2012年03月31日

調査捕鯨

 今日は2011年会計年度最終日でした!山歩クラブの会計も締めました。ヤッホー君も活動のまとめをしたり、郵便局に行って記帳したり、大いそがしだったんですって。

 昨日の日記「山岳遭難」で2010年の1年間365日で、山の事故で亡くなった人の数を覚えていますか? 入山者ってどれほどいるのでしょうかねぇ〜

水産庁は31日、昨年12月6日に日本を出港し、南極海で「調査捕鯨」を行なった捕鯨船団が帰国したと発表した。反捕鯨団体「シー・シェパード」から発煙筒などによる妨害活動を11回受けたが、乗組員にけがはなく、船体にも大きな損傷はなかった。
 今季は昨季の172頭を上回る267頭を捕獲した。内訳はクロミンククジラが266頭、ナガスクジラが1頭。成熟した雌107頭の妊娠率は92.5%と高く、水産庁は「南極海の繁殖状況は健全だ」と評価した

(3月31日土曜日9時0分配信 時事通信 捕鯨船団帰国、267頭捕獲=水産庁)

 この「調査捕鯨」の期間は、1月1日日曜日から3月6日火曜日までだったそうで、何日あったかというと66日でしたので、一日あたりに平均すると4頭は捕らえているわけです。
 調査船は4隻で船長以下総勢160人!一人一頭以上、殺しております。
 さらに殺した雌のお腹を割いて、子どもが孕んでいたかどうか、まで「調査」していたわけです。お母さんのお腹にいた、殺された子どもはどうしたんでしょ。まさか海に捨ててきたってことないでしょね。
 農水省か、水産庁か、(財)日本鯨類研究所は、クジラのお地蔵様を建てて、お参りしているはずですよね。どこにあるのかな、お詣りに行きたい、次のお彼岸のお墓参りは「クジラっ子」に決めた、とヤッホー君!
 クジラって人間と同じ海に住んでいる哺乳動物、なんて子ども時分に教わったもんです。
 それを考えると、「シー・シェパード」のサポーターとまではいかなくっとも、まあ、なんと残酷な「殺し」か、と年度末に思いやるわけです、合掌!
 ま、人間が人間を殺す世の中ですし、殺人兵器を開発し、売り込み(予算をつけて購入し)、大量殺人だって厭わないわけですから、残酷なのは持って生まれた人間の性なんでしょうか。

 海洋国際法に照らして合法なんて言っている法学者もいるのですが、捕鯨産業界か、どこぞの浣腸からか、研究費でも貰っているのか、ひも付きか、そりゃあ、国際会議もあるわけだから下手な外国語でもロビー活動せにゃならんから、おカネの援助はあるのでしょうが、そんな合法か不法か、なんて法には抜け穴があるのだから、錦の御旗にはならない、のにね。

 マレーシアの英字新聞「ニュウストレーツタイムズ紙」は昨年2011年5月9日付けで、オーストラリアの動きを伝えております:

CANBERRA: Australia on Monday will lodge a written submission with the International Court of Justice to argue Japan's whaling activities that have breached international obligations, China's Xinhua news agency reports.

According to Attorney-General Robert McClelland, the move is Australia's next step to put an end to Japan's whaling programme in the Southern Ocean.

He said the full case will be presented to the International Court of Justice in The Hague, Netherlands on Monday.

"Despite Australia repeatedly calling on Japan to cease its illegal whaling activities, Japan has refused to do so," McClelland said in a statement released on Monday.

"The government disagrees with Japan's decision to continue whaling and this is the proper way to settle legal differences between friends."

In its submission, Australia argues that Japan is in breach of the general prohibition under the convention on commercial whaling, as well as a prohibition on commercial whaling in the Southern Ocean sanctuary.

"The government believes the whaling carried out by Japan is commercial, not scientific, and does not fall within that narrow exception," McClelland said.

Japan must file its counter-memorial to the International Court of Justice by March 9 next year.

http://e.nst.com.my/nst/articles/AustraliafightsonillegalwhalinginInternationalCourt/Article/art_print

 この国では、捕鯨はこの国の伝統産業であり、鯨食はこの国の伝統的な食文化である、なんて居直っておりますが、ではもっと大事な、この国の主食であるおコメも突っぱねて欲しいと思いません?TPPで農村と農民と棚田を絶滅寸前に追いやっておいて、さ。偉い人は千円札をもって、おコメを買いにスーパーとかお米屋さんとか買い物に行けばいいのに、ね。そんで、消費税アップだよ、どうなんてんでしょう ?!?

 Wednesday 11 January 2012 付けのイギリスのガーディアン紙でも Press Association によれば、としてこんな動きを報道しています:

The researchers said that although a global moratorium began in 1986, the number of whales being caught has more than doubled since the early 1990s to almost 2,000 each year.

In 2010, a 10-year "peace plan" drawn up by the International Whaling Commission proposed limited quotas for those countries that continue to hunt the mammals despite the ban.

The plan would have meant that Iceland and Norway, which hunt commercially, along with Japan, which exploits a loophole allowing it to catch whales under an exemption for "scientific" whaling, agree to catch limits set by the commission and based on scientific advice.
(Quota market could save whales)
http://www.guardian.co.uk/environment/2012/jan/11/whale-tradable-quotas

 この国では、美談としてしか報道されないようで。
 5000円/2Kg だそうです。おコメは3480円/10Kg(2月26日)でした。石油情報センターは3月26日時点で、レギュラーガソリン1リットル当たりの全国平均小売価格が前週比2.0円高の157.6円(税込み)になったと発表したそうです。
 あの変な意地っ張り首相は、有権者に何も聞かず、(国民じゃなく)自分の政治生命かけて、噂の「スーパーインフレ」への道路工事をはじめたと言うのかな? はた迷惑な、ね。

かつて沿岸捕鯨基地として栄えた宮城県石巻市鮎川浜で2011年12月26日、年末年始用の鯨肉の特売が始まった。
 販売を始めたのは、仮設店舗「おしかのれん街」で営業するカクト商店。発泡スチロールの箱に、南極海産ミンククジラと北西太平洋産イワシクジラの赤肉の冷凍真空パック計2キロを詰め、5000円で売る。
 鯨肉や工芸品を扱っていた同商店は津波で全壊したが、自力で加工場を再建。調査捕鯨を実施する共同船舶(東京)の協力を得て、年末の特売にこぎ着けた。
 販売は30日までで、店を訪れた捕鯨船の元機関員阿部豊さん(82)=石巻市十八成浜=は「鯨肉は正月に欠かせない。年末に帰ってくる子どもや孫に食べさせたい」と話した。鮎川浜など石巻市旧牡鹿町では、昨年まで市が年4回、住民向けに鯨肉を販売していた。冷凍庫や加工場が被災したことなどから、市は当面の提供中止を決めている。
 カクト商店の和泉いち子代表(60)は「鯨を食べる伝統を残したかった。鮎川の人たちがお世話になった人に贈るお礼の品としても使ってほしい」と話している

(2011年12月27日火曜日付け河北新報「年の瀬 特売 大歓"鯨" 石巻・鮎川浜」)

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2012年03月30日

山岳遭難

(1) 全国の発生状況
2010(平成22)年中の山岳遭難は
○ 発生件数1942件(前年対比+266件)
○ 遭難者数2396人(前年対比+311人)
うち死者・行方不明者 294人(前年対比−23人)
負傷者832人(前年対比+162人)
無事救助1270人(前年対比+172人)
であり、発生件数、遭難者数は、1961(昭和36)年以降、過去最高を示した。このうち40歳以上の者は、
○ 遭難者数1821人(前年対比+219人)
うち死者・行方不明者265(前年対比−19人)
負傷者677人(前年対比+116人)
無事救助879人(前年対比+122人)であった。過去10年間の山岳遭難発生状況をみると増加傾向にあり、2001(平成13)年と比較すると
○ 発生件数+722件(+59.2%)
○ 遭難者数+926人(+63.0%)
うち死者・行方不明者+51人(21.0%)
負傷者+217人(+35.3%)
無事救出+658人(+107.5%)となっている。

(5) 未然防止対策
 山岳遭難の多くは、ちょっとした不注意や安易な行動がもとで発生していることから、遭難を未然に防ぐため、登山に当たっては、以下のような点に留意が必要である。
○ 登山計画の作成、提出
 気象条件、装備、食料、体力、体調、登山の経験と山岳の選び方、登山コース、日程等に配意して、余裕のある、安全な登山計画をたてる。単独登山はできるだけ避け、信頼できるリーダーを中心とした複数人による登山に努める。また、作成した登山計画書は、家庭や職場、登山口の登山届ポストなどに提出しておく。
○ 危険箇所の把握
 計画を立てるとき、滑落等の危険箇所を事前によく調べる。
○ 状況の的確な判断
 視界不良・体調不良時等には、滑落、道迷い等のおそれがあることから、状況を的確に判断して早めに登山を中止するよう努める。
○ 滑落・転落防止
 滑りにくい登山靴等の着用、ストック等の装備を有効に使用するとともに、気を緩めることなく常に慎重な行動を心がける。
○ 道迷い防止
 地図とコンパス等を有効に活用して、常に、自分の位置を確認するよう心掛ける

(2011(平成23)年6月10日付け 警察庁生活安全局地域課 2010(平成22)年中における山岳遭難の概況)
http://www.npa.go.jp/safetylife/chiiki28/h22_sangakusounan.pdf

 2006(平成18)年5月27日の金邦夫さん(青梅警察署山岳救助隊副隊長)の手記がありました:

『4月25日、奥多摩は朝のうち爽やかな日差しがあったのだが、午前10時過ぎから突如雨が降りだし、稲妻が光り雷雨となった。バケツをひっくり返したと表現するような大雨である。傾斜のある奥多摩交番前の道路を、雨水が川のようになって流れた。しかしそれも長くは続かず、30分もすると雨は止んだ。寒冷前線が通過してしまったのだろう。
 午前10時40分ころ、山スキーガイドの雨宮節さんから、山岳救助隊本部の奥多摩交番にいた私の所に電話が入った。雨宮さんはヒマラヤ黄金時代といわれた初登頂争いが終わって、より困難な尾根や壁から頂上にアタックするヒマラヤ鉄の時代になって活躍した登山家である。バリエーションルートから、マナスル、ダウラギリ本峰、サウスピラー、アンナプルナなどに「イエテイ同人」隊長として挑み、「山学同志会」の故小西政嗣さんなどとヒマラヤ鉄の時代に足跡を残した。そして還暦を過ぎてもチョ・オユー、エベレストなどの8000メートル峰に挑戦し続けている。
 私とは、雨宮さんが「山幸」という登山用品の店をやっていた20数年前から、親しくお付き合いさせてもらっている。その雨宮さんから突然の電話は遭難事故の連絡であった。
「いま雲稜会の小原が、本仁田山で雷にやられた。こちらからも向かうが山岳救助隊にすぐ出動してもらいたい」というものだった。
 場所は安寺沢から登る大休場尾根で、1時間ほど登ったところだという。
 現場は標高920メートル付近で、所々に岩が露出した場所もある。巨樹と言われるほどの大きな木はないが、尾根の右斜面は杉の植林帯であり、左斜面および尾根上はコナラなどの雑木が覆っている。
 現場付近の樹木には焦げた跡や引き裂かれた跡などないことから、人体に直接落雷したものと思われた。しかし小原さんが着ていた衣服にも、被雷した写真などで見るような焼け焦げた跡やボロボロに破れた跡なども見当らなかった。検分が終わって、午後2時50分安寺沢に全員下山した。
 奥多摩交番に本署の刑事課から連絡が入り、病院に運ばれた小原さんは医師により午後2時20分、死亡確認がなされ、死因は「雷撃死」だという。一緒にいた田中さんも、側撃により火傷を負ったが命には別状がなく、一週間ほどの入院となったという。

 爽やかな5月になったのに、奥多摩にフジが咲かない。早い年だと4月の半ばから咲き始めるフジを、私は毎年楽しみにしているのだが、今年の多摩地域はどこも花付きが悪いそうだ。氷川の昭和橋の南詰めに、背の高いモミの木に絡んでスラリと優雅に咲き、私が「貴婦人」と呼んでいるフジも、ひとつも花を付けていない。新聞などによると、フジは前年の夏に芽ができはじめるため、その時期の気象条件に左右されるという。昨年6月に雨が少なく、6、7月の気温が低かったから花芽が育たなかったのではないかと専門家はみている…』

(2007年3月『東京雲稜会奥多摩本仁田山事故(2006年4月25日)報告書』)
https://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/regist/input

 金邦夫さんは、昨年2011年6月21日火曜日江戸東京博物館1階ホールで開かれた東京新聞フォーラム『夏山の魅力と安心登山』で田部井淳子さんの基調講演「夏山の魅力と健康法」のあとのパネル討論で登壇、田部井さんや柏澄子さん(山岳フリーライター)といっしょにお話しなさったお方です:

山形県生まれ。1966年警視庁入庁。1970年警視庁山岳会「クライム・ド・モンテローザ」を設立。谷川岳、剣岳、穂高岳などに登る。1977年米ヨセミテでの山岳救助研修に参加。その後、欧州3大北壁に次々と挑戦。1994年、青梅署山岳救助隊副隊長として奥多摩に勤務。年40回救助に出動。人命救助などの功績で警察功労賞、警視総監賞などを受賞。日本山岳会会員。著書に「金副隊長の山岳救助隊日誌(角川学芸出版、2007/10)」など

 山歩クラブの山友、と言いますか、ヤッホー君が大変尊敬申上げておられる、というともうレベルが違いすぎる山の大、大先達から、山歩クラブは次のようなメッセージを第10回総会を機に、いただいております。深謝申し上げながら、ここにご紹介させていただきます:

昨年夏に八ヶ岳で転倒して、大腿四頭筋を断裂してしまい手術、そして入院は40日間で12月初旬に退院しました。
 今度の事故では、山岳保険加入の必要性を痛感いたしました。
 というのも、ヘリの救助要請をせずに5時間半も歩いたことも状態を悪くする結果になったからです。
 長野県警のヘリであれは費用はかかりませんが、民間ヘリであれば100万円以上の経費がかかります。もちろん選択はできません。
 一番の原因は体力を過信していたこと、身体は悲鳴をあげていたことに気付かなかったことです。
 
 足はその後のリハビリで順調に回復していて、歩くことについては支障がなくなりました。
 階段の上り下りで痛みがあります。
 痛みが取れたら、自転車で筋力をつけて軽いジョギングを開始したいと考えています。
 山はそのあとかなと思っています。
 今は一歩一歩着実に慎重にリハビリのプログラムをこなしているところです。
 
 私にとって山登りやランニングは生活の延長で、いわば当たり前に出来たことでしたが、当たり前の事が出来なくなったときにその大切さがわかることを実感しました。
 皆さんも『注意一秒怪我一生』を毎日の生活の中でも常に意識して、細心の注意をはらい≪安全登山≫に心がけてください

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2012年03月29日

重太郎新道

『朝から稜線方面は雲が低く垂れこめる空模様、そして予報より早く午前8時過ぎから雨が降り出した。
 明日、明後日と山では荒天となりそうで相次ぐ宿泊キャンセルの電話、「今日は暇になりそうだし、夕方から休みをもらって散髪にでも下りようかなあ」なんて鏡に映る少し髪の襟足が伸びた自分を見ながらノンビリ過ごしていた午前9時半過ぎ、ある電話がかかってきた。
 「紀美子平の少し下で滑落して、足を捻挫して動けない」と(その後の所見ではおそらく骨折)。
 さてさて、困りましたぞ。こんな天気ではヘリは飛べないし、現場から担いで下すといっても重太郎新道の岩場を下すのは容易ではない。とてもじゃないが、小屋のスタッフが一人や二人では対処できない事態です。警察と涸沢の常駐隊と連絡を取り、救助要員の大量投入しか手段はないということで、まずは涸沢から隊員2名が現場へ急行することとなった…。

 あんな急な下りの道ですからシーズンに一人や二人、転んでも当たり前だと思ってます。それどころか、よくぞ骨折だけで済んで良かったですねと申し上げたい。もうちょっと転げ落ちていたら悲惨な事態になりかねない場所での出来事でしたから。しかし、ご覧の通りに一人の不注意から発生した事故でこれだけの人間が苦労させられているのです。
 遭難者や同行者は感謝の気持ちの反面、これほどたくさんの人に迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいでしょう。
 最初の電話で一通りの事情を伺ったあとに
 「それは救助を要請するということですね」と念を押しましたが、その「救助要請」という言葉の持つ意味がこれほど重大とは思いもよらなかったことでしょう。
 最近流行っている何かのマンガであまりにも安易に救助を要請する場面が多いために、山での救助を簡単なものだと思っている人も多いんでしょうね、きっと…』

(2011/08/17 岳沢小屋スタッフブログ 安全登山ノススメC〜救助隊の活動)
http://www.yarigatake.co.jp/dakesawa/blog/2011/08/post-118.html

 さて、昨年2011年の夏の「重太郎新道」でした。
 上↑のウエブサイトには今田重太郎も、かわいい紀美子もいっしょに写っている60年有余年前の写真が掲載されています。ぜひご覧になってください:

今田重太郎氏が前穂高岳から岳沢へ下る重太郎新道を完成させる。
 
 1951(昭和26)年、岳沢から前穂高岳への登山道のうち、一枚岩の難所を避けた2Kmの新道を造る。前穂との分岐点にテントを張り、5歳の紀美子を遊ばせて道作りをした。後に「紀美子平」と呼ばれる

(穂高岳山荘刊「天空の輝き」より)』

 その「重太郎新道」を歩いた方の記録がありますので、今夏の予習のつもりで引用しておきましょう:

『前穂高岳の標高は2910mです。標高2170mの「岳沢小屋」までほとんど真直ぐに降ります。その差740m!
 前穂高岳を10時23分に出発して「紀美子平」に着いたのが10時46分。23分で「紀美子平」まで降りてきた。
 11時12分、「紀美子平」を出発。「紀美子平」には26分いました。
 11時27分、「雷鳥広場」に到着。ここは標高2750mです。「紀美子平」から15分ほどで150mを下る。
 12時25分、「岳沢パノラマ」に到着。標高は2600m。「紀美子平」から310mも降りてきた。「岳沢パノラマ」の直下に「岳沢小屋」が見える。今日はここで宿泊です。もう少しなので、気分も楽です。
 13時14分、出発。岳沢パノラマで49分休憩。
 13時23分、重太郎新道は中々の曲者でした。見た目にはそんなに 足がすくむほどのものではありません。晴れているので、ぬかるんだり滑ることもない。ただ、これから下に真直ぐ下るのが1時間ぐらい長丁場なので足がやられる。
 13時39分、「カモシカの立場」。標高2450mです。16分で150m降りた。
 13時59分、長い鉄の梯子。
 14時36分、岳沢小屋到着。標高2170m。「紀美子平」から3時間24分。ガイドブックは2時間30分。
 岳沢小屋で一番先にしたことは、水を飲んだことだ。入り口に流しっぱなしの水がある。冷たい、すっごく冷たい!雪渓の水だから 手が切れそうだ。奥穂高山荘でペットボトル2本は汲んできたが、ほとんど飲んでしまった。ここまで水場はない。水は無料だったので、たらふく飲んだが、喉の渇きがもうひとつだ。ポカリスウェットは300円、迷わず頂くことにした…』

http://h2o.sakura.ne.jp/takahiro/hodaka/006/006.html

 岳沢小屋は2006(平成18)年、年初の大雪による雪崩で岳沢ヒュッテが全壊し、4月には「岳沢ヒュッテ」オーナーの上條岳人氏が事故により亡くなります。その後、槍ヶ岳山荘グループになって、その力で再建されるのです:

岳沢小屋は、上高地より穂高連峰へ向かう岳沢に2010(平成22)年に建設された小屋です。
 上高地から続く林の中の道は、春は新緑、夏は深緑そして秋は黄葉・紅葉と季節毎にその姿を変え、時々射し込む木もれ陽が気持ち良く感じられます。
 小屋からは、穂高連峰のダイナミックな姿が満喫でき、そして眼下には上高地、又遠くには乗鞍も見渡せます。
 穂高連峰へ向かう登山者の方にとっては前泊地としてご利用いただきたく、又槍・穂高縦走の後泊地としても存在価値は高い小屋です

http://www.yarigatake.co.jp/dakesawa/

 いま小屋は冬眠中です。昨年2011年は4月14日、平均して4m多い所では6mの雪に埋まる小屋の掘り出しから始まったそうです。さて、今年の小屋の掘り出しはいつになるんでしょうか…

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2012年03月28日

穂高岳山荘

 3月28日水曜日、今日を逃したらいったいいつ、誰が山歩クラブの節目の記念すべき第10回総会の準備ができるのだ、とヤッホー君は「私用」で有給休暇を入れたそうです。

 いえね、午後はふるまい酒の調達に駆けずり回りました。件の秋田の銘酒「新政」を目指して。
 やっと入手できたときは下町の空、一転してなぜかにわかに掻き曇り、雲行きが怪しくなり、風が立ち、雨がぽつぽつと舞い降りる変なお天気でございました。出席なさる方、お楽しみあれ…

 ところで、活力ある高齢化社会ですが、若者だって負けちゃぁおられません。岡本紳吾(おかもと・しんご、1975年大阪生まれ)のご紹介です。

小中学校でボーイスカウトを経験。高校からはマウンテンバイクレースに参戦するなど、根っからのアウトドア好き。社会人になってから大台ヶ原を中心に山の写真を撮るようになってから、再び山への憧れを強め、上京を期に八ヶ岳へ頻繁に通うようになる。クライミング趣味が高じて、社名が「(ロープを)張ってください」の株式会社hatteを設立、そのまま代表取締役に就任。

 インターネットメディアはこんなにたくさんあるのに、何で山岳系のメディアはないのだろうとふとTwitterでつぶやいたら、(いま)「ヤマーン!」で編集を担当してくれている久君に山岳ポータルを作ってみたいと相談されまして、ならばやろうと。僕はプログラム関係の人間なんですが、デザインは一緒に会社を立ち上げた青山がいるしと。久君の知人に北アルプスの穂高岳山荘の3代目の人がいたんです、彼女を交えて4人体制であれやこれやとコンテンツを練るようになりました。
 凄いのはメンバーの一人が穂高常駐なところです。冬期は都内にいたりするんですが、シーズン中は基本は白出(乗越)のコルにいるんです。ちょっとほかでは見られない、面白い企画をいくつか考えています

http://www.yamaan.jp/

 ち、ち、ちょっと待ってね、老いつかないんだってば、そんな速足は山では無し、ないんだけどな、ま、いいか、その穂高岳山荘の三代目とか、穂高常駐とか、いったい誰よお〜ん。
 ごめん、カッシー、今夏は北岳に連れて行くなんて言っていたけど、方針撤回、進路変更、心機一転、青春賛歌、オクホに決めました!

 「青春賛歌」、これは藤山一郎の若々しい歌声付きですので周りにはご注意!:
http://www.youtube.com/watch?v=3muKIUF_DfA&feature=related

 なんで? ってね、実は、今回の坪山山行で、穂高岳山荘の初代小屋主、今田重太郎に仕え、水や食糧をボッカし、いまは川越の山の会でリーダーをなさっているスズキさんという方に出会ったのや、63歳ゆうてはりましたなぁ、そん人がいろいろ教えてくれはってな、そんで、クラシック音楽の聞こえる憧れの北穂高小屋にはもう行ったやさかいに、今度はオクホやなあ〜と言いながら、半分あきらめておったんやけど、急にな、スズキさんのお話でな、そやそや、残っとる、早いとこ憧れの小屋に行かはんとYの足が追っつかなくなるう、そんななったらどないするんやろ、と思ったそうな。

標高日本第3位(3190m)の奥穂高岳と標高日本第8位(3110m)の涸沢岳の間である「白出(しらだし)のコル」(2996m)に位置します。岐阜県と長野県の県境であり、玄関(涸沢)側は長野県、裏(白出)側は岐阜県となっています。

 登山が少しずつ楽しまれ始めた大正時代。
 穂高岳山荘初代、今田重太郎は、山案内人として働いていました。
 ある日、穂高を歩いていた重太郎一行は嵐に見舞われ、ビバークを余儀なくされました。
 小屋の必要性を痛感した重太郎は、白出のコルに小屋を建てることを決意。
 そして出来たのが、穂高岳山荘の前身「穂高小屋」です。
 大正14年のことでした。

 はじめは小さかった小屋も、登山をする人が増えるにつれ、大きくなっていきました。
 そして「穂高岳山荘」に改称。
 重太郎の跡を引き継いだ二代目英雄は、山荘をより良い場所にするために、いろいろな工夫をこらしました。
 そのひとつが、発電にエンジンだけではなく太陽光発電と風力発電を使うこと。
 石油燃料を焚くのではなく、自然のエネルギーを利用することで、穂高の地の利を生かしながら電気を起こせるのです。

 穂高岳山荘は、85周年を迎えました。
 多くの人々に支えられてここまで育ってきた穂高岳山荘。
 そしてこれからも、その歩みは止まりません


 そしていま、三代目:

『◆歴史ある山小屋を継いだ26歳の女主人「私は山で生きていく〜穂高岳山荘3代目・今田恵〜」

 北アルプス・奥穂高岳の稜線に建つ穂高岳山荘。
 伝統ある山小屋の一つだ。
 この山小屋の主が若い女性に受け継がれることになった。
 今田恵さん26歳。
 去年、2代目の父親から引き継ぎを託された恵さんは、4月下旬の小屋明けから父の仕事ぶりを間近に見つつ、自分なりの山小屋像を描いてきた。
 春先には積雪8mの厳しい世界と格闘し、ベテランのスタッフに支えられながら過ごした雲上の7か月を追った。
 高山の山並みや雲海、満天の星空、希少な動植物など北アルプスならではの貴重な映像も見応えがある』

(2012年2月6日月曜日テレビ朝日(地上波)テレメンタリー2012)

 ごらんになった方も多かったのでは、と。そんな方がたのために特別ヤッホー君が用意してくれたのが下↓です。必見です(が音声付ですので周りにはご注意!):
http://www.abn-tv.co.jp/program/alps4s/

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2012年03月27日

健康長寿

『本県は、東京大学や山梨大学、山梨県立大学などの調査から、男女とも自立できる状態で最も長生きしている日本一の「健康長寿県」。
 ずっと元気で生活していくということを指標にしたのが「健康寿命」。自立して生活できる、介護が必要のない寿命のことをいいます…
 山梨と長寿との関係については、もっと古くから注目、研究されていました。それは、急峻な山に囲まれた地域、上野原市「棡原」地区の長寿の状況です。
 棡原の入口にある記念碑「長寿村 棡原」には、次の言葉が刻まれています。

≪…古来、村人は健康で人情に篤く、粗衣粗食、耕雲種月の日々を楽しんできた。穀菜食を主とし、肉食を嗜まず女性は多産且つ母乳豊富、老人は皆天寿を全うしまさに、身士不二の桃源郷である…≫

 1968(昭和43)年、この棡原住民の生活を微に入り細にわたって疫学調査したのは、甲府市の古守病院院長・古守豊甫と東北大学医学部の近藤正二教授。彼らは、雑穀や野菜を中心とした粗食と、高齢になっても辞めない(定年がない)労働が長寿の元になっていると分析しています。
 厳しい生活環境であるにもかかわらず、住民は、腰も曲がらず、寝たきりになることもなく、夫婦ともども長寿を全うする棡原の住民。
 経済成長が山間地に及ぶと、生活習慣は大きく様変わりしました。
 80、90歳代の親よりも、50、60歳代の子どもが生活習慣病になり、親よりも先に亡くなってしまう「逆さ仏」現象が目立つようになったのです。
 古くから当地の疫学研究を続けてきた古守医師と、栄養学者の岩手大学・鷹觜テル教授は、棡原に起きた短命化現象を研究、昔の食生活に比べ、住民の動物性タンパク質や脂質の摂取量は増えた一方、各種ビタミンやミネラル、食物繊維の摂取量が減少していったことから、両氏は、食生活の変化が長寿村・棡原を崩壊させたと結論づけました。
(古守豊甫・鷹觜テル著『長寿村・短命化の教訓:医と食からみた棡原の60年』(樹心社、1986年)より)』

http://www.pref.yamanashi.jp/koucho/radio/radio110603.html

 そうなんです、上野原の棡原(ゆずりはら)といえば長寿で通っていました。
 ヤッホー君も若い現役のころ、取引先の担当者が言うには、週末となれば上野原の棡原に通って、借りた畑を耕すんだ、週末百姓が生きがいなんです、そこは東京からもっとも近い田舎なんです、なんて話しを聞いたことがありましたね。

 上野原駅から向かう路線バスは、その棡原(ゆずりはら)地区、「ふるさと長寿館(棡原2374ー1 Tel 0554−67−2910)」を通って、西原(さいはら)まで走っているんですね。
 
 ところでその棡原は今はもう、短命ムラになってしまったんですかね。
 これって、南の島の漁民がキャッシュ・エコノミーの波に洗われ、いまは釣った魚を売って魚の缶詰を買うんだ、なんていうのと同んなじ、笑いが禁じられた喜劇なんですね。

 南の島、南洋までいかなくっともオキナワ、これも健康長寿の面で危機を迎えています:

沖縄は健康的な高齢者や百寿者の多い県として有名である。
 1995年に、世界長寿地域宣言が謳われたのは記憶に新しい…。
 若い世代では高脂肪食に代表される欧米型のライフスタイルが浸透しており、いわゆる生活習慣病の増加が社会問題となっている。
 2000年の都道府県別平均寿命では、女性は1位を堅持したが、男性は20年近く守った1〜5位の座を一気に26位まで下げてしまった。若い世代の凋落傾向を、超高齢者の長寿命で補いきれなくなった“26 ショック”の瞬間であった…。
 
 スローフードという言葉がある。食のグローバリゼーションに対抗しようとするものである。60年代初頭にファーストフードの洗礼を受けた沖縄県には、もっと早く登場して欲しかった言葉である。
 スローフードの理念は土地に固有の味、昔から伝わる各地の味を守ろうというものであり、急増する生活習慣病の救世主となり得る深い哲学を含んでいる。伝統的な食べ方やメニューは、それが昔からその土地で食べ継がれて来たというだけで、その土地に住む人々の健康に、最も適したものであると言ってよい。
 何故なら我々の祖先は、その中で遺伝子を育み、子孫を残して来たからである。
 しかし、沖縄県民の食生活は、米軍の統治下、無批判に西欧化を受け入れ、短時間のうちに様変りしてしまった。そして遺伝と環境のギャップにツケを払う羽目になった。
 これを沖縄クライシスと呼ぶならば、近い将来の日本クライシスを予見しているとも考えられる。
 
 欧米型生活習慣に伴うMS(メタボリックシンドローム)の増加は、今後、沖縄県のみならず、わが国、そしてアジア全体の公衆衛生上の重大な問題となるであろう

(田仲医院院長 田仲秀明「沖縄クライシス〜欧米型生活習慣のツケ〜)
http://www.okinawa.med.or.jp/activities/kaiho/kaiho_data/2006/200610/067.html
 
 今日3月27日火曜日は長寿の里を歩いてきて、なおさらActive Ageing の重要性を思い知らせてきたわけでして、ちょっとまとめてみました。
 ヤッホー君のこのブログ、3月22日付け日記「凍み死ぬ」で紹介したActive Ageing and Solidarity between Generations プラス Active Ageing and Solidarity in the Community !
 
 だってさ、いまは、地方でなく都市部、横浜市青葉区は、2005(平成17)年国勢調査に基づく厚生労働省分析では、全国市区町村のうち平均寿命は、男性が第1位、女性も第7位と、全国で一番活力のある「健康長寿のまち」なんですって、知っていました?

 もちろん「山歩きを通してこころもからだもいつまでも健やかに」を謳い文句にしている山歩クラブの仲間は皆さん、なんだ坂こんな坂、無縁坂、どんな山路も力強く、一歩二歩山歩と踏み出していますけど。
 ですので最後に、次の言葉に耳を傾けてみましょう。
 今度は千葉県柏市でのお話:

柏市はまさに都市部のベッドタウンとして開発が進められてきましたが、今では人も建物も高齢化という問題に直面しています。そこで、行政やUR都市機構と協力し、2年ほど前から「高齢者の住みやすい街」を目指した街づくりに着手しています。
 その中では、建物の改築やインフラ整備、在宅医療や介護の充実も扱っていますが、私が特に重要と考えるのが「生きがい就労」への取り組みです。
 現役時代のような、生活維持のためのフルタイムでの就労ではなく、無理なく楽しく働くことができ、その上単なる趣味の会ではなかなか得られない地域社会への貢献による「生きがい」を感じることができる働き方を実現したいのです。
 年金にプラスして収入を得られれば生活に潤いが生まれるでしょうし、それで地域にお金を落としてくれれば「年金受給者」だけでなく「納税者」ということにもなり、地域にとってもプラスとなります

(2011年6月29日水曜日、Wedge 東京大学で老年学(ジェロントロジー)を研究する秋山弘子特任教授「高齢者はゲーセン通いより地域で就労を」)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1389?page=1

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2012年03月26日

びりゅう館

 まだ昨日の「駅からお山歩会」の余韻に浸っています。
 坪山から下りて寛いだ場所は「羽置(はおき)の里、びりゅう館(上野原市西原6931 Tel 0554-68-2100)」でした。打ち上げに皆んなで「季節の天ぷら(だいこんの天ぷらに皆んなですご〜い、歓声があがりました)」、「さしこん(西原産のこんにゃく芋100%で作りました。ちゅるんちゅるんのぷるんぷるんです。「生芋から作ったこんにゃくって、こんな食感なの?!」-そうなんです、こんにゃくのさしみだから"さしこん"なんです)などをさかなに「お酒」をいただきました。えっ、まだお昼だと言うのに…

 こんなわれわれのお相手をにこにこ顔で説明してくださったのが、地元っこ、さいはらっこの寿美ちゃんでございました!ヤッホー君はじめ、また、おじゃましようって皆んなで何度も「ありがとう」のお礼をしてきました。ホントにまた行きましょうね!
 
 この「びりゅう館」、目覚めたばっかりなんですよ!目覚めの歌(あくびはヤッホー君だけ)をお聞きしましょう!

大変ながらくお待たせしましたー!!
 びりゅう館、冬期休館を終えて、3月24日土曜日より営業再開します!
 4月〜ゴールデンウィーク明けまでは定休日(水)もなしで、無休で営業する予定です(3月28日の水曜日はお休みします。すみません)。
 3月24日土曜日は「かかし祭り」も開催されます。
 地元の元気なお母さんたち「里の美人会」を中心に、街道沿いにたくさん並んでいる「かかし」。
 季節ごとにお着替えしたり、ポーズを変えたり、みなさんに楽しんでもらおうとたくさん工夫されているのです。
 当日はそのかかしを「びりゅう館」にもたくさん飾って、とってもにぎやかになる予定。
 ステージではフラダンス、よさこい、舞踊やカラオケ(飛び込み参加大歓迎!)
 屋台では団子汁や甘酒、初戸のおまんじゅう屋さんや散歩道のパンなど。おもちゃ屋さんやフリーマーケットの開催もあります。
 小菅村から、足湯の出張も来てくれる予定!
 みなさん、ぜひ遊びに来てください。
 昨日は雪になったけど、今朝はすっかり溶けました。道の心配はございません。
 安心して来てくださいね

(2012年3月10日土曜日付け「やさいはらブログ」)
http://ameblo.jp/biryukan/

 朝、バスの車窓から見た「美人会」のお姿に、よだれを流し、顔を振って見とれていたヤッホー君、これでその意味が分かりました。「かかし」だったんですね。でも、まるで実物のように生き生きしていたので、きっと、夕方になると皆んなでお家に連れて帰って取り込むのにちがいない、取り込むのを忘れたら、「何番の制作者さん、夜が更けてきましたので、早くお家に連れて帰ってください」なんて、地区の防災放送か、有線放送でお知らせするんだよ、なんて山歩クラブの5人組、想像をふくらませておりましたが、25日日曜日は、お祭りの翌日だったんですね。
 とにかく江東区資料館通りの秋の「かかし祭り」もすばらしいのですが、西原の「かかし祭り」もサイコウ!

 そんなたわい話しをしながら笑い転げていたのは、午後2時43分通過の「学校前」のバス停。

 学校って、なんでしょ、小学校?中学校?高校?大学? 地区の現実は、これまでさんざんヤッホー君が語ってきた「高齢化と過疎化」の波をもろに受けておりました:

西原(さいはら)地区は、中央道上野原インターから車で30分程度の相模川水系鶴川の上流で、自然豊かな中山間地域にある農山村です。
 最寄りの駅は、JR中央線高尾駅から3つ目の上野原駅。
 山々に囲まれ、川が流れ、さまざまな植物や野生動物たちも見られる自然豊かな土地です。
 西原地区の人口は昭和40年代頃は約2300人でしたが、その後、少子高齢化と過疎化が進み、平成14年に1000人を割り、現在約750人となっています。
 西原地区の学校は統廃合により、小学校(生徒18名)のみです

http://npo-saihara.org/wp/

 でもどうして「びりゅう館」という名前なのか、気になりません?

首都圏から60Km圏内のふるさと村
 西原(さいはら)
 集落を流れる鶴川の支流「美流沢」
 その美しい流れにちなみ名付けられた「びりゅう館」
 手打ちそばと西原観光のおもてなしでみなさまのご来訪を心よりお待ちしております

http://www.biryukan.com/

 そんな「西原」に「上野原キャンパス」をもうけているのが帝京科学大学です(上野原市八ッ沢2525 Tel 0554-63-4411 本部は千住キャンパス(足立区千住桜木2-2-1 Tel 03-6910-1010):

こんにちは、「森のココペリ」です!!
 私たちは、「上野原キャンパス」から車で40分ぐらいの所にある西原という山間地域で、畑をお借りして、自分たちで土作りから種まき、収穫までやる畑活動; 炭焼きや干し柿作り、味噌作りなど、昔ながらの生活を地元の方に教えていただきながら一緒に作り上げる、里山体験; 盆踊りやどんと焼き、門男(※)といった伝統行事に参加させていただくことでの、地域交流; それらの活動を通じて学んだことを、外部の人へと伝える「 人と人」「人と自然」をつなぐ架け橋になる活動をしています。
 西原はとても素敵な所で、きれいな自然と優しい人々にかこまれています。
 私たちはそこでこれらの活動を通じて昔ながらの自然と共生した生活の仕方を学んだり、おじいさんおばあさんとお話しして、郷土料理から戦時中の話まで、幅広くたくさんのことを教えていただいたりしています。
 また、現在は行われていない文化としてあったお茶作りなどを、地元の方たちと一緒になって復活させたりするなど、その伝承を行おうという活動もしています。
 あるべき自然-- 自然がなくなったら、動物はもちろん、人だって生きてはいけない。
 昔の日本-- 田舎、里山の暮らし。
 もしかしたら、今よりもっと「共に生きて」いたのでは…、空も山も川も森もずっとそばにあってほしい。そんな思いをもって、私たちは活動しています。
(自然環境学科 神庭友人)
※ 門男(かどおとこ)とは、毎年1月のどんと焼きに合わせて行われている伝統行事で、丸太の皮を削って男女それぞれの顔を描き、玄関に飾り五穀豊穣と家内安全を願うものです

(ニューズレター 2011 第24号)
http://www.ntu.ac.jp/research/publication/pdf/24th.pdf

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2012年03月25日

坪山1102.7m

山形市に26年前、友好都市の中国・吉林市から贈られた鹿が、山形市の都合で市民に説明がないまま上山市内の飼育場に収容され、当初の4頭から20頭に増えた現在も、個人の手でひっそりと飼育が続けられている。
 山形市は飼育の長期化を恐れ昨年、雄の去勢手術に踏み切った。繁殖の機会を失った鹿は、吉林市とゆかりのない山あいの地で静かに死を待っている
…大切なのは心の通い合った日常の交流活動であり、震災を機に各自治体は、友好都市との関係をより良好に保つような努力を求められるようになった。
 山形市は吉林市を含め国外の5都市と友好・姉妹都市の関係を結んでいる。鹿の一件を教訓に、すべての関係を謙虚に見直してみたらどうだろうか

(2012年3月25日日曜日付け 河北新報社説 「山形・友好の鹿/お粗末な役所の国際感覚」
http://www.kahoku.co.jp/shasetsu/2012/03/20120325s01.htm
 
 「河北新報」は宮城県の地方紙です。目にすることもなく、読むことも滅多にないとは思いますが、きらっと光り輝く記事が目立つことが多いです。
 都会の新聞は、読むところがなく、何紙もあるのにどこも似たりよったり、大本営発表の垂れ流しが多すぎるマスメディアよりは、地方紙を読んで、気づいたり頷いたりすることが多いと思う今日、この頃、2012年3月25日日曜日はいかがお過ごしでしたか。
 上述の「河北新報」の話題はすでに、ヤッホー君のこのブログ、3月14日付け日記「日本鹿研究」で紹介してありますが、鹿から国際交流まで視野を広げて考えさせる社説です。ぜひ全文、印刷して保存し、お読み下さいますように。できますれば新聞「河北新報」を購読してくださいますように!
 
 ところで、次はその都会の新聞「東京新聞」の今朝の社説です:

景気に明るさが出てきましたが、雇用情勢は全体としてまだ冬の光景が続いています。とくに非正規雇用労働者の待遇改善と若者対策が急がれます。
…雇用期間が3ヶ月〜3年などと短く、賃金も低い非正規労働者の増加も大きな問題です。
 総務省の調査では2011年平均で非正規労働者は約1733万人に達し、雇用者全体に占める割合は35.2%と2年連続で過去最高となりました。1985年は16.2%でしたから、4半世紀余りで2倍以上になりました。
 年齢別に見ると15〜34歳の若年層の割合が高い。大学や高校などを卒業後、正社員として働ける会社がなかったためパートや派遣社員など非正規で働く−という若者が多いのです。
大学側に奮起を求めます。政府は新産業の育成と学生の大企業志向で生じるミスマッチ防止を進める。産業政策と組み合わせた若者雇用戦略の策定が不可欠です。
 企業は長期雇用の大切さを自覚してほしい。
連合など組合側は正社員中心の運営を改める時機です。
…(若者も)望まなかった企業に入っても4〜5年は我慢する。そこで営業や企画などの経験を積み、余力があれば商業簿記や自動車整備などの資格を取る。大学院に入って経営学修士を目指すのもいい。社会人の先輩の一人として我慢と努力の言葉を贈ります

(2012年3月25日付け東京新聞社説 「週のはじめに考える 若者に働く喜びを」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012032502000044.html

 さて、そんな日曜日、ヤッホー君は何をしていたのでしょうか?20時18分付けで仲間に以下の一斉メールを発信していたようです:

『皆さん、こんばんは。3月、2011年度最後の日曜日、いかがお過ごしでしたでしょうか。
 山歩クラブでは29山目の最後の山を番外編として坪山1102.7mを選び、5人組で「駅からお山歩会」!JR中央線・上野原駅からさらに冨士急山梨バスの路線バスで1時間、西原(さいはら)地区、御岳神社へ。その登山口から9時半に登頂開始。
 ヤッホー君は軽い裏山と認識していましたが、どっこい、往路も復路も2時間づつ、しっかりアップダウンがあり長いコース、ロープもでてくる急登があったり、たっぷり汗をかきました。
 浅い春の山路を堪能して、ひょいと飛び出た山頂で、バンザイ三唱!坪山は1100mを越すお山で、しかも初春の芽吹いた浅黄色の緑の山並み、白い雪が残る大菩薩嶺、奥多摩の山々が360度の展望でひろがり、尻は見せてもあら、恥ずかしや、頭隠してる大きな冨士の山も見える素晴らしい番外編でございました。
 ここに頂上の勇姿と共にご報告します。では次回、第10回総会までごきげんよう、お元気で!』


山頂.jpg

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2012年03月24日

目覚めた若人の歌

 今日は、3月24日土曜日、もうお彼岸も明けたのですが、都会には冷たい雨が降り止みません。まずは、今朝の東奥日報の新聞からです:

『評論家で詩人の吉本隆明さんが先ごろ、87歳で亡くなった。戦後思想に大きな影響を与えた知の巨人は文芸評論においても、大きな足跡を残した人だった。太宰治について書き、語ったことで知られる。

 吉本さんが太宰の作品を読み始めたのは、太平洋戦争下の1942(昭和17)年、山形県内の高等工業学校に入学したころのことだ。「18、19の時で、自分が一番文学青年だったといいましょうか、日本の同時代の文学を一生懸命読んでいた時期だと思います」 文学雑誌の対談の中で語っていた。

 東京工業大学に進んだ吉本さんは、終戦後に太宰を訪ねたことがある。太宰の戯曲「春の枯葉」を学生芝居で上演しようということになり、原作者である太宰に了解をもらわなくてはいけないと思ったからだ。でも、それはあくまでも口実。実際は太宰の熱烈なファンだったから、訪ねて行ったのである。

 「たぶん僕らは、生前の太宰に会った最後の年代のような気がします」 昭和が終わる少し前の1988(昭和63)年5月14日、弘大教育学部近代文学研究会の招きで、津軽の地・弘前を訪れた吉本さんは講演の冒頭、太宰に会ったことを明かして、そうあいさつをした…』

(2012年3月24日土曜日 東奥日報 天地人)
http://www.toonippo.co.jp/tenchijin/ten2012/ten20120324.html

 青森県五所川原市の旧金木町は、太宰治が生まれたまちで、まちの中心部には、太宰治が生まれ、幼少期を過ごした「斜陽館」があり、現在「太宰治記念館『斜陽館』」となっており、訪れることができます。さらに五所川原市、と言えば、(株)半田硝子建材 住まいのショールーム3Fには吉幾三コレクションミュージアム(五所川原市大字広田字榊森54-64 Tel 0173-26-6686)も:

るんるん俺らこんな村いやだ
俺らこんな村いやだ
東京へ出るだ
東京へ出だなら
銭コア貯めで
東京で牛(べご)飼うだるんるん
 これは1984(昭和59)年の作品、「俺ら東京さ行ぐだ」です。下↓は、音楽ですから気をつけてくださいませ:
http://www.youtube.com/watch?v=xLS09_RFmsc

 あれから30年、地方はどんどん過疎化と高齢化が進んでいっています。そこで都会の大学生は、地方にフィールドスタディに訪れて実学、勉強します、とても良いことですよね。昨日は「さまよえる若人」、今日は「目覚める若人」のお話しです:

今でも一番印象に残っていることは、地域の人びとの温かさである。観光事業にも力を入れてはいるが、観光客は少なく、特に若者が少ない。そのため、私たちのような学生が訪れると、人びとはとても喜び、温かく迎えてくれた。
 しかしその温かさは、ただ単に学生が来たことへの喜びからくるものだけではないような気がした。
 フィールドスタディの間中、ずっとどうしてこんなに温かいのだろうと考えていた。

 また、地元の婦人会の皆さんと一緒に夕食作りをするというプログラムがあったのだが、地元のおばさん達の明るさにたくさんの元気をもらった。
 お話しを伺うと今は、ムカシと違い、子供たちがいなくなってしまったことが寂しいと言っていた。
 子供の声が聞こえるととても嬉しくなるのだそうだ。農村では過疎と高齢化が進み、生活はとても苦しい状況にある。
 婦人会のおばさん達は、私たち学生が勉強に来てくれたことが本当に嬉しいと語ってくれた。その人は、『学生さんなんて偉い方々に会えて嬉しい。東京に帰ったら、私達の生活を何とか変えて下さい。頑張ってください』と涙ながらに言っていた。そのことがとても衝撃的だった。
 そして都会の人がいくら金をかせいでも、地方で使ってもらわなければ日本は元気にならないという意見もあった。
 
 私は、日本の第一次産業を支える地方の人びとの苦しみを知った。
 第一次産業も、彼らの温かさもけっして失ってはならないものであるのに、大事なものを日本は失おうとしているのではないか。
 私はそれらを守っていきたい。
 そう思いながらシュウカツをすることにする。

 彼らの温かさは、確かに私たちを本気で歓迎する温かさである。しかし、そこには、農業という生業のなかで人間らしい生活をしてきたことによる、人を思いやることができる心をも培ってきたからなのではないか。
 人間らしい生活をすることを忘れてしまいがちな都会においても、私は就職しても、思いやりの心を忘れずに働きたい、そしておばさん達の温かさを世の中にもっともっと広めていきたい、それを通して、地方を元気にしたいと、シュウカツ中のいまも、考え続けているのです

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2012年03月23日

さすらう若人の歌

 丸谷才一を読んだのは大学生のころ、谷崎潤一郎賞を受賞した長編小説『たった一人の反乱(1972年、講談社)』だったのではないでしょうか。ね、はるちゃん!
 「どてら」(丹前なんて言わなかったよねえ、また流行ってきているようですけど、部屋着として)を着込んだはるちゃんの部屋に集まっては仲良し3人組、石油ストーブを囲んで、インスタントラーメンを啜っては、文学談義に話しを咲かせていた懐かしい学生寮「村山学寮」時代がありましたね。

『政府は2011年10月25日(火)、今年度の文化勲章の受賞者を発表し、本学の前身である旧制新潟高等学校を卒業された丸谷才一(まるや さいいち)氏をはじめ5氏の受賞が決定しました。

 丸谷氏は,昭和22年同校を卒業ののち東京大学へ進学。教職を経て作家となり、数々の長編小説を執筆され、昭和42年『笹まくら』で河出文化賞を受賞し、翌年の昭和43年には『年の残リ』にて芥川賞を受賞されました。その後も多くの傑作を世に送り出し、今年は8年ぶりとなる長編小説を発表するなど、今なおご活躍されています。

 なお,同氏は、在学中、現在も名前を引き継いでいる学生寮「六花寮」に入寮され、寮歌のひとつである「星と生命」の作詞を担当。その寮歌は、その後の寮生の学生生活の記憶と共に残ることになり、学生時代からその才能の片鱗を輝かせていました。

星と生命(昭和22年度)、作歌 丸谷才一 作曲 角張辰夫
るんるん一、 あゝ友よ銀河は闇を 我が額(ぬか)に注ぎ投ぐれど 若き哀歌を 唇に高め高めて 暁の言葉とせんに
二、 な嘆きそ日輪にすら くろきかげ流るるものを 拙き生命 いとせめて火屑と燃やし 風早き空を行かんに
三、 待て友よ星雲の渦 我が胸に乱れて廻りて 涙の極み 新たなる愛と知の星 輝やかに今生まれなんにるんるん

(新潟大学公式サイト「丸谷才一氏の文化勲章受章が決定しました」)
http://www.niigata-u.ac.jp/top/pickup/231025_2.html

山形県議会2012年2月定例会は15日、本会議を開き、鶴岡市出身の小説家丸谷才一氏(86)=東京都目黒区=に名誉県民の称号を贈ることに同意、丸谷氏が3人目の名誉県民に選定された
(2012年3月16日09:13付け山形新聞)

『…これとは別に、山形県には規則による県民栄誉賞顕彰制度があり、富樫剛(元横綱柏戸)、藤沢周平(作家)、大場満郎(冒険家)、皆川睦雄(元プロ野球南海ホークス投手)、井上ひさし(劇作家・作家)の5氏が受賞している
(2012年3月05日20:27付け山形新聞)

 そうなんです、丸谷才一は1925(大正14)年、山形県鶴岡市に生まれています。東大英文科卒で、1967(昭和42)年『笹まくら』で河出文化賞を、翌1968年に『年の残り』で芥川賞を受賞しています。

 その丸谷才一がサイキン絶賛した書物があります:

小澤征爾さんと村上春樹さんの『小澤征爾さんと、音楽について話をする(新潮社、2011年11月)』を読んでゐて… 読みごたへがあつて楽しい。いい気持になる。かういふ幸福感を読者に与へる本はおれには無理だな、と思つた

 ね、旧かな、旧漢字のなかに突然『おれ』がでてくるんです!

もちろんこの感想は滑稽である。小澤さんは世界的な指揮者だし、春樹さんはクラシックとジャズの双方に詳しい。しかもここが大事な所だが、二人とも人柄がじつによくて、知的な談笑を得意業としてゐる。さういふいろんな条件が重なり、しかも加ふるに、二人がたまたま親しくなるといふ偶然がさいはひして、このおもしろい本が成り立つた。わたしはただ愛読すればそれでいいのである…。

 この本を読んで、ブルクハルトが『イタリア・ルネサンスの文化』で、藝術品としての国家を成立させる重要条件は社交で、社交のために大切なのは会話だと述べてゐることを思ひ出した。日本が藝術品としての国家になるのはいつのことか、あまり期待が持てないやうな気がしてゐたけれど、この本はわたしの見通しを改めさせた。代表的な作家と代表的な指揮者の会話がこんなに充実してゐて、何か光り輝いてゐて、楽しいのを見ると、希望の曙光が見えてくる

http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/353428/maruya.html

 この国のアニメが大好きな総理大臣が、この国の国語の漢字すら読めなかった、なんて笑い話がありましたけど、『教養』ですよね、これをリーダーたる選民はお持ちになりましょうよ、せめて。そしたら『希望の曙光』が見えてくるってもんで、高校生も大学生も落ち着いて、教養も実学も身につけ、身につけた教養と実学を、生涯にわたって社会で生かせる職業まで身につけることができる、という好循環が成り立つのではないのでしょうか。

 この小澤征爾×村上春樹の本でかなりの頁数を割いているのがマーラー、グスタフ・マーラー(1860年7月7日-1911年5月18日、昨年没後100年)です。

 未完成の第10番を含めると11曲あるマーラーの交響曲の中で、第5番第4楽章「アダージェット」は、ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』で使われています。水の都ベニスで、「至高の美少年に魅せられた芸術家の苦悩と恍惚、巨匠ヴィスコンティの最高傑作で、総合芸術の頂点」とも言われる映画となり、マーラーのこの音楽は、世界の人気音楽になりました。

 音声付きですのでくれぐれも周りにはご注意下さい:
http://www.youtube.com/watch?v=wwyYyfP0b0w&feature=related
http://death-in-venice.net/

『さて、この交響曲第5番は第2、3、4番と10年あまり声楽付きの交響曲を書いてきたマーラーが久しぶりにオーケストラのみで書いた純器楽交響曲である。新世紀1901年の夏に第3楽章から書き始められ、翌1902年には全楽章完成。1904年10月に初演され』ております(Wiki)。

 いえ、では、声楽曲は、と申しますと、いつもご紹介ばかり申上げております(だって、間もなく引退なさるっていうんですう)小児科のお医者さまは:

るんるん道の傍に、菩提樹が立っている。
 そこで、私は始めて眠ることが出来た。
 菩提樹の下で!
 その花びらが散って、私の上に降り注いだ。
 そこで私は生きることが苦痛ではないことを知った。
 すべてが再び良いことになった。
 嗚呼、すべてが再びよきことになった。
 愛と苦悩、そして世界と夢のすべてが!るんるん
 お医者さまの訳でした。

歌が終わり、最後の寂しげなフルートソロの前の、あくまで暗いクラとバスクラの和音が印象に残ります。
 人生と和解したはずのマーラーには、やはり苦悩が待ち受けていることを暗示しているのでしょうか

(マーラー「さすらう若人の歌」)

 Wikiによりますが、この作品の『成立史は複雑で、跡付けがしにくい。どうやら1884年12月には着手され、1885年には完成していたらしい。しかしながら、おそらく1891年から1896年にかけて大幅に改訂を行なっている。1890年代初頭にはピアノ伴奏の原曲にオーケストレーションを施している。こうした成り行きから、現存する資料ごとにさまざまな食い違いが認められる』

 音声付きですのでくれぐれも周りにはご注意下さい:
http://blogs.yahoo.co.jp/cultivate_arts/3675523.html

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2012年03月22日

凍み死ぬ

むかしは実際に赤ん坊が寒さのために家のなかで死んでしまったこともあり、通院者さんたちはそういう現実を直視して生きてきたのだ。
 みんなが命がけで冬を越す寒冷地に住んでいると、かける命の質や量が肌で実感できる。
 凍み死ぬ。
 この一語が目の前で高齢者の口から発せられるとき、それまでのいっさいの言葉でのやりとりが掛け算でゼロをかけられたごとくに意味を失い、ひどい低温にさらされればあっけなく死んでしまう、対面する二つのか弱いからだだけが意識される。
 この現場感覚が嫌いではないから、きっぱりと現場を去る決心がつかない

(南木佳士『生きてるかい?(2011年6月、文藝春秋)』)
 
 ヤッホー君が何かつらいときがあるといつも手にとって作者の紡いだ語句ひとつひとつに耳を傾けている枕頭の書のひとつ、からでした。

医師として、作家として人の生死を見つめてきた南木佳士(なぎけいし)さん(60)が、デビュー30年を迎えた。自選短編小説集『熊出没注意』(幻戯書房)を出版した作家に、なぜ書き続ける人生を選んだのか聞いた。(待田晋哉)

 …静謐(せいひつ)な言葉を使うのは、医者の仕事に根があったと振り返る。
 「医療の現場では、どれだけ言葉を尽くしても伝わらないことがある。
 例えば、肺がんは死亡率の高い病気です。
 でも患者さんの家族に話しても、その事実は簡単に受け入れられない。
 多くの言葉を重ねても伝えられなかった世界を、厳選した言葉で書きたいと思ってきた」

 …長野・佐久の自宅で取材を終えた後、奥さんの手料理を振る舞われた。セリの匂いの漂うキリタンポ鍋を味わいながら、酔った南木さんは「何とか30年、生き延びてきた」と繰り返した

(2012年3月2日付け読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20120301-OYT8T00828.htm

 「きっぱりと現場を去る決心」をつけた、これもヤッホー君がお慕い申し上げている小児科のお医者さまは、いま身の回りの整理中です:

低線量放射能被曝問題は、今後も続く。
 山野に降り注いだ放射能と、「除染」という名の汚染物移動作業で生活空間から除かれ別なところに移された放射能は、やがて海に流れ込み、そこで生物による濃縮が行われる可能性を今後とも考える必要があるだろう。放射能汚染により故郷を追われた方々は約8万人。そのかなりの割合の人々が、終生故郷に戻れぬことを忘れてはなるまい。

 さて、また引っ越し準備を始める。
 少し重たい物を持ち上げて、太ももの筋肉を傷めてしまった。昔は、こんなことはなかったのだが…という、年寄りじみたというか、年寄りの繰り言がついて出る。
 来週後半には、仕事場のネット環境を自宅に移す

(3月22日15:30付け「近況」)

 若い人も、お年寄りも、全員、なにが良い社会なのか、そのためにはどういう知恵を出し、どういう施策を打ち出し、管理監督者も従業員も、ケイダンレンもロウソも、どう協力し、どう実現すべきか、を事実に基づき、公開し、民主的に合意し、世代を超えて連帯し、持続的に社会を支えていこうとしないと、この国は継続、維持、発展できない、ところまできているはず。

 そのとき、アメリカばかりでなく、ヨーロッパにも目を向ける必要があります:

Population ageing presents a number of challenges for the welfare systems and public finances to overcome. The EU Member States spend, on average, more than a quarter of their GDP on social protection, most of it for the benefit of older people in the form of pensions, health and long-term care. The economic crisis has left Member States with large public deficits and an important public debt burden at a time when the large cohorts of the post-war baby-boom are entering their sixties and are starting to retire from the labour market. The EU should be proud of the level of social protection it has achieved for its elderly population, although there is still need for improvement in a number of countries. The key question is how to secure good social protection in an increasingly challenging economic and demographic context.

Even though ageing is considered as a threat by many, it should be considered as one of the greatest achievements of our societies. The growing number of older people is sometimes seen as a burden on the working-age population. However, these fears underestimate the fact that a growing number of older people are in good health, have valuable skills and experience and are willing to make a significant contribution, from which young people can benefit. Allowing older people to remain active and independent as they grow older and to continue contributing to society is the key to tackling the challenge of demographic ageing.

Active ageing is not just about the participation of older workers in the labour market, it is also about older workers actively contributing to society through voluntary work, including as family carers, or living independently thanks to adapted housing and infrastructure.

(Active Ageing, Fieldwork: September–November 2011, Publication: January 2012)
http://ec.europa.eu/public_opinion/archives/ebs/ebs_378_sum_en.pdf

 ヨーロッパは今年2012年は≪European Year for Active Ageing and Solidarity between Generations≫なのです!

 さ、山歩クラブも皆んな笑顔で、肩を組みながら、歌を歌いながら、元気良くいっぱい山を歩いていけますように。

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2012年03月21日

Super Ice Age

 われわれとわれわれの子孫にとってのたいへんな曲がり角にあるいま、マレーシアの New Straits Times(ニューストレーツタイムズ)紙では、こんなふうにこの国がリポートされています:

"We are facing a really yabai (chancy) time," says one male junior student of a prestigious private university in Tokyo. He is one of the desperate third-year students already looking for jobs for his post-graduation life starting in April next year.

Such an early job hunt is a common practice in Japan. He reads and speaks English and Russian and has good grades. And yet, he says, it is very tough for him now and perhaps for many decades to come. Such gloomy prospects are shared by many of his peers.

About three out of every 10 university students graduating this March -- the end of Japan's academic year -- have not found regular jobs yet. In spring last year, 19.3 per cent of the total new graduates, or 107,000 graduates, left school with no full-time, regular job.

('Super Ice Age' for Japanese graduates By Mutsuko Murakami, 13 February 2012)
…Read more: 'Super Ice Age' for Japanese graduates - Columnist - New Straits Times http://www.nst.com.my/opinion/columnist/super-ice-age-for-japanese-graduates-1.45746#ixzz1pkwx4r2e

 まだ社会人でない、若い大学生は考え始めました:

シュウカツってなんだろう、就職をして働く理由や意味を考えたことってありますか?
 その理由が「お金をもらって生きていくため」でいいんだろうか、人はパンのみに生きるにあらずって誰か言ってませんでしたっけ…
 理由が希薄だと、シュウカツが壁にぶつかって困難を感じた時に、シュウカツを止めてしまわないかなと思ったのです。
 またもし運良くどっかの会社に就職できたとしても、就職後に仕事で壁にぶつかって困難を感じた時に、すぐに会社を辞めてしまうような気がするんです。
 そこで、なぜ就職したいのか、それを真剣に考えました。
 辛い思いをしてシュウカツ、どっかに入社したとしてホンネとタテマエを使い分けるような世界で、どんなに理不尽なことがあっても割り切って、うつ病になるか、自殺するまで忍耐を強いられ、さらには社歌を歌わされ、口元をチェックされ、客への挨拶や笑顔を強要されて、こころとからだが不一致の状態にさせられることに耐えられるのだろうか…。
 私に、就職して成し遂げたい事が何かあるのだろうか…。
 何日も何ヶ月も考えた結果、私が至った結論は、「そんな世界を変えよう」でした。
 今よりも少しでも皆が笑っていけるような世界を作りたいと思っています。


『政府主催の社会保障・税一体改革の対話集会が3月17日、全国2会場で開かれた。
 このうち、川端総務相が出席した松山市の集会では、小学校5年生の参加者が「僕が大人になって、年金などの問題で世の中やっていけるのか」と質問』

 いまや子どもたちまで考え始めています。
 いいことですよね、年をとった大人たちは、若い人、子どもたちにも思いを馳せて真剣に考えていきましょうよ。いや、考えるだけではいけません、考えたことを口にし、文にし、こう考えているんだけどどう思う?ってお互いに聞きまくりましょうよ。聞くだけではたりません。同じ志をもてるか、仲間づくりをはじめ、もっと大きな声にしていったらいいですよね。
 それには、なにもプレゼンテーション用のファイルも、コミュニケーションマニュアルも、パーティ券も必要ないと思います。とりあえず、集まる、顔と顔を合わせる、頷きあう、笑いあう、そんな小っちゃな時間と場所を共にしさえすれば十分、あとは何度も繰り返して、少しづつ時間も人数も増やしていけば、後はなんとかなるんじゃないか、と。それが、あっちでもこっちでも、って、竹の子みたいににょきにょき伸びていけば、もう少し、住みやすい、働きやすい環境に「変えられる!」と思うのですが。。。
 
君が真剣に考えるべきは、半世紀以上も先の年金のことなんかじゃないんだよ。
 むしろ問うべきは、
 ぼくたちが社会に出たときにやるべきまっとうな仕事がちゃんとあるのか、
 まっとうに仕事をして生活できていけるような社会をきちんと作っていこうとしているのか、
 それをこそ政治家たちに問わなければならないのだよ、と

(2012年3月18日日曜日付け hamachanブログ)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

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2012年03月20日

黄色いハンカチ

 名山が 28 もできました、ね。
 いえ、実は今日、3月20日火曜日の春分の日、彼岸中日、ヤッホー君はその山歩クラブの総会に向けて資料作成にいそしんでいたとか。
 それで、3.11 以降自粛していたとはいえ、2011年4月30日土曜日、「電車で駅からお山歩会」で倉岳山990m に5人で出かけて再開して以来、2012年1月11日、「バスは行く」で13人で歩いた達磨山982m まで なんと 28山ものを山を歩いてきたんだそうです。
 一年は12ヶ月ですから、月2山以上はでかけていたことになります。
 山はホント、いいですねぇ!

 3.11、瀬戸内ではこんなニュースが飛び交っていたようです:

山田洋次監督(80)のデビュー50周年記念映画「東京家族」のロケ地に内定している広島県大崎上島町で、地元の若者が監督の代表作にヒントを得て、東日本大震災の被災地を応援する黄色いハンカチをはためかせる計画を進めている。
 「幸福の黄色いハンカチ」(1977)のハイライトシーンをイメージ。40センチ四方のハンカチ100枚に激励メッセージを書き込み、25枚ずつ計4本のロープに結び付ける。4月1日に木江港に面した木江厳島神社前に掲げる予定だ。
 20代の男女7人が企画。賛同者にハンカチを1枚500円で販売し、思いを書いてもらう…。
 中心メンバーの会社員藤原啓志さん(28)は「小さな島から被災地を元気づけたい」と意気込んでいる。藤原さん=電話090(4103)8050

(12/3/11付け中國新聞「黄色いハンカチ、被災地激励」)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201203110023.html

 そうなんです。今晩、NHK BS プレミアムでは、『山田洋次「東京家族」を創る』を放送していました(午後7:30〜午後9:00)。

監督50年目の2011年3月、小津安二郎監督の「東京物語」(1953)を今によみがえらせようと最新作「東京家族」撮影の準備をしていた。だが、3月11日に東日本大震災が起きた。山田はクランクインを1年延期し被災地を歩き、出会い、自らに問いかけた。震災と向き合い、日本人はどう生きてゆけば良いのか、家族の絆とは何か。脚本を修正し、2012年3月1日のクランクインまでを密着ドキュメント
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2012-03-20&ch=10&eid=12748&p=1

 山田監督は被災地を歩いたとき、実は「黄色いハンカチ」と出合うのです:

『更地となった住宅地に、何枚もの黄色いハンカチがはためいていた。陸前高田市気仙町垂井ケ沢。菅野啓佑さん(70)が自宅跡に揚げた。「この町に幸せを呼びたいからよ」
 昨年2011年4月に訪れたときは同じ場所で、こいのぼりが泳いでいた。菅野さんが毎日、揚げていた。捜索隊や地元の人たちの目印にもなり、感謝されたという。
 季節が移ってこいのぼりはハンカチに代わった。昨年2011年8月には、映画「幸福の黄色いハンカチ」の山田洋次監督が訪れた。菅野さんに案内されて周辺を見て回った山田監督は、菅野さんのハンカチのわきに自らも黄色いハンカチを掲げた。
 あす2012年3月11日、菅野さんはまたこいのぼりを揚げるつもりだ。「俺の命が続く限り、何かしらやってくよ」』

(2012年3月10日付け朝日新聞マイタウン栃木版 緒方雄大署名記事「それでも「前に進もう」)
http://mytown.asahi.com/tochigi/news.php?k_id=09000671203120001

 山田監督が3.11でクランクインを延ばした理由は、東京弁護士会の会報 LIBRA 2012年1月号 でも:

あと10日でクランクインってときに、3.11 大震災が、引続き原発のメルトダウンが起きて、放射能汚染と言う恐ろしい事態を迎えるようになって。
 僕は少年時代に戦争を経験していて、戦争は日本の現代の歴史の大きな境界線なんだけれども、その次にくるような大きな出来事なんじゃないかと思ってね。
 とすれば、このまま東京の物語を作り続けちゃいけないんじゃないかと考えました…。

 おじいさんが、
「俺たちは、戦後一生懸命働いて子供たちを育てて、それで果して幸せな国を作ったんだろうか」
という疑問を持たざるを得ないような気がするんです。これからこの国はどうなるんだろうという不安、想いはそこに行かざるを得ない。どういう風にそこにもっていこうかと今考えている段階です

http://www.toben.or.jp/message/libra/

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2012年03月19日

希望の春風

 かくして昨日3月18日「達磨山続編」の「魚キン」で、山歩クラブ3.11達磨山お山歩会を締めくくろうと思うのですが、ヤッホー君が上野恩賜公園野外ステージに近づいたとき、外に聞こえてくるほどの大歓声が沸き起こっているのに気づきました。
 いったい、なんだったのでしょう ?!

 それは、『希望の春風コンサート〜フクシマ・オキナワ 核と基地からの自由を求めて〜』でございました。

 実行委員会からのお知らせが載っています。下↓参照:

2011年3月11日の福島原発事故から1年が経とうとしています。事故により大量の放射能が放出され、各地で農水産物への汚染が拡がり、10万人近くの避難者をはじめ多くの人びとの健康・くらし・仕事などに大きな影響を与え続けています。
 また日本の米軍基地の75%が集中する沖縄では、普天間基地返還、辺野古や高江での新基地の建設などの問題が続いています。
 私たちは、フクシマやオキナワに連帯し、特に放射能の被害に苦しむフクシマの方々を少しでも支援しようと、このコンサートを企画しました。
■ 日時:2012年3月18日(日)13:30開場 14:00開演(18:00終演予定)
■ 会場:東京・上野水上音楽堂(野外ステージ)
■ 出演:司会 ランキン・タクシー
〈第1部〉
オープニング 若風(うりかじ)エイサー隊
日本音楽協議会
あべこう一
制服向上委員会
〈第2部〉
千博楽家族楽団(チャンプラーズ)
寿[KOTOBUKI]
李政美(いぢょんみ)
■ チケット:前売2000円 当日2500円
■ 主催:希望の春風コンサート実行委員会
■ 後援:フォーラム平和・人権・環境、他


 もちろん、マスメディアには掲載記事はありません。しかし…:

今日は。「希望の春風コンサート」に出演させて頂きました(^∀^)
 セットリスト♪
 「悪魔 Noだっ! TPP!」
 「原発さえなければ」
 「アメリカ」
 「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」
…4曲歌わせて頂きました(≧∇≦)。
 今日はとっても寒くて…(>_<)ステージで踊っていても寒いと感じてしまう程だったので来て下さった方もかなり寒く感じたと思います(>_<)。
 みなさん、温かい応援、ありがとうございましたo(^-^)o
 「希望の春風コンサート」の後はレコーディングでした(^o^)/

(制服向上委員会 プロデュース オーディション ブログ)
http://blog.oricon.co.jp/ski-official/

 為念、この「制服向上委員会」というのは、ですね、ヤッホー君が「マル生(生産性向上運動)粉砕!」なんて叫びだすのを押さえるために申しあげておきます:

1992年秋“清く正しく美しく”をモットーにグループ結成。6月8日に初披露した「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」の Youtube 視聴が14万件を突破し大反響を呼ぶ。2012年で結成20年目を迎える日本最長を誇る女子アイドルグループ。現在レギュラー13名にてライブとボランティアを中心に活動中

 山歩クラブより10年も長い歴史をもち、野外ステージで元気いっぱいに歌って、Youtube 視聴が14万件を突破した『ダッ!ダッ!脱・原発の歌』(詞)鈴之助(曲)AKIRA ってどんな歌? 気になるでしょ?!
 下↓をクリック、ただし音声付きですので、白い目で見られぬよう、周りにはぜひ注意しましょう:
http://www.youtube.com/watch?v=ByP8m3XOZdw

 忌野清志郎と同じく、こうしたメッセージソングは、ムラ社会ですので、絆も繋がりも鉈で断ち切られ、異見は放逐され、異形は投石で駆逐されます。誹謗中傷、無視、排除、抹殺の対象となります。
 事実、“ある大手企業”の反対により、≪フジロックフェスティバル'11≫の出演を降ろされていました:
http://hibi-zakkan.sblo.jp/article/46855508.html

 かくして、3.11から1週間経っても、まだまだ続きます。喉元過ぎれば…、なんて言われぬよう、牛さんみたいに反芻していかなくっちゃ。
 いろんな動きがありますが、民衆の声が、あぶらぎった選良の「政治判断」や、上から目線の御用コメンテーターに本当に届くことを祈り、期待し、応援したいと思っています。
 だって、これからのわれわれとわれわれの子孫のための曲がり角にいま、たたずんでいるわけでしょ?!

 山歩クラブは3.11、達磨山から戸田峠に戻り、バスに荷を置き、空身で往復しようと向かった金冠山 816m でカッシーの音頭と、はるちゃんの「なおれ」で黙祷を捧げてきました。
 その黙祷後、の集合写真を掲載します。

金冠山.jpg

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2012年03月18日

お彼岸

 直前に報告しましたように、ヤッホー君は「達磨山続編」と称して≪横山大観を偲ぶタウンウオーク≫と称し、サイキン、人気沸騰している"ヤネセン"に「魚キン」してきたわけです。
 どこをどう歩いたのか、忘れてしまう前に記しておきます:

○ 横山大観記念館(台東区池之端1-4-24 Tel 03-3821-1017)
○ 不忍池弁天堂でお参り
○ 東京都美術館(来月リニューアルオープン)
○ 奏楽堂前
○ 黒田清輝記念館
○ 国際子ども図書館(旧帝国図書館、台東区上野公園12-49 Tel 03-3827-2053)…都選定歴史的建造物
○ 藝大アートプラザ(Tel 050-5525-2102 故大西博先生一周忌を迎えるにあたって「Lapis lazuli―本瑠璃で描く―」展)
○ 旧吉田屋酒店(下町風俗資料館付設展示場、台東区上野桜木2-10-6 Tel 03-3823-4408)
○ 上野桜木会館
○ 大雄寺(台東区谷中6-1-26 Tel 03-3821-1523)で、「幕末の三舟」高橋泥舟の墓前でお墓詣り)
○ 谷中霊園(管理所は台東区谷中7-5-24 Tel 03-3821-4456)でお彼岸のお墓詣り
…徳川慶喜公墓所、明治大学創設者・初代学長の岸本辰雄、そして横山大観=下がその墓前=

P3185493.jpg

○ 長安寺(狩野芳崖墓)
○ 観音寺(築地塀、台東区谷中5-8-28)
○ 谷中コミュニティセンター、初音の森
○ 岡倉天心記念公園(台東区谷中5-7-10 六角堂、院歌の石碑、日本美術院発祥の地)
○ 谷中ぎんざ
○ 夕焼けだんだん

夕焼けだんだん.jpg

○ 経王寺(荒川区西日暮里3-2-6 山門は荒川区の指定文化財)
○ 本行寺(荒川区西日暮里3-1-3 Tel 03-3821-4458 太田道灌が斥候台を築いた道灌物見塚跡(道灌丘碑)、小林一茶「陽炎や道灌どのの物見塚」や種田山頭火の「ほっと東京に来ている月がある」などの句碑)
○ 日暮里から上野までJR山手線
○ 上野公園(日本藝術院、上野の森美術館、西郷隆盛銅像の後ろにある彰義隊の「戦死の墓」=幕末の三舟、山岡鉄舟の筆になる=)

 以上10.79Km、18000歩、消費カロリー411Kcal!


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一升枡

 池波正太郎のお話しは、3月3日付け日記「かど家」で終わっていますね。ま、これもなんかの縁と少しづつ筆を進めていくことにしますので、お付き合いのほどをよろしくオン願い奉りもうしあげます、とかなんとか、山歩クラブ第10回総会の酒選びの試飲で、おっしゃっていました、ヤッホー君!

 いえ、ね、池波正太郎は、おそば屋さんも好きだったようで、その馴染みの一軒が「神田まつや」(千代田区神田須田町1-13 Tel 03-3251-1556)。そこで食べられた方の印象がありましたのでご紹介、奇しくも昨年3.11!

池波正太郎ゆかりのお蕎麦屋さん。ごまそばを食べてみる。ふつうのもり汁ではなくごま汁というのは初めてだったけれど、繊細なそばの味をうまく引き立てていると思った。そば湯にもとてもよく合っていた。何よりお店の人の応対が気持ちよく明るい雰囲気がいい。後から相席になっただんなさんが、昼酒を注文していて、ちょっとうらやましかった。ごま汁のいい香りがまだ口に残る中、気分よく午後の仕事に取りかかっていたら東北地方太平洋沖地震に遭遇

 時代劇小説のなかで登場人物はよくおそば屋さんでお酒を飲んでいますが、作家ご自身もお好きだったようで。ところで池波正太郎に「一升ますには一升ますしか入らぬ」(初出は『百人百話 ことわざにみる日本人の心と姿』PHP研究所 1976年)の名文がございますので、これを紹介しないと、今日の試飲は終わりませぬ:

明治以来、日本人の「収支」における感覚は鈍くなる一方だ。
 「収支」というからには、収入と支出についてのことだが、これは何も商売や家計の経済的な感覚のみをさすのではない。
 ないがしかし、根本は一つである。
 たとえば…、この「日本」という小さな島国を一升枡にたとえてみようか。
 それは実に、一升しか入らぬ小さな国土なのである。
 戦後、その小さな枡へ、1斗も2斗もある広大な国に生まれた機械文明を取り入れてしまい、国土も国民の生活も、これに捲き込まれて、どうしようもなくなってしまったのだ


 続きはぜひ、池波正太郎『一升枡の度量』(2011年5月3日、幻戯書房)でお読み下さい。

 そして一升酒は、というと、横山大観…、でしたね。
 本日3月18日日曜日、横山大観を偲ぶ歴史散歩、あのヤッホー君がひらめいた「魚キンコース」を"かんぽ”してまいりまして、以下の引用は、そのおすそわけでございます:

何か自分のものを創造しなければならないと思います。それにはどうしても、自分の人間を作ってゆかねばなりません。
 ところが今の人は、技巧だけに没頭してるんですね。
 私なんかは岡倉先生という、偉い先生がおられたから幸せでしたが、今の人はそうした偉い指導者を持たないから不幸ですよ。
 先生が私たちに一升酒をすすめられましたのも、そこで若い者を鍛えようとされたのだと思います

(世界一の絵を描きたい」 初出は東京新聞1956年1月8〜10日連載『炉辺放談』より 引用は2006年6月(財)横山大観記念館編『大観のことば』より)

先生は音楽のことはもちろん、書道も、茶道も、活花もみんな心得がありました。絵は文人画を習っていました。詩もなかなかお上手で、ことに杜甫の詩が大変お好きでした…
 先生はまた、お酒を大変召し上がられました。一升ぐらいの酒を飲んで酔うようだったら俺の席には出るなというふうでした
…』
(「岡倉先生と一升酒」 初出は1951年講談社『大観画談』より、引用は同上)

 いいですね、集い、車座になって、放談するというのは…ところで、気になってる山歩クラブが3.11達磨山山行の帰路、社中での「放談会」のお供をしていただいたお酒とは『喜平』。ところが岡山県の地酒だったのです:

平喜酒造は、1928(昭和3)年に創業者である平嶋屋喜平が、酒造りの原点である米と水を求めて浅口市鴨方に酒蔵を構えたことに始まります。現在は新蔵も含め、2万平米以上の敷地の広さで県下でも有数の規模を誇っています。代表銘柄は「喜平」。米は岡山の備前米「雄町」や「あけぼの」を使用しています。また水は蔵の北にある遙照山の花崗岩質に磨かれた水で仕込んでいます。この最高の素材で杜氏と蔵人たちが伝承の技を用い、心をひとつにして旨い酒造りに精を出しています
http://www.hirakishuzo.co.jp/
 
 なんで、沼津市で、岡山県の地酒を買うんだ、というお叱りも受けましたが、そのわけは、ってえ〜と、ヤッホー君のこのブログ、昨年2011年1月20日付け日記「緑茶房」をぜひお読みくださいね。
 お酒って、ほんと、深みがありますねえ、さらっとしていますが濃いですね〜。いいもんです。

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扇沢ロッジ

 『日本百名山鹿島槍ヶ岳2889m。
 後立山連峰の中央に位置する鹿島槍ヶ岳は、南北二つの頂上を持つ端麗な双耳峰です。
 南峰と北峰を結ぶなだらかな曲線は美しい吊尾根を形成し、全てのアルピニストの憧憬となっています。
 山麓から眺めた左に爺ヶ岳、右に五竜を従えたその姿はまさに、安曇野一の名峰といっても過言ではないでしょう

(冷池山荘 種池山荘 新越山荘)
http://www.kasimayari.jp/annai.htm
 
 今日のお話は、鹿島槍、といきたいところですが、山歩クラブが歩いたのは、2007年8月13日日曜日〜17日金曜日帰京、そのときの嫌な思い出、懐かしい思い出が断片的にしかまだ蘇ってこなくって…。
 そこで、前泊も後泊もする"大名旅行"とまで揶揄された山歩クラブ流チャレンジ山行のこのときの前泊地は、当時、鹿島槍や針ノ木岳といったら、もちろん「扇沢ロッジ」。

扇沢ロッジ.jpg

 ところがもう、扇沢ロッジは廃業したんですね。それをまず、上記、公式ホームページから読んでみましょう:

私どもの柏原新道の登山口のほど近くにある扇沢ロッジも先シーズンをもって廃業となることが決まりました。
 黒部ダム観光客と登山客の皆さんに40年間近くにわたって愛されてきた施設ですが、やはり諸般の理由で廃業となってしまいました。
 前の晩に扇沢ロッジにお泊りになって体調を整えられて、爺ヶ岳や鹿島槍ヶ岳あるいは針ノ木岳へと登られるお客様も多かったので、私どもにとってもたいへん残念でなりません。
 中高年層が主流の登山客のみなさんにあっては、体調を整える意味からも大町での前泊がおすすめなんですが、 扇沢周辺にはほかに宿泊施設はありません。
 今後は大町温泉郷や市内のビジネス旅館等をぜひご利用くださいませ

(同ホームページ内 2009年3月17日 No 506 寂しい別れ…)

 そうなんです、当時、山歩クラブが前泊した扇沢ロッジ、翌朝柏原新道を登りつめることにして、宿泊当日は黒部ダムを見学に向かったのでした。
 そして、帰京して報告会「スローフードと山の会」では、『黒部の太陽(1968年)』のビデオを借りて映画鑑賞会もするんだ、とか言い合っていましたが、できないんだって、だってビデオがない、というお話しでした。それが彼岸の入りの寒い夜、3月17日土曜日 NHK BSプレミアムで放送されていました(午後8:00〜午後10:20(140分)。

黒部峡谷に巨大ダムを建設するという世紀の難工事に、不屈の精神で挑んだ男たちを描いた壮大な人間ドラマ。
 現場責任者北川を三船敏郎、下請け会社社長の父に替わり工事を指揮する岩岡役を石原裕次郎が演じ、大ヒットした幻の超大作。
 順調に進んでいたトンネル工事は、大量の濁流が吹き出す破砕帯にぶつかり全く掘り進めない事態に。
 石原裕次郎の追悼記念などで数回しか上映されていない編集版をハイビジョン初放送

http://www.nhk.or.jp/bs/t_cinema/

 ハイビジョン初放送でした!映画も、しかし:

3月23、24日に東京国際フォーラム ホールCで44年ぶりに一般公開する映画「黒部の太陽」(熊井啓監督)ノーカット版(3時間15分)のプレミア上映会チケット約3500枚が完売し、24日午後7時15分から追加上映が決まった。
 2月10日に前売り券を発売したところ、3月23日分は2日で、24日分も19日に完売し、急きょ夜の部の追加を決めた。チケットは2月28日からファミリーマート限定で発売するが、1枚1000円で枚数は約1200枚しかなく、争奪戦は必至だ…

 人気が過熱した要因としては“幻の作品”として知られる「黒部の太陽」を見たい、という映画ファンの心理が働いたとみられる。
 完全版は1968年の公開から44年でわずか2度イベント上映されたのみ。
 タイトルは知っていても映像を見たことがないファンが、チケット購入に走ったようだ…

 毎日新聞編集委員だった木本正次氏が、1964年に同紙に連載した小説が原作。
 俳優、監督の引き抜き、貸し出しを禁じた「五社協定」全盛で、映画各社から協力も得られない中、石原裕次郎さんの石原プロモーションと三船敏郎さんの三船プロダクションが共同製作し、2人が初共演&ダブル主演。
 1956年から1963年まで行なわれた黒部川第四発電所(黒四ダム)工事、中でも関西電力大町トンネル工事の難関だった軟弱地層・破砕帯を突破する7カ月の困難と、乗り越える人間の強さを描いた

(2012年2月24日6時47分日刊スポーツ紙面から)
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp1-20120224-908109.html

 いえね、ヤッホー君が面白いと思っていたのは、間組と熊谷組が貫通した大町トンネルで作業員がみな抱き合い、喜び合い、喝采を叫び合うときのお振る舞い酒は、そして作業員たちが竹筒で、そしてヘルメットで飲み合う地酒は、テレビの画面では秋田の銘酒「新政」だったからでした:

 新政酒造(株)秋田市大町6-2-35 Tel 018-823-6407は創業嘉永5年(1852年)!
http://www.aramasa.jp/top.html

 う〜ん、酔心も良いけど新政もいいねえ、新年度の山選びに集中するはずのヤッホー君、なんか週末は、山選びよりも、酒選びのための試飲がすすむようで…

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2012年03月17日

秘話

 せっかくの週末、せっかくの彼岸入りの3月17日土曜日も寒い、冷たい雨の降る一日でした。

 お天気予報とはまるで大違い、10度も違っていましたね:

『都心周辺では、明け方から雨が降り始めました。東京の今日土曜日の予報は、「南の風 23区西部では南の風やや強く雨、朝晩くもり 最高気温13℃
 しかし、上記の予報に反して、午前9時現在、北北西の風3メートル 気温5.3℃
 関東地方で南風が入り、気温が10℃を越えているのは、神奈川県の一部(三浦半島)と千葉県(主に房総半島)のみ』
(2012/3/17(土)午前10:06 桜と寒の戻り チーム森田の天気で斬る)
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map/61377403.html

 ところで昨晩の日記「院歌」…、どうでしたか? 良かったですね。
 ヤッホー君なんかとても喜んで昨晩、寝る前の"ナイトキャップ"に日本酒をいただいてしまったそうです。

横山大観が最も愛飲した酒が三原市の醉心でした。
 大観にとって醉心は主食であり、米の飯は一日を通じてわずかに朝お茶碗軽く一杯程度のもので、後は全部醉心でカロリーを取っていたといわれています。
 大観とのつながりが深かったのは先々代の山根薫(やまね かおる)社長で、出会いは昭和初期にさかのぼります。

 醉心山根本店の東京の販売店に、いつもお酒を買いに来る上品な女性がいた。
 どなたかと店の人が尋ねたところ横山大観の静子夫人だという。
 興味を持った薫が大観の自宅に伺い酒造りの話をしたところ、名人は名人を知るということかたちまち意気投合。
『酒づくりも、絵をかくのも芸術だ』と大観は大いに共鳴した。
 感動した薫は、一生の飲み分を約束した


 広島県の銘酒です。一升ではなく一生ですよ、すごいですねえ〜。剛毅!

 山歩クラブ第10回総会のお振る舞い用のお酒はこれで決定です。
 ぜひ、醉心山根本店(広島県三原市東町1-5-58 Tel 0848-62-3251)の公式サイトを訪ねてみてください!創業は万延元年1860年です。山歩クラブが行なった2008年5月23〜25日の広島遠征の折り、最後の食事会も、ここ酔心でしたね!
http://www.suishinsake.co.jp/

 エピソードはまだ続きます:

ここで、横山 大観の名言「醉心は我が主食なり」にちなんだ秘話をご紹介しましょう。
 1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲によって首都圏社会は瓦解し、流通・物流網は麻痺したままでした。勿論、大観もその辛酸を嘗めたわけですが、その2週間後に、彼は山根薫に「何とか酒を送って欲しい」と直筆の手紙をしたためています。
 大観は、ふだんの手紙は妻の静子に代筆させていましたが、のっぴきならない件に関しては、自ら筆を取っていたようです。
 窮乏と荒廃を極めた時局に、広島から東京まで酒を届けることなど異例中の異例でしたが、横山大観は時の運輸大臣・五島慶太(ごとう けいた/東急グループ創始者)と親しく、特別なはからいを頼んでいました


 それでこのエピソードは終わりではございません。五島慶太も五島慶太です。この続きはぜひ下↓をクリックしてお読み下さい。

『地酒蔵元会、蔵元紀行、酔心山根本店(広島)、歴史背景』
http://www.kuramotokai.com/kikou/56/history 

 ところで、静子夫人でしたね、酔心山根本店の東京・神田支店までいつも買いに来る品の良いおなじみさんとは:

1897(明治30)年、29歳で長野・上田の儒者の娘である文(ぶん)と結婚、31歳で長女初音をもうけるが、3年後に文は肺を病み他界する。さらにその3年後、幼い初音にまで病気で先立たれてしまう…
 東京・四谷の材木商の娘2人目の妻、直子の病気療養のため大観が滞在した1912(大正元)年ごろ、すでにおよそ500戸の別荘があったという。ふたりは現在の江ノ島電鉄・由比ケ浜駅のそばに借家したと推測される。…五浦時代には絵も売れず、飯のおかずに魚を釣ってしのぐような貧しさ。…直子も肺を病む。栄養状態の悪さが影響したのではなかろうか…まもなく直子は世を去る。「私の家庭はあまりに悲惨であった」。『大観自叙伝』は痛切に記す。
 直子をみとって1年足らず、45歳で判事の娘である静子と3度目の結婚。私生活の苦闘をバネに、賢夫人の誉れ高い静子の内助を得て、第一人者へと歩みを進めてゆく。

 大観の没後20年近く生きた静子は、先妻2人について語ることはなかったが、一度だけ「初音ちゃんは気の毒なことをした」ともらしたのを孫になっている隆さん(2008年で74歳、横山大観記念館の館長)は覚えている。幼くして亡くなった初音のほかに、3人の妻との間に子は生まれず、静子の弟の善信を養子にした。
♪  ♪  ♪

 一昨年、隆さんは母(善信の妻)の七回忌を機に、東京都荒川区内の寺にあった戦前の横山家の墓を整理して、谷中霊園(台東区)にある大観と静子の墓所に統合した。
 最初の妻・文と2番目の妻・直子のお骨は、およそ1世紀をへて形はなく、わずかな土が残っているだけだった。「土に帰るって本当なんだな」と隆さんは思ったという

(2008年1月26日付け朝日新聞 トラベル 愛の旅人「大観自叙伝」横山大観と3人の妻)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801250246.html

 春の宵、とはいかないけど日が暮れてきましたね。さ、今日も昨晩の残りを燗につけてちびり、ちびりといただくことにしましょうか、春の酔い。

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2012年03月16日

院歌

 3月28日水曜日〜4月9日月曜日、三越日本橋本店本館7階ギャラリーにて、第67回「春の院展」が開かれます。
 入場無料です。
 ぜひ足を運んで日本画の素晴らしさにじかに触れてみませんか、ね…

1945年11月5日〜10日、「日本美術院小品展」が日本橋三越本店で開催された。これは、戦後の荒んだ世相緩和のためとして、当時の駐留米軍と日本政府からの要請に基づいたものだった。
 本展は横山大観、小林古径、安田靫彦、前田青邨らが中心となって好評を博し、1959年に「春季展」、1970年に「春の院展」と名称を変え、現在にいたっている。
 タイトルの「春の院展」の文字は、日本美術院初代理事長・安田靫彦によるものです

(公益財団法人日本美術院)
http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/inten/

 ね、横山大観!
 
日本の近代芸術に大きな足跡を残した岡倉天心。
 その弟子たる若き日の横山大観の眼を通し、兄弟弟子である菱田春草・下村観山・木村武山らと共に芸術と真摯に向き合う姿や、師である天心の実像に迫る。
 理想に燃えて設立した「東京美術学校(現東京藝大)」を追われた天心たちが辿り着いた北茨城の美しい五浦の海と、後に彼がそこに建立した「六角堂」に込めた想い。
 波乱の五浦時代を中心に、傷心の天心が立ち上がってゆく姿や弟子たちとの葛藤、師弟愛を描き、世代を超え、美術・芸術の在り方だけでなく日本の未来までも問いかける


 映画『天心』は岡倉天心を横山大観の目から見た物語です!
 詳しくは、公式サイトにて。
 ただいま、クランクイン目指し準備に忙殺されているようで…でもこんなスタッフブログもありますので必読です!
http://eiga-tenshin.com/official/


『3月2日金曜日「悲しき日本アカデミー賞授賞式」
 この日は初めて、日本アカデミー賞の受賞式へ…もちろん招待でなく(苦笑)、自腹1万円なりを払って。映画大ファンの従兄の人が一度見たいと前々から言われ、同伴で行ったのです。アカデミー協会に入会して約20年で初めて。さまざま思いもあり、誘われなければ、中々行かず…
 強く印象に残ったのは、特別賞を取った高峰秀子さんの夫、松山善三さんがあいさつの時、言葉につまり、娘の方が代わって
「父は母が亡くなってから、言葉が出ないようになりました」と涙ながらに話されたこと。
 99歳の新藤監督が車いすで登場し、感激の言葉を出されたこと…』

 
公式サイトには、予告編もアップされています(音声付きですので周囲に気をつけてご覧下さいね):
http://www.youtube.com/watch?v=yB8RxTXQLLA&feature=youtu.be
 
 岡倉天心と横山大観、いったいどんな師弟関係にあったのか、どう映画では描かれるのでしょうか興味津々、その一端をうかがわせるエピソードを今日はご紹介!

横山大観が「録天心先生作日本美術院之歌」と記したとおり、この歌を作ったのは岡倉天心で、それはまさに、1898(明治31)年に「日本美術院」を創設する頃のこと。
 天心とその弟子たちは院の将来を語っては痛飲し、気炎をあげていました。
 そんな時に天心が酔余に作った歌をのちに大観が「院歌」としたのです。
『岡倉天心全集』には諸本を編集して次のようにまとめています。

 
るんるん♪谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
 奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい
 錦小路ににしきはなひよ 錦の綴もきれきれに
 たとひきれても錦は錦 よられよられてあやそ織る♪るんるん

…古田亮(1964年-、東京藝術大学准教授)「日本美術院史外伝」
http://www.nihonbijutsuin.or.jp/colum/contents_furuta01.html
 
 「院歌」は、ね、石碑となって岡倉天心記念公園の東京都指定旧跡である岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡(台東区谷中5-7)にあるそうです。そう、そう、「六角堂」も。
 石碑の文字は読めるか、だから「院歌」の拓本のコピーが、近くの「谷中コミュニティセンター(台東区谷中5-6-5、防災広場「初音の森」向かい)」にあるそうなので、そこで確認すると良いって。

 ですので、だんだんと「eチャリ」のコースが出来上がりつつありますね。まずは下見をして、それから山歩クラブの企画会議に提案しようかな、山じゃないからって却下されたりしてね…。

 池之端〜不忍池〜上野動物園〜東京芸大〜清水坂〜谷中霊園で横山大観のお墓参り〜コミュニティセンター〜岡倉天心記念公園〜谷中銀座〜御殿坂〜日暮里駅

 う〜ん、これは「eチャリ」じゃなく、「魚キン」だにゃあ〜…たらーっ(汗)

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2012年03月15日

横山大観

 そうなんです。3.11山行は伊豆の達磨山だったのですが、ここは横山大観のお気に入りの場所でした。
 われわれには時折、雲が切れ頭上に青空が広がると、戸田港が見下ろせたりできる程度、すぐまた濃い霧がさあ〜っとあたり一面をおおってくるといった、ネコの目のようにめまぐるしく一瞬一瞬、景色が変わるなかを歩いてきたのですが。
 ドライバーさんからCメールが入ってきていました: 雨が強くなりました。下山が早くなっても良いように戸田峠Pで待機しています(10時31分)!
 われわれは雨でなく、雪!春の雪だったんですけど…
 
達磨山.jpg

 ね、冨士山展望というわけにはいかないようなお天気だったことがよく分かりますよね。
 頂上は真っ白、カメラのレンズにも雪片がくっついています。

 その横山大観ですが、下町に記念館があります。台東区池之端1-4-24 Tel 03-3821-1017
 ヤッホー君は、念願だったこの地まで、近いうち「eチャリ」しなくっちゃと、真剣に考えているようです:

ここは、日本画家、横山大観(1868-1958)の住居でした。
 大観がこの地に住みはじめたのは、1909(明治42)年です。
 最初は狭かった敷地も、大観が画家として名をなすにしたがい拡張され、1919(大正8)年に現在の広さとなりました。
 1945(昭和20)年3月10日の空襲で住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘に移り住みます。
 1954(昭和29)年8月、焼失した住居の土台をそのまま利用して、新居が再建され、大観は再び池之端で生活をはじめます。
 1958(昭和33)年2月に90歳で没するまで、ここで数多くの作品を制作しました。
 静子夫人没後の1976(昭和51)年9月、遺族から大観の作品や習作、遺品、画稿、スケッチ帳などの寄贈をうけて、財団法人横山大観記念館が設立され、同年11月に一般公開されました。
 当館は、心の安らぎを感じられる美術館をモットーとし、できるかぎり建物の雰囲気をいかし、軸装の作品はそのまま床の間にかけて展示しています。
 また、靴を脱いで入る日本建築の良さ、大観がこだわった細部のデザインも存分に楽しむことができます

http://members2.jcom.home.ne.jp/taikan/

 それはそれとして、横山大観はなぜ達磨山だったんだろうかと思いを馳せてみたくなります。頂上に1978(昭和53)年7月14日、戸田村長、山田二郎書という『山岳の誌』の石碑がありました。
 ご紹介します。
 声の通る仲間にぜひとも声をだして音読していただきたかったのですが、なんせ頂上は春だと言うのに冷たい風が通り、あわててメモしたので、まちがっているところがあったらごめんなさい:

達磨山は戸田、修善寺、土肥にまたがり、北側の小達磨、金冠山などを含む山群の中の最高峰である。
 天城連山の万三郎岳、万二郎岳に対し、長男天狗の棲家であったという伝説から万太郎(番太郎)岳の名もある。
 達磨山の名は、東西いずれから眺めてもその姿は座禅した達磨大師に似ていることに由来している。
 また、西中腹の寺尾平にあった西輝山東光寺(宝泉寺の前身)の本尊が達磨大師であることも何かの因縁があろう。
 一等三角点から見おろす戸田港は太古の爆裂火口といわれ、白砂青松の砂嘴をはるかに水平線が太平洋に落ちこんでいて、箱根十国峠に比し、快晴の日は房武相甲信豆駿遠三尾濃勢賀州が見えるところから十三国峠と呼ばれている。
 ここでの圧巻は何といっても富士の雄姿である。
 眼前に展開される雄大かつ繊細なパノラマはまさに天下の絶景といえよう


 晴れていたらどんな絶景がひろがっているのか、ぜひ次の「伊豆市観光情報」で:

伊豆半島北西部にそびえる猫越火山連峰の一峰。標高982m。北と西が駿河湾に落ち込んでいるため眺めがよく、特に富士山の眺望は素晴らしいです。
 画家横山大観が此処からの富士山を描いて世界に紹介し絶賛を浴びたことでも知られています。
 中腹から山頂にかけてススキや熊笹が生い茂り、東側を西伊豆スカイラインが走っています

http://www.city.izu.shizuoka.jp/kanko/form1.html?c1=5&c2=4&aid=1&pid=2389

 ね、横山大観はこんなことをおっしゃています:

富士の名画というものは昔からあまりない。
 それは形ばかり写すからだ。
 富士の形だけなら子供でも描ける。
 富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。
 心とは、ひっきょう人格にほかならない。それはまた気品であり、気迫である。
 富士を描くということは、つまり己れを描くことである

(横山大観「私の富士山」1954(昭和29)年5月談)

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2012年03月14日

日本鹿研究

 どうも気になってしようがないニホンジカ(Cervus nippon)。
 この動物は、『ベトナムから極東アジアにかけて広く分布し、日本国内でも北海道から沖縄県までほぼ全国に分布している(環境省2004)。近年では積雪の減少や狩猟人口の減少などにより個体数は急激に増加し、各地でニホンジカによる農林業被害および生態系被害が発生し問題になっている。一方、本州の最北に位置する青森県、秋田県には現在ニホンジカは分布していないと考えられている(環境省2004ほか)。
(後述の≪日本鹿研究≫より)

 長野県では先月の2月23日に対策会議が開かれていました:

北アルプスに生息域を拡大し、高山植物を大量に食べたり踏んだりする影響が懸念されるニホンジカへの対策を練る環境省や林野庁、長野、岐阜、富山の3県などの初の検討会が2月23日、松本市で開かれた。
 希少な高山植物の群落のすぐ近くまでシカが確認された「白馬岳」「上高地〜乗鞍岳」の2地域を、早急に対策を取る重点検討地域とすることを決めた…。

 検討会では環境省や中部森林管理局の職員が、シカの目撃例や痕跡が、北アの長野県側全域で確認された本年度調査結果を報告。環境省は、固有種などの群落がある稜線まで3、4キロの地点でシカが確認された白馬岳、同様に周辺で目撃例や痕跡のある上高地と乗鞍岳について「植生に影響が出ると懸念される」と説明した

(2月24日金曜日付け信濃毎日新聞「シカ被害早急に対策 「白馬岳」「上高地〜乗鞍岳」重点地域に」)
http://www.shinmai.co.jp/news/20120224/KT120223FTI090024000.html

 いままで生息していない、と言われていた青森県でも:

『ニホンジカは現在青森県内には生息しないと考えられているが、ここ数年青森県内ではニホンジカらしきシカが目撃されていた。本研究では、青森県内でシカの目撃情報を収集した。
 その結果、県内では少数であるがシカが目撃され、目撃数は昨年から増加していることが明らかになった。また、目撃地点は青森県の太平洋側全域にわたっていた…』

(北里大学獣医学部生物環境科学科野生動物学研究室 岡田あゆみ、宮澤直樹、進藤順治 「青森県におけるシカの出没について」 『日本鹿研究』創刊号(2010年3月)所収)
http://nihon-shika.info/kenkyu_1.pdf

 この冊子は面白いです。鹿に関する話題が凝縮して詰めこまれています。
 これは全日本鹿協会から刊行されているのですが、会長 丹治藤冶さんの言葉を聴いてみましょう:

今後とも農林水産省、経済産業省をはじめとする諸関係団体のご指導を仰ぎながら「野生鹿による被害防止活動の経験や蓄積技術資料の開示」「鹿産物の有効利用」等での啓蒙活動を積極的に行ない、地域活性化促進に寄与したいと思います。
 特に、平成21年度は、経済産業省所管の鹿皮革産業振興対策事業による野生日本鹿皮素材の開発と新製品開発の結実に向けて努力する所存です


 リンク先には養鹿施設もあるのですが、山形市のお話しが3月14日の河北新報朝刊に:

友好都市の中国・吉林市から山形市に贈られた鹿(当初4頭)が、上山市の山あいにある飼育場に収容され、20頭に増えた現在も個人の手で飼育されていることが分かった。山形市内で市民に公開していた時期もあったが、繁殖しすぎて市が管理に困り、農家の男性(82)に飼育を委託した。市は殺処分を検討した上で昨年、去勢手術を施すなどしたが、市議会への説明はなく一部から疑問の声が出ている…。
【山形市と吉林市】 1983年に友好都市を締結した。梅花鹿は寿命が12〜20年。角が漢方薬として珍重され、食用にもなる。両市の間では、山形市が建設費3500万円を負担して吉林市内に完成した山形/吉林友好会館が、山形側に無断でホテルに改装される問題が先ごろ発覚。山形側が反発し、今後、吉林市の幹部が来日して対応を協議する

2012年3月13日火曜日「増え過ぎ、飼い主転々、去勢手術…「友好の鹿」寂しい余生」
2012年3月14日水曜日「日中友好の鹿」 農家の男性、餌代など1300万円自己負担

 しかし、いろんなことがあるもんです。いっそ天敵のオオカミを導入するか、と。カッシーちゃん、ハイエナじゃなく、"ウルフ"、ですからね:

『シカなどの食害対策として絶滅したオオカミを再導入する是非について、阿部守一知事は先月の2月27日、2月定例会の一般質問で「県ではオオカミを自然に放って、ニホンジカの頭数をコントロールすることは困難」と答弁し、否定的な考えを示した。
 無所属改革クラブの永井一雄県議が「オオカミを再び自然に放つことで生態系を修復し、シカの増殖を抑制することを検討してみてはどうか」と質問。ドイツや米国などが実際にオオカミを導入していることに知事は「オオカミの一つの群れが、生息に必要な面積は県の10分の1に当たる広さ。現実として難しい」と答えた。
 ニホンジカは現在、県推定で10万5000頭おり、南アルプスなどの高山植物など食害被害が拡大している。県は5年後に3万5000頭に減らす計画を進めるが、ハンターの人数の減少などで達成が難しくなっている』

(2012年2月28日付け毎日新聞地方版 仲村隆 署名記事「シカ食害:阿部知事「オオカミ導入困難」/長野」)

『「天敵」の復活を主張する声もある。研究者らでつくる日本オオカミ協会(会長=丸山直樹・東京農工大名誉教授)は「シカの増え過ぎから生態系を守るには捕食者の復活が必要」と、国内で絶滅したオオカミの再導入を唱えている。
 想定するのはユーラシア大陸のハイイロオオカミで、ニホンオオカミと同種という。
 ただ、オオカミが家畜を襲う危険などの懸念から抵抗感を示す人も多く、今のところ、国なども導入に否定的な見解だ。
 現状ではシカの勢いを止める決め手はない。山林を利用してきた人間社会に、野生鳥獣との共存に向けた知恵が求められている』

(2011年11月30日付け毎日新聞地方版 武田博仁、渡辺諒 署名記事「急増・シカ害、増加に捕獲追いつかず/長野」)

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2012年03月13日

コニカ

 2004(平成16)年4月1日、平成の大合併のピーク期あたりに、伊豆半島中北部の4町、田方郡修善寺町、土肥町、天城湯ヶ島町、中伊豆町が合併し「伊豆市」が発足したのだそうです。その翌年、2005(平成17)年、今度は伊豆長岡町、大仁町、韮山町が合併して「伊豆の国市」になったんだそうです。紛らわしいですよね。

 今日のお話しは、と申しますとさらにその翌年、2006(平成18)年のことなんですが、その前に、地理の問題です。

 3.11の山歩クラブの今年度の歩き納めの山に向かう途中、トイレ休憩に立ち寄ったのが『だるま山高原レストハウス』。この住所は、というと、質問です、どこでしょうか?
 伊豆市なんですねえ。
 伊豆市大沢1018-10 Tel 0558-72-0595

『鹿肉料理を始めました。伊豆天城でとれる野生の鹿を食用に適した特別な処理法で臭みをとり、柔らかさを保ったまま調理しました。お客様より大変好評を頂いております。「富士山」を眺めながら是非お召し上がり下さい!』
http://www.city.izu.shizuoka.jp/form1.php?pid=2311
 
 ほら、ね。伊豆市の公式サイトにあるんですよ。
 鹿肉はもっともっと食されて良い食材と思います。食べに行きましょう!

長野県では、農作物のシカによる食害に悩まされていることから、生息密度をコントロールするために、毎年一定量の捕獲を行っている。しかし捕獲されたシカが食肉として利用されることは少ない。例えば2006年に長野県で捕獲されたニホンジカ約9,200頭のうち、食肉となったのは820頭で僅か9%に過ぎない。大半はハンターに自家消費されたり、山中に埋設されたりしている。そうした中、捕獲したシカを「モミジ鍋」ばかりではなくジビエとして消費を拡大し、地域振興につなげようという動きも出始めている。長野県大鹿村などでの取り組みが代表例としてあげられるが、近年は全国各地の自治体も取り組み始めている
(ウイキからの引用です、ヤッホー君のこのブログ、2011年2月7日付け日記『大鹿村』、7月19日付け日記『大鹿村騒動記』ご参照)。

 ところで、≪「富士山」を眺めながら≫ってありますが、なにか深いわけでもあるのかな、と思うと、実は:

 1938(昭和13)年、ニューヨーク万国博覧会に日本の代表的な富士山の出品計画が決定され、指名をうけた小林禎信技師(六桜社、現在コニカ)は、上州・信州・甲州など富士山の周りを巡り、撮影に適した場所を探し歩きましたが、見あたりませんでした。その年の秋 修善寺を訪れ、作家、吉田絃二郎が絶賛した展望台に案内したところ、『ここは最高だ!日本一の富士山の撮影地はここ以外になし』と、行き着いたがこの達磨山でした。そして縦約8.2m×横約32.7mの巨大な作品を、翌1939(昭和14)年のニューヨーク万国博覧会に出品し、大絶賛を博したとのことです。これを記念し、1977(昭和52)年4月には石碑が設置されています。

 へえ〜、でも、この「コニカ」もいま、消えていました(ヤッホー君のこのブログ、2011年8月9日付け日記『ペンタックス』参照)。

小西本店は1882(明治15)年に写真暗函(カメラ)、写真台紙、石版器材の国産化に着手した。この頃カメラのユーザーはほとんどが写真館などを経営するプロであったが、やがて、現在のフィルムにあたる乾板の輸入が始まったことによってアマチュアカメラマンが増え始め、写真市場は拡大していった。この機をみて6代目、杉浦六右衞門は1902(明治35)年、現在の新宿区にあった淀橋町に工場・六桜社を建設、乾板をはじめとする感光材料の国産化を開始した。そして翌年、国産で初めての普及型カメラ「チェリー手提用暗函」を発売、2円30銭という当時としては破格の安さでカメラ市場を席巻し、カメラの大衆化に一気に拍車をかけた
(野村IRマガジン 2000年11〜12月号 Vol.46 写真史に刻まれたカメラ大衆化への足跡、コニカ株式会社創始者 杉浦六三郎)
http://www.net-ir.ne.jp/ir_magazine/pioneer/vol046_4902.html

カメラ事業においては、お客様が保有するαレンズを継続して活用いただくため、また一眼レフの開発などで培ってきた光学技術・メカトロ技術を今後とも活かし続けるために、CCDやCMOSなどのイメージセンサーに強みを持ち、昨年の7月にデジタル一眼レフの共同開発で提携したソニー株式会社(以下 ソニー)へ、カメラ事業に係わる資産を譲渡していくことが最適との結論に至り、ソニーと協議をしてまいりました。
 その結果、2006年3月末にデジタル一眼レフカメラシステムの一部資産をソニーへ譲渡することなどで、本日ソニーと合意に達しました。
 それに伴い、コニカミノルタグループにおける、フィルムカメラやデジタルカメラなどのカメラ事業については2006年3月31日をもって終了することと致しました

http://www.konicaminolta.jp/about/release/2006/0119_04_01.html

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2012年03月12日

11日で1年

 3.11…

福島県郡山市の開成山野球場で3月11日、「原発いらない! 3.11福島県民大集会」が開かれた。県内外から約1万6千人が集まり、参加したノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが「あと1度2度、原発事故が起きれば、将来の人間に対して人間らしい生活を奪うことになる」と訴えた。
 集会は震災1年に合わせて福島大の清水修二副学長や、同県三春町在住の作家玄侑宗久さんら11人が呼び掛けた。玄侑さんは欠席したが、歌手の加藤登紀子さんらが駆け付けた

(2012年3月12日月曜日付け河北新報 福島のニュース 「脱原発目指し 1万6000人が郡山で集会」

 この後、加藤登紀子さんは東京へ:

さて、その後は、新幹線で東京に帰り、日比谷公園で開かれた「Peace On Earth」に飛び込んだ。
 この日アジアンカンフーの後藤正文君といっしょに反原発の想いを語った坂本龍一さん、黙祷をリードしたC・W・ニコルさん、自然エネルギー政策を提言している飯田哲也さん、そしてグリーンアクティブの中沢新一さんなど、大変な顔ぶれがラインナップ。
 その後で、30分くらいの私のライブもあった。
 途中、鎌田實さんに詩の朗読をして頂き、深いメッセージが出来たと思う。
 もちろん最後は「パワー・トゥー・ザ・ピープル」の大合唱。
 集まってくれた人たちの熱気あるまっすぐな表情、脱原発の想いを持って結集したアーティストたちとの出逢いは、うれしいものでした

(加藤登紀子「東日本大震災から一年目の3月11日」)
http://www.tokiko.com/index_tokikonow.html

 この日比谷公園で開かれた「Peace On Earth(東日本大震災市民の集い」)には4万人余、さらに、井の頭公園で開催された「震災復興・なくせ原発 3.11 行動 in 東京」には、8000人余の参加者で、「原発とめるは人の力!」の掛け声に「その通り!」の唱和が響きわたったということです。

 山歩クラブの達磨山への今年度最後の月例山行の帰路、3月11日日曜日のバスのなかで、仲間より仙台のお友達からこんなメールが来てるよ、と感動的なメッセージを朗読していただき、全員、こころの底からその声に聞き入っておりました:

今、仙台市の区役所に用意されたところに献花に行ってきたところです。
 数日前にボランティアで、亘理町の「荒浜」、七ヶ浜町の「菖蒲田海岸」、名取市の「ゆりあげビーチ」を廻りました。
 確かに瓦礫は寄せられ整理されたのですが、只荒涼として一層寂しいです。

 今日の河北新報には宮城県の死亡者判明分の名前が6ページに渡って埋めつくされています。
 
身近な人の一人も名を連ねることがなかったことにあらためて心の中でほっとしました。
 それにつけても自分に出来ることでボランティア参加をしていこうと思っています。

 今も毎日一回は揺れています。今を生きるということでしょうか。
 何時も本当にありがとうございます


 その河北新報が3月11日日曜日に報じるところによりますと:

警察庁の3月10日現在のまとめでは、死者は12都道県で1万5854人、不明者は6県で3155人で、死者・不明者は計1万9009人となっている。
 東北3県の死者は宮城9512人、岩手4671人、福島1605人。不明者は宮城1688人、岩手1249人、福島214人


 そして3月12日月曜日、ペナン(マレーシア)から、はっちゃんのメッセージも届いているのを見つけました:
It is very sad to think about the victims of 3 11. It must be very painful for those who have lost their love ones

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2012年03月11日

伊豆・達磨山

 皆さま、とても有意義な3.11をお過ごしになったことと存じます。
 さて山歩クラブの3月山行は昨年、震災の直後で急遽、キャンセルを余儀なくされた伊豆は達磨山982mを、2011年度の納めのお山歩会として歩いてきたわけですが、言葉に表せない感動を味わってきましたので、ここに五点盛りでご報告します:

(1) お天気: 山の霧、みぞれ、雪、雲の合い間からの駿河湾、海老のしっぽ(写真)

海老のしっぽ.jpg

… ね、木々に着雪したあと、風の向きでこんなふうに雪が替わる光景って、多分、一生に一度会えるか、でしょう。
 下山の帰路には、もう消えていました。はかない夢のような一瞬の景色…

(2) 仲間: 本日、お二人も山のベテランさんが新しく仲間に加わっていただきました!

(3) 打ち上げ会: 年度の締めの打ちあげ会を高足ガニで有名な飯どころ、「かにや・へだ本店」(沼津市戸田354-4、Tel 0558-94-2235)で催しました。
 質、量ともに大満足、大好評、大満腹でした。
 やっと顔を覗かせた春の午後のお天道様に、穏やかな海がきらきらと答えている、穏やかな駿河湾を後にするのがとても惜しまれるような、そんな西伊豆でございました。

(4) 山: 達磨山は天城山の万次郎、万三郎の長男にあたる万太郎であったことを知りました。

(5) 金冠山: 頂上で1時15分、カッシーの音頭で黙祷しました。
 昨年3.11の犠牲者、被災者、避難民の方々と連帯の気持ちを厳かに表してきました。
 ザンネンながら冨士山は厚い雲のなかでしたが、きっと山歩クラブの熱い気持ちは、日本一の冨士山にも、東北の地にも、明日にもつながったことと思います。

 以上、晴れだったらどんなにすごい景色だったのだろうか、と思わせるに十分な山行でした。
 申し分なし、帰りのバスのなかも笑い転げながら、皆んなで新年度に向けて、今年度の無事故、安全・安心山行への感謝の気持ちを分け合ってきました。
 新しい年度も、皆んなで仲間意識を高め、強め、伸ばし、こころひとつにして、もっと良い山歩クラブにしていくのだ、と気持ちを同じくさせて、それぞれの帰路についたのでした。

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2012年03月10日

われらとわれらの子孫のため

Up until the Fukushima nuclear breakdown I was willing to consider nuclear as one of the options to provide power so long as it received no subsidies. However all my confidence in the nuclear industry evaporated after Fukushima, not just because of the explosion but also because of the Nuclear Industry PR machine that went into overdrive within days of the tsunami.
Long before we knew details about what had happened and long before the ongoing breakdown had run its course they were claiming that the event was small and proved the safety of nuclear power. They were wrong with the former claim and wrong with the second claim and it was far too soon to know anyway.
As a result I believe nothing the nuclear industry say, I now have no confidence in them at all. I wouldn't trust them to safely organise a vicars tea party.


 あるイギリス人の読者がガーディアン紙の3月7日(水)付けの記事を読んで寄せたコメントです。どんな記事かって、こんな記事↓:

http://www.guardian.co.uk/environment/2012/mar/07/uk-nuclear-risk-flooding/print

 3月10日の東京大空襲から67年目といっても、世界の各地でいまだに戦争や殺戮や暴力が起こっています。3月11日のジコから1年となるのにこれを教訓として、脱原発とせずに、検証した結果を世界の各地と共有することなく、再稼動だ、新規増設だ、海外に輸出だ、と動いているのが、アタマの悪いヤッホー君には理解不能、分からないのです。まずは「政府の判断」で、その後「地元の同意」? ですって…
 
 政府って、政治家のこと? 霞ヶ関の官僚のこと? この動きに異を唱えているのは日本共産党くらい?

 でもキョウサントウは、国民の支持を得ていません。支持率も低いまんま。

中小政党の支持率はほぼ横ばい。みんなの党6%、公明党5%、共産党2%、たちあがれ日本1%などとなった
(毎日新聞世論調査 「維新に期待」61% 石原新党、伸びず38%)
毎日新聞 2012年3月5日 東京朝刊

政党支持率は、自民党が12.3%(前月比1.0ポイント減)、民主党が10.1%(同1.5ポイント減)。次期衆院選の比例代表投票先も、自民党(23.5%)が民主党(13.3%)を上回った。他の政党の支持率は、公明党3.4%、みんなの党1.7%、共産党1.6%、社民党0.5%、国民新党0.2%、たちあがれ日本0.2%。
 一方、「支持政党なし」は68.2%(同1.2ポイント増)と、1960年の調査開始以来最も高い数字となり、既成政党に対する不信の強さを裏付けた
』 
(時事通信 2月16日(木)15時4分配信 7割弱が無党派層)

 議員数は数えるくらいしかいないんでしょう? 政治の舞台、政府のなかで影響力を行使できない事実があります。そりゃあ、キョウサントウは「原則」通り、「あのときわが党はこう主張していたから」とまるまるに太った腹をつきだし、脂ぎった額の汗をぬぐったり、さもムカシから秀才で通っていたことの証しみたいに、笑顔を絶やさず、弁舌豊かにおしゃべりしたって、誰もついていかないではないですか? なんとかならないんでしょうかね。がんばりましょう!
 一方、橋の下にいるホームレスどころか弁護士先生様の資格までもつ人の周りにはマスゴミが吹き溜まりみたいに寄ってたかって、資源ゴミ紙を毎日飾っています。
 なんなんですかね、この対比。
 この国に暮らしている普通の人のお財布の中身とか、雨が降っても、今朝のように雪が降っても、勤務先に通う、額に汗流して働いているサラリーマンの心模様とか、勤務先に通う代わりに自宅の仕事場で黙々と機械を動かす職人さんの意気とか、今日は採用試験が多かったんですよ、大手町あたり、その受験生が会社員になれない氷河期だって、その若い人の考えは? とか、どこに変革、改革、革命の志が行ってしまったのでしょうか、ね。あるのは、長いものに巻かれろ式みたいな、アメリカ式カウボーイ型金融資本主義、市場主義に任せたとったらいいんだよ、式みたいな、気がついたらおコメまで外米だっりするような、そんな、アホやねぇ〜まったく、もう〜

 われわれの憲法の前文を再読してみません?家族揃って…

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ


 われらとわれらの子孫のために国家の名誉のために信じ、誓う主体は、誰なのってことですよね、霞ヶ関でもなく、国会議事堂でもなく、機動隊に守られているトウデン本店でもなく、テレビで好き勝手なことをしゃべっていたトウダイの学者でもなく、common public perception でしょって、ね、頑張りましょうね!

If the nuclear-power industry is to have a future, one thing is clear: It will have to rely less on an engineer's view of acceptable risk, and more on the common public perception that a meltdown that threatens to contaminate tens of millions of people cannot be tolerated.
…Shawn McCarthy is The Globe and Mail's global energy reporter.
(FUKUSHIMA A YEAR AFTER, Japan's 2011 nuclear calamity was preventable. But today's standards wouldn't stop it, From Saturday's Globe and Mail, Last updated Friday, Mar.09,2012 11:47PM EST)
http://www.theglobeandmail.com/news/world/japans-2011-nuclear-calamity-was-preventable/

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2012年03月09日

生島淳

 今朝、のことです。3月9日金曜日午前4時台におしっこに起きてなんとなくつけたNHKラジオ。しばし聞き入っておりました。

オリンピック、メジャーリーグ、駅伝、ラグビーなど、さまざまなスポーツの取材や執筆、テレビやラジオのコメンテーターとして活躍する生島淳さん。社会人になってから遠のいていた故郷・気仙沼に久しぶりに足を踏み入れたのは、東日本大震災から2か月あまりが過ぎた5月下旬のことでした。津波にのまれ、行方不明になった姉の足跡をたどるための帰郷でした。
 故郷の変わり果てた姿を見た生島さんは、ジャーナリストとして取材を始めました。海とともに生きてきた気仙沼の歴史、この地で暮らしてきた人々の日常、そして、同級生や家族のたどってきた震災前と震災後の日々。それは、ふるさとを知る新たな旅でもありました。
 生島さんに、ふるさと気仙沼を訪れて感じたことなどをお話しいただきます

(ラジオ深夜便 明日へのことば 震災復興インタビュー 「ふるさと気仙沼再訪」 ゲスト生島淳(じゅん)
さん(スポーツジャーナリスト)
http://www.nhk.or.jp/r1-blog/600/

 テレビのない生活に突入しているヤッホー君には、世間の流行り廃りにまるで疎くなってしまっており、大変、失礼でしたが、生島淳さんって名前もはじめてお聞きしました。

 この方は、1967年宮城県気仙沼市(港町地区)出身。早稲田大学卒業。広告代理店勤務を経て、1999年にスポーツジャーナリストとして独立しているのだそうです。そうですかあ。

 『気仙沼に消えた姉を追って』という本を昨年2011年11月、文藝春秋から出版したばかりです。
 ラジオでは、概ねそのお姉さまにまつわるお話しが中心だったのでしょうか…

 「担当編集者から一言」というのがありますので、まずこれをご紹介:

気仙沼出身のジャーナリスト、生島淳さんは、3月11日の大震災で、姉を失った。震災のあと気仙沼を襲ったあの大津波で。現実を受け止め、ふるさとに帰るまでには時間がかかった。ようやく足が向いたのは5月。生島さんは姉の足跡を尋ねながら、地元の友人、恩師との再会を果たす。文筆家として「何かを残したい」 その思いを強くし始まった、生存者への取材。本書は、災害をなんとかくぐりぬけ、前を向き始めた人びとの3つの物語と、気仙沼に生き、そして誰もいなくなった生島家の話で構成される、類なきルポルタージュ

 そして、本人自身で、自著を語っていますので、これもご紹介

『気仙沼には14歳も年が離れた姉が住んでいました。実はあの日、姉は上京する予定になっていたのです。15時41分、気仙沼駅発の汽車に乗って。

 大きな揺れが収まった後、姉は律儀にも娘、息子、そして私を含めた兄弟に「今日は東京に行けません。でも、明日には行きますから」と電話をかけてきました。しかし津波が押し寄せたと思われる時間から、姉は行方知れずになってしまいました。そればかりか、納骨を待っていた母の遺骨もどこかに流されてしまったのです。

 そこから姉の行方を探す旅が始まりました。しかしその旅は、意外な方向に舵を切っていくことになります。姉の消息を尋ねていった結果、それは自分が18歳まで育った気仙沼を知る旅へと性格を変え、果ては将来の気仙沼を考えることにつながっていきました…。

 そしてまた本を書く過程は、自分のルーツを知る旅でもありました。晩年の一時期、ひとり暮らしをしていた母は、気仙沼の人に支えられながら生きていたのだとわかり、頭の下がる思いがしました。

 母は気仙沼の「ソーシャルネットワーク」の力に支えられていたのです。気仙沼では、インターネットでつながる必要はなく、顔と顔を突き合わせ、話すことがいまもコミュニケーションの基本です。アポイントもなく、知り合いの家を訪ねていくのは不自然なことではないのです。

 取材では初対面の人でも、例外なく共通の友人、知人がいました。町を歩けばすぐに声をかけられるので、取材に同行した編集者やラジオのスタッフが驚いていたほどです。きっと、この力が復興の原動力になるのではないかと、そんな予感がします…』

(2011年12月9日 12:00投稿『本の話』2011年12月号掲載)
http://hon.bunshun.jp/articles/-/436

 生島さんのブログに「眼鏡堂通信」というのがありました。と過去形で言いますのは、いまは、ツイッターに移行されており、ブログのほうは更新されていないからです。
 そのブログで、昨年、あの月、3月のことですが、2011年3月31日22:27投稿記事 「明日からリセット(Day 21)」のなかでこんなことを記されていますので、引用しますね:

私はと言えば、震災後一週間はテレビとPCの前から離れることが出来ませんでした。
 精神的に不安定で、ひどい状態でした。
 特に第一報で入ってきた空撮による気仙沼の火災の映像は、二度と見たくありません。
 連絡を取り合えるのは、中学校の同級生だけでした。

 いま、通常営業に復帰できたのは、友人と話す機会が普段にもまして増えたからだと思います。お茶をしたり、酒を飲んだりして話すことが、気持ちを落ち着けることにどれだけ役に立ったことか。あと、芝居と「空耳アワード」も効果がありました。サイモン&ガーファンクルが「坊さんの乱闘」って歌ってたなんて…。笑うことって、大切ですね。

 明日から新年度。
 私は大学1年の時から、4月始まりの手帳を使っているので、明日からリセットです

http://blog.livedoor.jp/j_ikushima/archives/55460764.html

 そして生島さんの先輩、佐々木典男さんのブログ『傍見楼日乗』も紹介しないといけません。
 今年、2012年3月3日の記事です… だってあの日、あんなことが…

『先週末降った雪が溶けかけたと思ったら、昨夜はまた雪。夕方から宮古で高校の同級生たちとの飲み会があり10人が集まった。
 もうすぐ災害から1周年を迎える。あの大津波の数日後、被災地に雪が降った。郷里の情報を求めて、東京の自宅でひたすらテレビのニュース画像に見いっていた私に雪に覆われた被災地の光景はすごくつらいものに映ったのだが、昨日、クラス会で会った友人の一人から意外な言葉を聞いた。
「あの雪で少し救われた」というのだ。雪が破壊された町を覆い隠し、とりあえずそこに美しく穏やかな郷里の自然があったからなのだそうだ。
「瓦礫を見なくていい。つかの間だけど、それは救いだったなあ」
 別な友人からは、電気がすべて消えていたあの頃、星空はかつて見たことがないほど美しかったという話を聞いた.
 おお。ものごとにはつねに多様な視点があり得るという「当たり前」の、なんと新鮮な断面!』

http://blog.livedoor.jp/nor_sasaki/

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2012年03月08日

秋尾沙戸子

 秋尾沙戸子さん(1957年-)、以前、あれは2月3日節分か2月4日立春のころでしたね、そのときに紹介し、「ワシントンハイツ」のあった代々木公園までお散歩に行ったヤッホー君、あれからもう1ヶ月は経つのですね、今日3月8日木曜日、また、『ワシントンハイツ』をとりだしています。

 いえ、ね、前回(2011年11月19日付け日記「雨の外延」)は「乃木坂」駅で降りて「乃木神社」のほうの出口に出て「いちょう並木」を目指したのでしたが、次回は逆に青山霊園のほうに歩いてみようかな、と。

神棚の榊は青山墓地下にある疋田花店で買うことにしている。ここのは立派で簡単に枯れないからだ。
 店頭では、「神棚ですか?お墓ですか?」と訊かれる。そうか。青山墓地だもの。神道だと、お墓に榊を供えるわけだ。

 青山墓地は、檀家制度を廃止した明治政府が、神道のために設けた墓地である。だから、明治のお役人のお墓が多い。中には、鳥居を設けているところもある。

 「ワシントンハイツ:GHQが東京に刻んだ戦後」第16章で、このことに少し触れている。お手元にある方は、確かめてくださいね

(2012年3月5日付けブログ「榊は青山墓地下で」)
http://www.akiosatoko.com/blog/?p=2556

 もうお読みになったこととは思いますが、ぜひもう一度、確かめてみてくださいね。

 この第16章もすごいのです:

『青山霊園側の改札をくぐり、地上へ続く階段を上ると、突然けたたましいプロペラの音が頭上を過ぎていく。見上げれば、そこには銀色のヘリコプター。六本木トンネルを右寄りに舞い降りていった…戦時中、焼夷弾を落としたときも現在も、米軍はいつでも「空からの目線」で日本を見下ろしている…』
 
 ぜひ、文庫版でけっこうですので続きをお読み下さい。これをまあ、確かめに歩こうか、と。

 3.10というのがありましたよね。そのときの焼夷弾…これもすごいのです。これは『ワシントンハイツ:GHQが東京に刻んだ戦後』第2章「ある建築家の功罪と苦悩」から:

『超党派のキリスト教系大学を日本に設立することが決定…資金集めに奔走したのは、宣教師として日本に来ていたプレスビエリアン派のオーガスト・ライシャワー博士、後に駐日アメリカ大使となるエドウイン・ライシャワーの父親だった。
 博士は建築をレーモンドに、初代学長の座をキリスト教の一派で絶対平和を唱えるクエーカー教徒の新渡戸稲造に依頼した…』


 その大学って秋尾さんの母校ですよね。そしてレーモンドは、工事がはじまるとアメリカに帰ります。が、なんと今度は:

『国家総動員法以来、日本の情報がほとんど途絶えていたアメリカ政府にとって、日本家屋の構造を知り尽くしていたレーモンドの価値は高かった。彼の指示のもと、そこに1943年3月から足かけ3ヶ月で、日本の建物が造られた。砂漠の中ににわかに木造の住宅群が現れた。それは焼夷弾の投下実験のためだった』

 ところで「オキュパイ運動」(ヤッホー君のブログ、昨年2011年10月29日付け日記「We are the 99%!」ご参照)じゃなく、「オキュパイド・ジャパン」って今でも都内にも:

都内には、現在8つの米軍基地があり、総面積は約1,603ヘクタール、味の素スタジアム約370個分の広さになります。全国には計134ヶ所の米軍基地があり、総面積は約102,823ヘクタール(平成22年1月1日現在)です。
 赤坂プレスセンター Akasaka Press Center はその一つ。旧日本陸軍駐屯地。都立青山公園に隣接しています。現在は、ヘリポート、星条旗新聞社、独身将校宿舎、ガレージとして使用されています

(都内の米軍基地)
http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/kiti/tonai/tonokiti.htm
 
 ところで秋尾さんはモウあれから67年となる3月10日の東京大空襲でなく、3.11のときどうしていたのかな:

地震が起きたとき、めずらしく家にいた。扉を開け、玄関でしゃがみこんで、揺れが収まるのを待った。
 昨日は秩父、その前は新潟に行っていたので、タイミングがずれていたら、電車が止まって、立ち往生したのではないだろうか。秩父市役所は倒壊したと告げられている。

 こういうときは、勤め人のほうが大変らしい。姪も義妹も自宅で無事だったが、弟は帰宅困難者として、会社にとどまるという。テレビでは、築地本願寺や学校が滞在場所として開放すると伝えている。母校の都立新宿高校もその対象らしい。数年前、冷暖房完備の新校舎に建て替わったが、こういう形で都民の役に立てれば、都税も無駄ではなかったということになる。

 夕方まで、地域によっては、電話が通じなかった。こうしてネットがつながるのが救いだ。ダウンを着たまま、PCに向かっている。毛皮も必要かもしれない。笛も懐中電灯も。コンタクトと眼鏡は傍に置かねばならない。阪神大震災のとき、私は関西テレビで自分の番組を持っていたが、被災したスタッフが教えてくれた。近視の人間には、眼鏡を枕元に置くことがいかに大切か。

 夜になって、コンビニに出向いた。水も米もあるが、非常食がない。パンとおにぎりは売り切れ。カップ麺は残っていた。道路は車がすずなりに。若者たちは三々五々、グループになって歩いて帰宅している。このあたりがどの方向にも渋滞することは少ない。花火大会の後を思わせる不思議な賑わいだった。

 テレビを見ていると、津波の怖さを思い知らされる。被災された方々に心からお見舞い申し上げます

(2011年3月11日付けブログ「東京で揺れを感じて」)
http://www.akiosatoko.com/blog/?m=201103

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2012年03月07日

星空プロジェクト

 ヤッホー君のこのブログ、昨年2011年6月30日の日記で「JICA二本松」を紹介しています。
 山歩クラブで安達太良山に登った折りの記録になります。
 ここは3.11後、大変だったのでした:

『福島県から受け入れ要請があった際は、324人まで受け入れ可能だと伝えたのですが、実際の避難者は最大で100人ぐらいだろうと思っていたので、二本松市内のほかの避難所と差がつかないよう、講堂から使ってもらうようにしました。
 当時、市内には21ヵ所の避難所がありましたが、JICA二本松以外はすべて、体育館などの本来は宿泊施設ではないスペースだったからです。
 3月14日の夕方に最初のご家族が到着したのですが、その後、15日の朝にかけて一挙に避難者の数が増え、最大で453人まで受け入れました。
 受け入れ能力をはるかに超える数ですが、ガソリンの残量がぎりぎりのところで、ようやくたどり着いた方もいて、受け入れを断ることはできませんでした。
 講堂がいっぱいになった後は、乳児や高齢者のいる家族を優先して個室への移動希望を伺い、調整しました…』

(斉藤祐巳・前JICA二本松青年海外協力隊訓練所長に聞く「国際協力の経験を生かして被災者を支援」)
http://www.jica.go.jp/story/interview/interview_101.html

 3.11からもう一年。こんなニュースが飛び込んできて、3月7日水曜日の朝、ヤッホー君の目が点になっていました。

二本松市に暮らし、国際機関の講師として働いていた男性(38歳)。震災後、職場が避難所となったため職を失い、勤務先から提供されていた住居からの退去も迫られた。さらに、目に見えない放射能への不安も募った。
 兵庫に移り住んで半年が過ぎた昨年11月。尾崎裕子さん(36)は、長女の理彩さん(7)と帰宅して、夫の遺体を見つけた。取り乱す裕子さんに、理彩さんが泣きながらすがりついた。「早く病院に連れて行ってあげて」
 男性は、兵庫で職を見つけて転居したが、狂った歯車は元に戻らない。「眠れない」とこぼし、表情に疲れがにじんだ。優しかった男性が娘を怒鳴りつけ、後で自己嫌悪に陥っていたこともあった。
 男性が精神科医のカウンセリングを受け、薬の処方を受けていることが、秋になって初めて分かった。「真面目な人だから家族を守りたい、心配はかけられない、と思っていたんだと思う」
 理彩さんは葬儀後、悲しみを表に出さなかったが、浴室で隠れて泣いていた。働き始めた裕子さんの帰宅時には、駅まで迎えに行く。「お母さんは私が守るから」。母と娘で遊びに行った場面の絵には、今も必ず「家族3人」の姿を描く。
 震災から1年。次々と降りかかる災いを顧みる余裕もなく走った。ふと立ち止まり、夫の死が震災を原因とした「関連死」に当てはまるのでは、との思いが膨らむ。
 「なぜ夫が隣にいないのか、と寂しさが噴き出す瞬間がある。あの原発事故さえなければ、元のまま暮らせていたんです」。それまでこらえていた涙がこぼれ落ちた。=文中仮名

(2012/3/7 10:17 神戸新聞News 「現状に打ち勝てない」 福島から避難後、夫自殺)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004865188.shtml

 …「震災関連死」ですかぁ、とヤッホー君から溜め息がもれてきます:

仙台市は3月6日、東日本大震災や避難生活などが引き金で病気が悪化するなどして死亡した「災害関連死」が143人に上ると発表した。同市が災害関連死の認定数を発表したのは初めて。6日現在、約60人分が審査中で、今後認定数が増える可能性がある。
 同市には、これまでに215件の申請があり、このうち143件が災害関連死に認定された。市によると、電気やガスなどのライフラインが止まったため、寒さで低体温に陥り、肺炎を起こしたり、病院の医療器具が停止して入院患者が亡くなったりした事例があるという。
 災害関連死に認定されると、災害弔慰金の支給対象となる。同市では、医師や弁護士ら5人で構成する判定委員会が審査している。災害弔慰金は、生計を担っていた人が500万円、それ以外は250万円が遺族に支給される

(2012年3月7日付け朝日新聞デジタルマイタウン宮城)
http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001203070001

 その仙台市では、こんなプロジェクトも市民側から企画されています:

明かりのなかったあの日のことを思い出し、大切な人と話をしよう−。仙台の市民が中心となって、「3.11星空プロジェクト」と名付けた運動を企画している。東日本大震災からちょうど1年になる11日の夜、電気を使わないで家族だんらんの時間を持とうと呼び掛けている。
 プロジェクトでは、震災発生時刻の午後2時46分から6時間後の午後8時46分に各家庭で電気を消して、ろうそくなどの光の下で語り合う時間を設けようと提唱している。犠牲者への鎮魂の思いを共有し、震災のことを忘れずに将来に伝える機会にしようと企画した。
 関連情報は、3.11星空プロジェクトのホームページで

(2012年3月7日水曜日 河北新報 「電気消して家族で過ごそう 震災1年、星空プロジェクト」)

 その星空プロジェクトのホームページとは下↓を参照:
http://311hoshizora.jp 

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2012年03月06日

あの3.11から1年

あの3.11から1年、東日本大震災と福島第一原発事故により犠牲になられた方がたへの追悼及び脱原発への誓いを胸に、デモ行進と、国会議事堂を包囲する「人間の鎖」アクションを行ないます
http://coalitionagainstnukes.jp/

 もう間もなく3.11からちょうど1年目と言う日を迎えますね。
 昨年は金曜日、今年は日曜日!
 どんな企画をしているのかな−、本当にいろいろ、さまざまな企画があります。
 この人びとの動きが、あんな変な、おかしい、おそろしい原発を即ストップさせる大きな力になるよう、ヤッホー君はこころの底から願っています!
 あんな悪いことをしても警察権力は調べに入らず、トウデンという会社も倒産もせず、買収もされず、逆に電力料金の値上げを一方的に通知してくるという、ゼッタイ赤字にならない、まことに変な、おかしい、おそろしい会社です。

3月5日、「東京電力」の個人株主ら42人が、福島第一原発の事故によって会社に巨額の損害を与えたとして、東京電力の事故当時の役員や歴代経営者ら27人に対し、約5兆5000億円の損害賠償を求める株主代表訴訟を東京地裁に起こした。
 この日、同じ東電がらみのニュースが庶民を憤慨させた。
 広範囲に放射性物質を撒き散らす福島第一原発の事故を起こした東電。にもかかわらず、いまだに一人の逮捕者も出ていない東電。その東電が、7月にも実施しようとしている家庭用電気料金の値上げ申請の幅が、10%程度であることが報じられたからだ

(日本ジャーナリスト会議会員 小鷲順造 3月6日 「東電家庭向け約10%値上げ申請と、野田発言「誰の責任より痛みを共有」)
http://jcj-daily.seesaa.net/article/255989585.html

 こんな原発事故、そしてトウデン、もういやだ、と人びとは集まろうとしています。

 そんな情報はぜひ次↓をクリックしてみてください。ほんの一部だと思います:

http://www47.atwiki.jp/demomatome/
http://sayonara-nukes.org/2012/02/0311action_k/#more-1613
 
 日本だけではありません。
 フランスはパリでも:

Retrouvons-nous le samedi 10 mars 2012, à 15h
Lieu de rendez-vous: ambassade du Japon, 7 Avenue Hoche 75008 Paris

L’enfer de Fukushima n’est pas le fruit du hasard. Il est le résultat de choix criminels établis sur le mensonge, la propagande, et sous la contrainte par des “autorités irresponsables” au mépris de la vie.
ARRET IMMEDIAT DU NUCLEAIRE !

Rassemblement sans logo, et non festif ! Nous y allumerons des bougies !
http://erreurhumaine.wordpress.com/2012/02/22/hello-world/#comments

 そしてオーストラリアでも。
 だってオーストラリアの原住民の土地で掘られたウランがフクシマで使われていたんですよ:

On 11 March 2012 − one year since the start of the Fukushima nuclear disaster − Australians will take part in a national day of action to end uranium mining. The Federal Government has confirmed that Australian uranium was in at least five of the six reactors at Fukushima at the time of the accident.http://www.11march.com/

 山歩クラブは ?
 昨年は3月13日に月例山行を企画していたのですが、3.11のあとバス会社に電話して、急遽中止にしたいきさつがありました。
 ことしは日曜日、3月11日にその行けなかった伊豆の山域を歩こうとしているのです!
 そして少なくともヤッホー君は、伊豆の山々を歩きながら、震災で突然いのちを絶たれた方がたに哀悼の意を表し、故郷を突然強制的に追い出され、家に帰れない大ぜいの人びとと連帯の気持ちを通わせてくるそうです!

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2012年03月05日

啓蟄

 月曜日、朝から冷たい雨。今年はなんか長靴を履いて家を出るときが多すぎるってヤッホー君、ぶつぶつ。事務所で若い衆に、「おっ、今日は長靴じゃ、ないね」と言ったら、「あれはアーミーブーツって言って、先輩のような長靴じゃないんだな」って…

3月5日は、二十四節気の一つで「冬ごもりしていた虫が穴からはい出すころ」とされる啓蟄(けいちつ)。しかし都心は朝から冷たい雨が降る天気となった。
 気象庁によると都心では午前9時の気温が3.6度と2月上旬並みの寒さ。明日の午後には気温が上がり、春らしく暖かい一日となりそうだ
…』
(東京新聞2012年3月5日夕刊「ツクシも震える啓蟄」)

3月5日は二十四節気の一つ「啓蟄(けいちつ)」。冬ごもりの虫が春の到来を感じ、はい出るころとされるが、宮城県内は移動中の低気圧の影響で、未明から大雪に見舞われた。仙台市内の幹線道路は各地で渋滞し、通勤・通学の足が大きく乱れた。雪は次第に大雨となる予想で、仙台管区気象台は注意を呼び掛けた。
 気象台によると、5日午前10時現在の積雪は栗原市駒ノ湯112センチ、大崎市古川22センチ、白石18センチ、仙台17センチなど。仙台ではこの冬一番の積雪となった
 雪の影響で正午現在、東北自動車道と山形自動車道はそれぞれ、福島県境から仙台宮城インターチェンジ(IC)間、村田ジャンクション−笹谷IC間が上下線で通行止め

(河北新報2012年3月5日月曜日13時53分)

春一番というと、明るい春の訪れを感じさせる言葉ではありますが、時に、この春一番は広範囲に台風並の災害をもたらすことがあります。
 そして、今年の春一番は、最も災害の起こりやすい、危険度の大きなパターンとなりそうです。
 過去に大きな災害をもたらした春一番には、
 1972年3月20日、富士山で暴風雨と雪崩のため、死者・行方不明24人;
 1978年2月28日、東京で竜巻が発生し、鉄橋を通過中の電車が2両脱線し、横転;
などがあり、また、近年でも、以下のように、2009年、2007年、2004年などは、広い範囲で大荒れの春一番となりました

(チーム森田の天気で斬る 2012/3/3(土)午前10:20杉江勇次「危険な春一番に!」)

 ヤッホー君の記憶にあります。そうですか、あれはモウ34年もムカシのことになるのでしょうか…

営団地下鉄東西線列車横転事故[1978年2月28日 午後9時34分頃]
 営団地下鉄東西線の中野行き快速列車(営団5000系10両編成)が、「南砂町〜葛西」駅間(当時西葛西駅は未開業)の荒川中川橋梁上で竜巻による突風を受けて後部2両が西船橋方面行きの線路上に横転しました。
 1両が脱線し負傷者23人が出ました。当時、営団では地上部要所に風速計を設置、風速15m/s以上でブザーが鳴動、注意運転を指示、20m/sで列車運転を見合わせ、25m/s以上で運転休止を指示する事になっていました。
 現場から800mの地点に風速計が設置されていましたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しませんでした…。
 竜巻突風による被害は、午後9時20分頃、川崎市戸田で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、被害区域は幅300〜500mの帯状の範囲、川崎市から市川市東方までの30kmの範囲、時間は25〜30分間に集中しました。
 竜巻突風は時速80〜100kmで、北東ないし東北東に直進したものと考えられています。ステンレスカーの車重が問題となりましたが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は、50〜100年に1回と計算され、不可抗力という結論になりました。脱線および転覆した2両は、橋梁上で復旧が困難と言う理由から現地解体され、その後同じ番号の車両が2両代替として新製されました

http://tokyotrain.net/index.html

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2012年03月04日

ひなまつり

 3月3日土曜日は、山歩クラブの「うれしいひなまつり」と言いました。

 るんるんあかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花 五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ) 今日はたのしい ひな祭り

 お内裏様(だいりざま)とおひな様 二人ならんで すまし顔 お嫁(よめ)にいらした 姉(ねえ)様に よく似た官女(かんじょ)の 白い顔

 金のびょうぶに うつる灯(ひ)を かすかにゆする 春の風 すこし白酒(しろざけ) めされたか あかいお顔の 右大臣(うだいじん)…♪るんるん

 
 三部構成でした。ミーティング、ウオーキング、「ウチ来て飲も飲も」会。

『ウオーキングのあとは、築地銀だこ森下駅前店(Tel 03-5669-1161)、カレーパンの元祖カトレア(Tel 03-3635-1464)、深川芭蕉通りにあるエンゼルファミリー常盤店(Tel 03-6659-4501)で食材を仕入れ、ヤッホー君宅で日が暮れるまで家飲み会!お振る舞い酒は天狗舞!車多酒造(石川県白山市坊丸町60番地1 Tel 076-275-1165)でつくれた銘酒です。
 とっても賑やかな会でヤッホー君は5人囃子か5人もの官女に囲まれてとても幸せなひとときだったそうです。

「おはようございます。3日は楽しいゆっくりとした時間を過ごし、また美味しいものを沢山いただき、ありがとうございました。歴史散歩も良かったです。知らないことを教えてもらい、新しい発見もあり、わたしの大好きな一つです。3月11日日曜日の月例山行は頑張っていきますので、よろしくお願いします。時間はいつもと同じで、錦糸公園から乗ります」

「長時間おじゃましました。言いたい放題、失礼しました。昨日のミーティングは実りあるものでした。出されましたいろんな意見の中から、取り入れられるものを拾っていく…それで良いと思います。ご馳走さまでした! 美味しいお酒でした!」

 2月19日の番外編下見山行「房州アルプス」の帰りに立ち寄った「ふれあい市場」でイカを仕入れた、と当日のブログで綴りましたがご参照。そのイカを土曜日の「ひなまつり」にご提供申上げたのですが、大好評!
 塩をふったわけでもない、そのまんまをあぶっただけなのですが、柔らかくて本来の味がでて、それでまたお酒がすすんだというわけで:

 ♪るんるんお酒はぬるめの 燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な ひとがいい 灯りはぼんやり ともりゃいい しみじみ飲めば しみじみと 想い出だけが 行き過ぎる 涙がポロリと こぼれたら 歌いだすのさ 舟唄を
 沖の鴎に 深酒させてヨ いとしあの娘とヨ 朝寝する ダンチョネ

 店には飾りが ないがいい 窓から港が 見えりゃいい はやりの歌など なくていい ときどき霧笛が 鳴ればいい ほろほろ飲めば ほろほろと 心がすすり 泣いている あの頃あの娘を 思ったら 歌いだすのさ 舟唄を ぽつぽつ飲めば ぽつぽつと 未練が胸に 舞い戻る 夜更けてさびしく なったなら 歌いだすのさ 舟唄を
 ルルル ルルル……♪るんるん


 以上。これは、山歩クラブが毎月発行している「かわらばん」3月号からの引用です。仲間になったら無料配布されます。ぜひ「コメント」をメールで送信して、山歩クラブへの入会の手続きを進めてくださいね。
 この「かわらばん」の到着を首長くして待っている仲間がいる、だって「まだでしょうか、楽しみにしています」メールを受け取ったら、やんなくっちゃね。
 今日の日曜日、早起きして朝からもう大忙し!「かわらばん」を作って、プリントアウトして、封筒に宛名書きをして、いまようやくメール便の発送をすませてきたって、おっつかれさまぁ〜っ
 
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2012年03月03日

かど家

 今日3月3日ひな祭りは山歩クラブのミーティング。
 場所は江東区芭蕉記念館分館。
 終わって、六間堀から五間堀のタウンウオーキング。
 
 そう、昨日、神奈川県平塚市の軍鶏鍋をご紹介しましたが、下町にだって池波正太郎が通った、という軍鶏鍋のちょう有名な店がありましたのでご紹介:

かど家(鳥料理)
 御案内:
 創業が文久2年と約140年ののれんを誇る老舗。創業以来続けているしゃも鍋は別格としても、水たき、スープ煮等鳥の一品料理は伝統の味とあいまって最高。またしゃもの八丁味噌仕立の味噌煮はかどやの看板メニューとなっています。お座敷も和風づくりで、くつろげます。
 営業:12:00〜14:00 17:00〜22:00 休業:日曜・祭日
 住所:墨田区緑1-6-13
 電話:03-3631-5007


かど家.jpg


 ここで食された方の印象記もブログに載っておりますのでご紹介:

『小中学校時代のプチ同窓会を朝日新聞からBS朝日に転職したおなじみT君の紹介のお店で開く。 
 その名も「かど家」。
 場所は、墨田区緑1丁目。両国駅から徒歩5分ほど。

 文久二年、尾張から江戸に出てきた八丁味噌の鶏鍋屋さん。

 お店の前の但し書きには、池波正太郎が愛し、鬼平犯科帳のしゃも鍋屋「五鉄」のモデルにもなったお店とある。
 福沢諭吉も通ったとのことで、玄関に「千客万来」 の大きな額がありました。

メンバーは、ともに小中学校(中には高校までも)共に過ごした男4、女3の計7名。

 この年頃になると定番の話題は、病の話から、子供、孫の話、ひいては年金の話題に。

 オープニングは、僕の年初の脳外科手術の顛末からでは、ありましたが…』

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2012年03月02日

五間堀公園

 「六間堀から五間堀に回り、さらに弥勒寺に」と記しましたが、五間堀は公園になっております:

江東区登録史跡 五間堀跡

 五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間堀からわかれる入堀です。
 五間堀という名称は川幅が五間(約9m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。
 五間堀の初見は1671(寛文11)年の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(1657)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658〜1660)ころか、それ以前と考えられます。
 五間堀は江戸時代には富川町(森下3)までで堀留となっていましたが、1875(明治8)年、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜により掘りすすめられ、1877(明治10)年ころに小名木川まで貫通しました。
 1936(昭和11)年、1955(昭和30)年の2度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。
 2000(平成12)年3月 江東区教育委員会


 こうしてヤッホー君は、弥勒寺に回り、堅川にかかる隅田川から二番目の橋、二之橋に向かうのでした。

 また、巻き戻し〜:
 1月31日付け日記「竪川河川敷公園」、2月1日付け日記「五之橋南詰」でもご紹介した「竪川」。
 あの折は「五之橋」で、ここを南北に通るのが「明治通り」、そして、「二之橋」を通るのが「清澄通り」なのですが、≪二つ目通り≫でもあるのです:

1657(明暦3)年、江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行ないました。
 1659(万治2)年、江戸城の再興と共に開始された大事業は1661(寛文元)年に完了しました。
 開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。
 その中で、深川地区は竪川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、二之橋、…五之橋と名付けられました。
 その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。
 二ツ目通りは、竪川二之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。
 江戸名所図会には五間堀に架かる立派な弥勒寺橋と共に、竪川二之橋通りの名が残されています。
 二ツ目通りは清澄通り、五ツ目通りは明治通りの方が有名である


 都営新宿線森下駅の上を走る清澄通りにある説明書からでした。

 二之橋のあたりには、『鬼平犯科帖』では茶店「笹や」や軍鶏なべ屋「五鉄」があって、鬼平とその配下の密約たちが集まっては軍鶏なべをつついていたそうです。「明神の次郎吉」でこんなことを:

 軍鶏ってなんでしょうかね、しゃも、でした!
次郎吉は、舌つづみをうち、
「あんまりのむと、こんなうめえものが腹へ入りません。ですからすこしずつ…」と、なめるように、ゆっくりと酒をのんだ。
 つぎに、軍鶏の臓物の鍋が出た。
 新鮮な臓物を、初夏の頃から出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出し汁で煮ながら食べる。
 熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった


 牛蒡ってなんでしょうかね、牛舌じゃないし、これはごぼうですって!!

平塚市紅谷町5-7の割烹「貴柳庵(きりゅうあん、Tel 0463-23-4524)の主人である料理人、鳥海義晃さん((社)日本料理研究会師範)が、テレビドラマ「鬼平犯科帳」に登場する軍鶏鍋屋「五鉄」の軍鶏鍋を独自に再現した。
 鳥海さんは、主演の中村吉衛門さんに料理指導をしていた鬼平犯科帳の料理番、阿部孤柳(こりゅう)氏と親しく、料理の指導を受けていたことがある。その縁から試行錯誤を繰り返し、「五鉄の軍鶏鍋」を再現。試作の軍鶏鍋を食した馴染みのお客から、「これは美味しい。このまま埋もれさせるのはもったいないので、ぜひ貴柳庵のオリジナルメニューにしては」という意見が上がり、提供に踏み切った。
 鍋のキモである軍鶏は、本場九州から鹿児島県薩摩若軍鶏を直仕入れ。丁寧に下ごしらえした身や砂肝、レバー、腸、キンカン(卵)を入れ、笹がきのごぼうと本芹(せり)を主体とした新鮮な野菜で彩り、貴柳庵独自の割り下(複数の材料や調味料をあわせたあわせ調味料)でじっくり煮込む。
 ぷりぷりの軍鶏に、しっかり味が染みたシャキシャキのごぼうや芹が絶妙なアクセント。”本物”にこだわる鳥海さん渾身の軍鶏鍋は、まさに「究極」と呼ぶに相応しいだろう。ファンの方はもちろん、そうでない方にもぜひ一度ご賞味いただきたい一食に仕上がっている。
 食材にこだわり、提供には手間隙をかけているため、「願わくば事前にご予約を」と主人

(神奈川県全域・東京都町田市の地域情報紙2012年2月2日号)
http://www.townnews.co.jp/0605/2012/02/02/133938.html

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2012年03月01日

弥勒寺観音聖像

 今日のイーチャリは「鬼平の舞台巡り」。
 といっても、ヤッホー君、池波正太郎(1923-1990、東京浅草生まれ)って読んだことがないんだな、だから長谷川平蔵とか鬼平とか言われても、あ、そう、程度の反応しかできない、今は、ね - だって。
 じゃあ、なんで「鬼平の舞台巡り」なんて思いついたのか、というと、やっぱり川田順造先生!

 基本とした地図は、墨田区観光協会編「本物が生きる街 すみだ観光サイト 菊川〜森下コース 時代小説の定番! 鬼平の舞台を歩く」の逆コースでした。
http://visit-sumida.jp
 まずは三保ヶ関部屋(墨田区千歳3-2-12)。「出羽海一門の相撲部屋で江戸時代から続く大阪相撲の流れを汲む部屋です」
 次いで、六間堀跡(墨田区千歳3丁目付近)。名前は幅が五間堀同様、幅が六間だったことから。現在は「六間堀児童遊園」になっています。しばしば鬼平に登場し、「寒月六間堀」と言うタイトルにもなっています。

小名木川とその北を並行して流れる竪川を結ぶ運河が「六間堀」。その名前の通り、幅六間(約10m)あったとされています。
 戦後、空襲によるがれきなどで埋め立てられ、現在はその中心に細い路地が残っています。どこまでも一直線に続く細〜い路地を歩くと、かつてそこに運河が流れていた雰囲気を味わうことができます

(ブラタモリ 第14回 江戸の運河「運河でたどる都市発展のヒミツ」)
http://www.nhk.or.jp/buratamori/broadcast/vol014.html

『「見逃しゃしない」。タモリさんが丹波哲郎さん風におっしゃった、刑事ドラマさながらの台詞の通り、家と家の間に挟まれたわずかな塀に、運河の痕跡を探し当てることができました。
 江戸の物流を支えた運河が、終戦後、がれきの置き場所として埋め立てられ、街が様変わりするなかで残された、護岸の一部。ひっそりと残る石は、船が行き交っていたにぎやかな時代も、ヨイトマケの唄を歌いながら埋め立て工事が行われていた頃のことも、ずっと知っているのですね。
 何気ない風景に隠された意外な歴史。
 街歩きって、どんな時代とつながるかわかりません。本当に奥が深いです』

(ブラクボタ 久保田祐佳アナウンサー リポート)
http://www.nhk.or.jp/buratamori/burakubota/vol018.html

深川六間堀の芭蕉庵は、私が生まれて数えで八つまで育った家から、300mくらいのところにあった。
 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の句が作られた貞亨3年から60年余りたった宝暦年間に、私の先祖が上州川田村から江戸に出て、ここより少し北の本所に上州屋という米屋を開き、5代目が幕末に深川森下町に移った。
 私が生まれたのはそれからまた4代後、古池の句から248年後の昭和9年だ。
 芭蕉が庵を結んだ六間堀、いまの常磐町には、祖父母の隠居所があったので、学校にあがる前の私は、毎日のようにこの辺りに遊びに行っていた。
 太平洋戦争がはじまる少し前のことで、まだ六間堀は埋め立てられていず、堀に猿子橋-その西詰の近くに芭蕉庵があった-もかかっていた

(川田順造「『母の声、川の匂い』筑摩書房、2006年)

 ヤッホー君は、六間堀から五間堀に回り、さらに弥勒寺(墨田区立川1-14-13)に向かいます。
 そこに「観音聖像」が建っておりました。その由来をぜひ、いっしょに読みましょう!

P3015429.jpg

父を求め母を尋ね子を探し妻を呼ぶ声よりも凄まじい火災と爆撃のなかで、1945(昭和20)年3月10日の朝を迎えました。
 町は焦土と化し人は黒焦げの死体となって数限りなく広がって居りました。
 戦争は怖ろしい大地震火災よりも怖ろしく、被害はその何層倍にも及びました。
 1時間に10万の死体と言う、人間の起こした争いの惨酷さ、而してこれを超克して愛とやすらぎを求めるには、大慈悲心にすがり仏の慧智を借りること以外にありません。
 この聖像のもとに3500体の遺骨を収納し、永代にお慰めすることは、生き永らえた人間の務めでもあり、仕事でもありましょう。
 多くの記録、悲惨なエピソードは他の戦災記にゆずり、この下町の一角に所在する聖像を仰ぐとき、之は戦災の最も端的な記念碑でもあり、亦人間の心の基準を示すきびしい御姿でもありましょう。
 茲に戦災殉難の御霊をお慰め申上げ、併せて関東大震災に依り倒れた地元の人々の過去霊に対し、恭々しく合掌し冥福を祈るものであります(昭和52年3月10日33回忌)
弥勒寺56世 岩堀至道 敬白
弥勒寺奉賛会々長 田中牛造
平成24年3月10日
株式会社ベルストーン工房寄贈


 ん? 平成24年ってさ、今年じゃん…、3月10日までにまだ日があるよねぇ、もう由来の案内板が東京スカイツリー(墨田区押上、高さ634m)のように堂々と完成し、建っていたけど… ま、いいか、だって今日から弥生!
 それにデジタル派じゃないもん、電波時計よりは腹時計、ファージー fuzzy なところがあって人間、がモットーのヤッホー君だもん

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