2011年08月31日

mails from outside country

Today is the last day of August in 2011 and I've got 2 emails from 2 old friends living outside country, one is from Taiwan and the another from London.

I will introduce first as follows:

"I have had a short vacation in Bangkok in early August, which was nice, visiting friends working in NGOs there (both from Taiwan for one-year appointment), meeting with a young female from Beijing working in the Focus on the Global South, and we have had some interesting conversation on China's crazy dams building projects along all rivers"

As far as "Focus on the Global South", I've found the impressive article in the website as under:
The (Non)Citizens of Komtar
http://www.focusweb.org/content/noncitizens-komtar

Please read carefully the story in Malaysia and think about the working class in Japan in these days because almost 40% of workers in Japan are not full time but part time employee (1):

Following is the No 2 email from London:

"It was a joy to hear from you. Sorry for the delay but I was on holiday in Italy for much of August. I am sitting in my house this Monday as it a holiday in the UK.

I have often thought of you and your kindness in recent years, particularly when there has been major news from Japan, and that land has gone through turbulent times lately.

I am quite tired having spent the weekend looking after my mother. One of the defining characteristics of my life is that my mother has dementia and along with my sister and my brother, sister mainly you will not be surprised to hear, I spend time looking after her and it is hard work. We employ a nurse who lives with her in her home from Monday to Friday and we stay there at weekends. I have been there since Friday and my sister relieved me this lunchtime. It is exhausting as she does not sleep well and often calls out in the night, mainly for attention I think. It is sad. She has been a strong woman all her life but she is stumbling on the road home.

She was fine until she reached 90 but now that she is 93 I fear that it is getting too much to handle and of course we have to consider ourselves too. We may have to consider residential care.
"

Yes, certainly we are living in the Earth Village, namely we are facing same problems, same situation and same agenda to be resolved. That's why we need a global solidarity and mutual communication beyond the differences.

The Guardian's article "Japan's life expectancy 'down to equality and public health measures', written by Sarah Boseley, health editor on Tuesday 30 August 2011 22.05 BST gives Japanese a warning to be considered:

"It's not just the sushi – and it's definitely not the sake. Japan has the highest life expectancy in the world but the reasons, says an analysis, are as much to do with equality and public health measures as diet.

A baby girl born in Japan today can expect to live to 86 and a boy to nearly 80. But it has not always been so.

The downside of Japan's success in keeping its people healthy is that the population is unbalanced and becoming more so. At the moment, 23% of the population is over 65 but by 2050, that will rise to 40% in a population shrinking from 127 million to 95 million. Other problems include drinking and smoking among overworking business people and a high suicide rate partly attributable to rising unemployment. Unless these issues are tackled, the paper suggests, Japan could lose its position at the top of the longevity table
"

Shall we think about the universal health care system in Japan, our rare treasure, which is valuable to export with our Constitution to other countries as universal model, rejecting the outside pressure from outside multinational pharmaceutical comapies or life insurance companies. I hope a new leader, Mr Noda will be tackling for building a new and fairer society, based on the peace, justice and solidarity.



(1) 昨年10月の時点で、全労働者のうち契約社員やパート、出向社員などの正社員以外の労働者が占める割合が、2007年調査から0.9ポイント増の38.7%と、過去最高になったことが厚生労働省の調べで分かった。

(正社員以外の労働者、過去最高の38.7%、2011年8月29日月曜日19時34分配信 読売新聞)
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2011年08月30日

JICA駒ヶ根

 富士宮市から駒ヶ根市に戻って。
 そう、あれはもう2ヶ月も前のことになるのでしょうか…、「JICA二本松」と題して6月30日、このブログの日記に書きましたのは。
 いまは避難所からもとの機能に戻ったようですが:

今月7月末までに全員が福島県内の仮設住宅などへ移ることが決まった二本松市のJICA二本松訓練所の避難者は7月24日、お世話になったJICA職員や県職員らへ感謝の気持ちを込め、お別れ会を開いた。ばらばらになってもみんなで前を向いて生きていくことを誓った
(7月25日付け福島民報「避難者、思い出と感謝語り合う JICA二本松でお別れ会」より)
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/07/post_1613.html

 そう、ここ「JICA二本松」は訓練所ですが、何のか、と申しますと「派遣前訓練」で、この国にはこの二本松と、モウ一ヶ所、あったんですね。それが「JICA駒ヶ根」でした:

★ 派遣前訓練は、海外協力活動を行うための必要な知識を学び、能力と資質を養うことが目的です。訓練場所は、青年海外協力隊の場合長野県駒ヶ根市、福島県二本松市のどちらか、派遣される国によって決められます。http://www.jica.go.jp/volunteer/interviews/training/index.html

★ 駒ヶ根青年海外協力隊訓練所は1979年に開設され、当初、開発途上国での協力活動に取り組もうとする協力隊員の派遣前訓練を100名規模で実施していました。2007年からはシニア海外ボランティアも一緒に訓練を行うようになり、その規模は多いときで230名以上に及びます。
http://www.jica.go.jp/komagane/office/about.html

http://www.youtube.com/watch?v=T4PGIfKq_WE
 
 場所は、というと、ヤッホー君が歩いていた「駒ヶ根商工会館」付近でなく、そこからさらにタクシーを利用しないと行けなかったところにあったらしいのですが、ま、そこにありました。
 えっ? 「シニア海外ボランティア」?
 もしかして、ネパールでいま「ボランティア調整員」として活躍しているヤッホー君の知り合いの小沢重久さんも、「JICA駒ヶ根」で訓練を受けたのかな? 

 3.11時には、こんなエピソードもあったようで:

2011年3月16日に予定されていた県庁表敬も壮行会も中止となりましたが、3月20日、新隊員 兼田知幸さん(ネパール村落開発普及員)の自宅のある八戸に行ってお餞別を渡しました。
 兼田さんが被災されたのは、派遣前の訓練が無事終わり、長野県の駒ヶ根駅で帰りの切符を買おうとしていた時でした。
 急遽、日本海まわりの切符をとったものの、テレビに映った公民館が見慣れた近所の公民館だったこともあり、ご家族の安否を心配されたようですが、無事とのメールが届き安心したそうです。
 八戸に戻るまでも多くの方々に温かい励ましの言葉をかけてもらったことが何より嬉しかったそうです

(青森県青年海外協力協会(AOCA)広報誌、平成23年6月号より)
http://philo-sophia.me/aoca/pdf/amn1106.pdf
 

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2011年08月29日

冨士宮焼きそば

 8月も終わろうとしています。
 8月の月例お山歩会は、7日の日曜日、冨士山・宝永火口巡りでしたが、楽しかったですね。
 ちょうど5合目駐車場に着いたとき、大雨。
「えっ? 立ち寄り湯、天母の湯(富士宮市山宮3670−1 Tel 0544-58-8851)を通過して行くんですか?」と、バスドライバーの梅津さんに確認を求められましたが、
「予定通り」と動じませんでしたね。
 行った先は、「白糸の滝」。それからお風呂に戻ったのです。

 ヤッホー君は、はるちゃんと相談して、地酒「逆さ冨士」を買うことも忘れはしませんでした。「白糸の滝」見物ではなく、目的が別のところにあった? のかな…?

 この地酒は、造っている蔵元は富士宮市上柚野532にあります冨士錦酒造(株)で(創業は元禄年間 Tel 0544-66-0005)、ウエブサイトは下↓:
http://www.fujinishiki.com/page/item/index.html

 で、販売先は、というと、お土産もの屋さん、「白糸ガーデン福原酒店(富士宮市上井出269-1 Tel 0544-54-0070)」 。
 つまり、酒蔵にこのブランドで、と製造委託をする、PB(プライベート・ブランド)の一升瓶でした。
 仕込み水は、もちろん、富士山の湧き水で、ラベルは漢字の「冨士」がさかさに書いて貼り付いています。ですので、「冨士の地酒、限定品、さかさふじ」となるのでした。
 この福原酒店でしか入手できないすぐれものなんですう。

 この蔵元のサイトに、当地富士宮市の郷土料理の方、恐れ多くも賢くも、「富士宮焼きそば学会」の会長、海外進出も果たされ、国際的にも名を馳せていらっしゃる渡辺英彦氏との2010年の「心の対話」が掲載されていますので、必読ですよ、皆さま。下↓参照:
http://www.fujinishiki.com/page/taidan/2010/taidan1.html
 
 学会、というくらいですので、会員数は数多くあれど、ヤッホー君が、立ち寄り湯のあとにチョイスしたのは、「天母の湯」から近く、しかも値段がゼッタイに安いお店、『茶屋の駅(富士宮市上井出141-1 Tel 0544-54-2500)』。
 チョイス? なにをチョイスしたのかってっていうと、そのぉ〜…

 ここ『茶屋の駅』の主が勘定のあとに、ぼそっとヤッホー君に呟いてくれた事柄があったのでしたが、空耳でなく、聞き耳をたててくださった仲間も大ぜい、いらっしゃいましたね。
 とうとう新聞記事になりましたので、ご紹介:

 【ニューヨーク=共同】ニューヨーク市の繁華街で8月21日日曜日に開かれたストリートフェア(歩行者天国)に、B級グルメで知られる静岡県富士宮市の「富士宮焼きそば」がお目見えし、市民や在留邦人らの人気を集めた。
 富士宮焼きそばが海外に本格進出したのはこれが初めて。
 民間団体「富士宮やきそば学会」の渡辺英彦会長(52)らが中心に企画推進した。
 午前中の開店直後から100m近い行列ができ、1パック5ドル(約380円)の商品を手に入れるまでの待ち時間は約45分。
 この日予定していた約800食は夕方に完売した。

(2011年8月22日東京新聞夕刊、富士宮焼きそばNYデビュー成功、より)

 いや、ね、実はそのぉ〜、西駒からの早い、早すぎる下山の折りにも、同じようなことを繰り返していたのが目撃されましたので、その報告を、と思ったのですが、それは明晩にでも。
 
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2011年08月28日

隅田川花火大会

 昨夜は、「ヒトリシズカ」ならぬ、一人酒盛りで「逝く夏を惜しむ会」なんて言っていましたが、夜、「ぼ〜ん、ぼんぼん」なんて音がしたら、座ってなんかいらりゃぁしません、すぐに愛用のトックリならぬオリンパスのデジカメを持って外にとびだしちまぁいました。

 夜勤ならぬ夜キン、あの「朝キン」に対する「夜キン」なんです。
 萬年橋から大川端へ下り、左岸にでますが見えません。新大橋に登っても見えません。
 右岸にでて清洲橋に登って、やっぱり、見えました:

11隅田川花火大会.jpg

 「隅田川花火大会」だったのです:

27日夜7時すぎ。震災の犠牲者追悼のため、1発ずつ間隔を空けて、7発の花火が大きな音を響かせた。
 これを含む約1100発が、「被災地へ贈る追悼手向けの花」と題する演目で、厳かに打ち上げられた。
 今年は多くの花火大会が自粛となる中、例年より1ヶ月遅れで開催。
 計2万発を打ち上げ、90万1000人(主催者調べ)が詰めかけた。
 墨田区横網の両国親水テラス特設席には、被災者約520人が招待された。
 宮城県多賀城市の仮設住宅で暮らす菊地洋一郎さん(60)は「亡くなった人たちに祈りながら見ている。とても華やかで勇気をもらえますね」と話した

(2011年8月28日東京新聞朝刊「心 照らす大輪 1カ月遅れ 追悼の隅田川花火」より)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011082802000021.html

 清洲橋から、スカイツリーと花火をカメラに収めて、また歩き出しました。
 萬年橋のたもとではどうか、と思ったのです。
 たしかムカシは見えた想い出があるのですが、花火を打ち上げる場所がずれたか、高い建物ができたか、見えませんでした。
 では、もしかして我が家の書斎から、と思いましたが、スカイツリーは見えるのですが、花火は煙と飛ぶヘリだけ。

 でも、昨夜の「一人酒盛り」は、一晩、延期して今宵へ。
 猪口でないし、茶碗酒でもないし、コップ酒でもない。
 では、何に盛るのかって。もちろん、ヤッホー君の大好きな、あの千畳敷カールで撮ってきた「信濃金杯」で。

シナノキンバイ.jpg

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宮田村宮田中学校

 さて、宮田観光開発(株)・宝剣山荘を後にし、ヤッホー君お目当てのシナノキンバイの花もカメラに収め、中央アルプス観光(株)駒ケ岳ロープウエイの終点、千畳敷駅に着き、ロープウエイの再開を待ちます。

 えっ、宝剣山荘の経営は株式会社? そうなんです、そして経営が大変なようです。下↓参照:

宮田村の宮田観光開発株式会社あり方調査特別委員会(小田切敏明委員長、8人)は19日、清水靖夫宮田村長から諮問されていた宮田観光ホテルや中央アルプスの3山荘などを経営する第三セクター宮田観光開発株式会社の今後の運営について、「宮田観光開発株式会社は解散、宮田観光ホテルは閉鎖が望ましい」と答申した。
 三つの山荘については存続方針とした。
 答申を受け清水村長は、住民説明会を開き、住民の意見を聞いた上で、年内にも村の方針を決定する意向を示している

(長野日報8月20日6:00更新ウエブ版、「宮田観光開発」は解散、あり方調査特別委が答申)
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=22362

 ですので、木曽駒は宮田村にとって重要な観光資源だったのです。今年も村長さんからウエルカムメッセージが村の公式サイトに載っています:

各地で山岳の安全を願う開山祭が開催されています。
 当村に関係する中央アルプス駒ケ岳の開山祭も4月下旬に標高2611.5mの千畳敷にて開催されました。
 というのも中央アルプス観光(株)が経営する東洋随一のロープウェイが完備されている日本最高所駅である千畳敷駅のある千畳敷に神社が祀られているからです。
 訪れる人々を優雅に迎えている中央アルプスの春は白銀の中、5月ころの時期は数メートルの残雪、雪解けを待って更に徒歩60〜80分位で標高2956mの駒ケ岳山頂です。
 村で経営する山小屋は宝剣山荘・天狗荘・頂上山荘と3つの山小屋が完備されています。
 皆様方を迎えてくれる駒ケ岳・空木岳をはじめ雄大な山々が連なり、繊細な景観、大自然が織り成す雄大な山々が四季折々の自然豊かな景観は感動の別世界。
 山荘で宿を取り早朝の日の出は南アルプスを一望し富士山をも見ることができます。
 3000m級のアルプスの自然豊かな景観を満喫していただけますように、一人でも多くの皆様にお越しいただけるようご案内申し上げます。
 宮田村長 清水靖夫

http://www.vill.miyada.nagano.jp/page.php?i=000000001947&tp=00000012

 そうだったんですね。われわれは暫し、足止め。おりからの悪天候で、起点の「しらび平」1661.5mまでの林道(マイカー乗り入り禁止)も通行禁止、バスが運行していないのです。
 なんとか動き出したのが10時ころ。起点の「しらび平」から伊那バスに乗った7人の侍、行き先は「ビューホテル四季」前、駒ヶ根高原、早太郎温泉「こまくさの湯」(駒ヶ根市赤穂759番地4 Tel 0265-81-8100)。用意周到にカッシーがクーポン券を用意してくれていました、ありがとう!

 路線バスのドライバーは、お客様大事と心得、表情豊かで、とても人間味のあるハンサムボーイの白川透さん。車線がひとつで、対向車があったりすると窮地に追い込まれないよう、さっさと退避場までバックします。すごい、ですね、ヤッホー君だったらすぐ同乗者にナビを依頼、単独で運転していたら降車確認しないと、とても怖いもんがあります、あなたは? と振ると別の仲間は、バックしないもん、とか(えっ)。
 よくおできになりますねえ〜、と話しかけましたら、僕らは練習を重ね皆、得意、バックが苦手のタクシードライバーもけっこういますから、とのことでした。
 白川さんにお聞きしたかったのは、バックトゥザフューチャーでなくって、中学校の学校行事のこと。木曽駒に登るってすごいですねえ、ロープウエイは使わないんでしょう? ってお聞きしたら、宮田中学校卒の白川さんも事前体験学習で宮田高原、そして本番はバス停にもなっている「北御所登山口」から登り詰めていくのだそうです。

 事前の体験学習まで、とは… すご〜ぃ! ヤッホー君の中学校時代にはなかったなぁ、もともと山奥にあったから? もぐもぐ…

伊那谷の中学校の伝統でもある西駒ケ岳への集団登山が始まった。
 天候に恵まれた15日、地元の宮田村宮田中学校2年生が元気に頂上を目指した。
 早朝、宮田村の登山口にあたる北御所を出発。事前に学習していたイワカガミやゴゼンタチバナソウなどの高山植物も楽しみながら、103人の子どもたちは一歩一歩前へと進んだ。
「石がゴロゴロしている所を登るのは初めてだったので大変だった」と統率係長を務めた小野覚君。「頑張ってみんなで声をかけあい乗りきった。明朝はご来光を見たい」と、汗をぬぐった。
 今季も上下伊那の20校が西駒ケ岳への集団登山を予定する。例年よりもロープウエーの発着点となる千畳敷カールの残雪が多く、日程を延期する例も増えている。
 宮田中は往復ロープウエーを使わず、16日夕方前には伊那市の桂小場に下山する予定だ。
 高遠中、長谷中は仙丈ケ岳に登る

(2008/7/16掲載「伊那毎日新聞」より、中学校西駒登山、トップをきって宮田中が頂上目指す)
http://inamai.com/news.php?s=1&i=200807160904570000030127

 たしかに、長野県教育委員会発表の2010年度「学校経営概要のまとめ」によりますと、
★ 中学校2年生の「登山」は149校で実施率が78.8%(目的地別にみますと、一位が八ヶ岳21.7%、二位が乗鞍岳19.0%、三位が唐松岳12.7%で、西駒は11.1%と第四位でした。
★ 中学校3年生になると修学旅行ですもんね。行き先は89.4%関西方面で、東京方面は小学生の修学旅行でした(97.7%)。
http://www.pref.nagano.jp/kyouiku/kyougaku/keieigaiyou/gimu22.pdf

 そうそう、中央アルプスの駒ヶ岳は木曽側からの木曽駒あるいは伊那側からの伊那駒というよりも、地元では「西駒」と呼びますよね。
 そして地元では南アるプスの駒ヶ岳を甲斐駒でなくって、「東駒」って呼んで、区別していますよね。

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2011年08月27日

上伊那郡教育会

 木村が大作、映画『八甲田山』のキャメラを回し始めた1975(昭和50)年、実はこの年の後半、新田次郎は『聖職の碑』の執筆にのみ費やしていたのです。
 新田次郎のこの年の前半は小説新潮誌上に『銀嶺の人』を毎月執筆していましたが、この『聖職の碑』については前年くらいからぼつぼつと資料や聞き取りを始めていましたが、旧盆(8月14日、15日、16日)が終わった直後、現地調査に入るのです。
 新田次郎の調査旅行がお盆明けだったように、山歩クラブの今夏の木曽駒への夏山紀行のプランも、お盆明けの日曜日出発にしようと、ここは似ておりましたね。
 ちなみに『銀嶺の人』のモデルは、女医・今井通子と鎌倉彫の彫刻家・若山美子でした。
 
 さて、63歳の作家が20代の若者(講談社文芸図書第二出版部、しかしいでたちから山をやったことがあると分かった、と)と新宿駅で待ち合わせ、さらに中央線伊那松島の駅でガイドと待ち合わせ、駒ヶ根駅から路線バス、駒ケ岳ロープウエイと乗り継いで、千畳敷カールに入り、乗越浄土に登り着きます。
 賽の河原一帯から宝剣岳の頂、中岳(駒ケ岳はこの後ろに隠れて見えません)、濃ヶ池、そして宝剣山荘、天狗荘が見えて、「バンザイでも叫びたいような気持ち」になったそうです。
 しかし、雨具に身を包んだ山歩クラブの7人の侍には、ロープウエイの窓からも何も見えず、急坂を登りつめた乗越浄土でも、降り止まない小雨と濃い霧に包まれ、ミルキーウエイのど真ん中、宝剣岳はもちろんのこと、宝剣山荘すら姿が見えません。

 新田次郎には、この調査目的の山旅で、「地の底から衝き上げてくるような感動を覚えた」ところがあります。それが翌日の「遭難記念碑」でのことです:

殉難碑でも、遭難者供養等でも、遭難慰霊碑でもなく、遭難そのものを記念する碑であることを、碑文にも、碑題にも、強調したその常識破りの碑のあり方が、私を戸惑わせた。
 そしてそのすべての責任を上伊那郡教育会が負うものであると、ふんぞり返って云い放った碑文の姿勢に私は圧倒された。
 それは、将来ともに、赤羽長重等11名の死を上伊那郡教育会の面目にかけて、無駄にはしないぞと豪語しているようにも思われた。その気の強さに私は面喰らった

(新田次郎「取材記・筆を執るまで」所収、同書 265頁〜318頁)
…でも、しかし、さはさりながら、小説の世界に付け加えるに、作家が執筆動機まで吐露する「あと書き」が、こんなに本の頁数を占めているのですよ!…)

 作家が、戸惑ったり、圧倒されたり、面喰ったりしたことが、実はヤッホー君にも<宝剣山荘>で起こったのだそうです。

 それは、小屋のカレンダーに、8月23日火曜日南箕輪中、宝をマルで囲み、辰野中、天をマルで囲み、24日水曜日中川中、頂をマルで囲み、東中、天をマルで囲んであるその意味、でした。

 蓼科山では豊島区立目白小学校6年生の立科林間学校に参加した子どもたち全員と出会ったことを日記に綴りましたが、ではこの木曽駒でも、もしかして、と小屋のスタッフに聞きました。
 宝剣山荘、天狗荘、頂上小屋と、合宿の小屋は違えど、子どもたちの合宿山行が続いていたのです!
 感動で震えました。自然に涙が頬を伝わりました…

 新田次郎の指摘通り、100年の伝統を刻み、この地では、遭難があったとはいえ、お上から中止命令がでず、自粛による自主的な中止にもならず、そりゃあ、大変だったでしょうが、親も子も、教師も学校も、地域ぐるみで遺志を次いで、教訓と化して、碑を建て、修学旅行を毎年、継続していこうと決意したのです!

 ヤッホー君は、ムカシ祖父から何度聞かされたことでしょうか、二宮尊徳のお話とこの信州のこと、長野県は教育県で、この国を背負うすばらしい人材を輩出する県なのだ、ってこと。
 今日、8月27日土曜日、新田次郎に導かれながら、教育立国、長野での白樺派の教師群像を教わりましたが、もう一度、子ども時代に還ったような静かな感動をアゲイン!
 さらにヤッホー君の父からも、これも子守唄のように何度聞かされたことでしょう、国策に従う子羊ではない、オオカミのように、個の伸張を目指すのが民主教育のキホンだ、って、その大切さを教えてくれたことを思い出しました。
 祖父と父が合わさるシンクロナイズ、ヤッホー君はたまたま与えられた、この深い感動にアゲイン!たらーっ(汗)

 逝く夏を惜しみながら今宵はひとり静かに、九州は鹿児島県の芋焼酎と、東北は山形県の地酒とを、お銚子一本づつ、傾けることにしました。

、なお今夏の<宝剣山荘>に話題を転ずれば、その「感動」が引くと、なんで<宝剣山荘>が、他の小屋のことまで書き込んでいるの? と疑問に思いました(それは、また次回に)。

 今宵でなく、8月22日日曜日の夜、宿泊者数11名(うち7名は山歩クラブ)、スタッフ数12名と、登山客よりもスタッフの方が多かった夏の嵐の夜でした。

 その夜は、一晩中、雨、風収まらず、トイレに起きたついでに玄関から外に出ても満天の星空とは縁遠く、風と霧で何も見えず。はやぶさもイトカワも姿を現さず、隣では一挙に標高差950mを6分で登ってきた高山病のせいか、或いは夏休みもなく根詰めて働き詰めだったせいか、頭の重い仲間が、寝息もたてずに、静かに寝ております。しぃ〜っ…

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聖職の碑

 木村大作(1939年生まれ)の『誰かが行かねば、道はできない(2009年、キネマ旬報社)』の読書が続いております。
 木村は、1975(昭和50)年の6月、緒形拳、下條アトムがつつじ畑の中を歩くシーンの撮影から入った映画がありました。それが『八甲田山(製作は橋本プロダクションと東宝映画、シナノ企画との提携)』でしたね。
 撮影は、「八甲田で見たことは、誰にもしゃべってはならない」まで、長い時をかけてキャメラが回され続け、1977(昭和52)年8月4日公開されました。
 木村は、この映画で初めて、メイン・キャメラの大作に取り組み、それに情熱を傾けたのでございました。

 その映画公開から1年たった1978(昭和53)年7月9日からキャメラを回した映画がありました。
 それが、同年9月23日から公開された『聖職の碑』だったのです。
 製作は東宝映画とシナノ企画、監督、撮影は『八甲田山』と同じコンビ、出演は鶴田浩二、三浦友和、岩下志麻、北大路欣也、田中健。

 閑話休題、「シナノ企画」って、創価学会関連および一般映画の企画・製作・興行をする会社だっったんですね、今日8月27日土曜日、はじめて知りました。

 それはともかくこの原作は、新田次郎の山岳小説『聖職の碑』でした。1976(昭和51)年、書き下ろしで講談社から出版されています。

雨の実景を撮るため、舞台となる駒ケ岳の標高2850mの所にある<宝剣山荘>へ60日常駐させたんだ。でも、結局使える雨のカットは1カットしか撮れなかった…
 校長先生役の鶴田浩二さんは下の駒ヶ根という町にいて、われわれが山荘から撮れそうなときに呼ぶシステムだったんだけど、それは失敗だった。
 鶴田さんは、呼ばれるとヘリで上まで行く。
 でも、われわれは天気の悪いときを狙っているんだから、そういうときにはヘリが飛ばないんだ(笑)』


 この映画『聖職の碑』の舞台は、いまから100年ほども前の8月27日の朝のことでした。
 11月14日マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第1部刊行。自費出版だった…ウイキより。へえぇ〜、そんなムカシのことなのですね。その翌年、東京駅が、そして日本橋三越本店が落成、世界に目を向ければ第一次世界大戦勃発!

小説「聖職の碑(いしぶみ)」で知られる1913(大正2)年の中央アルプス駒ケ岳の遭難で、中箕輪尋常高等小学校(現箕輪中学校)の登山を率い、死亡した赤羽長重(ちょうじゅう、1871-1913)校長の遺品展が、伊那市創造館で開かれている。
 遭難時に着用していたとされるサングラスやシャツを展示。人となりや教育方針も紹介している。
 同館によると、赤羽校長は県内で教壇に立つ一方、文学や社会政策の通信教育を受け、新しい知識を得ようとしていた。
 遭難した登山では、携行品など登山計画を書いた冊子を子どもたちに配布。
 展示された冊子には、登山を通して自然や道徳を学ばせようとしていたことをうかがわせる記述もある。
 捧(ささげ)剛太館長(52)は「100年前であっても、赤羽校長は登山の安全に気を使っていた。その人となりは現代に通じる部分がある」と話している

(2011年8月5日付け信濃毎日新聞、「聖職の碑」 伊那で校長遺品展より)
http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_192489

 伊那市にある創造館(伊那市荒井3520 Tel 0265-72-6220)では、8月3日水曜日から9月4日日曜日まで、≪赤羽校長の眼鏡≫展が開催されています(入場無料)。
 赤羽長重は、この木村大作がキャメラを回した映画『聖職の碑』では鶴田浩二が演じた旧中箕輪尋常高等小学校長なのです。
 今回、駒ケ岳集団登山の遭難の際に着用していたものと伝えられている眼鏡やシャツを中心に、関連資料から教育者・赤羽長重の人物像とその教えを探る内容とのことです。下のウエブサイトのPDFファイルを開いてぜひお読み下さい。下↓参照:
http://www.inacity.jp/view.rbz?nd=1288&of=1&ik=1&pnp=47&pnp=379&pnp=1288&cd=10065

 この遭難の話しは、深田久弥の『日本百名山(1964年、新潮社)』「木曽駒が岳」にも出てまいります。

 山歩クラブ7人の侍は、今回の雨、風、霧という三重苦の天候不順で、遭難を避けようと8月22日月曜日に下山し、普段だったら予定行程を組めないときこそチャンス、とその山域をめぐるプチ旅をするのですが、伊那市創造館に向かうにも、アシがなく断念しましたね。
 それでも「朝キン」で鍛えたアシの持ち主であるヤッホー君だけは、駒ヶ根商工会館1階で新宿行き高速バスの予約し直しをしている間に、安楽寺、三和森公園と歩いていたそうです。

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2011年08月25日

蓼科山アゲイン

 8月21日日曜日、22日月曜日、24日水曜日とこの日記にも穴が開いてしまいました。
 その訳は、と申しますと、7月24日日曜日に訪れた蓼科山、同月同日付きこのブログの日記、「蓼科山」でも綴りましたが、その蓼科山に再度、8月24日水曜日チャレンジしてきたからでございます。いま、気がつきましたがちょうど1ヶ月後の再訪となります。
 北海道からわざわざ電車、バス、フェリーを大枚はたいて乗り継ぎ、乗り継ぎ上京、しかし期待していた木曽駒から空木岳への縦走はあえなく撤退雨、ホンシュウの山々も北海道に負けず劣らず大変な自然相手の山行だわい、とは分かっていても、ザンネン無念怨念とばかり、ここはヤッホー君、男気を出して、北海道の仲間に「極上の絶景」をご提供申しあげたい、とばかりに、木曽駒山行の打ち上げ祭の折り、本日8月25日木曜日に、なんて語っていた蓼科山を、昨日8月24日水曜日に実行した、とまあ、そんな背景、バックグラウンドがあって、日記の更新もままならなかったと、こういう次第で。

 昨日は下町を4時半にでて女神湖経由で登山口へ、そして8時50分には登頂開始、という行程で、天気は上々、晴れ晴れ! 山頂からは方位盤を見ながら冨士、浅間、北岳、御嶽、妙高まで、隣の八つはもちろんのこと、槍、穂高まで、すべて見晴るかすことが出来ました。

 前回お会いしたのが豊島区立目白小学校、この度は、茨城県常陸太田市の「佐竹山と秘湯の会」ご一行様といっしょになりましたのでご紹介。

 高校教師を退職した方々のお集まりですが、会の歴史は30年来になるのだそうです。全体での山行企画は年一回、山と秘湯と地酒をたしなまれる、という会です。
 話題豊富な皆さまばかりで、山歩きのあいだも話しは尽きることはありませんでした。そのなかからひとつふたつご紹介。

 まずは歴史、と言っても地球の歴史。千畳敷カールが2万年前、オンカロが10万年前とかお話ししましたが、常陸太田市に日本最古の地層が見つかったって話し。5億何千万年の話なんですけど、人間は存在していません、念のため:

日立市郷土博物館特別専門員の田切美智雄・茨城大名誉教授(65)=地質学=たちは、茨城県多賀山地西側の玉簾(たまだれ、日立市)の地層は5億700万年前、南側の長谷町(常陸太田市)の地層は5億1000万年前のものだと分析した。多賀山地の6ヶ所で測定した結果から、約60平方キロにわたって約5億年前の地層が広がっていると推論した。
 5億年前のカンブリア紀は、現代の生物と比べて非常に奇妙な姿の生物が多数現れ、動物の多様性が一気に増大した時代だ

(日本最古の地層、専門家がナビ 日立市郷土博物館、2010年12月17日付け朝日新聞地方版)
http://mytown.asahi.com/areanews/ibaraki/TKY201012160444.html

現在知られている最古の脊椎動物であり、子孫も現存しているこの化石の生物(1999年に発表された魚に似た小さな2種の無顎類の化石発見は、最大級の驚きを持って迎えられた。発掘場所は中国の澄江にある5億3000万年前の化石層)は、私たち脊椎動物の祖先が以前の定説より約5000万年早く出現していたことを示している。
 カンブリア紀末には生物の大量絶滅が何度も起きており、殻に覆われた腕足動物の多くをはじめ、さまざまな生物が絶滅した。この時期には三葉虫も大きく数を減らしている

http://www.nationalgeographic.co.jp/science/prehistoric-world/cambrian.html

 そう、「カンブリア宮殿」というテレビ番組でなく、ズバリ、地球の歴史であるカンブリア紀のお話しなんですう。

 こんなトウデンフクシマゲンパツジコが、この国に落とされた原爆の何百倍もの放射能を自分たちで撒き散らしておいて、まだ運転をし続けるという基調、なんですって。石原都知事も、石波元防衛大臣も原爆製造能力を維持し、周辺諸国に顕示することがこの国の安全と防衛のためになる、従ってゲンパツを運転するのは良いことなんだ、という暴言を言い募りましたが、この国の知識人、ジャーナリストで一体、どれほど批判した選民がおられたのでしょうか。難民化する地域住民より、為政者、権力者の私腹を満腹にする方が優先順位が高く、これが有権者の暗黙の合意だそうでして、いつからこんな国に成り下がってしまったのでしょうか。

 ところでご一行さま、今宵の秘湯はどこですか?と訊ねたら、渋温泉だそうでして。
http://www.shibuonsen.net/

 思わず付いていきそうになったヤッホー君でした。ほかに推薦する日本の温泉は、と訪ねたら:
藤七温泉(八幡平)http://www.toshichi.com/
法師温泉(谷川岳)http://www.houshi-onsen.jp/

 なぜ佐竹って名前が先につくのですかって、またしても訊ねまくるヤッホー君でしたが:

佐竹寺は,鎌倉時代から江戸時代にかけて常陸国を支配した佐竹氏代々の祈願所。807(大同2)年の開山,あるいは,985(寛和元)年に花山天皇の勅願を受けて元密上人が創建したとも言われています。創建当初は,鶴ヶ池の北に位置する観音山にあったが,1543(天文12)年に兵火によって焼失,1546(同15)年に佐竹義昭によって再建されました。一時は隆盛を極めたものの,佐竹氏の秋田移封にともない,その寺運はしだいに衰えていきました…
 あらゆる箇所に桃山時代の建築物の先駆とも言える遺構が残された、常陸太田市の誇る貴重な文化財の一つです

http://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/index.php?code=225

 その移封の際、常陸太田からたくさんの美女を連れて秋田に行きましたので、今日の秋田美人のルーツは実は、常陸太田にあったのですう、というオチまでついた貴重なお話しをいただきました。
 ますますの会の隆盛をご祈念申しあげつつ、北海道の仲間ともども、われわれ山歩クラブももっと愉快な仲間が増えますように、と山頂の蓼科神社に手を併せ、下山したのでございます。

 なお北海道の仲間ですが、帰りの中央道では、山梨県でのでっかい冨士山、大雨のなかでの速度規制、相模湖ICでの乗用車8台によるジコ渋滞等々、蓼科山山行後もさまざまな未知のハプニングとも遭遇し、なかなかのはじめて経験することばかりでびっくりなされた、とのことでございます。

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2011年08月23日

千畳敷カール

 千畳敷カールとは、「2万年前の氷河時代の自然遺産」と良く言われます。
 ところで、ヤッホー君のこのブログで4月28日付け日記「オンカロ」を読んでいただけましたでしょうか。

北欧のフィンランドが世界に先駆け、核のゴミの最終処分場の建設に乗り出している。
「オンカロ」(フィンランド語で「隠し場所」)と呼ばれる処分場は、太古の岩盤層を深さ500mまで掘り下げた先に作られ、施設が国内で排出される核廃棄物で満パンになる約100年後に、入口を完全封鎖されるという
 廃棄物が出す放射線が、生物にとって安全なレベルに下がるまで、欧州の基準では少なくとも10万年かかるとしている


 このような記述をご紹介しましたが、千畳敷カールですら2万年前に出来たお花畑ですが、これが、10万年と言われる想像することすら困難な時間の長さを持つ負の遺産を、われわれ人類が後世の人類が存続しているとして、こんなアブナイものを残すことが、果たして道徳的、倫理的、宗教的、常識的にみて許されることなのでしょうか。
 為政者、企業家・経営者、選民、学者、文人、哲学者、ジャーナリストの方々、想像力をめぐらせ、人類を危めることのなきよう、国も山河も破れることなく、いつまでも清らかな姿を持ちこたえさせていけるよう英知をしぼって、有権者、労働者、貧民、無智無学な文盲、酔人、凡人、新聞購読者を上手にリードしてくださいますよう、よろしくお願いいたします。

 ところで、宝剣岳〜空木岳縦走にチャレンジしようとした7人の侍たち、折からの雨、風、霧の夏の珍事によりあえなく、8月22日月曜日に撤退しましたことをご報告します。

 いろいろなエピソードはおいおいに綴っていきたく思います。

千畳敷駅そば.jpg

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2011年08月20日

海が海らしく、空が空らしく戻る日を祈って

 そういえば、中央大橋の中央で隅田川を見下ろしている「自由の女神」ならぬ「メッセンジャー」、これを山歩クラブでは屋台船を浮かべ川面から見上げたことがあったのです。
 あれは今年、中止になった東京湾大華火大会の夜、いつのころだったかしら、と記録をめくったのか記憶を辿ったのか、ヤッホー君ついに動かぬ証拠を見つけました。
 いまからもう、5年も前のこと、2006年夏のことでした。

 山歩クラブ念願の「高天原温泉ツアー」(2080m、露天風呂では日本一高く、2日かけないと入浴できない日本一最奥の秘湯、入湯税無し)の前夜祭だったのです。以下の記述は、ムカシの山歩クラブの公式ウエブサイトから:

前夜祭は8月13日日曜に雷雨で順延になった東京湾大華火大会。
 その後、前泊組6名(大林、前田、岩下、本間、本多、平塚)は羽田から翌朝14日朝一番の全日空ANA881便で富士山を上から観ながら富山へ。
 越中おわら風の盆唄、八尾まで散歩に出かけ、帰りは越中富山の薬、反魂丹を買いこみ(絶不調のヤッホー君にとって道中これほど効く名薬はありませんでした)、有峰口から亀谷温泉・白樺ハイツに泊り込んで作戦会議。
 残り2名(大槻、下田)とは、太郎兵衛平への途上、三角点1871mで合流しました。
 背後には立山から剣岳が青空に聳えていました。
 足元はニッコウキスゲからチングルマに、クルマゆり、お花畑でした。
 このように全行程、台風の影響もなく、停電も雷もなく、落伍者も故障者もなく、逆に人助け(伊藤新道を独力で開通させた伊藤正二ジュニアのつめる雲の平山荘では腹痛をおこし午前3時にキャンプ地から駆け込んできた救護者を救け、感謝されました)、まるで山歩クラブが祝福されているかのように晴天に恵まれ、無事に8月19日土曜日昼、白樺ハイツに下り立ち、旅の無事を祝いました


 なんと感想文まで:
会長さんの「大丈夫だよ」の一声で、参加を申込んでからは、夢がどんどんふくらみ、とうとう自分の体力・技量も考えずに、分不相応な夢のようなところまで行ってしまいました。
 皆さまのお陰で無事に下山でき、感謝しております。
 お天気に恵まれて、すばらしい眺望や、高山植物、雲上の乾杯等々、生涯忘れられない、良い思い出ができました。
 最終日には、付けていた膝のサポータをはずしてまで付け替えてくださった本多さま、山の女神のようでした。
 また、海抜0mの東京湾華火大会のおつまみを2000m以上の山まで、愚痴も言わずに運び上げてくださった歩荷役の大チャン、ありがとうございました


 明日からのアルプス縦走も成功裡に完歩できますように。
 
 ところでこのブログ、嬉しかったのは「コメント」です。はじめてヤッホー君も知りましたが、8月17日のブログ「日記」、「生き延びる知恵と力」に「コメント」をつけることができたんですよ。お気づきの方はいらっしゃいましたでしょうか? ぜひお読み下さい。

 それ以来、コメンテーターとは交信が続いておりますので、これもご紹介:

こんにちは。お忙しいなか、ブログにご丁寧なコメントをお寄せいただき、大変恐縮しております。
 トウデンフクシマゲンパツジコ後は、アクセス数が500件以上に達し驚いたことがありましたが、いまでも毎日220人ほどコンスタントに訪れてくれており(同じ人が別の記事も読んでくださる記事毎のページヴューアーとなりますと、その倍の数字です!)、こうなると励みと言いますか、へんなことは言えない、と思っております。今後とも読んでコメントをお寄せくださいますようよろしくお願いします。
 山歩きを通していつまでもこころもからだも健やかに、山歩クラブ


…なんてま、外交辞令が続きます:

丁寧にメールをいただきありがとうございます。『被爆を生きて』はいろいろなかたに読んでいただき、感想をいただいています。今後もご健筆をお祈りいたします。山歩きを楽しみながら、健やかにお過ごしください

…ま、こういうやり取りの大きらいなヤッホー君、挑発行為にでます:

いま、ブログ「言葉が心の杖」の更新を終えました。
 3.11は「ただち派」のようにレトリックを操るデマゴーグ含め、どういう言葉を後世に残すんだろうな、残せるにたる言葉が生れているのだろうか、と気になっております。
 そのなかで石巻出身の辺見庸という作家がヤッホー君の気になる物書きのひとりです。ときに、古語を操りすぎ、感情に流れすぎるところがありますが、それだけ横溢する想いの「持ち主」と拝見しております。
 彼が、2004年3月14日に新潟の病院に脳出血で倒れ入退院を繰り返し、2年1ヶ月後の毎日ホールでの講演会までの間の情勢をどう表現すべきか考え、考え抜いて、コイズミのことを語って、いまこの国はあぶない、あやうい、駄目になる、と言わんとしているのです。
 ヤッホー君にも分かることがあります。どこの事業所に行っても首から生産流通履歴情報(トレーサビリティー)か、ドッグの鑑識票か、米軍兵士が死んだときすぐに誰か分かるようなドッグタグか、いずれにせよあんなもん、ぶらぶらと首からぶらさげて働くサラリーマン、ひな壇でカメラ目線を気にしているお笑いタレント、どのチャンネルあけても馬鹿お笑いの番組、どのチャンネルひねっても大本営発表の垂れ流し、だだ漏ればかり、大連立で前原待望論の政治情勢…。
 先生、辺見庸のごとくだんだんとヤッホー君の口調も言い募ってきますが、一体、いつになったら安心して山に遊べるのでしょうか、山小屋のランプの明かりで読書したいと思う今日、この頃です


 辺見庸の毎日ホールでの講演は、山歩クラブ高天原温泉ツアーの年でした! そうしたら先生から早速、変事がありました。先生、嬉しかったです! ありがとうございます:

辺見さんは、ぼくの住む逗子に以前お住まいで、「赤い橋の下のぬるい水」の舞台は逗子です。また娘さんは、ぼくが3年前まで勤めていた女子美のご出身です。
 また、井上ひさしさんとともに林京子全集を編纂された黒古一夫さんの娘さんも女子美で、ぼくのゼミにいました。
 その女子美を創立した横井玉子(横井小楠の養子の嫁)は築地居留地の出身、今勤務しているフェリス女学院は横浜の居留地にヘボンが開いた診療所を間借りして、女性伝道師、キダーが開いたものです。
 辺見さん、林さん、といった方々のお考え、言葉は、本当に心に沁みて考えさせられますね。
 海が海らしく、空が空らしく戻る日を祈りたいと思います。
 いろいろお話したいことがありますが、明後日からしばらくヨーロッパで学会があるため、留守にいたします。
 いつかお目にかかって直接お話ができる日があることを期待いたします


 追伸まで:

さきほど書き忘れましたが、横井玉子が生まれ、少女時代を過ごしたのが築地居留地。
 彼女は維新後熊本に移り、横井小楠の家に嫁ぎましたが、事情があって再び築地の学校(後の女子学院)の先生になりました。
 そして1900年に独立して女子美を創立します。
 女子美とフェリスの間にも人のご縁があるのですが、それはまた次の機会にでも


 とりあえず先生はヨーロッパですが、ヤッホー君たち7人の侍は中央アルプスです。
 行ってらっしゃい、気をつけてね。最後に『朝キン』初日の中央大橋の写真を載せておきますので、留守中、お楽しみあれですって;
メッセンジャー像.jpg

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小潮

 先週の土曜日に始めたハイキングならぬ「朝キン」、今日は昨日の大雨でリバーサイドウオーキングはできるかな? どうかな? といぶかっておりましたが、雲は高く、よしんば雨になっても大雨にはならない、え〜、行っちゃえとばかりに、いつもの時間にいつもの巡礼道。

 驚いたこと、その一。
 驚いたことって、今朝も早よから数々あれど、永代橋西詰橋脚下の溜まり水、見当たりません。これって、つまり川の水かさの高さ低さってさ、とりわけても河口から2キロちょっとの地点のこの水辺、ゼッタイ月の満ち欠けとも連動しているな、とそのことに思いいたったことです。
 (株)東京都民互助会の高島易断所本部編纂暦によりますと、葉月「望」は8月14日、「下弦」が8月22日なのでございます。
 いや、いやぁ、お月さまばかりではござんせん、太陽とも関係することを、「はやぶさ」以来、「お気に入り」に登録してあるJAXA(宇宙航空研究開発機構)のウエブサイトで知りました。
 えっ、誰ぁ〜れ、こんなこと小学生だって知ってらい、ごめんね、小学校入学前の子供時分に戻っている無智なヤッホー君、夏休みの宿題、自由研究「自然観察から見えた大川近辺、定時定点観測報告」の第何章かになる日記なのね、だからさ、ちょっとだけでいいんで、つきあってくださいな:

半月のころになると、太陽と月は地球に対して直角になるため、おたがいの力を打ち消し合い、潮の満ち引きも弱くなります。これを「小潮」といいます。このように潮の満ち引きは、月と太陽の位置によって変化するのです
http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/phases_of_moon.html

 驚いたこと、その二。
 ヤッホー君がね、川端に打ち上げられまんま、水ん中のお家に戻れなくってばたばたしていた蟹さんのSOSを聞きつけてね、これも打ち上げられたまんまの笹に乗せてね、戻してあげたんだよ、いのちは粗末にしちゃぁいけんばい、からからに乾いてしまうか、水鳥の餌食になっちゃうでしょってね、蟹さん、大喜び、小躍りして、はさみを何度、振ったことかって。

 驚いたこと、その三。
 中央区と1991(平成3)年、友好都市提携の締結を結んだのが山形県東根市。
 この東根市の病院で、昨年、ヤッホー君に歌とスキーと勉強を教えてくれた父が息を引き取ったのでしたが、その東根市から1988(昭和63)年に贈られていたというさくらんぼの苗木、その樹を「佃公園」で見つけたこと。さらに2007(平成19)年、友好都市提携15周年を記念した「大けやき」があの「あかつき公園」にあること。
 それから、もっと、2011年は…『本区と東根市との友好都市提携が本年20周年を迎えることに因み、例年より規模を拡大して実施する
http://www.city.chuo.lg.jp/press/puresuheisei23/230629press/index.html
 
 なにを実施? って言うと、『さくらんぼ種飛ばし大会』ですって、笑わないでね。じゃあ、最長記録は何mでしょう?
 参加費は無料、どころか参加すれば佐藤錦が50gももらえたんだよ。終わっちゃったけど。でも、11月には恒例の交流企画もあるようですし、どこって、月島もんじゃストリート!
http://www.city.chuo.lg.jp/press/puresuheisei23/230629press/files/tanetobatirasi.pdf
http://www.city.higashine.yamagata.jp/2697.html

 先週の土曜日からの朝キン、明日からは水曜日までお休みになります。本当はケイタイからも更新できる「日記」らしいのですが、ここはひとつ、ヤッホー君の夏休み、稲わらでなくって、ワラバラ(ワーク&ライフ・バランス)ということで。

 ヤッホー君は今日も深々と佃島の住吉神社にあたまを下げてお祈りしておりましたぞ:
ひとつ、旅の安全、皆んなの無事故。
ふたつ、お天気に恵まれますように。
みっつ、お礼参りにまた、くること。

 
 明日から7人の侍とともに、木曽駒ヶ岳2956m、宝剣岳2931m、空木岳2764mと2泊3日の中央アルプス縦走の山旅がはじまるのです。

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2011年08月19日

言葉が心の杖

木村大作の映画人生を本にまとめたいという話をもらったのは、5、6年前のこと。「ああ、自分も人生の終末を歩き出したのだな」というのが、そのときの正直な気持ちだった
…あとがき、より(木村大作1939年生まれ、『誰かが行かねば、道はできない』、2009年、キネマ旬報社)

 どうして「朝キン」が続けられるんだろう、2011年夏、何かがヤッホー君のこころに起きたのかも知れません。多分、このブログ、「日記」を毎日続けているように、自分の終末を歩き出したのかもしれないな、とも確かに思いました。
 歩いているといろんな風景がよぎっていきます。ときにモノクロ、ときにセピア色に、ときには総天然色で。ときに無声で、ときにトーキー、ときにステレオで。この眼鏡ではまだ、3D は無理なようで。

人はある時から老いれば老いるほど、子供時代に還っていくという、これは本当のことだった。
 それが日々、その感覚として明らかに、骨折って身につけた社会的衣装が一枚づつ剥がれてゆき、甘えん坊だった自分、そのときの生の意思が露骨に出現してくる。
 潮が引くと、岩の素肌が現れる。
 老いるとは、子供時代の生を味わい直せ、ということだ

…(三)、より。秋山駿(1930年東京都生まれ、早大仏文科卒)『「生」の日ばかり』、2011年、講談社)

今日は秋晴れだ。公園に散歩に行くと、樹々の黄葉がその強烈な色彩で、一瞬、異世界が出現したかのように輝く。自然そのものの化粧と変身。そうか、これが、美という感覚を呼び起こすのか。
 彼方、青い空の左前方に、小さな白い雲が浮かんでいる。これとそっくり同じ光景を、子供の日に見た。その時の記憶が甦る。懐かしさ、ではない。7歳だったか10歳だったか、空を見上げて何かを感じていた心、あれとまったく同じ心が、いま、ここに在る

…同書、(十)より。

 老いる、ということはネ、こういうことなんだよって教えてくれる秋山駿のこの本は、若者の必読書です。が、これも言葉があればこそ… 
 そして「いま、ここに在る」… インターナショナリストと申しますかコスモポリタン、もしくは宇宙人というのは、いまもムカシもなく、ここでもアソコでも、どっちでもよい、いやその時間と空間が交差する一瞬、一瞬、一ヶ所、一ヶ所に立ちどまり、浮遊していられる想像力をもち、その場を吹きわたるく風にふるえる感性をもちたい、だからもう十分に老いている、というか、まだ子供じみている、というか、未だ見ぬ景色を追い求めている夢追い人なんだろうか、とこの夏、「朝キン」で考えつづけていたヤッホー君でした。

 次は、ヤッホー君のブログ、4月11日付け日記『われら青春』でとりあげた辺見庸(1944年宮城県石巻市生まれ、早大二文卒)です。

靖国とブッシュとプレスリーをこよなく愛する好戦的デマゴーグが、憲法前文を付会して自衛隊イラク派兵の論拠とする。記者団はこれに手を挙げて質問もしない。これに反対する社説も書けない。それがジャーナリズムでしょうか。これに無言でいられることを、私は人間としての恥辱だと思うのです…
 私はまったくコイズムには関心がありません、ただよく考えてみれば、われわれはあのような者どもを税金で多数飼ってやり、贅沢な生活をさせてやっている。いや、逆に、われわれはいつしか彼らに飼われ、ほしいままに扱われ、操られ、もてあそばされている。そのことは恥ではないか

(「憲法と恥辱について」より、辺見庸『いま、ここに在ることの恥』2006年、毎日新聞社、2010年には角川文庫入り)

 恥じているからこそ、皆んなどんなことを呟いているか、他者の紡ぐどんな低い言葉にも耳を傾け、自分も自分なりの言葉を吐き続けていかないとな、と意を硬くしたのでした。
 そうしたら強風が吹きおろし、かみなりも伴奏し、驟雨におそわれた夏の午後でした。 

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JEANNE LOUISE DE YEDO

 ちょっと前の為政者で「ぶっ壊す」宣言が大得意、これと「感動した」だけで女性有権者の票をかっさらい、宗主国に貢物をし続け財政赤字、自己責任をかまびすしく鳴り響かせ格差社会、ソウテイガイと叫ぶ若者を選挙区に刺客として送り込んで応援団長、いのちの繋がり、結いとか絆とか、働く者の組合つぶしなど、この国の住民がムカシからもっていた連帯の価値観までずたずたに破壊させた御方がおられましたが、はたしてぶっ壊すのは簡単ですが、ぶっ壊して良いのか、なぜあのときのフィーバーに冷や水を浴びせなかったのだろうといまになってしきりに反省しているヤッホー君、今朝も震災復興小学校の前を通りました。いまや平成の巡礼道です。
 その向かい側にあります。ちょっと一ひねりでつぶれるような、だけど壊れない文化的価値、精神的価値の殿堂が、ひっそりとたたずんでいます。東京で最古のカトリック教会、築地教会です:

『「日本初のサンタは1874(明治7)年に東京・築地の教会のクリスマス会に現れたかみしもを着て大小を差した侍姿のサンタだったそうである」と2010年12月22日の本紙<余録>にあった。
 へぇ〜。
 調べると、仕掛けたのは原胤昭という人で元南町奉行与力。明治維新後に洗礼を受けて、生涯を社会事業に奉げている。
 サンタ役は幕府の老中・戸田家の出身で、高輪教会の初代牧師になる戸田忠厚。ツリーも飾られたとか

(2010年12月24日付け毎日新聞「東西とーざい」編集局次長永置恒夫)
http://mainichi.jp/tanokore/column/hioki/004339.html

1878年(明治11)年現在地に、煉瓦作りの聖堂が建てられました。
 1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、旧聖堂は破壊してしまう。
 新聖堂はレイ大司教の希望によりギリシャ建築パルテノン型の木造モルタルです。
 太平洋戦争を迎えるが、明石町一帯は聖路加病院があったため空襲をまぬがれ、教会は戦災に会わずにすみました

http://tsukijicatholic.jp/tsukijiseidou.htm
 
 この大聖堂のなかに進んでいきます。あのォ〜、カトリック教会はですね、お祈りするのが目的であれば、ヤッホー君のような貧民であろうが無智なものであろうが、誰でも入れるのです。中は冷房していないのにひんやり涼しく、都心なのに静かです。
 カネじゃあござんせん、鐘があります。この鐘、じつは名前と生年が銘記されている素姓確かなものでござります。実際いまでも現役、日曜日の都度、鳴りわたるのだそうで。
 
ペリーの黒船以来、最初に江戸の地を踏んだカトリック宣教師は安政条約1858年の調印に立ち会ったメルメ神父である。
 その翌年ジラール神父が駐日フランス領事館付司祭として来日、当時領事館にあてられた三田の済海寺(港区三田4の16)に駐在した

(小楢山俊記者の『銀座物語 キリスト教小史』の署名記事と判読できる色あせた記事の写しが鐘の前においてあり、メモしてきたものです)
 
 ですから聖堂はその20年後に建てられる、のですが、鐘はその聖堂の完成に合わせるかのように前年1876年、遠く離れたフランスのレンヌから、東京の地を踏みます。
 いま何歳? 135歳です、すごいねえ〜! 名前は?っつうと、江戸の、と江戸 Yedo がつくんですねぇ〜、ジャンヌ・ルイーズ!

 JE SUIS VENUE DE RENNES EN L'ANNEE 1876
 JEANNE LOUISE DE YEDO

さて、現在築地教会にはジャンヌ・ルイーズ ひとりしかいないが、旧聖堂時代にはもうひとり、ジャンヌ・ルイーズと対になる、これよりひとまわり大きな鐘があり、これら大小二つの鐘が、お告げの鐘としてデュエットを奏でていた。
 大きなほうの鐘の名は”Adelaide Jose'phine(アドレード・ジョゼフィーヌ)という。
 その後1920(大正9)年、大司教座が関口教会に移ったのと同時にジョゼフィーヌも関口に移り、いまは”関口のルルド”として保存されている

http://tsukijicatholic.jp/tukijikane.htm

 そうですか、と一礼して門をでると、そこにはまた違う碑が:
Ecole de L'Etoile du Matin
 
 そう、暁星学園発祥の地でもありました:
1888(明治21)年、フランスとアメリカから来日したカトリック・マリア会の5人の宣教師によって、今の中央区築地に創立されたカトリック校です。
 当時この地は、外国人居留地であったためフランス人1名、ポルトガル人2名、 日本人3名が入学し、6名の少人数で国際性豊かな学園の歴史が始まりました…
 1888年7月、麹町区元薗町に移転、暁星学校と命名。
 1890年7月、現在地(千代田区富士見1-2-5)に移転

http://www.gyosei.ed.jp/gaiyou.html
 
 アメリカの濃い影ばかりではありません、このあたりミサのときのお香か葡萄酒か、フランスの香りもただよってきます。だって、だってさ、隅田川とセーヌって、関係があるんだよ:

隅田川はフランスのセーヌ川と友好河川を結んでいます。この友好河川は、1982年7月14日に結ばれた東京都とフランスの首都パリ市の友好関係から発展したものです
http://tukuda.tokyo-area.net/tukuda.html

 写真は友好河川記念植樹(マロニエだね、やっぱし!)。
P8134620.jpg

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2011年08月18日

木村大作

俺は「八甲田山」に始まり、「剣岳 点の記」に終わる」…そんな木村大作(1939年東京都千代田区生まれ、水戸に疎開、蔵前工業高校卒、72歳)に『誰かが行かねば、道はできない』(2009年、キネマ旬報社)という本があります。
 ちなみに1977(昭和52)年の東宝映画「八甲田山」は監督 森谷司郎、原作 新田次郎、脚本 橋本忍、撮影 木村大作38歳のとき、音楽 芥川也寸志で出演高倉健、北大路欣也、三国連太郎、栗原小巻ほか。
 2009(平成21)年の東映映画、「剣岳 点の記」は、監督・撮影・脚本 木村大作、原作 新田次郎、音楽 渡辺晋一郎で、出演は浅野忠信、香川照之、松田龍平、宮崎あおいほか。

 この「剣岳 点の記」につきムカシの山歩クラブのウエブサイトから再録しておきます:
2009年4月26日「スローフードと山の会(於江東区富岡区民館)」で決まった「水無月特別企画」が昨日の6月27日(土)にありました。
 10時に「楽天地シネマズ錦糸町(墨田区江東橋4丁目 Tel 3631-7020)」に、なんと山歩クラブの8人の仲間が集結。
 外は今年初の猛暑日、皆んなで汗でなく涙を流しながら、ムカシ100年前、1907(明治40)年の物語、映画『劒岳、点の記』を観てきました。
 翌6月28日(日)に新田次郎の原作を文春文庫で読破。この企画を提案していただいた仲間に感謝。
 畳に寝っ転がりながら読書。映画のワンシーンを思い出すたび、そして本の一節に感動するたび、起き上がっては仲間に打っていたメールに山崎さん宛てのものがありましたので紹介。何故かと言うと、この方はNPO「知音」を山形市で主宰し、仲間にも紹介した方ですが、山形県大石田で交通事故にあわれてしまったというのですが、この大石田に生まれたのが測量手の主人公、柴崎芳太郎(1876-1938)だったのです。
 以前昨年2008年9月に山崎さんを紹介した一斉送信メールを再録しておきます:


≪テレビを見ても笑い声がそらぞらしく、ニュースもなんか暗〜いお話ばかりですが、今日、日曜日、「日本山岳会」名誉会員でおじさん川崎精雄(まさお、1907-2008、中央大山岳部)の線香をあげに行ってきました、という山崎さんから「会いませんか」ケイタイ入り、水天宮前駅で落ち合い、隅田川のほとりに腰おろし、午後いっぱいなんと4時まで、おしゃべりをしてきました≫
≪山崎さんは山形で、廃油を回収してクルマの燃料作ったり、石けんつくったり、自家発電をしたり自給自足の生活をしていらっしゃいます≫
≪これからは菜種を植えて稲刈りもあって種まきと農作業に追われる毎日だそうです。どんなユニークなことをなさっているのか、資料の欲しい方はおっしゃってくださいね…≫



 山崎さんから2009年6月28日、すぐかえってきた返信メールは、「いま北海道小樽」でした。いま、屋台で飲んでますって、さ(フ〜ンだ、でもちょっと羨ましい)。
 柴崎は、大石田で生まれた後、1896(明治29)年台湾守備隊を志願して入隊しています。台湾は日本統治となっておりました(1945年まで50年間続きます)。
 というのもその前年1895年、中国清朝は日清戦争で敗れ、日本に台湾を割譲したからです。

 撮影中に落石事故もおこっています。


≪2008年6月19日午前11時15分ごろ、富山県立山町の別山2880mで行なわれていた映画の撮影中、落ちてきた直径約2mの岩が録音技術師(67)の頭を直撃、県警山岳警備隊のヘリコプターで病院に運ばれたが重傷という(〜現在は順調に回復に向かっているそうです〜)。
≪午前10時から標高2700m地点で撮影を開始≫
≪出演者から離れた場所で録音機器の準備をしていたところ、落石に気付いたスタッフが大声で注意したが、ヘッドホンをしていて気付かなかったという≫
≪現場は足場の悪い岩場で、一般の登山道のルートではないという≫
≪撮影時の天候は小雨で風速10mだった…時事通信≫


 それほどCGでなく実写にこだわった素晴らしい映像、そして忘れてはならない日本人の愛と義の心、それを見事に表現しきったスタッフ、キャストの心意気にもう一度、大拍手をしてこの、久々の日記を閉じたいと思います。
 機会がありましたら、ぜひ映画館に足を運んで山岳映画の感動を味わってきていただきたく思います(幕)


 もちろん、木村大作の本には、この山岳映画撮影中の事故、そのとき監督としてどう役者に振る舞い、どう立ち向かい、どう乗りこえらたのか、も描かれています。ぜひお読み下さいネ。

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外国人居留地

 まだ、どこの国からも占領されたことのなかった頃の明治の日本、なんてこの国のことを誇らしげに語っていたヤッホー君、この夏の朝シャンでなく、ハイキングでもなく、モーニング・ウオーキングを縮めたヤッホー語、『朝キン』、またしても思い込みの修正と新たな見直しがあったようです。

 それは、朝キンのエリア、当初は復興小学校である明石小学校を見物しに歩く、というスタイルだったのですが、だんだんと歴史山歩、文学山歩となっていくのでした。
 
 今日8月18日木曜日は、朝5時半のスタート。
 「あかつき公園(築地川公園)」で「シーボルト胸像」、「工学院大学学園発祥の記念碑」、と写真に収めつつ歩いてきて、「浅野内匠頭長矩江戸屋敷跡の碑」の前で不図か不意にか、いや、思いがけなくもか、いいえ突然かも知れません、「あれ、ここはムカシ、山歩クラブで通ったことがあるなあ〜」と、記憶がよみがえってきたのでした。

 ムカシ、発足したての山歩クラブ、たしか仲間よりご提案いただいた墨田区の主催「逆忠臣蔵を歩こう会」にいたく賛同し参加、それ以来、毎年12月14日、泉岳寺より両国の吉良邸跡まで歩いていたのです。「散歩も山歩も声にだせば、いっしょのもんじゃい、それ、ワン・ツウ・さんぽ!」なんて言っちゃったりして…

 ところが年年歳歳、だんだんと吉良邸が遠くなっていくのです。
 吉良邸というよりゴールの両国の地ビールが無くなってから「馬にんじん」が月島のもんじゃになったり、晴海のトリトンスクエアのレストランになったり、そしてうおや一丁銀座本店になって、築地の魚市場止まりでリュックには正月用品の買出しになって、あげくのはては…、泉岳寺スタートにしないでさ、あのネ、直接、ゴールを目指そうよ!なんてなったりして…

 この伝統、今冬はどうしましょう、とふっとあたまをよぎりました。
 この赤穂浪士と縁のある碑のとなりに、同じ両国とも関連して、両国には「芥川龍之介文学碑」と「芥川龍之介生育地碑」とふたつもあるんだよ、なのになぜここにも、という「芥川龍之介生誕の地碑」があるので、そういえば、あんときにもそんなこと思ったことでした、とムカシ一緒に歩いていた仲間の顔を思い出したりしていました。

 今朝は、さらに、「慶応義塾発祥の地碑」、そして「蘭学の泉の碑」と全て写真に収めました。

 これをもとに今冬の恒例タウンウオークの候補コースの材料にしようっと。

江戸幕府は1858(安政5)年、欧米5ヶ国と通商条約を結び、横浜、神戸等を開港した。その結果として、やがて築地に外国人居留地ができ、文明開花はここからはじまった
…山県喬(やまがた・たかし、1928年東京生まれ)『東京歴史の散歩道』(出版芸術社)

 そうなんです、ここいらは治外法権で、大ムカシは官憲含め日本人立入り禁止地帯だったんですう:

東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。
 今日の中央区明石町一帯である。
 しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。
 このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。
 また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いた。
 築地居留地も1899年の治外法権撤廃で廃止されている

(ウイキより)
 
 いま、この国は敗戦後66年を迎えてもなお、オキナワに外国軍基地を抱えており、それを糺そうとした鳩ポッポ首相もあとわずかでしたが力及ばず、マスゴミはまた大連立の情報操作をしていますが、何のための政権交替だったのか、若い次世代にバトンタッチしたいところですが、明治のころ、こうした不平等条約の是正に立ち向かい、成し遂げたのが、竜馬の友だち、海援隊にも所属した陸奥宗光でした。

1894(明治27)年、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。
 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。
 以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。
 陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた


 うん、だからスタートは決まったね、隅田川の橋のなかではヤッホー君が一番好きな、そう、清洲橋のたもと、「陸奥宗光邸跡」からにしよう!

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2011年08月17日

生き延びる知恵と力

 8月17日朝日新聞朝刊の文化欄にノーベル文学賞大江健三郎(1935年愛媛県生まれ)の「定義集【広島・長崎から福島へ向けて】」というコラムがありました。

『「20世紀は人為的に作り出した核エネルギーで殺人を行なった世紀です。これは種族としての人の命のつながりを絶つことです。人体に与える影響を知りながらそれを行動として行なった科学者や為政者を僕は許せません」とS医師がいった』

 S医師とは肥田舜太郎先生で1917年広島生まれ、大江健三郎が引用した箇所は林京子(1930年長崎市生まれ)『被爆を生きて−作品と生涯を語るー』(発行日は2011年7月8日、岩波ブックレット)。

 肥田舜太郎先生が内部被爆を語る動画はこちらでぜひご覧下さい。『2011/04/24 原発なしで暮らしたい100万人アクション in ヒロシマ』からです。
http://www.youtube.com/watch?v=tCV3beH_IWI

 そして林京子さん。
長崎での被爆体験を描いた小説「祭りの場」で芥川賞を受賞した作家・林京子さんへのインタビューがブックレットになりました。
 このブックレットについては1年程前からご相談していたのですが、実際にインタビューが行なわれたのは、東日本大震災、そして福島原発事故が起きた後の4月でした。
 林さんは、ご自身の経験を個人的な経験にとどめることなく、人間全体にかかわる問題として深く掘り下げ、書き続けて来られた方です。
 その「核と人間」の問題が、最悪の形で我々の眼前に突きつけられた今、一人でも多くの方に林さんの言葉にふれていただきたいと思っています

(上掲ブックレットの聞き手、島村輝(フェリス女学院大学文学部日本文学科教授)
http://www.ferris.ac.jp/educations/research-activities/teacher-works.html

 6月23日木曜日付け日本経済新聞16面にも、林京子さんは登場しておられました:
私は1945年8月9日に被爆したひとりの被爆者の目で大震災後、原子力発電所の事故を見てきました。
 今、感じるのは全身が震える程の絶望と憤怒、落胆です。
 ああ、この国は確かに被爆国であった。
 なのに、何も学習していなかったのだと。
 事故の後、最初に『内部被曝』という言葉がニュースから聞こえてきたときは涙があふれました。
 私たちは60年以上もそれと闘ってきたのですから。
 
いったい何て国だろう…
 友人たちの死は何だったのだろう…

 あんなに打ちのめされたことはありませんでした。
 放射能の影響は、何十年たって現れるかわかりません。
 住民の健康調査をきちんとしてほしい。
 必要ならどこまでも逃げるべきだし、もうすでに独自の線量を測る人がいるように、自分の身は自分で守る覚悟が必要です


 ぜひ全文をお読み下さい。
 こういう貴重なブログのメッセージを教えてくれる、庶民もたしかにおられます。 

 「バビントンなピアノライフ」さん:
http://babington.exblog.jp/m2011-08-01/
 「里山のフクロウ」さん:
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2011/07/post-b159.html
 「Shima教授の生活と意見」さん
http://blog.livedoor.jp/insectshima/archives/52305257.html

 朝日新聞の大江健三郎のコラムの副題は、『庶民、生きのびる力を得る』

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江戸前

 8月17日水曜日、朝ウオーキングをはじめて5日目。
 三日坊主になんなくって良かった、本当は「けつげたな、なあ〜」という祖父の声に(怒っているのではない、諦め加減で物言う山形の方言、だからちょっと突き放された、見放された感じがして泣いたものです、幼少のみぎりに)励まされていたんですう。

 いつも通るといるのが、橋の下でいつも同じかっこうで本を読んでいるおじさん。
 このおじさん、鳩が頭を振って近づいてくると、本を片方の手で合せて音を出して驚かせて遠ざけるのですが、この音。橋の湾曲した天井のコンクリートに跳ね返って大きな音をだすんです。
 いつも漫画本を読んでいるのですが、今朝は違っていました、文庫本です!ちらっと見たら「メトロ文庫」と赤くスタンプが押してありました。今もあるんでしょうか。東京メトロの公式サイトでは検索できなかったのですが…
 駅においてある困ったときのビニール傘、なんておたがいさまのこころって、いまもまだ残っているのかなア〜、がんばろう日本!
http://media.excite.co.jp/book/daily/tuesday/003/

 いつも通るといる二人目の方は、病院前で天秤棒でなく、だからいくら築地が近いと言ったって魚を売りに来たわけでなく、あれはなんというのでしょうかね、点滴棒? 点滴柱? 点滴ホルダー? 点滴キャリー? 点滴バー? その点滴を抱えて、歩道との境石にいつものように足を組んで座って新聞を読んでいる患者のおじさん。
 天敵じゃ、ない、点滴については四国の今治市医師会の公式サイトで、ぜひチェック下:
http://www.imabari-med.jp/etc.htm

 温度管理された病室からほんのひとときでも逃げ出したい、どんなに暑くたって凍るような空気だって、自然の外気を胸いっぱい吸い込みたいって気持ちは入院した経験があれば皆さん、共有できるはず。でもごろごろひっぱって歩けるんですから、もう退院も近いのでしょうね、きっと。早いご回復を祈ります。

 いつも通るといる三人目の方は犬を三頭も連れて、川端に座ってパイプをくゆらしているおじさん。ところが今日はいなかったのです。実はこの犬、全員、三頭から吼えられてあれは三日目の月曜日。そう、昨日は吼えられなかったもん。
 いや、その、ほら、犬はホームレスには吼えないから、ヤッホー君のカッコウが悪い、汚い、臭い、というのに吼えたんでなく(そうかなあ〜)、実は犬をおちょくったからなのかも知れないんだ、手をこう、掌を上に餌が入っているような素振りで、ほら、振ったもんだから、
「わんころわんころ、ばかするな、こちとら高価な輸入食品、(カリフォルニア産)ドッグフードをお腹いっぱいたべたばかりじゃい」
「こりゃあ、おんどりゃあ、わんころわんころ、ばかするな、こちとら血統書付きやでえ」
と、雑種で貧民の破衣徒が脅かされた、ってなわけでぇして。ヤレ、ヤレ。

 いつも通るといる四人目じゃなくって、ね、水鳥、ヤッホー君は「鵜っしっし」と名づけています。
 今日も川面でヤッホー君のほうをじっと見つめていましたので、よし、「胸いっぱいに息を吸って、はい、息を停めてえ〜、行けえ〜」とこころの中でマイクを持って指示したら、はい、行きました。ってぇ、どこへ。あの、川底に泳ぐ江戸前の魚か穴子、目指して一直線。立ち止まってしばらく見ていたのでしたが、潜ったまんま、なかなか浮いてきません。
 「そらあ、寿司の種だよ、逃がすなあ」って、「がんばれえ〜」って声援して、また、ぺたぺたと歩みを続けていきました。
 
大川端に大っきく咲く夏の花、いいな、いいな。
 暑くって燃えるような夏も、いいな、いいな。
 
 濃い色した花々が朝日の方を向いて微笑み、
 そして行き交う人にも見て見て、と誘ってます。

 汗だらけの肌。
 腕から滴り落ちる汗。 
 
 川風がさあっと吹きわたってきます。
 
 ふたつだけご紹介:
ゆり.jpg

あさがお.jpg

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2011年08月16日

生き延びるための思想

 「男女共同参画の必要性」と、遠藤恵子(山形県立米沢女子短期大学学長)の言を引いたのが2011年8月13日付けのヤッホー君の日記「国公立短大」でした。
 
 ヤッホー君はいつか「男女共同△社会」と茶化したことがありますが、寄る年波で、なんのときだったか、思い出せません。参加と参画の違いも分からない無智なヤッホー君、そりゃあそうですよね。
 でもね、今日8月16日火曜日、思わぬ収穫があったようですよ:

国連女性差別撤廃条約が1985(昭和60)年に国会で批准されたのに間に合わせるように、男女雇用機会均等法ができました。
 記憶に残しておいておいてほしいのは、この法律ができたときに、ほとんどの草の根の女性団体は反対に回ったことです。
 というのは、男女雇用機会均等法、つまり「女も男並みに働けば男並みに処遇してあげるよ」という法律ができたときに、私たちは困惑を覚えたからでした。
 「もっと女を総合職に」「女も歯を食いしばって働け」「そして女も管理職になれ」と叱咤激励するのがフェミニズムのゴールだったのか…
 「男女共同参加」というのは「男女平等」、とりわけ「平等」という言葉が大嫌いだった当時の政府、財界、与党に配慮して官僚たちがつくった「行政用語」だったからです


 これは、上野千鶴子さん(1948年富山県生まれ)の東京大学最終講義より。
 18年間にわたってトウダイで教鞭をとっていたのでしたが、3月でトウダイを去りました。
 全文が、雑誌『文学界』(文藝春秋)9月号に「生き延びるための思想」と題した文章で読むことが出来ます。

 ヤッホー君も、このいかがわしい「男女共同△社会」とやらを学んでみようかな、と思いました。

 科学的には完全にNOであるのに、3.11後、北海道電力泊原発3号機(泊村、プルサーマルも推進中)の営業運転再開に向けた政府対応を評価し、GOとした女性知事。この御方、1954年祖父が県知事だった富山県に生まれ、統一地方選で自公推薦、男女の有権者5人のうち2人の支持(中央区長は4人に1人でしたネ)で当選。一橋大学を出て経産省に入り、北電幹部からの政治献金があるなど住民でなく産業界、企業と「蜜月関係」にあると報じる東京新聞。

 ほかにも…
 イラク人を9.11と関係するアルカイーダだ、と捕まえた捕虜収容所での虐待に関わった女性軍人、無人機を安全地帯の冷房完備したコントルームから、間違っていてもいい、命中しなくたっていい、ゲーム感覚で殺処分の指令ボタンを押す女性軍人、勝ち組を自称しているカツマー、都知事を支持しているのも、空き菅を支持しているのも、もう一度、なんでえ、女性の政治参加、企業経営への参加、弱者や非世紀労働者にも優しい社会、子育ても教育も、大企業の世紀社員がもらう育児手当や教育手当でなくってさ、社会全体で担う責務があるのでは、なんていうコンクリートから人に向かう希望のもてる社会にどんだけ、がんばったのでしょうか。
 
 レンボウさんなんてのもいましたよね、ランボウにもおっしゃいました、世界で一番にならなくっとも良い(のはいいのですが)、世界でひとつの花を咲かせるのに外国軍隊のないオキナワを目指し、トイレもない原発をつくらないようにと、どれだけ軍事費を削減し、隠し財産を減らし、思いやり予算を削るための事業仕分けをしたのでしょうか。聖域をつくっただけ? とそんな声をこれから出していくために…

 『資料 日本ウーマンリブ史』全三巻(1992−1995、松香堂書店)
 『新編 日本のフェミニズム』全12巻(2009−2011、岩波書店)
 
 次の「女性をつなぐ総合情報サイト、ウィメンズ アクション ネットワークWAN(Women's Action Network)」もお気に入りに入れてお楽しみくださいな:

http://wan.or.jp/
http://www.ustream.tv/recorded/15882146#utm_campaign=synclickback&source=http://wan.or.jp/&medium=15882146

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二都物語

 中央大橋、その真ん中にモニュメントがあります。ず〜っと長いこと、これはパリの『自由の女神像』のレプリカ、複製だ、とばっかリ思っていました。
 ところが2011年夏のリバーサイドウオーキングでこれは間違いだったことに気づくのです。
 そうでしたか…

 まず、誤解のもとは、パリと東京は姉妹都市の関係にあり、その縁でパリ市長が都知事に寄贈したものである、との前提がありました。

 姉妹都市の関係にあることは間違いがないようですが、どうもジャック・シラク氏がパリ市長のときだったのか、フランス大統領のときか、そのあたりがごっちゃになっていたようでして、これまでタウンウオーキングにご参加いただいてきた仲間の皆さまには、お詫びして訂正しておきます。

 東京は都知事本局外務部外務課によりますとパリ以外に、さまざまな都市11と姉妹都市の関係を結んでおります:
 ニューヨーク市、北京市、パリ市、ニュー・サウス・ウェールズ州、ソウル特別市、ジャカルタ特別市、サンパウロ州、カイロ県、モスクワ市、ベルリン市、ローマ市。

 パリとの姉妹友好都市の提携は、1982(昭和57)年7月14日のこと、パリ市長ジャック・シラクJacques Chiracと東京都知事、鈴木俊一との間に結ばれました。

 ところでそれよりも25年も前のことですが、京都市もパリとは「友情盟約都市」の関係にあったのでした。
『昭和32(1957)年、京都市長が関西日仏学館教授に託したパリ市会議長宛の手紙の中で、姉妹都市提携の希望を伝えたところ、翌年、パリ市会議長が京都を訪問。同議長が帰国した後、パリ市会理事部で両市の友情盟約締結が承認され、京都市も京都・パリ友情盟約の成立を宣言しました(1958(昭和33)年6月15日)』

 京都市の姉妹都市は総合企画局 国際化推進室によりますと、ほかにも、ボストン、ケルン、フィレンツェ、キエフ、西安、グアダラハラ、ザグレブ、プラハ。「パートナーシティ」に、晋州(韓国)、コンヤ市(トルコ)。

 山歩クラブにも次年度は「国際推進室」をもうけ、東京と姉妹都市関係にある都市の市民の山歩きのグループと交流する企画を立てようっと。まずは近いところでソウルにする?あるいはイヴさんとこのパリにする? 

 ところで、その自由の女神はパリが最初で、それがニューヨークにレプリカが贈られ、パリとの友好姉妹都市になったことを記念して東京にもレプリカ贈られてきた、というヤッホー君のあたまのなかに組み立てられていたストーリー、これにも思い違い、勘違いがあったようで
 
 以下、ウイキによります:

★ ニューヨークにある自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスより贈呈され、1886年に完成しました。
★ フランスのパリにある自由の女神像は、フランスがアメリカに自由の女神像を送ったことの返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念して贈ったものです。セーヌ川のグルネル橋のたもとに位置し、高さは11.5メートル、重さは14トンと、ニューヨークにあるものより小さめ。1889年11月5日に除幕式が行われました。
★ 東京にも実はありました。中央大橋ではなく、お台場に!!
 東京お台場には、パリの自由の女神像が、日本におけるフランス年事業の一環として1998年4月29日から1999年5月9日まで設置されていました。この事業に関しては、1998年4月28日に点火式が行われ、フランスのジャック・シラク大統領、橋本龍太郎首相(当時)などが参加しました。この事業が好評を博したため、その後、フランス政府からレプリカの制作が認められフランスのクーベルタン鋳造所にて複製されたブロンズ製のレプリカが2000年に設置されました。
 高さ11メートル、重さ9トンのブロンズ像でレインボーブリッジや東京タワーを背に建っています…

 「お台場の女神」かぁ〜、行って見てこようよ…ヤッホー君のあまりの好奇心と猜疑心と関心の旺盛さにいつもながら、とはいえ、他の仲間たちには「またかあ?」とシラック、また白い目で見られそうですが…。

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2011年08月15日

清水機械

 「ミクロン単位の精度で部品を仕上げた町工場の職人の意地とプライド… これは隅田川を渡った江東区の西大島にあります」と。昨日8月14日、NECの小笠原雅弘さんが語ってくれたのは何ていう会社?って気になって夜も寝られなかった、というヤッホー君、ついに今日8月15日月曜日、どうやら見つけたようです。

 清水機械です(江東区大島2-15-14 Tel 03-3683-0966)。社長は昭和17年生れの69歳の山崎秀雄さん。資本金300万円の有限会社です。常勤の従業者は4人で、しかも平均年齢65歳、というまさに町工場でした!

 「下町探偵団」がインタビュー記事を公開していますので、ぜひお読み下さい。下↓参照:
http://www.shitamachi.net/kao/012.htm

 「どうやって見つけたのですか?」ってさっそくヤッホー君にインタビューしたら、8月15日月曜日ハイヌーン、銀座まで徒歩通勤できるんだったらと、愛車のバイスクルを買ってヤッホーヤホー。
http://www.youtube.com/watch?v=eHed0y9-oyI

 永代橋から鍛冶橋通りを新大橋通り、昭和通りを渡り京橋を越えると、「東京国際フォーラム」。

 京橋の「フィルムセンター」で一本入れようと思いましたが、月曜日は休刊日でした、残念。
http://www.momat.go.jp/fc.html

 明治屋はあれど、片倉財閥のビルは取り壊されて京橋はいま、再開発中:
http://www.katakura.co.jp/news/pdf/2009/n091006.pdf

 「東京国際フォーラム」のアートショップで、たしかに「はやぶさ」展が。

 そこで、たった一行の記述を見つけたのです:
 『サンプル採取装置の試作』…たったこれだけでした。
 住所もなければ電話番号も代表者氏名も何もありません。
 こんな世界初の仕事をしたプロジェクトに協力したのですから、なんか皆んなで拍手してあげたいと思いません?なんか、もうひと工夫もふた工夫もあっていいように思うのですけど…。

 そんなパネルを模写して、次に向かったのがリポビタンDのパネル、えっ何で、関係あるのって首をひねったら、どうぞ一本、とサンプルをいただきました。
 プロジェクトチームは、困難なときをリポビタンDを飲んでがんばったらしい、漫画のような本当の話しってイベント会社のフリースタッフ、井上さんが説明してくれました:
http://www.youtube.com/watch?v=MAkkxIN4BPs

 「8/3から8/31までの毎日と、9月と10月の土日祝日のみ、1日100本限定で、リポビタンDを配布します」って昨日紹介した、はやぶさのサイトに公式アナウンスも。
 いまがチャンス!
http://hayabusa-i.jp/lipovitan-D/

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徳船稲荷

 8月15日月曜日朝7時半、からだの健康のために銀座まで通勤に歩いています、という同じマンションに住む管理組合の理事さんとばったり大川端で。
 そういえば今日は月曜日、今日から通常業務、という会社もあります。
 そういえば佃島の天安(中央区佃1-3-14 Tel 03-3531-3457)では、若旦那が7時前だというのにもうお店の前で打ち水。
佃煮発祥の地佃島で、創業(天保8年)当時からの製法を守り、また、創業当時から現在まで、170年受け継がれてきた「たれ」を味付けの基本としています
(当店のこだわり)
http://tenyasu.jp/

 ヤッホー君は、夏休み!
 初日の土曜日朝に、ここ佃島の住吉神社で二礼二拍のお参りをしてきましたので、今日は礼をするだけ。
 手をあわせていましたのは、隅田川右岸、仙台高尾を祀った高尾稲荷の先の下流、亀島川の南高橋近くにある徳船稲荷神社。

 まだ大江戸線も半蔵門線も通わぬムカシ、山歩きを始める前のムカシのこと、週末になると朝はきまって、右岸から勝どき橋を越えて左岸に入り、月島、晴海、春海橋を越えて日本ユニシス、そこから越中島に入り、都立三商、東京商船大学(現在、国立大学法人東京海洋大学海洋工学部越中島キャンパス)で越中島公園に入る、というコースでジョギングをしていました。

 今夏、久しぶりに復活したのはしかし、ジョギングでなくウオーキング。
 永代橋西の橋脚下に水たまりがあって、頭をかがめて橋下脇のコンクリート堤の上を歩かねばなりませんが、ムカシは水溜りなく、山の氷河の後退ばかりでなく、北極海の氷も溶けている、というし、海面上昇のせいだな、と地球温暖化が実感できるところです。

 また、隅田川に魚が戻ってきた、と言われたくらいでしたから、ムカシの人(といってもほんの10年、20年前)は、もっと隅田川を大切に、綺麗に、大事に扱っていたんじゃないのかな。
 いま、絵葉書以上のことが見えてきます。

 おなかをだして手足をばたばたさせているセミ
 満潮時に陸にあがったけど河にもどれなかった川魚
 この川魚にも、からからに渇いた川虫にも手をださないすずめや水鳥
 びっこの鳩
 大川にごみ袋をふたつも放り投げるお年寄り
 やりっぱなしの子ども花火
 片づけもしないビール、じゃない、安もんの第三のビールの空き菅
 持ち帰りもしない弁当がプラスチックの袋の上
 バナナはいま房でなく一個ずつ売られているのがありますが、その皮だけ入ったプラスチックの袋
 ぷかぷか川面に浮かぶペットボトル
 テラス下に置き去りにされた紅いベビーカー

…こうした自分勝手で無様な生き方しかできない人間どもにバチがあたりますように、そして生きとし生きるもののいのちが費えたあとの成仏、この二つをお稲荷様に、しかも徳川の紋所にお願いしてきたわけです。「頭が高い、控えおろう!この葵の紋どころが目に入らぬか」と悪人どもを成敗しようと…

「徳船稲荷神社縁起」:
徳川期、この地、新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲まれ、雄大に構えていた(旧町名・越前掘はこれに由来する)。
 その中に小さな稲荷が祀られたいたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を期って彫られたものと伝えられる。
 明暦三年、世にいう振袖火事(1657年3月2日から3月4日にかけて)はこの地にも及んだが、御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、1922(大正11)年に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。
 関東大震災(1923年、大正12年)で再度救出され、1931(昭和6、満州事変勃発)年、隅田川畔(現・中央大橋北詰辺り)に社を復活し、守護神として鎮座したが、戦災で全焼。
 1954(昭和29、その前年1ドル200円)年、同処に再現のあと、1991(平成3、ソビエト連邦解体)年、中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。
 例祭は十一月十五日である

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2011年08月14日

はやぶさ

 夏休みのハイヌーンは、ウオーキングではなくサイクリング。
 自転車で、「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館、中央区明石町12-1 Tel 3546-5537)」へ。
 今日は「もっと知りたい! 第2日曜日は天文・宇宙のトビラ」の一環で、小笠原雅弘(NEC航空宇宙システム、シニアエキスパート)による『もう一度エンジンに灯をともそうー「はやぶさ」が教えてくれたことー」があったのです。
 小笠原雅弘。
 彼は、NECのチーム「はやぶさ」メンバー。航法誘導系、特にイトカワへの着陸に使われたターゲットマーカやフラッシュランプを手がけるとともに、軌道姿勢系部門の長として、チームのまとめ役をつとめてきました。
 1985年にはじめてハレー彗星へ旅した「さきがけ」をはじめ、スイングバイ技術を修得した「ひてん」、月のハイビジョン映像を地球に送り届けた「かぐや」など、日本の太陽系探査衛星にずっと携わってきたエンジニア、だったのです。
 たくさんのことを教わり、もうヤッホー君は会場のプラネタリウムホールが暗いのを幸いに泣いておりました:

★ ミクロン単位の精度で部品を仕上げた町工場の職人の意地とプライド… これは隅田川を渡った江東区の西大島にある、と。
★ 「地球に還ってくることだ」の川口淳一郎・はやぶさプロジェクトマネージャー率いる運用チームの粘り。
★ 小惑星イトカワの大きさ(長さ)は、ラッコ状の江ノ島ほど540mくらい。墨田区のスカイツリーは634mだから、それよりも小さいのです、と。そして、そしてラッコの右手下のお腹あたりに「はやぶさ」が自分でタッチダウン、離着陸したこと。
★ 2010年6月13日22時57分、「はやぶさ」から切り離されたカプセルがまるで新品のように地球、オーストラリア、ウーメラ立ち入り制限区域(WPA: Woomera Prohibited Area)に戻ってきたこと。
★ カプセルのなかに、もしかして鹿児島県・桜島の火山石だったらどうしようと言い合っていたのに、11月16日、カプセルのなかにイトカワからの試料があったこと。
★ 「スイングバイ」など高い、優れた日本の技術力。 
★ 3.11のとき1時間半でいける東北新幹線「はやぶさ」なのに仙台にいて、帰京するのに5日もかかったこと。

 昨夜、全編観てしまった登山家ではないNHKのカメラクルーが、ハイビジョンの重いカメラ機材を担いで、ヒラリーステップも映像に収め、エベレストの頂上にたち、晴天のなか、360度の景色を画像に収めるという世界初の快挙の放送、といい、今日の世界初の快挙、お月さまよりも遠い天体から、地表物質の回収に成功した「はやぶさ」物語といい、≪あきらめるな、日本≫です。

 講演の最後に、もう時間も押していますので質問は一個だけ受け付けますと進行役のお姉さまに、「ハイ!」と元気良く、小学生が手をあげ聞きました:
『「はやぶさ」はどうして四角なんですか?』
『もうひとつ、ミネルバはいまどこにいるんですか?』
 講師の小笠原先生、思わずしゃがみこんで子どもと同じ目線で聞きました:
『将来、ぼくはなんになりたいのかな?』
『エンジニア!』と小学生は元気にはきはき答えました。
 ヤッホー君はここでも大粒の涙をこぼしていました、『がんばれよ、夢は実現されるためにこそある!』と内心、大声あげてこの子を、励ましておりました!

 そして、この日ばかりはインターナショナリストでなく、すっかり愛国主義者となったヤッホー君、アンケート用紙の感想を書く欄に、『日本人の英知を結集して、立ち上がれ! 隣国の大国主義に技術力をカネで売るな、負けるな、先を行け!』と鉛筆で、紙が破れるほど、殴り書きをしておりました。

 この「はやぶさ」物語は、講師、小笠原雅弘の勤めている会社、NECでも詳しく知ることができます、下↓参照:
http://www.nec.co.jp/ad/hayabusa/

 また、有楽町駅そばの「東京国際フォーラム」でも展示会をしております。ぜひお子さまの夏休みの自由研究にいっしょに訪れてみてください:

 ≪"はやぶさ"の業績を紹介するスペース「はやぶさi」≫
 6月14日火曜日-10月10日月曜日までの間、東京国際フォーラムで開催(入場無料)
http://www.hayabusa-i.jp/

http://www.hayabusa-i.jp/concept/
 上のサイトには、的川泰宣先生、それに川口淳一郎先生のメッセージがありますので、ぜひ傾聴してくださいね。

 そして、「星守る犬」で好演した西田敏行が出る映画(監督は堤幸彦、主演女優は竹内結子)も今秋、上映されます。ハンカチを用意して皆んなで見にいきましょう:
http://movies.foxjapan.com/hayabusa/index.html

 「HAYABUSA-back to the Earth-」もあります。これは(財)大阪科学振興協会、宇宙航空研究開発機構などが大型映像制作委員会を作って映画にした、実録。
 本編43分の上映時間のものです(被災者向けに無料上映会にもいま応じています)。
 予告編はこちらで:
http://www.youtube.com/watch?v=6tr2__Tv2I4&feature=player_embedded&fmt=18

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仙台高尾

 今日8月14日は夏休みの日曜日、今朝も早朝からリバーサイドウオーク。
 ま、いったいこれからご報告がどのくらい日時がかかるかわからねど、秋風が立つ時分までにはま、終わろうかとそんなこころ積もりではおりますが、ぜひお付き合いのほど隅から隅までず、ず、ずい〜っと乞い願いあげ奉りまする〜っ。
 まずは「高尾稲荷」にてヤッホー君、手を合わせていたからびっくり。
 なにごとか、と言いますと、昨夜は満月、隅田の大川端で月見だ、と川面に映るお月さま、あ〜これが月遅れ盆の迎え火かあ〜、手にもった扇子をぱたぱたと仰いだ、というのがまくらになるわけでして、ま、真夏も相変わりませず、三遊亭金馬(1894年東京は本所生まれ-1964年)の落語で暑さをしのいでくだされますように、下↓参照。
http://rakugotyan.blog37.fc2.com/blog-entry-128.html

 このお稲荷様、深いわけがございまして:

『仙台六十二万石伊達綱宗が三浦屋の万治の二代目高尾、いわゆる仙台高尾を身受して、のちに芝の下屋敷へ舟で連れていく途中、三つ又(隅田川の現在の清洲橋と永代橋の間にあった砂洲)で吊るし斬りにしたという巷説があるんですね。
 高尾には島田重三郎という情人があったので綱宗のいうことを聞かず、意地になった綱宗が高尾の体重と同じ重さの黄金二十貫で身請けしたという俗説もあります。

 高尾の遺体が数日後、この地大川端(隅田川)の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げ、手厚く葬ったといわれます。
 高尾の不憫な末路に広く人びとの同情が集まり、そこに社を建て、彼女の神霊・高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたというのが当社の起縁です。
 稲荷社としては全国でも非常に珍しいことに、現在この社には実体の神霊(実際の頭骸骨)が祭神として安置されているのです。

 高尾稲荷の場所(中央区日本橋箱崎町、IBM社屋のすぐそば)は、明治のころ この地には稲荷神社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があったそうです。
 その後現三井倉庫の建設に伴い社殿は御神体ともども現在地に移されました。

 高尾が仙台侯に贈ったといわれる句に、「君は今駒形あたり時鳥(ほととぎす)」
 なお、仙台高尾の墓は台東区浅草の春慶院(浄土宗)の檀家墓地の入口の脇に置かれています』
(中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。上のお題は、ダンディ松さんによります2011年6月10日15:30更新
の投稿によるものです)
http://www.chuo-kanko.or.jp/blog/2011/06/post-828.html
 
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2011年08月13日

エベレスト(チョモランマ)

 日本一の標高を誇る冨士山3776mに、イギリス人が登頂したのは150年前でしたね。1860 年のラザフォード・オールコックの登山とされていましたね。
 ところで、世界の最高峰エベレスト(チョモランマ)8848mにイギリス人が登頂を試みたのはまだ、90年ほどの前までしかさかのぼることはできません、しかしシッパイ。
 やっと成功したのは11回目の挑戦のことで、1953年のことだったのです。英国隊エドモンド・ ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイがやってのけました!

 ヤッホー君の6月25日付け日記『NHK グレートサミット エベレスト』の再録です:

この田部井さんとウッチーとの23日間、一日も下界に下りることなく、雨の日も風の日も歩き通した北アルプス縦走だったそうですが、カメラクルーは何と3班もいたんだそうです。
 前、後のほかに、一日前の行程を先に歩いているクルーです。
 だから遠くから、歩いてくるふたりを盗撮でなく、遠撮できたんですよって…
 
 このときの撮影クルーは、なんと、なんと先月、5月です、エベレスト登頂にも成功しているのですって!!
 登山隊5人のうち4人がNHKカメラマン、しかもハイビジョン撮影のための思い機材をもって…すご〜い!
 もうひとりのウッチー、竹内秀樹がつぶさに報告してくれています:
http://www.nhk.or.jp/greatsummits/
 
 やったね、田部井さん。
 東京新聞フォーラムの壇上で、右手を開いて見せながら、こんなことを語ってくれました。
撮影隊兼登山隊に言ったことはね、親指と人指し指があるでしょ、つまりエベレスト登頂の最後の難関は、8000mから最後の800m、いったん下って、ここからの登り返し、これにつきるのです、この急坂をヒラリーステップ、と言います。
 その最後の稜線の映像を撮ってくるといい、と。
 登山者は無酸素に近い中で、登るのに精一杯、だからこれまでその景色や眺望は、だれも…そんな…無謀な…。
 しかし、この前代未聞の偉業をNHKのカメラマンたちがやってのけたんです

 
「世界の名峰 グレートサミッツ エベレスト 世界最高峰に挑む」は皆さん、夏のお盆のお休みのとき放映されます。
 8月13日の土曜日夜7時から、です!
 ぜひ綺麗な映像、手に汗を握る映像をハイビジョンでご覧ください。
 見ることのできない仲間のために、録画もお願いします


 すご〜い!山仲間とケイタイ・メールでおしゃべり…

いま東京ですか、避暑地ですか?
 前にブログの日記でしゃべりました、田部井淳子さんのカメラクルーがカメラ担いでエベレストまで登ったんですよって。
 今晩BSブレミアムでいよいよ世界で初めてハイビジョンで放映されます。
 できたら観てくださいな


メールをありがとうございました。ずっと、暑地にいます。 
 今、観てます。すごいですねぇ、美しすぎますね。では


うれしいです!
 
 そして、『がんばろう日本』

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国公立短大

 8月13日土曜日の朝、ヤッホー君はもう6時からリバーサイドウオーク。
 リバーサイドテラスにはもうたくさんの人が…、いまはやりの歩き方、エクササイズウオーキングとかフィットネスウオーキングとか言うのでしょうか、そんな大股、早足で胸を張って手も振って元気良く歩かれている方も、ジョギングやランニングで汗をいっぱいかいてはあはあしている方もおられましたが、ヤッホー君はゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩、歩き通しました。
 帰ってシャワー浴びて、ブランチを取り、朝寝、そして何気なくつけたテレビ。
 そして、12時から引き込まれるようにBSプレミアム、聞いてしまいました。
 <100年インタビュー「映画監督・脚本家、新藤兼人」>:

ゲストは、国内最高齢の映画監督・脚本家の新藤兼人、1912年広島県生まれの99歳。これまでに撮った映画は49本。子供の頃の一家離散と母の死、戦争体験、女優・乙羽信子との出会いから、映画を通して「生きるとは何か」「家族とは何か」を問い続けてきた。生涯をかけて描こうとした、人間の本当の姿とはどんなものか、映画作りを支えた信念とは何か、について渡邊あゆみアナウンサー(1960年横浜市生まれ)が聞く
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2011-08-13&ch=10&eid=17312

 いまは、新藤監督の1995年の作品『午後の遺言状』を見ながら(午後1:30〜3:23、BSプレミアム)日記をつけています:

 杉村春子(1906-1997)、乙羽信子(1924-1994)という二人の大女優の遺作となった作品。重要な脇役に観世栄夫(1927-2007)、朝霧鏡子(1921-1999)。
 老境を迎えた女優と、彼女の蓼科の別荘の管理人である女性が出会うひと夏の出来事を通して、老いること、生きることの意味を問う人間ドラマ。
 モスクワ国際映画祭でロシア映画批評家賞を受賞するなど、国内外で高い評価を受けた。


 そう、そう、昨日の日記で『元文化庁長官で神奈川県立外語短大の川村恒明名誉教授(文化財保護政策、1936年生まれ)』と書きましたが、この神奈川県立外語短期大学も、明石小学校の校舎と同じく今年、…

『神奈川県立外語短期大学は、国際貿易の拠点としての性格を持つ本県の特性から、国際経済社会の舞台で活躍できる人材を育成するため、外国語教育を主とした「英語科」のみの特色ある短期大学として昭和43(1968)年に設立されました。
 43年間で約3,700名の卒業生を送り出し、その役目を終え、平成23(2011)年6月に閉学しました』
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f619/

 なんか、在るものが無くなるのは悲しいことですね。でもきっとこころには生きているんですよ、新藤兼人の母が、乙羽信子が、「一枚のハガキ」を読ませてくれた戦友が、生き続け、言葉を交わしているように、ヤッホー君のここころのなかで、祖父母や父が、そして鶏も山羊も鯉も生きているように。

『外語短大が閉学して早くも3か月に入りました。
 横浜市磯子区岡村の丘はしーんと静まりかえっていることでしょう。
 京浜急行の窓から誰もいない校舎を見るのはなんともさびしい限りです』

(神奈川県立外語短大の同窓会、きざはし会のホームページ)
http://stairway.oops.jp/nucleus/

 国公立短大の現状ってどうなっているのでしょうか。4年生大学への進学、少子化、男女雇用均等法等々、その役割は終えたのでしょうか…

昭和25年に暫定的措置として発足した短期大学教育も、昨年、60周年を迎えました。
 この間、社会の要請を受け短期大学の数も学生数も増え、昭和39年には制度的にもその位置づけが確立し、平成17年に「短期大学士」の学位も導入されました。
 たしかに20世紀後半における短期大学の発展はめざましいものがありましたが、そこには「男子は4年制大学、女子は短期大学」という暗黙の社会的合意ともいえる背景がありました。
 しかし、男女共同参画の必要性が広く認識されるようになり、また、何よりも社会人に求められる資質がより高度なものになるにつれ、高校生の短期大学離れが進んできているのが現状です。
 当然ながら、それと共に短期大学数も減少し、公立短期大学協会の会員校も平成23年度には最盛期の3分の1の21校にまで減少しています

(全国公立短期大学協会会長 遠藤恵子、山形県立米沢女子短期大学学長)
http://park16.wakwak.com/~kotan819/

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2011年08月12日

東京湾大華火祭は中止

 先月のこと、2011年7月19日付け読売新聞では、震災も戦災も乗りこえてきた下町は浅草の「神谷バー(台東区浅草1-1-1 Tel 03-3841-5400)」が登録文化財に、という記事を載せております。

5代目となる神谷バーの神谷直彌社長(46)は、「文化財として認められるのはありがたい。これからも当時の姿のまま、店の味と歴史を守り続けていきたい」と話している
http://www.yomiuri.co.jp/homeguide/news/20110719-OYT8T00152.htm?from=popin
 
 温故知新、ムカシ(伝統や文化、伝承や習俗)を訊ね、ムカシ(伝統や文化、伝承や習俗)に学んで、しかるのちに現代化が接木できるかを考えてみる、拙速とはしない、これはリーダーたるべきもののとる態度ではないでしょうか。

 ところが、ザンネンなのが震災復興小学校、「明石小学校(中央区明石町1−15 Tel 03-3541-8335)」の悲しいお話、「耐震性能に問題ないのに建て替える」解体のお話です。
http://www.youtube.com/watch?v=jMIfur2uot8&feature=related
 
 「明石小学校を守るために」活動してきた地域住民たちのサイトもありました。下↓参照:
http://www.justmystage.com/home/akashihozon/index.html
 
 同じ読売新聞が、元文化庁長官で神奈川県立外語短大の川村恒明名誉教授(文化財保護政策、1936年生まれ)に取材し、その言を引いて、疑問を投げかけております。

川村名誉教授は、地域の財産である学校の所有者が区であることを強調し、「最も地域に近い自治体の区が文化財の価値を認識しなければ、地域の宝が消え、魅力ある町づくりも阻害される」と指摘する。今後の教育・文化行政に生かされるのだろうか
(2010年9月3日付け読売新聞「重要文化財相当、なぜ解体?」明石小学校)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20100903-OYT8T00235.htm

 この中央区のリーダーは、矢田美英、昭和15年生まれの70歳、先の統一地方選挙で自公推薦で当選、都内の区市町村長としては最多の7期目。
 その選挙結果は、と調べてみたら、地域の有権者の4分の1しか支持していませんでした。
 それだけになおさら、地域住民の傍らに立つ政治家、という態度、姿勢を見せないといけないんじゃあ〜、ありませんか、とヤッホー君は思うのですけど。
 逆に言ったら、4人に一人、投票してもらえればその地域のリーダーになれるんじゃ、なあ〜んてこれが、敗戦後求めてきたミンシュシュギの姿?
 だって有権者数97887人のうち投票者数は44629人、つまり投票率は45.59%で、矢田さんの得た票数は、24056。

 その中央区、じつはヤッホー君、明日の土曜日、山の仲間を呼んで隅田川のリバーテラスを宴会場にして、『明日にかける橋』を語る会を開こうと一斉メールを配信しようと思っていたところ、大分前に中止の決定が…

東京の夏の風物詩となっている東京湾大華火祭(中央区など主催、朝日新聞社など後援)の今年の開催中止が3月22日、決まった。東日本大震災を考慮した。
 中止は、強風の影響で開催できなかった1997年の第10回以来2回目。
 今年は8月13日に予定していた。中央区の矢田美英区長は「現在、31万人にのぼる避難者が厳しい生活を強いられている。こうした被災地の状況を考慮し、中止することにした」との談話を発表した。
 昨年は晴海ふ頭などで実施。約1万2千発が上がり、約70万人の人出があった

(8月の東京湾大華火祭は中止、2011年3月22日22時14分更新朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0322/TKY201103220503.html

 でも明日はリバーサイドウオークしてこようっと。
 中央大橋でなく、南高橋を渡ればいいんだもん。そして聖路加病院、築地教会、明石小学校を見学して、佃大橋、相生橋から越中島公園とまわって歩くコースを辿ってみよう!
 水2l、タオル、帽子は必需品だね、明日も熱そう!


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2011年08月11日

外交史料Q&A

 8月10日水曜日朝のこと、ですから昨日のことでしたか、ガーディアン紙を読んでいたときに、こんな記事が目に飛び込んできたのです:
Brazil moves to prevent 'massacre' of Amazon tribe by drug traffickers
-Brazilian indigenous protection officers to make emergency visit to isolated community facing threat from heavily armed gangs-

(Tuesday 9 August 2011 11.50 BST)
http://www.guardian.co.uk/world/2011/aug/09/brazil-amazon-tribe-drug-traffickers/print

 ぜひお読み下さい!
 ひとつ、以前、磯村毅先生の著書『依存症のカラクリ』を取り上げたヤッホー君のブログ、6月9日付け日記やその他の箇所でも、ヤッホー君が口酸っぱく繰り返し綴っていたように、アルコール、ニコチン、薬物、ギャンブル、ゲーム、セックスといった「依存症」にはお気をつけあそばされ、裏には金儲けしようという輩が手ぐすね引いて待っており、その餌食になるだけだよって。
 原発もそうですよね、原料ってウランでしょう、山陰の人形峠なんて話はどうなったのでしょうね、次の今日8月11日木曜日の記事って、なんだかこれもこれだけでは良くわかりませんね。でもなんかあったなって匂いますよね…

日本原子力研究開発機構(原子力機構、本部・茨城県)の人形峠環境技術センターは6月30日、鳥取県三朝町木地山の人形峠レンガ加工場でウラン残土から作った最後のレンガ117個を県外へ搬出した。残土発見から23年ぶりに、協定に基づく5年越しの懸案処理が終了した
(8月11日、山陰中央新報記事)
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=526616005

 ではいま、ウランはどこの国のどの地方から掘り出して精製は?運搬は?貯蔵は?価格は?誰が買い付けて、どうやって誰がフクシマまで運んだのでしょうね。そしてゲンパツ建設、補修になんで原発ジプシーなんているの?
 なんでトウダイ出の学者とかテレビの解説者が、変だねって言えないの?
 巨額のカネが動いていて、そのカネで潤っている人がクニにも地方にも政治屋とか首長、ギインが、大学や研究所にもぞろぞろいてさ、そんで地域住民にも、たっくさんいるってことですよね。

 もうひとつ、「異文化接触」ですよね、ジャップは毛唐にワシントンDCで大爆笑されましたが、ジャップは毛唐の冨士登山の見物に集まった、という以外に、「殺処分」というのがあるわけですよね。
 西部劇で撃たれるインディアン人のように、うえから振りかけられる枯葉剤を浴びるベトナム人のように、原爆を落とされた日本人のように、無人機の標的になるアフガン人のように。

 万延元(1860)年2月、米国政府の提供した軍艦ポーハタン号にて日本を出発した使節団一行は77名でした。
(万延元年遣米使節・咸臨丸150周年(2010年)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/kanrinmaru150.html

総勢81名から成る万延元年遣米使節団は、米海軍艦ポーハタン号で渡米することとなりましたが、この随伴艦に選ばれたのが「咸臨丸」でした。
 派遣使節の海路警備及び航海練習を目的とし、木村喜毅以下96名の日本人と米海軍ジョン・ブルック大尉以下11名の米国人を載せた「咸臨丸」は、1860年3月17日にサンフランシスコの地に到着しました


 なんか数字にこだわっているヤッホー君、だってさ、山歩クラブが冨士山宝永火口に向かったのは14名です。なのに、毛唐、イギリス人は、といいますと、オチャダイ出の才媛、富士宮市教育委員会学芸員の梶山沙織さまの記述をお読みいただいたことと思いますが:

旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬が随行しました。そのため、オールコックの希望とは逆に大行列の旅であったといいます…
 オールコックの富士登山は大変耳目を集め、一行が通過する東海道筋では見物制止命令が出されるほどでした。地域に伝わる資料にも、当時の様子が記されています

http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-museum/tuushin/tuushin22-01.htm

 一度訪れてみたい富士宮市郷土資料館は、8月8日月曜日、つまり今週から10月14日金曜日(予定)までリニューアル工事のため休館、だって。

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2011年08月10日

よくあるQ&A

1. 山を登りたいのはやまやまなのですが、貴会では、山の難易度を山行の都度、お知らせしていただけますか?

答え:
 山歩クラブでは、上級、中級、下級とかどこぞの旅行会社の山クラブや他の会のように、山を人間の勝手で区分、仕分けすることは、山に対してたいへん失礼、申し訳ないということでいたしておりません。
 名山だ、とか松、竹、梅とかの分類も、けっしていたしておりません。山は、どの山も登る人、歩く人に、「すがすがしさ」を与えてくれます。
 従いまして、山歩クラブでは「里山からアルプス」まで、どんな山にも敬意を払い、安全第一で、全員登頂を目指して一生懸命、歩いてきます。
 そして、われわれは日本百名山などのピークハンターではありません。ですので、山頂から、次の頂上を、と急ぎ、目指すことはしておりません。
 雨だったら無理せず、山小屋に停滞、滞留もありますし、雨だから山には向かわず里でその分、里歩きで過ごそうと行程変更もします。
 ですので、その点で山歩クラブは「軟弱」だ、と良く批判されます。

2. わたしは加齢でライスカレーは大好きのですが、足にそれほど自信がありませんし、初心者です。それでも興味があります。入会できますか?

答え:
 上の1番にお答えしたのと同じく、山歩クラブに入ろうとする方々や山行に向かう際、パーティを組むとき、あの人は強い、この人は弱い、という選別を決してしておりません。
 年齢、年収、性別、経験、国籍、宗教、政治、信条、応援している野球のチームやお相撲さん、それにあの趣味、この趣味で人が人を差別したり、排除したりすることは決してしておりません。
 山歩クラブでは経験のある人は無い人に手を差し伸べ、皆んなで「ヤッホー!」と声をかけあって、助け合いながら歩いています。ですのでこれが嫌な人は、「山歩クラブは山岳部ではない、老人クラブだ」と批判して、会を去る人もよくおります。
 年齢の幅は30台後半から70台後半まで、広がっております。

 という山歩クラブがよく聞かれる事項をまとめた『よくあるQ&A』を、山歩クラブ副会長のカッシーちゃんと、江東区の窓口をご担当いただいている秀吉さまにお送りしてありますが、7日日曜日、冨士山宝永火口にはようこそいらしていただきました。

『皆さんと楽しい時間をすごせればいい、と思っています』
『ゆっくりと安全に、翌日に疲れを残さない程度の山歩きで楽しく食べて飲んでいで湯に入って…サイコウです』
『さっそくの写真をありがとうございます。良い記念になります。皆さんの和やかな雰囲気、富士宮そば、お酒、雄大な富士山!! 最高の休日でした』


もっと?!

『先ほど、孫が帰りました。今日は朝から、ラジオ体操、映画に付き合い、ちょっと、疲れ気味です。昨日の宝永火口への山歩きは、孫共々お世話さまでした。皆さんに、いろいろ気を使っていただきありがとうございました。喜こんで、帰りました』
『大渋滞でしたが その日のうちに我が家に着きました。私にとって初めての富士山でしたが、良かったですね。石ころばかりを想像していたので、森林限界遊歩道の緑が多いのに驚きました』
『富士さんと遊んで楽しかったですね。これからも楽しい山行が楽しみです』
『お疲れさまでした。今回は雄大な大自然のロケ―ションを十分堪能させて頂くと共に、皆さまといっしょに楽しいバス旅行をし、記憶に残る一日となりました。いろいろなお気遣いもいただき、まことにありがとうございました。今後ともよろしくお願いします』
『キャッシュバックが嬉しかったです』
(これは、ね、ほかの商業主義ツアーの場合、相場は20人以上を最小催行企画として8000円なのですが、山歩クラブは必要経費全員負担、即日精算ですので、戻し金もたっぷりあって、一人ひとりのパワーは小さくとも大ぜい集まると協同の威力を発揮する、このことを実感できたときでしたね、誰〜れ、だからといって大生のジョッキを頼んだお方は…)

 ん? もうないの?!

渋滞に巻き込まれましたが、楽しい山行をありがとうございました。
 これまでは、高い山、険しい山を目指すことのみ、念頭にありましたが、自分の足に、体力に、限界を感じた時、山歩クラブと出会い、今までと違った山の魅力、山の優しさにふれることが出来ました。
 私にとって山への視界、楽しみが広がりました。ありがとうございました。
 8月19日、友人の穂高の家で恒例の2泊3日の合宿(山とは関係ありませんが)があり、その前日、時間が取れたので、のんびりと、《ころぼっくるひゅって》の近辺を歩いてこようと思っています。
 私の好きな孤独を道連れに、楽しんできたいと思っています


 いや、そんなのを道連れにしない! ヤッホー君のように「父の教えてくれた歌」を道連れに楽しんできてください。山口百恵の『いい日旅立ち(1978年)』を繰り返し聴いてみて、お・ね・が・い!
http://www.youtube.com/watch?v=STb9hrassSs

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2011年08月09日

ペンタックス

 今日8月9日は長崎原爆の日、ヤッホー君はどぎまぎしているのです。
 まずはNHKニュースから:
長崎は9日、原爆投下から66年となる「原爆の日」を迎えました。
 長崎市の田上市長は東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、初めて、原発に依存した国のエネルギー政策の転換を求めました…
 ことしの式典では、原発事故が起きた福島県の子どもたちに原爆の被害を知ってもらうとともに、復興を遂げた街を見て希望を持ってもらおうと、長崎市がいわき市の中学生43人を招待しました。
 長崎では、9日夜も爆心地近くの川で灯ろうを流して犠牲者の冥福を祈る「万灯流し」などが行われ、一日、原爆の犠牲者を追悼し、平和への思いを新たにする祈りが続きます

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110809/t10014804611000.html

 精霊流しのお祭りは、静かなものとばっかり思っていましたが、日本赤十字社長崎原爆病院あたりの爆竹はすさまじいものですね:
http://www.youtube.com/watch?v=I82z8gP8o14&feature=related
 
 せんこう花火だとばっかり思っていました。1974年グレープの懐かしい歌声でどうぞ:
http://www.youtube.com/watch?v=rTyfRY-jT0U

 いや、その、原爆ではなくって、ヤッホー君が昼下がりのチョウ暑いひとときをモク拾いのため、腰をかがめ俯いてうろうろしていたのが、東武東上線「ときわ台駅」あたり。
 濃いピンクのキョウチクトウの街路樹を抜けるとペンタックスに出るはず。しかし、いまは旭光学もアサペンもないようで、ムカシ工場がたっていたあたりはHOYA株式会社で敷地造成中。
 いまはカメラよりもコンタクトレンズなのかなあ、と炎天下の狭い道に来たとき、ヤッホー君は飛び上がるほどに嬉しかったのです。
 それは工事用車両の出入りの交通整理をしていたヘルメットに制服をきたお姉ちゃまに『お気をつけてくださいね』と声をかけられたときでした。思わず下ばかり見て歩いていた顔をあげ、『暑い中、おつかれさまですう』と、こころをこめてお答え申しあげ、深々と一礼して、通りすぎました:

リコーは2011年7月1日、HOYAが「ペンタックス」ブランドで展開しているデジタルカメラ事業を10月に買収すると発表した。
 リコーはペンタックスの一眼レフの技術と販路を取り込み、新興国を中心にカメラ事業を拡大、事務機に次ぐ事業の柱に育成する。
 医療機器などに経営資源を集中させたいHOYAと思惑が一致した。
 価格競争の激化を背景にデジカメ業界の本格再編が幕を開けた。

 ペンタックスの前身の旭光学工業は、1952年に日本で初めて35ミリ一眼レフカメラを開発した。その光学技術には定評がある。
 HOYAは2007年に内視鏡など医療機器事業を強化するため、ペンタックスを買収。翌年には吸収合併したが、HOYAの鈴木洋最高経営責任者(CEO)は当初から、不採算のデジカメ部門に関して「単独では生き残れない」として売却を検討していた

(2011年7月1日20:54更新日本経済新聞:リコー、「ペンタックス」買収を発表 デジカメ強化)
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819696E2E3E2E7938DE2E3E2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

 そればかりではなく、リコー傘下になったところで、業績が伸びなかったら今度は中国かどこか外国の会社に売る…、転売する…、われわれの主食だったお米も、もう、穀物市場で値段が決められ投機の対象になる、そんなマネーゲームの世界にこの国の人びとも身を投じているようですよね:

パナソニックが完全子会社の三洋電機の洗濯機と冷蔵庫事業の大半を中国家電最大手のハイアールグループ(海爾集団)へ2011年度中に売却することが7月28日、分かった。午後に発表する。
 日本と東南アジアにある開発・製造・販売拠点をハイアールに譲渡し、重複事業を解消する。
 中国企業が日本の大手製造業の主力事業を買収する初のケースで、ハイアールは三洋の技術やブランドを活用し、事業拡大を図る。
 売却対象は日本と東南アジアにある三洋の洗濯機・冷蔵庫関連の子会社など約10社。世界全体で年間約900億円にのぼる同事業の売上高のうち700億円相当を売る。売却額は約100億円で、従業員約2000人の大半も転籍する見通し

(パナソニック:三洋の白物家電、中国ハイアールに売却 重複事業を解消 2011年7月28日毎日新聞東京夕刊)
http://mainichi.jp/select/biz/news/20110728dde007020003000c.html

 あの燃えるようなぎらぎら照りつける都心の太陽のなかでヤッホー君は、<マネーゲームでいいんだよ、もう暑いし、そのせいで気がふれてるんだよ、栄枯盛衰の理ありっていうじゃん、ほら、もう冷たいビールで喉を潤しな>という内心の声を、しかし8月9日、精一杯拒否することにしよう、と大いなる真昼の決心をしたところでした。
 あの海抜2500mの高さから見た本当の夏の青い空と白い雲にみちびかれ…

夏空.jpg

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2011年08月08日

英国公使オールコック

 昨日の日曜日の帰りのバスの中、ヤッホー君がとってもうれしかったのは、仲間が、7月30日のブログ日記「コロボックルヒュッテ」を読んでくださっていて、手塚宗求『山をめぐる人と書物』(2000年、恒文社)をお買い求めいただき、「ほらこれでしょ」って山に持ってきて、見せてくれたこと。

 「つながる仲間」を実感できたときでした。

 ところで昨日、御殿場ICで東名道を出て、冨士スカイラインから冨士宮口5合目駐車場、標高2400mに着き、さあ、いよいよ登山、という態勢に入ったときに目に飛び込んできたのが、「サー・ラザフォード・オールコック冨士登山記念碑」。

初めて登った外国人は、初代駐日英国公使のラザフォード・オールコック(1809-1897)といわれている。幕末の1860(万延元)年夏、一行は東海道をたどり、小田原から箱根や三島などを経て富士宮側から富士登山を敢行したという。
 富士宮市は1992年、富士宮口の5合目登山口(2400m)にオールコックの登山記念碑を建立した。毎年7月1日の「富士山お山開き」には、英国大使館の関係者を招き、オールコックの肖像が刻まれた記念碑に献花している

(読売新聞『日本遺産 富士山と私(4)山とふれあい 20回登頂も 駐日英国大使グレアム・フライさん(56)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/kikaku/086/4.htm

 富士宮市立郷土資料館通信1(2010.9)で、学芸員の梶山沙織さんはこう書き記しています:

富士宮市教育委員会では、「オールコックの富士登山 ― 初代英国公使ラザフォード・オールコックによる外国人初の富士登山から150年」展と題し、平成22年6月25日から7月11日まで、富士宮市富士山環境交流プラザ(富士宮市粟倉)で展示会を行ないました。
 これは、初代駐日英国公使を務めたオールコックが、万延元年7月(1860年9月)に富士登山を行なってから150年目にあたることから企画されたものです

(オールコックの富士登山と富士宮地域)
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-museum/tuushin/tuushin22-01.htm

 「万延元年」と聞いてヤッホー君が思い出したのは、このブログ6月3日付け日記「増上寺」です。
 え〜と、小説『万延元年のフットボール』(『群像』1967年1〜7月号)が<いま再読のときだ、読んでくれえ〜>と、深い森のなかから呼びかけてくる声は聴こえるのですが、秋風が立つ頃かな、意味は分かんないけどってヤッホー君はホントのところどぎまぎ、うろうろ、あたふたしているのだそうでございます。
 「増上寺」に戻りましょう;

万延元年(1860)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換を行うため、正使・新見正興、副使・村垣範正、監察・小栗忠順の3名を遣米使節とし、随行官21名とその配下26名、使節の従者27名の計77名からなる使節団をアメリカに派遣した。米国艦ポーハタン号に乗船した一行は、ハワイとサンフランシスコに寄港した後、パナマ地峡を列車で経て大西洋を再度船に乗り換えてワシントン、ニューヨークを訪れた

 1860年5月23日
使節一行は米国議会議事堂を見学し、両院の議事運営の実際を目のあたりに見る機会をえた。
 議会制度を理解できないままにその情況を丹念に描写した森田岡太郎の報告がある(「亜行日記」『万延元年遣米使節資料集成』第1巻(1961)所収)…。
 これに対し、アメリカ側の議員や傍聴人たちが、使節から受けた印象は、マサオ・ミヨシ著『我ら見しままに-万延元年遣米使節の旅路』(飯田正子ら訳、1984)に見られるとおり、一行が退場した直後の爆笑であった

(日本大学・後藤純郎「万延元年遣米使節と博物館、図書館の見聞」1990年教育学雑誌第24号)
http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/024/24-r-001.pdf

 後藤先生(図書館学)は2002年11月、78歳で没っしていました。 

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2011年08月07日

宝永火口

 本日8月7日日曜日は山歩クラブ月例山行(バスは行く)のお山歩会でした。
 朝6時半、箱崎から高速道路に入って目指した山は冨士山。
 えっ、冨士山と高尾山はクラブの行事にはしません、と言っていたのが、宗旨替え?
 ん〜と、あの、その、この、「大沢崩れ」の冨士山お中道のときと同様、冨士山を横に歩いたらどう? といういつものながらの遊び心なんですう。
 今日は、宝永火口!
 あのう、マレーシアに向かう飛行機に乗って、いつもリクエストするのが進行方向右側、翼のところでない窓側の座席、そこに座って成田を飛び立ってすぐに見えるのが冨士山上空に来たときの、あの冨士山の穴凹、あれがどうも気になって、気になって夜も寝られないほどでした。
 ヤッホー君は今日までず、ず、ず〜っと近くで見たらどんなんだろうって気になっていたのでしたが、今回、そんなやつれはてたヤッホー君のかわいそうな姿をあわれんで、山歩クラブのご理解を得てやっと、その夢が実現できたのでした!
 ありがとう、つながる仲間!
 下町をでたのが6時半、歩きはじめが10時半、下町に帰着が夜の10時半。
 はい!ただいま、帰宅したばっかりで、まだ汚れ物を洗う洗濯機が動いております。
 大渋滞の8月最初の週末でした。

冨士宝永火口.jpg

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2011年08月06日

広島原爆の日

『カッシーちゃん、こんばんは。おつかれさまでした、文書2通落掌。今日は大いそがし。山よりも大変でした。「サマースペシアルイベント」と銘うった迷プラン!さすがに午前10時の渋谷中堅ハチ公前に忠犬見当たらず、夜5時半千駄ヶ谷津田ホールを掘れども何にも見つからず、でも所定の行動をしなければ、あとで誰か仲間が行っていて待ちぼうけ食わされて、そんな無責任な、なんて言われぬよう、まあ、次回の下見、舌見ということで一日、忙しく過ごした月例山行前日のヤッホー君でした。
 明日はよろしくお願いします。そう、そう、明日は子どもから冨士山なんて何を考えているか、冨士山のことを考えるより年のことを考えろと言われ、老いては子に従えなので今回は断念、キャンセルさせていただきますって電話。明日の冨士山はカニの縦這えでなく、カニの横這えっちゅうのに、やんなっちゅね、まったく、まあ明日もまた楽しく、わいわいがやがややりましょう』
 
 そうなんです、8月6日土曜日、朝10時。
 ブログの8月3日水曜日付け日記でも言いましたが、22年前のドキュメンタリー映画『あしたが消える』を観てまいりました。客席はほぼ満席、すご〜い!世代も若い人から年配の人までこりゃあ、すごい!
http://www.genpatsu22.com/
 2011年7月28日19時27分更新朝日新聞ウエブ版にもコメントがあります。下↓;
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201107250286.html
 
 必見です。
 映画に出演していた主婦、葛西真紀子さん。映画では仙台市に近い海沿いの町で、ご主人はガソリンスタンドに勤めながら大好きなバイクショップも小さいながらもおやりになってるって、22年後の3.11は大丈夫だったのでしょうか?ご無事をお祈り申しあげております;
 と言いますのも、宮城県気仙沼市の市民会館情報共有サイトに1件のコメントがあったのを見つけたからでした
『朝倉幹晴より:2011年5月9日2:41PM 葛西真紀子様は『あしたが消える』に出演された葛西様でしょうか?もしそうならば、村田三郎医師が安否を気遣っておられました。私は村田医師の知り合いのもので朝倉といいます(もし同姓同名で別の方でしたら申し訳ありません。無視してください)』
http://shakuji.net/kesennuma/?p=1663

 今日は映画会が初日でしたから、プロデューサーの平形則安さん(55)、いまはピクチャーズネットワーク(株)代表取締役も客席に見えていてごあいさつ。この方、22年前も新藤兼人監督とお仕事をしていたらしいのです。平形さんは、NHKテレビETV特集で、2010年第48回ギャラクシー奨励賞を受賞していました。
http://www.picturesnetwork.co.jp/index.html 

『映画監督新藤兼人は、死ぬ前にどうしても完成させたい映画がある。「一枚のハガキ」の撮影はこの春始まった。自ら「遺言状」と語る海軍二等兵時代の忘れえぬ記憶である。番組は、新藤さんが再底辺から体験した戦争の真実を描くものである。
 昭和19年3月、丙種合格だった32歳の新藤さんに赤紙が来た。「一億挙げて戦闘配置へ」のスローガンが叫ばれ、100人のオジサン部隊が、広島県呉の海兵団に集められた。奈良の天理教本部を掃除し、海軍予科練兵を世話することが任務だった。掃除が終わると上官がくじを引いて60名が選ばれ、フィリピンの陸戦隊となった。兵舎で新藤さんの上に寝ていた同期兵は、フィリピンへ行く命令を受けて感極まり、妻の手紙を見せた。その文面が若きシナリオライターだった新藤さんの胸をえぐった。遺作は、このハガキを軸に作られている。

「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません」

 二度のくじ引きで生死が分かれ、94人が戦死した。新藤さんは生き残った。家族ある老兵が集められ、くじ引きで生死が決められる戦争とは何か。新藤さんが自分の目で見て、その後長く考えてきたことを映画にすることが、生き残った者の責任だと思った。戦争を体験した言論人が次々と世を去るなか、戦争の記憶を未来へ伝える重みはますます大きい。

 「戦争というのは,戦場で戦うんですが、本当は後に控えた家をつぶすわけでしょう。一人の兵隊が死ぬとその家がめちゃくちゃになってしまう。戦争は、家族も家も全部つぶしてしまう力を持っているんです」 戦闘の場面がない映画だが、新藤さんは日本中で兵隊を送りだした農家が、もう一つの戦場だったと主張している。

 「将校や下士官と違って、最低の所から、命がけで見てきた。僕はつまり戦争の裏側を見たという気がしているんです。私は生き残った。だからこの映画を作るんです」 映画は順調に撮影が終わり、現在ポスプロが進んでいる。遺作「一枚のハガキ」は、来年夏に公開される予定だ。新藤兼人は99歳、49本目の作品となる』

(2010年9月19日日曜日午後10:00〜午後11:30(90分)
…www.nhk.or.jp/etv21c/update/2010/0919.html

 必見です。
http://www.ichimai-no-hagaki.jp/trailer.html

 映画があった『ユーロスペース』にはお年寄りのこんな方も。
 今朝のNHKラジオの土曜朝いちばんの番組に『はだしのゲン』作者、中沢啓治さんが出演していらっしゃいました。もう目が見えないので漫画はもう描けませんが、口がまだあります、これを一生懸命使って、皆さんに核兵器は使っちゃ駄目、戦争はやっちゃ駄目、原発も駄目っていのちある限り訴えていくっておっしゃっていて、その映画があるってこちらに来たんですけど:
http://a-shibuya.jp/archives/641

 必見です。
http://cine.co.jp/gen/

 そう、今日8月6日土曜日は広島原爆の日なのです。
『66回目の広島原爆の日を、東京電力福島第1原発事故に直面する福島県の被爆者は特別な思いで迎えた。19歳の時に広島で被爆した福島県原爆被害者協議会会長の山田舜さん(85)は語る。「人生で2度も放射線に脅かされるとは。これまで8月6日に原発のことを頭に浮かべたことはなかったが、今年は違う。なぜ原爆が落とされたのか、そしてなぜ原発ができたのかを改めて考えざるをえない」

 山田さんはこの日、福島市の自宅のテレビで平和記念式典の様子を見ながら、核兵器廃絶の思いを込めて鎮魂の祈りをささげた。

 1945年夏の朝。旧制高校2年生だった山田さんは熱を出して広島市の自宅で寝ていた。突然、閃光と爆風が襲った。しばらく縁の下に隠れた後、屋根に上って言葉を失った。見渡す限りの炎、炎、炎…。道路に放置された遺体の山が脳裏に焼き付いている。

 経済学者になり福島大学長などを歴任、81年からは県原爆被害者協議会の会長を務めるが、今回の原発事故は想像をはるかに超えるものだった。「原発は平和利用のためのもので原爆とは別だと思っていた。まさか放射性物質が飛び散る事態が起きるはずはないだろうと」

 事故は5カ月近くたった今も収束していない』

(2011年8月6日11時09分更新ウエブ版毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110806k0000e040039000c.html

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2011年08月05日

法定線量

 いまうわさの九州電力。
 山歩クラブのムカシの仲間の息子さんがその会社にいて、大分、羽振りの良い暮らしぶりのようすを聞かされましたが、そりゃあ競争のない独占会社ですから、外車に乗っていようと高級住宅街にお住まいでも、ありうるでしょう。この会社の公式サイトにはこんな記述が:

『放射線業務従事者が実際に受けている被ばく線量は、2006年度実績で平均0.9ミリシーベルトであり、法定線量限度の年間50ミリシーベルトを大きく下回っています。
…原子力発電所周辺の人が受ける放射線量は、年間0.001ミリシーベルト未満で、法定線量限度の年間1ミリシーベルト及び原子力安全委員会が定める目標値の年間0.05ミリシーベルトを大きく下回っています』

http://www.kyuden.co.jp/environment_booklet_action-report07_nuclear_keep_radiation.html

 で、あの九電でないトウデンフクシマダイイチゲンパツジコの後、どんな事態であったのか、と思いましたが、毎日新聞では7月25日月曜日に特集記事を組んでいましたのでご紹介:

『菅直人首相が視察のため作業拠点の「免震重要棟」に現れたのは、その日12日の朝。
 原発の「頭脳」に当たる中央制御室にいた若手社員(21)は、同僚たちが首相に「何やってんだ。何とかしろ」と怒鳴り散らされたと聞いた。
 「俺たちに、ここで死ねっていうことか」…

 14日午後、厚労省の金子順一労働基準局長に官邸から電話が入った。
 「福島第1原発の状況が厳しい。今の緊急作業の現場からすると、100ミリシーベルトでは(作業が)難しいという話がある。関係省庁で話をして急いで結論を出してほしい」。
 加えて「国際放射線防護委員会(ICRP)の国際基準では、緊急作業の場合には条件付きながら500ミリシーベルトまでは許容される」とも伝えられた。
 事故収束を優先させたい原子力安全・保安院に対し、厚労省の高崎真一計画課長は「労働者は使い捨ての機械ではない。死にに行け、とは言えない」との思いで臨んだ。
 そのさなか、金子局長の元へ1人の女性課長が訪れ、こう報告した。
 「小さな子を抱えた人たちが東京駅から西の方へ続々と出発しています」。
 事故対応は急を要していた。

 そして、労働環境が一向に改善されない中、海江田万里経産相が4月9日、第1原発視察に訪れた。
 免震重要棟で作業員を激励し、雨の中、バスから1〜4号機を見て回った。
 滞在時間約40分。
 下請け会社の工事課長で福島県富岡町出身の男性(41)は怒りを押し殺した。
 「何で現場をきちんと見ないのか。視察に来たら、同じ装備で動いてみろ。味のしない乾パンをぼりぼり食べてみろ」』

(検証・大震災: 福島第1原発事故、収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110725ddm010040007000c.html
 
 0.9ミリシーベルトとか1ミリシーベルトとかの話のときに、500ミリシーベルトまでは…、うんぬんかんぬん、あーめんらーめんひやそーめん、なにがなになやらさっぱりわからないヤッホー君、ここはモウ一度原点に、と昨日の日記に綴った1994年、磐田労基署の「労災認定」を調べることにしました:

『中部電力浜岡原子力発電所(静岡県浜岡町)で作業していた嶋橋伸之さん=当時(29)=が慢性骨髄性白血病で亡くなって間もない1991年末。
 両親は会社側と一通の覚書を結んだ。
 「労災補償」に見合う金額として弔慰金3000万円を支払うことで、嶋橋さんの死に関して異議を述べず、一切の請求はしない、というものだった。

 ところが、両親は1993年5月、息子の死は原発内での作業中に被曝したためだ、として、磐田労働基準監督署(同県磐田市)に労災認定を申請した。
 嶋橋さんの母美智子さん(62)は、語気を強める。

 「労災を申請しないよう会社に説得された。お金は受け取りましたが、放射線管理手帳はなかなか返ってこないし、しかも手帳は訂正だらけ。あの子に落ち度があったのか、それとも病気は仕事のせいだったのかはっきりさせたくて…」』

(『中国新聞』2000年3月25日付け特集「被爆と人間」第3部 ある原発作業員の死 50.63ミリシーベルト、繰り返します、50.63ミリシーベルトの被ばく線量で白血病死)
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/00abom/ningen/000325.html

 ん? 50.63ミリシーベルト?昨日は6ミリシーベルトとか言っちゃあいませんでしたかあ…、うんぬんかんぬん、あーめんらーめんひやそーめん、なにがなになやらさっぱりわからないヤッホー君、モウ少し先を読みますと:

放射線被ばく者に対する白血病の労災認定基準は、1976年に労働基準局長通達として出された。
 @ 相当量の被ばく
 A 被ばく開始後少なくとも1年を超える期間を経ての発病
 B 骨髄性白血病またはリンパ性白血病であること
の三要件を定めている。
 相当量の被ばくは「5ミリシーベルト×従事年数」と解説で明記している。
 嶋橋さんの場合、被ばくの相当量は約44ミリシーベルトとなり、約6ミリシーベルト上回っていた


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2011年08月04日

山城博子先生

 昨日8月3日水曜日は「代々木病院」での健康診断の日。
 いつもなら毎年のように今年も追加検査で、頭部CTや体部CTもお願いするところ、今年は3.11以来浴びなくとも良い放射能で被爆したはず、と遠慮。
 だって、レントゲン室の前には「管理区域」の標識が貼ってあります。許可なくして立入りを禁ず、とまで書いてありますが、これは日本の法律では、1時間に0.6マイクロシーベルト(外部被曝と内部被曝の合計)を越えたら、そこを「管理区域」に設定して、掲示をし、一般の場所と違う取り扱いをしなければいけないルールがあるからなのです。

 これは一年にすると、0.6×24×365=5256マイクロシーベルト、つまり、5ミリシーベルトに相当しますよね。

 ですから1994年、磐田労基署は6ミリシーベルトの被爆を受けた人を「労災に認定」したのです。
 「労災に認定」というのは、職業的に、健康管理や線量測定をしながら放射性業務をしている主に成人男子が、その職業に由来して病気になったかの基準を、5ミリシーベルトにおき、それ以上を「被爆による病気」と認定したのが「日本政府」であり、それを支持していたのが「放射線防御学」の偉い先生方なのですよね。

 その意味で、子供はゼッタイに駄目、ましてや誰もがICRPの勧告を認め、「1年1ミリシーベルト」として国内法を整備してきたのです。

 ところが3.11以降、このルールは無視されはじめます。
 偉い先生方も評論家も政治家も選民は、「大丈夫です」なんて言いはじめたからです。
 そういうテレビと言う媒体を使って世論操作をしたがる選民の皆さまはぜひ、病院や医療機関の「管理区域」のなかに部屋を借りて一年住んでみて、「人体実験」してみればいいのに、ね。そうしないで、テレビカメラに向かって大げさなジェスチャーで大丈夫なんて、東北の地を人体実験の場にしてまた学術論文で印税を稼ごう、テレビ出演料でアメリカ産ビーフをたらふく食べようなんて魂胆の持ち主を、少なくともヤッホー君は信用できませ〜ん。

 ま、そんなわけで本当は、胸のエックス線もいやぁ〜、バリウム飲んで胃癌検診もけっこうです、と見合わせても良かったのですが、義理と人情に厚いヤッホー君は、昨年同様、お願いしま〜すと、病院備え付けの検査着に着替えてドック健診をしてきたわけです。

 健診センターの小美濃由紀子さんには終わってから、昨年11月29日「肉の日」のブログ日記でも綴った網膜はく離のレーザー手術の術後検診の予約もお願いしておきましたので、本館の2階に向かいました。
 幸いなことに目は順調、何事もなく経過しており、定期検診は半年後にしましょう、と相成り、ホッと胸をなでおろしました。

 ところで主治医の山城博子先生、世界一の眼科医とお慕い申しあげておりますが、診察のとき、開口一番、「あなたは、もしかしてヤッホー君ですか?」と聞かれまして、「えっ、いまトウデンフクシマゲンパツジコに怒っています、読んでいただいて光栄です、モゴモゴ」なんてしどろもどろに答えておりました。

 そうなんです、このブログ、どなたが読んでくださっているか分かったもんじゃ〜ござあ〜せん、もっと精進しないと、と思ったことではありました。

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2011年08月03日

明日がきえる

主役は、原発の定期検査などで指導的な立場で働いていた52歳の父を骨癌で失った仙台市の主婦、葛西真紀子さん。
 彼女が朝日新聞に投稿した記事は、「父は、日本の原発は二重三重の安全装置があるから絶対安全だと言っていた。父の言葉に、私はずっと原発は安全なものだと信じてきました。その父は骨癌で入院して、4ヶ月であっという間に亡くなった。今、原発は安全、を信じようとする従業員の信頼に本当に答えているのでしょうか」という疑問を投げかけていた。
 この「父はなぜ死んだか」という難解な疑問から、映画製作者が謎解きを進めてゆく


 星守る犬、大鹿村騒動記、夢千代日記に続けて今日も映画の話題です。この映画のチラシの裏に書かれている文章は、いつ、どこの、どんなお話しなのでしょうか。

 『この映画は、なんと今から22年も前の1989年5月26日に公開された原発ドキュメントである。
 この22年という数字に深い意味がある。
 当時はソ連でチェルノブイリ原発事故が起こって3年後で、全世界が原発事故に恐怖を抱いていた


チェルノブイリ原発事故の現場で働く作業者の悲惨な姿が映像で流れる。
 当時、日本にも大量の放射能汚染食品が流入し、原発反対運動が燃え盛るなかで、多くの人が自衛に立ち上がっていた。
 日本で運転されている原発の危険性については、田中三彦氏が、自ら設計した福島第一原発4号機がイビツな形で製造され、それをジャッキで整形して納品したことによる大事故のおそれを証言する。
 技術者たちは、頭のすみに「大事故が起こる可能性」をうすうす感じながら製造している、というのだ
』。

(福島第一原発を追った、幻のドキュメンタリー映画フィルムが発見!どうして、日本は、22年前のこの時に、“原発問題”を解決しておかなかったのだろうか――。8月6日土曜日より「ユーロスペース(渋谷・文化村前交差点左折 Tel 3461-0211)にてモーニングショー(毎朝10:30〜一回上映)
http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=341

 ムカシ、1986年のチェルノブイリ事故、今から25年も前のとき、当時の厚生省は「輸入食品中の放射能の暫定限度」をセシウム134と137の合計で370ベクレル/kgと定め、輸入食品の検査を行なったはず。イマは、四半世紀もたつと抗体もでき、耐性もできたようで、どの程度になっているのでしょうか。あっ、当時は輸入食品が危険とばかりに国産が安全、と喧伝されましたが、イマは…ビーフまでアブナイ?!

『複数の肉牛から国の暫定規制値(1キロあたり500ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたとして、政府は2日、原子力災害対策特別措置法に基づき、栃木県全域からの肉牛の出荷停止を同県に指示した。肉牛の出荷停止は福島、宮城、岩手に次いで4県目。
 厚生労働省によると、栃木県では那須塩原市と日光市の農家が出荷した肉牛4頭から560〜904ベクレルのセシウムが検出された。いずれの農家も同県産の汚染わらを餌として与えていたという。
 農林水産省の統計によると、栃木県から食用として出荷される牛は年間約5万5000頭(09年)に上り、北海道、鹿児島、宮崎、熊本の各道県に次いで全国5番目に多い』
(セシウム汚染:栃木県に県産牛の出荷停止指示、毎日新聞2011年8月2日19時48分更新)
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110802k0000e040106000c.html

 土曜日、渋谷まで映画鑑賞に行こうかな…、そしたら6日土曜日はなんと花火大会まであるじゃあ、あ〜りませんか。主催は、日刊スポーツ新聞社。

神宮外苑花火大会実行委員会は、8月6日土曜日に東京・明治神宮外苑で「2011神宮外苑花火大会」を開催します。
 今年32回目となる大会のテーマは、「日本を元気にする花火」です。
 東日本大震災復興チャリティーイベントとして実施し、東北各県、茨城、千葉などから出店いただく物産展も予定しています。
 また、国土交通省の「がんばろう! 日本」キャンペーンの応援もいただきました

http://jinguhanabi.nikkansports.com/

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2011年08月02日

ほほえむ明日

−−聞き手:毎日新聞、広岩近広)原爆詩を朗読するきっかけは、胎内被爆した女性を演じたNHKテレビ「夢千代日記」(脚本早坂暁さん、1981年、今から30年も前のことですね)を通じて知り合った被爆者団体からの依頼だったとか

吉永さん 東京の小さな教会で開かれた平和を願う集会で朗読しました。いただいた20編の原爆詩は初めて目を通す作品が大半でしたが、どの詩にも耐えがたい悲しみのなかで、それでも必死に生きようとする人間の心の叫びが描かれていました。読んでいくうちに胸が締めつけられ、詩の重さを全身で受け止めようと懸命だったことを覚えています。1986年の夏でした。

−−朗読活動をライフワークにすえられたのは、原爆をテーマにした映画やテレビドラマの主人公を演じるなかで、その役を超えて吉永さん自身が突き動かされたからでしょうか。

吉永さん 私が21歳のときに「愛と死の記録」(日活、蔵原惟繕監督、1966年、今から45年も前のことですね)の撮影で、まだ原爆のつめ跡が残っている広島に行きました。恋人が原爆症で亡くなり、私が演じた和江は初七日に彼の後を追って死にます。大江健三郎さんの「ヒロシマ・ノート」に出てくる実話の映画化でもあり、原爆病院のロケで笑うシーンがあったのですが、和江にひきつけられた私は悲しさがつのって、とても笑えませんでした。一方で、我を忘れて涙がとまらなかったシーンもあります。
 夢千代についても、演じていて胸が熱くなりました。いつしか私の心に、核兵器が二度と使用されないようにと祈る気持ちが生まれ、原爆詩の朗読を続けているのだと思います。


−−ところで映画の「夢千代日記」では、浦山桐郎監督が夢千代に「ピカが憎い」と言わせようとしたとき、吉永さんは譲らずに「ピカが怖い」で押し通したそうですね。

吉永さん 監督を苦しめてつらかったのですが、「キューポラのある街」(日活映画、1962年、今から49年も前のことですね)から信頼していた監督だったので自分の意見を言えたのです。夢千代の性格から「憎い」ではなく「怖い」だと思いました。

−−夢千代もそうですが、元気に過ごしていた被爆者にある日突然、白血病などを引き起こすのが原爆放射線の怖さです。

吉永さん 白血病になった夢千代は、目に見えない傷、死への恐怖をかかえて生き、そして亡くなります。演じるなかで、私は夢千代と化していました。
(毎日新聞、2010年6月28日、大阪夕刊)

 1985(昭和60)年、今から26年も前のことですね、6月8日封切りの東映映画『夢千代日記』(浦山桐郎監督、早坂暁脚本、助演に北大路欣也、名取祐子、田中好子など)。予告編が見られます、下↓参照:
http://www.youtube.com/watch?v=P0Nge6Mpk1c&feature=player_embedded

 その翌年の夏から吉永小百合を原爆詩の朗読をしていますが、7月31日の日曜日、広島市中区の広島国際会議場ではっきり「原子力発電所がなくなってほしい」と訴えました。

 大月みやこ(1946年、大阪府八尾市出身、65歳)の歌もありますので、今日は、その歌声で「ヤッホー日記」、ごめんなさい、「夢日記」を閉めましょうか。
http://www.youtube.com/watch?v=DA7Iv6GS3b4&feature=related

大月みやこは、
新宿コマ劇場では、1989年から18年間、毎年1カ月公演をやらせていただきました。96年には有名な「夢千代日記」をやらせていただきました。山陰の湯村温泉の芸者、夢千代さんが主人公です。広島の原爆の時にお母さんのお腹の中にいて、残念ながら白血病になってしまう。でも、「限りある命ならなおさら出会いを大切に」と、その周りの人たちに心広く、慈悲深く接した素晴らしい女性の物語でした。
 実はこの時期、私の母が病気で倒れて寝たきりになって、多くの方に助けていただきました。お芝居をしながら、母の看病ができない寂しさも感じましたが、介護の方々が優しく接してくださり力づけられた思い出があるんです

http://www.zakzak.co.jp/gei/200812/g2008122714_all.html

 山歩クラブでは、7月30日土曜日、いまは取り壊されてない「新宿コマ劇場」の裏にあるいつものさしみ居酒屋「花車」(Tel 3207-4925)で、夏山合宿山行の結団式を執り行なっていました。

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2011年08月01日

7万人の彷徨

 2011年8月最初の日。
 子どものいのちを皆んなで守りましょう!カネじゃないんですう、何度も言いますが。いのちが係っていると、われわれの「想像力」を働かせましょう! 
 
 まずは、『原爆詩集 8月』(合同出版、2008年、1500円)。
この150余編の原爆の詩はわたしの心を揺りうごかして止まない――。峠三吉、原民喜、栗原貞子ら代表的な原爆詩人の作品と、あの8月、原子雲の下にいた子どもたちの詩を併せて収録。youtubeにて、本書より抜粋した詩の朗読を聞くことができます
http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=219&PHPSESSID=4lf049ebiqg7sd0o1gr3g0jnprtpllie
http://www.youtube.com/watch?v=9u-U_wdVbfk

 ところで1986年からライフワークとして原爆詩を朗読しているのが吉永小百合(66)。
 今年も。
広島市で31日開かれた日本母親大会で、原爆詩を朗読した俳優の吉永小百合さんが「地震の多い日本では原子力発電所をなくしてほしい」と語った。
 冒頭で吉永さんは「原子力の平和利用という言葉がよく使われていて、私自身あいまいに受け止めていた」とこれまでを振り返り、「高速増殖原型炉もんじゅは恐ろしいと聞いてはいたが、普通の原子力をもっと知っておくべきだった」と厳しい表情で話した。
 「東北からの出席者に祈りを込めて詩を朗読します」と語り掛け、「にんげんをかえせ」で知られる故峠三吉の「原爆詩集」の序詩や故栗原貞子の「生ましめんかな」など6編を朗読。広島市の小学生ら約80人とともに平和への願いを込めた「折り鶴」を合唱した

(吉永小百合さん「原発なくしてほしい」 日本母親大会で、7月31日23時12分更新毎日新聞ウエブ版より)
http://www.youtube.com/watch?v=TGEp-kZ4cZ0

 ところで、茨城県の小児科のお医者さんも。
 東京大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授(1953年生まれ)が、ついこのあいだ、7月27日水曜日、衆議院厚生労働委員会で「放射線の健康への影響」として参考人になって説明をしたわけですが、その言葉を参考にしながら、例によってマスメディアではニュースにもならないし、殆ど取り上げられることもないのですが、われわれにはとても大事な指摘をなさっているんだよと教えてくださいました:
東電福島原発の放射性物質の量は、広島原爆に比べて、熱量で30倍弱、さらにウラン相当量比較で20倍多い。
 1年後、放射能量は、広島原爆では1/1000程度になるのに、原発では1/10程度にしかならない(なかなか減らない)。
 除染を行う必要がある。阿賀野川のカドミニウム汚染との比較で言うと、コストは、おそらく8000億円の数100倍から数1000倍かかるだろう

http://www.youtube.com/watch?v=eubj2tmb86M

 お医者さん先生も、満身の怒りをこめて、強い語気でせまる児玉教授と同じように嘆いています:
彼が、提言の最後に「7万人の人びとが彷徨っているのに、国会は一体何をしているのか!」と強い調子で述べた。
 目頭が熱くなる思いだ


 「北八ッ彷徨」はちょっと後回しにしても、得意の後手後手になる前、手遅れになる前に、「7万人の彷徨」にわれわれはどう立ち向かうべきなのか、いまこそ真剣に、まずは児玉教授の言に耳を傾けてみましょう。
 子どもはわれわれの未来、神さまからの贈り物、宝ものではないのでしょうか。
 7月24日日曜日、日本百名山、蓼科山2530mの山頂で会ったあの豊島区立目白小学校の6年生たち100名弱の元気な声がまだ、ヤッホー君のあたまのなかでこだまし合って、響いています…

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