2012年08月31日

上田紀行

 今夕、駅の売店で50円払って毎日新聞夕刊を買い求めました。
 二面の「特集ワイド 原発の呪縛 日本よ! この国はどこへ行こうとしているのか」で文化人類学者の上田紀行先生(54)が≪「現実」をはぐらかすな≫と題してお話になっているインタビュー記事がほぼ1頁分載っておりました(聞き手 大槻英二記者)。

 びっくり。これは、ヤッホー君が昨晩質問したことへの答えになっています。
 ま、答えと言いますか、自分で考え、自分で行動してみたら、という「促し」なんですけど。
 そりゃまぁ、そうですよね、ヤッホー君だって、満点の答えを期待して質問しているわけではなく、変な質問に対して、どういう思考の回路をお示しになるのか、を期待しているわけですから。

 だって、「先生」とは、未来を示す「預言者(お布施を包む必要もない)」でも、集団の「統率者(統率者を守るために命を捧げる必要もない)」でも、組織の「長(解雇も辞さず労務提供する必要もなく)」でも、宗教の「師(間違うと破門される弟子の関係にない)」でもなく、言ってみたらハングル語の「ソンセンニム」、ま、尊称ですよね。

 ヤッホー君が8月最後の日の朝、友人宛てに送ったメールです:

昨晩のセミナーはサイコウに知的刺激を受けて帰りました。

我々日本人の生き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、我々はその国策に従って努力するのが我々に課せられた従来の慣習であり、また尊重せらるる生き方であります

 これは陸軍大臣/首相にまで登りつめた小磯国昭への極東軍事裁判での検察側の戦争責任への追求に対して答えた答弁で、これが昨晩、与えられた課題のひとつになりました。
 原発事故のとき、ベントする際にフィルターをつけていない発電所は欧米含め日本だけ、これを許す技術屋はなぜか、野田首相が大飯原発再稼動のとき、「精神論だけで片付けられない」と少数の大臣だけ呼んでミッシツで決めた、これを許している政治家がいるのはなぜか。。。

 この発言へのコメントが政治学者の丸山真男にあります。ぼくも質問したりして議論に加わりました。また、後ほど


戦後の東京裁判で開戦に導いた大臣たちが次々と尋問されますが、大臣たちは不思議な答えを連発します。
 例えば歴代内閣のフィクサーであった木戸幸一内大臣は、日独伊三国同盟について、賛否の態度を問われて、こう答えています。
私個人としてはこの同盟には反対でありました」

 東郷茂徳元外相も、「私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事にはなり行きがあります…前にきまった政策が一旦既成事実になった以上は、これを変えることは甚だ簡単ではありません」

 国策がどこかで決まって、空気が確定してしまえば、首相であろうが外相であろうが変えられない。
 私というものを殺してその役割に邁進するのが日本人のあり方だということです。これを聞いて、外国人の検察官や裁判官たちは、「何という無責任国家だ」と呆れてしまうのですが、この大臣たちの感覚が日本人として分かってしまうところもあるのが怖い。

 東京電力の社長が避難所で土下座をしながら謝っていました。ところがすべてを失った人の前で謝罪しながら、自分は当初は給料の2分の1を確保して、3600万円をもらいながら、土下座をしていたわけです。普通の感覚では、驚くほかない強心臓ですが、一方で日本人なら、「この社長、可愛そうね」と思ってしまうところがあります。「前の社長たちは事故も起こらないで、退職金も全部もらっていったのに、たまたまこの時期に社長になっちゃって、ほんと、可愛そうな人だわね」と。だからちゃんと3600万円も残しておいたのでしょう。

 70年前の「軍国支配者」はわれわれの中にまだ厳然として生きています。空気が確定してしまえば、みんなが自分を殺してしまって言挙げをしない。ですから日本社会では、その空気というものがはたして他者に対して暴力性を含んでいないのか、ということの検討が非常に重要になってきます。

 そしてもうひとつ、ここで気付かされることがあります。それは、「絆」と「徳」ということを考えるときに、われわれは、今ここにいる、見える人間のことだけを考えていていいのだろうか、今ここにいない人とか、今ここにいないものも同時に考えなければいけないのではないかということです。
 
 原発の場合は、ここに今いない将来世代の、今はまだ生まれていない子どもたちのことも考えて行動しなければいけなかったのに、今目に見えている人たちの承認を得ることだけを考えて突っ走ってしまった。私たちが気づくべきは、誰もが常に目に前にある、「世間」からの評価というものに引っ張られてしまって、その外にあるものが見えにくくなる構造を私たちの社会は持ち、そして私たちひとりひとりの意識がそれを支えているということです

(上田紀行 論考◉特集・徳ときずな、京都大学 こころの未来研究センター 徳と絆)
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol7/kokoronomirai-vol.7_10-31_2data%2024-27.pdf

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2012年08月30日

それぞれの夏山

 ヤッホー君、今晩は「メンタルコンシエルジュ」代表、野口海先生(慶応大政策メディア研究科特任准教授)の第18回セミナー「今を生きる力の回復-個人・組織・社会の視点から-」に出席していました。
 夜の7時から9時まで場所はというと、「慶応丸の内シティキャンパス」で開かれ、講師は、上田紀行先生(東京工業大学リベラルアーツセンター教授)でした。
 このお話しはすごい内容のもので、引き込まれてしまったヤッホー君、思わず、先生に質問したほどでした。
 これは明日以降にご報告していくことになろうかと思います。

 とりあえず、今晩は夜も更けましたし、ヤッホー君の山仲間からのご報告で幕を引きたいと思いまして:

『南アルプス縦走(サワラ島〜赤石岳〜聖岳〜サワラ島)は「強風&雨」のため、赤石岳まで行って引き返しました。
 赤石避難小屋(百間洞小屋まで2時間)まで行ったんですが、翌日も荒れ模様で天気の回復は見込めないので、無理して縦走することもないねってことになって引き返したのです。

 そして、下山して温泉に入ってから、携帯をみたら、叔父が亡くなった、とのメールが入っていて、告別式が、縦走途上の8月16日木曜日だったのです。
 で、叔父が「俺の葬儀に出ろ」って引き返させたのかな、と思ったりしたのです。
 ま、山は逃げないので来年、再チャレンジです。
 赤石小屋まで5時間ず〜っと登りで、展望もなかったから、赤石の頂上まで行ったらその先も行きたかったのですがね。
 小屋から下りは3時間下りっぱなしで、二日後は足がパンパンでした。

 夏休み休暇後はこれから予定が一杯なのでどこにも出かけられないのです。
 それに9月は、1回も山に行けないかもしれません。
 10月は半ばに「皇海山」か「女峰山&男体山」に行こうかなと思っておりますが、カミさんの田舎帰りなので、まだ未確定なのです(でも行きそうですね)』


 人生いろいろ、山もいろいろ、人もさまざま、それだから世界がいろんな色に染め上げられて「総天然色」になるんですよね、きっと。
 良い夢を見ましょうね、おやすみなさい眠い(睡眠)

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2012年08月29日

東京都庁職員食堂

 或るときはハイエナと呼ばれ、また或るときは底なし胃袋と言われ、いつもおなかをへらしているヤッホー君、ご近所に行きたい食堂、三っつあり、今日はそのひとつをうかがったというわけで、満足、満腹、いい気分でおやすみなさい。

@ タニタ食堂

レシピ本「体脂肪計タニタの社員食堂」の発売から2年。
 「社員以外でも食べられる場所を提供してほしい」という声にお応えして、ついに東京・丸の内に「丸の内タニタ食堂」がオープンしました。
 本食堂では、タニタ社員食堂のコンセプトを忠実に再現したメニューを、日替わり・週替わりで提供します。
 さらに、業務用体組成計を備えたカウンセリングルームでは、管理栄養士から無料でアドバイスを受けることができます。
 健康な体重維持には、食事、運動、休養のバランスの良いサイクルが重要。
 「丸の内タニタ食堂」を、ぜひ皆さんの健康維持にお役立てください

http://www.tanita.co.jp/company/shokudo/index.php

A フジテレビ社員食堂

『ザ・社員食堂.普段は社員やアナウンサー、芸能人も利用している社員食堂を特別に開放!
 東京タワー・レインボーブリッジ・スカイツリーを望む、開放感溢れるレストランでのお食事をどうぞ!
 営業日:期間中の土日祝日(調整中)
 営業時間:10:00〜18:00 ラストオーダー17:00』

http://www.fujitv.co.jp/uso2012/area1_6.html

B 東京都庁職員食堂

■ 「食べて応援!被災地支援!」
○ 東京ケータリング: 宮城米「ひとめぼれ」
○ 西洋フード: 鶏肉の仙台味噌焼き、喜多方つけ麺、油麩丼(不定期)
○ アターブル松屋: 宮城米「ひとめぼれ」
○ ニュートーキヨー: 週1回/喜多方ラーメン
http://www.tokyo-jinzai.or.jp/rest_cafe/restaurant/staffs_dining_hall.html

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2012年08月28日

日野俊基墓

 こうして山歩クラブのオリエン山行は、葛原岡神社へと向かいます。

葛原岡神社
 御祭神 日野俊基卿
 例大祭 六月三日
 お渡り神事 六月三日に近い日曜日 於 鎌倉由比ヶ浜
 御由緒:鎌倉幕府の執政を北条氏から後醍醐天皇の親政にしようとして幕府に捕えられた1332(元弘2)年、この葛原が岡で露と消えられた。太平記 俊基朝臣再び関東下向の事に名文が綴られている。
 辞世の頌:秋を待たで葛原岡に消ゆる身の 露のうらみや世に残るらん 古来、一句無死無生萬里雲蓋長江水清
 御墓所 参道大鳥居の手前約五十米左手の小高い処にあり史蹟に指定されている

 (宮司 小松行好記)

 墓所は、と言いますと、富士山が見える場所(ほんとうに見えました!感激!!)の先、小高い岡の上にある公衆トイレ、その先にありました!

国指定史跡 日野俊基墓
 日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣、後醍醐天皇につかえ討幕計画に参加した。正中の変(1324)に捕えられ許されたが、元弘の乱(1331)の時再び捕らえられ、鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された

(鎌倉市教育委員会)

日野俊基墓所
 日野俊基朝臣ノ朝権ノ快復ヲ図リテ成ラズ元弘ニ年六月三日北條高時ノ害ニ遭ヒ 秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露の恨や世に残るらん ト永キ恨ヲ留メタルハ此ノ_ナリ

(鎌倉町青年会)  

 この墓所の地は、南北朝時代の頃、文献ですと『太平記』の頃ですが、他の時代に比べ、あまり小説、映画、芝居になっていない時代のようです。
 例外的にNHK大河ドラマで『太平記』が放送dされましたが、1991年と言いますからもう20年以上も前のこと。
 しかし、歴代の大河ドラマで人気第7位につけています:

100年続いた北条政権の専制、退廃した鎌倉幕府。そこに討幕の兵を挙げ、内乱を繰り返しながらも室町幕府を開いた足利尊氏(真田広之)の生涯を描いた「太平記」。
 真田広之さんは、尊氏を演じるにあたって
「剛と柔、静と動の両極端を備え、武芸と芸術などいろいろなものに興味を示した人。そのうえ政治家としても優れていて、既成のイメージではとらえきれないですね」と語っていた。
 また、脚本を担当した池端俊策さんも「英雄というより、小さな正義感を頼りに、迷いながら生きた人物」というふうに感じて、そこに共感を覚えたという。
 初めて描く時代にふさわしく、大河ドラマの主人公としてはやや異質のニューヒーローだった

(NHK公式サイト>スペシャル>第7位 太平記 -エピソードで振り返る! 人気大河「ベスト10」-)
http://www9.nhk.or.jp/taiga/special/best10_04/index1.html

 YouTubeに音声付き画像が残っていました。
 第9回目、1991年3月3日「宿命の子」というのを見てみましょう!
 これは≪置文伝説≫を描いた場面です。

鎌倉時代後期、足利家の当主家時(尊氏・直義の祖父)は有力御家人の抗争に巻き込まれ、不慮の死を遂げた。家時は臨終の際、八幡大菩薩に「自分の三代後の子孫に天下を取ら-せよ」と祈願し、置文を残した。この置文は家時の執事であった高師氏が預かった
http://www.youtube.com/watch?v=a6C3b2HlKXU

 NHK大河ドラマ『太平記』は、ウイキによりますと、『平均視聴率は26.0%、最高視聴率は34.6%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)』。すご〜い!
 それにくらべると、昨今のNHK大河ドラマって人気がないようですね。
 作り手に魅力がなくなってきているのか、題材が悪いのか、それとも視聴者のNHK大河ドラマ離れがあるのか…

8月26日にNHK総合で放送された大河ドラマ「平清盛」の関東地区の平均視聴率が2度目の1桁となる9.3%(関西9.1%)だったことが27日、ビデオリサーチの調べで分かった。
 同ドラマの視聴率は、ロンドン五輪開催中の今月5日の放送で、同局が把握している限り過去最低の7.8%(関西8.1%)を記録したばかり
』 
(8月27日月曜日 12時32分配信 時事通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120827-00000041-jij-soci

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2012年08月27日

武家の古都・鎌倉

 かたくなに冨士山を登ろうとしない山歩クラブ、かたくなに高尾山を歩こうとしない山歩クラブ。。。
 いえ、ヤッホー君に言わせますと、冨士山は登る山でなく観る山(それにたっくさんツアーがあります)、そして高尾山はミシュラン三ツ星観光地に登録され、これも世界一ハイカーの多い山となり、下町からは乗り継ぎなしで行けますし。。。
 ですのでオリエン山行となると「鎌倉」を良く選ぶのが山歩クラブです。
 今回もハイキングコースの山路は日陰で、吹いてくる風も気持ちいいし、ところどころ大きな広い海が、白い波といっしょに見え、ヤッホー君の大好きなコースなんすねぇ。。。
 でもそんな「鎌倉」も、静かな山歩きが楽しめるのもイマの内かも知れませんよね。
 世界遺産に選ばれたら、違う他所でのオリエン山行の地を探さねば。。。

2012(平成24)年1月には、「武家の古都・鎌倉」の推薦書(正式版)が、国からユネスコ世界遺産センターへ提出されました。
 来月、9月24日から27日まで、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)による現地調査が行なわれます。
 2013(平成25)年5月頃にはイコモスから評価結果が勧告され、夏頃に開催されるユネスコ世界遺産委員会における審査を経て、登録の可否が決定される予定です

(鎌倉市公式サイト>教育・文化・スポーツ>「武家の古都・鎌倉」世界遺産登録をめざして)
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sekaiisan/index_02.html
 
 “Kamakura, Home of the SAMURAI”については、文化庁の2012(平成24)年1月25日付け「報道発表資料」でお読み下さいね。「冨士山 Fujisan 」の推薦と同時提出だったんですね:
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/unesco_suisensho_ver02.pdf
 
 さて、昨日のオリエン山行の出発点は、浄智寺(臨済宗円覚寺派、鎌倉市山ノ内1402 Tel 0467-22-3943)でした。ここは:

鎌倉五山の第四位で、北条宗政の妻と子の師時が1281(弘安4)年ごろに創建。
 苔むした参道の階段と、鐘楼のある山門が印象的。
 鎌倉三十三観音第31番、鎌倉二十四地蔵第12番

(同じく鎌倉市公式サイト>市民活動部>観光商工課 Tel 0467-23-3000(内線2352/2353)

  「鎌倉五山」ってなに?

五山の制度は、各禅刹の寺格を決め、官が任命した住持を順次上位の寺へと昇任させていくという中国の制度です。
 北条氏がこれを取り入れ、初めは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺など、鎌倉の主な禅刹が五山と呼ばれていました。
 その後京都の寺社もこれに含められ、何度か変更されましたが、至徳3(1368)年に足利義満が改定し、現在の鎌倉五山・京五山(両五山の上に京都の南禅寺を置く。京五山は第一位・天竜寺、第二位・相国寺、第三位・建仁寺、第四位・東福寺、第五位・万寿寺)が定められました。

建長寺(第1位)-円覚寺(第2位)-寿福寺(第3位)-浄智寺(第4位)-浄妙寺(第5位)
(鎌倉市公式サイト>鎌倉名所辞典)
http://guide.city.kamakura.kanagawa.jp/stroll/jiten/meisu.htm

 この浄智寺には「甘露水」という「五名水」のひとつが湧いてでます。
 「五名水」ってなに?

鎌倉の湧水の中で、特に美味しいとされた五つの名水。
 鎌倉が観光地化した江戸時代に作られたようです。文献により多少の差異があります。

≪甘露水≫
 浄智寺総門手前の池の脇の小さな泉を言います。文献により甘露水と不老水が入れ替わり、「かまくら子ども風土記」などでは甘露水を入れています。
≪不老水≫
 文献により甘露水と不老水が入れ替わり、「相模風土記」「鎌倉志」「攬勝考」では不老水を入れています。私立鎌倉学園の旧グラウンドネット裏にあります。仙人がこの水を飲んでその容貌を保ったと伝えられています

(同 ibid)

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2012年08月26日

葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース

 今日8月26日日曜日は山歩クラブのオリエン山行「いざ鎌倉!」の日。

 「オリエン山行」とは、山歩クラブが新人さんと初歩きして行なうコーチングの番外編企画です。

 浄智寺(添付の写真)より、「葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース」に分け入り、10人で歩いてきました。

P8260002.jpg

 山を下りると猛暑。早々に稲村ヶ崎温泉からゲートブリッジを渡って下町に帰ってきました。

 
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2012年08月25日

山本美香

 「山歩きの最中にすくいとったつれづれの思い」が次から次へと泉のように湧き出て、それを届けたい気持ち、それをつたないけど一生懸命表現して、仲間の皆さんといっしょに考える「よすが」にでもなっていればそれでいい、といった尽きせぬ気持ちがあって、そしてそんな風に毎日が送れるヤッホー君です。
 それこそちっぽけな幸せですけども、どのくらい届いたかなって思いを馳せつつ、眠れる夜があります。
 でも、この人にはもうそんな夜がこない、もう永遠の闇に旅立ったのだと思うと、今日のふたつめの日記にその名を記して、ご冥福を祈らずにはいられません。

 山本美香さんです。

シリアで戦闘に巻き込まれて死亡したフリージャーナリストの山本美香さんの遺体を乗せた旅客機が、8月25日午前、成田空港に到着しました。
 山本美香さん(45)は、内戦状態に陥ったシリアで今月20日、反政府勢力に同行して取材している時に政府軍とみられる兵士との戦闘に巻き込まれて死亡しました。
 山本さんの遺体を乗せたトルコ航空の直行便は、25日午前10時半ごろ成田空港に到着し、係員たちが機内から遺体を慎重に降ろし、黙とうをささげました

(8月25日 12時59分 NHK「山本美香さんの遺体 日本に」)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120825/t10014529581000.html

 アルジャジーラ紙の8月21日火曜日付けの報道です:
'Wonderful reporter'
Yamamoto was a known face on Japanese television who came to prominence after she survived air raids on the Palestine Hotel in Baghdad in 2003, in which two journalists from Reuters and a Spanish broadcaster were killed.
She joined Japan Press in 1995 and had also covered the war in Afghanistan and the Iraq conflict, according to the company's website.
The dead woman's father, retired journalist Koji Yamamoto, said reports of her death were "too much to bear".
"I can't believe it until I see her with my own eyes," the 77-year-old told Jiji Press by telephone.
"She was always talking about tragic people who were caught in conflicts, human lives and world peace. She was more than I was ... she is a wonderful reporter and daughter."
French reporter Gilles Jacquier was killed on January 11 at central Syria's Homs, where American journalist Marie Colvin and French photographer Remi Ochlik both perished on February 22.

(Last Modified: 21 Aug 2012 11:18)
Japanese reporter killed in Aleppo
Mika Yamamoto was caught in gunfire, Japanese government says, and two other journalists are reportedly missing.
http://www.aljazeera.com/news/middleeast/2012/08/201282162113788607.html

 ガーディアン紙8月22日水曜日付けの記事といいますか、「ビデオ」です:
Colleagues of Mika Yamamoto, Japan Press's war correspondent who was shot dead during a gun battle between Syrian forces and rebels in Aleppo on Monday, release footage of her final hours, including the last events she filmed. Yamamoto is shown reporting on the besieged city alongside her life partner and work colleague, Kazutaka Sato
(Syria: footage released of journalist Mika Yamamoto's final hours-video)
http://www.guardian.co.uk/world/video/2012/aug/22/syria-footage-journalist-mika-yamamoto

 すでにいろんな方がいろんなことをおっしゃっていますが、山本美香さんの人となりを素直に表現したお二方だけをご紹介しておきます。合掌。

彼女と最初に会ったのはいつの頃だったのか、なぜかそこだけが思い出せない。
 ただ、2003年のイラク戦争前後には、頻繁に連絡を取り合い、盛んに話していたから、もっとそれよりずっと昔だったことは確かだ。
 お互いの母校(都留文科大学)が同じであることから、山本さんとはすぐに親しくなった。
 都留文科大学は、地方の公立教員養成大学で、卒業生の多くが教職の道に進む。一方でマスコミに就職する卒業生は少なく、ましてやフリーのジャーナリストなど皆無だった。
 実際、卒業生名簿で調べてもジャーナリストは山本さんと私の二人だけである。
 そうして意味で、学閥の残るマスコミの世界で、私はほとんど孤独といってよかった。
 ところが、ある日、突然「同志」が目の前に現れたのだから、興奮したものだった。
 「上杉君、文大でしょ。英文科だっけ」
 最初、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
 「私も文大なの」

 同じ山梨の、同じ大学のキャンパスで、同じ空気を感じて学んだ、たった2人のフリージャーナリストとして、私なりに彼女の求めてきたものは理解しているつもりだった。
 だが、あえて今回はそれを書かない。なぜなら、私に求められているのは、彼女のそうした夢を語ることではなく、それを実現するために(実現不可能なものもあるが)、行動することだけなのだから。
 美香さん、お疲れ様でした。
 やっと休めますね。
 ゆっくりと、お眠りください

(2012年8月23日 週刊上杉隆 山本美香さんの凄さ)
http://diamond.jp/articles/-/23732

『いろいろなメディアが、このシリア紛争に繋がる「アラブの春」について、そしてどの国がどんなポジションにいるかについて、報じています。
 その中で、決してマスでは報じられないけれど「アラブの春は、欧米諸国が仕組んでいるものではないか」という説があります。
 欧米にとって、旧態依然とした中東首脳陣と手を結んで石油利権⇔軍事利権をやりとりするメリットが芳しくない時代に入った。それよりもSNSなどを利用し一斉蜂起するポテンシャルのある大衆層へ向けてプロパガンダし、世論操作していくことが有効、と。
 数行で書いては単純乱暴すぎますが、こうした仮定から「どの国がどの位置についているか」を見ると…
 なぜ日本が、いったいどこから郵政民営化や規制緩和やTPPを迫られているのか。
 つねに、弱い人達の視点で取材・報道をしつづけた美香さんは、一体何に巻き込まれたのか。
 原発0%に向けてのシナリオが検討されよう、というこの時期ですが、「核を保有すべき」「軍事力強化必須」と感じる人は増えるのではないか。

 パズルのピースが浮かび上がってくるような気がします。
 もちろん私には組み立てられません。
 美香さんなら、豊富な情報量を基にした冷静な意見をおもちだったでしょう…』

(微熟女さや香◆出版お助けライター、コラムニスト、ライター&編集プロダクション(株)スタジオポケット代表取乱役(とりみだしやく)◆ 山本美香さんが伝えたかった「アラブの春」とは)
http://ameblo.jp/studiopocket/entry-11335162355.html

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蝶からのメッセージ

 8月25日土曜日。
 山に遊ぶのに、ひとりじゃなくっていっしょに歩く仲間たちと同んなじ気持ちになれるのが好き。
 樹間からのぞくこころ打たれる山並みの絶景、空の青さに、白い雲。
 小さいけど色鮮やかに山路に咲き誇る山の花々。
 ピコピコピー〜と囀りわたる鳥の歌。
 尾根筋にでたときさぁ〜っと首筋をなでるように吹き渡ってくる風。
 一生懸命歩いたせいでからだから滴り落ちる汗。
 火照ったからだを癒そうと口に含む水の美味しさ。
 いずれも自然のなかに息づいていることがこころの底から実感されてきます。
 だからこそヤッホー君、もう10年以上も、下町の仲間たちと山歩きを続けてこれました。
 
 そうなんです、この夏、合宿に歩いた根子岳で出会ったあのイオスおじさんのおかげで、この楽しみにもうひとつ、蝶々が加わりそうなんですう…
 
 信州大学には「山岳科学総合研究所」というのがあります。
 その研究所では読み物を発行しています。

 ヤッホー君、月に何度か山歩きをしていますと、いろんなことがあたまを過ぎります。
 そして、あたまにいつまでも鳴り止まない残響といいますか、残照といいますか、そんな残滓が山から下りてきてもまだ、どっかあたまにこびりついているようであれば、たいていはびっくりしたこと、驚いたことが多いのですが、いっしょに歩いた仲間たちに雑文、拙文、悪文で申し訳ないのですが、お届けしたい、と思ったのでございます。
 そこではじめたこのブログ、ヤッホー君の「日記」だそうです。

 更新しましたら、申し訳ないのですが、肩肘はらずにお読みいただいて、あ、そう、そんなこと感じてきたわけ、でなんなのよ、とか言われるのですが、できればいっしょに考えていく「よすが」になったらそれでいい、そんな一縷の望みも抱いているんだそうですよ。
 そんな山歩きにすくいとったつれづれの思いと、恐れ多くも賢くも恐縮なんですが、大学の研究所がブックレットを発刊するにあたってのメッセージに、ヤッホー君、非常に近い、親しいある思いを感じたんだそうです:
 
日々の研究作業の営みの中で、明らかになってきたこと、問い掛けてみたいこと、提案したいこと、議論したいことが数多く出てきます。
 それらの思いを皆様に分かり易くお届けする機会として、山岳科学ブックレットを刊行することといたしました。
 山岳科学はとても広い領域を対象としています。
 ブックレットも多種多様な題目で次々と刊行する予定です。
 是非、肩肘張らずにお読みいただき、一緒に「山・ひと・くらし」について考えましょう!
 長野県内の書店または県外の主要書店にてお買い求めいただけます。
 ご購入に関するお問い合わせは、オフィスエム(電話 026-237-8100)までお願いいたします

(研究所の公式サイト>刊行物│山岳科学ブックレット)
http://ims.shinshu-u.ac.jp/documents/booklet.html

 へぇ〜、「オフィスエム」ですか… ありましたよ!

蝶からのメッセージ 地球環境を見つめよう 山岳科学ブックレットvol.7 チョウを知ることで、環境の変化がわかる 今聞きたい、チョウのメッセージ
(信州大学山岳科学総合研究所、980円税込み)

 「チョウの種類と個体数をみれば、その環境を診断することができる!日本でもっともチョウの種類数が多い長野県からチョウの研究者11人が伝えるチョウからのメッセージ

我々が血液検査のγGTPやいろんな測定値で健康状態を判断するのと同じように、生息しているチョウの種類と個体数をみれば環境を診断することができるのである。
 また過去の記録や他の場所と比較することによって、環境の変化・悪化を評価することができる。
 さらに絶滅の恐れのあるチョウを保全・保護することはチョウが生息している地域の環境を守ることにもつながる。
 本書は、このようなチョウ類のもつ環境指標性の切り口から、環境保全を考えようと企画したものである。
 そのため「さまざまな環境に住むチョウ」、「環境指標種としてのチョウ」、「絶滅に瀕しているチョウ」、そして「チョウを守る」という構成にした

(信州大学教授中村寛志 はじめに チョウを通じて環境保全の意識を育む)
http://o-emu.net/archives/7710.html

 ぜひ注文して手にとって読んでみませんか。そればかりではありません。信州大学山岳科学総合研究所では、若手育成に「信州フィールド科学賞」を設けているのです。
 その2012年度努力賞(高校生)受賞者は、るんるんじゃじゃじゃ、じゃぁ〜んるんるん「群馬県立尾瀬高等学校・理科部(稲森・井田・川添)」でした。
 なぜ?って…、調査課題が「尾瀬のニホンジカ調査2012−ライトセンサス・フィールドサイン調査と採食植物の変化−」だったのです。尾瀬高校理科部の皆さんに cheers!
 2012年だけではないのです!こんな地道な努力をし続けてきております。
 ヤッホー君、若い皆さまにこころからの敬意と祝意とを表したいと思います。

2000年頃から、尾瀬の植物がニホンジカによる食害を受けていると言われている。
 本校では、2003年から尾瀬ヶ原(見晴〜山ノ鼻区間)で、サーチライトを用いたライトセンサス調査を6月〜10月にかけて行っている。
 2006年からは、フィールドサイン(食痕・足跡)調査を追加した。
 2007年からは、尾瀬ヶ原ルートに加え、アヤメ平ルート(鳩待峠〜横田代〜アヤメ平〜富士見峠)、八木沢ルート(富士見峠〜八木沢〜見晴間)を追加した…
 尾瀬ヶ原ルートでは、6月にミツガシワ、7月にニッコウキスゲが大量に採食されており、ニホンジカが多くの種類を採食するなかでも、特定の時期に、特定の植物を選択的に採食していることがわかる。
 また、これらの植物は、ニホンジカよりも背丈が低く、葉が大きかったり、群生したりする植物が多く、ニホンジカにとって採食しやすいと考えられる

(尾瀬高校が取り組んできた調査研究活動のレポートのうち、尾瀬国立公園に関するレポートを公開しているページです。「尾瀬のニホンジカ調査2010」より)
http://www.oze-ic.gsn.ed.jp/data/H22-oze-shika.pdf

 今年、2012年度"ホンモノ"の学びがここにある尾瀬高校は、創立50周年を迎えるそうでございます。もう一度 cheers!

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2012年08月24日

日本人の余暇時間

 るんるんブイエーシーアイティアイオエンるんるん なんて歌っていた覚えがあるというのは、もうおじいちゃん、おばんちゃん世代なのでしょうか。
 年齢不詳のヤッホー君のこと、きっとおじいちゃん、おばあちゃんが口ずさんでいるのを聞いて覚えたんだよと言い募るかもしれません。
 もう、8月も下旬、処暑もすぎ、仕事へ Back to Work、学校へ Back to School と戻る時期ですね。
 あの歌はイタリア系アメリカ人のコニー・フランシス Connie Francis(1938年-)が VACATION(Japanese) として 1962年7月発売し大ヒット。
 その後、弘田三枝子(1947年-)がカバーしてこれも大ヒット! テレビのないヤッホー君、ザンネンながら観ておりませぬが、8月18日土曜日の夜、NHK「思い出のメロディ」でこの往年のスターとあおいした方も多かったことと存じます。
 今晩は、コニー・フランシスの歌声でお届けします:
http://www.youtube.com/watch?v=C40d79TQpok
 
 いえ、ね、昨晩のお話の続きなんですが、われわれは有給休暇を使いこなしているのか、ってことなんですね。
 まず。黒田祥子先生(早稲田大学)の持論を二つほど紹介し、そのあと、締めに森岡先生(関西大学)に登場してもらおうかなって、ま、いつもながらの導入編、素材提供ですので、≪日本人のワークルールへの態度≫を少ぉ〜し、眺めておいたほうが、なんでもかんでも政策当局に任せっぱなしにするよりいいんじゃない、自分たちのことは自分たちで考え、発言していったほうがよろしいようで:

日本人の余暇時間を計測したところ、1986年以降は通勤時間や家事労働などの家計生産時間が低下した結果、女性については労働時間にほぼ変化がない一方で余暇時間は増加したことが確認された…
 日本人の週当たり睡眠時間は趨勢的に減少傾向にあり、過去30年間では男性で4時間、女性で3時間程度、週当たりの睡眠時間が低下してきていることを指摘した。
 最後に、日米のタイムユーズ・サーベイを用いて両国のフルタイム労働者の労働時間および余暇時間を比較したところ、男女ともに9-10時間程度、日本のほうが労働時間が長いことを指摘した。
 つまり、日本人の1人当たり労働時間は米国と比べると依然として長く、時間当たりの生産性は米国に比べて相当程度低い可能性がある
 本稿で得られた結果は、たとえ政策当局が労働時間を削減することを目的として休日の増加や法定労働時間の引き下げといった対策を打ったとしても、仕事量に変化がない場合には総労働時間は低下せず、むしろ平日の労働時間の増加やそれに伴う睡眠時間の削減といった、思わぬひずみが生じうることを示唆している。
 個々人が最適な仕事と生活のバランスをとり、なおかつ持続可能な経済成長を達成するために、どのような取り組みが必要だろうか。この点は、わが国において喫緊の課題となっているといえる

(2009年7月 黒田祥子 東京大学社会科学研究所「日本人の労働時間は減少したか?―1976-2006年タイムユーズ・サーベイを用いた労働時間・余暇時間の計測―)
http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/publishments/dp/dpj/pdf/j-174.pdf

本稿では、フルタイムで働く日本人男女の余暇時間が、長期の時系列でみてどのように推移してきたかを複数の視点から観察した。本稿で示した主な点は、以下のとおりである。
 まず、この一世紀でみると、日本人の平均余命は飛躍的に延び、引退後の時間が急増している。
 次に、引退前の就業(いわゆる現役)期間も、週休2日制の普及により年間休日数は大幅に増加した。 一方、余暇時間を計測する際の期間をより短くし、現役期における平日一日当たりの時間配分を観察すると、少なくとも1970年代以降、フルタイム男女の平日の余暇時間は減少傾向にある。
 つまり昨今では、現役期の平日は余暇時間が減って一層忙しくなる傾向にある一方、休日数や引退後の余暇時間は著しく増加するというように、一週間あるいは一年、一生涯の中での時間配分が大きく変化してきている。
 続いて本稿では、こうした余暇時間の配分の変化はすべての労働者に一様に観察される現象ではなく、教育年数が長い労働者ほど平日や週当たりの余暇時間をより多く削減していることも指摘した。
 こうした傾向は、昨今の多くの先進諸国で共通して観察されている現象である

(『日本労働研究雑誌』2012年8月号(No.625)特集●日本人の休暇
黒田祥子(早稲田大学教育・総合科学学術院准教授)「日本人の余暇時間―長期的な視点から」)
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2012/08/sum3.htm

失業・半失業の状態にあって,仕事を探している人々を産業予備軍と言う。
 「労働力調査』の詳細集計によれば,2010年4-6月期の平均で,完全失業者349万人に,非労働力人口中の就業希望者474万人と,短時間就業者中の転職希望者200万人を加えると,総計1000万人を超える産業予備軍がいると推定される。
 一方で500〜600万人の人々が過重労働で斃れるリスクを抱えており,他方で1000万人を超える人びとが失業か過小就業を余儀なくされている。
 このことを念頭におけば,本稿が問題にしてきた労働時間の性別二重構造の解消の課題は,正社員を中心とする過労死予備軍と非正規労働者を中心とする産業予備軍の間のワークシェアリングを進めるなかで取り組まれなければならない

(『大原社会問題研究所雑誌』No.627/2011.1 森岡孝二 関西大学経済学部教授「労働時間の二重構造と二極分化」)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/627/627-01.pdf

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2012年08月23日

働く人たちのひみつ

 嬬恋村が第三セクターを解散決議し、完全に民営化したのが2008(平成20)年3月のことでした。

 なんでヤッホー君が昨日の水曜日、暑い盛りに小平市を歩いていたのか、と申上げますと、新卒で入ってきた人材との面談があったからなのです。

 この23歳という若さではちきれんばかりの方、経済学科を卒業するときに指導教授から「君たちは、怒涛の4年間をくぐり抜けてきたね」って言われたそうです。

 考えてみたらそうですよね。
☆ 2007年春 サブプライム問題表面化
☆ 2008年秋 リーマンブラザース経営破綻、リーマンショック
☆ 2009年秋 ギリシャにて政権交代。前政権は選挙に勝つために財政赤字を過小に計上していたが、新政権はこの財政赤字を、08年はGDP対比5%から7.7%へ、09年は3.7%から12.5%へ大幅に上方修正した。この数字は、EUの「安定・成長協定」によって定められた「GDP対比3%以内に抑える」基準を大幅に超過することになり、ユーロ圏に衝撃が走った(わが国の場合は何%?)。
☆ 2010年。9月のユーロ圏16ヵ国の失業率は前月比横ばいの10.1%。失業率は2008年3月の7.2%をボトムに上昇基調を辿り、7ヵ月連続で10%台となっている。非ユーロ圏のイギリスは7月が7.7%
☆ 2011年3月11日 東日本大震災

 そんななかでの第三セクターの解消に踏み切った嬬恋村の判断はいち早く、正しかったのでは、と。ただし、だからといって、過去が免責されるわけではなく、ここはきちんと、地元の観光開発の誘致だったのか、都市部の観光開発の売り込みに負けたのかを検証し、今後の地域活性化のための試金石とすべきでしょうね。
 
『<2011年度の倒産件数過去10年間で最多>
 2011年度の第三セクター等(第三セクター、地方住宅供給公社、土地開発公社など)の倒産は、前年度比85.7%増(12件増)の26件となり、2007年度(24件)を上回り、年度としては過去10年間で最多件数となった。
 また月次ベースでの2012年4月まで6ヶ月連続で倒産が発生している。
 負債総額は、同20.0%増(187億9600万円増)の1127億2300万円となった。
 これは負債10億円以上の大型倒産が同約0割増の17件(前年度9件)発生したことによる。
 負債総額が1000億円を上回ったのは、東京都の第三セクター、(株)東京テレポートセンター(負債1170億円)などが民事再生手続の適用を申請した2006年度(4201億8100万円)以来、5年ぶり。
<清算型の法的手続が7割を占める>
 産業別では、ゴルフ場やホテルなどを含むサービス業他が11件で最も多かった。
 次に不動産業6件、運輸業4件と続く。
 景気低迷から業績不振が続くリゾート関連施設が目立つ。
 形態別では、破産が10件、特別清算9件となり、清算型の法的手続が19件(構成比73.0%)と全体の7割を占めた。
 再建型の民事再生法は7件にとどまり厳しい経営状況を反映した』

(東京商工リサーチ、2011年度第三セクター等の倒産状況を発表)
http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=309329&lindID=5

、ヤッホー君がいま「異議あり」って大声で言いたい、ミッシツシュギ者の支持基盤である労働組合の「連合」は、20周年記念事業の一環として2011年、学研から≪働く人たちのひみつ≫を発刊しているとのことです。

 つまり、こうしたリゾート施設が全国にいっぱいできたって、それを使う利用者がいないことには事業が成立しません。
 当時、バブル経済の前は、国際化・情報化・高齢化にプラスして、働き方がこれから変わるんだ、と言われた経験はございませんか、皆の衆。
 労働時間よりも自由時間、多様な働き方、男女の違いなく働き続けられる職場、労働の成果を公平な基準で報酬として分かち合う、などどばら色の労働観をまきちらした輩が周りにもわんさといると思います。
 しかし、結果は、というと労働条件も職場環境も労働時間も目立つのは、勝ち組と負け組の格差拡大ばかり、大学を卒業しても就職できない就職浪人が、昨日会った子のゼミですら1割、就職できたといっても正規なのか非正規なのか、まだゼミ生が集まれる機会をもっていないから分からない、とのこと。。。

 とりあえずこの、「ヒミツ」をのぞいて、有給休暇の消化率をみてみることにしましょう!

日本の平均(2011年)
 付与日数:17.9日
 取得日数:8.6日
 取得率:48.1%
      ※30人以上の企業の集計

 
 10年前のお話しではなく、去年のことなんですよ!
 しかも、この有給休暇がそのまんま自由時間、余暇となり、友人と、家族で、仲間内でどこかリゾート地にでかけて滞在したわけでもなく、本人が風邪や頭痛、腹痛、腰痛などの病気でお医者さんにかかったとき、冠婚葬祭、家の用事、私用で使ったら、年間12ヶ月、52週として、そのうちの1週間なんて、あっという間に使ってしまう日数なわけです。
 
 では、有給休暇所得日数と消化率の国際比較でいうと、お隣りの韓国では? アメリカでは?? シンガポールでは???
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~labored/kifukoza/jichiro/20120515.pdf

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2012年08月22日

ミヤマモンキチョウ

 8月22日水曜日のヤッホー君、夏合宿の疲れが襲ってきたのか、あまり元気がありません。
 加えて本日午後2時半ころ、夏の炎天下、西武新宿線花小金井駅近辺を無謀にも無帽で歩いていたせいもあるのかもしれません、ハンセイ。

日中の最高気温は埼玉県鳩山町で37度2分、群馬県館林市で37度1分と37度を超えたほか、栃木県佐野市で36度ちょうど、茨城県古河市で35度9分と、各地で猛暑日になりました。
 また、千葉市で33度9分、東京の都心や横浜市で33度5分などと、関東地方のほぼ全域で30度以上を観測する厳しい残暑になっています

(08月22日 17時37分 NHK 首都圏のニュース「猛暑続く 夜は大気不安定に」)

 日が暮れて川向こうは大川端のヤッホー山荘にたどり着いて、と書いてきて気づいたのですが、日が大分短くなったと思いませン?
 さて、大川から渡ってくる夜風に吹かれて、気になっていた書物に手を伸ばしました。

佐々木幹郎『雨過ぎて雲破れるところ』(2007年8月24日発刊、みすず書房)


 この詩人についてはこれまでヤッホー君のこのブログで、少なくとも2度ほど取り上げておりますので、興味と関心のある方は遡ってお読み下さい:
 
2010年12月17日「嬬恋村」
2012年1月14日「川田順造」


 詩人は嬬恋村に山小屋をお持ちで、その山小屋での暮らしを面白く書き綴っておられます。

9月の浅間山麓にはブルーベリーが実る。
 これを登山者たちは「くろまめの木」などと言う。
 山のガレ場に赤紫色の粒が風に揺られる頃になると、鳥との戦いになる。
 鳥たちは、大きく実ったブルーベリーから先についばんでいくからだ。
 畑で栽培したものではなく、高山のやせた土地で自生している天然のブルーベリーは、口に含んだだけでもとろけるような甘さだ


 そうそう、この「くろまめの木」への注意を喚起する大きな案内板が、根子岳から峰の原高原へ下りてきて、旅も終盤の「入山料徴収詰所の小屋」を過ぎたところにあらわれてきます:

長野県天然記念物 ミヤマモンキチョウ 1975(昭和50)年2月24日指定

クロマメノキ、実は熟して食べ頃ですが、ミヤマモンキチョウの食草ですのでご理解ください。

 長野県には十種類の高山蝶が住んでおり、いずれも長野県天然記念物に指定されています。
 このミヤマモンキチョウは、北アルプスと須坂市の峰の原高原を含む上信越高原国立公園の高山帯にのみ住んでいます。
 シロチョウ科で、羽を広げた大きさは 43o前後、オスは黄色いがメスは白い蝶です。
 幼虫の食草はクロマメノキで、蝶は7月上旬から9月中旬まで見ることができます。
 蝶と食草のクロマメノキの保護にご協力ください


 イオスのおじさま、このミヤマモンキチョウのことも言っておられましたが、ヤッホー君たちは遭うことができませんでしたね。

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2012年08月21日

嬬恋紀州鉄道リゾート(株)

 かくして、鳥居峠から上州に分け入った山歩クラブのバスは、今宵の宿、「パルコール嬬恋リゾートホテル」に向けて舵をきるのですが、われわれ、車窓から、嬬恋村一面にひろがるキャベツ畑にひっくり返るほどびっくり、そして車内中、笑い転げておりました。
 だってすご〜いんだもん。
 見渡す限り、田んぼなし、すべてキャベツ畑!
 だから、村は景気が良くって裕福で、プアーな他の自治体と合併なんかできるかい、と独立独歩路線が堅持できてるんだ、すご〜いと思いました。
 
 といったところでホテルにチェックイン。
 ところが部屋に入ったら尾篭な話で恐縮ながらトイレの水が流れない、テレビが写らない、フロントに電話が通じない、とまあ、ないない尽くしが揃ったもんでヤッホー君、以前泊まったときは快適やったんけどなあ、とちょっと淋しくなりました。
 施設内は夏休みですので、子供連れ、家族連れ、友人たち仲間内で、と賑わっていることは賑わっているのですが、なんかどうもうら悲しい気配がそこはかとなくただよっているのです。
 うらさびれた場末の飲み屋街に秋風が舞っているような感じがしてなりません。

 やはり、いろんなことがあるようでございます。

嬬恋村は群馬県の北西部(吾妻郡)に位置し、標高2,000メートル級の名峰白根山や浅間山などの山麓に広がる高原の村である。
 地名は日本武尊が峠に立ち、亡き妻を偲んで嘆き悲しんだと言う故事に由来する。
 人口は約10,500人、特産品は高原キャベツで、全国一の夏秋キャベツの産地だ。
 また、名湯「万座温泉」や「鹿沢温泉」などを有するいで湯の里でもある。
 この嬬恋村が、2007(平成19)年6月に交付された「地方公共団体の財政の健全化に関する法律」(以下自治体財政健全化法と通称)に基づく「早期健全化団体」となった。 判断指標の一つである“実質公債費比率”が、基準値の25%を超えて26.7%となったことによる

(水出優 みずいで まさる 群馬県地方自治研究センター「群馬県嬬恋村における早期財政健全化の道筋」 自治総研通巻385号 2010年11月号)
http://jichisoken.jp/publication/monthly/JILGO/2010/11/mmizuide1011.pdf

 われわれが知っているのは北海道夕張市!

夕張市の財政再建計画(以下「再建計画」という)は2007年3月6日、総務大臣の同意を得て同市は準用財政再建団体となり、3年後の2010年3月9日、自治体財政健全化法に基づき総務大臣が同市の財政再生計画(以下「再生計画」という)に同意し、財政再生団体となった。
 再建計画では、353億円の赤字額を、2007(平成19)年から2024(平成36)年までの18年間で解消していく内容だった。
 再生計画はこの枠組みを踏まえ、残り322億円の赤字を解消する実質的な期間を2010(平成22)年度から2026(平成38)年度までの17年間とし、再建計画から通算すると2年延長の20年間となった。
 再建初年度の2007年に生まれた子どもが、成人するまでの長い再建期間となり、もっと期間を短くできないのか、という意見がでるのは当然だろう。
 長期にわたって毎年度多額の負債を返済するのは夕張市にとって相当な重荷である

(辻道雅宣 つじみち まさのぶ 北海道地方自治研究所主任研究員「夕張市の財政破綻の軌跡と再建の課題」 自治総研通巻384号2010年10月号)
http://jichisoken.jp/publication/monthly/JILGO/2010/10/mtsujimichi1010.pdf

 で、この「早期健全化団体」となった嬬恋村と「パルコール嬬恋リゾートホテル」とはどういう関係にあったのか、あるのか、というところです。

 ヤッホー君、たしかに以前宿泊したときは、このホテルは、第三セクターとして賑わい、全国のリゾート開発のモデルのような、都市からの観光客、スキー客と、村人が交流できる場、こういう余暇産業に自治体が率先して出資して事業化することで、村に雇用が生まれ、地場産の産物も販売でき、このホテルが核となって村にペンション、民宿、リゾートマンションができる、二束三文だった土地も値上がり、道路も学校も整備され、スーパーも病院もでき、人口が増える、ときっと青写真を描いていたことでしょう。
 しかし、破綻したのです、結局。

『財政改革関連の実績:
@ 第3セクターの解消: 総合保養地域整備法(リゾート法)に基づいて、1961(昭和36)年度に設立した「嬬恋紀州鉄道リゾート(株)」を2008(平成20)年3月に解散決議し、完全民営化した
(水出優、前掲書)

 しわ寄せは、村民の足にも:

2012年6月下旬、嬬恋村の温泉施設「湖畔の湯」の休憩所で、村内のお年寄りが漬物や煎餅を交換しながら茶飲み話に花を咲かせていた。全員、車の運転ができず、村が民間に運行委託した無料の福祉バスを利用して施設に集まっている。

 村内では、草津温泉(草津町)とJR軽井沢駅(長野県軽井沢町)を結ぶ西武高原バスが通過するが、集落をほとんど通らない観光路線。「公共交通」としての生活バス路線は事実上、存在しない。

 かつては、村内でも路線バスが運行していた。1935年に国鉄バスが長野原町と長野県上田市を結ぶ路線を開設。戦後、村を東西に横断する国道144号を幹線に、各集落に入り込む支線が延びたが、マイカー普及で利用客が減少した。
 国鉄民営化で路線を引き継いだJRバス関東は、80年代後半から減便を実施。90年代の路線縮小や廃止を経て、07年3月末、最後まで残っていた上州大津(長野原町)と鹿沢温泉(嬬恋村)を結ぶ路線が廃止された。

 そのため、村は92年度から年間約1000万円の予算を割いて福祉バスを運行。07年4月から廃止路線を引き継ぐ形で、JR万座・鹿沢口駅―鹿沢温泉間の運行を民間に委託して路線維持を図ったが、利用は低迷。
 「広い村域に点在する集落を網羅する路線を維持するのは財政的に不可能」(村企画財政課)で、2年間で廃止となった

(2012年8月8日付け 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/feature/maebashi1343748990915_02/news/20120808-OYT8T00193.htm

 道理で歩程上は初日、根子岳からの下山口を「峰の原バス停」としていましたが、山歩クラブの専用バスの大坂さんは探しても見つからず、地元の人は、「あ、あの国鉄バスのね」とコクテツと言われちゃった、と。
 このヤッホー君の元データは、2004年6月13日号『花の百名山』No.11(朝日新聞社刊)だったのです。
 JRバス関東(関東小諸支店真田営業所)なんてもう、つわものどもが夢の跡、なんでしょうね…

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2012年08月20日

鳥居峠1362m

 山歩クラブの夏合宿リポート。
 かくして根子岳から峰の原高原へ下山したわれわれは、専用バスで鳥居峠へと向かい、峠でバスを降りて、ヤッホー君が、この峠は、信州と上州を隔つところ、と説明をはじめました:

猿飛佐助は、立川文庫第40編「真田三勇士忍術名人 猿飛佐助」でデビューした。
 講談を読み物として再編集した青少年向けの小説で、同書には、鳥居峠の麓に住む郷士の息子・猿飛佐助が、山で猿と戯れているところを戸沢白雲斎に見いだされ、峠の奥の院にあるお堂に寝泊りして修行。
 やがて、峠に狩りに来た真田幸村に仕え、真田十勇士の仲間に加わり活躍する物語が描かれている。
 
 こんなことも書いてある。
 「(戸沢白雲斎が佐助に)一をもって万に通ずとはこの事。欲張ってあれもこれもとやりたがる奴に限り、少しも上達するものではない。武術というものは自分の胆力を練り、変化を考え、人に打たせないようにするが肝心」、

 「人の隙を見ても、自分の隙を防ぐすべを知らぬようでは駄目だ。わが身の油断をしないのが武術の極意」
 
 鳥居峠は嬬恋村と長野県上田市真田町の県境にある。
 広大なカラマツ林が広がる峠には「四阿(あづまや)山」の扁額(へんがく)を掲げた古い石鳥居や「鳥居峠」と書いた新しい石碑が建てられている。
 石碑には「戦国の時代、上田の真田十勇士、修行の地でもある」と刻まれている

…群馬県公式サイト>観光・県の紹介>おすすめ情報>県民リポート>(2011年11月)>猿飛佐助の修行の地・鳥居峠へ(2011年11月19日嬬恋村・長野県上田市)
http://www.pref.gunma.jp/01/b2111626.html

 猿飛佐助で有名ですが、さらに時代を遡ること『古事記』の世界でも:

第12代景行天皇の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の東征中に、海の神の怒りを静めるために愛妻「弟橘姫(おとたちばなひめ)」が海に身を投じました。
 その東征の帰路、碓日坂(今の鳥居峠)にお立ちになり、亡き妻を追慕のあまり「吾嬬者耶(あづまはや)」(ああ、わが妻よ、恋しい)とお嘆きになって妻をいとおしまれたという故事にちなんで嬬恋村と名付けられました

…嬬恋村公式サイト 嬬恋村の名前の由来
http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/index.php?id=9

 ですから、二日目に登る山も四阿(あずまや)山!
 ところで、峰の原高原から嬬恋村に向かって走っていった道路は国道144号線ですが、江戸時代には「大笹街道」としてロジスティックスlogistics、物流上のとても大事な街道でした:

大笹街道は、善光寺平から小県郡の高原を経て高崎に至る道で、越後や善光寺平から上州を経て江戸へ出る重要な脇街道(バイパス)となっている。
 この街道は、千曲川端の福島宿(現在の須坂市)から鮎川沿いにのぼり、仁礼宿を経て標高1600mの峰の原高原を横切り、鳥居峠から上州大笹宿(現在の吾妻郡嬬恋村)にいたる間、峠越えの厳しい道筋だった。
 しかし大笹街道は北国街道の脇往還として繁栄し、北信濃の菜種油が大量輸送された。

 善光寺平から江戸へ出る本街道(北国街道)より、大笹街道が利用されたのは、本街道に比べ宿数が少なく里程が短いので、宿継ぎに要する経費や荷いたみに優れ経済的で早いためだった。
 仁礼から沓掛まで2宿14里(北国街道では10宿20里)と短いため、荷駄は専ら大笹経由で運ばれた。
 今の国道406と国道144号線。

 北国街道福島宿〜仁礼〜鳥居峠〜大笹の間は「山道八里」と称し、標高1000メートルを越える菅平高原を越える険しい道で、冬季は積雪吹雪のため交通不可能になることが多かった。
 また、冬の厳しい時に峠越えの道筋で犠牲になった旅人や牛馬は数多く、その供養と旅の安全を祈って、仁礼宿の外れから、仁礼峠の頂上というべき峰の原の供養塔まで、約17kmの間に60体ほどの石仏がある

…「北軽井沢ブルーベリーYGHユースホステル(吾妻郡嬬恋村鎌原1506-12)」が趣味で制作している軽井沢を中心とした地域の案内ページ<大笹関所跡・大笹街道・仁礼街道>
http://kazeno.info/karuizawa/9-hoka/9-hoka-3-06.htm

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2012年08月19日

クジャクチョウ

 花の百名山、根子岳。
 1983年、文春文庫版『花の百名山』で山歩クラブのお師匠さま、田中澄江先生の山行記録を読むことができます。
 そもそも登山の用意なんかいっさい何もせず、ただ夫の田中千禾夫(ちかお、1905-1995)先生といっしょに、菅平の旅館で開かれた小学校の先生たちの夏期講習会に呼ばれていったのが運の尽きならぬ、運のはじまり。
 そうなんです、根子岳を見てしまったんです、田中さん。
 なんとしても登らねば、と決意した田中さん、帰京する当日の午前2時、宿を飛び出した、というのですから、われわれより数段、格が違います。
 「早立ち、早着き」をモットーとしている山歩クラブといえど、せいぜい朝3時起床ですから、やはり別格ですね、まだまだ、かないません。
 早朝というか深夜といいますか、朝飯前どころか帰りは朝8時が東京へ向かう電車の出発時刻、これに間に合うように戻ってこなければなりません。
 さあ〜て、宿の浴衣姿に宿の女主人から借りた半幅帯に、裾をからげてはだしに藁ぞうりで宿を駆け出し、根子岳の頂上にたったのは4時50分。
 下りも、さぁ、急げ、電車に間に合うようにと、手ぬぐいを姉さんかぶりで走って下りてきたと言いますから、まあ、ゆっくり、のんびり、ゆったり歩きの山歩クラブとは、桁外れの健脚ですね。
 しかも、見るものは見てきます。登るときには暗くてわからなかった白く点々と咲くウメバチソウ!

 しかし、それだけ花の山、ということは、甘い蜜を求めて、綺麗な花にむらがる虫、昆虫、てふてふに蜂、虻も多いってことですね。

 山路の途中、キャノン新製品のEOS 5D Mark IIIを下げたおじさまが早くも下りてくるのに出会ったのが、運の尽き、じゃないって、運のはじまり、ヤッホー君。
 「花の山ですから綺麗な高山植物がたくさん撮れたでしょうね」ってさっそく聞いたんですう。
 そうしたらね、そしたらね、答えが違っていました。
 なんとか、かんとか、どうとか、こうとか、もうてふてふの名前が次から次へと、そして撮ってきたてふてふの写真をわれわれにみせてくれました。
 仲間のおひとかたは、カメラもさることながら持っていた、ストックに目がとられ、「いいもんですね、見せて」ってお聞きしたら、三脚でなく一脚なんですって!

蝶.jpg

 でもそれですっかり、てふてふに魅せられてしまったヤッホー君、さっそくチャレンジするのですが、ポーズをとらないてふてふ。カメラ目線をしてくれないてふてふ、常に動き回り、逃げ回るてふてふ。
 なにせ、連続撮影なんて機能がオリンパスの愛機にあるのかなあ〜、その程度の生半可な知識しか持ち合わせておりません。
 ですから「高速連続撮影」「静音連続撮影」機能付きイオスには最初っから負けてしまいますが、それでも2枚ほどご紹介:

マルバタケブキにクジャクチョウ.jpg

クジャクチョウ.jpg

 ね、いましたよ、羽をひろげてくれたてふてふ、見せたがりやのてふてふ。
 このてふてふは「クジャクチョウ、孔雀蝶」と申します:

羽を広げると、国内でも屈指の美しさだ。
 学名も「ゲイシャ」と呼ばれるクジャクチョウは、花の蜜を探して飛び回る。
 
 クジャクチョウの話になると必ず「ゲイシャ」が話題にのぼります。
 このチョウはユーラシア大陸の北部に非常に広く分布し、日本はその分布の東端に当たっていて、正確には日本産亜種の亜種名が "geisha" です。
 関東以西では高原チョウの印象の強い種ですが、東北地方では平地に見られます。

 仙台周辺での食草は主にカラハナソウと思われます。これをたよりにすると幼虫を探し出すことができるかもしれません。成虫は開けた場所を好み、花もよく訪れます。
 
 夏の山道で翅を広げてとまっているのを見かけますが、警戒心が強くなかなか近寄らせてくれません。
 成虫越冬をするので、成虫の姿は冬まで見ることができます

(東北大学植物園)
http://www.biology.tohoku.ac.jp/garden/aobayama/90Inachis.html

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2012年08月18日

峰の原高原

 夏合宿の初日の登山口は上田市の「菅平牧場管理事務所」の駐車場ですが、下山口は、「渋谷区峰の原青少年山の家 Active Minenohara (須坂市大字仁礼峰の原3153-539 Tel 0268-74-3179)」でした。
 そうなんですう、上田市から登って須坂市に下ったと、こういうわけでして…
 
根子岳山麓に、菅平高原と隣り合わせに広がるなだらかな高原が、標高1,500メートルの峰の原高原。
 北アルプス連峰はもとより北信越の山々の眺望が素晴らしく、夏の平均気温が19.6度という天然クーラーなのです。
 菅平高原と同じく、ここもスポーツハイランド。テニスコート50面をはじめ、ゴルフ場、スキー場もあります。
 峰の原高原の特徴は、80軒余りあるペンション村。趣向を凝らした建物もさることながら、個性的なオーナーとの出会いも楽しみの一つです。
 須坂長野東インターチェンジ・上田菅平インターチェンジより車で30分

(須坂市公式サイト>各課別>産業振興部 商業観光課>峰の原高原)
http://www.city.suzaka.nagano.jp/enjoy/kankou/minenohara/

 この須坂市に風車建設に関する過去暦が残されています:

記者:この計画に対して市長はどういう権限があるのですか。市長同意というのが必要となるのですか。
市長;補助金を申請する時に地元の同意と市長の同意ということが必要になります。
記者:地元というのは財産区を管理している仁礼会になるのですか。
市長;住民代表の同意書となっているが、その地元というのがはっきり定義されていません。
生活環境課長:市が決めれば良いという感じです。
記者:この同意を必要とするというのは、どういう決まりからあるのですか。
市長:新エネルギー事業者支援対策事業というのが補助金名です。その補助申請をするに当たって市長と住民代表の同意書は必要であるということです。
記者:国の所管はどこになるのですか。
市長;経済産業省の資源エネルギー庁です。
記者:それに基づいているわけですね。
市長;そうです。
記者:仁礼会は賛成で固まっているようですが。
生活環境課長:貸すのは良いと言っている。峰の原開発もです。
記者:地元の範囲はまだ決っていないのですか。
市長:そうです。最終的には地元の人の意見も大事だが、須坂市として、市長としてどういう判断をするかがポイントになると思う

(第43回 2007年1月24日実施 定例記者会見)
http://www.city.suzaka.nagano.jp/gyousei/kouhou/kaiken/h18/kaiken43.php

 2012年度も補助金の交付が決定されたようです:

【目的】
太陽光発電、風力発電、太陽熱利用、温度差エネルギー利用、天然ガスコージェネレーション、燃料の電池、雪氷熱利用、バイオマス発電、バイオマス熱利用、バイオマス燃料製造、水力発電、地熱発電及びマイクログリッドについて、その加速度的な導入促進を図ることを目的とし、新エネルギー等の設備導入事業に必要な経費に対して補助金を交付します。
【応募書類の提出先・問い合わせ先】
東京都豊島区東池袋三丁目13番2号 イムーブル・コジマ 2F
一般社団法人新エネルギー導入促進協議会 業務第一グループ
Tel 03-5979-7621
【補助事業者一覧】
☆ 風力発電 鹿児島県 串木野れいめい風力発電事業 株式会社新エネルギー企画
☆ 温度差エネルギー 大阪府 中之島フェスティバルタワー(仮称)東地区熱供給事業 関電エネルギー開発株式会社
☆ バイオマス熱利用 宮崎県 岡富バイオマス発電設備設置事業 旭化成ケミカルズ株式会社
http://www.nepc.or.jp/topics/2012/0529_1.html

 こうした補助金漬け、カネまみれのなか、つくったもん勝ちのなかで、五島列島・福江島の博物誌さんは、次のようなコメントを載せていますが、それがメディアに乗って、離れた東京の市民にも知らされる、なんてジャーナリストもいませんもん、ましてミンシュシュギにはほど遠いお国なので、無理ですかぁ〜ぁ〜あ

圧倒的に事業者有利なこの状況で、無秩序な風車乱立に歯止めをかけることはできるのでしょうか。
 もしかしたら、調査のやり方を問題視するだけでは難しいかもしれません。
 全ての風車建設に事前の環境アセスメントを課す、という流れをつくっていかなければダメなのではないか、そんな気がしています。
 ただし、今回の調査のように事業関係者ばかりで固めたチームではまずいですけども

(09.2.15記「これでいいのか 風発の環境影響評価」)
http://homepage2.nifty.com/fukuejima/hachi-kuma/giso-chosa.html

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風力発電施設建設計画の中止

 山歩クラブの夏合宿、昨年は木曽駒、今年は、どこだったって…
 専用バスは菅平高原を目指しました。ここは信州上田市、バスは真田十勇士の里も通り越していきます:

『根子岳・四阿山の麓に広がる1300メートルの高原。
 夏でも冷涼な気候はスポーツに最適で、ラグビーやサッカー、テニス、陸上などの合宿地として知られています。
 また、レンゲツツジやイワカガミなどの高山植物が楽しめるトレッキングコースも人気があります。
[地図]
[リンク先]菅平高原オフィシャルサイト

(合宿地にサイコウのロケーションであることが分かる音楽付きの動画がいきなりでてきますので、勤務先などでは開かないでくださいね、でもいきいきと伝わってきます)
[地図]問合せ先は、菅平高原観光協会(上田市菅平高原国際リゾートセンター内 Tel 0268-74-2003)』
(上田市の公式サイト>信州上田観光情報>体験・自然>自然)
http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/shokan/0500/20100216144158152.html

 夏合宿の地は、ヤッホー君にとって、実は、これもシカ柵と並ぶ「現地調査」の一環だったのです。

 というのも、山歩クラブの下山口あたり、須坂市峰の原高原に風車建設の動きがあって(計画は2004年(平成16)年に表面化、業者は風力発電ベンチャーの「IPPジャパン」(東京)、地元の方々はもとより、山岳界をあげて反対運動に取り組んでいたのです。

 そのストップへの動きに対して、「ムダ儲けシュギ」のムラびとは3.11を好機と捉え、土地の買収、風車を運んだり保守点検の道路建設、予定地への立入り禁止柵とか着々と自然破壊、環境破壊の動きがはじまっているのか、と。

根子岳周辺の風力発電建設が計画されている場所は、おそらく写真の赤い楕円あたり。
 長野市北部からは根子岳の左肩真正面です。
 ここに高さ100mをこえる風車が十数基建設される計画だとか

http://toriyamaehagaki.jpn.org/frs_html/stop.html

 こんな研究会も2008年6月21(土)日-22(日)日に開かれたりしました:

第11回全国労山自然保護講座「根子岳風力発電計画を考える」
【場所】長野県上田市菅平高原ロッジデール山荘
【司会】全国労山理事・自然保護委員 林祥介
【開会の挨拶】開会挨拶 全国自然保護委員長 浦添嘉徳
【講演】「山岳自然のなかへの風力発電建設の問題点」元信州大学助教授大村道雄氏(長野県連顧問)
【報告】「根子岳風力発電についての現地報告」根子岳風力発電を考える連絡協議会事務局 木村輝佳氏
【翌日】現地視察

http://2.twaf.jp/65-sizenhogo-kousyuukai/08-06-21-sizenhogo-zenkoku-nekodake-report.pdf

 この計画に対して異議有りと立ち上がったのが次のような団体だったのです(順不同):

☆ 根子岳風力発電を考える会
☆ 長野県勤労者山岳連盟
☆ 長野イヌワシ研究会
☆ 「菅平の自然」研究会
☆ 長野県山岳環境保全研究会
☆ Green-Lab
☆ 長野県自然保護連盟
☆ 日本野鳥の会長野支部

 そして、どうやら、2009年7月、中止になりましたが、再稼動にならないようこれからも注意してまいりましょう!

祝!以前この「自由研究」で話題にした根子岳の風力発電建設が計画中止となりました!
 やりましたねっ!!』
http://toriyamaehagaki.jpn.org/frs_html/stop2.html

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2012年08月17日

根子岳2207m

 ヤッホー君たち山歩クラブの仲間は6人で、8月16日木曜日、17日金曜日と一泊2日の夏合宿をはっておりました。
 山域は花の百名山・根子岳2207m、日本百名山・四阿山2354m、合宿地は「パルコール嬬恋リゾートホテル(群馬県吾妻郡嬬恋村バラギ高原 Tel 0279-96-1139)」でした。

 添付した写真は、第一日目の根子岳山頂にて。

根子岳.jpg



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2012年08月15日

庚戌(かのえいぬ)の大洪水

 先ほど、『今日は大川から渡ってくる東京湾からの風をあびながら、畳の上にひっくりかえって、読書をする(いつかうたた寝となる)には、良い日でござんすよ、と言いたかった』とコメントが付けられたヤッホー君、そうなのです。
 12日のエドハク、神田由美子先生のお話し、牛のように反芻しているのですが、とってもいいですね:

浅草で育った私にとって、隅田川からの眺望は、少女期の日常と切っても切り離せない光景だった。
 橋の上から、私はよく隅田川を見下ろし、両岸の街並を眺めた。
 橋の上で蔵前国技館の力士に頭をなでられ、七夕飾りをした笹竹を流し、川開きの花火を見て、墨田公園の桜を見物した。
 高度成長期には強烈な悪臭を放つ溝川と化し、柳橋の花柳界や浜町河岸の風情を滅ぼしていったはずの隅田川も、私には何故かいつも、歌舞伎や新派の舞台に登場する、四季の風情に富んだ「大川」に感じられた

(神田由美子『芥川龍之介と江戸・東京』はしがき(双文社、2004年、4500円+税)

 …ん? プラス税と言うことは再稼動のように、いつのまにか増税されてしまうのかな(次の総選挙でジコウミンでなくなれば、増税決議は撤回、廃止されるんかな)、だとすると税込みで5千円になるってこと?
 愚民化政策もいいところ、テレビをつけるとあっはっはおっほっほのお笑いタレントを見せつけ、肝心なところはミッシツシュギですすむから、タダチ二健康ニ影響ヲ及ボザナイカラ、節度アル行動ヲ取リマショウ、みたいな官房長官たち少数のムラ人の玉音放送に従いつつ、これからの日本人は行動することになるんやろな。

 でも神田先生、良い文書をお書きになります。この続きをぜひ、皆さま、書店に注文してご購入くださってお読み下さいね。

 隅田川、大川、ヤッホー君の大好きな川ですが、大川はときに怒りの表情を示すことがあります。
 そんななかで罹災者支援で頑張る芥川くんの同窓生、平塚くんも大活躍のよう、100年、1世紀たった「終戦の日」にあたって、なにか感想を書かねばなりませぬ;

川はさまざまな利便があった一方で度々の洪水被害ももたらしてきました。
 特に1910(明治43)年の洪水では数十箇所の堤防が決壊、浸水家屋27万戸、被災者150万人、被害地域は岩淵、志村、王子、日暮里、千住、下谷、浅草、深川、向島、亀戸などに及び水が引くのに2週間もかかるという大災害となりました。
 政府はこれを契機にかねてより懸案とされてきた荒川放水路の掘削を決定し、北区岩淵から直接東京湾への水路の建設に取りかかり、約20年の年月を費やして1930(昭和5)年に完成、隅田川は荒川の支流となりました

「2006(平成18)年3月 墨田区隅田川水辺空間等再整備構想」
http://www.city.sumida.lg.jp/kakuka/kikakukeieisitu/seisaku/info/mizubekou.files/mizube1-5.PDF

 この1910(明治43)年の大洪水は大ぜいの罹災者をだしました。関東大震災はその10数年後のこととなります。

☆ 都新聞(現・東京新聞)に見る明治43年大洪水 
http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage/www_master/pdf/a1_5.pdf

☆ 千葉県 防災誌 「風水害との闘い」
日本第1位の流域面積を誇る日本を代表する河川「利根川」は、「坂東太郎」(関東の長男)との異名を持ち、日本三大暴れ川の一つに数えられています。
 特に徳川家康により、元々東京湾に流れていた流れを人工的に太平洋に流れるようにする「利根川の東
遷事業」が始まってからの約300年間では、2〜3年に1度の割合で洪水に見舞われてきました。
特に明治43年の「庚戌(かのえいぬ)の大洪水」では、被害は利根川沿岸のみならず、印旛沼、手賀沼流域の内陸部にまで及び、県内で79名の犠牲者を出すなど、明治・大正を通じて千葉県で最大の洪水被害をもたらしました

http://www.pref.chiba.lg.jp/bousai/bousaishi/documents/dai1syou_3.pdf

二階の部屋をまはつた平塚君の話では、五年の甲組の教室に狂女がゐて、じっとバケツの水を見つめてゐたさうだ。
 その雨じみのある鼠色の壁によりかかかつて、結び髪の女が、すりきれた毛繻子の帯の間に手を入れながら、俯向いてバケツの水を見てゐる姿を想像したら、矢張小説めいた感じがした

(岩波書店 芥川龍之介全集 第12巻所収、「水の三日」、明治43年11月、東京府立第3中学校学友会雑誌) 

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東京工業大学発祥の地

 朝キン四日目です。
 ん? ということは三日坊主にならずにすんだってことです(拍手、パチパチパチ)。
 今朝はヤッホー君、蔵前橋からもうひとつ、上流の橋まで行ってみようか、とちょっと余裕ができたのか、欲がでたのか、テラスから岡に上りません。
 厩橋(うまやばし)です。
 この橋は墨田区本所と台東区蔵前とを結ぶ、すなわち「春日通り」が「隅田川」を渡る橋ですが、ヤッホー君にとっては、多慶屋(御徒町駅前)でお酒を仕入れるとき、スーパーみかわや(佐竹商店街)でお米を仕入れるときの大事なロジスティックスlogistics、生命線ともいえる食糧補給路になっているのでございます。
 
 ここまで小一時間の道のりを歩いてきましたねえ。
 ところで、右岸に渡ったら、大川のテラスに下りられないのです。
 大川に出るはずの路地を何本も行ったり来たり、そうこうしているうちに蔵前変電所と都の蔵前水処理センターとの間に挟まって、からだに電気が走り、身動きがとれません。
 「えいや」と振り向いたとき、金網越しに案内板が、ヤッホー君の細い目に飛び込んできて、今朝もびっくり、腰をぬかした次第:

この辺り蔵前の地、旧浅草御蔵の跡には、今日の東京工業大学の前身である官立の東京職工学校(のち東京工業学校、東京高等工業学校と改称)の校舎及び東京工業大学の艇庫・宿舎等があった。
 東京職工学校は、1881(明治14)年5月26日に創設され、同15年6月10日文部省より浅草区蔵前東片町29番地の地所並びに浅草文庫の建屋を交付され、校舎新築の工事を起こした。
 その後、明治23年3月24日東京工業学校、明治34年5月10日東京高等工業学校と改称され、敷地も南元町38番地の土地を加え、校舎も鳥越川から六番堀まで及んだ。
 学校は充実・発展し、1923(大正12)年春には、衆議院・貴族院で大学への昇格が決定した。
 しかし、その秋の9月1日関東大震災により灰塵に帰し、学校当局は当地での再建を断念し、市外荏原郡大岡山に移転、1929(昭和4)年4月1日東京工業大学の設置が正式に決まり、今日に及んでいる。
 蔵前の飛び地、元蔵前2丁目1番45号の当地、約773坪はその後も蔵前艇庫(昭和29年落成)等に使用され、伝統ある東京工業大学端艇部活躍の拠点となってきた。
 しかし昭和50年3月25日、東京都下水道局との土地交換が成立し、東京工業大学は、横浜市緑区の留学生会館用地などを得て、蔵前からすべて移転した。
 この標は、東京工業大学の発祥の地を記念して建てたものである

(東京工業大学発祥の地)

 で、ね、「四大学連合」って知ってます?

東京医科歯科大学、東京外国語大学、東京工業大学、一橋大学の四大学は、2001(平成13)年4月をもって連合協定を結び、平成13年度以降の入学者を対象とした複合領域コースを設置して個々の大学では提供できない授業科目を履修させることにより、従来の高等教育では育成できなかった広範囲の学際的分野の知識を有した学生の教育と、編入学や複数学士などの方法による学生の勉学・進路にかかわる選択肢の拡大を目指しています
(一橋大学公式サイトより、ホーム>連携事業>四大学連合>四大学連合に関するQ&A)
http://www.hit-u.ac.jp/partnership/g4/g4_05.html

≪Q1.協定大学での学生身分はどうなるの?≫
特別聴講学生となります。→附属図書館、食堂等が利用できますので、特別聴講学生証と東工大学生証を必ず携行しましょう。
≪Q2.他大学履修分の授業料は払うの?≫
払う必要はありません。検定料・入学料及び授業料は徴収しません。

(東工大公式サイトより、キャンパスガイド)
http://www.gakumu.titech.ac.jp/kyoumu/guide/guide_24/guide/pdf/03-05.pdf

 あれから10年ですが、連合関係はまだ続いておりますねえ、ところでそんな東工大は、もともと蔵前にあったんですねえ、そして2011年に創立130周年!
 その130周年事業事務室の公式サイトがございまして、大学の歴史と江戸、明治の歴史が垣間見られる面白い内容となっております。
 サイト自身も役目がすんだということでいつなんどき、湯気か泡のように消えて無くなるとも限りません。ぜひ、全文プリントアウトして保持しておかれたほうがよろしいようで: 

われわれとしては、これらの行事を成功裡に終えることができるよう、この度、神社にお参りして参りました。
 参ったところは、蔵前の第六天榊神社。
 そう、東工大発祥の地「蔵前」にある神社です。
 現在、榊神社があるのは、東工大の前身である東京高等工業学校の正門があった場所であるということで、榊神社境内には、東工大の同窓会蔵前工業会が建てた「蔵前工業学園之蹟」という立派な石碑も建立されています。
 実は、榊神社と東工大の関係は、単に正門があった場所というだけではありません。
 少し(かなり?)マニアックな話になりますが、榊神社と東工大の縁起を繙いてみましょう。
 …
 まとめると、
 ☆ 第六天神が鎮座した「鳥越の丘」の土を使って、隅田川を埋め立てて江戸幕府が米倉を造った。
 ☆ その米倉を書庫として利用し、明治政府が浅草文庫を作った。
 ☆ 浅草文庫が廃止され、その建物が東京職工学校の設立事務所になった。
 ☆ 東京職工学校が東京工業大学となり大岡山に移転するに伴い、第六天神はこの土地に戻って榊神社になった。
というわけです。

 つまり、この第六天榊神社は、東工大、第六天神、浅草文庫という三者が歴史の上で出会った場所なんですね。お参りをするにも、なかなか感慨深いものがありました

(2011年1月27日木曜日更新 工大発祥の地、蔵前「榊神社」)
http://titech130.blogspot.jp/2011/01/blog-post_27.html
 
 「まとめると」って言われちゃいましたが、分かりました?
 ですのでぜひ全文、じっくりとお読みくださいね。
 今日は、日差しがない分、それほど温度もあがらないのでは、とはヤッホー君の希望的観測(今日は、曇りで昼過ぎから時々晴れますが、朝から夕方にかけて雨の降る所もあるでしょう)。
 (舌足らずでごめんなさい)ですので今日は大川から渡ってくる東京湾からの風をあびながら、畳の上にひっくりかえって、読書をする(いつかうたた寝となる)には、良い日でござんすよ、と言いたかったようです。

『松原仁拉致問題担当相は終戦記念日の15日午前、靖国神社を参拝した』ニュース(2012年8月15日 09時05分更新 東京新聞「松原担当相が靖国神社参拝 民主閣僚で初」)。
 靖国神社に祀られることもなく彼の地で命を落とした民間人、彼の地に置き去りにされた民間人、此の地でも無差別空爆にあった民間人、放射能でこころもからだも融けてしまった民間人、浮浪児や娼婦に身を落とした民間人にもぜひ手を合わせましょう、合掌。

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2012年08月14日

山小屋の灯

 ヤッホー君のこのブログ、08月13日付けの日記が「ビアステーション両国」でした。
 そこで、『湯気がまだたつ出来立てのビールで仲間の皆さんの健脚を称えあったものですが、いまはもう、湯気のように消えてしまい(2006年2月での閉店だったそうです…)、いまはありません』ともう消えてしまった地ビールについて書きました。
 実は同じ2006年で消えたのが霧が峰/八島湿原/鎌ヶ池キャンプ場!
 このキャンプ場の管理棟になってお仕舞いになったのですが、それまでは立派な山小屋、『奥霧小屋』だったのでした。
 そのお〜、霧が峰を山歩クラブが初めて訪ねたころ、10年ほど前のこと、この小屋は中に入ることができて、壁面に米山正夫についての写真や資料が展示されていたのでした。
 いまはもう、入れません。

米山正夫は、大正元年10月3日、東京・原宿の生まれである。
 成蹊中学から、同高校に進むが、音楽への道をあきらめることが出来ないままに、東洋音楽学校(現東京音大)に転じ、昭和9年にそこを卒業する。
 卒業後の最初の仕事は、当時「我らがテナー」と呼ばれ、圧倒的な人気を誇った藤原義江が地方公演だったという。
 同年、SKDスター江戸川蘭子の歌、作詩、作曲による「春の謳歌」でデビューをはたす…。
 昭和20年5月満州で、現地応召。8月敗戦と同時にシベリアに抑留されたが翌年12月に帰国する。
 そのことがきっかけになり、「異国の丘」がNHK「のど自慢」で歌われてヒットしたあと、作者が特定されていなかった折りに、シベリアから帰国していた吉田正氏をNHKに同道して、吉田氏が作者であることを証明するなどしたことで知られる。
 昭和23年 近江俊郎による「山小屋の灯」がNHKのラジオ歌謡になったことから、大きなヒットとなる
 作曲をはじめてから12年目での大きなヒット曲となった

(2010年に100周年を迎えた日本コロムビア(株) 時代と作家 米山正夫)
http://www.columbia-songs.co.jp/composer/masao_yoneyama.html

 休業中なのか、廃業してしまったのか、奥霧小屋、
 あの顔、この顔、イマでは懐かしい想い出のいっぱい詰まった奥霧小屋、
 こころのなかで麗しの人の名を大きな声で呼んでみる、
 まぶたを閉じれば浮かんでくるあの姿、あの癖、あの仕草、
 廃屋同然の、その山小舎の前での切ないまでの慕情や愛惜…
 通りすぎようとしたそのとき、「山小舎の灯」の歌碑を見つけたのです:

山小屋の灯.jpg

るんるん♪たそがれの灯は ほのかに点りて  
懐かしき山小舎は ふもとの小径よ  
想い出の窓に寄り 君をしのべば  
風は過ぎし日の 歌をばささやくよ

暮れ行くは白馬か 穂高はあかねよ  
樺の木のほの白き 影も薄れ行く  
寂しさに君呼べど わが声空しく  
はるか谷間より こだまは帰り来る

山小舎の灯は 今宵も点りて  
一人聞くせせらぎも 静かにふけゆく  
憧れは若き日の 夢をのせて  
夕べ星のごと み空に群れとぶよ♪るんるん
(作詞:米山正夫 1947年)

 この歌碑の前で8月5日、山歩クラブの面々、大きな声で合唱してきました!

 今宵はどなたの声でこの名曲を聴きましょうか…
 ソプラノ歌手の鮫島有美子(1952年1月8日生まれ)の透き通った声で:
http://www.youtube.com/watch?v=xltvuHiur9U

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浅草御蔵前

今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀に近い)ふりまはしながら、大川端を散歩しました
(芥川龍之介12歳のとき、小学校の最終学年、1904(明治37)年の夏休み7月26日)

 ヤッホー君も起きぬけの朝キン、三日目。
 大川端の左岸を蔵前橋で右岸に移った8月14日火曜日の朝方、橋のたもとで「首尾松」と出会って、また涙:

 現地にあった説明板によりますが、由来については諸説紛々あるといわれていますう。

一つは寛永年間(1624〜43)に隅田川が氾濫した時、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が列中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り、見事対岸へ渡りついたのを見て家光がこれを賞して勘気を解いたことから、傍らにあった松を「首尾の松」と名付けた。
 二つ目の説は、江戸時代当時、江戸の男達は吉原に遊びに行くとき、隅田川をさかのぼって山谷堀から入ったが、舟がすれ違う時に、この松陰で「首尾」(うまくいったか)を求め語ったところから…。
 三つ目の説は江戸時代にこの辺りで海苔を獲るために「ひび」(篠竹や木の枝、これを海や海水の混じる川に立てて置くと海苔が付着する)を立てていたという。その「ひび」という発音が訛って「しゅび」になったという。

 初代「首尾の松」は、安永年間(1772〜80)に風災で倒れ、更に植えた松も安政年間(1854〜59)に枯れ、三度目の松も明治の末頃枯れてしまい、その後も関東大震災、戦災で全焼してしまった。
 1962(昭和37)年12月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設した。
 現在の松は七代目といわれる

(台東区教育委員会案内板)

 この第一の説、阿部豊後守忠秋が大川に馬を乗り入れ、見事、対岸に渡り着く勇ましいお話しの続きが、あれ、あれですよぉ〜、ヤッホー君が8月12日日曜日、「安田庭園」を歩いて不図、目に飛び込んできた「駒止石」の説明板、です。
 ここで首尾よく、「首尾松」が「駒止石」と結びついたことになるのです!
 そうですか、しかし偶然の一致にしても、フ・シ・ギ!

1631(寛永8)年(江戸時代前期)の台風で、甚大な被害を受けた本所の状況を、時の将軍、徳川家光が調べさせた。
 あまりの濁流に誰しもが尻込みする中、旗本の阿部豊後守忠秋が馬を乗り入れ、被害を調べてまわった。
 その際、馬をとめて休憩したところが、この駒止石だという


 ところで、この蔵前橋一帯、江戸時代には米蔵が置かれていました:

幕府の米蔵があった場所。
 酒田からの幕府直轄領の米もここに運ばれました。
 一番掘りから八番堀まで串のように堀が掘られていました。

 1814年頃、浅草鳥越の丘をけずって、その土砂で隅田川の川岸を埋め立てて作られました。
 米蔵の前に片方だけ町が並んでいたため、1621年ごろから「浅草御蔵前片町」と呼ばれるようになりました。
 毎年、幕末には、67棟354戸前の蔵が立ち並び、40万石の米が出入りしていたとされます。
 旗本、御家人には、年に3度の蔵米の支給があったとされます。
 金融業を本業としていた札差と呼ばれる請負業者が蔵前受取の手続きで活躍しました。
 現在は、わずかに記念碑が立ったり、化粧したお蔵壁(擬似装飾)が残るのみで、当時の面影はほとんど残っていません

(東京の山形、浅草御蔵前 蔵前1丁目から4丁目)
http://www.pref.yamagata.jp/ou/379001/metropolitan_area01/aria01/page14.html

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2012年08月13日

ビアステーション両国

 昨日の日曜日、神田由美子先生(東洋学園大学)のお話しに酔い、しかし安田庭園を歩いたら、すっかり酔いが覚めたので、もっと酔いたくなって入ったお店がJR両国駅構内「両国テラス(日本レストランエンタープライズのお店、Tel 3625-0664)」。

JR両国駅西口改札前の当店では、朝はモーニングセット、昼は懐かしのナポリタンやオムライス、ケーキセット、夕方からはバスペールエールやヒューガルデンホワイトにフィッシュ&チップスなどをご用意してお客様のご来店をお待ちしております
http://www.asahibeer.co.jp/area/search/list.psp.html
 
 「フィッシュ&チップス」ってね、ムカシ、ヤッホー君、ロンドンのパブで食べたもんですがうまいとはけっして言えないしろもんでしたねえ〜、なんてロンドンでの日々を懐かしく思い出しつつ、次はパリ。
 パリではね、Gare de l'Est でしたね、ここは、東へ向かう列車が発着するターミナル駅。
 ヤッホー君、ニューヨークからシャルルドゴール空港へ飛んできて、パリ東駅に移動、スイスに向かう TGV(テージェーヴェー) を待っていたのがこの駅、東京で言うと、東へ向かう列車が発着する駅は、ムカシ、両国駅だった、というお話しもありますね…とか…
 このお店、アサヒビール商品の飲めるお店としてアサヒのホームページで紹介されているほどなので、ビールがとても美味しい!!
 ムカシの物語が泡となって次から次へと浮かんでは消え、消えては現れて…
 夕方の5時とは言え、傾いた夏の日差しはまだ強く、行き交う人はハンカチで顔を拭いたり、日傘を差したり、窓辺の席に落ち着いて頬づえをついて通行人の姿を眺めていますと、ヤッホー君の頬には自然に、汗でなく涙が静かに流れ落ちてきます。

☆ 旧安田庭園はヤッホー君が現役時代、尿管結石で入院した「同愛記念病院」のお隣りですが、入園したのは昨日がはじめてでした:

もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる隅田川の水を導いた汐入回遊式庭園で、
 明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、
 次いで安田善次郎氏の所有となりました。
 氏の没後大正11年東京市に寄附されました。
 関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修をを行い、復元、開園しています

(墨田区観光協会 すみだ観光サイト) 
http://www.visit-sumida.jp/spot/SpotDetail/tabid/60/pdid/349/catid/26/Default.aspx

 でも、こんな綺麗な庭園がまた余計な人手を入れて化粧直しも時間の問題。
 ムダ儲けシュギのムラ人の手によって勝手に、適当に、派手に、ペンキで厚く塗り直されて衣装替え、隣の両国公会堂とあわせ、維持費ばかりがかさんで利用者の応分負担とかで入場料もとられ、これがヤッホー君、最初にして最後の訪問かなと、神田先生のお話に酔ったせいもあるのかもしれませんが、池の鯉、庭の樹木たちと交わした涙のごあいさつ。

 いつからこんな日本、日本人だらけになったのでしょうか。
 だって、ミンシュシュギじゃない、ない、国会での正々堂々の論議もない、ない、あのミッシツシュギのムラ人は、ムダ儲けシュギのムラ人の声には耳を傾け、少数で談合を重ね、どさくさ紛れに「決めちゃう」けど、カネのない普通の住民の声には耳を貸そうとしないので、いくら声をあげても(聞こえているそうですけど)、いっこうに届かないのでございます。

『「すみだ北斎美術館」の設計者による両国の学校で説明会が行われました。
 現場へ行ってみるとド派手な演出が行われ「北斎通りまちづくりの会」と書かれた青いブルゾンを着た若いスタッフが大ぜいいました。
 会場の内部に入ると撮影も録音も禁止、会場での質問も禁止、会場内にいたのは近隣の住民はほとんどおらず、建築系の学校の学生と建物の建設関係者ばかりでした。
 昨年「墨田オンブズマン」は、「墨田区基本計画改定案」に対する意見書を提出し、多額の赤字が予想される「すみだ北斎美術館」の事業計画は震災の影響も考慮して止めるべきであると主張しました』

(2012-05-13 23:55更新 墨田オンブズマン代表大瀬康介区議会議員
 墨田区建設を強行に進める「すみだ北斎美術館」の利権の構造を分析!
 美味しい汁を吸うのは誰?
 [開館後毎年5億円の赤字!すみだ葛飾北斎美術館]
http://ose.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300653192-1

☆ ビアステーション両国
あなたは、忠臣蔵ウオークにおいて泉岳寺-本所吉良邸約11Kmを見事完歩されました。
 その健脚を称えるとともに、ここに完歩されたことを証します。
 2002(平成14)年12月15日 墨田区文化観光協会 会長 山田実

 
 山歩クラブが発足して、第一回目のタウンウオークは逆忠臣蔵だったのでした。
 そして参加者で打ち上げの締めとして、三三七拍子をした場所が、JR両国駅構内「ビアステーション両国」でした。
 ビール工場があってビールのできていく過程が見えました。
 湯気がまだたつ出来立てのビールで仲間の皆さんの健脚を称えあったものですが、いまはもう、湯気のように消えてしまい(2006年2月での閉店だったそうです…)、いまはありません。

 ヤッホー君がいただいた『完歩証』を発行した協会はいま、どうなっているのでしょうか。いまはもう、ありません。
 
昭和58年から区内の観光事業に取り組んできました墨田区文化観光協会が、新たな時代への対応とさらにその先のニーズをとらえていくため、平成21年5月、一般社団法人墨田区観光協会として生まれ変わりました。
 一般社団法人墨田区観光協会 理事長 阿部貴明

http://visit-sumida.jp/tabid/83/Default.aspx

 このサイトから安田庭園をご紹介したわけですが、地元の歴史ある名勝を後世に残す事業は、あぶない、あぶない、とばかりにアンタッチャブル!
 多分、「すみだ北斎美術館」が完成すると、反対した住民の声も消え失せ(歴史は勝者によって語り継がれていくもの、ですからね)、「すみだ観光サイト」に自慢げに紹介されていくんでしょうね、きっと。
 
 神田先生が強調されていた芥川龍之介の近代化批判と、その合わせ鏡としての「川向こう」、近代から犯され、滅んで消えていく故郷への想いが、2012年のいまもなお、続いているのだということを、日常生活のなかに実感して、「もういっぱいだけ」と、ザンネン、地ビールではないんですが、冷たくって喉ごしの良い、こくのある濃い目のアサヒビールをお代わりしておりました。

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2012年08月12日

芥川龍之介

 「早起きは三文の得」とはムカシの人、よう言いよったもんでございます。
 ヤッホー君が隅田川左岸のテラスを上流に向かって歩いていくと、竪川が大川に注ぐあたり、直進できず堤防の上にいったん上って、陸の上の竪川に架かる橋、一之橋を渡りきって、また隅田川テラスに下りなければなりません。
 ちょうど小名木川が大川に注ぎ込むときの萬年橋のよう。
 
 その道筋に大発見!
 「袋物博物館(墨田区両国1-1-7 Tel 3631-6353)」。

大正3年創業の袋物メーカー、(有)東屋が、そのコレクションの数々を公開している博物館です。
 江戸時代から現代に至るまでの小銭入れや札入れ、煙草入れなどの袋物、手動ミシンなどの製作道具、写真パネルなど約50点が展示されています。
 また、「東屋と木戸家の歴史コーナー」も隣接されており、館長・木戸好子さんとその娘、孫が、親子3代で“手古舞”に扮した際のパネル写真や東屋創業当時の手ぬぐいなど、袋物以外の展示品を楽しむことができます

(墨田区は、すみだ3M【小さな博物館・すみだ工房ショップ・すみだマイスター】運動を推進しています、小さな博物館>袋物博物館)
http://www.techno-city.sumida.tokyo.jp/3m/detail/mu027-i-01.html

 いえ、今日は日曜日だしおまけに朝の6時前、プチミュゼに訪れたって話しでなく、そのミュゼに張り出されてあった一枚のポスターがヤッホー君の小さな目に飛び込んできたのでございます。

『大正時代を代表する作家、芥川龍之介。
 1892(明治25)年に生まれた彼は、生後7か月で本所区小泉町(現在の墨田区両国3丁目)の伯父の家に引き取られ、
 江東小学校(現在の区立両国小学校)、
 府立第三中学校(現在の都立両国高校)を経て、
19歳で新宿に転居するまでの多感な時期をこの地で過ごしました。
 隅田川、回向院、本所七不思議の伝承など、江戸の風情を残しながら近代化の足音が響き始めた本所両国での暮らしは、作家龍之介の形成に大きな影響を与えました。
 生誕120年を記念して行なう今回の展示では、龍之介のこころのふるさと本所両国の風景と、そこで育まれた龍之介の知られざる素顔を紹介します。

 龍之介を中心とした近現代文学を専門とする神田由美子先生(東洋学園大学人文学部教授)に、芥川作品に登場する本所両国についてお話しいただきます。
 日時:平成24年8月12日(日曜日)午後2時から3時30分まで
 会場:江戸東京博物館1階ホール
 申込:当日直接会場へ
 費用:無料』
(墨田区教育委員会事務局生涯学習課「生誕120年記念 芥川龍之介展―こころのふるさとは本所両国―」を開催します)

http://www.city.sumida.lg.jp/kakuka/kyouikuzi/syougaigakusyuu/info/akutagawa.html

 午後、eチャリで、江戸博へ。

 芥川龍之介の筆になると、表忠碑は、次のように書かれていきます:

『両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。
 表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巖侯爵である。
 日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。
 明治25年に生まれた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。
 …僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに20年前の日本を考へずにはゐられなかつた。
 同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣には行かなかつた。
 …』

(芥川龍之介「本所両国-両国-」より)

 この「本所両国」は芥川龍之介が、泉鏡花、島崎藤村、田山花袋、久保田万太郎らとともに東京日日新聞の大東京繁昌記に1927(昭和2)年5月6日から22日まで連載した東京下町の見聞録でした。
 そしてその年の7月24日、自殺しています。
 表忠碑で感じ、<時代錯誤>と書いたことで芥川龍之介は何を伝えたかったのでしょうか…
 読者のわれわれ一人ひとりが感じ取り、考え、そこで思ったことをそれぞれに表現していくことでしかもう、芥川龍之介と会話ができなそうです。

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神輿連合渡御

 昨夜は夜、午後7時に花火があがりました。
 それは、第24回東京湾大華火祭の始まり! 昨年は中止だったため、今年は2年ぶりの開催で、これも清洲橋は見物客で大賑わい。

 明けて今日8月12日日曜日朝の午前7時半に花火があがりました。
 これは、お祭りの合図! そうなんですう、今日は「富岡八幡宮」の鳳輦(ほうれん)が渡御を行う3年に一度の本祭り。

神輿連合渡御も本祭りの年だけ行われるの。
 50以上のおみこしが一列にならぶなんてばすごいわね!
 かつぎ手さんに水をかける「水かけ」ならだれでも参加OKよ。
 これも深川のおまつりのだいご味ね

(平成24年例大祭のご案内)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/reisai/h24/html/reisai.html

今回のおすすめ記事は「神代巫女のただいま神道勉強中 お祭り編」!
 深川八幡祭りの初めての方にも、とってもわかりやすく紹介できたのではないかと思ってます。
 この記事は当ブログでもお馴染みの神職の「佐」さん(ちなみにイラストに出てくる神職さんのモデルさんです。そっくりですよ)が記したわかりやすい台詞に、大学でイラストを専攻した巫女さんがかわいいイラストを描いてくれました。
 今回書いてもらったイラストは8点。
 1点完成させるだけでも大変なところを、編集者の我がままに頑張って応えてくれました。
 本当に感謝いっぱいです

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/
 
 早朝から、深川は興奮に包まれております。
 女も男も、老いも若きも打ち揃って、法被(はっぴ)にねじりはちまき、白足袋姿。
 玄関の前で父ちゃんが、ポーズをとる母ちゃんをはい、パチリ。
 ご近所、町内会、はい、まとまって集合写真だよ、はい、パチリ。

 山歩クラブの山頂での風景とまるでいっしょ、いよぉ〜、下町だねえ〜、いきだねぇ〜
 
 ヤッホー君にとりましては、昨年に引き続き、隅田川リバーサイド「朝キン」の初日。
 「早立ち早着き」も「早寝早起き」のうち。
 朝の5時にはのそのそ起きだして、5時半にはねじりはちまきして玄関をとびだしています!
 初日の失敗は白足袋、ならぬズックに靴下が面倒で、山歩き用サンダルで飛び出したこと、まあ〜、いいんだけど明日からは、スポーツシューズ着用、あ、それにカメラ、忘れないように、と。

 昨年との違いは、昨年は隅田川右岸に渡って、下流、つまり東京湾方面に下ってのウオーキング。
 今年は、左岸を上流に向かって今朝は30分だけ歩き、隅田川をどんな橋で渡れるのかな、というカンジ。
 収穫いっぱい、それはまたこの日記でご報告するとして…。

 まずは両国橋:
両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。
 表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巖侯爵である

(芥川龍之介「本所両国」『大川の水・追憶・本所両国(講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)所収)

 大きな表忠碑は、両国橋の墨田区側の橋の袂にあってヤッはー君はびっくりしました。

幕末から明治時代にかけて碑に多く用いられたのは、今回の東日本大震災で大きな被害を受けた石巻市の井内(現在表記は稲井)の地で産出される井内石でした。
 鉄道敷設までは千石船で江戸(東京)に運ばれ、仙台石と称され、石碑材として多用されました。
…最も大きいものは両国橋児童遊園にある碑高6メートルの表忠碑(大山巌揮毫)です

(墨田区文化財調査員 中野日出夫「墨堤の碑林-石碑こぼれ話-」) 
http://www.city.sumida.lg.jp/kyouiku/syougai_gakusyuu/gakusyu_sien/we2.files/18-2.pdf

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2012年08月11日

あざみの歌

標高1540m〜1925m。
 長野県のほぼ中央、3000haの大草原が広がる霧ヶ峰高原の北西部に位置する八島湿原一帯は自然のたいへん豊かなところです。
 中でも日本を代表する高層湿原である八島ヶ原湿原はその重要性を早くから認められ、1939(昭和14)年に国の天然記念物の指定を受けました。
 また国の文化財としても登録されました。
 12.000年の歴史を持つ湿原の主役ともいえるミズゴケの種類は18種にのぼり、八島ケ原湿原の約490倍もある日本最大級の釧路湿原とほぼ肩を並べています

(下諏訪町立八島ビジターセンター)
http://park2.wakwak.com/~vc527000/

 ここ、すなわちビジターセンターが8月5日山歩クラブ霧が峰お山歩会のはじまりの場所。
 どんどんと進むと、歌碑がでてきましたのでびっくり:

  るんるん♪山には山の愁いあり
  海には海のかなしみや
  ましてこころの花園に
  咲きしあざみの花ならば♪るんるん

 作詞は、1945(昭和20)年に復員してきた当時18歳の横井弘(1926東京生まれ〜)が、大空襲で家も焼かれ、家族と知人を頼って下諏訪町に身を寄せ、霧ヶ峰八島高原で綴ったものといわれます。

 八洲秀章(1915-1985)がアザミの花に自分の理想の女性像をだぶらせて作曲、その歌がNHKのラジオ歌謡に採用され、1949(昭和24)年8月8日から作曲者の八洲秀章が歌い、放送されました。
 伊藤久男(1910-1983)によって翌年の1951(昭和26)年8月、レコード化され、日本の代表的な歌謡曲となりました。
 
 作曲家の八洲秀章は、羊蹄山のふもとの真狩村で生まれたって、ここは歌手、細川たかし(1950〜)の故郷? そうなんです。
(八洲秀章の生涯、さくら貝の歌・あざみの歌)
http://www.geocities.jp/kyyamamoto2/dcyasima.html

『本の背には、ふつう出版社の名が刻まれる。
 しかし本書の背には少し大きめの、胸を張ったような文字で「真狩村」とある。
 つまりこれは出版社ならぬ、真狩村が版元となった本なのである』
(北海道を知る100冊、下山光雄著『さくら貝の歌 八洲秀章の生涯』真狩村刊 2003年3月発行 本体 3000円)
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/books/063.html

 今宵は倍償千恵子(1941東京生まれ〜)の歌声で聞きましょうか:
http://www.youtube.com/watch?v=4rns9M9XWXQ&feature=related

あざみの歌の舞台になった八島湿原は標高1600メートルを超える高原にある。
 6月のレンゲツツジから9月のマツムシソウへと短い夏は一気に最盛期を迎える。
 短期間に咲きそろう400種を超える高山植物や100種以上の蝶類に混じって貴重なカエルの生息地でもある

(残したい“日本の音風景100選”八島湿原の蛙鳴)
http://www.env.go.jp/air/life/oto/KT/P41.html

 山歩クラブの仲間達、歌碑の前で皆んなで合唱して、それから歩き出しました。

このアザミはしかし何アザミであろう
と問いかけたのが、ヤッホー君の山の師、田中澄江先生!『思い出の歌、思い出の花』(家の光協会、1995)

雑司が谷の墓地に「鬼薊の清吉」という泥棒の墓があって、いつも香華が絶えない。
 受験生たちが、合格祈願の文字を書いた手拭いなどを、まわりにたくさん下げているから、その香華も受験生か、あるいは、その母親がささげたものであろうか

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2012年08月10日

舞姫

 鹿食免の御紋入り「鹿肉スティック(サラミ風)」をヤッホー君はどこで入手したのですかって… いい質問でございます。
 たしかに、8月8日のブログでこんなことを言っていましたね: 

『霧ヶ峰を歩いた後、諏訪湖畔の立ち寄り湯で汗をながして、それから寄ったもうひとつの穴場』―どこだあ〜!それはね…

ニッポンには日本が足りない、といわれています。
「和服をさりげなく着こなしてみたい」
「ほどよく美しい言葉で語りかけたい」
 この国で生まれきたよき日本文化の数々。
 私たちがほんの少し心がけるだけで、まだそれが取りもどせそうです。
 日本酒を粋に飲んでみたいと思いませんか。
 日本酒は…、特定の料理を選ぶことなく、心身を癒し、ご縁をつなぎ、和(なごみ)に酔うお酒です


 こうまで言われては、訪れないわけにはいきません。山域のすべてをまるごと味わってくる山歩クラブとしては。
 ですので、前回は「真澄」、今回は「舞姫」!
http://www.maihime.co.jp/home/

 ここは由緒ある歴史もさることながら、ヤッホー君が惹かれたのはその銘柄の名前なんですう:

文豪、川端康成氏の手紙。
 1950(昭和25)年、朝日新聞に「舞姫」という小説が連載された。
 三代目蔵主が親しみを覚え舞姫のお酒をお送りした際、届けられたお礼状。
 その中の優雅で気品のある「舞姫」という文字をお酒のラベルに使わせていただけるようお願いしたところ快く了承していただいたというエピソードを持つ。
 以来、毎年限定で造られる純米吟譲はロングセラーとなっている


 そうだったんですか、も、も、もしかして森鴎外かな、なんて論外なこともイメージしつつ、今晩も、一合、冷やでいきました。
 美味しいですねえ、霧が峰の伏流水!

≪霧が峰 夏空の高原に 舞うトンボ≫
≪忘れまじ 大きさ広さ 蝶々飛び交う≫
≪仲間らの 笑顔が揃う 山彦谷≫


 次から次へと御泉水が湧き出でてきます。
 車中、いただいた季節限定の生酒「翠露」の一升瓶、これはお神酒、でしたね。
 和製Champagne と言っても良いかもしれませんね。
 お酒が生きているのが実感できるサイコウ級、皆んなで回し飲みも良かったし、何よりもボーナスがでた、という仲間から皆の衆への差し入れという、その「心遣い」がうれしかったです。
 よっ、下町だねえ〜人情だね〜粋な計らいだねえ〜
 足腰を痛めた仲間も久々に元気に歩けたし、新人さんも元気に歩き通せたし、皆んなまとまってよく長丁場の高原散策ができた「思い遣りの気持ち」に乾杯、は・く・し・ゅ・う・う〜
 皆んなで、健闘を褒め讃えあいました。
 ドライバーさんからも後日、メールをいただきました。
 ヤッホー君は酔って家の前にバスが着くまですっかり寝込んでいたのでしょうが、その後、それぞれのお宅の近くまでご案内しましたってその「心意気」にも感激しております。

 そんな「舞姫」の踊りに酔いしれた帰路ですが、「舞姫」の土橋潤二舞姫酒造社長は、グループ「諏訪五蔵」の代表でもあります。
 ちなみに五蔵とは、「真澄」「舞姫」のほかに「麗人」「本金」「横笛」とあります。
 次回の山旅の帰りは、どこに寄ろうかな…

酒造りに重要な水を霧ケ峰の伏流水から得ている諏訪五蔵では、グループ結成の最初の活動として、2008年9月14日に霧ケ峰福拾いウオークを行なう。
 5軒の蔵元の社員とその家族らが参加し、特定非営利活動法人(NPO法人)霧ケ峰基金のメンバーの案内で霧ケ峰の自然を学びながら一帯の美化活動を行う計画だ。
 集めたごみは霧ケ峰基金が集計分析し、今年の「呑みあるき」の会場で結果を発表。
 霧ケ峰に対する自然保護意識を高めていくための啓発に役立てるという。
 土橋代表は「水の恩恵を受けている酒蔵として、環境を大事にして酒造りをしていることをアピールしたい」と話している

(2008-9-4 6:01更新 長野日報 酒都・諏訪をアピール 造り酒屋が「諏訪五蔵」結成)
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=11812

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2012年08月09日

鹿食免

 鹿肉について一挙、まとめてみました。
 下町でも「鹿肉を食べよう会」を設立するための基礎データ作成に向けて:

☆ まずは県の公式サイトからです、もちろん長野県:
長野県>魅力発信ブログ>信州ジビエ
http://gibier.nagano-ken.jp/

☆ 鹿肉を食するにお楽しみなお店の例
 昨日、ご紹介した「カントリーレストラン匠亭」!
 とても良いサイトですよね、そのサイトからも入っていけますが、オーナーの呟き、「田舎の猟師のおっちゃん」のブログがまた美味しい:

○ 硫黄岳山頂2760mにも鹿が進出してきているお話し:
硫黄岳山荘からは佐久方面が一望出来ます。山荘の隣にはコマクサ・ウルップソウのお花畑がありそこに鹿が佐久方面より出没して高山植物の食害・踏み荒しが起きているようです。ここに、電気柵なども予定されている』(2012年7月4日)

○ 信州から遠州まで出張って、『ラストハンター』(飯田辰彦著、みやざき文庫))と呼ばれる片桐辰彦さんに会いに行ったお話し:
『片桐さんは、年間で100頭以上の猪、鹿を捕獲して、経営しておられる割烹竹染(ちくせん)で猪はシャブシャブ、鹿は刺身で提供している方でした…鹿、猪が癖もなく美味しくいただける秘密は、片桐さんが猪、鹿を生け捕りにして、自宅の解体施設まで山から降ろし、施設で止め差しを行ない、直ちに解体、冷却…を行なうこだわりがこのような美味しさを生み出しているようでした(本の表紙に出ているように、猪、鹿を担いで車に乗せてくるとのことです…怪力…!)』(2012年4月17日)

http://takumitei.cocolog-nifty.com/blog/

☆ 供給側の研究会
○ 信州ジビエ研究会(会長はエッセイスト・画家・ワイナリーオーナーである玉村豊男氏、1945年生まれ)
 入会申し込みは、長野県野生鳥獣対策室 丸山勝規 松本順子宛て Tel 026-235-7273(直通)
http://www.nagano-ck.jp/gibier/

○ 鹿食免振興会(諏訪商工会議所内 Tel 0266-52-2155)
『鹿食免振興会設立準備会は2008年4月14日、諏訪市の諏訪商工会館で開き、諏訪大社に伝わる「鹿食免」、「鹿食箸」の伝統を生かしたシカ肉料理の普及を図る組織として鹿食免振興会を設立した。
 会長には諏訪食品衛生協会長の廣橋正弘さんを選出。
 2010年の御柱祭に向け、食材の供給や料理の提供を重点に、食文化として諏訪産シカ肉の利用を進めていく』(長野日報)

※ 上述の県のサイト、信州ジビエにある『シカ肉を料理するには』「鹿食免追っかけ隊」2011年3月29日、2011年3月22日の記事も参考になります。

 ところで、ところで、「鹿食免」って何?

 頼住光子先生(お茶の水女子大学教授)が第三回国際日本学コンソーシアム第3日目、2008年12月17日「日本思想史部会」で「仏教における食」と題して、次のようにご報告されていますのでご紹介:

『「日本書紀」によれば日本に仏教が公伝したのは、欽明天皇の治世下の552年のことであった。
 伝来当初より、日本仏教は中国仏教、朝鮮仏教の大きな影響を受け、鎮護国家仏教の色彩が濃かった。
 また、中国仏教における肉食禁止を受け、676年に天武天皇は仏教精神に則り肉食禁止の詔を発する(21)。
 これ以降、1871(明治4)年の肉食解禁まで表向きは、肉食は禁断とされたが、実際には、鹿や猪をはじめとする肉食は各階層において行なわれていた。
 このことは、さまざまな記録や遺物から明かである(22)。
 とはいうものの、とりわけ僧侶については不殺生戒遵守の観点から肉食禁止が求められた。
 しかし、俗っぽく品性下劣な僧侶を罵る言葉として「生臭坊主」と言う言葉が使われることをとってみても、肉や魚を食べる僧侶は特に珍しいものではなかったことが窺われる。

(21) これは、牛、馬、犬、鶏、猿の五畜の肉食の禁止であり、この五畜が選ばれたのは『涅槃経』の教えによったものと考えられている。ただし、この禁止は、4月から9月までの農耕期間に限定されており、五畜以外の動物、たとえば当時よく食べられていた鹿や猪については禁止されてはいない。

(22) たとえば、鹿肉を食べる諏訪神社上社の神事の際には鹿食免((かじきめん)という獣肉を食べても穢れないという護符が参拝者に配布されたという。また、江戸時代にはももんじ(ももんじい)屋などで鹿や猪の肉が売られていた』

(日本仏教における<食>)
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/35078/1/53_301-309.pdf

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2012年08月08日

鹿肉スティック (サラミ風)

 ヤッホー君が一番に「霧ヶ峰植物自然保護指導員」にお聞きしたかったこと、それはニッコウキスゲ!
 「登る山でなく、遊ぶ山」(深田久弥)と評した霧が峰を初めてヤッホー君が訪れたのは、10数年も前のこと。
 いまだにあのときの高原を一面に覆っていた黄色(橙々色ではなかったです、黄色でした!)のニッコウキスゲ、そのお花畑の印象が強く残っているのですが…
 ありません!
 「鹿の食害なんですう」と申し訳なさそうに学生さん(霧ヶ峰植物自然保護指導員)。
 「でも、シカ柵がないじゃん」ってたたみ込んだら、
 「あるんですう。ここから近いところでは、車山高原・車山スキー場のあたり、向こう側ですね、それとあちら側、車山肩の向こう側ですね。それと皆さんが出発点にされた八島湿原、になりますかねえ〜」と声もだんだんと細くなって、申し訳なさそうに答えてくれたんです。
 「その柵内にだけニッコウキスゲが見られるんですう」って。
 柵のことを電気柵、デンサクっておっしゃっていましたよ!

 そういえば八島湿原に、自生しているアヤメが見られたもん。

八島湿原のアヤメ.jpg

 これは、例えば長野県の「霧ヶ峰高原における野生鳥獣対策の取り組みについて」からもうかがい知ることができます[

八ヶ岳中信高原国定公園の中央に位置する霧ヶ峰高原は、初夏のニッコウキスゲの開花時期を中心に、四季を通じ県内外から観光客が数多く訪れている。
 しかしながら、近年、霧ヶ峰高原にもニホンジカが侵入し、貴重な高山植物等の食害が増加していることから、2007(平成19)年11月に地元関係者や学識経験者、行政団体等39団体からなる「霧ヶ峰自然環境保全協議会」を設立し、2008年度(平成20年度)から保護対策を実施している

http://www.pref.nagano.lg.jp/rinmu/shinrin/04chojyu/11_taisaku/2011_1st/k01.pdf

 さらに、昨年の「平成23年12月1日付け霧ヶ峰の湿原の環境保全に関する要望」なんかでも読み取ることができます:

八島ヶ原、踊場、車山の3つの湿原は、本州最南端の高層湿原であり学術的にも貴重な希少植物が多く、国の天然記念物に指定されています。
 しかし、現在、湿原では、乾燥化をはじめ、周辺からの土砂流入、樹木の繁殖、周縁部での外来植物の繁殖、ニホンジカによる被害といった湿原環境の危機的変化が進み、湿原環境保全対策が急務となっています。
 「霧が峰自然環境保全協議会」では、ニホンジカによる踏み荒らしや被食から八島ヶ原湿原の植生を守
るため、昨年度から湿原の周囲を囲むシカ柵の設置に着手し本年度完成しました

http://www.pref.nagano.lg.jp/xtihou/suwa/seikatsu/future/17/6.pdf

 霧ヶ峰を歩いた後、諏訪湖畔の立ち寄り湯で汗をながして、それから寄ったもうひとつの穴場。
 ヤッホー君は、鹿肉を買っていました。
 仲間にも、こんな呼びかけを:
 「どんどん鹿肉を食べてさ、需要を増やして、そんで価格ももっと安くなるように」
 貧民にも優しい値段に、そして下町のスーパーでいつでも買えるように、って願っていたのです。

☆商品名 「信州漁師さんの鹿肉ステック、サラミ風」
☆内容量 64g
☆値段 650円(税別)
☆販売者 信州ナチュラルフーズSNT(茅野市金沢2435)
☆キャッチ 鹿食免(かじきめん)=そのムカシ殺生を罪悪とした時代、諏訪大社が発する免罪符「鹿食免」を持っていることで、狩猟と鹿肉を食することが許された、と伝えられています=
 鹿食免料理(鹿、猪)は、「カントリーレストラン匠亭」でお楽しみいただけます

http://www.takumitei.com/

そして『鹿食免振興会推奨品 信濃之国 鹿食免 諏訪鹿』のゴールドシールが貼られています。

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2012年08月07日

霧ヶ峰植物自然保護指導員

 霧ヶ峰ご報告第二弾。
 ヤッホー君たちが嬉しかったのは、霧ヶ峰の北縁を辿って、正面にどぉ〜んと諏訪冨士、蓼科山が八つを従えて現れた車山乗越で、若い三人のお兄ちゃん、お姉ちゃんに出会ったときのこと。
 いろいろお聞きしたのですが、胸の表示!「諏訪市教育委員会自然保護員」のような鑑識票が夏の日差しに眩しいほどです。
 すかさずヤッホー君、あなたがたは教育委員会の職員なんですか?すご〜い!!とお聞きしましたら、なんか諏訪市の教育委員会から委託されている千葉県の大学の学生さん達だったのです!

長野県の諏訪市教育委員会生涯学習課に所属する夏期の臨時公務員です。
 1961年に千葉大学植物同好会の学生が諏訪市教育委員会から委託を受けたことから始まり、2012年の夏で52年目になります。
 現在では千葉大学、江戸川大学、信州大学、東邦大学などの学生が集まり活動しています。

@ 来訪者への湿原・草原への立ち入り、動植物採集の防止呼びかけ
A 霧ヶ峰(主に車山・八島ヶ原・踊場湿原、周辺登山道)の巡回
B 霧ケ峰の案内(自然解説、道案内、施設案内)
C 美化活動(登山道・ビーナスライン等のゴミ拾い)
D 看板の設置、補修
E 立ち入り防止柵の補修、設置
F 木道の補修
G 自然観察会(希望者を募集し、霧ヶ峰の植物・自然・人との関わりなどを解説します

http://www.geocities.jp/kiririn_mist/shidouintoha.html   
 
 ね、良い活動をなさっておられます。
 何度もがんばってね、自然を守ろうね、ニッコウキスゲを見守ってあげてねってヤッホー君はぺこぺこして、まるで鳩…
 「お兄ちゃんたちも
(とヤッホー君は自分の胸を叩いて--ホントかね、孫やひ孫のような若い世代に向かってお兄ちゃんとはないのでしょうが、もう、いや本人は「青春まっただなか」だそうですから--)
 ぼくらも自分たちでできることはやってるんですよ
(と冷暖房なし、移動は歩き、せいぜい自転車のロハスなエコライフを強調したかったらしいのでした)
 あなたたちの子孫にこんな絶景を絶対、残してあげるんですよ」
って「説教」してきたらしいんです(あぁ〜 またぁ〜 困ったもんです)。
 でも皆さん、自然の息吹きに日頃から接している若者たちは皆さん、素直!
 「はい、ありがとうございます!」

 千葉大学ですかあ〜、千葉県から長野県諏訪市まで… どんなきっかけがあったのでしょうか?
みどりを守る(霧ヶ峰植物自然保護指導員@)
•長野県に位置し、天然記念物の湿原がある。
•年間300万人が訪れる観光地。
•人と共に歩んできた貴重な自然。

みどりを守る(霧ヶ峰植物自然保護指導員A)
•霧ヶ峰で活動する学生団体。
•7〜8月は長野県諏訪市から委託され活動。

みどりを守る(霧ヶ峰自然保護指導員B)
•天然記念物やその周辺草原の巡回。
•来訪者の方への自然解説、道案内など。
•柵や看板の設置、木道の修理

(千葉大学植物同好会 Chiba University, Plants Lovers Association, 自然・植物が好きなみなさんへ 2011年度千葉大学植物同好会活動紹介)
http://www.geocities.jp/chiba_u_syokudo/index.html
http://env.chiba-univ.net/nishichiba/info_circle.html

 長野日報では、50年目の2010年のこと、諏訪市博物館は、「霧ヶ峰自然保護パトロール50周年記念展」を同館エントランスホールで開いたそうですが、その様子を次のように紹介していました:

来訪者による植物の採取や踏み荒らしなどで霧ケ峰が荒廃し、貴重な植生が危機に直面したことから諏訪市教委などは1956年から、夏場に学生アルバイトの監視員を置いた。
 1961年ごろからは千葉大学植物同好会(59年発足)の学生が中心となり、霧ケ峰の自然を守ろうと指導員としてパトロールを行なっている。
 毎年7〜8月に霧ケ峰に泊まり込んで活動。
 八島など天然記念物の3つの湿原やその周辺を巡回し、自然保護のための来訪者への啓発のほか、自然解説、道案内、ごみ拾いに取り組んでいる。
 記念展では、56年に初の監視員になった学生のレポート原稿や使用した腕章をはじめ、昭和40年代の学生が書いた日誌、無線機やベストといった装備品を並べた。
 千葉大植物同好会が毎年作成している「指導員手帳」は霧ケ峰の気候などの基礎知識、自然保護に関する法令などが記載され、自主的に学習している姿を見ることができる。
 現在の活動の様子を紹介するパネルも展示した。
 同博物館では「学生たちが独自に研究し、問題意識を持って取り組んできた姿を知ってほしい」と話している。
 自然保護パトロールは今年度(2010年度)、千葉大、江戸川大、東邦大、信州大の学生ら約50人が登録し、7月3日から8月末まで実施。
 8月26日は今年度の活動報告会を市公民館で開く

(長野日報 2010-8-15 6:00 更新、大学生の霧ヶ峰自然保護パトロール 諏訪市博物館で50周年記念展)
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=18761

 今年もあるかも…「諏訪市博物館」(諏訪市中洲171-2、諏訪大社上社本宮のすぐそばらしいです、Tel 0266-52-7080)…一度、訪れてみましょうか
http://www.city.suwa.lg.jp/scm/annai/index.htm

 諏訪市公民館も。諏訪市湖岸通り5-12-18 連絡先Tel 0266-53-6219
http://www.city.suwa.lg.jp/www/section/detail.jsp?id=127


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2012年08月06日

霧が峰

今日はいろいろお世話になり、ありがとうございました。
 景観といい、天候といい、変化に富んだウオーキングといい、すばらしい仲間たちとすばらしい贅沢な一日でした


おかげで私は朝までぐっすり、気持ち良い目覚めでした。
 脚は腰が少し重いだけで、痛くありません。
 ひとえに今までの積み上げだと喜んでいます。
 昨日の山行は全て良し、下を向くような時は。あの雄大な自然を思い浮かべ、大げさですが人生を歩みたいと思います


一日違いで今日は雨、暑さにバテ気味になったとは言え昨日のお天気に感謝です。
 良い山行でした。
 久しぶりの山歩きでしたが 筋肉痛もなく、「順調です!」


 そうなんです。昨日の8月5日日曜日は、山歩クラブ月例山行の日!
 13人で霧が峰を歩いてきました。

昨日はたいへんお疲れさまでした。
 「夏山ってこんな感じ」をからだで実感していただく<入門編>でしたが、いかがでしたか?
 ヤッホー君、一度は歩いてみたかった霧が峰の北縁をたどる高原散策、これがようやく実現できて同行の仲間の皆さんに感謝感激です!
 デジカメからパソコンに取り込む作業に不具合があって、5枚もせっかくの大っきな笑顔ばかりの写真を削除、消去せざるをえませんで、とってもザンネン!
 添付した写真は、ゼブラ山(男女倉山)1776mの山頂です。
 皆んなとっても良いお顔!


霧が峰.jpg

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2012年08月04日

日本高山植物保護協会

 あの、ね、今日は土曜日、ひさびさに仕事はオフの日!
 このご近所に「伊せ喜」という<どぜう屋さん>があるのです。
 でも店はイマ、更地…
 清澄白河駅あたり、なかなかの老舗が多いのですよ、そのなかで、いつか食べに行ってみようと思いつつ、実現しないうちに休業になってしまったのが、「伊せ喜」。なんでもっ早く行かなかったのか、と言いますと、値段が高いんだもん!それに加えて 3.11 の地震で天井が落ちたっていうし…
 うなぎもうなぎのぼりに高くって、土用丑の日にも手がだせなかったし… せめてどぜうで夏バテ防止といきたいところですが…

 どじょうってね、ヤッホー君が小さい頃、用水路にバケツをもって、妙見橋下(イマはひっくり返してヤッホー君のペンネームです、「橋下妙見」)の滝のようになる水路にバケツをかざしておくと、バケツいっぱいにどじょうがととれたもんです。
 だけど「伊せ喜」に行くには、5千円札を持っていかないと食べれない! ムカシ深川の庶民の味、イマは選民の接待の場!
 
 どじょうって名のダメナノダなんて立ち位置が定まらず国民の生活を台無しにして、ジミントウですらできないことをしゃあしゃあとヒミツ・ミッシツシュギで決めたお方もいたようですが、この国でどじょうってとれるのかな?

栄養価の高いドジョウはトキの大好物。成鳥は1日に100匹を食べるとも言われる。
 佐渡トキ保護センターでは、養殖ドジョウを池に放って食べさせている。環境省によると、今年度のドジョウ代の予算は約2100万円に上る。
 現在、島内で約15軒が「佐渡ドジョウ養殖研究会(西野雅夫会長(69)」に入り、ドジョウの生態について勉強会を重ねながら、養殖している。しかし、なかなか養殖者は増えない。理由の一つに養殖の難しさがある。
 ドジョウは田んぼや池で養殖することが多いが、サギやカモに食べられ、数ヶ月で全滅してしまうこともある。
 ドジョウが身を隠すウキクサを浮かべたり、防鳥網を張ったりと対策も講じるが、池が大きいと網を張れないなど課題は多い。また大雨の時に水かさが増し、ドジョウが田んぼなどから逃げ出してしまうこともある。
 西野会長は島内で唯一、ビニールハウスで養殖している。
 田んぼでの養殖だと、冬場はドジョウが土の中に潜って見つけ出すのが難しくなる。だがハウスなら冬期も出荷できるうえ、天敵の野鳥を避けられ、ドジョウが逃げ出す心配もない。
 その一方で、出費が多く、手間がかかる。4月初旬の強風ではビニールが大破した。
 西野会長は「高齢のためやめる生産者も多い。養殖に熱意がある若者が育ってほしい」と後継者不足に悩む。
 「野生復帰ステーション」では餌のドジョウが豊富に与えられる一方、環境省は放鳥トキについては、野生復帰のため人が手を貸さないことを原則としているため、餌不足になりがちな冬場も、田にドジョウをまくなどの支援はしない方針だ。
 かつて田んぼで多く見られたドジョウは、農薬使用などにより数を減らした。近年は農家の環境保護の取り組みで、ドジョウが復活する田もある。
 しかしドジョウが増えても、サギやカモなどの他の野鳥が増え、トキは厳しい餌争奪戦を強いられる可能性が高い。
 西野会長は「ひなが生まれてトキが増えるのは良いこと。でも餌がないと生き延びられない。将来的に田んぼにドジョウを放すことも必要ではないか」と訴える

(2012年5月12日付け毎日新聞地方版、トキ放鳥:ドジョウ養殖、飼育支え 熱意ある若者育って 研究会の西野さん、後継者不足憂え/新潟)
http://mainichi.jp/area/niigata/news/20120512ddlk15040003000c.html

 ことほどさように「どじょう」だって、中国産なんですう。そんななかで、どじょうを供し続けてきたのが「伊せ喜」でしたが、はたして新装開店にいたるのか、また追ってリポートする機会もあるでしょう;

昨年から閉店と聞かされていた、伊せ喜の”どぜう”が実は、休業中であったようです。
 元々江戸時代からの老舗のどぜう屋さんでしたが、残念なことに後継者がいないことが、閉店の理由と聞いていました。
 ところが、今日、ネットで2年間の店舗改装のための休業と書いてあるではないですか。
 きっと店舗改装もありますが、後継者の育成も兼ねているんでしょう。
 平成25年3月頃が楽しみです。
 ということは、この年は10月にならなければ、ず鍋(ナマズ鍋)は食べられそうにありませんが、楽しみが先に延ばされたようです。その節は、どなたかご一緒しましょう。
 ナマズ鍋は今では、都内では数件しか食べることの出来る店は無いようですが如何でしょう。
 埼玉に行くと専門店が吉川市あたりに有りましたね

(2012.07.15更新)
…homebrew7388.blog.fc2.com/blog-date-201207.html

 いえね、鹿肉を食べに行こうって呼びかけたら、動物愛護のため、日頃活動されている方々から非難の声があがるんじゃないのって、山友達とお話していて、じゃあ、高山植物保護協会みたいなところってないのかな、と。
 あったんです、「日本高山植物保護協会 JAFPA」!
 しかも、ご紹介してきた昭和大学北岳診療所のお医者さまが副会長になっておられました;

平成22年度より昭和大学北岳診療部は、日本高山植物保護協会(JAFPA)の北岳診療部支部として高山植物保護活動を開始いたしました。
 北岳診療部は医学部学生と看護専門学校の学生による部活動組織であり、約50名の学生部員が南アルプスの北岳山荘に隣接する北岳診療所で、主に夏休み期間に、医師の指導のもとで登山者に対する診療活動を行なっております。
 JAFPAの支部となったことを機会に診療活動とともに、南アルプス北岳周辺の貴重な高山植物保護活動も部活動の大きな柱とし、夏山期間中は、お花畑のパトロールやゴミ拾い、登山客への啓蒙など出来る範囲内で活動しております

(昭和大学北岳診療部支部 支部長 木内祐二「JAFPA活性化のために」)
http://www.jafpa.gr.jp/modules/jafpanews/index.php?content_id=24

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2012年08月03日

高山病

 北岳のような3000m級の高い山を目指すときに、「早立ち早着き」「荷を軽く」に次いで重要なことをヤッホー君は山の先輩、松木祥一さんに教わっていました。
 これで山歩クラブ安全登山3原則とします。

 それは、「息つぎ」のことでした。
 「山では息を吐ききれ」…吸うのは人間の本能ですから、意識的にやらなければいけないのが(休憩をイッポン入れるとき、疲れたなと思ったとき、その都度)、吐け、ということでした。
 それを「腹式呼吸」という、と。
 どうせ腹黒いのだから、腹の中の汚い匂う、ヘドロのようなどろどろしたもの、もやもやしたもの、ごちゃごちゃいっぱい、捨てられず仕舞い込んでしまった余計なものついでにぜぇ〜んぶ、吐き出せ、と。

 熱中症と同じく、登山において注意しなければならないのが「高山病」!

山で一番大事なのは呼吸≠ナす。
 高所は酸素が薄いので、呼吸がきちんとできて十分な酸素を取り込めるかどうか、それが身体の各組織にいっているかどうかで、体調が決まります。
 ですから登山前の準備として、呼吸の訓練をしておくことは意味があります。
 その訓練とは「腹式呼吸」で、これをすぐにできる人はなかなかいません。
 まずは口から息を吐くことを意識して、吐ききったら鼻から吸います。
 高所になると呼吸が浅くなるので、なるべく深くすることです

(堀井昌子先生、神奈川県予防医学協会中央診療所医師、健康かながわ「安心・安全な登山のために事前の<登山者検診>を」)
http://www.yobouigaku-kanagawa.or.jp/info_service/health_info/healthy_kanagawa/511.htm

 北岳山荘には昭和大学北岳診療部が隣設されていますが、「北岳に安全に登山・下山するための北岳健全登山12則」というのがありますので、山歩クラブ3原則とあわせ、なにも北岳に限ったことではなく、夏山に向かうすべての登山客にあてはまることです。
 夏山シーズンですので、ぜひ確認しておきましょう:

@ 登山の前日は自動車や電車での長距離の移動を極力避けて、翌日に備えて十分に睡眠をとること。"すっきりとした頭と元気な体"が安全な登山には不可欠である。
A 山行計画が自分の技量と体調に合っていること。発熱がある時には、原因が何であれ無理をせず山行をとりやめる。また、技量をみがく事前のトレーニングもとても重要である。
B 間食は、原則として糖質(アメ・チョコレート・ビスケットなど栄養価が高く、かつ携帯に便利なもの)を中心に考える。
C 水分は出来るだけ頻繁かつ大量に摂ること。ただし冷たすぎる水は腸管を刺激して下痢のもととなることに注意。また、アルコールは運動能力と慎重さ、注意力を低下させるので、行動中は飲んではいけない。

D 徐々にウォーミングアップしていくように、最初の30分間はゆっくり歩き始める。登山靴やザックの微調整にも細心の注意をほどこす。
E 出来るだけ1時間ごとに休憩を取り、食べたり飲んだりすること。「少し食べて、 たっぷり飲む」ことが疲労防止のコツ。その場合は飴系統のものばかりではなく、ビスケットや餅といった高カロリーの澱粉質を摂るように。
F 疲労が激しいときは、大休止をとるか、誰かに付き添われて下山することを考える。客観的に見て、その疲労の度合いがあまりに高い場合は、高山病ないし、たとえ夏でも低体温症(凍死寸前状態)が疑われることを思い起こすこと。
G 小児や高齢者、喘息や心臓病歴を持つ人が登山する際は、より綿密な登山計画と充分な準備を心がけること。山行前に医師または専門家の意見を仰ぐこと。

H 海抜2,500m以上の高地で宿泊する場合は前日の宿泊地より300m以上高い地点に宿泊しないよう計画するのが望ましい。出来れば、その日の最高到達高度より低い地点に泊まるのがよい。
I どんなに低い山に登ろうが、短い山行でも、最小限、次にあげる物は常時携帯する事が望ましい。サングラス・手袋・帽子・ツェルト・予備衣服・ロウソク・マッチ・懐中電灯・救急医療セット・地図・方位磁針・非常食等〜それぞれビニル袋に分けて入れる。
J 登る山のルートや気象状況に関する情報は、前もって出来るだけ多く集めるように心掛ける。登山届けが必要な山に登る場合は、必ず提出すること。
K 宿泊地に到着後は着替えをし、付近を歩き回ったりすることで、ある程度高山に体を慣らしてから休む

http://www.geocities.jp/kitadake_clinic/

南アルプス署(松原茂雄署長)は2011年8月24日、山岳遭難救助に貢献したとして、夏山シーズンに南アルプス・北岳に常駐して診療活動に当たっている昭和大北岳診療部に感謝状を贈った。
 同部は、7月28日に北岳の吊尾根分岐付近で起きた滑落事故で、頭を強く打って動けなくなった登山者に対して、けがの応急処置や点滴などの救護活動を迅速、的確に行なった。
 北岳診療部長で同大薬学部の木内祐二教授は「診療活動が評価され、大変光栄に思う。北岳での診療活動を開始して今年で32年になるが、登山者に安心を提供できるように努めていきたい」と話している

(8月25日山梨日日新聞掲載 「北岳で診療活動 昭和大に感謝状」)

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2012年08月02日

登山における熱中症

 ≪ヤッホー君が大忙しだったこの前の週末、28日、29日≫… これはブログのこの日記7月31日火曜日付けの「雲取山2017m」で記していますが、いったいなんで「大忙し」だったの?
 実は「山歩クラブかわらばん8月号」の発行準備だったのです。「発行準備」ったって、なに、手づくりなもんですから、パソコンでワード文書を作って、印刷、宛名書き、袋詰め、そして発送だけなのですが、たしかに端から見ていても「大忙し」とは言えるでしょうね、無償のボランティア行為です。

 フロントページの第二テーマは(第一テーマは隅田川花火大会」)、熱中症でした。ここで7つのチェック項目の全てを公開:

『そうなんですよ!ヤッホー君は口酸すっぱくいつも言っております:
@ 10時には寝ましょう(せっかちと何と言われようと、山は『早立ち、早着き』)
A 前々夜は、お天気祭り(赤ワインで肉にかぶりつく、前夜のお酒は我慢、我慢)
B 水は一気飲みは駄目、休憩の都度、ちびり、ちびりと。
C 水だけじゃあ、駄目です、梅干しやスポーツドリンクで塩分補給も!
D 山のウエア、ギアは水分を吸収する木綿は駄目、インナーからアウターまで化繊!
E 帽子は飛ばないよう紐のついた、首筋が真っ赤にならないよう垂れつきのもの。
F リュックは1gでも軽く、しかし雨具、水筒、行動食含めた食糧は必ず携行
 山歩クラブ2011年の発足以来、月例は毎月、専用バスで下町から登山口まで行くことにしていますので、バスの座席をご活用ください。着替え、履き替え用スリッパ、車内宴会用おつまみ、お酒(山歩クラブは山中、一滴もアルコールを摂取しません、山頂での乾杯などもってのほか、安全第一です! その代わり立ち寄り湯への入浴後解禁)などは、車内のご自分の席に置いて、山歩きだけを楽しみましょう!』


 角田朋司『百名山登頂登頂ドクターの山歩き健康法(山と渓谷社、2004年)』によりますと、もっと簡潔にまとめられています:

『【予防法】
 高温多湿の環境下での激しい登山を避ける。
 登山時にはスポーツドリンクなど塩分を含んだ水分を十分に補給するよう心がける。
 鬱熱を生じないように着衣を調節する。
 体調不良のときは登山をしないなどの注意が必要である』


 また2008年7月20日版として日本山岳協会山岳共済会では、『登山における熱中症』としてPDF版の文書30頁を公開しています。
 ぜひお勉強会のときに活用なされてみてはいかがでしょうか?
http://www.jma-sangaku.org/kyosai/document/heatstroke.pdf

埼玉県は7月25日、長瀞町の宝登山ロープウェイ山頂駅付近で草刈りの実習をしていた県立杉戸農業高校(杉戸町)の女子生徒3人が体調不良を訴え、医療機関に搬送されたと発表した。
 3人とも熱中症とみられ、いずれも軽症。
 この日に県内で熱中症とみられる症状で搬送されたのは、午後3時現在で36人。さいたま市、熊谷市などで3人が重症という』
 熊谷地方気象台によると、25日の県内の最高気温は越谷で34.3度で、猛暑日を示す35度は下回った

(2012年7月26日付け東京新聞「女子高生3人 熱中症で搬送 宝登山で実習中」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20120726/CK2012072602000129.html

7月29日正午ごろ、学校行事で福島県の磐梯山を登山していた同県会津美里町の中学校の教諭から「男子生徒(14)が熱中症の症状を訴えている」と110番があった。
 県の防災ヘリが出動し、同県会津若松市の病院に搬送したが軽症。
 県警猪苗代署によると、生徒は他の3年生や教員ら約70人で登山中、山頂で「足がしびれて歩けない」と訴えたという

(2012.7.29 16:51更新MSN 産経ニュース 「学校行事…磐梯山登山で男子生徒が熱中症症状 ヘリで搬送、軽症)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120729/trd12072916520005-n1.htm

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2012年08月01日

マルバタケブキ

 今日からもう8月!
 ヤッホー君の山友より追記が送られてきましたのでご紹介:

雲取は、「マルバダケブキ」しか咲いていませんでした。
 鹿は「マルバダケブキ」は食べないようです。
 頂上直下に10メートル四方位の柵があり、その中に高山植物と思われる白い花が咲いていました
(えっ、やっぱり。かなしい〜)。

 また、害獣駆除の猟師もいて鹿を追っているようでした。
 その猟師たちは町営奥多摩小屋(素泊まり
、のみ、問い合わせは奥多摩町役場観光産業課 Tel 0428-83-2112)に泊ったようですが、汚いところだから、こんなところ泊るもんじゃないと言っていました。
 風情があるとか書き込みがありますが、トイレは汚くアブだらけだそうです。
 小屋番の若い兄ちゃんは愛想がなくひどい、とカミさんが言っておりました。
 そのカミさんの目の腫れは虫ではなく、漆などの植物のかぶれだそうです。
 薬でだいぶ腫れが引きましたが、まだまだですね


 鹿は「マルバダケブキ」は食べない… 本当のようですね:
 
2008年8月14日に登った櫛形山。
 今年は、何度登っているのだろう。
 四季を通して登るつもりである櫛形山の真夏の表情を見るちょうど良い機会。
 激減しているとアヤメの時期には、登らなかった。
 人が多いと思っているせいもあるし、アヤメが激減していて期待できないと、実際に登った人の山行記録を読んだせいもある。

 アヤメは本当に終わりなのかも知れない。
 今回の櫛形山登山では、「アヤメ」平に「マルバタケブキ」がたくさん咲いていた。
 北尾根を登ってやっとほっとするところがアヤメ平であるが、そのアヤメ平はもはやアヤメ平ではなく、マルバタケブキ平のようだったわけだ。
 これまでも何度か8月の櫛形山は登っているが、この黄色い花が繁茂している印象がとても強く残っており、今回もこの花が相変わらず、繁茂しているのに安堵した。
 
 このマルバタケブキ、アヤメも食べるシカもこの花には手を出さないと聞いた。
 だから、今後この花、あちこちでよく見られる花になる可能性もある

(h山好きなY-chanの登山ブログ、できれば週に1度のマイペースで、好きな、そして近くの山梨の山を中心として、長く山を楽しんでいくつもりです)
http://ychan.naturum.ne.jp/e601105.html

鹿は「マルバダケブキ」は食べない… しかし、北岳に出没する鹿は食べちゃうようで:

『北岳の肩ノ小屋で働く森本千尋さん(29)は2009年7月上旬、信じられない光景を目にした。
 二俣分岐(標高2225m)で、十数頭のニホンジカが高山植物マルバダケブキをむさぼるように食べていた。
 シカの群れは、しばらく辺りの植物を食べ、雪渓を横切っていった。

 こんな高い所でシカの群れを見るのは初めてだった。
 しかも、シカは本来、毒のあるマルバダケブキを食べない。
 「マルバダケブキを食べなければならないほど、ほかの植物を食べ尽くしてしまったのか」と食害の深刻さを実感した。

 山梨県の調査によると、北岳の登山道での食害は、標高1529mの広河原登山口から二俣分岐の先の標高2500mのあたりまで広がっている。

 南アルプス芦安山岳館の塩沢久仙(ひさのり)館長は、「数年前まで一面に黄色い花を咲かせ、群生していたシナノキンバイは、今ではほとんど見られなくなった」と話す。

 県の調査では、県内のニホンジカの推定生息数は、2005年度に約8400頭だったが、2008年度には3倍以上の約2万6000頭に増加。
 南アルプスでは、2005年度の約4600頭から2008年度には約1万2000頭に増えている。

 シカが急増した原因として、環境省南アルプス自然保護官事務所の宮沢泰子上席自然保護官は、
(1)山の積雪量が減り、冬に死ぬシカの数が減った
(2)林道が整備され、シカの移動が容易になった
――ことを挙げる。

 環境省は8月、北岳の標高2500〜3000m付近で、ニホンジカを追い払いながらの食害調査を初めて実施した。
 フンや足跡、植生被害を確認。シカを見つけると低地に追い払い、どこまで逃げるか、どのルートでもう一度登ってくるかを調べた。センサーカメラも5か所に設置し自動撮影された写真や動画のデータはこの1か月で100点を超えた。

 さらに9月までに希少な植物が自生する南アルプスの馬(うま)ノ瀬や三伏峠(さんぷくとうげ)、聖平(ひじりだいら)、茶臼岳(ちゃうすだけ)の4か所にシカが入れないように金網やネットで作られた防鹿柵を張った。シカの駆除も検討している。

 一方、県は9月から八ヶ岳などの鳥獣保護区でニホンジカの駆除に初めて乗り出し、今年度は計5400頭を駆除する計画だ。だが、南アルプスについては、標高が高く険しい場所での狩猟経験者が地元猟友会におらず、「駆除の計画はなく、来年度以降の検討課題」(みどり自然課)としている。

 約30年間、南アルプスの植生を研究してきた静岡大の増沢武弘教授(生態学)は、この夏の調査で、フンなどの状況からニホンジカの大群が北岳の標高2000〜2500mに及んでいることを突き止めた。シカは確かに高地に生息域を進めている。増沢教授は言う。

 「北岳の固有種キタダケソウなど希少な高山植物が多く生息する3000m付近に進出したら手遅れになる。早急に南アルプスでもニホンジカの管理捕獲を実施すべきだ」』
(2009年9月11日付け 読売新聞 南アルプスの稜線から異変追跡 シカ食害、山頂に急接近)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/feature/kofu1252414754810_02/news/20090912-OYT8T00920.htm

posted by fom_club at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする