2012年09月30日

水上山荘

 昨日の9月29日土曜日の夜、テレビを見ていた方からご連絡をいただきました、ありがとうございます。
 なんでも、ヤッホー君たちが立ち寄り湯に訪れた「水上山荘」がテレビにでたんだそうです。

群馬の名湯、水上温泉郷。
 そのなかのひとつ、谷川岳の麓、谷川温泉にあるオール5の温泉、「水上山荘」。
 まずは、雄大な谷川岳を眺めながら入ることが出来る風呂を満喫する2人。
 この水上山荘のオール5の温泉は、大浴場。
 名湯と美しい谷川の眺望をすっかり楽しんだところで、お湯の管理についてお話を伺う2人。
 実は、こちらの温泉は、水を足したり、加温することなく、こまかく温度を変化させ、適温に整えることができるそう。
 その方法とは、温度の違う源泉を3つ使い、その混合率を細かに変えることで、その季節、気温に合わせ、細かく温度を変化させているのだとか。
 その細かな心遣いに、ただただ感心させられた2人でした

(テレビ東京「土曜スペシャル」夜7時放送「日本温泉協会認定 オール5温泉に行こう!」)
http://www.tv-tokyo.co.jp/sat/backnumber/20120929/

 お風呂場のところに「水上山荘のお風呂は≪日本一の湯≫と呼ばれています。お風呂の温度がいつも熱からず温からず適温にあるからです、それはなぜでしょう?正解していただけますと粗品をさしあげます」とあったので、カッシーとヤッホー君、さっそく賞品狙いに、謎解きに挑戦しようと考えたのです。

 あほなヤッホー君、それは源泉をいったんプールして、適温になったところで湯船にひきこむんだよ。
 かしこいカッシー、きっと熱い源泉と温い源泉とがあって、ブレンドするんだね。

 水上山荘の公式サイトにあるブログ2012年9月7日9:38 AM更新「湯守の温故知新」でも:

『昨日(9月6日木曜日)は、テレビ東京「土曜スペシャル」のロケが当館にて行なわれました。
 大場久美子さんと松井絵里奈さんがご来館。
 生憎の天候でご覧いただきたかった谷川岳は見え隠れする状況で、スケジュール変更等ちょっとドタバタしましたが、お二人ともとっても気さくな良い方で、ロケも無事終了。
 今回の番組は当館にもある日本温泉協会が発行している天然温泉表示看板の項目で、すべてが5点の宿の特集だそうです。
 この番組を通して当館の温泉の良さが皆様にもお伝えできるといいです。
 OAは9/29(土)の19:00〜の予定ですので、お楽しみに!』

http://minakamisansou.co.jp/blog/

 といってもこの湯宿の立ち寄り湯、時間限定です!
 お泊りのお客さまのいないときだけ、受け入れ時間は14:00〜15:00です。

 あっ、そうそう、なんでヤッホーがここへ行きたかったのか、と申上げますと、日頃より尊敬申上げている『佐知子&タムさま』(山歩クラブへリンクをはっていただいておられます大先輩でもあります)の「山旅リスト」からでございます。
 「No.15 谷川岳1977m 近くてよい山だが…やはり魔の山か!?」
 え〜っ、さっそく現地調査!と歩いて来た山歩クラブですが、行ってよかったと山に、源泉かけ流しの湯!

『部屋の窓から谷川岳が望める。
 泉質は石膏苦味泉(アルカリ性単純泉)、源泉掛け流し。
 仙人岩乃湯(露天風呂)や古代檜風呂(内湯)などの風呂は勿論、懐石風の料理も大変良かった。
 ただ、疲れ過ぎと脱水症状のため満喫できず。
 宿へ着くやいなや、お茶をポット2本分とビールにジュース。
 一体、どれだけ飲んだことか…。
 特に佐知子は重症だった。
 ロケーションも良く、風呂も料理も料金も高級だったのだが、自業自得とはいえ、無念だ!』

(谷川岳その1 中ゴー尾根を下る 1995(平成7)年8月5日(晴れ)「脱水症状で幻覚を見る…」)
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~tamu/15tanigawadake.htm

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2012年09月29日

谷川岳1977m

 9月29日土曜日、山歩クラブの下見山行は、谷川岳。北岳を歩いたあの3人組で、チームを再結成。

 すべて順調でしたね。
 台風接近の前に行っちゃえ〜ということで決行しましたが、山良し、湯良し、仲間良し、またまた三拍子揃って、素晴らしい山行となりました!
 今朝4時車庫を出ました。
 朝一番、7時の「谷川岳ロープウエイ」に乗り、天神平で入念にモーニング・ストレッチ体操。
 からだをほぐして7時半登頂開始。10時頂上登攀。

谷川岳の秋.jpg

谷川岳の紅葉.jpg

 頂上(オキの耳)1977mは、紅葉がはじまった素晴らしい風景に、三人息をのみました。

オキの耳.jpg

 茂倉岳1978m方面への縦走コースとなる尾根筋、万太郎山1954m・仙ノ倉山2026mへの縦走コースとなる尾根筋、その間の谷間に、もう秋色のグラデュエーションがありました!
 もう至福の時、頂上でお昼をしっかりゆっくり食べて、やっと11時ちょい前に、後ろ髪を引かれる思いで下山を開始しました。
 しかし、そのときはガスが谷間を駆け上ってくるし、あきらかに台風の先遣隊の雲の流れでお天気は下り坂。もう何も見えません。

 写真はトマの耳1963m。

トマの耳.jpg

 1時のロープウェイで「土合口駅」へ。
 2時谷川温泉「檜の宿 水上山荘」(利根郡みなかみ町谷川 Tel 0278-72-3250)で立ち寄り湯をいただきました。
 道の駅「水紀行館」(利根郡みなかみ町湯原1681-1 Tel 0278-72-1425)でお買い物。
 ヤッホー君は、大根、りんご津軽、ピーマン、トマトの4点を買いまして570円をお支払いしてきました(うち消費税は27円です)。
 4時、帰路につきました。
 途中、事故渋滞がありましたが8時ちょうい前にはご帰館遊ばれていました!

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2012年09月28日

静御前の墓

 はなきん、でございました、9月28日金曜日。
 30日は十五夜です。しかしいま台風が二つも接近しております、はたしてどんなお月見になることやら…

 ところで、「会津見返り稲荷」とタイトルをつけた昨晩のブログ、読者よりご指摘をいただき、これってもしかして「会津見送り稲荷」?

 ありがとうございました。お詫びして訂正いたします!

狐に乗る茶吉尼天を祭神とした珍しい稲荷社です。
 江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。
 ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。
 大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。
 そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます。
 また、道が通行できず、茶店でお茶をご馳走になっている時に、大事な物を忘れてきたことに気づき、そのために死を決意した際、この老人が現われ、藩士に死を思い止らせたともいわれています。
 後になってこの老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされています

(久喜市 市指定文化財「会津見送り稲荷の内殿及び神体」)
http://www.city.kuki.lg.jp/kanko/rekishi/shishitei/shiseki.html#aidu

 整理してみましょうか。まずヤッホー君は、日光街道、江戸から4番目の宿場町、粕壁宿(東武伊勢崎線春日部駅から徒歩10分)の次の宿場、ですので5番目、杉戸宿(東武伊勢崎線杉戸駅から徒歩15分)、ここの「アグリパークゆめすぎと(埼玉県北葛飾郡杉戸町大字才羽823-2)」を訪れました。そのあと、権現堂公園(幸手桜堤)へ。ここは埼玉県東部地域の幸手市、栗橋町に整備中の面積34.8ヘクタール(東京ドーム7個分)の県営公園です。
 江戸から数えて6番目の宿場、「幸手宿」です。
 そして、「会津見送り稲荷」!(久喜市栗橋町、所有者(管理者)は個人)。
 7番目、栗橋宿、です(東武日光線栗橋駅から徒歩20分)。
 江戸時代は利根川を越えるための旧日光街道・宿場町として発展しました。
 本陣、脇本陣、旅籠などが多く存在しました。
 北の外れには、日光街道ではただ一つの栗橋関所がありました。
 また渡船場もあり,現在は碑が建てられています。

 そして、そして今晩の本題は、「静御前の墓」(久喜市栗橋中央1-2、所有者(管理者)は静御前遺跡保存会)です!

静御前.jpg

源義経の内妻であった静御前の墓と伝えられています。
 静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、1189(文治5)年9月15日に当地で亡くなったと言われています。
 当地には高柳寺(こうりょうじ)と呼ばれる寺があったので、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられました。
 高柳寺はその後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めています。
 当地には静御前の墓が残されましたが、墓に墓標がなかったため1803(享和3)年に勘定奉行・関東郡代であった中川飛騨守忠英により建立されました。
 墓上の杉の木は1846(弘化3)年の洪水により枯れてしまい、その後銀杏が植えられています

(前掲に同じ久喜市 市指定文化財)

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2012年09月27日

会津見返り稲荷

 愛車のナビ様は、「アグリパークゆめすぎと」、「権現堂」のあと、「義経が愛した女性が眠る静御前の墓」を目指していました。しかし、入力しても出てきません。
 ヤッホー君の持っている昭文社「情報発信 関東道路地図」って山歩クラブの活動の始まる2002年1月発行です。
 地図はちょっと古いかもしれませぬが、えいや、とばかりに、ナビ様に地図落としして行った先で、道迷い。
 ところが、ですね、これが、まあ〜、素敵な出会い。

 ナビ様は間違っていなかったのです。

 愛車は柿沼さんという民家の前、ここらあたりに静御前のお墓があるんじゃないか、とナビ様がご指定してくださったところで停車。
あたかも旧日光街道。
 R4を左に折れたあたりが、ムカシの街道沿いだったのですねえ!

 どなたか、土地の人に出会えたら、お墓のこと聞いてみようかな、とキョロキョロ。
 そうしたら停車位置のすぐの路傍に標柱あり、それが「会津見返り稲荷」だったのです!

 「身の毛がよだつ」ってこのことかな、「狐につままれた」ってこのことかな、とヤッホー君。

 会津です。ナビ様もこのブログ、毎日、毎日、日々の出来事を駄文、雑文に綴って書いている「日記」を読んでくれているのかなぁ。
 そしてこの家の若主人が、母上君といっしょになって、ヤッホー君に「道案内」をしてくれるのです。まさか狐の化身じゃないよねえ〜
 
 若主人は地べたに、地図を書きながらご親切に説明してくださるんです:
「これが栗橋駅で、ここに商店街があってこのあたりにお墓があります。駐車場はないんで駅近くの駐車場に入れたほうが良いですね…」
 
 だってさ、このお稲荷様、
会津の武士が藩の重要文書を無くして、切腹しようとしたが、狐の化身である白髪の翁に救われた。その狐を祭ったのがこの稲荷で、柿沼さんはその稲荷の境内社、つまり土産物屋の子孫とのこと」とも、また、

地水のため街道がどこか分からず困っていた会津武士を狐の化身といわれる白髪の老人が助けたという伝説があるそうです
という伝説のお稲荷さまなのです。

 思わず、感想としてヤッホー君、仲間にこんなメールを送っていたそうです:
 
土地の精霊。
 民間伝承、伝説って、文字に残った公式歴史書とは大違い。
 土地の人が連綿と子から孫へ、そしてその子孫へ、と受け継いでいく「ちから」があります。
 そして、その口承が土地の霊となって、やはり「ちから」となります。
 だって、土地は、われわれのような行きずりの人間までも惹き付け、誘いこむ「魅力」「魔力」「磁力」があるんですね…
 そんなことをきづかせてくれる小さな歴史散歩をしてきました

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2012年09月26日

アグリパークゆめすぎと

 権現堂ってどこ?またもやお問い合わせをいただき深謝申し上げます。
 平日の有給休暇を使ってのヤッホー君「小さな旅日記」、昨晩は程よい疲労感でバクスイしてしまったようで…。どこに出向いたのか記さずに寝込んでしまったようで…

 阿弥陀堂ってヤッホー君の大好きな固有名詞。2010年ですね、ヤッホー君のこのブログ、4月21日付けと、もうひとつ12月19日付け「日記」を参照ください。
 
、10年後の2012年、新たな固有名詞の発掘に挑戦、終に見つけたのでございます。それが権現堂!

観光客数200万人目標:
 関東の桜の名所として有名な幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲き誇り、堤の周辺の菜の花とのコントラストは見事で、花見を楽しむ来園者で賑わいます。
 また、6月には色とりどりの紫陽花、9月には真っ赤に染まる曼珠沙華(彼岸花)、1月には白い可憐な水仙が見ごろを迎え、1年を通して権現堂桜堤をお楽しみいただけます

(県営権現堂公園公式サイト)
http://www.gongendo.jp/

 権現堂ってだから、何県にあるのよ?
 そうなんです、ここはお隣りの埼玉県なんですよ。

 ヤッホー君のナビ様は浦和ICで下りなさいって、ナビタイム殿は久喜ICで下りろ指示で、もちろんカッシーの言う通り、「ナビ様の指示に逆らってはいけません」で、浦和で下りて、春日部市に入りました。そして杉戸町。

江戸に幕府を開いた徳川氏は、五街道をはじめとする重要な街道を整えていきました。
 その五街道のひとつが日光道中です。
 日光道中は、江戸の日本橋と日光を結ぶ道、また宇都宮から分岐する奥州道中を兼ねていました。
 現在、杉戸町を通っている国道4号線の旧道が日光道中の道筋です。
 杉戸宿は、江戸の日本橋から数えて、千住、草加、越谷、粕壁に続く日光道中五番目の宿場でした。
 「日光御成道」は、道筋として、かつての鎌倉街道とも重なる部分も少なくありません。
 日光社参の将軍が通行したことから、”御成道”といわれたようです。
 日本橋を起点に王子、川口、岩槻を経て、幸手で日光道中と結ばれていました。
 その日光御成道は、杉戸町内の下高野・下野地区を通っており、現在の県道岩槻-幸手線がその道筋です。
 この御成道の一里塚が現在も下高野地区に片側だけ残されており、県の文化財に指定されています

(2007年9月9日更新 杉戸町公式サイト「幕府が重要視した街道」)
http://www.town.sugito.lg.jp/cms/page506.html

明治維新により、それまで武蔵国に属していた地域も、慶応4年に下総県となりました。
 明治2年には葛飾県が誕生し、県庁が流山市に置かれます。
 その後、明治政府は廃藩置県を行い、明治4年11月14日に庄内古川から西が埼玉県になりました。
 県では、この日を記念して県民の日を制定しています。
 明治22年には、大日本帝国憲法の公布に続き、市制、町村制が実施され、杉戸町が誕生しました。
 これまでの埼玉県内にあった北葛飾郡・中葛飾郡の200余りの宿村は31の町村になりました。
 東武鉄道が開通したのは、明治32年のことです。
 最初の開通区間として北千住から久喜までが開業し、杉戸駅(現在の東武動物公園駅)が開設されました。
 開業当時は、イギリス製の蒸気機関車が使われており、電車が走るようになったのは大正15年からです。
 鉄道の開通によって、物資の流通も河川交通から鉄道へと移っていきます。
 現在では地下鉄日比谷線・半蔵門線への直通電車も運転されており、鉄道による住民にとっての便益は、より大きなものとなりました。 
 また、戦後のモータリゼーションによって道路交通網が発展すると、道路がもう一つの物流の主役となっていきます。
【明治天皇御休止所址】
 明治9年に明治天皇は東北地方へ巡幸され、6月3日に杉戸町に設営された埼玉県第6区務所で休息されました。
 この時には、天皇の姿を見ようと近在から多くの人が集まりました。その行幸の様子を表した絵が西小学校に残されています

(2007年9月9日更新 杉戸町公式サイト「近世村から近代の町村へ」)

 下町を電車ではなく、「来るま(クルマ)で良い(e)ドライブ」などと称して、朝の7時過ぎには愛車で出発していたヤッホー君、このナビ様に最後は敬礼、謝礼、御礼仕っておったとか。
 平日だからこそ、お仕事中の車両で道路はごったがえしておりました。
 
 9時ちょうい前にたどり着いたのが杉戸町、「まちの駅・道の駅 アグリパークゆめすぎと(杉戸町大字才羽823番地 Tel 0480-38-4189(よいパーク)でした。

 次に寄るとしてもなくなる可能性があるので、と買い物:
★ 3点せんべい ★玉ねぎ ★バナナ ★人参 ★ミックスたまご
 合計1023円のお買い物だったのです。

 この道の駅の概要は次の通りです:

農業振興と地域活性化の拠点として。
 「アグリパークゆめすぎと」は、農業と地域住民のふれあい、地域住民と広域住民の新たな交流の場としていくため、さらに農業学習・農業体験の場の創出をめざした花と緑のふれあいファームをテーマに整備を進めています。
 「アグリパークゆめすぎと」は、杉戸町のほぼ中心部に位置する才羽地内の、町道11号線(埼葛広域農道)沿いにあります。
 整備にあたっては地元協議会や、地域住民のみなさんJA農業団体・消費者団体・公募による町民の代表で構成される「すぎと・むらづくり塾」などで、施設の内容や運営について話し合い、助言をいただきました。
主な施設:
○味わう・・・直売所、食堂、食品加工所の設置
○集う・ふれあう・・・芝生広場、イベント広場、調整池など
○育てる・・・市民農園、果樹園
○学ぶ・・・体験農園、育苗施設
 この味わう、集う・ふれあう、育てる、学ぶの4つのコンセプトのもとに、人と農業の新しい創造を勧めるとともに、多くの地域の人びととの交流をめざします。
 また、農家や消費者など地域住民が、積極的に経営に参加していただけるような、民間活力を導入した住民参加型の会社組織で運営をしていきます

(杉戸町役場公式サイト)
http://www.town.sugito.lg.jp/cms/cpage640.html

 町は市にのみこまれていませんでした、がんばれえ、「ゆめすぎと」!
 9月25日は下見お散歩、山歩クラブの大ぜいで次回、お邪魔します!

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2012年09月25日

権現堂公園

『権現堂公園の曼珠沙華も、まだ、全体的にとは言えませんが、ところどころで芽が出始めてきました。しかし、花自体は、ほとんど咲いてない状況ですので、見頃を迎えるのはおそらく10月に入ってからになると予想されます』

まんじゅしゃげ.jpg

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2012年09月24日

日比谷図書文化館

 昨日の日曜日は雨。
 一雨、一雨、降る度に秋らしくなっていくのかな。
 そうなって欲しい…と言いますのは、9月21日金曜日気象庁は『太平洋高気圧の勢力が日本の東海上で非常に強まり、北・東日本は厳しい残暑となりました。北日本の旬平均気温は、8月下旬から9月中旬までの3旬続けて、統計を開始した1961年以降で最も高くなりました』と報道発表していたのですから。

三陸沖の海水温は平年よりも6℃も高い。
 これだけ気温や海水温が高いと、農作物や漁業などに大きな影響が出ると思われますが、これから10月にかけて見頃を迎える北日本の紅葉も同じ。
 過去の例から、気温が1℃高いと、紅葉の進み具合は5日〜1週間程度遅れます。
 3℃高いと、2〜3週間は遅れます。
 今年の北日本はこれ以上の高温。
 一体、北日本の紅葉は、どれ位遅れてしまうのでしょうか?
 観光業などへも深刻な影響も懸念されます。
 ちなみに、例年9月下旬に見頃を迎え始める北海道の阿寒湖や知床峠などでは、まだ木々が青々しているとのことです

(2012年9月22日 10時23分 チーム森田の天気で斬る 杉江勇次「北日本の異常高温」)
http://weather.yahoo.co.jp/weather/column/moritablog/20120922102324.html

 雨ん中、長靴を履いて傘をさして向かった先は、深川図書館。
 そこで、別刷歴史読本『名君保科正之と会津松平一族』(2005年、新人物往来社)を探しまわって、図書館の人にも聞いていたところ、件の館員さんが、ぼそぼそっとこんなことを:

「ここは霊巌寺に松平定信公のお墓もあることで、地名の白河そのものが白河藩と縁が深い土地柄ですよね、ところで、松平定信公が失脚したのは、大黒屋光太夫を契機にした対露外交の政策によるもの、っていう話しはどう思われますか?僕は専攻が世界史なもので…」

 ヤッホー君とこの館員は開架式の書棚の床に深く沈みこんだまんま、話しこんでいました。

 通りいっぺんの情報ですと、こうなんですう:

『対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を送り届けたロシアのアダム・ラクスマンの通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な姿勢で臨んだ…
 歴史の証言:魯西亜人取扱手留(ろしあじんとりあつかいてどめ) 東京大学史料編纂所-
 所老中首座・松平定信が日露交渉の経緯を後にまとめた記録で、日露交渉の第一級資料です。
これにより、事件の事実関係だけでなく、幕府の老中や奉行たちや定信の考え方がよく分かります。
 読んでみると、老中たちの意見が「蝦夷地で交易したらどうか」などど、必ずしも鎖国を絶対に守ろうと考えていないことに驚かされました。
 また定信はラクスマンが到着した根室という土地について「日本の外であり、退去を命じることも難しい」と言及していますが、この発言は当時の幕府中枢が蝦夷地(北海道)に対して日本の領土だという意識は薄かったことを物語っています。
 この事件の後、幕府は蝦夷地を直轄領とするなど、ロシアとの国境を意識した政策をとることになります(番組ディレクター)』

(NHK番組 さかのぼり日本史)
http://www.nhk.or.jp/sakanobori/schedule/index.htm 

 でもね、と、ヤッホー君。
 
『え〜と、お借りしたい本は保科正之に関するものです。
 この御仁は育ての親の信州は高遠の保科姓を大事にしようと、保科を頑なに護るのだけど後は、松平家を名乗っていきます。
 しかし、ことほどさように会津藩には、「貞女は二夫に見えず」道徳があり、幕末の京都守護職の拝命、戊辰の役、薩長からの逆賊の仕置き、斗南藩への移封、ましてや藩祖の保科正之は歴史上(歴史は常に勝者の歴史なんですねえ。古今東西問わず)、無視・忘却・敬遠の憂き目にあっていくわですよねぇ〜。
 お尋ねの件に関しては、どうでしょう、日比谷図書館の木曜夜のセミナーなどにでて、先生はあなたのようにまだお若い方です。
 ぜひ、日本史をもう一度組み立てなおすような意気込みで取り組まれては。
 期待申上げます』

 特別研究室ナイトセミナー:
 研究室ナビゲーターが特別研究室蔵書から毎回異なる本を紹介し、本の内容をもとに議論して新たな発見を共有する、ワークショップ形式の蔵書探検セミナーです。
 ただ聞くだけでなく、参加者もナビゲーターとして本を紹介できます。
 綺麗な地図や挿絵の入った本や、歴史を物語る古今東西の記録など、 特別研究室には好奇心をくすぐる本がいっぱいあります。
 ぜひあなただけの一冊をみつけ、セミナーで語り合いましょう!

 定員/毎回20名(先着順・参加無料)
 申込方法/当日までに特別研究室受付にて直接お申込みください。
 ※ いつでも、ご都合の良い日にご参加いただけます。
 お問い合せ先/日比谷図書文化館 特別研究室担当 Tel 03-3502-3340(代表)E-mail:laboratory@hibiyal.jp
 千代田区立日比谷図書文化館
 〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-4
 Web:http://hibiyal.jp/


 山歩クラブのように(ここは隣近所のおばちゃん、おっちゃんが山に分け入るところ)、入退会自由、自己紹介も、推薦もいらない、市民がふいって立ち寄って、おしゃべりして刺激を与え、受けるそんな『場』『空間』ができるか、皆の衆、ぜひたまには日比谷公園、じゃない、元え〜、イマや改め日比谷図書文化館に立ち寄ってはいかがですか?
 ようやく、待ちに待った「秋」到来ですよ!
 立ち飲み、赤ちょうちん、場末の飲み屋もイマや流行遅れのようゆえ、もしかして、こんなところにあなたを時空を越えて旅立たせる滑走路があるのかもしれません!

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2012年09月23日

天地明察

チェック:
 「おくりびと」で第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した滝田洋二郎監督が、冲方丁原作の時代小説を映画化した娯楽大作。
 江戸時代前期、800年もの間国内で使用されてきた中国の暦のズレを正し、日本独自の暦作りに専念した実在の人物安井算哲の半生を描く。
 算術と星に熱中する主人公を「SP」シリーズの岡田准一が演じ、その妻役を宮崎あおいが務める。
 大志を胸に抱き、何度も失敗を重ねながらもあきらめない男の心意気に感服する。

ストーリー:
 太平の世が続く江戸時代、算哲(岡田准一)は碁打ちとして徳川家に仕えていたが、算術にもたけていた。
 もともと星を眺めるのが何よりも好きだった彼は、ある日会津藩主の保科正之(松本幸四郎)の命を受け、北極出地の旅に出ることになる。
 算哲らの一行は全国各地をくまなく回り、北極星の高度を測り、その土地の緯度を計測するという作業を続け……』

(シネマトゥデイ)
http://www.cinematoday.jp/movie/T0012208

 映画『天地明察』の公式サイトはこちら↓:
http://www.tenchi-meisatsu.jp/index.html

 どうしてまた、急にJR有楽町駅、東京メトロ銀座駅から徒歩3分「丸の内ピカデリー」で観て来たばかりの映画を持ち出すのかっていいますと、ヤッホー君、実は、映画『おくりびと』の監督が撮った作品だからとか、宮崎あおいの追っかけとか、金環日食の天文おたくというより、これを言いたかったらしいのです:

三代将軍の家光までは、将軍が自ら政治を行っていましたが、四代家綱は少年のうちに将軍になったため、会津藩主・保科正之が後見人となりました。
 保科は実は二代将軍秀忠の子で、重鎮として色々な政策の助言を行っていたのです。
 中でも有名なのは明暦の大火(1657年)の後に、泰平の世に天守閣は必要ないと、江戸城の天守閣を再建しなかったこと。
 また、年金のような制度を日本で初めて作るなど、庶民のことを考えた政治を行った名君だと言われている人物です


 これは、公式サイトのなかにある『天地明察を楽しむためのキーワード』にでてくるのです。どうしてかって、原作を本屋さんでお買い求めになるか、映画館に足を運ぶとかして、あっ、そういうことね…とご自身でお考えになってくださいますように。

福島県会津若松商工会議所(宮森泰弘会頭)は9月13日、会津松平藩祖・保科正之公が関わった改暦事業を紹介し、江戸時代の「会津暦」をモチーフに会津の精神や文化、産業、年中行事などをまとめた冊子「現代版会津暦」を発刊した。
 会議所の「歴史再発掘〜会津へのみち」事業の一環で、正之公生誕400年にちなみ昨年度から編集を進めていた。
 正之公も重要な人物として登場する映画「天地明察」の上映に合わせて作った。
 A5版、84ページで1000部作った。
 暦の歴史、正之公と改暦事業に取り組んだ渋川春海との関わり、さらに会津の自然や文化、伝統産業などを紹介している。
 街道観光や産業観光と関連付けた会津5街道の紹介・提案も盛り込み、着地型観光にも活用できる。
 非売品だが、30人に贈る。
 希望者は郵便はがきに住所、氏名、年齢、性別、郵便番号、電話番号などを記入し、郵便番号965−0816 会津若松市南千石町6ノ5 津若松商工会議所「現代版会津暦」係に送付する。
 締め切りは9月28日。
 問い合わせは同会議所 電話0242(27)1212へ

(2012/09/14 08:42更新 福島民報)

 まだこころは会津にあるようでして。

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トウキョウステーションビジョン

 P9226386.jpg

 興奮のるつぼと化した初秋の宵、東京駅丸の内。
 ヤッホー君、8時に間に合うようにと出かけたのですが、もう人の群れ。
 白山で黒百合を見たのはイマでは懐かしい思い出ですが、東京駅で黒山の人だかりとであうとは…山は山でも大違い!
 そうしますと、あれは2回目だったのですね。

JR東京駅(東京都千代田区)で9月22日、国の重要文化財の丸の内駅舎をスクリーンに見立てたコンピューター・グラフィックス(CG)の映像ショーに観客が殺到し、イベントが中断されるトラブルがあった。
 ショーは23日夜もあり、主催のJR東日本は警備を増やすなど予定通りに上映するとしている。
 同社によるとショーは午後7時半に開始。
 増え続けた観客が駅舎前広場から路上にあふれたため、3回の上映予定を2回で打ち切った。
 同社は6千人の人出を想定したが、実際は1万人を超えたという。
 駅舎の復元完成を祝い、駅や鉄道の歴史にちなんだCG映像を投影する10分間のショーで、22、23日の午後8時から1日3回の上映を予定。
 22日は観客の集まりが早く、開演を30分繰り上げていた

(2012年9月23日1時43分更新朝日新聞デジタル「東京駅の映像ショー、観客殺到で初日中断」)
http://www.asahi.com/national/update/0923/TKY201209220572.html

建物などの立体物に映像を投影することで特殊な視覚効果を生む<プロジェクションマッピング>は、欧米を中心に広告やアートシーン、空間演出等で広く活用されている注目の映像表現技術です。
 先頃のロンドンオリンピック開会式でも多用され、大変話題となりました。
 あらゆるものがスクリーンとなり、いつもの見慣れた風景や街を映像メディアへと一変させるその技法は、幅広い世代が感動を共有できる新しいエンターテインメントとして、さまざまな可能性を秘めています。
 NHKエンタープライズは、プロジェクションマッピングの可能性にいち早く注目し、2011年より技
術開発とプロジェクトを実施し、他社にない総合的なノウハウを蓄積してまいりました。
 プロジェクターの光量や周辺環境との交渉など、室内に比べて極めて実施のハードルが高い屋外イベントでの事例を、大学との連携や放送との連動など、弊社ネットワークを活かして実現。
 国内最大規模級の屋外プロジェクションマッピング事例に挑戦しつづけています』

 これまでの事業実績は、といえば:

『★ SEIKEI PROJECTION MAPPING
…創立100周年イベントの一環として成蹊学園学園祭で実施。成蹊学園本館(幅70m×高さ20m)へ5台の超高輝度プロジェクターで100周年を記念したオムニバス映像を2011年11月19日(土)20日(日)投影。
★ 東京スカイツリー プロジェクションマッピング
…スカイツリー開業直前の特集番組にて放送用企画として実施。「江戸、東京、そして未来へ」をテーマに東京スカイツリー イーストタワー(幅45m×高さ90m)のガラス面へ2012年5月12日(土)投影

(2012年9月13日(株)NHKエンタープライズより報道関係者各位へ「東京駅丸の内駅舎保存・復原 完成記念イベント「TOKYO STATION VISION-トウキョウステーションビジョン-」の開催について)
http://www.nhk-ep.co.jp/pdf/201209/press201209-04.pdf

 この事業に協力してきた会社が「P.I.C.S. ピクス」です:

他とは違う異彩を放つクリエイティブのためには、
 独創性と、時代の先端を走るための革新性が求められます。
 ピクスは「独創性と革新性」を常に心がけ、新しい感受性を持った映像を通し、
 人の心に「楽しい驚き」を提供します。
 
 音楽と映像は互いに触発しあい、共振します。
 その心地よい摩擦は爆発し、人に活力を与えます。
 最高の調和を生んだ時、人に安らぎを与えます。
 ピクスは映像制作において、この音楽との触発・共振を大切にしています。

 私たちピクススタッフは…
・自由で、新しい発想を大切にし、誠実な精神を持って、秩序ある行動をします。
・パーソナリティーとチームワークを業務活動の両輪とします。
・好奇心旺盛で、スキルの研鑽を怠らず、仕事に楽しさを発見します。
・効率の良い業務を心がけ、健康に留意します

http://www.picsco.net/-/#!/companyinfo/philosophy/

 ピクスの映像作家で協力してくれたのがTAKCOMと針生悠伺。

◎ 土屋貴史 TAKCOM、1979年生まれ。
http://public-image.org/interview/2011/03/16/takcom.html

 取材記事です。次の方も含め、若人よ、ガンバレぇ〜!決定

◎ YUJI HARIU/針生悠伺、DIRECTOR
Born in 1984 in Japan.
While I was in university, I improved my skills in design, 3D motion and editing, and received a special prize at 2005 MTV STATION-ID CONTEST.
After I graduated university, my career as a director began at MTV Japan’s creative department in 2007.
Mainly, I directed broadcast design and created 2D/3D motion graphics.
In 2008, I received the ROCKET AWARD; World’s Best New-Face Award at the Promax BDA WORLD GOLD Design Awards held in New York.
Since then, I also earned awards in New York, Los Angeles and Asia.
As of March 2012, I work as free-lance director.
http://www.hariuworks.com/

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2012年09月22日

Tokyo Station Vision

 会津の中村弥六もオハラショウスケさんも、信州は高遠と縁がございました。
 ところで中村弥六、首相の原敬に直談判した、とヤッホー君、記録しましたが、この平民宰相の原敬は1921(大正10)年11月4日、東京駅丸の内「南口」改札口付近で暗殺されてしまいます。
 65歳のときでした。
 シベリアからの軍の撤退、軍縮に乗り出し、「国の繁栄」は領土への野心でなく交易だとの信念が邪魔に思う一部のムラ住民の反発を買い、実行犯をして殺人という卑劣な行為に走らせたのでしょう。

http://murakumo1868.web.fc2.com/02-modern/02-001.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Ningen/hara_kei/hara_kei.html

 ヤッホー君の師、永井荷風は原敬の死に関し、こんなふうに日記を綴っております:

11月5日。百合子来る。
 風月堂にて晩餐をなし,有楽座に立寄り相携へて家に帰らむとする時,樹上號外売の奔走するを見る。
 道路の談話を聞くに,原首相東京駅にて刺客の為に害せられしと云ふ。
 余,政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異らず,何等の感動をも催さず
 人を殺すものは悪人なり。
 殺さるるものは不用意なり。
 百合子と血温にキュイラッソオー蓋を傾けて寝につく


 その東京駅になんとしても行って見ないことには…と思ったヤッホー君、さらにこんな情報まで。
 早朝のことでございました:

およそ100年前の姿に復元する工事がまもなく完了するJR東京駅の丸の内駅舎で9月21日金曜日夜、駅舎自体に、最新技術を使ったCG映像が映し出されました。
 これは東京駅の丸の内駅舎が大正時代の姿に復元されることを記念して行われたもので、22日から行なわれる本番の上映を前に、21日夜、報道公開されました。
 復元された駅舎自体が巨大なスクリーンになって鉄道や旅を巡るCG映像が次々に展開し、映像は、幅120メートル、高さ30メートルに及びます。
 46台のプロジェクターが、建物の形に合わせて映像を投影する最新の技術が使われていて、まるで駅舎の窓や柱そのものが動いたり飛び出したりするように見えます。
 子どもと一緒に見ていた30代の女性は「たまたま山形県から東京駅に来たのでびっくりしました。映像が建物と一体となっていて感動しました」と話していました。
 映像は、22日と23日の2日間、いずれも午後8時から上映されます

(9月22日 4時38分更新 NHK「東京駅 駅舎にCG映像写す」)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120922/k10015203311000.html
http://www.nhk-ep.co.jp/vision/
  
 詳しくはこれ、これ↓:
http://www.youtube.com/watch?v=xHsbdq8GtKc

 だったら下町っ子のヤッホー君、行かなぁなりません。
 だって北では「会津まつり」、そしたら地元!ムカシから「火事と喧嘩は江戸の華」と申しますヤンかぁ。

vision1.jpg

vision2.jpg

 1・9・1・4・…およそ100年前…、

1914.jpg

1914(大正3)年に創建された東京駅丸の内駅舎は、辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきました。
 しかし、1945(昭和20)年、戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。
 戦後、3階建ての駅舎を2階建て駅舎に復興し、現在の姿になりました。
 この度の「保存・復原工事」では、外観を創建時の姿に忠実に再現するのはもちろんのこと、さらに、未来へ継承するため、鉄骨煉瓦造の下に地下躯体を新設し、機能拡大の工事を行ないます。
 そして、巨大地震にも耐えうる建築とするため、「免震工法」で施工します

(鹿島建設「東京駅丸の内駅舎保存・復原工事」)
http://www.kajima.co.jp/tech/tokyo_station/index-j.html

 辰野金吾(1854-1919)…、その息子が辰野隆(1888-1964)です。
 東大仏文科教授として、三好達治・渡辺一夫・伊吹武彦・小林秀雄・今日出海・中島健蔵・井上究一郎・中村光夫・森有正・鈴木力衛ら、たくさんの文人を輩出させたことで知られています。

 あっ、そうそう、東京駅丸の内側は甘い砂糖に群がるアリの如く、よくもまあ、こんなにも集まるもんじゃ、と思うほどの人出で、罵声飛び交い、交通事故も心配される有様に、主催者側のスタッフなのか、
「一回だけの上映であとは中止となりました」のハンドスピーカーで声掛けをしていましたが、2回目があったのか、明日はどうなるのか分かりません、はい!
 「トウキョウの初秋」…トウキョウ駅包囲行動にご用心、ご用心…

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会津磐梯山踊り

今日9月22日土曜日「秋分の日」は、彼岸中日。

会津の秋を彩る会津まつりが9月21日、昨日の金曜日、福島県会津若松市で開幕した。
 初日は市内の子どもたちが神明通りなどを練り歩く「提灯(ちょうちん)行列」と、市民が踊りの輪を広げる「会津磐梯山踊り」を繰り広げ、市中心部が活気づいた。
 提灯行列には市内の子どもや保護者ら総勢1万2000人が参加し、会津陸上競技場から神明通りまでの約2キロを提灯を掲げ行進した。
 東京電力福島第一原発事故の影響で市内に避難する大熊町の子どもたちも練り歩いた。
 9月22日は中央通りで日新館童子行列と鼓笛隊パレードなどがある。
 9月23日はメーン行事の「会津藩公行列」を行なう

(2012/09/22 09:29 更新 福島民報「会津まつりが開幕」)
http://www.minpo.jp/pub/topics/odekake/2012/09/post_3376.html

 そうなんです。
 秋分の日の朝、同じ『福島民報』はこんなかわいそうな、鉈で故郷との絆を断ち切る思いの決断を下した大熊町議会の本会議の様子を報道しています:

今後5年間は帰還しない方針を明記した町の第1次復興計画案を全会一致で可決した。
 東京電力福島第一原発事故に伴い避難している自治体が、長期間帰還しないことを正式に決めたのは初めて
 町は住民の移転先となる町外コミュニティー「仮の町」の整備を目指す一方、帰還に備えて町内の拠点施設の除染やインフラ復旧などを進める。
 渡辺利綱町長は「古里の大地を取り戻すのが一番の目標だが、現実には線量が高い所が多く苦渋の決断だった。5年間を帰るための準備期間とし、帰れない人のための居住環境も整備していく」と述べた

http://www.minpo.jp/news/detail/201209223774
 
 そんなフクシマですが、さぞや夕べの踊りはにぎやかだったことでしょう。
 会津若松市ってわれわれが走って磐越自動車道を磐梯河東ICでおりましたが、次の出口で下りれば良かったのですね、と今頃気づいているヤッホー君。
 そうなんです。
 もうナビ様の仰せの通りに走るもので、地図も見なければ、何も考えていないのです(ペコッ)。
 さ、われわれもいっしょに唄「会津磐梯山」を歌いましょうよ!
 山歩クラブは17日の月曜日、磐梯山からの帰りの東北道で、渋滞に巻き込まれたクルマのなかで、大きな声で合唱してきました!
http://www.youtube.com/watch?v=jo2Y6VOvKk8&feature=related

 なお、上↑の動画で歌っているのは、福島県の隣の山形県出身の民謡歌手、大塚文雄さんです(1940年生まれ)。伸びのある、高音もよく通るいい声ですねえ〜
 プロフィルはこちらの公式サイトで;
http://www.youtube.com/watch?v=YMF9c47L8g8

 あ、ごめんなさい!
 これは大塚文雄がイマや世界の歌姫となった由紀さおり(1948年生まれ)とデュエットしている1994年版「麦畑」でした。
 正しくはこれ、これ↓↓:
http://humio.deca.jp/page008.html#label7
 
 ところで、この唄に出てくるオハラ ショウスケさんって、どんな人?

 諸説ありますが、次のオハラ ショウスケさんの先祖の説明に、ヤッホー君、思わず膝をうっていました:

会津藩の藩祖といわれるお殿様、保科正之公に信州の高遠から会津にやってきました(1643年)。
 それからおよそ200年の時が下り、幕末に小原庄助なる人物がいたのです。
 苗字帯刀を許された郷頭という身分で、かの戊辰戦役の際には西軍と壮絶な戦いを繰り広げ、勇猛果敢に戦い戦死したと言われています。
 そのお墓は現在も会津若松市内の秀安寺にひっそりとあります。
 まさに小原庄助さんそのものですが、果たしてこの人物が唄の中の庄助さんかどうかはわかりません


(≪会津への夢街道≫ これは、会津に至るルートの案内と途中の名所旧跡を紹介し、会津の名所旧跡・見どころや、 立ち寄り源泉、名産品・特産品、郷土料理、札所巡り、歴史の概要などさまざまな会津を 紹介するサイトです。
http://www.aizue.net/)

(会津若松酒造協同組合、福島県会津若松市城前2-3 にも記載があります。会津の民謡を歌いながら、会津の銘酒をいただきましょう。
http://homepage3.nifty.com/aizusake/index.htm)

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2012年09月21日

裏磐梯高原ホテル

 八方台駐車場に戻った山歩クラブ、せっかくだからとお風呂に入って、放射能まみれのからだと、歩いた後の汗をきれいさっぱりと洗い流してくることにしました。
 ヤッホー君の手控えには、貴重な情報が…
 それは2011年9月5日、昨年の同月、日帰りで磐梯山を登られた方のヤマレコへの投稿記事でした:

『日帰り温泉は、昼食時にお世話になった岡部小屋の方に「裏磐梯高原ホテル」の割引入浴券をいただきました(1000円⇒500円)。
 お風呂は今年の3月17日(!)に改装されたばかりでとてもキレイでした。
 八方台駐車場から10分もかからず、タオル・シャンプー・ボディソープ・ドライヤーも完備されておりオススメです!』

http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-131950.html

 山歩クラブが昼食時にお世話になったのは、弘法清水小屋です。
 さっそくヤッホー君、割引券をおねだりしましたが、
「去年、入られましたか、ね、いいお風呂ですよねえ、今年はね、割引券は配らないんだそうです、ザンネンですよねえ」と小屋の女将がほんとうに申し訳なさそうにお答え。

 ま、行ってみようか、と。

 ところがヤッホー君のいつもの勘違いで、その「裏磐梯高原ホテル」は来るときに見たなぁ、と。
 磐梯河東ICで下りて、道の駅「ばんだい」、榮川酒造の蔵元を通り、八方台への途上にあるゴールドライン(有料道路、イマは無料)沿いの施設とばっかり思っていたのでしたが、それは「磐梯山温泉ホテル」(耶麻郡磐梯町大字更科字清水平6838-68 Tel 050-3786-0022)。
 愛車のナビ様は、逆の方向、つまり裏磐梯、ですんで正解なんですが、ちょっとヤッホー君、あれっ、と内心は動揺していました。

◎ 『道の駅「ばんだい」は、国道49号を補完する重要な路線である主要地方道猪苗代塩川線の中間地点に位置します。
 万葉集に「会津嶺」と詠われた日本百名山である磐梯山の豊かな自然と四季折々の風景の中、2008(平成20)年に復元された史跡慧日寺跡金堂では、会津仏教文化発祥の歴史に触れることが出来ます

http://www.thr.mlit.go.jp/road/koutsu/roadstation/fukusima/fu20.html

◎ お風呂をいただいたあと、東京の下町に帰る途中、この道の駅で買出しをして、忘れてならないのが地酒、と目星をつけていたのが「榮川酒造」:
5代目久治は昭和の末期、酒造りに適した良水を求め会津一円を歩き回りました。
 磐梯町には慧日寺という寺があり、9世紀頃に法曹「徳一」の下、約4000人の僧兵がいたともいわれています。
 5代目久治は、集落あるところに名水ありと目をつけ調査したところ、酒造りに最適な水がこの地にあることが判りました…。
 「龍ヶ沢湧水」は、 森林に包まれ、夏でも水温9℃の冷水が枯れることなく湧いています。
 日本の名水百選にも選ばれた磐梯西山麓湧水群を代表する湧水で、 古くから霊水として知られ、平安時代から雨乞いの記録が残っています。
 巨大な龍石があり、その間から清浄で豊富な水が湧き出ています

http://www.eisen.jp/C-1.html

 ザンネン、買出しは次回へ。
 この「裏磐梯高原ホテル」(耶麻郡北塩原村大字桧原字湯平山1171 Tel 0241-32-2211)は、来年2013(平成25)年に設立30周年を向かえ、幾度も天皇陛下や皇族もお泊りになられる由緒あるところ。
 フロントのお話しでは、昨年2011年3月(!)に、裏磐梯弥六沼温泉の展望露天風呂「四季の湯」を増築開業したその記念に割引券を発行したとのことで、したがって今年はそのようなサービスを終えさせていただいていますと、で、お支払いした入浴料は一人1200円!
 
 この展望露天風呂からは、きれいな青い緑の「弥六沼」越しに登ってきたばかりの磐梯山が、手に取るように見えました。
 この沼はきっとプライベートビーチならぬプライベート沼だねってカッシーと話しをしていたら、やはりそのようでした。
 「弥六沼」をどう呼ぶんだろうとまたまた興味森々、売店に聞きにまいりました。
「あの沼がミロクヌマってんですか?」
「ん?あれはヤロクヌマってそのまま読むんですよ」

 そうでしたか、コーヒー一杯700円のラウンジから中庭に抜けて、沼のほとりへ。
 英語表記で、swamp yaroku と標識があって、これもさすがだねってカッシーと。
 ヤッホー君はpond と訳したかもしれませんが、英々辞典で調べてみると、s small area of still water, especially one that has been artificially made
 ところがswamp となると、land that is always very wet or slightly covered by with water 池塘(ちとう)ですね、そうですか、と二人で感心していました。

 どうして、swamp yaroku って言うのかって?
 これにもドラマがあるのです!

1907(明治40)年から1910(明治43)年ごろ、水力発電の開発を企画し裏磐梯を探査しているとき、国が民間人に植林させた後、その土地を低価で払い下げようとしていることを知った十次郎は、植林の権利を手に入れこれに力を注ぎました。
 技術の指導を信州高遠出身の中村弥六に、財政支援を宮森太左衛門らに受けながら植林を開始した十次郎は、中村とともに五色沼湖畔に建てた小屋に起居しながら、失敗にもめげず、赤松を根付かせることに成功しました。
 1919(大正8)年、「植林成功届」と「官有地払下願」を提出しましたが、当初の約束と違い、政府は国有林のままとしたので、中村が首相原敬に直談判し、478町歩余りの払い下げを受けることができました。
 十次郎たちは中村に土地の一部を贈ろうとしましたが、中村はこれを断ったため、記念にとその土地の沼に「弥六沼」と名付けています


 ご先祖さまたちの100年も前、額に汗し、血と涙の裏磐梯緑化活動の物語はぜひ会津若松市の公式サイトから入ってお読み下さい:
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin35.htm

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2012年09月20日

1年1ミリ

 0.180 μ Sv/h
 コメント無しの数字の羅列が何を表しているのでしょうか、それを考えているうちに昨晩は、眠たくなって日記の更新もせず、バクスイしてしまったヤッホー君。
 「磐梯山放射線量測定マップ(5月16日測定値)」なるものをご覧になっていただけたものと思います。
 上の数字は、x 印、つまり「ガス発生危険箇所」先での測定ですので、きっと「中の湯」跡の先だろうと思います。
 これがこの山路で一番、測定値が高いところ。

 参考記述が見つかりました、
 やはり武田邦彦先生(中京大学)でしたね。

『1時間に0.11マイクロシーベルトですと、普通の地方は自然放射線がこのうち0.04マイクロシーベルト含まれますから、0.07マイクロシーベルトが憎っくき福島原発からの放射性物質です。この場合、8760時間をかけると1年に0.6ミリシーベルトになり、内部被曝を押さえれば何とか1年1ミリに押さえることができます。
(ヤッホー君の注 1日は24時間。一年は24時間×365日=8760時間)』

(平成24年6月26日更新)
http://takedanet.com/2012/06/post_a1c9.html

 これを踏まえ、0.18 マイクロシーベルトの場合を考えます:
 0.18−0.04=0.14
 0.14x8760=1226.4

 これは?…
 「1年1ミリ」を越える値。
 何回電卓を叩いても、電卓よりも自分の手を、と思って手計算しても、1ミリを越える値なのです!
 ビックリしました…

 例のアレです、『ただちに健康に害を及ぼす値ではない、冷静な行動を』という枝野官房長官(当時)のあの顔、あの声、あの格好が思い出されませんか?
http://www.youtube.com/watch?v=vm2TX43pKQM

 当時、ただ騒然、呆然 唖然としていたヤッホー君、でも政府発表を鵜呑みにすることはできませんでした。
 やはり、同じ思いの方がおられましたね。
 一方的にメッセージを受け取るだけでなく、それを胃に入れて反芻してみようという良識派が…、それが武田邦彦先生(中京大学)でした。
 復習しましょう;

『政府とマスコミがごまかしを始めた。
 これはどうしてもすぐ多くの人が気がついて理解しておかなければならない。
 それは「1時間あたりの放射線」と「そこに住んでいる子供が受ける放射線」の問題だ。
 実に危険なごまかしを始めた。

 放射線の強さを「シーベルト」で示すが、これには「年間にあびるシーベルト」、「1時間あたりのシーベルト」、「白血病になるシーベルト」、「瞬時にあびるシーベルト」と4つある。
 この複雑なことを利用して、昨日から政府とマスコミは歩調を合わせてごまかし始めた。
 子供をもつ親はその責任から、絶対に次のことを理解して欲しい(今、私は計算中)。
・・・・・・・・・
 まず、法律で決められた「普通の人は一年に1ミリシーベルトまで(自然放射線を除く)」というのは、「1年間」だ。
 政府発表やテレビで報道しているシーベルトは「1時間あたりのシーベルト」だから、1ヶ月少し(42日)住んでいるところの場合、それを1000倍する必要がある。
 白血病になるシーベルトは約400ミリシーベルトで、これは1時間でも1年でもなく、そのままである。
 だから1時間400マイクロシーベルトのところに1時間いても大丈夫だが、1ヶ月あまり住んでいると白血病になる。
 レントゲンを受けると「一度に600マイクロシーベルト」の放射線を受けるが、これは瞬時である。
・・・・・・・・・どのぐらいで何が起こるか・・・・・・
4シーベルト       死ぬ
400ミリシーベルト     白血病
1ミリシーベルト(1年)  法律で定められた限界
・・・・・・・・
(1) 福島原発2号炉から放射線が漏れたときに枝野官房長官が発表した数値は1時間に400ミリシーベルト。
(もし、その場所に1ヶ月少し住んだら、400シーベルトになり死亡。その100分の1で死亡するから1日いたら死亡する)
(2) 文部科学省が3月16日に発表した福島原発から20キロの地点(福島県浪江町周辺)の放射線は1時間330マイクロシーベルトであった(1時間あたりと思う)。
(そこに1ヶ月少し住んだら330ミリシーベルトになり、白血病になる数値…これをテレビでは「安全な放射線」と言っていた)
(3) 3月15日頃の東京の高い値は1マイクロシーベルトぐらいだった。
(東京に1ヶ月少し住むと、1ミリシーベルトで、1年ぐらい住むと子供はかなり危険。胃のレントゲンが1回で600マイクロシーベルトだから、1ヶ月で2回のレントゲンを受けることになる)
・・・・・・・・・
【政府のトリック】
 政府やマスコミは「福島原発から20キロのところの放射線は、330マイクロシーベルトだから、胃のレントゲンの2分の1」という言い方をしている。
 だから「安全」という。
 しかしそれは「そこに1時間しかいない人」のことであり、住んでいる人ではない。
 だから、1ヶ月あまり住む人は330ミリシーベルトを浴びることになり、子供も親も白血病になるだろう。
 すぐ待避しなければならない。
 決して「安全な放射線」ではないのだ…』

(平成23年3月17日 午前9時30分 執筆)
http://takedanet.com/2011/03/post_b9fc.html

 あの当時はドタバタだった、というのは措いておくにしても、国民の安全と財産を守るはずの者どもが、こぞって安全、安全と言い出したことの責任は大きいと思います。これがイマの政府不信、行政不信、科学者不信へと、きずなを結んでしまっているのです。
 
 だって…

野田政権が、原発ゼロを目指す新しいエネルギー戦略の閣議決定を見送った。
 まことに情けない。

 新戦略は「原発ゼロ」を掲げながら核燃料サイクル事業を容認するなど、矛盾に満ちてはいたが、これでは肝心の脱原発までがうやむやになりかねない。

 閣議決定の見送りは、米国や経済界、立地自治体が原発ゼロに強く反対しているためだ

(2012年9月20日木曜日付 朝日新聞社説「脱原発政策―うやむやにするのか」)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit1

2030年代に原発ゼロを目標にするとした政府の新エネルギー戦略は、骨抜きになる公算が強い。

 きのうの閣議で新戦略の文書を参考にとどめ、国際社会で議論していくとの対応方針を決めるだけに終わった。

 原子力協定を結ぶ米国や使用済み燃料の再処理委託先である英仏が、相次いでゼロ目標に懸念を示した。
 経済界や立地自治体も反発しており、政権の意思を強く押し出せなくなったのだろう。

 閣議決定は政府の意思決定であり、拘束力がある。
 参考扱いは実効性を怪しくする。
 原発ゼロを願う国民の思いに水を差すことにもなりかねない。

 実際、政府のやることなすことがちぐはぐだ。
 原発ゼロを目標としながら、核燃料サイクル政策の見直しを先送りするなど、新戦略自体、矛盾を含む。
 原発をなくすなら使用済み燃料を再処理する必要はなく、核燃政策は意味を失う。

 プルトニウムを使う高速増殖炉もんじゅや、青森県六ケ所村の再処理施設も必要なくなる。
 いずれにも、新戦略はすっきりした答えを示していない。

 もんじゅについて、新戦略は本来の将来計画を放棄し、いずれ廃炉にするという。
 だが、平野博文文部科学相が西川一誠福井県知事に行った説明は「引き続き成果を刈り取っていく」だ。
 これでは、どうしたいのか知事にも国民にも理解できない。

 枝野幸男経済産業相が、東通原発などの建設続行を容認したことも新戦略と矛盾し、政府の姿勢を疑わせる

(2012/09/20 09:46更新 神戸新聞 社説「ゼロ目標後退/ 新戦略を骨抜きにするな」]
http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0005392208.shtml

 ウソをウソで塗り固め、有権者との約束をホゴにし、裏切り者たちの集団であるイマの政権は、支持母体の連合や経済界をバックに、それに官僚さんやアメリカさんや、メディアも味方につけ(イマの政権がまだほかよりマシだから、なんてね)、総選挙したって引き続き政権を担っていく、なんて… 
 貧しくも正直者が多いニッポン人は、いったいいつから、正義感や真摯さや汗と涙を放棄し、工夫に工夫を重ねる美しい国ニッポンを返上したんだろう、あ~ぁあ~ぁ、情けない、情けない、ヤッホー君。
 きっと、きっと、領土問題でアメリカさんの力を借りて、一発かましたいムラの住民が、ジミン党にもオオサカにも、増えたんでしょうか。
 軍需産業はカネが濡れ手で懐に入ってくるだろうし、憲法改正して若者は軍隊に入れば登校拒否とかメンタル不調なんて言ってられないし、それに気づいてどんどん子づくりに励んでくれるだろうし、三方丸く収まるって算段でしょうかね。
 ご用心、ご用心。。。

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2012年09月19日

磐梯山放射線量測定マップ

 活火山である磐梯山が噴火したのは、1888(明治21)年7月15日朝の7時45分頃より。
 大磐梯(現在の磐梯山)の北側にあった小磐梯の山体崩壊と岩屑流(岩屑なだれ)が北麓を襲い、5村11部落を埋没して約500名の死者を出した、と言います。
 これで磐梯温泉の湯治場であった上の湯、下の湯も消滅、辛うじて温泉地として残ったのが中の湯で、しかしいまは廃業。ここまでコースタイムで、八方台駐車場から30分の距離にあります。
 そう、だから火山の麓であれば地熱があって、うん、「再生可能エネルギー」!と考えるムラの長老たちがおるのは自然の理。
 その電力需給の逼迫なんて脅されるよりも、こちとら、電気はなるたけ使わない、という暮らしの見直しをする提案、こちらのほうがよりロハス!と思いませんか。
 だって、だってさ、鹿除けフェンスのほかに、今度は人由来のコンクリートの箱もので、またまた山の風景まで変わる、なんてこと、してほしくないんだすよねえ、皆の衆!
 
県内の磐梯朝日国立公園で出光興産などが検討している国内最大級の地熱発電所建設計画に関し、国側が再生可能エネルギー普及の「切り札」として推進の姿勢を強調する一方で、県内の温泉関係者には「湯量などに影響が出るのではないか」との不安が広がっている。
 関係する県内市町村は大規模プロジェクトの行方に注目している。

 枝野幸男経済産業相は3月23日、本県の磐梯朝日国立公園を含む北海道や東北の計5カ所で地熱発電所の開発を優良事例として進める方針を示した。
 経産省は地熱発電の導入拡大に向け、今年度当初予算案に地表調査の補助事業費など150億円を計上。
 産業技術総合研究所の推計によると、国内には発電量2347万キロワットの地熱資源があり、原発約20基分に相当するが、8割以上は自然公園内という

(2012/04/04 09:18更新 福島民報【「磐梯朝日」発電所計画】地熱開発に賛否 国「再生エネ推進の鍵」 温泉業者「湯量減が心配」)

 だって、だってさ、自然のなかに「人由来のコンクリートの箱もの」つくって、登山客は簡易トイレで麓までだした用済みのものをお持ち帰りするのに、この箱ものからでた用済みのもののもって行き場所もない、そんなものを人間の勝手でつくっちゃう(つくったあとは、ただちに健康に影響を与えないからとみな知らん振り)、その好例がゲンパツでしょう。
 フクシマゲンパツ事故の影響で2012年05月23日水曜日16時23分更新による「「磐梯山放射線量測定マップ(5月16日測定値)」なんてのが猪苗代観光協会のサイトに出ています:

『猪苗代町より磐梯山(各登山道)に関する放射線量測定マップが公開されましたので、登山をされる際のご参考としてください。
■測定日 2012年5月16日
■測定箇所 猪苗代・翁島・渋谷・川上・八方台・裏磐梯登山道の計49地点(地上1m)』

http://www.bandaisan.or.jp/saigai/index.cgi#diary_3

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2012年09月18日

磐梯山頂三角点柱石

 山歩クラブ下見山行隊が選んだ登山口は、東北自動車道郡山JCTから、磐越自動車道を走って磐梯河東ICで高速を下り、磐梯山ゴールドラインで「八方台」駐車場とした、と昨夜申上げましたが、ここからの山路はとても気分爽快。
 今月の月例お山歩会の夜叉神峠と違い、とても良いのだそうです。それはここだけのお話しで口外して欲しくはないのですが、夜叉神峠は1時間とも1時間半とも、初級コースとか言われても、登りの連続だったのに対し、磐梯山への山路は、平らだったり下ったり、おまけに樹相がとても良いのだそうです。

ブナとダケカンバの森.jpg

八方台登山口(磐梯町)からのブナとダケカンバの静寂の森…。
 磐梯山はかつて、天に届く磐(いわ)の梯子(はしご)という意味で磐椅(いわはし)山と呼ばれた。
 雄々しい独立峰の姿を見せる南側に対し、北側は1888(明治21)年の噴火による山体崩壊の荒々しさを見せる。
 噴火による土砂は多くの命をのみ込んだが、せき止められた幾筋もの川は美しい湖沼群をつくった。
 切り立ったガレ場の火口は山の内臓のような土色を見せる。
 人の手と四季の繰り返しによって、よみがえった緑の森との対比は、自然の巨大な力を感じさせる。
 頂上直下の弘法清水小屋で休む登山者にはここまで来た満足感と、ピークへの期待という表情がある

(2010/04/29 10:15 更新 福島民報)
http://www.minpo.jp/pub/topics/bikei2010/2010/04/9.html

 磐梯山の2011年度の山開きは5月22日でした。
 今年2012年は5月27日日曜日でした。様子は磐梯町の観光情報でどうぞ:
http://www1.town.bandai.fukushima.jp/kanko/mt_bandai/2012_yamabiraki.htm
 頂上直下の弘法清水小屋(主は吉田紀子さん)は、山歩クラブの下見隊がお昼を食べたところ、また、携帯トイレの使い方を教わったところ。

磐梯山の第54回山開きは5月22日に行われる。
 福島県猪苗代町、磐梯町、北塩原村、猪苗代観光協会の主催、磐梯町観光協会、裏磐梯観光協会などの後援。昨年、新たな三角点「磐梯」の柱石が設置され、標高が1816.29メートルとなってから初の山開きとなる。
 午前7時から猪苗代スキー場の猪苗代登山口で安全祈願祭が行われ、登山開始となる。
 山開きに合わせ、環境省東北地方環境事務所裏磐梯自然保護管事務所は22日から試験的に携帯トイレを導入する。猪苗代や八方台、裏磐梯の各主要登山口に回収箱を設置するほか、休憩小屋などで携帯トイレを無料提供でする

(2011/5/21 09:39 更新 福島民報)
http://www.minpo.jp/pub/topics/odekake/2011/05/post_2801.html
 
 山歩クラブの下見隊もタッチした山頂の三角点。
 磐梯山の三角点は2010年10月に再設置されたばかりで、綺麗な石柱、ここは「三等三角点」でした。

磐梯山(1819メートル)の山頂へ三角点標柱の復旧を目指してきた磐梯山三角点復旧支援会(会長=江花俊和猪苗代山岳会長)は10月2日、約100人のボランティアの協力を得て、新たに設置される三等三角点の柱石と盤石を同山頂まで運搬した。
 同山岳会の働き掛けで国土地理院が三角点復旧を決めていた。
 10月16日正午から山頂で設置作業と竣工式を行なうのに先立って資材を運び上げた。
 花こう岩製の柱石、盤石を合わせた重さは約70キロ。
 設置にはセメントや水も必要だが山頂まで人力で運ぶ以外に方法がなく、支援会がボランティアを募り作業した。
 参加者は、傷つかないよう毛布にくるんだ柱石などを交代で担ぎ山頂を目指した。
 天候も良く協力者が多く集まったことで、予定時間よりスムーズに資材を運び終えられたという。
 江花会長は「皆さんの熱意に感謝したい」と喜んだ。
 国土地理院東北地方測量部の池田尚応測量課長も「著名な山の三角点を認知してくれている人が多いというのを実感した。協力は心強かった」と話している

(2010/10/03 10:27 更新 福島民報)
http://www.minpo.jp/pub/topics/hotnews/2010/10/post_562.html

三等三角点.jpg

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2012年09月17日

磐梯山1819m

 今日9月17日敬老の日は、山歩クラブ下見山行の日。
 4人で下町を4時に出て、磐越自動車道を磐梯河東ICで下りて八方台着8時過ぎ、8時半登山開始で深田百名山、磐梯山1819mを目指したのです。
 八方台の駐車場を出る登山客は皆さん、雨具、スパッツ、リュックカバーをつけていらしたものですから、われわれも、台風の影響で風は鳴るは、真っ黒な雲が重いは、途中、クルマのワイパーも動かしたほどの雨模様ゆえ、重装備で山ん中に入りました。

 終了、すなわち出発点の駐車場に戻ったのが2時、それから2時半から1時間、「裏磐梯高原ホテル(Tel 0241-32-2211)にて立ち寄り湯。
 裏磐梯を4時にでまして、途中渋滞とかありました関係で下町に戻ったのが10時、という山良し、湯良し、仲間良しの三拍子揃ったとても充実した一日であったことを報告しておやすみなさい眠い(睡眠)

 写真は、裏磐梯高原ホテル内弥六沼より磐梯山:
120917_1528~01.JPG

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2012年09月16日

Good afternoon, Mr. Inoue!

 井上の「作業式教授」は、江田島の海軍兵学校の後、敗戦後、神奈川県の荒崎海岸に隠遁してからも実践されていきます。
 それが「井上英語塾」。
 といっても、なになに「塾」という名称のもとに看板を掲げ、生徒を募集して会員を募り、お金を得るという方式をとったわけではございません。人づて、なりゆき、口こみ、みたいなもんでした。
 ところが、どっこい、「戦略教授方針」は生き延びているのでございます。
 前掲書の『伝記』には当時の塾生、長井中学校の生徒、新倉多恵子の1949(昭和24)年9月6日の文章を拾遺しているのでございます:

今年の夏休みは去年の夏休みに比較して大変有意義にすごしたと思います。
 今年のお休みは英語のおけいこにいきました…

 先生やお友達とお話しをする時はみんな英語です。
 此の頃では前より一層英語が楽しくなって来ました。
 この40日間をやすまずに通ったので大変に英語も上達したのでうれしく思います

(前掲書『伝記』506頁)

 井上の兵学校長の時代の『教育漫語』に次のような記述があります:

英語ノ単語ヲ無理ニ日本語ニ置キ換ヘ訳スルハ百害アッテ一利ナシ

 井上と英語は、こればかりではありませんね。もう負け戦と分かりかけてきたころのこと、江田島ではこんなこともありました:

井上成美氏に驚かされたことは、戦中にあって、敗戦が見え始める頃になって、海軍兵学校(江田島)校長として極めてまともな教育を行なったことでしょう。
 井上成美氏は、この戦争が敗戦となることを基本とし、この数千名の若者達に人殺しの仕方を教えるのではなく、敗戦後、彼らがどうやって生きのびて行けるのか、更には敗戦の日本国の立て直しまで考慮して、何と英語教育に力を入れたのです。
 当時、兵学校の入試に英語を入れるべきかどうかと教員間で決を取ったといいます。
 当然ほとんどの教員は英語入試に反対であったが、これまで通り入試科目に英語を使うことをそのままとすると校長の断で存続させたのです。
 英語ばかりでなく、普通学を行なうことが第一主義であるとも述べています。
 普通学とは今で言う教養科目のことです

(2012年8月22日 20:28 神戸女子大学 教員ブログ 瀬口正晴先生投稿「『最後の海軍大将 井上成美』(宮野澄著、文春文庫)を読んで」)
http://eyo-net.yg.kobe-wu.ac.jp/teachers/2012/08/post-57.html

 また成城大学学長までつとめられた宮崎孝一先生(群馬県出身、2008年8月31日、90歳でおなくなりになりました)の「英文学と私」では、こんなことが:

大学を出るとすぐに海軍に取られまして、いろいろなことをやったんですが、やがて海軍兵学校の生徒を教えることになりまして、毎日兵学校で英語を6時間づつ教えさせられました。
 井上成美、この人は海軍兵学校の校長だった人で、英語に関してなかなか見識のある人で、教科書も非常にいいものを使っていましたし、それから教えるのにもほとんど英語だけを使って教えて日本語はあまり使わせない、辞書も英和辞典ではなしにいわゆる英英辞典を使わせておりました
 で、私が行った頃は既に井上という人は校長ではありませんでしたけれども、その採用されたやり方はそのままに残っておりまして、だから当時の戦争中の日本で、ああいうふうに英語を一生懸命やっていたのは兵学校だけなんじゃないかと今になると思います。
 まあそのせいかどうか知りませんが、その後戦争が終わって、兵学校の2年とか3年でやめた者で、いろいろの学校に進んで非常に立派な仕事をした人はたくさんにおられます。
 英語の力だけではないでしょうけれども、それも役に立ったのかもしれません

(宮崎孝一「英文学と私」 1991年12月成城文藝(紀要) No,137 所収)

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2012年09月15日

江田島・海軍兵学校40代目校長

 井上成美の最後は、ヤッホー君もあやかりたいような一幕です…

その日も井上は、朝から床に伏したままであった。
 それが夕刻5時近くになって、富士子の目を盗んでそっと起き上がり、居間の窓の敷居をまたいでベランダに出て、初冬の静かな太平洋を眺めた。
 どのくらいそうしていたのかわからない。
 気づいた冨士子が驚いて手を差し伸べようとしたときは、再び窓の敷居をまたいで部屋に戻るところであった。
 床に戻ってしばらくののち、井上は静かに息を引き取った…昭和50年12月15日17時55分のことであった

(井上成美伝記刊行560頁)
 
 その井上、昭和6年12月1日というから41歳のとき(翌年妻喜久代没、富士子と再婚するのは戦後、昭和28年、63歳のとき)、海軍大学校教官(戦略教官)時代に、こんな『戦略教授方針』を自ら執筆、謄写版印刷し、第31期甲種学生に配布しています:

講義式教授ヲ排斥シ、作業式教授ニヨル
 即チ、教官ト学生トノ連立ノ活動ニヨリ、教育ノ目的ヲ達スルヲ本旨トス。
 学生ハ知ルノミニ満足スルコトナク、自ラ体験スベキナリ。
 従ッテ自宅ニ於ケル問題ノ研究、即チ思索、工夫、考案ガ、学習ノ最重要ナル部分ニシテ、講堂ニ於テハ、其ノ仕上ゲヲナシ、考査ヲ受クルニ過ギザルコトヲ銘記スルヲ要ス』

(同書資ー59)

 1942(昭和17)年、井上52歳のときの10月26日、海軍兵学校校長(同月末第4艦隊司令部退任)、11月10日、江田島に着任。

『75期が入校の前後には生徒数が非常に多くなっていたので、校長としては、リモートコントロール方式で教育する以外にないと思いました。
 つまり300人近い教官たちに私の考えを十分理解してもらい、教官を通じて生徒たちに私の考え方を伝えてもらう方式をとったわけです。
 着任後、ただちに作らせた教官研究会では、次のような校長としての教育方針を示しました:

(1) 秀才教育をしないこと。秀才はほおっておいても伸びる、まず劣等者を無くせ。
(2) 教官は戦場の話しをしないこと。
(3) 兵学校の教育を立身出世、営利栄達の手段としないこと。

…校長室のドアはいつも開けてありました』

(篠田英之介、前掲書、210頁)

 教師、教官、教育者として、生徒、学生、次世代の若者に言っておきたかったこと、がなんとなくでなく、ひしひしと伝わってきませんか、皆の衆。
 教育とは教えることでなく、自学自習、即ち、自分で真似て、考えて、育って巣立っていくもの、への動機付けに過ぎない、という…

 戦後、荒崎海岸に引きこもってはいましたが、ただの「ヒッキー」とは訳が違うようです。
 昭和28年、井上63歳のとき、つまりこの年の秋に富士子と再婚するのですが、その前の6月に胃潰瘍で吐血します。
 それまで、昭和20年の年の暮れから『井上英語塾』を開いていたのですが、その塾も閉じます。
 地元では「テーショー、テーショー」と親しみを込めて呼ばれ、なんとその6、7年の間に塾生となった人数は延べにして、130名を越えたといわれています。
 その塾生がまとめた「タケムラクンのコーチョー』なる小冊子があるそうです:

『「自分の頭で考えなさい」 ―
 これはミスターがよく仰言られたことである。
 その場、その時、今でいえば TPO に成じて自分の持っている知識の組み立て方を覚えなさいということである…
 「何かにぶつかったとき。いま自分の持っている力を(知識)で、解決することを考えなさい。いざというときには、教科書もない、教えてくれる人もいない、そういう場数を踏むと、ふだんもっと知っておきたいと思うようになり、勉強したくなります」
 ミスターはこういう意味のことをよく仰言った。
 そして自らいろいろな実例を示された。
 下の海で採れたフノリと毛布屑と布屑を混ぜて、きれいな壁を貼ってしまったり…』

(篠田英之介、前掲書、246、248頁)

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2012年09月14日

井上成美記念館

 実は荒崎海岸に下見に行って行きそびれた場所があるのです。
 本番のとき行程に入れてもいいかな、そうしたら、もう一度、下見に行かなきゃいけないのかな…
 荒崎海音「さがみや」(横須賀市長井6−26−1 Tel 046-856-2115)という宿の玄関を叩いて、道を聞いたのです。
「帝国最後の海軍提督、井上成美さんの御宅ってどこでしょうか」

 簡単には見つからないようですね。
 昨日紹介した≪湘南雑筆堂≫さんのブログ「日記」をまたもや、ご紹介:

最後の海軍大将 井上成美記念館に行こうって思い立ち、道に迷いながらも、なんとか井上成美記念館に到着!!
…館内はこじんまりとしており、5分とかからずに見学できますが、改築されたとは言え、井上大将の好んで使った暖炉などを眺めていると、暖炉の前でくつろいでいる井上大将の姿が目に浮かんでくるような…、そんなふうに楽しむならば、じっくりと1時間いても飽きないかもしれませんね。

…余生はここ長井に隠棲し、子供らに英語を教えながら過ごしましたが、その生活は窮乏を極めた、と言われています。
 海軍兵学校時代の教え子らの援助をかたくなに拒みながらも周囲の人びとに支えられ、ここ長井で1975(昭和50)年12月25日(ママ)、86歳の人生を終えます

(2008-04-27 11:02:27投稿)
http://ameblo.jp/shounanzapitudou/entry-10091671273.html

 そうなんです。
 提督井上は、無茶な日米戦争に傾斜していく「空気」に抗して、反戦の立ち位置を守り、敗戦を迎えても自死を拒絶する立場を貫いた人物、として評価されているらしいのです。

 ヤッホー君、9月14日金曜日、仕事帰りに図書館に寄り、2冊本を借りてきました:
★ 井上成美伝記刊行会『井上成美』(1982年、同刊行会事務局)
★ 篠田英之介『残照の海の提督 わが師父 井上成美』(1988年、マネジメント社)
 さらに本屋さんにも寄って阿川弘之『井上成美』(1992年、新潮文庫)を注文してきました。来週火曜日には届くそうな。
 
敗戦による価値基準の逆転から高度経済成長がもたらした物質至上主義への見直し。と言う流れにこれら(テレビ番組や雑誌、新聞記事などによる井上像の活写)は、格好の素材を与えることになった。
 昭和50年12月15日(ママ)、井上成美が没した。
 直後、井上さんの伝記をつくろうとの声が挙り、海軍兵学校の教え子たちが中心となって、「井上成美伝記刊行会」が発足、…
 井上は、サイレントトネーヴィーといわれたかつての帝国海軍軍人の一人ではあるが、必要なときには大いに意見を述べている。
 それも物事をはっきりさせるため、故意に激しい言葉を用いている。
 ≪稀代の悪口屋≫といわれるのもまた宣なる哉であろう

(海軍兵学校73期、井上成美伝記刊行会代表 深田秀明「序にかえて」 篠田英之介『わが師父 井上成美』1988年、マネジメント社所収)
 
 さらに最近に下れば:

『自分が正しいのか、正直言えば、時折不安で揺れることもある。
 そんな時に思い出すのが、作家の阿川弘之氏が最後の海軍大将といわれた人物に迫った伝記「井上成美」だ。

 海軍幹部だった井上は、後の連合艦隊司令長官山本五十六らと並び日独枢軸→対米開戦には批判的だった。
 だが時代の空気が煮詰まるなかで一人、また一人と日独枢軸→対米戦容認に傾き始める。
 盟友だった山本ですら日米開戦になれば「一年は暴れて御覧に入れます」。
 その弁を聞いた井上が即座に「失敬ながら、いけません」。
 阿川氏は伝記にそう書き記す。

 ああ、あんな時代でも冷静に物を見ていた人がいたんだなあ。井上も揺れただろう。軍人としては「米国と戦えない」と口にすることは屈辱だったろう。
 だが、ぶれなかった。
 政治でも政策でも、孤立無援になったり、迷ったりした時はいつも井上を思い出す。

 外交官だった父は、当時の松岡洋右外相ら日独枢軸派に反対し、左遷の憂き目にあった。
 しかも、赴任先はドイツ大使館。
 複雑な思いを抱きながら任地に赴く父を東京駅で見守ったのは5歳のころだったか。
 阿川氏の伝記を読んでいると、父が抱いた屈折や憤怒が心に迫ってくる。

 ヒトラーが自殺する1ヶ月ほど前の昭和20年3月、父はベルリンの大使館からスイスのベルンに脱出している。
 30数年前だったか。やせ衰えた晩年の父にふと聞いてみたことがある。
「脱出の時の任務は?」
「大使館の有り金を持ち出すこと」
「へえ。ドイツマルクを持ち出しても意味がないんじゃない?」
「ばか。ドルに決まっているだろ」

 大国の真の実力は、政治でもなく軍事でもなく、経済が示す。
 交戦中の敵国通貨しか国際社会が信用していない現実こそが、枢軸に反対した父や井上成美が見ていた真実だったようだ。
【日経新聞 2006年4月18日夕刊】』

(与謝野馨公式サイト>記事・論文・講演>こころの玉手箱
http://www.yosano.gr.jp/article/20060417nikkei2.html

 このポイントは、国際社会が何を「現実」としているか、です。
 「現実」の分析解析を通してえた「知見」で、将来を展望し、それをオープンに公表するための理論の構築という「作業」が伴います。
 また、その「作業」はやる主体によって異なるゆえ、公開による「議論」が生まれます。
 けっして原発再稼動、消費税アップ、TPP交渉への参加、憲法改正という道筋が「初めに結論ありき」ではないのです。それはミッシツシュギ、イデオロギーによって違う異見をもっている人びとを封じこめ、異見をもたない大ぜいの人びとも巻き添えにする死への道、と言っても言いすぎではないでしょう。

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2012年09月13日

仮面ライダー

 ムカシ、『仮面ライダー』ってテレビ番組がありました。
 ウイキによりますと、第一作は、1971(昭和46)年4月3日から1973(昭和48)年2月10日まで毎日放送・NET系列で毎週土曜19時30分から20時00分に放映された東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称、だそうです。
 そして40年たったイマ、テレビで『仮面ライダー・ウイザード』が放送されているんです:
http://www.youtube.com/watch?v=NkJuzJI2zrQ

 この『仮面ライダー』のロケ地が荒崎公園だった、と地元の青年が教えてくれました。

 誇りに思っているのでしょうね、そればかりではありません、この辺。サスペンスドラマ、大河ドラマ、そしてカラオケの背景映像にしばしば登場してくるんだそうです。
 「あっ、あそこ知ってる、みたいな…」と、そのお兄ちゃん、照れ笑い!

 ≪地元をこよなく愛す30代のおっさん≫のブログ「日記」がありますのでご紹介。
 
 あっ、この方はと言いますと:
小1の息子と妻の3人暮らし。
 地元情報と横浜ベイスターズの記事を見るためだけに、神奈川新聞を購読。
 独身の時は地元のことをあまり振り返ることはなかったのですが、結婚してから家族とともにでかけるなかで、海と山に囲まれた地元のよさを再認識することがふえました。
 そんな愛すべき湘南(?)のことを気ままに綴っていきたいと思います


 このお方、藤平さんと荒崎海岸にでかけたある日のこと、あるロケ隊と遭遇します。
 投稿なさったのは、2008年5月17日夜22:32:46だったようです、もう4年も前のこと:

『「何のロケなんですかね」、なんて僕が言っていると、ズイズイ〜ッとロケ班のところ歩いて行く藤平さん。
「ちょっ、ちょっとちょっと、どうすんの」
「ここが仮面ライダーのロケ地で使われたことをみなさんに伝えてきます」
「マっ、マジっすか、皆さんお仕事中ですし、やめといたほうがいいんじゃないっすか?」

 僕の話など全く聞こえていないらしく、気が付けばロケ班の方々に紛れ込んでいます。そして、ディレクターズチェアーに座った一番年配のおっさんのところへ近づいていきました。
 遠くから傍観する僕。
 藤平さん、その年配のおっさんになにやら話しかけています。
 一体どうなることやら。

 撮影中のロケ班の中に、突然よそ者が入り込んできたので空気が変わったのがわかりました。

 ありゃ〜、大丈夫かな〜 んて思っていると…
 ワッ、ハハハ、とロケ班の方々全員から笑い声が上がりました。

 え〜、なんか盛り上がってるよ。
 冗談抜きで。

 ロケ班の方々は20代の男性陣がほとんど、<仮面ライダー>と言うフレーズが皆さんの心をつかんだのでしょうか?
 藤平さんの話をみなさんが聞いています。

「ここが仮面ライダーのロケ地だったんですか〜」
「へぇ〜、仮面ライダー何号の??」
「覚えておきますねぇ〜」
なんて声が聞こえてきます。

 初めはどうなることかと心配していたのですが、藤平さんはみなさんの心をわし掴み(?)にして、ゆうゆうと歩いて僕のところに戻ってきました。

「説明してきましたよ〜」と笑顔で戻ってくる藤平さん。

 正直、藤平さんの行動力には驚きました。
 遠くから傍観して他人のフリしていた自分が少々恥ずかしくなりましたね。

 と言うのも、ブログを書いていて思うのですが、どんな記事を書くにしても人との触れ合いがある記事の方が断然面白くなるし、情報にも厚みがでます。
 自分も極力、ブログのネタ探しにあたり、いろいろな方がたと交流しようと努力をするのですが、なかなかスムーズに行くものではありません。
 
 う〜ん、<仮面ライダー>を思う気持ちがその行動力を生むのでしょうかね。
 自分も見習いたいもんです。

 で、何のロケだったかと言うと…教えてもらえなかったようです(笑)』

http://ameblo.jp/shounanzapitudou/entry-10097725798.html

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2012年09月12日

荒崎海岸

 ヤッホー君、今日9月12日、≪私用≫による急な申請でしたが、有給休暇がとれました。そんな休み日の活用法はもちろん、山歩クラブの専用バスでの月例お山歩会のための下見です。

P9126339.jpg

 平日ですので全然混みあいません。
 ましてや夏の終わり、お天気で頭上には、青空がひろがっていますが、夏の入道雲と秋の箒雲が同居しているような空模様。
 暑いといっても真夏のようなじりじリと太陽が照りつけるというよりは、木陰、日陰に入ると、大海原から肌に優しい風が、海風が吹いてきます。

 山行の資料とさせていただいたのは、8月17日付け東京新聞『東京情報』の「荒崎(あらさき、神奈川県)、荒波に削られた奇岩群」(日大講師・ライター、工藤隆雄)

 山もさることながら海も大好きな山歩クラブです。
 西伊豆(合宿)、東伊豆(合宿)、真鶴半島、城ヶ島、と≪カニの横ばい≫と称してこれまで多々、企画実施してきましたが、その都度、大喧嘩。
 山の会と思って入会したのにシーサイドウオークとは!そんなこと一切、聞いていません!、傾斜のある坂道や山道を登ったり、下ったりするのが山の会、なのにこれは散歩クラブだ、ハイキングだ、名称に偽りがある!看板を下せ!!責任者でて来〜い。
 鼻息の荒いクレーマーはもとより、周りの≪空気をよむ≫ことに専念していらっしゃるのか、息もほそぼそ、息も絶え絶え、息をひそめておられる方までもがそんな≪空気≫に嫌気がさして、お辞めになって消えていきました。
 
 でも結局は10年間、結果的に動じませんでしたね、山歩クラブ。雨の日も風の日も、オールラウンドの全天候型山歩クラブ、無節操、無方針全方位型センサー付きの山歩クラブ、海辺も山中も同じ、自然のつくった美を人間側の勝手な規準で、あれはこっちで、これはあっちだ、とか、初級だ上級だとか差別、区別、仕分けをいっさいしていません、海も山もアップダウンがあるし、コンビニがあるわけじゃないから、リュックに弁当に水、しっかりした山靴は必要、けっして、自然を甘くみてはいけない、とこれも10年間、口すっぱく言いつのっていまの山歩クラブがあります。

 そんな山歩クラブの未来の企画提案のために愛車をとばしたところを、イマ、ご報告しないと夜眠れそうにありません。

 そこは、荒崎海岸。

 予想以上の良さに多分、提案されることと存知おり候。その由:
 ひとつ、海の水のきれいさ、魚が泳いでいるのが見えます、
 ふたつ、潮風の心地よさ、
 みっつ、単純な繰り返しの連続である潮騒の音、
 おまけ、愛車から出たとたん、寅さんの映画でもはじまるように聞こえてくる海鳥の歌声;

荒崎海岸
 ここの海岸の特徴は、白い頁岩と黒い凝灰岩が層を成す海蝕台と海蝕洞にあります。
(海蝕とは、波浪などの海水の運動により海岸や海底を浸食する作用のことです)
 海中に細長く突き出した台地を城山といい、展望台となっていて眺めは、眼下に松の青と砕ける波の白さが調和し、遠く相模・伊豆の連山や富士の容姿がすばらしい。
 また城山西方の小さな丘を荒崎山といい、1850(嘉永3)年頃、彦根藩が台場を築いた所です。
 シーサイドハイキングコースは、潮の香が満ちあふれ、どんどんびき、十文字洞などを見ながらお仙が鼻・佃嵐崎を経て長浜まで磯歩きを十分に楽しむことができます。
※落石や足元に十分注意して歩きましょう

(環境省・神奈川県)

荒崎の奇勝と歴史
 このあたりの海岸の岩石は、数千万年前、まだ三浦半島が海底であった頃に堆積した黒くて硬い凝灰岩と、白くて柔らかい砂岩・泥岩の層により形成されています。
 またこの二種類の岩石の層は洗濯板のような凸凹をした特殊な地形となっています。
 これは、岩石の硬軟の差により起こる水や風などの外的は力による差別侵食ばかりでなく、水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で長い年月をかけて変化してきたためと考えられています。
 右手にある海中に突き出した小高い岩山は城山と呼ばれ、頂上にわずかの平地を残し周囲は絶壁となっています。
 かってここは、鎌倉幕府創設に貢献のあった三浦一党の荒次郎義澄の居城跡といわれています。
 また幕末の頃には幕府の命により彦根藩が台場を築いた所でもあります。
 ここから長浜に出るシーサイドハイキングコースの終点に近い山腹には、古代の下級豪族の墓である横穴古墳群があり、昭和32年に横須賀市博物館が発掘調査をしたところ、人骨や副葬品と思われる土器や金属器などが多数出土しました。
 このことは当時、この近くにかなり大きな集落があったことを物語り、古代から生活するのに適した所であったことが想像できます。
 潮騒が快いこの海岸からは、相模湾越しに右手から丹沢山塊、箱根連山、霊峰富士、伊豆半島、大島と遠望することができ、特にあかねに染まった夕景は、筆舌に尽くしがたい美しさです

(横須賀市)
http://yuhoyuyu.sakura.ne.jp/course/cn007/index.html

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2012年09月11日

有名なアレ草

昔、このあたりに荒ぶる神が棲んでいたという。
 この神は半神半鬼で、悪疫、洪水、暴風雨を使う恐ろしい夜叉神。
 困った里人は峠に石祠を建て祭り上げて封じ込めてしまいました。
 以来、たたりはピタリとやみ、豊作の神、縁結びの神として親しまれるようになったという

(とよた時・山岳ゆ-もぁ画(漫画) 山旅漫歩【ひとり画展】▼019号「南ア・夜叉神峠の夜叉神の石祠」)
http://toki.moo.jp/gaten/000-050/gate019/gate019.html

祠.jpg

 ね、これがランチタイムも終わり、峠から引きあげる前に、でも探してみようよ、と向かった祠なのです。
 夜叉神、というおどろおどろしい名前の神さまの由来が書いてあるに違いないと、しかし、気がつかないとあっという間に通り過ごしてしまいかねないところにクマザサに埋もれて小さな、小さな、とても小さな祠がありました。

 その途上に見つけたわけです、あの<有名なアレ>を!

P9096325.jpg

 山歩クラブの仲間たちの自然観察の成長振りは、花の色、花弁の数、葉の形、等々ああでもない、こうでもない、危ないでない、黄華内(キケナイ)属だね、きっと、などと部、科、属、班にまで話しがひろがっていくのです。

 そしてこれが優艶な橙々色の花!

橙色の花.jpg

 ね、山ってほんとうにいいですよねえ〜。

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ミヤマシラネー草(有名なアレ)

 9月10日月曜日もチョウ多忙な日。
 まずは山歩クラブ『かわらばん』9月号、ヤッホー君の編集後記より:、

『今月号も盛りだくさんの内容となりました。
 いよいよ9月、季節は秋山へとめぐっていきます。
 また山行へのお誘いの連絡がメールで飛び交うのかな…
 とりあえずそんなこんな、あんなこんな四方山話を語り合いませんか。
 9月例会の翌日、9月10日月曜日夜6時ころから、「行く夏を惜しむ会」と称して、寄り合いを開きます。
 「ヤッホー山荘会議」ですので持込み、持ち寄り方式です。余ったら、持ち帰りでなく、ヤッホー君へのお供物とさせていただきます!
 ではとちらさまも、次回おあいするときまでご・き・げ・ん・よ・う! Ciao !!』

 ヤッホーとこだまが返ってきました:

昨日はお疲れさまでした。
 山荘会議には参加できませんでした(仕事が終わったのが9:30!!)。
 
 さて、昨日、夜叉神の森から高谷山、そして峠への山路で見かけた花を調べてみました。

★ 夜叉神峠の祠への道に咲いていた白い花
⇒ウメバチソウ
 花の百名山では根子岳で見えるはずが、夏合宿ではあまり見られませんでしたね。
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/saxifragaceae/umebachisou/umebachsou.htm

★ 登山道に咲いていたオレンジ色の花
⇒フシグロセンノウ
 花の百名山では雲取山で見られるとか。
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/caryophyllaceae/fusigurosennou/fusigurosennou.htm

 ありがとう、カッシー!
 オレンジ色の花は遠目には、毒キノコ?とか思っていたのですが、近づくにつれて花だあ〜、と相成りまして、路の左にマルバタケブキ、右にオレンジ色の花と、それは、それはうっとりするような夏の終わりの花の山路だったのでございます。
 白い花も、オレンジ色の花も、きっとあの有名なアレですよ、とか言いあって山路を歩いていたのですが、胸のつかえがおりたように、便秘がなおったような気分ですう。
 ありがとう、カッシー!!

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2012年09月09日

夜叉神峠1760m

 今日9月9日日曜日の山歩クラブは月例山行の日です。
 バスは下町を6時半にでまして、白根ICから南アルプス市芦安駐車場へ、そこで山梨交通の路線バスに乗り換えて「夜叉神峠登山口」で下車。
 高谷山1842mの山頂を踏んで、峠でお昼して、下山するというコースでした。
 参加された18人の仲間たち、おつかれさまでした!

夜叉神峠.jpg

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2012年09月08日

ぎふ清流国体

 インターハイの登山競技を追いかけてきましたけど、今日9月8日土曜日は重要な日!

http://www.youtube.com/watch?v=HGzQ0Qnn_Mc

 そうなんです。「ぎふ清流国体」が9月29日〜10月9日で開かれるのですが、今日がその総合リハーサルだったんですよ。朝の9時00分から、岐阜メモリアルセンター「長良川競技場」でありました。

 ところで、では「国体」に、山岳競技は?となるとビックリしたヤッホー君、訳が分からないまんま、とりあえず記録だけはつけて皆さんに報告しておきます。
 9月30日〜10月2日まで岐阜市特設山岳競技場(岐阜市文化センター、金公園)で開催される正式競技で、内容は、と言いますと:

『★ リード: 高さ12mの人工壁を登り、到達したポイント(高さ)を競います。登る選手は安全のため、支点にロープをかけながら登っていきます。スタートポイントのホールド(壁に設置された手がかりや足がかり)から終了のホールドまで落ちずに登れば最高ポイントである「完登」となります。

★ ボルダリング:高さ5mの比較的低い人工壁を登り、完登した数で競います。ロープ(命綱)を一切使わないため、安全確保のためマットを敷いて競技を行います』

http://www.gifukokutai2012.jp/kokutai/kyogi/seishiki/2009/07/02-248.php
 
 さて、この岐阜国体ですが、前回は1965'昭和40)年だったんですね。

師走の声にあらためて月日の流れの早さを感じます。
 近年にはない酷暑や、天候不順、厳しい社会情勢等不安なことが多い年でした。
 そんな中でも2012年ぎふ清流国体が開かれる明るいニュースに今から楽しみです。
 私は前回、昭和40年の岐阜国体で東京オリンピックメダリスト円谷選手のお世話が出来ましたこと、今も忘れることなく思い出の数々が脳裏から離れず、懐かしさでいっぱいです。
 民宿(藍川町)でのお世話です。
 朝早く果物をミキサーにかけお出しするジュース。
 ユーモアたっぷりの円谷さんは私に少し飲んできたネ!!と笑わせて下さる方でした。
 東京オリンピックが前年だったこともあり、民宿の周りはファンでいっぱいの毎日でした。

 残念なことに昨年12月5日、当時のコーチだった畠野洋夫先生が亡くなられとてもショックでした。
 現在も国立競技場には円谷選手と畠野コーチの記事が展示されてると思います。
 清流国体でまたコーチとお逢いする日を約束しておりました。とても残念です。

 毎年11月には福島県須賀川市では円谷幸吉メモリアルマラソン大会が開催されており、コーチは毎年出席されておりました。
 
 円谷選手の岐阜国体の成績は10000mで2位でした…
 オリンピックに奪われた命とは思いたくありませんが、不慮の死をとげられ、当時を思い悲しみの二重丸です…。
 最後になりましたが清流国体の成功を祈念しております。

追伸;円谷選手、畠野コーチの冥福を祈ります

(円谷選手の思い出/今尾 りつ子さん(岐阜市)
http://www.gifukokutai2012.jp/kokutai/memories/article/2010/12/17-2908.php

 東京オリンピックが終わったころの円谷選手にも「ドラマ」がありました。
 当時昭和40年は、自衛隊所属(実業団選手として登録)でありながら、中央大学の学生で学生選手登録という二重性、翌年には福岡県久留米市の陸上自衛隊幹部候補生学校に入学、しかし同時に結婚したいと考えていた女性との破談(メキシコオリンピックが終わるまでは待て)、コーチの畠野洋夫の陸上自衛隊北部方面スキー訓練部隊への転属、といった短い生涯のなかの曲がり角を迎えていたのでした。
 昭和40年の成績は、国体での2位のほか、北海タイムスマラソンで30キロ地点手前で途中棄権、東青駅伝で区間新記録を結果を残すも前年の記録にはほど遠いものでした。
 そして1968(昭和43)年1月8日未明、自衛隊体育学校の自室で、かみそりで右頚動脈を切って自殺してしまったのです。享年27歳!
 
 遺書、あまねく知れ渡った遺書がございます。再掲:

父上様 母上様 三日とろろ美味しゅうございました。
 干し柿、もちも美味しゅうございました。
 敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
 勝美兄姉上様、ぶどう酒、リンゴ美味しゅうございました。
 巌兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました。
 喜久造兄姉上様、ぶどう液、養命酒美味しゅうございました。
 又いつも洗濯ありがとうございました。
 幸造兄姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。
 モンゴいか美味しゅうございました。
 正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした

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2012年09月07日

長崎北陽台高校

 ドラマがありますね、インターハイ山岳競技!

 今日、どうしても紹介したいのが「2005千葉きらめき総体」です。

 山歩クラブは、昨年の晩秋に東大千葉演習林を歩きました。そのとき、いらした仲間のご子息は、このインターハイで堂々第二位の記録をもち、大学に進学し、大学院まで学び、今春から職につきますというお祝いの山行になりました。

 山歩クラブは、山行に仲間が伴侶をお連れして参加されるとき、あるいはお子さま、お孫さまをお連れして参加されるとき、という「家族割引制度」を導入しております。
 この制度をうまく使って、ご夫妻で、あるいはご子息、そしてご子息のお子さま、と家族で参加が可能なようにお薦め、促していたりしております。
 家族を離れて、たまには自然のなかで伸び伸びと背伸びをしたいから、と参加される仲間ももちろんおりますので、その辺の兼ね合いはむずかしいのですが、ま、いい家族があってこそ、家族の理解があってはじめて、「山歩きにどうぞ、行ってらっしゃい!」と家族から送り出され、「お帰りなさい」って言われて玄関をくぐるんですから、と何年か前からの慣わしになっております。
 
 ところで、その会員のご子息は高校時代、2005年のインターハイ千葉大会「千葉きらめき総体」で、9月7日日曜日〜10日水曜日の3泊4日、キャンプ場(清和県民の森スポーツ広場、稲ケ崎キャンプ場、君津亀山少年自然の家)でテントをはって、高宕山系・高宕山コース、高宕山系・三郡山コース、元清澄山系・元清澄山コースの各登山コースを一周する競技に参加したおられたわけです。

登山閉会式は入賞の6位から順に成績が発表された。
 男子(A隊)のメンバーは祈るような表情で待った。
 「第2位、長崎県代表長崎北陽台高校」。
 4人は顔を見合わせると深くうなずき、「よっしゃー」と叫んだ。

 同校は2年前の長崎ゆめ総体男子縦走(C隊)で優勝。
 だが、昨年は県高総体でライバルの長崎西に敗れた。
 先輩は後輩に登山の技術をあまねく伝え、復活の夢を託した。
 北島主将ら新チームは常に「日本一」を意識した。
 県新人大会、県高総体、九州大会をすべて優勝し、全国に乗り込んだ。

 7日に入山、8日から本格的な競技が始まり、自然観察や救急で満点を記録するなど順調だった。
 だが、9日夜に発表された気象の結果は7点満点で6点。
 1、2点差が優勝を左右する競技。夢が大きく遠のいた。

 その夜、4人はテントの中で話した。
 「ここであきらめたらすべてが終わる。あと1日全力を尽くそう」。
 翌日の歩行はほぼノーミスだった。

 昨年優勝の長崎北陽台女子は、今回12位。
 晴れやかな男子チームの後列に座り、閉会式の間中泣いていた。
 北島主将ら男子4人は振り向いた。
 「みんなで取ったメダルやけん」。
 それぞれの胸で誇らしげに輝く銀メダルをはずし、女子の首にそっとかけた

(2005年8月12日付け 長崎新聞掲載「全員の力でメダル獲得」)

 2008年1月15日、島田啓子アナ(長崎国際テレビ)は、長崎北陽台高校を取材に訪れ、ブログにまとめていらっしゃいますが、≪修行≫の毎日ですね:

長崎北陽台高校の登山部は、今年度、2007年度のインターハイで優勝、日本一の登山部なんです!
 練習は、およそ15Kgの荷物を背負って、階段を走るのが基本。
 でも、その他にも、ラジオの気象情報を聞いて、天気図を作り、予報を立てることもするんです
 かわいい曇り雨雷台風晴れ
 登山部ならではの練習ですよね!
 
 ユニークな練習をもう1つ! こちらは、テントの設営です。

 試合では、制限時間内にいかに素早く、正確に建てるかを競います。
 この日、設営してくれたのは、10月に行われた県の新人戦優勝メンバー!
 てきぱきと作業を進め、あっという間に完成しました.タイムは4分27秒!
 このメンバーでの新記録だったそうです。すごーい

http://www.nib.jp/anaban/blog/shimada/index.php?eid=357

 そうなんです、長崎北陽台高校の登山部は、たしかに日本一の登山部、といっても過言ではないでしょう。だって、2000年からの記録だけみても、2007年、2010年と優勝を2回もしており、2005年が準優勝、2006年ベスト4、とすごいんです。
 女子はもっとすごい。2000年からの記録だけみても、優勝が2004年、準優勝が2003年、ベスト4が2001年、2002年、2006年と3回も。

 すごいのは、校歌にもあらわれています。
 文芸評論家で長崎生まれの山本健吉(1907-1988)が作詞、作曲は團伊玖磨(1924-2001)です。

るんるん琴緒の峯の松風
堂崎の鼻に通ひて
五月待つ花たちばなに
昔の香今もただよふ
風薫る若き望みは
陽の丘の男子が額に
かがやくよ
強く きびしく たくましく
るんるん
 

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2012年09月06日

全国高校総体登山競技

 今年度2012年夏の全国高校総体登山競技の男子団体で優勝したのが、新潟県央工業高等学校(三条市、Tel 0256-32-5251)。

県央工高山岳部がインターハイの登山大会男子団体で初優勝、同競技の優勝は県内勢初!

 高橋チーフリーダーが優勝を報告し、「1年のころから、新潟インターハイのために育て上げてもらい、その中でいろんなことを学んできました」、成績については「自分でもびっくりしているが、誇らしい」。
 また、女性監督での優勝ももちろん県内初となった石川監督はあいさつで、「今までいろんな方に助けていただいて今日がある、としみじみ思いました」と感謝の言葉を述べた。

 高橋君によると、1年生の入部した日に、同山岳部は伝統ある部であり、2012年の3年生のときに新潟でインターハイが開催されると聞かされ、石川監督に「必ず行くぞ」と言われたと明かした。
 その言葉を達成するために3年間、努力を重ね、出場が決定した6月末からは休日は山で実践、平日は校内の合宿所で寝泊まりして訓練を重ねたという。
 金メダルを下げての報告を終えた選手たちは、今、何がしたいかとの質問に、藤田君は「母の作るあったかいご飯が食べたいです」、佐藤君は「家に帰ることが少なかったので、家族の顔が見たい。おばあちゃんの顔も見たいです」、波塚君は「うちのごはんが一番おいしいので、食べたいです」、高橋君は「家に帰って家族に大会報告をして、すぐに寝たいです」と優しい笑顔だった

(新潟/県央地域 燕三条情報)
http://www.kenoh.com/2012/08/12kenoh.html

 新潟県央工業高校…、この学校も良い学校!

本校は、2004(平成16)年に三条工業高等学校と燕工業高等学校を統合して創設された工業高校であり、前身である南蒲原郡立三条商工学校の開校から100年の歴史を誇っています。
 2万3千名を超える卒業生は、県央地域はもとより県内外で広く活躍しています。
 本校は、ものづくりの歴史と伝統を有する県央地域の工業高校として、豊かな人間性と確かな技術・技能を身に付けた地域産業を支える人材の育成を目指しています。
 ものづくりに少しでも興味・関心があり、ものづくりをとおして社会に貢献しようと考えている中学生の皆さん、夢を実現するために本校でともに学びましょう

(校長 笹川民雄、ようこそ新潟県央工業高校へ)
http://www.niigatakenohk-h.nein.ed.jp/koutyou_H24%203.pdf

 でも、ね、インターハイでの登山競技ってどうやって競い合うのでしょうか。

 山歩クラブにはそもそも「競争」という概念がありません。
 「誰よりも速く、遠く、高く」を目指す「競技」ではなくって、決め事はミッシツでなく皆んなで、「協議」して決める、山歩きは「協働」、つまり、強い人、速い人、経験のある人は、弱い人、遅い人、初心者をいたわって、手を差し伸べてあげてください、って。
 それこそ嫌われても嫌われてもヤッホー君、口酸っぱく、言い続けてきて10年です。
 皆んなでいっしょに肩を組んで唇には唄を、顔にほほえみを、額には汗を、って。
 それが駄目なら、リーダーを選挙で替えましょう、投票数で負けたら、ヤッホー君、いつでもリーダーを下ります、と主張しつづけてきました。
 そんなわけで、とんと「山岳競技」には疎いのです、そうしたら、いいですねえ、山歩クラブも取り入れようかなって:

インターハイの登山競技は、団体男子、団体女子の2種目があります。
 2種目とも48チーム(各都道府県最優秀校+新潟県2チーム)の団体戦で、選手は4人、必ず監督1人が同行し山を登らなければなりません。
 競技は種目ごとに4日間で3つの登山コースを歩き、各種目とも審査員が同行しながら次の4項目を減点法で採点し、総合成績が争われます。

<採点項目>
1.歩行技術や体力などの「行動」点…(満点40点)
2.テント設営や炊事などの「生活技術」点…(満点25点)
3.地図の読図力や気象知識、天気図作成、救急医療などの「知識」点…(満点30点)
4.自然保護の意識やマナーなどの「態度」点…(満点5点)

 4日間をテントで過ごし、食事もテントもすべて自分達で持ち歩き準備しなければならない登山競技は、インターハイにおいては最も厳しい競技のひとつです。
 自然と一体となり、体力はもちろんのこと、忍耐力や協調性などあらゆるものが試される競技に是非ご期待ください。

 競技会場 湯沢町:苗場山系

(平成24年度全国高等学校総合体育大会「2012 北信越かがやき総体」公式サイト<競技会場<登山)
http://www.2012kagayaki.jp/venue/mountaineering/

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2012年09月05日

全国高校総体登山競技山梨県大会

 山本健一先生、我が走りだけでなく、教え子たちの指導者としてもご活躍されています。
 
 まずは昨年、5月11日〜5月13日に薬師岳、観音岳を舞台に開かれる予定だった「全国高等学校総合体育大会登山競技山梨県大会」では、ザンネン、ムネンの第二位(優勝は、山本健一先生の出身校、韮崎高校):

日本列島に低気圧が縦に3つ並び、きわめて危険な状況の中、今回の高校総体登山競技が行われた。
 このような気圧配置では、当然山に入ることはできない。
 そのため、日程を2泊から1泊へ、宿泊場所も標高2500mの南御室小屋から、標高350mの韮崎工業高校体育館へと変更された。
 自然の恐ろしさを感じながら大会が始まった。
 初日、芦安の体育館で学科試験と天気図審査、その後、夜叉神峠に場所を移し、タイムレースが短縮コースで行われた。
 結果はどれも一歩及ばず、総合2位という結果に終わった。
 しかし選手は自分たちの力は出し切ることができたと感想を述べており、次につながる取り組みだったと思う。
 応援してくださった皆様ありがとうございました

(2011.05.23 韮工ニュース 第81号 県立韮崎工業高等学校 総務部「残念、山岳部 無念の2位」)
http://www.nirasakith.kai.ed.jp/nirakounews/N.81.pdf

 はい、1年後。今年の風薫る五月の頃のことです。見事、優勝(パチパチ!):

5月9日〜11日、高校総体登山競技が御坂山塊で開催されました。
 本校から3年 大柴結人、大間駿、2年 依田鷹樹、中嶋敬太の4名が参加しました。
 当日は雷が心配される天候で昨年の悪夢(荒天のため短縮)がよぎりましたが、順調に大会が進行されました。
 初日のタイムレースでは、宿敵、韮高に5分以上の差をつけて、1位通過しました。
 このレースにかけて何度も現地に下見に行ったので、この結果に満足しています。
 学科では、少し劣ったものの、タイムレースの差を活かしたまま逃げ切り、2度目の優勝を果たすことができました。
 みんなで喜びました。
 応援ありがとうございました。
 次は8月の全国高校総体です。
 新潟県苗場山で、みんなでまた喜び合いたいと思います

(2012.06.04 韮工ニュース 第94号 県立韮崎工業高等学校 総務部「山岳部・スキー部優勝」)
http://www.nirasakith.kai.ed.jp/nirakounews/N.94.pdf

 今年のインターハイ、「北信越かがやき総体」の結果は、というと…全国第11位の成績でした。

全国高校総体体育大会15日目の8月11日、新潟県内で登山団体の最終結果発表が行われた。
 標高2000メートル前後の苗場山などで4日間に渡り競技が行われ、女子が、防府(山口)が見事優勝。
 初日の筆記試験で、天気図担当の田中ともみが気温と気圧を記入する場所を間違えるまさかのミスで出遅れたが、その後、テント設営や体力、歩行などを無失点で切り抜け、0.1点差の接戦をものにした。
 毎日1時間半、15キロの荷物を背負いトレーニングしているという生徒たち。
「もうダメかも」と弱気になるリーダー田中を3人が励まし、逆に結束力が高まったという。
 男子は新潟県央工(新潟)が初優勝を飾った

(2012/8/14 15:00 インターハイ公式応援サイト|Coca-Cola コカ・コーラ 「男子は新潟県央工(新潟)、女子は防府(山口)が優勝【登山】)
http://www.cocacola.jp/happy/cch/ih/news/2012_0814_3.html

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2012年09月04日

山本健一

 ヤマケンこと山本健一先生。

 ヤッホー君は実は、テレビで先生にお目にかかっています。
 そしてただただびっくりしていたことを思い出しています。
 それはNHKの「小さな旅」で、イマからもう3年前、2009年8月2日日曜日放送の番組だったのです。
 撮影場所は、甲斐駒ケ岳2967mの「黒戸尾根」。
 登りで10時間かかる「日本三大急登」の一つです
 だって、竹宇駒ケ岳神社からの「黒戸尾根」ルートはなんと、なんと高低差が2200mもあるんですよ。

 山歩クラブでは、北沢峠から入って仙水小屋泊し、翌朝ヘッドランプをつけて小屋を出て、仙水峠経由で甲斐駒ケ岳を目指しました。

 この「黒戸尾根」をヤマケン先生は練習の場として、頂上まで2時間半で走って登るという紹介がテレビ番組であったのですから、びっくり。びっくりしたのも頷けるというもんでしょう。

 ヤッホー君、おどろ木、ももの木、さんしょの木だったのです。
 
 実は皇太子殿下も「黒戸尾根」から甲斐駒ケ岳を登山されています。
 登山口である尾白川渓谷駐車場、竹宇駒ケ岳神社の一角には、皇太子殿下が1990(平成2)年に来られたことを記念する碑が立っています。
 ここから「黒戸尾根」を登られ、七丈小屋でお泊まり、甲斐駒ケ岳から駒津峰、栗沢山を経て北沢峠で長衛荘に泊まって、翌日に仙丈ヶ岳に登られて帰京されているのです。

 この尾白川渓谷駐車場に来る11月、山歩クラブでは発足10周年で訪れようとただいま、企画が進行中!
 あっ、え〜と、歩く山域は、「黒戸尾根」から甲斐駒ケ岳でなくって、あのお、このぉ、そのぉ、甲斐駒ケ岳の「下見」に、日向山なんですう。

 ところで、この日向山もぉ、ヤマケン先生の修行の場所なんですよ:

『この山は簡単に登ることができるのに、山頂の景観は3000m級の高山に匹敵するものを持っていて、なんか得した気分になってしまいます。
 すべてのトレイルランナーが満足できる山だと思っています。
 そんなわけで僕は高校時代から現在までこの日向山を走り続けています。

 JR中央線の小淵沢駅付近から南の方向に目をやると、甲斐駒ヶ岳の雄姿の左下に、夏でも雪が降ったように白く大きな斜面が見えます。これが日向山です。
 今回は矢立石登山口(1120m)から山頂(1659.6m)に立ち、錦滝に下るコースを紹介します。
 
 登山口まではマイカーか長坂駅からタクシーを利用するといいでしょう。
 国道20号「道の駅はくしゅう」から約7kmくらいです。
 甲斐駒ヶ岳黒戸尾根の登山口の竹宇駒ケ岳神社からも走り始めることができます。

 さてコースを走ります。本当にあっという間に山頂に着いてしまいます
 僕はいつも友だちと話をしながら走って、約30分くらいです…』

http://runnet.jp/trail/topics/essay/detail.php?__ex=&_num=9

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2012年09月03日

韮崎工業高校

 山梨県…、いいところですね。
 ここに韮崎工業高校(韮崎市竜岡町若尾新田50-1 Tel 0551-22-1531)というのがございます。
 とっても、いい学校のようです:

『本校は1963(昭和38)年に創立され,今年、創立50周年の節目を迎えます。
 創立当初は機械科と電気科の2学科でスタートしましたが、時代の変化に伴い、幾多の変遷を経て、現在は、電子機械科,電気科,情報技術科,環境化学科,システム工学科,制御工学科(理数工学科は本年度で閉じる)の6学科の編成となっています…
 本校の教育目標は,「地域社会に貢献できる技術者の育成:であります。大学を卒業しても,就職できず,社会に貢献することができない若者が増加している昨今ですが,本校の卒業生の就職率は100%です

(韮崎工業高等学校校長 相原真樹「進化する韮崎工業高校」)
http://www.nirasakith.kai.ed.jp/page-1.html

 今年の11月21日水曜日に、創立50周年の記念行事が予定されています。ぜひ機会がありましたら学校訪問はいかがでしょうか。
 高校には「山岳・スキー部」がございます。今日はそのご紹介:

先週も学生たちを連れて白馬鑓ケ岳に1泊2日のミニ合宿に行って来まして、標高2100mの露天風呂を学生たちに体験させました。
 僕自身高校の山岳部に入部したことがきっかけで登山が好きになったのですが、5年前この高校に着任してきたとき、以前あった山岳部が休部になっていることを知り、山岳部を復活させました。
 山梨はサッカーが伝統的に人気ですか、サッカー以外にも青春を燃やすスポーツはたくさんありますよ。
 だから「みんな! 山登ろうぜ」って。
 何しろ韮崎は周囲にこんなにいい山があるのですから。
 お陰様で部員も成長し、一昨年初めて山梨代表としてインターハイ(高校総体)に出場することができました。
 雪山は危険なので、冬はクロスカントリースキー部に突然変異します(笑)。
 年末は毎年、長野県の野沢温泉で合宿をはり、県のクロカンチームと合同で練習して体力強化に励んでいます。目標はあくまで夏のインターハイ。まずは5月の県大会で優勝することです

(取材インタビュー/2009年10月25日…この日、「僕」は愛車のワーゲンで登場。「もう30年モノです。たまに走らせてあげないと」)
http://www.trailrunning-ohkoku.jp/face/2009/11/2.html

 この「僕」って誰でしょう?っていうのが今日9月3日月曜日のヤッホー君の「日記」の主題なのです。
 それはヤマケンこと、山本健一先生(体育科)でした。
 どうしたのかって言うんでしょう。実は、実はヤッホー君のところに、実は昨日の「日記」の主題、渡辺玉枝さんと同じく、ビッグニュースがとびこんできたのですよ:

山梨県の韮崎工業高校教師山本健一さん(32)が、フランスで開催された、山道を走る競技「トレイルランニング」の国際大会「ピレネー大耐久レース」で初優勝した。
 ピレネー山脈の登山道100マイル(約160キロ)で累積標高(登る高さの合計)が1万メートルとなるルート。トレイルランニングの情報サイト「トレラン王国」編集部によると、海外開催の「超長距離レース」で日本人が優勝したのは初めて。
 山本さんは「優勝できて感動している」と話している。

 レースは8月24、25両日に開催された。
 日中は肌を刺すような日差し、夜は芯まで冷え込む激しい寒暖差の中、不眠不休の24時間37分44秒で駆け抜けた。
 参加ランナー約760人の半数近くがリタイアした過酷なレース。
 だが山本さんは笑顔を絶やさずに360度の雄大なパノラマを楽しみ、夜は足元を照らすヘッドランプを消し、満天の星空を見上げて走った。
 山本さんは登山部顧問として南アルプスでトレーニングを積んだ。

 昨年2011年8月には東日本大震災で被害を受けた宮城県南三陸町でボランティア活動。
 「レース中にはつらいこともあるが頑張ればゴールが見える。こういう人間を見てもらい、少しでも力になれたらうれしい」と話した

(2012年8月31日付け東京新聞夕刊「ピレネー160キロ 耐久レースV 山梨・山本さん日本人初」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012083102000235.html

 ね、もちろん、昨日一日かけてヤッホー君ががんばって、つくった山歩クラブの「かわらばん9月号」のトップを飾った記事は、山本健一先生だったのです!
 とても感動的な、というか人様に感動を与える人物となんと、ヤッホー君、お二人も会うことができました。
 こんな素晴らしい日本人のいる国です、さあ、明日も皆の衆、良き一日を、元気に笑顔で!おやすみなさい眠い(睡眠)

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2012年09月02日

渡辺玉枝

 ヤッホー君のこのブログ、8月25日付けの日記のタイトルは「山本美香」。
 「上杉隆さんも山本美香さんも同じ都留文科大学ご出身」と書きました。
 ところで、9月2日日曜日。朝早くから朝焼けを楽しみながら、山歩クラブ「かわらばん」の発行準備をする作業日です。
 「かわらばん」9月号準備にとりかかっていたとき、もうお一方、都留文化大学のご出身の方を知りましたので、ここに謹んでご紹介いたします。

 渡辺玉枝さんです。
 山屋のなかではかなり名の知れた方だとは思いますが、メディアにしゃしゃり出ることをしない方ですので、あるいは皆さんも「へえぇ〜」とびっくりするかも知れません。

 まずはウイキからですよね:

1938年山梨県冨士河口湖市生まれ。
 都留短期大学(現都留文科大学)卒業後、神奈川県の職員(地方公務員)となる。
 神奈川県庁山岳会に入会し、登山を本格的に始め、1977年、マッキンリーに登頂。8000m級の山4座のほか、モンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアなどの登山歴をもつ。
 県庁勤務を経て県立高校事務長に就任。
 退職後は地元に戻り、登山を本格的に行う。
 2002年5月、世界最高峰エベレストに63歳で登頂。女性の世界最高齢記録を樹立。
 2012年5月には73歳でエベレストに登頂し、自己が持っていた女性世界最高齢記録をさらに更新した。
 現在、富士河口湖町在住。富士河口湖町名誉町民。2004年植村直己冒険賞受賞。主著に「63歳のエヴェレスト(白水社、2003年)」がある


 この主著についてアマゾンでは、「編集者よりひとこと」のコ−ナーでこんな記述が:

山梨県河口湖村の貧しい農家に生まれ育った著者が趣味の登山を突き詰めるうちに、ついに世界最高峰の頂上に、しかも女性最高齢登頂という記録つきで登ってしまった
――小柄でほっそりした著者のどこにそんなパワーが潜んでいるかを考えるとき、戦中から戦後の厳しい時代に育ち、今の若者には思いもよらない苦しい生活を経てきた世代の精神と肉体の力に思いいたる。
 本書はそんな著者が、40年余りに及ぶ登山人生を爽やかに綴って読者に静かな感動を与える


 山歩クラブの仲間向け「かわらばん9月号」では、本屋さんに足を運んでお金を払ってお買い求めください、そして読み終えましたら、感想を添えてヤッホー君に渡してください。ヤッホー君が読みたがっています。と言い添えてあります、少々お待ち下さい、分かった、ヤッホー君?

 渡辺玉枝さん、2012年6月5日火曜日にはさっそくNHK番組「おはよう日本」で、「73歳でエベレスト登頂!」と紹介されています。

塚原アナウンサーの紹介:
 渡辺さんは、身長155センチ、体重は45キロ。この小さい体でエベレストを登り切った渡邉さんの元気の秘けつは何か、取材しました。その元気の秘けつは、実はジョギングや筋トレではありません。こちら、毎日欠かさないという畑仕事です。機械は全く使わず、すべて手作業。これが、山登りのための自然な鍛錬になっているんです。栽培しているのは、ほうれん草やジャガイモなど10種類の野菜。食事は、育てた食材を中心に、栄養のバランスに気をつけています。山登りのための準備は、普段の生活の中でストレスなく行う。それが渡邉さんの信条です。
…山とともに生きて45年。どんな高さの山でも登るのが楽しいという渡邉さん。
 体力の続く限り、次の山を目指すとおっしゃっていました。 
 もちろんこれまでの登山の経験や蓄積があるからこそですが、渡邉さんは畑仕事をする、近所の山に登るというような普段の生活の延長線上にエベレストもあるというんです。
 どんなに高い山だからといっても身構えない、そんな渡邉さんの姿勢も数々の山の登頂に成功した理由の一つだと感じました

(73歳でエベレスト登頂! 渡邉玉枝さん)
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2012/06/0605.html

 日本山岳会山梨支部では、恒例の「山の博覧会」も8回目を迎え7月7日土曜日に、甲府市酒折町の山梨学院メモリアルホールにおいて開催していました。

この「山の博覧会」は支部創立60周年(2008年)記念事業の一環として2005年7月に第1回目を開催し、山の魅力を広く市民に知っていただく目的で≪山を知ろう 山へ行こう≫をスローガンに爾来毎年7月に開催している

…渡辺玉枝さんも地元ですから、もちろん登壇され、お話しをされました。

今回はチベット側から今年2012年5月19日に登頂しました。登頂前夜9時にノースコル(7300m)を出発、足2つおけないほど幅の狭い尾根を登っての登頂でした。無事にベースキャンプに下り、ネパール経由6月2日に帰国しました。いたる所で取材にあい登山よりこちらの方が疲れました(笑)。
 「自己が持つ最高齢登頂記録を自分で書き換えできたことを皆さんに歓んでいただけたことが一番の成果と思う。
 <最高齢>は特に意識していなかった。
 私より優れた方がいらっしゃる、その方々はもっと難しい処へチャレンジしているのかもしれない。
 同行願った写真家・村口氏にはとくに感謝している。今回は私からの誘いに即了承いただけた。こういう山の仲間がいることの幸せを感じている。
 これからは、厳しくない山、そう高くない山、甲斐の山々にも登って行きたい」と締め括った

(2012.08.29更新、日本山岳会公式サイト「第8回山の博覧会」)
http://jac.or.jp/info/shibudayori/cat77/8.html

 田部井淳子さんもすごいけど、渡辺玉枝さんも尊敬します。

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2012年09月01日

KY

 昨日の日記で、「国策がどこかで決まって、空気が確定してしまえば、首相であろうが外相であろうが変えられない」なんて恐ろしい表現を引用しました。
 これがこの国をムカシもイマも覆っている病弊なんでしょうか。とすれば、ミンシュシュギなんて根付くはずも、育つはずもありません。
 事業体であれば、「どこか機関会議で決まって(初めに結論ありき、で)、空気が確定してしまえば、社長であろうが一般社員であろうが変えられない」、ですので下級会議は、この≪国策≫の周知徹底の場でしかなく、一方通行。
 この≪国策≫への貢献度が、「査定」や「評価」の対象となると…。

 そして上級会議の構成メンバーであればあるほど、部下の「コミュニケーション」のなさを嘆き、「コミュニケーション力(りょく)」がいまの若手に欠落していると結論づけ、「コミュニケーションの磨き方」をテッテイ的に叩き込め、要は茶坊主養成講座を企画立案し、実施せよ、と業務命令。

 そのお話しはそのまんま外注、アウトソーシングされて、儲かるのは人材育成コンサルタント会社や講師さま。
 現場からますます遠ざかり、知財(と言っても独創性、創造性のない似たりよったりな金太郎飴)旺盛の時代になっていますよね。

 山歩クラブにもムカシ、かつてワカイ頃、田舎の国立大学をでて、学生時代はあちらこちら各地、登山をしていたので南アルプスのテカリ、ヒジリ、ワルサワを縦走しようよ、とムカシとったキネヅカを武器に、大きい声で笑い、オレ様を副会長になぜさせない、と大きい声で怒鳴っていた「爺や」だったか「学会」だったかのコードネームを持たされていたご老体がおられました。
 あるとき、高尾丘陵を歩いてきて八王子駅前の温泉で汗を流し、駅前の居酒屋チェーン店に湯上りのいっぱいを求め入り、歓談していたとき、この≪学会爺や≫が、「あんたは宇宙人で、KYだからね。まず空気を読まないと…」と流行語を大声で言われ、山仲間が困った表情を見せていたときがありました。

 空気を読むって、並大抵のことではできません。
 そのとき≪学会爺や≫が言いたかった言外の隠された意味内容は、「KYでもいいから、だまって大人しく、にこにこして飲んでりゃいんだよ」っていうこと。

 この物言いは山歩クラブだけではなく、外の一般社会もあの当時、そんな風潮だったんでしょうね。
 ですので、こういう人物評価、つまりKY的な括り方が、会社に行けない出社拒否症候群の「擬態うつ病」患者を爆発的に激増させ、病原菌が蔓延していった元凶なんじゃないのかな、いまだに、ってヤッホー君は思いだしたことでした。

 山屋に≪観天望気≫って表現があって、これは、長年の経験から、あたまとからだに染み付いた≪勘≫で、天気が崩れるか、雨が落ちてくるか、カミナリが鳴るか、おおよその見当はつきます。
 しかし、≪空気は読めません≫よねぇ〜、文字がないんだもん。

・夕焼けの次の日は晴れ(天気は西から東に移動する)
・ミミズが地上に這い出したら大雨
・高層雲は雨の前ぶれ(温暖前線の接近によって高層雲が現れるため)
・飛行機雲がすぐに消えると晴れ(上空の湿度が低い)
・音が遠くまで響けば雨や嵐


 でもこれだって、山の天気と女心は変わりやすいとムカシから言われています。
 ですので、この間の鎌倉へのオリエンテーション山行のときですら、「リュックに通気性、速乾性、撥水性のある雨具は入れておいた方が身の安全です」と言っていたくらいだもん。
 
 これほど「空気を読む」なんてことは難しいのですから、そんなところにこころのエネルギーを使うんだったら、もうひとつ違った動作、所作、振る舞いをしたほうが、リスク回避につながるんじゃないか、と。

・空気を入れ替える
・新鮮な空気を吸いに出る
・なんか嫌な匂いの立ち込める空気のなかに立ち入らない


 KYだと言われて「なんてわたしは、ぼくは、駄目な人間だろう」なんてしゃがみこんだり、KYにならないためのハウツーものや、空気を読める人にヘンシンなんてマニュアル本を読むより、バーブ佐竹さん(1936-2003)の「女ごころの唄」でも聞きましょう。

佐竹さんはナイトクラブ専属歌手など長い下積み生活を送った後、1964年のデビュー曲「女心の唄」が250万枚を超す大ヒットに恵まれた。
 ブルース系のハスキーな低音の歌声で人気を集め、1965年からNHK紅白歌合戦に4年連続出場。
 その後「ネオン川」「カクテル小唄」など女心を歌った曲が相次いでヒットし、「顔じゃないよ、心だよ」の名セリフでも知られた

(バーブ佐竹さん(歌手) 多臓器不全のため死去)
http://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2003/pe-031205-1.html
http://www.youtube.com/watch?v=RNDfJ3rWbTU

posted by fom_club at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする