2013年09月30日

ちばてつや

 ヤッホー君のこのブログ、2013年9月6日付け日記「賀川豊彦」をご参照ください。
 今日2013年の長月最後の日は、昨日の日曜日午後に開かれた「東駒形教会創立90周年記念講演会」のご報告です。

 東駒形教会って:

 日本基督教団に所属するプロテスタント教会です。
 1923年の関東大震災直後、賀川豊彦牧師たちによる本所地区での救援活動が始まり、本所基督教産業青年会が設立されました。
 その宗教部の活動から生れたのが本所イエス団教会(現在の東駒形教会)です。
 1945年東京大空襲ですべての施設を焼失しましたが、1949年教会が再建され、さらに1969年現在の建物を建築。
 光の園保育学校(1・2F)、本所賀川記念館(5F)と共に、神と人とに仕える働きを続けています

(日本基督教団 東駒形教会、主任牧師 戒能信生)

 で、講演会って何?

 あした(9月29日)、東京の下町にある東駒形教会で講演会があります。
 昔、弟が通っていた幼稚園の送り迎えの時に先生から誘われて、しばらく日曜学校に行っていた時期があるのです。
 聖書や牧師先生の話も面白かったけど、オルガンの優雅な響きに合わせて歌う賛美歌が大好きでした。
 その東駒形教会が今年創立90年を迎えるので、その記念として、講演を依頼されたのです。
 当時の下町の思い出やマンガ家になった時のエピソードなどをお話ししようと思っています。

(2013-09-28 17:48:41「記念講演会、ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』)

 約60年ぶりに、東駒形教会に行きました。
 木造のちっぽけな教会は、5階建てのビルになっていて、昔の面影は全くありません。
 牧師さんも先生たちも知らない顔ばかり。
 でも、昔、日曜学校に通っていた友達が数人名乗り出てくれて、少しづつ思い出しました。

 何か不思議な感覚。
 そう、浦島太郎の心境です。

(2013-09-29 18:51:38「懐かしい東駒形教会」)
http://ameblo.jp/chibatetsu/

 「ちばてつや」ってあの、漫画家?
 そうなんです、「はだしのゲン」「風立ちぬ」に続く山歩クラブ版<Japanese animator>群像、ですね。

 ちばてつや 1939年東京生まれの74歳。イマ、練馬区にお住まいで、宇都宮の文星芸術大学教授であらせられます。

 ぼくの一家が満州に渡ったのは終戦の5年前、長男のぼくが満一歳のとき。
 父は奉天(現在の中国・遼寧省瀋陽)にある凸版印刷系列の新大陸印刷の工務課に勤め、一家はその社宅に住んでいた。
 社宅は高い塀で囲まれた日本人住宅街にあり、そこはちょうど戦後の日本にあった米軍キャンプのように、治外法権になっていた…

 「チパさん、瀋陽へ来たら、また寄ってね。わたし、忘れないョ」
 反日とか抗日とか言われているなかで、少なくとも父だけは、中国人の心に恨みを残すことなく、手を取り合って別れを惜しむことができた。
 ぼくは子供心にもその情景を美しいと思ったし、どんな人にも温かい心で接しなければいけないということを、無言のうちに教えられていた。
 無蓋貨車に乗せられ、奉天を出発したのが1946年6月だった…

 あの敗戦の混乱のなかで、子供を病気や銃弾で死なせた人もいる。
 生き別れになった人もいる。
 いや、逃避行で赤ん坊の泣き声を消すために、自分の手で殺した親だっている。
 殺すにしのびず、中国人にわが子を売り渡してきた人もいる。
 そんななかで、この6人がそろって生きて帰ってきたということは、どれほど幸せなことであったかしれない…

 父はワサビ漬けの製造法を習って、行商をすることになった… ようやく東京の小梅(現在の墨田区向島2丁目)に8坪ほどのバラックを建てて、ぼくらを迎えに来てくれた。
 千葉の飯岡に引き揚げて、ちょうど1年後のことである。
 東京の小梅。
 ぼくにとって、満州に続く第二の心のふるさとであり、ぼくの漫画を育ててくれた思いで深い町なのである…
 1950年、友人であった同級生の木内クン(寺の息子、木内堯央、後に大正大学教授)と同人誌『漫画クラブ』をつくり連載漫画、「ピラミッドの怪人」を描き始め、1956年5月25日、長編漫画「復讐のせむし男」でプロデビュー。日大一高2年生、17歳だった。
 1968年「あしたのジョー」連載を開始し大ヒット作となる。
 「おれは鉄兵」「のたり松太郎」「あした天気になあれ」など人間味あふれる作品を送り出し、幅広い層のファンをつかむ。

…昨日のお話などより。

 必読書がまたでてきましたね:
 ちばてつや『みんみん蝉の歌』(講談社、1981年)
 石子順、ちばてつや、森田幸次『ぼくらが出合った戦争』(新日本出版社、2012年)

 ヤッホー君、「あしたのジョー」にはそんな物語の記憶があって、創作にあたってインスピレーションが吹き渡る原点は、カコのあの場所、あの時だったのか、そうでしたかぁ〜、下町が「漫画の零度」地点だったのでしたかぁ〜、と感激してお話しを拝聴しておりましたって。

 ちばてつやはこんなことを--:

――2011年にデビュー55周年を迎えられました。
 好きな言葉に『急がず、休まず』があります。
 私は昔から仕事が遅く編集の人に叱られたものです。
 同じ所を何度もいじくり回して、新鮮ないい材料を腐らせてしまう、と。
 でも、自分としてはもう少し面白くなるはず、と演出をあれこれ考えているとよくなることが多い。
 一歩一歩の歩幅は狭いのですが、休むことなく歩き続ける、そういう歩き方をしないと自分らしいいい仕事ができません
 漫画は苦しいですよ。
 人を楽しませられなければだめなんですから。
 自分が思いついた話が読者に伝わるか、喜んでくれるか、感動してくれるか、と懸命に考えながらコマを割ったり、演出したり、キャラクターを工夫したりする。
 描いて楽しいはずが途端に苦しくなってくるわけ。
 だから学生にいうのです。
 苦しみだしたらプロになりかかっているんだよ、と。

(2013/1/17 6:30更新、日本経済新聞電子版、ライフ、くらし、働き方・人間関係「漫画界にジョーはいなくなった、ちばてつやさんの仕事観、聞き手はWAVE1編集長 松本和佳)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFE1002M_R10C13A1000000/?df=3

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2013年09月29日

ふたつめのいのち

 アベノリスクは明日にでも『消費税率アップ』の宣言をするでしょう。
 これがはたしてはなくそまるめたまんきんたんか、クスリか、ですが、貧民のふところに大事にしまってある財布を狙ったあくどい詐欺まがいですよね、まったく困ったもんです。
 思えば、橋本元首相は1997年、消費税を3%から5%にアップしました。その結果、1998年、正に日本「経済のターニングポイント」ともなるような大不況に見舞われ、1998年参院選惨敗を受けて橋本元首相は辞任します。

 そんな1997年、まさしく「知のターニングポイント」だったのか、すばらしい本が出版されていましたので、ヤッホー君がイマ読んでいる4人だけ、立松和平、山崎朋子、井上ひさし、平山郁夫からの引用をご紹介します、て言っております。
 ぜひ手にとって、読んでやってくださいね。

 え〜と、お茶をいただく前の和菓子のように、おなかの底から声をはりあげてみましょうか、まずは:
http://www.youtube.com/watch?v=pPEQprGkv6o

 三橋美智也の高音の声が、日本中に響き渡っていた。
 1958(昭和33)年ごろのことである。
 ラジオというラジオからこの歌(作詞矢野亮、作曲吉田矢健治)が流れていたのだ…
 地方のよいものが、すべて東京に吸収されてしまった。
 青年も、栗毛も、リンゴも、である。
 東京は膨張するが、村は収奪されて疲弊してしまう。
 三橋美智也の歌は日本の戦後過程を歌っているのだ、と私は思う。

(立松和平「トンビの故郷」(初出は1993年6月8日付け毎日新聞「東京楽苦園生活」

 新聞は紙だ。
 紙はパルプで、もともとは樹木なのである。
 木は植物だから、野菜と同じように、食べられないはずはない、というのがその時の思いつきである。
 単行本は古本屋にも売れるので、食べるわけにはいかない。
 雑誌も必要なものしか買わないので、単行本に準じる扱いだった。
 貧乏なくせに、部屋のなかは本ばかりである。

(立松和平「活字を食べる」(初出は1994年3月29日付け毎日新聞同エッセイ)

 以上2文は、立松和平『貧乏自慢』(河出書房新社、1997年1月刊所収。

 他人と同じようにすること、他人より目立たないことを宣(よし)とする社会では、自分固有の意見や考えを持ったり、それを主張したりすることは、大変に困ったことなのだ。
 個性的であるとかユニークであるとかいう言葉は、日本では、決して良い意味ばかりで用いられていない。
 少し変わった、扱いにくい困った存在だ--という意味を、言外にただよわせている。
 そして、このことは、在日外国人をはじめ、いわゆる帰国子女たち、被差別部落出身の人たちや心身にさまざまなハンディキャップを持つ人たちなどにとっては、すこぶる生きにくく、息づまることであるのだ。

(山崎朋子「違いが分かる人に」。初出は、「みんなの幸せを求めて」(1996年1月)、『わたしがわたしになるために』、海竜社、1997年3月刊所収)

 生活の質を高めるということを考えると、いちばん確実で、手っとり早い方法は、本を読むことなんですね。
 本を読みはじめると、どうしても音楽とか絵とか、彫刻とか演劇とか、人間がこれまで作り上げてきた文化のひろがり、蓄積に触れざるを得ない。
 人間は、自然のなかで生きながらも、人間だけのものをつくってきた。
 それが本であり、音楽であり、演劇や美術である。
 良い、悪いは別にして、人間の歴史総体が真心をこめてつくってきたもの、その最大のものが本なんです。
 重ねて言えば、言語は人間に与えられた最上で最良の贈物であって、その贈物の大部分は本を媒介として人間に示されているんですね。
 本にまさる媒介物は将来も現われないでしょう。
 本がなくなる時は、書記言語のなくなる時です。
 その時、人間はたぶん別の生き物になっているでしょうね。

(井上ひさし『本の運命』(文藝春秋、1997年4月)

 人の一生には、さまざまな転機がありますが、私の場合は何といっても、1945(昭和20)年8月6日の広島における原爆体験が最も大きなものです。
 あの日、中学三年生だった私は、多くの友や、恩師を失いました。
 自分自身も後に放射性物質による後遺症に悩まされることになるわけですが、この体験が、私の画家としての生き方に大きな影響を与えたことはまぎれもない事実です。
 それから50余年、60歳を越えた現在でも、さいわい元気に日々を過ごしておりますが、私にはあの8月6日は、天が私に、ふたつめの「生命(いのち)」を与えてくれた日だと思っています。
 以来、私は与えられた二度目の「生命」を、「平和への祈り」を描くために捧げる覚悟で生きてきました。

(平山郁夫『私の青春物語』(講談社、1997年4月)

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2013年09月28日

三渓園

 皆さま、秋晴れの週末を健やかに、目出度くお過ごしのことと慶賀に存知おり候。
 われわれ山歩クラブ5人組は、ミステリーウオークにて相成候。
 やっぱり「岡倉天心生誕150年没後100年企画」にあわせるのが然るべきと、「第18回天心サミット in 横浜」の今日9月28日の企画会場、「三渓園」に向かうべく朝7時50分東京駅京浜東北線大船駅方面行きホーム先頭車両付近集合といたしたのでござ候。
 仲間の5人衆、それでは遅すぎるとばかりに、はや半刻も前にお集まりいただき、おかげさまにて車内では皆、座わってJR根岸駅へと向かったのございます。
 晴れ乙女に晴れ美少年ばかり、うち揃いてのお散歩会、天候は晴れ。湿度も低く、穏やかな、爽やかな過ごしやすい一日と相成りました。

 根岸駅から三渓園に向かったわれわれ、途中お孫さんが4人もいらっしゃるというフィリピン人のおばあちゃまに道を聞いて、三渓園へ:

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 明治大正期の日本画家のパトロンだった豪商、原三渓の広〜いお屋敷「三渓園」を隅から隅まで歩き、かつ天心の『茶の本』に心を添わせ、天心の「お茶の心」を習得すべくお座敷へ。

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 かくして、千利休の表も裏もマスターし、抹茶も煎茶も味わい尽そうとしたのですが、相変わらずの愚か者、ドジでどこか抜けてる間抜けばかり、そんな山歩クラブのオールスターばかりが勢ぞろいしてしまい(あ、ごめんなさい、若干数名だけなんですよ、誤解のなきようくれぐれもよろしくお願いモウ足上げ立つ祭り候)、お茶のお師匠さんからは「冥土へのお土産が出来ました」と感謝されるほど(えっ、こまっちゃうな、、、)。

 かくして山歩クラブの面々、茶の心得を体感し、お茶を濁してそうそうに三渓園を後にしバスに乗り込みました。
 目指すは、原三渓が三渓園に本宅を移す前にかまえていた、高級住宅地の野毛山。
 足を延ばして、あげくのはては由来を示す公園入り口の大きな案内板も隅から隅まで全て、音読してきたのでございます(勉強になりました!)。
 野辺山には、横浜の市民に無料で解放している動物園がありました。
 山歩クラブが訪れたときは、ちょうどお食事時。
 鴨も虎も。
 タイガーのお食事の時間にお邪魔したときには、飼育係りの方がクイズ!
「虎にはどんな餌を与えるのでしょう?」
[魔法瓶!」
 えっ?
 そんなこんな、サイコウのタウンウオークをしてきましたのでご報告しおきます。

P1017636.jpg

 あ、三渓園で富士見、お茶会で得心、野毛山公園での動物たちとの触れ合い、全て良し!!とリーダーの江戸さんに心から謝意を表わした締めの呑み処も良し、良し。
 ここは宮城県の地酒を良心的な価格で飲めるところ、桜木町駅前「一の蔵」(横浜市中区花咲町2-64、予約専用 Tel 050-5869-0949)です。
 次回までごきげんよう!ヤッホーexclamation×2

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お茶の心

 三上美和先生。

 先生の論文は以下にて読むことができます。「日本画」をめぐる画家、作品展、支援者、行政の動き等に興味か関心をお持ちの方には必見の資料です。
 特に古美術の大鬼集家として、 また芸術家を支援したパトロンとして突出した存在であった原三溪についての研究論文となっております:
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1943/1/jinbunkagaku_12_1_39.pdf

 三渓ってあの「三渓園」?あの原三渓谷?

 三溪園は生糸貿易により財を成した実業家、原三溪によって、1906(明治39)5月1日に公開されました。
 175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)。
 東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902(明治35)年頃から造成が始められ、1914(大正3)年に外苑、1922(大正11)年に内苑が完成するに至りました。
 三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。
 その後、戦災により大きな被害をうけ、1953(昭和28)年、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。
(三渓園公式サイト)
http://www.sankeien.or.jp/history/

 今年度事業計画ってのもあります:

公益財団法人三溪園保勝会

 本園は横浜の東南部本牧に開かれた池泉回遊式の日本庭園で、明治39年実業家原三溪が私邸を公開したことにはじまります。
 その広さは約17万5千uにおよび、起伏に富んだ地形に京都や鎌倉などから移築された寺塔・殿舎・茶室など様々な歴史的建造物が巧みに配置されております。
 これらのうち臨春閣など10棟が国の重要文化財に、白雲邸など3棟が横浜市の有形文化財に指定されているほか、平成19年2月「近代の自然主義に基づく風景式庭園として(中略)学術上・芸術上・観賞上の価値が極めて高い」として、景観の文化財である「国の名勝」にも指定されました。

 昨年8月公益財団法人に移行し、新たな定款に掲げる「国民共有の文化遺産である重要文化財建造物等及び名勝庭園の保存・活用を通して、歴史及び文化の継承とその発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信する」ことを目的に、今後はこれまで以上に親しみやすい庭園作りを目指してまいります。

【平成25年度の主な事業】
 本年は6月に「第5回アフリカ開発会議」が、9月から12月にかけて「第18回天心サミット」が開催されます。
 アフリカ開発会議については前回、第4回(2008)の開催時に本園鶴翔閣において同伴者プログラムが催され、各国首脳夫人等がお茶・着物などの日本文化を堪能されました。
 天心サミットは近代美術の草創期、「日本美術のコンダクター」(岡倉天心)と「その大いなる支援者」(原三溪)として新たな芸術の方向性を示した二人の関係を考える上で絶好の機会であります。
 いずれも三溪園の魅力を発信すると同時に、定款のもう一つの目的である「公益事業の推進」に相応しい事業でありますので、実施に全面的に協力してまいります。


 山歩クラブは本日、三渓園を舞台にタウンウオークを実施し、「天心サミット」に併せた平成の大茶会にも列席、茶の心を磨いてきます。

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2013年09月27日

横浜市大エクステンション講座

 はいはい、横浜市立大学エクステンション講座(9月21日、於 横浜市開港記念会館)のご報告は、また別の機会にして、まずはどんな専門家先生だったのか、ということですよね。
 無学文盲ゆえに一知半解すらご遠慮申上げているヤッホー君のこと、とっても講義が五臓六腑に沁みたそうです。愚禿ヤッホー君に機会を提供してくださった横浜市立大学地域貢献センターの関係各位の皆さま、ほんとうにありがとうございました!
 まずはどんな偉い先生からお話しを聞いたのか、チェック開始だそうです。

 松本郁代先生:

 私が学生に特に伝えたいのは「本物を見てもらいたい」ということです。
 デジタル技術が進み多くの作品が身近にみられる時だからこそ、美術館や博物館に足を運んだり、大学所蔵の貴重書を閲覧したり、何百年という歴史を経た美術品や歴史書を目の前にすることで、写真やパソコンのモニター越しでは伝わらない、その時代の空気や、作者の息づかいといったものまで感じ取ることができるのです…
 日本文化を研究するからといって、日本だけを見ていたらいいというわけではありません。
 「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、日本人が日本を研究すると、どうしても細部に関心がいってしまい、全体を俯瞰して見ることを忘れてしまいがちです。
 私はイギリスでの研究員生活の際に、そのことを実感しました。
 海外には想像以上に日本のことを研究している研究者がいて、日本研究に関しても厚い研究史蓄積があります。
 そしてそこには、私たちが思いもつかない発想や視点が多く織り込まれています。
 当時、その世界と触れ合ったことで、自身の視野が大きく広がったと思います。

(教員からのメッセージ「歴史も、文化も、そして大学生活も、大切なのは過程です」) 
http://www.yokohama-cu.ac.jp/interview/1204matsumoto.html

 三上美和先生は講義の始めに、8年がかりで80歳を越えて大学を卒業された方のお話をされておりましたが、鶴見和子さん(故人)と鶴見俊輔さんの妹の内山章子さんのことだったのですね。ジャーナりストの岩垂弘さんがこんなことをおっしゃっております:

 章子さんが東京・新橋のホテルで開いた「大学卒業を感謝する会」には、大学関係者、大学生活を通じてできた友人・知人、夫が大学でもっていたゼミの卒業生らが集まった。
 最初にスピーチをした章子さんの主任教授である中路正恒・教授(京都造形芸術大学)は、「内山さんには鮮明な印象が残っている。岐阜県の飛騨、岩手県の花巻、それに北海道でフィールドワークをしたが、内山さんは高齢にもかかわらず、それらすべてに積極的に参加した。岩手県花巻の授業では、宮沢賢治の作品に出てくる、海抜830メートルの、なめとこ山に登った。男でも3時間半かかる山だが、内山さんはこれにチャレンジし、頂上を極めた。北海道では、アイヌから話を聞いたが、内山さんはここでも意欲的だった」と述べた。
 次いでスピーチに立った同大学の三上美和・准教授は、「内山さんは、少女のような喜々とした顔でうれしそうに話す学生でした。キャンパスで見る内山さんは、いっもリュックサックを背負っていて、それには本がいっぱい入っていた。最後に伸びた学生でした。その頑張りに感動しました」と話した。

(83歳で大学を卒業、高齢者への励ましに。東京の主婦・内山章子さん)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2047.html

 出光佐千子先生は講義の始めに、『海賊と呼ばれた男』(百田尚樹、講談社、2013年第10回本屋大賞の第1位)のモデル、出光佐三のお孫さん、と明かしてくれました。百田尚樹さんは執筆動機をこんなふうに語ってくれております:

【百田尚樹】…私は出光佐三について、名前しか知らなかったんです。ところがあるとき「<日章丸事件>って知ってますか?」と知人にいわれ、説明を聞いてびっくりしました。1953(昭和28)年に、世界の石油資本やイギリス政府を敵に回して、イランから石油を運んできた人たちがいた。ちょうどそのころ私は悩んでいました。

【稲盛和夫】 ほう、それはどうして?

【百田】 東日本大震災があって、小説家としてどんな作品を書くべきなのか。放送作家として、ただ笑える番組をつくっていればいいのか。それが日章丸事件を知り、出光佐三を知って、ぜひこれを小説にせねばと決意しました。一種の使命感ですね。
 バブルがはじけ、リーマンショックがあり、官僚も経済学者も「日本はもうだめだ」といっていました。
 追い討ちをかけるように震災です。
 でも68年前の日本はもっとひどかったんです。東京も大阪も名古屋も、日本中の大都市が見渡す限りの焼け野原です。300万人の日本人が亡くなり、一千数百万人が失業しました。さらに莫大な戦争賠償金。当時、海外の専門家は、日本は50年経っても昭和5年と同等の経済レベルにならないだろうと予言していたそうですね。ところがたった20年で戦勝国であるイギリスやフランスを追い越すまでの復興を成し遂げました。
 その象徴として私は出光佐三を書きました。とにかく日本は立ち上がる、世界はふたたび日本に驚くという信念で戦い抜いた。この男たちの生き方をとにかく今の日本に知らせたいと思って、取り憑かれたように7ヵ月書き続けました。

(取材・文=永江朗、『ダ・ヴィンチ』10月号「百田尚樹」特集より)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130915-00002852-davinci-ent

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2013年09月26日

生き続ける天心の理想

 岡倉天心の父は、越前藩の藩士!しかも父は横浜で『石川屋』!そして天心は横浜で生まれる…、そうですか…

 1874(明治7)年、横浜の貿易商の集会所として町会所が建設された。
 石造2階建てで屋上に塔があり、「時計台」の愛称で親しまれていた。

  碑文
  横濱市長平沼亮三書 昭和二十九年四月建 開国百年祭記念
  町会所跡

 この地に、1874(明治7)年4月に竣工した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。
 「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。
 1890(明治23)年、横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、1906(明治39)年12月類焼により焼失いたしました。
 跡地に開港50年を記念して現在の建物(横浜市開港記念館)が1917(大正6)年、竣工いたしました。
 また、この地は開港期より明治初年まで、 岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生系売込店)があったところです。

(横浜市中区公式サイトより、横浜市教育委員会文化財課 社団法人横浜国際観光協会 平成10年3月)
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/sighthist/etizu/21.html

 その福井県は、明治大学ともイマ、しっかりした絆があるようで:

 今年2010年の間部学講座は、明治大学と連携して実施します。
 先日、打合せのために明治大学へ行ってきました手土産は「鯖江藩 間部最中」
 明治大学は学生32,500人、今年2010年の受験者数は110,000人で早稲田大学を抜いて日本一だそうです。
 23階の展示室には、矢代操とともに明治法律学校(後の明治大学)を開講した旧鳥取藩出身の岸本辰雄、旧天童藩出身の宮城浩蔵の3人の写真と肖像画が展示してあります。

(2010年7月18日(日)付け鯖江市まなべの館のブログ、まなちゃんとちかちゃん「鯖江市・明治大学連携講座、幕末維新期の鯖江藩と矢代操)
http://ameblo.jp/manabe-yakata/entry-10593994644.html

 福井県鯖江市は明治大学創立者の一人である矢代操の出身地であり…、本格的な交流が始まるのは2010年からとなる。8月に明治大学就職キャリア支援プログラム「鯖江ブランド創造プログラム」(明治大学、鯖江市、鯖江商工会議所との連携事業)が始まり、9月には連携講座を実施した。

 明治法律学校、のちの明治大学は岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操によって創立された。岸本は鳥取藩、宮城は天童藩、矢代は鯖江藩といったように3人とも地方、それもかなり江戸から隔てた藩内で、しかも禄高が低い士族の家に、嘉永年間に生まれ、育った。
 やがて、彼らは幕末維新の動乱と変革の中、明治政府の命をうけた藩の選抜生(貢進生)として上京した。そして彼らが出会ったところは明法寮(のちに司法省法学校)であった。同校は司法省が設立したものであり、司法官僚を速成することが目的であった。この学校で「お雇い外国人」教師のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らは、それぞれの道を歩んだ。
 すなわち、岸本はフランスに留学し、帰国後は判事に、また宮城も同国に留学し、帰国後は検事になった。矢代は元老院に就職し、その傍ら法律私塾の講法学社(北畠道竜設立)等の経営と教育に当たった…
 講法学社の設置者の経営姿勢に不満をもっていた学生らは退学し、その内、十数名は神田小川町の長屋で自主学習をしていた。彼らはやがて、以前、同社で講師をしていた岸本・宮城に新しい法律学校の開校を願った。岸本らは友人であり、講法学社において学生に慕われていた矢代を誘い、東京府に私立法律学校設置願いを提出した。そして、ついに1881(明治14)年1月17日、麹町区の数寄屋橋の一角(現在の有楽町・数寄屋橋交差点近く)島原藩邸跡に法学校を開校した。時あたかも自由民権の風潮の真っ只中、明治法律学校は「権利自由」を校訓とし、フランス法を中心として教育に当たっていった。

(明治大学公式サイトより)
http://www.meiji.ac.jp/koho/information/history/

 今年2013年も、福井県との連携講座「岡倉天心、その生涯と思想を探る」が明治大学で11月23日(土、祝)1時より開講します(於リバティタワー1階 リバティホール)!
 でも、岡倉天心が生れた横浜市でも、横浜市立大学が:

 横浜市立大学では、2013(平成25)年9月21日(土)に市民の方を対象とした「近代日本美術の立役者〜岡倉天心とその時代〜」と題した講座を開催します。
 本講座は、幕末の横浜に生まれ、今年で生誕150年、没後100年を迎えた岡倉天心を記念した企画講座で、「天心サミット in 横浜」実行委員会(事務局:神奈川新聞社内)主催の「岡倉天心 生誕150年・没後100年記念天心サミット in 横浜」事業の一環として、天心の生誕碑が設置されている横浜開港記念会館で開催します。
 講座では近代日本美術の立役者でもある岡倉天心の足跡のうち、近代日本画家を支えた天心の活動に注目し、近代における日本美術の動向について、専門家が解説します。

(9月13日付け横浜市立大学研究推進課、エクステンション講座)
http://www.yokohama-cu.ac.jp/univ/pr/press/130913.html

 専門家って?

● 企画監修者: 松本郁代(横浜市立大学国際総合科学群人文社会科学系列、准教授)
● 原三渓と日本美術院を中心に: 三上美和(京都造形大学芸術学部・アートプロデュース学科、准教授)
● 横山大観と日本美術院の再興: 出光佐千子(出光美術館学芸員、青山学院大学文学部比較芸術学科、准教授)


 そうなんです、9月21日土曜日、ヤッホー君は横浜開港記念館で聴講してきたらしいのです。追って報告がなされるでしょう!
 

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2013年09月25日

オペラ白狐

 「今年は、岡倉天心(1863-1913)の生誕150年、没後100年にあたります」…いろんな催しものが開かれています。
 まずは、終焉の地。
 山歩クラブが火打山2462m〜妙高山南峰2454mと歩いて、天狗平から燕温泉で汗を落とし、タクシーで妙高高原駅へ向かう途中にあったのが、天心終焉の地!あれはいつだったか…(※)

「にいがた妙高岡倉天心顕彰会」後援

 岡倉天心によりオペラの台本として書かれた作品(1913年)で、彼の主要な著作がそうであるように、これもまた英語で書かれ、テキストは完成し、作曲者(レフラー)も決定しましたが、結局、作曲はされませんでした。
 オリジナル・テキストは、天心がイザベラ・スチュワート・ガーディナー夫人に献呈したもので、現在、イザベラ・スチュワート・ガーディナー美術館(ボストン)の所有となっています。
 表紙には「音楽のために書かれた三幕の妖精劇」とあるように、阿倍野の国守「保名」と彼に助けられた白狐「コルハ」の物語で、信田の森の狐伝説に基づいています。
 「白狐」のオペラ化としては、2007(平成19)年に東京藝術大学創立120周年記念企画として、ボストン在住の作曲家戸口純氏の作曲により部分的に作曲され、英語上演されましたが、日本語での上演はまだされておらず、今回の妙高市での上演が日本語世界初演となります。

  オペラ「白狐(びゃっこ)」(全3幕) 日本語版 ※世界初演
  原作(英語): 岡倉覚三(天心) "The White Fox"
  2013年12月1日(日)於妙高市文化ホール

http://whitefox.myoko-bunka.jp/

 岡倉天心がボストン美術館にいたとき(1904〜1913 をボストン時代とします)に知り合ったのが、裕福なアメリカ人女性、イザベラ・スチュワート・ガーディナー(1840-1924)。それ以前(1901年暮れ〜翌年11月が第一回インド旅行でした)、インド渡航のきっかけは、当時来日していて岡倉天心に日本美術史を受講していた裕福なアメリカ人女性、ジョセフィン・マクラウド(1858-1949)。インドで出合うのが、ヒンドゥーの思想家スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ尼僧(1863-1902)とその弟子のアイルランンド出身のニヴェーディター(1867-1911)。
 
 ちなみに「白狐」は、天心の愛弟子、下村観山(1873-1930)の日本画でもあります。これは1914年、天心没後、天心の意志を継いで、横山大観(1868-1958)たちと再興した日本美術院の、「再興第一回院展」に出品した、イマでは観山の代表作ともいえる画です。東京国立博物館に所蔵されています。

 では、天心の両親は、といいますと、福井県!越前の藩士だったのです。

 幕末に刷られた一枚の版画がある。二人の外国人が珍しそうに中を覗き込んでいる。「石川屋」と染め抜いた「のれん」が風に揺れる。天心はここで生まれた。

 現在は横浜市開港記念会館となっており、傍らには「岡倉天心生誕之地」と安田靫彦(ともひこ)の筆によるプレートがはめ込まれた碑が設けられている。当時、外国人向け商店街の中心地であり、越前藩がずいぶんと力を入れていたことがわかる。

 この「石川屋」を営んでいたのが、天心の父・覚右衛門である。武士ながら商才に富んでいたところから、橋本左内が推薦したという。「つね」という乳母が福井から呼ばれたが、この「つね」が橋本左内の遠縁にあたるところから、「つね」は天心の幼児期から左内のことを寝物語に語ってやまなかった。

 天心は子どもの頃から英語が飛び交う店の中で育ちながら、ジェイムズ・バラの英語塾に預けられた。父・覚右衛門の「これからは英語力を身につけなければ…」という考えからだ…

 中央公園の天心像は意気盛んな41歳の天心をモデルとしている。右手を袂に入れ、左手を帯上に堂々とした和服姿の天心は、まさに世界を見るようなまなざしである。彼はこの姿でアメリカのニューヨークを胸を張って闊歩したのである。
(注) ニューヨークで五所紋つきの羽織にはかま着用、黒足袋、せった履きという姿で路上を歩いていた岡倉天心、横山大観、菱田春草、六角紫水の4人。ニューヨークの青年から「おまえはどっちのニーズか?ジャパニーズかそれともチャイニーズか」と無遠慮に問われた際、「君達こそ、どんなキーか?ヤンキーかモンキーか、それともドンキー(ロバ)か?」とやり返したエピソードがある。

(福井県公式サイト、福井県と岡倉天心)
http://info.pref.fukui.jp/tenshin/tunagari/tentakaku.html

 ですので、福井県にも天心友の会があります:

 当会は、国際人として欧米人から敬愛され、西洋を東洋の理想に目覚めさせた岡倉天心の業績を顕彰し、天心が生涯の事業とした日本の伝統を守り、良風を広めて心豊かな「ふるさと福井」づくりを推進し、青少年の健全育成に努めることを目的に昭和56年に設立した。
 天心の命日の9月2日には「天心忌」、また秋には福井市中央公園天心像前で「天心祭」を挙行するほか研修会や講演会を開催。現在会員は60名余り、年会費は2,000円で会員募集中です。また天心の両親は越前の藩士で、天心は終生このことを誇りとされた。
  福井市大手3-10-1、福井市役所歴史のみち整備推進室内
  Tel 0776-20-5106
  代表者:酒井哲夫(福井市長)

(岡倉天心福井県顕彰会)
http://www.mitene.or.jp/m-zaidan/danta/03/danta0309.html

 しかし、生誕の地、横浜でも:

 横浜生まれで近代日本を代表する文明批評家・美術史家の岡倉天心生誕150年・没後100年を記念する「第18回天心サミット in 横浜」の実行委員会(会長・澄川喜一横浜市芸術文化振興財団理事長)が5月8日、神奈川新聞社(中区)で開かれ、サミットの実施事業が了承された。

 メーン事業の一つ、9月27、28日の三渓園(同)の平成大茶会では、天心が表した「茶の心」を市民にも広く体感してもらう。併せて子ども絵画教室が28日、園内で催される。サミット・フォーラムは29日、横浜市開港記念会館(同)。講演とパネルディスカッションの2部構成で、天心の教えを振り返る。

 実行委では今後、サミットの協賛企業・団体を募っていく方針を確認した。また関連事業として、3月の「よこはまシティウォーク」に約3,000人の市民が参加、天心ゆかりの地を巡ったことなどが報告された。

(2013年5月9日付け神奈川新聞 天心サミット実行委、「大茶会」など実施事業了承/横浜)
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1305080041/


(※) 3年前のちょうど今頃、2010年9月24日(金)〜26日(日)2泊3日の山旅でした。
 一泊目は、新潟県須弥山の湯(しゃみせんのゆ)一の宿(いちのやど)「元(げん)」(新潟県妙高市関川2275-3 Tel 0255-86-3000
 ニ泊目は、高谷ヒュッテ泊。
 立ち寄り湯は、燕温泉「針村屋」(妙高市関山6113-1 Tel 0255-82-3121)、白濁とした源泉の100%掛け流し。
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2013年09月24日

天心岡倉覚三

 「今年は、岡倉天心(1863-1913)の生誕150年、没後100年にあたります」とヤッホー君、書いていましたね、9月22日付け日記「日本美術院三則」。

 ケニア、ガーナ…アフリカまで飛ぶ前に、ヤッホー君は、岡倉天心については昨年、4日連続で書き込んでいましたのでご参照ください:
 ● 2012年5月31日「天の心」
 ● 同年6月1日「岡倉覚蔵」
 ● 同年6月2日「岡倉覚三」
 ● 同年6月3日「アジアはひとつ」
 その頃読んでいた本が、松本清張『岡倉天心、その内なる敵』。その後、河出文庫に入ったようで。

 岡倉天心生誕150年・没後100年・五浦六角堂再建!
 数々の奇行と修羅場、その裏にあった人間と美術への愛。
 清張自ら天心の足跡をたどり新資料を発掘し、精緻に描いた異色の評伝。

(河出書房新社公式サイト)
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309411859/

 また、『有燐』2000(成12)年5月10日発行第390号には「岡倉天心と近代の日本美術」と題した座談会が載っておりますのでこれも必読ですね:

 岡倉天心は横浜の生まれといわれ、若くして東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)の校長となり、その後、日本美術院を創設し、またボストン美術館に勤務して日米間を往復、『東洋の理想』や『茶の本』など、英文の著作を通じてアジアを擁護し、日本の伝統文化を世界に紹介するなど、幅広い業績を残しています。

 ここ2、3年の間に天心に関するさまざまな研究が出版されていますので、それらの最新の成果を伺いながら、天心の人物像をご紹介いただきたいと思います。

 ご出席いただきました青木茂先生は幕末明治期の洋画を中心にご研究で、以前『神奈川県美術風土記』の中で「岡倉覚三と横浜」という論文を執筆しておられます。

 中村愿さんは『岡倉天心全集』全9巻(平凡社)の編集に際して資料収集に携わり、昨年『美の復権−岡倉覚三伝』をまとめられました。

 森田義之先生はイタリア近世美術をご専攻ですが、茨城大学五浦(いづら)美術文化研究所長として『岡倉天心と五浦』の執筆と編集に当たられ、この4月からは愛知県立芸術大学に移られました。

 森登さんは中央公論美術出版にお勤めで、『岡倉天心アルバム』などの編集・制作を担当していらっしゃいます。

http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/390_2.html

 最新の研究成果では、岡倉登志・宮瀧交二・岡本佳子共『岡倉天心、思想と行動』(吉川弘文館、2013年6月)あたりかな。岡本佳子先生には、論文『インドにおける天心岡倉覚三』があります。
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/6335/1/3-1_OKAMOTO%20Yoshiko.pdf

 ヤッホー君も、先週の19日、常陸路で、岡倉天心を訊ねるウオークをなしたきっかけを作ってくれた山歩クラブのムカシの仲間から、思いがけないメールをいただき、深謝! そう、「山歩クラブ」は山の醍醐味を知る「学校」、もしくは「仲間づくりの炉辺か井戸端」のようなもの、ですので立派な卒業生です! イマも立派な仲間で、先輩ですね。そのうち、行くよぉ〜、待っててねぇ〜、ヤッホー!:

 ヤッホー君、お元気のことと存じます!もうアルプスの山々は秋の気配で紅葉の季節になりますね!

 山のクラブから外れても月一のペースで山には行っていますが、冬の時期は近郊の低山をウロウロしています(笑)。飛び入り参加でも良ければお誘い下さい。

 それから、いわきにも又いらして下さい!以前、塩屋崎灯台に行かれましたよね(私は寝てましたが〜)。あの辺りは津波で殆ど家が流され土台しか無く景色が一変し、驚きました。

 でも、我が家の近くに“極楽湯”新しい温泉が出来、行く楽しみ が一つ増えました(^^♪

 天災は仕方ないですが、原発事故の人災はひどいですよね!もうこの年では放射能もこわくは無いので、先月も友達と一緒にたくさん放射能を浴びて来ました〜〜〜!

 厳しい夏も終わりそうでホッとしていますが、まだまだ夏の疲れがたまっていることと思います。体調に気を付けてお過ごし下さい。

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Kofi Awoonor

Prof Kofi Awoonor, a former diplomat, was killed in the attack in Nairobi. He was in the city attending the Storymoja Hay literary festival, a celebration of pan-African writing and storytelling.

His fellow Ghanaian poet Nii Ayikewei Parkes said people attending the festival had realised something was wrong when Awoonor, known affectionately by many in Ghana as "Prof", failed to turn up for a session at which poets from west Africa and east Africa were due to perform a reading.

"Professor Awoonor and I and two other poets were representing west Africa, and there were four poets from east Africa," said Parkes, author of Tail of the Blue Bird, who is also Awoonor's nephew.

"The high commissioner had phoned to say that [Awoonor's] son Afetfi was injured in an attack at the mall, and that they had lost track of [Awoonor].

"Later that night the high commissioner phoned and said that his body had been found."

Awoonor is believed to have gone to the Westgate mall with his son, Afetfi Awoonor, who left him in the car. It was unclear whether Awoonor was attacked in the car park, or whether he entered the mall looking for his son after hearing initial gunfire.

…Ghanaian poet Kofi Awoonor among Westgate mall victims
By Afua Hirsch, theguardian.com, Monday 23 September 2013 12.42 BST
http://www.theguardian.com/world/2013/sep/23/ghanaian-poet-kofi-awoonor-westgate

Ghanaian poet Kofi Awoonor, one of Africa’s most distinguished literary figures, was among the scores of people killed by Al Qaeda-aligned terrorists who attacked a busy shopping mall in Nairobi, Kenya, over the weekend.

Awoonor, 78, was killed Saturday when members of Al Shabab, a Somali-based militia, seized the Westgate Shopping Mall in a hail of bullets in Kenya’s worst terrorist attack in years.

“I am shocked to hear the death of professor Kofi Awoonor in the Nairobi mall terrorist attack. Such a sad twist of fate,” Ghanaian President John Dramani Mahama said in a statement from Accra, Ghana’s capital.

Awoonor’s son was among the nearly 200 injured in the attack, the statement noted.

African and Middle Eastern news agencies said Awoonor was in Kenya for the 2013 Storymoja Hay Festival − an event celebrating the art of storytelling with readings, workshops and discussions. The festival, which began Thursday, was suspended after the mall shootings.

Born George Awoonor-Williams to ethnic Ewe parents, he studied at University College of Ghana and London’s University College before earning his doctorate in comparative literature at the State University of New York at Stony Brook, according to a biography on the website of the Poetry Foundation.

He taught comparative literature at State University of New York at Stony Brook before returning to Ghana in 1975. He published his most significant works in the immediate post-independence period, including “The House by the Sea” (1978), which the biography said was influenced by the 10 months he spent in prison for alleged involvement in a coup.

Awoonor served as Ghana’s ambassador to Brazil and Cuba in the 1980s, as well as United Nations envoy during the 1990-94 presidency of Jerry Rawlings.

He was also the author of “Rediscovery and Other Poems” (1964), “Night of My Blood” (1971), “Ride Me, Memory (1973), “The Latin American and Caribbean Notebook” (1992) and a volume of collected poems, “Until the Morning After” (1987).

…Poetry News, Ghanaian Poet and Professor Kofi Awoonor Killed in Nairobi Shopping Mall Attack
Posted in Poetry News on Monday, September 23rd, 2013 by Harriet Staff:
http://www.poetryfoundation.org/harriet/2013/09/ghanaian-poet-and-professor-kofi-awoonor-killed-in-nairobi-shopping-mall-attack/

From his first collection, Rediscovery and Other Poems, in 1964 while still a student at the University of Ghana.

Songs of Sorrow
Something has happened to me
The things so great that I cannot weep
I have no sons to fire the gun when I die
And no daughter to wail when I close my mouth
I have wandered on the wilderness
The great wilderness men call life
The rain has beaten me,
And the sharp stumps cut as keen as knives
I shall go beyond and rest.
I have no kin and no brother,
Death has made war upon our house;
And Kpeti’s great household is no more,
Only the broken fence stands;

http://www.poetryfoundationghana.org/index.php/occational-poems/funeral/item/816-songs-of-sorrow

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2013年09月23日

立憲主義

 今年も彼岸花に出会いました。三葉だけご紹介:
 
 9月18日水曜日 鳩ノ巣駅から歩き出して本仁田山登山道入り口に着いて(山歩クラブ番外編)
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 9月20日金曜日 越中島橋たもとにて(江東区観光ガイドと行く初秋の深川怪談物語)
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 9月22日日曜日 隅田川大橋たもとにて(朝キン)
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 さて、今日は彼岸の中日、秋分の日。
 ヤッホー君は、すっかりご縁ができた市川市に、今日9月23日月曜日(祝日)もお出かけ。
 またまたそこで「びっくり」チラシに出会いまして、おどろ木桃の木山椒の木でしたのでさっそくご紹介。
 
 チラシには例のあの無教養な山口県で政治を生業としている家のぼんぼん、安倍首相が7月3日、といいますからやッホー君は日本にいなかったのですが、そのとき党首討論で「立憲主義」を問われ、「(それは)王権時代のものであって〜、ミンシュシュギの国家では、同時に国の姿について磨きこんでいくもの」と答弁し、北九州で政治を生業としている家の無教養なぼんぼん、麻生副総理と同じく、嘲笑の的になっている…、というのです。
 で、こうした発言を首相がしても、つまり「立憲主義」からの離脱を表明しても、マスゴミは報道しないし、問題にもしない、チェック機能がどこにもはたらかない「ミンシュシュギ」、メルトダウンしても、国内に難民を抱えても、責任も問われず訴追もされない好い加減な「国家」になりさがってしまったようで。
 やはり知的に劣化している国の象徴なんでしょうか、ヤッホー君、「哀しい〜!」と吼えております。

 まずは YouTube でその前後も含めてじっくり聴いてみましょうか、ヘッドホンの準備はOKですか?

http://www.youtube.com/watch?v=G9_lN5S121k

 次に、「立憲主義」について、ヤッホー君のこのブログでも何度かご登壇願っている弁護士の杉浦ひとみ先生はこんな風にわかりやすく説明していてくださいました;

 小さなグループとか、NPOとか作るときの、“構成員目線”というか“下から目線”です。
 例えば、会の決まりを作って代表をおきますよね。
「構成員はみんな平等でそれぞれ意見を言っていいことにする」
「会の大きな決めごとをするときは全員でする」
「会費の値上げも全員で決める」
「支出の報告は全員にする」
「役員は任期2年で、重大な問題があれば構成員の3分の2の多数で解任する」
「会の重要な決まりを変更するには、会員の3分の2の多数で決める」、とか。
 つまり、会員は、代表とか会計とかいう人が、勝手に何かしないように決まりを作っておき、何事かあればみんなで話し合って決める。
 例えば、代表が勝手に他のグループの催しに参加を決め、会員を当日ボランティアに出します、なんて決めたりしたときには、そのあと急いで、「渉外については全員の事前の了解を求める」なんて条項を作ったりします。

 つまり、「代表だからって勝手なことをしないで下さいよ」「私たちで決めてこの会は運営するわけで今は便宜上Aさんが代表なだけですよ」ということです。
 これが立憲主義です。

 これに対して、“代表目線”というか“上から目線”だとどうか。
 なんか会員がうるさいことをごちゃごちゃ言うから、会員が集まって相談しないように、
「会員同士で話し合いを持つときは何時、どこで、何人で何を話すかを代表に届けるように会則に決めましょう」
「会員同士の集まりが会の秩序に反すると思うときは、代表はその開催を許さない」
「会のルールは会員こそが守るもの」
「会の公益とか秩序を乱すような会員の行動は罰金を科すようにして、時には除名にもする」
「重要な会則の変更も簡便にできるように会員の10分の1で決められることにします」

 こんな風な会則の決め方は、立憲主義的ではないことになります。

 前者は、下から目線で作った会則で代表を縛る。
 後者は、上から目線で会則を作って構成員を従わせる。

 冒頭の定義「政府の統治(代表)を憲法(会則)のもとにおくことが立憲主義」がわかりますよね。

(2013-09-23 02:57:37 憲法問題)
http://blog.goo.ne.jp/okunagairi_2007/e/675a63b446feda6713ca0ad753796afa

 市川市を歩いて来たヤッホー君、もうすっかり、永井荷風先生です:

私は王政復古の際に薩長の浪人どもが先に立って拵えた明治の世がいやで成らないのです
私の悪むのは薩長の浪人が官員となって権勢を恣にし、一国上下の風俗人情を卑陋にさせた事を申すのです
(1916(大正5)年「文明」発表「うぐひす」の「小林さん」)

世の中は不思議なリ。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら、戦地には盛に娼婦を送り出さんとす。軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし
(1938(昭和13年)8月8日付け断腸亭日乗)

日軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異ならず。人の弱味みにつけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり。斯くの如き無慈悲の行動は軈て日本国内の各個人の性行に影響を及すこと尠からざるべし。暗に強盗をよしと教るが如くものなればなり
(1941(昭和16)年7月25日付け断腸亭日乗)

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2013年09月22日

日本美術院三則

 ヤッホー君の昨日の日記の続きです。
 「教えてもらってきた」とか「教わったかもしれませんが」とかにわざわざ下線を引いていることについて、あれはどうして下線を引いたのかな、と日曜日、さわやかなお彼岸になった朝、なおもヤッホー君、机に頬杖ついて、自分の行為を点検しているんですって。
 ヤッホー君の高校時代、代講で授業を受け持った教頭先生は黒板に大きく白墨で≪自学自習≫って書いて、手のひらを舐めて、その字をもう一度なぞっていました。
 人から、とくに目上の人から、偉い人から、権威をふりかざすエリートから言われたこと、教師・先生・教授が言ったことを鵜呑みにするな、≪批判精神 esprit critique≫をこれから大人になっていったときに持ち続けよ、という教えだったのでしょう、イマから思えば。
 ヤッホー君はその教えを後生大事に捧げ持って、そのまま持ち続けて、抱え込んでしまった<たち>の生徒だったのでしょうね、きっと。だから大人になっても、「改革者」たらんとし、世渡りが下手で、いつも上役や権威にたてついては、グレート・ミステークばっかり…
 
  だからイマでもヤッはー君が惹かれるのは、こんな記述:

 この講座では、誰にでも手に入ってかつ信頼のおける統計を用いて、現在の日本経済の真の姿を捉えることを目的にします。
 たとえば本当にデフレは起きているのでしょうか?
 市民の皆さんは、物の値段が安くなったと感じていらっしゃいますか?
 デフレとは物の値段が急速かつ連続的に安くなることですが、本当に皆さんの生活感覚とマッチしているでしょうか?
 こうした身近なところから、日本経済の姿を探ってみましょう。
 そして今鳴り物入りで喧伝されている「アベノミクス」とは具体的に何をめざし、われわれの市民生活とどう関係しているのでしょうか。
 マスコミ報道では見えない公正で広い視野から政策のあり方をも考えてみましょう。

(横浜市立大学エクステンション講座 2013年9月〜2014年3月)
http://www.yokohama-cu.ac.jp/ext/outline/pdf/20130802kokuchi_leaf25.pdf

 でも大本営発表とか、マスコミ報道を鵜呑みにしないで、一歩立ち止まって、自分の目で確かめ、自分のアタマで考えてみるって、たいへんなイマの時期、とっても大切なことだと思うのです:

 明治の歴史観として、日本はアジアの国の中では例外的にヨーロッパと同じパターンであるという前提に立ち、「脱亜」、つまりアジアから脱すべきだと言う主張が強く、明治の歴史家たちも日本の歴史を書くときに、日本はアジアの国ではないということを見せようと考えた。このような日本の歴史の解釈、江戸の解釈は間違いである。
 江戸時代は社会における宗教心は弱くなったと一般的に考えられている、しかし実は宗教心の強い時代であった。
 もう一点は、封建的身分制は実質的に崩壊して…、町人の文化だけが面白くなると考えられている。これも表面的な理解にすぎない。
 さらに三点目として、ここ20年間ぐらいの研究成果により、江戸時代は鎖国ではなかったという説が一般的になったが、明治はオープンで江戸はクローズというように明白に対比させるのは間違いであり、外国との交流がほとんどなかったわけでない。
 以上がゲンダイまで続く江戸学の三つの大きな誤解である。

(ロンドン大学アジア・アフリカ研究院教授ダイモン・スクリーチ「江戸学とビジュアルカルチャー〜絵画から見透かす江戸文化論〜」 2008年11月22日、神奈川大学横浜キャンパス)
http://himoji.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/NL21.pdf

 絵画?
 これこそ徒弟制度、ムラ社会なのではないか、と。

 岡倉天心の一周忌にあたる9月2日、横山大観、下村観山は1万円余の借金をして設立した谷中の研究所で開院式を行い、「日本美術院三則」を掲げました。

 一  日本美術院ハ新日本ノ芸術樹立ニ益スル所アランガ為ニ、再ビ其研究所ヲ起ス
 一  日本美術院ハ芸術ノ自由研究ヲ主トス、故ニ教師ナシ先輩アリ、教習ナシ研究アリ
 一  日本美術院ハ邦画ト洋画トヲ従来ノ区別ノ如ク分割セズ、日本彫刻ト西洋塑像トモ亦然リ

 この高らかなる理念は、戦後つくられた「綱領」の中に受け継がれています…

(日本美術院公式サイト、特別寄稿 古田亮「日本美術院史外伝」)
http://nihonbijutsuin.or.jp/colum/contents_furuta01.html

 すご〜いexclamation×2 明治の男ども、とヤッホー君、「革新」を唱え続けたプリンシプルのある「改革者」群像が存在していたようで。
 今年は、岡倉天心(1863-1913)の生誕150年、没後100年にあたります。

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2013年09月21日

salon de モダン

 実は昨日9月20日金曜日午後のヤッホー君、昼寝するのも忘れ、すっかり目が冴えてしまった「びっくり」時間を経験しましたので、ご紹介。

 普通、こんな風に教えてもらってきたヤッホー君、疑ったこともなかったのです:

 1543(天文12年)8月25日、九州南方の種子島にやってきた一隻の中国船に、ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが便乗していた。
 彼の持っていた鉄砲に着目した時の島主種子島時堯は、金2,000両を投じてこれを譲り受け、使用法を教わる。
 鉄砲の威力を知った時堯は、種子島在住の鍛冶・八板金兵衛清定に命じて早速その複製をつくらせた。
 これより鉄砲の製作は、またたくまに全国にひろがり、やがて滋賀県国友や、大阪府堺などで大量につくられるようになった。

(西之表島市の公式サイトより「鉄砲の伝来」)
http://www.city.nishinoomote.kagoshima.jp/histry/denrai.html

 さらに、その滋賀県国友に飛びますと、

 1570(元亀元)年、姉川合戦で鉄砲は使用したが、1575(天正3)年の「長篠の戦い」では、3,000挺の鉄砲が使用され、内500挺は、信長より受注を受けた国友鉄砲が使われ、信長の勝利となり、以後戦略が変わった。
 鍛冶師は、1613(慶長18)年、1貫目・150匁・120匁玉筒、翌年には、10匁・6匁玉筒を多量に作り家康に納めた。
 その1年後、1614(慶長19)年の「大坂冬の陣」では大筒を使い、「夏の陣」は中筒・小筒を使い、家康の大勝利となり、徳川250年の時代が来た。

(国友鉄砲の里資料館〜戦国時代を変えた国友鉄砲鍛冶〜)
http://www.kunitomo-teppo.jp/

 ポルトガル人が種子島にやってきて、日本に始めて鉄砲が伝わった、と教わったかもしれませんが、種子島に「漂着」した船は中国籍の船であり、鉄砲は Made in China だったんで、ポルトガル製ではなかったんですよ…。
 大坂城に打ち込んだ大筒も、ヨーロッパ製でなく、オスマン帝国製だったんですよ…。

 お話ししてくださったのは、渡辺賢一郎さん(深川東京モダン館)。
 「Salon de モダン」(於深川東京モダン館 14:00〜15:30)。

 ことほどさように、アジアには交易ネットワークが先行してあって、それにヨーロッパ各国がいかに市場参入していくかが課題だったのです、と。
 自国産で、遅れた未開発の土地に自由貿易をごり押しし、軍事力や政治力で市場解放を迫ってきたというより、大航海時代の旗頭であったスペインやポルトガルをはじめとして、自国の流通ネットワークに、いかにアジア域内ネットワークを被せることがてきるか、が先決だったのだ、と。
 商取引路の決済も、当時、世界最大級の帝国「明」、「清」が「銀」を国家財政の根幹とした(税の銀納)ので、「銀本位制」だったんですよ、と。
 一国史的、西洋中心の歴史観でなく、アジアの近代は西洋列強の【ウエスタン・インパクト】でなく、アジアと西洋とのシステム相互の関連性から、むしろアジアのイニシアティブを視点に取り込むことも大事ですよねえ〜、と (※1)。

 こんな目が覚めてしまうようなお話しを聞くことができた場所、「深川東京モダン館」は:

 「深川東京モダン館」は、国登録有形文化財建造物「旧東京市深川食堂」をリノベーションした施設で、江東区全域を対象とした観光案内スペースとして、また、新たな文化の発信スペースとして活用しています。

 旧東京市深川食堂(国登録有形文化財建造物)は、1932(昭和7)年建築の関東大震災復興建築物です。
 戦後、職業安定所となり、1979(昭和54)年に区に移管された後は、内職補導所、福祉作業所として2006(平成18)年まで活用されました。
 この建物は、東京という都市が近代化されていくきっかけになった関東大震災復興事業の様子や、当時の構造技術、建築デザインを伝える数少ない現存施設として歴史的価値を持っています。
 これらを勘案し、今後も活用しながら保存・伝承していくため、昨年度に改修を実施しました。
.
(江東区の公式サイトより観光情報発信拠点、深川東京モダン館)
http://www.city.koto.lg.jp/profile/kanko/47846/47853.html
 
 実を言いますとヤッホー君、8月23日(金)「Salon de ふかがわ」にもおじゃまし、「名所辰巳八景」について、龍澤潤さん(深川東京モダン館)からおうかがいし、帰りにさっそく、門前仲間町の「岡満津」さん (※2) に寄り、「辰巳八景最中」を買っていたのです!
 ですので2回目!


(※1) 渡辺賢一郎さん(深川東京モダン館)の問題提起で読んでみたくなった文献に以下2冊。
  ● 杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』(ミネルヴァ書房、1996)
  ● 龍谷直人・脇村孝平編『帝国とアジアネットワーク長期の19世紀』(世界思想社、2009)

(※2) 御菓子司 岡満津(江東区門前仲町1-7-10 Tel 03(3641)4565、東京メトロ「門前仲町」駅3番出口より徒歩1分)
 1905(明治38)年創業の和菓子店で、1923(大正12)年に新聞で公募した「辰巳八景」
  ● 富ケ岡の暮雪
  ● 相生橋の秋月
  ● 小名木川の晴嵐
  ● 霊岸の晩鐘
  ● 州崎の落雁
  ● 安宅の夕照
  ● 木場の夜雨
  ● 佐賀町の帰帆
を最中の皮に刻印し、つぶ・こし・白あんの3種類の餡からなる「辰巳八景最中」を主力商品としてご愛顧頂いております。
 吟味された素材を技術と真心で一つ一つ仕上げました四季のお菓子もお楽しみ下さい。
http://www.wagashi.or.jp/tokyo_link/shop/1517.htm

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2013年09月20日

tarnish Japanese sport

A video emerged Wednesday 18/Sept showing a volleyball coach repeatedly slapping a schoolboy -- just days after Tokyo was awarded the 2020 Olympics -- in the latest example of brutality to tarnish Japanese sport.

A short clip posted on YouTube and other video-sharing sites showed the teacher at Hamamatsu Nittai Senior High School in central Japan smacking the student's face at least 13 times in 16 seconds. It was authenticated by the school.

The episode was captured on a mobile phone by another student during a practice game in Gifu, northwest of the city, on Sunday. By mid-afternoon on Wednesday it had garnered some 1.6 million viewings on YouTube.

"Don't joke around, kid! Do you understand? You're stupid," the teacher yells in the video as he repeatedly slaps the child's face.

According to the school, the teacher has admitted the physical abuse of the second-grader, saying: "I wanted to shake him up, but I went about it the wrong way".

Students in Japan are 16 or 17 years old in second grade of high school.

Toshitaka Shiozawa, assistant principal of the school, told AFP the 41-year-old teacher had also beaten another student on the same day. He declined to reveal the teacher's name.

Neither student suffered any lasting injuries in the attacks, Shiozawa said, adding the school was considering disciplining the teacher as "we regard the act as corporal punishment".

The school held an emergency meeting with the parents of students in the volleyball team Tuesday night, at which the teacher and the school principal apologised for the incident, Shiozawa added.

In May last year, the same teacher also slapped a student's face, causing a nosebleed, but the school did not take any punitive measures "because the student did not complain," he said.

In a separate case in western Japan, nearly 70 junior high school students were left with injuries on their feet after being ordered by their teachers to run barefoot, local media said.

The students were forced to run up to 1.2 kilometres (0.7 miles) over ground heated up by strong sunshine because they were late for an exercise at a sport festival at Suma Gakuen junior high school in Kobe, news reports said.

Immediate confirmation of the reports was not available.

Japan banned corporal punishment in schools after World War II, but it remains far from uncommon, particularly in sports education, despite a number of high-profile cases.

In December, a teenager killed himself following repeated physical abuse from his high school basketball coach in Osaka, western Japan.

Earlier this month, world judo champion Shohei Ono was suspended from his university for physically abusing junior members of the judo squad.

Japan's judo community was rocked in January when it emerged the coach of the national women's team was found to have beaten athletes, sometimes using a bamboo sword, calling his charges "ugly" and telling them to "die" in the run-up to the London Olympics.

The latest incident came less than two weeks after Japan was awarded the right to host the 2020 Olympic Games, and followed the announcement that the government was to create a sports agency to boost elite athletes' performance.

Mieko Ae, professor and sports psychologist at Tokyo Women's College of Physical Education said many coaches in Japan believe physical abuse can improve students' performance.

"In order to get rid of sports abuse, we have to change this way of thinking and if necessary, we should consider introducing measures on those who break the rules," Ae said.

"Extreme sports bullying is not discipline, it's a crime," she said. "It's time to remove all violence from sports."

http://www.youtube.com/watch?v=dLBEPLO3d3I

http://www.youtube.com/watch?v=zw2S84uCI8M

Tokyo’s bid committee has said hosting the Games in the Japanese capital would help the country throw off the gloom of the March 2011 earthquake, tsunami and nuclear disaster. Last month a new crisis broke out over contaminated water leaking from the plant and the government said this week it would spend 47 billion yen ($472 million) on fixing the leaks, including freezing soil around the reactors.

“There have been some expressions of concern over the leak of polluted water at Fukushima, but the government will take a lead in achieving a complete resolution of this problem,” Abe told reporters at his official residence. “I will explain carefully that we are doing our utmost with a firm resolve and that in 2020, seven years from now, there will be absolutely no problem.”


By Isabel Reynolds & Takashi Hirokawa - Sep 5, 2013 12:17 AM GMT+0900
Abe Says Fukushima Will Be Resolved Before 2020 Olympics
http://www.bloomberg.com/news/2013-09-04/japan-s-abe-says-fukushima-will-be-resolved-before-2020-olympics.html

The cartoon, which appeared on Wednesday in the satirical weekly Le Canard Enchainé, shows two sumo wrestlers – each with an extra arm or leg – with the wrecked Fukushima Daiichi nuclear power plant in the background.

In the runup to the IOC vote, reports emerged of leaks of highly contaminated water from storage tanks at the plant. In a separate incident last month, the facility's operator, Tokyo Electric Power, admitted that about 300 tonnes of radioactive groundwater a day was flowing into the Pacific.

Japan's prime minister, Shinzo Abe, offered personal assurances to IOC officials that the Fukushima plant was under control and that radiation leaks posed no threat to Tokyo.


French Fukushima cartoon offends Japan
Justin McCurry in Fukushima
The Guardian, Thursday 12 September 2013 12.00 BST
http://www.theguardian.com/world/2013/sep/12/french-fukushima-cartoon-offends-japan

Japan's prime minister, Shinzo Abe, has told workers at the Fukushima Daiichi nuclear power plant that "the future of Japan" depends on their ongoing struggle to contain leaks of highly radioactive water at the site.

Abe's brief visit to the stricken plant on Thursday – his second since he became prime minister last December – comes weeks after he reassured the world that the situation at the facility was under control, amid reports that large quantities of contaminated water were seeping into the Pacific ocean.


Abe's reassurances are thought to have helped Tokyo's successful bid to host the 2020 Olympics, but were later challenged by a senior official at the plant's operator, Tokyo Electric Power [Tepco].(※)


Future of Japan depends on stopping Fukushima leaks, PM tells workers
Justin McCurry in Tokyo
theguardian.com, Thursday 19 September 2013 12.15 BST
http://www.theguardian.com/world/2013/sep/19/future-japan-fukushima-leaks-pm


(※) 毎日新聞 9月21日(土)12時4分配信「浪江町議会:首相に抗議 汚染水制御発言「事実に反する」:

 東京電力福島第1原発の汚染水問題を巡り、安倍晋三首相が国際オリンピック委員会(IOC)総会で「状況はコントロールされている」などと発言したことについて、原発事故で全域が避難区域に指定されている福島県浪江町の町議会は9月20日(金)、「事実に反する重大な問題がある」とする抗議の意見書を全会一致で可決した。
 意見書によると、原発から1日推計300トンの汚染水が流出している「深刻な事態」であり、「『コントロール』『(港湾内で)完全にブロック』などされていない」と指摘。
 安倍首相が「健康への問題は全くない」と発言したことに対しては、浪江町だけで震災関連死が290人を超えるとし、「福島を軽視する政府、東電に憤りを禁じ得ない」と訴えている【三村泰揮】。
http://mainichi.jp/select/news/20130921k0000e040223000c.html

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2013年09月19日

大根ノ山ノ神さま

 大根ノ山ノ神さま。

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 ここは面白いところ。歩き出しからおよそ小一時間、10時頃だったのでしょうか。水分補給で一本つけたところです。標識があり、川苔山1364mと、杉ノ殿尾根を通ってコブタカ山、本仁田山への分岐、「大根ノ山ノ神(おおねのやまのかみ)」660mです。
 ヤッホー君は追い越された若い単独登山者の後を追うようにして、こここまで登ってきたのですが、その若い登山者に、これからどちらへ、と尋ねましたら、川苔山から本仁田山へ回りますって返事が返ってきました、そうなんだ、奥多摩駅から日原(にっぱら)方面へのバスに乗って川乗橋でおりて、そこが登山口、川苔山から赤杭(あかぐな)山〜古里(こり)駅が一般的ルートとばかり思っていましたが、鳩ノ巣から大ダワを通って登るルートってこれかぁ〜なんてアタマのなかがくるくる回っていました。

 ところがその祠をちょっと過ぎると林道の終点で、山塊の概念図を示す案内図板と、本仁田山への登山口の標識が別に立ってありました。この林道は西川線?入川線?
(ヤッホー君は西川線の終点で将来的には入川線とドッキングするんでしょうね、と思っとります。確認しにもう一度行かなくっちゃ…とも思っとります)

 そして…、峰集落、いや古里村、うん、「廃村」がその先にあるらしいのでございます、もうびっくり。
 この本仁田山へ分け入る山路への道標は、ヤッホー君が「道迷いしないように」とアタマで見つけたもの。しかしこころは、別にそうじゃないほうの路を辿りたくなっていて、あれはいったい何だったのでしょうか、柳田国男(1875-1962)が手招きしたのか、廃人、廃家、廃村の遺物が誘ってきたのか、いまではとてもフ・シ・ギ・な一瞬でした。
(ヤッホー君は、確認しにもう一度行かなくっちゃ…と思っとります)

 動画が3枚組で添付されています。ちょっと恐くなってきますが、ひきこまれます。作成された「せんてんす」さんのウエブづくりのセンスに敬意を表します:

 駅から歩いていける廃村。しかし、そこには、予想外の光景が…(゚゚;)エエッ

 貴重な輸入資源で作られた車ですから、大事に長く乗ります。ごめんね車屋さん。
 貴重な輸入燃料で走っているので、なるべく走行距離を短くして、自分の脚で距離を稼ぎます。ごめんね石油屋さん。
 飽食の時代ですが、野菜中心の粗食で、生きていきます。ごめんね商社さん。
 廃村を見ると、文明にどっぷり使った体たらくな自分が、情けなく感じてきます…。
 そう思うのは、私だけでしょうか?

(廃村の記録・峰集落@東京都奥多摩町)
…http://せんてんすくらぶ.net/move_mineshuuraku.htm

 そして、ウエブづくりに飽いてきた「流浪の民」さんにも「おつかれさまでした!」とご苦労とご苦心にその労をねぎらってやりたくなっております:

2013/1/15 〜家族の季節〜 HONDA STPWGN
 久しぶりに更新しました。2年と半年振りの更新です。ちゃんと新規でページをアップしたという意味では、4年振りとなります。
 子供が生まれてからは、HP更新は全く手をつけられないほど忙しく、また興味も遠のいていました。
 今回の更新も掲示板からの焼き直しとなりますが、久しぶりに足跡を残せたことに満足しています。
 HPを開設した14年前は、まだまだホームページ作りは敷居の高いものでした。
 その後ブログが登場したり、Mixi やフェイスブック、YouTubeの台頭で、個人の情報発信の仕方も随分変化してきました。
 もう個人作成のHPは、広告収入が目的で無い場合は廃れてゆくような気がしますが、今しばらくは「流浪の民」を残してゆこうと思います。
 今後も掲示板中心の運営となりそうですが、どうぞよろしくお願いします。

http://homepage3.nifty.com/rurounotami/hitorigoto.htm

 奥多摩の「峰廃村」
 そこは駅より北に分けいった標高約600mの山域の斜面に造られた集落であった。
 今から560年も昔、鎌倉末期から室町時代にかけて、秩父地方から山越えをしてきた人びとにより村が形成された
 以来炭焼きや木材の切り出しなどで、山奥の小さな村ながら長い時代繁栄を続けてきた。
 江戸時代の明暦の大火や関東大震災の際、大量の木材を江戸(東京)に供給し、復興に一役かった史実も残されている。
 しかし時代は変わり、木材や炭の価値は低下し、住民たちは不便な山の生活を捨て街へ下りて行った。
 昭和47年に最後の住民が下山したことにより「峰」は消滅した。

 この廃村である峰集落は、日本民族学の祖である柳田國男氏が、帝大生の若き日(1899年)に峰に滞在したことでも知られている。
 この時柳田氏は、峰の長であり古里村の村長でもある福島文長氏宅に滞在した。
 3日間の滞在中、福島氏や村民から聞いた話が、後の柳田民族学の源流になったといわれている(『後狩詞記』より)。

 まさに伝説に彩られている廃村が「峰」である。

(流浪の民)
http://homepage3.nifty.com/rurounotami/ruins_mine01.htm

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2013年09月18日

本仁田山1225m

  いやあ、申し訳ございません。ご勤務中の皆さま、おつかれさまです。
 平日なのに山行、ホントウにごめんなさい。
 今日はカッシー、新人ブリヂストンさまとの3人で、番外編。
 奥多摩は鳩ノ巣駅(310m)に朝9時集合し、大根ノ山ノ神さま(660m)〜コブタカ山〜本仁田(ホニタ、1225m)山(昼食)〜安寺沢(520m)〜奥多摩駅(340m)〜もえぎの湯のコース、番外編のお山歩会だったのでございます。
 時間で言えば朝の9時から2時まで歩いて、奥多摩駅を越して「もえぎ湯」に向かった、とこういうわけでして。
 あの、いえ、9月8日日曜日の月例山行だった冨士山御中道のお山歩会の帰りの車中、急遽、カッシーの休み日(振替休日)に合わせ日程だけ決めたようなもので。
 クルマのご提供はなし、ということは電車で「駅から登山」、え〜?奥多摩はつらいし、丹沢はまだ山ヒルの出没が予想されるし、西武線沿線、東武線沿線…とか考えているうちに、得意の「えいや」で決めた本仁田山!
 でも立ち寄り湯がないとつらいな、温泉を<馬ニンジン>に走るんだから…、よし、じゃあ、イマ、流行ってる逆コースではどうか、そうだ、鳩ノ巣駅からにしよう、と!

 これがまあ、大ヒット!
 台風一過、新緑の一番良い時か、と思われるほど山並みは深い緑に染まり、風は爽やか、男ども3人夏と秋のあわいの一瞬に酔いしれ、言葉を失いながらも歩き通しました。山は良いですね、サイコウ! ヤッホー!

 鳩ノ巣駅から登山口に上ったところで、秋の花に戯れる蝶を発見!
 (え〜と、ヒガンバナ、マンジュシャゲもきれいに咲いておりましたよ、いいですねえ、花の里)
 「キミ、幸せだぞう、こんな蜜いっぱいの花に囲まれて生きていけるんだから、子や孫にこの幸せいっぱいな里の話しをいっつもしてあげてね」ってヤッホー君、蝶に向かって懇願していたそうですよ。
秋の花に戯れる蝶.jpg

 本仁田山頂上でお昼も食べ、じゃあ、奥多摩駅に下ろう、こっちの山路のほうが踏み跡がしっかりしているからと、思ったところに、カッシーがほら、と富士山を指してくれました。
 写真に写らないけど、見える人の目にも、見えない人の目にも心にもしっかり焼きついてくれました!
 なお、下山路。
 通常の山案内書では登山路!。
 今日は、先の台風の影響で小枝が山路に散乱し、道迷いになりそうなぐらいに道が荒れていました!
見えねど冨士.jpg

 得意のこれな〜んだ、ヤッホー君はすかさず間一髪も入れずに「なん花」だあ〜
 ムラサキネズミノオ?(知ってる方おられれば教えてくださいな)
ナント花.jpg

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2013年09月17日

山崎朋子

 水木洋子(1910-2003)が1959(昭和34)年、岩手県に足を運んで「北限の海女」を取材したことを書き綴ってきています。
 実はその同じ年に、映画の脚本を書き始めたひとりの映画監督がいました。
 ヤッホー君のこのブログにこれまでも何度か登場してきた、熊井啓(1930-2007)のことです。

映画化された私のはじめてのシナリオは、1959(昭和34)年度日活作品『傷つける野獣』(監督:野口博志、モノクロ、二谷英昭、筑波久子ほか)である。60年安保闘争のはじまる前だった。
…熊井啓『映画の深い河』(1996年3月、近代文芸社、41頁)

 そして熊井啓は、3年後の1962(昭和37)年9月、東南アジアにでかけています:

 英国の貨物船チトラル号に横浜で乗船。香港からシンガポールへ。ここから飛行機でクアラルンプールを経てバンコックへとまわった。ベトナムは戦争のため入ることができず、残念だった。
 この旅で印象的に残ったことは、太平洋戦争の残した傷痕の深さである、その傷痕がまだ癒えぬうちに、ふたたび日本の経済進出が始まっていた。

…熊井啓、同書、118頁

 これが今日、台風一過の9月17日のヤッホー君のブログの伏線ですって。
 水木洋子の岩手県小袖海岸への取材から時を隔たることおよそ10年、山崎朋子(1932年、昭和7年生まれ)は、九州に行って取材、聞き書きをしていました:

わたしが天草下島でかつてからゆきさんだった老婦人と3週間あまりの共同生活をおこなったのは、1968(昭和43)年−今から4年前のことであり、その体験を綴った本書の原稿を書き上げたのは、それから2年後の1970(昭和45)年のことでした。
(『サンダカン八番娼館』あとがき、文春文庫、267頁)

 ここに引く手紙は、その小学生の女の子の代筆になる最初の一通で、他のどれよりも直截におサキさんの気持ちが出ているように思われるのです。

  お金はいつもありがとうございます。わたしはぜんそくで、体がとてもよわくなりました…
  わたしは、あんたを子どものように思って「とも子」といいますので、あんたも、わたしを、かあさんと思って下さいね。
  わたしは4時からおきてあんたのことを、おだいしさまにもほかのかみ様にもいのっとりますよ…

  わたしは、サチコです。
  おばあちゃんは、おばさんのことを毎日いのっておられます。
  それから、またばあちゃんの家にもきて下さいね。
   (1971年)9月19日  山ざきとも子様

(同書、270頁)

 その山崎朋子の本『サンダカン八番娼館』(1972、筑摩書房、大宅ノンフィクション賞)と熊井啓は1973年6月出会い、翌年、映画化をすすめることになります。

 シナリオは元からゆきさんの「おサキ」の現在と青春に焦点をあて、それ以外の部分は思いきって省略することにした。
 そのかわり、原作では数行しか書かれていない若き日の南国のエピソードを拡大・深化させていった。

(熊井啓、同書、119頁)

 映画『サンダカン八番娼館 望郷』は、キャスト:三谷圭子(29才と32才)に栗原小巻、北川サキ(その若いとき、13、14、18、27、30、31才に高橋洋子、その晩年、年齢不詳だがおよそ74才に田中絹代、それにペナンから帰った女(35才)に菅井きんなど。
 映画のあらすじのところではこんなことが書かれていました:

 そして今、圭子はジャングルのなかで、おキク(水の江滝子)やからゆきさんたちの墓を発見した。
 望郷にかりたてられて死んでいった日本人たち。
 だが、それらの墓は祖国日本に背を向けて建てられていた。

(熊井啓、同書、熊井啓監督作品全フィルモグラフィー、302頁)

 では、ここでお待ちかね、映画をちょっとだけ覗いてみませんか(イヤホンつけてね)?
http://www.youtube.com/watch?v=H5B0G3O6fjg

 主役の田中絹代(1909-1977)について、お二方の以下に記したエッセイは必読:

☆ 熊井啓監督:同書のなか
 「溝口健二監督と田中絹代さん」(初出は雑誌『文芸春秋』1975年3月号)
 「田中絹代さんのこと」(初出は雑誌PHP、1979年1月号)
☆ 山崎朋子:「野菊のごとき」(初出は雑誌『月刊福祉』1996年12月号、その後、『わたしがわたしになるために』(1997年、海竜社)所収)
…映画『サンダカン八番娼館 望郷』で藝術選奨文部大臣賞や、ベルリン映画祭女優演技賞を受賞したこの大スターの素顔を描写なさっています。

 台風一過、読書の秋となってきました。ぜひ書物を手にとって読みはじめてみませんか!

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2013年09月16日

久慈市小袖海岸

 根岸英之さん(*)は今、市川市中央図書館副主幹ですが、こんな「夢」(行政ムラの特殊用語ですと、<課題>に化けます)を語ってくれていました。
 ヤッホー君が9月7日におじゃました「文学ミュージアム」についでです。だって水木洋子邸をお邪魔したのは、根岸さんが語ってくれたそのものずばりなんですから:゙

 はい。新しくできる文学ミュージアムがその中核施設になればいいなと。文学ミュージアムに来て「あ、水木洋子さんの家はあそこにあるのか。じゃあ行ってみよう」とか「北原白秋は真間に住んでいたのか。じゃあ今度真間に行ったときに手児奈だけじゃなくてそっちにもいってみよう」とか市川に点在する街の魅力を紹介し、文学ミュージアムから、また街の中に散策に行くという構図になるといいですね。
 市川は都心から近いベッドタウンという側面も多分にあるんですけど、そこに移り住んだ人達が、それらを通じて自分たちの住んでいる町の魅力を再認識する。
 ただ、あまり市川に特化してしまうとそこからの広がりが無くなってしまいます。ですからさらに、市外を含めて大きな広がりを持っていきたいというのが、我々の課題です。

(2013年7月号「いちかわ人インタヴュー」)
http://www.epic-co.net/06/06_02.html

 文学ミュージアムが結節点となって、市内にひろがっていく、あるいは市民が集いあってくる、その往来する空間となる。
 その<空間>が市川を越えて、他県、他国、ほかの場所に暮らす市民とも交流する「集いの場」となる…
 良い「夢」ですよね。
 だって、政治でも経済でも物理学でもない、文学こそが人と人とが深いところで思いを共有できる暖ったかい<空間>、<集いの場>、<世界>を用意できる(だから、用意しましょうよ!)
 時間も空間も利害関係も飛び越えた場所。
 そこは、書物を読むだけでない、知識を吸収するところだけでもない、想像力と想像力が交差、共鳴、通底しあう場所、なんですもん。

 まずは水木洋子邸を離陸し、市川市をはるか下に見ながら、YouTube に乗って「北限の海女」を観てみましょう。漁民の声、海女の声に耳を傾けてください。
 そして、人と人の結びつき、つながり、助け合いが、少なくとも久慈市と市川市の市民同士でもっともっと、絆が強く硬く深まり、お互いに行き来できるように育っていってほしいもの、と願うばかりです。
http://www.youtube.com/watch?v=BgSDHC5Dr7U

 水木洋子が岩手県久慈市を訪れたのは、1959(昭和34)年2月末から3月初めにかけてのことでした。
 そのときのことを書いた随筆『磯焚火』を「水木洋子市民サポーターの会」が文字におこしたペーパーが水木洋子邸にありました。冒頭に:

今でも昨日のことのように目に浮かぶのが、岩手のヘキ地を歩いていて、風花の舞う牧場のぬかるみや、大雪で交通杜絶のチベット地帯や、足のおもむくまま東海岸に辿りついた時のことである。
(2011年7月 脚本家/水木洋子の随筆から No22 初出は、「ことば歳時記」 1978年2月16日付け『公明新聞』)

 そして『月刊ダ・なす 2012(平成24)年6月28日発売/7月号』でも:

 1959(昭和34)年2月、雪の降りしきる中、ジープは前進と後退を繰り返しながら軽米辺りで進路を阻まれた。
 水木さんと同行していたNHKの森理一郎(ラジオドラマの演出)は、今日はここまでと観念し、宿を探した。
 旅人宿では富山の薬売りが、ランプの灯のもと薬箱を整理していた。
 窓の外では雪がシンシンと降り積もり、おかげで思いもよらぬ雪国の暮らしを満喫することができた。
 思えば厳冬のこの時期を選んだのは、本当の東北を知りたかったことと、誰も行ったことのないらしい小袖浜での海女を訪ねてみたかったからである。

 翌日、目的地である久慈へ向かった。
 久慈駅に着くと、駅の柱に「ようこそ、水木洋子さん」と書かれた紙が貼ってあったが、誰も迎えに来ている様子がなかった。
 道幅が広く静かな街並みは、子供たちの遊ぶ声だけが聞こえ、40年前の東京を想わせた。
 遊郭あとの旅館に転業した家に泊まることにした。
 到着するとすぐ、市庁水産課の役人2人が訪れ、駅で待っていたが会えなかったと、不愛想に言った。
 久慈に文化人がやってきたのは、地元出身の三船八段以来であると聞かされた。
 不愛想と思われた役人は、実は親切で頼りになる人物であることを後で知った。

 翌日から市庁の厚意による特別仕立てのジープで最近開通したばかりの海岸沿いの道路を2、3日通うことになった。
 海沿いの崖道から見る風光は、
「岩を噛む白浪の澄んだ薄緑と、黒い岩肌に這う松のたたずまいは風雪に堪えた厳しさを物語り、薄墨をはいた空の色調にそびえたつ巌の壮大さは、東北の海のスケールを見せて、成るほど日本にもまだ人に知られない雄大な雪の海のあることが貴いものに」思われた。
 この奇岩の立ち並ぶ景色を左に見ながら、小袖浜に辿り着いた。

 そこで逢った小袖の若者たちの素晴らしさに目を奪われた。
 彫りが深く瞳の美しい若い女性たちの健康美。
 素晴らしい体格や侍のような姿勢の青年たちを目の当たりにすると、都会で見る化粧や磨き上げたスタイルの女性美のつまらなさや、モヤシのようなヒ弱な男性の貧しさに気付かされた。
「頭脳が体力を必要としなくなる文明というものとは別に、如何に人間を今日の文化が奇形化しているかも教えられるような気がしてならなかった」

(九戸歴史民俗の会会報 弥藤邦義、久慈地方の歴史断章(4) 「北限の海女」取材写真)
北リアス やませの里 久慈エリアタウン誌ダ・なす
http://www.danass.com/pickup/2012_7.html

 そしてそのときの取材、NHKラジオドラマ「北限の海女」(出演:原泉,賀原夏子,荒木道子ほか)の脚本になって1959(昭和34)年11月27日放送され(再放送はラジオ名作劇場で1983年10月16日)、芸術祭賞を受賞します。


(*) 根岸英之さんは「市川民話の会」会員として「幸田文と水木洋子」との接点について、とても興味深い原稿を執筆なさっております:
≪幸田文と水木洋子の柿の葉寿司≫
http://www.ichiyomi.co.jp/oriori/index2.html
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2013年09月15日

北限の海女

 ところで、アナログテレビ放送が受信できなくなってから、すっかりテレビ番組を見ずにすむようになり、禁煙とおなじく禁テにも成功したと誇らしげなヤッホー君、昨日の水木洋子邸でコバヤシさんから「朝ドラ」「あまちゃん」のお話しを持ち出されて、「そうですね、朝キンで筋力を鍛えている両刀遣いですから」と、チョコレートをむさぼりながらお酒を飲む癖があるヤッホー君、なんとも変な受け答えをして、失笑をかってしまいましたが…:

 なんでもおばけ番組だそうで、先月8月末の平均視聴率は23.9%(関東地区)。番組最高記録を塗り替えているそうです。脚本家は、宮藤官九郎。1970年7月19日生まれで宮城県栗原市出身だそうです。

 今回のロケ地である岩手県の久慈市に行ったら、そこには三陸鉄道というローカル線があって、アイドルではないけど、そのローカル線を目当てに鉄道マニアの人たちが集まって来たそうなんです。
 最初、地元の三陸鉄道の人たちには、「あの人たちと、どう付き合っていけばいいのか?」みたいなことがあって(笑)、でも、話してみると「悪人じゃない」、「電車が好きだということでは一緒だ」みたいな(笑)。

 そういう話を聞いて、久慈市という場所を撮影の舞台にするのは、自分のイメージと合うなと感じました。
 いやいや、肉より“ずんだ”だから。
 今回のヒロイン(能年玲奈)は、東京生まれの東京育ち。
 その子が北三陸という母親(小泉今日子)の故郷に行きます。
 東京育ちのヒロインは、そこで祖母(宮本信子)が海に潜ってウニを採っている姿に「なんだ、これ?」ってカルチャーショックを受けて、「おもしろい!私もやってみたい」と思う。

 逆にずっとその土地に暮らしている女の子にしてみれば、海女の姿なんてあまりにも日常過ぎて興味すらもてない。

(脚本家 宮藤官九郎 インタヴュウ) 
http://www1.nhk.or.jp/amachan/special/kudo/

 そうなんです、あまちゃん。でも、間もなく終わるんでしょ?9月18日発売の<ステラ>をぜひお買い求め下さい:

 天野アキ役能年玲奈 ラストメッセージ

 日本の朝に元気と勇気と笑顔を届けてきた連続テレビ小説<あまちゃん>もいよいよ最終週。
 ヒロイン・アキの活躍や恋、悩みに、一喜一憂してきたファンも多いのではないだろうか。
 約1年間の大役を果たし終えた能年玲奈は、自分の分身のように演じてきた天野アキを離れ、今、何を思っているのだろうか?
 これから彼女が向かう先には何が−。

(<NHKウィークリーステラ>9/27号(9/18発売)
http://www.nhk-sc.or.jp/stera/

 NHK連続テレビ小説「あまちゃん」のロケ地の久慈市・小袖海岸で、素潜り漁を実演する海女の活動拠点に7〜8月、前年同期の約23倍の観光客が訪れたことが9月7日、分かった。
 震災前の2010年と比べても11倍超。
 市の担当者は「一過性のブームに終わらせないことが大事だ」と気を引き締めている。

 小袖海岸は東日本大震災の津波で大きな被害を受け、復活を目指している。
 今年はドラマの人気で観光客が殺到、市の集計によると、拠点の「海女センター」を7〜8月に訪れたのは7万5700人近く。昨年は約3250人、2010年は約6500人だった。
 海女の実演は9月末まで。
 ベテランの海女と一緒に実演や観光案内をする女子高生は「少しでもおもてなしをしたい」との思いから、8月中旬でいったん終えた活動を9月に再開。土日祝日に見学者を出迎えている。

(2013年9月9日付け岩手日報「あまちゃん効果、観光客23倍 久慈・海女センター」)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20130909_4

 でも、この<あまちゃん>と水木洋子がどう関係するのかな?

 2011年3月11日、東日本を襲った東北地方太平洋沖地震の大津波で前年度新築完成した小袖漁港「小袖海女センター館」も流失してしまいました。
 現在はブレハブセンターですが、震災後の夏、ウニの素潜り実演も復活して全国からたくさんの観光客がお出でくださいました。

 久慈海岸道路は狭く曲がりくねって 対向車に気を付けて進まなければとても危険です。
 海岸線突き当たりが小袖漁港、新しい海女センターがあります。
 海女センターは、およそ8月〜9月ぐらいまでしか営業していません、シーズンオフには海女関係は何もないのでお気をつけてください。
 小袖漁港を右折して山方向に進行すると県道268号経由で 三崎、久喜、45号線野田村「道の駅のだ」に至ります。
 実演箇所は海女センター前の小さな入り江で潜ります。

 <北限の海女>との名称は、脚本家 水木洋子先生が1959(昭和34)年のNHKラジオドラマで放送された「北限の海女」シナリオ作りのため久慈市小袖地区を訪れた際、小袖部落の素潜りの女性達をみて、
「これは北限の海女達だ」と呼び、ラジオドラマの題名にしたそうです。
 それまでは小袖地区では男は船に乗り、留守を守る女性達は、目の前の岩場で海草採ったり素潜りでカゼ・アワビなどを採り、普通に「もぐり」と呼ばれていました。

 2013(平成25)年、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」が、この4月1日からスタートしました。
 これまで以上に全国から北限の海女が注目されるようなっています。
 私たち久慈市民は暖かい心で全国からの観光客をお迎えいたします。
 この機会に是非、三陸海岸リアス海岸の素晴らしい景勝地を堪能したください。

(きてきて久慈市、小袖漁港、北限の海女センター)
http://www.kujicity.com/a.kujicity.14hokugennoama.htm

 そうですか、水木洋子と久慈市小袖とはそんな由来があったんですね、でもあの2年半前の東日本大震災のときにも、市川市民と久慈市民との関係が続いていたのです:

 3月の東日本大震災は、地震はもとより地震に伴う津波で、各地に大きな被害をもたらした。
 「海女」が活躍する日本の最北端の土地として知られる岩手県久慈市も、甚大な被害を受けた。

 数々の映画の脚本を世に送り出した水木洋子は、戦前からラジオドラマも手がけており、水木がこの「北限の海女」をラジオドラマに取り上げたこともあり、市川市で活動する「水木洋子市民サポーターの会」と、久慈市との交流が続いている。

 ≪岩手県久慈市「北限の海女フェスティバル」を訪れた「水木洋子市民サポーターの会」の写真が掲載(2009(平成21)年8月)≫
 
 ラジオドラマ『北限の海女』は、1959(昭和34)年にNHKで放送され、その年の芸術祭賞ラジオ部門を受賞した作品で、この作品により、「北限の海女」が、全国的に知られるようになったとされる。

 当時、「日本のチベット」と呼ばれ、岩手県下の人もあまり訪れることのない陸中海岸を水木は取材に訪れ、久慈市小袖地区で行われていた「海女」の暮らしを知る。
 そこでの取材をもとに、<都会から訪れた女性が、観光開発に肯定的な海女と、否定的な海女の、2人の海女と出会い、社会の中で生きる女性のあり方を見つめ直す>というドキュメンタリー風の作品に仕上げたものである。

 久慈市の弥藤邦義さんらは、この「北限の海女」を地域文化の誇りにしようと、2006(平成18)年に市川市文学プラザへ資料調査の打診をし、そこから、市川市との交流が始まった。
 2007(同19)年、2008(同20)年には、弥藤さんが市川市の水木邸、文学プラザを訪問。
 2008(同20)年には、「水木洋子市民サポーターの会」の8人が、毎年8月第一日曜日に小袖海岸で開催されている「北限の海女フェスティバル」の見学に赴いた。

 ラジオドラマ放送50年の節目に当たる2009(同21)年には、同じく久慈市の桑田和雄さんとともに、「北限の海女」久慈市民サポーターの会を結成。
 同年年8月に、市川市が所蔵する水木洋子資料なども展示して「『北限の海女』資料展」とラジオドラマを聴く会が開催された。
 この日は「北限の海女フェスティバル」も開催され、「水木洋子市民サポーターの会」の皆さんとともに、私も久慈を訪れた。この年は、25年ぶりに19歳の新人海女2人が加わったということで、2人は「かわいすぎる海女」として評判を呼んだ。

≪3.11後、水木洋子邸に掲げられていた久慈市への応援メッセージの写真が掲載≫

 その後も、「水木洋子市民サポーターの会」の石井敏子さんが、弥藤さんらとメールや手紙を通じて交流を続けていたが、そこに東日本大震災が起こったのである。

 石井さんは早速、弥藤さんと連絡を取り、久慈市の関係者に大事はなかったものの、津波の被害は大きく、小袖海岸にあった海女センターも壊滅、復興までに時間がかかるだろうとの情報を得た。

 「水木洋子市民サポーターの会」では、水木作品を通じて交流の図れた久慈市の力になりたいと、復興を願うたれ幕を手作りで作成し、8月10日に行徳文化ホールで行なわれた『ひめゆりの塔』映画上映会の会場や水木邸の一般公開で、寄せ書きや募金を募ったりしている。

(市川よみうり新聞社、折々のくらし〜市川文芸歳時記リスト〜2011年)
http://www.ichiyomi.co.jp/oriori/2011ori.html

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2013年09月14日

水木洋子

 ヤッホー君、ひさびさの「朝キン」(morning walking)。
 電車に乗って千葉県市川市に向かいました。
 一週間前にも市川市に来て、ヤッホー君のこのブログ、9月7日付け日記「市川市文学ミュージアム」に綴っていましたね。
 その折りに発見したのが、脚本家「水木洋子」。今日はその御宅にお邪魔しようという算段です。
 しかし、パソコンで検索してプリントまでして持っていった地図は、どいうわけか「葛飾八幡宮」!
 まいりました、まよいました、まちがいました。
 (山で道迷いしたのは中禅寺湖一周しようとしてできなかったあの雨の日くらいなのに、里のほうがホントウは目的地までいくのがムズカシイねぇ〜ぼそぼそ〜…)
 すぐそばにあった「中央公民館」に飛び込みまして、防災でなく減災、「市川市減災マップ」をいただきました。窓口の係りの方からは、
「八幡宮を通り越してもいけるんですが、道を聞くにも人がいない、ですので、いったん京成本線の踏み切りを越えて、にぎやかな通りで道を尋ねたほうがいいかもしれません」と、ご親切に。

 ありました、水木洋子邸。
 庭では、「水木洋子市民サポーター」のボランティアが熱心に、草むしりやら草木のお手入れの仕事。庭には洋ナシがたわわに実っていました!

水木洋子邸.jpg

 邸内では、つめていてくださったコバヤシさんが、ていねいに説明してくださいました。おかげさまでビデオまで鑑賞でき、しかも乾いた喉に冷たいお水を一杯までいただき、ご親切、まことにいたみ入ります!
 水木洋子氏は、1910年生まれ(ヤッホー君のこのブログ、2013年8月31日付け日記「空の日」で申し上げましたように今の代々木公園で初めて飛行機が空を飛んだ年です!)。
 高木商店という京橋にあった鉄鋼問屋に生まれ、日本女子大で学びますが、文化学院に移ります。

 彼女の中では、日本女子大学の精神は作品の上でも人間形成の上でも脈々と生きていました。水木は、後年本学を訪れて、こんな感慨を洩らしました。

 『私たちの学校を姥捨山と世間では悪口言った。女の学問は生意気であり、男よりエライ女は縁遠く鼻っつまみに扱おうとした。ついまだ戦争直後までは、ここに通う女子学生たちは、そうして世間の封建制に何らかの抵抗を胸に抱きつつ本当に勉強をする為には、悲壮な覚悟が必要だったのだ。それだけに各人は個性的で、先生に教えられるというよりも、自分々々の求め方で、先生から、何かを引き出そうとする勉強の仕方だった』

 彼女は通学の道々「私は作家になるの!」と胸を叩いて活を入れていたそうです。1930(昭和5)年には国文学部主催の文芸会で、道具係や舞台係を務めました。翌春には「好色五人女」の中の「お嬢吉三」を脚色し、自らも紫頭巾を被った侍に扮して出演しています。さらに国文学部刊行の「目白文学」にも「鮪」「一駄の人々」と戯曲を発表します。彼女の作品や登場人物の中にも、女性が前向きに自立的に生きようとする主体性が見てとれます。そこに創立者成瀬仁蔵が残した「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」の精神が豊かに生き続け、作品にその理念を具現化していると言っても過言ではないと思われます。

(水木洋子―日本映画黄金期を支えたシナリオライター) 
http://www.jwu.ac.jp/st/grp/jwu_mail/200512/html/closeup.html

 2002年5月日本女子大学図書館で、国文学部刊行の同人誌『目白文学』に、高木富子(水木洋子の本名)の戯曲を見つけた。初めて彼女が、母校の大先輩であることを実感した瞬間だった。「鮪」(昭和3年12月)「一駄の人々」(昭和4年6月)、水木の習作とも言うべき2本の戯曲は、国文学部の先生や卒業生に混じって、ひっそりと載っていた。注目された様子はない。どちらも、虐げられた人たちの鬱積した気持ちが爆発して、最後に悲劇を起こすという筋立てだ。

 高木富子が府立第一高女を卒業して、日本女子大国文学部に入学したのは、1928(昭和3)年4月である。当時文壇や演劇界を賑わせた女流作家への憧れが、入学の動機らしい。日本女子大出身の平塚らいてう・田村俊子・宮本百合子等の名前が頭にあったのだろうか。それとも小山内薫演出による大胆な恋愛観で、話題をさらった「吉田御殿」(帝劇)の作者・弘津千代か、あるいは「晩春騒夜」(築地小劇場)で注目された円地文子か…

(水木洋子の日本女子大時代 松本圭子、水木洋子市民サポーター)
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/mizuki_sap_22.html
 
 この「水木洋子市民サポーター」の活動報告には、こんな市民からの生の声まで掲載されています。水木洋子邸までのまちあるき、じつに楽しかったですし、作家の息遣いまで聴こえてくる、あの昭和の香りが心地良く、訪問者のこころを豊かにしてくれるあの空間が、これから100年、ずっと続きますように、と祈らざるを得ませんでした: 

 今から43年前、1958(昭和33)年の夏と冬、大学生の私は、現在の日本百名山ブームのはるか以前、北海道や九州の遠い山々を登るための資金調達とトレーニングをかねて、宅配便のアルバイトを経験しました。

 新小岩のデポから重荷を積んだ自転車で、中山・八幡・市川をカバーするかなりハードな仕事でした。
 その中でも、市川市内の有名人のお宅への配達があり、ちょっとした刺激になりました。
 財界の良識と呼ばれた東京電力会長の木川田一隆さんの質素な新田のお宅、若宮の東山魁夷さん宅の地面に荒なわをジグザクに止めて松の枯葉を敷きつめただけの簡素で素晴らしいデザインのアプローチなど、印象に残りました。
 お名前を存じているていどの水木洋子さんのお宅では、お中元、お歳暮のおとどけ元のお名前に驚きました。
 夏も冬も、ともに、当時全盛の女優、有馬稲子さんと高峰秀子さんからのおとどけものでしたから。

 どちらの方か覚えていませんが、婦人物洋品店、Wisteriaの上品な文字通り藤色の包み紙には心ひかれ、ウィスタリアという名が忘れられないものになりました。
 いまではラベンダー色といったほうが通りのよい美しいものでした。
 水木邸も今日拝見したよりも、玄関ももう少しひっそりした感じで、八幡から行って右側の生垣に沿って自転車を寄せた記憶がはっきりとあります。
 水木さんと、美しい女優さん方の通い合う心づかいのようなものが学生の私にも良く伝わるようなささやかな思い出です。
 お3人も健在(注1) ですし、私もいまだに山登りに熱中しています。
(真間 A 男性 64歳)


 一年前には雨もり状態、床抜けの状態だったとお聞きした。
 大幅な手直しはせずに現状の傷みを修繕するのみと聞き、サポーターの方の御苦労や行政の方々の思いの結果、すばらしい水木邸がよみがえり感激した。
 お母様をなくされて(注2) からの10年間、どんな思いで、お一人この家で生活なされたのかなと、とても心が痛んだ。
 今日を機会に水木さんを深く知りたくなった(水木邸活用案)


(市民の語る水木さんの思い出)
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/mizuki_an.html


(注1) 水木洋子氏は、2003(平成15)年4月8日逝去され(享年92歳)、自宅や自筆原稿など一切の財産は、水木さんの生前の意思により、市川市に寄贈されました。
(市川の文化人、脚本家/水木洋子) 
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/mizuki.html

(注2) 水木洋子氏は、市川市八幡に母とともに移り住んだのは、戦後間もない1947(昭和22)年のことです。そして昭和50年代まで精力的な創作を続け、1981(昭和56)年には、紫綬褒章を受章しますが、2年後の1983(昭和58)年に母ゑいさんを亡くします。それからは、執筆活動から遠のいていくようです。そして、体調を崩し、自宅を離れ、療養生活をおくることを余儀なくされます。
(水木洋子の暮らした家)
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/mizuki_ie1.html
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2013年09月13日

タッピング・タッチ

 おはようございます。
 昨日は「タッピング・タッチ」という新しい触れ合いの機会をいただきありがとうございました。
 また新人ですので会議室では、はじめて皆さんの前で発言し、声が震え、かすれ、ヤクルトを飲まなければ到底あがってしまった気持ちをさげることはできず、たいへん失礼いたしました。
 ご無礼の挨拶の代わりに、次のブログをぜひご覧いただければ幸いです。
 下をクリックしますと、NHKニュースがでてまいります。
 ぜひ音声と画像で昨日のことを思い出していただけますと嬉しいです:
 …http://fujikko92.exblog.jp/14500399/


 ヤッホー君にいったい何があったのか、ですって。昨日は「イーチャリ」で、「東京ヤクルト販売(株)」本店ビルへ。
 より良い健康管理を皆んなで話し合い、実践しようというOP会の集まりがあったのです。
 OはオリジナリティのO、PはパーソナリティのPでけっしてOB会でもOG会でもありません、為念。

 そこで学んだのが、「タッピング・タッチ」という手法でした。
 タッピング・タッチ協会のホームページ: http://www.tappingtouch.org
 
 三重県は地震、台風、洪水などの自然災害の多発地域です。
 特に、東海、東南海、南海地震は今後30年以内に高い確率で発生すると予想されています。
 そして先日、中央防災会議より南海トラフ巨大地震による被害想定が発表されました。
 最悪のことではありますが、予想をはるかに上回るものでした。
 発災まで秒読み段階ですので、その対策をみんなで考えなければなりません。

 三重大学と三重県の連携事業「美し国おこし・三重さきもり塾」は2010(平成22)年度に開塾しました。
 三重県地域の防災・減災活動を主体的に行なう「人財」を育成する事業で、一期生63名、二期生60名が卒塾し、すでに第一線での活動を開始しています。
 行政やコミュニティーで地域防災活動の中心的役割を果たしてくれています。
 現役世代の支援や卒塾生同志の情報交換の場としての「美し国おこし・三重さきもり倶楽部」も発足しています。

 「さきもり塾」の活動が県民はもとより全国で理解されるためには、これまで以上に目に見える成果を出さなければならないでしょう。
 多くの塾生が集まり、志を持って地域で活躍することを願っています。

(三重大学長 内田淳正)
http://www.sakimori.eng.mie-u.ac.jp/upload/sakimori-pamphlet2012.pdf

 「タッピング・タッチ」の考案者、中川一郎先生はイマ、三重大学から鈴鹿医療科学大学に移られて医療福祉学科臨床心理コース教授ですが、この塾では「災害心理と支援体制」を担当されております。大学では、と言いますと:

 「ホリスティック医療」とか、「ホリスティック教育」といった言葉を聞いたことがありますか?
 これまでの部分的、または対処的なアプローチによる限界をふまえて、人と自然を全体的にみることで、本当の健康や成長を育もうとする分野です。
 同じように本学の「ホリスティック心理学」でも、心、体、家族、コミュニティなどを、一つのまとまりある有機体としてとらえ、アプローチします。
 人が悩みや苦しみをのり越え、健康で豊かな生活をおくるためには、さまざまな条件がそろう必要があります。
 講座では、Mind(思考)、Body(身体)、Spirit(精神)、Society(社会)、Environment(環境)などの相互依存的な関係を学びながら、ホリスティックなケアのあり方を学びます。
 また、私が開発した「タッピング・タッチ」というホリスティックなケアの手法も学び、フィールドワークなどを通して実践的なケアの能力も高めます。

(ホリスティック心理学、中川先生の授業のピックアップ)
http://www.suzuka-u.ac.jp/education/hygienics/welfare_cp.html

 この中川一郎先生、前掲の協会公式サイト、2006年9月8日付け活動記録では、「タッピング・タッチ、コスタリカ、そして平和憲法」と題して次のように書き記されていますのでご紹介:

 私の専門は臨床心理学です。20年以上にわたって米国で暮らしていたのですが、6年ほどまえに帰国して、熊野の山間部での生活を中心に活動しています。最近、世界遺産に登録された熊野古道の近くです。

 米国では、臨床心理学者として仕事をしていたのですが、様々な仕事や体験を通して、「いくら理論や学問が発達しても、いくらたくさんの治療者や施設を増やしても、病を持った人たちは減らない」ことに気がついていきました…

 コスタリカは平和教育と軍隊を持たない国であり、今の日本の私たちにとても大切なメッセージを持っています。
 高校生達にインタビューするチャンスもあったのですが、軍隊がないことによる安全性や話し合いによる解決の方法などを語ってくれて、彼らの存在に感動しました。

 ご存知のように、日本では、憲法を変えようとする動きが大変強まっています。
 9条を取り除き、集団的自衛権を認めることで、米国と一緒になって戦争していく国になることが懸念されています。
 教育基本法も変えることで、再び愛国心を植えつけ、国家への忠誠心と戦争を肯定する考え方を共有させようとする動きもあります。
 そんな中、平和と人権を守りたい人たちがいろいろな働きかけをし始めているのですが、私もその一人です。

 タッピング・タッチは、人々の心をケアすることによって、社会の調和や健康を促進しようとするものです。
 そして、ドキュメンタリーは、本当のことを人々に知らせることによって、戦争をする国へと逆戻りし、再び悲惨な道を歩まなくてもよいようにしょうとするものです。
 一見、まったく違ったもののようですが、ホリスティックな視点からは、密接につながっていると感じています。

(中川いちろうの活動レポート)
http://www.tappingtouch.org/?p=530
http://blog.livedoor.jp/ihpe2005/archives/50853004.html

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2013年09月12日

冨士山 Wi-Fi

 冨士山。

 「『近くのスターバックスの場所を教えてほしい』 外国人観光客からよく聞かれるんですよね」
 山梨県企画県民部 世界遺産推進課の矢野久副主幹は数年前、こんな話を甲府市内のホテルの方から聞いたという。
 そのホテルから最寄りのスターバックスまではタクシーでなければ行けないほどの距離だ。それにもかかわらず、その外国人観光客はタクシーでスターバックスに向かったという。

 なぜか。無料で無線LAN(Wi-Fi)スポットを利用できるからだ。
 「無料のインターネット接続、Wi-Fiが使えるのは外国人観光客にとって非常に重要なんだな、とその時気がつきました。それからその状況を何とかしたいとずっと思っていました」(矢野副主幹)。

 間もなく世界遺産に登録される富士山。
 この富士山北麗の山梨県側を中心に、今後さらに増えるであろう外国人観光客を主な対象としている無料の無線LANスポットを整備する≪やまなし Free Wi-Fi プロジェクト≫が進んでいる。


2013年6月18日付け日経BP(大谷晃司)「“富士山Wi-Fi”が浮き彫りにする二つの難問」
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20130617/485461/

 そうなんです。ヤッホー君のこのブログ、8月24日付け日記「ペナン図書館」でもご紹介しましたが、マレーシアのほうがITサービスにアクセスしやすい環境にある、という気がしておりました。
 図書館にはパソコンが備え付けてあり、利用者に有料で貸し出ししております。55歳以上は1時間無料。それでヤッホー君は、マレーシアにいながらこのブログを日々、日記を投稿して更新しつづけることができたのです。
 でもパソコンの備え付けられていないテーブルには "Wi Fi" の掲示があって、お家からパソコンを持ってきた利用者は、その席でパソコンを操作していたのです。

 先の日曜日の富士山御中道からの帰りの車中、 "Wi Fi" の話題提供…
 
 あのさ、チュウハイ じゃなくってさ、ワイハイ って知ってる?と得意気に (マレーシアではウィフィって発音して笑われたのですけど… 相変わらずバカな機械音痴のヤッホー君!)
 そうしたらカッシーところのお嬢さん、バリ島で使えて重宝した、このWi-Fiって○△×… (なんだぁ、知ってるじゃん、知らないのはヤッホー君だけ…)

 無線LANが、無料で自由に使えるペナン図書館、これは、読書だけではなく、新しい<知の空間>を指しています!
 いつぞやのヤッホー君、かつてのような特権的<知の収集家>から、だれでも、いつでも、どこでも<知の提供者>になっていく<知の普遍化>、これがイマのトレンドではないのか、と熱く語ったことがあります。
 <情報化>とは、専門業者(機械やソフトの考案、販売から、情報を広告宣伝媒体を使って販売することを専門とする業者)にお任せして、情報を業者の金儲けの手段に化けさせないで、普通の人びとも情報の収集、分析、判断、伝達に参加していくのだ、というような<知の民主化>を主張したことがあります。
 香港の空港からですら、次のフライトへのトランジットの待ち時間を利用して、ゲート前のパソコンに座って、簡単に無料のITサービスにアクセスでき、このブログも更新できたのです。

 しかし、この国では…

 ちょうど日本に到着したのが1週間前。。。あまりにもWIFIを探すのが困難だったため、備忘書きます。


 さて大阪に着いてからの話。
 かつては大阪で3年働いてましたので、懐かしい思いが強いです。

 久しぶりの大阪に心を踊らせつつも、仕事に取り掛かろうと。。。WIFIを探します。

 あれ、全然見つからない。。。orz...順調に接続できたのは最初の関空と最後のスタバだけ??(笑)


2013年4月22日 23:00:00 posted by johorbahru-gano
(日本の大企業を辞め、単身マレーシアへ。海外投資と理系脳を駆使して10年で1億を目指し、自由を獲得するブログ… 将来自由を得たい。自由の定義。それは例えば、飲み会の場で盛り上がった面白いビジネス案を、次の日から立ち上げちゃうそんな時間的+資金的な自由。その自由を得るための戦いを綴るブログ… 日本の大企業を辞職し、海外進出。マレーシアからお届けいたします)
http://ameblo.jp/johorbahru-gano/entry-11516085290.html

 しかし、この≪やまなし Free Wi-Fi プロジェクト≫、うまくすすんでいるようで良かったですね:

 やまなしFree Wi-Fi プロジェクトでは、2013(平成25)年12月末までの整備目標である1000箇所を、6月末に達成しました。この前倒達成にあわせ、次の取り組みを新たに開始します。

 富士山の世界文化遺産登録に伴い急増する外国人観光客が、楽しく、便利に、安全に旅行を楽しんでいただくため、スマートフォンやタブレットに利用できるコンテンツを多言語にて提供していきます。

(富士の国 やまなし観光ネット)
http://www.yamanashi-kankou.jp/wi-fi/

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2013年09月11日

ロードサイド・ジオロジー

 冨士山。もう登山道は9月2日月曜日に閉鎖されて、今年の夏山シーズンは終わっています。

 環境省は9月10日火曜日、富士山の今夏の登山シーズン(7月1日〜8月31日)の登山者が前年同期に比べ2.5%減の31万721人だったと発表した。世界文化遺産の登録効果で大幅増加が見込まれたが、渋滞緩和や環境保全を目的としたマイカー規制強化などが影響、ほぼ前年並みとなった。

 登山道別では、山梨県側の吉田ルートが17万9720人と最多。静岡県側の富士宮が7万6784人、須走が3万6508人、御殿場が1万7709人だった。

 今年は御殿場を除く3つの登山口につながる道路でマイカー乗り入れの禁止期間を拡大。その結果、登山者は吉田で5.3%、富士宮で1.2%、前年を下回った

(2013年9月10日 17時23分東京新聞「今夏の富士登山者、2.5%減 マイカー規制強化が影響)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013091001001720.html

 ヤッホー君たち山歩クラブは9月8日日曜日、吉田口の冨士スバルラインで5合目に入り、御中道を歩いてきましたが、お見せしたい写真がベントでアワかキリか地下水に消え、山か海か、どっかに飛散、除染しようにも、太平洋の大海原か深海か、はたまた山野の木の葉の上でしたら除染のしようもなく…、お〜い…、ヤッホー…

 昨日の山行とさっそくのメール、いろいろとありがとうございました。
 残念ながら、今回は1枚も写真をとらなかったので、お送りできません。
 カメラの調子は大丈夫でしょうか?

 家に帰るとちょうど、頼んであった『まるごと観察 富士山』という子供向きのサイエンスブックが届いていました。

 まだ全部は見ていませんが、パラパラ見てみると、富士山の成り立ちその他、とても興味深い本です。

 今度の山行で持っていきます。


 仲間からかえってくる「こだま」っていいですね…、ん〜ん、そうじゃなくってっさ、いったい、どんな本?

子供の科学 ★ サイエンスブックス『まるごと観察 富士山』
著者名:鎌田 浩毅(編/著)
発売日: 2013-08-23
副書名:壮大な火山地形から空、生き物まで世界遺産を知る
ページ数: 96
定価(本体+税): 2,310 円
  
 世界遺産に登録され、注目度が高まる富士山の科学を、豊富な写真と図版でわかりやすくまとめた1冊。
 富士山はどのようにして日本一高く、美しい山になったのか、噴火を繰り返してきた成り立ちや構造から、噴火によってもたらされたさまざまな美しい地形、地下の水脈や土壌のひみつ、富士山噴火の予測や被害・防災、そして実際に富士山に訪れたときに観察したい不思議な空の現象や哺乳類、鳥、昆虫、植物などの生き物まで、富士山にまつわる自然を網羅しました。
 子供たちが実際に訪れて、富士山の壮大な自然を体感できるように、富士山周辺のさまざまな観察スポットのマップや、実際に自然観察をするときのポイント、注意点なども紹介。夏の自由研究や調べ学習にも最適です

http://www.seibundo-shinkosha.net/products/detail.php?product_id=3886

 へえ〜っ、次回の山行のとき借ぁ・りぃ・ようぉ・っと…、ところで編者の鎌田浩毅ってどんな方?

 京都大学教授、専門は火山学・地球科学・科学コミュニケーション、“科学の伝道師”、“地球の達人”。1955年東京生まれ。1974年筑波大駒場高校 卒業。1979年東京大学理学部地学科卒業。通産省地質調査所主任研究官、米国内務省カスケード火山観測所などを経て、1997年より京都大学大学院 人間・環境学研究科教授、京都大学総合人間学部 教授。理学博士。専門は火山学。日本火山学会誌『火山』編集長、日本地質学会火山部会長、日本火山学会理事、気象庁活火山改訂委員、内閣府災害教訓継承分科会委員などを歴任。著書に…(いろいろ、たくさん)…

http://www.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/~kamata/

 すゥ・ごォ・いィ…、そうしたらこれはどうだ!!

 日本で初めてのロードサイド・ジオロジー

 アメリカの国立公園を巡っていると、しばしば、「ロードサイド・ジオロジー」というガイドブックを手にしている人たちに出会います。重要な見どころを車で移動しながら訪ね、その公園の自然や風景がどのようにして生まれたのかを地学的に解説した本です。
 「地学的」と言うと縁遠い感じに聞こえるかもしれませんが、あちらの国では地元の小さな本屋さんや公園のビジター・センターでごく普通に売られています。日本には観光ガイドや登山ガイドは沢山ありますが、残念ながら、そういうガイドブックはほとんどありません。
 その最初の本を、日本が世界に誇る富士山でつくってみようと考えてできたのが本書です。
(岩波書店本書編集担当)

■著者紹介
 小山真人(こやま・まさと)。1959年、静岡県浜松市生まれ。静岡大学理学部卒業、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。専攻は、火山学、歴史地震学、地震・火山防災。
 著書に、『富士を知る』(集英社、編著)、『ヨーロッパ火山紀行』(ちくま新書)、『富士山大噴火が迫っている』(技術評論社)、『富士山噴火とハザードマップ』(古今書院)、『伊豆の大地の物語』(静岡新聞社)ほかがある

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1307/sin_k720.html

 は〜い、でてきました、小山真人先生は、静岡大学教育学部教授(火山学・歴史地震学)ですが、「静岡大学総合防災センター」副センター長も兼任されております!

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2013年09月10日

大沢休泊所

 「静岡大学防災総合センター」があって、このサイトのなかに大沢休泊所(お助け小屋)の記載がありますので以下に引用いたします:

 標高2300メートル。お中道のなかでももっとも大沢崩れに接近する位置に大沢休泊所(通称:「お助け小屋」)があります。
 「お助け小屋」は、昔からたくさんの登山者や調査・研究者はもとより、富士砂防事務所の源頭部工事担当者の宿泊所としても利用されてきました。
 またお助け小屋近くの大沢崩れ展望台はお中道最大のみどころ。富士山の山体を作った溶岩流の積み重なりを間近に観察できるビューポイントです。

 「お助け小屋」から約200m下った地点で、富士砂防事務所による調査工事が行われています。調査工事では、大沢崩れ対策として本格的な工事を実施するに先だって、施工した施設が富士山特有の厳しい気象条件にも耐えられるか、高標高・急斜面・低温地域での工事の安全管理をどうするか、工事による自然環境への影響はないか、などを調査する目的で、谷底での床固工や、山腹工、緑化植栽工などが行われています。
 また、ここの作業員は毎日、御中道入口からここまでの約3kmを1時間30分かけて通勤します。


 この「静岡大学防災総合センター」ってどんなとこ?

 私たちは大学の使命である、教育と研究をとおして地域社会への貢献を目指します.

 本センターは、地域連携を通じ、静岡大学における防災教育を多面的に展開させるとともに、防災科学研究、防災ボランティア活動支援及び災害時の危機管理能力を 組織的に発展させ、地域の防災力の向上に資することを目的とするために、2008年度に設置されました。

http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/sbosai/
  
 この「静岡大学防災総合センター」ってどんな先生がどんな研究をしているの?
 センターにはブログがありまして、更新され続けておりますが、2013年9月9日(月)付けには、このように研究発表が公開されます:

9月7日、ふじのくに防災フェロー養成講義「建築防災学」を開講いたしました。
担当教員は佐藤健客員教授で、12名の受講生が参加しました。

午前中は、耐震基準の基礎的な知識と、地震による建物の屋内外の被害について講義が行われました。
東北地方太平洋沖地震の際の東北大学における建物の被害状況と、教員と学生で建物の応急危険度判定を行った事例などが紹介された他、建物そのものだけでなく、室内の壁面や家具類、ガラス、屋外の塀等の危険性についても述べられました。

http://sbosai.cocolog-nifty.com/

 ここでは、静岡大学客員教授で京都大防災研究所巨大災害研究センター教授の矢守克也先生のメディア掲載記事から、先月、2013年8月29日(木)付け毎日新聞東京朝刊、「関東大震災90年、先人の教訓で高台移転 奇跡の集落」をぜひご紹介いたしたく:

天災は忘れた頃にやってくる

 岩手県大船渡市の最北端に位置する吉浜(よしはま)集落(旧吉浜村)…。吉浜と他地域の物語は、寺田寅彦が残したとされるこの言葉を思い起こさせる。人間は時間の経過とともに大きな災害でも忘れてしまうという意味や、大きな自然災害は数十年から数百年に1回という周期で来るという意味で使われる。

 しかし、矢守克也・京都大防災研究所巨大災害研究センター教授は、「『忘れる』とは、誰かに任せておけばそれで安心と考えてしまうことではないか」と指摘する。
「『堤防ができたからもう安心』『防災のことは専門家に任せたから安心』などと考えることへの警鐘ではないか。私は『災害は安心した頃にやってくる』と言い換えるのが適切だと思う」

 吉浜中の村上洋子校長(55)は昨年4月に赴任した。隣の陸前高田市にあった自宅は津波に流された。赴任時に吉浜の人たちから「うちはあまり被害が無くて何だか申し訳ない」と声をかけられ、驚いた。
「違う。これは誇るべきことだ」。
 今年10月の文化祭に住民も呼び、演劇を披露することを生徒に提案した。

 今はまだシナリオを練っている段階だが、3年の東玲人(あずまあきと)君(14)は来年以降も見据える。
「後輩に伝統行事にしていってほしい。そうすれば地域の人びとが時間がたっても震災を忘れず『もう安心』とは思わない」

 ◇寺田寅彦

 東京生まれ。少年時代を高知で過ごし、旧制高校時代に夏目漱石から英語を学んだ。東京帝国大学を卒業後、航空研究所、地震研究所などに在籍。地震、火災など災害の根本原理を追究した。関東大震災に遭遇し、調査も行なっている。

 ◇関東大震災

 1923年9月1日午前11時58分に発生した。地震の規模を示すマグニチュードは7.9、死者・行方不明者は約10万5000人。死者の大半は火災による焼死だった。千葉、静岡県は津波にも襲われた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130829-00000034-mai-soci

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2013年09月09日

大沢崩れ

 大沢崩れってどんな規模? 

 大沢崩れは富士山西斜面に位置し、山頂直下から標高2,200m付近まで、延長2.1kmにわたり最大幅500m、最大深さ150m、崩壊面積1km2、崩壊土量約7,500万m3(東京ドーム約60杯分)といわれ、我が国最大級の規模です。
 これまでにも膨大な土砂を生産・流出し、下流域では土砂災害を度々引き起こしてきました。

 大沢崩れの形成の年代は明らかではありませんが、堆積している古い土石流の中に埋もれていた木片を年代測定した結果、今から約1,000年前のものと計測されました…
 大沢崩れの崩壊は現在も進行中で、年平均約15万m3(10t積みダンプ30,000台分)の土砂が流出していることになります。

(国土交通省富士砂防事務所) 
http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/jigyou/sj-genjyou.html

 これに手をこまねいて見ている行政ではありません。国民の生命、財産、生活を守らなければいけない行政は「大沢崩れ」にもさっそく動きだしております(予算化)。

 1967(昭和42)年5月、政府与党連絡会議における「サイキンの富士山は大沢崩れが激しく、その美しい姿が変わりつつある」との指摘がきっかけとなって、参議院予算委員会でもこの問題が取り上げられました。
 翌月の1967(昭和42)年6月、国土交通省(元建設省)は、閣議の了解をとり、学識経験者からなる「冨士山大沢崩れ懇談会」を設置、1968(昭和43)年度から、沼津河川国土事務所(元沼津工事事務所)にて直轄砂防調査を実施しました。
 翌年の1969(昭和44)年度には富士宮砂防出張所が設置され、直轄砂防事業に着手し、今年2009(平成21)年はこれより40周年の年となります。
(平成21年8月31日「ふじあざみ」(発行国土交通省中部地方整備局富士砂防工事事務所)第70号より)

 幸田文が訪れたのは1976(昭和51)年7月、と言います。
 ヤッホー君たち山歩クラブが昨日2013年9月8日、二度目で歩いた御中道。その終点にある大沢休泊所、「お助け小屋」から下りた大沢崩れ現場展望台。昨日は日曜日だからどなたも作業員がいらっしゃらなかったのですが、普段は工事関係者が勤務しているのでしょうね…

 こんなこともあったようですよ。同じ『ふじあざみ』からです:

■ お助け小屋での生活
 10月から11月までが作業期間になるのですが、その間、寝泊まりしていたのがお助け小屋です。富士山ではその時期ともなると寒くて、小屋は隙間だらけで、外と温度が大して変わらないのですが、私は割りと平気な顔をして寝ていました。後に新聞社の方が取材であそこに滞在したそうですが、枕元においてあったジュースが朝起きたら氷っていたとかで、早々に退散してしまったようです。
 飲み水はお助け小屋の雨水を貯める桶を使っていて、ボウフラが湧いていました。だから、使う時はいつも桶をドンと叩いて、ボウフラが底に沈むのを見計らって、水をすくって飲んでいました。また、その水でご飯を炊くのですが、あまりにも高所なので、どうしても上手く炊けませんでした。

■ 落石で頭に怪我
 作業現場は5cm大の小石がビュンビュン飛んでくるような所でした。石が霜で持ち上げられて、下から風が吹くと降ってくるのです。現在なら安全を考えて、周囲の岩壁を全てフェンスで囲むのですが、当時のことでそんなわけにもいかず、自然が一番の防備ということで、早いうちに作業を済ませてしまおうということになったのです。そんな中、私の上に石が落下してきました。
 事故の被害は私一人でした。ヘルメットを被っていたら、また違っていたかもしれませんが、「強力」の方に貸してしまっていたので、他の物を替わりに被っていました。傷跡は今でも跡があって、あと5ミリとか1センチとか深かったら命を落としていたと思います。
 みなさん驚かれるのですが、当時45歳ぐらいでして、事故の後、自分の足で4kmの御中道を歩いて下山し、付き添う人もいなかったので、一人で静岡の家へ自分の運転で帰りました。タオル半分くらいの出血があったのですが、あとになって皆、血が出たから助かったんだなんて笑っていました。
 結局、入院することも、手術も縫うこともせず、一週間、家でゴロゴロしていただけで治ってしまいました。現在、骨が少しへこんでいるぐらいで、後遺症もありませんし、あんまり元気なので、あの事故の方ですか?なんて驚かれることもあります


(日本エルダルト(株)代表山崎富士子氏=静岡市生まれ。幼い頃から機械の扱いが得意で、女性ドライバーが数少ない時代に、自動車の運転も実用No1に。昭和50年、夫の死去に伴い同社の社長に就任。現在に至る。1968(昭和43)年には富士山大沢源頭部(御中道付近標高2,200m付近)でボーリング調査中に落石事故を経験)

平成14年8月1日「ふじあざみ」(発行国土交通省中部地方整備局富士砂防工事事務所)第37号
http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/jimusyo/fujiazami/fujiazami_37/fujiazami_37.pdf

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2013年09月08日

崩れ

 幸田文がど、ど〜んとでてきますのは、ヤッホー君のこのブログ、2012年1月12日付け日記「幸田文」です。そこでは、2008年8月2日土曜日の山歩クラブの月例山行が「冨士山御中道」を辿る大沢コースだったことが述べられています。

 5年後の今日、2013年9月8日、同じコースで、15人、冨士山御中道を歩いてきました。
 雨具をつけたお山歩会でしたが、心配した雨、風もそれほどでなく、無事終えましたことをご報告します。

 大沢崩れにつきましては、われわれ山歩クラブの歩いたコース含め、イヤホンをつけてから、以下の国土交通省中部地方整備局をクリックして音声付き画像でぜひご堪能ください.。幸田文の文章力に驚かされます;

…www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/vtr/fujisabo_movie04.html

 YouTubeでも… 
http://www.youtube.com/watch?v=Fl8GXZwrwBY

 今日のお山歩会で摂ったデジカメの写真は、帰宅後ヤッホー君が何を間違えたのか、操作の仕方が悪く、見事に「すべて」消えてしまったので、仲間の皆さん、どなたか良い写真がありましたら送ってください、とのことです。

 なお、幸田文の『崩れ』(講談社文庫)という作品については、梅田祐喜先生(静岡県立大学短期大学部)が『研究紀要14−3号(2000年度)−3』で次のように述べられておりますので、これもまた、ご参考までにぜひお読み下さい:

 幸田文さんは、明治37 年、1904 年に生まれ、10 年前の1990 年、86 歳でなくなられました。
 みなさん方も、作品を読まれた方はもちろん、名前を知っておられる方はたくさんおいでだと思います。
 文さんのお父さんも、もちろんご存知だと思いますが、幸田露伴、明治を代表する文学者の一人ですね。
『五重の塔』などという代表作は、みなさんも文学史の勉強などを通して、記憶にとどめていることと思います。
 漱石・鴎外ほどではありませんが、いまでも根づよい人気があって、一部フアンのあいだでは、よく読まれています。
 文学者としてではなく、父親としていうのですが、このお父さんは変わっていました…

 もちろん小説でも、随想でも、詩でもありません。
 だから、「『崩れ』という作品」という言い方は、かならずしも厳密ないい方でない、ともいえます。
 文章としかいいようのない、信じられない山の崩落を記述するばかりの文章です。
 いったい不動の、あるいは不動だとおもっていた山岳が、崩落するなどということがあるでしょうか。
 その驚きが、こうした崩れの現場に、70歳をすぎた文さんをむかわせるのです。
 若い人の背に負ぶわれながら、富士山の大沢崩れ、富山県の鳶沢崩れなどの現場を登ったのです。
 生命をことばに持ちきたらそうという、なんという執念でしょうか。
 書かれているのは崩落そのものですが、読む者のこころに、萌えいずる草木の生命を予感させ、あるいは願望させて、いのちの愛おしさに胸がつまってきます。
 そうです。この崩落現象は、自分が不動だと思っているこの世界、つまりは、我と我が世界の崩落と重ねあわされて、見られているのです。
 弟をみとってきた、お父さんをみとってきた。
 そして、いまや、その死は、自分自身の中に透視されはじめたのです。
 文章の底に静謐な緊張がみなぎっているのはそのためなのです。
 そのとき、もう自分を仮構のなかに表現する必要はない、なぜかというと、もう表現すべき自分自身が崩落していくわけですから。
 別の言い方をすれば、文さんにとって、小説という仮構は役にたたなくなったわけです。
 こうして、文さんは小説という仮構をうち捨てるように、小説でも、随想でも、詩でもない文章に、あるいは、こころのなかにまっすぐに下りていく詩のかたまりといっていいものにかりたてられていくわけです…

http://bambi.u-shizuoka-ken.ac.jp/~kiyou4228021/14_3/14_3_3.pdf

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2013年09月07日

市川市文学ミュージアム

 ヤッホー君のこのブログ、2011年7月14日付け日記「パリ祭」、その前日2011年7月13日付け日記「財政赤字」で、映画「おとうと」(原作 幸田文、1960年作)がちょこっとだけ顔をだします。
 2013年9月2日付け日記「風立ちぬ、最後の作品に」では、「注釈」としてでしたが、「ヤッホー君の呟き」が覗いています。幸田露伴は…、「敗戦から2年目の疎開先って、きっと千葉県市川市菅野のことかな…」とぼそぼそ。
 
 それがなんか、今日9月7日土曜日、幸田文、おとうと、水木洋子、永井荷風が結ばれた気がしています。嬉しいですよね、この「絆」って。

 今日ヤッホー君は、7月にオープンしたばかりの「市川市文学ミュージアム開館記念特別展」、「永井荷風−「断腸亭日乗」と「遺品」でたどる365日−」を観て、さらには講演会「荷風をめぐる女性たち」(評論家 川本三郎(1944年生まれ)」を拝聴する算段です。

市川市は、万葉のむかしから現代に至るまで多くの文人墨客に愛され、文化と芸術の土壌が豊かに育まれてきました。

こうした市川市の特長を広く伝えていこうと、市川市文学ミュージアムは、市川市ゆかりの文学者、映
像作家、写真家など、幅広いジャンルの作家の資料を展示、収集を目的として、2013(平成25)年7月に生涯学習センター(メディアパーク市川)にオープンします。

開館記念特別展(「永井荷風−「断腸亭日乗」と「遺品」でたどる365日−)
永井荷風は、昭和21年から34年までを市川で過ごし、市川を終焉の地としました。日記文学の最高峰とされる「断腸亭日乗」を、荷風の遺品とともに展示し、荷風の生活とその生涯を紹介します。なお、荷風が間借りしたフランス文学者・小西茂也が書いた荷風に関するメモのほか、荷風の葬儀映像(葛飾八幡宮所蔵)を初めて展示します。

http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul06/20130720.html

 この3階の資料室に【水木洋子コレクション】というのがありまして、「脚本家・水木洋子氏の自筆原稿、創作関連資料、蔵書、生活用品など、約2万点からなるコレクション」が保管されているのですが、そこに、映画「おとうと」は水木洋子作品だったことが分かりました。
 さらに、永井荷風「墨東綺譚」も映画化を…

今年2010(平成22)年は、市川市八幡から、日本映画やテレビドラマなどの数々の脚本を生み出した脚本家・水木洋子(1910-2003)の生誕100年の年に当たる。

昨年が生誕130年・没後50年の節目だった永井荷風の原作映画「墨東綺譚」(1960年、東宝)が、当初は水木のシナリオで計画されたものの、実現しなかったエピソードについては、本シリーズ第63回(2008年6月14日号)で、荷風の元に出入りした毎日新聞記者・小門勝二の『浅草の荷風散人』(1957、東都書房)をもとに紹介した。

そのときは、それを裏付ける水木側の資料は、つかんでいなかったのだが、その後、水木洋子市民サポーターの会会員で、市川市文学プラザ非常勤職員の石井敏子さんが、国会図書館などで、当時の新聞記事を読み込む地道な調査をした結果、興味深い新聞記事を探し当てた。

それは、毎日新聞1956(昭和31)年4月30日付けの囲み記事で、<「墨東綺譚」映画に>の見出しのもと、次のような文章が続く。

『東宝では秋の大作として永井荷風氏の名作「墨東綺譚」の映画化を決定。藤本製作本部長のプロデュースで監督は成瀬巳喜男、水木洋子が脚色に着手した』

 3cm角程度のごく小さな囲み記事であるが、市川ゆかりの荷風と水木の2人の関わりが示された、私たちにとっては、とても大きな発見といえる。


(市川よみうり 市川民話の会会員 根岸英之 「折り折りのくらし85、永井荷風と水木洋子をめぐる新資料」)
http://www.ichiyomi.co.jp/20100424u.html

2007(平成19)年は、市川を終焉の地とした文豪・幸田露伴(1867−1947)の生誕140年・没後60年に当たります。露伴の没年はまた、娘の文(1904−1990)が父の晩年を随筆にしたため、文筆家として世に認められた年でもありました。1946(昭和21)年から1947(昭和22)年の1年半の市川暮らしでしたが、幸田露伴一家にとって、市川がどのような土地だったかを検証します。
 さらに、幸田文の自伝的小説『おとうと』(1956)は、水木洋子の脚色によって、映画(1960年・大映)のほか、テレビドラマや舞台化もされました。水木寄贈資料を通して、水木洋子と幸田文との関わりについても展望します。
 併せて、斎藤緑雨、塩谷賛、永井荷風、和田芳恵など、幸田一家ゆかりの市川の文人たちとの関わりも取り上げ、いちかわ文学の広がりを立体的に紹介します。


(市川の幸田露伴一家と水木洋子脚色の〈おとうと〉―幸田露伴生誕140年・没後60年記念―)
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/bunpla_07kouda.html

 で、川本三郎先生のお話でもびっくりして、椅子から転げ落ちそうになったことってなかったの?っていうと…、実はこれがまた、…

 ヤッホー君のこのブログ、2013年8月18日付け日記<Beast of Bataan バターン死の行進>で言及した本間雅晴の最初の妻、智子は永井荷風と愛人関係にあった…

荷風日記に数多く登場する美妓美玉のなかに一人だけ素人の女性がいる。女優のタマゴで、芸名が白鳩銀子、またの名を田村百合子という。荷風は将来日記を公開するつもりで書いたようだが、何かの拍子に中身が外に漏れることを恐れたらしく、日記の脚注部に小さな字で田村百合子、田村XX中将の三女と書き遺している。

姓が田村の陸軍中将は、怡与造、沖之甫、守衛、義富と4人いるが、彼女の父親はそのなかで最も有名な今信玄田村怡与造であった。才気溢れる聡明さは父親譲りだが、奔放な女性でもあったらしく、主人が英国に駐在しているとき演劇の世界に飛び込み、荷風とできてしまったのである。尤も荷風も彼女が人妻だったとは知らなかったようだ。当時の日本には姦通罪という恐ろしい法律があり、北原白秋が市ヶ谷監獄にぶち込まれた前例もあり、憶病な荷風がそんなリスクを冒すわけがない。

彼女はその後、英国駐箚の夫と離婚するが、彼女の当時の本名は本間智子、夫は参謀本部支那課から英国大使館付武官に転出した本間雅晴大尉、のちに太平洋戦争でフィリピン攻略戦を指揮し、戦後「バターン死の行進」の責任を問われ刑死した本間雅晴中将だ。


(東洋証券ひと息コラム『巨龍のあくび』第174回:精神的勝利法、今信玄、そして荷風(杉野光男、東洋証券株式会社 主席エコノミスト、2013年6月21日)
http://www.toyo-sec.co.jp/china/column/yawn/pdf/r_174.pdf

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2013年09月06日

賀川豊彦

 9月1日のヤッホー君のイーチャリは「すみだ郷土文化資料館」。関東大震災から90年目の企画展に行ったわけですが、そのとき、賀川豊彦(1888(明治21)年-1960) が神戸から駆けつけてボランティアで被災者の支援活動にあたったことを知ってびっくり。ヤッホー君、そんなこと全然知りませんでした。
 そこで、今日9月6日の金曜日、さっそくイーチャリで「本所賀川記念館」に向かったのです:

1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、被災者が暮らした、トタンなど粗末な資材でできたバラックの位置や大きさを示す実測図が見つかった。被災者が自ら建てたバラックがほとんどとみられ、震災直後の生活再建の過程がわかる貴重な資料という。 

実測図を作成したのは、被災者救援に取り組んだキリスト教社会運動家、賀川豊彦(1888〜1960)が結成した本所基督教産業青年会。作成枚数は不明で、多くは後の東京大空襲で焼失したらしい。

賀川の活動拠点だった場所にある「本所賀川記念館(東京都墨田区)理事で、敷地内にある東駒形教会牧師の戒能信生(かいのう・のぶお)さん(65)が、震災90年に向けて館内の資料を整理中、6種類の実測図を見つけた。縦79センチ、横55センチほどで、震災から4〜9ヶ月後の、現在の墨田区内や荒川区の日暮里、三河島を記録している。

戒能さんによると、当時、国や自治体が公設のバラックを建てたが、入居できなかった人びとがどこでどんな生活をしたかは資料が乏しい。庶民が個人で建てたバラックは、数年後に区画整理などで壊されたという…

6種類のうち本所区押上町の実測図が、「すみだ郷土文化資料館」(墨田区)で31日から始まる企画展「関東大震災90周年−墨田区域の被害・救護・慰霊」で初公開される。賀川は震災後、神戸から東京に入り、被害の大きかった本所区を拠点に炊き出しや衣類の配給、医療活動、宿泊所の提供などを行なった。企画展では、こうした賀川の活動を紹介する。月曜と第四火曜休館。

2013年8月22日付け東京新聞朝刊(奥野斐)「バラック 再建の証し 被災生活 実測図見つかる」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013082202000129.html

 ここはいま、資料室があるわけではなく「日本基督教団東駒形教会」。「光の園保育学校」が併設してあり、子どもたちの元気な声が響いているところ。応対してくださった方も電話は鳴るは、声はかかるは、でとても忙しそう。ヤッホー君、それでも、お名前は?とお聞きしましたら、上の東京新聞に出てきます牧師さん、戒能信生(かいのう・のぶお)さん(65)だったのです!

今年は関東大震災から90年目にあたる。
ということは、賀川豊彦たちによる震災後の被災者救援活動から生れた東駒形教会が、創立90年を迎えることになる。
この際、教会の詳しい年表を作成しようということになり、古い資料や文献を読み直している。
その作業の中で改めて気づかされた。
1923年の関東大震災から1931年の満州事変の開始まで、わずか8年しかないという事実に!

関東大震災後、特に復興事業の担い手である男性単身者のための宿泊施設が不足する…

このような歴史を踏まえて東日本大震災後のこの国の状況を考えさせられる。
再び政権交代があり、震災後に起こった反原発の声は小さくなり、経済復興のために原発の輸出が計画され、さらに憲法改訂までもが画策されている。
歴史はそのままでは繰り返されないだろうが、このような歴史から学ぶことは多いと言わなければならない。

(巻頭言 戒能信生「関東大震災の後に起こったこと」、賀川豊彦研究第60号所収、2013年8月11日「本所賀川記念館」発行、誌代金480円)

震災後、東京府、東京市、警視庁、三井家などによって公設バラックが各所に建設され、被災者たちを収容している。
その実態については、これまでいくつかの研究がなされている…

何らかの記録が残っているこれらの公設バラックの多くは、公有地や学校校庭などに建てられた大規模な長屋様の仮設住宅であった。
しかし関東大震災の場合、被災の規模が格段に多く、地震やその後の火災によって住む家を失った被災者すべてをこれらの公設バラックに収容できるはずもなかった。
圧倒的多数の被災者たちは、それまで住んでいた住居の焼け跡に、自分たちの手で木材や焼けトタンを拾い集めて個人バラック・掘っ立て小屋を作り、そこに暮らさざるを得なかった。

この図面には、そのような個人バラックの様子が克明に記されている。

(戒能信生「関東大震災直後の被災者住宅実測図」、同51頁)
  
 この賀川豊彦の人生を映画化した『死線を越えて-賀川豊彦物語』(1988年10月1日(土)公開)を、たしか、ヤッホー君は現役のころ観た記憶があります。
 1988年、ということはもう四半世紀もムカシのことexclamation&question
 トラホームで片目が不自由なハル(黒木瞳、ですって!)と賀川豊彦(国広富之)の結婚まで、いまYouTube でご覧いただけますのでヘッドホンをつけてご鑑賞ください:
http://www.youtube.com/watch?v=0E8PrQvyX5I

 この賀川豊彦、ノーベル賞候補にものぼったことがあったのですexclamation×2

生協運動などをつくった社会運動家で作家の故・賀川豊彦さん(1960年死去)が、1947年と1948年に日本人として初めてノーベル文学賞の候補になっていたことがわかった。ノーベル財団がホームページ上で明らかにした。

賀川さんは1947年と1948年の2年連続で、40数人の候補者の一人として名前が挙がっていた。賀川さんは『一粒の麦』や『死線を越えて』などの小説で知られ、キリスト教精神に基づく社会運動家でもあり、1955年にはノーベル平和賞の候補にもなっていた。ノーベル文学賞は1968年に川端康成氏が、1994年に大江健三郎氏が受賞している。賀川さんは受賞はしなかったが、戦後まもない日本で、初めて候補として名前が挙がっていた。

ノーベル賞の候補者名は候補段階では明らかにされず、選ばれてから50年間、秘密にされる規定になっている。

(2009年9月14日 15:20日テレニュース「賀川豊彦さん、ノーベル文学賞の候補だった」)
http://www.news24.jp/articles/2009/09/14/10143715.html

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2013年09月05日

突風火水地五層の石塔

 キリンビールを飲みながらヤッホー君の亡父はいっつも、ヤッホー君を酒の肴にしていました。
 山形県村山地方の方言に「かっだななぁ」というのがございます。ヤッホー君の大好きな祖父の口真似で、その都度亡父は、「刀だなぁ」と標準語にして笑いこけるのでした。
 これはきっと、こんな風に「あきれたもの」「こまったもの」を指すために土地では使われていた…

「けつけだなもの買ってきて 何さ使うなや?」(このようなもの買ってきて 何に使うつもり?)
「じぇね もったえなえったら!」(お金が もったいないったら!」)
http://cgi2.nhk.or.jp/namara/ndajien/detail2.cgi?id=3154&dialectid=6427

 あ、いえいえ、言葉の勉強ではなくってヤッホー君、小さいとき亡父から「オウ、グレート・ミステーク」とか「刀だなぁ」とか言われないようにしよう、笑われないようにしようと何事にも前向きに取り組む姿勢を教えられた、そのくらい<親父>の背中は怖く、大きくみえたものでした。

 あ、いえいえ、そのぉ、ムカシから<地震、雷、火事、親父>って言葉がありましたよね。今朝、明け方の雷で、窓の外から降りしきる雨を見ながら、そんなことをついつい、思い出していたのです。
 山で、恐いのは<雷>…

夕立・雷への注意
 ○ 夏山で怖いのは夕立や雷です。
 ○ 雷雲は午後に発生しやすいので、「早めの出発、早めの到着」に心がけ、登山計画を立てましょう。

(新潟県警察本部公式サイト)

気象状況の把握
 気象状況を絶えず把握し、変化に応じた行動をとることが必要です。
 (ラジオの気象情報で気圧配置を知り、気象予測を行うことが大切です)
 無理だと思ったとき、引き返す勇気がありますか?

行動の原則
 登山中における行動は、”早立ち・早着き”を励行することが原則です。
 急峻な山岳地では、体調や気象の変化など、不測の事態に対応できる余裕のある計画のもとで行動することが求められます。また、夜間の睡眠は保温に注意して体力回復を図ることが大切です。

(山梨県警察本部公式サイト)

 ヤッホー君が山中で遭遇したカミナリは、本番が2004年10月24日(日)、水の塔山(2202m)・篭の登山(2227m)への2004年夏の下見のときでした。かれこれもう10年前。あのとき3、4人の仲間で山に入ったのかな、とかすかに覚えています。
 高峰高原から水の塔山に登っていたとき、風が少しも吹かず、どうしたんだろうと不思議に思うほど空気が動かない、そして異常なほど蒸し蒸ししていまして、じっとしていても汗が滴りおちてきます。湯気の立つから炊きをした鍋の中に閉じ込められたような…、あれが前兆だったのだ、と思います。
 しばらくして遠くから、雷鳴が聞こえてきました。
 篭の登山まで急ぎ足で縦走し、なんとか無事に、池の平湿原に下っていたときにカミナリさまが突然、鳴りました。その音は足がすくむほど。
 ほかの仲間にも、「走れ〜!」と号令をかけ、あれは本能的に、でしたね、ヤッホー君も走りました。
 兎平の避難小屋に駆け込みました。何度も何度もシンバルを同時に叩いたような、耳を塞ぎたくなるほどの音で、カミナリさまが登場しました。
 バケツをひっくり返した、というのは今でも、あの雨のこと。
 カミナリさまの打ち鳴らす音と、天からの大洪水で、ついにこの小屋もつぶれるか、というほどの凄まじさでした。
 それ以来、山歩クラブでは、”早立ち・早着き”を「いの一番」に徹底しています。
 おかげで10月の本番は…

25人で高峰高原への紅葉狩とはあいなったのでござるう〜。お天気? もちろん申し分なしの美空、だいだいだあ〜いのお山歩日和でござるう〜。

海抜2000mにある高峰温泉からまずは水の塔山(2202m)へ。うぐいす展望台からは南に八つがくっきり見え、その右が富士か、その左が富士か、ビールを賭けたのですが、マダムに負けたヤッホー君は言い訳を一言もせず、このあとはひたすらサービス業務にいそしむざまと相成りました。頂上に立った先頭の下ちゃんからは無線交信機へ「槍が見えます、どうぞ」の第一報が。

池の平湿原は草紅葉とばかり思っていましたら、篭の登山からは妙に青々としていて、今年は紅葉の時期がいつもより遅いのでそのせいかなって思って湿原に入ったら、笹原でした。この笹は、草や花を駆逐してしまったのかな…、地球温暖化で笹がこんな高地まで侵食してきたのかな…って印象は、杞憂?

(山歩クラブのムカシのホームページにある山行記)

 おかげで、”早立ち・早着き”が街のなかでも習い性となり、ヤッホー君のこのブログ、2011年5月22日付け日記「サーカディアン・リズム」でも書いていましたね…

「Circadian rhythm(サーカディアン・リズム)」って知ってました?

山歩クラブは朝焼けとともに山小屋を早立ちし、どうしても「かみなりさまの前」、午後すぐには、もう次の山小屋に入る、ということをしないと、とてもとても、「縦走」なんてできませんので、それが習い性となり下界でも早寝早起きになっています。

 でも昨今、<地震、雷、火事、親父>に≪竜巻≫が入るようなお天気ですね…

國本未華です。
9月5日木曜日。けさは関東で非常に激しい雨が降り、交通機関の乱れが発生しました。

台風17号は低気圧に変わったので、天気図上には台風としては書かれませんが。天気の世界では、
腐っても鯛、ではなくて、腐っても「台」といったりします。

低気圧に姿を変えても、湿った空気を持ち込む力は台風級ですので、油断ができません。

きょうこのあとも、関東と東北を中心に湿った空気が流れ込みます。局地的には非常に激しい雨が降るおそれがあり、雨だけでなく落雷や竜巻などの激しい突風にも注意が必要です。

荒天は急にやってきますので、どうか空模様の異変には敏感になっていただきたいと思います。

(チーム森田の天気で斬る、元台風の湿った空気)
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map

 ちなみに昨日9月4日水曜日は山歩クラブの「深川タウンウオーク」だったのです。
 午後1時、赤札堂深川店前集合とし、終点は芭蕉記念館2階和室。
 その途上、浄土宗 双修山 心行寺(江東区深川2-16-7 Tel 03-3641-2566)がありました。皆さんで「五重層石塔」を探しあててきたのです:

突風火水地五層の石塔で、「元亨4年」の銘がある。
元亨4年は1324年で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。
http://www.shingyoji.or.jp/index.html

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2013年09月04日

カブトビール

 ゆうべは深夜に雨音で目が覚め、目覚まし時計をみましたら午前3時前後。枕もとのラジオのスイッチをひねったら深夜便(アンカー:須磨佳津江)。アンディ・ウィリアムスで、最後の曲ディア・ハート(1965年)が流れ、午前3時のニュース、なかにし礼(作詞)作品集で石狩挽歌(北原ミレイ、1975年)。が、その後またぐっすり寝込んで気づいたら目覚まし時計の朝7時のベル!

 …http://www.youtube.com/watch?v=IvXBwwYWpQk
 …http://www.youtube.com/watch?v=3b5ACMO4l7I

 ゆうべの雨音のあったその頃、九州では…

 台風17号は4日午前3時頃、鹿児島県の指宿市付近に上陸しました。
 台風は日付が変わった頃からスピードを上げて北上し、昨夜までの予想よりも早い上陸となりました。
 台風の上陸は、昨年9月の17号以来で、今年は初めて。
 また、鹿児島県に上陸するのは、2007年7月の4号以来、6年ぶりです。
 なお、1年間に上陸する台風は、平年で2.7個となっています


(チーム森田の天気で斬る 台風17号、鹿児島県指宿市付近に上陸)
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map

 さて、ヤッホー君のこのブログ、9月2日付け日記「風立ちぬ、最後の作品に」で、幸田文『父・こんなこと』をとりあげましたが、父、幸田露伴には、ほかにもエピソードが…

 父は亡くなる2、3日まえに、ビールが飲みたいと言った。
 そう言われたとき、病室の緊張がゆるんでみんなが明るかった。
 当時酒類は自由販売でなかったから、ビール2、3本のことに今思えばうそのような苦労をした。
 ようやく手に入れて、吸飲でそれを飲ませると、父は酔った。
(中略)あんなに酒をたしなんだ人が、わずか一杯のビールを酒の最後にしていなくなってしまった

(幸田文『父の七回忌に』)

 明治文学界の巨人は、1947(昭和22)年7月30日、80歳で静かに息を引き取った。
 露伴と同い年、1867年生まれの文学者三人…、子規と紅葉が明治時代、漱石が大正時代のうちに亡くなったのに対し、露伴だけが長生きをした。明治中期に活躍した文人の中で、昭和の空気を吸った数少ない人物の一人であった。
 没後、その霊前には多くのビールや清酒が届けられた。
 最期をみとった娘・文は、「酒壜のならんでいるのは景気のいい眺めであったが、(中略)これだけあるものを飲ませたかったという素直な残り惜しさもある」(幸田文『父の七回忌に』)とつづっている


 この出処は「おいしさを笑顔に、キリンビール」の公式サイトからです:
http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/beer/28.html

 ヤッホー君の亡父も元気な頃、ヤッホー君を酒の肴にして、「お前、またビッグミステークか…!…?」と大声で笑って(叱られた覚えはありませんでしたね〜)、よくキリンビールを飲んでいたのを思い出します。ところでもうひとつ、新発見!ヤッホー君のこのブログ、2013年5月19日付け日記「赤紙仁王」でも登場しました田端文士村の山本鼎(かなえ)、この画家がてっきりキリンビールのあのキリンの絵を描いたんだとばっかり思っていたヤッホー君、実情はキリのなからしいですね:

Q このマークをデザインしたのは誰なのでしょうか?
A 実際にデザインしたのが誰かは分かっていません。漆工芸家の六角紫水や、版画家・洋画家の山本鼎(かなえ)など諸説ありますが、いずれも確固たる根拠がない状況です


(2013/03/23 キリンマークのデザインに隠された秘密を知っていますか? -キリン広報さんに聞いてみた)
http://news.mynavi.jp/articles/2013/03/23/krn/index.html

 どうしたんですか、急にビールの話しがでて…

 実は宮崎駿監督作品『風立ちぬ』の魅力は細部へのこだわり、時代考証が実にしっかりしていることに気づかされるのであります。「二郎」は三菱内燃機(現三菱重工業)名古屋航空機製作所に勤め、いよいよ夜を徹しての飛行機の設計の仕事にとりかかりますが、その場面でちょろって出てくるのが《カブトビール≫。いやあ、その匠さに、鑑賞していたヤッホー君は椅子からまた、ズルズルッ:

半田は古くから醸造業がさかんであり、今もその伝統が受け継がれ、多くの名酒を生産しています。
 一般的に半田の酒は日本酒を指して言いますが、実は、ビールの製造も早くから手がけていました。
 半田における本格的なビールの製造は、1887(明治20)年に4代目中埜又左衛門と盛田善平(後に、現在の敷島製パンの前身である敷島屋製粉場も開業)によって「丸三麦酒醸造所」で始められました。
 1889(明治22)年には「丸三ビール」として3000本を初出荷しています。

 その後、急成長を遂げ、1896(明治29)年には、東京のエビス、横浜のキリン、大阪のアサヒに対抗して、丸三麦酒株式会社が設立されました。
 そして、本格的ドイツビール製造に向け、ドイツゲルマニヤ機械製作所による「完全なるビール醸造器械」を買い入れ、ドイツ人醸造技師を招き、新工場が建設されました。
 これが「半田赤レンガ建物」です。
 新工場建設とともに銘柄も、カブトビールと改められ、1900(明治33)年のパリ万国博覧会には、金牌を受賞するほどの品質を誇っていました。
 その後、社名さえも「加富登麦酒株式会社」と改められるなど、カブトビールは東海地方では最大のシェアを持っていました。

 カブトビールの名称の由来は、ビールは日本酒と違って喉でのむといわれていますが、喉で勢いよく飲むことを「カブル」ということから、なまって「カブトビール」になったなど諸説あるようです。
 また、日清戦争後でもあることから、勇ましい「兜」の商標を採用したともいわれています


(半田市の公式サイトより、参考文献「明治期の産業建築、旧カブトビール工場の遺構に関する研究」、竹内尊司 愛知県立愛知工業高校教諭)
http://www.city.handa.lg.jp/contents/05030002.html

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2013年09月03日

墨田ゆかりの文学者と関東大震災

 9月1日の日曜日、おうかがいした「すみだ郷土文化資料館」。
 まだの方はぜひ、企画展『関東大震災90周年-墨田区域の被害・救護・慰霊-』(8/31〜11/17)を見てきてください。必見です。貴重な映像資料があります:
  ☆ 東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵
  ☆ 本所賀川記念館作成・所蔵

 今日9月3日火曜日もヤッホー君、まだこだわって書き綴っています。
 今度は、いただいた2004年6月発行の「みやこどり第20号」のなかからです。
 <すみだゆかりの文学者>4人は、どのように関東大震災と遭遇したのでしょうか、ちょこっとだけ覗いてみたいと思います:

『幸田文、佐多稲子、船橋聖一、堀辰雄は今から100年前の1904(明治37)年に生れました。この年は日露戦争が始まった年でもあります。
 4人は、文学者として大きな足跡を残しています。そしてそれぞれの作品のなかで、隅田川のほとりで過ごした時期の思い出を、愛着を込めて書き記しています。

幸田文-向島蝸牛庵の思い出
 この地域がたびたびの洪水に悩まされた土地であることも作品からうかがえます。
 蝸牛庵も何度か洪水の被害を受けていますが、1912(明治45)年春の洪水の後には、文の姉、歌が「しょうこうねつ」という伝染病にかかり亡くなってしまいます。その2年前には、文の母、幾美が亡くなっており、幸田家にとってはこの時期、不幸が続いてしまいました。
 永井荷風が「向島」(注1)という随筆で「明治43年8月初旬の水害以後、永くその旧居に留まったものは幸田、淡島(注2)、其角堂(注3)の三家のみで…」と書いているように、向島にいた多くの文化人が向島を離れても、露伴はこの地にとどまっていましたが、関東大震災後に蝸牛庵の井戸に油が浮くようになったことから、転居せざるを得なくなり、小石川に移りました。

堀辰雄-無花果(いちじく)のある家、墓畔の家
 辰雄はこの新小梅町の家から牛島小学校(現在の本所高校のある所)、東京府立第三中学校(現在の両国高校)に通いましたが、第一高等学校に進学してからは寄宿舎に入りました。
 1923(大正12)年9月1日、堀辰雄一家を悲劇が襲います。
 関東大震災に遭い、辰雄自身は九死に一生を得たものの、母、志気を失いました。
 その冬、辰雄は「ろくまくえん」を患い、以後、病気に苦しめられることになります。
 翌1924(大正13)年に向島新小梅町の焼け跡に家を建て、養父の上條松吉とともに、そこに移りました。

佐多稲子-隅田川土手下
 11歳の時、向島に住む父の弟、佐田秀美を頼って一家で上京します…上京後、牛島小学校に転校しますが、この時の同級生に堀辰雄がいました。しかし、お互いこの時期に面識はなく、牛島小学校の同窓であったと知るのは後年のことでした。
 14歳の時に、兵庫県相生町の造船所で単身働いていた父の元に引きとられますが、16歳で再び上京、翌年一時、相生の父の元に移るものの、また東京に戻り、向島曳舟に祖母、叔母、弟とともに住むようになります。以後、関東大震災で住んでいた長屋が半壊するまで向島に住み、日本橋丸善書店洋品部に勤めました。
 向島時代の思い出は、第二次大戦後に自分を見つめるために最初に書いたという作品『私の東京地図』(注4)に描かれています。
 
船橋聖一-横網町と番場町
 船橋聖一は、本所横網町で生れています。12月25日、つまりクリスマスの日に生れたことから聖夜にちなんで聖一と名づけられました。
 1908(明治41)年、4歳のとき本郷区西片町に転居し、翌年には生後間もない頃にかかった「ひゃくにちぜき」の療養も兼ねて神奈川県の腰越に移りました…』


(注1) 永井荷風著、野口富士夫編『荷風随筆集』(岩波文庫)所収「向嶋(1927年、昭和2年5月)」:

『墨田川の水流は既に溝涜の汚水に等しきものとなったが、それでも旧時代の芸術があるがためにいまなお一部の人には幾分の興趣を催す。
 今の文明は西洋文化の模倣、仮借に他ならないが、甚だしい軽薄である。
 咀嚼するに時間がなさ過ぎる。
 自己籠薬中の物にすることこそ大切であろうに』

(注2) 淡島寒月は、井原西鶴を再評価してそれを幸田露伴や尾崎紅葉に説き、世に出すきっかけを作りました。寒月は収集家としても有名で、明治26年頃、父の使っていた弘福寺内にある隠居所で悠々自適な生活に入り、三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料がありましたが、関東大震災ですべて焼失してしまいました。

…山口昌男は、その著『敗者の精神史』(岩波書店、1995年)のなかで、柳田国男と南方熊楠と比較しながら、次のように評している;

『寒月はその気になりさえすれば、柳田出現以前に軽く柳田になりうる実力とスタイルの所有者であったと言えよう。
 しかし、お上に仕える気のさらさら無かった寒月は、その道を歩まなかった。それに生き方としては、むしろ南方熊楠に近い方を選んだのである』

 また山口昌男は、寒月の死を悼んだ露伴の次のような文章を引用している。

『氏の一生を通じて、氏は有り余るの聡明を有してゐながら、それを濫用せず、おとなしく身を保って、そして人の事にも余り立ち入らぬ代りに、人にも厄介を掛けず人をも煩はさず、来れば拒まず、去れば追はずという調子で、至極穏やかに、名利を求めず、ただ趣味に生きて、楽しく長命した人であった』

(注3) 其角堂永機句碑(向島百花園):朧夜やたれを あるじの 墨沱川

永井荷風「向島」より:

『隅田堤の桜花は始て木母寺の辺より三囲堤に至るまで連続することになったという。
 しかしこの時にはまだ枕橋には及ばなかった。
 それは明治七年其角堂永機の寄附と明治十三年水戸徳川家の増植とを俟って始て果されたのである。
 以後向島居住の有志者は常に桜樹の培養を怠らず、時々これが補植をなし、永くこの堤上を以て都人観花の勝地たらしむべく、明治二十年に植桜之碑を建てて紀念となした。
 建碑について尽力した人の重なるものは、その時には既に世を去っていた成島柳北と今日なお健在の富商大倉某らであった事が碑文に言われている。
 かくの如く堤上の桜花が梅若塚の辺より枕橋に至るまで雲か霞の如く咲きつらなったのは、江戸時代ではなくしてかえって明治十年以後のことであったのだ』

(注4) 今週の本棚:堀江敏幸・評『私の東京地図』(1946年版は絶版。講談社文芸文庫で読めます)
 2011年09月18日付け毎日新聞東京朝刊:

『東京は、物語の現在においても21世紀の現在においても、つねに普請中である。
 あっというまに景観が変わり、自分を生かしてくれた空間が消えてしまう。人間が手を下すばかりではない。甚大な変化をもたらす自然の力を、少女の「私」は、おなじメリヤス工場で働いていたお婆さんの話を通じて意識の底に留めている。このお婆さんは、安政の大地震を知っていた。「丁度、大震災の5、6年前である。その頃から、大地震がくる、という噂があり、予想も感じたりしていて」、周りは幾度もお婆さんの話に耳を傾けていた。
 大震災と空襲。
 この二つの出来事でまっさらになったはずの白地図には、すでにべつの町が描かれはじめていた。
 「吾妻橋のそばには、何故あんな大きな、松屋などという百貨店が建ってしまったのだろう」と嘆く「私」は、「場違いのものに強引に割り込まれた上で馬鹿にされているような」感覚を、嫌がりながらも、それを記憶として消さずにいる…』
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2013年09月02日

風立ちぬ、最後の作品に

 いやぁ〜そうですか、おつかれさまでした。
 監督はお辞めになっても、まだまだ生涯現役、自由を満喫しながらいろんな場面で発言を続けていってください。
 そして、これからの若い夢追い人を励ましてやってください。

宮崎駿監督(72)が現在公開中の映画『風立ちぬ』をもって引退することがわかった。スタジオジブリの星野康二社長が現地時間1日、同作がコンペティション部門に出品されている第70回ベネチア国際映画祭の会見の席で発表した。

星野社長は会見の最後に「発表があります」と切り出すと、「『風立ちぬ』を最後に宮崎駿監督は引退することを決めました」と明言。「来週、宮崎本人による会見を東京で開きます。したがいまして、(本日は)引退に関する質問は一切受けることができないことを了承いただければと思います。くれぐれも皆さんによろしくということです」と続けた。

映画『風立ちぬ』は、ゼロ戦の設計者・堀越二郎と文学者の堀辰雄という2人の実在した人物をモデルに、「美しい飛行機を作りたい」という夢に向かって真っすぐに生きた一人の青年の姿を描いた作品。6月24日に行われた同作の完成報告会見で宮崎監督は、自身の作品を観て初めて泣いてしまったことを「本当にみっともない監督でした」と照れながら明かしていた。(編集部・市川遥)


(宮崎駿監督、『風立ちぬ』で引退 ジブリ社長がベネチアで発表【第70回ベネチア国際映画祭】)
2013年9月1日のシネマトゥディ映画ニュース
http://www.cinematoday.jp/page/N0056039

※ 「一銭蒸気」補足
 文学者・堀辰雄と同年に、しかも下町は墨田区で生れた幸田文(1904―1990)は、こんなことをお書きになっております:

 (略) 私の18歳、11月半ばと記憶するその時から、父の水の話に感嘆する心はぐっと深くなっている。私の生命にかかわったかも知れない一事件があった。
 (略) 私はずぼんと隅田川へおっこったのである。

 その日は朝しぐれの曇った日であった。
 吾妻橋の一銭蒸気発着所の浮きデッキと蒸気船の船尾との狭い三角形の間へ、学校帰りの包みやら蝙蝠やらを持ったまま乗ろうと、踏み出した足駄を滑らせて、どぶんときまったのである。


(幸田文『父・こんなこと』より。なお、出典は昨日、「すみだ郷土文化資料館」でいただいた2004年7月墨田区教育委員会 編集、文化財担当 発行「生誕100年、すみだゆかりの作家たち」からです) 

 幸田文は、ヤッホー君のこのブログ、昨年2012年1月12日付け日記「幸田文」でも言及しております。ぜひ、ご一読ください!
 幸田文 18歳というと1904+18=1922年、つまり関東大震災の起こる前年ということになります。

 幸田文『父・こんなこと』は新潮文庫に収められています。
 また岩波書店刊幸田文全集第1巻(1994/12、品切れ、重版未定)にも収められています。
 岩波書店版のご案内では:

 敗戦から2年目の暑い夏、疎開先の仮寓で父・露伴の容体は急変した。
 家族を始め弟子達は物不足のなか出来る限りの看護に努め、最期を見取った。
 その折の緊迫した記録「父」、父との思い出を克明に綴った「こんなこと」や、デビュー作となった、晩年の父の日常を伝える「雑記」など、幸田文学の原点となる初期の作品を集めた。


http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/09/6/0919010.html


※(ヤッホー君の呟き) 敗戦から2年目の疎開先って、きっと千葉県市川市菅野のことかな…
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2013年09月01日

あの日から90年

1923(大正12)年9月1日、関東大震災で街が炎にのみ込まれる中、木々にあふれる公園で多くの命が救われた。「森があったからこそ」…。想定される首都直下地震でも火災は大きな脅威だ。あの日から90年。樹木の力は都市防災に生かされているか。

関東大震災の犠牲者は10万5千人に上り、中でも東京の隅田川両岸に広がった大規模火災で多くの人が焼死した。当時の火の流れを詳細に分析した「東京市火災動態地図」(震災予防調査会)によると、現在の江東区にある清澄庭園や千代田区の日比谷公園、港区の芝公園など、公園や寺社が延焼を食い止めている。そこには必ずイチョウなど防火性の高い樹木があり、避難者が生き延びた。

1986年、墨田区の北端に東白鬚(しらひげ)公園が開園した。10万平方メートルの細長い敷地にスダジイやクロガネモチなど防火樹を選んで植えている。「防災拠点として避難者を守るため」と指定管理者。周囲に木造密集地が広がる危険性を意識した。

同園一帯は大規模火災から逃れるための「広域避難場所」の一つ。東京23区に197ヶ所あり、面積や避難距離を基準に都が指定する。だが緑化の割合に関する視点はない。「コンクリートの建物は熱を防ぐが、樹木は季節によって燃えやすいものもあり過大に期待できない」。都防災都市づくり課は話す。

これに対し、防災に詳しい室崎益輝(よしてる)・神戸大名誉教授は「街をコンクリートで固めるわけにいかない。燃えにくく水分の多い樹木を選び、緑を増やすことが都市防災には重要」と断言。公園や街路樹、生け垣が延焼速度を落とし、燃えにくい街づくりに有効と訴える。


(「森」が命救ってくれた 猛火、九死に一生 関東大震災きょう90年)
2013年9月1日 東京新聞朝刊(杉戸祐子、横井武昭)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013090102000098.html

 あの日から90年、本日のヤッホー君のイーチャリ。向かった先は、「すみだ郷土文化資料館」。本日から企画展がはじまります(11月17日日曜日まで)。
 一見の価値があります。 

本年は、1932(大正12)年9月1日に発生し、10万人以上もの犠牲者を出した関東大震災から90年目にあたる節目の年です。本企画展では、墨田区域の被害を現在に伝えるさまざまな資料から、震災被害の実態を明らかにするとともに、地域で行われた救護活動や、犠牲者の慰霊にも目を向け、当時の人びとがどのように震災と立ち向かっていったのかについて、資料から解説をいたします。

救護
震災による被災者の救護は、軍隊や自治体だけではなく、さまざまな団体によって行なわれました。このうち、墨田区域で最も注目できるのが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦(1888-1960)によって設立された本所基督教産業青年会による救護活動です。本所に拠点を置いた同会の活動は、保育事業や金融事業など多岐にわたり、震災後も継続して行われ、現在でも光の園保育学校や中ノ郷信用組合などが、地域に根付いた活動を続けています。


(すみだ郷土文化資料館、墨田区向島二丁目3番5号5619-7034
2013年8月27日掲載、企画展「関東大震災90周年-墨田区域の被害・救護・慰霊-」を開催します
http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/info/kantoudaisinsai.html

〜関東大震災直後救援に来て〜
私のしたい仕事は罹災者の困苦を自ら体験し、バラックの苦悩を自らも一緒に味わひ、これを科学的に調査して、世間に訴えることである。つまり、私は「眼」になりたいと云うことであった。
−賀川豊彦−


一般財団法人「本所賀川記念館」(墨田区東駒形4-6-2 Tel 3622-7811
http://homepage2.nifty.com/honjo-kagawakinenkan/

 そうなんです、行って良かったことがあって、関東大震災のときわざわざ神戸から被災地に飛び込み、住み込み、腰を据え、被災者の目線で救護活動にあたった行動家がいたことを知ったことでした。この「本所賀川記念館」を訪れてみよう、と思ったことででした。

賀川豊彦を紹介する劇画「死線を越えて」の115ページ以下に、1923(大正12)年9月1日に起った関東大震災のことが書かれてあります。今から90年前のことです。

賀川豊彦がこの震災のことを知ったのは、翌2日のことでした。賀川豊彦はすぐに行動に移します。周りにいるメンバーに、救援活動の資金や物資を集めることを求め、本人はその日の午後に、山城丸に乗り、4日の朝に横浜に着き、歩いて東京へ向かいました。地震発生から4日目、各地ではまだ炎が上がっていました。東京の被災の現実を知り、被災者が最も必要としている物を確認し、再び神戸に戻り、本格的な救援活動を行うのでした。私達の、学校の創立者の1人である賀川豊彦と言う人は行動の人でした。その行動力は本当に素晴らしいものです。

東日本大震災が起って2年4ケ月が過ぎようとしています。この夏休みの8月1日〜3日に東北平和の旅が企画されています。小学生、中学生、高校生、保護者、教師、職員が被災地宮城県を訪問し、ボランティア活動を行ってきます。このことを通して今後の支援について考えるきっかけできればと願っています。私たちは被災地を忘れず、継続して支援を続けていきたいと思います。


(2013年7月30日『アレセイアの輝き』第122号平和学園宗教主任、横山厚志「隣人を愛すること」)
学校法人平和学園(神奈川県茅ヶ崎市富士見町5-2 Tel 0467-87-0132)
http://www.aletheia.ac.jp/message/2013/0730_1660.html

 ほかにも…、貧困、格差、救護活動に興味と関心のある方は次の文献も読み、回りの人びとに知らせていきましょう:

生活協同組合のことを知っている人は多いが、日本におけるその創設者の名前を知っている人は少なくなった。また、近年、特に、その動きの注目される社会福祉や社会事業についても、第二次世界大戦前の日本の状況やその活動に貢献した人々の名前が忘れられがちになっているように感じる。

アメリカでは、そのような人々の名前が、建物や道路の名前になっていたり、大学のキャンパス内のベンチに、何々先生の記念のベンチというように残されていたりするので、これは何だろうと、そのルーツを考える若い研究者の目にとまることになるようである。

2002年9月から約半期、明治学院大学のプロジェクトの一つとして、賀川豊彦に関する講座が開講された。その4回分を担当したことをきっかけに、賀川豊彦の社会事業についてまとめておきたいと考えたのが本論文の執筆背景である。

講義を担当することになったきっかけは、筆者が、かつて、賀川豊彦のセツルメントハウスでセツルメント活動をおこなっていたことであった。東京都江東区深川の高橋3丁目の一角を占めていたドヤ街に隣接して、そのセツルメントハウスは存在していた。現在は、町名変更により住所表記も変わっているようであるが、そのセツルメント活動の場所と賀川の視角の一端は、いまなお、後継者に継承され活動が継続されている。また、その視角や発想の一端は、東京都内の中だけでも、いろんな形で継承され活動は展開されている。

筆者が40年来、活動に参加し続けてきた要養護児童や児童福祉法外で、自立できない青少年のための自立支援活動等も、賀川豊彦の弟子たちによって継続されている活動の一つである。その法外の施設も、数年前に、ようやく、社会福祉法人になったがそのような賀川の弟子や孫弟子たちで、2002年9月から約半年間、明治学院大学の賀川豊彦プロジェクト講座を担当したわけである。

以下は、一回90分4回分の講座の中で特に、記録に残しておきたい部分の一部である。


(東洋大学社会学部紀要第45-2号(2007年度)賀川豊彦の執筆活動に視る社会事業の視角−「農村社会事業」の検討を通して−/天野マキ)
…ttp://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/3329.pdf

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一銭蒸気

 アニメ映画「風立ちぬ」で、「二郎」が通う東京帝国大学工科大学附属航空研究所への足がまた、船。
 「江東丸」とあってまたびっくり。

 堀越二郎と堀辰雄はほぼ同い年に誕生したというばかりでなく、川、大川でも繋がりがあるのでございます。だって、、、

100年前の明治37年(1904年)、のちに作家となる幸田文・佐多稲子・舟橋聖一・堀辰雄の4人が誕生しました。4人は、それぞれ幼少期から青年期の一時期をすみだで過ごし、それぞれに親しんだ隅田川周辺の風景などを作品に登場させています。
(墨田区内施設案内、すみだ郷土文化資料館、平成16年度企画展)
http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h16/kikakuten_100_yukari.html

 元祖「なでしこジャパン」御一行様のときに感じたように、大川は船でなく復興橋を使って欲しかったな、なんちゃって。
 
清洲橋は、『 関東大震災後の帝都復興事業の一環として、内務省復興局の設計指導により、1928(昭和3)年3月に竣工』。
(ヤッホー君のこのブログ、2011年10月08日付け日記「昭和6年の修学旅行」)

 芥川龍之介が乗ったのは「隅田丸」。

 現世は実に大川さへ刻々に工業化してゐるのである。

 しかしこの浮き桟橋の上に川蒸汽を待つてゐる人々は大抵、大川よりも保守的である。
 僕は巻煙草をふかしながら、唐桟柄(とうざんがら)の着物を着た男や銀杏返しに結つた女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訣には行かなかつた。
 同時に又明治時代にめぐり合つた或懐しみに近いものを感じない訣には行かなかつた。
 そこへ下流から漕いで来たのは久振りに見る五大力である。
 艫の高い五大力の上には鉢巻をした船頭が一人、一丈余りの櫓を押してゐた。
 それからお上さんらしい女が一人、御亭主に負けずに竿を差してゐた。
 かういふ水上生活者の夫婦位、妙に僕等にも抒情詩めいた心もちを起させるものは少ないかも知れない。
 僕はこの五大力を見送りながら、―その又五大力の上にゐる四、五歳の男の子を見送りながら、幾分か彼等の幸福を羨みたい気さへ起してゐた。

 両国橋をくぐつて来た川蒸汽はやつと浮き桟橋へ横着けになつた。
 「隅田丸三十号」(?) ――僕は或はこの小蒸汽に何度も前に乗つてゐるのであらう。
 兎に角、これも明治時代に変つてゐないことは確かである。

 川蒸汽の中は満員だつた上、立つてゐる客も少くない。僕等はやむを得ず舟ばたに立ち、薄日の光に照らされた両岸の景色を見て行くことにした。
 尤も船ばたに立つてゐたのは僕等二人に限つた訣ではない。
 僕等の前には夏外套を着た、顋髯の長い老人さへやはり船ばたに立つてゐたのである。

 川蒸汽は静かに動き出した。すると大勢の客の中に忽ち「毎度御やかましうございますが」と甲高い声を出しはじめたのは絵葉書や雑誌を売る商人である。
 これも亦、昔に変つてゐない。
 若し少しでも変つてゐるとすれば、「何ごとも活動ばやりの世の中でございますから」などと云ふ言葉を挾んでゐることであらう。
 僕はまだ小学時代からかう云ふ商人の売つてゐるものを一度も買つた覚えはない。
 が、天窓越しに彼の姿を見おろし、ふと僕の小学時代に伯母と一しよに川蒸汽へ乗つた時のことを思ひ出した。

(芥川龍之介「本所両国」、初出は「東京日日新聞」1927(昭和2)年5月6日〜22日)

 ヤッホー君のこのブログ、昨年2012年08月12日付け日記「芥川龍之介」もあわせお読みになってくださいな。

 この船は映画「風立ちぬ」でわざわざ「一銭蒸気」とも注記してあります。

東京両国通運会社 川蒸気往復繁栄真景図 重清 東京都公文書館蔵
(36.6×24.7センチ)三枚構成

右の建物は両国橋付近に立つ東京両国通運会社、会社の旗も翻っている。

●〈一銭蒸気の出現から川蒸気船へ 〉
 一銭蒸気は明治・大正期の都市風景には欠かせないものである。ではいつから「一銭蒸気」が使われたのかはっきりした定説はない。
  昭和54年の『国史大辞典』によれば、「明治18年浅草〜両国館に始めて川蒸気が就航し、その後八丁堀、中之島、千住大橋へと区間を延長した」とある。
 
  2番目の説は、墨田川汽船会社の古川孝七である。『隅田川に火船を上下せしものの嚆矢たり』と『京浜実業家名鑑』(京浜実業新報社 明治40年)に紹介されている。

 3番目は、明治18年7月2日、隅田川が大洪水となり吾妻橋が流失した、足を確保するため臨時に使用されたのが石川島造船所の『第四痛快丸』 だと言う。これが起源だと『本元昌造・平野富二詳伝』(昭和8年)にある。

 最後の説は明治の実業家・緒明菊五郎が永代と両国の間に使用したのが起源だという。一銭蒸気は好評で続々と新航路が開かれた。一銭蒸気は焼き玉エンジンだった、特有のぽんぽんと音がして『ぽんぽん船』と親しまれた。隅田川を航行する千住吾妻汽船の一銭蒸気は「上流に向かう船は緑色に塗られ、青蒸気と呼ばれた」「下流に向かう船は白く塗られ、白蒸気と呼ばれた」のである。

http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_16_10_1.html

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