2013年05月31日

説得のための弁論術

 昨日、ヤッホー君は『ギリシャのソクラテスが指摘していた詭弁術、快楽提供術、詐欺術を習得した高度なテクニックなのではないか』と記してお寝んねしましたが、まだ考えています。
 そんな偉人、先達、先輩にたった一夜で、どうのこうのと言うにはあまりにもおそまつに過ぎるのですが。

 ムカシ、判例解釈の授業で、いっつも利益考量(当事者間の相対立する利益を比較衡量し、より大きな利益を有している者に有利な結論を出すこと)、信義則(権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない)ばっかり繰り返す学生さんがいました。
 イマ、有能な弁護士となってどこかの事業主の顧問弁護士にでもおなりになっているんでしょうか。

弁論術は、「人間にかかわりのある事柄のなかで、最も重要で最も優れたもの」を対象とすると述べる。
 では、それは一体何なのか、と重ねて問うソクラテスにゴルギアスは、弁論術によって、「自分自身には自由をもたらすことができるとともに、…他人を支配することができるようになる」のであり、それゆえ弁論術とは、「言論によって人びとを説得すること」であると弁明する。
 それはすなわち、「どんな集会においても、人びとを説得すること」を意味し、ついにゴルギアスとソクラテスの間で、弁論術とは
「説得をつくり出すもの」
「聴衆の魂に説得をつくり出す」
能力をもつ仕事であるという合意に至る。
 このような弁論術を身につけていれば、「大衆の前では」、すなわち「ものごとを知らない人たちの前で」、専門家よりも説得力をもつことができる
 その証拠にゴルギアスは、治療を受けようとしない患者を、医者よりもうまく説得して治療を受けさせた話しを示してみせる。
 そしてそのゴルギアスの主張は、
「事柄そのものについては、それがどうであるかを、弁論術は少しも知る必要がないのであって、ただ、物事を知らない人たちに対してだけ、知っている者よりも、もっと知っているのだと見えるようにする、何らかの説得の工夫」という弁論術の定義に帰着する。
 対話の相手がポロスに代わると、弁論術について自らはどのように考えているか、ソクラテスはその内実を明かす。
 ソクラテスによればそれは、技術などではなく、「ある種の喜びや快楽をつくり出すことについての経験」である。
 そしてより詳しく、次のように説明する:

 "それは、技術の名に値するような仕事ではないが、しかし、機を見るに敏で、押しが強くて、人びとの応待に生まれつきすごい腕前を見せるような魂の行なう仕事なのです。
 そして、その仕事の眼目となっているものを、わたしとしては、迎合と呼んでいるのです…
 それは技術と思われていますが、しかしわたしに言わせるなら、技術ではなくて、経験や熟練なのです。"

 こうした熟練や経験が「迎合」と呼ばれるのは、一方で最善でななく、人びとに最も快いと思われるものを差し出し、他方で無知な人びとを欺くという点においてである


(早稲田大学政治学研究科博士後期過程、須賀麻衣「説得のための弁論術〜プラトン≪ゴルギアス≫における技術論の再考〜」、早稲田政治公法研究第96号所収18頁)

 今日5月最後の日、31日金曜日は朝から早稲田大学で勉強する日。
 「学食が楽しみですね、しかし食べ過ぎにご注意を」との説得に応じるどころか、「図書館で勉強し過ぎないようにします」と茶化す、お茶を濁す、お茶がもったいないのでゴマ化す、都合の悪いところは無視、はぐらかす…
 かくして得意の斬り抜け、すり抜けで返信していたヤッホー君、そりゃあ百戦錬磨ですので、技術でなく熟練です。
 実は…≪養豚苦肉≫、じゃない、≪羊頭狗肉≫…
 だってぇ〜、学食では、鉄板焼きにライスは大盛り(691円)、豚バラ醤油ラーメン(399円)に、カレーライス(450円)に、ソフトクリーム(120円)と…、こりゃあ、だめだわぁ、欠食児童のヤッホー君には、何言ってもあかんでぇ〜

posted by fom_club at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月30日

どの口で言うか

 ヤッホー君はサイキンの各種、エリートの発言に日本人の劣化、退行、金属疲労、となげかわしく思っておりましたが、実はそうじゃなくって、ギリシャのソクラテスが指摘していた詭弁術、快楽提供術、詐欺術を習得した高度なテクニックなのではないか、とも思えるようになりました。
 梅雨前線もないのに梅雨入りした今日この頃のことです。
 まずは、うそかホントか三大おとぎ話から:

 第一話。今日5月30日、文藝春秋社より新刊本『未解決事件 オウム真理教秘録』(編著:NHKスペシャル取材班)が出版されました。

『「逃亡していたオウム元信者の逮捕は、NHKの番組の影響なんでしょう?」と評判になった「NHKスペシャル未解決事件」。
 取材中に平田容疑者が出頭、昨年2012年5月の放映直後に菊地、高橋両容疑者が逮捕される劇的な展開を迎えました。
 しかし「なぜ地下鉄サリン事件を防げなかったのか」「麻原彰晃の真の意図は何だったのか」は未解決のままです。
 取材班は捜査関係者150人を徹底取材。
 新発見の700本の麻原説法テープ、死刑囚たちの手記、古参信者の証言を得て描く「オウム真理教」事件決定版です』

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163759203

 番組は来週土曜日深夜と言いますか翌6月9日日曜日の午前1時25分からの放送です。番組概要はビデオです、どうぞ:
http://www.nhk.or.jp/mikaiketsu/file002/index.html

 いや、ヤッホー君はそういえばムカシ、オウム真理教に≪ああ言えばじょうゆう(上祐)」という言葉が流行ってメディアの紙面をにぎわしたことがあったねって思い出していたのです。
 この上祐史浩は、イマ、オウム真理教でなく、ひかりの輪という宗教法人代表のようですね。

NHKスペシャル「未解決事件」は、昨年オウム真理教の特集を放映しました。その際、私はインタビューに応じました。
 その番組が書籍化されたものが、文藝春秋から出版されました。
 本の一節が「上祐史浩の告白」と題され、私のインタビュー内容の描写にあてられています。
 加えて、NHK取材班が独自に行った私の発言内容の真偽などに関する裏付け調査・検証も報告されており、一定の評価をいただいています。
 昨年末の拙著「オウム事件17年目の告白」(扶桑社)も、本の参考文献のリストの頭に載せていただきました。
 NHKスペシャル取材班の皆さん、本当にお疲れさまでした

(上祐史浩公式ブログ「21世紀の思想の創造」)
http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-11538075604.html

 第二話。5月21日、22日の2日間、ジュネーブの国連で拷問禁止委員会の第2回日本政府報告書審査が開かれたそうで、その委員会に日弁連の代表団の一員として傍聴してきた弁護士先生のお話しです:

その最終日の終了時間が近づいてきたころ、アフリカのDomah委員が、
「(日本の刑事司法は)≪中世≫」とコメントした。衝撃的だった。
 それまで、各委員から、取調べに弁護人の立会がないのはなぜか、と質問され、日本政府が、取調べの妨げになるからなどと答えたり、取調べ時間が制限されていないという指摘にも、誠意をもった回答をせず…というように、日本政府が不誠実な官僚答弁に終始していたから、委員たちはいらだっていた。
 そこで、Domah委員の
「弁護人に取調べの立会がない。そのような制度だと真実でないことを真実にして、公的記録に残るのではないか。弁護人の立会が(取調べに)干渉するというのは説得力がない…司法制度の透明性の問題。ここで誤った自白等が行われるのではないか。…有罪判決と無罪判決の比率が10対1(㊟100対1の間違い)になっている。自白に頼りすぎではないか。これは中世の名残である。こういった制度から離れていくべきである。日本の刑事手続を国際水準に合わせる必要がある」と、ズバリとメスを入れたコメントになったのだと思う。
 これに対して、過敏な反応をしたのが、最後に日本政府を代表して、日本語で挨拶した上田人権人道大使だった。
「先ほど、≪中世だ≫という発言があったが、日本は世界一の人権先進国だ」と開き直った。
 びっくりしたが、大使はあわてて、「人権先進国の一つだ」と言い直した。
 これに対する会場の、声を押し殺して苦笑する雰囲気を見て感じたのか、なんと、大使は、
笑うな。シャラップ!」と叫んだ。
 会場全体がびっくりして、シーンとなった。
 議長が慌てて、
「時間がないところで、(いらいらさせて)申し訳ありません」などと取り繕っていた。
 日本の傲慢さを目の当たりにした印象だ。
 アフリカの委員にまで言われたくない、という思いがあったのだろうか。
 戦前、このジュネーブの国際連盟で日本が脱退した時も、こんなだったのではないかと、思わず連想してしまった。
 外務省の人権人道大使でありながら、条約機関の意義(当該政府と委員会の建設的対話を理解しているのだろうかと不安に思った

(2013年5月29日(水)小池振一郎の弁護士日誌)
http://koike-sinichiro.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-99bb.html

 第三話。今日5月30日の本会議で公明党の態度急変、反対に転じ、問責決議案が否決されたあの市長が、5月27日月曜日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見し、従軍慰安婦を「当時は必要だった」とした発言を撤回もしなかった居直り弁舌について:

『ある外国人記者は会見20分後にメモを取るのをやめ、1時間後には途中退席する記者が相次いだ。
 27日、日本外国特派員協会で行われた日本維新の会の橋下徹共同代表(43)の記者会見の一コマだ。

 300人超の報道陣を前に、橋下は慰安婦発言の「真意」を延々しゃべり倒した。会見は実に3時間にも及んだが、中身はスカスカ。質問には正面から答えず、得意の論点すり替えの連発に外国人記者もドッチラケ。恐らく「聞く価値なし」と判断したのだろう。冒頭のように、うんざりムードが漂っていた。

「何を聞かれても、
(慰安婦問題を正当化する意図はない)
(だが、日本以外の国々も、(戦場で)女性の人権を蹂躙(じゅうりん)した過去と向き合わなければいけない)
(河野談話は強制連行の有無が曖昧で、きちんと明確に表現すべき)
という≪3点セット≫を繰り返すばかり。とにかく持論をまくし立てるだけで、まるで質疑応答が成り立たなかった」(参加した香港メディアの記者)

 かみ合わない問答を象徴したのが、イタリア人ジャーナリストのピオ・デミリア氏とのやりとりである。

 ピオ氏が橋下にブツけたのは、茶髪弁護士時代の過去だ。かつて大阪・飛田新地にある150軒ほどの「ちょんの間」を束ねる組合の顧問をしていたという一部報道を取り上げ、「あなたも違法な売春シンジケートに関与していたのではないか」と問いただした。

 すると、橋下は「顧問弁護士だったのは事実」と認めた上で、不敵な笑みを浮かべながら、こうはぐらかした

「ただ、あくまで飛田の≪料理≫組合の顧問です。日本において(組織売春のような)違法なことがあれば、捜査機関が適正に処理する。料理組合自体は違法な組織ではありません」
 ジャーナリストの田中龍作氏が
「飛田が売春の街であることは、大阪のマセた中学生なら誰でも知っている。なぜ詭弁(きべん)を弄するのか」と追及しても、
「違法であれば捜査機関が適正に処理する。以上です」とマトモに取り合おうとしなかった
 改めて田中氏は言う。

「自分の過去を直視できない政治家が、どの口で≪世界各国も女性を蹂躙した過去と向き合え≫などと言えるのか。あんな不実な態度では、慰安婦発言の見解も≪単なる言い逃れ≫と外国人記者に見透かされてしまう。世界中に≪日本の政治家はこの程度か≫と見下され、ひいては日本人全員への不信にもつながりかねません」

 頼むから橋下はこれ以上、世界に恥をさらすのをやめてくれ!』

(2013年5月28日付け日刊ゲンダイ掲載「どの口で言うか!橋下が向き合わない飛田新地との過去」)
http://gendai.net/articles/view/syakai/142582

posted by fom_club at 22:27| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月29日

先祖になる

 ヤッホー君のこのブログ、2011年12月13日付け日記「奇蹟の一本松」をぜひご参照下さい。
 岩手県陸前高田市の高田松原。
 2キロにわたって7万本の松が植えられてありましたがあのツナミ。
 しかし、たったの一本になっても生き延び、「奇蹟の一本松」「希望の一本松」と呼ばれた松の木がありました。
 かわいそうにやっぱり根が海水に漬かって腐ってしまい、自力で栄養分が吸収できず、生育は困難になったという日記でした。
 それよりもあの日記ですかぁヤッホー君、またの名を「橋下妙見」と明かしたのは。
 いえ、あのとんでもないどこぞの首長のハシモトとは縁もゆかりもござんせん、ホント、まぎらわしいのであの方、メディアへの顔出しを辞めていただきたいと思うわけでございますが、はたして。

 「別れの一本杉」ならぬ、その「奇蹟の一本松」。

作業は5月27日月曜日午前8時半ごろに始まった。枝が茂った幹を地上から約20メートルの部分で作業員が電動カッターでいったん切断し、クレーンで慎重に地上に降ろすなどした。
 接ぎ手部分を作り直して枝の角度などを修正し、5月31日に再設置に取り掛かる。6月中に足場の解体や献花台設置などの周辺整備を行ない、7月上旬に完成式典を開く。
 施工業者は「震災前と変わりない一本松が立つのを望む人たちのために、しっかり作業したい」と話した。
 復元作業は3月に一度完了したが、レプリカの枝葉を幹に取り付けた角度が元と違うことが分かり、施工業者がやり直すことになっていた

(2013年05月28日火曜日河北新報「奇跡の一本松」再復元開始/陸前高田)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/05/20130528t35008.htm

約7万本のマツが生い茂った国の名勝・高田松原は津波で壊滅。たった1本残った松は被災者らに希望を与えたが、海水の塩害で枯死した。市は復興の象徴として昨年2012年9月、保存作業を始めた。
 角度が違った理由について市の委託業者は「復元過程で生じた微妙な誤差が重なった」と説明した。防腐処理で計320個に分け、写真を頼りに復元したせいだという。
 市は保存作業の契約額約1億5000万円を全て募金で賄う方針で、今月5月15日時点の集計で国内外から3180件、1億2559万円の善意が寄せられている。市によると、やり直しの費用は業者の負担となる

(5月28日(火)11時17分配信、毎日新聞根本太一記者「東日本大震災:<奇跡の一本松>復元を再開、上部を切断、角度修正へ−陸前高田市/岩手」)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130528-00000029-mailo-l03

 国内外から3180件、1億2559万円の「善意」っていうことは、一件当たり約4万円…、すごい金額の「善意」ですね。
 でも、枯死した松の木は、復元やら保存やら、自分の意思とは関係ないところで人工的に何か施されて、勝手にお化粧されて、嬉しがっているのでしょうか、ね(注記)。
 そして人間も、そんなことに「善意」を集めていたら、いったいいつになったらふるさとに戻れるのか、いったい何万年後に終息となるのか、あのフクシマダイイチゲンパツの現場処理に国は知らん振り、責任もとらないトウデンまかせで「善意」を集めていたら、おそらく天文学的な数字になるでしょうに、それでなくっても電気代があがっているのに。
 それよりも、生きているもの、未来につながるものに、電車代をかけててでも「善意」を払って、観賞しに行ってもいいんじゃないかと、あれからまだ2年ちょっとしかたっていないのですが今日、5月29日水曜日、ヤッホー君は以下、日記につけておくことにしました。

 同じ岩手県陸前高田市の物語です。

東日本大震災に伴う津波の被害を受けた岩手県陸前高田市で、77歳の男性が農作業に従事しながら家の再建を目指す姿を描くドキュメンタリー。「蟻の兵隊」で注目を浴びた池谷薫がメガホンを取り、危機的な状況下でも決して復興への道をあきらめない昔気質の男の意地と底力を見せつける。1年半の間、悪戦苦闘しながらも自活の道を探る佐藤の姿をカメラが捉えた。ガンコながらも味わい深い老人の魅力に引き込まれる
…2013年2月の「第63回ベルリン国際映画祭」では、フォーラム部門で上映された池谷薫監督の震災ドキュメンタリー映画「先祖になる」がエキュメニカル審査員賞のスペシャル・メンション(特別賞)を受賞した。映画祭とは独立した賞であるエキュメニカル審査員賞は、キリスト教徒の映画関係者により創設されたもので、人間性の深みに触れた作品に贈られる

(シネマトゥデイ)
http://www.cinematoday.jp/movie/T0016336

 予告編もごらんになれます。
(公式サイト)
http://senzoninaru.com/

池谷薫監督特集上映!人間を追いつづけたドキュメンタリーの軌跡
 6月8日(土)より2週間、「ポレポレ東中野」(中野区東中野4−4−1ポレポレ坐ビル地下 Tel 3371-0088)にて開催!
 「先祖になる」「蟻の兵隊」「延安の娘」を毎日順番を変えて一挙上映します。
 文化大革命で生き別れとなった父娘の再会を描いた「延安の娘」。
 軍命によって中国に残留させられ戦後も戦争をつづけた元日本兵の執念を描いた「蟻の兵隊」。
 震災後わずか1年半で自宅を再建した佐藤直志さん(77歳)の奮闘を描いた「先祖になる」。
 逆境を生き抜く再生の物語。人間の尊厳とは何かと問う、池谷作品3作をぜひこの機会にご覧ください!
 タイムテーブルなど、詳細は写真のチラシからご覧いただけます

(5月18日付け最新情報)
https://www.facebook.com/senzoninaru

 主人公、佐藤直志さん(77歳)については:

本日(4月24日)の東京新聞したまち版で「先祖になる」の主人公・佐藤直志さんが紹介されています。
 4/27から東京・両国の回向院で善光寺の出開帳が始まりますが、そのシンボルとなる回向柱に使う杉は、じつは直志さんが陸前高田で伐り出しました。
 回向柱は高さ7メートル。
 善光寺から運ばれる阿弥陀如来像と「善の綱」で結ばれ、柱に触れれば阿弥陀如来に触るのと同じ御利益があると伝えられています。
 新聞によると直志さんは、「大事な回向柱の伐採をさせてもらい、木挽き冥利に尽きる。あの世で先祖に、こういう仕事をしたと言える」と話したそうです

(4月23日付け最新情報)
https://www.facebook.com/senzoninaru

 ところで監督の池谷薫(いけや・かおる、55歳)さんは、立教大学現代心理学部映像身体学科特任教授です:

1958年生まれ。
 同志社大学卒業後、テレビ・ドキュメンタリーのディレクターとして数多くの番組を演出。
 1989年の天安門事件以降、中国での取材活動を積極的に展開。
 初の劇場公開作品となった映画「延安の娘」(2002年)は、文化大革命に翻弄された父娘を描き、ベルリン国際映画祭など世界各国で賞讃される。
 二作目の「蟻の兵隊」(2005年)は、戦後も戦うことを強いられた元日本軍兵士に迫り、記録的なロングランヒットとなった。
 2011年には映像身体学科の卒業制作作品「ちづる」をプロデュース。全国規模の劇場公開を果たす

(立教大学現代心理学部公式サイト)
http://cp.rikkyo.ac.jp/prof/prof_iketani.html

 あのぉ〜、映画のタイトルは「先祖にかえる」ではないんですぅ、「先祖になる」ですexclamation×2


(注記) 2012年08月30日木曜日付け河北新報
 「奇跡の一本松」2012年9月12日切断 陸前高田市、防腐作業へ
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/08/20120830t33008.htm
『東日本大震災の津波に耐えて残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」が9月12日に切断され、保存に向けた防腐作業に入ることが8月29日、市関係者への取材で分かった。
 市によると、一本松は幹を5分割して防腐処理をした後、それぞれ中心部をくりぬき、金属の心棒を入れて現在の場所に戻す。工期は来年2013年2月末までを見込んでいる。
 保護団体などは2012年5月下旬、伐採を含む防腐処理を早期に施すことを求めたが、市は盆にかけて帰省する人ら多くの人が一本松の見学に訪れることを予想し、8月下旬以降に作業を始めることにしていた』
posted by fom_club at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月28日

下町水路

 隅田川、旧中川、荒川、中川、新中川…。ヤッホ−君が住まっている下町に川は多いことは多いのですが、山といえば川、と反応する程度で、じゃあ、この川は何と言う名の川?と聞かれると、黙ってしまうヤッホー君、かわいそう…
 花だったら、ミヤマシラネ、と答えられるのに、せいぜい、ウスカワとかカワウソが精一杯。

 江東区にできた、都内初の川の駅は、「旧中川・川の駅」…、だから、さ、中川も新中川もあるってこと?
 目が回ってきているヤッホー君、アタマをかかえています。
 ま、ひとつづつ:

2012(平成24)年3月29日建設局
 「旧中川の完成を祝う会」のお知らせ〜40年かけて生まれ変わった旧中川
 荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯は、地盤が特に低く、これまで多くの水害に見舞われてきました。
 そのため、都では天井川となっていた河川を水門で閉め切り、水位を地盤面より下げる整備を行なうことで、治水の安全性の向上を図るとともに堤防を耐震化しました。
 1971(昭和46)年の着工以来、約40年の歳月をかけて都市部に広大で貴重な緑の岸辺が生み出され、水辺に親しめる安全で快適な河川に生まれ変わりました。
 このたび、下記のとおり「完成を祝う会」をとり行ないますのでお知らせします。
 なお、当日は式典のほか、墨田区、江東区、江戸川区において、関連イベントが開催されます。
  記
 完成を祝う会
 日時:2012(平成24)年4月14日(土曜)13時30分から

(東京都報道発表資料)
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/03/20m3t800.htm

 で、「旧中川」って?

木下川排水機場から、小名木川排水機場までの長さ6.68kmの河川です。
 昔は中川の一部でしたが、荒川放水路(現荒川)の開削で分断されて、旧中川と呼ばれるようになりました。
 コンクリートの堤防から土の堤防(緩傾斜堤防)に生まれ変わり、水辺に近づけるところが増えてきました

(東京都建設局)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/ikimono2/ikimono/kyunaka/kyunaka.htm

 中川って、やっぱり江戸川と荒川の間だから、中川ってこと?

埼玉県羽生市付近に源を発し、埼玉県東部を南に流下し、都内に入ってからは大場川と垳川を合流し、葛飾区高砂付近で新中川を分派し、葛飾区上平井付近で綾瀬川を合流し、その後は荒川に沿って南下して東京湾に注いでいます。
 中川は、延長は83.7kmで、うち都内の延長は22.2kmです。
 江戸川と荒川の間を流れることから、中川と呼ばれるようになったといわれています

(東京都建設局)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/ikimono2/ikimono/naka/naka.htm

 新中川って、ね:

新中川は、葛飾区高砂付近で中川から分派し、葛飾区、江戸川区をほぼ南に流下し 江戸川区今井付近で旧江戸川に合流する延長約7.9qの利根川水系の一級河川です。
 もともとは中川の水を旧江戸川に流すために開削された放水路で 1963(昭和38)年3月に「中川放水路」として完成しました。
 1965(昭和40)年3月に一級河川に指定され「新中川」と改称されました

(東京都建設局)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kasen/ryuiki/11/sinnakatop.htm

 荒川区に荒川って流れていないってホント?

Q: 荒川と隅田川の違いを教えてください。

 A: 荒川と隅田川の関係は時代により変わっています。
 大くくりに説明すると下記の通りになります
@ 川と利根川の合流した川が隅田川であった時代(古代〜江戸時代初め)
 かつて江戸時代初頭までは荒川と利根川が合流して東京湾(江戸湾)に流れていた川を隅田川と呼んでいました。
 謡曲の「隅田川」はこのころの川です。
 この当時の名残がさいたま市岩槻区から春日部市にかけてと足立区から葛飾区にかけて古隅田川という名の川で現存しています。

A 川の下流を漠然と隅田川と呼んでいた時代(江戸時代〜昭和初期)
 徳川家康が江戸に入り、江戸幕府が開かれると、幕府は江戸の水害を少なくするため、大規模な河川改修を行いました。
 先ず、荒川を熊谷から南下させ、川越と大宮の境で入間川と合流させる一方で利根川を東に流して鬼怒川と合流させて太平洋に流れるようにさせました。1629(寛永6)年のことで、この時から荒川の本流の江戸周辺が漠然と隅田川と呼ばれるようになりました。

B 荒川の岩淵水門より下流が俗称隅田川であった時代(昭和5年〜昭和40年)
 明治になって洪水を防ぐために、明治末期から昭和初期にかけて北区赤羽の岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設されました。
 この荒川放水路が現在の荒川ですが、この当時も隅田川は荒川本流の俗称として千住大橋より下流が隅田川と呼ばれていたもので正式な名称としての隅田川は存在しませんでした。現在の荒川である荒川放水路はあくまで水路扱いで河川扱いではありませんでした。

C 荒川と隅田川が独立した河川として区分された時代(昭和40年〜現代)
 1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流は俗称であった「隅田川」に改称されました。これにより、荒川と隅田川はともに独立した一級河川となりました。
 荒川は、秩父山地を水源に埼玉県の中央を流れ、途中で入間川他の河川と合流して東京湾に注ぐ、流路延長173kmの一級河川。
 隅田川は北区の岩淵水門で荒川の分流が新河岸川と合流し、途中石神井川、神田川、日本橋川と合流して東京湾に注ぐ荒川水系の全長23.5kmの一級河川として共に独立した河川となったのです。

 荒川と隅田川の関係は、荒川が荒川水系の本流であるのに対して、隅田川は荒川から分流した支流という扱いです

(Hisagobuneさん)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1472784574

 だめだ、こりゃあ〜、と天を仰ぐヤッホー君。
 皆さんは、分かりました? 最後に整理してみましょう、できるかな?
 次のサイトの地図で、ま、おおまかにアタマにいれておきましょうね:

 国土交通省の公式サイト 河川、関東地方の河川情報
http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/map_83.html

 だめだ、とあきらめるようなヤッホー君じゃございません。近いうち、「荒川治水資料館」(北区志茂 5-41-1 Tel 3902-2271)をお邪魔し、勉強してこようかなって。また、近いうちに、ヤッホー!
http://www.ara.go.jp/amoa/index.html

posted by fom_club at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月27日

どんぐりと民主主義

 5月27日月曜日、ヤッホー君、ひさびさにイードラをしました。
 3.11東日本大震災で大きなダメージを受けて立ち入り禁止となっていた岸壁へ。
 イマ、ようやく復旧工事が始まった千葉県市川市の岸壁へ。
 ヤッホー君の大好きな場所です。
 クルマを下りて大きく伸びをします。
 といっても考えているのは、昨日付けの日記「部分的な政治哲学」!

東京都の都道建設計画の是非を巡り、都内初となる住民の直接請求に基づく住民投票が不成立に終わった小平市で5月27日、直接請求をした「小平都市計画道路に住民の意思を反映させる会」は市に対し不在者投票を含む5万1010人分の全投票用紙の写しの開示を求める情報公開請求を行なった。水口和恵共同代表(51)は毎日新聞の取材に「(投票した)35.17%の数字は大きい。意思の中身を確認したい」としている。
 市は投票率50%未満なら不成立とし、「開票もしない」と決定。90日間保管後に廃棄する方針を示していた。しかし、市の住民投票条例には「開票しない」という記載がなく、「投票者総数が投票資格者の総数の2分の1に満たないときは、成立しないものとする」とだけ定めている。
 住民投票に詳しい成蹊大法科大学院の武田真一郎教授(行政法)は「情報公開条例は住民の<知る権利>を前提に原則開示を定めている。請求があれば市は開示すべきだ」と指摘する。市は27日午前、5万1010人分の票を段ボール6箱に移し封印した

(2013年05月27日毎日新聞東京夕刊、林奈緒美記者「都道路計画:見直し住民投票、小平の住民団体、結果開示請求」)
http://mainichi.jp/select/news/20130527dde041040053000c.html

 小平市で直近行なわれた市長選の投票率が、37.28%だったって。じゃ、これも成立しないんじゃないの?この間行なわれている各地の首長選挙は、例えば、さ、千葉市は?(※注1) じゃあ、昨年末の国政選挙の投票率は?
 ヤッホー君も、この低い、低すぎる投票率をこれまで何度なく、指摘してきています。

 投票率50%を超えさせること…できるかな…都議選とか参議院選挙とかこれからありますよねぇ。
 ヤッホー君はヤッホー君なりに、投票することの大事さを訴えかけていくって、大きな伸びにあくびまでしながら、今日、結論付けたそうです。

 だって、人殺しをする、人殺しができる、そして戦争には必要だから、と慰安所をはけ口とする、慰安婦が与えられる、そんな<制度>を利用する権利が生れる兵士、というそんな憲法改正が、消費税をあげて参議院選挙が終われば、日本の売り渡しが一気にすすむ感じなんだもん。
 国民皆保険が規制緩和(混合診療拡大)、労働市場も規制緩和(非正規が拡大)、農業まで規制緩和(プランテーション型土地なし農民化)…時局に便乗する骨太マッチョだけがのさばり、骨細は野垂れ死ぬか、軍隊に入って殺され、家族が恩給暮らし、がこれから待ってるんだもん。
 トウデンフクシマダイイチゲンパツジコで山歩きを放棄せざるをえなくなった2011年春、今度は軍事国家となって、山歩きを放棄せざるを得なくなるわけ?? いくら慰安婦があてがわれたとしたって、どう思います?皆の衆!

 村上稔(むらかみみのる、元・吉野川住民投票事務局(※注2)、元・徳島市議)さんより、応援メッセージが届いておりましたのでご紹介:

50%を超えるために〜吉野川の経験則より〜
 50%という条項について、国内で先例を認めてしまった者として少なからぬ責任のようなものを感じているのですが、今はこれを棚に上げ、「50%突破はできる」という、私たちの経験則をご紹介したいと思います。
 私たちの経験則では、50%は突破することができます。
 私たちは、市民による直接請求が議会に否決された後、市議会選挙で自分たちが乗り込むことによって(私も乗り込みました)、議会構成を逆転し、50%条項の定められた住民投票では、それを市民の力で乗り越えることができました。私たちの住民投票の投票率は55%でした。
 さらには、現職知事の逮捕や不信任などの理由で、1年半の間に3回の知事選挙を戦うという経験もしました(1、3回目敗北、2回目勝利)。
 これらの経験を通して我々が知ったのは、会のみんなが市民の盛り上がりに力を尽くすことで、「3日間で10%アップすることができる」という経験則です…
 小平市の住民投票の投票率が今、神さまの知るところで30%だとすると、これから努力をしても40%止まりです。これでは残念ながら開票されません。しかし今が40%だとするとどうでしょうか。あとの10%は自分たちの意志と努力にかかっているのです。
 もう一度言います。私たちの経験則から言って、3日間あればあと10%アップすることは絶対に可能です。もし今45%まで行っているとすれば55%にすることができます。しかし、努力を怠れば、49%にとどまってしまうかもしれないのですから大変です。
 なので、最後の日までダマされたと思ってがんばってください。
 行進に参加することで「がんばっている」と思ったら大間違いです。
 「がんばる」というのは、年賀状をひっぱり出してきて思い出した知り合いに、「投票に行こう」と電話をすることです。
 同窓会名簿を探してください。今でも小平に住んでいそうな同級生に片っ端から電話をしてください。
 段ボールでプラカードを作って、朝夕1時間みんなで道路脇に立ってください。時には一人で立ってください。雨の日にはカッパを着て立ってください。
 小さな勇気の積み重ねが、盛り上がりを作ります。
 勇気…、小さな心理的抵抗を乗りこえる人が、一人一人と増えていくにしたがって、かつて徳島市民が経験したような、自治の興奮(私は自治の阿波踊りと言っています)を味わうことができると思います。誇りを取り戻すことができると思います(以前より小平市を好きになること請負です!)。
 26日、この「まつりごと」のクライマックスに、小平市の皆さんに最高の感動が訪れることを、吉野川のほとりから祈念しています

(2013年5月17日村上稔)
http://green-active.jp/

 へえ、身近なところから小さな勇気で一歩踏み出そう、と!
 そんな小さな(マスメディアではとりあげない)グループが立ち上がって、ネットワークを結んで、横に、横へと一から他へ、そして一から多へとつながっていく、そんな動きをやっぱり、皆んながそれぞれの場所からつくっていかないと、ホント、イマの世の中、カネ次第なのでおかしくなっちぁいますよね、皆の衆!

日本はいまだに民主主義の社会ではない。
 民主主義を獲得するには政治文化の改革が必要だ。
 それは以下のような変化である。
  (任せて文句たれる社会)から(引き受けて考える社会)へ
  (空気に縛られる社会)から(知識を尊重する社会)へ

 日本は非民主主義的な政治文化を背景に官僚天国になった。
 官僚天国を抑止できない政治文化が日本をでたらめにした。
 他の先進国に比べて公務員数が少ない日本。
 他の先進国のどこより福祉予算が少ない日本。
 なのに先進国のどこより政府の借金が多い日本。
 この不思議な事態をいったい何がもたらしているのか

(私たちのめざすもの)
http://green-active.jp/aim-for.html

國分:くりかえしますが、受任者になるのは決して大変なことではありません。いまこんな計画が進行していて、住民投票を求める運動があるから、署名してもらえないだろうかと働きかけてくれるだけで十分です。ぜひ協力してください。最初に言いましたけれども、住民が声を届けるっていうのは、ルートが本当に限られているんです。道路の方は来年にはもう事業認可申請がなされる予定です。事業認可という手続きを経ると、これはもう大変恐ろしいことなんですが、許可なくブルドーザーで住民の家をぶっこわしてもいい権利が与えられるのだそうです。それぐらい強い権利が与えられる。もちろん最初からそんなことをやるはずはなくて、お金を払ってどいてもらうっていう手続きを取るでしょうが、事業認可にはそれぐらい強い意味がある。しかし、これっていったいどこの独裁国家の話でしょうか。これが「民主主義、民主主義」とか言っている日本という国家の現実なんです。だから本当に恐ろしいことがあと数ヶ月で始まるかもしれない。だからそれに対してものを申すための手段として、住民投票を何としても成功させたい。僕も何とかこれを応援したいという気持ちで、自分の少ない力を使って宣伝しているんですけれども、そうしたら、中沢先生も賛同してくださって…
中沢:ちょっと、街頭へ立つ?
國分:僕はもちろん街頭に立ちますよ(会場拍手)
中沢:俺もやる(会場拍手)
國分:ああ、ありがとうございます。じゃあ、中沢さんに気に入っていただいた、粟まんじゅうを持っていきます。
中沢:あれ、うまいんですよ。
國分:この道路計画は意外にもまだあまり知られていません。知っている人がいても、「ええ、だってそれまだ先の話でしょう?」って思っている人が多い。しかし、来年いきなりブルドーザーがきてもおかしくない状況が迫っている。この緊急性を強く訴えていきたいと思います

(昨年の2012年12月8日に私たちが開催した、中沢新一さんと國分功一郎さんのシンポジウム「どんぐりと民主主義−都道3・2・8号線問題から考える」の内容をまとめた連載のページ)
http://jumintohyo.wordpress.com/


(※注1) 昨日の5月26日日曜日、投開票されました。投票率は31.35%(ちなみに前回は43.50%)。当日有権者数は75万4499人。

(※注2) 「吉野川可動堰問題の住民投票」
1999(平成11)年12月、吉野川第十堰の可動堰化をめぐる住民投票条例が徳島市で可決されました。「投票率が50パーセントに満たないときは開票を行わない」という条件付きでしたが、2000(平成12)年1月23日、住民投票が実施され、最終的に投票率は約55パーセントに達しました。その結果、市政、県政、国政のレベルで可動堰化の白紙撤回を含む公共事業の見直しが進むことになりました。村上稔さんは1966年生まれ。『希望を捨てない市民政治、吉野川可動堰を止めた市民戦略』(緑風出版)著者。
posted by fom_club at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月26日

こうとう記録映画鑑賞会

 5月26日日曜日のイーチャリ。
 小名木川沿い。大川へ注ぎ込む萬年橋から、東端の旧中川にできた「中川船番所資料館」まで。
http://www.kcf.or.jp/nakagawa/index.html

 「中川船番所資料館」にチャリを置いたあとは、まずは、「川の駅」へ。
 そうなんです、道の駅はお山歩会の帰り、あれば必ず寄って買出しをしたりする山歩クラブにはなくてはならない場所ですが、まさか江東区に「川の駅」まであるとは…、とヤッホー君、今日もビックリしてただ唖然として口をぽかんとしていました:

『河川敷を整備し、水辺利用の拠点となる「川の駅」が、江東区内にある江戸時代の船番所跡(大島9-10)に誕生した。23区内に川の駅が整備されるのは初めてのことだ
全国にある都市部河川の大部分は、防災を重視して簡単には近づけない構造になっている。川の駅がある旧中川は、東京都が水辺に親しむために岸辺が緩やかな護岸整備が進め、11年に完成した。それを受けて、江東区が新たに設置したのが、旧中川・川の駅だ。
江東区は東西を隅田川と荒川に挟まれ、南北に小名木川、東京湾を臨む。そのため区立中学校や町内会にカヌー部があるほどウォータースポーツが盛んだ。
「川には水陸両用バス、和船、カヌーが走ります。小名木川から一回りすれば、スカイツリーのたもとまで行けます」(山崎孝明区長)』

(2013年3月17日(日)15時40分付けレスポンス記事、中島みなみ記者「東京23区初、川の駅「旧中川」オープン…江東区」)
http://response.jp/article/2013/03/17/193819.html

 それから、災害に強いまちづくりで生まれたいこいの広場「大島小松川公園」(江東区大島9丁目、江戸川区小松川1丁目)を散策:

東京都立大島小松川公園は、江東地区の防災市街地再開発事業により、設置された公園です。江東デルタ地域の東端に位置し、平常時はレクリエーションの場として利用され、災害時には避難広場となります。運動施設を中心としたスポーツ広場、季節の広場、風の広場、わんさか広場が開園されています
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index014.html

 「川の駅」に戻ってまたまた、ビックリ!思わず声をだして、回りの観光客と笑って手を振ってしまいました。
 はじめて、です!「水陸両用バス」を見たのは;

日の丸自動車興業(東京都文京区)は2月22日、3月から運行を開始する水陸両用バス「スカイダック」の試乗会を江東区の「川の駅」で開いた。
 旧中川の岸辺にある「川の駅」は、「スカイダック」の入出水拠点。
 「スカイダック」がダイナミックな水しぶきをあげながら入水すると、観客から歓声があがり、水ぬるむ春を前に一足早い水辺観光を楽しんだ。
 水陸両用バスは約8年前から構想がスタートし、「川の駅」に入出用スロープが完成したのを受けて、営業運行を決定したという。
 船体は全長11.99メートル、全幅2.49メートル、全高3.71メートルで、41人乗り。
 水陸両用バスの導入は東京では初めて

(2013年02月22日毎日新聞写真特集:アトラクション感覚でスカイツリー観光を 水陸両用バス「スカイダック」3月運行)
http://mainichi.jp/feature/news/20130222org00m040002000c.html

東京スカイツリー観光で運行している水陸両用バス スカイダックを紹介。
 スカイダックはスカイバスなどで知られる日の丸自動車が運行している。
 日の丸自動車興業の富田浩安社長はスカイダック導入の理由を語った。
 水陸両用バスはアメリカ・サンフランシスコなどで観光に欠かせない乗り物として定着していた。その水陸両用バスは一台8000万円。日の丸自動車はスカイダックを2台発注した。
 スカイダックの運行3つの壁の1つ目は「規制をクリアする車体の開発」だと、日の丸自動車の富田浩安社長は語った。
 オランダ・ロッテルダムなど海外の水陸両用バスは日本の排出ガス規制などの法規制に引っかかる。
 そこで、C.A.M.I社に日本産のいすゞマリンや日野自動車のエンジンを持ち込んで車を作り、排出ガス規制をクリアした。そんな時、大阪で水陸両用バスが運行しているというニュースが流れた。
 スカイダック運行の壁の2つ目は「入水口の確保」。日の丸自動車の富田哲史さんが入水口を探すも見つからず、7000万円の入水口を一から作った。お台場海浜公園では問題があり、入水が出来ても水深が足りず、丸の内などのスポットにも問題があった。こんな時、江東区の山崎孝明区長の計らいによって旧中川に、入水口が完成した。
 スカイダック運行の壁の3つ目は「難易度の高い水上運転技術」。
 船会社の協力で、日の丸自動車の社員がスカイダックと同じ寸法の船で実技訓練約1年間。さらにスカイダックでの実技訓練が約1年間行い、水上での操船技術をマスターし、3月17日にスカイダックが運行した

(放送されたテレビ番組で紹介された情報を紹介するサイト「TVでた蔵(TV DATA ZOO)」より、2013年5月25日放送 16:00 - 17:00 TBS「ブレイクスルー〜ヒット商品の知られざる裏側〜」
http://www.tbs.co.jp/break-through/

KC4A00220001.jpg

KC4A00230001.jpg

『「スカイダック」の予約・問合わせはコールセンター(Tel 03-3215-0008)、とうきょうスカイツリー駅前営業所店頭にて承っております』
http://skybus.jp/yokuaru.php?lang=jp

 ね、あやうく道草ばっかりして、どうして中川船番所資料館までイーチャリしたのか忘れてしまうほどでした:

江戸時代、徳川家康は水路を整備して、江戸の町は「水のまち」として栄えました。
 江東区に流れる小名木川は行徳で作られる塩を運ぶ、重要な水路でした。
 1661年、幕府はその小名木川の入り口に「中川番所」を設け、夜間の出船や女性の運行、鉄砲をはじめとする武器・武具、物資の出入りを取り締まりました。
 以降、1869年までの200年余り、中川番所は船番所としての役目を果たしました。
 資料館はその中川番所の近くに2003年に開館しました

(水のまち・江戸の雰囲気を伝える資料館、中川船番所資料館)
http://www.ntv.co.jp/burari/061028/info07.html

KC4A00240001.jpg

KC4A00250001.jpg

 今日はムカシの生活のようすを思い出すためでなく、江東区広報映画、2本の「こうとう記録映画鑑賞会」があるのです:
○ 「出会いとふれあい〜江東区の施設〜」(1980(昭和55)年度、毎日映画社)
○ 「江東区文学散歩〜江東の町と江戸文芸〜」(1984(昭和59)年度、毎日映画社)

posted by fom_club at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

部分的な政治哲学

 武蔵野で道迷い、その1。

 国木田独歩の武蔵野が壊されていくとき、どうすれば良いのだろうか、って5月26日日曜日、ヤッホー君は起床してすぐ考え続けています。
 出会ったのがアラフォーの哲学者、國分功一郎先生!

『それは、ちょっとした事件に違いなかった。
 東京都が小平市などで計画する都道の建設について、市民グループが待ったをかけたのだ。
 条例提案に必要な法定数の2.5倍にも及ぶ署名を集め、小平市議会は2013年3月27日、見直しの是非を問う住民投票の実施を決めた。
 都内では初めてのことだ。歓喜する議場の傍聴席の輪の中に、哲学者の國分功一郎さん(38)がいた。
 およそ1年前、≪暇と退屈の倫理学≫(朝日出版社、2011年10月)がベストセラーとなった気鋭の若手哲学者。
 いま、都道の見直し運動に取り組み「小さなまちの小さな問題かもしれないが、現代の民主主義の欠陥を象徴している」と憤る。
 3月に刊行した中沢新一さんとの対談集≪哲学の自然≫(太田出版)でもその問題点を指摘した。
 國分さんはパリ留学から帰国した2006年、市内で暮らし始めた。
 目の前にコナラの雑木林が広がり、その脇を玉川上水が流れる。
 博士論文の筆休めに散策し、煙草(たばこ)をくゆらせた。その場所が都道「3・2・8号府中所沢線」の予定地だと後に知る。
 「雑木林を守りたい」と思った。
 2010年冬、市内で開かれた都の説明会に出席し、驚いた。
 職員は決めたことを一方的に説明するだけだった。
 國分さんが指摘する一番の問題点は、主権者であるはずの民衆が、ただ指をくわえていることしかできない現状だ。
 「行政が道路を造ると言えば、誰も止められず、物を申す権利も与えられない。これで民主主義と言えるのか。結局、われわれに与えられた権利は選挙で政治家を選ぶことだけ。これは物事を決めるのは議会などの立法府で、それを粛々と実行するのが行政機関という建前があるからです。でも、現実には道路をどこに造るかは行政が決め、議会は追認しているだけ。ならば、行政の決定に市民がアクセスできる権利を制度的に確保しなければならない」』

(2013年4月6日東京新聞、土曜訪問、森本智之記者「民主主義の欠陥正す、都道見直し運動に関わる國分功一郎さん(哲学者))
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/doyou/CK2013040602000225.html

 そして、今日の5月26日、住民投票が実施される日を迎えたことになります:

住民投票の実現に関わった小平市在住の哲学者、國分功一郎さん(38)=高崎経済大准教授=に寄稿してもらった。

 小平市であす(5月26日日曜日)、住民投票が行われる
 直接請求によって住民投票が実現するのは都内で初めてのことであり、大変注目を集めている。
 対象となるのは市内に建設が予定されている都道3・2・8号線という道路だ。
 4車線36メートル幅の巨大な道路が、住宅地と大きな雑木林、そして国の史跡である玉川上水を貫通する。
 伐採される樹木の数は480本。
 約220世帯が立ち退きを迫られ、総工費は約250億円と推定されている。
 道路計画は半世紀前の1963年に策定されたものであり、計画地のすぐ脇には府中街道という道路が走っている。
 交通量の減少が叫ばれる現代、住民に立ち退きを迫り、現地の豊かな自然を破壊してまで新しい道路を建設する必要があるのか…。
 この住民投票は、建設に反対か賛成かを問うものではない。
 「住民参加で計画を見直す」か「見直す必要はない」かを問うものだ。
 これまで事業主である東京都は住民の意見にほとんど耳を傾けてこなかった。
 住民グループはそのことが最大の問題であるとし、この選択肢を提案した。
 「見直し」の意味は広い。
 道路建設には賛成だが、もう少し小さくてもよいという意見も「見直し」にあたる。
 つまりこの住民投票の目的は、地域の問題に住民が積極的に参加するか否かを問うことにある。
 これまでの「お任せ民主主義」でよいのか、それとも地域のことは地域で決めるのか。 
 それを問う今回の住民投票はまさしく最良の「民主主義の学校」である。
 残念ながら、市が提案した条例修正案により、投票率が50%未満の際には投票結果は公表されないことになってしまった。
 小平市内の有権者の方にはぜひ投票に行って、ご自身の意見を表明していただきたい。
 どちらに投票するべきか。
 自分なりに調べて、考えて、投じる。それがこの「民主主義の学校」のカリキュラムである

(2013年5月25日 東京新聞朝刊「お任せ民主主義」脱却しよう、在住の哲学者國分功一郎さん寄稿)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013052502000116.html

 この哲学者の背骨はなんだろうかと思いましたところ、そうですか…

いま私たちは民主主義の社会を生きていることになっている。しかし、民主主義とはいったい何だろうか? 私たち民衆は主権者だと言われている。しかし何も決めることはできない。私たちにできるのは、時折、しかも大変不十分な仕方で、立法権に関わることだけ、つまり、選挙で代議士を選ぶことだけである…
 しかし、民主主義の主権者である私たちは、いったいこの行政権力に対して何ができるだろうか? 基本的に何もできない。地方自治体が保育園を民営化しますとと突然言ってきた。私たちに何ができるか? オフィシャルな仕方でそうした行政の決定を止める権限は住民にはない。地方自治体が、あなたの家の真ん前にどでかい道路を作ると言ってきた。私たちに何ができるか? 何も出来ない。オフィシャルな仕方でそれに関わろうとすれば、選挙に打って出て、地方自治体の長にでもなるしかない。あるいは別の権力に頼るしかない。司法権、すなわち裁判である。
 もちろん、行政権は住民の意見を聞かねばならないことになっている。しかしそんなものは言い訳にすぎない。行政が重要な決定をする場合には、現在、パブリック・コメントを求めねばならないことになっている。しかし、パブリック・コメントを一度でも書いたことのある人なら分かるが、これは「意見を聞きました」と言い訳するための制度に過ぎない。何らの法的な拘束力もないからである。
 何が言いたいかといえば、現在の民主主義と言われる社会において、私たちは、自分たちに最も身近な権力である行政権力に対して何もできないということである。繰り返すが、私たちに許されているのは、立法権に時折、部分的に関わることだけである。選挙で投票することが許されているだけである。これは民主主義なるものの大いなる欠陥ではないだろうか?…
ヒュームは社会契約論を根本的に批判した。そして社会契約論は近代政治哲学の出発点にあり、その根幹をなしている。ならば、社会契約論を批判したこのスコットランドの哲学者は、新しい政治理論を考える上でのヒントを与えてはくれないだろうか?
 ジル・ドゥルーズによれば、ヒュームの政治哲学のすぐれた点は〈制度〉に注目したところである。社会契約論は、「人間は放っておくとろくでもないことをするから、〈法〉でさまざま行為を禁止しなければならない」と考える(そして、この禁止する〈法〉の根拠探しに躍起になる)。対しヒュームは、「社会契約論のそんな人間観は抽象的であって、人間というのは放っておいても共感しあって適当にうまくやっている。そして適当にうまくやっていくにあたって人間が作り出すのが〈制度〉だ」と考える。
 〈制度〉とは行動のモデルである。そしてこの行動のモデルは欲求を満たすために作り出される。たとえば所有という制度が作られれば、貪欲という欲求が満たされる。結婚という制度が作られれば、性欲が満たされる。ヒュームの社会理論では、社会の最初にあるのは、〈法〉による禁止のような否定的なものではなくて、〈制度〉による行動のモデルの提示のような肯定的なものである。ヒュームは〈制度〉こそが社会を作ると考える。
 この〈制度〉という概念を民主主義の中心に据えられないだろうか? つまり、民衆による選挙を通じての〈法〉に対する正統性の間接的な付与ではなくて、〈制度〉を通じての民衆の行政への正式の参加に焦点を当てて政治理論を組み直すのだ

(2011.09.20「共生のための国際哲学研究センター(UTCP、注記)ブログ)
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2011/09/utcp-juve-57/

(注記) UTCPは東京大学大学院総合文化研究科・教養学部に附属する哲学の国際的な共同作業のための研究センターのことです。

posted by fom_club at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月25日

国木田独歩とおのぶさん

 道を舞い戻ること、その2(続)。

 では、「国木田独歩のおのぶさん」から、「国木田独歩とおのぶさん」へ、観察してみましょうか。

『「武蔵野」は、独歩が信子とデートしたときに見た情景を、ほぼ事実に沿いながら書いたものだ。
 ただし、「武蔵野」のなかでは、一緒に歩いているのは恋人ではなく、「今は判官になつて地方へ行て居る」という男の友人になっている』

(黒岩比佐子『編集者国木田独歩の時代』(角川選書417、2007年12月)24頁)
 
 ヤッホー君のこのブログ、5月23日付け日記「武蔵野」の背景には、こんないきさつがあったようで…
 それで結婚しました。

しかし甘い生活は長くは続かなかった。
 二人の結婚はわずか5ヶ月で破綻する。
 良家の令嬢として育った信子に、貧しい生活の現実は想像を絶するものだった…
 独歩との結婚生活に耐えられなくなった信子は、翌年4月、独歩の元を去って姿を隠してしまう…
 黒光によれば、信子が失踪してからの独歩は、狂気のように信子を捜しまわったという。
 その後、信子が病院に身を隠していることを知らされた独歩は、万一の場合には、信子を殺して自分も死ぬ覚悟で会いに行く。
 だが、やつれ果てた信子が、離婚の意志を捨てていないことを知った独歩は、ついに彼女を翻意させることをあきらめ、離婚書を徳富蘇峰に託したのだった

(黒岩比佐子、同書25頁)

 結婚は国木田独歩24歳のとき、1895(明治28)年の11月のある日でした。
 結婚相手の信子は、独歩に言わさせると、「国木田独歩のおのぶさん」そのものでした。
 
11日午后7時信子嬢と結婚す。わが恋愛は遂に勝ちたり。われは遂に信子を得たり…と書いています。
 しかし佐々城の父母は立会っていず、信子は太織の袖の被布で家を出たきりなのですから、独歩のお母さんが自分の袂の小さい着物を着せ座らせ、ともかくも植村先生に来て頂いて、隼町衛戍病院裏の二室か三室の小さい家で、ほんとうにそれは涙ぐましい結婚式であったそうです

(相馬黒光『黙移 相馬黒光自伝』(平凡社ライブラリー、1999年)126頁)

 ふたりはいったいどんな新婚生活を送ったのでしょうか?
 まずどんなちゃぶ台だったのか、と申しますと、そこには:

先月19日の幽虚居以来すでに半月を経過したり。
 吾等が生活は極めて質素なれども極めて楽しく暮らしつつあるなり。
 質素は吾等の理想にしてその実効は倹約と時間の経済となり。米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。
 豆の外に用うべき野菜なし。
 時々魚肉を用うれども二銭若しくは一銭7りんの「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ

(国木田独歩の「欺かざるの記」より、この引用は相馬黒光『黙移 相馬黒光自伝』126頁より)

 果たしてそれは、甘い生活だったのでしょうか?
 信子は、「国木田独歩のおのぶさん」になって囚われの身:

後に新宿でアンパンを売り出して「奥さんパン屋」で通った、あの有名な中村黒光女史(注36)が阿母さん格で、冷酷極るお母さんに代って、あなた方お二人の新婚振りを見聞旁、御新居をよく訪問された。
 すると定つて、あなたには厳重な監視の眼がつきまとふ。
 良人の奇しい、□疑(注37)、嫉妬の眼が光る。
 初めから終まで、ずつと傍に喰着いて居て、片時離れようとはしない。
 よんど止むを得ぬ、と云った場合は、良人の実母が代って監視に当る。

 「たつたの一言、二人の間の不平を漏らしてみろ、たゞでは置かぬ」

 その眼はすごむ。
 朝な夕な、たつた新婚の家に、ともすればドスを突きつけて、烈しく怒鳴る。

 「やい、逃げたら殺すぞ!逃げたが最後、世界の何処の果てまでも追って行く!」

 これが如何して、あの国木田独歩の口から出て来ます。
 □□(注38)、率直そのものゝのやうな、国木田独歩の何処に、斯くも陰にこもつた、邪険さが有り得ませうか』


(注36) 正しくは、相馬黒光(1876−1955)。旧名・星良。夫・愛蔵と新宿中村屋を起業して、芸術家・運動家のパトロンとなるとともに、多くの随筆を書いた。佐々城信子とは従姉妹同士の間柄。この部分の記述は、黒光の「黙移」に拠っている。
(注37) 「猜疑」
(注38) 「寛闊」か』
(前掲、有元伸子翻刻、永代美知代「国木田独歩のおのぶさん」58−59頁。注記も有元伸子先生)

 かくして破局を迎えます。

4月12日、それは日曜日でした。
 正午少し前であったかと思います。
 寄宿舎へ信子が来ました。それは如何にも逃げてきたという様子で、しきりに前後を気にしながら、
「独歩がもう直ぐここへ探しに来ます。そしたら良さん、信子はここへ来ることは来たけれど、直きに帰ったと言って下さい。私がこれから行く先はどうぞ尋ねないで下さい、とにかく一時身を隠します」
 そして1円貸してくれというのです

(相馬黒光、前掲書、131−132頁)

 国木田独歩とおのぶさんは、おのぶさんが信子に帰って男性の目から、男性の追っ手から逃れることで、ジエンドと自分で幕をおろすことができました。
 しかし、男性の手から逃れることができなかったら…、
 落ち延びていく手だてがなければ…、
 回りに助けを求める術がないと自らあきらめたならば…、
と想いを馳せているのは、ヤッホー君だけでしょうか…

posted by fom_club at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月24日

国木田独歩のおのぶさん

 道を舞い戻ること、その2。

『国木田独歩逝きて早くも80年(注1)。
 あなたも巳におなくなりなさいました。
 私も最う七十路の高齢ですもの、何時何どき如何なるか解りません。
 美貌のあなたが国木田独歩のおのぶさんとして、艶名を天下に謳はれなすつた。
 私は私で同じ自然派の作家、田山花袋のアンナ、ポール(注2)でもって、嘘実さまざまにからまる噂さ話に、彼れ是れ50年−お互いに噂さは世々に残るんで困った話の数々、屹度泣いて笑って、話しませうよねえ。
 
 さて此の次ぎは何処でお目にかゝりませうやら、地獄の一丁目か、二丁目か、それとも極楽の銀座通りか、乃至はパラダイスのエデン公園のベンチでせうか』
(注1:50年の誤り)
(注2:アンナマールの誤記。花袋は美知代を、ハウプトマンの「寂しき人々」の登場人物になぞらえて、「私のアンナ、マアル」と呼んだ(「東京の30年」)


 「東京の30年」は田山花袋(1871−1930)の作。1871年生れってことは国木田独歩と同い年。
 またここで呼びかけられている「あなた」は、佐々城信子(1878−1949)。
 呼びかけているのは岡田(永代)美知代(1885−1968)。

 この文章、「国木田独歩のおのぶさん」は、岡田(永代)美知代の生前、昭和30年代の未発表原稿で、『婦人公論』に送られたものの掲載かなわなかった作品。
 返送された清書稿は現在所在不明。

 「翻刻」なさったのが広島大学教授の有元伸子先生。
 昨年、2012年3月31日「内海文化研究紀要」に発表なされ、イマ「広島大学情報リポジトリ」で読むことができます。
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033045

 「翻刻」した稿の旧蔵者は原博巳氏で、「府中市上下歴史文化資料館」(岡田美知代の生家、広島県府中市上下町上下1006 Tel 0847-62-3999に寄贈されたもの。
 「翻刻」ってなんのことって思うでしょ。こちらご参照くださいませ:

広島県府中市上下町の市民グループが、田山花袋の小説「蒲団(ふとん)」のヒロインのモデルとされる同町出身の作家・岡田美知代の未発表の手書き原稿を活字化する「翻刻」に取り組んでいる。
 現在は、夏目漱石や新渡戸稲造ら明治を代表する人物の名が登場する小説「デッカンショ」を読み進めており、上下歴史文化資料館の開館10周年を迎える今年、2013年10月までに完成を目指している。
 美知代は上下町の豪商の長女で、神戸女学院を中退後、文学を志して上京。田山花袋に師事し、その後、いくつかの短編を雑誌に発表するなどした。
 同資料館は美知代の生家で、未発表を含む200作品以上を所蔵。有志らが2011年、地域の文化を後世に伝えようと「岡田美知代研究会」を結成した。メンバー12人は月1回、資料館に集まり、手書き原稿を読み進めている。これまで「国木田独歩のおのぶさん」「野獣」など3作を翻刻した。
 「デッカンショ」は当時流行した「デカンショ節」を題材にした身辺雑記。400字原稿用紙100枚の作品で、美知代が晩年に書いたとされる。美知代のめい・都子は「万里子」、兄・実麿は「植村孝麿」、夫・永代静雄は「K新聞編集局長」として登場する。
 作中で、「孝麿」が夏目漱石の後任として旧制一高(現・東大教養学部)教授に就任したことを「編集局長」が厳しい口調で批判している。また、漱石は「秋目さん」として「有名な小説坊っちゃんは、秋目さんその人をモデルださうな」「我が輩は猫であるの猫ぢゃないか―秋目さんが教授を」などと触れている。
 同高校長を務めた新渡戸稲造も「古渡戸博士」と記されている。研究会の久保邦子さん(81)は「当時の様子が浮かぶようだ」と感心する。
 田中勇会長は「全集が作れるまで頑張りたい」と言い、美知代の研究をしている広島大の有元伸子教授は「資料としても貴重だし、地元の人が自ら研究しようという気風を持っていることが素晴らしい」と評価する

(2013年4月3日付け読売新聞河部啓介記者「未発表手書き原稿に光を、岡田美知代の小説を活字化」)
http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20130403-OYT8T00865.htm

 ところで、国木田独歩のおのぶさん、もう一度振り返ってみましょうか。

 臼井吉見の大河小説『安曇野』の登場人物たちの足跡をたどりながら、日本の近代を読み解いてきたシリーズ『臼井吉見の「安曇野」を歩く』(上・中・下巻)、市民タイムス編、「郷土出版社」(松本市村井町北1-4-6 TEL.0263-86-8601)からです:

1895(明治28)年6月9日、東京芝三田の佐々城(ささき)家の晩餐に国民新聞、毎日新聞の日清戦争従軍記者たちが招かれた。主人は医師の本支(もとし)、夫人は日本基督教矯風(きょうふう)会幹部の豊寿(とよじゅ)と言った。
 豊寿は相馬良(黒光)の叔母。良は明治女学校時代、よく佐々城家を訪問して、そのハイカラ趣味、文化的生活に触れていた。
 夫妻には信子という気位の高い娘がおり、国民新聞記者・国木田独歩はこの晩餐で信子を知り、「また遊びにいらして」と言われ、つきあいが始まる。信子はのちに有島武郎の小説「或る女」のモデルにされる女性である。

 「宴散じて巳(すで)に帰らんとする時、余、携ふる処(ところ)の新刊家庭雑誌二冊を令嬢に与えたり。(中略)令嬢年のころ十六若(も)しくは七、唱歌をよくし風姿素々可憐(そそかれん)の少女なり」(独歩「欺(あざむ)かざるの記」)

 独歩は自由独立の生活を希求し、北海道への移住を本気で考えていた。「少年よ、大志を抱け」の北海道は、そのころの若者の憧れの大地だったのだ。
 信子は独歩の文学的素養とひたむきな情熱に惹かれた。互いの恋愛感情は強まるばかりだったが、豊寿は気づかなかった。彼女は文芸を解しないタイプで、当時は「ならず者」同様に見られていた新聞記者の独歩など対象外だったのである。
 二人の仲、行動を知った豊寿の狂騒、さらに「わが恋愛は遂に勝ちたり」(独歩)と二人が結婚に突き進んで逗子で暮らし始め、しかし生活のあまりの貧しさに信子が失踪し、父母の元に帰れず、病院に入院してしまって、ついには離婚に至るいきさつは、黒光著「黙移」に語られている。

 「何となく<無理はない>という気はするのですが、そんな薄弱な恋で父母を苦境に立たせ、名のある方々を煩(わずら)わすなど、あんまり我儘(わがまま)すぎて従妹(いとこ)ながらも愛想が尽きてしまうのでした」と独歩や豊寿の肩を持った良だが、新聞や「或る女」で書かれ、世間の好奇の視線にさらされても弁解せず黙々と生き抜いた信子に、良は最後かぶとを脱いでいる。
 独歩は上渋谷村(現・渋谷区渋谷)の郊外に住んで失恋の痛みに耐え、「武蔵野」を書いた。その後は再婚、転居、転職、破産と数奇な運命をたどり、肺を病んで1908(明治41)年6月、38歳の短い生涯を閉じる

(市民タイムズ、臼井吉見の「安曇野」を歩く 39独歩と信子)
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/39.html

posted by fom_club at 07:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月23日

武蔵野

『顧みられることのなかった、当たり前の風景。
 独歩は、それを表現する言葉を与えられて、初めてその美しさを知ったのでした。

 「武蔵野に散歩する人は、道に迷ふことを苦にしてはならない。(中略)武蔵野の美はたゞ其(その)縦横に通ずる数千条の路を当(あて)もなく歩くことに由(よ)って始めて獲(え)られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただ此(この)路をぶらぶら歩て思ひつき次第に右し左すれば随処(ずいしょ)に吾等(われら)を満足さするものがある」』

(10min.ボックス(現代文)「武蔵野(国木田独歩)」、チャンネル:ワンセグ2、放送日時:2013年2月1日(金)午前1:40〜午前1:50(木曜深夜10分)、ジャンル:趣味/教育>中学生・高校生、ドキュメンタリー/教養>文学・文芸【朗読】加賀美幸子)
http://cgi2.nhk.or.jp/school/movie/bangumi.cgi?das_id=D0005150055_00000&year=2013

 道を舞い戻ること、その1.

 あのぉ〜、吹雪とかガスで視界ゼロになって公式ルートから逸れはじめ、同じところをぐるぐる回って意識朦朧となってしまうような危ない徘徊、「ホワイトアウト」状態ではなくって、
 視界良好な山歩クラブの土曜日「街歩き」企画ですので、うかつに戻っていた、とかいうのでなく、意識してもう一度、あ、もう一度と戻っているんですよ。

 国木田独歩って知ってます?
 昨夜、NHKテレビで120分(午後9:00〜午後11:00)の放送がありました。
 ≪発見!対決!春の武蔵野 鉄道旅≫:

雑木林の緑が美しい「春の武蔵野」。
 絶景や素敵な暮らしを探して、3人のタレントが東京・池袋から鉄道対決の旅に出る。
 利用するのは武蔵野を縦横に走る3つの路線。
 西武池袋線で目指すのは所沢、秩父方面。
 東武東上線では、武蔵野を一望できる高台を目指して寄居へ。
 JR、さいたま新都心を北上、利根川を目指して栗橋まで旅する。
 おいしいグルメに舌鼓をうちながら、文豪も愛した自然や人と調和した雑木林の輝きを堪能する


 この文豪のことです。
 1871(明治4)年現千葉県銚子市に生まれますが父の転勤で転々とします。
 はたちのときは、東京専門学校(早稲田大学の前身)改革運動の委員となり翌年の3月には退学。
 1908(明治41)年6月、湘南のサナトリウム南湖院で喀血して死去します。
 享年36歳(満年齢)!

 この文豪の『武蔵野』は第一作品集で1901(明治34)年、30歳のとき徳富蘇峰の民友社(文豪も24歳のとき、1895(明治28)年から編集者)から刊行しています。
 でもそれに収められた「今の武蔵野」は、もっと古く、3年前の1898(明治31)年2月、文豪27歳のとき、民友社の雑誌「国民の友」に発表しています(しかし同雑誌は同年、廃刊)。
 
 文豪が編集者?
 そうなんです、文豪は1994年の日清戦争に際し、従軍記者、ジャーナりストとなっており、従って収入を得ているのは、記事としての原稿だったり編集者としてのお仕事によっていました。
 廃刊ということは、売れない文豪、生活に窮するということです。

 ヤッホー君、今日5月23日木曜日の朝から畳みに寝っころがっては手にかざし、重いからといってすぐ下に落としてしまう本があります。
 黒岩比佐子(※注記)『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書417、2007年12月)。

 這いつくばっても横になっても、本を途中まで読んではまた投げ出してしまい、またいびきをかいて寝込んでしまう、そんな自堕落な生活をメッと戒めてもくれています、ありがたや、ありがたや。

 その第7章「失意と名声のなかで」のトビラにびっくり、思わずガバッと跳ね起きてしまいました。

 なんと、こんな説明書きが:

上:「病牀録」口絵、入院中の独歩(小杉未醒画)
 下:亡くなる1ヶ月前に撮影された独歩と友人たちの記念写真。
  前列右から相馬御風、小栗風葉、中村星湖、正宗白鳥。
  中列、田山花袋、国木田独歩、前田晃。
  後列、吉江孤雁、青山青果、岩野泡鳴、小杉未醒
  後ろの女性は湖南院の看護婦

(同書346頁)

 小杉未醒って酔った勢いで赤紙仁王と相撲をとった豪傑でしょ。大正期には、ヨーロッパ留学も果たした画家、小杉放庵でしょ、日光美術館のあの画家でしょ。


(※注記) 黒岩比佐子さん(くろいわ・ひさこ=ノンフィクション作家)。2010年11月17日午後1時37分、すい臓がんのため東京都中央区の病院で死去、52歳。東京都出身。明治・大正期の文化人の評伝や古書を題材にした作品を執筆した。「『食道楽』の人 村井弦斎」でサントリー学芸賞、「編集者国木田独歩の時代」で角川財団学芸賞。著書に「音のない記憶」「パンとペン」など。
…2010/11/17 20:35更新【共同通信】

『おととしの夏でした。横手の我が家へ、久しぶりに来てくれたとき
 私はあなたに文句をいいましたね。あなたの肩書きについて。
 人はあなたをノンフィクション作家というが、それはなんなんだ、と。
 そんな言葉は、あなたの仕事を正確に言い表していないぞと。

 あなたの仕事を読んできて、私は思うのです。
 あなたはカタカナでいえば、ヒストリー・オーサー、日本語なら歴史の著述家。
 そういう肩書きにあらためなさい、と言ったら、あなたは「クククク」と笑っていましたね。

 比佐子よ、ヒストリー・オーサーよ。
 私は、安らかに眠れとはいいません。

 身体は安らかな姿勢で休めてもいいいが、頭では、現世の人間どもの難問について考えつづけてください。
 あくせくする我々の姿をみつめながら、あなたのいる世界から苦言を送り続け、励ましてください。
  むの たけじ』
(「むのたけじさんからのメッセージ」を再掲載し、改めて黒岩さんのご冥福をお祈りいたします)
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/2010-12.html

posted by fom_club at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月22日

狸坂〜与楽寺坂

 道草その3。
 文京区の狸坂から、北区の与楽寺坂へ。
 <本郷区駒込林町>ぶらり徘徊している山歩クラブご一行4名様、高村光雲・豊周遺宅、高村光太郎旧居跡、宮本百合子ゆかりの地、旧安田楠雄邸を後にして目にはいったのが、小学校!

千駄木尋常小学校の誕生
 1909(明治42)年3月、本郷区駒込林町に、木造2階建14教室の校舎が完成し、4月1日には、1年生だけ175名、千駄木尋常小学校が生まれました。
 明治の中頃まで、この地域は駒込千駄木林町と言われていました。昔、この辺り一帯は雑木林で、千駄木山とも言われ、薪を多く伐り出し一日に千駄にもなるので、千駄木と言われたそうです。
 千駄木の地名については、ほかにもいわれがありますが、いずれにしてもこの辺り一帯は木立が多く、地名でもある千駄木の名をとって校名としました。

関東大震災により、学校は避難所に
 1923(大正12)年9月1日、関東地方一帯を大地震が襲いました。マグニチュード7.9を記録したと言われています。大きな揺れがあり立っていられないほどのすごさだったそうです。2学期の始業式の日で、子どもたちは家に帰った後でした。しかし、ちょうどお昼どきで、どの家庭も食事の準備をしていたため、大きな火災になり、多くの家が焼けたり、壊れたりしました。幸いにも、千駄木小学校は、瓦が4、5枚と、廊下にかかっていた鏡が割れただけでした。学校は避難所に充てられ、病室も設けられ、臨時休業となりました。職員も三交代で学校警備と救護に当たりました。
 10月15日には授業を再開しましたが、児童数はさらに増えていきました。

文集「小鳥の歌」に込められた願い
 1949(昭和24)年、現在の校歌ができあがりました。それと同時に校舎の改築が始まり、教室も多くなりました。1952(昭和27)年には、今の千駄木育成室の所に給食調理室ができましたが、リフトがないので2階の教室まで運び上げたそうです。
 今も、2、4、6年生がつくっている文集「小鳥の歌」は、今から60年以上も前からつくられていたようですが、戦争で校舎が焼失したときに当時の文集も全部焼けてしまいました。職員の熱意で1951(昭和26)年に第1号が復刊されました。
 戦争も終わり、千駄木の森の小鳥たちも心おきなく生き生きとさえずり始めました。千駄木小学校の子どもたちにも、自由と平和な生活がよみがえるように願ってつくられた文集なのです。
 1949(昭和24)年6月、創立50周年式典が行われました。児童数は、1596名、学級数、20になりました

(千駄木小学校のあゆみ〜開校から95年まで〜開校95年周年記念誌「千駄木」より〜)
http://www.bunkyo-tky.ed.jp/sendagi-ps/SendagiHP/ayumi/ayumi.html

 へぇ〜、生き物が心おきなく歌を歌い、子どもたちが自由で、平和な暮らしをいつまでも遅れるように、と誰もがそう願った敗戦後の日本。
 きなくさい、うさんくさい、どろくさい、変なにおいをあたりいちめん、まきちらすいいかげんな奴らがそれこそバカばやしを踊って、徘徊しているイマどきの日本。
 …なんちゃってヤッホー君、さしかかったのが「狸坂」:

このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので狸坂と名づけられた。
狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と向かいあっている。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。
土地の人たちは、これを千駄木山の“天狗ばやし”“馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざと言い伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である

(案内板)

 「狸坂」をおりると目にはいったのが「よみせ通り」:

昔は駒込染井から上野不忍池まで、藍染川が流れていました(谷戸川→藍(合)染め川→境川と名称は変わります)。

 ≪町なかに瀬をなし流れゆく水のさざ波 きよき砂のうえかも≫
と、藍染川を見て折口信夫の歌で今から90年前の風景…(文京の歴史十冊子より)と、このように詩にも詠われております。
 1920(大正9)年10月に藍染川の案渠(あんきょ)工事が完成すると、その川の上も[よみせ通り]となりました。道幅8メートルの立派な通りで、時代の流れと友に住人も多くなってくると、いろいろとお店が調い、安八百屋横丁(おかず横丁)が栄え、朝市が立ち、生活必需品が全て揃った便利な活気溢れる買い物通りとなりました。特に午後からは両側500メートルにわたり、露店が軒を並べて客を呼び、夕暮れ頃から大道芸人の口上が面白く人垣をつくり、下町風情たっぷりの楽しい、商いが競い合う通りとなりました。当時は買い物客や冷やかし客でいっぱいの人の波で、歩くことすらもままならない程に栄えをみせたそうです。
 賑やかさは夜の更ける迄続き、憩いの買物通りと評判になり、誰云うとなく露店(夜店)の並んだこの通りは「夜店通り」と呼ばれるようになりました。その名は東京市(現・東京都)中に知られ、繁栄は一部戦災を被るまで続いたそうです。戦後は商店街の復興も早く、名物の露店も復活して人の通りも以前に戻りました。それと同時に車の通行量も多く烈しくなって、相互通行では渋滞を呈し、一方通行に規制されました。それでも緩和されず、歩行者の交通安全第一を優先と露店が禁止になってしまいました。
 商店街名の[よみせ通り]の「よみせ」は、「夜店」の名残です

(よみせ通り商栄会)
http://www.b-kushoren.com/mall/mall62.html

 夜店通りって文京区にもあったのですね。でも江東区のほうが歴史的には古いようです:

小名木川に架かる高橋のたもとに定期便の船着場があり、繁華街として栄えた。夜店がでるようになったのは、1907(明治40)年頃で、また江東電気館という活動写真の常設館ができ、永花亭という講談定説の寄席もあって、賑わった。江東区内初の歩行者天国を実施した。通称高橋のらくろロード
(江東区公式サイト、道路愛称名路線の主な史跡及び由来)

 こうして文京区を離れ、いよいよ北区田端へ!
 まずは与楽寺界隈:

坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ25間広さ1間3尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
 芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂いがする」と書いています。

 与楽寺は、江戸時代には20石の朱印高を拝領する寺院で、境内には、四面に仏を浮彫(うきぼり)にした南北朝時代の石の仏塔(ぶっとう)があります。また、阿弥陀如来(あみだにょらい)は女人成仏(にょにんじょうぶつ)の本尊として広く信仰を集め、六阿弥陀参詣(さんけい)の第四番札所(ふだしょ)ともなっています。本尊の地蔵菩薩は秘仏(ひぶつ)となっていますが、次のような伝承がありました。

「ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしましたが、どこからともなく、多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂に、これを追い返してしまいました。翌朝、本尊の地蔵菩薩の足に、泥のついているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになりました。これより本尊の地蔵菩薩は、賊除(ぞくよけ)地蔵と称されるようになりました」

 これが与楽寺の賊除地蔵伝説です。釈迦が入滅(にゅうめつ)してから56億 7000万年後に弥勒(みろく)が現れるまでの間は、人々を救済する仏が存在しない時代とされますが、地蔵菩薩は、この時代に、みずからの悟りを求め、同時に地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間(にんげん)・天(てん)という六道(ろくどう)の迷界に苦しむ人々を救うと信じられてきました。
 江戸時代になると地蔵菩薩は、人びとの全ての願望を叶える仏として信仰されるようになり、泥足(どろあし)地蔵・子育(こそだて)地蔵・田植(たうえ)地蔵・延命(えんめい)地蔵・刺抜(とげぬき)地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人々の救済願望に支えられて生み出されたものといえます

(北区教育委員会)

posted by fom_club at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月21日

暗愚小伝

 道草その2。
 高村光太郎旧居跡。

「1945(昭和20)年4月13日夜の大空襲で私のアトリエも焼けた。
 アトリエはそのころの本郷区駒込林町25番地にあつたが、そこから3、4軒はなれた南方の大きな邸宅の2階に焼夷弾が落ちた。
 3、4時間のあひだに、25、26番地にかたまつてゐた20数軒の家が焼けた。
 私のアトリエは最後に焼けた」
「彫刻などは火の中に見えてゐながら、どうすることも出来なかつた。
 結局彫刻も書物も全部灰になつた


 高村光太郎、数え年の74歳、亡くなる1956(昭和31)年に書かれた「消失作品おぼえ書き」からです。

 高村光太郎、智恵子については、ヤッホー君のこのブログでは、2011年7月1日付け日記「長沼智恵子」、同2日「レモン哀歌」、同3日「智恵子抄」、4日「高村智恵子」、同5日「智恵子飛ぶ」と5日連続で書き綴っていました。
 ぜひお読みくださいなってヤッホー君。

 ところで、亡くなる年の「読売新聞」昭和31年1月1日に、高村光太郎は、『生命の大河』を発表しているので、ヤッホー君、今日もびっくり、腰をぬかしております:

  科学は後退をゆるさない。
  科学は危険に突入する。
  科学ほ危険をのりこえる。
  放躰能の故にうしろを向かない。
  放射能の克服と
  放射能の善用とに
  科学は万全をかける。
  原子力の解放は
  やがて人類の一切を変へ
  想像しがたい生活図の世紀が来る。


 この年ってどんな年?
 高村光太郎が亡くなる年で、前の年に原子力基本法が制定されています!

『「核の時代」の幕開けは1945年7月16日午前5時半。
 米ニューメキシコ州アラモゴードで初めて行われた原爆実験だった。
 「オッペンハイマー」(カイ・バード著)によれば、その瞬間地平線が閃光(せんこう)とともに燃え上がり、巨大なオレンジ色となったという。
 原爆を開発した「マンハッタン計画」の責任者、ロバート・オッペンハイマーは20年後、「ヒンドゥー語の詩篇の≪我は死なり、世界の破壊者なり≫という一節が頭に浮かんだと述べている」
 実験場は「トリニティ・サイト」と呼ばれ、かつて取材で訪れたことがある。
「グランド・ゼロ」(爆心地)には高さ約5メートルの記念碑が立ち、周囲のフェンスには実験の写真などが展示してある。
 今でも微量の放射線が検出される。
 福島第1原発事故を考える時、あの荒涼たる風景が浮かぶ。
 第二次世界大戦後の1953年、アイゼンハワー米大統領が国連総会演説で原子力の平和利用を打ち出し、殺戮(さつりく)兵器と経済発展の道具としての原発が共存する奇妙な状態が生まれた。
 日本は広島、長崎への原爆投下からわずか10年後の1955(昭和30)年に原子力基本法を制定し、原発建設へと突き進む
 「核兵器であれ原発であれ、我々が核装置を制御できるという考え方は集団的幻想にすぎない」…米国の核不拡散問題専門家、ジョセフ・シリンシオーネ氏は米ネット新聞への寄稿で「広島と福島」を結ぶ教訓をこう書く』

(2013年02月16日付け毎日新聞地方版、吉田弘之記者/福島「ほんとの空へ・お〜い福島:広島、長崎とつながりを」
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20130216ddlk07070098000c.html

 ヤッホー君、今日5月21日火曜日、またまたアタマをかかえこんだまんま、うずくまっています。

 政治屋を家業とするやつらもうさんくさいけど、売文業を生業とするモノカキってのも、いやな性分だね、ってうめき声をだして。
 だって、高村光太郎って「戦争協力文化人」だったんですよね、それがまたぁ〜
 戦争遂行のための国民的機関、「中央協力会議」に美術界を代表としてその一員となり、詩人としても、文学報国会詩部会の部長だったり要職を担い、敗戦後、

戦争協力文化人に対する批判は痛烈だった。
 その痛烈さは、戦争と文化の問題を論議するかぎり避けて通ることはできない。
 それらの批判をあびながら、高村さんは数年のあいだ山小屋にとじこもっていた。
 そこで過去の自分の道程について語ったのが、「暗愚小伝」20篇と、詩集「典型」(1550(昭和25)年10月刊)の作品だが、この詩集は一般につまらぬといわれ、芸術的完成に欠けるといわれた。
 私もこれに異論はない

(伊藤信吉「高村光太郎の回想」、『現代日本文学大系』第27巻、筑摩書房、1969(昭和44)年、303頁)
 
 それがまたぁ〜、中央の権力亡者、金儲けシュギシャどもに煽てられて、利用されて、騙されて、そいつらに作文を提供して原稿料をもらっているんだもんねぇ〜。
 敗戦から10年も経っているかいないうちに…
(あっ、そうかぁ、高村光太郎だけでなく、右翼も左翼も皆んなかぁ…、だから垂直尾翼に徹しようってヤッホー君!)

 それもあってか、ヤッホー君、高村光太郎で好きな文章は、「道程」や「レモン哀歌」より、山小屋にとじこもったころの文章がもっともよくこころに響いてくるのだそうです。
 大方の批評眼に異論があるって言ってます、つまらなくなんかないよよぉ〜って。
 それは1945(昭和20)年の晩秋、10月のころからの時代:

17日には稗貫郡太田村山口の村人が移築してくれた鉱山小屋に移って独居自炊の生活が始まりました。
 移住のことは終戦以前から、村人に人望があった分教場の教師、佐藤勝治の手引きで計画が進められていたのでした。
 畳3畳、外気を防ぐのは荒壁と障子紙、12月中旬には怜か13度、積雪3尺、生涯で最も過酷な冬が来ます

(高村光太郎、北川太一『光太郎 恵子側 うつくしきもの−「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社、2012年6月)145頁)

 「原子力の解放」はイマ、「想像しがたい生活図の世紀」をみせつけてくれています:

多摩地域で活動する合唱グループ「多摩童謡友の会」と児童合唱団「多摩ファミリーシンガーズ」が合同で今年2013年3月31日、福島県二本松市で東日本大震災復興支援のコンサートを開く。
 同市の仮設住宅や借り上げ住宅には約50キロ離れた同県浪江町から避難してきた約2500人が暮らしている。
 団員らは「避難して来ている人たちや二本松市民が歌で心を癒やして元気になってくれたら」と期待する。
 きっかけは東京電力福島第1原発事故の翌月のことだった。
 テレビ番組で「歌のお姉さん」を務めたことがあり、両合唱団を主宰する高山佳子さん=多摩市在住=の元に、詩人の後藤基宗子(きそこ)さん=福島県郡山市在住=から一編の詩が送られてきた。
作曲の依頼だった。

 <空をよごしたのは誰 誰 誰>

 <阿多々羅山(あだたらやま)の向こうに磐梯山が見える街>

 <ほんとの空だけ君に残したい>

 事故後の心の移ろいが表れた詩に胸を打たれ、「ほんとの空」という合唱曲が出来上がった。
 高山さんは「阿多々羅山(安達太良山)のふもとの二本松市は、(詩人の)高村光太郎の妻、智恵子さんの古里。智恵子抄に出てくる≪東京に空がない。阿多多羅山の上の青い空がほんとの空≫という一節に思いを重ねた」と振り返る

(2013年03月27日付け毎日新聞地方版、小林利光記者/東京「東日本大震災:福島の空うたった詩、多摩で作曲、感動呼ぶ、2合唱団、二本松で31日に支援コンサート」
http://mainichi.jp/feature/news/20130327ddlk13040224000c.html

posted by fom_club at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月20日

旧安田楠雄邸

 道草その1。
 旧安田楠雄邸(文京区千駄木5-20、千代田線千駄木駅下車徒歩5分、本郷保健サービスセンター隣)。
 
文京区千駄木のお屋敷町にある旧安田楠雄邸は、1919(大正8)年に建てられた近代和風住宅です。
 普請道楽といわれた実業家藤田好三郎氏(遊園地「豊島園」の創設者)が建てた家です。
 関東大震災で日本橋小網町の家を焼かれた安田家が譲り受け、以来、長く住み続けてきました。
 安田財閥の創始者安田善次郎の孫にあたる安田楠雄氏が亡くなられたあと、この土地と建物を相続された幸子未亡人と長女美佐子さんが、愛着のある建物を文化財として保存活用するために、1996(平成8)年8月、財団法人「日本ナショナルトラスト」に寄贈されました。
 「たてもの応援団」は、安田邸の調査やお掃除ボランティアを行ない、幸子未亡人をサポートする形で、「日本ナショナルトラスト」への橋渡しをいたしました。
また、2004(平成16)年末には、安田幸子さんの心意気に感動された方からの高額寄付をナショナルトラストに仲介いたしました。
 その後、建物は3年間をかけて修復し、2007年春から週2回公開されています。
庭園の修復は未着手ですが、ボランティアの手によりきれいに清掃されています。
 2008(平成20)年1月からは、NPO法人に認証された「たてもの応援団」が管理運営を受託しています

(旧安田邸は<財団法人「日本ナショナルトラスト」保護資産・東京都指定名勝>)
http://www.toshima.ne.jp/~tatemono/page027.html
 
 今月までNPO「たてもの応援団」のマネージャーを引き受けていますというタニさんに門のところでばったリお会いし、お話しを伺うことができました。
 タニさんって、多児貞子さんでしたか、お世話になりました。

『「壊すなんてとんでもない無駄。歴史があるから価値が加わる」。
 EH(イギリスの史跡保護団体イングリッシュヘリテージ)渉外局長パトリック・ピューさんは強調した…

 「文化財は金食い虫。行政が敬遠するのは分かる。それでも、例えば和風住宅を料亭として使うなど、商業利用も含めて所有者や市民も一緒に知恵を絞らないと」。
 歴史的建造物の保護活動を進める東京の市民団体「たてもの応援団」の多児(たに)貞子さん(60)は言う。
 相続税問題で保存の危機にあった文京区千駄木の近代和風住宅旧安田邸(都指定名勝、1918年建築)の調査などを通じて活動を開始。
 「応援団」は今、杉並、中野両区や埼玉県所沢市にも広がっている。
 多児さんは言う。
 「建物や公園は、目に見える形で歴史を感じることができる。保存は、街の記憶を後世に引き継ぐことですから」』

(2006年10月22日付け東京新聞「東京スピリット【三都物語】歴史的建造物、再生、街の記憶とともに」)
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2006/spirit/CK2007031402101125.html 

 そうですか、そうですよ、何も自然だけではないのです、街並みだって、旧い建物だって、土地との絆、家族との繋がりだって、壊すのは簡単。
 壊した後のガレキはイマでも、ドコでも目の当たりにしていませんか?
 そのガレキの山が、ツナミのようにヤッホー君のこころにせまり、押し潰されようとしています。
 モッタイナイ、もったいない、勿体無い…
 この国はそのスピードが速すぎませんかぁ? なんか落ち着きがないんですよねぇ、そう思いません?
 そうかぁ〜、「スピードアップ」って「経済成長」と同義語ですもんね。
 子どもにだっていうもん、「早く、速く、ほら、ぐずぐずしないで」って、小さいときからしつけていきますもん。
 ん? そうしたら山歩クラブの≪ゆっくり、ゆったり、のんびり、ぶらぶら≫、わいわいがやがや歩きって時代遅れ ?!? …

1960年代に鎌倉で日本初のナショナル・トラストが始まって以来、各地でトラスト活動が芽吹き、広がっていきました。
 しかし、日本のトラスト活動は全国組織を持たないため、各地のトラスト団体がそれぞれ独自の活動を展開し、発展をしていきました。
 その後、勢いを増す開発に対応するネットワークや中央組織が強く望まれるようになり、その結果、日本全体でトラスト活動を推進するため、1983年に「ナショナル・トラストを進める全国の会」が結成されました。
 この「全国の会」が1992年に法人化されて、「社団法人日本ナショナル・トラスト協会」となりました。
 そして20年後の2012年7月、公益社団法人へと移行し、現在に至っています

(日本ナショナル・トラスト協会公式サイトより、協会について)
http://www.ntrust.or.jp/gaiyo/gaiyo.html

 鎌倉で何があったのか、そしてイマ、何がおこっているのか…

1964年、鶴岡八幡宮裏山の「御谷(おやつ)」の宅地開発に対し、学者や市民に作家の大佛次郎ら著名人も加わって反対運動を展開。署名や土地買収の募金活動を行ない、開発断念に追い込んだ。日本で最初のナショナルトラスト運動で、古都保存法制定の原動力となった。

 源頼朝の墓がある法華堂跡や瑞泉寺など「武家の古都」の世界遺産候補の社寺や遺跡が集まる鎌倉市の二階堂地区。候補資産の荏柄天神社と、鎌倉宮の参道がX状に交差する場所で、4階建てのマンション建設が進む…
 歴史遺産継承の岐路に立つ鎌倉。
 市の「本気度」が問われる

(2013年5月15日付け東京新聞「どう守る鎌倉の歴史遺産(中)保全へ適切な規制を」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20130515/CK2013051502000130.html

 あの、さ、「本気度」って何も市にだけでなく、「シミン」や「シミン団体」にも問われているんでは?
 あの、さ、「守ろう!」「開発反対!」ってコブシをふりあげるだけでなくってさ、
 豊かな自然や伝統ある街並みや景観にさ、
 もっとシミン、その家族、お子ちゃま、お孫ちゃまも含めて、直接、触れるきっかけを与えるような「事業」とか「活動」(voluntary participation to raise awareness) が足りないんじゃないのかな、
 そして、さ、その活動を「シミン」や「こくみん」に活字だけでなくってさ、
 音声や、画像をもっと使って、種まきしていく(information dissemination) が足りないんじゃないのかな、
 なんてことを本家の公式サイトを見て思うのでございます。

 「日本ナショナルトラスト」って、これはイギリスの「ナショナルトラスト」をお手本にしています。

 さ、さ、英語のお勉強です。
 これは、ん〜ン、山歩クラブの日記ですので、<Great British Walks>という「活動」の紹介です。
 なお、音声付ですので回りにご配慮を:

(1) http://www.youtube.com/watch?v=hLuiqjIM58Y
(2) http://www.youtube.com/watch?v=jHrxzM3ELoQ
(3) http://www.youtube.com/watch?v=If0EGLPB3uE

Get your walking shoes on and come and enjoy some of our wonderful walks through the finest countryside.http://www.nationaltrust.org.uk/visit/activities/walking/

 それと、資金集め(Fund raising, fund raiser) ですよね、大事なことは。
 この国のNGO「地球の友FoE 」では、自然に実際に触れる機会提供を「活動」にしています:

『FoE Japanでは週末に関東近郊を歩くハイキングを行なっています。
 毎回10〜20名程の方が参加し、ボランティアのハイクリーダーが案内をしてくれます。
 外国人の参加者も多く、自然に親しみながら国際交流もできます。
 ぜひ一度参加してみませんか?
 参加費 一般:1000円/学生・FoE Japanサポーター:500円/小学生以下:無料+交通費
 ※参加費は、FoE Japanの環境保全活動費として使われます

(地球の友、日曜ハイキング)
http://www.foejapan.org/event/hike.html

posted by fom_club at 16:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月19日

赤紙仁王

 「赤紙仁王」って知っていますか?
 何を突然に、ヤッホー君。
 実はそのあの、昨日5月18日は、山歩クラブの山歩きでなく街歩き、散歩、タウンウオーキングの日。
 ヤッホー君は、ブログの5月18日付け日記「大卒就職率」をつけたあと、東京メトロ千代田線「千駄木」駅1番出口を出た「団子坂下」交差点まで、すっとんで駆けつけていったのです。
 集合時間は9時でした。
 定刻シュギのヤッホー君、ぎりぎりセーフ!
 団子坂を登って「森鴎外記念館」から右折、「田端文士村記念館」を目指し、ぶら〜り寄り道、回り道に、迷い道。
 道草ばっかりしながら、徘徊する算段です。
 その代わり、漢字を思い出すため、声帯を鍛えるため、衰える一方のアタマにカツを入れようと、道しるべは間違ってもいいじゃん、と声にだして音読する慣わしとなりました。
 
 それで出会ったのが「赤紙仁王」さまなんです。
 だけど、肝心の一対の「石造金剛力士立像」(北区指定有形民俗文化財)は、ホント、赤い紙に覆われ、赤髪、赤鬼、赤い神。

 からだの悪いところに赤紙を貼り、平癒を祈ります。
 病気が治ったら新しいわらじをあげて、御礼参りをするといいます。
 左のほうに、たっくさん、わらじがぶら下がっているのが見えます。

 小石川本法寺の隠居僧であった十方庵敬順が、各地の名所を歩き見聞録を綴った「遊歴雑記」(1892(文政12)年完稿)に、仁王像について以下のような記述があります:

≪御長凡8、9尺その容貌筋骨の逞しさ、又手を廣げ足を踏ならせし、忿怒の形相の分野古今に獨歩し、石工の手際實に賞すべし、此石像寛永18年辛巳の建立なれば、文化12乙亥年まで175年に及び、年來陌頭にありて風霜に曝すといへども、少しも缺ず崩れず、尊前には常に線香を供ずる徒あり、又凄じく大なる草鞋を備えるものあり、これ男女行歩を壮健ならしめ、身體の堅固を祈る念願になん≫

(白龍山寿命院東覚寺公式サイト)
http://togakuji.com/akagaminio.html

赤紙仁王.jpg

東覚寺.jpg
 
 面白いエピソードも残っています:

 画家の小杉未醒が酔ってこの仁王像を倒したという話が伝わっています:

 ある晩、酔った未醒と針重敬喜とが、闇にまぎれて仁王さんをひっくり返してしまったのだ。
 2、3日経って3、4人の職人が苦労してもとの座になおしていると聞き、未醒は、
「どうしてあんな重いものが、針重と二人でひっくり返せたのかしらん」と首をかしげた。
 こんな無茶をチョクチョク実行していた未醒であった。

(近藤富枝『田端文士村』より)

 針重敬喜って、山形県出身でした!(明治18年〜昭和27年)編編集集者・テニス選手。
山形県出身。大正元年頃、田端506(3-24)番地のポプラ倶楽部に転入。昭和元年頃、田端521(5-5)番地に転居。早稲田大学卒業後、新聞社に勤務。大正元年、押川春浪の武侠世界社に入社、主筆を勤める。日本庭球協会理事および顧問、日本体育協会会賓など歴任。小杉放庵らのポプラ倶楽部に合流、中心的役割を果たす

 そ、そしてぇ〜、小杉未醒。
 この方は、明治14年〜昭和39年。洋画家・歌人
栃木県出身。明治33年、田端163番地(沢田家)に寄宿。40年、155番地(谷田川畔)に新築転居。明治35年、太平洋画会会員となる。美術文芸誌「方寸」同人として画文双方で活躍。明治44年、山本鼎・森田恒友らとポプラ倶楽部を創設。渡欧後、横山大観に請われて再興日本美術院洋画部を主宰。大正9年、美術院脱会。11年春陽会を創立。大正12年まで未醒、のち放庵と号し、主に日本画の制作に転じる
(田端に移り住んだ芸術家、文士及び著名人たちは、田端文士村記念館公式サイトより)
http://www.kitabunka.or.jp/kitaku_info/rlink/work-bunsimura0101

 な、なんと、小杉未醒放庵こそは、山歩クラブが5月3日訪れた日光で、「田母沢御用邸記念公園」から外山880mに向かう途中に通り過ぎた「日光美術館」と縁があったのですぅ!
 ヤッホー君のこのブログ、5月7日付け日記「日光美術館」をご参照ください!

 びっくり、ひっくり還ったヤッホー君、しゃっくりしながら裁縫、西方、再訪、と独り言。
 アーメン、らーめん、冷やしそばってヤッホー君、十字をきっていたそうです。

 そ、そして、田端文士村記念館「平成25年度第2回田端ひととき散歩」に参加したヤッホー君たち山歩クラブの4人衆、研究員タムラさまのありがた〜いご先導で、道迷いも徘徊もなく、す〜っと、「赤紙仁王」さまに5月18日土曜日、二度目のご対面。

田端ひととき散歩.jpg

 悪いアタマもきっと平癒することでしょう。
 治ったあかつきには御礼参りにもう一度、草蛙をぶらさげて再訪って呟いていたそうで。
 あ、うん!

posted by fom_club at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月18日

大卒就職率

 いやあ〜、昨日5月17日金曜日の午後、早稲田大学商学部での湯浅誠さんの刺激的、挑発的な高等遊民、いや高等教育のお話しでした。
 講話をお聞きしたヤッホー君の学習成果の続編は、まだまだ続いていくようで…

国際人権規約のA規約(社会権規約)第13条(大学の学費無償化条項)を留保している国は、条約加盟国160か国中、日本とマダガスカルだけとなった
 財政事情が厳しいわが国で高等教育への支出を大幅に増額することには難しい面もあろう。
 しかし、将来、高卒者より多額を納税するであろう高等教育進学者を現在支援することが、長期的に歳入増加をもたらすことになる。
 国民や企業が、現在(今)税等により高等教育費を負担すれば、将来自らが恩恵(便益)を享受することができる。
 税等の負担増加を何が何でも忌避するという近視眼的な思考から、わが国の将来を見据えた発想の転換が必要である。
 国立私立にかかわらず、偏差値の高い大学には所得の高い家計の子どもが多いことが明らかになりつつある。
 高等教育の機会均等を図るためにも、家計負担の軽減を急がなければならない』

(田中敬文・東京学芸大学教育学部准教授「限界に達した家計負担 高等教育の費用負担をめぐる議論」、アルカディア学報No.480 教育学術新聞掲載コラム 教育学術新聞掲載号2481号(2012年5月9日)
http://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/arcadia/0480.html

 湯浅さんは、日本は最近「留保」を取り下げた、とかおっしゃられておりました。ということは、大学の学費無償化に動くってこと?1?…

日本の政府・自治体が負担する公的な教育支出は世界の主要国と比べて高いのか低いのか?
 何となく、「そこそこ高いほうなんじゃないの」と思う人も多いだろうが、実はこんなデータがある。

 EU諸国や日本、アメリカ、カナダ、韓国など34カ国が加盟するOECD(経済開発協力機構)の発表によると、2009年度に日本の政府・地方自治体が教育に支出した金額は、GDP(国内総生産)の3.8%。
 この比率はOECD加盟国のうち、比較可能な31カ国中なんと最下位。
 ちなみにOECD平均は5.8%で、上位のデンマーク、アイスランドは7%を超えている。

 こうした状況を受けて、今年の2013年3月、文部科学省に置かれている中央教育審議会では、公的な教育支出をOECD諸国並みに引き上げることを国と地方に要求した。
 どこまで実現するかは財政も厳しいなか不透明ではあるが、ここで気になるのが、「なぜ今まで教育支出が少なかったのか」ということと、「なぜ今増やすのか」ということ。
 この2点を東京学芸大学の田中敬文准教授に聞いた。

「この数字は誤解を招く面もあるのです。日本の教育支出額自体は安くはないのですが、GDPが大きいので比率としては小さくなってしまう。特に初中等教育に関してはそれなりに出しています。公立高校も無償化していますしね。
 ただし、政府の教育支出が全体的に伸びていないのは事実ですし、特に大学や専門学校などの高等教育に関しては欧米諸国と比べてもかなり少ないのは確かです」

 ヨーロッパでは大学・大学院まで無償という国もあるが、日本では国立大学でも多額の授業料が必要。
 しかもヨーロッパと比べると私立大学の数も多い。
 つまり、高等教育に関して、日本は家計の負担が非常に大きいのだ。
 しかし、今や家計が苦しくなる一方で、大学の学費は親や学生自身にとって重荷に…。
 教育支出費拡大は授業料の軽減や給付型奨学金の拡大につながっていくのだろうか?

「それも一つですが、日本の大学は研究費も不足していますし、地方の国立大学では、留学生が≪これが国立大学?≫と驚くこともあるくらい施設の老朽化も目立っています。国際競争で勝ち残っていくためには、さまざまな面でお金が必要な状況なのです」

 実は大学も苦しいというわけだ。
 そこで教育支出費拡大のポイントとなるのが国民全体の考え方の転換。
 大学へ通う人や保護者だけが負担するべきという考え方から、高等教育を国民全体で支えていこうというヨーロッパ型の考え方へ
 これが浸透するかどうかが、今後の動向を左右することになりそうだ

(2013年05月07日(火)リクナビ進学ジャーナル「日本の“教育にかけるお金”は安すぎた!?<欧米並み>に目標を引き上げへ」)
http://journal.shingakunet.com/money/3794/

 ヨーロッパよりはアメリカ型の「受益者負担」とか「自己責任論」が偉いエリートさんの間に跋扈しているんで、ヤッホー君はどきどきしちゃいますが、国民皆さんひとりひとりが意見を持つってぇことは大事ですよね。
 昨日、流されたこんなニュースだって、就職率って何?時系列的に分母と分子をきちんと仕分けして正しく発表を分析してもらいたいもんです、ヤッホー君にも分かりやすく。
 ほら、でないとアベノミックスかミックスジュースの垂れ流しでしょ…

今春卒業した大学生の就職率は2013年4月1日時点で93.9%だったことが5月17日、文部科学、厚生労働両省の調査で分かった。
 前年同期から0.3ポイント増え、2年連続の上昇。
 リーマン・ショック後の低水準からは持ち直したが、ピークだった2008年春を3.0ポイント下回っており、依然として推計約2万4千人が内定を得られていない。
 厚労省は「採用を絞り込んでいた企業が求人を回復させており、大学とハローワークの連携した支援も効果があった」と分析。
 両省は6月までの3ヶ月間、既卒者の就職支援を重点的に続ける

(2013年5月17日10時37分更新 東京新聞(共同)「大卒就職率93.9% 2年連続上昇も2万人超決まらず」)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013051701001287.html

『「一時的な仕事についた者」の割合は、1980年代後半から1990年代前半までは1%前後に過ぎなかったが、2003年には約8%まで上昇した。
 その後の景気回復過程で、その比率は低下したが、最近は再び上昇に転じている…
 推計結果によると、求人倍率の低下や進学率の上昇は、男女を問わずに就職した場合に、一時的な仕事につく確率を高くする。
 このことは、正社員就職の困難性が高くなった大卒者が、緊急避難として非正社員の就職を選んでいることを意味している。
 よって,就職率を定義する際に、分子に「就職者」と「一時的な仕事に就いた者」の合計を用いる場合には、求人倍率や進学率に対する反応は小さくなるはずである』

(太田聰一・慶應義塾大学教授「大卒就職率はなぜ低下したのか─進学率上昇の影響をめぐって-」、労働政策研究・研修機構 2012年特別号(No.619)所収、2011年労働政策研究会議準備委員会責任編集、2011年労働政策研究会議報告「2012年1月25日掲載/2012年7月25日全文掲載所収)
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2012/special/pdf/029-044.pdf

posted by fom_club at 07:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月17日

奨学金

 今日は2013年5月21日火曜日? 
 いえ、違います。今日は5月17日金曜日です。
 でも来週火曜日の午後8:00〜午後8:30の30分ですが、NHKハートネットTV シリーズ・貧困拡大社会にて、尾木直樹さん、湯浅誠さん出演の番組が放送されますので、必見です。

日本に急速に広がる貧困について考える「シリーズ・貧困拡大社会」。
 今回のテーマは奨学金問題。
 奨学金を返せない人が急増し、10年前の2倍の33万人に上る。
 背景には、安定した仕事に就くことが難しい雇用不安と、学費の高騰がある。
 さらに、奨学金を滞納すると厳しい延滞金を課せられるといった、奨学金制度の変質も指摘されている。
 奨学金問題を通して日本の教育のあり方を問う

http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=206-20130521-33-15084

 湯浅誠さんについてはこれまでヤッホー君のこのブログ、かなり言及してきております:

  ◎ 2011年3月4日付け日記「希望の持てる社会へ」
  ◎ 2012年10月12日付け日記「絆社会実現への展望」
  ◎ 2012年12月6日付け日記「餓死」

 今日5月17日金曜日、ヤッホー君のこのブログのテーマは、奨学金!
 だってヤッホー君も「日本育英会」より高校、大学、大学院といただいていた奨学金、それと湯浅誠さんについて。
 しかしイマ、「日本育英会」ってないんですねえ〜、びっくり。
 イマは、と言いますかほぼ10年も前から、「独立行政法人日本学生支援機構」というらしいです。

独立行政法人通則法(1999(平成11)年法律第103号)及び独立行政法人日本学生支援機構法(2003(平成15)年法律第94号)に基づき、日本育英会において実施してきた日本人学生への奨学金貸与事業、日本国際教育協会、内外学生センター、国際学友会、関西国際学友会の各公益法人において実施してきた留学生交流事業及び国が実施してきた留学生に対する奨学金の給付事業や学生生活調査等の事業を整理・統合し、学生支援事業を総合的に実施する文部科学省所管の独立行政法人として、2014(平成16)年4月1日に設立されました

 そして、湯浅誠さんは、学問を終え社会人となったとき、奨学金の返還を3ヶ月、滞納したとき、おそろしいことが待ち受けているとおっしゃっています:

当機構では、2008(平成20)年6月に奨学金の返還促進に関する有識者会議が取りまとめた「日本学生支援機構の奨学金返還促進策について」において、返還開始後一定の時期における延滞者について、当該延滞者の情報を個人信用情報機関に登録することにより、延滞者への各種ローン等の過剰貸付を抑制し、多重債務化への移行を防止することは、教育的な観点から極めて有意義なことであるとの提言がなされ、当機構としては、3ヶ月以上の延滞者に限って、その情報を個人信用情報機関へ登録することとして、2008(平成20)年11月に全国銀行個人信用情報センターに加盟しました
 
 以上…http://www.jasso.go.jp/index.html

 そうなんです、社会問題と化してきているようです:

『不況や就職難で奨学金が返済できず、厳しい取り立てを受けたり、自己破産したりする若者が急増しているとして、全国の学者や弁護士らが「奨学金問題対策全国会議」を今年2013年3月31日に発足させる。
 背景には、学費高騰や学生支援組織の独立行政法人化などがあり、支援者らは「本人の努力だけでは解決できない社会問題だ」と訴えている。
 奨学金問題で全国組織が結成されるのは初めて。

 独立行政法人・日本学生支援機構(旧日本育英会)によると、2011年度の同機構の奨学金利用者は128万9000人
 大学や専門学校に通う学生の3人に1人が利用している。
 同機構の奨学金に給付型はなく、卒業後に返済が必要だが、就職難や非正規雇用の増加で返済が遅れる利用者が続出
 延滞者は2003年度末から11万人増え、2011年度末で33万人にのぼる。

 追い打ちをかけたのが、独立行政法人化による回収の厳格化だ。
 同機構は2010年度から、3ヶ月滞納した利用者を銀行の個人情報信用機関に登録(いわゆるブラックリスト化)し、4ヶ月目から民間の債権回収会社(サービサー)に委託している。
 その後は裁判をし、2011年度だけで給料差し押さえなど強制執行は135件にもおよぶ。

 全国44の弁護士会が2月に実施した奨学金に関する初の電話相談には計453件が寄せられ「生活苦で返済できない」が42%で最多だった。
 対策会議設立の母体は80年代から多重債務者を救済してきた全国クレジット・サラ金被害者連絡協議会。
 対策会議事務局長(予定)の岩重佳治弁護士は「学生の将来をひらくための奨学金が、将来をつぶすことになっている。学生支援のあり方を含め、社会全体で取り組む必要がある」と話す。

 対策会議の設立集会と記念シンポジウムは3月31日13〜16時、東京都千代田区六番町の主婦会館プラザエフで。
 問い合わせは、東京市民法律事務所内の事務局(Tel 03-3571-6051)』

(2013年03月27日15時24分最終更新 毎日新聞浦松丈二記者「奨学金問題:全国組織が31日発足…返済苦しむ若者急増で」)
http://mainichi.jp/select/news/20130327k0000e040238000c.html

 この背景には教育費は「公共性」だったのですが、「受益者負担」への道筋をつけたことにあった、と。

中央教育審議会は、1971(昭和46)年の答申で、教育費は投資であるとし、「投資の効果のうち個人に帰属するものと社会全体に還元するものとが区別できれば、それを考慮して受益者負担の割合を決めるのが合理的」とする「受益者負担主義」の考え方を提起しました。
 この考え方は、文科省の奨学金の実務を行う新たな組織を検討する会議の座長であった奥島孝康氏(早稲田大学元総長)が、「高い教育を受けた者はそれに応じた収入が約束される…要するに教育とは自己への投資」と国会で述べた(2003(平成15)年)ように、その後も引き継がれます

(2011年1月18日(火)「しんぶん赤旗」)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-01-18/2011011801_04_1.html

 1971年、昭和46年といえばニクソンショック、それによって対ドルレートが360円だったのが、スミソニアン協定により、12月には308円になった年だったのですねえ。
 そんな湯浅誠さんの奨学金についての本日の講話は、その早稲田大学の商学部での授業だったのでした。

posted by fom_club at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月16日

マシコタツロウ

 ヤッホー君のこのブログで、これまで、歌手の一青窈(ひととよう、1976年台湾生まれ)を何度かとりあげてきましたよね。

  ◎ 2010年05月06、07、08日「ハナミズキ」「ハナミズキ(続)」
  ◎ 2010年09月11日「映画ハナミズキ」
  ◎ 2010年09月13日「歌詞ハナミズキ」

 聞いてみましょうか、何度聞いてもヤッホー君はこころうたれます(あのおぅ〜けっしてカラオケでは歌わないこと、選曲ミスっていわれちゃいますぅ)
  ◎ 一青窈 ハナミズキ
http://www.youtube.com/watch?v=X_406XRTyL4
  ◎ 新垣結衣 花水木ハナミズキ
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=WH2KeRaGawc&feature=endscreen
 
 ところで急にどうして思い出したかのようにハナミズキを本日、取り上げたかと申しますと、山歩クラブが訪れた常陸太田市、この市に「市の歌」があって、この作詞作曲を担当したのが、ハナミズキの作曲家、「マシコ・タツロウ」だったってわけで…
 いやぁ、びっくりした次第…
 どんな歌か、ぜひ常陸太田市の公式サイトを開いて聞いてください:

茨城県の北東部にあって県都水戸市から20キロメートル、東京から120キロメートル圏に位置しています。
 1954(昭和29)年7月に1町6ヶ村が合併し常陸太田市が誕生し、翌年、世矢村と河内村を、さらに2004(平成16)年12月に金砂郷町、水府村、里美村を編入して現在に至っています。

 2004年から7年が経過し、行政はもとより、市民・団体・企業など各般にわたり一体化に向けた調整が図られ、県内第一の面積を有する新しい「常陸太田市」のかたちが着実に形成されてきたところでありますが、更に、すべての市民が一体感の醸成を図り、明日への活力と郷土愛を育み、ふるさと意識の共有化を目指すとともに、全市民が心を一つにし、元気を出して東日本大震災からの復旧・復興を目指すためのシンボルとなるような新たな取り組みとして、全市民の思いを込めて「市の歌」の制定を行ないました

(常陸太田市の公式サイトより、市の歌)
http://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/index.php?code=1587

 マシコタツロウさん(1978年生まれ)は常陸太田市春友町出身で、イマ「常陸太田大使」を担っておられます。

『…公務員の家系に生まれたので、公務員にならなきゃいけないと思っていた。
 僕は大学4年生の時、公務員試験を受けようとするんだけど、「音楽を諦めきれない」「プロになりたい」から勉強が身に入らない。
 それで僕はレコード会社に11本のデモテープを送ったんです。
 これでダメだったら諦めて、勉強に専念しようと。
 でも、そのテープを何故かひたちなか市のつつじ神様の所へ持っていって、お祈りしましたね…』

(My Sweet Ibaraki 茨城ゆかりの人々のエッセイ)
http://mobile.pref.ibaraki.jp/index.cgi?page=2364&rlist=page%3D2649&

 マシコタロウさんは2011年のあの年、常陸太田市を訪れています。
 そのときの模様は、「あめっち」さんのブログ「のんびり町屋らいふ」、2011年11月14日(月)付け日記「まつり 日曜日」でどうぞ。
 なお「あめっち」さんは「常陸太田市町屋町に住んでいます。生まれ育った町屋に引っ越してきて8年過ぎた2児のママです。趣味は、田舎暮らし」!

『「あしたのうた(※1) プロジェクトライブ」も行なわれ、春友町出身のスター「マシコタツロウ」さんもかけつけてくれました。
 今回はコンサート会場が外になりみんなで一体となって感動の連続でした。
 「佐都小」の出身のマシコタツロウさん、現在「佐都小」が「河内小」と一緒に授業していることや、両校とも今年限りでなくなってしまうのでそのことを踏まえて、お話してくれてなんだか嬉しかったです…
 そうそう、「佐都小」の校歌も歌ってました。
 そして現在、小学生が市の合唱コンクールに向けて毎日練習している「ハナミズキ」も歌ってくれたし…
 皆さんご存知のように「ハナミズキ」は「マシコタツロウ」さんの作曲。
 お客さんもいっぱいでみんなで盛り上がってラストを迎えられて良かったです。
 子どもたちも楽しくお手伝いしてくれたし、なにより自分たち大人が楽しかったです。
 準備など大変だったけれど、みんなで一緒に何かを作り上げるこの体験がよかった。
 まつりは見に行くより「参加」するに限りますよ… 実感』

http://www.photobb.net/11091/blog/blog.cgi/2011/


(※1) 「あしたのうた」は下記のサイトをクリックしてじっくり今日は耳を傾けてみましょう!
http://www.youtube.com/watch?v=RFmctqYRfwo



posted by fom_club at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月15日

竜っちゃん乃湯

 さて山歩クラブ5月12日日曜日の立ち寄り湯は、「竜っちゃん乃湯」(常陸太田市天下野町1629 Tel 0294-87-0543)。

 あのぉ〜、湯もそうですけどぉ〜、湯上りの一杯を求め食事処「梅花亭」へ。
常陸太田市の県道33号沿いにある「水府ふるさとセンター竜っちゃんの湯」に併設された食事処です。
 地元産のそば粉で打ったそばと、地場産にこだわった料理が評判の店です。
 おすすめは、凍みこんにゃくの天婦羅が入る天婦羅料理と、ワンコインで食べられる500円の定食や、地元のお肉屋さんのチャーシューが入りのたっちゃんラーメンです。リーズナブルな低価格設定で地域に貢献しています。また、3ヶ月に1度は新メニューが入っています。
 凍みこんにゃくは、地元の伝統食です。県北の寒さ厳しい気候を利用し、一年で氷の張るもっとも寒い時期に2〜3ヶ月もの手間暇をかけて作られます。昔は60軒もあった作り手ですが、今ではたったの1軒となった伝統の凍みこんにゃくを「水府ふるさとセンター竜っちゃんの湯」では、大切に守り続けています。
 竜神大吊橋の近くの地元の人々の憩いの場となっています。近くにはハイキングコースもあり、運動後に温泉を利用してから食事に立ち寄る方も数多く客足が絶えません。
 併設の売店では、数量限定のたっぷりの粒あんがはみでる程入った「炭酸まんじゅう」が人気商品です。
 日光連山や太平洋が一望できる明山やV字形渓谷が四季折々の表情を見せてくれる竜神峡・竜神大吊橋への観光においでの時にはぜひお立ち寄りください

(いばらき「うまいもんどころ」公式サイト、水府ふるさとセンター竜っちゃん乃湯梅花亭)
http://www.ibaraki-shokusai.net/shops.cfm?mode=2&code=388

 すでに竜神峡の大吊り橋のお土産物屋さんで、ドライバー役ご担当の大坂さんから、ヤッホー君は袖を掴まれ、あれ、あれ、「凍みこんにゃくの天婦羅」を食べないと損しますよって教えていただきました。
 これがまた美味、美味、うまかっぺ〜、でもヤッホー君がお買いもとめたのは「凍みこんにゃく」でなく、床の上、段ボールにあったタケノコ。
 油ものを滅多に使わない、まして天婦羅なんて自分で料理したこともないヤッホー君、できるのは煮物だけなんだそうで。
 ここだけの話し、天婦羅油で火事になって山荘が燃えてしまうのが恐いのと、残った油の処理をどうするのか、廃油も捨てたくないので愛車のドリンクに替えたい、しかし工程が分からないんだそうです。
 あのタケノコ、あのタケノコご飯(4月23日火曜日のランチに作りました!)に再チャレンジしようと決意を新たにしたらしいですよ:

筍ご飯.JPG

 ところで「凍みこんにゃく」… 常陸路のスローフード…
こんにちは、コージーです。
 皆さん、凍みこんにゃくってご存知 ?
 凍み豆腐(高野豆腐)ではなくて「凍みこんにゃく」です。

 実はこれ、茨城県は奥久慈地方でしか造られていないと言われる幻の乾物なのです。

 手触りはかさかさして、軽石のような…、大きさは、キャッシュカードくらいですかね…
 冬の寒い時季に、藁を敷き詰めた田んぼの上で、凍結と解凍を繰り返し、キメの細かいスポンジ状になったこんにゃく、それが「凍みこんにゃく」。
 この食材、実はすんごい便利なんです。
 まずは…
 @ 水に15分ほど漬けて、やわらかくなったら軽く揉みながら水を2、3回換えてアクをとります。
 A 軽く絞った後、15分ゆで、絞って水分を切ります。
 B ふ,膨らんでない?
 C さ〜て、これで準備完了。それではいきましょう。
【いばらきクッキング〜しみこん編〜】
◆◆しみこん天ぷら◆◆
・凍みこんにゃく4枚、
・砂糖 大さじ3
・醤油 大さじ3
・水 100CC
・酒 大さじ2
・みりん 大さじ1
 @ 砂糖、醤油、水、酒、みりんを煮立たせ、凍みこんにゃくを入れます。
 A 味が染み込んだら、冷まして軽く絞ります。
 B 通常の天ぷらの要領で揚げるべし
 揚げたてにかぶりつくと、サクサクの衣と、なんともいえないぐんにょり食感が面白い(あの、褒めてますよ)
 ちょっと甘めの味付けですが、そこはお好みで。
 このレシピは、「うまいもんどころ」ホームページの「レシピ集」に掲載されているものを少しアレンジ(簡素化?)したものです

(2011年01月21日(金)更新「しみこん」)
http://ameblo.jp/umaimondokoro-ibaraki/entry-10774664770.html

 レシピも分かったし、ヤッホー君、次回の紅葉の頃、山歩きでなく「しみこん」求め、竜神峡再訪の企画をたてようかなって帰路の車中、大声をだしておりましたようで。

 もうひとつ、お土産物にしたのが「炭酸まんじゅう」。これも常陸路。と言いますか、北関東一帯のスローフード…
農産物加工品の製造販売を手掛ける安中市の高戸谷加工組合(鈴木美智恵婦人部長)の食農体験イベントが昨夏、2012年8月5日、同市松井田町土塩の細野ふるさとセンターで開かれ、園児や児童、保護者ら20人が特産の炭酸まんじゅう作りに取り組んだ。
 地粉と重曹が用意され、子どもたちは生地をこね、あんこを生地で包み、ふかす過程を楽しみながら学んだ。参加した細野保育園の武井春菜ちゃん(5)は「あんこを入れて生地に包み込む作業が楽しかった」と、出来たてのまんじゅうをおいしそうに頰張った。
 炭酸まんじゅうは周辺の細野地区で春と秋の彼岸明け、7月下旬の農休み、8月1日の釜の口開けなどに地域の行事食として作られている。加工組合の高齢化が進む中、地元の親子に商品を知ってもらい、活動に理解を深めてもらおうと県西部農業事務所と共催した

(2012年8月27日(月) PM 01:00j更新、上毛新聞「親子で炭酸まんじゅう作り 安中」
http://www.jomo-news.co.jp/ns/6913459896967762/news.html

posted by fom_club at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月14日

鍋足の弘法なかせ

登山口.jpg

 かくしてこの間の日曜日、山歩クラブ19名さまは、意気揚々と鍋足の深い森に分け入っていきました。

『むかしむかし、鍋足のふもとには、昼でも暗いぐらい木々がうっそうと茂った森が広がっていました。
 この森が、あんまり黒々と茂っており、そしてあんまり広いので、土地の者でも迷ってしまうことがあり、いつの間にか誰も近付かなくなってしまったということです。
 ある時、一人の汚い坊さまが通りかかり、日も暮れかけてきたので、村人に一夜の宿を無心しました。しかし、泊めてやりたくても、どの家でもあいにくと都合が悪かったり、食べ物がなかったりということで、坊さまを泊めてあげられなかったそうです。
「ではしょうがない。野宿をしよう」と坊さまがつぶやくのを聞いた村人が、
「そんならここをいくと小さなお堂があるんだが。でも坊さま、向こうに行くと深い森があって迷ったら大変だ。近づかんようにしな」と教えてやりました。
 礼を言い、野宿の場所を求めて歩き出した坊さまは、あろうことか、さきほど止められたはずの森の方へと歩いていってしまったのです。
 森の中は真っ暗で、昼も夜も、前も後ろも、左も右も、上下までわからなくなってしまいました。
「これはまずい。さっき教えられた森に入り込んでしまったぞ。早く抜け出さなければ大変だ」
 気持ちは焦るがどっちに行ったらいいか、さっぱりわかりません。つまづいて、あちこちにひっかき傷を負いながら坊さまは歩きつづけました。
 どれくらい歩いたか、どのくらい時間がたったのか、それさえもわからなくなってしまった坊さまは、とうとうぺたりと座りこんでしまいました。
「なんで自分がこんな目にあわなければならない。自分も自分だ。なんでこんな所抜け出せない」
 情けないやら、口惜しいやら、次第に悲しくなってきて、とうとう坊さまは、大粒の涙を流しながら、大きな口を開けて、大声で泣き出してしまったそうです。
 森の近くで畑仕事をしていた村人は、何だか人の泣き叫ぶような声が聞こえるのであやしく思いました。
「なんだっぺー」
 声が聞こえるのは、森の端っこの方。村人たちは森に入ってみました。すると、いくらも行かないうちにさっきの坊さまが大きな声で泣いているのを見つけたのです。
「あれまあ、坊さま。もう泣くな」
 すぐに森の外に連れ出された坊さまは、まだ、しゃくりあげていました。なんと、外はまだおてんとうさまがこうこうと照っているのです。さっき村人と別れてから、いくらも経っていなかったんだそうです。村人たちは坊さまを手当してやりました。
 すると坊さまは、なんと「自分は弘法大師だ」と明かしたそうです。それ以来、この深い森を、土地の者は「弘法なかせ」と呼ぶようになり、森の中で大きな声で泣いていた弘法大師さまの話を語り伝えてきました。
(里美むかしむかし「鍋足の弘法なかせ」)
※ この本を購入希望の方は電話にて問合せください:
@ 常陸太田市役所政策企画部情報政策課広報公聴係 Tel0294-72-3111
A 常陸太田市教育委員会生涯学習センター里美学習センターTel0294-82-2204
http://www.satomi-kanko.jp/mukasi/mukasi05_02.htm

 2峰.jpg

 泣いているのか、と思わせるほど顔中、汗ぐしょぐしょになって、森のなかの風の道を駆け抜け、崖を攀じ登り、谷に下り、道迷いもしながら、なんだっぺー、首をひねりながら歩いた深い森。
 やっとこさ、三つ目の岩峰、三角点峰にたどり着いた、とさ。
 めでたし、めでたし。

3峰.jpg

posted by fom_club at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月13日

竜神峡鯉のぼりまつり

 仲間からぞくぞくとこだまがかえってきます:

早々とメールありがとうございます。今日も、最高の山行でした。快調さんのお人柄でしょうか、仲間たちにも恵まれ、天候にも恵まれ、ここのところ山歩クラブはついてますね。そして茨城県、最高です。お酒も美味しかったで〜す。お疲れさまでした。ゆっくり休んでください

 ん? お酒?

 「今日」(5月12日日曜日!)は、地元の地域密着型スーパー「かわねや」で地酒を買いましたね。
 「かわねや」フェスタ店(常陸太田市金井町江向2918 Tel 0294-70-1141)!

『「かわねや」の創業は、明治年間に遡り、茨城県内有数の老舗企業として知られています。
 現在、茨城県北部は常陸太田市に本部を構え、地域にスーパーマーケット5店舗を展開しています。
 私たちの「衣・食・住」の内、「食」を担うスーパーマーケットの経営は、地域密着による顧客満足が鍵を握ると言われる中、「かわねや」は地域において圧倒的な顧客支持とシェアを誇る「地域一番店」を展開しています』
http://www.kawaneya.co.jp/store/#0301

 買ったお酒は、な、なんと3本!
★ 一本目は「おおたの地酒 うまかっぺ」(岡部合名会社茨城県常陸太田市小沢町2335 Tel 0294-74-2171)
『当社は、水戸黄門として人々に知られる徳川光圀が晩年隠居所として構え「大日本史」の編纂を行なった西山荘のある茨城県常陸太田市にあり、市南部の里川流域の低地で、周辺は水田地帯という水、米に恵まれた環境にあります。
 明治8年創業以来、大手ブランドにはない風土が息ずく地酒のもつ良さをいかに継続していくかということで、いい米といい水と心が通う仲間たちで、手造りの精魂込めた酒造りをモットーに年月が経っても、その信念を受け継ぎ、こだわりの中にも心を伝える酒造りをめざしております』
http://www.matsuzakari.co.jp/

★ 二本目は「副将軍」(明利酒類(株)水戸市元吉田町338 Tel 029-247-6111)
『江戸時代末期の安政年間に、初代加藤高藏が水戸藩吉田村(現水戸市元吉田町)において創業した加藤酒蔵店を前身とする。
 およそ160年間、現在地で酒造りに携わってきた。
 当社は、加藤酒造工場を前身に茨城県及び栃木県の酒造家の資本参加を得て、昭和25年9月に誕生しました。
 現在では、醸造用アルコール・清酒・焼酎・発酵調味料等を製造する酒類総合メーカーとして、着実に成長し、皆様に大きなご信頼をいただいております。
 特に、当社が開発した「小川酵母」は日本醸造協会10号酵母として幅広く使用され、当社の技術力は全国の酒造家から高い評価を得ております。
 清酒「副将軍」は小川酵母の特性を生かした淡麗芳醇な酒に仕上がり、近年全国新酒鑑評会においても金賞を連続受賞する、当社がもっとも誇りとする代表的な製品であります』
http://www.meirishurui.com/index.html

★ 三本目は「奥久慈の恵 うまかっぺ」(根元酒造(株)常陸大宮市山方630 Tel 0295-57-2211)
『佐竹氏の家臣が慶長8年に創業して以来400年、山紫水明のこの奥久慈の地で酒造り一筋に参りました。
 全国食味ランキング特Aのお米、「奥久慈の恵 うまかっぺ」を贅沢にも100%使用し醸しました。
 純米のコクと旨みに加えて、奥久慈の清らかな自然を感じさせる、まろやかなのど越しをぜひご堪能ください』
http://kujinoyama.com/kako.htm

早速のメール有難うございました。昨夜来の雨が嘘のように晴れ、サイコーの山日和、思っていたより厳しい山でしたが5月の爽やかな風が 疲れた身体を癒やしてくれました。鯉のぼりも見事でした。ありがとうございました

 ん? 鯉のぼり?
 そうなんですぅ、写真をご参照ください!
 山歩クラブも鯉のぼりまつり、端午の節句でタンゴのリズムに合わせ、ダンゴ踊り!

竜神峡.jpg

『毎年、4月下旬から5月中旬にかけて開催されている「竜神峡鯉のぼりまつり」。
 まばゆいばかりの新緑の中,およそ1,000匹の鯉のぼりが竜神大吊橋を中心とした竜神峡一帯を壮大に泳ぎます』
(常陸太田市公式サイト「竜神峡鯉のぼりまつり」)
http://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/index.php?code=359

今日はありがとうございました。私にとっては予期せぬ難所があり、心ならずも貴重な経験をさせて頂きました。でもこういう経験をすることにより、奥深い山を知ることになるのですね。お疲れさまでした

posted by fom_club at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月12日

鍋足山528.9m

 ヤッホー君の5月11日土曜日のメールから:

こんばんは、尾瀬合宿の件で朝メールをお流ししました。
 至仏山のピストンを諦めざるを得ない状況を山歩クラブも共有しましょう!
 代わりに尾瀬の湿原、初夏の花々が咲き誇る尾瀬の中を鳩待峠から歩いて一泊、翌朝早く小屋を出て、桧枝岐村に下りる縦走コースを代替案としたく考えています。
 ほかにもっと良い場所の提案はぜひ明日5月12日日曜日に!
 明日、いっしょに山を歩く仲間は、19名です。
 いま、ここ神田駅は雨模様。
 それでも神田祭りがはじまりました。
 写真はお神輿を担ぐ地元商店街の皆々さま。
 明朝は雨上がりですね、きっと!

(2013年5月11日 18:44)

KC4A00190001.jpg
 
 その翌朝が雨上がりの本日、5月12日日曜日。
 天候晴れ、風薫る好天です!
 向かうお山歩の場所は茨城県常陸太田市!

鍋足山登山コース。
 三つの岩山からなる鍋足山には中の滝、他40数種の滝があり、48滝に一つかけると弘法大師が嘆いたという伝説がある。
 そそり立つ岩山には岩松が繁茂し、中腹の松林にはマツタケが採れるなど山の幸が豊富である。
 ハイキングコースは、大中に始まり猪鼻峠へ抜けるコースである。
 簡単に登れる山ではあるが、山頂付近は岩場の断崖が続き、足場も悪いので、足腰の弱い方には少々難コースとなっている。
 「鍋足山自然環境保全地域」に指定されており、近くには水戸徳川家の別荘「天竜院」のほか「ぬく森の湯」などの温泉がある

(常陸太田市の公式サイト。「常陸太田市役所」(常陸太田市金井町3690 Tel 0294-72-3111)
http://www.pref.ibaraki.jp/bukyoku/nourin/ringyo/yoku/yoku21.htm

 結果はドレミファソラシドるんるん
 だって、お天気良し、山良し、付録良し、お風呂良し、お酒良し、仲間良し、新緑良し、地元の人良し。
 さっそく「行って帰りました」報告メールが流れたようですよ:

鍋足山、標高528.9m。
 常陸太田市里美地区を代表する山で、通年ハイキング客が訪れています。
 三つの峰があり、その山容が食物を煮る時に使う三脚の鉄器に似ているころから「鍋足」の名が付いたといいます。
 山の神を祭った小さな祠がある山頂からは、東に多賀山地、西には西金砂山と男体山、南西には筑波山など、無数の山々の競演が楽しめます。

 実は山歩クラブの面々、とても親切な水戸市役所の衛生管理課大関雅昭さまと出会ったのでございます。
 大関さまと出会わなければ、とても難しい山ですので、完歩できたかわかりません。
 大関さま、ありがとうございました。
 そして茨城の山はすばらしい!
 地元の方はやさしい!
 地酒はおいしい!
 帰路の車中、また歩きに来ようね、って話しで盛り上がりました。

 参加してくださった仲間たち、19名の皆さん、タイヘンおつかれさまでした。
 感想をぜひお寄せ下さい。
 待ってます。
 おやすみなさい

(2013年5月12日 20:50)

posted by fom_club at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月11日

至仏山登山道が閉鎖

 今日5月11日土曜日の早朝にヤッホー君から一斉メールが配信されました。

おはようございます。6月16(日)-17(月)尾瀬合宿ですが、さっそく山行企画準備に入った途端、次のように至仏山登山道が閉鎖されていることが分かりました:

  残雪期の植生保護のため、下記期間中は至仏山登山道が閉鎖されます。
  閉鎖期間 :平成25年5月7日(火)〜6月30日(日)
  閉鎖解除日:平成25年7月1日(月)。

ということで、山域を変更しての合宿となります。山域については別途ご相談させてください。失礼いたしました


『〜平成25年シーズン「至仏山利用ルール」のお知らせ〜
 至仏山は、7月からの植物の開花時期をはじめ、4月下旬から10月までのシーズン中、季節折々の美しい姿を見せてくれます。
 しかしながら、長年の利用などの影響により、植生の荒廃や土壌の流出などが進みました。
 至仏山の貴重な自然を守るため、さまざまな保護活動が実施されており、そして、利用に当たってはいくつかのルールが設けられています。
 登山者の皆様には、至仏山の利用のルールを守っていただき、至仏山の自然保護へのご協力をお願いいたします』

(公益財団法人「尾瀬保護財団」前橋市大手町1-1-1群馬県庁17階 Tel 027-220-4431)
http://ozenavi.blog85.fc2.com/blog-entry-2655.html

尾瀬は、四季折々それぞれの美しい姿を私たちに見せてくれます。
 雪解けとともに咲き始める可憐なミズバショウ、夏の湿原を一面に彩るニッコウキスゲ、山々や湿原が紅葉に染まる秋、雪に閉ざされ静寂に包まれた冬。
 訪れた人は、その美しさと自然のすばらしさに感動します。

 尾瀬は、福島、群馬、新潟の三県にまたがり、湿原及び湖沼と周囲の森林、山岳がひとつのまとまりをもち、多様で原生的な自然が保たれている地域であり、学術的にも貴重な価値を有しています。
 このことから、日光国立公園の特別保護地区及び国の特別天然記念物に指定されています。

 しかしながら、年間50万人を超える人びとが訪れ、しかも特定の時期に利用が集中するため、登山道や湿原の荒廃、水質の悪化、マイカー利用による混雑などいろいろな問題が生じており、自然への影響が懸念されています。
 尾瀬の湿原を中心とする生態系は、微妙なバランスの上に成り立っており、人からの影響を受けやすい自然です。
 このため、尾瀬の自然にふさわしい利用のあり方が求められています

(公益財団法人「尾瀬保護財団」設立趣意書)
http://www.oze-fnd.or.jp/main/aboutus/aboutus1/aboutus1.files/shuisho.html

 この文章が書かれていた頃の尾瀬は、「日光国立公園」。
 しかしイマは、独立してれっきとした「尾瀬国立公園」!

2007(平成19)年8月30日に、我が国で29番目の国立公園として、「尾瀬国立公園」が新たに指定されました。
 2007(平成19)年7月25日付けで「尾瀬国立公園の指定及び公園計画の決定」について中央環境審議会より答申を受け、2007(平成19)年8月30日の官報告示をもって尾瀬国立公園が新たに指定されました。
 今回の指定等により、我が国の国立公園の数は29、総面積は2,086,790ha(国土面積の5.52%)となります。
 新規の国立公園指定は、釧路湿原国立公園(1987(昭和62)年以来、20年ぶり。
 区域面積は37,200ha(うち日光国立公園からの編入が25,203ha、会津駒ヶ岳及び田代山・帝釈山周辺地域が11,997ha)

(環境省公式サイト、自然環境・自然公園)
http://www.env.go.jp/nature/info/oze/

 生きとし生けるもの、すべてのいのちは平等であり、いのちを何よりも大切にする山歩クラブです。
 残雪の雪解け期の山路を土足でどかどか、どしどし、泥んこで歩き回ったら、道端の草、かわいらしい、ちっちゃな花を咲かせる準備に余念の無い山野草にとっては、人間どもが勝手に踏み込んでこられては、生き死にに関わる大事件です。
 山歩クラブの仲間たちが仏さまに至る山は、もっとほかにもあるでしょう、ということで…

posted by fom_club at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月10日

三ツ峠山自然保存地区

 昨日の山歩クラブ番外編「三ツ峠山」平日山行の折り、ヤッホー君の足がパタッと止まり、
「カッシー、写真やっぱり撮っていく、待って」と。

三ツ峠山自然保存地区
 三ツ峠山は、三ツ峠礫岩層が発達しており、東北部の稜線ぞいには樹齢100年以上のツガの貴重な天然林があり、山腹以下には、ブナ、ミズナラ、ケヤキ等の広葉樹の天然林が存在します。
 林内には、カナウツギ、フタバアオイ、ギンバイソウ、グンナイキンポウゲ、ヒメシャジン等の貴重な草木が生育しています。
 貴重な自然をみんなで大切に守っていきましょう。
  山梨県


 こんな案内板を見つけたからなのです。
 三ツ峠山周辺は山梨県自然環境保全条例にもとづく「自然環境保全地区(三ツ峠山自然保存地区)」に指定されていたのですね。

 だってぇ〜、ホント、林床にはコバイケイソウが。
 ヤマケイの『山に咲く花』への書き込みメモによりますと、この花にヤッホー君がはじめて出会ったのは、2002年(!)7月18日白馬岳登山のときだったそうです:

コバイケイソウ.jpg

 さらに冨士河口湖町では町のほぼ全域が国立公園(冨士山地域)に指定され、さまざまな法規制が重層的にかけられて土地利用を制限し、景観コントロールを図ってきているって:

冨士河口湖町は、世界に誇る冨士山の眺望と四つの湖、山麓に広がる青木ヶ原樹海や冨士ヶ嶺の牧草地、御坂山地や足和田山などの特色のある自然景観を基調として、その中に市街地や農山村の景観、観光地の賑わい景観に加え、多彩な歴史文化的景観を形成しています。
 町土のほとんどが富士箱根伊豆国立公園区域となっている本町におきましては、これまでにも風致・風光の維持について、積極的に取り組んできましたが、2014(平成16)年の景観法の制定を受け、翌年には景観行政団体として景観計画の策定に向けた取り組みを始動しました。
 しかしその後、上九一色村との町村合併、冨士山世界文化遺産登録に向けたさまざまな動きなどにより、幾度となく計画の見直しを図り、ここに冨士河口湖町景観計画を策定しました

(2013年3月、町長渡辺凱保「はじめに」)
http://www.town.fujikawaguchiko.lg.jp/upload/file/toshiseibi/fk_keikanplan.pdf

景観計画は、景観法に基づく法定計画であり、景観行政団体となった市町村が景観行政を進めていくための基本となる計画です。
 景観計画では各市町村の独自性が発揮できるように、それぞれの裁量で景観に関する規制・誘導内容が取捨選択できるようになっていて、創意工夫による個性あふれるまちづくりを推進することができます。
 県内で景観行政団体となっている22市町村のうち、現在までに景観計画の策定が完了した団体は、山中湖村、南アルプス市、北杜市、忍野村、甲府市の5市村ですが、そのほかに17市町村で景観計画策定に取り組んでいます。

・山中湖景観計画 (平成22年8月1日施行)
・南アルプス市景観計画 (平成23年4月1日施行)
・北杜市景観計画 (平成23年10月1日施行)
・忍野村景観計画 (平成23年10月1日施行)
・甲府市景観計画 (平成24年2月1日施行)
・甲州市景観計画(平成25年4月1日施行)
・富士河口湖町景観計画(平成25年4月1日施行)

(山梨県公式サイト、市町村景観計画の策定状況について)
http://www.pref.yamanashi.jp/kendosui/keikankeikaku.html

 ヤッホー君の下町だって、景観行政団体だい!
 
江東区では、深川萬年橋景観重点地区の指定に続き、2013(平成25)年度、亀戸地区、深川門前仲町地区の2地区に新たな景観重点地区を指定し、それにともない「江東区景観計画」を改訂いたしました
(最終更新日:2013年04月01日 18時05分「江東区景観計画について」)
http://www.city.koto.lg.jp/seikatsu/toshiseibi/7774/keikankeikaku.html

江東区は、1990(平成2)年度に「都市景観懇談会」を立ち上げて以来、「都市景観ガイドライン」の策定、「江東区まちなみ景観形成のための中高層建築物に関する要綱」に基づく届出制度の創設、「まちなみ景観色彩ガイド」の策定など、いち早く景観行政への取り組みを進め、1998(平成10)年12月には「江東区都市景観条例」を制定し、その取り組みの一層の強化を図ってきました。
 2007(平成19)年4月には、条例に基づく景観重点地区として、萬年橋周辺地域を、深川萬年橋景観重点地区として第1号に指定し、まちの個性を生かした景観の形成を促進しています。
 このような取り組みを進める中、本区の景観行政をさらに強化していくために、景観法(2004(平成16)年法律第110号)に基づき、2008(平成20)年12月に景観行政団体となり、従来の自主条例を景観法に基づく条例に改正するとともに、良好な景観の形成を促進するために定める基本的な計画として、2009(平成21)年3月に景観計画を策定いたしました

(第1章 景観計画の策定趣旨)
http://www.city.koto.lg.jp/seikatsu/toshiseibi/7774/keikankeikaku/file/01syusikuiki.pdf

posted by fom_club at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月09日

三ツ峠山1785m

 今日5月9日木曜日、ヤッホー君はカッシーとふたりで河口湖方面へ愛車をとばしていました。
 イードラです。
 もう朝の5時、ヤッホー君は下町の車庫をでています。
 今日は寒気が抜けた後の快晴ゆえ、この季節でも大丈夫!
 お冨士さんは雪を冠に抱いたまんま、綺麗なお姿をお見せになるにちがいない、よっしゃ、絶好の富士見山行だい、と踏んだからです。

 午前中は三つ峠山の開運山1785.2m、御巣鷹山1775m、木無山1732mの三山を踏破しました。
 ザンネン、お冨士さんは、外気温があがったせいかすでに靄っておりまして、思ったようなすっきり感はありませんでした。
 しかし、カッシーとヤッホー君に、終日にこにこ微笑みかけてくれていました。

 午後は秘密の花園で芝桜を鑑賞。
 これも冨士山と良くお似合いの景色で、ヤッホー君はただただ口をぽかんと開けたまんま。
 だってぇ〜、写真を添えますのでぜひご覧下さい。
 ね、よだれを垂らさないようにお気をつけあそばれ、?ん? 熾きをつけあそばせ。

芝桜と冨士.jpg

 そして立ち寄り湯は「ふじやま温泉」(富士吉田市新西原4-1524 Tel 0555-72-2922(予約)。
http://www.fujiyamaonsen.jp/index.php

『地下1500mの深度から湧出してくる源泉を、飛騨高山の伝統工芸を駆使した釘を使わない日本最大級の大きさの純木造浴室で満喫できる「ふじやま温泉」。
 秀峰冨士の湯を正しく利用することで、より多くの人びとが健康でより豊かな至福の人生を送って戴けたら幸いである。
(大月短期大学名誉教授田中収「天然の温泉は、悠久の大地の語り部である」)』

「至福の名湯、秀峰冨士の湯 ふじやま温泉パンフレット」

 湯ったり、まったりサイコウの春の一日を過ごしてきました。
 週末の混雑する人出や高速道の渋滞を避け、平日に山行ができることは、もう、ぜいたくの極みもいいところです。
 カッシー、ありがとうございました&おつかれさまぁ〜!

posted by fom_club at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月08日

アジアの本の会

 今日5月8日水曜日、ヤッホー君はイーチャリで「千代田図書館」(千代田区九段南1-2-1 千代田区役所 9・10F Tel 5211-4289・4290)へ。
 昨日、日記に付けた≪1931(昭和6)年に制定された「国立公園法」≫、それに関する立法過程のお勉強結果は、ですので後日ご報告することにして、とにかく図書館に急いだのだそうですが、段取りが悪いったらありゃあ しぃねぇ〜。
 いつもだったら、お寝んねの時間なのにいまごろ日記をつけているんですから、アホなヤッホー君、自業自得と言いますか、結果、自分で自分の首を絞めることになっているのですから、ね。
 どうぞご寛容のほどお願い申し上げまするぅ〜

 さて、千代田図書館:

企画展示「本がきらめくアジア色〜アジアを知る本200冊集めました〜」の関連講演会です。
 「アベノミクス」が一時的に流行していますが、経済成長を追いかける時代はとっくに終わっているのではないでしょうか?
 限りある地球で、限りない成長が可能なはずがありません。
 本当の幸せはどこにあるのか。
 途上国に詳しい勝俣 誠さん(明治学院大学教員)と、「化学肥料・農薬等に依存せず、食物だけでなくエネルギーも自給して自立する農法」を目指して活動している金子美登さん(霜里農場主宰、全国有機農業推進協議会理事長)が、縦横無尽に語り合います

(千代田図書館公式サイト、講演会「経済成長すれば、人は幸せになれるのか」)
http://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20130322-3153/

 大江正章さん(コモンズ代表)が司会担当で、この企画は「アジアの本の会」創立20周年記念展示イベントにあわせた開催でした。

 「コモンズ」(新宿区下落合1-5-10-1002 Tel 5386-6972)は2008年、「第24回梓会出版文化賞特別賞」を受賞しています:

『「週刊読書人」(2009年2月6日号)に記事が掲載されました。
(以下引用)
 「受賞出版社の挨拶から。(中略)コモンズ編集長の大江正章氏は、
≪私自身は特に思っていませんが、今回はユニークな出版活動を評価されたようです。
 私は三つのポリシーを持って仕事をしています。
 まず点数を抑え、丁寧に作って長く売っていく。自分でできる範囲でコツコツ作って極力断裁はしない。
 二つ目は書店営業を重視する。しかし書店さんだけには頼らず自分での直販ルートも開拓してさまざまなところで売っていく。
 三つ目は無借金経営です。どうしても経営が立ち行かなくなれば自分の友人や著者から借りる。そもそもコモンズを作った時点で私はお金が全くありませんでした。その際、コモンズ債を一口3万円で発行して80人くらいの方に買っていただきました。幸い誰も返せとは言ってきません。そうした姿勢でやってきましたし、これからも一切変えずにしっかり仕事をしていこうと思っています≫と述べた』

http://www.commonsonline.co.jp/azusakai.htm

 ところで、「アジアの本の会」って?

『「アジアの本の会」のこれまでの活動:
 広島で第12回アジア競技大会(10月)が開催され、アジアへの関心が高まる1994年。
 戦後50年を前に、アジアと日本の関係を考え直そうと、明石書店の呼びかけで「アジアフェア」を企画。
 「アジアの本の会」を結成し、広島の書店を中心に「アジアいきいき」の統一帯によるブックフェアを全国展開した。
 会結成より19年、アジアフェアの企画をはじめ、「全点リスト」の発行、アジアの本の常設棚確保を目指す長期セットの展開をすすめている』

(「アジアの本の会」公式サイト)
http://asianbooks.web.fc2.com/index.html

posted by fom_club at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月07日

日光美術館

 昨日の日記でヤッホー君、こんな引用をいたしました:

『わが国で1956(昭和31)年に都市公園法が制定されるまで、後にも先にもこと公園に関しての法律的効果をもつものは、この太政官布達だけである』

 ん?公園っていっぱいあるよね、なんだかアタマのなかがぐちゃぐちゃになってきているヤッホー君(ま、いつものことですから、気にはしていませんけど)。

 上野公園は正式に言いますと、「上野恩賜公園」は「都市公園」で、東京都建設局で管理している「都立公園」です。
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kouen/kouenannai/index.html

 「都市公園」とは1956(昭和31)年制定の「都市公園法」に基づき、都道府県、市町村が設置するものが都市公園(国が設置するものは国営公園など)と呼ばれており、法律は国土交通省公園緑地・景観課が所管している法律ということになります。

 えっ!じゃあ、ヤッホー君が歩いた日光は?あれも公園じゃなかったっけ…

 これは「日光国立公園」です。

 昭和31年でなく、1931(昭和6)年に制定された「国立公園法」を前身とする「自然公園法」が法律的効果をもちます。
 1957(昭和32)年に新たに「自然公園法」が制定され、「国立公園法」は廃止されております。
 所轄官庁は環境省関東地方環境事務所となります。
http://www.env.go.jp/park/nikko/

 都市公園で都立公園、自然公園で国立公園と…

 やっとここまでたどり着いて、次の新聞の意味が分かるわけです:

巨匠梅原龍三郎ら昭和期を代表する洋画家たちが描いた国立公園の風景画作品群80点を、所有する国立公園協会(東京都千代田区)が日光市へ無償譲渡する方針であることが昨年2012年8月23日、同協会などへの取材で分かった。
 譲渡候補先は複数あったが、同市出身の画家小杉放菴が国立公園の設置に尽力したことや同市小杉放菴記念日光美術館が日光国立公園内にあることで、同市が国立公園にゆかりの深い場所と判断されたとみられる。

 コレクションは、1931年に国立公園法が制定された際、日本の自然風景の粋たる国立公園を広く国民に知ってもらおうと、同協会が梅原や小磯良平らに依頼し、半世紀以上にわたって描かれた…
 
 今回の譲渡は、公益法人のスリム化方針などによって、2012年3月解散した同協会の所有財産処分の一環。
 国立公園の普及啓発というコレクションの性格上、売却でなく、展示会など一括して活用できる施設に託す方針だったという。

 日光市に決まったのは収蔵可能な美術館が国立公園内にあるほか、放菴が同協会の審議会的組織に参加するなど国立公園の制定運動に深く関わっていたことが要因とみられる。

 同市は、譲渡される全作品を日光美術館に収蔵する方針

(2012年8月24日付け下野新聞朝刊「≪国立公園≫絵画、日光へ 梅原龍三郎らの80点」)
http://www.shimotsuke.co.jp/journal/politics/municipal/news/20120824/860366

 そうなんです、日光田母沢御用邸記念公園から、外山への登山は「日光美術館」を越していくのですが、ヤッホー君への課題だったのです。
 何だろうね、あれ?って… こりゃあ、ホントもう一度行かないと日光は一回転も大転回もしないですね:

山内の小杉放菴記念日光美術館(小野昌紀館長)で開催してきた「美しき日本の風景 国立公園の絵画展」最終日の2013年4月7日、元環境庁国立公園管理官ら専門家を招いた特別企画「日本の国立公園と日光の魅力をさぐる」が同館で開かれた。
 約70人が日光の豊かな自然の成り立ちや日光国立公園の四季折々の美しい風景などを再発見した。

 元環境庁国立公園管理官で日光ネイチャーガイドの宮地信良さんと環境省日光自然環境事務所の宇賀神知則所長が交互に講話する形式で進行。

 宮地さんは30カ所の国立公園をめぐり、戦前は火山により湖や滝の自然景観がつくられた日光などが指定されるケースが大半だったが、戦後は知床や小笠原など生態系の貴重なエリアが指定されるようになった変化や時代背景を説明した。

 日光の自然の魅力について宇賀神所長は「中禅寺湖や華厳の滝など火山がつくりだした美しい風景がこれほど凝縮された国立公園はほかにない」と強調。
 宮地さんは太平洋側と日本海側の中間となる地理的な条件が植物の種類の多さにつながっていると指摘し、「特に千手ケ浜から西ノ湖の奥は人の手が入っておらず、自然のままの姿を多くの人が感じてほしい」と訴えた

(2013年4月8日付け下野新聞朝刊「日光の豊かな自然、再発見 国立公園トークに70人」)
http://www.shimotsuke.co.jp/town/tourism/season/news/20130408/1018209

二社一寺(東照宮・輪王寺・二荒山神社)を中心とした由緒ある文化財の集積地である日光市山内…。
 世界遺産に隣接する、この山内の地において、足下で大谷川と稲荷川が合流し、神橋の赤い欄干を望むことができる高台に、小杉放菴記念日光美術館はあります。
 小杉放菴記念日光美術館では、「自然へのいつくしみ」を基本テーマに、日光市の名誉市民である画家・小杉放菴の画業を御紹介するとともに、この画家を育んだ近代の日光における、さまざまな文化的事象について考察することも目標としています

(美術館の概要紹介)
http://www.khmoan.jp/data/data-0.html

posted by fom_club at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月06日

上野公園

 さて上野公園、これも思わぬ展開を見せます。
 まず、大都会を知らぬ山だし、田舎っぺ丸出しのヤッホー君、野球場にぶちあたって腰を抜かしてびっくり。
 だって、「正岡子規記念球場」とあ・る・で・は・あ・り・ま・せ・ん・か!
 ヤッホー君のこのブログ、先月の4月17日付け日記「子規庵」で、正岡子規が野球に興じていた、と記したのが、ひと月も経たずにこうもど、ど〜んとヤッホー君の目の前に登場したんですから!…!!

1887(明治20)年ごろ、正岡子規が上野公園内で草創期の野球を楽しんでいたことから、愛称がつきました。
 「春風や まりを投げたき 草の原」の句を刻んだ碑が建てられています

(2006(平成18)年7月21日除幕式)
(東京都公式サイトより上野恩賜公園、施設利用案内、スポーツ施設)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/toubuk/ueno/sisetu.html

正岡子規(1867年から1902年)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれました。 名は常規(つねのり)。
 子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、1886(明治19)年頃から1890(同23)年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいました。
 子規の随筆「筆まかせ」には、1890(明治23)年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行なったことが記されています。
 幼名の升(のぼる)にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号を持ち、野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いています。
 また、ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われています。
 それらの功績から平成14年に野球殿堂入りをしました。
 子規が1894(明治27)年から1902(同35)年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2丁目5番11号)の名で公開されています

(2010年10月22日更新、台東区公式サイト「正岡子規句碑を正岡子規記念球場に設置しました」)
http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/shogaikakusyujigyo/bunkakatsudo/shikikuhi.html

 子規の区碑の施工は、「白田石材店」(台東区西浅草3-27-9 Tel 3841-1288)。
http://hakuta-stone.jp/company.html

 そのあとぶら〜り散策ヤッホー君、どういうわけか福島県出身のはず、野口英世博士の像と出会って、ヤッホー君のモットウである≪プロボノ≫が登場、春の夢かとこれもびっくり:

野口英世は、1876(明治9)年11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。
 1898(明治31)年、北里柴三郎主宰の伝染病研究助手となり、1900(明治33)年12月に渡米、1904(明治37)年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータの研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。
 1918(大正7)年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、1928(昭和3)年5月21日、現在のアフリカ・ガーナのアクラで没した。
 享年53歳。
 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。
 英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で≪PRO BONO HUMANI GENERIS(人類の幸福のために)≫と刻まれている。
 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県大玉村出身の玉応不三雄である。
 玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、1947(昭和22)年より募金活動を行なったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。
 その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、1950(昭和25)年には東京都教育委員会山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。
 1951(昭和26)年3月、現在地に造立。
 月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
 なお、銅像前面の標示石・敷石は1971(昭和46)年に会津会が設置したものである

http://www.taito-culture.jp/city/landscape/si_216/053/s1.html

 そして、東叡山寛永寺よりの岐路にまたしてもぶつかったのが、ボードワン博士の像!
 どうして?

オランダの一等軍医ボードワン博士は、単に上野公園のみでなく、日本に公園を誕生させた、名実共に“公園生みの親”といっても過言ではなかろう。
 今でこそ、公園の意義を説く必要はないほど重要視されているが、百年も前、しかも文明開化の波にのって何でも新しく作りかえ、建設する明治初年のこの時期に、あえて空間スペース、すなわち緑地帯を残すことこそ将来の国際都市にふさわしいと教えた。

 このボードワン博士の卓見こそ、明治政府を動かし、日本に公園を誕生させたのである。
 もちろん博士の建白を諒とし、すでに決まっている大学東校の病院建設予定地を変更した太政官も立派なものであると共に、1873(明治6)年1月15日太政官布達第16号で、各府県に「公園予定地を申し出よ」といわれた東京府は、その翌16日に、早くも寛永寺領他を申請したとある。
 何と驚くべきスピード行政ではないか

(上野の歴史を知る、上野恩賜公園開園百年)

『わが国で1956(昭和31)年に都市公園法が制定されるまで、後にも先にもこと公園に関しての法律的効果をもつものは、この太政官布達だけである。

正院達第拾六号府県ヘ
三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ致跡地等是迄群集遊観ノ場所(東京ニ於テハ金竜山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂神社境内嵐山ノ類、然テ此等境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右地所ヲ撰シ其景況巨細取調、図面相添大蔵省ヘ可伺出事
明治六年一月十五日   太 政 官』

(上野の歴史を知る、公園誕生)
http://www.ueno.or.jp/history/index.html

 そして、もう上野公園散策の最後の寄り道は、「下町風俗資料館」(台東区上野公園2-1 Tel 3823-7451)。
 2階展示室では「正岡子規と上野公園」のコーナーがあったので、蜜に誘われる蜂のようにヤッホー君は300円をお支払いし、入館しました:

『「坂の上の雲」の主人公の1人、正岡子規の小作品「上野紀行」と子規が見た当時の面影を残す、上野公園各所の写真を展示しています。
   涼しさや 上野の見ゆる 町はづれ

http://www.taitocity.net/taito/shitamachi/news.html

 子規にはじまり子規に終わり、天海にはじまり天海に終わるいろいろ色彩ある展開を見せた名所(などころ)訪問のGW、かくして終わろうとしています。
 また再びのGWに向けて、し・ゅ・っ・ぱ・つ、し・ん・こ・う!

posted by fom_club at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月05日

東叡山寛永寺

 今日5月5日日曜日、子どもの日、ヤッホー君は童心に帰ってイーチャリ!
 向かう先は、「上野公園」!
 いえ、そのサイクリングでなくって先週金曜日のハイキング、あっ、いやその日光・外山を含む山歩クラブ「駅からお山歩会」の続きなんですよ。
 といいますのも、「神橋」そばの「日光橋」たもとに「天海大僧正の像」があったからです:

天海.jpg

 これで本日をもって≪天海めぐり≫も一回転して、ゼロ地点に立ち帰ったそんなを気がしております。
 それにしても毎度、思わぬ転回をしてきましたね。
 天海大僧正については以下のようにこれまで幾度となく語ってきた思いがしております。
  ★ 2011年10月10日のテレビBSTBSではじめてお名前を知りました。
  (無学文盲のヤッホー君、これまで歴史のお勉強なんてしてませんでした!ハンセイ!!)
  ★ ヤッホー君のこのブログ、2012年10月11日付け日記「名所(などころ)」
  ★ 今春は2013年3月27日付け日記「星野山」で川越喜多院。
 下町からイードラで、川越市まで遠征しちゃいました。小江戸散策というのでなく、喜多院目指し。
 今日も、目指すは天海!
 まずは、「天海僧正毛髪塔及び供養等」で深々とヤッホー君、アタマを下げてお参り!

毛髪塔1.jpg

毛髪塔2.jpg

 その後、「東叡山寛永寺」(台東区上野桜木1-14-11 Tel 3821-4440)へ。

寛永寺.jpg

根本中堂.jpg

 寛永寺ではお参りしたあと、「教育まんが 天海さま」「東叡山 山内図」をそれぞれ600円、300円で購入してまいりました。

 「東叡山 山内図」によりますと、山歩クラブの公式サイトの春、上野の枝垂桜のトップ写真は「国指定重要文化財 清水観音堂」であることが分かります:

『清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、1631(寛永8)年、天海大僧正により建立されました』

 そして「根本中堂」は、と言いますと:

『1698(元禄11)年に建立された当初の根本中道は、1868(慶応4)年彰義隊の戦争の際に焼失してしまいました。
 現在の根本中道は、1879(明治12)年に川越喜多院の本地堂(1638(寛永15)年、3代将軍家光公が建立)を山内子院の大慈院(現 寛永寺)の地に移築し、彰義隊の戦争で焼失を免れた寛永寺の本地堂の用材も加え、再建されました』

 薩長が焼き討ちにした上野の森、しかし、日光東照宮は焼き討ちを免れた、と言います。
 焼かずに保存するよう命令したのが、ときの薩長軍の総司令官、板垣退助だったといいます。
 次回の日光行きの際には、日光開山の祖、勝道上人の像とこの板垣退助の像、もちろん慈眼堂(天海大僧正墓所)にも面会を賜りとう存知願いあげ奉りまする。

posted by fom_club at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月04日

深沙王堂

 昨夜、「連休中、家族やお仲間に囲まれ、くつろいでいるところを闖入し、申し訳ございません」と日記に記した後、鼻ちょうちんをぶらさげて寝入ってしまったヤッホー君。
 楽しかった日光でのタウンウォークの続きを夢に見ていたそうです。
 しかし、闖入してきたのは、ヤッホー君だけではございません、な、なんとまぁ、おそれおおくもかしこくも、なんとまぁ、シカが闖入していたのですね!御用邸。
 シカが毎晩のように現われる、でもそのおかげかサルはでない、とかおっしゃっておられたことを思い出しました。
 御用邸だけではなさそうなんですが、その前にヤッホー君の夢ん中にでてきた昨日のウオークで見つけた特記事項(びっくり、っていうやつ)が、「深沙王堂」:

日光市山内の世界遺産「日光の社寺」で、シカが自生植物や樹皮を食べ荒らす被害が深刻化している。
 国宝・日光山輪王寺大猷院の境内では春に開花するカタクリ約2万5千株が壊滅、ミズバショウやササ、モミの木なども軒並み打撃を受けた。
 2011年の東日本大震災後から食害が拡大しているが、周辺は鳥獣保護区の上、年間200万人以上の観光客でにぎわう“聖域”だけに、駆除は困難。社寺関係者は「過去60年でこんな被害は初めて」と頭を痛めている。

 徳川家光を祭った大猷院境内に群生するカタクリは、人が手を加えることなく、長い年月をかけて徐々に繁殖。毎年4月中旬の開花を、春の風物詩として楽しみしている観光客も多い。
 しかし、ことし2013年は12日時点で、葉すら確認できない状況。
 同寺によると、2010年春まで食害はほぼなかったが、昨年とことしの2年間で壊滅的状態に陥った、という。
 
 日光二荒山神社でも被害は深刻。
 境内の裏山全域に防御ネットを張っているが、道路などを経由して侵入できるため、モミの木の樹皮や下草が食べられている。
 同神社の神職は「ことしになって被害が増えた。お手上げ」と諦めている。
 
 対応策では、行政の特別な許可により鳥獣保護区内でも捕獲が可能だが、県内屈指の観光地でもあるため、同課は「観光客の安全を考慮すれば、現実的に不可能」という。
 県は今後、保護区を現在より6千ヘクタール少ない約2万ヘクタール程度に狭め、駆除効果を高めたい考えだ

(4月13日下野新聞 朝刊)
  日光山輪王寺のカタクリ、シカ食害で壊滅
http://www.shimotsuke.co.jp/town/tourism/season/news/20130413/1021784

 日光のかたくりの自生地はそんなことになったいたのでしたね、われわれは、王城山でかたくりの自生を見てとても良かった、とあらためて日頃の仲間の精進に感謝。
 鎌倉は選から漏れたニュースが飛び交った今日この頃ですが、1999年に国内8ヶ所目の世界文化遺産に登録された「日光二社一寺」。
 この「一寺」が日光山輪王寺で、そのちょうど前に流れるのが大谷川(だいやがわ)。
 その橋のすぐのところにあるのが、「深沙王堂」(じんじゃおうどう)だったのでございます。

大谷川で勝道上人一行を救った深沙王を、勝道上人がまつったところで、神橋の北岸にある。
 深沙王の本地(ほんじ)は毘沙門天(びしゃもんてん)である

(日光観光協会公式サイト)
http://www.nikko-jp.org/perfect/taiyuin/jinja.html
  
 深沙王って、西遊記にもでてきますが、西遊記では、カッパの沙悟杖となって登場してきているそうな。

日光山開山の祖と言われる勝道上人は、735(天平7)年、下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡市)に生まれました。日光開山の道に進んだきっかけは、上人が7歳のある夜に夢の中に現れた明星天子に「仏の道を学び、日光山を開け」と告げられたことといわれています。
 
 天子のお告げに導かれ仏の道に入った上人は、厳しい修行を積み、766(天平神護2)年、弟子10人と共に日光山に入山すべく日光に訪れました。
 ところが、険しい道のりを旅してきた上人一行の行く手に絶壁と、激しい流れの大きな川、大谷川が現れました。一行は対岸への道を探しましたが、どうにも激流を渡る術は見つかりません。
 
 やむなく、一行はその場で護摩を焚き、神仏に助けを求めました。すると、妖しい雲の中から深沙王が現れて、一心不乱に祈りをあげる一行の前に二匹の大蛇を放ちました。蛇はごうごうと流れる大谷川を越えて対岸に架かり、その背からは見る間に山菅(やますげ)が生え、見事な橋となりました。こうして上人一行は無事大谷川を渡り、対岸に日光二荒山神社の起源となる本宮神社を建立、日光信仰の基礎を造ったのでした。
 この伝承から「神橋」はその名を「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」とも呼ばれています。

 なお、現在のような朱塗りとなったのは1636年。1902年に大洪水で流されましたが、2年後、再建されました。2006年、およそ8年にも及ぶいわゆる「平成の大改装」を無事終了し、現在の美しい姿となりました。
 山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては日本一の古橋で、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられています

(日光霧降高原レストラン&ペンション「レスカル」おすすめ<日光の楽しみ方>)
http://www.sunfield.ne.jp/~lescale/sightseeing_information.htm#p1

posted by fom_club at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月03日

日光・外山880m

 連休中、家族やお仲間に囲まれ、くつろいでいるところを闖入し、申し訳ございません。
 山歩クラブは本日5月3日の金曜日、憲法記念日に、GWスペシャルプランを企画、6名で朝の9時半から午後3時半まで、しっかり実施してきましたのでご報告します。
 お天気に恵まれ、終日ご機嫌よく歩いておりました(2万歩を越していたそうです)。

 まずは、「日光田母沢御用邸記念公園」(日光市本町8-27 Tel 0288-53-6767)へ。
 「皇后御学問所」が特別公開中でした(5月6日まで)。
 ザンネン、シダレザクラはもうおしまいで、2階の窓からサクラを見下ろすことはできませんでした。
 しかし庭の散策をしながら、思いのほかに、新緑の美しい庭木や花木、そして草花をこころから堪能できました。
 また公園内にはムサシ、標高634m地点があって、これは国土交通省認定の「とるぱ」(英語でPhoto spot & Parking)というのだそうです。

 「とるぱ」って都内には「シンボルプロムナード公園」「新宿御苑」「東京タワー」の3ヶ所しかないのでございます。
 ウイキによりますと、とるぱとは、国土交通省道路局が2004(平成16)年度より取り組んでいる施策で、撮影スポットと駐車場が整備されている所を≪とるぱ≫として指定しているのだそうです。なお、≪とるぱ≫とは、「撮る」「パーキング」の略称だそうです。

 そのあと外山880mへ登りつめて、山頂でお弁当を広げました。
 外山は写真の通り独立峰。
 男体山2484m、太郎山2368m、女峰山2483mなどの日光の山並みの展望台、すっかり感動してきました。

外山.jpg

男体山.jpg

 山も笑ってくれていました!

 帰路は柵超えをして、小倉山森林公園へハイキング!
 駅前では帰りの電車を待つまでの間、「旭屋食堂」(Tel 0288-54-0674)でたっぷり日光A級グルメ、「ゆば料理」に舌鼓を打ちました。美味しかったこと、美味しかったこと…また行きましょう!
 皆さまにおかれましては、引き続き良い休暇を。
 次回までお元気で、おやすみなさい!

posted by fom_club at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月02日

川原湯温泉

 ところでこの間の日曜日に戻って、と。
 吾妻渓谷沿いを走って王城山へ。
 そして、たいそう奥ゆかしく、彫り物も立派な王城山神社里宮で手を合わせ、お参り。
 樹齢400年とも言われる御神木の神杉(1974(昭和49)年9月21日長野原町指定天然記念物)に、最敬礼。

王城山は「日本武尊」にまつわる標高1123メートルの信仰の山。
 その麓の中村集落に王城山神社はあります。
 毎年8月26日未明に奥宮祭に参列し、2日後の28日に里宮(王城山神社)で列大祭を奉仕します。
 5月には神社大正殿で御神楽が奉納され、8月には「だんご相撲」も行われます。
 また王城山神社の境内には4つの道祖神が安置されているのですが、中でも一番左の道祖神は町内で年代の判る道祖神の中では最古のもので1706(宝永3)年のものです

(川原湯温泉観光ガイド)
http://kawarayu.kazetabi.net/index.htm

 ところで、このサイトは、川原湯温泉からです。
 この古い温泉場は、ダムができれば沈んで消えてしまい、ダムの水面上に安普請の旅館宿になって移転するのでしょうね。
 でもヤッホー君の脳裏に浮かぶのはあの臭いダム。
 プランクトンが異常発生し、濃い緑の水を満々と湛えたあのダム。
 あの千葉県東大演習林の近くのダム湖を想起してしまうんですって。
 なんでそんな役立たずのダムを作るんやろなあ。
 行政のバカ役人どもが、臭い息のかかった学者を動員し、「はじめから結論ありき」の審議をなんとか委員をご指名しお任せし、その答申で、ペットボトルの水を飲みながら電気コウコウと深夜まで点けて残業し(深夜残業代までもちろん、たんまり貰ってポッケに入れて)うまいこと、机上の作文をでっちあげ(それが死後とだもん)、官僚臭いっぱいにただよう企画書を「もちろん環境アセスもすんでいます」と、親から継いでいる二代目、三代目の家業の政治屋、その仲良しグループの偽会で承諾、オッケーすれば、ど、ど、どお〜んとわれわれの税金がコンクリートに化ける…
 センキョでは黙っていよう! まぁそのぉ、あらゆる方面からのご意見を尊重し、決断するときは決断する、とまぁそのぉ、これが議会制ミンシュシュギですので…
 だって地盤、看板、カバンだっけ… とにかく当選しないとね、ミンシュシュギ ニッポン マンセイ!!
 こんなカラクリで自然と、シゼンを台無しにしてしまうやり方って、皆の衆、いいんですかい。
 それでなくったって鼻息の荒いヤッホー君(いやカタクリの目線で、だってぇ)、「許しません!」と息巻いてますけど…

八ッ場ダム(長野原町)が完成すれば水没する川原湯温泉の「聖天様(しょうてんさま)露天風呂」が今年、2013年6月末で閉鎖される。
 旅館の代替地移転に合わせた措置だが、温泉街の貴重な観光資源だけに惜しむ声も出ている。
 露天風呂は、温泉街そばの高台にある。
 管理人不在で入浴管理料は100円。
 湯船は屋根で覆われているが、目隠しの囲いもなく、周囲に木々が茂るなど野趣にあふれ、人気がある。
 旅館経営者や住民らでつくる「川原湯温泉組合」によると、露天風呂は約20年前に造られた。
 今後、温泉街上方の代替地に旅館が移転する動きがあり、新旧両方の温泉街にお湯を使うと、湯量が足りなくなる恐れがあるため、閉鎖を決めた。
 十数年通っているという男性は「こんなに魅力ある風呂は他にない」と残念がるが、樋田洋二組合長(66)は、「川原湯温泉が新しく発展していくための移行措置。仕方がない」と理解を求める。
 露天風呂が閉鎖されれば、同温泉で一般開放している共同浴場は「湯かけ祭り」会場の「王湯」のみになる

(2013年4月30日付け 読売新聞「川原湯名物の露天風呂 6月末閉鎖へ」)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20130429-OYT8T00912.htm

 川原湯温泉って、ね、イマお得なんだって(でもこれって行政のやるお死後と?!):

昔の旅情を残し、自然豊かでのどかな湯治場である「川原湯温泉」は、その昔、源頼朝が発見したと言われており、約800年の歴史を誇っている温泉です。
 草津温泉の上がり湯とも言われ、高温で弱アルカリ性のお肌によいお湯が特徴です。
 温泉街の近くには国指定名勝「吾妻渓谷」(だったら、ダム湖に沈めないで、美しい日本をアメリカに売り渡さないで、取り戻してください、不安倍増さん!)があり、春夏秋冬さまざまな表情を見せてくれます。
 特に秋の紅葉の美しさは格別です。
 遊歩道も整備され自然美を求めるたくさんのハイカーが毎年訪れます。
 また、毎年1月20日、大寒に行われる奇祭「湯かけ祭り」は、ふんどし姿の男達が早朝から湯のかけ合いをして湯の神に感謝するユニークなお祭りとして有名です。
 この「川原湯温泉」は八ッ場ダムが完成するとダム湖の底に沈んでしまいます。
 現在は代替地での新たな「川原湯温泉」の再建が進められており、今年中に2軒の温泉旅館が新規オープンする予定です。
 ぜひ、川原湯温泉へお立ち寄りください

(群馬県公式サイト、河川・砂防・ダム、(国土交通省が進めている八ッ場ダム事業の関連情報)「川原湯温泉にお得に泊まろう!」)
http://www.pref.gunma.jp/06/h5200001.html

posted by fom_club at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月01日

フジクラ 木場千年の森

 ヤッホー君のこのブログ、先月4月24日付け日記「天然記念物 片庭 姫春蝉」で記したのが、「いきものあふれる夏の里山」(茨城県笠間市)!
 NHK水戸放送局の石井優香リポーターがオススメする「天然記念物の大合唱」でした。
 ここは「ビオトープ」です。
 「ビオトープ天神の里」(笠間市南友部1158−3 Tel 0296-77-1101(笠間市環境保全課)でした。

 石炭ストーブでも薪ストーブでもない、この「ビオトープ」ってなに?

 ウイキによりますとドイツ語で Biotop あるいは英語でバイオトープ biotope。
 へえ〜、ビックリ。そうですか、ビールと同じくドイツ語だったんですか、とヤッホー君!
 これは、「生物群集の生息空間を 示す言葉である。日本語に訳す場合は生物空間、生物生息空間とされる。語源はギリシア語からの造語(bio(命)+ topos(場所)」。

 ヤッホー君の今日メーデーの朝キンのなか、このビオトープが下町の木場にもあったことにまたビックリ。

 今度は、腰を抜かすことも、尻餅をつくこともありませんでしたよ。
 ただ、目を丸くして、池の鴨、カルガモのつがいを観察しながら、しばし立ち止まっていたそうです。
 静かです。
 こころがあくびをしています。
 
このビオトープは、荒川流域圏内の東京都江東区木場に位置している潟tジクラの工場跡地に面積約2,200uの一般公開された民間緑地として整備された。
 本設計では、荒川流域圏の観点から、生態系サービスを都市住民に提供することが重要であると捉え、近接する平久川を軸とした生態系ネットワークの形成、荒川流域圏の遺伝子レベルの生物多様性の回復、地場材の活用、生物多様性と景観の両立を目指している。
 これにより、地域住民に永く愛される持続可能な場が形成されると考えた。
 空間構成は、敷地に2つの池を設け、流れで繋ぐ構成とし、地形と植栽の操作により水平方向に自然景観が重層する空間を形成した。
 また、平久川側の池周辺を保護区とし、一方の池の周辺を自然とのふれあう回遊空間を形成することで、人と自然の共生空間を目指した…


 2012.01.05付けコメント:
 当社が設計を行ったギャザリア ビオガーデン「フジクラ 木場千年の森」が以下を受賞。
  ■ ランドスケープコンサルタンツ協会賞 設計部門優秀賞
  ■ 都市公園コンクール (社)日本公園緑地協会会長賞 (企画・独創部門)
  ■ 環境情報科学センター賞 特別賞

「株式会社グラック Global Landscape Architecture Consultant」(中央区東日本橋3-6-17 山一織物ビル5階 Tel 03-3249-3010)
http://www.glac.co.jp/works-19Biogarden.htm

 この会社のサイトには「コラム」というコーナーがあります。
 以下に、2010.07.01更新による社員の井野貴文さんのエッセーを紹介します:

私たちの会社は月に一度何らかの形で飲み会が開かれる。今月も会が設けられた。今月の会は、いつもの飲み会より盛り上がりをみせた。その月一回ある飲み会で感じたことである。
 その飲み会の中では会社に対する考えを言い合う場面もあった。それぞれの社員が自分の考えを、社長を始め上層部の方と意見交換をする。それがうちの会社の良い行事の一つでもある。なかなか大規模な会社だと上層部の方と意見を交換する機会が少ないのが現状だと思う。
 さまざまな話をしたが、その中で理念という話が湧き上がった。ここで持ち上がった理念とは会社の理念もそうだが、物事についての、こうあるべきだという根本の考え方が主のテーマであった。根本の考えを見つめ直すのは会社にしても、自分自身にしても大切なことで、日々構築、成長していくものだと飲み会を通じて改めて思った。
 このような根本の考えは計画、設計でいうとコンセプトであり、企業でいうなら理念やスローガンである。
 コンセプトという言葉はここ最近、広く使われるようになったわりには、その意思が伝わってこないと私は感じている。もともとコンセプトは根本を捕らえた新しい視点、ユニークな主張、独自の提案を持った言葉であるが、造園業界だと多くの計画や設計で同じようなコンセプトや的外れのコンセプトを目にしている。それが本当に適切なコンセプトなのだろうか。コンセプトは人間でいう脊髄やヘソと例えられているが、私が良く見るコンセプトは脊髄が曲がっていたり、ヘソがおかしな位置にあるしている気がしてならない。
 企業レベルで考えてもそうだ。企業のコンセプトはコンパス(羅針盤)であるのに変化が多いコンパスを持つ企業があったり、コンパス持っていない企業がある気がする。コンパスなき航海の行末は誰でも想像がつくだろう。
 そのような重要な根本の考え、コンセプトを考え直し構築、成長させていく環境がうちの会社にあるということは素敵だと改めて感じた。また人を驚かせるような斬新なコンセプトを持つ作品を創造していきたいと思った

http://www.glac.co.jp/column.htm

posted by fom_club at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする