2012年11月30日

一冨士ニ鷹三茄子

 ところで伊豆修善寺行きは、冨士山の撮影会とのことでしたが、うまく撮れたのかな…

 これがまあ、見事、見事でうっとりしました。
 さすがヤッホー君の愛用カメラ(オリンパス製コンパクトデジタルカメラSP-550UZ、2007年発売)です。
 うまく収まりましたね。
 お見事、オリンパスくん!

冨士第1景.jpg

 これは、宿泊先の「ラフォーレ修善寺」(伊豆市大平1529 Tel 0558-72-3311)から。

 前夜は、満月でございました。
 広い構内を走る循環バスで、ホテル棟の温泉スパからセンターハウス別館の温泉場「森の湯」まで湯浴みに行ける、と聞きまして前夜、さっそく出かけたのでございます。
 その折り車窓から、なんと、なんと夜の漆黒の闇に、白くぽっかりと浮きあがる冨士のお山を見たときはびっくりしましたって。
 こんな幻想的な冨士山を見たのは、生まれてはじめて、とヤッホー君は口をぽっかり開けたまんま、目が点に。
 冨士の高嶺は、身にまとった白雪の袖に望の月を包(くる)んで、そっと暖っためていたような。
 
 案の定、翌朝は清く澄んだ空気に裾野まで広げて、綺麗なお姿を現してくださり、ホテルの方も、とても珍しいです、滅多にない風景ですよっておっしゃっておられました。

冨士2景.jpg

 ホテルの玄関から。
 前夜、循環バスに乗り降りするときには、この植え込みがイリュミネーションの電球でライトアップされ、それはそれで趣きがありました。
 その灯もすっかり消えた早朝のこと、ぴんと張りつめた美空に、お富士さまがお見えになってにっこにこ、微笑んでくれています。
 ヤッホー君は欠食児童ですので、ビュッフェスタイルの朝食に目が点に。
 トースト、お粥、穀物フレーク…(まだまだ続きます…)、お腹いっぱいにいただき、にっこにこ。

冨士3景.jpg

 午後、沼津港は「びゅうお」(大型展望水門)近く、沼津魚市場内「寿司海鮮うお亭」(Tel 055-954-1788)で、お寿司をお腹いっぱい食べた後、展望デッキにでてからも、お冨士さまは相変わらず美しい姿を見せてくれておりました。
 写真は展望デッキから。
 勝田香月や本居長世の記念碑のある「港口公園」の松林の上にたたずむお富士さまです。
 冨士の手前の山は、愛鷹山です。
 「びゅうお」には、「一富士(いちふじ)、二鷹(にたか)、三茄子(さんなすび)」の由来を、「徳川家縁の地である駿河国での高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段」と説明書きがありましたよ!

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2012年11月29日

南想会

『きょう11月29日の読売新聞が、28日都内で開かれたシンポジウムにおける長島昭久防衛副大臣の発言について報道をしている。民主党の3年余の日米関係を振り返ったという。

 その記事の中であまりにも重要な長島防衛副大臣の発言が掲載されていたので、その部分をそのまま引用してみる。
 「…鳩山首相の≪米軍普天間基地飛行場を沖縄県外、国外に≫という発言よりも、≪東アジア共同体≫構想でのつまずきが大きかった…当時、岡田外相が<構想には米国を含まない>とご丁寧に説明してしまい、鳩山首相の個人的見解ではなく、政権全体の目標になってしまった…」
 …米国抜きのアジアの協力が進むことに米国がいかに強く警戒しているかを1990年代初頭のマレーシアのマハティール首相の提唱した東アジア経済共同体構想の時に私は体験している…』

(2012年11月29日 天木直人「米国の本音を漏らした長島昭久防衛副大臣」)
http://www.amakiblog.com/archives/2012/11/29/#002450

 これは、当時マレーシア滞在中だったヤッホー君も同じような印象をもったことを思い出しています。今秋のオバマ、クリントンの相次ぐ東南アジア訪問の意図を日本の外交の欠陥とあわせて分析してくださる論客もすぐ現れてくれるとは思います。

 ところで南の島から帰って風邪気味のヤッホー君、昨日28日、今日29日と、紅葉狩りを兼ねた賀状用冨士山撮影会に参加し、伊豆・修善寺を旅してきました。

 なんといっても印象に残ったのは、「南想会」のパゴダを指月殿と鎌倉二代将軍源頼家(23歳で入浴中に暗殺されたそうな)の墓との間に見つけたときでした。

 人が人を殺すようなことはゼッタイしてはならない、という祖父の教えを頑なに守っている反戦平和シュギ者のヤッホー君、今日は深く犠牲者に頭を下げて、黙祷してまいりましたのでご報告:

PB290069.jpg

『「南想会」は、旧陸軍により1931(昭和16)年9月に名古屋で編成された独立自動車第45大隊の戦友会です。
 第二次世界大戦勃発と同時に、ジャワ・スマトラ・ビルマ(ミャンマー)に赴き、インパール作戦では、2000m級の山地で、連合軍の空爆をかいくぐってのトラック物資輸送業務を担っていました。
 終戦より一年遅れて、1946(昭和21)年7月21日に広島・大竹港に上陸・復員し、それぞれの故郷に帰還する際に再会を約束、5年後の1951(昭和26)年7月21日に伊豆修善寺の仲田屋旅館で第一回南想会を開催し、今年で59回目です。
 大学を繰り上げ卒業し、1932(昭和17)年2月に鯖江連隊に入隊、翌1933(昭和18)年8月にスマトラに転属になった父は、インパール作戦での筆舌に耐え難い辛苦の中から生還し、遺骨収拾のため数次ビルマにも渡り、できる限り出席して来ましたが、心臓と腰を痛め3年前から欠席しています。
 三連休後の7月21日・22日という日程もあり、昨年は断ったのですが、88歳の父のたっての願いを無視できず、代わりに出席すると決めました』


宴会で隣席の安間さんは、お父さんに会ったことが無いと笑って話して下さいました。
 つい「私の父は、運良く帰って来ました」と言いますと、
 「それは違います。私も運が悪いと思ったことはありません。縁があって帰って来られたのです」
と言われました。とても素晴らしい言葉です。忘れないようにしようと思います。
 「幸せは、人の心の持ち方にある」のですね。

 独立自動車第45大隊は、主に静岡、愛知、岐阜、東京から編成されました。
 実は、豊橋、浜松の方もすごく多いのです。
 唯一人三重県出身の父が転属して、豊橋の方と運命を共にしたのも、ご縁があったからです。
 終戦後、豊橋の戦友のお宅に泊まらせて戴いて、豊橋の紡績会社様から「ガラ紡」を教えて戴いたのもご縁でした。
 東京育ちの私が、豊橋に根をおろして会社を経営させて戴いているのですから、豊橋とは余程のご縁があったのだと思います

(ゆりこの七転び八起き日記2009年07月24日付け「南想会(戦友会)その1、2009年07月30日付け「その2」)
http://hinode-net.com/weblog/index.php?blogid=1&archive=2009-07

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2012年11月27日

西条八十

 初音ミク歌うカナリアです:
http://www.youtube.com/watch?v=hDC87Ll7nes&feature=related

 今日も寒い一日でした。南国から帰ったばかりの小さくって骨と皮ばかりになったヤッホー君にはこの寒さがこたえます。そしてこの歌もこたえました!

1918(大正7)年に「赤い鳥」に発表された西条八十の「かなりや」の二番の歌詞は次のようです。

  唄を忘れた金糸雀は、
  背戸の小藪に埋けましょか
  いえ、いえ、それはなりませぬ

 唄を忘れたかなりやとは、詩人としての希望を失いかけていた八十自身のことでした。
 翌年この詩に成田為三による曲が付けられたとき、「背戸の小藪に埋けましょか」の箇所が、「背戸の小藪に埋めましょか」に替えられていました。
 さらに同じ年に出た詩集「砂金」では「いえ、いえ、それは」の箇所が、「いえ、いえ、それも」にかわっていました。
 詩人はそれほどことばづかいに敏感です。
 現在この曲の演奏を聴くと、歌手によって採用した歌詞が異なっています。
 たぶん大正期の半ばには、「埋ける」ということばは、多少古臭い表現になっていたのでしょう。
 私の少年時代、明治生まれだった父は、「十姉妹が死んだのなら、庭の隅に埋けてやれ」という言いかたをしました。
 決して「埋めてやれ」ではありませんでした。
 この二つの表現はどこが違うでしょう。
 「埋ける」を「広辞苑」などの辞書で引くと、「生かす。死ぬはずのものの命を保たせる」が原義で、日本では約千年前から使っていたことばだとわかります。
 「炭を埋ける」のも、「芋や栗を埋ける」のも、「花をいける」のも、「魚の生け簀」も、同じことばから出ています。
 だから「埋ける」のは対象への愛情が底にあるわけで、「埋める」のと同じではありませんでした。
 皆さんは「埋ける」ということばを使いますか。
 方言の中ではまだ生きているでしょうか。
 文豪幸田露伴の孫、作家幸田文の娘である青木玉さんの随筆に、「火鉢の炭は、夕ご飯の始まる前に、佐倉の切り炭を埋け直して灰でしっかり囲う」ありました。
 なつかしい響きです。
 「埋ける」ということばが滅びれば、「埋ける」ということばに表れた心もちも滅びます。
 ことば一つ、と言わないで、自分のことばの生活を見つめ直してみてください。
 そうして人は大人になってゆくのだと、私は思っています

(広島大学附属図書館長 位藤邦生「ことばを磨いて大人になろう!」、広大フォーラム 2000.3.15 No.357 所収)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/31-6/ito.html

 ね、良い言葉と今日11月27日火曜日と出会ったヤッホー君、これで昨日はあくびばかりで電気も点けたまま寝入っていたようですが、幾分か気持ちが盛り返してきたそうです。

 「生かす。死ぬはずのものの命を保たせる」です、ね。

 そう、これは西条八十先生の詩だったのです:

『 母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
  ええ、夏 碓井から霧積へ行くみちで、
  渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ。

 この一節は、小説「人間の証明」の作中で使われた 西条八十の「ぼくの帽子」という詩です。
 たぶん、皆さんもどこかで聞かれた事があるんじゃないでしょうか?

 西条八十は1892(明治25)年、東京牛込に生まれました…』

(異能の作家、西条八十)
http://www.pleasuremind.jp/SAKKA/SAKKA005.html

 山歩クラブのこのブログ、2011年09月04日付け日記「霧積温泉」で西条八十は登場していましたので、ぜひ再読をお願いします。
 そうなんです、この「ぼくの帽子」は、その日記でも紹介済みなのですが、もう一度、名画に御礼をしながらジョウ中山の歌を聴いてみましょう!

(人間の証明テーマ曲 ジョー山中)
http://www.youtube.com/watch?v=j8uklD3_ywA

西条八十の年譜についてはこちらをご参照ください:

 「国立国会図書館国際子ども図書館」
西条八十は、北原白秋、野口雨情と並び称される童謡詩人としても知られている。
 日本のわらべうたを基調にした白秋、素朴な民謡の調子を生かした雨情に対して、八十の童謡が際立っているのは、これまでにない豊かなファンタジーであった。
 子どものための詩を作るにあたって、八十は
 「…ぼくは考えた。芸術品である以上、そこには作者の真の感動がこもっていなければならない。そうしてその詩の姿は子供にもわかり悦ばれるものでなければならない。ぼくは二重に裏うちされた絵を考えた。フランスの象徴詩の手法を想った」
と、「赤い鳥」に書くことを鈴木三重吉から依頼された当時を回想している

http://www.kodomo.go.jp/gallery/KODOMO_WEB/authors/saijo_j.html

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2012年11月26日

唄をわすれたカナリア

るんるん唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
後の山に棄てましよか
いえいえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は
背戸の小藪に埋(い)けましょか
いえいえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は
柳の鞭でぶちましよか
いえいえ それはかわいそう
るんるん

 ヤッホー君、唄をもう一度聞きまして、あぁ、なんとむごい、かわいそう、いじめだ、動物虐待だ、これが童謡か…とあらためて目が点になったのでございます。

 どなたがいつごろ作ったんだろう、どんな背景があったんだろうと、これは調べなくては、と思いましたが、思っただけで、前に少しもすすみません。

 諸事、私事が押し寄せてきて、かつマレーシアとの気温の違いで風邪気味なのか、こころ重くあたまも冴えず、疲れのピークのなかに漂っているようでございました。

 そんななかでも、山歩クラブの会員向けニューズレター「かわらばん」12月号をだすことができました!

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2012年11月25日

北のカナリアたち

Q:山登りもお好きだとか?

A: 昔は山に登っていたんですけど、今は上るのがきつくなって、下り専門のスキーになりました(笑)。

Q:スキーも山でするものですね。

A: そうです、そうです、山が好きなんです。東京で生まれ育っているので、自然に触れる機会というのがとても貴重に思えて。体を整えるという意味では、日々ストレッチをしたり、腹筋背筋をしたり、水泳をしたりしていますね。


 どうしたんですか?急に。いえ、実は、ね。映画を観に行っていました。「プランタン銀座」隣にある「丸の内TOEI」(中央区銀座3-2-17 Tel 3535-4741)。

121125_1530~01.JPG

『カッシーが次月12月の山行歩程表を作成、添付して送信してくれたおかげで、今日は映画「北のカナリアたち」を観て感動していま帰ったところです、やっぱりサユリストだったのかな、でも山と同じ、映画もいいですね。奥様といっしょに見にいくのをおすすめ!
 この「北のカナリアたち」は利尻冨士1721mがシンボル的存在で画面に何度も登場しますが、花はニッコウキスゲと似たカンゾウと思います!
 これもカッシー、山歩クラブの北海道の仲間を大事にしてあげて、山歩クラブで2013年度はぜひ実施してくださいね、ぼくは多分、南志向でマレーシア、キナバル山にして、北にはあまり食指を伸ばさないないようにします。
 登り(海抜ゼロメートルから上ります)ヘッドランプで登りはじめて、往復9時間くらいの行程らしいです。宿泊先はどこがいいのか、美味しい地場産のお魚やイカ、貝とか何でも地元の方である仲間によく相談して聞いて、募ってみてくださいね。あんだけ苦労して登っても、ガスで何にも見えないこともある、って登った山の友も言っていましたので、最適時期も良く聞いてね…』


 「北のカナリアたち」…ふ〜ん、だから、さ、そのQ&Aとは、どういう関係にあるわけ?もしかしてサユリストって吉永小百合(1945年3月13日生まれ、67歳)主演の映画ってこと?
 で、その吉永小百合も山が好きだったんだよ、と言いたいんでしょ。
 そう〜そう、出演者はモンベルのウエアを身につけていましたよ。

『吉永小百合の最新主演作「北のカナリアたち」が完成した。
 湊かなえの「往復書簡」を原案に、「劔岳 点の記」で監督業に進出した木村大作が撮影、「大鹿村騒動記」の阪本順治が監督した衝撃の人間ドラマ。
 吉永が演じるのは、北海道の離島で小学校教師をしていた川島はる。
 合唱を通じて子どもたちの心を明るく照らしたはる先生は、なぜ教師の職を追われたのか?…』


Q:今回の役は離島の教師という意味で、ご自身が「バイブル」とおっしゃる映画「二十四の瞳」(1954年公開)と共通します。どこかで意識する部分、教師を演じる喜びを感じることはありましたか?

A: それはとてもありました。「二十四の瞳」は小学生のときに観たのですが、高峰秀子さんが演じる大石先生を見て、あんな先生がいたらいいなって。映画には大石先生の人生も描かれていて、とても感動したんです。
 この映画も、6人の教え子たちと、子ども時代を合わせるとちょうど“二十四の瞳”ですね(笑)。


Q:森山未來さん以下、満島ひかりさん、勝地涼さん、宮崎あおいさん、小池栄子さん、松田龍平さんと、6人の教え子も豪華キャストでしたね?

A: 事前に皆さんの作品を観ていましたが、それぞれに主役をやっていらっしゃる方たちで。最初は出演していただけるのかなと思っていましたが、皆さん一緒に仕事するのを楽しみにしてくださったようです。
 実際にお芝居をして、刺激を受ける場面も大いにありました。
 説明するための長いセリフもキチンと頭に入っているし、役柄の思いもしっかりと胸の中に持っていらした。
 わたしはそれを引き出すというか、聞いていく役でしたから、心配なくその場にいることができました。

(取材・文:浅見祥子、2012年11月2日掲載シネマトゥデイ「吉永小百合への単独インタヴュウ」)
http://www.cinematoday.jp/page/A0003449

 東映創立60周年記念作品として製作された『北のカナリアたち』の公式サイトは下↓を参照ください。そしてぜひ映画館に足を運んで観てきてください。
http://www.kitanocanaria.jp/
 
 そしてなんと稚内市でも市あげて応援しています:

稚内市の友好都市となっている沖縄県石垣市。
 毎年行われている職員の相互交流をはじめ、両市で開催されるイベント等への地元(両市)からの出店など、その交流を深めてきたところでありますが、この度、友好都市提携25周年を迎え、稚内市ではこれを記念して、≪映画「北のカナリアたち」上映会一式≫を贈呈しました。
 石垣市での上映会は12月5日(水)に予定されており、映画「北のカナリアたち」を通じて、北の大地の自然の美しさや厳しさを石垣市民の皆様にお届けし、友好都市である稚内市をはじめ、ロケ地となった利尻・礼文・サロベツの魅力を知って頂ければと思います。
 また、友好都市締結25周年を記念して、主演の吉永小百合さんから両市民の皆様に宛てたメッセージも届けられており、稚内市民の皆様に贈られたメッセージは、市役所庁舎1階ロビーに掲示していますので、市役所にお越しの際は、是非、ご覧ください

(稚内観光情報、稚内ロケ地情報、映画「北のカナリアたち」)
http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/loca/kitanocanaria.html

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2012年11月24日

隠されたウラルの核惨事

 東京駅の開業が1914年、第一次世界大戦勃発の時です。
 旧KL駅が開業するのが1909年、もっと古いということになりますね(あの忌まわしい大逆事件、それに日韓併合条約が調印された年でもあります)。
 そしてこの年にイギリス領、すなわちマレーシアの植民地化が完成します。

Johor accepted a treaty of protection with the United Kingdom in 1885, and eventually succumbed to British pressure to accept a resident "Advisor" in 1904. Unlike the other Malay states under British protection, however, Johor remained outside of the Federated Malay States (formed in 1895).

Under the Bangkok Treaty of 1909, Siam transferred its rights over some of the northern Malay states (Kelantan, Terengganu, Kedah, and Perlis) to the United Kingdom.

(Unfederated Malay States)
http://en.wikipedia.org/wiki/Unfederated_Malay_States

 ではいつ独立国となるのか、と言いますと、1957年。いまからもう、55年も前のことになります。

 この年になにがあったかというと、ウラルの惨事という原子炉の爆発事故がありました!(東海村に原子の火が灯ったとうかれ騒ぎをしたのもこの年!)。

 その1957年の事故のリポートが中国新聞に記事となって読めますので、削除される前にプリントアウトして保存しておきましょう:

1957年のマヤーク核施設で起きたタンク爆発事故は、86年のチェルノブイリ原発事故が発生するまで、旧ソ連で最大の放射能汚染事故だった。が、ソ連ではすべてが秘密にされた。

 核開発でソ連をリードする米国の中央情報局(CIA)は、59年にこの事故を知った。しかし、57年に英国ウィンズケール(現セラフィールド)で起きた軍事用原子炉の大事故や米国内の核工場での事故などもあり、「自国の核開発の足かせになっては」と、米政府も秘密を保った。

 「ウラルの核惨事」「キシュティムの事故」として世界に知られるようになったのは76年。英国に亡命したソ連の生物学者ジョレス・メドベージェフ博士が、科学雑誌に暴露したのがきっかけである。ソ連政府は89年、ペレストロイカが進む中で、ようやく正式に事故を認めた。

 事故では従業員や住民被害のほかに、マヤーク敷地内の除染作業などに従事した、全国各地から招集の兵士20000人以上も被曝した

(中国新聞 21世紀核時代 負の遺産「隠されたウラルの核惨事」)
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/nuclear_age/former_soviet/010930.html

 とにかくこの「旧KL中央駅」、ヤッホー君の想像力を大分刺激したようなんです。
 誰が設計したのかな、どうしてこのような様式にしたのかな、なぜ鉄道建設と植民地化の完成とがリンクするのかな、もちろん、駅舎の前の板書には、日本語による説明文までもありました。
 しかし書かれた内容から、見えない風景、背景、情景にまでどんどん、想いが膨らんでいくのです。
 当時の政治、経済、文化、社会の領域にまで、国際的には隣国、とりわけインドの英国による植民地経営まで(第一次世界大戦には、インド人兵士までもが狩り出されていました!)。そしてさらに、ちら、ちらっとある国の島に居座り、「思いやり予算」で厚遇されている外国軍の基地問題までもがフラッシュバックされてきます。
 次回、またKLを訪問し、ゆっくりカメラ片手にウオーキングしたときにでも、また考えることを持続させることにして、とりあえず今晩は備忘録といたします…

 そしてペナンから本土にフェリーでわたってバタワースから首都に列車の旅にして出張し、この駅に附属していたホテルに宿をとっていた、というはっちゃんの亡父(76歳で亡くなった、と)のことも偲びつつ擱筆いたします:
 
IN Kuala Lumpur, Jalan Sultan Hishamuddin is poised for a revival when the restoration of the Hotel Majestic property, including a new 15-storey annexe, is completed by YTL Corporation Bhd by December…

Other iconic buildings on this road is undoubtedly the old Kuala Lumpur Railway Station designed by Arthur Benison Hubback, a British architectural assistant to the director of the then Public Works Department. Completed in 1910 at the cost of 23,000 Malayan dollars, it was the hub of the Federal capital. Train services brought travellers from all over the peninsula and facilitating the transportation of commodities such as tin and rubber for export via Port Swettenham in Klang.

(Friday August 17, 2012, A Majestic revival, By JOHNNI WONG)
http://thestar.com.my/metro/story.asp?file=/2012/8/17/metrobiz/11865335&sec=metrobiz

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2012年11月23日

旧KL中央駅

 昨日の日記について、はっちゃんからも確認がとれました。
 あの駅は「KL中央駅」ではなく「旧KL中央駅」なんですって。
 どういうこと?

