2012年10月31日

根本的なモラル

 大江健三郎、これまでの発言録を少し読んでいきませんか…
 三つ、いずれも3.11、そしてその日以降、紡いできた言葉です:

『Entretien Prix Nobel de littérature, conscience du Japan, l’écrivain rappelle le devoir de fidélité à la mémoire des morts et à la dignité de l’homme

Kenzaburô Ôé: ≪Nous sommes sous le regard des victimes≫ Le Monde, 17.3.2011

 先生は1994年のノーベル文学賞受賞講演に「曖昧な国日本から来た私」という題を付けられましたが、「曖昧な日本」という表現は今でも妥当するでしょうか?

 私があのとき指摘した日本の曖昧さは現在日本で起こっていることによっていよいよはっきりしてきました。
 現時点において、その曖昧な日本が固守すべき価値観は完全な行き詰まり状態に陥っています。
 曖昧さの反対は明確さです。
 1994年に私が曖昧な日本について語った頃は、私の祖国は選択や明確な政策決定をまだ引き延ばすことのできる、つまり曖昧さの中に安住するという贅沢を享受できるありがたい時代でした。
 日本は、決済日の指定されていないこういう状態が他の国々からも受け入れてもらえるものと考えていました。
 それがために、自らの歴史を認めることもせず、今日の世界における責任をとることもしませんでした。
 政治の面におけるこの不明確さを許容出来ると考え、経済分野においても同じ姿勢を取り、最終的にどこへ行き着くかが分からなくてもかまわないような政策を採用し、その結果が90年代初頭のバブル経済の破綻ということになったのです


(2012年7月25日水曜日 梶村太一郎(1946年生まれ)「明日うらしま」-「われわれは犠牲者たちに見つめられている」大江健三郎氏ルモンド紙インタヴューの全訳/村岡崇光

 先ほど、オランダのライデン大学名誉教授の村岡崇光氏からメールで、3.11直後にルモンド紙が大江健三郎氏とおこなったインタビューの全訳とネットワークでの配布依頼のメールが送られてきましたので、そのまま紹介させていただきます)
http://tkajimura.blogspot.jp/2012/07/blog-post_2576.html

『3.11から1年が過ぎ、フランスでも東北大震災と福島第一の原発事故「一年後」のさまざまな催しが各地で行われ、多くのメディアで特集が組まれた。
 そのなかで、ここでぜひ紹介したいのは、今年パリのブックフェア(3月16〜19日)に招待された大江健三郎さんと鎌田慧さんが語ったことだ。会期中にいくつも行われた討論会・対話をとおして、彼らの真剣で明快な、重みのある言葉をじかに聞くことができて、わたし自身を含め、聴衆は深い感銘を受けた。

…原発事故が起きて、大江さんは「歴史」だと思っていた広島が終わっていなかったことを痛感した。
 かつてインタヴューした肥田舜太郎医師から、広島を歴史のように書いたのは間違いだったと指摘された大江さんは、低線量の被曝について自分は『ヒロシマ・ノート』に書くべきだったと語る。

 「あのとき私たちが告発していれば、今、福島の子どもたちが受けている被曝に対する警戒の声がもっと大きく発せられただろうに。私は根本的なモラル(倫理)において、あのとき間違っていた」

 「根本的なモラル(倫理)」とは、すべての討論会で大江さんが引用したミラン・クンデラの言葉である。
 チェコ出身の作家クンデラは晩年のエッセイ『カーテンー7部構成の小説論』の中で、作家は一生をかけて「根本的なモラル」を作品として提出して死ねと書いている(作家にかぎらず、すべての人間にそれはあてはまる、と大江さんは言う)。

 その根本的な倫理とは、次の世代の人間が人間らしく行きていける条件を妨げないこと。そして、妨げようとするものと闘うことだ、と86歳のクンデラは言っている。
 この倫理を引き受けようではないか、と大江さんは訴える


(2012年3月23日掲載 飛幡祐規 第19回「原発を止める力と人間の威厳ー大江健三郎さんと鎌田慧さんがパリで語ったこと)
http://www.labornetjp.org/Column/20120323pari

『今回の原発事故は自然災害によって引き起こされた面もありますが、それ以上に備えが十分でなかったことが主な原因と考えられています。日本人は、民主主義よりお金もうけを優先させる経済発展モデルの悪弊に気づくでしょうか?(フィリップ・ポンス特派員)

 今回の事故で明らかになったのは、日本社会の民主主義が脆弱なものであったということです。
 ぼくたちは問題に声を挙げることができるでしょうか。
 それとも、このまま黙ったままでいるのか。
 今から10年たてば、日本が「民主国家」の名前にふさわしい国であったのかどうかが分かるでしょう。
 こんなに深く日本の民主主義が未熟であったことを感じたことはありませんでした。
 今起きている危機は、福島原発事故についてだけのことではないのです。
 私が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った「沈黙による陰謀」とも呼ぶべき行為です。
 去年の3月11日以来、たくさんの嘘が明らかになりました。
 そしておそらくは、まだこれからも明らかになってゆくでしょう。
 これらのエリートたちが真実を隠すため陰謀を巡らせていたことが明らかになって、私は動揺しています。
 ぼくたちは、そんなに騙しやすい国民なのでしょうか?


(「僕たちは、そんなに騙しやすい国民でしょうか」
 パリ・ブックフェアー特別招待作家・大江健三郎へのインタビュー/ルモンド紙(2012年3月16日)
 福島原発事故の発生から1年。原発の廃止に向けてたたかうノーベル文学賞受賞作家、語る。
 日本の著名人たちが自分の考えを述べることをやめ口を閉ざす中、1994年のノーベル文学賞受賞者である大江健三郎は、日本が1945年の敗戦翌日に自ら宣言したヒューマニズムの価値を、ひるまず私たちに思い出させ続ける稀な存在だ。
 こうしたヒューマニズムの中で最も重視されるのが、平和主義である。
 大江健三郎は、原子力エネルギーの使用を含めた現代社会における全ての問題において、良心の問題を最も重視している。
 福島原発で起きた惨事は、大江氏が現在「サヨナラ原発」運動を盛り上げる傍ら書き続ける小説の主要なテーマとなっている。

2012年3月18日(日)
http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/index.html

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2012年10月30日

ノーベル賞作家、人生と日本を語る

 いやあ、ヤッホー君も順調に齢を重ねています。
 今野晴貴29歳、あだち・あや21歳。
 そして高倉健81歳、秋山豊寛70歳。

 順調に馬齢を重ねているヤッホー君が10月30日火曜日、まだ陽の昇らぬ暗き早い朝、ふいと目が醒め、なんとはなしに枕元のラジオのスイッチを入れたら聴こえてきたのが、大江健三郎77歳。

NHKラジオ深夜便
 11月30日火曜日午前4時台
 〔インタビュー・スペシャル〕アンコール
 ノーベル賞作家、人生と日本を語る(1)作家 大江健三郎(H24.9.27放送ですので再放送)

 自宅のパソコンで聞けるこのストリーミングサービスはおよそ1ヶ月間の公開予定です。11月12日 までお聞きになれます

http://www.nhk.or.jp/shinyabin/jyoyou.html

 ラジオがいまパソコンで聞けるんですって!!

 ヤッホー君、仕事あがりに「BOOKSりんご屋清澄白河店」(江東区白河1−2−10 Tel 03-5620-0280)に寄ってさっそく大江健三郎の文庫本を2冊も注文してしまいました:

『「自分の木」の下で(朝日文庫、2005年)商品説明
 「人にはそれぞれ『自分の木』ときめられている樹木が森の高みにある…
 人の魂は、その「自分の木」の根方から谷間に降りて来て人間としての身体に入る…
 そして、森のなかに入って、たまたま「自分の木」の下に立っていると、年をとってしまった自分に会うことがある」
7、8歳のころ、太平洋戦争の間に祖母からこの話を聞いた著者は、年老いた自分にこう問いかけたいと思った。
「――どうして生きてきたのですか?」
 著者はこの質問に答えるためにずっと小説を書いてきたという。
 しかし、それから60年近くがたち、「年をとってしまった自分」になってみると、若い人たちに向けて「自分の木」の下で直接話をするように書きたいという気持ちが強くなった。
 自分の言葉が彼らの胸のうちで新しい命として生き続けられるように――。
 本書は著者が初めて書いた子ども向けの本である。
 自伝的要素が強く、不登校、生きる理由と方法、自殺、言葉、戦争、反戦運動、勉強の方法などをテーマに、悩める子どもたちへの真摯なメッセージが著者自身の体験と共につづられる。
 小学校で経験した敗戦、四国の山間で父や母、祖母から伝え聞いた話、勉強に勤しんだ学生時代の思い出の数々、障害を持って生まれた長男の誕生と成長…。
 大江ゆかりの挿画は玉に傷だが、多くの困難を乗り越えて偉業を達成した著者の言葉は、暗闇に迷い込んだ子どもたちやその親に、希望という一筋の光明を与えるに違いない(齋藤聡海)

『「新しい人」の方へ(大江ゆかりの挿画付き、朝日文庫、2007年)商品説明
 ノーベル賞作家が、子供から大人まで実践的に役に立つ生活習慣をアドバイスする大好評シリーズ第2弾。
 本をゆっくり読む方法、ウソをつかない力の鍛え方、自分なかの意地悪な気持ちと向き合うことなど、16のメッセージと15点のカラーイラストが美しくひびきあう感動のエッセイ。
 文庫への書き下ろし「『子供のための大きい本』を思いながら」を新たに加え、待望の文庫化』


 いずれもAMAZONのウエブサイトから。

 自叙伝らしきものはすでに新潮社から尾崎真理子『大江健三郎 作家自身を語る』(2007年)で出版されてはいます:

東大新聞に掲載された短編「奇妙な仕事」を平野謙に激賞され、大江健三郎が東大在学中から学生作家として華々しい活躍を始めたのが、1957年のことだった。
 そのときから数えて、今年でいよいよ作家生活50周年を迎える。

 50年間、現役作家として書き続けるのは並大抵のことではない。
 三島由紀夫はそもそも45歳で死んでしまった。
 あれだけ巨大な長編群を残したドストエフスキーでさえ、作家としての活動期間は35年でしかない。
 いまや大江健三郎の全著作は、巨大な山脈のようにそびえたっていて、初心者はいったいどこから登山道を見つけたらいいのかわからず、途方に暮れるのではないだろうか。
 私自身も最近、おそらく大江山脈の最大の難所の一つである『同時代ゲーム』をそのロシア語訳と対照しながら再読するという機会があり、その構想力と日本語の文体の達成度の高さに改めて驚嘆するとともに、このような作品を正確に外国語に訳した翻訳家の労苦を想像せざるを得なかった…
 
 今回出版された『大江健三郎 作家自身を語る』は、読売新聞文化部の文芸担当記者として長年活躍してきた尾崎真理子さんが、長時間にわたって大江氏にインタビューした内容を構成してできた本だが、まさに大江山脈への理想的なガイドブックになっていると言えるだろう。
 四国の村での生い立ちから、最新の長編『さようなら、私の本よ!』にいたるまで、大江氏みずからが生涯と作品を語ったこの本を読むと、人を寄せ付けないごつごつした急峻な山に苦労して登ったというよりは、なだらかな丘の上に立ち、広大な景色を見晴らすようなすがすがしさが感じられる

(波 2007年6月号 沼野充義(ぬまの・みつよし ロシア・ポーランド文学者)「大江山脈をすがすがしく見晴らせば」)
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/303618.html

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今野晴貴

 生きづらさ、は何も社会の周縁に置き去りにされた人間だけではなく、身の周りにもたくさんいるんじゃあないのかな、若者だって、と10月27日土曜日、ヤッホー君が代々木公園で出会った、あの将来の人生設計を描き、目標をもって、目がきらきら輝いていたうら若き乙女との会話で、逆に若者たちのことが心配になっておりました。
 翌28日日曜日は朝から秋雨が降りつづいていました。
 長靴を履いて、傘を差して出かけたのが江東区深川図書館。
 そこで目にしたのが、というよりヤッホー君が一番、信頼を置いている新聞である東京新聞の朝刊なのでした。

『いま、働く若者の3人に1人は非正規。
 経済が縮小する中、雇用の調整弁として利用されている現実がそこにある。
 一橋大学大学院生の今野晴貴さん(29)は、6年前にNPO法人をつくり、若者の労働相談を続ける。
 法律に違反する過酷な働き方を強いる「ブラック企業」。
 うつ病になるまで追い込まれる若者。
 そこに目を向けようとしない社会。
 腹立たしさともどかしさが原動力となっている。 

 「POSSE」(ポッセ、ラテン語で「力を持つ」の意)と名付けたNPOの設立は2006年6月。
 小泉改革で非正規雇用が増え、社会問題化していた。
 中央大法学部で労働法を学んでいた今野さんは「若者が仕事を辞めるのは精神的にひ弱になったからだ」という世間の論調に反発を覚えた。

「若者が相談できる場所がなかった。だからつくろうと思った」。
 メンバーは20代の学生が中心だ。
 始めてすぐ、相談がいくつも舞い込んだ。3ヶ月の雇用契約だったのに1ヶ月で突然打ち切られたり、給料を突然減額されたり…。

「法律がこんなにも踏みにじられる世界があることに驚いた」』

(2012年10月28日 東京新聞朝刊森本智之「違法労働から若者救わねば 相談激増 直談判も」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012102802000115.html

※ 今野晴貴『ブラック企業の正体』(文春新書、発売予定日 2012年11月19日、809円)

※“ブラック企業”とは、若者たちの間で生まれた言葉。過度の長時間労働やパワハラ、「正当な理由」のない退職勧奨や解雇などを行ない、若者たちの心や体をむしばんでいく企業のことを指す。
(Eテレの「シリーズ貧困拡大社会」では、2012年10月23日(火)。再放送は今日、10月30日(火)の午後、「若者を追い詰める“ブラック企業”」を放送します)


 そして昨夜はEテレで再放送されたEテレの「シリーズ貧困拡大社会」で再放送「相次ぐ若者の過労死」をご覧になった方もおられたことと思います。

今、過酷な労働環境を強いられ、過労死する若者が相次いでいます。
 厚生労働省のまとめでは(2011年度)、仕事でうつ病などの精神疾患を発症し死亡した「過労自殺」に認定された人のうち、半数以上が20代30代の若者が占めるようになりました

(シリーズ貧困拡大社会 相次ぐ若者の過労死 Eテレ2012年10月22日(月)再放送10月29日(月)
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2012-10/22.html

 その番組での取材先のひとつが、NPO「POSSE」(【東京】は、世田谷区北沢4−17−15 ローゼンハイム下北沢201号室)。
http://www.npoposse.jp/

 どんな活動をしていらっしゃるのか、こんな相談受付業務も担当しています。
 ≪若者自身の手で…≫いいですね、すばらしい;

・所持金が底をつき、生活保護を申請するため役所に行ったけれど、申請書を渡してもらえない…
・生活保護の申請をしようとしたら、窓口でひどいことを言われ、申請を断られた…
・どのような場合に生活保護を利用できるのか詳しく知りたい…
・ケースワーカーから誓約書を書けと言われたけれど……
・病気で働けないのに、ケースワーカーからしつこく働けと言われる…

 このような問題・疑問は、実は法律や制度を正しく使うことで解決することができます。
 POSSEでは、生活保護に限らない福祉制度の利用や奨学金返還など生活上の困難に関する相談を常時受け付けています。
 ホットライン開催期間(10月28日日曜日でした)以外のご相談は、下記の連絡先までお気軽にお寄せください。
 相談窓口 Tel 03-6699-9359 E-mail:soudan@npoposse.jp

http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/da1753c141a70f5dc86215fd709620ea

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2012年10月29日

hope for the future

 土曜日、「体験の風」のあと、ヤッホー君は「自然の風」に吹かれたく、代々木公園へ。
 そこで、いつも山行のときに持参する"土方弁当"を開いておりました。
 そこへ…
 「いまかくれんぼうしているのですが、かくまってはくれませぬか」とうら若き乙女に声をかけられてしまったヤッホー君。

 これを晴天の霹靂(へきれき)と言わずんば何と言う、これを「鶴の一声」と言わずんば何と言う、これを「天の声」と言わずんば何という。
 「しかるにお女中、何の謂れがあってか、お見受けしたところ学門の道にお励みのころかとお察し申上げるも、然りか」
 「はい、いま大学の教育学科で教職を目指して受験準備中の身、来年の今頃は試験真っ只中、今日はお天気もよろしいようで、皆と計らい、広い公園に息抜きにきたのでございます」
 「名前をお聞かせいただけぬか」
 「はい、あだち・あや、ともうします」
 「そうか、わしは先ほどまで、≪体験の風を起こそうフォーラム≫で秋山豊寛先生のお話しを聞いたきたばかりなのじゃ。日本初の宇宙飛行士であったことを知っておるか」
 「いいえ、はじめてお名前をお聞きしました」

 それは無理もない、1990年と言うと22年前、あだちさんの生まれる前のできごとだったのじゃからな、とヤッホー君、かいつまんで、いま秋山先生が京都の大学で何を学生と協働作業しているか、を聞かせてやったそうです。それでまあ、打ち解けたところで、重々しくも
 「では、かくまってしんぜよう。ただしわしが弁当を食べ終えるまでの間、と心得よ」
  
 かくして弁当のご飯をひとつぶも残さず食べ終えるまで、短い間ではありましたが(何のことはない、早食いなんですぅ)、今時の女学生さんと交わした会話… 
 見知らぬ男性に滅多に声をかけるではないぞ、と諭したり、少子化で教師への道はきわめて難しいだろうが、ガンバレェ〜とエールを送ったり、呂律がまわらずしどろもどろ、頭の中は真っ白になりそうでしたが、ガンバッて一気に、アタマのうちを明かしていたそうです。

 都の教育庁は、平成24年6月14日に「平成25年度東京都公立学校教員採用候補者選考の応募状況について」を公表しております。

 『ア 応募者数: 応募者の総数は20,298人で、3年連続20,000人を超えた。
 イ 応募倍率: 応募者数は減少(763人減)しているが、採用見込数が昨年度より減少したため、応募倍率(採用見込数に対する応募者の割合)は、昨年度と同様となった(6.7倍)

 ア 小学校全科(理科コース含む): 応募者数は5,619人で、昨年度の応募者数(6,107人)と比較すると、488人(8.0%)減となり、応募倍率は、4.7倍(昨年度3.8倍)となった。
 イ 中高共通: 応募者数は10,230人で、昨年度より347人(3.3%)減、応募倍率は、9.3倍(昨年度11.8倍)となった。
 ウ 特別支援学校: 応募者数は1,318人で、昨年度より23人(1.8%)増、応募倍率は、5.1倍(昨年度7.0倍)となった…
 
 最終合格発表: 平成24年10月19日(金曜日)』
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/06/20m6e500.htm

 あだち嬢は、海外の日本人学校の先生も視野に入れているって;

日本人学校では、学校が必要とする教員数の約8割について各都道府県の教育委員会において、教職経験3年以上の現役教員から希望者を募り、推薦された教員の中から、文部科学省が選考を行なった結果選ばれた方を派遣しています。
 海外赴任中は、長期の研修出張扱いとなり、籍は各都道府県に置いたままとなります。
 待遇も、国内給与を基礎とし、これに生活条件の異なる海外の特殊事情を考慮し、在勤手当が付加的に支給されることになっています。

 一方で、専任教員とは学校が独自で採用しなくてはいけない現地採用教員のうち、特に当財団を通じて日本から招聘する教員のことを指し、雇用契約は学校の運営委員会等と直接結びます。
 給与は政府派遣教員の方が高額で、こういった待遇面が異なります

(公益財団法人 海外子女教育振興財団)
http://www.joes.or.jp/gaiyo/index.html

 若者には生きにくい時代になった、と良く言われています。この国だけではないようです。今朝、10月29日月曜日、朝一番に開いたカナダ紙『The Globe and Mail』でも:

Patrick Imbeau is tired of the common complaint that his generation is a bunch of spoiled whiners. He held down three jobs while working on his PhD, and the debt still piled up after tuition prices doubled during the time he was at school. “It’s not that I expect everything to be given to me, but I do expect to have some chance to be able to have the same life that my parents had.”

The 29-year-old, who gave up his plans to become a professor while part way through his doctorate, has $30,000 in student debt. That means traditional rites of passage into adulthood – buying a house, having kids, building a nest egg – are all being delayed.

The different playing field for young people today can be measured in a number of ways. One is the decline of secure jobs: The proportion of 20- to 24-year-olds in temporary positions has climbed steadily, to about 29 per cent this year from 21 per cent in 1997, Statistics Canada data show.

Full-time work is harder to find as well. Last month, a broader measure of youth unemployment – which includes not only the jobless, but part-timers who would prefer full-time work and people who’ve given up looking for work – hit 19.6 per cent, the highest level for any September in 15 years.

Amelia Zheng has felt the sting of underemployment first hand. The 25-year-old has just what Canada needs: fluency in three languages and a masters degree in international business law from the Université de Montréal in 2010, a program she completed under a full scholarship after graduating near the top of her class in Shanghai.

She wants to help forge trade links between Canada and her home country, China. But since graduating, the only work she’s found is part-time or short-term contract: as a waitress, a tour guide, teaching Mandarin and in international purchasing.

Generation Nixed: Why Canada's youth are losing hope for the future
By TAVIA GRANT AND JANET McFARLAND

October 27, 2012

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2012年10月28日

体験の風

 ねえ、「体験の風をおこそう」って何よ?

発達中の低気圧と前線の影響で、西日本を中心に大気の状態が不安定になっていて、局地的に雷を伴って激しい雨が降っています。
 北陸などでも雨や風が強まる見込みで、気象庁は、落雷や竜巻などの突風、低い土地の浸水などに十分注意するよう呼びかけています

(10月28日 9時31分 NHK「大気不安定 局地的に雨雲発達」)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121028/t10013068051000.html
 
 ほんとうは今日、カッシーとの下見探検隊の出動の日だったのですが、三無シュギ者のヤッホー君、「無理、無駄、無茶しない」とばかりに朝から、布団をかぶってお寝んねしたまんまだったんですって、だから風も風邪も嫌じゃあ、とばかりに質問!
 これは、ね:

近年、社会が豊かで便利になる中で、子どもたちの自然体験、社会体験、生活体験などの体験が減少している状況を踏まえ、子どもたちの健やかな成長にとって体験がいかに重要であるかを広く家庭や社会に伝え、社会全体で体験活動を推進する機運を高める運動です

 どこが中心になってるの?って、関連する団体はたくさんあるのですが、そのひとつがNIYE 「青少年教育振興機構」なんです:

『「独立行政法人国立青少年教育振興機構」は、平成18年4月に「独立行政法人国立オリンピック記念青少年総合センター」、「独立行政法人国立青年の家」、「独立行政法人国立少年自然の家」が統合され発足しました。 機構は、我が国の青少年教育のナショナルセンターとして、青少年を巡るさまざまな課題へ対応するため、青少年に対し教育的な観点から、より総合的・体系的な一貫性のある体験活動等の機会を提供するとともに、研修支援、青少年教育に関する調査研究、青少年団体・施設等の連絡・協力、青少年団体への助成を行ない、もって我が国の青少年教育の振興及び青少年の健全育成を図ることを目指しています』(「目的・沿革)
http://www.niye.go.jp/about/history.html

 NIYEでは昨年、平成23年11月7日、「青少年の体験活動等と自立に関する実態調査」を公表しております。山歩クラブの10年来の歴史、目的、沿革とも関係する調査結果と表現、内容ですので、ここに謹んで再録いたします:

結果@ 体験を多く行っている青少年ほど、他者への思いやりや積極性などの自立的行動習慣が身についており、自己肯定感も高い傾向にある。
■ 生活体験を最も多く行っている群における「困っている人がいたときに手助けする」の「とても当てはまる」の比率(52.1%)は、最も行なっていない群における比率(7.6%)の7 倍近くである。
■ 自然体験を最も行なっている群における「勉強は得意な方だ」の「とても思う」の比率(17.9%)は、最も行なっていない群における比率(3.3%)の5 倍以上である。

結果A 青少年の自然体験活動の実施率は、学年が上がるにつれて減少しており、またほとんどの活動に関して、ここ5年間で減少傾向にある。
■ 「昆虫や水辺の生物を捕まえること」について、平成22 年度に学校の授業や行事以外で「何度もした」の比率は小学校1 年が30.7%であるのに対し、高校2 年は4.3%と20 ポイント以上低くなっている。
■ 小学校2 年および小学校5 年の学校の授業や行事以外での「山登りやハイキング、オリエンテーリングやウォークラリー」は、平成18 年度よりも平成22 年度の比率のほうが10 ポイント以上低くなっている。

結果B 地域活動やボランティア活動などの子どもの頃の体験が多い保護者ほど、人間関係能力、文化的作法・教養等の資質・能力が高い。
■ 「地域活動」、「家族行事」等の子どもの頃の体験が多い保護者ほど、「人間関係能力」、「文化的作法・教養」等の体験を通して得られる資質・能力が高い傾向にある。
■ 子どもの頃の「ボランティア活動をしたこと」が多い保護者ほど、「人間関係能力」等の体験を通して得られる資質・能力が高い傾向にある。また、「地域活動」等子どもの頃の体験が多い保護者ほど、「ボランティア活動をしようと思う」という現在の意識が高い傾向にある。

結果C 子どもの頃に多くの体験を行ってきた保護者ほど、その子どもも体験を多く行う傾向にあり、また自己肯定感の高い保護者ほど、その子どもも自己肯定感が高い傾向にある。
■ 保護者の中学生期までの「海や川で泳いだこと」の体験高群における子どもの同体験「何度もある」の比率(63.0%)は、低群における比率(39.2%)より20 ポイント以上高い。
■ 「自分のことが好きである」と思っている保護者ほど、その子どもが「今の自分が好きだ」に対し「とても思う」と回答する比率が高い。

結果D 保護者の自尊感情、人間関係能力等の資質・能力が高いほど、親子の関わりが多く、その子どもは積極性等の自立的行動習慣が身についている。
■ 「自尊感情」、「人間関係能力」、「文化的作法・教養」等の体験を通して得られる資質・能力が高い保護者ほど、その子どもが「お父さんやお母さんにほめられること」等お父さんやお母さんとの関わりについて「よくある」と回答する比率が高い。
■ 「自尊感情」、「人間関係能力」、「文化的作法・教養」等の体験を通して得られる資質・能力が高い保護者ほど、その子どもが「自分の思ったことをはっきり言う」、「困ったときでも前向きに取り組む」等の自立的行動習慣について「とても当てはまる」と回答する比率が高い。

結果E 保護者が子どもの頃に自然体験を行った頻度は、居住地の種類によって違いが見られるが、現在の青少年の自然体験については、居住地の種類による違いは殆ど見られない。
■ 保護者の中学生期までの「野鳥を見たり、鳴く声を聞いたこと」の体験高群の比率は、居住地「政令指定都市・特別区」では24.9%を占めるが、「村」ではそれよりも40 ポイント以上高い66.4%を占める。
■ 保護者の中学生期までの「夜空いっぱいに輝く星をゆっくり見たこと」にあっても、居住行政区分別にみた「村」と「政令指定都市・特別区」の間で30 ポイント以上の比率差がある。
■ 青少年の自然体験については、都市規模による体験の頻度の違いは殆ど見られない。

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2012年10月27日

秋山豊寛

 10月27日土曜日、ヤッホー君は代々木公園、国立オリンピック記念青少年総合センター 国際交流棟レセプションホール(東京都渋谷区代々木神園町)におりました。
 その訳は、興味深いお話しが聴けるということで向かったのです:

■ 講師: 秋山豊寛先生(京都造形芸術大学教授.宇宙飛行士)
■ 演題: 感性を豊かにする実践
※ 秋山先生から、これまでの知見をもとに青少年期における実体験の大切さについてお話いただきます。
■会場: 小田急線参宮橋駅から徒歩約7分 or 東京メトロ千代田線代々木公園駅から徒歩約10分
■対象: 青少年の体験活動に関心のある方
■募集人数: 200名
(平成24年度体験の風をおこそうフォーラム)
http://www.niye.go.jp/services/taikennokaze/index.html

 秋山氏、うんうん、知っています:

日本人初の宇宙飛行士として、1990年に旧ソ連(現ロシア)のソユーズ宇宙船に搭乗したジャーナリストの秋山豊寛さん(69)。
 その後、福島県旧滝根町(現田村市)に移住、有機農業に取り組んでいた。
 福島第1原発の事故を受けて、今、どこで、どんな思いで過ごしているのか?訪ねてみた(大槻英二);

福島で農業15年、群馬へ/平和な老後、破壊された/経済成長に頼らぬ生き方を

 「こっち、こっち」。
 待ち合わせ場所のバス停に、長靴をはいて現れた秋山さんは真っ黒に日焼けし、すっかり「農家のオジサン」になっていた。
 ここは福島県ならぬ群馬県藤岡市の鬼石(おにし)町。
 そのまま埼玉との県境を流れる神流(かんな)川のほとりにある田んぼに案内された。
 有機農業に取り組む知人から借りた6畝(せ、約6アール)の水田。
 7月の初めに手植えをした。

 「福島では5月20日前後に田植えをしていたけど、なかなか水温が上がらなくてね。ここは稲がどんどん伸びて、びっくりします」
 ハウスではアスパラガスやカボチャ、ピーマンなどの野菜も栽培。
 避難先とはいえ、ようやく「農のある暮らし」を取り戻し、秋山さんもホッと一息という表情だ。

 東京放送(TBS)記者だった秋山さんが、旧ソ連カザフ共和国(現カザフスタン)のバイコヌール宇宙基地からソユーズ宇宙船で宇宙へ飛び立ったのは、1990年12月2日のこと。
 生中継で東京のスタジオからの呼びかけに、「これ、本番ですか?」と聞き返したのが、宇宙からの第一声となった。
 その後、国際ニュースセンター長となったが「管理職になって、現場を離れるのは耐えられない」と1995年に退社。
 福島・滝根に移り住み、自給自足を目指して有機農業を始めた。
 現在も月刊誌「自然と人間」に「農のある暮らしから」を連載するなど、執筆活動を続けている。

 滝根では阿武隈山地の標高約600メートルの山里に1ヘクタールの土地を購入。
 シイタケの原木栽培をはじめ、コメや野菜づくりに取り組んでいた。
 16年目の今年は、田んぼの一部をレンゲ畑にして、ニホンミツバチを飼って、ハチミツの自給に挑もうと考えていた。
 そのさなかの東日本大震災だった。

 「福島第1原発は運転開始から40年がたち、僕の計算では今年あたりから廃炉の作業が始まると思っていました。まあ、これが浅はかな考えだったわけですけどね」

 原発から自宅までは約32キロ。
 震災翌日には、近くの体育館に、第1原発がある大熊町の住民が避難してきた。
 テレビは「空中からセシウム検出」と報じ、屋外に出ると、以前から持っていた放射線警報器が鳴り始めた。
 身の危険を感じた秋山さんは、郡山市の宿泊施設に避難、事故が長期化するのを見越して、鬼石町の知人宅に身を寄せた。

 避難から4ヶ月余。
 原発から約200キロ離れ、いま何を思うのか?

 「≪経済成長がなければ、幸せになれない≫という神話、いや、これはイデオロギーですよ。このイデオロギーから脱却しない限りは、今回のこの悲惨な事態の教訓を生かすことができないんじゃないでしょうか」

 60年安保闘争の余韻の中で学生時代を過ごした秋山さんが、一貫して追い続けてきたテーマは「日本の近代化とは、何だったのか?」。
 農の世界に飛び込んだのも、近代化以前の自給自足の暮らしを追体験したいとの思いから。
 宇宙ステーション「ミール」から地球を眺めた体験は、環境破壊の進行を前に、自分も行動する時ではないか、との思いを強くしてくれたという。

 日本は戦後、高度成長からバブルへと、常に経済成長を求めて突き進んできた。
 「1980年代には、既に買い替え需要しか望めなくなっていた。ものが行き渡った先では、欲望を刺激するしかありません。だから、必要ではないにもかかわらず、あたかもそれがないと暮らせないようにあおった。IT化もその一環ですよ。誰にとっての幸せなのかの問いかけもないままに、便利だということが呪文になった。便利さとは電化することであり、その延長線上に、エネルギー供給、すなわち原発があるわけです」

 パソコンは60歳のときに手放し、「原発難民」になるまでは携帯電話も持たなかったという。
 それでは、経済成長に頼らない生き方のヒントは、どんなところにあるのか。

 「農業や漁業など1次産業が軸にしているのは、暮らしですよ。利益や発展を必ずしも求めているわけではなくて、そこで暮らしを維持していけることが基本目標なんです。私もシイタケを栽培しながら、コメや野菜をつくって、それなりに食べていけていたわけです。ナスが一山いくらになったかに一喜一憂するのではなく、ナスがなったからただそれを食べるという暮らし。豊作の年もあれば、不作の年もある。株式会社が農業に参入するというけれど、それは利益が目的であり、そもそも1次産業に単年度決算なんてそぐわないわけです」

 依然、収束のメドが立たない原発事故。
 秋山さんの滝根の家は30キロ圏外にあり、「自主避難」の身だが、この先どうするつもりなのか。

 「(原子炉建屋に)ふたがされれば戻れるかなとも思っていますけど」
 しかし、直接販売で年間100万円の売り上げがあったシイタケは、放射性セシウムなどを吸収しやすいとされることから、当面はあきらめなければならないという。

 「おそらく30年は…。そんなにたったら、俺は白寿(99歳)だよ。セシウムはそれでやっと半減だからね。政府が言うように『ただちに健康に影響を与えるような数値ではない』かもしれないけれど、人様に安全な食べ物です、と言って売れません。風評被害は政治不信そのもの。詳細なデータを公表することもなく、基準値以下ですと言われても、消費者が買わないのは、庶民の知恵ですよ」

 そして、率直な胸中をこうも表現した。

 「平和な老後をおびただしく破壊されました。秋に稲刈りをしたら、わら人形を作り、原子力ムラの人たちの名前を張って、くぎを打ち付けたい思いです」

 それは、福島の人々の怒りでもあるかもしれない。
 山里で地道に農業を営んできた秋山さんが、人を呪わなければならないとは…。
 原発事故の業は深い

(2011年7月28日毎日新聞東京朝刊「原発難民」となって−元宇宙飛行士・秋山豊寛さん)

京都造形芸術大(京都市)は2011年11月1日、日本人初の宇宙飛行士で農業の秋山豊寛氏(69)が同日付で芸術学部教授として着任したと発表した。任期は2017年3月まで。

 同大学は「秋山氏が取り組んでいる農の分野から学生の人間力指導にあたってもらう」とコメントしている。

 大学によると、秋山氏は大学卒業後にTBSに入社。1990年、宇宙飛行士として旧ソ連の宇宙飛行士2人とともに宇宙船に乗り宇宙飛行した。

 1995年に退社後、福島県で農業を営み、無農薬栽培などをしていたが、東京電力の福島第1原発事故の影響で中断している

(2011/11/01 13:19 共同通信)

TBS(東京放送)は創立記念事業として、社員を宇宙へ送る計画を着々と進めていた。
 遂に1990年12月、外信部デスクの秋山さんが9日間の宇宙飛行を行ない、無事帰還した。
 私をはじめ、当時の宇宙開発事業団関係者にはショックなできごとであった。
 我々のプロジェクトは日本最初の宇宙飛行士を誕生させることが大きな目的であった。
 先を越された。
 民間の放送局がソ連の宇宙ステーションに社員を送ることなど誰も考えていなかった。
 悔しさ一杯でテレビの実況にかじりついていた。
 帰還後、秋山さんは立花隆さんとの対談の形で、分厚い著書≪宇宙よ≫を出版した。
 秋山さんの体験が詳細に語られているこの本を通して、彼を理解したと思った。
 間もなく、秋山さんがTBSを退社して福島県で農業をやると聞いた時、田舎にいて時々都会で講演をして生計をたてる華麗なる転身をしたと思った。
 宇宙帰還後の秋山さんの書いたものを目にする度に、素直な気持ちで読むことができなかった。

 去る10月13日、世界宇宙飛行士会議のパーティで、やっと念願の秋山さんと話をすることができた。
 秋山さんが農業に転向したのは本気であり、彼が真剣に地球環境問題に人生を捧げる覚悟であることを知り、ショックを受けた。
 きっと福島で農業をやりながら、大地にのめり込んでいったのだと思った。

 日本人最初の宇宙飛行士として誇れる人物であることを知り、ホッとし、うれしい出会いであった

(『月刊なごや』2003年12月号より、宇宙飛行士になりたかった大学教師 澤岡昭「大地にかえった宇宙飛行士」)
http://www.daido-it.ac.jp/~sawaoka/yume/yume_36.html

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2012年10月26日

鴻巣市ご当地グルメ

 「辛気くさいお話し」から、「辛み」いっぱいの味覚に話題を替えて、と…。
 まずはなにからと申しますと、これが「冷麺」なんですねえ…。
 10月21日今週の日曜日にプレイバック、プレイバック!
 鴻巣市「第14回コスモスフェスティバル」に戻って、市ご自慢の「郷土料理」、B級グルメっていうんですか、ご当地グルメっていうんですか、その出来上がりの料理もさることながら、日々おつくりになっている生産者のお姿に戻って、と。
 
 まずはその、「冷麺」から!

新たな麺の創出を心がけています。
 ここ鴻巣は昔、有名な小麦の産地でした。

 それに付随する産業として製粉製麺業が盛んになり、弊社も明治22年より本業を営み、現在に至っております。

 昔からの製法を守りつつ、一方、常に時代の流れを読み、お客様とともに新たな麺の創出に心がけています。

 近年は業務用韓国冷麺の生産にも力を入れ、全国の焼肉店などでご愛用いただいております

(「吉見屋製麺所」(鴻巣市人形1−5−13 Tel 048-541-0161)
http://www.ikw.ne.jp/kqw/web/q07191/t1_r.html

 山歩クラブはイマから何年前になるのでしょうか、「岩手県・栗駒山を歩いた後、盛岡駅前で盛岡冷麺を食べて帰京するんだ」山旅を企画実施したことがありました。
 その盛岡冷麺をここ、鴻巣市で作っておられるとは、つゆ知らず、いやあ、ビックリしました!

『埼玉県は、中華麺の出荷額全国1位(※1)!
 さらに、そば・うどん店の数は、なんと全国2位(※2)です。
 また、麺類の原料となることが多い小麦の収穫量は全国5位(※3)。
 そのおいしさを全国にも発信しています。

 ※1 2009(平成21)年「工業統計調査」(経済産業省)
 ※2 2009(平成21)年「経済センサス-基礎調査」(総務省)
 ※3 2010(平成22)年産麦類の作付面積及び収穫量(農林水産省)』

(おっ、そ〜なんだ?!埼玉!その26)
http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sainokuni/sainokuni-kensei-8p2310.html#lnk6

 中華麺もそうなんですけどじゃ、「冷麺」もおつくりになっているのが「吉見屋製麺所」。
 そうなんですよね、グルメには国境も争いごともイデオロギーもございません。
 ここでは、なんとあの「川幅うどん」も!
 あれからもう一週間にもなりなんとするのに、いまだヤッホー君の冷蔵庫のなか。
 いつもとりだしては、どうやって煮込もうか、と首を傾げては、にこにこしているのだそうです。だって幅が…

誰もが目を見張るその幅広麺。
 原則5センチメートル以上の幅が認定条件の川幅うどんは、鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅が日本一であることが由来。

(奥秩父に源を発する「荒川」は、鴻巣市で両岸の土手の間の距離が2537mあり、日本一の川幅を誇ります)

 見た目のインパクト大ですが、実は、鴻巣産小麦にこだわって丁寧に仕上げられた麺が、旨味抜群。
 超逸品の優等生なのです

ibid
…さらに、http://www.konosu-kanko.jp/gourmet/kawahaba_gourmet.html

 そして噂に違わず美味しかったのが、「こうのすコロッケ」!
 当日の会場「コスモスアリーナ」(鴻巣市明用636-1)では、ご主人があげたてのアツアツのを食べていきなさい、ってわざわざ見ている前で、ご説明兼ねて調理してくださいました。
 いいね、さ・い・た・ま・け・ん!

中仙道宿場町の歴史を刻む雛人形と花のまち、鴻巣。
 戦後60年間、鴻巣市内の肉屋でつくられ、親しまれてきた手作りコロッケです。
 明治33年創業の老舗「つけしん」(鴻巣市本町1-8-14 Tel 048-541-0237)で製造販売しています

ibid

…さらに、
117年続く老舗の漬物店。
 伝統の奈良漬け、味噌漬け、たまり漬けを守りながら、浅漬けなどの新商品も手がけている。
 新商品は「旬鮮新奈良漬」。
 埼玉県産白うりを浅漬け風奈良漬けとして開発。
 青々とした色合いとフレッシュな歯ごたえ持つあっさりとした味が評判。

 漬物とともにお店の看板商品となっているのが、「こうのすコロッケ」。
 市内の精肉店が廃業したことをきっかけに、長く親しまれた地域の味を残したいと一念発起、精肉店の主人からそのままの味を伝授された。
 シンプルなじゃがいもと玉ねぎを使い、懐かしく何度でも食べたくなる味。
 毎朝手作りし、本店ではお客様の注文に応じて揚げたてを作っている。

 「地元の商業者は地域を支える力」と語る専務の恵司さん。
 「こうのす若手商業者同好会」の会長を務め、月1回の「こうのすパーキングバザール」など数多くのイベントを開催し、地元商業者とお客様にふれあいを賑わいとコミュニケーションのある買い物を楽しんでもらえるよう尽力している

http://www.saitama-j.or.jp/syougyou/genki/shop/c4025_sozai.html

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2012年10月25日

散骨

 ところで「散骨」…辛気臭いお話しで恐縮ながら…

遺骨を海や山林にまく散骨に関心が高まっている。
 背景にあるのは、自然に返るという死生観に加え、少子高齢化に伴う墓の管理、継承の問題。
 先祖代々の墓を閉じて、海にまく人もいる。
 上映中の邦画「あなたへ」(高倉健さん主演)も散骨が主題だ。
 東京湾での散骨に同行し、最新事情を探った。
 (杉戸祐子)

 10月13日午前、東京湾の浦安沖。
 東京・越中島から出航した小型船が止まると、6組の家族ら15人がデッキで散骨を始めた。
 遺骨はそれぞれ事前に砕いて粉末状にし、水溶性の紙に包んである。
 海面で紙が溶けると、一瞬だけ白色が広がり、深緑色の海原に消えていく。
 一緒に投げ入れられた色とりどりの花が波間に揺れる。空をカモメが舞っていた。

 NPO法人「葬送の自由をすすめる会」(東京都文京区)による合同葬。
 千葉県木更津市の女性(40)は両親の遺骨を投じた。
「両親は≪子孫がずっと続くわけではない≫と墓を望まず、≪夫婦で海に≫と言っていた。寂しいが、喜んでくれたと思う」
 涙があふれ出た。

 東京都小金井市の女性(74)は婚家と実家の墓に眠っていた11人分を散骨した。
 跡継ぎがおらず、墓を閉じた。
 「生命の源だった海に返すのは自然。肩の荷が下りた」
 船は周囲を旋回し、汽笛を三度。
 女性は手を合わせ、こうべを垂れた。

 同会は1991年に国内で初めての散骨を実施したという。
 これまでに海や山林に3000人分以上の散骨を行なった。
 安田睦彦会長(85)は「核家族化や少子化で墓を継承できない現実の中、死後の選択肢として根を張った」

 散骨は残される者への思いやりともなる。
 2010年に父親の遺骨を、故郷の北海道の近海にまいた東京都町田市の女性(65)は「北海道に墓はあるがそうそう行けない。散骨は父の希望で≪海はつながっていて、どこでも会える≫と言っていた」。
 今年のお盆は神奈川県の湘南海岸に花やビールを供えた。

 散骨する業者も増えている。
 1994年から1000件以上を行なってきた葬祭業「公営社」(東京都新宿区)の担当者は「同業者が手がけるようになったほか、異業種から散骨専門での参入もある」と話す。

 創業4年の「清蓮」(横浜市戸塚区)は、主に首都圏近郊の海で月約50件の散骨を行なう。
 うち10、20件程度は、遺族が立ち会わない代理散骨。
 高齢の遺族が申し込むほか「縁の薄い親類の遺骨をまいて」との依頼もあるそうだ。
 また、生活保護受給者の死亡時に、自治体などが遺族らに散骨業者を紹介する例もあるという。

 同社の場合、個別で船をチャーターすると125,000円から、合同散骨は95,000円から。
 代理散骨は35,000円からと比較的安価だ。

 散骨について、厚生労働省は「法的規制はない」としているが、違法とみなされた時代もあった。
 1990年の総理府(現在の内閣府)の世論調査でも、散骨に過半数が否定的だった。

 ところが、第一生命経済研究所が中高年者を対象に2009年に実施した調査で、散骨を希望したのは29%。
 逆に「好ましくない」は15%。
 同研究所の小谷みどり主任研究員は「散骨に対する忌避が薄れている」と話す。

 ただ、農産物の風評被害などを懸念し、条例で散骨を禁じている自治体もある。
 2005年の北海道長沼町が最初。
 首都圏では埼玉県秩父市が「墓地以外の場所で、原則、散骨をしてはならない」としている

(2012年10月20日 東京新聞朝刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012102002000091.html

 葬送には、火葬以外にも土葬、自然葬、鳥葬、樹木葬といろいろあるようで。
 では、外国では、というと、ヤッホー君の情報源、イギリスのガーディアン紙とオブザーバー紙から二つほど記事を紹介しおきます。

Now people are more likely to take the ashes home after the funeral, to bury them or scatter them out of doors. Scattering is particularly popular, returning them to the earth, often according to the deceased last wishes, on mountains, in the woods, in the garden, at cricket grounds, football pitches and even dispersing them to the winds on a fairground ride in full swing, which has been a problem at Disneyland.

All over Britain there are small domestic shrines – urns, boxes and caskets in sitting-room cabinets, or on mantelpieces, often surrounded by mementoes – photographs, ornaments, spectacles. Or else the ashes are placed out of sight. A favourite place seems to be the bedroom wardrobe: intimate, enclosed and private.


What to do with a loved one's ashes
They pose a peculiarly modern problem. Some scatter them, others bury them. You can even launch them in a firework. But what if you can't make up your mind what to do with a loved one's ashes after the cremation?
(The Guardian, Friday 9 March 2012 23.55 GMT)

So many people want to scatter the ashes of family and friends in beauty spots that the government has been forced to step in with anti-pollution rules. Last month, staff at the Jane Austen House Museum in Hampshire discovered piles of human ashes scattered around the novelist's home and gardens, and football grounds, rivers, parks, golf courses, lakes, rivers and mountain tops have all become favourite remembrance spots.

Cremation etiquette
The scattering of ashes is discouraged by the Cremation Society...

• On mountain tops, where ashes can affect plant life

• In rivers, near places where people bathe or fish

• Less than a kilometre upstream of where water is taken for drinking

• If plastic wreaths are thrown into the water or left on river banks

• On windy days, when ashes affect people living and working nearby

(Stop scattering ashes, families are toldThe number of cremations is soaring. Now the government is protecting beauty spots as relatives spread their loved ones' remains far and wide)
John Vidal, environment editor
The Observer, Sunday 18 January 2009

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2012年10月24日

あなたへ

 10月24日水曜日、ヤッホー君は日比谷へ。
 午後4時10分からの回で映画『あなたへ』を「日比谷シャンテ」(千代田区有楽町1-2-2 Tel 3591-1511)で観るためです。
 8月25日に公開、もう今週の金曜日10月26日には終了予定ということですから急ぎました。

妻の故郷への旅。
 多くの人々との触れ合い。
 そこには妻の本当の願いがあった。
 北陸のある刑務所の指導技官・倉島英二のもとに、ある日、亡き妻・洋子が遺した絵手紙が届く。
 そこには、一羽のスズメの絵とともに“故郷の海を訪れ、散骨して欲しい”との想いが記されていた。
 刑務所に慰問に来た歌手であった洋子とは50歳を目前に結婚し、晩婚だった二人は子供を望まず穏やかで幸せな夫婦生活を営んでいた。
 15年間連れ添った妻とはお互いを理解し合えていたと思っていたのだが、妻はなぜ生前その思いを伝えてくれなかったのか…。
 英二は、妻の真意を知るため彼女の故郷を訪れることを心に決める。
 監督:降旗康男
 出演:高倉健、田中裕子、佐藤浩市

http://hlo.tohotheater.jp/net/movie/TNPI3060J01.do?sakuhin_cd=009371

 いい映画でございました。
 カナダで開かれていた第36回モントリオール世界映画祭で9月3日、この映画は、人間性の内面を豊かに描いた作品に与えられる「エキュメニカル審査員賞」の特別賞を受けたほど。
 ぜひ、劇場に足を運んで観てくださいね。
 公式サイトは下↓をご参照ください:
http://www.anatae.jp/

 この映画には、大滝秀治さん(10月2日午後3時17分、肺扁平上皮がんのため東京都内の自宅にて亡くなった。享年87歳)、それに山口百恵・三浦友和の次男、三浦貴大(1985年生まれ)も出演していました;

降旗監督と大滝さんの付き合いは1978年の映画「冬の華」から始まる。
 同作に大滝さんは高倉健の兄役として出演。
 降旗監督は「健さん主演の映画にはよく出ていただき、アクセントになる演技をしていただきました。思い入れの深い作品にいくつも出ていただきました」と共に仕事をしたことを振り返る。

 「今回は漁師役ということで、散骨のシーンで一度だけ船に乗って外海にまで出ていただきました。外海に出ていくお元気な姿が最後になってしまったのが残念です。ご冥福をお祈りいたします」と続け、盟友の死を悼んだ。

 「あなたへ」では「祖父と孫」として大滝さんと共演した三浦は「普段は優しく声をかけてくださり、笑顔がすてきな方でした。しかし、一度芝居の現場に入れば、真摯に、そして厳しくご自分の役に向かっていくその姿に、役者として大切なものを学ばせていただきました。大滝さんと共演し、同じ場所に立てたことは僕の宝物です。ご冥福をお祈りいたします」とコメントしている

(2012年10月5日 17時36分更新 ネマトゥデイ映画ニュース 編集部・市川遥)
http://www.cinematoday.jp/page/N0046618

10月2日に亡くなっていた俳優大滝秀治さんの遺作となった映画「あなたへ」に主演した高倉健(81)が5日、大滝さんへの感謝と追悼の思いをつづったコメントを発表した。
 多くの映画で共演し、今年8月の日刊スポーツの取材には大滝さんについて「僕が一番尊敬する俳優」と話していた。
 入院中の大滝さんとの手紙のやりとりも明かし、文面から、俳優を今後も続けていく勇気をもらったという。
 2人は深い絆で結ばれていた。

 高倉のコメントには、大滝さんへの敬愛がにじんでいた。
 「最後のお仕事の相手を務めさせていただき、感謝しております。今までご一緒させていただいたいろいろな場面が思い浮かびます。本当にすばらしい先輩でした」

 かけがえのない先輩だった。
 今夏、大滝さんから1通の手紙が届いた。
 8月、高倉は日刊スポーツの取材にその内容の一部を明かし、思いを語っていた。

 「病院にまだ入っています」という書き出しの文面には、自分への感謝の気持ちがつづられていた。
 高倉が「あなたへ」の中の大滝さんの演技を絶賛していると知ったそのお礼だった。
 漁師役の大滝さんが高倉演じる主人公に「久しぶりに美しい海を見た」とつぶやく場面を「平凡なセリフだと思ったが、大滝さんが言うことで深い意味を感じた」
 撮影直後、あまりの感動に現場で涙をこぼした。
 高倉は俳優をこのまま続けていくのか、迷っていた時期だったが、その演技を目の当たりにして「まだまだ一生懸命やっていかなきゃだめだと思い直させてくれました」という。

 大滝さんの手紙には「1つのセリフには9つの言い方があると教えられてきたが、私は1つしかないと思っています。あの時は心を込め、その1つでセリフを言いました。それをあなたは分かってくれてうれしい。ありがとう」と書かれてあったという。
 テクニックではなく、気持ちが何より大事。
 「思っていることが一緒でした」
 以来、手紙のやりとりが続いた。

 俳優人生が完全否定から始まった共通点もあった。
 大滝さんは劇団入りしたが演出家から「声が悪い。裏方やれば」と言い渡された。
 高倉も映画デビュー前の演技レッスンで「俳優に向いていない。ほかの仕事をした方がいい」と告げられた。

 「そういう部分もあって僕はずっと大滝さんを見てきた。自分が頑張る力になってくれる。僕が会った中で最高の俳優さん」

 映画「駅 STATION」など多くの映画で共演した。
 精神的な支えでもあった先輩が旅立った。
 この日発表したコメントは「静かなお別れができました」とかみしめるような言葉で結ばれていた

(2012年10月6日7時49分更新 日刊スポーツ芸能ニュース 松田秀彦記事)
http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201210060012.html?ref=reca

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2012年10月23日

イエローキャンパス

 鴻巣市。
 中央には埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線(旧中仙道)が通っております。

五街道として整備された中仙道にあたることから、旧中仙道とも呼ばれる。
 沿線には、中仙道の宿場、大宮宿・上尾宿・桶川宿・鴻巣宿が置かれ古くから栄えた。
 現在でも大宮以北で並走するJR高崎線と合わせて、沿線自治体の中心市街地を構成し発展の基礎となった。
 大宮バイパスの名で建設された現在の国道17号の並走区間が現道になるまでは、この道路が国道17号
であった

(ウイキより)

 そしてこの旧中仙道を挟むように、その国道17号線とJR高崎線が通っているのです。
 荒川は鴻巣市の西側を流れ(東側には元荒川)、川を境に西は吉見町、東は騎西町、菖蒲町、北は行田市、大里村、南に北本市、桶川市と接続しています。
 埼玉県には、『40の市、22の町、1つの村がある。市の数40は日本の都道府県で最多』(ウイキ)だそうで、日曜日の帰路、ヤッホー君たちはいったい何個の市を通ったのか、面白かったです(高速道路を走らず、国道17号線を南下して都内に入ったのだと思われます)。

 こうして訪れた鴻巣市のコスモス、感動の連続でした。

コスモスといえば、日本の秋を代表する草花である。
 でも原産地がメキシコと聞くと意外な気がする。
 それほど日本になじんでいる。
 日本へは1879(明治12)年、東京美術学校のラグーザ教授がイタリアから種をもってきたのが最初だった。
 以来、別名・秋桜ともよばれ、日本中どこででも見られるようになった。

 だが、最近ブームをよんでいるのが黄花コスモスである。
 東京・浜松町の浜離宮恩賜庭園や長野・黒姫山高原では、15万本の黄花コスモスが秋の野を黄や朱赤、あるいはチョコレート色に染めて、イメージを変えてしまった。
 夕焼けのように赤い(朱赤)サンセットは1966年、岩手・盛岡市の橋本昌幸氏が10年の歳月をかけて世に送り出した、世界初の日本原産の傑作だった。
 園芸品種コンクールでは、世界最高権威のオールアメリカン・セレクションで日本人初の金賞に輝いている。

 さらに1957年、東京・玉川大学農学部の故佐俣淑彦教授がめざした黄花コスモスも研究室で受け継がれ、30年の研究の結果、「イエローガーデン」が1987年に誕生する。
 そしてまた、黄色の濃い「イエローキャンパス」は、1999年に創出された

(三菱ふそうトラック・バス株式会社2005年発行「FUSO 9月号(通巻419号)写真と文・木代圭)
http://www.mitsubishi-fuso.com/jp/prfuso/2005/0509/top.html

 ヤッホー君たちが観た黄花コスモスは、「イエローキャンパス」。添付した写真をご参照下さい。

 でもやっぱり気になる「三菱ふそうトラック・バス株式会社」、この社内誌が出た頃、コスモスどころではなかったのでは、と社内の雰囲気をお察し申し上げます。だってえ〜、2011年1月、ダイムラー社から300億の第三者割り当てによる増資を実施、資本金は350億円、出資比率はダイムラー社 89.29%、三菱グループ各社10.71%に変更、なんですって:

三菱ふそうトラック・バス株式会社(以下、三菱ふそう)は、2006(平成18)年メルセデス・ベンツ、フレートライナーと共にダイムラー・クライスラー社(現在ダイムラー社)のトラック・バス部門の一員になりました。
 ダイムラー社と言えば乗用車のメルセデス・ベンツですが、トラック・バス部門では、欧州はメルセデス・ベンツ、アメリカはフレートライナー、アジアは三菱ふそうがトラック・バスの生産販売を担当し、この3拠点で全世界をカバーしています。
 特に、三菱ふそう喜連川研究所(以下、喜連川研究所)は、三菱ふそうの中で研究と開発関係を担当しており、製品の製造にあたり非常に重要な位置づけとなっております

http://www.pref.tochigi.lg.jp/kogyo/voice/031.html

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2012年10月22日

鴻巣市

降嫁が勅許となる背景には岩倉具視の説得が大きく影響したといわれます。
 「いま幕府と争うよりも、名を捨て実を取るほうが良策である。幕府が熱心に降嫁を望んでいるのでこれを許可し、今後は外交問題だけでなく内政についても、大事は奏聞の後に施行するよう幕府に命じて、政治の実権は朝廷にあるようにするべきだ。幕府に条約破棄を命じて、これを受けるなら降嫁の願いを勅許すればいかがでしょうか」
 朝廷の復権を目指す岩倉具視は、幕府の目論見を知り、それを逆手にとって、朝廷が主導権を得る絶好の機会だと判断したのでしょう。
 夷人嫌いの天皇とすれば、「妹宮は関東には恐ろしい夷人がいるから行きたくないと怯えているけど、幕府が夷人を追い出すと約束するのなら、和宮を嫁がせても良いのではないか」と思われたのかもしれません。

 この攘夷実行の条件を幕府は受け入れ、「7,8年ないし10年のうちには条約を破棄して、外国を追い出し鎖国にもどす」という誓約をおこないました。
 できもしない無責任な約束をしたのですが、後々この「攘夷実行」が言質となって幕府を苦しめることになりました。

 和宮降嫁は広く世間に伝わりました。
 公卿の中にも岩倉具視を批判する人がいましたし、攘夷激派志士たちは「幕府は皇妹を人質にするつもりだ」と騒ぎ、天皇が反対されているのに、公卿の中に幕府から賄賂をもらって推進した者がいるのだ、など各種の噂が広まりました。

 1861(文久元)年10月20日(陽暦11月22日)公卿や女官など数千人を従えた和宮の行列は京都を発ち、中山道を江戸に向かいました。
 11月15日(陽暦12月16日)江戸に着。

 激派浪士が和宮を京都に返すために道中を襲うという噂があり、行列の警固は厳重をきわめました。
 中山道に近い忍(おし)や川越など41藩が沿道の警備に大量動員されました。

 1862(文久2)年2月11日、将軍家茂と和宮は婚儀の式をあげました。
 大奥での和宮と姑の天璋院の間には確執があったようですが、同い年の将軍家茂とは仲睦まじかったそうです。
 しかし家茂は1866(慶応2)年、わずか4年後に亡くなってしまいます。

 剃髪して静寛院と称した和宮は、のちに幕府が崩壊した動乱時には徳川の女性として、徳川家の存続を京都へ嘆願しました。
 明治後も徳川慶喜が存続できたのは、彼女の尽力があったからだといわれています

(歴史倶楽部)
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/index.htm

 江戸時代、この中山道の宿場町として栄えていたのが鴻巣市だったんですねえ〜、すご〜い!しかも150年も前のこと、この道を数千人もの大行列が歩いて通っていったんですよ、すご〜い!!

 しかし、そうとも知らず、昨日のヤッホー君、首をかしげるばかり。
 国道17号線って番号が若いから基幹道路だよねえ、だって下町を横断しているのが国道14号線、つまり「京葉道路」でしょ、これが東北道なのかな、とか、あのJRの線路って何線なんだろう、電車が何両も長い編成の電車だよねえ、下町を京葉道路に添って走るのは総武線でしょ、そしたら東北本線?
 この間、ヒガンバナ(万寿シャゲ)を見に訪れた幸手は日光道路沿いでしょ。
 そうだよ、そうだよね、とかまるで地図落としをしないで、ナビ様に頼りっきりで走っているので、まったく見当もつかないようです、しっかりして、ヤッホー君!

鴻巣市は埼玉県のほぼ中央に位置し、南西部を秩父山地を源流とする荒川が流れ、関東ローム層や荒川沖積層からなる肥沃な土地で、気候にも恵まれ、花卉や果樹などの栽培に適しています。

 「こうのす」の名の由来は、かつてこの地に无邪志国(むさしのくに)の国府が置かれたことから「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったと伝えられています。

 1964(昭和29)年に1町5ヶ村(鴻巣町、箕田村、田間宮村、馬室村、笠原村、常光村)が合併して県内17番目の市として誕生した本市は、江戸時代には中山道の宿場町として栄え、370年余の伝統を誇る「ひな人形のまち」として、また近年では「花のまち」としても全国にその名が知られています。2005(平成17)年10月1日に、吹上町、川里町と合併し、新鴻巣市が誕生しました。

 現在では首都圏50km圏内という地理的条件に恵まれ、東京のベッドタウンとして、また、県央部の中核都市として発展を続けています

(鴻巣市の公式サイト>鴻巣市の概要>鴻巣市のプロフィール)
http://www.city.kounosu.saitama.jp/11,1215,37,301.html

埼玉県では、NPO、市等と一緒に旧街道や旧宿場町などに埋もれている歴史的景観資源を保全・活用するまちづくり「歴史のみち景観形成プロジェクト」に取り組んでいる。
 今後、地域における景観法の活用等の取組みを推進するため、県では「歴史のみち景観モデル地区」の選定を進める。
 歴史のみち景観モデル地区(2012(平成24)年度選定)
 2012(平成24)年度は中山道に位置する以下の2地区をモデル地区として選定する。
・鴻巣宿地区(鴻巣市人形〜加美、旧中山道沿線)
・蕨宿地区(蕨市北町・中央、旧中山道沿線)

鴻巣宿は、人形のまちとしても知られる中山道7番目の宿場町
 往時の歴史を偲ばせる寺社や仏閣等が数多く残り、今に歴史を伝えている。
 これらを活用した中心市街地のまちづくりの検討や歴史的建造物を巡るまち歩きを開催するなど、さまざまな取組が行なわれている。
・鴻巣市及び「鴻巣郷土史会」と協働し、景観まち歩きイベントを実施する。
 中山道沿いの市町や地域住民等による景観協議会を組織し、街道の統一感のある景観を保全するための景観協定の策定等を目指す』

(2012(平成24)年8月28日 都市整備部田園都市づくり課 2012(平成24)年度「歴史のみち景観モデル地区」の選定について)
http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/518081.doc

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2012年10月21日

秋桜(コスモス)

 10月21日日曜日、雲ひとつない秋晴れの行楽日和の本日、ヤッホー君は、秋の花を探しに職場の友に誘われ、郊外に向かいました。
 錦秋の日本、なにも山の特権ではないのだそうで、里にも。

センセーション.jpg

イエローキャンパス.jpg

荒川河川敷約4.3ヘクタールの広大な敷地に、約1000万本のコスモスが咲き広がります。
 特設ステージでのさまざまなイベントや模擬店をはじめ、地元農作物の直売、フリーマーケットなどをお楽しみいただけます。
 秋のひとときを、可憐なコスモスを眺めながらお過ごしください

(「市民の日」制定記念 第14回コスモスフェスティバル)
http://www.city.kounosu.saitama.jp/events/detail.1.23773.html

 特設ステージでのイベントでヤッホー君が感動したのは、「吹上秋桜高校」和太鼓同好会の若い皆さんの和太鼓、でした。

 B級グルメ、と申しますか郷土料理のコーナーでは、「こうのすコロッケ」、「こうのす川幅うどん」を購入しました。

 そうなんです。場所は、埼玉県鴻巣市、ヤッホー君ははじめてお伺いしました。

 立ち寄り湯は、北本天然温泉「楽市楽湯」(北本市山中1-62 Tel 048-593-2525)

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2012年10月20日

錦秋の清里

 10月20日土曜日。
 この日はヤッホー君の定期券が切れる日、…そんな個人的なことじゃなくってさ、立冬(11月7日水曜日)のまえの18日間は秋の土用なんですって。
 なに食べようかな、うなぎは夏だし…、一切れ88円で買ってきました、秋鮭ですかね、やっぱり…
 
 清里の秋…、
 ほんとうに良かったですね。
 川俣川に落ちる「小滝」の白糸の滝。
 澄んだ川俣川の流れに沈んだ黄葉に、後ろから木の葉の影が射しています、こんな芸術的な風景は見たことがない、だから写真は「作品」となっている、なんてヤッホー君は思ってる写真。
 えっ?ヤッホー君の靴まで映ってやしない?だから「駄作」…!
 この2葉、今日の「日記」に展示したいのだそうです。
 東日本大震災で自粛し、中断して以降、今年度も開かれなかった「山歩クラブ 山の作品展」。
 来春こそ、仲間のいろんな「作品」を持ち寄って展示する発表の場をまたぜひ、復活させたいものですね。

小滝.jpg

秋の川.jpg

 それにしても清里。
 歴史を秘めた清里。
、八ヶ岳の麓の清里。
 ロマンを肌で感じるためもう一度、せめて再度の清里お山歩会、あの安池興男を偲ぶお山歩会をしないとヤッホー君、夜も眠れないそうですよ。

『「清里の駅前はピーク時1坪500万円になりました…
 だけども、どんどん下がっていきましたね。
 50万になり、30万になり、あっという間に今は清里駅前で競売になったら3万円でも買い手がいないかも知れません…
 それは地元の人たちには信じられない訳です。
 そこまで急激に落ちるとは誰も予想していなかった(出所)国土交通省関東運輸局(2010)』


『ピーク時130軒に増えた清里のペンションは、約20年を経て、40軒台にまで落ち込んだ模様である(清里観光振興会のウェブサイトに平成24年6月12日現在掲載されている数は54軒とやや回復している)』

『一方で、清里駅周辺は静かなシャッター通りと化しており、現時点で目立った再生の動きはみられない状況である。
 急激な地価の下落を経て、公的な整備の部分を除けば改めて手を加えるのが難しい事情も考えられる。
 人の流れは、キープ協会、萌木の村、ペンション、別荘、スポーツ施設などの「点」を志向するようになっており、かつての「面」的な広がりはなくなっている。
 加えて「清里ブーム」の後遺症は、一定の年代層以上に残された「メルヘン」の負のイメージである。
 このイメージは地域の特性に根ざしたものではなく、外から仕掛けられた作り物や借り物であったために、例えば清里でペンションに泊まるといった行為に、今でもある種の気恥ずかしさを感じるといった声を聞く…』

(いずれも平成24年6月29日 財務省関東財務局甲府財務事務所 経済調査レポート(No.6)「再生するカンティ1≪清里≫本来の魅力」所収)
http://kantou.mof.go.jp/kofu/keizai/292reporte240629.pdf

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2012年10月19日

安池興男

 安池興男(やすいけ・おきお)。
 何年に生まれ何年にお亡くなりになったのか、お分かりの方はお知らせくださいね。
 10月19日ハナキンの晩には、秋の虫の唄を聴きながら、彼にまつわる4つの物語をまた、じっくり読んでみませんか。

 まずはお孫さんの手記から:

この丹波山村、小菅村の視察の様子から脈ありと見た祖父は翌月10月に丹波山村を訪れ、酒井村長宅で詳しい入植条件を村民に提示した。
 そこから村民の真剣な話合いが始まるが、新天地に対する不安が拭い去れずに、結論まではなかなか届かなかった。

 翌、昭和13年3月に再度、丹波山村村長を訪問した。
 同席した東京市の職員は小作料の3年間負担を東京市がすると申し出る。
 だが、凶作の不安を持つ人々は5年負担をして欲しいと譲らなかった。
 その時、祖父が「開拓3年以上にわたって経営の見通しのつかないような事業は、私達は計画いたしません。それを5年の補償にこだわるような建設意欲のない農家の入植は、私達は指導上、見通し困難と思わざるをえませんな」と伝えたそうだ。
 村人達はこの祖父の顔を見やった。
 言葉は穏やかだが、言うことは厳しい。
 村人達は驚いてこの一言で態度を決めさせたというお話であった。

 昭和13年4月15日に安池興男開墾事務所長に1本の電話が入る。
 丹波山村の代表である。
 「決めました。翌17日に入植します」
 今度は祖父のほうが驚かされた。
 余りに唐突で、迎える側としての準備の時間もないからだ。
 「待ちなさい。入植をきめてから、しばらくの間時間をくれなければ。こちらの受け入れ態勢も整わない」
 「いえ、もう待てません。どうしても17日に行かせてください」とのやり取りだ。
 耕作を放棄し、わずかな補償料しか得られないと分かった貧しい人々たちはもう一刻の猶予もない状況に追い込まれていたのだ。

 丹波山村、小菅村の人々は昭和13年4月17日、甲府駅で安池興男開墾事務所長に迎えられ、清里に入植したのであった。
 この4月17日を八ヶ岳区の人達は「入植記念日」として大切に春祭りを行っている。
 今年は、この昭和13年から数えて70周年となる年であり、記念行事が行われたのである。
 私は、この入植70周年記念式典に安池興男の子孫(孫)として招待を受け、参列させていただいた

(2008年11月24日朝9時に静岡を出発し、清里には11時30分くらいに到着した。清里開拓70周年記念式典に出席しました)
http://yasuike.pr-blog.jp/Entry/61/

 次は開拓者の手記から:

東京都水道局編・発行「小河内ダム竣工50年の歩み」(平成19年)が刊行工された。
 八ヶ岳の麓に移転した酒井冶孝さんの手記が掲載されている:

 白いモダンな形の魔法瓶。それがダム竣工式の記念品だった。当時は未だ珍しく、とても重宝させて貰ったものだ。顧みますと都民の水の確保と言う大儀の中で住民のそれぞれが新天地へと移動、我々の祖先は県営開墾事務所長、安池興男先生の斡旋により八ヶ岳への入植を決意。昭和13年4月大きな不安と期待を胸に2才の私と3才の姉を連れ、仲間28戸清里駅に降り立ち以来先生との深い交わりが生まれ運命を共にしたのです。
 足を踏み入れた八ヶ岳山麓は一面の笹の荒野で、物資の乏しい中での開墾の明け暮れ、気候的には夏青天井が我が家なりと快適だったが冬の雪と寒さは想像をはるかに絶し、誰れ彼れとなくこれでは子供が可哀想だ、学校がほしいと先生に懇願、早速国県に交渉するも理解が得られず最終、水道局のご高配により、これが大きな力となり昭和15年7月苦心の学校が完成。その経過は筆舌に難いものがあり当時における最大のエピソードである。その後住宅をはじめ計画された総てが完了、今日の基礎になっています

(古賀邦雄=水・河川・湖沼関係文献研究会=「移転民には十分な補償をしたか(小河内ダム・東京都)」
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=411

 入植当時の暮らしぶりです:

私たちはめいめいの小屋を建てたいと、安池所長に申し入れたのです。

 丹波山時代の、炭焼小屋作りの知恵が生かされました。
 丸太を組み、杉皮を張り、入口にむしろをたらすのです。
 広いものでも八畳間くらいのものでした。
 次々に家族が呼びよせられました。
 家財道具といっしょに、墓石までかついで来た一家もありました。
 子どもたちは、6キロ離れた清里小学校へ通いはじめました。

 高原での初めての収穫は大根です。
 青く茂った葉を握って一本一本引き抜いていったときの感激は忘れられません。

 安池所長の指導で農事組合が結成されました。
 初出荷は大阪の市場へキャベツを二貨車。
 大好評と聞いて、新米の組合員は手をとり合って喜びました。

 現金収入をふやすために、安池所長の勧めで野菜の行商をすることになりました。
 貨車で大根や馬鈴薯を甲府へ運び、所長の官舎に泊めてもらって、交替で市内を売り歩きました。

 「奥さん、わしら汚れているで土間のすみで結構です」
 「なにをいうのです。こちらへどうぞ」
 小屋では灯りと暖をとるために、絶えず松の根がくすぶっています。
 着る物にも体にも松ヤニがしみこんで、異様な臭いがするのです。
 奥さんはそんな私たちを、丁寧に客として遇してくれました。
 いっしょに官舎を廻って漬け物用大根の注文までとってくれたのです。

 11月に入るとまもなく、八ヶ岳の主峰赤岳に雪が降りました。
 雪は2回、3回と次第に下へ降りて来て、4回めには里へ届くのです。
 清里高原の長く辛い冬が始まるのです。

 ついにこの冬は、掘立小屋で過ごさなければなりません

(「感激の至情 楽土を拓く」安池興男・人と足跡)
http://www.kiyosato.gr.jp/rekishi/rekishi/yasuike.html

 入植したのは大人だけではありません。子どもたちもおりました:

『何とか農業が軌道に乗り、一安心している入植者に新たな問題が起きました。
 寒さのために部屋の中で燃やしている松のヤニの臭いが体に染みつき、子どもたちが学校でいじめられていることでした。
 地元の学校までは遠く、途中危険な所がいくつもあったので、入植者は分教場の建設を切望するようになりました。
 安池は小河内貯水池建設事務所や国と交渉し、建設費1万2千円を工面しました。
 しかし、業者にだまされ、現金と資材の大部分を持ち去られてしまいました。

 安池は、仲間割れも重なり、気落ちしている入植者と一緒に泣きました。
 そして、入植当時に戻って、自分たちの力だけで分教場を建設する方向に、みんなの気持ちを持っていきました。

 落成式で感極まり、これまでの複雑な思いが一挙に噴き出して、けんかが始まろうとしたときです。
 安池が叫びました。
 「ここまで我々を支えてきたのは何か。ただ、お互いの信頼感だけじゃないか。君たちは金が無いから真剣だった。貧乏だから団結した。富は必ずしも財にはならない」と。

 安池が奈良耕地課長に栄転した後、入植者はとんでもないことを知ります。
 入植して1年あまり、県からの支給物だとばかり思っていた肥料や種苗類のすべてが、安池の給料から支払われていたのです。

 生前、建てた墓地に安池は次のような言葉を刻みました。
 ≪感激の至情 楽土を拓く 興男≫」

(北杜のスローライフな歩き方 第3回「清里 開拓の道」〜清里開拓の恩人の足跡を訪ねて〜楽土を拓いた安池興男)
http://www.sannichi.co.jp/MAIL/HOKUTO/051001/312.html

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2012年10月18日

八ヶ岳興民館

 山歩クラブと清里との出会い、それはこのヤッホー君のブログ、2011年1月5日付けの日記「高根町清里」をご参照ください。
 
 なんでこうもヤッホー君を惹きつけてやまないのか、ポールラッシュさんの言葉との出会いも、もちろんあります;

Do your best, and it must be first class.
 (最善を尽くせ、しかも一流であれ)
 これは、ポールがもっとも尊敬する聖路加国際病院設立者でもある、トイスラー博士から伝授された思想です。
 トイスラー博士はポールに「もしキリストの名のもとに何かしようと思ったら、人々が目標としてまねのできる本物を示せ。しかもそれは一流のものでなければならない」と教えました。
 ポールはこの教えを忠実に守ったのです。教え子を導くために最善を尽くして清里を開拓し、人々に希望を与え、日米の友好にも尽くしました

(「最善を尽くせ、しかも一流であれ」ポール・ラッシュ記念センターへようこそ)
http://www.keep.or.jp/ja/paul/2009/04/27000222.html

 でも、それだけぇ〜!
 どうしてヤッホー君は清泉寮へ行ってアイスクリームを食べようとしないのか、どうして美し森展望台売店「山の上」(Tel 0551-48-2507)のアイスクリームの方へと足が向いてしまうのか、その謎の一端が今晩明かされようとしています!

 どのくらいヤッホー君に、清里の「土地の精霊」がせまってくるのか、その迫り方にどれだけ肉薄できるか分かりませんが、思いをできるだけ挙げていきたいと思うのでございます。

 まず、「県立八ヶ岳牧場」を書くときにヤッホー君が拠った「山梨ラジオ」からまいります:

現在は、観光地として県内外から多くの人が集まる清里ですが、実は、ほんの数十年前までは、多くが未開の地で、冬の寒さも大変厳しかったことから「山梨の北海道」とも言われるほどでした。

 1938(昭和13)年、奥多摩湖の建設に伴い、故郷が沈むこととなった丹波山村、小菅村の人々が、清里の地へ移り住み開拓が始まりました。

 清里というとポール・ラッシュ博士がキープ協会とともに大変有名ですが、時を同じくしてこの開拓を支えたのが、当時、八ヶ岳開墾事務所長を務めていた安池興男氏です。
 安池氏は、当時の農林省から県に出向してきた技官で、農業指導を始め献身的に開拓民をサポートしました。

 しかし、一面を覆うクマザサと貧しい土壌に、開拓は困難を極め、ダム建設のために移転を余儀なくされたにもかかわらず、水不足に苛まれるといった皮肉な結果も加わり、開拓民は大変な苦労を強いられます。

 開拓当初の住居も粗末なもので、朝起きたら布団に霜が降りていたなんてこともあったそうですよ。

 そんな開拓民の生活をなんとか改善するため、安池氏は、自らの生活を顧みず支援を続けました。
 開拓民への肥料の提供や、小学校建設への協力などをはじめとした安池氏の尽力は、開拓民との絆とともに、今もなお語り継がれています。

 その開拓民との絆の象徴ともいえるのが、清里八ヶ岳地区の興民館です。
 通常、公民館の「公」は、「おおやけ」という字を用いますが、こちらの興民館は、安池氏の名前「興男(おきお)」から一文字取り「興す」(興味の「興」の字ですね)が使われています。

 今では観光地として有名な清里ですが、多くの苦労やさまざまなドラマがあったんですね。

 さて、山梨県では、近年増えつつある耕作放棄地の対策として「耕作放棄地等再生整備支援事業」などの各種対策を進めています。
 詳しくは、山梨県農村振興課か各農務事務所、またはお住まいの市町村にお問い合わせください。

 多くの恵みを与えてくれる豊かな農地。
 今日紹介した「清里」のような先人の苦労の歴史とともに、大切にしていきたいですね

(2011年10月14日 07:20 投稿「清里」)
http://www.ybs.jp/radio/y-index/2011/10/14072000.html

 清里が磁場となっていたわけは、ひとつには、先人の血と汗と涙の開拓の歴史があったことが分かります。そうでしたかぁ。
 もうひとつには、東京に住む人たちの飲料水確保のために建設をはじめるダム、しかしそれは、建設予定地に暮らす人びとの立ち退きをもってはじめて可能になるわけです。
 こうして便益を供与されたわれわれ。
 先人のご苦労に対しまして、済まない、申し訳ない、艱難辛苦をおかけしました、という高ぶる気持ちが、自然が織り成す造形美に裏打ちされていたことが分かったのです。

 そうですか、トウキョウという大都市、そこに住む住民のための清里開拓の歴史が…

『「春の山吹やつゝじ、夏の山百合や秋のもみじ、又幾千年の昔から行はれた車人形、獅子舞など私達にとつて最も樂しく、何時迄も何時迄も心に殘り、夢となる事でせう。
 もう留浦で多くの人々は家をこはした樣です。
 農夫の働く有樣を見ても後幾年も居られないのだ、留浦の方では豊岡へ八王子へと行つてしまふのになどと思ひ心細くて耕すのもいやだと言ふ樣な風も見えます。(中略)
 東京市民六百萬の爲だと考へますれば、しかたがありません。
 私達は喜んで懐しい村を後に致しませう。
 さあ皆さん、一緒に今迄御恩になつた小河内へさよならを云ひませう
「小河内よさよなら」
 小河内の諸神樣よ、新しき村に行つてから後も、何時迄も。何時迄も。私達小河内村民をお守りなさつて下さい。
 そして立派な國民となれます樣に。・・・・・』

(故郷を去らねばならない水没村民の子供たちの心情を本澤貞子(西高二女)の作文より)
(水・河川・湖沼関係文献研究会 古賀邦雄「帝都の御用水の爲め」(小河内ダム)所収)
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=236

村からそう遠くないところにある小河内(おごうち)ダム(奥多摩湖)と清里の開拓には、どのようなつながりがあるのでしょうか。
 東京の人々の飲み水用としてダムが作られることになり、東京都の小河内村、山梨県の丹波山村・小菅村の合計647戸がダムの底に沈むことになりました。
 そこで、1938(昭和13)年4月17日、丹波山・小菅村の28戸の人々が清里に引っ越して行きました。

 最初のうちは、雑穀やじゃがいもなどを作っていましたが、1950(昭和25)年に2戸の農家が、初めて酪農を始めました。
 その後、酪農に熱心な人々は、研究会を作って、毎月3回の学習会を6年間続けました。
 この研究会に参加した他の地区の人々も農業と酪農をするようになりました。

 1955(昭和30)年頃には、清里の農業は大きく変わってきました。
 また、1953(昭和28)年頃には、清里周辺の町村(20数ヶ町村)が「集約酪農地域」に指定され、国の指導も受けながら酪農に力を注いだので、乳牛の数はとても増えました。

★ もう一人の清里の父・安池興男

 静岡県で生まれ、京都帝大卒の八ヶ岳開拓事務所長の肩書を持つ安池興男は、まだ30を少し超えたばかりの農林技師であった。
 1936(昭和11)年夏、彼は清里駅に降り立った。
 「甲斐国境にある山梨県の北海道」といわれた僻地の開拓に携わることになった安池氏は、小河内ダム建設の移転問題に深く関与し、小菅・丹波山両村からの入植を実現し、彼等と寝食を共にして開拓営農の確立と八ヶ岳部落の創生に支援を惜しまず、奮闘しました。
 5年の後、奈良県耕地課長として転任しましたが、開拓民とのきずなは清里を去った後も固く結ばれ、退官後も静岡県有数の山持ちとして、私財の投入を繰り返し行い、開拓民の困窮を救っています。

 1980(昭和55)年、経済的に余裕を持った開拓者達は、部落の集会所である公民館を清里小学校前に建設しました。
 老齢の安池氏は、最後の資金として1000万円を拠出しています。
 開拓者達は、「興男」の一字を冠して、「八ヶ岳興民館」と命名しました

(羽村市自然休暇村)
http://hamura-kyukason.jp/sight32.html

 羽村市っていえば、江戸町民のための玉川上水、その玉川上水の開削に際し羽村に取水堰が設けられていませんでしたっけ…

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2012年10月17日

国民文化祭

 「第28回国民文化祭北杜市プレ事業」と昨日の日記で書き記した「国民文化祭」って知ってました?
 テレビもなく、新聞もとっていない世情に疎い下町の仙人、いや貧民のヤッホー君、なぁ〜んにも知りませんでした。

 これは文化の国体なんですって、昨年2011年秋は京都府が舞台でした。

2011年11月6日(日)雨時々曇り…。
 10月29日(土)に開幕したと思っていたらあっと言う間に時間が過ぎ、「国民文化祭・京都2011 こころを整える〜文化発心〜」の閉会式・グランドフィナーレの日がやって来ました

(第26回国民文化祭京都府実行委員会事務局(京都府国民文化祭推進局)スタッフブログ)
http://kokubunsai-kyoto2011.jp/staff_blog/

 その閉会式の同じ日、ようやくバトンタッチできる県が無事に引き継ぎできたのかなぁ〜、県議会定例会で知事が説明しておられました:

2011年11月6日には、国民文化祭実行委員会の三浦朱門顧問から「平成24年度の開催県が、なかなか決まらない中、名乗りを挙げてくれた徳島県は、まさに文化の救世主である」との御挨拶とともに、京都府の山田知事から「国民文化祭旗」の引き継ぎを受け、京都の皆様に「三番叟」を御覧いただくなど、阿波文化の魅力を大いにアピールして参りました
(2011年11月24日平成23年11月徳島県議会定例会知事(飯泉嘉門)説明)
http://www.pref.tokushima.jp/governor/speaking/policy/2011112800011/

 ですのでイマは、徳島県が国民文化祭、略して<国文祭>のまっただなか:

105日間にわたり徳島県内で多彩な文化行事が繰り広げられる「第27回国民文化祭・とくしま2012」(文化庁、県、同実行委など主催)が9月1日、開幕した。
 全国初の2度目の開催。12月14日まで「阿波藍」「阿波人形浄瑠璃」「阿波踊り」「ベートーベンの『第九』」をテーマに72のイベントが催される。 

 午後6時、徳島市の文化の森総合公園でオープニングセレモニーがあり、徳島商業高とNPO法人TOKUSHIMA雪(お)花(か)菜(ら)工房の招きで来県している宮城県女川町の女川第二小の6年生33人による地元の伝統芸能「さざなみ太鼓」で幕開け。
 東日本大震災の被災地支援に対する感謝の気持ちが込められた力強い太鼓の音が響き渡り、観客500人から大きな歓声と拍手が起こった。

 この後、県立21世紀館で藍住町の藍住東小の5、6年生34人が躍動感あふれる阿波踊りを披露。
 女川第二小の33人も乱舞の輪に加わり、全員で「あっわぁ発見伝」(国文祭のキャッチコピー)と元気よく掛け声を上げた。
 雅楽奏者の種ケ嶋絵理さん(36)=鳴門市大麻町板東、団体職員=は、祝い事の際に演奏される「越(え)天(てん)楽(らく)」を横笛で奏でた。

 続いて、飯泉嘉門知事が「日本社会の閉塞感を、文化の力で徳島から払拭していきたい。イベントに参加し、阿波文化を継承・発信してほしい」とあいさつ

(2012/9/2 09:50付け徳島新聞「阿波文化を継承 国文祭が開幕」)
http://www.topics.or.jp/localNews/news/2012/09/2012_13465470566.html

 それで、今年は、次年度すなわち2013年に第28回国民文化祭が開催される山梨県がプレ事業としていろいろな事業を行なっている、とまあ、こういうわけですね。

 山歩クラブも単なる山歩きの会ではないんですよ、山歩クラブの東屋には、「健康維持」という礎石のうえに乗る4本柱があるんですよ、と繰り返し言ってきては、「うざったい」「またはじまったヤッホー君の独演会」とか揶揄されながらも、10年間、途絶えることなく続けてきた≪運動≫なのです。
 @ 自分づくりから仲間づくり、それが地域づくり、まちづくりへとつながるCommunity Building Movement, CBM(これは「大陸間弾道ミサイル」の対極にある平和の思想です!)
 A 国際性(はっちゃんを思いおこしてくださいませ、ちょっと前まで会員だった北京の方とか、またマレーシア、台湾遠征もしました!)
 B 社会性(環境、自然、持続可能性が大好き!マイ箸、マイカップ、マイ皿持参は当たり前、ゴミ減量を常に考えています!山行中、ゴミ拾いすることもあります。そして地産地消、山域では必ず地場産のお買い物、山に湧く温泉をいただき、山の水でつくった地酒もいただきます)
 C 文化性(山行中、車中、入浴中、歩いた山域の民謡や童謡を唸ったりしますよねえ)

 このCが、国家指導のもとで各県持ち回りで行なわれていたとは、慶賀、恭賀、謹賀に存ずる次第。
 山梨県では、昨日の日記でご報告申し上げた「第13回金田一春彦 ことばの学校」以外にも、こんな催しものも:

富士吉田市は10月13日土曜日、同市上吉田の御師の家「小佐野家住宅」で、来年1月に県内で開かれる国民文化祭で提供する御師料理の試食会を開いた。
 参加者の意見を参考に、来年10月に御膳や弁当として販売する。


(「御師料理」とは富士山に登拝した富士講の行者が御師(おし)宿坊で食べた料理、ですって。
 「小佐野家住宅」とは、御師の宿坊では代表的な建築物だそうです。現在も市内上吉田に残る小佐野家住宅と同家所蔵の古図をもとに1983(昭和58)年に復原した模造の建物です。
 小佐野家は屋号を堀端屋といい、建物は1861(文久元)年に建築されたものです。建築面積は291u…ほぉ〜)

 御膳は、ひじきとジャガイモの煮物やゴボウの鶏肉巻き、コイの刺し身「コイの洗い」など12品。
 地元産の大豆で作ったみそを使ったみそ汁や、富士山の伏流水で育ったミルキークイーンをご飯として振る舞うなど地域の食材をふんだんに使っている。

 来年10月19、20の両日、小佐野家住宅で御膳や弁当として販売する予定。
 市国民文化祭食の祭典企画委員会の佐藤勝利委員は「来年の国民文化祭で訪れた人に喜んでもらえる御師料理を振る舞いたい」と話していた

(2012年10月14日(日)山梨日日新聞「富士吉田市が試食会 国文祭で提供の御師料理を味見」)
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2012/10/14/8.html

 う〜ん、雨降ったときのサイトシーイング第二山がこれでできましたね、冨士吉田市ですか、よっしゃB級グルメだぁ〜…

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2012年10月16日

金田一春彦

 あのぉ〜、雨降って山を歩けなかったら行こうね、サイトシーイング!
 でも仲間の日頃の行いが極めて良く、雨にたたられ山行中止なんて滅多にないんですから、仲間の皆さんには「お天気祭り」をよろしく、と言っていながら必死に「雨乞い」するのですが、いつも空振りで…どうもヤッホー君、日頃の行いが悪いようで祈りが叶ったことがこれまでありません!
 で、雨ざあざあだったら訪れたいところ;

国語学者・金田一春彦(1913〜2004)は1965(昭和40)年、旧大泉村に山荘を建て、この地を故郷のように愛した。
 1998年、同氏は主に方言に関する本、約2万2000冊を村に寄贈。
 金田一春彦記念図書館の一画を「金田一春彦 ことばの資料館 日本の方言コーナー」としてそのすべてを収蔵、図書として貸し出している。
 また、同氏の没後、遺された資料も納められ、同氏の業績と共に紹介している。
 辞典を編纂する際に使用した手作りのカードなども興味深い。
 方言コーナーでは北海道から沖縄までの日常会話をコンピューターで再現、方言クイズなどで楽しみながら方言を学べる

(山梨新聞社「山梨の美術館・博物館」「金田一春彦 ことばの資料館」(山梨県北杜市大泉町谷戸3000 Tel 0551-38-1211)
http://www.y-shinpou.co.jp/MUSEUM/kindaichi.html

 大野晋という国語学者につきましては、ヤッホー君のこのブログ、2010年4月13日付け日記「深川図書館」ほかでも紹介していますが、なんでまた、金田一コウスケ?
 横溝正史の推理小説に登場する私立探偵は金田一耕介。
 彼は、1913年東北生まれ。ロサンゼルスより1975(昭和50)年に帰国し、余生は日本で送ったそうな。
 だ・か・ら・つ・ま・り…ちゃうちゃう…、ヤッホー君は国語学者の金田一京助(1882-1971)の息子、金田一春彦(1913-2004)のことを語っております、要注意!

 で、前置きが長くなりましたが、その「金田一春彦 ことばの資料館」では、毎年、学校を開いているのです。今年も:

2012年9月1日(土)高根ふれあい交流ホールで、第13回金田一春彦 ことばの学校が開催されました(入場無料)。
 今年は第28回国民文化祭北杜市プレ事業にもなっています。
 開校式では、金田一真澄校長先生と白倉北杜市長からごあいさつがありました

http://hokutokokubunsai.web.fc2.com/kotoba.html

 「お国ことばでほっこりするけぇ
http://kotobanogakko.jp/index.html

 いえね、昨日ほら、「冨士には牛がよく似合う」なんてヤッホー君、言ったもんで読者よりお叱りを受けましてねぇ…
 よく似合うのは「八つ」だろうって八つ当たりを受けまして、やっぱりやつれ、やっかいなことにならねば良いななんて元気付け、ヤッホー君、やっと元気になって、やっつけ仕事でいいや、なんてやっかいなことを考えていたらしいのをやっとのことで、やりなおしができるようにやっと気を落ち着かせることができたんですって、筑波山「神橋亭」(つくば市筑波722 Tel 029-866-0143)のお土産「つくば七味唐がらし」がきいたのかな、よくやったね、ヤッホー君。

八つ遠望.jpg

 つまり前(後ろ)を見れば冨士の山、後ろ(前)を振り返れば八ヶ岳、というロケーションなんですね。

うんと昔のこんだけんど、この日本がまだ中国大陸っちゅーとこと離れたばっかの頃だったっちゅー。陸じゃあ、噴火が起こったり、しわがよったりして日本に山っちゅーもんが出来はじめた頃の話だ。

 いま、おらんとが住んでる山梨は、日本のど真ん中にあったから、ほの頃、高い山がいっぺーできただと。こんとき、めだってでっけー山が甲府盆地の南と北にではじめただとー。南の方の山が富士山で、北の方の山が、ほれ、今、おらんとーが八ヶ岳ってよんでるほこの山だ。

 ある日、ふたつん山は、雲の上から顔をつんだして、自分の方がおめえよりずっと高けーといいあって、喧嘩をおっぱじめただとー。
 富士山は女神だっちゅーけんども、気がつおくて、「自分の方が高けー。」と思って自慢を始めたけんど、男神の八ヶ岳の方も負けちゃーいん。「俺の方が高けーに決まってるら。」ていって威張っただとー。

 富士山は悔しくて悔しくてしょーがねー。ほれでもって阿弥陀さんに頼んで調べてもろーこんにしただっちゅー。阿弥陀さんは、「ほりゃー困ったこんだ。」と、あたまー抱けーてかんげーこんだが、「ほーだ、いいかんげーがある。水はたけーとこから、ひけーとこえ流れるから、こりょーつけーばいい」と、手をうった。

 ほーして阿弥陀さんはぶきっちょだったけんども、よーやらさっと富士山と八ヶ岳の頭の上にとよーかけて、水を流しこんだたとー。ほーしたら富士山の方へどんどん流れ出すじゃん。「こりゃあー八ヶ岳の方が高けえ。」といって八ヶ岳の勝ちにしただっちゅー。

 さー、女神の富士山は「ばかゆっちょー。」ってって怒りはねえて、八ヶ岳の頭を、ほんこに、ぼかぼかぶったたきだした。ほーしたら、いままで、とがってた山の頭がぶっこわれちゃって、八つになっちゃっただとう。

 ほれっから、ほの一つ一つに権現岳、編笠、硫黄岳、旭岳、西岳、阿弥陀岳、赤岳っちゅー 名ーつけて、八ヶ岳って呼ぶようになっただっちゅー。 ほうほう、ほーいえば、八ヶ岳は富士山にぶったたかれたとき、うんと痛くて、ほれに悔しかったもんだから、ほれこさ泣いただとー、ほうしたら涙は滝のように流れ出て、ほの涙が川俣川や鳩川になって、ほれに土んなけー染み込んだ涙があっちこっちから泉になって湧きでてきただとー。

 ほーだ、大泉っちゅーなめーは、もしかするとほこから生まれただかも知れんね

(企画・編集 いずみフレンドパーク 金田一博士が監修した「日本の方言コーナー」のコーナーです ■ 大泉方言民話(八ヶ岳と富士山)
http://www.oizumi.ne.jp/~oizumi/oiznet/kindaich/story01.htm

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2012年10月15日

山梨県立八ヶ岳牧場

 どんどんと届く仲間からの感想。そのうちの2、3通をご紹介:

お世話になりました。お天気にも恵まれ 快適な山歩きが出来ました。草を食む牛の長閑だったこと! 楽しい山行でした

程良く疲れたという感じです。明日、明後日と筋肉痛がくるかどうかが問題です。行きたいと思っていた場所、清里でもありまして、すばらしかったです。雄大な景観はその場に立って初めて得られるもの、まさしく実感しました。計画していただき、感謝感謝です。お疲れさまでした。そしてありがとうございました

 そうなんです。牧場を通っていくのですが、のどか、ですよねえ。この牧場は「山梨県立八ヶ岳牧場」と言います。
 写真を↓下に添えますが、牛を見下す幻想的な富士山が見えるはずですが、写真に写っていますかねぇ〜。目を凝らして見てくださいますように…
 題して「冨士には牛がよく似合う」:

牧場を見下ろす冨士の山.jpg

県立八ヶ岳牧場は八ヶ岳南麓の標高1100〜1200mの高原に広がる牧場で、1926(大正15)年に現在の天女山分場に馬の放牧場として開牧依頼約70年の歴史があります。
 戦後は、牧場周辺が集約酪農地域に指定されてからは主に、乳牛の受託放牧を行なってきました。
 1976(昭和51)年に県の肉用牛生産振興を図るため、小淵沢町・長坂町・大泉村地内の県有地に肉用牛生産牧場を建設して、ここを八ヶ岳牧場の本場とし、既設の牧場(現在の分場)を天女山分場と改称しました

(清里観光協会)
http://www.kiyosato.gr.jp/shisetsu/pasture/index.html

 この牧場の指定管理者は「山梨県子牛育成協会」(北杜市小淵沢町大平10061、山梨県立八ヶ岳牧場内、Tel 0551-36-3200)。

山梨県子牛育成協会は、2011(平成23)年4月1日から公益財団法人になり、2年目を迎えました。
 本県畜産の安定的発展に寄与するという公益性の高い設立目的に沿って、積極的な情報開示を行なうとともに、公益財団法人として自らの責任で内部統治を行い、民による公益の増進を目指します

http://yatuboku.jp/

小淵沢町にある八ヶ岳牧場の本場では、山梨県の所有する黒毛和種雌牛を200頭飼育していて、妊娠牛や仔牛を畜産農家に販売することで、山梨県のブランド牛「甲州牛」の増産を目指しています。
 一方、大泉にある分場では、夏に、山麓の涼しい気候・広大な敷地を利用して、畜産農家から牛を預かって放牧しています。
 預かることができるのは、最大500頭。
 草原を駆け回ることができる放牧を行なうことで、丈夫な牛に育つんです

 また、畜産農家は、仔牛の飼育を牧場に任せることで、お乳を搾るなど、別の作業に専念できるのも魅力です。

 八ヶ岳牧場に預けられた牛たちの大半は、農家に戻った後に出産を経て乳牛になります。

 「乳牛はいつでもお乳が出る」と思われているようですが、お乳は仔牛を育てるためのものなので、仔牛を生んだ母牛しか出ないんです。

 例えば日本の乳牛の99%を占めるホルスタイン種の場合、母牛から搾られる乳の量は、1日平均20−30キロ(グラム)、沢山出るものは40−50キロ(グラム)にもなります。

 1頭あたり平均すると1年に約8000キロ(グラム)もの乳を出すんですよ。
 すごい量ですよね。

 八ヶ岳牧場で放牧されて元気に育つ仔牛たちが、やがて、私たちが口にする牛乳やチーズの原料を生産することになると思うと、感慨深いものを感じませんか

(2012年5月18日 13:00更新 YBSラジオ「やまなし INDEX」)
http://www.ybs.jp/radio/y-index/2012/05/18130000.html

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2012年10月14日

天女山、天の河原1620m

 10月14日日曜日は20人で歩く山歩クラブの月例お山歩会でした。
 
標高1,529mで頂上まで車で行くことができます。
 天女山はその昔、八百万の神々が年に一度、日本の真ん中にあたる斎の杜(いつきのもり、話し言葉がなまって今は「美し森」と呼ばれている)を盤座(ばんざ)の山と定め国の掟を話し合い、その後天女山に住んでいた仕女を招いて舞を奉仕させたと言い伝えられています。仕女は斎の杜にはべる時、天の河原で身を浄め、舞衣は羽衣の池で洗い浄めて用いたといわれています。
 駐車場から山頂まで、約1分ほどで気軽に登れる山です。ドライブ途中の息抜きとしてもおすすめのコースです。
 山頂からは赤岳をはじめ、富士山、南アルプスの山々、金峰山に至るまで美しい景色を満喫することができます。
 紅葉の時期には、カラマツの紅葉を楽しむことができます

(北杜市公式さいと/アウトドア/自然/山/名所(山梨県北杜市大泉町西井出)
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/genre/detail/1747/

天女山頂上(標高1,529m)から徒歩約15分で行くことができ、標高1,620mで眺望がよく、麓を一望できます
(北杜市公式さいと/天の河原)
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/genre/detail/01888/

 写真は出発地点、美し森駐車場にて;

美し森.jpg

美し森山は赤岳2,899mの東尾根の一部が孤立して出来た標高1542メートルの小高い丘。
 ふもとには無料駐車場と観光案内所があり、山頂まで徒歩で約15分ほどの気軽なハイキングが可能です。
 山頂の展望台からは清里高原や南アルプスの山々の大パノラマが広がり、四季折々の景観が楽しめます

(北杜市公式サイト/美し森)
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/genre/detail/435/
 
 帰宅後さっそくヤッホー君から仲間宛てメッセージが発信されたようです:

こんばんは、今日は大変おつかれさまでした。
 一般的に言って十月は神無月(かんなずき)ですが、清里は、神在月、八百万の神々が議会を開く時のようです。
 われわれは、伝説の山、美し森から天女山を目指し歩きました。
 富士山がわれわれの同伴者。
 牛もうもうも。
 振り返れば赤岳、権現岳の主峰が勢ぞろい八ヶ岳、遠くに金峰山と甲斐駒、という申し分のない秋山山行でした。
 今晩は、ゆっくりお休みください。
 なお専用バスの車内網棚に23.5cmのオリンピックの袋に入った山靴の忘れ物があったそうです。西大島駅で発見、お心辺りの方はこのメルアドまで

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2012年10月13日

皇朝最古修武之地

 さてアマテラス、今度は荒船山で再会したのです。
 もう面白くって、カッシーと笑い転げていました。
 10月6日土曜日が筑波山、そして9日火曜日が荒船山と大いそがしのヤッホー君、だって山を歩くにサイコウの季節なんだもん、だって。たしかに、:

本州付近は帯状高気圧型でこの土日は秋晴れの広がる所が多そうです。
 東京で土、日どちらもすっきり晴れるのは5週間ぶり。
 このところ、土日のどちらかで雨が降るパターンでしたが、関東から九州は、にわか雨の心配もなく、安定して晴れそうです。
 うららかに晴れて「秋麗」の土日です。
 行楽、紅葉狩り日和ですが、紫外線には要注意

(チーム森田の天気で斬る 2012年10月12日 17時43分更新 三ヶ尻知子「うっかり日焼け、がっちり寒気」)
http://weather.yahoo.co.jp/weather/column/moritablog/
 
 なにさ、もったいぶって、その笑い話って何?

信州にある建御名方神(信州諏訪神社)が、寒さが厳しく、海もない信州では、天照大神の命による、「野菜、魚意外は殺生して食してはならない」とのことでは生きてはいけない。そこで、猿、鹿、を食べても良いかと聞きに訪ねたところ、天照大神は「ならぬ」との返事でした。
 そこで、温暖な平地で、海にも出られる関東の地へ領地を拡大するべく戦の準備を始めました。
 この事を知った、経津主神(香取神宮)と建御雷之男神(鹿島神宮)は、建御名方神を迎え撃ちにするべく、信州境にあるこの地へ赴き、陣を構えた。
 名だたる軍神たちが戦いを起こせば国が荒れることを心配した天照大神は、孫であるニニギをこの地に遣わせ、三神の和議を結ばせた


 「皇朝最古修武之地」という石碑入り口の案内版が、荒船山の甲板上にあったのです。
 行きも帰りも二度、読んできました。
 石碑のほうへは藪コギのようで、笹原のなかに分け入ることがはばかれました。
 アニメ映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」(2002年、また2009年には「BALLAD-名もなき恋のうた-」が劇場公開)の原作者のように大海原に落っこっては危ない、危ない、カッシーとヤッホー君には近づけなかったのですが、通りすがりのハイカーに「石碑って、あれだ!」と叫んでくれたので、見つけたのがこの石碑、下参照↓:

石碑.jpg

 アマテラスは、スサノオと兄弟姉妹の関係。そのスサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地に住み、その子孫からオオクニヌシが誕生し、オオクニヌシは出雲大社の主祭神となります。
 アマテラス(高天原の支配を命じられていました)は、オオクニヌシに出雲の国譲りを求め、タケミカヅチを派遣しますが、返事を留保し、子供たちに委ねます。
 この子供たちの一人が、タケミナカタ、つまり建御名方神なのです。
 タケミナカタは、同意せずタケミカヅチと争ったのですが敗れ、命からがらに諏訪湖に逃げてきたのです。
 そして、いまも諏訪大社本宮の祭神となっています。

 一方、勝者のタケミカヅチは天下を平定した英雄神となり、鹿島神宮に武勇の神、剣の神、建御雷之男神(古事記、日本書紀では武甕雷男神)として祀られています。そりゃあ、高天原の神々が天孫降臨する前に出雲の稲佐の浜で、勢力を誇っていた出雲の地をアマテラスに服従を誓わせたわけですから、軍神です。
 鹿島神宮は茨城県鹿嶋市宮中2306-1 Tel 0299-82-1209 http://www.kashimajingu.jp/wp/

 このタケミカヅチとペアを組んでいたのが、フツヌシ。国譲り神話の功労者、なんです。
 しかし日本書紀にはタケミカヅチだけが大活躍するのに、フツヌシは名前すら登場しません。
 逆に『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』(くにのみやつこのかむよごと)には、フツヌシだけが天降りした、とあり、タケミカヅチの名前はでてこないと言います。
 これは、タケミカヅチを氏神としていたのが、朝廷の祭祀を担当としていた中臣(なかとみ)氏(藤原氏のルーツ)で、フツヌシを氏神としていたのが、軍事を職としていた物部(もののべ)氏で、この両者の政治的意図が歴史書のライターに影響を与えた、ま、公式の歴史は勝者の歴史でしかありませんけど。
 いずれにせよ、東国や東北地方を鎮定した後も下総の地にとどまり、この地は朝廷の東国経営の前線基地となっていった、と。
 香取神宮は千葉県香取市香取1697 Tel 0478-57-3211 http://www.katori-jingu.or.jp/

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2012年10月12日

旅と伝説

 今日10月12日金曜日はヤッホー君の人間ドック健診の日で「代々木病院」健診センター(渋谷区千駄ヶ谷1-30-7 Tel 3478-7038)に向かいました。
 この病院近くには、「国立能楽堂」(渋谷区千駄ヶ谷4-18-1 Tel 3423-1331)があります。終わってから「加賀の能楽名品展」をのぞきたかったのですが、バリウム検査後用下剤を1回3錠2回分もいただいたことですし、落ち着かない、それでは能面や能装束をつくった作者、そしてそれを付けて舞った演者に申し訳ないと後ろ髪を引かれるような思いで帰宅。
 なぜかこのごろ、山歩きを始めて十余年、山歩クラブ十年の歩みを振りかえってみても、われわれがからだを汗いっぱいにして、こころを空っぽにして山の頂きを目指すことと、われわれ日本人の魂の古層に下りていくあたまの動きが、なんかパラレルな感じがしてなりません。
 次回こそ、「国立能楽堂」を観て、もういちど、6月の中旬に訪れた目黒の久米美術館をじっくり訪れたいのです。
 江戸から明治になったばかりの頃、ベルリンでオペラを観て、わが国にも能という立派な藝術がある、と看破した久米邦武にご挨拶をしたいのでございます(ヤッホー君のブログ、6月16日付け日記「walking in the rain」をご参照ください)。

 また振り返り。
 10月6日土曜日、双耳峰の筑波山を歩いたと綴りました。

筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。
 御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。
 その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。
 その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています

(筑波山神社由緒)
http://www.tsukubasanjinja.jp/cgi-bin/tsukubasanjinja/siteup.cgi?category=1&page=0

 ここに、「いざなぎの神、いざなみの神」の「子」、というより伊勢神宮に鎮座する「皇祖神」アマテラスが登場します。

東海が昔、逆流した時があった。
 その時は国中が水没したが、この山だけは高くて堤防のような役割を果たした。
 こうして波を防いだことから筑波と呼ばれるようになったと言う


天照大神が山頂に登って筑を弾じて水波曲を奏でた。
 すると鹿島の海瀬が逆流してその波濤が山頂にまで届いたので、この山の名前を筑波山と呼ぶようになったと言う

(平岡閉村「筑波に旅して一筆啓上」『旅と伝説』2巻8号通巻20号所収、三元社、1929(昭和4)年8月1日発行)

 この『旅と伝説』は『1928年1月の創刊号から1944年1月戦時下の統制によって自主休刊を宣言するまで、ほぼ毎月に刊行していた』のだそうです。

『余りに、泰西物質文明に陶酔した揚句、誇るべき我大和民族固有の面目が刻々失はれんとしつつあるのであります。
 それにつれて吾々の祖先が残して呉れた尊い藝術や伝説も次第に滅亡に瀕してゐるのを真に遺憾に思ふ次第であります。
 これがために一部の識者は伝説保存のために奔走されつつありますが、各地の人々が相集まって保存しようとする、民俗的なものはありませんでした。
 それで本誌はその意味に於いて全紙面を開放し、読者と共にその支持と隠れたる伝説の研究に努めたいと思います。
 その方法として読者諸君に伝説(広い意味に解釈して、民謡、風俗、名物、名所、旧跡記事やそれに関した写真等)を募集します…』

(「郷土紹介、伝説民謡並びに写真募集」同誌創刊号所収)

 この雑誌発刊の意図や性格をよくあらわすものですが、典拠は神奈川大学大学院 歴史民俗資料学叢書3 王京『1930、40年代の日本民俗学と中国』(2008年3月)第1章 日本民俗学の成立期と中国 37頁によるものです。
http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/3/chapter1_2.pdf

 王京さんは、一部の識者、つまり「エリート」による執筆陣独占、発言の固定化という上から目線でなく、各地の人びとによる「民衆的な」書き手、投稿を主眼においている、という目のつけどころは、さすがですね。
 というか、ムカシ、日本人の古層は実に豊かで、富んでいて、それが地下水脈となって脈々と世代から世代へと語り継がれたり、受け継がれてきたのだろうと。
 
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2012年10月11日

名所(などころ)

『現代の日本の平均寿命は80歳ほど。
 しかし、遡ること約400年。
 はるか昔の江戸時代にあって106歳もの長命を誇った、ひとりの僧侶がいました。
 高齢にもかかわらず、その活躍ぶりには目を見張るものがあった。
 家康から徳川将軍三代にわたって参謀を務めあげ、265年にわたる徳川幕府の礎を築いとも言われている。
 家康が、その遅すぎた出会いを悔やみ、死後をも託したと言われるほどの男。
 今回のTHEナンバー2は、「家康を神にした男、大僧正 南光坊天海」の偉大なる謎に迫ります!!』


 これは、ちょうどいまから1年前、2011年10月10日木曜日夜10時放送のBS-TBSの番組『家康を神にした男』でした。ゲストは、童門冬二。

 ヤッホー君は1年前、釘点けになって見入っておりました。

家康の死後、天海は引き続き将軍・秀忠の顧問役を務めました。
 天海は、徳川幕府を安泰に導くためには江戸城の方位学的な吉相を高めることが重要と考え、そのための事業に、力を注ぎ始めます。

 なかでも力を注いだのが上野。
 江戸城から見て鬼門の丑寅、北東の方角に あたる上野山に、東叡山寛永寺を建立。
 東叡山とは、東の比叡山の意味。
 比叡山が京都の鬼門の位置に置かれ、都を守護しているのと同じ役割を、寛永寺にわせたのである。

 さらに、琵琶湖弁財天に見立てた不忍池弁天堂、清水寺を意識した清水観音堂など、江戸に京を中心とした西の街が再現されていったのです。
 これは比叡山の復興を願った天海の宿願でもありました。
 天海はある意味で自らの理想のために徳川幕府を利用したとも言えるのです。
 しかし、いずれにせよ、天海の抱いた理想は、現代までも庶民を楽しませる「名所」という形で東京のあちらこちらに残されているのです

http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/28.html

 この番組、1年半に渡り77回の放送でしたが、「徳川慶喜」の9月27日放送分で終了になりましたね。

 これが、10月7日日曜日、上野の山を歩いていて入場した『全国都市緑化フェアTOKYO シンポジウム「上野の桜 江戸から未来へ」』で講演された浦井正明氏「上野の桜の歴史」と符号したのでございますので、ヤッホー君はただただびっくり、ぽかんと口をあけたまんまだったのです。

 浦井正明氏は慶應義塾大学文学部卒、現在は東叡山寛永寺執事長。天台宗出版企画委員長、台東区文化財保護審議会委員、現龍院住職。その他、台東区教育委員長など多数歴任。
 浦井正明氏は講演のとき、上野の「名所」(などころ)と「見立て」について教えてくださいました。

1622(元和8)年の暮、 二代将軍秀忠は、 かねてより敬仰していた天海大僧正のために一寺を建立することを決め、 上野の山の17万坪の地に五万両と高輪御殿を添えて天海僧正に寄進した。
 ただ、 その翌年の7月には、 将軍の座は三代の家光に譲られたため、 実際に寺の創建に当たったのは
家光であった。
 工事は当時ほぼ自然のままであった上野の山の造成工事が先行したため、 若干手間どり、 本坊として、
今の東京国立博物館の地に高輪御殿の移築が完了したのは、 1625(寛永2)年の11月になっていた。
 これが、 東叡山寛永寺の正式の発足…

 ところで、 寛永寺建立当時の天海僧正の脳裡には、 常に平安京(京都)と比叡山との関係があった。
 天海僧正は9世紀初めに桓武天皇と伝教大師・最澄上人によって建てられた鎮護国家の祈祷寺、 比叡山延暦寺を、 この江戸に再現しようと考え、 幕府もこれに賛成したのである。
 上野の山が寺地として撰ばれたのも、 比叡山が京都御所から見て東北に当るのと同様に、 この上野も
江戸城の東北、すなわち鬼門に当るからなのである。
こうして、 寛永寺は徳川家の祈祷寺として創建され、 すぐに朝廷の勅願所をも兼ねるようになるのである。
 そんな訳だから、 天海僧正の比叡山への固執ぶりは尋常なものではなかった。

 山号を東の比叡山としたのも、 寺号も時の年号を勅許を得て寛永寺としたのも、 すべて延暦寺の前例
に倣ったのである。
 山号、 寺号がそうである位だから、 次々と造立された堂塔伽藍が比叡山を模している
(見立てている)ことは言うまでもない…』
(天台宗東京教区「寛永寺」) 
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/jinss/ss3kanei.asp

浦井:ですから、浅草と並んで上野が急速に名所化してくるということは、そこなんですね。
 天海の偉いところはですね、単に建物を移してきただけでなく、環境整備もやっているんですよ。
 吉野から桜を持ってきて植える。
 不忍池を放生池にしてそこに紅白の蓮を植える。
 それから、今の国際子ども図書館の通りはもみじを植えるんですよ。
 ですから江戸時代、あそこは錦小路と呼ばれていたんですね。

浦井:桜というのは天海の発想です。
 そこに林羅山が共鳴して、林羅山が今の西郷さんのあたりに桜峰塾という自分の塾をつくりますから、そこに桜を植えたのは林羅山ですが、その他の場所に植えたのは天海なんですね。

浦井:天海と林羅山が作ったのだと思います。
 あとは寒椿を植えるとか、今の噴水のあたりには赤松を植えるとか。
 四季にわたって庶民が訪れる場所というのを天海は目的にしたのだと思います。
 春は桜があり、夏は蓮。
 秋には紅葉、冬には寒椿、梅。
 徳川さんの祈願寺だけど、庶民が自由に立ち入れる場所、いわば「名所」といいますか、そういうことを天海は考えていたのだと思います

(台東区文化ガイドブック「上野寛永寺を訪ねる」)
http://taito-culture.jp/history/kaneiji/japanese/kaneiji_01.html

 浦井正明氏によると、天海のすごさは、上野を徳川家や大名だけがお参りに来る場所ではなく、幕府が建てた寺に江戸の町民、庶民がタダで訪れる「名所」(などころ)をつくったところにある、と語っていただきました。
 ヤッホー君のこのブログ、8日付けの日記「名所」で紹介しました大野秀敏先生の『これからの東京に必要なものは、魅力的な都市風景に包まれてタダで過ごせる場所である。それを「名所」と呼ぼう』とも符合するのです。

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2012年10月10日

絆社会実現への展望

 10月10日水曜日、ヤッホー君は≪全労済協会≫のシンポジウムでお勉強会でした。

東日本大震災から1年余が経過し、今、日本社会は大きな転換期に差し掛かっています。
 震災は、被災から逞しく立ち上がる人々の絆の強さとともに、ニムビー(NIMBY=Not In My Back Yard)シンドローム、つまり『「自分の裏庭では自分にいやなことはしてくれるな」症候群』の根強さも浮き彫りにしました。
 それぞれの根底にあるのは人々の間の「信頼」と「不信」です。
 
 今、私たちに問われているのは、不信の構造からどのようにして脱却し、地域社会や政府のレベルにおいて信頼の絆を回復するために、一人ひとりがどのような貢献ができるのか、また貢献するべきなのかということです。
 本シンポジウムでは、このような課題について、有識者の皆さんと共に考えていきたいと思います

http://zenrosaikyokai.or.jp/think_tank/lp/pdf/tokyo_symposium.pdf

 このシンポジウムは、会場である「全労済ホール スペース・ゼロ」(渋谷区代々木2-12-10)を約500人、満席にして開催されました。
 そのうち、ヤッホー君から報告がなされると思います。
 今日は単なるご案内だけにして…

テーマ:
絆社会実現への展望 〜今こそ問われる生活支援とは〜


詳細:

第T部「基調講演」
(1) 講師:金子勝氏(慶應義塾大学経済学部教授)
(2) 講師:湯浅誠氏(反貧困ネットワーク事務局長、元内閣府参与)


第U部「パネルディスカッション」
<コーディネーター>
宮本太郎氏(北海道大学大学院教授)

<パネリスト>
阿部彩氏(国立社会保障・人口問題研究所 社会保障応用分析研究部部長)
秋山弘子氏(東京大学高齢社会総合研究機構 特任教授)
金子勝氏(慶應義塾大学経済学部教授)
湯浅誠氏(反貧困ネットワーク事務局長、元内閣府参与)

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2012年10月09日

荒船山1423m(行塚山、経塚山)

 10月9日火曜日、歩いてまいりました、荒船山1423m(行塚山、経塚山)。

 いえね、7月20日金曜日から22日日曜日まで2泊3日で北岳に登ったあの3人組。
 この同じメンバーで9月29日土曜日、谷川岳に行ってまいりました。
 「山歩クラブ下見探検隊」の動きについては、ヤッホー君のこのブログでも逐一「日記」で紹介してきましたが、その谷川岳山行の際、UFOの発着場のように見えたテーブルマウンテン Table Mountain 状のあの山を歩いてみようよ、北海道の仲間も誘ってさ、となったのです。
 ザンネン、10月9日火曜日は、カッシーと野郎ふたりでの下見山行になった、とま、こういうわけでございます。
 いつもの月例山行のように朝6時から夜6時まで。
 山は歩きはじめが9時、登山口への戻りが1時半。
 まあ、いつもの感じでサクサク、テクテク、パカパカ、歩いてきました。
 山の上、のっぺらぼう広場も紅葉がはじまっていました!

山の上.jpg

 立ち寄り湯を予定していた「荒船の湯」(群馬県甘楽郡下仁田町大字南野牧9326-1 Tel 0274-60-6004)は、「月曜日が定休日。月曜日が祝祭日のときは、その翌日」という条項にひっかかって、昨日は「体育の日」の祝祭日にあたり、その翌日火曜日、すなわち今日は休館日、だったのです。
 そこで、山の大先達、タムさまにならいまして(追っかけ)、「清流荘」(群馬県甘楽郡下仁田町吉崎769 Tel 0274-82-3077)にリンリンリリン、リリンリン、もしもし、ハロー、日帰りで温泉にだけ入りたいのですが…

 これがまたサイコウの湯浴みでございました。

『下仁田温泉は、川辺で傷ついた猪が湯治するのを村人がみつけたことからはじまると伝えられています。
 日本でも数少ない「含二酸化炭素 炭酸水素塩泉」
 毛細血管を拡げ血圧を下げる効果があり、飲泉すれば胃腸に良くアルカリ性の湯が肌をなめらかにしてくれます。
 野趣あふれる風呂にゆったり浸かると身も心も癒してくれます』
http://www.s-seiryuusou.com/hotspring/hotspring.html

 艫岩1330mから見下ろした秋景色、艫岩1330mを見上げたとき、の2葉を添付しおきます:

艫岩から見下ろす.jpg

艫岩を見上げる.jpg

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2012年10月08日

名所

 ヤッホー君、いま読んでいるのが、大野秀敏先生(建築家・東京大学大学院教授、1949年生まれ)。

 どうしてかっていうと、ですね、筑波山を歩いた件の20歳年下の彼、ヤッホー君にこういうのです。

≪ つくば市ってのは1960年代から首都機能移転の構想のもと動いてきたのに、半世紀たっても成功していない(文科省だけでも移転していたら様相は変わっていたかもしれないけど…)。
 半世紀もたってなんら軌道に乗せられない国家プロジェクトは失敗なのだから、止めれば良いのに官僚機構の維持があるから、止められない(1967年に動燃を立ち上げてはじめた「もんじゅ」もそうだし、八つ場ダム、成田空港、リニアモーターカーもそうだよね) ≫

 筑波山に向かう途中のバスの車窓からみえた空き店舗って、街ん中のシャッター街と同じ。なんだか、変だぞ!

 一方、改装工事が一段落した赤レンガの東京駅の賑わい(次の写真のように丸の内北口の天井をケイタイ写真に撮ろうとする人でいっぱい、変な駅ビルにならないで良かったね)、翌日、日曜日の上野公園の賑わい、これを「コモンの空間」としようか、それに対極にある「プライベートな空間」、つまり一人ひとりの財布を当てにする観光、消費、レストラン、箱もの、としましょう。
 どっかで履き違えると、急速にすすむ高齢化、低成長の時代に、市場の失敗か、政府の失敗か、とんでもない「大失敗 great mnistake」におちいってしまうよと、10月8日月曜日、体育の日にこの延長線上に考えていたことのひとつの中間的到達点なんですって。

丸の内北口.JPG

 まずは、記述の零度に、大野先生の次の記述を置いていきましょう:

『ロラン・バルトは≪表徴の帝国≫のなかで皇居に触れて、
「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、<いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である>を示してくれる。
 禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防御されていて、文字どおり誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市全体がめぐっている」
と述べている。
 ブルバ−ルの先にはモニュメントが聳え、明確な中心を綴り併せた都市から来た哲学者の目には、明確な中心をもちながらもそれが単なる深い森でしかなく、しかも、そこにはだれも入ることが出来ない東京の中心部の構成がが極めて奇妙に映ったことであろう。
 東京は 中心性を持たぬ都市、中心に実体的なクライマックスが与えられない都市である』
(周縁に力がある 1985)
http://kingo.arch.t.u-tokyo.ac.jp/ohno/po/article_Folder/shuuen.html

そして大野先生は、2050年の都市空間のありようを次のように考えていくのです。4点ほどご紹介:

『今時、中都市以上の規模があれば大抵の品物は揃うし、大都市より生活費は少なくてすむのだが、世界中で大都市ばかりが繁栄している。
 日本では、首都圏、特に東京へ集中しすぎるというので、1980年代には首都機能移転や、政府機関の一部を衛星都市に配分する政策を進め、人口を分散化しようとしたが、景気低迷で分散政策はあっという間に放擲された。
 一体何が大都市の魅力かと言えば、そのひとつは、大都市が提供する選択の可能性の豊富さであろう。
 働き口、教育機関、文化的催し、消費、異性との出会い、悪所、何をとっても小都市より大都市が豊かな可能性を示してくれる。
 ならば、私たちの目標のひとつは、コンパクトシティの環境性と大都市の魅力を同時に備えた都市、つまり一見矛盾する「コンパクトな大都市」があり得るかという解答不能に見える問いに答えを見出すことである』

『過去に目を向ける余裕ができた時代は実は金満の時代でもあった。
 都市の記憶どころか、記憶の捏造が横行し、いささか下品な建物が大量生産された。
 その後、突然のバブル崩壊で建設狂乱が終了するかと思いきや、低迷する経済の精力剤として規制緩和がなされ、だらだらと過剰建設時代が続いた。
 そもそも、都市計画は部分がそれぞれ勝手に自己利益を追求した時に引き起こされる非効率を避けるための社会技術だから、規制こそが中心になければならない。
 だから規制緩和は都市計画の対極にある。
 しかも規制緩和は一度しか使えないカードである。
 現実の方は、予想できた供給過剰が現実のものになりつつある』

これからの東京に必要なものは、魅力的な都市風景に包まれてタダで過ごせる場所である。 それを「名所」と呼ぼう。
 世界各地の記憶に残る都市には、必ず「名所」と呼んでよい場所が多数ある。
 それらは皆場所の特徴を生かした空間で、タダである。
 「名所」と「テーマパーク」は似ているが、「テーマパーク」は消費刺激装置であることに加え、周辺の市街地から断絶している。
 「名所」は強い場所性を持っているが、周辺に影響を与える。
 日本の多くの都市は近世都市の遺産を「名所」としてきたが、それも賞味期限が近付いている。
 そろそろわれわれの手で新たな「名所」を創造しなければならない時期である。
 「名所」の充実は、都市に住み、働くことの誇りと喜びを市民に与えることになろう』

『日本の建築の寿命は30〜40年しかない(これは日本の都市の最大の問題である)。
 これは今後伸びると思われるが、45年あれば大半の建物は建て替わるので、都市の構造改革を提案してもあながち夢想とも言われまい。
 しかし、都市の歴史的連続性の保存と環境への負荷を考えるなら、建設需要を拡大するためだけの都市破壊は最小限にしたい』
http://kingo.t.u-tokyo.ac.jp/ohno/project/FC2050.pdf

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2012年10月07日

新種の桜「コマツオトメ」

小松乙女(コマツオトメ)
Prunus pendula form ascendens ‘Komatsu-otome’
 花は小輪、一重咲きで淡紅色。開花期は4月上旬。
 東京・上野公園の小松宮像の近くにある桜で、江戸彼岸系の雑種と推定されます。
 染井吉野より少し花期が早い美しい桜です


 「2012年の鴎外生誕150周年に合わせ、桜の品種改良に取り組んだ公益財団法人日本花の会(東京都港区)から苗木を取り寄せ、計100本を植える」と10月4日の日記《新種の桜「舞姫」》で紹介しましたが、この団体、「日本花の会」からの引用です。
 この会も50周年を迎えていました。

当会は建設機械メーカーであるコマツ((株)小松製作所)の当時の社長、河合良成の提唱により、1962(昭和37)年4月に創設されました。
 以来、コマツをはじめ多くの企業や団体、個人の方々のご支援を得て、さまざまな活動を展開しています。

  「私は世の中で花が何より好きである。
  多年親しんできた高山植物にかぎらず、梅、桃、桜、牡丹から石楠花、
  その他いっさいの草花が好きである。
  私は花の個性を尊重する。
  おのおのそのひたむきに生命の全力をあげて、誇らしげに咲きそろっている姿は、
  なんともいえない魅力である。
  この楽しみ、喜びをともにし、いくらかでも人々の心を和らげたい・・・・」

 これは当会の設立趣意書にある河合良成の言葉です。 
 この創設者の理念を継承し、コマツグループをはじめ、花や緑を愛する多くの方々に支えられながら、美しい地域環境づくりや豊な生活環境づくりに貢献しています

(公式サイト、公益財団法人 日本花の会とは)
http://www.hananokai.or.jp/a/a1000.html

 そして、この新種の桜「コマツオトメ」のすぐそばに、新種の桜「舞姫」が植樹されていました。

 今日10月7日日曜日、ヤッホー君は上野の山を歩いていて大発見したのでございます:

121007_1653~01.JPG

舞姫.jpg

121007_1654~02.JPG

コマツオトメ.jpg

 冬が厳しければ厳しいほど、それにじっと耐えて暖ったかくなる春を待ちわびて一斉に開花するのが桜、と言われています。
 まだ秋が始まったばかりと言うのに、いまから桜咲く春が楽しみなヤッホー君。
 木枯らし吹いて、寒く冷たい冬も、これでなんとか乗りきれそうです。
 そしていろんな種類の桜の樹の下をゆっくり歩いて、花の色、薫りの違いを比較してみようかな、と。

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2012年10月06日

筑波山、女体山877m

 10月6日土曜日。

本日、平成24年10月6日より、筑波山ロープウェイでは「スターダストクルージング 夜の筑波山空中散歩」の運行を開始予定です。
 本日は「筑波山から土浦の花火大会を見よう」という特別イベントの開催を予定しております。
 本日は、天気予報にて夜から雨の予報も一部にでておりますが、現在の状況、また、お客様からのお問い合わせ、ご要望を考慮し、夜間運行自体は開催することを決定しました。
 展望や土浦の花火の鑑賞は難しいかもわかりませんが、その他サービス企画などもご用意しておりますので、お誘いあわせの上、是非筑波山ロープウェイにお越し下さい

(本日のイベント開催についてのお知らせ、筑波観光鉄道 Tel 029-866-0611 筑波山ロープウェイつつじヶ丘駅 Tel 029-866-0945)
http://www.mt-tsukuba.com/?p=2454

 いえ、ヤッホー君は夜遊びをしようと誘われたのでなく、ヤッホー君より20歳も年下の事務所の友 office mate より「筑波山にでも登ってみませんか」って、と誘われ出向いたわけです。
 集合時間は8時、集合場所は秋葉原駅。

 「つくばエクスプレス」に乗るのは初めて、です。
 この鉄道は、JRではないんですねえ。
 株主は、東京都、埼玉県、千葉県、茨城県、千代田区、台東区、荒川区、足立区、八潮市、三郷市、流山市、柏市、守谷市、つくばみらい市、つくば市、民間企業等196団体だそうでして、会社の名前は「首都圏新都市鉄道」。
 
 ですので、JR山手線で行ったヤッホー君、秋葉原から「つくばエクスプレス」に乗るには同じJRだから何番線で接続するんだろうと思って、目をきょろきょろしたのですが、結局は改札口を出なければならないことが分かりました。
 今日は、「おのぼりさん」でした。
 2001年に着工し、2005年に開業。
 2010年には、開業時目標の「1日当たり平均輸送人員27万人」を1年前倒しで達成しています。
 2011年年間輸送人員1億人を突破、だそうです。

 早い、早い、8時の快速電車は45分後、8時45分に「つくば」駅着です。
 9時の「直行筑波山シャトルバス」で終点の「つつじヶ丘ロープウエイ乗り場」まで行きます。今日はもう一台、増発がでまして2台だったのですよ。
 このバスの会社は関東鉄道。50分で着きました。10時登頂開始!今日も、順調です。

当社は、1922(大正11)年に創立した鹿島参宮鉄道を前身として1965(昭和40)年に発足し、永きにわたりさまざまな分野で事業を展開することができました。これも偏に地域の皆様と当社をご利用いただいているお客様のご支援・ご愛顧によるものと厚く御礼申し上げます。
 当社の事業エリアである茨城県の中央部から南西部にかけては、水戸の偕楽園、筑波山、霞ヶ浦、水郷など、豊かな自然に恵まれた地域であります。
 また、つくばエクスプレス沿線開発や首都圏中央連絡自動車道・北関東自動車道の延伸、茨城空港の開港といった交通インフラの整備と地域の活性化が進展しております。
 こうした将来性豊かな地域を事業基盤として、鉄道事業、バス事業、不動産事業をはじめ、旅行、タクシー、コンピュータシステム開発、自動車整備などの事業を営み、皆様の暮らしをサポートさせていただいております

(公式サイト<企業情報<ごあいさつ)
http://www.kantetsu.co.jp/outline/greeting/greeting.html

 帰宅後、さっそく仲間に報告していました。 
今日の土曜日は、筑波山に行ってまいりました。
 つつじヶ丘から登って、御幸ヶ原から筑波山神社に下るコースです。
 行きも帰りも一時間の歩程でした。
 ところが、もういきなり息があがって、ぜいぜいはあはあするは、汗はでるは、これはきっと雨がぱらつくくらいだから、湿気が多いんだ、この雨雲は南からの暖ったかい湿った空気を運んでいるからだ、と思っていました。
 女体山頂上でのこと、件の若者は、
「コースタイム90分のところ、一時間もかかんなかったね、雨も降らなかったし、カンタン!(感嘆符)」

 ヤッホー君は長袖のアウターをリュックにしまい、それでもインナーを絞れば雑巾みたいに水が滴り落ちるほど汗をかいていたのは、このせいか、とわかりました。でも口惜しさから、
「高尾山の表参道(清滝コース)よりもカンタン!高尾山のほうが時間がかかるよね、ハイカーで…」

 ウエアが汗でぐっしょり、これは若者の足がすいすいと前に出るのに、ヤッホー君はそれに付いていくのに精一杯だったから、と分かりました。
 いやあ〜、今日はトレランとまでは行きませぬが、トレーニングの日!

 写真を2葉、添付しておきます;
 一枚目は、夫より妻の方が身長が高いノミ夫婦の筑波山、だから女体山より標高が6m低い男体山871mにて。
 二枚目は、御幸ヶ原コースを下ってくる途中、出会ったケーブルカー


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2012年10月05日

mooncake

『山形あたりは、芋名月とか、地方によってでしょうか。団子?は秋は無いかな。芋も里芋だって。イコール芋煮会か?…』

 ヤッホー君のこのブログでも過去、何度か紹介してきました、山形でとてもユニークな活動を続けておられるNPO「知音」の山崎多代里さまよりいただいたコメントです。

 大川端にビールといっしょに持参していったのが月見団子、と書きましたがこれに対して、山形では団子は食べないかな、と。

 芋煮会を、とヤッホー君が提案したことがありましたが、そうすると女性陣がだれが何を準備して、これを持ってきて、と役割や分担を決めなければならないんで却下!ってなりました。
 そりゃそうですよね、甘えてはいかん、いかん、山歩クラブの男性陣が踏ん張って、ここは「男の手料理」で一度、やってみましょうか、ね。再提案しようっと…

 地方によってことなる秋の観月会…、マレーシアに暮らしていたころ、そう、いまごろのナイトマーケットは、「中秋節」でかなりの賑わい、中国人は月餅 mooncake を送り送られ、しますね。

 ところが、これは昨年のマレーシアの「ザ・スター」紙からです:

Over 30 countries have banned the import of mooncakes from China.

This year'a Mid-Autumn Festival falls on Sept 12 but many Chinese have found themselves unable to mail the traditional cakes to their relatives or friends living in those countries due to the ban, reports Xinhua news agency.

The list of countries that refuse mooncakes sent by post includes Asian, European, American and African nations, ranging from Germany and France to the Philippines and Sudan, where tens of thousands of Chinese live.

kes are traditional gifts for beloved ones and are necessities for the Mid-Autumn Festival. The round mooncakes resemble the full moon, a symbol of family reunion in traditional Chinese culture as well as the major theme of the Mid-Autumn Festival.

(Over 30 countries ban mooncakes from China, Published: Friday September 9, 2011 MYT 5:18:00 PM)
http://thestar.com.my/news/story.asp?file=/2011/9/9/nation/20110909172918&sec=nation

 今年の月餅の話題は、卵の黄身を使っているから安全かとか食品衛生上、問題ないのか、というよりも、尖閣諸島の味がするってロンドンっ子は、面白く記事にしております。「ザ・ガーディアン」紙です:

They widen waistlines, lighten wallets and even spread anti-Japanese sentiments. To critics, their yearly appearance is associated with waste and ostentation.

But China's centuries-long love affair with the mooncake is unstoppable. Eaten to celebrate the mid-autumn festival, when friends gather to admire the harvest moon, they have evolved, with the country's embrace of consumerism, to reach new heights of luxury and exoticism.

"It's just like how Americans eat turkey. Nobody knows why we eat them, we just do," said 25-year-old Tang Cong, who works for an internet company in Beijing.

The pastries can embody not just one's tastes, but even one's political views: last week, as anti-Japanese protests spread through China, a nationalist – or enterprising – baker produced a set of four with slogans on top including: "Bite Little Japan to death!"

(Mooncakes, China's traditional festive gift, are getting a makeover

Given to friends and business contacts during the mid-autumn festival, the sweet treats have gone upmarket – as well as taking on a political flavour)
Tania Branigan in Beijing
The Guardian, Thursday 27 September 2012 11.04 BST
http://www.guardian.co.uk/world/2012/sep/27/mooncakes-china-traditional-festive-gift

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2012年10月04日

新種の桜「舞姫」

 10月1日、東大の会場が満席で300人。
 5倍の申し込み者総数で抽選で参加者がえらばれた、というのです。ラッキー、ヤッホー君!
 それほど鴎外が人気があるとは…、とどなたも驚かれていました。
 講演いただいた作家の平野敬一郎さんも、正直言って森鴎外が好き、という方にはそれほどお目にかかっていないとのことでしたし…

 津和野町の町長、下森博之さんも300人のお集まりと聞いて、この「数」に驚かれていました。

 津和野町には小学校が5校ありますが(津和野小138人、日原小102人、青原小29人、木部小19人、左鎧小8人)、全児童数をあわせて296人、300人にも満たないのですっておっしゃっておられました。

 ちょっと比較してみましょうか…
 2010(平成22)年の国勢調査の結果です。
 津和野町は人口8,427人(前回調査に比べ11.4%の人口減少率だそうです)。
 かたや文京区は206,626人。なんと文京区は津和野町の24.5倍もの人が住んでいます。
 世帯数でみても、津和野町が3,411世帯に対して文京区は111,753。32.8倍(単身世帯が多いんでしょうね、都会には)。
 
 ところがこれを面積で比較してみると面白いのです。
 津和野町は307.09平方キロメートルもあるのに、文京区11.31平方キロメートル。これは人口比とは逆に津和野町に軍配が上り、津和野町は文京区の27.2倍もの広い土地がありました。

 町長さん、まち自慢は数々あれど、とっておきの名物になろうとしているのが桜の新種「舞姫」だそうです:

島根県津和野町は今春、同町出身の文豪、森鴎外の代表作の名前を冠したサクラの新品種「舞姫」を町内で植樹する。
 2012年の鴎外生誕150周年に合わせ、桜の品種改良に取り組んだ公益財団法人日本花の会(東京都港区)から苗木を取り寄せ、計100本を植える。
 町と町商工会などが企画した。
 苗木は、道の駅津和野温泉なごみの里(鷲原)と枕瀬山森林公園(枕瀬)の2ヶ所で植樹。
 毎年100本ずつ増やし、数年掛けて桜の名所に育てる。
 「舞姫」は、茨城県結城市にある日本花の会の農場でヤエベニシダレを基に品種改良

(2012/03/06 13:49付け中国新聞)
http://www.47news.jp/localnews/shimane/2012/03/post_20120306154836.html

 こうして鴎外がとりもつ縁で結ばれた文京区と津和野町ですが、不安になったヤッホー君、おいらの住む江東区はいったいどないなってんやろ…

2011(平成23)年12月26日、江東区は、静岡県沼津市と大規模地震などの災害時に、相互に協力・応援を行う「災害時等における相互応援に関する協定」を締結しました。
 本区が東京23区以外の自治体と災害時相互応援協定を締結するのは、
  栃木県大田原市
  埼玉県秩父市
に次ぎ3件目となります。
 東日本大震災では、災害時における自治体相互間の支援体制の重要性がクローズアップされたことから、区より西側に位置し、救援物資を輸送するにあたり双方が適度な距離にあること、また、震災が発生しても両自治体が同時に被災することは考えにくい自治体であること、を条件に締結先自治体を探していたところ、沼津市とお互いの考えが一致し、協定を締結することとなりました

http://www.bosai-koto.lg.jp/kotoHP/news/pc/topics_0043.htm

 これで不安は一件落着をみました!

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2012年10月03日

神在月

 10月3日水曜日。

旧暦10月。
 全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる月。
 他の土地では神様が留守になるので神無月といいますが、ここ出雲では神在月と呼びます。
 神々が集う出雲の各神社では「神迎祭(かみむかえさい)」に始まり、「神在祭(かみありさい)」そして、全国に神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」が行なわれます

(出雲観光ガイド 神在月)
http://www.izumo-kankou.gr.jp/1275

 ビールが美味しい!
 1日月曜日に大川端で飲んだビール、ちょっと待ちい、ビール??
 サッポロビール(株)のリキュール(発泡性@Alc.5%「麦とホップ」でしょうが!!
 そこまで目ざとくチェックを入れなくともいいのに、ね。
 ま、麦酒を飲み干したんだ!と自分に思いこませながら、じっと空き缶を見つめています。
 1日の加賀乙彦先生の講演を思い出していたんです。

 森鴎外は、ミュンヘン滞在中に公衆衛生学の権威ペッテンコッファー教授の弟子であるレーマン氏の指導の下、「麦酒ノ利尿作用」についての研究を発表し、「大いに諸家の喝采を博せり」だったそうです。
 ビールの利尿作用とは、ビールを飲むと摂取した量以上の尿が生成される、アルコール分4%が一番効くということを、当時体重52Kgの鴎外と、日本人留学生、加藤照、さらにドイツ人の大男3人が被験者となって、ノンアルコールの水、炭酸水、ミルクコーヒー、さらにアルコールのワイン、ウオッカと比較研究して、この利尿作用はビール特有の成分ではなく、アルコールによるものであると突き止めたのです。

 加賀乙彦先生は、いまのビールはどれもアルコール分が5%ですので、ちょこっと水を差して飲んでいます、とおっしゃったものですから、300人満席の会場は爆笑!

 このあたりは、雑誌「有隣」501号(2009年8月10日刊)所収、特集「私の森鴎外(加賀乙彦)」をお読みになってください:
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_501/yurin.html

 ビールは「とりあえず」もの、ですから、秋の夜長は次に行きたいのが日本酒ですねえ。

水、米にこだわり、手作りにこだわった山陰の銘酒、『高砂』と『鴎外』が自信の品です』という津和野産の地酒を注文してみようっと。それまでおあずけ。
 その蔵元さんは、(株)財間酒場(島根県鹿足郡津和野町中座ロ34 Tel 0856-72-0039)。

厳しい冬、そして清らかな水が、うまい酒造りには欠かせないといわれます。
津和野は山間の城下町として、その歴史も古く、当社の創業も江戸時代寛政期に遡ります。
 当時は現在と異なり、精米から酒しぼりまで、一連の行程はすべて人力。 
 また厳冬期に行われたため、その苦労は決して楽なものではなかったと推測されます。
 遠い昔、酒づくりに思いをこめて先人たち。蔵のなかに佇み、心を静かにすると、彼らの声が聞こえてくるようです

http://www.zaimasakaba.com/hpgen/HPB/entries/1.html

 津和野、いいですねえ〜

旧暦10月を「神無(かんな)月」と言う。
 ただ、出雲の国だけは「神有(かみあり)」と呼ぶ。
 日本中の神々が出雲の国に集まるからだ。
 島根県はその出雲(県東部)と石見(県西部)、隠岐(島部)で成り立っている。
 県全体に漂う落ち着いた山陰の風情と情感に、今なお神話の似合う土地である。
 初めは石見の人の話から入る

(2010年8月20日付け東京新聞 編集委員 朽木直文【TOKYO―首都圏―のわがふるさと】島根(1)鴎外の街 作品世界広がる文京区)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/info/furusato/news/201008/CK2010082002000109.html

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2012年10月02日

鴎外が縁結び

 るんるん♪休むことも許されず
 笑うことは止められて
 這いつくばって 這いつくばって
 いったい何を 探しているのか♪るんるん

 山歩クラブのハルちゃんがもう就職したのに、ヤッホー君は学者への路を志し進学した年の春だったように記憶しています。
 ハルちゃんの勤務先の寮が大坂にあったのを幸いに春休みに転がり込んで、高校野球の春の甲子園を観戦しに甲子園へ、そして須磨公園か明石公園かにお散歩に行った時、公園のスピーカーから流れていた曲がこの「夢の中へ」でした。
 細かい春雨の降り止まぬ、ちょっと肌寒いお昼どきでした。でも傘がなかったのです!
http://www.youtube.com/watch?v=eBCQEkdgkTI

 ん?間違ってるよねぇ〜
http://www.youtube.com/watch?v=g_hGa_2lcso

 その足で新幹線に乗り新山口駅から在来線の山口線に乗り、津和野までの旅をしたことが想いだされます。

 十六夜の月に誘われ、ムカシのヤッホー君に帰っているようですよ。
 文京区に住んでいたヤッホー君がはじめて津和野町と出会ったころのエピソード…

森鴎外が30年間暮らした文京区と生誕地の島根県津和野町は10月1日、相互協力及び防災に関する協定を締結した。
 災害時に助け合うだけでなく、協力して事業を行ない、住民の交流を図る(竹上順子記者)

 津和野町は鴎外が幼少期を過ごし、旧宅や記念館などがある。
 文京区は鴎外が30歳から亡くなるまでの30年を過ごした。
 11月1日に旧居跡に記念館がオープンする。

 協定は、鴎外の功績の顕彰を通じて、両区町の地域活性化を目指すことを定めた。
 大規模災害の発生時は、生活必需品や資機材を提供するだけでなく、職員の派遣などもする。

 調印式で成沢広修区長は「平時からの相互交流が、いざというときの支援の実効性を高める」と述べ、下森博之町長は「津和野には豊かな自然があり、それぞれの特色を生かした交流を進めたい」と話した

(2012年10月2日付け東京新聞「鴎外が縁結び 文京区と島根県津和野町」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20121002/CK2012100202000090.html

【森鴎外ゆかりの地 文京区と島根県津和野町が「相互協力及び防災に関する協定」を締結しました】
 島根県津和野町で生まれて幼少期を過ごし、文京区でその生涯を閉じた、両自治体のゆかりの文人・森鴎外(1862−1922)。
 生誕150年を迎える記念の年に、平時での住民レベルにおけるさらなる交流により両自治体の友好親善を深めるとともに、有事に備えた安心・安全の向上について実効性を高め、災害時における相互協力体制を整えるため、「『森鴎外ゆかりの地』相互協力及び防災に関する協定」を10月1日(月)に締結しました。
 協定では、観光及び広報活動や住民レベルでの文化交流、職員の人事交流等について、相互協力を進めていきます。
 また、災害時における食料、飲料水その他の生活必需物資等の提供や、被災者の救出、医療活動等に関することを災害時の際、相互に支援します。
 成澤廣修文京区長は、調印式の席上で、「東日本大震災以降、自治体同士の協力が重要であるといわれています。平時から住民同士が交流を深めていくことで、いざというときに相互の応援がより実効性の高いものになると考えております」とコメントしました。

(2012年10月1日更新 文京区のできごと)
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunkyounews.html

 文京区と東京大学は、人材の育成と地域社会の発展を目的とした、学術研究の発展及び施策の充実を図るため、学術研究の成果及び人材の提供や、施設の利用をはじめとした協力を行うこととした"相互協力に関する協定"を結んだ。
 文京区は、4年制大学だけでも11の大学を抱える文教の府である。
 区はこれまでも、区内大学とさまざまな連携してきた。
 象徴的なものとしては、区内の4年制の大学学長が一堂に会する学長懇談会、学長が順番に講演を行う学長講演会、具体的な事業として、防災などの事務担当者との連絡会や、区と大学との共催の公開講座などを開催してきた。
 協定では、協力事項として、学術研究の成果の交流、人材及び知的資源の交流、施設の利用とし、細目では、東京大学は、学術研究の成果を積極的に公開し、区の施策の充実に活かすよう努めることや、大学の資源やそれぞれが保有する施設を、支障のない範囲で利用することなどが規定されている。
 文京区と東京大学では、これまでも、一部の区立小学校で、児童が東京大学の講義を聴講するなどの連携を行なってきている。
 また、東京大学が持つ貴重な資料を小学校の教室に展示し、児童がいつでも見学できるようにすることも予定している。
 今後は、更にこの協力体制を広範なものとして確立し、大学と文京区双方の発展を目指すため、相互協力に関する協定を結ぶこととしたものである。

(2005(平成17)年1月12日更新 学校教育から生涯学習まで、区と区内大学の連携 東京大学と相互協力に関する協定を締結)
http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_koho_houdou_2005_1.html

 ですから、1日の「鴎外サミット」は、「伊藤国際学術研究センター」で開催され、東大総長の濱田純一先生もご挨拶していたんですね。

『東京大学(総長濱田純一)は、伊藤雅俊氏(セブン&アイ・ホールディングス名誉会長)並びに伊藤伸子氏(同夫人)による寄付に基づき、社会と大学との関わりを深めるための社会連携拠点「伊藤国際学術研究センター」を建設し、平成24年春を目途にオープンいたします(地上5階地下3階、延べ床面積約5,500u)』
http://www.u-tokyo.ac.jp/fin03/pdf/koukokuitoukokusai.pdf

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2012年10月01日

鴎外サミット

 10月1日月曜日夜。
 きょうの日中の東京都心の最高気温は31度だったそうです。
 台風一過の晴れ、しかも暖ったかい南の空気を昨夜の韋駄天台風17号は置き去りにして、立ち去ったようで。
 昨夜は中秋の名月でしたが、外出を控えじっと我慢の子。
 そこで今夜は、満を持してヤッホー君、ビールとお団子を持ってそそくさと十六夜(いざよい)の月を愛でに大川端へ。
 
 風流だね、粋だねえ、と手前味噌もいいとこ、自分勝手に自分を持ち上げていました。

ぼくの史観?
 それはイデオロギーとか、政治学ではなくて、やはり人間を、あるいは組織をですね、見下ろすんじゃなくて、底辺のところで見回す、あるいは、上を見上げるというか、そういうところだろうと思うんだ。
 ぼくは上から人間を描いたことがないと思いますけどね

(『文藝春秋』臨時増刊『日本の作家100人』1971(昭和46)年12月号)

 これは、誰の言葉って、ですか。

司馬さんの小説は、ということは歴史の見方ということになりますが、司馬さんの言葉を借りれば、歴史を上から俯瞰するように捉える。
 つまり、歴史を大づかみにして読者に示しながら。登場人物の活躍を描くことで、歴史のうねりを手にとるようにわからせる。
 この俯瞰的な見方が、司馬さんが歴史を語るときにも、文明批評をするときにも、見事に適用されている

(半藤一利『清張さんと司馬さん』「第六章巨匠が対立したとき」121頁、NHK出版、2002)

 冒頭の引用はこの箇所への注釈ででてきます。
 はい、ですので、松本清張なんですねぇ。

司馬さんと違って、清張さんがもっとも関心をもつ作家は『或る「小倉日記」伝』にはじまる森鴎外なんです。
 人事異動でやってきた鴎外の不明の(ママ)小倉時代を、主人公である薄幸の郷土史家田上耕作が追求するというスタイルで、森鴎外を描いた作品です

(半藤一利、同書、第11章「司馬さんの漱石、清張さんの鴎外」208頁)

 急にどうしたんですか?ヤッホー君!気をしっかりもって…

 実は、今日午後1時開場、1時半〜4時半、東大「伊藤国際学術研究センター」にて、東京新聞フォーラム「森鴎外生誕150年記念・鴎外サミット」が開かれ、ヤッホー君はこれに出席していた、というわけで。
 ちょっとその知的刺激の余韻にひたり、熱くなったあたまを大川を渡って吹いてくる夜風で冷やしていた、というわけなんです。

 プログラムは、サミットと言うくらいですので、「鴎外とわが街」と題して、文京区長の成澤廣修と津和野町長の下森博之。

 森鴎外は、1862年石見国津和野(現・島根県津和野町)に生まれています。
 1873(明治6)年、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に12歳で入学、卒業して陸軍に入り、1884(明治17)年、ドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられ1888(明治21)年、帰国。
 1899(明治32)年から1902(明治35)年まで小倉在任。
 1922(大正11)年7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言(7月6日付け)が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。
 向島弘福寺に埋葬され、遺言により中村不折が墓碑銘を筆した。
 なお、関東大震災後、東京都三鷹市の禅林寺と津和野町の永明寺に改葬された。
 以上、ウイキで調べました。

 生誕の地、終焉の地の自治体の首長のご挨拶後、15分の休憩を入れて、3っつの講演がありました。
 文京区から加賀さん、留学していたドイツからベアーデさん、そして小倉のある北九州市を代表して平野さん、というわけです:

@ 「森鴎外の苦悩-医師として文士としての」(小説家、精神科医師 加賀乙彦)
A 「つれづれなるままに、記念館と記念日」(ベルリン森鴎外記念館副館長 ベアーデ・ヴォンダ)
B 「抗い得ないものについて」(小説家 平野啓一郎)

 詳しくは明日の東京新聞、11月1日の東京新聞をお買い求めの上お読みくださいね!
 ヤッホー君のこの「日記」も続くようですよ。

posted by fom_club at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする