2013年03月31日

磯部桜川公園

 今日3月最後の日曜日は三末、明日からは新年度です。
 ヤッホー君のこのブログ、昨年2012年05月03日付け日記「桜川の桜」をご参照ください。
 これもヤッホー君、今春どうしても訪れたかった場所のひとつでしたが、冬に舞い戻ったかのような寒さも、ものともせずついにイードラ!
 ☆ 磯部桜川公園(桜川市磯部740番地2)
 ☆ 磯部稲村神社(桜川市磯部779 Tel 0296-75-2838)

磯部稲村神社の参道をはさんで、両側約1kmに及ぶ桜の並木は、古来から磯部の百色桜として知られていました。
 「後撰集」には、紀貫之が
 「常よりも春辺になれば桜川波の花こそ間なく寄すらめ」
と歌を残しています。
 東北産のシロヤマザクラを中心に、多くの種類の桜が国の天然記念物に指定されています。
 国の名勝として、また、世阿弥元清の作である謡曲≪桜川≫の舞台として、多くの人たちに親しまれています。
 桜に囲まれた磯部桜川公園で、開花にあわせて、舞踊・俳句会・短歌会・野点等を行います

(桜川市公式サイト「名勝<桜川>の桜まつり」)
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/index.php?code=396

 「磯部稲村神社」ですかぁ〜

天照皇大神、木花佐久耶姫命、天手力雄命などの諸神を祀る神社です。
 景行天皇の時代に東国平安の分霊を移して祀ったという伝説もあります。
 代々藩主の崇拝を受けたほか、徳川光圀の参詣も受けました。
 木造の狛犬は県の文化財に指定されています。

 この神社は、その参道や神社が鎮座する丘の斜面に多くの山桜が見られ、桜の名所として広く知られてきました。
 ここの山桜は東北地方に産する白山桜で、淡紅色の花ばかりでなく芽ぶきの時期の赤芽も見事で、学術的にも貴重な存在とされています。
 そばにある磯部桜川公園を含んだ周辺一帯は国の「名勝」に指定されており、また、神社及び公園にある桜が国の天然記念物に指定されています
 この地は、古来より桜の名所として知られていたことから、江戸時代には歴代将軍により隅田川堤、玉川上水など江戸の花見の名所を作る際に植樹されました。
 水戸市内を流れる桜川は、かの水戸光圀公が当地の桜を気に入り、桜の苗木を数百本移植したことを機に桜川と命名したものと伝えられています

(桜川市公式サイト、桜川市観光ガイド)
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/index.php?code=440

 帰りの立ち寄り湯は筑波山を越えて「ビアスパークしもつま」(下妻市長塚乙70-3 Tel 0296-30-5121)。

農林水産省のリフレッシュビレッジ構想に基づいて、「ビアスパークしもつま」は整備されました。
 リフレッシュビレッジ構想とは、都市と農村の交流と共生の拠点となる食と健康のテーマパークを整備して、農村資源と農村空間(農産物や自然景観など)を活用した地域おこしを進める構想です。
 近年、緑豊かな農村地域において、その自然、文化、人々との交流を楽しむ滞在型の休暇活動であるグリーンツーリズムが脚光を浴びていますが、「ビアスパークしもつま」には、温泉施設、ホテル、レストラン、地ビール工房、農産物加工施設、直売所、体験農園など、グリーンツーリズムを楽しむための施設がたくさん設置されています。
 農村地域に長期間滞在することで、日常生活の疲れやストレスを癒やし、心身をリフレッシュさせてみませんか。
 また、日帰りでの入浴や体験もできますので、東京から二時間でアクセスできる水と緑の豊かな下妻に遊びに来てください

(下妻市公式サイト、「ビアスパークしもつま」)
http://www.city.shimotsuma.lg.jp/mobile/page/page000366.html

 あっ、そうそう、桜川の桜…
 磯部稲村神社の境内の奥に、見事な「糸桜」がありました。3葉まとめてご紹介:

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2013年03月30日

ソローニュの森

 ヤッホー君のこのブログ、3月15日付け日記『建築映画 マテリアル・サスペンス』ご参照ください。
 あの時会場にチラシが置いてあったのです。

田村尚子「ソローニュの森」上映会(作品上映+座談会)
 主催者:Plage(川島剛、中井智浩)
 開催期間:2013年3月30日 18:00〜20:30(開場17:30)
 会場:中村中学校、本校舎正門の裏側、新館。詳しくは、下記の地図をご確認下さい。
http://www.nakamura.ed.jp/img/outline/access/

 Plageは、3月30日に田村尚子ビデオ作品「ソローニュの森」上映会を開催致します。
 2012年に医療と生活を横断する「シリーズ ケアをひらく」の一冊として刊行された「ソローニュの森」(医学書院)は、田村の6年間に及ぶフランス、ロワール地方にあるラ・ボルド病院の訪問とそこで生活する人々の関わりをおさめた写真集です。
 本上映会では、田村が写真と並行して撮影していたビデオ作品をフォトモンタージュ映像と併せて上映した後、作品や写真と動画の関わりについて作家を囲いトークを行ないます

https://twitter.com/plage041

 今日になってあわてて、ヤッホー君はあちこち仲間に連絡をとりますが、ナシのつぶて。
 そりゃあ、そぷですよねぇ〜皆さん、忙しい!暇なのはヤッホー君だけぇ〜

今日、ヤッホー山荘目の前の中村学園で上映会あるってチラシ見つけた、とお話ししたのを覚えていますか?
 昨日、金曜日の夜、ヤッホー君の土曜日の予定はどうなってるんだっけとあちこちチラシ探したら、要予約とありびっくり。
 え〜だめもとでと送信したら、土曜日、今朝になってイマ、予約完了の返信見つけました、良かったぁ〜(ホッ)。
 行きませんか!


今日土曜日はもともと山行番外編の予定。
 ところで一緒に行く予定だった仲間が他に用あり中止となりました。
 代わりの提案。中村学園で5時半から8時まで、フランスはラボルド病院の医療ケア現場に6年の間に、6回も通われた田村尚子さんのビデオ上映と座談会に行きますが、行かれる方がおられましたら午前中までこのメルアドまでレスください(参加費500円)


先のメール、中村学園での精神病院の話しって、実は現役の頃、出会った精神科医フェリックス・ガタリのなじみの場所でした。
 ガタリとは死ぬ年かその前年かに、パリで出会って、署名入りの本までもらい、訳してみないかとまで言われた哲学者。
 今晩をイマ、すっごく楽しみにしています!
 集まりの予約を昨晩メールして、今朝、予約完了の返信をもらうなんてだめぇ〜
 もっと早くにカッシーに言うべきでしたね。
 また、あとで


今日の映像プラスって何?と調べてみましたら、フランス哲学の先生、ガタリさんとも縁のあるラボルト病院。ここに日本から6年間も通い続け、撮り続けた写真や映像の発表のよう。
 なんか、縁があった、と申しますか、今晩出席するのが「必然」だったのだと、楽しみにしています。
 でもなんで中村学園?彼女は同志社女子大出身ですが、もしかしてこの辺りの生まれ?興味しんしん…


 はあ〜、夜の9時、イマ戻りました。
 8時半までお話し、それからサイン会。
 もちろん本が大好きなヤッホー君も写真集を買い、サインまでしていただいて帰ってまいりました。

  田村尚子『ソローニュの森』(医学書院、2012年8月) 

 中村学園新館におじゃましたのはヤッホー君、はじめて。
 しかし校長先生も同席していらっしゃいました。
 ただ床暖房もあるらしいのですが、暖房のつけ方がいまひとつ分からなくってって、校長先生、寒いなかお越しいただき恐縮ですって。
 でも上映会もお話しも盛り上がり、熱いほどでした。
 明日以降、ご報告しますね、おやすみなさい…

 そうそう、お休みになる前にそうそう、ヤッホー君のこのブログ、2011年7月9日付け日記「中村学園」や、2012年4月2日付け日記「新指導学習要領」をお読みくださいますと明日以降の話しも連続性をもって聞けると思いますよ…

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Laos+40

 ヤッホー君のこのブログ、おととい3月28日木曜日の日記「new path」でこんなこと書きましたが、ASEAN ASIMの間にASEM(Asia-Europe Meeting)があったことに気づき、補足。

≪国レベルではアセアン ASEAN が地域でがんばっていました。この流れを、人と人のレベルでも草の根的に広げていこうと、ふたりでアシム ASIM (Asian Sisters' Initiative Meeting)構想を練り上げました≫

 アセム ASEMとは:

1894(平成6)年10月、シンガポールのゴー首相は、第3回「東アジア・欧州経済サミット」での提言を受けて、アジアと欧州の関係強化を目的として首脳が直接対話する「アジア欧州サミット構想」を打ち上げ、当時の次期EU議長国フランスのバラデュール首相(当時)に提案しました。
 そして、フランスがEU各国に働きかけた結果、1896(平成8)年3月にバンコク(タイ)で「アジア欧州会合第1回首脳会合」が開催され、アジア・欧州の25か国と欧州委員会の首脳が集う「アジア欧州会合(Asia-Europe Meeting:ASEM)」が実現しました。
 これにより、冷戦後の国際社会の中でダイナミックな変容と発展をとげる二つの大きな地域が、率直な対話を行う場が設定されたのです

(外務省公式サイト)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asem/1.html

 このASEM、昨年2012年はラオスの首都、ビエンチャンで開かれました。
 マレーシアの素案にもとづいた「宣言」も採択されました:

VIENTIANE: Leaders attending the Asia-Europe Summit(Asem) have agreed to adopt Asean's concept paper on the Global Movement of Moderates.

This is seen as a success for Malaysia which initiated the concept to not only resolve but also avoid conflicts.

The leaders of the 51-member nations have also thrown their support behind the establishment of inter-religious dialogue and underlined the necessity to involve more people of different beliefs into this process.

“The leaders have resolved to take concerted action to further promote mutual understanding and tolerance so people of diverse faiths, religions and cultures can co-exist in harmony and enjoy equal rights,” said the chair's statement issued at the end of the two-day summit yesterday.

Asem leaders also expressed concern over the situation in Syria.
“Leaders have called for an immediate cessation of violence and also expressed readiness to support the reconstruction efforts in Syria,” said the statement.

They also called for reforms of international financial institutions and pledged to give new momentum to cooperation between Asia and Europe.


(Wednesday November 7, 2012, The Star, Asem to adopt Asean’s concept paper on moderates)
http://thestar.com.my/news/story.asp?file=/2012/11/7/nation/12284969&sec=nation

 しかし舞台裏では、したたかな商談がすすんでいたようです。

FRANCE and Norway yesterday offered to supply Malaysia with military equipment as a means of enhancing trade relations.

Najib said France was also keen to sell more Airbus passenger aircraft to Malaysia.

Najib opened the first Maybank branch here before witnessing the signing ceremony of a concession agreement between the Laos government and Malaysian company Giant Consolidated Ltd to build a 220km rail line in Laos.


(06 November 2012 updated at 09:35PM, By NIK IMRAN ABDULLAH, New Straits Times)
http://www.nst.com.my/nation/general/france-norway-offer-to-sell-arms-move-to-enhance-trade-relations-nations-keen-to-provide-malaysia-with-jet-fighters-copters-and-missiles-1.167201

 そしてエアバスA380は…、昨日のハナキン、マレーシア Kuala Lumpur International Airport (KLIA)に到着!

SEPANG: Malaysia Airlines (MAS) took delivery of its sixth Airbus A380 aircraft on Friday, the last of a purchase order made by the carrier in Dec 2003.

(The Star, Updated: Friday March 29, 2013 MYT 8:55:26PM)
http://thestar.com.my/news/story.asp?file=/2013/3/29/nation/20130329180139&sec=nation
http://videos.airbus.com/video/f9f4e7f602bs.html

 それよりもなによりもラオスもまだ「戦後」は終わっていないのです。
 今朝3月30日の朝チェッで、英国ガーディアン紙(AP foreign, Friday March 29 2013)から:

Associated Press= WASHINGTON (AP) − Forty years after the secret U.S. bombing that devastated Laos, heirs to the war's deadly legacy of undetonated explosives are touring America to prod the conscience of the world's most powerful nation for more help to clear up the mess.

Two young Laotians − one a bomb disposal technician, the other the victim of an accidental explosion − arrived Friday on the anniversary of the end of U.S. military involvement in Vietnam and its far-less publicized bombing of neighboring Laos. The U.S. dropped 2 million tons of bombs on Laos over a nine-year period up to 1973 − more than on Germany and Japan during World War II.


(40 years on, Laotians tell of US war legacy)
http://www.guardian.co.uk/world/feedarticle/10724145
http://legaciesofwar.org/

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2013年03月29日

プリンシプル

 ≪白洲次郎(1902-1985)は『プリンシプルのない日本』(新潮文庫、2006年)でこんなことを言っていた:≫から始まる段落をヤッホー君はこのブログ、2010年11月4日付け日記「白洲次郎」で書いておりました。

 今日も読み返しておりました:

新憲法は占領米軍によって強制的に国会を通過して成立したものであることは誰でも知っているはずだ。
 今や新憲法はどうのこうのと話は毎日聞くが、新憲法の精神というか、それを貫いているプリンシプルは何かということを、考えてみた人は何人いるだろうか。
 占領軍からのお土産品のデモクラシーも同じである。
 われわれが現在声たからかに唱えている新憲法もデモクラシーも、単なる、かりものの域を脱しているとは思わない。
 われわれのほんとうの自分のものになっているとは思わない。
 新憲法なりデモクラシーがほんとうに心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう


 ところが、イマの「流行(はやり)」は逆です。

『(前回)国民投票法(改憲手続き法)で、憲法を変えるための橋を架けたので、いよいよ国民みんなで橋を渡り、最初に行うことは改正要件を定めた96条の改正だ。
 憲法改正は逐条的にしかできないからだ。
 3分の1をちょっと超える国会議員が反対すれば、国民が指一本触れることができないというのはあまりにもハードルが高すぎる…
 今の段階では(憲法改正の発議には)3分の2は必要だ…
 参院では(現有議席は)程遠い。
 次の参院選で果たして(3分の2の議席確保を)達成できるかどうかわからないが、努力を進めていく。
 日本維新の会やみんなの党も基本的には96条(改正)については一致できるのではないか』

(安倍晋三自民党総裁、衆院選で大勝した開票日直後の12月17日での記者会見)

 偉い政治屋さんとか評論家さんとかマスゴミの方々の方向は、憲法を変えるための橋を架けるのでなく、逆でしょ、と昨日の続きでヤッホー君は首をかしげているのです。
 みんなで橋を渡ろうって誘われても、ヤッホー君はきっぱり「ノー!」と断るそうです。
 少なくとも「戦後」を終えるまでは。
 憲法96条とばっかり、マスゴミも煽っていますけど、そのうちのいったい何人が憲法99条をお読みになっているのでしょうか:

〔憲法尊重擁護の義務〕
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


 1947(昭和22)年2月、吉田茂(1878-1967)は高知市内の旅館で金森徳次郎(1月末まで憲法担当大臣)、西村直巳(当時高知県知事)ほかとの賑やかな飲み会を開いていたそうです。
 金森は、自分の書いたダルマの絵の色紙に「安定のためである」と書いたそうです。
 吉田は、色紙をもう一枚くれやと頼んだその色紙に、「新憲法 棚のダルマも 赤面し」と書いたそうです。
 そうしたら金森は、ダルマの色紙に「安定するための動揺」と書き足したそうです。
 そこで吉田もさらに、「七転八倒」と書き足したそうです。

 これは、工藤美代子『カクヤクたる反骨 吉田茂』(日本経済新聞出版社、2010年)のエピソードからです(第6章「国防の気骨われにあり・辰巳栄一」331頁)。
 でも、『いずれにせよ、「憲法9条」への憤懣のやるせなさを、吉田流に発散させた一夜であった』と作者がコメントをつけるのは、なんか意図があるな、と感じたヤッホー君。
 だってさ:

だけど保守政権が粉飾決算で憲法を歓迎していた時代は、アメリカの方針が変わって逆コースになると、すぐ終わってしまう。そのあとの時代に、憲法を逆手にとって、アメリカと占領軍の再軍備圧力にある程度の抵抗を試みたのは、吉田茂ですね。「憲法があるし、国内の反対が強いから、再軍備は簡単にできない」と言ってアメリカと交渉して、再軍備を最低限に抑えようとした。
 私が左翼と違う点の一つは、そういう吉田に対する評価だったんです。共産党は、吉田政権はアメリカに追従した売国政権だとか批判していたけれど、私にはそうは思えなかった


 これは、鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの〜鶴見俊輔に戦後世代が聞く〜』(新曜社、2004年)「占領改革と憲法」での鶴見俊輔の発言からです(147頁)。

 いえ、なんか意図があるなって感じはですね、上述の本で鶴見俊輔が言います次の言い草ですね:

そのときそのときの流行のテーマをよく消化していたし、学生のときから原稿が売れたんですから。そのうえ、運動に乗り出して読者をアジったでしょう。そうすると、誘った者の責任というものがあるんです。
 踏んだものと踏まれたものという関係がある。誘った者の責任はあるんだ。だから知識人とか政治家の責任というものは、庶民とは別に問われるべきなんだ


 白洲次郎の問うプリンシプルがあるのか、流行のテーマに自分をただ乗せてはしゃぎまわって小銭を稼いでいるだけなのかなっていうことでしょうか…
 でもこんなことを考えさせてくれる機会を与えてくれた若い仲間、ありがとう!exclamation

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2013年03月28日

1946年11月3日

国民の自由な意志によって確定し、昨年1946年11月3日に公布された日本国憲法が、いよいよ本日から施行される。新憲法は世界に誇るべき、まことに立派な憲法だ。しかし、いかに立派な憲法でも、国民が本当にその精神を理解し、その理想の実現に努力していかなければ、国家再建は期待できない。

 私たちは、この愛する我が国を民主主義に基づく平和国家、文化国家として再建する重大な責務を持っている。新憲法が施行されるに当たり、私たちは昨年1946年11月3日にこの場所で国家再建のために努力しようと誓い合ったことを改めて思い出し、この憲法を尊び、この崇高な理想を達成するために絶えざる努力を続けることを今日、この場所で再び誓いたい。

 そして私たちが国家、生活の末端まで新憲法の精神をしみとおらせ、徹底するならば、必ず我が国は日ならずして自由と平和を愛する幸福な国家として復興し、世界人類の進歩に大いに貢献すると信じて疑わない

(2013年-01月-07日ニュース・ワーカー2「この憲法を尊び、この崇高な理想を達成するために絶えざる努力を続ける」〜吉田茂首相が残した言葉)
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20130107/1357511517

 …覚えていてくださいましたか。自由と平和を愛する幸福な国家として世界に貢献する…を基本に据えて、せめて人殺しするような武器は持たない、持たせない、売らない、これから多難な時代のなか、しっかり仕事をしていきましょうね、まだまだ元気に頑張ります!ほんとうに昨夜はこんな話ができて、ありがとうございました…

 えぇ〜、これは今朝のヤッホー君の若い仲間宛てのお手紙だったそうです。
 そう、昨夜は床屋談義か井戸端会議か、今度の選挙について盛り上がったのでございます。
 いいえ、あの、その、そこそこ真剣に。まずは投票に行くか、なんてことからはじめようって。
 だって、どっちにしようかなという「岐路」に立たされているか、ムカシ辿った「帰路」に入り込んでいるホワイトアウト状態っていうんだもん:

辺野古基地建設、TPP、原発の三つの重要問題について、主権者である国民が判断しなければならない。
 選挙でこれを判断するには、明確な選択肢が提示されることが必要不可欠だ。
 自公+みんな維新+崩壊民主は同種同根。
 上記の三大イシューについて、賛成である国民は、この政治勢力のいずれかに投票すれば良い。
 米国の命令にひれ伏す政治勢力である。
 沖縄県民が総意で反対の意向を示しているのに、辺野古の美しい海を埋め立てて、巨大軍事基地を作るのは、ただひとつ、米国が命令しているからだ。
 日本にとってメリットがほとんどない一方、農業が破壊され、公的医療保険制度が破壊され、かんぽや共済制度が破壊され、日本が国家主権を喪失するTPPに参加するのも、やはりただひとつ、米国が命令しているからだ。
 福島第一原発から放射能がいまも撒き散らされ、深刻な健康被害が広がっているなかで、活断層の上の原発を稼働させてゆくのも、やはりただひとつ、米国が命令しているからだ。
 米国にひれ伏し、米国の命令に隷従していれば、個人的にはさまざまな恩恵があるのだろう。
 個人の利益のための国の利益、国民の利益を犠牲にするのが対米隷属の基本姿勢だ。
 この立場を取る国民は、自公+みんな維新+崩壊民主のいずれかの勢力に投票を行なえばよいだろう

(2013年3月27日(水)植草一秀の知られざる真実「人権・国権・戦争根本規定変更の自民憲法改正案」)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5aa8.html

 最初、冒頭に引用しましたのは、時の首相、吉田茂が1947(昭和22)年5月3日、現憲法が施行された日に、東京・皇居前広場で開かれた記念式典での無邪気な褒め殺し演説でした。
 しかし、これに対して、何と言えばいいのか…、と苦渋の言説を編む文学者がおりましたね。
 今日はそれを紹介しますので、ぜひ本屋さんに行ってご購入のうえ、ぜひお読みになることをお薦めします。特に暗雲立ち込めているイマこそexclamation
 それは、『新潮』4月号!

1946年11月3日日本国憲法交付の日に敗戦後最初の文章「感想-ドストエフスキーのこと」(1946)をこう結んでいた。

  そしてそれが僕に彼の作について又しても新しく書き始めるように迫る。
  白い原稿用紙で、何か書けるかわからぬ冒険をする様に要求する。
  僕は彼の作品に関する新しい解釈など、今はもう少しでも望んでゐない。

 小林はそのすぐうしろの文末に、小林には珍しく「11月3日」という日付を書き入れている。
 それも「時事新報」(ヤッホー君注1)に10日から13日にかけて4回にわたって分載された最終会の13日分の末尾にわざわざ「11月3日」という日付を記載しているのだ

(没後30年特集 2013年の小林秀雄、山城むつみ(ヤッホー君注2)「蘇州の空白から-小林秀雄の戦後)
…新潮141頁


(ヤッホー君注1) 『福沢諭吉の創刊した日刊新聞があった。その名を『時事新報』という。明治15年に生まれ、ほどなく自他共に「日本一」と認める高級紙になったが、時代を経る中でやがてその座を追われ、昭和11年末に静かにその歴史を閉じた。戦後いったん復刊されたものの、結局これも長くは続かなかった』
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/1.html

(ヤッホー君注2) 1960年大阪府生まれ。大阪外国語大学ロシア語学科卒業。東海大学文学部文芸創作学科専任教授。1992年、「小林批評のクリティカル・ポイント」で第35回群像新人文学賞評論部門受賞。2010年、『ドストエフスキー』(講談社)で、第65回毎日出版文化賞を受賞。著書に『文学のプログラム』『転形期と思考』がある。
http://yamashiromutsumi.cork.mu/

  

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new path

 嬉しかったですね、Greeting Msg fm Abroad ! From Taiwan !

Hi, Shuei,
So, you will be liberated from your workman's life, and move on to the new path.
Thank you for your sharing for the past almost 15 years, with my sincerest gratitude.
Since you will be free from work, how about planning a trip with your company?
So, best wishes to you.


 そうですか、15年のお付き合いでしたか…
 山歩クラブが11年目ですので、お付き合いはもっと古いのですね。

 あなたは尿管結石で入院し、砕石手術が終わっても術後、熱が続き、腎盂の調子も悪い、となかなか退院許可がおりなかった病院に、来日ついでにとお見舞いに来てくれましたね、ありがとう!

 あの病院、「国立国際医療センター」(新宿区戸山1-21-1 Tel 3202-7181)は、平成22年4月といいますから、3年前に「独立行政法人国立国際医療研究センター」へと組織改編していました!

 国レベルではアセアン ASEAN が地域でがんばっていました。
 この流れを、人と人のレベルでも草の根的に広げていこうと、ふたりでアシム ASIM (Asian Sisters' Initiative Meeting)構想を練り上げましたね。

 当時の域内協力は、といいますと:

1997年の第2回ASEAN非公式首脳会合で採択された「ASEANビジョン2020」では、東南アジア全域がASEAN共同体となることを展望するという目標が初めて明記されるとともに、2020年までの地域の発展および域内協力を通じた豊かな生活の達成についての展望を示した中期計画として、経済協力、政治・安全保障、文化等全ての分野を包括する地域協力の在り方が示された

2007年11月の第13回ASEAN首脳会議において、2015年までの「ASEAN経済共同体」実現のための行程等を定めた「ASEAN経済共同体青写真(ブループリント)」が採択され、ASEANが単一市場・生産拠点として競争力のある経済地域へ統合していくための実現目標が示された。
 また、ASEANの最高規範となる「ASEAN憲章」も調印され、ASEANは共同体実現に向け大きな一歩を踏み出すとともに、憲章を基盤としたより効果的で結束力のある組織へ変革を遂げようとしている

(日本アセアンセンター、ファクトシート)
http://www.asean.or.jp/ja/asean/know/base/factsheet

 モノ、カネは国境をすんなり越えていくことができます。
 しかしヒトは、というと地球の重力のせいですかね、なかなかタイヘン。
 企業間のビジネスマンや政府のお役人の域内交流はすすんでいっても、フツウのおっちゃん、にいちゃん、ねえちゃん、おばちゃん、となると難しいっすよね。
 「よ、ごめんよ」っていって隣家同士、「気さく」に行き交う下町は長屋住まいのように普通の人と人との関係が成り立てば、お互いに銃口を向け合うことはない、というのがふたりの根本にありましたよね。
 やっぱり平和志向の思考でしたね。

 国境を越えて人と人が行き交うっていまだにハードルが高く、せいぜい組織(団体)と組織(団体)のトップレベルの意見交換の場となっているのが、ザンネンなんですが。

 大学だってチャレンジしています。
 若者同士が行き交うってのも気持ちの良いものですよね。明治大学の例:

また、タイ・バンコクに本学のASEANサテライトキャンパスを設置し、ASEAN側学生への渡日前日本語教育や遠隔講義、日本人学生と現地学生の間での日本語・日本文化交流(SENDプログラム)や企業・NGOでのインターンなど各種プログラムを実施し、ASEAN側学生のみならず、日本側から本学以外の他大学学生にも広く参加を呼びかけ、日本およびASEAN側の幅広い学生達に対して共に学ぶ機会を提供する構想です。
 これらの長短期さまざまなプログラムを通じて、5年間で、日本人学生の送り出しおよびASEAN側学生の受け入れで合計1,000人の交流を目指します。


アジアは世界の成長センターであり、日本にとって、政治的にも経済的にも最も重要な地域となっています。
 なかでもアセアンは、2015年にASEAN共同体成立を目指しており、域内の人、財、サービス、資本の移動が自由になる共同市場になることが見込まれています。
 タイバンコクに本学がアセアンキャンパスを設立し、当該センターを中心に、AUN(アセアン大学連合)に加盟するアセアンのトップスクール16校と学生交流、日本語教育を行なう今般の本構想は、本学学生のアセアンリテラシーを向上させるだけでなく、グローバル人材としての資質を高め、さらに日本とASEANの関係強化にも寄与するものになることが期待されます
≫』
(取組責任者 勝悦子副学長 国際交流担当)
http://www.meiji.ac.jp/koho/news/2012/6t5h7p00000dkgpg.html

 山歩クラブが海外企画を2013年度に提案する、ん?できそうかな。。。

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2013年03月27日

星野山

 昨日の3月26日火曜日はお天気もよく、朝方、イマをおいて他にない、とばかりに愛車を駆ってイードラ!
 ヤッホー君のこのブログ、昨年2012年10月11日付け日記「名所(などころ)」参照。
 浦井正明さん(東叡山寛永寺執事長)より上野と天海僧正のお話をお聞きしました。
 ヤッホー君の今年2013年のお花見は上野、と固くこころに決め、3月23日土曜日お天気のなか、実行できました。
 そして半年後、ガレキの破片のひとつひとつがつながった、なんかひとつの新しいガレキの塊ができたとこころから思ったことでございます。
 イードラで向かった先は、当初は「跡見学園女子大学の桜」見物だったのでございます。
 これが終わって、道路標識にそういえば「川越」「川越」とでてきたなあ、そんな近くまで来たんなら、仲間のカッシーが少年時代を過ごしたという「川越」までアシを延ばしてみようか、と。
 そしてたまたま出会ったのが、名刹「喜多院」(川越市小仙波町1-20-1 Tel 049-222-0859)だったというわけなのです。

慈覚大師が830年(天長7)に創建した天台宗の名刹で、正式には星野山無量寿寺喜多院という。
 江戸時代初期、名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三代将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院の名は川越をというより、埼玉県を代表する寺院として全国的にも有名である。
 徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。
 江戸城ゆかりの建造物に加え、山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されており、また隣接して、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された日本三大東照宮の一つである仙波東照宮もあり、江戸時代の香りを色濃く残す徳川家とゆかりの深い寺である。
 また、日本三大羅漢の一つに数えられるこちらの五百羅漢は、人間の喜怒哀楽をよくとらえたさまざまな表情の石仏群でおよそ540体が境内に並び、観光客の人気を集めている。
 いずれも見学可能で、正月はだるま市・2月は節分会・春は桜まつりなどの催し物が開催され、四季折々の寺の風景も楽しめる

(小江戸川越観光協会「喜多院」)
http://www.koedo.or.jp/cn17/pg137.html

 天海僧正って;

会津に生まれ、比叡山・園城寺などで修行した。
 関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画した。
 徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在として知られます。
 以後、秀忠公、家光公に仕えました。
 108歳まで生きた天海大僧正が残した「気は長く 勤めは堅く 色うすく 食細くして こころ広かれ」という言葉は養生訓としてつとに有名です

(川越大師「喜多院」)
http://www.kawagoe.com/kitain/history-culturalasset/person/tenkai.html

 そればかりではありません。天海僧正は、<褒め殺し>の達人、いや、上司もしくはキーパーソンを褒めて褒めて褒めまくることによって出世し、おのれの野望を実現する、という鬼才の持ち主であったのでは…:

七福神は、江戸時代に入ると全国規模で爆発的な人気を博することになります。
 そのきっかけを作ったのは徳川家康に仕えた政治指南役・天海僧正で、天海僧正が家康に、
「上様は
  寿老人の長寿、
  大黒の富財、
  福禄寿の人望、
  恵比寿の正直、
  弁才天の愛敬、
  毘沙門の威光、
  布袋の大量という<七つの徳>をお持ちです。この七神には七難即滅七福即生の功徳があります」
と言ったのに家康が喜び、狩野探幽に七福神の絵を描かせて尊崇したところ、これを各大名がまねをし、全国に広まったといわれています

(帝塚山大学 妖怪ワンダーランド 七福神を知ろう)
http://www.tezukayama-u.ac.jp/yokai/japanese/gods02.html

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2013年03月26日

Greeting Msg fm Abroad

I sent the under and received 3 emails from (1) Yves, France, (2) Ian, Canada and (3) Mike, UK:

On the 31st of March I will retire from my organization. Thank you for your warm support and our friendly communication.
I just walked the Ueno Park to take pictures for cherry blossoms. Now it is a good season here in Japan.
Looking forward to keeping in touch even after retirement as a ordinary citizen on our Erath.
Anxiously awaiting your message.
With my hope for your health, happiness and good future,
Bye for now and warmest wishes,

★ ☆ … ★ ☆ … ★ ☆ … ★ ☆ … ★ ☆ … ★ ☆ … ★


(1) Nous te souhaitons une seconde vie pleine de bonheurs et de nouvelles sensations.
Yves
De l’autre côté de la planète


(2) Shuei, my very best wishes for you in your retirement.

Somehow, I have difficulty thinking of you as an "ordinary citizen on this earth". You have been so engaged and so honestly committed that I can't imagine you stopping and becoming "ordinary".
I fear you have what my partner calls "the co-op disease", which is overwhelming and, she says, probably fatal. You never really get over it.
And the nice thing about being retired is that you can do what you want, when you want to do it. It is a good time of life, as long as your health is good -- and stopping to take pictures of cherry blossoms is a particularly healthy thing to do!
Peace
Isn


(3) Hi Shuei

Best wishes for the next chapter of your life. We need people like you to continue to light the way forward.
Best regards
Mike

Congratulations on your retirement!
Come to London.
Enjoy !
Liz

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2013年03月25日

より人間的で居心地の良い場所

LIXILギャラリーで開催中の「集落が育てる設計図−アフリカ・インドネシアの住まい展」(4月13日まで)は、東京大学生産技術研究所の藤井明教授(建築計画学)が40年間にわたって行なってきた、世界50ヶ国約500の集落についての調査研究成果の一端の紹介だ。
 乾燥したサバンナと多湿な樹林。対照的な自然環境の西アフリカとインドネシアのスンダ諸島では人びとの住居に用いられている建築素材をはじめ、全体の構造も全く違う。
 「泥」と「円」を基調とする西アフリカに対し、インドネシアでは「木」と「矩形(くけい)」がベースである。手作りの展示は、眺めていて楽しい。ミニチュアの建物は、内部が見えるように工夫されている。
 藤井教授は語る。「住みやすさを重視するなら、地域ごとに標準解に近い住居があってもよさそうだが、そうはならない」。
 集落や住居は、それぞれの共同体の独自性を主張するかのように個性的なのだ。人間の想像力の豊かさが、暮らしの空間に生きづいている

(2013.3.21 08:43更新 産経ニュース 論説委員 長辻象平「集落が育てる設計図 アフリカ・インドネシアの住まい展」)

 あのですね、藤井明先生(1948年生まれ)のお話しは示唆に富み、とても良かったのです。
 無知蒙昧なヤッホー君、難しいお話しは置いといて、山本理顕先生との掛け合いで一番良かったのは、「ムカシ若い頃に考えていたことって、いくら40年経ってもちっとも変わらない、もし考えが変わっていれば研究だって続いてはいかない」というお言葉でしたねぇ〜。
 変わったのは姿格好。
 そういえばスライドで「最後に」とおっしゃられて会場でお見せになったのがありました。
 てっきり日本の集落かな、と思いましたら、大学の研究室の実地調査にクルマで出かけようとしてる研究者たちの若かりし頃のお姿、それは長髪にジーパンですらっとしていて当時、若者に流行っていた姿格好。
 ヤッホー君もライオン丸なんてあだ名があったムカシに思いを馳せておりました。おぉ〜、懐かしい!

 でね、「標準解」に戻りましょうか。
 われわれの住まい、住環境って藤井先生がいみじくもおっしゃってくださったように、地球に住んでいるさまざまな人間の居住空間からみると、珍しい部類に入る、と。
 同潤会アパート、公団住宅、ニュータウン、マンション…、コンクリートで大きな構造体を家族ごとに世帯ごとに分割し、販売します。
 分割した構造体は内部をさらに間仕切りで分割して、ばらばらに住んでいる、ということですよね。
 この究極の姿は、昨日のNHKBSドキュメンタリーのように、香港に住む貧困に喘ぐ高齢者の独居、房
でした。
 窓もなく、陽も射さない狭いところに閉じ込められ、鳥の餌のような食事をとっている姿は、家畜小屋以下でしたよね、でも狭い土地を効率よく区切って、人間に提供する、というか貸すわけですよね。
 住んでいる人は、家賃を払って住む、払えなくなれば出ざるをえない… う〜ん。
 それ以上の間取りには、収入が公的扶助(生活保護)だけの高齢者には住めないし、そのような広さの物件ですら、少なくなり、さらに究極の姿は、路上生活者…。 

 このイマわれわれが住んでいる住まいがこのように「空間的」に言っても、珍しいものであるなら、「時間軸」をとっても、ついサイキンからのことで、ムカシは当たり前ではなかったというのですから、ヤッホー君、びっくり:

1920年代のヨーロッパに登場した「1家族=1住宅」システムは、戦後の日本の住宅システムに大きな影響を与えたと言われています。しかし、今なお続くこの考え方は、現代の日本人のライフスタイルにおいて崩壊していると山本先生は語ります。そこで提案されたのが、「1家族=1住宅」ではない新しい住まい方の「地域社会圏」です…

 「1住宅=1家族」はどういうキャラクターを持っているのかというと、文字どおり“1つの住宅に1つの家族が住む”ということです。
 その住宅に住む家族は内側で充足している。
 つまり、子づくりとか育児、洗濯、介護、それらはすべて住宅の内側で完結しているような住宅の供給の仕方をしている。
 それから、隣の住宅とは関係なくつくられます。
 つまり、かつては地域社会的な、非常に濃密なコミュニティの中で生活してきたとすれば、都市化とともにそういう関係とは違って、コミュニティとは無関係に住めるような住宅のつくり方を発明したわけです。
 そしてさらに、住宅は周辺の環境とは関係なくつくることができる。
 だからこそニュータウンのように、全く新しい住宅を郊外にポンとつくるようなシステムが可能だったわけです。

 これは実は画期的な方法で、隣人とも環境とも関係ない住宅が、初めてつくられたわけです
 それが1920年代のヨーロッパ、特にイギリス、フランス、ドイツを中心として盛んにつくられたシステムです…

 そのシステムが戦後の日本にそのまま輸入されたと思います。
 1945年は戦争で負けた年で、10年後の1955年に住宅公団が出来て、大量に公共住宅が供給されていきます。
 その時のモデルが、ヨーロッパの1920年代の住宅です

http://iinavi.inax.lixil.co.jp/ia_seminar/007/ias007.html

 山本理顕先生も混じった『帰心の会』では、「みんなの家」の起工式が2011年9月13日にあった、とヤッホー君のこのブログ、3月23日付け日記「瓦礫の海」で報告しました。
 これが「2012年グッドデザイン賞」を受賞しておりました:

受賞対象の概要
東日本大震災被災地を受けて、建築家に何ができるのかを問うために、伊東豊雄、山本理顕、内藤廣、隈研吾、妹島和世の5名の建築家が「帰心の会」を結成。10万人以上の人々が家を失い、無味乾燥な仮設住宅での厳しい暮らしが続く中、より人間的で居心地の良い場所を提供したいとの想いから、「みんなの家」プロジェクトを提唱。「みんなの家」とは、@家を失った人びとが集まって語り合い、心の安らぎを得ることのできる共同の小屋、A住む人と建てる人が一体となってつくる小屋、B利用する人びとが復興を語り合う拠点となる場所である。

開発・企画について
サステナブル社会(持続可能な社会)の実現に向けて、応募対象が取り組んだこと
東日本大震災は、技術に全幅の信頼を置いた近代資本主義でつくられた世界の脆さを露呈させた。持続可能な社会とは、境界を設けて人と自然を隔てる近代主義的な発想ではなく、人と人、人と自然の絆を考え直すことから始まるのではないだろうか。「みんなの家」は規模としては大変小さなものだが、そのような思想に基づいた意義あるものだと思っている。

ユーザー・社会に伝えたいこと
私たち建築家は東日本大震災に直面した時、自分たちのこれまでの設計手法に疑問を持たざるを得なかった。「みんなの家」の取り組みを通じて、住まい手や管理者と新しい関係性を築き、そこからデザインが生まれること経験した今、日常の設計行為までも変わる予感がある。もっと社会とつながる建築を目指したい』

http://www.g-mark.org/award/describe/39444

 人と人、人と自然の絆を考え直す
 これって山歩クラブが『山歩き』を通して考えているそのものずばりでした!

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2013年03月24日

高齢者の貧困問題

 3月24日日曜日、ヤッホー君はBSでふたつもテレビ番組を観てしまいました。
 ひとつはBS1で正午、0:00〜午後0:50(50分)放送されたドキュメンタリーWAVW「香港・さまよえる貧困高齢者たち」。

香港が、高齢者の貧困問題に揺れている。
 貧困高齢者の数は1997年の返還以来ほぼ倍増し、今や3人に1人が月額2万円以下で生活している。
 背景には、中国本土との経済力の逆転がある。
 かつて香港には現役時代、資産を貯め込み、老後は物価の安い大陸で余生を過ごすという人生モデルがあった。
 それが工場の大陸移転などで、香港の優位性が失われて破綻し、貧困のまま香港にとどまらざるを得なくなった。
 香港の高齢化社会の影を追う


 この番組は2013年2月16日(日)に放送された後2月17日(日)に再放送、さらに2月22日(金)に再々放送されたのが、本日また放送された番組でした。
 明日は我が身か…、ぞっとする内容でした。

『香港の高齢者に関する研究は、「生活の質」を計測するサスセスフル・エイジングに向けた分析が主流である。
 しかし貧困研究の一環として、高齢者の所得保障を論じる研究者も存在する。
 現実には、高齢化と高齢者の貧困化は加速している。
 これに対して政府は民間組織と市場を活用する政策を打ち出した。
 その結果、高齢者に対する社会保障費の抑制は実現できたが、高齢者の貧困解消には目立った効果は出ていない

(2009年、アジア経済研究所 宇佐美耕一編「新興諸国における高齢者の生活保障システム」第3章「香港の高齢化と民間セクター利用による貧困高齢者対策」(澤田ゆかり)
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2008_114_03.pdf

 香港だけではありません。ソウルでも:

【ソウル】韓国の朴槿恵・新大統領は就任演説でより公正な社会の実現を約束したが、同大統領にとって最大の難題の1つは拡大する所得格差への対応であろう。
 同国では高齢者のほぼ2人に1人が貧困状態に陥っている。
 朴大統領は2月25日の就任演説で、経済的により厳しい時代が今後到来することに言及し、同国の経済の奇跡における新しい章について語った。
 経済の奇跡は、朝鮮戦争後の数十年にわたる急速な成長で多くの韓国人を貧困から脱却させた一方で、格差を深刻化させた

(2013年2月28日 11:59 JST更新時事ドットコム「韓国の高齢者に忍び寄る貧困」By IN-SOO NAM)
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324432404578331053826972548.html

 しかし、こんな島も。
 それは香港を見た後、引き続き見入ってしまったBSプレミアム。
 午後1:00〜午後2:30(90分)放送「世界一番紀行≪世界で一番の大家族の島〜コロンビア・イスロテ島〜≫

カリブ海に浮かぶ、コロンビアのイスロテ島。
 わずか100m四方に97世帯1200人以上が住む。
 どの家も10人以上が暮らす大家族の島だ。
 島じゅうに家々が建ち並び、畑を作る土地もない。
 水道もなく、快適とは言い難い生活。
 しかし、コロンビア全土で最も平和な場所と呼ばれる。
 人びとはなぜ、この島に住みついたのか? そこには、どんな暮らしの知恵があるのか? タレントの照英さんがイスロテ島を訪ね、人々の絆を見つめる


If you asked New Yorkers what is the most crowded island in the world most would probably say Manhattan. The Japanese thought that they had claim to that title until they found out about Santa Cruz del Islote, an island located in the Caribbean, in the San Bernardino Archipelago, off the coast of Cartagena, Colombia. They went there, they measured and counted, and voilà the island did indeed have claim to the title. To 'save face' on the town plaza they built a three story community building with hospital on the third floor for the islanders.

Santa Cruz del Islote is so small (about 1,250 people live on .012 square kilometers) that people have to walk through each others kitchen to get from one place to another. There is a small town square (about the size of a tennis court) next to the new hospital building. The people have to bury their dead in a cemetery on another island. To play football (soccer) the residents go to nearby Macura Island. Fishing is the main industry, but many of the islanders work at Hotel Punta Faro on Macura. Some of the people raise fish in small ponds to sell.

To gain more space the people started expanding the island using a fill composed of coral shards. The Colombian government put a stop to the practice. You still see the coral scattered around the edges of the island.

The island was first settled by fishermen from the mainland who used it as a base for their fishing expeditions because there were no mosquitoes. After a while they started to bring their wives along, then decided to stay thus starting the settlement.

29 Jul 2012 By John Lamkin: Santa Cruz del Islote, Colombia, the most crowded island in the world
http://jpgmag.com/stories/18887

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瓦礫の海

 お花見ウオークをしながらも、ず〜っと考えていました… なんであんなに第3棟「地域社会圏」が混んでいたんだろうって。
 そう、そう、House Vision、それに第3棟「地域社会圏」って、ハナキン3月22日、「さくら通り」を歩いて行った京橋、そこでお聞きしたのです:

『講演会「集落調査の40年−民族の住まいを見つめて」於LIXILギャラリー1(東京)
 東京大学生産技術研究所の藤井明研究室(建築計画学)では、40年にわたり世界の伝統集落や住居の調査・研究を行ってきました。
 前半は展示会場でもご紹介しているアフリカ・インドネシアの住居の特徴について、建築的な視点をもとに調査から得た結果を、藤井先生による特別講義としてお話いただきます。
 後半は、今井先生の司会進行で、調査開始当初から参加されていた山本氏を交え、藤井先生との対話を中心に、それぞれの記憶に残る住居、住まい方や体験談を語っていただく予定です。
 講師:藤井明(東京大学生産技術研究所教授)、山本理顕(建築家)
 司会:今井公太郎(東京大学生産技術研究所准教授)』

http://www1.lixil.co.jp/culture/event/040_gallery/002436.html

 山本理顕さん(1945年中国・北京生まれ)、2年前までは横浜国立大学の教授もなさっておられました。
 2年前といえば…

水が引いてもまわりは瓦礫の海で途方に暮れているところに酒屋のゲンちゃんが助けに来たのだと言う。ゲンちゃんと一緒になんとか母親を二階の次女の部屋に引き上げた。そこに母親を寝かせたけど、点滴をすることができなくて数日で息を引き取ってしまった。最後は口移しでジュースを飲ませたけどだめでした。遺骸と一緒に寝ていたんですよ。

「見られること、聞かれること」… それが公共性だとハンナ・アレントは言った。私たちは聞かれる権利がある。見られる権利がある。

 私たちがいままでつくってきた社会は「見られないこと、聞かれないこと」、つまりプライバシーが最大の価値であるということを前提としてつくられてきた。プライバシーを守ることが住宅の役割だったのである。いままで何度も話しをしてきたけど、プライバシーの元々の意味は"排除される"という意味である。社会的な関係から排除されている状態が「deprived」な状態である。それがプライバシーの意味である。
 住宅という小さな箱の中でそれを快適な箱にするために花を飾り、犬を飼い、美しい調度品を揃える。その「小さな満足」で十分に満足するようになったのがフランス人だとアレントは言うけど、それは正に戦後のわれわれである。その「小さな満足」を求めた人たちが最大被害者になってしまった。

 われわれ供給者側が最大の過ちを犯してきたのだと思う。「小さな満足」をつくり出してきたのがわれわれだからである。

 いままでの近所づきあいがあったから助かった、と石巻の女性、安田さん(63歳)がおっしゃった。安田さんのおっしゃるように、みんなと一緒に住んでいた。誰かに話したい、見てもらいたい、という強い思いは「プライバシー」とは全く違う思いである。誰でも安田さんの話しを聞いて心が打たれると思う。
 いままでの社会のつくられ方には決定的な欠陥がある。その社会のつくられ方がこうした取り返しのつかない災害を生んだのだと思う。

 誰でも見られる権利がある、誰でも聞かれる権利がある。そういう社会、そういう建築、そういう住宅をつくりたい。本気でそう思った

(May 10th, 2011)
http://www.y-gsa.jp/yamamoto/post-9.html

 被災地から戻ってすぐ、ご自分でできる活動をはじめます:

建物を、街を、根こそぎ奪っていった東日本大震災からまもなく半年。建物や街をデザインしてきた建築家たちも、数多く被災地に入り、活動を続けている。かつて建築家からは、あまたの理想都市や未来都市の計画が生まれてきたが、今回はずっと小さく、足元を見据えて活動する姿が目立っている。

 伊東豊雄(70)、山本理顕(66)、内藤廣(61)、隈研吾(57)、妹島和世(54)。日本を代表し国際的にも知られた5人の建築家は、震災直後に震災を考え行動する会を結成した。名前の頭文字を並べた「KISYN」にもちなみ、「帰心の会」と命名した。
 ブラジリアやキャンベラといった新首都は建築家が設計し、日本でも丹下健三は広島の復興計画に参画、高度経済成長期には多くの建築家が、未来都市像を描いた。帰心の会のメンバーも内外で大規模建築を手がけているが、伊東は「いま大計画を唱えたら、だから建築家はのんきだと言われる。自分の建築思想をゼロから考え直さないと」と話す。
 「建築の原点は人の集まる場所」と思い定め、「復興には何年もかかるが、まず、すぐにできて被災した人が気楽に集まり安らげる≪みんなの家≫を造ろう」と考えたという。
 仕事で縁のある熊本県が木材を提供、仙台市内の仮設住宅の敷地の中に、10坪ほどの「家」を建てることに。仮設に暮らす人びとから意見を聞き、これまで手がけてきたような透明感のある家ではなく、つつましい木造切り妻を採用。土間には薪ストーブも置く。
 「もう少し建築家らしいデザインをしては、とも言われたが、被災したお年寄りには提案できないし、ここから始めたかった」と伊東。2011年9月13日に起工式がある。
 伊東は、岩手県釜石市の復興計画のアドバイス役も務めている。山本も岩手県で活動。仮設住宅の入り口を向き合うように建てて、人びとの交流が生まれるように提案し、実現。妹島は宮城県東松島市の街づくりの手助けをしている。山本と妹島も、「みんなの家」を計画している。
 隈の活動は異色で、募金を基にがれきを樹脂で固めた小建築「ガレキミュージアム」を計画中。がれきを使った作品を展示し、人びとが交流できる場を目指す。被災地内での移動も検討している

(2011年9月10日10時28分 asahi.com ニュース「建築家、被災地で原点回帰 重鎮も若手も」)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201109090264.html

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2013年03月23日

観桜会

あまりにも早すぎる桜の開花、満開が続いています。
 東京は昨日3月22日まで、10日間の平均気温だと14.0℃もあり、実に平年より4.4℃も高い気温となっています。
 4.4℃というのは、この時期、ほぼ1か月分の気温差に相当しますので、この3月3日からの10日間の気温は、まさに4月中旬頃の気温に匹敵していたということになります。
 桜も早いわけです。
 ところで、今年とほぼ同じ日付で満開を迎えた年が過去に1回だけありますが、それは2002年です。
 来週にかけても平年よりは高めの16℃〜19℃の高温が続く見込み。
 予想通りに経過すれば、満開後の進行、つまり桜吹雪になるのは、2002年よりも十分に早くなる可能性があると思います。
  〜世(よ)の中(なか)は三日見ぬ間(ま)の桜かな〜
   (世の中は、3日見ないうちに散ってしまう桜の花のようなものだ)
という言葉もありますが、今年の桜はまさに短命、ぱっと咲いて、ぱっと散る過程をたどるかもしれません

(2013年3月23日10時14分更新 チーム森田の天気で斬る 杉江勇次「史上最も早い桜吹雪に?」)
http://weather.yahoo.co.jp/weather/column/moritablog/

 ですので、朝からそわそわどきどきあたふたヤッホー君、もう8時には家を飛び出しておりました。
 上野から青海、という東京湾ウオーターフロント(海側からいいますと東京湾深奥部)一周のコースを実行に移すのはイマをおいて他に無し、パッカカパ〜ン、パパパパ〜ン。

 上野で見たかったのが、ヤッホー君のこのブログでも登場したサクラ「舞姫」!

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 それに新種のサクラ「コマツ乙女」

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 そう、サクラといえば名所は上野に限ります。イーチャリでもイードラでもありません。イーデンですよぉ〜…

 まずは上野の賑わい。
 そして上野東照宮のしだれサクラ!

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 さ〜て、その先向かったのが、上野から山手線で新橋で「ゆりかもめ」に乗り換え、青海。
 駅を降りたら海を見ながら持参した土方弁当をいただきます!
 何があるのかと申しますと「ハウスビジョン」House Vision 2013 Tokyo Exhibition
http://house-vision.jp/exhibition.html

 今日の13:00–14:00のトークイベントには東大大学院教授、大野秀敏さんがでるというのですから、ヤッホー君のこのブログでも登場願った先生の発言を聴くため、どうしても行かないわけにはいかないのです。
 『シュリンキング・ニッポン-縮小する都市の未来戦略-』(鹿島出版会、2008)で既に世に問うていらっしゃいます。
 縮退と成熟の時代を迎えた日本がこの課題にどのように答え、世界の未来を先取りしていくのか などについて HOUSE VISION のご感想とともに「これからの日本と幸福」についてお話し頂きます、というんもんですから。

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 展示館で強烈な印象を与えたのが、第3棟「地域社会圏」(未来生活研究会x山本理顕・末広弘和・仲俊治)。
 棟内に入るのに長い行列もできたほど(展示は明日の日曜日までです)。

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 また、あらためてこの日記で報告するとは思いますが、「ゆりかもめ」で豊洲にでまして、有楽町線で月島で下り、相生橋を渡って帰宅した、とこういうわけでございました。

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2013年03月22日

熊井明子

 3月22日ハナキン。
 今日の午後はイーチャリ。
 大川に注ぐ日本橋川を湊橋で渡り、霊巌島交差点で亀島川を新亀高橋で渡ったところに自転車を置きまして、そこからは、新大橋大橋通り、昭和通りを越して高島屋、丸善を目指し、「さくら通り」のお花見ウオーキングとしゃれこんだのでございます。
 まずは、坂本町公園。

1889(明治22)年、東京における最初の市街地小公園の先駆けとして、この地(旧日本橋区坂本町)に開園。
 当時は樹木うっそうとして風雅な涼亭を備えた和風庭園だったが、関東大震災によって全焼し、震災後避難民収容施設、仮校舎等の敷地に使用され、非常時における都市公園の機能が十分発揮された。
 その後復興事業により区画整理され、小学校と公園とが一帯に利用できる児童コーナーを設けた洋風の公園になった。
 太平洋戦争時、東京大空襲によって再び焼失。
 戦後、戦災者用の仮設住宅の敷地として使用され、その後児童公園として、さまざまな改良整備が行われ、現在の公園になる

(中央区郷土史同好会)
http://homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/24kai.html

 今日はハナキン、夜桜の下でさくら見物と宴会を、と青いシートで場所取りがはじまっておりました。
 そして隣には阪本小学校。ここは文豪谷崎潤一郎も卒業した小学校です:

『阪本小学校は、今年、創立139年を迎えます。
 1973(明治6)年5月7日、「第一大学区第一中学区第一番官立小学 阪本学校」として開校しました。
 学校の敷地は、肥後細川藩下屋敷であったと言われています。
 開校の頃の学校の周囲は、海産物問屋や両替店、酒倉や米問屋などの商家が軒を並べ、大変賑わっていました。
 また、鳶職、大工、左官、指物師などの職人が腕を競っていました。

≪小学校前は紅葉川が流れ、テレビで見る時代劇のような風景が広がっていたようです。そして、わが国最初の銀行・第一国立銀行や郵便発祥の地である駅逓司と東京の郵便役所を初め、日本全国の金融機関が見られました(「阪本百年」記念誌より抜粋)≫

 今では高いビルが建ち並び、紅葉川は高速道路になり、当時の面影は見られませんが、変わらないものがあります。
 それは、兜町・茅場町が「日本の中心」であることです。
 地域の方々の「江戸の心(江戸しぐさ)」と「学校や子どもを愛する熱い思い」が絶えることなく脈々と受け継がれているところです。

 私たちは、この歴史と伝統のある本校の教職員としての誇りをもって、地域の特色を生かした教育の創造に最善を尽くしてまいります…』

(平成24年4月中央区立阪本小学校校長 鈴木政博)
http://www.chuo-tky.ed.jp/~sakamoto-es/index.cfm/1,0,14,html

 さらに歩を進め、「丸善」(中央区日本橋2-3-10 Tel 6214-2001)に入ります。

丸善の創業者早矢仕有的は最初から実業家を目指したのではありませんでした。
 有的は1837(天保8)年美濃国武儀郡、現在の岐阜県生まれ、早くに死んだ父親の後を継いで医師を志し、18歳のときに郷里で開業しました。
 しかし時代の急速な流れは、有的を地方の一医師だけに終わらせませんでした。

 蘭学だけでなく英学を学ぶ必要性を感じた有的は、1867(慶応3)年、当時評判の福沢諭吉の私塾(後の慶應義塾)の門を叩くことになります。
 これが有的の人生においてターニングポイントとなり、塾の主宰者・福沢諭吉こそが有的にとってのキーパーソンとなっていきます。
 塾で有的は2歳年上の諭吉から英学はもちろん「経済」を学び、医業以外の自己の可能性を拡げていきました。
 一方、諭吉は有的に実業の才能を認め、有的をバックアップ。
 有的は、入塾して2年後の1869(明治2)年、自らが居住する横浜に「丸屋商社」を創業したのでした。
 創業にあたって定められた「丸屋商社之記」は日本初の会社設立趣意書ですが、一説には諭吉自身の手によるものといわれ、諭吉の思想がベースにあったのは間違いありません。
 実際、開業当時は主に諭吉の著作販売を手掛け、同時に医薬品と医療器具の輸入を行っていました。
 有的自身も実業家というより、肩書きは横浜黴毒病院の院長であり、医師として多くの患者の治療に当たっていたのでした。
 明治34年(1901)に64歳の生涯を閉じました

(丸善の歩み、丸善創始の話)
http://www.maruzen.co.jp/corp/history/foundation.html

 その丸善で出会ったのが、な、なんと、なんと、映画「忍ぶ川」の監督熊井啓の奥様の新刊本。
 熊井明子『めぐりあい-映画に生きた熊井啓との46年-』(春秋社、2012年1月20日刊、2100円):

本書は戦後日本の<魂の記録>と言えるのではないか。
 読み進むと分かってくるのだが、生の意味と真摯に向き合う人には、必ずそれに応分の伴侶から師、さらには畏敬する先達との出会いがあり、本人の知性も感性もより深化していくということであろう。
 この<魂の記録>は、映画監督熊井啓との合奏により築かれるが、熊井映画ファンとしては、あのシーンはそういう意味があったのかなどの裏話も分かり、改めての感動がある(例えば「愛する」など)。
 一本の映画に賭ける映画人は、自らの地肌をさらけだして闘うが、その支えに徹した妻の目は、実は真贋を見極める目を持つに至ることが感得できる。
 田中絹代の言、宇野重吉のさりげない心遣い、黒沢明の本音、録音技師太田六敏の支えなど、著者は映画人や作家の素顔を克明に語り続ける。
 純愛という語が生きていた時代から夫の死、その後の心情、同世代としては心洗われる作品である

(2012年03月18日掲載、評者 保阪正康(ノンフィクション作家)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012031800017.html

待ちに待った本がまもなく発売になります。
 それは姉・熊井明子による「めぐりあい」(春秋社)です。
 映画監督・熊井啓との46年の日々が、まるで綴れ織りを紡ぐように語られています。
 私は妹として常に身近におりましたので、そのすべての事柄に、胸が熱くなるような思いがいたしました。
 是非沢山の方にお読みいただきたいと願っております

(2012-01-17 桐原春子のハーブダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/mitioyoneko/20120117/1326789856

 熊井明子の妹、桐原春子は、『長野県松本生まれ。ハーブ研究家。英国流の庭作りにも詳しく各所で講師を務める。著書は『知識ゼロからの食べる庭づくり』(幻冬舎)、『とっておきの英国庭園』(千早書房)など多数』(同ブログのプロフィルより)。

 是非沢山の方にお読みいただきたいと願っております、ヤッホー君もそう思います!!

 さらに熊井明子について:

『長野県松本市に生まれる。
 信州大学教育学部(松本分校)修了。
 映画監督熊井啓と結婚。
 執筆のかたわら長年ポプリやハーブの研究を続け、シェイクスピアにも造詣が深い。
 「シェイクスピアの香り」(東京書籍)をはじめとする著作活動に対し,1997年第7回山本安英賞を贈られる。
 著書に「「赤毛のアン」の人生ノート」(岩波現代文庫)、「私の部屋のポプリ」(正・続・続続/河出書房新社)、「シェイクスピアの妻」「めぐりあい-映画に生きた熊井啓との46年-」(春秋社)などがある。

 熊井啓監督との出会いから死別までを描いた「めぐりあい―映画に生きた熊井啓との46年-」(春秋社/2012年)によれば、熊井明子さんは1970年代からロンドンの大英博物館に通ってポプリや香りについての古文書を筆写する作業(コピー禁止のため)を通じて、シェイクスピアが活躍した英国の16世紀(エリザベス1世の時代)が香りの時代であり、彼の作品にはさまざまな花、ハーブ、スパイス、香りグッズが登場することを確認したといいます。
 このため、「香り」をキーとしてシェイクスピア作品を読み解くという構想が浮かび、「シェイクスピアの香り」(東京書籍/1993年)を著すに至りました。
 同書は多くの新聞、雑誌に取り上げられ、小田島雄志さんや故・高橋康也さんらシェイクスピア学者から「類書がない興味深い著作」と絶賛されました…』

(岩波現代文庫「シェークスピアに出合う旅」)
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6022100/top.html

 この書には映画「忍ぶ川」への取り組みの際のエピソードが載っております。
 この書を求めてのお花見ウオークだったのか、あんなにたくさんの本を並べてあったり、積まれてあったりしているのに、まるでヤッホー君を手招きしているよう、ヤッホー君も惹きつけられたように、吸い込まれるかのように、その書を手にとっておりました。買いました。
 是非沢山の方にお読みいただきたいと願っております。

 さくら通りの夜桜を載せまして、どちらさまもおやすみなさい眠い(睡眠)


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洲崎橋

 三浦哲郎。
 生きてりゃよかったのに…
 ノイツナーさん(53)の置き土産とあわせて、ヤッホー君がイマ、大事に抱えてこんでいるのが三浦哲郎『師・井伏鱒二の思い出』(新潮社、2010年12月刊)。
 この本は、作家にはふたりもお師匠さまがおられ、作家修行の善き導き手であったのがよく読みとれる未完のエッセーです。
 作家三浦が65歳から67歳のときに書かれています。
 ぜひ本屋さんに出向いて、お買い求めのうえお読みになってください、好著です。

 ふたりもお師匠さま…
 一人目は小沼丹(1918-1996)。
 作家が『早稲田大学の仏文科に在学中の学生で、小沼さんはおなじ大学英文科の助教授であり、清新な作品「村のエトランジェ」で注目を集めている新進作家でもあった』(同書7頁)

(1949年に高校を卒業して早稲田大学政治経済学部経済学科へ進学したが1950年に次兄失踪のため休学して父の郷里の金田一村湯田(現在の二戸市)に帰郷、八戸市立白銀中学校で助教諭として体育と英語を教える。やがて小説を書き始め、1953年に早稲田大学第一文学部フランス文学科へ再入学−ウイキより)

 そして小沼丹に連れられて出向いたのが荻窪にお住まいの井伏鱒二(1898-1993)で、その後、二人目のお師匠となるんでしゅ。
 井伏鱒二の写真は『自室の机の前の壁に画鋲でとめてあった』(同書9頁)そうです。

 いえね、ヤッホー君が注目するのは、人が人との出会い、記憶を語るときに手がかりとするのは、その人となりや性格、考え、思いとかでなく、ガレキなんじゃないかと、ガレキの出す音、匂い、汗も含めて。
 この場合は、下駄。

私は、井伏先生がまだお元気なころに履かれた下駄を一足持っている』(同書冒頭の文章)…
 ところで、人間のために作られた下駄は、作家三浦はいちども履かず、かといって下駄箱に大切に仕舞いこんでもいず、玄関の上がり口に大切に揃えてだしてあるのです、むき出しのガレキ。

 いや、門外不出の秘蔵品もあるのです、それは師の書。
 これは、『墨すり役の余得』であって、交換価値のある書画ではありません、いわばまたしてもガレキ。
 『小沼さんが偶に残った和紙や色紙を分けてくれて、彼にも何か書いてやってくださいと口添えしてくれた』(同書105頁)おかげ、だそうです。

明るい月夜です
 岡にのぼれば
 万朶の桜です


 ヤッホー君が思わず泣いてしまったガレキ、『羽音』…

『「太宰はよかったなあ」と先生は、暗くなった庭へ目をしばたたきながらいわれる。
「ちょうど今時刻、縁側から今晩はぁとやってくるんだ。竹を割ったような気持ちいい性格でね。…生きてりゃよかったのに…」
 …先生が沈黙されると、庭から飛び込んできて電灯のまわりに輪を描くカナブンブンの羽音が高くきこえた』

(同書11頁、下線はヤッホー君)

 そう、そう、どうして昨日の夕暮れは「洲崎橋」までイーチャリしたのかでしたね。

『「これが、洲崎橋」
 志乃は、焔になめられたあとが黒い縞になってのこっている石の欄干を、なつかしそうに手のひらでぴたぴたたたき、それから、橋の向こうの空をよぎっている高いアーチを、めずらしそうに仰いで、そこに書いてある、夜はネオンになるのだろう、豆電球にふちどられている文字を、
「洲・崎・パ・ラ・ダ・イ・ス」とひくく読んだ』

(三浦哲郎「忍ぶ川」、新潮文庫、下線はヤッホー君)
 
 ぜひ本屋さんに出向いて、お買い求めのうえお読みになってください、好著です。

 ヤッホー君、イマは橋も川もなく、ただ橋の名前だけ辛うじて残っている石碑を、手のひらでぴたぴたたたいてきました。
 石碑の向こうには、万朶の桜にはまだ早い、咲き初めの桜が、夕暮れに淡く立っていました。

洲崎橋.jpg


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2013年03月21日

新田橋

 3月21日夕暮れのころ、何を思い立ったか、ヤッホー君、イーチャリで向かいました、「新田橋」。
 あれは、ヤッホー君のこのブログ、昨年2012年01月28日付けと2012年01月29日付けの日記「大東京球場」、「災禍」をご参照ください。
 あの時通った紅い橋をもう一度見たいと思ったのです。そして「洲崎橋」も訪れてみたい、と思ったのです。
 ノイツナーさん(53)の置いていったガレキの山々にまだ圧倒されています。

 あの16日土曜日のお話しのとき、司会進行してくださった東海大学の柳原伸洋先生はお話しの最後にこんなことを:

『今日の集いのタイトルは「空襲を伝えるドイツの都市」とありますが、ノイツナーさんは一言も「継承」と言う言葉をお使いになっておりませんでした。その代わり「対話」「交流」「交換」という言葉を使っておられました』

 どう考えればいいのか、体験者が戦災の記憶を次世代にたすきがけのように伝えていく…、非体験者はその言葉に涙する…、これって確かにうまくたすきがけのように引き継がれていくものなのか、たしかに疑問なのです。

 ヤッホー君のブログでお読みくださいとリンク先を示したサイトをクリックしても毎日新聞の玉木研二(現・専門編集委員)の文章はサイトから消えてしまっていました。
 外国メディアのように保存しておいてくれても良さそうなものですが、これだって「継承」できず「断絶」してしまっているではありませんか。

 でも、こんな文を紙上でお書きになっておられます(削除されないうちに全文プリントアウトしてお読みくださいね):

検閲は思考停止したような不合理な言論封止を生じ、結局世の不安、不信を醸成する。
 歴史の常だ。戦中・戦前日本自身が同じ事をしている。

 GHQは1945年9月、プレスコード(新聞遵則(じゅんそく))で「公共の安寧を乱す」ことや「進駐軍への破壊的批判、不信や怨恨の招来」などを禁じ、10月に検閲を開始した。
 新聞は1948年7月に事後検閲になり、それも10月に廃止した。

 この間、異邦の占領者たちに言論を厳しく制約された苦い体験は尾を引いた。
 いや「すんだこと」ではない。
 報じられることがなかった進駐軍兵士の犯罪はその数知れぬままである

(2013年03月19日毎日新聞 東京朝刊、火論:占領者は頭下げず)
http://mainichi.jp/opinion/news/20130319ddm003070115000c.html

 消えていく残骸、片付けられてしまうガレキ、削除されていく数多の文章、書き手・話し手の減少、そして忘却、…

 復興ではなく、したがって残っているガレキをパズルのように組み合わせて何か浮かびあがらせていくこと、それは体験者、非体験者問わず、そこに居合わせた老若男女、やはりどなたでもできる仕事(ワーク)でしょうね。

 なぜヤッホー君がイーチャリで「新田橋」に向かったのか…、「新田橋」とは:

大正時代、岐阜から上京し木場5丁目に医院を開業していた新田清三郎という先人がいました。
 1932(昭和7)年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられました。
 当初は「新船橋」と名付けられましたが、新田医師の没後、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 町の相談役としても人望が厚く「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師が、いかに地域の人びとから愛されていたかが窺えます。
 また、映画「稲妻(1952年製作・大映東京)」やテレビの舞台ともなり、下町の人びとの生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、さまざまな人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
 2000(平成12)年の護岸整備により現在の橋に架替られましたが、当時の橋は八幡堀遊歩道に移設され、大切に保存されています

(1990年第一回江東区まちなみ景観賞)

 いえ、もしかして、映画のロケは「忍ぶ川」だったのかな、と思い込んでいたヤッホー君、その記憶のぶれ、ゆれ、ねじれが気になったのです。

 原作は三浦哲郎(1931-2010年)が1960(昭和35)年に「新潮」10月号へ発表した作品。そして同年第44回芥川賞を受賞した作品となった。

 映画は1972年5月25日公開。監督は熊井啓(1930-2007、ヤッホー君注記)、志乃に栗原小巻(1945-)、哲郎に加藤剛(1938-)の布陣。
http://www.youtube.com/watch?v=UmPanGVHAFo&feature=related

 次いでなぜヤッホー君は、「洲崎橋」に向かったのですかって? それはまた明日。


(ヤッホー君注記) 監督は安曇野市出身でした。次回安曇野市にお邪魔するときは、「熊井啓記念館」(安曇野市豊科5609番地3 Tel 0263-71-4033)を必ず行程表に入れようっと。
『安曇野市名誉市民熊井啓監督は、豊科町大字豊科(現・安曇野市豊科)に生をうけ、映画監督として日本の映画界に多大な功績を遺しました。
…安曇野市豊科交流学習センター“きぼう”の開館にあわせ、寄贈された貴重な資料をもとに、熊井啓監督の業績を顕彰するため、熊井啓記念館を開設します』
http://www.city.azumino.nagano.jp/shisetsu/bunka/kibo/kumai_kei_kinenkan/annai.html
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2013年03月20日

シュレーダー前首相(68)

 今日3月20日はイラク戦争が始まった日。
 ヤッホー君は定宿にしていたパリのホテルのフロントのテレビで、なんだか呆然、唖然とテレビ画面を見続けていたことを思い出しています。
 
 何の口実があって、他国に土足であがりこみ、無垢な市民達を爆殺するのか、アメリカだから許されるのか、どうしてその無差別空爆を受けたこともある国が支持するのか(一人赤ちゃんからお年寄りまで一万円をアメリカの戦費にカンパしなければいけないのか…)、憤然として憤って、パリジャンの友人の手を握り、わなわな肩が震えていたことを思い出します。

 でもその後、何の検証も、経緯の分析も公表もされてきませんでした。
 イラクの石油狙いの1%が、言うことを聞かないので、邪魔になったのでフセインを殺処分にし、石油利権を手中におさめること、それだけが目的で、99%のアメリカの兵士やましてやどこぞの砂漠の民は眼中にありません。

イラク戦争の開戦から3月20日で10年を迎えた。
 大量破壊兵器の存在を理由に米英などによる武力行使で始まったこの戦争では、フセイン大統領という独裁を倒すことはできたが、開戦理由の大量破壊兵器は発見されなかった。
 宗派間対立を伴う内戦状態に陥り、10万人以上とされるイラク住民の命を奪った戦争は正当化などできない

(2013年3月20日琉球新報社説)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-204230-storytopic-11.html

 ヤッホー君の昨日の日記、再読してみませんか:

『全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻み続けることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼がたがいに助け合わねばなりません…
 問題は過去を克服することではありません…
 後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
 しかし過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となります。
 非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです』

 あやうい言葉、表現、思いがでてきます。

≪全員が過去からの帰結に関わり合っており≫ってことは、戦争の始まりと終わりの責任は個人名を言って追求するのでなく、全員、全体、システムにしておこう…これっていいのかな、ということですよね。
 個人ってさ、結局のところ、生き延びるものは生き永らえるし、殺処分されるものはされてしまうけど、99%の人間はおろおろ逃げまどってみたり、1%の連中への人身御供で焼き尽くされるか、自分で自分の運命なんて選べません。

2003年3月20日にイラク戦争が開始されてから10年がたつが、未だこの戦争の過ちについて十分な総括が国際的になされていない。
 
 イラク戦争は、国連安保理の許可を得ない武力行使であり、明らかに国連憲章違反であったし、その理由とする「大量破壊兵器」は存在しなかった。
 この誤った戦争により、イラクはあまりにも壊滅的な打撃を受け、人命を奪われた。

 アメリカ、ジョンホプキンズ大学ブルームバーグ公共衛生大学院の研究では、2003年のイラク戦争の結果として約65万5千人のイラク人が死亡したと推定、WHOはイラクで2003年3月から2006年6月までに15万1千人が暴力によって死亡したと推定している。

 米軍との戦闘で命を奪われた人だけではなく、占領後の宗派間対立の激化で多くの人が死亡したわけであるが、戦争が起きなければこれだけの犠牲がなかったことは明らかである。
 
 しかし、これだけ人命を犠牲にしたのに、米国では誤った戦争に関する公的な謝罪や検証は全く行なわれていない。

 特に、私が人権の観点から許せないのは、米軍・英軍が直接かかわった人権侵害行為の責任がほとんど問われていないことだ。

 例えば、2004年4月と11月の米軍によるファルージャ総攻撃では、戦争犯罪に該当する「民間人攻撃」が行なわれたとされ、多数の民間人が殺害されたという。
 白リン弾や劣化ウラン弾等残虐兵器が民間人の居住地で、市民に対する危害を最小限に抑える手段を一切講ずることな大量に使われ、おびただしい死者が出た。

 白リン弾使用については、イタリアのドキュメンタリーでその残虐性、極めて残酷で深刻な被害が暴露されている。
 アメリカ軍がアブグレイブやその他の刑務所で、拷問・非人道的取り扱いに該当する身体的虐待や侮辱などの行為をイラク人拘留者に対して行ったことは多くの証拠に裏付けられている。

 こうした行為は何より戦争犯罪の可能性が高いが、きちんとした調査は行われず、ほとんど誰も責任を問われていない。
 訴追されるのは少数の末端の兵士だけ。
 意思決定に関わったトップレベルの人びと、ブッシュ元大統領やラムズフェルド元国防長官、拷問を正当化した司法省、国防省関係者等の責任は全く問われていない。

 超大国が大規模かつ残虐な人権侵害をして幾多の罪もない人を殺害しても誰も責任を問われない、そのようなことでは、大国の都合でおびただしい虐殺が今後も果てしなく繰り返されるだろう。
 罪もない多数の犠牲者のことを考えると怒りしかない

(2013年3月20日水曜日 弁護士伊藤和子先生 「イラク戦争で奪われた莫大な人命の犠牲-総括をしないのは人類の汚点」)
http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/--07e3.html

 弁護士伊藤先生は「国連・女性の地位の向上、女性の権利擁護のための主要機関 UN Women's Regional Civil Society Advisory Group for the Asia Pacific Regional Office の地域アドバイザーメンバー」に就任したばかり。

『イラク戦争開戦当時、官房長官だった福田康夫元首相が朝日新聞のインタビューに応じ、小泉純一郎首相の開戦支持表明の直前、英国からブレア首相の議会演説に先駆けて支持を打ち出してほしいと打診されていたことを明らかにした。
 「イラクに大量破壊兵器(WMD)がある前提」で支持した日本だが、判断材料を得ようにも「手も足もないという感じがした」と日本独自の情報入手ができなかったと率直に認めた。

 2003年3月20日の米英軍の先制攻撃を前に、当時のブッシュ米大統領が3月18日(日本時間)にイラクへの最後通告演説をした。
 福田氏によると、その頃に英国外交筋が福田氏に「ブレア首相がこの問題で議会演説をする。日本がその前に英米への支持を表明してほしい」と要請してきた。

 福田氏は「小泉首相はもうじき(記者団に)ぶら下がりをする。それを見て判断を」と返答したが、「開戦の判断で英国も(世論の反発で)相当困っていた」との印象を受けたという。
 結局、小泉氏は直後に「米英が武力行使に踏み切った場合、支持する」とイラク攻撃支持を打ち出した…』

(2013年3月20日5時0分朝日新聞デジタル「イラク戦争10年 福田元首相「我々に情報はなかった」)
http://www.asahi.com/politics/update/0320/TKY201303190570.html

 【ベルリン篠田航一】イラク戦争開戦から10年にあたり、参戦を拒否したドイツの当時のシュレーダー前首相(68)は「難しい決断だったが、我々のナイン(ドイツ語のノー)は正しかった」と述べ、改めて攻撃不参加は正しい判断だったとの認識を示した。
 今月3月12日、所属する社会民主党の会合で述べた。

 独メディアによると、拒否の理由を「イラクに大量破壊兵器は存在しないと確信していた」と説明。
 さらに、「当時の野党党首(メルケル現首相)の主張通り参戦したら、ドイツ軍は今もイラクにいただろう」と述べ、今秋のドイツ総選挙を念頭に、参戦を促したメルケル氏を批判した。

 ラムズフェルド米国防長官(当時)が独仏を「古い欧州」となじるなど、米独関係は極度に悪化した

(2013年03月20日毎日新聞東京朝刊「イラク戦争:10年 独シュレーダー前首相「参戦拒否正しかった」)
http://mainichi.jp/select/news/20130320ddm007030215000c.html

 これもまた、戦争に対する日本とドイツの対応はまたしても異なっており、日本の対応がいまだ疑問に傾げるところだが、政府もどの政党も検証はまったくなされていない。
 これもまた、日本とドイツの違いを嘆くだけでなく、両国で何故これほどの違いが生じたのか考えてみることも大事なのではないか、ということで幕切れにするのか、皆の衆。
 ご自分の身のまわりで口に出してみない?ヤッホー君はそうするって言ってます!

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2013年03月19日

荒れ野の40年

 ノイツナーさん(53)が残していったガレキのうち何点かをここで拾ってきて思い起こすことにしましょうか?
 今日は戦争責任について。
 こんな質問が会場から出されたのです。

「ナチをしていた自分たちのことをどうドイツ人は受け入れてきたのでしょうか?」(ドキッ)

 ノイツナーさんは少しもたじろがず、こんなふうに言葉を返していきます:

 これは外国人からドイツ人に対する質問であると同時に、体験者が若い世代との対話の中でもつきつけられた疑問でもありました。
 いわば体験者は価値観が白紙になったショックでもあるし、過去をどう克服するか、という問いかけでもあるし、トラウマともいえるものです。
 戦後直後は「忘れよう」としていたと思います。西ドイツは西欧諸国に追いつけとばかりに経済復興が何よりも優先していましたし、東ドイツではわれわれは反ファシスト国家であることだけを強調していました。
 60年代の学生運動を経て、ようやく80年代に入って、いったいわれわれの過去に何があったのか、何が起こったのか、むきあおうとしたのです。
 過去の事実を否定するものも少数ながらいましたが、大多数は事実を正しく受け止めること、正しいかたちで記憶しよう、としはじめました。
 1933年から1945年までのナチは2つの意味での犯罪を犯しています。
 ひとつは600万人を殺したホロコースト。
 もうひとつはシステム化して大虐殺をおこなったこと。
 この暴力がひきおこしてしまう「戦争の恐ろしさ」について、平和の視点でドイツの大統領は演説をしたのです、と。

『私がドイツへ来ることになったとき、これは必ず持っていこうと思った本がある。
 「ヴァイツゼッカー大統領演説集」(永井清彦編訳・岩波書店)だ。

 これには、西ドイツ時代から大統領であり、統一ドイツ後初代の大統領となったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの演説が集められている。

 世界にその名を広めることになったのが大統領として1985年5月8日、国会で行った戦後40年の終戦記念日を迎えるにあたっての演説だ。

 「荒れ野の40年」と題されたこの名演説は、さまざまな機会に取り上げられる。
 しかしこれが行なわれた当時、日本の新聞はわずか数行しかこの演説を取り上げなかったそうだ。

 これが広く日本に知られるようになったのはベルリンの壁崩壊にともなってのことらしい。
 あまりに有名で、ここで書き出すのもおかしいが、私はこの演説のあの有名なセリフを書かずにはいられない。

 これを初めて耳にしたとき、私はまさしく私たち日本人に負わされた重くて大きな命題の解決の糸口が見つかったような気がしたのと同時に、どうして日本の政治のリーダーがこれを言ってくれなかったのかと悔しくて仕方なかったのを覚えている。

 以下、有名な「荒れ野の40年」の抜粋である。

              ☆

≪今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。
 この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することは出来ません。
 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めのときに着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情を持った人間に出来ることではありません。
 しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼を問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。
 全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻み続けることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼がたがいに助け合わねばなりません。
 また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。
 さようなことができるわけはありません。
 後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
 しかし過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となります。
 非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです≫』

(2005年4月からベルリン日本人学校に赴任した小川聡子先生のベルリン通信第91号)
http://www.annaka.ed.jp/sakamoto/berlin/berlin94.html

 1985年5月8日、ドイツ敗戦40周年を記念してドイツ連邦議会で行われ、その真摯な内容に世界中から賞賛の声が寄せられたヴァイツゼッカー西独大統領(当時)の演説でした。
 この国では、1995年の敗戦50年を記念して≪村山談話≫が発表された
 しかし、不安倍増…

『【ソウル=中川孝之】安倍首相は3月18日発売の韓国誌「月刊朝鮮」とのインタビューで、歴史認識に関する「安倍首相談話」について、「戦後70年目の談話を出すべきだ」と述べ、2015年の談話発表を目指す考えを示した
 インタビューは2日に首相官邸で行なわれた。
 安倍首相はまた、いわゆる従軍慰安婦問題に関する1993年の「河野談話」見直しに関連し、「今後どう対応するかについて、専門家や歴史家に意見を聞く。外交、政治問題にすることは全く考えていない」と改めて主張した(ヤッホー君注記)。
 自身が集団的自衛権の行使容認などを巡り、韓国で「極右」と警戒されている点について、「韓国を含む大多数の国家が採用している安全保障体制と同じようにするものだ。私の主張が≪極右≫なら、世界のどの国家も極右国家となる」と強調した』

(2013年3月18日14時04分 読売新聞「安倍談話」2015年発表…首相が韓国誌に語る」)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130318-OYT1T00590.htm

 戦争についてばかりではありません。
 ゲンパツについても、緑の党についても、日本とドイツはなぜこうも違うのか、ノイツナーさんは日本人に考えてみなさい、とガレキを置いていったのがお分かりでしょうか。
 他人任せにしないで、皆んなでああでもない、こうでもないと考えて、考えたことを車座になって、発話していってみませんか。
 例えば、次の本なんか読んで、さ:

よく知られたように、戦争責任に対するドイツと日本の対応は異なっており、日本の対応がいまだ不十分なことは評者も自覚している。
 だが、日独の違いを嘆くだけでなく、両国で何故これほどの違いが生じたのか考えてみることも大事なのではないか
 再軍備を早期に決断することで欧州に復帰したドイツと、平和憲法を抱いてアジア太平洋に復帰した日本と。
 両者の戦後思想の異なった軌跡をたどる際、記念碑をめぐるドイツ国内の相克と論争について本書が導いた知見と創見は、不可欠なものとなるはずだ

(2013年03月03日毎日新聞 東京朝刊 今週の本棚:加藤陽子東大教授(日本近代史)・評 『記念碑に刻まれたドイツ』=新潟大学人文学部教授松本彰・著(東京大学出版会、2012/10/26)


(ヤッホー君注記)何をソウルからわざわざ中川孝之記者が書いているのか不明な日本語。多分、本社で書き改められたのか、日本語の劣化の例、メディアの大本営発表の転記の例、ジャーナリスト不在の例です。東京新聞はこういう記事になっています:
『首相は戦後50年と60年の村山、小泉談話に言及。
 従軍慰安婦問題への旧日本軍の関与を認めて謝罪した1993年の河野談話については「当時の官房長官が考え方を述べたものだ」と説明した。
 そのうえで「6年前の安倍政権で閣議決定をした。このようなことも念頭に置いていく」と述べた。
 この閣議決定は、第一次安倍政権が河野談話に関連し「政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とした答弁書決定とみられる』
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2013年03月18日

ギャラリー・エフ

今プロジェクトは、その60年後にあたる2005年に空襲を生き延びた蔵・ギャラリーエフにて始まった。
 毎年インタビューを重ね、その証言者のことばをもとに作品の再構成・再構築を試みてきた。
 この試みは、戦争や空襲を安易に代弁する行為では、決してない。
 むしろ、証言者のことばの一つ一つに介在する家族への思いと、それでも生きてゆくことを選んだ覚悟とを肉体化する作業こそダンスなのではないか、という一つの問いかけである。
 戦後68年間、東京の空から降るものは雨だけになった。
 しかし、世界のあちこちで人びとの頭上に爆弾は降り続けている。
 東京大空襲は、日本人が世界に発信すべき何かを、世界の人びとと共有すべき何かを、私たちに教えてくれる

(3.10 10 万人のことば ダンス/鈴木一琥 音声構成/カワチキララ)
http://www.gallery-ef.com/gallery.htm

 「今プロジェクト」って何?

 おとといのあのドイツ人はでっかいガレキを残してドレスデンに戻られました!
 処理なんかする必要ない!

 弁護士徳岡宏一朗先生はこんなふうにおかしな2011.3.11の「ガレキ処理」をおっしゃっております;

『…今回のガレキ広域処理につけられた1兆円以上の予算は、大手ゼネコンの懐を暖めるばかりで、被災地の支援に必ずしも回っていません。
 巨額の広告費にものをいわせた世論誘導と情報操作によって、広域処理は環境省版ゼネコン利権を生むだけだったのです。
 そんな広域処理を提言した環境省の「災害廃棄物安全評価検討会」は、非公開の秘密会議方式で決定しました。
 そして、マスメディアも39億円にのぼる広域処理推進キャンペーン予算に群がり、ガレキの広域処理にまつわる問題点はマスメデイア上ではほとんど取り上げられませんでした。
 そもそも必要性がなくなったプロジェクトに3年間で総額1兆円超もの予算が投じられ、それがゼネコンやマスコミにとっても新たな利権となったために、もう誰にも止めらない状態に陥ってしまっていると言うわけです…』

(東日本大震災から2年(3)震災がれき広域処理は利権、もう必要ない)
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/f8711b459fbe9001b03285c50be4b742

 日本のいまのリーダーたちは、村長であるリーダー村の村民さえ、どっかの1%並みに、豊かで幸せならば、あとは見て見ぬ振り。
 お金がないから救急車に乗れない、病院にも罹れない、それは自己責任!あんたが悪いんだ。努力して成功した人が報われる社会を作るんだから。アメリカの保険会社にどうして入っていなかったの?
 ですので、地震や津波の天災だったり、バスに乗り遅れたらタイヘン外圧だったり、
 ゲンパツジコだったり、TPPだったり、
 尖閣だったり、竹島だったり、
 外部からの力、アメリカからの要請を契機に金儲けをしようとしています。
 逃げまどっても、ふるさとを追いだされても、職にも食にもつけなくとも、火だるまになっても、首つってもホームレスになっても、人間はどうでもいいのです。
 オサマやインディアン、下町の住民とか、うるさいのは殺処分!
 ましてやこの国の99%は飼いならされた羊だもん、いざとなったら兵隊さんになってご飯を食べさしてあげるって…その替わり、人を殺すことを覚えてやぁ〜、あのさ、ゲームと同じ、ボタンを押せばいいんだからねぇ〜

明日ドイツへ帰国するノイツナーさんが再びご来店
 11時に見えるということで、がんばって早起きした。
 各地の訪問、展示、懇親会、東京と大阪での講演会、京都での被爆者との面会、とハードスケジュールをこなしてお疲れのところ、昨夜連絡があり最後の自由時間に再び来店を希望してくださったとのこと。
 光栄です。
 実はノイツナーさん、すでにドイツの新聞社と連絡を取り、今回の訪問記が掲載されることが決まっているそうで、焦点を二つに絞った中の一つに、エフの土蔵を選んでくださった。
 そのために写真の撮り直しといくつかの質問を用意して来られた。
 前回お話ししたことをすべて覚えていてくださり、印象に残ったところをさらに深く質問してくださった。
 3.10と3.11のつながり、アートとのつながり、都市とヒトのつながり。
 上手にはまとめられなかったけれど、話すうちに2.13 も 3.10 も 3.11 も 3.12 も 8.6 も 8.9 も、全部がつながっていった。
 帰りの飛行機の中で原稿を書くよ、とおっしゃっていた。
 ドレスデンの方たちは完璧にふさわしい方を送り出してくださったのだ。
 ほんとうに、お会いできてよかった。
 大きな力をいただきました

(ginji_asakusa 2013-03-17 23:18更新 浅草・銀次親分日記)
http://ginji1124.exblog.jp/d2013-03-17/

 ほんとです、ひとつひとつ大きな、重い、そしてばらばらになった粉々のガレキをたくさん置いて、お帰りになりました。

 この「浅草銀次郎日記」とか「蔵・ギャラリーエフ」とかいいですねぇ〜

江戸時代(慶応4/1868年)に建てられた土の蔵。
 関東大震災、東京大空襲と二度の災害をくぐり抜け、近年の都市開発にも負けず浅草の地に建ち続けてきました。
 所有者の事情で取り壊される寸前だったこの蔵は、1996年に一人のアーティストと出会いました。
 漆造形作家の鍋島次雄さんです。
 彼は長年人の目に触れることなく朽ちかけていたこの建物と出会い、すぐに所有者に改修工事を申し出ました。
 改装工事にあたっては鍋島さんの人脈を主流とする様々な分野のアーティストが時間と労力を惜しまずボランティアで協力しました。

 並行して、崩れ落ちた壁や雨の漏っていた屋根瓦など、建物本来の機能を修復する作業は 一流の職人さん達がアーティストとの交わりを楽しみながら進めていきました。
 約半年の間、のべ200人の人が関わったことになります。

 想像を絶するスケジュールをこなしながら、1997年4月28日アートスペースとしてオープン。
 オープニングを飾る個展も開催されましたが、2階へ上がる階段は梯子状で未完成のまま、勇気のある人しか登れないという状態でした。
 けれど鍋島さんがこの場所に初めて足を踏み入れた瞬間に湧いてきたという黒く光る「月夜の森」のイメージは見事に完成し、その重厚さと静けさで人びとを圧倒しました。

 「誰かのためにしたことではない。この建物を使って遊ばせてもらった」とアーティストたちは口々に言いました。
 このような「気持ち」がこの建物を現代に甦らせたことは事実です。
 ボランティアであっても、自分の手で形を生み出していく行為にこそ喜びを見つけられる。
 私たちはお金に替えることのできないこの「気持ち」を大切にしていきたいと思います。
 経済社会の中で私たちが見落としてしまいがちな日常の微細な喜び、視点の変化、それらを自らの手で模索し、表現し、創造するアーティストの行為をたとえ小さい力でも応援していきたいと考えています

(ギャラリー・エフ=台東区雷門2-19-18 Tel 3841-0442)
http://www.gallery-ef.com/gallery.htm

 山歩クラブでもタウンウオークの帰りに近々訪れます、待っててくださいね。

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2013年03月17日

砂町銀座商店街

 ガレキ…
 日曜日、お天気も春らしいのに、すっかり考え込んでしまったヤッホー君です。
 表にでればシロモクレン、ユキヤナギ、コブシ、沈丁花、梅、桜もちらほら、とめぐりめぐってきた花の季節。
 なのに、ちっとも華やいだ気分にどうしてもなれませんでした。
 
 ガレキ…
 外部から加わったなんらかの暴力で、そこに人間のために作られたはずの構造物が瓦解してしまう。
 外部からの圧力で、物体の接合、縫合が解け、部分、細部、破片だけが取り残され、要求されていた目的、効用、強度への寄与、統合の任を解かれ、物体だけが露わにさらけだされてしまいました。
 物体に押しつぶされ命を絶ってしまい、物体と化した人間の山。
 炎となって燃え盛る人間。
 押し寄せる物体を避けようと、逃げ惑う人間の群れ。

 ガレキ…
 物体に、人間がムカシ与えた意味や、物体の内部を探し求めさまよう人間が、イマあてもなく物体のなかや、物体の縁や、物体の周りを歩き出しています。
 物体だけの山に、ムカシの他人、ムカシの思考、ムカシの意味、ムカシの豊かさが亡霊となって、魂となって、物体から立ち登って、現れてくるのを待ってたたずんでいます。

 ガレキ…
 その背後には、景色も。
 それは、街並みだったり、耕作放棄地だったり、限界集落だったり、倒産・廃業した工場跡地だったり、廃屋だったり、共同体だったり、歴史だったり、人間が踏み込めない金網のなかに咲き誇る高山植物のお花畑だったり…
 ここは、どこ?イマはムカシ?人間って誰?
 
 ガレキ…
 景色が変わる…
 カネでガレキがきれいに撤去され、更地となり、売り渡され、その場にカネ目当ての新しい物体が誕生し、新しい環境に順応できる新しい人間のためにまた、意味が付加されはじめる。
 その繰り返しですが、その反復の速度が、ムカシの蒸気機関車から新幹線、リニアモーターカー並みに速まっています。

『近ごろは「シャッター商店街」と呼ばれる、空き店舗ばかりの寂れてしまった商店街も多い。
 経済産業省の「商業統計表」によると、1994年から2004年のわずか10年間で1864ヵ所、13.1%もの商店街が消滅したそうだ…』


 そんななか昨日歩いた「砂町銀座商店街」は、まだ生きていました。

『都営新宿線「西大島」駅からバスで5分、徒歩なら20分ほど。
 お世辞にも便利とはいえない位置に、平日1万5000人、休日2万人もの人が訪れる商店街がある。砂町銀座商店街だ。
「俺が小学生だった昭和30年ごろから、このあたりはそんなに変わってないよ」
 そう話すのは、「伊勢信酒店」の店主であり、商店街振興組合の副理事を務める沼田正史さんだ。
「昔っから何でも安いことで有名でね。往復の電車賃をかけてもまだ安上がりだといって、両国、月島、浦安、墨田からも毎日のようにお客が来ていたよ。でも、お客の基本は地元。毎日来てくれる人がたくさんいてくれるからこその商売だよ」
 全長670メートルの商店街にこれだけの人が訪れる理由に、沼田さんは生鮮3品の充実を真っ先に挙げた。
「その日に仕入れたり作ったりした品物をその日のうちに売り切っちゃう店ばかりだから、やっぱりモノが違うよね」
 商店街の一番人気店「魚勝」は、12時の開店時から客足が途絶えることがない。
 毎日8トンもの魚を売るというこの店は、夕方には売り切れで店仕舞いしていた。
「おでんとか焼き鳥とかの惣菜店もこの商店街には多いけど、別に競合はしてないんだ。味がそれぞれ違うから、お客さんも使いわける。そのうちに店とお客さんの距離が近くなって、ファンになっちゃうんだ」』

(2011年05月07日(土)、講談社、現代ビジネス)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/3420

砂町銀座の成立 戦前は30軒位の普通の商店街でした。戦争中は商店も強制疎開され、戦後、焼け野原の場所へ戻り始め、昭和25年〜30年で飛躍的に店舗数が増えて、昭和38年頃にはほぼ現在の形になりました。

 砂町銀座の由来
 1932(昭和7)年10月1日平和会(当時の商店会名)記念式典で城東区選出東京市会議員宇田川啓輔氏の「この通りが早く砂町銀座と呼ばれるような一大繁華街となられん事を望む云々」の祝辞を受け、その晩早速役員会を開き通りの名を砂町銀座にしてしまったのが由来です。

 砂町銀座の立地
 隅田川東岸から5キロ東、小名木川の南側明治通りと丸八通りを東西に走る670m。
 バスに乗って最寄の駅まで出ないとどこへもいけません。
 有名な観光地もありません。
 それがいいと言う人もいれば、それが良くないという人もいて、評価は分かれる所』

 予告
 花まつりパレード:2013(平成25)年4月8日(月)午後1時より、幼稚園児による鼓笛隊パレード、稚児行列、白象パレード』

(砂町銀座商店街振興組合、江東区北砂4-18-14 Tel 3644-5854)
http://sunagin.main.jp/info.html

 ガレキと化すことがないように、と祈りながら歩いた商店街。
 入ったお店が「銀座ホール」。

屋台からスタート。
 現在の地に店をかまえて創業70年の歴史。
 ハイカラ、モダン、モボ、モガの時代。
 当時カフェの代名詞と云われた「ミルクホール」の名と、「砂町銀座」の地名をとり、「銀座ホール」と命名。
 なつかしさと新しさの融合したニューモダン「銀座ホール」を存分にお楽しみ下さい。
 笑っちゃうほど美味しい「銀座ホール」は、愛をこめて調理します。店主


 お店の壁には、「料理は愛情」、「施顔笑顔」の<標語>が貼ってありました。

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2013年03月16日

映画「ドレスデン−運命の日−」

 「建築/ガレキ/映画」が昨日の集いのテーマ。
 今日3月16日土曜日の集いのテーマも昨晩に続けて「ガレキ」でした。

 まずは、映画から。
 映画「ドレスデン−運命の日−」(2006独/日本公開は翌2007年4月)の予告編を見ましょうか!
http://www.youtube.com/watch?v=UHylRHrgLt0

 今日は、午後2時から「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区北砂1-5-4 Tel 5683-3326)で、講演会「空襲体験をどう継承するか〜ドイツ・ドレスデンからゲストを招いて〜」があり、山歩クラブから4名参加したのです。

 山歩クラブは午前11時半、明治通りバス停「北砂3丁目」集合とし、まずは日本一元気な商店街「砂町銀座商店街」を目指して歩きを開始しました。
 この商店街のなかに創業70年と言うお店、「銀座ホール」(江東区北砂3-33-20 Tel 3644-6354)があります。
 そこでランチをとって、それから会場のセンターに向かってまた、歩こうというのです。
 このセンターは、というと:

東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。
 2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館。
 さらに2007年3月には、いのちと平和のバトンを未来にきちんと受け渡すために、増築を実現しました

(東京大空襲・戦災資料センターとは)
http://www.tokyo-sensai.net/

2月16日から4月7日まで「空襲を伝えるドイツの都市 ドレスデン・ベルリン・ハンブルク」展が、東京都江東区の東京大空襲・戦災資料センターにおいて開催されています。
 第二次世界大戦中、ドイツは日本と同様に激しい空爆に見舞われました。
 空襲の体験者が減少する現在において、「空襲」をどのように継承していくのか、に焦点を当てた展示会です。
 空襲を研究テーマとする柳原伸洋講師が、日独の空襲体験者の交流ツアーに企画段階から携わり、現地訪問、そして展示作成(ドレスデンとハンブルク)に協力しました。
 また、3月16日(土)には、ギャラリートークと、その後にドレスデンからのゲストを招いた講演会が開催されます(柳原講師が解説と司会)。
 どちらも予約不要・参加自由(要:入館料300円)です。
 ぜひ、足を運んでいただければと思います

(2013年2月27日付、東海大学文学部ヨーロッパ文明学科ニュース&トピックス「空襲を伝えるドイツの都市」展が開催中)
http://www.europe.u-tokai.ac.jp/news/20130227_1.html

 主催者側は主な出席者としては、東海大学の柳原伸洋講師の司会のほかに、ゲストスピーカーは、マティアス・ノイツナー、通訳は萩原イルカ、館長の早乙女勝元、主任研究員の山本唯人、輪ピースリング代表の有馬保彦の各氏。
 出席者は昨夜同様、100人を超して会場は熱気でむんむん、主催者側は今年初めて、空調に冷房を入れましたが、こんなことって初めてだそうです。
 なお、柳原伸洋先生は、ドレスデンでの実地検分を済まされております:

2月16日に、柳原伸洋講師がドイツ東部の都市ドレスデンを訪れ、現地調査を行ないました。
 ドレスデンは1945年2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空爆を受け、2万2700人の犠牲者が出たとされています。
 今回の現地調査では、空襲体験者であるノラ・ラング(Nora Lang)さんと、空襲体験を次世代に継承していく活動をしているマティアス・ノイツナー(Matthias Neutzner)さんとお会いし、日独の空襲に関する情報交換を行ないました。
 また2月17日には、第4回ドレスデン平和賞(Dresden-Preis)の授賞式にご招待を受け、出席しました。
 この賞は平和への貢献だけではなく、戦争の予防などに貢献した方に賞が贈られています。
 今年の受賞者は、1983年に核戦争(第三次世界大戦)の危機を、個人的な判断で止めたという元ソ連の軍人であるスタニスラフ・ペトロウ(Stanislaw Petrow)氏でした。
 1983年、ソ連のコンピュータの誤作動により、アメリカから核弾頭が発射されたことを示す表示が出たのですが、ペトロウ氏がそれを信じなかったことで、ソ連から反撃の核弾頭が発射されることはありませんでした。
 コンピュータや組織の判断の前で、自分の判断を貫くことの難しさや、現在も発射配備中である数多くの核弾頭の意味の重さについて考えさせられました

(東海大学文学部ヨーロッパ文明学科、ドレスデン空襲の調査とドレスデン平和賞への出席、柳原伸洋講師)
http://www.europe.u-tokai.ac.jp/news/20130227_2.html

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2013年03月15日

『建築映画 マテリアル・サスペンス』

 3月15日ハナキン、ヤッホー君は原宿界隈にいました。
 会場は110人満席。
 しかも若い人で埋めつくされていました。
 ヤッホー君の隣席の若い人は、一生懸命、アップル社のマックミニでメモっていましたが、途中で蓋をしたので何事かなあ、と後は知っていることばかりで、もういいのかな、なんて気づかっていましたヤッホー君、最後に
「どうしたの? 大学では何を専攻しているの? 映画学科? 建築学科?」って聞いていました。
「芸術論を専攻してます」って学生さん。
「がんばるんだぞ」
「ありがとうございます」 
 たったこんな会話で終わりましたが、若い人たちの間に入って、良い気分、若返った気分、夢気分!

Bibliothèque『建築映画 マテリアル・サスペンス』刊行記念
岡崎乾二郎(造形作家) x 鈴木了二(建築家)トークショー
「建築/ガレキ/映画」

 鈴木了二氏の新刊『建築映画 マテリアル・サスペンス』は、「終わったあとの世界」をどう捉えるかという問題意識のうえにたち、映画、建築のみならず美術・思想の分野をまたがって展開される芸術論です。
 造形作家の岡崎乾二郎氏をゲストにお迎えし、「建築映画」や、いまつくることを考えます。
 また「ガレキ映画」についてもプロジェクションをする予定です。
 ロッセリーニの「ドイツ零年」から、一昨年の震災、原発事故後の瓦礫感を湛える映画まで。
 「建築/ガレキ/映画」の系譜を辿りながら、いまを考えます。
 
 日時:2013年3月15日(金) 19:00〜21:00(18:30開場)
 会場:Bibliothèque
 参加費:1,500円(当日精算)
◇お申込みはBibliothèqueへお願いいたします/Tel 03-3408-9482

http://ax86.asp.cuenote.jp/c/axeTabj6pCeTgzan

『建築映画 マテリアル・サスペンス』(LIXIL出版、2013年1月30日刊、2940円)ってね、こんなんですが、ぜひ書店に行って注文なさって購入ください。シ・ゲ・キ・テ・キ・

内容紹介 建築家・鈴木了二は、建築・都市があたかも主役であるかのようにスクリーンに現れる映画を「建築映画」と定義します。
 「アクション映画」「SF映画」「恋愛映画」といった映画ジャンルとしての「建築映画」。
 この「建築映画」の出現により、映画は物語から解き放たれ生き生きと語りだし、一方建築は、眠っていた建築性を目覚めさせます。
 鈴木は近年の作品のなかに「建築映画」の気配を強く感じると語ります。
 現在という時間・空間における可能性のありかを考察するために欠かすことができないもの、それが「建築映画」なのです。
 ヴァルター・ベンヤミン、ロラン・バルト、アーウィン・パノフスキーやマーク・ロスコの言葉にも導かれながら発見される、建築と映画のまったく新しい語り方。

 本書で語られる7人の映画作家たち:ジョン・カサヴェテス、黒沢清、青山真治、ペドロ・コスタ、ブライアン・デ・パルマ、二人のジャック(ジャック・ターナー、ジャック・ロジエ)。黒沢清、ペドロ・コスタとの対話も収録。

 著者略歴(「BOOK著者紹介情報」より)
 鈴木了二。
 建築家。1944年生まれ。早稲田大学大学院修了。70年にfromnowを設立。83年、鈴木了二建築計画事務所に改称。73年より自身の作品を「物質試行」としてナンバリングし、建築はもとより、絵画、彫刻、インスタレーション、書籍、映像などの多領域にわたる「物質試行」は現在53を数える(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)』

(Amazonより)

 では、対談のお相手、岡崎乾二郎氏とはどんな方っていいますと:

1955年生まれ。造形作家。近畿大学国際人文科学研究所教授。主な作品=《あかさかみつけ》《灰塚アースワークプロジェクト》《回想のヴィトゲンシュタイン》《Random Accident Memory》《I love my robots》(Trisha Brownとの共作)など。
 主な著書=『ルネサンス 経験の条件』(筑摩書房)、『れろれろくん』(ぱくきょんみとの共著、小学館)、『ぽぱーぺぽぴぱっぷ』(谷川俊太郎との共著、クレヨンハウス)、『絵画の準備を!』(松浦寿夫との共著、朝日出版社)、『芸術の設計』(フィルムアート社)など。
http://kenjirookazaki.com/


 そして、お話しを聞きに行った「ビブリオテック」(渋谷区千駄ヶ谷3-54-2 Tel 3408-9482)って、どんなとこ?

パリにあるあまたのカフェ。Le Dôme、Chat Noir、Deux Magots、La Coupole、Le Flore…。それらの音を重ね合わせると、さまざまな顔が浮かび上がってくる。ロートレック、モジリアニ、フジタ、サルトル、ブルトン、マルローなどの顔が。
 放浪する魂は、同類を引き寄せる。
 カフェに集まるさまざまな相貌。沸き立つ叫びと囁き。一瞬の閃きを捉え、考えをより深め、そして何よりも他人を見出す場所。まさにカフェは、人間を熟成させる場所だったのです。
 そうした時を経て、30年代に「嘔吐」が、40年代に入り「異邦人」が Gallimard から放たれ、これらの作品は世界のシステムに対して‘Non’を投げつけることになります。

 2010年2月8日にオープンした Bibliothèque も、オーナーのそんな思いで作られました。志はあくまで高く。書籍主体(蔵書約6,000冊)のカフェの誕生です。
 オープン以来、さまざまな方に訪れていただきました。インスピレーションを得るために、デザインの資料探しに、言葉を求めに、そして一人で在るために。決して広い空間ではありません。けれどもこの空間の中に、充ちた世界を閉じ込めました。

 「世界を見るために、世界中を旅する必要はない。今、ここに、あなたの眼の前にある一枚のマロニエの葉に、世界を見ることが出来なければ、永遠に世界を見ることは出来ないだろう」(ジャコメッティ)
 
 Bibliothèque は、世界へ向けて開かれた窓でありたい。
 Micro's Macro (小さいながらの大宇宙)を目指して、お客様とともに歩を進めて参ります。
 ぜひ、ご来店ください。

 このスペースは、1975年に創立したデザイン事務所:株式会社スーパースタジオが長年にわたり蒐集した蔵書を一般の方々に開放し、自由に閲覧していただくために開設しました。
 名前は Bibliothèque (ビブリオテック:図書室)。
 40年の歳月にわたり蒐集した蔵書を皆様に開放いたします

http://www.superedition.co.jp/biblio/

 さすがぁ〜ハ・ラ・ジ・ュ・ク・

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2013年03月14日

伊東市宇佐美地区

  3月10日日曜日、巣雲山581mへの月例お山歩会でおじゃました伊東市宇佐美地区。
 バスでは、天乙平別荘地、巣雲台別荘地、みのりの村と何箇所も別荘地を通過しました。
 えっ、ここにも、ここにもと思うほど。
 もともと別荘地として開発がすすんでいたんでしょうが、便乗といいますか、異常、過剰と思うほど:

戦前の伊東は、高級別荘地として知られており、北里柴三郎、若槻礼次郎、東郷平八郎などの著名人の別荘が構えられました。
 そうした政治家や高級軍人、学者、実業家など当時の富裕層が伊東に求めたのは、温泉と穏やかな自然環境です…

 別荘地として出発し、やがて温泉旅館の建並ぶ町に発展した伊東ですが、太平洋戦争では多くの旅館が爆撃から逃れて疎開生活をする東京の子供たちを収容する施設とされました。
 【写真11】は東京の親元から離れて伊東館に疎開した赤松国民学校(ヤッホー君注記)の児童と旅館のおかみさんです。
 撮影日は昭和20年の1月1日ですが、この数ヶ月後、東京は、大空襲を受けて焼け野原になってしまいます

(伊豆を学ぶ>伊豆の歴史-伊東市史だより>2008年-第09号、記事引用元:伊東市教育委員会生涯学習課-市史編さん-発行「伊東市史だより」)
http://www.izunet.jp/manabu/ito-shishi/2008.htm

 では、戦争中、伊東市には空襲がなかったのか、というとそんなことはございませんでした。

1. 空襲等の概況
 伊東市の空襲による被害は、他の都市のように爆弾による大規模な爆撃等ではなく、パイロットの顔が確認できるほどの低空からの機銃掃射による被害であったことが特色である。
 この理由は、伊東市周辺が京浜地帯に比較的近く、そこを攻撃に向かう米軍航空機の通過地点に当たっていた点、さらに、複雑に入り組む海岸地形が、米軍側にとっては対潜水艦哨戒のための要注意海域だったのではないかとみられる点がある。

3. 空襲等の状況
1945(昭和20)年8月8日
 現伊東市宇佐美地区は、戦前宇佐美村として独立して一村を成していた。
 1945(昭和20)年8月8日は、宇佐美から出征し、戦死した英霊9柱の村葬が予定され、午前8時過ぎには葬列が会場に向けて移動していた。
 その葬列に対して突然現れた米軍艦載機が機銃掃射を加えた。
 米軍機は、パイロットの顔が地上から視認できるほどに低空で飛行しながら執拗に機銃攻撃を繰り返したが、幸い人的被害は発生しなかった
(山本栄一「葬列を襲撃したグラマン」『さりはま』2001(平成13)年7月1日掲載)。

4. 次世代への継承
 上記の伊東市における空襲状況は、いずれも、地元新聞や郷土史研究サークルの機関誌等に掲載された目撃談や体験談を集約した。
 こうした体験談等を語り継ぎ、さらに進んで文章化することが重要な次世代への継承になることと思われる。
 現在進行中の『伊東市史』編さん事業では、そうした体験談や文章等の集成と保存作業を行うのと同時に、例えば、防空監視哨が具体的にどの位置に何ヶ所あったかなどの情報を体系的に集約するように務めている。

(総務省>一般戦災ホームページ>空襲と戦災の状況>国内各都市の戦災の状況>伊東市における戦災の状況(静岡県)
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_05.html

 同じく国の総務省、このウエブサイトで墨田区のところをクリックしますと:

 墨田区の前身である本所区と向島区は、関東大震災の後、工場地帯として発展していた…
 1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」では、軍事目標だけではなく、非戦闘員を対象とした無差別焼夷弾爆撃が行われたこと、さらに当日は東京下町には強い北風が吹き、被害を大きくしたともいわれる。
 この空襲による焼失面積は、本所区の96%、向島区の57%が焼失した。
 本所区と向島区を合わせた現・墨田区の約70%以上が焼失したことになる。


(ヤッホー君注記) 赤松国民学校は現・大田区立赤松小学校(大田区北千束2-35-8 Tel 03-3729-0986)。2010(平成22)年3月に開校130周年の記念式典を行なう。式典では、終戦直前で卒業式ができなかった当時の卒業生たちへの65年ぶりの卒業証書授与式が、現在校生も出席して行なわれた。東急大井町線北千束駅のすぐそば。
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2013年03月13日

川田正子

 もうすこし、川田正子について。

 なにからお話しすればいいのでしょうか…

 川田正子は伊東市宇佐美だけではなく、長野県安曇野とも縁があるのをご存知でしたか?

 ここは、ヤッホー君たち、常念、蝶を登るときに安曇野をベースキャンプとして使い、登る前日、この公園にお邪魔しているのです!

http://www.geocities.jp/xxaosixx/tongaribousi
http://www.youtube.com/watch?v=0QhizMLLvuI

大正時代に、有明温泉の名で大変賑わった温泉旅館の建物。
 昭和初年に旅館閉鎖後、少年院、「鐘の鳴る丘」有明高原寮の施設として利用されるようになりました。
 有明高原寮の改築に際し、1980(昭和55)年に松尾寺公園内に移転復元されました。
 1947(昭和22)年から600回にわたって放送されたNHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモデルの一つになりました。
 中央屋根に時計台を配し、左右対称の和洋折衷のモダンな建物です。
 毎日午前10時、正午、午後3時に「とんがり帽子」のメロディーが流れます。
 現在は、青少年の研修施設として利用されています。
【問い合わせ先】穂高郷土資料館 Tel 0263-83-8844
【入館料等】施設の利用については、研修施設のため一般の方の利用はできません

(安曇野市穂高、鐘の鳴る丘集会所、穂高地域)
http://www.city.azumino.nagano.jp/kanko/enjoyazumino/kouen.html

 これは川田正子引退の年のころ。

『「みかんの花咲く丘」を唄い、その歌声で戦争で傷ついた人達の心を癒しました。
 1946(昭和21)年には第1回紅白歌合戦に出場しています。
 この時は「汽車ポッポ」を唄いました。
     
 1947(昭和22)年、NHKで連続ラジオ番組「鐘の鳴る丘」が始まり、川田正子さんが唄った主題歌「とんがり帽子」は、番組とともに大ヒットしました。

でもこの頃、川田正子さんは中学生になり、変声期を迎えました。
 実は川田正子さんの様な童謡歌手は、キチンとした発声練習はなく、地声で唄っていたので、変声期になると高音が出なくなりました。
 そこで引退を決意し、1947(昭和22)年8月31日、NHKは「川田正子を送る夕べ」という特別番組を放送したところ、引退を惜しむ手紙が殺到したそうです。

●こうして川田正子さんは第一線からの活動からは離れましたが、コロムビアレコード専属歌手として、童謡の名曲を次々とレコーディングをしました。
 東洋英和女学院卒業後、武蔵野音大の声楽科に進学しますが、ここで地道な発声の基礎訓練を、繰り返し行なった結果、子供の頃よりも高い声が出るようになったそうです。

●大学卒業と同時に「音羽ゆりかご会」の指導と運営に専念、児童合唱団としてのレベルの向上と、放送、レコード、公演などの活動の実質的な責任者として活躍されました。
 童謡以外にも「音羽ゆりかご会」を率いて、「鉄腕アトム」「サザエさん」「ムーミン」「ウルトラマン」「ゲゲゲの鬼太郎」などアニメ番組主題歌の録音にも、積極的に進出しました。

●1979(昭和54)年、「音羽ゆりかご会」を末の妹の美智子さんに引き継いで、新しく「森の木児童合唱団」を旗揚げします…』

(2007年2月5日 朝はニッポン一番のリ!「童謡歌手川田正子さんの知られざる生涯」)
http://www.1242.com/morinaga/entertainment/index.php?no=169

 ね、ヤッホー君の黄金期は小学生、中学生、高校生の頃ですかねぇ〜、
 高校生の頃、大人に早くなりすぎたのか、一大転換期を迎えているはずなんですね、ヤッホー君は。
 これでは、人生の万華鏡も早周りしすぎるようで、川田正子の小学6年生の頃にもう一度、戻ってみましょうか。
 三重大学医学部附属病院の院長先生のブログからです:

『作詞した加藤省吾の自伝(「みかんの花咲く丘」わが人生(芸術現代社、1989年)の冒頭には、
「私が‘みかんの花咲く丘’を作ったのは1946(昭和21)年8月24日の12時半から13時くらいの間であった。この日は真夏のよく晴れ上がった暑い日だった」と書かれています。
 曲の創られた日だけでなく、「12時半から13時くらいまでの間」と時間まで記されています。
 これは一体どういうことでしょうか。

 太平洋戦争が終わって1年後のこの日、当時音楽雑誌の編集部長をしていた加藤は、12歳の人気少女歌手であった川田正子の家へインタビューのため訪問します。
 その家の2階には川田の歌の指導をしていた作曲家海沼実が住んでいました。
 インタビューを終え帰ろうとしていた加藤は、海沼に
「赤飯があるから食べて行かないか」と呼び止められます。
 当時は食糧難の時代でしたから加藤は喜んでいただくことにしました。
 その時「今すぐ歌の詩を書いて欲しい」と頼まれたのです。
 海沼の話によりますと、
「明日の夜、静岡県伊東市の国民学校(小学校)で川田が私の新曲を歌うことになっている。それを東京のNHKスタジオと結んでラジオの二元放送「空の劇場」という番組で放送するのだが、まだその歌詩ができあがっていない。そこで急いで詩を書いて欲しい」と言うのです。
 加藤はそれまで「かわいい魚屋さん」などの詞を書いてはいましたが、作詞家として名が通っていた訳でもなく、また海沼とは余り付き合いがありませんでした。
 ただ加藤は赤飯の誘惑に負け、海沼から
「一回限りの放送だから気楽に書いてくれたら良い」と言われたこともあり引き受けました。
 海沼から歌のイメージとして
「丘の上に立って、海を見て、その海に島を浮かべ、船を出して黒い煙を吐かせて欲しい」と依頼されます。
 加藤は静岡県の出身でもあったし、伊東市の名物‘みかん’を思い浮かべて詩の中にみかん畑を取り入れ、30分もかけずに一気に書き上げました。
 それを受け取った海沼は、川田の手を引っ張って家を飛び出し、当時は占領下にあったため大急ぎでGHQの検閲を受けて放送の許可を貰い、伊東へ向かう列車へ飛び乗りました。
 3時間ほどの車中で海沼は出来上がったばかりの詩に曲をつけ、夜、旅館の風呂の中で川田の体を洗いながら歌い方を教えたと言われています。
 作詞に30分もかからず、伊東へ向かう車中の3時間で創られた曲が、戦後を代表する童謡の名曲になったのです。
 このように切羽詰まり追い込められた状況下で生み出された作品の中から、永遠に残る名作がしばしば誕生します。
 「火事場の馬鹿力」と云えば失礼になりますが、力のある人は、ぎりぎり追い詰められて、なおいっそう実力を発揮するのでしょう。
 私達も学生時代一夜漬けで試験勉強をしましたが、たいていは不出来でした。
 それはふだんの勉強が足りず実力が無かったからだと思います。
 このあと二人は名コンビを組み、たくさんの曲を作ります。
 また加藤は、私達の子供の頃に人気のあった「怪傑ハリマオ」「隠密剣士」「おらあ三太だ」「笛吹童子」などのテレビ番組の主題歌を作詞しました。
 海沼は「あの子はたあれ」「お猿のかごや」「蛙の笛」「からすの赤ちゃん」「里の秋」などたくさんの名曲を世に出し、最後の童謡作家と云われました…

 呑み会の後の二次会で、そろそろお開きという頃に、最後の曲として歌うのがこの歌です。
 私が立ち上がって歌い始めますと、学長はじめ教授の先生方や大病院の院長の先生方も一斉に口を大きく開けて歌い出します。
 それまで激論を交わしていた連中が、純真な少年のような顔をして大声で歌っています。
 宴の終わりを惜しみ、子供の頃を懐かしみ、いつかは行ってみたいみかん畑の島を夢み、やさしかった母親を憶い出しながら、おおらかに歌います』

(三重大学病院院長竹田寛、2月月刊院長の部屋、「みかん―青い海、緑の島、白い船、みかん畑―」)
http://www.hosp.mie-u.ac.jp/doctorblog/

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2013年03月12日

みかんの花咲く丘

 なんかさ、あの巣雲山で冨士山を見たいと思いません?
 もう一度リベンジしたい。
 あの「みかんの花咲く丘」コースから登って、帰りにこの間の「峰コース」を辿るルートで…
 つまり、元の設計通りの行程で!

巣雲.jpg

 「みかんの花咲く丘」コース…

 まずは川田正子(1934-2006)の歌を:
http://www.youtube.com/watch?v=RCH1ljUAClA

 伊東市宇佐美には、歌碑があります:

名作「みかんの花咲く丘」は終戦直後の1946(昭和21)年8月24日に作詞家加藤省吾氏(1914-2000)によって作詞され、作曲家海沼実氏(1909-1971)によって作曲されました。
 そして最初の放送は、翌日の夜、NHKのスタジオと伊東西国民学校(現伊東市立西小学校)とを結ぶ日本で初めてのラジオ二元放送「空の劇場」でした。
 当時、人気の絶頂にあった川田正子さんが伊東から放送するために作られたもので、作詞された日の午後、伊東へ向かう向かう汽車の中で作曲されました。
 加藤省吾氏は、静岡県冨士市の生まれで、抒情的な作品を得意とします。
 海沼実氏は、長野市松代の生まれで数々の名曲を生みました。
 「みかんの花咲く丘」は、一幅の絵画を思わされる抒情と、明るくリズミカルな曲調とがマッチして新風を巻き起こし、敗戦に打ちひしがれていた国民に受け入れられて燎原の火の如く一世を風靡し、暗い世相に人びとの心に明るい灯をともしました。
 以来絶えることなく現在も広く国民のあいだに愛唱されています

    1983(昭和58)年11月吉日 伊東市長 芹沢昭三

歌碑.jpg

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2013年03月11日

生仏の墓

お疲れさまでした。そしていろいろありがとうございました。
 強風でちょっと残念でしたが、何より大空襲、大震災などで亡くなられた方がたに黙祷を捧げる温かい気持ちに胸が熱くなりました。
 自然にも人にも優しい山歩クラブを感じました


『山歩クラブで黙祷したことに感激、感動したって。優しい良い会だなって。
 山の会が、震災、戦災で倒れた人たちに黙祷捧げるんだもん。
 これは余計なことなんかじゃないよね。
 平和な日常生活があってこその山歩き、一人ひとりの未来が信じられればこその山歩き、そんな山歩きの仕方に共鳴して、わいわいがやがや、傷つけたり、仲間はずれにしたりしないで、皆んなで大いに楽しみながら山や自然のなかを歩ける仲間が集ってこその会なんだもん』

昨日は、また、いつもにもまして、皆さまにご迷惑おかけして申し訳なく、またたいへんお世話になってありがとうございました。
 私自身も、多少乗り物酔いしたみたいで、頭がぼーっとしていてきちんと対応できず、いろいろすみませんでした。
 ただ、帰りのバスでうしろのほうで盛り上がっていたようですが、私もまだまだいろいろな山に登ってみたいと思っています(番外編になるかもしれませんが、少し歩きごたえのある山も含め)。
 春から秋は、また、学校の行事なども多くなり、参加できるときできないときいろいろあると思いますが、よろしくお願いいたします


『メールをありがとうございます。あくまでも自然大好き、山大好き人間として一言二言。
 (一言)
 誰よりもショックを受けたのはお子さまだと思います。ひげのカイチョウさんは、またおいでと言っているから何の心配もないよ、と繰り返し、繰り返し、彼の幼い傷ついたハートを癒してあげてください。
 そのためには、(1)バスにいっしょに乗ったら一番前にお二人で座ること。ゲームはしないで周りの景色を見ること、そのためにお母さんとして、アレは、コレは、としょっちゅう話しかけてあげてください。(2)朝食は無理に与えないこと、登山口についてから、おにぎりを頬ばらせるだけで十分。それまではキャンディ、チョコで十分!

(二言)
 お母さんはそう、時間の許す限り、山歩クラブの企画にご参加くださいね、月例も番外編もタウンウオークも、「家きて飲み食べ会」にも。

 以上、大丈夫、大丈夫、山歩クラブの皆んな、山や自然以上に、仲間が大、大好きです。
 これですべて丸く収まります。4月からもっとよろしく!』

 どこであの写真のように黙祷を捧げたのか、ちょっと振り返ってみましょうか:

生仏の墓
昔、源平の戦いに敗れ、逃れてきた平家の落武者が、ついにこの地で捕らえられ、生きて命のあるまま埋められている

(小さな祠の側の説明書きから)

 伊東市公式サイト「巣雲山、みかんの花咲く丘コース』にも記載されています:
http://www.city.ito.shizuoka.jp/ct/other000009400/usami.sukumoyama.pdf

 このような見過ごしてしまいかねない小さな祠でも、手入れしてくださっている地元の山の会があるんですねぇ〜、感心、感心!
 それは2004年に発足し、2008年4月にはNPO法人に移行した「伊東里山クラブ」です: 

峰コース整備初日は2011年1月23日、伊豆スカイライン沿いの「生仏の墓」周辺環境整備を行ないました。
 平家の落人が生きたまま埋められたとされるお墓ですから、初詣にも行かないような、神仏全般とは縁がないオトコとはいえ、作業の安全を祈願して落人さんにお神酒とお供えをして手を合わせました。
 50段の階段作りのための杭100本を坂道へ運び込んだ後、周辺の伸びた笹刈りと折れたヒノキのかかり木処理、テングス病がひどいサクラの伐採など順調に行ないました。
 時間の余裕ができたので予定外ですが、お墓の後方の見通しを良くするため道下の雑木を払いました

(2011年01月23日(Sun)伊東里山クラブ「宇佐美のパワースポット生仏の墓(11.01.23)」
http://blog.canpan.info/satoyama0404/

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2013年03月10日

巣雲山581m

 皆さん、こんばんは。
 今日は、強風の吹きすさぶ伊豆の山。
 19人で山歩きをしましたが、いかがでございましたでしょうか。
 山頂からおりて風のないところ、「生仏の墓」で、カッシーの音頭で、昨年は伊豆、金冠山、今年は巣雲山で、1945.3.10の下町への無差別絨毯爆撃、大空襲でお亡くなりになった皆さん、そして2011.3.11のあの大震災でお亡くなりになった皆さん、いまも故郷に帰れないで辛い思いをしている皆さんに、こころからの気持ちを表しました。
 自然とともに生きる、人が人に暴力や差別をしてはいけないこと、そんなことを誓い合った瞬間でした。

山頂.jpg

 お世話になりました。
 東京も 強風で凄かったようです。
 大分、酩酊のようでしたが、メール発信ほかお疲れさまでした。
 そしてありがとうございました。
 3月16日土曜日の件、集合場所等のご連絡をお願いします。


 あのね、自分の意とは異なる形で生を終えざるをえなかった方がたに、生きながら埋められた武将の墓の前でお祈りしたなんてなんの因果か、とこれが酔わずしておられんしょ…
 それより帰りのバスのなか、おとなしかった、度が過ぎるほどお静かだったのが気掛かりだったのですよ、あのお風呂で元気を取り戻したことを願いつつ…


 今日は、ちょっと胃の調子が悪く、お風呂のあとは、気分良かったのでビールを飲みましたが…
 どうも、ムカムカが取れず お酒は我慢。
 静かにせざるを得なかった訳です。
 今は 落ち着きましたので、ご心配いただきすみません、では おやすみなさい。


強風…
 少し南に目を向けると、この時間(3月10日12時10分)で、東京の練馬は28℃を超えて、東京都心など、関東各地で25℃近くまで上がっています。
 一方で、日本海側や北から、冬の空気が南下。いま、季節外れの暖かさ・暑さの所も、今夜には20℃以上も下がるなど、冬の気温に急降下です。
 それだけ空気が激しく動くということですから、風も強まりやすくなります。
 突風の恐れもあるので、水の上での事故や、高所での作業、倒れやすい物が周りにないかなど、くれぐれも気を付けてください。
 今は、暖気を送る、日本の南の高気圧が成長している一方で、シベリア方面からの寒気の流れが、ときどき途切れながらも、まだ続いている状況です。
 今日のような極端な変化は、一度起こると、次以降は、少しずつ極端さが丸まっていきますが、それでも3月下旬にかけて、気温のアップ→ダウンが、たびたびありそう。
 目先は、水曜〜木曜にかけて、と、次の週末です。
<追記>関東各地で観測された、砂塵あらし・ちり煙霧・煙霧などは、寒冷前線通過時の強い風によって巻き上げられた、砂ぼこりやチリ等が原因と思われます

(チーム森田の天気で斬る 増田雅昭)
http://weather.yahoo.co.jp/weather/column/moritablog/

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2013年03月09日

東京大空襲・戦災資料センター

 明日は3月10日です。
 何があったのか…

東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂)は3月9日土曜日、区内で「東京大空襲を語り継ぐつどい」を開く。
 センター主任研究員の吉田裕・一橋大大学院教授が「アジア太平洋戦争と東京大空襲」と題して講演。
 1945年3月10日の東京大空襲で家族6人を失った亀谷敏子さんも、体験を語る。
 センターで空襲体験を語り続けている橋本代志子さん出演の証言映像も発表する。

 昨年2012年2月に東京と大阪の空襲体験者が訪問したドイツ・ドレスデンから、空襲体験継承団体「1945年2月13日協会」のマティアス・ノイツナー代表が訪れ、あいさつ。
 センター館長の作家、早乙女勝元さんの講演「戦後を戦前にしないために」もある。
 午後1時から、江東区亀戸文化センター内のカメリアホールで。
 参加費500円。問い合わせは東京大空襲・戦災資料センター=Tel 03-5857-5631=へ

(2013年3月6日付け東京新聞「東京大空襲語り継ぐつどい 江東区で9日」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20130306/CK2013030602000104.html

 ヤッホー君、こういう集いの場にはこれまで一度もでたことはないのです。
 経験化されない個人的体験を聞かされお涙をながしても、なんの問題解決にはならない、なんて息巻いていたのですが、こころに余裕ができたのか、いまの「不安倍三内閣」誕生で危機感を募らせたのか、日本を取り戻すのか、アメリカに売り渡すのか、とにかく出てみようと「イードラ eco-drive」でもママチャリでもなく、イーチャリででかけたのです。
 もちろん、自転車の買い物籠とライト、併せて4千円も自転車屋さん「信興産業」(江東区白河3-3-14 Tel 03-3641-6478)にお支払いして、直してもらってからのことです。

 そして近いうち、山歩クラブの仲間にも声をかけ、地元にあってこれまで一度も訪れたことのない「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区北砂1-5-4 Tel 03-5857-5631)にイーチャリで行こう、とヤッホー君、決意を新たにしたそうですよexclamation×2
http://www.tokyo-sensai.net/

 これまで、ヤッホー君はゲルニカから、広島原爆ドーム、そして東京大空襲は横川国民学校、と一貫してとりあげ、彼の平和思想をこのブログ「日記」で語ってきたと思うのです。
 今日の土曜日は、ちょっと過去歴をふりかえってみたいと思います:

2010年08月09日「○○広場」
 ピカソの令息クロード氏の承諾を得て、実寸大かつ忠実に再現されたセラミックによる複製作品」≪ゲルニカ≫」が東京駅丸の内北口オアゾビル一階に展示…

2011年01月25日「横川国民学校」
 井上有一(1916-85)の書「噫横川国民学校」。
 この書に書かれている文章を、緒方拳(1937-2008)が朗読しています。
 彼の声で、よく耳を傾けて聴いて下さいますようお願いいたします…


2011年02月25日「東京大空襲訴訟」
 この東京大空襲ですが、昨年の2010年7月23日に第一回口頭弁論が開かれ、控訴審が始まっています…

2011年02月26日「Ma, naambakan ako」
 攻撃する側は、総力戦の中で敵国民の戦意を喪失させることが早期に戦争を終結させるので人道的であり、自国民の被害を最小限にするために「やむを得ない」犠牲として、合理化してしまった。
 そして、攻撃する側に虐殺される側が見えないことが空爆を残虐化させたのである。
 このように、戦争において、空爆する側は、殺され、焼かれ、傷つけられる人々は「やむを得ない犠牲」なのだとして虐殺を実行した
 しかし、それでも、戦後それを容認してはならないものであることを規範化することが求められた。
 一方で、非戦闘員の無差別殺戮を禁ずる国際人道法が確立し、他方で、各国が非戦闘員の戦争被害を国民全体で分かち合う戦争被害補償制度(被害回復措置)をとったのは、そのためである。
 ところが日本政府は、自国内の大虐殺の被害を戦争における「やむを得ない犠牲」として切捨て続けてきた
 大虐殺の被害を日本政府は、被害者が死に絶えるまで見捨てたままにするのか、この訴訟で問われているのはまさにその点である。
 戦後、日本政府は、一方でアメリカに対して、賠償請求権を放棄しただけではなく、東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイに勲章を与えることまでしつつ、他方で、虐殺され、傷ついた非戦闘員の被害を「耐え忍ぶべき犠牲」としてその補償を拒否してきた
…控訴理由書からです…


2012年03月17日「秘話」

 2008年5月23〜25日の広島遠征

2012年12月05日「犬死」
<犬死(いぬじに)でなかった証拠にや 新憲法のどこかにあの子の血がかよう>。
 敗戦後、憲法制定の過程で憲法普及会が東京新聞と共催で募集した都々逸の入選作だ。
 子どもを戦争で失った庶民の思いが、ひしひしと伝わってくる。

 アジアを巻き込んだ戦争は、日本だけで300万人を超える死者を出した。
 都市は焼け野原になり、広島と長崎には世界初の原爆が投下され、おびただしい命が瞬時に奪われた。
 すべてを失った民衆にとって、不戦を誓う憲法は焦土から昇る希望だったに違いない。

 「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦で、ひめゆり学徒たちを戦場に引率し、戦後は琉球大教授になった仲宗根政善さんは1970年の日記にこんな一文を残していた。
 「憲法から血のいろがあせた時、国民は再び戦争に向かうだろう」
 戦争の記憶が国民の大半に刻印されていた40年以上も前の日記だ。
 実際に戦闘を経験した人や空襲の下を逃げ惑った人がとても少なくなってきた今、この言葉は予言のように重く響く。

 衆院選がきのう公示された。
 原発政策や消費税、TPP… 重要な争点が並ぶ中、憲法を論戦の後景に退けてはならないと強く思う。

 政権奪還を狙う自民党と第三極の要として勢いのある日本維新の会は、それぞれ憲法改正、自主憲法制定を正面に掲げる。
 平和主義という国のかたちを変えるのか。
 重い一票が託されている

(2012年12月5日付け東京新聞「筆洗」)

 山歩クラブの平和へのメッセージ、お分かりになっていただけると思います。
 平和だから山歩きが楽しめる、だからなんとしても、人が人に対する戦争や殺人や暴力はいや、人が自然に押しつける開発や破壊、改造や伐採はいや、いやなものはいや、だめなものはだめ、生きとし生けるもののいのちを大切に、いのちの恵みをいただこうよ、ということですよね。
 
 山歩クラブのヒロシマへの「ピース・トリップ2008」のときのアルバムがでてきましたので、ぜひご覧ください。昨日のことのように思えるのに、もう5年も前のことですね:

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お人形さんめぐり

 3月2、3日一泊二日で敢行した山歩クラブ「雪遊び冬合宿」。
 初日の3月2日、小諸駅前におりたった仲間4人はさっそくタウンウオーク。
 だってぇ、北国街道小諸宿の「お人形さんめぐり」が2月23日からはじまっておりましてぇ、スタンプを3つ集めると景品がもらえるっていうんですから、はりきって歩いたわけです。
 そして2日には「わら馬パレード」もあるというのですから、必見。
 足が思わず軽くなって、ホップ、ステップ、スキップぅ〜!(あれ?)
 スタンプをおしたポイントは、われわれが歩いた順ですと、メガネのコミヤマ(相生町おかみさん会)、与良館、ほんまち町屋館、そして小諸本陣主屋。
 結局、4ヶ所すべてまわったのですよ。
 どんな景品だったのでしょうか、内緒、ナイショ、しぃ〜ですよ。

商店内に雛人形やつるし飾り、創作人形などが飾られ、女性グループ、親子連れが華やかな雰囲気を楽しんでいた。
 3月10日まで。実行委員会(塩川由美子委員長)主催で9回目。
 初めは数点の段飾りやつるし雛教室の作品発表だったが、現在は大勢の住民参加のイベントに定着。
 飲食店や個人宅も含め約100ヶ所以上が参加している。
 江戸時代の享保雛、古今雛からの変遷や、かわり雛、色鮮やかなつるし雛などがいっぱい。
 塩川委員長は「客足が落ちる時期に≪小諸宿の華≫でお迎えし、一足早い春を感じてほしい」と来場を呼びかける

(2013年02月24日 毎日新聞 地方版 藤澤正和記者「お人形さんめぐり:小諸で始まる/長野」)
http://mainichi.jp/area/nagano/news/20130224ddlk20040019000c.html

 小諸、いい街です。また行きたくなる街、大好きな街。
 山歩クラブの「合宿」地として定番化しようと、今度の第11回総会に提案することになりました。
 だってぇ、われわれの下町と同じく、住民の息遣いが感じられ、人情と人肌のぬくもりの感じられるところ:

ほんまち町屋館。
「ここは、なんだかゆったりした時間が流れていますね」
 通りすがりにふらっと立ち寄った旅人のそんな言葉から、町の人との会話が始まります。
「ここは昔は味噌屋でね、建物は大正12年のものなんです。母屋はそのままいかし、奥の蔵は建て替えてギャラリーと工房にしています。ここで使ってた味噌道具や、地域のシンボルの神輿も展示してあります。ゆっくり見ていってください」
 大正時代の開放感と繁栄をあらわす天井の高い入口の土間。
 町屋特有のしっとりとした中庭をのぞむ座敷と廊下。
 庭の奥に見える蔵の白壁。

 ゆったりとした心地よさは、建物をつくった家主や職人の感性と、それを受け継いでまちづくりの夢を注いだ人の輪のぬくもりゆえなのでしょう。
 市は、当初、この「旧清水屋」を買い取って駐車場にする予定でした。
 その後、市民の働きかけもあり「街なみ環境整備事業」の一環で、コミュニティ施設として活用することになりました。
 平成11年から始まった計画づくりでは、まず本町の人や関心のある市民が集まってどんな使い方をしたいのか、何を見せたいかなどを話し合う「わいわい会議」を本町区まちづくり推進協議会の主催で行いました…
 その結果、協議会として以下の方針を立て、さまざまな工夫を取り入れました。
  1. 子どもから年寄りまでが集える
  2. 本町と「清水屋」の歴史を伝える
  3. 中沢川側の眺望をいかす
 苦労してできた施設には思い入れも強く、より多くの人に見てもらうためにスタッフ会が当番で詰め、月曜日を除く毎日開館しています。
 また市民活動の貸しスペースとして、開放的な工房とひろばを一体的に使っての子どもの生活塾、座敷での琴の演奏会、蔵ギャラリーでの写真展など、この施設ならではの活動が広がっています。
 初夏の祇園祭、夏の盆踊りと夕市、お茶会(庭では野だて)などなど、この町屋館を通して「新しい人と人との出会いがあり、何かが生み出せれば」と夢がふくらんでいきます

http://www.machiyakan.com/

 どんな様子か、長野県商工観光課のポンタさんがさっそくレポートしてくれておりますので、ぜひお読みくださいな:

本町通りや相生町通りなど小諸市の中心街で行われている「北国街道小諸宿の『お人形さんめぐり』」は、商家や民家に伝わる雛人形などが店頭に飾られ、訪れた人たちの目を楽しませてくれます。
 3月10日までやっていますので、是非出かけてみてください。
 新しい小諸を発見すること請け合いです

(2013年03月04日付け「小諸で『お人形さんめぐり』開催中」)
http://saku.nagano-ken.jp/c650.html

 では、さっそく山歩クラブ「小諸散策」編のレポートです。
 一枚目は、高濱虚子が疎開したときの支援者、小山美直邸内にて。
 なんか柱時計のコツコツ、ボ〜ンボンと時を刻む音が聞こえてくるでしょう、さ、耳を澄ませて聴いてみましょうね:

P3026974.jpg
 
 二枚目はひな壇にうち揃った山歩クラブの三人官女。

P3026976.jpg

 そして最後は与良館(江戸時代は松屋といって漆器屋でした):

P3026980.jpg

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2013年03月08日

思い出の街道

 3月8日ハナキン、今朝は起きるのが早かったのです、ヤッホー君。
 5時には「日記」をつけ始めておりました、まだ今日と言う日がはじまったばかりだというのに。

 実は夕べ、山歩クラブ「雪遊び合宿」で仲間の一人が唇に歌を、って聞かせていただいた節回しが突然と蘇ってきたんですねぇ〜
 仲間のご主人がせっかくだから皆んなで飲んで、とわざわざ持たせてくださったという「純米にごり酒、白川郷」(三輪酒造、大垣市船町4丁目48番地 Tel 0584-78-2201)の濃厚な飲み口に皆んなほろ酔いになりにけり、頬がさくら色に染まってきたころだったでしょうか。
 こたつでぬくもりながら、歌いはじめたのですが、
 「そういえば懐古園に行きませんでしたが、こんな歌があるのを知っていますか、フシギなものでムカシ覚えた詩句はイマでもすらすらと口に登るし、聞いたその歌は自然に口をついてでてきますね」

 それでは、プロの歌手おふたりに登場していただきましょう!
『小諸なる古城のほとり 鮫島有美子』
http://www.youtube.com/watch?v=TttV6cznkQU
 そして『小諸なる古城のほとり 藤山一郎』
http://www.youtube.com/watch?v=smLZXSseTJE

 いえ、いえ、そればかりではありません、早朝に起き出したのは。
 昨日の日記「北国街道小諸宿」と標題にしたのですが、じゃあ、あれは何だっけ?と気になる古の道のたたずまいが明け方、ひょいと脳裏を掠めたからなんだそうです。

 佐渡の金が江戸幕府の財政を助けた、とすればそれを運んだ大事な輸送路が、北国街道。
 じゃあ、山歩クラブで嬬恋村に入る(から抜ける)度に通り、昨年も「2012夏合宿」で訪れた鳥居峠って、あれはなに街道だっけ、眠気まなこでもぞもぞ起きだした、というわけです:

大笹街道は…、仁礼宿(須坂市)から標高1600mの菅平を通過して鳥居峠から上州大笹宿を通過し、沓掛(中軽井沢)にいたります。
 非常に険しい道筋でしたが、北国街道の脇街道として繁栄しました。
 理由は、善光寺平から江戸へ出る北国街道より、40キロほど距離が短いために宿継ぎに要する経費が少ないからです。
 そのために商人たちが、この街道をよくつかったのです…
 で、運ばれた物産は、菜種油
 巨大都市、大江戸の照明の燃料(菜種油)を善光寺平から輸送していました。
 よーするに江戸時代のパイプラインです。
 別の言葉で言えば、江戸百万都市のライフラインでもありました

(北国街道の脇街道 大笹街道 嬬恋村)
http://k-tumagoi.seesaa.net/category/10703497-1.html

 じゃあ、巻機山に登る前に地酒「巻機山」で乾杯したあの蔵元、青木酒造(南魚沼市塩沢1214 Tel 025-782-0023)、ヤッホー君のこのブログ、2012年6月12日付け日記「緑の直行便」でも紹介した「鈴木牧之記念館」(南魚沼市塩沢1112-2 Tel 025-782-9860)、あの静かな、穏やかな歴史ある街並み、塩沢。
 あれはなに街道だっけ…

塩沢町の中心街は旧三国街道(日本海側と江戸を結ぶ輸送路)沿いの宿場町として栄えておりました。
 それから300年。
 その歴史と文化を復興させようと1998年より地元住民が「塩沢らしさ」とは何かを町役場そして県地域振興局の職員の方々と長い時間をかけ、議論しワークショップを行って考えました。
 結論、それは「雪国の歴史と文化の街」ということに集約されました。
 そして県の事業認可を経て2003年より市、県、国が一体となって街づくりを進め、2009年に三国街道塩沢宿「牧之通り」として完成いたしました。
 この「牧之通り」とは、江戸時代の雪の書「北越雪譜」を書いた鈴木牧之にちなんで名付けられました。
 建物のデザインルール、セットバックによる雁木建設など公共空間から私的空間までが一体的に整備されております

(三国街道塩沢宿牧之通り)
http://www.bokushi-st.com/

 そうですかぁ〜、越後と江戸を結ぶ北国街道と並ぶ輸送路、三国街道でしたね。
 じゃぁ、山歩クラブで何度も訪れた、谷川岳に登らなくともその下見に、そして日本三大岸壁、一の倉沢を見上げる絶景の出会い、その先にある幻の国道291号(廃道)、清水峠。
 あれはなに街道だっけ…

 多くは語りませぬ。
 「ヨッキれん」こと平沼義之さんのブログ「山行が」(秋田弁、山さ行がねが、の略)をご紹介しますのでお読みください:
1977年10月13日、千葉県松戸市に生まれる。
 神奈川県横浜市で育ち、小学6年に引っ越した秋田の地で廃道に目覚める。
 2007年1月からは、さらなる廃道を求め東京都日野市へ転居。
 現在一人暮らし。
 同人活動や出版などで日銭を稼ぎつつ、オブローディングに没頭中

(関東移住一年目の2007年、10月8日)
http://yamaiga.com/road/shimizu/main.html
(2008年10月11日が清水峠リベンジ計画初日)
http://yamaiga.com/road/shimizu2/main.html

 「ヨッキれん」こと平沼義之さんは、3月23日土曜日6時開演の≪廃道ナイト番外!!現道も廃道もDVDも本もね!≫に出演します。
 場所は、お台場 東京カルチャーカルチャー(観覧車横、ゼップ2階)、料金は2千円です。

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2013年03月07日

北国街道小諸宿

 3月7日木曜日。
 山歩クラブ「雪遊び合宿」についての報告日誌もまだだと言うのに、いきなり神奈川県二宮町に飛んでしまったヤッホー君、ちょっと分裂症気味なので、この辺でブレーキを踏んで、待て待てぇ〜っ、千曲川のほとり、懐古園のある城下町、高濱虚子が疎開した歴史ある平和で穏やかな町、小諸に戻っていただきましょう!
 そうなんですぅ〜 小諸大ファンのヤッホー君なんですから!

北国街道400年と小諸城竣工399年を記念する「小諸宿400年フェスタ」は、このほど街道ツアーと交流シンポジウムを行った。
 NPO法人小諸街並み研究会と同フェスタ実行委員会(大西祟弘会長)が主催。
 午前中は旧北国街道本町の街並み、めぐりや本陣周辺と文化財めぐり、高浜虚子の散歩道と旧家めぐりを行った。
 午後は上田市や東御市、坂城町など北国街道沿いのまちづくり協議会との交流シンポジウムを相生町の小諸コミュニティーセンターで開き、約50人が参加した

(2011年12月02日東信ジャーナル[Blog版]元県立歴史館総合情報課長の宮下健司さんが基調講演!「小諸宿400年フェスタ」2011を行う!長野県小諸市)
http://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000376458.html

 今年2013年はそうしますと北国街道も小諸城も400年は経っている由緒ある町、町並みなんですね、北国街道小諸宿は。なるほど…。

富裕な城下町にして宿場町「小諸宿」
 小諸城を中心とする城下町。
 宿場としての機能が加わることで商業もめざましく栄え、江戸中期には東信濃随一の経済圏を形成。
 特に醸造業は信州の最先端にあった。
 街道沿いの商家に往時の面影が色濃く残る。
【JR小海線・しなの鉄道小諸駅から約0.2km】

《街道名物》各地のそばを食べ比べ
 「そば切り」が、そばの一般的な食べ方になったのは江戸時代。
 そば栽培に適した環境から信州にはそば産地が多く、宿場に憩う人々も、土地の粉を使った手打ちそばに舌鼓を打ったことだろう。
 宿場時代のたたずまいを生かしたそば店が今も各地にあり、こだわりの味を賞味できる。

《知ってなるほど》牛に引かれて善光寺参り/小諸宿
 信心薄い老婆が川で布を晒していたところ、一頭の牛がその布を角にかけて走り出した。
 布を取り戻そうと牛を追いかけ野を越え山を超えてたどり着いたのが善光寺。
 老婆はありがたさに思わず手を合わせ、参籠の一夜を過ごした。
 実はこの牛こそ布引観音の化身で、老婆を阿弥陀如来の許へ導き信心を起こさせるために現れたという伝説。
 布引観音堂近くの断崖には、老婆と布が化したといわれる布岩がある

(国土交通省関東地方整備局 長野国道事務所)
http://www.ktr.mlit.go.jp/nagano/sinsyukaidou/hokkoku/oiwake.html

 ところで…、町は寂れてきています。
 駅は小諸駅、しかしJRではありません、「しなの鉄道」といいまして筆頭出資者は長野県で75.36%、小諸市も出資しております(1.52%)。
 駅なかの観光案内所は閉鎖、2階のレストランも休業中、待合室にはだるまストーブをかこんで数えるほどの利用客。ヤッホー君は無人販売所で大っきなじゃがいも4個100円と下仁田ねぎ5本100円を買って100円玉2個を置いてある箱に入れたら、水琴窟のように落ちた音が反響しました。
 あ、そうそう、駅のなかの壁面を仰げば、島崎藤村「千曲川旅情の歌」が飾ってありました。

長野県小諸市。
 この都市は長野県東部の佐久地方にあり、佐久平と呼ばれる盆地の北西端、浅間山の南西麓に位置している。
 市内には千曲川が流れ、浅間山と並んで景観にアクセントを与えている。
 古くは城下町として栄え、「高原の城下町」とも呼ばれる情緒豊かなところである。
 有名な文豪、島崎藤村の詩「小諸なる古城のほとり」をはじめ、小諸にちなんだ作品も多い。
 人口は4万5千人ほどで、決して大きな都市ではない。
 しかし、一昔前までは多くの観光客でにぎわい、また佐久地方の中心地として、商業を中心にそれなりに栄えていた。

 しかし、それはすでに過去の話である。
 今、小諸の街を歩いてみると、寂寥感がひしひしと伝わってくる。
 北陸新幹線1が長野まで開通し、小諸を経由しなかったことが、小諸衰退の引き金になったことは間違いない。

…新幹線駅の誘致に失敗した。
 その後さらにミニ新幹線の実現に失敗し、そして駅名に「小諸」の文字を入れることにも失敗してしまった。
 新幹線という代替線完成に伴って横川―軽井沢間は廃止され、小諸は首都圏への直通列車を失い、そのうえ並行在来線を「しなの鉄道」として存続するための財政負担を背負わされた。

 今まで佐久地方で最高次の中心地であった小諸は、こうしてその機能を岩村田に奪われた。
 小諸駅周辺の衰退は、商業、観光業共に顕著に現れている。
 他方佐久市は、新幹線の開業による佐久平駅周辺の開発によって、中心性を飛躍的に増大させ、佐久地方における絶対的に高次な中心地へと変貌を遂げた。

 小諸は佐久市の商圏に組み込まれ、佐久市に従属する低次中心地に甘んじることとなったのである

(井野俊介「空間統合の高速化がもたらす不均等発展―北陸新幹線建設と、小諸・岩村田の都市間競争を例として―」『空間・社会・地理思想 Space, Society and Geographical Thought』2012年、15 号、15-41頁所収)
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space15/15_15ino.pdf

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2013年03月06日

徳富蘇峰

 3月6日水曜日、ヤッホー君はまだ昨日の「イードラ eco-drive」の余韻にひたっているようでしたよ。
 でもそんな夢うつつのアタマが突然、目覚めたのは「にのみや吾妻山公園案内図」で、「徳富蘇峰記念館」の文字が飛び込んできたから。
 いえ、ま、その吉川英治記念館の梅は切り倒されると言うし、「徳富蘇峰記念館」の樹齢300年を越す臥龍梅が見事、と言われたら見逃すわけにはいきません。
 山歩クラブの仲間を誘ってみようかな…

 「徳富蘇峰記念館」(神奈川県中郡二宮町二宮605 Tel 0463-71-0266)。

『徳富蘇峰記念館は、蘇峰の晩年の秘書を務めた塩崎彦市が、蘇峰の13回忌にあたる1969(昭和44)年に、二宮の塩崎邸内に建築したものです。
 塩崎は早くより蘇峰を敬慕し、戦前・戦中・戦後を秘書として身辺に侍し、蘇峰の逝去に至るまで苦楽を共にしました。
 その誠意に対し蘇峰は、書簡・蔵書・揮毫・原稿・遺品の多数を塩崎に託しました。
 塩崎は、蘇峰の遺業と精神が新しい時代の青年によって研究されることを願い、蘇峰から託された多くの近代史の資料を公開する目的で記念館を建設しました。
 塩崎亡き後は、遺族が「財団法人徳富蘇峰記念塩崎財団」を設立し、神奈川県で17番目の博物館として、現在に至っています。

 蘇峰堂の梅は、「神奈川の花の名所100選」に選ばれています。
 
 ★2013(平成25)年度特別展★
 <新島八重からの6通の手紙展>2013年1月8日(火)〜12月8日(日)』


『来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインで会津藩士の娘である新島八重が支援者の徳富蘇峰に送った直筆の手紙やはがき6通が、神奈川県二宮町の徳富蘇峰記念館に残されていることが分かった。
 夫・新島襄の死後間もなく出した手紙では「涙に暮れて」と悲しみを素直につづっている。
 最初の手紙は、襄の死後40日余り後の1890(明治23)年3月5日付。
 会津若松市史研究会員の星甚衛さんの解読によると「(夫婦で愛した)庭の梅の花が咲いても香りを感ぜず…すべてに心を悩ますばかり」と記している。
 襄は以前から病弱で…』

(2012/06/08 09:36更新 福島民報)

 ヤッホー君のこのブログでも過去、徳富蘇峰に言及しております。

 まずは、3.11の前、多分、それが実現していないのは、あの衝撃でどっかにすっ飛んで消えてしまったからなのでしょう…:

『2011年02月16日「吾妻山」

 来年、「徳富蘇峰記念館」にある梅林での観梅、そして「吾妻山菜の花ウォッチング(2011年は2月6日日曜日まで)」と併せ、「二宮町ウオーキング」を企画してみましょう!』


 そして3.11の1年前、つまりイマからかれこれ3年も前のことなんですねえ。
 イマはもうサービス提供の終了に伴い、その役割を終えてしまった山歩クラブのホームページがございましたが、そのなかで初登場しております:

『2010年3月13日(土)。
 西丹沢は、丹沢湖の西南に位置する神奈川と静岡の県境の山、不老山928m。

 「樹下の二人」が実は、不老山への途中、世附峠にあったのです。
 徳富蘇峰夫妻が訪れてこの景観に見入ったことから、本来は蘇峰台と呼ぶようですが、山路の整備に尽力し、興味ある道標をたててくださっている岩田潤泉さん(静岡県駿東郡小山町小山、Tel 0550-76-0764)によりますと:

≪あれが湯船山、不老山 あの光るのが駿河湾
 こうして静かに座っていると うっとり夢心地になる… 
 ここはあなたやわたしの夢の広場。
 1936(昭和11)年8月30日に徳富蘇峰(1863〜1957、蘆花の兄、著作家、「近世日本国民史」、「吉田松陰」など。文化勲章)ここに立つ。
 静子夫人と2台のかごにのり、かごかつぎ人夫17人、随伴者計50人。
 当日のルート:午前4時山中湖−水ノ木−本棚ノ滝−明神峠−世附峠−柳島−小山町。
 よってここを蘇峰台とよぶ。
                  (湯船山を愛する会)』

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2013年03月05日

吾妻山公園136.2m

 3月5日「啓蟄」の火曜日、もぞもぞと起き出した朝、ふいっと思い立ったら吉日とばかりに愛車を駆って向かった先が暖ったかい伊豆方面へ。
 「イードラ eco-drive」途中、「吾妻山公園」の立て看板がでてきたのでびっくり!
 2011年の2月13日日曜日は曽我梅林、不動山(曽我山)、そして二宮駅前の「吾妻山公園」へのお山歩会でした。
 まだ3.11なんか思ってもいやしないあの時期の山歩クラブでした。
 ぜひその頃の日記をお読み下さい。

 今日は愛車を、「生涯学習センター(ラディアン)」脇の臨時駐車場に置いて、500m先の「中里登り口」からゆるやかな登り道を山頂まで約1Km歩いて、頂上136.2mへ。

吾妻山公園.jpg

 頂上からは菜の花畑の遠くに冨士山の右肩だけ見えました。しかし凪いだ相模湾を見ているだけで、こころが和んできます。
 頂上の広場では、ヨガに熱心なおば様たちが何十人も恰幅のよろしい姿でねっころがって、足を上げたりからだをひねったり、とひねもすのたりのたりかな…

 帰路は「役場登り口」、つまり「JR二宮駅」目指して300段の階段を下りてきたのでした。
 寒かった春も、もぞもぞと起きだしてきたようですよ晴れ

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2013年03月04日

高濱虚子

 そうかい、疎開かぁ〜、そうなんです、山歩クラブ「雪遊び合宿」(3月2、3日)の起点となった小諸市には、俳人、高濱虚子も戦火を避けて疎開しておりましたぁ〜

1974(明治7)年、愛媛県の松山で父池内政忠、母柳の四男として生まれる。
 本名は清。9歳の時に祖母の高濱家の名跡を絶やさないため高濱の姓を継ぐ。

 1997(明治30)年、大畠いとと結婚。
 正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した俳誌「ホトトギス」に参加し、翌年には虚子がこれを引き継ぎ東京に移し発行人となる。
 俳誌「ホトトギス」はそれまでの俳句中心誌から俳句文芸誌として生まれ変わり、後に夏目漱石が小説「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」を掲載したことでも有名である(なお、発行当時はひらがなで「ほとヽぎす」であった)。

 1913(大正2)年、かつての親友であった河東碧梧桐が唱えた「新傾向俳句」に対抗するため虚子は、
  「春風や闘志いだきて丘に立つ」
  「霜降れば霜を楯とす法の城」
と詠み、俳壇復帰を決意する。
 これ以降、虚子と碧梧桐は、子規門下の双璧とまで言われながらも、伝統的な五七五調の有季定型を重視する虚子と、従来の定型や季題にとらわれない新傾向俳句を提唱する碧梧桐と激しく対立していくこととなる。

 1934(昭和19)年9月、70歳の時に五女である高木晴子一家と共に長野県小諸町へ疎開する
 疎開先に小諸を選んだのは、以前より五女の晴子と小諸の小山家とは交流があり、一度小諸を訪ねた虚子と、後日鎌倉の虚子を訪れた小山榮一の気が合ったことなどから、虚子は小諸で戦火を逃れることに決めたとされている。

 1947(昭和22)年10月までの3年1ヶ月を小諸で過ごした虚子は、小諸での疎開生活の様子を「小諸雑記」にまとめ、「小諸百句」を生みだした

(小諸市公式サイト、近代俳句の巨匠 高濱虚子)
http://www.city.komoro.nagano.jp/www/contents/1255583026835/index.html

虚子が太平洋戦争の戦火を避けて、小諸に疎開したのは1934(昭和19)年9月でした。
 当地小山栄一の援助のもと、厳しく美しい風土に接した虚子の詩精神は新たな躍動を見せ、此処に「小諸時代」という新たな世界を現出しました。
 四季を通じて豊かに変化する大自然、ときおり噴火する浅間山、遠く蓼科山にかかる柔らかい雲、そして人々の暖かい人情は、虚子をどれだけ喜ばせたことでしょう。
 1947(昭和22)年10月、小諸を去るまでの約千日のことでした

(小諸高濱虚子記念館 近代俳句の巨匠 高濱虚子)
http://www.city.komoro.nagano.jp/www/contents/1126762888484/index.html

秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ(昭20)

 虚子は疎開先の小諸で終戦を迎えた
 戦争終結の玉音放送があったのは8月15日正午の時報に続く君が代奏楽の後である。
 「朝日新聞」(昭和20年8月15日)は、「一億総哭の秋」という社説を掲げている。
 「誠に畏き極みながら、言々句々、御血涙の結晶とも申上ぐベく、出師の表に泣かざる者も、この度の大詔を拝しては、必ずや哭かずにゐられないであろう」。
 一億の帝国臣民だけでなく、自然界も悲しみの声を挙げて、みんなが泣いたことは想像に難くない。
 いうまでもなく、秋蝉の鳴き声や「父よ父よと鳴く」とされる蓑虫の鳴き声は、敗戦による悲鳴とは違うはずだが、なんとなく哀感を響かせているように聞こえたのであろう。
 だが虚子の句は、「詔勅を拝し奉りて」と注記されているが「朝日」社説の悲壮感はなく、市民大衆の一員として実感を伝えており、ナショナリスティックな精神の高揚への解毒剤になるようなアイロニーを潜ませている、と私には思える

(2008年慶応義塾大学日吉紀要『言語・文化・コミュニケーション』No.40所収 広本勝也「高濱虚子の生涯と文学〜<和>の楽しみ〜」)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php

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2013年03月03日

水の塔山2202m

 3月3日日曜日、ひな祭り。
 山歩クラブは4人で「雪遊び合宿」。
 今日は、スノーシュウで水の塔山を歩きました。
 八つ、冨士山、北岳、穂高、槍、中央アルプス、乗鞍とすべて見えました。
 天気も穏やかに晴れ上がり、良い気分。
 長野、群馬の県境の稜線は寒い北風が左側から吹き渡ってきますが、稜線を避けると風もなく、とても気持ちよくあるくことができました。

スノーシュウ.jpg

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2013年03月02日

学童集団疎開

 そうかい、疎開かぁ〜、でもなにも青梅市には有名な画家や音楽家や作家だけが疎開してきたわけではありません。
 戦時中の疎開には、「学童集団疎開」というものがありました。

 まずは「青梅市立新町小学校」(新町5-21-1 Tel 0428-31-0268 JR青梅線小作駅下車 徒歩約25分)から。
 と言いますのも、2011(平成23)年7月20日「新町だより」夏休み直前号で校長先生の竹田雄二郎さんは「青梅市の8月15日」と題し、次のような文章を巻頭に載せておられます:

1944(昭和19)年8月18日に、東京市浅間台国民学校(現在の品川区立浅間台小学校)の児童が学童集団疎開をしてきた記録があります。
 男子児童は東禅寺(新町2丁目)に53名、女子児童は杣保葛神社(藤橋2丁目)に30名の子供たちを受け入れています。
 この学童疎開は、終戦時には260名に増え、終戦後の1945(昭和20)年10月25日に小作駅を発ち、品川へと帰校しています。
 疎開学童の生活についても、厳しくつらい生活であったことが記されています。
 小曽木国民学校(現在の第七小学校)では、疎開学童が元の学校に戻るとき、土産としてサツマイモやジャガイモを48貫(約180キロ)贈ったという記録もあります。
 また、当時の青梅国民学校(現在の第一小学校)の学校日誌からも、出来事がいくつか転記されています。

八月二日(木)晴 二十八度
昨夜八時半頃ヨリB29数編隊ニ分レテ本土ニ侵入、川崎、鶴見ニ来襲シソノ一波ハ八王子、淺川方面ニ投弾シタル後脱去セリ、青梅地区ニ被害ナシ
(この日、八王子上空には169機のB29が襲来し、67万発の焼夷弾を投下して八王子市街地の約80%が消失し、450人の犠牲者が出ました)
八月十五日(水)晴 二十九度
児童召集日ナルモ、早朝ヨリ敵機動部隊ヨリ小型機の来襲ニヨリ解除トナル
本日正午ヲ以ッテ、詔書ヲ下賜アラセラル(米英華蘇四国宣言受諾ノ詔書)全国民憤激ノ為感涙
惜ク能ハズ
八月十六日(木)曇 二十六度
大東亜戦終結ニ関スル詔書奉読式 前七時半校庭 全児童 勤労動員 集団疎開 集合
九月二十六日(水)晴 二十二度
児童校外指導ノ件 米兵進駐ニ伴ヒ、児童ノ中相当多数ソノ後ニ追ヒ附キ添ヒ少國民トシテノ態度頗すこぶル良好ナラズ 徹底的ニ之ヲ取締ル要アリ

 現代では想像もつかない事態が、新町小学校の周辺を始め青梅市内でも起きていたことが分かります。
 平和である2011(平成23)年の今日からおよそ66年前には、多くの人々が犠牲になる戦争が日本で行われていていたわけです。
 今年もまた8月15日が巡ってきます。
 長い夏休みの中で、戦争というものの悲惨さについて、ご家族で話し合ったり調べてみたりすることも大切な学習ではないでしょうか。
 価値のある充実した夏休みをお過ごしください

http://www.ome-tky.ed.jp/es/shinmati-es/sinnmatidayori/sinnmatidayori7.pdf

第二次世界大戦中の品川。
 第二次世界大戦が激しくなり、日本は空から飛行機で攻撃を受けるようになりました。
 1944(昭和19)年、国民学校学童(今の小学生)を空襲から守るため、先生もこどももいっしょに、学校丸ごといなかに避難する学童集団疎開が始まりました
 旧品川区の国民学校は東京の多摩地区へ、旧荏原区は静岡・富山・青森へと疎開していきました。
 区内は空襲では大きな被害を受けました。
 特に1945(昭和20)年5月24〜26日の空襲では、旧荏原区のほとんどが被害にあいました


 これは、「品川歴史館」(品川区大井6-11-1 Tel 3772- 4060)の公式サイトからです。
 品川歴史館は1985(昭和60)年に開館した品川区立の歴史博物館です。品川区の貴重な文化と歴史にかかわる史料の収集・保存とともに行政資料の保存も行なっています。
 また、地域史をはじめ歴史を幅広く学ぶ歴史の学習の場としての機能を備えています。茶室や書院、庭園も備えており、茶道、華道や俳句などの伝統的文化活動の場としても利用できます。
≪交通案内≫
JR京浜東北線・東急大井町線・りんかい線の大井町駅西口で下車し、東急バス池上駅行(井09)・蒲田駅行(品94、井03)で「鹿島神社前」下車、徒歩1分。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/annai/annai.html

 この「常設展示コーナー」には、「必勝祈願」(落合タカ子氏の作品)があります:

今の青梅市に学童集団疎開した品川国民学校(いまの品川小学校)4年の落合さんが疎開した時にかいた絵です

 ヤッホー君、いつか必ず訪れる、と言っております。
 もうひとつ「羽村市郷土博物館」(羽村市羽741 Tel 042−558−2561 JR青梅線羽村駅下車羽村駅西口より約20分)!
 だって、あの大菩薩峠の中里介山(1885-1944)も:

日本ファシズムの吹き荒れる戦渦にあって、出征兵士の壮行風景をみては、「生き葬い!」とつぶやき、1943(昭和18)年の秋の長雨を「崩壊降り」と日記に書きとどめています。
 そして、すべての文学者たちの加盟を強要する日本文学報国会への加入を、ひとり敢然と拒否する、といった気概を示しました。
 こうした烈々たる批判精神を堅持しながらも、敗戦濃厚となった1943(昭和19)年4月、惜しくも腸チフスで亡くなります。享年59歳。
 介山の夢みた壮大なユートピア構想は、『大菩薩峠』という幻想の世界の中で、悠久に生き続けていくに違いありません

(2010年3月1日 羽村市郷土博物館 コーナー4中里介山の世界)
http://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001546.html

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2013年03月01日

'Higher cancer risks'

【ローマ=原克彦】世界保健機関(WHO)は2月28日、東京電力福島第1原子力発電所での事故が健康に与える影響について、地域住民からがんの増加が確認される可能性は低いとの報告書をまとめた。最も影響が大きかった地域にいた人の場合で、がん発生率は日本人平均の男性41%、女性29%より最大で約1ポイント上昇するという。
2013/2/28 21:50 日本経済新聞「福島原発事故、がん増加の可能性低い WHO報告」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2805M_Y3A220C1CR8000/

【前川浩之=ジュネーブ、大岩ゆり】世界保健機関(WHO)は28日、東京電力福島第一原発事故の被曝による健康影響に関する報告書を発表した。大半の福島県民では、がんが明らかに増える可能性は低いと結論付けた。一方で、一部の地区の乳児は甲状腺がんのリスクが生涯で約70%、白血病なども数%増加すると予測した。日本政府は、「想定が、実際とかけ離れている」と不安を抱かないよう呼びかけた。
2013年2月28日22時43分 朝日新聞デジタル「福島原発、甲状腺がんリスク増加も WHOが報告書発表」
http://www.asahi.com/national/update/0228/TKY201302280465.html

一部地域で子供の甲状腺がんの発症確率が高まる可能性を指摘した。ただ、放射線量の高い「計画的避難区域」に4か月間避難せずにとどまり、汚染された物を食べ続けるなど、ありえない最悪条件を想定して計算している。実際にがん患者の増加が住民の間で見られる可能性は低いと結論づけた。報告書は、子供の健康管理に注意が必要だと指摘している。ただ、どちらのがんも、対象年齢の乳幼児が数百人だとすると、事故後でも患者数は1人に満たず、実際に患者の増加が確認される可能性は低い。
2013年3月1日08時25分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20130228-OYT1T01268.htm

 そうですかぁ…
 昨日2月28日は、フクシマの子どもたちの集団児童疎開も必要なのではないのか、とヤッホー君は指摘したつもりでおりましたが、あのときと同様、「タダチ派」が多そうですね、この国には。
 「なんか変な空気」(NHK)的な気分が、花粉症に負けないくらいの勢いでこの国を席捲しはじめ、この国のトップから「原発再稼動」の方向性に空気が動き、流れ、舞いはじめていますもん。
 そしてどの大手新聞紙を読んでも、なんでどれもこれも、似たり寄ったりになっちゃうのか、フシギでなりません。
 しかし、例の「朝チェッ」でヤッホー君、びっくりしました:

People living in areas contaminated most by radioactive material released by the Fukushima Daiichi nuclear disaster two years ago in Japan have a higher risk of developing cancer over their lifetime, the World Health Organisation (WHO) has said.

The UN agency released a 200-page report on Thursday saying it "estimates that the lifetime risk for some cancers may be somewhat elevated above base-line rates in certain age and sex groups that were in the areas most affected".

A 9.0 magnitude earthquake and tsunami on March 11, 2011, killed nearly 19,000 people and devastated the Daiichi nuclear plant, triggering meltdowns and spewing radiation. At least 160,000 people were forced to flee their homes.

"A breakdown of data, based on age, gender and proximity to the plant, does show a higher cancer risk for those located in the most contaminated parts," Maria Neira, WHO director for public health and environment, said in a statement.

In the most contaminated area, the WHO estimated that there was a 70 percent higher risk of females exposed as infants developing thyroid cancer over their lifetime.

The thyroid is the most exposed organ as radioactive iodine concentrates there and children are deemed especially vulnerable.

The report concluded that for the general population inside Japan, the predicted health risks were low, but that one-third of emergency workers were estimated to have increased risk.

But there was no discernible increase in health risks expected outside Japan, the WHO said in the report, which was based on a comprehensive assessment by international experts.
http://www.aljazeera.com/news/asia-pacific/2013/02/20132289351540562.html

 これはアルジャジーラ紙です。
 ヤッホー君のこのブログで日記をお読みになってくださっていつ皆さま、ぜひ上↑のURLをクリックしていただいて、写真をご覧になってくださいね。
 ロイター通信もほとんど同じ内容(と言っても英国紙からのリンクになります):
Neira said: "The WHO report underlines the need for long-term health monitoring of those who are at high risk, along with the provision of necessary medical follow-up and support services."

Fukushima operator Tokyo Electric Power Co (Tepco) earlier this month received approval for 697bn yen ($7.5bn) from the Japanese government to compensate those harmed by the disaster, taking the total fund to 3.24tn yen.
http://www.guardian.co.uk/environment/2013/feb/28/cancer-risk-fukushima-who

 ロイター通信ではビデオニュースを流しております(と言ってもカナダ紙からのリンクになります):

Fukushima mothers skeptical of report on cancer risks Add to ...

Reuters

Last updated Thursday, Feb. 28 2013, 2:41 PM EST

A new report says the risk of cancer is low at a Japanese nuclear site damaged in the earthquake and tsunami two years ago, but local mothers still have serious concerns
http://www.theglobeandmail.com/news/news-video/video-fukushima-mothers-skeptical-of-report-on-cancer-risks/article9154132/

 もうすこし日本のメディアはていねいに報道すべきなんでは、と思います。
 「安全だぁ〜」と宣告、宣言、判断するのは、新聞記者でなく専門家に任せ、記者は、5W1Hで、もっと正確、いつ誰がどのように語ったのかを、ていねいに報道すべきなんでは、と思います(すみません、無知蒙昧なもので、心配ないよ、と言われると、かえってびっくりするんですぅ)。

posted by fom_club at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする