2013年10月31日

秋は、図書館

 ようやく秋めいてきて爽やかな一日が始まりそう、そんな気持ちにさせられた今日神無月最後の日です。
 明日11月1日からは「教育・文化週間」(注)がはじまります。
 そうだ、図書館へ行こう!ヤッホー君は起きがけに、そう思ったのです。

 そうなんだ、私は公共図書館発展期の東京の図書館で仕事をしてきたのだ!
 民間委託の波にさらされ、図書館が骨抜きにされてしまいそうな今を思うと、私は東京の図書館の本当にいい時期に仕事をすることができたのだ。それはとても幸せなことなのだと思い至りました。
全国的にも図書館数においては最も飛躍的に発展してきたのに、司書職制度もない東京の区立図書館。そして「窓口業務の民間委託」など、大胆な民営化に舵をきってしまった東京の区立図書館。
司書職制度のない東京の区立図書館の、2000人とも3000人ともいただろう図書館員たち…

…なかじま のぶこ『東京の図書館で働いて−カウンターの内から外へ−』(東京シューレ出版、2013年)

 以前、ヤッホー君のこのブログ、2013年10月23日付け日記「東海道品川宿」で紹介申し上げましたこの本、お買い求めいただけましたでしょうか?

 街づくりで大切なことはなんだったでしょうか、市民が集いあえる空間、場所、土地、でした。
 ヤッホー君の以前のブログ、2012年10月11日付け日記「名所(などころ)」でも言いましたが、江戸のはじまり、上野に江戸市中の庶民がお金を払わずに自由に立ち入れることのできる空間を創った「天海大僧正」を取り上げました。
 が、サッコン、ドレミファソラシドの7音の音階、つまり経費削減、民営化、利用者負担、無断使用禁止、防犯上、資産価値向上、自己責任(ネオコン)の7声の大罵声ばかりが、進軍ラッパのようにけたたましく、「公共の空間」とか、人は城、つまり軍備でなく「人材養成」、とか言い出したら(形而上、ミッション)、予算は、財源は、費用捻出の根拠を示せ、とか(形而下、カネ)、逆襲されてしまいます。
 市民は、といいますか、自立した市民なんてこの国に必要なく、下々の者、頭が高い、控えおろう、見ざる言わざる聞かざるの猿公で我慢せえ、株で儲けたら、アメリカや中国から投資を呼び込んで、この国が売れたら、下々にもおこぼれがいくから、それまで我慢せえってなもんで。

 佐賀県武雄(たけお)市の樋渡啓祐(ひわたしけいすけ)市長が、市立図書館改修の完成予想図を誇らしげに示した。
 市長が主導する計画は、レンタルソフトチェーン「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が指定管理者として運営を担う。
 モデルとしてイメージするのは、贅沢な洗練された空間で話題の「代官山蔦屋書店」(東京都渋谷区)。
 CCCが2011年に「ライフスタイルを提案する場所」として採算度外視でオープンした書店だ。
 市長は「既存の図書館とは違う、新しい公共施設を造る」と話す。
 4月の開館に向け、工事が進む。
 計画の主眼は、図書館と書店を組み合わせた、いわば「読書アミューズメント施設」への転換にある…。
 東京都が昨年度、都内の公立図書館を対象にした調査では、有効期限内の利用登録がある人は全都民の17%にすぎない。
 一度登録したまま利用しない人もいるため、実数はこれよりずっと少ないとみられる。

(2013年1月9日付け東京新聞、中村陽子記者「変わる知の拠点図書館は今(5)「来ない人」に向けて)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/chinokyoten/list/CK2013091902100018.html

 全都民の17%は数字の魔術。
 お上の狙いは17%が低すぎ、だから、ハコモノはつくるけど、その後は、民営化だよ、後の管理運営はお上の外郭団体か、思い切って外部委託だよって証拠固めするためのデータ、数字ですよね。

 だってさ、じゃあ、このミンシュシュギで決めるお上を選ぶセンキョって全有権者の○○%で決まるのですか?
 え〜と、投票所に行くのは全有権者の半分かぁ、そんで選ばれるにはその過半数をとる、つまり、全有権者の25%、4分の1を固めれば政治権力を掌握することができるんですぅ。
 このセンキョに防犯上、不審者、余計者、ホームレスが紛れ込まないように、立候補するときは何百万円もの供託金を積む必要があって、没収覚悟でも立候補した市民は≪泡沫候補≫と呼び習わされる…ですか…。
 ですので、17%だって立派な数字、とヤッホー君は思うとるそうです。

 そんなたかだか、せいぜい25%(このニッポンの投票権のある全有権者の)、そんでも17%(東京都にお住まいの赤ちゃんから寝たきり御老人まで全都民の)が利用する「知の拠点」、ほかのアジアの国ではどうしてるのかな、ってえ〜言いますと、文科省が調査しています:

 韓国やシンガポールにおいては、国全体の読解力の向上や情報リテラシー教育の充実を目指すために図書館政策が展開されていることに大きな特徴があると言える。
 全国各地に設置されている公立図書館が、各地の多様な情報を提供する拠点、あるいは、読書活動、学習活動や知識習得の場として、位置付けられることによって、読解力強化や情報リテラシーのための教育を図るため、図書館への十分な投資が行われてきた。
 このように、公立図書館が、社会的基盤を形成する公共機関であることを明確化することこそ、国全体の図書館振興の推進の原動力となると言える。
 そうした意味で、韓国やシンガポールの図書館政策は、日本において公立図書館政策を所掌する文部科学省生涯学習政策局や政策実施の主たる機関である地方公共団体の教育委員会に対して、参考にできる点が多い。
 さらには、社会的基盤を形成する公共機関という位置付けは、国の各行政機関や地方公共団体の主張部局においても、参考となる視点と言えよう。
 また、昨今の日本の社会では、活字離れや読解力の低下が懸念され、あるいは、顕在化している事象がある。
 改めて公立図書館を読書機会・学習機会の場として積極的に活用することは、教育政策上も、きわめて有効であると言えよう。

 シンガポール国立図書館庁は、2005年7月、「Library2000」の成果を踏まえ、今後5年間の基本戦略をとりまとめた「Library2010」(以下「L2010」)と表記)を発表した。
 「L2010」の副題として、“Libraries for Life(生活の中の図書館)”や“Knowledge for Success(成功を導く知識)”を掲げ、公立図書館が学習・情報拠点となることを目指すことを明確にした。
 「L2010」の中で、シンガポール国立図書館庁は、経営(管理運営)理念(ミッション)を国の競争力強化や魅力ある社会形成のために国全体の学習力を拡充することと定義し、社会経済への真の刺激を創造できるように世界の知をシンガポールにもたらすことを目指すとしている。
 現地訪問調査においても、“革新(Innovation)”という言葉を用いて、自分や社会に関する知識を身につけて、学んでいく能力という利用者の学習力(Learning Capacity)の向上を重視していることが、判明した。

(東アジア図書館実態調査に関する調査報告、平成18年3月、文部科学省東アジア図書館調査委員会)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/tosho/houkoku/06120702.htm


(注)
 11月1日から7日までの1週間に、教育・文化に関する行事を集中的に実施し、我が国の教育・文化に関して、広く国民の皆様に関心と理解を深めていただくとともに、その充実・振興を図ることを目的として、昭和34年の閣議了解に基づき、同年より毎年開催されています。
 問い合わせは文部科学省生涯学習政策局 政策課 政策審議第一係

http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/kyoiku-bunka/detail/1297836.htm
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2013年10月30日

秋は、映画館

 仲間からうれしい近況報告がありました:

 山歩クラブに入り、毎月の月例山行はとても楽しみにしています。
 10月20日は、池袋の新文芸座に昭和の文豪・松本清張特集が組まれていて、山岳ミステリーの『黒い画集 ある遭難』を観に行きました。
 松本清張原作の映像化作品は、他の作家より多数あり、野村芳太郎監督『砂の器』(1974年、松竹、カラー、143分)を筆頭に評価が高い作品群が多くある中で、今回は、三人の山仲間が鹿島槍ヶ岳に登攀し、一人が遭難すると言うアクシデントに見舞われ、遭難した男の身内が事故現場に花を手向けたいと言うところから、今回の遭難事故の真相に迫る核心に入っていくドラマツルギーとなっています。
 定石通りの展開といえばそれまでですが、事の顛末を「岳人」と言う名の同人誌と三人の中の生き残りの一人が語る回想が挿入され、事故までの行動が分かり易く展開されていきます。
 観る者も何故?そうなったのかと一緒に検証していくミステリーならではの楽しみを味わえることが出来ます。
 記すのが遅くなりましたが、製作スタッフ&キャストを紹介すると監督は、東宝の職人監督の杉江敏男(ひばり、いづみ、チエミの三人娘シリーズに代表される娯楽性ある作品を多く出しています)。
 主演は、東宝の傍役が多い伊藤久哉、児玉清が主演級で出演し、事故に疑惑を持った身内として土屋嘉男(彼が事故現場を検証)と遭難者の姉役で香川京子が真相を知りたいと究明する特別出演並みの出演をしています。
 清張の原作は、「山男に悪人はいない」と定説から書き下ろしていっていますが、表面的には見えない「疑惑」と「不信」が、人によって暗部を炙り出していくのです。
 それが鹿島槍ヶ岳で、表層雪崩のように解明される終盤は、呆気なく幕を閉じて終わります。
 観て思ったのですが、偶然であって必然性を狙った犯行だったのかと? ベテランの山男だから十分出来た計画的犯行と動機(清張ならではの男女の営みが社会派推理文学と言われる由縁の真骨頂)が隠された顔をみせて、作品に厚みを加える佳作でした。
 全編、鹿島槍ヶ岳にオールロケした本格山岳ミステリーです。
 地名(高千穂平、冷池小屋、鹿島槍、八峰キレット、五竜岳)も多く登場し、新参の山歩き者には興味津々の映画で、いずれ鹿島槍ヶ岳に行ければいいなあと思いました。
 最後まで読んで頂き有難う御座いました。


 ヤッホー君、芸術の秋だというのに「蒙古襲来」、じゃない、ない、先祖返りにもほどがあります、「台風襲来」、です。
 突風に脅えたか、秋の豪雨を避けたのか(注)、朝キンもイーチャリも、お出かけが極端に少なかったような気がしております。
 映画…、映画も見たかったのが何本かありましたね。

 この『黒い画集、ある遭難』(1961年、東宝、白黒、87分)が鹿島槍ヶ岳で撮影したとすれば、羽田澄子監督の『早池峰の賦』(1982年、(株)自由工房配給、カラー、3時間6分)。
 10月5日から11日まで、高野悦子追悼上映として岩波ホールで観られました。
 来年度こそ、柳田国男、宮沢賢治、高村光太郎も絡めて、岩手県早池峰山の山頂を踏み、山麓を歩けたら、と山歩クラブに提案しておいて見過ごしているのです!
 また同じ時期に、同じ羽田澄子監督、この自主制作第一作『薄墨の桜』(1977年、(株)自由工房配給、カラー、43分)もあって、ヤッホー君、実は桜大好き人間、なのに見逃していました!

 蔦哲一郎『祖谷(いや)物語−おくのひと−』(2013年、ニコニコフィルム、カラー、169分)も観たかったのですが、これは来春まで待たなくては、新宿のK’sシネマで再公開するそうですね。
 東京国際映画祭で「アジアの未来」部門にて『スペシャル・メンション』を授与されたそうです。
 公式サイトはこちら。予告編もご覧いただけます:
http://iyamonogatari.jp/

 監督メッセージ:
 私は祖谷の山々を駆け巡り、探しまわった。
 この物語に出てくるお爺と春菜のように、山奥で自給自足の生活をしている人間を。
 川から水を汲み、木を拾って火をおこし、山を耕し野菜を育てる人間が、もしかしたらこの秘境にならまだいるかもしれないという少しの期待を持って、私はひたすら祖谷の山奥を探し歩いた。
 しかし、荒れた山道を登っても登っても、出会うのは腐った茅葺屋根の家と廃集落だけだった。
 もう日本にはお爺はいないのである。
 そこにあるのはお爺がいたというわずかな痕跡と、それを呑み込まんとする草木の存在だけであった。


 それと、 藤岡利充化監督『立候補』(2013年、明るい立候補推進委員会配給、カラー、100分)。
 まだ間に合うようです。池袋の新文芸座でありますね、11月3日!公式サイトは:
http://ritsukouho.com/

 2012年の新潟県知事選挙に出馬したマック赤坂氏など、泡沫候補と呼ばれる人たちの知られざる実態に切り込んだ映画の上映会と、藤岡監督のトークショーが2013年9月14日、新潟県上越市本町6の高田世界館で開かれた。
 トークショー後の質疑応答では、来場者が監督に次々と鋭い質問を投げかけるなど、映画と同様に熱いバトルが繰り広げられた。
 映画終了後のトークショーは、映画上映のため高田シネマカイギを立ち上げた2人の大学院生、谷夏樹さん(25)、上野迪音さん(25)が藤岡監督(36)に質問する形で行なわれた。
 同映画は東京で6月29日から現在までロングラン上映されているが、藤岡監督は「ヒットするとは思ってもいなかったし、撮った時点ではしばらく編集する気持ちにもならなかった」と、振り返る。
 撮影のきっかけは「山口県の田舎で新聞配達をしていたので、映画でアカデミー賞を狙うなんて、みんなからばかにされると思った。それで、最初はみんなから無理だと言われていることを追いかけている”夢追い人”を撮ろうと思った」などと話した。
 観客との質疑応答では、
「日本のどうしようもない状態に耐えられなかったが、希望が持てた」
「巨大な権力に立ち向かう姿に感動した」
などと称賛の声が相次いだ。
 映画は2011年に行われた大阪府知事選挙を軸に、泡沫候補と呼ばれ、ばかにされようとも選挙に立候補し続けるチャレンジャーたちを追った選挙ドキュメンタリー映画。
 中心となるマック赤坂氏は、奇抜な格好をしたり、踊ったり、酒を飲みながら選挙演説をするなど変わった選挙戦を繰り広げる。
 クライマックスでは、2012年12月、衆院選の自民党演説で秋葉原に乗り込んだマック氏が、容赦ない「帰れ」コールを浴びせられるが、勇敢に立ち向かう。
 父親を否定的に見ていたマック氏の一人息子、戸並健太郎さんも、多数派市民を前に怒りを爆発させる。

(新潟県・上越のイマを知ることができるニュースサイト『上越タウンジャーナル』)
http://www.joetsutj.com/archives/52050835.html

 そして池谷薫監督『先祖になる』(2013年、蓮ユニバース配給、カラー、1時間58分)。これも見過ごしていましたが、11月3日、新文芸座で公開されるようですよ。
 公式サイトはこちら:
http://senzoninaru.com/ 

 沿岸被災地、陸前高田の頑固なおじいちゃんを3.11直後から丹念に撮影した映画『先祖になる』が、盛岡で初めて公開されました。
 盛岡では昨日から3日間、恒例の「もりおか映画祭」が開かれていて、昨夜のオープニング上映もこの作品でした。
 本日、映画館通りの「中劇」で初日を迎えたということで、上映後、私は池谷薫監督の舞台挨拶&トークショーの司会を担当!
 生でしか聞けないとっておきのエピソードも飛び出して観客をひきつけていましたよ。
 とにかくこの作品は、主人公の喜寿のおじいちゃんの人間性が全てと言ってもいい、実に興味深いドキュメンタリーです。
 やりきれない現実としての大震災&大津波は、確かにモチーフの背景を貫いているのに、なぜか見る者は元気と活力をもらうことになります…
 来月11月4日には、いよいよロケ地に近い大船渡市での上映が決まっているそうで、その後も自主上映という形で、全国を巡っていくことになりそうです。
 盛岡では中劇でしばらくやりますし、東京・東中野でも上映中だそうですから、機会があればぜひ見て下さい!

(2013/10/19 22:27 おすすめドキュメンタリー『先祖になる』、落合昭彦の「好きです!もりおか」)
http://kippushi-nikki.at.webry.info/201310/article_17.html


(注) 「チーム森田の天気で斬る!」、少雨の反動、2013/10/24(木)午前6:41投稿:

『おはようございます。國本未華です。
 今月は台風の接近が多く、ほぼ全国的に雨の多い月となっています。
 東京の今月の降水量は、きのうまでで合計383.0ミリ。
 平年10月は200ミリ弱なので、すでにおよそ2倍が降りました。

 思えば今年の夏は西日本〜東日本の太平洋側を中心に少雨でした。
 利根川では取水制限…西日本各地のダムも渇水状態…など。
 ところが秋以降、台風が頻発。
 ここ60日間の平均をとると、降水量は平年を上回っている所がほとんどです』
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map

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2013年10月29日

秘密保護法案

 ヤッホー君がパリにいた1989年の夏は、フランス革命200周年で賑わっていました。
 熱気がありました。
 それは、歩道 trottoir でも、地下鉄 métro でも。
 車内にもホームにも、鉢巻をした大ぜいの中国人青年子女の姿に眼を奪われたものです。
 デモ行進とか、スローガンを叫ぶとか、コブシを振り上げるとか、そんなものでなく、ただ鉢巻きをして歩いている光景に遭遇したのです。
 中国にそういう慣習があるのでしょうか。
 同じ年代の中国人青年子女が国家権力によって殺されました。
 おびただしい数の死者に対して、留学生たちが異国で喪に服している…
 ヤッホー君は感慨深いものを覚え、思わず涙し、俯いて歩くしかありませんでした。
 帰国したヤッホー君、ぶらっと世田谷線「山下駅」の踏切りを歩いて渡っていたときのことです。
 同じ東洋人としてある決意をしたのです、突然。
 カミソリを捨てようって。
 パリの大ぜいの中国人青年子女と気持ちは同じだから、と。
 国の領土、領空、領海を守るはずの国の軍隊が、その国の同胞に銃口を突きつけ、あろうことか国民を銃殺してしまう、そんなことが起こっていいものか、と平和への祈りを込めて、ヤッホー君は、唯一の武器であったカミソリを捨てて、髭をはやしはじめたのです。

 そんなことを思い出してしまった秋の日の朝、イギリス紙『ガーディアン』を読んでいたからでした:

A young European woman living in Beijing said she had witnessed the aftermath of the crash as she left a nearby underground station shortly after midday. "What I immediately saw was a man on the ground, in his mid-60s. He didn't look like he was from the city, quite rural, maybe," she said. "He was unconscious, potentially not alive any more, very pale and discoloured. His head and his upper body were in a pool of blood.

"A couple of metres further, there was a woman sitting on the ground who was conscious. She was bent over and clutching her left thigh, and I could see that she was bleeding a lot."

The woman, who did not witness the crash itself, said a fire engine, an ambulanc
e and a police car had sped past her as she walked away from the square. "I walked on a bit, and then saw a civilian and a security guard rushing towards the unconscious man on the ground," she said. "It looked like the civilian man was crying. He was really distressed."

Tiananmen Square has been one of China's most politically sensitive locations since 4 June 1989, when People's Liberation Army soldiers fired on unarmed pro-democracy protesters, killing hundreds of people.


Jeep crash in China's Tiananmen Square leaves five dead
Tourists and police among dozens injured as vehicle hits crowd and bursts into flames outside Forbidden City in Beijing

Jonathan Kaiman in Beijing, theguardian.com, Monday 28 October 2013 15.20 GMT
http://www.theguardian.com/world/2013/oct/28/china-tiananmen-square-crash-beijing

 ロイター通信やワシントンポスト紙に Tiananmen Square の記事は、見つかりませんでした。ロイター通信は、アベノリスクを槍玉にあげています:

Abe is seen as a hawkish nationalist who wishes to revise a post-war pacifist constitution drafted by the United States and to strengthen Japan's defenses.

Japanese politicians are being provocative and are deceiving themselves about a territorial dispute, China's Foreign Ministry said on Monday, a day after Japan's prime minister said it was ready to be more assertive towards China.
(BEIJING, Mon Oct 28, 2013 4:32am EDT)
http://www.reuters.com/article/2013/10/28/us-china-japan-idUSBRE99R08F20131028

 ニューヨークタイムス紙もガーディアン紙同様、北京からの取材を掲載しています:

One man who happened upon the area minutes afterward described an eerily quiet scene, with a half-dozen people lying motionless on the pavement.

“It almost felt like performance art, with people standing around in shock, unsure of what had just happened,” said the man, a foreign visitor who declined to give his name.

In locking down the area, the police immediately closed a busy subway station, shooed away tourists and detained several foreign journalists, including two reporters for Agence France-Presse, who were forced to delete images from their cameras. Armored vehicles and paramilitary police officers swarmed the area, and bomb-sniffing dogs roamed a broader zone that included Zhongnanhai, the walled compound that houses the Chinese leadership, and the Great Hall of the People, home to the legislature. Witnesses said municipal workers had arrived quickly with long-handled brushes to wash away the pools of blood.

Photographs posted online showing a vehicle engulfed in flames were quickly deleted; one subsequent photograph showed the police erecting green panels of fabric in an effort to conceal the charred wreck from passing traffic.

For hours afterward, crowds of disappointed tourists milled outside police barriers waiting for the street to reopen. When asked why the sidewalk was closed, one police officer said, “It’s a special kind of activity, but we don’t know what kind.”

Then he added: “Don’t worry. It will be over tomorrow.”


After Crash In Beijing, Moves to Halt Flow of News
Chen Jiehao contributed research.
By ANDREW JACOBS
Published: October 28, 2013
http://www.nytimes.com/2013/10/29/world/asia/beijing-restricts-coverage-after-car-explodes-at-forbidden-city.html

 ところがニッポンの新聞報道は、「中国メディアによると…」、「北京の日本大使館によると…」だけですませてますね。デスクワークだけなのかな〜…

 「特定秘密保護」にひっかかるって、フクシマのときと同じで、報道管制があって大本営発表しか購読者に知らせてはいけない自粛でもあるのでしょうね。

 安倍内閣は2013年10月15日から始まる臨時国会に「特定秘密保護法案」(秘密保護法案)を提出しようとしている。
 報道によると、政府が自民党に示した法案では「報道の自由」を盛り込むが「知る権利」は今後の検討課題とするという。
 「知る権利」も「報道の自由」も憲法で保障された基本的人権であり、追加事項として盛り込めば済むものではない。
 今回の政府対応は、どのように繕っても秘密保護法が本質的に憲法違反であり、そこには基本的人権を踏みにじる意図が存在することを浮かび上がらせた。
 そもそも、パブリックコメントの受け付けがわずか2週間で締め切られたことでも明らかなように、国には国民の意見を聞く気があるのかも疑わしい。
 情報統制を基本的人権の上位に置く法律は違憲であり、そのような法律は不要である。
 安倍内閣は秘密保護法の国会提出方針を撤回すべきだ

(2013年10月1日、日本新聞労働組合連合(新聞労連)中央執行委員長 日比野敏陽)
http://www.shinbunroren.or.jp/seimei/131001.html

 違憲と言っても、ロイター通信の指摘通り、イマのミンシュシュギ憲法を変えようって言うトップにこの国を任せることをセンキョで許したんでしょうから、憲法なんか無視してなし崩し的に変えようとしているんでしょう。
 
 当連合会は、これまでも秘密保全法制の制定に反対してきたが、現在明らかにされている特定秘密保護法案の制定にも強く反対する。
 重要な情報の漏えいの防止は、情報管理システムの適正化によって実現すべきであって、取扱者に対する深刻なプライバシー侵害を伴う適性評価制度や、漏えい等に対する広範かつ重い刑罰によって対処すべきではない。

(2013年10月23日、日本弁護士連合会)
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/2013/131023_2.html

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2013年10月28日

小屋閉め

 赤岳山頂で風雪を経験したつわものども、山歩クラブの仲間たち3人。
 しかしトレッキングの期間はほんとうに短いのです。

 都会に暮らしていれば分からない四季も、自然のど真ん中まで足を運ぶと、季節が移り変わっていくのが肌やからだで実感されます。

 小屋はもう冬、これからは人を寄せ付けない長い厳冬期を過ごすことになります。
 そんな高い山、厳しい自然に、ぽつんと建っている山小屋…
 おなかが空いたよ、喉が乾いたよって、コンビニにすぐ小銭をもって走ることのできる都会での暮らし。
 山はそういうわけにはいきません。
 あの子に連絡しようたって、ケイタイが通じるかどうかも分からない山、そんな山のなかの小屋をわざわざ仕事場として選んで働く、青年子女がおられます。

 ニッポン最奥の温泉、「高天原温泉」に浸かりに行こう!って北アルプスの最深部を山歩クラブが歩いたのは、もう何年前になるのでしょうか、あの時の仲間たちはイマ、何をしているのでしょうか…
 山の出で湯に入るために泊まったあの小屋、そこで働いた方の日記です:

 高天原は、北アルプスの最深部とか、秘湯中の秘湯とかよくいわれますけど、けっして、地理的にどん詰まりに位置しているわけではなく、意外と、交通の要だったりします。
 高天原を中心に、三俣山荘の岩苔乗越への道、薬師沢小屋へは、大東新道と雲の平経由の二本の道があるし、読売新道へと駆け上がる、温泉沢の登山道、今は廃道になってしまいましたが、奥黒部ヒュッテまで、通っていた、旧高天原新道(今は竜晶池から先はわずかに痕跡があるだけ)もあり、小屋開け後は、登山道整備に追われる日々となります。
 温泉の整備、脱衣場の組み立てや、岩苔小谷の橋架けもあり、これを小屋番さんと二人でこなさないといけないので、最初の10日程は大忙しです。
 2010年は6月末に小屋に入ったのですが、最初のお客さんが来たのは7月の10日過ぎで、単独行の男性一人でした。
 それまでは、ずっと、昼間は外仕事、小屋番の小池夫妻と三人で夕食後、9時頃まで毎晩晩酌しながら、いろいろな話を聞かせていただきました。

(2011年7月11日月曜日「山小屋便り、大きな小屋・小さな小屋」)
http://yamagoya-dayori.blogspot.jp/2011_07_01_archive.html

 この小屋ももうとっくに閉まっています。
 山は9月まで、というのは本当なのです。

 スゴ乗越小屋及び高天原山荘の営業は先月いっぱいで終了いたしました。
 尚、10月10日の営業をもちまして薬師沢小屋の営業は終了いたします。
 来シーズンも皆様のお越しをお待ち申し上げております。

(2013年10月9日太郎平小屋(営業期間は7月10日から9月25日)のホームページ、太郎平小屋より)
http://www3.ocn.ne.jp/~ltaro/
 
 あの高天原の小屋も系列のなかに入っていますね。

 つまり、太郎平小屋+薬師沢小屋+スゴ乗越小屋+高天原山荘+ロッジ太郎+五十嶋商店+五十嶋商事。
 
 このうち五十嶋商事では本の出版もしております:

 五十嶋一晃『山案内人の宇治長次郎』(桂書房、2009年8月):
 映画『劔岳・点の記』で脚光を浴びた山案内人の宇治長次郎の生涯が描かれています。五十嶋一晃がリサーチに数年かけた力作です。


 そう、そう、ムカシ、ムカシは、って先祖返りになってしまうヤッホー君、この高天原にある小屋ってね:

 もともとこの小屋は大東鉱山という会社のタングステンの採掘&精製のための作業小屋だったのですが、50年も前にこんな山奥でタングステンを掘っていたなんってちょっと驚きです。
 こんな山奥にタングステンがあるなんて、誰が見つけたのやら。
 もともと太郎平も、金の採掘調査のために開かれたらしいし(結局、金はみつからなかったらしいですが)ので、そういう山師っていわれるような人たちが、北アルプスを歩きまわっていたのかもしれません。
 どんな人達だったのでしょうかね、非常に興味あります。

…前掲「山小屋便り」

 山小屋ガールも:

 標高2600メートルの山小屋でひと夏を働いて過ごす若い女性たちがいる。
 携帯電話が使えないなど不便なことは多いようだが、一方で山ならではの幸せもあるようだ。

 北アルプスの三俣蓮華岳と鷲羽岳の鞍部にある「三俣山荘」で働く杉坂瞳さん(33)。
 三重県の出身で、これまで自然食の店や無農薬の農家・果樹園で働いてきた。
 今年7月にこの小屋へやってきた。

 「仕事は仕事できちんとあるんですが、休憩時間に散歩しながら高山植物の名前を教えてもらったり、道の途中にぽっかりと開いている熊の歩き道を見つけたり。毎日が冒険みたいでワクワクします」

 杉坂さんには、隣の「雲ノ平小屋」に勤めるパートナーがいる。
 農家で働いていた時に知り合い、一緒に山へ来た。
 現在、恋人との連絡手段は手紙だけだ。
 系列の他の山小屋へ荷物を担いで運ぶ「歩荷(ぼっか)」で小屋へ荷を運ぶスタッフや登山客に頼んで運んでもらう。
 不便なようだが、3〜4日に一度はやりとりできる。

 「別に特別なことが書いてあるわけじゃないんです。ノートの切れ端に元気?とか、そんなことが書いてあるだけ」

 そうは言うものの、携帯メールを日に何往復する誰よりも、幸せそうに見えた。

 妻の敦子さん(33)と共に山小屋を営む2代目の支配人・伊藤圭さん(36)は、山荘へ働きに来る女性たちに、ある変化を感じている。

 「10年ぐらい前までは、出稼ぎみたいな人が多かった。でも、ここ3年くらいは仕事を辞めて、次の仕事に就くまでの間に来る人や、何かを学びたいと思って来る人が増えています」

(AERA 013年9月30日号)
http://dot.asahi.com/life/hobby/2013100300022.html

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2013年10月27日

行者小屋

 あの写真を撮った川原(「白河原」というんですね)の先に、赤岳行者小屋が…

 美濃戸山荘前の登山口分岐から南沢コースで行者小屋方面に向う。
 南沢渓流沿いの登山道は、幾度か沢を横切りながら、石祠が二基祀ってある岩頭脇に辿る。
 行者小屋までのほぼ中間地点で休憩適地になっている。

 再び渓流脇の急登が始まり、ほどなく対岸の針葉樹林帯に入る。
 樹林帯を抜けると南沢の「白河原」で、前方中央に赤岳が展望出来る。
 河原歩きが終わり再び樹林帯に入る。
 平坦道の樹林帯を抜けるとほどなく行者小屋に辿り着く。
 小屋前は阿弥陀岳、赤岳、硫黄岳への分岐合流地で、ベンチや水場もあり登山者で賑わっている。

(長野県山岳ガイド・ホームページ、阿弥陀岳、行者小屋〜中岳尾根コースマップ)
http://www.naganoken.jp/mount/suwa/m-yatsu/amidadake-map.htm

 若く明るい、溌剌とした青年子女ばかりがたむろしている小屋前も、ムカシ、ムカシは、と先祖帰りを楽しむきらいのあるヤッホー君、こんなイメージがダブって重なってくるのです:

 行者小屋の歴史は、明治時代末に、この修験道場を行者小屋と称していたようで、八ヶ岳御料林が明治23年、御料局諏訪出張所の管理に変わり御料の番人の小屋でもあったようで、「南沢の奥の行者小屋」(現在の行者小屋)と大滝の「中の行者小屋」があった、という。

 明治39年11月発行の日本山岳会機関紙『山岳』3号には、「番人なき深山の小屋なれど、この小屋は一両年前始めて構造したもの」と書いてあり、「奥の行者小屋」は明治37、38年に造られたようだ。

…きたむら・ひろし『八ヶ岳石神仏ガイド』C赤岳修験みちの石神仏、より

 そうか、行者小屋も「奥の」と「中の」とふたつもあったのか…

 上を見上げて八ヶ岳、下を見つめて山路に気をとられ、往路はこの「中の行者小屋」には気がつきませんでした。
 気がついたのは「勝久雄彦霊神」明治22年建立の石碑だけ。
「だれかぁ〜1889年頃、ここで遭難したのかなぁ〜」
と仲間に声をかけていました。
 美濃戸山荘と行者小屋のちょうど中間くらいにあって、大きく高い岩崖の下。
 上述で言う「石祠が二基祀ってある岩頭脇」、ですね。
 ここで一息ついたのですが、ここも「きたむら・ひろし」さんの小冊子で教わり、帰路、ここが「中の行者小屋」跡と知りました。
 よ〜くあたりを見渡しますと、たしかに石祠がふたつも、そしてたくさんの石神仏が…。
 復路に、仲間三人で風雪のなかの赤岳越え、そして文三郎尾根の踏破が無事にできたことの御礼参りで、手を合わせてきました。

 そうなんです、「きたむら・ひろし」さん、この方、「北村宏」さんとすれば、八ヶ岳をいっしょに歩いて勉強できたらなあ、なんて思っておりまする:

第14回「八ヶ岳周辺の巨石めぐり」
◆開催日:平成25年12月1日(日)
◆講師:北村宏氏(八ヶ岳の石神仏を調べる会代表)◆定員:20名 
◆集合:午前8時30分八ヶ岳自然文化園
◆内容:古代の人は、巨石に神が宿るという信仰を持っていたことは全国各地の巨石から伺い知ることができますが、八ヶ岳周辺にも同じような巨石信仰が残っています。
 今回は、午前中バスで北杜市、富士見町、原村の八ヶ岳山麓にある巨石8カ所をめぐります。
 午後から研修室にて「八ヶ岳周辺の巨石」の講義を行います。

(平成25年度八ヶ岳講座のお知らせ、商工観光係、長野県諏訪郡原村6549-1 Tel 0266-79-7929)
http://www.vill.hara.nagano.jp/www/event/detail_print2.jsp?id=3298

 でも、でも、山が「明るく近代化」されて以来、山小屋の歴史も霞んで消えていきそうで、ムカシ、ムカシは、と先祖帰りするのは想像力がないとなかなかできません。
 そしてそんな抹香臭いことに興味と関心をもってくださる中高年も青年子女もかなり、少なくなったようです。
 山小屋の系列化もすすんでいます:

  「高見石小屋」+美濃戸高原やまのこ村
  本沢温泉+八ヶ岳赤岳頂上山荘+キレット小屋+夏沢峠モモンガヤマネの山荘「山びこ荘」
  黒百合ヒュッテ+蓼科山荘
  「赤岳天望荘」+美濃戸山荘+ヒュッテ夏沢+八ヶ岳山荘
  赤岳鉱泉+行者小屋
  硫黄岳山荘+根石岳山荘+夏沢鉱泉

  かぎかっこで括った山小屋はヤッホー君が宿泊したことがあるところです。

 ですので、クルマは「赤岳山荘」でなく「美濃戸山荘」に置けば、「赤岳天望荘」に泊まるので駐車場代はかからなかったのでは、と思いますが、知らぬが仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏〜
 
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2013年10月26日

行者 東城作明

 一枚の写真が、何万語も費やした言の葉よりも雄弁に何事かを物語る、っていう例がありますよね。

 マレーシア紙「New Staraits Times」のコラムで Frank Ching は、次のように述べております。

Obama's cancellation of his Asian trip, first to Malaysia and the Philippines and then to the Asia-Pacific Economic Cooperation meeting in Indonesia and the East Asia Summit in Brunei, led to some humiliation for the US.

As they say, a picture is worth a thousand words. If Obama had been present, his would no doubt have been a dominant presence.

As it was, his representative, Secretary of State John Kerry, despite being 195m-tall, was barely visible in the official pictures. In the APEC photo, he was on the far right in the back row, while Chinese President Xi Jinping was on centre stage, next to the host, President Susilo Bambang Yudhoyono.

Things were not much better at the East Asia Summit. China's Premier, Li Keqiang stood in the centre, linking hands with Hassanal Bolkiah, the Sultan of Brunei, while Kerry was way off on one side.

Obama will need to mend fences in Asia, and soon.


24 October 2013(last updated at 11:20PM)
Read more: We're fed up with America - Columnist - New Straits Times
http://www.nst.com.my/opinion/columnist/we-re-fed-up-with-america-1.383348

 どれ、どれ、写真は? と言いますと、ロイター通信でビデオがご覧いただけます。
http://www.reuters.com/video/2013/10/04/asian-officials-regret-cancellation-of-o?videoId=274027831

 ヤッホー君が昨日、ちらっと語っていました NSA についても、ドイツのメルケル首相の顔がアップで映るとさすがに怒っている!と納得します:

r[2].jpg

German Chancellor Angela Merkel wants the European Union's 28 member states to reach a "no spy deal" similar to an agreement France and Germany seek with the United State following allegations Washington tapped her mobile phone.
http://www.reuters.com/article/2013/10/25/us-eu-us-merkel-idUSBRE99O13920131025

 同じように、八ヶ岳の山容が目の前に現われたときの感激も、一枚の写真で伝えることができるでしょうか…
 10月18日金曜日、一週間も前にさかのぼるんですね。
 柳川南沢をつめて、広い川原に出たときのことです。
 盟主・赤岳は右に隠れ、まだ姿を現してはいません。
 霊峰に講を組織し修験者が行き交ったのも頷けます。

八つ.jpg

 行者 東城作明が享保年間(1716-1735)、非常な苦心の末、八ヶ岳山脈中の最高峰、赤岳を拓き、国常立命、金山彦命、日本武尊の三柱を祀る。よって赤岳の開祖と仰がれた。

 と、北杜市小淵沢町上笹尾にお住まいの「きたむら・ひろし」氏は、『八ヶ岳石神仏ガイド』「B赤岳の石神仏と赤嶽信仰」(2003年5月25日刊)のなかで、1960(昭和35)年の『諏訪市と観光』(甲陽書房)から引かれています。
 な、なんと、なんと、その後に、次のようなエピソードをお書きになっています。
 これは、一枚の写真よりも、言の葉が読む者の想像力をかきたててくれた素晴らしい一面です:

 現在、頂上(北峰)に日本武尊と刻まれた石碑があるだけ。
 2002年春、赤岳頂上小屋の支配人、鈴木規氏から奥さんの真由美さん経由で、頂上小屋売店前の岩下に、裏返しになっている石をひっくり返して見たら、上部は欠けているが、『岳山日本武尊』と刻まれた石碑が見つかったとの情報を寄せてくれた。

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2013年10月25日

修験道

 10月25日金曜日、雨。
 ヤッホー君は傘を差して山荘を後にしました。
 「江戸六地蔵」のひとつがたしか江東区白河の「霊巌寺」にあったような、なかったような…
 ないとすれば、それは倒幕派による天皇制イデオロギーを固めたあの明治維新政府の宗教改悪、「廃仏毀釈」で、と言えるわけですが、どっちだっけ、ブッカク、ブッカク、即ち「物件確認」のためです。
 雨にも関わらず、現場に赴く…、良いことですよね!

 子供の守り神としても親しまれている「お地蔵さま(地蔵菩薩)」ですが、釈迦の入滅後、弥勒菩薩が出現するまでの間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩とされています。
 日本では地蔵菩薩を六体並べて祀った六地蔵をよく見かけます。
 これは、仏教の六道輪廻の思想に基づき、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)それぞれの地蔵菩薩が現れて衆生を救うという信仰から建てられました。
 また、六道を守ることから道の守護者として道祖神の信仰と結びつき、集落の境界や辻に結界として建てられるようになりました。
 江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元が寄進を募って造立したものです
 地蔵坊正元が若かりし頃大病を患い、両親が熱心に地蔵菩薩に病気の平癒を願い、自らも一心に地蔵菩薩に願い、治癒の後は多くの菩薩像の造立を誓ったところ無事に平癒しました。
 その為、京都の六地蔵に倣い、1706(宝永3)年より多くの寄進者を得て、神田の鋳物師、太田駿河守藤原正儀による丈六金銅の地蔵菩薩坐像を江戸の出入口になる
 ☆ 東海道の品川寺(南品川)
 ☆ 奥州街道の東禅寺(東浅草)
 ☆ 甲州街道の太宗寺(新宿)
 ☆ 中山道の真性寺(巣鴨)
 ☆ 水戸街道の霊巌寺(白河)
 ☆ 千葉街道の永代寺(富岡)
に造立しました。
 六番札所となる永代寺の地蔵尊(享保5年造立)は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったそうですが、残念ながら1868(明治元)年の「神仏分離令」による「廃仏毀釈」により取壊されてしまいました。
 それ以外の五体は全て東京都指定有形文化財に指定されています

(富岡八幡宮社報とみがおか平成25年春号第70号「江戸六地蔵」)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/htmls/shaho.html

 お地蔵さまは、ありました。
 そうですか、そうしますと「廃仏毀釈」で破壊されたお寺さまは、あの三十三間堂、通し矢の数を競い、風流な庭園美でも知られた「永代寺」でしたか…

六地蔵.jpg

 宗教改悪では、「神仏習合」としてニッポン人の古来からの宗教、修験道も同じ運命を辿ります:

 明治政府は神仏を分離し、神祇官を中心とする神道国教化をはたすために1868(慶應4)年4月3日、別当あるいは社僧と称して神勤している僧侶を還俗させ、神勤する場合には神主、社人になることを命じた。
 そしてさらに権現、牛頭天王など仏語の神号を改めさせ、神社にある仏像、鰐口、鏡、仏具の類を取り除くことを布達した。
 この神仏分離令の結果、霊山の神社では、中央から派遣された神道国教化の理念に燃えた宮司や、古来一山で僧侶に支配されていた神職による廃仏毀釈が頻発した。
 そこで以下主要な霊山の神仏分離の状況を紹介しておきたい…


 ぜひ続きは本をお買い求めの上、お読みくださいな。

 ヤッホー君のこのブログでも登壇してしている宮家準先生の書、『霊山と日本人』(NHKブックス、2004年)89頁からです。

 明治政府は1872(明治5)年、太政官布告により、修験宗を廃止して、修験者は本寺所轄のまま天台・真言の仏教教派に帰入するように命じた。
 なお、この修験道廃止令が出された背景には、典型的な神仏習合形態の修験を仏教化するとともに、無檀、無任の修験者が、憑祈祷、うらない、まじないなどの呪術的活動をすることを防ぐ意図もあったと考えられる。

…前掲書、92頁

 ヤッホー君たち、山歩クラブの仲間3人で山歩きしたあの八ッ岳・赤岳も見上げると、霊山の風情が漂っていたのでした。
 ですので、どうも深田先生の八ッ岳礼賛の、「明るい近代」とか「ヨーデル」とか「溌剌とした青年子女」と言われますと、ちょっと違うような気がして…。
 、ニッポン人がニッポン人であることをやめ、パン食になって1%と99%の間がどんどん開き、ピストルとドラッグを携え、「ブラック企業」の「非正規」社員がカッコよくって、人殺しへの赤紙をまつような、待たなくっとも、「なんか、そう、あ」みたいな日本版Nasty Spying Agency でケイタイもメールも盗聴、傍受され、行動も監視、管理されるのがドリーム nightmare、なんてならないよう祈るばかりです。
 イギリス紙ガーディアンの記事のように「なんで?ニッポン」なんて言われないよう、われわれも立ち上がって歩き出したいものです。

 Why have young people in Japan stopped having sex?

 The World Economic Forum consistently ranks Japan as one of the world's worst nations for gender equality at work.
http://www.theguardian.com/world/2013/oct/20/young-people-japan-stopped-having- 

 昔は信仰登山が行なわれていたというが、現在ではそういう抹香くさい気分は微塵もない。
 むしろ明るく近代的である。
 阿弥陀とか権現とかいう名前さえも、私たちに宗教を思いおこさせる前に、ヨーデルの高らかにひびく溌剌とした青年子女の山を思い浮かばせる。

…深田久弥「八ヶ岳」2899m、新潮文庫版『日本百名山』所収、276頁

 帰宅したら、アマゾンより本が届いていました:

INDIGO.jpg

 Catherine legrand ≪Indigo, The Colour that Changed the World≫(Thames & Hudson, London, 2012)

 世界を変える…、その前に自分の生活から変えようって、ヤッホー君!

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2013年10月24日

生活仏教

 ヤッホー君、利田神社から海雲寺まで、と日記に記した「品川宿タウンウオーキング」。
 この界隈には有名な、大きな神社仏閣がたくさんあるのになぜ?
 たとえば、冨士塚(品川冨士)もある「北の天王さん」、品川神社:

品川神社.jpg

  …この境外には板垣退助の墓も…

板垣.jpg

 そして「南の天王さん」、荏原神社(明治元年10月12日午後3時に明治天皇が、京都からこの神社に着いたとの謂れもあります):

荏原神社.jpg

 さらに、「江戸6地蔵」さんのひとつが歩行者を見守る品川寺(ほんせんじ):

品川寺.jpg

 こんなに大きなお寺さんがあるのに、どうして「海雲寺」(曹洞宗)を挙げたのでしょうか…
 ちょっとヤッホー君に聞いてみました。

 トイレの神さま、じゃない、台所の神さまが祀られているから?
 ちゃう、ちゃう、とってもこころに沁みいる良いお話があったからじゃ、と:

 青物横丁駅から徒歩2分。
 “品川の荒神さま”として親しまれてきたこのお寺では、台所の神さま、防火の神さまとして深い信仰を集める千躰三宝荒神王(せんたいさんぽうこうじん)を祭る。
 3月と11月の27・28日の千躰荒神祭には参詣者でにぎわい、荒神堂では護摩が焚かれる。

(東京品川青物横丁、あおよこチャンネル)
http://www.aoyoko.ch/?cat=84

 江戸の末1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三人連れの乞食がいた。
 その一人平蔵は或る日、多額の金を拾ったが落とし主を探し、当然のこととして金を返し、お礼の小判を断った。
 そのことを知らされた仲間の者は金を山分けすれば三人とも乞食を止めて暮らせたのにと腹をたてて、正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった。
 これを聞いた金の落とし主である仙台邸に住む若い侍は、平蔵の遺体を引きとり、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、そこに石の地蔵尊をたて、ねんごろに供養しつづけた。

 1899(明治32)年10月、京浜電車が開通することになったが、生憎その線路に地蔵尊の土地がかかり、時の海雲寺住職横川得諄和尚が、菩薩のような功徳のある君子平蔵を長く社会の木鐸たらしめんと、願望して当寺境内に移してもらい回向した。

 いつの世も人は利害得失を先とし他人の迷惑を考えず、金銭のために大切な人の命さえとる者がいて憂慮にたえない。
 誠心で浄く正しい平蔵の心に感銘し、その死後、報恩感謝供養の誠をつくした若い侍の敬虔な態度にも教え導かれるものがある。
 物足りて心貧しい今日、得諄和尚の主旨に生きる法孫として、かねてより多くの人々が平蔵地蔵尊にあやかり、浄く正しい心で和平な日々を送って、明るい社会づくりに役立たんことを願っていた。

 たまたま篤信者あり。
 平蔵地蔵尊の信仰こそ荒れた人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので、海雲寺並に荒神王を参詣する總ての人にお参りいただくため、本尊前庭に移し奉安することとなった。
 ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす。
 南無地蔵願王尊伏して願わくは尊像を拝し奉るわれ等を憐愍せられ、誠實な心、健全な体もて世のため人のためにつくせる力を与え給え

(平蔵地蔵の由来)
…1986(昭和61)年10月吉日 龍吟山 海雲寺二十三世 如雲裕生 謹誌

 ブッカク、というと物件確認の略か、はたまた神社仏閣巡りか墓巡りか、といつも揶揄されてしまうタウンウオーキングですが、こういう民衆が残し、子や孫に口承で語り継がれてきた、こころあたたまる、良い逸話にめぐりあうから、ヤッホー君、止められないのです。

 で、いつも考えるのです。
 宗教ってさ、宗派に属しない、素朴な民衆の宗教心ってないのだろうかって。
 生れたとき、結婚するとき、死ぬときに訪れる施設に代表されるようなブッカクのほかに、山に入って自然に手を合わせてしまうような心持ち、食前にいただきますって自然に手を合わせてしまうような感謝の念、どうかこの思いが100年続きますようにってお祈りしてしまうような感情…

 こういうタウンウオークしていますと、案内版や標識によく出てくるのが、明治時代になってでてくる「神仏分離」、「廃仏毀釈」と「修験道廃止令」。
 ヤッホー君、よく分からないのであります:

 そもそも、民衆が求めていたのは、高尚な仏教哲学などではなかった。
 そんなものは、彼らにすれば、なんの役にもたたない。
 求められていたのは、日々の暮らしに直結する現世利益と、臨終と死後の儀礼や供養であった。
 そこには、時として、呪いや祟りといった、おどろおどろしい領域も含まれていた。

 現代の宗派仏教の担い手たる僧侶や仏教学の研究者のなかには、これらの行為を「仏教にあらず」と切ってしまう者もいる。
 しかし、それでは、民衆の救済はまったく成り立たなかった。
 いや、現時点においても、そういう態度では、ごくふつうの人びとの救済は、絶対といっていいくらい、成り立たない。

 宗教人類学の泰斗として知られる佐々木宏幹・駒澤大学名誉教授は、近年、「生活仏教」と「教義仏教」というコンセプトをもちいて、こう述べている。
 近代化以降における日本の仏教研究が、もっぱら高尚な宗教哲学の研究、すなわち「教義仏教」に偏りすぎた結果、ごくふつうの人びとが求めてやまない領域、すなわち「生活仏教」をないがしろにする傾向があらわになっている。
 これこそが、仏教の衰退を招いた主因である…

…正木晃『現代の修験道』(中央公論社新社、2011年2月)

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2013年10月23日

東海道品川宿

 10月23日水曜日、早朝から深夜まで大忙し(わざとそうしていました!)のヤッホー君。

 実は前日の火曜日、歯医者に行ってきました。
 眼が世界一の名医、山城博子先生(代々木病院)にお世話になっているとすれば、歯はこれも世界一の名医、鯉渕隆文先生(小田急線豪徳寺駅前、こいぶち歯科)なのです。
 歯根の治療を始めましょうとなって、口のなかがどうも「NHK(なんかへんな感じ)」、これを払拭するために水曜日、街にでたのです。

 街道を歩くシリーズ、東海道品川宿!

 日本橋から2里(約8Km)、東海道第一の宿場品川宿は、南北19町(約2Km)という長大な宿場町。
 道幅も現在の北品川本通りと変わらない。
 その品川宿と周辺の寺社を歩くコースで、残された歴史遺産に当時の繁栄ぶりが偲ばれる。
 品川駅〜青物横丁駅、所要2時間
(『どこでもアウトドア 東京山手・下町散歩』昭文社、2001年)


 どころがどっこい、9時40分から3時10分まで5時間半もぶら〜り、ぶらぶら。

 八ヶ岳にちなんで、「八ッ山通り」から、「Avenue de la Paix」(品川区とスイス・ジュネーブ市との友好親善の発展を願い命名されました)まで。

 利田(何て読むんでしょう、そうしたら、「かがた」ですって)神社から、海雲寺まで。

 旧東海道に戻って、店奥に大きな熊手の飾ってある創業100年の家尾福青果店(3471-4314)で玉葱、ジャガイモ、バナナを買い込んでリュックに詰め込んでから、高品質・Everyday Law Price の OK ストア青物横丁店でお酒を仕入れるまで。
 
 3週間前の10月3日木曜日の北海道函館タウンウオークで出会ったペリー。

 1854(安政元)年、箱館(現在の函館)が開港する契機となる米国のペリー提督率いる黒船5隻が箱館に来航。
 その150周年を記念し、2002年、元町公園下にペリーの立像が設置されました。

 諸外国の往来を禁じる鎖国政策を敷いていた徳川幕府に対し、ペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖に現れ、開国を求めました。
 日米和親条約の締結により、開港地に選定された箱館を検分するため、ペリーが来航したのは1855(安政2)年でした。
 ペリーは箱館港を捕鯨船の食糧・燃料の補給基地として活用するため、早速、湾内の測量に取り掛かりました。
 滞在中は、もうひとつの開港地・下田(静岡県)に比べて貨幣率が良いとして、あらゆる品々を購入したそうです。
 以来、箱館は国際都市として発展するとともに異国文化が移入し、今日に至るエキゾチックな町並みを形成することとなりました。

 ペリーの功績を称えて建てられた銅像は、ペリーの生誕地・アメリカのロードアイランド州ニューポート市にあるペリーの全身像をモデルに、函館出身でローマ在住の彫刻家・小寺真知子さんが制作しました。
 銅像のたもとには、ペリーにちなみ、アジア東北部原産で1668(寛文8)年に日本へ渡来した「クロフネツツジ」が植えられています。
(函館市公式観光情報)


ペリー提督.jpg

 10月23日水曜日、ヤッホー君は品川区台場小学校でもペリーと出会います

 1853(嘉永6)年、アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航した。
 鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにした。
 伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかった。
 その代りとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになった。
 これが御殿山下台場(砲台)である。
 明治になると埋立てられ姿を消したが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来る。
 跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めている。
 台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられた。
 石垣の上に立つ灯台は、1870(明治3)年、日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものである。
 品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されている。
(平成18年3月31日 品川区教育委員会)


 で、この OK ストア青物横丁店で仕入れ、リュックに詰め込んだお酒は、今晩のミーティングに持参するための、もちろん日本酒!
 信州で日本酒を造って140年、という善光寺平の「遠藤酒造場」のモンドセレクション金賞受賞酒「渓流」。
http://www.keiryu.jp/

 この日本酒を開けた夜の会合では、仲間の「なかじま のぶこ」さんがめでたく本を出版しました:

 なかじま のぶこ『東京の図書館で働いて〜カウンターの内から外へ〜』(東京シューレ出版、2013年10月25日初版出版…あっ、金曜日だ!)

 さっそくヤッホー山荘の書籍群の一員になりました!

なかじま.jpg

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2013年10月22日

INDIGO The Color that Changed the World

赤岳山頂小屋.jpg

 ねぇ、ねぇ、ほらニッポンの高い山はもう雪が舞ってるんですぅ〜って、海外に写メールを送ったんですぅ〜、ヤッホー!
 そうしたら、こだまがふたつも返ってきましたのでご紹介:

 ひとつは、2013年10月21日 11:38。

Dear Yahho,
Thanks for the update on your activities and for sending the photos from your trip. You haven't change a bit from the last time I met you!
Richard


 ちっとも変わってないね、っておだてられ、舞い上がっているヤッホー君です。
 もうひとつは、2013年10月22日 1:09。

Hello from Paris!
Catherine and I are very happy to receive news from you. Last 24 months were very difficult but now we found a nice issue.
Retirement for Catherine, she sold her company and published a new book (you can find it in english) INDIGO (Thames and Hudson).
We moved inside paris in a bigger apartment with a small but nice garden; you are warmfully invited to stay at home if you decide to visit Paris.
More details soon.
Nice regards
Yves


 ヤッホー君、パリにお呼ばれされましたね。でも山がないんだも〜ん…
 あれは10何年か前の奥日光、でしたね。
 大風が吹いて歩く人もいなかった双子の湖のあいだの山中、ヤッホー君と出会ったカトリーヌ&イヴは、フランス語を上手に操るヤッホー君(エヘン、と咳払いしていますよ)のことを、まるで「日の光 Lumière de Soleil 」と安堵された様子でお話しされ、それ以来、季節のご挨拶の交換を忘れたことはありません。
 山歩クラブの仲間のお嬢さんがモン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)にバックパッカー(backpacker)するっていうんで一夜の宿をお願いしたこともあったっけ。
 そういえば、そのときの旅のお土産、Edmond Fallot のマスタードがまだ冷蔵庫にあるはず、と扉を開けました。
 食べるにモッタイナイ… お土産でなくヤッホー君の大切な思い出の宝物になっているって。
 でも、奥さまもこの春、本を著されて目出度く引退、良かったですね〜、これまでの集大成ですよね。
 そしてこれからは、セカンドライフで世界中をまた山歩き(フランス語で randonnée)、良いですね。
 ところでどんな本?
 日本の藍染めのような、なんというか深い青い色、インディゴブルーについて、世界中を旅して染色から、その色に染まった生地まで、カラー写真が満載です。
 まるごと山域を味わおうという山歩クラブの試みと同じ、ですね。
 どうしてその色、その色をだすためにどんな人がどんな働き方をするの?どこで?その色はどんなインパクトを世界に与えた?なぜ?栽培から歴史、文化、技術、労働、環境まですべて、総合的に捕らえようとする労作です。
 日本でも評判になること間違いなし、翻訳した〜い!
 でも出版社同士の利権が絡んでいるでしょうから、無名のヤッホー君に翻訳のお仕事が回ってくる、なんてことはないでしょうけど(クシュン…たらーっ(汗))
 アマゾンでも紀伊国屋でも丸善でも、ぜひ原書を、つまり洋書を直接注文してお買い求め下さいな:

 Catherine Legrand <INDIGO, The Color that Changed the World>
 ISBN 050051660X ISBN 9780500516607
 Publisher: Thames & Hudson
 Publication Date: April 9, 2013
 Format: Hardcover
 Price: $50
 288 pages
 500+ color illustrations
 11.8 in x 10.6 in
 Textiles

 
The book explores the production of indigo textiles throughout America, China, India, Africa, Central Asia, Japan, Laos, and Vietnam.

Her new book offers a fascinating documentation of the importance of this dye created from variants of the indigofera plant, tracing Indigo's history and cultivation from the Golden Triangle to Central America, to demonstrate why it has been so important and renowned in multiple textile practices for so many centuries.

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2013年10月21日

木馬

 さて、この金、土の初雪の八ヶ岳・赤岳山行。
 ヤッホー君にはとても印象的で、冷たい雨の昨日の日曜日10月20日は終日、ヤッホー山荘に引きこもり、ヒッキー!
 たった2日間の入山でしたが、人を滅多に寄せ付けないような深い森、険しい岩壁、苔むした林床と山路に、こころもからだも吸い込まれてしまいました。
 このまんま、無理に脱出しなくともいいんだろう、と自分を諭していたようです。
 まるで山の出で湯に、こころもからだも全〜部、浸かっているんだ、とそんな自分を想像して。
 フ〜…〜
 そうなんです、山行中、いろいろとこころとからだを貫いていった山の空気や精霊、そして仲間と交わした会話の言の葉が断片的に、断続的に、万華鏡のように混ざり合ってよみがえってくるからフ・シ・ギ・です。
 きっとこれが山の楽しみのひとつでもあるんでしょうね。
 ヤッホー君の山の師匠、岩崎元郎先生がよくおっしゃっていた山の楽しみには、三つもあるんですよぉ〜の意。
 行く前、歩いているあいだ、そして帰ってから。

 この赤岳って、ヤッホー君に山容が現われてきたのは、柳川南沢をつめて行者小屋に大分接近した広い川原に到着してからのことです。
 行者小屋って言うくらいだから、赤岳講のようなものもあって、ムカシの日本人の信仰の山だったんだろうな、という見上げる眼差し。
 そして、なんか山路が広いのでムカシの日本人の生業のひとつ、林業という労働の現場でもあったのだろうか、という視線を足許に下したときの眼差し。
 目が上に行ったり、下に下がったり、交差するのです。
 このフ・シ・ギ・な感覚が、山小屋『赤岳展望荘』で固定するんです。
 その談話室に置いてあった小冊子に次の文をみつけて、その上下していた眼差しは固定されたのです。

 昨日の日曜日、都立木場公園での江東区民祭りが午後1時で悪天候のため終了しましたよね。
 ところがヤッホー君、この漢字はなんて読むんだろうと思っていたんです。
 そう、今日は目下のお話しから〜

 木馬…

 美濃戸から柳川南沢の現在の登山道は古くは赤岳、横岳への参道であって、地蔵尾根経由で登っていたようだ。また木馬みちでもあった。

 美濃戸に三軒ある山小屋のひとつ『やまのこ村』も少し前までは小松山荘と言ったが、ここのオーナーもこの木馬曳きの熟練者だったと聞いた。

 木馬運搬、昭和47年労働安全衛生規則 第8章 伐木作業における危険の防止 第2節 木馬運搬及び雪橇運材 第485条から第490条。


 ヤッホー君、メモをとってきました。
…きたむら・ひろし『八ヶ岳石神仏ガイドC』「赤岳修験みちの石神仏」

 「木馬」ってなんて読むのかなぁ…、モクバ?(カルーセル?メリーゴランド?)、それとも新キバ?
 ロウアンホウがあるんだって…、
 馬の労働条件は馬たるに値する生活を営むための必要を充たしてあげねばならない、馬には一日8時間を越えて労働させてはいけない、毎週少なくとも一回の休日を与えなければいけない、馬の意思に反して労働を強制してはならない…と、カッシー。
 馬を扱う騎手、Horseman じゃないの…(と翌日 Snowman と化けるヤッホー君)

 筑波大学は南アルプスは、赤石山脈南部の山岳域に位置し,大井川中流にある接岨峡よりも上流側の地域にあたる静岡市井川地区に演習林をお持ちのようです:

3 .井川地区における伐採・運材方法
 次に、実際に長年にわたり井川地区で林業を行ってきた林業労働者への聞き取り調査および文献調査の結果をもとに、井川における伐採、運材方法についてとりまとめる。
 井川地区における伐木および造材は1959(昭和34)年ごろまでは主に斧・鋸を用いて行われた。
 その後チェーンソーが導入されるようになり、伐木の効率化につながった。
 伐倒され山腹に散乱した丸太は一箇所に集められる。
 この作業を集材といい、井川地区では修羅出しという方法がとられた。
 修羅出しとは山腹に修羅(斜面のくぼみに丸太を最大傾斜方向へ敷き詰めたもの)を作成し、その上を滑らせることにより丸太を移動させたものであり、滑路集材作業という様式に含まれる。
 丸太を並べずに直接地面の上を滑らせる場合もあり、その場合は土修羅と呼ばれる。
 修羅で集材された丸太は、木馬(丸太を運搬するためのソリ)に乗せられ、木材運搬用の道、「木馬道」を用いて等高線方向に運ばれた。
 これを木馬出しという。
 木馬出しにより後述する鉄砲堰直上部の山腹まで丸太が運ばれると、そこから土修羅により沢まで落とされた。
 沢近くになると山腹の勾配が緩くなる場所もあり、そのような場合は沢まで丸太を落としにくいため桟手(さで;底の部分に板を敷き両側を丸太で囲った滑り台状の構造物)を作り、丸太をすべらせた。

(筑波大学農林技術センター井川演習林の林業史−伐採記録と搬出痕跡について−『筑大演報第27号 2011)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M10/M1066580/8.pdf

 そうか、行者小屋が修羅出しの集材地で、『やまのこ村』までの「木馬道」を通ってきたんだ、とヤッホー君、ひとりで感慨深げでした、とさ。
 そして奥の書斎で分厚い本を手にして首っぴき。
 厚労省監修2003年版『労働法全書』(労務行政)で労働安全衛生規則(平成14年2月22日労令14号改正)
 第8章 伐木作業における危険の防止 第2節 木馬運材及び雪そり運材
 「木馬道」第485条〜第487条 「木馬への積荷」第488条 「木馬をひく作業」第489条 「点検」第490条
 以上、確認したそうです。

 さて、馬か、人か、おあとがよろしいようで…

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2013年10月20日

初冠雪

 山歩クラブ、今年の無雪期最後の山小屋泊山行企画。
 昨日、赤岳は雪、と書きました。
 証拠写真が発掘されました。
 雪男 Snowman のこの顔の安堵した表情から判断しますと、赤岳山頂からの『文三郎尾根』の岩場の難所をなんとかすべてクリア、登山道に下りたあたりでしょうね。

文三郎尾根.JPG

 <The Snowman triathlon: a tough test to finish the season>(注)!

 『あこがれの名山、ルート&難所ガイド』(中田真二、学習研究社、2006年)では、レベルを10段階に分けた≪レベル8≫、つまり平地ではなく、アップダウンのある2000m級以上の岩稜の登山道を通過できる技術、能力が問われた難所だったのです。

 無事お帰り何よりです。
 お天気の良い写真が送られてきたので、翌日もお天気と思ってましたが、なんと山の怖いこと!
 私たちが、ホイホイ同行していたら 足手まといになってました。
 とにかくも、お疲れさまでした。
 苦労談をお聞かせください。
 生きていて良かったですネ。…。
(Sun, 20 Oct 2013 09:52:02)

 ヤッホー君がいつもこころの山の大先輩として敬愛申しあげており、山歩クラブへのリンクもはってくださっているTamuさんの「掲示板」でも、昨日のことが…

 Tamuさん おはようございます!
 今朝、窓を開けて”びっくり”富士山に初冠雪?6合目付近まで雪化粧しました。
 明日から南アルプス深南部(大無限山−大根沢山−信濃俣−光岳−茶臼岳)へテント3泊で出掛ける予定でしたが、雨予報なので取り止めました。
 急に寒くなってしまったので夏テントでは今年は無理そうですね!
(2013年10月19日(土)09時01分37秒、投稿者:篠ちゃん「冠雪にびっくり!」)

(Tamuです)
 早速の“富士山で初冠雪”の写真、ありがとうございます。
 平年より19日遅く、昨年より37日遅い初冠雪、だそうですね。
 今日(10月19日)は孫たちの運動会で、ずっと観戦していたら寒くなってきて、先ほど(14時頃)そそくさと帰宅したところです(^^ゞ

(私たちの山旅日記)
http://6602.teacup.com/yamatabi/bbs

 どれどれ…

 甲府地方気象台は10月19日、富士山(3776メートル)の初冠雪を観測したと発表した。
 平年より19日、昨年より37日遅い。
 独自に観測している山梨県富士吉田市も同日、雪化粧した富士山がふもとから観測できたとして「富士山初雪化粧宣言」を出した。
 同気象台によると、午前8時ごろに職員が積雪を確認した。山頂の気温は氷点下6.1度(午前7時現在)。
 県内は18日夜に雨が降っていた。
 過去に最も早く積雪が確認されたのは2008年の8月9日。
 最も遅かったのは1956年の10月26日。
 初冠雪は、山頂での1日の平均気温が最も高かった日以降、同気象台から初めて山頂付近に雪が確認された日と定めている。
 今年は8月19日の9.3度が平均気温の最高だった。

(2013年10月19日11時16分最終更新毎日新聞【藤河匠】「富士山:初雪化粧宣言、平年より19日遅い初冠雪」)
http://mainichi.jp/feature/news/20131019k0000e040195000c.html

 そして今日の日曜日、下町は冷たい秋の雨。
 毎年約40万人が訪れる区内最大級の野外イベント「江東区民祭り」(19日20日の両日、都立木場公園
)も今日最終日は、悪天候のため午後1時で終了ですって!
 防災マイクを通じて区役所から案内がありました。
 そしてなんとなんと、またまた台風接近!

 台風26号が去り、土石流により大きな被害が出た伊豆大島では、行方不明者の懸命な捜索活動や復旧作業が続けられています。
 そんな中、一難去ってまた一難。
 マリアナ諸島で発生した台風27号が再び日本付近へ近づく予想となってしまっています。
 さて、台風がやってくることによって心配なことがもう一つ。
 秋の楽しみの一つ紅葉・黄葉です。
 紅葉・黄葉の色づきは、台風の塩害や風害による葉の痛み具合によっても左右されます
 東京のいちょうは今はまだまだ緑色ですが、今月の終わりになると、北日本ではいちょうも色づき始めます。
 秋にきれいな紅葉・黄葉を楽しむためにも、大きな被害が出ないことを願うばかりです。

(2013/10/18(金)午前11:27チーム森田の天気で斬る「台風27号と紅葉」
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map


(注)With its ice-cold lake swim and mountain run, the Snowman triathlon is one of the toughest in the UK – but also one of the most exhilarating
http://www.theguardian.com/lifeandstyle/the-running-blog/2013/oct/16/snowman-triathlon-tough-test 
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2013年10月19日

八ヶ岳・赤岳2899m

 「山か、いいな、山は」…拓児の言葉通りです!

 ヤッホー君は10月18日金曜日と19日土曜日、仲間3人で1泊2日の山旅をしておりました。

 泊まった山小屋は、「赤岳展望荘」です、お世話になりました!

 早速、速報が届いておりますのでご紹介:

 2013年10月19日19:16付け

 一時間ほど前、高速の中央道に渋滞もなく、無事にヤッホー山荘に帰着しました。
 今朝は吹雪をついて山頂直下の小屋を早朝5時40分に出て、滑らないよう用心しながら、急坂のガレ場を小一時前かけ北峰、南峰の赤岳頂上を踏みました。
 次いで今度は、断崖絶壁を鉄鎖を頼りに岩崖の間を下り、『文三郎尾根』のガレ場を越し、階段を下り、9時40分に行者小屋着。
 無事の下山で堅い握手を参加した仲間3人で交わし、それから2時間の道のりで駐車場のある『赤岳山荘』にお昼の12時戻った、とこういうわけでして、初日の好天、二日目の吹雪、ガス、小雨と何でもありの厳しい八ヶ岳・赤岳への山旅を無事に終了しました!



 2013年10月19日20:14付け

 山歩クラブ『かわらばん10月号』にて公募しましたように、今年最後の山旅を1泊2日で10月18、19日の両日に3人の仲間にて、八ヶ岳・赤岳にて行ないました。
 初日は朝8時40分『美濃戸山荘』1710mを出まして、『行者小屋』2350mまで。
 お昼。ヤッホー君はいつものドカ弁です。
 さらに標高差360mの『地蔵尾根』を一気に鉄梯子、鉄鎖で登りつめていきます。
 小屋、『赤岳展望荘』到着は1時10分でした。
 小屋では、夕食の5時30分まで、他の登山客との談笑、八ヶ岳のビデオ鑑賞、そして祝杯とまさに至福のひと時です。
 初日は幸いにも、天候に恵まれました。
 写真を二葉、添付します。
 一枚目は、地蔵尾根の途中にでてくる地蔵仏です。
 そして二枚目は、稜線にでたときの地蔵の頭2710mです。
 もう美濃戸山荘から1000mの標高差をつめたことになります! 

P1017779.jpg

P1017782.jpg

 ところが山の天気は変わりやすい!
 本日2日目、冨士山の見える部屋でした。
 朝焼けに浮かぶ富士山のシルエットが、と期待して朝、起きましたら、なんと、あたり一面真っ白、山は吹雪でした。
 でもなんとか強風や氷雪をしのいで、鉄鎖を頼りに『赤岳展望荘』から赤岳山頂2899mをきわめました。
 感激の一瞬です。
 下りもゆっくりゆっくり、歩幅は小さく小さく、しかし一歩一歩、確実に踏み出す山歩クラブの基本動作通りを反復実践し、岩稜、断崖絶壁、ガレバの『文三郎尾根』を慎重に下って、無事『行者小屋』に下りました。
 来年の山小屋泊でどこの名山に挑戦したいか、27日日曜日までにご提案ください。お待ちしております。
 では、次回までごきげんよう!

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2013年10月18日

ツガル愛

 小栗上野介の巻その一(そのニは旧倉渕村を再訪した後、日記として著したく)を締めくくるにあたり、どうしても書き残しておきたいのがございます。
 名馬 Oguri Cap !

 1985年3月27日に北海道三石町(現新ひだか町)の稲葉牧場で生まれた。
 父ダンシングキャップ、母ホワイトナルビー。
 1987年に笠松競馬でデビューし、1988年に中央競馬へ移った。
 芦毛の馬体で人気を評し、初戦のペガサスステークスを皮切りにして重賞を6連勝した。
 「オグリ伝説」が生まれ、有馬記念、マイルチャンピオンシップ、安田記念とG1を制した。

 1980年代後半に競馬ブームを巻き起こして「怪物」の異名を取ったオグリキャップが2010年7月3日、北海道新冠町の牧場で放牧中に右後ろ脚を骨折した影響で死んだ。
 25歳だった。
 余生を送っていた優駿スタリオンステーションの関係者によると、一般公開中のパドックで転倒し、手の施しようがない状態だった。

…2010/07/03 23:14更新、共同通信「『怪物』オグリキャップ死ぬ 重賞12勝、ブーム起こす」

 25歳馬は人間でいえば100歳だったそうで、合掌。

 長寿といえば、『井の頭自然文化園』の象、はな子さんは66歳。
 今年の元旦、国内最高齢の記録を達成しております。
 山歩クラブの「タウンウオーク」でもあやかりたいと面会しいに行っております。
 ヤッホー君のこのブログ、昨年2012年6月20日付け日記、「山本有三記念館」をご参照くださいな。
 行きたかった『上野動物園』!:

 太平洋戦争中の上野動物園で、空襲によって猛獣が逃げ出すと危険だからと、ゾウをはじめ、多くの動物が殺されてしまった悲しい物語です。

 毒の入ったえさを食べず、最後まで残ったアジアゾウの「トンキー」が餓死したのは1943年の9月23日。
 今からちょうど70年前のことです。ただいま上野動物園の西園ズーポケットでは、この70年前の悲惨な歴史を忘れないためにも、企画展「猛獣処分70年 戦中戦後の動物園展」を2013年9月25日から開催しています(10月13日まで)。

 戦争が終わったのは1945年の8月15日。
 焼け野原となった東京で、復興への道を歩む人びとの心を支えたのもゾウでした。
 戦後最初に来日したはな子は、国内最高齢のゾウとして今も井の頭自然文化園で健在です。

(9/25-10/13「猛獣処分」から70年、戦中戦後の動物園展)
http://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=event&inst=ueno&link_num=21808

 でも山歩クラブの「タウンウオーク」でおじゃました横浜市立野毛山動物園(西区老松町)では、世界の最高齢のラクダとの面会が実現したのです。
 折り鶴に囲まれて、ラクダは痛々しげに口からアワを吹いて横臥。
 見にきているたくさんの子どもたちから「がんばれえ、がんばれえ」と温かい声援を受けていました。
 ヤッホー君のこのブログ、2013年09月28日付け日記「三渓園」もご参照くださいな。
 
 世界最高齢のフタコブラクダ「ツガル」(推定37歳・雌)の長寿を願う「ラクダの折り紙」が、野毛山動物園に約8千個寄せられている。
 敬老の日の9月16日に合わせて予定していた贈呈イベントは台風18号の影響で臨時休園となり中止されたが、18日にはツガルの展示場に飾る予定だ。

 同園によると、折り紙はツガルの長寿を祝おうと市民にとどまらず、県外からも郵送などで寄せられた。
 8月1日から9月15日までの約1ヶ月半で、予定の1000個を大幅に超える8085個が集まった。

 赤や青、ピンク、緑など色とりどりの折り紙で折られたラクダの中には、関節炎のツガルを模して、前脚を曲げて座っている形も。
 「長生きしてね」「元気でね」などの励ましのメッセージが書き込まれた折り紙もあるという。

 同園では、寄せられたラクダの折り紙をツガルの展示場に千羽鶴ならぬ「千頭ラクダ」にして展示する方針。

 飼育担当の桜堂由希子さんは
「まさかこんなにたくさん集まるとは思っていなかった。<ツガル愛>をあらためて感じ、とてもうれしい。これからもツガルを温かく見守ってほしい」
と話している。

(2013年9月17日付け神奈川新聞「世界最高齢・ツガルさん長生きしてね、野毛山動物園に折り紙8000個/横浜」)
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1309160016/

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2013年10月17日

そこのみにて光輝く

 埋蔵金、金脈を掘りあてること…

 これをモチーフにした早世の作家がいました。

 佐藤泰志(1949-1990)です。
 ヤッホー君のこのブログでも函館行以来、何度か取り上げてきている作家です。「山歩クラブ 佐藤泰志」で御検索ください。

 最近ヤッホー君が読み終えた作品は『そこのみにて光輝く』(河出文庫、1989年、河出書房新社、初出は「文藝」1985年11月号、第二章は単行本時書きおろし)です。

 背中の水滴はすぐ乾き、陽が毛穴から入り込んで身内を満たす。
 あと二ヶ月だ。
 そうすれば彼の20代は終る。
 妹はたびたび、墓の件とともに彼の結婚話を持ちだした。
 この前の手紙もそうだった。
 兄さんがいつまでものことを真剣に考えないのは、家族持ちではないからだ、と書いてあった。
 彼は読み流した。
 余程、のために結婚はできまい、と皮肉混りの返辞を出そうと思ったが、放ってある。 
 彼は目をあけ、砂をすくった。
 指のあいだから焼けた砂がこぼれ落ちた
 髪も乾ききった。
 あおむけになり、陽に顔を晒す。
 直接陽光が眼を痛める。
 両腕を投げだしてまどろんだ

(38頁)

 北の国への玄関口として賑わった街の盛夏、『早々に人びとの生活の上を過ぎる』夏の海辺での叙景です。
 『彼』とあるのは、11年勤め上げたドック、造船会社が希望退職を募ったとき、ストにも組合活動にも入らず、会社を辞めて『非生産的日常』を送っているサトウかサイトウか「馬の糞」(10頁)の『達夫』です。
 主人公の名前が特定されもしなければ、作中、『彼』となったり『達夫』となったりします。
 逆にこの<ぬえ>状の主人公こそ、サトウ・ワールドに<いらっしゃい>と読者を呼びこむ力の源泉、といってもいいでしょう。
 作品の文章は短いことが分かります。これもサトウ・ワールドに入場した読者があちこち見て歩くのに、軽快なリズム感を与えてくれます。
 そして、ほのかにただよう倦怠感、ゆらぎが、放っておいたり、まどろんだり、こぼれたり、寝転んだりするなかで表現されています。
 現代社会に流通している言葉の軽さや好い加減さとは対極な表現です。
 作中の行動はどれも、やみくもにゴール目指して猪突猛進するとか、ゴールへの達成度合いで自分が評価されたり、生きていることがゼロでも時給換算されたりしません。
 それでいて風のような、光のような、路傍の花のような必要性、必然性があります。

 サトウ・ワールドは、『どの家でも犬の皮を剥ぎ、物を盗み、廃品回収業者や浮浪者の溜り場で、世の中の最低の人間といかがわしい生活があると聞かされていた(12頁)』場所、『ニッポンが戦争に敗けてから、俺らの爺様や親父どもはここに住みついた。山背風の時は砂だらけでよ(12頁)』という場所、

 それを市が根こそぎ取り壊した。
 観光客のための美観とゴミ焼却場建設のために、代替え用に造った住宅だ。
 砂山はコンクリートで埋め、申訳け程度にハマナスを植えた。
 それからこの地にゆかりの若くして死んだ歌人の像を建てた。
 それも観光客のためだ。

(12頁)

 ヤッホー君、あれだ、「大森浜(啄木小公園)」のことかな、とすぐにピ〜ンときました。

 酔いでぐにゃぐにゃになった身体で、あるんだ、あるんだ、と拓児はしきりに頷いた。
 それさえ掘りあてれば、ガキの頃からのしみったれた生活とはおさらばだ、世間の奴らを見返してやる、あいつらが俺たちを何と呼んできたか忘れるものか、絶対、金鉱を掘りあててやる、親父の死に様を忘れないぞ、必ず俺の腕ひとつでひと山あてる、その前にまず水晶を掘るんだ。
 拓児はありったけの感情を込めて喋りまくった。

(132頁)

 主人公の達夫の義弟、大城拓児は、しかしひと山あてるその前に、拘置所に行ってしまいました、そのあと何年、刑務所暮らしになるのでしょうか、物語は拓児を置いて、達夫がひとり、4日後に山に向かう、という時点で終わってしまいました。

 「山か、いいな、山は」
(119頁)
 行きたくてうずうずしている拓児を置いて…
 ほら、ね。
 「ひと山あてるぞ」というゴールが、するするっと指のあいだからこぼれおちてしまう物語なのです。
 
 この文庫本の解説は、佐藤泰志と同い年、佐藤泰志と会ったこともある詩人で映画監督でもある福間健二(首都大学東京教授)。
 その福間さんは、3年前ですか、こんなことをお話しになっておられました:

 北海道では期待されていた作家の、長い苦労と闘病。
 “同人誌に書いている作家を出版界が食べていける作家に育てていない”と静かな憤りを込めて文芸誌の役割を問いました。
 今回文庫として復刊された『海炭市叙景』は、同人誌での発表から文芸誌『すばる』へと掲載が移り、途中で打ち切られた作品集です。
 作家は残りをまとめて書こうとしていた、もしこのまま続けられていたら1990年の自殺は無かったかもしれない。本当は帰りたくなかった故郷・函館へ戻って、作中で函館を作りなおして、今の世の中で生きていることの大変さを書いてやろうとしたんだと思う、という最後の作品についてのお話は、皆さんの心に深く残ったのではないかと思います。
 佐藤泰志とはある意味で文学的な作家だった、出てくる登場人物がみな佐藤泰志である、と締めくくられました。

(2010年10月10日佐藤泰志没後20年の命日に「『海炭市叙景』公開記念、〈佐藤泰志の文学〉ふたたび」と題して、スタジオマーレに4人の方々に登場して頂きました)
http://nishiogi-bookmark.org/

 佐藤泰志『そこのみにて光輝く』はいま映画づくりの真っ最中です:
http://hikarikagayaku.jp/index2.html
http://www.cinemairis.com/sokonomi/
http://eiga.com/news/20131008/3/

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2013年10月16日

徳川埋蔵金

 <徳川埋蔵金>って、今回の浅間隠山への山行とどう関係するのかな…
 実は山歩クラブの<埋蔵金探し>山行って、過去にも経験があるのです。
 まずは、平家黄金伝説を探す山旅から。
 
 イマから8年も前、2005年9月17日土曜日、栃木県の鶏頂山(1765m)を歩きました。
 開山は1700年前だそうです。山歩クラブのムカシのホームページにはこんな記述が:

 山と祈り
 むかし、むかしの日本人は山岳に浮遊している霊魂が神様の戯らで人間になり、人間の生命を全うすると、再び山岳に還ると信じられ、山岳に宗教的意味を与えていた、そうな。宮家準『霊山と日本人』(NHKブックス、2004年)ほか参照。1700年前に開山されたというのが本当だとすれば、538年の仏教公伝の前のことだよ。ここ鶏頂山に何があったのだろうか?想像力をくすぐります。平家の落人もここにおちのびてきたって、どうして?山歩クラブの10名は「猿田彦」(この神様は国造りの水先案内人だったようです!)のお導きを頼りに、朽ち果てたメイプルヒルスキー場のススキぼうぼうの斜面からはじまる登拝口におそるおそる入っていったのでした。
 空は高く青く澄み切ってはやくも秋もよう。枯木沼では、はじまったばかりの草もみじを楽しみました。そして、弁天沼に来て山の由来を知りました。ここが信仰登山の聖地であることが分かったのです。ふむふむ、それで鳥居があったり、弁財天が祭られていたり、霊水があったり、…頂上には高千穂を向いた社殿があったり…


 そしてその翌月の末にも栃木県、川治温泉のすぐ西に隣接する南平山1007mを歩いています。どうして?これもムカシのホームページからの引用です:

 南平山に黄金ざっくざっく、ここ掘れキッコロ
 9月山行の折り、どうして鶏頂山に平家落人伝説があったのか不思議でならず、参加者は懸命に古文書と首っ引きをして謎解きに懸命になりました。そしてとうとう、今からさかのぼること約800年前、源平の戦いに敗れた大将が鬼怒川をさかのぼって逃げる途中、南平山のどこかに金銀財宝を埋めたと言う歴史的事実をとうとう常澤さんが発見、その報告を受けた山歩クラブの面々は14名の編成にて、血相を変えてバスに乗り込みました!時は2005年10月30日日曜日。
 所は龍王峡の先。日本橋から50里になんなんとする(これにより命名された五十里湖<いかりこ>が先にあります)川治温泉岩風呂「薬師の湯」(300円、Tel 0288-78-0229)近く。その名もすでに<黄金橋>という橋を渡ったところに、登山口がありました。この山路はジグジグで、どんな険しい山道もジグザクに登っていけば蟻んこのようにいつかは頂上に立てると昔、聞いたことのある懐かしい味わいのある山路だったのです。面々は、もう確かに秋模様のする広葉樹林帯のなかを歩き出していきました。

 朝日と思えば釣瓶落とし、もう夕陽のガンマン
 しかし、今はもう秋!山を渡る風は冷たく感じ、もみじも緑の色が濃いのですが、紅葉を待ってられず、紅葉をすっとばしてもう雪がちらりちらり舞ってもおかしくないほどでした。
 南平山の山頂に書かれている黄金伝説とは、次のようなお話でした。

 約800年前、源平の戦いに敗れた平家の大将、米沢淡路守は、一党を引き連れて鬼怒川をさかのぼり、谷筋を一望する南平山に逃げのびた。
 しかし、源氏の執拗な追討により、さらに奥の川俣、湯西川まで落ちのびる際に平家再興のために蓄えていた金銀や漆を南平山のどこかに埋めたという。
 この財宝の埋蔵場所をときあかすカギとして
『朝日さす夕日輝くこのおかに漆千杯黄金千杯』
という歌が伝えられている。
…分県登山ガイド8『栃木県の山』9南平山(山と渓谷社、2000年)24頁


 ん、で、<徳川埋蔵金>(注)は?
 ね、もう一度、ロマンを求め旧倉渕村を歩いてみませんか? 「タウンウオーク」企画で!

 国が滅びる時、権力者がその座を追われる時、激しく移り変わるその時代の狭間に財宝と呼ばれる巨万の富が歴史の表舞台に顔をのぞかせる。
 フィリピン・マルコス大統領の遺産、ナチスドイツ・ヒトラーの財宝、ロシア・ロマノフ王朝の財宝…。
 実に総額数千兆円に達するという財産が、今も私たちの足元に眠り続けている!
 そして、日本にもたくさんの埋蔵金伝説が伝えられている。
 豊臣秀吉の黄金、山下泰文将軍の埋蔵金等々、しかしこうした隠し財産のなかでも最も多くの謎が残され、いまだたくさんの人々が探し求めているのが、幕末に埋めたといわれている徳川幕府の財宝、いわゆる<徳川埋蔵金>である。
 その額はなんと約10兆円!

 江戸城無血開城の時、官軍が真っ先にめざしたのは金蔵だった。
 しかし、中にはビタ一文の銭さえなかった。
 すぐに官軍側は徳川家の最高責任者・勝海舟に詰め寄ると、「小栗にきかれよ」とだけ答えた…
 <徳川埋蔵金>、唯一無二の黒幕といわれる最後の勘定奉行・小栗上野介
 果たして彼は何者だったのか

(日テレ『知ってるつもり?!』2000年5月7日放送『小栗上野介』。なおこの番組は、2002年3月24日をもちまして番組を終了しました。今までありがとうございました!)
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000507.html

 ね、再放送をお願いしたくっとも、テレビ受像機のないヤッホー君、日テレさんにどうお願いすればいいんでしょ?


(注) 『日テレ』のほかに、『テレビ東京』でも:
「徳川埋蔵金のありか」 By ハローバイバイ 関
 徳川の埋蔵金は、3ヶ所に分けて埋めてあるという。
 そのうちの2ヶ所はダミーで、本当に埋まっているのは1ヶ所だけ。
 その埋蔵金のありかを示す暗号が、「かごめかごめ」の歌詞にあるんだとか…。
(今回は、ウソかホントか分からない、闇のウワサに迫る、「芸人都市伝説!」やりすぎコージー(2005年8月6日放送)
http://www.tv-tokyo.co.jp/yarisugi/backnumber/050805/index.html

 さらに、現代の<埋蔵金>ってどうなったのでしょうか?

 読売新聞報道(といっても、記事は削除されてしまって、知る権利はどんどん狭められてきています、読むことができません)によると、国民新党代表の亀井静香金融相が2009年12月20日、名古屋市で講演し、2010年度予算編成に関して鳩山首相(当時)と電話で協議したことを明らかにした。
 亀井氏の発言によると、亀井氏は首相に対して「財務省があなたの組もうとしている予算に対し、財源として特別会計から15兆円程度出すことに『どうしてだ』と(反対の意見を)言ったら、勝(栄二郎)主計局長を首にすべきだ。人事を一新しなさい」と助言したとのことである。
 亀井金融相は、95兆円規模の予算規模を確保するためには、税外収入を15兆円確保する必要があることを指摘したのである。
(植草一秀の『知られざる真実』(2009年12月21日 (月)付けブログ「埋蔵金活用で95兆円予算を決断すべき鳩山首相」)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-3e0e.html

 この「勝英二郎」(1950年生まれ、現、インターネットイニシアティブ取締役社長に天下る)は、一部報道によって、「野田内閣は財務省に完全に支配されており、真の総理は野田ではなくその背後にいる勝であることが、永田町と霞が関の共通認識になりつつある」と報じられたことがある。たちあがれ日本の片山虎之助は2011年9月29日の参議院予算委員会で鈴木善幸内閣が田中角栄の影響下にあったことを「直角内閣」とよばれたことにならい、野田内閣を「直勝内閣」と揶揄した…これはウイキ情報です!
 亀井静香は、1936年生まれ、広島県選出の衆議院議員、現在「みどりの風」所属。


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2013年10月15日

はまゆう山荘

 帰りの車中、「大盃」の回し飲みをしながら浅間隠山お山歩を振り返ってみました。
 もう、ヤッホー君のこのブログ、昨日付けの日記「浅間山の展望台」ですでに、舞台設定は終っていますね。
 東善寺、はまゆう山荘、牧野酒造…はたして何でしょうか…

 行程表をおつくりになっていただいた仲間からはすでに、次のようなメッセージを頂戴しておりました:

 例会の浅間隠山はこちらで計画書をまとめてみます。
 二度上峠登山口からのピストンが一般的なので、これで良いかと思います。
 立ち寄り湯は、倉渕川浦温泉という面白い場所をみつけました。
 浅間隠山からの帰り道、旧倉渕村(現在は高崎市)にあります。
 施設はもともと、横須賀市のものだったようです。
 「はまゆう(浜木綿)」は横須賀市の花です! 
 浜木綿子は香川照之(市川中車)の母、…これは関係ない!

 なぜ横須賀市の建物が旧倉渕村にあるのか?
 これは幕末のあの小栗上野介につながるというから面白いですね。
 (ブログネタにどうぞ、徳川埋蔵金まで膨らませるかも)

…2013年9月20日 23:33受信

 ほら、ね、「はまゆう山荘」には、「山荘スタッフのブログ」があって「群馬県は高崎市倉渕にあります山荘の1日をお届けします」なんですが、2013年6月15日(土)〜16日(日)、1泊2日で『お酒の勉強会』が開催されていたのでした。

 今年も、地元倉渕の酒蔵・牧野酒造蒲lのご協力で、開催することができました。
(2013-06-16 18:52:58「お酒の勉強会」)
http://ameblo.jp/hamayu-sanso/entry-11553714997.html

 ほら、ね、幕末のあの小栗上野介の万延元年の渡米、世界一周の旅からの無事のご帰還を祝って祝杯をあげたのが牧野酒造の一本!
 そして、そして、小栗上野介の寺「東善寺」は、永井荷風ばりに薩長・明治政府による勝者の歴史記述を正そうとお努めになっていらっしゃいます:

ポウハタン号で渡米。咸臨丸ではない
 明治6年から始まった学校教育で、遣米使節の話は、日本人初の太平洋横断をした勝海舟という虚説(*)にすり替えて教えられ、その結果、使節が乗った船までも「勝海舟が乗った船」にすり替えられています。

(*) 日本人初の太平洋横断は、支倉常長で、1613(慶長18)年に石巻〜メキシコ〜ローマへ渡り、その3年前には田中勝助がやはりメキシコへ渡っています。勝海舟・咸臨丸ではありません。

地球一周の旅 遣米使節の行程
 万延元年、使節一行は9ヶ月かけて日本人初の世界一周をし、帰国した。

http://tozenzi.cside.com/aroundw1.htm
 
 江戸時代のことはこの方へ、という仲間も、小栗上野介、咸臨丸のことはよくご存知で、車中いろいろとお話しをされておられました。知らぬはヤッホー君だけ、ぽかんと大きな口を大盃代わりに開け、一升瓶を注いでいたって言うんですから、困ったもんです。
 銘酒なんだから、がばがばと河馬さんが水飲むみたいに飲むようじゃモッタイナイ!
 ばかなんだから、もうちょっと、勉強せんかい!
 怒られていました。

 当時、勘定奉行をしていた小栗上野介は横須賀の今日の発展の基礎となった横須賀製鉄所の建設を進めた人ですが、彼の領地が権田村(現在の倉渕村権田)であったことがきっかけとなっています。
 倉渕村権田は、小栗上野介が非業の生涯を閉じた最後の地です。
 彼の墓所は権田の東善寺にあり、斬首された川のほとりには「偉人小栗上野介罪なくして此処に斬られる」と刻まれた碑が建てられています。
 倉渕村は高崎市等と平成18年1月23日をもって合併し、自治体として消滅することになったため、横須賀市と倉渕村との友好都市関係はなくなりました。
 しかし、歴史的な関係と今までの友好関係を尊重し、新しく生まれる市の倉渕地域との交流は継続することとなりました。
 はまゆう山荘は平成17年10月より 横須賀市より倉渕村へ移譲され、平成18年1月23日より 高崎市倉渕町に位置することになりました。

(はまゆう山荘の公式サイト「はまゆう山荘の生い立ち」)
http://www.hamayu.org/facilities.php

 はまゆう山荘に置かれてあった小冊子『草炎』(短歌を中心とする文芸結社・草炎社、高崎市小八木町474-2 Tel 027-362-0454)、2013年10月号)をいただいてきました。
 酒と湯と偉才に触れたこころとからだに、片言隻語、しみわたってくる内容でした:

倉渕吟行

  時世とは言えども哀れここの河原に斬首されけむ上野介
  小栗公の斬首されたる川原は稲田となりて緑そよげる
  上野介打ち首にされし川土手にほのか紅さす姫女苑の花
  罪なきに打ち首にされし小栗公の家臣ら若き親族(うから)らの墓
  小栗公の墓はまだ高し竹林の中に憩えば風の涼しき
  倉渕の里を訪ひ来て生と死の相(すがた)を見たり古き遺跡に


(以上6首は草炎社主幹高橋誠一)

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2013年10月14日

浅間山の展望台

 浅間隠山、天気が良ければすべて良し(雨もまた良し、ですけどね)。
 頂上に立つと、からだの細胞のすべてが目覚めました。
 五感のすべてが生き返りました。

  見上げれば、広く澄みきった秋の青い空、
  山路には、青く咲き誇るリンドウ、
  その花弁に顔を寄せ、そっと触れてみる、
  木々の間から吹き渡ってくる汚れの無い空気、
  木々が風にすれる音、木の葉が舞い落ちる音、
  耳を傾けて聴いてみる季節の移ろい、
  そして山の頂は大展望の山並み、
  冨士や浅間や妙高まで見晴るかし、
  皆んなで箸をつつきあうお昼のひととき、
  誰も近寄らないヤッホー君のドカ弁、
  でも昨夜、秋鮭と栗をいっぱい詰めてきたんだ、
  秋味、…

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 これが頂より眺めたる浅間の勇姿と緑なす浅間高原。撮影は遊子哀しむヤッホー君。

 浅間隠(あさまかくし)山は倉渕村・吾妻町・長野原町にまたがる名山。
 浅間高原を見下ろす独立峰で、頂上は森林限界を抜けた草地のため展望がよく、関東平野からよく見える秀麗な山として知られてきました。

 近ごろ浅間隠山に登る人が急激に増え、昔は日曜日だけ登山者4、5人だった山が、いまは道路わきの駐車スペースがあふれて探すのに困るほどとなり、ツアー会社がバスで団体を連れてくる山に変貌しました。

(東善寺の公式サイト、山だより「浅間隠山の保護」)
http://tozenzi.cside.com/zzasmakakusi.htm

 汗を流した立ち寄り湯はカッシーのご推奨、「はまゆう山荘」(高崎市倉渕町川浦27-80 Tel 027-378-2333)天然温泉「美肌の湯」。

 当施設は1988(昭和63)年に第29回建築業協会賞を受賞しており(注1)、北欧のシャトーやスペインのパラドール(注2)を思わせる建物です。
(はまゆう山荘公式サイト)
http://www.hamayu.org/

 黄金色の天然温泉は、泉質はナトリウム、カルシウム、塩化物、硫酸塩温泉。
 三種混合の湯ともいわれ、疲れた身体をゆったりと癒してくれるのはもちろん、肌がモチモチ、ツヤツヤになると女性に好評です。

…公式パンフ「小さいけれど豊かな発見、はまゆう山荘」 

 酒類・食料品のお店、三木商店で求めた地酒は、群馬県で最も古い倉渕の酒蔵・牧野酒造(高崎市倉渕町権田2625-1 Tel 027-378-2011)の純米酒「大盃」。
 車内で回し飲み、美味しかったですね。
 それもそのはず、山紫水明の地、榛名山の清冽なる伏流水を使った山の恵みですから。

 1690(元禄3)年、現在地にて初代長兵衛が酒造りを始める。
 江戸期まで代々長兵衛を襲名し、酒の銘柄は『長盛』といっていた。
 1860(万延元)年に幕府勘定奉行、小栗上野介が遣米使節として渡米した際、先祖が随行し無事帰国後、大きな盃で祝盃をあげたことから酒銘を『大盃』と改銘した。
 『大盃』は全国新酒鑑評会及び国税局鑑評会にて金賞受賞二十数回の実績を誇る品質本位のお酒です。

(牧野酒造の公式サイト「大盃ものがたり」)
http://www.makino-sake.co.jp/about


(注1) 1988年、昭和63年に第29回建築業協会賞(BCS賞)を受賞しております。群馬県ではほかに、群馬銀行本店、群馬ロイヤルホテル、群馬県立女子大学、群馬県立図書館、前橋市新庁舎、減摩県立歴史博物館、草津音楽の森コンサートホール、高崎シティ・ホール、群馬県立館林美術館の10件の建物が受賞しております。
http://www.hamayu.org/oldsite/bcs/bcs.html

 当時、はまゆう山荘は「横須賀市民休養村」となっておりました。また、「建築業協会」は、いま「日本建築業連合会」となっています。
 なお、第54回受賞作品(2013年)は、次の通りです:

『一般社団法人日本建設業連合会(会長:中村満義 鹿島建設社長)は、全国各地からの応募作品65件のなかから、大学等において建築に関する学科を担当(研究を含む)する教授又は教授相当の方、設計事務所において設計業務を担当する役員、建設会社において設計、施工等を担当する役員、合計12名で構成する第54回BCS賞選考委員会の厳正な選考を経て、7月18日、「第54回BCS賞」受賞作品として17件(うち特別賞1件)の作品を決定いたしました。
 今回の17作品を加え、54回までの受賞作品総数は、864件となります』
(日本建設業連合会公式サイト)
http://www.nikkenren.com/activity/bcs/index.html

(注2) スペインに行ったら一度は泊まってみたいパラドール。
 古城など歴史的・伝統的な建造物を改装したり、模したりしたスペイン国営ホテルで、スペイン全土に90ヵ所を数えます。
(地球の歩き方)
http://tabiplaza.arukikata.com/hotel/parador.html
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2013年10月13日

浅間隠山1757m

 今日10月13日日曜日は、山歩クラブ月例お山歩会の日。
 18人で歩きました。
 秋晴れの陽の光をからだいっぱいにあびながら、爽やかな風をからだ全体で受けながら、そしてからだじゅうの解放感を味わいばがら。
 とても気持ちよく、秋の歌を歌いながら、秋の山を歩くことが出来ました。
 これもすべて日頃の仲間の皆さん、心がけが大層良かったことへの贈り物として素直に受け止めておきましょう。
 道中、途中の高速道路で、事故渋滞があったり、高速道から下りて、県道長野原倉淵線を走っていったときも、「二度上峠」手前で交通事故があったり、はらはら、どきどき、もじもじしてしまいましたが、われわれのまとまった気持ちですべて乗り切ることができました。
 行程表をゆとりをもたせた「のりしろ」のある設計をしてくれたリーダーがいてくれたからこそ、下山したら最初の行程表通りだったりするわけです。
 別の仲間は初めから最後まで終始、皆んなをリードして、走り通してくれた方もおられました。
 皆さんのがんばりでいつものわいわいがやがや、大っきな笑顔で全員歩きとおすことができました。
 ヤッホー君、とってもうれしかったそうです。
 これからも皆んなで楽しいお山歩会をしていきましょうね。
 頂上での山座同定は快晴のなかの360度、からだをひねりながら、あっ、これが浅間さま、おっとぅ〜、あれがお冨士さまだよ、あれ、これ、なに、と歓声をあげながら、いつもの山あてっこ車座会議で盛り上がりました。
 お弁当をひろげたときも楽しかったですね。
 会計をしてくださった仲間、ありがとう!
 お子さま連れで出席した親子の仲間、お子さんも元気に歩き通してくれましたね、ありがとう!
 そして今日付けで、あたらしく会員になってくださいました方も、ありがとう!
 これからもよろしく!では皆さん、ぐっすりおやすみなさい…

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追伸その1 以下が専用バス車内忘れものです:
 ストック一本;
 お土産「群馬 下仁田ねぎポテトチップス」(販売者: (株)つるまい本舗(沼田市白沢町上古語父79 Tel 0278-53-3311) 

追伸その2 地酒を買い求めた酒屋さんです。ぜひ立ち寄ってお買い上げくださいね:
 三木商店(高崎市上室田町2122-3 Tel 027-374-0253)
 
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2013年10月12日

仏フェミナ賞

 辻仁成は1999年、『白仏』(仏翻訳語版 Le Bouddha blanc)で「仏フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として初めて受賞しています。
 現在、日本では「京都造形芸術大学」文芸表現学科の教授さまでいらっしゃいます。

 今日10月12日土曜日も東京は暑い!12時過ぎにはまた30度を超えて、最も遅い真夏日記録を塗り替えてしまったそうです。
 暑さによる汗で目が潤んだのか、いえいえ、佐藤泰志とはなんという違いでしょう…、とヤッホー君、ふたりの人生を思いやって涙ぐんでおったそうでございます:

 フランクフルトのブックフェアで、私の作品『白仏』(はくぶつ)がフランスの編集者の目に止まったのは、今から2年前くらい前の1999年のこと。
 フランス語版の『白仏』(Le Bouddha Blanc)は発売の翌々日に、フランス三大文学賞の一つフェミナ賞(Prix Femina Award)の外国部門賞にノミネートされた。
 丁度宣伝のために来仏していた私を驚かせたのは、その賞が百年も歴史のある賞で、受賞者の中にはロマン・ロラン(Romain Rolland)やサン=テクジュペリ(Saint-Exupery)のような大変有名な作家が名を連ねていることであった。

 パリに着いてすぐ、私はル・モンド紙(Le Monde)の片隅に自分の名前を見つけることになる。
 編集者のマリ・ピエールは、はじめてフランスで出版された作家の本がノミネートされることは非常に稀なことだと、喜んでくれた。
 インドやオランダの大作家の名が私の名とともに並んでおり、正直、最初は何かの間違えだろう、とまともにはうけとめることはできなかった。
 それがその2ヶ月後まさかの受賞となり、再びフランスへ向かう飛行機に乗ることになるとは、その時はまだ夢にも思ってはいなかった。

 空港で私を待っていたのが、翻訳家のコリーヌ・アトラン(Corinne Atlan)であった。
 自分の小説は外国で数冊が既に翻訳されていたが、翻訳者と会うのは初めてのことである。
 コリーヌは三十代半ばのアジア的雰囲気を持った女性で、さらに言えば非常に奥ゆかしく、どこか昔の日本女性を思わせる物静かな人であった。
 だからか、最初からとても気があい、無理せずに向かい合うことができた。_

 受賞の一つの理由には、当然翻訳がすばらしかったことがあげられるだろう。
 彼女は私の文体を出来る限り忠実にフランス語に訳すことに神経を使った、と言ってくれた。
 日本の人気作家の多くの作品を手がける彼女だったが、『白仏』には特別な思い入れがあったようだ。
 実際彼女の前のご主人もモンゴルの人であった。
 日本で暮らしていた時期も短期間だがあり、アジア的な思想のバックボーンもしっかりと持っていた。
 『白仏』の独特の死生観というものは、或いは彼女でなければ表現できなかったかもしれない。
 そういう意味で、もしもコリーヌ以外の人が翻訳していたら、あの作品が受賞することはなかっただろう。
 それくらい、翻訳家の力は大きかったといえる…

 コリーヌ・アトランは5月発売予定(2001年5月16日、Mercure de France社から出版された)の『海峡の光』の翻訳を既にほぼ終えている。
 私と彼女はメールを使って、内容に関してのいくつかのやり取りをした。
 この作品は『白仏』の前の作品で、日本では芥川賞を頂いたもの。
 函館の少年刑務所の中での物語だが、コリーヌは当然函館のことを知らない。
 「砂州の上に出来た街」とはどういうことか、と質問がメールされてきて、私は思わず苦笑した。
 砂州を説明するのは言葉ではむずかしく、仕方がないので私は絵を描いてそれを送り返した。
 箱庭的な宇宙を表現したかったので、砂州をうまく説明してもらわなければ、物語の世界観が伝わらないからだ。
 『白仏』よりももっと翻訳が難しい、と彼女は言ったが、確かにあの小説は私の作品の中でも非常に難解な部類に入るものであり、ロールプレイングゲームのような隠された意図を持っていた。
 その意図に関しては私は受賞後も口を固く閉ざしてきたし、インタビューなどでも明かしたことはない。
 今回、きちんと彼女に説明しておいた方がいいと感じたのは、彼女もまたフランスの読者に対して作者の片割れとなるからなのである。
 コリーヌ・アトランとは、今後も多くの作品を共同で世に送り出していきたい。
 日本語的に言えば、つまり「二人三脚」ということになる。

(国際交流基金ソウル日本文化センター日本語版『カチの声』2003年7月第4号、初出は、Japanese Book News第33号(2001年春発行)。この転載)
http://www.jpf.or.kr/language/pdf/200307.pdf

 この作品、『白仏』の舞台は北九州、大川市の大野島である。
 久留米大学から見れば地元とも言える場所なので、多くの学生とって馴染みのある地名。
 方言が出てくるのでそれだけでも楽しいと思う。
 作者の辻仁成の祖父が大野島出身ということで、作者は自分の祖父を主人公にしてこの作品を描いている。
 小説なので多尐、辻流のアレンジはあるが、基本的には事実に即した読み物である。
 『白仏』は、この島に生きた明治生まれの鉄砲屋の壮絶な生涯、とりわけ骨仏づくりに捧げた晩年を描いた物語である。
 最大のテーマは過去と未来、一体となる命とはどういうことかになるだろうか。
 この作品はフランス語に翻訳され、それがフェミナ賞外国小説賞を受賞している。
 極めて日本的な作品のように一見思われるが、実はフラン人の世界観、価値観とも相通するものがあるというこの証明だろうか。
 読み易い作品なので、まずは一読を勧める。

(久留米大学文学部安藤裕介「大川・大野島を舞台とした明治人の生き方、フランスでも高評価を得た命の物語」)
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/miilib/pdf/

 辻さんは2年前の「愛情路線(2011年10月18日)」で、次のようにお書きになっておられます:

 フランスの文化雑誌 TECHNIKART の記者さんからの質問にフランス語で答えたものです。
 日本語訳もそのうち掲載出来ればいいですね。
 (なお文中のダリアはフランスではスイユ社から、日本では新潮社から発売になっています):

Q4. Il y a également dans ce livre une dimension fascinante, celle de la porosité entre le monde des vivants et celui des morts. Ce n'est d'ailleurs pas la première fois qu'on trouve ce genre de thématique dans vos livres - les fantômes étaient déjà là notamment dans Pianissimo, pianissimo. D'où vient cette fascination pour cette idée d'une autre face du monde, une face rêvée, cachée et mystérieuse?

A4. Parmi les membres de la famille se trouve surtout un personnage âgé, le grand-père, qui est déjà parmi les morts. Avant de quitter notre monde, il exprime sa fascination pour l’humanité, pour la vie.

Q5. Un autre élément important de ce roman est la question de la mémoire.

A5. La mémoire est essentielle à l’homme pour vivre humainement. Perdre la mémoire, c’est perdre une part de son humanité. Les personnages du roman sont dépendants de leur mémoire, des souvenirs qu’ils ne peuvent effacer, concernant des êtres qu’ils n’arrivent pas à retrouver. Tout en vivant au présent, les hommes se trouvent sous la domination de la mémoire, c’est-à-dire de leur passé. Il me semble qu’il n’est pas exagéré de dire que tout le monde est destiné à mourir dans une mémoire. En décrivant des personnages souffrant d’une mémoire envahissante ou défaillante, j’ai voulu réfléchir à cet animal doué de mémoire qu’est l’homme.

Je pense que connaître le passé est une façon de construire l’avenir. Les personnages du roman tentent, chacun à sa manière, de relier le passé et le futur. L’humanité a réussi à atteindre le 21ème siècle, mais ni la faim ni le terrorisme ni les catastrophes ni les désastres n’ont disparu. En soulignant sa capacité à aimer, en approfondissant son histoire, j’aimerais penser que l’homme sera capable de transformer le 21ème siècle en une ère de paix.

Chaque personnage du roman, tout en étant emporté par le courant de son époque, tente de résister et d’aimer. J’ai construit une histoire dans laquelle passé et présent se mélangent. Les personnages du présent et du passé se croisent de façon complexe ce qui donne de la profodeur et plus d’ampleur au roman. C’est aussi l’expérience que fait chacun de nous en affrontant une époque terriblement complexe.

Le règne actuel du terrorisme, des catastrophes, des desastres, avec mille nouvelles situations inattendues auxquelles faire face, cela me semble être un enchaînement d’épreuves. Dans mon roman, j’ai voulu montrer combien il était essentiel de réexaminer l’histoire, de réapprendre de notre passé. De montrer aussi combien le présent est le résultat de l’accumulation du passé.Tout comme la technologie. Ou l’amour.

 す・ご・い・、フランス語で出版され、フランス語でお答えになっています!

 私は学生時代は仏文専攻、フランス語もそこそこ喋れたし、フランス語の小説を翻訳して出版したこともある…
 神楽坂はアウエイ感に満ち満ちていた。
 ここにフランス人が集まるようになったのはリセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京というフランス人学校とフランス文化の発信地であるアンスティチュ・フランセ東京(旧称、東京日仏学院)があるからだというが、どちらの施設もおそるおそる接近すると鳥のさえずりのような話し声が聞こえて私はにわかに緊張した。
 アフリカ人相手ならなんとか意思の疎通ができるのだが、フランス人の喋る軽やかな発音はてんで聞き取れないのだ。

…高野秀行『移民の宴』第5章「神楽坂のフランス人」(2012年、講談社)126-127頁

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辻仁成

 ヤッホー君に北海道の仲間よりこだまが帰ってきました:

 『書くことの重さ』は今、函館でも上映されているそうです。
 佐藤泰志さんの高校はサブちゃんも通っていた元町の函館西高です。
 辻仁成も同じ高校で学んでいます。
 お気の毒に、死んだ後になってから評価が高まっている作家です。
 不運な時期との遭遇としか…。
 「函館市文学館」には履歴が写真で展示されています。
 石川啄木の次に、可哀想な作家と私は感じてます。
 映画を鑑賞していただき有難うございます。

追伸
 監督は佐藤さんと同じ年で高校2年生の時(1966(昭和41)年)、佐藤泰志さんが『市街戦のジャズメン』で第5回「有島青少年文芸賞」最優秀賞を受賞。
 監督は『幕が上がるまで』で入選、努力賞か優秀賞で、以後、手紙で時どき交流がありましたが、会ったことは無かったそうです。
 それが縁で、映画『書くことの重さ』になったようですよ。


 ヤッホー君の知らなかった世界がまたでてきました。
 辻仁成?!
 佐藤泰志より10年後の1959年10月4日、東京生まれの54歳。
 歌手・映画監督では「つじじんせい」、作家・本名では「つじひとなり」。

 公式サイトは:
http://www.j-tsuji-h.com/html/Topix/
 公式ブログは「愛情物語」:
http://www.j-tsuji-h.com/html/from_tsuji/index.htm

愛情路線 2011年6月29日

 福島に行くことが決定しました。
 直接、絵本『ラペのくにから』を子供たちに届けてきます。
 そして、紙芝居も作ったので、各幼稚園でやってきますね、きっとみんな喜んでくれるでしょう。
 でも、もうひとつのおいらの目標は、原発にもっとも近い幼稚園の園長先生はじめ先生方が抱える苦悩を知ることです。

 日本は大国だと思っていたので、今回の震災の問題も国力をあげてすぐに解決出来ると思っていました。
 なのに、ふたを開けてみると、復興地の給食に、やっと先週くらいに白いご飯が出た、と聞いて、思わず泣きそうになりました。
 なんで? どうして? そんな国なのに、原発なんて作っちゃだめでしょ?
 パンと牛乳だけで子供たちを3ヶ月も放置する大国、先進国なんて聞いたことないです。
 政局の足の引っ張り合いは、人間としてまず悲しいです。

 とにかく、大切なことは子供たちの未来を健康を命を守ることです。
 何もかも、簡単ではないんですね。
 そこで苦悩する先生方の声に耳を傾けてきたいとおもっています。

http://www.j-tsuji-h.com/html/from_tsuji/backno.htm

愛情路線 2011年3月20日

 この歌が、被災された方々の心によりそえますように。
 I am with you (とおくはなれてても)
http://www.youtube.com/watch?v=Y_rw8eaGlZk


 小説家でミュージシャンの辻仁成が2013年4月8日朝放送の日本テレビ系「PON!」に生出演、パリでの妻・中山美穂との私生活の断片を”うっかり”明かした。
 テレビの生出演は「10年以上やっていない」という辻、この日は「ベールに包まれた辻仁成のプライベートを大公開」というテーマのトークに応じた。
 その中でふだんの過ごし方について「出不精でずっと家で過ごしてます。たまにシャンゼリゼなんか行くと、すごいね、なんて」。
 料理が好きで自分でいろいろ作っていることを打ち明け「なんでも作ります。和食とか…奥さんが塩こうじとか田舎ミソとか作ってて、ベランダなんか農園みたいになってますよ」と語ったあと「あ、あまりしゃべるなって言われたんだっけ」と自分で口をふさいだ。
 しかし「何でも作ってます。(中山美穂が)ヘルシーとかにこだわってて。向こう(パリ)はあまり食材がなくって」といったん開いた口が閉ざされることはなく、サービストークが続いた。
 辻と中山は2002年に結婚してフランスのパリで生活、2004年には長男が誕生している。

(2013年4月8日付けデイリースポーツ「辻仁成が中山美穂とのパリ生活明かした」)
http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/04/08/1p_0005882528.shtml

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2013年10月11日

書くことの重さ

 佐藤泰志…、そうなんです。
 ヤッホー君、10月8日火曜日に新宿「K'sシネマ」(新宿区新宿3丁目35-13 3F Tel 3352-2471)まで行きまして観賞してきたんです。
http://www.ks-cinema.com/

 作品は2013年『書くことの重さ』(監督:稲塚秀孝、語り:仲代達矢、出演:佐藤泰志/加藤登紀子/村上新悟)。
http://kakukotonoomosa.com/

 函館の風景がたくさん出てきます、ヤッホー君が3日間歩いた土地です。
 ドキュメンタリーなので昭和の情景がたくさん出てきます、ヤッホー君が育った時代です。
 テーマ曲のシューマン「トロイメライ」(『子どもの情景』)が劇場を出てからいつまでも、いつまでも耳に残ります。

 監督の稲塚秀孝は、映画の公式サイトでは次のように紹介されていますが、佐藤泰志と同世代でした。
 ヤッホー君、監督に僭越ながら「負けないでいい仕事を続けていってください」とこころのなかでエールを送っていましたよ。

 1950年北海道苫小牧市生。苫小牧東高校→中央大学文学部哲学科卒 1973年〜テレビ番組製作会社「テレビマンユニオン」で番組製作。『遠くへ行きたい』『オーケストラがやって来た』、3時間ドラマ『海は甦える』を始め、ドキュメンタリードラマ製作に携わる。
 1985年〜タキオン設立、現在(株)タキオンジャパン代表取締役。


 監督は昨日の3月10日、映画館「K'sシネマ」にやってきて、こんなことを:

 10日、稲塚監督の舞台挨拶が無事に終了致しました!
 平日の朝というのにも関わらず、お越し頂いた方、有り難うございました!
 舞台挨拶で稲塚監督は、大学時代に、昔ご自分が佐藤泰志さん宛に書かれた、お手紙のさわりを朗読されました。
 内容はご本人曰く、佐藤泰志さんへの憧れと対抗心でいっぱいの...小説の評価文だそう。
 お二人のやりとりはその手紙だけです。
 若き日の憧憬と、今になって強い存在感を放っている手紙が、佐藤泰志さんがこうして映画化されていることに対する縁をつないでくれたような気がしますね。
 稲塚監督の佐藤泰志さんに対する眼差しにあふれたひと時でございました。

 さて!連休初日、明日土曜日の3月12日は、朗読に芝居に函館にチラシ配りに…と、この度、本当に多くのご助力を頂いた、俳優の村上新悟さんの舞台挨拶がございます!
 皆様、是非是非、村上さんのお話をお聞きにいらしてください!
 村上さんは、仲代達矢さん主宰の「無名塾」ご出身の実力派俳優。
 撮影を通して感じた佐藤さんへの思いを語って頂きます。

https://www.facebook.com/kakukotonoomosa

 舞台挨拶には、佐藤泰志の母の役を演じた加藤登紀子も:

 これまで加藤と稲塚監督は『フクシマ2011〜被曝に晒された人々の記録』をはじめ、いくつかの作品で音楽・ナレーションなどでタッグを組んできた。
 だが今回、加藤は再現ドラマ内で佐藤の母親を演じた。
 「稲塚さんはいつもいい仕事をしているんで、声がかかると一度も断ったことがなかったけど、今回は俳優ということで迷ったのよ。でも絶対に悪いことがないからと勧められたんでやりました」と振り返る。

 佐藤は1981年に『きみの鳥はうたえる』で芥川賞候補となって以降、計5回にわたって候補に選ばれながらも全て落選。
 本作ではその時の選考会の様子まで、再現ドラマで映し出している。

 加藤は「わたしは戦争を知っている世代なので、(芥川賞の選考委員だった)開高健さんたち戦中派のズタズタな気分もちょっとわかる」と切り出すと「(そんな戦中派に対して佐藤は)ある意味、近代社会において、人間が人間として丸ごと100パーセントで生きられない、満たされないどうしようもなさを描こうとしたんと思う。でも、彼が全身全霊で、自分の血を振り絞って書いたものに対して、『物足りない』『取るに足らないこと』『他愛もない』といった一言で切り捨てた世代に対してわたしは怒っています」と佐藤を擁護。

 それを踏まえた上で「わたしたちの世代が次の世代の人たちを受け入れようとしなかったら、ぶん殴ってやってください。若い人たちは(上の世代を)蹴飛ばすためにちゃんと足腰を鍛えてください」と若者に向かって叱咤激励を送っていた。

(2013年10月5日15時00分シネマトゥデイ映画ニュース(取材・文:壬生智裕)「加藤登紀子、不遇の作家への無理解に怒り…若い世代にエール」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0056984

 稲塚秀孝監督、仲代達矢、加藤登紀子のトリオは、前作『フクシマ2011〜被曝に晒された人々の記録』では:

 原発事故を起こした日本の国際的な対応に触れて、(加藤登紀子は)「今日本がちゃんと新しい未来に向かって歩んでいけるかの瀬戸際だと思います。原発事故を起こしてしまった国が、世界に対して脱原発と言えないのはありえないことだと思う」と疑問を投げ掛け、苦言を呈する場面も。

 最後には「今後も被災地に寄り添い支えていくべきだと思います」と加藤は訴え、「東京の電気を福島で作っていたわけです。わたしも東京、関東の人間として何をしたらいいのか、この映画を通して感じていただけるきっかけができたらいいなと思う」とこの問題が決して被災地だけの問題ではないと切々と語った。

 本作は『二重被爆〜語り部・山口彊の遺言』の稲塚秀孝監督が、東日本大震災で地震と津波、原発事故の三重苦を強いられた人びとの姿を追ったドキュメンタリー。
 ナレーションを俳優の仲代達矢が務め、原発事故後の被ばくの危険にさらされながらも必死に生きようとする住民たちのリアルな声を届ける。

(2012年3月19日付けシネマトゥデイ映画ニュース取材・文:中村好伸「熱弁をふるった加藤登紀子」)
http://www.cinematoday.jp/page/N0040380

 この作品『フクシマ2011〜被曝に晒された人々の記録』も、必見でした:
http://fukushima2011-hibaku.com/

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2013年10月10日

Imagine Peace Tower

 オノ・ヨーコからのメッセージ
 ご友人のみなさまへ

 2013年10月9日に、亡き夫ジョン・レノンの記憶を称えるため私は、アイスランドのImagine Peace Towerをふたたび点灯します。
 イマジン・ピース・タワーに願いを送り、この点灯式に参加するよう友人の方々に呼びかけてください。
 ドリーム・パワーのホームページでメッセージを送れます。
http://www.dreampower-jp.com/message/tower/wish.html
 郵送、メール、ツイッターを通して願いを送ることもできます。
 友人の方々に伝えてください。
 このことを広めましょう!
 イマジン・ピース・タワーが、地球の隅々から発信される世界平和への強い願いに光を当て、今は恐怖と混乱に満ちた世界に、勇気とインスピレーションと連帯感を与えることを願っています。
 みんなで団結して平和の世界を実現しましょう。
 愛は私たちのエネルギーです。
 知恵は私たちのパワーです。
 世界の隅々に光を当てるべきときがきました。
 私たちが共に行なう旅を楽しみましょう。
 愛をこめて
 Yoko Ono Lennon
 2013年10月

※ 点灯開始時間は...日本時間では10月10日の午前5時に点灯し、アイスランドで夜が明けるまでみられます。その後、ジョン・レノンの命日まで毎日点灯します。

(Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ 最新ニュース 世界の恵まれない子どもたちに学校を贈ろう)
http://www.dreampower-jp.com/message/index.html

Imagine all the people living life in peace
John Lennon

A dream you dream alone is only a dream
A dream you dream together is reality
Yoko Ono

http://imaginepeace.com/

オノ・ヨーコ(1933年生まれ)
ジョンレノン(1940年10月9日-1980年12月8日)

 1971年作「イマジン」:
http://www.youtube.com/watch?v=dS5A9gzQfWQ

 ところで、ビートルズ大ファンだった作家の佐藤泰志って知っていましたか?

佐藤泰志(1949年4月26日-1990年10月10日)…

 佐藤泰志は1990年10月9日夜、ロープを持って家を出ました。
 ジョンレノンが生きていたら50回目の誕生日の日の夜のことでした。
 佐藤泰志41歳のときです。

 1988年11月号から1990年4月号(その号で文芸誌「すばる」は掲載中断され、その後完成することはありませんでした)まで6回にわたって連載されていた『海炭市叙景』という作品を知っていましたか?

 待合室がにぎわったのは、夜明け前と昼すぎの下りのロープウエイの到着までだった。
 その後、山に登る人も下る人もいない。
 わたしたちと共に、初日の出を眺めるために、海峡に突きでた、たった389メートルの山に登った人びとは、もうすべて家へ帰ってしまった。
 今頃はあらためて、温かい部屋で新年を祝っているだろう。
 うらやんではいない。
 わたしたちとは違うというだけだ…

(第1章 物語のはじまった崖 1 まだ若い廃墟、小学館文庫、2010年、10頁、初出は文芸誌「すばる」1988年11月号)

 この『海炭市叙景』は映画になりました。
http://www.kaitanshi.com/distance.html

 2008年の夏、『海炭市叙景』をはじめて読みました。
 「函館」とおぼしき街、海炭市を舞台に綴られた18の掌編は、20年前の小説とはとても思えないほどリア ルに今の時代を感じさせました。
 そこには私の隣人や友人、そして私自身が描かれていました。
 まるで函館の街の息遣いが聞こえてくるようでした。
 疲弊した地方の街で「生きる意味」を懸命に見出そうとする人びとの姿を描くことは、同じような地方の街で生きる人たちに、ささやかだけれどかけがえのない「希望」を感じてもらうことのできる、普遍的なテーマだと思います。
 函館が生んだ作家・佐藤泰志の『海炭市叙景』の映画化を、市民映画として2010年2月に映画化するため、私たちはその一歩を踏み出しました。

(映画製作実行委員長、函館のミニシアター「シネマアイリス」支配人・菅原和博氏)
http://www.kaitanshi.com/distance.html

 「平成の大不況」に入る前、「バブル経済」最後のころですが「その活況は海炭市に届かない」(文庫版解説は評論家川本三郎)。 

 そうなんです、迷蝶はジョンレノンの生れた日、佐藤泰志が死出の路を歩んだ日、10月9日の深夜から舞いわたり続け、南の島から「北の国」へと、どうやら舞い戻ってきたようなんです。

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2013年10月09日

標的の村

 「北の国から、南の島にわたった蝶、ヤッホー君の迷蝶、第四弾」と書きましたところ、朝っぱらから酔っぱらてんじゃない、耄碌するにはまだ早いんじゃないの、といつも読んでくれてるヤッホー君の読者からご指摘を受けました。
 失礼しました。
 第三弾、です。
 10月6日日曜日、東西線の「落合」下車でふら〜り、「ポレポレ東中野」(中野区東中野4-4-1ポレポレ坐ビル地下 Tel 3371-0088)で映画『標的の村』を見る算段です。
http://www.hyoteki.com/trailer/

 ポレポレってスワヒリ語で「ゆっくり、ゆっくり」とか「ぼち、ぼち」とか意味があるそうで、山歩クラブと同じですね、といってもその映画館に入るのははじめてのヤッホー君、ちょっと緊張気味です:

 「ポレ2」は、注目株の新人作家作品、ドキュメンタリー作品を通して、アーティスト・ニュース・社会問題など、情報の発信源となるような映画館を目指しています。
 スタッフ一同、刺激的、かつ皆様に楽しんで頂けるような作品をラインアップしていけるよう、頑張ってまいります.
 また、上映作品だけでなく、ロビーや各種サービス等、皆様に気軽に楽しんで頂ける映画館になるよう、努力していきたいと思っていますので、どうぞ末永く、よろしくお願いいたします。
 皆様のご来場を心よりお待ちしております。

 10月6日(日)12:40の回上映後、沖縄の森林性のチョウを研究している「アキノ隊員」によるトーク
 ◇プロフィール: 沖縄の森林性のチョウを研究。2011年9月より高江の昆虫類を調査。高江で準絶滅危惧種であるリュウキュウウラボシシジミやリュウキュウナミジャノメが多産していることを確認した他、新種のカニムシや希少なゴミムシを発見。ブログ「アキノ隊員の鱗翅体験」で、高江の調査の様子を報告。
 ◇お話する内容: 高江にいる希少な生き物たちを紹介します。

http://www.mmjp.or.jp/pole2/

アキノ隊.jpg

 2013年8月から先行上映された東京と大阪では、連日入りきれないほどの観客が集まり、好評を博している。
 本土でほとんど報道されない高江の問題を目にした観客からは
「ここまでメディアの機能が停止していたとは知らなかった」との感想も寄せられている。
 映画監督三上智恵さんは
「高江の子どもたちが泣く姿を映像で見て、それでも『安保をむさぼりたいから、高江の子どもが泣いていても平気』と言う人はいないと思う。具体的なことを知ったら、絶対に心は動く」
と力を込めた。
 映画は住民の目線で描かれている。
 沖縄防衛局やヘリパッドの建設業者、反対運動を排除する警察官らの苦しい立場も描き、純粋な悪人は登場しない。
 三上さんは
「高江の子どもたちを泣かせているのは誰か、映画を見てその正体を考えてほしい」
と話した。

(2013年9月5日付け琉球新報、QAB製作映画『標的の村』三上監督「知れば心動く」) 
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-212092-storytopic-1.html

 三上さんは
「高江を取り上げたのは沖縄問題の縮図だと思ったからだ」と話した。
 先行上映している東京や大阪の観客から
「知らないことで、これ以上加害者になりたくない。ちゃんと知らせてほしい」
という感想が寄せられたことも報告した。
 沖縄国際大の前泊博盛教授は
「日米安保が日本を守っていると思っていた人は、映画を見て誰が誰を守っているのだろうと考えさせられた」
と指摘した。

(2013年9月8日付け琉球新報、「高江は沖縄問題縮図」『標的の村』県内上映)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-212221-storytopic-1.html

 おかげさまで『標的の村』の全国での観客動員数がすでに12,000人を突破、ポレポレ東中野では封切から2カ月が経った今も上映が続いています。
 そこで、同館にて10/18(金)ロングラン記念イベントを開催します。
 琉球朝日放送の三上智恵監督、謝花尚プロデューサーをお迎えして『標的の村』の原点ともいえる伝説のドキュメンタリー『海にすわる〜辺野古600日間の闘い〜』を特別上映します。
 この機会をどうかお見逃しなく!!

(2013年10月8日付けニュース)
http://hyoteki.com/news/?m=201310

 なにも日本だけのお話しではないようで…:
http://kichimondai.com/theater/

 映画評については東京外語大の西谷修先生も「必見」と絶賛!

 住民はいつもつんぼ桟敷に置かれ、不意に工事車両が送り込まれる。
 そんなことが起こっているなど、本土のメディアは見向きもしないから、何があっても伝わらない。
 それに、ヤンバルの北部訓練場は米軍が勝手に使える世界で唯一の対ゲリラ戦闘訓練所で、ベトナム戦争時代は、「ベトナム村」というのを作って、そこに住民を狩り出してゲリラ戦の実習をやっていたという。
 いま高江の集落の周辺に6つのヘリパットが作られているが、それは集落を取り囲んでいる。
 そして今でも訓練ヘリは、低空飛行で住民を視認しながら集落の周りを飛び回るという。
 ということは、集落をゲリラの(今でいえばテロリストの)アジトに見立てて訓練しているということだ。
 そんな訓練は、いくら米軍でも日本の沖縄以外ではどこでもできない。
 日本政府が沖縄ならやらせてくれる。

(2013年9月23日17:24「必見『標的の村』――「オモテナシ」のウラには何が?)
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2013/09/post_205.html

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高江の虫

 北の国から、南の島にわたった蝶、ヤッホー君の迷蝶、第四弾。

 原発に反対する市民運動が起こったのが高円寺。
 そこから市民派の参議院議員まで誕生した高円寺、

 ここに毎日新聞の記事があります。
 削除されてしまう前にぜひ全文プリントアウトして保存しておきましょう。以下は、その一部、おしまいのほうの引用です:

 事務所を出て、高円寺純情商店街をぶらぶらする。
 汗が噴き出る。
 遠くから祭りばやしが流れてくる。
 「太郎ちゃーん、おめでとう!」
 あちこちから声が飛ぶ。
 「ありがたいです。衆院選のときから駅前で『選挙フェス』をやってね。パンクのバンドがきたりもした。演歌しか聞いたことのない人なら、戦争でも始まったんじゃないかって感じがしたでしょ。迷惑かけました」
 お母さんからお祝いの言葉は?
 「ないです。誰にとってめでたいのって話ですしね」

 日が高いうちからのどを潤せるのも高円寺ならでは。
 JR高円寺駅そばの焼き鳥屋に腰を下ろす。
 ビールに焼き鳥の盛り合わせを頼む。
 食に神経質なのかと思いきや、ジョッキを傾け、うまそうにほおばる。
 ゲリラのごとく国会へなだれ込むわけでもなさそうだ。
 安倍晋三首相(58)をどう思うか尋ねると、これまた意外な答えが返ってきた。
 「本当はそうじゃないんだろうなあって見えちゃいますよね」
 首相の勇ましさは見かけ倒しということか。
 夫人は反原発派らしいですが?
 「私が主人のブレーキになりますみたいなアピール、気持ち悪いなあ」

 …向こう3年間は国政選挙がないとみられる。
 安倍政権の「黄金の3年」
 「それ、僕たちの首が絞められることで生み出される黄金でしょ。この3年、泥舟を岸につけるための3年じゃないかな。この3年で泥舟が沈むかどうか決まりますよ」
 ちょっと甘えん坊の顔を引き締めた。

(2013年08月02日付け毎日新聞東京夕刊、鈴木琢磨記者、特集ワイド:続報真相 山本太郎(1974年生まれ)が語る母、原発、政治…東京・高円寺の焼き鳥屋でジョッキ傾け「ハゲがだんだん大きくなる」)
http://mainichi.jp/feature/news/20130802dde012010022000c.html

 ヤッホー君は、10月7日の月曜日夜は、その高円寺に出かけていました。
 はじめての高円寺は南口の「氷川神社」から。
 ねじめ正一の直木賞受賞作(平成元年)でもある「高円寺純情商店街」!
http://www.kouenji.or.jp/
http://www.shinchosha.co.jp/book/102112/
 
 いいえ、その商店街は北口。ヤッホー君は南口でした。
 Cafe&Bar U-ha(高円寺南4-4-12エムズビル101 Tel 3317-7732)。

 カフェの名前:
 エチオピアで知り合ったタンザニア人の学生がレストランで「ウーハ、ウーハ」と連呼しているのを聞き、その音が気に入ったので、店の名前に使わせてもらうことにしました。
 「ウハ」はエチオピアのアムハラ語で水という意味です。
 また、エチオピアはコーヒーの原産地でもあります。

http://coffeeuha.web.fc2.com/#top

 アキノ隊員の講演会〜アキノ隊員の高江の虫のお話〜が「ゆんたく高江」の主催で開かれていたんです。
http://helipad-verybad.org/modules/d3blog/
http://akinotaiinnorinshitaiken.ti-da.net/
 
 《ゆんたく高江》は沖縄県東村高江(ひがしそん たかえ)の米軍ヘリパッド建設に反対し、高江の人びとが1日でも早く平穏な生活に戻れるよう願い、行動する人たちの集いです。
 メンバーは主に東京はじめ関東在住者です。
 各々が自主的にやりたい事をやれる範囲で行っています。
 当サイトでは《ゆんたく高江》の活動報告や、高江ヘリパッド問題の情報などを掲載していきます。
 また、一緒に何かやってみたい方、いつでも大歓迎なので、どうぞご一報下さい。

http://helipad-verybad.org/
 
 アキノ隊員語録:

アキノ隊員.jpg

  どんなに偉い学者先生、専門家でも、虫が好きなら虫のいのちまで愛してください
  やんばるの森には、日本で一番小さな蝶、リュウキュウウラゴシシジミが遊んでいます。
  北部の森と慶良間諸島にのみ生きている固有種のリュウキュウウラナミジャノメがいのちを育んでいます。
  森を分断してはいけません。森は森全体でひとつなのです。
  森にはいのちが隙間無なく、ぎっしりつまっています。
  森はこわしてしまったら、つくれません。
  人間の手で森はつくれません。
  森をこわしたら、人間は生きていけるでしょうか。
  森をこわすことは、自分の「未来」を殺すことです。

  子どもたちへのイマの教育って、皆んな同じにする教育って思いませんか。
  軍隊をつくるように、洗脳する教育になっていませんか。
  自分で考えることを抑える教育をしていませんか。
  人それぞれしあわせ感が違うはずなのに。
 
  ヘリパッドも環境アセスがでてるって言ったって、環境保全上問題なし?!
  最初っから結論が工事ありき、の調査です。
  密猟者が入るから、これはアセスには書けませんなんて調査では分かりません。
  IUCN(国際自然保護連合)の勧告を厳守すべきです
  

 皆の衆!
 「沖縄メッセージ」(1947年9月19日)なんてもので、何もできない国。
 できることは「思いやり」とか「おもてなし」で他国の軍隊になけなしの金をつけること。
 口実は抑止力!
 なけなしの金が底をついたので、さらにわれわれの黄金を搾り取ってわたすだけの国。
 規制緩和どころか、規制がかからないので、われわれの空を我が物顔して飛ぶキカイ!

 だったら、小っちゃな可愛い生き物といっしょに生きていこう!
 羽を羽ばたかせて飛ぶ生き物に寄り添ってこれから生きていこう!
 ね、皆の衆!

 「奄美・琉球」が世界自然遺産の暫定リストに記載されることになりました。
 1月31日に、外務省で世界遺産条約関係省庁連絡会議が開かれ、2003年に世界自然遺産の候補地に選ばれた「奄美・琉球」(鹿児島、沖縄両県)を世界遺産暫定一覧表(暫定リスト)に記載することが決められました。
 リスト記載は本登録に向け、政府が正式に推薦するための前段の作業です。
 今後、国内5カ所目の世界自然遺産本登録を目指すとのことで、2011年6月に本登録された「小笠原諸島」以来、6年ぶりのことでした。

(2013年2月5日16:08更新「NACS-Jが2001年から望んでいた沖縄がやっと世界遺産の候補に入りました!」)
http://www.nacsj.or.jp/diary2/2013/02/

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2013年10月08日

高江の空

 北の国から、南の島にわたった蝶、ヤッホー君の迷蝶、第ニ弾。
 (ヤッホー君のこのブログ、10月1日付け日記「74%」、10月2日付け日記「20万人」をご参照ください)

 まずは、10月1日付け日記にあったSLAPP裁判の続報からです:

 東村高江のヘリパット工事に反対する住民が国に訴えられた裁判で、2013年6月、控訴を棄却された住民側が判決を不服として7月5日、最高裁に上告しました。
 この裁判は、東村高江のヘリパット工事をめぐり建設に反対する住民が国から通行妨害で訴えられたものです。
 一審で那覇地裁は住民の伊佐真次さんに通行妨害の禁止を命じ、6月に開かれた控訴審でも控訴棄却の判決が言い渡されています。
 5日、会見を開いた弁護側は、控訴審の判決は、憲法で保障されている表現の自由の根幹を揺るがすとして、改めて上告することを明らかにしました。
 伊佐真次さんは「私たちがやった行為が妨害と認められてしまったら、ますます色んな反対活動や抗議活動ができなくなってしまう、萎縮してしまうのではという心配があります」と話していました。
 このあと、伊佐さんらは裁判所に向かい上告状と上告受理申立書を提出しました。
 最高裁が「審理すべき」と判断した場合には上告審が開かれることになります。

(2013年7月5日18時32分琉球朝日放送)
http://www.qab.co.jp/news/2013070544522.html

 国って国民の生命と財産と生活を守るためにあると習ってきたのですが、どうやらアメリカのためにあるようですね。裁判所っていったって結局、国のためのものになっており、国民のために存在しているのでしょうかね、フ・シ・ギ・…なのは、本土の国民の大多数が声をあげないで、そんなことを許しているってこと…
 だって、国は現場にもいない6歳の海月ちゃんまで高江集落(人口160人)の住民15名を通行妨害で仮処分申請したときのリストに載せているんですよ。
 
『高江の空』

この土地は我等のものだ
この空も我等のものだ

いつの頃からか
自分の土地に入れば
アメリカに罰せられ
次は日本国に罰せられるようになった

今度はオスプレイが来るという
毎日、我等の頭上を飛ぶという
嫌だと座り込んだら
国に訴えられた

この国の法律は
一体誰のためのものか
この国の司法は
一体何を裁くのか

それでもオスプレイが来るなら
取り返しに行こう
我等の土地を

雪崩を打って
普天間に入って行こう
ひるむことはない
我等の土地なのだ
胸を張って
先祖の土地を
誇りを奪い返すのだ
我等の空を
戦闘機が飛ばない空を奪い返すのだ

罰も与えろ
裁判にもかけろ

高江の空は我等のものだ
高江の空は我等のものだ

http://www.qab.co.jp/village-of-target/

 その海月ちゃん、映画『標的の村』でこんなメッセージを:

 一人でも多くの人に『標的の村』を見てもらって高江のことを知ってくれる人が増えたら、嬉しいです!

 お母さんのメッセージは:

 沖縄北部にあるヤンバルの森は世界的にもとても貴重で豊かな自然環境です。
 この小さな島の小さな森の中でしか生きられない植物や動物が沢山います。
 私もそうです(笑)。
 街で暮らす人も、田舎で暮らす人も、森で暮らす人もすべての生き物は、森がなければ生きて行くことが出来ません。
 なぜなら森はきれいな空気ときれいな水を生み出すからです。
 っと言うことは、世界中の豊かな自然を守ることが、明るい未来を築くことにつながっていきます。
 とてもシンプルで簡単なことです。
 「戦争」は、何ひとついいことがありません。すべてを壊してしまいます。
 沖縄の人たちは戦争の悲惨さをよく知っています。
 戦争につながるすべてのことにNO!っと声を挙げる。一人ひとりの小さな声はどんどん大きくなって、世界中に響き渡ります。
 私たちが子どもたちに残し、伝えたいのは、平和で自然豊かな明るい未来です。
 みんなで明るい未来へ向かって歩いて行きましょう。

(標的の村〜国に訴えられた東村・高江の住民たち〜、QAB琉球朝日放送)
http://www.qab.co.jp/village-of-target/

 最近のニュースから:

(1) 東村高江でのヘリパッド建設について県の環境アセス審査会は、オスプレイを実際に飛行させて周辺の生活環境への影響などを国に調査させるよう県に答申しました。
 審査会は、沖縄防衛局が県に提出していた東村高江のヘリパッド建設工事の事後調査報告書について、内容が妥当かどうか、現地調査などを行なって審査してきました。
 9月9日の答申では、赤土による水の濁りや植物、動物への影響など合わせて22項目について、適切な環境保全措置と事後調査を実施させるよう求めています。
 中でも、当初、高江で使用されることが明らかでなかったオスプレイについては、アメリカ軍の協力を得てオスプレイを実際に飛行させて調査を行ない、騒音や低周波音、排気ガスの風圧など、集落の生活環境への影響を再検討するよう求めています。
 県は答申を受けて、9月中にも事業者の防衛局に対して必要な措置を求めることにしています。

(2013年9月10日18時34分琉球朝日放送「県環境アセス審査会答申 高江ヘリパッド オスプレイの影響調査を」)
http://www.qab.co.jp/news/2013091046155.html

(2) 日米の外務・防衛担当閣僚による安全保障会議(2プラス2)は、米軍普天間飛行場に配備されている垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの訓練の県外・国外移転を増やすことで合意した…
 嘉手納基地配備の対潜哨戒機P3を、今年2013年12月末から最新鋭の後継機P8に交換することも確認した。
 オスプレイ訓練の県外移設を持ち出して沖縄の負担を軽減するかのように装いながら、新型機配備で在沖基地強化を狙う。
 このような日米合意は断じて認められない。
 オスプレイの全機撤収と普天間飛行場の早期閉鎖・撤去、P8配備撤回を日米両政府に求める。

(2013年10月4日付け琉球新報社説「2プラス2 オスプレイ撤収しかない」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-213369-storytopic-11.html

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アキノ隊員

 ヤッホー君、帰京後のお酒とおつまみのお話しは、実はリアルタイムで言いますと、一昨日の10月6日日曜日夜のお話。
 ですので、帰京後の翌日10月5日土曜日にプレイバック、プレイバック、第2弾。
 北の国から、南の島にわたるそうですよ、ヤッホー君の迷蝶?
 (うんにゃ、ヤッホー君のこのブログ、10月1日付け日記「74%」、10月2日付け日記「20万人」をご参照ください)
 
 10月5日土曜日第9回自然保護セミナー  
 会場: 東京大学本郷キャンパス、理学部2号館4F大講堂(文京区本郷7-3-1)
 15:45〜16:10 九州支部(宮城秋乃)
 「沖縄県東村高江のリュウキュウウラボシシジミ大発生地を脅かす米軍ヘリパッド建設問題」

 日本産チョウ類の減少は、これまで草地的環境に適応した多くの種で確認されてきました。
 しかし最近では、これまで注目されてこなかった種が各地で顕著に減少していることが明らかになってきました。
 その中には、これまでに例のない生息環境の悪化や、一定の環境条件が整っているのに個体群が衰亡する事例など、新たな対処が必要なケースも増えています。
 今回のセミナーでは、最近になって顕著に減少している種を「第二の絶滅危惧種」と呼び、その現状について全国各地区の自然保護委員が報告を行います。
 さらに、それぞれの事例をもとに、減少の原因を考察するとともに、日本鱗翅学会が今後すべきことを、参加された皆様と一緒に考えたいと思います。
 本セミナーは申し込み不要です。
 また、会員以外でも参加できます。
 ふるってご参加ください。
  主催: 日本鱗翅学会自然保護委員会
後援: 日本蛾類学会、日本チョウ類保全協会

http://lepi-jp.org/event2/fr_event.htm

 「日本鱗翅学会」の鱗翅は「りんし」と読みます。英語表記では、The Lepidopterological Society of Japan (Founded in 1945)。
 カイチョウさんは、大阪府立大学教授の石井実さん(第2学群、緑地環境系)。こんなことをおっしゃっております:

 私は、横浜の下町で生まれ育ちましたが、小学校高学年の頃、転任してきたチョウの好きな先生の影響で、この可憐な生き物のファンになりました。
 その先生の教室の本棚にチョウの標本箱がひとつ飾ってあり、そこに入っていたオオムラサキの翅の美しさに魅了されて、チョウたちとの長い付き合いが始まりました…
 日本鱗翅学会は、チョウやガに関心をもつ研究者や愛好者の集まりです。
 本会は第二次世界大戦の終戦直後の混乱期(1945年9月)に、チョウやガの愛好者が集まって誕生しました。
 本会の大きな特徴はアマチュアを主体とすることで、少数派のプロの研究者と力を合わせて、これまで70年近くにわたり日本および世界の鱗翅類の分類や生態などに関する基礎科学分野の発展に貢献してきました。

(日本鱗翅学会公式サイトより)

 じゃあ、「リュウキュウウラボシシジミ」ってどんな蝶?
 <アキノ隊員>こと発表者の宮城秋乃さん(34)はこんなことをおっしゃっています:

 今月の調査で東村高江のN1米軍ヘリパッド建設予定地付近にリュウキュウウラナミジャノメが多産していることがわかりました(すでに発表している新川川周辺のリュウキュウウラボシシジミと混合しないでくださいねッ)。
 リュウキュウウラナミジャノメは沖縄島の石川市以北と慶良間諸島のみに分布する沖縄県固有種で準絶滅危惧種に指定されています。
 ヘリパッドが建設されたら環境が変わってしまったり、このチョウの生息地の上をオスプレイなどの米軍機が飛んだりすることになります。
 この辺りからは希少なゴミムシも見つかりました。やんばるの生き物たちの危機をひろめてください、よろしくお願いします。

(2013年09月19日付け<アキノ隊員>サイト「東村高江N1地区にリュウキュウウラナミジャノメ多産」)
http://akinotaiinnorinshitaiken.ti-da.net/e5339932.html

 <アキノ隊員>は蝶を愛し、蝶とできるだけ毎日接するために会社員を止めて人生を蝶の調査と研究に捧げておられるプリンシプルのある旬の人です。
 日頃はこんな活動も:

 東村高江で7月21日、昆虫観察会が開かれ、親子ら約20人が参加した。
 日本鱗翅学会自然保護委員の宮城秋乃さんが講師を務め、高江に住むチョウやクワガタなどの昆虫の観察や採取を楽しんだ。
 新川川上流沿いに広がる森の中で、モンキアゲハやアオスジアゲハ、シオカラトンボなど色とりどりの美しい昆虫を観察。
 子どもたちは、網でチョウを捕まえたり、宮城さんたちが作った仕掛けに入ったオキナワヒラタクワガタやコメツキムシに触れたりと、高江の自然を存分に味わった。
 慶田盛晄くん(4)は、「黄色のチョウが動いているところを捕まえた」とうれしそうに話した。
 宮城さんは「今は子どもたちが自然と触れ合う機会が減っている。大人たちがそれをつくってあげるためにも自然は大切にしないといけない」と話した。
 高江で予定されているヘリパッド工事について「工事で赤土が流出すると高江の自然全体に影響が出る。一部だけの問題じゃない」と警鐘を鳴らした。
 英文へ→People enjoy seeing and collecting insects in Takae

(2013年7月24日付け琉球新報「森の昆虫 捕まえた 東村高江で観察会」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-209995-storytopic-5.html

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2013年10月07日

鈴木ともこ

 ヤッホー君、帰京後のお酒とおつまみのお話しは、実はリアルタイムで言いますと、昨日10月6日日曜日夜のお話。
 ですので、帰京後の翌日10月5日土曜日にプレイバック、プレイバック。

 山歩クラブ4名は、豊島区豊島公会堂(みらい座いけぶくろ)入り口5時半集合だったのです。
 満員の東京新聞主催「第35回生活セミナー」に参加していたのです。テーマは山!
 主催者ごあいさつで、このセミナーは、田部井淳子さん、岩崎元郎さん、そして今回の鈴木ともこさん(1977年豊島区生まれ)と三回目の山のお話しになるのだそうです。
 山歩クラブはそのすべてに参加しています!

 講師は山ガールブームの火付け役になったマンガ家・エッセイストの鈴木ともこ氏。
 2部構成で、第1部は「みんなの山〜山登りに行こう!〜」、第2部は「山と一緒に楽しもう〜上高地と松本〜」をテーマにスライドを交えながら講演します。

http://www.tokyoshimbun-hot.jp/seminar/index.html

 山歩クラブの仲間から: 昨日10月5日はありがとうございました。しっかりサインいただいてきました(2013年10月6日 17:41)

 ヤッホー君から: この間の鈴木ともこさん講演、良かったですね、みんな違ってみんな良い、山登りだって、のおおらかな発想がもっと広がれば、山だけでなく、肩にチカラのはいらない、もっと幸せな生き方、社会になるはずなのに、と思いつつ帰路につきました(2013年10月7日 6:43)

 何があったのか、って…。

 初めて書き込みさせていただきます。
 今日は豊島公会堂での講演会ありがとうございました。
 とても楽しく興味深く聞かせていただきました。
 3年前に『山登りはじめました』に出会って登山を始めました!
 最初の山はもちろん木曽駒ケ岳!!
 昨年の夏は立山の雄山、今年の夏は御嶽山に登りました。
 来年は乗鞍岳と上高地を予定しているため、今日の講演はとてもタイムリーでした。
 上高地案内ブックはすでに入手済みでしたが、今日の資料の中にも入っていたので嬉しくなりました。
 今日の講演会を聞いて、乗鞍の次は燕岳かな〜草津白根もいいな〜とワクワクしているところです。
 『山登りはじめました3』も楽しみにしています!!!

(2013/10/06(Sun)00:23:30鈴木ともこさんブログ「掲示板」投稿)
http://home.n08.itscom.net/drop/

 鈴木ともこさんは「旬の人」!

 明るい色の登山着を着て、山の上でもメニュー豊富な食事を味わう。下山後は、温泉でくつろぐ。自身の体験を描いた漫画『山登りはじめました』(メディアファクトリー)は、「山ガール」に代表されるおしゃれな登山スタイルを広めたと言われる。1、2巻で計10万5000部売り上げた人気作。作者も「山は制するものではなく、楽しむもの」と言い切る。
 2011年5月下旬、東京都内から夫と保育園の長男と一緒に松本市に移り住んだ。「原風景の中に山があって欲しい」と思い、移住先に松本を選ぶのに時間はかからなかった。北アルプス登山後、何度も訪れ、「文化と歴史があり、人も温かい」と感じていたからだ。
 自宅マンション前からは「アイドル的存在」と称する北アルプスを眺められる。槍ヶ岳は「槍さま」。「ずっとあこがれていた『槍さま』の近くで生活できるのは幸せですよ」と笑う。
 山に登り始めたのは、2006年9月。家にこもって漫画を描く日々の中、「ふとしたきっかけ」で、「ちょっと自然に触れたい」とインターネット検索してみた。
 「アルプス」「ロープウエー」の単語から、駒ヶ根市の中央アルプス・宝剣岳直下に広がる千畳敷カールと麓を結ぶ「駒ヶ岳ロープウェイ」を知った。28歳にして初めての本格的な登山。作品中で「登山者と山の神様だけが知っていた、壮大な景色を眺めている、頼りない私の足でたどり着けたことが本当にうれしい」とつづった。
 この体験から山にのめり込んだ。以来、仕事の合間を縫って2週間に1度は山に登った。立山(富山県)や富士山、常念岳(松本市、安曇野市)など、全国20か所近く。「下から見たとき絶対無理って高さの山頂に登り切った達成感。大人になると、こういう分かりやすい達成感を感じることはないですから」…
 東日本大震災の10日後、被災した仙台市の女性からは、余震が続き不安な中で『山登りはじめました』を読んで「あったかい気持ち」になったという手紙をもらった。
 『山登り…』は2巻で完結したが、次作も山や自然をテーマにした作品となる予定で、現在、執筆を進めている。「読んだ人が、毎日がちょっとでも楽しくなるような作品になればいい」

 メモ:東京都出身。大学卒業後、都内の児童書出版社に編集者として勤務。仕事を通じて、広告代理店社員だった新堀謙吾さん(35)と知り合い結婚。夫婦で会社を辞め、独立した。2005年4月、自身が日々の暮らしの中で、緊張したり、時に思い切った行動をしたりする姿を描いた『強気な小心者ちゃん』で漫画家デビューした。作風は、自分の体験を描くコミックエッセー。夫も作品の企画や修正に加わる。

(2011年10月17日付け読売新聞長野版(前田啓介)「都内から松本市に移住した漫画家鈴木ともこさん」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/feature/nagano1197600876655_02/news/20111018-OYT8T01184.htm

 どういうことをお考えになっておられるかっていうと:

 私は、山登りで大切なルールは3つだと考えています。
  @ 安全に帰ってくる
  A 自然をこわさない
  B 人に迷惑をかけない
 これさえ守っていれば、楽しみ方は自由です。
 山小屋でのんびりしてもいいし、いろいろな山を縦走してもいい。
 日帰りハイキングもいいし、テント泊もいい。
 山頂に行くのが大変だったら、山頂に行かなくてもいいんです。
 自分のペースで無理なく安全に楽しめれば、それが一番です。
 いろんな楽しみ方を受け入れてくれるのが、山の奥深さだと感じています。
 子供連れの人やカップル、1人で登っている女性や山岳会の人たち… みなさん山が好きという共通点で笑顔を交わせるのが嬉しいです。
 山では年齢も性別も肩書も関係ない!

(中央アルプス観光公式サイト、特集・レポート、特別企画『山登りはじめました』著者・鈴木ともこさんインタビュー 第3章)
http://www.chuo-alps.com/feature/interview03.html

 山歩クラブの教科書、田中澄江(1908~ 2000)『山はいのちをのばす』(1997年、青春出版社、2000年には青春文庫に入るもイマ、絶版)でも同んなじことが言われていましたよね。
 さ、皆の衆、鈴木ともこの『山登りはじめました』を読んで、山に行ってみない?

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2013年10月06日

駒ケ岳牛乳

 帰京したヤッホー君、「三石こんぶ焼酎」をま、コップ2杯ほどいただきました。
 バックに流れていた歌は、もちろん森進一「港町ブルース」(1969年4月シングルレコード発売):
http://www.youtube.com/watch?v=4ZfyhTyIKXE

 だって、北海道駒ケ岳「馬の背」に降った通り雨、実は函館の港にも降っていたんですよ…
 そしておつまみは、「マストバ」に「焼きとんび」

 無添加・無着色の「マストバ」は、「トナミ食品工業」(函館市入舟町17−15 Tel 0138-83-2444)。

 たこ・いかはお任せください。
 函館海鮮食材(トナミ食品工業)では年間タコ・イカで4000トンもの取扱高を誇る言わばタコ・イカの専門店です。
 工場直送なので安さはもちろん、抜群の鮮度を誇ります。

http://item.rakuten.co.jp/tonami211/c/0000000106/

 「マストバ」ってどんなものかっていいますと:

 北海道産のマスを燻製にしました。噛むほど味わい深くなる一品です
 北海道の脂の乗ったマスを乾燥させ、さらにじっくり時間をかけて燻製にしました。身をむしり取ってお召し上がり下さい。
 絶妙な塩加減と素材の奥深い味わいが自慢の「マストバ」。噛むたび広がる旨みが酒の肴にもってこいの珍味です。
http://www.sakenosakanaya.com/shopdetail/005006000014/

 「焼きとんび」はくるりと輪を画く「とんび」ではありません。

 いかの口の部分でイカ一杯から一個しかとれない貴重な珍味です。
http://oceanplace.jp/SHOP/F-024.html
 
 販売者は「札幌グルメフーズ」(札幌市白石区平和通2丁目南6-21 Tel 011-865-0141)。
 「トナミ食品工業」さんと同じく「楽天市場」に出店しております。

 思い出すのは、思い出すのは…思い出したくないような、心葉としてじっくりこころのなかで暖っためていたいような…
 思い出す前に、モウ一曲、アンコール、今度は阪本冬実で:
http://www.youtube.com/watch?v=mDA1y1XJIgE

駒ケ岳牛乳.jpg

 やっぱりあの山、北海道駒ケ岳!
 川面でも湖面でも池面でもなく、逆さでもなく堂々と窓ガラスに映る駒なんです。
 お分かりになっていただけますでしょうか?
 ヤッホー君、今回の2泊3日の山旅の一押しの写真とのことで、来年の2014年2月、「江東区森下文化センター」で開催されます山歩クラブ第8回「山の作品展」に出店じゃない、出展しよう、と意気込んでいる写真ですけど…。
 キャプションは、駒の麓にひろがる牧場「駒ケ岳牧場」の直営店、「ピカタの森アイス工房」(茅部郡森町赤井川81−3 Tel 01374−5−2323、注)の窓ガラスに映る北海道駒ケ岳!

 渡島(おしま)は、北海道の南西部、渡島半島に位置しており、総面積は3,936㎢で全道の約4.7%を占め、長崎県(4,104㎢)の広さに匹敵します。
 日本海に面する南西部の松前町から、南に津軽海峡、東に太平洋を巡り噴火湾に面する北端の長万部まで約400kmの非常に長い海岸線を有するのも特徴です。
 また、中央部には常時観測火山駒ケ岳があり、山麓の大沼・小沼・蓴菜沼の3湖沼を含む一帯は、大沼国定公園に指定されています。
 このほか、「松前・矢越」「恵山」「檜山」の3つの道立自然公園があり風光明媚な自然環境を形造っています…

 大自然たっぷりのおいしさを、「駒ヶ岳牛乳」よりお届けします。
 • 北海道道南、駒ヶ岳の麓の緑豊かな牧場で、自然の恵みをたっぷり受けて育った健康な牛から搾られた濃くてまろやかな生乳と地元で取れた蜂蜜を使用、果糖分分が多いため、さらさらとした飲み心地でさっぱりしております。
 • 牛乳は低温殺菌牛乳で、また、乳脂肪を均質化する処理をしていないため、より生乳に近い味となっています。

(北海道渡島(おしま)総合振興局公式サイト、産業振興部、農務課、渡島チーズ&ミルクマップ、(株)駒ヶ岳牛乳)
http://www.oshima.pref.hokkaido.lg.jp/ss/num/icecream/milk006.htm)

 そしてソフトクリーム!
 この店で舐めたのが、マスカルポーネのジェラートアイス、シングル
 舌がとろけそうでした、あっ、この焼酎もおいしいけど…もういっぱい、いこうかな…寝酒に…おやすみなさい…眠い(睡眠)


(注) 国号5号線沿いにあるログハウス風のおしゃれな建物です。アイスクリームの人気に加え、寄りやすい場所に建っていることもあり、シーズン中は毎日たくさんのお客さんでにぎわいます。ちなみに「ピカタ」はアイヌ語で牛のことだそうです。
(北海道渡島総合振興局公式サイト)
http://www.oshima.pref.hokkaido.lg.jp/ss/num/green/picata.htm

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北海道駒ケ岳1131m

 函館三日目、10月4日金曜日。天候、引き続き秋晴れ。
 ヤッホー君、満を持して向かった山域は活火山、北海道駒ケ岳、標高1,131m(剣ヶ峯)(標高点)。

駒ケ岳.jpg

 北海道駒ヶ岳火山は、10万年前より以前に活動を開始した安山岩質(SiO2量は58.1〜61.2 wt.%)の成層火山である。
 約4万年前までに溶岩や火砕物を噴出し、円錐形の成層火山を形成した。
 その後、3回の噴火活動期が認められ、複数回の山体崩壊と爆発的噴火を繰り返している。
 現山頂部には西の剣ヶ峯、北の砂原岳、南の馬の背・隅田盛で囲まれた直径約2kmの火口原がある。
 この火口原内には、数個の小火口があり、1942年噴火では、昭和4年火口を通って長さ約1.6qの割れ目を生じた。
 1996年の噴火では昭和4年火口の南側に長さ約200mの火口列を生じた。

(気象庁公式サイト、北海道地方の活火山、北海道駒ヶ岳)
http://www.seisvol.kishou.go.jp/sapporo/113_Komagatake/113_index.html

 活火山ですのでルートは現在ワンコースのみ、しかも今月一杯で入山は禁止となり、半年以上も深い眠りにつく山でございます:

 ※ 登山期間について:平成25年6月1日から平成25年10月31日まで
 ※ 登山時間について:午前9時00分から午後3時00分まで※ 午後3時までに6合目駐車場に下山してください)
 ※ 登山道について: 赤井川登山道(森町赤井川)のみ登山できます※ 銚子口登山道(七飯町字大沼)及び望洋の森登山道(森町砂原地区/砂原岳)は閉鎖です
 ※ 登山方法について: 赤井川登山口から「馬ノ背」までです(火口付近は立入禁止)
 ※ その他: 略

(森町公式サイト、防災交通課、駒ヶ岳、北海道駒ケ岳登山のお知らせ)
http://www.town.hokkaido-mori.lg.jp/sections/bosai/komagatake/post_9.html

 そして駒ケ岳の山容は登るにつれて変化する、類いまれなる山です。写真を添付しました:

P1017715.jpg

P1017718.jpg

P1017724.jpg

 「馬の背」付近でさぁ〜っと、通り雨に会いました。あわてて雨具を装着しましたので写真は省略します。

 The weather of the mountain is like women's mind and autumn wind.

 だってぇ〜、下山開始するやいなや、晴れるんだもん。
 登りきる最後の地点は「馬の背」(標高約900m)。そこから見えたのが大沼国定公園。じゃあ、大沼からはどんな風に見えるの?ってぇいうと;

P1017746.jpg

P1017748.jpg

 大沼公園では、大沼の風「ニ色だんご」プラスワン「三色だんご」をいただいてきました。
 「おみやげや贈り物の隅に添える枝を心葉というそうです。ちょっとしたお心遣いや、ご自分への心葉として」ですって。添加物を一切含むことなく丹精を込めておつくりになった伝統のあん、ごま、しょうゆの三色をいただいて帰路につきました。
 「谷口菓子舗」(亀田郡七飯町字大沼町312 Tel 0138-67-2026)
(七飯(ななえ)町公式サイト、観光・産業、物産・特産品、二色だんご)
http://www.town.nanae.hokkaido.jp/hotnews/detail/00000291.html

 明日もまたきっとなんか良いことが待っていそうなそんなわくわく感と、暖ったかい北の国にお礼を申し述べながら、エアドゥAD046便に乗りこみ、山人から機上の人となりました。
 最後に細く、ちょこっと隅にありながらも心葉をいただき、今回の二泊三日の山旅はヤッホー君の心葉は宝ものとなったのか、嬉しさいっぱい、胸いっぱい、ちょっぴり涙ぐんでをいたそうです。

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2013年10月05日

函館山334m

 函館二日目、10月3日木曜日、ヤッホー君は「函館朝市、タウンウオーキング、夜景」って日程を言っていましたよね、たしかに。
 でも、夜警はどうしたの?っていつもブログを読んでくれている友より、お叱りのメールをいただきました。
 読み返してみたら、抜けておりました、たしかに。
 天気が悪くって見えなかったからじゃないの?って聞かれましたので、いや、そうではありませぬ、とばかりに証拠写真を添付いたしたく。

P1017709.jpg

 「世界三大夜景」と称される函館山山頂からの眺めは、国内外から年間500万人前後の観光客が訪れる呼び水となり、函館の基幹産業である観光を支えています。
 標高334mの最高地点となる御殿山に展望台を備え、眼下に広がる宝石箱をひっくり返したかのような煌びやかな夜の絶景は見物客に感動を与えてくれます。
 函館山は、今から約2500万年前に始まった火山活動で海中から隆起して生まれた孤島でした。
 約100万年前までに、12の山々から成るほぼ現在の形となり、約3000年前に海水により堆積した砂州ができたことで、亀田半島と陸続きとなりました…
 その後、尖っていた山頂は明治時代の要塞構築や第二次世界大戦後の電波塔建設の際に、削り取られたそうです。
 終戦後、要塞地帯だった函館山が約50年ぶりに一般開放されるようになり、1953(昭和28)年に山頂に展望台が開設され、1958(昭和33)年には山麓と山頂を結ぶロープウェイが開業。
 1988(昭和63)年、125人乗りの新ゴンドラ導入とともに、展望台が大幅にリニューアルされました。
(函館公式観光情報はこぶら「函館山展望台」)
http://www.hakobura.jp/db/db-view/2010/10/post-2.html

 皆さま、お客さま、10月2日水曜日の夜は、折悪しくも海霧が発生し、夜景を楽しむことができませんでした。
 しかし皆さま、今日のお客さまは善男善女ばかりとお見受けいたしましたが、年に数えるほどしかない夜景びよりとなりました。
 皆さま、お客さま、いつもは三大夜景と言いましても、その素晴らしさを保障できないのですが、皆さま、お客さま、今晩だけは、保障いたします。

 観光バスのガイドも興奮してマイクを握っておりました。
 函館山はマイカー規制があって、4月25日(木)〜10月15日(火)の17:00〜22:00の間は、マイカーが入ることができないようになっています。
 バス、タクシーだけの通行となるのですが、駐車場でお客さまを降ろした後は、30分後、下山しなければならないルールがあるのです。

 お客さま、皆さまのバスのナンバーは<ななひゃく、ごじゅう、ろくばん>ですので、しっかり覚えていらして乗り過ごしたり、間違ったりなさらいよう、くれぐれもお気をつけてくださいますように。
 お客さま、私は皆さまのお顔を覚えていませんので、定刻になりましたら、お座りになっていようと、お戻りになっておられなくっても、バスは出発してしまいます。
 十分、お気をつけてくださいませ。

 すかさず、おひねりではなく、声が飛びました。
 「バスのナンバーは<なごむ>です!」
 
 厳格ルールを守っておられる函館の観光業者のかた、市民の皆さん、ヤッホー君は夜景の見事さと自然保護に官民あげて取り組んでおられる姿勢に感激し、バス降車後、脱帽し、深々とお礼を申し上げました。

 1973(昭和48)年度に函館を訪れた観光客は298万人強と史上最高を記録した。
 この年NHKのテレビ小説「北の家族」が放映されたことに伴い、週刊誌などが函館の魅力を大々的に報道したためとみられ、前年度に比べ48万人多く19.2%増と例年にない伸び率だった(1974(昭和49)年7月27日付け読売新聞)。
 この観光ブームのなかで
「函館は古さが見込まれた。それは間違いなく売り物である。であるなら、これを機会に函館山周辺、ことに西部地区の街並み、家並みを原型保存するのに努めてはどうだろう。明治の面影が、モルタル壁とアルミサッシ窓に変身するのは見るに忍びない。とかく、地元にいると、自分のエクボに気づかない。が、これは貴重な財産である」
と指摘した記事は観光地としての原点をおさえている(1973(昭和48)年4月5日付け北海道新聞)。

 函館がこれまで観光地として知名度が高かったのは、函館山からの夜景のおかげであった。
 この函館山の観光開発は、登山道路の整備をめぐって幾度か論争になっている。
 函館山の自然は、戦前まで函館山要塞などの軍事施設があることによって人の立入が禁止されていたために保全されてきた。
 自然が破壊されはじめたのは皮肉にも戦後の1946(昭和21)年、山が一般に開放されてからだ。
 登山道路ができ、ロープウエーが開通して観光客も急激に増えた。
 開発が進み、山が形を変えてゆくたびに市民の登山道路に対する反対運動が繰り返された。

(函館市史デジタル版、函館山の保全と歴史的環境の活用)
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-02/shishi_06-02-02-02-02.htm
 
 1973(昭和48)年4月2日から翌年の1974(昭和49)年まで続いたNHK朝ドラ「北の家族」…、では皆さま、YouTubeで「北の家族」のイメージソングと主題歌を聞きながら眠ることにしましょうか、おやすみなさい眠い(睡眠)

☆ 「赤い鳥 赤い花 白い花」…歌っているのは芹洋子。作詞は楠田芳子、作曲は三枝成彰。
http://www.youtube.com/watch?v=CsanlvUX0Es

☆ 「赤い鳥 風は旅人」…主題歌。歌うは「赤い鳥」(1969年に結成、1970年代を中心に活動 し、1974年解散)。作詞は楠田芳子、作曲は三枝成章。
http://www.youtube.com/watch?v=A6sm5liH5RA

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2013年10月04日

函館二日目

 函館二日目。

 そうなんですよ、昨日の日記に添付した写真「青函連絡船記念館摩周丸」は二日目10月3日木曜日の朝に獲れたばかりで、活きが良いんです。
 二日目は早朝から函館市内タウンウオーキング
 8時には「函館・朝市」へ。だってぇ〜「活ホタテ約1Kg」のプレゼントが付くっていうんですから、餓鬼、欠食児童のヤッホー君、血色変えて早足で。

 2011年3月11日、東北や関東地方に甚大な被害を与えた東北・関東大地震では、道南地方にも津波が押し寄せた。
 渡島総合振興局、檜山振興局によると、最大6千人以上が避難した。
 函館港に隣接するJR函館駅前や函館朝市、西部地区などは津波による冠水被害が出たほか、停電に見舞われた。
 JRや市電が運転を取りやめたり、出漁した漁船が沖合に待避したりするなど、日常生活に大きな影響が出た。
 3月11日午後10時現在、人的被害は報告されていない。

(3月12日北海道新聞朝刊はこだて版「大地震 道南でも津波被害 朝市など冠水)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/video/?c=news&v=821778419001

 それから、トラピスチヌ修道院⇒五稜閣公園⇒ベイエリア⇒元町、というコースをたどることにしました。夜は、もちろんロマンチックな函館山・夜景観賞です:

 トラピスチヌ修道院に入ってすぐ聖ミカエル像がでてきます。

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 大天使聖ミカエルは、日本の保護者としても信者たちに広く愛されております。
 日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコザビエルは、1549(天文18)年8月15日に鹿児島に上陸しましたが、さまざまの準備を整えてから薩摩藩主島津公に宣教の許可を願い出て、許しをいただきました。
 その日がちょうど、9月29日、大天使聖ミカエルの祝日にあたっておりましたので、聖フランシスコザビエルは大天使聖ミカエルを日本の保護者と定めて、その助けを求めつつ宣教を始めました。

(天使の聖母トラピスチヌ修道院ガイドブック(e-book形式)
http://www.hakobura.jp/pdf/trappistine/

 さらに時代は下って…、この像にはこんな記述もあり、ヤッホー君はおごそかな気持ちになったそうです:  

 函館に安住の地を得た修道女たちは、第二次世界大戦の間、函館の町と津軽海峡を往く船が戦火から守られるよう、聖ミカエルの保護を願って祈ったという。
 修道院の入口に建つ聖ミカエル像は、そのときの加護を感謝して1953(昭和28)年に建立された。
 その後、フランスから送られた元の像は風雪で損傷したため、現在の像は1986(昭和61)年ブロンズで鋳造し直されたもの。


 続いて五稜郭タワー。星形城郭の五稜郭は:

P1017667.jpg
 
 公園として一般開放された1914(大正3)年に、当時の「函館毎日新聞社」(注)が発刊1万号を記念し、10年かけて約1万本のサクラの木を寄贈、植樹。
 2010(平成22)年に復元公開された箱館奉行所の横に建立されている碑で、その功績を確かめることができます。
 星型要塞で国の特別史跡に指定されている。

(函館市公式観光情報)
http://www.hakobura.jp/db/db-fun/2011/04/post-68.html

 この珍しい城郭を設計したのは、武田斐三郎(1827−1880):

 千代ヶ岱と弁天台場と五稜郭とは函館戦争の三大史蹟である。
 然るに曩きには弁天台場を破壊して世人の笑を招き、今又千代ヶ岱を売払って史蹟を烟滅するとは重々の失策である。
 恰かも目前の利慾に惚れて祖先の墳墓を金に換えるが如きものである
 然かも今日唯一個の五稜郭が年々幾千万の外来人を招徠するに徴して弁天台場を失いたるは非常の損失といわねばならぬ。
 扨この弁天台場と五稜郭との設計は我が国最初の洋式築城で時の箱館奉行諸術調所教授武田斐三郎が一巻の和蘭築城書を玉手箱として出来たものである。
 この武田斐三郎は伊予大洲藩の人で、初めて箱館に来たのは安政元年堀織部正に随て蝦夷地を巡察した時である
(函館百珍と函館史実)
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hyakuchin/114.htm

 次がベイエリア。

P1017675.jpg

 金森赤レンガ倉庫の歴史は、初代渡邊熊四郎(1840-1907)が最初の事業、金森洋物店を開業したところから始まります。
 1869(明治2)年、榎本武揚ら旧幕府軍が降伏し、開拓使出張所が函館に置かれた年、まさに新しい時代の幕開けでした…。
 24歳の時に長崎から函館にやってきた熊四郎は、旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等、数々の事業を営むかたわら函館四天王の一人として創設期の函館に数々の業績を残しました
 特に社会、文化事業に果たした役割は大きく、学校や病院の建設、公園や水道施設の整備等、多くの公共事業に私財を投じました。

(金森赤レンガ倉庫)
http://www.hakodate-kanemori.com/

 お昼の時間は回転寿司「函館まるかつ水産」。それから元町へ、坂の多い町のタウンウオークです:

P1017681.jpg

 これは、先に記した五稜郭に復元公開された箱館奉行所のそのもとの場所に案内板が立っておりましたのでパチッ。

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 これも、先に記した函館四天王の貢献を称える像が元町公園「旧函館区公会堂」下に立っておりましたのでパチッ。

P1017692.jpg

 え〜と、ナナカマドが坂道の街路樹!もう実が赤く色づいております!さすがホッカイドウexclamation×2


(注) 「函館毎日新聞」の前身は、1878(明治11)年創刊の「函館新聞」。北海道最初の新聞だった。1898年に「函館毎日新聞」と改題している(1937年まで存続)。この「函館新聞」は、「函館四天王」のひとり、平塚時蔵(1836〜1922)による。
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2013年10月03日

函館一日目

 ヤッホー君、あれほど山歩きをしたかったヤッホー君、山といえばオキナワよりはまずは北海道かな、と10月2日水曜日、飛び乗ったのが13時40分発ANA863便!函館行きでした。
 アタマには北島三郎(1936(昭和11)年10月4日生まれ、77歳)のこぶしが響いていたそうですよ:
http://www.youtube.com/watch?v=xCx-ATyc7A0
 
 この演歌「函館の女」は1965(昭和40)年の作。青函連絡船がまだ行き来していた頃、だから逆巻く波を乗りこえ、乗りこえ函館に着いたのでしょうけど、当時の船は函館港に横付けにされて往時のよすがをうかがい知ることができます:

 ようこそ、函館市青函連絡船記念館摩周丸のホームページへ。
 1988(昭和63)年3月13日の青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開しています。
 操舵室(船橋)・無線通信室が当時のまま残り見学できるほか、旧グリーン船室前部を展示室に改装して、実物部品・模型等を展示するとともに、パネル・映像・音声で青函連絡船の歴史やしくみを解説しています

 1988(昭和63)年3月13日…摩周丸は第5便として青森を15時に出港し、18時50分函館に無事着岸、これが最後の航海となりました。
 2代目摩周丸は22年9か月の就航期間に3万5493回運航し、その距離は約400万キロメートルに達しました。
 これは地球を100周できる距離です。

 その年の6月3日から9月18日まで、青函博(青函トンネル開通記念博覧会)が開催されます。これにあわせて、十和田丸と羊蹄丸を使って青函連絡船が復活運航されるのですが、このとき摩周丸は函館港に係留され、展示船となりました。
 同様に青森では八甲田丸が展示されています。

(函館市青函連絡船記念館)
http://www.mashumaru.com/

摩周丸.jpg

 当日2日は函館についてさっそく、「コープさっぽろ湯川店」(Tel 0138-57-1577)でお買い物。

 コープさっぽろは、チェーンストアの進出がめざましかった1965(昭和40)年に消費者の手で真に消費者の利益を守る流通網をつくろうと、札幌市立北園小学校体育館に地域の住民と北大生協職員を合わせて200名ほど集まって札幌市民生協として設立されました。

 店舗は、北大生協から譲り受けた大学村支店と同生協から賃貸を受けた北大生協桑園職員寮の1階の2ヵ所で、組合員1,181名、役職員32名によって 1965年10月1日に営業が開始されました。

(コープさっぽろの誕生)
http://www.coop-sapporo.or.jp/contents/view/id/9

 お店に入ってすぐにブドウの甘い匂いに惹かれ一箱を買い物カートに入れていました。
 そのほか、イマうわさの「三石こんぶ焼酎」を「長いも昆布醤油」など道産の珍味と併せ買いこみました…

 北島のサブちゃんは函館西高等学校に通っていました。

 この函館西高校は、校訓「志高く」のもと、今年で創立107年目を迎える北海道立高校です。
 1905(明治38)年に北海道庁立函館高等女学校として函館市元町に創立され、幾多の変遷を経て、1950(昭和25)年に男女共学の北海道函館西高等学校となり今日に至っています。
 校舎は、函館山の麓、元町公園の隣りに位置しています。
 周辺には多く文化・歴史遺産があり、1年を通じて見学に訪れる観光客が絶えません。
 そのようななか、本校の教育の特色は、歴史、文化、芸術など、本物を肌で感じながら豊かな感性とたくましい心身の育成を図ることができるということです。

(安房節雄校長「函館西高に集え」)
http://www.hakodatenishi.hokkaido-c.ed.jp/

 山の前にまずは、北島三郎詣でを兼ねまして、函館市のタウンウオークからかな…

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2013年10月02日

20万人

 満州からの引き揚げのとき−−、ちばてつやはこんなことを生の声で東駒形教会で話してくれました。
 9月29日日曜日の昼下がりのこと。

 ヤッホー君、この年になっても何も知りませんでした。
 亡父の生きているあいだに、師範学校のとき北海道で飛行場作りをさせられたという父が経験した戦争について、敗戦した後にどうやって、山形県山口村に戻ったのか、鉛筆と紙をもって一生懸命、聴き取るべきだったとイマは後悔ばかり:

ちばてつや: 体力のある人はそうやって移動もできるわけですが、体の弱い人や私の家の場合もそうでしたが、小さな子供を抱えている人は思うように動けませんね。
 それでどうしても遅れてしまったり、取り残されたりする。先ほど話したような暴動などに遭って、着ているものを剥がされたり、持っているものを盗られたりしましたから、結局、極寒の時にほとんど裸同然という状況になって、亡くなった方がたくさんいます。
 この亡くなった方の数字にしてもはっきりしないのです。
 18万人という説もあるし、24万人という説もある。
 とにかくそのひと冬の間にたくさんの人が死にました。
 20何万人という人が死んだんじゃないでしょうか。
 でも冬は、遺体を埋めようにも、土が凍って硬くてどこも掘れないのです。
 やむをえず遺体を運んで、少しづつ山のように積んでいく。
 どの遺体も凍っていました。
 本当に残酷な話しですけれども、なくなった方が着ていたものを脱がせて、ほとんど裸にしてしまって、生きている人たちがその服を着る、という状況を見てきました…。

…石子順、ちばてつや、森田幸次『ぼくらが出合った戦争』(新日本出版社、2012年)67−68頁。

 南の島のオキナワでは: 

 沖縄戦の戦死者数は正確なところはまだ不明であるが、推定数だけでも「本土」出身兵6万5908名、沖縄出身軍人軍属2万8228名、戦闘参加者5万5246名、一般住民3万8754名、米軍1万2520名、計20方0656名となっている。
 このうち、「戦闘参加者」とは「戦病傷者戦没者遺族等援護法」の適用を受けた一般住民のことであり、「一般住民」とは「援護法」の適用を受けていない住民のことで、内容は全く同じ住民である。
 この両者をあわせると9万4000名となり、さらに「沖縄県出身軍人軍属」のなかには防衛隊や学徒隊、男女義勇隊もふくまれるので、実質的には正規軍人と区別しなければならない。
 これに、終戦前後のマラリア病死、餓死などを含めると、おそらく一般沖縄県民の犠牲者数は15万前後になるだろうと推定される。
 当時の県人口約60万人のうち実に4人に1人が戦没したことになる。
 この一般住民の高い死亡率の原因は、疎開の不徹底、激しい無差別砲爆盤、逃げ場のない孤島の地理的条件、食糧不足、医療品不足等々、多くの悪条件が重なってのことではあるが、根本はやはり帝国陸軍の「玉砕精神」であった。

(川島由利子、長崎大学、学術研究成果リボジトリ、2004年3月「沖縄を生きる―元鉄血勤皇師範隊員と元看護学生のライフヒストリー)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/31340/1/kakyo5_115.pdf

 オキナワ…
 ノーベル賞受賞作家、大江健三郎と出版社岩波書店が被告となって訴えられた「沖縄集団自決裁判」というのがあったことを、ヤッホー君はうっすらと薄れ逝く記憶の底にひっかっています(注)。
 これに関連して:

 1988年2月には沖縄出張法廷が開かれ、4名の研究者,戦争体験者が証言台に立ち、いずれも「国が主張する自発的という意味での集団自決はなかった」と異口同音に発言した。
 証言者の一人安仁屋政昭(沖縄国際大学名誉教授)は2005年夏,当時を振り返り、「国は住民虐殺など天皇の軍隊の残虐行為を免罪する意図があった」と述べ、その年に再燃した「集団自決」をめぐる論争もその流れの上に来るものであり、「再び、体験者の証言に基づいた沖縄戦研究の成果や教訓がゆがめられようとしている」と警鐘を発した。
 この安仁屋発言は,2005年夏の沖縄戦終結50周年と関連した『沖縄タイムス』の「集団自決を考える」と題したシリーズ記事の中でなされたものである。
 そこには同年の検定により8社の中学校歴史教科書すべてから「従軍慰安婦」の語が消えると共に,住民虐殺についての記述も前回の5杜から2社に減ったことへの沖縄世論の危機意識が投影されている。
 同じく1988年の出張法廷での証言者の一人、金城重明(沖縄キリスト教短大名誉教授)は、「家族を手に掛けた苦悩」にさいなまれつつ、「愛する者を生かしておくことは、敵に命を委ね、惨殺されることと教えられてきた。生き残ることの恐怖心に追い込まれた私たちには、死の選択肢しかなかった」と吐露する。
 そして「すべてさらけ出すことに抵抗があった」にもかかわらず、あえて証言に立ったのは「国が教科書を通じ『集団自決』が自発的な死であったとすることに納得できなかった」からであると明言した。
 戦中期に少年時代を過ごした安仁屋、金城らの世代の知識人にとっては、沖縄にまで浸透しつつあった自由主義史観研究会に代表される本土の右派「国民運動」が、「国家の先兵」的な役割を果たしつつあるとの深い危機感があった。
 この点については、琉球大学講師山口剛史が「自由主義史観研〔究会〕、新しい歴史教科書をっくる会の運動や政治的な圧力の中で、出版社が批判を恐れる状況が生まれ、日本軍の加害行為の記述に慎重になっている」と指摘しているとおりである。

(後藤乾一、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授「現代日本の『歴史問題』と沖縄」
…dspace.wul.waseda.ac.jp/.../AjiaTaiheiyotokyu

 「国家の先兵」どころか、イマや国家が先頭になってオキナワを標的にして「恫喝(どうかつ)」をしてきています。
 敗戦で民主的な憲法ができ立憲主義になったにもかかわらず、シタは74%の民意が反映されず、ほとんどの市民が立候補できない(投票に行く有権者って何%)センキョ結果で、ウエは解釈によってどんどん変なミンシュシュギに堕落、劣化、変質させてきているようですね。
 そのように10月2日水曜日、琉球新報の朝刊で伝えてきていますが、ほとんどの≪日本人は知らない≫でしょうね:

 恣意的な法解釈に基づく地方教育行政への政治介入である。
 八重山教科書問題で文部科学省は、育鵬社教科書を拒否して別の教科書を使う竹富町教育委員会に対し、是正要求を出すことを決めた。
 是正要求に従わなければ、国が自治体を訴える違法確認訴訟も検討するという。
 小さい自治体にとって訴訟費用の負担は重い。
 自治体の財政力の弱さを見越した「恫喝」の意図がうかがえる。

 地方教育行政に政治的意思で圧力をかける暴挙は許しがたい。

 識者は是正要求が最高裁判例に反すると指摘する。
 竹富町はこの「恫喝」に屈せず、堂々と今の教育行政を続けてほしい。

 印象操作
 文科省の動きは全国世論向けの政治的印象操作の疑いが濃厚だ。
 沖縄を除けば、国民のほとんどは八重山教科書問題の詳しい経緯を知らない。
 「教科書無償措置法違反」と政府が言えば、竹富町教委が何か悪い行為をしているように全国に印象付けられる。
 それが政府・与党の狙いではないか。
 だが経過を知れば竹富町教委の姿勢は至極正当と分かるはずだ…

(2013年10月2日付け社説「是正要求。文科省は「恫喝」やめよ。教育への政治介入は暴挙」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-213291-storytopic-11.html

 あ〜あ、山に行きたい。山は良いぞう〜! ヤッホーexclamation×2


(注) 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書『沖縄ノート』などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は(2011年4月)22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。
 これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。
 同小法廷は、原告の申し立てを「上告理由にあたらない」とした。21日付。
 棄却を受けて大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた。
(2011年4月23日付け琉球新報「軍関与認めた判決確定『集団自決』めぐる岩波・大江訴訟)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-176373-storytopic-101.html
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2013年10月01日

74%

 米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの沖縄配備が強行されて10月1日で1年が経過した。
 住民を巻き込む大事故は発生していないが、多くの県民がこの1年、米国内や海外で重大事故が絶えないオスプレイの安全性を疑い、墜落の危険性におののいてきた。
 県民を米軍関連の事件・事故、爆音被害にさらしている日米の沖縄政策は、ほとんど植民地政策と化している。
 日米が民主国家であるなら県民の意思を尊重し、強行配備したオスプレイ24機の全機撤収と普天間飛行場の早期閉鎖・撤去へ向け政策を転換すべきだ。
 オスプレイ配備については、仲井真弘多知事や県内41市町村の全首長、全議会が反対し、今年2013年7月の県民世論調査でも追加配備に8割以上が反対した。
 普天間の県内移設反対は74%に上った

 1960年代、日米両政府は高揚した超党派の祖国復帰運動を無視できなくなり、沖縄の自治権拡大に否定的だったポール・W・キャラウエー高等弁務官ら軍部の抵抗を抑え、沖縄返還に舵を切った。
 エドウィン・ライシャワー駐日米大使らが尽力し、米政府内で沖縄の施政権を日本に返還する流れをつくったことが報道や日米関係の研究で明らかになっている…

 沖縄返還の難事業を成し遂げた日米に普天間返還やオスプレイの全機撤収ができないはずはない。
 日米は普天間飛行場の閉鎖・撤去、海兵隊撤退など問題の根本的解決に向け仕切り直すべきだ。
 日米首脳は沖縄も民主主義、法の支配、基本的人権尊重の適用対象であることを忘れてはならない。
(2013年10月1日付け琉球新報社説「オスプレイ配備1年 国連に人権救済訴えよ 全機撤収こそ命守る道」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-213232-storytopic-11.html

 日本にあるアメリカ軍基地・専用施設の74%が密集する沖縄
 5年前、新型輸送機「オスプレイ」着陸帯建設に反対し座り込んだ東村(ひがしそん)・高江(たかえ)の住民を、国は「通行妨害」で訴えた。
 反対運動を委縮させるSLAPP裁判だ[※1]。
 わがもの顔で飛び回る米軍のヘリ。
 自分たちは「標的」なのかと憤る住民たちに、かつてベトナム戦争時に造られたベトナム村[※2]の記憶がよみがえる。
 10万人が結集した県民大会の直後、日本政府は電話一本で県に「オスプレイ」配備を通達。
 そして、ついに沖縄の怒りが爆発した。

 2012年9月29日、強硬配備前夜。
 台風17号の暴風の中、人びとはアメリカ軍普天間基地ゲート前に身を投げ出し、車を並べ、22時間にわたってこれを完全封鎖したのだ。
 この前代未聞の出来事の一部始終を地元テレビ局・琉球朝日放送の報道クルーたちが記録していた。
 真っ先に座り込んだのは、あの沖縄戦や米軍統治下の苦しみを知る老人たちだった。
 強制排除に乗り出した警察との激しい衝突。
 闘いの最中に響く、歌。
 駆け付けたジャーナリストさえもが排除されていく。
 そんな日本人同士の争いを見下ろす若い米兵たち…。

 本作があぶりだそうとするのは、さらにその向こうにいる何者かだ。
 復帰後40年経ってなお切りひろげられる沖縄の傷。
 沖縄の人びとは一体誰と戦っているのか。
 抵抗むなしく、絶望する大人たちの傍らで11才の少女が言う。
 「お父さんとお母さんが頑張れなくなったら、私が引き継いでいく。私は高江をあきらめない」。
 奪われた土地と海と空と引き換えに、私たち日本人は何を欲しているのか?

[※1] 国策に反対する住民を国が訴える、力のある団体が声をあげた個人を訴える弾圧・恫喝目的の裁判をアメリカではSLAPP(Strategic Lawsuit Against Public Participation)裁判と呼び、多くの州で禁じられている。
[※2] 1960年代、ベトナム戦を想定して、沖縄の演習場内に造られた村。農村に潜むゲリラ兵士を見つけ出して確保する襲撃訓練が行なわれていた。そこで高江の住民がたびたび南ベトナム人の役をさせられていた。

(全国ニュースから黙殺されたドキュメント「アメリカ軍・普天間基地が封鎖された日」『標的の村』)
http://hyoteki.com/introduction/

 三上智恵(1964年生まれ)監督作品の映画『標的の村』は、2013年8月10日からポレポレ東中野ほかで公開されました。知ってました?
 ≪日本人は知らない≫とあります。
 無視し、黙殺され、まるめられてポイと捨てられてしまった映像をなんとか大ぜいの人が見て、自分のアタマで考えていただきたいって、ヤッホー君。次は動画ですが、監督の思いが生で語られています:
http://www.youtube.com/watch?v=FFwp6pRl6CY

 知らないですませているオキナワ、鳩ポッポが≪日本人≫に支持を訴えないで(ヤッホー君は支持基盤である有権者に直接、何が問題で何がネックであるか明らかにして訴えていけばいいのに、それがミンシュシュギじゃない、何をムラん中ですませてるんやって、何度言い張ってきたことか)、舞台から去っていったことがありましたが、次の歴史的文書も知ってました?皆の衆。。。だから無理なんかな。。。

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。
内容は概ね以下の通りです。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。

(沖縄県公文書館)
http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

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