2013年04月30日

道の駅 八ッ場ふるさと館

 ヤッホー君のこのブログ、2011年11月23日とそれ以降の日記をぜひご参照いただければ幸甚に存じます。
 この日は、アーサービナード(アメリカ人、詩人)さんのお話しを聞きに神田の学士会館まで出かけた日です。テーマは:
ダムのひとつ覚え〜八ッ場も原発も根っこは同じ

 どうも気になる八ッ場ダム工事の「ムダ儲け主義」、あくどい自然破壊、故郷を強制的に退出させる処分、地域を鉈で分断する汚いやり方、そんなイマのこの国の縮図のような場所、ナビすらも案内できない場所に山歩クラブは、4月28日日曜日、迷い込んだようでした。

八ッ場ダム(長野原町)建設に伴う住民の生活再建事業で、初の本格的な地域振興施設「道の駅 八ッ場ふるさと館」が4月27日、長野原町林地区にオープンし、大型連休初日とあって、大勢の観光客が訪れた。
 同館ではこの日、記念式典が行われ、高山欣也・長野原町長は「道の駅に続き、他の水没地区の生活再建事業も活発になってほしい」とあいさつ。
 大沢知事も「オープンを契機に、この地ににぎわいが戻ることを期待したい」と語った。
 道の駅は木造一部2階建て約990平方メートルで、野菜の直売所やコンビニ店、食堂、足湯などがある。
 運営会社の社長を務める篠原茂さん(62)は「社員には『明るく元気よく地域を盛り上げよう』と呼びかけた。今日からが本番。成功しなければいけない」と気を引き締めていた。
 来場した同町羽根尾、農業萩原実さん(81)は「道の駅がこの地域を元気にしてくれると期待している」と話した

(2013年4月28日付け 読売新聞「八ッ場道の駅オープン」)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20130427-OYT8T01310.htm?from=popin

 山歩クラブが訪れる前日の土曜日のことですから、翌日曜日が当日。
 たしかにわれわれも行きに見たことは見ています。
 帰りに寄ってみましょう、となったのは良いのですが、帰路、先に寄ったのが、「浅間酒造観光センター」(吾妻郡長野原町向原1392-10 Tel 0279-82-2045)。
 で、そのあと結局、その後寄ろうとした「道の駅」は見つかりませんでした。
 霧ん中か、山ん中か、夢ん中か…

上毛新聞が今朝の社説で久しぶりに八ッ場ダムを取り上げました。
 ゴールデンウイークを前に、ダム予定地では「道の駅」が開業します。
 八ッ場ダム事業における初の本格的な地域振興施設のお披露目を前に、地元紙の上毛新聞は「道の駅」の成功を願う地元民の心情と、その背景事情を伝えています。
 地域振興施設はもともとは、施設の建設費だけではなく、維持管理費も八ッ場ダムの受益者とされる首都圏各都県が負担するはずでした。
 地元がダム計画を受け入れる重要な条件であったこの約束が反故にされ、その代わりに群馬大学の寺石雅英・元教授が提唱し、「道の駅」で採用されることになったのが地元住民の投資による株式会社方式でした。

 記事では、「観光地八ッ場」の中心となるのがこの「道の駅」だとしていますが、もとより、「観光地八ッ場」の中心となるのは、代替地で再建される新しい川原湯温泉街の筈でした。
 1990年代に再建される予定だった新・川原湯温泉街ですが、打越代替地の温泉街ゾーンは、今も工事現場のままです。
 社説は地元住民が置かれている厳しい状況について、以前より踏み込んで伝えています。
 その一方で、ダム計画によって破壊された地域再生のために住民の「したたかさ」が必要、としています!
 これまで全国のダム予定地で、ダムを受け入れた住民が「したたかさ」を求められ、厳しい現実に直面してきました

(2013年4月22日)

八ッ場ダム予定地に間もなく開業する「道の駅」について詳しい記事が群馬版に掲載されています。
 「道の駅」ができた林地区は、吾妻川沿いの一部の家屋や田畑が水没する「一部水没予定地」です。
 1960〜70年代には川原湯温泉街と共にダム反対闘争を担った地域です。
 群馬県の調査によれば、ダムを受け入れる前の1979年、林地区の人口は424人でしたが、現在は275人に減少しています(2012年10月現在)。
 それでも、人口が4分の1に減少した川原湯地区、川原畑地区などの全水没予定地にくらべれば、ダム計画の犠牲は少ないといえます。
 「道の駅」に隣接する不動大橋からは、水没予定地が見渡せます。
 芽吹きの季節を迎えた今、落葉樹が多い八ッ場ダムの水没予定地は目の覚めるような景観が広がっています。
 この自然も八ッ場ダムができれば、濁ったダムの水で覆われることになります
 観光客はダム湖より自然の里山が残ることを望むでしょう

(2013年4月23日)

 以上、4月22日と23日の記事の引用は、「八ッ場ダムニュース」から。
 この発行は、「八ッ場ダム本体工事の中止と水没予定地域の再生を目的とするNGO 八ッ場あしたの会」からです。
 ぜひチェックを!
http://yamba-net.org/

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2013年04月29日

炮碌岩

 ところで王城山への番外編お山歩会の途上、たくさんの課題がだされました。

『各地点には、石で出来た標識があり、それぞれに地名が記されていたので、以下にまとめて置きます。
  一合目/王城山登山道入口
  二合目/押手沢(おしてざわ)
  三合目/鳥屋坂(とりやさか)
  四合目/柴峰(しばみね)
  五合目/傘木(からかさぎ)
  六合目/炮碌岩(ほうろくいわ)
  七合目/舟窪(ふなくぼ)
  八合目/中棚尾根(なかだなおね)
  九合目/お篭り岩(おこもりいわ)・御手洗(みたらし)の池
  十合目/山頂尾根』
(鎮爺 登山日1994年11月23日 ふるさとの裏山、日溜まりハイク「王城山」)
http://gun-mtido.sakura.ne.jp/toujyousan.html

 ヤッホー君に課せられたのは、この「六合目/炮碌岩(ほうろくいわ)」とは何か、究明せよとの仰せでございました。
 耄碌(もうろく)岩とは違い過ぎるし、崩落(ほうらく)岩ではあんまりだし、なんなんでしょうね、と。

投炮碌(なげほうろく):火薬の詰まった玉。点火し木製機具で敵舟へ投げ込む。
 「投炮碌」は織田信長の一向衆征伐における海戦で毛利水軍麾下の村上水軍衆が織田水軍に対して用い功を奏した。
 非常に実践的であった。
 この「投炮碌」に苦戦した信長は1578年、熊野水軍九鬼嘉隆に命じ鉄甲船を建造し、これを率いて木津川沖で毛利水軍を破る

http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2006/04/post_189.html

 つまり火器なのかな、と思いきや、もっと村人の日常の営みに近い意味で語ってくださる方もおられます:

ちなみに炮碌とは割れやすい素焼きの土鍋や皿のようなもののことだそうで、その場所にはそのような色をした岩脈の露頭がある。
 炮碌は昔は一般的な庶民の生活雑器として使われ、炮碌岩と言うだけでその場所が鮮明にイメージできた時代があったのだろう

(赤城の詩)
http://www1.ttcn.ne.jp/nsakagi/020320.htm

 次回、長野原町林地区再訪の折り、お住まいの方に直接お聞きしてみようかと思います。

 もうひとつの課題は、王城山山頂で弁当を広げていたその傍ら、王城山神社奥宮を祀るように花開いていた次の写真の花の名前は何か、でした。
 仲間から早速ご回答がありました、「オキナグサ」!えらいねえ:

オキナグサ.jpg

キンポウゲ科オキナグサ属オキナグサPulsatilla cernua 翁草
 羽毛状にのびた花柱をつけたそう果の集まりを老人の白髪にたとえたもの。
 山野の日当たりのよい草地などに生える多年草。
 全体に長くて白い毛が多い。
 花のあと花茎は高さ30〜40cmほどにのびて、羽毛のかたまりのような実を結ぶ

(山と渓谷社『野に咲く花』(1989年)336頁)

 では、王城山神社里宮のうっそうとした杉木立の下に可憐な花を咲かせていた紫の花の名は、と問えばアブラナ科オオアラセイトウ属ムラサキハナナ(Orychophragmus violaceus、別名ショカッサイ、ハナダイコンとも)だそうです。

『中国原産の2年草で、江戸時代に渡来した。
 観賞用に栽培され、野生化しているものも多い。
 高さは30〜80cm。
 花は淡紫色〜紅紫色で直径2〜3cm』

(同320頁)

 長野原町は花の季節を迎えていました:

ムラサキハナナ.jpg

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2013年04月28日

王城山1123m

 ゴールデンウイーク連休最初の日曜日、皆さんもきっと日本のどこかで(いや、もしかすると外国のどこかで…)、晴れやかにお過ごしだったことと存知おり候。
 山歩クラブは今日4月28日日曜日、先着4人の仲間のご希望者を乗せてマイカーお山歩会!
 25日木曜日朝8時の募集開始(「こんなのあるよ、行って見る会」出欠確認のヤツホー君メール)にもかかわらず、希望者多数となりました。
 さっそく山歩クラブがいっつもお世話になっているバス会社にお問い合わせしましたが、時すでに遅し。
 「5月6日まで人手不足なくらい仕事がつまっている」そうで慶賀に存知おり候。
 けっこう、にっこう、こけこっこう、結構毛だらけ猫灰だらけ、尻の周りはクソだらけってねぇ、言うじゃぁ、ありませんか、仕事があるのは大したもんです。

 そんなこんなで、結局は先着順とさせていただきました。
 もう朝の5時には関越道に入っておりました。
 向かう山域は、てぇ〜と:

渋川からのJR吾妻線の沿線に連なる山といえば、子持山1296m、小野子山1208m、岩櫃山802m、嵩山789mが有名である。
 しかし長野原町の東寄りの林集落北部には、古くから日本武尊にまつわる由緒ある信仰の山、王城山1123mがある

(山と渓谷社、分県登山ガイド『群馬県の山』(1994年)44頁)

 ナビ姉さんには「JR吾妻線長野原草津口駅までお願いします」と言ったはずなのですが、だんだんと走っていることを示す印に、道はありません… 霧ん中か、山ん中か、夢ん中か…
 これは噂の八ッ場ダム工事のせい。

 「コンクリートから人へ」なんて公約掲げて政権の座についた途端に有権者を騙した公約破りばかり、有権者の意思を踏みにじり、国民の政治不信を招いてしまった罪作りの場所の、その後の見聞登山行ともなったのでございました。
 いったん始めた事業は中止にできないお役所仕事! だって前政権が決定したその指示通りに動いて、融通のきかないのが、「行政のバカ役人共」の仕事だもん。
 結局、着々と進捗するダム工事現場、そして底に沈む集落の移転工事現場を横目に見ながらの番外編お山歩会となったのです。

 4人の仲間は、かたくりの自生地から王城山1123mを目指します。
 山頂は、晴天、春の美空で大、大展望台!
 冠雪した浅間山2542m、さらには同じく雪を被った2012夏合宿の舞台となった菅平高原と根子岳2207m、嬬恋村と四阿山2333m、そして本白根山2162mまでず、ず、ず〜いとパノラマが展する別天地でした!
 しかもわれわれだけ!
 山頂でのお弁当はなんとまあ、贅沢な…とっておきのレストランとなったのでございます。

 下山後は王城山神社里宮、そして源泉掛け流し「かたくりの湯」を満喫してきました。
 以上ご報告申上げます。
 写真は最初が鹿除け柵もなく伸び伸びと咲き誇るカタクリの山肌。
 次が王城山神社里宮ではい、ポーズ!頭上にはサクラexclamation×2

P4287361.jpg

P4287410.jpg

 次回を楽しみにしておりますexclamation×2

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2013年04月27日

大都映画

大都映画巣鴨撮影所跡(豊島区西巣鴨4-9-1)
 旧朝日中学校跡地には、映画の撮影所がありました。
 1919(大正8)年の当時の言葉で言うと、天然色活動写真撮影所。
 その後、国際活映→河合映画→大都映画と変遷。
 その頃、近衛十四郎、阿部九州男らのスターが誕生し、大都は数々の娯楽映画を量産。
 1942(昭和17)年の「宮本武蔵決戦般若坂」が最後の作品となり、大映に吸収されました

(2008(平成20)年9月24日更新 豊島区公式サイト「レトロに浸る。街道筋をゆくコース」)
http://www.city.toshima.lg.jp/kanko/sanpo/006175.html

 どうして70年前の1942年、昭和17年が最後だったのか、と申しますと、こんな背景がありました。
 戦争で映画が作れない、作れるのは「国家が必要とする映画」だけという事態があったのですよ:

『1941年8月16日、政府情報局第5部部長川面隆三は、映画統制に呼応して設立された官民による業界団体「大日本映画協会」の常務理事城戸四郎、植村泰二、大橋武雄を招致して「われわれとしてはまことに遺憾だけれども、民間に廻す生フィルムは最早1フィートもなくなった。戦争はいまや文字通り緊迫状態に入り、国産で生産される生フィルムは軍需用で精一杯である。従って、国家が必要とする映画を作ってほしい場合のみ、軍需用のフィルムを特に民間に廻すことは出来るが、民間で、自由に使用するための生フィルムは今後期待出来ない。これが日本の現在当面している臨戦体制である」(城戸四郎(1956)191頁)との政府の意向を非公式に伝えた。
  ※ 城戸四郎(1956) 『日本映画伝』文藝春秋新社

 永田雅一が委員長に就任した背景には、委員会に参加していた大都映画常務安部辰五郎の強い推薦があった。安部によれば、委員会で知り合った「永田さんの映画に対する情熱、見識に魅せられて」自ら「松竹に城戸四郎さんをたずね、『委員会も連日開いているがこのままだと小田原評定にもなりかねない。ここは一つ委員長なり議長なりを決めて議事の進行なり、評議をとりまとめるようにしたらどうだろうか。議長とか委員長には若いが弁舌もあり押しもある永田さんが良いと思うがどうですか』と単刀直入に永田さんを薦めたら城戸さんは『永田君ではどうもネエ…』と余り乗り気ではない風であったので『永田君ではどうもネエ…と頭を捻られる気持ちは解らないでもないが、情報局の連中は若い役人だし、彼らに対等に対抗できるのにはこちらもやっぱり若い弁舌のたつ、押しの強い理論家の持ち駒でなければ太刀打ちできないでしょう。見渡したところこちら側にはそういう立役者は若いが永田さん以外にはいない。それに永田さんはずっと京都にいて東京には今まで顔を出していない。情報局には新顔です。情報局に縁故がなかったことも中立的立場で物がいえるわけで適任だと思うが…』」と述べ、結局「私の永田さん推薦に最初は渋っていた城戸さんも、ようやく腰を上げて承諾してくれて、10人委員会の議長に永田さんが決定した」という(中野節朗(1979)113〜114頁)。
  ※ 中野節朗(1979) 『カツドウ屋風雲録安部辰五郎』連合通信社

 最終的には松竹が興亜映画を、東宝が東京発声、南旺、大宝、宝塚映画を吸収合併し、第3社は日活、新興、大都が合併することによってこの業界再編成は決着することになる…』

(井上雅雄「大映研究序説〜映画臨戦体制と大映の創設〜」立教経済学研究第64巻第3号2011年所収)
http://www.rikkyo.ac.jp/eco/research/pdf/papar/no64/p051_085_3_64_3_inouemasao.pdf

 ほかにも、渡邉武男『巣鴨撮影所物語』西田書店、2009年1月)もお薦め。お買い求め下さいね。以下は書評:

『かつて巣鴨に「映画撮影所」があったことを知る人はもう少ないだろう。
 その名は「大都映画」。
 各映画会社が完全にトーキー化した時代に、低予算のサイレント映画ばかり量産していた映画会社である。
 本書は、「大都映画」の誕生前史から消滅するまでを克明に掘り起こした日本映画史上稀にみる奇書である。
 著者の執念には敬意を表したい(三浦大四郎/元・文芸坐社長)』

http://www.nishida-shoten.co.jp/view.php?num=203

 どんな映画だったのかちょっとだけ。それは1939年10月公開『地平線(ハルマ王/外蒙兵タラハン)』:

明るい面白い大都映画 大都映画株式会社
 大都映画秋季超巨作現代劇部男女優総出演スペクタクル篇 愈々封切
 陸の生命線たる滿蒙国境!!
 明日の戰場として風雲を孕む大平原に炎暑と黄塵、決死的危險を冒して遂に完成せる一億國民必見の一大記録劇映畫
 躍進大都が敢へて世に問ふ日本最初の代表的大陸映画!!
 蒙古現地ロケ二ヶ月、
 本映畫に出場の羊・5000頭 ラクダ・1000頭 牛、馬・数千頭 蒙古軍騎馬・1000頭 蒙古人エキストラ延人員・15000人
 ロケ行程・2500キロ
 御後援  現地○○部隊指導 蒙古軍騎兵團 蒙・彊聯合委員會 風俗考證チハル盟長

 原作・大宅壮一
http://www.geocities.jp/konoejsr/eiga-poster.html#tiheisen

 この映画はですね、徳島新聞社主催で、2010年8月12〜14日、市内徳島ホールで上映されたようです。
 と言いますのも、主人公の考古学者は徳島市出身で人類学の先駆者・鳥居龍蔵(1870−1953)をモデルにした72分の白黒映画です。
 70年も前の貴重なフィルムが、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていることを、県内の映画愛好家らが確認したから、だそうです。
 なお、徳島市には「徳島県立鳥居龍蔵記念博物館」もあります(徳島市八万町向寺山 文化の森総合公園内 Tel 088-668-2544)

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2013年04月26日

江戸名勝探勝

 GWを前に皆さま、ご多忙のことと思います。
 山歩クラブの街歩きで、今日4月26日金曜日は、朝の9時から午後3時まで、しっかりお仕事をしてきました。
 朝の9時は、都営三田線「西巣鴨駅」A4出口をエレベーターで登った地上付近が、待ち合わせ場所。
 ヤッホー君は何度も怪談を探したんですって、でもお化けに出会わなかったそうで、エレベーターしかないので、仕方なく乗ったんですよぉ〜って、ごにょごにょ。
 そうなんです。
 戦前の映画会社「大都映画」の巣鴨撮影所跡を見て、左に折れると、なんと四谷怪談のお岩様の墓のある「妙行寺」、さらに江戸三大閻魔さまのある「善養寺」が最初のランドマーク!
 「善養寺」でおまいり。
 鈴緒で鰐口を鳴らすとお御堂のなかがぱっと灯りが灯って、歯をむきだしにし、炎の後光を背負っている閻魔さまがじろっとヤッホー君を睨み返したもんだから、思わず腰を抜かしてしまい、その後のタウンウオークの足許がふ〜ら、ふら。
 そしてまあ、駒込の江戸五色不動のうちの赤目不動のある「南谷寺」、江戸のやっちゃ場のある「天栄寺」までしっかりと江戸さんリーダーのもと、江戸を感じつつ歩き通しましたのでご報告します。
 まじめな江戸さまがとつぜん、「南谷寺ってなんて読むの?」ってヤッホー君に聞くもんですから、これもまたくそまじめすぎるヤッホー君、正しくお答えせねば、と通りすがりの郵便物配達の方にお聞きしましたら、「なんこくじ」。
 そうしたら江戸さまが、「なんや〜っ爺」なんてお答えするのですから、これでまた腰の次には、しりもちをついてしまいました。
 そんなこんな、最後は「東洋大学」2号館16階にある学食で打ち上げでございます。
 途中の「女子栄養大学」では外部の方の利用はお断りしております、と体よくあしらわれたのでございますが、さすが天下の東洋大学、どうぞ、隣のエレベーターで行かれてください、と神童とうたわれたヤッホー君に、ご許可を与えてくださいました。
 エレベーター?あのぉ〜怪談は?とお聞きしようとヤッホー君は一瞬思ったそうでしたが、せっかくご許可いただいので、しっかりご好意に甘えようか、と、『はい!ありがとうございます!!』

 さすが天下の東洋大学、2013年4月13日、競泳日本選手権で史上初の水泳5冠を達成した萩野公介選手はイマ、東洋大学で学んでいました:

作新学院高(宇都宮市)3年の萩野公介選手(17)が泳ぎ始めたのは生後間もなくから。
 「怪童」と呼ばれた少年時代から競泳男子400m個人メドレーで銅メダルを獲得するまで支えてきたのはいつも母貴子さん(48)だった…
 上級生のクラスに入り、週6日の厳しい練習が続いた。
 泣きながらついていく一人息子に、貴子さんは優しい言葉をかけなかった。
 「≪僕、行かなくていい?≫となっちゃうから」。
 始めたことを簡単に投げ出させたくなかった
 小学3年から転勤で小山市に戻り、現在も通う宇都宮市の御幸ケ原スイミングスクールに貴子さんが車で送り迎えを続けた。
 貴子さんは一昨年の冬から毎月一回、管理栄養士に食事メニューを相談している。
 毎日のメニューノートは4冊目になった。
 「息子がこんなに頑張ってるんだから、できることは何でもしよう」。
 母の思いは、メダルという形になった。
 「いっぱい迷惑掛けたけど、ちょっとは恩返しできたかな」。
 萩野選手は感謝の言葉を口にし、はにかんだ

(2012年7月30日東京新聞、ロンドン・森川清志「≪怪童・萩野≫支えた母 食事ノート4冊目に」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/london2012/shimen/CK2012073002000193.html

 いやあ、天気にも恵まれて、気分よく徘徊できました!
 写真は駒込冨士の登頂記念です!
 参加された7人のサムライ、タイヘンおつかれさまでした&次回までごきげんよう!

駒込冨士.jpg

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2013年04月25日

東京山椒魚

 この間の土曜日、4月20日の楞嚴寺。
 山門から入ったすぐのところにある立て札で、「ヒメハルゼミ」と同じく、目ざとくヤッホー君が見つけたカタカナが「トウキョウサンショウウオ」。
「あれぇ〜?ここは東京じゃないよね、茨城県と栃木県の県境と思ってました!」って叫んで、「ウナ・セラ・ディ東京」(1964(昭和39)年ザ・ピーナッツのヒット曲)を口ずさんでいました(ヤッホー君ってホント、バカだねぇ〜)。

 これは「絶滅危惧種」です。

栃木県茂木町鮎田地区のトウキョウサンショウウオ生息地16.3ha は県の自然環境保全地域として指定を受け、町内有志で組織されたボランティアグループによりその環境が保たれています
(茂木町公式サイト)
http://www.town.motegi.tochigi.jp/motegi/download/1293.pdf

 栃木県宇都宮市でも、トウキョウサンショウウオの保全の取り組みが具体的に紹介されております:
http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/dbps_data/_material_/localhost/sougouseisaku/shiseikenkyucenter/ronnsyuu0110.pdf
 
 もちろん都内でも調査研究が:

「里山」は私たちの先祖の知恵によって、自然を根こそぎ破壊することなく利用してきた結果、人間と生きものがともに豊かに暮らせる環境が維持されてきた場所なのです。
 トウキョウサンショウウオは、こうした「里山」の環境と利用形態に見事に適応した生きものとも言えるでしょう。
 東京都内では、多摩地域の東村山・東大和・武蔵村山・瑞穂・青梅。あきる野・日の出・八王子・日野の7市2町で生息が確認されています。
 いずれも里山環境がよく残された標高100〜300メートルの丘陵地です。
 しかし、東京という大都市が膨張するのにともない、比較的起伏が少なく、土地の改変もしやすいこの地域には、真っ先に開発の手が及んできたのも事実です。
 すでに40年以上にわたって、住宅地・ゴルフ場・学校・レジャー施設などが次々に造られ、生息地の多くが失われていきました。
 最初に発見された、あきる野市草花の生息地もゴルフ場の造成などで消失してしまったようです。
 このため東京都のトウキョウサンシヨウウオは、絶滅してしまうのではないかと心配されており、環境庁によって「保護に留意すべき地域個体群」として、レッドデータブックに掲載されました。
 しかし、生息地の開発がとどまることなく進んでいるにもかかわらず、都内全域にわたっての生息分布調査は、1979年以降20年近くの間行なわれることはなく、トウキョウサンシヨウウオの生息状況を充分に把握することはできませんでした…』

(1999(平成11)年5月6日付け 池の会通信 No.13)
http://www.comp.tmu.ac.jp/animal-ecol/ikenokai/tushin13.html

 「トウキョウサンショウウオ研究会」のサイトもございます:
(HP管理:八王子市南大沢1-1 首都大学・理工・生命科学 助教 草野保先生)
http://homepage2.nifty.com/tkusano/salamander/

『トウキョウサンショウウオ
 海岸地帯から標高300m程度の丘陵地帯や、低山地の湧き水のある雑木林に住んでいます。
 繁殖期は、1月中旬から3月位にかけて丘陵地の谷などにある水田や、池沼などの水たまりにバナナ形の卵塊を産みます。
 トウキョウサンショウウオの成体は、産卵場の周囲の林の中で、ミミズやモグラ、ネズミなどが掘った穴の中や、倒木の下などに隠れて単独で生活しています。
 また、全てのサンショウウオに言えることなのですが、暑さに弱く夜行性のため、産卵期以外では滅多に見つけることが出来ません。
 丘陵地に生活しているため、私たちにもっとも身近なサンショウウオなのですが、開発の影響をもろに受け、生息域が減少の一途をたどっています。
 また、繁殖期のあとには、卵が祭りの夜店などにも出回ることがあり、業者による乱獲も個体数減少に影響を与えていると思います。

 東京都の産業廃棄物処理場問題で、全国的に有名になった「日の出町第二処分場建設現場」は、トウキョウサンショウウオの生息地でした。
 しかも、日の出町では、トウキョウサンショウウオを町の天然記念物に指定しているにも関わらず、工事を認めている有様です。
 行政のバカ役人共は、いったいどういうつもりなんだろう?
 「人間第一」を大義名分に環境破壊を進めるつもりなのだろうか?
 環境破壊は、結局”時間をかけた自殺行為”に他ならないと思いますが…
 …今日も、トウキョウサンショウウオの鳴き声が聞こえる…』

(びっきぃとやまどじょう)
http://www.hkr.ne.jp/~rieokun/saramand/sansyouo/tksansyo.htm

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2013年04月24日

天然記念物 片庭 姫春蝉

茨城県の中央部、笠間市。
 「やきものの里」として知られていますが、緑豊かな里山の風景が残る町でもあります。
 いきものの命あふれる夏、里山のいきものと出会う旅をしてきました。
 オオムラサキやトウキョウサンショウウオなど、貴重ないきものと身近にふれあえるビオトープ。
 北限の生息地として天然記念物に指定されたヒメハルゼミ。
 江戸時代の殿様がわざわざ山中にあずまやを建てて楽しんだという大合唱を聴くことができました。
 里山の自然のすばらしさを、目で、耳で、触って感じました。

 夏の笠間は特にすてきです!
 山や田畑の鮮やかな緑と、広い空の青に癒やされました。
 ビオトープで、大人も子供も生き生きとしている様子につられて、自分も小さいころに戻ったように、虫や植物を発見するのが楽しかったです。
 ヒメハルゼミ(標本)の第一印象は「上品」なものでしたが、その姿からは想像出来ない声の大きさに圧倒されました。
 360度から聞こえる滝のようなごう音は、夏を感じさせました。
 取材中に「今日、鳴いた?」と聞きに来る近所の人が多く、地元の人たちのヒメハルゼミを大切に想う気持ちが伝わってきて、心があたたかくなりました

(旅:行ってみたい!「いきものあふれる夏の里山」(茨城県笠間市)
旅人:NHK水戸放送局 石井優香リポーターのオススメ「天然記念物の大合唱」)
http://www.nhk.or.jp/you-doki/archive/trip/20120723.html

 思えば遠くへ来たもんだ、ですよね。
 2004年っていいますからかれこれ10年も前のことになるのでしょうか、山歩クラブでは女4名男4名の計8名の仲間で、6月4日金曜日から7日月曜日まで、3泊4日で奥秩父を縦走する「山歩きの旅」をしたことがありました。
  1泊目は大弛峠2360mの大弛小屋
  2泊目は甲武信ガ岳2475m下の甲武信小屋
  3泊目は梅雨入りした日でしたね、雁坂峠2050m下の雁坂小屋
 3日目の夜。小屋の管理人から、ムカシお花畑の峠もイマはすっかり笹に覆われてしまって、と聞きながら、夜はストーブを焚き、ストーブを囲みながら、他に誰も客がいないので遠慮することもなく、身内で締めの酒盛りをしました。
 お天気祭りのはずでしたが、宴が終わってもバケツをひっくりかえしたように雨滴がトタン板に叩きつけ、その音にあまりよく、熟睡できませんでした。
 雨があがったのを確認して、翌朝早く、とにかく小屋をでました。
 きっと停滞とか滞留とかしないで、山旅も4日目、もう最後の日にしたかったのでしょうね。
 雁坂峠に登り返して、霧のなか、ジグザクの急斜面をひたすら降りて、峠沢の河原にでて、沢をポン、ポン、ジャポンと渡渉したりして、ようやく沓切沢橋へ。
 ここからは舗装された林道を歩いて、ようやく「雁坂峠入り口バス停」へ。

 この急斜面の下山途中にセミの鳴き声を聞いたもんでした。
 いまでもあの樹木からの「大合唱」が忘れられません。
 耳から離れず、しっかりアタマに残っています。
 それがエゾハルゼミ!
 クマも見ました。クマはヤッホー君を見たのか、モジモジ、ガサゴソ、逃げていきましたが…

 鳴き声までパソコンでは聞こえるんですねえ:
http://protist.i.hosei.ac.jp/pdb/Sampling/Organisms/Animals/Terpnosia_01/20070604b.html

 この西沢渓谷と甲武信ガ岳の間に生息していたヤッホー君のお気に入り、エゾハルゼミ Terpnosia nigricosta と、今回立て札でみた仏頂山のヒメハルゼミ Euterpnosia chibensis chibensis とは、いったいどこがどうどう違うのか…
 どちらもカメムシ(半翅) 目 セミ科 ハルゼミ属なのかな?
 そして両者はもちろん違うでしょうし、ヒメとあるくらいだからきっと、小さいんだろうとヤッホー君は思っています。
それは見た目だから、好きな樹とか、棲んでいる標高とか、いろいろあるんじゃないのかな…

 「茨城県生活環境部 環境政策課」の公式サイトには「自然」というコーナーが設けられています。
 ちょっとだけ覗いてみましょうよ!
 山歩クラブが土曜日の4月20日に歩いて来たところは「笠間県立自然公園」:

『鶏足山塊の南端部の仏頂山、富谷山を中心にした地域と、県のほぼ中央部に位置する佐白山、岩谷寺を中心とした地域が公園区域となっています』

『地質は国見山、仏頂山以北および富谷山における古生界と稲田、高峯一帯の火成岩に大別できます。
 この古生界、鶏足層群と呼ばれ、頁岩、砂岩の互層を主とし、チャートおよび石灰岩を挾んでおり、稲田一帯には大規模な花崗岩体が露出し、この花崗岩が石材として有名な稲田石で、部分的には閃緑岩質のところもあります』

『仏頂山付近の植物:暖帯林でありムベ、マンリョウ、ツクバネガシ、サカキ、ウラジロ等が多い。
 特にイズセンリョウ、ヤブニッケイ、キジョラン、キジノオ等県内でも稀なものが多い。
 これらの他岩谷寺付近及び桜川市富谷山、小山寺境内に暖帯林相を示す自然林が残させています』

『仏頂山近くの動物:片庭八藩神社、楞厳寺には国の天然記念物に指定されているヒメハルゼミの発生地として知られています。
 その他この辺ではミスジチョウ、クロシジミが見られます』

http://www.pref.ibaraki.jp/kankyo/02shizen/kouen/09.html

 自然っていろんな生き物が共存しているところ。
 それをフクシマのように人間の都合で、勝手に棲めなくさせてしまう、それを容認してしまうイマのこの国の住民ってバチが当ると思いますよってヤッホー君!

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2013年04月23日

加藤則芳

 ヤッホー君のこのブログをお読みの皆さま、おはようございます。
 今朝はザンネンな、とても痛ましいニュースが飛び込んできました。

加藤則芳氏(かとう・のりよし=作家)4月17日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため死去、63歳。
 埼玉県出身。
 葬儀は近親者で行なった。
 後日、しのぶ会を開く。
 角川書店勤務の後、国内外の自然をテーマにした執筆活動を続けてきた。
 「ジョン・ミューア・トレイルを行く」で1999年度JTB紀行文学大賞

(2013/04/22-21:38更新 時事ドットコム「作家の加藤則芳氏死去」)
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2013042200890

 ヤッホー君のこのブログ、おととし2011年11月12日付けの日記「歩く旅」でご紹介申し上げてきたところです。
 あわせてお読みいただけますようよろしくお願いいたしますとヤッホー君、手をあわせつつ。
 こころ安らかにお眠りください: 

自らをバックパッカーと呼ぶ加藤則芳さん(62歳)。
 世界中のロングトレイルを歩き、“自然”をテーマに執筆活動を行なってきました。
 ロングトレイルとは、山頂を目指さない山歩き
 加藤さんは、自然の草花などをめでながら、歩くことそのものを楽しむロングトレイルの魅力を日本に紹介した第一人者でもあります。
 スピードが求められる現代社会において、最近では、自分のペースで自然をおう歌できるロングトレイルの人気が高まりつつあります。

 しかし、活動が実を結び始めた2年前、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症。
 医師も驚くほど進行がはやく、現在は自力で起き上がることも出来なくなってしまいました。
 ともに山歩きを楽しんできた仲間たちは、加藤さんの意志を引き継ぎ、国内に新たなロングトレイルを整備しようとかけまわっています。
 「死」という言葉も頭をよぎる中、加藤さんは何を思い、どのように人生を振り返るのか?
 心のうちとその生きざまに迫ります

(2012年5月2日水曜日、再放送は5月9日水曜。アンコール放送は7月12日木曜日、その再放送は7月19日木曜日でした)
 “自然人”であれ 加藤則芳さんのメッセージ
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2012-05/02.html
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/summary/2012-05/02.html

 春の到来とともに、山の樹々や草木はいのちを再生させ、新しい緑を生み、花をつけます。
 葉はもう冷たくない風にゆらゆらそよぎ、そして山を訪れた鳥たちも嬉しそうに囀っています。
 いのちの復活と、新しいいのちの誕生…そんな「いのちのよみがえり Resurgence」物語りのはじまりを選ぶかのようにして、加藤則芳さんは旅立たれていきました。
 ヤッホー君もご冥福を祈りつつ、お写真を添えたく思います。
 最初は先の土曜日20日のお山歩会で出会った立て札の近くで。
 ほら新しい緑の芽生えが、こんなにもこころを柔らかくさせてくれます。
 立て札には『日本の緑・国有林 茨城県森林管理署』とありました:

仏頂山風致保護林
 場所 笠間市片庭字仏頂山 仏頂山国有林42林班
 面積 30.88ヘクタール
 設定目的
  天然記念物片庭姫春蝉の発生地に接続し植物種が豊富なうえ、仏頂山、楞厳寺と一体となって美しい景色を形づくっている現在の林相の保存


日本の緑.jpg

 そして、東京の下町にもあるんですよ、見事な藤棚とツツジ。
 花の饗宴から:

藤棚.jpg

豊洲のつつじ.jpg

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2013年04月22日

つくば 中根蔵

 タケノコ料理って、「アク抜き」がタイヘンだと、そんなこと聞いておりましたので躊躇していたのですが、本来は「米ぬか」、それがなければ「米のとぎ汁」を使う、と。
 それで、「米のとぎ汁」だったらある、ある、ベランダの子どもたちに水遣りしているからと。意を強くしてタケノコを仕入れたのでございます。
 ところでバスが、雨引観音さまから高速道に入る途中、ドライバー役の大坂さんが目ざとく見つけてくださったのが、えっへっへ、おっほっほ、車中お楽しみの回し酒。
 その地酒を仕入れる酒屋さんでございます。
 その酒屋さんがどんぴしゃり、下町っ子でしたねぇ〜。
 「カネはいらんから持ってけ ドロボウ」と、なんと、なんと「米ぬか」をいただいでしまったと、こういうわけだったのですよ!

 それでまぁ、岩波さんご教授の通り、翌日曜日の寒い雨がそぼ降る日中、「アク抜き」ができた、とこういうわけでござんして…

 酒屋さんは「つくば 中根蔵」(つくば市田中1165-1 Tel 0298-67-2096)と申します。
 もとは酒蔵だったようですよ。
 店のご主人は若ぁ〜い、小峰大助さん!Uターン組です。
 ヤッホー君はご主人と意気投合(多分? 相変わらずの片思いですけど…)。
 すっかり感激!まだ酔ってもいないのに、胸のうちいっぱい、いつもの「七点セット」を叫んでいました!
  ★ 中央がいくら景気がよくなったって地方がまずは少しでも元気がでて活気付かないと、
  ★ 若い感覚で地元の元気をひきだす仕掛け人になってください、
  ★ 地元の方々といっしょにもりあげていきましょう、
  ★ 東京は下町からも応援しています、
  ★ お酒の売り方も工夫して(そういう酒屋さんが増えています!)、
  ★ 日本人はやっぱりお米と水と麹から作る日本酒を飲むようがんばりましょう(エッ)、
  ★ 若い人の感覚と地元のお年寄りとの対話(対決でも継承でもなく)ですよぉ〜
とか、熱っぽく訴えておりました!

 車内に戻ってさっそく車内販売。
 「日本酒から足を洗う!」と宣言なさっておられた方も小峰大助さんのような若〜い商店主と出会って、元気がでてきました!
 「じゃあ、今日は立ち寄り湯で足は洗ったし、顔も洗ったし、ま、いいか」って飲んでいただけたのですよ。

 いただいたお酒は、「越後桜酒造(株)」(新潟県阿賀野市山口町1-7-13 Tel 0250-62-2033)の「えちござくら」一升瓶!
http://www.nihonsakura.co.jp/

 このお酒がとっても良かったのです!美酒、銘酒、緑酒!!
 アッ、お酒よりも焼酎、という方は量り売りのほうを仕込んだそうです!

 車窓から見る常陸路は雨、いやあ、今日も満足、快足のお山歩会だったようで…
 誰?車中、孔雀の鳴き声で5月でもないのに五月蝿く泣き喚いていた方は…
 すみません、大坂さま、日高見の道ゆえ…

(どうして紀貫之の時代に、高峯が西の吉野に匹敵する名所=などころ=となっていたのか… この大地、豊穣な肥沃な広大な筑波山の裾野に広がる一面の土地の精霊だったからではないのでしょうか、と)

 終わっちゃ駄目でしょ。
 いただいた小峰大助さんの名刺をご紹介申上げます。ぜひお近くをお通りの際は寄ってあげてお酒をお買い求めくださいませ:

【経歴】
 工学院大学工学部都市建築デザインコース1996年卒業。
 1996年4月、住宅メーカー入社、工事管理者として注文住宅、共同住宅、店舗住宅など約650棟完成引渡しの実績。
【資格】
 一級建築施工管理技士
 二級建築士
 建築知識二級
 二級色彩コーディネーター
 木造建築物組み立て等作業主任者
 石綿作業主任者
 防火管理者

 応援しています!
 資格はもっていないけど、いつも四角四面、歯を喰いしばつて歩いているそうですよ、ヤッホー君も、仲間の皆さまも。
 ねぇえ〜日高見の常陸路、いい気分、夢気分!

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2013年04月21日

タケノコ

 今度のお山歩会では、タケノコを買ったそうです、ヤッホー君!
 雨引観音さまのお土産物屋さんでのことでした!
 ドライバー役の大坂さんにプレゼント、と思いましたが、大坂さんには栃おとめのいちご一箱(!)をご贈呈差し上げることに致しまして、300円のタケノコ一本はしっかりキープしておりました!
 岩波さんから、今回「タケ」に関して二つほど話題提供ありまして、「岳(だけ)」だったらなんとかゴマ化して異見や私見や意見を述べることができますが、「タケ」ですかぁ〜
 でもしっかり答えていたようですよ。
 第一の話題。竹の花…

竹の開花は、「竹の死病」とも言われるほど被害が甚大で、管理次第では絶滅することもあり、開花前の大きさに回復するまでには15〜20年を要するといわれています。
 その原因は学問的な定説はなく、「栄養説」「太陽黒点説」「伝染病説」「周期説」などの諸説があります。
 近年では、竹の開花は竹の生理的な現象で、周期的(60〜70年)に開花している事例が見られています


 そうなんですぅ。福岡県八女市の公式サイトで確認しましたが、八女市って、高級茶「やめ茶」で定着しているのですが、タケノコでも !

2010(平成22)年2月1日に1市2町2村が合併し、八女市の森林面積は31,757haとなり、市の総面積の66%を占めています。
 そのうち竹林については2,461haを占め、全国でも最大級の竹林面積を有しています

http://www.city.yame.fukuoka.jp/sec/k22/banbtop2.html

 ね、一度訪れてみませんか。九州は福岡県の八女市:
http://chanokuni.com/news/no/0119
 
第二の話題。タケノコを買う際のポイント…

少しでも新鮮なたけのこを選びましょう。
 ポイントは、たけのこの「穂先の色」。
 新鮮なたけのこほど、穂先の色は「黄色」です。
 掘り出してから日が過ぎ、鮮度が落ちた穂先は「緑色」になります。
 また、たけのこの根元の部分にあるイボイボもチェックポイント。
 掘りたてで新鮮なうちは白っぽいものが、時間がたつと赤黒くなっていきます

(NHK4月10日(火) あさいちブログ)
http://www.nhk.or.jp/asaichi/2012/04/10/01.html

 で、問題は買ってきたタケノコをどうさばくか、調理するか、ですね。
 そんな悩めるときほど仲間がついているこころ強さときたらありません:
 もう岩波さんから、激励と応援のメッセージが届いておりました! 

本当に今回入手したタケノコは柔らかく、スーパーの物とは、全然違いますよ!
 まず堅い皮数枚はがし、上の方を切り落として、半分に縦に切り、鍋に水とぬかを、ひとつまみ、入れて火にかけます。
 割と早く、柔らかくなります。
 火を止めてから、すぐにとりださず、鍋に入れたまま、冷えるまで待つ…、これが大事です。
 冷めてから、竹ノ子を取り出し、好みの大きさに切り、調理する。
 穂先は、そのまま、刺身で食べられました。
 挑戦してください


 そうですかあ、春の雪が北日本には舞ったそうですが、ヤッホー君、終日タケノコ料理に挑戦!

 ≪まず堅い皮数枚はがし、上の方を切り落として、半分に縦に切り≫のところが良く飲み込めなかったヤッホー君、皮をはがすのが面白くって、いったいどこまではげるんだろうとご自分のアタマの禿げ具合をたしかめるようにはがし続けていった、ヤッホー君。
 さらに上のほうは切り落とたさず生かし、半分にも斬らず、ぬかをひとつかみと少々、水に入れて、タケノコが隠れるほどといっても隠れませんでした!それで煮込みだしんたんですよ。

たけのこ.JPG

 仲間からは次々にお祝いと激励が届きます。
 でも次に『タケノコご飯』に挑戦せよとの業務命令が!

タケノコご飯は、筍を2センチ位、厚さ5ミリ位に切って煮物を作る要領で作ってみてください。
 わからないようでしたら、ネットで、調べてね!
 成功を祈ります


 思わずヤッホー君、返信していたってさ!

アッハッハ、何とクッキングスクールのほうが≪明治を読む・歩く≫より面白そうですね。
 もっとタケノコを買ってくるんだつたね、すご〜い!
 やってみま〜す。
 何ごとも挑戦、挑戦!

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楞厳寺

 ヤッホー君のこのブログ、昨日付けの日記「高峯519.6m」で「朝の9時、室町時代の作という国の重要文化財の山門をくぐりましてお山歩開始」と速報で書き記しました。
 何というところ?
  「楞厳寺」(笠間市片庭775 Tel 0296-72-4733)です。

山門.jpg

 何と読むのでしょうか。
  「りょうごんじ」のようです。

楞厳寺は当初律宗の寺院として宋の千岩が開山したのが始まりと伝えられています。
 一時荒廃しましたが、室町時代に笠間家初代時朝が建長寺(神奈川県鎌倉市)の住職、大拙を招いて中興開山し、歴代笠間家の菩提寺としました。
 現在の山門は、室町時代中期に建てられた茅葺の四脚門で、当時の禅宗様式を伝えるものとして「国指定重要文化財」に指定されています。
 本尊の木造千手観音立像は1252(建長4)年に制作されたもので、桧材の寄木造、玉眼嵌入、像高208cm、歴史的背景や容姿などから笠間六体仏の1つに数えられ、「国指定重要文化財」に指定されています。
 境内には笠間氏累代の墓所があり、歴史を感じる苔むした墓碑が並んでいて、「笠間市指定史跡」に指定されています。
 また、楞厳寺境内を含む裏山一帯が片庭ヒメハルゼミ発生地として「国指定天然記念物」に指定されています

(茨城県笠間市:歴史・観光・見所>楞厳寺)
http://ibatabi.dayuh.net/kasama/hougan.html

 ところで、この楞厳寺を学区とする小学校が、「笠間市立箱田小学校」(笠間市箱田1115 Tel 0296-72-1380)。
 この箱田小学校には空き教室を利用した「箱田資料館(郷土コーナー)」があります。
 外は春には珍しい冷たい雨が降り続いています。
 そんな肌寒い今日の空模様を暖かくしてくれるような一部をご紹介したいと特記しておきます:

私たちの箱田小学校学区は、笠間市内の小学校の中ではせまい学区です。
 ほぼ昔のままの学区で百年以上も続いているからです。
 ですから、学区のまとまりも良く、地域と学校が一体となっていろいろな行事や交流をしています。
 そのようなうるわしい伝統のあるこの箱田学区の中に、茨城県や日本に誇れる文化人や文化財があります


 その例として挙げられているのが「楞厳寺」であり、さらに「高野公男」でした。

高野公男(本名吉郎)は、1930(昭和5)年、笠間市大郷戸に生まれました。
 10代で東京に上京し、数々の仕事をしながら、作詞の勉強に打ちこみました。
 故郷も近い(栃木県塩谷市)作曲家、船村徹との出会いにより、以後26歳の若さで死ぬまで生涯の友としてコンビを組みました

http://www.city.kasama.ibaraki.jp/el-hakoda/hometown/takano.html

 そうなんです。楞厳寺からさほど遠くない場所、笠間市大郷戸集落の入り口には『別れの一本杉記念碑』が建てられています:

  公男の歌魂よ、とこしえに ふる里の山海にねむる
  平成十五年秋 船村徹


 高野公男の墓には、同じく船村徹の次のような言葉が掘られています:

  友よ 土の中は 寒いのだろうか
  友よ 土の中には 夜があるのだろうか
  もしも 寒いのならば 俺のぬくもりを わけてあげたい
  もしも 夜があるのならば 俺の手で灯りを ともしてやりたい
  友よ 俺の高野よ こおろぎの よちよち登る 友の墓石
   昭和四十三年秋 船村徹


 箱田小学校の公式サイト「ふるさとはこだ」のこの欄は次の言葉で締めてありました:

1956(昭和31)年9月8日、あまりにも若い死を国立水戸病院で迎えました。
 高野公男が死んだ後も船村は、片時も高野公男を忘れることなく生き、有名な曲を作り続けています。
 その心の奥には高野公男への鎮魂の思いがあるのだと思います。
 このように皆さんの先輩には、生涯を通して深く強く結ばれた友情を大切にしてくれる友をもった人がいます。
 皆さんも、信じて一生を付き合える親友と巡りあえるといいですね

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2013年04月20日

高峯519.6m

 今日4月20日土曜日は山歩クラブのお山歩会。
 向かった山域は茨城県桜川市高峯。
 すごい楽しい里山歩きになりました。
 朝の9時、室町時代の作という国の重要文化財の山門をくぐりましてお山歩開始。
 お昼には高峯、山頂直下のグライダー発着場でお昼。
 その後、なんと雨引観音さまにも詣で、孔雀とも面会かなうことができました(写真)。

securedownload.jpg

 雨引観音では、今年度の山歩クラブの無事な山行、仲間の健康、それに世界平和を祈ってきたのでした。

 また『明治を読む・歩く』学習会を設け、月に2回はいっぱいアタマも使い、アシもクチも持っているものは全部使おうということになりましたので、学習会参加希望者のお問い合わせをお待ちしております。
 では次回まで、お元気で。

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2013年04月19日

日本之下層社会

 年金ってヤッホー君、いつから、いくら、どのようにもらえるのかな、すごい不安でいっぱいです:

厚生労働省は1月25日、2013年度の公的年金額を発表した。
 4〜9月分の年金額は12年度と同じ水準に据え置く。
 10月分からは過去の特例によって本来より高くなっている水準を1%下げる。
 国民年金を満額で受け取っている人は、12年度と比べ月額で666円減の6万4875円、厚生年金を受け取る標準世帯では同2349円減の22万8591円となる

(2013/1/25 10:27更新 日本経済新聞「13年度の公的年金額、10月分から1%下げ、4〜9月分は据え置き」)

安倍晋三首相(自民党総裁)は4月17日午後、民主党の海江田万里代表との党首討論で、物価上昇が年金受給など国民生活に及ぼす影響について「物価が上がれば物価スライドするから、年金は上がる」と述べた。
 そのうえで、現在の経済政策に関して「まさにデフレから脱却させる道をとった」と強調。
 「景気が上昇して賃金が上がって、そのことによって初めて、年金の保険料収入が上がっていくし、さらには年金財政、年金運用もプラスになっていく」との認識を示した

(2013/4/17 15:25更新 日本経済新聞「首相、物価上昇「スライドして年金は上がる」 党首討論」)

 年金は10月から下げるのに、物価があがればそれにスライドして年金は上がると言ったってぇ〜、消費税もあがるんでしょう…、もう米の消費者物価はあがっています!
 不安倍増ってさ、年末の選挙のとき「TPP断固反対!」とかいって吹聴して歩き回り、政権についたらTPP交渉参加なんて、嘘八百だもん、プリンシプルもない風見鶏だし、インデペンデントでもない「べったり漬け」だもん、信じられませんってヤッホー君。
 
総務省が3月29日発表した2月の労働力調査によると、完全失業率(季節調整値)は前月から0.1ポイント悪化の4.3%だった。
 今年2013年1月分から毎月公表されるようになった有期労働契約で働く人は1449万人。
 役員をのぞく雇用者に占める非正規労働者の割合は36.7%だった

(2013年3月29日10時11分更新 朝日新聞「失業率悪化4.3% 有効求人倍率は横ばい 2月」)
 
 ヤッホー君のこのブログ、1年前の5月12日付け日記「佐竹商店街」で10Kgの米価購入額を報告していますので、近々また価格の比較調査をしてご報告しますって、ヤッホー君。
 貧乏人は麦を食えって言ったって、これは輸入品で円安で下がることはないしなぁ〜

1893(明治26)年から1897(明治30)年までの間に米価は約2.5倍となったが、賃金は、日払いの職工の場合、1.34倍となったにすぎなかった

…1894(明治27)年に日清戦争、1896(明治29)年には三陸海岸を大津波が襲い、翌1897(明治30)年には米騒動が起きている…

子規が正岡家後見となった母八重の弟、大原恒徳に報告した1896(明治29)年12月28日から1897(明治30)年1月31日までの収支決算表がある。
 それによると、収入は月給が29円、陸家から5円、その他1円77銭で合計35円77銭である。
 6畳、8畳、4畳半、3畳の上根岸の家の家賃は5円。米代(3人で37.5キロ)が4円9銭、副食代(肴屋、八百屋、牛乳屋、酒屋、泥鰌鍋屋、菓子屋)が11円35銭。
 このほかに薪炭が1円13銭かかる。文房具、切手ハガキのたぐい、湯屋、髪結いなど諸雑費が3円21銭。
 たまたま暮から新年にかかったこの月は、自宅で催す会の運営費用のほかに、新年ハガキ、歳暮・年玉の臨時費、あわせて9円48銭が出て行った。
 支出の合計は36円22銭。この月の不足は45銭3厘。
 この月の支出合計から年末年始の臨時出費を差し引くと、だいたい27円74銭となり、それは36歳の職工の家計とあまりかわらない。
 子規の家計も毎月赤字であった。
 そうしてこの収支決算表の支出の項目には、子規の病気のために毎月かかる薬価と往診代、平均5円は含まれていないのである。
 月給40円をもらっても子規は貧乏であった

(関川夏央『子規、最後の8年』(講談社、2011年、131-132頁)

 そうそう、横山源之助(1870―1915)が毎日新聞記者時代にはじめたルポ『日本之下層社会』は、1899(明治32)年刊行の作品でしたね(現、岩波文庫)。

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2013年04月18日

陸羯南

 ヤッホー君のこのブログ、4月10日付け日記「若き世代に寄す」で記しましたガンダムこと丸山真男「陸羯南-人と思想」(「中央公論」中央公論社 1947年2月号初出)再読。
 この論考は、次のことばで締めております:

57年前の「日本」新聞を開くと、右上隅の日本という題字のバックに日本地図の輪郭が書かれているのが目にとまる。
 その地図には本州、四国、九州、北海道が載せられているだけだ。
 日本はいまちょうどその時代から出直そうとしている。
 そうして現代もまた、まさに新しき「日本」新聞と陸羯南とを切に求めているのではなかろうか

(前掲書、295-296頁)

 ガンダムが陸羯南を語るに、ふたつのカタカナのキーワードを使っております。
 ひとつはプリンシプル。
 もうひとつは、インデペンデント。

 まずはプリンシプル:

羯南は上に述べたような「国民旨義」を根本的立場として一切の政治的社会的批判をこの原則の上に立って遂行した。
 羯南において偉とすべきはこのプリンシプルに対する徹底した節操であった。
 彼はいかなる現実を対象としたときでもその根本的立場から導き出される帰結をば一切の打算的顧慮なしに適用したのである

(前掲書、288頁)

 「国民旨義」ってどんなの?ぜひ、この論考を探し出してぜひ、ぜひお読みくださいね。

 次いでインデペンデント。

要するに羯南は、いついかなるときでも、現実的要求に彼の原則を従わせたことなく、かえって逆に、一切の党派乃至現実的動向を彼の原則に照して批判した。
 われわれは彼において、真の意味でのインデペンダント(=非・依拠的)な新聞記者をみるのである

(前掲書、290頁)

 いったい「日本」新聞に何があったの?
 そもそも陸羯南ってどんな人?

羯南、陸実(みのる)は1857(安政4)年青森県に生まれた。
 1874(明治7)年仙台の師範学校に学んだが、1876(明治9)年退学上京して、司法省法学校に入った。
 同窓生に原敬あり…、原らとともに退校を命ぜられ、結局学校はどこも正規に卒えなかった。
 1881(明治14)年、太政官文書局の役人となった。
 1888(明治21)年4月新聞「東京電報」を興し、翌1889年、(明治22年は明治憲法交付の年)、これを「日本」と改題した。
 ときに羯南33歳

(前掲書、282頁)

 イマこそ、「日本」新聞と陸羯南、そしてガンダムとを切に求めているのではなかろうか…
 いや、どこかの誰かに求めるのでなく、どこかに、誰かに依拠するのでもなく、上から洗脳されたりするのでなく、「よほどの覚悟をもって、これまでに数倍する嶮峻をのりこえて」、自らそう「ナル」ことが大事なのではないでしょうか…
 うん、うん、と素直に頷いていますよ、ヤッホー君。

 そしてこの「日本」新聞の文芸記者として入社したのが正岡子規。
 月給は15円だったそうです。
 子規より10歳年上の陸羯南は根岸の子規庵の小庭の南側に住んでおり、子規の妹、律が陸家からの頼まれもので裁縫代を内職とし、5円を稼いで家計の足しにしていたこともあったそうな…

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2013年04月17日

子規庵

 4月17日水曜日。風強し。
 ヤッホー君の朝キン、新大橋通りと清洲橋通りとが交差するあたりにひっそりと建っている「説明文」に思わず、体が強ばってしまいました。
 こんなことが書かれてありました:

常磐会-久松邸跡-
  所在地 中央区日本橋浜町2-1-4 19-23番地域
 常盤会は、1883(明治16)年に創設された旧伊予国(現在の愛媛県)松山藩主久松家による在京の旧藩士子弟たちの学資援助組織です。
 久松家は、明治維新後この地に屋敷を構えており、1873(明治6)年の「第壱大区沽券図」には浜町2丁目の内に「4番/3617坪/弐千二円/久松定謨」と記されています。
 常磐会はこの屋敷内に設置されていました。
 常磐会の給費生には育成助成金として毎月の学資や教科書代、旅費などが支給され、明治維新後の混乱期において東京で勉学を志す旧藩士子弟たちの心強い後ろだてとなりました。
 1884(明治17)年に選抜された初代給費生10人のなかには、俳人正岡子規(1867-1902)がいました。
 子規は、1883(明治16)年6月故郷松山から単身上京し、一時期、旧藩主久松邸の書生部屋に寄寓していました。
 上京翌年に初代常磐会給費生に選ばれたことを、半生の喜びの一つだと述べています。
 常盤会は、給費生の便宜を図るため、1987(明治20)年に本郷真砂町(現在の文京区本郷)の坪内逍遥邸跡に常磐会奇宿舎を創設しました。
 子規も1888(明治21)年9月から1891(明治24)年暮れまで舎生として過ごしています

(2017(平成19)年3月 中央区教育委員会)

 この間、久松小学校のことをヤッホー君のこのブログで日記につけたばかり、久松小学校から久松邸で常磐会、さらに正岡子規にまでつながっていきます。

1888(明治21)年春、子規満20歳のときには身長164センチ、体重は52.5キロであった…
 1889(明治22)年から親しさを急速に増した友、夏目金之助(漱石)とほぼおなじ体格であった…
 1890年(明治23)年の夏も子規は帰省した…
 子規の手元をはずれたボールが見学している中学生たちの前に転がってきたとき拾って投げ返したのが、一歳年下なのに伊予尋常中学校(松山中学、愛媛県尋常中学)では河東秉五郎(子規より6歳下、のちの碧梧桐)と同級の高濱清、のちの虚子であった

(関川夏央『子規、最後の八年』講談社2011年3月25日刊 11〜16頁)

 ほら、ね、久松小学校から、子規そして、虚子にまで糸がつながっていきます。
 だってぇ、この3月のおひな祭りのとき、長野県小諸市の「市立高濱虚子記念館」(小諸市与良町2-3-24 Tel 0267-26-3010)におじゃましていたんですよ、ヤッホー君。
 ですので、下町で虚子と子規の最初の出会いに遭遇したような思いでしばし「説明文」の前にたたずんでいたそうです。

 この「ボール」って、サッカーボールではないんですぅ。
 1985(明治18)年に子規がはじめたという「ベースボール」だったんですよ。
 ポジションは獲者(キャッチャー)だったそうです。 そして、

子規は没後100年にあたる2002年、新世紀特別表彰で野球殿堂入りした。
 泉下で微笑していることと思う

   (関川夏央、同書、17頁)
 と知ったヤッホー君、さっそくイーチャリで走っていました。
 心が元気になる場所。
 東京都指定史跡、正岡子規旧居。
 根岸・子規庵(台東区根岸2-5-11 Tel 3876-8218)

子規庵だけが残された。
 それはいま根岸2丁目、ラブホテルのつらなった一画の奥にひっそりとある。
 家は改築されても昔とかわらぬたたずまいで、庭は子規の眺めたそのままの姿である

(関川夏央、同書 401頁)

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子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
 1894(明治27)年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
 子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが、老朽化と1923(大正12)年の関東大震災の影響により、1926(昭和元)年に解体、旧材による重修工事を行ないました。
 1927(昭和2)年、母八重(83歳)没。
 同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。
 1928(昭和3)年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。
 1941(昭和16)年妹律(71歳)没後、1945(同20)年4月14日の空襲により子規庵は焼失。
 幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。
 現在の子規庵は1950(昭和25)年、高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、1952(同27年)東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております

(子規庵について)
http://shikian.or.jp

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2013年04月16日

山桜

 山歩クラブのこの間の日曜日のお山歩会。
 終わってちょっとだけ歩いたのが、下仁田町の「さくらの里」。

『園内に植えられた桜は、45種5000本で最も多い種類はソメイヨシノです。
 またカンザン、フゲンゾウなどの八重さくらも多く、咲く時期がことなることから、4月中旬から5月中旬まで開花を見ることが出来ます。
 昨年のソメイヨシノは4月18日に開花し、25日に満開だったそうです。さて、今年は…』
(山歩クラブかわらばん)

 しかし、今年は…

ソメイヨシノの開花情報です(2013年)
 今年は4月7日(日)に開花し、15日(月)に満開になりましたが、鳥に花芽を食べられる被害等により花が非常に少なく、例年の1〜3割程度です

(下仁田町の公式サイト さくらの里開花情報)
http://www.town.shimonita.lg.jp/shoko-kanko/m03/m02/m01/02.html

 ここは、どんなとこ?

さくらの里は、1977(昭和52)年から1982年にかけて造成され、1983年4月に開園しました。
 公園の広さは、47ヘクタールで東京ドーム10個分に相当します。
 園内には約5千本の桜と3万本の花木が植えられています。
 4月上旬から5月上旬にかけて約45種類の桜が見られ、また晩秋の頃には二期咲きの桜も見られます

(県立森林公園 さくらの里)
http://www.pref.gunma.jp/07/k10410014.html

 「さくらの里」以外にも群馬県には県立森林公園があります:

 森林公園とは、森林が持つ優れた自然環境を保全するとともに、県民の保健休養、学習の場として広く県民の利用に供することと環境保全の啓発を目的とした施設です。
  伊香保森林公園
  赤城森林公園
  赤城ふれあいの森
  桜山森林公園
  みかぼ森林公園
  21世紀の森

(群馬県の公式サイト 県立森林公園のご案内)
http://www.pref.gunma.jp/01/e4810004.html

5月上旬のカンザン・フゲンゾウの開花期は、関東地域最後の花見所として多くの来園者を迎えています。
 毎年5/3はさくら祭を開催します

http://season.tenki.jp/season/sakura/point-216.html

 写真を三葉添付します。一枚目は「さくらの里」の桜、二枚目は山路の途中、岩に抱きつく木の根、三枚目は山路のアカヤシオ:

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 いまNHKBSプレミアムでは、プレミアムシネマ「山桜」(午後9:00〜10:41)を放映しています。
 これは、2008年5月31日公開の作品で、原作は藤沢周平の短編、つまり主なロケ地は山形県。
(【監督】篠原哲雄【出演】田中麗奈、東山紀之、篠田三郎、檀ふみ、ほか【主題歌】一青窈「栞」)

『最初の夫に先立たれ、次の嫁ぎ先でもつらい日々を送っていた野江は叔母の墓参りの帰り道、手塚弥一郎と名乗る武士に出会う。
 手塚は以前、野江に縁談を申し込んできたが、会う前に断ってしまった相手だった。
 初めて会った手塚からの優しい言葉を支えに、つらく苦しい生活を何とか耐える野江。
 その後手塚は、不合理な年貢に苦しむ農民を救うため自らを犠牲にして国を動かす事件を起こし、この事件が野江の運命も大きく変えていく…』

http://www.nhk.or.jp/bs/t_cinema/
 
 映画「山桜」の公式サイトも:
http://www.bandaivisual.co.jp/yamazakura/

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2013年04月15日

ららん藤岡

 昨日の4月14日妙義山へのお山歩会。

 「胃がんに肺がん、大腸がん!」ヤッホー君のすっとんきょうな声が車中にひびき渡りました。

 馬鹿は死ななきゃ治らない、あほなヤッホー君、今日もまたご迷惑を掛けてしまったようで…

1981(昭和56)年以降、「がん」は日本人の死因の第一位となっている病気です。また、毎年30万人以上の人がこの病気で亡くなっています。生涯のうち、がんと診断されるリスクは約2人に1人と推計されているほどで、がんは国民病の一つといえるでしょう
(先月の2013年3月1日付け全国健康保険協会、お役立ち情報、日本人のがん予防)
http://www.kyoukaikenpo.or.jp/g5/cat510/20130225001

 厚労省「2011(平成23)年患者調査」による「がん患者数の多い部位」でみると:
  男性1位は前立腺 女性1位は乳房
  男性2位は大腸  女性2位は大腸
  男性3位は胃   女性3位は胃
  男性4位は肺   女性4位は子宮

 ね、でも、そんな日本人の三大がん、とかの話題ではないのです。

妙義山は、大きく白雲山(はくうんざん、1104m)、金洞山(こんどうざん、1081m)、金鶏山(きんけいざん、856m入山禁止)の3山(いわゆる表妙義山)から成っています。標高はいずれも低いのですが、特異な岩峰、奇岩にて、日本三大奇勝のひとつに数えられています。ここでクイズ…では残りふたつはどことどこでしょうか。車中に報告願います』(山歩クラブかわらばん)

 この報告をしあっていたときのことなんですぅ。

 正解は宗像さんが事前に予習して、報告くださいました:
『耶馬溪(やばけい)(耶馬渓町・大分)、寒霞渓(かんかけい)(小豆島・香川)』

 妙義山は群馬県を代表する上毛三山です。
 他に赤城山、榛名山と並び称されていますが、6月には榛名山1411mを歩こうかと相成ったようですが、間違いないですよねってヤッホー君。
 それとも妙義山中間道から見えた不思議な山、荒船山1423m?

 実は車内販売していた美酒「十代目作右衛門」(蔵元は高井(株)藤岡市鮎川138 Tel 0274-24-0011)に酔いしれていたんだそうです。

『「道の駅ふじおか」(藤岡市中字広町1131-8 Tel 0274-24-8220)は関東好きな道の駅ランキング2009、20010、2011三年連続1位に選定されました。直接高速道路PAとしてご利用いただけます
http://www.laranfujioka.com/index.html

 このなかにある「ハイウエイオアシスららん藤岡」内「観光物産館」(Tel 0274-50-1187)「群馬の地酒」コーナーで美酒を購入していました。

 日本の三大奇岩は、大野亀(佐渡の北端にある標高167mの一枚岩の奇岩)、福岡県八女市の珍宝岩、広島県隠岐の島のトカゲ岩になるようです。

 世界の三大奇勝ともなると、トルコのカッパドキア、ギリシャのメテオラ、中国雲南省の石林になるようですね。

 あほなヤッホー君、実はもうひとつ事件をおこしていました。
 運転役をつとめてくださった大阪さんが集合写真、皆さんを妙義神社の鳥居下で撮ってあげますっておっしゃってくださり、はい、はいとふたつ返事で鳥居まできたのは良いのですが、愛用のカメラをだしたとき、
「あれっ、記録媒体オリンパスのxD Picture Card を装着してこなかった…、だれ?今日の記録係は?」
 すっとんきょうな声をあげていたのです。

 今日の月曜日、「キンコーズ水天宮店」(中央区日本橋蛎殻町1-39-5-1F Tel 5642-8261)でやっと自分のパソコンに取り込んだって、始末書もんですよね、メッとヤッホー君は叱られました。
 やれやれ…

 これでやっと写真ニ葉を添えることができます。一枚目は妙義神社前、二枚目は第四石門前。ふ〜っ…

妙義神社.jpg

第4石門.jpg

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2013年04月14日

妙義山

 4月14日日曜日は山歩クラブ、新年度第一回目の月例お山歩会でございました。
 向かった山域は、妙義山。
 新年度、なにごともなくつつがなく楽しい山行ができますように、とまずはお祈りしたのが、「妙義神社」(富岡市妙義町妙義6 Tel 0274-73-2119)です。

山歩クラブでは2004年11月6日の土曜日に秋晴れのなか、浅間が火を吹いて(2004年9月1日)妙義山山中の葉にもうっすらと灰をかぶったなかを歩いています。さらに5年を経て再び秋、景色が見えない雨模様の白い靄のなか、2009年10月25日二度目の山歩きをしています』(山歩クラブかわらばん)
 
 今回が3度目です。

妙義神社の本社・唐門については、2007(平成19)年9月の台風9号の大雨により本殿の裏山が崩れ、治山工事及び文化財修復工事のため、長期にわたり見学できませんでしたが、ようやく工事が完了し、国指定重要文化財の本社・唐門が2012(平成24)年12月8日より参拝可能となりました
(富岡市観光情報サイト、とみおか浪漫紀行)
http://www.city.tomioka.lg.jp/tourism/001/003/

妙義神社の由来は、と申しますと:

妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景腺の地を占めている。創建は「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。  
 そもそも妙義と云う所以は、後醍醐天皇に仕へ奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて明々魂々たる山の奇勝をめで、明魂と名づけしものを後世妙義と改めたと思われる

(公式サイト)
http://www.myougi.jp/

 2009年10月のときは、妙義神社の本社の脇から、お中道への道がはじまるはずでしたが、その大雨の影響で「通行止め」でした。
 道を聞いて一度、「道の駅みょうぎ(物産センター)」(富岡市妙義町岳322-7 Tel 0274-73-3991)の裏にもどって、地元野菜の直売所脇から歩いて、その本社から通じるはずの「関東ふれあいの道(妙義山中間道)」に分け入ったのでございます。
 三度目の今回、その道も修復されており、本来の道をたどることでできました(ホッ)。

 どこまで歩いたのか、と申しますと、「妙義山 中之嶽神社」(甘楽郡下仁田町大字上小坂1248 Tel 0274-82-5671)まで、です。
 由緒によりますと:

『本社は往昔元「波胡曽神」を山の主と祭られていましたが、倭建尊(日本武尊)が勅命に依り関東御巡行の際に妙義山に登嶽したと伝えれております…』

 ここには明治時代の軍人、等々力氏がこの上で逆立ちした「轟岩」があります。その名前の由来については、大砲岩の見晴らしが効く岩のところで地元の方がヤッホー君に教えてくださいました。
 それを聞いた等々力さん、すっかり喜んで神社で手をあわせていらっしゃいました。

 ここはまた、日本一のだいこく様でも名を馳せております(高さ20m、2005年完成)!
http://www.nakanotake.com/

 歩いた道はとても変化に富んだコースでした。
 それよりもなによりも、道の両端には野の花、すみれ、たんぽぽが笑顔で迎えてくれまして、咲き始めのアカヤシオに、トウゴクミツバツツジが微笑み、また木々には芽吹いたばかりの新緑が産毛をつけて「こんにちは」って挨拶してくれました。


※ ヤッホー君注「波己曽(はこそ)は岩社(いわこそ)の意という」(群馬県生涯学習センター):
http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/ab136025.htm

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2013年04月13日

久松小学校

9月1日正午の激震に打ちつづいて殆どひっきりなしに襲う余震のために、右の数世帯はとりあえず井上家の向い側にあった正応寺の境内に一緒に避難し、そこでゴザを敷いて一夜を明かした。
 けれども一昼夜にわたって天を焦がす劫火は麹町方面から四谷見付に迫り、新宿方面の黒煙も一向におさまらない。
 小学校4年生の私は「おとな」の間でどういう具合に話が進んだのかは与り知らないが、それぞれ子供や赤ん坊をかかえたこの数世帯がこのまま留まるのは危険という判断が下されたのであろう、そのときこれからの避難先として、私の耳にとびこんで来た名がほかならぬ「大山さん」の邸であった

(丸山真男「思い出すままに」、丸山真男他『大山郁夫[評伝・回想]』新評論、1980年所収、216頁)

 これは関東大震災を経験したときのガンダム、小学校4年生のころのお話しです。
 「井上家」とは政教社主でガンダムの母方の叔父にあたる井上亀六(嵩村)で、「大山さん」とは大山郁夫(1880-1955)。
 「右の数世帯」とは、井上亀六(嵩村)、古荘毅、大庭景秋(柯公)のことを言いますかね、このあたりの人間関係はヤッホー君、興味しんしんなんですが、また後で。
 結局、少年ガンダムは東中野の長谷川如是閑宅に変更して避難したのです。

 震災後の復興ですが、まずは「復興小学校」として明石小学校を取り上げてヤッホー君のこのブログ、2011年08月12日付け日記「東京湾大華火祭は中止」で書きましたね。
 「復興橋」としては「清洲橋」をとりあげ、同じくヤッホー君の2011年10月08日付け日記「昭和6年の修学旅行」で書きました。
 ところで、ヤッホー君、「復興公園」まであったというのでびっくりしました:

関東大震災の際に発生した火災に対して、各地の公園が防火や避難所として大きな役割を果たしたことから、帝都復興事業では、都市の防火帯として公園を確保することに重点が置かれた。
 1924(大正13)年、特別都市計画委員会において、東京では国施行の三大公園
   隅田公園、
   浜町公園、
   錦糸公園
と東京市施行の52ヶ所の小公園の設置が議決された。
 建設費用は、三大公園についてはその四分の一を東京市が負担し、市施行の小公園についてはその三分の一が国庫による補助を受け、総額25,744,158円であった。
三大公園は、帝都復興局公園課の折下吉延らによって設置が進められた。
 面積はそれぞれ4万数千u以上の大規模な庭園風の近代公園で、普段は市民の憩いの場として、非常時には避難場所としての役割を果たすように設計された。
 小公園は、東京市公園課の井下清らによって、不燃化・耐震化された復興小学校に併設して52ヶ所に設置された

(関東大震災 復興データベース 復興公園)
http://kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html

 つまり、浜町公園は(我が下町の誇るべき墨田公園も錦糸公園もそうなんですけど)、「復興公園」なんですねえ。
 小公園って、復興小学校に隣接して作られた…そうですか、浜町公園から少し歩いた久松署の側に「久松小学校」がありました。
 日本で一番古い小学校は、同じ中央区の「阪本小学校」のはず。
 久松小学校も阪本小学校も復興小学校です!

 どっちが古いか…、ヤッホー君のこのブログ、2013年03月22日付け日記「熊井明子」にありますように、『阪本小学校は、今年、創立139年を迎えます。1873(明治6)年5月7日、「第一大学区第一中学区第一番官立小学 阪本学校」として開校しました。学校の敷地は、肥後細川藩下屋敷であったと言われています』として紹介しましたよね。

 ちょと待てよ。阪本小学校は肥後細川藩下屋敷であった…
 そうですか、「浜町公園」も肥後細川藩下屋敷なんですけど、細川藩は複数、下屋敷をお持ちだったんだ、まさか、浜町公園と阪本小学校も同じ敷地だったとか…?!

 「浜町公園」には、加藤清正を祀る清正公寺があるんですよ。

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 それにして「久松小学校」も古いのです:

1873(明治6)年3月、校地を久松町38番地(越前勝山藩主小笠原左衛門佐長守屋敷跡)に決定。「第一大学区第一中学区二番小学」として創立。
 1873(明治6)年7月開校式挙行、在籍児童数70余名。
 この時点で校名を「第一大学区第一中学区二番小学 久松学校」に改称(と考えられる)。
 由来は伊予松山藩主の末裔・久松定謨伯爵の巨額の寄付によるもの

http://www.chuo-tky.ed.jp/~hisamatu-es/index.cfm/1,0,15,html

立原道造ここに学ぶ
 日本の代表的な抒情詩人の一人、立原道造(たちはらみちぞう)は、本校を1927(昭和2)年に卒業しました。
 生家は橘町(現、東日本橋3丁目)で荷造り用の木箱を製造していました。
 幼くして父を失いますが、母、登免、2歳下の弟、達夫(本校卒)とともに慈愛に満ちた幼年期を過ごし、小学校時代は6年間を首席で通しました。
 やがて、絵画、音楽、短歌、天文など幅広い分野に関心が向き始め、府立三中,一高、東大と進むうち、その創造的な才能が開花して行きます。
 大学では建築学科に入り、成績優秀者に与えられる辰野金吾(*)賞を、在学中三度も受賞しました。
 その一方、室生犀星、堀辰雄らと交流を深め、文芸誌"四季"を舞台に、ソネット形式(14行詩)に独自の世界を構築しました。
 わずか24年の短い生涯でしたが、草や木や、鳥や雲にも繊細な筆が及んで、いまもなお多くの人々の心を捉えています。
  * 辰野金吾は、東京駅舎、日本銀行などの設計で知られる

(2007(平成19)年11月17日 母校開校135周年記念式典を祝って 久松小学校校友会)

 立原道造のポエム『夢みたものは』:

   夢みたものは ひとつの幸福
   ねがったものは ひとつの愛
   山なみのあちらにも しずかな村がある
   明るい日曜日の 青い空がある

   日傘をさした 田舎の娘らが
   着かざつて 唄をうたつている
   大きなまるい輪をかいて
   田舎の娘らが 踊ををどつている

   告げて うたつているのは
   青い翼の一羽の 小鳥
   低い枝で うたつている

   夢みたものは ひとつの愛
   ねがつたものは ひとつの幸福
   それらはすべてここに ある と

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2013年04月12日

新教育指針

 サッチャー元首相の死去のニュースもそうなんですが、1946(昭和21)年11月3日に公布され、翌1947(昭和22)年5月3日に施行された日本国憲法について述べた皇居前広場での記念式典での吉田茂元首相の言葉がヤッホー君、どうしても、アタマに響いています。

私たちが国家、生活の末端まで新憲法の精神をしみとおらせ、徹底するならば、必ず我が国は日ならずして自由と平和を愛する幸福な国家として復興し、世界人類の進歩に大いに貢献すると信じて疑わない

 そしてヤッホー君たち山歩クラブで、下町の同じ地域にあったのに一度も訪れたことがなかった『東京大空襲 戦災資料センター』に初めて訪問し、ドイツのドレスデンからこの春、来日して講演してくださったノイツナーさん(53)が締めに残していった言葉も、アタマに響いています。

最初の爆弾で戦争がはじまるのではありません。
 最後の爆弾で戦争が終わるわけでもありません。
 戦争が起きない社会、
 公平な社会、
 人間が人間らしく生きられる社会
を世代間の交流、交換、対話を通じて実現していきたいのです

(ドイツ語からの通訳、萩原イルカさん)

 1946(昭和21)年11月3日に交付された日本国憲法、その半年前の5月15日、文部省(当時)は『新教育指針』を発表しています:
 
今日軍人や政治家や財界人や思想家などのうちで、戦争責任者として、マッカーサー司令部から指名せられ、もしくは日本国民から非難せられてゐる人々は、かうしたあやまちをおかした人々である。

 しかし指導者たちがあやまちをおかしたのは、日本の国家の制度や社会の組織にいろいろの欠点があり、さらに日本人の物の考え方そのものに多くの弱点があるからである。
 国民全体かこの点を深く反省する必要がある、とくに教育者としてはこれをはつきりと知つておかなくてはならない。
 われわれは次にこれらの欠点、弱点をあげてみよう。

(一)日本はまだ十分に新しくなりきれず、旧いものがのこつてゐる。
(二)日本国民は人間性・人格・個性を十分に尊重しない。
(三)日本国民はひはん的精神にとぼしく権威にもう従しやすい。
(四)日本国民は合理的精神にとぼしく科学的水準が低い。
(五)日本国民はひとりよがりで、おほらかな態度が少い


 吉田茂元首相が述べたように、
 新憲法の精神をしみとおらせなければ、
 新憲法を徹底することをさせなければ、
 我が国は自由と平和を愛する幸福な国家として復興できないし、
 世界人類の進歩に大いに貢献することにもならない…
 そうなんだってヤッホー君は、今朝もぼんやりと考えています。
 だって、締め方が緩かったとか、同党っていう新しい党でもできたのでしょうか、司法が選挙制度に異論を唱えることに反発したとか(学校時代に三権分立って習った覚えがありますねぇ〜、三っつの相互の抑制と均衡=チェック・アンド・バランス=によって、権力の集中と乱用を防ぐ、とかねぇ、だから同党の議員さんって、もう学力まで低下した政治家たちで立法府を占め、家業か稼業になっている証しですよねぇ〜)、ほんとうにこの国に住む人びとのこころがメルトダウンしたかのような報道に接してのことです:

汚染水は接合部から、3号貯水槽上の縦横2〜3メートルの範囲に漏れた。
 ストロンチウムなどが含まれ、東電は放射能量を63億8000万ベクレルと推定している。
 移送ポンプを起動した際、作業員や原子力規制庁の保安検査官らが立ち会っており、3分程度で漏れが見つかった…。
 東電が移送を中止し、配管接合部を分解して原因を調べたところ、締め付けが緩かった可能性がある

(2013/04/11-23:35更新「時事通信」)

最高裁が違憲状態とした「1票の格差」が拡大した昨年12月の衆院選は違憲だとして、新潟市の男性が新潟1区の選挙無効を求めた訴訟で、東京高裁(設楽隆一裁判長)は4月11日、「違憲」の判決を言い渡した
(2013年4月11日 18時45分更新「東京新聞」)

衆院の憲法審査会は4月11日、第6章「司法」を議論した。
 この中で、自民党議員が、先の衆院選での「一票の格差」をめぐり、全国の高裁で相次いだ違憲・無効判決に対し、相次いで異論を唱えた。
…最高裁は2011年3月に衆院の選挙制度が違憲状態と判断。
 国会はその状態を2年近く放置したまま昨年末の衆院選を行った。
 そのことが今年に入ってからの一連の高裁判決につながっているが、そのことに対する反省の弁は、同党議員からは、ほとんど出なかった

(2013年4月12日「東新聞」朝刊)

 こうした文脈から、次の二つの文章もまた噛み砕いて飲み込み、牛さんの反芻のようにしっかり肝に銘じておかなきゃ、と決意を新たにした4月12日金曜日、朝のことでした。
 だってぇ〜、また「戦前」になりそうなんだもん:

『「新教育指針」が、真に新教育指針であるためには、いかなる意味に於ても、明治以降の日本教育へのきびしい批判から出発する以外に道はない。
 そして、それは当然、教育勅語につきあたらざるを得ない。
 忠孝道徳の如きは人間が自我確立の途上に於て、まっさきに対決すべき観念ではないか。
 この対決を避けるところに、新しい市民社会の倫理の生れる余地はない。
 「新教育指針」は、これらの点に一言半句もふれようとはせぬ。
 それどころか、文部大臣は、教育勅語の擁護をさえ唱えている』

(臼井吉見『≪展望≫或る編集者の戦後』創世記、1977年、49頁、初出は1946年9月)

 つまり、その後の教育は逆コース、つまり先の5つの「欠点、弱点」をそのまんまより強める方向にきているのではないのでしょうか、なるほどとヤッホー君は膝をたたいたわけです。
 「日本国民」が新しくなってはこまるわけで、旧いものがのこつてゐたほうがなにかと好都合だ、と。
 次はヤッホー君が現役のころ、ガンダン、ガンダンとか言われていたような記憶があります、丸山真男です。

たとえば日本で地域にしろ職場にしろ、伝統的な雰囲気が支配的なところ、そういうところほど、そういう精神風土と異った意見や行動を出すと、御承知にようによくアカといわれます。
 アカというイメージは、必ずしもコンミュニズムとかいう、そういうむずかしいイデオロギーの問題であるよりも、むしろ反抗的で同調性を欠いているとかいうことを実質的に意味する場合が少なくないのであります…
 ともかく、こうして私たちはさまざまのイメージの渦中で、見えないところの匿名の力でによって日々忠誠を審査され、思想を調査されているというのが、好むと好まざるにかかわらず、現代の状況なのであります


(丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964年、449頁)
 これはガンダムが、1960年5月3日憲法記念講演会での講演をもとに、憲法問題研究会編『憲法を生かすもの』(岩波新書、1961年刊)が初出。

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2013年04月11日

お富さん

 朝キンで大川を渡り、浜町公園から離れてしばらく歩くと、いやぁ〜、ヤッホー君びっくり。

 「げんやだな〜」に遭遇!

歌舞伎の「与話情浮名横櫛」の<源氏店妾宅の場>を取り上げてみました。

 「もし、御新造さんえ、おかみさんえ… お富さんえ… いやさお富、久しぶりだなあ」はご存じ「切られ与三郎」が蝙蝠の安五郎とゆすりに入った家に昔馴染みのお富がいるのを見てびっくりして、頬かむりの手拭いをとって顔をみせながら言うセリフです。
 下向きかげんにして手拭いをさっと頭からとってセリフを言うところは何ともいえませんね、有名なので皆様良く御存じだと思います。
 このあと、れいの有名な長いセリフを言うわけです。

 「しがねぇ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのを どう取り留めてか 木更津から めぐる月日も三年(みとせ)越し 江戸の親にやぁ勘当うけ 拠所(よんどころ)なく鎌倉の 谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても 面(つら)に受けたる看板の 疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに 切られ与三と異名を取り 押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより 慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな) その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に 格子造りの囲いもの 死んだと思ったお富たぁ お釈迦さまでも気がつくめぇ よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ 安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ 帰(けぇ)られめぇじゃねぇか」

 「切られ与三郎」が、34ヶ所ものきずを見せてのセリフです

(「東京紅團」 ≪「切られ与三」から明治座まで(人形町界隈散策)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kabuki2.htm

 そうなんです。歌舞伎の「与話情浮名横櫛」の「玄治店」跡が出てきてしまったのです:

 芝居はYouTubeでご覧下さい。イマから35年も前の昭和53年、池袋のサンシャイン劇場での歌舞伎をNHK劇場として放送されたものです。場面は「木更津海岸見染の場」:
http://www.youtube.com/watch?v=HE2SoxiaDos

 そして下↓に紹介するのは第3幕のこのせりふが飛び出してくる「源氏店の場」:
http://www.youtube.com/watch?v=jkqSXmj-1gE

 歌は、春日八郎。1954(昭和29)年に大ヒットしました(山崎正作詞、渡久地政信作曲):
http://www.youtube.com/watch?v=p2sDnxlepRU
 石川さゆりのカバーもあります:
http://www.youtube.com/watch?v=rsbqdV5SJPg
 淡墨の渋柿塗りで「粋な黒塀」を生き返らせる塗り師の職人技をご覧ください:
http://www.youtube.com/watch?v=yQwz5zCc8N4
 
 「玄治店跡」の先には同じく職人技、刃物の「うぶけや」(中央区日本橋人形町3-9-2 Tel 3661-4851)がありました:

1783(天明3)年、大阪南区新町橋東詰に創業。
 初代は喜之助、銘を兼忠と申しました。
 鋏(はさみ)、包丁、毛抜き等、打ち刃物を専業として今日に至り、当主・矢崎豊をもって8代。
 幕末の頃、江戸店を長谷川街(堀留町)に構え、明治初めに現在地、人形町に移ってまいりました。
 文明開化期に、日本で初めてメリケン鋏(今の裁鋏)を売り出し、評判を取りました。
 この日本初の裁鋏は、矢羽根切り、毛抜き、利休小刀等と共に、中央区民有形文化財として店内に展示してございます。
 屋号の「うぶけや」は、初代の打った刃物が「産毛でも剃れる」包丁・剃刀(かみそり)、「切れる」鋏、「抜ける」毛抜きであるとお客様から頂戴したお言葉に由来いたします

(東都のれん会)
http://www.norenkai.net/shop/ubukeya/

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2013年04月10日

若き世代に寄す

 ヤッホー君のこのブログ、3月28日付け日記「1946年11月3日」と4月8日付け日記「1967年10月31日」への補足で、どうしても以下の引用をさせていただきます:

『ここで羯南の述べていることは現在の情勢に言々句々妥当せざるはない。

 日本国民は羯南の警告にもかかわらず明治憲法に与えられた程度の貧弱な自由すら現実にまもり抜くことができなかった。

 改正憲法の公布にあたり、われわれは、国民に与えられた諸権利を現実に働くものたらしめ、進んでヨリ高度の自由を獲得するために、よほどの覚悟をもって、これまでに数倍する嶮峻をのりこえて進まなければならぬのであろう。

 まさしく憲法祭に酔っているときではないのである』

(丸山真男「陸羯南-人と思想」(「中央公論」中央公論社 1947年2月号初出)

『戦中と戦後の間 1936-1957』みすず書房、1976年 所収 295頁

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2013年04月09日

国葬

 サッチャー元イギリス首相が87歳でお亡くなりになりました。
 4月9日火曜日の朝、パソコンを開けましたらヤッホー君のブログを読んでくださっている読者からさっそく問い合わせ、「国葬」になるのかな?ですって。

 そこで、元首相の昨日付けの他国のメディアの評価とあわせ知りたかったヤッホー君、いつもの朝チェッ:

 まず、マレーシア紙 New Straits Times から、といってもAFP電(Agence France-Press)ですね:

Right-wingers hailed her as having hauled Britain out of the economic doldrums but the left accused her of dismantling traditional industry, claiming her reforms helped unpick the fabric of society.

On the world stage, she built a close “special relationship” with US president Ronald Reagan which helped bring the curtain down on Soviet Communism.

She also fiercely opposed closer ties with Europe. AFP
(08 April 2013 last updated at 08:19PM)
http://www.nst.com.my/latest/the-iron-lady-dead-at-87-1.251014

 ついで、アルジャジーラ紙です:

While flowers piled up at her London home on Monday, not all Britons were mourning the late leader's departure.

Her radical, right-wing polices alienated many, who saw her as a destroyer of jobs and traditional industries.

Some left-wingers, including in south London - the scene of fierce rioting in the 1980s, blamed on deep social divisions as well as racial tensions - hastily convened a street party to celebrate her death.

Her government privatised several state-owned industries and was involved in a year-long stand-off with unions during the Miners' Strike of 1984-5.
The coal miners' union issued a statement on Monday saying "good riddance" to the former prime minister.

There were also signs of celebration in Argentina. Thatcher sent a task force to recapture the Falkland Islands after a 1982 invasion by Argentine forces, in an operation she considered one of the triumphs of her rule.

(Last Modified: 08 Apr 2013 22:20 Ex-UK prime minister Margaret Thatcher dies, Source: Agencies)
http://www.aljazeera.com/news/europe/2013/04/201348115218647429.html

 次にカナダにとびましょうか、とてもユニークな記事です:

Soon after I arrived in London in 1983, a political aide telephoned to ask – in advance of Margaret Thatcher’s forthcoming visit to Canada – whether I could present myself at No. 10 Downing Street for a session with the prime minister.

“Mr. Prime Minister,” I began and froze, embarrassed beyond description. A chill descended on the room. Aides goofily fidgeted or went white. One of my colleagues failed to suppress a giggle.
I wanted the floor to open up.
(Last updated Monday, Apr. 08 2013, 5:58 PM EDT, PAUL KORING:The Iron Lady, a reporter’s gaffe, and a smile that 'felt like salvation')
http://www.theglobeandmail.com/commentary/the-iron-lady-a-reporters-gaffe-and-a-smile-that-felt-like-salvation/article10853730/

  ※ Paul Koring is a member of The Globe and Mail’s Washington bureau

 各メディアとも特徴があります。
 これは、ですねぇ〜、う〜ん、どっかの国の英国病を救った英雄扱いか救世主のようによいしょばかりする論調とは、大分隔たりがあることにお気づきでしょうか…

  あっ、そうそう、「国葬」にはしないようですよ:

Lady Thatcher will be honoured with a funeral of a scale not accorded to a former prime minister since the lavish spectacle of Winston Churchill's state funeral half a century ago – and much of the cost is expected to be borne by the taxpayer.

Downing Street announced that Britain's first female prime minister would receive a ceremonial funeral, with gun carriage, military procession and a service at St Paul's Cathedral, in the style of the funerals of Diana, Princess of Wales, and the Queen Mother.

One rung below a state funeral – as normally accorded to sovereigns – a ceremonial funeral requires the consent of the Queen, which has been given. There will be no public lying in state, at Thatcher's own request.

Apart from Churchill, three other prime ministers received a full state funeral in modern times: the Duke of Wellington in 1852, Viscount Palmerston in 1865 and William Gladstone in 1898. The funerals of later prime ministers have tended to be more modest affairs.

Ironically, the funeral of Thatcher, whose government was responsible for the "big bang" deregulation of the City, will take place in the middle of a series of open debates to run from 11 April at the cathedral on "the City and the common good".

St Paul's recently provided a backdrop for the Occupy movement in London, and when protesters were evicted it faced criticism from some quarters for its perceived acquiescence to the establishment.

(Caroline Davies, The Guardian, Monday 8 April 2013 18.53 BST, No state funeral for Margaret Thatcher)
http://www.guardian.co.uk/politics/2013/apr/08/no-state-funeral-margaret-thatcher

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2013年04月08日

1967年10月31日

 ヤッホー君のこのブログ、この間の先月のこと、3月28日付け日記「1946年11月3日」をご参照ください。
 いったいどんな暮らしぶりだったのか、そのなかで鶴見俊輔はある出会いをします。
 それは、丸山真男であり、彼の書いた論文であり、丸山真男が戦争中にどんな仕事をしていたかを知る契機になったのでございます:

『当時は食糧難の時期で、丸山さんも「復員して帰ってきたとき、家で出してくれた銀シャリがうまかった」とか言っている時代だった。それからその翌年の1947年に、丸山さんが書いたもので感心したのは、「陸羯南-人と思想」という評論だったんだ…
 この三っつの論文を揃えると、戦中から戦後に、丸山さんが日本の同時代に対してどういうふうに対していたか、よくわかる…
 アメリカやヨーロッパから手の汚れていない理論をひっぱってきて、その権威を借りて日本の現状を批判するのじゃないんだよ…
 「日付のある判断」なんだ…
 デモクラシーってものは、占領軍が入ったとかでデモクラシーになっちゃったから、それに便乗していこうという考え方と、デモクラシーを自分でつくるという考え方とでは、質的違いがある…』

(『戦争が遺したもの』(前掲書、176-186頁)

 故デリダ氏のヤッホー君への遺言みたいな言葉−「日本人である、なんて誰もいない、君が日本人になるんだよ」が未だにアタマに残響として残っていることと響きあう考えにぶっつかりました。

 いやぁ、鶴見俊輔…
 いや、その鶴見俊輔があげた丸山真男の三っつの論考って、何でしょう。
 この新曜社から2004年に出版された本を読んで、原典にあたってみましょうよ、あっちゃこっちゃ、もうマスゴミまで 'paranoid rhetoric' がはびこっているイマこそ。

 いやぁ、鶴見俊輔のこんな生の映像がでてきましたのでご紹介。
 含蓄のある生の言葉ばかりです。

 ひとつは、75歳のとき、1997年3月15日に放送されたNHK教育『未来潮流』から。
『哲学者・鶴見俊輔が語る日本人は何を捨ててきたのか』より(関川夏央との対談)
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=GNSaMLU3jMM&feature=endsc
 
 もうひとつは80歳のとき上梓した詩集『もうろくの春』(編集グループSURE工房、2013、3150円)が上梓されたあとの時期です。
 
『鶴見俊輔・永遠の感覚』(関川夏央との対談)

http://www.youtube.com/watch?v=1pjUpSyvees
 
 詩集の申し込みは直接、工房へ。
http://www.groupsure.net/books/mouroku.html
 
 ところで、日本国憲法公布の1946年、施行の1947年から、時代は下って30年後、じゃないんですねえ、たったの20年後、1967年10月31日。
 吉田茂の「国葬」があった日のこと。
 鶴見俊輔は、何をしていたのか、と申しますと:

当日は吉田茂の国葬の日だったんだよ。
 だから警察や機動隊は学生運動なんかの警備に行っていて、映写機やカメラマンを積んだ車が誰何されなかったんだ。
 そして撮影となって、最初に吉川は、ベ平連側は小田が代表して、一人で演説するのを写したらいいと言ったんだ。
 ところが小田はそのときは、そんな映画に出たら、もう逮捕されると思っていたわけ。
 即興の力はあるんだけど、別に恐れを知らない豪胆な英雄とか、そういうタイプじゃないんだよ。
 それで小田は、4人集めて一緒に写れというわけ。
 それで小田と私に加えて、開高健と日高六郎を夜中に呼び出したんだ

(鶴見俊輔、同書、366頁)

 そうなんです、ベトナム戦争がありました。
 1964年8月トンキン湾事件、1965年2月の米軍による北ベトナム爆撃(北爆)開始により本格化し、1973年3月の米軍撤退完了、1975年4月サイゴン陥落まで続きました。
 そのとき、日本で草の根ミンシュシュギとして活動したのがベ平連!
 4人の米軍兵士が1967年10月、横須賀に停泊中の米軍空母イントレピッド号から脱走してきました。
 ベ平連は、彼らを匿い、そしてこのことを公表するための映像づくりに着手するのですが、その日は、皮肉にも、平和憲法交付の名演説をぶった吉田茂の「国葬」と重なってしまったのです。
 (その後兵士は、ソ連(当時)への脱走に成功し、さらに脱走兵の受け入れを行なっていたスウェーデンに脱走兵は逃れていきます)

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2013年04月07日

花まつり

 雨風もようやくおさまった4月7日日曜日は、山歩クラブの第11回爽快。

『もっと良い会にと、意見交換の場、お話し合いは、今日だけじゃなくって、また機会を設け、皆んなで継続していきたいですよね。良い集まりになり、ありがとうございました。
 6人組は、あのあと、のらくろロードを歩きまして、4時まで、のど自慢大会でした!
 いやあ、皆さんお上手、鐘をたくさん鳴らしてきました。
 最後は山歩クラブ定番の歌を立て続けに3曲も。
 いっしょに得意の合唱!
  「高校三年生」
  「瀬戸の花嫁」
  「青い山脈」
 いつも唇に歌を、いつまでも青春、良い一日でした。
 行きたい山、歩きたい山、登りたい山も、それに里や街の企画も、遠慮しないでどんどんご提案くださいね。
 ご期待申し上げております。では次回まで、お元気で、ごきげんよう!!』


 ヤッホー君の持ち歌も3曲ご披露:
  「兄弟船」
  …しかし、だんご三兄弟になっちまって、途中で買った団子をヤケ食いし…
  「みだれ髪」
  …乱れるほどの髪がもうないことに途中で気づき、そして春のベルトも秋には通すアナもなく太りはて、歌詞と違うのに気づき声が乱れ…
  「愛さんさん」
  …もう、さんざん……

 でも皆さん、そんなヤッホー君にも救いのマイクで掬ってくださって、優しさにうるうるしていたそうですよ。 

今日は、お疲れさまでした。
 いつもと違い、時間が、足りない、活発な爽快で何よりでした。
 その後の第二爽快も、楽しい時間を、過ごしました。
 ありがとうございました。
 では、次回まで、元気にお過ごしください


 ほら、ね。嬉しい返信じゃあっりませんか…

 お店「カラオケ喫茶高橋」(江東区高橋14-23 Tel 5625-2640)では、最後に皆さん、これ聞いてって、とビデオを!

 とってもいま感動を与えている歌だそうです。

 「あさみちゆき」と言って井の頭公園の歌姫の「新橋二丁目七番地」でした:

http://www.youtube.com/watch?v=4-FbeaxTTvs
http://www.teichiku.co.jp/teichiku/artist/chiyuki/

 あさみさんは、ブログも書いていらっしゃいます。『いつも青春』だそうです!山歩クラブも然り!!

http://yaplog.jp/asami_chiyuki/

 高橋商店街、高橋のらくろロード商店街中央付近では、お釈迦さまのお誕生日「花まつり」がありました:

4月8日のお釈迦さまがインドでお産れになった時、甘露の雨が降りそそいだと伝えられています。
 それになぞらえて、誕生仏に甘茶をそそいで「花まつり」としてお誕生をお祝いするようになりました


 高森町会や高橋商店街振興組合の皆さんから、逆に「甘茶プレゼント」をいただいたヤッホー君、今朝までの雨も、生き物にとって甘露の雨になりますように、とこころより願ったそうです。

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2013年04月06日

第11回爽快

 4月6日土曜日も幕間劇が続きます。
 ヤッホー君は終日、山歩クラブ爽快準備。
 「爽快」は「総会」のことなんですが、山歩クラブでは「総会」とは呼んでいません。
 あっ、<臨時総会>なんてのがムカシ、一度だけ開かれていましたっけ…
 どうしてかって言いますと、左をみても、右をみても、会場に入るとひな壇にお偉方が並んでいて、嫌い。
 どこぞテレビで見るキョウサンシュギの国の会議みたい。
 あまりにも分刻みの予定通りの進行で、しかし最後に、議長さんから「しっかりした議論をしていただいて、こう 決まりましたので、しゃんしゃん」なんて終わり方をするので…
 つまり「総会」って形式美の追求、しかもお土産付き。

 こんなのやだぁ〜と、来て良かったなっていう「爽快」にしたいんですって。
 会場まで足を運んでくる時間に、総会に費やす時間に、時間がもったいない、とまあ、ヤッホー君らしく何かしかけようとはしているのですが、まだナイショ…
 だって、明日はまたまた春の嵐が登場するっていうしぃ〜

 まあ、3月末までの山行で、出席者数から割り出して上位からトップ3を選んでみたところ:

  第一位 静岡県・沼津アルプス(徳倉山256m)
      2013年1月20日
  第二位 山梨県・清里高原(美し森1542m〜
      天女山1529m) 2012年10月14日
  第三位 茨城県・筑波山(女体山876m)
      2012年12月9日


 しかし、歩いて良かったな、という人気のベスト3を選んでみたところ:

  第一位 長野県・根子岳2207m〜
      群馬県・四阿山2354m
      (2012年8月16〜17日)
  第二位 福島県・磐梯山1819m (2012年9月17日)
  第三位 山梨県・日向山1660m (2012年11月11日)


 でもしっかり会長さんからコメントが:
クラブの仲間に序列がないよう、経験を問わないように、山歩クラブでは山に、序列も難易度も設けていません

 まだ続くようですよ:

運営はこれまでと同様、5本の指を大事にします。

☆ 他の会のような例会を制度として決めませんが、不定期での「寄り合い」を設けます。
☆ 役員のうち会長は旗振り役です。皆さんの仲間への思いやりと気持ちを必要とします。
☆ クラブの基本は、明るく、楽しく、賑やかに、です。
☆ 山歩きの基本は、わいわいがやがや、山頂で大っきな笑顔です。
☆ クラブに序列はありませんが、山にも序列を設けません


 じゃあ、今月からの山はどうする?

 以下の文章から始まる会長のご託宣しかなかったようで:

 山歩クラブ10年の伝統を守り、山歩クラブ会則の第二条「目的」を実践していきます。

「山歩きを通じて、山を愛し、自然を愛し、四季の移り変わりを楽しみ、もって会員相互の親睦を深めることを目的とする。」

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2013年04月05日

豊田直巳

 ふるさとや家族との縁や絆、つながりを鉈で断ち切るひどい話…
 ヤッホー君は、午後、ふと思い立ってイーチャリにしました。

福島の現実を、人びとの表情から知ってほしい。
 東京電力福島第一原発事故の被災者支援を続ける荒川区の市民団体がそう考え、写真家の豊田直巳さん(56)の写真展を企画、本日4月5日から荒川区で開く。
 子どもたちの姿をとらえた作品も多く、たくましさ、原発事故の厳しさが伝わる。
 豊田さんはパレスチナやイラクで子どもたちの姿などをとらえた写真集を発表。
 東日本大震災直後から福島で撮影を続けた。
 今回の写真展には警戒区域指定前の双葉町や浪江町の様子、避難先の学校や家庭での子どもたちの表情などをとらえた約70点を展示する。
 主催団体「脱原発荒川千人アクション」は区内の市民団体や労組で構成。
 脱原発イベント開催のほか、放射性物質検査で安全確認された福島の有機野菜を区内で販売している。
 「『福島』が人びとの意識から後退していると感じる。現地の表情から現実を知ってほしい」と同団体の白石孝さん(62)は言う。
 ムーブ町屋(千代田線、京成線町屋駅)4階ギャラリーで、4月8日月曜日まで。
 入場無料。午前10時〜午後9時(初日は正午から、最終日は午後5時まで)。
 4月6日午後2〜4時に豊田さんの講演あり…
 なお同団体は5月12日日曜日に「脱原発荒川集会〜デモ」を区内で開催する

(2013年4月5日付け東京新聞、榎本哲也記者「原発事故 福島の現実 荒川で豊田さんの写真展」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20130405/CK2013040502000107.html

 「ムーブ町屋」(荒川区荒川7-50-9 センターまちや3・4階、Tel 03-3819-7761)とは、荒川区の文化・生涯学習・コミュニティー 施設のひとつであり、音楽、演劇、展覧会、会議などの文化活動や交流の場として、さまざまな機能を備えています。
http://www.city.arakawa.tokyo.jp/shisetsu/bunkacommu/mubumachiya.html

 さて、どう行くか?地図を広げて見当をつけます。
 「三つ目通り」を北上、「言問橋」を渡って、「言問通り」を走り、「JR鶯谷駅」のところで「尾竹橋通り」を北上、「JR三河島駅」を通り過ごしてさらに走って、「宮地」交差点から「京成本線町屋駅」にでれば良い、とアタマに叩き込んで、いそいそと家を飛び出したのが午後3時過ぎでした。
 イーチャリ!

 さて、フォトジャーナリスト豊田直巳とは、1956年静岡県生まれ。3.11以降の著作は:
  『フクシマ元年 原発震災全記録』(毎日新聞社)
  『福島 原発震災のまち』(岩波書店)
  『TSUNAMI 3.11―東日本大震災記録写真集 豊田直巳編』(第三書館)
  『JVJA写真集3.11メルトダウン』(凱風社)
  『終わらないイラク戦争』(嘉指信雄・森瀧春子・豊田直巳編、勉誠出版、2013年3月)

https://twitter.com/NaomiTOYODA
http://toyoda-photo.info/arakawa/

 豊田直巳を紹介する事例です。
 これは2年前の話しですが、先月末の投稿です:

『3.11の翌日には福島に向かい、福島原発爆発のニュースを聞いたものの、ためらうことなくジャーナリスト仲間とともに原発に向かった。
 爆発したのだから原発に近づけなかったとしても、危険のため道路を封鎖する立入禁止の看板1枚の写真でも、撮れればいいという気持ちだったという。
 ところがである。
 原発が爆発しているにもかかわらず、立入禁止の看板など1つもなく、放射能汚染の危険を知らせる表示などもなく、あっけなく原発10キロ圏内まで入れてしまった。
 ジャーナリスト仲間たちもガイガーカウンターを持参していた。
 豊田氏もイラクで劣化ウラン弾の取材をしているゆえ、ガイガーカウンターを持っていた。
 原発から直線距離約4キロの双葉厚生病院でのこと。
 100マイクロシーベルトまで測れる広河隆一氏の計測器の針が振り切れた。
 豊田氏が1000マイクロシーベルトまで測れる計測器を出したところ、なんとこの計測器の針まで振り切れたという…』

(2013年03月31日付けつぶやきかさこ「フクシマがイラクになった〜フォトジャーナリスト豊田直巳氏が福島映画製作〜」
http://kasakoblog.exblog.jp/20032248

 この「かさこ」さんは、1975年生まれで現在横浜在住。しかし映画「ウォーターボーイズ」のモデルとなった埼玉県立川越高校出身だそうです。

 ところで写真展、ヤッホー君が涙ながらに選んだベスト・ファイブ:

☆ 2011年4月1日「津波に運ばれた瓦礫の山の中から遺体の足がのぞいていた」(浪江町)
☆ 2011年4月18日「緊急に避難した酪農家の牛舎にはたくさんの牛が死んでいた」(南相馬市)
☆ 2011年4月18日「畜舎から解放され集団化した豚が野豚と化し威圧してきた(南相馬市)
☆ 2011年6月13日「自殺した酪農家菅野さんの堆肥舎に置かれた最後の言葉」(相馬市)
  …原発さえなければと思います。
  …残された酪農家は原発に負けないでがんばってください。
  …2011 6 10 PM 1:30
☆ 2011年9月25日「目に見えない放射性物質が大量に積もってしまった村にも秋がきていた」(飯館村)


 ムーブ町屋の会場で受付けをご担当なさっていらっしゃった元教師のおばさまに、貴重なお話しを伺いました:

『今日は午後からなのにもう30人!こんなに関心が高いのに、再稼動に動いているいまの空気は許せない、北欧から見えた外人さんからワタシ、フクシマの事故の処理も、これまでの原発のゴミ処分も何も決められないなかで、再稼動する日本人って、フクシマもそうだけれども、日本人のこころがメルトダウンしているのではないのでしょうか、って言われましたよ』

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輪舞曲もしくはロンド

 故郷を追われ、橋下妙見と化し、もう少年時代を過ごした故郷に戻れないヤッホー君、「春の院展」を鑑賞しに行き少々、今日のハナキン、感傷的。
 少年時分のヤッホー君は、美術の先生、遠藤登先生のご指導のもと、水彩絵具で絵を描くのがとても好きでした。
 そして小中学生対象の「こども絵画展覧会」では、新聞社主賞もいただき、先生は中学校の玄関に長く飾っておいてくださっておりました。
 その絵はいまもあれば、蔵のどこにあるのでしょうか…
 あれは校庭にあったイチョウの老木を描いたものだったような…
 ヤッホー君が学生時代、こつこつ深夜労働のアルバイトをしては買い求めた洋書、画集、ステレオ、レコードもいったい田舎の蔵のどこにあるのやら…
 定年退職したら田舎暮らしをして「文化活動」をするからねって父と約束した夢の数々も、父が死んだら、遺書もないし証拠がないと主張もできず聞き入れられず、すべて泡と消え去り、絆もなたで断ち切られ泣き過ごしたヤッホー君、あの絵だって、きっと蔵書類と合わせ殺処分されてしまったのでしょうか…。

 ひどい話…のあとは、いいロンドを三題:

(1) Mozart: Rondo No. 1 in D Major, K. 485
http://www.youtube.com/watch?v=iKJEMhBxGPA

(2) Rondo Op.73 by Chopin
http://www.youtube.com/watch?v=dgExAx4Vo8c

(3) 4.序奏とロンドカプリチョーゾ/サーン・サーンス Introduction and Rondo Capricioso
http://www.youtube.com/watch?v=aLt28J5t42E

 そうなんです、昨日の「春の院展」、ヤッホー君が選んだ第二位は、大石朋生(おおいしともお)「輪舞曲(ロンド)」でした。

 大石朋生は、1968年に神奈川県で生まれ、東京芸術大学を卒業し、院展院友であるようですね。
 また現在は北海道教育大学(旭川校)准教授で、美術の先生になりたいと願っている若者に美術を教えていらっしゃるようです。
 <平成25年度(第2回)「教科指導、生徒指導その他教育の充実に関する事項」に関する免許状更新講習一覧>によりますと、先生はこんな科目を担当なさっているようです:

水彩絵具で描く静物画
 静物モチーフを水彩絵具で描く際の技法や注意点を実践的に学びます。
 また、水彩絵の具に至る前のデッサンもていねいに行ない、基礎的な構成力や形態把握力の向上も目指します。
 静物を丁寧に観察し描くことで、受講者の審美眼が向上し、教育現場での美的感性を育む一助となればと考えています

http://www.pref.osaka.jp/attach/5171/00117195/h25-2s.xls

 会場には大ぜいのお客さまで混雑していましたが、絵と向き合っていますと、そんな雑踏が耳に入らず、自分の声が聴こえてくる、と言います。
 絵の風景が、絵の静物が、ひそやかに発している音が聴こえてくる、と言います。
 ちょっとだけ芸術家になったようなヤッホー君。
 いやいや、その声や音を表現する手立てをもたないヤッホー君。
 深い溜め息をついて、肩をまた落として、会場を後にしました。
 春の空に雲が急ぎ足で通りすぎていくようになり、こりゃあ、雨でも降られたらタイヘンだわい、春雨ではなさそうな気配、と現実にたち戻って、イーチャリで家路を急いだ、と言います。

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2013年04月04日

春の院展

 昨日の4月3日が第85回選抜高校野球大会の最終日。
 決勝は、浦和学院(埼玉)と済美(愛媛)との試合となり、浦和学院が17-1で5連投の二年生エース、安楽君を打ち下し、春夏通じての初優勝を飾った結果となりました。
 この済美高校は、2004年に初出場し、そして甲子園で初優勝したこともある野球の強い高校ですが、美術科も設けてあります:

日本を代表する日本画の作家たちが絵画の魅力を伝える「出前事業」が昨年の2012年9月5日済美高校であり、美術科の生徒102人が参加しました。
 5日に松山市内で始まった第67回春の院展にあわせて行われた授業では、日本美術院の松尾敏男理事長らが明治時代から脈絡と続く日本美術院の歴史や院展作品などを紹介しました。
 また、今展の初入選作品に済美卒業生の赤松美希さんの「春へ囁く」が選ばれ、松尾理事長は「まだ表現に荒っぽさはあるが初々しく、美しさとは何かが感覚的に分かっている」と絵を表しました

(済美高校公式サイト)
http://www.saibi.ac.jp/110topics/news/030_20120907demae/index_demae.html

 今日の4月4日、とうとうヤッホー君はイーチャリの続きで、「日本橋三越本店」へ。
 本館7階ギャラリーで開かれている第68回春の院展を鑑賞しに行ってきたのであります。
 だって、今展にも済美高校出身の赤松美希さんの作品「残香」が選ばれ、展示ゾーンL(第ニ会場)に飾られてあるのです。

 ゆっくりゆったりゆるゆる、こころをすべて開放させて、絵と会話をしてきたヤッホー君。
 そんなヤッホー君のこころに響いてきた絵が14点もありました(出品総点数は331点)。
 もう一度回って、そのなかから今日の、と申しますのも明日になると違うでしょうし、今日のこころがもっとも動いた作品をひとつだけ選ばさせていただきました。 
 展示が終わって販売関連コーナーに回り、あるかな?と思いきや、絵葉書がありましたので100円で一枚購入。
 それが日本美術院同人、西田俊英「晨明」でした。

朝まだき薄闇のなか、冷たい釧路川の浅瀬のねぐらからタンチョウヅルたちの一日が動き出す。
 やがて朝もやが朝日に輝き、餌を求め羽ばたいていく。
 厳しい自然のなかで、家族や仲間と寄り添い、生きている姿は、美しくも強く、気高い

(第68回春の院展 同人出品作品解説)

 西田俊英先生は、1953年三重県伊勢市出身。武蔵野美術大学教授。日本美術院同人・評議員。
 さすが日本画家の先生、とってもすばらしい、きれいな公式サイトがありますのでご覧下さい。下↓:
http://www.nishida-shunei.com/

『若き頃、度々展覧会や画廊巡りをされる研究熱心な故塩出英雄先生にお伴させていただいた折、又院展の落選の通知を受けた反省に伺った時など、二人とも黙りがちであった。
 私が思い巡らし、しかし何も言えずにいると、師はポツンと「絵が澄み切っているといいね」と、一言。
 そのような経験が多々あった。
 後に思えば、それを理解するには何年も要する、生涯を通じての宿題のようなものだった。
 そしてまた、沈黙が続く。
 ただ、その無言がとても深いのだ。
 若造であった私はその時、こういう大人になりたいと思った。
 喋らずとも教えることのできる人に…』

(我が師、稀有の画人 塩出英雄先生)
http://nihonbijutsuin.or.jp/colum/nishida_shunei.html

高校までは油絵ばかり描いており、情報もなく、日本画というと光琳や宗達の古典イメージしかなく、入学後、初めて現代の日本画に触れ、衝撃を受けたのが奥村土牛先生の回顧展の作品でした。
 それ以来、もし公募展に出品できるなら院展に…、という憧れがあったので、大それた気持ちと嬉しさ半分で出品し、思いがけず初出品、初入選という奇跡のような偶然が起こりました。
 会場で塩出先生にお会いして、褒めてくださるかな?とご挨拶をしたのですが、先生は「そうか、入ってしまったのか… 入ってしまったら仕方ない。続けるんだぞ」と。
 その時はきょとんとした私でしたが、今ではよく分かります

(初入選の思い出)
http://nihonbijutsuin.or.jp/colum/nishida_shunei2.html

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花のあと

 4月4日木曜日の朝キンは、1週間前に歩いた小名木川沿いの川辺の道。
 さすがにもう、一昨日、昨日と悪天候にたたられ、花びらは散歩道に散っておりました。
 ですので以下の写真は一週間前に撮ったものです。
 また、一年間かけて桜の木は花芽を継いでいきます。

 まずは「猿江船改番所跡(さるえふなあらためばんしょあと)」:

灯篭.jpg

猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688〜1736)頃に設定されました。
 小名木川は、江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。
 その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。
 猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。
 そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられてました。
 猿江船改番所の仕事は船稼を統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり川船年貢手形や極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました

(2004(平成6)年3月 江東教育委員会)

 そこを猿江橋西詰めまできますと目に入るのが「八百霊地蔵尊(やおたまじぞうそん)」:

P3297159.jpg

1945(昭和20)年3月10日、大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋5丁目の町民800余名の霊を慰めるため、1946(昭和21)年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された。
 この由来を後世に伝へ、併せて恒久の平和を祈るため30周忌を記念してこの碑を建てた

(1974(昭和49)年3月10日 江東区森下5丁目町民有志)

 猿江橋を渡って、大横川左岸を歩き、小名木橋川に沿って新扇橋まで来ますと、ここから先遊歩道は見当たりませんので、新扇橋を渡ろうとしたとき見えてきたのが、「扇橋閘門(おうぎばしこうもん)」:

感潮河川(隅田川方面)から内水低下河川(閘門より東側)に船舶が入る場合、船舶が水位差を乗り越えるには閘門の運転操作が必要です。
※ 「感潮河川」
 海面の潮位変動の影響を受け、水位が変動する河川のことです。
※ 「内水低下河川」
 地盤高が低く、洪水の潜在的危険性が大きな地域において、河川を閘門等により遮断して、平常水位を低下させておく河川です

(東京都江東治水事務所、扇橋閘門の仕組)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/chisui/jigyou/suimon/sisetu/ougibashi_drive.html

扇橋閘門は、江東デルタ地帯を東西に流れる小名木川のほぼ中央に位置し、水面の高さが違う河川を船が通航できるようにした“ミニパナマ運河”といえる施設です。
 その仕組みは、2つの水門に挟まれた水路(閘室)に船を入れ、水位を人工的に昇降させることにより船を通過させるというものです。
 夏場など水辺に親しみやすい季節には、プレジャーボートなど多くの船舶が往来します。
 今年も、水辺空間のにぎわい創出の一環として、夏休みの時期に扇橋閘門を一般開放します。
 また、船から上陸して閘門施設を見学できるよう、防災船着場もあわせて開放します。ぜひ見学にお立ち寄りください

(平成24年7月18日 東京都建設局)
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/07/20m7i300.htm

 つまり、小名木川は≪東京のパナマ運河≫だったのですねぇ〜
 しようがないので、新扇橋を渡り、公衆トイレをしようすることにしました。
 御用を済ませ、反対側に道路を渡って小名木川の南側を歩こうとしたときに碑を見つけました。
 「民営機械製粉業発祥の地」:

P3297166.jpg

1879(明治12)年、明治を代表する実業家雨宮敬司次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械製粉所「泰靖社」を創設しました。
 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、蒸気機関のほか石臼製粉器、節器などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功をおさめました。
 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、1796(明治29)年に日本製粉株式会社に改組されました。
 また、小名木川沿岸には明治30年代に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。
 こうして「泰靖社」は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけともなったのです。
 なお、明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(1876(明治9)年)、大蔵省による浅草蔵前の製粉所(1879(明治12)年)の2つがありましたが、これらの官営製粉所はともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました

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2013年04月03日

Easter break

 4月3日水曜日、ヤッホー君は「春の院展」をとてもたのしみにしていました。

日本美術院は1998(明治31)年、岡倉天心が新時代における東洋美術の維持と開発を指標として創設した研究団体です。
 1945(昭和20)年11月に日本美術院小品展覧会が三越本店で開催されました。
 1959(昭和34)年には日本美術院春季展覧会と改称され、1970(昭和45)年からは、「春の院展」として現在に至っています。
 常に日本画壇をリードし続ける、日本美術院の巨匠と新鋭画家の最新作300余点を存分にご堪能ください


 ところが、外は春の嵐:

気象庁によりますと、関東の東海上にある発達中の低気圧の影響で、千葉県で風速20メートル以上の非常に強い風が吹くなど、関東の沿岸部と東北南部の太平洋側を中心に風の強い状態が続いています。
 最大瞬間風速は、千葉県銚子市で午後1時前に40メートルに達し、4月としては、1987(明治20)年に観測を始めてから最も強くなりました

(NHKニュース 4月3日 13時32分更新)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130403/t10013641001000.html

 しようがないな、とメールボックスを開いたらロンドンからこんなメールが:

Easter is typically the time of spring and new birth.
will be out of the Office over the Easter break until the 3rd April.
Please send anything urgent to Prof R but please note that the Prof will also be away from the 29-4th April.
Kind regards


「幕間」をゆったりと楽しんでいたのは東京のヤッホー君ばかりでなく、今年はキリスト教徒もそうなんだ、と気づきました。

復活祭はキリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目によみがえったことを記念する「復活の主日」あるいは英語で「イースター」とも言わております。
 復活祭は移動祝日といわれ、もともと太陰暦にしたがって決められた日であったため、太陽暦では年によって日付が変わります。
 グレゴリオ暦を用いる西方教会では、復活祭は3月22日から4月25日の間のいずれかの日曜日、ユリウス暦を用いる東方教会では、グレゴリオ暦の4月4日から5月8日の間のいずれかの日曜日に祝われます。
 国によってはキリスト教の習慣に従って翌日の月曜日も休日にすることがあります。 
 香港は西方教会に属し、月曜日も休日となります

(香港復活祭 2013年3月29日〜4月01日、日通ペリカントラベルネット 香港店)
http://www.pelican-travel.net/newsPage.php?frCd=hongkong&seqNo=59

 そうなんですね:

1 April Monday 2013: Easter Monday Easter bank holiday
31 March Sunday 2013: Easter Sunday
30 March Saturday 2013: Holy Saturday
29 March Friday 2013: Good Friday

Easter school holidays: Sat 30 March 2013–Sun 14 April 2013

 ま、ロンドンは4日間はお休みだ、と。そうでしたか…
 キリスト教徒と言えば、新しいローマ法王フランシスコ1世(アルゼンチン出身、1936年生まれ)は:

Pope Francis delivered a plea for peace in his first Easter Sunday message to the world, decrying the seemingly endless conflicts in the Middle East and on the Korean peninsula after celebrating Mass at an outdoor altar before more than 250,000 people in flower-bedecked St. Peter’s Square.

The pope also expressed desire for a “spirit of reconciliation” on the Korean peninsula, where North Korea says it has entered “a state of war” with South Korea.

(Last updated Sunday, Mar. 31 2013, 2:15 PM EDT)
http://www.theglobeandmail.com/news/world/pope-francis-makes-easter-plea-for-peace-in-middle-east-koreas/article10588196/

 ビデオニュースも:

Pope Francis held his first Easter Sunday mass in St. Peter's Square since taking office
(Last updated Sunday, Mar. 31 2013, 12:32 PM EDT)
http://www.theglobeandmail.com/news/news-video/video-pope-francis-hosts-first-easter-mass/article10588212/

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2013年04月02日

佐野桜

 いやぁ〜幕間のくつろぎもけっこう良いもんですね。
 4月2日雨。サクラたち元気にしてますでしょうか…。
 サクラといえば、やっぱり京都が似合うやぁと思いまっせ、おこしやす、おいでやす!
 今日は三題ご紹介。いぜれもヤッホー君のこのブログとは大違い、絵も綺麗やす!

☆ 道照寺ひろ子「いとをかし京日記」
 「生まれも育ちも京都、仕事でも毎日京都を東へ西へ徘徊しています。
 好きなことは、この仕事??と食べること。かなり食い意地はってます。
 いいお店あったら紹介して下さい!
http://www.leafkyoto.net/blog/kyonikki/

☆ 漫画家のおかだとよいちです「漫画と畑とお遍路さん」
 「畑で野菜作りを楽しみながら、畑で野菜と戯れて、気が向けばぶらっと四国へお遍路さん。
 お寺や風景を描いてます、ブログで発表して行く予定です。
 あるがままに・
 <売れない漫画家に愛の手を>」
http://blog.goo.ne.jp/toyoichi_2010

☆ KAZUのブログ「西陣に住んでます」
 「京都をめちゃくちゃ楽しんで暮らしてます。
 Yes, let's go to Kyoto!
 京都在住20年弱ですが、まだまだ観光気分たっぷりです(笑)」
http://ameblo.jp/kazue-fujiwara/
 
 いえ、ね、このお三方には共通して京の桜守「佐野藤右衛門」さん、そのお屋敷のサクラ(花の季節にお庭を開放してくださるんですって)が、写真で登場してきます。ぜひ堪能なさってくれはりますか〜。

 ところで、ヤッホー君のこのブログ、3月27日付け日記「星野山」で「喜多院」を紹介しましたよね。
 この像が天海僧正さんやす:

天海.jpg

 これは国の重要文化財の庫裡にある「春日局化粧の間」から覗いた中庭やす。
 この庭は、江戸城の紅葉山を模した庭園で「遠州流庭園(曲水の庭、轉合の庭)」とも呼ばれています:

P3267145.jpg

 喜多院の奥に「仙波東照宮」がありましたが、これは三大東照宮のひとつなんですよ(ではあとふたつの東照宮はどことどこでしょうか?これが問題、お答えをお待ちしております)。
 この写真は、社殿の正面右側にある石灯篭を撮っていますが、藩主松平吉保(柳沢吉保)が元禄15年12月16日に寄進したもの、つまり赤穂浪士が吉良邸に討ち入った翌日のことです:

仙波東照宮.jpg

徳川家康は、1616年に亡くなり、遺言により その遺骸はいったん静岡の久能山に葬られました。
 しかし 翌1617年、天海の指示で 遺骨を日光東照宮に移しました。
 さて、この移動は、静岡から東海道を下り、いにしえの鎌倉街道上道を北上し、久米川宿から川越に入り、そしてさらに北上して行きました。
 遺骨を搬送する経路としては、江戸を避けたのですね。
 このとき、2月23日から4日間、遺骸を「喜多院」にとどめ、天海による法会が催されました。
 その縁で、ただちに「喜多院」に東照宮が勧請され、1633年に完成しました。
 しかし、この初代の東照宮は、1638年の川越大火で「喜多院」とともに失われました
 今ある仙波東照宮は、江戸城二の丸にあった社殿を、1654年にここに移したもの。
 国の重要文化財です

http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter/s04-x-Kawagoye.htm

 このていねいな喜多院訪問記を書き下ろしてくださった方は、跡見学園の副学長さんで「花便り第43便」(2004(平成16)年10月17日付け)からでした。
 なぜ、ヤッホー君が跡見学園におじゃましたのか、と申しますと、ここは京の桜守「佐野藤右衛門」さんと縁があったのでおます:

サクラは跡見学園女子大学のシンボルであり、構内全域にわたって多くの種類が植栽されています。
 これらのサクラは、開学当初の1965(昭和40)年、高山雄三郎氏が京都の佐野藤右衛門氏の桜苗園から取り寄せ、寄贈してくださったことに始まります。
 現在あるサクラの大半は、大学と歩みを共にしてきたものです

http://www.atomi.ac.jp/daigaku/sakura_web/

 キャンパスはサクラ咲く花の学園。

跡見.jpg

紅南殿
 佐野藤右衛門氏が栽培していた品種で、大阪造幣局など限られた場所でのみ見られる珍しいサクラです。
 花弁はサクラとしては濃い紅紫色でやや細長いのが特徴です。
 学名上はヤマザクラの一品種とされていますが、サトザクラとして扱うのが妥当です

http://www.atomi.ac.jp/daigaku/sakura_web/2/index.html

山桜'佐野桜'
 1930(昭和5)年に佐野藤右衛門氏が京都の広沢池の周辺にあったヤマザクラの実生1万本から選抜した園芸品種です。
 花はそれほど大きくはなく、花弁はごく淡い紅色で12〜15枚ですが、花着きがよく美しいサクラです。
 学名上はヤマザクラの品種として扱われていますが、葉縁の鋸歯がやや伸びるなど、サトザクラまたはオオシマザクラの影響がみられます

http://www.atomi.ac.jp/daigaku/sakura_web/3/index.html

 あっ、そうそう、「佐野桜」のそばで、「亦比久良竪穴住居群跡」の説明をしてくださったのは、グラウンドから練習を終えてでてきた「跡見学園女子大学軟式野球部」、通称Violetsのお嬢さまの面々。強いんですよ。

秋季リーグ戦は跡見女大が優勝しました
(関東大学女子軟式野球連盟)
http://members3.jcom.home.ne.jp/kanto-baseball/
 
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2013年04月01日

田村尚子

 4月1日月曜日、今日はヤッホー君が感動したビデオ作品「ソローニュの森」上映会での、その感動の正体を考えることに終日費やしておりました。
 だって年度初めだというのに、まだ年度末のことが終わっていないんですもん。
 初めと終わりの境い目。
 もしくは初めもなければ、終わりもない中途半端。
 離脱していく時間が漂流して、しかしこれから過ごしてゆくであろう時間が濃い霧のなか。
 印刷で埋まった本のなかのある頁が終わったけど、次の頁を繰るまでにちょっと一休み、欄外にでているようなコーヒーブレイクタイム。
 もしくは幕間。

 なぜ、清澄白河の中村学園新館LADYが上映の場となったのか、でしたよね。

1月5日(土)は恒例の「深川七福神巡りサポート」の日です。
 12:00〜16:00に、本館7F空中図書館開放。
 生徒も頑張ってお茶やお菓子でおもてなしをします。
 吹奏楽部の演奏とサラリーマン文化芸術振興会によるお正月らしい演目も準備しています。

 そして、今年は新館LADYのCAFE MiyakoDoriも同時間帯で一般営業します。
 CAFEだけでなくオープンテラスと足浴も開放します。

 みなさんお誘い合わせの上、お気軽にいらしてください

http://www.nakamura.ed.jp/ladyblog/ladyblog/2012/12/post-19.html

 1月5日は土曜日、どうしてヤッホー君は中村学園をお伺いしなかったのでしょうか。
 きっとお屠蘇を頂き過ぎたか、おせち料理の食べすぎか、もちをお雑煮にする手間がかかりすぎたのか、なんだったんでしょうね、記憶をつかさどるはずの海馬がどうもヤッホー君、海の波に洗われてしまったのか、溺れてしまったのか、垣間見ることもなくなってきているようなんですって、サイキンは。

 中村学園の校長先生、10代目梅沢辰也先生の3月9日付けのブログ「卒業証書授与式」では、こんなことを:

『…4月には新館LADYがオープンし、ここの主になったみなさん。
 その名の通り GIRLからLDAYを意味している。
 新館は真下を地下鉄半蔵門線が走っている。
 その上に1Fにはプラットホームがあり、人が集まり、人が流れている。
 さらに2Fにはロビーがあり、人が立ち止まる居場所がある。
 出会いとコミュニケーションが創造される「場」、LADYを満喫しましたか?
 Cafe Miyakodoriでは、「何を誰とどこで食べる」が楽しくなったでしょ。
 何故、学校に、足浴なんだろう?
 頭で考えるより、友達と入ってみればすぐに分かる…』

http://www.nakamura.ed.jp/principal/2013/03/09/

 3月30日の上映会+座談会のあと、Plage(川島剛)、そして校長先生みづからのすばらしいご説明があり、思わずヤッホー君、こころのなかで大声で≪そうだ、そうです、そうなんですぅ≫って叫んでいたそうですぅ。
 つまり、学校って生徒の安全管理でとっても閉鎖的なクローズドな施設になってしまいがちなのに、中村学園は、地域だったり地域に住んでいる人たちや外部に開かれていて、その外部とのコミュニケーションをとても大事にする挑戦的な施設になっている、ということでした。ラ・ボルドとも似たオープンな開放性を感じます、っていうこと。

 ところで写真家、田村尚子の本に戻りますと、「画像」「映像」に拮抗して「文章」の匠さが浮き彫りになってくる素晴らしい書が『ソローニュの森』(医学書院、2012年)です。ぜひお読み下さい:

ラ・ボルドからパリに戻ったとき、私はなぜか「社会の檻のなかに戻ってしまった」と感じたのです
(ウリ先生への手紙、40頁)

医療秘書でもあり精神分析家でもある彼女は84歳になる。現在はパリに住み、数年前から週末にだけラ・ボルドにやってくるようにしたらしい。ブリベッドは、マニュアルの赤いプジョーをびゅんびゅんと走らせた
(ブリベッド、107頁)

ラ・ボルドは目に見える境界を引かない。実際に壁もないし、ドアに鍵もない。守衛さんもいなければ、ここにいる皆が私服だ
(境界と余白、110頁)

 3月30日の夜、100人ほど集まった大ぜいの若い聴衆の皆さんといっしょにこれから田村尚子の境界と余白を行ったり来たり、フォローしていきたいな。
 だって、会社に行ったって首から犬の鑑札券か米軍兵士の認識票みたいなのを青い紐つきで首からぶらぶら下げ、朝は一斉に「申し訳ございません」とか唱和(そのうち「君が代斉唱」)、口ぱくぱくもしていないと評価が下がったり、仲間はずれにされてしまう、嫌ぁ〜な「なんか変な空気」の漂う、檻のような、鉄格子の嵌った精神病棟のような日本社会なんだもん。

 田村尚子の公式サイトはこちら、下↓: 
http://www1.odn.ne.jp/~cbe35240/index2.html
 ビデオ作品「ソローニュの森」の予告編はこちら、下↓:
http://www.youtube.com/watch?v=oL0H2Cy9VQY

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櫻川事蹟考

 昨日の日曜日、常陸の国に愛車を走らせたヤッホー君。
 春の寒空に凛として咲き誇っていた桜川の桜を観てきました。
 あの桜の花弁に吸い込まれるように眠りについて、夢までが桜色に染まっていたといいます。

 ところで、この桜川の桜には、ムカシ、たいへん素晴らしい功績を残した人物がいらしゃいました。
 ムカシの佐野藤右衛門!でしょうか、それ以上の桜守でしょうか、名を「石倉重継」とおっしゃいます(1875〜1938)。
 
氏は、1875(明治8)年10月30日西茨城郡西那珂村(現桜川市)西飯岡28番地に、旧笠間藩士石倉又一の長男として生まれました。父又一氏は、明治5年教育制度発布のとき笠間小学区(郡)取り締まりとして、初等教育の創設発展に努められた人です。
 重継氏は、1890(明治23)年茨城県立中学校(元県立水戸一高)に入学するも翌年中退し、その後文学を志して上京します。
 上京後は苦学の傍ら栗田寛、鈴木重嶺、上村涼松、福羽美静、尾崎紅葉等に師事し、文学、国文学、和歌、俳句などの教えを受けました。
 1894(明治27)年6月、和歌の最初の師である笠松良昌翁を浅草小島町の邸に訪ねた時、桜川古跡の現況を問われ、重継の出生地からわずか一里の地にあるこれについて答えることが出来ませんでした。
 すると、笹村翁から「和歌を研究しようというするほどの者になればこのように有名な花の名所が、しかも郷里にある桜川の歴史について知らないのは何事か」と叱咤され、これに赤面した重継氏は、その後櫻川事蹟の調査に全力を注ぐことになります。
 苦しい日々の労働に従事する傍ら、ひたすら『櫻川事蹟考』の資料収集と執筆のため、筆舌に尽くせぬ苦労を重ねながら草案を完成させたそうです


 その後のことですが(あのぉ〜、ヤッホー君にも「秀峰」という父から授かった号があるんですけど…〜…):

石倉重継氏は、翠葉と号し、別号を「掃雲亭」のち花笠庵と改めましたが、1927(昭和2)年3月、旧笠間藩主牧野越中守貞喜君の俳号「諷詠堂金英」の諷詠堂の号を牧野家から授かり、諷詠堂とも号しました
(桜川のサクラ)
http://www.sakuragawanosakura.jp/index.html 

 
 『諷詠堂桜川顕揚記念碑碑文』を熟読しましょう:

常陸国桜川は古来桜花の名区也 紀貫之の之を詠しより謡曲にうたわれて其の名喧伝せられしも年移りて 漸く荒廃に属したるを水戸源黄門 笠間牧野貞喜の両公及び同藩加藤桜老之を慨して保存法を講じたりしも終に埋没 人の顧る者なし 千年の名匠空しく 野禽をして悲しむるに至りぬ

 諷詠堂石倉翠葉宗匠は桜川の畔に生まれし縁により いたく之を嘆惜し独力顕揚に志すこと三十余年 終に三好学博士を動かし名勝保存指定地に列せしむ

 その功労美且偉なりと言うべし頃日門下の諸子並びに付近の有力者 各資を出して句碑をつくり以って桜花と共に宗匠の為に不朽ならしめんとし予に文を嘱す

 予欣んで之を記す
 芋銭
 昭和八年四月 日


 芋銭って日本画家で横山大観に認められ日本美術院会員となった「河童になりたかった男」、小川芋銭(1868〜1938)のことであることが碑の裏面で分かります。
 それにしても桜花と、これを生涯を捧げ守ろうとする誠意努力の良いお話だとお思いになりませんか。
 「自然を大切に」というのが口だけのキャンペーンやスローガン、マニフェストでなく、それを活動として血と汗と涙を自ら流して取り組む人間があればこその、自然と人間の絆ですよね、いたく感動しました。

 もうひとつ、「サクラサク里プロジェクト」制作(桜川市観光協会協賛)の『桜川のサクラ』より:

日本に自生する桜(自生種)はたった9種類(山桜、大山桜、霞桜、江戸彼岸、大島桜、豆桜、丁子桜、高嶺桜、深山桜)しかありません…
 現在日本の桜の8割はソメイヨシノと言われていますが、このソメイヨシノが生まれる江戸末期までは、サクラと言えば自生種の「山桜」のことを指していました…
 これだけ日本全土に広がったソメイヨシノですが、成長の早さ故か60年と言われる短い寿命から、近年各地で枯死するものが目立ってきました。
 補植にまたソメイヨシノを使うのか、それとも他の品種を使うのか、画一的なサクラの風景から、多様性を求めて、流れは後者にあるようです


 「サクラサク里プロジェクト」については、こちら、下↓をご参照ください:
☆ まずは公式ブログ:
http://blog.livedoor.jp/sakurasakusato/
☆ そして茨城県県西地方総合事務所総務課企画振興室との2007年3月インタヴュウ記事「いばらき地域づくりねっと」が:
http://www.pref.ibaraki.jp/bukyoku/kikaku/chikei/interview/sakurasakusato/sakurasakusato.htm

posted by fom_club at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする