2011年12月31日

横瀬町

 大晦日、朝から相変わらずばたばたのヤッホー君、何よりも先ず、会報「かわら版」1月号を作って、印刷し、宛名書きし、セブンイレブン森下店(Tel 3631-4471)まで持ちこんで、メール便で発送しないことには新年を迎えることができません。
 どうにか4時半ころの日没までにはできましたが、そのおかげで今日の「イーチャリ」は、せいぜいこの18日のリバーサイドウオークの出発点で、昨日の晦日山行の際にも「水天宮前」まで自転車で走ったとき通った「陸奥宗光宅跡」(江東区登録史跡)まで。

陸奥宗光は明治時代の外交官、政治家で1844(弘化元)年、和歌山藩士伊達宗広(千広)の第6子として生まれ、1897(明治30)年、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗広は藩の要職にありましたが政争により失脚、宗光は15歳で江戸へ出ました。
1862(文久2)年に脱藩し、京都で尊皇攘夷運動に加わり、のち坂本龍馬の海援隊に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。1877(明治10)年、西南戦争に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したしたとして、翌1877(明治11)年に免官、5年間投獄されました。出獄後は、外務省に入り、1890(明治23)年、第1回衆議院選挙に当選、第二次伊藤内閣の外務大臣として、日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894-1895)の開戦と講和に関わりました。
 宗光が深川清住町(現、清澄)に在住したのは、1872(明治5)年から1877(明治10)年までの間で、大蔵省で租税改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。
 この邸宅は隅田川に面して眺望が良く、「三叉水碧楼」と呼ばれていました

(江東区教育委員会)

 ヤッホー君はいまだに恩師である哲学者フェリックス・ガタリからフランス・パリで教えられたこと、≪「日本人である」ことと「日本人になる」ことは大違い≫が耳にこびりついています。
 新年は、もっと山が大好きな日本人になって、自然と共に息をする日本人でありたい、と決意を固めています。
 その意味で、晦日山行に歩いた横瀬町芦ヶ久保の山域はとても良かったことなだったんだとあらためて感じている大晦日なのです。だって、この一帯、「やまとたけるのみこと」伝説の影が色濃く残っている土地だったのです:

西武線で池袋方面から行くと、駅がある芦ケ久保(横瀬町)の辺りから急に山深くなってくる。深山という趣になってくると、いよいよ秩父が近い。
 「横瀬」とは、日本武尊が東征のおり、村の中央に一筋の川が横たわっているところから名づけたといわれる。また、川沿いに人々が集まっている所という説もあり、「横」とは縦横の横ではなく、「沿う」というような意味らしい。確かに車窓から見ても斜面ばかりで、人々は川に沿って暮らしているのだと思った。
 「芦ケ久保」という地名も興味をそそられる。芦ケ久保は、本来の意味は「足が窪(くぼ)」だったそうだ。ダイダラボッチ伝説は各地にあるが、この辺りにも巨人伝説がある。
 大男のダイダラボッチが山を作ろうとして土を担いできたが、ここで窪地に足を取られて落としてしまった。その土のかたまりが二子山になったというわけである

(朝日新聞埼玉版2011年5月21日付け 横瀬 「川沿い」が由来の説も)

 この芦ヶ久保には、道の駅「あしがくぼ」ができておりました。町長の加藤嘉郎は今年3月の所信表明で次のように述べておりました:

本町が芦ヶ久保地区に設置いたしました「道の駅」は、議員各位のご指導や町民の皆さまのご協力により、営業成績も順調に推移し、雇用を始めとしてさまざまな経済効果をもたらしております。
 今後も地域振興の拠点である「道の駅」を中心として、さらに地域の活性化を図るため、「道の駅」周辺の水辺を整備するなど、観光客や住民の方が気軽に利用でき、この周辺が今以上に賑わいを増すような施策を講じてまいります


 山歩クラブも応援していきましょう、山域の活性化のため!
 
 明日、目が覚めるともう2012年、坂本龍馬に含まれている漢字、「龍」年ですね、どちらさまも良い年をお迎えください!

posted by fom_club at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月30日

二子山882.7m

2003年4月6日日曜日、山歩クラブは江東区の森下文化センターで第一回目の総会を開きました。
 その翌日、秩父・芦ヶ久保までカタクリの花を探しに行きましたが、前日の雨は、ご覧の通り(写真が貼ってあります)当地、雪。
 雪の日向山627mで、同じく冠雪している武甲山1295mを背景に、記念写真をとりました
 (でも、カタクリの花は、小川町にクルマを回して、しっかり対面してきました、この写真を観たい方は会員になってください!)


 これは、当時会員の仲間にお配りしていました会報があって、『こまくさ』と呼んでいましたが、そのNo.3(2003年5月1日発行)からです。
 いやあ、なつかしい…、当時の仲間はいまも元気にしているんでしょうか。
 と申しますのも、山歩クラブは10年の節目を迎えているんです。
 2012年4月の総会は、したがって第10回目となりますよね。
 お祝いしたいですね。

 今日は晦日、二日目となる「イーチャリ」は6時半に仲間と落ち合って、清洲橋を渡って半蔵門線「水天宮前」駅まで。
 池袋駅から西武線に乗って「芦ヶ久保」駅まで行き、北海道の仲間とこの秋歩いた丸山960mの、西武秩父線を挟んだ反対側の二子山882.7mを歩いて、2011年の歩き納めにしようという算段なのです。

 ヤッホー君からさっそく、夜の20:01ご帰館報告メールが一斉配信されたようです:

皆さん、お正月の準備でてんてこ舞いを踊ってらっしゃるか、それともいっぷくでしょうか、忙しい年の瀬に失礼します。
 今日は歩き納め、山歩クラブが第一回目の総会を開いた翌日に、芦ヶ久保から日向山まで歩いたのですが、雪!そのなかで武甲山を仰いだのでした。懐かしい土地なんですよ、ここ芦ヶ久保!
 2011年、いろんなことが起こった年でしたが暮れようとしています。
 「初心不可忘」ということで10年の節目を迎えている山歩クラブは、芦ヶ久保から二子山を歩き納めにしました。
 お付き合いいただいた仲間と楽しく歩いてきました、お疲れ様でした。
 添付した写真は、二子山は双耳峰、その雄岳882.7mからの武甲山です。
 11時、お昼を摂った後のことでした。
 この右に真っ白な雪を被った北アルプス、両神山、浅間山が見えます。
 寒風吹きすさぶ中、絶景に見とれていました。
 では良い年をお迎え下さいね


武甲山.jpg

posted by fom_club at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月29日

レンタサイクル

東京・臨海部に点在する施設間の住民や観光客の移動手段を確保するため、東京都江東区は、自転車を共同利用する「コミュニティーサイクル」事業を始める。駅やショッピングセンターなど複数の拠点に10〜20台ずつ置き、どこでも借りたり、返したりできる。来年度に実証実験をして、2013年度から導入する計画だ。
 コミュニティーサイクルは、従来のレンタサイクルと異なり、乗り捨てできる気軽さが特色。温暖化対策や観光の足として、パリなど欧州の主要都市で数年前から大規模に導入されている。国内では、富山市や札幌市などで始まっているほか、首都圏では横浜市が今春から実証実験を始めている。
 江東区では来春、臨海部の青海に新たな商業施設が完成予定。区は豊洲新市場の開場なども見越して、来訪者や働く人がさらに増えると予想。観光や業務での活用を見込む。
 利用者が事前登録してICカードの発行を受けた上で、貸し出しと返却の際は端末にかざし、登録したクレジットカードで利用料を決済する方式などを検討している。
 臨海部で隣接する港区や、東京駅周辺などで実証実験をしたことがある千代田区などとの連携も模索する。担当者は「展開する地域や料金など魅力的な事業にしたい」としている

(東京新聞2011年12月13日夕刊「エコな自転車共同利用 江東区 臨海部で実験」)

 いえ、ね、夏のお盆のときはリバーサイドウオークを「朝キン」と称して三日坊主にせずに実行でき多ヤッホー君、年末年始のお休みの課題を、「酔い狂(ヨイクル)」、待て待て、良いサイクリング、縮めて「イーチャリ」をはじめることにしたのです。

 で、ね、さっそくの「イーチャリ」は、年の瀬も押し迫った12月29日木曜日のこと。
 清澄通りを清澄庭園から門前仲町のほうに走って、海辺橋を渡った「採茶庵跡」で松尾芭蕉さんと並んでご夫婦が代わる代わるにデジカメを撮っているほほえましい光景に遭遇しました。
 お天気は晴れ、冬の日があたって気持ち良さそう。撮り終えたご夫婦は自転車をまたこいで走っていきます…、で、そのカゴを見たヤッホー君、また今日もびっくりしてしまったらしいのです。
 カゴには「台東区レンタサイクル」って…、へぇ〜、自治体の貸し自転車なんだあ〜、エコだね〜、「イーチャリ」だね〜

台東区では、区内の4箇所の自転車駐車場でレンタサイクル事業を実施しており、多くの方々に利用して頂いております
http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/kotsu/jitensha/rental.html

 そのご夫婦は、さらにその先、深川二丁目バス停の歩道橋の下でも停まって、案内板をなにやら真剣にメモに取っていらっしゃいました。なになに…

江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は1903(明治36)年12月12日、この地に生を受けました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。
 安二郎は10歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を一年間勤めた後、1923(大正12)年再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 1927(昭和2)年、監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 その後、小津安二郎監督作品は「出来ごころ」に代表されるような下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルなどによって家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風をつくりあげていきました。
 1962(昭和37)年、「秋刀魚の味」を発表、映画人としては初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌1963(昭和38)年、60歳で死去しました。
 その作品の価値は死後、内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています

(平成7年3月 江東区教育委員会)

 また、清澄通りと葛西橋通りの交差点に位置する臨済宗のお寺さま、陽岳寺には小津家の墓があって、監督のお父さまが眠っているとのことです。門が閉じていて肝心のお墓は確認できませんでしたが、このお寺さまは古〜い:

向井忠勝(1582-1641)は60歳で没しました。戒名は陽岳寺殿天海立祐居士です。陽岳寺は、1637(寛永14)年に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。
 1597(慶長2)年に16歳で後の将軍秀忠に仕え、大阪冬、夏の陣の両度の戦いに水軍を率い、摂津尼崎へ出陣しました。
 1625(寛永2)年、父の後を継ぎ、子孫は代々、船手頭の職を世襲しました

posted by fom_club at 14:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月28日

ツーム

 シャングリ・ラと言う名のSマークのホテルがあります。高級ホテルですね。
 マレーシア・ペナン島にはみっつもあります。

(1) 「シャングリ・ラ ラササヤン リゾート&スパ ペナン」
『エメラルド色に輝く、世界でも有数の美しいビーチのひとつとして知られるパトゥ・フェリンギビーチ沿いで皆様をお迎えしております』
(2) 「ゴールデンサンズ リゾート ペナン」
『改装工事を終えたばかり。マレーシアで最も人気のあるビーチ、パトゥ・フェリンギに隣接する4ッ星リゾートホテルです』
(3) 「トレーダース ホテル ペナン」
『ペナン国際空港から車で15分の距離にあるエキゾチックで活気の溢れる都市の中心地で皆様をお迎えしています。443室のラグジュアリーなゲストルームやシャングリ・ラならではのホスピタリティーなど、快適なご滞在に欠かせない各種施設やサービスをご提供しております』

 そして東京にも。東京駅前、八重洲口はデパート大丸の隣にあります:

『「シャングリ・ラ ホテル東京」と森トラストの間には資本関係はありません。「丸の内トラストタワー本館」にホテルテナントとしてリース契約を締結し、ご入居いただいています』だって。
 森トラストって、森をフランス語でラフォーレっていうでしょ、だから、ラフォーレホテルズ&リゾーツという、日本の主要リゾート地に12ヶ所のリゾートホテルとゴルフ場を、東京と大阪に2ヶ所のシティホテルを展開しているカイシャなんだけど…。そして「丸の内トラストタワー」ばかりじゃござんせん、2014年には「京橋トラストタワー」の竣工を予定しています。
http://www.mori-trust.co.jp/pressrelease/2011/20111124.pdf

 このシャングリラホテルって:
1933年に発表されたジェームス・ヒルトンの小説 Lost Horizon(邦題:失われた地平線) に描かれた伝説の桃源郷「シャングリ・ラ」。その「シャングリ・ラ」をご体験いただける、くつろぎの空間とおもてなしで皆様をお迎えいたします。
 シャングリ・ラ ホテルズ&リゾーツは、香港を基点とするアジア太平洋地区のラグジュアリーホテルグループの先駆けとして、また、世界有数のホテルオーナー&マネージメント企業として事業を展開しております。
 シャングリ・ラの歴史は、シンガポール初のラグジュアリーホテルをオープンした1971年に始まります。現在では、…

http://www.shangri-la.com/jp/corporate/aboutus/overview

 ところで今晩、NHK-BSプレミアムの再放送で、中国の長江流域を阿部力(1982年、中国黒竜江省生まれ)が旅するお話『長江 天と地の大紀行』です。ご覧になった方も大ぜいいらっしゃったかと思います。
 その第1回目「チベット大峡谷と理想郷」では、シャングリ・ラ(雲南省デチェン・チベット族自治州香格里拉県)で民族衣装を着たチベット族の美少女、"ツーム"と出逢いました。
 その"ツーム"が行きたいところって言っていた上海に、今晩、遊びにきていました!いやあ、びっくり!
 そして、ふるさとに戻って、ツームは阿部に礼状をだしていました。
 ≪草原いっぱいに花が咲き乱れるシャングリ・ラに、がんばって家を手に入れ、民宿にするんだ、それまで阿部さん、達者でいてくださいな≫と。

There are few places in China as wild and beautiful as the Three Parallel Rivers national park. Deep in the Meili Xue Shan mountain range, in the remote north-western corner of Yunnan, close to the border with northern Burma, it's straight out of Lost Horizon by James Hilton. Soaring, glaciated peaks, Tibetan Buddhist monasteries floating in the clouds, lush terraced valleys and virgin Himalayan forest all collect in this area which, according to Unesco, is "one of the richest temperate regions of the world in terms of biodiversity". It's a designated world heritage site and covers more than 960,000 hectares, with buffer zones almost the same size.
(New luxury lodges in China's Yunnan province, Sybil Kapoor, guardian.co.uk, Friday 18 November 2011 22.45 GMT)

posted by fom_club at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月27日

平沢峠

 クリスマス山行の飯盛山、しし岩周回を終えて、しかしバスに戻りたくない男性3人組、あちこち説明板めぐりをしています。
 まずは「平沢古道」から、「フォッサマグナ」へ。フォッサマグナについては昨年のブログでも紹介していますが、気の抜けたビール味のヤッホー君、手招きしてナウマン博士を説明していました。

More strong earthquakes rattled Christchurch, New Zealand Friday. Initial reports indicated there were no deaths or major injuries, but the shaking terrified residents who were devastated by a deadly quake back in February.
(Video: More strong quakes in Christchurch, AP Video, Published Friday, Dec. 23, 2011 2:19PM EST)
http://www.theglobeandmail.com/news/video/video-more-strong-quakes-in-christchurch/article2281934/

 おとといのことだよね、だからね、2月に南太平洋で地震があったときびっくりしたヤッホー君、このブログの日記でも認めたことがあるんだけど、そのあと、あの3.11がきたわけですよ、われわれは薄皮饅頭の上にのっかかっているにしかすぎない、って何度も語ってきたヤッホー君、わずか海面から3Km上空に登るだけで空気が薄くなるわけですよ、ね。だから太平洋プレートってほら、北米プレートとかユーラシアプレートとか相互に影響しあうってことってあるわけだし、そんな大自然のなかに息をついでいるにしかすぎないんだよって、もっと謙虚になるべきなんだよ、ね、もし、フォッサマグナとか、糸魚川-静岡構造線断層帯とかに影響を及ぼしたら大変じゃない、よねえ、とか、山歩クラブが歩いた草津白根山とか冨士山とかが息を吹き返して活発になったらどうするんだろうね、とかそんなことを呟いていましたね。
 フォッサマグナを連想したナウマン象が、日本列島の原風景を想像したように…

1707年の南海・東南海・東海連動型地震であった宝永地震の49日後に冨士山が噴火しました
(高木秀雄 早稲田大学教育・総合科学学術院(地球科学教室)教授)

国土地理院は、GPS衛星の連続観測を行う電子基準点を全国1,240箇所に約20kmの間隔で設置し、測量の基準点として活用するとともに、全国の地殻変動を監視しています。
 3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0)では、最大で水平方向に約5.3m、上下方向に約1.2mという極めて大きな地殻変動が観測されました。
 また3月11日の本震(M9.0)の後も、本震時の変動に比べるとわずかですが、緩やかな地殻変動が続いています

(GPS連続観測から得られた電子基準点の地殻変動)
http://www.gsi.go.jp/chibankansi/chikakukansi40005.html

 でも結論としては、でも、さ、われわれのような凡人には原風景まで想いがめぐらないよねえ〜(そういえば、ヤッホー君の高校の地学の先生が、さ、どの山も綺麗に盆地に潜り込んでいるよ、ね、これが地球の地殻変動なのだよって、見えるんだからすごいよねえって教えてくれたことがありました。そのときの先生の声が未だにアタマに残響としてこびりついています)。
 さ、バスのなかでお昼にしようよ、鼻がもげそう、手が凍えそう、体が冷えきってるうう〜 

posted by fom_club at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月26日

野辺山駅

 昨日、クリスマス山行のバスのなかでいつものヤッホー君の間抜けな質問で朝早い皆さんの心地よい眠りをじゃましてたって、顰蹙をかっていました。
 気の抜けたビール味のような質問って、これ!
「小海線ってどうして言うのかな、小淵沢の小でしょ、それとどこをつなぐのかな、海なんてないよね。山ばっかりなのに山無し県っていうんでしょ、海なんてないよねえ」
 
 質問を向けられた仲間は目を白黒させていました、ヤッホー君の目だけ総天然色!
「野辺山駅に行ったら聞いてみようね」

 野辺山駅の駅員、阿部さんが嫌な顔ひとつせず、とても親切にヤッホー君の質問に答えてくれました。
小海線は、ほら上の路線図をみてごらん。まんなかに小海という駅がありますよね、そこを通るから小海線なんだよ。小淵沢と小諸を結ぶ線路で、小と小をあわせると少々困るでしょ」(ナットク)。

 ヤッホー君、他の仲間も手招きしていっしょに地理のお勉強会をすることにしました:
「でも、どうして海が無いのに小海なんて名前がついちゃったんですか?」
あの壁のポスターの下にだんだんと目を下してごらん。隣の壁にそう、張り紙がしてあるから読んでご覧
 またしてもナットク。なんでも1100年前の水蒸気爆発で川が堰き止められ湖ができて、それで海尻とか海ノ口とかの地名が生まれたそうな、ふむふむ:

町章は、「小」「ウ」三つで小海(こ・う・み)を表わし、北牧・小海・東馬流を合併し発足した新町の円滑な発展を表現しています。
 887(仁和3)年あるいは888(仁和4)年に起きたとされる八ヶ岳(天狗岳)の水蒸気爆発による大崩落によって千曲川の下の深山(現在の八那池洞門付近)が泥流によってせき止められ、海の口から、海尻にかけて大きな湖ができました。この時土村の除ヶ付近(現在の小海小学校付近)の相木川もせき止められ、相木の入口までの湖ができました(相木湖と呼ばれていた)。
 海ノ口の湖水は1011(寛弘8、千年前じゃん)に決壊して無くなりましたが、相木湖はその後も残ったらしく、天正初期(1572年頃)古絵図にも記入されていますので、鎌倉時代の中頃(1300年頃)まであったと思われます。これが当時ここに入って来た人達によって「小海」と名付けられたものが小海の名前の起源と言われています

(小海町の公式サイトより、名の由来)
http://www.koumi-town.jp/office/archives/townprofile/koumi-yurai.html

 でも、まだ質問が、
「あのお、野辺山は JR のなかで最高地点って、なんで JR という限定付きなんですか?私鉄ではもっと高いところを走っている路線ってあるんですか」
それは、ね、登山鉄道があるじゃない、あれも鉄道だからね、それを考慮しているわけなんだよ

野辺山駅は、しなの鉄道(旧信越本線)小諸駅と中央東線の小淵沢駅を結ぶJR小海線にある駅で標高1345m67cmの海抜に位置する駅なんだ。
 駅前からは八ヶ岳の主峰赤岳の雄姿がよく見える広い高原にある駅なんだよ。
 野辺山駅と、となりの清里駅の間にJR鉄道最高地点(標高1375m)があるんだよ。
 JR小海線は小淵沢駅では左手に南アルプス、右手に八ヶ岳を眺めながら出発し、すぐに大きく右カーブして左手に八ヶ岳を眺めながら急な上り坂をエンジンを唸らせながら登って行く高原列車なんだ。
 清里駅を過ぎ上り坂の最後にある踏み切りがJR鉄道最高地点で、分水嶺になっているんだよ。
 最高地点より小淵沢側に降った雨は富士川に流れ込み静岡県富士市で太平洋に注ぎ込む。
 最高地点より小諸側に降った雨は千曲川に流れ込み、やがて信濃川となり新潟で日本海に注いでいるんだ

(南牧村の公式サイトより「南牧村の日本一」) 
http://www.minamimakimura.jp/yakuba/info-no1.html

 「室堂駅(むろどうえき)」は、富山県中新川郡立山町にある立山黒部貫光無軌条電車線(立山トンネルトロリーバス)の鉄道駅であり、立山高原バスの室堂バスターミナルに併設されています。標高2,450mで日本最高地点の駅だといわれています。
http://www.alpen-route.com/station/station/index.html
 
 さらにもっと… ヤッホー君たち山歩クラブの勇士が目指した今夏の空木岳、しかし撤退したときの基地、「千畳敷駅」の標高は2,611.5mで、日本最高所駅なんですう!
http://www.chuo-alps.com/ropeway/virtual/geton.html

 ほら、ね!ふ〜ん…

posted by fom_club at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月25日

クリスマス山行

PC255192.jpg

 12月25日日曜日、今日は山歩クラブのお山歩会だ〜い!
 終わって19時36分、ヤッホー君から一斉メールが配信されたようですのでご紹介。

皆さん、メリークリスマス!クリスマス
 今日は山歩クラブ恒例のクリスマス山行でした。
 10人の仲間が集い、飯盛山1643mを楽しく歩いて、つつがなく無事に終えることができました。
 当初はこのところクリスマス寒波で冬型の気圧配置が続き、おまけに低気圧が居座わって、お天気は荒れ模様とあり、ヤッホー君は徐脈の心の臓も早鐘を鳴らし続けていました。
 吹雪、あるいは雪が身長ほどに深かったり、八つから吹き降ろす空っ風が強かったら、山歩クラブは冬山訓練をする団体や機関、組織ではないので、現場で「危険と判断したら即中止、撤退開始」と覚悟していました(チョウ軟弱!)。


強い寒波の到来は、きょう、クリスマスイブからとなります。
 上空の寒気をみると、日本海側で大雪の目安と言われる、約5000メートルの-36℃線が日本海沿岸まで下がり、この状態があすのクリスマスにかけて持続する見通し。
 今の時期はまだ日本海の海水温が相対的に高いですから、1月〜2月にかけての寒波襲来時よりも、雪雲が発達する傾向にあります。
 おそらく、きょうからあすにかけての2日間で、山陰〜北陸〜東北にかけての山沿いでは100センチ以上、平野部でも50センチ以上、積雪が急増する所があると思われます

(チーム森田の”天気で斬る!”土曜日のお天気予報「積雪100センチ増も」)
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map/61199021.html

 が、昨年同様、空は晴れ、ただ期待していたパウダースノウの新雪がほとんどありませんで、ちょっと拍子抜けしたほど。
 ヤッホー君はせっかく持っていった長靴も、スパイクが役に立つ場面も、なかったのです。
 ザンネン!でも、ま、全員無事故、笑顔で帰京できました。
 おまけに高速道は渋滞がなく、すいすい走り、バスドライバーの大坂さんも笑っちゃうほど。
 写真は山頂での勇姿です。
 今日で2011年の歩き納めの方もおられたし、また誕生日の方もおられたし、めでたし、めでたし!
 今年の山行の無事と、新年の健康を願って、菅野さん差し入れのワイン(あ・り・が・と・う)で乾杯、「ゆ〜ぷるにらさき(韮崎市中田町中條1800-1 Tel 0551-20-2222)」の立ち寄り湯で締めました!
 次回は30日、「西武線で行く晦日山行」を行ないます。希望者は至急、このメルアドまで。
 ではどちら様も年の瀬が迫ってきております。
 明るい新年をお迎えください

posted by fom_club at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月24日

FUKUSHIMA“えがお”WRAPPING PAPER!

 民主党の中島政希衆議院議員が離党する意向を固めた、と毎日新聞が12月24日土曜日1時7分配信のニュースで伝えました。政府の八ッ場(やんば)ダム(群馬県)建設再開方針を批判したわけです。
 あの政権交代を目指した選挙は何だったんですかねぇ〜
 中島議員は1953(昭和28)年生まれで、群馬県立高崎高校を出て早稲田大学大学院法学研究科修了、法学修士(政治外交史専攻)で議員に当選していますが、公式サイトでこんなことを:

外務省(の親米保守派)は日米同盟関係の深化こそが日本の平和と繁栄を維持する道だと信じ、TPP参加はその強化に資する好機であり、台頭する中国に対峙する上でも大いに意味がある、と認識しているのであろう。それはそれで一つの考え方として筋の通ったものだ。だから堂々とそう主張すればよい。良好な日米関係を維持するためには農業分野などで譲歩することも必要なのだ、と。日本の市場が閉じられており、それを開くことが日本のためだなどという、自他を欺く議論は展開すべきでない。
 TPP参加は、もしかしたら(私は信じないが)政府の言うとおり日本経済の拡大をもたらすかもしれないが、他方米国への政治的軍事的経済的依存関係を一層強め、「大国でありながら米国の保護国でもあるという矛盾した状況」はさらに抜き差しならないものとなろう

http://www.nakajima-masaki.com/shiten.html

 政治家がTPP問題をどう思うかの本質がでている文章です。な〜に、完了は主張なんかしませんよ、「コクミン」のための一言で終わりです。

 学者さんで、町に出てお話しされる先生もおられます。皆の衆、聴きにいきませんか、また、鬼が笑う来年の話しなんですけど…。あ、そう、そう、中野先生は、完了出身なので未完了形か、現在完了形です:

『第97回紀伊國屋サザンセミナー
集英社新書『グローバル恐慌の真相』刊行記念≪TPPとグローバル恐慌≫
(出演)
中野剛志((京都大学大学院准教授)、柴山桂太(滋賀大学准教授)、萱野稔人(津田塾大学准教授)
2012年1月16日月曜日19:00開演(18:30開場)、於紀伊國屋サザンシアター(紀伊國屋書店新宿南店7F)、料金1,000円((税込・全席指定)』

 中野剛志(なかの たけし)先生は1971年、神奈川県生まれ。京都大学大学院工学研究科助教。東京大学教養学部(国際関係論)卒業。エディンバラ大学より博士号取得(社会科学)。経済産業省産業構造課課長補佐を経て現職。専門は経済ナショナリズム。イギリス民族学会Nations and Nationalism Prize受賞。

 で、このアメリカも国内は、ニューヨークはウォール街から始まって、今や世界的な格差是正を訴えるメッセージを発信した“オキュパイ運動”で揺れ、いまも揺れつづけています。

 TPPを押し付け、また儲けようと企んでるアメリカで、揺れた東日本になんとかできることをしようとがんばったエーシアン・アメリカンでニューヨーク在住の女性シンガーソングライターがおられました。AKさんです。旧アーティスト名、旧姓は柿原朱美(かきはら あけみ、1964年広島県生まれ、日本大学芸術学部卒業)で、akはそのイニシャル。 シンガーソングライター:

『ひとりの声は小さいかもしれません。
 そして自分ひとりでできることは限られているかもしれません。
 でも声をかけあい、励まし合い、協力しあえば、最初は小さな声でも、たくさん集まれば、大きなパワーになると信じています。
 遠く離れていても、私の心は日本と共にあります。
 新しく生まれる生命、動物、自然、すべての生命と共に、一緒に生きていきましょう。

 遠く離れたNYにいて、小さなことでも、日本の被災地、日本の救援のためになにかできないかと思い、NYに住む日本人の仲良しの女友達と一緒に、募金活動と、日本への応援メッセージを募るべく、JP GIRLS NYCを立ち上げました。
 私たちのスローガンはSAVE JAPAN WITH YOUR LOVE、少しでも、日本の震災のために愛を持って長期で支援ができればと思っています。

JP GIRLS NYC / Facebook
http://www.facebook.com/pages/JP-Girls-NYC-Save-Japan-With-Your-Love/185400794837795

 このラッピングペーパーができたのは、福島相馬みなと保育園の園児のおかげ。
 なので、実はサプライズクリスマスプレゼントを、相馬みなと保育園児に用意しています。
 次回、2012年最初のブログで紹介しますね!
 あらためて、福島相馬みなと保育園のみなさん、園児のみんなありがとう!!!

 12月はAKにとって、1年で一番好きな月。
 誕生日、クリスマス、New Year〜いくつになっても、お祝いは楽しい!
 今年はJP GIRLSとFellowship for Japanのみんなにとってもサポートしてもらったし、たくさんの人達といっぱい素晴らしい時間を過ごしたので、実は、12月18日にAK宅でクリスマス会!なのです。
 もちろん料理は全部AKが手作り!!!
 クリスマスツリーもキラキラしてるし、あったかい日になること間違いなし。

 AKの2011年は、東日本大震災という、大きな悲しみを体験する年でもあったけれど、素晴らしい人達といっぱい出会え、励まし合え、喜びをわけあえ、信じられないくらいの、いっぱいの愛を感じる1年となりました。

 すべてに、ありがとう…
 2012年も、笑顔と幸せにたくさん包まれる年となりますように…
 i-Radioを聴いてくれているみんな、本当にありがとう。
 2012年も、元気で会えますように…
 Merry Christmas & Happy New Year!!!
 love, AK』

http://i-radio.cocolog-nifty.com/ak/2011/11/akfukushima-wra.html

『AKさんは被災地を震災後2011年8月に訪問。

 「コンサートを行ない、歌と楽器を届けました。
 この絵はそのコンサートの際に、みなと保育園児達から贈られたプレゼントです。
 毎日不安な中で暮らしながらも、笑顔と一緒にもらった園児達からの贈り物。
 NYに持ち帰り、子供達の絵はイベントや学校などで紹介しました。
 でも、もっとたくさんの方に福島に関心をよせていただけることを願い、ラッピングペーパーにもすることにしました」とAKさん。

 その絵をもとにNY在住のデザイナー、西村りえさんがラッピングペーパーにデザイン。
 かわいいです!』

(名前はヒ・ミ・ツ(て、堂々と出ているだろ!年齢は自称23歳>ドゴッ!おもに女性ファッション誌で書いている職業ライターのブログ『黒部エリぞうのNY通信』からでした)
http://erizo.exblog.jp/17189984/

posted by fom_club at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月23日

すたんどばいみー

 「いちょう団地」
 これは、横浜市泉区から大和市にかけて建てられた神奈川県営の団地で、横浜側の「いちょう上飯田団地」48棟2238戸、大和側の「いちょう下和田団地」31棟1394戸が入居可能という大規模団地です。

 ちなみに、東京の場合は、というと:

高度経済成長に伴う都市部の住宅難を解消するため、計画人口34万人と日本一の規模で現在の東京都多摩市から開発が始まった「多摩ニュータウン」。1971(昭和46)年3月26日に第1次入居が始まった。入居したのは諏訪、永山の団地2680戸、1万3000人。ここから、八王子、稲城、町田市へと開発は広がった。
 その後、住宅需要の伸び悩みなどで人口が約20万人の2006年、事業主体の都市再生機構(旧日本住宅公団)による開発は終了となった

(2011年6月22日付け読売新聞)

分譲集合住宅として国内最大規模となる一括建て替えに当たり、解体工事が終わった多摩ニュータウンの「諏訪2丁目住宅」(多摩市)で12月19日、住民で作る同住宅マンション建替組合などが、新築工事に向けた安全祈願祭を行った。
 同住宅は、多摩ニュータウンで最も早い1971年に分譲された団地。老朽化を受け、23棟(640戸)を一括して7棟(1249戸)に建て替えるために9月から解体作業が行われていた。約6.4ヘクタールの敷地はすでに更地になっており、新築工事は2013年10月まで行われる予定。
 安全祈願祭には、同組合や行政、建設会社の関係者ら約100人が参加し、同組合の加藤輝雄理事長らがくわ入れを行うなどして工事の無事を祈った。
 加藤理事長は「(建て替えの間)仮住まいしている住人のネットワークを維持し、みんなで元気に戻って来たい」と感慨深い様子。
 多摩市の阿部裕行市長は「緑豊かで子育てにも良いので、多くの若い人に移り住んでほしい」と期待していた

(2011年12月20日付け読売新聞)

 多摩NTは、反対もあったのでしょうが一括建て替えの方向のようですね。それはそれとして、「いちょう団地」はいまだ健在だし、エーシアン日本人のかけがえのない住居になっているようです。

『この団地の3500世帯あまりの入居世帯のうち2割程度が外国籍世帯という多文化集住地域である。大和市にインドシナ難民の定住促進センターがあったこともあり、ベトナムを中心にカンボジアやラオスの出身者が多く住んでおり、また中国帰国者の関係者も多く住んでいる。そのほかにも、日系の南米出身者なども住んでおり、他の集住地域に比べ、多言語・多文化な地域となっている…。
 いちょう団地内にあり、学区が団地内だけで構成される横浜市立いちょう小学校では、全校児童208名中114名が外国籍である。また外国にルーツのある児童も28名いるため、外国につながる児童の比率は約68%にもおよぶ(2011年4月現在)』


 これは「多文化まちづくり工房」代表の早川秀樹さんの「多文化共生のとびら 多文化が生きるまちづくり」からです。
(自治体国際化フォーラム Nov 2011 37-38頁)

 この早川秀樹さんは、1974年生まれ。1994年頃から神奈川大学の学生仲間らと日本語教室を開いたことをきっかけに、ベトナム、中国、カンボジア、ラオス等の外国籍の住民が多数暮らしている団地をフィールドに「あらゆる世代・国籍の人びとへの日本語学習サポート」「緊急時防災組織、TRYangelsの結成」等の活動を通じ、多様な文化的背景をもつ人びとが楽しく暮らせるまちづくりに取り組んできております。
 今年、国際交流基金より神奈川県から初めての「地球市民賞」を受賞しています。
http://tmkobo.com/modules/d3blog/

 具体的な活動内容はぜひ、「神奈川県居住支援協議会」(事務局は「かながわ住まいまちづくり協議会 Tel 045-664-6896」)の「団地再生部会」の取り組みとして、今年2011年1月17日月曜日の午後、「かながわ県民活動サポートセンター」で開かれた事例報告で読むことができますので、なにも建て替えだけではない、こんな取り組みもあるのだ、ということの参考にお読み下さい:
http://www.zenrosai.coop/reconstruction/temblor/index.php
 
 また、明治学院大学社会学部の卒業論文で文学部長賞を受賞したのが野崎麻由子さん。「放置される子どもたち〜多文化共生社会における"居場所"づくりを考える〜」は素晴らしい内容となっており、卒論を書く学生諸君のお手本です。大学の公式サイトで読むことができます。指導教授は原田勝弘先生(ボランティアセンター長):
http://soc.meijigakuin.ac.jp/wp-content/uploads/2010/04/essay2005_03.pdf

 そして、また:

神奈川県大和市と横浜市にまたがる県営いちょう団地には、インドシナ難民や中国帰国、南米日系人など多くの外国人が住んでいます。そこで行われていた学習支援教室で出会った子どもたちが自分たちのグループを作ろうと、2001年に「すたんどばいみー」を結成しました。当時私は中学3年生でしたが、周りの外国籍のお兄さんやお姉さんは学校に行かなかったり、薬物に手を出したりしていて、高校や大学に進む人はいませんでした。私と数人の仲間は高校にも行きたかったので、自分たちでやれることをやっていこうと思い、作りました。
 「すたんどばいみー」で大事にしていることは「自分たちの言葉を自分たちで残していくこと」です。日本人からではなく、自分たち自身で話し合い、共感でき、自分たちを解放していく場を作りたいと考え、運営してきました。今、「すたんどばいみー」には20代のカンボジア人、ベトナム人、中国人、アルゼンチン人など15−6人からなる運営スタッフがいて、高校生教室、中学生教室、小学生教室に通ってくる在日外国人の子どもたちに勉強を教えたり、色々な相談に乗ったり、イベントなどもやっています

http://www.zenrosai.coop/reconstruction/temblor/index.php

 3.11で支援活動に入ったことにより、全労済の「東日本大震災 被災者・被災地の復興へ向けて」第8回目連載記事(2011年12月号)に載った外国人当事者グループ「すたんどばいみー」のチュープ・サラーンです。
 彼女は、1984年タイ・カオイダン難民キャンプで生まれ、5歳の時にインドシナ難民として家族と来日。2008年 桜美林大学国際学部国際学科を卒業。現在は日本大学大学院博士後期課程に在学し、母国カンボジアの女性問題を中心テーマとした研究に取り組んでおられます。

posted by fom_club at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月22日

いちょう団地

 12月22日木曜日、当時です。道理で寒いです。
 「エーシアン・アメリカン」ですか…。「エーシアン・ジャパニーズ」なんて聞いたこともありませんよね。

宮城県川崎町の柴田農林高川崎校で12月16日金曜日、東北大のマレーシア人留学生がマレーシア料理の作り方を教える授業が行われた。
 選択教科の「フードデザイン」の一環で、3年生15人が参加。東北大工学部4年のヌルジハ・ジョハリさん(23)、1年のシティ・アリヤ・モーシンさん(20)の2人が、ココナツミルクを加えて炊いた一般的なコメ料理「ナシレマッ」、小麦粉の皮でひき肉を包んで焼く軽食「ムルタバ」の作り方を指導した。
 マレーシアに多いイスラム教徒は豚肉や酒を口にすることが禁じられており、教義に反しない食材「ハラルフード」を調達した。
 授業に参加した3年の大松茉衣(まい)さん(18)は「マレーシア料理は唐辛子の量が多くて驚いた。ハラルフードのことも知ることができ、勉強になった」と話した

(2011年12月22日木曜日付け河北新報「マレーシアの味召し上がれ 留学生が高校の授業で料理指導」)
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111222t15025.htm

 マレーシア人って日本にどのくらい住んでいるのでしょうか、ね。外務省のサイトからは次の3点しか分かりません:

☆ マレーシアに住んでいる日本人、在留邦人数は9,142人(2009年10月現在)
☆ 日系企業数は1,425社(2010年7月現在)、製造業を中心にクアラルンプール近郊、ペナン州、ジョホール州を中心に各所に点在。
☆ 現在日本で学んでいるマレーシア人留学生数は、中国、韓国、台湾、ベトナムに次ぎ5番目に多い2,465名(2010年12月現在)に上る。このうちマレーシア政府派遣留学生が約1,300名を占めており、日本はマレーシアにとってイギリス、エジプトに次ぎ3番目の政府留学生の派遣先となっている。

(2011年7月付け外務省公式サイト「最近のマレーシア情勢と日本・マレーシア関係」)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malaysia/kankei.html

 でも、こんな団地も。

神奈川県のこの県営団地では、住民およそ8000人のうち、約半数の4000人が外国とつながりを持っています。実に、13の違う文化が交じり合っているのです。ここは、横浜市泉区にある県営いちょう団地です
(2011年4月21日更新宮嶋泰子「ボートピープル・ベトナム難民たちの今」)
http://www.tv-asahi.co.jp/announcer/personal/women/miyajima/essay/104.html

 宮嶋泰子って、テレビ朝日のアナウンサー。富山県高岡市生まれですが、鎌倉市育ちです。神奈川県立外語短期大学付属高等学校から早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。1977年4月1日に入社:

今から34年前、私が入社したとき、同期のアナウンサーはなんと9人でした。前代未聞の数といわれました。
 その中に、古舘伊知郎、渡辺宜嗣、吉澤一彦、佐々木正洋と、今、最も脂が乗り切って仕事をしている人たちがいます。4人いた女性は、私ひとりになってしまいました

ですって。

 そのいちょう団地からの報告記事のあとこんな感想を:

私が大学生だった頃、毎日のようにテレビでボートピープルのニュースが報じられていました。
 ベトナムから小さな船に乗って大海原を木の葉のように揺れながら、やっとの思いで日本の領海にたどり着いた人々のニュースでした。
 どれだけの人々が海で命を落としたことでしょう。
 そして、その危険を賭しても新天地に逃れたいという気持ちは、日本に到着してから報われたのでしょうか。

 2010年、日本はミャンマーから難民を正式に受け入れました。
 彼らはこれから日本でどのように生活をしていくのだろうかと考えるうちに、30年前に日本にやってきたベトナム難民の人々の生活をぜひ知りたいと思うようになりました。

 日本に帰化した人、家族を呼び寄せた人、ベトナム籍にこだわる人、帰化したくても法律の壁で帰化できない人、米国やオーストラリアに移住した人、また、移住したけれどアジアのほうが住みやすいと戻ってきた人、百人百通りでした。
 そして、それぞれ違いはあるけれど、皆たくましく生きていました。
 今という時間を、精一杯生きていました。

 国連難民高等弁務官駐日事務所の全代表、滝沢三郎さんは、「大切なことは、国の支援、地域自治体 の支援、さらにコミュニティーのNGOなどの支援がうまく回っていくこと」とおっしゃっていました。
 日本はいつの間にか多文化共生の社会になってきています。
 取材をしながら痛感したのは、まだまだ企業や行政など外国籍の人びとの生活を支える雇用面で理解が足りないことです。
 それと同時に、地域では少しずつ理解の我が広がっていることも知りました。
 そして、スポーツが相互理解のために大きな役割を担えることもよくわかりました。

 社会の中で生きる人間、そして、その中でスポーツが果たす役割などをこれからも見つめていきたいと思っています


 ぜひ取材の報告記をテレビ映像写真とあわせてご覧下さい!お読み下さい!考えていきましょう!!


posted by fom_club at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月21日

村上由見子

 いやぁ〜、今日12月21日水曜日、ヤッホー君は風邪でダウン。でも、そのおかげですごい歴史のある研究会と出会いましたので、ご紹介:

立教大学アメリカ研究所は、日本で最初のアメリカ研究機関として1939年に設立されました。
 設立以来当研究所は研究書・定期刊行物を収集し、立教大学の学生・教員はもちろん、それ以外の大学・研究機関の学生・研究者に向けて広く公開することで、日本におけるアメリカ研究を支援しています。
 現在、所員は立教大学に所属する教員や名誉教授など12人によって構成されています。
 当研究所はアメリカ研究資料の収集・公開活動の他に以下のような活動をしています。
 出版活動として定期刊行物『立教アメリカン・スタディーズ』を年一回発行。
 啓蒙活動として研究会・講座・公開講演会・公開シンポジウムを開催しています

http://www.rikkyo.ac.jp/research/laboratory/IAS/index.html

 来年の話しをすると鬼が笑うっていうけど、来年お正月14日、上記研究会は講師に本田量久氏(東海大学准教授)を招き、公開シンポジウムを開くようです。興味と感心がありお時間のある方はぜひ、参加申し込みされてください:

『商業文化と娯楽産業のイメージが強い「大衆文化」と違って、米国のポピュラーカルチャーは「多から成る一つ」を標榜するアメリカ社会で公共文化の形成に一助を果たしてきた。
 本研究会ではこうした観点から米国のポピュラーカルチャーと社会・文化の関わりについて史学、表象・芸術研究、社会学など多様な角度から光を当ててみたい。
 研究者、大学院生はもちろん、学部生や一般の方々の参加も歓迎します(要事前申込)』


 どうして来年の話しをすると鬼が笑うのかな?
 ヤッホー君のように、ムカシの話しばかりすると、鬼は泣いてしまうのかな。栃木県馬頭町に面白い伝承がありました:

『ムカシ、節分の夜に一匹の鬼がどこの家も泊めてくれず、困り果てて山の麓にある樵の家に泊めてくれるよう頼んだ。
 住んでいた二人の老人は快く鬼を泊めた。
 お礼に鬼は高価な鬼の褌をくれた。
 お婆さんが感謝し、来年もまた泊まって下さいと言ったら、鬼は笑いながら「褌がなくては来られません」と言った。
 だから来年の話をすると鬼が笑うのだという』
(国際日本文化研究センターの公式サイトより)
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/0970174.shtml

 話しをモトに戻しましょ。なんで、立教大学アメリカ研究所か、と言いますと、この公開講演会で、1998年度の「シンポジウム 文化はいかに国境を超えるか―人種・民族・国籍をめぐって―」で、村上由見子氏は、≪多文化主義時代と映像―ハリウッド映画の中のアジア人-≫と題して講演し、その内容は、『立教アメリカン・スタディーズ 第21号(1999年)』で読めるのでございます。

 このなかでWASP(White,AngloSaxon, Protestantの要件が備わってはじめてアメリカ人と見なされ、ほかはマイノリティと見なされる)にとっては、永遠のエイリアンなのでしょうね、「エイジアンアメリカン」です。とくに中国系移民についての半頁くらいの講演録は重要な歴史的記述ですのでおさえておきましょうね。

 ヤッホー君がアメリカに行っていて、一番いやな思いというのは、「黒人」をどう表現するか、でしたね、これは「アフリカンアメリカン」と言えば通じるみたいな、ね。ユーとかウイーだけでいいんだけど、曖昧ミーの世界になるとほら、言わねばならないことってあるでしょ、ヤッホー君の顔色だって肌の色だって、いくら合成洗剤入り石鹸で洗ってもさ、ほら、白さピカピカになんないでしょ。。。

 で、苦労したのが、ハリウッドの映画スター、アンナ・メイ・ウオンでした。映画スターですよ。

1907年にロサンゼルスのチャイナタウンで洗濯屋の娘として生まれた…
 自分のもとに持ち込まれた役で、彼女自身が興奮した役がたったひとつある。
 それは中国系アメリカ人の家庭を描いたミュージカル映画「フラワー・ドラマソング(1962年、ヘンリー・コスタリー監督)の中の母親役だった。だが皮肉なことにその出演が実現する前に、彼女はサンタモニカの自宅で心臓麻痺をおこして急死する…
 54歳の生涯を閉じるまで、一生独身だったという

(村上由見子『イエローフェース-ハリウッド映画にみるアジア人の肖像-』(1993、朝日選書、朝日新聞社)

By the war, Chinese-flavoured melodramas had gone out of fashion, and Wong with them. But in 1960, after two decades of relative obscurity, she made a faltering comeback, playing housekeeper to Lana Turner in Michael Gordon's slightly pervy thriller Portrait in Black. It was her last big-screen role and, four decades after her debut, the publicity employed a tiresomely familiar language. A press release attempted to explain her absence from cinema with a proverb, supposedly passed down to Wong by her mother: "Don't be photographed too much or you'll lose your soul." When asked in person, Wong's reply was very different: "I was so tired of the parts I had to play."
(Snakes, slaves and seduction - Hollywood used Anna May Wong to embody every Oriental stereotype in the book. But her talent shone through, says Matthew Sweet)
The Guardian, Wednesday 6 February 2008

 どうして成功した映画スターがヨーロッパに活路を見出さねばならなかったのか…、いろんな文献にあたって謎を解いてみましょうね、次の文もそのひとつです:

In the late 1920s, frustrated at being made to play too many characters with names like Lotus Blossom, Wong headed to Europe in search of more challenging roles. She later claimed that she had considered abandoning the industry altogether. "When I left Hollywood, I vowed I would never act for the films again," she told one fan magazine in 1933. "I was so tired of the parts that I had to play. Why is it that the screen Chinese is nearly always the villain? And so crude a villain-murderous, treacherous, a snake in the grass. We are not like that. How could we be, with a civilisation that is so many, many times older than that of the west."
(Lady defiance - Anna May Wong was determined to act. But the only role she could find in Hollywood was that of an exotic, villainous snake. So she fled to Europe - and became a star)
The Guardian, Saturday 13 March 2004

 ぜひ原語にあたってお読み下さいね。
 21世紀初頭に2冊もの伝記が出版されています(英文)。また村上由見子氏の上述の本は絶版となっていますが、そんなときは図書館!ぜひ探してお読みください。
 外資系とかTPPとか言ってきましたが、幕末の派遣団が議場に現れて姿を消したら一斉に爆笑、供笑嬌笑に包まれたなんてもっともなことのようで。 
 日本をどうみているのか、なんて言ったって、太平洋の向こう側は、皆んな黄色人種でいっしょ、サラダボールの中に入っている多の一つとしか思っていないというのは、ヤッホー君の現役時代の国際活動のひとつの結論でもあるんですよ。

 だからこそ、村上氏の次の文にナットクし、冒頭ですよ、上述の書の。すごいナットクするような出だしではございませんか。
 ですので、なんで氏が『ショック・ドクトリン』を訳そうとしたのか、ちょっとナットクしました:

日米関係が取りざたされるたび、私たちは常にアメリカ側の対日感情を気にしてきたものだった

posted by fom_club at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月20日

ショック・ドクトリン

 「書評」…いいですね、今日は、ちょっと風邪気味でお疲れ気味のヤッホー君、あんまり怒らず、肩に力をいれず、かといって本筋から離れること無いようにして、これまで引用してきた方々の経歴を確認してまとめ、早めに寝ることにします:

 書評、「ショック・ドクトリン(上・下)、ナオミ・クライン著、幾島幸子、村上由見子訳(岩波書店)、「新自由主義」デヴィッド・ハーヴェイ著、渡辺治監訳(作品社)、「新自由主義の復権」八代尚弘著(中公新書)
…立命館大学国際関係学部教授・高橋伸彰(1953年生まれ)

社会の危機に乗じ改革 利権狙う強欲さ正当化…
 これでニューオーリンズの低所得者用公営住宅がきれいさっぱり一掃できた――。
 ハリケーン・カトリーナによる惨状を前にしてアメリカの共和党下院議員が語った言葉だ。
 この発言を契機に、被災地のルイジアナ州議会には建設関係のロビイストが群がり始めた。
 行き場を失った被災者を尻目に、災害処理を市場チャンスと捉える「惨事便乗型資本主義」が公営住宅の再建よりも、公有地を活用した高級マンションの利権を狙って、公の領域に襲撃をかけたのだと「ショック・ドクトリン」でナオミ・クラインが糾弾する。同書によれば、こうした強欲な市場原理を正当化するイデオロギーこそ新自由主義であり、その教祖的存在がケインズ的な福祉国家を批判し続けたシカゴ学派のミルトン・フリードマンだと言う。
 フリードマンは「深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショックにたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、『改革』を一気に定着させてしまう」経済的ショック療法のススメを、40年近くにわたり説いてきた。その最初の実践が、もう一つの9.11と言われている1973年9月11日に、ピノチェトがチリで起こした軍事クーデター直後の経済改革だった。ピノチェトはクーデターのショックでチリ国民が混乱してる間に、民営化、規制緩和、貿易の自由化、および福祉・医療・教育予算の削減など、市場原理的な改革をフリードマンのアドバイスにしたがって一気呵成に推進したのだ。
 フリードマンにとってショックは改革のエンジンであり、改革のためなら政治的にショックを作り出すことも厭わない。その意味でレーガンが執った航空管制官のストに対する強攻策も、サッチャーによる炭鉱労組との徹底対決も、労働者にショックを与えて権力者(資本の増殖)に有利な雇用の規制緩和を進めたという点で、災害やクーデターと同じショックだったとナオミ・クラインは喝破する。
 資本主義に批判的な経済学者デヴィッド・ハーヴェイも「新自由主義」で、新自由主義の「ショック療法」は「当初から階級権力の回復を企図していた」と言う。自由化や流動化といった新自由主義の定番メニューで労働者にもたらされたのは「賃金の引き下げと雇用の不安定化」であり、その一方で大企業には「利益をあげるための無制限の市場的自由」が与えられたと言うのだ。
 これに対してフリードマンを支持する八代尚弘氏は「新自由主義の復権」で、「他人の所有地に無断でごみを捨てれば賠償金を請求されるが、これはごみの投棄者と土地の所有者との間での、一種の市場取引である」と述べる。
 言うまでもなく、ごみの不法投棄は犯罪であり、賠償金は市場で決まる価格ではなく法律に基づく罰金である。
 八代氏は「新自由主義の思想は、強者が弱者を淘汰するジャングルの掟からはほど遠い」と反論するが、犯罪まで市場原理で決着しようとする新自由主義の思想こそ本来の自由からほど遠い「ジャングルの掟」ではないだろうか

(北海道新聞「現代読書灯」2011年10月16日朝刊)
http://www.juris.hokudai.ac.jp/csdemocracy/ronkou/takahashi111016.html

 この先生は1953年生まれ、次の方は4年下、大学でいうと卒業した年に入学してきたことになりますが、いまは内閣総理大臣!

『野田佳彦(のだ よしひこ、1957昭和32)年5月20日生まれ。日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(5期)、内閣総理大臣(第95代)、民主党代表(第9代)。千葉県議会議員(2期)、民主党国会対策委員長(第7・10代)、花斉会会長(初代)、財務副大臣、財務大臣(第14代)などを歴任した』

 一方、藤井聡(ふじい さとし)先生は、1968年10月15日生まれ。工学者。専門は国土計画論、土木計画学、都市計画、公共政策のための心理学。東京工業大学大学院理工学研究科教授等を経て、京都大学大学院工学研究科教授。表現者塾(西部邁塾長)出身。

 そして、碍子系の平野秀樹先生は、1977年九州大学卒業。国土庁防災企画官、大阪大学医学部講師、環境省環境影響評価課長、農水省中部森林管理局長等を歴任。博士(農学)。日本ペンクラブ環境委員会委員。

 さらに、吉田文彦(よしだ ふみひこ)は朝日新聞論説委員。外報部・科学部・経済部記者、ワシントン特派員、ブリュッセル支局長などをへて、2000年より現職。1980年に東京大学文学部英米文学科卒。1984-85年に米ジョージタウン大学MSFSフェロー。2007年に大阪大学より博士号(国際公共政策)取得。

 幾島幸子(いくしま さちこ、1951年―)は、翻訳家。東京都に生まれる。早稲田大学政経学部卒業。子供をテーマにした本、児童書のほか、強姦批判など社会的評論の翻訳を行なう。

 ところで村上由見子…「現代の気になる書き手のおひとりだそうです:

『日本の女性にはオードリー・ヘプバーンのファンが極端に多い。ご多分にもれず私もそうなのだが、「ティファニーで朝食を」を見直すたびに、オードリーの魅力にうっとりとするのと同じくらい、ユニオシという東洋人の役に考え込んでしまう。
 彼の持つイメージへの一考もなく、日本人の女たちがオードリーやティファニーに単純に憧れてしまうとしたら、それはどういうことだろう…。素朴な疑問がわく。
 日本国内での社会的環境を考えると、一般的に私たちは自分をアジア人だと実感したり、汎アジア的な感覚を持つには程遠いのではないか。

 数年前、「イエロー・フェイス」が刊行された時には、待ってましたとばかりにうれしかった。
 副題の「ハリウッド映画にみるアジア人の肖像」の通り、これはアメリカの映画産業におけるアジア人のイメージを社会的な文脈で探る画期的な書である。
 「ティファニーで朝食を」はもちろん、膨大な数の映画が網羅されている。

 日系人のルポを皮切りに、アジア系アメリカ人をテーマにおく書物を著してきた村上由見子氏は、現代の気になる書き手の一人である。
 彼女の新刊はずばり、「アジア系アメリカ人−アメリカの新しい顔」。
 1994年からカリフォルニアで過ごした研究生活をベースに、アジア系アメリカ人の最新報告をまとめた』
(異文化ジャーナリストあわやのぶこ「アジア人のイメージを探る」)
http://www.crn.or.jp/LIBRARY/BOOK/9712_2.HTM

『イエロー・フェイス-ハリウッド映画にみるアジア人の肖像-』(朝日選書、村上由見子、1993年)
 80年以上の歴史を持ち、アメリカ文化を象徴する存在、ハリウッド映画。その作品の中で東洋人はどのように描かれてきたか。戦争プロパガンダから恋愛映画まで数多くの作品を題材に、背景にあるアメリカ社会と東西関係の変転の実像に迫る…。

posted by fom_club at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月19日

惨事便乗型資本主義

 吉田文彦に「地球360°」というコラムがあります。
 2011年10月11日付け「ショック・ドクトリン」の衝撃、です。
 削除される前に載せておきますね:

傍若無人な「惨事便乗型資本主義」を、カナダのジャーナリストであるナオミ・クラインが自著『ショック・ドクトリン』(岩波書店)で厳しく追及している。
 国内総生産(GDP)で中国に追い抜かれたとは言え、世界水準から見れば豊かな国である日本でさえ、東北の復興は一大事業である。
 貧しい国・地域が大災害で打ちひしがれた時に、自力復興がなかなかむずかしいのは想像に難くない。
 自然の猛威に加えて、「惨事便乗型資本主義」が追い打ちをかける、という例はたくさんある。しかも、自然災害後に限らない。
 著者のクラインによると、「惨事便乗型資本主義」はもともと、政変や戦争などの危機的状態につけこんできた経緯がある。人びとがショック状態や茫然自失状態から自分を取り戻し、社会・生活を復興させる前に、過激なまでの市場原理主義を導入し、経済改革、利益追求に猛進する。
 「惨事便乗型資本主義」による「ショック・ドクトリン」の遂行である。

 古くは、1973年の軍事クーデターで独裁体制を打ち立てたチリのピノチェト政権の時代に、「惨事便乗型資本主義」が跋扈(ばっこ)した。
 「小さな政府」主義が金科玉条となり、公共部門の民営化、福祉・医療・教育などの社会的支出の削減が断行されて、多くの国民が窮地に追い込まれた。
 2003年に始まったイラク戦争のあとにも「惨事便乗型資本主義」が一気呵成に入り込んだ。混乱のなかで、治安維持やテロ対策にまで民間企業が入り込む徹底ぶりだった。
 
 ただ、自然災害からの復興における理想的パターンとして、クラインは、住民の直接参加による復興を挙げる。
 たとえば、スマトラ沖地震後のタイの沿岸部の事例だ。
 漁民たちが立ち上がって「惨事便乗型資本主義」の悪弊拡大を食い止めた。
 この動きで活躍したタイ地域連合の代表は「外部の業者の参入を排し、地元社会が責任を持って復興を行うのが望ましい」との声明を出している。
 東日本大震災後の東北の復興計画においても、こうした成功物語を参考にしていく必要があるだろう

http://www.asahi.com/eco/forum2011/earth360/TKY201110110338.html
 
 事態は逆に、地元社会でなく、外部の業者、外資を呼び込もうとしているのではないのでしょうか…
 この本も購入して読みましょうね、できれば原典を購入して辞書を引き引きでも呼んでいきたいものですう:
○『ショック・ドクトリン〈上、下〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン、幾島幸子(翻訳)、村上由見子(翻訳)、岩波書店、2011年
○ The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism(ペーパーバック)Naomi Klein、2008、Reprint

In THE SHOCK DOCTRINE, Naomi Klein explodes the myth that the global free market triumphed democratically. Exposing the thinking, the money trail and the puppet strings behind the world-changing crises and wars of the last four decades, The Shock Doctrine is the gripping story of how America’s “free market” policies have come to dominate the world-- through the exploitation of disaster-shocked people and countries.
http://www.naomiklein.org/shock-doctrine

 そうなんです。キーワードは「民主主義的に」なんですよねえ。ゲンパツだって、ダムだって地域自治体が承認したもんだし、選挙で選ばれた議員による議会決議で首長が誘致したのですから、落ち度はないと言ってるわけだし、自己があったって、トウデンもカイシャが倒産しないし経営者が逮捕されることもないし、ゲンパツをつくったメーカーの責任も謝罪も補償も問われないわけだし、どじょうは現場も見ていないのに、自己はシュウソクしたと大本営発表するわけだし、なんだか不思議な感じ、NHKですよねえ。

 ぜひ読んでみましょう。またこんなことを報告してくれているブログもありますのでご紹介:

ジョージ・ブッシュ一族やオバマ大統領やいまの米政治家は「アメリカ憲法などただの紙切れだ」という時代となったからである。
 いまでは、街頭演説にマイクロフォン(拡声器)を使うと御法度、即刻現行犯逮捕だという
 だから、「オキュパイ、ニューヨーク」でもマイクロフォンは使えない。
 そこで考え出されたのが「人間マイクロフォン」だという。
 「ショック・ドクトリン」の著者、ナオミ・クライン女史が「オキュパイ ウォルストリート」に駆けつけた。
 そこでの「人間マイクロフォン」による、街頭演説である

(2011年11月8日更新「井口和基の公式ブログ」)
http://quasimoto.exblog.jp/16562628/

posted by fom_club at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

災害資本主義

 碍子、瓦石、と「がいし」にいろいろあれど、外資!
 いやあ、びっくり、「災害資本主義」ということばにはびっくりしました。
 京都大学大学院教授・藤井聡先生の『被災地を「壊死」させないために』という論をぜひ皆さん、いっしょに傾聴しましょうよ:

例えば、2004年のスマトラ島沖地震・インド洋大津波の時には、これを好機と捉えた大資本家の手で被災地に大リゾートが造成された。
 2005年に米南部を襲ったハリケーン・カトリーナの際には、奇貨居くべしと見た大資本家の圧力を受けて、100校以上もの公立学校が廃校にされる一方で、20校以上もの私立学校が大資本家たちによって新設されたという…
 これらは全て、経済はできる限り市場に委ねるというミルトン・フリードマン氏ら「新自由主義」の経済学者たちの理論に基づいており、実際、同氏はカトリーナの時には、前述の「構造改革」を米政府に直言している。そこには、大資本家たちが天災を商機と捉えて、自らにとって都合の良い学者たちを使いながら、政府に圧力をかけ、新しい商売を始めるという構図も透けてみえるのである


 これはどじょうすくい(ほんとは松下塾出身を頬っかむりで隠しているだけだし、票田、サポーターは大企業の労働貴族!)の野田佳彦が「復興特区法」を国会に提出して、成立させた「復興のために被災地に特区を」という趣旨に懸念を示したもの。
 つまり、自民党以上にネオリベ的な内容をもつ民主党は、要するに被災地で構造改革、規制緩和を徹底して推進すると同時に、外資も含めた大資本家からのさまざまな投資を呼び込もうとするものである、と警告しているのですう。

同法には、政府がもともとやりたかった「特区による構造改革」を、災害復興に乗って進めてしまおうという、「災害資本主義」の側面もありはしないか。
 であるならば、その果てにあるのは、「ふるさと再生」などではないだろう。その代わりに、東日本大震災の被災地に、「外資も含めた資本家たちの営利目的のために好きなようにいじくり回された土地」がつくり上げられてしまうことが、懸念されてくるのだ。
 むろん、読者の中には、それは可能な解釈のひとつに過ぎないとお感じになる方もおられるかもしれない。しかし、この解釈が当たっていれば、復興特区法と、それに基づいて実施される復興事業が、被災者たちに大いなる不幸をもたらすことは避け難い。
 そのような危惧が現実にある以上、今、求められるのは、その懸念をひとりでも多くの国民が冷静に吟味することではないのか

(産経ニュース 2011.12.16 02:53更新 全4ページ)
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/fujiilab/fujii.html

要するに、現政府は被災地を「見捨てて」いるのだ。
 無論、政府はその事実を認めないだろうし、仮に問い詰めたとしても「復興に鋭意取り組んでおります」と反論されるのがオチだろう。
 しかし、政府が何を口にしようとも、彼等の振る舞いは腹の底で「見捨てよう」としていることを明々白々に物語っているのである。
 しかも恐ろしいことに現政府は、この天災を「もっけの幸い」とばかりに、自らがやりたいことをやるための「好機」と捉えている節すら伺える。
 そもそも現政府は、昨年に「包括的経済連携に関する基本方針」を閣議決定している。
 これらはTPP等を諸外国と取り結ぶと共に、国内にて農業改革を推し進め、さまざまな産業における規制の緩和・撤廃を行ない、そして海外からさまざまな投資を呼び込もうとする方針だ。
 そしてこれに基づいて「総合特別区域法」が国会に提出され,今年2011年6月に可決されている。
 これは上記の「基本方針」を容易に実現し得る「特区」をつくるというものである。

 つまり、この政策方針や特区は、政府が震災以前から「やりたい」と考えているものだったのである。

 つまり、あっさり言うなら、政府は「もともとやりたかったいろんな改革」を「被災地でやってしまおう」と考えているわけである。

 無論、政府は「この改革こそが、被災地に必要だ!」と声高に主張するだろう

(WILL 2012年12月号寄稿原稿からの抜粋、同じく公式サイトから入っていけます)

 先生は、『今は、外に打って出るのでなく「普通の人が普通に暮らせるため」に内を固めるべき時』と明言されています。ヤッホー君もそう思います!!この明言は『日本再建救国講演会』緊急集会(2011年11月27日)配付資料にでてくる表現ですが、ほんとうに皆さん、そうは思いませんか? 先生のビデオもありますので傾聴しましょう:
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=uZ7esxrGSh8

僕は大学の人間です。
 全部の大局の中で、我が日本はどうするのか、ということを、恥ずかしながら口舌の徒なので、申し上げるしかできないんです。
 僕の言っていることに間違いがあれば直しますが、今少なくとも僕はこれが正しいと信じています。
でも、これを実現する力は、残念ながら僕にはないんです。
 口舌の徒として本に書いたり、こうしてお話するしかない。
 だからこそ、政治の力が本当に今必要なんです。

 僕はこう思います。
 僕には選挙権があります。この先生、立派だと思った人に投票します。
 僕には口があります。この先生が立派だと思えば、応援してくださいと言ってまわることもできます。
 言論の自由があるわけですから。

 そして、実はそれ以外に僕たちは、被選挙権をもっているわけです。しかし我々はそれを放棄している。被選挙権を放棄した人間が、
「自民党もダメだから民主党にやらせたけど、民主党もダメ、でも自民党もダメだし、ほんと日本てダメだよな」なんて言うやつがいたら、「じゃあ、おまえが出ろよ!」という話なんです。

 被選挙権を行使しないで放棄している以上、誰かを応援する責任があると思います

(pegiminのブログからです。西田昌司議員の第2回東京政経セミナーでの講師、京都大学の藤井聡教授の発言内容です。かなり省略してあります。これも先生の公式サイトから入っていけます)
http://ameblo.jp/pegimin/entry-11073381728.html

posted by fom_club at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月18日

平野秀樹

 与えられた目標の実現に向かって、「国民」のためにジコの死を賭して実現に努力することがジコの労働の対価、報酬、昇進にもつながる「仕事」とするなら、その路線から逸脱してしまえば、それはその属するムラからの追放、ムラへの決別、となり、忍耐、我慢、甘受を「国民」の美徳とする文脈では、ひたすらじっと耐えることが「国家」「国民」への忠誠心の証しで、それ以外は完了のあずかり知らぬところ、となるのでしょうね。
 ひとり、見っけ。
 でもヤッホー君が会って面接したわけでないので、脱藩か、転進なのか、渡りなのか、なんとも分かりまへんけど…

これは2011年7月25日に信州大学工学部(長野市)で行われた平野秀樹氏(東京財団研究員)の講演「日本の水源林の危機−グローバル化時代の流域環境の展望」から組合員さんへ情報提供したい部分を抜粋、箇条書きにしたものです。
 実態については、グローバルな問題であることや一般に公開されていない情報が多いため、非常に掴みにくい様子でした。しかし講演では具体的な事例もお話いただき、また対する日本の制度の不備ともいえる驚きの実態をご報告いただきました。

@ 外資による日本国内の土地の取得の実態について
・3700haの山林を取得している(表面化しているものはほとんど北海道)
・登記は変えずに税金だけ払っている可能性も
・北海道では集落ごと買われている
・九州ではチップセンターとして事業展開している例もある
・リゾート開発からの延長という形がとられることもある
・行政は産業振興といった意味で推進の立場にあることも、ヤフーオークションで行政が島嶼を売却した例も
A 外資の土地取得の目的
・投機(安く買って高く売る)。世界への分散投資のうち、ひとつが日本の森林?
・山林は木材、水などが主要な目的
・日本の森林の再生力は魅力→ほっておいても山になる
・森林は自然資源のため、安心・安全
B 日本の土地所有の問題
・日本は土地所有者の権利が世界一強く保護される国である(所有者が日本人でない場合も同様)
・土地の売買自由。国籍条項なし
・ 日本人以外が土地を所有しようとする場合の制限や義務はない。地方税法では、国外の主体が土地を買うと納税管理者を設置せよとあるが義務ではない。但し農地は第三者(農業員会)がチェックしている
・外国は、所有しても行政が介入できる仕組や取得の制限がある
・山林買収の予算は高くない。しかし林業が低迷しているので売却する所有者も
・地籍の51%が不明(国調の進捗が遅れている)、そもそもの実態が明らかでない可能性
C なぜ外資が地域の土地を所有することを危惧するか
・外資が取得→買収・合併の恐れ→外資から外資へ所有が移る恐れ、地元の人が所有者がわからない状況がうまれる可能性
・行政が税金を徴収できない
・地下水、温泉の源泉の独占、環境汚染
・自然や住環境の悪化
D 現状の対策と今後の取組
・国は森林法など法律で法制化しようとしているが時間がかかりそう
・都道府県や市町村では条例化して事前届け出制や許可制などにして状況把握に努める動き 
・東京都は水源の森林を400ha取得予定
・ニセコ町は5月から条例で外資から水源林の買戻しを実施中
・国土調査を促進する
・水源等地域にとって重要度の高い森林の把握(ゾーニング)が必要である。重要度の高い森林は必ず守る
・県、市町村の条例で手当てすることが一番早いのではないか
・今後の外資からのプレッシャーは西日本へ

 もっと知りたい方は、講師の平野秀樹氏の著書をおすすめします。
 『奪われる日本の森』(新潮社、2010年)
http://hanishinrin.or.jp/kumiaiin_t1.html

 地域の資源は地域の人がより良く生きるために利用されるべきであると再認識しました。そのためには今の制度では不十分であることがわかりました。
 現在の土地所有情報は、明確には国も把握できていないととのこと、また土地所有者の権利に世界一手厚いことにも驚きました。
 そのことが、森林計画、都市計画などの実効性を薄めていることも事実です。今後、国籍も超えた所有者が出現した場合に、地域に生きる人たち や日本人にとって有用なより良い地域づくりにどの様に関わるのかいささか不安もあります。
 ひとまず地域の水源や生物多様性、資源が豊富であるなどといった箇所を把握して、地域の人に役立つ山を大事に考えなければならないと思いました

(2011/7/29更新 飯伊森林組合サイト「外資による日本の山林買収の実態と狙い」より)
http://hanishinrin.or.jp/kumiaiin_t1.html

『水源林の保全という観点からは、単に資本が外資か否かのみで規制の必要性の有無を判断するのは妥当ではないが、外資については、より管理の必要性が高いと解される。この点、外資の水源林を含め水源事業の買収活動について、政府として把握しているか』
(2009年6月16日 岩国哲人 提出 質問第551号)

『「外資の水源林を含む水源事業の買収活動」が具体的に何を示すかは定かではないが、外国資本による森林買収について、農林水産省において、昨年2008年6月以降、全都道府県などから情報収集を行なったいるところであるが、現在のところ、そのような事例は確認されていない』
(内閣衆質171 第551号 2009年6月26日、内閣総理大臣麻生太郎)。

『つまり外資による買収事例を政府はつかみきれていない』

(平野秀樹、安田喜憲法『奪われる日本の森』2010年、新潮社)

(ヤッホー君曰く、つかみきれていないというか、たとえつかんでいても、頬っかむり、知らん振り、完了は海の向こうを見て仕事をしているのでしょう!)

『<霞ヶ関>は、机上で最大公約数的な課題を設定し、政策化し、機械的に予算を配分する。住民の顔がのっぺらぼうで一人ひとりの顔が見えていない。
 ところが辺境に行くと一人ひとりの顔がはっきりと見え、政策効果が分かる。おまけに何度も通いつめるとこれからのあるべき日本人の顔かたちや輪郭まで何だか分かってくる…』

(佐野眞一責任編集、『宮本常一』所収、平野秀樹「辺境対策からみた宮本常一」(河出書房新社、2005年)

 山歩クラブも山歩きだけでなくそこに住まう人間、動植物との交流、そこに湧く水や湯、そこに育つ作物、そこの水やお米でつくったお神酒を月に一度か頂いて都会に戻る、帰る、明日の英気を養うんだと飽きずに言ってきて10年です。
 中央のマネーや、ファンドや、キャピタルでけっしてない、生への営みに触れてこそ、人間の顔をして息遣いができる、となんとかバランスを保とうとしてきましたよねえ〜。

posted by fom_club at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

浅川ダム

 ヤッホー君は「なんとなく変な感じ」NHK 気分なわけですが、田中康夫といえば、NNK 「なんとなくクリスタル」でしょう!あっ、本題に入ってこのモト長野県知事は、1956年東京都に生まれですが小学校2年から高校卒業までを長野県で過ごしまして、一橋大学法学部を卒業します。大学在学中に書いた『なんとなく、クリスタル』(新潮文庫)で1980(昭和55)年度の文藝賞を受賞。
 そしてWikipediaによりますと、『2000年、長野県知事選挙に出馬し、当選。「脱ダム」宣言は、2001年2月20日に公式に発表され、ゼネコン主導の乱開発を否定するものとして多くの好意的な反響を呼んだ。2期務めるが、3選を目指した2006年知事選では、落選』という経歴の持ち主でした。

 いま、田中康夫は…
『「ダム検証のあり方を問う科学者の会」は12月1日、東京・永田町で討論会を開き、治水・利水などの専門家7人が研究成果を発表した。民主党国会議員や「脱ダム宣言」の田中康夫・新党日本代表も飛び入り参加し、八ツ場ダムの建設中止を訴えた。
 会には今本博健・京大名誉教授(河川工学)、川村晃生・慶大教授(文学)ら11人が呼びかけ、全国の学者124人が賛同する。国交省の有識者会議に討論会を求めたが断られ、八ツ場ダムの「問題点」を報告する独自討論会になった。
 討論会で、再検証の仕組みを決めた国交省の有識者会議への批判が続出。今本名誉教授は「『ダムに頼らない治水』で始まったのに、逆の結果を招いた。有識者会議は河川官僚のわなにはまった」と述べた。
 大熊孝・新潟大名誉教授(河川工学)は「吾妻渓谷は極端に狭く、水が流れにくい。人工的なダムでは治水効果が乏しい」と指摘。奥西一夫・京大名誉教授(防災地形学)は「建設予定地は過去に地滑りが起きており、今後、対策費は増える」と警鐘を鳴らした。
 田中康夫代表は「八ツ場の現状は『口先番長』の前原さん(民主党政調会長)の責任が大きい」と述べた』
(2011年12月02日付け朝日新聞 「科学者の会」中止を訴え)

 ところが、開発官僚、河川官僚は、猪突猛進で60年前の決定事項の実現という目標地点目掛けてまっしぐら。
 どこか雲の上で決まった「目標」を批判したり、否定したり、代案を考えたり、サボタージュ、ブレーキ役を果たしたり、良心的兵役拒否でもする素振りでも示したら、ムラ社会からムラ八分、完了宣言されてしまうわけで、ひたすら「国民」のために長時間労働するわけですう。
 おそろしや、おそろしや、これは完了ばかりでなく、昨今のカイシャ人間にも当てはまるのでは、とヤッホー君は背中が急に寒くなるのです。あのノルマ主義、数値目標の最大化、目標達成への競争、成果報酬、、、

建設中止か継続かで検証対象となっていた八ッ場ダム(群馬県長野原町)について、政府は建設継続の方向で最終調整に入った。政府関係者が12月17日土曜日明らかにした。 来年度予算案に工事費を計上するため、12月22日木曜日までに決定する方針。民主党側には建設慎重論がなお根強いが、政府側の意思を尊重せざるを得ないとの声が広がっている。
 前田国土交通相は12月16日金曜日、「有効な代替策が見当たらない中で、造らないのは無責任だ」と語り、建設継続に強い意欲を示している。政府関係者は「前田国交相の判断で決まる話だ」と述べ、前田氏の判断が政府方針になると指摘した


 ね、早過ぎるでしょ、この情報拡散の速さはSPEEDIみたい。「関係者」の言葉が即、匿名のまんまメディアの風邪に乗って飛んでいくのですから…。
(読売新聞 12月18日日曜日 3時3分配信「八ッ場ダム建設中止を撤回、予算計上へ」)

 トップの聖児判断でも、ムラを牛耳っている完了は、ほら、議会とか業者とか陳情とか「民意」というゼニカネをバックにしているので、民の声に貸す耳はもっていないんですう:

田中康夫知事の「脱ダム宣言」で中止が決まった浅川ダムは、自民党が支持した村井知事の登場により復活し、昨2010年3月、本体工事に着工しました。昨夏の知事選で民主党の支援を受けた現在の阿部知事も浅川ダムを見直すことはなく、2011年9月13日にはコンクリート打設が始まりましたが、ここにきてようやく本格的な地質調査を行なうことになりました
(八ッ場あしたの会 2011-10-02更新 長野県・浅川ダム、本体着工後に断層調査)

 ところが、ね、早過ぎるでしょ、もう、調査結果はでているんですう:

長野県が2016年度の完成を目指す浅川ダム(長野市)建設地の断層について、現地調査した地質専門家が10月31日午前、結果を県に報告し、「活断層とは言えない」と評価した。
 調査した産業技術総合研究所の佃栄吉副研究統括は、断層上部にある地層が曲がっている形跡などを指摘したが、「繰り返し活動して地震を起こすという定義からすると、活断層ではない」と説明した。さらに、この地域の一番のリスクが、ダム建設地も通過する長野盆地西縁断層による地震とした上で、「今後300年地震が起きる可能性はゼロに近い」と話した

(産経新聞 2011.10.31 10:52配信「活断層の可能性否定 長野・浅川ダム建設地「300年地震起きる可能性ゼロに近い」)

 そういえば、田中康夫と同じく一橋大学出身で在学中に文学賞を受賞して政治家になったもうお一方がおられますよね:

東京都の石原慎太郎知事と国民新党の亀井静香代表らが12月20日火曜日、都内で新党結成をめぐり会合を開くことが12月17日土曜日、わかった。複数の関係者が明らかにした。石原氏を「代表」とする新党の主要政策や今後の進め方について意見交換する。ただ、亀井氏が目指していた年内結成は困難で、参加者の数も不透明だ
(産経新聞 12月17日土曜日 17時39分配信)

 そう、石原氏は「1932年兵庫県生まれ。一橋大学在学中の1956(昭和31)年に『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる」。そうですかあ…

posted by fom_club at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月17日

泰阜村

 ヤッホー君のこのブログ、12月1日の日記「中川志郎」で「日本環境教育学会」を紹介しましたが、その会員に同志社大学の西村仁志先生(1963年京都生まれ)がおられます。

私の知人の辻英之さんがこのたび「奇跡のむらの物語〜1000人のこどもが限界集落を救う」を出版されました。ぜひご覧頂きたく紹介します。
 彼は、長野県の泰阜村(やすおかむら)で「NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター」を経営しています。私の自然学校研究においても重要な事例で、訪問調査にも行かせていただきました。
 泰阜村は長野県の南部にある人口1900人という山村ですが、松島村長のリーダーシップのもと、自立した村づくりに取り組んでいて、それに共鳴した田中康夫(元)知事が住民票を移したというエピソードで注目されました。
 天竜川流域の深い谷で刻まれた山あいの村で、田畑にする平地にも恵まれない、きびしい環境にあります。
 NPOグリーンウッドはここでのサマーキャンプや山村留学に取り組んでいて、25年になります。
 いまや20名近い雇用を生んでいて、村役場に次ぐサイズの事業所に成長しました。すでに村づくりには欠かせない存在となっています

http://www.colorsjapan.com/blog/

 「限界集落」という言葉を、都心の団地をめぐる記述で過日使いました。では泰阜村はどんなムラ?

『今なお国道が通らず大型バスも入れない。おそらくこの先も国道は通らないだろう。交通死亡事故はもう何年前に起こったか覚えていない。コンビニはおろか信号すらない。
 村の高齢化率は40%前後に達し、若者の流出にも歯止めがかからない。

 ところが、2003年の「合併に関する住民意識調査」では、村人の6割以上が「この村で自立したい」と答えた。合併反対の「為政者に任せる」の2割とあわせれば、実に8割の村人が「こんな村いやだ」と言わなくなっているのだ』
…辻英之編著『奇跡のむらの物語』(2011年、農文協)「はじめに」

 そんなムラ社会も3.11、揺れがあったのです。筆者の辻さん(1970年福井県生まれ、北海道大学教育学部卒、体育の教員になる前に2年ほど学校の外にある学びの場で研修したいと、1993年泰阜村にIターンし、そのまま18年も住み続けてしまったそうです)は、すぐに村長に連絡をとったそうです。

『「村で避難民を受け入れてはどうか。そして子どもだけでもというニーズがあれば≪だいだらぼっち≫で受け入れる、どうだろうか」
 村長は、即答した。
 「泰阜村ができることは限られている。村は義捐金を出すよりも避難民や子どもを受け入れる。グリーンウッドの出番だろう」
 わが意を得たりとはこのことか。義捐金をいちはやく出したり、避難民の受け入れをよりはやく表明することも大事だが、身の丈にあった支援を地道にすることが泰阜村の支援策であった』

…同書。第7章『見よ、山村の底力』
 
 そしてその成果は、そもそも奇蹟の物語ってどんなんや…、ぜひこの本をお買い求めの上、お読みください! 
 それにしてもこの「NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター」ってどんなとこ?

どんな立派に葉を茂らせている木でも根っこが弱ければ、嵐や災害で倒れてしまいます。
 昨今は、スキルやテクニックの力ばかりを伸ばしている風潮はないでしょうか。
 学力があっても自立できない。
 体力、行動力、段取り力など身に付けても、その力を人のために使うのか、それとも…。
 身に付けた力を発揮するには、正しく使うための心が必要です。
 
 こどもたちの人生も親から手を離れ、1人で船出をするためには、太く、長い丈夫な根っこを持つことが大切です。
 しっかり育った根っこの分だけ、木は枝を伸ばし、葉を茂らせ、実を生らせます。
 人生を生み出していくこと、身に付けた力を社会のために使うこと。
 それには、「感じる心」、「楽しむ心」、「生み出す心」が必要なのです

(山村留学・だいだらぼっち、だいだらぼっちで大切にしていること)
http://www.greenwood.or.jp/daidara/d-006.htm

posted by fom_club at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大石武一

 ダムは駄目、ダムはひっくり返せば無駄、そもそも計画の必要性がなかったことを地域の人びとも、学者も口をそろえているのに事業計画を白紙撤回することはできないとのメンツだけでここまで来てしまったあの「八ッ場ダム計画」が正念場を迎えているようです。

 これは60年前!
 さらにもっと遡ってヤッホー君の生まれていなかったころのカスリーン台風の襲来にまで遡るんだって、ビックリ!
 この台風は1947(昭和22)年のカスリーンなのか、キャサリンなのか(アーサービナードさんはカス、滓、粕でなくキャサ、華奢と呼んでおりましたがアーサーくんも経験はありません。その台風襲来で1952(昭和27)年に計画が発表されたものなんですう。
 
国土交通省は16日、事業継続の是非を検討していた八ツ場ダム(群馬県長野原町)の建設を再開する方向で調整に入った。前田武志国交相が来週にも最終決定する見通しだが、民主党は2009年衆院選マニフェスト(政権公約)で八ツ場ダムの中止を打ち出しており、建設再開は公約違反との批判を招きそうだ
(時事通信 12月17日土曜日 1時4分配信、八ツ場ダム、建設再開へ調整=来週にも最終決定―国交省)

 こういう行政姿勢で仕事をしているお役人がニュースになるので、痴呆文献とか小さい正負とかこのクニの人にほんとうに雇用、福祉、医療、子育てのように必要な仕事まで、聖児主導とか言われて「民でできることは民で」なんて、できなかったら「ハイそれまでよ〜」なんて無責任で放ったらかしの荒廃したクニの姿になってしまう… ほとほとあきれてしまいませんか、皆の衆。

 本音で語ってくれるので、ヤッホー君がもっとも信頼しておられるお医者さんはこんな記事を見つけて、ほらやっぱりなって、やっぱり、「仕分け」は、官僚の書いたシナリオ通りのヤラセであったのか、肩を落とされています。

『「事業仕分け」から「提言型政策仕分け」へ名前を変えても、中身はやっぱり財務省のシナリオ通りということがハッキリした。蓮舫行政刷新相が、12月9日の記者会見で、仕分けに官僚が書いた“アンチョコ”があったことをシブシブ認めたのだ』
(日刊ゲンダイ2011年12月13日(火)10時0分配信「蓮舫行政刷新相も問責されるべきだ」)

 政権交替をあれほど推してくれたのは、官僚でも同僚でもなく、民の声だったのだから、民が主人公なのだから、堂々とこちらに顔を見せてくれればいいのに、そうはしない、やっぱり、議員になるとただの人とは懐具合がぽっかぽっか暖ったかいから、昨日会ったホームレスのおばあさんなんかは自己責任でしょ、とご自分の収入源は手放したくないんでしょうかね、この卑怯者、裏切り者めが、とヤッホー君も朝からいきり立っております。きっと冬型の気圧配置のせい…
 まずは先生のお怒りから:

日本の形を左右する政策の決定が、このようになされて良いものだろうか。
 以前金融庁に行政指導を受けたBNPパリバ証券の人間も「仕分け人」になっていた。他の仕分け人も一体どのような素性の者なのだろうか。
 そうした人間に、ごく簡単な議論だけで、国の重要事項を決めさせる、スキャンダル以外の何ものでもない。

 財務省官僚は、自らのシナリオに沿った国家予算に何としてもしたいと考えたのだろう。行政の権限を逸脱している。
 また、医療経済調査に見られるように、データを意図的に改ざんした。また、同調査は、データそのもの正しさも大いに疑わしいものだ。検察が、証拠を改ざんしたことが問題になったが、財務省官僚も同じ轍を踏んでいるのではないか。
 国のためになると考えたのなら、まだ救いようもあるが、公務員のボーナスは4%超の増額をしていることから考えて、自らの利権は温存して、予算を剥ぎ取り易いところから取るというやり方は救いようがない。


 さあ、この民主党の前田武志国交相(1937年生まれ、奈良県選出)は、自民党の大石武一環境庁長官を越えられるか、いや、足許にも及ばない、党と官僚をきょろきょろ見わたしてジコを温存するしか能のない政治家になりたかっただけの人物で終わるのか、ですよねえ。

『尾瀬を一度でも訪れたことがある人は、尾瀬の名を聞くつど二度と忘れられない悠久の雄大さに目を細め、脳裏に記憶に深く刻まれた素敵な景色を思い出すだろう。
 あの長い木道、いっぱいの野草、飛び交う昆虫、深い森林、青い空、白い雲、緑の湖、燧獄、長蔵小屋。
「夏が来れば思い出す」という歌い出しの歌は国民的に広く歌われ、日本の象徴になっている。
 国民が世界に誇る壮大な尾瀬の自然が1971(昭和46)年、周辺三県から伸びようとしている道路のために、まさに死のうとしていた。
 これを同年に生まれたばかりだった行政的には孤立無援の環境庁が、あとあとまできちんと守り抜こうと決め、困難な諸事を見事に片付けて実行したのである。
 おかげで尾瀬は死なずにすんだ。
 いまある尾瀬は当時環境庁長官に就任して間もなかった62歳の大石武一があったからだった。

 大石は政治家の父・大石倫治の長男に生まれ、父の勧めではじめは医者になった。
 しかし、東北帝国大学医学部第二内科の助教授から国立仙台病院の内科部長を勤めながら、父の遺言で政治の世界を選び直した。
 彼は硬骨漢でやさしい父をこよなく尊敬し、その志を忠実に次いだ。

 大石家には、擦り切れた父からの一通の書簡が家宝になっている。消印は1940(昭和15)年12月20日。
 昭和15年といえば、第2次世界大戦勃発の1年前。破滅に向かって突き進んだ時代である。
 軍閥勢力は、戦争政策遂行に邪魔な政党に片っ端から圧力をかけ、次々に解消へ追い込もうとしていた。軍閥の後押しはすさまじく、この年の8月には政党政治がことごとく死滅した。
 全議員は435人いたが、最後まで反対したのは尾崎行雄と大石倫治の2人だけだった。
 父はそれほど孤立しながらも、信念は曲げなかった。

 家宝はこの時の決心を、父が筆にしたものである。
 「全く生きた屍を議会の一隅に運び後生に斯云ふ議員のあった事を示すより外はない。お前に丈け心境の一端を書き送る 能く玩味して呉れ」(原文のまま)とあった。
 大石も父のほとばしる政党政治への情熱に打たれ、涙ながらに返事を書いた。父はのちに戦後第1回の総選挙で見事に返り咲いた。軍人政治に抵抗した父は、公職追放令にひっかることもなかった。
 
 この父が1948(昭和23)年春に
「武一、お前は立派な政治家になって、私のやり残した仕事を仕上げてくれ」
と遺言し、2時間後に死んだ…』

(宮城県は旧仙台二中・仙台二高の卒業生のページ「花とヒューマニズム 大石武一(1909.6.19〜2003.10.19)中島信吾著」より)
http://www.sendainiko.com/hyaku007.html

 続きはぜひ最後までお読み下さい。イマの政治家も、何代も住み続けてきた人を、絣ん級台風が襲来したら地滑りを起こしかねない高台に移転させておいて、50年、60年?しか寿命のもたないコンクリートの橋桁がにょきにょき建ってしまったそのダム建設予定地には、橋桁に60年還暦のお祝いに赤いちゃんちゃんこでも着せたほうが、汚いたまり水のダム湖を観光資源にするよりずっといい、というアーサーくんのご提案のほうがずっと良いではありませんか、ね。

posted by fom_club at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月16日

津島神社

 民俗学者に「旅する巨人」と称される宮本常一(1907-1981)がおります。
 この『私の日本地図』シリーズは、1960-70年代に宮本が書き下ろし、同友館から出版した地域もの(全15巻)ですけど、そのなかに、第14巻「京都」があります。
 ちょっとだけ覗き見をしてみましょうか:

砥園祭は京都だけでなく方々でおこなわれていた。
 そして愛知県から長野県にかけては砥圃祭といわずに天王祭とか津島祭とかいっている…

 名高いものをあげてみると、九州では鹿児島県の加治木、佐賀県の小城、大分県の臼杵・中津、福岡県博多の櫛田神社の砥園山笠、久留米、小倉、山口、島根県津和野、鳥取県米子市、広島県尾道、福山市鞠などが京都から西におこなわれているものであり、京都から東では愛知県津島市の牛頭天王祭、岡崎市の菅生祭、長野阿南町の津島祭、さらにその東へゆくと、千葉県佐原の砥園などがある。
 したがって砥園祭はひろく日本に分布していると言われつつも西日本に濃く、東日本にうすいことがわかる。
 また、この祭は日本各地におこなわれている夏祭の源流といってもよいのではないかと思う。
 夏祭は多く厄病除けの祭としておこなわれ、砥園は厄病を頑う神として尊ばれた。
 破いは多くミソギの形式でおこなわれ、ミソギは水を必要とし、砥園祭は水のほとりでおこなわれるものが多い


 へい、いえね、今日のヤッホー君の空き菅拾いは、代々木公園なんですう。

 そんでね、東京メトロ「代々木公園」駅から「国立オリンピック記念青少年総合センター」を通り、「参宮橋」駅を過ぎたところで、「津島神社」というホットスポットにヤッホー君は絡め取られ、動けなくなってしまったのです。

 「現在地」は「南門」とあったもんですから、どこが裏門かなあ〜、と正門から入るなんてとっくのムカシに諦め、裏門だけ探してそこから忍び込む、あわよくば入学金を納めずにすむかも、とか思う今日この頃のヤッホー君、しかし無いのです、門も格子戸も… 裏に回り込もうとすると小田急線の線路が下に見える土手だし、近くの人にお聞きしようかときょろきょろして見回しますと、ホームレスのおばあさんが荷物をいっぱいもって頬っかむりして座り込んでいるので訊ねるのを躊躇しちゃうし、どこに「津島神社」があるのかなあ〜…。?。?/

津島神社は古くは津島牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と申し、今日なお一般に「津島のお天王さま」と尊称されております。社伝によれば欽明天皇元年(西暦540年)にご鎮座され、その後弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を、一条天皇の正歴年中には天王社の号を賜わり、諸国の天王社の総本社で、全国に約3000のご分霊社があります。
 御鎮座以来歴代の武門を始め庶民から篤く尊信されましたが、殊に戦国時代津島に隣接の勝幡城の出身である織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉を始め豊臣一門は信長に引き続き、秀吉は1591(天正19)年、楼門(重要文化財)を寄進し、 1598(慶長3)年には、秀頼が秀吉の病気平癒を祈願して南門(県文化財)を寄進した他、社領等を寄進造営し尊信しました。
 又、ご本殿は1605(慶長10)年、清洲城主松平忠吉(家康4男)の病弱を憂えた、妻女政子の方より寄進になった建物であり、桃山式建築の伝統を残す優雅なものとして、重要文化財に指定されて居ります

 
 これは愛知県のお話しでした。この総社の分社がイマ、わずか一畳間の神社として渋谷区に鎮座していらっしゃるのかな?

津島は、古くから木曽川を渡って東西を結ぶ要所「津島湊」として、また全国の天王信仰の中心地「津島神社」の門前町として、多くの人々が行き交う町でした。
 
 津島神社は、「津島牛頭天王社」「天王さま」とも呼ばれ、疫病や厄除けの神様として親しまれています。
 1450年もの長い歴史を誇る津島神社は、「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称され、全国に3000余あるといわれる「天王社」の総本社です。
 また、多くの武将が天下取りを争っていた時代、信長や秀吉など名をあげた武将とのつながりも強かったようです。
 ここには、歴史の重みとともに、多くの文化財が残されていて、家康の4男松平忠吉の妻の寄進による本殿や豊臣秀吉の寄進による楼門は国の重要文化財となっています

(愛知県津島市の公式サイト)
http://www.city.tsushima.lg.jp/index.php?oid=875&dtype=1000&pid=144

御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。
 御相殿には建速須佐之男命の御子・大穴牟遅命(おおなむちのみこと)がお祀されています。
 古くは、除疫、授福の神である「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」とも呼ばれ、京都の八坂神社と並ぶ天王社として崇められています。

 長い歴史の間には、織田・豊臣・徳川から格別の崇敬を受けたことがあります。社殿は、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根で朱塗りの柱との対照が華麗で美しさを感じさせます。

 中でも「本殿」は、徳川家康の4男で清洲城主・松平忠吉の寄進。「楼門」は豊臣秀吉の寄進と伝えられています。いずれも国の重要文化財に指定されています。また、「南門」は、豊臣秀頼が寄進したもので、県の文化財に指定されています。

 由緒ある牛頭天王社の総本社として、古くから手厚く信仰されていた津島神社。
 江戸時代には、「津島参らにゃ片参り」と言われ、お伊勢参りの折りに、津島神社に参拝することがならわしとされていました。
 その信仰の厚さは今も変わることがなく、尾張近郊の人びとはもちろん、東北、関東の人びとからも「津島さん」「天王さん」などと呼ばれ、崇敬されています。
 そして「牛頭天王さん」のご利益を求めて、全国から多くの人々が「津島詣」に訪れます

(同じく津島市公式サイト)
http://www.city.tsushima.lg.jp/index.php?oid=592&dtype=1000&pid=144

 すさのおのみこと様に手を合わせ、お願いごとをしてきました。
 あの、あそこに座っているおばあさんもお守り下さいませ、低体温症で亡くなっちゃうのかな、もしそうなったとして、最後にこの世に恨み辛み、遺恨・禍根・怨恨を残したならば、代わりに、その死ぬときの思いを、きっと、この世で代わりに晴らさせてあげてください、と。
 言葉にもならず、口にも出さず、何も残さず、この世から消えていき、多分、行き倒れ、野垂れ死にとして無縁仏に葬られるのでしょうけど、それじゃあ、あんまりですう。
 今晩も寒い、凍えるような冬の夜を迎えています…

posted by fom_club at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月15日

樹木たちの声

 12月15日木曜日、ヤッホー君の空き菅拾いは荒玉水道道路、ここには桜上水団地があるんですう。

建替え問題にまつわる樹木たちの声を伝えます。
 このHPは、桜上水団地の建替えにまつわる問題を樹木(きぎ)たちの声を通して伝えるためのものです。
 「ケヤキ会」の有志たちによる共同運営ブログです。
 けやき さくら しだれざくら いちょう もみじ からす むくどり いんこ すずめ ねじばな つつじ しばふ やえざくら 等などが登場する予定です


(このHP立ち上げのころの次の投稿記事は「樹木たちの声」を代弁しているようでして。
 山に分け入らなくっても、素晴らしい声とは出会えるものですねえ〜。
 「美しい日本」「正しい日本人」−その伝統に誇りをもって、そこにイマに生きる、新しい価値を接ぎ木して、新年を迎えるいま、皆んなで編み出し、皆んなで毎日、新しい気分で生きていきましょう!
 明日もヤッホー君、元気に歩き回るそうですよ)

 作家・司馬遼太郎の著書「オランダ紀行」の最終章の文中に、上野公園が今日存在している経緯が記述されています。
 それに由りますと明治維新後、上野の山には東京大学を建設することが決まり、棒杭まで打ち込まれていました。
 丁度その時期、帰国直前のオランダ人医師であるボードインが上野の山を訪れました。
 案内した明治維新政府の役人に大学建設の話を聞いて驚き、
「とんでもない間違いである。世界の大都市では人工的に植樹して緑をわざわざ増やしている。それに対して上野の山で折角の美観を形成する古い大木を切り倒すとは無謀も甚だしい」
と即時中止の強い意見を申し述べたとのことです。


(なんか文京区と東京大学は小石川植物園の再生工事で合意し、地域住民の反対声を無視し、樹木たちに断りも無く、現代人間の懐算段と少数の当事者の勝手だけで、旧い大木を伐ったり、移植したり、いじくったりするんだって、ね…)

 ボードインはこの件につき駐日オランダ公使に訴え、公使の方からも日本政府に対して上野の山への大学建設中止を説いて貰いました。
 これにより日本政府も翻意し、建設候補地を一転して本郷台にある加賀藩邸に変更。
 お陰で上野の山には今も木々が繁っています。
 桜上水団地もボードインのこのような卓見に学ぶ必要があります

http://danti.jugem.jp/?eid=11#sequel

 3.11震災以降、あまり聞こえてこなくなった団地建替問題ですが、モニタリング(定点観測)は必要なようですね。
 そりゃあ、住問題って、建物の老朽化、居住者の高齢化、資産価値の低減化とかあるのでしょうが、しかしそこに住んでいて良かった、という「居住価値」は、そこに住む人びとによるコミュニティが作っていければ、どんどん価値が膨らみ、増して、更新されていくもの。
 ヤッホー君が管理組合理事長としてやりたかったことはその一点だったし、理事長経験者としてこれからも貢献していきたいって言っています!

限界集落は地方だけの問題ではありません。
 東京の多摩、愛知の高蔵寺、大阪の千里など高度成長期に開発されたニュータウンは40年以上を経過して住民の高齢化が目立ちます。
 東京・新宿区社会福祉協議会の調査によれば、同区内の戸山団地(約2300戸)が、高齢化率トップの群馬県南牧村並みの限界集落になっているとのことです。
 特に75歳以上の6割が独り暮らしとされています

(2009年3月15日付け東京新聞社説「週のはじめに考える 共助社会への道」)
http://danti.jugem.jp/?eid=11#sequel

団地やマンションなどの集合住宅について、「再生」という言葉を最近よく聞く。
 今や国内には757万戸もの空き家がある(総務省「2008年住宅・土地統計調査」)。
 まだまだ使える建物を壊してごみにし、新しく建て続ける社会はおかしいのではないか。
 建て替えでも、修繕や家の中のリフォームでもない、第3の道「再生」への取り組みを4回にわたって紹介する…

 日本住宅公団の設立は1955(昭和30)年。
 建て替え事業は1986(昭和61)年に始まる。
 以来、築35〜50年たった住棟は一律に建て替え対象に。
 しかし2007年12月、約76万戸あるUR賃貸住宅のうち約57万戸は「ストック(既存建物)に手を入れて有効活用する」と表明、建て替え一辺倒から大きくかじを切った。
 昭和40年代以降の団地は都心から離れた郊外に多く、人口減少と都心回帰傾向の今、資金調達して建て替えても事業の成算が立たないからだろう。
 
 東京都東久留米市・西東京市の武蔵野台地に位置する「ひばりが丘団地」。
 ひばりが丘の実験住棟はいずれも1960(昭和35)年完成の鉄筋コンクリート4階建て。
 豆腐のような直方体で、中層階段室型と呼ばれる。
 住戸は2DKの35平方メートルで、子供2人の4人家族を想定。
 今ではさすがに狭く、エレベーターもない。
 そこで、壁や床のコンクリを撤去したり打ち直して、現代の生活に合わせた計10タイプの住戸を作った。
 子育て世帯向けの上下階にまたがるメゾネット▽それを横に2つつなげて4戸1にした2世帯同居向け▽3層を2層にして天井高を1.5倍にし、独身者または子供のいない共働き夫婦向け▽単身や夫婦、要介護など状況別の高齢者向け――。
 1棟にはエレベーターと外廊下を新設した。
 工法や工期、コスト、騒音・振動を検証中で、今後の住棟改修に生かす

(2011年1月11日付け毎日新聞楽コレ!「団地の夢、再生へ/1: 壊さず生かす「第3の道」)
http://mainichi.jp/tanokore/housing/004452.html

posted by fom_club at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月14日

原宿団地

 ヤッホー君の今日の空き菅拾いは外苑西通り。
 ムカシ、緑豊かな一帯に「原宿団地」がありました。
 いま跡地には高層マンションを建てるべく工事中ですが、通りのあちらこちらに建築反対の登り旗がたっていました。

『ザ・神宮前レジデンスは、原宿団地地権者が、地元の納得を得る努力をせずに、強引に計画を進めたため、地域から猛反発を受け、現在、多数の訴訟や行政不服申立がなされています。以下、今までに提起された訴訟や不服申し立てについて、列挙していきます。

・情報公開関係

@ 開発許可申請書を渋谷区が一部非公開としたため、渋谷区長に対して、異議申し立てがなされた(一部認容)。

A 開発許可申請書を渋谷区が一部非公開としたため、渋谷区を相手取り、取消訴訟が提起された(請求棄却、確定)。

B 建替組合設立申請書を東京都が一部非公開としたため、東京都知事に対して、異議申し立てがなされた(現在、審理中。なお、訴訟に移行する可能性あり)。

・開発許可関係

C 開発許可処分の取消を求めて、東京都開発審査会に対して、審査請求がなされた(請求棄却)。

・総合設計許可関係

D 総合設計許可処分の取消を求めて、東京都建築審査会に対して、審査請求がなされた(請求棄却)。

E 総合設計許可処分の取消を求めて、東京都を相手取り取消訴訟が提起された(一審請求棄却、現在控訴中)。

・建築確認関係

F 建築確認処分の取消を求めて、一般財団法人日本建築センターを相手取り、東京都建築審査会に対して、審査請求がなされた(請求棄却、近日中に取消訴訟を提起する予定)。

・その他(損害賠償請求等)

G 原宿一丁目元町会長らが、町会長の肩書を利用して、原宿団地建替を応援するとの文書を町会員の同意なく作成したため、思想信条の自由・表現の自由が害されたとして、原宿一丁目町会会員である地域住民が、元長会長らを相手取り、損害賠償・謝罪広告を求めて訴訟を提起した(現在、東京地裁係属中)。

H 上記Gの文書を、原宿住宅団地建替組合の理事長が唆して作成させたとして、原宿一丁目町会会員である地域住民が、原宿住宅団地建替組合の理事長個人を相手取り、損害賠償を求めて訴訟を提起した(現在、東京地裁係属中)。

 原宿団地地権者らは、ザ・神宮前レジデンスを建築するにあたって、自分たちの利益を最大化するために、地域に対して一切の譲歩をせず、当初の建築を強行しています。このような地域に対して一切の妥協を行わない建築計画は、極めて珍しいのではないでしょうか。普通は、高さの微減程度はやるものですが…
 原宿団地地権者らが、上記のような態度ならば、地域住民は、これからも原宿団地地権者に対して、一切の妥協するつもりはありません。
 原宿団地地権者らの行為によって、地域住民の権利利益が侵害された場合は、地域住民は、原宿団地地権者らに対し、これからもしっかりと権利主張をしていきます。
 大阪の堺で、マンション完成後の風害について、損害賠償責任が認められた裁判例がありました
http://www.abenolaw.jp/wp-content/uploads/2011/03/fugai02.pdf#search='
(被告の中には、ザ・神宮前レジデンスの工事を請け負う竹中工務店があります)。
 ザ・神宮前レジデンスに起因した風害等の権利侵害があった場合、地域住民は、原宿団地地権者らに、しっかりと損害賠償請求をさせていただきます(なお、日照・風害・外壁落下等の建物に起因した損害が発生した場合、購入者の方も、責任(工作物責任)が生じてくる可能性がありますのでご注意ください)』
2011-10-24 00:01:17更新 ザ・神宮前レジデンス(原宿団地建て替え)に関する争訟
http://ameblo.jp/everyheart-daichi/entry-11057298336.html

 そうだったんだ。
 建築会社や販売会社などの企業から、地域に住んで暮らしている人びとが反対すると「住民エゴだ。われわれは行政の建築許可をもらって、合法的に街づくりをやってるんだ」なんて言われて、地域住民は怖気づいたり、自己責任を感じたりしちゃうんだけど、ちゃんとスクラム組んで、法律家の応援も得て、正々堂々と自己主張すればいいと思います。

近隣住民の反対運動にもかかわらず強行着工した原宿団地(渋谷区神宮前3丁目)の地権者が、完成後に取得する部屋の面積や金員が情報公開請求によって明らかになった。
 地権者が建て替えによって新たに取得できる部屋の床面積は、旧建物の約2倍であり、更に、最高1696万8000円もの現金を受け取れる場合もあることが情報公開請求によって取得した文書によってわかった。
 総合設計制度の濫用によって超高層化し、その結果、周辺住民の居住環境を破壊し、地域の景観を台無しにするにも拘わらず、地権者だけが大儲けをするという、何とも自分勝手な迷惑建築計画である

(2011-05-25 電話090-3222-9235 更新【原宿団地】地権者だけが大儲け?!)
http://shibuyaopen.blog17.fc2.com/blog-entry-1183.html

渋谷区神宮前3丁目の原宿団地再開発計画は、周辺住民の理解を全く得られないまま強行着工した。
 この計画は綜合設計制度を濫用して超高層化し、その結果、地権者の取得床面積を大きくするというものである。
 しかし、周囲の景観、近隣住民の住環境を破壊する計画であるため、綜合設計許可処分の取消を求めて、行政訴訟が東京地裁に提訴され係争中である。
 本件計画の敷地は、寺院(妙円寺、長安寺)と数十メートルにわたり敷地を接しているが、その寺院からの理解も全く得ていない

(同じく渋谷オンブズマン 2011-05-15 更新【原宿団地】原宿団地は強行着工)

posted by fom_club at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水仙の嵯峨山316m

 今朝12月14日水曜日、外は冷たい霧雨。
 ヤッホー君のベランダに咲きつづける日本寒水仙の誕生の秘密を明かします。
 もうおよそ6年も前にさかのぼるのでしょうか。2006年の2月4日土曜日の山歩クラブです。

房総・鋸南町の里山をのんびりと散策して、谷あいを埋め尽くす水仙と素朴な田舎路を歩いてきます。
 この山里一帯は、昔から「鋸山(330m)を越えると肌着が一枚いらない」と言われるほど暖かく、一足早い春の訪れを感じとることが出来る土地柄です。
 保田地区の水仙づくりは、江戸のムカシ、安政年間(1854-60年)にまでさかのぼることができ、今では、越前、淡路と並ぶ日本三大群生地のひとつです。
 9時30分には山歩きを始められました。
 お天気に恵まれ、気温が低く、また朝も早いので山道は霜が解けることもなく、道はしっかりしていて、はっちゃん、和田さん、田畑さんはじめ皆んな、元気に最後まで歩き通すことができました。
 下りてもまだ時間が余ったので、バスで富山町の道の駅、富楽里まで春の花を買いにちょっとだけ足を伸ばしました(カズリンのアドヴァイスです、ありがとう)。
 その後、漁協直営のばんやの湯(Tel0470-50-1126)で汗を流し、海の幸を楽しみました(ばんやTel0470-55-4844)。
 帰りは、水仙や魚だけでなく文化の香りも高く、句会を催しました


『水仙の花揺れなびき海におう…

 嵯峨山にスイセン香り海と山
 スイセンはいったいどんな香りやら
 スイセンのかれんな花に迎えられ
 立春や、スイセンには風つよし
 冬山で出会うスイセン、ほっとする
 スイセンの道案内でヤマアル中
(間違い、ヤマアルキ!)
 寒風の山歩のあと、美酒に酔う
(えっ、やっぱり ?!)
 寿司の味、おなか満腹、幸せかな
(えっ、おすしも?!)
 風の音、とりのさえずり、ココロなごむ
 里山は香りかぐわし、いとうれし
 嵯峨山の今日の楽しさ、満足や
 嵯峨山の帰りのバスの楽しさや
 今日も晴れ、山歩クラブに栄えあれ
(よいしょッ!)

 詠み人知らずなれど、万葉集ができましたね。時間はたったの10分ですよ、あっという間に次々とすらすらとイメージが湧いて出てくるのです、源泉かけ流しの秀句揃いで、柿上人麻呂もびっくりです。皆んな、すごい、すごい!』


犬とおっかさんの優しさに囲まれ…

 玄関先にあった水仙をみて、いくらって聞いたら、お金いらないよって。
 拝金主義がまかり通ってしまったカンジの世の風潮に、こんな優しさが堂々とど〜んと残っていて、胸にジ〜ンときました。
 おっかさんのような優しい日本人になろうってカンジ


 イマは無い、ムカシの山歩クラブのホームページから再録しました。
 よ〜し、折りを見てまた歩きにでかけてみましょうか、ね。

posted by fom_club at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月13日

奇跡の一本松

岩手県陸前高田市の景勝地・高田松原で東日本大震災の津波に耐えて唯一残った「一本松」について、保存活動などを続けている財団法人「日本緑化センター」(東京)の担当者が12月12日、戸羽太市長を訪ね、松の生育が絶望的になったとの報告書を提出した。
 センターの担当者は、地元で保存に取り組む「高田松原を守る会」関係者にも現状を説明した。
 守る会関係者によると、担当者は10月上旬に調査した一本松の生育状況などを説明。根が海水に漬かって腐ってしまい、自力で栄養分などを吸収できず、生育は困難との現状を伝えたという。
 センターは一本松の現状などをまとめた報告書を13日に公表するとして、この日は取材に応じなかった。
 高田松原には震災前、約7万本の松があったが津波で流され、唯一残った松は「奇跡の一本松」として知られる

(2011年12月13日火曜日河北新報 奇跡の一本松「生育絶望」 陸前高田)
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111213t33024.htm

一本松のこと。
 この度は私共のプロジェクトに興味を持って頂きありがとうございます。
 私共のプロジェクトは避難所で出来たプロジェクトです。
 無くなった高田松原や陸前高田市に私達でも何かしたいという思いから立ち上がったプロジェクトです。
 一本松に直接、何か出来る訳ではありませんので宜しくお願いします。
 私達も皆様のお気持ちや元気を頂きここまでこれました
 これからもどうぞ宜しくお願いします。

一本松プロジェクト。
 岩手県陸前高田市の高田松原に2キロにわたって7万本の松が植えられていました。
 夏は多くの観光客を迎え、地域住民の安らぎの場となっていた松林。
 しかし、その松林は3月11日大津波に飲まれたった一本に…
 高さ30メートル、樹齢250年を超える老松はいま、「奇跡の一本松」と呼ばれています。
 江戸の昔から海と人の間に立ち続け、私たちの営みを見守り続けた一本松…
 津波による塩害で、本来青々と茂っているはずの葉が茶色く変色しとても心配されていました。
 このたび、接ぎ木が成功し、一本松の遺伝子を持ったクローンを作ることに成功しました。
 一本松が元気になると、私たち・そして陸前高田市も元気になるような気がします。
 また、一本松以外にも、高田松原に、生き残っている松の木を2本発見しました。
 既に、葉はすべて落ち、既に立ち枯れしていると思っていた木ですが、思わぬ朗報に、市民を元気付けています

http://www.ipponmatsu-pro.com/一本松について/

3月11日の震災は、津波によって松原を流失させ、「希望の松」の生育環境を一変させた。また地盤の沈下による生育基盤の劣悪化を招き「希望の松」の根の生活を停止させ、これに連動して枝葉の生活も止まり枯死にいたることとなった…。

 3月11日、大津波の波浪に霞みながら立ち続けている希望の松の姿が地元紙の報道写真に残されてい
ました。
 希望の松はおよそ270年の寿命の中で、明治三陸津波、昭和三陸津波と度重なる大津波の「時」を樹体に刻み込んできました。
 生きようとする強い意志を感じました
 保護対策に関わってきた人間にできることは、とても少なかったと思います。
 しかしながら、この間保護対策に関わっていただいたすべての関係者に厚くお礼を申し上げます。
 地元陸前高田市の皆様をはじめ、全国から希望の松に様々な思いを託されたすべての方々に感謝を申し上げます。
 最後に、今回の大地震と大津波によって亡くなられた方々のご冥福と被災された方々の生活再建が早期に実現することをお祈り申し上げます

(平成23年12月13日「陸前高田市『希望の松』保護対策報告」社団法人 日本造園建設業協会、社団法人 日本造園学会、財団法人 日本緑化センター)
http://www.pinerescue.jp/jiten/matsu/tsunami/houkoku1212.pdf

 <生きようとする強い意志>…、ヤッホー君も生き物たちの無言の<生への営み>にどれだけ励まされ、和み、勇気づけられてきたことか、何もそれは山歩きだけのお話しではありません。
 それは、ヤッホー君の狭いベランダでも。
 水を与える以外、元気かい? と毎朝、声をかけてあげる以外、どこにも連れて行ってあげられず、何の栄養物もデザートも与えてやれなかったのに、あの「日本寒水仙」が今年も同じ頃に同じように、開花しているのです。
 ≪橋下妙見≫と名前を換えたいま、この日本寒水仙は、ヤッホー君の大切な、大事な、いとおしい家族の一員なのであります!

2[1].jpg
 



posted by fom_club at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月12日

姫の餅米

お餅付き.jpg

 山形県でとっても面白い活動をなさっているNPO知音の山崎多代里さんから、昨日の快晴のなかの山歩クラブのおもちつきにあわせて、連帯の意を表わす「もち米」が送られてきました。
 
 写真はモチをつく前に、からみを作っている台所班。納豆でしょ、あんこでしょ、大根おろしでしょ、ゴマすりでしょ、のりにオキナワの黒糖までありました。それに漬け物もミカンも並んで、とっても豪勢なおもちつき大会! 
 ヤッホー君はじめ山歩クラブの男性陣を集めて、三武将を講師に「男の手料理教室」を開催しなくっちゃ、と思おうておりまする。

 ところで、送られてきた「もち米」はこだわりの一品、「完全無農薬商品 姫の餅米」でした:

私たちは、休耕地や休耕田を活用して、荒廃地をなくすため、食の自給率を高めながら、「安全、安心」な美味しいものをお届けします。
 みんなの手が集まって、田植えを始めました。
 特に東北芸術工科大学の学生の皆さんが力を貸してくれています。
 農家の方から指導していただき、田植え→草取り→水管理→刈り取り→天日干し自然乾燥→精米、と手をかけています。
 美味しいですよ


 東北の荒廃地を少なくし、農村の後継者が安心できて稲作が続けられるよう、学生さんが日本の伝統を学び、少しでも農業に関心を持ってもらいたい、そのために都会に住んでいるわれわれ、この「もち米」を購入してみませんか。3Kg、5Kgの袋に入っています。欲しいかたはコメントでヤッホー君まで送信してくださいね。 
 この「もち米」ヒメノモチっていう種類はどういうのか、と言いますと、1962年に東北農業試験場でコガネモチと大系227号の掛け合わせにより誕生した、と言われています。
 いもち病に強く、もち米の中でも作付面積の多い品種の一つです。
 このお米、ヒメノモチの特徴は、お米の白さです、
 山形県の代表的なもち米です。
 食味の特徴は、コシがあり、食感がとてもなめらかです。
 お赤飯やおこわ等にも最適です。
 うるち米と混ぜて炊くと、甘みと粘りが出るので美味しく召し上がることができると言われています。

 「男の手料理教室」、たとえば、マレーシア産エビがあるので、混ぜご飯をつくってみようかな、いつがいい、皆の衆…
 
1. もち米は洗って40分間吸水させ、20分間ざるに上げる。
〈★メモ〉もち米は普通の米より堅いので、水につける時間を少し長めにする。

2. 大根は1cm角に切って水からゆで、表面が透き通ってきたら、ざるに上げる。大根の茎はみじん切りにしてサッと塩ゆでし、水けを絞る。
〈★メモ2〉下ゆでしたジューシーな大根が、ご飯に混ざって楽しい食感を生み出す。

3. 厚手の鍋にもち米と【A】を入れてざっと混ぜ、2の大根、桜えびを加え、ふたをして炊く。
〈★メモ3〉桜えびは下ごしらえいらずで手軽に使え、上品なうまみも出る。ご飯に炊き込んでもサクサクの歯ざわり。
----------
★鍋炊きの火加減★
・最初は弱火で2〜3分間。
・鍋全体が温まったら、強火にして沸騰させる。
・勢いよく蒸気が上がったら、絶えず湯気が出る程度の中火にして5分間。
・湯気が少なくなってきたら、弱火にしてさらに5分間。
・鍋底の蒸気を回すため、30秒間強火にしてから、火を止める。
----------
4. 炊き上がったら2〜3分間蒸らしてふたを取り、2の大根の茎を加え、サックリと混ぜる。
〈★メモ4〉大根に茎がついていれば、塩ゆでして加えると彩りもきれい。


…桜えびと大根のもち米ご飯、モチモチのもち米を使ったご飯を一口かめば、だしを吸った大根の汁がジュワッと広がります。いいねえ、よし、つくっちゃえ〜とヤッホー君は意気込んでいる12月12日月曜日のことでした。
(放送日:2010年11月1日月曜日、講師:神田裕行)
http://www.kyounoryouri.jp/

posted by fom_club at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月11日

2011お餅つき

 いろんなことがあった2011年、暮れようとしていますよね。
 山歩クラブ恒例の年末行事、いっぱいしりもちをつきながら2011年昇り降りしたあちこちのお山、振り返ってみながら丸〜く収めるお餅付き大会です。場所はもちろん、景信山727m!
 お天気にも恵まれ、冨士山もにっこにこ、地元のスカイツリーも遠望できました。
 お子さまもお孫さまもお越しになり、そこで山歩クラブ恒例のお餅つき大会なんですう。14名参加。
 お餅も全〜部、食べましたし、何よりも全員、完歩できました。
 さらに物足りないわれわれ、都立「滝山城址公園」を歩きました:

滝山城は、1521(大永元)年に大石定重が築城したと伝えられています。規模の大きさや保存状態の良さでは日本でも有数の城跡として知られ、国の史跡に指定されています。春には、5000本のサクラが咲く名所として有名です
(八王子市公式サイト「滝山城跡」より)
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/001787.html

 締めは「戸吹湯ったり館」で。ここは温泉ではありません。しかし…、良い湯だな♪

湯ったり館のお湯は隣接する「戸吹清掃工場」で燃やしているゴミの余熱を利用して発生させた蒸気を熱源として作られています。だから毎日きれいなお湯がたぁ〜っぷり使えるんです
http://www.yuttarikan.com/index.html

 帰路の車中は2011年のお山歩会がすべて無事に丸く収めることができたお祝いに、地元の日本酒で乾杯しました。清酒「千代鶴」、中村酒造(あきる野市牛沼63)、おいしかったです。

多摩の今でも鮎釣りの盛んな清流秋川の流域に位置し、秩父古生層にこされた清冽な水を地下170mより汲み上げ、厳選した米で醸造している。冬の冷え込みは厳しく酒造りに非常に適している。敷地は約3000坪、仕込蔵は江戸時代に建築された土蔵と、一年を通じて10度以下に保たれる空調完備の近代蔵の両方の特長を生かし醸造している。
 歴史は、 慶長以前、400年以上前より中村家は当地に住み、現当主は17代目にあたり、1804(文化元)年より酒造業を興して約200年、酒造りを始めて現在9代目になる。
 昔、秋川流域に鶴が飛来したことがあり、これに因んで縁起の良い名前「千代鶴」と命名した

http://www.chiyotsuru.com/index.html

王様の椅子.jpg

 上に添付した写真は、滝山城址公園の帰りに山歩クラブご用達のバスを待っていたときの、本日のゲスト御2方のお写真でございまちゅう!

posted by fom_club at 20:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月10日

In the Land of Blood and Honey

 今朝のNHKラジオ明日へのことば「歌える幸せかみしめて」がまだ続きます;

12月23日から全米公開されるアンジェリーナ・ジョリーの監督デビュー作「In the Land of Blood and Honey」のプロットが4年前に書かれた記事の内容と酷似しているとして、クロアチア人のジャーナリスト、ジェームズ・J・ブラドックことジョジプ・クネゼヴィッチ氏がイリノイ州でアンジェリーナと製作会社のGK Filmsを相手に訴訟を起こした。

 アンジェリーナが脚本執筆も手がけた「In the Land of Blood and Honey」は1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を題材にしたものだが、イリノイ州連邦裁判所に訴えを起こしたブラドック氏によると、同作のプロットは彼が執筆した2007年の著作「The Soul Shattering」に酷似しているという。

 同書に登場する女性は兵士たちに何度もレイプされたばかりか、彼らの基地本部で使用人になることを強要されるが、映画の主人公の女性の身に起きることも全く同じ。さらに、ブラドック氏は2007年から2008年にかけて、同書の映画化についてGK Flimsのプロデューサー、エディン・サルキッチと直接会って話し合い、その後もEメールのやりとりを続けていたという。ブラドック氏は著作権の侵害を訴え、陪審裁判と損害賠償を求めている。

「In the Land of Blood and Honey」は、ボスニアの女性が彼女をレイプした敵側のセルビア人兵士と恋に落ちるいう内容が反感を買い、ボスニアでの撮影が一時拒否されるなど(その後、文化大臣が脚本を読んで撮影許可が下りた)、完成までいくつものトラブルに見舞われたが、公開直前にまたしても問題が発生してしまった

(2011年12月7日11時55分更新exciteニュース「アンジェリーナ・ジョリー、初監督作のプロットをめぐりクロアチア人記者に訴えられる」)
http://www.excite.co.jp/News/world_ent/20111207/Cinemacafe_11764.html

 ね、いろいろあるもんですね。マレーシアのスター紙はロイター記事として次のように報じています:
Objections to filming Jolie's tale of love between a Serb man and a Muslim woman in Bosnia last year forced the Hollywood star to shoot most of the film in nearby Hungary. Only some of the exterior scenes were shot in Bosnia.

But the Thursday night screening of the film in Sarajevo to representatives of victims' associations elicited positive reactions from some of Jolie's toughest local critics.

"She has made a fantastic film for Bosnia and Herzegovina, I can really say that from the angle of a victim," Murat Tahirovic, the president of Bosnia's association of (wartime) detainees, told the Federal Television in Sarajevo.

(The Star published: Friday December 9, 2011 MYT 8:41:00 PM, Jolie quiets Bosnian critics with war film screening)
http://ecentral.my/news/story.asp?file=/2011/12/9/movies/20111209205436&sec=movies
 
 また観なくっちゃ映画が増えちゃいましたね。

 ところで、シンガーソングライター松田陽子さんがうつ病、シングルマザー、無職、がんという苦難にもがき苦しんでいたわけですが、立ち直るきっかけを与えてくれたアンジェリーナ。このハリウッド映画スターは親善大使としてUNHCRに貢献し、そしてその日本UNHCR協会(港区南青山6-10-11ウェスレーセンター3F Tel 03-3499-2450)の協力委員に登りつめてしまった松田陽子さん、協力委員なんて日本では数人ともいわれますが:

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、国連の難民支援機関として、1950年に設立されました。人道的見地から、迫害や紛争によって故郷を追われた世界の難民を保護し、難民問題の解決へ向けた国際的な活動を先導、調整する任務を負っています。
 
 こうしたUNHCRの活動資金は、主に各国政府の任意の拠出金によって支えられてきました。しかし、活動資金は恒常的に不足しており、計画していた難民支援のプログラムを縮小したり中止せざるを得ない事態も起こっています。

 そのため、UNHCRの難民援助活動を、もっと民間から支えていこうという機運が世界的に高まり、アメリカ、オーストラリア、スペインの国内委員会に続き、日本でも、2000年10月に、民間からの公式支援窓口として、特定非営利活動法人 国連UNHCR協会が設立されました

http://www.japanforunhcr.org/about/index.html

 なにか人のため、世のためにできることがある、というので「self」なるボランティア団体も立ち上げておられます。この団体は何?
selfという名前の由来。
 なぜselfと小文字にしているのか?
 myself、yourself、itself、herself、himself…私自身、あなた自身、それ自身、彼女自身、彼自身…。
 selfの前に、何かがつくために小文字になっています。
 主役は、皆さんです。生きとし生きるものすべて。
 いろいろな困難を抱え、大変な状況、生きていくのを辛く感じている人、 病気で苦しんでいる人、戦争で水一滴も飲めずに亡くなっていく人がこの世の中にはたくさんいます。
 せっかく生かせてもらっている大切な命を、何かのため、誰かのために、出来ることでいいから一緒に使ってみよう!という思いがこもった「self」です

http://yokomatsuda.com/self/index.html

 また、2008年1月の大阪府知事選挙では橋本徹氏の総合司会を務めたそうです。
橋下さんとは、家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっています。私の娘と橋下さんの3番目のお嬢さんが幼稚園・小学校と同じで、剣道も一緒に習わせています。橋下家とはとても気が合って、しかも橋下さんの奥さんと私の顔も似ているらしく、いつも一緒に居ると、姉妹に間違われるくらいです…

 たくさん泣いて、どん底を経験した私だから語れることがある。歌える歌がある。同じ経験をした人、今、その渦中で苦しんでいる人たちのために、私がBORO夫妻にしてもらったように、今度は私が、たくさんの人たちの手を握り、共に泣き、共に励まし、共に手をとって前を向いて生きていけたら、私の生命(いのち)は、ますます生きる意味があり幸せです。
 今、過去の辛い経験は、私の宝ものです

(環境goo 地球がLOHAS LOHASな人にインタビュー 第17回 シンガーソングライター松田陽子さん)
http://eco.goo.ne.jp/life/lohas/earth/1701.html

そんな松田陽子さんの歌にそのものずばりの歌があります:
生命〜いのち〜(国連難民支援活動のために作った曲)


 あっ、満月だったお月さまが欠けていく〜、あ〜、欠けていく…
posted by fom_club at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松田陽子

 今日は雲ひとつない冬空です。今晩のお月様がよく見えますように…

 いつもそうですけど昨晩も10時にはもう寝床のなかですから。睡眠障害とか頻尿ではないはず、たっぷりと寝ているはずですが、トイレに起きてしまい、またラジオのスイッチをひねっていました。朝の4時過ぎ…。今朝は松田陽子さんが「明日へのことば」をお話になっておりまして、話しにひきこまれてしまいました。

 松田陽子さんは『シンガーソングライター。国連UNHCR協会協力委員。ボランティア団体「self」代表。31
歳のとき子宮頸がんにかかり、子宮全摘出手術を受ける。がんの「後遺症」に苦しむ中で、離婚を経験し、シングルマザーに。その後、うつ病になりながらも、これらの経験を通して得たメッセージを伝えるため、シンガーソングライターとして社会復帰する。国連UNHCR協会協力委員やボランティア団体「self」の代表を務め、難民支援や「児童虐待」「子育て」などのテーマで社会貢献活動に取り組む。MBS毎日放送「水野真紀の魔法のレストラン」のエンディングソングなどを提供。「人生のどん底」から生まれたメッセージ性のある楽曲には定評があり、熱烈なファンも数多くいる

(サンマーク出版の公式サイトより)
http://www.sunmark.co.jp/01/kikanbooks/frame_index.html

 どうして出版会社か、と言いますと、『生きてるだけで価値がある』を出版されていました(2011年4月15日)。そして印税はすべて3.11の被災者、難民者のために寄付されているのだそうです。どんな本か、というと:

31歳、健康だった体に突然訪れた子宮頸がん。たった1か月で私は「生きる」か「子宮を取る」かという選択をしなければならなくなった。

 ―手術を選び、目が覚めたときには「全身管まみれ」になっていた私。

 だけど、子宮頸がんになって一番つらかったのは、退院後に襲われた「家族の崩壊」と「精神の崩壊(うつ)」だったそうだ。

 さまざまな「宿命」を背負いながらも、あるきっかけからそれを「使命」と思うことで前を向き始めた著者。

 歌を通して、ボランティアを通して、いまこの瞬間も人々に生きる力を伝えようと日夜全国を駆け巡っている。

 生きていくことをもっと大切にしたい。
 心からそう思わせてくれた、39歳の著者による夢と希望のノンフィクション


 『あるきっかけ』うん、うん、それは皆んなにもあるよね、松田陽子さんの場合は、映画館で見た一本の映画だった、とラジオでおっしゃっていました。それは、日本ヘラルド映画が2003年の暮れに配給したアメリカ映画の『すべては愛のために』(127分)!その主演女優アンジュリーナ・ジョリーだったんですって!

 松田さんと違い、こんな印象を持たれた方も…それは弁護士坂和章平先生です。それでも★三つ(まずまずの出来)です:

『この映画の原題は「Beyond Borders」だから、直訳すれば「国境を越えて」。つまり国際的な立場からの、国境を越えた人道支援活動をイメージしたタイトルだ。しかし、邦題は「すべては愛のために」。これは何ともすごいタイトルだ。新聞の一面を使った宣伝も、トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」(03年)と並ぶすごいもの。たしかにこの邦題がピッタリという面はある。しかし、どうしても思ってしまうのは、「ちょっと出来すぎ…」ということ。別にこの映画の出来にケチをつけるつもりはないが、@エチオピア、Aカンボジア、そしてBチェチェンへと行き、本当に生命を賭けた人道支援活動に…、というのはちょっと…?

 アンジェリーナは、「トゥームレイダー」の撮影のためカンボジアに滞在した時、難民や貧困にあえぐ現地の人びとに出会い、@UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、Aユニセフ、BWFP(世界食糧計画)の活動に興味をもち、以降これらの人道活動に精力的に取り組んできた。当初は「売名行為」と見られるのを避けるため、これらの活動を打ち明けていなかったものの、いつの日からかその活動をライフワークと考えるようになった彼女は、2001年8月27日付で国連難民高等弁務官事務所の親善大使に任命され、今では公然と誇らし気にその活動を続けている。そのうえ2001年11月には、カンボジアの孤児院にいた0歳児の男の子を養子に迎えたとのこと。これらは、この映画のパンフレットに詳しく紹介されている。また2003年12月8日の読売新聞(朝刊)の「論点」には米国女優アンジェリーナ・ジョリーの名前による「貧困が紛争の芽を育てる」とした投稿によって、彼女の国連難民高等弁務官事務所としての親善大使の活動をアピールしているくらいだから、これはきっと、ホンモノだと思う。しかし、このような彼女の親善大使としての活動は理解できても、この映画のヒロインのような、あまりにも過激な行動はどうも…?』

http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-a-209subetehaainotameni.html

posted by fom_club at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月09日

チュウォ!さむ〜い!

 今日12月9日金曜日は、嬉しいコッコのお便りの紹介から。
 戸田郁子さんだけではありません。ラジオにでなくったって、他国に嫁いで、一平民として、その新天地に溶け込んで、このクニの人としても架け橋になろうと、明るく、楽しく、がんばって取り組んでおらえる方がおられますよねぇ〜。
 ヤッホー君はそんな元気溌剌、ご活躍なさっている方がいつまでも輝きを失わないで、と応援したくなります。なに、辛いこと、悲しいこと、萎れるときだって、あったっていい、そんなときほど「な〜に、大丈夫だよ」ってそりゃあ、物理的には遠距離だけど、仲間だったら心理的にはとっても近いんだから、ふいっと勇気をあげてやれる、とそんな不思議な確信があるのです。ね、そうだよねえ〜!

『ご無沙汰しております。
 「コッコの日記」、いつも読んでくださりありがとうございます^^
 ソウルは今朝、初雪が降りました!本格的な冬が始まろうとしています。

 戸田郁子さんは、スッカラという雑誌で連載されていたり、本になったりっていうのは存じ上げていましたが、それだけですね…。同じ日韓結婚で嫁いだ大先輩で、楽しく拝見しておりました。日韓、そして中国との架け橋にもなっておられるのですね。

 3.11は韓国でも大きな衝撃がありました。会社で日本と電話をしていた先輩が、
「地震だって、電話切れちゃった」
というのを聞いて知ったのですが、あのような惨事だとは思わず…。家族や友人とも連絡がしばらく取れず、本当に心配になったことを思い出します。

 そんな1年もそろそろ過ぎ去ろうとしてますね…。

 来年はぜひ韓国にお越しください。マッコリとチヂミでお迎えいたします^^

 コネストでも登山に関するツアーが色々ありますので、よろしければご参考に。。北漢山(プッカンサン)、雪岳山(ソラクサン)、智異山(チリサン)が現在あります。
 日本語可能な登山専門家が同行するタイプです。

 キムチ漬けは、今年も田舎の義母が行なってくれ、チャレンジは来年になりそうです。まだまだ嫁修行が足りませんね…(笑)
 漬けられたら、編集部日記で必ずご報告いたします!

 それでは、良い年の瀬をお過ごしください。
 少し早いですが、メリークリスマス☆』


 山歩クラブの海外山行はこれまでマレーシア、台湾とアジアばっかりで、カナダ、スイス、ヒマラヤなどメジャーなところにはお出かけしていません(いろんなツアーが目白押しだし、高尾山と冨士山には行きませんと言っているように、あえてやりませんねえ)、その代わり、台湾では現地の先住民族とすっかり意気投合し、夜通し、キャンプファイヤーの周りで、歌ったり踊ったり。。。ぜひ、来年はお隣りの韓国に足を運んでみたいものです。

 そんな韓国の今日のニュースは、というと…

韓国原子力研究院の除染解体研究部研究員らが12月8日、原子力事故で汚染された土壌から放射性物質を1ヶ月以内に除去する複合動電気土壌除染装置を稼動している。

 土壌に含まれる放射性物質を効果的に除去できる技術が韓国の企業に移転され技術商用化の道が開かれた。

 韓国原子力研究院は8日、キム・ゲナム博士チームが最近開発に成功したこの技術を韓国電力技術に移転する契約を締結したと明らかにした。

 この技術は土壌に含まれる放射性物質のうちセシウムは96%、コバルトとウランは98%まで除去可能で、処理期間も既存の6ヶ月から1ヶ月と大幅に短縮した。

 韓国メディアによると、韓国電力技術はこの技術を活用して日本の福島原子力発電所事故地域を含む内外の放射能汚染除去市場に本格進出する計画だ

(2011年12月9日 11:59更新、中央日報日本語版、韓国で土壌中の放射能除去技術商用化…福島汚染浄化に役割)

 山歩クラブも新年、2012年は「飛龍」となって、世界を舞台に駆け回りたい、そのためにも会員やボランティアを大募集することにします。
 ぜひ読者の皆さん、国境や言葉や肌の色といった障壁を乗り越えて、平民同士、山を歩いて、お風呂に入って、お米のご飯を食べて、地酒を少し、そしてお国なまりの歌をお互い喉自慢しあう…そんな集いの場を実現していきませんか、ね、そうしよう!

 次の写真は、2007年1月10日出国14日帰国で『坐臥在大自然之中遠望雲海 彷如置身仙境』企画を山歩クラブの仲間、11名で実施したときの集合写真です。台湾でのひとときが思いだされます:

P悦1.jpg

山歩クラブの海外遠征には「哲学」があります。
 ひとつ、自前で、手作りで山旅を組み立てること。
 ふたつ、相手国に受け入れてくれる友や団体があること。
 みっつ、お互いに学びあい、国際ネットワークを紡ぎあげていくこと。
 つまりお互いに共通の基盤があって(なければつくりあげていける潜在力があること)、対等な「国際交流」なんですね。
 一方的に押しかけ、動物園に行く気分で山や人を「見る」のでなく、双方向的な…、う〜ん、海外旅行の商業的ツアーではないんです。
 お互いに刺激しあえ、学びあい、お互いに得るものがある<エコ・トレッキング>なんです

(今は無いムカシの山歩クラブのホームページ「台北、嘉義、阿里山鉄道、特冨野古道、神秘谷古道、台中」より)

 入会希望の方はその旨、このヤッホー君のブログのコメントにご記入のうえ送信ボタンをクリックしてみてください。
 では、どちらさまも良い週末を!

posted by fom_club at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月08日

エコハウス

 昨日の日記で紹介した東北芸術工科大学准教授の三浦秀一先生。
 実はこんなことまでなさっておりました:

木で家をつくり、木をエネルギーとして使うのは、山と暮らしの循環関係を再構築することである。そして、地域の資源を使うことは、地域の雇用を生み出すことにもつながる
(山形エコハウス、プロジェクトメンバー コラム「山形の森林資源を使ったゼロカーボン住宅」)
http://www.tuad.ac.jp/ecohouse/column_miura.html
 
 そうなんです。山形エコハウス…これは、環境省「21世紀環境共生型住宅のモデル整備による建設促進事業」なのです。

『応募の中で選ばれた全国20の自治体が、環境省の補助金を受け、それぞれの地域の気候風土や特色を生かしたエコハウスの実現と普及に取り組みます』

 全国に20しかモデル住宅が建設されていません。そのひとつだったのです:

『「山形エコハウス」は、山形県が環境省の補助を受け、東北芸術工科大学と連携し、2010(平成22)年3月に建設したモデルハウスです…低炭素社会における住宅の未来形はいかなるものか、設計を通しその具体的な姿を追求しています。
1 木で家をつくる⇒県産材(市有林)を活用しています。地域の木材を使用することは、温暖化防止に繋がります。
2 住宅を省エネルギー化する⇒断熱対策を行っています。山形のような寒冷地では、壁、天井、床、窓など住宅の断熱対策をし、暖房エネルギーの消費を抑えることが温暖化防止に繋がります。
3 自然のエネルギー(再生可能エネルギー)を使う⇒太陽のエネルギーや木質バイオマスの活用で、電気や暖房、給湯などのエコハウスで使用するエネルギーを賄っています』


 そのプロジェクトにたずさわってきたのが三浦秀一先生でした(1963年兵庫県生まれ。1992年早稲田大学大学院博士課程修了、博士(工学)。東北芸術工科大学准教授。建築と地域を主眼としたエネルギー計画や地球温暖化対策の技術評価や政策に関する研究を行なっています。山形県がカーボンニュートラルな地域となるよう、住民や自治体とともに実践活動に取り組んでおられます。

 それで、他の自治体は?と思ったら、なんと福島県飯舘村がありました。ヤッホー君のこのブログでは、2011年3月24日付け日記「なな色の空」、11月17日付け日記「平成の大合併」でも触れていました飯舘村、そこにあるのが「までいハウス」だったのでした。
 環境省の公式サイトによりますと:

低炭素型田園ライフの実現のため、菜園・ガーデン、農作業場、アート活動等の多様なクリエート空間を用意し、“ 半農半]” 型のライフスタイルを堪能できるエコ田園住宅を村民参画で計画・建設しエコ定住、移住を促す。建物だけでなく、ランドスケープ、緑、菜園、庭、環境、農林地と融合する「までいな家(ZERO+α ハウス)」の生活体験を提供し、地球にやさしいまでいな暮らしを体感できる、村のエコライフ学習センター機能も果たし、までいライフの創造に寄与する
http://www.env.go.jp/policy/ecohouse/challenge/challenge04.html

 までいな村はいまどうなったのでしょうか、そして「エコハウス・までいな家」はどうなったのでしょうか…「ミツバチがぶんぶん飛んでいるようなところはまでいライフ」だ、という名言を残したのは、3.11の前、難民となる前の「ニホンミツバチの巣箱づくりワークショップ」での長正増夫さんでした。2011年3月6日日曜日の午後13:00〜16:00でのワークショップに、村内のニホンミツバチ愛好家として講師となったときの言葉でした。

8月9日、代々木公園で脱原発を訴える音楽イベント「アトミック・カフェ・イン・ザ・パーク」が行なわれ、トークセッションに、ふるさと再生を目指す市民団体“つながろう南相馬”、“負げねど!飯舘”のメンバーが登壇し、震災から5か月が過ぎてもいまだに終わりの見えない故郷の現状を訴えた。

 「原発の話をすると、わたしは、はらわたが煮えくり返る思いなんです」、政府への怒り、東電への怒りを爆発させたのは、飯舘村の元副村長で、現在は“負げねど!飯舘”の中心メンバーである長生増夫さんだ。
 飯舘村は福島第一原発から一部の地域を除けば、直線で30キロ以上離れている山村で、南相馬を経由すると、第一原発まで道のりで60キロ弱ある。11日に1号機が爆発、14日にはプルトニウムを燃料としたもっとも危険な3号機が爆発した。標高500メートル前後ある飯舘村の避難所は原発付近から逃れてくる人びとであふれかえった。それから1か月後の4月10日、某大学の教授が「ここは安全です。マスクをしなくても子どもを外で遊ばせても問題ないです」講演を行なった。だれもが「飯舘村は安全だ」と信じていた。だがその翌日、飯舘村は突如、全村が計画的避難区域に指定された。高い数値の放射性セシウムが、何も知らなかった村の人たちの頭上に1か月以上降り注いでいた。

 長生さんは、「1ヶ月以上もの間、東電は、政府は、いったい何をしていたんだ!と言ってやりたい」と沈痛な気持ちで声を荒らげた。
 そして最後に「皆さんが知らない話をします。わたしの知り合いは、原発作業員をしています。3月11日、逃げていた原発作業員は見たんです。津波が来る前に、地震の直後、壁がポロポロと崩れていた1号機を。政府は、福島原発は津波のせいで爆発した、と言っていますが、そうじゃない。原発の寿命は30年と言われているのに、第一原発は、40年間も稼働していたんです。点検もずさんでした。2年前から、施工責任者は「原発あぶねえど」と言っていた。日本にはたくさんの数の原発がいまだに動いています。安全を確認するのは、福島原発を”安全“と言い続けてきた保安院なんです!」。
 飯舘全村が計画避難区域に指定された翌日、村で最高齢だった102歳のおじいさんは、自ら命を絶った。
 「村を離れるとき、わたしたちは、泣きながら≪ふるさと≫を歌いました。わたしたちが流した涙を無駄にしたくありません」とブースに集まった400人以上の若者に訴えた。
 
 ≪アトミック・カフェ・フェスティバル≫は、世界的な反核運動の火付け役ともなった、ソビエト対アメリカという大国の核対立のなか、“核は安全”と訴え続けた映画「アトミック・カフェ」の上映運動のなかで生まれた音楽イベント。
 第1回目のイベントは、1984年8月4日日比谷野外音楽堂において開催。デビュー当時の尾崎豊が7メートルの照明台から飛び降り、骨折しながら歌い続けた逸話を残した伝説のイベント

(シネマトゥデイ2011年8月11日 21時15分更新、編集部:森田真帆、「反核・脱原発がテーマ「アトミックカフェ・イン・ザ・パーク」開催 尾崎豊の伝説の熱唱から27年…福島第一原発への怒り爆発!)
http://www.cinematoday.jp/page/N0034514

 エコ、エゴ、エイゴでいまのアフリカでのDurban climate change conference 2011をちょっとウオッチしたほうがいいんじゃない…あの、アメリカのあとばっかり追っかけ、アメリカのえこひいきをしてるって細野とかいうお大尽、いやはや、EUとか中国とか海に沈もうとしている太平洋の島しょ諸国らと組んで、なんとかすっべ、負けねど、までいな地球!とロビー走り回って汗をかいてると思ったら細野豪志環境相ってあの調子で演説してカッコつけておしまいなのかねえ…こりゃあ、だめだわいな、「京都議定書」をほったらかし。

The survival of Kyoto protocol, which some developing countries see as their only guarantee of rich ones cutting emissions, looks precarious after Canada, Japan and Russia said they will not sign up to a second commitment period starting in 2013.

EU plans for a global treaty to legally bind all countries to slash greenhouse emissions by 2020 appear to be – just – on track after China and Brazil, two of the biggest developing countries, indicated they were prepared to consider the proposed accord, with conditions.

(John Vidal and Fiona Harvey in Durban, Guardian, Monday 5 December 2011 19.50 GMT)

posted by fom_club at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月07日

知音

『自然エネルギーを活用した社会作りの提案を目指し、エネルギー問題について考える勉強会が、山形市の東北芸術工科大学で始まっている。定期的に開催して持続可能な循環型社会のモデルプランを作り、県内や被災地への提案を目指すという。
 同大の建築・環境デザイン学科と山形市のNPO法人知音が主催。1回目の10月19日は、「東北における自然エネルギー転換プラン」と題してパネルディスカッションを行ない、同大の学生や一般市民ら約100人が参加した。
 パネリストを務めたコピーライターのマエキタミヤコさんは、震災後に、東京都内でエネルギー問題についての勉強会を立ち上げた経緯を説明。「これまで人任せで『安全』としていた原発は神話だった。エネルギー問題を自分たちで考え判断することは民主主義を守ることにもつながる」と話した。
 県内のエネルギーの使用状況などを同大の教授らが説明すると、会場からは、「深夜電力が安いのはなぜ」「山形の人にとって、エネルギー転換をする利点は」といった質問が相次いだ。
 勉強会は、今後も定期的に開催する予定。同大の三浦秀一准教授は、「最終的には、自然エネルギーを取り入れた社会のモデルプランをまとめ、要望があれば県内や被災地に提案したい」と話している。
 次回は11月12日、午後1時半から同大で、反原発の立場で執筆活動をする未来バンク理事長・田中優さんの講演会を開く。一般1000円、学生無料。問い合わせは、同大建築・環境デザイン学科準備室(Tel 023-627-2189)』

(2011年10月23日15時31分更新朝日新聞「自然エネルギー活用のモデル提案へ 東北芸工大が勉強会」)
http://www.asahi.com/edu/news/TKY201110230140.html

 いえね、昨夜、寝ようとしていたところにケイタイが。NPO法人知音からでした。このNPO法人についてはヤッホー君のブログ、8月18日付け日記「木村大作」でご紹介したことがあります。
 今度の10日土曜日って空いていないか、の問い合わせでした:

やはり、脱原発集会に参加します。なんとかここで踏ん張らないと!だめだべ
 やっぱり新幹線使って日帰りで上京するのかな…

 この日はこんな集会があります。

 「がんばろう! さようなら原発1000万人署名」12.10集会

『12/10(土)13:30開会(40分程度の集会の後に、パレードを行ないます)
 内容:内橋克人さん(呼びかけ人)鎌田慧さん(呼びかけ人)福島からの参加者ほか
 パレードコース(予定)日比谷公園→東京電力本社前→銀座→東京駅→常盤橋公園
 会場:東京・日比谷野外大音楽堂(東京都千代田区日比谷公園1-3)
     東京メトロ「霞ヶ関駅」(丸の内線・千代田線・日比谷線)徒歩5分
     都営地下鉄「内幸町駅」(三田線)徒歩5分
     JR「有楽町駅」(京浜東北線)徒歩15分
●お願い お手製のプラカード、楽器、着ぐるみなど、パレードを盛り上げるものを持ってきてください。
●主催:「さようなら原発1000万人アクション実行委員会(Tel 03-5289-8224 原水禁)」

本日2011年12月7日、呼びかけ人から内橋克人さん、鎌田慧さんに続いて、大江健三郎さんも駆けつけてくださることが決まりました!


 公式サイトには市民から実にさまざまなメッセージが:
http://sayonara-nukes.org/2011/11/1210action/

井上信二(2011年11月15日 at 19:00)
 環境省へのパブリックコメント「放射性物質汚染対処特措法関係省令案に対する意見」です:
そもそも東電が自分の所から出した放射性物質を何故国が肩代わりして税金つかって無駄な除染をするのか。この法律の根幹が全く理解できない。文科省も経産省も厚労省も、全て国民の側に立たず、原子力推進団体に飼いならされ、今や東電と電気事業連合会のしもべと成っている現状。環境省が二酸化炭素削減で原子力を推進していることの是非も問いたい。
 今回の福島原発震災(人災)・原子力災害では、まず放射線管理区域から人々を隔離し、無用な被曝を継続して受けないようにすることが環境省の責務と考える。
 国民の生命を守る、それが国家としての最大の使命であり、そのために国民一人一人から税金を取りその活動のために使う。
 今、あなた達がしていることは、国民の生命を無視して加害者である東電を救い、被害者である福島県民(私も原発西25Kmからの避難者)に低線量被曝の人体実験を助長させ、将来がある子供たちの寿命を短くさせる方向に働きがけている、その事実に気がつき即刻止めるべきだ。
 まず汚染マップから、放射線管理区域内側は無人にして、一般人が立ち入らないように国の管理で「福島原子力災害記念国立公園」としておく。その上で、環境省として、放射線管理区域内側の汚染を下げるための対策を施す。
 人が住むベきところではないのに住まわせることは大罪だ。
 除染は、放射線業務従事者により徹底して行うべきで、素人がマスクもはずしてやるべき行為ではない。そのための法律をしっかり作ること、それがあなた達環境省の役人の仕事である。
 決して東電や原子力推進団体を擁護して、国民の生命を守らない、そんな人間になってはならない。
 自分自身の良心と公務員としての初志と義務・責任を再度自覚して欲しい。
 私は自分の命ある限り、3月11日からこの国がしてきた行動・対応を記録し、忘れることなく後世に残し、その大罪を必ず償わせることに命を捧げるものである。

井上信二(2011年11月18日 at 13:34)
環境省:送られた汚染土壌、職員が空き地に投棄…自宅近く
 環境省職員による汚染土壌の不適切投棄について会見で謝罪する細野豪志環境相=2011年11月17日午前11時53分、江口一撮影
 細野豪志環境相は11月17日会見し、福島市内で採取されたとみられる放射性物質を含む土壌が今月、環境省に2度送りつけられ、そのうち1回分の土壌を同省職員が埼玉県内の空き地に投棄していたことを明らかにした。細野氏は「除染の役割を担っている環境省として決してあってはならないこと。国民に深くおわび申し上げる」と謝罪した。
 同省によると11月8日午前9時ごろ、A4コピー用紙入りの箱よりも一回り小さい段ボール箱が送られてきた。中にはビニール袋入りの土と「福島市の自宅で採取した土で、環境省で保管、処分してほしい」という趣旨の手紙が添えられ、送り主の記載もあった。手紙には自宅周辺の放射線量のデータも記載されていたという。
 放射線量は、0.8m離れた時点で1時間当たり0.18マイクロシーベルト、ビニール袋の外側で0.6マイクロシーベルト。放射性物質濃度は推定で1キロ当たり約4000ベクレルだった。
 この土壌の処分法を検討する過程で、官房総務課長が「送ってくる住民の気持ちは分かる。線量は低いので、千葉県柏市の自宅の庭で処分しようか」と話したため、同課職員が12日に埼玉県内の自宅に持ち帰り、翌日、近くの空き地にすてたという。
 16日にも、同一人物と思われる送り主から前回より小さい箱が送られてきたため細野氏ら同省幹部に報告、不適切な処分が発覚した。この箱は品名欄に「灰」と書かれており、開封せずに線量を測定した結果、前回と同程度だった。
 細野環境相は、「何人も汚染土壌をみだりに投棄してはならない」と定めた福島第1原発事故による放射性物質汚染の対処に係わる特別措置法(来年1月施行)に違反する可能性があり、極めて不適切として、官房総務課長を異動させるなど、関係職員の処分を検討、自身の監督責任も検討中としている。【江口一、藤野基文】
(毎日新聞 2011年11月17日 最終更新 11月17日 15時56分)

 この記事を読み返すたびに、この土がある場所で人が普通に暮らしている、その現実に驚愕する。
 何故、環境省ともあるお役所が放射性管理区域以上に汚染された地域からの土で、こんなに騒いでいるのか?本当は土(放射性廃棄物)でなく そんな管理区域で人が毎日生きていることに疑問を持ち、直ちに避難させるのが環境省の使命ではないか?文科省や経産省や厚労省とは違うでしょ…それとも同じ穴のむじなですか?
 福島の人たちは、そのことを訴えるために汚染土を象徴的に送っていると感じました…皆さまはこの記事を読んでどんな感想を持ちますか?
 冷温停止宣言で原子力災害賠償責任を逃れ、除染で県外避難者を帰郷させ、人体実験を続ける…私にはそんな風にしか見えません…

skin-scanner(2011年12月7日 at 15:13)
 もともと核エネルギーは人間というか地球上の生物とは共存出来ないと思います。
 少なくとも今回の3.11ではっきりしたように思います。セシウムばかり報道されていますが、プルトニウムは調べていないのですかね。そんな訳ないなら、報道しないようにしてるんでしょうか。戦後は今の日本の状態と似ている気がします。生活保護は増加したし、貧困は拡大している。政府は経済に裏打ちされた政策を立てていないとしか思えない。なぜこの状態で、復興という言葉を使って、増税するのか?TPPに参加表明するのか?日本の農業にそんな体力があるとも思えない。アメリカの狙いは医療との説もある。今回で日本は変わらざるを得ないと思います。まず、東北の被災者の生活を立て直し欲しい。私たち国民が複雑化した経済を理解出来ないのをいいことに、メチャクチャな政策を作らないで欲しい。そして、事実を報道して欲しい。復興、沖縄、TPP、アラブ問題、ミャンマーと氾濫する情報を利用して、国民が忘却するのを待っているようにも見える。裏の世界がある政治を国民が理解出来ないのを利用しないで欲しい。なのにマスメディアを利用する。本当に戦後にして欲しい。私はデモに参加します。

posted by fom_club at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月06日

戸田郁子

 高村智恵子と光太郎、そして津村節子と吉村昭とを"あわせ鏡"のようにして、これまでヤッホー君はこのブログ、日記で、それぞれの愛の諸相をみてきた、と思っています。

 ところで以前、トイレに起きた後なんか目が覚めてしまい、何気なく手を伸ばしてラジオのスイッチを入れたことがありました。そのとき、津村節子がお話しなさっていたのに、びっくりしたことがありました。その内容もさすがラジオ、という大人向け、すばらしい感動的な番組でした。
 いまNHKラジオ第一のラジオ深夜便の放送メニューでチェックして見ますと、≪明日へのことば「悲しみを乗り越えて」≫だったというのが分かります!

津村節子さんは1928年生まれ。1965年に小説「玩具」で芥川賞を受賞。女性の心の深奥に迫り、生を描き続けてきました。
 夫は、1927年生まれの作家、吉村昭。2005年、吉村は舌がんを発症し、翌2006年7月、自宅で療養中に「もう死ぬ」と言い残し、点滴の管や胸に埋め込んであったカテーテルをみずから引き抜き、死去しました。延命治療を拒否した覚悟の死、「尊厳死」ともいえる最期でした。
 吉村の死から5年たったことし2011年7月、津村さんは、夫の発病から闘病生活、そして死までをつづった私小説「紅梅」を発表しました。

 第1回10月18日火曜日午前4時台は、夫・吉村の闘病から死までを、妻として、また文学者として、どのように向き合ってきたのかなどをお聞きします。

 第2回10月19日水曜日午前4時台は、ことし初めに発表した「異郷」で川端康成文学賞を受賞するなど、80歳を超えてもなお、旺盛に執筆を続ける津村さんの文学はどのように紡ぎだされているのか、その創作の秘密に迫ります

http://www.nhk.or.jp/r1-blog/050/97738.html 

 そんな出来事があったのは10月のころだったのですか。そして、あれは先月11月、北海道の仲間とカッシーと3人で西武線の電車に乗って、芦ヶ久保駅から丸山を歩こうとしていたとき、この「ラジオ深夜便」が話題になったのですが、カッシーのお話しでは、パソコンでいま聞けるのだそうです。カッシーにもいい番組だね、ということですので優れものです。
 聴けなかった方は、ぜひパソコンで聴いてみてくださいね:

自宅のパソコンで聞けるこのストリーミングサービスはおよそ1ヶ月間の公開予定です
http://www.nhk.or.jp/shinyabin/jyoyou.html#inkyo3

 と申しますのは、実は今朝方のことなんです。同じようにこんなことめったにないのですが、早朝、何気なくラジオのスイッチを入れたら、この方:
【明日へのことば】日・韓・中の文化の懸け橋となって、翻訳家・出版社経営 戸田郁子

『「韓流」という言葉も、まだなかった1980年代初め、言葉と歴史を学ぼうと韓国に留学した作家の戸田郁子さん。韓国人写真家の夫とともに中国朝鮮族の歩みと暮らしを記録している。韓国と中国で暮らし感じたことを語ってもらった。
     ◇
――韓国との出会いは。

 短大生だった1979年、ゼミ研修で初めて訪れました。韓国の学生から「日帝時代(植民地支配)」をどう思うか、とよく聞かれたが、返す言葉がなかった。有名な詩人、故金素雲(キム・ソウン)さんが「その国に生まれた人間は、その国の重荷を一生背負って生きなければならない」と話された。日本が過去に何をしたか、知らずに恥ずかしかった。

――息子さんを韓国と中国の幼稚園や学校に通わせました。どんな様子でしたか。

 韓国の幼稚園に通っていた長男の明秀が、あわてて帰ってきて「僕は日本人じゃないでしょ」と聞いてきた。「(豊臣秀吉軍と戦った)李舜臣(イ・スンシン)将軍が、悪い日本人をやっつけた」と先生から教わったという。とっさに「おまえは中国人だよ」と答えた。やがて夫が中国・延辺大学に写真学科を立ち上げるため家族で赴任。息子を漢族の小学校に入れると、中国語がうまくなり「僕は中華人民共和国の国民です」と作文に書くようになった。

――もう1人「娘さん」を育てたそうですが。

 中国朝鮮族の女性、金財花です。貧しい農村で父と祖母に育てられた。小学校から師範学校を出るまで学費を支えました。母親の愛情を知らず、幼い頃、私に会うと恥ずかしがって逃げ惑っていた彼女が、8月に同胞の青年と結婚した。祖母は亡くなり、父も体が弱い。結婚式に私たち夫婦が親代わりに出席、チマ・チョゴリを着ました。

 とだ・いくこ 1959年、愛知県豊橋市生まれ。学習院女子短大を卒業し金属会社に就職。その後、韓国、中国に留学。ソウル近郊在住。著作で韓国文化や韓国語を紹介してきた。近著に『中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶』(2011年、岩波書店)。
     ◇
〈中国朝鮮族〉朝鮮人の中国への本格的な移民は、朝鮮王朝末期の19世紀後半から始まった。1910年の日本による韓国併合後は、朝鮮半島から土地を失った農民が流出。1931年の満州事変ごろから開拓や軍需労働などで朝鮮人が旧満州(中国東北地方)に移住させられた。1992年の中韓国交正常化以後、韓国では多くの朝鮮族が、家政婦や工事現場、工場、食堂などで働いている。現在、中国籍を持つ朝鮮族は約190万人にのぼる

(2011年10月24日付け朝日新聞 出会いに導かれて アジアを語る―作家・戸田郁子さんに聞く、聞き手・桜井泉)
http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201110170322.html

posted by fom_club at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月05日

木根川橋

 昨日通った「木根川橋」って、ね、そんな題名の歌があるのはご存知でした?

http://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=5KgQvOLFmKI

 歌っているのは、さだまさし(1952年4月10日生まれ)。長崎県長崎市出身のシンガーソングライターなんだけど、中学校時代から上京してたらしい。

1965年 ヴァイオリンの修業のため上京。葛飾区内の中学校に入学』とさだまさし公式サイトにもあります。

歌の『冒頭の台詞「先生、俺達の木造校舎すっかりなくなっちまったんですねェ」の舞台がこの葛飾区立中川中学校。
 2枚目写真の奥の建物が体育館でその上がプールになっていますが「テニスコートの上にプールなんか出来ちまって…」のプールはその手前右側にある鉄棒(写真には写っていません)のあたりにあったそうです

http://shizuka.sppd.ne.jp/sadafan/modules/gnavi/index.php?lid=90&cid=3

実は、毎年、松戸のコンサート会場に足を運んでくれていた恩師・『木根川橋』の村山先生が2005年、急逝されました。
 さださんは、“毎日新聞”のコラムにそのことを書いています。以下に、そのまま引用します。ちょっと長くなってしまいますが、ご容赦ください。

“◆ さようなら、僕らの「ロボ」先生◆
 「ロボが死んだ」 電話の向こうで榎本和行が力なく言った。
 レコーディングも最後の追い込みの時だった。
 「ロボ」とは葛飾区立中川中学校在学中にクラス担任だった村山秀一先生のことだ。
 身体が小さく角張って、動きも何やらぎくしゃくしていたので、そういうあだ名になったらしい。
 僕が入学した時、すでに「ロボ」と呼ばれていた。
 生真面目で優しく、面倒見がよくて少し頭が硬く、不器用だった。
 しかし、誠実に本当に一所懸命子供と向かい合うことから、生徒には慕われた。
 つい数年前、僕らの同級生が集まって「堀切菖蒲園」で「古希を祝う会」をやったばかりだった。

 身体が悪いとは聞いていなかったのでひどく驚いたが、ようやく3日後にお嬢さんと話が出来た。
 「13日の朝、くも膜下出血で倒れてほとんど即死のような状態でした」
 悲しみを押し殺しながら、お嬢さんは元気そうに説明した。
 まだ75歳。
 早すぎる死だった。

 僕の作った歌に「木根川橋」というのがある。
 クラス会をテーマにした歌で、いつの間にか先生が寝てしまうシーンがある。
 ロボはクラス会などで酔っぱらう度に
「佐田、木根川橋で先生が寝ちゃうだろ? あれ、よく寝たなあ。あれが良いんだ」と言った。
 そしてその後に、必ず
 「佐田、あの寝ちゃった先生って、誰だ?」と訊いた。
 僕はその度に答えた。
 「ロボに決まってんだろ」と。
 するとロボは
 「俺かぁ!」と大声を出し、「お前よく見てんなあ。俺昔からすぐ寝てたもんな」と嬉しそうに笑った。
 
 テストの監視に来ていても教卓で寝てしまうから、ロボが来ると平均点が急に上がった。
 わざとなのか本気なのかは本当は分からない。
 
 「葬儀の時にずっと木根川橋の歌を流したんですよ」。
 お嬢さんがそう言ってくれた。
 毎年松戸のコンサートに私塾の生徒や父兄など20人程でわいわい来てくれていた元気な顔を忘れない。
 
 もう会えないんだなあ。
 寂しいよ。
 さようならロボ。
 みんな先生が好きだったよ――合掌。”

-出典:毎日新聞 平成17年7月25日付-
(…2005/9/22 10:01「鎮魂歌(レクイエム)」もしくは『木根川橋』、まこっちゃんの好奇心倶楽部【空に向かって】より)
http://makotchan-i0223.at.webry.info/200509/article_30.html

 このブロガーさんの今日の記事≪2011/12/05 10:26【回想録】中山競馬場のクリスマスツリー≫を開いてください。
 モウ一曲おまけに、晩鐘 さだまさし 風見鶏も聞けます。

 山歩クラブのお散歩会、木根川橋をめぐるコースもいいね、よっし、提案しようっと。

posted by fom_club at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月04日

行徳の海

 ヤッホー君の今日、12月最初の日曜日の午後のお山歩じゃない、お散歩、は隅田川の畔から行徳の海まで。
 本当は舟で行きたかったのですが、江戸時代ではなく2011年も暮れようとしているご時世なのでクルマ、です。
 途中、駒形橋東詰から浅草通に入ります。冬の透き通った美空を背景に、押上方向にスカイツリーがすっきりとおおきく立ちはだかっておられました。来年5月22日火曜日の開業だそうですね。高さは武蔵(634m、ちなみに東京タワーは333m)、オープンは夫婦(22日)とおぼえておきましょうか。
 
 クルマは、木根川橋で荒川をわたって行徳の海を目指していました。
 どうして行徳かって、ですか。
 それは、ヤッホー君の住んでいるところは、「深川萬年橋景観重点地区」で、この萬年橋って隅田川に注ぐ小名木川の最終の橋なのです。
 「清澄白河」駅構内に、白河小学校(2001年度、つまり平成13年度をもって廃校、2006年秋からKインターナショナルスクールが越してきました)の卒業生が彫ったレリーフが飾られているのをご存知でしょうか。
 それはまた後で記すとして、ひとつづつ…

 まず、江東区「深川萬年橋景観重点地区」ってご存知でしょうか。

その地域の特色を現したまちなみをつくっている地域、これからの江東区の都市景観を創造していく地域などを、重点的に景観の誘導や保全を図るために指定される地区のことです。
 現在、江東区では2007(平成19)年4月に「深川萬年橋景観重点地区」を指定し、独自の基準による景観づくりを推進しています…
 萬年橋を中心とする地域は、かつて芭蕉が住み、北斎が浮世絵を描くなど、その歴史的・文化的な趣を背景に、粋で人情あふれる深川のまちを形づくっているところに特徴があります。
 この特徴を活かしながら、協調と調和をコンセプトに、地区全体が一体感のあるまちなみとなるよう…都市景観重要建造物の萬年橋を中心とした地域を指定し、地区全体の、特色ある良好な景観の形成を進めます

(江東区都市整備部 都市計画課 最終更新日2008年03月25日 18時54分)
http://www.city.koto.lg.jp/seikatsu/toshiseibi/7774/7777.html

 で、この小名木川は、本所深川の堀の中でも、ムカシ開拓、干拓が始められた最も初期に、行徳から塩を運ぶための運河であった、とよく言われております。
 行徳は、江戸時代以前から、塩の産地として有名でした。これから、数万人の家臣や町人を住まわせる城下町を築いていこうという江戸幕府にとっては、その塩を運ぶ道を確保することが是非とも求められていたのです。

 「塩なめ地蔵」なんてご存知でしょうか?
 宝塔寺(大島8-38-32、都営新宿線「東大島」駅下車徒歩10分)にあります。

宝塔寺の塩なめ地蔵に「いぼ」のできたものが祈願して仏前の塩をもらってくると「いぼ」が治るといわれ、有名でありました。寺伝によると、江戸時代に石井氏が川からひろい当寺に納めたものだといわれています。
 江戸時代に小名木川の沿岸は、行徳との交通路であったことから、寺の前をとおる行商人が休憩の際に荷物の塩を少しずつ地蔵に供えたのが塩なめ地蔵の起源であると伝えられています

(江東区の公式サイトより)
http://www.city.koto.lg.jp/profile/kanko/5442/98.html

 そして向かった行徳の海は、目の前が広い「江戸前」でとても気持ちが晴れ晴れとします。今日も美空に雲ひとつなく、遠くを羽田から発着する飛行機が飛んだり降りたり、静かな海の上には、カモたちが泳ぎ回っています。

市川の行徳地域は、かつて「江戸の名所」として人々に親しまれ、江戸時代は塩業、明治末年から海苔の養殖が盛んに行われてきた。
 
 また一方では、台風・津波などの自然災害が多く発生し、海と闘い続けてきた歴史もある。
 古くから津波や洪水の被害にみまわれることが多く、災害によって、塩業や海苔などその時代の産業が、大きな被害を受けた。
 とりわけ、江戸時代の大津波は被害も大きく、たくさんの記録に残されている。
 また、1917(大正6)年の大津波によって、行徳の塩田は壊滅的な打撃を受けた。

 戦後、埋め立てが次々と進み、都市化によりまわりのようすは、大きく変わってきた。

 昭和30代、市川では埋め立てが始まり、工場が誘致され、海岸線のようすは一変した。
 昭和44年には、地下鉄東西線が開通し、一気に都市化の波が押しよせた。
 自動車交通も発達し、京葉道路や湾岸道路が走り、昭和63年には、湾岸道路と平行してJR京葉線が開通した。
 一方で、このような都市化の中、海苔の養殖は現在も続いている。
 また、野鳥の多いこの地域では、「野鳥の楽園」として、行徳近郊緑地特別保全地区が設けられている。
 行徳港などの岸壁や江戸川放水路では、魚釣りにいそしむ人たちも多い

(市川市の公式サイトより)
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1521000034.html

 ムカシは津波、戦後は都市化の波に洗われ、そしてまた今春、3.11の津波に襲われ、行徳港の岸壁は液状化と崩壊寸前の打撃を受け、イマ復旧工事中!立入り禁止!
 釣りもできませんでした!

posted by fom_club at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメリカの医療制度

 12月4日日曜日、昨日の氷雨はどこへやら、外は北風が吹いているものの、太陽の日差しが差してきます。しかし、なにか変で気持ち悪いNHK的な気分にヤッホー君、午後は愛車を動かすことにしていますが、運転には注意しないといけませんね:

 まずはこんな記事から。お上からなんとま、誘導的な発表がこの時期にありました。不思議でしょう…

『内閣府が3日発表した「外交に関する世論調査」によると、米国に「親しみを感じる」と答えた人は、「どちらかというと感じる」を合わせて82.0%となった。昨年の前回調査と比べ2.1ポイント増で、1978年の調査開始以来最高。政府は「東日本大震災の際の米軍の『トモダチ作戦』を通じ、多くの国民が日米関係に特別な絆があると感じたのではないか」(外務省)としている』(時事通信 12月3日土曜日17時10分配信)

 オキナワの米軍基地の移転に関し、選民高級官僚がオフレコの高級飲み屋での問題発言がすっぱ抜かれて、一見すると身動きが取れなくなったかに見えています。しかし、だからこそお上は、かさにかかって米国へのおもいやり、得意の米国への配慮のポーズなんでしょうね、あれ以来。
 あの2006年6月30日の猿真似軍団、物まね芸人に成り下がったこのクニのトップは、テネシー州メンフィスのグレースランドで、プレスリー邸で、サングラス姿でギターを弾くまねをし、マスコミから笑われても物怖じせずブッシュ大統領への思いやりを表現しましたもんね。
 この高級官僚のせりふが、結果的に米軍を海外移転させるための自爆発言、捨て石となるのか、なんてまあ、ま、それほどオキナワをおもいやり、恋い焦がれて、愛おしい気持ちになっていたんならともかくね。首のすげ替えでちょん、ちょんと売国へのシナリオ通り、この幕間の芝居は終わるんでしょうね。

 だって、なんだか、どじょうはいま、捨て石になってTPP入会、入部、入村を目指しているようで…:
 
『「日本の元政府関係者からガイアツを頼まれた」。米通商代表部(USTR)のカトラー代表補は2日、環太平洋連携協定(TPP)への日本の参加問題で、日本政府OBからの働き掛けがあったことを明かした。
 野田佳彦首相が、TPP交渉参加に向けて関係国と協議に入る方針を表明した11月11日までの国内協議の最中、数人の元日本政府関係者が訪ねてきて同代表補に「少しガイアツをかけて、TPP参加が日本にとってよいことであると伝えてもらえないか」と、TPP参加を日本に促す働き掛けを求めたという』
(2011年12月4日付け東京新聞朝刊)

 だから、ヤッホー君は尊敬している小児科のお医者さまの次のメッセージを伝播、散布、拡散させたい気分なのです、今日の日曜日は。だって山に行って転んで怪我でもしたら破産しちゃう:

日本の医療制度が、TPPにより、米国型の医療制度に変質してゆく可能性が高くなった。マスコミも、政府も、こうした医療制度になるということを国民に殆ど知らせていない。現在の日本の医療制度も破綻しつつあるのだが、これでよいのか、まずは国民が良く知ることが必要だろう。

 米国の医療は、ほぼ全て私的医療保険で賄われる。以下の二つのシステムがある:
☆ PPO(Preferred Provider Organization)
どの医療機関にもかかれる保険。高額になる様子。恐らく一ヶ月数万円以上だろう。
☆ HMO(Health Maintenance Organization)
比較的安価だが、まずはかかりつけ医にかかり、必要があれば、そこから専門医にかかることになる。問題は、なかなか専門医にかかれないことらしい。予約で3ヶ月待ちといったことがありふれている様子。
☆ これ以外に、高齢者のためのMEDICAREと、貧困者のためのMEDICAIDがある。
MEDICAREのお世話になっている米国人に尋ねたところ、MEDICAREでのかかりつけ医は信頼がおけないとのこと。高額な保険料を支払えば、PPOの保険にも入れるのだろうが…と言っていた


 こんな経験をなさったお医者様がおられたようです。石持ちのヤッホー君も他人事ではなく、あの痛みを思い出してしまったようで: 

腹痛(尿路結石)→ER受診→鎮痛にモルヒネ→モルヒネの嘔吐で入院...の流れ。医原性のモルヒネ副作用による入院です(日本よりおそまつ)。 ER診てたら「アメリカって学生でもすげぇ!」とか思ってましたが、大したことないです。
 医療費は高い保険に入っているので結局ER受診の$50くらいで済みましたが、保険に入って無かったらと思うと…笑います!!
 1泊2日入院。総計$11506=1ドル80円とすると92万!!!
 内訳(略):、おどろくべきは(略):  
 どんだけ稼ぐんやねぇん>_<。。ほんと、保険に入ってない人ははしごから落ちて骨折して肋骨折れても受診もしないようですよ〜


 以下は、お医者様のコメント:

私が日本で医療に従事しているから、贔屓目で言うのではなくて、戦後成立した公的保険制度は、高度成長化で成立した奇跡的な医療制度だったのだ。それが今、崩壊しつつあり、また崩壊を急がせられつつある。
 米国型の医療制度では、医師にも仕事をする上で大変なことも出てくる。保険会社との折衝等々。でも、現在の就労時間の長さからは開放されるだろうし、技術を身につければ、収入も大幅に増やすことができる。
 でも、多くの患者にとっては、大病をしたら、破産するか、社会復帰が極めて難しい状況になる。米国では、7000万人の無保険者がおり、彼らはまともな医療を受けることができない。そのような医療制度を国民は受け入れられるのだろうか


 遠い未来の話しではないんですう。もうこの国も3.11の前ですらはじまっていたんですう…

病院でソーシャルワーカーに「医療費の支払いが難しい」と相談した外来・入院患者のうち、20〜64歳の働ける世代が57%に上ったことが、全日本民主医療機関連合会(民医連)の調査で12月3日、分かった。

 支払い困難な理由を「働いているが低収入のため」とした人のうち67%は非正規労働者で、厳しい雇用環境の影響がうかがえる。民医連は「支払いへの不安が、病院での受診をためらうことにつながっている」と指摘している。

 調査は昨年4月から今年3月、民医連加盟の各地の病院や診療所など189ヶ所で実施。医療費相談の際、ソーシャルワーカーが3029人から聞き取った内容をまとめた

(東京新聞2011年12月3日 20時46分配信)

posted by fom_club at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月03日

エイシン

 11月27日日曜日発行『山歩クラブ かわらばん 2011年12月号』というのがあります。
 ヤッホー君が毎月、その月の活動をまとめ、次月の企画をお知らせするものです。
 
 その8頁に≪これからの予定≫としてこんな記述が…

☆ 12月3日土曜日、真昼の12時大江戸線、半蔵門線「清澄白河」駅A3地上出口を出たところ。歴史散歩も兼ねます。終わって忘年会(餅つきの役割分担決め、2012年山選びのお話し合い)!
 震災復興橋の清洲橋のたもとにある陸奥宗光宅跡から歩きはじめ、復興小学校の明石小学校跡地まで墨田川テラスのリバーサイドウオーク。そして更にタウンウオークは続いて、締めは銀座でミーティング。

 仲間からは早速、こだまが帰ってきました:
かわら版をありがとうございました。たくさんの枚数、ユ―モアに富んだ文章作成と打ち込み、そして写真を取り入れたりと大変だったと推察いたします。構成もお上手ですね。大変読み易いです。12月3日の土曜日はよろしくお願いします

 しかし、雨、氷雨。

 中止になりまして結局、3人で「家飲み会」となりました。

 その折りにふいっと何気なく、「むかしエイシンがあったよねぇ」と言う話しになりました。

江東区門前仲町1丁目。
 「整理回収機構(RCC)」では、預金保険機構が既に発表している通り、本日、永代信用組合から資産の買取りを実施しました。
 買取り日: 平成14年9月17日(火)
買取対象資産額(元本) 1721億円、RCCの買取額(簿価) 450億円
…』
http://www.kaisyukikou.co.jp/announce/announce_290.html

 大口融資先がゴルフ場で90億円、その次が地上げなどで名を馳せた三立興産(破産)が69億円とかの債務超過で、金融庁の強権発動で経営破綻の認定になったもの。つまり当時の新聞によると、金融機関からの申請を待たずに預金保険法にもとづく破綻処理の第一号となった、といういわくつきの事例でした。小泉モト首相なんて、とんでもないお方がいらっしゃいましたが、盛んにいっていた「痛み」の象徴的な出来事でもあったようで、真相はどこにあったのでしょうか、ね。
 「金融庁のやり方はどう考えても理不尽です。永代信用組合に対する強制破綻措置が正当なものかどうかを裁判で明らかにして欲しいのです」…こんな動きもあったようで、裁判の結果はどこまで明らかになったのでしょうか、なんて、寒い一日、考えておりました。
 だって、町の赤ひげ金融機関って、派手な動きをすると、強権によって睨まれ、苛められ、つぶされるんじゃないか、と心配なんですう:

 『城南信用金庫は12月2日、電力供給契約のほとんどを来年1月から、これまでの東京電力からエネット(東京・港、池辺裕昭社長)に切り替えると発表した。

 同金庫は今年4月から「原発に頼らない安心できる社会」の実現を標ぼうしており、今回の切り替え措置で名実ともに「脱東電」を進めるとともに、同様の切り替えを他社にも呼びかける。

 電力の切り替えは、同金庫の本店と支店の合計85店舗のうち、技術的に切り替えが難しい8店舗を除いた77店舗が対象だ。これにより電気料金自体も、2010年度の年間2億円から1億9千万円と、約5.5%の節約ができるという。

 エネットは全国に47あるPPS(特定規模電気事業者)の最大手。自社の発電所による電気のほか、一部は自然エネルギーの供給もしている。

 PPSは、2004年の電力自由化で生まれた発電事業者の新勢力で、いわゆる「埋蔵電力」の一角をなす。すでに経済産業省など中央官庁、国立市など地方自治体、東京メトロや三菱地所などが東京電力からの切り替えを済ませている。

 会見に同席した環境エネルギー政策研究所(ISEP)の飯田哲也所長は「地域密着型の金融機関である城南信用金庫がこのような選択をした意義は大きい。PPSの制度は2004年から存在していた。しかし、こうして記者会見で世間に周知することで、他社も電力供給元を選ぶきっかけになりうる。今後、脱原発、脱東電の流れは一層加速するだろう」と述べた。

 PPSのシェアは現在、総電力供給量のわずか3%でしかない。しかし、飯田所長は「再生エネルギー法が成立したことで、PPSを取り巻く状況は大きく改善されていく。需要も供給も今後は大きく成長するだろう」と見る。「いずれは、スウェーデンのように自然エネルギーの方が安い社会が実現されるだろう」と期待を込めた。

 会見した吉原毅理事長は「6000ボルトの高圧電流に対応している建物であれば、PPSへの切り替えに必要なのは書面上の手続きだけ。私たちが踏み出した一歩に、多くの企業・個人が続くことで、国民運動へと発展することを期待している」と語り、会見を締めくくった

( 12月2日(金)18時38分配信、オルタナ編集部=赤坂祥彦)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111202-00000306-alterna-soci

posted by fom_club at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月02日

地方自治法の一部改正

 北海道の仲間にお見せできなかった明治神宮外苑のいちょう並木。300mの大通りに黄金色に染まるおよそ150本の秋の調べ、それに夜の銀ブラでお見せしたかった嬬恋村からはるばる運ばれてきたモミの木のクリスマスツリー、それにヤッホー君ん家の近く「清澄庭園」のハゼの紅葉、そしてちょっと遠かったし、お山歩会とお山歩会のあいだで躊躇したのが、「国営昭和記念公園」、とちょっぴり心残りの秋色東京!
 で、今日12月2日、「国営昭和記念公園」を来年訪れて見ようかな、と予習していたら、びっくり!
 昨日の東京新聞の朝刊にこんな記事が:

東京都の国営昭和記念公園(立川、昭島市)の運営が来年度、国土交通省所管の財団法人「公園緑地管理財団」(文京区)から西武グループに切り替わることになった。
 競争入札が初めて実施され、従来より約4割低い管理業務費で落札したためだ。埼玉県滑川町の国営武蔵丘陵森林公園の運営も西武グループに替わる見通しで、民間参入の新風が国営公園に吹き込んでいる。
 昭和記念公園は、年間370万人が訪れる人気公園。1983年の開園以来、30年近く同財団が国交省から随意契約で管理運営を請け負ってきた。しかし、民主党政権による事業仕分けや内閣府の提言などで、国営公園の契約制度も見直しが求められた。
 国交省などは、国営5公園の来年度から3年間の管理業務について、競争入札を初めて実施した。昭和記念公園は11月25日、西武造園とプリンスホテルの共同体が3年間計15億8500万円で落札した。2009〜11年度の同財団への管理業務費は計24億4200万円のため、従来の約6割に減る。
 運営主体の変更でサービス内容が変わることも予想される。国交省の担当者は「食堂など施設の料金は変わる可能性がある」とみる

(2011年12月1日付け東京新聞朝刊「西武系が昭和記念公園運営 財団法人より4割安く)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011120102000035.html

 西武系、がねえ、へえ〜、でも、どんな背景があるんだろう?

 法政大学大学院環境マネジメント研究科2007年度修士論文に木藤直人さんの「造園業の環境経営」という文章が載っています:

自治体が管理している緑化施設(主に都市公園など)については、地方自治法の一部改正で平成15年の改正で実現した指定管理者制度により、株式会社をはじめとした民間法人に任せることが可能になった。このことにより指定管理者制度を導入する地方公共団体が増加し造園業が請け負う緑化事業のモデルが大きく変革している
http://hgsem.i.hosei.ac.jp/theses/theses_07_04.html#15

 そうなんですって。そうしたら、ヤッホー君の住まう行政体、江東区にある国営公園も西武系が落札していました:

東京臨海広域防災公園
☆ 国営公園側
 本公園は、東京都江東区有明にある広域防災拠点および公園です。首都直下地震発生後の72時間をどう生き残るかを体験学習する施設「そなエリア東京」があります。平常時には防災学習施設のある都市公園として、災害発生時には首都圏広域の現地対策本部として機能します。平成22年度より市場化テスト(※)として、運営維持管理業務を行っています。

☆ 都立公園側
 本公園南側エリアは都立公園であり、平常時は多目的広場や草地広場として、近隣住民の憩いの場となっています。広い敷地を活かして、ペーパーグライダー教室など親子で楽しめるイベントを開催しています。災害発生時は広域支援部隊などのベースキャンプ地となります。

※市場化テストとは:
これまで「官」が独占してきた「公共サービス」について、「官」と「民」が対等な立場で競争入札に参加し、価格・質の両面で最も優れた者が、そのサービスの提供を担う仕組みです。公共サービスの質の向上、公共サービスの効率化(経費・人員の節減)を目的としています(地域産業の活性化にもつながる:内閣府HPより)

http://www.seibu-la.co.jp/management/tokyorinkai.html?TB_iframe=true&width=704&height=440

 西武系…すご〜い!2011年度9月現在(ですので、この国営昭和記念公園 163ha は含まれていません!)、西武造園(株)、西武緑化管理(株)、横浜緑地(株)のグループ3社で、日本全土50ヶ所、約1200ha の都市公園等の管理運営にたずさわっているんですって。
 江東区に住んでいながらまだ訪れていないね、いつかお伺いしたいな、来年の山歩クラブのタウンウオークの候補地のひとつとして提案してみうようかな…

posted by fom_club at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月01日

塩屋埼灯台

東日本大震災で損壊した、いわき市平薄磯にある塩屋埼灯台の再点灯が11月30日行なわれ、約9ヶ月ぶりに灯台に光が戻った。
 周囲が暗くなり始めた午後3時40分、灯台が少しずつ光り始めた。管理する福島海上保安部の荻野誠司次長は「地元に愛される灯台の明かりがともることで、少しでも復興への力になればうれしい」と話していた。
 航行する船の安全を確保するために4月4日から約8キロ先まで光が届く非常用標識灯で運用してきたが、今回の復旧で震災前と同様に約40キロ先まで光が届くようになった。
 灯台が立つ岬はがけ崩れの危険があり、灯台自体にも損傷があるため立ち入り禁止となっている。福島海上保安部は今後、建物の調査などを実施し、来年度中の復旧を目指す

(2011/12/1 08:57 福島民報「灯り再び 塩屋の岬」)

福島県の太平洋側は、「浜通り」と呼ばれこの浜通りのいわき市の沿岸は、北から久ノ浜、四ツ倉、薄磯、豊間、永崎、小浜勿来の順に白砂青松の美しい海浜が連なっています。 これが「いわき七浜」でその中心に塩屋埼灯台があります。「塩屋埼は東海第一の難所にして、台下の険崖から一海里半余に暗礁が棋布し、 外国船、日本舶の沈没せるもの多し」と記され、古くは安政年間(1850年代)にこの岬角上にかがり火を焚き航海の目印にしていたと伝えられております。
 塩屋埼灯台は、明治32年12月15日に点灯しましたが、昭和13年11月5日の福島沖地霊(マグニチュード7.7)によリ30mの棟瓦石造の灯台はもろくも大破。塔の芯がずれたことか致命傷となり、これを取り壊して昭和15年3月鉄筋コンクリート造りに建て替えられました。
 第二次世界大戦の時(昭和20年6月5日から終戦間際まで)爆撃機、艦載機、戦闘機の機銃掃射を浴び、灯台はまったくその機能を失うに至りました。特に昭和20年8月10日の機銃掃射の際に、その年の春学校を卒業したばかりの、若干21才の青年が貫通銃創を受けて殉職し、戦争の非情さを見せつけました。旬日を経ず終戦となりましたが、昭和25年4月7日戦災復旧工事によってレンズや灯器が修復されました。
 この灯台に勤務をしていた職員の奥さんの体験談を元にして「喜びも悲しみも幾歳月」という映画が発表されました

http://www.tokokai.org/archive/data/sio.html

『(社)燈光会では海上保安庁の後援をいただき、灯台記念日行事(11月1日)の一環として、全国の小中学生を対象とした「灯台絵画コンテスト」を実施しました。本コンテストの入賞者が決定しましたのでお知らせします』

「塩屋埼灯台に、またみんなで行きたい」。東日本大震災で避難生活を余儀なくされているいわき市の豊間小3年、鈴木修人君(9つ)は「全国灯台絵画コンテスト」で県内で唯一、銅賞に入った。母校の豊間小は被災し、クラスメートと一緒に隣接する高久小に間借りしている。夜明け間近の海を明るく照らす塩屋埼灯台を描いた作品には、古里を思う鈴木君の思いが詰まっている。
 塩屋埼灯台は豊間小から1キロほどの距離。校歌の歌詞に「行く手ははるか 灯台の 照らすあの海 一すじに」とあるように学校や地域のシンボルで、子どもたちにとっても自慢の建物だった。3年生は春の遠足で毎年訪れ、思い出を描きコンテストに応募していた。
 ところが、灯台は震災で被災し、立ち入り禁止の状態になっている。加えて遠足もできなかったことから、担任の鈴木裕一教諭(52)が撮影した写真を参考に仕上げた。
 鈴木君は自宅から見える海と灯台が大好きだという。「写真を見なくても描けました」と笑顔を見せる。「夜の灯台」をテーマに、暗闇の中に立つ灯台が黄色い光を放つ中、真っ赤な太陽が昇り始めるさまを感性豊かに表した。
 自宅が被災し、約10キロ離れた市内の雇用促進住宅からスクールバスで通学している。「(銅賞になり)うれしい。早く灯台で遊びたい」と話している

(2011年10月28日付け福島民報)


posted by fom_club at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中川志郎

 「原発事故のはなし」
http://www.jsoee.jp/images/stories/nppandee/accident201110.pdf

 2011年10月20日付け「朝日小学生新聞」で取り上げられました(2011年11月24日採録)
http://www.jsoee.jp/images/stories/nppandee/asasho20111020.pdf

 いえ、ね、あのアーサー・ビナードさんのお話しなんです。
 いきなりビーバーってダムを作るって話しを知っていますか?から始まったので、ついつい詩人のお話しに引き込まれていきました。

 このお話しはこの国でも小学校2年生の国語の教科書(東京書籍)にでてくるんです。
 中川志郎「ビーバーの大工事」。

 中川志郎さんは上野動物園の園長でした:
習慣というのは恐ろしいもので、いつの間にか上野駅公園口を出て、動物園めざして歩いている。行き先はまったく別の所だったのに、無意識に足が向いてしまうのである。
 上野動物園を退職したのが1990(平成2)年7月31日。もう数か月もすぎようとしているのに何ということか、われながらあきれてしまう。38年間という動物園生活が、それだけ身に染みついているということだろうし、動物園のもつ不思議な魔力がなかなか私を解放してくれないということだろう


 これは、『わが愛しき動物たち』(1991年、日本放送出版協会)の「あとがき」からです。

環境教育をしなければならない大きな理由はふたつあります。
 ひとつは、今の環境をなんとか守らなければ21世紀の人間は危ないという考え方がありますね…だから環境を守ろうというのが、一般に言われている環境問題ですね。
 もうひとつは、今は絶滅してしまっている場所に、もう一度その動物たちを放して新しく環境を再構築しようということがあります。
 では、どうしたらできるかというと…、ひとつは政治ですね。ひとつは経済です。そしてもうひとつは、それを支える人びとの心だと思うのです。そういうことがすごく大事なんだと心がないと、おそらく成立しない。その心をつくるにはどうしたらよいかというと、環境教育しかないだろうと思うんです。
 …日本環境教育学会というのが今年1990年の5月20日に旗揚げしました。僕もその運営委員なんですが…、もうとっくにあってもよいはずなのに…

(1990年10月5日、明日の動物園を語る)

 動物…、人間だって動物ですよね?

オオカミの夫婦の協力関係は、濃密でしかも長期にわたってつづくのが普通である。配偶関係が成立しペアになった両性の絆は固く、一方が死亡するまでつづくといわれている。
 交配によって妊娠したメスは、適当な巣穴を見つけて身をひそめる。子どもを産む巣穴は、出産育児をする神聖な場所となり、オスの立ち入りは許されない。妊娠末期になって巣穴にこもると、オスの侵入を許さないのだ。
 しかし、オスは決して巣穴の近くを離れることはない。その巣穴の近くに居をかまえ、常に見張役を果たし、外から母子の安全を見守っている。そればかりではない。出産育児のために狩りに出られないメスのために、オスはいつもより広い範囲にわたって狩りに出向き、メスのえさをも確保するのだ。子どもが生まれると。オスの協力はさらに深まる。子どもの世話にあけくれるメスのために運ぶのはもちろん、生後2週間をすぎ、少しづつえさを食べはじめる子どものためにも狩りをするのである


 ぜひお読み下さい。「動物たちが教えてくれたこと」からでした。
 オオカミって英語でウルフ、wolf ヤッホー君の愛用しているマウンテンギアは、「ジャックウルフスキン」です:
http://www.jack-wolfskin.com/en-uk/sys_country-home/japan/japan.aspx

 カッシーからは、ウルフじゃなくってハイエナ hyena って呼ばれてしまうのです。
 これは大菩薩での鍋パのときもそう、ヤッホー君は残飯整理!って叫んで、鍋の底に残ったゆで卵を3個も食べて、残った汁をずるっと全〜ん部、飲んでしまったからなようです!
 いや、大菩薩の大分前からそのようだったようで…

posted by fom_club at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする