 129.5 miles (208.5 kilometers) which takes around two and a half hours by bus or van.
posted by fom_club at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月11日

オランダ人教師、マンスフェルト

 はっちゃんが訪れたかった「北里柴三郎記念室」。
 そこで、はっちゃんがヤッホー君に教えてくれたことがあります。
 それは、オランダの軍医マンスフェルト(1832-1912)のことでした。
 少年時代の北里が人間形成をはかっていくうえでの師匠だったのです。
 幼年、少年時代の北里をどんなふうに記述しているか、まず資料を三点用意しましたのでお読みくださいね。
 まずはお孫さんのお話しから:

 本日は、お茶の水学術サロンにお招き戴き、誠に有難うございます。そして、私の祖父「北里柴三郎の人と業績」についてお話をする機会を与えてくださった座長の増田先生に、改めて深く感謝する次第であります。
 柴三郎の肖像画を出しますと、良く似ていると言われます。どこが似ているかというと、首がないこと、なで肩であること、絶壁であること、足が短くて足の裏は偏平足であること、肉体的な遺伝子は実に忠実に受け継いでおります。しかし脳に関与する遺伝子については、かなり塩基配列が乱れているということをご承知の上で、話を聞いて下さるよう、お願い致します。
 柴三郎にはあだ名が付いていました。1989年に『The Formation of Science in Japan』という本がエール大学から出版されていますが、そこに「PAPA THUNDER」と紹介されています。「THUNDER」は
「雷」ですから、まさに、国際的に有名な「雷おやじ」というニックネームだったのです。ドイツ語で「雷」は「ドンネル(DONNER)」といいますが、小説家の山崎光夫さんが、柴三郎生誕150年に『ドンネルの男』
という本を書かれました(注)。ご覧になった方もおられるかもしれませんが、史実に基づいて描かれたすばらしい本です。
 柴三郎は、1853年1月29日、熊本県阿蘇郡小国で生まれました。少年時代、儒学の教えを受けましたが、武人になろうとの思いが極めて強い少年でした。両親の薦めで、1871年熊本医学校(現熊本大学医学部)へ入学した柴三郎は、マンスフェルト先生の優れた教育理念に心を動かされ、医学の道を究めようと決心しました。そして先生の教唆に従って東京医学校(現東京大学医学部)で8年間医学を学んだ後、欧州留学の道を歩みました。


(お茶の水学術サロン 第11回2006年10月6日、明治製菓株式会社 最高顧問 北里一郎、北里柴三郎の人と業績)
http://www.lwwc.ocha.ac.jp/no.11ochasalone.pdf

 そして郷土歴史研究をこつこつとなさっておられる方:

 北里柴三郎は嘉永5年12月20日(1853年1月29日)、肥後の国阿蘇郡小国郷北里村に生まれた。兄二人は疫病により早世。柴三郎の生まれた北里惟信家は、加藤、細川に仕えた上田北里宗家から分かれた北里惟経を祖とする北里伝兵衛家の4代目北里傳兵衛惟延の弟、惟度(これのり)が明和元(1764)年に分家して坂下屋敷と称したのに始まり、北里村総庄屋を勤めた。
 1860(万延元)年、柴三郎は小国郷志賀瀬村の橋本龍雲の許で四書五経の素読を受け、1863(文久3)年、豊後森の久留島藩士 加藤海助家(母の実家)に預けられ久留島藩儒・園田保の私塾で学んだ。
 1866(慶応2)年冬には、熊本に出て儒者田中司馬に入門したほか、熊本藩儒・栃原助之進の塾で漢学を学び、同時に武芸にも励んだ。村一番の暴れん坊であった柴三郎は、軍人か政治家を志望したが、両親は柴三郎が医学に進むことを強く望んだ。
 1871(明治4)年、熊本城下の古城医学所(後の熊本医学校、現在の熊本大学医学部)で、緒方正規、浜田玄達らと共にオランダ人教師マンスフェルトに師事した。熊本医学校時代の柴三郎は、初めは医学に関心が無く語学に才能を発揮し、マンスフェルトの授業の通訳を任された。マンスフェルトは北里の非凡さを見抜き、医学も男子一生の仕事足ることを説き東京で勉強を続け、さらにはヨーロッパで学ぶことを薦めた。
 マンスフェルトが4年の任期を終え、1874(明治7)年7月に熊本を去ると、柴三郎は助言に従い東京へ旅立った。1875(明治8)年11月、東京医学校に入学。医学校在学中の柴三郎は牛乳会社で働き自活、さらに熊本から弟の裟袈男を呼び寄せ学資の面倒も見た(裟袈男は東大法学部卒)。


(酒は飲むなと医師に言われているので芋焼酎をたしなんでいらっしゃる「弥栄の杜から」北里柴三郎)
http://www.saiki.tv/~miro45/kitazato.index.html

 子ども向けには、こんなふうになります:
 
 柴三郎は、1852年12月、肥後国(熊本県)の阿蘇の山奥の北里村に生まれました。アメリカの海軍将官ペリーが、日本に開国をもとめて浦賀へ来航する、半年ほど前のことです。父の惟信は庄屋(いまの村長)をつとめ、母の貞子は、学問をこのみ、気性のしっかりした人でした。柴三郎の一生をつらぬいた、強い負けずぎらいは、この母からうけついだものだったといってもよいでしょう
 少年時代の柴三郎は、わんぱくでした。寺子屋へかよわされても、祖父の家にあずけられても、落ちついて学問にはげもうとはしませんでした。学問の道を進むよりも、軍人になって国のためにはたらきたいという夢を、幼い胸にいだいていたからです。
 13歳のとき、60キロメートルはなれた熊本城下へでました。尊王攘夷の運動が日ごとにはげしくなり、世の中がゆれ動いていたときです。儒学を学び武芸にはげんで、早く軍人になろうという思いがますます高まり、柴三郎はいくつかの塾で学んだのち、1869年には藩の学校の時習館へ入りました。そして、つぎの年に、廃藩置県によって時習館が廃校になるまで、学問とともに、柔道や剣道や水泳などで、体をきたえることにつとめました。
 やがて、郷里の北里村へ帰った柴三郎は、明治政府が軍人を募集していることを知り、軍人になりたいことを、思いきって父に話しました。しかし、父は大反対です。
 「この血なまぐさい世の中で、長男のおまえを軍人にしたくはない。北里家をついで田畑を守ってほしいと考えていたのだ。学問はよいが、軍人だけはゆるさない」
 父のきびしい言葉に、柴三郎は、しかたなく従いました。軍人をあきらめてしまったわけではありません。いまは父のいうことをきいて勉強をすることにして、そのうち軍人の道へ進もうと考えたのです。

 1871年、18歳の柴三郎は、医学所病院(よく年から熊本医学校)へ入りました。もちろん、医者になる気はありません。でも、蘭学だけは熱心に学びました
 ところが、この学校に入学したことが、世界の細菌学者北里柴三郎の誕生に、大きな意味をもつことになります。それは、オランダ人の教師マンスフェルトにめぐりあったことです。
 ある日、マンスフェルトに、きかれました。
 「君は、本心から医者になろうと思っていますか?」
 マンスフェルトは、柴三郎がすぐれた才能をもちながら、本気になって医学を勉強しようとしないのを、ふしぎに思っていたからです。この先生なら、きっと理解してもらえると信じた柴三郎は、ほんとうは軍人になりたいことや、蘭学だけは、文明開化の世の中に必要だから学んでいることなどを、正直に話しました
 すると、マンスフェルトから返ってきたのは、やさしさのなかに、医者としての誇りにもえた言葉でした。
 「男が自分の考えをつらぬいて軍人になるのもいいでしょうが、人間の生命を助けるために研究をかさねる医学も、けっして、つまらない学問ではありませんよ」
 柴三郎の心は少しは動きましたが、医者よりも軍人のほうが国の役にたてるという考えは、やはり、変わりませんでした。でも、それからまもなく、マンスフェルトの言葉がわかるときが、おとずれました。
 ある日、顕微鏡で人体の組織標本をのぞいた柴三郎は、その神秘な世界におどろき、医学という学問の広さと深さに、すっかり心をうばわれたのです。
 「病人をみる医者になることだけが、医学ではなかったのだ。よし、もうまよわずに医学の道を進もう」
 柴三郎は決心しました。そして、それからはマンスフェルトの講義の通訳の役を果たすほどになりました
 しかし、1874年に任期がきれたマンスフェルトは、
 「わたしが君に教えたのは、まだ、医学の入り口にすぎません。もっと勉強したいなら東京の医学校で学び、さらに外国へ留学するとよいでしょう」
というはげましの言葉を残して、熊本を去りました。
 柴三郎は、その言葉のとおり、マンスフェルトのあとを追うようにして熊本医学校を退学し、その年のうちに東へむかうと、よく年、23歳で東京医学校(のちの東京大学医学部)へ進みました。


(子どもたちの豊かな未来を創造する≪いずみ書房≫オンラインブック、せかい伝記図書館、北里柴三郎)
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/kitazato/kitazato2.html


(注)
山崎光男(1947年生まれ)『ドンネルの男』(東洋経済新報社、2003年10月)のち中公文庫。
posted by fom_club at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月10日

北里柴三郎

 今朝はマレーシアのスコールにも似たすごい降りで、雷さままで鳴りました。
 でも、はっちゃんにとっては、今日が今回の来日、最後の日。
 はっちゃんがどうしても行きたいと言っていたところ、「北里大学・北里柴三郎記念室」に案内しようとでかけたのです!

胸像.jpg

 東京メトロ南北線「白金高輪」駅からの歩き出しでした。
 BS朝日が、11月30日(土)1:00〜1:54pm放送の「近代医学の父、北里柴三郎、雷(ドンネル)が私たちに託したもの」をご覧になった方はご存知と思います。

 江戸から明治に時が移り、日本新政府は欧米列強に追いつくために若い力を集結させた。
 医学の世界では、当時最先端だったドイツ医学を学ぶ目的で多くの留学生をドイツへ派遣した。
 その中の一人が北里柴三郎であった。

 その頃、世界ではコレラ・赤痢・腸チフス・ペストといった伝染病が蔓延し、夥しい数の死者を前に研究者たちが手をこまねいていた時代だった。
 そんな時代にあって、北里は世界中の研究者と伍して細菌学の分野で次々と偉業を成し遂げ、その名を轟かせていたのだった。

 誰もが成し得なかった「破傷風菌の純粋培養」そして「血清療法の開発」…さらには帰国後、日本初の伝染病研究所を設立するなど日本の細菌学、免疫学の基礎を築いたのだ。
 グローバル化が叫ばれ久しい現代だからこそ、私たちが明治の偉人に学べることは計り知れない。
 どうして北里が世界的に認められる偉業を成し得たのか?人物伝を通してその秘密に迫る。


(激動の明治維新を迎えた日本で近代医学の黎明期を築いた医学者・北里柴三郎。第1回ノーベル賞の最終選考に選ばれていたというその偉業と「終始一貫」した医療人としての人生を、再現ドラマと貴重な資料でドラマティックにたどる知的エンターテイメント番組)
http://www.bs-asahi.co.jp/kitasato/

 子ども向けですが、朝日小学生新聞にも:
 ☆ 10月21日(月)付け新聞4面「れは歴史のれ」スぺシャル@
   「知ってる?日本近代医学の父・北里柴三郎」
 ☆ 10月23日(水)付け新聞8面「れは歴史のれ」スぺシャルA
 ☆ 10月26日(土)付け新聞8面「れは歴史のれ」スぺシャル」B

 あのムカシの日本人のことを、ヤッホー君以上に誇りをもって、尊敬しているはっちゃん。
 科学者というと欧米だけに脚光があたるけど、同じアジア人として、イマから160年も前に生れた北里柴三郎が果たした偉業は、もっと世界から認知されてしかるべきだ、というのです。
 そしてイマの日本人も、それぞれが「人びと peoples」のためにどうすれば役に立つ人間になるか考えるべき、と。
 たしかに、訪れた甲斐がありました。
 どんなふうに日記にまとめればよいのか、こまってしまってわんわん、わんわん、にゅんにゃん、にゃにゃん!

 北里柴三郎は、1853(嘉永5)年、現在の熊本県阿蘇郡小国町北里に生まれる。
 藩校時習館、熊本医学校に学んだ後、東京医学校(東大医学部の前身)に入学し、1883(明治16)年卒業後、長与専斎が局長であった内務省衛生局に奉職した。
 1886(明治19)年からドイツのローベルト・コッホに師事して多くの貴重な研究業績を挙げ、とりわけ破傷風菌純培養法と破傷風菌抗毒素の発見は前人未踏のもので、世界の医学界を驚嘆させた。
 1892(明治25)年帰国、福沢諭吉の援助により芝公園にわが国最初の私立伝染病研究所を創設し、同所が1899(明治32)年内務省に移管後も所長として活躍した。この間、香港に流行したペストの調査に出張して短時日でペスト菌を発見した。
 北里は、かねがね伝染病の研究は、衛生行政と表裏一体でなければならず、国立伝染病研究所は内務省所管であるべきであるとの信念をもって伝染病の研究所の運営にあたった。
 しかし、1914(大正3)年、国立伝染病研究所は突如文部省に移管され、北里は素志に反する政府のやり方を承服できず、所長を辞して直ちに私立北里研究所を設立した。
 1917(大正6)年、福沢諭吉の恩義に報いるため慶應義塾大学医学部を創設し、医学部長として、また顧問として終生その発展に尽力した。
 また、日本医師会長を始め多くの医学団体の要職に就き、わが国の公衆衛生特に結核の予防のほか、医学、医学教育の発展に大きな足跡をのこした。


(北里大学・北里柴三郎記念室公式サイト、創立者・北里柴三郎「年譜」)
http://www.kitasato.ac.jp/kitasato/nenpu/index.html

 「熊本医学校に学んだ」で終わってしまう記述も読めばそれだけですが、記念室に行けば、はっちゃんが、ほら、とヤッホー君に読んで聞かせてくれました:

 マンスフェルト C G van Mansveldt(1832-1912)
オランダの軍医で長崎出島のオランダ館の医師として来日。
 幕府の依頼で長崎、熊本の医学校で教えた。
 学生の進路は、学生自身に選ばさせる教育方針で、北里も国を護るには軍事や誠治ばかりでなく、医学の道もあるということを理解した。
 後年、北里がドイツ留学した時、オランダに恩師を訪ねて旧交を温めた。

Education Policy
Not train you to be a doctor immediately.
But train you to find your own direction of research and how to study to achieve your objectives oneself.

Determination of Kitasato
There are ways to protect and to be rich our country by military affairs and politics as well as protect and improve health of our peoples.

posted by fom_club at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

冨士河口湖町

 山歩クラブ「かわらばん12月号」でこんふうに竜ヶ岳を紹介していました:

 竜ヶ岳(山梨百名山、1485m)
 山歩クラブでは、2004年12月19日(日)に、本栖湖畔・「山梨県立本栖湖青少年スポーツセンター」(Tel 0555-87-2231)から、竜ヶ岳への往復お山歩会を24人で実施しています。
 大昔(864年)、石花の海を割き、青木が原の樹海を作った富士の噴火活動は、本栖湖に眠れり竜を目覚めさせ、山となって村人に溶岩流を知らせたというそんな謂れのある竜ヶ岳です。
 そしてそれから千年も過ぎたこの間の辰年に村人が登山道を整備し、やっと隠れた富士見山行の名山として知られるようになったと謂われている竜ヶ岳です。
 ここを歩いてきたのです。
 青木が原樹海の向こうに裾野を大きくひろげ、天空高く聳える富士。
 2004年12月19日(日)当日の富士山は、山頂に笠雲をかぶり、中腹からは水平に、真白き雲をたなびかせていました。
 真白き雲は灰色の雲を呼び、まるで活火山のときの煙のように雲をしたがえているのです。
 その崇高さを誇示する雄大な富士に思わず大っきな声で「お〜い」と朝のご挨拶をしてきました。
 お富士さまはきちんと「ヤッホー」と答えてくれたそうです。


 ですので、10年後の昨日2013年12月8日も山歩クラブご一行様25名は、山梨県立本栖湖青少年スポーツセンターを目指しました。
 しかし、9時ちょい過ぎに歩き出したのですが、また大回りして、県立スポーツセンター近くの舗装道路に出てしまい、「準備体操、準備体操」とか言ってごまかしましたが、こんな道路は10年前に無かったでしたねぇ〜…
 なんでも、2013年3月に森を切り拓いた新道路が作られたのだそうです。

 あとは笹薮。
 頂上だって10年前に登ったときは山頂が広々としており、まるでサッカー場だよ、なんて言いあっていたくらいでしたので、これほどの笹藪に覆われてはいなかったように思うんですぅ〜…

 10年前って本栖湖は…

・先日久しぶりに出かけると、友人が「最近では河口湖の方が人気で山中湖はさっぱりだ」と言った。
 山中湖に来ても、行くところがない、することがない、そう言うお客さんが多いらしい。
 たしかに、山中湖は昔からの別荘地で、ホテルは少ないし、観光名所もない。
 だからこそ、富士山や湖を見てゆっくり時間を過ごしたい人には人気だったはずで、団体客でにぎわう河口湖とは客層が違うのは昔からなのだが、最近はそうでもないらしい。
 何かすること、出かける場所を用意してもらわないと、何をしていいのかわからない、どこに行ったらいいのかわからない、時間がつぶせない、そんな訪問者が増えてきたらしい。
・河口湖町はもうすぐ富士河口湖町に変わる(注)。
 近隣の勝山村、足和田村、上九一色村と合併するのだ。
 新しい役場もできて新しい出発という雰囲気だが、町長はこれまでにも町の活性化に積極的だった。
 野外のコンサートホール(ステラ・シアター)を作って、イベントの企画にも熱心だし、湖畔にラベンダーを植えて7月の「ラベンダー祭」も定着させた。
 「河口湖美術館」のある北岸には「オルゴール美術館」「久保田一竹美術館」、木の花美術館、円形劇場、それに「猿回し劇場」などがあって、観光客でいつでもにぎわう場所になってきたし、紅葉する樹木をライトアップもして紅葉祭もはじめた。
富士河口湖町になって富士五湖のうちの四湖は同じ町に含まれることになったから、これからは西湖や精進湖、それに本栖湖の活性化もはかるのかもしれない。
 そうなると、山中湖だけがますます孤立することになる。
・もっとも住人としては、観光客が増えるのはけっしてのぞましいことではない。
 交通渋滞は起きるし、人の多さにうんざりするし、あとにはゴミがいっぱいのこる。
 静かな山中湖の方がずっといい。ぼくも家探しをしたときに、そのことを考えた。環境としては山中湖だと思った。ただ、海抜が300mも高い山中湖は冬の寒さも一層厳しくて、永住の場所としてはちょっとつらい。自衛隊の演習場も近くて大砲の音がしょっちゅうする。
 だから河口湖にした。
 その判断は間違っていなかったと思うが、それにしても、最近の人の動きは極端だ。
・紅葉の季節が終わると河口湖も閑散とする。
 湖畔のライトアップや寒中の花火大会などイベントに工夫はしているが、春先までは静かな季節になる。
 外で長時間過ごすのには寒すぎるし、車もスノー・タイヤが必要になる。
 旅館や観光施設にとっては、あるいは町の財政にとっては、冬の閑散期に客を呼ぶのが次の課題だが、住人としては冬だけは静かなままであってほしいと思う。

(渡辺潤、東京経済大学コミュニケーション学部教授、森の生活、2003年11月10日付け「紅葉のにぎわい」)
http://www.tku.ac.jp/~juwat/forest29.html

 渡辺教授は(1949年1月9日山梨県生まれ)。2000年3月に山梨県の河口湖に引っ越したそうです。
 
 本栖湖もGWはびっくりするほど賑わうようになりました…


(注)
 2002(平成14)年6月に合併協議は始まり、21回もの協議をかさね、2003(平成15)年5月に調印、11月15日に第1次合併として、足和田村、勝山村、河口湖町による富士河口湖町(ふじかわぐちこまち)が誕生しました。
 記念式典は、新庁舎で盛大に行われ、新しい町は、その歩みを始めます。この時の人口は、23,759人(7,595世帯)で、面積は93.3ku。
 新町発足から、2年の歳月を経た2005(平成17)年1月に上九一色村との合併協議が始まり、2006(平成18)年3月1日、上九一色村南部地区、精進・本栖・富士ヶ嶺の三地区と合併し、現在の富士河口湖町が誕生しました。
 この合併により、町は富士五湖のうちの4つの湖と、富士の麓の広大な青木ヶ原樹海と富士ヶ嶺高原を有し、日本の湖水地方及び富士の麓に広がる高原の町として新たな歩みを始めました
 合併時の人口は、25,565人(8,518世帯)で面積は1.5倍に広がり158.51ku。
(富士河口湖町の公式サイト、町勢概要、町の歩み)
http://www.town.fujikawaguchiko.lg.jp/ka/info.php?if_id=739
posted by fom_club at 20:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月08日

竜ヶ岳1485m

竜ヶ岳.jpg

 今日12月8日は、たいへんお疲れさんでした。
 25名の参加となりまして、一回り大きいバスになりましたが、乗り心地はいかがでしたか。
 そんなこと含め、ぜひ今日のお山歩会への感想をお寄せくださいね。
 冨士山が朝からお隠れになり、美形をお見せになってくださりませんでしたが、それがいつものお冨士さまで…、お姿をお見せになることは滅多にございません。
 山歩クラブの1月、2月企画は、富士見山行となっております。
 それを期待することにしましょうね。
 また帰りの車中では、山歩クラブ2014年度方針につき活発な意見交換をいただき、深謝申し上げます。
 はるちゃんコーナー『今年の漢字一文字」ではヤッホー君。陰と謝の二文字にさせていただきました。
 皆さんが主人公です。
 そのために陰になって黒衣(くろこ)となって、皆さまが演じられる晴れ舞台をサポートしていきます。
 今日が2013年最後のお山歩会となった方もおられることと思いますが、来るべき新しい年、2014年も皆さま及びご家族にとりまして、健康で幸せな年となりますよう心からご祈念申上げます。
 今年2013年、ほんとうにいろいろありがとうごさいました。

 とても良い山でした、皆さんについて行け自分としてとても嬉しいし、充実感も感じています。
 バスのなかでは、山歩クラブの継続への思いと会長の人間性に対する思い、私も影ながら感激しました。
 一言、漢字『縁』を考えていたのですが、まさしく会長との縁、山歩クラブとの縁を考えていました。
 ありがとうございました。


 早速のメール&写真、有難うございました。
 意義ある一日でした。
 山も良かったし 車中論議も良かったし…、はるちゃんという45年来の良い友を持って、会長は幸せだなぁ…と しみじみ思いました。
 会長の良いも悪いも承知の上で、守り立ててくれる友人は、ざらには居ません。
 美味しいお酒でした!


 お酒は、甲斐の開運『しぼりたて』(井出興五右衛門、南都留郡冨士河口湖町船津8番地井出醸造店)、それになんと仲間から女性陣にと、石和温泉の「モンデ酒造」(笛吹市石和町市部476 Tel 055-262-3161)の梅酒!

 本栖湖・竜ヶ岳トレッキング。
 曇天ながら雪中行軍(映画・八甲田山の迷走)にならず、笹藪の大海原を泳ぐように、まるでゲリラのように、往復4時間30分の踏破を無事、25名で貫通出来て何よりでした。
 樹木も枯れ木となり、土も霜が処々にあり、山も深い冬に入っていくのだなあと季節の移ろいを感じました。
 入会して約半年になりました。
 運良く、月例山行は、毎回参加ができて、ひとつの目的を達成できたと喜んでいます。
 帰りの緊張感と戸惑いの入り混じった会長職引退についての会としての今後の方針での質疑応答は、意義ある話となり、新参者の私に、参加出欠の確認という任を受け持ちつつ、会長さん補佐の重責を任されたことに、及ばずながら一助となれば嬉しい限りです。
 一人ひとりが持ち回りで任を背負せば、自ずと精一杯やってくれると思います。
 誰かがやるだろうと思うのは、やはり逃げだと感じます。
 これもひとえに会長さんの人柄に惚れてのちょっとした思いやりだと私は思います。
 偉そうなことを言いましたが、笑止してお許し下さい。


 ここで、写真を2枚添えましょうか…
 一枚目は雲間に浮かびあがる樹海、西湖、十二ヶ岳、紅葉台方向。

竜ヶ岳から精進湖.jpg

 そして最後に、雲間にお隠れになりお姿をお見せにならなかったお富士さま。

竜ヶ岳から冨士山.jpg

posted by fom_club at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月07日

堀潤

 12月7日土曜日、もう脳みそのキャパがいっぱいで削除、消去、消失しないとデータの保存ができないのですが、ヤッホー君、「あべのやりたい放題」の顛末とこの日付けだけはを記憶にとどめておこう、とヤッホー君。
 来週はTPPで、国を取り戻すどころか国を売り渡すのでは、との不安が杞憂であれば、と祈っています。 

Whistleblowers and journalists in Japan could soon find themselves facing long spells in prison for divulging and reporting state secrets, possibly including sensitive information about the Fukushima nuclear disaster and the country's souring relations with China.

Abe, who does not have to fight an election for another three years, is expected to push ahead with his nationalist agenda, including constitutional reforms that would end the military's purely defensive role.

The secrecy bill's hasty passage through the lower house has been marked by noisy public demonstrations and opposition from journalists, lawyers, politicians, academics and scientists, as well as film directors and manga artists concerned about freedom of expression.

(Justin McCurry in Tokyo, theguardian.com, Thursday 5 December 2013 15.14 GMT)
http://www.theguardian.com/world/2013/dec/05/whistleblowers-japan-crackdown-state-secrets

 参議院本会議は12月6日午後9時から再開され、まず、特定秘密保護法案を審議してきた参議院の特別委員長に対する問責決議案が、与党側の反対多数で否決されました。
 その後、特定秘密保護法案の議事に入り、自民党の島尻安伊子参議院議員は、「日々深刻さを増す、わが国の安全保障環境に鑑み、国益を保持するために必要な法案だ。恣意的に秘密指定を拡大させ、一般の人がむやみに逮捕されてしまうような法案ではない」と述べました。
 これに対し、共産党の仁比聡平参議院議員は、「覆い隠すことができない重大な問題点があらわになるため、与党は暴力的に審議を打ち切り、採決を強行した。多数を頼んで強行しても、廃止を求める国民の戦いは燃え盛ることになる」と反論しました。
 一方、民主党は、委員会での審議の経過が報告される直前に本会議場を退席しましたが、反対の意思を示すべきだとして、方針を転換し、議場に戻りました。
 そして採決が行われた結果、特定秘密保護法は、自民・公明両党の賛成多数で可決され、成立しました。
 みんなの党と維新の会は採決を退席しましたが、みんなの党の3人の議員は党の方針に反して採決に加わり、反対しました。

(12月7日4時22分NHK「秘密保護法成立 どう決まったか」)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131207/t10013651081000.html

 NHKもあべの人事で誤用放送になりかねません…、伊藤めぐみさんもNHKの番組制作に関わっていましたが、NHKを今春、退職した堀潤さんが映画と本を出版しましたので、以下に記録しておきます。

 『変身−Metamorphosis』
 サンタスサーナ原子炉実験場、スリーマイル島原発、そして福島第一原発。
 日米3か所の共通点はいずれも苛酷なメルトダウンという原子炉災害を起こしたことだ。
 もう一つの共通点はマスメディア報道が十分されてこなかったことと、時とともに事故が風化し、放射線被曝についての問題意識が薄れていくことだ。
 とりわけサンタスサーナ原子炉実験場はマスコミ報道が皆無で、事故が起きた米国でも一般にはほとんど知られることがなかったが、がん、白血病など放射線被曝が原因と思われる疾患にかかった地元住民とその周辺の人びとがひっそりと原因究明の努力を続けてきた。
 EPA(米国環境保護庁)は住民公聴会を主催し、現在もなお空間線量の高いことを認め、除染も約束するが、DOE(米国エネルギー省)は、「50余年以前の原子炉メルトダウンと個々の疾病の間の因果関係は明らかではない」と被曝住民の訴えを切り捨てていく。
 1979年にレベル5とされるメルトダウン事故を起こしたスリーマイル島周辺では、その当時の汚染地図と被害状況が語られる他方で、若者や移住者が放射線被曝について無関心である様子を映し出していく。
 福島第一原発事故においては、NHKを含む大手メディアによる報道ではほとんど伝えられなかった事故の実態がインターネットでは先んじて情報が伝達されていたことを明らかにしていく。
 情報が公開されないなか、放射線が高い地域に避難してしまった被災住民。原子炉の爆発を食い止めるために行われたベントによって放出される莫大なレベルの放射能量の数値を公的に発表しなかった政府。
 被曝を余儀なくされる原発事故収束作業へのお粗末な放射線教育の事態。
 “原発安全神話”にあぐらをかいて、事故発生時の住民避難計画がいかにお粗末なものだったかを暴露する。
 原発事故の収束作業は、国や東京電力の予測でも40年。
 未来の世代まで続く問題だ。
 半世紀前に起きたサンタスサーナ原子炉実験場事故などのように忘却していっていいのか?
 被災住民はどうなっていくのか?
 決して忘却してはならない現実が、今、明らかになる。
 
 監督/脚本/撮影/編集/ナレーション:堀 潤
 ジャーナリスト。1977年生まれ。2001年にNHK入局。「ニュースウオッチ9」リポーターとして主に事件・事故・災害現場の取材を担当。独自取材で他局を圧倒し報道局が特ダネに対して出す賞を4年連続5回受賞。

(「変身」公式サイト)
http://unitedpeople.jp/henshin/

 この映画『変身』は東京の劇場では来年、2014年2月15日(土)まで待たなければいけません(〜28日金曜日まで)。
 劇場は「渋谷アップリンク」です。
 2月16日(日)には、堀潤監督のトークショーもあります!

 「衆議院本会議がはじまりました。こちらで中継が見られます」
 先週火曜日の午後、Twitterでそうつぶやくと、あっという間に100人以上にリツイートされた。
 今や、国会での審議の様子はスマートフォンからインターネット中継で見られるようになった。
 この日は注目されていた特定秘密保護法案の衆議院での採決。
 私もスマホの画面をのぞき込んでその様子を見守った。
 与党が提案する特定秘密保護法案について、私は反対だ。
 特定秘密の範囲が不明確で、情報をチェックする第三者機関の設置や将来の開示について義務規定がなく、情報公開の流れに逆行しているからだ。
 情報は民主主義の国にとって血流のようなものだ。
 私たちが自由に議論し、選択し、実行するには、開かれた情報にアクセスできることが大前提だ。
 先日、法案に反対する2氏と話す機会があった。
 ジャーナリストの鳥越俊太郎さんは「私たち一人ひとりが考え、議論しなければならない問題。この国の未来をつくるのは自分たちだ、という思いで参加してほしい」と話した。
 また、映画監督の岩井俊二さんは「全てが決まってから後悔することがないよう、当事者としての意識を持って、法案について皆で考え、議論しよう」と語った。
 国家の安全保障と国民のアクセス権のバランスをどう保てばよいのか。
 今年6月、南アフリカでは、国連と約70ヶ国から500人以上の専門家が集まり、『ツワネ原則』という指針をまとめた。
 国家機密の必要性を認めながらも、第三者機関の設置や情報公開手続きの策定などを提唱した。
 また、日本弁護士連合会は『ツワネ原則』との整合性について議論がされていない、という声明文を出した。
 私たちは当事者として議論に参加していたか。
 今後もスマホでつながる永田町での議論に耳を傾け、考え、発信していきたい。

(2013年12月6日付け毎日新聞地方版「堀潤のソーシャルメディア日記:情報は民主主義の血流/東京」)
http://mainichi.jp/feature/news/20131206ddlk13070152000c.html

 『変身 Metamorphosis メルトダウン後の世界』は堀さんがNHKを辞めるきっかけとなったドキュメンタリー映画「変身 Metamorphosis」を書籍化したノンフィクション単行本。
 アメリカのスリーマイル、サンタスザーナ、日本の福島とメルトダウンがあった地域で堀さんが取材したことをまとめた内容となっている。
 当日は、その映画も一般観覧者を対象に上映された。
 NHKに上映禁止とされていた作品の書籍化と上映を果たした堀さんを、岩井さんは「長いものに巻かれないようにするのは大変だったでしょ。相当巻いてくる側も長かったと思うし。これからも応援しています」と労った。
 トークショーで、堀さんは「エネルギーの問題に対してタブー感がある、そして情報に対して疑心暗鬼になっている社会の状況でこのまま原発問題と向き合っていって良いのだろうか」と投げかけた。
 岩井さんは現状の日本を「学校の教室の中でいじめを見て見ぬふりする雰囲気に似ている。簡単には終わらないことだけははっきりわかっている、ということをいかに忘れて日々を生きるか、という日本になっていて、自民党が大勝した頃から違う国に住んでいるような違和感を覚える」と語った。
 堀さんそれに同調し、「無頓着が一番怖い。物事が決まっていくまでの仕組みや、どういった人々が関わっていて、その当初の理念や目的は何なのか、ということを注意深く普段から見ておく癖をつけることが大事」と話した。
 またトークショーには本書に記されている元原発作業員の林哲哉さんも途中からゲストで登場。
 東京電力から現場作業を請け負う会社の間に6つも下請け業者がある現状や、賃金の規定がきちんと定まっていないことなど、現在の原発作業員の劣悪な労働環境について明かした。
 堀さんの「顔も本名も明かしていますけど、明かそうとどうして思ったんですか?」との質問に、
 林さんは「顔を出して本名で話さないと真実味がないし、僕悪いことしているわけじゃないんで」と笑って答えた。
 『変身 Metamorphosis メルトダウン後の世界』(著:堀潤)は現在、株式会社KADOKAWAから発売中。1,470円(税込)。
作品公式HP…http://www.kadokawa.co.jp/sp/201311-03/

(プレスリリースTOP、株式会社KADOKAWA、元NHKアナウンサー堀潤の著書出版記念イベントで、岩井俊二「今の日本、違う国のよう」)
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000389.000007006.html

posted by fom_club at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月06日

伊藤めぐみ

 あしたの土曜日からはじまる映画『ファルージャ〜イラク戦争 日本人人質事件…そして』。
 どこが製作したのかな?
 「有限会社ホームルーム」!
 2011年に AD として入社したての MI さん、こんなことをつぶやいていました:

 テレビ番組の AD という職業に就いて一年。
 私はもともと大学で映像の勉強をしていました。
 人や物事を見つめる姿勢が、そのまま作品という形に昇華されるドキュメンタリーというジャンルに興味を持ち、「ホームルーム」にお世話になる運びとなりました。
 そこで、初めて担当したのが『総合診療医ドクター G 』。
 スタジオバラエティ、というドキュメンタリーとは関係のなさそうなジャンルの番組で、やっていけるのかどうかとても不安でした。
 そしてふたを開けてみれば、右も左もわからずにやっぱり何も出来ない自分。
 たくさんの方にご迷惑をおかけして、凹む毎日でした。
 でも、そんなだめだめな日々の中で、自分なりに気づいたことがありました。
 それは、番組を作ることそのものが“ドキュメンタリー”であるということです。
 ひとつの番組を作り上げていくというその姿勢、その心が、ドキュメンタリーとして成立するのです。
 今年は、昨年の反省点を活かし、自分自身も楽しんで番組制作を出来るように、精一杯頑張ろうと思います。

(2012-04-11 17:03:26ホームルーム日誌「イニシャル M・I たちのそれぞれ」)
http://www.homeroom-doc.com/#!untitled/c1moz

 精一杯頑張ってくださいってエールを送っていたヤッホー君! がんばれえ〜 決定
 映画『ファルージャ』を作った監督のイニシャアルも MI さん!
 こちらの MI さん、伊藤めぐみさんはどんな方?

──普段はテレビの会社で働いているのですよね?
 ずっと制作会社で、釣り番組などの AD をしていました。
 今回が初めてのディレクターというか監督作品です。
 テレビ局の人たちに映画の話をすると、「テレビではこのテーマは政治的すぎる」と言われることがありました。
 本当にできないのか、自主規制なのかわかりませんが。
 今回の映画は、テレビの仕事をずっと続けてきた74歳になる社長の強い励ましと、テレビ番組制作会社の連盟である(社)全日本テレビ番組製作者連盟( ATP )の支援があって制作することができました。

── 今作を完成させて、あらためてあの人質事件を通して気持ちをあらたにしたことがあれば教えてください。
 あの時言われた「自己責任」って、国に迷惑をかけたか、国のやろうとすることと違うことをしたかという範囲だけで「責任」が語られたと思うのです。
 でも「責任」というなら、異国の地の人がでたらめな戦争で殺されることをどう思うのか、とか、もっと違う広い視点でも考えることができたはず。
 「他人のことを考えている余裕なんてない!」という人もいると思うし、まず私が言えるのは自分のことだけだけど、ちゃんと選択して生きていきたいと思います
■ 伊藤めぐみプロフィール
 1985年三重県出身。2011年4月、テレビ番組制作会社(有)ホームルーム入社。NHK『にっぽん釣りの旅』『アジアで花咲け!なでしこたち』でアシスタントとして制作に携わる。

(オフィシャル・インタビューより)
http://www.webdice.jp/dice/detail/4035/

そうでしたか、ATP って何? ATG とはムカシ、縁があったなぁなんて青春回顧したばっかりのヤッホー君。

ATP 若手映画プロジェクト 第1回支援作品
 弊社 山口秀矢が ATP の理事として座長を務めた「ATP 若手映画プロジェクト 第1回支援作品」
 ドキュメンタリー映画『ファルージャ〜イラク戦争 日本人人質事件…そして』が完成しました。
 制作プロダクション:(有)ホームルーム/プロデューサー 広瀬凉二
 監督は伊藤めぐみさん28歳。AD 経験はあるもののディレクター経験なしの初監督作品です。
 2013年12月7日(土)より新宿バルト9ほか、全国順次公開予定。
 是非ご覧くださるようお願いします。
 映画公式サイトはこちら…http://fallujah-movie.com

(2013.11.09(株)えふぶんの壱)
http://www.ef-1.co.jp/topics/

 「自分でちゃんと選択して生きていきたい」、エライ!
 そうですよね〜、ヤッホー君もムカシ、職業についたばかりの頃、何かことあるたびにトントンとノックして入っていった理事長室で、じきじきに教えこまれたことを思い出しています。
 「船にしがみつくな、烏合の衆になるな、硬い意思を持て」の3ヶ条!
 そして硬い石を磨き上げ、尿路結石になって緊急入院してしまいました。
 お見舞いに駆けつけてくださった、件の理事長、管をつけて寝てるしかないヤッホー君に「君は意思づくりの迷人だからなぁ〜」

posted by fom_club at 07:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月05日

ファルージャ

 投票所に足を運ぶ大人の有権者の半数が、もう戦後ミンシュシュギにサヨナラをして、ファシスト国家を選ぼうと投票していたのですかぁ〜。
 映画『立候補』で、大坂でのハシモト市長の街頭演説の場面がスクリーン一杯に映し出されたとき、
 池袋でのアベノリスクの街頭演説の場面がスクリーン一杯に映し出されたとき、
 思わず肩掛けカバンに顔を埋め、嘔吐感をもよおしたヤッホー君、き・も・い気持ちは、現実だったのですかぁ〜。

 あの山には敵国の動向を探るヒ・ミ・ツのアンテナ基地があるから入山禁止、とかになるのかな。
 それよりも山歩きなんかしている場合じゃない、と逮捕勾留されるか、自粛をせまられるのかな。
 イマのコクミン主権の「平和憲法」を変えないで、と思うだけで、ヤッホー君も左翼となるのかな。
 イッパン・コクミンなんか何も知らないうちに、悪阻ろしい世の中になって新年を迎えるのかな。
 資金源も豊富にあるし、戦車に乗って、敬礼をしたいごろつきが大手を振って歩いていくのかな。
 非正規労働者は安月給のままだしいっそ国軍に入隊し合法的に殺人術を学習する方がいいのかな。
 敵を殺せずに、自分が殺されたら『自己責任』どころか、英雄として国の神社に祀られるのかな。 

 そういえば、もう今夏、2013年7月3日のことでしたか。
 こんな東京新聞の記事もありましたね、権力より削除を命じられるか、自主的に削除される前に12月5日木曜日、ヤッホー君の日記に掲載しておきます:

1万人以上が「いいね」を押す安倍首相のフェイスブック

 「なぜ、ここまで批判されるのか」
 2004年4月、イラク人質事件で武装勢力から解放され、帰国した写真家の郡山総一郎(41)は、驚きを通り越してあきれた。
 危険な地に自ら向かった被害者が悪い、という「自己責任論」の嵐が吹き荒れていた。
 ネット掲示板「2ちゃんねる」は、中傷の書き込みで埋め尽くされた。
 イラク戦争の実態を撮影するための、二回目の入国だった。
 大量破壊兵器が発見されず、戦争の大義が問われる中、武装勢力は自衛隊の撤退を求めていた。
 「なぜ自分がイラクに行き、なぜ誘拐されたかを考えた人がどれほどいたのか。国の言う自己責任は責任転嫁でしかない
    ◇
 「ネトウヨ(ネット右翼)」を自称するライター森鷹久(29)は今年3月、コリアンタウンのある大阪・鶴橋で開かれた「反韓デモ」の動画に、言葉を失った。
 「鶴橋大虐殺を起こせ」と叫ぶ女子中学生に、大人たちが拍手喝采をおくっていた
 森が保守思想に共鳴したのは、韓国の「反日的な姿勢」に違和感を覚えたことがきっかけだった。
 「南京大虐殺は捏造(ねつぞう)」「従軍慰安婦の強制連行はなかった」。
 ネットを巡回し、「マスコミが報じない真実がある」と興奮した。
 だが、東京・新大久保などで起きているヘイトスピーチ(人種差別的表現)の過熱には危惧を覚える。
 「右派も左派も、ネットでは自分の望む情報にしかアクセスしない。考え方がより極端になり、先鋭化してしまう」
 匿名のネット社会では、過激な発言が「本音」として語られ、独自の「世論」を形成した。
 「ニコニコ動画」生放送のアンケートでは、延べ約15,000人が視聴した5月の憲法討論番組で、改憲賛成が8割を超えた
 そうした層を取り込んだのが自民党だった。
 6月上旬、東京・渋谷での首相安倍晋三街頭演説、「子どもが誇れる日本を取り戻そう」。
 呼びかけに、大きな拍手と歓声が上がった。
 日の丸を持った女性(38)は「中国や韓国は日本をおとしめている。首相の主張には共感できる」。
 マスコミに頼らず、フェイスブックで自ら情報発信しているように感じられ、好感を抱く。
 日本の岐路の一つであるTPPに反対する市民グループが傍ら行っていた抗議活動について、安倍は「左翼の妨害にかえってファイトがわいた」とフェイスブックに書き込んだ。
 この日の投稿2件に計2万人以上が賛意を示す「いいね!」を押した

【憲法と、】第4部 9条の21世紀<4>ネット世論 改憲後押し
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013070302000119.html
(注)

 この≪危険な地に自ら向かった被害者が悪い、という「自己責任論」の嵐≫にさらされたあの時の彼等、彼女等を追ったドキュメンタリー映画があさっての土曜日からはじまります。

 あの事件から10年経って、改めて、思う。
 なぜ、彼らはあれほどまでにバッシングされなければならなかったのか。
 今井さんは高校生の頃から劣化ウラン弾の被害を訴える活動をしていたという見上げた若者である。
 高遠さんは、イラクのストリートチルドレンなどの支援活動をしていた人である。
 だからこそ、2人はイラクに入っていた。
 そんな彼らに、なぜ、多くの日本人が「拒絶反応」のような感情を剥き出しにしたのか。
 そしてもっとも謎なのは、そういった「善意のボランティア」があれほど叩かれたのとは対照的に、当時の小泉首相はそんなバッシングなどとは今に至るまで無縁ということだ。
 イラク戦争開戦の最大の根拠となった≪大量破壊兵器≫はそもそも存在すらせず、誤った情報によって始められた戦争を真っ先に支持した日本政府の責任が誰にも問われていないという不条理
 が、「勘違い」によって始められた戦争で多くの人の命が奪われ、今もイラクは混乱の中にある。
 そうしてもうひとつ、特筆しておきたいのは、劣化ウラン弾のことだ。
 この映画で、私たちはイラク戦争後のあまりにも痛ましい悲劇を目の当たりにすることになる。
 高遠さんが支援活動を続けるイラクの病院の光景は、直視できないほどのものだ。
 次々と生まれてくる、先天性異常の赤ちゃんたち。
 私は1999年、劣化ウラン弾が初めて実戦で使用された湾岸戦争後のイラクを見た。
 そこでの小児病院の光景も、凄まじいものだった。
 ガン、白血病、先天性異常の子どもたち。
 だからこそ、2003年、イラク入りして「劣化ウラン弾を落とすな」という意味で「NO NUKES」というプラカードを掲げてデモをした。
 しかし、イラク戦争でも米軍は大量の劣化ウラン弾を使用したといわれている。
 原発や核のゴミを兵器に転用した劣化ウラン弾。
 それには、日本の原発に使うウランを濃縮した残りかすが使われている可能性もあると言われている。
 日本の原発に使うウランの多くはアメリカで濃縮され、残りかすはそのまま置いてくるからだ
 そんな劣化ウラン弾が降り注いだ地で、先天性の異常や様々な病気に苦しみ、息絶えていく子どもたち。
 そんな戦争を「支持」した日本政府
。 
 『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件・・・そして』は、12月7日から公開される

(2013年11月13日up雨宮処凛がゆく第278回「ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件…そして」の巻)
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/9352/

 いまから二週間ほどまで私は見知らぬ読者から一通のメールを受け取った。
 2004年にイラクで起きた日本人人質事件をテーマにしたドキュメンタリー映画を作ったので見て欲しい、そしてコメントを寄せて欲しいというメールだ。
 このメールは私に当時の事を鮮やかに蘇らせてくれた。
 あの事件は米国のイラク攻撃に加担して自衛隊をイラクに派遣した事に対する抗議の人質事件であった。
 それに慌てた日本政府は「自己責任」という言葉を持ち出して世論の関心をそらした。

 本来ならば国家が守らなければならない国民の命を犠牲にしてまで、イラクへの自衛隊派遣の誤りを隠そうとしたのだ
 若者の受けた精神的ダメージはどれほど大きかったことか。
 イラク戦争に反対して外務省を解雇された私もまた、当時権力者の圧力と必死に戦っていた時だっただけに、この政府が仕掛けた「自己責任論」に対する強い怒りを抱いたものだ。
 私はさっそく見せてもらいたいと返答し、まもなくその映画の試作DVDが送られてきた。
 この映画は当時の3人のうちの今井紀明さんと高遠菜穂子さんのその後を描いている。
 はかりしれない精神的ダメージを乗り越えて元気で第二の人生を生きる二人の巣晴らし生き様を描いている。
 それよりも私がこの映画で感動したのは、この映画は紛れもないイラク戦争の検証になっているということだ。
 イラク戦争の検証はあの戦争がウソに基づいた間違った戦争であったことを検証するだけではない。
 不正義だった戦争を支持し、自衛隊まで派遣した日本政府の間違いを検証し、その責任を追及することこそ検証されなければいけないのだ。
 この映画はその事を見事に達成している。
 イラク検証を声高に叫んで議員連盟までつくった政治家たちがなにもできないまま終った中で、たった一人の若い女性が仲間の協力でここまでの映画をつくる事ができたのだ。
 私はさっそく次のようなコメントを送った:

「米国のイラク攻撃が行なわれてから10年あまりがたち、日本だけがその検証をすることなく忘れ去ろうとしている。
 在レバノン特命全権大使の職をかけてイラク戦争に反対した私としては残念でならない。
 そんな思いの中で私はこの映画を鑑賞する機会に恵まれた。
 これこそがあのイラク戦争を見事に検証した映画だ。作者に感謝したい。
 そして一人でも多くの国民に観てもらいたい」

(2013年10月25日付け天木直人のブログ「イラク戦争を検証するはじめての映画があらわれた!」)
http://www.amakiblog.com/archives/2013/10/25/

 そうなんです、12月7日から始まる映画、ぜひ観にいきましょうねexclamation×2
 どこの映画館か、ぜひ映画の公式サイトをご覧下さい:
http://fallujah-movie.com


(注)
 反核や平和などの分野で優れた報道をした団体や個人に贈られる「平和・協同ジャーナリスト基金賞」の第19回受賞者が12月3日、発表された。大賞の基金賞には東京新聞憲法取材班の「憲法に関する一連の連載企画」が選ばれた。
 奨励賞は共同通信の舟越美夏記者の「人はなぜ人を殺したのか」(毎日新聞社刊)、沖縄タイムス「基地で働く」取材班の連載「基地で働く 軍作業員の戦後」、長崎放送のドキュメンタリー「静かな声」など6点が決まった。特別賞・持続する志賞は熊本日日新聞のキャンペーン「水俣病は終わっていない」。
(2013年12月03日火曜日付け河北新報「東京新聞・憲法連載企画班が大賞 平和ジャーナリスト基金賞」)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/2013120301002518.htm

posted by fom_club at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月04日

人権週間

 今日12月4日水曜日から、人権週間!

 世界人権宣言は、人権および自由を尊重し確保するために、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」を宣言したものであり、人権の歴史において重要な地位を占めています。
 1948年12月10日に第3回国連総会において採択されました。
 なお、1950年の第5回国連総会において、毎年12月10日を「人権デー」として、世界中で記念行事を行なうことが決議されました。

(骸無ショウとかいう、国民ではなく対米に顔を向けて仕事をしている国家公務員のエリートが集う官庁のサイトで、以下の≪和文≫は、何十年、いや半世紀以上もたつのに≪仮訳≫なんだって…フ・シ・ギ、そのわけヒ・ミ・ツ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/

 国際連合は、1948(昭和23)年12月10日の第3回総会において、世界における自由、正義及び平和の基礎である基本的人権を確保するため、全ての人民と全ての国とが達成すべき共通の基準として、世界人権宣言を採択したのに続き、1950(昭和25)年12月4日の第5回総会においては、世界人権宣言が採択された日である12月10日を「人権デー」と定め、全ての加盟国及び関係機関が、この日を祝賀する日として、人権活動を推進するための諸行事を行なうよう、要請する決議を採択しました。
 我が国においては、法務省と全国人権擁護委員連合会が、同宣言が採択されたことを記念して、1949(昭和24)年から毎年12月10日を最終日とする1週間(12月4日から同月10日まで)を、「人権週間」と定めており、その期間中、各関係機関及び団体の協力の下、世界人権宣言の趣旨及びその重要性を広く国民に訴えかけるとともに、人権尊重思想の普及高揚を図るため、全国各地においてシンポジウム、講演会、座談会、映画会等を開催するほか、テレビ・ラジオなど各種のマスメディアを利用した集中的な啓発活動を行なっています。
 皆さんもお近くの催しに参加して、「思いやりの心」や「かけがえのない命」について、もう1度考えてみませんか?

(これも官僚の作文の典型ですね。きっと研修を受けて上官の添削や訓練を重ねた裃を着たエリートたちからの、イッパン・コクミンに向けて発する呼びかけ文風になっております、フ・シ・ギ。詳しいことヒ・ミ・ツ)
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03.html

第十七条
1.Everyone has the right to own property alone as well as in association with others.
2.No one shall be arbitrarily deprived of his property.
1 すべて人は、単独で又は他の者と共同して財産を所有する権利を有する。
2 何人も、ほしいままに自己の財産を奪われることはない。

第十八条
Everyone has the right to freedom of thought, conscience and religion; this right includes freedom to change his religion or belief, and freedom, either alone or in community with others and in public or private, to manifest his religion or belief in teaching, practice, worship and observance.
 すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。

第十九条
Everyone has the right to freedom of opinion and expression; this right includes freedom to hold opinions without interference and to seek, receive and impart information and ideas through any media and regardless of frontiers.
 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

第二十条
1.Everyone has the right to freedom of peaceful assembly and association.
2.No one may be compelled to belong to an association.
1 すべての人は、平和的集会及び結社の自由に対する権利を有する。
2 何人も、結社に属することを強制されない。


 ひるがえって、今朝のニュースからこの国の現状をみてみましょうか。
 ひとつ、「奪われた土地、財産」について。
 この国に自分の土地に帰りたくとも帰れない何十万もの難民がいるのに、依然、猛省もせず罪にも問われず、放置させていること:

 巨大地震と大津波、福島第1原発事故が東北を襲った東日本大震災は、12月4日で発生から1000日となる。
 全国の死者は1万5883人、行方不明者は2651人に上る。
 全国で27万7609人が仮設住宅や民間の借り上げ住宅での避難生活を強いられている
 避難生活による体調悪化や自殺などで亡くなった東北の震災関連死は岩手、宮城、山形、福島4県のまとめで2888人に上る。

(2013年12月04日水曜日付け河北新報「東日本大震災きょう1000日 避難者なお27万人)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/20131204t73019.htm

 そしてもうひとつは市民の基本的人権である「知る権利」を、そんなの知るか、といっているジミン、コウメイの与党たちが言葉とは相反することをすすめている、もっともっと、き・も・い・あのこと。
 朝から酔いが廻ったときのような言葉使いで、目が据わって、気難しい顔で一座を睨(ね)め回すあのお方の≪テロ≫発言でした、:

 石破氏は訂正ブログでも「一般の人に畏怖の念を与え、大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相いれない」と主張した。
 当初のブログと合わせ、やり玉に挙げたのは「絶叫戦術」「大音量」という手法だ。
 それなら、選挙運動での候補者の演説や選挙カーでの連呼は、テロとあまり変わりがないのでしょうか、石破さん。
 デモの参加人数が膨らめば、示威行動なのだから大音量にならざるを得ない。
 このところの国会周辺デモで、法律・条例違反があったとは聞かない。
 「法令の定める範囲内で行われる限り言論の自由だ」 - 菅義偉官房長官がそう言っている。
 「テロ行為」との表現は撤回したものの、民主国家の政治家としての「常識」を欠くかのように、重ねてデモを批判した石破氏の発言は許し難い。
 政権を担う与党の幹事長として、市民がなぜ声を大にして法案反対を叫ぶのかに、むしろ思いを致すべきではないのか…
 法案をめぐっては世論調査で不安を抱く民意が示され、11月下旬の福島での公聴会でも反対や慎重審議を求める声が相次いだ。
 だが、その翌日に与党は採決を強行し衆院を通過させた。
 「数の力」を背景に、同じように参院でも審議を尽くさず強行突破を図るようなら、それこそ「民主主義とは相いれない」。
 違いますか、石破さん。

(2013年12月04日水曜日付け河北新報社説「石破氏デモ批判/≪テロ≫とは、そら恐ろしい」)
http://www.kahoku.co.jp/shasetsu/2013/12/20131204s01.htm

 コクミン主権なんてどこ吹く風邪、多数党主権でもうやりたい放題(ヤッホー君は食べ放題、呑み放題ときくとうれしくなる欠食児童なのに、ミンシュシュギは悪阻ろしいですね、反吐がでそう!)。
 ジユウミンシュ党なんてお名前を返上すべきときで、腹ゾウリがぽろっと本音をもらしたように、合法的に、この国を乗っ取ろうとしているのでしょうか…(注)
 はっちゃんとふたりで千駄ヶ谷駅前「代々木病院」で受けた健康診断、はっちゃんもヤッホー君も今朝は血圧のウエの値が140でした!


(注)
Masako Mori, the Minister of Justice, has declared that nuclear related information will most likely be a designated secret. For the Abe administration this would be fantastic way to deal with the issue of tons of radiated water leaking from the Fukushima Daichi Nuclear Power Plant since the triple meltdown in March of 2011. There seems to be no end to stopping the toxic waste leaks there but the new legislation would allow the administration to plug the information leakspermanently.
***
Mizuho Fukushima, former leader of the Social Democratic Party, compared the bill to the pre-World War II Peace Maintenance Preservation Laws and other Secrecy laws at the time, remarking that there was a time in police-state Japan when the weather reports could be considered “secret.”

“Once you open the door to such kind of laws, the government will have the right to designate anything as a state secret and by speaking about it or mentioning it, you can be arrested and prosecuted.” Ms. Fukushima explained, “Especially during war time, it was very difficult for defendants and lawyers to fight their court cases, because they were not told what exactly what was the state secret that they had been accused of having revealed.”

Outspoken Upper House Councilor Taro Yamamoto, who is known to be a strong supporter of investigative journalism, minces no words: “The path that Japan is taking is the recreation of a fascist state. I strongly believe that this secrecy bill represents a planned coup d’état by a group of politicians and bureaucrats,” he warned.

While his statement may seem alarmist, even a senior official of the National Police Agency agrees. “I would say this is Abe’s attempt to make sure that his own shady issues aren’t brought to light, and a misuse of legislative power.
(By Washington's Blog, Global Research, November 30, 2013)
http://www.globalresearch.ca/japanese-senator-the-path-that-japan-is-taking-is-the-recreation-of-a-fascist-state/5359877
posted by fom_club at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月03日

空中図書館

 12月1日日曜日の駅から駅へタウンウオーク。
 ここで写真と併せてまとめてみることにしましょう。

 まずは、京急・新馬場駅から目指した高村智恵子歌碑のある「ゼームス坂」:

P1017913.jpg

 そして、「大井公園」から山内容堂の墓:

P1017915.jpg

 さらに、来福寺では弘法大師像の前:

P1017917.jpg

 そして4人組のタウンウオークも残りわずか。
 歩き残した場所は数々有れど、ま、次回に回すことにして乗った駅が京急・立会川駅。
 向かった駅が都営浅草線の人形町駅。
 ぶらり歩いて、清洲橋を渡り、今回の旅の終わりを「中村学園7F空中庭園」にしたのです:

 「紅葉を楽しむ会」12/1(日)12:30〜16:30
 7F空中図書館コリドールを一般開放します。
 これはもう10年以上続けている活動です。
 清澄の美しい紅葉を空から眺める機会を街のかたにも提供したい。
 12/1は朝から首都圏模試が行われます。
 小学生のみなさん、保護者のみなさんも7Fからの景色を是非ご覧ください。

(2013.11.28 第46話「紅葉と七福神で7F空中図書館一般開放」)
http://www.nakamura.ed.jp/principal/2013/11/f.html

 P1017922.jpg

P1017919.jpg

posted by fom_club at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

五風十雨で鯨海酔侯

 「ゼームス坂」のあとは「仙台坂」!
 ヤッホー山荘の近くに流れるのが「仙台堀川」!えっ!
 またヤッホー君は、びっくりしてしまいましたexclamation&question
 「仙台堀川」は、っていいますってぇ〜と:

 東京都江東区を流れる河川。
 旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつです。
 江戸時代、この堀の北岸、現在の清澄公園の西隣に仙台藩の深川蔵屋敷があり、この堀を利用して仙台から送られた米等を運び入れたことから「仙台堀(せんだいぼり)」と呼ばれ、その後、1965(昭和40)年、河川法改正で砂町運河と合わせて「仙台堀川(せんだいぼりがわ)」となりました。
 仙台藩の上屋敷(東京都港区東新橋)の跡地からは船着場の遺構が発見されており、仙台から深川の蔵屋敷へ、さらに上屋敷という当時の物資の海運輸送が推測されます。
(2013(平成25)年11月21日付け仙台市公式サイト「東京に今も残る伊達政宗公ゆかりの地」)
http://www.city.sendai.jp/citysales/1205691_2442.html

 ヤッホー君はこれまで仙台の伊達藩の下屋敷があったので仙台掘川と呼ばれていたのだろうと思い込んでいましたが、これですっきり、くりやファイル!

 八木合名会社仙台味噌醸造所
 江戸時代、この「旧仙台坂」の南側に仙台藩の大井下屋敷がありました
 坂を上りきると、下屋敷の裏玄関に植えられていたと言われる樹齢300余年の「仙台坂のタブノキ(品川区指定天然記念物)」が現在でも威風堂々と鎮座しています。
 そこからもう少し大井町駅方向に歩くと、付近の新しいマンション群とは明らかに雰囲気の異なる大正時代の古い建物『仙台味噌醸造所』が現れます。
 下屋敷があった江戸時代、郷土の味を欲する仙台藩士のため、仙台から輸送された大豆を使って仙台味噌を醸造するため屋敷内に作られたもので、約380年前から現在まで仙台味噌の醸造・販売を行っています。
 入り口には現在の建物の建設当時から置かれている大きな味噌樽が展示されており目を引きます。
 お店では仙台味噌≪五風十雨≫が量り売りされており、まさに地元仙台で造られている仙台味噌と同様、たいへん風味豊かな逸品です。

…前掲サイトの続き

 「長年、江戸の地で造り続けられてきた仙台味噌を食しながら、江戸詰めの仙台藩士の気分で、当時に思いを馳せる」…う〜ん、4人、だから10の目(やッホー君はめがね着用)で見ても気づきませんでした。
 きっと旅の先を急ぐ余り、まわりきょろきょろよりは、目先のことばっかり考え、足元ばっかり見てたんでしょうね。
 「ゆっくりのんびりあくびして」なんて手前味噌ばかり並べ立てておきながらの失敗の巻でした。
 次回にまわしましょう!

 そして「大井公園」。
 「大井公園」で、街歩きしている御一行様からチラシ「立会川駅前通り繁栄会・商店街周辺のみどころ」をいただきました、ありがとうございます。
 裏口ばっかり好きなヤッホー君、「品川区立立会川小学校」の裏門のところでケイタイから電話して用務員さんに開けてもらい(用務員さんが来られるその前に実は、はっちゃん、開けてくれていました)、「山内容堂墓」へ。
 カッシーからは山歩クラブのタウンウオークは「街歩き」でなく「墓めぐり」だからなあ、といっつもお叱りを受けるのですが、ヤッホー君のガイドブック『昭文社・東京山手・下町散歩』のせっかくの案内ですので行ってみましょう、ね。

 土佐藩15代藩主・山内豊信の墓。
 「容堂」は隠居後の名前。
 土佐の名君として、龍馬らとともに幕末の動乱を歩んだ。
 1872(明治5)年6月21日46歳没。
 下屋敷から眺める江戸湾を好み、歴代藩主の眠る高知県・筆山ではなく、同地への埋葬を望んだという。
 墓の周囲は小高い山になっていて、土佐山という地名でも呼ばれていた。
 区立立会川小学校隣にある。

(京急で行く歴史の旅)
http://www.keikyu.co.jp/webtrain/ryouma/spot/spot_yamauchi.html

 土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)の墓は土佐にはなく、東京に眠っちょります。
 土佐藩歴代の藩主の墓は、高知市の筆山にあるがですが、鮫洲にあった江戸・土佐藩下屋敷からの江戸湾の眺めが大そう好きじゃったそうで、遺言で、この地に埋葬されちゅがじゃそうです。
 山内容堂の号としては一般に『鯨海酔侯』が有名じゃけんど、『九十九洋』と言う号もあるが。
 『九十九洋』とは、土佐湾の別名ながですが…。
 埋葬されちゅう高台を土佐山と呼びよったそうで、確かに、土佐も高知城の北に連なる北山から城下を見たら、浦戸湾から土佐湾が一望ですき、酒を飲みながら江戸湾を見て、遠く土佐へ思いを廻らしちょったがでしょうか…。
 1872(明治5)年、46歳で亡くなっちょります。

(南国土佐へ来てみいや「山内容堂-海を眺めて、酔って候」)
http://nangokutosa.blog47.fc2.com/blog-entry-1450.html

 4人組は「東大井公園」でランチタイム。ヤッホー君はいつものドカベンをあけちょり、ちまちょごり。
 それから「大福生寺」を目指したのですが、正門がなかなか見つかりません。
 「おなかがおきたぁ〜」ヤッホー君は道迷いしてしまい、梶原稲荷神社から下に抜けられず、とうとうたどりつけずに「来福寺」へ。
 これがまたなかなかの雰囲気をもった弘法大師ゆかりのお寺さまでした。
 「おなかがおきた」というのは讃岐弁で「おなかがいっぱいになる」の意ですが、「来福寺」でははらごなしにぐるぐるまわり。
 だって、弘法大師って言ったら、鯨酔となって呑む会?食うかい?ではありゃしまへん、あれでごわす:

 この来福寺には、遍路大師の銅像の周りの敷石を踏んでまわると四国八十八ヶ所霊場を巡拝した功徳が受けられると言う、川崎大師などにもあるような、お砂踏み霊場がありました。
 いまだ無宗教の私達は、節操なく、「南無大師遍照金剛」と、にわかに唱えながら、ぐるぐる回ってきましたが、こんなんで功徳が受けられるはずがないよなぁ…と、頭の隅で思いながら、来福寺を後にしました。

http://ameblo.jp/sakime/entry-11531915521.html

posted by fom_club at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月02日

レモン哀歌

 山歩クラブの仲間より歩きに行きませんか?との12月1日日曜日のお誘い、断る理由はなにもありません、行ってまいりました、かねてより行きたかったゼームス坂!
 その前に、と。京急・新馬場駅に下りたった4人組。
 まずは、「清光院」

P1017907.jpg

 奥平家墓域(清光院)品川区指定文化財
 周囲を瓦積みの土塀で囲み、入口には石門のある約550uに及ぶこの地が奥平家歴代の墓である。
 墓域内には二代藩主奥平家昌以下各代にわたる89基の墓碑が配列されており、とくに家昌夫妻と姉/雲松院の墓三基は3mを超える見事な五輪塔である。
 この墓域は都内でも数少なくなった大名墓地として、また十万石級譜代大名の墓地様式をよくとどめるものとして貴重である。
 奥平家は徳川家の譜代大名で、初代定昌は美濃において十万石を領した。
 その後、古河・宇都宮・山形・再度宇都宮に転封され、さらに九州豊前の中津藩主として幕末まで続いた大名である。

http://oimachi-showakaraima.com/himonya.html

 そして「日本ペイント明治記念館」。

 東京事業所には、明治後期から大正初期にかけて使われていた製造用具などを見学いただける資料館「明治記念館」があります。
 こちらは営業日以外の土日祝日でも、9:00〜17:00までに「保安窓口」にお越しいただき、お申し出くださればご覧いただけます。

http://www.nipponpaint.co.jp/about/heritage_c.html

 そうなんです、日曜日というにもかかわらずご親切に開けて見せてくださいました、ありがとうございました。

P1017909.jpg

 そしていよいよ「ゼームス坂」へ。

 道をお聞きした地元のかたがいろいろ教えてくださいました、なんでも4歳のときにお兄さんが喉から脳に移って病に倒れ、ゼームス坂病院に入院したそうで、その時に高村智恵子も入院していた、というのです。小さいから高村夫妻に会ったのか会わなかったのか、まるで記憶にない、と。その後、お兄さんは別の病院に転院してお亡くなりになり、そのゼームス坂病院は東芝病院に売られ、東芝病院の移転で結局、その病院はあとかたもなくなってしまった、という趣旨でございました、へぇ〜。
 裏がとれています、へぇ〜、そうなんだ。

 「東芝病院」は母体である東芝の85周年事業の一環として、1964(昭和39)年に関ヶ原にあった東芝精機跡地に「東芝中央病院」として開院。
 以来24年、地元医師会との話合いにより職域病院として発展してきました。
 病院の歴史は更に1944(昭和19)年に遡り、スクランブル第28号「私のお気に入リスポット」で、智恵子抄の高村智恵子さんが入院された病院として紹介した南品川の「ゼームス坂病院」を買収、「東芝大井病院」として開院したことに始まります。

http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/ct/other000018800/scramble-no.44.pdf

 同行したはっちゃんは「なぜ、ゼームス」?
 われわれは皆んな「good question」と即答ができませんでした:

 明治時代、この坂の途中に英国人のJ・M・ゼームスが住んでいたことから、ゼームス坂と呼ばれるようになりました。

This slope used to be a steep slope callled "Sengen zaka-Slope". The one side of the slope was cut off, so the sea could be seen close at hand from the cliff.

Later from Meiji Period, the slope was known as "Zemusu(James) zaka-Slope", because an British, Mr.J.M.James lived in the way of the slope.

 ゼームス邸跡地について
 此の処は南品川英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地である。
 M・ジェームスは、1863(慶応2)年、28歳の時、来日した。
 そして、坂本竜馬等とも知り合い、後に日本海軍創設に貢献し、1872(明治5)年、海軍省雇入れ以降、幾多の変遷を経て、住いを此の地に構え、隣人に慕われつつ、1908(明治41)年、70歳にて没した。
 墓は身延山本堂裏に在り「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームス之墓」と刻まれている。
 その頃のジェームス在りし日を偲ぶ庭の欅(ケヤキ)も品川区の保存樹として、樹齢百数十年の姿そのままに、苔むす石垣と共に、昔の面影を今に止めている


 そしてわれわれはとうとう「高村智恵子詩碑」を発見したのです:

 レモン哀歌 高村光太郎
  そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
  かなしく白くあかるい死の床で
  わたしの手からとつた一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
  トパアズいろの香気が立つ
  その数滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱつとあなたの意識を正常にした
  あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
  わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
  あなたの咽喉に嵐はあるが
  かういふ命の瀬戸ぎはに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
  あなたの機関ははそれなり止まつた
  写真の前に挿した桜の花かげに
  すずしく光るレモンを今日も置かう

〜詩集「智恵子抄」より〜

 高村智恵子詩碑
 この地は、詩人、高村光太郎氏の愛妻、智恵子氏が、晩年、療養生活を送っていたゼームス坂病院があったところです。
 また智恵子氏は1938(昭和13)年10月5日、53歳のときにこの病院の一室でお亡くなりになりました。
 品川郷土の会では、この貴重な文化的史跡を長く後世に残すため、詩碑を建立することにし、高村光太郎氏が、智恵子氏との永劫の別れを哀惜して詠まれた、有名な詩「レモン哀歌」を詩碑に刻みました。
 碑は推定される智恵子氏の背丈にあわせ、文字は、高村光太郎氏直筆の原稿をそのまま拡大して刻みました。
 なお、この詩碑の建立にあたって、快く「レモン哀歌」の使用を承諾していただいた高村規氏、また、土地の使用を承諾していただいたゼームス坂病院跡地所有者、東京マックス株式会社に心より感謝いたします。

…1995(平成7)年6月 品川郷土の会


P1017911.jpg
posted by fom_club at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月01日

JKT48

 スマトラ、ボルネオ、また舞い戻って今度はジャカルタ!
あっち、こっちと大忙しダッシュ(走り出すさま) だって「師走」って言うくらいだもん…
 ジャカルタではAKB48、じゃない、JKB48、じゃない、JKT48が活躍しているのを知ったヤッホー君、思わず「クール ジャパン!」と浪曲か浪花節のように、うなってしまいました。

 「毎日が楽しい。AKB48の仲間は『すごく輝いている』と言ってくれます」。
 昨年2012年11月、インドネシアの首都ジャカルタが拠点の姉妹グループ「JKT48」に移籍し、活動を続けている。
 現地では予定通り物事が進まないのは日常茶飯事。
 デング熱やアメーバ赤痢にもかかったが「もう慣れました。手を使って食事をするのも平気」。
 最近は肉団子スープ「バッソ」にはまっている。
 JKT48は研究生を含め計49人のメンバーがいるが、専任で活動する唯一の日本人。
 ほぼ独学でインドネシア語を習得し、テレビ出演も通訳なしでこなす。
 司会者から突っ込まれることも楽しんでいる。
 「発音やイントネーションが面白いみたいで」
 初めてインドネシアを訪れたのは昨年2012年2月のAKBの公演。
 人びとのおおらかさに「この国いいかも」と直感した。
 「AKBの中では埋もれるというか、居づらさみたいなものもあった。ここでは自分らしく居られる」
 JKTのコンセプトはAKBと同様「会いに行けるアイドル」。
 ステージやイベントで「ハルカ」(注)と声援が飛ぶようになった。
 しばらくは日本に戻るつもりはない。
 「AKBの仲間は、こっちで結婚しそうだってうわさをしています」
 将来、国際的に活躍する女優になって、日本とインドネシアの懸け橋のような存在になるのが夢だ

(2013年10月18日10時23分更新毎日新聞・小泉大士「ひと:仲川遥香さん AKBからJKTに移籍して1年」)
http://mainichi.jp/opinion/news/20131018k0000m070142000c.html

(注)
 仲川遥香(なかがわ・はるか)東京都出身。2006年、AKB48のオーディションに合格し翌年、劇場デビュー。2012年にJKT移籍を発表。21歳。

 JKT48には、公式サイトがあります。
 今日から本当に「師走」!
 12月1日は日曜日ですし、ここは回りに遠慮なくご家族で歌声付き映像をお楽しみくださいね!
 日本語版も完備:
http://jkt48.com/

 どうして、ヤッホー君がJKT48と出会ったか、と申しますと、深川図書館にあった新刊書籍コーナー:

…(著)キム テソン、中村正英、河江健史、渡邉裕晃、(イラスト)飛鳥幸子、(監修)鈴木隆宏『インドネシアのことがマンガで3時間でわかる本((アスカビジネス)』(明日香出版社、2013年11月)
 
 アマゾンによりますと、この本は:

 内容紹介
 2億人を超える人口を誇り、若い力が国をけん引するインドネシア。
 空前の企業進出ブームにある中で、ビジネスの現状、政治経済情報、進出の手引き等々を、マンガとわかりやすい解説でコンパクトにお伝えします。


 出版社からのコメント
 世界第四位の人口、アジア通貨危機以降の安定したGDP成長、豊富な天然資源、爆発する内需、世界最大のイスラム教国。
 いま、空前のインドネシア進出ブームが到来している。
 インドネシアに進出済みの日系企業は、2010年の1000企業から2012年には1200企業へと急激に増加しており、合わせて在留日本人の数も2010年の10,000人から2012年には12,000人となっている。
 首都ジャカルタでは、トヨタ、日産、ホンダ、スズキ、ヤマハが所狭しとクラクションを鳴らして走っている。
 2012年末にはトヨタの首脳陣がユドヨノ大統領を訪問し、今後さらなる投資を行っていくことを発表した。
 工場地帯付近に人が増え、新しいモールが立ち上がり、新しいアパートができる。
 トヨタを支える自動車部品メーカーが大挙して押し寄せ、さらに人が増え、新しいモールが立ち上がり、新しいアパートができる。
 そして、雇用が生まれる。
 このように勢いよく変化するインドネシアにおいて、日本は常に大きな存在感を放つ国である。
 上記の自動車はもちろんのこと、あらゆる『日本』がインドネシアの生活に密に存在している。
 インドネシア。新しい市場へ、ようこそ。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4756916562/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4756916562&link_code=as3&tag=samsulschoice-22

 著者のひとり、渡邉裕晃さんはこんな方:

 日本とインドネシアの混血(ハーフ)という背景から、インドネシアと日本の懸け橋を目指して活動中。
 共著に『インドネシアのことがマンガで3時間でわかる本』(明日香出版社、2013年)がある。
 日本を拠点にしながら、1970年代半ばより、ほぼ毎年のようにインドネシアを訪問。
 現在はインドネシアに在住。
 インドネシア人向けに運営している個人facebookページには、すでに16,000人以上のインドネシア人が集まっている。
 『サムスル』Samsul は私のインドネシア名で、古いジャワ語で「太陽」を意味する言葉。
 ネット広告会社らしからぬ社名にしたのは、創業以来、「アジアの太陽になる!」との決意を表明したかったため

http://www.samsul.com/book/indonesia.php

posted by fom_club at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする