2012年06月30日

微憤録

 検閲、ですよ、自主規制でもなんでもなく、「記録」したことがどこかで「削除」されてしまうんですよ、恐ろしや、恐ろしや。「表現の自由」って言葉はなんのため? どんなときのため?

 なんかさ、身の周りに見かけません? 昭和24年でなく平成24年の喜劇!
 カッコつけ屋の上司、えへら、えへら声を出して笑って、笑っていれば「明るい、今日も課長は元気だ」とひたすら受けねらい。
 何か物を言おうとすると「法的には」「法的には」って一知半解でも法律をかじっているぞ、と法学部出身を表にだそうとするあほう学部出身! (あんた法的、法的って言わっしゃりますが、こいつのガンマGTPの検査数値を渡せって言えば、データをコピーして渡すんですか、あんたってそやさかい、労働者の味方なんか、権力の味方なんか、どっちなんやぁ、ちい〜とも分からへんのよ、なんて死に物狂いの形相をした部下から問い詰められてましたなぁ、そしたら「法的」には下から上へのパワハラなんだっておっしゃっておまへんでったぁ〜、ビックリしましたなぁ〜)、かと思うと言葉でなくなんでもかんでもメールで訳のわからんことを指図する、トナリに座っている部下にもメールで業務命令をだす、もうなんとま、しゃぁない上司っていませんかね。

 6月18日タワーホール船堀の小ホールを満席にして、本音でお話しくださいました朝日新聞社の木村英昭記者のお話し「プロメテウスの罠」の思い返してみましょうか。「事実 Fact」を「記録」として残すのもジャーナリストとの使命、そりゃそうだ、何が起こったのか知りたくって新聞購読をして毎朝、自宅まで配達してもらっているんですよねぇ。でも、それすら危ういのだ、とおっしゃっていましたよね。
 その最低の任務のためにペンを走らせるはずの新聞記者にイマ、求められているのは、「デスクと闘ってもやるぞ、という<気概>」なんですって。

 へえ〜、ということは闘わないで指示待ち、ウソかホントかも分からないあいまいな表現をそのまんま活字にして紙上を埋める、それでクールビズのシャツに靴を買って節電に協力している振りをし、残業代を稼ぎ家族を養い、決まった飲み屋で「国民のため」と酔って政局を論じ、仕事が一段落するたびに有給休暇を使って海外旅行、ま、さすが「勝ち組」なわけです。メディア規制と表現について、葛藤なんてしてない、してない、どんどんと表現の劣化が進行してしまった平成24年梅雨どきです!

 そんな「事実」も「記録」にできなかった時代がそれほどムカシでないとき、でもないのかね、60年も前の文章ですからねえ、まそんなときがあった、というので今日もヤッホー君、びっくりしています:

『占領期日本で規制された表現の特色を考えるうえで参考となるのは…、映画監督・山本嘉次郎の「カツドオヤ微憤録−アメリカによる映画検閲滑稽譚」(文藝春秋臨時増刊号第30巻9号、1952年6月)における回想である。黒澤明が師事していたことでも知られるこの映画監督は、アメリカによる占領の終了後まもなく、GHQ/SCAPによる統制について、次のように記していた。

「焼け跡を撮影することは、絶対まかりならぬと来た。
 占領政策の妨害になるというのである。
 自分で焼いとおきながら、随分、勝手な理屈だと思つたがしようがない。

 焼け跡ばかりか、横文字の道路標識や、ジープや、進駐軍の建物など一切いけない。
 偶然に写つてしまつても、弁解は許されず、カットされてしまう。
 いまの東京で、横文字や、進駐軍施設をカメラに入れまいとするのは、並大抵の苦労ではない。
 
 またルンペンだとkさ浮浪児だとか、壕舎生活とかヤミマーケットなぞの、ひどいのは、撮影することができない。
 要するに「日本が負けたこと」「日本をアメリカが占領していること」の事実を、画面に現すことを禁じられたのである」』

(十重田裕一「内務省とGHQ/SCAPの検閲と文学−1920-40年代日本のメディア規制と表現の葛藤ー」(前掲書)

 それを踏まえて、川崎賢子先生の先に紹介した論文の出だしを読んでみましょうか。言わんとしていることが分かるはずです:

『鶴見俊輔は「直接にその場にいあわせた」のではないがと留保をつけつつ、「1943秋、学徒出陣にさいして、東大3年生の谷川雁は、おなじく兵士になる友人の送別会で、「たとえドレイになっても何かを語ろうではないか。イソップはドレイだった」と述べた。
 その二行によって彼は詩人である」と述べている(鶴見俊輔「谷川雁」『詩と自由-恋と革命(思潮社、006年)』

(川崎賢子「かいくぐることと自粛と-昭和モダニズム文学者・久生十蘭の検閲対応」(前掲書)

Estimates of the crowd’s size varied widely, with organizers claiming 150,000 participants, while the police put the number at 17,000. Local news media estimated the crowd at between 20,000 and 45,000, which they described as the largest protest in central Tokyo since the 1960s.

In Tokyo, Thousands Protest the Restarting of a Nuclear Power Plant
By MARTIN FACKLER
Published: June 29, 2012
http://www.nytimes.com/2012/06/30/world/asia/thousands-in-tokyo-protest-the-restarting-of-a-nuclear-plant.html?_r=2

主催者は参加者を約20万人としている。警視庁は今回、人数を発表しなかった
(2012年6月29日 23時33分 最終更新 毎日新聞「大飯再稼働:ネットで集結「反対」…官邸前に人の波)
 
関西電力大飯原発3号機(福井県)の原子炉起動を7月1日に控え、原発再稼働に反対する抗議行動が29日、東京・永田町の首相官邸周辺であった。短文投稿サイトのツイッターやフェイスブックなどの呼びかけで脱原発グループを中心に多くの人が集まり、警察関係者によると、参加者はこれまでで最大規模の2万人弱に上ったとみられる。大きな混乱はなかった
(2012.6.29 23:23 産経新聞 「原発再稼働反対に2万人 官邸前で抗議行動」)
…この数字の出所は「警察関係者」。警視庁は人数を発表しなかったそうで、では一体、誰? 不明…こういうのって情報操作、自粛、自己検閲でしょうけど、悦に入ってるんでしょうね) 
 
 6月18日月曜日、外国のメディアをのぞくと、この国の「赤旗」以外、口裏をあわせたようにいっさい報道しなかった首相官邸前のオオイ原発再稼動ハンタイの集会について、ヤッホー君が朝日新聞社の木村英昭記者に質問したくってうずうずしていた、「ニュースヴァリュウっていったい誰が判断するの、どんな基準があるの、記者は取材に飛ぶの、飛ばないの」ってもろもろのことですが、さすがに無視できなかったのか、夕べのデモ。

 はやくミンシュトウを離党してジミントウと一緒になればいいのに。ジミントウからは政治生命をかけた、というノダ消費税増税に一人も反対した議員がでなかったし、原発推進でこれまで政治をひっぱってきたジミントウに早く、うつっちゃいな。心から、心から、心から一刻も早く、ミンシュトウを去るよう願ってやみません。

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2012年06月29日

川崎賢子

 え〜、山歩クラブにも「三種の神器」ってぇのがございまして、それはリュックサック、雨具、山靴ですね、これがないとちょいとお〜、山歩きはむずかしいんじゃござんせん?と新入りの方にはご説明申上げております。
 これが、ま、市場経済で「三種の神器」って言うと、テレビ,洗濯機,冷蔵庫でしたね、1960年代のことでございます。これが70年代になると、3Cとか申しまして、カラーテレビ、クーラー、マイカーへと時代の波によって替わる、と申しますか、買わないで窓を開けて風の通り道でからだを冷やしてる、空っ風が吹く頃はセーターを着込んで襟巻きなんぞしていりゃ〜、「おい、お前、貧乏だな」と見られ、言われたりするんで、ま、懸命に働いて残業代も稼いで、そんで団地の一室には消費財を買っては電気代も使ったわけでござんす。
 週末になるってぇ〜と、クルマを車庫から出しては渋滞で動かない高速道につっこんでいったわけでござんした。

 こうした消費生活でいいんかい、時間軸で言ったらもっと将来、子や孫の時代まで考えて、空間的な広がりをいえば、アフリカや熱帯雨林とかさ、地球船、「青い地球」を見すえてみない? とまあ、イマ思えばほんの一部、少数でしたが、世論に訴えて、まヤッホー君もその実践者と自負はしていて、イマでも空調機に頼らない暮らしを送っているつもりではございます。いっつも地球儀をかかえて、足許の蟻んこのようなことからやる、だまって始める、それを毎日繰り返すってなことをしてきたわけでした。

 その三種の神器とか3Cとかでなくってさ、3S って知ってました? ってのが今晩の主題なんですう。またまたビックリしてしまったヤッホー君、敗戦後GHQ(General Headquarters)占領下の日本!

占領軍政府 GHQ/SCAP8(Supreme Commander of the Allied Powers)のなかでも、とくにCIE(Civil Information and Educational Section 民間情報教育局)の日本民主化政策が 3S(スポーツ、セックス、スクリーン)を重視していた
(川崎賢子「かいくぐることと自粛と−昭和モダニスム文学者、久生十蘭(ひさお・じゅうらん)の検閲対応−(前掲書所収)」

 こんな表現まで削除命令を受けてしまうんですよ:

『「さう心配したもんでもないでそう。フランスでは、自由・平等・友愛といふが、自由と平等は、こりや、どうしたって一致しないもんなんですからね。かりに日本にさういふ時代が来るとしても、差別のある平等、平等のある差別、といふやりかた以外に方法がないですよ」

 「自由」と「平等」というふたつの概念を融和させ、両立させるという課題が困難だという認識は、民主主義批判の言説ではない… だがそれらは検閲によって削除された。ここでは GHQ の検閲が、「国際性」「周縁性」「(文化的・民族的)ハイブリッド」という題材をあつかうことを制限していたのを確認しなければならない』

(川崎賢子 ibid)

 いやあ〜、書いた言説、書いた人物、その背景、組織、集団とどんどん検閲範囲が拡大していくとともに、表現者は自己の表現に自主規制、自粛の網の目をかけて、それでもパンのために筆を折ることをしないで、生きのびてしまうことを選択する、せざるを得ない、なんという哀れな、せちがらい、強権のポチ犬でしかないものに成り下がってしまったことか…
 
 面白い指摘でございます。いったい、この川崎賢子先生はどういう人?:

2011年3月11日、東日本大震災の日を、私は日本映画大学でむかえました。
 いつまでもおさまらない揺れのなか、気がつくと、同僚の先生方と固く手を握りあい、揺れる大地を踏みしめていました。
 実家が震度7で被災したため、家族の救出、引っ越しなど、環境の激変に翻弄される日々を過ごしました。
 ものを書く人間として、表現のむなしさに直面し、言葉を失うこともしばしばでした。
 けれども、恐怖と不安に閉ざされた現在に異を唱え、記憶の風化にあらがうすべは、私にとってやはり書くことであり批評なのだと、あらためて確認して今日にいたります。

 第二次世界大戦敗戦、GHQ占領期以降、原発安全神話をささえてきた新聞、TVなどのマスメディアに対する不信感がつのる一方で、情報を検証するメディア・リテラシーやジャーナリズム精神が今ほど求められる時はありません。
 一瞬、一瞬の変化に情緒的に対応するだけではなく、歴史のなかに体験を置きなおすことも必要です。
 「今」「ここ」とは異なる未来の選択肢を探るためにも、歴史に学んでほしいと願います
 皆さんとともに出発し、皆さんとともに学ぶつもりで、私はこの大学にいます

(日本映画大学教授)
http://blog.eiga.ac.jp/archives/1875451.html

 なお川崎先生が編んだ久生十蘭短編選は、岩波書店より文庫本として2009年5月に刊行されています。ぜひ本屋さんでお求めください:

『〈小説の魔術師〉として文学通の間で熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭(ひさおじゅうらん)(1902−1957)の精粋を、おもに戦後の短篇群から精選。
 世界短篇小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性の高い「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇』

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/31/3/3118410.html


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2012年06月28日

Occupied Japan

 ヤッホー君が今晩、ひょっこり顔を出したお店は"Portmans CAFE"(江東区清澄2−9−14 Tel 3641-1050)。

「Portmans は造語です。Port は港、でもこのあたり川、運河が多いですよね。船が行き交うところ、なによりも人が行き交うところ、そんな通行人がふいっと立ち寄れるようなお店にしたいな」ですって。

 いいですよねえ。内装もなにもかもすべてマスターの手造りなんですよぉ〜。
 お店の雰囲気、マスターの人柄がよくあらわれています次のサイトを、さ、いますぐクリック:
http://portmans.jugem.jp/

 検閲についてのあまりにも雑駁過ぎるかもしれませんが、書かれた文章の内容から、書いた人間にまで射程距離が伸びたことを感察したわけですが前夜、今夜はもう少し時代を下して、戦後の占領期を覗いてみたいのですう。

『「使節団のローマ字勧奨を、日本における過去の国語運動史、国情、国民の動向に対する認識の不十分さにもあるやうにさへ感じた。いはゆる第三者、特に国語改革に好意を示さなかった人びとは、さう感じ、甚だしくは、言語による米国の日本領有化のあらはれであるかの口ぶりをするものさへあった」

 文章はこのすぐあとに、それが「誤解、曲解からの印象にすぎない」と続き、「日本民主教育の新憲法ともいふべきこの報告書」が示したローマ字案は、「最も理想的な完全な国語改革案」だと賛同する内容になっている。石黒からすれば、引用部分は誤りの例として挙げたはずだったのが、検閲官はこの部分を削除する
、ように命じた』

(早稲田大学 塩野加織 「ローマ字化勧告をめぐる「誤解」−石黒修の検閲事例から」、『検閲・メディア・文学-江戸から戦後まで-(新曜社、2012年3月)』所収)

 事情がよく飲み込めていない門外漢、場外の人びとの「誤解」を払ってやろうというおせっかいが災いするのですが、真に「理解」するところでは大賛成なんですと、前提省略でのべなければならなかったんですって。
 1946年3月、マッカーサーの特使として米国から日本にやってきた米国教育使節団により総司令部に提出された日本語のローマ字化勧告を含む対日教育施策の報告書のことを言っております。
 この「引用部分の削除命令」は、その後、深い傷あとを日本人にのこしたのではないか、とヤッホー君は今日6月28日の「貿易記念日(注)」に考えていたんだそうです。
 もっぱら結論だけにとどめる、あるいは先に結論ありき、すなわち「御説ごもっとも」「賛同します」ということだけ、に留めるべきだったんだ、と。なぜ考えるか、考えたのかは「誤解」を招くだけなので、黙したまんま、秘めて腹に収め、語らない、つまり「議論」しない、できない、ということ…。自主検閲、自己責任です、ね。

『「占領軍は、その支配下にある7000万人にどのように対処するべきであろうか。問題なのは、日本人の頭の中にある脳である。日本の7000万個の脳は、物理的には世界のどこにある脳とも違いはない。実のところ、我々の脳と同じつくりなのである。日本人の脳は、我々の脳とおなじように善行もそして悪行も行なえる。全ては、その脳の中に詰め込まれる思想によって左右されるのである」
(1945年アメリカ合衆国ニュース映画「日本における我々の使命」)

 1945年9月2日から日本を占領下に置いた連合国軍が、何を最優先の課題としていたのかがここに見てとれる。その課題とは、日本人の頭の「中身」を変えることであった…』

(ブリティッシュコロンビア大学シャラリン・オルバー「振り子の揺れ-連合国軍占領下における紙芝居と検閲ー」前掲書所収)

 一番、国語国字問題に関心を寄せていた我らが山本有三先生は、じゃあ敗戦後、日本語をやめて英語にすべきか、せめてローマ字表記にしておくのがいいのか、あるいはカタカナ表記にすべきか、それとも横文字になったら、この日本、日本人を勝者アメリカに手渡すことになる、いったいどのように思って、どのように語ったり、書いたりしたのでしょうか、興味シンシン!

 『「ペンを折る」を書いて「路傍の石」を中絶してしまったのである。それから7年の歳月が流れている。もういまわしい戦争も終わった。軍国主義の政府もなくなった。今度こそ自由に書けるはずであるが、しかし私は、どうもあとを書きつぐ気になれないのである。しょせん、「路傍の石」は、ほうりだされる運命にあるものと見える。
 …私の望みは、一日も早く日本が立ちなおることである。立ちなおって、世界人類のために役だつようになってもらいたい、と願うだけである』

(1946年2月10日付けあとがき」 鱒書房版『小説路傍の石 新編』)

(注記)
 え〜と、「貿易記念日」ってねぇ〜、ウイキによりますと、
「安政6年5月28日(新暦1859年6月28日)、江戸(徳川)幕府がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5か国との間に結んだ友好通商条約に基づき、横浜・長崎・箱館(函館)の各港で自由貿易の開始を布告したことに因み、1963年の閣議決定で制定」だそうで。
 でもさ、これって「不平等条約」で、だから明治になってすぐ欧米に岩倉具視、大久保利通らが条約改正の交渉に出向いたんじゃなかったっけ。
 今日の記念日もですので、これも「議論」のない、お上の決めた変な「記念日」ですよね。

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2012年06月27日

感察

 帰宅の際、エレベーターでたまたま同じフロアの大学生と一緒になりました。
「大学はどこにあるんだい?」と爺やが聞きました。
「杉並区にあるので1時間10分、15分はかかります。今日も授業で行っていて、いま戻りました」と笑顔で大学生は答えてくれました。
「がんばってな」
「はい」

 聞きたいこといっぱいあるのに、いっつもこんな会話くらいしかできないでいます。この大学生とは小学生の頃から口をきく仲なんですけど、会話の中身はいつも貧弱で、この程度。
 でもヤッホー君にはこの子、小学生の頃から真正面から目を逸らすことなく、いっつも目を向けて唇に微笑を浮かべて会話のできるとてもいい子、と高い評価をあげています。ヤッホー君のこんな心模様がこの大学生にもきっと伝わっているのかも知れませんね。そんな人と人との関係性については山本有三先生、『路傍の石』ほかで、もっと達観し、もっと奥行き深く、述べているところがある、と言えなくもありません。

 頁をくくるたびに、おいおいと涙を流してしまうヤッホー君、それは唐木順三もそうでした。そう、そう、こんなことを:

あの最後の場面を読んだ日だったろう、私は銭湯の人混みの中で、「沈黙の懺悔! 沈黙の懺悔」と口に出しながら、涙を出している自分にうろたえた
(唐木順三「山本有三」、筑摩書房『現代日本文学大系44 山本有三・菊池寛集(1985、昭和60年)』付録所収)

 読ませます、山本有三。今日は、『西郷と大久保』。
 あの岩倉具視米欧使節派遣団ご一行さまの帰国直後の場面、です。いま、どこかで三幕芝居のこの戯曲、脚本は再版で活字にして発刊し、さらにお芝居で演じていただければ、と心から、心から、心から願っております。

 山歩クラブと同んなじ下町が舞台。向島の場面で:

西郷:天気じゃないか、汝(わい)にはそれが分からんか。

 桐野:面白くもない。天気なんかどうだつていい。一体お前様はすぐ天を云ふ。併しわたしには、天なんか分らない。天なんかいくら覗いたつて、考へたつて、わたしには余り隔り過ぎる… 人間を相手にして下さい。そんな空な当てにならぬものよりも、もっと張合のあるものを相手にして下さい。

西郷:汝は天を当にならぬといふ。併し人間こそ最も当にならぬものではないか。それを汝も今度ははつきり見た筈だ。…御一新後の日本は、さういつまでも旧のままじやいられないのだ。もうそろそろ咲くべき時節が到来したのかもしれない。己はそう感察している。そして右に開くべきものは右に、左に開くべきものは左に、各その開くべき方向に向かって開いてこそ、はじめて立派に花になるのだ。皆が皆、右に寝てしまつては、花が花にはならないのではないのかな


 第三幕での述懐です:

大久保: わたしと西郷とは両立し難い人間です。例えば冬と夏とのようなものです。二人は当然、離れるべき運星なのです… 夏のさ中に雪が降るような時勢であったから、それが(二人は一体のようにお働きになったこと)目立たなかつたのです。けれどももの事が緒について、時候が追々定まつてくれば、夏は夏、冬は冬、それぞれの位置に返るのが順当でせう。そして夏は夏らしく、冬は冬らしくあつてこそ然るべきものだと私は思つてゐます

 そしてエンディングに、大久保は次の額を掛けさせます:

盡人事竢天命 南州書

 この『西郷と大久保』は1927(昭和2)年10月28日改造社より刊行されています(山本有三40歳)。
 改造社は、ヤッホー君のブログでも、アインシュタインの招聘、香川豊彦について記した日記のなかでも紹介していますが、昭和2年7月現在の図書目録として巻末にリストがあげられているが、なんとまあ、多岐に富んだ、すごい。以下のような本が、たくさん刊行されています:
☆ ニコライレーニン『レーニズム』
☆ 茂森唯士訳トロツキイ『文学と革命』
☆ 山川均訳ヨゼフ・ディツゲン『無産階級の哲学』
☆ 山川均『レーニンとトロツキイ』『生存競争の哲学』
☆ 高畠素之『マルクシズムと国家主義』
☆ 末川博『ソヴェエトロシアの民法と労働法』
☆ 末広厳太郎『労働法研究』
☆ 香川豊彦 ミリオンセラーとなった『死線を越えて』『星より星への通路』
☆ 若山牧水『樹木とその葉』
☆ 槙有恒『山行』

 昭和に入って、ペンを握って書いて世に問う作家たちにいったい何が起こっていたか、何が待ち受けているのか、安閑としてはいられない事態がおしよせてきているようです。
 山本有三自身、46歳の1933(昭和8)年の6月、非合法の共産党への資金提供の疑いで検挙、留置により、前年の10月から東京・大阪両「朝日新聞」に連載していた『女の一生』は中絶を余儀なくされ、釈放後、書き足して完結している有り様なのです。いやはや。

文学に検閲がふるわれることは何度もあった。しかし、それは、小説の想像力が姦通や性愛に及び、政府批判につながる内容となったときであった。
 ところが今回は(関東大震災)、そうではなかった。見聞きした事実を伝えること自体が取り締まりの対象となったのである。
 これはそれまで文学者たちが体験していなかった領域に入ったことを示す

(紅野謙介『検閲と文学-1920年代の攻防-(2009年、河出書房新社)』72頁)

 1930年代に入ると、もはや書いた内容でなく書いた人物まで、見えない権力から狙われていくのです:

松本学の名は天皇制国家の暴力を体現した不気味な存在として記憶の底にあった。熱海事件をはじめ岩田義道・小林多喜二虐殺、野呂栄太郎検挙・致死など、共産主義運動と組織の壊滅的弾圧に辣腕をふるった張本人、松本学は、特高資料に黒ぐろとその名をとどめている。
 警保局長時代の検挙・弾圧のすさまじさは、後任の唐沢俊樹をして、「自分の時代にはもう共産運動というものがほとんどなかった」といわしめたほどで、在任中の治安維持法違反事件による検挙学者・被起訴者は、戦前最高を記録する

(海野福寿『1930年代の文芸統制ー松本学と文芸懇話会ー』)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6040/1/sundaishigaku_52_1.pdf 

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2012年06月26日

お月さまは、なぜ落ちないのか

 吾一が19の歳、やっぱり日露戦争がおこります。
 『黒雲がとうとう、あらしを呼んだのだ』と山本有三は書きます。

 吾一は自分のことを「ぼく」と言えます。どのくらい使ってみたかったことば、だったことでしょう…

彼が今日まで歩いてきたのは、「ぼく」という代名詞を使いたい、使いたいと思いながら、使えなかった歴史ではないか。
 「てまえ」ということばをしいられてきた少年にとってはー、たかだが「わし」か、「わたし」しか言えなかった少年にとっては、「ぼく」という代名詞は、たとえようもなく、尊いものだった。
 その言葉の本来の意味はどうであろうとも、そのことばの響き、そのことばのかもしだす高いかおりというものは、何にも増して、あこがれのまとだった


 吾一は文明堂で一人前の日給がとれるようになり、天じょうの低いやね裏のへやに間借りをはじめました。
 その家主の家族、あんちゃんの得次から『お月さまはどうして落っこちないの?』って聞かれたら、吾一だったらどう答えるか、というのが出てきます。
 作者は、得次にこう語らせるのです:

おい、英公、お月さんが落っこちねえのはな、お天とうさまとお星さんと、仲よく手をつないでいるからさ

 この言葉の意味するところは? 吾一の考えは? この先、成人になって何を考え、どんな人生を歩んでいくのでしょうか。
 折りしも、間借りしていた家のそば、文明堂の方角に火の手があがります。

 今朝6月26日火曜日の朝、通勤電車のなかで、昨年2001年3月25日で40刷を数える新潮文庫版のページをくくったら、突然、『ペンを折る』が現れていやあ〜、ヤッホー君、ビックリして、文庫本をひっくり返したり、振ったり、叩いたりしていましたって。
 だって、吾一は火事にどう立ち向かうのか、どんなことになるのか、と思ってページをくくったのですから。

 どんなに文庫本を覗いても吾一は姿を現しません。代りにやはり、1940(昭和15)年6月20日付けで作者、山本有三がひょっこり顔を現すのです。

 ぜひヤッホー君のこのブログにお付き合いいただいている読者の皆さん、毎日200人ほどの訪問者数を数え、ページヴューアーですと毎日1000人を誇る読書の皆さん、ぜひ本屋さんで文庫本を見つけてお買い求めの上(895円)、いっしょに考えていただければヤッホー君、たいへんうれしく思いますとのことです。

 ビデオの巻き戻しではありませんが、最初に戻って、今度は作中でいったい何度涙を流し、泣いているか、その数を数えてみようかな、と考えながら、ヤッホー君は表紙を眺めているそうです。
 イマはどのチャンネルを回しても笑ってばかり、ムカシは男の子も、男の大人も泣いてばかりいたんですねえ〜

 記念館前にあった「路傍の石」… こんな大きな石なんですよ:
路傍の石.jpg

 記念館中庭… ここで仲間三人、お弁当を広げました。
記念館庭園.jpg

 紫陽花… 記念館までの玉川上水沿いの「風の散歩道」にも咲いていましたが、やはりここは記念館中庭に楚々と咲くガクアジサイをご紹介しましょう:
紫陽花.jpg

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2012年06月25日

かんなん、なんじを玉にす

 吾一は「五助」と呼ばれた呉服屋にはもういたたまれず、冬ものの季節で忙しい最中、おっかさんの死をきっかけに、憧れの東京へと出て行きます。そして葬式に顔もださなかったおとっつぁんが住んでいるはずの根津へと向かいますが、いませんでした。14歳のとき、です。

 社会状況は、と言いますと、『路傍の石』に記述がありますが『条約改正』でした。
 外国との不平等条約改正は明治政府の悲願で、1871(明治4)年に岩倉具視らを欧米につかわしたのがはじめとされています。そして終に:

1894(明治27)年,日清戦争のはじまる直前,外務大臣、陸奥宗光(むつむねみつ)は,イギリスとの間に日英通商航海条約をむすんで、治外法権の廃止に成功した。つづいて各国との条約も改正された
(学習百科辞典キッズネットサーチ) 
http://kids.gakken.co.jp/jiten/4/40005400.html

 東京にでた吾一、しかし今度は「小僧」とただの普通名詞に置き変えられてしまったのです。父親が借りていた母と娘がやっている貸し間に居候になっていたときです。娘のかよ子からはこうからかわれます:

今度は<衆議イン、議イン>ってのをやってごらん、−−おい、小僧、やってごらんたら

 大日本帝国憲法にもとづいて第1回帝国議会が召集されたのは、1890(明治23)年のことで、その年の11月29日に開院式が行われています。

 さらにその貸し間を追い出された吾一は今度は「おともらいかせぎ」のおばあさんの世話になります。名前すら呼んでもらえません、名無しの「おまえ」です。

 それから貸し間にいた黒田さんとばったり出会って、保証人になってもらって、「文明堂印刷所」の文選見習いになります。見習いの間、住み込みなので「しきせ」と「小遣い」だけです。「しきせ」って岩波国語辞典によりますと、「主人から使用人に(その季節の)衣類を与えて着させること、その衣服」ですって。15歳のときです。

 その文選見習いのときに、今度は、恩師の次野先生とばったり会うことができたのです。そして、慶応義塾出た稲葉屋のおじさんも亡くなったこと、しかしそのおじさんは吾一に100円もくれていたこと、でもこのお金は、次野先生の奥様の病気で先生が使いこんでしまったこと、しかし次野先生の勤め先でもある夜間の商業に、先生が吾一の向学心に応え、通えるようにしてもらったこと、物語はどんどん展開していきます。

 その間、大事な人生いかに生くべきか、大事な教えを吾一は受けています。
 ひとりは、印刷所の保証人になってくれた貸し間のポンチ絵の絵描き、黒田さんです。
☆ 「時代の声をほえるんだ。おれたちは番犬じゃねえ。飼い犬じゃねえ。時代の主人として、ほえようって言うんだ」
☆ 「人間はな、人生というトイシで、ごしごしこすられなくっちゃ、光るようにはならないんだ」

 もうひとりは、印刷所の裏手の炊事場の大きな釜で湯を沸かしている老人です:
☆ 「辛抱するんだよ。つらくっても、我慢をしなくっちゃいけないよ」
☆ 「働くってのは、≪はた≫を≪らく≫にしてやることさ」

 最後に、次野先生;
☆ 「きさまは前途のある人間だ。しっかりやらなくちゃいかん」
☆ 「いつかおれが言ったように、吾一って名まえに対して、恥ずかしくないように、生きなくっちゃいかんぞ」

 そして次野先生のはからいで、秋の学期から夜学の商業学校に通うことになりましたが、その1時間目が地理の時間、その講義で北清事変のことを聞きます:

 「北清事変」ってのは、と言いますと、これも国立国会図書館のサイトより:

1900(明治33)年、義和団事件が北京・天津に波及し、清国政府も義和団に加担した。
 列国は鎮圧に動き、日本はイギリスの要請に応じ大軍を派遣した。
 1901(明治34)年9月、北清事変最終議定書が結ばれたが、これにより、外国軍の北京公使館区域への駐兵が認められるなどした。
 また事変の最中、東清鉄道保護の名目で満洲主要部を占領したロシア軍が事変終結後も撤兵しなかったことは、日露戦争の遠因となった

http://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description24.html


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2012年06月24日

路傍の石

吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかないという意味だ。
 世界に、なん億の人間がいるかもしれないが、おまえというものは、いいかい、愛川、愛川吾一というものは、たったひとりしかいないんだ。
 どれだけ人間が集まっても、同じ顔の人は、ひとりもいないと同じように、愛川吾一というものは、この広い世界に、たったひとりしかいないのだ。
 そのたったひとりしかいないものが、汽車のやってくる鉄橋にぶらさがるなんて、そんなむちゃなことをするってないじゃないか


 山本有三の小説、『路傍の石』で、高等小学二年のとき、担任の次野先生が教えてくれた言葉でした。勉強が好きで、中学にはいるための勉強もすすんでする吾一を見込んで、稲葉屋の慶応義塾をでた安吉が茶色の表紙の薄い本をあげます。

『≪人ハ生レナガラニシテ貴賎貧富ノ別ナシ。
 唯学問ヲ勤テ物事ヲヨク知ル者ハ貴人トナリ、富人トナリ、無学ナル者ハ貧人トナリ、下人トナルナリ≫
ということばになぞにはすっかり感激して、そこのところは、なんべんもくり返して読んだものだから、いつのまにか、そらで言えるほどになっていた』


 しかし吾一は父親の理解を得られず、中学にすすんだ同級生の親が呉服やの商いをしている伊勢屋に奉公にだされ、「五助」と呼ばれてしまうのです。

 五助は吾一に戻れるのでしょうか、ヤッホー君はさっそく1937(昭和12)年1月1日から6月18日まで「朝日新聞」に連載された『路傍の石』を読み始めています。また、読みつつこの「日記」に記していきます。6月、ということは第一部が終わった、ところなのですが、作者付記として1936(昭和11)年内出血をした目が本復せず、健康もすぐれないという理由で終わることを書いていますが、本当のところは、

翌月に突然日華事変が起こったので、軍国主義の思想が、いやが上にももりあがり、寺内内閣以来、絶えず軍部からにらまれていた朝日新聞社は、かなり苦しい立場に立ったらしい。
 そのために、私のような作家の作品を連載することは、危険と思ったのか、自然あとまわしということになり、「路傍の石」の続編は、1年以上たっても掲載される運びにいたらなかった

(1947(昭和22)年3月20日発行、鱒書房版「小説路傍の石新編」のあとがき)

 そして山本有三は翌月、参議院議員選挙に全国区から立候補し第9位で当選します。そして撫所属議員を集めた「緑風会」の結成に関わり、「国民の祝日」「満年齢」「文化財保護法」「国立国語研究所設置法」制定に尽力していきます。

 「緑風会」綱領はウイキで読むことができます:

一、新憲法の基調たる人類普遍の原理にのっとり、愛と正義にもとづく政治の実現を期する

二、国際信義と人類愛を重んじ、世界恒久平和の実現を期する

三、個人の創意を尊び、自由と秩序の調和による共同福祉の実現を期する

四、家庭と民族における弊習を去り、その特性の発揚と完成を期する

五、教育を徹底せしめ、道義の高揚と文化の向上普及を期する

六、産業の公益的意義と勤労愛好の精神を強調し、国民経済の興隆を期する

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生きてきたを伝える

 本、『心に太陽を持て』(山本有三著、新潮社、1989)の解説(高橋健二)を要約すると、高橋氏は、山本有三が1931(昭和6)年から1年半ドイツに留学をした際、ドイツの詩人ツェーザル・フライシュレン(1864-1920)の書いた詩と出会い、1935(昭和10)年1月から日本放送協会のラジオ独逸語講座を担当したときに、真っ先にこの詩をテキストに取り上げた、とされています…

 ヤッホー君が「新国会丼」をいただきに6月16日土曜日に訪れ、館内で迷子になってしまったあの「国立国会図書館」が、「心に太陽を持て」の訳詩の異同を調査した報告書なんですねぇ〜、すご〜い。
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000066392
 
 山本有三が訳した邦訳には、1935年の戦前版と1989年、1991年版の戦後版とがあることがわかります。

 山本有三がドイツに出かけた頃って、世界恐慌とファシズムの台頭のころですよね、ヒットラーが頭をのしあげてくるころ:

ドイツのナチ党指導者として1920年代に登場し、ヴェルサイユ体制の打破、ユダヤ人の絶滅、共産主義の排除などを主張して世界恐慌後の不況に苦しむドイツ国民の中間層の心を捉え、1932年の総選挙ではナチ党を第一党に押し上げた。
 1933年に首相に任命されると国会放火事件をでっちあげてドイツ共産党を非合法化し、全権委任法で独裁体制を確立させた。
 1934年には総統となってヴァイマル共和国は崩壊し、ドイツ第三帝国の独裁者となった。
 国内には巧妙な大衆宣伝で人心を捉える一方、親衛隊・ゲシュタポなどを通じた軍事警察機構を強化し、言論・政治活動の自由を奪い、ファシズム体制を作り上げた

http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo15_4.htm#069

 ファシズムの巧妙さというのは、軍事クーデターではなく、共和国体制下の「選挙」で、民心、民意をつかみ、勝利し合法的に政権奪還したこと、そして立法権を掌握、つまり、民心、民意を背景に権力を確立していったことにあります。
 決して戦車も武器弾薬も内戦もせずに、静かに革命を成功させていくのです。
 ナチ党にせよヒトラーが入党した当時は、ドイツ労働者党といって、ミュンヘンという一地域の小さな地域政党、ローカルパーティであったわけです。
 
 この引用の出処となった世界史の用語辞典のようなすばらしいサイトから、「全日本年金者組合鎌倉支部」のホームページに飛んだので、6月24日日曜日早朝、びっくりしたヤッホー君、さっそく『生きてきたを伝える』(昨年2011年秋刊行、500円)を注文することにしたそうです。だってぇ〜:

あの敗戦から66年がたった。
 わが国を含むアジア人2300万人の血であがなわれた
 平和憲法もなし崩しにされようとしている。
 改憲勢力は国会で圧倒的多数を占めている。
 憲法96条を変え、議員定数を減らし、
 改憲を容易にしようと画策している。
 私たちは今、正念場に立たされている。
 年輩者は自分たちの「生きてきた」過去を
 後進に伝えなければならない義務がある


 う〜ん、そう、「心に太陽を持て」の詩で出会った山本有三が感銘を覚えたドイツが、次第に暗雲、黒雲に覆われていくように、「なんか変な感じ」がしないわけでもないのです。それは昨日の土曜日、大阪でのこと:

橋下徹大阪市長は6月23日午後、代表を務める大阪維新の会の政治塾入塾式で
命をなげうつ覚悟で激しく熱い人生を共にしたい。戦いは勝たないと意味がない。日本を変えよう
と約900人の塾生に訴え、次期衆院選へ準備を加速させる考えを示した。
…「徹底的に議論して、最後は多数決」と、同会の意思決定の仕組みを強調。
…同会と連携が取り沙汰されている石原慎太郎東京都知事が基調演説。「みなさん、一緒に頑張っていきましょう」と“共闘”を呼びかけた

(維新塾 2期目スタート 橋下氏「国の形を変えるための戦士に」)
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/06/24/kiji/K20120624003528110.html

 メディアの報道はどれも似たりよったりで、新しいリーダー待望論で一斉に紙上をにぎわせています。
 でも、読者の気分に訴える記事内容で、この間の朝日新聞木村英昭記者じゃあ〜あ〜りませんが、「事実 Fact 」の報道が欠落している、と思いませんか。
 「徹底的に議論」っていうけど、最初に結論ありき、でその結論を導くためにどう民意、空気を誘導していくのか、「戦士」に対しどんなトレーニングを課すべきか、そんな議論だったりするとこわいもんがあります。
 「日本を変えよう」って言われたって、どんな日本にするのか、なるのか、伝えられていません。「ふわっとした空気」でしかないっすよね、おう、恐い怖い… また騙されるのかな、気づいたときにはもう遅いって…

 見つけました!ありました!
 「今の日本、皆さんにリンゴを与えることはできません。リンゴのなる木の土を耕し直します」
(維新政治塾・レジュメ 平成24年3月10日(Ver1.01)
http://oneosaka.jp/news/index_2.html

 この"one osaka"も岡倉覚三の「ひとつのアジア」と似ても似つかぬもの、「維新八策」なんて「船中八策」と似ても似つかぬもの、というか、こういうのを「換骨奪胎」というのでしょうが、「勝つか負けるか」の戦いゆえ、上官の評価基準を満たさない兵隊は、戦士でないのだから、生存の意味がなく殺処分にされるんだしょうね、きっと。
 この「日本」がそんな国になるのでしょうか・・・あ〜
 おまけにこの高橋洋一とか竹中平蔵とかって、格差社会を招いた小泉改革の参謀たちでしたよね、ちっとも新しくないですよね、もうどっかに消えていなくなった亡霊か幽霊の再稼動? へぇ〜!

 いつまでたっても欠食児童のヤッホー君、汗水流して土を耕す前に、今リンゴが欲しいんですけど。リンゴが買えるお金をください。仕事をください! でもリンゴより主食、安全で安価なおコメが欲しいんですけど…
 国だってオスプレイも買わなきゃなんないし、おもいやり予算もつけなきゃなんないっしょ、原発をまた動かさなきゃなんないし〜、がまん、がまんと耐久生活を強いられ、大分経ったあと、ようやくリンゴが実るようになったら、小っちゃな、虫喰いだらけのリンゴや青くって酸っぱいリンゴを食わされかねないし、大風が吹くからって動員されて、リンゴが落果しないよう雨風のなか、風除けに木のまわりに立たされたり、だからアメリカ産のリンゴを食べたほうが安くって美味しいんだから、なんてリンゴの木を伐り倒されかねないし… 今日の空模様のように、なんかこころが晴れないのです。
 
 でも、でも、「いつも心に太陽を」ですよね。昨日の23日土曜日、沖縄気象台は「沖縄地方は梅雨明けしたと見られる」と発表したそうだし…

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2012年06月23日

心に太陽を持て

Those school girl day
if telling tales and biting nails are gone
But in my mind I know they still live on and on
But how do you thank someone
who was taken you from crayons to perfume
It isn't easy but I'll try
If you wanted the sky
I'd write across the sky in letters
That would soar a thousand feet high
To sir with love
The time has come

For closing books and lock less looks like stares
And as I leave I know that I am leaving my best friend
A friend who taught me right from wrong
And weak from strong that's a lot to learn
What can I give you in return
If you wanted the moon
I would try to make a start but I
Would rather you let give my heart
To sir with love


"To Sir, with Love" is a 1967 British drama film starring Sidney Poitier that deals with social and racial issues in an inner city school. James Clavell both directed and wrote the film's screenplay, based on the semi-autobiographical novel To Sir, With Love by E. R. Braithwaite.

The film's title song "To Sir With Love", sung by Lulu, reached number one on the U.S. pop charts, and ultimately was Billboard magazine's No. 1 pop single for the year, 1967.
http://en.wikipedia.org/wiki/To_Sir,_with_Love

 英語版ウイキからです。当時1967(昭和42)年、大ヒットしたシドニーポワチエ主演の映画「To Sir With Love(邦題は「いつも心に太陽を」)の説明でした。映画に音楽に、なんか人生のなかで一番良かった季節のような感じがヤッホー君にもしています。ダスティン・ホフマンの「卒業」もそうだって…

 では、映画の主題歌を:
 いつも心に太陽を/ルル:
http://www.youtube.com/watch?v=7aSFoY3W3NM

 ほかには:
☆ 007は二度死ぬ/ナンシーシナトラ:
http://www.youtube.com/watch?v=XgFtQPgHyek
☆ L'AMOUR EST BLEU(邦題:恋はみずいろ)/ヴィッキー;
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=wPMoHcYhwwI
☆ ビートルズまで:
Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band-The Beatles
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=fv8FMGnLPWA

 いえ、ね、山本有三にまだこだわっているヤッホー君、やはり、「心に太陽を持て」を紹介せざるをえません:

 心に太陽を持て。
 あらしが ふこうと、
 ふぶきが こようと、
 天には黒くも、
 地には争いが絶えなかろうと、
 いつも、心に太陽を持て。

 唇に歌を持て、
 軽く、ほがらかに。
 自分のつとめ、
 自分のくらしに、
 よしや苦労が絶えなかろうと、
 いつも、くちびるに歌を持て。

 苦しんでいる人、
 なやんでいる人には、
 こう、はげましてやろう。
 「勇気を失うな。
 くちびるに歌を持て。
 心に太陽を持て。」


 これは1967年ではありません。
 それよりもなんと、30年以上も前のこと、1935年10月、新潮社からでました『日本少国民文庫』全16巻の第12巻で第1回目の配本になります。
 1935年は、満州事変が1931年ですので、この国の軍部が次第に勢力を強めていった頃のことです。
 こんな時期、荒れ狂うファシズムによって、当局による検閲もあり、思うような表現ができない時代風潮にありました。
 そんな時代風潮に抗して、ヒューマニズムの精神をもっていた山本有三は、次世代の子どもたちに夢と希望と進歩のある、自由で豊かなこころの文化を伝えようとしたのだと言われています。
 イマだからこそ、再読、精読し、山本有三といっしょに、作者の意図と、その意味するところを共有したい、とヤッホー君は、こころから強く願っているとのことです。


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2012年06月22日

沖縄戦

 オキナワ三題:

沖縄県は6月23日、太平洋戦争末期の沖縄戦が終結したとされる「慰霊の日」。
 住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が死亡した凄惨な地上戦の犠牲者を悼み、平和への思いを新たにする。

 最後の激戦地となった沖縄本島南端、糸満市摩文仁の平和祈念公園では22日夜、追悼行事を開催。
 公園に設置された、国籍、軍民の別を問わず、すべての犠牲者の氏名を刻む「平和の礎」には今年、36人が追加刻銘され、合計で24万1167人となった。

 23日は正午前から平和祈念公園で、野田佳彦首相らが出席して沖縄全戦没者追悼式が開かれる

(2012年6月22日 20時19分更新東京新聞「23日は沖縄「慰霊の日」 地上戦の犠牲者を追悼)

6月23日は沖縄戦の「慰霊の日」です。
 しかし日本「本土」に暮らす市民は、この日、沖縄戦の犠牲者に思いを馳せるだけでなく、多くの米軍基地が沖縄に押しつけられているため、今も危険に晒されている沖縄の人びとの日常に目を向けるべきではないでしょうか。

 米軍・普天間飛行場は周辺に多くの住居や学校が隣接して危険すぎるため、米本国なら違法とされ建設が許されない施設です。
 2004年には沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落しました。
 米政府はそんな普天間飛行場に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを配備しようとしています。
 オスプレイは開発段階から多くの墜落事故を引き起こし、30人以上の兵士が犠牲になっています。
 今年4月に入ってアフリカ北部モロッコで合同演習中に墜落し、搭乗していた海兵隊員2人が死亡しました。
 さらに今年6月14日(日本時間)、米国フロリダ州で、訓練中のオスプレイが墜落しました。

 報道によると、米政府は普天間基地の大規模補修のため、8年間で200億円を日本政府が負担するよう求めていると言います。そのような大規模な補修を行えば、返還されるべき普天間基地が固定化されかねません

(沖縄にオスプレイは要らない!)
http://jucon.exblog.jp/

 明日6月23日土曜日は16:00〜18:35、『フクギの雫』上映&トークがYMCAアジア青少年センター9F国際ホール(東京都千代田区猿楽町2-5-5、JR水道橋駅徒歩5分 御茶ノ水駅徒歩8分 地下鉄神保町駅徒歩7分)で開催されます(参加費500円)。ぜひ訪れてみてください。『子どもの上に墜落するオスプレイの模型』(約4m)展示もあります。

 トウデンフクシマダイイチゲンパツも首都からは遠いところにありました。まして、オスプレイなんて海外のオキナワです。でも、遠いところからの声に耳を傾け、想像力をはたらかせ、それこそ言われている『絆(キズナ)』を強めないといけないのではありませんか。

 オキナワからの声、さらに三題続きます。琉球新報の社説の転載です:
   
民主党政権は一体、何を血迷っているのだろうか。消費税増税を柱とする社会保障と税の一体改革関連法案の自民、公明との修正協議で、なりふり構わず両党に歩み寄る姿勢をみると、その思いが一層強まってくる。
 法案成立のためなら、政権交代を目指して誓った公約もかなぐり捨てていいとの姿にしか映らない。
 消費税も2009年の衆院選で「政権交代から4年間は上げない」と明言していたはずだ。
 野田佳彦首相は同法案の今国会成立に政治生命を懸けると言っているが、それは公約を破棄することに政治生命を懸けると言っているに等しい

(2012年6月13日「消費税増税 拙速な決断避けるべきだ」)

この恐るべき安全軽視が、本当に政府による決定なのか、にわかに信じられない。
 関西電力大飯原発3、4号機の再稼働を政府が正式決定した件のことだ。
 安全を置き去りにした決定は、政府が国民に恐怖を強いるに等しい。
 直ちに決定を撤回すべきだ。
 野田佳彦首相は「福島を襲ったような地震や津波が起きても事故は防止できる」と断言したが、科学的根拠が見当たらず、あまりに無責任だ

(2012年6月18日「原発再稼働決定 政府による恐怖の強制だ」)

米軍普天間飛行場に隣接する宜野湾市の普天間第二小学校など、基地周辺の学校に防衛省が設置した防音窓の遮音量が基準を下回っていた。
 琉球大学工学部の渡嘉敷健准教授が測定したもので、県教育庁や関係自治体の教育委員会、それに設置主体の防衛省はこれまで一度も性能検査を実施していなかったというから驚きだ。
 「防音窓の性能は調べたことがない。誰がやるべきかよく分からない」
 「誰がやるべきか、明文の規定はないのではないか」
 本紙の取材に、各教育委員会の担当者から返ってきた回答だ。
 一方、防衛省は同省の規定を盾に、遮音量の測定は自治体の管理責任だと開き直る。
 どちらも無責任としか言いようがない。
 工事を施せばそれで終わり、という悪しき「役所の体質」と指摘されても仕方がないのではないか

(2012年6月22日「教室防音基準以下 平等に教育受ける権利守れ」)

 政府・政治家、役所・官僚、政権政党・ミンシュシュギ、の機能不全、無責任だけが目立つ梅雨時です。どちらさまも体調管理には十分注意なさってお過ごし下さい。おやすみなあさい眠い(睡眠)

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特別調達庁

三鷹市山本有三記念館は初め清田龍之助の住宅として建てられました。
 清田は米エール大学院を卒業し、商社役員や大学教授も務めた人物です。


(注記: 濱口商事というのがありました。これは、醤油醸造業の濱口家が販売のために興した会社で、ヤマサ、ヒゲタ、キッコーマンいずれも濱口家ゆかりの会社でした。清田は、その濱口商事株式会社総支配人の任に就いたのです。しかし結局その事業が破綻し、11年後の昭和6年4月に再び、東京商大予科講師として、現在の一橋大学に戻ったのでした) 

 1918(大正7)年に三鷹の土地を購入した清田は、1926(大正15)年12月に建物を登記して間もなくここに住所を移しました。
 清田が実業界を退いた後、三鷹の家は1931(昭和6)年6月に競売に付されました。
 
 山本有三はその頃、武蔵野村(現武蔵野市)吉祥寺に住んでいましたが、家族が増えて家が手狭になりつつあったことや、周辺に家が建て込んできたことから、執筆に適した環境を探していました。
 三鷹村(現三鷹市)下連雀に建つ洋館を訪れた有三は、静かな環境を気に入り購入を決意。
 1936(昭和11)年に土地と建物を購入し、母ナカ、妻はな、4人の子どもたちと共に移り住みました。
 三鷹での有三は、「路傍の石」や「米百俵」などの執筆をはじめ、「ミタカ少国民文庫」の開設や国語問題への取り組みなど、重要で多彩な活動を行いました。
 
 戦中、5回に渡る空襲でも戦火を免れた三鷹の家ですが、進駐軍に接収されることとなり、1946(昭和21)年11月に有三はやむなく転居。
 その後も有三が三鷹に戻ることはありませんでした。
 1951(昭和26)年に接収が解除された建物は、国立国語研究所三鷹分室として利用され、有三が土地と建物を東京都に寄贈した後は、東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」として長く運営されました。
 1985(昭和60)年に三鷹市へ移管され、1996(平成8)年から「三鷹市山本有三記念館」として公開されています

(公益財団法人 三鷹市芸術文化振興財団の公式サイト)
http://mitaka.jpn.org/yuzo/about.php

 そうなんです、ここは洋館なんです、そして1946年、進駐軍から『接収』されているんです。その資料が2階に展示されています。
 米軍の将校の住宅用に『接収』がきまると、敗戦国の居住者は、最長4日以内には明け渡さないといけない決まりがあったのだそうです。へぇ〜、またまたびっくりしてしまったヤッホー君、腰を抜かして口はぽかんと開けたまんまでたたずんでおりました。
 1951年、『返還』されたといっても原状復帰もなく、壁という壁にはアメリカ風にペンキが塗ったくられ、うんざりした有三はとうとうここに帰ってきて住むことをあきらめてしまったようなんですね。

『そんな館内で、なんと進駐軍により接収された当時の「賃貸借契約書」を見つけました。

 接収期の住宅に関する資料というのは初めて閲覧したので、残っていることにも驚きましたが、接収された所有者に対する進駐軍側の待遇を見て取ることができて、とても勉強になりました。
 その他の資料には[U.S.HOUSE No.843]と書かれた「使用解除財産返還通知書」があり、こちらの[U.S.HOUSE]とは主に上級将官が使用した住宅を示すそうです。

 かなり苦戦して書き写してみたのですが、解読不可能だった文字は■□■にしてあります…。

 占領地での私有財産の徴発は、軍事法で禁止されてるはず…

 しかしこの時期の借地法借家法は、利用者の権利が必要以上に保護されておりましたので、期間満了が当然に契約の終了とならず、そのため法定更新が繰り返され、一度賃貸したりすると家主が利用権を回復することは不可能に近く、家主にとって非常に不利なものでしたから、昭和21年以降の固定資産税など地価上昇に伴う経済的事情の変動に係る事由の賃借料増額改定なども、たぶん行われていなかったのだろうと思われます…

 連合軍指令本部が置かれた第一生命館や帝国ホテルなど以外にも、住民の必要性を考慮せずに個人所有の住宅が接収され、その数は都内だけでも679件にのぼったそうです。
 調達要求を受け、都と進駐軍の担当者が現地に赴いて、契約書を所有者に手渡して接収が行われると、所有者は24〜48時間以内、長くても4日以内に提供しなくてはならなかったのだそうです

(2011.06.04更新 東京スローライフ「路傍の石」)
http://choseiden.blog57.fc2.com/blog-entry-325.html

 進駐軍、進駐軍…東京の「山本有三記念館」の沿革を見てもそんなんですから、これが戦闘地だったオキナワなんてなると:

『1945(昭和20)年3月26日の米軍の慶良間列島上陸に始まった沖縄戦は、太平洋戦争の最後の決戦であり、国内唯一の住民を巻き込む地上戦であった…。
 沖縄戦は、1945(昭和20)年6月23日、日本軍の組織的な抵抗が終わり事実上終了するが、この激しい戦闘により失われた人命は一般住民を含め20万人余に及び、その他生産施設や貴重な文化遺産など地上の全てのものが破壊され、沖縄は文字どおり焦土と化した…。
 米軍の占領は、沖縄本島を中心とした激しい戦闘の末に確立され、この軍事占領がそのまま戦闘
行為終了後の軍用地の使用、接収に引き継がれていった。
 米軍は、このような戦場または占領地の継続状態としての軍用地の使用は、国際法上当然に与えられた権利であるとし、その根拠として『陸戦の法規慣例に関する条約(ヘーグ陸戦法規)』をあげ、何らの法制上の措置を必要としないとしていた。
 したがって、占領当初の軍用地に対してはもちろんのこと、その後の新規接収地に対しても軍用地料の支払いをせず、無償のまま使用が続けられていた…
 
 1945(昭和20)年4月1日に沖縄本島への上陸を果たした米軍は、まもなく読谷村字比謝に米国海軍軍政府を設置し、直ちにいわゆる『ニミッツ布告』を公布し、いち早く南西諸島とその周辺海域を占領地域と定め、日本の司法権、行政権の行使を停止し、軍政を施行することを宣言した。
 沖縄を占領した米軍は、住民を一定の地区に設置した捕虜収容所に強制収容し、その間に旧日本軍用地跡及び民有地を問わず、沖縄全域をその直接支配下に置いて、いわゆる「軍用地」として囲い込み、基地の建設を進める一方で、米軍にとって不要となった地域を住民に開放し、居住地及び農耕地として割り当てていった。
 沖縄における米軍基地は、占領当初においては、軍事的に真空状態となった日本本土を防衛するための前進基地として、また、日本の軍国主義復活に対しては、沖縄の軍隊を派遣して鎮圧する監視基地としての役割を果たしていたが、米国の極東政策上特に重要な基地としての認識はされていなかった…』

(沖縄県知事公室基地対策課『沖縄の米軍基地』平成20年3月刊)
http://www3.pref.okinawa.lg.jp/site/view/contview.jsp?cateid=14&id=17870&page=1

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2012年06月21日

くちなしの白い花

 6月21日木曜日、今日は夏至です。といっても、夕方ぽつりぽつりと雨だれが落ちてきましたが、本降りにはなりませんでしたね。
 昨日の三鷹市文学山歩、もう一日、ご報告のお話しをしていたいのですが。う〜ん、今日は梅雨時の花々のお話しを。
 まずは、紫陽花の花です。
 「風の散歩道」にいっぱい咲いておりました。むらさきの花、いいですね、楚々として、しっとりと。
 裕ちゃんには1960(昭和35)年日活映画があって、主題歌を歌っておりました: 
http://www.youtube.com/watch?v=vvpriHjPvac

 「アジサイっていろんな色があるでしょ、それはね、土壌のpH値によるんですよ」って仲間が教えてくれました:

アジサイは、ガクアジサイを母種として古い時代に我が国で改良された園芸品です。…アジサイの花は、酸性土壌に生育するものは、土壌中のアルミニュウムが吸収されて青色に、アルカリ土壌に生育するものはピンクとなります。しかし、土壌のpH値や、水分、窒素、リン酸、カリウム等の含量も影響します。ヒマワリの舌状花は濃い黄色であり、ノハナショウブは濃い紫色と、花の色は種によってほとんど同じ色合いですが、アジサイは生育する環境を花色に正直に反映しているのです
http://www.bio.sci.toho-u.ac.jp/column/015079.html

 『アジサイの雨』って歌もあります、聞いてみましょうか:
http://www.youtube.com/watch?v=bi2BhJuWqw4
 
 歌っているのは渡哲也。1974(昭和49)年にリリースされています。しかしその渡哲也といえば前年1973(昭和48)年に大ヒットとなった歌があります。『くちなしの花』です:

♪くちなしの花の花のかおりが
旅路のはてまでついてくる
くちなしの白い花 おまえのような花だった♪

http://www.youtube.com/watch?v=VR4nLauevyc&feature=fvwrel

日活映画のアクションスター、渡哲也が1973年8月にリリースした「くちなしの花」が年明けからヒットチャートを上昇。2月に入ると、ヒット曲の仲間入りをした。スクリーンの派手なイメージの渡とは違い、ムードたっぷりの甘い声。この手の曲は冬場が似合うが、歌が売れ出した矢先の2月1日、渡は肋膜炎を患い、静岡・熱海の病院に入院した。テレビ出演もできなければ、プロモーション活動もできないにもかかわらず、歌だけが売れるという不思議な現象にはちょっとした理由があった。
 実は渡、NHK大河ドラマ「勝海舟」の主演に起用されていたが、この入院で降板せざるをえなくなった。悶々と病室で療養するしかない渡に対しファンはもちろん、週刊誌などで闘病が伝えられると励ましとともに、レコードを買うという現象が起きた。皮肉にも5月にはレコード売り上げが80万枚を突破。発売元のポリドールレコードから病室に大ヒットの金一封が贈られた。
 秋になって体調が回復、仕事に復帰すると「歌は余興」とは言っていられなくなった。NHK紅白歌合戦出場が決まったのだ。「俳優である自分が本業の歌手の方々と同じステージで歌うのは失礼」と言っていたが、入院中に「テレビはNHKしか映らないような地域から励ましの手紙をもらった。大河ドラマを楽しみにしていた人もいるだろうし、自分の不摂生から病気になったのだから、そのお詫びと感謝のつもりで歌う」と出演を快諾した

(2012年2月3日更新スポニチ【1974年2月】「くちなしの花/渡哲也 本人不在も大ヒット 紅白に出場したワケ」)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/02/kiji/K20120203002562270.html

 このくちなしの花を仲間が禅林寺で見つけ、「匂いをかいでみて、良い匂いがするでしょ」ってヤッホー君、花に鼻を近づけました:

クチナシ.jpg

 「井の頭自然文化園」では、オカトラノオまで。イブキトラノオって夏山を登っていると良く目にします。
☆ イブキトラノオ: タデ科。タデ属。滋賀県伊吹山に多い。山地から高山の日当たりの良いやや湿り気のあるところに群生する多年草。高さ0.3〜1.2m。花期は7〜8月。
☆ オカトラノオ: サクラソウ科。オカトラノオ属。花序を虎の尾に見立てたもの。丘陵の日当たりの良い草地などに生える高さ0.6〜1mの多年草。花期は6〜7月。
(ヤマケイ ハンディ図鑑『野に咲く花』『山に咲く花』より)

オカトラノオ.jpg

 「井の頭自然文化園」で、リスがちょこちょこっと遊歩道を走り回っていました。
 心優しい山歩クラブの仲間たち、「食べられちゃうよ、檻のなかのほうが安全だから戻りなさい」って言ったのですが、広い園内に興奮して、自由に走り回っています。そのうち昆虫を捕えるときのような網を担いだオトコの職員までもが。われわれは、まさかリスをつかまえに来たとは思ってもみず、きっと珍しい蝶々がいるんでしょうね、と語り合っていました。しかし…:

6月20日午前4時20分ごろ、東京都武蔵野市の動物園「井の頭自然文化園」で、台風4号による倒木でニホンリスの展示施設の金網が破れ、隙間からリスが逃げているのを職員が見つけた。飼育している約120匹中約30匹が逃げたとみられる。
 同園によると、樹齢約120年のアカマツが施設入り口付近に倒れ、ケージ上部の鉄製の枠と金網の接合部分が外れたり、金網が破れたりした。
 リスは体長20センチくらい。職員が園内を見回り、午後6時半までに13匹を捕獲した。
 同園は「見かけたら追い掛けずに連絡をほしい」としている。連絡先は同園、電話0422(46)1100

(2012年6月20日 19時42分付け東京新聞「動物園のリス30匹逃げる 台風の倒木で網破れ」)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012062001001896.html

 そして極めつけはヤッホー君の大好きな黄色い花:

キンシバイ.jpg

 そう、ヤッホー君の好きな高山植物は、「シナノキンバイ」なんです。これは「キンシバイ」って仲間が教えてくれました。
 「バイって梅って書きます」って。ヤッホー君、すかさず、
「違います、盃です!」って思わず大きな声を出していたって。

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2012年06月20日

山本有三記念館

 昨晩(6月19日夜)、風の音けたたましく何度か目が覚めましたね。

 今日20日水曜日は、山歩クラブのタウンウオークの日。
 1ヶ月前、北海道の仲間が上京したときに用意したプランのうち、実際に歩いたのはICU(地元の方はキリ大、と呼んでいらっしゃいましたね)から野川公園、そしてJR東小金井駅へと抜けたわけで、今日の20日はその反対側、すなわち三鷹駅から、禅林寺、そして山本有三記念館、井の頭公園でアジア象のはな子さんにご挨拶、そして吉祥寺駅という残りのコースを歩いてみよう、と計画していたのです。
 でも、台風接近、一時はあきらめ、屋内、例えば江戸博物館かな、なんて… でも、この台風は韋駄天でございました。
 そこで「予定通りとしましょう、ただし大風の影響があるやも知れず9時半集合、なお弁当持参」と参加予定のお仲間に連絡を入れてから、昨夜は床についた、とこういうわけでした。

 韋駄天台風については:

台風4号は、本日20日09時に、三陸沖で温帯低気圧に変わりました。
 ところで今回の台風は、日本近海に来てから急にスピードアップしたのが特徴です。
 18日の段階では、沖縄の南海上を時速30キロで北上していました。
 それが19日には、時速50キロから60キロ、そして夕方には65キロになり、さらに夜には時速70キロにまで早くなりました。
 ふつう、秋の台風なら上空の偏西風に乗り、日本付近で早くなることはよくあります。
 ところが6月のこの時期に、日本近海でこんなにスピードアップした台風は私の記憶にはありません

(2012/6/20(水)午後0:06更新 チーム森田の"天気で斬る!" 「森田です。台風4号 温帯低気圧に」)

 ヤッホー君からは帰宅後、さっそく仲間の皆んなに報告メールを投稿しています(20時46分):

台風一過、気になったお天気もなんとかもちました。
 今日は三鷹、見たか聞いたか、いい山歩の日でした。
 太宰治の桜桃忌(注1)に合わせ、太宰治の贔屓の酒屋(伊勢元酒店跡、現在太宰治文学サロン)〜禅林寺〜風の散歩道(玉川上水)〜玉鹿石〜山本有三記念館(添付写真、お弁当)〜井の頭自然文化園〜井の頭弁財天というルートでした。


P6205983.jpg

 参加者計3名。東京駅9時半集合から歩き納めが午後5時、とたっぷり勤務時間のお仕事のようにきっちりと歩き通しました。歩数計はなんと、16,289歩を示していました。
 禅林寺には三鷹事件(注2)遭難碑があったり、山本有三記念館ではDVDで東映映画「路傍の石」(注3)を見たり、井の頭公園で長崎の平和祈念像(注4)と出会ったり、この間の「久米邦武と能」を巡る歴史山歩と同様に、またしても予想外の事柄に遭遇、びっくり仰天、波乱万丈、驚天動地の心模様、歩くのはとっても良いですね。
 どんどん出かけましょうね!
 では、台風がまた接近しているようです。
 お気をつけてお過ごし下さい、チャオ!


(注1)
森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持ちを酌んでここに葬ったのである。第一回の桜桃忌が禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、1949(昭和24)年6月19日だった。6月19日に太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た
(三鷹市の公式サイト「太宰治と三鷹」)
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/dazai/dazaitomitaka/outouki.html

(注2)
1949(昭和24)年7月15日午後9時23分、三鷹駅構内で無人の電車が暴走。この電車は三鷹駅の下り1番線を60Km/hで走り抜けて車止めに激突し、車止めを突き破って脱線した。これにより電車が突っ込んできた線路脇の商店街などで6名が死亡、20名が負傷した。この事件は7月5日に発生した下山国鉄総裁轢事件、8月17日松川事件と合わせて国鉄三大ミステリー事件と言われている。

(注3)
1964(昭和39)年6月公開の東映映画。監督 家城巳代治 出演 池田秀一、淡島千景、佐藤慶、中村嘉葎雄、清川虹子ほか

(注4)
8月は6日に広島、9日に長崎が原爆忌を迎える。世界で二つの被爆都市である。長崎原爆忌の式典は毎年、爆心地にある平和公園の平和祈念像の前で行われる。原爆への怒りと平和への祈りを、体全体にみなぎらせた巨大な男性像。像の作者は長崎県出身の彫刻家、北村西望である
(2011年8月5日付け東京新聞「TOKYO―首都圏―のわがふるさと」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/info/furusato/news/201108/CK2011080502000092.html

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2012年06月19日

Journalism

外務省によると、測定結果を基に作製された汚染地図は3月18日と20日の計2回、在日米大使館経由で同省に電子メールで提供され、同省が直後にメールを経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担っていた文部科学省にそれぞれ転送した。文科省科学技術・学術政策局の渡辺格次長ら複数の関係機関幹部によれば、同省と保安院は、データを公表せず、首相官邸や原子力安全委員会にも伝えなかったという(以下略))(朝日新聞6月18日朝刊)。

 記事の内容を読めば、もはや官僚による犯罪行為だ。それはそれで大問題で一面トップにふさわしいのだが問題は別のところにある。

 それは、こんなことは1年前に知っていたことなのだ。しかも、朝日新聞の記者も知っていたはずだ。なにしろ東電会見で当の朝日新聞記者が質問をしている。

 1年以上前、私の予告した通りのことが進行している。日本の記者クラブメディアは決定的な誤報があった場合、まずは時間稼ぎをし、ほとぼりの冷めたころに巧妙に修正し、そして最後は「わかった」報道によって責任を逃れるはずだという指摘通りのことをまたしてもやったのだ

(2012年6月19日付け DIAMOND On Line 週刊上杉隆≪いまさら大々的に報じても完全に手遅れ 朝日新聞1面トップ記事「米情報 避難に生かさず」≫)
http://diamond.jp/category/s-uesugi2

 この上杉隆(1968年生まれ)は、昨晩の講師、木村見英昭朝日新聞記者と同い年ですね。

 年の話は置いといて、ヤッホー君も一番聞きたかったところはその辺なんでした。
 木村記者も言っていましたが、木村さんの署名記事は少しは読者が朝日から東京新聞に流れる波を止めることに貢献できたのかな、と。つまり、ヤッホー君が衝撃的な題名を与えた「情報統制下の日本」というのはヤッホー君だけでなく、残念ながら多くのこの国の人びとの暗黙の了解事項になっていること、なんです。もっというなら、暗黙、のまんま事態がこのまんま進んだら、どんなことになるのか、ということなんです。会場を沸かせ、笑い声を呼んだこのジョウクなのか冗句は、冗談じゃない、と思ったことでした。

 この一番聞きたかったことは、この集会の最後の最後、やっと指名された最前列に座っていた男性から質問がだされました。前垂れは、このブログでも指摘した先週金曜日6月15日夜の11000人の集会を赤旗と海外メディア以外、この国のマスメディアはどこも取り上げなかったわけを聞いたあとに出てきました。

 最初の質問、この国のメディアは大本営発表の垂れ流しでしかないのではないか、についてですが、こう木村記者はこんなことを指摘なさいました。以下はヤッホー君メモです:

☆ この国のメディアは政治部は政治部、社会部は社会部と縦割りであること
☆ この「プロメテウスの罠」第6シリーズ「官邸の5日間」は3月11日直後の官邸に焦点を合わせます。署名記事ですが、政治部もやらなかったところに割り込んだので、その連載に決して面白くはないはず。☆ そこで記者として官邸のなかで何があったのか、何が起こっていたのか、それを自分の目でみて、自分で書いてみないと自分が前にすすめないと思った。
☆ 主語が国とか政府がでなく、東電がでもなく、その組織の誰が、いつ、何を語ったのか、この「事実」を記録として残すことは必要である。
☆ その「事実」の記録を後に「検証」できたか、これがジャーナリストとしてさらに続けなければならない宿命になる。この検証作業がおろそかになっているのではないか。
☆ 取材をしないで記事を書く姿勢がいま問われているのではないか、例はイマ、菅直人を取材しないで菅直人批判をしている面があるのではないか。


 その典型例が「国会事故調査委員会」であると言います。
 6月8日、例の「過去が蘇りません」の名文句が有名になった男、清水正孝東電社長(当時)の原発からの撤退か避難かについて、野村修也委員(中央大学法科大学院教授)が「これは大きな勘違いということになるのでしょうか」と水を向けられると、清水氏は「そういうことになろうかと思います」と即答した(朝日新聞6月9日朝刊)挿話に現れていると言うのです。
 
 他所にもうできあがったシナリオがあって、専門家はその「技術」を駆使してシナリオの「ストーリーテラー」になりさがっている、けっして新しい「事実」を追い求めないし、「事実」と「事実」を寄せ集めるとこんな違った「真実」が見えてくる、という論点を示さない、つまり「官僚化」が浸透し、進行しているんですよね、とはヤッホー君の感想です。
 
 税金1兆円を使う東電ともあろう会社に、有権者を代表して送り込んで審議しているはずの国会がそれで「調査」をしたのか、テレビでよくでるように、クルマで押収した何箱もの段ボールを仕分け、分析、検討していく作業もないまま、あいまいのまま、官僚の作文に任せて終わりにしようとしていますが、あっ、これもヤッホー君の感想です。
 木村記者は続けます(これは6月15日付け日記で紹介した Prof. Anthony Hall がこの国のシステムに疑問符を投げかけていることですが、どうして現場=本店と福島=に当時者ではない第三者の立ち入りを求めないのか、とも符号します)、簡単なことです。本店と現場との記録(テレビ会議の録画)の国民へのすべての公開である、にもかかわらず国会はこれを請求、要請、要求しない、これはなぜか? ということなんだそうです。木村記者が記者会見の場で問いただしたところ、「社内資料ですので公開はできません」で終わったそうな。。。

 う〜ん、「なんか変な感じ」のまんまで昨夜は帰路についたわけですが、こうしたことも含め、木村記者は、岩波書店より『官邸100時間の攻防(仮題)』を7月下旬に出版予定だそうです。

 なお、本日の出だし、上杉隆氏をはじめとする批判や指摘については、朝日新聞刊月刊メディア研究誌『ジャナーリズム』7月号で、執筆者は木村記者ではないのですが、朝日新聞側が冷徹に論じ返す予定だそうです。
 
 う〜ん、資本力も権威もマンパワーもあり、購読者の数も、質も誇るトップランナーが、長年培ってきた「理論」によって、批判や指摘をする無手勝流の相手をこてんぱんに論駁し、さらに「権威」に磨きをかけて着飾って、さらに上を目指して攀じ登っていくのかな?
 どうぞ、バトルもいいのですが、おおい町に現ナマの雨が降ってできた、でっかいけど閑散としている野球場の光景と、故郷を追われて帰りたいけど帰れない、将来の見通しがたたない難民者の群れから目を逸らしてもらっては困るんです、とヤッホー君は願わずにはおられないんだそうで。

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2012年06月18日

プロメテウスの罠

 6月18日月曜日も大忙し。
 午前中は、代々木病院眼科。ヤッホー君は視野検査の後、世界一の主治医、山城博子先生の診察を受けました。
 どきどきびくびくでしたが、異常がありませんよ、と言われたときには、もう手を合わせて先生を拝んで、「ありがとうございました!」と叫んでおりました。
 ところが、朝、もたもたどたばたしていたこともあって、前回は忘れたので保険証を持参するのに意識が集中し、クレジットカードを忘れていました(度忘れ、物忘れが激しい最近のヤッホー君です)。
 支払い時に、持ち合わせ現金が不足しており、会計の職員に拝みこんでお願いし、自宅にお金をとりにいきますので…、なんて恥ずかしいことを言いまして、帰宅後すぐトンボ返し、二度も病院に行ったことになります。

 午後、ヤッホー君のこのブログ、日記「久米邦武と能楽展」の更新をして、もう一度外出…

プロメテウスの罠〜取材記者が語る”原発事故の真実”〜』
講師: 木村英昭(朝日新聞記者、1968年鳥取県生まれ)
主催: さようなら原発江戸川連絡会
会場: タワーホール船堀小ホール
入場無料
(!)』
http://sayonara-g-edogawa.seesaa.net/article/270434829.html
 
 客席最大300席と公式アナウンスされていますが会場は満席!
 ここ「タワーホール船掘」には、高さ115mの展望室から、都内全域が一望できる360°の大パノラマがお楽しみいただけます(入室無料)がありました。
 次回はスカイツリーとの比較研究のためにおじゃましてみようっと。
 展望エレベーター運行時間:午前9時〜午後9時30分(暴風など、天候により運行を停止する場合がございます)。

 この連絡会の住所は、葛飾区新小岩 1-22-10-403 江戸川法律事務所内 Tel 3653-7643です。
 そうでしたか、弁護士先生もメンバーと言いますか、世話人のおひとりなんですね。道理で、これから大変な訴訟問題になるであろう判決事例も、連絡会の会報に記載ありますのでご参照ください:

『サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部が仮処分を申請...昨年の11月24日の朝日新聞に「無主物の責任 だれのものでもない?? 放射能はだれのものか」』という記事が載っておりますので、ぜひ、下町にお住まいの方々、連絡会の会員になって思いの輪を広げ、積極的に活動に関わっていきましょう:

さようなら原発江戸川連絡だより 2012年6月4日 第5号

 ちなみに、この江戸川法律事務所をご紹介;

1974年、弁護士鈴木篤らによって当地に開設されました。以来、新たなメンバーを迎え入れつつ、30年の長きに渡り、江戸川区・葛飾区を中心に、地域に根差した町の法律事務所として、発展を続けてきました。
 身近な法律問題について、誰でも気軽に相談できることを目指す一方で、早期から医療過誤問題等に専門的に取り組んで来た一面もあります。
 今後とも、質の高いリーガル・サービスと、敷居の低さを兼ね備えた事務所でありたいと考えています

http://www.edogawa-law.com/index.html

みなさま、こんにちは。
 私たちは「さようなら原発江戸川連絡会」です。
 2011年11月12日に発足しました。
 この会は、脱原発のために活動している地域の個人や団体が、その活動状況を内外の市民に広く伝えると共に、現在取り組まれている「さようなら原発1,000万人署名」の成功をめざしながら、最終的には、脱原発を我が国の方針として確立させることを目的とした連絡会です。
 あくまで連絡会ですので、賛同される団体・個人の自主性を最大限尊重しながら、活動していきます。
 このブログを通じて、活動状況をお伝えしていきます。 
 よろしくお願いします

(さようなら原発江戸川連絡会が発足しました)
http://sayonara-g-edogawa.seesaa.net/archives/201111-1.html

 えらいですよねぇ〜、大したもんです、見上げたもんです!
 半年ちょっとの若い組織ですが、会報もきちんとだし、発足から半年にしてマスメディアの記者を会場にお招きし、しかも会場を満席にするんですから。
 会員はもとより、地域に支持者、支援者、奉仕者がたくさんおられるってことの証しですよね。
 継続は力なり、ぜひこれからが正念場、がんばってください!

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久米邦武と能楽展

壮麗なるオペラ堂を見るに至って痛切に国民娯楽の必要を感じ、娯楽には一時的流行のもの、外来の浮わついたものでは所詮立派なものは出来ぬ。
 しっかりと国民性の奥に根を持っているもの、即ち日本固有の歌舞音曲でなければならぬ、とそこで能楽の芸術的な価値を思うに至った

…久米邦武「能楽の過去と将来」1911(明治44)年『能楽』9-7所収
 
 そうなんです、「久米美術館」ではイマ、開館30周年記念で「久米邦武と能楽展」を開催しております。ぜひお御足をお運び下さいまし。
 この雑誌「能楽」とは、イマから110年もムカシのこと:

1902(明治35)年、能楽のさらなる興隆を志した池内信嘉が愛媛県松山から上京します。池内は俳人高浜虚子の実兄で、私財を注いで雑誌「能楽」を同年7月に創刊します。1904(明治37)年に、この雑誌から派生した「能楽文学研究会」が早稲田大学のメンバーを中心に発足しました。
 当時、早稲田大学の講師をしていた関係で久米も同研究会に参加し、1917(大正6)年までおよそ15年の間に60近い論文や演説談を「能楽」に発表しました。
 その内容は、日本古代史の専門家らしく能楽の起源を追求したもの、文学的な観点から論じたもの、技法に着目したものなど多岐にわたります。時には、他の研究者と議論を戦わせるなど、久米は雑誌「能楽」誌上で縦横無尽に活躍しました

(久米美術館 同展示会総合パンフレットより)

 高浜虚子のお兄さんが養蚕で為した私財を投じて全国をリードする雑誌を作るなんぞ、さすが四国の人は心意気が高いものがありますねって香川県ご出身の仲間に感想を述べておりました。
 でも質問が…、日本固有の伝統歌舞謡ってどうして『歌舞伎』に向かわず『能楽』に向かったのでしょうか? さすが山歩クラブの感性は高いものがありますね。劣化の一方を辿っている脳にも良い刺激がきます、さすが皆さん、山歩クラブのお仲間!
 どなたか教えてくださいな、能天気なヤッホー君に…

 でもそうなんです。久米が能楽に向かった情熱の源泉はイマからおよそ140年もムカシのオペラ観劇にあったのです:

1873(明治6)年3月11日岩倉具視らがドイツ皇帝ウイルヘルム一世に謁見した晩、王立歌劇場に招待され、オペラを鑑賞した時の記録、米欧回覧実記刊本には「皇帝ノ劇場ニ赴ク。是ヲ「オヘラ」ト云フ。諸種ノ芝居中ニテ最上等ナルモノ、我猿楽ノ如シ」と記されている。
 久米邦武は米欧回覧実記刊本までに10回以上も原稿を書き直し、推敲を重ねたが、第6稿とみなされている1876(明治9)年頃の原稿には、是ヲ「オペラ」ト云フ。芝居ノ内ニシテ…」とあり、当時、猿楽と呼ばれていた能楽がオペラに類似することをこの段階ではじめて記すようになったのである。

 この日、上演されたオペラはワーグナー作曲の「ローエングリン」であった

(久米美術館 同展示会「1878(明治11)年米欧回覧実記刊行」の説明パンフレットより)
 
 そして、この『米欧回覧実記』は現代語訳までありました!
 上述記載は、第三巻ヨーロッパ大陸編上352頁参照。

 久米邦武編著 水澤周 現代語訳『特命全権大使 米欧回覧実記 普及版』全5巻(2008年、慶應義塾大学出版会)
  

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2012年06月17日

新国会丼

 台風4号が北上中、の今日の日曜日、嵐の前の静けさのような不気味さが感じられます:

あす月曜の後半には、沖縄本島付近にかなり接近して、火曜〜水曜に本州へ接近。
 上陸の恐れもあります。
 実は、台風4号というのは、すごくイヤな号数です。
 以前から何度かこちらに書いていますが、過去10年で「台風4号:は、なんと8年が日本に接近、他の号数にはない、高い割合なんですね。
…今日から数日間は、いつも以上に気象情報を小まめに見て、他の人と話題にして、「もし台風が近づいてきたら」のイメージを頭の中で前もってしておいてください

(チーム森田の“天気で斬る!”2012/6/17(日)午後2:36更新 増田雅昭「台風4号接近、本州直撃の恐れも」)
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map/61577433.html

 10年間で4年も上陸しているという「台風4号」、20日は山歩クラブのウオーキング(文学山歩)も企画されてるようですが、場合によっては流れる可能性も出てまいりました。

 ところで国会図書館での研究課題につき、問い合わせがありました!
 「そうっと教えてください」だって… 

政権交代で永田町界隈の人の流れも様変わりした。
 「これまで首相官邸、国会や衆参の議員会館から、多くの人は自民党本部のほうへカーブを曲がった。それがいまでは直進して民主党本部に向かいます」(国会担当記者)
 民主党本部が入るビルの目の前に位置する国立国会図書館。
 実はここでも、政権交代が行なわれていた。

 本館6階の食堂に、その名も「新国会丼」なるメニューが登場。
 親子丼の上にトンカツがのるという、かなりボリュームのある一品。
 味噌汁付きで六百円だ。

 コンセプトは「世襲に勝つ」。説明書きによれば、親子丼が「世襲政治」を表現、それに民主党が「勝つ」で、トンカツがのっているようだ。さらにグリーンピースが「平和」を表し、「クリーンな政治を望む」ので、真っ白なドンブリが使われている

(2009.09.24 00:01更新 週刊文春Web 「味も政権交代か? 国会図書館食堂に「新国会丼」登場)
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/637

 しかし、ヤッホー君の味の印象はもうぼやけはじめ、ドンブリもすすけていたような、グリーンピースなんてあったっけ、ような感じしか残っていないようですので、もう聞いても答えられるか定かでないし、再調査に足を運ぶのもうんざりしているようです。
 だってぇ:

野田民主党政権によって、あの政権交代を果たした時の輝いていた民主党は完全に終焉してしまった。
 それでも野田首相は選挙もせずに民主党を名乗って政権の座に居座るつもりらしい。
 こんなことが許されていいのか


 今日6月17日日曜日、ヤッホー君のこのブログにも登壇いただいております天木直人さんは2度も書きおろされています:

☆ さらば民主党!
☆ それでも野田倒閣に動かない偽脱原発論者

http://www.amakiblog.com/archives/2012/06/17/#002296

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情報統制下の日本人

 6月16日土曜日、国会図書館食堂でしっかり「国会丼」と「新国会丼」との違いについて研究した山歩クラブのご一行様。
 要は、昨16日時点では、どっちも比較研究はできないというのが結論。
 値段が「新国会丼」のほうが100円も高く、内容的には特に代わり映えがしない気がしていますって。「日替わり定食」が売り切れで食べられず、これを含めて次回、また研究することにしましたが、そのときまでにはもう「新国会丼」なんてメニューが残っている可能性はないのでは、との感想がありましたので特記しておきたいとのヤッホー君のお申し出でございます。
、次に向かった先は首相官邸前ではありません。しかし、あたり一帯は警察車両、機動隊がものものしい警戒。なにごとがあったのか…

政府は6月16日午前、野田佳彦首相と枝野幸男経済産業相ら関係三閣僚による四者会合を開き、関西電力大飯(おおい)原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を決めた。
 これに先立ち、福井県の西川一誠知事は官邸で首相と会談し、同意する考えを伝えた。
 政府は十分な安全対策を取らないまま、裏打ちのない首相の「安全宣言」によって再稼働を強行した

(2012年6月16日 14時00分 東京新聞「大飯再稼働を決定 首相<安全>裏打ちなき強行」)

福井県の西川知事と野田総理大臣や関係閣僚の会談が行われた総理大臣官邸前には、大飯原発の運転再開に反対する人たちがおよそ400人集まり、抗議活動を行いました
(6月16日 11時37分 NHK 「運転再開に反対 官邸前で抗議」)

 山歩クラブご一行様も傘を差して、手作りのプラカードをお持ちのおばちゃまに「行きません?」って声掛けられたので、状況は分かりました。
 ところでこの「決定」の前日の15日金曜日には、400人なんてもんじゃない集まりがあったそうなのでございます。そして金曜日の集会を報道したのは外国のジャーナリズムで、国内で報道したのは、日本共産党機関紙の「赤旗」だけだったって… これってコクミンをやはり玩具、ペット程度にしか扱わないホウケン時代のまんまなんですね、とヤッホー君はとても悲しくなりました…

金曜日、日本のマスコミはオウムの高橋容疑者逮捕で埋め尽くされました。
 その裏で政府は国民に対して不人気な政策、消費税増税法案の修正協議や大飯原発再稼働の政治判断などが動かさなければならないという状況下でした。
 当然少しでも国民の関心を批判の的から背けたいと、この日に高橋容疑者逮捕に踏み切るという荒技を使ってきました。
 ここまでは多くの人が想像した結果であったと思います。
 そして、この金曜日での再稼働への政治判断が迫るという危機感から、国民は首相官邸前抗議行動を行なってます。
 その数、100や200ではありません。
 なんと11,000人です。
 これほどの人が平日の夜、首相官邸前にやってきて、原発再稼働反対を叫んだのです。
 ところがです、これをその日の夜、日本のTVは一切報道しませんでした。
 そして翌日の新聞もしっかり報じるのは「赤旗」くらいという状況でした。
 国民の怒りや団結は国家にとってはときとして不都合な真実なのです。
 見せたくないと政府が大手メディアに圧力をかけたのは想像に難しくありません

(子ども達を放射能から守るネットワーク@ちばの活動ブログです-放射能から子どもたちを守りたい。大人たちの責任は重大です-。2012年06月16日「6.15原発再稼働反対!首相官邸前抗議に11000人!)
http://takumiuna.makusta.jp/e186047.html

 これはロンドンのガーディアン紙です。きちんとイギリス人や、英語圏の人びとに信じられない数の対照とあわせ、伝えてあります。ミンシュシュギの成熟度の違いなのか、日本人の劣化なのか、なんなんですかねえ、久米邦武や岡倉覚三にお聞きしたいヤッホー君です:

About 10,000 demonstrators gathered outside Noda's office on Friday night in last-ditch attempt to derail the restart. Anti-nuclear campaigners accused the prime minister of rushing into a decision and ignoring lingering concerns over safety. "Prime minister Noda's rushed, dangerous approval of the Oi nuclear power plant restart ignores expert safety advice and public outcry, and needlessly risks the health of Japan's environment, its people and its economy," said Junichi Sato, executive director of Greenpeace Japan.

The government did not require local approval, but Noda and a small team of ministers have spent weeks attempting to win support from residents amid widespread fears over safety and a loss of trust in the nuclear industry in the wake of the Fukushima accident.

The Japanese public remains divided over nuclear power, more than a year after the Fukushima Daiichi meltdown sent radioactive materials into the atmosphere and forced the evacuation of tens of thousands of residents.

According to a nationwide poll by the Mainichi Shimbun newspaper earlier this month, 71% of people cautioned against a rush to restart the Oi reactors, while 25% supported Noda's stance.


Justin McCurry in Tokyo
guardian.co.uk, Saturday 16 June 2012 07.56 BST
http://www.guardian.co.uk/world/2012/jun/16/japan-approves-nuclear-power-restart

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walking in the rain(suite)

 一晩空けた6月17日日曜日。山歩クラブでは番外編山行が組まれていましたが、早々と13日水曜日にはヤッホー君より連絡文書が流れておりました:

『皆さん、こんにちは。来る17日の日曜日番外編山行ですが、お天気も悪く梅雨本番(降雨率50%以上)、バスも成立せず、中止とさせていただきたく、ご意見ください。電車やマイカーにして登山を試みるも関東甲信越は軒並み、前日70%、当日50%、翌日40%で無謀と思い、またお天気の良いときを狙ってプランを組みたく、しかしながら代案等ご意見ありましたらぜひご連絡ください。なお、土曜日16日のタウンウオーク(歴史散歩)は予定通り、傘を差しても都心を徘徊しますので、出欠の連絡とあわせ返信ください』

 朝、起きたら雨は降っていないものの道路は濡れていました。昨日はたしかに傘をさしてのウオーキングでしたが、歩数計は12602歩の数字を示しております。良い歩きでございました。
 学びながら歩く歴史お山歩会もいいもんです。山と言うより坂がたくさんでてきましたね。
 目黒では権之助坂、行人坂。
 行人坂には大円寺があり、この寺はイマから240年前の明和の大火、1772(明和8)年の失火でも知られてるって、仲間が教えてくれました、へぇ〜。
 国会議事堂付近では、三宅坂、霞ヶ関坂、茱萸坂(ぐみざか)、潮見坂、三年坂、梨の木坂…
 
 仲間からはさっそく感想も寄せられております:

本日は雨の中でしたが、充実した一日が過ごせました。
 久米邦武と能楽。
 初めて聞く人でしたが、勉強になりました。
 南北線と三田線を間違え、10個の目玉がありましたのに、まったく気づきませんでした。
 お陰で歩く距離が伸びて良かった良かったということで… 写真を添付いたします


今日は大変お世話になりました。
 雨の中も楽しく愉快な一日が過ごせました。
 いろいろ見聞することがここちよかったです。
 頭の中へ入れるより出て行く方が多いこの頃、しっかり入れなくてはと思います


帰宅後、ちょっと寝ました。ありがとうございました。
 久米邦武の語ったという「謡曲は襤褸錦」も一大収穫でしたし、三田線と南北線も面白かったです。
 「国会丼」も「新国会丼」の違いも分かりました。
 あの書物ナビゲーターの好青年の丁寧な説明も応援したくなって、激励してきちゃったりしました。
 打ち上げ会として締めに入ったレストランも落ち着いていて、今日はあたまもからだも使ったとても良い一日でした


 締め… ン? お昼を皆でとってランチミーティングでお仕舞い、解散したんじゃなかったんだ…、打ち上げの「エンディング・ミーティング」と言いますか、「エヴァリュエーション・ミーティング」もあったんだ…
 それは次の日記でお会いしましょう!、だって。

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2012年06月16日

walking in the rain

 6月16日土曜日朝9時半、東京駅山手線品川方面ホーム先頭車両付近集合としました。
 行き先は、目黒駅。西口に「久米美術館(品川区上大崎2-25-5 久米ビル8階 Tel 3491-1510)」があるのです。
 そうです、久米邦武コーナーにぜひ行ってどんな人だったのかな、勉強してこようという算段なのです。
 5人は、11時まで中で思い思いに感じ取ってきました。

 それから、南北線で目黒駅から永田町駅へ向かって「国立国会図書館(千代田区永田町1-10-1 Tel 3581-2331)」へ。

 ところがどうしたんでしょう。目黒駅で乗り込んだ電車は、永田町へは行かないことに仲間が気づいてくれました。どうしたんでしょう。どうも南北線ではなく都営三田線のようなんです。
「南北線は、白金高輪で○都営三田線に連絡(一部を除く)」
「都営三田線は、白金高輪で○南北線に連絡(一部を除く)」

 この意味は、どうもホームに入ってきた電車は都営三田線西高島平行きでありまして、目的地は永田町ですので、「白金高輪駅」で接続する南北線に乗り換えなければならなかったようなんですね。

 そんなこともつゆ知らず、いや、うっすら電車が「三田駅」に着いたとき、へえ、南北線が三田って走るんだ、と思いました。そのときにおかしい、と思わなければいけないんですね。「白金高輪」で別れた三田線を走行していたのです、あのときに「白金高輪」に戻る必要があったのですね。

 え、どうして、どうして、永田町に行かないよってパニック症候群に陥ったわれわれにお隣に座っていたお嬢様はていねいに説明してくれたはずなんですが、とにかく「大手町」で降りよう、下りて半蔵門線で永田町に向かおうとしたのです。

 改札が。目黒駅で南北線の切符を買った仲間は、永田町まで190円の切符を買いました。ところが、大手町では路線が違うし降りられず、210円かかりますので20円を余計に払い、さらに半蔵門線で大手町から永田町まで160円の切符を買うことになります。つまり、190円ですむところを、20円+160円=180円余計に370円も交通費で消えるのです。
 予算オーバーなので、では、大手町から国会図書館まで歩こう、と協議の上決定し、再行動!

 地上にでたら雨。
 さっそく雨具装着、傘をさして、大手門から桔梗濠沿いに皇居前広場へ歩きます。二重橋前で記念写真を撮りました。

 仲間から二重橋が見えてきました、と言われて、じゃあ、あの手前の橋は? 橋桁が眼鏡のようにふたつあって二重アーチだから「二重橋」と思い込んでいたヤッホー君、へえ〜っとびっくりしてしまいました。なんでも手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」なんだそうで、その奥の「正門鉄橋」がいわゆる二重橋だったんですって!

 さらに、桜田門から、国会議事堂に向かって、憲政記念館から国会図書館に向かいます。

 この議事堂に向かってどっちが参議院でどっちが衆議院?
 ん? これも勉強になりました。向かって右が参議院、左が衆議院で、修学旅行で中に入れるのは、参議院なんですって。へぇ〜。山歩クラブの5人衆と違って、大型バス6台、7台でやってこられた岐阜県大垣市からやってこられた中学校生徒の修学旅行の行列と同じ、いやあ、山歩クラブの修学旅行でございました。
 だって…、年頃、青春期真っ只中ですから。

 国会図書館では、何の勉強? と言いますと実は時間も時間、午後1時ちょい前でしたので、本館6階「食堂」に直行、「国会丼と新国会丼の違いについて」が設定された課題だったのでございます!

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2012年06月15日

Rio+20(suite)

What does sustainable development mean to people around the world? As world leaders, NGOs, activists and others meet in Brazil for the Rio+20 UN conference on sustainable development, we've asked people what they think. What changes have they seen since the 1992 Earth summit? What's their message to Rio+20, and do they think Rio+20 will make any difference to their life?

Rio+20: Voices from around the world
Jaz Cummins and Garry Blight
guardian.co.uk, Friday 15 June 2012 10.53 BST

I think we have to definitely reduce subsidies in fossil fuels. This year in Indonesia, we spent $16.6bn on subsidies. We need to make the financing mechanisms as friendly as possible towards renewable energy projects. The money spent for renewable energy and fossil fuels is unbalanced. I'd like to have those two things spoken about at Rio. We need to have resources available locally. Small islands are providing their own local resources but the funding mechanisms need to be in favour of encouraging this.

(Tri Mumpuni, 47, is executive director of the People Centred Economic and Business Institute (Ibeka) in Jakarta, Indonesia)

 日本の若い人も熟年者もどんどん発言していかなくっちゃ、ね。持続可能な世界をどうやってつくろうか、と皆さん考えています。皆さん、身近なところから実践しています。
 その輪のなかに入っていきましょうよ、皆んなで。
 もう専門家任せ、政府任せ、お役所任せにはしないで、さ。
 アメリカ様頼みとか、アメリカ様のご機嫌をうかがってとか、アメリカ様の影を慕いて、なんて言うんじゃなくって、もちろん。
 人任せはもうこりごり、です。I think の世界で、ね。
 
(追伸)
 あれから20年、ヤッホー君がリオデジャネイロで発言して20年、なにができたのか分かりませんが、I think, I realize, I hope, I do の<詩人の魂>を持ち続け、力及ばず、力足らず、力不足でしたが、倒れても挫けても傷だらけになっても、精一杯動き、もがいて、抗って、口酸っぱく言い続けてきたことだけは確かなようです。
 6月13日投稿の下の論文を読んでみませんか。他の国の教授さまの論考と指摘と考察に、この国に住む人びとも、それぞれがそれぞれの立場でいいので、答えていかなければ、と思いませんか?
 また英語の辞書が必要になってきたヤッホー君、さ、果たしてどんな週末を過ごすのか…

Fukushima Daiichi: From Nuclear Power Plant to Nuclear Weapon
by Prof. Anthony Hall
Global Research, June 13, 2012
http://globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=31401

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2012年06月14日

Rio+20

A SNAPSHOT of the world ahead of the June 20-22 Rio Summit on Sustainable Development.

> Population: Seven billion today, a doubling since 1950, and set to rise to 9.3 billion by 2050, of which two-thirds will live in cities. The population in poor countries has increased more than fourfold since 1961. Forty percent of the world’s population today now lives within 100km of the shoreline.

> Ecological footprint: Mankind today is gobbling up 50% more of the biosphere for our resources than it can sustain. Brazil, China, India and Indonesia have seen their per-capita footprint increase by two-thirds over the past half century. The United States and China together use up nearly half of the global biocapacity. In per capita terms, rich countries’ footprints are around four or five times greater than that of poor economies. The heftiest impacts per capita are made by Qatar, Kuwait and the United Arab Emirates respectively.

> Poverty: The number of people living on US$1.25 (Euro1 or RM3.75) a day fell from 1.9 billion in 1990 to 1.289 billion in 2008, or 22% of the developing world. For the first time in 20 years, the proportion of Africans living in extreme poverty has fallen, with 47% living below this threshold in 2008 compared with 52% in 2005. But 43% of the population in developing countries live on less than US$2 (1.6 Euros or RM6) a day.

> Basic services: More than 2.5 billion people are in need of decent sanitation and nearly one in 10 has yet to gain access to “improved” drinking water, as defined under the UN’s 2015 development goals. 1.4 billion people do not have electricity.

> Climate change: Emissions of man-made greenhouse gases are scaling new peaks and the early signs of climate change are already visible, in glacier melt, changed snowfall and habits of migrating species. Current pledges for curbing carbon emissions will lead to warming of 3.5°C, massively overshooting the UN target of 2°C and enhancing the risk of flood, drought, storms and rising seas.


Tuesday June 12, 2012
The world in figures
The Star

PARENTS the world over want to live in a way that ensures the best possible future for their children and grandchildren.

This must also be the goal for world leaders when we meet at the United Nations Rio+20 summit.

This is why we must promote economic growth and create jobs and security for millions of people. We must encourage the use of more climate-friendly technology and more sustainable development. And those who create most pollution must also do most to cut emissions.

We must all make use of Rio+20 as an opportunity to improve the UN’s ability to take action and stake out a pathway of equitable green growth. We must ensure that the world we leave to our children’s grandchildren is a place where everyone can afford to take part. That will require bold decisions at Rio+20 and in the coming years.


04 June 2012
The best possible future we can leave our grandchildren
New Straits Times

Today is World Ocean Day, it was first celebrated on the 8th June 1992 during the Earth Summit in Rio de Jeneiro, Brazil. It was launched to change our perspective about the ocean and create awareness on the importance of oceanic products and species which lived in the ocean which has a diverse affect in our daily lives. Over the years the over consumption of ocean products and pollution has resulted in the oceanic species getting less in number as their reproductive life is interrupted by humans for their selfish ends. Furthermore, man is using ocean as its garbage disposal place.

CAP is concerned that our waters could be left with zero marine resources if fishermen nationwide continue to make use of destructive techniques to fish. This would be a great loss as the ocean has provided affordable protein to our households, and many human populations depend on fish resources for survival.


8th June 2012
CAP: Time is running out for marine life

イドリスさんとはっちゃんもマレーシアのペナンのCAP(ペナン消費者協会)にて記者会見を開きました。

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2012年06月13日

日隅さんの死は、あまりに悲しい

 そりゃあ、一般コクミンは、ゲンパツの専門家でもないわけで、むずかしいお話しはセンゴクの言う通り「専門家任せ」ということはあると思う、だけどゲンパツ推進派に任せた結果、「メルトダウンの心配はありません」と当時、何度聞かされたことか、「タダチに健康に影響を与えるものではない」と何度聞かされたことか、どうして、過酷事故だ、と言っている専門家の意見に耳を傾けようとしなかったのか、ゲンパツのジコは「収束」も「終息」もしていないことに皆んな、気がついているからこそ、イマもなお「なんか変な気分(NHK)」だと声をだして、その声も日々強まっているわけでしょう?

 6月13日の朝、こんなニュースを目にしました。
 「コクミンの生活が第一」とか、有権者をだまして当選したノダ、センゴクたち政治屋に読ませたい東北の地方紙「河北新報」の記事からです:

福島県二本松市の国道349号で6月9日、ワゴン車が大型トレーラーに衝突し、福島第1原発事故で福島県三春町に避難していた女性ら5人が死亡した事故で、ワゴン車で患者を送迎していた南相馬市の医院「マルイ眼科」は6月11日、避難者を対象にした遠距離送迎をやめる考えを明らかにした。
 医院は1999年の開院直後から、交通手段のない患者向けに、同県葛尾村や飯舘村を含む30キロ圏内の無料送迎をしてきた。原発事故後は両村の避難者が多い福島市と三春町にも車を派遣。送迎範囲は75キロ圏まで広がっていた。
 9日の事故では、医院が手配した南相馬市原町区のパート従業員志賀模央(かみなか)さん(70)運転のワゴン車が衝突し、志賀さんと同乗の70代〜80代の女性4人の計5人が死亡した。

 5人のうち4人が葛尾村から避難していた三春町の仮設住宅では、地区の代表者が事故について住民に説明。遺族の意向で、4人合同で葬儀を行うことになった。

 当事者は全員、福島第1原発事故の避難者だった。現場の国道349号も原発事故で通行止めになった主要道の代わりの道として使われ、原発事故がもたらした悲劇を印象付けた。
 国道349号は阿武隈高地沿いに福島県を南北に貫く。南はいわき地域、北は相双地域にアクセスしやすく、原発事故以降は常磐道や国道6号など警戒区域で不通になった浜通り地方の幹線道の代替道路の役割を担っていた。
 住民も「原発事故後は車の往来が増えた」と口をそろえる。男性(64)は「山あいの道路で信号が少ないせいか、以前からオートバイや車で飛ばす人をよく見掛ける」と話す。主婦(61)は「高速道路の無料化が終わってから大型車の通行が目立つ。もともと事故が多い道路ではないのだが、原発事故で状況が変わった」と声を沈ませた

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/06/20120612t63021.htm
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/06/20120610t63017.htm

 やるせない気持ち、ってありますよね。今朝はヤッホー君、朝から大粒の涙を流して泣いておりました:

福島第1原発事故で警戒区域に指定された福島県浪江町に一時帰宅し、行方不明になったスーパー経営の男性(62)が5月28日、店近くの倉庫で首をつって死亡しているのが見つかった。双葉署は自殺とみている。
 男性は原発事故で福島市の借り上げ住宅に避難した。店を再開できないストレスから睡眠障害に陥り「生きていても仕方がない」と家族に漏らしていたという。
 町によると、原発事故後、町民の自殺は5人前後とみられる。馬場有町長は「非常に残念。原発は自然災害と違い、時がたつほど精神、肉体的に疲弊する。カウンセリングを通じて避難者支援を強めたい。国も将来像を示して町民の不安を軽減すべきだ」と語った

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20120529_01.htm

 きわめつけは、こんなニュースまでも飛び込んできました。山歩クラブのこのブログでも何度かご登壇願った弁護士先生がまた一人、消えてしまいました。合掌:

昨年3月の東京電力福島第1原発事故直後から、政府や東電の責任を追及してきた元新聞記者で弁護士の日隅一雄(ひずみ・かずお)さんが6月12日午後8時28分、入院先の東京都新宿区河田町8の1の東京女子医大病院で死去した。49歳。昨年5月、末期胆のうがんで余命半年と告知されていた。広島県出身
(2012年6月13日 東京新聞朝刊「弁護士・日隅一雄さん死去」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012061302000102.html

病気がわかったときから、これまで日隅さんがやってきたことは誰が代わりにやれるんだろうとそのことが心配でした。残された者が、その何分の一かでもやっていかなければと思っています
(2012-06-13 01:17:57更新 弁護士杉浦ひとみ先生)
http://blog.goo.ne.jp/okunagairi_2007/e/ff1f03d2390308f5de542fcfd69cdad2

先生の最期を描いた「バッチとペンと〜日隅一雄の闘い〜」が、TBSのドキュメンタリー『報道の魂』で、来る6月17日深夜に放送されるとのことです。死を覚悟されたうえで、この番組の製作に協力されていたのでしょう。
 原発のこと、法律家のこと、ジャーナリズムのこと。少しでも関心のあられる皆様、是非是非是非、ご覧ください

(2012-06-13 10:38:25更新 弁護士徳岡宏一朗先生)
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/72491c794432b7ce1f6c6c2ce3b51a51

日隅一雄さんの名前は、もはや歴史に、確かに、そして深く、刻まれたと思う。僕は、この6月12日を忘れることはできない。心からご冥福をお祈りします。
 とにかく、日隅さんの死は、あまりに悲しい

(2012.06.12 21:24更新 弁護士紀藤正樹先生)
http://kito.cocolog-nifty.com/topnews/2012/06/yamebun-twitter.html

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政治家の国民に対する恫喝

 昨夕、6月12日17時21分に投稿なさった、ヤッホー君がお慕いしている小児科の先生です。なんかターニングポイントのような気がしているヤッホー君、あえて全文掲載させていただきます:

野田首相は、大飯原発再稼働が行われなければ、突然停電となり人工呼吸器で治療を受けている患者の生死にかかわると述べたらしい。
 これは、政治家の国民に対する恫喝である。再稼働を目指すという目的のために、どのように恫喝したら、国民は納得するかという発想の発言だ。
 突然の停電は、原発の再稼働の有無に関わりなく起きうる。医療現場や、在宅治療の現場では、そのような状況に対応しようと精一杯の努力をしている。東電の「無計画停電」のような事態にならなければ、さらにUPS電源の準備があれば、数時間の停電はやり過ごせるはずだ。政治家としては、そうした方向の努力を示すべきなのだ。東電の「無計画停電」を行わせた人間の社会的責任はどうなったのか。
 ところが、首相はそうした努力をしない。再稼働止む無しという世論に誘導するために、人工呼吸器が停電で止まり、人命が失われるとしゃあしゃあと述べる。人工呼吸器を扱う医療現場、それで治療を受ける患者への配慮などありはしない。野田首相にとっては、人工呼吸器の問題等、自らの政治的な目的を達するための言葉の遊びである。
 首相の立ち位置が明らかになった発言である


 おなじように『集団自殺』なんて縁起でもないことをいけしゃあしゃあと同じような脈絡で述べたのがセンゴク。このセンゴク、ノダ、もう一人のちょうちんもちとで、再稼動の政治判断をした、というのですから、コクミンも主権者も有権者も、もうあったもんじゃない、おそろしい国のすがたに成り下がったもんです:

民主党の仙谷由人政調会長代行は4月16日、名古屋市で開かれた「ミッドランド毎日フォーラム」(毎日新聞中部本社主催)で講演し、「(すべての原発を)直ちに止めた場合に日本の経済と生活がどうなるのかを考えておかなければ、日本がある意味では集団自殺するようなものになってしまうのではないか」と述べた。定期検査を終えた原発を再稼働させる必要性を強調した発言だが、再稼働に慎重な世論が強い中、「集団自殺」という表現には批判が出そうだ。
 仙谷氏は「原子力ムラに対する国民の反発が根強くあるが、論理的にはあまり解決のつく話ではない。結局は専門家に任せるしかない」と指摘。菅直人前首相らの唱える脱原発路線にも「20年か30年の中で原発をクリーンエネルギーに置き換えるのはできない話ではないと思うが、国民が必死に(新技術開発への税金投入などの)リスクを取らなければ容易でない」と疑念を呈した

(4月16日20時24分最終更新 毎日新聞鈴木美穂記者<仙谷政調会長代行:原発停止で「日本は集団自殺」と発言>)
http://mainichi.jp/select/news/20120417k0000m010073000c.html

 こんな発言を発する政治屋、ノダやセンゴクってどの企業のどの労組を選挙母体としているんだろう?こんな愚弄し挑発し恫喝するような労使交渉で出世し、政治屋に登りつめたのかね、と思うと、さすがに労働組合の復権を願うヤッホー君ですら、うんざりしてしまいます。
 一方、この発言の事実をどう考え、どう分析し、どう対策をうつべきか、山歩クラブのこのブログにも何度もご登壇願っています武田邦彦先生のブログを再読してみる価値があります。ぜひクリックして全文、お読み下さい:

節約、もったいない、節電… 個人の人生や家庭生活には大切なことだが、それを良いことに「国民は言うことを聞く」という作戦に乗るのは次世代の子供たちにツケを回すことになる。
 そういえば家電リサイクルを始めようと言うときに、ある通産省の幹部が「日本人は素直だし、官が強く、業界がまとまっているから、家電リサイクルは世界で日本しかできない」と言ったことが思い出される。
 今でも、家電リサイクルで回収し、国民からリサイクル代金をとってリサイクルしないで、資源もほとんど回収していない。それでもうけている割合が50%を超える。それでも国民は「良いことをしている」と思ってお金を出す。
 こんなことを続けていたら日本は本当に二等国になり、子供たちは苦しむだろう。ダーウィンが言ったように「事実を見るには勇気がいる」という言葉を今こそ、大人は思い出す時期だ

(平成24年4月19日 武田邦彦「集団自殺を回避する方法(1)…誰が節電すると効果的か?」)
http://takedanet.com/2012/04/post_c586.html

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2012年06月12日

緑の直行便

 そんなにムカシではないはず、3年か4年前、たしか2008年の秋、新潟県は八海山と巻機山のお山歩会をしたことがあって、時間があったんで立ち寄ったのが「鈴木牧之記念館(南魚沼市塩沢1112-2 Tel 025-782-9860)」。
 この鈴木牧之(すずきぼくし)は『北越雪譜』の著者で:

明和7年(1770)塩沢に生れました。牧之の家は、代々縮みの仲買商を稼業とし、父の影響を受け幼い頃から学問や文芸の道に励みました。牧之の交友は広く、作家では山東京伝や弟の山東京山、十返舎一九、滝沢馬琴など、その他、画家や書家、俳人、役者など200人余りにのぼっています。学問や文芸にたけ几帳面であった牧之が遺した資料から、当時の文人や画家などの様子を知ることができます
http://park11.wakwak.com/~imahaku/sub/bokushi/bokushi.html

 ところで、鈴木牧之記念館はほかに、トミオカホワイト美術館、十日町市博物館の3館で、「雪国の文化と芸術を紹介する共通姉妹館」として提携を行なっています。

 今日の話題は、十日町市。

十日町市の人口は64,212人(平成16.3.31住基)です。将来人口の推計では、出生数の減少と新規学卒者の市外流出が著しいことから、当分の間毎年700人から800人のペースで減少する見込みでとなっています。また、高齢化の状況は厳しく、65歳以上の高齢者人口比率は28.3%(平成16.3.31住基)で、新潟県平均を約5ポイント、全国平均を約9ポイント上回っています』

 第2次産業は、きもの産業を基幹産業としてきていますが、長期にわたり出荷額や従事者数が減少しています。また、経済のグローバル化により、弱電を中心とする誘致企業も、その生産を海外に移しており、規模縮小が相次いでいます。このため、平成13年の工業製造品出荷額等は554億円であり、県内の20市のなかでも低位にランクされています

http://www.city.tokamachi.niigata.jp/kurashi/00493.html
 
 でもこの縮み、きもの産業のおかげでこんなことがあったのです:

イタリア北部に位置するコモ市は、商業の中心ミラノからほど近い、ヨーロッパ屈指の伝統あるリゾート地です。
 絹製品の産地としても名高く、十日町市とは絹織物を仲立ちにして、1975(昭和50)年2月27日に姉妹都市関係を締結しました。
 1991(平成3)年には民間の「十日町・コモ姉妹都市交流協会」が設立され、コモ市の文化交流団体ファミリア・コマスカ協会との文化交流もスタートしました。
 締結以来続く5周年ごとの記念行事や使節団相互訪問、そして現在は十日町・コモ姉妹都市交流協会とファミリア・コマスカ協会、両市が協力し、青少年交換留学事業、コモ市フォトコンテストへの出品、両市の小学校間の交流などが毎年行われています。
 これまで、各種のフェアやイベント、コンサートの開催、ビデオクルーや芸術家による作品制作・文化・世界平和に関わる多くの人材の交流やさまざまな催しなどが行なわれ、時間と距離を超えた交流が続いてきました。
 平成22年には姉妹都市提携35周年を迎え、交流は、次の世代へと着実に受け継がれています

http://www.city.tokamachi.lg.jp/kanko/10030300049.html

 ねえ、ヤッホー君が行きそびれ、カッシーが訪ねたことのあるコモ湖のあるコモ市は、新潟県の十日町市と姉妹提携の関係にありました。

 守門岳、浅草岳、魚沼駒が岳とか歩いてみたい山々のあるこの地方、そして上信越高原国立公園「清津峡」、黒部峡谷、大杉峡谷とともに日本三大峡谷の一つとして知られている絶景地、さらに「美人林」、「星峠の棚田」など一度拝んでみたくなりました。
 来る8月4日(土)・5日(日)の両日、馬事公苑で開かれる「せたがや ふるさと区民まつり」に出展するでしょうから、そのとき資料でもいただきにまいりましょうか。

 そうしたらね、世田谷区と十日町市は、自治体交流があり、さらにこんなことまで… またまたビックリしてしまったヤッホー君。
 なんとか山歩クラブで参加できないでしょうか、と早速、考えてみることにしたそうです;

世田谷から十日町をつなぐ無料直通バス「緑の直行便(グリーンライナー)を平成24年5月〜10月まで運行します。
期間/5月12日(土)〜10月21日(日)の指定された土・日のみ運行。
運行区間/往路(土曜):世田谷区役所・午前7時30分発→十日町駅・12時30分頃着、復路(日曜):十日町駅・午後2時30分発→世田谷役所・19時40分頃着
定員/45名程度(1名から運行)
対象/十日町市内の宿泊施設を利用し、農業体験等に参加する方
申込先/(社)十日町市観光協会 Tel 025-757-3345

http://www.city.setagaya.tokyo.jp/020/pdf/29239_1.pdf

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2012年06月11日

イタリア大使館別荘本邸

 中禅寺湖、良かったですね。エゾハルゼミが合唱し、アカヤシオ、シロヤシオの花が咲きほころび、クリンソウも見えるいまどきの湖岸プロムナードは。
 山歩クラブの面々には至福の時だった、と言えるかもしれません。

中禅寺湖畔は、明治中期から昭和初期にかけて、各国の大使や政府高官など国内に居住する外国人の別荘が立ち並ぶ国際避暑地として賑わった華やかな歴史を有する地域であり、我が国における国際的なリゾート地としての草分け的な存在である。
 これらの近代遺産を活用した地域活性化等の取組を行なった。
 
 「イタリア大使館別荘記念公園」
 イタリア大使館別荘は、1928(昭和3)年に中禅寺湖南岸に著名な建築家であるアントニン・レイモンドにより設計され建設された。
 本施設は、奧日光の国際避暑地の歴史の足跡を残す数少ない建築物であり、1997(平成9)年までは、歴代在日イタリア大使の夏季別荘として使用されていたが、老朽化が著しく、1998(平成10)年2月に栃木県が取得し、中禅寺湖畔の歴史・自然とのふれあいの場として再整備を行なった。
 歴代大使が使用していた本邸は、内外装杉皮葺の建物であり、一階は、中央の居間を中心として、その両側がそれぞれの暖炉を持つ書斎と食堂で構成された当時としては珍しいワンルームとなっている。
 各部屋は湖を一望できる広縁に通じており、避暑地生活を彷彿させる開放的な空間となっている。
 このため、整備にあたっては、中禅寺湖を眺める視点場として建設された当時の姿に復元することとした

(環境省資料 日光国立公園 奧日光地区事例紹介)
…www.env.go.jp/nature/ari_kata/shiryou/030630-5.pdf

 そうなんです。イタリア大使館別荘本邸(写真)…

大使別荘本邸.jpg

 中禅寺湖を眺める「視点場」…、窓ガラスも当時のものだそうです。斜めに見ると縦筋で景色が歪んで見えます。クリスタルガラス、鉛が含有され透明でクリアな視界が得られるドイツ製なのだそうです。

 そうですか…。さらに、ご説明は続きます:

タルスTALS(栃木県木材需要拡大システム協同組合、宇都宮市屋板町466-1(株)松井内、Tel 028-656-4118)の準不燃・難燃技術は、文化財の修復・保存にも協力をしています。
 旧イタリア大使館の改修工事では、TALSの難燃杉皮が使用されております。
 別荘は、木造2階建てで、内装、外装とも杉皮ぶきで出来ており、森の中の景観に見事にマッチしています。
 「イタリア大使館別荘記念公園」の別荘本邸は登録文化財として登録されました。

 タルスTALSは、いま行動しています。
 豊かな緑、美しい郷土とともに(“とちぎ発”節電アクション大作戦協力店でもあります)。

 栃木県は35万haの成木を有する質・量とともに、日本有数の森林県であります。
 時代が大きく変わりつつある中で、木材異業種で構成されている私達の組合は、メンバー各自の特色をフルに活かし、広く県産材の流通を促進するため、提案から施工まで迅速に行動し、より高品質な木材製品の提供を、お手伝いしています

http://www.tals.jp/

 はるちゃんの質問も良かったですね、ムカシ、交通の便はあったのですかって。
 いろは坂はあったらしいのですが二荒山神社からの道は「けもの道」だけ、ですので、そこに見えるでしょう、あの桟橋、ムカシは船で人も物資も運んだですって。この辺りの別荘は皆、桟橋をお持ちだったんですって。へ〜っ、何かあれはボートとかヨットとか湖に船を浮かべて遊ぶためのものなのかなぁ〜程度にしか思っていなかったヤッホー君、またしても腰を抜かしたようで。

 「どうしてイタリア大使館はそんな不便な中禅寺湖を別荘地に選んだんですか」っておろおろしてヤッホー君は尋ねました。
 そうしたら、なんと中禅寺湖はイタリアのコモ湖に似ているからなんですって。知っています?『赤と黒』のスタンダールがコモ湖をとても気に入っていたのを:
 
すべてが気高くやさしい。
 すべてが愛を語っている。
 文明の醜さを思い出させるものは少しもない。
 丘の中腹の村々は大きな樹々にかくれ、樹の梢の上には、村の美しい鐘楼のみやびやかな建物がそびえ立つ。
 小さな畑が、ところどころにこの野生の栗や桜の茂みを中断しているとしても、そこにはよそに植えたよりもはるかにいきいきとし、よく育った植物が茂って目を楽しませる。

 丘の頂きにはだれでもちょっと住んでみたいと思うような隠棲所が見え、その丘のかなたには、つねに雪でおおわれたアルプスの峻峰が人の目を驚かせ、そのいかめしい姿は、人生のさまざまな不幸を思って、現在の楽しみを大きくするにはどうすればいいかを思いおこさせる。

 空想は、樹々の下にかくれた小村の鐘の遠音にも動かされ、音は湖面にひびいてやわらぎ、甘い憂鬱とあきらめの調子を帯びて、人間に「人生は逃げて行く。現在の幸福にたいして気むずかしくなってはいけない。いそいでそれを楽しめ」と告げているようだ

(岩波文庫『パルムの僧院・上』生島遼一訳)

 イタリア大使館別荘記念公園を後にしたヤッホー君、そんな話しをカッシーくんと興奮して話ししていたら、カッシー君もムカシ、ミラノからコモ湖までクルマでドライブしたことがあったそうな。高級別荘地で、湖岸、湖畔、展望所はこれらの富裕層の別称所有者のプライベートランド、私有地になっていたそうです!

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2012年06月10日

中禅寺湖 南岸

 今日6月10日は暦の上では「入梅」。
 山歩クラブは、月例お山歩会の日でございました。
 元気に向かいました、中禅寺湖一周のお山歩会。
 しかし眼病や風邪、膝裏の痛み未だとれずとか、昨日土曜日予定の小学校の運動会が雨で日曜日に順延、とか、あるいは急用ができて、とか理由さまざま、結局は予定していた参加者の20人が、13人にまで減じてしまいました。
 ところで9時10分からのスタート時から先頭を走っていたヤッホー君、またしても旧天城トンネルのように「おじんば」か「どじんばんば」かに出会ってしまったのです。

 中年のおじさんが湖岸に座わっていました。ヤッホー君たち山歩クラブの面々が通るときに遅れまじ、という感じで山歩クラブの縦列に入ってきました。また後ろから子どもとお父さんの二人連れがきまして、二人連れは社山1826.6mのほうに向きを変えました。ヤッホー君は子どもに「がんばってね」と声をかけて、叱咤激励。
 中年のおじさんは、向きを変えずに前方に進んでいきましたので、当然のごとく、ヤッホー君たち、何の疑問も呈さずに、その中年のおじさんの後を追い、良い目標ができた、と喜んで歩きだしたのです。
 
 「阿世潟」のところです。
 しかしヤッホー君はその中年のおじさんを見失いました。
 いくら追いかけても姿が見えず、かつ山路は、中禅寺湖南岸とも、社山の方向とも違う山中にどんどん分け入っていくのです。
 雨も降ってきました。
 
 ついに90分後の10時40分、名誉ある撤退をすることにしました。
 「阿世潟」に戻り湖畔で昼食。おなかをいっぱいにしたら、社山か半月山に登ろうかな、とも考えましたが、雨足も強まり、ヤッホー君はお弁当を立って食べている有り様。山はもう無理でした。

 ま、秋もいいし、また来よう、と今日はおとなしく引き下がり、「歌が浜駐車場」へと舞い戻ったということになります。

 こんなハプニングでもなければ寄れなかったであろう場所が、途中休憩をとったこの「イタリア大使館別荘記念公園」の本宅。
 ヤッホー君の山荘とは大違いで、とても満足、ご説明してくださるお姉さまも丁寧で、とても堪能しました。

イタリア大使館別荘.jpg

 そんなこんな一日、まずはヤッホー君の帰京報告から:

皆さん、今日の日光は日の光り射さず、雨模様。
 オマケに中禅寺湖南岸コースにも分け入ることができず、途中で名誉ある撤退をしてきました。
 お昼は湖畔のほとり、雨降る中の弁当でした。
 でも午後からは、次第に運がむいてきまして、赤沼から戦場が原の取っ付きをちょこっとだけ辿って、開花寸前のズミにお会いし、お風呂は硫黄泉の源泉掛け流しで汗を落とし、車中は地酒「日光路」に酔いしれ、今日も満足、満足のお山歩会でした。

 また、今日の午後は、「イタリア大使館別荘」にて緊急ミーティングの召集もありました。
 そこで会長さまより、「気象庁は昨日6月9日午前11時に、関東甲信と北陸地方の梅雨入りを発表しましたが、これから、レディスアンドジェントルメン、大いに雨や湿気を楽しむ生活を送りましょう」というお触れがでたそうでございます。

 ではどちらさまも、次回お会いするときまでご機嫌よろしゅう


今日はお世話になりありがとうございました。
 いろいろ気をもんだ時もあったでしょうが、全然気にすることはありません。
 それなりにウオーキングを楽しめましたし、雨なんて自然の中で生活しているのだからあたりまえ。
 新緑が美しく、全て新鮮でとても良かったです


 ありがとう!おかげさまで今夜もぐっすり寝られます!

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2012年06月09日

地球ノ上ニ種種ノ国

 パネルNO.16「オランダ」(1873.2.25〜3.7)。140年ほど前の日本人は、はじめてヨーロッパはオランダの地を踏んでどんな感想を抱き、その感想をどう表現したのか、ですよね。

『地球ノ上ニ、種種ノ国を形成シ、種種ノ民族住居シ、各風俗生理ヲ異ニスルコト、意態万状ニテ、百花ノ爛漫タル観ヲナス… 又、阿蘭陀ニ至レバ九州ノ筑肥四州ニ比スベキ人口ニテ、塗泥ノ中ニ、冨庶ヲ謀ル景況ヲ見ル… 阿蘭陀ハ、正ニ其の一部ヲ、北方寒冷ノ緯度ニ有セルナリ、塗泥モ化シテ稲田トナスベカラズ、甘藷綿花モ亦生ゼズ、鉱金モナク石材モナク、又山林モナシ、而シテ其ノ人民ノ勉強倹勤ナル、世界富国ノ一ト推サレタリ、蘭人ノ心ヲ以ッテ、支那ノ野ニ住セバ、其幾百ノ蘭国ヲ東方ニ生ズルヲ知ラザルナリ…』

 もう、コスモポリタン、と思いませんか、140年前に30歳過ぎたばかりの鍋島藩のお方が、もう「地球」規模で物事を見て、百花爛漫と形容する、そしてその花を咲かせるに人びとの「勉強ぶり」「勤勉さ」をあげるところなんざあ〜、隅から隅まで、我が誇りとする日本人、と思いませんか、ね。

 原書にあたってみよう、と思ったヤッホー君です、いえ、ね、カナ混じり文って写すのが、けっこう疲れるのでございまする。

 国のかたちが外からの強大な力で変わらんとしているとき、われらが角蔵はこう言います:

アメリカのペリー提督の到来は、ついに西洋の知識の水門を開き。この知識はたちまち国じゅうに氾濫し、歴史上の陸標さえも押し流してしまうほどであった。このとき日本は、ふたたび見覚めた国民生活の意識をもって、古い過去の歴史を脱ぎすて、新しい衣装を身にまとうのに懸命であった…
 岩倉や大久保らの大政治家の声は、ヨーロッパの制度にたいするこの逆上的な愛が、わが国古来の慣習におよぼしつつある大々的な破壊を非難するのに躊躇しなかった


 ヨーロッパの技術とは違うアジアの精神性…、ヨーロッパを合わせ鏡として『アジアはひとつ』と言い切る角蔵がいる…

アラブの騎士道、ペルシアの詩歌、中国の倫理、インドの思想、これらはすべて、ひとつの古代アジアの平和を物語っている。
 この平和のなかに共通の生活がそだち。それぞれの地域にそれぞれの特徴をもった花をさかせたのであって、どこにも明確な境界線をひくことはできない

(岡倉覚三『東洋の理想』、英文底本は"The ideals of the East with special reference to the art of Japan" London, John Muray, 1903、「日本の名著」版の訳者は夏野広、森才子)

 かくして、明治に代ってすぐのとき、ヨーロッパ(というか欧米)に向かうベクトルと、アジアに向かうベクトルが存在していたのだけど、片方のベクトルは政治という大上段からの切り口であり、片方のベクトルは高等遊民(だからこそ容易に越境できるのかも知れませんね)からの酔いどれ口上でしたので(おまけに英文で発刊されたんですもん)。
 ですので、それ以後の「国民」としても纏まりを形成するに貢献したのは、やはり角蔵でなく、久米邦武だったようです。
 もっとも角蔵の論調は戦時、「八紘一宇」とかに誤解曲解されて利用されちまったけど…それも検証しないといけないっすよね、あっははわっはは、みたいな言葉にならない笑い声がゲンパツ再稼動でも、大型、薄型、地デジのテレビ画面から流れてくるとき、それが言論の復権になるのです、きっと、この国に。

 それにしても、この多様性の統一のような考えは、そのインド在住の白人女性とのコラボによった部分もあるのでしょうね、でも、思想的に昇華できたのですから、角蔵も大したもんです。

 過日ご紹介した稲賀繁美先生はこんな風に評価なさっています:
 
ニヴィディータは、「東洋の覚醒」の出版を、彼女自身の「女神カーリー(1901」、「インドの生活、その経糸緯糸(1903)」との間に位置づけて、自分の出版事業とも比類できる重大事として、手紙のなかで言及している。彼女の序文には、こうあった。

 ですから、岡倉氏のように、アジアを、我々が想像してきたような地理的断片の寄せ集めとしてではなく、おのおのの部分が他のすべての部分に依存し、全体が単一の複合的な生命を息づいているひとつの統一された生ける有機体<a united living organism, each part dependent on all the others, the whole breathing a single life> として示すことは、このうえなく価値のあることなのです(Okakura 1303)

 グーハ=タカルタ(Guha-Thakurta 1992)はかのインド研究者が明らかにしたとおり、ニヴイディータにとって天心がしめしたアジア観は、当時のンド国民統合の指針となリイデオロギー的な支柱を提供するものだった。
「アジアはひとつ」という宣言における″oneness″は、明らかに天心がヴィヴェカーナダから教示されたアドヴァイタAdvaitaの考えに負っているが、それをニヴィディータは「すべてに漲る混清の力」(all pervasive syncretic force)と捉え、そこに正統なるヒンディズム(という当時の「近代の創設」)に導かれた「インの総合」(Indian synthesis)ヘの契機を見いだしていた。

 「アジアはひとつ」の掛け声は、当時大英帝国によって蚕食されていたインドにあっては、「インドはひとつ」とい政治的メッセージー分割統治への抵抗―として解読されたのである

(前掲書)

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2012年06月08日

久米邦武

 ヤッホー君が向かった津田塾大学の創始者、津田梅子も実は岩倉視察団一行に入っていたのですよぉ〜。
 へぇ〜、すごい、といつもビックリの毎日を送っているヤッホー君、6月8日金曜日も腰を抜かしておりました。
 愛宕山のNHK放送博物館でいただいたのが連続テレビ小説、『梅ちゃん先生』のはがき。しかし梅は梅でもそのお話しではなく、津田塾大学の梅子先生!

『津田梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族)・初子夫妻の次女として、江戸牛込の南御徒町に生まれた。仙は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失ったが、1869年に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。
 1871年、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の満6歳であった』
(以上ウイキ)

 向島って、我が下町じゃん、なんて… いえ、ね、もうひとつ、次の文をキャンパスでメモってきたわけなんですが、メモらなくとも、岩波文庫版で読めるらしいこともわかりました。『米欧回覧実記』(久米邦武・岩波文庫 全5巻)。図書館で探してみようっと。
 ま、とりあえず:

パネル番号13.フランス(1)1872.12.16-1873.2.17、1873.7.15-7.19

 仏蘭西人ハ体格長大ナラズ、音声発楊シ、資性活発ニシテ気ガ強健ナリ、…毎ニ機敏ヲ以テ勝ヲシム。粗我日本人ノ気象ニ似タリ


 これは、ヤッホー君が彼の地を踏んだときの第一印象にも似ております。北欧の人は皆、ひょろひょろと長く、背の低いヤッホー君はいつも上目づかいだったのですが、フランスに入ったときは、変わらないじゃんなんて思いましたね、若いとき。
 特にラテン系のフランス人にはそんな印象が。また学生時代のアテネフランセの先生がそうで、とても親しみやすく、ご自宅にも誘ってくれましたし、日本人と似ているわい、なんて思ったことでしたが、いったいどなたが、この明治時代になってすぐの岩倉視察団(岩倉具視、大久保利通、木戸考充の3人を三銃士と呼んでおりました)でお書きになったのでしょう…
 この文のように事実ばかりでなく自分の感想をないまぜ、イマにも通じるような記述、報告、詳述をしたのはいったいどなだでしょうう、とフシギでございました。

 それは久米邦武でした。

彼が帰ってきてから膨大な報告書を書きました。
 それが今では岩波文庫に入って、5冊になる相当大部のものですが、非常におもしろい。
 挿絵もついています。
 皆さん、もしヨーロッパへ旅行することがあったら、1冊もっていって、その挿絵どおりかどうかみてくるのも楽しいと思います。
 しかし、おもしろいのはそういう名所旧跡の話ではなく、政治や産業のことから、今の言葉でいえばマクロ経済の状態まで、それぞれの国についてみて調べたことが記されていて、それが非常に興味深いのです

(2006年4月7日『法政大学創立者・薩埵正邦生誕150周年記念連続講演会―明治日本の産業と社会―第4回「生活水準の歴史的水準比較―近世日本とヨーロッパ」ということで、本日は一橋大学経済研究所教授・斎藤修先生にご講演をお願いいたします)
http://www.hosei.ac.jp/fujimi/riim/img/img_res/WPNo.44_saito.pdf

 え〜と、ね、何からいきますか、ね。

 まずは、久米美術館から:
http://www.kume-museum.com/index.html

 西武国分寺線「鷹の台」のあとは、目黒ですか、ねぇ〜、うん、行ってみましょ。
 それからは、と。佐賀県・福博印刷(株)文化事業推進室の事業に、「出門堂」がありますが、そのサイトの「偉人図書館」から:
http://www.shutsumondou.jp/ijin/ijin07.html

 それによりますと(泉三郎『岩倉使節団という冒険(2004年、文春新書)』より):

岩倉大使直属の随員として記録係を命ぜられたのが久米邦武である。
 久米は33歳、漢学を学び、旧佐賀藩主、鍋島直正の近侍として仕えた。
 岩倉大使はフルベッキの薦めもあったのであろう、初めからこの旅について記録を残すことを考えており、その要員として洋学者ではなく漢学者を望んだ。
 久米に白羽の矢がたったのは、直正が岩倉と親しかったことによるものらしい。
 久米の随行が決まったのは出航のわずか一週間前だったという

http://www.shutsumondou.jp/ijin/ijin07.html
  

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2012年06月07日

西武国分寺線「鷹の台」

 6月7日木曜日。なんとか暇を見つけ、津田塾大学に向かいました。
 ヤッホー君は、仲間にこんなことを呟いていました:

『いったい、どうしたことでしょう、ヤッホー君の関心は異常なほど高まっています、この明治初期の欧米発見に!…あとで報告しますね!』

<日・EUフレンドシップウイーク
 日本のヨーロッパ発見、1972年〜1973年に岩倉視察団が見聞したヨーロッパの多様性と統一性>
(於 津田塾大学 小平キャンパス 7号館 1Fラウンジ)

 あのぉ〜、学食は? って守衛所で聞いたんですう、そうしたらね、「朝の通勤・通学ラッシュ時間帯に女性のお客様・小学生以下のお客様等に安心してご利用いただくことを目的に、女性専用車を導入しています」みたいな、あの、その、ここは女子大ですので… ということで、遠慮しまして、2階にある大学生協で、298円を払ってお弁当を買いまして、ベンチで食べました。
 次回は、ぜひ、どなたか津田塾大学を卒業した仲間にお供をお願いし、大奥にお邪魔したく思ぉ〜ております、はい。

『あの時代は長い鎖国の後ですから、異常なほど当時のエリートには関心があったんでしょうね。また教えて下さい』

 この「パネル展」はぜひ、若い学徒の皆さん向けに、日本各地の大学を巡回、縦断していただきたいものです、また公共の場とか、希望団体にも無料貸付するなどして。あるいは、東京駅前の○○広場とかにも、、、

 ところでこの<日・EUフレンドシップウイーク>、前もって情報を入手できていたら良かったね、とヤッホー君;

 『2001年に始まった「日・EUフレンドシップウィーク」は、毎年5月9日の「ヨーロッパ・デー」を中心に開催されます。文化、社会、学術、スポーツなどのさまざまな催しを通して、日本の皆さまに欧州連合(EU)をよりよく知っていただくことを目的としています。駐日欧州連合代表部は一部の催しを主催するほか、数多くの催しに後援・協力を行なっています

 これからの予定ですと:

マセ駐日フランス大使講演会「「グローバリゼーションにおけるフランスと日本〜オランド大統領の外交政策・EUと日本」
 日時: 6月13日(水)15:00〜16:30(開場14:30)
 場所: 早稲田大学 早稲田キャンパス11号館 505教室
 主催: EUIJ早稲田、早稲田大学国際戦略研究所 
 後援: 在日フランス大使館 
 言語: 仏語(日仏同時通訳付き)、英語レジュメ有
 参加費: 無料
 登録: 必要
 問い合わせ: EUIJ早稲田(euij-office@list.waseda.jp、03-5286-8568)
 説明:フランス第5共和制下の第7代目の大統領に就任したフランソワ・オランド新大統領は経済成長路線を重視しつつも、EUが求める緊縮財政路線とのバランスをとっていこうとするのでしょうか。オランド大統領の外交政策の重点事項、対EU政策、また日仏関係などについてクリスチャン・マセ駐日フランス大使に講演をいただいた上で活発な議論を展開します。
 詳細: http://www.euij-waseda.jp/whatsnew/2012613.html


 どうします? 山歩クラブの面々? 参加しようかなって、学食に行こうかなって仲間はどのくらいいらっしゃいますかねぇ〜 よし、募ってみようかな…

 ところで、津田塾大学に向かう最寄り駅は、西武国分寺線「鷹の台」。下車して「小平中央公園」を抜けました。この公園もとても良かったです:

『昭和20年代の終わり頃に鷹の台駅付近に移り住んだ人の話によると、
「駅の前に地元の農家がやっている八百屋が1軒あったきり。西武国分寺線の線路の東側には(財)大日本蚕糸会蚕糸科学研究所の桑畑が一面に広がり、その東側に津田塾大学校舎の赤い屋根がポツンと。玉川上水の両サイドはほとんどが雑木林か畑地で、雨が降ったら駅前はぬかるんで大変でしたよ」』

(小平シニアネットクラブ KSNC 小平中央公園 昭和20〜50年 オールド・デイズ)
http://www.ksnc.jp/kodairashoukai/tyuokoen/kuwabatake.htm

 そうなんです、「玉川上水」まで目にすることができたんです。

玉川上水は、羽村市で多摩川の水を取り入れ、新宿区四谷にあった四谷大木戸まで全長約43キロにわたって掘られた、素掘りの上水路でした。さらに、この先は地下に埋められた石樋や木樋により、江戸城や武家、町家にも配水され、主に飲み水に利用されました。

 上水開削の歴史は古く、徳川家康が江戸城へ入府後に、小石川上水を開いています。1635(寛永12)年三代将軍家光の参勤交代制度により江戸の人口は急激に増加して、それまであった小石川上水を改良した神田上水や赤坂溜池からの上水では飲料水不足となりました。さらに江戸城やその高台一帯にはこれらの水は届かないため、幕府は1653(承応2)年に玉川上水を掘ることを許可しました…4月から工事に入り、わずか8ヶ月後に四谷大木戸までが完成、翌年の6月(承応3年)には虎ノ門までの地下樋の工事も完成したとされています。

 … 近代水道の普及が叫ばれ、1898(明治31)年に淀橋浄水場が完成しました。それまでの上水道としての玉川上水は淀橋浄水場へ水道原水を送る導水路としての役割に変わりました。さらに1963(昭和38)年東村山浄水場の完成により現在の小平監視所から下流はその役割も終了しました…それ以後、上流部の12キロを除いて空堀の状態が続き、上水の両岸縁は雑木が繁茂し水路は荒れるに任されたままでした。小平市内を始め多くの人々の願により、1986(昭和61)年東京都の「清流復活」事業が実施され、小平監視所から杉並区の浅間橋の区間に下水処理水ではありますが流れが甦りました

(玉川上水の歴史)
http://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/009/009353.html 

 ぱんぱんと橋の上で、手を鳴らしたお散歩されている方がおられました。お参りでもしたのかな、と橋の上から玉川上水を覗くと、な、なんと、なんと、あの港区・愛宕山の「児盤水の池」のように大きい鯉が餌を求めて口をぱくぱく開けて、いっぱい集まっていました。
 つい、ヤッホー君もぱんぱん。

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2012年06月06日

鹿、アメリカの場合

 6月6日水曜日、いつものようにロンドンのガーディアン紙を斜め読みしていたヤッホー君、そうかぁ、アメリカも一緒だね、と頷いていたそうです:

Washington DC prepares to eliminate hundreds of deer from local park

Plan for government snipers to cull 300 deer in capital's Rock Creek park prompts trepidation among conservationists

Bartolomeo argued other parks and historic areas with increasing deer populations have taken similar measures, and that the park service had had little choice.

"The deer population is now four times now what the forest can sustain, and the forest is not regenerating. You are not getting any new saplings or young bushes. It's just not occurring," he said. "There are too many deer to allow the forest to sustain itself."

Suzanne Goldenberg, US environment correspondent

http://www.guardian.co.uk/environment/2012/jun/05/deer-cull-rock-creek-park

Deer in Rock Creek Park are a menace. They also regularly invade both the Washington Beltway and George Washington Memorial Parkway (GW) during the morning and evening rush hours. It is very scary to drive the GW during the dark winter mornings knowing that, at any moment a deer could jump in front of your car. I know that there will be cries of "bambicide" but this culling is needed to save humans and the natural flora that the deer destroy.

 どうして殺処分するのか、その理論的根拠は? 殺処分する実行部隊は誰か? 殺処分された肉はどうするのか? この国でも大いに参考になるのでは、と思い、このところ鹿害に悩まされてきたヤッホー君、急遽、この問題をとりあげ、意見交換できたらと望んでおります。新聞の読者コメントも併せてどうぞ:

○ As a lifelong, diehard environmentalist and DC area resident, I am totally on board with this. The whole point of ecology is balance and the deer population throughout the US is wildly out of control. As every good ecologist knows, that's not even good for the deer, ultimately.

○ It's truly unfortunate we've eliminated their natural predators but that leaves us to play the role. And they're not even wasting the meat -- venison is terrific stuff if you cook it rare and will make the homeless folks they feed it to feel stronger and ready to conquer the world. It's a win-win all around, including for deer who can die more quickly and cleanly this way than in sparring with Toyotas.
 

 メディア(新聞)に、読者からの、メディアの論調に対するコメントが載るっていいことって思いません?

 それに比べ、この国では、有権者、庶民、国民は、メデイアからですら「上から目線」で、いいように利用されているとしか思えないふしがあります。
 今日の紙面はなんだよぉ…、なんて疑問に思った方は、弁護士先生といえど、ご自分のブログでしか、その感情や慨嘆を表現できないなんて、どこか変だ、もう悲劇と言って良いのかも、ね。
 だってさ、ますます一般国民にとっては、どこか間違ってるなんて感じられないっしょ、選挙と一緒ですよ、怒る、とか暴動になる、なんてこの国じゃならないっす。
 一般国民には「情報洪水」なんて関係ない(関係ないように飼いなされている)、って。むしろ情報源は限られているんだから、それっきゃ信じられないでしょって、ムカシから、最近ではゲンパツがそうだし〜…大本営発表!

『消費税の増税報道が連日大きく展開されていますね〜。
 この報道、とても、不思議なところがあるのですが、分かりますか。
 思い出して下さい。鳩山内閣が総辞職したとき、菅首相が総辞職したとき、どのような報道がされたでしょうか?

 鳩山内閣は、普天間基地の移転の解決までの具体的な期限を宣言したにもかかわらず、それが実現できないことが明らかになったことから、頻繁に世論調査、アンケートを行ない、鳩山不支持率が大きくなっていること、鳩山辞職の声が大きくなっていることを連日報道していましたね。

 菅内閣のときはどうですか?震災復興が進まない、菅首相だと野党が協議に応じないなどという理由で、これまた、テレビなどで連日のように非難されていましたね。頻繁にアンケートなどが行われ報道されていました。

 そして、両者に共通していたのは、市民の声を連日、取り上げていたことです。世論調査やアンケートにかぶせる形で、市民の「怒りの」声を取り上げていました。

 …ところが、消費税増税問題では、市民の声が採り上げられることがきわめて少ないですね。

 いま、市民の声を採り上げたらどういう反応が返ってきますか?

消費税を上げるまえにすることがあるだろう

これから景気が悪くなるのがはっきりしているのに増税するのはおかしい

消費税の増税に政治生命をかけるなんて誰のために政治をしているんだ。安全な電力の確保に命をかけろ

という声がほとんどでしょうね。

 「早く増税してほしい」なんて、増税派にとって、都合のよい声はほとんどないでしょう。

 だからこそ、市民の声を拾わない流れが主流になっており、それは偶然と言うよりも、どこかに振り付け師がいると考えた方が説得力があるのではないでしょうか?』

(2012/06/06 消費税増税報道が官僚らによって振り付けられていると思う決定的理由!)
http://yamebun.weblogs.jp/my-blog/

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2012年06月05日

愛宕山26m

 6月5日火曜日、ヤッホー君はついに東京都23区内最高峰への登頂を果たしましたのでご報告。

 千代田線霞ヶ関駅下車C2出口を出て、愛宕通りを経産省別館から芝公園のほうへと歩き出します。この別館に原子力安全・保安院が入っております。

 環状2号線の工事まっさかり。「かんぱち」とか、「かんなな」ってよく耳にしますが、「かんに」ってあるんだぁ〜、びっくりしたヤッホー君:

幻の「マッカーサー道路」を甦らせる都心再生プロジェクト
 虎ノ門から新橋を結ぶ「幻のマッカーサー道路」と呼ばれる「環状2号線」の再開発計画。
 森ビルは東京都より「特定建築者」に認定された。
 「立体道路制度」の活用により建築物の中を環状2号線が貫通する計画で、特定建築者は、東京都建設局の委託により、地下トンネルの整備も行う。
 メインとなる超高層棟は、都内で2番目の高さを誇り、上層部から、ホテル、住宅、事務所、カンファレンス、商業施設を整備する計画となる

http://www.mori.co.jp/projects/kanjo-2go/

 愛宕一丁目交差点を過ぎ、真福寺境内の横を通ると、なにやら右手の森のほうに登っていく道が見えてきました。これが、愛宕神社参道入口。これを辿ることにしました。

 田崎真也ワインサロン(ワインスクール、港区愛宕1-5-3愛宕ASビル3F Tel 5405-2101)、日本興亜損保の保養施設「愛宕荘」を通っていくと、終に山頂です!

 愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。愛宕山は、23区内で自然の地形としては一番高い山で三等三角点もあります。

海抜26メートルは都内随一の高さを誇り、桜を見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色を四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山をして大変貴重な存在となっております。
 ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地をして江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、現在は6月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残をとどめています

(愛宕神社の解説板より)

 ちょうどお昼時、山頂には山ガールや山マンがぞくぞくと集まってきます。
 そうなんです、境内にはちょっと有名なお店が開いているんです:
☆ ​愛​宕​神​社​境​内​に​あ​る​田​崎​真​也​さ​ん​の​T(​テ​ィ​ー)…もう満員、行列ができていました!
☆ 菜​根​(​さ​い​こ​ん)…今日は臨時休業。

 しかし弁当持参のヤッホー君、山頂に暮らすネコを相手にベンチに座ってさっそくランチタイムです。でも、もう蚊までもが…きっと、とっても美味しいヤッホー君の手作りお弁当の匂いに、誘われてやってきたのでしょうね。

 そうなんです、山頂には、「愛宕神社」のほかに、「NHK放送博物館(入場無料)」もあって広場のような感じ。

 お弁当を食べたあと、館内に入り見物、さらに神社の境内に入っていきます。

 レストランの先に現れたのが「男坂(出世坂)」、「児盤水(こばんすい、または小判水)の滝」を集めた池、鯉がいっぱい泳いでいます。あっ、藪にまた白いネコが寝そべっています。そして、「桜田烈士愛宕山遺跡碑」が。

 これは安政7年3月3日(西暦で1860年3月24日)、江戸城桜田門外で水戸藩の浪士らを中心とした18士が大老、井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した「桜田門外の変」がありましたが、この桜田18烈士は、襲撃の当日に、愛宕山で待ち合わせをしたんだそうです。合掌。

 そして女坂。
 でも「男坂」も「女坂」も上から見下ろしたところ、あまりの急坂なので滑落の危険を感じたヤッホー君、無理、無茶をしないで、また神社へ、お参り、お参りと独り言を言いながら歩いていきました。
 祭神・猿田彦命を祀る「太郎坊社(愛宕の太郎坊と古くから尊称され天孫降臨の時、道案内をされた天狗様です。開拓、旅行等の守護神です)」などをめぐって、「招き石(なでると福が身につきます。もう石もつるつる)」に触れて、曲垣平九郎(まがき・へいくろう)「手折りの梅」に感心して、境内をでて、どこから下山口に下りたかと申しますと、「NHK放送博物館」脇にあったロープウエイならぬエレベーター!

 いやぁ〜、山ってほんとにいいもんですね。今日も笑顔で終わりました!

(追伸 山を下りた後、疲れを癒しに15分、立ち寄り湯ならぬお昼寝をさせていただいた場所は、「港区みなと図書館」)

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2012年06月04日

日本のヨーロッパ発見

 1872(明治5)年〜1873(明治6)年にかけてアメリカ合衆国及びヨーロッパ各国を回った大規模な明治政府派遣団で、「岩倉視察団」というのがありました。彼らが欧米の「多様性と統一性」をどう見たのか、そのパネル展が津田塾大学小平キャンパスでいま開催中!主催は津田塾大学、共催はEUSI、協力はオーストリア大使館です。今週金曜日までです。時間と暇と脳力をもてあましておられる方、ぜひおでかけください:
http://www2.tsuda.ac.jp/eusi/activity/other/120507-0608_Exhibition_Iwakura/20120507-0608_Exhibition_Iwakura_leaflet.pdf

 これは、居残り組の隊長、西郷どんとの大きなギャップを産むことになりますが、それ以降のこの国のかたちと向きとミッションを決定付けた大きな賭けだったように思います。
 
 仲間に今週中、空いている日がないか聞きましたが、ザンネンすべて予定表が埋まっておりました。でもヤッホー君、こりゃあ、ひとりでも行かなぁ〜オトコが廃る、と思おておる様子、どうなりますやら(学食かぁ、な?):

『岩倉使節団は、明治新政府によって派遣された大規模な公式の使節団です。政府で重要な位置を占める人々が参加するこの初の使節団の派遣は、明治維新によって新しい時代を切り拓きつつあった当時の日本にとって、国づくりをかけた大きな試みでした。
 使節団は、明治4年11月12日(西暦1871年12月23日)に横浜を出航しました。太平洋を渡って米国に半年以上滞在して後、大西洋を越え、同年7月13日(西暦では8月17日)に欧州に入りました。そして、英国に約4ヶ月間滞在したのをはじめとして、欧州の国々を1年近くにわたって歴訪しました。明治6年(1873年)7月20日に仏国マルセイユ港を発った使節団は、スエズ運河経由でインド洋をまわり、明治6年(1873)年9月13日に横浜に帰り着きました。この時、10ヶ月半という当初の予定を大きく超過して、出発から約1年10ヶ月という月日が経っていました。

使節団の中心となっていたのは、特命全権大使の岩倉具視(右大臣、公家出身)、副使の木戸孝允(参議、長州藩出身)、大久保利通(大蔵卿、薩摩藩出身)、伊藤博文(工部大輔、長州藩出身)、山口尚芳(外務少輔、肥前藩出身)で、一般にこの大使・副使を併せて「使節」と呼びました。
これ以外に、一等書記官の福地源一郎(外務大記、旧幕臣)、二等書記官の林董三郎(董)(外務七等出仕、旧幕臣)をはじめとする、一等から四等に分けられた書記官たち、後に『米欧回覧実記』を著す久米邦武(権少外史、肥前藩出身)、内海忠勝(神奈川県大参事、長州藩出身)らの大使随行、田中光顕(戸籍頭、土佐藩出身)、佐々木高行(司法大輔、土佐藩出身)らの理事官とその随行員たちを加え、全46名によって使節団は構成されていました。これに18名の随従者がともない、さらに、出発時には、若き女子5名を含む43名の留学生も率いられていたので、当初は総勢108名の集団だったことになります。

岩倉使節団が目的としていたことは、大きく2つ挙げることができます。
 1つは、不平等条約の改正に向けた予備交渉です。幕末期に欧米諸国と結ばれた不平等条約を改正し、独立した一国家として各国と平等なかたちでの国際関係を築くことは、明治新政府の重要課題でした。しかし実際には、使節団は最初の米国との交渉の段階で実質的な改正交渉は不可能と気づき、以降に訪れた欧州諸国では、改正の希望を伝えるに留めなければなりませんでした。
使節団のもう1つの目的は、欧米各国の国家制度、産業技術、伝統文化などを視察することでした。新しい国づくりに挑んでいた明治新政府にとって、近代的な産業や、政治制度、司法制度、社会制度など、他国の優れた点を学んでそれを自国に採り入れることもまた、大変重要な課題でした。また、同行した留学生たちも各国に留まって勉学に励み、後に帰国して活躍することが望まれていました。使節団はまさに、「智識を世界に求め」たのです。

 使節団を送り出した当時の日本では、新政府が、版籍奉還や廃藩置県といった中央への権力集中を目指した政治制度改革をはじめとして、経済、法律、社会などあらゆる面で文明開化の政策を進めていました。しかし、こうした政策に対して不満をもつ士族は多く、民衆も血税一揆や新政反対一揆などのかたちをとって反発や抵抗を見せました。一方で、政府内部においても、めざすべき国家のあり方についての考えや出身藩の違いによる意見の隔たりが存在していました。
このような情勢の中で、政府の有力者である岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが欧米を歴訪し各国を視察したことによって、ヨーロッパの国家をモデルとした国づくりの方向性に具体的なイメージがもたらされました。その一方で、長期にわたり日本を離れた使節と留守政府との間の隔たりは大きくなり、それが岩倉らの帰国後、西郷隆盛の朝鮮への派遣をめぐる意見の対立として表面化し、ついに明治6年の政変を迎えることになりました…』

(公文書にみる岩倉視察団)
http://www.jacar.go.jp/iwakura/sisetudan/main.html

 いえ、ね、岡倉天心のいう「アジアはひとつ」って岡倉天心の独創的アイデアなのか、それとも時の政府の方針や、あるいは当時の世界の潮流、時代精神であり、その関わりあいのなかから出てきた考えなのか、そう、なにも岡倉の哲学的独創によって言語化されたものではないんじゃないかいって、ヤッホー君、例のインスピレーション、フランス語でうところの sensibilisation でピピッピピッてお知らせがあったんだそうです。

 この国から世に言う、<哲学者>が生まれたことはないっていうから、岡倉天心もきっとだれかの片言隻句を、おっ、面白い、いただきい〜って頂戴しただけなのかもしれまへんなぁ〜。
 
 当時のアメリカですら:

アメリカを論ずることは容易ではない。「群盲象をなでる」という言葉があるが、単に巨大だというだけでなく、本来的に多様性を内在させることによって成立してきた社会であり国家だからである。「怒りの葡萄」の作者J.スタインベック(1902―1968)は、アメリカの本質を追い続けた作家であったが、その最後の著作「アメリカとアメリカ人」において提示したのが、やはり「多様の統一」という概念であった。「われわれの国土には、あらゆる種類の地質と気候があり、われわれ国民もあらゆる種類の民族、人種から成り立っている。しかし、この国土は一つの国であり、人々はみなアメリカ人である。モットーというものは、とかく願い事や夢を盛り込む。ところが、アメリカの「多様性の統一」(E Pluribus Unum)というモットーは事実である。不思議な、信じられないようなことだが真実だ」とスタインベックは述べる。
 アメリカが発行するコインをよく見ると、すべての硬貨に小さな字でこの“E Pluribus Unum”(多様性の統一)という言葉が刻まれている。アメリカは多様なものから成り立つ一つの統一体。この考えこそ、独立以来、この国に生きた人々が心に置いて来た自分の国への自己イメージであり、「共同幻想」であったといえる

(寺島実郎 (財)日本総合研究所理事長 「脅威のアメリカ 希望のアメリカ」
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0270210.html

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2012年06月03日

アジアはひとつ

 土曜日、びっくりして口をぽか〜ん開けていたヤッホー君、夜、寝床で考えたそうです:

 天心というすごいプレーヤーがいれば、どこにでも「追随者」、追従者、ギャラリーなどの取り巻き連中は蛆のように湧いてでてくるでしょうし、プレーヤーだって、そりゃ、おいらはそんじょそこらの木偶の坊とは訳が違う、秀才か天才か、生まれながらにして才能のほとばしり出る偉人、才人、商人(うん!)、祭神、キリスト様、アッラー、お釈迦様の生まれ変わりでオーラがあります、と「自己神格化」もしたくなるでしょうね。
 
 逆に、人の顔色ばかりうかがっておどおどと、しかしそつなく茶坊主をこなし、八方美人とか評価されるより、寄らば大樹の陰で雷を避けようとして落雷にあうより、長いもんには巻かれろとばかりにヤドリギみたいに絡みつくより、虎の衣を借る狐か鼠なんてよりは、いいのかも知れませんよね。
 そんな大志を抱くこと、Boys, be ambitious のほうが。
 イマの閉塞感漂う、なんか重い漬け物石に圧迫されそうで、「わたしが責任をもって」ゲンパツを再稼動する、なんて「無責任」極まりない、「無反省」もいいところ、うんざりするようなよどみのない言説が国の指導者から、あのときのエーシーのように、津波のようにテレビから押し寄せてくるのを打ち破るにいいのかも知れないな、と。

 日曜日、早朝から、松本清張を読み続けています:

天心のインド行の旅費については、「当局へ交渉の結果遺跡調査の名目で数百千金を支出して貰ったらしい。加ふるに過去一年間にひそかに院の書斎に篭って書き上げた「東洋の理想 The Ideal of the East」の一篇を倫敦の書肆ジョン・マレーで発行すべき下交渉が、ミス・マクラードの手を通じてなされてゐたので、その印税の収入をも費用の中に予算してあったらしい」(岡倉一雄「父天心を繞る人々」)とある。
 もしそうであったなら、その印税がどのくらいかはわからないが、たとえ若干額にしても、経営に苦しむ美術院に天心はそれを置いて行くべきだと思う。自身は文部省から「数百千金」を支出してもらっているのだから

(前掲書、212頁)

 その『東洋の理想』は「ヴィヴェカーナンダ門のニヴェディタ(本名、マーガレット・ノーベル)女史の序文を得て1903年にロンドンで出版された」のです。
(色川大吉「東洋告知者天心-その生涯のドラマ」中央公論社『日本の名著39(1970年)』所収)

 この序文を書いた人って、誰?

 稲賀繁美(1957年生まれ、東大教養学部フランス分科卒、国際日本文化研究センター教授)先生の研究によりますとアイルランド生れのマーガレット・エリザベス・ノーブル(1867-1911)でした。

彼女のジョセフィン・マックラウド(1858-1949)宛て書簡から判断すれば、ニヴェディータは天心手稿に手を入れて、「東洋の理想」を現在の姿で出版させる仲立ちをした。実質的な女房役だった。というよりむしろ天心は、年下の彼女を「良き母」に見立てて、ことさら「悪い男の子」を演じて甘えていた節さえある。さらに天心没後、「東洋の覚醒」(1938)として出版されることになる手稿は、天心のカルカッタ滞在中に執筆されるが、これにはニヴェディータの手が入っている
(稲賀繁美「岡倉天心とインド:越境する近代国民意識と汎アジア・イデオロギーの帰趨」)
http://www.nichibun.ac.jp/~aurora/pdf/Okakura0411.pdf
 
 へぇ〜、じゃあ、「インドの詩人プリヤンヴァダ・デヴィとの文通」ってのは…これとは別の≪共働、協働、協同≫があったんですねえ〜。
 でも、この英語で出版された本がこの国で広く読まれたってことってあった(ある)んですかい? いや、日本語でも…

天心は国内ではまとまった著作ひとつを書いていない。院の機関紙「日本美術」に載せているのも片々たるエッセーばかりである』と松本清張に酷評されていますよね(前掲書224頁)
 
 でも、天真爛漫って、お酒の銘柄でしたっけ? Boys, be ambitious とか be simple and innocent とか、やっぱりおいらはこう思う、って貧乏人でもお金持ちでも「言い張る」ってことが大事なんではないのでしょうか。
 沈黙は金なり、とか、行間を読めとか、アウンの呼吸、なんていうよりは、さ。
 で、天心って、「八紘一宇」って言い張った最初の人なの?
 さ、今晩も読みこんでまた報告しますね、いや、その、あの、明朝ってことでなくってさ、多分10年後くらい?…
 それまで皆の衆、明治人が書いた英語ってどんなんか読んでみませんか? 手稿だっていいじゃない、手稿を完全稿にしてくれるなんて。
 なんか覚三にはあふれる魅力があったのでしょうね… 「人の力」を持ちましょう!ね!!   
 
プリヤムヴァダ・デーヴィ・バネルジー夫人への手紙でいちばん最後のものは、たしか8月21日、赤倉から出されています。天心が死んだのは9月2日ですから、死ぬ12日前ですか。これがほんとうの絶筆ですね。
 …天心が死期が間近にきていることを知りながら、最後の思いを託して書き、その手紙がインドに届くということに、いかに執念をあらわしていたかということが分かると思います。それを…わたしの祖母も、家族も、だれも知らないのですからね

(岡倉古志郎、色川大吉対談「人間天心の肖像」、同書栞所収)

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2012年06月02日

岡倉覚三

後世の追随者たちが岡倉を偉大な人物、神のごとき存在に祭り上げようとしているだけではない。
 すでに岡倉本人に自己神格化の意志があり、彼はそのためにさまざまの小細工を弄した。
 岡倉は、みずから「天心」を名乗った。
 「心」もどうかとは思うが、「天」とは大きくでたものだ。
 みずからは選べない苗字ならともかく、岡倉は自分自身が「天」における存在だと豪語しているのである。

 もっとも、欧米社会にあって「天心 Tenshin」を名乗ったりすると、その由来や意味を尋ねられた際には、天国 Heaven と聖霊 the Spirit を意味するのだと答えなければならない。
 キリスト教社会で天国や聖霊を僭称すればたいへんな顰蹙を買う。
 岡倉は、The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan, London, 1903(「東洋の理想」)や、The Book of Tea, New York, 1906(「茶の本」)を出版したり、ボストン美術館職員として活動する際には、絶対に天心 Tenshin とは名乗らず、本名の覚三 Kakuzo を使った。
 こうした変わり身の早さ、使い分けの巧妙さは、岡倉の天性のものである

http://web.me.com/socialcovenant/DivinaCommedia/%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%A9%E5%BF%83_4.html


岡倉天心は日本の文化を守ったのか、学校における「道徳教育」について検討する。
 とりわけ「愛国心」を説く教材の問題性を指摘する。
 §1 夢殿開扉
 §2 日本美術の恩人
 §3 アジアはひとつ −− ボストン美術館の岡倉覚三
 §4 文化財略奪と博物館


 以上、6月2日土曜日、ウエブサイトに載っているもので読んで、へえ〜っとびっくりしたもので、とりあえず備忘録として記載しおきます。
 




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2012年06月01日

岡倉角蔵

 岡倉が初めて天心の号を用いたのは、23才のとき、1886(明治19)年といいます。じゃあ、それまでは、というと、蔵で生まれたから角蔵と名付けられ、その後、覚三と名乗った、といいます。

1859(安政6)年から1871(明治4)年にかけて、この場所、「横浜市開港記念会館」には越前藩の出資による生糸貿易の商館「石川屋」があった。
 福井藩士岡倉勘右衛門がその商館の支配人として横浜での貿易を担っていたが、岡倉天心はその次男として生まれた。
 「天心」は彼が20代になってから用いるようになった「号」であり、本名は岡倉角蔵(後に自ら覚三とする)といった。
 
 岡倉天心は明治期の美術思想家として著名だが、幼少期を横浜に過ごし、アメリカ人宣教師に英語を学び、高島嘉右衛門が開設した高島学校に通ったという。
 1871(明治4)に藩命によって「石川屋」が閉鎖された後、一家は東京に移り、その後、天心は東京開成学校(現東京大学)に学んだ。
 1878(明治11)年、東京開成学校の教師として来日したアメリカの東洋美術史家フェノロサと出会い、その出会いが天心の生涯を決定づけることとなった。
 この時天心は15歳だった

(沢原馨 横浜市中区 みなと大通り May 1999)
http://www.natsuzora.com/may/town/minato-odori.html

 歴史お散歩会、文学お散歩会のぶらぶら歩き、ハマでも歩かなくっちゃ、ね。よし、提案しようっと!
 ところで松本清張は、岡倉天心の帝国官僚としての特権に立脚していた事実を指摘していますので、彼の思想をどう読み込んでいくか、の前に、その辺りを少しおさえておきましょうか:

『岡倉天心は1880(明治13)年、東京大学文学部を卒業し、10月から文部省に入り、同省御用掛兼音楽取調掛となり、翌年には専門学校局勤務となった。
 月俸50円は高給である。1882(明治15)年には内記課兼務になった…』

(前掲書30頁)。

美術界が天心の庇護に拠ったのは、天心が美術行政の文部官僚だからである。
 彼の力は文部省・宮内省の力である。
 それだからこそ「斯界の王者の如き地歩を占め」たのだ。
 天心がもし民間人だったら、このような力はない

(前掲書79頁)

天心は不覊奔放といわれるが、その専断が官僚主義から出ているのを見のがしてはならない。
 官吏の養成所たる東京帝国大学卒業と同時に文部省御用掛を振り出しに文部官僚の道を歩き、帝国博物館理事兼美術部長として宮内省にも足をかける。
 1893(明治26)年の「支那視察旅行」も宮内省の出張であった。
 彼は根っからの官僚であった。

 天心の野人的な行動や逸民ぶりに人びとは眼を奪われて、彼の官僚性をあまり注意しないが、彼のこの官僚性が各方面に敵をつくった理由でもある

(前掲書、同)

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