2013年06月28日

Little India

Time past so fast.
Mr Yahho is here for more than 1 week.
The haze in Penang is almost over, and now we are having occasional rain shower.

Mr Yahho miss updating his blog.

Now is the Heritage month in Penang.
This whole month there are many events taking place.
Mr Yahho is hopimg to particip[ate in these events and shall report to all of you later.

Age blurs vision, hearing and memory but moments stsy alive in pictures.
Wondering through this past FOM portfolio with photographs is like tracing one's footstps through time...

Mr Yahho is now borrowing a computer in the Penang Municipal Library to update his Blog by means of dairy.
Bye for now.

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2013年06月20日

Hong Kong

Ciao from Hong Kong !
After leaving Japan which was covered by thick clouds, Mr Yahho reached the Hong Kong.
He is now at Hong Kong Airport waiting for his next flight to Penang, Malaysia.

He is now reading Japan Times.
The front page is on the high level of Strontium at No 1 reactor at Fukushima.
Page 2 is containing the LDP policy chief who retracts Fukushima comments.
Denial by the authorites that there were casualties but now the thruth is finally revealed as there were farmers that committed suicides due to the tragedy.

Mr Yahho could feel now the contrast between the beautiful colour of sea water and the dirty smiling face of the people who wanted to make money!

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2013年06月19日

奥会津

 さて、未来志向のヤッホー君、尾瀬を下りた後の行程を記し、次回の山旅、会津探訪のよすがと致したく、だそうです:

 お昼をとったのは桧枝岐村の「まる屋」さん。

1872(明治5)年創業の丸屋旅館を1993(平成5)年に改築して≪丸屋新館≫と改めてから20年を迎えることができました。
 宿は小さくなったものの、お陰様で昔ながらの“裁ちそば”と“山人料理”を楽しみにお出で下さった多くの皆様方に支えられ今日を迎えることが出来ました。
 今シーズンからは≪新館≫を外して≪そばの宿 丸 屋≫として営業を始めます。
 これまでと変わらず檜枝岐の味を守りつつ、快適な旅の宿としてご利用頂きますようスタッフ一同心より皆様のお越しをお待ち致しております

(裁ちそば まる家、南会津郡檜枝岐村居平638 Tel 0241-75-2025)
http://www.naf.co.jp/maruyashinkan/welcome.stm

 食事の後、「奥会津旨麺シール」をいただきまして、それ、奥会津オリジナル「旨麺アイテム」をゲットしにバスを駆ったのですが、その前に…

橋場のばんば
 鎮守神(ちんじゅじん)へとつづく参道中程に鎮座するばんばの石仏は、子どもを水難から守ってくれる水神様です。
 最近では縁結び、縁切りの神様として信仰され、悪縁を切りたいときは、新しいハサミを。
 良縁で切りたくないときは、サビて切れないハサミを供えるそうです。
 また、ばんばの頭にお椀のフタをかぶせると、どんな願いでもかなえてくれるといわれています

(檜枝岐村役場の公式サイト)
http://www.oze-info.jp/history/

 ヤッホー君は、もちろん山歩クラブとの繋がりが100年続きますように、と祈ったのだそうですが、ヤッホー山荘の台所の奥深くに埋めた真っ赤に錆びたジャックナイフを取り忘れてきたようで、お供え物がないと「ばんば」さまはお願い事を聞いてくれないのかな、…
http://www.youtube.com/watch?v=boGEQ3f_Jzg

 そして、体と心に効く温泉、小豆温泉<窓明の湯>へ。

CIMG3007.jpg

南会津町には、いつ訪れても、本当の自然があります。
 自然に抱かれて、村の人びとのあたたかさにふれて、からだと心を開放してみませんか。
 「窓明の湯」は、いつでも気軽にほっとできる温泉。
 ふだん着のふれあい、ぬくもりのおもてなしでお待ちしています

(「窓明の湯」南会津町大桃平沢山1041-3 Tel 0241-76-3112)
http://www.ina-area.co.jp/modules/ina1/

 そうなんです、もう村から町へ、南会津町にバスは入りました。ここは、

福島県の南西部に位置しています。
 2006(平成18)年3月20日に田島町・舘岩村・伊南村・南郷村が合併して誕生しました。
 会津地方の中心、会津若松市まで約45km の位置にあり、東北地方の南の玄関口となる地域です。
 地形は、越後山系から連なる帝釈山(標高2059.6m)を最高峰に、山に囲まれており本庁舎の標高は550mとなっています

(南会津町の公式サイトより)
http://www.minamiaizu.org/gyousei/cat14/000229.php

 地図で再度なぞってみます。
 西の会津駒は歩きましたので、北の駒止湿原、南の帝釈天、じゃない、帝釈山と田代山、う〜ん、欠食児童のヤッホー君、裁ちそばのお代わりを求め、まだ食指が動くようで。

 だって、だって、「舘岩広域観光案内所・舘岩物産館」(南会津町松戸原156 Tel 0241-78-2795)でついに、ついに受け取ったプレゼントって、『奥会津箸セット(3膳入り)』だったんだもん!

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2013年06月18日

尾瀬合宿

 昨日、6月17日月曜日の朝7時には、もう小屋をでていました。
 小屋を発つ前に全員集合!

小屋.jpg

 三条の滝への分岐点で、「見に下り隊」(カッシー隊長)と、下りずに裏燧林道を御池に向かって「森林浴を楽しみ隊」(晴くん隊長)とに分かれました。

三条の滝.jpg

 「見に下り隊」の安田さんからは「水量が多く、すごい迫力でした」快報が上の写真とともにとびこんできました!
 「森林浴を楽しみ隊」隊長の晴くんからは、絶滅危惧品種の「トガクシショウマ」を発見、との快報がとびこんできました! 
 参加された12名の仲間の皆さん、たいへんお疲れさまでした。
 ミズバショウが咲き乱れる湿原を歩き通した尾瀬合宿、いかがだったでしたでしょうか?
 
 日曜日の6月16日には、まだ雪の残る至仏山、池にうつる「逆さ燧(ひうち)」(撮影は江戸さん)を見ながらの木道歩きでした。
 楽しかったですね。

至仏山.jpg

さかさひうち.jpg

 そして月曜日、昨日の帰りには、美味しい裁ち蕎麦をいただき、腹ごなしに桧枝岐村ウオークまで付録がついて、盛りだくさんの内容でしたね。
 帰宅したら、ヤッホー山荘ベランダの百合も花開き、「お帰りなさい」と言って出迎えてくれました。

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2013年06月15日

板谷波山

 6月15日土曜日、ヤッホー君は田端文士村再訪。
 あのぉ〜、赤紙仁王さまへの御礼参りじゃないんだって、まだ、はっきりと効能が現われたわけでなく、相変わらず、海馬桶がまだら模様のようで。
 今日は、「田端ひととき散歩」第三回「板谷波山、かつて美しき日本人がいた〜映画「HAZAN」(榎本孝明・南果歩主演、五十嵐匠監督、2003年)上映会〜」!

 この波山は、陶芸家です。
 1872(明治5)年、茨城県下館に生まれ、1892(明治27)年東京美術学校彫刻科卒業。
 明治の年号と歳が同じだったのが夏目漱石と彼の同級生、正岡子規。
 ですので5歳年下になりますね。
 1896(明治29)年、金沢工業学校彫刻科主任として赴任。
 漱石は前年の1895(明治28)年に愛媛県尋常中学校(松山中学)に赴任しています。
 漱石は1903(明治36)年イギリス留学を終え1月に東京着、3月に千駄木町に転居しますが、派山は同年、31才で陶芸で自立を決意して上京、11月3日、田端512番地にバラックを建て、田端文士村の先住民となります。
 といっても、窯を築く費用、窯を燃やす薪代がなく、着物を質屋に入れたり、内職で稼いではレンガを買い足して、完成までに、1年半もかかってしまったといいいます。

 映画はこのあたりを活写していきます。
 映画が終ったとき、研究員の方が会場に波山のお孫さんがお見えになっていますのでご紹介しますって…

 お祖父ちゃまの思い出は、生活は質素、腰が低くてていねい、しかし燐とした明治の気風があったそうな、女性にはとくに優しく根っからのフェミニストだったそうで、田端の住居の庭に四つ葉のクローバーを見つけては「お幸せに」って言いながらさしあげていたそうです。90歳になっても、仕事場の窯場にでて楽しそうに作っていたとか、陶芸で食っていけるようになったのは60を過ぎてからで焼き物は神さまからのごほうびって言っておられたそうです。
 あの映画で、お気づきになった方がおられたか、家の軒先に竹筒の表札がぶらさがっていましたね、あれになんという字が書かれてあった、と思います?
 板屋破産!雨漏りのするまさにバラックだったそうです!

 波山は退職金もなげうって、妻の「まる」(雅号は玉欄)といっしょに陶芸家になるべく田端にやってきたのでした。なんという転身?変身?転進?

 この映画は、劇場公開用というより茨城県の皆さんがカンパしたり、エキストラ出演したりしてできた手作りの映画でしたって。
 でも、ブルガリア・ヴァルナで8〜9月に開催された第12回国際映画祭Love is fullyでHANZANが見事グランプリ「Golden Aphrodite」賞を獲得しました。またブルガリア映画製作者連盟賞もW受賞しました。
http://www.sakuraeiga.com/HAZAN/html/top.html

 その2003年の映画は波山没後40年の映画だそうです。
 とうことは、今年2013年は波山没後50年の年にあたります:

『「波山をたどる旅」は、映画などを通じて地域振興に取り組む団体「プロジェクト茨城」が波山没後50年目に合わせて企画した作品で、筑西市や水戸市、笠間市などで撮影が行なわれました。
 2部構成で、第1部(40分)は主人公の美大生が波山の生涯を学びながら成長する物語。
 第2部(50分)では、波山の孫である村田あき子さんや板谷駿一さんなど関係者へのインタビューが行なわれました。
 第1部の主演と第2部のインタビュアーをつとめるのは、第44回ミス日本グランプリ決定コンテストでミス着物を受賞した海老澤佳奈さん(水戸市出身)。
 映画「HAZAN」(平成15年、五十嵐匠監督)に主演した榎木孝明さんも友情出演しています。
 ちなみに、試写会終了後は学習教材として無償提供する予定で、県内の小学生から大学生などを対象に上映の申し込みを受けつけるそうです。
【第1部あらすじ】
 創作に悩む美大生のカナは、陶芸家・板谷波山の作品を知る。
 波山に心惹かれたカナはその人生を辿っていく。
 若い陶芸家との出会いによって、波山の作陶の真髄を理解していく…
 波山をたどる旅の果てにカナが見つけたものとは…』

(2013/1/12(土)午後10:33更新筑西歳時記〜茨城県筑西市からの便り〜「板谷波山没後50年記念映画≪波山をたどる旅≫完成披露試写会)
http://blogs.yahoo.co.jp/satyricon1968

 波山は、「まる」といっしょに大龍寺に眠っています。
 ヤッホー君も山歩クラブのタウンウオークで訪ねましたが、そのときは、波山よりは正岡子規のお墓探しでした。

「板谷波山先生墓誌」
 先生 姓は板谷 諱は嘉七 波山と號した
 明治5年3月3日 考善吉 妣宇多子の3男として茨城縣下館市田町に生れた
 幼より頴悟聡明 明治23年東京美術學校彫刻科へ入學 同27年卒業
 同29年石川縣立工業學校教諭として赴任したが 陶磁器の魅力にひかれて陶藝家たらんと決意
 同36年職を辞して上京 東京北郊田端に窯を築き フランス陶磁を學んで獨自のマット釉葆光彩磁を創め また彫刻文様磁器に新境地を拓き さらに宋代青磁および窯變を研究 華麗のうちに端然として氣品高き作品を創造した
 帝國美術院展覧會工藝部新設に盡力 審査員にあげられ また帝國美術院賞受賞
 昭和4年帝國美術院會員 同9年帝室技藝員を拝命 同28年文化勲章を受け 日本工藝会の最長老として仰がれた
 その間後進を懇切に指導して育成に當った
 郷土を愛すること切なるものがあり 茨城縣は名誉縣民に 下館市は名誉市民に推挙して業績を顕賞した
 室は福島縣坂下町鈴木作平次次女まる子 すこぶる内助の功あり 家に百合子 菊男 佐久良 紅葉 松樹 梅樹の一女五男がある
 昭和38年10月10日午後5時10分 91歳の天寿を全うして逝去した 法名惠照院清秀波山居士 従三位に叙せられた
  撰并書吉澤忠 刻介川芳秀
 昭和39年10月10日 東陶會 茨城工藝會建之


 ちなみに破産ではありません、波山は、ふるさとのお山、筑波山の波山でした。
 波山を支えた「まる」のことも記録しておきましょう:

『波山の才能を信じて世界的な陶芸家になるまで育てあげたのが、妻である板谷まるです。
まるの生い立ち
 まるは、明治3年に河沼郡坂下村(今の会津坂下町)随一の呉服商、鈴木家の3女として生まれました。成長したまるは、東京の創立後間もない共立女子職業学校(今の共立女子学園)に入学し、裁縫などの実学とともに日本画を習いました。また会津出身で社会児童福祉の先駆者である瓜生岩子にも私淑し、大きな影響を受けています。明治26年、若松に戻ったまるは、結婚して経営を譲る明治28年まで、自分で創立した会津女子職業学校の主任教師として裁縫や手芸を教えました。
波山との出会い
 茨城県下館町(今の下館市)に生まれ育った波山は、初めは職業軍人を目指していましたが、途中で芸術に目覚め、東京美術学校彫刻科に入学しました。卒業後は私立中学校の美術教師をしており、そのころに瓜生岩子の孫にまるを紹介されました。日本画をかいていたまるは、波山の才能を見抜き、自分の職業婦人としての生き方を捨てて波山と結婚しました。
苦境を乗り越え
 陶芸家となるため上京した波山は、明治36年に瀧野川村(今の北区)に工房を構えます。二人は窯を築くために荷車で材料となるれんがを尾久まで買い出しに行ったり、けがをしながられんがを積み上げたりと、苦労の末、自分たちの窯を築き上げました。このころ4人目の子どもが生まれましたが、いまだ作品の完成には至っておらず、塩味だけのすいとんに野草を入れて食べるというつらい生活をしました。
二人で力を合わせ
 初窯での成功や勧業博覧会への入選を果たしますが生活苦は続き、そのため飛鳥焼といって、住んでいた地名から名付けた食器を波山が焼き、まるがそれを売り歩いたり、玉欄の画号でマジョリカ焼の陶器の下絵をかいたりして家計を支えました。
 明治44年の夏、二人は皇后陛下に招かれて御前制作をするまでになっていましたが、参内した時のまるの格好は浴衣姿のひっつめ髪という普段着のままでした…』

(会津若松市公式サイト、会津人物伝)
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin33.htm

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2013年06月14日

夏目漱石

 漱石展3階で年表が掲げてあって、これにもひっかかっていたヤッホー君、漱石の言動をなにかまとめておきたいんですって、ま、呼んであげてください:

 ひとつは、1907(明治40年)3月、漱石40歳のとき「東京帝国大学文科大学講師、第一高等学校英語嘱託などの職を辞す」!4月下旬、「朝日新聞社に入社」!

 濱川博先生(1923年生れ)が面白い論文を発表なされています。
 先生は、長崎県生まれで 國學院大學を卒業し、朝日新聞宮崎支部から鹿児島支局長。大妻女子大学教授を務めておりました。

人生は出会いである。それは、時として大いなる祝祭ともなる――
 夏目漱石が東大英文科講師から朝日新聞社員になったのは、明治40年4月のことである。
 漱石の転身を考えるとき、私はドイツの詩人・作家のハンス・カロッサのこの言葉を連想する。
 そのころ、東大では、漱石を教授に昇格させる話しが進んでいた。
 社会的地位のきわめて高いといわれた大学教授の椅子を蹴って、一新聞社員になることは、破天荒ともいわれる一つの事件だと見られた…
 漱石と朝日新聞との出会い、厳密にいえば主筆池辺三山との出会いこそが、文学者漱石遺跡の運命を決定的なものにしたともいえる。
 まことカロッサのいうように、人生はまさに出会いであり、時としてすばらしい祝祭ともなり、不思議な運命の歓喜ともなった一つのよき例がここにある

(濱川博「漱石の朝日時代とその周辺」67頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000529585

漱石の入社交渉も大詰めにきた明治40年3月15日、池辺主筆は西片町の漱石宅を初めて訪ねた…。
 三山に会うまでは、まだ一抹の不安感をぬぐいきれなかった漱石は…
「然るに今日始めて池辺に会ったらその不安心が全く消えた。西郷隆盛に会ったような気がする」
といっている

(濱川博「漱石の朝日時代とその周辺」79頁)

 池辺三山(1864–1912)の風貌に西郷隆盛の姿が重なって見えた漱石でしたが、この西郷隆盛こそ、「西郷南洲遺訓」で次のような名言を残しております:

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。 この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり』(注記)

 「始末に困る人」…もうひとつ。それは、1911(明治44)年2月、漱石44歳のとき「博士号授与を辞退」!

要するに文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。世間が余の辞退を認むるか、または文部大臣の授与を認むるかは、世間の常識と、世間が学位令に向って施(ほどこ)す解釈に依って極(き)まるのである。ただし余は文部省の如何(いかん)と、世間の如何とにかかわらず、余自身を余の思い通(どおり)に認むるの自由を有している。
 余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従(くつじゅう)を強(し)いざる限りは、この問題はこれより以上に纏(まと)まるはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事件として統一家、徹底家の心を悩ます例となるかも分らない。
 博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉(ことごと)く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与(ふよ)したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握(しょうあく)し尽すに至ると共に、選に洩(も)れたる他は全く一般から閑却(かんきゃく)されるの結果として、厭(いと)うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西(フランス)にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
 従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾(てっとうてつび)主義の問題である。この事件の成行(なりゆき)を公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。

   ――明治四四、四、一五『東京朝日新聞』――』
(夏目漱石「博士問題の成行」、底本:『漱石文明論集』)
…このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2376_13561.html

 そして、1916(大正5)年12月9日、漱石49歳で「死去」。

(注記)
2013年3月24日付け東京新聞、編集委員朽木直文【Tokyoのわがふるさと】鹿児島県(3)「西郷隆盛の教えを今に」

『明治維新の立役者で「維新三傑」と呼ばれる薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の木戸孝允の中で、西郷隆盛の人気はとりわけ高い。西郷さんの何が多くの人の心をひきつけるのか。
 東京都のJR神田駅に近い商業ビル6階に「西郷隆盛会館」がある。「西郷隆盛に学ぶ 『敬天愛人フォーラム21』」代表世話役の内弘志さん(63)が6年前、自費で開設した。鹿児島県の沖永良部島出身。隆盛が流罪となった地で島民に飢饉対策などを教えた西郷さんの話を聞いて育った。「神様に近い存在」と言う。
 「敬天愛人(天を敬い、人を愛す)」は隆盛が好んで使い、西郷精神を代表する言葉だ。
 内さんは中学卒業後に上京し、就職した。30歳のころ、「西郷隆盛敬天愛人の会」(大里哲二会長)に出会った。有名な「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也…」で知られる南洲翁隆盛遺訓を学ぶ中で、多くの人に知ってもらいたいと2001年に「敬天愛人フォーラム21」を設立した。
 会員は約300人。毎月の勉強会や上野の西郷隆盛像の清掃などを行う。県出身者は一割ほどで、大半は西郷さんファンだ。内さんは「無私無欲でことに当たった西郷さんを今の政治家も見習ってほしい」と話す。
※ 千代田区内神田3−22−6―6階。問い合わせは事務局(ウチ・コーポレーション内)Tel 03-5295-2571。

 鹿児島県出身者でつくる「薩摩士魂の会」は昨年、南洲翁遺訓と、郷中(ごじゅう)教育の基本精神と言われる「日新公(島津忠良)いろは歌」を日英仏3ヶ国版「薩摩武士道」として作成、約4千冊を外国の元首をはじめ内外の有識者に贈った。英王室などから礼状が届いた。
 士魂の会は10年前、鹿児島市出身の森園安男さん(84)が「世直しの一助になれば」と同郷の賛同者を募り、発足した。会員は130人。今月には鹿児島支部を設立した。
 森園さんは西郷の魅力として、南洲翁遺訓が、幕末の戊辰戦争で敵であった旧庄内藩(山形県)の人たちによって編修されたことを挙げる。「戦争が終われば、降参した敵にも丁重に接する。西郷さんのスケールの大きさだ」と言う。日英2ヶ国版も作成。真っ先に山形県の大学で採用が決まった。年内に廉価版を作成し、「全国の高校に採用を働き掛けていきたい」と話す。
※ 一般社団法人「薩摩士魂の会」事務局は港区南青山1−15−14新乃木坂ビル、豊建築事務所内Tel 03(3404)3542

 鹿児島市の歴史施設「維新ふるさと館」の展示には、明治新政府で西郷の下野の理由とされ、のちの西南戦争につながる「征韓論」という言葉はない。朝鮮使節派遣問題と表現する。西郷が、派兵には当初から反対していたからだという。
 同館特別顧問の福田賢治さん(71)は「西郷さんは利ではなく、徳を大事にした人だ。だから時代が移ってもその評価は変わらない」と話す。
※ 「維新ふるさと館」(鹿児島市加治屋町23−1。幕末、明治維新の薩摩藩の活躍などを紹介。近くに西郷隆盛誕生地などがある。Tel 099-239-7700』

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2013年06月13日

中村不折

 6月13日木曜日、温帯低気圧の接近のせいか、どうもアタマの重いヤッホー君、なかなか筆が前にでません。昨日はこんなことを書いていましたかぁ:

『中村不折、あの正岡子規邸跡の前にある立派な書道博物館のあの中村不折、北区・蔵元さんの「愛酒報国」を揮毫されたお〜い、中村くんとの「関係」です』

 この人、そればかりではありません、いろんな筆跡を残されております。

中村不折(なかむらふせつ、1866−1943)
 1866(慶応2)年、東京に生まれる。本名は、□(かねへんに、乍というつくり)太郎。
 青少年期を長野(高遠・伊那・飯田等)で過ごし、1887(明治20)年上京。小山正太郎、浅井忠らが主宰した十一字会研究所で洋画を学ぶ。
 正岡子規、森鴎外、夏目漱石らと親交、漱石の「吾輩は猫である」などの挿絵を描く。
 1901(明治34)年から1905(明治38)年までフランスへ留学、はじめラファエル・コランに、その後J・P・ローランスに師事して歴史画の伝統的な手法を修得。
 帰国後は、黒田清輝の白馬会系に対し、太平洋画会系の中心的な画家として活動。のちに、太平洋美術学校の校長をつとめた。そこから中村彝、萬鉄五郎らの優れた画家が育った。
 また、書家・書道研究家としても知られ、1936(昭和11)年東京根岸に書道博物館を開設した。
 1914年第8回文展出品作「卞和璞を抱いて泣く」は、不折から高遠町(現伊那市)に寄贈された。
 「森林太郎墓」、「故碌山萩原守衛之墓」、「新宿中村屋」、「日本盛」、「真澄」など多数揮毫する

(信州高遠美術館公式サイト)
http://www.city.ina.nagano.jp/view.rbz?nd=736&of=1&ik=1&pnp=47&pnp=379&pnp=734&pnp=736&cd=1280

不折は36歳で渡仏しますが、それまでの10数年間、風景画を中心に絵画の勉強に打ち込み、生活の糧としては新聞や教科書の挿絵描きを行ない、非常に多忙な生活を送ります。
 不折が挿絵を担当していた「日本新聞社」には、生涯の友となる正岡子規がいました。
 また不同舎では、後輩に荻原守衛(碌山)がおり、時を同じくして渡仏するなど、互いに影響を受けあいます。
 また碌山の縁でと思われますが、中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻とも知り合います。中村屋が使用しているロゴは不折の書で、明治の終わり頃に揮毫されたものです。
 またこの頃より「不折」の雅号を常用し始め、終には1928(昭和3)年に「不折」に正式に改名してしまいます。
 不折は1905(明治38)年に帰国しますが、その直後から太平洋画会に所属し、またこの年には親しくしていた夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵を本人の依頼により引き受けています。
 以後、多くの作品を世に送り出し、また文展の審査員を務めるなど活躍の場を広げます

(新宿中村屋公式サイト、資料館、中村屋サロン、中村不折)
http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p12.html

東京大学鴎外文庫
 総合図書館に寄贈された鴎外蔵書には、寄贈印の代わりに中村不折の筆による「鴎外蔵書」の印が新たに押された。
 鴎外の墓碑銘「森林太郎墓」も中村不折の筆である。
 鴎外生前の印は、「森文庫」、「医学博士森林太郎図書之記」など多種のものが押印されている

(東大図書館公式サイト、鴎外印譜)
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/koho/guide/coll/guide2-Ogai.pdf

森鴎外の遺書
 余は少年の時より老死に至るまで一切の秘密なく交際したる友は賀古鶴所君なり
 こヽに死に臨んで賀古君の一筆をわずらわす
 死は一切を打ち切る重大事件なり
 奈何なる官憲威力と雖此に反抗するを得ずと信す
 余は石見の人森林太郎として死せんと欲す
 宮内省陸軍省皆縁故あれども生死分かるヽの瞬間にあらゆる外形的取扱ひを辞す
 森林太郎として死せんとす
 墓は森林太郎の外一字もほる可からず
 書は中村不折に委託し宮内省陸軍省の栄典は絶対に取りやめを請う
 手続きはそれぞれあるべし
 これ唯一の友人に云ひ残すものにして何人の容喙も許さず
大正十一年七月六日 森林太郎 言
賀古鶴所 書

http://www.phy.saitama-u.ac.jp/~saso/ougai.html

 かかる中村不折が、なぜ夏目漱石と不仲となるのか、まだ謎解きは始まったばかりです;

『不折の挿画も、飄逸な俳画からジャポニスム版画風のものまで、幅の広さを示す名人芸で漱石を喜ばせた(その後、漱石と不折は不仲になり、「我輩ハ猫デアル」中・下篇の挿画は浅井忠が描くことになる)』
(静岡県立美術館・村上敬、前掲図録44頁)

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2013年06月12日

夏目漱石の美術世界展

 ヤッホー君は6月11日午後、東京都台東区上野公園の東京藝術大学大学美術館を訪れ、近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867-1916)ゆかりの美術作品を紹介する『夏目漱石の美術世界展』(5月14日から7月7日まで)を鑑賞されました。
 漱石の文学作品や美術批評に登場する画家たちの作品を紹介する本展を見てヤッホー君、
「≪自己本位≫の四文字をロンドンに渡ってからどうやって手に入れたのか、その軌跡の道筋が辿れますね」
「その後に、≪即天去私≫に向かってどう、道を切り開いていくのか、そのけもの道を辿ってみることが重要ですね」
と、もごもご口のうちで呟いていました、独り言。

ところで文学作品に積極的に、そして多様な絵画イメージを利用した文学者にマルセル・プルースト(1871-1922)がいる。
 奇しくも漱石とほぼ同世代であり、畢生の対策『失われた時を求めて』では、ジョン・ラスキンの強い影響のもとにターナーやバーン・ジョーンズなどイギリス美術の引用も多いとされ、漱石との共通項が見出される

(東京藝術大学大学美術館准教授古田亮「夏目漱石の美術世界」、展覧会図録所収、24頁)

漱石は≪文学論≫(1907(明治40)年5月刊、漱石40歳)の中で、
 「かのTurnerの晩年の作を見よ。
 彼が画きし海は燦爛として絵具箱を覆したる海の如し。
 彼の雨中を進行する汽車を描くや溟朦(めいもう)として色彩ある水上を行く汽車の如し」と評している。
 おそらくこの記述に該当する作品は、≪草枕≫(1906(明治39)年9月発表、漱石39歳)でもふれている同じターナーの「雨、蒸気、速度−グレート・ウエスタン鉄道」(1844作、ナショナル・ギャラリー所蔵、ロンドン)であろうが、本作「パッランツア、マッジョーレ湖」(1846−48頃の作、静岡県立美術館所蔵)は、その光りや空気の表現などに、ターナー晩期の傾向をよく伝えている

(静岡県立美術館上席学芸員・泰井良の作品解説、同図録50頁)

 いやぁ〜、ヤッホー君、離れようとしませんでした。
 それはヤッホー君の青春時代のほろ苦い味、『あれとこれの境界の混ざり具合』について修行していた頃に味わったあの妙味、その時分を思い出したからだそうです。
 いまが梅雨、そうするとそれに相応しい季語を定型の枠に入れて掌のなかで弄ぶ、というのでなくってさ、梅雨空に鶯の鳴き声を聴いたときの驚愕、とか、いろいろあるでしょう、相反する境界が交じり合い、溶け合い、共鳴するような。
 海と陸が交わる砂浜とか空と陸が共存する地平線とか、ときには水の都だったり、あるときは火の雨だったり、靄って見えない若年性なんとか、七変化する万華鏡、これこそまさしく、
  燦爛として絵具箱を覆したる海
  溟朦(めいもう)として色彩ある水
です、です。
 
 かくして漱石山房ならぬヤッホー山荘で、山人として表現していく気分になった、といのですから、ヤッホー君、あんたも偉いょ。

 ところでヤッホー君、大いにひっかかってしまい、転んでは起きあがり、地下の展示室に下りては3階の展示室まで登ったり下ったり、解けない謎、通じない山路を与えられたような気分に今日、6月12日水曜日、いるんだそうです。

 その前に整理してみましょうね。
 ◎ 追補その一:
『「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」
 この文言は、漱石が第6回文展を批評した≪文展と芸術≫の冒頭に記された名言である。
 漱石は、1912(大正元)年の第6回文展(10月12日−11月17日、上野・竹之台陳列館)を見て、「文展と芸術」という批評を「東京朝日新聞」紙上に同年10月15日から28日まで12回に渡って連載した』

(泰井良、同図録128頁)

 ◎ 追補その二:
『漱石山人画、山上有山図、1912(大正元)年45歳作、岩波書店所像
 漱石の日記や漢詩集の記載から、1912(大正元)年の作とわかる。
 ≪彼岸過迄≫が一冊にまとまり、翌年正月から≪行人≫連載を始める時期、漱石が南画風山水に凝り始めた最初の作のひとつ。
 自賛に「山上に山有りて路通せず」としたとおり、青い二重の山のかなたに薄墨で突兀(とつこつ)たる高山のシルエットを描いた構図はなかなかのもの…』

(静岡県立美術館・芳賀徹、同図録193頁)

 ところでそのぉ〜、漱石をめぐる謎とは、中村不折、あの正岡子規邸跡の前にある立派な書道博物館のあの中村不折、北区・蔵元さんの「愛酒報国」を揮毫されたお〜い、中村くんとの「関係」です。
 だって、びっくりしたんですもの:

中村不折「巨人の蹟」、1912(大正元)年作、上伊那広域連合所像
 逞しい肉体をした男性が力強い足取りで前進していく。
 後景には、その後を追うように上半身裸の女性がゆっくりと歩んでいる。
 不折は、第6回文展に審査委員として本作を出品した。
 漱石は、
 「しかも其隣りには不折君の巨人がゐたのである。
 自分は不折君に、此巨人は巨人ぢやない。
 たゞの男だと告げたい。
 きたならしい唯の男だと告げたい」
と酷評している

(静岡県立美術館・泰井良、同図録156頁)

 そうか、でも、ね、これと、『フランク・ブラングィン「近代の貿易」、「ステューディオ」(1904年)に掲載』とを比較してみると、ですよ、芸術における≪自己本位≫とも絡む物語なんでしょうね、うん、うん:

『代助は仕舞に本棚の中から、大きな画帳を出して来て、膝の上に広げて、操り始めた。
 けれども、それも、只指の先で順々に開けて行く丈であった。
 一つ画を半分とは味わっていられなかった。
 やがてブランギンの所へ来た。
 代助は平生から此装飾画家に多大の趣味を有っていた。
 彼の眼は常の如く輝を帯びて一度は其上に落ちた。
 それは何処かの港の図であった。
 背景に船と檣と帆を大きく描いて、其余った所に、際立って花やかな空の雲と、蒼黒い水の色をあらわした前に、裸体の労働者が四五人いた。
 代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩から脊へかけて、肉塊と肉塊が落ち合って、其間に渦の様な谷を作っている模様を見て、其所にしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、画帳を開けた儘、眼を放して耳を立てた』
(≪それから≫10の3、1909(明治42)年6月、42歳時に連載開始)

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2013年06月11日

グレイクリスマス

 奈良岡朋子さん、ですか。
 ヤッホー君がイマ呼んでいる本が「似た者夫婦」じゃなくって『似ない者夫婦』です。
 著者は作家の故吉村昭さん(1927-2006、注記)の妻で作家の津村節子さん、80歳を過ぎても輝き続ける作家です。

『奈良岡さんの父上は画家で、奈良岡さんも女子美を卒業したが、絵を描くだけでは満足出来ず、それを立体化したい気持ちから演劇界にはいったという。女が役者になる場合、肉体的、精神的労働の厳しさを思い、家族中が大反対だったそうである。
 私たちのように明日のわからぬ生き方をしてきた者には、ある度胸の据わり方がある、いつの場合にもそれが支えになってきたというのは共通の思いであるが、役者は肉体労働だけでなく、自分の触れたくないと思っている傷をあばき立てる過酷な職業だ、と言われたことも、感銘深く覚えている。
 作家は、まさしく自分の内面をえぐり出して白日に晒す仕事をしていると言えるが、役者の場合、さまざまな役を演じなければならない…
 私はこれまで観てきた奈良岡さんの舞台で、「グレイクリスマス」と「波のまにまに お吉」の印象が強烈である。
 92年9月、「グレイクリスマス」初演に先立って、奈良岡さんと「私たちにとっての敗戦」と題する対談をしたが、聖戦と教えられていたいくさが侵略戦争だったと有識人と言われる人たちが言い出して、多感だった私たちは人間不信におちいった。
 保身のために変節し、目標を失って自棄になり、どさくさの金儲け誇りを失った男たちの姿を多く見た。
 少なくともあの一時期、女たちは時代の波に呑まれそうになりながら、必死でたくましく生きようとしていた…』

…津村節子「奈良岡朋子さんの舞台」、『似ない者夫婦』(河出書房新社、2003年)所収、初出は、「オットーと呼ばれる日本人」プログラム、劇団民藝2000年4月。

 「グレイクリスマス」ってどんな芝居?

『「雪は、ゴミ溜めも焼け跡も、汚いものをみんな隠してくれます。だから雪の降らない、美しくないクリスマスをグレイクリスマスと言います」(公演のチラシより)
 久しぶりに生の舞台を観た。東京・六本木の俳優座劇場での公演、「グレイクリスマス」(作・斎藤憐、演出・高瀬久男)である。
 1945年、敗戦の年のクリスマスから物語は始まる。
 GHQ(連合国軍総司令部)による日本占領と民主主義政策の狭間で揺れる旧侯爵家「五篠家」が舞台だ。
 進駐軍相手のホステスとなって一家を支えようとする妻・華子と、日本の「ピープル」に民主主義と憲法の精神を伝えようとするGHQ内部組織「民政局」に共感する日系米国人将校のジョージ・イトウを軸に、さまざまな人間模様が描かれる。
 物語は1950年の朝鮮戦争までの5年間だが、進行役的なヒール「権堂」の素性も最終盤で明かされ、この国の戦前からの姿も浮かび上がってくる仕掛けだ。
 「グレイクリスマス」の初演は1984年である。主演の華子を最初に演じたのは渡辺美佐子さん、次に奈良岡朋子さん、そして今回、3代目として三田和代さんが演じた…
 舞台上で語られる、憲法や民主主義をめぐるさまざまな問いかけや希望や絶望は、時代設定として日本国憲法誕生あるいは草創期の事柄である。
 しかし、これらの問いかけや希望や絶望は、60数年を経た現在も古びていない。
 それどころか、現在の時代状況をより鮮明に映し出し、未来をも照射するものとなっている。
 まさに、「歴史とは現在と過去との対話」(エドワード・H・カー)である』

(2009年12月18日5:54 PM投稿、きんようブログ、シジフォスの希望36)
http://www.kinyobi.co.jp/blog/?p=2293

 戯曲を書いた斎藤憐さんの言葉がありました:

『「グレイクリスマス」の初演は1984年だ。
 その年2月、国会は「防衛費のGNP1%枠」をめぐって紛糾していた。
 3月には、逗子市長が池子爆薬庫跡地へのアメリカ軍住宅の建設を受け入れると表明、市民に反対の声が高まっていた。
 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という憲法を持った僕たちの国に、なぜ軍隊があるのか。
 どうして、日本はアメリカの言いなりに、朝鮮戦争やベトナム戦争に荷担しているのか。
 そんな疑問が湧いた。しかし、日本国憲法が施行されたのは僕が7歳の時だから、どんな人たちが作ったのか知りもしなかった。
 それで遅ればせながら、「日本国憲法」を短期間で作ったGHQの記録を読みまくった。
 その一方、日本政府が作った憲法草案(松本試案)では、「天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと」が記されていたことも知った。
 おそらく日本政府が「自主憲法」を作ったとすれば、婦人参政権も労働三権もなく、財閥解体だって行なわれなかったろうと考えた。
 自主憲法論議が盛んになっている今、もう一度62年前の日米関係を見直してみる必要があるだろう。
 今回「グレイクリスマスの会」という演劇人の有志の方々が集まって上演してくださる。
 こんな嬉しいことはない』

(2010年1月27日(水)鳴門市民劇場例会、グレイクリスマスの会公演ちらし「グレイクリスマス」より)
http://www.nsg1998.org/stage/2010/1001gray/

 今年2013年は、「鳴門市民劇場」設立15周年を迎えるようです、おめでとうございます!

 この斎藤憐さんは、2009年には杉並区の劇場「座・高円寺」館長に就任し、地元密着型の劇場づくりにも力を注がれましたが、2011年10月12日、食道腫瘍による肺炎のため杉並区の自宅で死去されています、70歳でした。合掌。


(注記) 『天皇陛下は6月11日午前、東京都荒川区の区立日暮里図書館を訪れ、同区出身の作家吉村昭さんを紹介する企画展を鑑賞された。吉村さんは2006年に79歳で亡くなるまで、「関東大震災」など多数の記録文学を執筆した。天皇陛下は代表作の「三陸海岸大津波」を紹介する展示を見て「細かく災害の後を回って、田老村(現岩手県宮古市田老地区)のこともずいぶん書いておられますね」「これからの災害に対して、こういうものを皆が目を通すのは重要ですね」と説明担当者に話した』(6月11日 11時16分更新東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013061101001497.html

 岩手県田野畑村には、吉村昭文学碑もあります:
『水平線に 光の帯が流れている 漁船の数はおびただしいらしく 明るい光がほとんど切れ目もなく 点滅してつらなっている それは夜の草原に壮大な陣を布く大軍の篝火のようにみえ 光が 水平線から夜空一面に広がる 星の光と同じまたたきを くりかえしていた』(<星への旅>より)
http://www.vill.tanohata.iwate.jp/04kanko/cat72/20090103-120000.html

『作家である以上、執筆の好不調の波が必ずあるのでしょう。吉村さんも若い頃、創作上の行き詰まりを感じられた時期があったそうです。そんなとき、田野畑出身の友人と一杯飲んでいて、友人が語る「俺の故郷の海はたぶん小説になる」との言葉に惹かれ、田野畑を訪れてみたそうです。
 そんなキッカケで訪れた、田野畑の断崖から眺めた景色からのインスピレーションで創作された『星への旅』が太宰治賞を受賞。先生によれば田野畑は自分の作家としての原点であるとのことです。以後、明治39年の津波を題材にした『三陸海岸大津波』(中央公論社)、さらに『幕府軍艦「回天」始末』『梅の蕾』(文芸春秋)など、田野畑と深いつながりを持った作品群を発表され、生前は村と深いかかわりを持っておられました』(吉村昭・津村節子)
http://www.vill.tanohata.iwate.jp/04kanko/cat71/20090101-120000.html
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2013年06月10日

大滝秀治

 6月9日の帰りの車中でヤッホー君、仲間に向かって映画『明日の記憶』についておしゃべりしていました。
 「あれが良かった、あれ、あれ」
 「あれ、これじゃあ、分かりません」
 「それじゃ、ね」って急に歌い出したのです。

  るんるん♪花咲き 花散る宵も
  銀座の柳の下で
  待つは 君ひとり 君ひとり
  逢えば行く チールーム♪るんるん

 ヤッホー君の耳障りな音じゃなくって、ほんまもんの藤山一郎で聞いてみましょう。
 いいですねえ、『東京ラプソディ』(1936(昭和11)年、門田ゆたか作詞 古賀政男作曲)!
http://www.youtube.com/watch?v=Z7cmM1i0nBM

 映画のなかで歌うは大滝秀治さん。

 ヤッホー君のトラウマは今春の山歩クラブ総会の後のカラオケ屋さん。
 歌うと画面に点数が表示されるんです。
 小学校時代からのテスト、そして社会人になってからでも追い討ちをかけるように、評価するのに点数をつけてデジタル表示する考課、…これって人間を点数付けするのは実にけしからん、とモウレツに口外してはばからないヤッホー君です。
 ですので山歩クラブでは、山々にも点数をつけたり、ABC評価をしない!と断言してはばからないのだそうです。
 カラオケも感情を入れすぎると点数があがらないので、マイク回したり、淡々と歌うと高得点がでるよと相席のお客様に言われてしゅん、と凹んだんだそうです。
 ですので、そんな得点狙いで歌いに来たんじゃないわいとか、点数表示にこだわる「歌の技術」はカラオケ教室に通ってください、みたいな…
 ですので、おなかの底から歌声をしぼりだす、万感の思いを込めて歌声にしていく、大滝秀治の堂々とした「歌いっぷり」に感動したのだそうです。

 大滝秀治の「声」にも耳を傾けてみませんか。
 1年半も前、2012年1月3日にアップロードされた「声」です。
http://www.youtube.com/watch?v=E_YPnsgFrSY&feature=youtube_gdata_player

 2011年12月24日付けのニュースコメントも付いています、いっしょに考えてみませんか:

『カタログハウスのCMはなぜ拒否されたのか−
 国民投票を特集した雑誌「通販生活」のテレビCMを、意見が一方的であるなどの理由からテレビ朝日がその放送を拒んでいたことが29日までに明らかになったが、果たしてこれは一定の公共性が要求されている放送局の判断として妥当なものだったと言えるだろうか。
 拒否されたテレビCMは通販会社のカタログハウスが発行する「通販生活」秋冬号を宣伝するためのテレビCMで、その号で通販生活は国民投票を特集していた。
 CMでは画面に
原発、いつやめるか、いつ再開するか、それを決めるのは、私たち国民一人一人
などの文字が流れ、それが同時にナレーションで朗読されるなど、国民投票の実施を推奨するメッセージが込められているが、原発そのものの是非については、CMでは直接言及されていない…』


 この大滝秀治さんは昨年、2012年10月2日午後3時17分、肺扁平(へんぺい)上皮がんで87歳で亡くなっていました。

 奈良岡朋子さん(1929年生まれ)は、その訃報に接し次のようにコメントなさったということです;

『「大切な翼をもがれたような思い」。
 先月、劇団民芸同期で共同代表の大滝秀治さんが87歳で亡くなった時、そう無念さを表した。
 代表として劇団を支える責任はより重くなり、先輩から教えられたことを、共演の若手へと伝えることを改めて意識する。
「あなたたちとやるのはこれが最後かもしれないしってね」
 芸歴64年。休む間もない。
 旅公演を終えて、今は主演舞台「満天の桜」の稽古の真っ最中だ。
 江戸初期の津軽藩の姫に忠義を尽くす女中頭の役で、舞台で打ち掛けを着る時代劇は初めてだ。
「毎回、自分にチャレンジを課しているんです」
 前作では津軽弁の芝居に挑んだ。
 今度は「時代劇でどのくらい空気を空間に広めることができるかなって。いちずに姫様に一生をささげるという役の中に没入すればいいと思っています」。
 青森が舞台の芝居が続く。実は縁が深い。
 高等女学校時代の1945年5月、空襲で焦土となった東京を離れ、洋画家の父正夫さんの故郷・弘前に疎開した。
 ちょうど桜の季節。
「女学校の校門をくぐって桜が咲いているのを見た時、あっ生きものっていうのがここにあると思った。いまだに忘れられないですね」
 弘前の桜への思いも込めた舞台が終われば、年明けからまた旅公演が始まる。
「一種の出前。生の芝居がいいと言ってくださると、これだぞ!これなんだ!って思います」ーこう語った時、表情がパッと輝いた』

(2012年11月27日10時09分更新毎日新聞濱田元子記者「ひと:奈良岡朋子さん、毎回の舞台がチャレンジです」)
http://mainichi.jp/opinion/news/20121127k0000m070098000c.html

 劇団民藝、そうでしたか、奈良岡朋子は大滝秀治といっしょに劇団をひっぱってこられていたんですね:

劇団民藝は1950年4月3日に創立。
 前身は1947年発足の民衆芸術劇場=第一次民藝。
 築地小劇場、新協劇団など「新劇」の本流を歩んできた滝沢修、清水将夫、宇野重吉らによって「多くの人びとの生きてゆく歓びと励ましになるような」民衆に根ざした演劇芸術をつくり出そうと旗あげされました。
 第一回公演はチェーホフ作≪かもめ≫…
 1988年に創立者の宇野重吉、2000年には滝沢修が故人となり、2010年に北林谷栄、2012年には大滝秀治が鬼籍に入りました。
 現在は奈良岡朋子をリーダーとして、梅野泰靖、内藤安彦、水谷貞雄、鈴木智、伊藤孝雄、塩屋洋子、樫山文枝、日色ともゑ、箕浦康子など約180名が活躍


6月6日は大滝秀治さんの誕生日。
 お元気だったら、88歳の米寿を迎える日でした。
 本日、待望の大滝秀治写文集『長生きは三百文の得』(写真=谷古宇正彦、集英社1890円)が発売されました。
 本屋さんでぜひお手にとって見て下さい

(民藝の歴史) 
http://www.gekidanmingei.co.jp/index.html

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2013年06月09日

水無月の荒船山

 今日6月9日は山歩クラブのお山歩会です。
 「4番目の橋から右方向へ登っていくんだったなぁ〜」
 とぼけたお話しをドライバーさんにさかんに話しかけているヤッホー君。
 ドライバーさんの大坂さんもさすがにうんざり。
 「エッ、もう10番目なんですけど…」
 ヤッホー君、何も言えません。
 昨夜観た映画の記憶がまだアタマからはなれないのです。
 それは、NHKBSプレミアム、6月8日(土)午後9:00〜午後11:00(120分)放送の2006年作の『明日の記憶』(原作・荻原浩、監督・堤幸彦、キャスト・渡辺謙、樋口可南子ほか):

広告代理店に勤める営業マン、佐伯雅行は今年50歳。
 一人娘・梨恵の結婚と大きなプロジェクトを控え忙しい日々を送っていた。
 ある日、雅行は原因不明の体調不良に襲われる。
 突然物忘れがひどくなり、心配する妻・枝実子と共に病院で診察を受けた雅行は、“若年性アルツハイマー病”と診断され…。
 映画化を熱望した渡辺謙が自らエグゼクティブプロデューサーを兼任。
 第30回日本アカデミー賞で最優秀主演男優賞を受賞した

http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2013-06-08&ch=10&eid=28941

 う〜ん、「若年性アルツハイマー」って年でないのに…(ぐちゅぐちゅ)…
 今日はカッシーと昨年2012年10月9日火曜日に下見に歩いた本番でございました。

 ヤッホー君のこのブログ、10月13日金曜日付け日記「皇朝最古修武之地」をご参照ください。

碑.jpg

 帰宅後の21:56分、さっそくヤッホー君より仲間へのねぎらいが:

 21人で歩いた5時間の荒船山、たいへんお疲れさまでした。
 山路の途中、途中で火照ったからだが癒されましたね。

 いきなり響いたエゾハルゼミのお出迎え、
 谷底から吹き上げてくる涼風、
 トモ岩からの眺望、
 神々の攻防、
 クリンソウの自生地、
 山行していた他所のグループの方々との世間話に語り合い、
 帰りの車中の地酒「上州の寒梅」、…

 お天気に恵まれサイコウの山歩きが楽しめたと思います。
 いかがでしたか?感想をお寄せ下さい。
 車中では、皆んなで山歩きのそれぞれの印象を言いあいましたね。
 たくさんの想い出ができました。
 ありがとう、そしてまた、次回まで、お元気で、おやすみなさい!


水無月の荒船.jpg

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2013年06月08日

青山士

 「お手かざし四国霊場」のお遍路さんだけではありません、目が点になったのは。
 北区ぶらぶら街歩きの記、その第三弾は「青山士」(あおやま・あきら、1878-1963)!

 あっ、その前に、と。隅田川でなく、荒ぶる川、荒川の源流は、と言いますと、山梨県、長野県、埼玉県にまたがる甲武信ヶ岳2475mです。
 ヤッホー君は2004年、奥秩父縦走の折りに碑を見てきました。ヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの「日記」をご参照ください:
  ○ 2011年05月21日「シャクナゲ街道」
  ○ 2013年04月24日「天然記念物 片庭 姫春蝉」

 ところで青山士は、なんとなんと過日5月18日、山歩クラブが訪れた「田端文士村」の村民だったのでございます。なんでも1915年に結婚して田端に住み、陶芸家の板谷波山(1872-1963)とはご近所同士で、お付き合いもあったそうな、へえ!

 さらに、クリスチャン。人生の師は内村鑑三(1861-1930)、そうでしたか…。
 「義勇 青山士〜未来の子供たちへ〜」という動画まであります。これは内村鑑三が「後世最大の遺物」として紹介したイギリスの天文学者、ジョン・ハーエルの言葉「私がこの世を去る時は、生まれた時よりも良くして残したい」、その動画です。
http://www.youtube.com/watch?v=1PptPsL65TQ

 そして青山士は隅田川の源流と言いますか、荒川放水路とイマの赤門、旧岩淵水門の工事責任者だったのです。

 放水路(イマの荒川)は100年以上も前、明治44年と言いますから1911年に測量・調査・用地買収がはじまり、20年間の工事期間のあと昭和5年、1930年竣工しました。延べ310万人の労働者によって完成されたこの工事には青山も常に現場作業員のひとりとして関わりました。
 工事の犠牲者を弔うための記念碑が、「荒川治水資料館」入り口に今でも据えつけられてあり、富士川の石塊の上にあって訪れた人びとを見守ってくれています。
 その碑には自分の名前など一言も刻まれていません。ただ、こう記されています:

  此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル
  犠牲ト労役トヲ払ヒタル
  我ラノ仲間ヲ記憶センカタメニ
   神武天皇紀元二千五百八十二年
   荒川改修工事ニ従ヘル者ニ拠テ


 この日付け「神武天皇紀元2582年」って大正11年、西暦1922年、関東大震災の前年にあたります。岩淵水門が着工されたのは、1916(大正5)年、竣工通水式は1924(大正13)年10月12日、当時の加藤高明首相も出席したと言われていますので、この碑で言う「工事の完成」とは何でしょうかね?
 ヤッホー君はこう思うのです:

同水門の基礎は、川底より20mの深さに鉄筋コンクリートの枠を6個埋めて固めてあります。当時「そこまで頑丈にする必要があるか」などと反対する声もありましたが、青山はその必要を説いて回り、周囲を納得させたのです。そして工事の途中、関東大震災が起こりましたが、岩淵水門はびくともせず、青山の考えが正しいことが立証されたのです。また青山は、工事の責任者でありながら、つねに現場に出て、作業員の一員として工事に桑会ったので、皆に親しみを持たれ尊敬されました
(国土交通省荒川下流河川事務所荒川治水資料館ガイドブック)

 さて、通水式も終わったころでしょうか、恩師の内村鑑三もわざわざ見学しに来たっていいますから、師匠もできたお方ですね:

『1924(大正13)年10月17日、北風の強い日でした。内村鑑三は、信仰上の門下生である女子学生(東京女子高等師範学校生、今日のお茶の水女子大学生)を連れて、完成したばかりの、真新しい岩淵水門を見学しました。青山士が、現場を案内しました。工事責任者である青山士の説明は、内村鑑三にとって、「教えられるところが多かった」ようです。
 水門近くの敷地で、小集会を開きました。52歳の内村鑑三は、この日のことを、日記に以下のように書いています。「神を賛美し、愛する友(青山士)の事業の成功を感謝し、その長く共に、福(さいわい)せんことを祈った。風は寒くあったが心は温かく、若い人達と共に一日を暮らし、我も亦、若き人となった」』

(2011/10/15 21:09:54椎野潤投稿「内村鑑三の後世への最大遺物(その12)」
http://www.sendosha.com/blog/blog.asp?uid=3&id=92

 その1週間後の10月25日には摂政宮(後の昭和天皇)も行啓されたとのことですが、上述の<日付け>の問題については、どうしましょ?
 パナマ共和国大使館公認「改訂「アラボラ講座」シリーズ5、青山士の挑戦〜パナマ運河と荒川放水路の軌跡〜」が「荒川治水資料館」1階アモアホールで開かれていますので、講師の清水弘幸先生にお聞きするか、
 あるいは本『評伝 技師 青山士の生涯』(高崎哲郎、講談社、1994年)を読むか、ですね。

 そうなんです、青山士は青春時代、パナマ運河の建設に関わったのです。
 長い引用ですが、週末の6月8日、最良の物語を読むのもこころに良いと思いまして:

『なぜ青山は、そんな難しい所に、大学を出てすぐ飛び込んだのか。それは一言で言えば彼の人生観ですね。第一高等学校にいたときに、彼はほとんど毎晩、眠れなかった。それは、自分は何のために生きてきたのか、自分は死ぬまでに何をなすべきかということで悩んだそうです。青年らしいというか、もう一言付け加えれば明治の青年らしいと言うべきかもしれません。悩みに悩んだ青山は、内村鑑三の教会に通います。その教会で内村鑑三の教えを受けた。内村鑑三はいろいろな講話をされるわけですが、その講話の中に「後世への最大遺物」という標題の講話がございます。明治27年に話されたものですが、これは岩波文庫に入っていますから、すでに読まれた方もあるでしょうし、あの内村の本を読んで土木工学科へ行ったという人も青山だけではないでしょう。
 内村鑑三は何の話をしたか。もちろん、教会ですから、人生いかに生きるべきかということを、キリスト教に鑑みて話をしました。そして、人生にとって一番大事なことは、子供や孫のためになるような仕事をすることこそ人生の生き甲斐であるというのが内村の考えでした。そのためには土木技術者になることだと。内村自身が河川工事とか土木の現場を見るのが大変好きだったそうです。河川工事もいろいろ見られたという話ですが、ただ、内村鑑三の見方は我々土木関係者とは違ったと思います。土木の人間ですとどうしても、この事業は何のために、どういう技術を使って、というようなことになりますけれども、内村はたぶん、どういう人がどういう気持ちで、どんな志でこの仕事をしたのだろうかという気持ちで土木工事を見たのだろうと想像します。そして、この工事は後世にどう役立つだろうか、あるいは現在の一般民衆にとってどういう意味があるだろうか。たぶん内村はそういう見方をしたのでしょうね。
 その教会の講話は、それで終わるわけにはいかないのですね。後世への最大遺物を作ることに参画できるから土木技術者になるべきだ。大学の土木工学科の講義ならそれで終わりでもいいのですが、しかし、土木技術者になれる人は何十万人に1人という特に恵まれた人だ。大部分の人は土木技術者になることはできない。そこで彼の結論は、勇気ある高尚な生涯を送れ。不正不義と戦うには勇気がいる。そういう人生こそ尊い。そして、それが語り継がれて人類に幸福をもたらすのだ、というのが結論です。
 それを聞いた青山士は、自分は土木技術者になろうと思えばなれる。やっと、自分は何のために生きてきたかという悩みがほどけた
のですね。そして、大学の土木工学科に入学いたしました。それには内村鑑三の具体的なお勧めもあったそうです。というのは、当時の東京大学の土木工学科の主任教授が内村鑑三とは札幌農学校で同級生だった広井勇でありました。広井と内村は札幌農学校時代からの若いときからの親友です。ですから、常に交際があって、広井の仕事を内村は非常に尊敬の目をもって見ていたようです。
「広井君がいるから、ぜひそこへ行きなさい」
 そこで青山は土木工学科へ入りました。そこでも彼の悩みはまだまだ解けない。自分は土木技術者になれる。ただ漠然と土木技術者になれるというのでは抽象的であって、具体的にどういう仕事をすべきか。それが彼の次の悩みでした。大学を卒業したのが明治36年ですが、その頃、地球上で人類のために最も大事な仕事は何であるか、それを自分はやりたい。地球上で最も大事で人類のためになる仕事はパナマ運河であるというのが青山の結論でした。これは別に内村に教わったわけではない。自分でそう判断したわけです。
 そして、大学を出るや否や、広井勇教授からニューヨークのバー教授宛の紹介状1本を持って、パナマ運河工事に参画するために旅順丸という船に乗って、まずシアトルヘ行きます。そして、大陸横断鉄道でニューヨークヘ行ってバー教授に会い、広井教授からの紹介状を差し出します。そのとき、まだパナマ運河工事は再開されておりませんでしたが、バー教授はパナマ運河工事委員会の委員でもありました。それで、パナマ運河工事の測量のポール持ちのアルバイトを世話しております。
 大学を出たばかりですから、そう何でもかんでもできるわけではない。ただ人類のためになる仕事をしたいという一心で彼はパナマヘ行くわけです。その翌年に始まったパナマ運河工事に参画して、日本が日露戦争が終わった後の混乱の中にあるとき、彼はパナマ運河工事に懸命に立ち向かうわけです。その苦心の状況の一端は映画でご覧ください。
 そこで7年半、パナマ運河工事で働きますが、日露戦争が終わった頃からアメリカ、中南米では大変な反日運動が起こります。日本海海戦の大勝利にアメリカは脅威を感じたのですね。日本海軍恐るべし、やがて日本とアメリカの間で海軍の戦いが始まるだろうとアメリカの海軍は考えた。そして、青山はなぜパナマヘ来たのか。これは同僚は皆、よく理解しました。立派な日本人がいるものだと。ところが、一般庶民にはわからないでしょうね。しかも反日気分が高まる中、アメリカの海軍はいずれ日本と戦わねばならない、そのとき日本海軍はきっとパナマを攻撃するだろう、青山は日本海軍が送ったスパイであると疑われるのですね。そういうことが新聞にも出ました。そこで青山はパナマ運河の完成を見ずして日本へ帰ります。
 帰ってきて、まずした仕事が荒川放水路です。これは現在、何百万人の人間を荒川の洪水から救っております』
(2006.2.21高橋裕講演会「民衆のために生きた土木技術者たち」)
http://www.jsce.or.jp/contents/avc/aoyama_rireki.shtml

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2013年06月07日

お手かざし四国霊場

 東京銘醸≪丸真正宗≫の「小山酒造」だけではありません。
 北区ぶらぶら街歩きの記、その第二弾は「大満寺」(北区岩淵町35−7 Tel(03)3901-7552、注記)。
 いえ、ね、長野善光寺の出開帳が両国の回向院であったことはご報告しましたが、四国に出向くことができない信心深い御方のためには、ここ「大満寺」に参詣しに来られたらよろしい、と思いまして…
 
 このお寺さまの「岩淵不動堂」のそばに、「弘法大師像」を取り囲むように本四国霊場各札所の銘板があったのです。
 山歩クラブの5月定例山行は茨城県・鍋足山でしたが、ここでご紹介しました「お大師さま」の道迷いの物語。
 ヤッホー君のこのブログ、5月14日付け日記「鍋足の弘法なかせ」ご参照ください。
 なんとその続編があったのです。

 つまり、本四国霊場各札所の銘板に手をかざしてお参りしていきますと、四国霊場札所を巡礼したのと同じ功徳が得られるというのです。
 ですので「お手かざし四国霊場」、「四国八十八カ所霊場お手かざし処」と呼ばれているのだそうです。

 ★ 阿波国 (徳島) 発心の道場
 ★ 土佐国 (高知) 修行の道場
 ★ 伊予国 (愛媛) 菩提の道場
 ★ 讃岐国 (香川) 涅槃の道場
 
 
 いや、四国に出向くことができない信心深い御方のためには、もうすでに、都心にて一日でめぐることができるお遍路さん企画がありまして、もう終了していたのです。
 そんなことも何も知らないヤッホー君、大満寺ではありがたがって、お手かざし処を3回はぐるぐる廻り、目が回ったそうです(バカだねぇ〜)。

巡礼を「お遍路」と呼ばれて親しまれる四国八十八カ所霊場が、来年で開創1200年を迎える。これを記念して4月18〜25日に東京駅前のJPタワーで、88体のご本尊の出開帳「1日で巡るお遍路さん in 丸の内」が行われる。
 出開帳は76年ぶり。前回は大阪の南海電鉄創業50周年記念で、沿線に88寺を建設して大規模に行われたという。1934年の室戸台風で甚大な被害を受けた関西での慰霊の意味もあったとか。今回も東日本大震災の慰霊を兼ねて5月には仙台でも開催予定。すでに3月11〜18日には愛知県の中部国際空港セントレアホールで行われ、8000人を動員。東京では2万2400人を見込んでいる。
 会場にはズラッと88体のご本尊を並べ、通路には各寺の境内の砂も敷く。足の裏からも霊場を感じてもらいたいという工夫だ。
 ご本尊は出開帳用の写しだが、名仏師・松本明慶氏の作品。普段は75番札所の善通寺に納められている。期間中に四国へ行っても、各寺のご本尊が不在…というわけではないので、ご心配なく。
 入場料は前売りで2000円。実際に四国八十八カ所霊場を巡るとしたら、東京発のバスツアーでも2週間で30万〜40万円ほどかかる。遠出ができない人にはまたとない機会だ。体の不自由な人や介護者からも問い合わせが来ているという。入場者には、八十八カ所すべてを巡ると現地でもらえる物と同じ「結願(けちがん)之証」も授与。普段着で構わないが、この際、お遍路装束で弘法大師と「同行二人」気分も味わってみては

(2013年3月29日東京新聞村手久枝記者「八十八カ所お祈り下さい、1日で巡るお遍路さんin 丸の内」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/info/check/CK2013032902000199.html

 あ、そうそう、弘法大師さまの大事な三つの教えって大満寺への道すがら立ち寄った「宝幢院」(ほうどういん、北区赤羽3-4-2 Tel(03)3901-0468)には、こう記されておりました:

 ◎ 仏になる (即身成仏)
 ◎ 仏の仕事をする (済世利民)
 ◎ 仏の国をつくる (密護国土)

 
 弘法大師の人となりについては:

お大師さま(弘法大師・空海)は、774(宝亀5)年に讃岐「屏風ヶ浦」(現在の香川県善通寺市)でご誕生されました。幼名は真魚。幼少より聡明であったといわれております。15歳の頃、高級官吏(官僚)になるために長岡京に上り勉強をされ、18歳で大学に入学。その頃に吉野や葛城山で仏道修行をされている修行者に出会い、大きな影響を受けられ、自身の進むべき道が仏の教えであると決意されます。そこで、周囲の反対を押し切って大学をやめられ、求法のために、ご生誕の地である四国の石鎚山や大瀧嶽、室戸崎などで虚空蔵求聞持法などの厳しい修行をされました…
 その後、名前を「空海」と改められ、遣唐使の一行として唐に渡り、長安の青龍寺にて恵果和尚より密教のすべてを学ばれました。帰国後、真言宗開創の許しをえられ、高野山や東寺を賜り、≪即身成仏≫や≪秘密曼荼羅十住心論≫等を著され、密教を中心とした仏法興隆に努められます…
 そのご生涯を、鎮護国家、済世利民のためにつとめられ、人びとが幸せであり、繁栄することを理想とされ、私達一人ひとりが自らの能力、才能を存分に生かしきる生き方を目指し、努力することをすすめられたお大師さまは、835(承和2)年に高野山において62歳でご入定されました。その功績を称えられ、921(延喜21)年に醍醐天皇より弘法大師の大師号が贈られております

(四国八十八カ所霊場会公式サイトより遍路心得、遍路基礎知識)
http://www.88shikokuhenro.jp/knowledge.html


(注記) <大満寺の歴史>
 当山の開山は、江戸時代明暦元年です。
 御本尊様は、大日如来(本山と同じ)であり、正式名称は、「薬王山 瑠璃光院 大満寺」と言います。
 本山は、真言宗智山派総本山京都東山七条に所在する智積院というお寺です。
 この地域は、江戸時代、江戸(今の東京)日光街道の要所岩淵本宿として栄えていました。
 また、歌人故佐々木信綱氏の塾寺としても、碑が残されており、戦争当時は、故東条英機氏の休憩地として当山が使われていました。

 ※ 東久世通禧歌碑
 「東久世通禧は、いわゆる七卿の一人。王政復古の後、外国事務総督、神奈川県知事、開拓長官、侍従長、元老院副議長などの要職を歴任した。大満寺の歌碑は、1898(明治31)年に、佐々木信綱の指導を受け、当寺で歌会を催していた住職ほか、岩淵会の人々によって建立されたものである。
  岩淵会の人々の歌に志あつきよしをききて
  いはぶちのふかきこころにいそしみて
  すゝみゆかなむ言乃葉のみち」

 地域の方々に親しまれている岩淵不動尊は、千葉県の成田山不動尊御霊わけを頂きました仏様です。
http://www.chisanha-daimanji.biz-web.jp/
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2013年06月06日

江戸の地酒

 実は6月5日の水曜日、二十四節気の「芒種(ぼうしゅ)」にヤッホー君が急いでいたわけは、山歩クラブ・タウンウオークの候補地調べの下見散歩を企てていたのでございます。
 それは「荒川治水資料館」(北区志茂5-41-1 Tel 03-3902-2271)近辺。
 ヤッホー君のこのブログ、5月28日付け日記「下町水路」をご参照ください。
 これまで乗ったことも下りたこともなかったJR「赤羽駅」が最寄り駅。
 隅田川の源流を探る梅雨の中休み(?、「梅雨なのに、全然雨降らないね!」)の真夏日の街歩きなのです。

 ちゃ、ちゃ、ちゃ〜ん、出てきましたので、おどろいた「江戸の地酒」の案内板!
 さすが隅田川源流には地酒まで流れていたとは!足が留まってしまいました。

 そこは「小山酒造」(北区岩淵町26−10 Tel (03)3902-3451)。
 もう都の23区内からは蔵元さんが消えた、とばかり思い込んでいたヤッホー君、すっかり嬉しくなって、おじゃますることにしました。
 対応してくれた大寺さんがとても詳しくお話しになってくださって、とてもまた嬉しくなりました。
 おいしい水まで一杯、ヤッホー君に恵んでくださいました。

その歴史は、初代小山新七が酒造に適した湧水を発見して以来、1878(明治11)年創業、百有余年になります。
  江戸の心意気とともに、
  江戸の蔵人の手により、
  江戸の地酒≪丸眞正宗≫を丁寧につくり続けております…

 岩淵の地下には、秩父を源流とする浦和山脈の支流が流れています。
 酒造りの決め手は「水」、この良質な伏流水で昔と変わらず、≪丸真正宗≫はつくられています。
 昔から豊富な水資源で知られ、昔はこの辺りを掘ると湧水が2メートルも噴出したと言われています。
 また、かつては宿場町としてにぎわってましたので、旧岩淵街道(現在の国道122号線)を行く旅人に提供し、店の前はしばしの憩いの場となっていたそうです

(私たちについて)
http://www.koyamashuzo.co.jp/ec_shop/company.php

 「愛酒報国」(お酒を飲んで国税を納めましょう、の意とか)と掲げられている文字、これは俳人・河東碧梧桐(1873-1937)も洋画家、書家・中村不折(1866 1943、ほら正岡子規の前にあったでしょ、「書道博物館」)も書いておりました。
 すかさずヤッホー君、≪丸真正宗≫の「本格辛口720mlを840円で買いまして、リュックに仕舞いこみました。
 山小屋泊用リュックを背負ってくれば一升瓶も買えたのに、とか、もう毛の無いアタマをかきかき、かいた汗を拭きながら、大寺さんに言い訳しつつ…

 「小山酒造」さんの公式サイトでは、「蔵日記」があり、酒づくりへのこころ意気や、酒文化の普及への想いが伝わってきます:

こんにちは。
 本日も「丸眞正宗 蔵日記」にお越しいただき誠にありがとございます。
 先日、スルガ銀行様の"d-labo"というホームページ内の「Be Unique!〜オンリーワンであること〜」というコーナーで弊社を取材いただきました

(2013年05月17日09:00更新)
http://blog.livedoor.jp/marushinmasamune/archives/28060640.html

 ヤッホー君、さっそくスルガ銀行様の"d-labo"さんにおじゃましてみました。

夢研究所で人生の夢を描く
 d-laboはスルガ銀行の新しいコミュニケーションプラットフォームです。
 この空間で、あなたの夢や暮らし方、お金の使い方のヒントが見つかるかもしれません。

「東京23区内唯一の酒蔵 小山酒造の酒造り」
 久理さんが語ってくれました。
「日本酒の美味しさを広めていきたい」
 実は小山社長と結婚するまでは日本酒はほとんど飲んだことがなかったという久理さんですが、結婚を機に大の日本酒好きに変貌し、ついには「きき酒師」の認定まで受けてしまったといいます。現在は「お酒と食べ物」というキーワードのもと、次々にイベントを打ち出しては≪丸眞正宗≫のPRに努めています。
「ワインと同じで日本酒はほんのちょっとの知識があるだけですごく美味しく感じるようになるものです。難しいことは取りはらって、このお酒はどういう料理と合うのか、どういうシーンで飲むのか、というふうに蔵でのイベントを通して日本酒の楽しみ方を知っていただければと願っています」
 平日の夜でも開催できるのが都内の蔵のいいところ。久理さんが企画するイベントには30〜40代を中心に男女問わずお客さんがやって来ます。
「お客さん同士でワイワイやって、ほろ酔い気分で帰られる。もしかしたら日本酒の最大の魅力はこんなふうに人と人とをつなげてくれるところなのかもしれませんね」
 実は業界全体で見れば、日本酒は焼酎に押され気味。若い人のなかには1度も飲んだことがないという人も多い。自分自身もそうだった久理さんだけに「日本酒の美味しさを伝えたい」という気持ちは誰よりも強いようです。昨年もフローリストの方を招いての「花見酒の会」や料理研究家の先生とコラボしての「家呑み研究会」などを開催。積極的な活動は実を結んでいくに違いありません。
 そして、これらを支えるのが≪丸眞正宗≫の味。昔ながらの端麗辛口を守りながらも、一方では最近の流行りである香りのあるお酒も意識していく。
「あまりがらっと変えると古くからのお客さまには違和感があるでしょうし、その辺は商品によって違いを出して対応していきたいと考えています」
 小山社長の夢は23区内唯一の蔵を守りつづけること。そして「自分と同世代の人たちにもっと≪丸眞正宗≫を飲んでもらうこと」
「友人などまわりを見てみると、親の代に地方から出て来て自分は東京生まれという人間が多いんですね。そういう二世の東京出身者の人たちにも地元の酒と愛されるようなお酒にしていきたい。これがオンリーワンである小山酒造の務めではないかと思っています

http://www.d-laboweb.jp/special/sp80/

 そして、スルガ銀行の「夢研究所」、この発想もいいですよね。このスルガ銀行の由来もすばらしい:

創業者の岡野喜太郎は、駿東郡青野村(現 沼津市青野)の名主の長男として生まれました。
 当時の青野村は、1877(明治10)年の西南戦争と、その前後処理のための政府による不換紙幣の乱発、さらに、1884(明治17)年の未曾有の暴風雨に端を発した飢饉により、経済が疲弊していました。
 その状況をみて、弱冠22歳の岡野喜太郎は、やもたてもたまらず、当時通っていた韮山の師範学校を退きました。
 そして、村人が安心して暮らすという夢をかなえ、災害がきても対処できるようにとの思いから、郷土の救済のため、貯蓄組合「共同社」を設立し、「勤倹貯蓄の精神」を村人に説いてまわりました

(スルガのあゆみ)
http://www.surugabank.co.jp/surugabank/corporate/history/index.html

 こうして1887(明治20)年、貯蓄組合「共同社」が設立されたのです。
 荒川のほとり、岩渕の小山新七と、沼津市の青野村の岡野喜太郎のなんというのかな、閉鎖的な空間に自粛して縮みこんで、自分を鋳型に押し込んでしまうのでなく、枠を超えて飛び跳ねてみること、違った空間とも交わりをもってみること、想いは限りなく柔軟に、しかし生一本で、といったプリンシプルでしょうか。
 この購入した「江戸の地酒」は、山歩クラブの「スローフードと家呑み会」用にボトルキープしておきます、とヤッホー君、あんたも偉いよ。

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2013年06月05日

本所七不思議

 イーチャリのようなスピードで街を走っていると、思わぬ標識に出くわすことがあります。
 6月5日水曜日のこと、ヤッホー君は両国駅から同愛記念病院へと向かっていたそのとき、ふっと誰かが、
「ちょいとそこのお兄さん」と呼び止めるような声がしたのです。
「なんだい、急いでいるんだから、おいらの御用を済ませた後でもいいかい」とひょいと振り向いたそのとき、高札が:

椎の木屋敷跡
 本所七不思議のひとつ「落ち葉なしの椎」があった松浦家はこの辺りにありました。
 庭には立派な椎の木がありましたが、この木から葉が落ちるのを誰も見たことがありませんでした。
 その噂はたちまち江戸中に知れ渡り、松浦家は「椎の木屋敷」と呼ばれるようになりました。
 もともと椎の木というのは常緑樹で、落ち葉は少ないものですが、それでも一枚も落ち葉がないということが不思議です。
 大名屋敷という庶民からすれば特別の場であったためにこのような伝説が広まったと考えられます


 そうなんです、いや、そうなんですと申しますのは、「椎の木屋敷」じゃなくって、ヤッホー君のこのブログ、6月2日付け日記「日本口承文芸学会」とのあまりにも早すぎる知恵の輪。
 それに、「同愛記念病院」。
 この病院への入院についてはこれまで、ヤッホー君のこのブログでとりあげてきました。例えば:
◎ 2011年1月14日付け日記「沼津島郷海岸」
◎ 2012年8月13日付け日記「ビアステーション両国」

 ま、こうして足を留めて、細い目を大きく見開いて読み取ったあと、ふたたびその場を逃げるように立ち去りました。
「おお、恐い、恐い、背筋に冷たい冷や汗が流れるってぇ〜、このことだわい」
 そんなことをぶつぶつ言いながら、用事を済ませ、今度は、両国橋東詰めの「表忠碑」まで来たときのことです。

 この表忠碑については、芥川龍之介はこんな記述をしております:

両国橋の袂にある表忠碑も昔に変わらなかつた。
 表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総指揮官大山巌侯爵である。
 日露役のはじまつたのは、僕の中学へはいり立てだつた。
 明治25年に生れた僕は、勿論日清役の事を覚えてゐない…
 僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに20年前の日本を考へずにはゐられなかつた。
 同時に又、ちよつと表忠碑には時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかつた

(芥川龍之介全集、前掲書「本所両国」91頁)
 
 この全集所載「本所両国」は、1927(昭和2)年5月6日から5月22日まで15回にわたって「東京日日新聞」(夕刊)に「大東京繁盛記46-60」の標書を付し、表記の題で連載されたものが初出だそうです。

 さて、その「表忠碑」をあとにすると、ヤッホー君、
「ちょいとそこのお兄さん、寄ってかない、ねえ」と再び猫なで声がして、葦を留めました。

 ひょいと見るとまた高札が。この辺りは「駒留橋」があったところだそうです。

片葉の葦
 駒留橋がかかる入り堀にはえる葦は同じ方向にしか葉はださなかったことから、片葉の葦と呼ばれていました。
 入り組んでいる地形の風の吹き道が影響していたと考えられますが、当時はそれが本所七不思議の一つに考えられていました。
 その由来は。
 昔、本所横網町に住んでいた留蔵と言う男が三笠町のお駒という娘に惚れました。
 留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。
 腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。
 それ以来、そこに生える葦はすべて片葉になったというものです。
 当時、葦は吉原の語源となるほど、この辺りにたくさん生えていました


 なんとま、ヤッホー君、くわばらくわばら、とすそをからげ一目散に逃げ帰ってきたそうです。

きょうは二十四節気の「芒種(ぼうしゅ)」。
▼ 「食」を根本で支えてくれる穀物に思い寄せるこの時候に、海の向こうからは気がかりなニュースが飛び込んできた。米オレゴン州で、除草剤への耐性を持つ遺伝子組み換え小麦が見つかったという
▼ 日本の農水省はオレゴン州産小麦の輸入停止措置を取ったそうだが、そもそも米政府が認めていない遺伝子組み換え小麦が、なぜ農場で育っていたのか。他州には拡散していないのか―。不信と不安は深まるばかりだ
▼ TPPへの参加にまっしぐらの安倍政権は、「食の安全」を守り抜けるのだろうか。農業を衰えさせ、命を育む「種」を失う「亡種」を、暦に書き入れる日など来てほしくない

(2013・6・5北海道新聞、卓上四季)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/471482.html

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2013年06月04日

大隈庭園

 早稲田大学におじゃましたら学食だけで満腹して帰ってはいけません。
 キャンパスの散策は、「大隈庭園」。
 「あやめ」も「はす」の花も咲いておりました。

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 しかし、まあ、ムカシのイメージとは大違いの都の西北!

しかも実は、早稲田は授業料が高い。
 たとえば早稲田文系のトップ、政経学部の初年度納付金は合計130万4500円もする。対して慶応の経済学部は、125万9350円。
 私大の学費はどこも上昇を続けているが、早稲田の上昇率は特別高く、いつのまにか慶応を追い越してしまった

(2013年3月30日号「週刊現代」より)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35238?page=3

 初年度だけで130万円もかかります。月に直して10万円以上かかる勘定。そうするとアタマの良いお子ちゃまをもった親御さんのご苦労がしのばれます。

早稲田大学の学部学生数は約4万5000人、大学院生は約9000人。近年は外国人学生の数も増加しています
(早稲田大学、学生に関する情報)
http://www.waseda.jp/jp/public/students.html

 都の西北キャンパスで学ぶ学生数が5万5千人弱。
 昨晩のヤッホー君の「日記」で取り上げたのが岐阜県美濃加茂市。
 この市の人口は、2013年5月13日市民課更新の情報で、日本人50881人、外国人4209人、計55090人だそうです。
 大学の規模が分かります。

 まあ、大学は4年生までいる、とざっくり1学年1万人だ、として1万人掛ける130万円は130億円、初年度だけで大学は130億円集めるというか、大学の出費もそれだけお金がかかるということでしょうか。へぇ〜とまた腰を抜かしてへたり込んでしまったヤッホー君。

 貧乏人には「象牙の塔」でござんす!
 じゃあ、国立の大学だ、うん!
 家計は赤字、でも赤紙仁王さまにお参りはしたし、赤門の東大にしようっと!…
 初年度納付金ですよね、比較するんだったら。
 入学料282,000円、授業料535,800円(ほかに検定料ってあるけど、なにかな?)として、81万7800円、月々になおすと68150円!は、あぁ、ぁ〜…
 東大の「秋入学」まで待つと、グローバルスタンダードの適用でフランス・パリ大学並みの授業料になるとか、あるいはアメリカの大学並みになるとか、どっちかな?
 「グローバル・スタンダード」ってこの国じゃ、どういうわけかヨーロッパでなくアメリカになっちゃう、「カーボーイ・スタンダード」の「言い換え」って言えばすっきりするのに、煙にまくんだから、モウ!
 ふぅ…どっちゐ?(深い溜め息)

東大で行われてきた秋入学を巡る議論に、強い違和感を覚えていた。
 地震列島に54基もの原発がひしめく状況は、原発に反対する論者たちの指摘や批判を“封殺”することで作られ、福島第1原発事故が起きた。その異論封殺に大きな力を発揮したのが、明治以来アカデミズムの頂点に君臨してきた東大の権威だ。事故が深刻化する中、原子力の専門家としてテレビに登場した東大教授たちの言葉の空疎さに仰天した人も多かったと思う。
 だから、東大が今取り組むべきなのは、この国を未曽有の危機に直面させたその構造の解明と反省であり、それを踏まえた改革であるはずだ。ところが事故直後の昨年2011年4月、東大がワーキンググループを設置して検討し始めたのは秋入学。これを東大に向けられた国民の批判をそらす目くらましと見るのはうがち過ぎだろうか。
 東大関係者が異論や批判を封じる時に使うテクニックを「東大話法」と名付けて話題となった安冨歩著「原発危機と東大話法」(明石書店、2012年)。同書に列記されているその話法の規則4は「都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す」である

(2012年04月27日付け毎日新聞西部夕刊福岡賢正記者「憂楽帳:東大話法と秋入学」)
http://mainichi.jp/opinion/news/20120427ddg041070012000c.html

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2013年06月03日

早稲田大学

 5月31日金曜日のこと、ヤッホー君は早稲田大学「会津八一記念博物館」をあとにして向かいましたのが「坪内博士記念演劇博物館」
 坪内逍遥(1859-1935)って、坪内ミキ子(1940年生まれ)の祖父って言われていますが、ヤッホー君にはNHK「連想ゲーム」(1969.4.11〜1991.3.20)で毎週、見ていましたねぇ〜

 NHK「連想ゲーム」のレギュラー回答者としてなんと、12年間も出演なさっていたそうです。映像はこちら下↓:
http://www.youtube.com/watch?v=YXHnGXZuvrQ

 また坪内ミキ子さんには本も出版されております。
 『母の介護〜102歳で看取るまで〜』(新潮新書、2007年):

渾身の手記。介護は私とは無縁だと思っていた…。
 宝塚一期生のスターだった母。
 あんなにプライドが高く、かくしゃくとしていたのに、寝たきりになったとたん、「わがままな老婆」に成り果ててしまった。
 際限なく続く夜の拷問、減り続けるお金、家事と仕事のやりくり。
 すべては一人娘の私の肩にのしかかってきた。
 それでも96歳の母は「長くない」と思っていたのだが…。
 先の見えないトンネルの中で過ごした6年の記録

http://www.shinchosha.co.jp/book/610223/

 坪内ミキ子さんは、坪内士行(つぼうち しこう、1887-1986)が父。この方は、といいますとウイキによりますと:

演劇評論家、早稲田大学教授、戯曲家、振付師。女優・坪内ミキ子の父。愛知県名古屋市に生れる。
 坪内逍遥の兄・義衛の三男で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。
 1909年、早稲田大学英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年に帰国。
 翌年、留学中深い関係となったアメリカ人女性、マッグラルド・ホームズ嬢が後を追って日本に来た。
 しかし逍遥は飯塚くにという女性を士行に娶合わせるつもりで養女にしており、この関係を許さなかった。
 くにと結婚させることを諦めたものの、逍遥はホームズ嬢といっさいの面会を拒否し、士行も家を出て別居。
 ホームズ嬢は異国になじめず、また認められない事の苦しみから2年ほどで去っていったという


 へえ〜、そうでしたか。ところで、坪内逍遥は、岐阜県美濃加茂市生まれ。
 博物館に、「岡本一平展」(5月31日午後6時まで)のチラシが置いてありました。
 岡本一平氏は岡本太郎の父。
 すわっ、いざ行かんときびすをとって返して、のらりくら〜り、女子学生の間を縫って歩いていった先は、「早稲田大学大隈記念タワー125記念室」

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館には、岡本一平が1929(昭和4)年に東京朝日新聞に連載した役者絵集「新水や空俳優の部」の原画が収蔵されています。
 この作品は、美濃国加茂郡太田村(現美濃加茂市)出身の坪内逍遥(1859-1935)が執筆を依頼したことが契機となって生れました。
 逍遥と岡本一平(1886-1948)、そして一平の妻・岡本かの子(1889-1939、岡本太郎の母)を支えた交流に触れつつ、作品成立の背景を紹介します


 美濃加茂市では先月、こんなイベントも: 

美濃加茂市太田町にある生涯学習センターで5月26日、美濃加茂市出身の明治の文豪坪内逍遙の5月22日の生誕を記念して、博士の功績を称えて広く知ってもらおうと「坪内逍遙博士生誕祭」が開催されました。
 これは、坪内逍遙の偉業を称えて活動している坪内逍遙博士顕彰会(石崎彰会長)が企画。この日、ステージでは「越天楽」「迦陵頻」などの雅楽や椿3首などの歌とピアノ演奏、「リヤ王」の朗読、「逍遙の世界」と題した邦楽など、いずれも逍遙にちなんだ題材で披露されました。
 会場につめかけた多くの市民らは、ステージで繰り広げられる一つ一つの発表に、逍遙の功績をかみしめるように聴き入っていました

(2013年05月31日「朗読劇や邦楽を披露し、坪内逍遙博士の功績を称えました」)
http://plaza.rakuten.co.jp/machi21minokamo/

 そんな美濃加茂市、昨日の6月2日の市長選投開票の結果、無所属新人の元市議藤井浩人氏(28)が、無所属新人の元市議会副議長森弓子氏(58)=自民推薦=を破り初当選し、今日の6月3日が初登庁でした:

職員約200人が参列する中、藤井市長は「全国最年少の市長と言われていますが、あくまで、美濃加茂市の市長としてここに立っています。ピンチをチャンスに変える力は一人一人の力だと確信しました。職員の力を一つにしてがんばりましょう」とあいさつ。
 当選証書付与式後に行われたインタビュー会見では「市長の責任の重さを深く実感しています。28歳ができることをしっかり進めたい」としながら、「市が抱えている課題を確認し、市民の皆さんの意見をいただいて政策にしていきたい」、また「新しい発想や行動で美濃加茂市に元気(活力)を加えたい」、「美濃加茂市には観光、文化、歴史などいいものがたくさんある。今風のニーズにあわせて引き出すことをやっていきたい」などと決意を新たにしていました

(2013年06月03日「現職の全国最年少市長が誕生。藤井浩人美濃加茂市長が初登庁しました」)
http://plaza.rakuten.co.jp/machi21minokamo/

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2013年06月02日

日本口承文芸学会

 ヤッホー君のこのブログ、2010年といいますからもう3年も前の2010年5月10日付けの日記で、≪五月晴れ≫は五月の好天として俳句で使うのは誤用、と教わりました。つまり梅雨の晴れ間のことをいう、と、そうしましたら今日は梅雨入りした6月に入ってはじめての日曜日、まさしく「五月晴れ」ですよねぇ〜

 今日、6月2日日曜日は江東区・森下文化センターへ。
 日本口承文芸学会「公開語りセミナー」の聴講生だったのでございます。

『江戸・深川のくらしと語り―七不思議・相撲の話など―
  @オープニング―物売りの売り声/沼尻順之助さん(渋谷民話の会会長)
  A開催にあたって/高塚さんより(江東区芭蕉記念館)
  B語りと解説【本所七不思議】
  ◆置いてけ堀/小松千枝子さん(聴き耳の会)
  ◆狸囃子/鈴木実穂さん(江東子どもの本研究会)
  ◆送り提灯/小松千枝子さん
  ◆片葉の葦/久野久美子さん(聴き耳の会)
  ◆あかりなしの蕎麦屋/布川きみさん(おはなしパレット)
  ◆落ち葉なき椎/鈴木実穂さん
  ◆足洗い屋敷/久野久美子さん
  ●【江戸の巨人・釈迦ヶ嶽の話】布川きみさん
  ●【馬頭さま】布川きみさん
  ●【深川の生活譚】小松千枝子さん
  解説/高塚さんより、聞き手/根岸英之(市川民話の会)
  ★【豆腐小僧】沼尻順之助さん
  コメント/野村敬子(1938年山形県生まれ。国学院大学文学部卒業。国学院大学栃木短期大学兼任講師)』

http://ko-sho.org/page/1748/index.html

 さらに川田順造先生も会場でお聞きになっておられ、コメントをいただきました。
 川田順造先生につきましてはヤッホー君のこのブログ、次の「日記」で触れておりますのでぜひご参照ください:
  ●2012年1月14日付け日記「川田順造」
  ●2012年1月16日付け日記「深川小学校」
  ●2012年1月17日付け日記「慰霊の旅」
  ●2012年3月1日付け日記「弥勒寺観音聖像」

 いえ、ね、「本所の七不思議」って、今日はどなたも指摘されませんでしたが、山歩クラブが5月18日、団子坂下から田端文士村まで歩いた道筋に発見した芥川龍之介の家の跡、あの自死したお家の跡を見つけた芥川龍之介にもでてくるのです(そりゃ、本所育ちですから、当然!)。

総武鉄道の工事のはじまつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。
 その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」を思ひ出さずにはゐられない程ものさびしかつたのに違いない。
 夜は?−いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてけ掘」や「片葉の葦」はどこかこのあたりにあるものと信じないわけには行かなかつた。
 現に夜学に通う途中、「お竹倉」の向うにばかばやしを聞き、てつきりあれは「狸ばやし」に違ひないと思つたことを覚えている。
 それはおそらく小学時代の僕一人の恐怖ではなかつたのであらう。
 なんでも総武鉄道の工事中にそこへかよつていた線路工夫の一人は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた

(芥川龍之介「本所両国」、岩波書店芥川龍之介全集第9巻所収(96頁、1978年4月)

 サイキンの<とんでも発言>があまりにも多いのはどうしてだろう?
 影響が大きい、というか聞いているほうがびっくりしてしまうことばって、これな〜に?
 ことばに重きを置いていないのではないのかな?
 
 そうしたなかで今日は、下町のホールをいっぱいにして語り部が話すことばに皆さん、感動し、大きな拍手。
 そのセミナーの構成もバランスがとれていたのでヤッホー君、すっかり感服。
 だって時間軸は江戸・明治時代、戦前、戦中、戦後といった具合に内容が豊富。
 話し方も、親子の関係のような語り口、高座に上ったような上手さ、お茶のみ話のような深川弁丸出しのアクセント、いろんな話し方がありました。
 コメントしてくださった野村先生、「ことばがねりあげていく言語空間」、人間関係が語りの文法になること、ことばは消えていってしまう無形なものだけどいのちがあるかぎり再生していくものっておっしゃられていただきましたが、大事なポイントを教えてくださいました。
 川田順造先生は、ことばは声にだすもの、耳で聞く生きたもの。生きたことばの活性化こそイマ求められている、っておっしゃってくださいました。
 
 なおさらのこと、あのメディアに登場してくる方がたの耳障りな声、偉そうに上から目線で聴衆を見下しているような話し、おれ専門家、あんたらど素人と区分けして話す雑音、嘘ばっかり言って煙に巻いてお金をもらう口舌の徒もしくは誤用聞き、そんな連中をいつのまにか「タレント」として重宝するようになった言論界に学会にメディア…、おぉ〜やだ、やだ。

 最後に芥川龍之介の「声」に戻りましょうか:

芥川さんで忘れられないのは…、あの静かな、それでいて力強く、たくましいとさえ言ってよい声である。
 それは名鐘の余韻に近いような声というほか私には言いようがない。
 あのような声をその後今日に至るまで聞いたことがない。
 私の知るかぎり芥川さんのお声について書いたものを読んだことがないので、編集者から与えられたこの機会を利用させてもらったと言ってもさしつかえない。
 どこからあのような声が出るか不思議に思った。
 そして50年前に聞いたその声は今なおこの耳の底に残っている

(下島連「芥川さんのこと」、芥川龍之介全集第10巻。月報10(1978年5月)

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2013年06月01日

勇気ある撤退

 ヤッホー君のこのブログ、5月30日付け日記「どの口で言うか」第三話で、「今日5月30日の本会議で公明党が態度急変、反対に転じ、問責決議案が否決された」と書き記しましたが、それを「社説」で取り上げた新聞がございましたので、ご紹介:

『従軍慰安婦発言問題をめぐる橋下徹大阪市長(日本維新の会共同代表)への問責決議案が大阪市議会で否決された。
 党利党略に走り、法的拘束力のない決議すらできない議会の対応はふがいない。

 決議案は自民、民主系、共産、公明の賛成で可決の見通しだった。
 松井一郎大阪府知事(維新幹事長)が5月30日午前、橋下市長が辞職して出直し市長選を実施するとの見通しを表明。
 これを受けて公明が出直し選挙回避を優先し反対に転じたため、問責決議案は反対多数で否決された。
 「問責」の文言を削除した公明案も否決された。

 各党派には参院選とのダブル選挙を準備する余裕がない、橋下氏への有力対抗馬をすぐに出せない事情があるのだろう。
 だが党利党略が優先し、有権者の疑問や不満が顧みられないのは理不尽だ。

 公明幹部は「出直し選挙になれば橋下氏が息を吹き返す可能性もあった。今回は勇気ある撤退を選んだ」と述べた。
 苦しい弁明だ。
 市民は「市民不在だ。ばかにするな」と反発している。
 橋下氏も議会も市民を置き去りにしてはならない。

 否決後の橋下氏の発言には驚いた。
 慰安婦発言に関し誤解を招いたとして市民に陳謝する一方で、「自分が言っていることは正しいと思っている。国際問題などを気にしては政治はできない」と述べ、自らの非を認めていないのだ。

 問責決議案は、橋下氏が在日米軍に風俗業活用を求めた発言について米軍と米国民に謝罪しながら「市民への謝罪は一切無く、誠意が全く感じられない…」』

(2013年6月1日琉球新報社説「橋下氏問責否決 民置き去りの党利党略」)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-207409-storytopic-11.html

 「勇気ある撤退」や「勇気ある停滞」って山歩クラブにとっては大事な危機管理のひとつです。
 山にいのちを捨てないため。
 仲間のいのちを守るため。
、玉砕しないため。
 次回に好機をうかがうため。

 例えば:

現在午前8時、気温-2℃
 天候晴れ時々ガス

 今朝山頂アタックの途中、強風や凍ったトラバース…、安定していない積雪に阻まれ下山された方々です。
 素晴らしいです。
 それでいいんです。
 登山の勝者は無事に帰ってきた者なんです。
 危険を察知し、回避する能力は重要です。
 無事に下山したことに誇りを持って、いつかまたリベンジに来て下さい。
 山の熊さんでした

(2013年05月04日 08:20:05投稿五竜山荘「勇気ある撤退」)
http://www.hakuba-sanso.co.jp/goryusanso/archives/823

 でも、地域の有権者の付託を受けた議員が「熟議」するはずの舞台で、その所属する政党のプリンシプルに関わる場面で、「勇気ある撤退」なんて使うのかしらん。
 「党利党略」と「勇気ある撤退」って言葉の「言い換え」、欺瞞と隠蔽だなぁ〜、正常な言葉の使い方でないやんかいなぁ〜、ヤッホー君、アタマを抱えてしゃがみこんでおりました。
 やっぱり「退行」「劣化」「金属疲労」「思考停止」してんのとちゃうかなぁ、と。

 「勇気ある撤退」を決めた政党に所属する議員の方々におかれましては、東京まで研修に出てこられて、ぜひ、早稲田大学「会津八一記念博物館」内にあります「大隈記念室」で、大隈が演説する肉声をぜひお聞きになってください、お願いします。
 入館料は無料ですので、税金や、政党助成金とか、自治体からの補助金なんてカネを申請することのなきよう慎みあれ。
 あるいは、下に引用する記事もご参考になるのでは:

『「此複雑なる社会の大洋に於て 航海の羅針盤は何であるか、
 学問だ、諸君は其必要なる学問を修めたのである、
 併乍ら中々まだ初歩なのである、
 是から先き凡て此社会に現はれて航海をする航海者は
 羅針盤とバロメートルを決して離し得ないものだ、
 其のバロメートルは何である、学問是なり、
 凡ての仕事をなすと同時に手に巻を持つて居らなければならぬ、
 本を持つて居らなければならぬ、之を止めたならば誰でも直ちに失敗をして
 再び社会の勢力を得ることの出来ないやうに、葬むられて仕舞ふのである」
(≪早稲田学報≫第5巻 1897(明治30)年7月発行)

 大隈重信85年の生涯には、成功ばかりではなく、幾多の失敗もあった。

 「古来政治家の歴史には、決して成功ばかりあるものではない。
 失敗もある。成功失敗交々起るのである。
 或は失敗の方が多いかもしれんのである。
 或いは一生失敗で終ることがあるかも知れぬ」

 大隈は1890(明治22)年、53歳の時、条約改正問題で轟々たる批判を浴び、爆弾を投ぜられて右脚を失った。大隈には絶えず介添人が付いていたとは言うものの、歩行は相当に困難であったろう。

 だが大隈は、そのような苦難があっても、決して挫けることはなかった。

 「自己が国家に対して、時に必要に応じて、
 かくならねばならぬと信じたことについては、
 如何に失敗しても少しも悔いぬ。自己に十分なる満足を持っている。
 立派な道徳的信念を有っているから、それが機に触れて現われる。
 吾輩の生命も、この信念である」

 大隈は、前向きの人生観を持ち続けた。大隈は
  (一)怒るな、
  (二)愚痴をこぼすな、
  (三)過去を顧みるな、
  (四)望みを将来に置け、
  (五)人のために善をなせ、
の五つを「長生法五箇条」として説き且つ実践して、125歳まで生きるつもりであった』

(島善高/早稲田大学社会科学総合学術院教授、佐賀、近代日本の偉人、大隈重信『佐賀偉人伝大隈重信』の刊行にあたって(2011年1月刊行予定)
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/101208.htm

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