地元の人々には「KL(ケーエル)」の愛称で親しまれる首都・クアラルンプール。
 「泥川の交わるところ」という意味のマレー語を語源に持ち、1800年代に錫鉱山の発見と共に発展しました。
 旧中央駅を中心に広がる美しいムーア建築とペトロナスツインタワーをはじめとする近代建築と自然が見事に調和された美しい都市です。
 市内は交通機関が充実しており、主な観光スポットへは公共交通でアクセスが可能です。
 またバラエティ豊かなグルメは多民族国家を象徴しています…
 クアラルンプール駅(旧中央駅)周辺は錫で栄えた当時の面影が残るオールドタウン。白亜の宮殿のようなクアラルンプール駅を中心に、美しいムーア様式の建築物が広がり、まるでタイムスリップしたよう…
 2001年にKLセントラル駅がオープンするまで、鉄道の玄関口として使用されていました

(進化し続ける近代都市・クアラルンプール)
http://www.tourismmalaysia.or.jp/region/kal/index.html

 KLセントラル駅はクアラルンプールの交通の総合ターミナルとして2001年開業しています。
 総合ターミナルの謂われは、ここに、マレー鉄道(Keretapi Melayu、KTM)、LRT、KLモノレール、ERL(KLIA Ekspresとも)が乗り入れているからです。

 まるで空港のターミナルビルのようなガラスと鉄骨による現代建築となっているそうですが、それもそのはず、設計に携わったのは、マレーシアの空の玄関口・クアラルンプール国際空港(KLIA、竣工1998年)と同じく故黒川紀章氏なのです。
 クアラルンプールの南50kmに位置するこの空港 KLIA は、「森の中の空港 Airport in the forest, Forest in the airport」のテーマで、ヤッホー君の好きな空港です。
 
 あの19日月曜日のハプニングは従いまして、100年以上も前に建てられた「旧KL中央駅」だったのですね。
 100年前と言いますと、それは、イギリスによるマレーシア植民地化とも絡んでいました:

1840年、北ボルネオのサラワク州で、英国人ジェームス・ブルックがブルネイのサルタンからラジャに任命され、1906年にサバ州が英国領になった。1909年、北部3州の宗主権をジャムが英国に割譲、この年バターワース〜ジョホール間の鉄道も開通し、英国のマレーシア支配は完成した
(静岡県立大学経営情報学部経営情報学科THOR HONG WOOI(KEVIN THOR)のマレーシア・ホームページ)
http://suken.u-shizuoka-ken.ac.jp/~kevin/history.html

 今度の旅ではどこでもタウンウオークする機会がありませんでしたが、いつか歩いて見たいKLです!

 では、では、あのオリエンタル急行は?
 これはマレー鉄道(KTM)ではありませんでした。シンガポールとバンコクを結ぶ北行、南行、この「マレー半島縦断列車の旅」とは良く言われますが、ヤッホー君にはちょっと手がでない切符ですねええ:

イースタン&オリエンタル・エクスプレスにご乗車いただいた瞬間から、微笑みを絶やさぬ、心のこもったサービスにリラックスしていただけることでしょう。
 全長約400メートル、緑とクリーム色に輝く車輌には冷房が完備され、熟練した職人による丁寧な細工が特徴の贅をつくした空間は、豪華列車の旅の黄金時代を彷彿とさせます

(車内での過ごし方)
http://www.orient-express.com/web/eoe/japanese-train-eastern-oriental-express.jsp?pageNo=2

 JRはマレー鉄道(KTM)にブルートレインを寄贈しています。
 マレー鉄道(KTM)は今年の2月から Malayan Tiger Train として運行しています。つまり線路は日本と同じ(というか英国式)狭軌でした。でも新規購入する車両は、なんと韓国製でした。
 それとブルートレインに乗って、乗り換えなしで、シンガポール〜マレーシア〜タイと走ることはできないようです。
 乗り換え無しの直通列車はイースタン&オリエンタル・エクスプレスE&Oエクスプレスしかないようで。
http://www.big.or.jp/~aochan/travel/ktmtrain/malayrail.html 

※ KLの名称の由来については、以下の論考の注記に詳しい:
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no93_02.pdf

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2012年11月22日

五毛錢

 ヤッホー君、さっそく台湾からコメントをいただいております:

『Dear Shuei,
 Great to hear from you.
 It's been a long day, monthly board meeting.
 I guess it's TsuChi, the Buddhist conglomerate.
 I have been quite skeptical about religious conformity.
 How is Jah doing without her beloved mother? And you?』

 そうか… 昨日11月21日水曜日、ペナン空港でであったのは Taiwan Buddhist Tzu Chi Foundation Malaysia のご一行さまだったのですね。

 Skeptical about religious conformity…、なるほどね、肯んじておりましたね。
 実はこんなこともあったからなのです。19日月曜日の日記でも言いましたように、ヤッホー君はKL中央駅前で、夜の8時発ペナン行きバスを待っていたのでした。
 そのときに、シリア人と言って4人組、といいますか、3人組、といいますか、ご一行様が近づいてきました。
 父母、そして叔父さん、それに実は後で気づいたのですが、女の子もいましたので、正確には4人です。
 こんな呼びかけがありました。アラビア語でした。

『シリアの犠牲者です。安全なマレーシアの病院に行って、マレーシア人の上手なお医者さんに手術してもらおうとマレーシアにやってきました。どうかこの子の命を助けてください』

 はっちゃんは、もう一人のマレー人のお爺さんと、断りました。

『あなたがたは見知らぬ人の小額のカンパをあてにするのではなく、大使館とか人権団体とかしかるべきところに行って訴えるべきです。
 ましてや飛行機代はどうしたのですか、滞在費はどうするのですか。どうやって帰国するのですか』

 この4人のアラビア人は、担いでいた女の子の上着をはいで、背中をみせるのです。
 腰のあたりに大きな絆創膏が二つも貼ってあって、絆創膏は血で染まっています。この女の子はとてもとても、生気のある顔をしていませんでした。

 はっちゃんは、もう一人のマレー人のお爺さんと No! No! と叫び続けていました。叫び続けるしかなかったようです…もうやだ〜(悲しい顔)

 そこにサリーを着ていたインド系のご婦人が、20リンギッド紙幣を手に包んで、母親らしき人にあげていました。
 Donation です。Charity です。善財です。
 ヤッホー君がいつも新聞スタンドで購入する The Star 紙は、平日は1リンギッド20セント、土日が1リンギッド50セントですので、日本円でいくらのカンパをしたかが分かりますよね。

 しかし、こうした庶民の懐からの「おひねり」で、どう問題の根本解決に結びつくのか、あげたくともあげるものがそもそもない貧民のヤッホー君には、解く術も分からないで、ただおろおろしているばかりなのです。

(CNN) トルコ政府は21日、隣国のシリア内戦に関連し、加盟する北大西洋条約機構(NATO)に対し国境周辺の防衛強化を図るため地対空ミサイルシステム「パトリオット」の配備を要請したとの声明を発表した。
http://www.cnn.co.jp/world/35024775.html

(CNN) シリアの内戦による死者が4万人に迫っている。反体制派はアサド政権の転覆を目指す統一組織を結成したが、ロシア外務省は15日、米国などが同組織支持を打ち出したことを強く非難した。
 シリアの犠牲者数を記録している反体制派の団体によると、内戦状態に陥ってからの1年8カ月で、死者は3万7387人に上った。このうち激戦地となったホムスでの死者が6992人を占め、首都ダマスカス周辺では6750人が死亡している。犠牲者の中には、同団体が最近になって統計を取り始めた政府軍の兵士3061人も含まれる。
http://www.cnn.co.jp/world/35024521.html

(CNN) イスラエルとパレスチナのガザ地区を支配するイスラム組織ハマスの間で21日、停戦が成立した。14日から8日間に及んだ戦闘の犠牲者は、150人に迫っていた。
http://www.cnn.co.jp/world/35024742.html

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2012年11月21日

Hong Kong AP

I am now in a BIG airport again to transfer the airplane round to NARITA, Japan. It's cloudy here. The seats of CX from Penang were occupied by one hundred of Chinese Malay who will visit Taiwan to attend the 8 days Seminar on Buddhism. They are wearing the same uniform. Here in ASEAN countries the peoples have the linkage among them naturally to confirm the feeling of boundage beyond the national border or skin colour and to strengthen the same VALUE each other. Now I will leave the seat of Free Internet Service for the sake of other users to wait and want to use. Bye for now! See you soon again!!
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2012年11月19日

KL, Malaysia

Now I am using the computer service in KL railway station and waiting the 20:00 bus round to Penang. I came here to have the meeting with a young but gentle diretor who graduated Ritsumeikan University, Kyoto in the MITI(Ministry of Trade and Industry). I will report you later on. Bye for now.
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2012年11月16日

Penang, Malaysia

Today is also very busy for shopping, cleaning the garden and settling the matters in the city for the ceremony for Hacchan"s mother who passed away at the age of 94 years old 7 weeks ago and the ceremony will be done on coming Sunday. All family members will come to join the family gathering. In addition to the family, 50 peoples will come to greet us. The weather here is good or too hot, sweaty for me. However the food in Penang including the watermelon is delicious. I will update the blog ifI have the opportunity to do so.
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2012年11月14日

Hong Kong Airport

Now Yahho kun is in a big, big airport, Hong Kong Airport to transfer his next flight to Penang, Malaysia. His airplane has been flying over the top of Mt Fuji after Skytree, Tokyo Tower, Gate Bridge and Rainbow Bridge, Tokyo Bay, even on the Kiyosubashi Bridge and his challet! This internet ccess service is only for 15 minutes so please wait his further message. Bye for now and Ciao. Anyway here it's fine and sunny.
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成田空港

これより香港経由ペナンに飛びます。はっちゃんの母の葬儀のためです。飛行機はキャセイパシフィックですので、空港第二ターミナルです。朝一番の京成電車で各駅停車にのり、電車の中でバクスイ。空港は快晴です。これよりゲートに向かいます。香港にも無料のインターネットへのアクセスなサービスがあるのかな、なければ当分、ブログの更新はお休みにさせていただきます、行ってきま〜す!
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2012年11月13日

マサ化

 まさかのマサ化…

 日向山は奇岩怪石の岩峰群で魅了される燕岳2763mと同じくらいにびっくりする山頂の雁が原をもちます。

真砂化.jpg

 これは、と言いますと…

甲斐駒ヶ岳のふもと、山梨県白州町に尾白川(おじらがわ)渓谷というところがあります。
 ここは地質が花崗岩であることが特徴で、その風化の仕方や出来た土壌が、他の地質の所と違います。
 植物なんかにも違いがあるのではないかとほのかに期待しつつ、花崗岩そのもの、風化や土壌形成、渓畔の植物なんかを見ながら、気軽に散策してみましょう…
 河原の石が、真っ白なのが分かりますか?
 真っ白とかいうと専門家にしかられてしまいますが、これが花崗岩です…
 白い、といっても、石灰岩のように単調に白いのではなく、石英(珪素)で出来た白い部分に黒い雲母などが混じり、まだら模様を示します。
 墓石に使う、御影石(みかげいし)が、この花崗岩です。

 これが風化すると、何というか、独特の砂が出来ます。
 粒が大きく、さらさら、ちなみに、地名の白州(はくしゅう)も川に出来る州がこのような白い砂で出来ているところから来ているようですね。

 花崗岩をなす、石英、長石、雲母などの温度による膨張率の違いで、花崗岩は風化作用を受けやすく、また、一度風化が始まると、空気中の二酸化炭素を含んだ雨水がしみこみ、長石や雲母が変成し石英だけが残りやすいことなどで(兵庫県砂防課)、花崗岩は風化が進みやすい母岩と言えるようです。
 このような風化の仕方をマサ化、これでできた土をマサ土と呼ぶようです。

 マサ、とは、漢字で書くと「真砂」で、なるほど、という感じですね…

(甲斐駒ヶ岳のふもと尾白川渓谷)
http://science.shinshu-u.ac.jp/~shimano/0009_ojiragawa.html

 マサ化の上に八つが見えるのですが、ザンネン雲ん中!

八つは雲の中.jpg

 まさかのマサ化でした。花崗岩でした。ですから、水が美味しい!

『「サントリー天然水」第1のふるさと、山梨県北杜市白州町。
 南アルプス・甲斐駒ケ岳のふもと、雄峰を駆け下る清冽な水が白い砂の扇状地をつくり生まれた「白州」の地に、サントリー天然水白州工場は位置しています。
 西には甲斐駒ケ岳、北には八ヶ岳など、雄大な山々に囲まれ、清冽な水が流れる土地です。
 甲斐駒ケ岳をはじめとした、南アルプスの山々に降った雪や雨は、花崗岩層をくぐり抜け、長い年月をかけてゆっくりと地中にしみこんでいきます。
 花崗岩層が天然のろ過装置の役割を果たして、すっきりとしてキレがよい天然水へ磨かれていきます』

(サントリー天然水白州工場とは)
http://www.suntory.co.jp/factory/water/introduction/about.html

 もう少し降雨率も高く、現地での天気も崩れてきそうだったら、日向山の登山口である「矢立岩」に向かわずに、「竹宇駒ケ岳神社」へ向かい、尾白川渓谷を歩こうとしたのです。
 ところでこの真っ白さは、花崗岩によるもの、とお分かりいただけたことと思いますが、実は、こんなエピソードも:

皆さんは花崗岩という岩石知っていますか?
 そう墓石にもよく使われる御影石(みかげいし)ですね。
 この花崗岩、地下3kmより深い場所で、700℃前後のマグマが数十万年の時間をかけてゆっくりと冷えて固まった石です。
 マグマから大きな結晶が成長して、肉眼でも鉱物の粒が観察できます。
 1991年のことです。
 上高地の有名な観光スポット、ウェストン碑の埋め込まれている岩盤が、世界一若い花崗岩(滝谷岩体)であることを発見しました。
 それまでの世界記録は、オマラ岩体(パプアニューギニア)で210万年前。
 滝谷花崗岩は142万年前に地下3kmまで上昇したマグマからできたのです。
 若いといっても、140万年!
 何でそんなに古いのかと思いますよね。
 でも地盤の隆起は速くても年間数mmですから、3000m上昇した分が浸食作用で全て削り取られたとしても、100万年ほどかかる計算になります。
 地下の花崗岩が地表に露出するまで少なくとも最低数百万年はかかるというのが常識でしたから、僕自身も年代測定値をしばらく疑っていました。
 しかし若いことを示す証拠が続々と出てきました。中には花崗岩が500℃位の熱いうちに、先に説明した地殻変動を受けて変形した証拠もあります。
 そう、この世界一若い花崗岩は北アルプスが激しい隆起運動を起こした重要な証拠になったのです

(原山智 1963生まれ、信州大学理学部教授(地球物質科学講座)「上高地にあった花崗岩の世界記録」)
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/science/study/2011/12/45795.html

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2012年11月12日

雁が原

 山を登ると何故か、ビーチ!… カッシーがいみじくも言い当ててくれました、11月の定例お山歩会!

 そして、ヤッホーと叫べば、仲間からこだまが返ってくる、良いクラブですね、山歩クラブ!

『楽しかった!お疲れ様です!』

 ほかに言いようがないじゃあ、ありませんか! 

昨日は天候もよく、ラッキーな一日でしたね。リーダーは大変ですね。ムードメーカーとして車内を盛り上げなければならないし、出席者全員に気配りし、誰からも喜んでもらわなければならないし、それも無事終わりましたね。お疲れさまでした

 カッシーと、ヤッホー君!綿密に行程を研究していましたね、す・ば・ら・し・い・チームワーク。

昨日はありがとうこざいました。素晴らしい紅葉と、日向山の奇岩、白い砂に覆われた甲斐駒の下見、と盛りだくさんな一日でした。昨日はケイタイを忘れて、せっかく入れていただいたメールも受信できたか、少し心配してました。これからは、ケイタイを忘れないように気をつけま〜す。もう一度、ありがとうございました!

 はるちゃん教祖さま曰く、忘れたって、早朝に目覚めたって、「順調です!」
 そうなんです、順調に年を重ねていけば恐いものはありません!

 ところでぇ〜っと、山歩クラブは、山頂でどんな風景と出会ったのか? って…

 以下に三葉、ご紹介したいと思います:

(1) 山頂より甲斐駒を望む:

甲斐駒を望む.jpg

(2) 山頂から錦滝へと向かう冒険大好き山歩クラブの仲間(他のメンバーはもうおなかがすいて、すいて、雁が原ではや弁当を広げていました!)

マサ化の山頂.jpg

(3) 錦滝へとは下りずに、駒岩、大岩山への鞍部、その取り付きの岩場でバンザイ三唱!

マサ化の先.jpg
 
posted by fom_club at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月11日

日向山1660m

 今日は朝の10時から2時まで、たいへんお疲れさまでした。
 秋山、でも多分もうこれが最後のような、そんな肌寒さを山路で感じておりました。
 色づいた山肌もこれからは、風が吹くそのたびに、雨が降るその一雨ごとに木々は葉を一枚一枚、脱ぎおとして、木枯らし吹く冬に備えていくようでしたよね。
 深い眠りに入る前のような、そんな更け行く秋を、体温で感じ取って歩いておりましたね。
 
 山梨百名山。

日向山.jpg

 幸いにも今日11月11日、なんとか下山するまでお天気ももってくれまして、山歩クラブの最高の紅葉狩りができたと喜んでいます。
 お山歩会を終えてのあのミネラルいっぱいの温泉での湯浴み、地場産野菜の買出し、山梨ヌーボーのお土産と、いつもながらドライバーさんのおかげですが、今日もヤッホー!と叫ぶことができました。
 では次回までお元気に、おやすみなさい!

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2012年11月10日

高岩寺

 ここで一挙、ヤッホー君の写真を紹介。

(1) 近藤勇墓碑(JR埼京線「板橋」駅)

近藤勇墓碑.jpg

(2) 巣鴨の庚申塚(都電荒川線「庚申塚」駅)

巣鴨の庚申塚.jpg

(3) 高岩寺(とげぬき地蔵)

高岩寺.jpg

(4) 高岩寺の有名な「洗い観音様」

洗い観音様.jpg

(江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1657年)で、当寺の檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進しました。この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれました。これが「洗い観音」の起源です)
http://sugamo.or.jp/prayer_detail01.html

追伸:
 「とげぬき地蔵」の由来記にその名が登場した徳川家継…
 江戸時代の歴史の復習として特記しておきましょうね、だってヤッホー君、ムカシ怠けたので、イマになって、他国によって占領されたことのなかった日本及び日本人の歴史を紐解いているんですもん:

この人物は、徳川歴代将軍15人の中で、わずか4歳という最年少で将軍職に就いた人物だ。
 しかもたった7歳で霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と婚約もした。
 これにより江戸時代初めて、将軍家と天皇家の縁組が実現することになった。
 しかし家継は生来、病弱だったこともあり、風邪を悪化させ、わずか8歳で亡くなった。
 これにより、幕府としては期待の大きかった、八十宮吉子内親王の降嫁は実現しなかった。
 家継の生没年は1709(宝永6)〜1716(正徳6)年

http://rekishi-club.com/higeki/ietugu.html
 
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おばあちゃんの原宿

 ヤッホー君の旧中仙道てくてく歩きは、まだ続きます。
 千川上水分配堰の碑、猿田彦大神、さらに巣鴨へと向かいます。
 はい、でてきました。にぎやかな「巣鴨地蔵通商店街」。

お寺があり、露店があり、小さなお店が並ぶ巣鴨地蔵通りは、古き良き日本の風景と文化だけでなく、人の優しさもまた昔ながらの商人のおもてなしの心を大切にしています。
 昨今、東京都内で大型複合商業施設と言われるものが増え、奇麗で目新しく興味を惹く新しい施設に東京都内のみならず全国の方が繰り返し足を向けられていますが、巣鴨という街は、お客さまがおもてなしを受け、心を癒され、のんびりと気分も体も晴れやかになっていただける「歴史と文化を大切にした人に優しいまちづくり」をこころがけています

http://sugamo.or.jp/easy_method.html

 この地蔵って、江戸六地蔵のひとつ、眞性寺(真言宗豊山派の寺院)のお地蔵さまを指すとばっかり思っていましたが、イマは、高岩寺(曹洞宗の寺院)の「とげぬき地蔵」を指すようです。
 イマは、という意味はですね、江戸のムカシからあったようではないんだそうです。

地蔵通りに現在は地蔵通り商店街に隣接している高岩寺は存在していなかった。
 江戸時代の巣鴨は、中山道最初の宿場、板橋と日本橋の中間という立地で馬の乗り継ぎや旅人の休憩のための茶屋が並んでいた。
 当時、巣鴨の地蔵といえば真性寺のことであった。
 江戸時代の真性寺界隈は交通の要として賑わっていた。
 巣鴨は江戸の中期から商業や信仰の場となっていたのである。

 1891(明治24)年、上野にあった高岩寺が「東京市区改正計画(※)」により、巣鴨への移転を余儀なくされた。
 巣鴨に「とげぬき地蔵」が登場したのである。
 巣鴨へ移転されたことによって、高岩寺は古くからの檀家と切り離され、また、当時は中山道があったとはいえ、電車などは通っておらず交通の便は良くなかったため、著しい経営不振に陥った。
 そのため、高岩寺は毎月4のつく日を縁日の日と定めるなど経営努力し、徐々に参拝客を集めるようになった。
 この「4の市」は昔からの伝統として現在でも行われている。

(※) 1884(明治17)年、時の東京府知事芳川顕正によって発議された。
 ロンドンやパリをモデルとして、東京を近代国家の首都にふさわしい都市に改造しようという計画。 1889(明治22)年に事業開始し、1919(大正8)年、事業が完成した

(明治大学商学部では、毎年10月の初旬に提出する「奨学論文」というものがあります。若林幸男(昭和32年生まれ)ゼミでも企業研究の論文でこれに参加しています。これはこれまでの奨学論文に関する記録です。この文は2009年度第17期生によるものです)
http://www.isc.meiji.ac.jp/~w_zemi/syougaku.htm

 なぜこれほどに賑わうのでしょうか? しかもおばあちゃんたちで。
 ヤッホー君は、これまでのブログ「日記」でみてきましたようなこんなことがアタマを過ぎりました:
@ 大野秀敏先生の「名所」、つまりタダで過ごせる場所の磁場(ヤッホー君のこのブログ、10月8日付け日記「名所」ご参照)、さらに
A 大僧正 南光坊天海の「名所」、つまり庶民が自由に立ち入れる場所、庶民を楽しませる「名所」の磁場(ヤッホー君のこのブログ、10月11日付け日記「名所(などころ)ご参照)
B しかし先述の明治大学商学部若林ゼミ・リポートは、より具体的に商店街の戦略があったのではないか、と指摘なさっていますので以下、傾聴してみましょう:

1969(昭和44)年の西友巣鴨店のオープン、都営三田線の開通(1968(昭和43)年12月27日都営6号線として巣鴨〜志村(現・高島平駅)間10.4km開業)により高齢者重視の商店街へと方向転換を行なった。
 西友という大型スーパーの出現によって食料などの生活必需品を扱うには不利な状況で、通りの特性を生かし、高齢者向けの衣料への傾斜し、土産物屋・飲食店は名物の開発に腐心していったのであった。
 また、マスコミが地蔵通り商店街をとり上げる際に必ずといっていいほど「おばあちゃん」と結びつける手法をとったことも高齢者を集める一因であったと言えるだろう


 また、ヤッホー君の住む下町らしいほのぼの感、ほんわか感、ゆったり感漂う雰囲気に加えて、普段着での「話し言葉」が行き交う空間であることも:

ホンダの経営企画部長だったころの経験…
 外国から来たお客さんに日本らしい場所を紹介するため、東京・巣鴨の地蔵通り商店街を訪ねた。
 2002年春のことだ。
 地蔵通り商店街は当時、「おばあちゃんの原宿」として注目され始めていた。
 何が価値だろうかと考えながら歩いていると、ふと気付いたことがある。
 通りまで出ている店員の数が多く、しょっちゅう話し掛けられるのだ。
 筆者の近くにいたおばあちゃんに、「お孫さん元気?」と突然声が掛かった。
 知り合いには見えない。
 なのに、そのおばあちゃんは、何ともうれしそうな顔をした。
 これかもしれない。
 下町風のコミュニケーションが、商店街の大きな価値になっているのだ

(ホンダでエアバッグを開発した小林三郎氏(現在は中央大学 大学院 戦略経営研究科 客員教授、元・ホンダ 経営企画部長)が、ホンダ流のアプローチを紹介しつつイノベーションの本質に迫る連載。今回は4回にわたって解説してきたホンダの「ワイガヤ」についての最終回である。日経ものづくり編集部)
2012/8/9 7:00 小林三郎「おばあちゃんの原宿」の価値とは
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2003O_Q2A720C1000000/

 ところで、「とげぬき地蔵」ってなんのこと?
 徳川7代将軍家継の治世(在任は1713〜1716年)にまで遡ります:

江戸小石川の田付又四郎という人の妻女は、日頃から地蔵尊を信仰しており、男児を出産した後、重い病の床についていました。医者が手当ての甲斐もなく、ついには「怨霊のたたり」とあきらめて死を覚悟するようになった。
 田付氏は妻が以前から信仰していた地蔵尊にすがるしかないと、熱心に祈願を続けると、ある日黒衣の僧侶が田付氏の枕元に立ち、「私の像を川に流しなさい」とのお告げ。
 「あなたに印像を与えよう」と言われた。目覚めてみると、枕元に地蔵尊を刻んだ小さな木片がありました。さっそくこれを印肉にしめして一万体の御影を作り、一心に祈りつつ、これを川に浮かべました。
 妻女の夢に現われた死霊を袈裟をつけた僧が錫杖で突き出してしまい、夫人の病気は日1日と回復し、以後夫人は無病になったといいます。

 又 それから2年後、毛利家の女中が誤って針を呑み込んでしまいました。
 針は腹までまわって医者も手のほどこしようがなかったが、田付氏のつくった地蔵尊の御影を飲ませたところ、御影を貫いた針が吐き出された、ということです。
 この「御影」が「とげぬき地蔵尊」の名前の由来となります

(巣鴨とげぬき地蔵 萬頂山高岩寺)

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2012年11月09日

近藤勇

 11月3日文化の日ウオーキングは、続きます。
 「いたばし観光センター」ボランティアガイド・新井さんに
「弁当を持ってきていますが、この近くでお昼を食べるところってありますか」って聞いたら、
「すぐ近くにあります。そこのベンチでお食べになったらいかがですか」ってわざわざヤッホー君を案内してくれたのです。
 「袖触れ合うも多生の縁」…旅人へのあたたかい目線を感じ、見知らぬ人同士でも人と人のぬくもり、人の情け、他人への気遣い、思い遣りが熱く感じられ、下町の人情と同んなじだ、といたくヤッホー君、感じおったそうです。

 お昼をとって、まだ続きます、ウオーキング。目指すは埼京線「板橋」駅。

 ところがここは、山手線だったのです。

右端を南北に走る線路は、山手線と記されていますね。
 1885(明治18)年、赤羽と品川の間に汽車が走ったのが、山手線の最初の姿です。
 途中の駅は、最初は渋谷・目白・板橋だけでした。
 そののち1906(明治39)年、買収されて国有鉄道(国鉄)となり、1910(明治43)年には電化されました。
 池袋―赤羽間は、1972(昭和47)年に独立して赤羽線となり、最近になって埼京線の一部になっています

(跡見学園女子大学>柳上書屋>第78便 2004(平成17)年7月13日投稿 副学長室からの花便り)
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter%202/01ka02.htm

板橋駅は1885(明治18)年3月1日に日本鉄道の駅として開業した。
 これは当時の政府が財政上苦しく、幹線鉄道を将来の国有化を含みながらも民間で建設していこうという機運からこうなった。
 現在の東北本線、高崎線、常磐線はこの日本鉄道によって建設された路線である。
 そして、貨物の取り扱いも同時に始めている。
 この頃の様子を板橋区発行の「写真は語る」では、こう述べている:
≪駅舎は瓦葺きの平屋で、畑の中にぽつんと建てられた田園駅であった。駅前の小さな広場の桜の木の下に団子を売る茶店があり、乗客はのんびりと団子を食べながら汽車を待っていたという≫
 利用者は開業当時は一日20人だったという。
 1911(明治44)年の郵便地図では、こんな感じ。
 まだ、国道17号は出来ていない。
 旧中山道よりも北側に線路に並行して行き止まりの線が書かれている。これが板橋の貨物駅である

(2011-10-09 19:03:06 投稿「東京ダウンタウンストリート1980's」板橋駅今昔)
http://blog.goo.ne.jp/kenmatsu_fs/e/e10625721fc94ff425c0511da01c612b

 そしてヤッホー君、板橋駅で目にした「近藤勇墓碑」の前でびっくり、ええっ、中仙道に新撰組 ?!?

 1868(慶応4)年4月3日、流山にて新政府軍に出頭した近藤勇は、同年同月
25日、近藤勇は板橋において斬首に処せられました。享年35歳。
 彼の首は板橋で晒された


近藤勇
其方儀、京都新選組之頭を勤め、また東下し大久保大和と変名し、甲州勝沼、下総流山において官軍に抵抗し、上は朝敵、下は徳川の内命などと偽り、容易企てに及び候段、其罪数ふるにいとまあらず、よって処刑に行なうもの也 慶応四年四月廿五日

 その後京都に送られ、三条河原において再び晒されました。
 場所は三条大橋の南50mほどの地点とされており、夏ともなれば多くの夕涼み客で賑わう所ですね。
 しかし、どれほどの人が、かつてその場所に近藤の首が晒されていたことを知っているのでしょうか。
 彼の首級は三たび大阪の千日前で晒された後、粟田口の刑場に埋められたとも、行方知れずになったとも伝えられています。
 ここでは、その首級の行方を追ってみたいと思います。
 まずは、近藤の墓所とされている場所を探ってみましょうか。近藤の墓とされるものは、全国に6カ所もあるのですね。

1 JR板橋駅前(東京都北区)
2 龍源寺(東京都三鷹市)
3 天寧寺(福島県会津若松市)
4 円通寺(東京都荒川区)
5 法蔵寺(愛知県岡崎市)
6 高国寺(山形県米沢市)

 では、これらを個々に見ていくことにします

(2007.03.16投稿ねこづらどき「近藤勇の首塚考」)
http://naokun.cocolog-nifty.com/nekozura/2007/03/post_906f.html

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2012年11月08日

加賀公園

 「いたばし観光センター」ボランティアガイドの大塚さんは、さらに言葉を続けました。

 「この極地研は板橋区加賀というところにあったのですが、この地名の由来はここに、加賀藩の広大な下屋敷があったからなんです。ご承知のように上屋敷は文京区本郷、中屋敷は本駒込にあります」
 
 そう、そうですよね、ヤッホー君、前日の金曜日2日、文京区本郷の東大キャンパスにいまして、図書館で出口先生の鴎外論を拝聴してきたばかりでした。
 え〜と、ここが上屋敷:

1877(明治10)年4月、東京大学は東京医学校、東京開成学校を合併し、医学部と法理文三学部の構成で誕生した。
 本郷の地は、大学開設に先立つ1876(明治9)年末に東京医学校が移転した所で、紆余曲折を経て、最終的に東京大学の用地として確保された。
 この地は江戸時代に加賀藩前田家の藩邸が置かれた地としてよく知られており、17世紀初頭に加賀藩の下屋敷が置かれた。
 1683(天和3)年には上屋敷となり、江戸時代を通じて加賀藩の上屋敷が置かれ、江戸時代を代表する大大名の広壮な大名屋敷の空間がこの地に築かれた。
 1840年代に描かれた「江戸御上屋敷惣御絵図」によれば約9万坪の敷地の中心に庭園の育徳園や馬場を据え、南西側に藩主の住まいである御殿が建てられ、家臣等の住む長屋や諸施設が御殿等を取り巻くように配された当時の上屋敷の様子をうかがい知ることができる

(東京大学総合図書館公式サイト)
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/josetsu/2004_07/kaga.html

 下屋敷が上屋敷となり、では、下屋敷は、というと板橋区に移ったんですね。

金沢市と友好交流都市協定を結ぶなど、行政、市民レベルでの交流が盛んなのが板橋区だ。
 中山道最初の宿場町で江戸四宿の一つ、板橋宿として栄えたが、ここには広大な加賀藩下屋敷があった。
 約70万平方メートル(注:坪数に直すと約21万坪…ヤッホー山荘の坪数は、というと、えっ、畳何枚あったっけ…??1畳間だよねえ〜エッ、と言うことは0.5坪??)
 参勤交代の時の休息や狩猟の場にも使われた。

 加賀一丁目、二丁目の地名や、金沢橋、加賀橋、金沢小、加賀小、加賀中など、加賀藩ゆかりの名前が多く残っている。

 下屋敷の庭園跡だった加賀公園には、2008年の友好交流都市協定締結の記念碑が立っている。

 交流の始まりは1979年、板橋区民まつりに金沢市から豊年太鼓やミス百万石が参加したこと。
 お返しに、81年の金沢市の金沢百万石まつりに板橋区の江戸みこしが参加した。

 金沢市東京事務所の井上淳次長(51)は「当時の都市間交流の流れに乗って、加賀藩下屋敷を縁に板橋区との交流を深めようとしたのでは」と話す。

 以降、年々交流が拡大し、金沢小学校が金沢市の新堅町小学校と姉妹校となって学校新聞の交換を行ったり、区立郷土資料館で金沢市所蔵の古文書資料の展示が行われたりした。
 また、毎年、金沢の郷土史家らを招いて区民対象の加賀藩学講座などを開いている

(2012年8月31日東京新聞「加賀百万石の縁 住民間で盛んな交流」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/info/furusato/news/201208/CK2012083102000172.html

 でも、江東区には元加賀、という地名があって、とヤッホー君はぶつぶつ、お国自慢をしたいのだそうです:

1907(明治40)年、東京市深川区元加賀町15番地に木造2階建ての校舎が建てられ、その地名にちなんで「元加賀」という校名がつけられました。
 今は、元加賀町という地名はなく、三好3・4丁目となっています。  

 元加賀町という地名は、その前の元加賀新田にちなんでいます。
 元加賀新田は、元々海辺の湿地でしたが、1698(元禄11)年(注:勅額大火という江戸の大火事があり、吉良上野介も焼け出され、本所に移ります)に、幕府の手で埋め立てられ、そこに松平加賀守の下屋敷(ひかえの屋敷・別荘のようなもの)がつくられました。
 下屋敷が移転した跡地を、元=加賀=新田と呼ぶようになりました

(「元加賀小学校 校名の由来)
http://www.koto.ed.jp/motokaga-sho/profile/profile.html

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2012年11月07日

植村直己

 「いたばし観光センター」に戻りましょうか。

 ご説明していただいたボランティアの大塚さまが突然、手招き。
 ヤッホー君をひっぱって連れていってくださったところに、マンホールのふたが。

 なに?どうしたの?いったいなにがあったの?マンホールとどんな関係が?

 植村直己って知っていますか。
 彼は1941(昭和16)年2月12日に生まれ、1984(昭和59)年2月13日頃に亡くなっています。遺体が未発見のため詳細は不明です。
 ま、もう一世代も前のこと、もう30年前にもなりなんとしている前のことです。日本人最初の宇宙飛行士、秋山豊寛が宇宙から地球を見たのが1990年でしたよね、その6年も前の出来事でした。
 植村直己は冒険家でした。彼の究極の夢は、南極横断にあったんですって、ですので、このマンホールのある研究所に通っては情報を仕入れていたんですって。

 その施設は「極地研」、正式名称は「大学共同利用法人 情報・システム研究機構 国立極地研究所」(立川市緑町10-3 Tel 042-512-0608)と言います。
 イマは立川にありますが、2009年春までは、板橋区加賀にありました。
 
 植村直己、公子夫妻も板橋区に住んでいたのです。

たったひとり厳しい自然のなかで行動を続けた冒険家・植村直己は、その生涯をかけて人間の可能性に挑戦し続けました。
 どのような状況におかれても、人間らしい豊かな心で目標に向かって努力する彼の冒険家精神。
 この「ウエムラ・スピリット」を永く後世に伝えるために、(財)植村記念財団は1992(平成4)年に板橋区によって設立されました。
 さらに、 2012(平成24)年には公益財団法人として認定されました。

 財団では植村さんのご家族から譲り受けた装備や、彼の活動を伝える写真の展示をはじめ、冒険に関する図書の閲覧(情報コーナー)や自然を体験する事業(自然塾)などを行なっています

(「植村冒険館」 板橋区蓮根2-21-5 Tel 3969-7421)
http://www.uemura-museum-tokyo.jp/index.html

『(財)植村記念財団が運営する植村冒険館で、標記の展覧会が2006年7月15日から9月24日にかけて開催された。
 植村直己は、国民栄誉賞を受けた日本を代表する探検家である。
 明治大学山岳部に所属した植村は、1966年25歳でモンブラン登頂を果たしたのを皮切りに世界各地で登山活動を行ない、1970年には世界初の5大陸最高峰登頂者になった。
 その後、徒歩による日本列島縦断、北極圏2000km犬ゾリ走破等を行った後、1978年には世界初の北極点単独到達を果たした。
 南極大陸の単独犬ゾリ横断を目指して1982年にアルゼンチンの基地に入り越冬したが、南極大陸の犬ゾリ走破はその前から意欲を持っていて、10年前には偵察のためアルゼンチンの基地を訪問している。
 この計画は残念ながらフォークランド紛争のため果たすことができず、1984年に世界初のマッキンリー冬期初登頂の後、消息を絶ったのは良く知られたことである。
 植村冒険館は、植村の冒険精神「ウエムラ・スピリッツ」を永く後世に伝えるため、マッキンリーで遭難死する46歳まで15年間板橋在住であったことから、1992年に板橋区によって設立された。
 家族から譲り受けた装備等や活動を伝える写真の中心にした展示に冒険に関する図書コーナーもあり、貸し出しも行なっている。
 また、野外活動を体験させる「自然塾」などの事業も行なっている。
 ≪南極「夢」大陸≫展は、日本の南極観測が50周年を迎えることから、植村直己の極地の活動と南極観測の活動を紹介する企画展として開催された。
 当研究所からも氷床掘削ドリル、隕石・岩石・生物標本などを提供しており、植村の冒険の足跡を追いながら、南極観測の概要を知ることができる』

(植村冒険館の≪南極「夢」大陸≫展 極地研News No.179 September 2006)
http://www.nipr.ac.jp/publication/PDF/200606_no179.pdf

板橋の地元の人々とは、季節を通じさまざまな交流があった。
 3月末から4月初め、ソメイヨシノが満開となる週末、近くの中学校で開かれる「板橋桜祭」には、テントのブースを出し、ペンギンの剥製、南極の石、隕石、氷山氷、防寒服、パネルなどを展示し、南極観測の理解を深めてもらった。
 7月初め研究所中庭で開く南極観測隊員室開きと10月の隊員の壮行会は、バーベキューパーティーが恒例であった。
 ここには自治会長はじめ何人もの地元の方が、ご祝儀のお酒持参で参加してくださった。
 9月の氷川神社の秋祭りには、南極観測隊員が金沢自治会の法被を羽織り、神輿を担ぐのが恒例となった。
 神輿の担ぎ手が減少する折、南極観測隊の若い力が少しは自治会のお役に立てたと思う。
 10月には、近くの自治会館で観測隊の壮行会を開いてくださり、隊長以下隊員の壮途を祝ってくださった。
 自治会館では、年が明けると新年会があり、研究所から何人かが呼ばれ、地元の人達と交流を深めた。
 また、管理棟1階ロビーの南極展示室には、三々五々、地元の人が、時には放課後の子どもたちが訪れ、展示の閲覧を楽しんでいた。リピータも多かったとのことである…

 このように、国立極地研究所は、板橋区とその加賀地区を中心とした地元の人々との交流を心の糧に、35年もの間この地で活動してきた。
 私たちは、この地のことを、この地の人達のことを、決して忘れることはない。
 また、板橋の人々の心に、“極地研”のことが良き記憶として刻まれたのではないかと思っている。

 ありがとう、板橋。
 ありがとう地元の皆さん

(所長 藤井理行「板橋から立川へ」極地研News No.189 September 2009)
http://www.nipr.ac.jp/publication/PDF/NEWS_no.189.pdf

 ね、びっくり、大発見!ヤッホー君もちょとした冒険気分を味わったそうな…

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2012年11月06日

丸十醤油

 ヤッホー君は昨日、月曜日の収穫祭(芋煮会)のための飲み物とおつまみの買出しにディスカウントスーパーマーケット「オーケー南砂・尾高橋店(南砂1-8-1 Tel 5617-5640)」にショッピングに出かけました…
 ヤッホー君は今日、火曜日は職場の仲間4人と連れ立って「天狗」新宿西口パレットビル店(新宿区西新宿1−1−1 Tel 5325-0750)にいました…
 と、ここまで書いてきまして、はた、と気がつきました。オーケーストアも天狗ももしかして…

 そうなんです、ヤッホー君のこのブログ、2011年06月19日付け日記「LED電球(続)」ですでに紹介しておりましたが、縁があるのかしら、ぜひ一年ちょっと前に遡ってご一読いただければうれしいです。
 この「天狗」を事業内容としている正式会社名は、「テンアライド(株)」(中央区日本橋馬喰町1-7-3 岡永ビル Tel 総合窓口3661-0663)。
 ごちそうさまでした:

お客様の選択する目がますます厳しくなってきている今日、従来の方法で店舗を展開している企業は淘汰されてしまいます。
 単に低価格だけを売り物にしている店舗においてもそれは同様です。
 私たちが取り組んでいるのはフード業ではなく、フードサービス業なのですから、味、価格に加えて雰囲気もサービスもトータルな意味で「ご満足」を提供しなければなりません。
 どんな時代においてもお客様の評価というのは常に正しく、それを謙虚に受け止めるためにテンアライドの4つの誓い「良いものを安く、早く、清潔に、最高の雰囲気で」という原点に立ち返ることを忘れません

(社長挨拶 飯田永太)
http://www.teng.co.jp/company/gaiyou.shtml

 ですので、「いたばし観光センター」でのお話の続きは今日はできなくって、夜も更けてまいったことだし、昨日の収穫祭(芋煮会)に集まった仲間に送ったヤッホー君のメールご紹介でお茶を濁すことにして。
 もう今晩は床につくことにします:

あのすぐあとに来てくれた旧友、松田氏が手作りの漬けもの、ケーキに感動して帰りました。
 メールで皆さんによろしくとのことで次回、牡蠣鍋やろう、と。
≪山形芋煮、里芋、ネギ、こんにゃく、丸十醤油、凄く美味しかった。主、料理人に感謝。次回も楽しみ。松田≫


 「主」ってヤッホー山荘の山小屋番であるヤッホー君のこと、「料理人」とは、はるちゃんのことと注釈をつけて、と。
 そうなんです、はるちゃんがご持参してくれたお醤油は丸十醤油でした。「丸十醤油」(山形市十日町3-10-1 Tel 023-632-1122)のご紹介も:

1844(天保15)年、紅花商として創業。
 羽州山形の紅は阿波の藍と並び、上方で珍重されておりました。
 最上川から海へ出て敦賀まで運び、陸路で京都・大阪へ届けていた回船問屋としてスタートした当社は、明治中期より醸造業をはじめ現在に至っております

http://www.rakuten.co.jp/marujyu/

 お醤油談義にも花が咲いて…、ヤッホー君は同じ山形県でも天童市の「テンスイ醤油」(天童市三日町1-1-1 Tel 023-653-2044)をおすすめしていましたけど…

本物の醤油作りを守り続ける、天童市の「テンスイ醤油」さん。
 ご紹介するのは、山形県産の大豆を100%使用した、無添加・天然醸造の醤油です。
 多くの醤油メーカーでは、原料の大豆を割砕したものや、潰したものを仕入れて使用していますが、テンスイ醤油さんでは、丸いままの大豆を使用し1年以上、醗酵熟成させます。
 醗酵期間中は、PH調整剤や酵母添加をせず、山形の激寒酷暑の気候により育まれます。
 搾った生醤油をそのまま加熱殺菌し、充填しています

(山形味彩ショップ>調味料)
http://shop.yamagata-ajisai.jp/shop/ajisai/item/010/ajisai_010001/detail.html

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2012年11月05日

いたばし観光センター

 地元の人との触れ合い−
 これも山歩であろうと散歩であろうと山歩クラブがいつも大事にしている「哲学」と申しますか、横文字で言いますと「スピリッツ」でございます。
 旧中仙道ウオークでたまたま立ち寄り、出会った「いたばし観光センター」(板橋区板橋3-14-15 Tel 3963-5078)の新井さま、大塚さまにはお昼時でしたが、たいへん丁寧にご説明いただき、感謝申上げます。
 今日は下見、次回はクラブのウオーキングにして大ぜいで歩きにきます。

板橋区の観光情報拠点「いたばし観光センター」。
 ここでは事前申込制で、いたばし観光ボランティア「もてなしたい」による区内観光名所のガイド(無料)を行なっています。

 1. 中山道一番目の宿場として栄えた『板橋』、
 2. 国指定遺跡が残る『志村』、
 3. 鎮守や道中安寧を目的とした「社」が数多く残る『常盤台』、
 4. 自然と歴史と文化の里・武蔵野の香りが今なお残る『赤塚』、
 5. 住宅地域と産業拠点の『高島平』
 この5つのコースからご要望に応じてご案内します。

 赤塚コースの見どころの一つ「板橋区立赤塚植物園」は、今年で開園30周年。
 武蔵野の面影を色濃く残す赤塚の丘陵地に、600種類を超える樹木・草花・山野草が植えられ、四季折々の植物が身近に親しめます。
 春は区の花ニリンソウが、夏はハンゲショウや区内の地名を冠したシムラニンジン、秋には紅葉、冬の寒い日の朝にはシモバシラ(シソ科の植物)の根元に氷の結晶が見られます。

 板橋観光の際は、いたばし観光センターへ。多くのみなさんをもてなしたいと、心待ちにしています

(東京新聞「東京23区の魅力再発見」)
http://www.tokyo-np.co.jp/ad/23ku/19_itabashiku.html

 本日11月4日月曜日。
 これより山歩クラブの収穫祭第一弾「はるちゃんの芋煮会」がヤッホー山荘で厳粛に執り行われます。
 「もてなしたい」ヤッホー君、逆にもてなされたりして、大酒飲むはめになり、今晩はブログの更新ができないと思いまして、今日の日記を、イマ投稿しちゃいますが、このお話の続きは明日以降に、ということでご容赦ください。

 だって、はるちゃんに、鍋ふたつ(直径23cm、28cm)、おわん、醤油の準備オッケーですよって連絡したら、

山形の実家で使っている味見醤油を持ち込みます。
 だしが入っているものです


 ということは、全〜ん部、食材は山形産!
 ということは、こりゃあ、本物だ〜い!!

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2012年11月04日

板橋

 板橋区に本当の板の橋、「板橋」がありました。びっくりしました。

板橋.jpg
 
 一般的にはこの橋の名に区の名前が由来するとも言われています:

『「延慶本平家物語」という軍記によると、1180(治承4)年に挙兵した源頼朝が、「武蔵国豊島ノ上滝野川ノ板橋」に布陣しています。
 ここに地名としての「板橋」が初めて現れ、少なくともこの資料が成立したとみられる鎌倉時代には「板橋」の地名があったことがわかります。

 1603(慶長8)年、徳川家康によって江戸に幕府が開かれると、日本橋を起点とする五街道が整備されました。
 そのうちの一つ、中山道の第一番目の宿場が「板橋(下板橋)」に置かれ、大都市江戸の出入り口として、また区域周辺の中心的な場として繁栄しました。

 地名「板橋」は、1899(明治22)年の町村制実施によって町名として採用され、1932(昭和7)年の東京市板橋区誕生に際しては、区名となって現在へと至っています』

(板橋区の公式サイト>区・行政・男女平等>データ・人口・統計・調査・財政>区のプロフィール>板橋区の名前のゆらい)

 写真にありますように橋の下を流れるのが石神井川でして、春になると桜の名所となります:

花見の頃になると、中板橋付近から加賀付近まであわせて1000本を超える桜が咲き誇り、区内を代表する桜の名所となっています。
 ソメイヨシノを中心にヤマザクラ・オオシマザクラなどを楽しむことができます

(板橋区の公式サイト>文化・観光・施設>観光・まつり・大会>板橋十景>石神井川の桜並木)

 この桜は「板橋」もそうなんですsが、「板橋十景」のひとつに数えられています。
 春になれば、どじょうもふなも泳ぎだすでしょうし、そしたらお出かけしてみようかな、と…:
 
板橋区は、区制施行70周年を記念して、2003(平成15)年2月、板橋ならではの自然景観、都市景観、名所・旧跡、イベントを「板橋十景」として選定いたしました。

 これは、区民の皆さんから、“板橋らしさ”を感じさせる心に残る風景や風物、感動や安らぎを与えるものを「板橋十景候補」として募集し、応募していただいた候補を基に、区民公募の委員、有識者などで構成した「板橋十景選定委員会」で、「板橋十景」として選定したものです。

 皆さんもこれを機会に、「板橋十景」めぐりをしてみませんか。

1. 赤塚溜池公園周辺
2. 板橋(旧中山道の仲宿付近の石神井川にかかる橋)
3. いたばし花火大会
4. 志村一里塚
5. 石神井川の桜並木
6. 松月院
7. 田遊び(徳丸・赤塚)
8. 高島平団地とけやき並木
9. 東京大仏(乗蓮寺)
10. 南蔵院のしだれ桜


 区制施行70周年ですか、でも文化の日の土曜日、まちには「区制施行80周年」の文字が躍っていました:

2012(平成24)年は、1932(昭和7)年10月に市郡合併により板橋区が誕生してから80年の節目の年になります
(板橋区の公式サイト>お知らせ>区・行政・男女平等>板橋区制施行80周年)

 以上、サイトは下↓を参照。
http://www.city.itabashi.tokyo.jp/

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縁切り榎

 跡見学園ですって。
 ここはどこにある学校なのかな?もしかして板橋区?と思って検索したら、キャンパスは二つありますが、埼玉県新座市と文京区でした。

跡見学園の創立者である跡見花蹊(1840-1926)は、幕末から明治・大正の時代を生き抜いた、日本における教育者の草分けです。
 幕末から明治初期という激動の時代に女子教育をこころざした花蹊の教育理念は、西洋から到来した学問のみに頼ろうとする明治政府の方針とはことなり、日本の伝統的な文化をも取りいれながら、知育のみにかたよらない情操教育をつうじて、豊かな教養と高い人格を持ち、自由で批判力に富んだ精神をそなえた近代的な女性を養成し、もって天下に有用な人材として送りだすことでした

(理念)

跡見学園女子大学の起源は、学祖 跡見花蹊が大阪中之島に父 跡見重敬とともに私塾を開いた1858(安政5)年に遡ることができます。
 まさに日本の近代化が始まろうとする前夜のことでした。
 明治維新後、東京に居を移した跡見花蹊は、1875(明治8)年に神田中猿楽町に跡見学校を設立し、それが跡見女学校に継承され、現在の跡見学園女子大学の礎となりました

(学長挨拶)

平成18年度以降のカリキュラムは、前期課程(1、2年次)と後期課程(3、4年次)から成り立っています。
 前期課程は、緑豊かな新座キャンパスで学びます。穏やかな環境において、学問の基礎力を培います。
 後期課程は、都心でありながら静穏な文教の町、文京区茗荷谷で学びます。新宿、渋谷、池袋、丸の内、後楽園、秋葉原などに近く、多くの企業が集まる立地は、社会への参画が容易であるだけでなく、就職活動にも有利です

…跡見学園女子大学ホーム>大学紹介、http://blog.dion.ne.jp/

 この公式ウエブサイトに、「常務理事室からの花便り」というコーナーがあります。
 跡見花蹊と、跡見学園の歴史、歴史散歩シリーズ、文京散歩シリーズという特集が組まれておりまして、とても内容が充実しております。
 ヤッホー君の好きなウエブサイトです。
 来春、お花見にキャンパスにお伺いしようかなって思っていますが、津田塾大学で断られてしまいましたが、男性は学食に入れないのかなあ、そしたら卒業なさった同窓生にご案内をお願いしようっと…

エノキ(日本名)、Japanese hackleberry(英語名)。
 大型の樹木で遠くから見えるのと、夏に大きな緑陰を作るので、道路わき・村外れなどによく植えられた。
 道祖神のご神木にされたほか、江戸時代には、街道の一里塚にこれを植えた。

 縁切り・縁結びの効能と結び付けられることも多い。
 和宮が徳川慶喜に降嫁したとき、その行列は、中山道最後の宿、板橋宿(板橋区板橋)の外れにある縁切り榎を迂回した。
 写真は、板橋宿の縁切り榎(場所は移り、木は代替わりしている)

(跡見学園女子大学>柳上書屋>常務理事からの花便り>跡見群芳譜>樹木譜)
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch2-trees/enoki.htm 

 そうなんですぅ。昨日、文化の日のウオーキングで最初にカメラのシャッターをきったところが、「板橋宿の縁切り榎」なのです。

 写真…先ずは昨日の巣鴨は眞性寺でお会いした江戸六地蔵のひとつ(旅の終わり)、それと板橋宿の「縁切榎」(旅の始まり)の2葉を添付いたします:

六地蔵.jpg

縁切榎.jpg

 この旧中仙道は、ヤッホー君のこのブログ、10月22日付けの日記「鴻巣市」でも書き記しましたように和宮降嫁の際にも通っております。
 そして和宮の街道歩きは板橋宿を最後にその翌日、江戸に入るのですが、「板橋宿の縁切り榎」だけは通らなかった、と言いますから、なおさらのこと、ヤッホー君の足はそこに向くのでございます。

縁切り榎(えのき)があります。
 いつからか迷信で、嫁入り・婿入りのとき この榎の下を通ると、必ず離縁になる といわれていました。
 将軍家に降嫁する姫君たちがここを通るときには、迂回したり、榎を菰で包んだりしたといいます。
 他方、結婚運に恵まれなかった不幸女性たちが、離縁を願って詣でたところでもあったようです。
 京都から公卿の姫君たちが江戸へ降嫁される時は、回り道をしてここを通らないようにするなどの工夫をしました。
 例の和宮のときには、縁切り榎を根元から枝先までこもで包み、見えないようにしてから通った、ということです

(跡見学園女子大学>柳上書屋>副学長室からの花便り>第8便平成17(2004)年7月13日)
http://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/regist/input

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2012年11月03日

旧中仙道ウオーク

 コスモスを見に10月21日日曜日訪れたのが中仙道鴻巣宿。
 そこで11月3日土曜日文化の日、旧中仙道を歩いてみたいと思い立ったら吉日、さっそく江戸からの第一番目の「板橋宿」を訪れてみることにしたのです。
 都営三田線「本蓮沼駅」下車、環七、石神井川、国道17号線、JR埼京線「板橋駅」、明治通、都電荒川線、そして都営三田線「巣鴨」駅までのタウンウオークです。
 歩き始めが10時半、歩き納めが3時というカメラを手にして、秋の風に吹かれながら、のんびり徘徊できたウオーキングでした。

 この板橋宿は江戸4宿のひとつです。つまり、日本橋を発って中山道の最初の宿場が板橋宿なのです。板橋宿は、上宿、中宿、平尾宿の3宿から成り、それぞれに名主が置かれていた、といわれています。
 江戸4宿は、板橋宿のほかに、品川宿(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、千住宿(日光街道・奥州街道)があったわけです。

1602(慶長7)年に、前年の東海道に続いて中山道にも伝馬(てんま)制度が設けられる。
 これが上尾宿の創設となり、周辺村を大きく変えていく契機となる。
 伝馬制度の施行に伴い街道に宿駅(しゅくえき)が設けられることになるが、宿駅は人馬を常時用意しておき、求めに応じて人や荷物を逓ていそう送する。
 伝馬制度が整った段階では、東海道は百人・百疋(ぴき)、中山道は五十人・五十疋の人馬を用意することになっていた。
 これらの人馬は、幕府の公用の人や荷物を運ぶために用意されたもので、私的な旅人のために用意されたものではない。
 しかし公的な搬送のない時は私的な旅人も利用できたので、結果的には人馬の搬送が隆盛を極めることになる。
 中山道の宿駅は板橋宿(東京都)から守山宿(滋賀県)まで67宿であるが、伝馬制の施行時に一度に宿駅ができたわけではない。
 埼玉県域内でも9宿が設置されているが、ここでも徐々に設置されている

(上尾市公式サイト>組織でさがす>広報課>(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活3〜中山道と上尾宿〜)
http://www.city.ageo.lg.jp/page/0130112052805.html

 本日のタウンウオークの締めは、江戸(日本橋)に近い巣鴨、眞性寺のお地蔵さまです:

境内の左手に、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなお地蔵様が、蓮座に趺座しています。
 これを称して江戸六地蔵尊といい、江戸御府内に6箇所造立されている地蔵尊の一つです。

 眞性寺の地蔵尊は江戸深川に住んでいられた地蔵坊正元という方が願主となって、1706(宝永3)年造立の願を発してから14年間の間に、大凡同型の地蔵尊菩薩像6体を造立された中の一体で、4番目に作られた唐銅製の座像です。
 眞性寺の地蔵尊が完成したのは1714(正徳4)年9月です。

 その他の六地蔵は、東海道の尊像として品川寺(第一番)、奥州街道沿いの東禅寺(第二番)、甲州街道沿いの江戸三大閻魔の寺として有名な太宗寺(第三番)、水戸街道沿いの霊巌寺(第五番)にあります。
 第六寺は廃寺となり消滅した千葉街道沿いの永代寺にありました

(巣鴨地蔵通り商店街振興組合、江戸六地蔵-旅の無事を祈るお守り役-)
http://sugamo.or.jp/prayer_detail02.html

 ヤッホー君、補足しなければ、今日の日記は完了しないそうです。それは、霊巌寺(第五番)永代寺(第六番)のことで、ヤッホー君の住みかである深川と関係します:

『旧永代寺には、「江戸六地蔵」と呼ばれる有名な六つのお地蔵様の一つがあった、ということです。
 この「江戸六地蔵」は、江戸時代、深川の正元というお坊さんによって発願され、江戸庶民の寄付を募って、江戸から延びる六つの街道の入り口に六つのお地蔵様が作られたそうです。
 そのひとつ、千葉街道沿いのものが、永代寺のお地蔵様だったのです。
 しかし、永代寺の廃寺とともに、この江戸六地蔵の一つだったお地蔵様も、壊されます。
 それだけの由緒があるなら、そのお地蔵様だけ取っておいてもよさそうなものですが、ぶっ壊しちゃいました。
 同じ深川の白河にある霊巌寺の江戸六地蔵は今でも健在ですから、なにか、永代寺を破壊することへの、特別な執念を感じます。
 「廃仏毀釈」といっても標的になったお寺は限られています。
 なんで永代寺は狙われたんでしょう。
 それも、永代寺の住職だった人は、前回も言ったとおり、旧永代寺の土地をほとんどそのままもらって富岡八幡宮の宮司になっていますから、永代寺の土地財産を狙うことが目標であったわけではなく、永代寺、という寺を破壊することに主眼があったようです。
 そして、…謎は深まるばかりです。

 さて、「江戸六地蔵」はなくなってしまいましたが、現在の永代寺には、沢山のお地蔵様がいらっしゃいます…』

(深川・門前仲町「其角せんべい」 深川のすすめ 第16回「永代寺の謎 消えた江戸六地蔵」)
http://www.kikaku-sembei.co.jp/fukagawanosusume/bn060914fukagawanosusume.html

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2012年11月02日

東京大学附属図書館

 『東大へ入り本郷で「渡辺一夫」先生に出会った… 渡辺先生に心酔した。仏文学の学者になりたいと思った。渡辺先生の弟子になりたかった』 うんぬんかんぬんとユマニスト渡辺一夫先生との出会いの頃、大学生の頃の自分を回想する大江健三郎ですが、東大仏文科。
 
 その東大仏文科の基礎をかためた一人は山田珠樹先生でした。

 山田珠樹先生は縁あって、森鴎外と後妻志げとの間の長女、森茉莉さんと結婚します。

森茉莉は16歳で仏文学者の山田珠樹氏と結婚した。
 山田家は珠樹氏の父が一代で財産を築いた大金持ちで、この結婚は家事の出来ない茉莉(もともと鴎外は娘に家事ができることを求めなかった)が一生女中つきで暮らせるように鴎外が進めたという。
 茉莉さんは二人の男の子の母となるが、鴎外没後、24歳で離婚する

(講談社文芸文庫、森茉莉『贅沢貧乏』)

 この森鴎外が没後、と言いますか、没するときに森鴎外は「遺言」をのこすのです。
 このなかで、山田、とあるのが、山田珠樹先生のことだったのです:

鴎外自身は長男の於菟と山田、そして親交のあった漢学者の吉田増蔵に蔵書を分け与えるよう遺言したとのことだ
(東海大学文学部講師 出口智之「鴎外文庫について」)
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/koho/guide/coll/guide2-Ogai.pdf

 森鴎外は、1922年、60歳で萎縮腎により死去。ところで関東大震災は1923(大正12)年9月1日です。東大の図書館も火災で数十万冊に及ぶ蔵書は焼失、そこで遺族は蔵書を分けるのでなく一括して約2万冊の蔵書を結果的に、山田珠樹先生(図書館司書官を1925(大正14)〜1936(昭和11)年)を通して東大の図書館に寄贈する、ということになったのです。

 森鴎外は死の3日前、友人に「遺書」を託すのですが、この「遺書」は、森鴎外の墓のある三鷹市禅林寺のなかで読むことができます:

死は一切を打ち切る重大事件なり。
 いかなる官憲威力といえども、これに反抗するを得ずと信す。
 余は石見(いわみ=島根県)人、森林太郎として死せんと欲す。
 宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るる瞬間あらゆる外形的取扱いを辞す。
 森林太郎として死せんとす。
 墓は森林太郎の外、一字も彫るべからず。
 宮内省陸軍の栄典(=位階、勲章)は絶対に取りやめを請う。
 これ唯一の友人に云ひ残すものにして何人の口出しも許さず


 この森林太郎のはす向かいにあるのが、太宰治の墓でしした:

禅林寺に行ってみる。
 この寺の裏には、森鴎外の墓がある。
 どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。
 けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。
 私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。
 私には、そんな資格が無い。
 立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。
 お前なんかは、墓地の択(え)り好みなんて出来る身分ではないのだ。
 はっきりと、身の程を知らなければならぬ。
 私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである

(太宰治、1944年発表の『花吹雪』より)

 これは、山歩クラブの文学散歩『三鷹市』編のブログをご参照ください(ヤッホー君のこのブログ、2012年6月20日付け日記「山本有三記念館」参照)。
 あの時分は、もう半年近くも前になります。時の経つのが速いこと、早いこと、年のせいかサイキン実感できますけど、あの時分ねぇ〜、自分は、太宰治よりは山本有三のことに感慨深いものがあったって、ヤッホー君。

 11月2日金曜日、ヤッホー君は、東大本郷キャンパスの総合図書館3階ロビーにおりました。
 特別展示とお話しを聞きにおじゃましたのでした、あっ、もちろんその前後の2回とも学食にいて、3食をいただくことはけっして忘れはしなかったそうですけど…

★ 東京大学附属図書館では、毎年、全学で所蔵する貴重な資料を学内外の皆様にご覧いただくため特別展示を行っています。森鴎外の生誕150周年に当たる今年度は、総合図書館で所蔵している鴎外の旧蔵書、鴎外文庫から厳選した資料を展示します。
★ 総合図書館1階洋雑誌閲覧室にて「記念講演会」11月2日(金)18:00-19:30
演題:鴎外と書物、講師:出口智之(東海大学文学部講師)
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/koho/news/news/fuzokuto_12_0918.html_


posted by fom_club at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月01日

機械にならず人間らしく生きる

 大江健三郎が直接語る言葉に接した方々のこれまでの感想やらまとめやらを少し読んでいきませんか…
 お三方をご紹介します。
 言葉をあやつることをもって生業とする作家が、読み手とどう、共通の通底溝を築いていったか、です。
 双方向性、向日性、共存性、多様性を4面とし、基礎とする"東屋風コミュニケーション論序説" でもあります:

大江さんが10歳の時、終戦を迎えた。
 その後新制中学が出来て田舎から松山へ出て下宿し、松山東中学へ通った。
 そこに伊丹十三がいた。ハンサムな男で教養があった。下宿で2人で遅くまで話し合った。道後温泉まで30分のところだったので、歩いてよく行った。
 伊丹さんにフランス文学のことを教えてもらい、出来たばかりの岩波文庫を読み、その影響で東大の仏文に行くことに決めた。
 図書館で、旺文社の受験参考書を読んだ。受験勉強していると伊丹が来て気が散るので、アメリカ文化センターに勉強するスペースを見つけそこで勉強した。
 伊丹は別の道を歩むことになったが、私は浪人の後、東大へ入り本郷で「渡辺一夫」先生に出会った。

 先生に学んだことは、「人間は人の考えたことの奴隷になりやすい。人間は自分で考え、自分らしく生きることが大切だ。機械にならず人間らしく生きることが大切である」ことを学んだ。

 渡辺先生に心酔した。仏文学の学者になりたいと思った。渡辺先生の弟子になりたかった。

 そのころ東大新聞に懸賞小説の募集があり、応募したら当選した。1万円のところ2万円くれた。多いので正直に言ったら、財政が豊かなので2万円にした。2万円になって初めての人になったと言われた。

 六本木へ行ったら、みんながマージャンをやっていた。私はマージャンを初めて見たのだが、そこで私は「小説を書いて生活し、先生になる」と言ったら、そこにいた武満徹が、「君は小説家になれ」と言った。
 その一言で小説家になることに決めた。その時、武満徹はレコードもくれた

(2012.09.27 22:33 リタイアして想う「今朝は大江健三郎!」)
http://sorami108.blog.fc2.com/blog-entry-365.html

 ブログの書き手「そらみさん」は「リタイアした団塊」の世代の人だそうです。
 「リタイアしたら世の中いろいろなことが起こった。大震災、経済危機どれも余生を暗くすることばかり。なんとか、少なくなった余生を明るく暮らしたい。ブログで愚痴を言えばストレスが解消し、明るくなるか?

目覚まし代わりに使っているラジオ番組は、NHKの「ラジオ深夜便」だ。
 今朝、4時からの番組は、大江健三郎さんへのインタビュー。
 昨日と今日の2回(ちなみに、ボクは、大江健三郎さんと3回出会っている)
 毎回、面白いゲストが出演して、聞いていて面白いと思う唯一のラジオ番組で、毎朝楽しく聞いているのだけれど、話の中で、サン=テグジュペリの「星のお王子様」がでてきた。
 狐が王子様に語った有名なせりふ。
 「本当に大切なものは、目には見えないんだよ」というところについて、この大切なところというところは、当初「アンポルタン」つまり、「重要な」という風に書かれていたのを、「エサンシエル」つまり、「本質的な」と書き換えたそうで、この書き換えた意味合いを語っていたのを、興味深く聞いた。
 そうそう、確か、NHKのフランス語のラジオ講座で、「星の王子さま」のこの一節を勉強したなあ…と、テキストを探してみると、4月号に、あった、あった。
 該当箇所を抜き出してみると

On ne voit bien qu'avec le coeur.
L'essentiel est inbisible pour les yeux.

 心でしかよく見えない 
 大切なことは目には見えないんだよ。

 「重要な」と「本質的な」との意味の違い。
 「本質的、だから、重要だ」という文章は意味を持つだろうし、「重要だから、本質的だ」だということもできるだろう。
 けれど、本質的なことというものは、包容力のある言葉で、あらゆる価値基準を包摂してしまうような言葉のような気がする

(2012年09月28日 ロビオ日記)
http://robio2006.seesaa.net/article/294561982.html

 書き手のロビオさんは、2011年4月6日、本屋に入るのですが、こんな感想を綴られておられます:

 「ツァラトゥストラ」の新訳を購入。こんな災害の最中だからなおさらニーチエが必要だ。何に役立つわけではないが、回りまわって、物事を考える底力となって帰ってくる。急がば回れだ。
 読み始めたら、1頁に数ヶ所、心動かされる箇所に出会って、感動で涙腺も緩みがち。この震災で、初めて、「ボクのニーチェ」の扉が開かれた感じがする。

 というわけで、震災後、心塞ぐ場面が多く、不安、悔しさ、悲しさ、怒り等々込み上げてくる感情が多すぎて、少々参っているのだけれど、やはり、若い頃から読み親しんだ本というものに元気をもらい、不思議なことに、自転車でトレーニングをしているとき(これもまた生きるのに必要な活動なんだ)に、励ましてくれるのは、十代の自分だったりして、そんな過去に現在の自分が慰められて、なんとかかんとか今日も、名郷トレに出かけたのだった。


今朝も大江健三郎さんのインタビュー(ラジオ深夜便4時台)を聞いた。
誠実な人柄、正直な人だ。
 難解な文章との思いがあって、これまであまり読まなかった。
 77歳になられる半生に、これまでに影響された人と言葉を語っておられた。
 今回は9月の再放送で、そのときも感銘を受けいろいろ考えさせられた。
 昨日と今日、インタビュー「人生と日本を語る」をメモを取りながら感動して聞いた。
終わりに、若者に残したいことはと聞かれ、日本人には「あわれ」の感情を持って欲しいと。
 最近、国語学者大野晋の『古典基礎語辞典』を読んで感銘を受け、古典の言葉「あわれ」と「かなし」のちがいを話された。
 「あわれ」とは、相手の不幸、苦しみを同じ立場で共有できるこころで、それが人間の根本的な本質的モラルだと。
 そして、その見えないこころが大切だと。
 大江さんの言葉に、彼の平和への思い、強い信念を感じた。
 番組の終わりに、ご長男光さんの作曲した曲が流され、心に響くメロディを目を閉じて聞いた。
 大江さんの優しさに、切なく「あわれ」な気持ちが湧き感動の涙が流れた。
自分も残された人生を「優しさ」をテーマにして過ごしたいと思っている

(エッセイ−麗しの磐梯−10月31日「あわれ」と「かなし」)
http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/d01304f0418343b20e09670d6c0e85b2

 このブログの書き手は、福島にお住まいの方、「大病をして生かされた今、新しい生き方を求めながら、心豊かな、穏やかな日々を願っている」そうです。

posted by fom_club at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする